| 【合本版1-10巻】魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版 (TOブックスラノベ) | |
| 秋田禎信 | |
| (2015) | |
このコンテンツは『魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版』1~10 巻までを収録しています。
イラスト:草河遊也 Yuuya Kusaka
デザイン:ヴェイア Veia











「見ないで!」
だが彼は見ていた──というより、身体 がマヒしてしまったように身動きがとれない。部屋の入口に立ち尽 くして、彼はただぼうぜんと彼女を見下ろしていた──
部屋はこざっぱりとしていて、生活に必要なものを適当に部屋の四隅 に押し付けただけ、といった感がある。古いベッドがあり、机があり、書棚 があり、服を入れる棚があり、窓には厚ぼったい生地 のカーテンが引っかけてあるだけ。床 には擦 り切れた絨毯 が敷かれている。その床にひざまずくような格好 で、彼女は自分の顔を両手で覆 いながら叫 んだ。
「見ないで! お願い!」
しかしその絶叫 を聞いても、彼は表情を失ったようにぴくりとも動かなかった。
十五歳ほどの、小柄な少年である。黒髪に黒い目は、幼 さを残しつつ、いずれ訪れる成熟 の兆 しにやや陰 っている。全体的に、少年は痩 せていた。とは言え幼いときからくりかえされてきた戦闘 訓練 のおかけで決して弱々しくはなく、その細い身体は、なにか鋭 い刃物のように真っすぐに突っ立っている。
彼には、目の前で起こっている事態 がなにひとつ理解できていないようだった。わかるのは、彼女が『見ないで』と叫び、そして床に座 り込んで泣いている、ということだ。
「アザリー、泣いてるの?」
それがとてつもなく不思議 なことであるかのように、少年は聞いた。
だが、彼女は答えない。やはり両手で顔を覆い隠 したまま、見ないでと叫ぶだけだ。
彼女はゆったりした黒いローブのようなものを着ていた──これはこの大陸の黒 魔 術 士 の総本山である《牙 の塔 》における制服のようなもので、ある程度以上の位 の者だけが身につけることを許される。彼女のような若さ──まだ二十歳 ほどの若 年 でこのローブを身につけている者は、絶 無 ではないが、めったにいるわけでもない。ウェーブがかった黒い髪は、恐 らく戦闘訓練をこなすためだろう、かなり短くしている。顔は、ずっと隠しているために見えなかったが、指の隙 間 からわずかに茶色っぽい瞳 がのぞいている。背 丈 は同年齢の男と比べても見 劣 りせず、また四 肢 も引き締 まっていた。
「見ないで! お願い、出ていって──」
彼女はまた叫んだ。そしてその声が泣き声ではないということに、少年は気づいたらしい。彼女の声は、どちらかというと怒 っているようだった。
少年は入口から一歩つま先を踏 み入れて、不安そうな声をあげた。
「アザリー、なにが起こったんだ? 待ってて、先生を呼んでくる──」
「駄 目 !──いえ──」
彼女は激しく叫んでから、言い直した。顔を両手で隠したままなので、声がくぐもっていて聞きにくい。
「いえ──無 駄 よ。チャイルドマンも──誰 も呼ばないで」
「でも──」
「いいから、出ていって! 早く!」
彼女は片手だけをこちらに振って、命令した──と、少年はその手を見て、ぎょっとした。戦闘訓練によって手の皮の厚くなった彼女の指は、お世 辞 にも繊 細 で美しいとは言いがたいが、そのとき少年の目には、彼女の指になにか鉤 爪 のようなものが生 えているのが見えたような気がしたのだ。
少年は我 が目を疑 うようにしばたいて、叫んだ。
「アザリー? その手──」
「お願い、早く出ていって!」
彼女がまたくりかえす。その瞬 間 、ごわっと──彼女の頭のてっぺんあたりで黒髪が盛 り上がった。びちびちと、血 管 を引きちぎるような音が響 き、なにか体液にまみれた触 手 のようなものをはね散らかしながら、その髪の中から、明らかに人間の器官には含 まれていないような肉の塊 が飛び出す。ぶちん! と音が弾 けて、彼女の足元になにかが落ちた。ちぎれたベルトである。見ると彼女の腰 は不自然に歪 み、膨 張 して──
少年が悲 鳴 をあげた。
このときになって、彼も理解したようだった──彼女はなにか、人間以外のモノに変化している。
彼女の膨張した腰が服の下であふれて、柔 らかい布地を切り裂 き、彼女の背中でそそり立った──巨大な、コウモリのような皮の翼 。同時に彼女は震 え出し、だらり、と口 腔 から体液のようなものを吐 き出した。顔を押さえた指の隙 間 から、肉片の混じった血が床に滴 る。その口腔も、あごが外 れるほど開き、赤トカゲの頭のような舌がのぞいている。
「見ないで!」
その叫びだけが、さきほどから変わらない。彼女のものだった。
「アザリー──」
少年が叫びかける。だが彼はそのあとの語が見つからなかったように口をつぐんだ。
その間にも、彼女の変 貌 は続く。ローブの生 地 を引き裂き、剥 き出しになった彼女の肩は、あっと言う間に鱗 の浮き出た緑色に変じた──気が付くと腕が四本に増え、身体そのものも三メートルほどまで、膨 れ上がっている。
彼女──いやさっきまでは彼女であった異 形 の物体は、自分の長い尾を追いかけるようにぐるりと一回転すると、一声また「見ないで......」とつぶやき、焼けただれたような瞼 に隠れた目玉を燃え上がらせ──
巨体に見合わない素 早 い動きで《塔》の窓から身体を乗り出すと、翼を空 打 ちし、轟 音 を立てながら──外へと飛び出していった。
少年はあわてて彼女の吐き出した血だまりを飛び越えて窓に駆 け寄った。だが、もうそこから見える場所には彼女の姿はない。
彼はある種の陶 然 とした表情を浮かべて、震えながら部屋の中を振り返った。彼女の残した血だまりの真ん中に、さっきまでは気づきもしなかった鉄の物体が落ちている。血と錆 に汚 れて黒ずんでいる、一振りの古風な剣。
以後少年は長い間、彼女の姿を見ることはなかった──何年間も。何年間も。
何年間も──何年間も──歩きつづけて──
──どんどんどんっ!──
「起きろ、てめえ! とっとと起きねえと棒 でつつき殺すぞ! おいコラ!」
激しくたたかれるノックの音に、オーフェンはいらいらと寝返りを打った。安宿の薄っぺらなベッドではあるが、寝ている当人にとってはそんなことは関係なく、居心地 はいい。
「前々から言ってあったろうが! 今日は商売の日 だぞ! 俺 の計画を全部ぶち壊 すつもりか? オイ、とにかく出てこなけりゃ殺すぞ!」
靄 がかかったようにぼんやりとしたオーフェンの意識に、だんだんとそれらの怒声 が染 み入ってくる。彼は、腫 れぼったいまぶたをゆっくりと開いた。油じみたシミのついた木の天井 を見つめ、そして、不快そうに窓の外へと視線を転じる。
窓から射 し込む陽光の角度から見て、昼前、といったところか。
扉 をたたく声は、ますます高まった。
「てめえ! 是 が非 でも出てこねえつもりか? お? 死にてえってんだな? ようし、とにかく出てこい! 今日という今日こそ、このボルカノ・ボルカン様が引 導 をつき渡してくれる!」
(出てったら......殺される?)
オーフェンはやや寝ぼけぎみに、そんなことを考えていた。
(誰 に殺されるって? ボルカノ・ボルカン? あの寸詰 まりにか。くそったれが──)
彼は、自分の上に広がったシーツをはぎ落とすと、上半身だけを起き上がらせた。一言、
「うるせえっ!」
と扉に向かって怒 鳴 り返し、裸の胸をぼりぼりと掻 く。静まり返った扉に向かって唾 を吐 いて、彼はベッドのわきの椅子 にひっかけてある自分のシャツを乱 暴 に着込んだ。ついでに、同じ椅子の背につるしてあるペンダントも取り上げる。細い銀の鎖 の先に、やはり銀細 工 の、剣にからまった一本脚 のドラゴンの紋 章 が、ちらちらと輝 いた。
それをいったん手のひらにのせ、銀のドラゴンに呼びかけるようにオーフェンはつぶやいた。
「俺を殺すんだってよ?」
苦笑してから、首にかける。
同時に、どん! とひときわ激しく扉がたたかれる音がした。
「なにがうるせえってんだ! 誰のためにこんな油臭 えところまで迎 えにきてやってると思ってんだ!」
オーフェンは無視してベッドから降り立ち、部屋の隅 っこにかかっている鏡 をのぞき込んだ。二十歳そこそこの、やや拗 ねたような顔立ちの黒髪の若者の顔が、そこに映 る。寝起きのためにやぶにらみになっているが、考えてみれば、彼が鏡をのぞいたときには、彼の黒い双 眸 は、いつも皮 肉 げにつりあがっていたような気がする。
扉の外の声は、ますますヒステリックに高まっていった。
「てめえいいかげんフザケタことばっか言ってっと、ローラーでひき殺すぞ! いいからとっとと出てきやが──」
オーフェンはうるさそうに扉に顔を向け、右手を突き出すと口 早 に唱 えた。
「我 は放 つ光の白 刃 !」
瞬 間 、かっ! と純白の閃 光 が部屋に満ち、オーフェンの手から光の帯 のような光 熱 波 が放 たれる。白光の奔 流 は頑 丈 な木の扉にぶち当たると、すさまじい轟 音 を立てて爆 裂 した。扉が砕 け散り、爆 砕 された粉 塵 が砂 煙 のようにあたりに立ち込める。
ぽっかりと、跡 形 もなく飛び散った扉の向こうで、毛皮のマントをまとった身長百三十センチほどの少年が、呆 然 と目を見開いていた。旅 塵 にまみれた格 好 は薄 汚 れており、黒い髪もここ数日は洗った気 配 がなく、ぼさぼさになっていた。目は真ん丸で、ブラウンというよりは薄い黒といった色の瞳 孔 が、大半を占 めている。
オーフェンはその少年に向けて、半眼で聞き返した。
「出て、きやがれだ?」
「......出てきて、くださると──当方としても僥 倖 かと存じます......」
粉塵の中で少年は、恐 る恐る小声で言い直した。
「よろしい。これからは年長者には敬意を払え。いいな?」
オーフェンはそう言うと、満足げにその少年を観察した──やや小太りの印象を受けるその地 人 の少年は、年齢は確か十八歳くらいだろう。身長百三十センチは、体格の小さい地人たちの基 準 では、まあ普通の大きさだ。地人の伝統的な装 束 である毛皮のマントをすっぽりとまとい、その下には肉 厚 の長剣の鞘 がのぞいている。
少年──ボルカンは、まだ焦 げてぱりぱりと音を立てている扉の破片を見下ろしながら、ゆっくりとこちらを見返してきた。
「ええと、それであの、オーフェン様、僣 越 ながらお迎えに上がったわけでございますが」
「飯 を食ってから行く。外で待ってろ」
「はいです」
ボルカンはそうつぶやくと、目を見開いたままの顔で、ばたばたと廊 下 を駆けていった。
彼が階段でつまずき、罵 声 をあげるのを聞きながら、オーフェンはおおきく伸びをした。
「商売の日、か。だがその前に──」
粉 砕 された扉にまたもや右手を突き出してから、
「我は癒 す斜 陽 の傷 痕 」
彼が唱えると同時、扉の破片がぴくりと動いたかと思うと、時間が逆もどりしたようにいきなり空中で組み上がり、もとにもどった。オーフェンはぶらりと歩いて、もとどおりの木の扉に近寄り、指で触 れた。つぶやく。
「ま、上 出 来 かな」
扉の真ん中に少し焦げ目が残ってはいたが、彼は肩をすくめて無視すると、ドアのノブを軽く押しやった。
バグアップズ・インと呼ばれるその寂 れた安宿に客が来たのを、オーフェンは見たことがなかった。そのくせ複 雑 に入り組んだ商都の裏 路 地 にあるこの宿は、いつもきちんと手入れされており、えらく古い建物だということを別にすれば、悪い宿ではない。
オーフェンが二階の客室から下りてくると、酒場のカウンターで亭主のバグアップがにこにことグラスを磨 き、息 子 のマジクが床 をモップで拭 いている。実の親子のはずなのだがふたりはまったく似ておらず、海 辺 の街 であったならまず間違いなく海 賊 と間違われたであろうバッグアップに対して、マジクはまさしく紅 顔 の美少年然としていた。素 直 な目の、金髪のこざっぱりした若者である。と、マジクが顔を上げて挨 拶 してきた。
「ああ、オーフェンさん、お目 覚 めですか」
ここ二年ばかりこの宿を利用し、すっかり顔なじみになっていたオーフェンは、気安く手をあげて返事した。
「目覚めもなにも、あの馬 鹿 にたたき起こされたよ」
「ものすごい音がしましたけど」
「扉をぶち抜いてやったのさ。直しておいたけどな」
言いながら、オーフェンはカウンターの席についた。髭 の奥でにこにこしているバグアップに、軽い昼食を頼 む。
「仕事がどうとか騒 いでいたね?」
オートミールの入った鍋 に火を入れるため最近導 入 した彼自 慢 のガススイッチを入れながら、バグアップ。荒海と釣 り針 の嵐でもまれ潰 されたような容 貌 でいながら、やけに声だけは優 しく、好 々 爺 といった感じだった。
オーフェンはカウンターに肘 をつき、嘆 息 まじりに答えた。
「ああ。ボルカンの奴 が、なにか儲 け話を見つけたらしい。詳 しいことはまだ聞いてないんだけどな」
バグアップが、にやりとする。
「その様 子 じゃ、あまり期待はしてないようだな?」
「そりゃそうさ。あいつの持ってきた仕事がうまくいった試しなんぞ、一度もねえんだ」
「だったら、無視すればいいじゃないか」
おもしろがるように、バグアップ。オーフェンは皮 肉 に口元をゆがめて答えた。
「知ってるだろ? 奴に金を貸してるんだ。どうにかして儲けてもらって利 子 をつけて返してもらわにゃ、こちとら破 産 だよ」
「だからモグリの金貸しなんぞ、やらなきゃよかったんだ」
「そうなんだよな......どこの世の中に、金を貸した相手に儲けてもらうために手を貸すような借金取りがいるんだか」
「ここにいるじゃないか」
揚 げ足をとってバグアップは、温 まったオートミールを皿に移してカウンターに差し出した。オーフェンはそれを受け取り、くるりとマジクのほうに振り返った。
「なあ、後で魔 術 を教えてやるから、月 謝 を払うつもりはねえか?」
「ほんと?」
ごつん、と椅子の脚 にモップをつまずかせ、マジクが顔を輝 かせる。
「おいおい、人の息子を怪 しげなことに勧 誘 するなよ」
後ろからバグアップが注意するのに、オーフェンは胸のペンダントを掲 げてみせた。彼の持ち物の中では、ほとんど唯 一 価値あるものと言っていいそれを見せびらかしながら、
「《牙 の塔 》出身の、れっきとした黒魔術士オーフェンが指 導 するんだぜ? 立 身 出 世 のチャンスってもんじゃねえか」
「マジクに魔術の才能があるとは思えんね」
バグアップは自分の口髭をしごきながら、さらに付け加えた。
「それに当の本人が破産寸 前 でぴーぴー言ってるときに、なにが立身出世だよ」
「一応これでも、宮 廷 魔術士にならないかって話もあったんだぜ?」
「それで選考会のときにカンニングがばれて失格になったんだろう? 聞き飽 きたよ」
「大 丈 夫 だって。マジクには才能がある──俺みたいな天才にしか分からないなにか、こう......フィーリングみたいなモンがだな──」
「本当ですか?」
「おい、真 に受けるなよ、マジク」
バグアップは髭をいじるのはやめて、流し台に置いてあったグラスを再び磨きなおしはじめた。
「こいつが宮廷魔術士──《十三使徒 》の候 補 になったわけがないだろう? そんな力のある魔術士が、いくら落ちぶれてもモグリの金貸しになんぞなるもんか。お前に才能があるなんてのも、でまかせだよ」
そう言って、酒場の隅 に息子を追っ払ってから、バグアップはオーフェンに念を押すように言った。
「息子をからかうのもいいかげんにしてくれよ──思い込みの激しい奴でな。お前さんの言うことを、なかば信じかけてるんだ」
「ひでえな。俺はウソなんかなにもついてないってのに」
オーフェンはふてくされた声 音 でそう言うと、潔 癖 なまでに磨かれたスプーンでオートミールをかきまぜた。
「ホントにマジクには才能があるんだよ。十四歳だったっけか? こんな客の来ない宿でモップがけなんかさせてねえで、ちゃんと学校に通 わせてだな──」
「学校には行かせてるよ。読み書き、算術、神 学 の初歩──」
「普通の学校じゃない。どっか有名な魔術士の教室にだよ」
「それで最終的に《牙の塔》を目 指 せとでも言うのかい?」
「そうは言わないさ。あそこは......ちょっと特 殊 な教室だからな」
オーフェンは少し気まずそうに身を退き、もごもごとつぶやいた。スプーンから手を放し、またペンダントの紋章に触れる──この紋章は《牙の塔》出身の黒魔術士にのみ贈 られる、一種の身分証明だった。
だがバグアップはモップで床を磨く不 機 嫌 顔の息子のほうを見ており、オーフェンの表情の変化には気づいていないようだった。彼は、なにげない口 調 で、ぽつりと聞いた。
「だいたいなんで、マジクに魔術士の才能があるなんて思うんだ」
オーフェンも、似たような口調で聞き返す。
「力ある魔術士の条件がなにか、知ってるか?」
「さあな。処女から生まれるってことか? なら言っとくが、あれの母親は......」
それはさえぎり、オーフェンは続けた。
「純 粋 で真 摯 な情熱。それが力ある魔術士の条件だよ」

それを聞いた瞬間、バグアップは吹き出した。彼はグラスを取り落とさないように流し台に置いてから、言い切った。
「だったら、あんたが力ある魔術士なわけがないな」
オーフェンは、なんとでも言いやがれとばかりにフンと鼻息を吹くと、仏 頂 面 でオートミールを征 服 にかかった。
◆◇◆◇◆
「ふざけやがって、あの人間め!」
ボルカノ・ボルカンはバグアップズ・インの前の路 地 を行ったり来たりしながら、鼻息荒く毒 づいた。
「力をひけらかし やがって、まったくいやらしい野 郎 だ!」
一方、酒場の入口のわきに置いてある空 の水 樽 に、もうひとり、似たような姿の地人が腰掛けて足をぶらぶらさせている。ただしこちらはボルカンよりもひとまわり体格が小さく、年齢も少し下のようだった。度の強そうな眼鏡 をかけ、樽の横に、彼のものであるらしい馬 鹿 でかい皮のザックが転 がっている。ボルカンのように剣は持っていないものの、その皮袋の大きさからすれば、とても身 軽 な旅 装 とは言えたものではない。下 手 をすれば自分自身が中に入れるような袋である。
そちらの眼鏡をかけたほうの地人に向き直り、唐 突 にボルカンは同意を求めた。
「そうだろう? ドーチン」
「......え?」
ドーチンと呼ばれたその少年は明らかに聞いていなかったらしく、ぼんやりと聞き返した。ボルカンが、機嫌の悪い表情をさらにしかめて、くりかえす。
「あの人間の黒魔術士のことだ。態度がでかすぎると思わんのか?」
ドーチンはそれを聞いて、少し迷 うように虚 空 を見上げた。
「でも、あの人にお金を借りてるのは兄さんでしょう?」
どうやらこのふたりは兄 弟 らしい。
ボルカンは、かっと火でも吹くみたいに口を開いた。
「つまり、俺 はあいつのお客だろうが!」
(期限内に返 済 できなければ、顧 客 とは言えないよ)
ドーチンは反射的にそう思ったが、あえて口に出しはしなかった。
それを同意と見て取ったのか、ボルカンは勢いづいて続ける。
「それを、奴 は自分が主人のようなつもりでいばり散らして、なにをするのかと思うと、俺が用意した商談をことごとく台なしにするだけだ! まったく、人間ってのはロクな奴がいないが、奴はその極 めつけだな」
(いつも商談を用意するのはぼく じゃないか)
これも声にならない声。
とは言え、今日用意された商談に限ってはまぎれもなく、この兄が用意したものだった。もっとも、そのせいでドーチンは朝からなんとなく不安を感じているのだが──彼は、今日も儲 け話というのをボルカンから何度も聞き出そうとしたのだが、兄は頑 として話してはくれなかったのだ。
ドーチンの経験からすれば、これは良い兆 候 ではない。
ボルカンは、なおもぶつぶつと続けている。
「だいたい、なにが年長者だ。たかだか二、三年ばかり、俺より長く生きてたってだけのことだろうが。くだらん──その程度のことで、いちいち先 輩 面 されたんじゃ──」
(じゃあ、あんたがぼくに兄さん面するのは、なんなのさ)
ドーチンはまたもや胸 中 でつぶやいて、路地に吹き込む春の風を感じながら、空を見上げた。トトカンタ市を見下ろす空はまばらに雲を散らばらせて、ぷかぷかと、いつでも頭の上に落っこちてきそうに見えた。
◆◇◆◇◆
かっち、こっち、かっち、こっち......
噴 水 の中心に立つ女神を象 ったらしい時計が、子犬と母犬を模 したふたつの振り子を交 互 に揺 らして笑っている。優 雅 にして豪 壮 な調度に囲 まれた客室で、オーフェンはほとんど絶望的な思いに浸 っていた。
暖 炉 には火は入っていない──もう完全に初夏に近づいた陽気で、それには不 都 合 はなかった。純白のテーブルクロスには目が痛くなるような細かい刺 繍 が施 され、部屋の隅 で銀色の剣を交 えた空 っぽの二体の甲 冑 は、なんだかこちらをにらみつけているようにも見える。ともすればつまずいてもおかしくないようなぶ厚いカーペットは深く落ち着いた赤で、彼が腰掛けているのは、多分同じ大きさのものを宝石で作ったものよりも価値があるであろう繊 細 な彫 り込みの入ったカウアー樹の椅 子 。天 井 のシャンデリアは、下 手 をすれば昔のオーフェンの下宿の部屋そのものよりも大きいかもしれない。そんな中で、オーフェンはひどく混乱していた。最初は、自分を取り巻く状 況 が分からないための困 惑 であり、今はこの状況から逃 亡 するための焦 燥 である。
実のところ、オーフェン自身も盛 装 させられている。息苦しいタキシードのようなものを着せられて、例の紋 章 はポケットの中である。彼の横には、スケールこそ違うものの似たような格 好 のボルカンとドーチンが並び、ボルカンはさっきからにこにことひとりでしゃべっている。ドーチンは、こちらからその表情をうかがう気にはなれなかったが、真っ青に震 え上がっているのが気 配 で分かった。
「実業家でいらっしゃるそうね、お若いのに」
年齢の分かりづらい、小柄な中年の女性──ボルカンの対面に位置する──が、口元に軽く手を当ててそう言ったとき、オーフェンの背筋に戦 慄 が走った。どう答えたらいいものか言 葉 を失したオーフェンの横から、ボルカンが口をはさむ。
「ええ。国では、ブルプルワーズ株式会社の名を知らない者はありませんよ」
「株式会社? 聞き慣 れないわね」
「え、ええ。つまり、その──一言で説明するのは難 しいのですが──」
ボルカンは、いきなり口ごもった。
「要するに、株があるわけです。株があってこの──会社があるわけで、つまり株があれば一事が万 事 、ってところですかな」
しどろもどろにつなげる。オーフェンは、軽く頭を抱 えてめまいを抑 えた。
「ところで、ブルプルワーズさん──」
オーフェンは、それが自分の名前であることに気づくのにしばらくの時間を要した。
「は、はい、マダム?」
ぱっと顔を上げて、なんとなく上流にふさわしそうな単語を口に出す。
婦人は、にっこりと続けた。
「あまりおしゃべりになられないのですね。まあお見合いをする男女というのは、普通はそういうものですけれど。うちの娘も、ふだんはこうじゃありませんのよ──」
言って彼女は、自分の横にちょこんと座 って押し黙 っている若い女性を軽く示した。紹 介 された名前は、確かマリアベルだったか。マリアベル・エバーラスティン。かたわらの母親が、ティシティニー・エバーラスティン。
オーフェンが改 めてマリアベルに視線をもどすと、彼女は、にこりとほほ笑みかえしてきた。さっきから一言も声を聞いていないのだが、見たところ清 楚 な印 象 の、ブロンドのお嬢 様 といった感じである。いや、感じではなく、実際にお嬢様なのであろうが......
年齢は、オーフェンよりは年上であろう。二十二、三といったところか。かなりの美女だが、その年でこの人見知りというのは、少々間 の抜けた感じにオーフェンには思えた。
(とは言え、本当の間抜けは俺だ)
彼は胸中で断定した。
(この馬 鹿 の儲 け話なんぞ真 に受けてないで、素 直 にマジクの家庭教師でもやってりゃ良かったんだ。この馬鹿が、この馬鹿が、この馬鹿が──)
隣 に座ってのんきに茶などすすっているボルカンを、表情には出さずに憎 々 しげににらみつける。
(要するにこいつ、結婚詐 欺 を計画したってわけか!)
それで、このトトカンタ市でも有数、とまではいかなくともかなりの名家ではあるエバーラスティン家に見合いに参じているのである。ボルカンがどのようにしてこんな酔 狂 な縁 談 をでっちあげたのかは知る由 もないが、とにかくオーフェンは絶望に目の前が暗転するのを感じていた。
「ところで──」
ティシティニーが、事もなげに聞いてくる。しばらくは娘になにか話させようと、まるで飼 い犬に芸をさせようとでもするように促 していたのだが、とうとうあきらめて自分で口を開いたわけである。
「ところで、ブルプルワーズさんは、どのようなお仕事をなさっていらっしゃるの?」
「え?」
追い詰められた子供のような声を上げたオーフェンの前を横切るような格 好 で、またもやボルカンが口をはさんだ。

「す、睡 眠 薬 の栽 培 です!」
(この馬鹿──)
オーフェンがなにかフォローする間もなく、ティシティニーはただ話題を継 続 するという義務感のため、次の質問を発していた。
「まあ、睡眠薬というと、どのようなものがあるのかしら」
「え? いえ、それは専門家でないと──」
言いかけたボルカンをさえぎり、オーフェンはすらりと答えた。
「市販されているものの多くは、特に高原などで栽培されたものを粉 末 状にして飲みやすくしたものですが、どちらかというと睡眠薬は永 眠 薬といったもののほうが多いのですよ」
「永眠薬?」
「平たく言えば、毒 薬 ですね」
「まあ」
ティシティニーは開いた口に手を当てて絶 句 した。慌 てて、ボルカンが声をあげる。
「もちろん、我 が社で扱 っているものには、そのようなものは含 まれておりませんが」
言いながらこの盛装した地人はテーブルの下でオーフェンのももをつねり上げた。オーフェンも眉 ひとつ動かさず、その手をつねりかえす。
(なんで睡眠薬なんだよ!)
小声で聞くと、さすがにボルカンは苦しそうに答えた。
(上流階級のご婦人とくりゃ、睡眠薬は必 需 品 だろうが!)
オーフェンはあえてそれ以上は追及せず、とにかくブルプルワーズ の顔を作った。薄く笑みを浮かべ、黙ってマリアベルを観察する。
女の笑みほど当てにならないものはないと承知しながら、それでもオーフェンには、彼女がこちらに多かれ少なかれ好意を持ってくれているのではないかと思えた──もっとも、黒 魔 術 士 の地位から脱 落 して金貸しをしている平民オーフェンにではなく、この街 から遠く離れたアーバンラマの実業家ブルプルワーズに対する好意ではあるが。アーバンラマはひどく遠い上、この大陸に残された数少ない自 治 都市であるため、ティシティニーがいくらこの縁談に関して猜 疑 的であったとしても、まだオーフェンの正体を突き止めてはいないだろう。そういう意味では、このボルカンのお膳 立 ては、そんなに的 外 れなものではなかったというわけだ──とは言え──
(普通、結婚詐欺ってのは、勝手を知らない一人暮らしのお嬢ちゃん相手にするもんなんじゃねえのか?)
エバーラスティン家は貴族ではないが、平民のオーフェンにしてみれば、貴族と同じと言っても差し支 えない商家の末 裔 である──先代の当主に先立たれ、ティシティニーが切り盛 りをする現在では、商取 引 からは手を引いて過去の財産を切り売りして生計を立てているはずだが、もしそうでなかったとしたら、ボルカンのウソなどたちまち見抜かれてしまっただろう。あるいは、そのほうがよほど面 倒 がなかったかもしれないが。
オーフェンはそんなことを考えながら、ぼんやりとマリアベルの顔を見つめていた。彼女がにっこりと、ほほ笑みかけてくる。
ほほ笑みかえしながら、オーフェンは思った。できればあんた、ボルカンと結婚して奴 の借金を返 済 してくれないかね?
「この無能の魔術士、アドリブのひとつもきかないのか!」
ティシティニーとマリアベルが屋 敷 のどこかへと退 き、客間に三人だけになると、ボルカンがいきなり怒 鳴 りつけてきた。ドーチンは緊 張 のせいで椅 子 にもたれかかり、首切り台に押さえ付けられた囚 人 のようにぐったりしている。
「アドリブだと?」
オーフェンは憎々しげに聞き返した。
「突然こんな窮 屈 な貸 衣 装 を着せられて、なんの説明もなしにこんな馬鹿でかい屋敷に連れ込まれて、しかも名前はブルプルワーズだ? 睡眠薬の栽培をする株式会社だと? いったい俺になにを期待してんだよ」
「うむ」
と、真 顔 でボルカン。
「その会社の社長になりきって相手に毛ほどの疑念も抱 かれずに結婚までこぎつけることだ」
「なるほど、よく分かったよ......って、はっきり言い切ってんじゃねえよ」
オーフェンは貸衣装がしわにならない範 囲 でボルカンを締 め上げると、ドーチンをじろりとにらみやった。地人の弟は石でも投げ付けられたようにぱっと跳 ね起きると、
「ち、違うよ。ぼく──ぼくは、この話は知らなかったんだ。兄さんが全部お膳立てしたんだよ......」
「本当だろうな?」
オーフェンが念押しすると、かわりにボルカンが答えた。
「そのとおり! こんな大 胆 な計画を、ドーチンが立てられるわけがないだろうが?」
「だ・い・た・ん・すぎるんだよ!」
オーフェンはボルカンを──文字どおり──放り出し、きゃしゃな椅子から立ち上がると、この世の終わりのように両手をばたばたさせながら続けた。
「ったく、人をたたき起こして大 騒 ぎして、なにをやらかすかと思えば結婚詐欺とはな! いいかげん呆 れ果てたもんだ」
そのせりふを聞いて、ボルカンは驚 いたように顔を上げた。
「結婚詐欺? 恐 ろしいことを言う奴だな」
オーフェンは凶 悪 な形 相 で振り返った。
「誰 がお膳立てしたことだったっけか?」
「馬鹿を言うな」
ボルカンは平然と、
「詐欺なんて、人の純真に付け込んだ忌 むべき犯 罪 じゃないか」
オーフェンはわけが分からずに、聞いた。
「じゃあ、これがどうして商売なんだ? 俺に借金を返済するための商売なんだろう?」
ドーチンも疑問の面 持 ちで、兄のほうにそろそろと顔を近づけている。ボルカンは、ぽんと自分の胸をたたいた。
「そこが俺の機転というやつだな。つまりだ、俺の取り持ちで、お前を大金持ちの婿 養 子 にしてやる。これだけの財産がお前のものになるわけだから、これはもはやあんなシケた借金なんぞ帳 消 しにな──うわあっ!」
ボルカンが言い終わらないうちに、オーフェンは地人を椅子ごと蹴 転 がした。
「てめえなあ!」
腕まくりした瞬 間 、ドアが開く。
オーフェンはとっさに身構えて振り返った。ボルカンもあわてて起き上がろうとし、ドーチンは意味もなく悲 鳴 をあげそうになっている。三人の視線の集中した戸口には、年の頃 十七、八といった少女がぽかんと立ち尽 くしている。
「君は──」
なんとか取り繕 おうとオーフェンが口を開いたのを待たずに、少女はそれを制止した。
「あ、ごめーん」
扉 が、ぱたんと閉じる。
一秒後、ドアがノックされた。
「ど、どうぞ──いや待って」
オーフェンは口ごもりながら、椅子といっしょに転倒したままのボルカンを助け起こした。兄弟ともどもテーブルのわきに体 裁 よく並べてから、扉に向かって言い直す。
「どうぞ」
扉が開き、さっきと同じ少女が顔を突き出した。彼女はくすりと笑って、お辞 儀 した。
「ノックを忘れてたわ。でも、わたしのこと礼 儀 知らずだと思わないでね」
マリアベルによく似た感じの、だが彼女より少し活 発 そうな少女である。オーフェンは直感で、この少女がマリアベルの妹だと気づいた。白い、ドレスよりは生活向きかと思われるヒラヒラしたワンピースを着ていて、それがよく似合っていた。マリアベルよりは髪が短く、マリアベルよりさらに小柄で、しかしマリアベルより声は大きそうだ。
とにかく、今までの自分たちの会話は聞かれていなかったらしい──と踏 むと、オーフェンも辞儀を返した。
「礼儀知らずと言えば、お客に自 己 紹 介 もしてもらえないのかな?」
「あ、ごめんね。わたし、クリーオウ」
彼女はそう名乗ると、年下の子供にでもするように、ちょこんと小さい手を差し出した。オーフェンが握 手 すると、彼女は少し顔をしかめた。
「ずいぶんと堅 い手ね」
「あ──つまり、社長ご自身も畑仕事に精 出 しているからでありまして──」
いきなりオーフェンとクリーオウの間に割り込むように出てきたボルカンを、少女からは死 角 になるように後ろから黒魔術士は蹴飛ばした。
そして、言う。
「アーバンラマでは、男女ともども市民のすべてに一定年数だけ、兵 役 が課せられているんですよ。たった二年でも軍の基 礎 訓 練 を受ければ、手の皮だって厚くなります」
「へえ──そういえば、そんなことは聞いたことがあったんだわ」
クリーオウは明らかに間違った文法を使ってそう言うと、自分の手を引っ込めた。
(よし。さっきの会話は聞かれてなかったようだな)
だがオーフェンが確信した瞬間、クリーオウはにっこりと言った。
「ところであなたたち、結婚詐 欺 師 なんでしょう?」
ぶっ──とオーフェンは吹き出して、聞き違いかというように顔をしかめた。だが、クリーオウはにこにこと続ける。
「ねえ、お姉ちゃんをだますの? どのくらい だますの? ねえ」
「あ、あの......いったいどうして......」
引きつりまくった顔で、オーフェン。ちらりと見ると、ボルカンとドーチンは抱き合って震 え上がっていた。金持ちをだまそうとしてから後、幸福な一生を送った人間という話は、あまり聞かない。
クリーオウは、一瞬オーフェンの質問の意味が分からなかったような顔を見せたが、やがて、ああ、と手を打った。
「えっとね。聞き耳を立ててたの。ドアの外で」
「い、いつから」
「う〜ん......まあ、わりと最初っからかなあ」
(あのなあ)
オーフェンは胸 中 で神──だかなんだか──に祈りつつ、この少女を人 質 にとって街の外まで逃 亡 する計画を検 討 した。考えるまでもなく、ボツ。明確な根 拠 はなかったが、この娘はなんとなく、喉 元 に刃物を突き付けられても「あ、わたし、刺 さってもいいの?」と聞き返してきそうだ。
オーフェンがうめいていると、クリーオウが気を引くようにその手を取った。さっきの質問をくりかえしながら。
「ねえ、お姉ちゃんをだまして、ひどい目に遭 わせるんでしょう?」
「いや、その──」
オーフェンはなんとかこの窮 地 を脱することができそうな画 期 的な言い訳 を模 索 しつつ、
「これはね、その、そういったことではないんだ──」
と、その瞬間、後ろからボルカンが続ける。
「俺 じゃない! 俺が計画したんじゃない!」
オーフェンは無視して、
「つまりね、俺──いや、我 々 魔術士同 盟 のスタッフは、民間人の詐欺に対する警 戒 度 をチェックするために──」
「俺が計画したんじゃない! こいつが俺を無理やり──車 轢 きで責め殺すと俺を脅 して──」
「ひどいよ、兄さん! ぼくがいつそんなことを──」
「この詐欺・詐 称 の蔓 延 する世の中に、我々は革 新 的なシステムでもって対応を──そのためには入念な情報収集が──」
「俺はなにも悪くない! 最初から反対していたんだ!」
「嘘 だ! 兄さんが全部お膳立てして、ぼくらを連れてきたんじゃないか!」
「我々は日々犯罪と戦 っているのです! みなさんにはどうぞご協力──」
「そうだ! この邪 悪 な黒魔術士が、俺を洗 脳 したんだ! 毎晩毎晩、鳥の羽 でくすぐり殺す悪 夢 で俺を脅 迫 して──」
「ぼくはなにも知らなかったんだ──」
「や・か・ま・し・いいいっ!」
オーフェンはありったけの大声で叫 ぶと、光 熱 波 を地人の兄弟の足元にたたきつけた。爆 音 が轟 き、この大きな屋敷が振動する。高価な絨 毯 に開いた大穴がぶすぶすと音を立て、もうもうとわきたつ粉 塵 が空気に紛 れて消えると、ボルカンとドーチンは爆風で吹っ飛んで部屋の隅 に転がっていた。まあ、頑 丈 な地人たちのことだから、この程度ではケガもないだろうが。
「お前らなあ、人がせっかくナイスな言い訳を必死こいて熱演してるときに、いちいちそれをぶち壊 しにするんじゃねえ!」
そんなに出来のいい言い訳だったかなあというような顔をしながらも、なにも言わずにドーチンはむっくり起き上がった。兄のほうは、完全に気 絶 しているらしい。
オーフェンはなおも凶 暴 な面 持 ちで兄弟のほうへと足を踏 み出しかけたが、いきなり奇 妙 な音を聞いて、立ち止まった。ふりかえると──
クリーオウが笑っている。
ティシティニーとは違う、下町の少女のような仕 草 でけらけらと笑いながら、クリーオウは言った。
「分かったわ。あなたたち、芸人なんでしょ。聞いたことがあるわ──いきなり人をだまして、あとで看 板 持って出てきて『ドッキリでした』ってやつ」
そんな気楽な商売があるならあやかりたい、と思いながらオーフェンが返答を考えていると、いつの間にか起き上がっていたボルカンが、クリーオウの手を取って言う。
「そのとおりです。お嬢さん」
「ちなみに詐欺罪は禁 固 十五年よ」
にっこりとつぶやくクリーオウに、ボルカンは豹 変 したように頭を抱 えて泣きわめいた。
「俺はだまされただけなんだあーっ!」
「......なんか変だな、お嬢さん」
オーフェンはゆっくりと前に出て、ゴミでもどかすようにボルカンをわきに蹴 転 がした。
「クリーオウでいいわよ」
「じゃあクリーオウ。なんだか君は、俺たちを咎 め立てしてるわけでもないみたいだ」
「うん」
少女はあっさり、金髪の頭を上下に振った。
「それなら、俺たちをどうするつもりなんだ?」
「わたしは、どうもしないわよ。警 察 に言うなら、お母 様 たちがするだろうし」
「......俺ら......主犯はこいつだが──君の家族をだまそうとしたんだぜ?」
「でもさっきの話を聞いてると、そんなに悪いことしようとしてるみたいじゃなかったわ。あなたがお姉ちゃんと結婚するってだけのことでしょ?」
「そりゃそうだが──」
オーフェンは渋 い顔で、なんでこんなことを説明しなければならないのかと自問した。
「いいかいクリーオウ。君の姉さんは、俺のことを金持ちの実業家だと思ってるんだ。でも実際はそうじゃない。これはいずれバレる──」
「結婚すると互 いの欠点が見えてくるのは避 けられないものだって言うわよ」
「なるほど」
「ちょっと、なに納 得 してるんですか、オーフェンさん」
後ろからつっついてきたドーチンを見下ろして、オーフェンは少年の首根っこをつかみ、その耳元までかがみこんだ。小声でささやく。
(うるせえな。気が変わったんだ。この娘を味方につければ、無 事 に逃げられるかもしれんだろが)
(そ、そうかなあ)
ドーチンの声は不安げだった。オーフェンも同感だ。
だが、彼は少女のほうに向き直って、続けた。
「あのね──」
その瞬間、紛 れもない爆音が屋敷を震 わせた。
どうんっ!
同時に、窓ガラスの割れる音。壁がみしみしと押し倒され、張り裂 ける音、その他、なんだか分からないような細かい破 壊 音──
爆発が屋敷全体を揺 らし、その振動に足をとられて転びそうになったオーフェンが考えたのは、まず第一に身の安全──これは大 丈 夫 だった。爆発は屋敷のどこかに違いないが、彼らのいる部屋からは遠いところだ。そして次に爆発の原因──これはさっぱり見 当 もつかない。しいて言えば、なにかの魔術の爆発というよりは、巨大な岩でも空から落ちてきてぶつかったような衝 撃 音だったが。最後に、この機に乗じてさっさとここから脱出しようということだった。
「逃げるぞ!」
オーフェンはボルカンとドーチンに向かって鋭 く叫んだ。が、返ってきたのは要領のいい「おう!」という返事ではなく、恐 慌 状態に陥 って意味もなく悲鳴をあげているドーチンと、さらに意味もなく弟を追い回してぽかぽか殴 りかかっているボルカンの姿だった。
「お前らなあっ!」
いいかげん呆 れ果て、このふたりを置いて自分だけ逃げようかという考えが脳 裏 に浮かんだが、すぐに却 下 せざるを得なかった──このふたりが捕 まれば、自分の身元もあっさり判明してしまうだろう。そうでなくても、この地人の兄弟が警察の尋 問 に耐 えてまでオーフェンのことをかばってくれるとはとても思えない。
「ねえ、待ってよ! ブルプルワーズさんっ!」
叫んで彼の腕をつかんだのは、クリーオウだった。突然のことに、さすがにさっきまでの気楽な表情も引きつっている。
「俺はブルプルワーズじゃない! オーフェンだ!」
「孤児 ?」
「ああそうだ」
と言いながらオーフェンは、本 名 を名乗ってしまった愚 を自 責 した。が、もう悔 やんでも遅 い。彼はボルカンとドーチンをそれぞれ片手でつかみあげると、まるで赤い草原みたいに深い絨 毯 を踏み分け、手近な窓から飛び出そうと──
した瞬間、足首をつかまれて転倒した。顔面からモロに落下して、オーフェンは鼻 を押さえながら振り返った。すると、落ちる花 瓶 でも受け止めようと滑 り込んだような格 好 で、クリーオウが彼の足をつかまえている。
「なんなんだよ!」
オーフェンが叫ぶと、クリーオウは子供を叱 る母親みたいな口 調 で、
「偽 名 を使ってたのね! 名前を偽 るのはみんな悪人だって、先生も言ってた──」
「知るかっ!」
オーフェンは半泣きになってわめいて、足首をつかむクリーオウの細い指を振り払おうとした。だがその瞬間、クリーオウの声がいきなり懇 願 する口調に変わる。
「ねえ、このまま出ていったりしないでしょ? この家、男手がないんだから──きっと今の音、物 置 が倒 壊 したに違いないわ! 昨日 から風が強かったもの──」
(そんなわけがない。今の音は、間違いなく屋敷の中の どこかで爆発が起こったんだ)
オーフェンは胸中で答えながら、今はとにかく逃げなければ駄 目 だと自分に言い聞かせた。詐欺罪は禁固十五年だと? 俺は今まで二十年しか生きてない。十五年前の──五歳のときの記 憶 なんてない。となると、その罪を犯したときの記憶もなくなるような年齢まで、俺は牢 屋 に入っていなければならないってのか。
「ねえ、お願いよ。お母様ったら、わたしに力仕事をさせようとするのよ! お姉ちゃんには絶対させないくせに。お願いよ──」
「冗 談 を言ってる暇 は──」
かっとして、彼が手を振り上げたとき──
悲鳴が響 き渡った。女の悲鳴だ。
「お姉ちゃんの声だわ」
クリーオウが、ぱっと起き上がってつぶやく。
(くそったれが──)
俺は逃げなくちゃならんのだ、とオーフェンは自分に言い聞かせた。こんなところで十五年間も禁固刑に処せられている場合ではない。だが今の悲鳴、マリアベルは瓦 礫 の下敷きになっているのかもしれない。街 中 だから救助が遅れて瓦礫の下で窒 息 死 することまではないだろうが、それでもケガをする可能性は必ずあるし、それが重傷でない保証はどこにもない。下 手 をすれば、もう圧 死 しているかもしれない。
「あの女の部屋はどこだ!」
オーフェンはボルカンとドーチンを放り投げ、クリーオウに詰 問 した。少女は、
「ついてきて!」
と叫ぶや否 や、機 敏 な動作で駆 け出した。オーフェンもそれを追って、廊 下 に飛び出す。
屋敷の中は、奇 妙 なほどに閑 散 としていた。豪 壮 な調度はあちこちに見られたが、さっきの爆発騒 ぎにもかかわらず、駆け回る使用人の姿もない。爆発は屋敷の別の棟で起こったようで、応接間を出たばかりの廊下では、床の上に花瓶が落ちて割れている程度の痕 跡 しか残っていない。
「おい、逃げるんじゃないのか、黒 魔 術 士 !」
どうやら正 気 になって追いかけてきたらしく、ボルカンが後ろから叫びかけてくるのが聞こえた。ボルカンがいるなら、ドーチンもいっしょだろう。
オーフェンは、振り返らずに、やけくそになって答えた。
「俺はまた 人生を棒に振ったぞ!」
そのせりふの意味を理解できたのはオーフェンだけだったのだが、その場では、誰 も聞き返してはこなかった。オーフェンはクリーオウの後を追いながら、ただひたすら、動きづらい貸 衣 装 を気にもせずに、長い廊下を駆けつづけた。
「ここよ」
クリーオウは、いつになく緊 張 した面 持 ちで──というよりは、なにかモノスゴイことを期待してわくわくしているような表情で、ひとつの扉 を指さした。周 りの白い壁 によく似合ったオーク材の渋 い扉で、あちこちに細 々 と繊 細 な彫 刻 が入っている。森をイメージした紋 様 らしい、とオーフェンは思った。
(森の中の眠れる美女ってトコか。瓦 礫 の下じゃ、見 栄 えはしねえだろうがな)
クリーオウは扉を開けようと、ノブをつかんだ──が、ひっかかったようにノブは回らず、がちゃがちゃと音を立てるだけだ。鍵 がかかっている。
「どうしよう」
クリーオウは、頼 るようにこちらを見上げてきた。
オーフェンはまかせろというようにうなずき、静かに目を閉じた。そのまま意識を集中させ、大きく呼吸する。
黒魔術士に限らず、このキエサルヒマ大陸の魔術士は、例外なく呪 文 によって魔術をかける──つまり声を媒 体 にして魔力を飛ばすのだ。だから呪文の声のとどかないところまでは魔術の効果も及 ばないし、その効力は永遠には持 続 しない。声はいつしか風に紛 れて消えてしまうものだからだ。
人間の魔術士には、ふたとおりあると言われている。オーフェンのような黒魔術士は熱や光といったエネルギーや、肉体そのものを扱 う魔術に長 けている。もう一方のものは白魔術士と呼ばれており、こちらは時間と精神を操 る。後者のほうが難 易 度 が高く、その資 質 を持つ人間もごくまれにしか生まれない。
オーフェンはイメージがわいたところで目を開き、手でノブに触 れ、つぶやいた。
「我 招 かれる踏 まれざる門」
この呪文の内容には、実は意味はない。ただ声を出しさえすればいいのであって、ただの意味のない叫 び声であっても魔法はかかる。だが見 栄 えというものもあり、また戯 言 を叫んで自分自身の集中を失ってしまうのは馬鹿馬鹿しいので、オーフェンはその魔術の効果を端 的 に叫ぶのを好んだ。
とにかく魔術は効果を為 し、手の中のノブはがちゃんと小さな音を立て、鍵が開いた。オーフェンは、ゆっくりと扉を押し開けた。
後ろでクリーオウが、それだけ? と残念そうにつぶやくのが聞こえる。恐 らく、彼がさっき見せたような光熱波で扉をぶち抜くつもりだとでも思ったのだろう。
それは無視して、オーフェンは部屋の中に入った──
そして、中の惨 状 に唖 然 とした。
彼の後ろでごそごそと身じろぎし、ボルカンがつぶやく。
「......なんだ、あれ」
ドーチンが続く。
「か──怪物ってやつじゃないかな」
「......黙 れ」
オーフェンは、震 え声で言った。彼は、身動きもできずに、その部屋にいるものを見つめていた。マヒしたように、身体 が動かない......
部屋は半 壊 していた。外から巨大な隕 石 でも飛 来 したように壁には大穴が開き、トトカンタの整然とした町 並 みがよく見える。壁の穴と窓とがいっしょになって、窓だった部分にまだ張り付いている窓 枠 が、ぶらぶらと風に揺れている。クリーオウの言ったとおり、今日は風が強かった。ほとんどの家具は倒 壊 し、一番手前にある小ぶりの椅 子 も逆 立 ちするように転倒し、つぶれている。窓 際 に寄せられているベッドは二つに折れ、その上に居 座 っている未知の主人に戦 いているかのように見えた。
マリアベルは、部屋の一番手前にいた。あまりの事 態 に呆 然 として、立ち尽 くしている。瓦礫の下では見栄えはしないと考えたのは早計だったと、オーフェンは悟 った。この一言も口をきいていない美女はほとんど半 裸 で、カーテンみたいに見えるドレスで身体の前を押さえ、細かく震えていた。どうやらいきなり席を外 したのは、見合い中に色直しでもするつもりだったのだろう。となると、それほど彼の印 象 は悪くなかったのかもしれない。
ティシティニーは、娘のすぐかたわらにいた。いざとなれば娘の盾 にでもなるつもりか、覆 いかぶさるように自分より背 丈 のある娘に腕を回している。彼女もまた、ただ立ち尽くしているだけだった。
ティシティニーが悲鳴をあげる──察するところ、どうやらさっきの悲鳴も、マリアベルのものではなく、母親のものだったのだろう。口をきいたことのない美女は、やはりまだ口をきいてはくれない。
オーフェンがそれだけのものをすべて見回したとき、ひょい、と部屋の中にクリーオウが頭を差し込んできた。少女は遠 慮 のない大声で、言った。
「うっわー。すごい化け物」
びくり、とオーフェンは身じろぎした。
マリアベルのふたつに折れたベッドの上には、まさしくそのとおりのものが鎮 座 していた。
「推測その①」
ドーチンが、ごくりと唾 を呑 み込んでから、仮定を述 べるのが聞こえた。
「腐 りかけたドラゴンと灰色熊 と異 種 交 配 して断 崖 絶 壁 から落としたところに巨大なザリガニが群 がり、十六色くらいの絵の具を混ぜ合わせた濁 り水をぶっかけたら、ああいうふうにもなると思う」
「黙れと言っただろう!」
オーフェンは視線はその怪物に向けたまま、馬が後ろ脚 でやるように、ドーチンの顔面を蹴 飛 ばした。と言うか、実際に蹴飛ばされたのはボルカンだったが、ドーチンを蹴飛ばすつもりではあった。
「なにしやがる!」
ボルカンの怒鳴 り声は上 の空に、オーフェンは怪物を凝 視 した。似ている......
実のところ、ドーチンの描 写 はそれほど的 を外 れてもいなかった。べたべたな粘 液 に塗 りたくられた表 皮 は鱗 の上から剛 毛 のようなものに覆われており、体長は三メートルほどはあるだろう。重さにしてみれば、一トン近いかもしれない。首と胴の区切りはつけづらく、楕 円 形 の物体に大ざっぱに頭部と無数の手脚をくっつけたようなシルエットである。いや脚は六本だと、オーフェンは数えた──ただ身体のあちこちからデタラメに生 えている触 手 に細いものや太いものがあって、それが脚に見えることもある、というだけだ。手脚の先には鈍 そうな鉤 爪 がついている。触手には、爪はついていない。背中に巨大な翼 があり、その怪物の姿をますます大きく見せていた。
確かにドラゴンに似ている──街の外では野 盗 に次いで危険な獣 であるドラゴンに。が、それはむしろ人間がイメージした『ドラゴン』というものの平 均 像に似ているのであって、実際にドラゴンを見たことがあるオーフェンは、その違いをいくつかあげることもできた。例 えばドラゴンの目は緑色である。この怪物の瞼 は焼けただれたように瞳 を覆い隠 し、まるっきり前が見えないのではないかとオーフェンは思った。融 けた瞼は瞳だけでなくあごまで垂 れ下がって、血のようなものを滴 らせていた。
また例えばドラゴンには知恵がある──決して人間の多数集まる街 に近づいたりはしない。この怪物になにか理性のようなものがあるのか──いや、残っている のか、とオーフェンは訝 った。だとしたら、呼びかけに応 えるはずだ──
「アザリー!」
オーフェンは叫んだ。
怪物は、ぴくりともしなかった。ゆっくりと──砂漠 に住むトカゲのようにゆっくりとした動作で、頭 を巡 らしている。なにかを探 すように。やはりこの怪物は目が見えないのだと、オーフェンは悟った。彼は、もう一度叫んだ。
「アザリー! 俺 ──いや、ぼくだ! ずっと探していた──」
オーフェンは両手を広げ、足を踏み出した。あわてて、後ろからボルカンが取り押さえようとする。
「お、おい、狂ったのか黒魔術士!」
「うるさいっ!」
オーフェンは気 短 にボルカンを振り払うと、また一歩、怪物のほうに近寄った。ボルカンが叫ぶのが聞こえる。
「おい! どういうつもりか知らんが、今ここであの化け物を仕留 められるのは貴様 のくそったれな魔法だけなんだぞ! 分かってるのか?」
「あれは化け物じゃない!」
「じゃあ、なんだってんだ。適当なコトぬかしてっと、耳かきでほじり殺すぞ!」
「あれは──」
オーフェンが言いかけた刹那 、怪物が頭をもたげ、天井 に向かい──吠 えた。
犬の遠吠えのような、なんのことはない、ただの遠吠えのように聞こえた。だがその声が響 き渡り、あたりを湿 らせるように満ち渡ったときには──部屋の中は炎 であふれ返っていた。
「うわああああっ?」
オーフェンは悲鳴をあげつつも、考えるよりも早くその声で自分の魔術を発動させていた。炎の舌がその場にいる全員を包 むよりも早く、オーフェンたちと怪物との中間あたりに無数の光輪 が現れ、鎖 で編んだ鎧 のように炎を遮 る──炎と光輪とに阻 まれて、怪物の姿は見えなくなるが、オーフェンはなおも叫んだ。
「アザリーっ!」
「あの怪物、魔法まで使いやがった!」
ボルカンがわめく。炎が漆喰 を焦 がす臭 いが立ち込めてきた。
「アザリーっ! 逃げないでくれ! ぼくだ!」
オーフェンは呼びかけ、両手をかざして呪文 を詠唱 した。
「我 退 ける、じゃじゃ馬の舞 !」
ばしんっ! と空気そのものを棒 でひっぱたいたような音がしたかと思うと、次の瞬間にはもう光輪も、炎も消え去っている──そして、怪物も。半壊 し、炎にくすぶる部屋には無残な残骸 だけが転がり、馬鹿 にするようにだんまりを決め込んでいた。
オーフェンはかつてそうしたように、窓──と言うより壁の穴に駆 け寄った。虚空 を見上げ、巨大な怪物の姿を探す。だが、よく晴れた街の空のどこにも、もう化け物の姿は見当たらなかった。
............
彼女はあの《牙 の塔 》で黒 魔 術 を学ぶ若者たちの一種のアイドルのような立場にいた。そして文字どおり、偶 像 のように崇 拝 する男もいた。実のところ彼もそのひとりだったと言ってもいい。
彼女は、天 魔 の魔女と呼ばれていた。
多分自分のひいき目を差し引いても彼女は美人だったろうと思う。なんにしろ彼の自 慢 の種 のひとつは彼女だった。彼は、五歳年上の彼女とは同じ教室の生徒であるというだけでなく、昔から姉 弟 のようにして育ってきたのだ。
髪を短くすることに、彼女はいつも不平をもらしていた──が、彼はむしろ彼女にはショートカットのほうが似合うと思っていた。もっとも彼女が頭髪に関する《塔》の規 定 について文句を言っているときには、彼はたいてい黙 ってあいづちを打っていた。あるいは、そんなことはどうでもいいと思っていたのかもしれない。
実際、どうでもよかったのだ。彼女の価値は、そんなことではなかった。
彼女の顔にはやや少女じみた面 影 が残っていたが、まだ彼女くらいの年齢であれば、童 顔 というほどのことでもなかろう。快活で小 利 口 そうに輝 く彼女の双 眸 に自分の姿が映 っているのを見るのが、彼は好きだった。そうすれば自分も彼女のような強力な魔術士の一員になれるような気がしたのだ。
現実には、彼女とじっと見つめあうような機会がそうそうあったわけではない──戦 闘 訓 練 の際に対 峙 したときがほとんど唯 一 のチャンスだったのだが、その次の瞬 間 には無 造 作 に接近してきた彼女に腕をねじ上げられ、息ができなくなるほど強 烈 に背中から床 にたたきつけられるのが常だった。
「あんたって、いっつも投げ飛ばされるのを待ってるみたいよね」
彼女はよくそう言った。彼は、実際そうなんだということは、あえて秘密にしていた。
それらはすべて遠い記 憶 だったようだが、冷静に思えば、それほどの年月が経 ったわけではなかった──だが、確かに彼自身にとってみれば、ひどく長い時間だった。ひかえめに言っても彼は、じれったかったに違いなかった。
夢の中でさえ、彼は焦 がれていた......
天魔の魔女アザリーの葬 儀 は、その生前の業績や人気から考えれば、意外なほどそっけないものだった。少なくとも、少年はそう思った。だが、周 りにいる誰 も、そうは思わないらしかった──中には、明らかに嫌 悪 の表情を浮かべている者もいる。そういった者たち──主 に老人たち──が毒 づくように漏 らすつぶやきは、少年の耳にはごく断片的にしか舞 い込んでこようとはしなかったくせに、その後いつまでも消えようとはしなかった。
「......まさか彼女が──」
「しかし、目撃者が多数──」
「大変なことになった。もし──」
「王 宮 の方は、担当の者が抑 えを......」
「しかし、それは緊 急 の──」
「致 命 的な汚 点 ──」
「汚点──」
汚点。
波 紋 のようにくりかえされるその単語を、少年は我 が身に押される焼き印のように震 えながら聞いていた──だがたとえそれが実際の焼き印だったとしても、痛みは感じなかったかもしれない。少年は、ちらりと《牙の塔》の裏庭のほうを見やった。彼がいま参加しているこの葬列は、その裏口から出発したのである。こっそりと。
裏庭には、ぽつぽつと、まばらな見送りが立っていた。中には、明らかにアザリーと友人だった者もいる。その者たちの表情は、なぜか、葬列で毒づく老人たちの浮かべるそれと酷 似 しているようだった。少なくとも、少年はそう思った。
葬列はゆっくりと、共同墓 地 へと続く丘を登っていく。少年も処分される家 畜 のようにうなだれて、魔女の棺 のすぐ後ろを歩いていた。彼のほかに誰も、その位置を歩きたがる者がいなかったのだ。
「キリランシェロ」
名前を呼ばれて彼は、はっと顔を上げた。見ると、彼の横を彼と同じくらいの年齢の、赤毛の少年が並んで歩いている。
「ハーティアか」
キリランシェロと呼ばれた少年は、赤毛の少年に、うつろな瞳 で言った。
「君も葬列に参加していたなんて、気が付かなかった」
「チャイルドマン教室の人間では、ぼくらだけだよ」
ハーティアは、日差しにあたりさえすれば明るく映 える赤毛をかき上げながら、さびしげにつぶやいた。今日は日の光はない。いやらしいほど雰 囲 気 にぴったりな、大 理 石 模 様 の暗い雲が渦 巻 いている。
「先生は?」
キリランシェロが聞くと、ハーティアは呆 れたように、
「君は、よほど参ってるみたいだな。先生なら、すぐそこにいるだろ?」
と、葬列の先頭のほうを示した。
キリランシェロは、ああそうかとつぶやき、そしてそんなことはどうでもいいのだと思った。本当にどうでもいいことだ──なにもかもどうでもいいような気がする。生きることも、死ぬこともどうでもいい。
「おい、しっかりしろよ。そりゃ君は特にアザリ──いやあの──彼女とは親 しかったんだから、分からないでもないけど。まるで自分の葬列に参加してるみたいに見えるぜ?」
「事実そのとおりかもしれない」
「おいおい」
ハーティアは呆れたような声をあげ、そして、友人のそばを離れると、列の先の教師のほうへと足を速めた。キリランシェロはその後ろ姿を見送りながら、その視線を、ハーティアから背の高い黒魔術士──彼らの教師であるチャイルドマンへと転じた。
チャイルドマンは、まさしくこの大陸でも最高の黒魔術士のひとりである。実際その風 評 に半信半疑だった者も、当人の姿を十メートル先から眺 めれば、自 ずと意見を変える。年齢は二十代の半 ばと若く、頑 強 な身体 に強 烈 な意 志 を持った双 眸 は、いかにも彼を隙 のない戦士に見せた。黒髪を背中まで伸ばし、うなじのあたりで紐 で束 ねているが、これはどちらかというと、単に切らなかったから伸びただけ、といった感じだった。
葬列はいつまでも続くように思えた。そして『汚点』というつぶやきも。
丘の上の共同墓地は、手 狭 ではあったが、なぜかいつも空 きの墓 があった。葬儀官がその墓へと葬列を先導し、棺運びの人 足 は、妙 に軽い棺 桶 に、足取りが軽い。若い女の死人だと軽くていいや、と彼らが控 室 で雑談していたのを、葬儀に出席する気になれなかったキリランシェロは、こっそり盗 み聞きしていた。
(違うんだ──それは違うんだ。その棺に入っているのは、女の死体じゃない)
無 銘 の墓 標 の足元にあらかじめ掘られていた墓穴に、棺桶がかつぎ込まれる。スコップが土をひっかき、参列する人々の手を順 繰 りに回って、棺に土を被 せていった。キリランシェロは、呆 然 とそれを見ていた──チャイルドマンが強い腕で土を捨て、ハーティアが軽くスコップを動かすのを。さきほどまでなにか毒づいていた老人たちも、さすがに今は口を閉ざしている。
キリランシェロは陰 鬱 に考えた。いいだろう。あんたらがなにを埋 めているつもりだとしても、あんたたちはそれで満足なんだろうから。
やがて、彼の番がきた。
目の前に突き出されたスコップの柄 を、キリランシェロはなにか不 思 議 なものでも見るように眺めた。誰かが咳 払 いし、かなり長い時間が経 ってから、彼はスコップをつかんだ。
そして、墓穴に飛び降りて、スコップの先で木でできた棺の蓋 をぶち抜いた。スコップは地面に突き立てた杭 のように、ずぽっと棺に突き刺さった。
くぐもったようなどよめきが起こったが、訓練された黒魔術士たちは、さして驚 きを顔に出したりはしなかった。葬儀官も、老人たちも、チャイルドマンも、ハーティアも。棺運びの人足は、もう用済みとあってさっさと立ち去っている。
キリランシェロはそれほど深くない墓穴の底から上を見上げ、叫 び声をあげた。
「これは誰の葬式なんですか?」
「......チャイルドマン教室のアザリーの葬儀だよ、キリランシェロ」
答えたのがチャイルドマンひとりだけだったので、キリランシェロは自分の教師に向き直り、続けた。
「じゃあ、彼女の死体がこの棺に入っているというんですか」
「いいや──お前も承知のとおり、その棺は空 っぽだ」
チャイルドマンの声はいつもと変わらず、厳 格 で隙 がない。岩と話しているようなものだ──道をふさぐ岩に向かって、邪 魔 だからどけと。
キリランシェロはしかしへこたれず、言った。
「だったらこれは、彼女の葬式じゃない」
「屁 理 屈 を言うな」
「屁理屈なものか! 彼女は生きてるんですよ!」
「それは、人によっては生きていると言う者もいるだろう」
チャイルドマンは墓穴のキリランシェロに向かって手を差し伸べながら、
「だがわたしは、彼女は死んだと思っている。そして、おおかたの者もだ」
キリランシェロはその手をはねのけた。
「おおかたの者、じゃない。おおかたの地位を持っている者が、だ。あんたたちは、この《牙の塔》の名声に傷がつくのを恐れて、彼女のことを黙 殺 するつもりなんだ!」
「事実、彼女の失敗はこの魔術の最 高 峰 《牙の塔》の評価にとって致命的な汚点になりかねなかった」
致命的な汚点──またこれを聞いて、キリランシェロは歯がみした。
「彼女は汚点なんかじゃない。この《塔》始まって以来の優 れた魔術士だ。黒魔術だけでなく、白魔術にまで精 通 し──」
「そう。優れた魔術士だった」
「だったじゃない! まだ生きてるんだ!」
キリランシェロは冷 徹 な教師とにらみあいながら、話が平行線になっているのを感じていた。自分の力がこの程度だということも。これ以上、この場にいる人間を説 得 することもできはしない。
チャイルドマンの横から、ハーティアの心配そうな顔。
「おい、キリランシェロ、よせよ──」
「なにをやめろと言うんだ! 彼女が生きていると考えるのをやめろってのか?」
「お前はエリートなんだ。この前も首席をとっただろう? このままいけば、いずれは王宮にもあがれる──」
「黙 れよハーティア。そんなものはお前にやるさ。次席のお前にな」
キリランシェロは険 悪 な形 相 でそう言うと、再びチャイルドマンに向き直った。
「あんたらは空っぽの棺を埋 葬 しようとしている。だからぼくは、その棺に必要な中身を提供してやるさ」
「わたしの首か?」
別に馬 鹿 にした様 子 もなく真 顔 で、チャイルドマン。キリランシェロは一 瞬 不意をつかれて口ごもったが、すぐに思い直し、続けた。
「違う。このぼくをだ」
「正気か?」
これをつぶやいたのは、ハーティアだった。キリランシェロは無視して、くりかえした。
「このぼくをだ! このぼくの名前を、お前たちは埋葬するがいいさ! アザリーの記 録 といっしょにな! ぼくは彼女を探し出す。何年かかろうともだ。それまでは、ぼくは──孤児 だ。彼女のほかには誰もいない、孤児だ」
キリランシェロ──いやオーフェンは、棺からスコップを引き抜き、空に向かって突き上げた。居並ぶうちの何人かは尻 込 みして後 退 りしたが、チャイルドマンは、眉 をぴくりともさせなかった。大陸最強の黒魔術士は、穏 やかな口 調 でつぶやくように言った。
「彼女を──いや彼女が変 貌 したあの化け物を見つけだして、どうするというんだ? お前のキスひとつで元の姿にもどしてやるつもりか?」
「ふざけてろよチャイルドマン。あんたがどこかに封 印 した、あの罰 当 たりな《剣》とやらも見つけだしてやるさ。あの《剣》の魔力で彼女が変身したのなら、もう一度──」
「お前には不可能だ」
チャイルドマンは、ぽつりとそう言った。オーフェンは弾 かれたように、
「あんたにならできるって言うのか!」
「わたしか? わたしになら──」
静かな表情をたたえ、チャイルドマンはそこまでつぶやきかけて、口を閉じた。ちらりと、左右の老人たちに視線を投げて──そして嘆 息 を見せた。彼は自 嘲 するように言った。
「馬鹿げたことを言うな」
「馬鹿なもんか」
「とっとと起きろってんだ、この馬鹿」
「ぼくは正気だ」
「起きろっつってんだよ、魔術士! さもないと革 のグローブで殴 り殺すぞ!」
殴り殺す──殴り殺すだと?......
夢から覚 めると、そこは墓穴の底ではなく、牢 屋 の中だった。もう少しつけくわえるならば、トトカンタ市の誇 る優秀な警 察 の拘 置 所 である。殺 風 景 な青っぽい壁 に囲 まれた、鉄 格 子 と小さな窓の地下室。牢屋の隅 には水差しとコップが置いてあるが、どうしてもそれを飲む気にはなれなかった。だから昨日 から喉 が渇 いている。
頭痛がした。眠っている間に殴られたのかもしれない。ぼんやりと霞 む視界には、憮 然 とした表情で腕組みするボルカンと、その後ろで不安そうにこちらを見ているドーチンが並んでいた。オーフェンはゆっくりと身を起こしてから、自分自身にはうめき声にしか聞こえないような嗄 れ声を出した。
「なんで起こした?」
後ろのドーチンが見せた怯 えた表情を見れば、自分が今どんな形 相 でものを言ったのか、知りたくもなかったが知ることができた。実際オーフェンは、いらだっていた。が、ボルカンは気にすることもなく答えてきた。
「事情を話してもらおうと思ったわけさ」
「話すことはなにもない──」
「ふざけんな!」
ボルカンは激 昂 し、こちらの胸 倉 をつかんですごんで見せた。こちらが座 っているからできたわけで、オーフェンが立ち上がったなら、背伸びしなければとどきはしなかったろう。なんにしろ、ボルカンは続けた。
「いいかげん、のらりくらりと言い逃 れをするのはやめろってんだ! こんなところに押し込められて、三日になるんだぞ! いいか、俺 たちは詐 欺 罪と騒 乱 罪、治 安 妨 害 に器 物 破 損 の嫌 疑 がかけられてんだ!」
実のところ、嫌疑もくそも、どう考えても有罪そのものなのだが。
エバーラスティン家の騒 動 のすぐ後に、役人たちはやってきた。近所の誰かが通報したらしい──まあ、隣 の家に得 体 の知れない物体が飛び込んでいくのを見れば、誰だって軍隊のひとつやふたつは呼びたいところだろう。トトカンタの治安警察官ほど優秀な役人はいないが、あのときばかりは彼らも事態の収 拾 に困ったのか──とりあえず、手近にいた結婚詐欺師どもを捕 まえた。あっと言う間の逮 捕 だったのでオーフェンらは逃げることもできず、貸 衣 装 のまま牢 屋 にほうり込まれたのである。
オーフェンは皮 肉 な笑みを浮かべながら、
「そのうち詐欺罪はお前の担当だ」
「あのなあ! そんなことより、問題になってるのはあの化け物のことなんだよ! あの場にいた全員が、てめえがあの化け物に話しかけたところを見てんだ──」
オーフェンは即 座 に胸倉をつかまえているボルカンの手を引きはがし、逆にねじ上げた。そのまま投げ飛ばすように手を放すと、低い声で告げる。
「いいか。俺は何度もくりかえすのが嫌 いだ──だからこれが最後だぞ。彼女を化け物と呼ぶな。分かったか」
「じ、じゃあ、なんだってんでよ」
痛む腕をさすりながら、ボルカン。
オーフェンは立ち上がり、背中を背後の壁に預 けると、ふっ──と、遠くを見るように虚 空 を眺 めた。彼はしばらく、どう話しはじめればいいものか悩 んでから、ぽつりとつぶやいた。
「たいてい子供ってのは、自分のことを可 愛 がってくれる年上の女に──憧 れるものなんだよな」
「......お前、人間離れしてるとは思ってたが、あんな怪 獣 に育てられたのか?」
オーフェンがぎろりとにらみつけると、ボルカンはさっきねじあげてやった腕をさっと背後に隠 し、口をつぐんだ。オーフェンはゆっくりと続けた。
「俺は《牙の塔》で育った」
その名を聞いて、ボルカンとドーチンが、さすがに神 妙 に唾 を呑 んだ──この大陸では誰も知らぬ者のない、魔術の最 高 峰 である。強力な魔術士たちを擁 し、時に一戦乱の大局面を左右するような巨大な魔術を行うこともある。緊 張 に堪 えられないような吐 息 をもらして、ボルカンが口を開いた。
「なるほど──あそこだったら、あんな怪獣を量産しててもおかしくない」
「違うと言ってるだろうがっ!」
オーフェンが叫んで思いっきりボルカンを蹴 飛 ばすと、さすがに廊 下 のずっと向こうにいる看 守 が鋭 い視線をこちらに投げた。
「おい。なにやってる!」
オーフェンはあわてて、愛想のいい笑みを浮かべて手を振った。
「あ、いや、別になんでもないです」
「......なにがなんでもないってんだ、コラ」
オーフェンの固い貸 靴 の底で踏 み台みたいに踏まれた格 好 で、ボルカンがぼやくのが聞こえたが、それは無視した。オーフェンは今度は小声で、手早く話しはじめた。
「俺は《牙の塔》で育ったんだ。物心つくころからな。俺は孤 児 だった──というか、あそこの魔術士たちは、みんなそうだ。まともな親がいるんだとしたら、あんなトコに入門させたりはしないだろう。あそこに入門した子供で、生きて卒業できるのは、一割に満たないんだからな。ここまでは文句ねえな?」
「はい」
とドーチン。
「踏まれたままでいる以外は」
とボルカン。こちらら無視して、オーフェンは続けた。
「だからあそこの連中は、互 いが互いに孤 独 で不安なのさ。競争は激しいから、気の置けない友人なんぞ、おいそれと作れない。ひとりかふたりがせいぜいだ。俺にとっては、アザリーがそうだった。《牙の塔》始まって以来と言われた、最優秀の魔女で、俺より五つ年上」
「あの格好じゃあ、年齢なんか分かりっこないだろ──痛えっ!」
貸靴の踵 で踏みにじりながら、オーフェンはさらに続けた。
「きれいな人だったよ。恋人も何人かいただろうと思う。なんにしろ、することが派 手 な人だった。だが彼女はなにかの魔術に失敗して──」
自然に、彼の声のトーンは落ちた。
「ああなったんだ」
「......どうなったって?」
と、意地の悪い声で、ボルカン。オーフェンは地人のたくらみに気づいて、絶対に『怪物』の単語は使わないように、答えた。
「しっぺ返しをくらったのさ。魔術の失敗のせいでな。俺は《塔》を出て、彼女の行 方 を探していた。ずっとだ──というか、お前らに借金を踏み倒されていなければな」
「だがそのおかげで、彼女に再会できたんだろうが」
ボルカンが足の下からつぶやく。オーフェンは鼻を鳴らした。
「感 謝 するつもりはないね。だからとっとと借金は返 済 してもらう」
「金の亡 者 が」
「そういう捨 てぜりふは、実際に金を足元にたたきつけながら言ってもらいたいね。無料で聞いてやる義理はない」
そう言ってオーフェンがボルカンの背中から足をどけると、恐る恐るというように、ドーチンが聞いてきた。
「じゃあ、あの怪──いえ、彼女は、もとは人間だったっていうんですか?」
「そうだ」
オーフェンはうなずいた。
「俺は実際に、彼女が変身するところを見た......」
「そ、それって、どんな魔法だったんですか?」
「知らんよ」
あっさりと、オーフェンは言った。
「知らない?」
「そうだ。変身したとき、彼女は正 規 の魔術をやっていたわけじゃなかったんだ。自室で、無断で魔術を実行したのさ。その理由は、本人にでも聞かなきゃ分からんだろうな」
「............」
ドーチンは少し考えてから、聞いてきた。
「じゃああなたは、あの──彼女をもとの姿にもどしてあげるために旅してたんですか?」
オーフェンは嘆 息 し、ほぼ絶望的な声 音 で答えた。
「......できれば、そうしたいところだがな。彼女の使った魔術の正 体 が分からないかぎりは、俺にはどうすることもできない」
「そういうモンだろな」
と、ボルカン。彼はくっきりとオーフェンの貸靴の跡 がついた貸衣装の上 着 をはたきながら、
「つまり、せめてあの怪物を自分の手で仕 留 めてやりたいってわけだろう?」
「冗 談 じゃねえ。ボケ」
オーフェンは目もくれずに毒づいた。
「じゃあ、いったいどうしたいってんだ」
不服顔でボルカンが問いただしてくるが、オーフェンは無視して床 に座り直した。こきこきと、腕の関節を鳴らす。それを威 嚇 だと思って防 御 の姿勢をとるボルカンにも気づかずに、オーフェンはひとりで物思いにふけった。
(彼女の失敗は、魔術の最 高 峰 《牙の塔》にとっては致 命 的な汚 点 になった。彼女の葬 儀 を見れば、それは明らかだった。あの日、彼女の味方はひとりもいなくなったんだ)
彼は再び、目を閉じた。とにかく眠って、力を蓄 えておきたかった。
(つまり俺以外には、いなくなってしまった。だから俺だけでもせめて、彼女のそばにいてやりたい......)
今度は夢を見なかった。
揺 さぶられて起こされると、なにやら牢 の中の雰 囲 気 が変わっている。ボルカンでさえ騒 がずにじっとしていて、オーフェンを揺り動かしているのはドーチンだった。牢の前には看守と数人の衛 兵 が立っており、ちらりと見上げたところ、彼らは防 風 林 のように半円形に並んでいる。円形の中心には、周 りの訓練された兵士たちとは根本的に違う、ほっそりとした小柄なものが、機 嫌 よさそうに両手を後ろで組み合わせて立っている。
「クリーオウ?」
オーフェンは、いぶかしげに声をあげた。金髪の少女は、奇 跡 的に宿題をやってきた学生のような表情で、にっこりとうなずいた。
「なんでここに?」
事態に対応できずに、だんまりしている地人たちに代わって、オーフェンは聞いた。少女がこんなところに顔を出す理由は、本来ないはずだ。
だがクリーオウは答えずに、まず周囲の衛兵たちを追い払った。看守は、じゃあ用が終わったら一声かけていってください、と丁 寧 な口調で言うと、牢の前からさっさと立ち去っていった。
「クリーオウ。どうしてこんなところにいるんだ?」
オーフェンは少女が口を開くより早く、そう聞いた。一応、立場としてはこの少女と彼とは対立関係にあるはずなのだが、オーフェンには、このなにを考えているのか分かりづらい少女を、敵とは考えにくかった。
クリーオウは鉄 格 子 ごしに、いきなり言い出した。
「あなたたちをここから出してあげるわ」
「おいおい」
オーフェンは、やれやれと思いながら答えた。
「脱 獄 したいなら、とっくにやってるさ。こんな鍵 は二秒で開けられる。だが、まだ指 名 手 配 までされたくはないからね」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ。お母 様 が言ってたの。わたしたちに訴 える意志がなければ、あなたたちは罪には問われないって」
「詐 欺 罪と器 物 破 損 に関してはな。だがほかの罪状に関しては、罰 金 を払う必要がある」
クリーオウは、うんとうなずいた。
「お母様もそう言ってたわ。でも、それも払ってあげる」
「ホ、ホントに?」
これはボルカンである。この地人の少年は窮 地 に光 明 を見たような姿をモロに見せて、崇 拝 者が女神に取りすがるように、鉄格子にすがりついている。
それを横目に、オーフェンは聞いた。
「どうして? 君たちにそんな義理はないだろう? まさか君の母親はまだ、俺のことをブルプルワーズだと思ってるんじゃないだろうな」
オーフェンは冗談のつもりで聞いたのだが、クリーオウは大まじめにかぶりを振った。
「違うわ。実はね、頼 み事があるの」
「取 引 したい、ってわけか?」
オーフェンは聞きながら、腕組みして立ち上がった。
クリーオウはあっさりと、
「そうなの。あなたは魔法使いなんでしょ?」
「ああ。そうだ。だが──」
オーフェンは、にやりと笑みを浮かべて、
「黒魔術士ひとりを雇 うのに、罰金の肩代わり程度じゃ安すぎるな」
「おいコラ、魔術士!」
ボルカンがあわてて声をあげるが、オーフェンは無視してクリーオウを見つめつづけた。少女は肩をすくめて、
「相 場 はいくらくらいなの?」
「用件にもよるがな。まあ、そんなに高い買い物をさせようってわけじゃない。実は俺が着てるのは貸し服でね。延 滞 料金を払わなけりゃならないんだが、あいにく俺には手持ちの金がない」
「いいわよ。その程度なら。これで足りるかしら」
と言ってクリーオウは、自分の右手から小さな指輪をすっと外 した。それを見てオーフェンは、思わずあっけにとられた。
「あのなあ......」
「なに?」
少女はなにも分からないようで、きょとんとしている。オーフェンはクリーオウの手から指輪をとりあげ、まじまじと眺 めた。
「これがどれだけの価値を持っているのか、君は知ってるのか?」
「さ、さあ? でもデザインも古いし......」
クリーオウはオーフェンの言っていることが理解できないようで、不 思 議 そうにこちらを見ている。指輪はごくシンプルな銀のリングに、少女の好みそうな、砂 利 のような透明の宝石がひとつだけ、ついている。細 工 は細かく、よく見ると文字のようなものが彫 られているのが見て取れた。
オーフェンは嘆息して、
「そりゃ古いはずだ。千年は昔だろうよ。ドーチン、ここに彫られている文字が読めるか?」
興 味 ありそうに寄ってきたドーチンに手渡した。ドーチンは眼鏡 の位置を動かしながら、細 かい文字をしばらく見つめた。が、あきらめるようにそれを返し、
「分からないよ。でも言えるのは、いま現在、この文字を使っている種族はこの大陸にはいないってことかな」
「そこまで分かればたいしたもんだ。俺にだってこの文字は読めないが、昔この指輪と同じものを見たことがある──」
そこまで言いかけてオーフェンは、はっと気づいた。意外すぎて気づかなかったのだ。
「ちょっと待てよ、クリーオウ。俺はこの指輪を《牙の塔》で見たんだぞ? なんで君が持っているんだ?」
いきなりまくし立てられて、クリーオウ自身びっくりしたようだった。少女は困 ったように口ごもり、つぶやくように答えた。
「よく覚えてないわ。でも子供のころから、わたしの宝石箱に入ってたの。小さいころにどこかで見つけて、しまい込んでたみたいなんだけど......」
「《牙の塔》から持ち出したってのか? 冗談じゃない。あそこからヘアピン一本盗 み出せる人間がいるもんか」
「わたし、盗んでなんかいないわ」
「そいつは分かるよ。だが、この指輪がこの世にふたつとあるわけがない。こいつは、強い魔力を持っているんだ──俺たちの魔術とはまったく異なった、古代の魔法だ」
「その文字、なんて書いてあるの?」
クリーオウの問いに、オーフェンは憮 然 として答えた。
「さあな。この文字の解読は、部分的にしか成功していないんだ。このテの代 物 を発動させるためには、この字を読み上げなければならないらしいんだがね」
「気味が悪いわ──あ、魔法が気持ち悪いって意味じゃないんだけど」
クリーオウはオーフェンに気を遣 うようにそう言って、続けた。
「その指輪、強い力を持っているのに、誰 にも支配できないんでしょ?」
「まあ、そうなるな」
オーフェンはまじまじと指輪を眺めながら、言った。クリーオウが、小さく身 震 いする。
「それ、あげるわ。代金も、それでいいでしょ?」
「ああ。だが、こんなもので貸 衣 装 の代金は払えないな。お釣 りがくるどころか、それだけで貸衣装屋が一家で心 中 しかねない」
「うん。じゃあ、わたしが立て替えておいてあげる」
クリーオウがまだ気味悪がっているようで、わずかに後 退 りするような姿勢でそう言った。オーフェンは自分の指に指輪をはめようとしたが、小指にすら入りそうになく、あきらめてポケットにほうり込んだ。
「じゃあ、商談成立だ」
「よかった。実はね、お母様、ものすごく困ってることがあるの」

「どんな悩 み?」
オーフェンの問いに対して、クリーオウの返答はごく短く、そしてとことん軽かった。
「なんだかね、誰かがわたしたちを皆 殺 しにしようとしているみたいなの」
『貴家の所有するバルトアンデルスの剣を当方に引き渡されよ。
貴家の意向は問わず、我 々 はこの要求を遂 行 する手段を有している。
もしこの剣が速 やかにこちらに引き渡されない場合、貴家にとって重大な危険が予測される。日時は──』
その日時は、今 日 になっていた。今日のいつ、どこでとは記 されていない。つまり、向こうからこの屋敷に取りにくるということであろう。
「バルトアンデルスの剣?」
上質の紙の便 箋 を持ち上げながら、オーフェンは聞いた。周 りには、ボルカンとドーチン、そしてクリーオウと、ティシティニーがいる。マリアベルは自室にいるらしい。オーフェンやボルカンらは、もう既 に貸衣装は返 却 し、各 々 のもともとの格 好 にもどっている。黒 魔 術 士 流の暗い色を基調としたオーフェンや、ぼろぼろになった毛皮のマントに剣を携 えたボルカン。 土 管 みたいにでかい荷物をひきずっているドーチンと、それぞれに、ところどころ怪 しい。オーフェンは、特にボルカンには、その剣をなんとかしなければ、あんな綺 麗 な屋 敷 には入れてもらえないと言ったのだが、ティシティニーはなんら気にすることなく、全員を屋敷の一番見 事 な応接間に通してくれた。
それどころか、ティシティニーが結婚詐欺というものをどの程度の脅 威 だと思っているのか知らないが、とにかく屋敷にもどってきたとき、この婦人はまるっきり気分を害したようにも見えなかった。オーフェンなどは自分の地位がブルプルワーズと名乗っていたときからまったく失 墜 していないのではないかと思ったほどだ。実害がなかったから別にいいと思っているのか、それともいきなり娘の部屋の壁 をぶち破って得 体 の知れない物体が飛び込んでくるような御 時 世 であるなら、悪魔とだって手を組もうと腹をくくったのか。
なんにしろ、ティシティニーは落ち着いた声で、オーフェンに答えた。
「その手紙がとどいたのは、二日前のことですわ」
(俺たちがアザリーと遭 遇 した、次の日か)
そう思いながら、オーフェンは続けて聞いた。
「このことは、警察には?」
「いえ。わたしたちには、なんのことだかさっぱり見当もつかないことですし......」
「見当もつかない?」
脅 迫 状 というものがなんのことだか知らないと言うのなら、結婚詐欺についても同様ということはあるかもしれない。だがティシティニーが言っているのは、そういうことではないようだった。
「ええ。つまり、この──バトルアンデスの剣、ですか?」
「バルトアンデルス の剣、です」
「ああ、そうですか。聞き馴 れないものですから──とにかく、このなんとやらの剣とかいうものがどういうものなのか、この屋敷のどこにあるのか、わたしたちはなにも知らないんですの」
「つまり、どういうことです?」
「主人は生前、道楽で骨 董 品 やら、珍 しい品物を収集していましたので、その中にこのバルトアンデルスの剣とかいうものが入っていたとしても不 思 議 はないんですが......でも、わたしにはどれがそうなのか......」
「ご主人のコレクションというのは、今はどこに?」
「地下の倉 庫 ですわ。あとで案内いたします」
やや青ざめたティシティニーの顔と、手の中の脅迫状とを見比べるようにしながら、オーフェンは大きく吐 息 した。実はクリーオウが話を持ってきたとき、彼は最初、もちろんアザリーのことについてなにかあるのだろうと思っていたのである。だが屋敷に着いてみると、一通の脅迫状を見せられた。まさかこの脅迫状をアザリーが書いたとは考えにくい。
と、オーフェンが考え事をしている間に、いかにも専門家を真 似 た口 調 でボルカンがティシティニーに聞いた。
「例の化け物については?」
じろりとオーフェンがにらみつけるが、ボルカンはちょうど背を向けていたので、気づかなかった。ボルカンと向かい合っているティシティニーだけがオーフェンの視線に気づき、また、あのときにオーフェンが怪物に向かって切 実 な様 子 で話しかけていたのを覚えていたのだろう。少し具合悪そうに答えた。
「あの──例のあれは、姿を現していませんわ。なにか関係があるとお思いなのですか?」
「もちろん、なにかしらの因 果 関係があるものと思ったほうが自然でしょう」
ボルカンは、したり顔で、
「この脅迫状は、どのようにしてこの屋敷にとどいたのですか?」
聞いたのはボルカンだったのだが、ティシティニーはオーフェンに向かって答えた。
「朝、目が覚めたら、鏡 台 に貼 りつけてあったんです」
「魔術ですね」
オーフェンが言うと、ティシティニーは、恐 らく、とうなずいた。
「どうしてです?」
ドーチンが聞いてきたので、オーフェンは肩をすくめた。
「郵 便 ですむところをわざわざそんな凝 った真似するのは、魔術士くらいなものさ」
「......派 手 好 みなんですね」
「そうだな」
と答えながらオーフェンは、ふと、確かにアザリーなら、そういうことを思いつきそうだと思っていた。
「じゃあ、例の倉庫というのに案内してもらえますか?」
オーフェンが言うと、ティシティニーは、はいと言って、
「クリーオウに案内してもらってくださいな。わたしは、マリアベルの様子を見てきます。あの子ったら今回のことで、すっかり参ってしまって......」
「そりゃそうでしょう」
オーフェンが同意すると、後ろのほうで、クリーオウがくすくすと笑うのが聞こえた。その笑い声の意味はオーフェンには分からなかったが、ティシティニーには分かったらしい。彼女も同じように指先で口元を押さえて、わずかに笑ったようだった。
(なんで、こんなときに笑えるんだ?)
オーフェンはいぶかったが、そのことについて口にするよりも早く、クリーオウが彼の手を取った。
「こっちよ」
えらく気安い口調である。オーフェンは、気が付いたら自分がこの少女の兄にでもなっていそうな奇 妙 な感覚を覚えながら、小さな手に引かれるまま、屋敷の応接間を後にした。
ざっと屋敷の見取り図を頭の中に描いてみて、オーフェンはこの地下室への階段が屋敷のほぼ中央にあるのではないかと見当をつけた。クリーオウに聞くと、そうよ、という簡単な答えが返ってきた。
階段を降りていくと、ひんやりとした空気がほおに触 れた。むろん採光用の窓などあるわけもないが、クリーオウが入口あたりで壁のスイッチを探 ると、ぼんやりとしたガス灯が通路を照 らす。
「こんな設備まで揃 っているのか?」
オーフェンが聞くと、クリーオウは得意そうに小さな胸をそらした。
「お父様は新し物好きだったの。台所には水道もあるのよ」
「参った」
オーフェンが両手をあげると、クリーオウはうれしそうに笑った。
階段は、ひとつの扉 の前で終わっていた。頑 丈 そうな鉄の扉で、下のほうは薄く錆 びている。古そうな扉だったが、その表面に貼 られた数センチほどのプレートは、それほど古くは見えない。
「『この扉をくぐる者、汝 いっさいの望みを捨てよ』」
オーフェンは、呆 れたような顔で読み上げた。かたわらで、クリーオウがつぶやく。やはり胸を張って。
「お父様は悪 趣 味 だったの」
台所には水道もあるしな、と胸 中 でつぶやいて、オーフェンは扉のノブに手を触れた。鍵 はかかっていないようで、きしみながらも鉄の扉はゆっくりと外側に開いた。
倉庫の中は雑 多 に込み合っていた。一番手前にはぎっしりと書 巻 やら絵 画 やらが詰め込まれた棚 が置いてあり、一 瞬 オーフェンは、扉を開けていきなり壁にぶち当たったような錯 覚 を覚えた。床 にはほこりが積もっており、厚さで言えば応接間の絨 毯 と同レベルだ。お世 辞 にも保管状態は良好とは言えないが、それでも空調はしっかりしているようで、倉庫の中から漂 い出てくる空気は外気の香りがした。
「実はね」
クリーオウは、いたずらを告白するような声 音 で、
「あの指輪、ここからわたしが持ち出したものなの。お姉ちゃんはたくさん指輪持ってるのに、わたしはそれよりみっつも少なかったんだもの」
「ここから......」
オーフェンはつぶやきながら、倉庫の中に足を踏 み入れた。
倉庫の中にはガス灯はなかったが、通路からの明かりが差し込んで、入口のあたりは多少明るい。
見回してみると、手前の壁に立て掛けられた長さ二メートルほどの歩 兵 槍 が目についた。薄 汚 れており、また暗がりの中でよく分からないのだが、その細 工 がしっかりしていることと、表面にびっしりと細かい紋 様 が刻 まれているのが分かる。戦 闘 用のものではなく、儀 礼 用のものだ。それもかなりの年代物だろう。
(この槍一本で、一財産にはなる)
オーフェンは感 嘆 の吐息をもらしながら、そう思った。さらに見回せば、それに匹 敵 するような美術品なら、ごろごろしているとまではいかなくとも、ぽつぽつとは置いてあるのが分かった。壁一面に吊 るされたタペストリーの一枚は、端のほうがこすれて傷ついてはいたが、それさえ直せば立 派 に大手の故 買 屋 にも通用するだろう。そういった代 物 がごちゃごちゃに置かれている様 は、なにか一種のすごみさえ感じられた。
「......剣は?」
とオーフェンが聞くと、クリーオウは無 造 作 に手を振って、
「そのへん」
と言った。そちらのほうを見やると、確かに倉庫の一画に、牛小屋の飼 い葉 みたいに無造作に、大小さまざまの剣が積み重なっている。ざっと数えて、数百本という量だろう。かなり広いはずの倉庫の大部分は、その剣によって埋 められている。
「これで、素 直 にそのバルトアンデルスの剣とやらを差し出す案はボツだな。この中からたった一本の目当ての剣を探し出すのは不可能だ」
「その人たちが来たら、この倉庫に案内して自分たちで探してもらうっていうのはどうかしら」
近づいてきたクリーオウの頭を、オーフェンはぽんとたたいた。
「君らがそれでいいなら構わんがね。俺を雇 ったのは、盗 賊 を案内するためじゃなくて、取っ捕 まえるためだろう?」
「うん......」
クリーオウは、頭上のオーフェンの手を気にするように上を見上げながら、同意した。
(それに──)
オーフェン自身は、勝手な算段も持っている。
(もしあの脅迫状を出した連中がアザリーと関係あるのなら、ここで奴 らを取り逃 がせば、手掛かりがなくなっちまう)
クリーオウが彼の手をどけようと頭を動かしているのにも気づかず、オーフェンは迅 速 に自分の計画を立てていった。
◆◇◆◇◆
(なんで、ぼくがこんなことをしなくちゃならないんだ)
ドーチンは夜の庭 園 を、兄の後ろについて歩きながら、胸中で文句を言っていた。
(借金をしているのは兄さんで、その借金を返してほしいのは人間の魔術士で、あの怪物を捕まえたいのも魔術士で、強盗を捕まえたいのはこの家の人たちだ。ぼくは、いったいなんなのさ?)
ずるずると、相変わらず巨大なザックを引きずっている。実はこの中身は、すべて本だった。ほとんどが地人語で書かれているが、古語や人間語のものも混ざっている。平民が持っているにしては膨 大 な量だが、実家に置いてきた彼の蔵 書 に比べれば、これはほんの一部分に過ぎなかった。
(実家──)
ドーチンはため息とともに思い出した。もう何年も帰っていない。帰りたいのは山々だったが、それができれば苦労はなかった──親に勘 当 されて家を飛び出した兄に誘拐 され、それ以来この兄の手の内から逃 れられたことは一度もない。ひょっとしたら、自分はこの世で最も不幸な地人なのではないかとも思う──川 辺 や街 の隅 っこで寝泊まりするのにはもう慣 れたが、子供を脅 して店先からパンを盗 ってこさせるのには未 だに抵抗があった。
またもや嘆息。一応見回りということで、月明かりに照らされる庭園を見回してみる──庭 師 に整備された庭は広く、一見、オークの並 木 道 がそのまま庭の中に取り込まれたような気 配 もある。池はない──慢 性 的 な水不足に悩 むトトカンタの街で、池やプールを持てるのは貴族だけだ。
あたりを見ていると、いきなりボルカンが振り返った。
「おいドーチン、ちゃんと警 戒 してるのか?」
(見れば分かるだろ)
と思いながら、
「うん」
だがボルカンには納 得 いかないようで、
「ちゃんとやらねえと、麻 縄 で絞 め殺すからな」
「うん」
ドーチンは言いながら、胸中で舌を出した。
風がある──心 地 いい夜だった。さわさわと、風が木々の枝葉をなでる音に、ドーチンは耳を澄 ました。と──
うわーははははははは......
あと、地 響 きのような、疾 走 する獣 の蹄 の音。随 分 と遠くから聞こえてくる。が──だんだんと、こちらに近づいてきているのも明白だった。
「な、なんだ?」
ボルカンにも聞こえたようで、うろたえながら背中の剣を抜こうとしている。
「警 報 ーっ!」
ドーチンはとにかく、これは異常事態に違いないと、屋敷に向かってできるかぎりの大声で叫 び立てた。とりあえず兄の剣に頼 るよりは、どんなにいけ好 かなくとも人間の黒魔術士のほうがいくらかマシだ。
「警──」
さらに警報を叫ぼうとすると、後ろからボルカンが剣で殴 りつけてきた。
「なにすんのさっ!」
起き上がりながらドーチンがわめくと、剣を両手に仁 王 立ちしたボルカンは、ふっふっと笑った。
「いいか、ドーチン、計 略 を思いついたぞ」
聞かないほうがいい、とドーチンはごく理性的にそう思ったが、ボルカンは殴り倒されたドーチンに顔を近づけ、密談じみた口調で続けた。
「ここで黒魔術士を呼んだらどうなる? あの野 郎 、怪 しげな術で強 盗 を捕 らえて、手柄を独 り占 めするに違いない。だが、俺たちだけの手で捕まえたとしたら、どうだ? 褒 美 は俺のものだ」
(ぼくたちの 、じゃないのかよ)
だがボルカンは気づかなかったらしい。
「褒美がどれだけのものになるか、考えたことがあるか、ドーチン? その褒美で、殺し屋を雇 ってあの黒魔術士を始 末 させることができるんだぞ」
「......お金が入るんなら、素 直 に借金を返してあげればいいじゃない」
「馬 鹿 を言うな! 思い出せ、俺たちが受けた虐 待 の数々を! ここで奴 に金を払うことは、俺たちの敗 北 を意味するんだぞ!」
「そ、そうかなあ」
「まさしく、そうだ! 俺たちは負けるわけにはいかん! 戦士ボルカノ・ボルカンの経 歴 には傷ひとつついてはならんのだ! まずは手初めにあの黒魔術士を地 獄 に突き落として──」
言いかけた瞬間、ボルカンは蹴 倒 された。
「なにしやがる!」
ボルカンは、起き上がるなりドーチンに食ってかかった。
「ぼくじゃないよ!」
ドーチンが叫ぶと、ボルカンはさらに大声でわめいた。
「そんなことは分かってるが、俺はこっちに怒 鳴 りたいんだっ!」
「ンな無茶な!」
ドーチンが見上げると、思ったとおり近くにオーフェンが立っていた。いつもいつもこの黒魔術士は足音もなく現れる。気味悪くてしかたないが、それを言ったら、そもそもこの男は魔法使いなのだ。ドーチンから見れば、数日前の怪 獣 と似たようなものである。
オーフェンはボルカンの襟 首 を捕まえて、軽々と持ち上げた。表情からすれば、一言で表すと──激 怒 しているらしい。
「てめえ、なんの話をしてやがった?」
「い、いえ、手早く借金を返す方法を模 索 しておりました」
「全部聞いてたんだよ」
「ああっ! 俺の計略がっ! ドーチン、お前のせいだぞ!」
「あのねぇ......」
オーフェンがボルカンを捕まえているので多少気を強くしてドーチンがぼやくと、いきなり庭園に哄 笑 が響き渡った。
「うわーっはっはっはっはっはっ!」
「な、なんだ?」
いぶかしげな声を発して、オーフェンが周 囲 を見回している。ドーチンもそれにならって、庭園の暗がりを見やった。が、もともと夜 目 の利 きにくい地人の視界には、それらしい侵入者の姿は見つからない。
「どこを見ている! わたしはここだ!」
「なにい?」
声は、明らかに屋敷の屋根の上から聞こえた。
見上げると、月 輪 を背に、巨大な人影がそびえ立っている。三メートル以上はありそうだったが、明らかにこの前の怪物とは違った。
「何者だ!」
ボルカンが、少しでも自分の優位を確立しておきたかったのだろう、叫んだ。
屋根の上の人影は、またひとしきり哄笑してから名乗った。
「わたしは闇 に生きる暗殺者! 夜と契 約 し、昼には顔を隠 し生き延 びる、恐怖と悪夢の具 現 ! 夢魔の貴族 、ブラックタイガー!」
「な、なんだって?」
ドーチンはうめいて、後 退 りした。
「知っているのか?」
オーフェンが小声で聞く。ドーチンはうなずいてから口早に言った。
「うん。多分──ブラックタイガーって──」
だが彼がその先を口にするよりも早く、屋根の上の殺し屋が宙に舞 った。
「とおっ!」
夜空の星を背景に、ドーチンらがいる庭先へと、華 麗 に飛び降りる。
どずん! という重い音とともに地面へと降り立ったその人影は、怪物ではなく、人間だった──黒 装 束 に、顔をすっぽりと包 む黒の覆 面 。覆面には目の位置にだけ穴が開いており、そこからは爛 々 と燃える情熱的な瞳 が見て取れた。両手には馬鹿でかい、絵本に出てくる死神が持つような巨大な鎌 を持ち、真っ黒な雄 牛 にまたがっている。そのせいで、身長が三メートルもあるように見えたのだ。牛がいなければ、殺し屋はせいぜい中肉中背でしかない。雄牛は、ぶすぶすと炎の混じった吐 息 を吐 きながら、こちらを見 据 えている。殺し屋の深 紅 のマントが夜風にひるがえり、不死鳥の羽ばたきのようにはためいている。
(変 態 だ)
ドーチンは拳 を握 り締 め、胸中で断言した。
(間違いなく変態だ)
仲間の顔を見回すと、ボルカンですらも同意見のようで、唖 然 と呆 れ返っている。
ブラックタイガーとやらは、大声で続けた。
「はあーっはっはっ! わたしの名を知っている者がいたとはな!」
「ドーチン、奴は何者なんだ!」
オーフェンが詰め寄ってくる。ドーチンは、ぽつりとつぶやいた。
「多分......ブラックタイガーって、海老 の名前じゃなかったかな」

会話が、ばったりと途絶 える。
ブラックタイガー本人ですらもこの答えは予期していなかったようで、飛び降りたままの姿勢で凍 りついたように固まっている。オーフェンも、どうしたものかと思っているようだった。ボルカンはため息をついて、早々に剣を鞘 に収めている。
風が心地よかった。その風に吹かれながら、殺し屋とドーチンらはいつまでも棒 立 ちになっていた。
◆◇◆◇◆
オーフェンにはいくつかの幻 想 があった。
例 えば官 憲 は腐 敗 した暴力でもって容疑者を虐 待 し、拘 置 所 で賄 賂 を要求するに違いないとか、殺し屋とは冷 徹 な仮面に燃える狼 の心臓を秘めた孤 高 の戦士であり、恐るべき強敵であるに違いないとか。そのふたつは、同じ日に一気に打ち壊 された。
警察は賄賂などほのめかしもしなかったし、眼前の自 称 暗殺者とやらは、そんな必要もないのにわざわざ自分から名乗りをあげ、今は呆 然 とにらめっこだ。この分では残りの幻想が壊れる日も遠くなさそうだと、ほぼ絶望的にオーフェンは考えた。マリアベルが淋 病 を患 っていたとしても、もう驚 かないことにしよう。
「ええと......」
ボルカンがぼそぼそとつぶやくようにして言うのが、聞こえる。
「おいコラ、海老男」
「誰 が海老男だっ!」
ブラックタイガーが怒鳴る。その殺し屋に指を突き付けて、ボルカンは続けた。
「お前に決まってるだろーがっ! お前が驚 天 動 地 の悪 趣 味 だろうが底抜けの間抜けだろうが、もーこの際どーでもいいっ! 邪 悪 な殺し屋など生かしておくわけにはいかん! でっかい鍋 で煮 殺 してくれる!」
「ほおう? たかが地人の分 際 で、この無敵の暗殺者ブラックタイガー様に刃 向 かおうというのか?」
「やかましいわ、海老男!」
「だから誰が海老男だっ!」
叫ぶが早いか、殺し屋を乗せた雄牛が吠 え、駆 け出した。ずどん! と飛び降りたときと同じ轟 音 を立て、砲 弾 のように飛び込んでくる。ブラックタイガーの大鎌が閃 き、通りすがりざまに、ボルカンの首を薙 いだ。
ボルカンは断 末 魔 の声をあげる間もなく、ひっかけられたように宙に舞い、庭の向こう端まで吹き飛んでいった。
「兄さんっ!」
ドーチンが悲 鳴 をあげる。オーフェンもボルカンのほうに一歩踏 み出しかけたが、そうするよりも早く、ボルカンはむっくりと起き上がった。何事もなかったように首をさすりながら、あっと言う間に庭の別の隅 まで走り抜けていった殺し屋に向かって怒鳴る。
「この野郎、痛えだろうがっ!」
ブラックタイガーも雄牛を方向転換させながら、悲鳴じみた声をあげる。
「痛いもくそも、普通は死んでるはずだろうが! お前の頭 蓋 骨 はなんで出来てるんだ!」
「骨で出来てるに決まってるだろーがっ! 今度はこっちの番──」
が、ボルカンが剣を抜くよりも早く、ブラックタイガーの凜 とした声が夜闇を突き破る。
「稲 妻 よ!」
瞬間、かかっ! と木の板に石がぶつかるような小 気 味 いい音が響くと、ボルカンの足元に電光が炸 裂 した。爆発が起こり、地人は今度はオーフェンのすぐそばにまで吹き飛んできた。ボルカンが仰 天 して座 り込んでいるのを、弟が駆け寄って起き上がらせてやる。
「ま、魔法だ」
ボルカンが、震 え声でつぶやく。
「かなりの使い手だぞ」
オーフェンは言って、崩 れかけた幻想が一部分だけ復活するのを感じた。腕をまくり、いつでも魔術の集中に入れるように意識を整える。できるなら相手が自分を黒魔術士だと気づく前に片をつけたいのだが、殺してしまうわけにはいかない。アザリーのことを確かめるためにも、傷ひとつ負 わせないで捕らえたかった。
「はあーっはっはっ! このナイトメア・ブラッド・ブラックタイガーに敵はない! 死にたくなければ早々に立ち去るがよい、馬鹿者どもが!」
「な、なんだとこの──」
跳 び起き、言いかけたところでボルカンは口ごもった──ブラックタイガーの視線が、じろりとそちらを向いたのだ。
だが、恐怖よりもメンツのほうが勝ったらしい。ボルカンは半分ばかり逃げ腰 になりながらも、なんとか叫んだ。
「ええと──あ、あんまり調子に乗ってると、遠くから見つめ殺すぞ」
「そこはかとなく弱気になってるね」
と、ドーチン。
だが、明らかにもうこの地人たちは敵ではないと悟 ったのか、ブラックタイガーはぐるりと覆 面 に覆 われた顔を、オーフェンのほうに向けた。
「身動きするな、黒魔術士」
(気づいている?)
オーフェンは、愕 然 とした。彼はまだ魔術は使っていないし、その素 振 りも見せてはいなかった。
「そうだ。わたしはお前が魔術を使うことを知っている。このブラックタイガーには知らぬことなどないものと思え!」
「たいしたもんだ。調査済みってわけか。つまり──」
オーフェンは、にやりと笑い、殺し屋に向かって右手を突き出した。
「つまり?」
ブラックタイガーは、分からないというように聞き返した。オーフェンは続けた。
「もう知られているなら、遠 慮 なんかする必要はないってわけだ」
「え?」
「我 は放 つ光の白 刃 !」
「ち、ちょっとおっ!」
ブラックタイガーは悲鳴をあげながらも、オーフェンの放った閃 光 を構えた大鎌ではじき返した。ひょっとしてとは思っていたが、やはりただの武器ではなかったようだ。
「続けて食らえっ!」
立て続けにオーフェンは強 烈 な高 熱 波 を放った。その力はあたりの大気をも震えさせ、ばちばちと帯 電 させる。が、それほどの魔術でさえも、ブラックタイガーは今度はなにかの呪 文 を唱 え、身の回りに張り巡 らせた光の障 壁 で防 いだ。
ボルカンとドーチンは、このやり取りを見て心 底 驚いているようだ──大陸広しといえども、これだけの威 力 ある術を連続して行 使 できる人間はそこらにはいない。オーフェンは、さらに力を込めて魔力を放った。
「我は放つ光の白刃!」
広大な庭園そのものを照らし出すほどの閃光が、ブラックタイガーとその周囲の植木を吹き飛ばす。燃え上がったのはオークの木だけで、ブラックタイガーはなんとか魔術で防 御 したようだった。炎の中から、殺し屋が叫ぶ。
「炎よ!」
「我は放つ光の白刃!」
両者の魔術が中央で衝 突 し、轟 音 をあげて爆 裂 する。熱せられた空気が庭園の中をめちゃくちゃにかきまぜ、粉 塵 を舞い上がらせた。
(妙 だな)
と、オーフェンは思っていた。
(奴 はなんで逃 げないんだ──仕事の前に見張りを始 末 しておきたかったというなら、それは分からないでもない。だが、その敵の中に自分と互 角 の使い手がいるのを知ったのなら、こんな力比べに固 執 してないで、さっさと逃げればいいんだ。これではまるで──)
はっと、オーフェンは気づいた。彼はくるりと屋敷のほうに向き直ると、足元のドーチンに、
「後は任 せた!」
「え? ま、任せたって──」
返事は聞かずに走りだす。背後でドーチンが悲鳴をあげるのが聞こえた。
「ちょっと待ってよ! あんな奴、ぼくにどうしろって言うのさ!」
オーフェンは無視して屋敷に飛び込んだ。気づいてしかるべきだった──ブラックタイガーは、ただの変 態 ではなかった。囮 だったのだ。
まずは、あの三人の無 事 を確かめるべきだろう──オーフェンはまず玄関ホールから一番近いクリーオウの部屋をのぞき込んだが、庭であれだけの騒 ぎがあったにもかかわらず、少女はベッドのシーツにくるまって、子犬のようにぐっすり眠っていた。次に近いのはティシティニーだったが、こちらは起きていた。ネグリジェの上に薄いマントのようなものを羽 織 って、誰かが様 子 を見にきてくれるのを待っていたようだった。
この屋敷の間取りには詳 しくないので、ティシティニーを伴 って階段を登る──マリアベルの寝室はやけに遠いところにある。この前アザリーによって壁 を壊 されたので、部屋を替えたのだ。三階の、奥まったところだ。オーフェンはティシティニーの制止を無視して、扉 を蹴破った。
部屋の中は薄闇に包まれていた──開いた窓から差し込む月明かりだけが、ぼんやりとした青い光景を浮かび上がらせている。ごく平 均 的な家具が普通に並んでいるのだが、部屋が広いせいか、やけに閑 散 と感じた。
その部屋の真ん中に、ふたりの人影があった。ひとりはマリアベルで、もうひとりは、外でまだ暴 れているらしいブラックタイガーと同じ格 好 をした、長身の男である。
覆 面 の下からくぐもって聞こえる冷たい声は、男が手にしてマリアベルの喉 元 に突き付けている大型のナイフと同様、鋭 利 に輝 いていた。男は扉をぶち破ったオーフェンを無視する形で、マリアベルに聞いた。そのうんざりしたような声 音 から、もう何度も同じ問いをくりかえしているのは明らかだった。
「バルトアンデルスの剣はどこにある?」
マリアベルは答えない。凍 りついたように真っ青な顔色で、声もなく立ちすくんでいる。
オーフェンは、男に向かって叫んだ。
「そこまでだ!」
男は、機械的な挙 動 でこちらを向いた。だが刃 はそのまま、マリアベルの細い首から離れていない。
(人 質 をとられちまった。くそ──)
オーフェンは毒 づいて、いつでも魔術を発動できる態勢をとった。
が──男は突き飛ばすようにマリアベルをほうり出すと、ナイフをオーフェンに向けて構えをとった。
(わざわざ人質を解放するのか?)
だがいぶかっている暇 はなかった。男は、すっ──とわずかに動いたかと思うと、次の瞬間にはオーフェンの眼前まで飛び込んできていた。あまりにもあっけなく懐 に入られて、オーフェンは戦 慄 した。と、鋼 のような感 触 の男の手のひらが、オーフェンの胸元に突き付けられる。ナイフそのものを突き刺されるよりも、ぞっとする感覚が身体 を突き抜けた。
男は、ぼそっとつぶやいた。
「跳 べ」
どんっ! と、すさまじい衝 撃 がオーフェンの身体を吹き飛ばし、彼は開けたままになっている入口から廊 下 まで転がっていった。
(魔術だ)
廊下に倒れたままオーフェンは、部屋の中からこちらを見つめている男の覆面を見つめながら、咳 き込んだ。
(これだけの魔術を使える人間に、一晩でふたりも出会うとはな)
「だ、大 丈 夫 ですか?」
と、ずっと廊下にいたティシティニーが駆 け寄ってくる。オーフェンは抱き起こそうとする手をやんわりとどけると、自 力 で立ち上がった。
「娘さんについていてあげてください」
オーフェンが言うと、ティシティニーは果 敢 にうなずいた。が、入口に立っている恐ろしげな男の姿を見て、動けないでいる。
だがオーフェンにしてみても、同じようなものだった。
(あの男......強い。俺よりも確実に......!)
オーフェンは、すっと息を吸い、叫んだ。
「我 掲 げるは降 魔 の剣!」
ふんっ......と、自分の右手になにかをつかんでいる重みがかかる。彼は見えない刃を振りかざして、男に向かって突進した。オーフェンが『剣』を振り下ろすと同時、男はさっと後ろに跳んで、それをかわした。
それを追いかけて、オーフェンも部屋に飛び込んだ。もう『剣』の効果はなくなっている。彼は右手の人指し指を男に向け、叫んだ。
「我導 くは死呼ぶ椋 鳥 !」
瞬間、彼が指さした方向に向かって、周囲の空気がやかましく振動し、押し寄せる。一種の超 音 波 で、標的となった男の背後にあるカーテンが、ぶわっと塵 のように崩 れ落ち、ぼろぼろになった。もっとも、男はなんともない。瞬時に魔術で防 御 したらしい。
男が覆面の下で笑うのが見えたように、オーフェンには思えた。男がナイフをすっと上げ、こちらに向かって動き出す──
「我が指先に琥 珀 の盾 !」
オーフェンが呪 文 を叫ぶと、彼の目の前の空気が圧 縮 され硬化していく。男のスピードは多少遅くなったが、それでも男の突進は止まろうとしない。またあっと言う間に距離を詰められ、今度は手ではなくて男のナイフが胸元に飛び込んでくる。
だが、オーフェンは笑みを浮かべた。
(かかった!)
「我は紡 ぐ光 輪 の鎧 !」
刹 那 、懐に飛び込んできた男を包み込むように、数日前にアザリーの炎を紡いだ光の網 が広がった。じゅわっと肉を焼く音が聞こえ、同時に広がった光の網は男の身体を部屋の向こうまで弾 き飛ばした。男は背中から壁にたたきつけられナイフを落とす。網が消えた。
「さあ。ここまでだ」
オーフェンはゆっくりと、男に向かって歩み寄った。男はうめき声をもらしながら、立ち上がろうとしている。オーフェンは慎 重 に、男が落としたナイフを拾 い上げ、それを突き付けようとした──
が、仰 天 してナイフを取り落としかけた。
「あ、あんたは──」
起き上がった男の覆面は、光の網に焼かれてほとんど用を為 さなくなっていた。三十歳ほどの感情のない、頑 強 で冷 徹 な男の顔が、こちらを見返している。
「強くなったな、キリランシェロ」
「チャイルドマン!」
オーフェンは叫んだ瞬間には、既 にチャイルドマンに突き飛ばされていた。カラン、と落ちたナイフが床をこする。オーフェンが起き上がるころには、もう部屋の中にチャイルドマンの姿はない。窓から飛び出していった後ろ姿だけが、ちらりと残像に残った。
「なにをしに来たんだ! チャイルドマン!」
オーフェンは叫びながら、自分も後を追おうとした。が、いきなり後ろから腕をつかまれる。
(まだ仲間がいたのか?)
オーフェンはあわてて振り向いたが、彼の腕に抱き着いているのは、寝間着姿のマリアベルだった。彼女は悲鳴もあげないまま目をきつく閉じて、怯 えきった震える腕で抱きついてくる。振り払おうにも手荒なことはできず、すったもんだしているうちに、チャイルドマンは庭のブラックタイガーと合流して逃 走 してしまっていた。
(なんてこった......)
庭園の真ん中で、ほとんど黒 焦 げになった格好で責任転 嫁 の兄弟ゲンカをしている地人たちを見下ろしながら、オーフェンは嘆 息 した。
部屋の中にティシティニーが入ってくると、マリアベルはすぐそちらに飛んでいった。だが、そんなことはもうどうでもいい。
「チャイルドマンだと? 大陸 でも最強の黒魔術士だぞ? 《牙 の塔 》にいるはずなのに、どうしてこんなところにいるんだ?」
オーフェンのつぶやきに答える者はいなかった。ただ娘を慰 めるティシティニーの静かな落ち着いた声 音 と、中庭で弟を追い回すボルカンの罵 声 、そして心 地 よい風の音だけが、それぞれのペースで動いている。
──『お前には不可能だ。だがわたしには──』──
過去の記 憶 の中で聞いた、静 謐 で耳 障 りなチャイルドマンの声が耳元に蘇 る。その追 憶 の呼び声は、いつまでも頭の中でぐるぐると回りつづけた。
「ねーねー。ホントに入っちゃっても怒 られないの?」
うるさく腕をひっぱるクリーオウに、オーフェンは辛 抱 強く繰 り返した。
「だから何度も言ってるように、知り合いがいるんだよ」
「うそぉ。だってここ、街 のお偉 いさんたちも、おいそれとは入場できないのよ?」
「そりゃあそうだろうな」
「じゃあ、なんでオーフェンは入れるのよ」
「だから、知り合いがいるんだってば」
屋敷 が襲撃 された翌日の昼前──オーフェンはティシティニーに話し、街に出ることにした。屋敷に立てこもっていたところで、再度あの連中──特にチャイルドマンが襲撃してきたならば、それを防ぐような自信は、オーフェンにはなかった。だとしたら心当たりを探し、こちらから討 って出たほうがいい。
そんなわけで、オーフェンはボルカン、ドーチン、そしてなぜかくっついてきたクリーオウらといっしょに、大陸魔術士同盟 のトトカンタ支部に出向いてきたのである。
「知り合いって、魔術士 のですか?」
ドーチンがいつもの皮袋を引きずりながら、そう聞いてきた。袋の上にボルカンが腰 掛 けているのには気づいていないらしい。
オーフェンは、ああとうなずいた。
「ここには、魔術士しか入れない」
と、あごをしゃくって、広場に面してそびえるような、見 事 な大門を示す。美 麗 な格 子 の扉 の上には鋼板のレリーフで、大陸魔術士同盟 の名前の由 来 にもなった、祈りを捧 げる乙女 の横顔が浮き彫 りになっている。その下の文字は『大陸魔術士同盟・トトカンタ支部』と綴 られていた。その奥にある建物も、こんな街中にあるのでなければ要 塞 かと見間違えるような重厚な代 物 で、灰色の壁 を空に突き上げている。
オーフェンがそれを見上げていると、クリーオウがいきなり思いついたように口を開いた。
「ねえ、でもさ、魔術士しか入れないんだとしたら、わたしたちはどうなるの?」
「君は魔術士か?」
「違うわ」
「じゃあ入れない。答えは簡単だ」
「えー」
あからさまに不服そうに、クリーオウは声をあげた。
「じゃあわたしたち、なんのためにここまで来たのよ」
「別に俺 が来てくれと頼 んだわけじゃない。だいたい、屋敷を出る前に話したはずだぞ? 魔術士同盟には一般人 の立ち入る余 地 はないってな」
「言ったっけ?」
クリーオウはぶつぶつと、オーフェンの腕を放した。
オーフェンは自由になった腕を逆に曲げて伸ばしながら、ドーチンとボルカンに向き直った。地人たちはもとよりこんな未知の要塞に踏 み込むつもりはないらしく、気にしてもいないようだ。オーフェンはふたりに、クリーオウの世話を任 せると言ってから続けた。
「すぐにもどる──できればな」
そして、日中はわずかに開いたままになっている格子の間をくぐりぬけ、正門へと向かう。広い石段を登りながら、オーフェンは覚 悟 を決めるように深呼吸した。
魔術士同盟には一般人の立ち入る余地はない──だが、そうだからといって、必ずしも同組 織 がすべての魔術士に対して友好的であるという理 屈 にはならない。
待合室で待つこと一時間。いいかげん腹が減 ったなと感じるころ、せまくるしく、なんの娯 楽 もないその小さな部屋から連れ出され、窓がなく暗く長い廊 下 を通り抜けた末、目的の部屋に着いたときに案内役の青年が言うには、
「ここでしばらくお待ちください」
オーフェンは不平ひとつもらさず、ああとつぶやいた。
案内された部屋は、どうやら客人用の控 室 のようだった。そして恐 らくは、その類 いの部屋の中で最下級のものに案内されたらしい。さもありなん──オーフェンは、嘆 息 まじりに考えた。突然現れた、紹 介 も約束もない(自 称 )魔術士。その場で取 調 室 に連行されなかっただけ、いくらかマシというところか。
と、彼は、胸元から銀のペンダントを取り出した。この紋 章 が、いくらか役に立ってくれたわけである。
ふう、と吐 息 し、部屋の隅 にある堅 い長 椅 子 に腰 を下ろす。天 井 のガス灯が、ちらちらと頼 りない明かりを落としていた。建物の奥まったところにある部屋らしく、窓がないため、全体的に薄暗かった。床 は塵 に汚 れ、彼が歩いた跡 が、くっきりとついている。足跡は一種類、彼のものだけ。つまるところこの部屋には、ここ数日間というもの、彼ひとりしか立ち入った者はいないらしい。
扉は二枚。入ってきた扉と、その反対側の壁についているもう一枚。どちらも同じ扉で、もう一方の扉を開けて、もときたのと同じような廊下が見えたところで、なんら疑問は感じなかっただろう。
三十分ほど待ったころ、扉が開いた。オーフェンが入ってきたほうの扉である。
「キリランシェロ!」
驚 きに満ちた声が、部屋中にこだました。オーフェンが顔を上げると、入口に赤毛の、陽気そうな顔立ちをした男が立っている。
「ハーティア」
オーフェンは、こちらはいくぶん感情のない声で呼んだ。
赤毛の男は、そんなことにはお構いなく、すたすたと部屋の中に入ってきた。
「来客の名 簿 の中に、オーフェンなんて名前があったから、もしやと思ったんだ。馬 鹿 だな、キリランシェロと名乗ってやればよかったんだ。ここの連中、君を怒らせて追い返そうとしていたんだぞ?」
「気づいていたよ」

オーフェンは長椅子から立ち上がり、差し出されたハーティアの右手を軽く握 った。ハーティアがそれより強く握り返してくるのを感じながら、ゆっくりと相手の顔を観察する。
「あまり変わらないな──昔と」
オーフェンは、相手の魅 力 的な眉 と、髭 の生 えそうにない、のっぺりとした細いあごを見やりながら、そう言った。ハーティアは笑い──そして──その笑みを、ふっと消すと、
「君は随 分 と変わったよ」
と、つぶやくように言った。
が、もともとハーティアは昔から、深 刻 な表情が数秒ともたないようなところがあった。彼は握 手 を引っ込めて肩をすくめると、軽い調子で聞いてきた。
「それで、最近はどうしてるんだい?」
「落ちぶれてるよ。それが聞きたいのならな」
皮 肉 っぽくオーフェンが答える。ハーティアは、困 ったように顔をしかめた。
「もし君が望むのなら、いくらでも仕官の道はあるだろう?──君みたいに力のある魔術士は、年々極端に数が減ってきているんだ」
「だがそれもお前の行 っている福 祉 制度の賜 物 だろう? 生死を賭 けてまで《牙 の塔 》のような機関に身を投じなくても、それなりに裕 福 に暮らせるようになった結果なんだから」
「ぼくが行っているわけじゃないよ──つまり、ぼくが主導的な立場にいるってわけじゃない。白状すると、ぼくはただの小間使いみたいなものさ」
ハーティアは自 嘲 的な笑みを浮かべ、そばかすの跡がうっすらと残るほおを掻 いた。
「君が《塔》を飛び出してから、なんだかぼくもやる気がなくなってしまってね──ぼくらは、ほら、ライバルみたいなものだったろう? ぼくはぼくで、自分の前に君の背中が見えないと、調子がとれなくなってしまっていたんだな。成績は下降の一 途 。宮 廷 にあがるどころか、この街の支部に勤 めることすら、かなり危 なかったんだ」
「それでも、悪くない職だろう」
「まあね。定時に帰れるし。実を言うと《塔》よりいくらか楽してるよ」
「なるほどね。ま、元気でよかった──が、今日はそんなことのために顔を出したんじゃないんだ、ハーティア」
「......へえ?」
と不 思 議 そうな声をあげるハーティアの澄 んだ目を見ながら、オーフェンは続けた。
「実は俺は今、人探しをやってるんだ」
「探す? 誰を」
「偉大なるチャイルドマン教師をさ」
「先生を?」
寝 耳 に水、といった面 持 ちで、おうむ返しに聞き返すハーティア。オーフェンはさらに、自分が今、エバーラスティン家の用心棒のようなことをしていることを説明し、昨夜 、そこにチャイルドマンが襲 撃 してきたことを告げた。
「先生が? なにかの間違いだろう。そんな強 盗 じみた真 似 ──」
「そう、普通ならするわけがない。だが魔術士同盟の仕事としてやっているのであれば、話は別だ。俺は、この支部のどこかにチャイルドマンがいると思っている」
「もしそうだとしたら、ぼくが気づかないわけがないだろう。いくらでかい建物だからって、毎日来てるんだ」
「もしお前がグルでなければな」
「おい、キリランシェロ!」
ハーティアは、かっとしたように目の色を燃え上がらせた。
「いいかげんにしろよ。そりゃあ、アザリーのことは気の毒 に思っているし、そのことで君がムキになっても、ある程度は我 慢 するさ。だが──」
「ハーティア──」
オーフェンは、するりとつぶやいた──自分でも、師であるチャイルドマンに似ていると思うような、冷たい声で。
「ハーティア。俺は、まだ一言もアザリーのことなんて口にしてないぞ」
「......ぼくをひっかけたつもりかい? 君のことは、友達だと思っていたんだ」
「俺もそう思うよ」
オーフェンが言うと、ハーティアは、ハンと鼻を鳴らした。
「ぼくの言うことを信用もしないくせにか?」
「基本的には信用するさ。俺以外の誰 もが、お前の言うことを信じていないようなときでもな。だが、明らかに嘘 をついていると分かっているときまで信用してしまうのは、盲 信 というもんだ」
「悪いが、帰ってくれないか、キリランシェロ。ぼくにも仕事がある」
言いながらハーティアは、こちらに背を向けて退室しようとした。だがそれよりも早くその肩を後ろから、オーフェンはつかんだ。
「......なんのつもりだ? キリランシェロ」
ハーティアが、振り返らずに聞く。
オーフェンは静かに告げた。
「俺の名はオーフェンだ。キリランシェロだった俺は、もう死んだ」
「そんなふうにひとりで思い詰めるから、友人をなくすんだよ、キリランシェロ」
ハーティアはそう言うと、オーフェンの手を振り払い、部屋を出ていった。
オーフェンはしばらくその部屋の真ん中に立ち尽 くしていた。ふと時の流れを感じ、見上げると、それまでは気づかなかったところに壁掛けの時計がぶら下がっている。時と同じ速度で動く針 は、ちょうど一時を指 し示していた。
◆◇◆◇◆
「ねえ、もう二時になるよー」
グラスの中に少しだけ残ったオレンジ色の果 汁 をストローでつつき回しながら、クリーオウがぼやく。実際はまだ二時よりは十五分ほど前だったのだが、ドーチンはあえて正しはしなかった。
あの後、近くに喫果店 をクリーオウが見つけだし、そこに立てこもること二時間、ドーチンはすることもなく(クリーオウの金で注文した)果汁ジュースを前にして、古びた本を広げていた。ボルカンはさっきから水ばかりをお代わりして、店員に嫌 な顔をされている。が、いつものように自分ではそれに気づいていなかった。
クリーオウは店の窓から、斜 め横に見える魔術士同盟の建物を眺 め、またつぶやいた。
「オーフェン、なにやってんのかな」
「あの魔術士は時間にだらしがないのだ」
ボルカンが、頑 丈 なあごで氷をかみ砕 きながら答える。
(別に待ち合わせの時間を決めてたわけじゃないんだけどな)
ドーチンは思いながら、本のページを繰 った。
クリーオウは本気であの黒魔術士のことを心配しているらしかった。
「ひょっとしてオーフェン、魔術士に捕 らえられちゃったんじゃないかしら」
うんうん、とボルカンがうなずく。
「あり得ないことではない。あの男は大陸中 の魔術士の品位をおとしめているからな」
「そうなの?」
とクリーオウ。ボルカンは、仰 々 しい口 調 で続けた。
「うむ。この前も、万引きの咎 で八 百 屋 の親 父 にしこたましぼられたばかりだ」
(あれは、兄さんが盗 んできた大 根 をこっそり返しにいったんじゃないか)
だがドーチンにはボルカンの考えが分かっていたので、口出しはしなかった。ボルカンは彼が思っていたとおりのことを口にした。
「さらには、夜中に邪 悪 な魍 魎 の名前を唱 えながら、鶏 の首を切っていたところも見たことがある」
「ホント?」
それを聞いてクリーオウはなぜか目を輝 かせたようだが、ボルカンは気づかなかったらしい。
「つまりお嬢 さん。このわたくし、マスマテュリアの闘犬と呼ばれた自由戦士ボルカノ・ボルカンに言わせれば、あの男は猛 悪 なる魔術使いなのですよ」
久しぶりに故 郷 の名を聞いてドーチンはかすかならず望 郷 の念を覚えたが、ボルカンにはそのテの感傷はない。さっさと続けた。
「悪いことは言わない。御尊家の名に取り返しのつかない傷がつく前に、あの男をクビにすることです。大 丈 夫 、悪い奴 らなら、わたしが処理します」
言い切って、どんと胸をたたく。クリーオウは目をぱちくりとさせてから、聞き返した。
「クビにするって......オーフェンを?」
「そのとおり」
ボルカンはうなずいて、続けた。
「御証 拠 をお求めならば、昨夜あの男が使ったベッドの下をのぞいてご覧 なさい。多量の鶏の羽 毛 が隠 してあるはずです」
(そういや、兄さん昨日 の真夜中にベッドの下でごそごそしてたっけ)
と、ドーチンは思い出した。それにしても、そんな小 細 工 までしていたとは。
だが、どちらにせよクリーオウはたいして感 銘 を受けなかったようだ。
「へえ......」
とつぶやくと、トイレ、と言って席を立っていってしまった。少女が店の奥に姿を消してから、ドーチンは兄に聞いてみた。
「兄さん、鶏の羽毛なんて、どこで手に入れたのさ」
ボルカンは、誇 らしげに胸を張って答えた。
「あの家の枕 をひとつくすねたんだ」
「......あの枕に入っているのは、羽毛は羽毛だけど、鶏じゃないよ」
「な、なにい?」
と、ボルカンが声をあげた瞬 間 ──
がしゃああああああんっ!
すぐ近くの大きな窓ガラスが砕 け散り、ドーチンらのテーブルの上に、人間の頭大の石がほうり込まれた。ボルカンがもう一度悲鳴をあげ、抱きついてくる。ドーチンはそれを引きはがそうとしながら、道路のほうを見やった。
「はぁーはっはっはっははははは!」
けたたましい哄 笑 が、昼 日 中 の街をぎょっとさせる。
ドーチンは反射的に、叫 んだ。
「え、海 老 男だ!」
「違ああああうっ!」
叫びとともに、ドーチンの目の前のテーブルが、なにもないのにひとりでに爆発した。グラスやテーブルの破片が飛び散り、飲みかけの果汁がドーチンの顔面にかかる。目にしみるオレンジの果汁を手でふきながら、ドーチンはあわてて窓の近くから離れた。
既 に店の中はパニックになっていた。人通りの多い外の道路も、似たようなものだ。客や通行人が悲鳴をあげつつ逃 げ惑 い、若い店員はトレイを持ったまま棒 立 ちになっている。
と──店の奥からクリーオウが飛び出してきた。
「ねえねえ、なんの騒 ぎ?」
手は洗ってないな、とドーチンは目ざとく気づいたが、それは言わなかった。ブロンドを黄金の鳥の翼 のようにはためかせながら駆 け寄ってくる少女に、
「例の殺し屋だよ」
と告げる。少女は、きゃあ♪ と歓 声 をあげてから、胸元でぱんと手を打ち合わせた。
「どこどこ? わたし、昨日は見てないのよ」
言いながら、勝手にボルカンの剣を取り上げる。
「あ、ちょっと、お嬢さん!」
ボルカンの制止も無視してクリーオウは、中古の剣を鞘 から引き抜いた。
「さあ来い!」
剣を取り返そうとするボルカンを押しのけつつ、クリーオウが叫んだ。さらに、近くで棒立ちになっている店員に気づき、その腕の中からトレイを引っこ抜く。少女は、それを盾 のつもりか左手に抱 えた。
と......小声でささやくような、ただしはっきりと聞こえる、声。
「......ならば、注文どおりに行ってやろうか」
ふわっと、誰 もいなかったはずのクリーオウの背後に、黒 装 束 に黒い覆 面 の男の姿が現れる。
「きゃあっ!」
突然の気 配 にクリーオウは悲鳴をあげつつ身をよじり、剣をめちゃくちゃに振り下ろした。その刀身が覆面の下の首を薙 ぎ──そして、なんの抵抗もなく通り過ぎる。殺し屋の姿は、出てきたときと同じく、すっと消えうせた。
「幻 影 だ! 本体は──」
ドーチンは叫んで、ぐるりと店内を見回した。びしっと指を指して、
「本体は、こっそりとあそこの入口から歩いて入ってきている!」
「気づくな、馬 鹿 野 郎 !」
昨日とは違って雄 牛 には乗っていないものの、しっかりと大 鎌 を肩に担 いだブラックタイガーが、店に入りながら怒 鳴 った。ドーチンは殺し屋を見 据 えながら、武器がないのでとりあえず読みかけの本を構えた──ゴキブリをたたきつぶすときの要領で。
背後で、ボルカンがクリーオウに詰め寄るのが聞こえた。
「お嬢ちゃん! おいコラ! その剣は俺の──」
が、続いて聞こえたパカンという音からすると、どうやらボルカンはトレイではたかれたらしい。ぶつぶつ言いながら彼は、ドーチンの横に並んだ。
なんとか気を取り直し、びしいと自 称 ・暗殺者を指さす。
「性 懲 りもなく現れたか、海老男!」
「俺は海老男じゃないと言ってるだろうが! 夢魔の貴族ブラックタイ──あれ? おい、黒魔術士はどうした」
「いないわい」
「な、なんだと? どこにいるんだ!」
「知るかっ!」
ボルカンは叫んで、まくし立てた。
「生まれついての悪人などない! 貴 様 にも生 い立ちの不幸はあろう! しかぁし! それを理由に世を拗 ね、人を殺 めるを生 業 としてのうのうと勤 労 の義務をやり過ごそうなどと、そんなことは断 固 として見過ごすわけにはいかん! このボルカノ・ボルカンが制 裁 を加えてくれるから、そこに直れいっ!」
ブラックタイガーが、ぽつりと聞く。
「制裁って、今日は剣も持ってないじゃないか」
「だって返してくれないんだもん」
ボルカンは、ちらりと拗ねるようにクリーオウの顔色をうかがいながらつぶやいた。
ブラックタイガーは、どうやら呆 れたらしい。
「ええい、馬鹿はどうでもいい! あの黒魔術士はどうしたんだ!」
「海老男に馬鹿呼ばわりをされる覚えはないっ! 黒魔術士はいないと言ってるだろーが!」
「いてくれないと困るんだよ! まさか、もう帰っちゃったんじゃないだろうな!」
「知らんと言っとろーがっ! 魔界に魂 を売り渡した不 浄 の変質者めが、この俺が──」
ボルカンがポーズをつけて叫んだ瞬間、ブラックタイガーがなにかを小さくつぶやく。同時に、暗殺者のすぐとなりに黒っぽい火柱のようなものが立ち上がって、その中心からいかにも恐ろしげな嘶 きをあげながら、暗黒の毛 並 みを持つ雄 牛 が現れた。雄牛が太い首を振りながら鼻息を吹き出すたび、煙 のような蒸 気 が空気を汚 す。
雄牛ににらまれ、言いかけたまま口をぱくぱくとさせながら、ボルカンは素 早 くドーチンの背後に身を隠 した。
「さあ、兄のために、あの通り魔野郎に、ハチマキで絞 め殺してやると言ってやれ」
「兄さんって......」
ドーチンは、疲労を感じさせる声 音 でつぶやいた。
と、クリーオウがドーチンらを押しのけ、ずずいっと前に出た。剣を両手で構え、腰 を落としたオーソドックスな姿勢で、言う。
「能 書 きはもう飽 きたわよ。さあ、口だけじゃないんなら、どっからでもかかってきなさい!」
「ちょ、ちょっとクリーオウ!」
ドーチンは少女のスカートの裾 をつかんで引きずりもどそうとしたが、彼女はそれをぱっと振り払った。そのまま、じりじりと暗殺者のほうへと進んでいく。
ほう、とブラックタイガーが声をあげた。かたわらの雄牛にぽんと手をかけて、
「いい度 胸 だ。このブラックタイガーに挑 戦 するつもりか」
殺し屋もまた、大鎌を肩にかけたまま、こちらに向かって歩きだした。雄牛はもとの位置においたままである。
「あわわわわわ......」
口に手を突っ込んであわてるドーチンの不安をよそに、クリーオウの後ろ姿はしごく落ち着いた様 子 だった。運動力 学 的にごく自然な構えを崩 さないようにゆっくりと、剣先は心持ち下がりぎみに、殺し屋と対 峙 している。ひょっとしてあの娘は剣の扱 い方の訓 練 を受けているんじゃないかしら、とドーチンは淡 い希望を覚えた。
ひゅっ──
いきなり聞こえたその音が、殺し屋と少女、どちらの肺からもれた吐息かは分からないが──
刹 那 、ブラックタイガーの大鎌が弧 を描いた。クリーオウから見て右上からの攻撃に、少女は素早く反応していた。鎌の刃元を受け止めたのでは威 力 を殺せないと見たのか、彼女はさっと前方へ踏 み込んで、鎌の柄 を持つ殺し屋の手元へと、剣をたたきつけた。がぎぃん、と鋭 くもあり鈍 くもある金属音が響 き、ブラックタイガーの身体 がわずかにバランスを崩した──ように見えた。
クリーオウもそう思ったらしい。畳 み掛けるように、斬 り込んでいく。
が、明らかに殺し屋のほうが上 手 だった。ブラックタイガーはふらり、と右に沈 み込むように身体を投げ出すと、軽く爪 先 を滑 らせて、クリーオウの両足を払った。体重のないクリーオウはあっさりと転倒したが、敵の二撃目よりも素早く、身体を転がして後退した。両者ともすぐに起き上がり、再び対峙する。
ドーチンは、背後で小さくなっている兄に言った。
「す、すごいよ、あの子」
「う、うむ......まだ──まだツメが甘いがな」
(兄さんよりも巧 いよ)
ドーチンは胸 中 でつぶやいた。だが、どうにせよクリーオウが殺し屋に勝てるとは思えなかった──しょせん体力が違いすぎるし、実戦経験でもそうだろう。現にクリーオウはまだ一分も経 っていないというのに、顔面を蒼 白 にしている。刃物を持った敵と向かい合うというのは、よほど慣 れた人間でも、思ったよりは神経を擦 り減らすものだ。
見ると、クリーオウは肩で息をしながら調子をとっている。まさか自分より技量の上 回 る相手に、自分から打ちかかったりはすまい。じりじりと近寄ってくるブラックタイガーを見据えて、少女はいつもより余 計 に小柄に見えた──
が──
「我 は放 つ光の白 刃 !」
ふわっ──と、クリーオウとブラックタイガーの中間の足元を狙 って、純白の光の帯 が突き刺さった。爆音と光熱波が、霹 靂 のように店内に響き渡る。
光の中で辛 うじて薄目で見たかぎりでは、ブラックタイガーは後ろに跳 び退 り、そのまま店の中から飛び出していった。クリーオウはその場で尻 餅 をついている。ボルカンに関しては、後ろからドーチンの首をしめにかかっていたので、見ないでも分かった。
「に、兄さん、放してよ!」
「死ぬときはいっしょだ、ドーチン──」
「やだよ、そんなの!」
騒 いでいるうちに、いつの間にかオーフェンが目の前に現れていた──どうやら、割れた窓から入ってきたらしい。黒魔術士はクリーオウを助け起こしてから、面 倒 臭 そうにこちらにやってきた。ボルカンを引きはがして、なにやらぶつぶつと文句を言っている。いきなりの魔術の爆発に耳鳴りがするせいで、ほとんど聞き取れなかったが。
「なにやってんだ、お前ら」
というのが、なんとか聞き取れた。ドーチンがなんと答えたらいいのか分からないでいると、ボルカンの足元に剣を放りながら、クリーオウが言った。
「あのヘンな人を追っ払ってたのよ」
「よく追い払ったな。剣が使えるのか? クリーオウ」
「クラブでやってるの。一応レギュラーなのよ」
クリーオウはとにかく一度自 慢 げに胸を反 らしてから、続けた。
「オーフェンこそ、なにやってたのよ、こんな時間まで」
「俺か? 俺はお前らを探してたんだよ。こんな店に入ってるなんて、一言も言ってなかったろうが」
「そりゃそうだけど」
クリーオウは、待ち合わせに遅 れた恋人に言うみたいに口をとがらせて、続けた。
「わたしたち、殺されるところだったのよ?」
「大 丈 夫 だよ。俺の予想が当たっていれば、あの自称殺し屋は誰 ひとり殺したりできない」
つぶやきながら黒魔術士は、床 の上からなにかを拾 い上げた。ブラックタイガーが落としていったものらしい。ドーチンがちらりとのぞき込むと、それはペンダントだった──銀製の、剣にからまった一本脚 のドラゴンの紋 章 が細 工 された。
「ほう......」
オーフェンは、右手をあごに当てて、ぽつりとつぶやいた。かたわらにいるクリーオウに顔を向け、
「やられたな」
「まあね。でも、かえって片付いて助かったわよ。この倉 庫 、中身がぐちゃぐちゃだったんだもの」
実のところオーフェンも似たようなことを考えていたところだった。
倉庫が荒らされていることに最初に気づいたのは、クリーオウだった──どうやらこの娘は暇 なときにはこの倉庫に降りて、おもしろそうなものを物 色 しているらしい。が、それにしても『荒らされていた』という言い方は適当ではなかったかもしれない。クリーオウの言うとおり、盗 賊 は目的のものを見つけるために倉庫の一画をすっかり整理し、並べ換 えていったからだ。
「バイト料くらいは払ってやったほうがいいかもな」
オーフェンが言うと、クリーオウは肩をすくめた。
「それがね、賊はなにひとつ盗 み出してないみたいなのよ」
「つまり、目的のものが見つけ出せなかったんだろうな。バルトアンデルスの剣がどういうものか知らないが、この倉庫には剣だけでも数百本はあるんだろう?」
「うん。わたしが昔、数えたときには、八百本以上あったわよ。でも、それってお父様がまだ生きていたころのことだから、その後にもっと買い足したかも」
「どのみち、それを全部確かめていたら、半日かかっちまう。チャイルドマンが最初に、こちらに剣を用意させようとしたのも、そのせいだろうな。にしても......どうして賊がなにも持ち出してないって分かるんだ? 在庫調査をしたわけじゃないんだろう?」
「うん。これが、倉庫の入口に落ちてたの。それと、まだこのことはお母 様 たちには言ってないわ。そのほうがいいでしょう?」
クリーオウが差し出したのは、一枚の紙片だった。通路からのガス灯の明かりに照 らして読んでみると、それには『今夜までに件 の剣を用意すべし』といったようなことが書いてある。
「なるほど。だが、ティシティニーにはちゃんと報告しておいたほうがいい。奴 らがまた来る気なら、この屋 敷 で一 騒 動 起こるわけだからな」
とオーフェンが言うと、クリーオウは不安そうにこちらを見上げて、聞いた。
「ねえ。その手紙って、今日のあの殺し屋が書いたものなの?」
「いや......どちらかってえと、もうひとりの──チャイルドマンが書いたんだろうな。つまり、あのブラックタイガーが俺 たちを足止めし、その隙 にチャイルドマンがこの倉庫に忍び込んだ。そんなところだろう」
「とても強い魔 術 士 なのよね。その人って......」
「ああ、俺の先生だからな。大陸で最強の黒魔術士と言っても過 言 じゃない。専門の訓 練 も受けた、正 真 正 銘 、筋 金 入りの鉄の殺し屋にもなれる男だ」
「............」
それを聞いてクリーオウは、多少うつむきかげんに親指の爪 を噛 んだ。言いたいことがあるのに、言えないらしい。オーフェンは彼女の金色の小さい頭に、ぽんと手を置いた。
「なんだ。心配なのか?」
「うん。わたしに手伝えること、ある?」
「ないよ......つまり、また剣を持って斬 り合いをするつもりなら遠 慮 してくれ。《牙 の塔 》の魔術士というのはね、無 駄 に人を殺したりはしないが、もし必要ということになれば一転、どんな残 酷 な殺し方でもできる人種なんだ」
クリーオウは、たれた前髪の下から、こちらを見上げて聞いた。
「......オーフェン、あなたもそうなの?」
「俺か?」
オーフェンは、微 苦 笑 をもらした。
「俺は......それができなかったから、落ちこぼれたんだ」
アザリーのことを思い出しながら、彼はクリーオウの頭から手を放 した。連れ立って、倉庫から出ようときびすを返す。
クリーオウはなぜか安心したふうに、ぱっと顔を上げて目を輝 かせた。いつもの明るい調子で聞いてくる。
「ねえオーフェン、あなた、恋人とかいるの?」
「いないよ。だが、尊敬する女 はいる」
君も知っている女性だ、と言いかけて、オーフェンはせりふを呑 み込んだ。あの異 形 の代 物 を追いかけて出世コースを諦 めたなどと言ったら、正気を疑 われるかもしれない。
背を向けて倉庫の扉 を閉めながら、クリーオウは続けて聞いてきた。
「誰 ? どんな人?」
「ティシティニーかな」
オーフェンがそう答えると、クリーオウはショックを受けたようだった。オーフェンは笑って、
「冗 談 だよ。ただ彼女は、行 方 不 明 になってるんだ。俺はそれを、探している」
おおむね嘘 ではない。続いてのクリーオウの質問は、今までよりもさらに単純だった。
「見つけたら、その人と結婚するの?」
オーフェンは、少し考えてから答えた。
「......しないだろうな。彼女はね、なんて言うか、そういうタイプの人間じゃないんだよ。だからこそ尊敬していると言えるかもな。尊敬するのと、好きになるのとではだいぶ違うだろ?」
「そうかもね」
クリーオウは同意してから扉に鍵 をかけ、くるりとこちらに向き直った。
「じゃあさ、好きになるのは、どんなタイプ?」
「さあね。実を言うと、考えたこともないな」
オーフェンは、その程度であえて深く言 及 するのは避けることにした。
「それよりクリーオウ、君は学校で剣の使い方を覚えたって言っていたけど、君が通 っているような学校でそんなクラブがあるのか? フェンシングは競技 だし、違うよな」
「わたし、下町の学校に通ってるのよ。お姉ちゃんと同じ学校には行きたくなかったから」
「へえ......でも、なんのクラブだ? 剣術クラブ?」
「違うわ。戦争クラブ」
「......辞 めなさい、ンなトコ」
オーフェンは呆 れた声でつぶやいて、額 を手でこすった。軽やかに階段を登る少女の後ろから、ポケットに両手を突っ込んでついていく。と、その指先が、クリーオウのくれた指輪に触 れた。
オーフェンは、この指輪に見覚えがあった。そして、その記 憶 に絶対間違いがない自信があった......
「......この文字が読める? キリランシェロ」
そう言いながら、彼女は、小ぶりの指輪を掲 げてみせた。キリランシェロは目をすがめるようにして、その銀のリングを子 細 に眺 めていたが、やがて諦 めたようにそれを彼女のほうに押しもどした。
「なにそれ? ホントに文字なの?」
彼の答えは、それだけだった。彼女──天 魔 の魔女とも呼ばれ《塔》で最も畏 怖 される魔術士アザリーは、休 憩 室 の長 椅 子 に腰掛けて、けらけらと笑った。
「もちろん文字よ。古代の魔術士──わたしたちとはまったく異なった魔術を扱 ったという連中が、これを造ったってわけ」
「そんなの、現在のぼくらには読めるわけがないじゃないか。その古代人はもう死 滅 したんだろ? なら、その言葉を話せる人間は地上にいないんだ」
「......そうともかぎらないじゃない。それにこの文字──魔術文字 の解読は着々と進んでいるのよ。わたしだってその研究には参加しているんだから、あんただって笑ってはいられないんじゃない?」
「......なんでぼくが?」
「だって順番からいって、わたしの助手になるのはあんたに決まったようなもんじゃない」
言って彼女は、魅 惑 するようなブラウンの双 眸 をウィンクさせた。
「ホントに?」
文字どおり跳 び上がってキリランシェロが聞くと、彼女は笑いながらうなずいた。
「まだ試験の結果を聞いてなかったわけ? 言っとくけど謙 遜 のつもりだったらヤラシいわよ──なにしろあんた、今回の試験官がもらしたせりふが『まあ妥 当 だな』だもの」
と、銀の指輪を空中に放っては手で受け止めて、彼女は言った。どこか誇 らしげに首を傾 けて、双眸にはありありと賞 賛 が浮かんでいる。
「まあ、なんにしろね、そういうことだから、あんたにもこの程度の文字は読めてもらわないと困 るのよ。今回だけはわたしが答えを教えておいてあげるけど──次からは自分で調べんのよ? この指輪にはね──『武器よ落とせ』と記 されてあんの。つまりは、持ち主を災 厄 から防 御 するわけね。多分、効果は一度っきりだろうけど」
「一度だけ?」
「そう。文字の精度が低いからね。きっと、そんなに強い魔術士が造 ったものじゃないんでしょうよ。もっとも──」
と彼女は苦 々 しく、小さすぎる指輪と、自分の節 が膨 れた指とを見比べて、
「わたしの指には入らないわ。これじゃ持ち主にはなれないわね。あんたはどう?」
「アザリーに無理なら、ぼくにだって入るわけないでしょ。子供の指じゃないと無理なんじゃないかな。多分、ふらふらと出歩くような子供が馬車にはねられたりとかしないようにって造ったんじゃないかと思うけど」
「悪くない推理ね。だとしたらこの指輪は持ち主でさえあれば文字を読み上げなくても作用するかもしれないわ。今度、子 猿 にでもはめさせて試 してみましょうか。ところで──」

と、ふと彼女は真 顔 になって、続けた。
「食事をとったら、あとでわたしの部屋まで来てくれる? 長老たちには内 緒 で、この指輪と同じ古代の魔術の実験がしたいの。まるっきり未知のものだから、助手が要 るわ」
「ああ、いいよ」
キリランシェロは軽い気持ちで引き受けた。にっこりと、アザリーが満足げな笑みを浮かべる。
実を言えば、これが彼の最後に見た、天魔の魔女の笑顔となった。
◆◇◆◇◆
「あの黒魔術士め、本当にムカっ腹が立つ!」
トトカンタの中央街にある大図書館の中で、司書官の厳 しい視線にも気づかず、ボルカンが大声でわめき立てた。
(あんたはいつもそれだ)
胸中でつぶやきつつ、ドーチンは手の中のページをめくる。本は古代のものの複製で、一種の古語辞典のようなものである。ようするに彼らはオーフェンの言い付けで例の《バルトアンデルス》というのがなにを意味する単語なのか、調べに来ているのである。
と──
バタンと、ボルカンがドーチンの手元の本を閉じた。眼鏡 をかけ直しながらドーチンは顔を上げ、言った。いいかげん、堪 忍 袋 の緒 が切れかけていた。
「なにするんだよ」
「お前には不正を怒る心というものがないのか? おい」
ボルカンは空 手 で(もちろん、帯 剣 したまま図書館には入館できなかったのだ)こちらの頭をぽかりとたたいた。
「いいか、ドーチン。あの黒魔術士は、めんどうな仕事を人に押し付けて、自分だけはのうのうと屋敷にもどってるんだぞ」
「魔術っていうのはひどく体力を消 耗 するんだよ。あの人はここのところ、強い魔術を立て続けに使ってばかりいたじゃないか」
「......魔術士みたいな口を利 くじゃないか。ええ?」
ボルカンはチンピラそのものの口調で凄 み、どんと机をたたいた。
「そうか。お前はあの魔術士の犬に成り下がるつもりだな?」
「そんなことは言ってないだろ。ぼくはただ──」
「いんや! お前の目を見れば分かるぞ。お前は昔から、目先の安 寧 のために誇 りを忘れる奴 だった」
「兄さんは兄さんで昔から、ぼくのことしかなじった ことがないじゃないか。当人の目の前ではね」
「なんだと貴 様 っ!」
ボルカンは怒 鳴 ると、ドーチンの目の前の机を一気にひっくりかえした。机の端がぶつかって、向こう側の書 棚 が倒れる。同時に、どこがどうぶつかったのやら、ドーチンの真後ろの棚までがこちらに向かって倒れかかってきた。雪崩 のような本に押し潰 され、ドーチンはばたばたともがいた。図書館の中にまばらにいた人たちの口から、悲鳴がもれる。
「なにをしてるんだ、お前たち!」
司書官が怒 りの声をあげて、こちらに突進してくる。本の隙 間 からそれを見上げて、ドーチンはとにかく助け出してもらえるものと安 堵 の吐 息 をついた。そしてちらりと目の端に、開いたままの本のページが見えて──
瞬 間 ドーチンは、あっと声をあげた。
「あった! あったぞ!」
◆◇◆◇◆
「《いつでも・ほかの・なにか》?」
オーフェンは目の前で顔を上 気 させているドーチンの言った言葉を、そのまま繰 り返した。エバーラスティン邸 の、オーフェンたちに割り当てられた一室である。入口ホールに近く、すぐに庭に飛び出せる位置にあった。
ドーチンは、熱心にうなずいてみせた。
「そう。えらい昔の言語で、バルトアンデルスは《いつでもほかのなにか》の意味だよ。月の紋 章 で表されていたんだ。これは魔術の印章だったみたいだよ」
「ふむ......」
オーフェンはつと考え込んで、室内を見回した。ドーチンはなにか返事を期待するようにこちらを見上げている。ボルカンはなにか怒っているように窓の外をにらみつけているが、そんなことはどうでもよかった。オーフェンはぱちんと指を鳴らして、ドーチンに向かって答えた。
「となると、その剣はなにかの変身の魔力を持っているのかもしれない。確か、アザリーが最後にやろうとして失敗した魔術も《剣》と呼ばれていたようだし......」
「つまり、バルトアンデルスの剣のせいで、その人は変身したっていうこと?」
「それが妥 当 だな。ただ、俺 の聞いた話じゃ《剣》はチャイルドマンが手ずから何 処 かに封 印 したはずなんだ。それがどうして、この屋敷にあるんだか......」
腑 に落ちない気分でオーフェンがつぶやいていると、扉 が三回ノックされた。たたき方に癖 があり、誰 が来たのかすぐに分かる。
「どうぞ、クリーオウ」
ぴょこんと扉から入ってきたクリーオウはワンピースはやめて、珍 しく乗馬用のズボンなどはいている。長いブロンドはまとめて、後ろに丸めてあった。なかなか似合ってはいたが、その格 好 を見ただけで、オーフェンはかぶりを振った。
「なにも言うなよ──答えは最初に言っておく。ノーだ。着替えて眠っちまいな」
「なんでぇー?」
クリーオウは、口をとがらせて不平の響 きをあげた。サイズがあわないらしい両手の白手袋を互 いに直しながら、続ける。
「わたしだって手伝えるわよ。それにお母様の許可ももらったもの」
「......ティシティニーの?」
疑わしげに聞くが、クリーオウは気楽なものだった。
「そう。邪 魔 にならないようにねって。お姉ちゃんも、オーフェンを守ってあげなさいだって」
「............」
オーフェンは、どう言えばこの屋敷の女どもを説得できるのだろうかと思いながら、
「あのな、クリーオウ。これが鴨 撃 ちか猪 狩 りかなにかに出掛けるんだったら、連れてってやってもいいだろうさ。今夜なにが起こるのか、君は分かってるのか?」
「知ってるわよ」
「いいや、知っていても分かってはいないだろ。俺は今夜中に死体になるかもしれんし、もっと悪ければ殺人者になるんだぞ?」
「あなたは強い魔術士だし、人は殺せないって言ってたでしょ。だったら、誰も死なないはずだわ」
「そいつは理 屈 だよ」
オーフェンは嘆 息 まじりに、そのまま棚 の上かなにかに飾 っておきたくなるほどこぢんまりとした格好の少女をねめ付けた。
だがクリーオウは、一歩も退 かないつもりらしい。
「それに、あなたにはちゃんとしたサポートが必要なはずでしょ? 殺し屋ふたりを同時に相手にすることはできないんだから」
「もし相 棒 が必要だと思ったら、どこかの裏 路 地 で腕の立ちそうな奴を見 繕 って雇 うこともできたんだよ」
「でもあなたはそれをしなかったわ。本当は、魔術士同 盟 にいる知り合いっていうのにそれを頼 もうとしてたんでしょ? でも駄 目 だったんだから、わたしが代わりを務めてあげるわよ」
オーフェンは苦 りきった顔で、決然とした面 持 ちの少女を見返した。クリーオウは腕組みし、いつものヒラヒラしたような印 象 もなく、こちらをにらみつけている。どうやら昼間、ブラックタイガーと剣を交 えたことで妙 な自信を持ってしまったらしい──オーフェンはいらだたしげに吐 息 をついた。こうなると、ミルクを飲んで寝てろと言ったところで説得力はないだろう──なにしろ相手は、もうこちらの話を聞く気がないときている。オーフェンはどうにでもなれという気勢で、クリーオウに聞いた。
「得 物 は?」
クリーオウは、こちらが同意してくれたものと、ぱっと顔を輝 かせた。もう少しでこちらに抱きついてきそうな気 配 すらあったが、それはしなかった。彼女はくるりと身をひるがえすと、廊 下 に立て掛けてあったらしい一本の細 身 の長剣を持って部屋にもどってきた。
「これよ」
クリーオウは言いながら、すらりとした刀身を鞘 から抜き出し、天 井 から落ちるガス灯の明かりに照らしてみせた。少女自身にぴったりの、銀色の飾り気 のない武器だ。片刃で、刀身はやや反 り返っている。
「クラブで使ってるやつか?」
オーフェンが聞くと、クリーオウは嬉 しそうにうなずいた。
「いつもは刃にカバーを被 せてるんだけどね。今日は外 してあるの」
「人殺しになりたくなければ、もう一度カバーはつけておくんだな。それと、その剣はやめて、もっと古いのにしておいたほうがいいかもしれんぞ。どうせ折られる運命だ」
「そんなことないもん」
クリーオウはふてくされてそう言うと抱きつくように、抱 えている鞘に剣をもどした。
オーフェンは時計を見つめていた。午前一時を少し過ぎて、クリーオウはソファーに埋 もれるようにして寝こけているし、ボルカンやドーチンもうつらうつらとしている。起こしてもよかったのだが、オーフェンはほうっておくことにした。どのみち、あのふたりの魔術士に決着をつけられるのは自分だけだと承知している。
(チャイルドマン......)
──あんたは、どうしてここに現れた?
弱々しく揺 れるガス灯の明かりの下で、オーフェンは考えていた。
(まずアザリーが現れて、そしてあんたがそれを追うようにして現れた。この屋敷にあるのは──バルトアンデルスの剣。アザリーをあんな姿にした古代の魔術だ。あんたは、それを欲しがっている)
いや、違う──オーフェンはひとりでかぶりを振った。《剣》を手に入れたいのは、アザリーだ。彼女は多分、俺と同じことを考えたはずだ。バルトアンデルスの剣によってあの姿に変 貌 したのなら、同じ魔術でもとにもどれるはずだ、と。
とすれば《剣》を求めてこの屋敷に現れたのはアザリーで、チャイルドマンは彼女を追ってここにやってきたということになる。だが、だとしたら、どうしてチャイルドマンはアザリーを追いかけている?
(もとにもどすためじゃない。彼は俺に、彼女の姿をもとにもどすのは不可能だと言った)
とすれば......
(抹 殺 するためだ)
魔術に関する決定的な失敗は《牙 の塔 》の歴史を傷つける。《塔》の長老たちはまずアザリーの記録をすべて抹 消 した。あと残っているのは、彼女自身だけだ。
(そんなことはさせない)
オーフェンは虚 空 をにらみつけ、つぶやいた。声に出して、自分自身に確認するように。
「彼女を殺させはしない。もとの姿にもどせないのなら、俺が守る。もどせるのなら、もどしてやる。いざとなればチャイルドマン、あんたを──殺す」
オーフェンは、音を立てずに椅 子 から立ち上がった。高いびきのボルカンと、ドーチン、そしてえらく複 雑 な格好でソファーに絡 み付いているようなクリーオウを見て、またさらに視線を虚空へともどす。
薄い明かりの照らす部屋の中で、オーフェンは立ち尽 くしていた。彼はふと──なんの理由もなく、気づいた。
(来る──)
誰が来るのかは、分からない。なにか切 迫 した気配の向かい風が、彼の額 を押している。
オーフェンはゆっくりと、廊下に通じる扉を押し開いた。廊下の闇 は深く、見上げてみると、一番近いガス灯のガスが切れている。
彼が廊下に出、そして後ろ手に扉を閉めたのと同時だった。屋敷に、またなにか激 突 したような轟 音 と振動が響 き渡った。
音をたてて襲 撃 するのは、チャイルドマンの流 儀 ではない。とすればこれは──アザリーだ。
オーフェンはそう直感し、音の聞こえた中庭に飛び出した。外はあちこちにばらまかれた火の粉 で赤く照らされて、屋 内 よりも明るくなっている。炎の爆 ぜる音があちこちから拍 手 のように押し寄せてくる。透明な煙に霞 む視界の中に、中庭の中央の地面に向かって繰 り返し炎の塊 をたたきつける巨大な異 形 の姿があった。
「アザリー!」
オーフェンは、叫 んだ。が、炎の爆音にかき消されてしまっているのか、アザリーには聞こえた気配はない。
彼女は倒 立 して地面に向かって魔術の炎を撃ちつづけ、自分の姿を炎の中に巨大な三角形のシルエットとして浮かび上がらせている──オーフェンはそれに向かって駆 け寄ろうとしながら、中庭いっぱいに荒れ狂う炎の嵐に巻かれ、なかなか進めずにいた。
そうしているうちにもアザリーは雄 叫 びをあげ、強 烈 な威 力 で地面をえぐっている。
(あの地下には──ちょうど地下倉 庫 の中心があるはずだ)
アザリーはこの屋敷の間取りを知っているのか?
だが、そんなことを訝 っている暇 はなかった。オーフェンは低く呪 文 を唱 え、身の回りに障 壁 を張り巡 らせながら、なんとかアザリーのほうへとじわじわ近づいていった。またアザリーが炎の塊を撃ち出し、吹き飛ばされた土の塊が四方へと飛ぶ。
「くっ──!」
わずかに燃え上がった石の塊をすんでのところでかわして、オーフェンは叫んだ。
「アザリー! 俺だ! 分からないのか?」
その瞬 間 ──また別の轟音が響いた。ずうん、と地面を揺らすような鈍 い音。途 端 にアザリーを載 せた地面は陥 没 し、彼女を地下に呑 み込んだ──地面が崩 れ、倉庫まで沈 下 したのだ。
「くそっ──」
振動に足をとられ、転倒しながらオーフェンは毒 づいた。中庭はほとんど崩 壊 し、アザリーは地下倉庫にもぐりこんで姿もない。ただとぎれとぎれに響く彼女の咆 哮 と、木々を焼く炎の音とが唱 和 して、すっかりあたりを取り囲 んでいる。
「きゃあっ!」
背後でいきなりあがった悲鳴に振り返ると、炎に遮 られてクリーオウが立ち往 生 していた。この騒 ぎで、さすがに目が覚 めたらしい。よく見るとボルカンやドーチンもいっしょのようだった。
オーフェンは舌打ちし──両手を広げて、叫んだ。
「我 抱きとめる、じゃじゃ馬の舞 い!」
ふっ──と、荒れ狂っていた火が忽 然 と消える。中庭に闇 が落ち、わずかな星明かりだけが白っぽい薄 絹 のように地面に落ちていた。陥没した地面の下では、アザリーが動き回っているらしく、まだその振動は収まらない。オーフェンは一 瞬 自分もその穴へと飛び込みかけたが、それよりもクリーオウのところへと駆けもどった。
「ケガは?」
オーフェンが聞くと、クリーオウはかぶりを振った。
「ないわ。お母様たちは、裏口から逃 がしたわよ。わたし、役に立ったでしょう?」
「ああ」
オーフェンはうなずいてから、くるりと陥没した穴のほうへと向き直った──穴の隙 間 から、アザリーの毒々しい色をした尻尾 の先が、ちらりとのぞく。致 命 傷 を負 った蛇 のようにぐるぐると動き回るそれを見ながら、クリーオウがつぶやくのが聞こえた。
「あれは──いつかの怪物?」
「そうだ」
オーフェンは言って、穴に向かって身構えた。アザリーがあの巨体で暴 れまわっている倉庫の中へと飛び込むのは自殺行 為 だろうが、出てきたところを見 逃 せば、今度はいつ遭 遇 できるか分からない。取り逃すわけにはいかなかった。
ボルカンが、ちゃきっと剣を抜いている。弟の背 後 に隠 れて。クリーオウも同じく、こちらは多少優美に抜 刀 していた。
オーフェンはそれを手で制しながら、
「駄 目 だ。君らの手には負えない」
さすがにクリーオウも反論はしなかった。だが、彼女は身をよじるようにしてこちらに向かい、聞いてきた。
「どういうことなの? 今夜来るのは、あの殺し屋じゃなかったの?」
「奴 らも来るさ。出 前 がかちあっちまったんだ」
「そんな──」
「しっ」
オーフェンは、少女を制止した。倉庫の中のアザリーの動きが、止まったのだ。
(............)
不安げにこちらを見ているクリーオウは無視して、自分の身体 の中の魔力を増 幅 していく。あの巨大な身体を閉じ込める檻 か、捕 らえる網 をイメージしながらオーフェンは、慎 重 に地割れを見つめた──沈 黙 した地面の穴を。
焦 げ臭 い煙 を、さあっと夜風が吹き散らす。
──ふしゃああああああっ!
文字にしてみれば、そんな音のように聞こえた。アザリーの咆 哮 が穴の中から突き上げるように、夜空へと舞 い上がっていく。
(────!)
同時に、中庭一帯に、竜 巻 のような上昇気流が生じた。尋 常 な威 力 ではない。庭全体の地面が薄くはがれ、上空へと舞い上がっていくような強い風である。オーフェンが、はっと気づいたときには、体重のないクリーオウや地人の兄弟はあえなく数メートルほど上空に吹き飛ばされていた。
(アザリーの魔術か、くそ──)
自分も体勢を崩 されないように地面に踏 ん張りながら、オーフェンは毒づいた。
(彼女と魔術で争ったところで、勝てるわけがない !)
だが、やらないわけにはいかない。彼はそれまで増幅していた魔力を限界まで絞 り出すと、両手を祈るように眼前で組み合わせ、絶 叫 した。
「我 が腕 に、入 れよ子ら!」
叫 んだ瞬間、がくっと身体の中から釣 り針 で引きずり出されるように、なにかとっておきの『力』を消費したのが分かった──全身全霊で彼は魔力を放射し、大気を微 塵 に引き裂く竜巻の隙間をかいくぐって、クリーオウやボルカンらの身体を受け止めた。ほうっておけば地面に激突死していたかもしれない彼女らを、オーフェンは軽く地面に下ろした。
同時に、竜巻も霧 散 する。
だが、想像以上に消 耗 が激しかった。全身から汗が噴 き出し、指先に力が入らない。平 衡 が分からなくなったようにひざは震 えているし、内臓がきりきりと痛んだ。ほんの一瞬に、無理な運動をしてしまったかのようだ。
オーフェンはそのまま、地面にひざをついた。次の魔術のために力を練 らなければならないのは分かっているのに、それができない。
(力が──まとまらない。時間が要 る......こんなに──消耗するなんて......?)
必死になって息をついていると、落ちた地点からクリーオウが駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
少女の心配そうな声 音 に、無理やり笑顔を作って見上げながら、
「たいしたことはない。ただ、大きな魔術を使っちまった」
「息が切れてるの?」
「そういうことだ。すまない......手を貸してくれ」
クリーオウの手を借りて立ち上がると、彼は地人たちの姿を探そうとした──別にあのふたりに手助けを求めようとは思わないが、それでも無 事 は確かめておきたい。左右を見回し、そして、つと正面に視線をもどして彼は動きを止めた──
「............」
見ると、前方で、ボルカンとドーチンも呆 然 と動きを止めている。ふたりともこちらに背を向けていた。
アザリーは、まだ穴から飛び出してはいなかった。だが、身体の半分が地面から露出している。
「おい、でっかくなってねえか、あの化け物......?」
信じられないといった口 調 で、ボルカンがつぶやく。
確かに、アザリーは巨大化していた──身体の半分が地下なのではっきりとは分からないが、体長にすれば五、六メートルにはなっているのではないだろうか。オーフェンは、愕 然 とうめいた。
「くそ──やっぱ、向こうが上 手 か......」
「どうしたの?」
クリーオウが聞く。オーフェンは、吐 き捨てるように答えた。
「俺の魔力を無理やり引き出して、吸収しやがった。だからこんなに消耗したんだ」
「吸収って──」
クリーオウはそうつぶやいてから絶 句 すると、恐ろしげな表情でアザリーのほうに視線を投げた。
「ど、どうするの?」
「あいにく、俺にはどうしようもない。力を吸い尽 くされて死ななかっただけ幸運だってくらいだ」
オーフェンのつぶやきをかき消すように、巨大化したアザリーが翼を空 打 ちした。飛び立つつもりらしいが、地面に身体がはさまっているせいか、動けないらしい。が、二度、三度と空打ちを繰 り返すうちに、その巨体が少しずつ地面から迫 り出していくのが分かる。ボルカンとドーチンは悲鳴をあげて、ぱたぱたとこちらに駆けもどってきた。ボルカンは剣を、ドーチンは眼鏡 をどこかに落としたらしく、持っていない。
「ど、どういうことなんだよ。ヘボ魔術士!」
ボルカンは近寄ってくるなり、半泣きに怒 鳴 った。
「てめえのミスで、とうとう化け物が巨大化までしちまったじゃねえか! なんとかしろよ! とっととなんとかしねえと、分 度 器 で測 り殺すぞ!」
錯 乱 しているのか、支 離 滅 裂 になっている。
ふらふらしながらもオーフェンの身体を支えているクリーオウが、彼の代わりにボルカンに反論した。
「ちょっと! オーフェンは、わたしたちを助けるために魔法を使ったのよ! そんな言い方ってないでしょ!」
「なに言ってんだ! プロってもんは、結果で勝負するんだよ!」
「なにがプロよ、武器もどっかに落っことしてきたくせに!」
「いいんだよ! どうせあんな怪物相手に剣が役に立つわけがないんだから!」
「それがプロのせりふ?」
「──しっ──!」
オーフェンは鋭 く、ふたりの口 論 を制した。身じろぎした瞬間、彼の額 から汗が飛び散る。確かに彼の耳に、なにかが聞こえた──
「光よ!」
「呪 文 だ!」
オーフェンは叫ぶと、クリーオウをひっぱりこむようにして、地面に伏 せた。と同時に、白い光があたりを照らし、アザリーが悲 鳴 をあげる──
オーフェンはぞっとしながら、身を起こした。クリーオウが彼の下敷きになって罵 声 をあげているが、この際仕方ない。どこからか矢のように伸びてきた光の帯 は、V字になるように夜空に伸ばしていたアザリーの翼の片方を打ち抜いた。同時に翼は爆発して炎を巻き上げる──ごうん、と夜気が熱を帯びた風に吹き返された。
再び、あたりに呪文が響 く。
「光よ!」
(屋根の上──)
オーフェンは声の源 を悟 り、夜空に逆光になっている屋根の上を見上げた。光がまたアザリーを撃ち、彼女が悲鳴をあげる。
屋根の上には、ふたつの人影があった。片方は長身の男で、もう一方はそれよりは背が低いが、やはり男。オーフェンは叫んだ。
「チャイルドマン!」
だが人影は呼びかけを無視して、そのままの姿勢でアザリーに向けて左腕をかざした──そして、声。
「光よ!」
光の矢がまたもアザリーの身体を打ちすえ、肉の焦 げる臭 いと、あるいは肉片そのものを周囲にばらまいた。びちゃっ、と足元になにか液状のものが落ちてきたのを見てから、オーフェンは両手を上げた。
「やめろーっ!」
その叫びとともに膨 大 な光の奔 流 が、屋根の上のふたりの足元あたりを直撃する。オーフェンの放 った必殺の光熱波は、川が土 砂 を押し流すようにそのまま、夜空へと突き抜けていった。光が通り過ぎたあと改 めて見やると、屋根の上からは人影はふたつとも消えうせていた。
(消し飛んだ──死んだのか......?)
オーフェンはぞっとして、自分の両手を見つめた。指先が震えている。
だがすぐ背後に、すたっとなにかが飛び降りた音が聞こえた。あわててオーフェンが振り返ると、そこには一瞬前まで屋根の上にいた男たちが立っている。
「だ、誰 ──?」
うめきながら、クリーオウが起き上がってきた。一応剣に手をかけてはいるが、まだ抜いていない。
抜くなよ、とオーフェンは心の中で念じた。抜いたら、彼女は殺されるかもしれない。
気が付くとオーフェンは、傷ついたアザリーを背後にかばうような格 好 で、そのふたりの黒 魔 術 士 と対 峙 していた。
黒魔術士のうちのひとりは、チャイルドマンだった──数日前に覆 面 の下に見えた冷 徹 な顔は、幾 度 か追 憶 の中で思い起こした顔と寸分も変わっていない。異様に鋭 い眼光が、そのままボルカンの口 癖 を借りれば、にらみ殺されることもあり得るのではないかと思わせるほど厳 しく夜の闇を貫 いている。ガラス玉でできているような冷たい眼 差 しは、それだけで十分な威 嚇 だった。一文字に左右に引き伸ばされた、感情のない口元も、なにが起ころうとぴくりともしないほおの皮もだ。
もうひとりのほうは、それとは幾分対 照 的 に、気まずそうにこちらの顔色をうかがっている。細い赤毛が夜風に揺 らされて、本来ならば愛 嬌 のある目元は、今は暗く陰 っていた。
「ハーティア」
オーフェンがつぶやくと、若い黒魔術士は半歩ばかり身体を退 いて、すまなそうに口を開いた。
「キリランシェロ。本当にすまない──だが、今日はああするしかなかったんだ。君が──」
ちらりと、かたわらの師のほうを見やって、
「君が、もう数日前に来ていてくれたら──」
「いいよ。お前が無理に怒 ったふりをしているのは、なんとなく分かった。なあ海老男 ?」
「......気づいていたのか」
ハーティアは、驚 いたふうだった。オーフェンは薄笑いを浮かべて、
「よく考えてみたら、あんな馬 鹿 な扮 装 を考えるのは、大陸全土でもお前くらいなものさ」
クリーオウは、きょとんとしたようにこちらと、ハーティアとを見比べている。自分が刃 を交 えた通り魔と、目の前の美形の青年とでは、連想がつながらないらしい。
と──
オーフェンは、すっと表情をひきしめ、チャイルドマンの眼差しを正面から見返した。
最初に口を開いたのは、チャイルドマンだった。
「どけ、キリランシェロ」
「......断 る」
「キリランシェロ!」
ハーティアが横から叫ぶ。
「キリランシェロ、いいか、これは《牙 の塔 》だけじゃない、大陸魔術士同盟 そのものの決定なんだ──」
「アザリーを殺すことがか」
苦 々 しくオーフェンが口にすると、チャイルドマンはあっさりと答えた。
「......そうだ」
「どうしてもというなら──」
オーフェンはクリーオウを横にどかし、続けた。
「俺を殺してからにしろ。ただし、俺もただでは死なない」
「ほとんど力も残っていないというのにか?」
「まだできることはあるさ」
オーフェンはつぶやきつつ、少しだけ腰 を落とした。チャイルドマンらには見えないようにこっそりと、地面に寝たままになっているボルカンに左手を差し伸べる。
ボルカンは、どうやら助け起こしてもらえるものと思ったらしい。手を握 ってきた。
瞬間、オーフェンは魔力を放った。
「跳 んでいけえっ!」
ぶおんっ! と空気が振動し、風の翼 に押し包 まれるように丸まったボルカンが、砲弾のような勢いでチャイルドマンとハーティアのほうに吹き飛んだ。ふたりともその攻撃は読んでいたらしく、難 無 くそれをかわしたが、一瞬だけ体勢を崩 し、隙 を見せた。
オーフェンは続けて叫びかけた。
「我 は放つ──」
が、その瞬間、彼は後ろから引きずり倒された。見ると、ドーチンとクリーオウがいっしょになって、腰のあたりにかじりついている。
「なにをするんだ──」
怒 鳴 りかけてオーフェンは、気づいた。背 後 にいたアザリーが、こちらをじっと見ている。彼女がなにをしているのか、一瞬オーフェンには分かりかねた──が、いきなり、閃 くように頭の中にイメージが浮かび上がる。
彼女は、息を吸いつづけている。呪文を放つためにだ。
それに気づいて、クリーオウらは彼を押し倒したのだろう。あのままチャイルドマンと戦うことに夢中になっていたら、あっさりと彼女の呪文に巻き込まれてしまっていた。
「くそ──」
オーフェンは毒づくと、クリーオウとドーチンのふたりの肩に手を回し、残った力をすべて振り絞 って、呪文を叫んだ。
「我は紡 ぐ光 輪 の鎧 ──!」
と、同時に、アザリーがひときわ巨大な咆 哮 をあげる──

あたりを、業 火 の一色が塗 りつぶした──
目を覚 ますと、夜は明けていた。
それどころか、もう昼間になっているらしかった。窓から入ってくる陽光は高くなっていて、彼の横たわっているベッドの周 りを、ティシティニーとクリーオウ(髪を解 いて、もとの格 好 にもどっている)、そしてボルカンとドーチンが囲 んでいた。ボルカンだけ、やけに煤 っぽく焦 げている──そういえば、防 御 の魔術の効果の中にボルカンが入っていなかった。
ボルカンが口を開けたときには、その次にどんなせりふがくるのかもう分かりきっていたので、聞かなかった。だが、ずいぶんと長い時間聞き流して、横からティシティニーが口をはさんだ部分だけは、はっきりと覚えていた。
「──の☆◎野郎! いいかげんにしとかねえと、歯ブラシで磨 き殺すぞ!」
「......まあ、オーフェンさんも疲れているんですから、そのくらいに......」
「でも──」
反論しかけたのを黙 らせたのは、クリーオウだった。彼女は後ろから地人のマントを引っ張ると、ほとんど首吊 りのように引きずって、部屋の外まで連れ出していってしまった。ドーチンも、その後についていく。
部屋の中にティシティニーとふたりだけになって、オーフェンは知りたかったことを簡 潔 に質問した。
「──あれから、どうなりました?」
「魔 術 士 同 盟 の人というのがたくさん見えて、今はなにか、地下の倉 庫 の中を探しているようですわ」
「......チャイルドマンは?」
「チャイルドマンという名前の人も、まだ倉庫にいると思います」
「そうですか......」
オーフェンは右手を両目に当てて、深々と嘆 息 した。
(結局、俺は偉 そうなことを言ってるだけで、なにもできなかった......)
泣いていたわけではなかったが、ティシティニーはそう誤 解 したらしかった。彼女はその後は、ずっとなにも話しかけてはこなかった。
「あの屋 敷 の倉 庫 の中には、もう月の紋章 の剣はなかった──昨夜、怪物が持ち去ったのだろうな」
チャイルドマンの説明は簡 潔 であり、また淡 泊 であった。
「五年前から、わたしは──わたしと、数名の部下は、あの怪物を追っていた。理由は分かるだろう。あれを狩るためだ」
「彼女をこの世から抹 殺 するつもりか」
オーフェンがつぶやくと、彼は、そのままの表情で──こわばったように見える堅 そうなほおをぴくりともさせずに、答えた。
「彼女は五年前に死んだ。わたしが狩るのは、あの怪物だ」
「だが、あの怪物が彼女なのさ」
オーフェンはこちこちになった革 の椅 子 を蹴 飛 ばすように立ち上がると、毒 づいた。粗 末 な明かりがひんやりと、むしろ部屋を暗くしている感じだ。魔 術 士 同 盟 支部にある奥まった一室である。オーフェンが腰 掛 けていた椅子と、小さなテーブルと、その上のトレイに載 った水差しとコップ以外にはなにもない、小さな部屋である。椅子がひとつしかないのだから、会議室ですらない。オーフェンはその部屋の中で、ふたりそろって自分と対 峙 するようにして立つチャイルドマンとハーティアを順番ににらみつけた。
「本当にそう思っているのか、キリランシェロ?」
心配そうに顔色を暗くして、ハーティアが聞いてきた。両腕を広げて、続ける。
「あんな......姿をしたものが彼女だっていうのか? あれには、もう意識も残っていないんだぞ? ほんのかすかな記 憶 と、本 能 が残っているだけで」
「かすかな記憶と本能?」
オーフェンが聞き返すと、答えたのはチャイルドマンだった。
「バルトアンデルスの剣に関する記憶と、そしてもとの姿にもどりたいという衝 動 的な本能だ。だからこそあの怪物は、エバーラスティン家にある《剣》を求めて現れたんだ」
「......なぜ、あんたが封 印 したはずの《剣》が、あの屋敷にあったんだ」
「なぜなら、わたしがあの屋敷に封印したからだ」
オーフェンは意味が分からずに、いぶかしげに視線を返した。チャイルドマンは腕組みをし、渇 いた唇 を開いた。
「わたしは昔、あの屋敷の先代の持ち主──つまりティシティニー・エバーラスティンの亡 夫 エキントラ・エバーラスティンに雇 われていたことがある。私的な......暗殺者として」
チャイルドマンはあくまで表情を崩 さず、淡 々 と告げた。
「そしてまた、彼とわたしとは友人でもあった。わたしは《塔 》に置いたままにするには多少危険だと判断されたものを、しばしば彼に預 けた。魔術を扱 う者の手の中になければ、いくら危険な品物でも無害なものだからな」
オーフェンは、クリーオウにもらった指輪のことを思い出しながら、皮 肉 げに聞いた。
「そしてアザリーの遺 品 も、すべてあの倉庫に押し込んだわけだ。《剣》もなにもかも」
「《剣》は、もとは《塔》のものであったのを、アザリーが勝手に持ち出したものだ。だが彼女の失敗により、バルトアンデルスの剣は禁 呪 に指定された。バルトアンデルスという名前はともかくとして、あの《剣》に記 されている呪 文 を読み解 くことに成功したのは彼女だけだったが、なんにしろあの《剣》の魔術が失敗だったことまで解明してくれたわけだ」
「......彼女は、あんたの生徒だったんだぞ。あんたが育てたんだ」
オーフェンは歯ぎしりするようにつぶやいたが、チャイルドマンは冷淡にこちらを見返しただけだった。彼は、オーフェンをひどくいらつかせる厳 格 な口 調 で告げた。
「わたしは組 織 に忠 誠 を誓 っているのだ。そして彼女は、組織に背 いて死んだ」
「まだ死んでいない」
「その点に関しては、我 々 の意見は平行線だな」
チャイルドマンの琥 珀 色がかった眼 差 しは、暗がりでじっと動かないトカゲのようにぴったりとこちらを見 据 えていた。オーフェンはその眼差しに反抗しながらも身動きがとれず、まさしく砂の獣 王 の視線に凍 らされ、その巨大な獣 に呑 み込まれるのを待つ死体のように、恐怖に襲 われながら震 えることもできない。
(彼の力の秘密はなんなんだ)
オーフェンは自問した。
(いつも冷静でいることか? 規 律 のためなら犠 牲 を厭 わない聖者じみた献 身 か? なんにせよ、俺には彼の力を真 似 ることすらできない......)
オーフェンは昔から、この教師にだけは勝ったことがなかった──いや、正確に言うならば、その足元にも及 ばなかったと言ってもいい。アザリーが《塔》始まって以来の天才だとしたら、チャイルドマンは最初で最後の大天才だと言っていい。《牙 の塔》のチャイルドマンはまさしく最高の使い手だった。三十を数えたばかりのこの若い男に対して、大陸中の組織の随 員 が恐 れを抱 くのは伊 達 でも酔 狂 でもない。ましてや、誇 張 でもなかった。
チャイルドマンは、ふい、と横を向くように身体 の向きを変えると、どこへともなく歩きだしながら言った。
「わたしは長い間、あの怪物を追っていた......が、敵は手ごわくてな。あれは未 だに魔術が使える。しかも、卓 越 した手 腕 でだ。その上、強 靭 な体 軀 と疲労を知らない獣のスタミナも手に入れている。数名いたスタッフも、今はわたしひとりだ。すべて殺された」
「彼女の理性が少しでも残っていたら、そんなことをするわけがない。聞いたところじゃ、死体はどれも原形が残らないようなひどい殺され方だったらしい」
と、横からハーティア。だがオーフェンはそれを無視した。
「魔術の腕なら、あんたのほうが上だろう、チャイルドマン?」
ぴたり、とチャイルドマンの足が止まる。彼はこちらを向かずに答えた。
「黒魔術でならば、な。だが彼女には切り札 がある」
「......白魔術か」
オーフェンは、ぽつりとつぶやいた。ハーティアが、畏 怖 するようにうなずく。
まるで講義をするような口 調 で、チャイルドマンは続けた。
「白魔術士は時間と精神を操 る力を持っている。それは一 見 地味だが、非常に強力だ。あるいは白魔術こそ、本当の魔術だと言う者もいる。あの高度に洗 練 された力に比べれば、我々の力など──」
と、彼は軽く手を振って、
「ほんの子供だましだ。白魔術士のつぶやきを聞くだけで、我々は戦意を喪 失 してしまうかもしれない。声 高 に唱 えるのを聞くだけで、猛 烈 な恐怖に怖 じ気 を覚えて逃げ出さざるを得なくなるかもしれない。叫 ぶのを聞くだけで、発狂するかもしれない」
チャイルドマンはこちらを向いて振った手をこめかみにやると、自分の髪の毛の縁をなでた。
「あるいは突然気絶するかもしれないし、眠り出すかもしれないし、笑い出すかもしれないし、あっさり死ぬかもしれない。ほかの人格になってしまうかもしれないし、あるいはもう二度と動き出すことも、なにも感じることもなくなってしまうかもしれない」
「......なにが言いたいんだ、チャイルドマン。遠回しなのはあんたらしくないぞ」
顔をしかめてオーフェンが聞くと、チャイルドマンは、なに、簡単なことだと前置いてから、続けた。
「ようするに、白魔術士と戦うには、ひとりでも多くの魔術士が必要だということだ。それも、戦 闘 能力を持った腕の立つ黒魔術士がな」
「......俺に、彼女を抹 殺 する片 棒 を担 げと言うのか」
オーフェンはぎしりと歯を鳴らして、チャイルドマンに詰め寄った。だがこの冷徹な教師はまったく動じず、
「強要はしない。だが、手を貸してくれるのなら非常に助かるのだがな」
「断 る」
「キリランシェロ! これは──」
必死の感情を込めたハーティアの口調に、オーフェンはそちらに向き直った。赤毛の友人は、唇 を噛 みながら告げた。
「これは、つまり......君の贖 罪 になるんだ。この仕事に協力してくれるなら、《塔》を飛び出した君の面 目 も立つだろう? つまり君は、アザリーを探していたわけだから──」
「彼女を探してはいた。だが、抹殺するためじゃない」
「キリランシェロ、ぼくもこの作戦に参加するんだ。彼女──いやあの怪物を見つけだして《剣》を取りもどせば、ぼくはもっと地位の高い部 署 に行けるかもしれない。あるいは《牙の塔》に教師助手としてもどれるかも」
オーフェンは吐 き気 を覚えながら、唾 吐くようにつぶやいた。
「勝手にしろよ。お前がどんな手を使って出世しようと、俺の知ったことか──」
「違うんだよ! ぼくが言いたいのは、この事態を、《牙の塔》がどれだけ重く見ているかってことなんだ。かつて最高の腕を持っていた魔術士が、我 を失って力を得、禁制の魔術の品を奪 って逃 走 している。これが公 になれば《塔》の権 威 は失 墜 するんだ──そこまではいかなくても、ひどいイメージダウンにはなる。今年《塔》は四人の魔術士を宮 廷 にあげた──でもこの事態が知られれば、これからはどうなるか分からない。いいか、君だって言っていただろう? あの《塔》は決死の覚 悟 がなければ入門できるところじゃないんだ。それだけの覚悟をして、あの《塔》の魔術士候 補 たちは勉強している。でも《塔》の権威と威 光 が失すれば、彼らの希望も無為に消えるんだ」
「あるいは《塔》の出身者であるお前の希望もな」
ハーティアは、ぐっと息を呑 み込んでから、
「ああそうだよ。ぼくの希望もな。こんなところで雑用係をして終わるつもりはない。でもそれは、君だって同じことだろう?」
「俺の希望は──」
オーフェンは言いかけたが、その会話の隙 間 に、不意にじっと聞いているチャイルドマンの気 配 のようなものが割って入った──言 葉 を途 切 れさせ、ハーティアと同時にオーフェンはチャイルドマンのほうを振り向いたが、チャイルドマンは特になにをしているでもない。こちらを見ているだけだ。
教師は突然、口を開いた。
「ふたりとも、無意味なことを議論するんじゃない。キリランシェロ、これはごく単純な問題だ。我々は今夜、部隊を組んで怪物を討 伐 に出る。部隊には多数の《牙の塔》の黒魔術士が参加する」
「......どうして彼女の居 所 が分かる」
「お前がこの支部に来たとき、わたしはエバーラスティン家の倉 庫 に忍び入って《剣》を見つけだしていた のだ。そのときわたしは、バルトアンデルスの剣に一種の信号を擦 り付けた──離れた場所に移動しても、それをたどって追 跡 できるようにな」
「......あんたはいつも俺の一歩先を行く」
「そうしなければ仕事ができないときにはな。だが、そんなことはどうでもいい。今夜中には怪物は始 末 されるだろう。お前がもう一度怪物──彼女 と会うには、この作戦に参加するしか方法がない。参加する以上は、わたしの命令に従ってもらうことになるがな。あとはお前の判断だ──ついてくるか、否 か」
「............」
オーフェンは、憎 々 しげと言ってもよさそうな形 相 でチャイルドマンをにらみつけた──チャイルドマンはいつもそうであるように、今も冷淡な仮面を崩 そうとはしない。
いや、とオーフェンは皮 肉 げに考えた。あれは仮面ではない。恐らくは素 顔 なのだろう。
「......出発はいつだ」
オーフェンは聞いた。チャイルドマンは別に笑いながらうなずいたりはしなかったが、それでも多少は思いどおりにいって面 白 そうに目の色をきらりとさせた。
彼は静かに答えた。
「部隊がそろい次 第 、夕刻前には出る。それまでにお前も準備しろ。武器に食 糧 くらいはこちらで用意するがな」
「今夜? じゃあ、急いで準備しないと!」
話を聞いた瞬 間 、クリーオウは飛び上がってそう叫 んだ。さらに、髪をまとめるのにひとりでは一時間かかるとか二日連続で徹夜になりそうなのは肌 に悪いとか言いながら部屋を飛び出そうとしたところで、オーフェンはため息まじりに言った。
「君はこの屋敷にいるんだよ」
それを聞いて振り返ったクリーオウの顔は、まるでオーフェンが史上最低の裏切り者だとでも言いたげにショックを受けていた。ちっちっと指を振りながら、少女に向かってボルカンが告げる。
「そういうことさ。こういったことは、我々のようなプロに任 せてもらいたい──」
「お前もだ、ごくつぶし」
「え?」
指を立てたままの姿勢で凍 りつくボルカンは無視して、オーフェンはボルカンのとなりに並んで立っているドーチンにも、
「お前もな。今夜の〝狩り〟に参加するのは俺だけだ」
「で、でも、危険よ、それって!」
クリーオウはぱたぱたと駆 けもどってきて、どんとオーフェンの胸を突いた。
「わたしが見た感じじゃ、今日屋敷に来た魔術士同 盟 はオーフェンを目の敵 にしているみたいだったもの。その〝狩り〟の途中で、後ろから刺されるかも」
「ンなことをやる連中じゃないさ、魔術士ってのは。特に、ひとりでも仲間が必要なときには。ただ、今までは俺が彼らの計画の実際的な障害になっていたから、対立していたに過ぎない」
オーフェンは陰 鬱 につぶやいて、これで終わりだというように手を広げた。
「俺はアザリーを抹 殺 しようとする奴 らの部隊に加わって行動する──チャイルドマンの指 揮 下でな。はっきり言って、部隊の規 模 から考えてもアザリーの勝てる見込みはない。彼女は今夜中に抹殺される。だが」
オーフェンは窓の外を見やった。ぼろぼろの焼け野原に変じた中庭が、午後の光を浴 びてみじめにたたずんでいる。
「だが、俺は奴らを出し抜くつもりだ。なんとかして彼女を護 る。できるなら、彼女を連れてチャイルドマンの手のとどかないところに逃 亡 するつもりだ。まあ、そうなると、成功しても失敗しても、もうこの屋敷にはもどってこれないだろうな。申し訳 ないと思ってるよ──庭をちゃんと再生していこうとは思っていたんだが、その時間はなさそうだ」
チャイルドマン以下、数人の黒魔術士たちがその渓 谷 に入ったころには、もうすっかり日は暮れて夜になっていた。夜間は危険じゃないのか、とオーフェンが聞くと、チャイルドマンは冷淡に答えた。
「事態は急を要する」
「半日すら待てないとはね」
オーフェンは皮肉で言ったのだが、チャイルドマンはしごく当然といったふうだった。
「そのとおりだ」
オーフェンはもうなにを言うのもあきらめて、渓谷をやや急ぎ足で進む部隊を見やった──ここはトトカンタから数キロほど西に離れたアイーデン山脈の裾 であり、ちゃんとした馬車道もある、かなり拓 けたところである。地図を見れば小さな村落もちらちらと存在するようなのだが、極 秘 任 務 であるということでそのどれにも近づくことはできなかった。
部隊は、チャイルドマンが言ったとおり、大部隊になっていた。
まずはチャイルドマンを先頭に、オーフェンはそのすぐ後ろについている──これは単純に、チャイルドマンがオーフェンの能力を評価した結果だった。その後に、ハーティアを含 めた六人の黒魔術士が続いている。全員似たような格 好 で、秘密の宗教を開くスタッフが揃 いで着るような黒いマントを羽 織 っている。オーフェンも腰 に剣を提 げていたが、彼らはさらに二メートルほどの長さの歩 兵 槍 も携 えていた。彼らの中には、オーフェンの見知った顔もいくつかあったが、彼はその誰 にも話しかける気にはならなかった。多分、向こうも同じ気持ちだろう。ハーティアでさえ、こちらとは目を合わせないように努力している。
そして、その総勢八人の後ろには、ぽつんと孤 立 して六十歳ほどの老人がついてきていた。老人とはいっても身体は丈 夫 そうで、若い黒魔術士らにまったく遅 れずに渓谷を歩いてきている。灰色の髪に、白い髪が混じっているような感じで、髭 は生 やしていない。ふだんは温厚なのであろう浅い皺 のあるほおを、今は堅 くしている。その胸には、剣とドラゴンの紋 章 ではなく、巨大なサイコロを載 せた帆 船 のペンダントがかかっていた──これは白魔術士の証 しである。
これだけの魔術士が共同で作戦をとるためには国王の承 認 が必要なはずだが、今回は非合法に違いあるまい。特に白魔術士は、王室と一部の高位魔術士しかその所在を知らない秘密の城 塞 に、ほぼ監 禁 されるような形でいるのが普通だ。それを連れ出してきたというのなら、チャイルドマンの持つ実力というのは、魔術士最上位の《十三使徒 》にも匹 敵 するということになる。
オーフェンはチャイルドマンに、こっそりと聞いた。
「......あの白魔術士は、アザリーの魔術を封じられるのか?」
「可能性としてはな」
チャイルドマンの返事は──昔と同じように──ひどく残 酷 だった。
「ひょっとしたら、という程度の期待で呼び寄せたに過ぎない。白魔術士だからといって、白魔術を封じられるとは限らないからな。向かってくるナイフを、同じナイフの刃先で受け止めようとするようなものだ」
「......つまりあんたは、最初から犠 牲 を覚 悟 してこれだけの人数を集めたわけだな? 最初のアザリーの攻 撃 で何人か死のうがかまわない。ひとりでも生き延 びて、彼女の脳 みそを吹っ飛ばせればいいってわけだ」
「それは、みな承知している」
どうだかな、と思いながらオーフェンは聞いた。
「誰を先頭にアザリーに攻撃をしかけるつもりなんだ?」
「お前だよ。この部隊の中で最も若く強 靭 で、実戦的な攻撃能力を持つのはお前だ。その分荒 削 りではあるがな。それに──」
と、チャイルドマンは珍 しく冗 談 じみたことを口にした。
「それにお前なら、たとえ死んでも始 末 書は書く必要がない」
◆◇◆◇◆
「──ったく、なんでこんなメにあわなけりゃならないんだ、くそったれが──えいくそ、錆 びた刃物で研 ぎ殺すぞ!」
すねにひっかき傷を残すヒザノコギリ草に、ボルカンが毒 づくのが聞こえた。ざくっ、ざくっと足元の雑草やら育ちすぎた木の根っこやらをナタで切り落としながら、先頭を歩く兄は際限なく不平をもらしている。
「兄さんが言い出しっぺじゃないか」
ドーチンは兄の後を歩きながら、小さくそうつぶやいた。彼が携 帯 用のガス灯を持つ係であり、白っぽい明かりを周囲に落としている。
「そうよ」
と、これはドーチンの後ろをついてくるクリーオウ。身軽な乗馬服姿で、剣を持っている。彼女はボルカンがナタで拓 いた小さな道をてくてくついてきながら続けた。
「オーフェンを手伝う方法があるって言うから、ついてきたのよ。ホントに魔術士たちはこっちのほうに来たの?」
「プロの情報に疑 いをはさみなさんな」
と、振り返らずにボルカン。
「トトカンタの裏の情報を牛 耳 る俺の友人が、魔術士同盟の動向を教えてくれたんだ」
「ガセネタじゃないの? だいたい、その友人って誰なのよ」
クリーオウが聞く。だがボルカンはふてくされたように、なにも答えない。
少女がムッとして剣を抜きかけているのを見て、あわててドーチンは叫んだ。
「ぼ、暴力はいけないよ!」
「暴力じゃないわ。騎 士 の剣は常に正義よ!」
凛 然 とした声を張り上げて、クリーオウが抜 刀 する。同時にボルカンが足を止め、振り返った。少女と自分の間とにドーチンがはさまっているせいか、逃げもせずにボルカンもまたナタをわきに捨て、抜刀した。
「騎士だと? いつからエバーラスティン家が貴族になったんだ? 適当なコト言ってっと、鉛 筆 削 りで削り殺すぞ!」
「殺してもらおうじゃない?」
クリーオウが鼻息荒く叫ぶ。
間にはさまれてドーチンは、おろおろとふたりを見比べた。どちらの味方をしたところで後々ロクなことにならないのは分かりきっている。兄の味方をすればこの場でふたりともクリーオウにたたきのめされる。クリーオウに味方すれば味方したで、この後数週間は兄のネチネチしたイビリに堪 えなければならない。
「と、とにかく──」
ドーチンはふたりの間で両腕を広げた。
「落ち着こうよ! ほら、刃物なんて引っ込めてさ──兄さんも──あ、なんだ。今日はやけに自信たっぷりだと思ったら、服の下に本なんて仕込んでるのか。あ、ぼくの本じゃないだろうね? え? エバーラスティン家の蔵 書 ? ならいいけど──クリーオウさんも、服の下になんか仕込んでるね。え? 違うの? だって胸のところに──あ、なんだ。ごめん。中 途 半 端 に膨 らんでるもんだから──」
とりあえずこの仲 裁 は役に立たなかったようで、ボルカンとクリーオウの表情はさらに険 しくなっていった。ドーチンはあわてて、
「に、兄さんも、ほら、そんな怖 い顔をしないで、みんなで仲良くしようよ。こんな気の滅 入 る山道を延 々 歩いているわけだし、この上ケンカなんてしながら歩くのはイヤだよ。ね? ただでさえ兄さんといっしょにいるとうんざりすることが多い──いやその、つまり、そうじゃなくって、ええと──気分が晴れるというにはほどとおい感じで──いや──兄さんって、つまりヤな奴 ──」
だがドーチンの説得も空 しく、ふたりはいっせいに武器を振り上げた──そして、同時にドーチンを狙 って振り下ろしてくる。剣を二本とも脳 天 にくらい、ぴゅー、と血を噴 き上げながらドーチンはぼやいた。
「なんでぼくが殴 られるんだ」
「やかましいっ!」
ボルカンは怒 鳴 ると、また前方に向き直って、ざくざくと下草をナタでなぎ払った。クリーオウも、剣を鞘 に収めて後に続く。
三人とも足をそろえて数歩進んでから、クリーオウがまだ怒り足りないというようにぼやいた。
「だいたい、ここはどの辺なのよ。わたし、足が痛くなっちゃった」
「地図によると──ほら、あの星の位置がここだから、ここはアイーデン山脈の中腹ってところかな。兄さんの持ってきたプロの情報とやらが正確なら、目的地はこの辺なんだけど──」
「あとどのくらいあるの?」
クリーオウがうんざりとした声で発した質問に、ドーチンは即答した。
「二時間ほどかな」
「げぇー」
「なにが『げぇー』だ。呼ばれもしないのに無理やりついてきたくせに」
そう言って振り向いたのは、ボルカンである。ナタを水平に振りながら、彼は続けた。
「いいか、あの怪物を魔術士たちより先に見つけだしてだ、うまいことやって連れ出して、どっかに監 禁 しちまえば、魔術士どもにこちらの言い値で取 引 することができるんだ! しかもあの金貸し魔術士の鼻もあかせるってオマケつきだ。こいつは遊びじゃないんだぞ! 失敗は許されないんだ!」
「......そのくせ、兄さんの計画はその『うまいことやって』の部分がイージーというかいいかげんというか......」
「なんか言ったか、ドーチン?」
「いや、別に」
ドーチンは嘆 息 を押し隠 しながらそう答えた。
「どのみち、あと二時間もかー」
疲れたようにクリーオウがぼやく。
「オーフェンの手伝いをすれば、お姉ちゃんがお小 遣 いくれるはずだったんだけどなー。帰っちゃおうかな。あ、でも、帰るのも歩かなくちゃならないんだっけ」
言いながら、彼女は足元の小石を蹴 飛 ばした。小石はゆるやかに宙に弧 を描きながら、夜空を飛んでいく。
ドーチンは、妙 に思って聞いてみた。
「なんで黒魔術士の手伝いをすると小遣いがもらえるんですか?」
「んー? それはねー──」
待ってましたとばかりに、クリーオウが瞳 を輝 かせて説明にかかろうとしたそのとき、あたりに異様な物音が響 いた。
ふぅぅおおおぉぉぅぅぅううぅぅ......しゅるううぅぅぅぅ──
「............」
その音──恐 らくは、鼻息──には、三人とも聞き覚えがあった。冷や汗をたらしながら、クリーオウがボルカンに聞く。
「ちょっと、さっきの話だけど、情報ってドコから仕入れたのよ?」
「いや──だから──」
こちらも、顔面を蒼 白 にして、ボルカン。
「つまり──裏町にバグアップズ・インって宿屋があって、そこの亭 主 のバグアップってのが昔、ちょっとは知られた盗 賊 で──暗黒街の女王なんて呼ばれた女と駆 け落ちして、もう足は洗ってんだけど──今でも趣 味 で情報収集なんてやってるっていうから、なんか知ってるんじゃないかと思って──」
「ロートルが趣味で集めてる情報なんて信用するんじゃないわよ。なにがあと二時間ですって? こんな突然見つかる なんて!」
完全に怒 った声で、クリーオウがボルカンの頭をつかむ。
「ねえ......」
と、ドーチンはふたりにつぶやいた。
「そんなこと言ってる場合じゃないと思うんだけど──」
彼が言い終わる前に、夜空に雄 叫 びが響き渡る。
──きしゃあああああああああああっ!
驚 くほどすぐ近く──五メートルも離れていない草むらから、巨大な怪物が身を起こした。その怪物が、すさまじい咆 哮 をあげながら、こちらに飛びかかってくる──
混乱の中で、ドーチンはガス灯を地面に落とした。暗 闇 があたりを覆 い、星空のほのかな瞬 きだけが、静 謐 に夜の闇を照 らした。
◆◇◆◇◆
二時間後、隊が休 憩 に入ったとき、オーフェンはひとりでこっそりと隊列を離れた。
こっそりと、とは言ってもすぐに気づかれて当たり前ではあるが、急げばなんとかチャイルドマンたちを引き離せるかもしれない。
(だが、せいぜい数分だ)
すぐにチャイルドマンは彼の不在に気づくだろう。それまでにどこまで引き離せるか。
アザリーの正確な位置は、チャイルドマンしか知らない──が、オーフェンはチャイルドマンが渓 谷 に入ってからほぼ一直線に進んでいることに気づいていた。それに彼の急ぎようを考えると、チャイルドマンがアザリーに向かって完全に一直線に進んでいるのはほぼ間違いない。となれば、進行方向に歩を速めていけば、チャイルドマンより早くアザリーに接 触 できるはずである。
オーフェンは渓谷の上、深い森の中をできるかぎり急ぎながら、あとどれくらいでアザリーのもとにたどり着けるのかを考えていた。進むにつれ、森は深くなっていく──これは当然のことで、アザリーは身を隠 すとしたら森の奥まったところを選ぶだろう。
(できるか、俺に──チャイルドマンを出し抜くことが?)
オーフェンは自問しながら、ほとんど小走りになって森の中を進んだ。
(俺はあの男に一度も勝ったことがないんだぞ?)
早まったことをしたかもしれない──という思いが、ぞっと押し寄せる津波のように彼を呑 み込みかけた。が、頭ひとつ分だけなんとか浮かび上がると、彼はかぶりを振った。手にした剣で胸まである下 生 えを切り拓 きながら、
(俺がしっかりしないと、アザリーが死ぬんだ)
ざくっ......と、青々としたヒザノコギリ草を打ち払う。草は青臭い飛沫 を大気に飛ばすと、卒倒するようにばっさりと倒れて落ちた。その上を踏 み越えて、オーフェンはまた剣を振るった。
そうして──一時間も進んだかと思うころ、彼はぴたりと足を止めた。すでに全身から汗を噴 き出し、夜風に寒気すら感じる心 地 になっている。草の汁でびっしょりになった剣の刀身を布で拭 うと、彼はそれを腰 の鞘 に落とし込んだ。
昨夜──ちょうと二十四時間ほど前に感じた、なんの根 拠 もない予感を、彼は再び覚えていた。なにがあるのかは分からない。だが、ただ近くになにかがあることだけははっきりと分かる。オーフェンは目を閉じた。汗がしみる。彼は手のひらで額 を拭うと、ばっと手を振って汗の滴 を払った。ぴたぴたっと、驟 雨 のように滴が近くの葉に当たり、音を立てる。
オーフェンはため息をつき──気のせいかもしれないと、目を開いて顔を上げた。
今まで走ってきたところとなんら変 哲 もない、ただの森の中にすぎない。さっきより緑が深まったようにも思えるが、それは単に夜闇の影 響 かもしれなかった。訓 練 によりかなりの夜 目 が効 く黒魔術士は、皮 肉 げに片寄った目 尻 を広げるようにして漆 黒 の夜の森の中を見渡した。
なにもない。音もしない。
こんなところで大声をあげるのは、愚 行 だと理性が告げた──なにしろ、チャイルドマンが追ってきているに違いないのだ。だがオーフェンはほとんどなりふり構わずに絶 叫 していた。
(いつだって俺は自分の直感を信じてきた)
「アザリーっ!」
彼女の名前の語尾が、ゆっくりと繰 り返されて、消えていく。森に満ちる夜気が静 寂 に帰り、さわさわと風が森の天 井 の枝葉をこする。
オーフェンはもう一度叫 ぼうとした。
「アザ──」
ふわああぁぁぁぁぁぁっ!
刹 那 、そうとしか聞き取れないような空気の膨 張 が、あたりに響 き渡った。なにもないところから、膨大な空気の塊 が吐 き出されては膨 れ上がるような、そんな音である。同時に文字どおり、空気の流れがオーフェンの真っ向から吹き寄せ、周囲の木々の葉を散らせた──木の葉と、下草に埋 もれている地面から砂 塵 も舞 い上がり、オーフェンは片腕で目を覆 った。
そして、また、音。
──しゃああああああっ!
(アザリーの──鳴き声だ!)
オーフェンは瞬 間 、歓 喜 して前に駆 け出そうとした──アザリーはひょっとしたら、自分の呼びかけに応えてくれたのかもしれない。だとしたら、彼女はまだ理性を失っていないことになる。
(いや──違うか)
駆け出しながらオーフェンは、自分の中の冷静な部分の声に耳を傾 けた。
(あれは、人間の気 配 に気づいて警 戒 しているだけだ。そんなことは獣 だってする。それに──このままでは、彼女は逃げ出してしまうかもしれない)
そうなると、もう彼女を追う術 はなくなってしまう──チャイルドマン以外には。
「負けるかっ!」
オーフェンは短く叫ぶと、木々を擦 り抜けるようにして、アザリーの咆 哮 に向かって駆けた。足元に腕を突き出す木の根を飛び越え、奇 跡 的といっていい速さで。
と──
三 度 、アザリーの発する咆哮が夜を揺 さぶった。瞬間、なにか大気に弾 け飛ぶような『力』が満ちあふれ、爆 裂 する。オーフェンはその刹 那 、自分が炎 に包 まれたのかと錯 覚 した──他人の魔術に巻き込まれると、いつもそんな感覚に捕 らわれる。だがアザリーの魔術はあたりすべてを焼き払うようなものではなく、もっと静かなものだった。彼女の雄 叫 びが夜闇に紛 れて消えるまでは、なにも起こらなかったほどだ。だが、次の瞬間には──いきなり、大地が脈動するように蠢 くと、なにか貪 欲 な食虫植物の器官にでもなったように、手近なもの──つまり木々や下草を呑 み込みはじめた。オーフェンも、革 のブーツの踵 をとられ、がくんとひざを地面につきそうになる。木の根や草は見る見るうちに大地に呑み込まれ、地下へと消えていった。
呆 然 と見回すと、あたりはすっかり空 き地になっていた。四方、数十メートルというところか。その中心に、巨大な影がある。
(アザリー......)
オーフェンは、十メートルほど先の地面に鎮 座 している巨大な獣を見つめて、立ち尽 くした。巨大な、とはいっても昨夜オーフェンから吸い取った魔力は使い尽くしたのか、もとの三メートルほどの体長にもどっている。
枝葉の天 蓋 をはぎとられて、空き地には星明かりがさんさんと照り降ろしていた。
巨大な、三角形のシルエットの獣は、こちらをじっと見つめている。砕 かれたものをまた空気を入れて膨らませたような頭部は、身じろぎもしない。獣の足元に細長い剣のようなものが横たわっている。それは伝説にあるような、獣に捧 げられた生け贄 のように無気力に横たえられていた。あれが、バルトアンデルスの剣なのだろう。
オーフェンは胸 中 で確認して、アザリーに近寄ろうとした──獣はぴくりとも動かずに、こちらを見 据 えている。
(彼女はどうして森を空き地になんてしたんだ?)
オーフェンは慎 重 に近寄りながら、そんなことを自問した。
(もちろん追跡者の姿を確認するためだろうが、逃 げ隠 れするなら、自分の周 りにある森を干 上 がらせてしまうのは意味がない──となると──)
オーフェンが思いつくころ、アザリーも咆哮をあげるための予備動作に、ぐるりと首を下に落としてから、また振り上げようと弾 みをつけていた。
(──彼女は、闘 うつもりで空き地を作ったんだ!)
──じゃあああああっ!
アザリーの叫びとともにオーフェンは、横飛びに逃げていた。一瞬前まで彼が立っていた地面を、無数の光弾がえぐる。爆発は輝 く爪 痕 のように燃え上がった。オーフェンは地面に転がりながら叫んだ。
「アザリー! 俺だ! 分からないのか?」
アザリーはその呼びかけに、再び光弾で答えた。光 輪 の障 壁 でそれを防 ぎながら、オーフェンはさらに叫んだ。
「本当に心を失っちまったのか? アザリー!」
獣はまったく意に介した様 子 もなく、あぎとを開いて雄叫びをあげる。無数に閃 く真空の刃 が、耳をしびれさせるような轟 音 とともに飛びかかってきた。オーフェンは両腕を前方に突き出し、叫んだ。
「我 が指先に、琥 珀 の盾 !」
圧 縮 された空気の壁 が、真空の刃を遮 る。だがいくつかはその壁をも打ち砕 いて通り抜け、オーフェンのほおをかすめて浅い傷を作った。
(彼女は俺を殺すつもりだ)
オーフェンは愕 然 と、そびえるように立つ強大な獣を見上げた。彼女を連れてチャイルドマンの手のとどかないところに逃げるどころではない──このままでは、アザリー自身に殺されてしまう!
(しょせん絶対的な魔力の強度が違う──俺は勝てない)
オーフェンが逡 巡 している間に、アザリーはさらに雄叫びをあげた。彼女の頭上に、巨大な光球が膨 れ上がる。稲 妻 を捕 まえてくしゃくしゃに丸めたようなそれは周囲の空気を一瞬に帯 電 させ、オーフェンは身体 のあちこちに小さな痛みを感じた──強 烈 な静電気が、髪の毛を逆 立 たせる。見ただけでもアザリーの造り出したその光球がどれだけの威 力 のものか知れた──あれを食らえば、どんな魔術で防 御 しようが関係ない。一発で吹き飛ばされる!

(やられる──)
絶望的に目を閉じたそのとき──
閉じたまぶたの隙 間 から割れ入るような光を覚えて──
オーフェンは再び目を開いた。だが、その光はアザリーの放 ったものではなく、彼の背 後 から放たれたものだった。
かっ!──
背後から一直線に伸びた光熱波はアザリーの顔面を打ち、そして光球を爆 裂 させた──膨 大 な熱量の爆風がオーフェンの肌 を焼く。爆発の中心にいるアザリーは、炎の中でもう姿も見えなかった。
(アザリーが死んだ?)
なにがなんだか分からずに、オーフェンは振り返った。そこには、森の中からずらりと、チャイルドマンとハーティア、そしてあと五人の黒魔術士──さらに、老白魔術士が並んで立っていた。
「チャイルドマン? もう追いついてきたってのか──」
オーフェンが叫ぶと、その爆音の中でも聞き取ったらしく、チャイルドマンがにやりと口元を上げるのが見えた。
チャイルドマンは相 変 わらず無表情でこちらに近づいてくる──大 股 で、しっかりした歩き方だ。ハーティアもそのとなりで、こちらを気 遣 うようにやや表情に陰 を落としている。ほかの魔術士たちはそれぞれの表情を浮かべていた。仕事が終わるという達成感や、昔アザリーと顔見知りだった者は悲 壮 感を見せていなくもない。白魔術士の老人は、無表情にこちらを──いや、オーフェンを通り過ぎて、その背後で火柱に包まれる巨大な怪物の姿を見つめいている。
オーフェンはチャイルドマンへと視線をもどした。
「もう少しで、あんたを出し抜けたのにな」
オーフェンがつぶやくと、チャイルドマンは答えた。涼 しげに。
「どうかな? わたしは最初に言ったはずだ」
肩をすくめて、
「先陣を切るのはお前だとな」
「このくそったれの──」
毒づきかけたとき──ふっ......と、あたりに闇 が落ちた。背後の火柱が消えたのだ。
しゃああああっ!
また、咆 哮 。同時にチャイルドマンらの背後で、白魔術士のか細い身体が青白い炎に包まれた。
「............!」
悲鳴をあげる間もない。白魔術士はそのまま地面に崩れ落ち、燃え残りの薪 みたいに黒 焦 げに変じた。
「散開!」
チャイルドマンが、部下たちに素 早 く命令を発する。黒魔術士たちは猟犬の群 れのように、ばっと散った──めいめいの方向へと。中心に、チャイルドマンだけが立ち残っている。オーフェンは、身体は彼と対 峙 した姿勢のまま、首だけ肩越しに振り返った。さっきまで炎の中にいたアザリーが、今はさっきとまったく同じ姿勢でそびえ立っている。
「しぶといな」
ぽつりと、チャイルドマンがつぶやいたその瞬間、黒魔術士たちの攻撃が始まった。
「炎よ!」
各 々 が好き勝手な呪 文 を叫ぶ中、凛 としたハーティアの声だけが、オーフェンの耳の中に残った。炎、風、光──とにかく六種の力が、アザリーに向かって伸びる。だがまた夜空にアザリーの咆哮が響 くと、そのすべてが途中で消え去った。
次いで、またアザリーの雄 叫 び。稲 妻 がひとりの黒魔術士の身体を吹き飛ばす。防 御 の魔術が間に合わなかったのだ。
ぼろ布のようになって後ろに跳 ね飛ばされる若い黒魔術士の姿を見ながら、オーフェンは両手を握 り締 め、どうしたらいいのか分からなくなっていた──アザリーはしばらくは善戦するだろうが、そう長くはもたないだろう。だから彼女を助けるためになにかをしなければならないのは分かっているのに、どうしたらいいのか分からない。
(いや──分かっている。だが──できるのか?)
オーフェンはちらりと、チャイルドマンを見やった。冷 徹 な教師は、今は部下たちとアザリーとの闘 いに気をとられている。そろそろ自分も戦 闘 に参加するべきか迷っているふうだ。
そして、ほかの魔術士たちは、それぞれの呪文に魔力を練 っている。隙 を突くなら、今しかない。
オーフェンは決心して飛び出した──アザリーの方向へ。
(俺があの《剣》を奪 って逃げる──そうすれば、チャイルドマンは《剣》を頼 りに彼女を追 撃 できなくなる。今までのように、彼女が逃げてくれれば──)
その《剣》は、まだアザリーの足元に転がったままだった。オーフェンは口の中で呪文を唱 え、身体の筋力を一気に増加すると、獣 のような速さでアザリーの足元まで滑 り込んだ。水鳥が魚を捕 らえるように《剣》を引っつかむと、今度はわき目もふらずに森の中へと駆 け込む。
背後で、
「ハーティア! オーフェンが《剣》を奪った! 追え!」
というチャイルドマンの声が、なおも続く戦闘の物音の中、はっきりと聞き取れた。
どうん、どうん......
と、背後で爆発が起こっているのが聞こえる。少なくともこの音が聞こえるかぎりはアザリーは死んではいないのだと、オーフェンは自分を慰 めた。大ぶりなバルトアンデルスの剣を両手に抱 えて、彼は走りつづけた。追ってきているはずのハーティアの気 配 は、感じない。
(もう二、三人追ってきてくれるものと思っていたんだがな。ハーティアだけか。だが、これだけでもアザリーにはかなり有利になったはずだ)
足を搦 め捕 ろうとする下草を踏 み越えながら、オーフェンは走りつづけた。止まれば、ハーティアと闘わねばならない。それはどうも、ぞっとしなかった。
が──
「炎よ!」
ハーティアの叫 びと同時に、右手のしげみが、ぱっと燃え上がった──どうも、そうそう都 合 よくはいかないらしい。
オーフェンは観念して立ち止まり、背後へと向き直った。このまま逃げても、背後を狙 い撃ちされればそれまでだ。
彼が立ち止まって待ちつづけると、数秒もせずに木々の重なりの向こうから、ハーティアが姿を見せた。歩 兵 槍 は森に入るときに捨 ててきたようだが、抜き身の剣を手に提 げている。
ハーティアは出し抜けに口を開いた。
「彼女は──いや、君が彼女だと言っているあの怪物は、コミクロンを殺したじゃないか。君も覚えているだろう? ぼくらと同じ教室だった、あのコミクロンだよ」
恐らく、さっきアザリーに稲妻で吹き飛ばされた黒魔術士のことだろうが、実のところオーフェンは気づいていなかった。
「......彼はコミクロンだったのか」
オーフェンがつぶやくと、ハーティアはそれを場違いな冗 談 だととったらしい。目の端を引きつらせて、怒 ったように続けた。
「まあ、いいさ──この任務に死の危険があることは、彼も承知していた。だが、あれを見てもまだ君はぼくらを失望させるのか?」
「失望?」
「ぼくらを裏切るのかってことさ」
ハーティアは吐 き捨てるように言って、切っ先でこちらを示した。
「君はその気になれば、アザリーとも互 角 に闘える力を持っていたじゃないか? 君が手助けしてくれれば、彼女もできるかぎり速 やかに──苦しまずに死ねるんだ」
「俺がアザリーを殺すだって?」
オーフェンは皮 肉 げにくつくつと笑いながら、剣を抜いた。かたわらの地面に、どさっとバルトアンデルスの剣を落とす。
ハーティアは憎 々 しげな表情で、
「君は意外そうな顔をしているけど、ぼくらにしてみれば、今の君の行動のほうがよほどどうかしている。いいか? 彼女はもう心なんてないんだ。ただの獣 なんだよ」
「そんなことは誰 が証明できる? 彼女をもとにもどすまでは」
「彼女をもとにもどす方法なんてない。バルトアンデルスの剣の使い方を解明したのは、アザリーだけなんだ」
「なら、俺がやってやるさ」
「君が? 初歩の魔術文字 すら読めないくせに。冗談にもならないよ」
「ふん。お前らの言うことは、いちいちごもっともなようだがな、肝 心 なところが抜けてるんじゃないのか? 彼女がコミクロンを殺したのだって、お前らが攻撃したからじゃねえか。防 衛 行動ってやつだ」
「だが正当防衛とは言い兼 ねるね。それに、彼女は君にだって攻撃したのを忘れたわけじゃないだろう? 君は別に、彼女に攻撃をしかけたわけじゃないってのにだ」
「その点に関しては、我 々 の意見は平行線だな」
わざとチャイルドマンの口 調 を真 似 て、オーフェンは言った。ハーティアの眼 差 しが、きっと鋭 くなる。
「それなら、ここで闘うことになる」
「いいじゃないか。この前も剣を交 えたばかりだ。なあブラックタイガー?」
オーフェンは、さっと剣を右手に持ちかえると、左手を突き出して口早に唱 えた。
「我は放 つ光の白 刃 !」
かっ! と光熱波が両者の地面の中間に炸 裂 し、爆風と土 砂 を巻き上げる。その隙 にオーフェンは後ろに跳 んで、距離をとった。
土砂の向こうから、ハーティアの呪文。
「闇 よ!」
瞬 間 、ふっと、あたりに漆 黒 の闇が落ちた──星明かりもなく、また夜 目 も利 かないまるっきりの闇である。オーフェンは舌打ちすると、またさらに後方に跳んだ。そんなに広い範 囲 に闇の魔術はかかっていないはずだと思ったのだが、一歩跳んでもまだ漆黒の闇は途 切 れないままだった。
こうなると、もう一歩跳んだところで同じことだろう。オーフェンはあきらめると、再び左手を前方に突き出し、叫んだ。
「我は放つ──」
が、その瞬間、突き出した左手をつかみ取られた。
(────!)
ぐい、と引っ張られたまま抗 うこともできずに、オーフェンの身体 は宙を舞 っていた──前方に向かって円を描くように投げ飛ばされ、背中から落ちて息が絞 り取られる。闇の中で、オーフェンはしゃにむに剣を振り回した。だが、すでにハーティアは近くにはいないらしい。
(このままじゃ、相手の思う壺 だ)
オーフェンは剣を捨てると、胸の辺 りで両手のひらをぱんと打ち合わせ、叫んだ。
「我は消す、魔 神 の足 跡 !」
魔術で造られた結 界 を壊 すために力を放射すると、ほどなくして窓ガラスが砕 け散るように、闇の結界は崩 れ去った。
見ると、数メートルほど離れたところにハーティアは立っており、こちらを見 据 えて魔力を練 り上げている。
オーフェンも同じように力をまとめ上げようとしたが、その集中は、いきなり破られた──ハーティアの背後に現れたものを見て、度 肝 を抜かれたのだ。
そのオーフェンの表情に、ハーティアも気を取られたのだろう。ぎょっとしたように、彼の動きも止まった。
「クリーオウ!」
「オーフェェェェェェェェンンっ!」
ハーティアの背後の草むらから唐 突 に飛び出して赤毛の魔術士を背中から蹴 り倒し、そのまま踏み潰 して現れた少女は、まぎれもないクリーオウだった──彼女は剣を片手に、泣き叫ぶようにしてオーフェンの背後に回り込んできた。
と、続いて──
「たあすけてええええっ!」
ボルカンとドーチンが、ふたりならんで草むらから飛び出してくる。ふたりは倒れたままのハーティアをていねいに踏み潰してこちらに駆け寄り、同時に声をあげた。
「怪物だ! 追ってくる! お前の管 轄 だぞ! 黒魔術士!」
「『うまくすれば自分のモノ』みたいに言ってたくせにいいいっ!」
「な、なんなんだ、お前ら?」
オーフェンが、しがみついてきた少女を引きはがそうとしながら聞くと、ドーチンが引きつった声で、説明した。
「ぼ、ぼくたち、あの怪物を探そうと思ってきたんだ。そしたら、クリーオウの蹴った小石が、ぐ、偶 然 その怪物に命中したらしくて──」
「怒 り狂った怪物に追いかけ回されてたんだ! 助けろ黒魔術士!」
「アザリーに追いかけられているだって? ンなこと言ったって、彼女は向こうでチャイルドマンたちと闘っている──」
わけが分からずにオーフェンが、ボルカンらとアザリーがいる方向とを見比べていると、ぺたんと地面に貼 りついたような格 好 をしていたハーティアが上半身だけ起き上がった。珍 しく激 怒 するように顔色をどす黒くして──
「貴 様 らあああっ!」
と叫んだ瞬間、また背後の草むらから巨大な影が飛び出してきた。
「ぎゃああああああああああああっ!」
ハーティアの、断 末 魔 じみた悲鳴が響 き渡る。赤毛の魔術士を踏み潰してこちらに突進してくるその影に向かって、オーフェンは素早く身構えると、呪文を叫んだ。
「我は放つ光の白刃!」
閃 光 があたりを照 らす。
純白の光熱波が突き刺さると、正面から真っすぐに突進してくるその影はたまらずに爆発して吹き飛んだ──と、その余波がハーティアの身体も数メートルほど宙に舞わせる。その影と、ハーティアとがどさどさと立て続けに地面に落ちてから、オーフェンは恐 慌 状態のクリーオウをなだめつつ、そちらに近寄っていった。ぴくぴくと痙 攣 しているハーティアをまたいで、身体の半分消し飛んだ怪物をのぞき込む。焼けただれた傷口からのぞく内臓をまだ蠢 かせているその怪物は、冷静になって見ればアザリーよりふたまわり以上も小さく、また全然似てもいなかった。牛と熊 を足して二で割ったような感じで、喉 のあたりに大きな袋がついている。
「雄 叫 び獣だな」
「オタケビジュウ?」
と、まだこちらの腰にしがみついたままで、クリーオウ。オーフェンは彼女の金髪の頭に手を置くと、
「叫び声で獲 物 を脅 して、さんざ走り回らせたあげく、力つきたところを襲 いかかる獣 だよ。このあたりにもいるとは知らなかったな」
「はあーっはっはっはっ!」
と、いきなり響き渡った笑い声に振り返ると、気絶しているハーティアの頭に足を載せて、ボルカンが勝ち誇 っているところだった。かたわらにドーチンを(無理やり)従えて、抜き身の剣を掲 げて誇らしげに叫ぶ。
「ほれみろ、この魔術士にとどめをさしたのはこの俺だ! しょせん邪 道 の魔術使いなど、マスマテュリアの闘犬の刃にかかればこんなものよ! 体臭キツイ敵どもよ、次々来るなら来るがいい! カレンダーで日めくり殺してくれる!」
「......死なないよ、そんなの」
「なら、毛ェ抜き殺ぉす!」
「.........」
意味のないことをわめき散らしながらハーティアの頭をぐりぐりと踏みにじっている地人たちを眺 め、オーフェンはぽつりとつぶやいた。
「......俺はなんのために真 面 目 に闘ってたんだろな」
「いいじゃない。結果として助かったんだから」
口を尖 らせつつ、ようやく腰から離れてくれたクリーオウに、オーフェンは、ああとうなずいた。と、倒れたまま失神しているハーティアを見ながら、
「お前らの言い分も、正しくないってわけじゃないんだろうよ。だが、俺は俺の言い分でやらせてもらう──あるいは、アザリーの言い分でな。なにかほかの理由でならともかく、《塔 》の名 誉 だかなんだかの都 合 なんぞで彼女を殺させたりはしない」
「.........」
ハーティアは答えない。ボルカンの靴 の下で、少し黒 焦 げになってぴくぴくと震 えている。
「なんのこと?」
聞いてきたクリーオウに、オーフェンは、
「なんでもない」
と答えると、バルトアンデルスの剣を地面から拾 い上げ、クリーオウに手渡した。
「こいつを見張っててくれ──ハーティアもな。俺には、もう一仕事ある」
言って、まだ爆発の地鳴りが響いてくる方向へと足を向けかけたオーフェンの前に、くるりとクリーオウが回り込んだ。
「ちょっと待ってよ!」
懇 願 するように言いながら、バルトアンデルスの剣をボルカンのほうに放る。ボルカンは受け止め損 ねて、ドーチンといっしょに仰 向 けに転んだ。
「あの剣の見張りなら、地人たちにでも任 せればいいでしょ? なんでわたしにそんな──置いてけぼりみたいなことばかりするのよ。随 分 と役に立ってるのに」
「まあ......そうだが......」
説明しかけて、オーフェンは急に面 倒 臭 くなった──それに、いくらここで言いくるめたところで、この少女は隙 を見て後からついてくるに決まっている。
「いいよ。ついてこい」
オーフェンは言って、アザリーとチャイルドマンらが闘いを繰 り広げているはずの広場に向かって走りかけた。その後ろでクリーオウは歓 声 をあげ──そして──数歩もしないうちに声をかけてきた。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
「なんだよ!」
いらだたしげにオーフェンが振り返ると、少女は地面に座 り込んでいる。
「ここまで歩いてきたもんだから、足の裏の皮がむけちゃって、ずるずるの血まみれになっちゃってるみたいなの。おぶってくれない?」
オーフェンは無視して走りだした。背後の歓声が、一転、罵 声 に変わった。
アザリーが魔術で拓 いた空 き地にもどると、そこでの闘いはもはや決着に近づいていた──それも、明らかにオーフェンの予想とは外 れた終わり方である。
広い空き地には、ぽつぽつと点在するように死体が倒れている。黒焦げになった白魔術士とコミクロンはもとより、ずたずたに切り裂 かれたものがひとつ、首だけがなくなっているものがふたつ、そしてオーフェンの見ている前で、またひとり名前を知らない黒魔術士が、炎の塊 の中で焼け死んでいった。すべて、黒魔術の一撃で死んでいるらしい。
(......なんで彼女は、白魔術を使わないんだ?)
オーフェンはふと疑問に思ったが、それを言えばそもそも彼女は最初にエバーラスティン家に現れたときから、白魔術を使っていない。となると、彼女は白魔術を使えなくなっているのかもしれない。どのみち、たいしたことではなかった。
どちらにせよアザリーの戦 闘 能力は並 のものではなかったのだ。たとえ昔、天 魔 の魔女と呼ばれた最優秀の黒魔術士のものであったとしても、これは尋 常 ではない。同時に六人の黒魔術士を敵に回し、そしてそのうち五人までも返り討ちにしてしまった。残るは、チャイルドマンだけになっている。
オーフェンが空き地にもどると、ちらりとチャイルドマンはこちらを見た──表情は変えない。ただ単に、もどったのがハーティアかオーフェンかを確かめただけらしい。チャイルドマンはすぐにアザリーへと向き直ると、大声で叫んだ。
「光よ!」
凄 まじい光の奔 流 が、チャイルドマンの目の前から放 たれる。光熱波はアザリーの体 軀 に突き刺さり、爆 炎 をあげた。熱気があたりの地面を焦げさせるが、アザリー自体にはたいした傷を負 わせていない。魔術で防 御 しているのだ。
(なんて力だ──これじゃ、チャイルドマンでも勝てるわけがない)
オーフェンは悟 って、チャイルドマンに駆 け寄った。
同時に、アザリーが咆 哮 をあげる。巻き起こった炎に向けて、チャイルドマンが防御の魔術を放とうと身構えている。師と唱 和 するようにオーフェンも、両手をかざして呪文を叫んだ。
「我 は紡 ぐ光 輪 の鎧 !」
ぶわっ──と、チャイルドマンの造った結 界 に重なるようにしてオーフェンの光輪の壁 がそそり立つ。炎は防 いだが、それでもちらちらと赤い舌のような火がこちら側までとどいてきた。防御が二重になっていなかったとしたら、危 なかったかもしれない。
ふう、と危なげな吐 息 をつきながら、オーフェンは次なる彼女の攻撃を待ち構えた。その横で、チャイルドマンはおもしろそうに聞いてきた。
「わたしを助けてくれるわけか?」
『コミクロンは死んだじゃないか』
ハーティアのせりふを思い出しながら、オーフェンは答えた。
「別に俺は彼女を助けたいってだけで、あんたに死んで欲しいと思っているわけじゃない」
そして顔をしかめて、
「それにしても強すぎる──どうしたってんだ、彼女は。まるで、あんたにも匹 敵 するくらいの力じゃないか、これは」
「そうだな」
チャイルドマンはそっけなく答えて、一言、呪文を叫んだ。
「光よ!」
「よせって!」
オーフェンも同時に叫んで、また同じ光輪の壁をチャイルドマンとアザリーの間に出現させる。チャイルドマンの光熱波は光の壁に阻 まれ、金属音にも似た音をあげると、かき消えた。チャイルドマンは、ふふ、と呆 れたような笑みを見せた。
「忙 しい奴 だな、お前も。そうやって朝まで、わたしとあの怪物との魔術を防ぎつづけるつもりか」
「俺は、あんたに分かって欲しいんだよ」
オーフェンは、ちらりとアザリーに警 戒 の視線を投げてから、チャイルドマンに詰め寄った。
「彼女を救う方法は、あるはずなんだ。絶対に不可能なわけがない──少なくとも、バルトアンデルスの剣の使い方が解明できれば、できるはずだ」
「.........」
チャイルドマンは、じっと不透明な眼 差 しでこちらを見つめた──ずっと、ずいぶんと長い時間のようにも思えたが、実際はそうでもあるまい。やがてチャイルドマンは、はは、と笑い声をあげると、妙 に感情深い表情でもって、言った。
「いい男 に育ったよ、お前は。いつか、わたしの後 継 者 が現れるとしたら、それはお前だろうな」
「チャイルドマン、そんなことは今は関係な──」
オーフェンのせりふは、そこで中断させられた。いつの間にかチャイルドマンの手の中に現れていた短剣が、根元までずぶりと──オーフェンの下腹に突き刺さっている。胃から逆流してきた血の味が、口の中に広がった。激痛を感じるというよりは、圧 倒 的な睡 魔 が襲 いかかってくる。
「チャイルド......マン......なんで──」
辛 うじて紡 ぎだした言 葉 に、チャイルドマンは事もなげに答えた。
「すぐに癒 してやる。仕事が終わった後でな」
「き──さ──ま──」
だが、呪 詛 すらこもったオーフェンの伸ばした手は空を切り、チャイルドマンはするりと身をかわすとアザリーに向き直った。アザリーが咆 哮 をあげようと、頭をもたげる──
だがそれよりも早く、チャイルドマンがこれまでにない強 烈 な気力を発しながら、呪文を叫んでいた。
「天 魔 よ!」
どうんっ──と、悪魔の足音のように重々しく、固まった巨大な大気が大地へと押し付けられる。重圧に地面が数センチばかり沈 下 し、地下に張り巡 らされている木々の根がめりめりと崩 壊 する音が響 き渡った──同時に、アザリーの巨体の周 りで、負 荷 のかかった大気がぱちぱちと弾 きをあげる──
アザリーの口 蓋 の奥から、うめき声のようなものがもれた。それは恐らく、彼女の放とうとしていた魔術だったのだろうが──それはあっさり霧 散 した。大気の崩 壊 が始まり、なにかどす黒い靄 のようなものが、星明かりに照 らされる広場に広がる。刹 那 、震 えるような鈍 い輝 きがアザリーを押し包 んだ──
物質崩壊の魔術は瞬時に強烈な爆発を巻き起こし、アザリーをぼろぼろの雑 巾 のように絞 り上げた。その後すぐに、オーフェンはチャイルドマンによって癒されたが、彼は特に謝 辞 を言う気にもならず、アザリーの死体へと駆 け寄った。まだ焼けたてのビフテキのように湯 気 をあげている怪物の身体 はえらく熱かったが、オーフェンは火傷 も無視して彼女の頭を抱 き抱 えた。
「アザリー!」
叫ぶが、返事はない。彼女の頭はぐったりと力なく、焼けただれている。が、かすかに息はしているようだった。膿 んだようにただれている瞼 を無理に押し広げて、アザリーは、こちらを見上げてきた──ような気がした。

「アザリー──俺だ。オーフ──キリランシェロだよ。アザリー!」
「キ・リ・ラ・ン・シ・ェ・ロ!」
突然、びくりとアザリーの目玉が動いた──人間の拳 大もあるような、赤く燃える目玉である。彼女は吐 息 を震わせながら、聞き取りづらい声をあげた──ただし、それはアザリーの声ではなかった。
男の声だった。
「キリランシェロ! お前を探して──いたんだ──あの女は──見 境 をなくしている。わたしは──助けてやりたかった......」
「............?」
オーフェンは分からずに、腕の中の異 形 の頭を見つめた。それは、さらに続けた。
「わたしはこんな......こんな目で、なにも見えなかった。聞こえるのは音だけで──あとは、なんだか分からない感覚で──周 りのものが分かっていた。だが! 見えなかった──」
「......どういうことなんだ?」
オーフェンは聞き返したが、怪物は満足な返答はできそうになかった。それは、死に逝 く人間がよくするように、自分だけで勝手に話を続けた。
「わたしは......彼女を......助けて......やりたかっ──た」
「............」
「だから......お前を......探したかっ......た......お・ま・え・な・ら......きっと──助けてやれる──」
怪物は、そのまま言葉 を止めると、しばらくびくびくと目玉だけを動かしていた。そしてそれもやがて動きを止めると、身体全体からみるみるうちに生気が退 いていった──潮 が退くように。
オーフェンがふと顔を上げると、そこにはチャイルドマンが立っていた。無表情で──いや、目の中にかすかに燃える満足げななにかをもてあそぶように、怪物の死体を見下ろしている。
と──静かだった夜の森の中に、声が響 いた
「畜 生 ! てめえ、コラ! この粉袋 みてえに持ち上げるのをやめねえと、ブランコで揺 らし殺すぞ!」
「あ、ちょっと、どこ触 ってんのよ! そこはいずれ成長して──」
「あ、あの、眼鏡 がずれてものすごく視界が気持ち悪いんですけど──」
見ると、ハーティアがひとりでボルカンとドーチン、そしてクリーオウを捕 まえてこちらに歩いてきている。身体を痛めている様子 はない。彼は三人の人質 と同時に、バルトアンデルスの剣も携 えていた──これだけの荷物をいっぺんに運んでくるからには、魔術で腕力を強化しているに違いない。
「オーフェン 。この《剣》は《牙 の塔 》に返却 させてもらうよ。もともとは《塔》のものだったんだからね」
と、ハーティアは呼びかけてきた。
「ぼくの演技力も、そんなに馬鹿 にしたもんじゃないだろう?」
言いながら、クリーオウやら雄叫 び獣やらに踏 まれた背中のあたりをさすってみせる。
だがオーフェンは彼のせりふを聞いてもいなかったし、実のところ彼のことなど、どうでもよかった。バルトアンデルスの剣も、もうどうでもいい。
オーフェンにはようやく、このすべての馬鹿げた小細工 が理解できはじめていた。
オーフェンは待っていた。
トトカンタ市から北方に抜ける大きな街 道 はこのステアウェイ街道しかない。夏のこの街道は細長い宝石のようなものだ、とはよく言われるのだが、今はまだ初夏。旅好きの者たちに絶賛される緑豊かな景 色 は、どこまでも色深い夏の緑ではなく、まだ幼 い青さだった。この季節、風は東から吹く。それも、ほとんど途 切 れることなく。今日もやはり風は吹いている。正午を少し回るかという時刻のこの風は心 地 よく、オーフェンは街道のわきの土手のようなところに腰を下ろして、じっと道の一方──トトカンタ市へと続くほうを見つめていた。
オーフェンは長いこと待っていた。だが彼の顔には特に待ちくたびれた様 子 はなく、どちらかと言えば、この時間がもっと長く続けばいいとすら思っているように見えた。肩に担 ぐように剣を立て掛け、粗 末 な鞘 を指でトントンとたたいている。
やがて、街道の彼の見つめる方向から、小さな砂 煙 があがった──馬車のあげる砂 塵 である。そのちっぽけな砂塵が大きくなるにつれて、蹄 鉄 と車輪の立てる音も近づいてくる。馬車は二頭立てで、そんなに大きなものではない。馬車の黒っぽい屋根が、見える距離になった。オーフェンはゆっくりと立ち上がると、道の真ん中へと立ち塞 がり、両手を広げた。
「停まれぇーっ!」
彼は大声で叫 んだ。もう数十メートルに近づいた馬車の御 者 台の上の人間が、毒 づきながら手 綱 を引くのも見える距離だ。
馬車が停まった。その側面には、金の縁 取 り文字で「大陸魔術士同盟 」と記 されている。
御者台の上の男は四十過ぎほどで、ぱっと台の上から飛び降りると、前方に立つオーフェンのほうへとつかつか歩み寄った。肩をいからせて、顔もどす黒く紅 潮 している。だが、オーフェンが胸元からさっと取り出したドラゴンの紋 章 を見ると、その態度は一変して下 手 になった。
「い、いったい、どうしたことで?」
オーフェンの返答はいかにも面 倒 臭 そうだった。
「......たいしたことじゃない。ここはトトカンタからどのくらい離れている?」
「は、はあ──三キロほどですか」
「じゃあ走って行って帰ってくるだけで、何十分かかるかな。それをしてこい」
「は?」
「黙 って言うことを聞くんだ。ここから走って、トトカンタの正門に触 ってから、帰ってこい」
「......しかし......」
「いいから行けっ!」
オーフェンが怒 鳴 り声をあげると、御者はひいっと悲鳴をあげ、一 目 散 にトトカンタに向かって走っていった。その後ろ姿が十分に遠ざかったというころまで、オーフェンはそのまま動かなかった。やがて、風が数十回も彼をなでた後に、彼は馬車のほうへ向き直った。剣を抱 えながら、口を開く。
彼の声は、怒っているというよりは、むしろ悲しげに聞こえた。
「出てこいよ。俺 がここで待っていることくらい予想していたんだろう?」
◆◇◆◇◆
オーフェンはある程度の覚 悟 はしていた──だから後 悔 はしていなかった。不服もなかった。ただ残っているのは、疑問だった。かすかな期待もなかったわけではない。つまり、自分の考えがまるっきり勘 違 いなのではないか、と。
馬車の側面の扉 が開き、長身の男が降りてくるのを見ながら、それらすべてが入り交 ったような感覚に、オーフェンは捕 らわれていた。
「どういうつもりだ、キリランシェロ?」
チャイルドマンは地面に足を触 れさせて、不 思 議 そうにつぶやいた。手には、バルトアンデルスの古風な剣を携 えている。オーフェンにはこれまでじっくりとその剣を観察するような機会はなかったはずだが、それでも彼はずっと昔からその剣を、自分の手足のようによく知っている気がしていた。五年前、アザリーの去っていった後に、彼女の血にまみれて残されていた剣。数日前にエバーラスティン家から持ち出された剣。そして今──チャイルドマンの携える、この剣。
「あんたには分かっているはずだ──俺がここにいる理由がな」
「......さあな。見当もつかない。この前のお前の行 為 を裏切りだと思う者がいたのは確かだが、わたしはそうは思っていない──結果として、あの怪物を見つけだし、おびき出してくれたのはお前なのだから。だからお前への処分──というか誅 殺 に関しては、わたしが上層部に思い止まらせた──」
「いやに饒 舌 じゃないか。似つかわしくないぜ、チャイルドマン にはな」
オーフェンが含 みのある調子でそう言うと、チャイルドマンのいつも冷静な表情が、ぴくりと動くのが分かった。
チャイルドマンは、しばらく沈 黙 していた。だが、やがて嘆 息 し、再び口を開いたときには、その声はそれまでのものではなくなっていた。
「......いつから気づいていたの?」
「あんたがあの怪物 にとどめを刺したときだよ。彼 は、ダイイング・メッセージを残したのさ。俺にな」
オーフェンは、そのチャイルドマンの姿をしたものを見つめながら、続けた。
「なあアザリー。どうしてこんなことになったんだ? できれば話して欲しいんだけどな......そろそろ俺の呼びかけに応えてくれてもいいころだろう」
チャイルドマンは、決して美男子ではなかった──が、いつも崩 さない冷静な面 持 ちと、厳 格 な規 律 に捧 げる献 身 の精神とで、いつもなにかの教 祖 じみた魅 力 を発散していた。その魅力がいつの間にか、別のものに取って代わられていたことに、オーフェンはそのときになってようやく気づいた。
それはまぎれもなく、五年前までアザリーが持っていた本能的な魅力だった。
「......聞いてどうするつもり?」
アザリーの声──五年前のアザリーの声で答える彼女は、まずそんなことを聞き返してきた。少し卑 屈 とも思える笑みを浮かべて、手の中のバルトアンデルスの剣をもてあそんでいる。チャイルドマンの指で。
バルトアンデルスの剣は古風な鞘 に収められて、満足げにしているようだった──月の紋章で表される、と言ったのは、確かドーチンだったっけか? どちらにせよ、剣の柄 と刀身の間に、円 盤 状の月に載 った不 気 味 な獣 の細 工 が凝 らしてある。それはあるいは、アザリーが昔変化したそれに似ていなくもなかった。
オーフェンは視線を剣から、その持ち主に移した。彼は決然と答えた。
「聞いてから決めるさ」
「......いい返事だわ。あのとき、再会したときにも思ったけど──強くなったのね、キリランシェロ」
「五年も経 ってる。それに、それほど賢 くはなれなかった」
「そうかもしれないわね。でもわたしは、あなたのそういうところがたまらなく気に入ってたわ──ハーティアや、あるいはチャイルドマンよりも、あなたは優 れた魔術士になれる素 質 があるとわたしは思っていた。そう──相 棒 として選ぶなら、あなただってね」
アザリーは、肩をすくめてみせた。
「あなたの言うとおり、ここにあなたが待ち伏せしていることを、わたしは気づいていたかもしれない──もしあなたがここにいなかったら、かえってひどく味 気 なかったでしょうね。わたしの正体を看 破 できるのは、ハーティアや魔術士同盟の連中じゃなくて、あなたなのよ。本当にわたしのことを理解していた、あなただけ」
「......そろそろ話してもらえないかな。あの御 者 がもどってくるまで、何時間もあるわけじゃない。彼にもう一度往 復 させるのは、ひどく残 酷 だろう」
「そうね」
アザリーは軽くつぶやいて、チャイルドマンの顔面に殺 伐 とした笑みを浮かべた──
「五年前、わたしがこの《剣》の魔術に失敗したことに関しては、話すこともないわね。結果として、わたしはあの怪 獣 じみた姿になって大陸を放 浪 するはめになった。チャイルドマンや、凄 腕 の黒魔術士たちの追 撃 をかわしながらね。彼らは《塔 》から失敗者を出したことを公 にしないため、わたしを抹 殺 しようとしたわ。というより──証 拠 を隠 滅 しようとした、というほうが近いでしょうね。彼らは、わたしにはもう意識がないものだと思っていた」
アザリーの目に、陰 険 な光が灯 るのが見えた。彼女は鼻を鳴らして、続けた。
「冗 談 じゃないわ。わたしには意識があった──五年間、わたしは意識を保ちながら、チャイルドマンの執 拗 な追撃から逃げ回っていたのよ。五年間よ? わたしの可 愛 い弟が、一人前の男になるほどの時間」
言いながら彼女は、自分自身のせりふに感じ入ったというふうに、くすっと笑った。だがすぐにまた表情を鋭 くすると、
「一か月ほど前のことかしら。わたしは、このままじゃいずれ発狂すると悟 ったのよ。それでなくても、いつかは疲れからチャイルドマンに仕 留 められる。だから、この状 況 を打 破 する方法を模 索 したの」
「......あんたはもちろん、バルトアンデルスの剣があればもとの姿にもどれると思っていたはずだ」
オーフェンがつぶやくと、アザリーはうなずいた。
「ええ。でも《剣》は五年前にチャイルドマンがどこかに封 印 したせいで行 方 が知れない」
「だからあんたは、チャイルドマン本人に《剣》を探し出させればいいと思った」
「それに、とにかくチャイルドマンの追撃を封じなければならないっていう事情もあったわ。わたしが白魔術にも秀 でていたことは知っているでしょう? わたしはチャイルドマンの隙 をついて、彼と精神を入れ替えた。そっくりそのままにね。これほど強力な魔術が成功するかどうかは、はっきり言って賭 だったわ。でもわたしはその賭に勝って──」
「......そして、チャイルドマンの部下を抹殺した」
オーフェンは陰 鬱 に、暗い声 音 で継 いだ。
彼女は肩をすくめ、続けた。
「彼らは五年間もわたしを狙 いつづけてきたのよ。わたしにとっては、殺すか殺されるかだった」
彼女のせりふにオーフェンはいまいち釈 然 とはしなかったが、なにも答えずに彼女を見返しただけでなにも言わなかった。彼女はそれを同意とみたようで、続けた。
「皮 肉 なものよ。チャイルドマンはずっと、わたしをもとにもどすことは不可能だと思っていた──でも、いざ自分が同じ立場になると、真っ先にバルトアンデルスの剣に向かって飛んでいったわ。わたしはその跡 を追 跡 して、トトカンタにたどりついた。そしてチャイルドマンがこの屋 敷 に飛び込んだとき、剣があるのはあそこだと確信したの。わたしはチャイルドマンとしてハーティアに協力を頼 んで──その後のことは、あなたも知っているわね。《剣》を取りもどすために、結果としてチャイルドマンを殺さなければならなくなってしまった」
「状況のせいだけではないさ」
オーフェンは顔をしかめて、
「あんたは、どうしてもチャイルドマンをこの世から消し去る必要があったんだ。なにしろ《牙 の塔》の精 鋭 を皆殺しにしてしまったんだからな。その罪を彼に被 せて、自分はバルトアンデルスの剣を手に入れる。その後は、どこにでもトンズラしてまた変身の魔術を試 せばいいのさ。どんな姿にも変われるんだからな」
「......そんなに甘くはないわよ」
アザリーは、苦笑ともとれる笑みを浮かべつつ、そう言った。
「わたしがどうして五年前に失敗したんだと思う? それに、ただ人の姿を変えるだけのものだったら、どうして《剣》の形を取らなければならないの? このバルトアンデルスの剣はね、文字どおり武器なのよ。兵器なの──つまり、斬 った相手を好きなものに変化させてしまうわけ。石にでも、動物にでもね。でもわたしは、それなら自分で自分を斬れば、自分を好きなように変えることができるのではと思ったの。ただ、傷の痛みのせいで精神集中が壊 れて、あんな化け物じみた姿になってしまったわけ」
「どのみち、それでもあんたは試すつもりなんだろう?」
「ええ。挑 戦 するつもりよ。それで、これを聞いて......あなたはどうするの?」
アザリーのせりふは、まるで挑発するように上 目 使いの調子だった。実際にはチャイルドマンの身体 を使っている彼女のほうがはるかに上 背 があるのだが、オーフェンはそのとき確かに、数年前《塔》で椅 子 に座 った位置からからかうようにこちらを見上げていた魔女の姿を見ていた。
オーフェンはじっと彼女の瞳 を見つめた。姿はチャイルドマンのままだったが、その声と、そして双 眸 だけは完全に彼女のものになったのではないかと思える。オーフェンは、握 り締 めていた右手を開き、そして左手に持っていた鞘 から剣を引き抜いた。
「剣なんて抜いて、どうするつもり?」
アザリーが聞いてくる。オーフェンはかぶりを振り、つぶやくように言った。
「仮にあんたが恋人だったとしたら──俺はあんたの言うことに納 得 もしただろうな。でも違う。あんたは、チャイルドマンを殺してしまったんだ」
「言ったでしょう? 殺すか殺されるかだったのよ」
「だが、あんたぐらいに頭の回る人間になら、殺人までは回 避 することができたはずだ。でもあんたは自分の保身から......それをやってしまった」
オーフェンは、自分の声が泣き声のように喉 にひっかかるのを感じていた。
「わたしを人殺しだと言いたいの?」
詰 問 口 調 のアザリーに、オーフェンは、きっ と見返して答えた。
「俺はあんたを尊敬していた。あんたはそれを裏切ったんだ」
「それは、あなたが勝手にわたしを買いかぶっていたんでしょう? わたしにどうしろと言うの? あの怪物の姿のまま、永遠に逃げ回っていればいいって言うの?」
「裏切ってはならない部分というのがあるんだよ、アザリー。殺してはならなかったんだ」
「彼はわたしを殺そうとして──」
「違うんだよ!」
オーフェンは叫 んで、癇 癪 を起こしたように真横に剣を振った。
「彼がどうして手ずから《剣》を封印したんだと思う?──《塔》の長老たちの手に渡さずに。どうして自 ら君を追ったんだ? 自分が怪物と入れ替わったとき《剣》を求めたのはなぜだ? 彼はあっさりと前言をひるがえす人間じゃない。彼が不可能だと言ったなら、本当に不可能なんだよ。でも彼は嘘 をついた──彼は《剣》でもとにもどれることを知っていたんだ。彼は、自分の手であんたを救いたかったんだ」
「......そんなのは、あなたの推測でしかないでしょう」
「君の葬 儀 で、彼はぼくに、君をもとにもどすのは不可能だと言った──ぼくには 不可能だ、と言ったんだ。彼は、自分にはできると思っていたんだよ」
オーフェンがつぶやくと、アザリー──彼女の精神が支配するチャイルドマンの表情が、ぴくりと動 揺 したのが見えた。オーフェンにはそれが奇 妙 な光景に思えた。彼の記 憶 の中では動揺の色をかけらも見せたことのなかった冷 徹 な男の顔が、感情豊かなアザリーの精神にのっとられたことで、初めてここで表情を見せている。彼は続けた。
「そうなんだよ。今にして思えば彼は、いつもそうしていたように、そのときも俺よりもはるかに現実的な手段をとったってだけなんだ。君を追撃すると周囲に偽 って、魔術士同盟の組 織 力を利用して、君の行 方 を探す──俺がこの五年間、ただうろうろと大陸中を当てもなく右 往 左 往 していたことを考えれば、チャイルドマンは確かに俺より数段上 手 だったってわけだ」
オーフェンは一気にしゃべって、なんだか疲れすら覚えていた。はあはあと肩で息して見やると、彼女は不思議そうな表情で、こちらを見ている──いやむしろ、どこも見ていないような眼 差 しでもあった。彼女は、嘆息した。
「嫌 になるわね。わたしがどうして五年前に《剣》を使ったと思う?」
アザリーはそう言いながら、バルトアンデルスの剣を抜いた。
「あの堅 物 に認 めて欲しかったのよ。わたしって女をね。わたしは彼に相応 しい女になりたかったの」
すらりと真っすぐに伸びたバルトアンデルスの剣は、アザリーの手から斜 めに地面に触 れて、切っ先でわずかに土をえぐった。彼女が鞘を捨てるのを見ながら、オーフェンはその視線を頑 強 なチャイルドマンの身体から、ほうり出された鞘へと移した。乾 いた革 の鞘は、ころんと街道の突き出た小石にぶつかり、跳 ねて転んだ。
オーフェンもまた彼女にあわせて剣を構えながら、聞いた。
「ならどうして、彼を殺すようなことをしたんだ」
「分からないわ......でも、もう目的を果たしたからかもしれないわね」
「目的?」
「彼はわたしを認めてくれたわけでしょう?」
彼女は自 嘲 するようにそう言うと、オーフェンの目の前で、バルトアンデルスの剣を構えてみせた。
「アザリー......」
喉 の中でうなるようにオーフェンがつぶやくと、彼女はかぶりを振って、
「冗談よ。でもね、分かってちょうだい──別にわたしが望んでこうなったわけではないわ。結果としてこうなってしまったというだけ。わたしの度量では、これ以上の選 択 はできなかったのよ」
「............」
オーフェンは黙 して一歩彼女に近寄ろうとしたが、その前に一言だけ聞いた。
「ならつまり、俺たちがこうして剣を向けあっているのだって、選択の結果なんだろう。君はチャイルドマンの口を封じなければならなかったのと同じように、君が生きていることを知ってしまった俺も始 末 しなければならないわけだ」
「......それはどうかしら。ようするに信 頼 の問題よ。あなたは信頼できる。もとの姿にもどった後、あなたのものになってあげてもいいのよ?」
「お願いだから、これ以上俺を裏切らないでくれ──俺はあんたを尊敬していたんだ」
彼女は黙 って、うなずいてみせた。
その仕草にオーフェンは少し驚 いたが、アザリーはすぐに厳 しい視線で剣を構え直した──チャイルドマンの目で。そしてチャイルドマンの顔で。初夏の陽光が、バルトアンデルスの刀身に照 り返る。その光が目にしみたような気がして、オーフェンは目を閉じてから、また開いた。
彼はふと、間の抜けたことを想像した──ハーティア、チャイルドマン、そしてアザリーと、今までは追 憶 の中にいた昔の仲間たちが、順番に自分の力を試している、といったような。
(アザリー──)
複雑な気分で、オーフェンは剣の柄 を握 り締 めた。自分のやらなければならないことは承知している。そのためにも、こんなところで彼女に殺されていたのでは意味がない。
アザリーが、剣を振り上げた。チャイルドマンの上 背 はオーフェンよりかなり高いため、その切っ先の位置もオーフェンの視点からは、空に突き刺さるほど高く思えた。もっとも、チャイルドマンであれば剣を振り上げるようなことはしなかっただろうが──そもそもあの元暗殺者は、長剣よりもナイフや鋼線といった武器を好んでいた。アザリーは逆に、例 えば華 々 しい騎 馬 試合などを心 底 楽しんでいるようなところがあった。
あれはアザリーだ──と、オーフェンは自分に言い聞かせた。チャイルドマンではない。だが考えようによっては、あのふたりはこんな形でいっしょになれたんだ──
アザリーが、チャイルドマンの身体で早々に一歩踏 み出す。
昔からの癖 だ──と、オーフェンは思い出した。彼女は余 計 な間 をとったりはしない。さっさと飛びかかってきて、無 造 作 に勝負を決めてしまう。オーフェンは誘 うように切っ先を少し落とした。
アザリーは最初の一歩で意を決したようで、その後は呼吸する間もおかずに、走り込んできた──一歩──また一歩進んで──もう切っ先がとどく距離に──
ひゅっ──

瞬 きする間もないうちに、その音は聞こえた。金属の刃が空気を切り裂 く音。耳を澄 まさなければとても聞こえないような小さな音──
オーフェンは動かなかった。彼の肩口に、彼女の強 烈 な一撃が命中する。
だが、その瞬 間 彼の身体の中から、押さえようもない猛 烈 な力が湧 き上がった──身体の中につまった空気が、一気に破裂 するような力が。その力は肩に食い込んだバルトアンデルスの剣を受け止めると、そのまま搦 め捕 り、一気に跳 ね返した。
剣が宙を舞 い、そしてオーフェンの背後にどさっと落ちるまで、ふたりとも身動きもしなかった。見ると、アザリーはまるっきりきょとんとした顔で、空っぽになった自分の──いや、チャイルドマンの手の中を見下ろしている。
「急所を避 けたね、アザリー」
オーフェンは剣を右手一本で持ち替えて、丸腰 の彼女にすいっと近づいた。
「だが、どちらにせよ、君に勝ち目はなかったんだ。君は指輪を覚えているだろう? 危険から身を防 ぐけど、たった一度しか使えないっていう、あれさ」
「......あなたの指にははまっていないようだけど?」
彼女は後退 りしながら、つぶやいた。
オーフェンは肩をすくめた。
「指にはめる必要はないのさ。あれの完全な持ち主になれればね。あんな小さな指輪なら、呑 み込むのは造作もなかったよ」
言いながら、彼は自分の腹を左手でぽんとたたいた。アザリーは引きつったような面持 ちで、いかさまを目 の当たりにして唖然 としている。オーフェンがもう一歩近寄ると、彼女は今度は後退りせずに、笑い出した。
「冗談 ──冗談じゃないわ! 馬鹿 みたい! そんな手で──」
身をよじって大笑いするアザリーに、オーフェンは顔を近づけて、言った。
「これで決着をつけよう、アザリー」
ぱっと、アザリーが哄 笑 を引っ込めて、猫 のように素 早 く、わずかに腰を落としてこちらに飛びかかろうとする──
オーフェンが剣を打ち下ろすと、その刃は彼女の腹を横打ちに薙 いだ。剣の金属が肉に食い込む感触 が腕を伝わってくる。
そして衝撃 がそのままどこかへと突き抜けていくと、天魔 の魔女の身体は大きく悲鳴 をあげながら、仰向 けに倒れていった。
風に紛 れた馬の嘶 きが、初夏のトトカンタの空気の匂 いによく似合っている。いい陽気だった──六月のトトカンタは、さっぱりと乾 燥 し、そのくせ緑の匂いが濃 い。東にある大スカイミラー湖から吹き寄せてくる風が、一時は焼け野原のようになったエバーラスティン家の庭 園 を、ふわっと通り抜けていく。オーフェンが三日がかりで修 復 したのだが、やはりそこここに損 傷 の跡 は残っていた。
二頭の馬がほとんど同時に、また落ち着かなげに嘶いた。二頭とも栗 毛 の牝 馬 で、馬車につながれている。この馬車はエバーラスティン家所有のものだったのだが、ティシティニーがオーフェンに譲 ってくれたのだ。
「準備はよろしいんですの?」
「え? ええ、大 丈 夫 です」
ぼうっとしていたところをいきなり声をかけられて、オーフェンはびくっと振り返った。玄関先にティシティニーとマリアベルが、連れ立って見送りに出てきている。なぜかクリーオウの姿はなかった。
オーフェンは二頭立ての馬車のほうを見やり、
「といっても、あの寸 詰 まりどもを追いかけるのに、たいした準備は要 りませんよ」
「あの地人さんたち、例の剣を持って逃げてしまったんですって?」
他 愛 ない悪 戯 っ子の話でもしているようにティシティニーは、笑いながら眉 を寄せた。美しい眉 間 のしわが、行 儀 よく縦 に並ぶ。
「ええ。多分、どこかであのバルトアンデルスの剣を金に換 えるつもりなんでしょう。俺 も迂 闊 だったんですよ。あいつらの前で、ああいった魔 術 の代 物 がどれだけ高く取 引 されるのか口走っちまったんですから」
オーフェンは嘆 息 まじりに頭をかいた。そして、
「ところで......クリーオウはどこです? 見送ってくれるもんだと思ってたんですが」
「あの子は──」
ティシティニーは、かたわらのマリアベルと、ちらと視線を合わせて、口元をほころばせた。そのまま口ごもり、小さく肩をすくめる。
その動作だけで、オーフェンはなんとなく、ピンときた。
苦笑しつつ、言う。
「......あなたは素 晴 らしい女性ですよ、ティシティニー。でも賢 い母親とは言えませんね」
「そうかしら?」
ティシティニーは、まるっきり母親というものの典型を見せつけるような仕草で、両手を腰 に当てた。
「いえ、失言でした。あなたは賢い母親ですよ、本当にね」
「あの子のこと、よろしくお願いします」
「彼女がいい子にしているかぎりはね。ま、どうしようもなく手に負 えなくなったら、返しにもどりますよ」
オーフェンはそう言って、ティシティニーからマリアベルへと視線を移した。このクリーオウのやや変形した相 似 形 のような女性は、身体 の前で手を組み合わせて、じっとこちらを見つめていた。オーフェンはふと、本当は彼女は話ができないのではないかと訝 ったが、そうではなかった。マリアベルは、すっと息を吸い、色の薄い唇 をわずかだけ開いて、こう言った。
「わたし本当に、あなたと結婚できたらいいって思ってたんですよ」
ガラスの音のように透 き通った声 音 だった。そのせりふに面 食 らって、オーフェンがたじろいでいると、彼女はすっと細い腕をこちらの首に回し、ほおに軽く口づけた──その一 瞬 の感 触 の中でオーフェンは、唐 突 に思い出していた。
『あの子ったら今回のことで 、すっかり参ってしまって ......』
なんてこった──オーフェンは、目 眩 を覚えた。この家の連中は、自分たちの屋 敷 が殺し屋どもに狙 われているその時に、そんなゴシップに沸 き立っていたのだ。
だが考えてみれば、ひとりで深 刻 になっていた自分のほうがどうかしていたのかもしれない。
(思い詰めすぎなんだ、俺は)
抱きついてきたときと同じ素 早 さで身体を離したマリアベルに、ふっと微 笑 めいたものを返しながらオーフェンは、そんなことを思った。
馬車は散歩程度のスピードで街 を抜け、街 道 に出た──ボルカンたちが《剣》を持ってどこにいこうとするかは、分かり切っていた。あの連中は魔術のこととなれば、単 細 胞 に《牙 の塔 》を目 指 すだろう。となれば、北だ。
トトカンタから北方へ抜ける街道──数日前にアザリーの乗った馬車が使ったステアウェイ街道をそのまま辿 りながらオーフェンは、考え事をしていた。革 の手 綱 をもてあそびながら、風に吹かれてのんびりと。
馬車がちょうど、アザリーの馬車を止めた地点を通り過ぎた......
「こいつは、ボルカンの野 郎 の剣でね」
倒れたまま息を荒げているアザリーを見 据 えて、オーフェンは手にしている剣を掲 げてみせた。
「あの馬 鹿 、剣の手入れも知らねえし、その上こいつで弟の頭ばっかぽかぽか殴 りつけているもんだから──知ってたかい? 地人の頭ってのは、鉄より硬 いんだ。まあなんにしろ、そのせいで剣の刃も潰 れちまって、こいつはほとんどなまくらなのさ。とはいってもアザリー、肋 骨 くらいは折れただろうから無理に動くと内臓を傷つけることになるよ」
「わたしを......殺すの?」
彼女は──といってももちろん、チャイルドマンの姿だが、とにかく顔面に脂 汗 をいっぱいにかいて、そう聞いてきた。オーフェンは、ボルカンの剣を後ろに放り投げ、かわりに彼女の落としたバルトアンデルスの剣を拾 い上げた。
「君を殺す?......か。それができていたなら、五年前に《塔》を飛び出したりはしなかっただろうよ」
「昔のあなたと今のあなたとでは違うでしょう」
「おんなじさ。いや、違うかな──でも、大差はない」
「わたしをどうするの?」
「............」
オーフェンはバルトアンデルスの剣を手の中で持ち替えながら、少し考え込んだ──というか、考え込んでいるふりをした。
実を言うと、既 に心は決していた。
「君の選 択 に任 せるよ」
オーフェンは言ってから、手にした《剣》をアザリーの眼前に突き付けた。
「この《剣》は、俺の思いどおりに君を《変化》させることができるんだろう? 俺は、五年前の君のことをはっきりと覚えている──もとにもどすことも多分、できるはずさ。あるいは君はその姿のまま、チャイルドマンとして生きることもできる。可能性としては低いが、あの......異 形 の姿にもどりたいというんなら、そうしてやってもいい。結局のところ、君自身の問題なんだ。君がどういう生き方を選んでも、俺はその希望を叶 えてやるよ。ただし──」
オーフェンは、トーンを落として続けた。
「ただし、君に少しでも罪 悪 感があるのなら、どの姿になったとしても、もう二度と俺の前には姿を見せないでくれ。どんな事情があろうと、君はチャイルドマンを殺したんだよ」
アザリーはしばらく息を荒げたまま、沈 黙 していた。彼女がそのまま痛みで気絶するのではないかとオーフェンが心配しだしたころ、彼女は自分の希望を告げた。
「そろそろ顔を出せよ。一人で御 者 をやってたところで、退 屈 なだけだ」
オーフェンは、御者台から振り返らずに、馬車のほうへ声をかけた。馬車は円 筒 を半分に割って横たえたような形をしていて、前後の入口をカーテンで仕切っている。そんなに大きい造りではないが、二、三人は乗り込めるだろう。その前方のカーテンが、さっと開いた。
「いつから気づいてたの?」
カーテンの隙 間 から顔を出したのは、クリーオウだった。まったく意 表 をつかれたように、双 眸 をびっくりと見開いている。オーフェンは、呆 れたように言った。
「ティシティニーがほのめかしてたんだよ。あの子をよろしく、だってさ」
「じゃあ、よろしくしてくれたわけ?」
「どうせ、馬車から引きずり下ろしても他のテを考えるんだろう?」
「うん」
クリーオウは悪びれた様 子 もなくうなずいてみせた。
オーフェンはようやく振り返り、じろりと少女の顔を見やった──クリーオウは妙 に、にこにこと機 嫌 よく笑みを浮かべている。まるで自分とは別 次 元 の生き物であるかのような彼女の笑顔を見つめながら、オーフェンはつぶやいた。
「まだなにか企 んでやがるな。なにを隠 してるんだ?」
「別に隠してるわけじゃないわ」
クリーオウは、手品の種 明 かしをするみたいな優 越 感の潜 んだ視線を投げると、くるりと後ろを振り向いて、言った──
「もう出てきてもいいわよ」
「お、おい、まだ誰 かいるってのか?」
さすがにオーフェンがぎょっとしたように悲鳴をあげると、クリーオウの横からひょっこりと顔を出したのは、まだ子供子供した面 影 を残す少年だった。
「マジク!」
「だって、魔術を教えてくれるって言ってたでしょう? なのに、宿屋のほうにも顔を出さないで街を出ていくなんて、ひどいじゃないですか」
「で、でも──なんでこの馬車に──」
「あれ? 言わなかったっけ?」
不 思 議 そうに声をあげたのは、クリーオウだった。
「わたし、下町の学校に通ってるのよ。学年は違うけど、マジクとは同じ教室なの。オーフェンのこと話したら、知り合いだっていうんだもの。驚 いちゃった」
「あのなあ......」
途 方 に暮れてオーフェンがつぶやくと、マジクは少女のような面 持 ちを心持ち紅 潮 させて抗 弁 した。
「ちゃんと父さんとは話し合いましたよ──オーフェンさんが宿からいなくなってから、何日も。そしたら、どこか信用のできる魔術士に師 事 するんなら、まあいいだろって言うんで、とりあえず信用できる魔術士っていったらオーフェンさんしか──」
「ああ、分かった。分かったよ。くそ、バグアップの野郎──」
オーフェンは仕方なく手元の手 綱 に八つ当たりしながら、空を見上げた。初夏の空は高く、どこまでも透 き通っている。風は空の真上から吹きおろしてくるみたいだった。緑に取り囲 まれるような街道をどこまでも手綱を引きながら、オーフェンは、とりあえず一人旅でないことを感 謝 するべきなのかな、と思っていた。
街道を見下ろす空はまばらに雲を散らばせて、ぷかぷかと、いつでも頭の上に落っこちてきそうに見えた。
「ハーイ! マリアベルでぇーすっ! 巻末の進行役をやらせていただきまーすっ!」
「......本編とはうって変わってテンション高いなー、お前」
「低くってどーすんのよ。ほら、ごあいさつぐらいはしなさいって」
「はいはい。読者の皆様方におきましては初めまして。初顔の秋田です」
「......まーた、そーゆうしゃれになんないこと言うんだから」
「いーじゃん」
「よくないって......まあ確かに、前作から二年近く経 っちゃってるけどさー」
「二年も経ってると、さすがにもー名前忘れちゃってる人も多いだろな」
「それ以前に、あの名前読めないって人のほうが多いんじゃない?」
「......ンなことはないと思うが」
「でもねー、あんたの名前、はっきり言って反則よ」
「反則って......別にルールがあるわけじゃないじゃん」
「だってねえ、読めるわけないわよあんな字。『禎信』だったっけ? 多分、今この本を持っている人全員、この字読めないわよ」
「ちなみに『さだのぶ』は間違いです」
「なお、正解は奥付を参照ね」
「実は、ほかのペンネームを使おうか、なんて考えてた時期もあったんだよ」
「......そーなの? なんかヤな予感がするけど......どんなペンネーム?」
「日和見って書いて『ひなたかずみ』とか、丙 午 ヘソ五郎とか。あとはリングネーム風にしてファイター泥 亀 、ランドセル万年課長、ハイヒールすね毛......フランダース猫ってのもあったな」
「......実家に帰らせていただきます」
「どこだ、それわ」
「まあいいわ......にしても、なんでこんなに時間が開いたのよ。二年もかけてこのお話書いてたわけじゃないんでしょ?」
「うん」
「なにやってたの?」
「ペンネーム考えてた。ポックリ寿 とか、ルンメニゲ体重計とか」
「そんなことで青春の二年間を無駄 にしてしまって後悔とかはないわけ?」
「ほかに、ちゃんとお話も書いてました」
「......どんな?」
「『もう鼻毛が止まらない!』とか『ジブラルタル海峡冬景色』とか」
「あんたねー......」
「まあなんにしろ、こーゆー奴 が無事に今回の仕事を終えられたのも、すべて応援してくれた方々の力添 えがあればこそです」
「あ、ちょっとは謙虚 な性根 があるわけね」
「謙虚の虚の字は虚言の虚ー」
「ヤな奴ねー」
「むむむ。とにかく、この原稿を執筆中にかかわったすべての人に感謝っ!
えー、西荻窪の本屋でバイトしている北村君、今日も目黒で裸電球をなめ回してひとりで笑っている柳戸君、酔 って暴 れて公衆便所を跡形 もなく破壊したずみぽん君──」
「......ロクな友達がいないのねー、あんたって」
「うるさいなあ。
えー、ゼミで世話になったS、O、K、それに山下、澤野両先生、飛弾さん愛してるよー(笑)。バイトさせていただいた厚木の石丸家具の方々。えーと......あとは、なんだかよく分からない訪問販売のおっちゃん! よく窓の外から俺の部屋をのぞいてる緑色の顔の人っ!」
「いきなりウソくさくなったわね」
「(無視)そしてもちろん、編集のMさんやイラストを引き受けてくださった草河さんっ! その他、とにかくこの本の出版に尽力 していただいたすべての方っ! で、最後に本書を手にしておられるあなたっー」
「どうも、ありがとうございましたん♪」
秋田禎信

暗 闇 。いや、暗い石の回 廊 なのだが、その突き当たりの部屋の入口から光が漏 れていた。壁には水 苔 のようなものがへばりつき、湿った色をしていた。
部屋の中から、複数人の声が聞こえる......
「お、おい......なんだよ、こりゃあ」
「......人形? みたいだけど......」
「何十──いや、何百はあるんじゃねえのか? 薄気味悪い......」
「ステファニー、この文字が読めるか? 古語のようだが......」
「......『彼らは主命を受 諾 するのみ。いかなる──』」
と、その女の読み上げる声の後ろで、ほかの男が会話している。
「とんでもねえな。こんなでかい遺 跡 が今まで発見されなかったってんだから......」
「ここは都市の死角だったからな。今までは......」
「『いかなる未来においても、どれほど時間を隔 てようとも──』」
「だが、ここで見つけたものの研究報告が完成すれば......」
「ああ。研究が認められれば、俺たち、中央へ行けるかもしれん──少なくとも、こんな街からは抜け出せるさ。くそ、こんな街、くそくらえだ!」
「『どれほど時間を隔てようとも、我の主命を忘れたりはしない』」
「俺は、トトカンタへ行くんだ......あそこは魔術士の権利がちゃんと認められている。あの《牙 の塔 》で教官になるのもいい......」
「は。お前が教官ってガラかよ」
「ちょっと黙っててよ! ええと......『彼らは主命を受諾するのみ』──あとは、このくりかえしよ。まるで呪 文 みたい」
「どうでもいいさ。こけおどしだ」
「俺は、トトカンタに行くんだ......」
「おい、無 駄 話 もいいかげんにしておけよ。ほら、こいつを柩 から運びだすんだよ」
............
◆◇◆◇◆
「汝 らは主命を受諾するのみ──分かっているだろうが」
霊 廟 に響く声は冷たい。だがそれは感情の冷たさではなく──むしろ、運命の底冷えする冷たさであった。絶望と、もうあり得ない未来への、うす寒い羨 望 。
霊廟は暗く、湿っている。そのせいか、室内は異臭で満ちていた──この湿気では、死体の保存状況はお世 辞 にもいいとは言えない。
そして声はたった独 りで、その悪 臭 に耐えている。
「我は汝らに生命を与えることはできなかった──それは我らの『魔術』では無理だ。恐らくは、至 高 なる『魔法』でならばそれは可能だったのであろうが──」
声は、後悔するように言いよどむ。
「可能だったのであろうが、我が祖先は、我らが《始祖》はそこまで有能ではなかった。その力の不足は歴史に汚 点 を残し──汚点は引きずられ──現在──我らは必要な力を得られぬ」
暗闇に、すっと──緑色の輪 郭 。柔 らかそうな若草色のローブの裾 の、輪郭が見えた。
「そして汝らもだ。いや、してみれば、汝らの状況はもっと悪い。汝らは、必要な生命すら得られぬのだからな──我が汝らに与えてやれるのは、文字だけ──我が力の結 晶 たる《ウィルド・グラフ》だけだ」
声は、気 短 に嘆 息 した。
「そして我の力はこれまでだ。我も、もうじき死ぬだろう。助けも得られずに──しょせん、我らは過去の種族だ。これから先の時間を生きる生命力は、もう残っていない。ふふ──」
声の笑いには、自 嘲 が満ち満ちていた。
「馬 鹿 げたことだが、我は、我が同 胞 たちの遺体が腐 るこの異臭が──まったく気にならぬ。それは恐らくは、我が身体 すらももうすでに腐りかけて、同じ臭 いを発しているせいかもしれんな。いやあるいは──」
と、肩をすくめるような気 配 が、あたりの闇に波 紋 のように拡 がる。
「この臭いが嬉 しいのやもしれぬ。少なくとも、この腐 臭 は我々の存在した証 しだ。だがそれもいずれ──この死肉をネズミどもが食い尽 くせば、もう終わりだ。臭いすらせぬ。地上から、我々は消える......」
声はそこで眠り込んでしまったかのように、ふと黙った。沈黙が闇を深くし──見えかけたローブの輪郭が、また闇の中に溶 け込んでいく。
が──唐 突 に、声は言い切った。
「ふざけるな! 我は消えぬぞ!」
声は息をあらげ、叫 びへと変化する。叫びは絶 叫 へ。そして──
「我は消えぬ! 死ぬことは避けられぬやもしれぬが! 消えぬ!」
──絶叫は断 末 魔 の震えに変化し──
「消えぬぞ! 我は、我の存在した証しをここに遺 すのだ!」
そこで力を使い果たしたというように、いきなり、声は力を失った。がくん、と、なにかが倒れる音。あるいはそれは、声そのものが倒れたのかもしれないが──
とにかく声は、最後に、ゆっくりとつぶやいた。
「だから......汝らは主命を受諾せよ。主命を受諾せよ......」
「──分かりましたよ我が主 。いずれ、ね......」
その答えは、さきほどの声とはまったく別の方向から聞こえてきた。だが明らかに、それは同質の声だった。
もはや生命を持ってはいない、という意味で。
キエサルヒマ大陸の初夏は短い。
誰 もその理由を知らないし、興味もない。マジクもその知らない人間のひとりだ。そしてまた、そんなことに特に関心ない人間のひとりでもある。
だがなんにしろ、一年で最も過ごしやすい時期のひとつであることには違いない。
マジクは、ごろんと川べりの岩 陰 に寝転がって、ぼんやりと虚 空 を見つめていた。
鼻歌など、軽く歌ってみる。
「ねー、マジクー」
と、岩の向こう側──川のほうから、少女の声が聞こえてきた。
「それ、さっきからなんの歌なのー?」
マジクは、ぴたと歌を止めて、しばらく考え込むようにしてから言い返した。
「別に。なんでもないよ」
答えてから、また歌いはじめる。
岩の向こうから聞こえてくる少女の声は、ふうんとなんとなく納 得 したような音を出し、そして無意味に水をはね散らかした。どういう理由か、彼女は好んで真っ昼間から水 浴 びする。そのくせ、人目ははばかるようで、毎度マジクを連れてきては見張りにしていた。
マジクは鼻歌を続けながら、ぼんやりと考えた。
(なんなんだろうね、あのひとは)
と、指で鼻を掻 く。
(前っから、こうだ。学校でも使いっぱしりみたいにされてたじゃないか。くそ。ぼくを誰だと思ってるんだ。ぼくは黒魔術士 マジクだぞ)
と胸 中 で言い切ってから、ふと心細くなり、考え直す。
(いや少なくとも、魔術士の卵 なんだ。魔術士っていえば、騎 士 階級とはいかなくても、平民よりは少し格上の称 号 のはずだよな。あんな──ほら、クリーオウはしょせん、商家の末 娘 に過ぎないじゃないか。あんな女に番犬みたいに扱われる覚えはないんだ)
と、自分の身に着 けている服を見下ろす。数日前に立ち寄った街で新調したもので、彼の魔術の師 である男の服装をほとんど真 似 している。黒いシャツに、サイズの大きい革のズボン、そしてその上に黒いマントを羽 織 っている。これで本当はベルトに短剣の鞘 を差すかなにかして武装したかったのだが、彼の師は絶対に武器の類 いを触 らせてはくれなかった。
(師 匠 まで、ぼくを子供扱いするんだ。ぼくはもう十四だ──もう少しで十五になる。あとたった 半年でだ。なのに、お師様は、リンゴの皮もむけない奴 に刃物なんぞ持たせたらなにが起こるか分からん、だなんて!)
マジクは鼻歌の曲調を少し険 悪 に変えると、金 髪 をかきあげた。絵に描 いたような美少年で、日焼けしていない滑 らかな肌 からなる輪郭は、怒 っていてもなお愛 嬌 がある。
「ねえ」
と、少女──クリーオウが振りかえって、言った。岩陰のマジクからは見えないはずなのだが、彼には分かった。濡 れた金髪を身体 に張り付かせて、クリーオウは聞いてきた。
「なんか、人に見られてる気がするんだけど」
「気のせいだよ。ここは街道から何百メートルも離れてるんだ。こんなとこまでわざわざのぞきにくる物好きはいやしないよ」
「でも──」
と、彼女はきょろきょろとあたりを見回した。歳 は十七。商家エバーラスティン家の末娘である。同家にははるか昔に没 落 貴族の血が混 じっていたことがあるとかで、実際クリーオウにはその特 徴 が色濃い。ほっそりした身体つきと、何日も日射しの下で過ごそうが日焼けしない肌。イミテーションの宝石みたいに焦 点 の定まらない瞳 。そして指。きらきら輝く水面からいきなり鳥の羽毛でも紡 ぎ出しそうに見える器用そうな指は、明らかに農耕を知らない貴族のものだ。
くりかえすが、マジクの位置からは見えない。だがマジクははっきりとその姿に向かって言った。
「野生の獣 かなにかじゃない? ここは水飲み場みたいだから」
「そうかなあ......」
曖 昧 な様子でつぶやいて、クリーオウはまた水玉をはねさせた。
マジクがまた鼻歌を再開する。と──
いきなり彼の眼 前 に、靴 の裏が現れた。はっとしたときには遅く、避ける間 もなくその靴は思いっきり彼の顔面を踏 み付ける。
「ぶっ!」
マジクはうめいて、顔面を踏む足をはねのけようとした。が、もがけばもがくほどその足は巧 みに重心を移動して、マジクを身動きとれないようにしていく。しばらくもがいてから、マジクは悲 鳴 をあげた。
「ちょっと! お師 様でしょ? やめてくださいよ!」
「ほほう。俺 が目の前に立っていても気づかないみたいなんで、ちょっと挨 拶 しただけなんだがな」
というせりふと同時に、すいっと足が引き、マジクが見上げるとそこに〝お師様〟が立っている。ちょうどマジクをまたいで仁 王 立 ちしているような格 好 だ。マジクの服装に、もうひとまわりだけ金をかけたような服装だが、髪と瞳 が両方とも黒いぶん、マジクよりも似合ってはいる。彼はれっきとした黒魔術士で、まだ二十歳 ほどだが、ただの魔術士ではなかった。黒い旅用マントを肩口でとめる金具と、胸元の銀製のペンダントに、剣にからみつく一本脚のドラゴンの紋 章 が輝いている──これは大陸の魔術の最高峰《牙 の塔 》で魔術を学んだ者の証 しで、最高の魔術士の証明でもある。
「いきなり踏むことないじゃないですか、お師様──」
マジクが言いかけると、オーフェンは、しっと指を立てて、
「小声で話せ。クリーオウが気づく」
「なんだ。お師様、のぞきに来たんですか?」
「馬鹿 こけ。お前じゃあるまいし」
オーフェンの言葉に、マジクがぎくっとすると、彼はにやりと笑みを浮かべ、少し腰を屈 めて顔を近づけてきた。
「やっぱり図 星 だったようだな。魔術で光を屈 折 させて、本来視線のとどかないはずのところをのぞいていたってわけだ。鼻歌を呪 文 にして、だ。呪文の声のとどかないところには魔術の効果もとどかないからな」
「あはは」
マジクがごまかし笑いをすると、オーフェンはうんうんとうなずいて、彼の額 に人差し指をつきつけた。
「なぜこんなすぐに分かったかと言うと──まあ、なんだ。俺も昔、やった覚えがあるんだな。見習いのころに」
「あ、そうなんですか?」
赦 免 の気 配 にほっとしながらマジクが聞き返すと、オーフェンはまた一回うなずいてから、ぽかりと拳 で殴 って表情を変えた。
「だが、他人がやってるのを見るとムカつくもんだ」
「そ、そんな理 不 尽 な」
「うっせえな。いいか。二度とやるな。さもなきゃクリーオウにバラす。あいつが怒り出すと手がつけられなくなるのは知ってるだろうな?」

「じゅ、十分すぎるほどに......」
実際それは本当だった。マジクがそう言うと、オーフェンは満足したようだった。
「よし、いいな。二度とやるなよ」
オーフェンは念を押すと、さっと身を起こし、くるりとその場から立ち去っていった。その後ろ姿をしばらく見送り、もう声を出しても聞こえないところまで離れたところで、マジクはぽつりとつぶやいた。
「......なんなんだろうね。お師様も。ヘンなところで生 真 面 目 なんだから」
と肩をすくめ、彼はまた鼻歌を再開した。
◆◇◆◇◆
(冗 談 じゃねえぞ、あのガキ!)
オーフェンは動 悸 のとまらない胸をさすりながら、すたすたと足早に歩いていた。彼らの馬車の停めてあるところまで一直線に行きながら、ひたすらに胸中で毒づきつづける。
(魔術を使っていた 、だと? まだあいつには二週間しか教えちゃいないんだぞ!)
通常、魔術士が魔術を扱えるようになるまでは数年から十数年かかる──人によりある程度は違うのだが、大差はないのが普通だ。まるっきりなんの力もない見習いが、魔術という新たな『感覚』を身につけるだけでも五年はかかると言われている。極端に才能に恵まれた人間だけが集まる《牙の塔》においてでもだ。オーフェンはそれに三年と四か月かかった。それでも、まれに見る短期間記録だともてはやされたのだ。
(二週間だと?)
もっとも、マジクの扱っていた力というのは、見習いが初めて魔術というものを扱えるようになった頃の程度の、ごくごく初歩的な力に過ぎない。言ってみれば、半人前以下だ。一般に魔術士の成 熟 段階には三段階あり、一段階目が単に『魔術』という力を知覚でき、また自 らもその力を扱えること。そして二段階目が重要で、その魔術の力を集中しまた増幅できること。ここで初めて一人前の魔術士となり、《牙の塔》であれば紋章のペンダントを授 与 される。ちなみに三段階目は、ようするに一人前の魔術士となってから、その力によって大きな研究業績をあげているということで、魔術士の力量にはあまり関係ない。
一段階目の魔術士のように、ただ単に周 りに魔術を放射しているだけでは、たいした力にはなってくれないのだ。せいぜいがのぞきか、手を触 れずにマッチ箱を動かすといった程度で、お湯を沸 かすこともできない。自分の力を、その目的に合わせて集中させ、なおかつ増幅してやらなければ、まるっきり意味がない。
だがそれにしても二週間は法外である。
(このぶんじゃ、一年を待たずに魔術士になっちまうんじゃねえか、あいつは?)
もし、そうなってしまうとすれば──
最後の一 言 は、彼は声に出してつぶやいた。絶望的な声 音 で。
「来年から授業料がとれねえじゃねえか!」
◆◇◆◇◆
「──というわけで、このマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカンが、命をかけて黒魔術士の邪 悪 な陰 謀 を打ち砕 き、このバルトアンルデスの剣を取り返した、というわけです」
と、堂々と告 げた兄の背後で、ドーチンは小声で訂正した。
「バルトアンデルス」
「そう。バトルアンデルス」
振りかえりもせず、しかもかたくななまでに間 違 いはそのままで、ボルカンが言い直す。
ドーチンは嘆 息 を押し隠 しつつ、兄の背後から、彼らの正面にいる黒ローブの大男へと視線を移した。
「............」
のっぺりとした顔の大男は、じっとボルカンを見返しているくせに、その説明にはぴくりとも反応せず、ただだんまりしている──というか、なんだか言葉が通じていないふうだ。
彼らがいるのは、少し大きな都市にならどこにでもある大陸魔術士同盟 の支部のひとつである。建物に入ってすぐの受付で、さっきから一時間あまりも、兄は彼が手に入れた古代の秘宝──バルトアンデルスの剣を売りこもうと説明をくりかえしている。が、その受付に座 っている大男は、まるっきり無表情にぼんやりしているだけであった。
さすがに不安になってきたらしく、ボルカンが恐 る恐るというようにつぶやくのが聞こえた。
「聞いてる?」
「......ううっす」
大男は、ぼそり、とそう口にした。
くるり、とボルカンがこちらを振りかえる。
「ドーチン、ひょっとしてと思うんだが、こいつ馬 鹿 なんじゃないか?」
「しっ。聞こえてるよ......」
とドーチンは注意したが、ちらりと見たところ、明らかにその大男は聞いていなかったらしく、また虚 空 を見つめてぼんやりしている。
ボルカンとドーチンは、合わせて嘆息した。兄はまたその受付の大男に向きなおり、もう何度目かになる《剣》の説明をくりかえしはじめたが、ドーチンはもうどうでもいいような気分で、あたりを見回した。
大陸魔術士同盟が、ダムズルズ・オリザンズ──『古 乙 女 の祈 り』と呼ばれるのは、その紋章が祈りを捧 げる乙女の横顔だからである。半円形の盾 の真ん中に、祈 祷 する女性の横顔(もっともドーチンはいつも思うのだが、どうもその女の顔は乙女というよりははるかに老 けて見えた)が浮き彫りにされていて、その紋章が受付の奥の壁 に掲 げられている。
このアレンハタムにある魔術士同盟の施 設 は、それほど大きなものではなく、ドーチンらが二週間ほど前までいたトトカンタのものに比 べれば、規 模 にして数分の一という程度だろう。どうも小学校の払い下げのような建物で、魔術士の連合の場にしては、妙 に採光が良い。床 はリノリウム張りだが、あちこちひび割れて、おまけにロクに掃 除 もしていないらしい。壁も、随 分 と古い汚れが目立った──傷はもとより、半分しか消されていない落書きの跡 、子供のものらしい手形、靴 を投げ付けてついたらしい、ちっちゃな足跡が天 井 にくっついている。
建物の入口には見張りもいなかった──だから、魔術士でもなんでもない彼らが魔術士同盟の建物に入ることができたのだ。ただ入場したとたん出くわしたのがこの受付の大男で、考えてみるとこれは屈 強 な兵士が見張りにいるのよりも始末が悪かった。建物の奥に入れてもくれないし──追い出してもくれない。
そう。とりわけ、追い出してくれないのが問題だ──と、ドーチンはまた胸 中 でため息をついた。自分の分 厚 い眼鏡 ごしに、兄の背を見る。身長百三十センチにしてはずんぐりとした体格の、毛皮のマントにすっぽりと包まれた兄──ボルカノ・ボルカンの背中。マントのすそからちらりと剣の鞘 が見える。彼はその剣とは別の、古風な大剣を受付のカウンターに載 せて、背伸びしながら大 仰 に、その剣を手に入れたいきさつをわめいている。
「邪 悪 な魔術士の一団が──」
「そのとき、助けを求める女の声──」
「地を割って現れる大怪 獣 ──」
くりかえすたびに微 妙 に変わっているため、今では事実とはまるっきり違った話になっているが、どちらにしても、受付の大男の表情には理解の光が現れる気 配 がない。ドーチンは眼鏡をいったん外 し、自分のシャツでごしごしとこすってからまたかけなおした。
(まったく──だから、こんなトコに来るのはよそう、って言ったんだ)
と、身長二メートルにもとどきそうな大男の顔を見上げる。兄よりもいくぶん背の低いドーチンの視点からでは、まさしくその男の顔は天の高みにまでとどきそうに思えた。
ボルカンがまた話を終え、ぜえぜえと息を切らしながら、大男ににこりと笑いかけるのが見えた。兄は、子供が親の機 嫌 をとるような表情で言った。
「お分かりいただけましたか?」
「ううっす」
と、大男。表情に変化はない。兄は、それでも意気込んで、
「じゃあ、この剣、おいくらで引き取っていただけます?」
「ううっす」
大男はそれをくりかえしただけで、また今までと同じように虚空を見つめつづけた。
「............」
兄は、またこちらに向きなおった。
「ドーチン。やっぱ、こいつ馬鹿だぞ」
「聞こえてるってば......」
ドーチンはあわてて兄を押し止めたが、実のところ彼も同じことを考えていたところだった。
「どーすんだよ、ドーチン。こいつと話をしてても埒 があかねえぞ」
「どーすんだって......あのバルトアンデルスの剣を魔術士同盟に売り付けて換 金 しようって言い出したのは兄さんじゃないか」
「俺のせいだってのか?」
と、ボルカンはこちらの胸 倉 をつかみ、すごんでみせた。
「お前だって反対しなかったろーがっ!」
「したじゃないか! 魔術士がぼくらのことなんか相手にするわけないって──」
「相手にしないっつっても、こーいう 意味とは違うだろーが!」
と叫 びつつ、兄が後ろでまだぼんやりしている大男のほうに手を振る。ドーチンは、しぶしぶ同意した。
「そりゃそーだけど......」
「なら、その反対は無効だ。そーいうわけで、お前が悪い!」
「ンな無茶な!」
わめきながら、ドーチンは助けを求めようとまた大男の顔を見上げた。大男の表情には、まるっきりなんの変化も見られない。
胸倉をしめあげる兄の手を押さえつつ、ドーチンは大男に向かって言った。
「あのう......こういうふうに、目の前でいさかいが起こった場合には、普通、止めようとするもんなんだと思いますけど......」
「ううっす」
大男はいきなり動き出すと、さっと受付のカウンターの奥から身を乗り出し、後ろからボルカンの襟 首 をつかんで持ち上げた──ドーチンから引きはがされ、宙づりになって手足をばたばたさせながら、ボルカンがわめく。
「な、なんだあ? くそ、ブリキのバケツで被 せ殺すぞ! おいコラ、ドーチン、お前のしわざか?」
「............」
ドーチンは、兄のせりふには答えずに、ぼうぜんと大男を見上げた。
そして、なんとなく、ピンときた。
コホン、と咳 払 いしてから、
「ええと......兄を落としてください」
ドーチンの言葉に反応して、大男が、ぱっと手を放すと、ボルカンは為 すすべもなくどさりと床に落ちた──
ボルカンがつぶやく。
「なぜ下ろせと言わずに落とせと言った......」
無視して、ドーチンは続けた。
「手を挙 げて」
「ううっす」
大男は即座に頭の上まで両手を挙げた。
こちらに飛びかかってくることも忘れて、ボルカンもあぜんとして大男の挙動を見つめている。ドーチンは、さらに続けた。
「洟 を垂 らして」
「ううっす」
大男は自分の鼻の穴に第二関節まで人差し指を突っこむと、また引き抜いてみせた。そうそう都 合 よく鼻水は出なかったが、かわりにぶばっと鼻血が飛び散った。
「お、おい、なんなんだよ、おい」
さすがに気味悪がって、ボルカンがこちらに擦 り寄るように近寄ってきた。ドーチンも気味悪いのは同様だったが、とにかく兄よりはいくぶん冷静にいようと、顔の下半分を血まみれにした黒ローブの大男を見 据 えつつ、つぶやくように言った──ごくごく当たり前のことを。
「どうも......なんだか──ここの魔法使いは、ヘンみたいだね」
結局その受付は無視して、ドーチンらは建物の奥へと進んでいった──ドーチンとしてはさっさと出ていきたいところだったが、ボルカンはそんなことは無視してどんどん廊 下 を進んでいく。鞘に収 まったバルトアンデルスの剣をかついで、よたよたと歩く兄の後を追いながら、ドーチンは、とにかくひたすらにいやな予感がしていた。
(ひょっとして、ぼくの人生ってずっとこのままなんじゃないかしら)
と、不吉なことまで脳裏に浮かび上がってくる。
(故郷にも帰れずに、その日暮らしに寝泊まりして、しつこい借金取りに追い回されて各地を転々として、ことあるごとに兄さんに剣で殴 り倒されて、しかもそれでケガしても病院にも行けないし......)
ぶつぶつと胸中で数え上げていると、どうやら先を歩いている兄も似たようなことを考えていたらしい。ボルカンが誰ともなしに毒づくのが聞こえてきた。
「ったく、ついてねえ。せっかくこんな──」
と、かついでいる剣を持っている手でこづき、
「こんなくそ重い剣をかついでわざわざ来てやったのに、受付は能無しで出迎えもなしだ。魔術士ってのが、こんな無 愛 想 な代 物 だと思わんかったよ。人間ってのはどいつもこいつも詐 欺 師 か人殺ししかいねえと思ってたんだが、これに退 屈 まで加わるとはな!」
それを聞いて、ドーチンは声を出さずに返答した。
(......それを言ったら兄さんなんて、詐欺師どころかウソつきのチンピラ程度じゃないか。退屈なんてのは言うまでもないけど)
聞かれていたら半殺しのメにあっていただろうが、心の声は通じない。特にこの兄には。
──つくづく、兄弟の絆 なんてのはウソだ。とドーチンは思った。
とは言え、ボルカンがこうも人間にグチを言うのにも、理由がないわけではない──そもそも彼らは『地 人 』である。大陸南部の極寒地に住む彼らの種族は、それ以外の土地にはめったに足を踏み出したりしない。家を勘 当 された彼ら兄弟(正確には親に勘当されたのはボルカンだけだったが、ドーチンは誘 拐 同然に兄にひっぱり出されたのだ)のほかには、このあたりで地人を見かけることなどほぼ絶 無 と言ってよかった。
さらに加えて人間たちの認識として、地人はただでさえ体格が小さいからまるで子供を強制労働させてるように見えるし、ひどく不 器 用 だし、風 呂 にも入りたがらない。
よって、この人間の都 で地人がマトモな仕事を見つけられるわけがないし、そもそもマトモな扱いを受けることすらあまりないと言っていい。そのためドーチンらは郷里を飛び出してから一年半、ほとんど浮 浪 者 同然の生活を送ってきた。もっともこれは、もし人間が地人たちの土地──マスマテュリアに足を踏み入れたなら、まったく逆の立場で同じことが言えるだろうから、誰が悪いというわけでもない。
ドーチンはそんなことを自分の頭の中だけでぶつぶつとまとめると、小さくあくびした。
兄がまたなにかぶつぶつ言っているのが聞こえたが、それは聞き流した。
実際、兄の言うことなどどうでもよかったのだ──どうせ、退屈でしかも的 外 れなことしか言わないのだから。だが、それでも少しは聞いておかないと、あとで質問に答えられず気まずいことになる。
ボルカンはそんなことに気づくそぶりもなく、大声で続けた。
「どーも、人間どもは俺をなめてるんじゃねえのか? 宿をとろうとすれば断られるし、仕事も斡 旋 してもらえないし、道を歩くだけで野 良 犬 が飛びかかってくる」
ボルカンは魔術士同盟アレンハタム支部の廊 下 を我が物顔で歩きながら、ぐっと拳 を握って熱弁している。ちらりとそちらを一 瞥 して、ドーチンは口の中でぼやいた。
(当たり前じゃないか)
だが理由は違う。宿を断られるのは兄が帯剣しているせいだし、仕事がもらえないのも兄が斡旋所で順番を守らないせいだ。さらに言えば犬に関しても、ボルカンが餌 を横取りしたりしなければ、ああも頻 繁 に野良犬に追い回されることはなかろうと思う。
武装ということで言えば、ドーチンは今まで幾 度 となく遠回しに、兄に帯剣するのをやめさせようとしてきた。この戦争のセの字もない平時に武装するのは軍人か魔術士か、そうでなければ変 態 だけだ。さらに魔術士と変態は同義語だから、結局帯剣するのは軍人と変態の二種類だけだと言ってもいい。
そして不幸にも、兄はその当の変態だ。少なくとも、大体そんなようなモノと呼んでも差し支えはあるまい。
「俺たちは、迫 害 されている!」
ボルカンが拳を振り上げて叫ぶ。もっとも、しんと静まり返った廊下からは、なんの反応も返ってこない。
ふう──と嘆 息 してドーチンは、あたりを見回した。ただ一直線に続く廊下は、ところどころにバケツとモップが置いてある以外、色気のありそうな調度はなにもない。魔術士同盟の建物に入ったことなどなかったから詳 しいことは知らないが、もしほかの都市の魔術士同盟も似たような施設を構えているというのなら、そう──確かに魔術士どもは退屈な連中だろう。
だがそれはそれとして、ドーチンはふと疑問に思った。
(──なんで誰もいないんだろう)
今は二時半──昼休みといった時刻ではないし、廊下をこれだけ歩いたのだから、ひとりくらい、誰かすれ違う職員かなにかいてもおかしくないはずだ。魔術士同盟はどう見積もっても零 細 組織ではないし、人手不足という話も聞いたことはない。とにかく──彼の持っている魔術士たちのイメージからすれば、この魔術士同盟という場所では四 六 時 中 、魔術士たちが、扉 の建て付けが悪いといっては稲 妻 かなにかで吹き飛ばし、はさみが錆 びてよく切れないといってはかまいたち で机ごと紙を両断し、すれ違うとき肩がぶつかったといってはお互いに呪 いをかけあうところのはずだった。
それにしては、静かすぎる。
(まるで──無人みたいだ)
と、前を歩いている兄が、ぴたりと足を止めた。それにあわせて、ドーチンも立ち止まる。見ると、兄はまるっきりきょとんとした顔で、たまたま廊下の左手にある、扉が開きっぱなしになった部屋をのぞきこんでいる。
扉に貼 ってあるプレートには『更 衣 室』とある。その下に、扉に直接『一年C組』と刻 まれてあったが、それは金 釘 のようなものでぶざまに消されてあった。どうやらこの建物は本当に学校の払い下げらしい。
兄の視線を追って部屋の中を見てみると、そこには上半身半 裸 で長 椅 子 に腰掛けて、手羽を縛 り上げられた鳥みたいな格 好 でブラのホックに手をかけた、目の覚めるような美しい人間の魔女が無表情にじっと前方を見つめている。彼女はぴくりとも動かず、まるで石化したみたいにひたすら虚 ろな双 眸 を見開いていた。
「あの......」
と、ドーチンはなんとなく声に出した。
「そんな姿勢じゃ疲れるでしょうから......楽にしたらどうですか?」
「はい......」
と魔女は感情のない声で返事すると、そのままばたんと──長椅子の下に転げ落ちるようにして、倒れた。しばらくして、彼女のいびきが聞こえてくる。
「......ぞっとしねえな」
あからさまにぞっとした顔色で、ボルカンがぼやいた。ドーチンは、うんとうなずいてから、
「ここにいる人って、みんなこうなのかな。まるで......ほら、魂 を抜かれたみたいだ」
「陽気のせいかもしれんな」
無責任なことを、ボルカンがつぶやく。
だがドーチンは別のことを考えていた。
(まるで昔話の砂の獣王 みたいだ)
『その眼 差 しの毒によりて民 を殺す』──確か、伝説にはそんなふうに言われていたように思う。一 瞥 が岩を砕き巨木を打ち倒し、そして......人の魂までも消し飛ばしてしまう。もし実在するならば、この世でも最悪の存在のひとつだろう。
もっとも、このキエサルヒマ大陸には獣王が住むべき砂 漠 などない──というか正確には、砂の獣王が住む場所が必然的に砂漠になってしまうわけだが。
なんにしろ、この大陸では何百年も、そんなとんでもない化 け物などは出現していないはずだ。
と──そこまで考えたとき、ようやく初めて、建物の中に人の声が響いた。
「うぎゃあああああああっ!」
悲 鳴 !
わっ! とボルカンが、剣を抱 えたまま仰 天 して尻 餅 をついた。ドーチン自身も、ぎょっとして逃げ道を探したが、考えてみればそんなものは今まで歩いてきた廊下を引き返す以外にはない。ドーチンがまさしくそうしかけたとき、その足首をぐっとつかむ者があった。
「待て!」
「な、なにすんのさ兄さん! 逃げないと──」
「馬 鹿 者 ! ここで逃げ出してどーするっ!」
ボルカンはそう叫ぶと、今度は抱きこむようにドーチンの足に腕を回した。そのまま、おもちゃをねだる子供のように首を振り回して続ける。
「マスマテュリアの闘犬! 戦士ボルカノ・ボルカンは決して敵に背を向けたりはしない! 理由は分からないが、どーやらこの建物にいる魔術士はとんでもないやっかいごとに巻きこまれているらしい!」
「い、いや、だから逃げないと──」
「痴 れ者!」
ボルカンは叫び、とうとうドーチンのベルトをつかんで、そちらに引きずりたおした。
「義を見てせざるは勇なりなきとゆー言葉を知らんのか!」
「......勇なきなり、だと思うけど」
「細 かいところはどーでもいいっ! とにかく、ここでお前のすべきことは逃げ道を探してみっともなく騒ぎ立てることじゃないっ!」
「ぼ、ぼくのすべきこと?」
「そーだ。真実だ──この異常事態の原因を見 極 め、真実を見つけることだ!」
「に、兄さん......」
ドーチンはまじまじと兄の顔をのぞきこみ、
「なんか悪い病気にでもかかっちゃったの?」
「違うわっ!」
ボルカンは、こちらの顔の真ん中に拳を打ちこんでから続けた。
「つまり俺の言いたいことはだな──その──説明するには時間がない──いや──」
と、急に考えこんでから、
「くそ、お前も弟なら、兄の考えることくらい分かれ! 知ってろ!」
「ンな無茶な......」
ドーチンはうめいてから、そして──いきなり、分かってしまった。
ジト目になって、兄を見やる。
「ひょっとして兄さん......ぼくに砂の獣王 を探せとでもいうわけ?」
その名を聞いて、ボルカンはきょとんとした顔を見せた。
「......なんだその『ばじりこっく』って」
「いや、知らないならそれでもいーけど......」
「いーならいい。とにかく、お前の探さなければならないのは『ばじりこっく』なんかじゃない。もっと重要なことだ。つまり──真実だ」
「真実って、なんの真実さ」
うんうん、とボルカンは両手を広げ、諭 すような声音を出した。
「なあドーチン、俺たちにいま必要なことって、なんだ?」
たもとを分かつことだと思うけど、という言葉は喉 の奥にひっこめて、ドーチンは首をかしげた。
「さ、さあ......」
「俺たちの生活に欠 乏 しているものは、なんだ?」
「えーと......」
ドーチンが悩 んでいると、いきなりボルカンは顔を紅 潮 させ、怒 鳴 りつけてきた。
「金だよ!」
「え、ああ......そう。お金ね」
ドーチンはほとんど上 の空につぶやいて、眼鏡の位置を直した。さっさと逃げ出したかった。
ボルカンが続ける。
「つまり、だ。俺たちはこのバルトアンデルスとかいう魔法の剣を──」
「あ、兄さん。成長したね。五文字以上の単語をちゃんと覚えられたなんて」
「やかましい!──ええと──とにかく、俺たちはバルトなんとかの剣を換金するためにこの化け物屋 敷 にやってきた──が、ここの連中にはどうやら取引をする能力がないらしい。実際、なんだかよく分からないやっかいごとのせいで、それどころじゃないみたいだ」
「そ、そうだね」
口ごもりながら、ドーチンは答えた。兄がなにを言いたいのか、だんだん分かりかけてきていた。
案の定 、ボルカンは言った。目を閉じて、指を一本立て、もったいぶって。
「つまり、こーゆう状況だから......俺たちが勝手にこの剣の代金をもらっていっても、別に悪いことじゃないんじゃなかろーかと──」
(やっぱり)
と、ドーチンは嘆 息 した。
(火事場泥 棒 をしようってんだ。兄さんは)
「違う!」
と、唐 突 にボルカンが声を張り上げた。ぎょっとしてドーチンが後ずさると、兄はふっふっと含み笑いしつつ、
「図 星 だったよーだな......この兄が火事場泥棒などと恥知らずなことをするわけがなかろーが。あ・く・ま・で、取引の代行だ」
(なんで、こーゆうときだけ妙に鋭 いんだよ)
ドーチンは額 の汗をぬぐいつつ、聞いた。
「結局、具体的になにをするのさ」
兄は、平気な顔で言った。
「うん。まずは金庫を探そう。どーにかして開 ければ、好きなだけ持ってけるぞ」
(......やっぱり火事場泥棒じゃないか)
口の中でつぶやきつつドーチンは、ゆっくりと立ち上がった。と、まだ床に座 りこんだままの兄を見下ろして、
「......なにやってんのさ兄さん。なんにしろ、早く行こうよ。いつまでもこんなトコに座ってんのはヤだし──」
「無論だ」
だが座ったままの姿勢で、ボルカンは断言した。
「でもさっきから──その──持病の椎 間 板 ヘルニアが再発したせいで身動きがとれんのだ」
「......まさか兄さん、腰が抜けたんじゃないだろうね」
「違う! 断じて腰なんぞ抜けとらんし、ひざも笑っとらん! いわんや、できればお前ひとりで行ってきて欲しいなんて思っとらんぞ!」
「............」
「分かったら、ちゃんと俺をおぶってけ。ったく、気の利 かない奴だな」
「............」
もうどーでもいい、という気分で、ドーチンはため息をついた。
散歩にふさわしくない場所──と言われれば、墓地、病院、枯 れ井 戸 の中、その他にも親の寝室、登ったはいいが降りられない高い木の枝など、いくらでもあるだろうが、その中でも極 め付けは魔術士同盟の建物の中じゃないかと思う。
ほとんどひきずるようにして不器用に兄を背負い、ドーチンは廊下を歩きながらなんとなく、意味もなくドラム缶 を転がしつづける奴 隷 の姿を脳 裏 に描いていた。しかも実際、それは彼の現状と近からず遠からずといったところだった。
背中から、ボルカンの声。
「もっと速く歩けんのか? さっさとしないと異常事態に気づいた警察がやってくるかもしれんぞ!」
ドーチンはふと胸中に、さくりと突き刺さる衝 動 を覚え、そーか、これが殺意というものかと納 得 した。
もと学校(だとドーチンは確信していた)のこの建物は、造りからしてかなり単純だ──三階建ての棟 がふたつ、平行に並んでいる。それぞれの棟の東側に階段があり、その反対側の端には非常階段の扉が見える。廊下は直線。各階にむっつずつの部屋があり、一棟だけは少しだけ棟が大きく、もと事務室とおぼしき部屋がある。その部屋は今では、過去の書類置き場になっているようだった。
「さっきの悲鳴は、どこから聞こえてきたのかな」
ドーチンが聞くと、ボルカンはさも当然そうに、
「なに。そんな広い建物でもないし、片 っ端 から調べればいいだけのこった」
(ひとに担がれておいて、なに言ってるんだ)
ドーチンは胸中で毒づいた。それに、さっきからいやな予感がするのも気になる。
自分より体重のある兄を背負って、ひいこら言いながら階段を昇り、ドーチンらは建物の三階までたどり着いた。二階は通り過ぎてきた。一見して、魔術士たちの私室に見えたからだ。こういった魔術士の巣 窟 でなにか異常なことが起こり得るとすれば、研究室みたいなところに違いないと、ドーチンは判断していた。
そして三階が研究室になっているらしかった。
第一から第六までナンバーのふられた研究室の扉がずらり並んでいる。廊下から見て、第一から第五までの研究室は窓に分厚いカーテンが降りていて、今は誰も使っていないらしい。第六──つまり、階段から一番遠いところにある部屋は、扉がわずかに開いている。その扉の隙 間 はいかにも彼らを誘 っているようで、ドーチンはどうしてもネズミ捕 りの開きっぱなしの入口を思い出さずにはいられなかった。
と──第六研究室に向けて足を踏み出しかけて、ドーチンは自分で自分にぎょっとした。
(......ぼく、なにやってんだ? 探してるのは事務室の金庫で、バジリコックじゃないだろう?)
だが、踏み出しはじめた足はもう止まらない。気が付くと彼は、それまで兄を担いでふらふらだった足取りの名 残 もなく、すたすたと廊下を歩きだしている。
「......!......!」
ドーチンは必死になって、足を止めようとした。が、どうしても身体 が言うことを聞かない。それどころか──少しずつ、第六研究室に近づくにつれて、頭の中が真っ白になっていく。
(なにも考えられなくなっていく!)
あっと思って肩越しに兄の顔を見やると、案 の定 ボルカンはさっさと意識を失って、あの受付の大男と同じ目付きで虚 空 を見つめている。ドーチンはなんとかあらがおうと、自分で自分の足を引っかけた。身体の勢いがなくならないまま完全に転んで、ドーチンは顔面から床に激突した。
「痛てて......」
鼻をさすりながら、うめく。と──声が聞こえた。
「抵抗するな」
「............?」
ドーチンは仰 天 して顔を上げた。どんな伝説でもバジリコックが話をしたなどというのは聞いたことがない。
見ると、第六研究室の扉の陰から、すらっとした裸 身 の男がこちらを見 据 えている──肌がやや青っぽい、そして異常に痩 軀 の人間である。いや......あれは、人間ではない、とドーチンは唐 突 に気づいた。
「......人形?」
床から見上げたかぎりでは、その男からはひどく無機質の印象を受けた。
肌は妙に滑 らかで血の気 がなく、呼吸をしているそぶりもない。顔を始めとして身体全体に凹 凸 が少なく、関節の部分だけが不自然なくらい膨 れている。頭髪は薄く、体毛にいたってはまったくない。背は、普通の人間よりもやや高いくらいか。男は右腕に、衣服らしき赤い布のようなものを携 えている。どう客観的に見ても似合わないが、そんなことはおかまいなしにそれを着ながら、男は言った。
「......お前たちの言葉はまだよくは分からないが、心の声で聞くかぎりは、その呼び方はそれほど的 を外 れてはいないようだ」
「......へ? に──『人形』のこと?」
ドーチンは聞き返しつつ、身を起こした。さっきまで意志に反して動きつづけようとしていた両足は、今ではその反動か、ぴくりとも動こうとはしない。
「あ、あのう──あなたは誰ですか?」
虚空を見つめたまま動かないボルカンをわきに転がしつつ、ドーチンは聞いた。男は、赤いトーガのようなものをまとって、
「わたしは秘宝の番人だ」
「秘宝の番人?」
「そうだ。はるか古代から、我が主人の遺 した秘術の数々を封 印 ・守護してきた」
「............」
ドーチンはぼうぜんとして、その秘宝の番人とやらを見つめた──番人はゆっくりと、こちらに歩いてくる。
とっさに、逃げなければならないような気がした。が、足が動かない。
(な──なんなんだ? さっきから身体が思うようにならないし......)
「お前たちはわたしに支配されている」
「そ、そんな──」
「ここの人間たちはすべてわたしの魔術の影響下にある」
「ぼ、ぼくは?」
「どうやら完全には効 かなかったようだ」
「なぜ?」
「分からない。だが、魔術が効かないのなら別の手がある」
「......どんな手?」
情けない声を出してドーチンが聞くと、番人は無言で右手を開いて掲 げてみせた──かちり、と音がして、中指の先から十センチほどの、針のように細い刃 が飛び出す。
「で、できればもっとほかの手を考えてくれないかな?」
ドーチンが懇 願 するように言うと、番人はほんの一瞬だけ、ぴたりと足を止めた。次いで中指の刃を引っこめ、拳 を握ると──がくんと手首がずれて、彼は左手で、手首と拳の隙 間 から鋭い鋼 線 のようなものをひっぱりだした。そして、また歩きだす。
「それはそれで痛そうじゃない」
ドーチンはうめき、とにかく逃げようと身をよじった。
と、その瞬間、彼の毛皮のマントのすそが開いた。
同時に、番人がまた立ち止まる。
「............?」
ドーチンがいぶかしげに見やると、番人はじっと彼のマントの中を見つめている。ドーチンもつられてその視線を追うと、そこには兄から預かっていたバルトアンデルスの剣がある。人間サイズの武器は地人が腰下に下げるには長すぎるのだが、それでも鞘 の留 め具をベルトにひっかけて、ずっと床をひきずってきたのだ。
番人は、わずかに驚いたような声を出した。
「それは......魔術文字 の剣か......?」
「わ、分かるの?」
ドーチンはうめきながら、よく見えるように剣の上からマントを払った。
番人は手を伸ばせばとどくところまで歩を進めてから、
「無論だ。なるほど、その剣の魔力が、わたしの魔術を阻 んだというわけか」
「............」

それが幸運なことだったのか、はたまたその逆か胸 中 で考えながら、とにかくドーチンは固 唾 を呑 んでじっとしていた──番人はじっとバルトアンデルスの剣を見つめている。その表情は近づけば近づくほど、ますます感情が読めない。番人は色ガラスのような空色の瞳 で、なにかを深々と考え込んでいるようだった。
番人は、不思議そうにつぶやいた。
「その剣にはバルトアンデルスと名前が記されている。たいした力は持っていないが、それでも人間には過ぎたものだ。はて」
と、首をかしげる。手首の鋼線をしまいながら、
「お前は魔術士ではないな、どうしてそんなものを持っている」
(なら、なんで人間ですらない あんたがこの街にいて、しかも魔術士の施設を襲ったりしてるのさ!)
だがそれを口に出すほどの度胸 はドーチンにはなかった。さっぱり分からない。ここはなんの変哲 もない魔術士同盟の支部だ──なのに、そこにいる魔術士たちはなぜか全員痴呆 のようになっていて、研究室からはなんだかよく分からない秘宝の番人だか人形だかが現れる。しかも、彼をこの事態に巻き込んだ当の本人──ボルカンはひとりでさっさと痴呆の仲間入りを決めこんでるときた。誰がここまで担いできたと思ってるんだ。くそ。
ドーチンは毒づいた。が、そんな場合ではない。
事態がさっぱり分からないのだ。さっぱり分からない。
が──
ドーチンは覚悟 を決めると、でき得るかぎりにこやかな笑みを浮かべ、両手を広げた。
「ぼ、ぼくがなぜこんなものを持っているかというと──その──」
と、さっきボルカンが何度もくりかえしていたホラ話を思い出し、
「つまり、オ......オーフェンと名乗る邪悪 な黒魔術士がいまして──」
彼は薄ら笑いを浮かべつつ、冷や汗をたらした。
(問題は演技力だ)
母さん、ぼくはウソをつくよ──
そのウソが後々どれほどのことをひきおこすかなどは想像もつかなかったが、とにかくドーチンは話しながら、今日何度目かの不吉な予感を覚えていた。
「水と人の都市!」
「歴史との邂 逅 点 !」
で、ふたりで同時にハモる。
『麗 しのアレンハタム!』
──と、ちゃちな彫刻の門構えみたいにふたりで両手を広げたポーズのマジクとクリーオウを、わきで半眼になってにらみながら、オーフェンはつぶやいた。
「なにネタあわせなんぞしてやがる」
「だってえ」
と、クリーオウは唇 をとがらせて抗 弁 した。
「ヒマじゃないですか」
マジクも似たような顔であとを続ける。オーフェンは嘆 息 まじりに、彼らの前をずらりと続く行 列 を指 し示した。
「ヒマは当たり前だろう。だいたい、最初に言っただろうが。アレンハタムには観光客が切れ目もないほど訪 れるから、街に入るのにはいやってほど時間がかかるってな」
「あはは。なんだかお師 様って、たまの休日に子供に無理やり家族旅行に連れ出された父親みたいですね」
「言ってやがれ。くそったれが」
オーフェンは険悪な形 相 でマジクに言うと、持っていた荷物を生徒の腕の中に放りこんだ。受け止めそこねてマジクは倒れたが、オーフェンは無視して助けなかった。
馬車での入都はできないので、街の外の馬屋に預けてある。そのため必要な荷物は手でぶら下げていくしかなく、特にクリーオウの荷物まで持たされていたオーフェンはかなり機 嫌 が悪かった。もともと皮 肉 っぽい造 作 の顔をさらに引きつらせて、彼はぶつぶつとぼやいた。
「だいたいだなあ、おめーらが寄り道したいなんぞと言い出さなけりゃ──」
「なによ、オーフェン」
クリーオウは、最近妙 に気に入っている無地の白Tシャツに野 良 作業用のジーンズという格 好 で、ずいと詰 め寄ってきた。この服装は、実はマジクの持ち物を拝 借 したものだが、なぜかサイズはぴったりだった。これはマジクには偶 然 だと言ってあるが、実はクリーオウがこっそり縫 い直してしまったからだということをオーフェンは知っている。
なんにしろ、クリーオウは続けた。
「旅を楽しむ心ってものがないの? 道なりにずっと馬車の中から外を眺 めるだけなんて、こんなの旅行じゃないわ」
オーフェンはにこりともせず、
「別に俺は旅行をしてたつもりはないんだがね」
「......じゃ、なんなの?」
「忘れてねえか? 俺は金貸しなんだぜ?」
しかもモグリの、である。
「役所の許可を取らずに利子をとって金を貸してんだ。だから好きなように高利をつけることはできるし、税金もかからねえが、そのかわり顧 客 が借金を踏 み倒して逃げたとしても、役所に訴 えでるようなことはできねえんだよ。失 踪 した客の捜 索 を警察に頼むこともできねえし、とにかく自分で追いかけ、自分で見つけだし、自分で取り立てなけりゃならねえんだ」
「ヤクザ商売ねー。だいたい、税金がかからないって、それ脱税じゃない」
クリーオウがぼやくように言う。
オーフェンは、フンと鼻を鳴らしてから続けた。
「あのクソ地 人 どもを火の馬車に乗ってでも狩り出してやらにゃ、こちとら破産なんだ。こんなトコで遊んでる暇 はねえんだよ」
しかもオーフェンの場合、金貸しの資本金が借金なので、せめて元手だけでも取りもどさなければ、今度は一転、彼自身が追われる身となってしまう。
「マジクから月 謝 をとってるくせに」
まるでそれを自分が払っているかのように胸を張って、クリーオウは言った。
オーフェンは片手で額をかきあげて一 蹴 した。
「そりゃ多少はもらってるがな、それだけで三人分の食いぶちに足りるとでも思ってやがんのか?──ったく、良家のお嬢 様 のくせして、文 無 しでついてきやがって」
クリーオウが隠れて舌を出しているのが見えたが、オーフェンは気づかないふりをした。
「あ、あの、ぼく、働きましょうか?」
一番大きいクリーオウのバッグをなんとか抱 えながら、マジクがようやく起き上がって追いついてくる。
オーフェンはため息を押し隠して、
「そーだな。考えとこう」
結局、俺が働くしかねえんだろうけどな、と思いながら。
「うっわー」
入口でさんざ待たされたことも忘れ、とにかく街に入ってしまえば、クリーオウの機 嫌 はなおったらしかった。ざわざわと人通りのとぎれそうもない雑 踏 の中で、彼女はきょろきょろとあたりの風景を見回している。この一大観光都市の入口にある広場は、さすがに美 麗 なものだった──数十種類もの色レンガで造られた石 畳 のモザイクは、なにを模 しているものか一目では分からなかったが、なにかの幾 何 学 的な紋 様 が鮮 やかに広がっている。紋様の中心に噴 水 があり、それはどうやら巨大な一枚岩を削り出して造ったものらしい。高さ三メートルほどのとがった岩のてっぺんに、大口を開けて咆 哮 する姿勢で、胴よりも長いたてがみを持った勇壮な獅 子 の像がそびえている。水は、その獅子の胴体から流れ出てくるようでいて、少し見ただけではどこが水の噴出口なのか見分けがつかないようになっていた。
そしてその広場に、さまざまな種類のさまざまな人間たちが集まっている──散歩している住人、観光客、屋 台 を組み立てている行 商 人 、昼下がりを外で過ごすことに決めたらしい学生たち、花売り娘......
と、クリーオウが興 奮 したかん高い声で、こちらに振りむいて聞いてきた。
「ねえオーフェン! 大変!」
「なんだよ」
噴水から金 髪 の少女へと視線をずらし、オーフェンは返事した。
クリーオウは道の向こう──こぢんまりとした宿屋の屋根の上をゆっくりと横切っていくものを指さして、叫んだ。
「人が張り付けになってる!」
少女の指に導 かれるようにそちらに視線を投げると、確かに手前の宿屋の向こうを、高さ五メートルほどの柱に身体 を固定された男が双 眼 鏡 を片手に注意深くあたりを見回している。それが、ゆっくりと──馬車ほどの速度で前進していた。
「......ありゃ、帆 だよ。くくりつけられてんのは見張りだ」
オーフェンはめんどくさそうに答え、あくびした。
きょとんとして、クリーオウが聞き返してくる。
「帆? 船の?」
「当たり前だろ。あの建物の向こうに、水路があるんだ」
「水路?」
クリーオウはまたくりかえすと、ようやく、ぽんと手を打った。思い出したらしい。
「あ、そっか。この街、運河があるのよね」
「正確には、運河の入口にできた荷 揚 げ港が発展して、この街になったんだけどな」
オーフェンはつぶやくようにして言うと、建物の上をゆっくりと進む帆にまた視線をもどした。ぶつぶつと、本でも暗唱 するようにして続ける。
「古都アレンハタム。運河の街だ。キエサルヒマでも最大の街のひとつだな。もっとも、面積の半分は無人の遺跡 だが......」
「それでも、トトカンタより人口が多いんでしょう?」
「まあな。つってもその人口の三割ほどは観光客なんだけどな」
「運河を見てきていい?」
そう聞いてくるクリーオウに、オーフェンはかぶりを振った。
「だーめ。宿を決めてからだ。あとになって、この街のどこをうろついてるのか知れないお前を捜 し回るなんてのはごめんだからな」
「ぶー」
と、むくれるクリーオウの頭を、オーフェンはぽんとたたいた。
「あとで案内してやるさ。この街のことは、ちょっと知ってるんだ」
「ほんと? でも──」
クリーオウは不 思 議 そうに首をかしげた。こちらを見上げながら、
「なんでオーフェン、この街にくわしいの?」
「俺が《牙 の塔 》を出てから最初に下宿を持ったのが、この街なのさ」
と──そこまで話したとき、後ろから声がかかる。
「お師様あー」
マジクである。見ると、小 柄 な少年はとうとうオーフェンの分の荷物まで押し付けられ、ふらふらしていた。
「なんだ?」
オーフェンが待っていると、マジクは雑 踏 の中をなんとか人込みを避けながら、荷物を運んできた。そしてこちらにたどり着くなり、両手いっぱいに抱えていたバッグやらなにやらをどさりと下 ろし、
「ひどいじゃないですか!」
「なにがだよ」
こともなげに、オーフェン。
「荷物を全部ぼくに押し付けて! おかげで門のところで、ぼくだけ取り調べに三倍の時間がかかったんですよ!」
「取り調べ? ちょっとしたチェックだろ?」
「似たようなもんですよ!」
マジクは憤 慨 した表情でじだんだを踏んだ。
「お師様には、弟 子 を可 愛 がる気持ちとか、そーゆうのはないんですかっ?」
「ねえよ」
そっけなくオーフェンが答えると、マジクは、は? と聞き返してきた。オーフェンは肩をすくめて、
「かあいい女の子とかならともかく、なんでおめーなんか可愛がってやらにゃならねんだ」
「そ、そおいうもんなんですか? でもぼくが言いたかったのは、ええと......ほら、師弟愛というか、男の友情とか連帯とか......」
「やあお嬢さん。その花いくら? 花束にしてくれる?」
「あ! お師様! 無視して先に行かないでくださいよ! うわ、しかも荷物ひとつも持ってってないっ!」
マジクが改めて荷物を抱えなおし、こちらに追いついてきたのは、オーフェンが十歳ほどの小さな花売りから名前も知らない紫 色 の蝶 のような花束を受け取っているころだった。
マジクはすっかり憤激したようで、唾 をまきちらしながら怒 鳴 りつけてきた。
「お師様! とにかく自分の荷物くらいは自分で──」
「お、ちょうどいいところに来たな。こいつも持ってろ」
オーフェンはマジクの抱える荷物のてっぺんに花束を置いた。
「お師様っ!」
叫ぶマジクを無視して道を歩きだすと、それまで黙っていたクリーオウが、ひょいとこちらをのぞきこんでくる。彼女は意外そうに、まじまじとオーフェンと花束とを見 比 べた。
「......なんだよ」
オーフェンが聞くと、クリーオウはマジクの抱える荷物から花束を取り上げ、
「......まさか、オーフェンが花なんて買うことがあるなんて思わなかったわ」
「俺だって、たまにはな、花を買うこともある」
「たまにって、どんなとき?」
「見舞いにいくときとか」
オーフェンが言うと、クリーオウはまたぎょっとした顔を見せた。
「なに、これ、わたしにくれるんじゃないの?」
オーフェンは嘆 息 した。
「なんで俺が、お前に花を買ってやらにゃならねーんだよ」
言いながら、クリーオウの手から花束を取り上げる。クリーオウがまたそれを取り返そうとジャンプするのを、オーフェンはくるりと身をかわした。
と、その背中が、どんとマジクに当たる。ただでさえ荷物をかかえて前が見えないマジクは完全に不意をつかれ、なすすべもなく尻 餅 をついた。どさどさと、バッグが道に落ちる。
「な、なにするんですかお師様......」
「あー!」
クリーオウが不平の声をあげる。
「わたしのバッグ、落とさないでよ。服とか身の回りのものが入ってるんだから!」
「そ、そんなこと言ったって......」
マジクがしどろもどろに弁解しようとするのを完全に無視して、クリーオウは自分のバッグを持ち上げると、それをまたマジクの腕の中に放りこんだ。むぎゅ、というような音を立てて、マジクのせりふがさえぎられる。
「とにかく、大事に扱ってよね!」

クリーオウは腰に手を当てながらきっぱりと言って、そしてこちらに向きなおった。わずかに唇 をとがらせて、詰 問 するように言う。
「で──オーフェン。その花って、誰にあげるのよ」
「............」
もたもたと起き上がるマジクを見ながらオーフェンは、少し考えこんだ。クリーオウの問いは無視する格 好 で、つぶやく。
「そうだな......考えてみりゃ、もういいかげん退院してるはずだよな。俺がここに住んでたのは三年も前のことだし......」
「ねえ、誰なの?」
しつこく食い下がるクリーオウに、オーフェンはめんどくさくなっていきなり、花束を放り投げた。
ばさっと紫色の花束を抱きとめたクリーオウに、言う。
「やっぱ、それやるわ。確かそれ、煮 れば食えるぞ」
と、くるりと背を向けて道を歩きだす。オーフェンは気づかないふりをしていたが、振りかえる直前に視界の中にあったクリーオウの顔は、はっきりと激 怒 の兆 候 を見せていた。
「ふん!」
背後で、クリーオウが花束を地面にたたきつける音が聞こえた。こっそりと肩越しに見やると、ようやく荷物を抱えなおしたマジクの足をクリーオウが思いっきり蹴 飛 ばすところだった。悲鳴をあげてまた転倒するマジクを見ながら、オーフェンは、ま、いーかと思っていた。
アレンハタム。水の街。
キエサルヒマ大陸の人間領を代表する四大都市のひとつである。王都メベレンスト──商都トトカンタ──自治都市アーバンラマ──そして、この古都アレンハタム。数百年前までは、ここが王都だった。街の中央には運河が流れ、無数の商船や小船が往来するその光景は、大陸でも有数の景観である。中心街──元貴族街の、さらに中心には昔の王城が建っている。現在では城は民間に開け放たれ、博物館兼図書館になっている。
この市の収入は、もっぱら観光に頼っているとか。実際、歴史あるこの街には毎年数十万からなる観光客が訪れる。そして老 若 男 女 の観光客たちは、伝説にはこの大陸に人間が入植する以前から存在していたとかいないとかいうこの街の数々の歴史を見、おおむね感激し、満足したところで、土産 物 の高価さに面食らって落 胆 する。とは言えこの街の客足が遠のくということはなく、大通りにどこまでも続く土産物屋はいつも繁 盛 していた。
「いいんですか? お師様」
荷物を抱えた格好で声をひそめるマジクに、オーフェンは泰 然 と聞き返した。
「なにがだよ」
「なにがって......クリーオウですよ。すっかりヘソ曲げちゃったみたいですよ」
と、こっそり肩越しに見やる。
クリーオウはふたりから少し遅れて、あからさまに不服そうに口をとがらせてついてきている。
マジクはまたこちらに視線をもどし、さらに声をひそめた。
「......あーなると、なかなか機 嫌 なおしませんよ」
「花でも贈るか? メッセージでもそえて」
「逆効果ですよ。なんで怒ったと思ってるんです」
厳しく眉 根 を寄せてそう言うマジクに、オーフェンはひょいと肩をすくめた。
「たいしたことじゃないさ。ほっときゃいいって」
「楽天的なんだから、お師様は......」
マジクがぶつぶつとつぶやいている間にオーフェンは、とにかくまわりの街並みを見回した──大通りをまっすぐに、二十分ほど歩いてきた。街の出口に近い宿はたいてい陸路で物を運ぶ人足向けのものが多いし、専 属 の契 約 でもしていないかぎり、普通の旅行者が泊まれることは滅 多 にない。オーフェンの記憶では、もうそろそろ旅行者向けの宿が建ち並ぶあたりに着くはずだった。
(ひさしぶりだ、この街は......)
オーフェンは胸中で独 りごち、歩きながら伸びをした。
(できりゃ、来たくはなかったんだがな──ま、小僧どものワガママで、来ちまったもんは仕方ねえよな)
実を言えば、彼はこの街にあまりいい思い出がなかった。当時、すっかり《牙の塔》での集団生活に慣れ切っていた彼はこの街に来て生活を楽しむどころではなかったし、自 炊 どころか食料の買い出しもロクにできなかったほどだ。そして、さらには──
「......よし」
と、オーフェンは唐 突 にうなずいた。いやなものを飲み下 すように喉 を動かして彼は、いぶかしげにこちらを見やるマジクに向けて目で合 図 した。
「宿は後回しだ。行くところがある」
「......はあ?」
手に余る荷物にふらつきながら、マジクは声をあげた。
「ぼく、いいかげんこの荷物を下ろしたいんですけど。どの宿屋でもいいですから」
「優 れた魔術士の基本はまず体力作りだな」
「なに適当にこじつけてんですか。言われたとおりの筋力トレーニングは毎日欠かさずやってますよ」
「言われた以上のことをやってこそ、隠れた実力が得られるってもんだ」
「......ひょっとしてお師様、ぼくが嫌いなんじゃないですか?」
ジト目でにらみつけられてオーフェンは、居 心 地 悪く咳 払 いした。少し考えこんでから、
「なら、クリーオウとふたりで先に行ってろよ。そうだな──この通りをあと一キロほど行ったところに、安ぴかの派 手 な看板を出した宿があるはず──」
オーフェンが言いかけたところで、マジクが悲鳴じみた声 音 を出す。
「クリーオウと、ですか?」
と、後ろを少し離れてついてきているクリーオウを示しながら、
「あの状態のクリーオウとふたりきりなんて、冗談じゃないですよ。拷 問 です」
「じゃあ、どーすりゃいいんだよ」
オーフェンが聞くと、マジクは端 正 な顔を疲れきったように陰らせて嘆 息 した。
「分かりましたよ......で、どこに行くんですか?」
「大陸魔術士同盟 アレンハタム支部だ」
「大陸魔術士同盟?」
聞き返してきたマジクに、オーフェンは軽くうなずいた。ぶらぶらと、人込みの多い街道を進みながら答える。
「そうだ。つっても、この街にあるのは、トトカンタのものほどでかくはないけどな」
「......どういうことなんです?」
不思議そうに、マジクが聞いてきた。オーフェンは自分のあごをなでながら、
「ああ。トトカンタから外に出たことのないお前には分かりづらいかもしれねえけどな──魔術士ってのは、土地によってその地位が極端に変わったりするんだ」
「地位......がですか?」
うんしょ、と荷物を持ち替えながらマジク。対向者が多いのでなかなか進めない。
「そうだ。トトカンタでは魔術士同盟は絶大な力を持っていただろう?──あそこには魔術士以外の人間は一 切 立ち入り禁止だし、王都から地理的に離れているってのもあるんだが、国王だっておいそれとは手出しできないくらいの権能を持ってるんだ。しかも、トトカンタの魔術士同盟の随 員 は百パーセント魔術士だけで構成されている」
「......この街では、違うんですか?」
「この街だけじゃない。むしろ、トトカンタが特異なのさ。忘れちゃいけないのは──俺たちを目の敵 にしている組織が、この大陸には少なくともみっつあるってことだ。その組織が強い勢力を持つ土地では、自然に魔術士の地位は低下するし、最悪の場合、迫害から虐 待 ──狩り出されて処刑されかねない土地だってある」
「そ、そんなあ」
マジクはいきなりうろたえた声を出し、ぴたりと足を止めた。後方のクリーオウも、声が聞こえたのだろう、びっくりしたように立ち止まっている。
それを、クリーオウも含 めて手で制しながら、オーフェンは笑った。
「ま、最近じゃ、それほどキツいことは滅多にないけどな。だが、それが決して絶無じゃないことは忘れないこった──ことは自分の生命にも関わるんだからな」
「はあ......でも、ぼくらを目の敵にする組織って、なんなんです?」
「ひとつは、王室だ」
オーフェンは、ぴっと人差し指だけを立てた。ゆっくりと、また歩きだす。
「王都メベレンスト──文句なくこの大陸で最大の規 模 を持った城 壁 都市を拠点 とした、貴族たちの連合さ。軍隊の規模でも、財源もなにもかも、桁 違いに強力な組織だ。いや──組織という呼び方は、当てはまらないな。彼らは国家そのものだから」
「はあ......」
「王室の連中は、とにかく俺たち魔術士が強い権能を持つのを嫌う──そりゃそうだろうな。統治者としては、本来なら臣 民 であるはずの俺たちが台 頭 してくるのは虫が好かないだろうし、なにより危険だ。だから彼らは、できるかぎり俺たちの組織を分断して統治しようとしている」
「分断して統治、ですか」
「王室は直属の騎 士 団 を持っているし......白魔術士たちの要 塞 である《霧 の滝 》を統治している。《霧の滝》のある位置を知っているのは国王と、ごく限られた数名の側 近 だけだって話だ。それにもちろん、王城には《十三使 徒 》と呼ばれる宮 廷 魔術士たちの軍隊もある。《十三使徒》だからって十三人しかいないってわけじゃねえぞ──百名近い強力無比な黒魔術士の集団だ。こいつらにかかったら、この街だって一夜で滅 び去る」
ごくり、とマジクが唾 を飲むのが聞こえた。それを確かめてからオーフェンは、二本目の指をそっと立てた。
「そして次は、教会総本山──キムラックだ。運命の三女神 を奉 じる彼らは、この大陸の北端にある彼らの都市から、大陸全土の教会すべてを統 括 している。彼らの教義は秘密主義の色が濃くて、俺たち余 人 にはどーも分かりづらいんだがな──とにかく彼らは、俺たち魔術士を嫌っている。理由がなにかあるらしいんだが、よく分からない。奴ら自身にだって分かってるんだか分かってないんだか」
「教会なら、ぼくが通 ってた学校の近くにもありましたけど。クリーオウがよく」
と、道に落ちたゴミを蹴 っているクリーオウに視線を投げて、
「窓に向かって石投げてました」
「......あいつはロクなことしてねえな。ったく」
オーフェンもマジクにならって少女のほうを見やって、
「ま、トトカンタでは教会はさしたる権能を持ってない。教会の勢力が強くなるのは、とにかく大陸の北部だ。命が惜 しけりゃ《牙の塔》より北には行かないことだな。こいつは公然の秘密ってやつだが、教会総本山 は直属の暗殺者部隊を持っている。確か......《死の教師》とかなんとか」
それを聞いてマジクは顔をしかめた。
「教会の人が殺し屋に命令を下 して人を殺すんですか? わけが分からないですよ」
「そうか? だが彼らが崇 める女神たちは、しょせんは運命の女神だからな......」
「......それがどうかしたんですか?」
オーフェンはにやりとして、
「運命の中には、人間が死ぬことも含まれているだろ?」
言いながら彼は、最後の三本目の指を立てた。
「で、最後──この最後のが、この街で魔術士同盟をイマイチ繁 栄 させなかった理由になっているのさ。なんだと思う?」
「さあ......魔術士を目の敵にするみっつめの組織ですか? ぼくにはどうも──」
「こいつは、組織じゃない。種族だ──ドラゴンだよ」
「ドラゴン?」
「そうだ。このアレンハタムが古い歴史を持つってのは知ってるだろう? 伝説では、俺たち人間がこのキエサルヒマ大陸に現れる以前から存在していたと言われているのさ」
マジクは困ったように眉 根 にしわを作った。
「......でもそれじゃ、つじつまがあわないじゃないですか。人間じゃなかったら、誰がこの街に住んでいたっていうんです?」
「だから、ドラゴンだよ」
「はあ?」
マジクは裏返った声で聞き返し、あたりを見回した。
「どこもドラゴンっぽくありません よ」
オーフェンは、誤解されるのは分かっていたよ、とにやにや笑みを浮かべた。
「そいつは、お前がドラゴンってものを知らないからさ」
「............?」
ちんぷんかんぷんな顔を見せたマジクに、オーフェンはかんでふくめるように説明した。
「お前が今アタマん中で想像している『ドラゴン』てのを当ててみせようか? でっかくて、うろこがあって、羽根があって、火を吹いて、しかも金銀財宝を腹の下に敷 いて満足顔のトカゲの王様だ。ちょうど......こんなような」
と言ってオーフェンは、歩きながら気楽に胸元からドラゴンのペンダントを取り出した。彼は、この街に入ってきたときからこの紋 章 を服の下に隠していたのだが......
「......違うんですか?」
「おおむね、違う。この紋章に使われているのは、あくまで力の象 徴 としてのドラゴンだし、お前が想像してるのは正確には単なる大型爬 虫 類 ──ダイナソアだ。しかもダイナソアは別に火は吐 かないし、金銀財宝にも興味ない。ただのトカゲだ」
「......でも、伝説に出てくるドラゴンたちは──」
「そう。伝説に出てくるドラゴンたちは卓 越 した魔術を使い、高度な知能を持ち、まれに言語を持つものもいたとか」
「伝説はウソなんですか?」
「いや」
と、オーフェンはいたずらっぽく笑みを浮かべ、
「そうじゃなくて、多少歪 曲 しちまったのさ。ドラゴン! と俺たち魔術士が呼ぶ存在は、必ず魔術を使う。逆に言えば、魔術を扱う存在は、すべてドラゴンだ」
「............」
マジクはしばし考えこんでから、え? と聞き返した。
「でもお師様、それを言ったらお師様だって魔術士じゃないですか」
「そうだよ。だが俺は──というか、人間の黒魔術士はドラゴン種族じゃあない」
「......さっぱり分からないですよ」
「まあ聞けよ。俺の話し方も悪かったな。順序を追っていこう──キエサルヒマ大陸に俺たちが現れる以前、世界には魔術なんてものはなかった。おっと──言い忘れてたが、これからはマジク、俺たちの能力のことは、すべて『魔術』と呼ぶんだ」
「はい。でも......なんでですか?」
「『魔法』とか『まじない』とか呼ぶと、意味が変わるからさ。細 かい定義もあるらしいが、ごく簡単に『魔術』ってのはドラゴンが扱う。『魔法』ってのは神々の力だ。『まじない』とか『呪 術 』......とかになると、こいつはスーパースティションだな」
「すーぱー──なんですって?」
「スーパースティション──未開信 仰 。つまり迷信だよ。ともあれ、大昔に存在していたのは神々の扱う『魔法』の力だけだった。そして世界には今あるのと同じ自然と、獣 たちがいた。人間も、その中の一種族に過ぎなかった」
「............」
とりあえずマジクが納 得 したようなので、オーフェンは先を続けた。また服の下に紋章を隠しながら、
「だが獣たちの中に、奇妙に悪 賢 い知恵を持った六種族があったのさ。さっきの広場にあった噴 水 を覚えてるか?」
「ええ。あの妙にたてがみの長いライオンでしょう?」
「あれがその六種族のひとつ、真紅の獅子 だ。ほかにも深淵の森狼 とか、とにかくそいつらが、それまで神々だけが独 占 していた『魔法』の秘儀を盗 み取って、自分たちにも扱える『魔術』にしてしまったんだよ。そのときの六種族が、現在ドラゴン種族と呼ばれているものだ。だからこの大陸には六種類のドラゴン種族がいるってことになる。そしてその六種族の中に──天 人 もいた」
「天人?」
「そう。またの名を魔女 ──俺たちが俗 に『古代の魔術士』と呼んでいる、半 神 半 人 の存在さ。とてつもなく強烈な魔術を扱うことができたらしい。女性だけの種族だったと伝説にあるが、それはどうだろうな。ま、とにかく、彼女らは外見としては俺たち人間とほとんど変わるところがなかった──ただ、瞳 が鮮 やかな緑色で、これはドラゴン種族に共通のことだ。だがまあ、その程度の違いはどーとでもなったんだろう。天人たちは、人間と仲良くなった。仲良くなったらなったで──まあ、いろいろあって──あるべきことが起こった」
「......なんなんですか。急に歯に物がはさまったみたいな言い方になって」
マジクに言われて、オーフェンはしばし黙り込んだ。少し歩を遅くして、言い直す。
「よーするに、両者に混血が起こったのさ」
「......じゃあ......」
「ピンときたようだな。そう──俺たち人間の魔術士は、その混血の結果生まれたのさ。つまり俺たちは、天人 と人間の混血児だ。才能を持たない人間がいくら努力しても魔術士になれない理由はここにある──遺 伝 の問題なんだよ」
「なるほど」
「とはいえ──」
と、オーフェンは気まずそうにうめいた。
「血のつながりはあっても、俺たちが現在扱う魔術と、その天人が扱う魔術とでは、ひどく根本的なところで異なっている」
「......どんなところですか?」
「例 えば俺たちは、黒魔術士であっても白魔術士であっても、声──つまり呪 文 を使って魔術を行う。音声魔術と呼ばれるゆえんさ。音声を媒 体 に魔力を飛ばすわけだ。だから呪文の声のとどかないところに魔術の効果は及ばないし、その効果は永続しない。が──」
と、架 空 の重りを両手で天 秤 にかけるようなしぐさをすると、
「天人が扱う魔術は、文字を媒体にする──声を使わないところから、沈黙魔術 とも呼ばれている。文字は書き残すことができるし、金属に彫り込むこともできるから、その効果は時に永続することもある。しかも、言葉で魔術の構成を編 み上げるよりも、はるかに複雑かつ整 頓 された構成を編むことができるから、極 めて強力だ」
「どのくらい強いんですか?」
当たり前と言えば当たり前のマジクの問いに、オーフェンは困ったような顔で対応した。
「......そうだな。俺だって、天人たちが直接に沈黙魔術を扱うのを見たことがあるわけじゃねえからなんとも言えないが──彼女らが遺 した遺産が発動するのを見たことはある。魔術文字《ウィルド・グラフ》を刻まれた剣とか、指輪とかな。ボルカンのくそ馬 鹿 が持ち逃げしやがったあの月の紋章 の剣も、そのひとつだ。一 言 で言えば、俗人に扱いきれるような代 物 じゃない。過去、数知れない人間の魔術士たちが遺産の力を我が物にしようとし......失敗してきた」
「............」
マジクは、妙 に神妙な瞳 でこちらを見返して、つぶやいた。
「それでも、人間はその力を追い求めることをやめはしないんでしょうね」
「まあな。俺だって──」
と、自 嘲 するように笑い、
「ひとのことを笑えた義理じゃない。強い力を手に入れるためなら、多少馬鹿げたことでもするかもしれん。だいたい、魔術士なんてのはそんなもんだ」
「............」
オーフェンは自信を持って言ったのだが、マジクはいまいち分からなかったらしく、不思議そうに目をぱちくりさせただけだった。
(ま、それならそれでいーけどな)
彼がひとりで肩をすくめると、結論を待ちきれなくなったのか、マジクが聞いてきた。
「でも、それがなんでこの街で魔術士同盟が強い力を持てない理由になるんですか?」
「あ、そーか。忘れてた。その話だったんだな──まあ、つまりだ、この街はドラゴン信 仰 の街なのさ。この大陸のどこかにいるであろう六種族のドラゴンたち──フェアリー・ドラゴン、レッド・ドラゴン、ミスト・ドラゴン、ディープ・ドラゴン、ウォー・ドラゴン──そして、ウィールド・ドラゴン=ノルニル! 普通、ドラゴン信仰ってのは辺 境 で細 々 と残っているに過ぎないんだが、このアレンハタムのは例外でね。言ってみりゃここは、大陸のドラゴン信仰における聖地なのさ。天人が運河とともに千年も昔に築き上げたとされる古き都 。そこに俺たちの祖先が招き入れられたのが数百年前。両者には友愛関係が築き上げられ、その協力関係は永遠に続くかと思われた。力なき人間たちは強い天人に憧 れ、それはいつしか信仰に変わり──」
「......それからどうなったんです?」
先を促 すようなマジクの問いに、オーフェンはあっさりと答えた。通行人は、もうかなり少なくなっている。観光地から少し離れた道に入ったのだ。
「かつて神々の『魔法』をドラゴンたちが『魔術』として盗んだように、俺たちの祖先は天人から魔術を盗んだ。混血という形でな。その行為に天人は戦 慄 し、人間の魔術士をすべて地上から抹 殺 しようとした。どうして彼女らが、そこまで人間の魔術士を恐れたのか、その理由は分からない。だが結果としてこの街で、魔術士狩りは一世紀近くも続いた」
「どのくらいの人たちが死んだんです?」
「さあな。だが、なんの力も持たないただの人間が魔術士を取り押さえるなんざできっこない。むしろ、返り討 ちにあった人間のほうが多かったんじゃねえかな? そうこうしているうちに、やがて天人が地上から姿を消した」
「......なんでです?」
「知らねえよ。とにかく、いなくなっちまったのさ。ある朝、忽 然 とな。そいつが二百だか三百年だかの昔のことだ。で......時とともに魔術士狩りの気 風 も下火になった。今では表立って魔術士を誹 謗 するような者もいない。が、現在のドラゴン信仰の中には、言外に俺たちの存在を非難するような箇 所 も目立つ。つまり、俺たち人間の魔術士の存在が、ノルニルを失望させ、失 踪 させたんだとな」
「......なぜ、天人は人間の魔術士を嫌ったんでしょうね?」
それは問いかけではなく、独 り言 のようだったので、オーフェンは答えなかった。ただ胸中で、自然とこんなつぶやきが湧 き上がってきた。
(後 輩 が自分より力をつけるかもしれないっていう不安は、ほかのどんな種類の嫉 妬 よりも強いもんだよ)
俺がお前に抱 くみたいにな、マジク。
アレンハタムの魔術士同盟は、あまりにも貧 相 に見えた。
この街には背の高い建物が多い──特に街の南方を占める居住区は、五階から六階あるようなアパートメントが立ち並び、街の中心からそちらの方向をちらりと見るだけで、空に向かってのっぺりとそびえるレンガ色の四角い影が見えるほどだ。
と、そちらを見てからまた魔術士同盟の薄汚れた壁面に視線をもどすと、さらにみじめったらしく映る。
「プレハブみたいに見えますね」
と、マジク。オーフェンは心底から嘆 息 し、
「小学校の払い下げだよ。学校が新校舎に移転するってんで、安値で買い取ったんだろう。俺がこの街にいたころは──もっとひでえところにあったんだ」
言いながら彼は、ぐるりと身を回して、少し離れたところにひとりで突っ立っているクリーオウを見やった。距離にして十メートルほどか。遠くから、こちらを見るともなしに見ている。
じれったくなって、オーフェンは口を開いた。
「いいかげん機嫌なおせよ、おい」
クリーオウは無視して、ぷいとそっぽを向いた。長くしたブロンドが、金色のしっぽのようにふわりと横に跳 ねる。
「なにをそんなにすねてやがんだよ。もう謝 っただろ?」
それを聞いてクリーオウは、聞き捨てならないとばかりに目を光らせると、スニーカーを履 いた足で、ばんと地面を踏みたたいた。
「誰が謝ったっての? 花を投げ付けただけじゃない!」
「そりゃそーだが......そもそもなんで、俺が怒られなけりゃならねんだよ」
「なんでって──」
クリーオウはそこまで言いかけて絶句したようで、歯がみしてこちらをにらみつけてきた。オーフェンは勝ち誇 ったような笑みを浮かべると、
「ほれみろ。どーせ、たいした理由もありゃしねえんだろ。なにかにつけ怒った顔すれば周りが自分の言いなりになるなんてのは、まるっきりの甘ったれ根 性 なんだよ。子供みたいに意地張ってねえで少し考え方を大人にしてだな──」
「......お師様って、けっこー容 赦 ないですね」
「そーか?」
背後からのマジクのせりふに振りかえらずに答えているうちに、クリーオウの表情はさらにかたくなに怒りを強めているようだった。唇 をかんで、立ったままひざのあたりで拳 を握っている。
「逆効果だったみたいだな」
オーフェンはぽつりとつぶやいた。
「ひょっとして今の解決を目 指 してるつもりだったんですか......」
「ああ」
マジクの声にあっさりとうなずいて、オーフェンは仕方なく魔術士同盟の建物のほうへと向きなおった。まあ、クリーオウのことは別に後でもいいだろう。
建物に向かって、一歩踏み出す。施設は、少し手 狭 な感じのするグランドの向こうにあり、敷 地 内には猫 の子一匹いない。オーフェンは奇妙に思ったのだが──必ずいるはずの見張りすら姿が見えなかった。
「でも、ここになんの用事があるんですか?」
相変わらずバッグを抱えたままで、よたよたとマジクが追いついてくる。オーフェンは鼻の頭を指先で掻 きながら、
「まあ......不幸な思い出にケリをつけようというか──それにひょっとしたら、用事なんかねえかもしれないんだが............」
「? なんなんです、それ」
「知人を訪ねたかったんだよ。だが、彼女がここにいるかどうか確信がねえんだ。俺が最後に会ったときは、病院だったしな」
「じゃあなんで、ここにいると思ったんです?」
「彼女は魔術士だ。この街で魔術士が生きていける場所は身内の中──つまり、魔術士同盟の中しかない」
グランドの中央あたりまで歩いて振りかえると、クリーオウはグランドの入口あたりにひとりで立って、右のふくらはぎを左足で掻いている。
オーフェンは、彼女に手でも振ってやろうかと冗談まじりに考えた。彼女は怒って石くらい投げてくるかもしれないが、少女の力ではどうせここまではとどかないだろう。
と、右手を上げかけたそのとき──
背後から、猛烈な気 配 を感じた。つまり、魔術士同盟の建物の中から。
ぶわっ──!
と、オーフェンは後ろの髪の毛が総 毛 立 つのを感じた。それは比 喩 ではなく、また単に感覚的なものだけではなく、もっと物理的な──
マジクが悲鳴をあげる。
「な──なんなんです、これ! お師様!」
あわてて振りかえると、オーフェンとマジクが立っている場所から、ほんの少し前──建物をすっぽりと覆 い込むような形で、竜 巻 状に気流が渦 巻いている。それはひとつの竜巻というよりは、無数の強烈なつむじ風が林 立 しているといったふうだった。グランドの地面が薄くはがれ、天に向かって舞い上げられていく。グランドの隅 に廃 棄 されていた、もと滑 り台だったらしいなにかの鉄骨が、ストローでも折れるみたいにぐにゃりと曲がるのが見えた。ばき、ばき──と粗 末 な造りの建物が、陥 没 するように崩 壊 していく。
気流だけではない。エネルギーの渦だ。俺たちは──エネルギーの渦 中 にいる!
(やべえぞ、こりゃ──なんか知らんが)
オーフェンはとっさにマジクをかばうように手を回すと、体内の魔力をすぐに発動できるように呼吸を整えた。
と──とうとう気流の乱れが、オーフェンらの周りにまで達してくる。竜巻状の砂嵐は、徐々に広がっているようだった。びし、と飛んできた小石が自分の腕にかすり傷を作ったところで、オーフェンは呪文を詠 唱 しはじめた。
「我は紡 ぐ──」
──恐 らくは割れた窓ガラスだろう、細 かく砕けたガラスの破片が風に乗ってこちらへと飛んでくる──
「──光輪の鎧 !」
じゃんっ! と、焼けた鉄板に油をひいたときのような音とともに、オーフェンの周囲に輝く輪を編み上げたような光の障 壁 が現れる──ガラスの破片はその光輪の障壁に阻 まれ、ワイングラスを指で弾 いたような軽やかな音を立てた。同時に、また別の方向から、どこからはがれたのか看 板 みたいな木の板が障壁にぶつかり、砕け散る。そうでなくても、ひたすらに舞い上げられつづける砂 塵 がびしびしと小さな音を立てていた。
それらの音の中で、マジクが恐ろしげにつぶやくのが聞こえる。
「......な──なにが起こってるんですか?」
「分かんねえよ。俺にも」
オーフェンはつぶやきながら、グランドの入口のほうを見やり──そして、ほっと安 堵 の吐 息 をもらした。正体不明の竜巻は、クリーオウのいる場所までは広がりはしないらしい。少女は唖 然 とした様子でこちらを見て、顔 面 蒼 白 になっている。グランドの大部分をめちゃくちゃに踏み荒らしながら、竜巻たちは、なにかを待つようにただ渦巻きつづける──
「なにかの魔術だとしても、個人の力でこれだけの威 力 を造り出すなんてのは不可能だ。俺の障壁だって、いつまでもつか──」
「こ、これが破られたら、ぼくらどーなるんです?」
震え声のマジクに、オーフェンはあごをしゃくってグランドの隅 を示した。
「ああなるのさ」
その言葉に返事するように、グランドにあった鉄棒が土台の石ごと引っこ抜かれて宙へと吹っ飛んだ。
「そ、そんなあ!」
オーフェンの造り出した光輪の壁は、もうすでに効力を失いはじめて、あちこちに隙 間 を生じさせていた──いかに黒魔術が長時間は持続しないといっても、やろうと思えば数分間は障壁を維 持 することもできるのだが、いかんせん周囲の竜巻の威力が常 軌 を逸 していた。自分の身体 の中から、じわじわと魔力を絞 り取られるような感覚に戦 慄 し、オーフェンは両手を揉 みしだいた。
と、ふと視線が上にあがる──
別に意識したことではなかった。疲労が襲ってきたので、単にあごが上向いたに過ぎない。その中でオーフェンは、偶然、建物の三階の窓に人影を見た──
(............?)
それは奇妙な光景だった。周囲で荒れ狂う砂塵に阻 まれてよくは見えないが、確かに三階の窓の中に、男の人影が見える。
──いや、男ではない。少なくとも、人間ではない。
(なんだ、ありゃ......?)
オーフェンは胸 中 でいぶかった。異様に細い身体。青白い肌。ほとんど毛のないその顔面には遠 慮 ぎみの彫刻家が彫り付けたような細い目があり、鼻はほとんどない。その口はわずかに開き、なにかをしゃべっているようだった。オーフェンは読 唇 術 などできるわけではないが、それでも多少はその真 似 事 を覚えさせられた時期があった。
『イイダロウ、オマエラニキョウリョクシヨウ──』
そんなようなことを、その人影の唇 は語ったように見えた。
そしてその人影が、なにかを持ち上げた。異様にやせ細った腕が握っているのは、見覚えのある古風な大剣──人影は、その細い指で軽く剣を──握り潰 した。大ぶりな剣がガラス細 工 のように粉々になって砕けるのを見ながら、オーフェンはうめいた。
(バルトアンデルスの剣! てことは──あそこにボルカンがいるのか?)
障壁が破れた。マジクの絶望的な悲鳴。すさまじい速さで飛んできた木片が不意に眼前に現れ──
そしてオーフェンのこめかみを痛打した。
「────!」
瞬間、気絶するかとも思えたが、オーフェンはなんとか踏みとどまった。彼は傷口を手で押さえると、唾 棄 するように毒づいた。
「くそったれが! あの馬 鹿 ──またなにかつまんねーやっかいごとを起こそうってんじゃねえだろーなっ!」
と、ひときわ強い風に引きはがされた建物の壁の一部がこちらに向かって飛んでくる。オーフェンは右腕を突き出し、凛 とした声をあげた。
「我は放つ光の白 刃 !」
右手の先から閃 光 がほとばしり、放たれた光熱波が触れるやいなや、壁は空中で大爆発を起こした。オーフェンは立て続けに同じ呪文を叫び、今度は滑 り台のハシゴらしき鉄棒を吹き飛ばす。が、そうしているうちにも彼の肩口に──恐らくその滑り台の部品だろうが──ボルトが当たり、オーフェンは悲鳴をあげてその場にひざをついた。傷を受けた右肩に鈍 いしびれのようなものが広がり、それとともにいきなり腕が上がらなくなる。骨折したらしい。
その肩口を押さえながら、オーフェンはうめいた。
「ヤワなんだよ。ったく......折れるくらいなら最初からくっついてんじゃねえよ」
我ながら無茶なことを言う、と思う。
「お師様!」
見ると、地面に伏 せた姿勢のマジクがこちらを見上げながら続けた。
「短い間ですがお世話になりました──」
「やかましい! 俺はこんなトコで死ぬつもりはねーぞっ!」
オーフェンはまだ無事な左手で生徒の胸 倉 をつかみあげると、その気持ちとは裏 腹 に絶望的な目付きであたりを見回した──逃げだそうにも、気流が激しすぎてうかつに動けば自分自身空中に放り出されそうである。そうなれば、無論、もう助かる手立てはない。
「オーフェン!」
グランドのはるか向こうから、クリーオウが叫ぶのが聞こえた──ような気がした。この竜巻のど真ん中にいては少女の叫びなど聞こえるわけもないのだが、オーフェンは振りむいてそちらに視線を投げた。視界の隅にクリーオウの白いTシャツが連続する残 像 のように映 り、そして少し間をおいてから、その姿に焦 点 が合ってきた。金髪の少女の姿に完全に焦点が合った、その瞬間──
音もなく光が満ちた。次いで大気を震わせて衝撃波が背後から──建物のある方向から津波のように押し寄せてくる。ピン一本落とす音すらないまったくの無音の衝撃の中で、オーフェンは、自分の鼓 膜 が破れたのだと直感した。建物の内部から破裂する爆 炎 の放射熱に肌が焼ける痛み......
気が付くと、爆風に吹き飛ばされて彼は地面を転がっていた。がす、がすと砂の地面に身体のあちこちがたたきつけられる。乱暴な主婦の手で折り畳 まれる洗 濯 物はこういう気持ちなのだろうかと間の抜けたことを考えながら、オーフェンは、なんとか受け身をとろうとあがいた。
──結局は、それが功を奏したのだろう。身体が止まったとき、まだ彼は死んでいなかった。
「痛ててて......」
うめきながら、ゆっくりと身を起こす。折れた右腕はもとより、身体のあちこちに激痛が走った。
「オーフェン!」
「うぎゃあっ!」
オーフェンの断 末 魔 じみた声も無視して、クリーオウが駆け寄ってきて、抱き着いた。彼女はぞっとしたような顔色で叫んだ。
「大 丈 夫 なの? なにがなんだか──あっ! なにこれ、折れてるじゃない!」
「お、折れてる──折れてるから──ひっぱるなあっ!」
オーフェンはなんとかクリーオウを追っ払うと、半泣きになって折れた右腕を保護するように抱き締めた。
と、気づいたように、
「あれ? 俺、鼓膜が破れたんじゃないみたいだな。声が聞こえる。それとも、鼓膜が破れても耳が聞こえなくなるわけじゃなかったんだっけか」
「??......なんで鼓膜が破れたなんて思ったの?」
「いや......だって、爆発音が聞こえなかったから──」
言いながらオーフェンは魔術士同盟の敷地のほうへ向きなおった。彼はどうやら、爆風でグランドの入口まで一直線に転がったらしい。クリーオウが、ちょこんとこちらに近寄って、不思議そうにつぶやいた。
「別に、わたしにもなにも聞こえなかったわよ? さっきの爆発、なんの音もしなかったわ」
「......なんだって?」
オーフェンはまったく腑 に落ちないで魔術士同盟の敷地のほうを観察し、さらにまた異様な感覚を味わった──爆発は、メジャーで測ったようにきっちりと敷地内だけで起こっていた。建物は瓦 礫 と化し、グランドの土も焦 土 と成り果てているが、それもぴたりとグランドを囲む壁で止まっている。
今の爆発がなんのために起こったのかはともかくとして、それはこの施設を吹き飛ばすためだけに効果範囲を限定させていた、ということになる。
そのことといい、その威力といい──どちらにせよ、人間の黒魔術士には絶対に不可能なことだ。ましてや、オーフェンはその魔術の効果内にいながら、当然聞こえるべき呪文の声を聞いていなかった。
「............」
オーフェンはぽかんと口を開 けて、瓦礫の山を見つめた。一分前までは魔術士同盟の建物だったそれは、今はもう見る影もなく、ぺちゃんこにつぶれている。もうもうと立ちこめる砂煙や粉 塵 が、ゆっくりと風に吹き散らされていくのを見ながらオーフェンは、あれ? とつぶやいた。
「マジクの奴は......どうした? まさか──」
ぞっとして、焦土と化したグランドの中に身を乗り入れる。一歩を踏み出した瞬間、例えようもない激痛が内臓から拡がった。だが、涙をこらえてグランドを見回しても、金髪の少年の死体らしきものはどこにも見当たらなかった。
「ええと......」
後ろからついてきたクリーオウが、困ったように彼の左腕に触れる。
「なんだ、知ってるのか? どこにいるんだ、あいつ?」
オーフェンが肩越しに聞くと、クリーオウは、ぴっと細い人差し指を空中に向けた。
「あそこ」
「あん?」
オーフェンは眉 根 を寄せつつ天を見上げ、そして──
「あああああああっ!」
頭を抱えて悲鳴をあげる。ざっと目測して上空二、三百メートルほどのところに、壊れた気象観測用の凧 みたいな格 好 で、マジクが落っこちてきている。恐らく爆風で上空に吹き飛ばされたのだろう。ショック死してなけりゃいーけどな、と胸中でつぶやきつつ、オーフェンは叫んだ。
「我が手の中に──ええと──ああもう、なんでもいい!」
あわてていたため、すんなりと呪文が出てこない。どのみち呪文の内容はどうでもいい──とにかく声にして出せばいいわけで、なんの意味もない叫び声でも呪文はかかるのだ。オーフェンは、とにかく上空のマジクの位置までとどくように声を張り上げた。
「助かれ! マジークっ!」
......とりあえず、声だけはとどいたらしい。五体を広げたマジクの落下速度が、目に見えて遅くなった。魔力で生徒の身体を支えている手ごたえを覚えてオーフェンは、ふうと吐 息 して額 の汗をぬぐった。
数分後、ようやく地面まで降りてきたマジクは完全に失 神 していた。ぴたぴた、とマジクのほおをひっぱたいて目を覚まそうとしているクリーオウを尻 目 に、オーフェンは再び瓦礫の山へと視線をもどした。
「......なんてこった」
爆発の最後の数瞬の中で見た、人間ではないが人間にそっくりな男の顔を思い浮かべながら、オーフェンはつぶやいた。あの爆発はあの男が引き起こしたものなのだろうか。だとしたら、自分の引き起こした爆発で自分も消し飛ばしてしまうような馬鹿な真 似 はするまい。爆発の起こる一瞬前に──なんらかの方法で逃げ出したということになる。願わくば、あのボルカンとドーチンの救い難 い馬鹿兄弟もいっしょに脱出に成功したと思いたいところだが......

ようやく事故に気づいたやじ馬たちが、ざわざわと道に現れはじめた──このあたりには観光的価値のあるものはなにもないため、旅行者の姿はない。となると出てきたのはすべて住民ということになるが、彼らの顔にはどれも、それほど深い同情のようなものは見えなかった。むしろ──
と、オーフェンは嘆 息 した。むしろ、魔術士同盟の施設が消し飛んで、せいせいしたというように見えたのだ。
やじ馬のひとりが、オーフェンのほうに近寄ってきた。それほど老 けても見えないのだが頭のはげ上がった男である。彼は、さすがにオーフェンの満 身 創 痍 な有り様を見て気後れしたようだが、それでも多少は威 嚇 的な目付きで告げた。
「あんた、魔術士か」
「......そうだ。この街の人間じゃないがね」
オーフェンが感情を抑 えた声で答えると、男はきっぱりと言った。
「こういうことが起こるんじゃないかと、ずっと思っていたんだ」
「......? どういうことだ?」
オーフェンが聞くと、男は目を閉じてかぶりを振った。
「天 罰 が下るんじゃないかと思っていたのさ。こういう......天罰が」
「............」
沈黙。誰もしゃべらない。なおも気絶したままのマジクの頭を両手で抱えてぶんぶん振りまわしているクリーオウの声だけが、妙 にせっぱつまって聞こえる。
と──
オーフェンは男に向かってなにか言い返そうとして口を開きかけ、それに気づいた──瓦礫の中から、かすかにうめき声のようなものが聞こえてくる。彼がそちらを見やると同時、やじ馬たちも、おおっとどよめきをあげた。
崩 壊 した建物の中から、なにかが──起き上がる。よろよろとふらつきながら立ち上がるそれを見て、オーフェンは息を呑 んだ。例の、青白く痩 せぎすな『非人間』の姿を思い出したのだ。が──
違った。もっと別のものだった。
「............」
瓦礫の中から立ち上がったのは、人間だった。最低位の黒魔術士が身に着ける簡 易 ローブを着た、黒髪を腰まで伸ばした若い女。二十歳 くらいだろうか? むき出しの腕が擦 り傷だらけなのは、自力で瓦礫を押しのけたせいだろう。フレームの折れた眼鏡 を左耳にひっかけて、ほおから血を流すその魔女は、ひどく痛々しく見えた。彼女は周囲のやじ馬たちの存在を知ってか知らずか、ふらつく足取りで、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
そのしぐさは、きっぱりと周りの助力を──特に、この街の住人たちの助力を──断る気配があった。
十分ほどもかけてゆっくりとゆっくりと歩いてきたその女は、入口近くのオーフェンに、手を伸ばせばとどくというところまで歩を進めて、そこでようやく顔を上げた──彼女の顔は、まるっきり不意の驚 愕 にこわばっている。彼女は、幻覚でも見ているかと疑うように、震える声を出した。
「オ──オーフェン、なの......?」
「ステフ──」
オーフェンが名前を呼ぶと、魔女はそこで力つきたらしく、がくんとひざを折って倒れた──地面に向かって落ちる彼女の身体を左腕で受け止めてオーフェンは、もう一度くりかえした。
「ステフ──お前、やっぱりまだこの街にいたのか!」
彼の背後で、ごとん、という音がした。クリーオウがほおをひきつらせて、マジクの頭を地面に落っことした音だった。
◆◇◆◇◆
「だからさー、ほら、いわゆるセクハラってやつよ。単位が欲しけりゃ一晩つきあえ、だってさ」
夜道──
真夜中をいくらか過ぎた時刻で、人通りはほとんどない。古都アレンハタムは静かな夜をひっそりと紡 ぎ出す織 機 のように、じっとたたずんでいる。月が明るく、路上を照らしていた。まるっきり同じ造りの、数階建て以上のレンガのアパートメントが立ち並ぶ、平民住宅地である。慣れない者にとっては異様な光景だが、住み慣れた者には関係ない。幅数メートルほどのその道を、学生らしき男女が歩いていた。
「なんだよそりゃ」
と、男。女は肩をすくめて、
「だもんでさー、ムカついたもんだからその助教授、近くにあった角材で鼻たたき折ってやったわよ」
「角材?」
「建築学科なのよ」
ふうん、と男がつぶやき、歩きながら女の肩に手を回した。
と──いきなり、彼らの前方に、人影が現れる。
「ふっふっふっ......」
「......な、なんだ?」
男は、とっさに女をかばうようにして身を乗り出した。
人影は気にすることもなく、そこに立っている。暗がりなのでよくは分からないが、身長百三十センチほどの、ややずんぐりした人影である。それは腕組みをして、じっとこちらを見つめている。
人影は、唐 突 に口を開いた。
「愚 か者め」
「は、はあ?」
男がなかばあきれたような声をあげる。
人影は続けた。
「地上の支配者たる、この俺様の行く手を遮 るとは。愚かにも増して哀 れな者どもだ」
「支配者あ?」
男女はふたりして、馬鹿にするように聞き返した。
「そのとおり!」
だが人影は自信たっぷりに叫ぶと、身体をおおう毛皮のマントをばっと跳 ね上げた──と、その下に隠れていた剣の鞘 がのぞく。その人影は大声で言った。
「よく覚えておくがいい──とはいえ残り少ない生 涯 だがな!」
「と、通り魔だ!」
「違あうっ! 俺は──」
「ステア! ここは君がくい止めて──俺が警察を呼びにいってくるから──」
「ちょっと! それなら役割が逆でしょう? あ、なに? 刃物が怖いわけ?」
「当たり前だろ!」
「卒業したら結婚しよう、一生君を守るって言ったのはなんだったの?」
「言葉のあやだよ!」
「そんなもの、言葉のあやにするんじゃないわよ! あ! なに? 今わたしを押しのけて逃げようとしなかった?」
「知るかよ! 前々から、君のことはずうずうしい女だと──」
「やかましいいいいいっ!」
と、人影が剣を抜きながらありったけの大声で怒 鳴 ると、さすがにふたりともぴたっと痴 話 ゲンカをやめた。人影は水平に剣を一振りして、
「この俺様を目の前にして、勝手にふたりだけで話を進めるんじゃないっ! いいか、俺様の名は──」
「うるせーぞ! この深夜に!」
いきなりアパートの上の階のほうから声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、ごっ!──と、落っこちてきたチューリップの植 木 鉢 が人影の脳天に命中した。たたきつぶされるようにして、通り魔がべちゃりと地面に崩 れ落ちる。
「............」
男が恐る恐る、頭に植木鉢(奇 跡 的に割れなかったらしい)を載 せたまま倒れている人影をのぞきこむ。
と──人影はバネ仕掛けのおもちゃみたいに跳 び起きた。
「くっそー! 誰だいま植木鉢落とした奴!」
「う、うわあ! 化 け物!」
男は悲鳴をあげると、そのままくるりと身をひるがえし逃げ出した。その後を、あんたちょっと待ちなさいよ! とか叫びながら、女が追いかけていく。
あとにはぽつんと、植木鉢を頭に載っけた通り魔だけが残った。倒れたときに手放した剣を拾いながら、
「くそ......最近の人間どもは、落ち着きとゆーものを知らん。ティッシュで便所つまらせ殺すぞ、ったく」
ぶつぶつとぼやく。
と、道の隅のほうから、ふらりとその彼と似たような人影がもうひとつ姿を現した。毛皮のマントにすっぽりと身を包まれて、眼鏡に月光が反射して巨大な目のようにも見える。ふたり目は、疲れたように言った。
「大 丈 夫 ? 兄さん......」
「なにがだ?」
「い、いや──植木鉢が......」
「うむ」
なにが『うむ』なのか分からないが、とにかくその人影は大丈夫なようだった。まあ、もともと地人の頭蓋骨 の硬さというのは並ではない。
ふたり目が、ぽつりと聞く。
「こんなことして、どーなるってのさ、兄さん」
「ふん。お前には分からんだろうがな、世界の支配者たるには、まず世の中に名を知らしめる必要があるのだ」
「夜道を行くアベックに襲いかかって?」
「......これは、まず小手調べだっ!」
剣を持った人影は叫びながら頭を回し、植木鉢を地面に落とした。どさっと、土を固めた植木鉢は簡単に砕け散った。
「これは単に直感だが──俺が手に入れた力は世界をも支配するものだ。こいつを使えば、あの陰険な金貸し魔術士を抹殺 するも簡単!」
「見ているかぎりじゃ、そーは思わないけれど......」
「まだ慣れてないだけだっ!」
人影は叫び、剣でもうひとりのほうを殴 り倒した。
さらに、地面に落ちたチューリップのつぼみを踏み付けて、
「だがアレの制御 法さえ分かれば、俺は明日から大陸の支配者だ! 世界の覇者 だ! 俺に逆らう奴らは、ガムテープではがし殺してくれる!」
が、拳 を握り締め、仁王立 ちする彼の頭の上に、再度植木鉢が炸裂 した。今度は土の代わりに石が入っている。
「うるせーと言ってるだろーがあっ!」
だがボルカンにはもう聞こえていなかった。彼は目の中をくるりと白目にすると、そのまま頭をめぐらし──どさん、と地面に倒れた。
あとには、気絶したふたりの人影だけがたたずんでいた。月光に照らされて、古都アレンハタムの美しい街並みの中で。
「あっちだ! 回り込め!」
声が背後から迫ってくる......逃げなければならない。が──
身動きがとれなかった。それがなによりつらかった。
身体 のあちこちが痛む。いつまでも続くその痛みは、絶え間なく押し寄せてくる波の感触にも似ていた──
「向こうだ! 魔術士は向こうに逃げた!」
声はだんだんと近づいてくる。視界はかすみ、もうほとんどなにも見えない。ただ連続する黒っぽい壁の残 像 が──自分の後ろへと跳 び退 っていく。となれば自分は、まだ走っているのだろうか? 自分の足で。記憶では、右足はさっき捕 まりかけたときに鉄棒で殴 られ、たたき折られていたような気がするのだが。それとも、自分は折れた足で走っているのか......
「捕まえろ! 魔術士が、人様の財 布 に手をつけたらどうなるか教えてやれ──」
その財布とやらは、自分の手の中にある。捨ててしまえばいいような気もするのだが、手放すことができない。その革 の財布の中でちゃらちゃら鳴っている数枚の硬貨は、どうしても今日明日を食べていくために必要だ。
財布は手から離れない。そして折れた足も走りやめようとはしない。自分の意志とは裏 腹 に。
(だったら、これは夢ね──)
断定する。自分にそれほどの力があるわけがない。現実の自分は、もうとうに倒れて力つきているはずだ。そして夢の中の自分だけが逃げつづける。
(ならきっと、わたしはもう二度と目覚めない──)
妄 想 じみた考えが胸中を騒がせる。と──
もう暗転しかけていた視界を、すっとなにかが遮 る──回りこまれた! というのが、最初に浮かんだ思考だった。
(誰? 追っ手? それとも──死神かなにか?)
その黒い人影は、こちらに向かって諸 手 を広げている。
(死神だ......)
と思いながら、その腕の中に飛び込んだ。その人影の腕はしっかりと自分の身体を支え、なにごとかささやくようにして言った。
「どうしたんです? なにに追われているんですか? ぼくが──」
と、また追っ手の声。今度は限りなく近く──もうほとんど背後に近づいてきているらしい。荒々しい手が、自分の襟 首 をつかむ──
自分を支えていた腕の主が、抗議の声を張り上げる。
「おい、やめろ! よってたかって──」
と、その声はそこで罵 声 に変わった。殴られたらしい。
「くそ! こちとら殴られてまで優しくしてやる義理はないんだぜ!」
声は腕を高々と差し上げ──
「我は放つ光の白 刃 !」
閃 光 ──爆発音──悲 鳴 。だが自分は......もう身動きがとれない......
......そして今は、寝返りを打てなかった。ベッドに身体を固定されているのかもしれない──あるいは、もう自分はすでに死体になってしまったのかもしれない。
浅い呼吸でなんとか空気を肺 に送りこみながら、彼女は困ったように自問した。
(死を間 際 にした人間は、昔のことを回想するって聞くけど......)
彼女が思い浮かべていたのは、ひとりの男だった。気を失う寸前に見た、あの男──
(あれは幻 覚 だったのかしら......でも──彼はわたしの名前を呼んだ──)
ずきん! と内臓のどこかに痛みを覚えて、彼女は腹 筋 をひきつらせた。意識が回復するにつれ、身体に痛みを感じる箇 所 が増 えていく。この痛みは打ち身によるものだ、と彼女は自分に言い聞かせた。決して──内臓に取り返しのつかない損 傷 がついた痛みではない。そう信じないことには、また気絶してしまいそうだった。
「お師 様──」
と、声が聞こえた。男の声だが、彼女が覚えているあの男の声ではない。かなり若く──というより、幼 い声だ。その声は、どうやら別室にいるらしい相手に向けて続けた。
「このひと、目を覚ましそうですよー」
それに応 えて、くぐもった声が聞こえてくる。が、よく聞き取れない。だが最初の声の主には聞こえたらしく、
「はあい。この注射を射てばいいんですね?」
注射?
それはあまりいい思い出の残る単語ではなかった。彼女はほとんど渾 身 の力をふりしぼり、のどの奥からうめくような声 音 で告げた。
「ヤメテ......」
注意すれば、なんとかそういうふうにも聞こえなくはない、という程度のうめき声に過ぎない。が、彼女の腕をつかんだその声の主は、ちゃんと聞き取ってくれたようだった。
彼がまた、
「お師様―」
と呼びかけるのが聞こえた。ややしばらくして、扉 が開く音がした。
「なんだよ、マジク。静 脈 の位置は教えただろ?」
(────!)
その声には、はっきりと聞き覚えがあった。彼女は反射的に跳 び起きようとして──実際は彼女の身体はぴくりとも動いてはくれなかったが、とにかく目を開いた。
「オーフェン!」
絶 叫 に近い声だった。自分自身その声量にびっくりし、目をぱちくりさせる──その彼女の視界に最初に映ったのは、見慣れたガス灯のぶらさがる天 井 だった。そして次いで、安っぽい壁紙がぐるりと囲むせまい部屋。家具といっては彼女が横たわっている組立式のパイプベッドとベニヤを張り合わせたようなクロゼットだけ。小さな窓の外には、星の瞬 く深夜の夜空──そこは毎日見慣れた、彼女のアパートメントの中だった。
最後に、その部屋の中で彼女を見下ろす、少年と男。
「オーフェン......」
彼女がつぶやくと、彼は包帯で吊 った右腕を左手でさすりながら、
「やあ、ステファニー」
と緊張感のないあいさつを口にした。
彼女は身体を起こそうとし、とりあえずその努力だけは示すというように体中の筋肉を震わせたが、結局身動きがとれなかった。だが筋肉に反応があるということは、とにかく神経が駄 目 になったというわけではないらしい、と安 堵 する。神経系以外の外傷なら、なんとか魔術で治 癒 できるはずだ。
「ステフって呼んで。昔みたいに」
彼女が言うと、オーフェンは肩をすくめて同意した。
「じゃあ、ステフ」
「......そのほうがいいわ」
「お知り合いなんですか? お師様」
ベッドのわきに腰掛けた金髪の愛らしい少年がそう聞くのが聞こえた。確かオーフェンは、マジクと呼んでいたようだったが。
ああ、とオーフェンがうなずいて説明する。
「俺が昔、一年間だけこの街で暮らしていたのは話したよな。そのとき俺は、小さな診 療 所 で雑用係をやってたのさ」
「わたしは、そこの患 者 のひとりだったの」
彼女──ステファニーが言うと、マジクは心持ち紅 潮 して頭を下げた。
「す──すいません。そんなことを詮 索 するつもりはなかったんですけど──」
「? 別にかまわないわよ?」
だがマジクは明らかに自分の落ち度だとばかり、うつむいて続けた。
「で、でも──このお師様が勤 めていた診療所なんて、どーせ非合法で陰湿で怪 しげなところに決まってます」
「てめえ俺をなんだと......」
オーフェンの陰険なうなり声に続けるようにして、ステファニーがくつくつと笑った──そして、まだ彼女の腕をとったままのマジクの手に触れて、言う。
「彼はケガしたわたしを助けてくれたのよ。それで、診療所まで連れてってくれたわけ」
それを聞いて、オーフェンはふっと目の色を陰らせ、
「それが間 違 いだったん──」
と、彼が言いかけた瞬間、部屋の入口のところで咳 払 いが聞こえた。
見ると、そこにちょこんと、いつの間にか金髪の小 柄 な少女が立っている。動きやすそうなジーンズの、いかにも健康そうな女の子だった。
もっとも、第一印象を言わせてもらえば──どうもこちらに悪意を持っているように見える。
その少女は、そらぞらしい視線をこちらに投げながら、オーフェンに向かって言った。
「ええと──わたしには紹介してもらえないの? そのひとのこと」
「......お前、もう一回学校で礼儀作法をやりなおすか?」
オーフェンは非難するような口調でその少女をにらみつけてから、
「彼女はステファニー。つまり......友人だ。で──」
と、今度はこちらに向きなおり、入口に立ちんぼの少女を示して、
「あれがクリーオウ。まあ、なんて言うか......旅の連れだな。おっと、ついでに、こいつがマジク。俺の生徒だ」
「なんでぼくだけオマケみたいに──」
マジクのせりふをさえぎる形で、ステファニーはオーフェンに聞き返した。
「旅の連れ?」
「ああ。クリーオウは俺が世話になったひとの娘でね」
そのオーフェンの返事に続けて、クリーオウというらしいその少女は不服そうに口を開いた。
「なによその言い方。ひとをお荷物みたいに」
オーフェンが笑みを浮かべる。
「オマケみたいな生徒と、お荷物みたいな娘さ。こいつら自身が、一番よく自分の立場を分かってるらしい」
「なによ」
「お師様あ」
マジクは情けない声をあげただけだったが、クリーオウのほうは完全に機 嫌 を損 ねたようで、ステファニーの部屋を出て続き部屋になっているほうへと姿を消した。
「なんだか......ずいぶんと──」
ぎすぎすした旅の仲間ね、と言いかけて、ステファニーはもう少していねいな言い方はないかと口ごもった。ようやく捜 し当てて、
「大変そうな感じね」

「まったくだ。我がままでかなわない」
オーフェンが嘆 息 まじりに同意する。と、思い出したように、
「花を買ったんだが、捨てちまった。まさかこういう形で見舞いになるとは思わなかったからな」
「いいわ。気持ちだけで」
ステファニーが微 笑 すると、マジクが不安そうに眉 をひそめた。
「でもお師様──花で思い出しましたけど──」
「ああそうそう。ステフ、悪いとは思ったんだが、ベランダにあったチューリップの植 木 鉢 、もらったよ」
「え?」
ステファニーが聞き返すと、オーフェンは、なに、なんでもないんだが──と前置きしてから続けた。
「さっき、夜中だってのに道 端 で騒いでる馬 鹿 がいたみたいなんでな。こっから投げつけてやったんだ」
「お師様は手 加 減 がないから......あれ、どう考えてもヤバイですよ」
「なにがだよ」
「だって、一回だけならまだしも、二回目なんて植木鉢に石入れて落としたんでしょう?」
「......ンなこと言ったって、こんな真夜中に騒いでる向こうが悪いんだよ。どのみち、あんなモン当たるわけねえじゃねえか。よっぽど運がないってんならともかく」
「でも──」
マジクが口ごもる。
「チューリップのことはちょっと惜 しいけど......でもどうせ季節外 れの試作品だから。でも、あんまり危 ないことはしないでね」
と言ってステファニーは、腕を上げた。いつのまにか、痛みがひいて動けるようになっている。
「あら......?」
不思議に思って彼女が声をあげると、かたわらのマジクが彼女の疑問に気づいて、得意げに答えた。
「麻 酔 の効果が切れたんでしょう。お師様が癒 してくださったんですよ。ご自分もケガしてるのに、あなたの治療が先だって」
感謝をこめて彼のほうを見やると、オーフェンが多少気まずそうに天 井 を見上げた。そして、無理な笑みをぎこちなく浮かべると、
「せめてもの罪 滅 ぼしかな」
だが結局、ベッドから起き上がるほどには体力が回復しておらず、彼女はそのまま眠りについた──麻酔のせいで半日眠った後だったが、それでも疲労が残っていたようで、ほどなく睡 魔 が訪 れたのだった。
翌朝には、身体 の各所に残った痛みを我 慢 すれば、なんとか立ち上がれるようになっていて、彼女はいまさらながら、オーフェンの魔術の手 腕 に感服を覚えた。昼少し前といった遅い朝日を窓から浴 びながらステファニーは大きく伸びをした。疲労のせいで筋肉痛がするが、それほど不快でもない。彼女は寝台わきの小卓から眼鏡 を取り上げ(それすら、壊 れたはずのフレームが修復されていた。これもオーフェンだろう)それをかけると、手で髪を整えながら壁にかかった鏡をのぞき込んだ。
......そして、皮肉げに口元をにやりとさせた。
「ひどい顔」
つぶやく。瓦 礫 で裂 いてしまったらしい左ほおには大きくガーゼが当ててある。額 の髪の生え際 にはコブができていて、遠目にならともかく、顔を近づければかなり目立った。しかもその傷を中心に、どす黒くあざになっている。
「まあ、体調は回復したみたいだし、これならわたしでも自力で傷 跡 を消せるだろうけど......」
それよりもまずは朝食だ、と彼女は判断した。寝室から続き部屋へと扉 をくぐる。
と──
キッチン兼居間になっているその部屋には、仏 頂 面 したクリーオウが陣取っていた。ソファーの上にあぐらをかいて、することもなく壁をにらみつけている。恐らく、昨日の騒ぎの中で手荷物と着替えをなくしてしまったのだろう──昨夜と同じ服装だった。
なんだか自分のほうこそ闖 入 者 になってしまったような気まずさで、ステファニーは口を開いた。
「おはよう」
クリーオウはなにも答えなかった。ただ......わずかに目を伏せてこちらを見た。そのまま数秒が経 ち、無視されたかとステファニーが思いはじめたころ、ようやくクリーオウは声を出した。
「ごめんなさい......昨日は」
と、おびえるように肩を縮めて彼女は続けた。
「あんな態度をとるべきじゃなかったわ。礼儀知らずだと思われても仕方ないわよね」
「いいわよ。そんなに気にしてないから──」
ステファニーは手を上げて答えながら、きょろきょろと部屋を見回した。
「オーフェンと、それとあの──マジクだったかしら? 彼らはどこに行ったの?」
「仕事。見つけたんだって──生活費がないから、稼 がなくちゃならないの」
すっかり消 沈 したらしいクリーオウのうなだれた前髪を見ながら、ステファニーは微笑した。ははあ、と声をあげて、
「オーフェンに怒られたのね」
だがクリーオウはかぶりを振った。次に顔を上げると、少女は貴族の血をひく碧 眼 を涙でくもらせながら、ソファーから立ち上がった。
「違うの──怒られはしなかったわ。でも......あなたのことを話してくれたの」
クリーオウはとうとう罪の意識か、しゃくり上げはじめている。ステファニーが両腕を広げると、わっと声をあげて少女が飛びこんできた。まだ痛みの残る脇 腹 を抱き締められて気絶しそうになったが、ステファニーは気 丈 に笑顔を保つと、ぽんぽんと少女の背中をたたいてやった──
ここまでこの子を同情心の虜 にしたのだ。あの大嘘 つきは──もちろんオーフェンのことだが──あのことをとてつもなく歪 曲 して語ったに違いない。そして取りも直さず、そのことは、あの男がいまだあのことを気に病んでいることを意味していた。
◆◇◆◇◆
さあああああ......
澄 んだ沢に砂が流れるような、静かな音 色 。花畑に降る軽やかな小 雨 のようにいつまでも途 切 れず、それは続く。涼しげな風が凪 いでいた。荷船の帆 の先端に小さな三角旗がひるがえり、向こう岸が水蒸気で霞 むほどに広い運河を静かに流れていく......
「ボケ! なにぼんやりしてやがんだ、新入り!」
同時に背後からヤカンが飛んできて、彼の後頭部に炸 裂 した。べたん、と馬車に轢 かれた蛙 みたいにうつ伏せに倒れた彼の背後から、容 赦 なく声は続ける。
「荷を下ろす時間は、一 隻 につき一時間と決まってんだ! ぼさぼさしてっと、石抱かせて運河に沈めっぞ!」
オーフェンが、もう完 治 した右手で痛む頭を押さえつつ起き上がると、荷 揚 げ場につけてセイルを下ろした中型の貨物船にまたがって、隻 眼 の大男が積み荷の建築材──石切り場から切り出された自然石を両肩にかついでいる。
「あいよ」
オーフェンが胸 中 で舌を出しながら返事すると、大男はなにやら低く毒づきながら、石をかついで荷揚げ場へと上がっていった。
男の背中が見えなくなってから、オーフェンは甲 板 に腰を下ろした。ため息をつきながら、また運河に目をやる。
と──そこを、石材ひとつ抱えてひいひい言っているマジクが通りかかり、足を止めた。
「お師様あ」
と、汗だくになってうらめしげに、
「働いてくださいよお。さっきから、お師様のノルマまでぼくが──」
「.........」
オーフェンは無視して、深々と吐 息 した。じろりと生徒を見上げて、うなるように言う。
「お前みてえなガキに、なにが分かる」
「......なんなんですか、いきなり」
マジクは言いながら、どすんと石を下ろした。すりむけた両手をこすりあわせながら、腰の筋肉を伸ばすために背をそらす。
オーフェンは目だけでそれを見上げつつ、ぶすっと告げた。
「人は恋をするんだ」
.........
沈黙。
ややあって、ぐらり、とマジクが後ろによろめいた。すっかり混乱した顔で、大声で叫ぶ。
「誰か来てくれええっ! お師様が乱心したあっ!」
「なんで乱心だっ!」
オーフェンは立ち上がりざまにマジクを蹴 倒 すと、少年をまたぐようにして、びしっと指を突き付けた。
「昔のことだっ! いいな──誤解するなよ──昔のことなんだっ!」
「......なんか、やけにムキになってますね」
蹴られたあごをさすりながら、マジク。オーフェンは痛いところをつかれて、ぐっと息を呑 んだ。
「うっせえな......いいな。とにかく、俺は──」
と、彼が言いかけたとき──異変は生じた。
ごごごごごごごごごごごご......
──地鳴りのような音が、低く響く。のみならず運河の水面が揺れはじめ、貨物船はゆったりと揺 り籠 のように運動しだした。ぐらぐらと落ち着かない足場につまずきながら、オーフェンはつぶやいた。
「な──なんだあ?」
ざばああああっ!
運河から突然、水柱が立ち上がる。高さにしてみれば十メートルはあるであろうその水の塊 は、天まで吹き上がってから分散し、にわか雨のようにあたりに降りかかった。荷揚げ場のあちこちから、人足たちの悲鳴やら罵 声 があがる。唐 突 な水面の乱れに、過 積 載 の小船が転 覆 するのが見えた。
そして......あたりに哄 笑 が響き渡る。
「うわあーはっはっはっはっ!」
「な──」
オーフェンが絶句して、立ち尽 くす。船の揺れはひとまず収 まったが、オーフェンはなおも頭の中がぐらぐらと揺れるのを覚えていた──あたかも、今の揺れで一瞬に船 酔 いにかかってしまったかのように。
哄笑は続く。
「うわあーはははははははははははっ! うわっはっはっははははあっ!」
だが、実のところオーフェンは哄笑など聞いてもいなかった。
それよりも、もっと異様なものが目の前にそびえ立っている。
運河の中からいきなり立ち上がったのは、巨大な──身長にすれば十メートルはあろうかという石像だった。下半身は水面の下だが、見えている上半身だけでも相当の巨体である。筋肉隆 々 の巨人を模 した石像で、腕が四本ある。その二対の腕を各 々 胸で組んでいた。頭は身体の割 に妙 に小さく、しかも目鼻がなくて、布のようなものがぺたりと貼 り付けてあるだけだった。その布には、一文字大きく、なにかのシンボルのような文字が描かれている。
(魔術文字 ?)
とオーフェンはいぶかった。だとしたら、あの文字の描かれた布が、あの石像に生命を与えているということになる。
「な──なんなんですか、あれはっ!」
後ろからかじりつくように、マジクが叫んだ。オーフェンは振りかえらずに、
「あれは──聞いたことはある。巨石歩兵 だ」
「うわあーっはっはっはっ!」
「ゴ、ゴーレム?」
「そうだ。つまり──」
「うははははっはっはっうわはははっ!」
「つまりだ、古代の魔術士──天 人 が造った兵器の一種だ。半壊したものはよく遺 跡 なんかに転がってるが──」
「はーっはっはっはあっ!」
「あんな完全に残ったものは珍しいな。ましてや、稼 働 してるなんてのは──」
「はっはっはっはっはっはっはっはっ!」
「ぃやかましいっ!」
オーフェンは巨石歩兵のほうに向きなおると、その巨人の頭にへばりつくようにして乗っかっているモノに向けて怒 鳴 りつけた──運河の水を滴 らせつつ、濡 れた犬そのもののしぐさで身を震わせたそれは──まぎれもなくボルカノ・ボルカンだった。水草のへばりついた毛皮のマントを身にまとい、濡れそぼったアメフラシみたいな格 好 でボルカンは、ぴたりと哄笑を止め、怒鳴り返してきた。
「やかましいとはなんだっ! こちとら、いったん笑い出したからにゃあ、なんか声をかけてもらうまで引っ込みがつかんだろーがっ!」
ぴくり、とオーフェンのほおがひきつる。
「知ったことかっ! いきなり水の中からなんぞ出てきやがって! ずっと運河の底をもぐってきたってのか? 常識とかなんとか知らねえのかっ!」
「なんだとコラ! どっちが非常識だってんだ! この落ちこぼれの金貸し魔術士が──」
「ほおう! そのカマキリの卵なみにスカスカの脳みそにも、ちったあ記憶力がついてきたよーだな! 俺の職業を思い出したところで、てめえの借金の額も思い出したらどーなんだよ!」
「黙れてめえ! 今日こそこのボルカノ・ボルカン様の剣の錆 になりたいってか!」
「やってみやがれ! 口だけでねえんならな──さもなきゃ、錆だらけの剣で耳くそほじってろ!」
「あのう、お師様......」
後ろから、おずおずとマジクが話しかけてくる。
「あんだよ」
オーフェンが肩越しに返事すると、マジクはあきれたように嘆 息 して、
「見物人もいますし......できれば、もーちょっと高次元な言い合いに発展してもらえませんか?」
「......ようし。分かった」
オーフェンはうなずいてから息を吸うと、さっきまでにも勝 る大声を張り上げた。
「この恒 星 スペクトル的超絶底抜け大たわけが!」
「ああああああ」
と、背後からマジクのうめき声。
なおもしばらく罵 り合いつづけてから、いいかげん語 彙 も尽きたところで、ぜえぜえとボルカンは言った。巨人の頭の上から、
「ふっふっふっ......負け犬がどんなに遠吠えをしたところで、この巨石歩兵一号──名付けて『ポルク・ハン』には手も足も出まい」
と、自分のしがみついている石像の頭をさする。その言葉に反応するように、石像──ポルク・ハンとやらは四本のうち二本の腕を空高く突き上げた。
「......こんなモン、どこで見つけやがったんだ」
オーフェンが後ずさりしながらつぶやくと、ボルカンは得意げに、
「ほおーっほっほっほぉっ! 泣き言が言いたいなら好きなだけ言うがいい! どうせ貴 様 の運命も今日限りだ! さあ、なんかできるもんならやってみやがれ!」
「くそ......」
オーフェンは毒づきながら、身構えた。目を閉じて、苦悩するようにうめく。
「駄 目 だ、マジク......俺にはできない」
「お師様!」
「はあーっはっはっはあっ! 負けを認めたか金貸し魔術士! おとなしくしていれば速 やかに、鉄のブラシでこすり殺してやるからありがたく思え!」
「お師様!」
マジクはこちらに取りすがって、力づけるように言った。
「なにを戦う前からあきらめているんですか! あの爆発の中で、お師様は、俺は決して負けを認めないって──」
「そ、それはそうなんだが──」
オーフェンがぐっと拳 をにぎって目をそらすと、マジクはそれを追いかけるように、こちらの顔をのぞきこんできた。
「そんなの、お師様らしくないですよ! 困るじゃないですか! ここでお師様にあきらめられちゃったら、ぼくの身の安全はどーなるんです?」
「......てめえ、それが本 音 か。だが──」
と、オーフェンはポルク・ハンの巨体に向きなおった。断 腸 の思いでうめく。
「あれを無傷で手に入れられれば一財産なのに......やむを得ないか......」
「......へ?」
と、これはボルカンの声。
オーフェンは両手を突き出すと、声 高 に唱 えた。
「我は放つ光の白 刃 !」
「へ?──」
ボルカンの最後のつぶやきを途中でぶつ切りにするようなタイミングで、オーフェンの放った必 殺 の光熱波がポルク・ハンの顔面に突き刺さる。衝撃波を伴 った強力無比の閃 光 は、大爆発を起こして巨石歩兵の上半身を粉々に爆裂させた。衝撃で運河が揺れ、小さな津波が荷揚げ場に乗り上げる。
「ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ.........」
と、宙を舞って運河の中央へと落下していくボルカンの悲鳴が、いつまでも尾を引いた。ぼちゃん、と石が井 戸 に落ちるような音を立てて、小柄な地 人 の姿が水面下に消える。
「............」
オーフェンは棒立ちになって、取り返しのつかない損傷を受けたポルク・ハンを見つめた。上半身が消し飛んでしまっては、もう、びた銭ほどの価値もあるまい。
「あの......お師様。あの地人、浮かんできませんけど」
マジクの問いに、まだ未練を残して巨石歩兵を見つめながらオーフェンは答えた。
「地人の身体は水よりも比重があるからな。水に落ちたら沈むしかねえよ」
「......じゃああの人、溺 れちゃうんじゃないですか?」
「地人はそう簡単に死なねえって」
「......水に沈んだら、さすがに死ぬと思いますけど......」
「うっせえな。俺はハート・ブレイクだ。女にも金にも裏切られる運命なんだよ。ひとりにしといてくれ」
ぶつぶつ言いながら、荷揚げ場に上がる。と、そこに、例の隻 眼 の人足が待ち受けていた。彼は、片方だけの目で険悪にこちらをにらみつけながら、
「お前はクビだ。魔術士を働かせるわけにはいかねえ」
「ああ、そうだな。隠してて悪かった」
オーフェンはもう疲れきって反論する気にもならず、ただ後方の貨物船のほうに手を振って、
「ところで、さっきの爆発であんたの船の底にも大穴が開いちまったみたいだったけど、まあ仕方ねえよな」
「な──なにいいいっ!」
隻眼がおおげさな悲鳴をあげる。が、まだ荷物の石を積んだままだった貨物船は猛スピードで沈んでいき、あっと言う間にマストの先すら見えなくなっていた。
「ちっくしょー、胸くそわりい」
喉 の奥で不 機 嫌 にうなりながらオーフェンは、路面を蹴 飛 ばすような足取りで路地に入った。路地とはいってもけっこう広く、まあちょっとした脇 道 といった程度だ。ステファニーのアパートメントまで、あと十分ほどといった距離である。
あとからついてくるマジクが心配そうにつぶやくのが聞こえる。
「大 丈 夫 ですか? お師様。なんか変ですよ、今日は」
「ちくしょー、ちくしょー、ちくしょー!」
オーフェンは毒づきながら道に転がっていた壊 れたサンダルを蹴飛ばし、いきなり思いついたように、マジクのほうへと振りかえった。
「ああ、そうだ! お前、少しでも師の窮 状 を気にかける気持ちがあるんなら、まだ誰も手をつけてない金山か、裏口の鍵 がいつも開いていて警備員も居眠りしている両替屋を見つけてこい」
「また無茶を言う」
「なら、せめてすぐに借金を返してくれる地人だけでもいーから」
「......お師様」
「冷てえなあ。師弟愛とか、男の友情とか連帯とか知らねーのか?」
「............」
なぜかジト目になってこちらをにらみつけてくるマジクを見返しながら、オーフェンはまた深々と嘆息した。いきなりその場にしゃがみこんで、絶望的につぶやく。
「ああ──俺は不幸だ」
「どうでもいいですけどお師様、ホントに今日はヘンですよ。人格が変わってます」
マジクのせりふを聞いて、オーフェンはぴくり、と表情筋を反応させた。すっくと立ち上がり、
「......マジク」
「な、なんですか急に真剣な目付きで」
「ステフをどう思う」
「ど、どうって?」
「第一印象でいい。あれを一目見て、どんなふうに思った?」
「え──ええと......」
マジクは言葉を選ぶように虚 空 を見上げ、
「ま、まあケガだらけであの有り様ですから──でも、なかなかきれいなひとですよね。部屋もけっこう片付いてましたし。戸 棚 に入ってたケーキは手作りだったみたいですけど、ちょっと小麦粉が多すぎる感じでした──それともあれは、卵をケチったのかな? ぼくの母さんは昔、生クリームを使うとうまくいくんだって言ってました。半日もすると傷 んで食べられなくなりますけどね。バスルームを調べられなかったのは残念ですが、脱衣所にあった化 粧 品 からすれば、どちらかと言えば派 手 好みではないようです。魔術士ということで少なくとも身元ははっきりしてますし、それと家 計 簿 をのぞいたところ、貯 金 もかなりしているみたいです。狙 い目ですね」
そんなことを、『GO!』という手つきを作りながらマジクは答えた。オーフェンは、疲れたように少し肩をコケさせながら、
「......お前、ひょっとしてスゴい奴なんじゃねえのか?」
「そーですか?」
「なんか意味もなく自信なくなっちゃったな俺──でもまあいいか。そうか、とにかくお前も、そー思ったわけだな」
「......はい。なんか違うんですか?」
「いや──お前の判断そのものは間 違 っちゃいないんだが──」
オーフェンが、冷や汗を垂 らしながらそう言った、その瞬間──
ひぉうっ!
というような音が空を切り裂き、鋭く黒いものがオーフェンの耳元をかすめる──とっさに身をかわしたからいいものの、あと少し反応が遅れれば左耳がなくなっていたところだった。
「何者だっ!」
振りむきざまに叫ぶ。が、振りむいた先には誰ひとりいなかった。がらんとした路地が、吹き抜ける風もなくだんまりしている。
「────?」
と、次の瞬間、言葉も出ずに目をぱちくりさせた彼の眼 前 で、まったく息をつく暇 もなく真っ白な光が閃 いた──目玉を貫 いて脳 髄 に突き刺さるような痛みを覚えてオーフェンは、たまらず自分の顔面を押さえた。同時に出かかった悲鳴を、なんとか喉 のところで押し止める。
そして声が、唐 突 に聞こえてきた。
「なるほど、悲鳴はあげないか──いったん大声を絞 り出してしまったら、いざというときに呪 文 が唱えられないものな? だが──」
指の隙 間 から、ようやくぼんやりと見えるようになってきた視界の中には──その声の主の姿はない。
「だが、これでもまだ声をあげないかな?」
ぐんっ! と、顔面を押さえていた両腕が、空気かなにかにつかまれたかのように勝手に後ろ手に回った──その勢いで、オーフェンの身体 も宙を反転する。弾 みのついたボールのように飛び回る錯 覚 に襲われ、彼はとにかく自分がどういう体勢でいるのかまったく分からなくなった。地面が見え──立ち並ぶアパートメントの屋根が見え──空が見え──なぜかマジクの顔までが見えて──
気が付くと、地面にたたきつけられていた。悲鳴は出なかったが、どのみち衝撃に息を絞 り取られ、呼吸も満足にできそうにない。咳 込みながらオーフェンは、とにかく起き上がろうと身をよじった。頭だけなんとか動いてくれたが、ぐっと伸ばした首をまたなにかの黒い衝撃に打ちすえられ、彼はますます息をつまらせた。
「今ので、首を吹き飛ばすこともできた」
声はするが、相変わらず姿は見えない。
(魔術だ──だが、人間のじゃない)
そもそも、さっきから呪文となるべき声がひとつも聞こえてきていない。
「お師様!」
マジクの声。オーフェンは息も絶え絶えに身を起こし、駆け寄ってくるマジクに助けを求めて手を伸ばした。少年の肩を借りなんとか立ち上がると、オーフェンは聞いた。
「......なにが起こったんだ?」
マジクは震えながら、
「突然お師様の身体が跳んだ んですよ。十メートルばかり吹っ飛んで、今度はなにか、黒っぽい塊 が、こう──ものすごいスピードでお師様の首のあたりに命中して......」
と、少年は道の向こうを指さした。
「あ......あそこに落っこってます」
「?」
オーフェンはいぶかしみつつ、マジクの指さしたものを見た──オーフェンの首に当たり、そして跳 ね返って道に転がるそれは、手首だった。握り締められた拳 である。やけに細く、関節だけが異様に膨 れていて、肌は青っぽく──
と、その拳が跳ね上がった。というより、どうも手首のところに鋼 線 がくっついているようで、それをたぐって遠 隔 操作しているらしかった。ということは、その鋼線のおおもとをたどった先に本体が──
「いたっ!」
オーフェンは短く叫んで、そしてその人影が立つ方向へと腕を突き出し、声を発した。
「我は放つ光の白 刃 !」
かっ──!
純白の閃 光 があたりを照らし、煌 々 と燃え上がる熱波の中にその人影を呑 みこんだ──衝撃が大気を震わし、爆音が轟 く。が──
ふっ......
と、あまりにも唐突に、炎 は消えた。
後には、かえって影が濃くなったかのような暗がりに、すっとひとりの──人影。
まるで造り出されたかのような、不自然に痩 せぎすの体 躯 。凹 凸 の少ない、水面をそのまま固めたような肌。実際その光 沢 は、水が絶え間なくたゆたうような輝きすら持っている。なにも身に着けていないが──実のところ、衣服を着ける必要などないのではないかと、オーフェンは思った。その身体には、なにひとつとして強調されるべき特 徴 などなかった。なにも隠す必要がないし、隠すべきところもない。言ってみれば、その身体はただのガラス細 工 のようなものだった──裸体だろうが服を着ていようが、誰も気にしない。どちらだとしてもただ単に、そういうものかと思うだけだ。
「何者だ」
オーフェンがつぶやくと、その男──いや、人間ではないから、どう呼べばいいのか分からないが──とにかくそれは、ゴムボールにナイフで切り口をつけただけのような、唇 のまったくない口を開いた。
「わたしは秘宝の番人だ」
「秘宝の......番人だと?」
「何百年か昔には、お前たち人間の魔術士には......殺人人形 と呼ばれたがな」
「なんだって──?」
オーフェンがうめき声をあげた瞬間、周囲から、ざわざわと耳 障 りなざわめきが押し寄せてくる。甲 虫 が網 にからまったときに立てる音とそっくりなざわめきの波は、周囲全体から無数に、そしてまんべんなく満ち満ちた──
《なんなんだ?》
オーフェンとしては、声に出したつもりだった。が──
(!......声が出ていない?)
彼は胸中でうろたえると、確認するようにマジクの顔を見やった。マジクもまた、なにかを訴 えているつもりなのか、こちらを向いて口をぱくぱくさせている。
そうこうしているうちにも、ざわめきは大きくなっていく。
(......この音が、俺たちの声を消 去 しているのか?)
あわてて向きなおると、殺人人形とやらは、にやり、と満足げな笑みを浮かべていた。
「そうだよ。しかも人間の声だけを選んで、というわけだ」
(────!)
オーフェンはぞっとして、後 退 りした──それにあわせて、マジクも一歩退 く。それまでなんの特徴もなかった殺人人形ののっぺりした下腹に、なんの脈絡もなく、光り輝く文字が現れていた。たった一文字、青白い肌の上に入れ墨 のように白く輝く、魔術の印章。
(魔術文字 !)
オーフェンには魔術文字など読めないが、恐らく今輝いているその文字が、この不可解なざわめきを引き起こしているのだろうと分かった。
「君の考えている通りだよ、魔術士」
(......俺の考えが読めるのか?)
「簡単な思考ならば、ほぼ確実に、な──わたしは──」
と、自分の下腹に輝く魔術文字を指し示し、
「これと同じような文字を数百も身体に内蔵している──その文字のどれもが、お前たち人間の魔術士を殺すためのものだ」
殺人人形は言いながら右手を自分の目の高さまで、すっと上げた──そして、かきん、という音がしたかと思うと、その中指から十センチほどの針のような刃 が飛び出す。それを見せびらかすようにちらつかせてから、人形は、ふふと笑った。
「この音の中では、お前たちは魔術を使えない。まるっきり無力なお前らを、好きなように切り刻むこともできる、今、ここでだ」
ざわめきの唱 和 にあわせて、殺人人形の刃がきらきらと踊る。が、人形は、特に飛びかかってくることもなく、その場で続けた。
「だが今は殺さない」
(......なぜだ)
オーフェンの胸中の問いに、人形は事もなげに答えた。
「わたしは、お前たちを根 絶 やしにしなければならないのだ。たったひとりも生き延びさせてはいけない」
(......どうして俺たちを殺す必要がある。魔術士同盟を吹き飛ばしたのも貴様だろう? あそこにいた魔術士は......全滅だった)
「我は主命を受 諾 するのみ」
(そいつは大層なご身分だ)
オーフェンは皮肉ったが、人形はまったく無視した。あるいは、皮肉に気づかなかったのかもしれない。それとも、そもそも皮肉など理解できないのだろうか。
人形は続けた。
「あの建物にいた魔術士たちは、全滅はしなかった ......そうだろう?」
(............!)
「そう。女がひとり、逃げたのをわたしは見ていた。その女の居 所 が分からないままお前を殺したら......手掛かりがなくなる」
(どうして、俺の居場所なら分かるんだ)
「お前の力は非常に強い......この街のどこにいても、その魔力を探 知 できる。そのための文字も、わたしの身体には内蔵されている」
(............)
オーフェンはとっさに、自分が今ステファニーのアパートメントに間借りしていることを考えまいと、思考をシャットアウトした──この人形がどの程度、こちらの考えや記憶を読み取れるのか知らないが、恐らくはこの程度の防 御 で大 丈 夫 なはずだ。でなければ、とっくの昔にステファニーの居場所を探られていたはずである。
「なるほど......ある程度ならば自分の心や記憶を制 御 する訓練も受けているらしいな」
(............)
「今度はだんまりか。どちらにせよたいした自制心だ。普通、これだけの危機にさらされれば、心を乱して勝手に秘密を思い浮かべてしまうものなのだがな」
(............)
「だが、その自制心があと何分もつかな?」
人形は感情のない目でこちらを見 据 えながら、残 酷 な声 音 を出した──オーフェンの額に、つうっと一筋の汗が流れる。言われたとおり、実のところそんな自制心など、あと何十秒と保てはしないだろう。
絶望的だ。そうオーフェンが思いはじめたとき──
「ふふふふ......」
人形が笑う。そして人形の身体に輝いていた文字が消えると同時に、周囲のざわめきも消える。殺人人形は、さらに声を高めて笑ってから、大 仰 に告げた。
「まあ、いいだろう。どのみち、わたしは今日、お前を殺すつもりはない」
「くそっ──たれが」
ようやく出せるようになった声で、毒づく。人形は気にも留めなかった。
「今日のところは、これを渡しにきただけなのだからな」
人形はそう言うと、どこから取り出したのか、一枚の紙片をオーフェンの足元に投げた──幾 重 にも折り畳 まれたそれは、ころんと彼の靴 に当たった。
「............?」
オーフェンがマジクと顔を見合わせて、いぶかしげな顔をしていると、人形はにやりとした。
「挑戦状だ。君の......友人からの」
「なんだと?」
オーフェンはつぶやいて、紙片を拾った。ちらりと警戒するような視線を人形のほうに投げてから、広げてみる──
オーフェンはぐしゃりとその紙片を握りつぶし、また地面にたたきつけた。その形 相 に、びくっとマジクが後 退 りする。
オーフェンは怒 声 をあげた。
「『明後日〝バジリコック〟で待つ。決着をつけるべし──ボルカノ・ボルカン』──は! あの極楽タヌキがなんだってんだ!」
「彼は、現在のわたしのマスターだ」

しごくまじめな面 持 ちで、殺人人形。
「マスター?」
オーフェンは、すっとんきょうな声をあげた。
「なるほどな──あの巨石歩兵は貴様があいつに譲 ってやったわけか」
「それだけではない。わたしが『番人』として今まで保護してきたすべての遺産──それが今は、彼のものだ」
「ざけんな! なんのつもりだ? 貴様みたいな『殺人人形』が、なんだってあんなボケの言いなりになんざなるってんだ! なにを企 んで──」
言いかけてオーフェンは、はっと気づいた。
「......どうしたんです?」
と、マジク。オーフェンはなにも答えずに、じっと人形をにらみすえた──人形は、それに促 されたように笑みを拡げた。
「その通り。彼らを──あの地人の兄弟を見つけたとき、わたしは彼らの心を読んだ。そして、君のことを知った。人間の黒魔術士オーフェン」
「............」
「のみならず、彼らは君のことを色々としゃべってくれたよ──君は強力な魔術士だ。悪いが、生かしておくわけにはいかない」
「だから──それは──なぜなんだ!」
オーフェンは叫ぶと、渾 身 の力を込め、人形に向けて光熱波を放った──だがそれも、人形の差し伸べた左手のひらに文字が輝くだけで、その文字の中心へと吸い込まれて消え去った。あっさりと。
「く......」
オーフェンがうめくと、人形は肩をすくめ、
「そう。単に魔術の力だけで言えば、君はたいしたことはない──無論、わたしから見ればの話だが。しかし、わたしが恐れるのは──そのそれほど傑 出 したわけでもない力で、わたしの持つ最強の文字──あの建物を消し飛ばした破壊文字の爆発すら生き延びてしまった、その運というか──生命力だ」
「人をゴキブリみてえに......」
「人間であれば、見つけたゴキブリをたたきつぶして終わりだがね。わたしはそうはしない。もっと──確実な手を使う。君が逃げられない舞台を用意して、そこで......たたきつぶすつもりだ」
「逃げられない舞台?」
と、これは、マジクが出した声だった。ちんぷんかんぷんなまなざしでこちらと人形とを見比べている少年に、オーフェンはいまいましくつぶやいた。
「この殺人人形は──人質 をとったのさ」
「そう。君がもしこの挑戦を無視し──この街から逃げ出せば、あの地人の兄弟を殺す」
ぎり──と歯を噛 んで、オーフェンは聞いた。
「そうまでして、どうして魔術士を殺したがる」
ごく当然というふうに、殺人人形は答えた。
「わたしを造り出したのは天人 だ」
「なら、どうして天人たちは──彼女らは人間の魔術士を根絶やしにしようなんて考えたんだ!」
「裏切られた者の怒りというのは根深いものなのだよ。特に、運命に裏切られた者はな」
「............?」
オーフェンははっとして、顔を上げた。が、もうそこには既 に、人形の姿はなかった。
宙に溶 けたように、かき消えていた。
「そんな......だって、今さっきまでここに......」
ぼうぜんとマジクがぼやくのが耳に残る。
と──また人形の声だけが、あたりに響いた。
「確かに言い渡したぞ──明後日、バジリコックの遺跡!」
「勝手にしろ! あの福ダヌキのことなんざ、知ったことか!」
オーフェンはとにかく天に向かって叫び、意味もなく拳 で空を殴 りつけるしぐさをした。そしてその怒り狂った思考の中で、もしすべてがあの殺人人形の思惑 どおりになったら──この街からただひとりの魔術士もいなくなったとしたら、なにが起こるのだろうかといぶかっていた。
「バジリコック?」
ステファニーはその単語を聞いた瞬間、ぱっと跳 ねるように顔を上げた。
「最初に聞いておくべきだったよ」
深くすりむいた右腕に包 帯 を巻きながら、憮 然 とした顔でオーフェンは続けた。
「......どうしてあの──殺人人形 とやらは、魔術士同盟を消し飛ばした? そもそもあいつは何者だ? バジリコックってのは、なんなんだ?」
さほど広くもないステファニーのアパートメントに四人──オーフェン、ステファニー、マジク、そしてクリーオウが顔をつきあわせれば、さすがにせまくるしい。その中でオーフェンはいらだたしげに包帯を巻いていた。右腕だけでなく、顔やらなにやら、絆 創 膏 だらけになっている。マジクは彼の後ろで師の頭に包帯を巻く手伝いをし、クリーオウは、オーフェンとステファニー、どちらの味方をすればいいのか迷っているというふうに、少し離れてひとりぽつんとソファーに腰掛けている。
ステファニーは肩口から胸元に流れる黒髪を撫 でつけつつ──困ったように眉 を上げた。
「どうしてわたしが、それを知ってると思うの?」
「君が全然、あわててないからさ」
オーフェンはにべもない。包帯を巻き終えた腕をぴしゃりとたたき、
「魔術士同盟が突然ふっとばされて──自分も大ケガをしたってのに、翌朝になってヒステリーも起こさねえ。なぜ? なにが起こったの? の質問もなしだ。理由はひとつ──君は全部知ってるのさ」
「......ガス爆発よ。あれは」
ステファニーは言いながら両手を上向きに拡げ、悪びれた顔で微笑した。
「そうかい。なら俺は、幻 覚 を見たってわけだな──グランドの滑 り台がぐにゃりと変形し、鉄棒が地面から土台からひっこぬかれた。暴風に看 板 がはがされて、俺の頭にぶち当たった」
「......当たったのは木切れ一本でしょう」
マジクが後ろのほうでつぶやくが、オーフェンは無視してステファニーに詰 め寄った。
「とぼけるなよ、ステフ──あれは魔術だ。しかも、人間のじゃない。もう俺をだまそうとするんじゃない」
びくりとして、ステファニーが顔を上げる。
「わたしは──わたしは、あなたをだましたことなんてないわ」
「へえ?」
皮肉げに、オーフェンが声を出す。
彼の突き付けた指の先で、ステファニーは、前 髪 で顔を隠すようにうつむいた──と、クリーオウが彼女のほうに近寄り、だらんと垂 らしていたステファニーの手をぎゅっと握る。少女の気 遣 わしげな表情をちらと見返して、ステファニーは、思い出すようにゆっくりと、虚 ろにつぶやいた。
「......王都に行きたかったのよ」
「あん?」
意味が分からずにオーフェンが聞き返す。と、ステファニーはぱっと顔を上げ、くりかえした。
「王都に行きたかったの。わたしたちみんな──この街には、いやけがさしてたのよ」
「............」
とりあえず、ここで聞き返して問いただすよりは、もう少し彼女に勝手にしゃべらせておくほうがいいような気がして、オーフェンは黙 してステファニーを見返した。彼女は腕をつかむクリーオウの手を握りかえし、続けた。
「しかたないでしょう? オーフェン。あなたみたいに《牙 の塔 》を出たようなエリートさんには分からないでしょうけど──わたしと初めて出会ったときのこと、覚えてる?」
「ああ」
と、オーフェンはうなずいて、
「骨折二十四箇所。打 撲 、打ち身は無数。身体 の皮 膚 の八割方は裂 傷 で修復不可能。顔面損 傷 ──頭 蓋 骨 陥 没 。内臓にさほどの損傷がなかったのだけがせめてもの救いだったが、俺が働いていた診療所にかつぎ込まれたときには、誰もが絶望だと思った」
「街の人間に私刑にあったのよ」
ステファニーはかすれた声で、この場にいる中で唯 一 、その話を知らないマジクに説明するように言った。大 丈 夫 ? と肩に手を回すクリーオウにうなずき返しながら。
マジクはほとんど跳 び上がるようにして、
「私刑? で──でも、お師 様──この街じゃ、このごろはそんなにめちゃくちゃなことは起こってないって──」
「表向きはな。ここは観光都市だから、街の外の人間の目につくようなところじゃあ、そんなめったなことは起こらない。つっても......いったん裏路地にでも入りこんじまえば、ちょっとしたきっかけでなにが起こるか知れたもんじゃねえ」
「でもそんな──」
マジクはぐるりと身をかわすようにして、オーフェンの前に出た。
「そんなことになんの意味があるんです? そりゃ、この街には昔、天人がいて──でも、今はもういないんでしょう? いくら天人が人間の魔術士を嫌 ってたからって、それから何百年も経 った今の人間が魔術士をつるし上げる理由が──」
「そりゃ理由にはならないかもしれんがな、動機にはなるんだよ。それに、言わなかったっけか? かつての魔術士狩りでの犠 牲 者 は、魔術士よりもそれを狩ろうとした普通の人間が返り討 ちにあったほうが多かったってな」
「もっと手っ取り早く言えばね、マジクくん? 魔術士はあくまで人間以上の人間 なのよ。どんな人数を集めても、どんな武器を用意しても、ただの人間は魔術士には勝てない。そんな魔術士が社会的に台 頭 するのを恐れるのは、なにも王室だけじゃないわ。わたしたちが力を増すのをなによりも恐れているのは......かつて魔術士を迫 害 した歴史を持つ、この街の住人たちなのよ」
「でもそんな──」
「あーうるせうるせ。黙ってろ」
オーフェンはマジクをわきにどかしながら、
「ステフ。この街を出たいと言ったな? 俺はむしろ、君が今までこの街に残っていたことのほうが不 思 議 でね。魔術士同盟で君を見かけたときには、我が目を疑った。俺は君がかつぎ込まれたときの様子を見ていたし──あれだけのメにあわされた君が、どうしてさっさと街を出ていかなかったんだ?」
「......あのときの手術代を返 済 しなければならなかったのよ。それに──」
と、彼女はいきなり口ごもった。
「それに?」
とオーフェンがうながすと、ステファニーはすがるようにこちらを見上げ、続けた。
「多分、街を出ていったあなたについていければよかったんだろうけれど──あなたは、わたしが退院する直前になっていきなり姿を消してしまったし......」
「俺は俺で、そうそうのんびりしていられない理由があったんだよ。いつまでもこの街で暮らしているわけにはいかなかったからな。実を言えば、君の半年間の入院生活につきあっていたのだって、かなりの譲 歩 だったんだ」
我ながら冷たいか、と思うような口調でオーフェンが言うと、ステファニーは視線を落とし、嘆 息 した。
「そう──そうよね......」
「オーフェン、そんな言い方──」
いつの間にかすっかり彼女の味方に回ってしまったらしいクリーオウが、こちらを責めるように口をとがらせる。オーフェンはそれを無視してステファニーに聞いた。
「ステフ。別に君に当たるつもりはないんだがね──とにかく、知っていることを話してほしいな。あの殺人人形とやらはこの街の魔術士をひとり残らず殺すつもりだし──この街に残っている魔術士は、もう君と俺だけだ。力をあわせなければ、奴 には勝てないぞ」
「わたし、あなたの力にはなれないわ。あなたみたいに戦闘のための訓練を受けたわけじゃないし、そんなに強い力を持っているわけでもないし──」
「だが、知識がある」
オーフェンは言いながら、じれったそうに目を閉じて頭をかいた。
「そうだろう? 君が、奴についての知識をなにか持っているなら、そいつを俺に話してくれ。とにかく俺には、なにがなんだかさっぱり分からねえんだ」
「............」
ステファニーはなにも答えず、そっとクリーオウの手を放した──そして、ふらりと夢遊病者のような足取りで身をひるがえすと、一歩、二歩と、窓 際 に歩いていく。ガタのきた窓 枠 に手をかけると、彼女の指先がほこりで汚れた。すすっぽく汚れた指先をまじまじと見つめながら、彼女は独 りごちるようにして、つぶやいた。
「ここ......壊 れてて窓が開かないから、掃 除 ができないのよね」
オーフェンはなにも返答せず、腕組みして彼女の背中を見つめた。
ステファニーはそれに気づかないように、
「わたし、ここを出ていきたかったのよ。こんな街、大嫌い......わたしの居場所がないこの街なんて──」
「ステフ!」
語気を強めてオーフェンが呼びかけると、彼女はくるりと振りかえった。なにかを決心したような眼 差 しで、彼女は言った。
「あなたに話すわ。だからお願い......約束して」
「なにをだ?」
オーフェンの問いに、彼女は真顔で答えた。
「今度こそ......わたしを見捨てていかないで」
◆◇◆◇◆
精確な直方体の石が積み重ねられた壁 を短い指で撫 でながら、ドーチンは嘆息した。じめじめした空気に鼻がムズつくし、喉 もいがらっぽい。風 邪 をひいたかも、と思いながら、彼はゴツンと額 を壁に押し付けた。
押さえ付けられて、眼鏡 の位置がずれる。が、ドーチンは構わずにぼやいた。
「なにかが間 違 ってるぞ......なにかが」
「うわぁーはっはっはっはっはあっ!」
後ろでは、さっきからボルカンが騒ぎどおしだった。祭 壇 のある、広間のような部屋にずらり並んだ巨石歩兵たちを眺 めながら、
「壮 観 、壮観! いいぞう! さっきは卑 劣 な奇襲にあって不覚をとったが、あの金貸し魔術士、さすがにこれだけの石人形には敵 うまい! あの魔術士を亡 き者にすれば、不当な高利貸もこの世から潰 え、天下は俺のものというわけだ! 邪 魔 者 どもは、枕元でささやき殺してくれる!」
ドーチンは、その声につられたというわけでもないのだが、ちらりと目玉だけで振りむいた。十体ほどある巨石歩兵を前にして、まだずぶ濡 れのままのボルカンが腰に手を当て、馬 鹿 笑いしている。
ドーチンは、胃がきりきりと痛むのを覚えて咳 込んだ。
それが聞こえたのだろう。ん? とうめいて、ボルカンがこちらに向きなおる。肩越しに、兄は言った。えらく、さばさばと。
「どーした? ドーチン。風 邪 なんぞひいたら、薬はないから死ぬぞ」
「............」
ドーチンは答えずに、ぺたんと床 に座 り込んだ。冷えた石床が背筋を震え上がらせる。
ボルカンはまた高笑いし、巨石歩兵たちに向かって腕を振り、
「なぁにを景気の悪い顔をしてやがる! この木 偶 どもを見ろ! 右から──」
顔の部分に貼 りつけられた魔術文字 はもとより、だいたい巨石歩兵たちの形は同じようなものだが、ボルカンは全部に名前をつけたらしい。順々に呼び上げた。
「一番右の角張ったのが、ディーフライ! 次のがツカティック! タイラー! マイクスタック! ケビンペッペラー! シプレキャトソホフ──」
呼ばれた順に、石で出来た巨人たちが片手を上げて返事する。
「ねえ、兄さん──」
蚊 の鳴くような声でドーチンはつぶやいたが、兄には聞こえなかったらしい。
「そしてこのダカダ! こいつが良い! なにしろあのヘイダーの腕をへし折ったんだからな! 極 め付けはこっちのモンキー一〇〇〇──」
「兄さん!」
ドーチンは叫び、立ち上がった──と、その気勢にビビったのかもしれない。ボルカンは、ぴたりと声を止め、困ったようにこちらと巨石歩兵たちとを見 比 べる仕 草 をした。
ドーチンは、こめかみに手を当ててうめき声をあげた。
「悪いけど黙っててよ──ホントに風邪をひいたみたいだ。頭痛がする」
「なんで? この陽気に」
「まだ夏も来てないのに水ん中をさんざ素 もぐりさせられて! しかもここには焚 き付けどころか身体 をふくタオル一枚ないんだから! いいかげん風邪だってひくさ!」
だが、それを聞いてもボルカンは不思議そうに首をかしげるだけだった。
「......俺はなんともないが」
「兄さんに感 染 される ような奇特な病 原 菌 がいるもんか」
ドーチンはほとんど憎 々 しげに言ったのだが、ボルカンはそれをほめ言葉と受け取ったようだった。はっはっと笑い、
「うむ。このマスマテュリアの闘犬! ボルカノ・ボルカン様の身体は、そうそうのことでくたばったりはせん!」

「......この前、川原で捕 まえた得 体 の知れない虫を食べて、腹痛で半日寝込んだくせに」
「覚えとらん! 覚えとらんぞぉ!」
ボルカンは開きなおったように腕組みし、気味の悪い笑みを浮かべつつそう叫んだ。ドーチンはまた嘆息し、頭痛のする頭を押さえてあたりを見回す......
ぐるりと無機質な白い壁で囲まれたこの部屋は、広さにしてみれば百メートル四方はあるというのに、ひどく息苦しい感じがする。明かりは天 井 に輝く、正体の分からない純白の光球──明らかにガス灯の光とも違うし、窓から入る陽の光とも違う。強 いて言えば、あの金貨し魔術士が魔術で放つ光熱波に似たような色味で、よく見ると光の中心に文字のようなものがちらちらと見えるようにも思える。祭壇は、ちょっとした田舎 芝 居 の舞台ほどもある代 物 で、奇妙きてれつな獣 たちの彫 像 が六体ずらりと並んで立っている。たてがみのやたら長い獅 子 であるとか、背中に風 呂 釜 のようなものを背負ったサイであるとか、中央に立っているのは人間にも見える──人間の、すこぶる美しい女性の像。その彫像たちの向こうの壁に、高さにしてドーチンの身長の五倍はありそうな巨大な肖 像 画がかかっていた。緑色の髪の、緑色の瞳 の、緑色のローブを身にまとった美女。線の細い、少しやつれたような輪 郭 をしているが、さほど不健康そうには見えない。肖像画の下にはネームがあり、そこには古風な書式で『シスター・イスターシバ』と刻 まれている。恐 らくは、それがこの女性の名前なのだろう。
(シスターってくらいだから、司祭なのかもね)
ドーチンは思ったが、それと同時に、どうでもいいことだとも思った──肖像が祭壇に飾 られているということは──もうその人物がこの世にいないということなのだろうから。そんなことよりも、もっと大事なことがある。
この『遺 跡 』──とは、あの秘宝の番人とやらがそう呼んでいるのだが──とにかくこの遺跡は、どう考えても数百年は昔のものであるというのに、ほこりひとつ落ちていない。いや、まったく落ちていないということではないのだが、だいたいおおまかに掃 除 されたような痕 跡 があちこちに残っている。まるで──
(まるで誰かが一度この遺跡を調査したみたいだ)
だとしたら、兄はあの秘宝の番人とやらにいろいろ言い含められ、気楽にはしゃいでいるが──
(その調査した誰かってのが、この遺跡の所有権うんぬん、なんてことを言い出すんじゃないかな。だとしたら、人形の言いなりになってこの遺跡を自分のものだと思ってました、なんて言い訳したところで、ぼくら不法侵入に盗 難 、調査が国の機関によるものだとしたら、公共物破損ってことにも──)
そんなような罪名をいくつかあげながら、ドーチンは指折り数えた。と、両手の指が足りなくなったところで、ボルカンがふと思いついたように聞いてくる。
「......ときに、あの番人とやらはどこ行った? こいつら全員に、いっぺんに命令を出す方法を教えてもらわにゃならんのだけど」
◆◇◆◇◆
夜の運河は真っ黒に染 まった絹 のように横たえられている。
飛び込めばそのまま跳 ね返されてしまうのではないかと、よけいな気をもませすらする漆 黒 の川 面 は、夜空の星の光を反射させ、ところどころきらきらと輝いていた。静まり返った運河のあちこちには帆 をたたんだ荷船が停泊し──その中のいくつかは、明かりをつけてまだ作業をしている。が、通例夜間は荷を下 ろせないことになっているため、人夫の姿はほとんどなかった。
街の南のほうから、鐘 が響く──時を知らせる塔の鐘。それは一度だけ鳴り響き、そして陰に消えていった。
「真夜中か」
オーフェンはポケットに両手をつっこみ、運河を見下ろしながらつぶやくようにして言った。運河を吹き抜ける夜風が髪を撫 でる。
その同じ夜風に長いブロンドを掻 き上げられるようにして、クリーオウが不安げにあたりを見回していた。少女は、着替えを失ってしまったためオーフェンに借金して買い入れた新しいシャツを、身体 になじませようとするかのように撫でつけ、言った。
「なんだか可 哀 想 だわ......あのひと」
「あのひとって?」
「ステファニーよ。決まってるでしょ?」
クリーオウはそう言いつつ、こちらに向かって厳しい視線を投げた。
だがオーフェンは気にせずに小さく嘆 息 した。
「俺だって、お世 辞 にも魔術士が歓 迎 されるとは言えないような土地に足を踏み入れたこともあるさ──もちろん、角材かついだ連中に追い回されたこともな」
「でも、あなたは強いもの」
「角材で殴 られりゃ、人間の強い弱いなんてのは関係ないさ」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ──オーフェンみたいな強い人には分からないって言ってるの。力のない人間が、どういう気持ちで毎日を送ってるのか。なにか致 命 的 な失敗をするんじゃないかとびくびくして、周囲の人間の目を絶えず気にして生きるのよ。でも周りの人間なんて存外無神経なもんだから、その人を自分と同じように扱おうとするわけ──お前だってやればできるはずなんだ、それができないのは、お前にやる気がないからだって」
「ステフはそれほど細い神経をしてるわけじゃない。それに──力がない、だって? ステフは魔術士だぞ」
「分かってないわね」
クリーオウはいらだたしげに吐息をもらして、叱 り付けるように続けた。
「腕力のある人間が必ずレスラーになれるってわけじゃないでしょうが。力なんて、使い方を知らなければそれまでよ。それに、彼女、言ってたわ──手術を受けてから、極端に魔力が弱まっていったって」
「そりゃそうだろうな」
「......知ってたの?」
クリーオウは聞いてきたが、オーフェンはあえて答えなかった。代わりに、別のことを言った。
「それにしてもクリーオウ、弱い人間の気持ちがどうのこうのなんて、お前らしくないことを言うじゃないか」
「......わたし、子供のころは病弱だったのよ。でもお医者さんは──もうどこも悪いところはない、すっかり病気は治ってるはずだって。あとは本人の自覚次第だって──わたし、それでもベッドから起き上がれなくて、お姉ちゃんたちはそんなに焦 る必要はない、気が楽になるまでゆっくり休んでていいって言うんだけど──なんだか悪いことしてるみたいで、すごくつらかった」
「でも結局、起き上がれたんだろう?」
「......ええ」
クリーオウは弱々しく返事しながら、くるりと顔を街のほうへと向けた──そして、つぶやいた。
「来たみたい」
オーフェンも見ると、街の中からなにやらいろいろな荷物を背負って、マジクが歩いてくる──夜闇の中でも、その顔が不機嫌にしかめられているのが分かる。やがてふらふらしながらもオーフェンらのところまで荷物を運んできて、彼は毒づいた。
「なんだかぼく、荷物運びばっかりしてるような気がするんだけどね」
と、足元に放り出した荷物を見下ろしながらいやそうな身振り。彼は、オーフェンに言われて、街の外の彼らの馬車まで武器やらなにやらを取りにいっていたのである。
オーフェンは、にやりとして、
「いいじゃねえか。弱者は搾 取 されるものなんだよ」
「......ちっともよくないよーな気が......」
ジト目でつぶやくマジクは無視して、オーフェンは荷物をがさがさと探 った──携 帯 用のガス灯、ザイルを編んで作った細いが頑 丈 なロープ、万一のときの非常用の食 糧 、そのほかにも──
と、オーフェンはぴたりと手を止めて、荷物の中から細長いものを引きずり出した。
「......誰が、クリーオウの剣まで持ってこいっつったんだ?」
「わたしが頼んだのよ」
クリーオウが言いながら、オーフェンの手から自分の剣をひったくる。
「まさか、またわたしを置いてけぼりにしようとしてたわけじゃないんでしょ? このメンバーでオーフェンをサポートできるのはわたしだけなんだから──」
「あー、はいはい」
オーフェンはぞんざいな手つきでクリーオウを制し、また荷物を探りはじめた。
それを見ながら、マジクが指をくわえるような口調でつぶやく。
「それはそうと、ぼくの武器ってなにかないんですか?」
「ねえよ」
オーフェンはそっけなく言うと、食糧やらなにやらを、もとのように革製のバッグに詰め込んだ──口をしっかりと縛 り付け、留め金でとめる。オーフェンはそれを持ち上げて、即座にマジクへと押し付けた。
「頼んだぞ」
「......そーゆうことになるんだろうとは思ってました」
「これもね」
と、クリーオウが剣を渡す。マジクはもう抗議する元気もないのか、嘆息してそれを受け取った。
「にしても、遅いな」
オーフェンは立ったまま両膝 に手を当てて身をかがめ、マジクが歩いてきた道を見やった。道は無人で、街 灯 がうすぼんやりと光を落としている。
「お師様がいじめたから、怒 って帰っちゃったんですよ、きっと」
マジクがバッグを背負いながら言うのを、オーフェンは、ふとそのとおりかもしれないなどと思いながら聞いていた。
しかし......
「あ、来た」
クリーオウが声をあげる。
街灯の丸い光の輪の中に上半身だけ浮かび上がらせて──ステファニーが、少し虚 ろな足取りで姿を現した。両手をだらんと横に垂 らして、眼鏡 の奥の瞳も、病 にふせったように暗く陰らせて......
「......できれば、もうもどりたくなかったわ。わたしのせいで──この街の魔術士同盟のスタッフみんなを死なせてしまったんだから」
「別に君のせいじゃないだろ。単に、君だけが生き延びちまったってだけのことだ」
「同じことよ」
ステファニーは疲れたような吐 息 をもらすと、ばさっと髪を後ろに跳 ね飛ばし、運河を見下ろした──オーフェンもそれについて、前のめりに水面をのぞき込む。
ステファニーはゆっくりと言った。
「アレンハタム......かつて天人が築き上げた都市。でも太 古 の地図を見るとね、この街のあった場所には──アレンハタムという名前はないの。もっと小さな、バジリコックと呼ばれる砦 があるだけ......」
「バジリコック──あの伝説の怪物か? 砂の獣 王 とかなんとか......」
オーフェンが聞くと、ステファニーは軽く肩をすぼめるようにして、
「多分ね。かつて天人が恐れた強大な魔獣のひとつよ。魔法の秘 儀 を盗 まれたことで怒った神々が、ドラゴン種族を滅 ぼすために遣 わしたとか。文 献 によれば、天人たちは、バジリコックを倒すために、その砦を築いたのよ。そして......その戦いの中で、砦は破壊され、このあたり一帯は砂 漠 と化したわ。でも今から千年前、天人たちはついにバジリコックを殺すことに成功したの」
「砂漠......ね」
オーフェンはつぶやきながら、運河を左右に見回した──たっぷりの水量をたたえたその水面は、やわらかに水音を立てている。
くすっと、ステファニーは笑った。
「バジリコックとの戦いで、砦は失われ、ここは人が住めるような土地じゃなくなってしまった。でも天人はね、それなら単純に、ここを居住に適した環境に造り直してしまえばいいって思ったわけ。彼女らは魔術を用いて砂漠と化した土地を癒 し、ここに運河を引き入れた。やがてここに街ができて......それはアレンハタムと呼ばれるようになった。それが、この街の始まりってわけ。やがて、この大陸にわたしたち人間の祖先が移り住んできて──」
「数百年後、天人たちは姿を消した」
オーフェンは後を継いで、顔を上げた。まだかがんだままのステファニーの背中を見下ろしつつ、続ける。
「その砦が、まだどこかに残ってるのか? あの殺人人形はバジリコックで待つと言っていたぞ」
ステファニーは運河を見つめたままかぶりを振った。
「いいえ。バジリコック砦は千年も昔に壊 滅 し、もう地上には残ってないわ」
「なら、どうしてこんなところに俺たちを呼び出した?」
「............」
ステファニーは黙って、顔をこちらに向けた。ちらりと、少し離れたところに立っているマジクとクリーオウとを見やる。
「あの子たちも連れていくの? あの......殺人人形のところに」
「ついていくと言ってるよ。特にクリーオウはね」
「勇気があるのね......あの子たちには、なんの力もないのに。わたしなんて、本当にここに来ようかどうかさんざん迷って──」
「なにも考えてないんだよ、あいつは」
オーフェンは仏 頂 面 でクリーオウを眺 めつつ、言った。
「そんなことないんじゃない?」
と、ステファニー。彼女は辞 儀 をするように、両手を下腹で重ねた。そのまましばらく黙していたが──
「話をもどすとね、オーフェン。バジリコック砦には地下の部分があったの。さしもの砂の獣王も、地下の砦までは破壊できなかったようで、戦いのあとも、地下層だけは生き残ったわけ。その地下層の上に......この街があるの」
「じゃあ......」
「そう。バジリコックはこの街の地下にあるわ。この......運河の底にね」
そう言われてオーフェンは、また運河をのぞき込むように身をかがめた。が、夜の闇に覆 われた水底になにも見えない。
「君はそこに行ったのか......一度」
「一度だけじゃないわ。調査隊を編成して、何度も足を運んだわよ。砦には数え切れないほどの武器や、当時の資料となりそうなものが保管されていたわ。この研究が認められれば、わたしたちみんな、この街を出られると思ってた。多分、焦 り過ぎたのね、わたしたち......」
彼女は言葉を止め、
「一週間前、最後にこの遺跡に踏み込んだときに......発見したのよ」
「なにを?」
「......人形だとそのときは思ったわ。でもそれをほかの資料といっしょに研究室に持ち帰って、何日か後に調べてみると、それは人形なんかじゃなかった」
「なんだったんだ」
「人間。兵器。わたしたちを狩り出し、そして抹 殺 するための兵士。で、やっぱり人形──これら全部をごっちゃにしてまとめたようなモノが、あれよ。彼は自分でなんて名乗ったんだったかしら。殺人人形?」
「なら、あれが魔術士同盟を消滅させちまったのは......」
オーフェンが聞くと、ステファニーは皮肉に口元を歪 めた。
「そうよ。わたしたちが彼を目覚めさせてしまったからよ。あの人形は......今から二百年前、天人が地上から姿を消したそのときから......ずっと待っていたのよ。わたしたちが天人たちのことなんかすっかり忘れて、無防備に、不注意になるときを」
「だが......だとしても、なんであの殺人人形は、この街にいる魔術士を抹 殺 することにこだわるんだろうな」
「知らないわ。とにかくわたしが覚えているのは、あの人形が自分で自分の身体 に指で......文字を描くと、それが輝いて──それっきり、なにも考えることができなくなって、爆発が起こって──」
「魔術文字 だな」
「......ええ。でも、そうだとすると、あの人形は古代の天人の魔術が使えるってことになるわ。あなたには勝てないわよ、オーフェン」
「ンなことは分かってるさ......」
オーフェンはごまかすように口の中でもごもごとつぶやくと、クリーオウとマジクに向かって手を振った。
「おい! もういいぞ! こっちに来い!」
雷 鳴 を耳にした小動物のように、ぴくんと反応して、クリーオウがこちらを向いた。それよりやや遅れて、重い荷物を背負ったマジクがのっそりと歩きだす。
駆け寄ってくるなり、クリーオウが言った。すねたようにほおをふくらませている。
「密談はもう終わり?」
「人聞きの悪い。せめて秘め事と言ってほしいな」
「......よけいに悪いじゃない。まあ、隙 を見て逃げ出そうとしなかっただけよしとしておくけれど」
言いながら試すようにこちらを見上げるクリーオウを──オーフェンは、ぎゅっと抱き締めた。彼女の髪の感触が、ふわりと指にからみつく。
「な──ち、ちょっと、なに? オーフェン」
クリーオウが動揺した声を出した。だがオーフェンは気にせずに、静かな声 音 で彼女の耳元にささやいた。
「クリーオウ。話しておかなければならないことがある」
「......な、なに?」
「つまり──」
と、オーフェンは、マジクに目 配 せした──マジクはこっそりとため息をついて、荷物の中からザイルを編 んだロープを取り出す。
オーフェンはクリーオウからは死角になる位置でそれを受け取ると、隙をついてぱっと、クリーオウの身体を縛 り上げた。なにが起こったのか理解できず、とりあえずクリーオウが悲 鳴 と罵 声 が入りまじったような声をあげる。

「オーフェン! なにすんのよ!」
だがそれには答えずに、完全に足首まで身体をぐるぐる巻きにしてから、クリーオウをこてんと道に蹴 倒 して、オーフェンは満足げにうなずいた。マジクに向かって、言う。
「うむ。以心伝心 。なかなか出来がいいぞ、弟子」
「さっき『馬車から持ち出すものリスト』の裏に書いてあったじゃないですか......」
マジクがぼやくようにして答える。
両腕を縛られているために立ち上がれないクリーオウは、うねうねと身体を動かしながら、彼のブーツのつま先から燃えるような視線でにらみ上げ、わめいた。
「だましたわね!」
「なぁにがだよ。この運河の待ち合わせ場所まで連れていくたぁ言ったが、バジリコックまでとは言ってねえぞ」
「大嘘 つき! 詐 欺 師 ! ペテン!」
「あー、うるせうるせ。マジク、確か荷物の中に手ぬぐいあったな。それ貸せ」
「人さらいー! 人殺しー! 強 姦 魔 あっ! 誰か助け──むぎゅ」
取り出した手ぬぐいでさるぐつわすると、さすがにクリーオウもそれ以上声を出せず、むーむーうめくだけになった。ぱん、と手を打ち合わせ、オーフェンは上 機 嫌 で言った。
「んー、可 愛 いよ、クリーオウ」
「変 態 ......」
後ろで、マジクがうめく。オーフェンはそれを殴 りつけ、怒 鳴 った。
「言ってみただけだっ!」
「痛てて......でも、どうするんですか、お師様。クリーオウ、このままここに転がしておくんですか?」
「......それもそーだな。じゃあ、お前がここで見張ってるか?」
オーフェンが言うと、マジクはあからさまにいやそうな顔をして拒 絶 の仕 草 をした。
「ヤですよ! こーゆう状態のクリーオウといっしょにいたら、どーせ悪いことは全部ぼくの身にふりかかってくるんですから!」
「いや......でも、相手は身動きもとれない状態なんだし」
「いやだったら、いやです! クリーオウなら、ロープでぐるぐる巻きにされてよーが檻 の中に閉じ込められてよーが、なにかしら八つ当たりの手段を考え出すに決まってます! 前に、先生にお仕置きでグランドの木にロープでつるされたときも、ぼくの顔に唾 吐きかけたり靴 を投げつけてきたり、しかもそれが栗 の木だったから、枝を揺らしていがぐり 落っことしてきたり......」
顔を紅 潮 させて主張するマジクから目をそらし、まだうめきつづけるクリーオウへと視線を移してから、オーフェンはぼやいた。
「......つくづくひどいことやってんだな、お前......」
「むー!」
ひときわ大きく、クリーオウがうめく。
「まあいいや。じゃあ、このままほっておこう。人通りもないみたいだし、大 丈 夫 だろう」
「......人さらいとか偶 然 に通りかかったらどーするんですか」
「なら、あっちの路地裏にでも隠しておくか」
「野 良 犬 の餌 になっちゃうかもしれませんよ」
「むー! むー!」
「紐 でつるして運河の中に浸 けとくってのはどうかな」
「スイカ冷やしてるんじゃないんですから......」
「むー!」
「あのう......」
と、それまで圧倒されたように黙っていたステファニーが声をかけてくる。
「わたしが見張っていてあげましょうか?」
「駄 目 。バジリコックの道案内が必要だ。その辺の荷船に放りこんでおけば、朝までは大丈夫なんじゃねえかな」
「船倉にはフナムシとかいるから......クリーオウそういうの苦 手 ですし」
「むー!」
「......なら、やっぱりここに転がしとくか」
「そですね」
「むー!」
「で......ステフ、バジリコックへはどう行くんだ? ボルカンみてえに運河を素 もぐりなんてのはできねえぞ。荷物があるし」
「むー!」
「こっちに......下水道みたいなものだけど、入口があるの。地割れで偶然遺跡の入口とつながってしまったみたいで......」
「どうでもいいけど、お師様も少しは荷物持ってくださいよお」
「むーっ! むーっ!」
オーフェンはそのどちらの声も無視して、ステファニーの案内するほうへと足を踏み出した。それからしばらくはクリーオウのうめき声が、いつまでも追いかけてくるように聞こえていたが──やがて、少し離れると、もう聞こえなくなった。
オーフェンは安 堵 の吐息をつくと、ステファニーの後について、少しだけ足を速めた。
◆◇◆◇◆
クリーオウは、それからオーフェンらの姿が見えなくなってもうめきつづけていたが、さるぐつわの噛 ませ方が少し弱かったらしく、やがて手ぬぐいはずるりと喉 のほうへと外れて落ちた。唾 でべとべとの手ぬぐいをあごでひっぺがし、クリーオウは、オーフェンらの姿が消えたほうへと顔を向け、あらんかぎりの力で叫んだ。
「覚えてらっしゃい!」
どん! と地面をたたいたつもりで──ぺたんと肩を打ち付ける。
「ロープで縛り上げておいて、スイカ? 野良犬の餌 ですって? 人をこんなメにあわせて──ただですむと思ったら大 間 違 いよ! 暴れ牛に引きずらせて市内一周させてやるわ! そうでなきゃ──ペンチで手の爪 ひっこぬいてやるんだから!」
と、そこまで叫んで、少し考え込む。
「っても──いくらわたしでも、正面からやりあったんじゃ、あの格闘 オタクに敵 うわきゃないわよね──でも、奇襲 の方法なんていくらでもあるんだから。ベッドの中に画ビョウ入れとくとか、窓の上から熱湯かけるとか」
彼女はぶつぶつと続けた。
「寝ている間に靴 の中にブタの血入れちゃうとか、寝顔に落書きしちゃうってのもいいわよね──オーフェンが朝使うタオルにレモンの汁染み込ませておくってテもあるわ。彼が下を歩いているときに窓ガラス割っちゃうってのも効果的よね。もっと単純に、隙を見て階段から突き落としたっていいんだから」
そんなことをいくつもあげているうちに、だんだんと腹の虫も収 まってきたらしい──彼女は生き生きした目でひとりうなずくと、後ろ手になったままの指をぱちんと鳴らした。
「そうね。どれが一番効果的か、いつもみたいにマジクで試してみるといいかもね」
が、クリーオウは妙 に満足した目でうなずいてから、ふと顔をしかめて──
「でも、ブタの血ってどこで手に入るのかしら」
と......
ごぼごぼっ──と、水の泡 立つ音が聞こえてくる。
クリーオウは眉根 を寄せて、運河のほうへと振りかえった──身体の自由がきかないので苦労したが、なんとかごろんと向きを変える。
すると、運河の水がいきなり盛り上がり、爆発するように水柱が噴 き上がる。
「はぁーっはっはっはっはっはあっ!」
夜のしじまに哄笑 が響いた。水柱の中には、身長十メートルほどもあろうかという巨大な石人形に肩車されて、見覚えのあるずんぐりとした少年の人影が──
クリーオウはぽつんと独 りごちた。
「......なんか、ものすっごくいやな予感がするわ」
「ちょっとあんたたち! こんなことして、ただじゃすまないわよっ!」
と──クリーオウがしっとりと濡 れた髪をばたつかせるように頭をふりまわし、かん高い声を張り上げる。もっとも、身体 は相変わらず縛 られている上、しっかりと巨石歩兵につかまれているため、身動きは取れないのだが。
だがむしろ身体が動かないというのは、この少女にとっては余計に口が回るということを意味するだけらしい。
「誘 拐 魔 ! 人でなし! お風 呂 くらいたまには入りなさいよっ!」
「............」
ドーチンは巨石歩兵の足元から彼女を見上げつつ、ぼんやりと自問した。
「どーして、あの魔術士にかかわるとみんなガラが悪くなっちゃうんだろう......」
そこは、もとの祭 壇 の広場である──バジリコックの。高々とそびえる緑色の女性の肖 像 画をバックにして、巨石歩兵につかまったクリーオウがじたばたと暴れている。
「たいがいにしときなさい! こーんなデカブツの頭数そろえたところで、なんになるってのよ!」
「なんになる? か──? 決まってるだろう」
と──この声を出したのは、ドーチンの背後......祭壇の向かいに位置するちっぽけな玉 座 にふんぞりかえったボルカンだった。
彼は玉座の上に立ち上がり、びしい、と指を突き付けるポーズをとると、
「諸悪の根源! 万 物 の敵! あの金貸し魔術士を抹 殺 するのだ!」
「そんなことして、なんになるのよ!」
クリーオウが叫 ぶ。ボルカンは、自信ありげに大笑いしてから、
「知れたこと! 借金をチャラにしてくれるのだ!」
「志 が低いわよ!」
「なんだと! 小 娘 が、我が忠実なる配下、巨石歩兵二号ディーフライに手も足もでなかったくせに!」
「手足を縛られた女の子相手にこんな化 け物けしかけておいて、でかい顔してんじゃないわよ!」
「なにを! おい、誤解するなよ! 俺様が今回手に入れた力は、これだけじゃねーんだからな!」
「............」
自分の頭上を行き来するふたりの言い合いを聞きながら、ドーチンは、ひとりでこっそりと頭を抱 えた。
◆◇◆◇◆
忘れ去られた空間というのは、どこの街にもあるものだ──建物と建物にはさまれて死角になった小さな空 き地であるとか、小川をまたいだ向こうに突然広がる草ぼうぼうの荒野であるとか。ステファニーが案内してくれたのは、運河のほとりにある小さな石段だった。すぐ目の前に橋がかかっている。そこを下りると、ちょうど橋の下に隠れるようにして、ぽっかりと入口が開いていた。
長方形の色 気 のない、ただの隙 間 だ。入るとちっぽけな部屋になっていて、床 に、鉄で出来た丸いフタがある。
フタを押し上げると、縦 穴 が開いていた。鉄製のハシゴがついていて、下りられるようになっている。
「......ここが、遺 跡 への通路になってるのか?」
「正確には、ここは下水道の出入口よ。で、下水道から遺跡に入れるわけ」
「なんでもいいですけど、ぼくは荷物を背負ったままハシゴを下りるんですか?」
当然だが下水道は湿っぽく、異 臭 に満ちていた。ハンカチを鼻に当てながらどうにか進み、小一時間も歩くと行き止まりにぶち当たった。が──その突き当たりの壁 に、鉤 裂 きのような形でひび割れが入っている。よく見るとそれは後になって人の手で拡げられた跡 があり、人間ふたりが横になって優に歩けるくらいの幅があった。
「......遺跡は運河の底にあるって言ってたよな。空気は大 丈 夫 なのか?」
隙間をくぐりながらオーフェンが聞くと、ステフは自分で自分の身体を抱き締めるようなポーズで答えた。
「大丈夫みたいよ。天人はバジリコックとの戦いで、本当に万 全 を期したみたい──生き埋 めになっても空気がなくならないように、酸素を造り出す魔術文字を壁に刻 み付けていたわ。それに砦 の上方で魔力の障 壁 のようなものを張っていて......運河の水が流れ込んでくることもないみたい。たまに障壁を突き抜けて魚が落っこちてきたりするし、空気も少し湿っぽいけどね」
「息ができるんなら上等さ。この下水道ってやつは、せめて悪臭だけでも、なんとかならねえもんなのかな」
隙間は思いのほか長く、百メートルほども真っ暗な中をくぐり抜けなければならなかった。手 探 りで通路を探り、湿 気 で泥 沼 のようになっている土の地面を踏 み越えながら──オーフェンは無言で足を前に投げ出した。
と──いきなり、目の前に光が現れる。
つま先が泥ではなく石を踏んだとき、オーフェンはまず、ぎくっとした──そして、とうとう着いてしまったのだと吐 息 をもらした。
バジリコック──
そこはかつて半神が魔獣との決戦に用い、そして恐 らくは地上から姿を消すときに、自らの墓場ともなった古 の砦──
と思いきや、それほど気負ったものでもなかった。
ぱっと見た印象では、内装はごくごく控 えめなものだ──もっともそれは、砦というものの機能を考えれば当たり前のことだったのかもしれない。下水道からの入口は、砦の通路につながっていた。けっこう広い通路で、幅にして五メートルほどもある。通路は左右に伸び、壁にはひとつも扉 はない。ただ真っすぐな、のっぺりした壁が続くだけだ。
「ここは《背骨》よ」
オーフェンに続いて通路に姿を見せたステファニーが、説明するようにつぶやく。
「《背骨》?」
オーフェンが聞き返すと、ステファニーはうなずいて、
「わたしたちはそう呼んでいたの。この砦の造りって、なんだか生き物を模 したみたいだったから。この通路からは《頭》と《尻 尾 》に出られるわ」
「って、そう言われてもな。その《頭》と《尻尾》にはなにがあるんだよ」
「両方とも階段よ。中空になっていて、螺 旋 階段があるの。下 りられるようになってるわ。どちらを使っても最下層に出られるわよ。昇れば......障壁を通り抜けて、運河の底に出られるはずだけど」
彼女がそこまで言ったところで、マジクが現れた──バッグをなんとか隙間から引きずり出そうとしているマジクに、オーフェンはなにげなく聞いた。
「マジク。お前、頭と尻尾のどっちが好きだ?」
「はあ?」
マジクは変な声をあげてから、それでも真顔で即答した。
「下半身のほうが好きです」
「そーゆう言い方をされちまうとな......《頭》にしよう。ステフ、どっちだ?」
「右よ」
言われたとおりに、右に足を向ける。
通路はどこまでも続くように見えた。直線ではなく、なだらかなカーブを描いているため、行き着く先は見えない。あてのない回 廊 だ、と胸中でつぶやきながら、オーフェンは誰にともなしに口に出した。
「裏切られた者の怒り......か」
「? なんのことです?」
と、これはマジク。オーフェンは振りかえりもせず、また足を止めることもなく、続けた。
「お前も聞いてたはずだろうが。あの殺人人形が言ってたんだよ。裏切られた者の怒りは根深い──特に、運命に裏切られた場合には、とかなんとか。なんとなく、意味が分かったような気がしてな」
「......なにが分かったの?」
「............」
ステファニーの問いを無視するような形でオーフェンは黙っていたが、やがて、指先で自分のあごを撫 でつつ答えた。
「誰が裏切られて、誰が裏切ったのか」
「裏切りって言えば──」
と、マジクは全然関係ないことを言ってきた。
「いいんですか? ぼくは知りませんからね──クリーオウのことですけど。あとでどんなメにあおうと、絶対に仲 裁 なんかしませんよ。どーせ、一番被害を受けるのはぼくなんですから」
「あいよ」
オーフェンは背後に向かって手首を振り、こっそりと舌を出した。
回廊はそのまま続き、やがてステファニーの言う《頭》にたどり着いた。彼女の言ったとおり、その《背骨》からつながった中空の縦穴は、微 妙 にゆがんでいて頭 蓋 骨 のような形をしていた。いびつな円筒形で、壁を伝うように螺旋階段がついている。直径十メートルほどだろうか。見上げると天 井 はなく──なにか強力な力で吹き飛ばされたようにえぐれていて、真っ青な色が見える。恐らくは、あれが運河の水なのだろう。
と──黙って見上げているうちに、ぼとっと魚が落ちてきた。
「......ボルカンの野郎は、こっからあの巨石歩兵を持ち出したんだろうな」
「でも、この階段をあんなデカブツが昇れますか?」
「見ろよ」
と、オーフェンは円筒の真ん中に立つ支柱を示して、
「あそこをよじのぼったんだろ」
「......雅 に欠けますね」
「あの福ダヌキに、雅もくそもあるかよ。いつだったか、腹が減ったって川べりで蛙 捕まえて、水 煮 にして食ってたぞ。まあ俺が借金のカタに昼食代取り上げたからなんだけどな」
「鬼 ......」
つぶやくマジクを蹴 倒 して、オーフェンはステファニーをつれて階段を下りはじめた。
「たまに思うんですけど」
と、追いついてきて、マジク。
「どうしてぼくって、お師様についていけるんでしょう」
「さあな。おたがいに愛があるからじゃねえか?」
「............」
螺旋階段をどのくらい下りたのか──とにかく、見上げてももと来た入口がぱっとは見つけられなくなったころ、最下層に到着した。円筒の底は地 下 牢 のように石が敷き詰められていて、扉 はひとつだけ。オーフェンが尋ねるようにステファニーを見ると、彼女はうなずいて答えた。
「そこから砦の最下層に入れるわ。罠 の類 いはひとつもないはずよ。まあ、砦の最奥に罠を仕掛ける人もいないでしょうけど」
「そりゃそうだな」
と、オーフェンは扉のノブに手をかけてから、
「......当たりと外 れを決めておこう」
「当たりと外れ?」
マシクが聞き返す。オーフェンはにやりとして続けた。
「扉を開けて、待ち構えていたのが殺人人形だったら当たりだ。ボルカンの野郎だったら外れ」
「......もっと会いたくないようなのが待ち構えてたら?」
「大外れ」
オーフェンはそう言うと、思い切り扉を押し開けた。
......中を見てから、うめくように言う。
「ドンピシャ──大外れだ」
扉の向こうには、祭壇があった。巨大な、緑色の髪の女の肖像画がかけられ、ずらりと十体ほどの巨石歩兵が並んでいる。
その巨石歩兵のひとつの足元で、大 仰 に腕組みして──クリーオウが立っていた。ロープでぐるぐる巻きにしたボルカンとドーチンを従えて。
「オーフェン......待ってたわよ」
クリーオウが最初に言ったのは、それだった。
オーフェンはゆっくりと拒絶するように手を上げながら、
「......ええと──いや、どーしてこういう状 況 になったのかは、説明せんでいい。なんとなく分かった」
「そお?」
と、クリーオウ。少し残念そうに彼女は続けた。
「まあなんにしろ──オーフェン。あなたはわたしのこと、そーとーなめてるみたいよね」
「うーん......どうもお前の顔付きを見るかぎりじゃあ、先回りしてこの福ダヌキどもを捕まえておいてくれたって感じじゃねえな」
「当たり前でしょ。この地人たちはわたしの手 駒 よ。あなたには──ちょっとお仕置きしてあげたほうがいいみたいだからね」
「............」
オーフェンはとりあえずクリーオウのことは無視して、彼女の足元でしょぼくれているボルカンに視線を移した。
「なんか言いたいことはあるか? 福ダヌキ」
「はい」
と、ボルカン。オーフェンは熟 知 していたが、こういうときのこの地人には、プライドのかけらも残っていない。
「お願いだから助けてください」
「......人にものを頼んで、タダですまそうってのか?」
オーフェンが意地悪く言うと、ボルカンは背中合わせに縛り上げられたドーチンをにらみつけ、小さくつぶやいた。
「お前のせいだからな」
「......クリーオウの挑 発 に乗ってロープをほどいたの、兄さんじゃないか」
「お前だって、このゴボウ娘が可 哀 想 だから縄 をゆるくしてやろうとか言ってただろーがっ!」
「誰がゴボウよ!」
「あー、うるせうるせ。とにかくボルカン。助けてほしいなら、それなりに頼み方ってもんがあるよな」
「ええと......あの人形にもらった魔法の道具とかをあげるから、助けてください」
「魔術の? どんなもんだ?」
オーフェンが聞くと、ボルカンは身動きできないまでもあごの先で自分の服のポケットを示し、
「魔法の耳かき」
確かに、ポケットのふちから細長い棒のようなものがのぞいている。
「どんな力があるんだ?」
「ええと──この耳かきで耳をほじると」
「ああ」
「へそがかゆくなります。あ、痛てっ! 石を投げるな! ほかにも、いくら火にかけても水がお湯にならないヤカンとか──」
「無 駄 よ、オーフェン。わたしの手 駒 は買 収 には応じないわ」
誇 らしげに言うクリーオウに、オーフェンはくじけそうな思いでつぶやいた。
「いや、こーいうの、買収って言うかなあ」
「細 かいことはどーでもいいわ! と・に・か・く! あなたには少し思い知ってもらうわよ! わたしのことぞんざいに扱ってるとどういうメにあうか!」
少女の足元で、ドーチンがぼやく。
「兄さんに似てきたなあ」
クリーオウはドーチンを即座に蹴飛ばして黙らせると、ボルカンの頭を引っつかみ、振り回しながら命令した。
「さあ! 我が配下! 我が下 僕 ! オーフェンに思い知らせてやって!」
「......なんで俺が......」
ぶつぶつ文句をたれるボルカンに、クリーオウはとがった爪 をつきつけて、
「目、えぐるわよ」
「クソ魔術士! こんな狂犬放し飼いにしてんじゃねえ!」
オーフェンは肩をすくめて、
「鎖 につないどくと、こっちが危 ねえんだ」
「ふたりして好き勝手なこと言ってるんじゃないわよ! いいわ──わたしがやるから。行け! 巨石歩兵二号──ディーフライ!」
クリーオウの呼びかけに応 えて、うおおおお、と巨石歩兵のひとつが雄 叫 びをあげる。顔面に貼 られた布の魔術文字が輝き、両手をあげてこちらに躍 りかかってくる──
「お師様あ!」
「オーフェン!」
マジクとステファニーが同時に声をあげる。オーフェンは悠 然 と右手を掲 げ、叫んだ。
「我は放つ光の白 刃 !」
閃 光 が轟 き、何メートルもある巨大な石人形をあっけなく爆裂させる。
だが、クリーオウはくじけずに叫んだ。
「まだまだ! 巨石歩兵三号! ツカティック行きなさい!」
「我は見る混 沌 の姫 !」
渦 巻く黒い奔 流 が、やや小柄な巨人を呑 み込む──超重力の渦はあっさりと巨石歩兵の身体を吹き散らし、さらに後方の祭壇の一部まで爆 砕 した。
「タイラー! あなたを信じてるわ!」
祈りを捧 げるようなポーズで、クリーオウが叫ぶ。オーフェンは間 髪 入れず、容 赦 なく崩 壊 の魔術を解き放った。
「我が左手に冥 府 の像!」
「まだよ! マイクスタック! ケビンペッペラー! シプレキャトソホフ!」
「我は! 放つ! 光の白刃!」
「ダカダ! モンキー一〇〇〇! フク! スミシ!」
「我導 くは死呼ぶ椋 鳥 !」
呪 文 とともに破壊力を伴った振動波が、次々と巨石歩兵を破壊する。
ぐぐ、と拳 をにぎりしめ、クリーオウは高らかに呼んだ。
「こうなりゃ最終兵器よ──チャムプア・ゲッソンディットおっ!」
のっそりと動き出した、ひときわ大きい巨石歩兵に向けて、オーフェンはびしっと指さして叫んだ。
「我が契 約 により──」
ぶわっ──と、彼の黒髪が逆 立 ち、突 如 として吹き上がる気流が広間を駆け抜ける!
「聖戦よ終われ!」
こぅっ!
大気に小さく稲 光 のように閃 いた電光の帯が、巨石歩兵の身体に吸い込まれるようにして、消えた──同時に巨石歩兵の身体が粉々に砕け散り、その破片のひとつひとつまでもがいっせいに集まるようにして、空間の一点へと凝 縮 して消える。
あとには、なにも残らない。
最後の巨石歩兵が消えた空間をぼうぜんと眺めて──クリーオウはいきなり表情を崩 すと、ぺたんと床に座 り込んだ。そのまま顔を両手に埋 めて、ひくひくとしゃくりあげはじめる。その横で、縛られたままのボルカンとドーチンは顔を見合わせたが、とりあえずこの隙 に逃げ出そうと、蟹 のような格 好 で、ずりずりと少女のところから離れていった。
「あ〜あ。泣かしちゃった」
と、背後から近寄ってきたマジクが、オーフェンに言う。
「いや......ンなこと言ったって」
オーフェンは、それでもやはりバツが悪そうに頭をかいて、横目でクリーオウを見やった。
マジクはこちらに向かって言い聞かせるように指を振ると、
「分かってないなあ。お師様は、容 赦 がなさすぎるんですよ。ミもフタもないじゃないですか。一発でなにもかも吹き飛ばして」
「い、いや、でもなあ」
「でもじゃないですよ。ほら、彼女の泣き声に耳をすませて。心が痛んでくるでしょう?」
オーフェンは言われるまま──少々腑 に落ちない気もしたが──とりあえず言われたとおりクリーオウのしゃくりあげる声に耳を傾けた。泣き声にまじって、ほとんどは意味もとれないが、ところどころ切れ切れに言葉が聞こえてくる。
「ずるい......せっかく......復 讐 ......置いてきぼり......悪いのは......のに......縛り上げて......犬の餌 ......ペンチで爪 ......ブタの血......」
オーフェンは疑わしげにつぶやいた。
「......なぜだかあまり同情心がわかないな」
「お師様あ。でもここで仲直りしてくれないと、どーせぼくに八つ当たりが降りかかってくるに決まってるんですから」
「妙 にクリーオウの肩を持つと思ったら、本 音 はそれかよ」
「ね、ねえ」
と、これはステファニー。密談するように眉 をひそめて、
「なんにしろ、可 哀 想 じゃない。オーフェンも、一回くらい殴 られてあげなさいよ」
「他人事だと思って気楽に言いやがって......なら自分が巨石歩兵に殴られてみろってんだ」
ふい、とふてくされるようにそっぽを向いてオーフェンが言った、そのとき──
「うわあーっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
「......あん?」
オーフェンはいぶかしげに声をあげ、祭壇のほうを見やった──笑い声は、そちらから聞こえてきたのだ。
哄 笑 は、さらに高らかに変化した。
「うわあーっはっはっはっはっはっははははあっ! 諸君! 茶番はそこまでだぁっ!」
「......ホントに茶番だったけどな」
オーフェンはうめきつつ、その哄笑の主 ──祭壇の上で仁 王 立 ちするボルカンを見上げた。いつの間にかロープは解かれ、ドーチンも自由の身になって、兄の横にくたびれたように腰掛けている。
そして、その兄弟の後ろに──中指から細い刃 を出したままで、殺人人形がすっくと控 えていた。まず間 違 いなく、この人形がボルカンらをロープから解き放ったのだろう。いつの間に現れたのかは知らないが。
ボルカンは毛皮のマントをひるがえし、すらっと抜 刀 して叫んだ。
「金貸し魔術士! 愚 劣 にして蒙 昧 な金の亡 者 ! 今日こそ決着をつけるときだ!」
「......できれば約束された返済日にきっちりカタをつけといて欲しかったけどな」
言いながらオーフェンは、もはやボルカンではなく、その背後の殺人人形にすべての神経を集中していた。人形は、にやにやしながらこちらを見返してくる。余 裕 のていだ。
(くそっ)
オーフェンは毒づいた。
人形は、ボルカンらの後ろに控えている。それは確かにボルカンたちを護 衛 しているようにも見えたが──
(見方を変えりゃ、すっかり人 質 を捕まえた格 好 だ)
だがそんなことには気づかずに、ボルカンは続ける。
「減らず口をたたくな! いいか、この俺様が、貴 様 を始末するのにあの木 偶 人形の群れだけで満足していたと思うかっ!」
「ふうん。へええ」
と、横でドーチンが声をあげる。ボルカンは即座にそれを剣で殴り倒してから、
「この遺跡に遺 された秘宝は、これだけじゃないぞ! いざ、勝負だ! 魔術士!」
「言われねえでもやってやらあ! くそったれが! バジリコックでもなんでも、持ち出してきやがれってんだ!」
オーフェンは叫ぶと、その声で呪文をかけた──ほとばしる光熱波が、一直線にボルカンたちの頭上の肖像画を燃え上がらせる。爆発が起こり、降りかかってくる火の粉と破片にボルカンが悲鳴をあげて逃げ惑 う──
同時にバジリコックが鳴動し、オーフェンは横飛びに跳 んで身をかわした。次の瞬間、案の定 、さっきまでオーフェンの立っていた場所に稲 妻 が撃 ち込まれる。
「きゃはははははっ!」
恐 らく、オーフェンのその姿を見て笑ったのだろう──薄気味悪いほどにかん高い殺人人形の哄笑が響き渡った。人形は、ぱちんと刃を指にひっこめると、その腕を水平に振って高らかに宣言した。
「さあ! 戦いながらわたしの物語でも聞かせてやろうか!」
「マジク! クリーオウを頼む!」
最初に叫んだのは──オーフェンだった。彼はとにかく一度その場を見回して、現状を確かめようとした。広間は祭壇以外には、特に障害物になりそうなものはなにもなく、さっきまでの騒ぎで倒れたちっぽけな玉座と、巨石歩兵の残 骸 が散らばっているだけだ。祭壇の一部は壊 れ、ドラゴンの像もいくつか倒れている。肖像画は炎 上 し、もう半分も残っていない。
マジクとステファニーは固まったままで、入口付近に立ち尽 くしている。クリーオウは、まだ泣いたままだ。祭壇の上で頭を抱 えて右 往 左 往 しているのがボルカン。それを見て、もうどうでもいいというような顔でため息をついているのがドーチン。唯 一 この状況を楽しみ──笑っているのが、殺人人形。
と──オーフェンは、奇妙なモノを見て、ぎょっとした。いつの間にか、広間の天 井 に隙間が開いて──そこから妙な物体がふわふわと漂 い込んできている。
「......なんだ......?」
オーフェンはうめいて、それらを見上げた──直径五十センチほどの金属製の球体で、模 様 も継ぎ目もなんにもない。ただの球である。それが数個、のろのろとしたスピードで宙を漂っている。その球体は、なんの脈 絡 もなく、ちか、ちかと光り──
かっ!
稲 妻 を放った。足元に電撃をくらい、衝撃でひっくりかえりながら、オーフェンはとっさに呪文を叫んでいた。
「我は放つ光の白刃!」
倒れざまオーフェンが放った光の帯は、広間をつんざく爆発音をあげ、球体のひとつに突き刺さった──そして、そのまま突き抜けて、天井に傷をつけた。球体はなんということもなく、まだふわふわと漂っている。
「直撃したはずだぞ?」
「さて──それはどうかな?」
おもしろがるような殺人人形の声。オーフェンはいらだたしげに人形をにらみつけ、人形がそれ以上のヒントを渡すつもりがないのを確かめると、また天井の球体へと視線をもどした──それはどうかな、だと?
(ならつまり、直撃はしていないってことか。くそ──敵にヒントをもらうとはな)
オーフェンは胸中でつぶやきながら立ち上がると、広間を横切るように走った──そのあとを追いかけるように、金属球の稲妻が着弾する。
「はぁーっはっはあっ! 逃げ惑 え、このたわけが!」
勝ち誇 ったようなボルカンの叫び声を聞きながら、あんにゃろ、と口の中で毒づく。
「お師様!」
マジクが声をあげた。見ると、彼とステファニーがクリーオウのところにたどり着き、まだぐすぐす鼻を鳴らしている少女の肩をふたりがかりで捕まえて立たせている。続きを叫んだのは、ステファニーだった。
「オーフェン! この子を頼むっていったって、このあとどうすればいいのよ?」
「──って、あのなあっ!」
オーフェンは反転してマジクらのところに駆け寄ると、素 早 く手を伸ばしてマジクとステファニー、そしてクリーオウとを床に引きずりたおした。同時に、一瞬前までマジクの頭があった位置を稲妻が撃ち抜いていく。
「ひええ」
マジクがうめいた。オーフェンは倒れたクリーオウを起き上がらせ、まだ呆 然 としているマジクに押し付けると、
「いいから、逃げろよ!」
「に、逃げるんですか?」
「ああ。どうせお前らになにができるわけでもねえし──だからクリーオウを連れてきたくはなかったんだ。奴は、あの人形はな、いつだってお前らを人質に取れるんだよ! お前なあ!」
と、これはクリーオウに、
「お前な、ちったあ、自分の身の危険とか、そういうのを考えたらどうなんだよ! いちいち俺が心配して気をもんでやらなきゃならねえのか?」
「オーフェン......」
小声で、クリーオウが声をもらす。乾 きかかった彼女のブロンドは、まだ涙で少し湿っていた。
「お師様......」
と、横からマジクが口をはさむ。
「てことは、ぼくのことは人質になってもあまり気にしないってことですか?」
「うるせーな。細 けえことをいちいち」
「細かいかなあ......」
「うるせってんだよ。いいか、とにかくここから逃げろ。おっと、ステフ──君が案内してやれ。遺跡には詳 しいんだろ!」
オーフェンはそう言うと、突き出すようにマジクの背を押した。三人が連れ立って広間の出口へと走りだす。と──
しゅんっ!──
と、光り輝く文字が宙を飛び、マジクらの前まで回り込むと、真っ白な火柱を噴 き上げた──祭壇の上から、殺人人形が笑う。人形の右の肘 に、いま火柱を上げたのと同じ魔術文字が輝いている。
「逃がすと思うかい?」
炎の勢いに、すっかり腰を抜かしたような格好で、マジクは棒立ちに立ち止まっていた。クリーオウも、またヒステリー寸前で床に座り込んでいる。ステファニーはまだしも落ち着いていたが、冷静になったからといってその炎 をくぐり抜けられるというわけでもあるまい。かぶりを振ると、こちらに駆け寄ってきた。
「駄 目 よ! オーフェン──勝てっこないわ」
「やかぁしいっ!」
オーフェンは短気に叫ぶと、腕をつかむ彼女を押しのけ、対 峙 するように壇上の殺人人形をにらみ据 えた。
「さっき、自分の物語を聞かせてやろうとか言っていたな──だがな、いらねぇよ。分かってるんだ」
「なにがだ?」
涼しげな表情で、殺人人形。オーフェンは双 眸 に凄 絶 な笑みを浮かべながら、言った。
「ステフがな、間 違 いで貴様を作動させちまったって言ってたよ。そのときから、なんかおかしいと思ってた」
「ほう......」
「間違いだろうがなんだろうが──ステフに貴様が動かせるわけがねえんだ。てめえの話を真に受けるとすれば、てめえは何百年も昔に天人によって造り出されたってことになる」
「......オーフェン?」
ステファニーが、理解できないように声をあげた。オーフェンは胸からしぼりだすように嘆息して、

「確かに、魔術文字の解読は俺たち人間の魔術士の間でも少しずつ進行しているさ。だがな、誰にでもできるってわけじゃない。古語の解読なんぞとは次元が違うからな──むしろウィルド・グラフの解読は《牙 の塔 》でようやくそのほんの一部が成功したって程度だ。別に君を侮 辱 するわけじゃないがね、ステフ──君に魔術文字が扱えるわけがないんだよ。君に、あの殺人人形を作動させられるはずがないんだ。天人の魔術はね、そんな簡単なもんじゃない。ましてや偶然なんぞで発動するような代 物 でもないんだ」
「でも、現に──」
ステファニーは言いながら、祭壇の上の殺人人形を指さした。
はは、と殺人人形が笑い声をあげる。
「つまり、なにが言いたいのだ? 人間の魔術士」
「貴様はステフに呼び起こされて、偶然に蘇 ってしまったわけじゃない──ずっと前から待ちつづけて、この時代に現れるのを待っていたんだ。誰もが──街の伝説を正確には思い出せなくなっちまった、この時代にな。そしてそもそも恐 らくは──」
と、オーフェンは不敵に髪を掻 き上げた。
「恐らくは、この街の伝説自体が、すべて造り物なのさ」
「きゃははははははははっ!」
殺人人形は、突 如 として天を振り仰 ぐように身をよじらせると──大笑して、燃え上がる肖像画を示した。
「きゃははははっ! はっ! はっ! 我が主よ──馬 鹿 みたいな我が主よ──あなたは不十分でしたよ! 不十分でした!」
と、オーフェンのほうに腕を振って指し示し、
「この男が──」
また、頭を押さえて笑い狂う。
「この男がいましたよ! 二百年待っても、まだ不十分だったのですよ! あなたは結局、神ではないのです!」
「......どういうことなの?」
ステファニーが、聞いてくる。オーフェンはかぶりを振って、額 の汗をぬぐった。
「俺が説明するまでもないさ」
「──そのとおり」
と、笑いだしたときと同じく突如として冷静な声で、人形は告げた。
人形の足元の地人の兄弟は、またなにやら雲行きが変わってきたので視線を見交わしている。
「わたしが話そう。千年も昔の話だ──そのころには、確かに天人という存在がいた。彼女らはバジリコックという強 大 無 比 な魔獣と戦い、そして、勝利を収めたと伝説にはある」
が、人形は嘲 るように手を振った。
「伝説は誤 りだ。彼女らは負けたのだよ。いや、確かに砦を破壊されながらも、バジリコックの息の根を止めることには成功していた」
「......バジリコックの伝説は読んだことがある」
オーフェンが言うと、人形はおもしろくもなさそうに肩をすくめた。
「それには、こうあるのではないかな──『その視線で民 を殺し、その存在は毒である』とかなんとかな。バジリコックは毒の獣 だ。長い戦いの中で、天人たちは知らず知らずのうちに、その毒に侵 されていた」
「やはりな......だが彼女らも、一応仮にも半神とまで言われた存在だ。その毒に蝕 まれるのにも気づかないまま、本来の長命な寿 命 で──何百年も生きることができた。その中で彼女らは運河を引き──」
「街を造った。やがて街に人間が訪 れる。外見のよく似たその二種族は、すぐに打ち解けて共同生活を始めた」
「やがて、両者に混血が起こり、人間の魔術士が生まれる」
「それが、今から三百年の昔のことだ」
人形はそこまで言い、ぶつりと言葉を切った。
オーフェンの後ろから、ふらふらと、マジクがやってくる。
「......結局、誰が裏切られたんですか」
オーフェンは振りかえって、
「覚えてたか。そう──問題はそこだ。誰が、誰に裏切られたのか」
「それは簡単だよ」
人形は、細い三 日 月 のような形に唇 を広げ、微笑した。
「誰もが誰かを裏切っていた」
「......どういうことだ」
オーフェンが聞くと、人形はあっさりと詩でも暗 唱 するように続けた。
「天人は毒に蝕まれていた。天人ならば、その毒に抗しながら生き延びることもできる。が、人間には強い毒だ。天人にかかわった人間が次々と不可解な死を迎えれば、人間たちも警戒心を抱 くようになる。やがて人間たちは、天人たちが人間を抹 殺 しようとしているのではないかと噂 しだした。その当時、魔術士も存在していたから、天人たちが人間の魔術士を妬 んでいるのではないかとも言われだしたわけさ。なにしろ天人はもともと人数が少ないうえに少産だからな。数の増え過ぎた人間の魔術士を持て余していたくらいだった」
「......だとしたら......」
「そう。人間はついに蜂 起 して、天人を街から追放しようとした。伝説には魔術士狩りと言われるが、なんのことはない──現実に起こっていたのは魔女狩りだったわけさ。もっとも、天人と人間の魔術士とでは、そもそも勝負になぞなりはしない。人間の魔術士は次々と倒れ──そのせいで、後世には魔術士狩りと伝えられたのだろうな。その狩りの中、人間の魔術士を速 やかに処理するために造られたのが、わたしのような殺人人形というわけだ」
「............」
場にいる人間たちが黙 して聞いていると、人形はそれに調子づいたかのように声のトーンを上げた。
「人間たちは、天人の毒が自分たちを裏切ったと思い込んだ! 天人は、自分たちを追放しようとする人間たちが裏切ったと思った! 彼らすべてに足りなかったのは、信頼だな」
「......お前たち人形は、真相に気づいていたようだな、その口ぶりじゃ」
「我々は冷静だったからな」
人形は、息もしていないはずの鼻で、大きな鼻息を吹いた。
「それに──どうしろと言うのだ? 我々は主命を受 諾 するのみだ。その当時の命令は、人間の魔術士を抹殺すること。それだけだ」
「......でも、なぜ天人たちは地上から姿を消したんですか」
マジクがなかば叫ぶようにして聞く。人形はぎらりと目を見開き、答えた。
「毒だよ。長年蝕まれていた毒が、老いによる力の弱体化から彼女らが抵抗力を失ったことで、確実に天人たちを死に追いやりはじめた......それに、魔女狩りの中で否 応 なく魔術を使わなければならないことが、彼女らの体力の衰退を速めることになった。天人たちは、次々と力つき死んでいった。最後に残ったのが、シスター・イスターシバと呼ばれる天人だ。肖像画は燃えてしまったがね。彼女の遺 言 だよ──『我は我の存在した証 しをここに遺 すのだ』とね」
人形は、もうくすぶるだけの燃えかすになってしまった肖像画のほうに手をやり、
「力ある女だった──彼女はわたしたちに最後の命令を下 したよ。もはや死にゆく身にとっては、考えられることはただひとつだったのだろうな。せめてものやっかみ──人間を殲 滅 することだ。そのためには、人知れずすべてを展開しなければならない。過去のことを皆が忘れた時期を見計らい、まずはこの街のすべての魔術士をひとり残らず始末する。魔術士ですらないただの人間なら、問題にもならないからな。しかるのち、この街から魔術士がいなくなったそのとき、我々すべての殺人人形が密 かに大陸中に進出する──その女ならば知っているだろう。この遺跡に、わたしと同じ殺人人形が何百体と保管されているのをな」
「本当か?」
オーフェンは天井を徘 徊 する金属球に狙 いをつけて腕を上げつつ、わきにいるステファニーに問いただした。彼女は震えながらうなずいた。
「本当よ......わたしは見たわ。この広間の向こうの、霊 廟 のようなところに、ずらっと柩 みたいなのが並んでいて、その中に──あれと同じ──」
それ以上は続けられなかった。オーフェンは小さく嘆 息 すると、金属球をしっかりと見据え──また、ちか、と小さな光が輝いたのを見てから、叫んだ。
「我は放つ光の白刃!」
光の奔 流 が宙をふたつに割り、今まさに稲妻を発しようとしている金属球の、小さな輝きを撃ち抜いた。とたんに金属球は爆 裂 し、粉々になってあたりに降り注 ぐ。
落ちてくる金属片を避けながら、オーフェンは人形に言った。
「なるほどね。球の表面に傷ひとつねえと思ってたら、やたら速いスピードで超回転してやがったわけだな。光が突き抜けて見えたのも、回転に弾 き飛ばされたからだろう。その表面にある魔術文字を壊さねえかぎり、あの物体を壊すことはできないわけだ」
「ふふ。だが、あんなものをいくら壊されたところで、わたしの腹は少しも痛まないよ。どのみち、君ひとりくらい、わたしだけで十分に血祭りにあげられるのだからな」
「に......兄さん」
さっきからずっと、ぽかんと口を開 けて人形の話を聞いていたドーチンは、うめくようにして言った。
「ど、どうすんのさ──なんだか、妙 に大事になってるみたいな感じ──あれ? 兄さんどこに行ったのさ」
「ドーチン! 兄は恥ずかしいぞっ!」
「へ?」
ドーチンが間 の抜けた声をあげると、いつの間にかオーフェンの後ろにまで逃げてきていたボルカンは、両手でメガホンを作って弟に叫んだ。
「一時の復 讐 心 に取り憑 かれ、我が心の友オーフェン様を敵に回すとは! まさしく悪魔の所 業 ! この兄が性 根 をたたきなおしてくれる!」
「......そりゃないよ兄さん」
「あー......」
と、疲れたような声でボルカンを蹴 倒 して黙らせながら、オーフェンはドーチンに向かって言った。
「ま、どーでもいいんだが......お前もこっち来たら? ドーチン」
「え? でも......」
と、ドーチンはちらりとかたわらの殺人人形を見上げた。人形は地人など気にする様子もなく、じっとオーフェンを見据えて立っている。
オーフェンもそれを見返しながら、
「いいんだよ。約束どおり俺がここに来たからにはもう人質なんて必要ないわけだからな」
「う、うん......」
ちょこまかとした動きでこちらに走ってくるドーチンを後ろにかばって、オーフェンはじっと殺人人形を観察した──前に現れたときと同じ裸 体 で、その身体に数百の文字を持っているという。まともにかかっても、勝てる相手ではない。だが......
「なあ、お前さん、本当に『人形』なんだな」
「......なに?」
ぴくり、と目を動かして、人形が聞き返してくる。
オーフェンは薄 ら笑いを浮かべて、なんとか敵の注意をこちらに集中させようと口を開いた。
「なんて言うか──ひとつのことに夢中になると、ほかのことにはまったく意識が向かねえってわけだ」
「我は主命を受 諾 するのみ」
「そう。そいつだ。だが──」
と、オーフェンは人形の頭上にそびえる、天人の彫像に視線を移した。
「迂 闊 なんじゃねえか? このメンツで一番凶 暴 なのから注意をそらしちまうなんざ」
「なんだと?」
殺人人形があわててオーフェンの視線を追ったときには、もうそれ は行動をとっていた──
天人の彫像の上から、剣を片手に構えた金髪の小柄な少女が、小さな掛け声とともに一気に飛び降りる!
「この──」
恐らく人形はその最後の一瞬の中で、身体に記録された文字のひとつを発動させようとしたのだろうが──人形ののばした指は、身体の文字を描き出す前に動きを止め──
その一瞬前には、クリーオウの全体重を乗せた剣が、人形の首をかすめて──ざくっと、人形の胴をなぐ。鋭い切っ先に下腹のあたりをえぐられて、別に血が飛び散るということはなかったが、それでも人形は痛みを感じるらしかった。
「いったあーい」
飛び降りざま、どうやら足でもひねったらしいクリーオウが、人形の足元に寄りかかるようにして悲鳴をあげた。その場にうずくまった彼女を見下ろしながら、人形がぎらぎらと怒りに双 眸 を煮 えたぎらせ、大きく腕をふりあげる──
「小娘がっ! 魔術士ですらないくせに!」
「我は放つ光の白刃!」
ふりあげた腕を、オーフェンの放った光熱波が撃ち抜く!
「うおおおおおおおっ!」
隙 をつかれて人形は、爆発の勢いに負けて祭壇の裏側へと転げ落ちた。オーフェンは素 早 く身をひるがえすと壇上に飛び乗り、まだうずくまったままのクリーオウの小さな肩を抱く。オーフェンはつま先から吹き出てくるような大きなため息をついて、
「よし──以心伝心。出来がいいぞ、相棒」
うめくように言った。クリーオウが、ぱっと顔を上げてこちらを見る。
「相棒?」
彼女は不思議そうにその単語をくりかえした。
と、その瞬間──
ぶわっ!
人形の転げ落ちた下から、真っ白な輝きが湧 き上がる。同時に熱波を伴 った風圧が、オーフェンとクリーオウを祭壇の反対側まで押しのけ、突き落とした。
「くっ──」
オーフェンが起き上がったときには──
壇上──下から見上げると恐ろしく高く見えるその祭壇の上に、人形が立っている。人形は下腹に走った傷以外はまったくの無傷で、こちらをじっと冷たくにらみ据えている。
人形は、表情はまったく平静なままで、怒りに満ちた声を発した。
「わたしを壊したな」
「......うるせってんだよ」
オーフェンは立ち上がり、クリーオウをかばうように腕を回した。にやりと笑みを浮かべて、
「へへ──そうだな。お前を壊したよ。覚えてるぜ。お前はその下腹にあった文字で、人間の声を封じるんだったよな。だがその文字は──もう使えない。クリーオウがこそぎとっちまった。そうだろ?」
「......だからどうしたというのだ。わたしに内蔵されている文字はひとつやふたつではないぞ。人間の魔術士を殺すための数百もの文字が──」
オーフェンは人形の言葉にかぶせるように、
「残り何百あろうが、ひとつなくなったってことは、何百分の一、てめえの力がなくなったってことさ。俺は何度でも出し抜くぞ。お前が完全にぶっ壊れるまでな! 来いよ!」
と、胸元に指を入れて、さっと紋 章 を──剣にからまった一本脚のドラゴンの紋章を抜き出す。
「この人形野郎 が! 決着をつけてやるぜ!」
「望むところだ!」
人形が叫び、自分の右肩にさっと指を走らせ、文字を描く。指の跡をたどるように光の筋が輝き出し──
光は無数の矢となってオーフェンらの頭上に降り注ぐ。
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
オーフェンの呪 文 が響き、後ろにいるマジクたちすら覆 うような大きな障 壁 を造り出した。が──矢はその光輪の壁をたやすく貫 き、床に突き立って爆発を起こす!
「────!」
爆風にもみくちゃにされるような格 好 で、オーフェンはもんどり打って床にたたきつけられた──が、まだあの矢に直撃されなかっただけマシだったのだろう。身体のあちこちに傷を負ったようだったが、そんなことは構っていられない。跳 び起きて、仲間の安 否 を確認するためにあたりを見回した。
──と同時に、愕 然 とした。
広間の光景が、一変していたのだ。床はぐさぐさに砕け散り、砕けた瓦 礫 で河 原 のようになっている。壁の一部にも大穴が開いて、赤土の地面が露 出 していた。祭壇など見る影もなく、まるで狙 って残されたように、天人の彫像だけが無事に立っている。壁面に縦 横 無 尽 に走った割れ目から、ぽたぽたと水が漏 れてきていた。
もうもうと舞い上がる粉 塵 のせいで、細部までは視線が行き届かない。クリーオウやマジクらも、どこかの瓦礫の陰にでも倒れているのだろうか──いやあるいは──
「くそ」
とオーフェンは毒づき、仲間を探すため駆け出そうとした──が、その足は、マヒしたようにぴくりとも動かない。
「まるで相手にならないではないか。ええ?」
人形の、落ち着いた──そして残 酷 な声。オーフェンはいつの間にやら背後に忍び寄ってきていた人形に、その細い指で首根っこをわしづかみにされていた。
(動けない......?)
オーフェンが胸中で自問すると、人形は即答した。
「毒針を使わせてもらったよ。わたしの......手のひらについているのだがね。即効性の弛 緩 毒 だが、生命活動には無害だ。画 期 的 な毒薬だろう? ひとおもいには殺さずに、身体の自由だけを奪 ってしまう」
「............」
「ふふ......さすがにこの状況では、君の自制心も種切れのようだな──君の考えることが手に取るように読み取れるよ。君はまたあの小娘がどこからかわたしに奇襲をかけてくれることを期待しているね。だがそれは念頭から外 したほうがいいな──彼女は今、わたしの足元で気を失っているよ」
ちらり──と目玉だけ動かして、なんとか自分の足元を見る。と、少女のほっそりした手首が見えた。剣の柄 を握ったまま、力を失っている。
人形は、また続けた。
「もうひとりの黒魔術士──ステファニーというのか? それもまた、無 駄 だな。探す手間を省 いてあげるために教えてあげるのだが、彼女は祭壇のあった場所で瓦礫に埋もれている」
「............」
「おやおや、君はあの地人たちにまで期待をかけるのか? そいつは酷 というものだろう......」
「............」
「残るは、君の生徒だな。彼にはなんの力もない」
「......マジク。聞こえているんだろう」
オーフェンは、人形のことはかたくなに無視して、ゆっくりと言った。
おやおや、と背後で人形が声をあげるのが聞こえる。オーフェンは続けた。
「この人形野郎を倒すには、お前の力がいるんだ。いいか──お前は魔術が使える はずだな?」
しん......と、答えはない。オーフェンは構わずに続けた。額 をくすぐるように、汗がたれる。
「魔術のごく基本的な方法を教えるぞ。いいな......まずは標的をしっかりとにらみつけるんだ。その標的以外には、なにも見えねえくらいにな。そうしたら──今度は、息を吸う。吸いつづけろ。吐 いたら力が抜けるぞ」
反応はなにもない。
(無 駄 だったか......?)
オーフェンはふと絶望的に思いながら、
「息を吸っていると、いずれは限界がやってくる──当たり前だがな。そして、その限界が訪 れたとき、標的が自分の鼻先にいるように感じれば成功だ。構うこたねえ。腹の底から叫べばいい。俺が言っておいた発声練習をちゃんとやってたんなら、できるはずだ。そうすれば、お前の身体の中の魔力が、お前のイメージによってある形に編 み上げられて放たれる──」
と、その瞬間、ぴんと張り詰めていた広間の空気に、澄 んだ声が響き渡る──
「わ、我は放つ光の──」
「......え?」
オーフェンは目をぱちくりさせた。声は続く。
「光の白刃!」
じゃんっ!──

オーフェンはなかば──というか完全に信じられない思いで、広間を貫く巨大な光の帯を横目に見ていた。恐らくはオーフェンが放つものの数倍から数十倍の規 模 の光熱波が、オーフェンと人形の横、数メートルほどをかすめて煌 々 と熱波と炎 を巻き上げている。光はいつまでも途 切 れる気 配 なく、広間の壁をたやすく撃ち抜き、バジリコックの遺跡そのものを胎 動 させるように振動させた──
「こ、こんな......?」
と、戦 くように人形がつぶやきをもらす。
「こんな力が──二百年の間に、貴様らになにが起こった──?」
そのつぶやきが途切れるころ、常識を外れた光熱波の奔 流 も消えた。ぽっかりと開いた大穴から、ドドドと運河の水が落ちてくる。
人形は力を抜いたのか──オーフェンの首をつかんでいた指が、ふっとゆるんだ。と、つぷ、という音とともに、刺さっていた毒針も抜ける。オーフェンはその隙 を見て、さっと身をよじった。
(動いてくれよ、俺の身体──)
マヒ毒にしびれている自分の身体に喝 をいれながら、足元に転がっているクリーオウの剣をひっつかみ、右下からふりあげるように人形の首に刃を打ち込んだ。がきん、と音がして、ちょうど人形の首の半分ほどまでめり込んだところで、刀 身 は止まった。がくんと人形は衝撃を受けたようにひざを曲げ──
オーフェンは剣が人形の首にひっかかった瞬間その柄 から手を放し、その勢いで両手だけ左へと振り抜いた。と、完全に行き過ぎたところで腕を止め、叫ぶ。
「我掲 げるは降 魔 の剣!」
呪文と同時、彼の手の中に、ふんっ──と見えない剣をつかんでいるような重みが現れる。オーフェンは首に剣をめり込ませたままこちらを見る人形の双 眸 を見返して、見えない『剣』を今度は左側から人形の首めがけ、たたき込む!
どうんっ! と見えない『剣』は、クリーオウの剣の反対側からちょうど同じくらいまで人形の首にめりこんだ。『剣』とクリーオウの剣とが交差するような形で人形の首から跳 ね飛び、そして人形の首も斬 り落とされて宙を舞う──
勢いがついて数メートルも弧 を描いた人形の首は、瓦 礫 の山を転々とバウンドし、転がっていった。そのままボールのようにそれは転がって......天人の彫像の足に当たり、止まった。
「............」
がくっと、オーフェンはその場にへたり込んだ。気を失っているクリーオウの柔 らかなブロンドを意識せずになでながら、
「終わった......」
どさ......と、これは首を失った人形の身体がその場に倒れる音。オーフェンはすぐ目の前のそれを見下ろしながら、疲れたような笑みを浮かべた。
と、マジクの放った光熱波がぶち開けた壁の大穴に視線が当たる。大穴からはかなりの勢いで水が流れだしていて、あと数十分もすればこの広間が水 没 するかもしれない。
(あんにゃろ......たった一回コツを言っただけでモノにしただと? 化け物か、くそ)
「お、お、おおお......お師様あ!」
マジクの声が、広間に響き渡った。
「......なんだ?」
オーフェンがじろりと見やると、瓦礫の間から身を乗り出してマジクがばたばたこちらに駆け寄ってくる。
「す、すごいですよ──ぼくってひょっとして天才なんじゃ──」
「馬鹿野郎!」
オーフェンは即座に怒 鳴 りつけると、手近にあった瓦礫を弟 子 に投げ付けた。
「な、なにするんですか、お師様!」
「なにもくそもあるかっ! てめえの手を見てみろ!」
オーフェンが言うと、マジクは不可解な顔をして自分の両手を見下ろした──そして、ぎゃっと悲鳴をあげて、
「な、なんですか、これ! 大 火傷 してる!」
「てめえの魔術でてめえの身体傷つけるなんざ、キチンと標的に集中してねえ証 拠 だ! おまけに、あの人形を何メートルも狙 いを外 してたじゃねえか! いいか! 金 輪 際 、魔術は使うな!」
「そ、そんなあ! ぼく、できたじゃないですか──」
「どやかましい! ぼくできた、なんてせりふは、マトモに魔術を制 御 できてからにしろってんだ!」
その怒鳴り声で、気絶していたステファニーやクリーオウも、目を覚 ましたらしかった──もごもごとうめき声をあげながら、身動きしている。祭壇の瓦礫の下から、ステファニーが立ち上がった。入口に近いほうから、ボルカンとドーチンがむっくり起き上がる。クリーオウも、なにやら寝言を言いながら寝返りを打っている。
「お──終わったのね、オーフェン......」
ステファニーがよろよろとこちらに近寄りながら、つぶやく。オーフェンは、ああと答えかけた。
が──
「きゃはははははははっ!」
哄 笑 ──
天人の彫像の下、瓦礫の隙間に転がった首が、哄笑を発した。その場にいる全員の視線が、ばっとそちらに向く。
首は、嘲 笑 をくりかえしてから、叫んだ。
「これで終わったとでも思っているのか! 言っただろう! 人形はわたし一体ではないぞ──わたしが機能を停止すれば、次の人形が目覚める! 千体近くもいるわたしの同胞をひとつずつ破壊していくつもりか? 今度は奇襲は通じぬぞ!」
「............」
オーフェンは無言でゆっくり立ち上がり、はあ、とため息をついた。
「口は災 いの元ってね。言わなきゃ、気づかなかったのになあ」
「......貴 様 、なんのつもりだ?」
人形の問いは無視して、オーフェンは首を失った殺人人形の身体のほうへと歩いていった──ドーチンを引きずって。ドーチンはすっかり気を抜いて、腰まで抜かしていたようだった。オーフェンは人形の身体をかつぎ上げ、ドーチンに聞いた。
「おい、お前は見てたはずだよな──あの魔術士同盟を消し飛ばした魔術文字が発動するのを」
「え? まあ、見てたけど」
「ちなみに俺様は気を失っていたぞ」
誇 らしげに、またいつの間にか近づいてきていたボルカンが言う。オーフェンは瓦礫の破片を投げ付けてボルカンを黙らせると、またドーチンに顔を向けた。
「その文字の形と、あの人形が自分の身体のどの位置に文字を描いていたか覚えてるか?」
「う、うん......」
「き──貴様あっ!」
と、人形があわてて叫び声をあげる。
「うるせ。首は黙ってろ。ならドーチン、この人形の指を使ってだな、その文字を正確に再現するんだ。形をなぞりさえすりゃあ、使えるはずだからな。あの文字の威 力 なら、こんなチンケな遺 跡 、軽く吹っ飛ばせるさ──」
人形の心臓の上に描かれた魔術文字は、多少ぎこちないながらも発動を開始した──地鳴り、竜 巻 と、この前と同じ爆発の前 兆 が広間を破壊しはじめる。
真っ先に逃げ出したボルカンとドーチン、そして次いで追い出したマジクとクリーオウに続いて、オーフェンが広間を出ようとしたとき、ぎゅっと彼の腕を、後ろからつかんだ者がいた。
「......ステフ」
オーフェンは肩越しに、不可解な視線を投げた。
「なんのつもりだ? さっさと逃げねえと、今度こそ助からねえぞ」
「......あなたに聞きたいのよ。あの人形の話を聞いて、あなたはなんにも感じないわけ?」
「なにがさ」
「なにって......天人とわたしたちの話よ。あれが本当なら、馬 鹿 みたいじゃない。ちょっとした誤解よ。そんなことで、この街の魔術士は何百年も迫害されて──」
ステファニーはやるせない瞳 を見せたが、オーフェンは事もなげに肩をすくめた。
「まあ、なんだな......考え方の問題さ。それに俺は──」
と、広間のすみっこで動くこともできずにわめきつづける人形の首をあごで示し、
「あの野郎の言うことを真 に受けるほど素直でもねえしな。天人が人間の魔術士を抹 殺 しようとしたのだって、なにも嫉 妬 とは限らんさ」
「じゃあ......なんなのよ」
「彼女らが、自分たちの身体が毒に蝕 まれていることに気づいていたとしたら? しかもそれが感染するとなれば、自分たちの血をひく人間の魔術士たちにもその毒が回っている可能性は大きい。魔術士本人は魔術があるから、死には至 らなくてもな。そのままほっとけば、人間全体にもバジリコックの毒が感染し、人類そのものが死滅するかもしれねえ。それを防ぐためには、あとで自分たちがどんな汚 名 を着ようが、人間の魔術士を殲 滅 するしかねえじゃねえか」
「......でも、それなら、なんで......シスター・イスターシバ? 彼女はあんな......殺人人形に、魔術士を抹殺するような命令を遺 して死んだのよ」
「ンなもん、天人だって、全部が全部一枚岩ってこたあねえだろ。ひとりくらい違う考え方をした奴がいて、たまたまそいつが最後まで生き残ったってだけのことかもしれねえじゃねえか」
言ってオーフェンは、ステファニーの背中を押して広間の出口に放り出した。自分もその後に続こうとし、やはり少し立ち止まってから、振りかえって独 りごちる──燃えかすしか残っていない肖像画に向かって。
「どのみち、どうでもいいじゃねえか。俺は生きてるんだし、おおむね大 丈 夫 だ」
と、にやりとして人形の頭に向かって言う。そして同時に──その上に、やや傾きながらもそびえる天人の彫像に。
「それに、あんたらが完全に絶滅したって証拠もねえしな......いつか会えたら、問いただせばいいのさ。お互いの祖先がやったみたいに、ごていねいに俺たちまでもが、つまんねえことで誤解してすれ違う必要はねえんだからよ」
遺跡の揺れがひどくなってきた。オーフェンは舌打ちすると、急いで広間から出ていった。
「......ま、再会したときからばたばたしてて──考えてみりゃ、こんな具合に差し向かいで落ち着いて話をすんのは何年ぶりってことになるのかな」
オーフェンはテーブルに肘 をついた姿勢で、そんなことをつぶやいた。向かい側に座 るステファニーが、くすっと笑って小ぶりなカップを持ち上げ、そのふちに口をつける。
「三年前は、わたしは寝たきりだったけどね」
ほほ笑みながら言う彼女に、オーフェンは、ややこわばった笑みを返した──いやなことを思い出したのだ。
そこはアレンハタムの大通りとは少し離れたところにある学生街──大陸のあちこちから出向いてきているこの街の学生を相手にしたカフェ・バーである。店の外に並べられた白 塗 りされた木製のテーブルのひとつに陣取って、オーフェンは空 のカップを所在もなくつついていた。
あー、と咳 払 いしてから、オーフェンは昔を回 顧 するように言った。
「あのな......この街に着いたときにな、俺はまず......君のことを思い出した」
「そう? 嬉 しいわ」
「いや......嬉しがられても困るんだがな。つまり、だ──あの当時の俺は、自分のことで手一杯でな。あんまり、君の力にもなれなかったし......」
「ええ」
「だが今なら、前よりはちっとは余 裕 があるし、その──」
オーフェンが口ごもっているうちに、ステファニーはカップをテーブルに置き、両肘でほおづえをついて、こちらに顔を近づけてきた。
その姿勢のまま、彼女は勝手に彼のせりふを継いだ。
「今なら、わたしの手助けができるかもしれない?」
「いや、そ──まあ......そうだ」
もごもごとオーフェンが答える。ステファニーはきらりと目を輝かせ──つまり、オーフェンにはそう見えたということだが──、聞いた。
「あの子には......クリーオウには、わたしのこと、なんて話したの?」
「あ?」
オーフェンが聞き返す。ステファニーは口元に陰 険 な微 笑 を浮かべ、
「あの子、いっきなり同情心の虜 になってわたしに泣きついてきたのよ。聞いてみたら、あなたにわたしのことを聞いたんですって。あなたはなんて話したわけ?──あ・の・こ・と・を」
「う......」
と、オーフェンはひるんでから、
「つまりだな、俺が手助けできると思ったのは......そのことなんだ」
「どのこと?」
「いや、つまりだな、話をもどすと──とりあえず、クリーオウには君が病気だと言ったよ。だから、この街の連中にリンチにあってから、俺が医者のところに連れてって、一命はとりとめたんだが......その──まだその後 遺 症 に苦しんでいて、できれば俺はその力になってやりたい──」
「はっきり言っておくけど、わたし、別に苦しんでなんかいないわよ」
ステファニーはきっぱりとそう言うと、ぐんと胸を張ってみせた。
「あのとき、わたしは生まれ変わったわ......わたしはこの第二の生を楽しんでるし、生きがいも持ってるわ」
「なにが生まれ変わっただ」
オーフェンは毒づくように──ただしこっそりと──、
「医者がヘボで、リンチにあって原型もないほどぶっ壊れた君の顔を整形したら、女になっちまったってだけじゃねえか」
「なによ!」
ステファニーはいきなり顔色を変えると、ばんとテーブルを突いて立ち上がった。
「顔だけじゃないわよ! あのあとちゃんと胸にラバー型のパットも埋め込んだし、髭 とかも目立たないように薄い皮 膜 を貼 りつけて、骨格も削って、○×☆も、ほどよく◇◎〠って感じに──」
「やかましい! いいか! 俺は、潰れた後の 君の顔しか見たことなかったんだからな! そのせいでだまされたわけで──」
「なにがだまされたよ! あなたが勝手に思い込んだだけじゃない!」
ここで、オーフェンも立ち上がった。
「うるせえ! てめえも否定しなかったじゃねーかっ! とにかく俺は、この三年間これだけは言おうと思ってたんだよ! なにがステファニーだ! 知ってんだぞ! 本当の名前はステフェンだろーがっ!」
「人の財 布 スってリンチにあったんじゃあ、後は偽 名 でも使わなきゃどーしよーもないでしょおっ!」
「はん! そーいや、クリーオウに言ったらしいな──手術を受けてから魔力が弱まった? そいつはお気の毒だが、自 業 自 得 だろーがっ! そんだけ身体を改造すりゃあ──」
「なにが改造よ! わたしは生まれ変わったのよ!」
と、そこで会話が途 切 れ、ふたりともにらみあったまま、はあはあと肩で息をする。ふう、と嘆 息 して、オーフェンのほうが先に椅 子 に座 りなおした。
震 える手でなんとか空のカップを持ち上げ、自分を落ち着かせようとするようにつぶやく。
「......まあ、なんだ......おたがい、昔のことだからな」
「......そーね」
ステファニーもなんとか息を整 え、怒鳴ったときに崩 れた髪形を手で整えながら椅子に座りなおした。
オーフェンはカップの陰に隠れるようにして、ちらりと彼女を見やりながら聞いた。
「で......君はこれからどうするんだ? この街に残るのか?」
「まさか。もう魔術士同盟もなくなっちゃったし、実家に帰るわ」
「実家?」
「南のほうよ──ずっと南。もう部屋も引き払ったわ」
「......両親とも、今の君の姿を見たら気絶するだろうよ」
「大 丈 夫 よ。老眼だから気づかないわ」
「いや......気づくと思うが......」
「ま、それはそうと、あなたはどうするの、オーフェン?」
彼女に聞かれて、ああ、とオーフェンは思い出したように答えた。
「明日、この街を出るよ。北に行く」
「北?」
「あのクソ地人ども、また借金踏み倒して北に逃げた。それに、君が南に行くんなら、俺は北だ」
と、彼は席を立って言った。
「じゃあな。クリーオウもなんとか機 嫌 を直してくれたみたいで、宿屋の食堂借りて、夕食を作ってくれるんだとよ。ああ見えて家事はプロフェッショナルだぜ? ベビーシッターのバイトやってたこともあるんだと」
オーフェンはそう言うと軽く手を上げ、ステファニーに会 釈 した。ステファニーはなにも答えず、テーブルの上のカップを口に運んだだけだった。
「はい♥ 夕食持ってきてあげたわよ」
「あ、ああ──あんがと」
妙 に屈 託 のないクリーオウの笑顔を見ながら、オーフェンは彼女が運んできたトレイを受け取った──皿の上に、チーズケーキのようなものが載っかっている。
「ホントはもっとちゃんとしたものを作ってあげようと思ってたんだけど、下の食堂のおじさんがもう厨 房 の火を落としちゃったみたいだったから。もう下は酒場になってて、たいした料理は出せないんだって」
「あ、ああ──まあ、夕食の時間に遅れた俺が悪いんだしな」
オーフェンは決まり悪げに彼女に言った。
「いや、その──ええとだな。昨日の夜は悪かった......な。でも、君を置いていったのは、君の安全のためであって──」
「うん。分かってる。気にしないで」
クリーオウはにっこりと首を傾けて、笑ってみせた。
なんだか自分がひどく悪いことをしたような気がしながらオーフェンは、皿の上のケーキにフォークを突き刺した。
「今度出掛けるときは、いっしょに行こうか──もっと安全なところに。その、明日でこの街は発 っちまうわけだけど、なんだ、その──散歩に都 合 のいい街なら、まだいくらでもあるだろうし......特に、そう? 王都にはまだ行ったことがないんだろう? あそこのアンドン公園は一見の価値がある。多分、一生の思い出に──」
弁解しながら、フォークに刺したチーズケーキを丸ごと口に運ぶ。
そして、それに思いっきり噛 み付いてから、ふっ......と、表情が変わった。眼前でにこにこしているクリーオウを、真っ白な目で見つめる。
「クリーオウ、なんだ、これ......」
オーフェンは自分が口の中に入れたものを見下ろすように視線を下に落としながら、そう聞いた。口の中に広がる異様な気 配 に、手が震えている。
「まあ、仕返しは仕返しってことで、やっておかなくちゃね」
クリーオウは、にっこりと答えた。
「石 鹸 よ。ちゃんと食べてね♥ さもないと──ロクなことにならないわよ」
同じ部屋にいるマジクのほうをちらりと見やると、この弟 子 は舌を出してそっぽを向いている。どうやら──いつも通り──まず最初に実験台にされたらしい。
「ほかには......なにをやった? クリーオウ」
オーフェンが震え声で聞くと、少女は信じられないほど嬉 しそうに、にこにこと続けた。
「あなたの下着と靴 下 、全部浴 槽 に沈めておいたから、明日、好きなの履 いてね♥ それと、着替えをなくした分、オーフェンの名前であちこちで服買ったりしたから、ちゃんと代金払っといて♥ あ、あとこれは予定だけど──あなたに保険金かけて、受取人わたしにしとくつもりだから、よろしく♥」
「ンなことして、なにが楽しいんだよ、お・ま・え・は......」
オーフェンは絶望的な声 音 でそうつぶやいた。口の中の石鹸を持て余しながら、わなわなと両手の指を震わせる。
こちらを見ながらクリーオウは、いつまでもにこにこと、その微笑を絶やそうとはしなかった。この微笑が続いているかぎりは、とりあえずまあ大丈夫なんだろうと覚悟を決めて、オーフェンは──口の中の石鹸をぐっと飲み下 した。
「......いずこからか静かに、あの男が現れようとしています──あの男と言えばあの男。最近みょーに人相が悪くなってきた、そーいえば最近はなかなか部屋に入れてくれない等々、さまざまな噂 が囁 かれております......ちなみに巻末の実況はこのわたし、世界のアイドル、世紀末の渡り鳥! グレイシーを倒すのは君しかいない!(ややマニアック)──ステファニーがお送りいたしております。ああっ! あの男が! ゆっくりと舞台裏から姿を現しますっ!」
「(登場して)......ええと、作者ですわな」
「......なんて盛り上がりのない男......」
「いや、ンなことはないんだが......さすがに今回は疲れたかな」
「あはは。処女作が受賞から刊行まで一年間! んで、前作がそこからさらに二年間! なのに、今回は周囲の予想をすべて裏切って実質八日間で書き上げたもんねー」
「笑いごとじゃないぞ。おい」
「ふーん。編集のMさんに『できます!』なんて大 見 得 きったあんたが悪いのよ」
「まあ、八日間とは言っても、手直しの時間は含 めないで、の話ですが。リライトとか含めれば、もっとかかってます。それに、平日は会社行ってて書けませんから、期間にすれば前作と同じくらいの時間がかかってるんですけどね。一か月半くらいかな」
「おお、恐怖の兼業作家」
「......別に恐怖ってことはないと思うが」
「ま、ないけどね。言ってみただけよ。でもまあ、次巻はどのくらいで書き上げられんの? 今までの短縮化からして......八時間てとこ?」
「できるかっ! 今度はゆっくり書くもんね(多分)」
「ホントにー? あんたって、ゆっくり書くとか言いながら一日十枚のペースをかたくなに守ってたりするでしょ」
「だ、だって、書かないと不安なんだもん」
「ったく、小心者なんだから......ところでさ、今後の展開とか、考えてあるわけ?」
「そりゃまあ、あるよ。主人公Oと主人公の連れCが適当にケンカして、主人公の弟 子 Mがいじめられて、主人公が怒 鳴 り散らしながら暴れてっと、ああ、もう原稿が規定枚数を突破しているという──」
「誰があんたの仕事のパターンを話せっつったのよ!」
「毎度毎度、上下巻の誘 惑 に悩まされるわたしです」
「なんだかもー(ブツブツ)......つまり、今後のことはまだなんにも考えてないわけね?」
「ごめんね♥」
「謝 られても困るんだけど......しかも、そのハートはやめなさい」
「えーと、このシリーズの今後、みたいなのは、可能なかぎり未定でやっていったほうがおもしろいんじゃないかと、そーゆう打算です」
「ホントに?」
「怠 慢 も、ちょっと混じってます」
「やっぱり......」
「い──いや、でもね、その代わりというか......ほかの設定なんかは色々考えてあるんだよ。別のシリーズとか、単発モノとか......」
「あんたの『考えてあるんだよ』はイマイチ信用できないから......」
「(ゔ......)まあ、その話はそれくらいにしておいて、次巻ですが、ちょっと違う展開でやれればな、と思ってます。ここまでで、古代の魔術士ネタが二回続いたんで、これからもその辺を中心に話が進むんだろうと確信していたあなた──」
「?」
「ごめんね♥」
「やめろっちっとろーに」
「まあ、そんなわけでっ! またお会いできる日を心待ちにしております!」
「まったねー♪」
秋田禎信











どこにでもあるような、ひとけのない酒 場 の奥まったテーブル──
『オーフェンという男に関するデータ──その①』
流 麗 な筆 跡 でそう記された、うすっぺらなファイルをながめながら、その女はくすっと笑ってみせた──血色のいい唇 を歪 めた、危険な笑 みだ。こう正面から見るかぎりでは、そんなに歳 をとっているようには見えない。二十代を迎 えてから、誕 生 日 をいくつか数えたという程度だろう。安っぽい娼 婦 のような痩 せた顔に、鋭 いナイフの傷 痕 のような鋭い双 眸 が輝いている。つややかな黒 髪 を腰まで伸ばし、それは身体 にぴったりと吸い付くような黒 革 のボディスーツに溶け込むようだった。
〝家庭的〟なモノとは相 いれないタイプの、だがかなりの美女には違いなかった。彼女はとがった爪 でファイルの表紙を弾 き、組んだ足のひざの上で肘 を着いて、流し目を作った。媚 態 だが、そのまなざしは、はっきりと近づきがたい輝きを持っている。彼女が口を開くと、喉 の奥からハスキーな声がもれた。
「......で? この男をどうしろって? ミスター・オストワルド?」
オストワルドと呼ばれた男──四十がらみの、白 髪 痩 軀 の紳 士 は、自分の名を呼ばれたことに、少なからずぎょっとしたようだった。よく似合っている白いスーツに包まれた身体を震 えるようにゆすって、かたわらに立つ大木のような用 心 棒 にちらと視線を投げてから、いささか遅れ気味ではあるが、余 裕 のある笑みを浮かべる。
「どうやってわたしの名を調べたのかな?」
女は、はすっぱな仕 草 でフンと鼻を鳴らし、
「お望みとあれば、あんたの屋 敷 の間取りと、あんたがひとりでバスルームに入る時間と、ボディガードが賭 けポーカーで見張りの交替時間を忘れがちなことも教えてあげるわよ。この程度の情報は、その辺の路 地 で座り込んでいる連中に銅 貨 でも投げてやれば、いくらでも聞き出せるわ」
「なるほどね。たいしたものだ──いや、そんなはったりをかます度 胸 がね」
オストワルドは、くつくつと笑いながら繊 細 そうな指先を振ってみせた。
女は、気にせずに続ける。
「で、わたしを呼んだ理由は?」
「君のような女をはるばる大陸の反対岸から呼び寄せて、頼み事があるとすればひとつしかないだろう? そうじゃないかね、ヒリエッタ」
女──ヒリエッタと呼ばれたその女は、ファイルを弾いた指先を自分の唇の先に当てて、さもおもしろそうに微 笑 した。あっさりと、
「そうね」
とつぶやく。彼女はファイルの一ページ目を開き、声を出して読み上げた。
「黒魔術士オーフェン。家名なし。推 定 二 十 歳 前後。未婚。二 親 を含 めた、すべての身寄りは存在せず......どこかの街に住民登録もしていない。《牙 の塔 》出身との情報もあるが、大陸魔術士同盟 ではそれを否定しているし、実際《塔》の出身者名 簿 の中にはオーフェンという名前は存在しない。無職。ただし──」
と、ここまで読み上げてから、ちらりとこちらを見上げて声のトーンを変える──からかうように。
「非合法の金 融 稼 業 を営 む」
「奴 はモグリだ。わたしのシマで、好き勝手に商売をしている。許すわけには、いかん」
オストワルドは、白いスーツのすそをなでつけながらつぶやいた。
ヒリエッタが、にやにやと言い返す。
「あなたの部屋の中を飛び回る、目 障 りな羽 虫 ってわけね──別にたたきつぶさなくても、実害はないでしょうに」
「そうだろうな。だが、周囲へのしめし ってもんがある。それに虫ケラは、ほかの虫ケラを呼び寄せるものだ」
「ならあなたは、どのくらい大きな虫ケラさんなのかしら?」
「貴 様 ──」
と、低くうめきながら身を乗り出したのは、オストワルドではなくそのかたわらに立っていた用心棒だった。当のオストワルドが、さっと手をあげると、用心棒はその場で凍 りついたように立ち止まった。
「やめておけ。この場でこの女を八 つ裂 きにするのは簡単だが、そうすると羽虫をつぶすのに別の殺し屋を用意しなければならん......それも〝愚 犬 〟ヒリエッタに匹 敵 するような......安値の暗殺者をな。そいつは面 倒 臭 い」
と、用心棒から眼前の殺し屋へと、優 雅 に視線を移し、
「まあ......そういうことだ。ミズ・ヒリエッタ。あまりつまらん口をたたかんでくれ。部下はわたしの機 嫌 をとろうと必死だし、もともと血の気の多い男だ。いつわたしの制止を無視して飛びかかるか分からない」
「《牙の塔》出身かもしれない黒魔術士と取っ組み合いをするくらいなら、そこのでくのぼうと鼻血も出なくなるまで殴 りっこするほうがマシじゃないかしら」
挑 みかかってくるような凄 絶 な笑みを浮かべた彼女を見ながら、やはりオストワルドもにやりとした。
「だが、依頼は引き受けてくれるんだろう? 聞いた話では〝愚犬〟が依頼を断ったことは一度もないとか......」
「もちろん」
と、あっさりと〝愚犬〟──ヒリエッタ。
その返事にオストワルドは満足したような笑みを浮かべ、ぐい、と体重を粗 末 な椅 子 の背にあずけた──ぎしぎしと、おおげさな悲 鳴 をあげる椅子と床を無視して、彼は言った。
「だが言っておくが、奴は手ごわいぞ──前にも何人か、わたしの手下を警告に送り込んだことがあったが、全員、半殺しになって帰ってきた」
「そりゃ──ゴロツキなんて何人送り込もうが、魔術士には通用しないでしょ」
ちらり──とオストワルドのかたわらで銅像のように固まった姿勢の用心棒に視線を投げながら、ヒリエッタ。用心棒の怒りの気 配 が盛り上がるが、さっきのオストワルドの制止もあったので、今度は表情をぴくりともさせなかった。
「なんだ......つまんないのね」
ヒリエッタは、心底残念そうに嘆 息 した。そして、椅子を押して立ち上がり、
「報 酬 は?」
彼女は額のことを聞いたのだろうが、オストワルドはわざと勘 違 いしたふりをして答えた。
「仕事が終わりしだい払う」
いくら?──とは、彼女は聞いてこなかった。
思ったとおりだった──愚犬ヒリエッタは、金のために殺しを請 け負 っているのではない。
もっとも、ではなんのためなのかというと、そんなことはオストワルドは知らなかったし、別に知りたいとも思っていなかった。
その事件が起きたとき──マジクは馬車の中から缶 詰 をみっつほど持ち出したところだった。地面にあぐらをかいているような薪 の上でゆらゆらと踊っている焚 き火の近くに腰を下ろし、とりあえず缶切りで缶詰の縁 をたたく。意味はないが、癖 だった。
ラベルに記してある文字は、どうやら料理の専門用語らしくマジクにはよく分からなかったが、多分ソースに溶かした肉の缶詰だろうとマジクは見当をつけていた。前にも同じことを予想して、開けてみたら女物の下着が入っていたことがあったが。
缶の蓋 に缶切りをあてがいながらマジクは、夕 闇 に影が落ちはじめた周囲の光景を見回した──そこは街 道 から数メートルばかりそれた林間地で、街道に面したほうに馬車を停 めている。その陰 に隠れるように焚き火しながら、マジクはひとりでゆっくり早めの夕食をとろうとしていたとこだった。
「別にバチは当たらないよな」
と、独 りごちる。愛 嬌 のあるあごを、かしげるように上向かせて、
「クリーオウの作ったモノは食べられたもんじゃないし──多分、ちゃんとした設備でマトモな材料を使えば上等な料理なんだろうけど──お師 様 は、ぼくが薪拾いからもどらなかったときは、真 っ先 にさっさと食べちゃう人だし」
どちらかといえば少女じみた面 影 の、紅 顔 の美少年である。年 齢 は十四くらい、短いくせに風にもたなびく金 髪 は、純 粋 に色が違うだけではなく、髪質が細いせいで金色に見えるのだろう。澄 んだ碧 眼 は、まるでわざと隙 を見せているように目元がおっとりとしている。なんにしろ、黒を基調とした黒魔術士の格 好 が似合う手合いではないのだが、彼はしっかりとそれを着込んでいた。さすがに暑いので、黒のマントは馬車の中にしまってあるのだが。
缶の蓋が開いた。中身は、どろどろした青豆のスープが入っている。まあいいやと思ってマジクは、焚き火の中にそっと缶を押し込んだ。数分すれば、暖まるだろう。
と──背後にいきなり足音が聞こえて、さらにかん高い叫 び声があがった。
「あー!」
しまった──と、マジクは身をすくませた。恐る恐るふりかえると、やはり後ろに、ブロンドを腰まで伸ばした色白の少女がこちらを指さして憤 然 としている。
「クリーオウ──」
と呼びかけたところで、彼女は無視して続けた。
「なにやってんのよ! 今日はわたしが食事当番だって言ってあったでしょ! なに、わたしの作ったもんは食べたくないってわけ?」
多分お師様ならあっさり「そーだよ」とか答えるんだろうな、とマジクは胸中で、ややうらやましげに思った。あの人は手料理の類 いが嫌 いだから、クリーオウの食事当番の日にはいつも姿を消している──今日みたいにだ。
だが、マジクが答えたのは、それよりは当たり障 りのない言い訳だった。
「あ、あの、ちょっと待ちきれなかったんだ──」
両手をあげて弁解しながら、彼女を観察する。林の中を歩いたせいか少し汚れているジーンズに、上は、暑いせいだろう、バタフライイエローの袖 なしブラウスを着ているだけだ。これは両方とも自前(といっても代金を立て替えたのはお師様だが)のようだが、この娘はなぜか、マジクの服を勝手に物色しては借りていく悪 癖 があった。
「待ちきれなかったぁ? そう! わたしの段取りが遅いって当てこすってるわけね?」
「そ、そういうつもりじゃあ......」
「じゃあ、どういうつもりよ!」
「だ、だから......」
もごもごとつぶやきながら、地面に座ったまま後 退 りして、マジクはクリーオウのごく単純に怒った顔を見返した──いつもいつも感情一直線のこの女が、どうもマジクは苦手だった。すねれば何日かはそのまま口も利 いてくれないし、怒れば容 赦 なく殴 り掛かってくる。よくまあお師様は、対等に付き合えるもんだ。多分、似た者同士ってことなんだろうけど。
「んで?──ど・う・い・う・つもりだってのよ!」
詰め寄ってくるクリーオウに、牽 制 するように右手をあげながら、マジクは、ほぼ絶望的に天を仰 いだ。
◆◇◆◇◆
その事件が起きたとき、オーフェンは森の中にいた。馬車を停めたあたりから、数百メートル離れたところである。
彼が森の中にいる理由はといえば、別にクリーオウの手料理から逃げ出すためというわけではなかった──実際、彼はクリーオウの用意するものを、マジクが言うほどひどい代 物 だとは思っていなかった。彼が自 炊 していたころは、もっとひどいものを食べていたのだから。
だから彼は、もっと別の用事で森の中にいたのだった。
やぶにらみのように目のつりあがった、どうにも皮 肉 っぽい造作の若者である。黒髪をバンダナでとめるようにしている。黒い、戦闘向きの格好をしているが、武装はしていない。腕のいい黒魔術士にとっては、武器による武装というのは、さほど必要性のあるものではなかった──自身の魔術が最大の武器となり、防具となる。もっとも、腕がよくてなおかつ隙 のない魔術士であるなら、普通は身体 のどこかに隠 し武器のひとつふたつは忍ばせているものだが。
彼の服装は、普通の魔術士たちの戦闘用のスーツとはだいぶ趣 を異にしていた。彼が着ているのは革 をなめしたジャケットのようなものだ。普通、魔術士は全身をぴったりと覆 うような格好を好む。つまり、服の下に防 御 用の鎖 を仕込むこともでき、また森の中でも寄 生 虫 の類いに餌 食 にされない装備というわけだ。もっともオーフェンは別に傭 兵 ではないし、戦闘能力を商売の道具にしているわけではない。彼が唯 一 、大陸の魔術士たちと接点を持っているとすれば──それは胸元にぶら下がっている、剣にからまった一本脚のドラゴンの紋 章 、大陸中の黒魔術士の最 高 峰 《牙の塔》出身者の証 しのペンダントだけである、とも言える。
と──
オーフェンは足を止め、あたりを見回しもせずに言った。
「来たぜ」
「見れば分かるわよ」
がさ......と、森のしげみの左側のほうから、物音がする。下草をかきわけて進み出てきたのは、身体の線をぴったりとトレースするように張り付いた、全身革スーツの女だった。
「あなたが、オーフェン?」
「見れば分かるんだろう?」
オーフェンは鼻で笑いながら、現れた女の全身を見やった──やけに艶 っぽい黒髪が、それ自体が別個の生命体だとでも言いたげに、ゆるやかに、そして自然に女のスーツを包んでいる。痩 せこけたほおの間に縮こまっているみたいな真っ赤な唇が、わずかに舌の先端を見せつつ、開いた。
「わたしがヒリエッタ。招待状はとどいたみたいね?」
「数キロ前の村で、ガキが持ってきたやつだろ?」
オーフェンは答えつつ、それまでズボンのポケットにつっこんでいた手を出した。
女──ヒリエッタは楽しむようにうなずいてみせた。
「ええ」
「なら受け取った。で、読んだ。だからここにいる」
「あらあら。色気のない返事ね」
「用件はなんだ?」
「分かってるんでしょ......?」
ヒリエッタがそう言った瞬 間 ──オーフェンは後ろに跳 んでいた。そのすぐ後を、銀色の閃 光 が追いかけるように走る!
いつの間にか彼女の手の中に現れていた大型のナイフを見送りながら、オーフェンは身 構 えた。
(こいつ──)
内心舌を巻きながら、踊 りかかってくるヒリエッタの身体のわきをすりぬけ、避 ける。彼女は攻撃に二度失敗してもさほど動 揺 した気配もなく、再度こちらに向き直ってきた。右手に逆 手 で構えたナイフが、木々の間を縫 ってとどいてきた夕日を反射して、血の色に染 まっている──
オーフェンは、すっと息を吸い、胸中でうめいた。心当たりなら、ないこともない。
(オストワルドの傭 った始 末 屋 ってトコか?)
それは図 星 だったのだが、それが確認できるわけでもなかった。
(なんにしろ、殺し屋に狙 われてしまった俺がいるのですってか──くそ、ゴシップ紙 の見出しじゃあるまいし!)
彼は右腕だけを無 造 作 に女に向け、叫 んだ。
「我 が指先に琥 珀 の盾 !」
刹 那 、彼が手をかざした空間に空気が圧 縮 されていく──たたけば音でも跳ね返ってきそうな空気の壁 にぶつかって、ヒリエッタが数歩ほど押しもどされるのが見えた。普通なら、なんの能力も持たないただの人間が武器を持って襲 いかかってきたところで、魔術士に指一本触 れられるものでもない。が──
(職業的暗殺者となると、話は別だ。どんなテを使ってくるか知れたもんじゃねえ)
というか正確には、そういった職能者は、勝算がないかぎりは行動を起こしたりはしないものだ。だから、彼らに襲われたときは、必ず罠 があると思っていたほうがいい。
そして罠というのは、かけられればほぼ確実にひっかかってしまうものだし、そうなれば十中八九、死は避けられない。だからオーフェンはなによりも──魔力に勝 れたドラゴン種族などよりも──暗殺者を恐れたし、いつも十分に注意を払っているつもりだった。
(つっても......警告もなしに殺されるとは思ってなかったからな。一人でのこのこ来ちまったのは失敗だったか)
オーフェンは舌打ちしながら、その場に踏みとどまった。空気の壁に弾き飛ばされて向こうに背中から転ぶヒリエッタを見ながら、本能はとにかくこの場から逃げ出せとせっついてくるのだが、下 手 に動くのは危なかった。
(罠にかからないための心 得 ──できるかぎり、身動きするな)
自分で自分に言い聞かせ、動かないまま、倒れた女暗殺者に向けて指さす。
「我導 くは死呼ぶ椋 鳥 !」
ゔゔん......と、衝 撃 をともなった音波が大気を伝 播 して、周囲の地面ごと暗殺者のしなやかな身体を包み込んだ。地面そのものが細かい振動にブレるように揺れて──起き上がりかけていたヒリエッタの身体も、電流を通されたように衝撃を受けて、びくんと跳ね上がる。
そしてそのまま、動かなくなった。
しん......と静まり返った森の中で、オーフェンはまだなお身構えたまま、だらりと地面に横たわる暗殺者を眺 めていた。白目をむいてぴくりともしないが──
「おい、本当に気絶したわけでもないんだろが?」
オーフェンは油断なく呼びかけた。
「そうでないんなら、あまりにもお粗 末 すぎるぜ──それとも、こっちをなめてたのか?」
案 の定 、数秒もすると、彼女はむっくりと起き上がった。口元ににじんだ血を革のスーツのそででぬぐいながら、取り落としていたナイフを拾い上げる。
「ひっかからないものねえ......でも本当に何秒かは気絶しちまってたみたいだわ」
「威 力 は抑 えたが、直撃したんだ。しばらく身動きはとれねえよ」
「どうかしら?」
ヒリエッタは不敵にそう言うと、ぱっと跳ね起きた──こちらが唖 然 としているうちに、もうナイフを構えて斬 りかかってくる。じゃっ──という音が確実にしたわけでもないが、鋼鉄のナイフが風を斬る気配は、だいたいそんな感じだった。
後方に身体を倒してそれを避けながら、オーフェンは悲鳴をあげた。
「ンな馬鹿な──!」
(魔術の直撃をくらえば、馬だって昏 倒 するんだ。人間が動けるわけがねえ──)
だが現実に、女は立て続けに鋭い切っ先を繰 り出してきている。オーフェンは攻撃をすりぬけつつ、素早く彼女の懐 に飛び込んだ。右手を彼女の下腹あたりに当てて、叫ぶ。
「我は裂 く大 空 の壁!」
ざむっ──! 彼が手を当てたあたりの空気が、鋭い真空へと変わる──と、その真空へと急激に空気が流れ込み、衝撃となって女暗殺者の身体を吹き飛ばした。本来なら、少し太めの木の枝くらい両断するほどの切れ味があるはずだ。が──
衝撃で数メートルも吹き飛ばされ、木の幹にたたきつけられた彼女の革のスーツには、傷ひとつついてはいなかった。もっとも、後頭部から木に激突した彼女自身は、軽い脳 震 盪 でも起こしたらしく、頭を振りながらふらついているが。
(もしかして......)
オーフェンは思い当たり、つぶやいた。
「死んでも恨 むなよ」
と、右手を彼女に向けて突き出す。
「我は放つ光の白 刃 !」
かざした右手の先から、純白の光の奔 流 がほとばしる。威 力 をしぼった光熱波は一条の槍 のようにヒリエッタの下腹に突き刺さり、轟 音 をあげて爆発、炎上した。ぶぉうっ......と熱された空気が舞い上がり、砂 塵 を吹き散らす。が──やはり、暗殺者は無傷で立っている。爆発の衝撃がきいたのか苦しげに腹を押さえてはいるが、やはりスーツそのものには傷どころか焦 げ目すらついていない。
「くそ、やっぱり──」

と、オーフェンは毒づいた。
「なんかありやがるな。そのスーツ」
「そういうこと──並大抵の攻撃が通用する代 物 じゃないわよ」
熱気と衝撃でふらふらになりながらも、暗殺者は答えた。炎のせいで焦 げた髪の先を無造作にナイフで切り落としながら、前に出る。
オーフェンは、そろそろ物音を聞きつけてマジクらが駆 けつけてきてもいいころだろうと、なかば希望まじりに思いながら、言った。
「つっても、中身は生 身 の人間だ。頭を吹っ飛ばせばいいだけのことだろ」
「なら、そうすればいいじゃない? 正当防衛で罪 にはならないでしょ」
ヒリエッタが余裕げに、ナイフをかざしながらそう答える。口元には、笑みすら浮かんでいた。
オーフェンは、ちっと舌打ちして、
「最近の法律じゃ、なにをやっても過 剰 防衛になっちまうんだよ。特に、あんたの首なし死体の写真を陪 審 員 たちが見たら──」
「なら、いいコトを教えてあげる──」
ヒリエッタは、ばさりと黒髪を跳ね上げると、
「あなたの暗殺をわたしに依頼してきたのはね、オストワルドという男よ。ザナドュ・オストワルド」
「あのトトカンタの悪 名 高い高 利 貸 かよ。そりゃ、奴のシマで多少は商売したがね。それはそうと、そんな簡単に依頼人の名前を明かしちまって構わねえのか?」
「いいのよ」
彼女のにっこりした笑みは、多分どちらかというと、魅 力 的 な部類に入っているとオーフェンは判断した。
彼女は、ひどく気楽な口 調 で続けた。
「いいのよ。わたしの依頼人は、ひとりだけじゃないから──そうね。オストワルドの依頼は、ついでってトコ」
「......じゃあほかにも、あんたに俺の暗殺を依頼した男がいるってわけか」
「残念。あなた、世の中の誰も彼もが自分を殺したがってるとでも思ってるわけ?」
ヒリエッタはそのまま表情を変えずに──手にしていた大型のナイフを投げつけてきた。
「──くっ──!」
オーフェンはわずかに動いて(というより、一瞬のことで『わずか』以上の動きなどできるわけがなかった)ナイフをかわしたが、もともとそのナイフはよけるまでもなく標的を外していた。オーフェンがそのことに気づいたとき、彼の背後で悲鳴があがる。
ふりかえると、中年の角張った顔をした男が、喉 の下からナイフを突き上げられたような格好で血を吐き出している。男の手には、小型のボウガンが矢をつがえられた状態で構えられていた。
即死状態で地面に倒れる男にオーフェンが啞然としていると、ヒリエッタは気楽に両肩をすくめて種明かしをした。
「オストワルドは用心深い男よ──わたしのほかにも何人か殺し屋を傭 ったらしいわ」
「......ならどうして、あんたがそのお仲間を殺したりするんだ」
「言ったでしょ? オストワルドの依頼はついでだって」
彼女は事もなげに言うと、ナイフを回収するためか、すたすたと大 股 でオーフェンのわきを通り抜けた。その後ろ姿に向かって、オーフェンは聞いた。
「よく意味が分からねえんだがな」
「ようするにね、オストワルドじゃなくって、わたしの本当の スポンサーが望んでるのは──腕の立つ魔術士をひとり、彼のもとに案内すること」
腑 に落ちない気分で、オーフェンは髪をかきあげた。
「ならなんで、俺を襲ったんだよ」
「あなたの腕を試したかったのよ。それで、ひょっとしてあなたが死んじゃったりしたら、オストワルドの依頼を果たしたってコトで報 酬 をもらえるでしょ? だから、彼の依頼はついでなの。なにしろ、あなたが本当に優 れた魔術士だとしたら、わたしが敵 うわけがないものね?」
彼女が最後の『ね?』を質問調子で発音したので、オーフェンはなにか返事をしなければならなくなった。が、彼は、その代わり疑わしげに質問した。
「本当のスポンサーってのは、誰 のことだ」
「さあ......ね!」
ヒリエッタがそうつぶやきながら、男の死体からナイフを引き抜く。絶命した死体からはもう血が噴 き出るようなことはなかったが、血まみれの男の死体を抱き起こしただけで、既にヒリエッタのスーツは血だらけになっていた。
ほおに血のついた顔で、彼女がふりむいた。そして言った。
「依頼人の名前をそうそう簡単には明かせないでしょ?」
「よく言うよ」
オーフェンは鼻を鳴らして、彼女の姿を見つめた。実を言えば、こんな悪趣味──殺し屋と組んで仕事をするだと?──に付き合うつもりなど毛 頭 なかった。ただ、顔についた血を拭 う彼女を見ながら、オーフェンは、ヒリエッタという名前に心当たりがあることを思い出していた。
〝愚犬 〟ヒリエッタ。もし噂 が本当であれば──
魔術士殺しの専門家である。
◆◇◆◇◆
その事件が起こったとき、ドーチンはその発生現場に意外と近いところにいた──が、だからといってどうというわけでもなかった。むしろ──
「さあさあさあ! お坊 っちゃんもお嬢 ちゃんも、寄ってらっさい見てらっさい! ご当地におきましては本邦初公開! ボルカン商会の秘 蔵 っ子、恐怖! 蛇 男 でございます。お代は見てからのご善意でということで、ちょっとそこ行くお兄 いさん! これを見逃しては七代までの損! 六代祟 ってなお足りない......」
外からは、そんな兄の呼び込みの声だけが聞こえてくる。なんにしろ、箱の中は暗く、せまかった。しかも兄がどこから拾ってきたのか知れないその木箱は、もとはなにが入っていたものやら、妙 に臭 う。
「六代と申しましては曾 孫 のそのまた孫、それでも足りずにもう一代気張らねばならぬという、こりゃとんでもない月日を言うわけでございます。それだけの月日を待つために、いったい何組のご両人が切ない夜を過ごさねばならないのか......」
なにを言っているんだかよく分からないが、とにかく声からすれば、兄は上 機 嫌 で呼び込みを続けている。つまるところ、順調に見物人が集まっているらしい。あとはファンファーレとともに兄が木箱の蓋 を開ければ、このくそくだらない興 行 は終わりというわけだ。
(まったく)
と、ドーチンは胸中でため息をついた。
(なんなんだ。どーしてぼくが、こんなメにあわなくちゃなんないんだよお)
そもそも彼は、この見 世 物 のアイデアには最初から反対だったのだ──いくらここが都会から多少は離れた、辺境の村だからといって、こんな子供だましの見世物に金を払う者などいるわけがない。
また嘆 息 し、分 厚 い眼鏡 を外してから、いつも着ている毛皮のマントのすそでふいて、かけ直す。
彼が実家を出ることになったのは二年前だが、我ながらよくもまあ、命が続いているものだと思う。この二年間というもの、兄が持ってくる、あからさまにいかがわしい商売話に乗ってはその後始末に追いかけまわされるという生活をくりかえしている。それもこれも、兄があの蛇みたいにしつこい人間の金貸し魔術士に多額の借金をしているせいなのだが......
と、そこまでぶつぶつと考えたとき、箱の外では兄が大声で叫んでいた。
「それではっ! とくと刮 目 してご覧ください──世にも哀 れな蛇男にございます!」
ドーチンは、ぎくっと身体を震わせたが、もう遅かった。箱の正面が、兄の手によって外される。真っ暗な箱の中に、真っ白な陽 の光が飛び込んできた。
村の広場には、ドーチンが予想していたよりはるかに多い見物人が集まってきていた──さすがに初夏の季節だけあって働き盛 りの男というのはいないが、昼下がりに暇 を持て余した主婦らしき中年の女や、それに連れられた小さな子供、昼休みに教会(こういった辺境では、学校を兼ねていることが多い)から抜け出してきた少年少女らといった面々だ。開け放たれた箱の前には、兄のボルカンが蓋を片手に聴衆の反応を待ってじっとしている。いつものようにぼさぼさの頭で、毛皮のマントに帯剣した、身長百三十センチほどの『地 人 』である。本来は大陸の南端マスマテュリア──地人領──からは足を踏み出したりしないので、人間領で姿を見かけることはほとんどない。数百年前にこの大陸に入植してきた人間たちとは違い、まったくの土着種族である。もっとも、いつの間にか逆に、彼ら種族のほうこそ、人間たちにとってもっぱら厄 介 者 と目 されるようになっていたが。
ドーチンもまあ、兄と似たような格好をしていた。と、それに加えて兄がどこからか拾ってきた大 蛇 の抜 け殻 を帽 子 のように頭からすっぽりとかぶっている。聴衆の視線にひたすらに耐 えながら、ドーチンは赤面し、投げやりな棒読み口調で声をあげた。
「う......うお!」
............
やにわ、静まり返っていた広場が──
うおおおおおおおおおおおおっ!
歓 声 が湧 き上がる。
「受けたっ!」
ガッツポーズをとる兄を横目で見ながら、ドーチンはどぎまぎして、歓声に耳をやった。
「すごいよママ! これが父ちゃんの言ってた『ほうろうするらくごしゃ』ってやつだね!」
「見世物芸なんて、もう一世紀も前になくなったと思ってたわっ!」
「こらこら、マイケル。駄 目 よあんまりじろじろ見ちゃ。口から飛び込んでくるかもしれないでしょ」
(......どーも、狙 いとは違う受け方をしてるみたいだけど......)
だが、ボルカンのほうはまったく気にもしていないか、さもなくば気づいていないらしい。革袋の口を広げつつ、
「さあみなさん! この哀れな蛇男、真人間にもどるための手術代かせぎにご当地をはじめ各地を放 浪 しているのでございます。みじめ哀れとお思いになったのでしたら、どーかこの袋にみなさまのご厚意をいただきたく──」
兄がにこにこと袋を開けたときには、もう見物客のほとんどはこちらに背中を向けていた。みな、各 々 の帰途に散らばりながら、
「いやあ、笑った笑った」
「たまには他人を見て笑うのっていいわよね」
「まさか今時、あんなのを臆 面 もなくやる奴がいるとは思わなかったよ」
「ああいうのは、保存しておかなければならないわよね」
「昆 虫 採集用の防 腐 剤 、ぼく持ってるよ!」
「............」
一転して、がらんと人 気 のなくなった広場にぽつんと残り、ドーチンは兄の背中を見ながら三 度 嘆息した。かぶっていた蛇の抜け殻をずるりとわきに落として、
「だからやめようって言ったのに」

だが兄は、まるっきり懲 りてない表情でふりかえると、あっさりと言った。
「うむ。やはり当初の予定通り『怪奇! ナイフ刺しても死なない男』にすべきであった」
「だから、それをやるのは誰なのさ」
「当然お前だが......やっぱそれよりも『目が光る! 悪 霊 ドーチン業 火 の中に消える』にしておいたほうがよかったかも......」
「......なんでぼくの名前を使うんだよう」
「なにを言うかっ! 新 米 芸人の悲劇を知らんのかっ! 起用されるだけありがたいと思えっ! ネスラー試薬で溶かし殺すぞ!」
そう怒 鳴 るボルカンに殴り倒されて、ドーチンは、あきらめたような表情で鼻血をぬぐった。
頭をふりながら起き上がって、あたりを見回す。広場は村のほぼ中心に位置していて、古くなった教会の真ん前にある。村はそれほど大きくもないが、かといって小さくもない。広場から蜘 蛛 の糸のようにまばらに伸びた細い小道が、あちこちに点在する家々へと続いていた。これだけ大きければ、村というよりは街と呼んだほうが適当かもしれない。もっとも、人間の役所では、市 壁 の内側に存在するものでなければ、どれだけの規 模 があろうとも『街』とは認めないことになっているはずだ。
村というのは街道沿 いによく点在している。旅人が往来する必要性から、村にはたいてい宿を経営する一家がひとつはあった。ドーチンらは数日前から村外れの家の納 屋 に忍び込んで寝 泊 まりしていたのだが、それに気づいた村人が、家事の手伝いをするなら無料で泊めてやってもいいと、村で唯一の宿屋を紹介してくれたのだ。で、彼らはそこに滞 在 しながら、当面の生活費を稼 ぐために見世物商売を始めたわけである。今日が初日だが......
と、ドーチンは、足元に落とした大 蛇 の抜け殻を見やった。とてつもない代 物 で、頭だけでも一 抱 えほどの大きさがある。これの実物となれば──体長で十メートル、いやあるいは十数メートルにはなるかもしれない。
「......にしても兄さん、こんな抜け殻、どっから拾ってきたのさ。こんな大蛇、ここらにいるわけないんだけど」
「うむ」
と兄は、空っぽの革袋をひっくりかえしたりもてあそびながら自 慢 げに答えた。
「その空っぽの木箱といっしょに、近くの森に転がっていたのだ」
「う〜ん......」
ドーチンはうめいて、兄が指さすとおりに木箱を見やった。人が──といっても、地人がなんとかひとり入れるくらいの大きさで、縦横一メートルくらいの立方体である。がっちりと作られていて、この蓋が簡単に取り外せるように改造するのは大変だった。
だが、それはそれとして、ドーチンとしては微 妙 にそこはかとなく危機感を覚えずにいられない──
「どうした、ドーチン。今日のお前の 失敗を糧 に、明日からの興行計画を練り直さねばならんとゆーのに」
「いや、別に、なんでもないんだけど......」
ドーチンはそう答えて、またちらりと木箱を見やった。その木箱の表面は風化したように、うっすらと汚れていたが、赤いペンキの手書き文字でなにやら記されていた。製造ナンバーらしき数字は、ゼロが五個ほど並んだあと、一となっている。その横の年月日──製造年月日? は、だいたい十年ほど前になっていた。さらには、その下に注意書きがある。天地注意、ワレ物危険、横置厳禁、角突注意、等々......
そして最後に『危険──開封厳禁 』と記されていたのだ。
◆◇◆◇◆
その村で事件は、誰にも気づかれずにひっそりと起こった。キンクホール・ビレッジ。誰も気にとめない、ただの辺境村。
そしてその事件が起きたとき、本来の当事者は、とっくの昔に死んでいたのだった。
「たまに思うんだけど、オーフェン」
「俺も、たまに思うんだけどな、クリーオウ」
ふたりは互いに同時に言った。
「あんたって、女たらしだわ」
「お前って、どーしよーもない我 がまま娘 だな」
しん......と、馬車上が静まり返る。ぽくぽくと足音を立てる馬までもが、御 者 台で見えない火花を散らすふたりに寒 気 を感じたらしい。オーフェンは握 っている手 綱 から、二頭の牝 馬 の動 揺 が伝わってきたような気がした。
自分のわき──御者台の横に、ちょこんと座った小 柄 な娘のほうは見ないようにしながら、オーフェンは低くつぶやいた。
「どうして俺が女たらしなんだよ」
「なんでわたしが我がままなのよ」
そのまま、会話がばったりと途 絶 える。馬車と同じ速度で周りの風景は後ろへと流れていく。風が吹き、さわさわと下草をざわめかせ、街道の裸 の地面からわずかな砂 塵 を引きはがす。太陽は、そろそろ南中するころか。
オーフェンは苦 々 しく、昨夜のことを思い出した──マジクとクリーオウが夕食のことでなにやらもめているところに、血まみれの革スーツを着たヒリエッタを連れ帰ったときには、さすがにどう説明したものか迷ったのだ。結局、ありのままを話した。よくは分からんが、どうやらロハで俺の面 倒 を見てくれるらしい、と。
翌朝になって、ヒリエッタは姿を消していた。書き置きを一通、オーフェンのシュラフの枕 元 に置いて。
書き置きには、彼女にはなにやら用事があるから急ぐということと、もし彼女の依頼人に会うつもりがあるのなら、ここに来いという伝言が書き残されていた。
が、それはともかくとして、その書き置きはまずかった──多分、クリーオウは妙な誤解をしているに違いない。少なくとも彼がヒリエッタと一晩中いっしょにいたくらいには勘 違 いしているだろう。直接それを口に出したりはしないが。
「知り合ってから一か月近く経 つけどね──」
クリーオウが、まるで指でつまんだように唇 をとがらせて、続ける。
「まずわたしのお姉 ちゃんにプロポーズしたでしょ」
「あれは狂言。しかも発案者はボルカンの極 楽 ダヌキ」
「街道わきの宿屋で、ウェイトレスのおしりさわったわ。めちゃグラマーな」
「あれは純然たる誤解。いや、ほら──ボリュームがある分、手がぶつかる確率も大きいだろ」
「この前のアレンハタムでも──」
「ステフのことを言ってるなら、あいつはただの友人」
「違うわよ。甘いものなんてめったに食べつけないくせに、クレープなんて買ってたでしょ。あれは絶対に女をひっかけようとしている目付きだったわ。売り子が可愛 かったもの」
「ありゃ、お前に買ってやったんだろ。なんだかお前が機 嫌 損 ねてるから。なんだ、それで怒ってたのかよ」
「違うわ。その前に、馬車に乗ってたお嬢 さまみたいな女に、手を振ってたでしょ」
「よく見てるな、お前......でも、先に手を振ったのは向こうなんだぜ」
「無視すればいいじゃない! それに、最近じゃ、宿に泊まるたび、夜な夜なマジクとふたりで部屋にこもってわたしを閉め出したりするでしょ。不 潔 よ、そーゆうの」
「あのなあ! 魔術の講義に、お前なんかが参加したってしょうがないだろ」
「............」
それを聞いてクリーオウが、しばし口を閉じる──やがて彼女は、いきなり思い出したように瞳 を輝かせると、それまでの不機嫌もなにもかも忘れたように明るい声をあげた。
「わたしも魔術が習いたい!」
「駄 目 」
即座にオーフェンは言い放った。
不服そうに、クリーオウが身を乗り出す。
「なんでぇー?」
「無 駄 だから。それにお前、月 謝 払えねえだろ。一応あれでもマジクの奴は、親父から月謝を出してもらってる、歴 とした俺の生徒なんだぜ? 毎月、街の信 託 銀行に振り込まれるんだ」
だから月に一度は、大きな街に立ち寄らなければならない。しかも伝書鳩 でトトカンタの銀行と連絡を取るのには数日の時間が必要だから、その期間は滞 在 する必要があった。
街道のわきに野宿するのと違って、宿泊料がかかって仕様がない。
クリーオウは、しばらく考え込むように虚 空 を見つめてから、聞いてきた。
「月謝はともかくとして......なによ、その無駄っていうのは」
「資質のない人間には魔術はできない。これは遺 伝 だから、どうしようもない。生まれ変わる以外にはな」
「生まれ変わる、かぁ......」
クリーオウは言われて、憧 れるような声音を出した。こうして見ていると、そこらにいる、ただの可 憐 な少女に過ぎない。が──と、オーフェンは嘆 息 とともに付け足した。こいつが剣を抱 えて大暴れするところを見たことがなかったら、俺も勘違いしていたかもしれんがね。
「生まれ変わるなら、わたし、魔術士がいいな」
きゃらきゃらと身体 を横にゆすりながら気楽に言うクリーオウに、オーフェンは横目で視線を投げながら聞いた。
「生まれ変わりなんて信じてるのか? だが、そいつがあるとして、俺だったら金持ちの次女に生まれたいね。なんの苦労もなく暮らして、間違ってもモグリの金貸しの借金取り立て道中にくっついてきたりはしねえだろうよ」
「なによそれ。仕返しのつもり?」
「さてね。別に、勝手についてきて、しかも俺の金くすねて服やらなにやら買ったりしても、お前がどーしよーもない我がまま娘だなんて言わねえよ。ただ、なんで俺にくっついてきたりしたんだよ」
「ん〜?」
クリーオウが困ったように眉 を寄せるのが見えた。そのまま、無視して黙り込むかと思ったが、そうではないらしい。単に言うのを迷っていただけのようだった。彼女は、かなり言葉を選んでから、しかも全然関係ないことを答えた。
「わたしね、オーフェンって、絶対そういうことを聞かないって思ってたんだ」
と、指先であごをかく仕 草 をしてから、続ける。
「でもね、しばらくしたら絶対に聞いてくるだろうとも思ってたの。だから、用意していた答えがあるんだけど......」
「なんだよ、それ」
「うん。つまり、オーフェン、ちょっと前にわたしに言ったでしょ。わたしのこと『相 棒 』だって」
「............」
オーフェンは答えなかった。ただ、ぎくりとするのが自分でも分かった。
クリーオウは構わずに続ける。
「うまく言えないんだけど、わたしってほら、お嬢様だったでしょ?──なによ、その疑 わしげな目は」
「いや別に......」
オーフェンは目をそらした。
「まあいいわ。それでね、わたし、オーフェンみたいな人を見たのは、初めてだったわけ。なんて言うの、ヤクザ?」
「......お前な」
「冗 談 よ。とにかく、そのとき思ったの。オーフェンと対等になりたいって──そうよ、『相棒』ってやつよ」
「......なんでだよ」
しわがれ声で、なんとかつぶやく──確かにオーフェンにも、そういうことを言った記憶はあった。単に軽い気持ちで言ったのだが、恐らく誤解されてるだろうな、とは思っていたのだ。
「だってさ、わたしはオーフェンのことすごい人だって思うから、そのオーフェンにも同じように思われたいの」
「......いや、お前はすでにすごいっちゃすごい奴なんだが......」
「そう?」
クリーオウは、にこっと笑いかけてきた。が、オーフェンはとても笑い返す気にはならなかった。思い切り急所を針で突かれたような気分になっていた。
(よーするにこいつ、俺に一度ぎゃふんと言わせないかぎりは満足できねえって、そう言ってるんじゃねえか)
と......
「お師 様 ぁー」
円筒を縦に割って横たえたような馬車の荷台の幌 から、マジクが顔を出した。クリーオウが、きつい視線でにらみつけるのが見えた──多分、顔を出さないように命令されていたのだろう──が、むしろオーフェンにとっては救いの神だった。どうやら暑苦しい幌の中でじっと頑 張 っていたらしく、汗だくのマジクは、もう限界だというように口を開いた。
「まだなんですかぁ? そのキンクホールとかいう村。そこに泊まるんでしょ?」
「ああ」
と、オーフェンはズボンのポケットからヒリエッタの書き置きを取り出した。それを片手で開いて目で追いながら、
「彼女の伝言でな。とりあえず、その村で落ち合おう、だとさ」
書いてあったのはそれだけではないのだが、くしゃ、と丸めるように紙をたたむと、オーフェンは手早くまたそれをポケットにしまい込んだ。
「なにかあるの? そのキンクホールって」
「さあな。聞いたこともない。いや......有名な魔術士がひとり、そこに隠 棲 してたって聞いたことがあるが」
「魔術士? やっぱり《牙 の塔 》の出身なんですか?」
と、これはマジク。オーフェンはかぶりを振って答えた。
「ああ。だが、なんだか突 拍 子 もない研究に取り憑 かれていたとかなんとかで《塔》を追放されたのさ。それとも、長老の秘書に手を出したんだったっけかな? とにかく、邪 道 とか外 道 とか呼ばれながらも、その村で研究を続けていたらしい」
「......なんか、過去形でしゃべってるみたいですけど......」
汗をぬぐいながらつぶやくマジクに、オーフェンは別のポケットからハンカチを取り出して放ってやりながら、答えた。
「ああ、もう生きちゃいないだろう。死んだって噂 も聞いてねえけど。《塔》を追放されたのが五十年近く昔のことで、生きていたら今年で百歳以上になるはずだからな。生きている可能性もあるが......」
「来年で百二十歳だっていうお婆 さん、わたし知ってるよ」
「はいはい」
オーフェンはクリーオウの頭をぽこんとたたいて返事しながら、やれやれと胸中で安 堵 の吐 息 をした。なんにしろ、ここまで話がそれれば、クリーオウの頭の中にはもはや『相棒』のことなど残ってはいないだろう──そういう少女だ。もっとも、腹の中でなにを考えているのかは知れないが。
ともあれ安心しながらも、痛む歯に触 ってみるような感覚で、オーフェンはポケットの中にある、ヒリエッタの書き置きに思いを馳 せた。マジクやクリーオウには言っていないが、その安物の紙には、もうひとつ、恐らくは重要であろう伝言が残されていた。いかにも冗談めかした一文で。
『本来のスポンサーの依頼だろうと、オストワルドの依頼だろうと、わたしは全然かまわないんだけどね?』
つまりキンクホールに来なければ殺す、という脅 迫 だった。
キンクホール・ビレッジの近くまで街道を馬車で進む。村へと続く脇 道 に入って、遠くの丘の陰 に真っ白い小さな教会が見えはじめたとき、クリーオウと交替して御者台の横に座っているマジクが感 嘆 の声をあげた。
「うっわー」
「? どした?」
わけが分からずに、オーフェンは聞いた──別に村の光景は変わったところもなく、ただの辺境の村落然としている。ただただ広がる麦畑は夕日を浴 びて、まるで刈 り入れどきのような黄 金 色 に染 まっていた。辺境の、とは言ってもひなびた過 疎 地 という雰 囲 気 ではなく、むしろ都市近郊の郊外といった風 情 である。まあ実際にここは、キエサルヒマ大陸の四大都市のひとつ、古都アレンハタムと百キロとは離れていないのだが。
進むうちに立派な門構えの瀟 洒 な屋 敷 や、小ぎれいに掃 除 されていそうな、小さな学校、中央から辺境村の治 安 維 持 の任を授 かってきた派 遣 官の詰 め所 や、小さな農場なども見えてくる。マジクよりいくらか年下であろう子供が、干 し草をフォークで突き刺した姿勢のまま、肩越しにじっとこちらを見つめていた。子供の足元には年老いたシェパードが寝そべっている。どうやら、本来の羊追いの仕事は子供にでも任せて本人(?)は引退しているのだろう。風に乗って遠くから、羊を追う犬の鳴き声が聞こえてくる。
だがなんにしろ、変わったことというのはなにもない。
「なんかあったか? マジク」
オーフェンは、まだ驚 嘆 したままの顔でいるマジクに聞いた。少年が、翠 色の双 眸 をやたらきらきらさせながら答える。
「いいところですよね」
そっけなく、オーフェンは言った。
「多分な」
「......なんですか、多分って。またお師様、実はここで半年ほど農場暮らしをしたことがあって、しかも現地妻と隠 し子がいるってんじゃないでしょうね」
「『また』って、お前......いや、俺はここは始めてだがな。多分ってのは、つまり、見かけにだまされるなってことだよ」
──と、それを合 図 にするように、すぐ後ろから幌 のカーテンが開いてクリーオウが顔を出す。昼寝をしていたのか少し髪が乱れていたが、寝ぼけ顔だけはなんとかしようと顔を洗ったらしく、少し肌が湿っている。オーフェンは、ぴっと彼女を指さして続けた。
「これが見本だ」
「......なるほど......」
妙に深々とうなずくマジクに、じろりと視線を投げ付けながら、クリーオウが低い声を出す。
「なに納 得 してんのよ」
「いや別に......」
マジクがそそくさとつぶやいて、全然関係ないほうを向いた。オーフェンは、ちらりとクリーオウのほうをふりかえり、
「おい、お前の剣は荷物の一番奥に隠しとけよ。野 党 と間違えられてお縄 、なんてのはごめんだからな」
「分かってるわよ。わたしだって、馬鹿じゃないんだから」
だったら最初から刃物なんて持ち歩いてんじゃねえよ、とは思うのだが、オーフェンもそれを口に出すほど向こう見ずではない。この少女の機嫌を損ねると、後々さまざまな意味で後悔 させられることになる。めいっぱい。
クリーオウは、さしておもしろくなさそうにあたりの光景を見回すと、ひどくぎすぎすした声音で聞いてきた。
「ところで、なんでわざわざこの村を落ち合う場所に指定してきたのかしら? ねえ、オーフェン? あのなんとかいうひと」
どうも、すでに機嫌は損ねていたらしい──と、オーフェンは苦々しく思い出した。
幌 の中からこちらに身を乗り出してきているので、彼女の髪の先が彼の肩のあたりにかかっていた。なんとなく蛇 に巻き付かれているような心地で、あまり気分のいいものではない。彼はクリーオウの顔は見ずに、答えた。
「だから......多分、俺が今置かれている状況ってのは、もう話したよな?」
「コールガールみたいな美人に押し掛け女 房 よろしく言い寄られたと思ったら翌朝逃げられて、そのお尻 を追ってひょこひょここんなところまで出向いてきたんでしょ?」
「だっかっらっ! 彼女のことは、俺もよく知らないんだよ!」
オーフェンはたまらずクリーオウのほうに向き直って、ほとんど絶 叫 じみた声を出した。
「よくは分からないが、彼女は傭 兵 なんだ──自分でそう言ってた。で、俺を護 衛 するために、とある人物に傭 われたんだよ」
ヒリエッタを『殺し屋』でなく『傭兵』と言ったのは、単に話をややこしくしたくないからだ。
クリーオウは、まだなお疑わしげだったが、それでも少しは敵意を和 らげて言った。
「......なんで、オーフェンのことを護衛する必要があるのよ?」
「俺は今、命を狙 われてんだよ」
ぶつぶつと愚 痴 るように、オーフェンはまた前方に向き直った。馬車はゆっくりと村を突っ切り、宿がありそうなほうへと進んでいく。と、マジクが話に参加してきた──にこにこと、ただし冷や汗をかきながら、
「あのー、ひょっとして、それってぼくもとばっちりを受けかねないってことですか?」
「......多分、大 丈 夫 だろ。お前なんぞ殺したところでなんの得にもならねえだろうし」
「あ。よかった」
「なにが『よかった』だよ、師 匠 の命が狙われてるってときに......あ、そうそう。ひょっとして奴ら、お前が師の仇 討 ちに出てくるかもしれねってんで、念のためにお前も始末したがるかもしれんな」
「ぼくはそんなこと、カケラも思ってませんよー 」
「......どこに向かって叫 んでやがる」
「いや、あの山の向こうを飛んでいく鳥さんたちに聞こえてくれればと思って......」
「わけの分からんことを......まあ、いいさ。なんにしろ、俺は複数の殺し屋に命を狙われてるらしいんだよ」
「でも......誰がオーフェンの命を狙ってるっていうの?」
と、これはクリーオウ。オーフェンは事もなげに答えた。
「俺がモグリの金貸しだったってのは知ってるよな。今は貸すほうの資金がなくて、もっぱら取り立てだけだし、あのボルカンのくそ馬鹿を追っかけて借金取り立てなけりゃならんのだが......俺はあの福ダヌキのほかにも、トトカンタでバグアップの奴を仲 介 にして、何人か顧 客 をとってたんだよ」
「そっちはちゃんと取り立てたの?」
「七人中、六人が逃げて、五人を取っ捕まえた。その時点でとりあえず金になりそうな財産を持っていたのが四人で、返す気があったのがそのうちの三人。で、途中で気を変えて逃げ出したのがいて、残りはふたり。ひとりは交通事故で椎 間 板 ヘルニア起こして緊 急 入院、もうひとりは食い逃げで警察に捕まり、留 置 場 で警官殴 って刑務所行きだ」
「......カウントダウン人生......」
おののくように、マジクがつぶやく。
「カウ──って、お前......」
分かり切っていたことをいきなり言われて肩を落とすと、ぽん、とその肩に手を置いて慰 めるようにクリーオウが声をかけてきた。
「でもオーフェン、最初の『七人中六人が逃げた』ってことは、ひとりは逃げなかったんでしょ? その人からは借金返してもらえたんじゃない?」
オーフェンはひどく重たく感じる頭をゆっくりとクリーオウに向け、
「そいつが福ダヌキ。あいつの場合、単に逃げるだけの甲 斐 性 がなかっただけだ」
「......絶望的ねー」
「ひょっとしてお師様、生活力ゼロでしょ。おまけに殺し屋にまで狙 われて」
「人生って、その人の人柄の映 し鏡 よね。人格が克 明 に記録されてしまうんだわ」
「なんでお前らにそこまで言われにゃならねんだ......」
オーフェンは喉 の奥でうめくみたいにつぶやいて、続けた。
「なんにしろな、ちゃんと役所に許可を取った正規の金貸し──っても金貸しなんてのはもともとヤクザみたいなもんだからな、奴らにとっちゃ、俺みたいなモグリってのは目 障 りなんだよ。国に付け届けをしないですむ分、どうしたってモグリのほうが条件よく商売できる」
ふたりしてまったく同じ疑わしげな目付きをして、マジクとクリーオウが同時に口をはさんだ。
『回収率ゼロのくせに』
「うるせえっ! とにかく、トトカンタの金 融 業の元 締 めがザナドュ・オストワルドって男なのさ。上等のスーツ着て元モデルの愛人やらゴツい取り巻きやら引き連れてでかい顔してる、厭 味 な野 郎 だよ。会ったことねえけど」
「......なんなんですかそれは......」
「いいんだよ! ようするに、きっとそーゆう奴に違いないってことだ! そいつが、俺を始末するために殺し屋を傭ったんだ。多分、トトカンタで営業してるモグリの金貸したち全員に見せしめにするつもりなんだろうよ。で、そのことを知ったとある人物が、俺を守るために護衛を傭ってくれたってわけさ」
言いながら、オーフェンは、自分の噓 に気が付いていた──ヒリエッタは言ったのだ。オストワルドの依頼はついでだと。つまり、その『とある人物』の依頼のほうが彼女にとっては優先していた──オストワルドより先に 依頼されていたはずなのだ。ヒリエッタにとってはオストワルドの依頼は、単なる偶 然 の積み重なりにしか過ぎない。もっとも、魔術士を見つけることを本来の依頼としていた彼女が、魔術士を始末したがっているオストワルドの噂 を聞き及び、それを利用したということは考えられなくもないが。
(だが、どうするってんだ? 魔術士を見つけたところで)
だが、そんな疑問まで口にしてクリーオウらを混乱させてもしかたない。どのみち、狙われているのは自分であって、自分の連れではないのだし。
「分かったか?」
オーフェンは二 対 の瞳 を見返しながら、そう聞いた。だが、返ってきたのはクリーオウの、少し困ったようなせりふだけだった。
「あの......さ」
「あん? なんか分かりにくかったか?」
「いえ、事情は分かったんだけどね、オーフェン、さっきからよそ見してるから......」
「なんだよ。よそ見してるからって、馬が勝手に道から外れるわけ──」
「そうじゃなくって、今、誰か轢 いたみたいよ。ほら」
ごりっ。
「............」
車輪の下から聞こえてきた、やたら生々しい音に、オーフェンは無表情のまま一筋の汗をたらした。
「え〜と......」
言葉に詰まったオーフェンは、とりあえず同乗のふたりを順番に見やった。クリーオウとマジクは、妙にしらじらしい笑みを浮かべて一言ずつつぶやいてきた。
「出所してくるまで待ってるわ♥」
「安心してください。ぼくだけはつつがなく幸福な一生を送りますからね」
「お前らって......」
オーフェンはうめきながらも、とにかく手綱を引いて馬車を停めた。人をひとり車輪に巻き込んだというのに、この牝馬たちは慌 てるどころかむしろ面倒臭そうな視線(だとオーフェンは思った)でこちらを見やり、脚を止めた。急いで御者台から飛び降り、最初に目についたのは──
やたらでかい蛇 の抜 け殻 と、木箱とを引きずる地 人 の少年。
「あ──」
その少年の眼鏡 の奥からこちらにとどく、絶望的な視線をオーフェンは認めた。
「ドーチン!」
「借金取り!」
互いに叫び合う。オーフェンは、ふと馬車の下に視線をはわせた。
「てことは──」
案 の定 、車輪の下で、案外平気そうにもがいているのは、ぼろぼろの毛皮のマントに身を包んだ、ぼさぼさ頭の地人。こんなところで、しかも剣なんて持ち歩いているのは、こいつ以外にはいるわけがない。向こうはこちらに気づいていないようだが──
「てめえ! コラ! 誰だか知らんが、いきなり人の後頭部を踏 み付けやがって! とっととどかねえと、パイプ椅 子 でたたみ殺すぞ!」
夕日が沈みかけている。山と森の向こうから、カラスの声が響き渡る。
キンクホール・ビレッジは珍しく一時に五人もの旅人を迎え入れ、にわかに騒がしくなろうとしていた。
キンクホールに宿は一 軒 しかない。そもそも街道からわずかに外れたこの村には、さしたる特産品もなく、ここを目的地として訪れる旅人も少ない。
だから──と決めつけるのは乱暴だが、村唯 一 のこの宿は、見たかぎりではほとんど民家と大差はなかった。もとは、アレンハタムのちょっとした名士が気まぐれに郊外に住もうと決め込んで建てた屋 敷 を少し改装したものとかで、居 心 地 は悪そうには見えないが。
「......にしても、その名士とやらは、どうしてこの屋敷を手放したんだ?」
宿の小間使いらしき子供に荷物を持たせて、そのあとをマジクとクリーオウを引き連れ、ぞろぞろと階段を上りながら、オーフェンは聞いてみた。ちなみにボルカンとドーチンは、この宿の台所に手伝いがてら住み着いているらしく、宿に着くなりさっさとそちらに行ってしまった。
返事は、えらくタイミングよく返ってきた。どうやら、泊 まり客には欠かさず聞かせているらしい。
「変死したんだ──って言っても、この屋敷で死んだわけじゃないから、安心して。ずっと村外れで死んだんだ」
マジクより少し年下のその少年は、くりっとした目をきらきらさせながら続けた。
「魔術士に殺されたんだよ」
「魔術士に?」
聞き返したのは、クリーオウだった。一番後ろを、ぱたぱたとついてきている。
少年は、うまくすればチップがもらえると思ったらしい。声を大きくして答えた。
「そうさ。村外れに、フォノなんとかっていう名前の──」
「フォノゴロスだ」
オーフェンは、ぽつりと訂正した。少年は、一瞬きょとんとしかけたが、
「そう。そのフォノゴロス。そんな名前の魔術士の屋敷が、村外れにあるんだ。今は廃 屋 で、幽 霊 屋敷だってみんな言ってるよ」
「幽霊屋敷?」
ぱん、という音に振り向くと、クリーオウが胸元で手を打ち合わせて顔を輝かせている。ブルーの双 眸 は──いつものように──ロクでもないことを考えついて、妙に活気づいて見えた。彼女のかん高い声が、宿の中に響き渡る。
「おもしろそうじゃない!」
「冗談でしょ?」
信じられないという面 持 ちでクリーオウを見返しながら、マジクがぼやく。が、クリーオウの気 迫 に気 圧 されてか、彼はおどおどとこちらを見上げてきた。
「冗談ですよね?」
「クリーオウに関してなら、こいつは本気だろうよ」
オーフェンはあきらめの吐 息 をもらしながら、つぶやいた。マジクの頭越しに、びしっとクリーオウに指を突き付け、
「今さら思い出させるまでもねえだろが、お前がその『おもしろそうなコト』に首を突っ込むたびに、事態がいちいちめんどうなことになるんだからな」
クリーオウは、ふん、とそっぽを向いてみせた。
「そんなことはないもん」
「しかも自覚もありゃしねえんだから」
だが部屋まで来ると、クリーオウはあっさりとその話題を忘れたようだった。部屋は、寝室に手を加えたものらしく、それほど広くない部屋にベットがふたつ並べてある。窓は、採光用の小さな窓だけだったのを、クロゼットをひとつ潰 してもうひとつ、大きな窓がしつらえてあった。頑 丈 な造りの壁には、あまり上等な趣味とは言えないツタと葉っぱの模 様 の壁紙が貼 ってあり、それもどうやら宿の主人が改装ついでに貼ったものらしい。
少年にチップを(多少多めに)握らせてから追っ払うと、クリーオウは上機嫌にベッドを整えはじめた。部屋の隅に荷物を投げ出したマジクやオーフェンを尻 目 に、てきぱきと部屋の間取りやら、備え付けのクロゼットの中身などを開けて調べたりしている。ぼんやりとしたガス灯の明かりの中で、ぱたぱたと走り回るクリーオウを見ながら、オーフェンはいきなり気づいて声をあげた。
「──ってクリーオウ、なんでお前が俺らと同室なんだよ」
「え?」
きゅっ、と音を立てて立ち止まり、クリーオウはびっくりしたような声を出した。
「だって、この部屋ちゃんとベッドがみっつあるし」
「............」
オーフェンは横目で、二台のベッドの間に狭苦しく置いてある簡 易 寝台を一 瞥 した。その視線に被 せるようにして、クリーオウがにっこりと断言する。
「こういう場合は、年長者が遠 慮 するのよね」
「不 謹 慎 ですよ」
いきなりマジクが、オーフェンとクリーオウ、どちらに言っているともつかない口調で、
「若い男女が同 衾 するなんて!」
「誰もそこまでは言ってないが......」
困ったように頭をかきながら、オーフェンはクリーオウを眺 めやった。少女は肩を少しすぼめて金髪を身にまとうようにしながら、なにやら不敵にこちらを見返してきている。オーフェンは、胸中の嘆 息 とともに、ピンときた。
「なんか魂 胆 があるんだろ」
「分かる?」
クリーオウがにやにやしながら答えた。
「だって、どうせこれからマジクに魔法のレクチャーをするんでしょ? だったらわたしも聞かなくちゃ」
「聞いても無駄だって言ってんのに......」
オーフェンは上着を脱ぎながら、手近なベッドに腰掛けた。そして短時間で打算する──はっきり言って、この娘と相 部 屋 というのは死んでも遠慮したいところだ。別に理由があるわけではなくて、単にクリーオウが近くにいるというだけで、なにかしらめんどうなことが降りかかってきそうな気がするからだ。が、それを別にすれば、魔術に関する講義というのも別に余人に聞かせてはならないというわけでもない。それに、二部屋借りるのは、手持ちの路 銀 の残りを考えれば、ほとんど不可能に近い。ふだんは馬車上で寝泊まりしているから、ほとんど文 無 しでも、それほど道中に不 都 合 はないのだが......
(ま、いいだろ)
「講義は夕飯の後だぞ」
オーフェンがそう言うと、クリーオウは文字通り飛び上がって歓声をあげた。なにがそんなに嬉しいのかオーフェンにはまるで見当がつかなかったが。
(......まさか本気で魔術士になりたいなんて思ってるんじゃねえだろな?......ま、そう思ってたところで実害があるわけでもねえけど)
そのときは、そう思えたのだ。
「講義っても、今日はむしろ試験だな」
とりあえず夕飯の後、シャワーはないのかとクリーオウが駄 々 をこねたのを別にすれば平 穏 に時間は過ぎ、夜の静 寂 に、静かに虫の声など混ざりはじめた頃合いになって、オーフェンはマジク、クリーオウらと部屋に集まった。そして、窓を開けながらつぶやいたオーフェンのせりふに、クリーオウが不 思 議 そうに聞き返す。
「試験?」
「そゆこと」
と、オーフェンはクリーオウの横でベッドに腰掛けているマジクへと視線を転じた。開いた窓 枠 に腰をあずけながら、
「俺が今までお前に話してきたこと──そいつを、今度はお前の口から説明してみるんだ。ちょうどクリーオウもいるから、こいつにも理解できるようにな」
「ちゃんとやんのよ」
授業参観に来た母親のような仕草で、クリーオウがマジクに言う。
「うん......」
マジクがクリーオウを、ちらりと見やった。その表情からすれば、あまり自信ありげには見えなかったが、とりあえず少し上目遣いに虚 空 を見上げて、彼は話しはじめた。
「この大陸には、魔術と呼ばれているものが大別して七種類あります」
と、思い出そうとするように小首をかしげて、
「そのうちの六種類は、太 古 の時代、神々の『魔法』の力を『魔術』として盗み出した六種類のドラゴン種族によるもので、残り一種類は、そのドラゴン種族のひとつ、天 人 たちからぼくら人間が混血という形で受け継 いだものです──あの、お師様」
マジクの呼びかけに、腕組みして目を閉じた姿勢で、オーフェンは答えた。

「なんだ?」
「アンチョコを見てもいいですか?」
「不可」
即答されてマジクは、嘆息してみせた。彼は仕方ないという表情で続けた。
「ぼくらの使っている能力は『魔術』──そして、そもそも世界の誕 生 と同時から神々が持っていた万能の力は『魔法』と呼びます。だから『魔術』と『魔法』とでは意味が違うわけです。神々の力には、不可能はないとか。でも、ぼくらの『魔術』には自 ずとできることに限界があります。その限界には個人差があって──」
「その個人差を称して、俺たちは『才能』と呼んでいるってわけだ」
マジクの後をついで、オーフェンは窓枠から腰を外した。と、ふと気づいたように、マジクに向かって手を振って、
「おっと──悪かったな。邪 魔 するつもりはなかったんだけどよ」
「いえ......まあ、つまりそういうことです。この力量の差には、なにが原因になってるのかっていうのは、まだ結論が出てません。体力には関係ないし、年齢にも関係ない......熟 達 によって魔術の能力が強まるっていうのは、確かにあるけど」
クリーオウがそれを聞きながら、少し考え込むように唇 に手を当てるのが見えた。彼女はしばらくそのポーズで硬 直 したかと思うと、唐 突 に口を開いた。
「強い魔術士っていうのをみんな並べてみてさ、その共通点をあげていけばいいんじゃないかしら」
「そいつは、俺だって考えてみなくはなかったけどな」
オーフェンは微苦笑をもらしながら、
「チャイルドマン教室──《牙の塔》で俺が参加していた教室の魔術士は、俺も含 めて全部で七人いた。教師のチャイルドマンはまた別格だったが、それにしても全員《塔》の中ではトップクラスの実力を持っていた。七人全員が──」
と肩をすくめ、
「まったくタイプが違う。共通点は、まあ、まるでないと言ってもいいだろうな。まあ、その話は忘れて、マジク、このへんは概 論 で、クリーオウも興味ねえだろ。先に進めっちまえよ」
「はあ......ええと、ぼくらが扱うのは音声魔術と呼ばれるもので、これは大陸でも一、二を争うくらいに強力な魔術ということになります」
「一、二は買いかぶり過ぎだな」
オーフェンが口をはさむと、マジクはあっさりと言い直した。
「まあ、それほど弱い部類でもない、ってことなんだ」
「ごくごく一般論的にランクをつけちまえば、七種類の魔術のうち、最も強力だと言われているのがウォー・ドラゴン種族が用いる破壊 魔術」
「はかい?」
クリーオウが、すっとんきょうな声で聞き返す。
「そゆこと。文字通り、なにかを──あるいは、なにもかもを破壊するためだけの魔術さ。鋼鉄の軍馬 の名前の由 来 でもある。次に大きな効力を持っているのが、天なる人類 ──俺たちが俗に古代の魔術士と呼んでいる天人たちの用いる沈黙魔術 。次いで深淵の黒狼 の暗黒魔術ときて、俺たちの音声魔術は、この次ってところだ」
と、肩をすくめ、窓を離れたオーフェンを継ぐように、マジクがクリーオウに向けて続ける。
「ぼくらの音声魔術の最も顕 著 な特 徴 は、声──つまり呪 文 を媒 介 にして魔術を行使するってことなんだ。だから呪文の声のとどかないところには魔術の効果も及ばないし、効果だって永遠には持続しない。声をそのままの状態で保存することはできないからね。さらに、音声魔術っていっても二通りあって、ぼくやお師様が扱うのは、黒魔術と呼ばれているんだ」
「黒魔術は、熱とか、波動とかの物理的なエネルギーや物質──肉体そのものを扱う魔術のことだ」
オーフェンは窓を離れ、部屋を横切るように歩いたあと、くるりときびすを返してまた窓のほうへ行きながら、講義口調で続けた。
「白魔術は逆に、時間と精神とを操る。まあ、黒は実在する事象を扱い、白は実在しない 事柄を繰る、なんて言い方もあるな。一般的に白魔術のほうが技能的にははるかに高度で、また威 力 も大きい......」
と、ベッドにいる生徒たちのほうへと振り返る。
「分かったか、クリーオウ?」
「......ぐー」
「あ、こら、なに寝てやがる!」
オーフェンがベッドに駆け寄り、揺さぶって起こすと、むにゃむにゃと声を上げながらクリーオウは答えた。うつ伏せにベッドに寝っ転がったまま。
「だって、いまいち退 屈 なんだもん」
「ったく......だから無駄だって言ったのに。じゃあお前、いったいなにが聞きたかったんだよ」
いきなり上体だけむっくりと起き上がって、クリーオウが言った。
「明日からできる魔術の使い方♥」
「できるかっ!」
「じゃあ寝る。ぐー」
「このクソアマ......」
再びぽてんとベッドに倒れ込み、寝息を立てはじめたクリーオウに向かって、わなわなと両手を震わせながらオーフェンはうめいた。
「いいか──寝たふりしたまま聞いてろよ。時間を無駄遣 いしたくなけりゃ、魔術士になりてえなんて世 迷 いごとは、とっとと忘れちまうこった。いくら努力したところで、素養のない人間には魔術は扱えない。人間の魔術の素質は、ごく純粋に遺伝的なものだ。そもそも天 人 との混血って形で取り入れたものなんだからな」
「ぐー!」
わざとらしく、枕 を抱えてクリーオウが叫ぶ。
その上に屈 み込むようにして、オーフェンは追い打ちをかけた。
「お得意の駄々をこねたトコで、無駄なもんは無駄だからな! お前がいくら無駄な努力をしよーが勝手だが、二度と俺にねだるんじゃねえぞ、めんどうだから。ざまみろ、へへーん!」
「お師様......」
頭を抱えるようにして、マジクが聞いてくる。
「なんで口ゲンカになると、精神年齢が下がるんです?」
「うっせえな。相手のレベルに合わせてるんだよ」
オーフェンがそちらに向き直ると、マジクは不思議そうに言った。
「ところで今思い出したんですけど、素養って言えばお師様は、ぼくのことを見ただけで魔術士の素質があるって見抜いたでしょう? どうしてなんです?」
「別に見ただけで分かったわけじゃねえよ。人間の資質を一目で見破ったら、化け物か神様だろうが」
オーフェンは、まだ頑 固 に寝たふりをしているクリーオウの枕元に腰を下ろすと、猫 の背中をなでるように彼女の頭にぽんと手を置いて、
「バグアップの野 郎 な、酒でも入ると、あの面 で結構ノロケやがるんだよ。で、奴の女 房 ──お前の母親──ほれ、今どこにいんのか知らねえけど、アイリス・リンとか名乗ってた女盗 賊 。彼女が昔、魔術士にスカウトされかかった、みたいな話を聞いたことがあったのさ。で、お前は......なんつうか、どう考えても父親似じゃねえからな。多分、母親の血のほうが濃いだろうと思ったんだよ」
持ち崩 した海賊みたいな風 貌 のマジクの父親のことを思い出しながら、オーフェンは言った。と──手の中で、ぴくり、とクリーオウが身じろぎするのを感じる。見下ろすと、少女は寝たふりはやめて、鶺 鴒 が尾を振るような仕草で、まつげをぱちくりさせたところだった。恐る恐るというように、彼女が口を開く。
「......わたしは、魔術士の血をひいてないから駄目なわけ?」
「ま、そういうことだ」
オーフェンは、気まずい思いで彼女の金髪から手をどけた。
「だがまあ......結局のところ、魔術の才能がないってところで、ただそれだけのことさ。その代わり、お前にゃクリーオウ・エバーラスティンって、ほかの誰にも真 似 できねえ大 層 な素養があるだろ?」
ぐるり、と仰 向 けになってクリーオウが聞き返してくる。
「それってつまり、わたしの個性ってこと?」
「個性って言葉は──なんだか取ってつけたようで──あまり好きじゃねえんだけどな。ま、そういうことさ......ってマジク、お前なんでそんなに青ざめて後 退 りしてんだ?」
「いや、その......」
信じられない、という視線で、マジクは答えた。
「まさかお師様がクリーオウを気 遣 って慰 めるなんて......」
「うるせえっ!」
オーフェンは多少ほおを紅潮させて怒 鳴 ると、クリーオウの腕の中の枕を引っこ抜いてマジクの顔面にたたきつけた。
しゃん......しゃん......しゃん......
鈴の音? のような静かな、だがはっきりと聞き逃しようのない音が、遠くから聞こえてくる──目をすがめてみるが、それがどこから聞こえてくるのかは、よく分からない。周りは無 明 の闇 のようでもあり、また、ただ濃いだけの霧 に閉ざされているのだとも見える。ただ、鈴の音だけが響き渡っている。耳の奥がうずき、脳 髄 が震えるようにして、その音に応 えている......
「────!」
がば、とオーフェンは夢から覚 めて、起き上がった。シャツが、寝汗でぐっしょりと湿っている。シーツをはねのけ、彼は簡易ベッドから飛び出すようにした。心臓が動 悸 を告げている。例 えようもない恐怖が、むやみに自分を急 き立てていた。
(なんだ──?──この、感覚......?)
星明かりだけがほのかに照らす部屋の中を、ぐるりと見回してみる。簡易ベッドをはさみこむようにしているベッドの上には、それぞれマジクとクリーオウが、すーすーと寝息を立てていた。きっちりと気をつけの姿勢で寝ているマジクと、それに比べれば少々いぎたないクリーオウの寝 相 とを見比べながら、オーフェンは椅 子 の背にひっかけてあった自分のジャケットをひっつかんだ。それを羽 織 りはせずに、右腕で抱き締めるようにして、目を閉じる。記憶を閉め出すように──あるいは、必死になって思い浮かべるように。
オーフェンに限らず《牙の塔》の黒魔術士は、ある程度までなら自分の記憶や精神状態をコントロールできるよう、徹底的に訓練させられている。が──
(できない......?)
オーフェンは、胸中でいぶかった。ただひたすらにかき乱されるままに、平常心がかき消えていく。呼吸すらが......できない。
(これは......白魔術......か......?)
がくん、とひざから力が抜けて、彼はとっさに椅子の背をつかんで平 衡 を保った。白魔術ならば、何度かかけられた経験がある。本来なら王室によって完全に外界とは隔 絶 されているはずの白魔術士たちになど会えるわけはないのだが、オーフェンの古い仲間の中には白魔術に精通していた者がいたのだ。
だが、いま感じているのは、その感覚とは違うものだった。
(違う......もっと......別の......身体 が......自分のものではなくなるような......いや、それとも、俺が自分でなくなっていくような──)
自我が消滅する感覚 ?
悪 寒 、そして嫌悪感が、全身を走り抜けた。次の瞬間、オーフェンはつかんでいた椅子を力 任 せに天 井 までたたきつけると、絶 叫 していた。
「ふざけるなあっ!」
同時に、彼の身体の中心から爆発的なまでに魔力が膨 張 する──それは衝撃波となって、夜のしじまに爆音を鳴り響かせた。衝撃の津波が無差別に周囲に膨 れ上がって、部屋の中にあった家具や調度を一撃する。クロゼットの扉 が陥 没 し、コートハンガーが部屋の隅 まで吹っ飛んでへし折れ、三台のベッドもなす術 もなくひっくりかえる。窓ガラスが砕 け散り、水差しが床に落ち、天井からだらしなくぶら下がっていたガス灯がひしゃげて潰 れるのが見えた。
「ひえええええっ!」
──というのはマジクがあげた悲鳴だろうが、今のオーフェンにはそんなことを確認している暇 はなかった。もう先刻までの奇妙な感覚はなくなっている。オーフェンはめちゃめちゃになった部屋の真ん中で棒立ちになり、ジャケットに腕を通した。そのジャケットのポケットからドラゴンの紋 章 のペンダントを取り出すと、ぱっと頭から首に通す。
「な、何事なんですか、お師様っ!」
裏返しになってふたつ重なっているベッドの下から、顔だけ出してマジクが叫んだ。その横ではクリーオウが、枕を抱き締めて寝ぼけ眼 をむにゃむにゃさせている。
オーフェンは声を低くして答えた。
「敵......だ」
そのせりふには、確信はなかった──自分で言いながら、なにを言ってるんだといぶかったほどだ。敵だと? 悪夢にうなされて、起きてみて錯 乱 して暴発したってだけかもしれねえじゃねえか。だいたい、どこに敵がいるってんだ──
──いや──
「敵だ」
オーフェンはくりかえして、左手でそっと、胸元のペンダントをにぎった。
(今、俺の身体から出ていったのは......暴発して放った魔力だけじゃなかった)
ぞっとしながら思い起こしてみる。もっと別の、異質なものが、爆 裂 する魔力に押し出されて、彼の身体から出ていったのだ。
(となると──そいつ は、今は俺の魔力に引き裂 かれて部屋中に砕 け散ってるかもしれねえが......)
と、じっと汗をたらしながら視線を鋭くする。部屋の隅々から、なにか黒い霧のようなものが、ふらふらと漂 いだしてきている。夜の闇 にまぎれて、空間に溶け出すようなその霧は、徐 々 に部屋の中央へと──窓を背にしてオーフェンがじっと見 据 える、ちょうど彼とマジクらの中間点ほどのところへと集まりはじめている。
「おいっ!」
声。そして──どんどんどんっ! 激しく扉がノックされた。
「魔術士! コラ! なんの騒 ぎだ! 静かに寝られねえってんなら、月の光で蒸 し殺されちまえ!」
騒ぎを聞きつけて上がってきた──どうやらボルカンらしい。となれば、ドーチンもいっしょだろうが。
霧は既 に半径五十センチほどの球形の空間に集まって、形を取りはじめている。扉を開けてあの地人たちに事態を説明しているような時間などなかった。もっとも、事情を説明しようにも、なにがなんだか分からないのはオーフェンにも同様だったのだが。
と──霧が、声をあげた。
「──ニ・テ・イ・ル──」
ぎょっとして、オーフェンは半歩ばかり後 退 りした。いったんは球形に集まった霧は、徐々に縦長に伸びて、人型へと変 貌 しようとしている。
霧は、続けて声をあげた。それは確かに、空気を振動させる、生の『声』だった。
「オハエハ──ヤ・ツ・ダ──」
どんどんどんど......
ノックの音だけがひたすら、無意味に続く。
「なん......だと?」
オーフェンは、愕 然 とうめいた。その視線が、半透明のその人型を通り抜けて、ベッドの下 敷 きになっているマジクのかたわらできょとんとしているクリーオウへとぶつかった。彼女は、ようやく気づいたようで、あっけらかんとした声を出した。
「あ。幽 霊 」
(幽霊......お化け......亡 霊 ?)
その、あまりにも唐突といえば唐突な単語に、オーフェンは面食らったような思いだった。確かに、輪 郭 はぼやけているとはいえもう完全に人間の形になったその霧を呼ぶのならば、その単語が一番適切であるように思える。が......
「ふざけんな、この世に亡霊なんているか──」
その毒づきが、合図になったかのように、霧──いや〝亡霊〟は、金切り声にも近い声音で絶叫した。
「オ・マ・エ・ハ──フォノゴロス! ツイニミツケタ──」
亡霊は、いまだ輪 郭 はかすんでいるものの、若々しい風貌の若者の姿を見せていた。気の弱そうな、だが陰に回れば険を強くしそうな細い目尻の、痩 せた若者。安っぽいが潔 癖 なまでに清潔な白衣をまとった、研究員風の男である。
「フォノゴロス?」
オーフェンが聞き返した瞬間、ボルカンが扉を蹴 破 った。壊れた扉が蝶 番 を羽ばたかせるようにぶらつかせて、勢いよく亡霊の背中にぶち当たりそうになる──
「────!」
オーフェンは瞬時に、身体を投げ出すようにして横に跳んだ。その横を、すさまじい速度で亡霊が飛び抜けていく!
部屋に再び、爆音が響いた。衝撃と爆風が吹き荒れ、亡霊が飛び出したままの勢いで、窓のある壁をぶち抜いて吹き飛ばした──
と、オーフェンは思った。
「............?」
だが、亡霊が通り抜けていったその壁は、まるっきり傷ひとつなく──もっとも、先刻オーフェンが与えた損傷は別としてだが──取り澄 まして静まり返っている。
「な、なんだ、今の?」
壊れた扉を踏み越え、人間サイズの寝 間 着 をひきずるようにして、ボルカンとドーチンがひょっこり部屋に入ってきた。ベッドの下から、マジクがぼやくように応じる。
「......ユーレイ、だそーです」
「幽霊?」
疑わしげに、ドーチン。眠そうに眼鏡 の位置を直しながら、
「やめてくださいよ、そゆこと言うの。兄さんすぐに本気にして、またロクでもない商売にしようとするんですから──」
「おい」
オーフェンは、それらの会話を後ろ耳にしながら、抑 えた声音でつぶやいた。
「黙 ってろ、お前ら......」
と窓の外を凝視する。ほかの連中の視線も、彼の視線を追うようにして、同じところに集まっていくのが気 配 で分かった。割れた窓ガラス──砕けた窓枠 の向こうには、静かな夜のキンクホール・ビレッジと、はるか遠くアイーデン山脈。動物たちの声の響く深い森の影。夜空。星──そういった風景の中に、ぽかんと浮かび上がるひとつの影があった。
ちょうど窓のすぐ外に立ち──二階にある、この部屋をのぞくようにして、奇 怪 な形 相 をした影がある。平べったい楕 円 形の頭に、横長の瞳 を瞬 きもせずじっとさせて、月明かりを反射させるのは、ぬめっとした鱗 の肌──
「蛇......ですか? あれ」
マジクの声に、うなずく余裕をオーフェンは持っていなかった。それは確かに蛇だった。だが、蛇ではなかった。蛇の頭の下──細長い首の下に、なで肩の、人間の肩が見える。
「蛇人間!」
勝手な名前をつけて、ボルカンが叫んだ。寝間着のままで、剣を抜きにかかっている。ついでに、どさっと物音がした。オーフェンがちらりと振り向くと、ちょうどクリーオウが卒 倒 したところだった。
「我は放つ──」
オーフェンは身構えて、魔術を放とうとした。が、それよりも早く、蛇人間の姿が闇に消える。前 触 れもなく、ただかき消えるようにして。
「なに?」
そして、蛇人間の消えた夜闇の中から、大気を切り裂いてなにかが飛び込んでくる!
「うわああああっ!」
オーフェンはしりもちをついて、それを躱 した。
が──
「ぎあっ!」
背後で、マジクの悲鳴があがる。見てみると、マジクの上にのっかっているベッドのクッションに長弓の矢が突き立っていた。
「よっしゃ──!」
オーフェンは、自分がいきなり元気づくのを感じた──矢ならば、人間の武器だ。わけの分からない亡霊やら蛇人間やらと違って、人間が相手なら、それを片づける方法を知っている。
ぱっと跳び起きて、一気に窓から身を躍 らせる──地面まで落下するわずかの時間、弓矢で狙 われているというのにひどく危険なことをやらかしているような気もしないではなかったが、闇夜の射的ならば、そうそう当たるものでもあるまい。
だんっ! と、足からの衝撃をひざで受け流し、オーフェンは地面に降り立った。りーん、りーんと気の早い虫たちの鳴く声。それを耳に受けながらオーフェンは、あたりを見回した。
(もし、いま俺を狙 ったのが殺し屋だとしたら──)
オーフェンは、くるりと宿の入り口のあたりにあるしげみに右手を突き出した。
(入口近くで待ち伏せて、俺が飛び出してきたところを狙う!)
「我は放つ光の白刃!」
闇にほとばしる光熱波が、宿のポーチを囲むようにしている植木を燃え上がらせた。が、それと同時に、野太い地声で叫ぶ声がする──
「消えろ!」
と、煌 々 と燃え上がっていた熱波と炎とが、ふっとかき消えた。
(魔術──殺し屋たちの中に、魔術士がいる?)
オーフェンは、さっと身構えながらつぶやいた。が、今の魔術の波動──魔力とイメージの構成から感じるに、さほどの腕を持った魔術士ではない。恐らく、修業半 ばで挫 折 した手合いだろう。
しげみから、がざっと人影が飛び出して逃げるのが見える。
「逃がすかよっ!」
と叫びながら、追いかけはしない。飛び出した人影が複数なのが、ちらりと見えていた。だとしたらその中のひとりを追っている間に別の暗殺者に待ち伏せを食らう可能性が高い。
とは言え、逃がすつもりがないのも同様だった。彼らがオストワルドの傭 った殺し屋たちだとしたら──先刻の亡霊や蛇人間とどういう関係があるのか聞き出さなければならない。
オーフェンは、すっと息を吸うと、頭の上で腕を交差するようにして叫んだ。
「我は呼ぶ破裂の姉妹!」
同時に、差し上げていた腕を地面に向かってたたきつけるように勢いよく下ろす。
ぐわっ──空気がひしゃげ、無差別な衝撃波がそこら中で破裂音をあげた。
「ぐうっ!」
「うおっ!」
といったようなうめき声が、近くの樹上から聞こえた──数メートルほど離れたところにある、葉のつきがいい木の上からである。一瞬後、枝から弓矢を持った男がふたり、地面まで真っ逆 さまに落下した。
(捕まえるのはひとりでいい)
オーフェンは胸中で満足げにつぶやくと、しっかりと警 戒 しながら、落下した男たちのほうへと近づいていった。
まず手前にいたほうの男のみぞおちに容 赦 なくかかとで蹴 りを入れて悶 絶 させると、もう一方の男へと歩み寄る。そのわきにひざをつくとオーフェンは、落下した際の打ち身にうめき声をあげている男の胸倉を、ぐいとつかみあげた。
「お前らを傭ったのはオストワルドだな──トトカンタのザナドュ・オストワルドだ」
オーフェンは凄 みをきかせたが、弓だけを右手に持ったその殺し屋は、長髪に汗をにじませて、恐怖の眼 差 しでこちらを見返してはくるものの、口を開こうとはしない。
オーフェンは呆 れたように嘆 息 しながら、
「ま、そりゃそうだろな。プロの暗殺者なら、自分が殺されたところで雇 い主 の名前をあげたりはしねえだろ。たとえそれが、逃げ遅れれば仲間にも見捨てられるような、三下程度であってもな」
それが殺し屋と、ただのちんぴらとの違いだったし、その違いは絶対だった。
「なら、こっちの質問ならどうだ──? いったいあの亡霊と蛇野郎はなんなんだ」
「ぼ、ぼう──?」
不意つかれたように、殺し屋はすっとんきょうな声を出した。
ん? といぶかって、オーフェンは続けた。
「亡霊だよ。お前らの少し前に、部屋に現れた──」
「なんの話だ? 俺たちは──」
殺し屋は、どうやら左肩を骨折しているらしかったが、持っている弓を視線だけで示した。そして続ける。
「俺たちは、お前が眠ったところに夜 襲 をかけて、とにかくお前が窓の近くに姿を見せたら、それを狙 撃 する計画だったんだ。だからお前が顔を出したときに矢を射ったのに、くそ、あいつらまだ夜襲をしかけてなかったのか──」
殺し屋は無念そうに唇を噛 んでいる。その表情には、どうにも噓 をついている気配は見えなかった。
「夜襲はあったんだよ」
オーフェンは苦 々 しく、
「ただし、ポーチの陰に隠れていたお前の仲間どもじゃなくて、わけの分からん亡霊のだ。くそ、お前らが知らねってんじゃ、いったい誰が──」
「ぎゃあああああああああっ!」
悲鳴──
はっとして、オーフェンはさっき悶絶させた男のほうへ肩越しに振り向いた。殺し屋の片割れは、地面に仰 向 けに倒れたままの姿勢で、大口を開けて絶叫している──その開いた口 蓋 しか、オーフェンの位置からでは見えなかった。殺し屋の顔の上半分は、地面から突き出してきている一本の手──その指の一本一本にキッチンナイフのようなものが細い鋼 線 でくくりつけられている真っ白な餅 肌 の男の『手』で、がっしとつかまれている。ちょうど、子供がおふざけで背後から「だーれだ」と目隠しするような感じだった。だが違うのは、その手が少し力を入れるたびに、くくりつけられたキッチンナイフの刃が殺し屋のほおと言わず目と言わず、顔中に食い込むということ──
殺し屋の身体が苦痛にのけぞり、『手』の指の間から血があふれ出る──
「うっ──ぎゃああああっ──!」
少し間をおいてから、殺し屋が再び悲鳴をあげた。ごく、と花 瓶 が割れるような音を立てて、殺し屋の頭 蓋 が割れた──白い骨が肌からはみ出て、その正体がなんであるか知りたくもないような色の体液が、ほんの一瞬だけ、噴 水 のようにあたりに飛び散る。
そして『手』は、潰 れた殺し屋の頭蓋を通り抜けるようにして、地面の中へと引っ込んでいった。跡 も残さずに。
「う、わわわわわっ!」
と、悲鳴をあげて後 退 りしたのは、『手』に殺された殺し屋の相棒ではなく、オーフェンだった。ちょうど気管と食道の中間点あたりから、熱い胃液がこみあげてくる──嘔 吐 だけはしないようにひたすらに自制しながらも、彼は、自分がヒステリーの波に押し潰されそうになるのを感じた。人が死ぬのを見たことは何度かある──が──これはあまりにも、異常きわまっていた。
海 老 のように後ろ向きに逃げていくと、数歩もいかないうちに、背中に、どすんとなにかが当たる感触がした。木の肌のように、どこか生暖かいが、硬い感触である。
「............?」
地べたに座り込んだまま、恐る恐る振り仰ぐと、彼の背後にのっそりと、背の高い人影がある。夜空に向かってそびえる、漆 黒 のその人影の右手には、包丁のように肉厚の大型ナイフが握られていた。
「おのれ──!」
なかば恐 慌 状態になって、オーフェンは飛び起きざまにその人影の喉 元 に向けて手 刀 を放った。が、それをその人影はナイフの背で受け止める──だがオーフェンは気にせずに、ほとんど密着するように人影に左肩を寄せると、ぐるりと敵の後頭部を経 由 するように左腕を旋 回 させて、突き立てた親指で相手の左目を狙 う!
が──その指は、標的のまぶたをかすめるあたりで、ぴたりと動きを止めた。
(............?)
オーフェンはとにかくわけが分からず、目をぱちくりさせた──自分の視界いっぱいに、人間の顔が広がっている──目を閉じるべきだ、と狂気じみた本能が告げた。だが──と彼は、自分に問いかけた。殺し合いの最中に目を閉じるだと?
(これが殺し合いか?)
頭の中のどこか──遠い、暗い淵 の中から、そんな答が返ってくる。
オーフェンは目を閉じた。
目を閉じてからは、それほど長い時間はかからなかった。彼を抱き締めている手──そう、それは女の手だった──が、彼の背中をひととおり、軽く愛 撫 すると、ぽんと腰をたたき、身体を放す。オーフェンは再び目を開けた。ヒステリーを起こしかけていた頭の中は、いつの間にかすっきりとしていた。どうかと聞かれれば、冷水を浴びせられたような感覚ではあったが、不快ではない。
なんにせよ、落ち着いた心中でならば、彼女がいま自分にキスをしていたのだと判断できた。
「ヒリエッタ......?」
我ながら間の抜けた、と思える声で、オーフェンはつぶやきかけた。彼女は、まるで今の感触を味わいなおすように真っ赤な唇を舌なめずりすると、心底おかしそうな笑みを浮かべた。
「とんでもない体術を使うのね、あんたって......今のって《牙の塔》で習ったわけ?」
「たいじゅつ?」
オーフェンは、きょとんとしてから、
「あ、ああ──いや。い、今のは──体術、なんてもんじゃない......」
尻すぼみに声が小さくなるのを自覚して、赤面する──恐慌状態になって失態を見られたというよりも、今とにかく心臓の動 悸 が収まらないことのほうが、自分を慌 てさせた。
「あれは──その、殺しの技だ。まだ俺にできるなんて、思ってなかった......」
「ふうん?」
ヒリエッタはこめかみをナイフの柄 でかきながら、
「あんたもその技で、人を殺したことがあるわけ?」
「まさか」
オーフェンは、汗でぐっしょりになった額をぬぐって否定した。
「単に、覚えさせられただけだ。ふだんは滅 多 にやらない。護 身 の手段としちゃ、それほど有効なもんじゃないし。護身の手としちゃ──手──」

と──、思い出す。
「手! 手が──地面から出てきて、殺し屋を──」
「殺されちゃったんでしょ? ところで、もうひとりのほうも殺されたりしたらまずいんじゃない?」
長い黒髪を、ばさりと夜に投げ出しながらヒリエッタが言う。オーフェンは、はっとして長髪の殺し屋のほうを見やった。
が、もうとっくに逃げ出している。あたりにはもう気配もない。
「くそっ──」
オーフェンは、やるせない思いで毒づいた。架 空 の壁をたたくようなしぐさで腕を振る。
「ま、あの状況じゃ仕方ないわね──」
まるっきり他 人 事 のように、ヒリエッタがつぶやくのが聞こえた。
そしていきなり、宿の扉が開いてポーチが騒がしくなる。
「オーフェン!」
「お師様!」
クリーオウとマジクが、連れ立って外へと駆け出してきた。マジクはそのまま駆け寄ってきたが、クリーオウのほうは、ヒリエッタの姿に気づいた瞬間、ムッとしたように足を止めた。
「いったいなにが──」
問いかけてくるマジクを、オーフェンは手で制した。なんにしろ、答えられるとは思えない。先刻起こったことは、なにひとつとして。
ちらりと見やると、気を利 かせてのことだろう──ヒリエッタがさりげなく、どこから持ってきたのか黒いシーツのようなものを殺し屋の死体にかぶせているところだった。ほっとして、クリーオウの顔を見やる。少女は寝 癖 のついた金髪を手で梳 かしつけながら、言ってきた。
「なんなのよ、窓から飛び降りたりして! サポートもなしに殺し屋と戦うなんて、自殺行為よ!」
はいはい、と力ない手振りで応じながらオーフェンは、なるたけ血の飛び散った地面のほうは見せないようにかばいながら、クリーオウの肩に手を回した。そのまま、宿の中に押しやっていく。
「あの福ダヌキどもはどこだ?」
マジクに聞くと、彼は軽く肩をすくめた。
「あの地人たちのことですか? 部屋の中をうろつき回って、修理費はいくらだとか、賠 償 金 はいくらだとか計算してましたよ」
「............」
オーフェンが嘆息をもらすと、背後から、ヒリエッタが近づいてきた。
「この村の派 遣 官 には、どうするの?」
「君から報告してもらえないか? 俺にはできそうにないし......どうやら」
と、じろりとにらみやる。
「どうやら、俺なんかより君のほうがはるかに事情に詳 しそうだからな」
彼女は悪びれた様子もなく、ボディスーツに直接ついている鞘 にナイフを落とし込んだだけだった。あまつさえ、言ってくる。
「ところで、オーフェン」
「あんだよ」
しつこく説教じみたことをまくしたてているクリーオウの背を陰 鬱 な気分で押しやりながら、オーフェンは聞き返した。ヒリエッタは、そっと耳打ちするように告げた。
「明るいところにもどる前に、ふいといたほうがいいんじゃない?」
「なにがだよ」
「口 紅 がついてるわよ」
きゃはは、と笑い声をあげるヒリエッタに、今度こそ絶望的なまでに顔を紅潮させながら、オーフェンは慌 てて手の甲で唇を拭 った。
絶望的だ、とオーフェンは思っていた──少なくとも、自分が吹っ飛ばした部屋の中を改めて見直したときは、そう思った。クロゼットは腰の曲がった魔女みたいにひしゃげているし、古い蠟 が底にたまっている燭 台 は床に転がり、ブリキの胴をぐにゃりと曲げられている(そういえば、ベッドから起きたときなにかを踏 んだ記憶があった)。壁 紙 もなんだか焦 げ臭 い匂 いを発していたし、ボルカンが蹴 破 った扉 に関しては言うまでもない。
弁 償 額は、最低限、ロクでもないことになってるだろう──正確な金額のことなど考えたくもないし、知らされたくもない。いざとなれば指名手配されるのを覚 悟 してでもトンズラするよりほかないだろう。そこまで考えていた。
だから、翌朝になって派 遣 官 の詰 め所 に呼び出されたときの、その老派遣官の発した第一声は、彼をだいぶ戸 惑 わせた。
「災 難 でしたねえ。で、慰 謝 料 はいかほど請 求 なさりますかね?」
「へ?」
間の抜けた声で、オーフェンは聞き返した。信じられない──耳にした単語が、自分の予想をあまりにも完全に裏切ってくれたので、ただのたわごとだったのではと思ったほどだった。
(請求なさる、だと? 俺が払 うんじゃなくて?)
胸中で訝 しみながら、オーフェンは聞き返した。できるかぎり不自然でないように。
「いえ、あの──こういった事態には不 慣 れなもので。相場はいくらぐらいなんでしょうね?」
「相場......ですか」
ぶつぶつと、老派遣官は白 髭 の下でかさかさになった口を動かした。一見して人の良さそうな、茶色のチョッキを着た老人である。せまい詰め所のすみっこには、ハンガーに引っかけられて、つばの広い帽 子 が垂 れ下がっている。部屋の唯 一 の家具である木製のデスクに痩 せた肘 を載せて、さっきからぼんやりとした目付きでこちらを見ていた、老派遣官──中央から郊外の治安を司 るために送り出された退職警官(だとオーフェンは見当をつけていた)は、少し考えるようにして答えた。
「そうですねえ。三年前、やはりあの宿で魔術士の幽 霊 に起こされて、真夜中に教会まで逃げ出したご婦人は、確か──」
金額はたいしたことはなかったが、ともかくその情報は、それ以上のことを意味していた。
(あの亡霊とやらは、今までもたびたび出てきてたってわけか)
腕組みしながら、ふと思い出す──
(あの男、俺のことをフォノゴロスと呼んでたな......)
くわしい事情を調べなければなるまい。ただ、いったい誰 に聞けばいいものか。
昨夜『手』に殺された殺し屋について、派遣官が事情聴取を始めようとするのをじっと見返しながら、オーフェンは、とにかくヒリエッタに会う必要がある、と考えていた。
詰め所から出ると、マジクが待っていた。道のわきで腰を下ろして、こちらを見つけると、ぱっと顔を輝かせる。
「お師 様 !」
駆け寄ってくる生徒に、オーフェンは片手をあげて応じた。
「なんだよ。宿で待ってろっつっただろ。それとも宿のほうでなんかあったのか?」
「い、いえ、それが──」
マジクは、翠 色 の瞳 を少し躊 躇 するように瞬 きさせて、
「その......とてもいられる 雰囲気じゃないんですよ」
「............?」
オーフェンは無言で視線を返した。と、マジクは嘆 息 まじりに答えてきた。
「あのヒリエッタとかいうひとが、お師様に会いにきてるんです。階 下 の食堂にいるんですけど......つまり──」
「じれったいな。つまり、なんだよ?」
「だから、クリーオウもいっしょなんです。どういう風の吹き回しだか知らないんですけど、同じテーブルに張り付いちゃって、黙 ってにらみあってるんですよ」
「なるほど」
オーフェンは、マジクと同時に、ため息をついた。
宿は、昨夜あれだけの騒ぎがあったというのに、ひどく落ち着いていた。昨夜泊 まっていた部屋を下から見上げると、割れた窓の部分に厚紙のようなものがかぶせられている。それ以外には、昨日の昼下がりに着いたときと、なんら変わるところはなかった。
入口から扉を押しやって入ると、閑 散 とした空気が彼を出 迎 えた。食堂には、真ん中のテーブルにぽつんと、相変わらずのボディスーツ姿のヒリエッタと、その真正面で憮 然 としているクリーオウがいるだけだった。クリーオウのほおが少し腫 れているのと、彼女が着ているブラウスの一番上のボタンがとれかけていること、そして隣 のテーブルの椅 子 が倒れているのに気づいて──オーフェンは、しまったと胸中で舌打ちした。あれはもう、一戦やらかした後だ。
オーフェンが入っても、ヒリエッタは顔にうっすらとした笑みを浮かべたまま身じろぎひとつ見せなかったが、クリーオウは、ぱっとこちらを振り向いた。顔の擦 り傷を隠すように、ブロンドが、ふわっと浮かぶ。
「あのなあ、お前──」
呆 れた声でオーフェンはつぶやきかけたが、クリーオウが椅子を蹴 って立ち上がるほうが早かった。彼女は、きっとこちらをにらみすえると怒声をあげた。たった一言。
「馬鹿っ!」
そのままくるりときびすを返して、階段を昇っていく。ぼうぜんとしたまま彼女を見送るオーフェンの視界から、彼女のスニーカーが見えなくなるころ、後ろからついてきていたマジクがぽつりとぼやくのが聞こえた。
「あんなに怒ることないのに。ねえお師様」
「どうかしら?」
と、これはヒリエッタ──スーツの右 腿 のところに、隠れるようにしてついている真っ黒な鞘 の上を指でなでながら、彼女は不敵にほほ笑んでいた。
「どういう意味だ?」
オーフェンは聞き返しながら、ゆっくりと彼女のテーブルまで歩を進めた。
ヒリエッタが、横目で視線を投げながら、答える。
「あの子には、怒るくらいの権利はあるんじゃないかってことよ。あなた、あの子に本当のことを話してなかったんでしょう?」
オーフェンは無言でクリーオウが蹴 倒 した椅子を起こし、そこに腰を下ろした。ヒリエッタは続けて言った。
「わたしが、あなたを殺すために傭 われた魔術士殺しのエキスパートだって話したら、目を丸くしてたわよ、彼女」
それを聞いた瞬 間 ──マジクが後 退 りして、背後にあったテーブルに腰をぶつける音が響いた。そちらの方向に手をあげて制止しながら、オーフェンは微苦笑をもらした。
「目を丸くしただけじゃすまなかったろ、あいつのこったから」
「ええ。その場で飛びかかってきたもんだから──とっさのことで殴 っちゃったけど、悪いことをしたかもね」
「ったく、ンなことで怒られても、俺が知るかよ。殺し屋に襲 いかかって殴りかえされたからって──」
オーフェンが言いかけると、ヒリエッタは笑った。馬鹿馬鹿しい、というように。
「そんなことで怒ってるんじゃないでしょ。あのお嬢 ちゃんは──あなたを心配してるのよ。なんの訓練も受けてない女の子が、大陸でも一流と言っていい黒魔術士であるあなたを守ってあげられると考えてるんだから、可愛 いじゃない?」
「......否定はしねえよ」
と答えてからオーフェンは、魔術士殺しの単語に完全に怖 じけづいたらしいマジクのほうに向き直って、
「階 上 に行ってろよ。クリーオウの機 嫌 とっとけ」
ぎょっとしたように、マジクが両手をあげる。
「そんな無茶な!」
「いいから行けよ」
と、オーフェンは、すっと目を細めて付け加えた。
「もし昨夜の亡 霊 とやらが、まだ俺らを付け狙 ってるんだとしたら、あいつをひとりにしとくのは危ねえだろ」
「......機嫌を損 ねた彼女といっしょにいなくちゃならない、ぼくの身の危険はどうなるんです」
などとぶつぶつ言いながらも、とにかくマジクは二階の部屋へと上がっていった。食堂には、オーフェンとヒリエッタだけが残る。まだ昼前の、厨 房 に火も入っていない薄暗い食道の中で、オーフェンはじっと眼前の女暗殺者を見やった。
「ひとつ、確認しておきたいんだがな」
「なにかしら?」
結局は人を寄せ付けない、この女特有の媚 態 の笑みを浮かべながら、彼女は聞き返してきた。オーフェンは椅子の背に体重を預けながら、
「君は......敵か? それとも味方か?」
「その敵とか味方とかは、どういう基準で区分けされてるわけ?」
からかうように、彼女。オーフェンは、その手の言葉遊びは大嫌 いだったが、無視するほど嫌 悪 しているわけでもない。
「この場で吹っ飛ばしていい相手なのかどうかってことさ」
「吹っ飛ばされたくはないわね」
喉 の奥でくつくつと笑いながら、彼女は続けた。
「オーケイ。わたしは、あなたの味方よ。少なくともあなたの寝 首 をかいたりはしないし、必要な情報も提 供 するわ」
「なら、その必要な情報とやらを全部よこすんだ。今すぐにな」
「せっかちね。もっと長く話していたくない?」
「あいにくな」
「嫌われたものね......昨日のキス、そんなによくなかった?」
「うるせ」
オーフェンが半眼でつぶやくと、ヒリエッタは、なにがおもしろいのか、にっこりして黒髪を手で梳 いた。染 みのついた古テーブルに肘 をついて、やや身を乗り出すようにして、話しはじめる。
「結局はね......わたしのスポンサーに直 に会わないことには、納 得 してもらえないと思うわ。あなたは疑 り深そうだし」
「てことは、信じるに足 る話はしてもらえねえってことか」
「......そうね。実際、そう思ってもらって差 し支 えないくらいかも」
彼女のその同意を聞いて、皮 肉 のつもりで言っていたオーフェンは、不意をつかれたようにきょとんとした。そして──いつの間にか陰 りのようなものすら見せている殺し屋の表情を見返しながら、今まで信じてみる気にもならなかった〝愚 犬 〟ヒリエッタについての噂 話 を思い出している自分に気づいていた。
彼女は、真っ赤なルージュに彩 られた唇 を、うっすらと開いて語りはじめた。
「わたしのスポンサーは、もうとうに死んでしまったわ。わたしが殺したの。でも、まだ存在しているのよ......この村にね」
◆◇◆◇◆
「もう──ホントに、馬鹿!」
部屋に入るなり、クリーオウは憤 懣 やるかたないという声でそう怒 鳴 ると、ベッドから枕 をほうり上げ、それが空中にある間に、器用に回し蹴 りをたたき込んだ。ぼすん、と枕は不平の音を立てながら、壁にぶつかって床に落ちる。オーフェンが前の部屋を壊したせいで、彼女らはほかの部屋に案内されていたのだが、こちらのほうはどうも客室として使うつもりはなかったようで、普通の寝 室 そのまま、といった感がある。多分、壁紙を使ってないせいだろう。
クリーオウは床に落ちた枕を拾うと、今度は少し前方にほうり投げた。そのあとを追うように助走をつけると、またもや重心の乗った綺 麗 な形で飛び蹴りをくらわせる──いや、蹴りというよりもむしろ、足のわきの部分、足 刀 で打ち付けるような動作で、それまでのんきに宙を遊 覧 していた枕を床にたたきつける。勢いよく床に落ちた枕は、どすんと一回跳 ね上がった。その真上に、少し遅れてちょうど尻 餅 をつくような感じで、跳 んでいたクリーオウが落下する。
なんにせよ、並の運動神経でこうまでできるものではないが。
枕の上に座り込み、じっと前方の壁を見つめながら、クリーオウはぶつぶつとくりかえした。
「馬鹿......なんでもかんでも、自分ひとりでできると思ってればいいのよ」
と──開いている窓の外から、声が聞こえてくる。
「よぉーし、集合したな!」
ボルカンの声だった。クリーオウはふと気になったようにぴくりと眉 を動かし、枕から腰を上げると、窓のところまで歩いていった。窓 枠 に手をかけ、少し身を乗り出すようにしてやると、ちょうど窓の下あたりの空き地でボルカンが仁 王 立ちしている。クリーオウの位置からは後ろ向きの脳天しか見えなかったが、声からすると、どうやら上機嫌でいるらしかった。そのボルカンから一歩退いたところでぼんやりしているドーチンは、妙に疲 れたように肩を落としていたが。
(そういや、あのふたりって、オーフェンとの付き合いはわたしよりも古いのよね)
あの地 人 の兄弟に関しては、クリーオウは、まずなにも知らないというところだった。せいぜい、オーフェンにいくばくかの借金をしているらしいということくらいで。
(でも......考えてみたら、わたし、オーフェンのことだってあの地人程度のことしか知らないんだわ)
ふわり......と、いきなりのそよ風に柔 らかなブロンドを持っていかれそうになって、クリーオウはそれを手で押さえた。じっと無言で、窓の下を見下ろす。
ボルカンとドーチンの前には、小さな子供たちが五人、整列して気をつけの姿勢をとっている。全員十歳かそこらというところで、一番右端には、昨日部屋に案内してくれたこの宿の小間使いの姿もあった。
と、ボルカンが、また声を張り上げる。腕組みして、なんだかやたら偉 そうに。
「うむ! これまで少数を以 て営業に勤 しんできた我 がボルカン商会にも新たなる有志を迎 えることができ、恐 悦 至 極 というところである!」
「恐悦ってのは手紙文でのみ使う言葉で、しかもこの場合には意味的にも不適切──」
後ろでつぶやいたドーチンをふりかえりもせずに剣の鞘 で殴りつけ、ボルカンは続ける。
「さて! これまでの活動に共感し共振してくれた我が新たなる仲間たちよ! 我々は今日まで『愛されるボルカン商会、愛されるためのボルカン商会』を社訓とし、営業・奉 仕 活動を行ってきたわけであるが、先の大会にもあった通り、現状は維 持 をいかんともしがたい状況にあり──」
ぷっ、とクリーオウは口元に手を当て、吹き出しかけたのをこらえた。子供たちは、子供の耳にもいまいち意味の通らないボルカンの演説に、きょとんとして顔を見合わせている。当のボルカンは全然気づいていないようで得意満面に演説を続けているが、後ろでドーチンがおおげさなため息をついていた。
「つまり! 障 害 は煙 突 を詰 まらせ殺してでも排 除 し、病気などないよう、商会員一同留 意 されたし! ではさっそく、今後の活動方針であるが──」
クリーオウは窓を閉めた。そのまま外に背を向けて、腰の体重を窓枠に預 ける。窓に寄りかかって彼女は、ふうとため息をついた。
「気楽だわ、あの連中は」
(でも考えてみれば、わたしだってちょっと前までは似たようなもののはずだったんだけどね......)
そんなことも、胸中に浮かび上がってくる。
いつから、そうでなくなったのか──いや、結局は今だってたいして変わったわけでもないだろう。ただ、トトカンタの実家では味わったことのなかった焦 燥 を感じていることは、はっきりと彼女は自覚していた。

(わたし......そんなにお荷物なのかなあ......)
天井 を見上げて、思う。
(オーフェンがね、保護者面 したがるのも、分からないではないのよ。だいたい、未成年者ふたり引き連れて旅してるんだから、最年長者ってことで責任を自覚するのはむしろ当然かもね。でも──)
彼女は声に出してつぶやいた。
「わたしだって、オーフェンがその気になってくれさえすれば、きちんと相棒として働けるんだから」
いくらお嬢様育ちとはいえ、学校も下町のところに通い、友人もそちらのほうが多いし、そうそう世間知らずに育ってきたわけではないと自負している。とっさのことにも──その行動指針の正否は別とすれば──少なくとも迅 速 に、なにかしらの判断を下すことはできる。剣だって使えるし、なにより、いくら金を積まれようが、どんな絶望的な状況になろうが、まず絶対に彼を裏切ることがないのが自分だ、と思っている。
(これだけ条件がそろっていれば......まあ対等ではないにせよ、パートナーを名乗るのに不足はないはずよ。うん。もし、まだ足りないところがあるとすれば──)
こんこん、と、扉がノックされた。クリーオウの返事を待たずに、少々か細い、気 後 れしているような声音が続く。
「クリーオウ。ぼくだけど......入るよ」
「どぉぞ」
クリーオウは、ムッとした表情で扉をにらみつけた。
扉が開く。そこには、マジクが立っていた。
(まだ足りないところがあるとすれば──)
クリーオウは胸中でくりかえし、はっきりと嫉 妬 の念がこもった眼 差 しで少年をにらみつけた。足りないところがあるとすれば、それはこいつ なのだ。
(オーフェンがわたしのことを認めてくれないのは、あの石頭、わたしが魔術を使えないからに違いないのよ)
部屋の入り口で、どうやらこちらの形 相 にびっくりしているらしい金髪の少年は、戸 惑 うようにいつまでも、そこに立ち尽 くしていた。
◆◇◆◇◆
「......めんどうなことになったな」
村から数キロほど離れた森の中、ぼさぼさの黒髪に隠れるようにして眠たげな眼差しをのぞかせるその男は、ぼそりとした声でそうつぶやいた。実際の年齢はさほど高くはないのだろうが、見かけはそれより老 けて見える。そんな男だ。実年齢で三十少し前、見かけで四十過ぎというところか。不 精 髭 を伸ばした、精 悍 な顔付きの男である。鉛 色の戦闘服──それも、鎖 を仕込んだ魔術士用のスーツを着込んで、腰には細身の、片手用の軍刀を下げている。無 骨 な手がその柄 に触 れて、手の甲の傷 痕 をもぞもぞと動かしていた。
その、ともすれば当人とは別生物なのではないかと思わせるような傷痕の動きを見つめながら、男の周囲に集まっている数人の男たち──歳 も格 好 もちぐはぐな、あからさまに寄せ集めといった雰 囲 気 の暗殺者たちのひとりが聞き返す。
「......つまり? どういうことです、コーゼンさん」
コーゼンと呼ばれたその男は、眠たげな双 眸 をちらと上げ、答えた。
「つまりだ。我々は奴の暗殺に失敗した。奴もこれからしばらくは警戒を強めるだろうし、そうなれば我々も次の機会を待たなければならない。だが、こんな郊外の村では、怪 しまれずに身を隠す、というのはいささか無理がある」
「やはり......《牙の塔》の魔術士を相手にする、なんてのは──」
暗殺者の、今度は別のひとりが怯 えた声をあげるのを、コーゼンは皮肉げな視線で応じた。
「馬鹿なことだった、とでも言いたいか?」
「じゃあ......あんたは、そうでないとでも?」
「あの男が優 れた黒魔術士だということは認める」
コーゼンは、剣の柄から手を放し、自分のあごに当てると、不精髭の一本をぶつんと引き抜いた。
「《牙の塔》の魔術士であるという噂 も、あながち的 を外れてはいないだろう。あれほどの力を持っている男が、まったくの無名だというのが信じられんがな。あるいは、オーフェンという名前は偽 名 なのかもしれん──実際、馬鹿げた名前だ。ふざけているとしか思えんな。資料では不明になっている奴の経歴も、気になるところだ」
「なら、そいつを敵に回すのは......」
「そうでもない。いくら力を持っていようと、しょせんは若造だ。技術も粗 削 りだし、なにより胆 力 も経験もない。目の前で敵が死んだ程度で取り乱して、せっかくの捕 虜 を逃してしまう程度の男だ。なあ?」
と──右手に立っている、右腕を包帯で吊 っている長髪の男に目 配 せをする。オーフェンに木から落とされて、尋 問 されかかった暗殺者である。だが、彼は同意するよりも、どちらかと言えば当惑したふうで、つぶやいた。
「そりゃ、あんたも魔術士だから言うんだろう。未 熟 だろうとなんだろうと、俺たちにしてみれば──」
そこまで言いかけたところで、その長髪の男は、がくん、と一回だけ身体 を痙 攣 させた。
「────?」
周 りの男たちが、みな一様に訝 しげな視線を投げる。その視線の真ん中で、長髪は目を見開き、腹話術の人形のような口 調 でしゃべりはじめた。
「ア──ア──」
自分の喉 に手をやって、続ける。
「ミ──ツケ──タ──ゾ──」
異常に対する、暗殺者たちの反応は素早かった。ざっ──と長髪から遠ざかるように後退りし、各 々 の武器に手をかける。その中でコーゼンだけは無手のまま、指先を長髪に突き付け、叫んだ。
「開け !」
恐らく、そのあまりにも一般的な単語がどういう結果を意味しているのか、聞いた瞬間に理解した者はこの場にいなかっただろう。そんなどうでもいい思いが、コーゼンの脳裏に浮かぶ。次いでその瞬間、彼の魔術は発動していた。
ざむっ──大きめの靴 の底で粉雪を踏み締めるような音が響き、長髪の左肩から右脇 腹 にかけて、袈 裟 懸 けに巨大な傷口があぎとを開ける。心臓に近いあたりから、バケツに入れた水を捨てるような勢いでたった一度だけ、鮮血があふれる。もうその時点で、長髪は絶命して意識を失っていた。吊り包帯から抜けた腕をぶらりとさせながら、長髪の死体は、がっくりと後ろに倒れていった。
そして......その傷口から、もわっと──黒い霧 のようなものが、漂 い出てくる。霧は森の中の風に吹き散らされそうになりながらも、人の形に変化していった。
「な、なんだあ?」
暗殺者のひとり、ひょろっとした手足の長い男が、悲鳴をあげる。手にしているナイフは空しく、虚空に震えていた。
霧の人型は、白衣を着た線の細い若者の姿で、コーゼンだけを見 据 えていた。
「ミツケタゾ──オマエハ──マジュツシダ──フォノゴロス!」
「ふ、ふぉの?」
まったく分からないという口調で、コーゼンが聞き返す。
「フォノゴロス──オマエノ──シタコトヲ──オモイシレ!」
「吹き飛べ!」
コーゼンは無視して呪文を発していた。彼の突き出した両手から、閃 光 とともに電光が走る。稲妻は一直線に霧の人影を打ち抜いたが、黒い霧は一瞬だけ吹き散らされただけで、数秒後にはまたもとの人型にもどっていた。
「くそ──」
うめき、コーゼンはやや腰を落とした。ほかの殺し屋たちは、手にした武器で意味もなく霧に向かって斬 りかかっている。文字通り無意味なだけで、ナイフであろうがなんであろうが、それは黒い霧を通り抜けるだけだった。
「亡霊だ──」
誰ともなしに、そんなことを言いだす。その瞬間──
「え......?」
間の抜けたうめき声を、ひょろ長い男があげた。見ると、彼はぴたりと動きを止め、自分の胸元にゆっくりと拡 がっていく血の染 みを見下ろしている。
そして、ほかの方向からも──
「痛てっ!」
これもこの事態の中では、間が抜けているのに違いはないが、それなりに意味のある悲鳴ではあった。こちらは、いきなり地面に倒れると、足首から先をざっくりと奪 い去られた傷口を見て硬直している。地面に沈みゆく、刃のついた手が、一瞬だけ見えた。
ぴうっ──!
今度はかん高い音が、風を切る。胸元に血のあとを拡げる男の首が、苦もなくごとんと地面に落ちた。
「いったい、なにが起きてるんだ?」
コーゼンはとにかくあたりを見回しながら、うろたえた声を出した。こうなると、魔術もなにも無意味だった──敵の正体が分からず、姿さえも見えず、対抗する方法も思いつかない。
「亡霊じゃないぞ、こいつら──」
コーゼンはつぶやきながらくるりときびすを返すと、最後に残った仲間の顔をちらりと見やった。
「こいつらはバケモンだ!」
叫ぶ。
が──どうもさっきから静かだと思っていたその仲間は、とうに事切れていた。立ったまま、強烈な酸をかけられでもしたように、頭部が半分以上溶解してなくなっている。
「くそ──!」
コーゼンは、必死になって駆け出した。その背後で、足首を失って倒れていた仲間の断 末 魔 の悲鳴が、森の中に響き渡っていた。
誰 にでも過去はあるものだ。あるいは、過去を持たなければ人にはなれない。もっとも、さばけた人間であれば、それは単に時間という流れが過ぎ去ったというだけのことで、無理に意味を付け加えようとするのは感傷に過ぎないとでも言うだろうが。
だが、これならばどうだろう、とオーフェンは思う──人には誰にでも、忘れ去られた部分がある。もちろん、忘れ去られていたい部分もある。
しんとした、暗いホールを見回しながら、オーフェンは嘆 息 した。ふさがれた窓から、木 漏 れ日のように細い光が打ち付けられた板の隙 間 をぬって射 し込んできている。空気はむやみにほこりっぽい。床にも分厚いほこりの層が、足跡もなく積もっている。屋 敷 の入口──ホールの真ん中に、でんと見上げるくらいの高さの彫像が威 風 を構えていた。大陸ではあちこちで崇 拝 されている、運命の女神たち の彫像である。ほっそりとした、無表情な笑みを浮かべている女性の像。
「《現在の女神》......」
誰にともなしに、オーフェンはつぶやいた。腕組みしていた手を解いて、舞い上がったほこりを正面からかぶったズボンを、ぱっとはたく。
ん? と、彼のつぶやきに驚いたのか、かたわらにいたヒリエッタが聞き返してきた。
「なに?」
「いや......この屋敷の主人の人柄に感服したんだよ」
オーフェンは、にやりとして言った。女神の彫像には、顔の真ん中に、ノミで一撃したような傷 痕 が残っていた。そのせいで、女神は三つ目のように見える。優しげな双 眸 の真ん中に穿 たれた、いびつな第三の眼 差 し──
ホールには、ほかに目立ったものもない。ヒリエッタが背後で、入口の扉を閉めると、屋敷の中はほとんど真っ暗といってもいいほど闇 に没した。カチリ──という音とともに、ヒリエッタが携 帯 用の簡 易 ガス灯を点 ける。
ぼんやりとした明かりが、再び彫像を浮かび上がらせた。
誰にでも過去はあるものだ、とオーフェンは胸中でくりかえした──そして、それは神神も同様なのだろう。長女たる過去の女神──次女たる現在の女神──そして、末妹たる未来の女神。
運命の三女神、運命の三姉妹には、どうやら未来もあるものらしい。人間にとっては、それはどうだか分からない。ひょっとしたら今日明日、いきなり死ぬことだってあり得るのだから。
オーフェンは、感傷的になっていた自分を嘲 るようにふっと笑うと、白いガスの明かりに浮かぶヒリエッタに向き直り、言った。
「ったく......結局、肝 心 なことはなにひとつ聞かないまま、こんなところまでのこのこやってきちまうんだから、俺もたいがいお人 好 しだよな」
「あら、でも、一番肝心なところは話したじゃない? この件は、当事者のわたしのスポンサーに直接会わないかぎり、理解してもらえないだろうって。それで、今から彼のところに案内してあげるってんだから」
「俺がもっと聞きたかったのは──」
と、オーフェンはガス灯の光のとどかない天 井 を見上げた。わだかまった、黒いだけの闇。影の塊 のような、沈 黙 する漆 黒 の水面。そのまま天井を見上げつつ、彼は続けた。
「俺が聞きたかったのは、なんで俺なのかってことさ。単に腕の立つ魔術士ってことなら、俺でなくともいくらでも強力な奴がいただろう」
「例えば......《牙 の塔 》のキリランシェロ、とかね?」
唐 突 にヒリエッタの唇から漏 れ出たその名前に、オーフェンは身じろぎする自分を感じた。視線を投げやると、ヒリエッタはからかうようにブラウンの瞳 を輝かせている。
「オストワルドなんかと同じに考えないでね、わたしのことを──わたしが接触したかったのは、キリランシェロという男なのよ。大陸最強の黒魔術士チャイルドマンから、すべての暗殺技術を伝授された黒魔術士。チャイルドマンの秘 蔵 っ子キリランシェロ。弱 冠 十五歳にしてその名声は大陸の端にまでとどきかけた──」
「やめろ」
オーフェンはこわばった声で制止しようとした。が、ヒリエッタは構わずに続ける。
「でも、今から五年前に彼は《塔》から失 踪 した。理由については、暗黒街でもいろいろと囁 かれたわね。師であるチャイルドマンと仲たがいしたとか、その力をあまりにも危険視した《塔》の長老たちに疎 まれたのだとか、あるいは宮廷魔術士団《十三使徒》の長、大陸で唯 一 チャイルドマンと双 壁 をなす、王都最強の魔人プルートーを暗殺しにいったのだとか。まあ、そんな理由はどうでもいいのよ。わたしに言わせれば」
と、彼女はウインクした。
「大陸西部では 、あなたより強力な魔術士はいないわ。これまた失踪して行 方 不明のチャイルドマンをほかにすればね。あなたと同じチャイルドマン教室の人間でも、数年前に急死した〝天魔の魔女〟くらいしか──」
「やめろと言っているんだ!」
オーフェンは気短に怒 鳴 ると、ガス灯を提げる彼女の手首をぐいとつかんだ。口汚く罵 りたくなるのを必死にこらえながら、なんとか言い返す。
「俺はキリランシェロじゃない。五年前からオーフェンと名乗っている。《塔》を出たのも、俺なりの理由があってのことだ。それに、名前は──」
彼はせいいっぱい凄 みをきかせたつもりだったが、ヒリエッタは臆する様子もなく、笑みを浮かべたままで冷静にこちらを見返してきている。オーフェンは意地がくじけそうになるのを感じながら続けた。
「名前には、意味があると思ってる。俺がオーフェンと名乗ってるかぎり、キリランシェロだった俺は死んだままだ。誰もそれを......無理に呼び起こすことはできない」
唾 棄 するようにそう言って、彼女の手を放そうとする──が、それよりも早く、ヒリエッタのもう一方の手が、優しく自分の手に重ねられるのを彼は見つめた。
「人を殺せない殺 戮 者......鳴けない小鳥。そう言われて蔑 まれてきたのよね?」
「そんなことはどうでもいいんだ」
いらだたしく、オーフェンはうめいた。
「だいたい、人のことを言うんなら、君はどうだってんだ? 愚 犬 ヒリエッタか──決して依頼を断らないヒリエッタ。だが決して依頼を遂 行 できないヒリエッタ! 無論、依頼を遂行できないほど腕が悪いってわけじゃない──君は依頼主を裏切るんだ。すべての依頼の九割がたな。人を殺せと依頼すれば、いきなりそいつをほかの街まで逃げ延びさせて、新しい仕事まで世話してやったりする。かと思えば、護 衛 の任をほったらかして突然姿を消したりもする。君が唯 一 遂行する仕事は──魔術士殺しだ」
「......ええ」
ヒリエッタは同意してみせた。重ねられていた手が、力が抜けたようにすっと落ちる。
「そのことは、歩きながら説明するわ。この屋敷の......地下へ行きながら、ね」
「落ちこぼれ......外れ者」
「............?」
訝 しげな視線を彼女に返すと、ヒリエッタは、照れるようにして微笑を見せた。ガス灯の明かりを頼りに、ほこりだらけの無人の館 を進みながら。
「わたしのことよ。ようするにわたしは、それだったの」
館は、話によれば十年前に放棄されたのだそうだ。当時は使用人の手によって隅 から隅までワックスがけされた、清潔でシックな屋敷を気取っていたらしい。館の主 は家族もなく、泊 まり込みの使用人を数人と──助手を家において生活していた。
が、なんにしろ──今となっては当時の面 影 など見る影もない。暗闇の中で、かん高い鳴き声と足音を引きずりながら、ネズミの群れと思 しき集団が走り抜けていく。十 重 二 重 のクモの巣を払いのけながらオーフェンは、黙って彼女の話を促した。
ヒリエッタが、軽い調子で続ける。
「ここからちょっと西に進んだところにね──地図に名前も載ってない、小さな村があるの。地元の人間は、レインダストって呼んでいたわ。わたしたちは時代の屑 だってね。ようするに、何十年か前にあった、ごくささやかな戦災で故郷から焼き出された人間が、誰にもたよらずなんとか生き延びて......そして時間が経 ったら、いつの間にか村になっていた。そこが、私の故郷」
それを聞いて、オーフェンはぽつりとつぶやいた。
「......俺の生家があるのも、確かそのあたりだな」
「家があるの? 孤児 なんて名乗ってるくせに」
ヒリエッタは、少し意外そうに聞き返してきた。オーフェンは息をつくと、
「今は君の身の上話をしてるんだろ? 続けろよ」
「ま、いいけど......いるわよね。触 れたくない話題になると、すぐに人にバトンを押し付ける人って」
彼女は肩をすくめると、また話を再開した。
「わたしが村を出たのは、十五のときだったわ。村の中のことが、なにからなにまでなんとなく面 白 くなくなって──平たく言えば家出したのよ。簡単な手荷物だけまとめて、最初にたどり着いたのが、街道沿いのこの村だった」
「十五ねえ......」
オーフェンはかたわらのヒリエッタを、頭から腰下あたりまでざっと眺 めて、年齢を推 測 してみた。
「つうと、それがだいたい十年前ってトコか?」
「残念。九年前」
「どっちでもいいさ」
オーフェンが言うと、ヒリエッタは、くすと笑い──
「それが、よくないのよ」
答えて、表情に暗い色を落とした。わずかに視線を下げた彼女を見返しながら、オーフェンは自分の頭をかいた。天井から虫が落ちてきたのだ。
「もし、わたしが村を出るのが一年遅かったら......わたしは彼に出会わずにすんだわ」
「彼?」
オーフェンは髪の間でじたばたしているクモをつまみ上げ、聞き返した。
ヒリエッタの声は、虫歯の痛みを我 慢 しているように歪 んで響いた。
「ええ。この村で行き倒れになったわたしを介 抱 してくれたのが......サミイ。彼よ」
彼よ。
それだけで、その男のすべてを語り尽 くせるとばかりに、彼女は唐突にせりふを区切った。オーフェンはあえてなにも言わず、聞き流すままにしておいたが、名前だけははっきりと記憶した。サミイ。
同時に、つまんでいたクモを後ろに放り投げた。放り投げたあたりでばたばたと、獲 物 を狙 って飛びかかるネズミたちの喧 噪 が沸 き起こる。
そのまましばらく屋敷の中を進み──ホールの奥の通路を抜け、台所らしき部屋をくぐり抜け、地下の酒蔵へと続く階段を前にしたとき、オーフェンはなにげなく聞いてみた。
「なんで、この村に着くのが一年後だったら、そのサミイとやらには出会わずにすんだんだ?」
ヒリエッタの返答はごく短かった。
「死んだからよ。出会って一年後に」
(......いるよな。触れたくない話題になると、いきなり口数が少なくなる奴ってのも)
オーフェンは仕返しのつもりで胸中でつぶやくと、なんの合 図 もなく階段を下りはじめたヒリエッタの後を、ゆっくりとした足取りで続いていった。
雨季が過ぎたばかりのせいか、階段は妙に湿っぽかった──湿っぽいだけでなく、蒸 し暑い。手をついた壁 面 にじっとりとした感触を覚えて、オーフェンは革 のズボンで手を拭 った。一段、また一段と石造りの階段を下るたび、湿気が増していくような気がする。
と、オーフェンはふと自分の忍耐が切れかけているのを悟った。
「で、そのサミイってのがどうしたってんだ」
ヒリエッタはふりかえりもせずに答える──だから、どんな表情をしているのかはこちらから見えない。
「彼は助手だったのよ。この屋敷の主──《牙の塔》から追放され、この村に流れ着いた黒魔術士フォノゴロスのね」
階段は、彼女の返答とともに、いきなり終わった。
階段の下はちょっとした踊りの場のようになっていて、真正面に一枚、鉄製の扉 が構えている。プレートもなにもない、味も素っ気もないただの扉である。ヒリエッタがガス灯の火を消した。
あたりが真っ暗になる。
「......どういうつもりだ?」
オーフェンは気にもせず、聞いた。ヒリエッタが肩をすくめるのが、気 配 で分かる。
彼女はそのまま手探りで扉を捜 し当てると、そのまま扉を押し開けた。重い扉がきしむ音とともに、気圧の高まっている地下室から、ぶわっと空気が流れ出てくる。
流れ出てきた空気は、水の臭 いがした。それも──腐りかけた水の臭い。
開いた扉から流れ出てきたのは、空気だけではなかった。部屋の中から、淡い光も漏 れ出してきている。のぞいてみると、部屋の真ん中になんの支えもなく、巨大な蛍 のような光の球が宙に浮いていた。
部屋の右手には、大きな木箱が三段重ねくらいになって整然と積み上げられている──高さ一メートルほどの、頑 丈 そうな木箱である。どれも厳重に封がされていて、開封厳禁の注意書きがしつこいくらいに為 されている。そして......
「製造年月日? 赤光帝三十八年......今から十年前......?」
オーフェンは訝 しげに読み上げたが、ヒリエッタは表情をこわばらせ、なにも答えてはこなかった。真っ赤なルージュのひかれた口の端を、実際に仇 でも嚙 み殺しているみたいに引きつらせている。
彼女の表情にはひっかかるものがあったが、オーフェンはあえて無視して入口から部屋の中を見回した。木箱が並べられているせいで、もとは広かったらしい地下室もかなり狭苦しくなっている。そして、部屋の奥のほうに、ひときわ大きい木箱が置いてあり──
いや、違った──と、オーフェンはきょとんとした。奥にあるのは、木箱ではなく、巨大なガラスの水 槽 だった。
壁にぴったりと押し付けられるようにして、高さにして二メートルほどはありそうな、巨大な水槽がしつらえてある。ガラス面は苔 でまんべんなく汚れていたが、ところどころ何度かふき取ったような跡があった。水槽は鮫 だって入れそうなほど巨大だったが、その中にはなみなみと水が蓄 えられているようだった。
「ここが──」
ヒリエッタは芝 居 がかった口調で言いながら、すたすたと部屋に入っていった。光球の上に手をかざしながら、
「ここがフォノゴロスの......安置所よ」
「安置所?」
聞き返す。と──
「その通り」
返事は、水槽の中から響いてくるようだった。
「よく来たな。待っていたよ......わたしがラモン・フォノゴロス──《牙の塔》を追放されたキエフ・フォノゴロスの研究を......継 いだ者だ」
◆◇◆◇◆
『ボルカン商会の記念すべき第一回大会──落ちている金物を集めてお金持ちになろう!』
シーツとおぼしき白い布に、でかでかと青いペンキで書かれたその旗 は、物干し竿 の先にくくりつけられて大きく風にはためいていた。物干し竿を高らかに掲げているのは先頭をいくボルカンで、その後を、懸 命 に道端に血走った視線を凝 らしているのは五人の子供たちである。そして最後尾を、ドーチンはとぼとぼとくっついて歩いていた。
さんさんと日が照る昼下がり、宿屋の客の残り物をひとりであらかた片付けたボルカンが思いついた新商売が、これだった──説明するのも馬鹿馬鹿しい、とドーチンが思うくらいで、ようするに道端に落っこちている金 屑 の類 いを集めて、そのへんの行商人にいくらかで買ってもらおうというのである。
(ま、『戦 慄 ! 蛇 男 』よりはマトモな発想かもしれないけど......)
と、前方の行列を見やる。兄はなにやら商会員──つまり子供たち──を鼓 舞 しているつもりかダミ声をがなりたて、ばたばたと旗を振り回している。その次に、子供たちのうちふたりが例の拾った木箱を抱えて進む。その木箱の中に、ちまちました針金やら曲がった釘 やらを拾っては投げ入れるのが、後続の三人の子供と、ついでに言えばドーチンの役目だった。もっともドーチンは、こういった鉄屑の相場がいくらほどのものか知っていたので、とてもではないが積極的に参加する気にはなれなかった──とはいえさっさと隊列を抜け出して宿に帰るというのも、恐らくはその後何日も続くであろうボルカンのイビリを考えれば、実行できるものでもない。
そんなわけで、特になにもしないのだが、とりあえずお義理でつきあってやっている、というわけだ。見つかったらげしげしに殴 られるだろうが、先頭を歩いている兄からは、こちらは死角になっている。
と──彼は、道の向こうから見知った顔がふたつ、並んで歩いてくるのに気づいた。Tシャツの上に、男物の色があせたブルーのシャツをひっかけた、いつものジーンズ姿のクリーオウと、何度か顔だけ見たことがある、黒ずくめの格好をした少年。ドーチンは、なんとか記憶の底からかすれた名前を思い起こした。マジク。そう──あの金貸し魔術士の弟 子 だとかいう、マジクだ。
ふたりもこちらに気が付くと、道を横切ってこちらに駆け寄ってきた。なにやら拗 ねているような気配のクリーオウが、ほっそりした右手をあげる。
「ハアイ」
「......こんにちは」
ドーチンは立ち止まって、あいさつを返した。ボルカンたち『商会』は、彼を置いてのろのろと進んでいく。
それを横目で見送りながら、ドーチンは眼鏡 の位置を直しつつ、クリーオウに聞いた。
「お散歩ですか?」
「ううん......オーフェンを探してるの。彼、いきなりいなくなっちゃって」
言いながら、クリーオウはため息をついた。その後ろでマジクが居 心 地 悪そうにしている。よくは分からないが、複雑な事情があるのかもしれない。
「ぼくは、今日は見かけてませんけど。今朝は派 遣 官 のところに出向いてたんでしょう?」
「昼前に帰ってきたわ。で、また出てっちゃったみたい。殺し屋といっしょに」
最後の一言には、妙な迫力がこもっていた。これ以上その話につきあうのはどう考えても得策とは思えなかったが、とりあえずドーチンは聞き返した。
「殺し屋?」
答えたのは、マジクのほうだった。
「あ──ええと──そうじゃなくて、背の高い女の人。髪の長い、ほら、昨夜は同じ宿に泊まってたはずですけど」
「それなら、覚えてますけど......」
というか、あれだけ目立つ人間をそうそう忘れられるものでもない。
じろりと後ろ目でマジクをにらみつけ、クリーオウがうなるようにつぶやく。
「早く見つけださないと、オーフェンが危険なのよ──あの女、彼を殺しにきた殺し屋なんだから。ナイフを持ってたの、見たでしょ?」
(どう考えても、殺し屋なんか より魔術士のほうが怖いと思うけど......)
ドーチンは胸中でぼやいたが、口には出さなかった。なんにしろ、目の前のこの人間の女に逆らうとロクなことがない。
「じゃあ、ぼくも気を配っておきますから──」
ドーチンは言いかけた。そのとき──
「うわああああああっ!」
悲鳴があがる。
見ると、ボルカンが旗を抱えたままひっくりかえったところだった──地 人 を突き飛ばし、その後に続く子供を蹴 散 らしてこちらに突進してくるのは──ぱっと見ではイマイチ年齢の分かりづらい男である。剣に腰を下げていた。口元を引きつらせ、どうもさっきの悲鳴はボルカンではなくこの男のもののようだったが──
「どけえっ!」
男は、こちらに向かってそう叫んだ。ドーチンは、さっと道のわきにどき、改めて落ち着いてその男を見やった。不 精 髭 のせいで、見ようによってはひどく老 けて見えるが、酒場の奥の暗がりにでもひっこめば、かなり渋く見えるのではないだろうか。目付きは鋭く、それだけは、どことなくあの金貸し魔術士に似ている。鼻は尖 っていて、顔の真ん中には靴 が──
(靴?)
ドーチンが訝 った瞬間、どげし! という音があたりに響いた。同時に、走っていたところを真正面からなにかに邪 魔 され、のけぞるようにして男が倒れる。見ると──どうやら男のすぐわきから、クリーオウが後ろ回し蹴 りなど見舞ったらしい。上げていた足をすっと下ろしながら、クリーオウはフン、と鼻息を吹いた。
そのとなりで、あ〜あ、とばかりマジクが頭を抱えている。
「うおおっ? 真っ赤な血ィが!」
男は、鼻血の噴 き出る鼻を押さえながら、叫び声をあげた。
「なにをする!」
「うるさいわね!」
クリーオウは、まだ地面に倒れて上体を起こしたままの男に、ずいと詰め寄るようにして指を立てた。
「そっちこそ、なにをするってのよ! いきなり現れて、子供まで突き飛ばして!」
「どー考えても、いらだってるところにたまたま現れた通行人に八つ当たりをしたとしか思えないけど......」
後ろでぼやくマジクも、クリーオウがじろりとにらみやるとすぐにそっぽを向いて口をつぐんだ。
ドーチンはあえて黙って見ていたが、どちらかといえば、マジクに賛成だった。
「こ、小娘──言っておくが、今はそれどころではないんだぞ!」
男は立ち上がると、ぱっと腕を水平に振った。どうやら、走ってきたほうを指し示しているつもりらしいが。
つられて見ると、ひっくりかえった箱からこぼれた鉄屑を、一 生 懸 命 になって子供たちが拾い集めていた。ボルカンは旗を振り回し、無意味に応援だけしている。
なんにしろ、ケガだけはなかったらしい。と──クリーオウが叫ぶのが耳に入った。
「それどころじゃないのはこっちもご同様よ! あの淫 乱 暗殺者からオーフェンを守らなきゃならないんだから!」
「淫乱......?」
師とそっくりの疑わしげな半眼で、マジクがぼやく。
だが誰も聞いていなかった。男は、いきなりぐいとクリーオウの手首をつかみ上げると、警戒顔のクリーオウに顔を近づけ、
「なにが暗殺者だ! 子供のお遊びにつきあってる暇 は──」
と、そこで口ごもる。はっと気づいたように、
「オーフェン、だと?」
その隙 が、命取りだった。つかまれた手首を引き寄せつつ、クリーオウが叫んだ。
「さわんないでよ、鼻血男!」
ごし! とクリーオウの頭 突 きが男の顔面に炸 裂 する。
「うおおおお?」
再び倒れる、ミスター不 精 髭 。
「あー。やだ、髪に血がついちゃったんじゃない?」
見るとクリーオウはそんなことを言いながら、マジクに頭を見せている。
「だ、大 丈 夫 ですか?」
ドーチンはとりあえず、男のほうに駆け寄った。なんとなく、彼のほうが被害者のように思えたのだ。
男は、また鼻を押さえつつ、うめいている。
「く、くそ──小娘が、この隻 影 のコーゼンに二度までも──」
どうやら、この男はコーゼンというのが名前らしい。ドーチンは男に近づいて、くりかえした。
「大丈夫ですか?」
「う、うむ──できればちり紙なんか、ないか?」
「すいません。ないです」
「むむむ」
コーゼンとやらはうめくと、立ち上がって抜 刀 した。さすがにクリーオウも、げ、とつぶやいて後 退 りする。
「ち、ちょっと──なんのつもりよ。そんなモン抜いちゃって」
「女子供を手に掛けるのは本意ではないが、聞き捨てならないことを聞いたのでな」
と、ついでにもと来た道を見やり、続ける。
「どうやら、追っ手も撒 いたようだし、ちょうどいい──」
「き、聞き捨てならないことって、鼻血男のこと? や、やーね。冗談じゃない」
「ンなことでいちいち剣を抜く奴がいるかっ!」
コーゼンは、片刃の軍刀をぶんっと振ると、
「貴様が言っただろう──オーフェン、とな! お前らがあの黒魔術士の仲間だというなら、ちょうどいい。人質にしてくれる!」
「って──」
ドーチンは、コーゼンを見上げるようにしてつぶやいた。
「白昼堂々そんなことを叫んじゃっていいの?」
「ゔ......」
痛いところを突かれたらしく、コーゼンは、ひくりとほおを引きつらせたが、それだけだった。どうやら、その辺のことはもう諦 めているらしい。
見回すとあたりでは、ざわざわとやじ馬が集まりはじめていた。中には、ボルカンが引き連れている子供の親の姿もあるようで、ひときわ悲痛な叫び声をあげている。いつの間にか安全なところ──つまりそのやじ馬たちの中に紛 れているボルカンが、だいじょーぶ! 商会員の安全はあの眼鏡小僧が保証します! と叫んでいるのが聞えた。
(ぼくのことかよ、おい......)
まあ、どのみち見るかぎり、子供たちは木箱を担 いで、こちらとは少し離れたところにいるから、このコーゼンとかいうのが血迷って変に暴走しないかぎりは危険はあるまい。
マジクの後ろに隠れるようにして、クリーオウが叫ぶのが聞える。
「あ、あなたなのね──オーフェンが言ってた、その他大勢、十 把 一 からげの殺し屋っていうのは!」
「お師様は『複数の殺し屋に狙 われてる』って言ったんだけど......」
背後に回ったクリーオウに、困ったような視線を投げて、マジク。
いいかげん怒ったようで、コーゼンが叫んだ。
「人を勝手に脇 役 扱いするんじゃないっ! 俺はその道じゃあ、ちょっとは知られた──」
「ちょっとしか知られてないのね」
「やかましいっ! 俺は灰 燼 の傭 兵 、海岸に走る影と恐れられた、コーゼン・ウァイセツ様だぞっ!」
「あのう......」
ドーチンは、コーゼンの戦闘服のすそをひっぱりながら、言った。
「これから人を拉 致 しようってときに、いちいち名乗るっていうのは......」
「うるさいっ! 顔を見られれば同じことだ!」
「ええと......」
疲れたようにマジクが、つぶやいた。
「もういいや。死なない程度に──十、九、八、七、六......」
「............?」
きょとんとして、殺し屋がマジクのほうを見やる。そのうちにもマジクは、目を閉じてややゆっくりめのカウントダウンを続ける。
「五、四、三、二、一──」
カウントが三を過ぎたあたりから、ふわっ──と少年の金髪が風に吹き上げられたようになびく。その瞬間、コーゼンが悲鳴じみた声をあげた。
「魔術だとぉ! 資料にはなかった──」
「我は放つ光の白 刃 っ!」
かっ──!
突き出された少年の手の先から、純白の輝きがほとばしった。光の帯は大気を駆け抜けると、そのままコーゼンの真正面に突き刺さり──そして、通り抜けた。
風ひとつ起こらない。
「......へ?」
顔の前で両腕をクロスさせて、とっさにガードの姿勢をとっていたコーゼンが、間の抜けた声をあげる。なんともない。まぶしいだけだった。
「あれぇ?」
マジクは、不良品をつかまされたような面 持 ちで、自分の右手をのぞきこんだ。
「うまくいかないなあ。時間をかけて集中すればなんとか、って思ったのに」
「この役立たず!」
少年の肩につかまっている格好で、クリーオウが言うのが聞こえる。口をとがらせて、マジクが反論した。
「役立たずはないだろ。少なくとも光が出たんだから、今日は及 第 点 だよ」
「おちょくっとんのか、貴様らあああっ!」
(やばいっ!)
怒鳴り声をあげたコーゼンの横で、ドーチンは身をすくませた。殺し屋が、とうとう切れたらしい。剣を片手に構えて、正面のマジクとクリーオウ目がけて斬 りかかっていく!
その後ろ姿を見送りながらドーチンは、自分になにができるかと自問していた──時間はあまりない。数秒のうちに殺し屋はふたりのところにたどりつき、ばさり──どっちかを斬り倒すだろう。殺し屋は自制を失っているようだから、一撃で致 命 傷 にはならないかもしれない。剣で人を殺すのは、包 丁 で刺し殺すのより難しいのだと、なにかの本で読んだ覚えがあった。なんて物 騒 な本なんだ。書いたの誰だったっけ──いや、そんなことはどうでもいいんだ。
以前、クリーオウが剣を使うのを見たことがある──それなりの技量だった。だが今は彼女は丸腰だし、どちらにしても、マトモな殺し屋と正面からやり合うほどの腕前があるわけでもなかったはずだ。となると、彼女がこの場で自分の身を守れる可能性はほとんどない。ましてやあのマジクとかいう少年は、自分に向かってくる刃物をかわすことができるようにはとても見えなかった。一言で言えば、絶望的というやつだ。
でもだからって、ぼくになにができるってんだ。殺し屋はものすごい勢いで突進していくし、後ろから追いかけて、それに追いつけるとはとても思えない──石でも投げようか? 当たるわけないけど、まあ小石を拾うだけは拾ってみて、とりあえず努力はしたのだと言えば周りも納 得 してくれる──
(あれ?)
とドーチンは、道にかがみこんで石を拾い上げながら、殺し屋のほうを見やった。もうとっくに数秒は過ぎた。いいかげん、斬り殺されたマジクかクリーオウかの悲鳴が聞こえてもいいころだろう。
見上げてみると、殺し屋の後ろ姿は消えていた。いや正確には──彼が見上げた瞬間、殺し屋のいたあたりの空間をなにか黒い影が通り過ぎて、殺し屋が横に弾 き飛ばされたのだ。馬に撥 ねられたように宙を跳び、横倒しになって、殺し屋コーゼンは道端に落下した。どう、と身体をバウンドさせてから、殺し屋が叫ぶ。
「くそ──やはり、追ってきやがったか!」
「え......?」
ドーチンは、殺し屋がにらみやるほう──彼がもと逃げてきたほうへと、視線を投げた。もとより子供たちはとっくに逃げ出していたようだったが、例の木箱がころんと横倒しになって転がっている。そして、そのすぐわきに──得 体 の知れないモノが立っていた。
「な、なにあれ」
クリーオウがうめくのが聞こえる。誰も答えなかった。答えようがない。
甲 冑 、のように思えた。よく貴族の応接間とかに飾 られている、あれだ。ただしそこに立っているのは艶 消しの漆 黒 に塗 られた代 物 で、手には盾 も剣も槍 も提 げてはいない。ぶらんと両腕をわきに落として、面ぼおの奥から、瞳 のない顔でじっとこちらを見ている。
がちゃん......と、甲冑は右腕をあげた。同時に、その鎧 の隙 間 からなにやら黒くて細い、鞭 のようなものが走り──
殺し屋が倒れている地面をえぐった。ただの紐 のようにも見えるその影は、どうやら尋 常 でない威力を持っているらしい。爆発するような音を響かせると、殺し屋が横に跳んでかわしたその地面のあたりを、数十センチもえぐって弾きとばした。
「食らえ!」
これは、コーゼンの叫び声。殺し屋の右手から、稲妻が走る。電光は真っすぐに甲冑を撃ち抜いた。ショックを受けたように振動し、大きな音を立てて、甲冑が倒れる。が──すぐに甲冑は、何事もなかったようにむっくりと起き上がった。
そして、今度は腕をあげずに、少しだけ身体を震わせる。
ぴうっ──鋭い音が響き、今度はなにも見えないというのに、いきなりコーゼンの肩口に傷口が開いた。深手ではないようだったが、殺し屋が身をよじったので、その勢いであたりに血が飛び散る。
やじ馬たちの中から、悲鳴の声があがった。
と......
ぶわっ──と、空気が揺らめくように、音を立てる。
ただぼうぜんとする観衆の視線の中、マジクとクリーオウの真正面に、それは出現した──昨日見た、例の亡霊だ。黒い霧がゆっくりと形をとり......人の姿へと変 貌 する。
やじ馬たちの誰かが、叫ぶのが聞こえた。
「出た──また出たぞ! フォノゴロスの呪 いだ!」
それを合図に、クモの子を散らすようにやじ馬たちが逃げ出していく。わーきゃー言う騒ぎの中で、ドーチンは、はっきりとその亡霊のつぶやきを聞いた。
「キサマ──キノウ・ハ──キヅカナカッタ──キサマモ──マジュツシ・カ!」
神経質そうな若者の姿で、マジクに向かって亡霊は続ける。
「イツニナッタラ──ミツカルノダ! フォノゴロス──!」
「ぼ、ぼくはフォノゴロスなんかじゃ──」
マジクが反論する。が、亡霊は聞いていないらしい。なおもぶつぶつと何事かをつぶやくと、両腕を広げて絶叫した。
「キサマノシタコトヲ──オモイシルガイイ!」
ごうんっ!
風が、吹き荒れる──竜 巻 状の気流に砂 塵 が巻き上げられ、ドーチンは両腕で目をおおった。悲鳴、罵 声 ──それは村人たちのものなのか、クリーオウらのものなのか、よくは分からなかったが──
風が収まったとき、その場に残っていたのはドーチンひとりだけだった。
ぽかん......と、やじ馬たちの逃げ去ったその場で、彼はあたりを見回した。逃げ遅れた村人や、逃げる群衆にさんざ踏み付けられたらしいボルカンが、地面に倒れているが、あの殺し屋もクリーオウも、マジクの姿もない。そして、黒い甲 冑 も、亡霊もだ。
「ど......どうしよう」
ドーチンはぺたんと地面に座り込んで、うめくように言った。ずり落ちかけた眼鏡の位置を直しつつ、
「昼日中に暗殺者が現れたり幽霊が出てきたり、なにかが間違ってるぞお」
そういう問題ではないような気はしたが、とりあえずドーチンが思いついたのは、その程度だった。
よたよたと、ボルカンのほうに近寄っていく。兄は、足跡を全身にくっきりつけながら、うつ伏せのままなにやら毒づいているようだった。
「くそ......いきなり踏切板扱いしやがって......こうなりゃ赤ん坊で夜泣き殺して──」
「に、兄さん兄さん」
ドーチンはボルカンを揺り起こすと、
「ど、どーすんのさ。クリーオウも、あのマジクってのも、いなくなっちゃったけど」
むくり、と起き上がりつつこめかみのあたりを手のひらでさすり、ボルカンもうめく。
「むむ......どうやらあの幽霊にさらわれたらしいな」
「うん......」
とドーチンは、あたりを見回した。そして、適当に見当をつけた位置で視線を止め、
「......なんにしろ、あの借金取りに言うしかないけど──でも──」
口ごもる。ボルカンにも分かったらしく、いやそうな顔を見せた。
「あの金貸し魔術士、絶対に今回のことが俺たちのせいだと決めつけるに違いないぞ。今までみたいに」
「いや、今までのは実際兄さんが発 端 だったんだけど......」
だがボルカンは無視して、ずんぐりした指を立てて提案してきた。
「頭丸めてそこに墨 で『ごめんネ』って書いて、靴 をなめながら謝 るってゆーのはどうかな」
「大 蛇 に呑 まれながらのほうがいいんじゃないかな......」
「俺のせいじゃないのに」
「ぼくのせいでもないのに」
「不条理だな」
「ねえ?」
と最後の一言はお互いに同時につぶやきあって、地人の兄弟は天を見上げた。
◆◇◆◇◆
「ラモン......フォノゴロス?」
オーフェンはあごに手を当て、聞き返した。苔 に覆 われ、中が見えない水槽をじっと見 据 えて。
「わたしの父──キエフ・フォノゴロスのことは知っているのだろう?」
声は、水槽の中から聞こえてくるのではなかった──よく見ると水槽の上に、伝声管らしき細い筒が突き出している。オーフェンは据わった眼 差 しでそれを見つめ──
ふりかえって、ヒリエッタに言った。
「悪いが、席を外してもらえないか」
「どうして?」
と聞きながらも、彼女は、彼がそう言いだすのを予期していたふうだった──片目をすぼめて笑みを浮かべるようにして、いたずらっぽくこちらを見ている。
オーフェンは、ゆっくりと嘆 息 した。
「ここから先は《牙の塔》の魔術士同士の話になる」
「オーケイ」
彼女はあっさり同意すると、部屋から出ていった。重い扉が、ぎいい、と閉まる。
オーフェンは水槽のほうに向き直った。
「フォノゴロスのことは、聞いたことがある程度だ。《塔》の長老たちは、その男のことを特級の禁 忌 としていた。もっとも──」
胸元のペンダント──《塔》の魔術士の証 しであるドラゴンの紋 章 をもてあそびながら、続ける。
「俺の先生は、フォノゴロスの研究について、ほんの一時期興味を持っていたようだった。俺も資料を見たことがある」
「ほんの一時期?」
ラモン・フォノゴロスの声は、驚いたように響いた。
「ああ。すぐに興味を失った。残った資料は不完全だったし......そもそも彼には必要ないことだった」
「ほう......必要ないとは、どういうことだ?」
オーフェンはいらだたしげに頭をかきながら、
「フォノゴロスの研究は、人間を人間以上の存在にすることを命題としていたらしい。チャイルドマン教師は──」
一度言葉を切り、適当な表現を探す。
「彼は、生まれたときから既 に人間以上だった。何百年にひとりの天才だったのさ」
「なるほどな......」
ラモン──いや、その声は面 白 そうにくつくつと笑い、
「それならば、父の研究は必要のないものだったかもしれん。だが君は勘 違 いをしているな。父の研究は、決して人間以上の存在を造るものではなかった」
「なんだと?」
「そしてそれこそが、キエフ・フォノゴロスの研究結果を《塔》が認めなかった理由だ──父は毎晩のように、わたしに愚 痴 っていたよ。なぜ理解してもらえないのかと。彼は」
声は、淡 々 と告げた。
「彼は、ドラゴン種族に勝 る戦闘生物を造ろうとしていたのさ」
「ドラゴンに勝る生物、だと......?」
オーフェンは聞き返した。
「ドラゴン──」
ラモンは詩歌でも唄 うように続けた。
「かつて伝説の時代──巨人の大陸 にて神々から『魔法』の秘儀を盗みだし、『魔術』として自らの力にしたという、六種類の獣 たち、人間はもとよりドラゴン種族ではなかったが、そのドラゴン種族のひとつ、天 人 たちと混血することにより、魔術の力を得た──その末 裔 が、君や父のような......人間の魔術士というわけだ」
「俺や......父のような ?」
彼の不自然な物言いを、オーフェンは問いただした。
ラモンは笑みを含 んだ声で、
「そうだよ。わたしは魔術士ではない......父の子なのだから、魔術の素養はあったのだろうがね。父はわたしに訓練を施 すことができなかった。自分の研究に手一杯で」
そしてその声は、自 嘲 するように変じた。
「だからわたしには......あのクリ―チャーを処理することができなかった、というわけさ」
(クリ―チャー......)
オーフェンの脳裏に、あの神経質そうな若者の『亡霊』であるとか、奇怪な蛇人間のシルエット、そして──暗殺者の頭を握り潰 した『手』の姿が浮かんだ。
だが──あれがそのクリ―チャーとやらであるとしたら──
「ハッ!」
オーフェンは、鼻で笑った。
「馬鹿げてる──確かにあれは、いちいち意表をついた格好はしてるようだがな、あんなもん、ドラゴン種族の魔術には通用しねえぜ。奴らの戦闘能力は、人間には推 し量 ることすらできるもんじゃない。俺は何度か奴らの魔術と張り合ったことがある──」
「そうして、生き延びてきたのだろう?」
冷静なラモンの声に、オーフェンはぴたりと言葉を止めた。一瞬静まり返った部屋の中に、明かりだけが揺れている。ラモンは、ゆっくりと続けた。
「あのクリ―チャーたちは、試作品なのだ......父は段階的に、より強いクリ―チャーを造っていくつもりだったらしい。人 為 的 に進化させていくのだ、とか言っていたな。こんな話を知ってるかね? 昔──人間が魔術の力を得た当時は、その力はどうというほどのものでもなかったらしい。だが時を置くと、その力は次第に増していった......で、どうだ。現在では、いくつかのドラゴン種族を凌 駕 するまでになっているではないか?」
「だが自 ずと限界があるだろう、とも言われている。ここ最近では、強力な力を持った魔術士はむしろ減少傾向にあるくらいだ」
「淘 汰 されているのだ、とわたしは思うのだよ」
ラモンの口調はどうも、静かな研究室で議論でもしているように落ち着き払っていた。オーフェンはいらだちを覚えながら、伝声管をにらみつけた──と、ふと気づいたのだが、伝声管の上、水槽の上の天井に穴が空いている。ダストシュートのような四角い穴が、水槽の上にぽっかりと口を開けていた。
だがそれを訝 るよりも早く、ラモンが続ける。
「人間の進歩の仕方というのは、過去を保存しようとはしない......むしろ、現在においてより効率のいいなにかを得た瞬間、過去のなにかが犠 牲 になる、という方法をくりかえしてきた。もし魔術士の能力というのにある段階を設定できるとするならば、今より一段階上の魔術士が生まれた瞬間、それより一世代前のレベルの魔術士は死滅するのではないかと思うのだよ。その進化のペースが速まれば、これは悲劇にもなり得るがね......」
「そいつは、あんたの父親の見解でもあるのかい?」
腕組みしてオーフェンが聞くと、ラモンの声は、同意の気配を見せた。
「ああ、そうだ。父は、あえてその悲劇に挑 もうとしたのだ。つまり、進化のペースを速めてみよう、とな」
「......とりあえず言っておくが、俺にはあまり興味深いとは思えんね。もしその理 屈 で、ホールにある《現在の女神》の像に傷をつけたんだとしたら、まあ、もったいないと思うだけだな。あれはそれなりの骨 董 品 なんだろ?」
「......あれには、また別の意味がある」
「なんだと?」
特に意味もなく言った皮肉に、トーンを落とした答が返ってきたので、オーフェンは面食らった。だがラモンは今のところ、その説明をするつもりはないらしい。断りもなく少し前の話題にもどっていった。
「結局のところ父は、失敗したのだよ。まあもともと、人間の手で人間以上の存在を造ろうなどと、しようもないナンセンスだ。できたのはせいぜい、こちらの制御すら受け付けない化け物どもだけ。父はクリ―チャーと呼んでいたがね。わたしは密 かに失敗品 と呼んでいた。父の研究は、よく言ったところで、まったくの見当外れだったな」
「......悪く言えば、どうなる?」
「愚 行 だ」
ラモンの声にはよどみがない。
「もしくは、犯罪だ。何人かの犠牲者を出して、自らも命を絶った」
オーフェンは、宿屋の屋敷を建てた名士──村外れで変死したとかいう名士のことを思い出した。どうでもいいと思うようなことを、あえて聞く。
「犠牲者......ってのは、どのくらいいたんだ?」
「そこの木箱の数を数えてみるんだな」
オーフェンはふりかえって、部屋に積んである木箱を見上げた。ざっと見て──十数個といったところか。二十はない。
「ひとつの箱に、一匹の動物──蛇とか、ウサギとかが入っていてな。その身体に最高みっつの《要素》が埋 め込まれている。平たく言えば、バケモノの卵がふたつかみっつ、生物の死体にくるまれて入っているのさ。《要素》の生成法まではわたしは知らないが、父はどうもクリ―チャーの戦闘能力を調べるために、極秘に人体実験までしていたようなフシがあった。《要素》は箱が開けられると同時に肥大し、寄生していた死体を食って成体に成長する。制 御 できない化け物を保管する、唯一の方法というわけだ」
「ち、ちょっと待て──」
オーフェンは少々思い当たり、あわてて手をあげた。
「まさかと思うが──肥大とか言ったか? その蛇だかなんだかも巨大化しやしねえか?」
「......するが、それがどうかしたか?」
「あああああっ!」
オーフェンはわめいて、昨日、ドーチンがこの部屋にあるのと同じ木箱と、桁 外 れにでかい蛇の抜け殻を引きずっていたのを思い出した。
そのことを言うと、ラモンは、事もなげに応じた。
「なるほど......ヒリエッタから聞いてはいたが、村に出没するクリ―チャーが増えているとか......」
「つ、つまり──」
「木箱──クリ―チャーズ・パンドラと父は呼んでいたが、それは、ここにあるものがすべてではない。父の死の騒ぎで行方が知れなくなったものや、あるいは盗 賊 が金になると勘違いして持ち出したものもある......この部屋で、目の前で持ち出されようと、わたしにはどうしようもないからな。そのひとつが森に放置されていたのだろう。君の友人が開けたのか、それとも既に開いていた箱を見つけただけなのかは知らないが......」
「ああああああ」
オーフェンは両手で頭を抱え、その場にうずくまった。半泣きになってうめく。
「くそ......話は聞くだけ聞いて、協力は断るつもりだったんだけどな......これで、無関係じゃなくなっちまった」
畜 生 ──あの福ダヌキども、いつか絶対に殺す!
もちろん、貸金を取り立ててからだけど。
堅 く誓 いつつ、指折りながら言う。
「......俺が見たクリ―チャーとやらは、全部で三匹だ。幽霊みたいなのと、蛇人間と、あと、手」
「最初の一匹は、サミイだ」
「......なに──?」
「そして蛇人間というのは、キキュイームのことだろう。手は......ケンクリム。とすると同じ木箱 に、アクセルも入っていたはずだが」
「そんな......名前なんてどうでも──」
言いかけて、オーフェンはこめかみのあたりがうずくのを感じた。ぐるぐると単語が駆け巡 る──サミイ──彼に介 抱 されたの──わたしは落ちこぼれで──
彼はフォノゴロスの助手──
父は──人間以上の存在を造ろうとしていた──失敗だったがね。その見当外れで──多くの人が犠牲になった。犠牲。人知れず。人体実験。犠牲!
思い出す──神経質そうな、白衣姿の若者。フォノゴロス! キサマノシタコトヲ! オモイシレ!
「フォノゴロスは、自分の助手までクリ―チャーに改造したのか!」
我知らず、オーフェンは絶叫に近い声を張り上げていた。
ラモンは答えない──苔だらけの水槽に取り付いて、オーフェンはそのガラスをどんと拳 で打ち付けた。
「答えろよ! 人間を、戦闘のための生物に改造したのか!」
「父は──」
「猿 芝 居 はやめろってんだ、フォノゴロス!」
オーフェンは、本当にたたき割りかねない勢いで水槽を殴りつけた。拳の皮 膚 が裂けて、わずかに血がにじむ。
「なにがラモン・フォノゴロスだ! 貴様はフォノゴロス当人だろうが!」
なんの根拠もないあてずっぽうだったが、水槽の中のフォノゴロスは反論してこなかった。オーフェンは、さらに続けた。
「フォノゴロスに家族なんかいるか! お前は人間が嫌 いだったから、人間を別の存在にするような研究だってできたんだろうが! 貴様はサミイを戦闘生物に改造したんだ!」
「......それならば、君は純粋に戦闘のための訓練を受けた魔術士なのだろう、キリランシェロ?」
ひどく冷静なままの水槽の声に、ぎくりとしたようにオーフェンは手を止めた。ぞっとして、一歩後退りする。声は、挑発するように続ける。
「ヒリエッタに、君の資料を読み上げてもらったのだ......君が本当に、わたしの用意した役目──クリ―チャー処理に適任のの人材かどうかを確認するためにね。君は《牙の塔》で徹底的に戦闘と暗殺のスタッフとして育て上げられた。いかなる武器をも用い......あるいは素手ででも、人を殺せるようにだ。当人は忘れたつもりでも、身体 ははっきりとその技能 を記憶している。それはクリ―チャーと同じことではないのかね?」
「先生は......」
オーフェンは、胸元のペンダントをぐっとにぎり、うろたえながらもはっきりした声を出した。
「俺の教師は、天才だった。化け物じみた天才だった。俺たちチャイルドマン教室の生徒全員が束 になっても足元にも及ばないくらいにだ。彼の技術すべてを、誰かひとりに受け継がせることは、不可能だった......」
ごくり──と唾 を呑んで、続ける。
「だから彼は、生徒ひとりひとりに違うことを教えた。俺は、たまたま彼の戦闘技術を学ぶことになった。だが、それでも、彼は俺を育て上げた んだ。造り出したわけじゃない。それに──」
オーフェンは、最後の一言を、かみしめるようにつぶやいた。
「俺は、もうキリランシェロじゃない。オーフェンだ」
そう言った、その瞬間──
天井から、なにかが聞こえてきた。
............ぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ............
(悲鳴?)
そう思った次の瞬間には──
どぼおおおおおおおおんっ!
ダストシュートかと思った天上の穴からなにかが滑 り落ち、水槽の中に落下する。
苔 で濁 った水が天井まで跳ね返り、ガラスの中も濁り水がひっかきまわされるように渦 巻くのを見て、オーフェンはとっさに叫んでいた。
「我は放つ光の白刃!」
放たれた光熱波は、水槽の正面に命中して爆裂した。四散するガラスを呑み込むようにして、汚れた水があふれ出す。部屋中に流れ出した水の中には、見知った姿がひとつと、流線形の奇妙な物体がひとつ──
だがまずは、見知ったほうだ。オーフェンはそちらに駆け寄り、
「マジク!」
金髪を苔だらけに汚した弟子の腕を取って、オーフェンは少年を水の中から引き上げた。マジクはひとしきり咳 き込んでから、澄んだ双 眸 に涙をためて、
「お師 様 ! なんで肝 心 なときにいないんですっ!」
そう叫んだ。わけが分からなかったが、とにかく謝ったほうがいいらしい。ほとんど弟 子 の気迫に気 圧 されるような形で、オーフェンは頭を下げた。
「あ、ああ。悪りィ」
「悪りィ、じゃないですよっ! クリーオウが死んじゃいましたよ!」
「......あん?」
あまりにも唐 突 な言い方に、オーフェンの脳はその言葉を理解することを拒 んだ。なにも聞いていなかったふりをして──彼は、つと自分の足元を見やった。
マジクもまた、その視線につられるようにして、それを見たらしい──はっと息を呑む音が聞こえた。
彼の足元には、体長二メートルはあろうかという巨大な魚が横たわっていた。形にしてみれば、マグロあたりが近いのかもしれない。都会育ちのオーフェンには、缶 詰 にも入っていない魚の区別などつきづらいところだったが。魚は真っ赤なエラを大きくふくらませ──呼吸できないせいか、いきなりぐったりと動かなくなった。だが、彼が凝 視 したのは、そんなことのせいではなかった。

魚の腹──真っ白というか、銀色の鱗 に覆 われた腹に、人が張り付いている。いや正確には、魚の鱗の下にいるようだった。まるで蛇に飲み込まれた獣が、獣の胃をたっぷりと膨 らませているような格好である。薄 いゴムの膜 を押し付けられたみたいに、のっぺりした目鼻の輪 郭 だけを浮き上がらせて、気をつけの姿勢で人間が、魚にくっついている。ただその口の部分だけがわずかに開いていて、細いチューブをくわえていた。そのチューブは──視線でたどると──案 の定 、水槽の上の伝声管につながっているらしい。
そこまで見たときには、もう魚は身動きひとつしなくなっていた。
「な、なんですか、これ......?」
べったりと顔についた苔 を落としながら、マジクが聞いてくる。オーフェンは、拷 問 されているような気分でつぶやいた。問いかけとは全然関係ないことを。
「分からねえよ。自分まで、クリ―チャーに改造していたんだ、この馬鹿......」
「......え?」
「ただ言えることは......これが、ラモンだかキエフだか分からない、黒魔術士フォノゴロスの最 期 だ、てことだ」
そして......
気配を感じた、というよりは、恐らくそこにいるんだろうという直感で、オーフェンはふりかえった。足元で、濁り水が音を立てる。ふりむいた先には──
天上の穴から、黒い霧 がゆっくりと舞い降りてきていた。霧はお約束どおり人の姿をとり──震える目で、こちらをにらみすえた。
「ニゲラレルモノカ──フォノゴロス──」
ちら、とマジクを見やると、少年はぞっとしたように、
「ぼくだけ逃げてきたんです。隙 をついて、ダストシュートのようなものを見つけたんで、とっさに。クリーオウは──」
そこまで言って、続けられなくなる。マジクが震えながらまた目に涙を浮かべるのを見てから、オーフェンはゆっくりと足元でぐったりしている魚を指し示した。
「フォノゴロスなら、こいつだ。もう死んでいる」
が、亡霊──サミイは、頑 なな仕 草 でかぶりを振ると、
「ソレハ──クリーチャー・ダ──フォノゴロスデハナイ──」
「くっ......」
(まさか......フォノゴロスの奴、サミイから逃れるために自分を改造したんじゃねえだろうな)
オーフェンは、わずかに腰を落とした。『亡霊』相手にどんな魔術が通じたものか、見当もつかないが......
と、そのとき、背後で扉が開く音が響いた。オーフェンはふりかえらなかったが、その扉を開けたヒリエッタがきっぱりと言うのを聞いていた。
「ようこそ。オーフェン。紹介しなければならないわね──彼がわたしの本当のスポンサー。サミイよ」
砕 けた水槽から流れ出た汚水が、床に落ちて跳 ね返り、また落ちる。ヒリエッタが開けた出口へと向かって流れていく水流の上で、オーフェンは無言で立ちつくしていた。ただじっと『亡霊』──サミイをにらみ据 え、ひどく冷静に考える。
(フォノゴロスの話だと、クリーチャーは全部で四体......)
彼のまったくの無反応が少し意外だったのか、ヒリエッタがやや声を大きくする。
「フォノゴロスは数多くのクリーチャーを造り出したわ。動物や......あるいは無生物を基にして。でも彼が究極の目標としていたのはね、オーフェン、人間を改造することだったのよ」
「で......白 羽 の矢を立てられたのが、こいつってわけかよ」
オーフェンはマジクを背後に追いやりながら、ゆっくりと聞いた。眼前のサミイはゆらゆらと、その輪 郭 を崩 しかけてはまたもとにもどすことをくりかえしている。
ヒリエッタが前に出てくるのが、濡 れた床を踏 みしめてくる固い靴 音 で分かった。彼女はオーフェンの横に並ぶと、さっと鞘 から短剣を抜いた。
「ええ。彼の名前はサミイ。フォノゴロスの助手として、この屋敷に住み込んでいたのよ。今ではフォノゴロス作の最後のクリーチャーよ。最後にして......最悪の」
「......奴には、まともな思考能力が残ってるのか?」
オーフェンは右手をサミイに差し向けて威 嚇 しながら、静かに聞いた。ヒリエッタの表情がピクリと歪 むのが見える。彼女はしばし逡 巡 し......かぶりを振った。
「あるわけないでしょ。肉体も、脳もないんだから。とうに発狂して、魔術士と見るや襲いかかるだけだよ。フォノゴロスと勘違いしてね──来るわよ!」
彼女が叫ぶと同時──オーフェンは背後のマジクの肩をつかんで、砕 けた水槽のほうへ跳んで逃げた。ヒリエッタも部屋の反対側へと同じようにして跳び退っていく。それを見ながらオーフェンは、彼らの間を凄 まじい勢いで通り抜けていく黒い霧に戦 慄 した。霧──サミイが疾 風 そのもののように地下室の空気を切り裂くと、入口わきの壁に激突し、四散する。爆音と──その壁に、ハンマーで打ち付けたような無数のひび割れを残して。
嘆 息 を混ぜつつ、オーフェンはつぶやいた。
「どうやら、ゆっくり事情を聞いてる暇 はねえみてえだな。後回しだ」
が、そんなものをつぶやいている暇すらないらしい。ぶわあ......と部屋中に拡 がっていた霧は、またゆっくりと部屋の中心に集まっていき──人の姿を取るや否 や──
再びこちらへと向かって疾 る!
「我は放つ光の白刃!」
オーフェンは向かってくる霧の真ん中へと吠 えた。熱波を撒 き散らす光の渦 がサミイの霧を吹き散らかす。無 散 したサミイは海をたゆたう魚の群れのようにゆったりと彷 徨 し......三 度 、部屋の中心に集まっていく。
「お、お師様......」
後ろから、マジクの震え声。オーフェンはサミイを見 据 えながら、めんどくさそうに聞き返した。
「あんだよ」
「どうやって倒すんです? あんな幽霊なんて......」
「奴は幽霊なんかじゃねえ。戦闘用のクリーチャーだ」
「だ、だから、そのクリーチャーってのはどう倒すんです?」
「そこの魚に聞けよ」
言ってオーフェンは、床に転がるフォノゴロスの死体を指さした。皮肉のつもりで言ったのだが、マジクはどうやら本気に取ったらしかった。はあ、とため息をつきつつのろのろとした足取りでそちらへと向かう──
「危ねえっ!」
オーフェンは、はっと気づくと、後ろからマジクを突き飛ばした。小柄な少年はそのまま数歩ばかりつんのめるようにして、汚水まみれの床に転んだ。がばっと起き上がり、非難じみた表情をこちらに向ける。
「なにするんですかお師様──」
だが、叫びかけてマジクも気づいたらしかった。一瞬前まで彼が立っていた床から、短い腕を精一杯伸ばすようにして、ナイフをくくりつけられた『手』が──ケンクリムが姿を見せている。
「げ......」
マジクが気味悪そうにうめく声が、空気のしけった地下室に響く。オーフェンは素早く自分の腕を引き絞 るように構えると、叫んだ。
「我掲 げるは降 魔 の剣!」
叫ぶと同時、手の中に、実際に剣を握 っているような重みがかかる。彼は息もつかず、その見えない『剣』を床のケンクリムが姿を見せているあたりに打ち下ろした。『剣』が轟 音 を立てて、コンクリートの床を数センチほども穿 つ──が、手ごたえはなく、太った『手』は亀 裂 の走った床へと、ゆっくりと沈み込んで消えていった。
と──
「うわあっ!」
再びマジクの悲鳴が響いた。見ると、なにやら黒い鞭 のようなものが数本、天井のダストシュートから姿を見せている。鞭は触手のように不気味な動作を見せると、唐突に跳ね飛び、勢いをつけてマジクの足元に炸 裂 した。ざむっ!──と肉をえぐる音と、黒っぽい血が肉片とともに飛ぶ。命中したのはマジクにではなく、その足元に転がっていたフォノゴロスの死体にだった。巨大な魚の身体が、冷たい血をはね散らかしながら両断される。
「我は放つ──」
オーフェンはダストシュートの穴に狙 いを定め、右手をふりあげた。が、それよりも早く鞭がこちらの気配に気づき、標的をこちらに変更するのが見える──
(間に合わない!)
オーフェンは胸中で悲鳴をあげた。
魔術が発動するよりも、向こうがこちらの首を刎 ねるほうが速い──が──
ぎいん!
鋭い金属音に首をすくめると、彼のすぐわきで、黒い鞭の先をヒリエッタがナイフの背で受け止めていた。彼女の顔──緊張した笑みを浮かべる痩 せた表情から目をそらして、オーフェンは叫んだ。
「我は放つ光の白刃!」
かっ!──
真っ白な閃 光 が地下室を斜めに横切り、穴を含めた天井の一角を打ち砕いた。瓦 磔 とともに土 砂 が崩 れ落ち、同時に──ダストシュートの通路に挟まっていたらしい人影が、重そうな音を立てて床に落下してくる。床にまだ残っていた水に混じった土砂にまみれて、むっくりとその人影──真っ黒な鎧 が起き上がった。
ヒリエッタがナイフを片手に警告してくる。
「......あれがアクセル。気をつけて。危険な奴よ」
「そんなの、どれだって危険ですよ!」
マジクがかん高い声をあげつつ、こちらに駆け寄ってきた。
(ま、確かにな──)
オーフェンは胸中で同意しながら、もう既に部屋の真ん中で人型を取ったサミイを見やった。
「どこから顔を出すか知れない『手』に、とんでもないスピードで鞭だが鋼 線 だかを投げてくる『鎧』、あげくの果ては熱も衝撃波も効かねえ『亡霊』ときた。こいつらを打ち倒そうってんなら、腕利 きの魔術士が一部隊は必要だよ。俺にどうしろってんだ」
「彼を殺して」
ヒリエッタが即答する。
「......なに?」
「できないとは言わせないわよ。なんのかんの言ったところであんたは、この大陸で最も人を殺すのが上 手 な男のはずでしょ? 黒魔術士チャイルドマンの秘 蔵 っ子──《牙の塔》のキリランシェロは、ね!」
「?」
マジクには、彼女の言ったことのうち、なにひとつとして理解できなかっただろう──こちらと彼女とを交互に見やり、きょとんとしている。オーフェンは、歯がみする思いで彼女をにらみやった。ヒリエッタは油断なくクリーチャーたちに向けナイフを構えながら、こちらの反論を予想して身構えている。が──オーフェンは、反論はしなかった。
代わりに、負け惜 しみをひとつだけ言っておくことにした。
「......奴らが人間だったら、の話だろう」
「サミイは人間だったのよ」
「知ったことかよ」
オーフェンは低く毒づいた。ひどく胸がムカつく。当のサミイは『鎧』の背後に控 えるようにしてこちらを見──土 砂 の中から立ち上がった漆 黒 の『鎧』アクセルは無表情で棒立ちだ。どこにいるのか知れない『手』は、その気配だけが四方八方から伝わってくる。このまま連中とやり合ったところで、いずれはこちらが消 耗 して自滅するのは間違いない。
(最良の手は、逃げることだ。が......)
オーフェンは額の汗を拭 うと、こっそりとつぶやいた。
「怪物になるなんてのは、アザリーひとりで十分だったんだよ」
「......え?」
自分で思っていたよりも大きな声を出してしまっていたらしい。マジクとヒリエッタが同時に聞き返してきた。
オーフェンは無視して静かな──静かな目付きで、真正面からマジクを見やった。
「......おい。クリーオウが死んだ、てのはホントか」
「あ......」
開いた口に手を当てて、マジクが絶句する。言ってしまったことを後 悔 しているのだろう。だが、そのまま無言で見つめつづけると、彼は汚れた顔に神妙な陰 りを見せてうなずいた。
「え──ええ」
「そうか......」
オーフェンはそれだけ答えて、今度はヒリエッタへと向き直った。
「この場は退却だ。こんな密室じゃ、いずれ追い詰められる。合図をしたら出口に飛び込むんだ。君が最初で、次がマジク──」
「......一応、あんたの意見には賛成だけどね」
ヒリエッタは、真っ赤な唇 を噛 みながらこちらのせりふを制止してきた。
「大事なことを忘れてるんじゃない? クリーチャーは全部で四体いるのよ」
彼女のつぶやきにぎょっとして、オーフェンは扉が開いたままになっている出口へと視線を転じた──
そこには、ひょろりとした体 軀 の半人半蛇──キキュイームが、なにをするでもなく、ただぼーっと突っ立っていた。
◆◇◆◇◆
「う......」
長く、細いうめき声をきしるように喉 元 から押し出し──コーゼンは意識を取りもどした。頭 蓋 の奥から波が押し寄せるように、頭痛が響く。落ち着いてくると、痛みが頭だけではないことが知れた。左肩の傷口も、出血は止まったようだが、鈍 痛 を残している。
「くそっ──たれが」
唾 を吐 きながら、上体を起こす。痛む頭を押さえて、彼は周囲を見回した。いまだ霞 んで見える視界は、あまりにも暗い──失明したのかと、ぞっとする懸 念 が浮かんだ。が、ややすると、ゆっくりと目が暗 闇 に慣れてくる。
そこは、部屋の中だった。窓もなにも内側から打ち付けられた、物置小屋のような一室である。もっとも、ちらとでも見回してみれば、その部屋が物置でないことは容易に知れた。彼が倒れていたのは床の上だが、部屋の中央にはしっかりとベッド──と言うより、手術用の寝台が据 え付けられている。天井に照明器具の類 いはなかったが、ガス灯のフックだけは、引っこ抜けそうになりながらも付いてはいる。まあ部屋には明かりがまったくないわけではなくて、天井に大穴が開いており、そこから昼下がりの青空がのぞいていた。
部屋はかなり広く、漠 然 とした気配から、二階にあるのだと知れた。部屋の片隅にはガラクタとしか思えない残 骸 に混じって、キャビネットやら手術用具? のようなものものぞいている。
「手術室、か......」
ごく単純にコーゼンは、そう思った。とすると、ここは病院かなにかなのか......
腰に下げている鞘 から剣を抜いて、コーゼンはさらに注意深くあたりを探った。記憶は定かではないが、自分はあの得体の知れない『亡霊』どもにここに連れてこられたのだ──確か。『亡霊』の起こした突風と、小型の竜 巻 に乗せられて。あの天井の穴からこの部屋へと落とされたのだろう。そんな方法で長距離を移動できるわけがないだろうから、この場所というのは村からそう遠くに離れているはずはないのだが。
「待てよ」
と、コーゼンは閃 いた。
「そう──フォノゴロスだ。そう言っていたな。異端者フォノゴロスの屋敷が、このあたりにあると聞いたことがある。ひょっとしたら、ここがそうか......」
歩きだして彼は、ぐにゃりとした感触を足の下に感じた──いやな表情で、そちらを見やる。と、それは巨大な埃 の塊 だった。踏み潰 した塊のあちこちから、細い白骨がはみ出すように突き出ている。どうやら猫の骨らしいのだが──ところどころ、猫のものとは思えない奇 怪 な骨も混じっている。
「完全に腐 食 して、埃になったのか。にしても、なんだこりゃ。猫って手足が五本もあったっけか?」
あるわけないのだが、そんなことはどうでもいい。コーゼンはそう判断すると、顔を上げた。中央の寝台のことが気にかかっていた。ぐったりと誰かが横たわっている──
近づくとそれは、さっき村で会った──どころか蹴 りまでもらった少女のものだと知れた。目を閉じて胸元で手を合わせ、身動きひとつしないで横になっている。呼吸をしている動きすらない。
(外傷はないようだが......?)
コーゼンはいぶかしみつつ、少女の首筋に指を当てた。しばらくしてから、嘆息する。
「死んでいる──いや......? なんだ?」
分からない。が、確かに脈はない。体温も、室温よりは高いがかなり冷えている。
だが、違和感がある。この少女の胸元にナイフでも突き立っていたなら、コーゼンもさして気にはしなかっただろうが──まったく死因が見当つかないのだ。窒 息 死 なら、こんな綺 麗 な顔で死ねるはずがない。脊 椎 のあたりを骨折した様子もない。ショック死なら、目を閉じているのはおかしいような気もする。ガス中毒死や凍 死 ならこういう状態で死体が発見されることはあるだろうが、こんな夏も近い陽気で凍死もくそもないし、ガスだったら自分も同じように死んでいるはずだろう。唯 一 あり得るとしたら病死だが、瀕 死 の病人に自分がああまで派 手 に蹴りを食らったとは考えたくない。

「まあ......いいか」
コーゼンはその一言で済ませると、剣を鞘に収め、代わりに少女を抱き上げた。特に意味はないし、結局は彼には見当のつかない殺人方法があるというだけなのだろうとは思うのだが、仮に死体だとしても、顔見知りの女の子をこんな化け物屋敷に置き去りにするというのは寝覚めの悪いものがある。
思ったより軽い少女を両手に抱 き抱 え、コーゼンは持て余し気味にあたりを見回した。部屋にはすぐに、出入口の扉がある。が──素直にそこから出ていってしまっていいものかどうか、確信が持てなかった。少女の腋 の下のあたりで、彼の右手の傷 痕 が悩むように身動きをする。
と──
彼はふと、妙なものに気づいた。ガラクタに紛 れて部屋の隅に、室内にあるのでなかったら井戸と勘違いしそうな穴がある。近寄って、そちらをのぞいてみると──
どうううううんっ!
爆音と、閃 光 のようなものがちらりと見えた。
「──魔術か?」
彼がつぶやくと同時、
「そんなの、どれだって危険ですよ!」
確かにこの少女といっしょにいた、あの見習い魔術士の少年の声がかすかに聞こえる。
「この穴の下で......戦闘が起こっている?」
コーゼンは口早につぶやいた。
「深さからして......地下室、というところか。魔術を使ったということは、あの男がそこにいる──なんだっ?」
どんっ!
いきなり突き飛ばされてコーゼンは、二、三歩後ろに退いた。彼を突き飛ばしたのは──黒い霧!
同時に彼を取り巻くように、ぞわっ──と、霧が拡がる。もともと暗い部屋の中が、今度は渦巻くような暗黒に呑まれた。混乱の中でコーゼンは、少女の死体を取り落としたのに舌打ちした。彼女を見捨てるのは忍びないが──逃げないと、自分がやられてしまう。
「くそっ!──」
腰の鞘に手をやる──が、あるはずの剣がない。
「なんだと──?」
悲鳴をあげる彼の眼前で、いきなり黒い霧がふたつに裂ける。その真ん中から、彼の剣が白 刃 を閃 かせて、持ち主である彼の胸元へと飛び込んでくるのが見えた──
◆◇◆◇◆
「......実力において、どう逆 立 ちしても敵 わない相手と戦わなければならないとき──さらにそいつらにどうしても勝ちたいときは、どうすればいいと思う? キリランシェロ」
ゆっくりと、暗い影の奥から語りかけてくるのは、物静かで感情のない声──大陸最強の黒魔術士チャイルドマンの声......
オーフェン、いや当時のキリランシェロは、分からないとだけ答えた。対して教師は、肩をすくめてあっさりと言ったのだった。
「イカサマするのさ」
思い出しちまった──と、オーフェンは舌打ちした。積み上げられた十数の木箱を背後にこちらを見 据 えて並ぶサミイと『鎧 』──そして唯一の出口をかため、こちらを挟 んでいる『蛇』、そして姿のない『手』──四体のクリーチャーの気配にじっと堪 えながら、彼は独 りごちた。
「思い出しちまったよ」
「は?」
と、これはマジク。迷子になりかけた子供みたいに、ヒリエッタの腰にがっしとしがみついている。女暗殺者がわずらわしげに見下ろしてはいたが、マジクは気づいていないらしい。
オーフェンは微苦笑を浮かべつつ、額のバンダナをむしり取った。
「思い出しちまったからには......しばらく俺はオーフェンじゃない」
訝 しげな視線を上げる弟 子 を無視して、少年の手の中に無言でバンダナをほうり込む。次いでジャケットを脱いで、それも渡した。最後に......首から紋 章 のペンダントを外す。
剣にからみついた、一本脚のドラゴンの紋章──《牙の塔》の黒魔術士の証明。手にとってしげしげと眺 めてみる。羽根を広げたドラゴンの背中、つまり紋章の裏側には、持ち主の名前が刻 み込まれている。彼の紋章にはキリランシェロ──大陸の魔術士たちの間では奇怪な伝説になりつつある名前が記されていた。オーフェンはそれを見てにやりとし──その銀製のペンダントも、マジクに手渡した。
「お師様......?」
いくつかの手荷物を両手に、マジクが聞き返してくる。オーフェンはサミイのほうへと視線を向けながら、
「俺が死んだら、その紋章を持って《牙の塔》に行け。少なくとも相手にはしてもらえる。《塔》では......チャイルドマン教室のフォルテ・パッキンガムを教師に選べ。俺の名前を出せば、無 下 にも断れんだろ」
「お、お師様っ!」
まるっきりびっくりした顔で、マジクは声をあげた。緑の瞳 を皿のようにして続ける。
「死んだらって、そんな縁 起 でもない──」
「うるせえな。万一ってことだ。保険だよ」
と、オーフェンはヒリエッタに向き直った。
「あの『蛇』は俺がなんとかする。奴が戸口から姿を消したらマジクを連れて逃げろ」
「......なんとかするって、どうするつもり?」
ほおに汗を垂 らして、ヒリエッタが聞き返してくる。オーフェンは答えなかった。
「言ったら、奴らにも聞かれちまうだろ。とにかく俺が連中を引き付けておく」
「ひとりでこいつら全員と戦うつもり?」
「まあ、そうなるな」
「サポートもなしに戦えると思ってるの?」
(......クリーオウと同じこと言いやがる)
オーフェンは苦笑しつつ、
「ああ」
彼が事もなげにあっさりとうなずいたので、意表をつかれたのだろう。ヒリエッタが一瞬絶句するのが見えた。と、その横からマジクが口を挟んでくる。焦 燥 のような表情を浮かべて、早口に。
「なんとかなるわけがないじゃないですか、こんな連中相手に!」
「なるんだよ」
オーフェンは、無表情の静かな笑みを浮かべた──
「刺し違えてでも、こいつら全員スタッブしてやるさ」
暗殺 、と言ったのだが、マジクはそんな単語は知らなかったらしい。不理解の眼差しを投げ返してきたが、すぐにそんなことはどうでもいいと気づいたようだ。
「なんでそんなことをする必要があるんですか! こんな連中、お師様には関係ないでしょう!」
「お前が言ったんだぞ。クリーオウがこいつらに殺された、てな」
「な......!」
マジクが、驚 愕 の声を出す。
「ひょっとしてお師様、仇 をとるっていうんですか?」
「こいつら、クリーオウを殺したんだ。それ相応の報 いは受けてもらう」
言って、オーフェンは駆け出した。地下室の奥──サミイへと向かって、一直線に。彼の動きを見て『鎧』がゆっくりと緩 慢 な動作で動き出す──
「オーフェン!」
「お師様!」
背後から追いかけてくるふたりの呼びかけを無視して、オーフェンは大声で叫んだ。
「俺はここだぞ、サミイ!」
すぐ前に迫ってきた『鎧』の漆 黒 の面ぼおに向けて右手を突き出しながら──
「俺がフォノゴロスだ !」
その声を呪 文 にして、魔力を放出する。至 近 距離から放たれた光熱波が、真正面から『鎧』の顔面を打ち倒した。特に効 いた感触はないのだが、それでも爆発の衝撃で、二百キロはあるだろう巨大な鎧の人影は、数メートル後ろまで吹き飛ばされた。ぐわしゃん、と重々しい響きが地下室にこだまする。
オーフェンは足を止めず、そのまま走り込んでいった。
その正面でサミイが──見るからに表情をこわばらせ、叫ぶ──
「フォノゴロスハ──ココダ! コロセ──!」
きしゃあああああっ!
背後、部屋の入口あたりから声があがる。『蛇』が喉 をきしらせる音──思ったとおりだ、とオーフェンは胸中でつぶやいた。
(やっぱりこのクリーチャーども、サミイにすべてコントロールされてやがんだ!)
「我は放つ光の白刃!」
渾 身 の力を込めた光の奔 流 が、サミイの中心に突き刺さった。爆音とともにサミイの霧の身体が、文字通り霧散する。
同時にオーフェンは、くるりと背後に向き直った。入口に待機していた『蛇』が、ひょろりとした足取りで、だが異様に素早くこちらへと向かってきている。マジクとヒリエッタの横をすりぬけて──正面から見たらラグビーボールのような形の頭部が、あぎとを開き──
しゃっ!
短い息 吹 の音がすると、その口の中央から黄色がかった液が吹き出されてきた。とっさに横に跳んでかわすが、床にかかった液は異様な音と臭 いを発して白い煙をあげた。じゅうじゅういいながら、コンクリートの床が溶解していく。
(毒液!)
滑 り込むようにして『蛇』の身体のわきをすりぬけ、背後へと回り込みながら、オーフェンはそう気づいた。ぽん、と軽く手を置くようにして、『蛇』の鱗 だらけの背中に右手を当てると、
「我は見る混 沌 の姫!」
超重力の渦が蛇人間の身体を取り巻き、長細い体 躯 を問答無用で床へとたたきつぶす。
沈没する船のような格好で倒れる『蛇』を見送る間もないまま、なんとなく次の攻撃を予想して、オーフェンはジャンプしていた──見下ろすと、やはり床から出てきたケンクリムの指先が、獲 物 を捕 らえ損 なって無念げにまた床へと消えていくのが見えた。
たん、と着地してオーフェンはクリーチャーたちへと向き直った。部屋の中には、もうマジクとヒリエッタの姿はない。急いで階段を駆け登っていく足音が、ぱたぱたと響きつづけているだけだ。
じっと見やると──それぞれ一撃ずつの攻撃を受けたにもかかわらず、クリーチャーたちはまったくダメージを見せていなかった。『鎧』は何事もなかったようにむっくりと起き上がっているし、『蛇』もきちきちと音を立てながら肩越しにこちらを見ている。いったんは四散したサミイも、やはりまた同じ位置に集結しつつあった。『手』は、どこにも姿を見せていない。
戦闘生物たちと部屋にひとり残って、オーフェンは腕組みした。そのまま対 峙 して──サミイがまたもとにもどるのを見ながら、彼は告げた。
「調子に乗るなよ。俺は本気だ。念のため言っておくが......」
と、目 尻 を吊 り上がらせ、続ける。
「俺は怒り狂ってんだぜ」
「我は放つ光の白刃!」
一条の光熱波が、起き上がった『蛇』の頭を打ちすえる。ハンマーで横から殴 られたように横倒しになった蛇人間に、オーフェンはさらに呪 文 をたたき込んだ。
「──光の白刃!」
文字通り光の剣のごとく、白光の帯が標的の身体を縦に撫 で斬 る。そして──
「我は放つ光の白刃!」
きゅぼうっ!──小さな爆音を立てて、三度目の光熱波が炎をあげる。空間に溜 まった熱が球電と化したのだ。もっとも──真っ赤な輝きをあげる熱波の中でも『蛇』は傷を受けていないようだったが。
見届けてからオーフェンは、後ろに跳 んだ。だん、だんっと後ろ向きにジャンプして、そのまま地下室から外に飛び出す。彼は、開けっ放しになっていた扉を思い切り押して部屋を閉ざした。両手を扉に押し当てたまま、叫ぶ。
「我は閉ざす境界の縁!」
がくん──と、重い鋼鉄の扉が揺 れる。これで、この扉はちょっとやそっとのことでは動かなくなったはずだ。さらに──
「我は与う巨人の幸い!」
叫んだ瞬間、扉がさらに胎 動 するように震える。見ているうちに扉はほんの少しばかり膨 張 し、周りの壁に、みしっと食い込んでいった。扉の金属を膨張させたのである。
ふう、とオーフェンは嘆 息 した。あごの下の汗をぬぐいながら、
「ここまでやりゃあ、解体屋でも呼ばねえかぎりここは開かねえぞ──あのサミイや鎧 やらはともかくとして、蛇野郎は少なくとも肺 呼吸してるだろ。あの炎の中に閉じ込められれば窒 息 死 するはず......」
自分に確認するようにつぶやく。地下室の中の、弱々しい照明から閉ざされ、真っ暗になった階段の踊り場に、オーフェンはおぞけを感じたように身体を震わせた。扉から手を離し、一服するように吐 息 する──が──
びぢいいいっ!
湿った布でも裂くような音が一度だけ響くと、扉が食い込んでいる壁の隙 間 から──薄黄色の毒液が染 み出してくる。異 臭 が鼻をついた。見る見るうちに壁は溶解して──
間もなく、扉はこちらに倒れてきた。
「うぉわっ!」
オーフェンは後ろに跳んでそれを避けると、部屋の中をにらみやった。入口に、でんと『蛇』が立っている。その口元から、だらだらと毒液の余りが垂 れていた。蛇の背後、地下室の中では、もう炎は消えたらしく、もとからあったぼんやりとしている小さな明かりだけがこちらにまで漏 れてきている。
「くそっ......」
オーフェンは、呆 然 と毒づいた。
「どういうこった。扉のことはともかく、あれだけ熱衝撃波を食らえば要 塞 の壁だって穴が開くぞ?」
だが『蛇』の身体には傷ひとつない。もっとも、あれだって生命体である以上、衝撃で内臓にいくらかのダメージはいっているはずだが──おい、待て。
オーフェンは、ぞっとして思い出した。
(こいつの皮 膚 ......ヒリエッタのボディスーツ。あれと同じなんじゃねえか?)
彼の脳裏に、いかなる物理的な加撃も通用しなかった黒 革 のスーツのことが浮かぶ。
だとしたら──
愕 然 と見ている間にも『蛇』はきちきちと音を立ててこちらへと顔の正面を向けている。
(まさか──ヒリエッタ。彼女もクリーチャーなのか?)
『蛇』があぎとを開いた。
その一瞬後に毒が吐き出されてくるのは分かっていた──だからオーフェンは、反射的に後ろに跳び退こうとはしていたのだ。が──いきなり、右足が床に張り付いたように動かなくなる。
(────!)
致命的な悪 寒 を覚えて彼は、動かなくなった右足を見下ろした。鉄板を中に入れて補強してある頑 強 なブーツを、キッチンナイフをくくりつけられた太った『手』が、がっしりとつかみ込んでいる。革の表面に、ささくれのような傷 痕 をつけてナイフの刃が食い込んでいるのが見えた。
そして次の瞬間、彼は毒液を食らっていた。
「ぐ────!」
悲鳴をあげなかったのは、奇 跡 に近かった。わずかに身をよじったため顔面にかかるのは避けられたが、強烈な酸の臭 いを発する毒液は彼の左の肩口からへそのあたりまで、刀傷ならば袈 裟 斬 りと呼ばれる軌 跡 で異様な煙をあげている。まず服の繊 維 が溶解する異臭と、そして激痛とが全身を貫 いた──いや、貫くというよりは、染み込んできたというほうが近いかもしれない。目に見えて皮膚が溶け、筋肉のピンク色がのぞく。黄色い煙をあげる凄 惨 な傷口に血がにじんでは、毒液に分解されてただの異臭と化す。
「わ・れ・は──」
オーフェンは肩口に右手を当て、叫んだ。さっき悲鳴をあげていたら、この呪文は唱 えられなかったかもしれないと思いつつ。
「癒 す、斜 陽 の傷痕!」
なによりも危険だったのは、激痛だった──そしてそれ以上に、精神的な衝撃だった。外傷は最も癒すのが簡単だが、精神的な負担に関してはとてつもなく大きくなる。特に傷の状態が凄惨になればなるほど、それだけでショック死することもあり得た。
だが魔術が発動すれば、傷口は時間が逆転するように一気に治 癒 していった。破れたシャツはそのままに、下の肌だけはつやつやとした新しい肉が再生されていく。
オーフェンは傷が治るが早いか、右手だけを『蛇』へと振り向け、叫んでいた。
「我は呼ぶ破裂の姉妹!」
見えない衝撃波が『蛇』の身体を弾きとばす。それと同時にオーフェンは、自分の身体にもその衝撃波をたたきつけていた──息も詰まる衝撃に内臓がしびれるが、それによって自分の身体も後ろに飛ばされ、右足を『手』の拘 束 から引き抜くことはできた。
階段にしたたかに背中をたたきつけられながら、オーフェンは起き上がった。似たような格好でやはり倒れている『蛇』に指を突き付け、
「我導くは死呼ぶ椋 鳥 !」
ゔゔんっ──と鋭い羽音のような音波が『蛇』の身体に収 束 していく。妙な形に腰を曲げている蛇人間は、びくんと跳ね上がるように身体を震わせると、やんちゃな子供の手の中にある玩 具 みたいな軌跡で床に卒 倒 した。
(やっぱり──反応がヒリエッタと同じだ。こいつ、頑 丈 だっていっても、皮膚だけなんだ。内臓の強度はそれほどでもない)
それがなんであれ、たったひとつでも弱点があるのならば、打つ手は無限にある──これも彼の師の言ったことだったが。
(そういや、フォノゴロスの奴、こいつらはみんな試作品だっつってたな。となると、それぞれ欠 陥 があるのかもしれない)
「ついて来いよ、サミイ! 俺はフォノゴロスだぞ! 上に逃げるぜ!」
オーフェンは階段を駆け登りながら、見えない背後に向かって叫んでいた。地下室──安置室とヒリエッタは呼んだっけか? その部屋の奥にいるはずの、恐らくは記憶力も持ち合わせてはいないだろう『亡霊』に向かって。
ついでに、その声を呪文にして魔術をかける──真っ暗な階段を、彼の手のひらから飛び出した鬼火のような明かりが照らした。鬼火を追いかけるようにして、彼は全力で階段を登りきった。階段の上の廊 下 に、転げ出すようにして飛び出る。
と──
階段を登りきって足は止めずに、彼は横に跳 んだ。そのすぐ後を、鋭い音を立てて黒い鞭 ──『鎧 』が階下から放ったのだろう触 手 が走る。すんでのところで的を外して、鞭は壁を直径数十センチほども陥 没 させた。あまつさえ鞭の先は壁に突き刺さり──
「────!」
オーフェンは、声にならない悲鳴をあげた。鞭はいきなり下から引っ張られたようにぴんと張ると、巻き上げ機のようにうなりをあげ、一気に階下から『鎧』の本体、漆 黒 の甲 冑 を引き上げはじめた。がつがつと、階段のあちこちにぶつかる騒音を立てながら、重い『鎧』が弾丸のように飛び出してくる!
ごすん! と最後に鞭の先を突き刺していた壁に衝突し、『鎧』は止まった。だが、何事もなかったように頭だけをこちらに向き直らせて──
甲冑の、面ぼおの部分が、わずかに開くのが見えた。刹 那 、オーフェンは叫んだ。
「我は踊 る天の楼 閣 !」
ぶんっ──と、視界がブレるように霞 む。一瞬後には、彼は空間を跳 躍 して、それまで立っていたところから数十センチほど後方に瞬間移動していた。『鎧』の面ぼおから、ぴうという鋭い音が耳を打つ。同時、なにかきらきらとした輝きが、さっきまで立っていたところを──つまり目の前を軽く薙 いでいった。
(鋼 線 ──)
鬼火の明かりに反射して、水玉のように爆 ぜる輝きは、凄 まじい勢いで繰 り出される鋼 の糸のものだった。この勢いならば、腕一本とはいかないまでも、指の二、三本なら軽く斬り落とせるだろう。間合いが近ければ首だって落ちるかもしれない。となると、受け止めて防ぐような真 似 はできない。
(つくづく厄 介 な化け物を造ったもんだ、くそ──)
眉 間 のあたりに、小さな痛みが走っていた。今の鋼線がかすめたに違いない。皮膚に血が滲む感覚にオーフェンは苛 立 った。さっきから手傷を負ってばかりいる。《塔》にいた頃の自分なら──キリランシェロ ならば──この程度の攻防で外傷を受けるようなことはなかったはずだと、彼は胸中で毒づいた。
(弱くなっている......俺は)
だが──
「クリーオウを殺したんだから、お前らも地 獄 に落ちるんだよ!」
オーフェンは吐き捨てるように言うと、二撃目の動作を見せている『鎧』に向けて腕を突き出した。
「我は放つ光の白刃!」
『鎧』が爆光に呑 み込まれるのを見てから、オーフェンはきびすを返した。鬼火を道案内にして、ホールへ向けて走りだす。
(女神様のお膝 下 で決着をつけてやる。だが──)
だが、俺ひとりで勝てるのか? と彼は自問した。
(確かにサポートは必要なのかもな。すまない、クリーオウ──)
オーフェンは無言で走りつづけた。
◆◇◆◇◆
「......本当にここか? 商会員A」
「ハーシェルなんだけどな」

「なに?」
「だから、ぼくの名前。ハーシェル・ルイス」
自分のことを指さしながらそう名乗る宿屋の子供──まあどうせ兄の頭の中では永遠に『商会員A』のままなのだろうが──を見返し、ボルカンは案 の定 、ふんと鼻を鳴らした。
「戦士に過去なぞいらん! 名前は捨てろ!」
(またいいかげんなことを......)
ドーチンは嘆息まじりに考えたが、なにも言わなかった。無言のまま、兄の背負っているシーツの旗 をちらと見やる。どこから調達してきたか知らないが、兄はまた新しいシーツにペンキで『ボルカン商会の浮 沈 をかけた第二回大会──無 慈 悲 な借金取りに謝 ってみて駄 目 だったらとにかく逃げようね!』とか書いて、それを肩に載せるようにかついでいる。と、ハーシェルが反論した。
「名前を捨てたら、なんて自己紹介すればいいのさ」
「当然、商会員Aだ」
前に並ぶ五人の子供のひとりを、ぴしと指さして、ボルカンは言い切った。指さされた子供が、きょとんと言い返す。
「ぼくはウェスだよ。ハーシェルは──」
「あ、こっちか」
「ぼくはミケーレ......」
「じゃ、こっち」
「ランベルトだってば。覚えてよ」
「お前は?」
「トビー」
「ええい、ややこしい! なら、お前だっ!」
「ぼくだってカウフマンって立派な名前があるんだぞ」
「こなくそ──」
意地になってまたほかの子供を目で探す兄のマントを、後ろからドーチンは、くいとひっぱった。
「なんだ?」
ボルカンがふりかえる。ドーチンはつぶやくように言った。
「兄さん、名前の数、もう人数を越えてる」
「............」
兄はそれを聞いて、虚 空 を見上げて少し考え込んだ──昼下がりから夕刻に近づきつつある空は、綺 麗 に澄 み渡っている。風は心 地 よく吹き抜け、鳥の声が響いていた。しばし待ってから、ようやく兄は気づいたようだった。子供たちに向き直り、
「お前ら! おちょくってやがんなっ!」
ボルカンが殴 り掛かるように旗を振り上げると、ひゃーとか悲鳴をあげながら子供たちが四方へ逃げ出す。それを追い回す兄の背中を冷たい視線だけで追い、その場でとどまってドーチンは、彼ら『商会』を見下ろすようにたたずんでいる大きな屋 敷 を見上げた──
眼前にあるのは、宿屋の子供ハーシェル──だかトビーだかカウフマンだか──が喜 々 として案内してくれた『幽霊屋敷』だった。まあ、少なくとも名前負けだけはしていない廃 屋 で、窓も内側から打ち付けられ、外から内部をうかがうこともできない。
あの後、幽霊が根 城 としているのはこの屋敷だという情報を兄が手に入れ(わざわざ聞き込まなくても見当がつきそうなものだろうとドーチンは思ったのだが、例によって口には出さないでおいた)、虜 になったクリーオウたちを幽霊からとりもどせば借金取りの怒りを招かずにすむはずと、ここまでやってきたのである。
と──
「お前ら、たいがいにしとかんと、人生で悟 り殺すぞ!」
見ると、兄が商会員の最後のひとりを捕まえて足 蹴 にしているところだった(弱い者には強い兄だ)。ボルカンが、ぶんぶかと旗を振り回しながら続ける。
「いいか! この大会 には、俺の命運がかかってると言っても過言ではないんだぞ! あのクソ借金取りの怒りなんぞ、バーゲンセールしてよーが買うもんじゃねえんだ! あの非道野郎、いつだったか俺がちょいと肩をぶつけただけで時計塔から逆さ吊りにしやがったんだからな!」
まあそれは本当だけど、とドーチンは胸中でつぶやいた。あれは実験助手のバイトをしていたときのことで、濃 硫 酸 がなみなみ入ったタライなんぞ持ってるところを背中から押されたんだから、普通そのくらいは怒るだろうと思うんだけどな。
そんなことを考えていると、突然、玄 関 が開いた。幽霊屋敷の中から、ばたばたと慌 ただしく金髪の見習い魔術士──マジクが飛び出してくる。
「あれえ?」
と、少年はこちらを見て声をあげた。
「なにやってんのさ。こんなところで」
「いや......なにって──」
ドーチンは言葉を濁 して、やはりきょとんと少年を見ている兄のほうを指さした。その指の先で、はたはたとシーツに書かれた青ペンキの文字がはためいている。
「ふうん......まあいいけど」
はあはあと息を切らしながら、マジクは納 得 したようだった。と、真っすぐにこちらに向き直り、
「ところでさ、ほら、ぼくより早く、例の女の人がここから出てこなかった?」
「女の人?」
「ええと......ヒリエッタとかいう、やたらアブない感じの。途中ではぐれちゃったんだ」
「さ、さあ......誰 も出てきませんでしたけど」
ドーチンがかぶりを振ると、マジクは目を曇 らせた。
「参ったなあ......お師様にどやされるかも」
「あ。僕らと立場がおんなじですね」
と、そんなことを言っていると──
がしゃああああん!
頭上から──窓ガラスと、そこにはめ込まれている木板が砕 ける音が響いた。見上げると、二階の窓が内側からたたきこわされたところだった。と、破られた窓の中からなにかが宙に身を躍 らせ──
そのまま落下してきた。ぼすん、とまるで捨てられたように無気力に、ひとりの人間が地面に激突する。けっこう体重がありそうなその身体は、いったんバウンドしてから、おそまきながら受け身を取って動きを止めた。
「あ──さっきの殺し屋!」
ドーチンは指さして声をあげた。殺し屋──コーゼンとかいっていたその男は、顔面を恐怖にひきつらせ、ケガをした左肩を押さえてうずくまっている。ドーチンはあわててマジクのほうを見上げた。多分、今ここにいる中ではまだしも戦闘能力を持っているであろう少年は、なんとか気 丈 に身構えてはいる。子供たち──いや商会員たちか、まあどっちでもいい──は、五人集まって硬直している。兄はそもそも問題外だから見もしなかった。
コーゼンはゆっくりと声を出した──文字通り、吐 き出すように。
「なにモンだ、あの女......」
「へ?」
ドーチンが声を発するが、コーゼンはそれきり、いきなりばたんと地面に倒れてしまった。倒れたまま動かない殺し屋を全員で見下ろして、ボルカン商会(プラス一)は、いつまでもそこにたたずんでいた。
◆◇◆◇◆
ホールまで走る間にも、背後から次々と鞭 は放たれてきた──それを本能的にかわしながらオーフェンは、ただひたすら足だけは止めないよう走りつづけた。立ち止まれば──今も廊 下 の左右で爆音にも近い破壊音を撒 き散らしている鞭に捕らえられることになる。そうなれば、もう命はない。
ホールへの入口にたどり着く──ホールの中は、二時間ほど前にこの館 に入ってきたときと同じく、何事もなくたたずんでいた。もっとも、廊下から絶え間なく響いてくる『鎧 』の足音は完全に静 寂 を壊していたが。オーフェンはホールを横切るように走ると、向こう傷の女神像の足元へと身を隠した。『鎧』の鞭を防げるほどの障害物はこれしかなかったし、それに──高さ四メートル近くある白亜の彫像は、なんとなく自分を守ってくれそうな気がしたのだ。
女神像の陰から通路をじっと見て──ホールへと最初に飛び込んできたのは、『鎧』ではなく『蛇』だった。移動速度ではあの重そうな甲 冑 より勝るのだろう。飄 々 とした表情で、半蛇半人のクリーチャーはホールへと踏み込んで、キイと鳴き声をあげた。そして──迷いもせずにこちらへと向かってくる。
(くそ──嗅 覚 まで蛇並かよ!)
オーフェンは彫像の陰から跳び退くと、床に転がりながら呪 文 を叫んだ。
「我は見る混 沌 の姫!」
あたかも黒いドレスをまとった貴婦人が抱き着くように、影のような重力渦 が『蛇』を打ち倒す。外傷を与えられない以上は、ごく純粋なパワーのほうが有効だった。『蛇』が吐き出すつもりだったらしい毒液が、射線をそらされて空 しく宙に散る。オーフェンは間 髪 入れず、倒れた『蛇』へと駆け寄っていった。
クリーチャーに馬乗りになるようにして、蛇の喉 元 に手を当てる。
「我は裂く大空の壁!」
ずん! と、かまいたちが『蛇』の首を打った。悲鳴をあげて、『蛇』があぎとを開く──オーフェンは躊 躇 せず、その口 蓋 に左拳 を突っ込んだ。
「あばよ」
つぶやいてから、さらに、叫ぶ。
「我は呼ぶ破裂の姉妹!」
──ほんの一瞬の出来事だった。『蛇』の身体が膨 れ上がるように跳 ねて、次いで、眼 窩 と言わず鼻 孔 と言わず、身体中の穴という穴から体液と肉片が弾 け飛ぶ。衝撃波が、蛇の内臓をあらかた吹き飛ばしたのである。飛び散った返り血を右手で払いながら、彼は左拳を引っこ抜いた。いつもはめている革 グローブが、毒液のせいでぼろぼろに溶けている。毒が皮 膚 に回らないうちに、オーフェンはグローブを外して床に捨てた。
「まずは一匹──」
もう動かない『蛇』から視線を外して、彼は通路の入口へと向き直った。ちょうど『鎧』がそこに姿を現している。黒の甲冑は、恋人を待ち受けるように両腕を広げて──
「なに?」
オーフェンはうめいた。『鎧』の身体が、甲冑の真正面が、ばくんと音を立てて蓋 を開けたのだ。
甲冑の中には、ただ鋼 を紡 いだものらしい黒い縄 が幾 条 も、無数にからまりあって、人型の塊 のように収まっている。ほかにはなにもない。そして──
あっと思ったときには、その何十本もの鞭がすべて、こちらに向かって飛んでくる!
「くそっ!」
オーフェンは唾 棄 するように言うと、『蛇』の死体を引っつかんで『鎧』のほうに放り投げた。無数の鞭が、内臓を失い軽くなった『蛇』の死体をばちばちと打つ。頑 強 な蛇の皮膚は裂けはしなかったが、死体は跳ね飛ばされてホールの向こうまで弾き飛ばされていった。
だがその隙 に、オーフェンもその場から移動している。甲冑をはだけた『鎧』の上半身に向けて右手を突き出し、
「我は放つ光の白刃!」
放たれた光熱波が『鎧』を打ちすえる。装甲のない、鞭だけの胸を狙 ったのだが、どのみち同じことのようだった──『鎧』は何事もなかったように、また起き上がろうとしている。『蛇』にはまだしも内臓があったが、こちらの甲冑には中身すらがない。
(となると、あいつを倒すには甲冑そのものを徹底的にたたきつぶすしかねえってのかよ)
それは必ずしも不可能なことではなかったが──
動 悸 の収まろうとしない心臓を抱えるようにして、オーフェンは再び女神像の陰にもぐりこんだ。上気した顔を、とめどない汗が滴 る。息も完全にあがっていた。
(体力がもう限界だ──こんなに立て続けに魔術を使ったことなんかねえからな)
こうなると、もうこれ以上無 駄 な攻撃などできない。あと一撃か二撃で確実に倒さなければ、こちらの体力が尽 きてしまう。
息を切らせてそうつぶやき、オーフェンは女神像の、純白なローブの裾 あたりに手をついた。と──
「──しまった!」
女神像の中から唐 突 に現れたケンクリムの『手』が、女神像に触 れていたオーフェンの左腕をしっかりとつかんでいる。むっちりとした指に何本もくくりつけられたナイフの刃が、ぶつりと彼の肉に食い込んだ。見る見るうちに傷口から血が噴 き出し、腕中を真っ赤に染 める。『手』は意外とも思える怪力で、彼の腕を引っ張った──まるで、像の中に引きずり込もうとするように。
オーフェンは激痛はとりあえず無視して、空いている右手で『手』の指をつかんだ。左腕をもぎ取られまいと必死に抵抗するのだが、『手』は決して力をゆるめようとはしないし、いくらこっちが力を入れてもびくともしない。それに──
と、オーフェンは横目で『鎧』のほうを見やって焦 燥 にかられた。『鎧』はもう既 に起き上がって、こちらに向き直ろうとしている。この状態では、あの鞭はかわせない。
(やるしかねえ──)
オーフェンは決断すると『手』の指をしっかりと握りなおし、絶叫にも近い声を張り上げた。
「我は踊る──」
『鎧』の胸が、また開く。
「我は踊る天の楼 閣 !」
視界が、歪 む──
転移の魔術が発動し、次の瞬間にはオーフェンはホールの天井近くへと出現していた。ここまでの長距離──十メートル近い距離を転移することは容易ではない。実際オーフェンも、今まで成功した覚えがなかった。床まで数メートル見下ろして、不安定な落下感に堪 えながら、ともに転移したはずの『手』を見やる。
『手』はまだ彼の左腕にがっしと食い込んでいた。やたら毛深い人間の手首──あるいは、毛をカットされた類 人 猿 の手首のようにも見えるそれは、二の腕のあたりでぶつ切りにされている。切られたところから三本ほどの太いチューブが五十センチほど伸びており、それが、空中でぶらぶらと揺れている拳大の『脳』のイミテーションに直結している。それが、この『手』──ケンクリムのすべてだった。
恐らくは転移の魔術の応用で、壁や地面から突如として出現してくるのだろうが......
だが、この空中でならば逃げ道はない。オーフェンは落下する中で『手』の『脳』をわしづかみにし、それをチューブから引っこ抜いた。ごくんと一度だけ痙 攣 し、『手』から力が抜ける。その『手』の指はそのまますっぽ抜けて、オーフェンの左腕から外れた。
そうしているうちにも、落下は続く──およそ、天井に出現してから一秒と経 ってはいなかったろうが、真下には女神像の頭と、その足元できょろきょろしている『鎧』が見えた。落下しながら女神像の頭に飛びつき、オーフェンは身体の中に残った活力のすべてをふりしぼり、叫んだ。
(効 いてくれよ──)
「我は放つ光の白刃!」
光を放つ光熱波は、『鎧』ではなく女神像の足元へと突き刺さった──同時、彫像の足元が爆裂し、静かなる女神、沈黙の女神がゆっくりと傾 きはじめる──
オーフェンは女神像の頭につかまったまま、ふりこのように身体を震わせて、像がそのまま『鎧』の真上に倒れるようにと勢いをつけた。あまり意味はなかったろうが──女神像は三トン近くはあるだろうから──、どちらにしろ、彫像はいまだこちらの姿を探している漆 黒 の甲 冑 の上に落下していった。
オーフェンも投げ出されるように床に落下して、ひどく咳き込んだ。衝撃で肋 骨 くらいは折れたかもしれない。だが、見上げるに『鎧』は、床に横倒しになった女神像の下で、もう姿も見えなくなっていた。もうもうと舞い上がった埃 の中で、オーフェンは肩で息をしながら、胸中でつぶやいた。
(これで──あと一匹──いや、ひとり、か......)
だがサミイは、さっきから姿を見せていない。サミイが姿を現していて、四対一であったなら、こちらに勝機はなかっただろう。
(なにか狙 いでもあんのか......まともな思考力もねえくせに......?)
もっとも、フォロノゴスは戦闘生物としてクリーチャーを造り出したのだ──戦闘に関することならば、案外と臨 機 応 変 な対応をこなせる可能性はある。
しばらくして、なんとか動 悸 もおさまると、オーフェンは立ち上がった。女神像も倒壊し、見るべきところはなにもなくなってしまったホールを見回す。
と──
ホールの隅の暗がりから、そっと足を踏み出してくる人影があるのに気づいた。その向こうにはオーフェンが駆け込んできたのとは別の通路が続いている。どうやら人影はずっと、その通路の入口のところで身を潜 めていたらしかった。ほっそりとした長身の人影は、長い黒髪をぱらぱらと揺らしながら、ぱちぱちと気のない拍 手 をこちらに送ってきた。
オーフェンはつぶやくように声に出した。
「......マジクの奴はどうした?」
「外に逃がしておいたわよ。その後わたしが引き返してきたのは、わたしの勝手でしょ?」
人影──ヒリエッタが、薄 い笑みを浮かべてそう答える。
「ま、そりゃ勝手だがね」
オーフェンはいらだたしげに額の汗をぬぐった。
「それで、物 陰 に隠れて高みの見物か?」
「いよいよ危なくなったら助 太 刀 しようと思っていたんだけど──」
と、彼女は横倒しになった女神像に視線をやって、くすっと笑った。
「その必要もなかったみたいだし」
「ずいぶんとご機 嫌 だな」
オーフェンは傷ついた左腕をかばうように右手で触れながら、血の感触にぞっとしていた。傷は思ったより深くはないのだが、出血のせいで感覚がマヒしはじめている。できれば魔術で治 癒 させてしまいたいところだったが、まだそれほどには体力が回復していない。
ヒリエッタはこちらに近寄りながら、肩をすくめた。
「読みが当たったから......ね」
「読み?」
オーフェンが聞き返すと彼女は、
「ええ。やっぱりあなたは最高の魔術士だわ。大陸でも有数の」
「......だから、なんだってんだ」
オーフェンは吐 き捨てた。
「第一、クリーチャーはまだ全部処理できたわけじゃねえんだぞ。さっきからサミイの奴の姿がないってのに、俺はもうほとんど力を使い果たして──」
と、言いかけた瞬間......
キイ、と小さな音が聞こえた。
扉がきしみながら開く音──そして再び、ばたんと閉じる。コツ、コツ......と軽い足音が続き──オーフェンは黙して耳をそばだてた。音は、ホールのすぐ上、二階のテラスから聞こえてくる、鬼火の明かりは、そこまではとどいていない。彼はちらり、とヒリエッタの姿を見やった。彼女もその音には気づいているようだが、動じず気 丈 に腕組みなどしている。
オーフェンはうめくように聞いた。
「サミイなら......足音なんて立てるわけねえな。ほかにもまだクリーチャーがいるのか?」
だとしたら、もう勝てない──とオーフェンは胸中で付け足した。
ヒリエッタはかぶりを振った。そして、しごく落ち着いた様子で口を開いた。
「サミイが最高のクリーチャーである理由が分かる?」
「......なんだと?」
オーフェンは聞き返したが、彼女は気にもせずに勝手に答えた。
「どこにでも突然出現して、しかもこちらからの攻撃は一切効かない......でもこんな程度のことならね、アクセルやキキュイーム、それにケンクリムにだってできることなの。サミイの本当の能力はね、本来なら制 御 不能だったクリーチャーをすべて支配下に置ける こと......」
「つまり──」
オーフェンは愕 然 としながらうながした。彼女はこくんとうなずいて、腿 の鞘 から短剣を抜いた。
「サミイは──どんな方法か知らないけど──いかなる生物にも憑 依 して、支配することができるわけ。あの子──マジクとかいう子は、なんて言ったかしら。あのお譲 ちゃんが死んだ、だったっけ?」
その瞬間、足音が止まった。
見上げる──と、鬼火の明かりにぎりぎり入るところ──テラスへと続く階段の一番上のところに、金髪の小柄な少女が棒立ちになっている。
オーフェンは、意識が、ぐらりと揺れるのを感じた。
「クリーオウ?」
階段の上からこちらを見下ろしているのは、紛 れもないクリーオウだった、右手には、どこで見つけたのか、細身の軍刀を下げている。少女の金髪は細やかに揺れていた。風のない屋 内 だが、さっきまでオーフェンがさんざ魔術を連発したせいで空気が熱され、軽い気流が起こっているのだ。貴族の血が混じった線の細い造作は、ひどく静かに凍 りついていた。目の中の光も消えている。起きながら眠っているように、彼女は虚 ろに視線をこちらまで伸ばしていた。彼女の着ているシャツにも、オーフェンは見覚えがあった。確か、前にマジクが着ていたやつだ。
間違いない──間違いなくクリーオウ本人だが──
ヒリエッタが、ぽつりとつぶやく。
「言うまでもないことだと思うけど──彼女は生きてるわよ。勢いあまって傷つけたりしないほうがいいでしょうね」
「当たり前だ──」
オーフェンはヒリエッタのほうに顔を向けて言いかけた。そして──
とんっ、と軽い音を立てて着地してきた気配に慄 然 とした。ぱっと向き直ると、ほんの数センチほどしかない目の前に、抜き身の剣を片手にしているクリーオウが立っている。
(階段の上から──飛び降りてきただと?)
反射的に後ろに跳んで逃げようとする──クリーオウの振り上げた剣が、恐ろしく素早く、銀の光 跡 を残しながらこちらの後を追ってきた。切っ先は空を切り、オーフェンはぎりぎりかわしたものの、クリーオウはすぐさま下段から剣を跳ね上げ、今度は耳のつけねあたりを狙 ってくる。
身をかがめて──というよりはほとんどつまずくようにして、オーフェンは避 けた。耳の近くをかすめた風切り音が、鼓 膜 に鈍い痛みを残す。熱に浮かされた夢の視界のように、妙にゆったりとした光景の中で、クリーオウが隙 なくまた刃を閃 かせるのが見えた──
(殺 られる!)
オーフェンは悲鳴をあげるように胸中で叫んだ。これで相手がクリーオウでなければ、右手で敵の眼球でも突いていただろうが──
と、その瞬間、クリーオウが消えた。
気が付くと、少し離れたところで少女は横倒しになっている。見ると、ヒリエッタが横から少女を蹴 倒 したらしい。
「大 丈 夫 ?」
ヒリエッタが聞いてくる。オーフェンは倒れたまま動こうとしないクリーオウを怖 々 とのぞき込みながら答えた。
「ああ。助かった。すまない」
と、クリーオウの手から剣を取り上げる。クリーオウの手は冷たかった。
ヒリエッタが、ため息まじりに言った。短剣を鞘 に収めながら、
「あんたってのもお人 好 しね。自分が殺されそうになっても反撃できないわけ?」
「たまに、反射的な行動を忘れるんだ」
オーフェンは毒づくように言って、剣を二階のテラスの上まで放り投げた。
「《塔》にいた頃と違って、毎日毎日戦闘訓練しているわけじゃねえし......それに、そもそも基本的にはそんなもの──対人の戦闘法なんてものは必要のない生活をしているわけだからな。どうしたって勘 は鈍 る。五年前は伝説のキリランシェロだったかもしれんが、今じゃホントにただの金貸しに過ぎないのさ」
からあん、と、剣がテラスの床に跳ねる音が響く。オーフェンはにやりとした。
「終了のゴングだ......ところで、ヒリエッタ」
「なに?」
「サミイの正体が分かったぞ」
「え?」
驚いたように声をあげるヒリエッタを無視して、オーフェンはクリーオウの身体を起き上がらせた。医者がするように、軽く手 刀 で試すようにぽんぽんと彼女の腹をたたいていき──動きを止める。
「ここか」
オーフェンはつぶやくと、大きく腕をふりあげ、見当をつけた位置にたたきつける!
「────!」
声にならない悲鳴をあげたのは、当のクリーオウだった。それまでぐったりとしていた身体を二つ折りにして、ぐるんと横転し、オーフェンの腕の中から転げ落ちる──とたん、彼女は咳 き込みはじめた。大きく息をつこうとしながら、息ができず、あえぐように転げ回る。オーフェンは実験者の眼 差 しで彼女を見下ろしながら、冷や汗をかいた。ちょっと強く打ち過ぎたかもしれない。
咳き込むクリーオウの顔のあたりから、黒っぽい霧 が漂 いでてきた──サミイと同じ、闇 そのもののような渦 巻 く霧。霧はすぐ空気に紛 れ、薄れて消えたが、オーフェンは、その霧のいくらかが逃げるようにホールから出ていくのを見ていた。恐らくは──本体のところへもどっているのだろうが......
やがて、クリーオウが咳を止めた。そのままうずくまるように埃 だらけの床に顔を埋 めている。オーフェンはふと不安になって、そろりと彼女をのぞき込んだ。
「おい......クリーオウ?」
「なんてコトすんのよっ!」
クリーオウがいきなり起き上がりざま、オーフェンの顔面に張り手を飛ばす。いきなりの打撃に、彼は二、三歩後ろによろめいて転倒した。
「うおおっ?」
彼自身には知る由 もないが、コーゼンと似たようなしぐさで顔を押さえて起き上がる。オーフェンは、びしとクリーオウに指を突き付け、わめくように叫んだ。
「て、てめえ! それが命の恩人にすることかっ!」
「なにが命の恩人よ! 思いっきり咳き込んだじゃない! お花畑でお父様が手 招 きしてるのが見えたわよ!」
「あ、あのなあ、俺は──」
だが、手で制しながら言ってもクリーオウは聞かず、憤 然 とこちらに指先を返し、
「だいたい、女の子のお腹たたくなんて、どういうつもりなのよっ! もしものことがあったらどーするつもり? オーフェンだって困るでしょ!」
なんで俺が困るんだ、と思いつつ、オーフェンは弱々しく手を振った。
「いや、だから俺は──」
「常識ってもんがないの? あんな思いきりたたいて、殴 られたトコ、絶対あざになってるわよ!」
「だから殴ったのは──」
「わたし昔から、あざとかなかなか消えないんだから! こー見えても、階段から落ちたときについた額のあざが半年ほど消えなくて、修 道 院 に入ろうか、とか本気で考えたこともあるのよ! パンフまで取り寄せたんだから!」
「その、つまり──」
「盲 腸 の手術跡も、なんだか妙に目立つような気がするしっ! 爪 を綺 麗 に切り揃 えるのも苦 手 だしっ! どうしてくれんのよ!」
「うるせい」
オーフェンはいいかげん忍 耐 が尽 きたように言うと、詰 め寄ってきたクリーオウに真正面から足払いをかけた。なすすべもなく、ころんとクリーオウが転倒する。
「だ・か・ら、俺がいま打ったのは横 隔 膜 ──一応説明しといてやるが、呼吸するための筋肉だ。だからその筋肉が痙 攣 して咳き込んだんだよ。俺が本気で胃やら子 宮 やら打ってれば、お前、咳き込むどころか吐 血 して悶 絶 してっぞ」
「でも──」

と、なにやら圧倒されたように少し退いていたヒリエッタが聞いてくる。
「なんでそんなことで、この娘もとにもどったわけ?」
「ああ。ま、あくまでただの推 測 だったんだが──」
オーフェンは髪を掻 き上げた。
「さっき、こいつの攻撃に俺が対応できなかったのは、なにも俺が勘を鈍らせてたってだけじゃねくてね。こいつ、呼吸をしてなかったんだ」
と、しりもちをついた格好できょとんとこちらを見上げている少女を示す。オーフェンは肩をすくめて続けた。
「だから、なんて言うか......タイミングがつかめなくて、危うくやられるところだった。で、俺も昨夜、サミイの奴に取り憑 かれかけてね──意識が朦 朧 として、息ができなくなったのさ。多分サミイは、人間の肺の中に入り込んで、そこから脳を支配するんだ。奴の身体は気体──それも、憑 依 される人間が窒 息 しないところを見ると、酸素に近い物質なんだろうよ。かなり高密度の」
彼が締 めくくると、床の上からクリーオウが険悪な声を発した。
「つまり推測で、わたしのこと殴ったわけ?」
オーフェンは彼女をじろりとにらみやった。
「どうしろってんだよ。あのままほっとけってのか? クリーチャーが肺の中に取り憑 いてたんだから、人工呼吸程度で吸い出しても埒 があかねえだろ。俺だってほかに方法があるんなら、そっちを試したよ。だから、ンなにムクれるなって」
クリーオウは、しばし腑 に落ちない表情を見せていたが、やがて思いついたように悪 戯 っぽい笑みを浮かべてみせた。
「後で、あざになったトコ見てくれるって約束したら、許してあげる」
「......お前な、五歳 や六歳 のガキじゃねえんだから......」
「でも──」
と、割り込むようにヒリエッタが言った。
「サミイの正体が気体......酸素? だったとして、どうやって戦うつもりなの?」
「......簡単だよ。正体さえ分かっちまえば、奴を始末 するのはひどく簡単だ」
オーフェンは物 憂 げにぼやいた。ヒリエッタに向き直り、
「フォノゴロスはそれを知っていたから、助手だけじゃ飽 き足らず、自分──だか、自分の息 子 だか──までクリーチャーに改造したんだよ。サミイは失敗作だったんだ」
「............」
ヒリエッタは無言になり、深く吐息してあたりを見回した。なにかを探すように。
オーフェンも同じように、嘆息した。
「さて、と──屋敷を出ようぜ。サミイを倒すのに、ちと準備が必要だ」
言いながらオーフェンはクリーオウが起き上がるのに手を貸すと、埃 だらけの彼女の背中をはたいてやった。クリーオウが愚 痴 る。
「そーよね。この家、埃っぽくて、やんなっちゃう」
「......ふたりとも、出ていくなら先に行っていてくれる?」
──というヒリエッタのせりふは、オーフェンはなかば予想していたから、驚かなかった。クリーオウはびっくりしているようだったが。オーフェンは、ああいいよ、と安 請 け合いすると、クリーオウの肩に手を置いた。
「なあ、クリーオウ、頼みがあるんだが」
「......なあに?」
クリーオウが、血のついたオーフェンの手から、少し嫌そうに身を退いているようだったが、オーフェンは気づかないふりをした。
「お前だけ先に行って、マジクを見つけて伝言して欲しいんだ」
「先に行って──って、オーフェンはどうするの?」
クリーオウの問いに、彼は事もなげにヒリエッタのほうを示した。
「この屋敷にまだ、クリーチャー──ええと──ほれ、例のバケモンがまだ一体、残ってるんだ。そんな中を、ヒリエッタひとりでいさせたら危険だろ」
「............」
クリーオウが半眼でにらむのを、オーフェンは少し視線をそらして後を続けた。
「マジクを見つけたら、あいつに、この屋敷の周辺に油をまいて火をかけろっつってくれ。そんだけでいいから」
「火?」
少女はすっとんきょうな声を張り上げた。
「この家を燃やしちゃったら、中にいるオーフェンたちはどうなっちゃうのよ」
「ちゃんと逃げるよ。心配すんなって」
オーフェンは答えると、クリーオウの肩から手を放し、彼女の額をぽんと押した。クリーオウが面食らっているうちに、うながすように少女の細い肩をつかんで回れ右させる。向かせた先には、玄関出口があった。
「いいけど──」
と、背中越しにクリーオウは恩着せがましい声を出した。
「あんまり不自然に遅いようだと、逃げ道がないくらい本格的に火をかけちゃうからね」
「なんなんだそりゃ......」
オーフェンはうめきながら、彼女の背中を押した。一歩出て、そして立ち止まり──クリーオウはぽつりとした口調で聞いてきた。肩越しに振り向いて、
「ねえオーフェン、わたしって足手まといなのかな」
「まあ......おおむね足手まといだが......」
オーフェンは、それを聞いた瞬間傷ついたように歪 んだクリーオウの顔を見返しながら、
「いいんだよ。足手まといでな。俺みたいな奴は、お前とかマジクみたいな足手まとい......つうか、重しみたいなのがいねえと、どこに流されちまうか知れたもんじゃねえからな」
「............?」
クリーオウはどうも分からなかったらしく、碧 眼 に不理解の色を浮かべて見返してきている。やがて彼女は口を開いた。
「わたし、どうしても魔術士になれない? 絶対に無理?」
「無理だし、ならないほうがいい」
「......なんで?」
「どうも最近、俺は魔術士が嫌いになってきたみたいだ」
クリーオウはそのあとは、なにも言わなかった。とっとっと、やや速足でホールを歩いていく少女の背中を見送りながら、オーフェンは、妙な気分で独 りごちていた。
「現金なもんだな」
「......そうね。あなたに『いいんだよ』って言われると、たいてい納 得 しちゃうみたい」
ヒリエッタが、からかうように同意する。オーフェンは、あえて彼女の勘違いを正しはしなかった。
彼が言ったのは、クリーオウのことではなかった。自分のことだった。
(俺はキリランシェロに──戦闘芸術品と呼ばれた黒魔術士にもどったつもりだった。なのにクリーオウが生きていると知れば、いつの間にか、もとの金貸し魔術士になってたな)
ま、そんなもんなんだろうけどな、と思いながら。
「......ここか?」
と、オーフェンは腕組みして聞いた。二階の、少し奥まったところにある一室である。少々手 狭 で、屋敷のほかの部分と同じく十年もの無人の扱いがうずたかく埃 を積もらせてはいたが、配置そのものはきちんと整えられているので息苦しさは感じない。窓はやはり内側から打ち付けられて真っ暗だったが、オーフェンの鬼火の光が中を照らし出していた。本 棚 に並んでいるのは、この郊外では手に入れるのに骨が折れただろう古い小説の類 いと、空っぽの花 瓶 。机の上にはスタンドに入ったモノクロの写真がこちらを向いている。ベッドの上には、擬 人 化 された熊 の縫 いぐるみが、枕 と並んで置いてあった。
「ええ。忘れ物があるのよ」
ヒリエッタが、うなずいてすたすたと入っていく。彼女に続いて部屋に足を踏み入れながら、オーフェンは続けて聞いた。
「ここは、君の部屋か?」
「そうよ。ここに......ほら、あった」
彼女が取り上げたのは、机の上に置いてあった、それなりに高価そうな日記帳 だった。表紙からぱたぱたと埃を払いつつ、彼女はそのダイアリーを大事そうに胸に抱 えた。
オーフェンが興味を持ったのは、そのダイアリーの横に置いてあった、スタンドのほうだった──モノクロの古びた写真の中から、背の高い気の良さそうな若者と、心持ち緊張ぎみの少女がこちらを見つめてきている。少女は──一見して知れた。ヒリエッタだった。特に外見にさほどの変化があるわけでもないのに、今のはすっぱな印象が、写真のほうにはほとんど感じられない。どちらかというと、少々ヒネたご令 嬢 というところか。多分、それほど長くない髪をまとめた部分に花を添 えている、大きなリボンのせいだろうが。
彼女と並んでいる若者は、少女の肩に手を載せて気楽に笑っていた。こちらも、外観はさほど変化していないというのに、今の印象からは掛け離れている──サミイだ、とオーフェンは気づいた。
「こっちの写真はいらないのか?」
「......いらないわ」
ヒリエッタはあっさり言って、くるり──とこちらに顔を向けた。身体の線をぴったりとなぞるボディスーツの身体が、挑発するようにふらふら揺れている。
彼女は一度皮肉るように唇を歪 めてから、言った。
「聞きたいことがあるんでしょう? わたしに」
「いや、別に」
オーフェンはあっさりと肩をすくめた。体力が回復してから、左腕のケガも治 療 してある。体調は万全というわけではないが、おおむね落ち着いていた。
「俺は、ようするに、君を見張りについてきたんだよ。なんとなく......ほっとくと、君は、この屋敷から出てこないんじゃねえかと思ってな」
「......どうして、そう思うわけ?」
「全焼するこの屋敷に居残って、サミイと心中するつもりなんじゃないか?」
オーフェンの一言で、わずか──ほんのわずかだけ、彼女はほおをぴくりとさせた。
「別にそんなつもりはないわ。確かに、屋敷に火がかけられるまではここにいようと思ってたけど。でもそれは、彼の死に際 を見送るのはわたしの義務だからよ」
「それは、彼を愛していたから?」
「......ええ」
「当時、たった十五だった少女が?」
「少女だったからこそ、かもね」
彼女はダイアリーの表紙をなでて──そして、座るところを探すように視線をあちこちに投げると、埃 だらけのベッドに腰を下ろした。そして、続ける。
「彼は、サミイは、わたしによくしてくれたわ──素 性 の知れない家出少女のわたしにね。このダイアリーは、わたしの誕 生 日 に彼がくれたものよ。それだけじゃないわ──この部屋にあるものはね、全部サミイが用意してくれたものなの。病死した妹の持ち物だったんだって、ちょっと無神経だな、とは思ったけど、妹さんの形 見 だと思えばそれほど気にはならなかったわ。彼はわたしに読み書きも教えてくれたし──後見人になることを、フォノゴロスに頼みさえしてくれた。この屋敷に住まわせることもね。フォノゴロスは、それを承 諾 したわ......」
「サミイの意 図 がどうあれ、フォノゴロスにはフォノゴロスなりの意図があったんだろうよ」
オーフェンは、多少の下心を込めてそう言った──ヒリエッタは案の定乗ってきた。いや、もともと自分から話したかったのかもしれない。彼女は双 眸 にそのまま怒りを見せて、言った。
「でなけりゃ、あのケチ野郎が縁もない人間を衣食住つきで世話してくれるもんですか」
「やっぱり、フォノゴロスは、サミイではなく君をクリーチャーの試験体にするつもりだったんだな?」
それを聞いても、ヒリエッタは皮肉げな笑みを浮かべるだけだった。彼女は愛 撫 するようにダイアリーの表紙を指で撫 でた。
「そうよ。常識で言って、いきなり自分の助手を犠 牲 にしようなんて考える奴はいないでしょうよ。その分だけ、自分の負担が増えるんだもの。もっとも、あのフォノゴロスに常識なんてものがあったかどうか知らないけど。なんだか分からないものに怯 えて、震 えて......そして、狂ってた。このスーツはね──」
と、黒 革 のスーツを手で示して、
「フォノゴロスの奴が、わたしのクリーチャーとしての表皮にするために造ったものなのよ。十五のときの身体に合わせてあるから、かなりサイズがきついけどね。これを見たとき、わたしは思ったわ。これを使えば魔術士を......フォノゴロスを殺せるって」
(まさかフォノゴロスをクリーチャーに改造したのは、ヒリエッタなんじゃねえだろな)
オーフェンは思いついたが、聞かないことにした。代わりに、別なことを聞いた。
「君は結局、クリーチャーに改造されたのか?」
彼の問いに、彼女は吹き出した。
「いいえ──培 養 槽 にほうり込まれるってときに、すんでのところでサミイが救い出してくれたのよ。でもその代わり、わたしの身代わりになって、彼がその培養槽──って、さっきのとは別の地下室にあるんだけど──の中に入ってしまった。フォノゴロスはため息ひとつついて、予定が変わったとか言いながら、そのまま彼を改造したのよ」
彼女は顔を上気させて、ベッドの縁をたたいた。
「わたしには、なにもできなかった──毎日毎日、培養槽の中でサミイがクリーチャーに変化していくのを眺 めるくらいしかね。彼が最後、人間でなくなる瞬間──彼はわたしに言ったのよ。ぼくを殺してくれって。その瞬間から──」
と、彼女は薄寒い笑みを口の端に凍りつかせた。
「その瞬間から、彼は〝愚 犬 〟ヒリエッタのスポンサーになったのよ。わたしの、最初にして最後、唯 一 のね」
「少し......思い詰 めすぎなんじゃねえのか?」
オーフェンが言うと、彼女は鼻で笑った。
「わたしを馬鹿にしないでちょうだい──ねんねじゃないのよ。そりゃね、サミイのことは、わたしにとってはしょせんはただの──そうね。初恋の思い出ってやつに過ぎないのよ。ただ、ちょっとばかり奇 抜 な方法で別離したってだけでね。この八年間で、ほかの男に惚 れもしたわよ。でも、それでもわたしには、彼との約束を守る義務があると思ってるわ。彼は行き倒れになったわたしを助けてくれたし、わたしの命も救ってくれた。だからわたしは、何度も何度もサミイを殺してあげようとしたわ──でも、わたしにはどうしようもない。だから、この八年間ずっと、彼を殺せるほどの力を持った魔術士を探してまわったの。あなたが《塔》から失 踪 したと噂 で聞いたとき、思わず歓 声 をあげちゃったわよ。あなたを捜 し当てれば、必ずサミイにとどめをさしてくれると思った。その予想は外れてなかったわね。オストワルドなんて妙な奴まで利用してあなたを捜し当てて、それが無 駄 骨 に終わったら笑えもしなかったでしょうけど」
「俺には......理解できかねるね」
と、オーフェンは表情を厳 しくして嘘 をついた。そして聞いた。
「気になってるんだが......君を逃がしてから、サミイの姿が見えなくなってるんだ。クリーオウに取り憑 いたのを別とすればね。奴は今どこにいるんだ? 君なら知ってるんじゃないか?」
「彼はこの屋敷にいるわよ。用がないときは、いつだってここのどこかにいるわ。もっとも、彼がどこかに隠れるつもりになったら、わたしたちには絶対に探し出せっこないけどね。どんな隙 間 にだってもぐりこめるんだから」
「どうして、俺を襲いにこないんだろうな」
「手 駒 だったクリーチャーをすべてあなたに潰 されて、混乱してるのよ。そんなことができる人間がいるわけないって思ってるから。さて、屋敷に火をかけるって言ってたわね。それでサミイが殺せるわけ? オーフェン」
まるで、仇 にでも言うような口 調 だなと思いつつ、オーフェンは答えた。
「奴が屋敷中に拡 がっているんなら、好 都 合 だよ」
つぶやきながら、部屋の中の、内側から木板で打ち付けられた窓へと歩み寄り──拳 で一撃して、窓をたたき開ける。ばんっ! と板が砕 ける音とともに、まぶしい光が暗い部屋の中に射 し込んできた。まだ昼下がりの、夕刻まで間を持つ刻限──
そして開いた窓から、黒い煙が入り込んできた。
煙を手で払いながら、オーフェンは言った。
「始まってるようだな。おっと──クリーオウの奴、マジクやボルカンにも頼んでたみたいだな。ボルカンの奴が火だるまになっているように見えるが......まあ毎度のことか」
「火で、サミイが殺せるの?」
ヒリエッタが聞いてくる。オーフェンは、当たり前だろ、と答えた。
「奴の身体は気体で出来てるんだ。しかも性質が酸素に近い。モノが燃えるってーのは、ようするに酸素がほかの物質に化合する反応だからな。この屋敷は木造だし......熱せられれば、サミイはそこらの可燃性の物質に化合して封じ込められることになる。まんべんなくな。で、いずれは土に還 るだろ」
「............」
ヒリエッタは、ごくりと唾 を呑 んだようだった。オーフェンは彼女に向き直り、告げた。
「屋敷の外へは、俺の魔術で脱出できる。サミイの最 期 を見届けたいってんなら止めないが、このままここに残れば、あと十分以内に君も死ぬぞ。言っとくが、俺まで付き合うつもりはねえからな」
挑発のつもりで言ったのだが、ヒリエッタは小さくうなずいただけだった──そのまま、なにも答えてこない。もしかしたら、本当にこの場にとどまるつもりなのかもしれないと、なかば信じられない思いでオーフェンは悟った。
「ヒリエッタ──サミイは八年前に死んだんだよ。それを納 得 できないってんなら、百歩譲 って、俺が殺すんだってことにしてもいい。君が負い目に感じる必要はないだろ」
「止めないんじゃなかったの? ああ、そうだ」
「......なんだよ」
「お礼を言おうと思っていたのよ」
「なんのだよ」
オーフェンが聞くと、ヒリエッタは達観したようなしぐさで肩をすくめた。
「フォノゴロスからサミイのことを聞いたとき、あなた、怒ってくれたでしょう? すごく嬉 しかった」
「......あのなあ......」
オーフェンは、ぐっと拳 を握りながら、
「どうしてもここに残るってんなら──本当に止めねえからな。死にたがりにつける薬はねえんだよ──かける言葉も魔術もない。が、あくまで個人的な意見を言わせてもらうなら──」
「言わせてもらうなら?」
聞き返されて、オーフェンは一瞬だけ言葉につまった。なにを言えばいいのか──
「あんたみたいなひとには、死んでもらいたくない」
思わず真顔で、そう言っていた。と──
ヒリエッタはのけぞり、大爆笑を始めた。仕方なくオーフェンは、憮 然 とした面 持 ちで、えらくクサいことを言ってしまった自分を自責しつづけた。
◆◇◆◇◆
「はぁーっはっはっはあっ!」
無意味に腕組みして、ボルカンの哄 笑 が燃え上がる屋敷を前に響き渡る。肩にかついだ旗には、やはりシーツにでかでかと書いたペンキの文字で『ボルカン商会の絢 爛 たる第三回大会──あさましい借金取りを怪 物 もろとも火責めにして幸せになろうね!』とある。
得意げに、ボルカンは叫びつづけた。
「これだ! この瞬間を待っていたのだ、俺はっ!」
「............」
あからさまに『大 丈 夫 なのかコイツ』という表情で、コーゼンとかいう殺し屋がボルカンを見ている。ドーチンは嘆 息 まじりに兄を無視して、向こうで屋敷の周りを囲うように油を撒 いているマジクや『商会』の子供たちのほうへ駆け寄っていった。
「ほらそこ! 火に近づいちゃ駄 目 って言ったでしょ! ロイド!」
妙に手 際 よく子供たちに指示を出しているクリーオウの後ろで、マジクがぼんやりしている。ドーチンは、くいくいと彼のシャツの裾 をひっぱった。と、金髪の少年はくるりとした瞳 をこちらに向けた。
「なに?」
ドーチンは、不安げに言った。
「いや......ええと、その......いーのかな、と思って。村の人たちに勝手に、こんな、家燃やしちゃったりして......」
「いいわけないと思うけど......」
言いつつも、そうは思っていないようなあっけらかんとした表情で、マジクが答える。ドーチンはうめいた。
「どうしよう。兄さんじゃないけど、ここであの借金取りも燃やしておいて、全部の責任をひっかぶってもらおうか」
「こっそりと、けっこうひどいこと言うんだね......」
マジクも少し手を休めて、ちらり、と火の手が回ってきた屋敷の屋根のほうを見上げた。
「お師 様 もなんか考えがあるんだろうし......ないかもしんないけど。ま、責任はとってくれるでしょ」
「無責任だなあ」
とドーチンが言うと、マジクは心外だというように顔をしかめた。
「なに言ってるのさ。無責任なんじゃなくて、そーゆうのはすべてお師様に任せておこうという、実にリーズナブルかつフレキシブルな態度なんじゃないか」
「フレキシブル......?」
疑わしげに聞き返すと、突然、背後で悲鳴があがった。兄の声である。
「うわぉぉぉぉぉぉっ?」
ふりかえって見ると、さっき追いかけ回された報復か、子供たちが背中からボルカンに油をぶっかけたところだった。火の粉が飛んで、引火する──
「火だるまだねえ」
「だねえ」
山火事から焼き出されたタヌキそのままの姿で、背中で燃える火から逃げようと無駄な努力をしているボルカンを見ながら、ドーチンとマジクはぼんやりとつぶやいた。
なんだか、クリーオウもそれを見て騒いでいる。
「ああ! カウフマン、水持ってきて!」
「はい、姉ちゃん」
「えい! って、ああ! これは油じゃないのっ!」
と──さらに火だるまになって狂乱状態のボルカンのわきを通り抜けて、コーゼンがこちらへと近づいてくる。殺し屋は戦闘服にあちこち血の跡 をつけていたが、深手ではないようだった。コーゼンは、ドーチンにともマジクにともつかないあやふやな視線をこちらに投げ、話しかけてきた。
「もういいだろう。帰らせてもらうぞ」
「は、はあ......」
と、マジク。不 思 議 そうに、
「でも、そもそもなんであなたが手伝ってくれたりしたんです?」
「............」
コーゼンは、一瞬無視したかに見えた。が、しばらくしてから口を開いた。
「いや、別にな」
視線が、ちらりとクリーオウのほうをさまよっている。
げ、とマジクがうめくのが聞こえた。
「あ、あの──クリーオウに気があるっていうんなら、やめたほうがいいですよ。断言しますけど、ロクなことありませんって」
「べ──別に、三 十 路 も近いのにあんな乳 臭 い小 娘 に血迷う趣味はないっ!」
怒 鳴 りながらもえらく動 揺 した様子で、殺し屋が叫ぶ。ひょっとしたら、本当に図 星 なのかもしれない──珍しいものでも見る心持ちで、ドーチンはそう思った。
ドーチンはコーゼンを見上げて、言った。
「まあなんにしろ、行くんでしたらごきげんよう。ミスター・ウァイセツ」
「隻 影 のコーゼン、だ」
「そうだよ」
と、マジクが横から口をはさむ。
「たとえ、なんの特技も特徴もない日 陰 者 の殺し屋にだって、さもしい自己主張くらいはあるんだから」
「......誰もそこまでは言ってないけど......」
横目で恐る恐るコーゼンを見上げながら、ドーチンはマジクに言った。コーゼンは、もはやあきらめたのか、嘆息するとそのまま無言できびすを返していった。黙々と、燃える屋敷を後にする......
「ひょっとして......」
マジクがぼやくのが聞こえる。
「あの人、影が薄いもんだから世を拗 ねて殺し屋になんかなったのかなあ」
(そんなわきゃないと思うけど)
だがドーチンは答えずに、コーゼンの後ろ姿を見送った。本格的に燃えはじめた屋敷の崩 れる音と、まだ火が消えずに暴れている兄の罵 声 を後ろ耳にしながら。
◆◇◆◇◆
彼に、人間としての感覚が残っていたわけではない──
だから、苦痛というのは、別に感じなかった。思いつきすらしなかったほどだ。
ただあるのは、自分が『希 薄 』になっていくという感覚だった。彼の周 りで吠 えたける炎が、彼の身体を奪 っていく。
奪われた彼の身体が、いったいどこに行ってしまうのか──それは分からない。
ただ分かるのは、このままであれば彼のすべてが、どこかに行ってしまうということだった。自分の『すべて』がどこかに行ってしまえば、最期に残るのはなんなのだろうという漠 然 とした疑問が、彼の思考を支配していた。ひょっとして、残ったものこそ本当の『自分』だけなのでは。なにも残らないというのは、非現実的であるような気がしていた。なんにせよ炎は一時間ほどかけて木造の館を全焼させ、消えた。
彼の身体は大部分が『どこかに行ってしまった』ようだったが、意識は消えていなかった。
............
「長い一日だったな。この村に来てから」
というつぶやきが、聞こえてきた。何度か聞いた覚えのある声。そのうちの何度かは、彼に絶望的な恐怖すら与えたこともある声のような気がするのだが、よく覚えていない。なんだろう。フォノゴロスだろうか。フォノゴロスは、いったい何人いるのだろう、この世の中に。
「お礼はするつもりよ、オーフェン」
こちらの声にも、聞き覚えはある──なぜだか、聞くと猛烈な悲しみに襲われる声。
「別に、ンなことを期待してたわけじゃねえさ」
「遠 慮 することはないんじゃない? にしても......跡 形 もなく燃えたわね、この建物」
「古くて乾 燥 してただろうしな......おっと」
「......どうしたの?」
「ほれ、あれさ」
「............」
声はどうやら、驚いて絶句したらしい──
「燃え残っちまったみたいだな、サミイ」
「でも......ほんのちょっとよ」
「再生する可能性がある......にしても、もうこの辺に可燃性のものなんざ残ってねえよな。みんな燃えちまった」
「いいえ......残っているわよ」
「って、おい? ヒリエッタ──」
彼女は背中のファスナーを器用に下ろし、ボディスーツを一気にはだけさせると、空中を惨 めにただよっている、ほんの一握りの黒い霧──彼の燃え残りを胸元に抱き寄せた。そしてそのまま、足元から、まだ真っ赤に焼けたままの金属の棒(元は火かき棒だったのだろう)を取り上げて、ためらいもせずに胸の谷間に押し付けた。
「ヒリエッタ!」
と、彼女の後ろから悲鳴じみた声があがる。
だが彼女には、それにかまっている余裕はなかった──彼には、自分がどうなっているのかすら自覚できなかったが、ともかくも、急速に自分と彼女の思考がごっちゃになりつつあるのだけは感じていた。彼の『視界』に、彼女の見ている光景がダブって混在する。その新たな視界の中で、燃える鉄棒が、彼女の皮 膚 を思い切り焦 がしつけるのが見えた。全身から脂 汗 が噴 き出すのを感じた──彼女の感覚の中で。内臓にまで達する激痛で、悶 絶 しそうになる。が、それよりも、ひどく単純なことしか彼──そして彼女は考えていなかった。

(これであなたのことは忘れない──)
炭化する胸元の火傷 を見下ろしながら──そしてその傷口の中に消えていくサミイを見ながら、彼女は続けた。
「せめてわたしの胸でお眠りなさい」
やがて、霧は消えうせた。完全に、この世から。
振り返ると、オーフェンは完全に茫 然 自失しているようだった。不敵に笑いかけ、ヒリエッタは彼に言った。
「傷 跡 は、あなたが消してくれるんでしょう?」
血まみれになった上半身に再びスーツを着直しながら、彼女は満足げに笑ってみせた。
かつん......かつん......かつん......
ゆっくりと、ややぞんざいな足音が聞こえている。真っ暗で、そして妙に空 漠 とした空間──だが、決して広い場所ではない。ただ......虚 ろなだけだ。
焦 げた臭 いが、まだ立ち込めている。フォノゴロスの屋敷は全焼したが、この地下室だけは焼け残っていた。こぼれた汚 水 は度 重 なる光熱波やらなにやらの爆発により蒸 発 していたが、その分空気に紛 れて異 臭 を残している。その床には、砕 けた水 槽 のガラス片と損壊した瓦 磔 と土 砂 、そして、彼の死体。
かつん......かつ。............
足音は、地下室の入口で唐 突 に止まった。足音の主は、なにかを受け取るように手のひらを上にして右手を差し出し、唱 えた。
「我は生む小さき精 霊 」
ぽうっ......
呪 文 とともに彼の手のひらから、拳 ほどの大きさの鬼火が浮かび上がった。明かりは部屋の中を照らし──そして、呪文の主を照らす。黒髪の、二十歳 ほどの若者。目付きが陰険に吊 り上がった、やぶにらみの容 貌 。だが今はその表情は、やや神 妙 にうつむいていた。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「ひょっとして、と思ったんだがな......」
問いかけるような口 調 である。その声に、応 える者があった。
「......わたしのことか?」
応えたのは、床に横たわった巨大な魚の死体だった。もう身動きもしない上、腹を裂 かれて変色した血を撒 き散らしているが、声はまるでただ昼寝でもしているだけのような野太い響きがある。
「やっぱ、生きてたか。フォノゴロス。質問がある。みっつほどな」
若者──オーフェンは、嘆 息 混じりにつぶやいた。バンダナで止めた前髪を掻 き上げ、
「まず、聞きそびれたことがあったよな。広間の女神像。なにか意味があるというようなことを、お前は言っていた」
「............」
フォノゴロスは、しばし沈黙していた。だが、
「わたしは異 端 者 、背 教 者 だ──これでは答にならんかね?」
「だからって、わざわざホールの女神像に傷をつけるかね。宗教結社の集会所じゃあるまいし。あんたは神を呪 ったか。恐れたかしたんだ」
フォノゴロスは返答しなかった。オーフェンはいらいらと腕組みすると、次の質問を口にした。
「じゃあ、第二の質問だ。どうしてクリーチャーなんぞ造ろうと考えた。ドラゴン種族を越える戦闘能力の持ち主と言ったところで、そんなもん戦争のない現代じゃ売り物にもなりゃしねえだろ」
「......その答は、第一の問と同じだよ。わたしは恐れていた......だから、それに対抗する力を持ったものを生み出さなければならなかった」
「お前は......なにを恐れていた?」
「言えない。言えば、わたしは死ぬ。死ぬのは──どうせこんな身体だ。かまわないが、奴らの手にかかるのだけは嫌 だ。魂 までも失いたくはない。どうしても知りたいのならば──」
彼は、虚 ろな声を響かせた。霊 廟 のこだまのように。
「お前自身で知るがいい。わたしはそれを、キムラックで知った」
「教会総本山 ......?」
オーフェンは聞き返したが、フォノゴロスはまた答えない。最後に嘆息して、オーフェンは、お前はキエフ・フォノゴロスなのかラモン・フォノゴロスなのか聞こうとした──が、それがまったく無意味なことに気づいた。
彼は代わりに、別のことを聞いた。
「......さっきからお前、どっから声を出してんだ?」
魚の身体はぐったりと横たわっているだけで、声を出すときに動きすら見せない。まるっきり死体のように見えた。だが声は確かに響いているのだ。この地下室に......
フォノゴロスの答はない。だがオーフェンはふと、腹を裂かれた魚の死体の上に、ぼんやりとした人影──ローブのようなものを着た、くたびれた老人、怯 えきった表情の細長い老人の姿が見えたような気がした。瞬 きすると、もう見えなかったが。
......ひょっとして、本物の亡 霊 になったのかもしれない。
彼はそう胸中でつぶやくと、黙って右手を握 り締 めた。手のひらに握り潰 されるようにして、鬼火がかき消える。
「......あばよ、フォノゴロス」
オーフェンはそれだけ言うと、くるりと背中を見せた。彼の去りゆく足音が、また地下室に響き渡る。
あとには暗 闇 だけが、いつまでも静かにすべてを覆 い隠していた。ガラス片も、瓦 磔 も、汚水の跡も、魚のクリーチャーの死体も、そして孤 独 な亡霊が踊る姿も、なにもかも。
◆◇◆◇◆
「よし、今だドーチン! 奴はいない!」
妙に力を入れた声でボルカンが叫ぶ。宿を出、村を出る道を一 目 散 に走る兄の後を追いながらドーチンは、口の中でこっそりとつぶやいていた。
「......そんなに上 手 くいくもんかな」
ようするにあの黒魔術士が宿から姿を消した隙 に、借金取りから逃げ出そうという算段である。あの後理 不 尽 にも、あの魔術士にげしげしにタコられた兄(どうやら、例の木箱の入手経路について兄がまた馬鹿なことを言ったらしい)は、もうはや回復している。三十分ほど前までは身体中の関節をひっくりかえしたみたいになって死んでいたのだが、今からきっかり十二分前に、がばと跳ね起きたのだ。で、今はこうして脱 兎 のごとく走っている。
つくづく、ハンマーなみに頑 丈 な兄である。
「ところで兄さあん!」
後ろから追いかけつつ、ドーチンは呼びかけた。足は止めないまま肩越しにふりむいて、ボルカンが応じてくる。
「なんだあっ!」
「この村を逃げ出したら、どこに行くのさあっ!」
「決まっているだろう!」
ボルカンは、きっぱりと言いきった。あさっての方向を指さして。
「希望の明日へ! マスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカンは常勝街道を驀 進 する!」
「よーするに、なぁぁんも考えてないんだねえっ!」
ほぼ諦 めきった表情で、ドーチンが叫び返す。ボルカンは少しだけ躊 躇 した目付きを見せたが、一瞬後には開き直ったらしく、指さした手はそのまま、無言で走っていく。
「ところで兄さあん!」
「今度はなんだぁっ!」
「えーとねーっ!」
「おーっ!」
「少し先のおーっ!」
「おうーっ!」
「足元にさあーっ!」
「足元がどしたあーっ!」
「ロープが引いてあるんだけど......あ」
ドーチンがそれを言うころには、すでにボルカンはえらく派 手 な勢いで、地上十センチほどのところを、道を横切るようにして引っ張ってある縄 に足をひっかけ、転倒していた。そのまま丸っこい身体をごろごと回転させ、やたらものすごい音を立てて止まる。
仰 向 けの姿勢でこちらをじろりとにらみ、兄はうめいた。
「早く言え馬鹿者......」
「ごめん。ぼくが間に合うタイミングでしゃべってたもんだから」
ドーチンは答えながら、ロープの手前でぴたりと足を止めた。
「だがしかし、誰 がこんな悪 戯 を......干しシイタケでダシとり殺すぞ、くそ......」
兄がのろのろと起き上がっていると、引いてあったロープの端っこを持って(もう一方は、道端の木の根元にくくりつけられてある)、黒ずくめの人影が現れる。
「ふふふふふふふふふふ」
「し、借金取り!」
兄がオーバーアクションぎみに叫ぶと、その人影──オーフェンは相変わらずの根の深そうな陰険な笑みを浮かべ、言った。
「てめえらの考えなんざ、お見通しなんだよ」
「く、くそ──だからドーチン、こんな穴だらけの計画が上手くなんかいくわけないと言ったろーがっ!」
「いつだよ......」
ドーチンはシラけた目でつぶやいたが、誰も聞いてくれなかったらしい。
借金取りが妙に生き生きした目で、腕まくりする。
「さあて! 積もり積もった貸金に利子! 問答無用で返してもらうからなっ! とりあえずここらで拘 束 させてもらう! もー長々と待つ慈 悲 なんざねえぞ!」
「あんたの取り立てに、いつ慈悲があったんだよう」
ドーチンはうめいた。兄もうなずきながら、
「そーだそーだ。もーちょっと待ってくれてもいいじゃないかっ!」
「駄 目 」
「え......で、でも、せめてほんの少しくらいは......」
「やだ」
にっこりと、黒魔術士。その表情に、兄はだいぶビビったようだったが、
「あ──ええと、じゃあ身体 で払うっていうのは駄目かな」
「肉屋に売ってもいいか?」
満面に浮かべた笑みはそのままに、魔術士が告 げる。
さすがにボルカンも、ゔ......と声を漏 らしたまま反論できなくなった。
と──
道の向こうから、ひょっこりと姿を見せた者がいる。黒髪を艶 やかに伸ばした、革 製 のボディスーツを身に着けた長身の美女。オーフェンもその気 配 に気づいたようで、むくりとそちらに顔を向けた。
「あんまりいじめちゃ可 哀 想 じゃない?」
と、オーフェンに向かってウインクする。思わぬ助け舟 に、兄が叫 んだ。
「女神様!」
そのまましがみつくように彼女のほうに飛び込んでいったが、彼女はあっさりとボルカンを横に蹴 転 がした。彼女は笑いをこらえるように口元に手を当てながら、もう一方の手で、じゃらりと金属音を立てる革袋をひょいと持ち上げた。
「これ、渡そうと思って探してたのよ。わたしのこと避 けてたでしょ、あんた」
「なんだ、それ? ヒリエッタ」
両手を腰に当てた姿勢で、魔術士が聞く。分かるでしょ? とばかりに彼女──ヒリエッタが肩をすくめた。
「報 酬 よ。わたしの頼みを聞いてくれたんだもの」
「おお......」
この声を漏 らしたのは、ボルカンだった。革袋はリンゴ大で、中には重々しく硬 貨 が入っているらしい。大陸で広く使われているソケット紙 幣 と違って、硬貨は大陸のどこでも価値が変わらない。銅貨か金貨か知らないが、どちらにせよ袋の中身はそれなりの大金だろうと、ドーチンは見当をつけた。
──ましてや、借金取りにそれが分からなかったはずはないが......
ほんの少し迷うような顔付きをしてから、魔術士は、かぶりを振った。
「いらね」
「......え?」
「な・にぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
おおげさな悲鳴を、ボルカンがあげる。もっとも、この場合それほどおおげさでもないかもしれない。
「人をさんざ、ぼてくりまわして借金返せだなんだと騒 いでるくせに、女からは受け取らずにご機 嫌 取りかコラ! 雄 鶏 で早起き殺すぞてめえ!」
殴 り掛かる兄を、やはり借金取りは横に蹴転がした。彼を見ながら、ヒリエッタも不 思 議 そうに聞く。
「なんでよ! ああ......後ろ暗いようなお金じゃないわよ? ほら、わたしが家出するときに家から持ち出したやつだもの」
「十分後ろ暗いんじゃありませんか?」
ドーチンはぼやいたが、ヒリエッタは完全に無視した。オーフェンは、少しつまらなそうに目をそらし、
「別に、ンなことを心配してるわけじゃねえよ」
「じゃあ、なによ」
「......俺は便利屋じゃねえんだ。ああいう仕事で金はもらわねえ。だから、あんたも、これからも俺を便利に利用できるとは思って欲しくないね──」
と、そのとき──
「今だ! 隙 ありぃぃぃっ!」
ごきん! と、借金取りの足元で、ボルカンがそのなまくら剣で、オーフェンのすねを思いっきり打ちすえている。見る間に魔術士の顔色は蒼 白 になり、激痛に腰折って悲鳴をあげた。
「痛ええっ!」
「行くぞ、ドーチン!」
ボルカンは叫ぶと、一 目 散 に逃げ出した。走る兄の背中を見やりながら、ドーチンは嘆息ひとつ、つぶやいた。
「なんとなく最近、瞬間の連続で生きてるような気がするなあ......」
と、走りだそうとしたところを、道に倒れた魔術士に足首をつかまれた。恐る恐る頭 を巡らすと、うふふ、と凄 絶 な笑い声を、脂 汗 をかいて魔術士があげるのが見えた。
ドーチンは続けてぼやいた。
「捕 まるのはいっつもぼくだけだし」
「しゃあああああっ、きぃぃぃぃん、かぁぁえぇぇせぇぇぇ──」
「そんな夜中に聞いたら子供がトラウマ残しそうな声で言わなくたって......」
「......やっぱこれ、もらっといたほうがいいんじゃない?」
もはや悲壮ですらある魔術士の目の前にかがみこんで、ヒリエッタが言った。目の前に革袋をちらつかせて。オーフェンは、しかし、頑 固 にかぶりを振る。
「こっちのほうが楽しい」
「そーゆうもんなんですか......?」
ドーチンは疑わしげに聞き返した。横で、ヒリエッタが笑い声をあげる。
「いいわ、あんたって──腕が立つくせに、どうしようもなく頭が堅 いしね。わたしの労働報酬っていうのは、どう? しばらくあなたの仕事を手伝ってあげる」
「いや、それもいい。相棒なら間に合ってる」
と、オーフェンはきっぱりと答えて、既 に道を百メートルほど走り去っているボルカンのほうを指でさした。
「............?」
つられて見やると、ちょうど、またもや数刻前とまったく同じくやたら大きなモーションでボルカンがひっくりこけたところだった。やはりまた、道にロープが引いてあったらしい。そのロープの端を持って、道端から小柄な人影が姿を見せる──背中までブロンドを伸ばした、生きるエネルギーを無意味に『元気さ』につぎ込みまくっている少女。彼女が借金取りそっくりの口調で叫ぶ。
「あーまいわよっ! あんたの考えることなんて、このわたしがお見通しってわけよ! マジク! 網 !」
「へーい」
道の反対側に立っている木──その木の根元に、ロープのもう一方が結び付けてあるわけだが、その木の上からマジクの返事。同時に、ばさああっ、と投げやりな感じで投 網 が落ちてきて、道に転がっているボルカンに覆 いかぶさるのが見えた。
「畜 生 !」
とかなんとか、ボルカンがわめいている。ほかにも色々と口汚く罵 っているようだったが、ここまではよく聞こえてこない。
オーフェンが、少し得意げにつぶやくのが耳に入った。
「最高だろ? 最低にして──最高だ」
なにを言っているんだかドーチンにはよく分からなかったが、ヒリエッタには分かったらしい。彼女はけらけらと笑うと、革袋を後ろに引っ込めた。
ドーチンは、もったいない、と思いながら天を見上げた。雲の浮かぶ青空──そしてその空の下に広がる郊外の静かな農村は、子供たちに聞かせるための他愛もない幽霊話など多少残しつつ、ごくごく平和にたたずんでいた。
「ハアイ♪ 今回の巻末は、わ・た・し、ヒリエッタの進行でお送りしまーす」
「......それと、気が付いたら登場キャラの相 方 にまで成り下がってしまった作者も、ここにいるんですけど......」
「(無視)さぁて! 前巻の『あとがき』で、グレイシーを倒すのは君しかいない! とか書いてたら、本が発売される二週間前に、アルティメット大会でホイス・グレイシー不戦敗しちゃってましたねー」
「また、一般人には分からないことを......実話だけど。もう一か月くらいは負けないんじゃないかと思ってたんだけどなー。読みが甘 すぎた」
「でも、こーゆーことを書いてると、この作者って実は格 闘 技 マニアなんじゃないかとか誤解されそうねー」
「実際、誤解してる人は多いだろうと思うけど......でも誤解。二巻に出てきた格闘家の名前を本名に直すことすらできません。高田くらいはともかくとして、全部は無理」
「自分で書いたくせに」
「まあ、そうなんだけどさ。ま、前巻のネタばらしはこのへんにしといて──ううむ──でも、三回目にもなるとさすがに、あとがきに書くネタがなくなるなあ」
「そお? やろうと思えば、いくらでもあると思うけど......①ネタばらし。②作者の近況 。③シュールな一発芸」
「......なんとなく③に心惹 かれるものがあるが......」
「あんたに芸なんてあったっけ?」
「秘 門 蟷 螂 拳 の演武とか......」
「......まあ......シュールっちゃシュールかな......確か武田鉄也が映画でやってたやつでしょ?それって」
「多分ね。なんとなく技の形がそれっぽかったから、ぼくが勝手にそう思ってるだけだけど。でも個人的には河 南 の形 意 拳 のほうが好み♪」
「って、うれしそぉに言われても......だいたいそれ、あとがきでどうやるってゆーのよ」
「それもそうか......じゃ、次巻の予告」
「予告ねー......それも、あんまパッとしないわねー。それより、なんていうか予告とは違うけど、これからあんた、どうするわけ?」
「なにが?」
「一巻、二巻、でこの巻まで、いったい何人の『最強』が出てきたか覚えてる?」
「ゔ......実はちょっと気にはしていたんだが。でもそれは、ほら、ボクシングの世界チャンプみたいなもんでさ、たくさんいるもんなのさ」
「だいたい、主人公にしてからが『最強の男』のくせに、なんか弱いのよねー」
「彼は......ほら、ウェルター級のチャンピオンってトコだから」
「......そゆこと言ってると、レナードに怒られるわよ」
「最強には違いないんだから、いいじゃんか。でも真 面 目 な話、登場人物たちに片 っ端 から『天才』の称 号 を与えまくるこの作者ですが、実はランク分けがしてあったりします」
「?」
「つまり、主人公の『天才』ってのは、しょせん学生の中での天才、対して主人公の教師Cの『天才』は紛 れもない世界的な天才を指すわけです」
「まあ......理 屈 っちゃ理屈だけど......」
「なんか文句あんの?」
「む......作者の分 際 で居 丈 高 な物言いを......」
「さ、作者の『分際』って──俺っていったい──」
「朝の通勤電車で酔 っ払 いにからまれたあげく、そのケンカ買って出て途中下車の上、会社に遅刻するような奴 が、ロクなもんなわけないでしょーが」
「ううっ......涙が出ないように天 井 を見ていよう......」
「まったくもー。あちこちに弱点さらけだして生きてるんだから」
「正確には、遅刻はしてないんだけどね。フレックスだから。しかも五分程度のことだし」
「まーね。ホントに遅刻してたらクビだわね」
「クビになったって、あんま気にしないけどね」
「......スチャラカ社員か、あんたわ......」
「ま、こーゆう奴ですが、今後とも応援いただければ幸いです」
「ようやく、まとめに入ったわね」
「(黙殺)では、また!」
「BYE!」
秋田禎信

『強くなりなさい』
というのが、母親の遺 言 だった。
彼女が独 りぼっちになったとき、贈 られた言葉だった。
贈られたところで嬉 しくもなかったし、その強くなる方法も、見当がつかなかった。
それが三年前のことだ。三年が過ぎて、彼女は森を走っていた。
森の中を走るのには根気がいる。そしてセンスを要する。
そのどちらも持っていないのならば、傷だらけになって走るしかない。彼女はほとんど喉 を絞 られるようにあえぎつつ、闇 雲 に前方へとひた走った。少し森の中にキノコ探しに立ち入るだけのつもりだったので、グリーンの開 襟 シャツとショートパンツという無防備な格 好 だったのだが、これがいけなかった。既 に下草にひっかかれて、すねは血まみれになっているし、靴 にも何本か木の枝が刺 さり、そのうちのいくつかは足の皮を突 き破っていた。真夏の森は草いきれに満ちて、あえぐ一呼吸にいちいちむせ返ってしまう。踏 み潰 した草の汁 が噴 き上がり、夏の木 漏 れ日 に混 じって輝 いた──
見たかぎりではまだハイスクールにも達していないような少女で、森そのものには慣れていなくとも、辺境の農村で育った独自の野性味が感じられた。まだ子供じみた長さの手足は朴 訥 としていながら伸 びやかで、競走馬というよりは農耕馬の輪 郭 だが、これを嫌 うかどうかは見る者の趣 味 の問題だろう。ポニーテイルの黒 髪 を汗 で湿 らせて、ブラウンの双 眸 で前を見 据 えて走りつづける。瞬 間 ──足がもつれた。が──
(止まれない──)
立ち止まりたくないわけではない。さっきから感じられる激 しい動 悸 は、自分の身体 の限界を伝えてきている。まぶたが腫 れぼったく、眠 気 を覚えている。できればこのまま倒 れたいくらいだ。
(止まれない──)
彼女はくりかえした。背後を振 り返ってみるまでもなく、さっきから自分を追いかけてきている足音が聞こえている。いつも村の隅 で三人でかたまっている。妙 に背の高い少年たち──彼女を追いかけてきているのは、彼らだった。彼女が村の外れを歩いていたら、いつの間にか、後をつけられていた。こちらが走りはじめたら、走って追いかけてきた──
彼らに追いつかれたら具体的にどうなる、ということをはっきりと自覚していたわけではないのだが、男三人で少女ひとりを追い回す、という状 況 に潜 む危険性は本能的に察していた。彼らは、なにも大声をあげて『止まれ』だの『待て』だのとは言わない。ただ、あきらめずに追いかけてくる。
ただどこか頭の隅っこ、冷静な一部分では、完全に理解しているところもあった──このまま走りつづけても、いつかは追いつかれる。追いつかれれば力つきて、もう抗 えない。
走らなければならない──それは分かっている──が──
(もう駄 目 ──)
彼女は胸中で悲鳴をあげた。
足は走りつづけているつもりだったのだが、突 然 、身体が地面に触 れる。転んだらしい、と気づいたのは、顔面を木の根っこで痛打した瞬 間 だった。そのまま一回転するように、森の中を背中から転がる。
転んだ一瞬、どういった角度になったのか、追いかけてくる男の姿が見えたような気がした。猛 烈 な嫌 悪 感 が身体を走るが、一度止まってしまうと、疲 労 しきった身体は動いてはくれない。肺が震 える。痛みを覚えるほど。
(立ち上がらないと駄目──)
恐 々 と喉 の奥でつぶやいて、彼女は地面になんとか肘 を突こうとした──が、それすらもできない。
(逃 げないと駄目だ──)
身体を引きずるようにして、少しでも前進しようとはした──が、それすらもできない──
その瞬間、彼女は足首をつかまれた。
「............!」
振り仰ぐと、少年のひとりが、すぐそこにいる。彼女は反射的に右手の爪 を少年の顔面に突き立てた。指先が、わずかならぬ強さで少年のにきび面 をえぐる。が、痛みが走ったのは、むしろ少女の指先のほうだった。爪が折れたのだ。
少年はほとんど意に介 さずに腕を伸ばしてきた。馬乗りに近い格好で、彼女のシャツの奥 襟 のあたりをつかむ。シャツのボタンのいくつかが弾 ける音が聞こえた。
「母さん......!」
後々思ったところによれば月並みにも思える悲鳴をあげて、彼女は少年の腕に噛 み付いた。ぎゃっと声をあげて、少年が腕を引っ込める。その隙 に彼女は逃げ出そうとしたが、結局は、体重の勝る相手の下から抜 け出すことはできなかった。
視界が涙でかすんだ──ふと見上げると、もうふたりの少年も、もうこちらに追いついてきている。彼女を見下ろして、肩 で息を切らしていた。彼女に馬乗りになっている少年が、噛 み付かれた痛みで癇 癪 を起こして、殴 りつけようと拳 を振 り上げるのが見えた──
『強くなりなさい』
虚 しいせりふが、遠くから聞こえる。死んだ母親の声で。
『ひとりで生きていかなければならないのだから──』
(無理よ!)
恐 怖 心 から、彼女はそう叫 びかえしていた。振り上げられた拳が視界の真ん中にそびえている。あれから逃 れる手段はなにもない──
それでも彼女はその拳から逃れようと、頭を浮かした──そして、視界が真っ黒になる。
痛みは感じなかった。ただ一瞬の衝 突 に目を閉じて、浮かした頭が後頭部から地面に激 突 するのを最後に、彼女の意識は途 切 れた。頭の中がどうしようもなく、しびれてうずく。少年たちの悲鳴を、彼女は聞かなかった。割れた頭 蓋 から救いようのない出血をしながら、彼女は、そのまま呼吸を止め、身体を痙 攣 させた。
時間は、それほどかからなかったろうと思う。彼女は目を覚ました。
「............?」
鈍 い痛みが、脳 髄 に響 く。起き上がって彼女は、自分の髪 に触 れた──頭も顔も服も、血でめちゃくちゃに汚 れている。少年たちの姿はなかった。森の中に、ひとりで倒 れていた。
がさ......
背後から、草の踏 み分けられる音。ぎょっとして、彼女は振り向いた。そこには──森をふたつに分けるようにして、巨大な影 がそびえ立っている。
少女は瞬間、それが神であると思った。
黒々とした毛 並 みは、艶 やかに輝 いて美しい。体線の描 く滑 らかな曲線は、なにやら女性的なものを少女に連想させた。
それは実のところ、獣 だった。頭までの高さが三、四メートルはあるであろう、漆 黒 の毛並みを持った巨大な狼 ──あまりにも荘 厳 なその姿は、誰 であろうと人間を魅 了 せずにはいない。そして厳 かにすべてを見 据 える緑色の双 眸 。
少女はその獣の名前を知っていた。
「深淵の森狼 ──」
大陸最後の秘 境 ──つまりこの森──キエサルヒマ大陸の二割を占 める巨大な樹海に棲 む、ドラゴン種族のひとつ......
《汝 が名は?》
唐 突 に、彼女の頭の中にその問いかけは響 いた。見上げると、ドラゴンがじっとこちらを見ている。我知らず、彼女は即 答 していた。
「フ──フィエナ。ソリチアン・ビレッジの......」
ドラゴンは構わずに続ける。
《汝は死んだ》
「え............?」
フィエナは、聞き返した。だがドラゴンは気にもせず続ける。
《が、我が蘇 生 させた──》
「あなたが......助けてくれたの? わたしを──」
フィエナは、血で固まった襟 元 を手で押 さえながら叫んだ。
《我は戦士の種族......大陸を護 るために在 る。そのためなら汝を生かしもするし、殺しもする》
「あの......わたし、ありがとうって言おうと──」
思ったのだが、どうも相手がそういった言葉を欲していそうには見えなかったので、彼女は言葉を飲み込んだ。ドラゴンは、ゆっくりと続ける。
《小さき頭の持ち主よ──我らは説明できぬ。理解せよ......生命を救うことには代 償 を求められる》
「............」
《我は汝を必要としている。我の目となり、耳となることが、汝の義務となった。あまり時間は与 えてやれぬ。迅 速 に理解せよ......》
フィエナには理解できなかった。だがドラゴンはもうそれ以上はなにも言わずに、その巨体で素早くきびすを返す。
ドラゴンは優美な姿を見せつけながら、ゆっくりとした足取りで去っていく。木 漏 れ日 をかき分けながら、足音もなく進む姿は、伝説で言われているような戦士のドラゴンというよりは、死神のような印象のほうが強いと彼女は思った。漆 黒 の狼 の姿が見えなくなっても、フィエナはまだ、ドラゴンの去ったほうを見つめていた。
「ほい──これでラストだ」
そう言いながら無 造 作 に彼が放った一 撃 を、ぺしんと鼻先に食らって、クリーオウが小さく悲鳴をあげてしりもちをつく。木漏れ日が細く差し込む、森の中である。数メートルはある巨木が頭を並べる足元──街道からさほど離 れてはいないが、旅人に気取られる距 離 でもない。真夏も近づいてきた森の匂 いは心 地 いいが、転んだことでクリーオウの表情に険 しいものが走るのが見えた──確か、今彼女が着ている深 紫 のスエットも、丈 が短いアスリートスパッツも、この前立ち寄った街 で買ったばかりのものだ。
新品のスパッツが土で汚 れたことに舌打ちしながら、クリーオウがこちらをにらみつけてくる──
だがオーフェンは軽く笑ってその視線を受け流した。年の頃 二十歳 ほどの、皮 肉 っぽい造 作 の黒 魔 術 士 である。黒髪、黒目、中肉中背と、ぱっと見たかぎりではさしたる特 徴 もない。全身、ほぼ黒ずくめという格好で、胸元には剣にからみついた一本脚のドラゴンの紋 章 が、銀製のペンダントになってかかっている。目付きは鋭 い──というか、鋭い以上に険 しくなっていて、やぶにらみと言っても差し支えない。
彼は手にした細い木の枝をぱちんとやりながら、得意げに続けた。
「賭 けは俺 の勝ちだったな──文句あるか?」
「ない......わよ」
クリーオウが苦々しく、喉 の奥で同意してくる。十七歳 。陽 に映 える金 髪 を腰まで伸 ばした少女である。そのブロンドも、空の色を映したようなブルーの双 眸 も、大陸では最も一 般 的 な貴族の特徴なのだが、彼女は別に貴族ではない。ただ、数代前の祖先の血に、貴族のものが混じったことがあるということを彼女は言っていたが。
刃にカバーを被 せた細 身 の剣を鞘 に収 めて、スパッツの土を落としながら立ち上がる。クリーオウは、いらいらと口をとがらせた。
「もう、なんだってのよ! 納 得 いかないわ──」
「納得いかねえ、ってもよ」
彼は木の枝を適当に背後へ放り捨てながら、バンダナをしているこめかみのあたりをぐりぐりと手でこすった。
「勝負は勝負だぜ? 条件通りにな。十本勝負で、得 物 を相手の身体に触 れさせたら一本──負けたほうは一回だけ、勝ったほうの言うことをなんでも聞く」
「ええ、そうよ──忘れてるわけないでしょ? たった今ストレート負けさせられたばかりなんだから!」
クリーオウが、じだんだ踏 むようにスニーカーのつま先で地面を蹴 った。
「わたしが言いたいのはね、実力が違 いすぎるってこと! なんかヘンよ。一本くらい、わたしが取っても良さそうなもんじゃない?」
言いながら、彼女はこっちをにらみつけた。続ける。
「ねえ、オーフェン。わたし、これでもけっこう剣の扱 いには自信がある──」
が、オーフェンはそれを遮 って口を開いた。
「あのなあ」
と、呆 れながら答える。
「学生レベルの剣術といっしょにするなよ。俺はこれでも《塔 》の魔術士なんだぜ?」
言って彼は、胸元のペンダントを掲 げてみせた。この翼 を広げたドラゴンの紋章は、大陸魔術の最高峰《牙 の塔》で黒魔術を学んだ者の証 しである。言うなれば、最高の魔術士の証明だった。
「武器を用いた戦 闘 訓練から、逆に武器を持った相手に対しての護身法、反射的な状況判断の学習──ま、ほかにもあるが、だてに何年も勉強してたわけじゃねえんだ」
「ふうん......つまり、純心なわたしに対し、甘 言 を弄 して負けるわけのない勝負に引きずり込み、不当な約束を盾 に卑 劣 な目 論 みを達しようというわけね」
「なんか口のきき方があのボルカンの野 郎 に似てきたな、お前......」
オーフェンが半眼でつぶやくのを、クリーオウが舌を出して応 えてくる。
嘆 息 しつつ、彼は続けた。
「だいたい、勝負をふっかけてきたのはそっちのほうだろ」
「分かったわよ」
クリーオウは吐 き捨てた。スエットの胸を張って挑 むように続ける。
「さあ──草むしりでも皿 洗いでもやってあげるから、なんか言ってみなさい!」
「いや......別に、取り立てて用はねえけどよ。お前には」
というか、オーフェンにしてみれば、この少女に頼 み事 をするのは、どんな種類のものであれ乗り気ではなかった。その気 配 を感じ取ったのだろう──ぴくり、と少女の眉 が疑わしげに動くのがうかがえた。
「なんか言い方が引っ掛かるわね。わたしにはなんも頼めない、って言いたいの?」
「ありていに言えば、そんなもんだ」
オーフェンはあっさり答えて、街道わきに停 めておいた馬車のほうへと、きびすを返しかけた。と──素早く彼の行く手に、クリーオウが回り込んでくる。彼女はこちらの胸に細い指を突 き付けて、非難するように口を開いた。
「どーいう意味!? 」
聞かれて、ひくり、とほおの筋肉が引きつるのを、オーフェンは自覚した。
「どーいうもこーいうも、その通りだよ! ったく──まさか、この前、破れた俺のシャツ直しといてくれと頼 んだときのこと、忘れたわけじゃねえだろうな!」
「な──なによ! あれは別にわたしが悪いわけじゃないでしょ──だいたい馬 鹿 にしてるわよ、女だから裁 縫 やらせとこうなんていう貧弱な男根支配的腐 敗 思想の──」
「ンな単語、どこで覚えてくるんだ! あれはお前が馬車ん中ですることなくて暇 だとか騒 いでたから、雑用頼んだだけだろ!? 議論をすり替 えるなよ!」
「すり替えるつもりなんてないわよ!」
「ほぉう! じゃあ、とくと答えてもらおうか──なんでわざわざ服の当て布に、俺が一番大事に荷物の奥にしまっといたハンカチ使ったんだよ!」
それを聞いた瞬 間 、ぎくりとした表情でクリーオウが指を引っ込める。彼女はわずかに顔色を変えながら答えた。
「たまたま見つけたのよ!」
「嘘 こけ!」
オーフェンは即 座 に叫んだ。当て布にされたのは手 縫 いのハンカチで、少年時代、姉のように慕 っていた女魔術士から誕 生 日 にもらったものである。ほかにいらない布切れならいくらでもあったというのに、わざわざ小ぎれいなハンカチを選んだことについては、クリーオウになんらかの底意があったに違 いないとオーフェンはにらんでいた。
「ほかにも、風 邪 ひいて寝込んだマジクの看病頼んどいたら、枕 元 で水タライひっくりかえして毛布とシュラフ水 浸 しにしやがったろ! 図書館で本探しを頼んだ時には、いきなり『見つけた!』とか叫んだ次の瞬間にそのページ破って持ってきやがって!」
「ウチの学校の図書館じゃ、みんなそうしてたのよ! 悪い!? 」
「きっぱりと悪いわっ! そうそう──食料の買い出しを頼んだときが一番ひどかったな! なんも買わんとわけの分からん行 商 人 連れて帰ってきやがって、『このお嬢 さんがお買い上げくださった品物の代金をお受け取りしたいのですが』──いったい全体なんのつもりで魔 よけの便器なんて買ったんだよ!」
「あ──あれは一生に一度の過 ちよ!」
「なにが一度だけだ! まだまだ似たようなストックは山ほどあるんだぞ! なあ──」
と、オーフェンは急にトーンを落として、クリーオウの肩をつかんだ。
「本当のことを言ってくれよ──わざとやってるんだろ? な?」
クリーオウがうろたえたような声を出す。
「そ、そんな目に涙まで浮かべて言わなくたって......」
「泣きたくもなるわい。なんで毎日毎日、こんなことで怒 鳴 りあわなけりゃならねえんだか......」
嘆 息 混 じりに彼が言うと、クリーオウは悪びれた様子もなく、碧 眼 を閃 かせた。ぴっと指を立てて、
「お互 いを正しく理解しようとする者どうしは、しばしば正面衝 突 するもんだって、昔お父様が言ってたわ♥」
「そんな美しいものかっ! これがっ!」
と、両手をわななかせる。が、クリーオウはなんとかごまかそうとしているつもりか、目をそらしてぽんと手を打ってみせる。
「あ──そうそう。楽しい人生っていうのは、つまるところ楽しいやっかいごとのことだ、とも言ってたかな」
「俺は平 穏 な生活でそこそこ楽しむほうがいい......」
オーフェンは苦々しくつぶやいた。いつもの仕草で、クリーオウの金 髪 の頭にぺんと手を置く。こちらを見上げて、クリーオウが言った。
「まあまあ、そんな疲 れた声を出さないでよ」
「誰のせいだ、誰の......」
「人の咎 を証明するのには一生かかる──証明した瞬間、その相手に殺されることもしばしばあるしな、て言った三週間後に、お父様は死んじゃったのよね」
「もぉいい......お前の親 父 が生きているときに会えなかったのが心底残念だ」
オーフェンはほとんど毒づくようにして言い、クリーオウの頭からすとんと手を落とした。少女の背中を押 しながら、街道のほうへとぼちぼち歩きだす。赦 免 の雰 囲 気 を(勝手に)察したか、クリーオウがやけに機 嫌 のいい声を出した。
「落ち込まないでよ。最近、疲れがたまってるんじゃない?──そうだ! 賭 けに負けたから、マッサージしてあげる」
「......お前が?」
「なによ。出血大サービスじゃない。嬉 しくないの?」
「出血......今までのお前のパターンだと針でも使うとか......」
「う・れ・し・く・な・い・の!? 」
双 眸 の光をすごませて、クリーオウが肩越しに振 り返ってくる。オーフェンは彼女の顔を手で押しやった。
「あーはいはい。嬉しい嬉しい」
投げやりな口 調 で言ってから、ふと疑問に思う。彼はそこはかとなく不安を感じながら、少し前を歩く少女に聞いてみた。
「ところで......お前が勝ったら、俺になにを命令するつもりだったんだ?」
「ん? 別に、たいしたことじゃないんだけどね。わたしたちの馬車の中ってさ、ほら、殺風景でしょ? ぶっ潰し獣 の頭の剝 製 とか作って飾 れば、けっこーインテリアだな、とか思ったから。一頭ばかり獲 ってきてもらおうと思って」
「......それでお前はマッサージか?──なぁんかギャップがねーか、それ......」
オーフェンはぐったりと声に出した。が、クリーオウは、そぉ? と、あっけらかんと言い返してくるだけである。なんにしろ、それ以上の自覚を彼女に求めるのは無 駄 なことだと、オーフェンははっきり悟 っていた。
大陸最後の秘境──戦士たちの故郷 《フェンリルの森》に、彼らはいる。

◆◇◆◇◆
「ま、考えてみりゃ当たり前だけど──でっかい森だね」
厚紙の地図を片手に、彼はそう独 りごちた。地図は大陸の地勢図で、このキエサルヒマ大陸と周辺の海が載 っている。大陸をちょうど東西に分けるようにして、その面積の二割までも占 領 して広がるのが、この《フェンリルの森》である。
「ありとあらゆる獣 、ありとあらゆる生命がここに棲 む──」
地図の隅 についているコメントを読み上げる。金髪に淡 いグリーンの双 眸 の少年である。整 った顔立ちをしているわりには、愛 嬌 のようなものも目立った。まだ十五にはなっていない。黒いシャツに、これまた黒 革 のズボンと黒ずくめだが、これがあまり似合っていないのは自分でも分かっていた。だが、とりあえず今は──
(ま、いずれ似合うようになるさ)
と、楽観的に思っている。いつか──多分──一人前の黒魔術士になったら。
「伝説には女神が宿る地とされ、強力なドラゴン種族がこれを守護する......」
ぶつぶつと続けながら、彼は顔を上げた。周囲の森を──深く、そして鮮 やかな緑を見回して、軽く息をつく。
と──
「へえ」
思わず、声をあげた。
「泉なんてあったんだ」
近くに川などはない──沢 の近くを歩くのは危険だから、避 けてきたのだ。となると、この泉は湧 き水だろう。
鬱 蒼 とした木々や下草をかき分け、いきなり視界が開けるようにして、その泉はあった。水面に波 紋 ひとつなく、冷たく静まり返っている。泉というよりは、小さめの湖といった感じだった。水面から少し下は、水草で埋 まっている。空の青と水底の緑が溶 け合って、奇 妙 な色合いになっていた。
彼は水 際 に近寄ると、さっと指で水面をなぞった。傷ひとつなかった水面に、何重もの波紋が拡 がっていく。おもしろがって、彼は水面をのぞき込もうとした。その瞬 間 ──
どさっ。
背後で、なにかが落ちた音。振 り返ると、すぐそこの地面に、数メートルはありそうな大 蛇 が転がっている。木の上から──落ちてきたのだ。
背 筋 が、さあっと寒くなる。彼はなんとなく、手をあげて口を開いた。
「は、初めまして──」
その少年のあいさつに応 えて、というわけでもないだろうが──大蛇は間 髪 いれずに頭を跳 ね上がらせると、こちらに飛びかかってきた。森の緑色の中で、その大蛇の黒々とした鱗 の身体が引き結ばれた線のように映る──
反射的に彼は、両手を引き絞 って胸元に構えた。息を吸い──一瞬で吐 き出す。同時に、大声で唱 えた。
「我は放つ光の白 刃 !」
少年の眼前から一直線に放たれた熱 衝 撃 波 は、狙 いどおり大蛇の下 顎 あたりに突 き刺 さると爆 炎 をあげた。燃え上がる熱波に吹き返されて、大蛇の身体が後方へと跳ね返される。頭のなくなった蛇が、落ちてきた木の幹 にたたきつけられるのを見ても、少年はまだ警 戒 を解 かなかった──そのまま、衝撃でけいれんしている蛇の死体が動かなくなるまで待ってから、ふうと安 堵 の吐 息 をもらす。
「やっぱ危険だな、この森」
そのわりには、あまり危機感がない口調だったが、本人としては恐 々 としているつもりだった。額の汗をぬぐってから、ふと気が付いたように、蛇に襲 いかかられてからの自分の動きをもう一度再現してみる。
「こう、ぐるりと回って──我は放つ光の白刃、と......」
最後に手を突 き出してから、彼はにっこりした。
「よしよし。今の対応はお師 様 みたいで良かったな。覚えとこ」
満足顔でうなずいてから、またあたりを見回す。森の中で炎を使ったのはかなり危険だったが、水気を含 んだ夏場の森なら、そう簡単に引火するということもない。もっとも、燃えるときには容 赦 なく燃えるだろうが。
そんなことを考えていると、声がした。
「魔術士......」
「え?」
少年は、声がしたほうへと向き直った。そして──ぽかんと口を開けたまま絶句した。
彼の立っている位置から少し離 れた泉の水際に立って、こちらをじっと見 据 えているのは、女だった──いや、少女と呼んだほうが適当だろうが。年 齢 は、少年自身とほとんど変わらないだろう。意志の強そうな目をしているが──だが、なんとなくその強さは──
(なんだか、追い詰 められた力みたいだ。手 負 いの獣 ......みたいな)
なぜそんなことを思いついたのかは分からない。なんにしろ、彼が驚 いたのは、そんなことではなかった。
少女は表情に少し驚 愕 を残して、こっちを見つめている。笑ったら、もっと愛 嬌 がありそうなのに、と彼は思った。くせのある黒 髪 を無理にストレートにして背中まで伸 ばしている。奇 妙 なのは、彼女の格 好 だった──ひらひらした薄 絹 を、浴 衣 のように身体に巻き付けているだけ。サイズがたっぷりしているので、強い風でも吹けば服の下がのぞいてしまいそうである。こんな森の奥には似つかわしくないし、機能的でもない。
(巫 女 服 ......?)
そうも思えるのだが、それではなおさらこんな秘境に相応 しくない気がする。
そんなことをいぶかっていると、少女のほうから問いかけてきた。
「あなた、魔術士ね?」
「え? うん──あ、いや、実は違 うんだった。その、見習いなんだけどね」
あわてて返事する。少女──巫女? が少し首をかしげるようにしてみせる。どうやら、彼が吹き飛ばした蛇の死 骸 を見ているらしい。彼女が眉 をひそめたのが見えた。
「そんなに......力があるのに、見習いなの?」
「成功しないことも多いんだよ、実は。それにぼくのお師様は、もっととんでもないよ」
「そう......連れがいるの......」
彼女は遠い目でそんなことをつぶやいて、そのまま黙 り込んでしまった。少年は、心持ち手持ちぶさたになりながら頭をかいた。
(なんか......浮 世 離 れした調子の娘 だなあ。服 装 もだけど)
そんなことを思いながら、聞いてみる。
「あ、あのさ、君──あ、名前なんていうの?」
「フィエナ......」
「いい名前だね」
なんというか、あてずっぽうな気分で彼がお世辞を言うと、彼女はくすっと笑って見せた──もっとも鼻から笑ったような息がもれたというだけで、表情に変化はなかったが。
「ありがとう。あなたの名前は?」
「マジク」
「あなた、貴族に縁 があるの?」
と、彼女──フィエナは気にするようにこちらの髪を見た。金髪は、普 通 平民には生まれない。
「いや、ぼくのは貴族とは関係ないよ。生まれつきこうだったってだけ」
貴族だって『生まれつきこうだったってだけ』ということには違いなかろうとは思うのだが、マジクはいつも説明するときにはそういう言い方をしていた。たいていの人は納 得 してくれる。
フィエナが、こちらに向かって歩きだした。マジクもとりあえず、そちらに近寄っていくことにする。
彼女は歩きながら口を開いた。
「......なんで、こんなところにいるの? ここは奥地よ。人間の世界じゃないわ」
彼女が動いたせいでふわっと空気になびいた肩のあたりの薄 絹 を見ながら、マジクは答えた。
「散歩のつもりだったんだけど、道に迷っちゃって」
言いながら、役に立たない地図を折り畳 んでポケットにしまう。手を伸 ばせばとどくくらいの距 離 で、ぴたりとフィエナは足を止めた。
「そう......なら、街道に出る道を案内してあげるわ。この森は危険よ。人が......夢を見てしまうの」
「ありがと──でも、夢って?」
マジクもつられて立ち止まり、おうむ返しに聞き返す。彼女は肩をすくめただけで、なにも答えてはこなかった。
「ひとつ聞きたいんだけどさ」
マジクは腕組みして、なにげない口調で聞いた。
「君は、こんな森の中でなにしてんの?」
彼女は即 答 した。まるで──隙 があればそれを言おうと待ち構えていたみたいに。
「わたしの力は《森》に根 差 しているのよ。ここからは出ていけない」
「......へ?」
フィエナは真 顔 で続ける。
「《森》にいるから、わたしは力が使える。例 えば、さっきのあなたみたいに」
「そんなことができるの?」
マジクが聞くと、彼女は、あっさりと首を縦に振 った。
「ええ。わたしは......力に支配されているの」
「へー。じゃあやっぱり、君は巫女 なんだ」
森の中をいっしょに歩きながら、マジクは感 嘆 の声をあげた。大陸でもっともポピュラーな運命の三女神 信 仰 には、巫女という資格の神官はいない──女神そのものが、なんらかの神に捧 げられた巫女のようなものだと言われているからだ。となればこのフィエナが参加しているのはなんらかの辺境信仰ということになる。
(お師 様 だったら、未開信仰だ迷信だとか言って、鼻で笑うんだろーけど)
マジクにしてみれば、そういった信仰は個人の勝手である。部屋の壁 が自分の話を盗 み聞きするのだとノイローゼの学生が半 狂 乱 になったときも、ゆっくり八時間あまり相談相手になってやったくらいだ(女生徒だったのだ)......まあこれと、目の前のフィエナを一 緒 くたにしてしまうのは乱暴だが。
「巫女ってのも、いろいろ大変そうだね。よく分からないけど」
のんきな声で言う。
「力を得たの。わたしは......」
感情のこもらない、ぽつりとした声で彼女がつぶやいた。
「力、ねえ......」
マジクは頭の後ろで腕を組んで、ぼんやりと言った。
「そんなに必要なものかな?」
「わたしには、ね」
フィエナの口調は曖 昧 に聞こえた。すっと透 き通るような視線でこちらを見やり、続ける。
「あなたには連れがいるから、その人たちに頼 れるんでしょう?」
「まあ......ね」
師──オーフェンの顔を思い浮かべながら、マジクは同意した。
フィエナが、ふと瞳 を陰 らせて、続ける。
「わたしには、いないのよ。だからわたしは......従うことにしたの」
「え......?」
なにを言っているのだか、よく分からない──マジクは怪 訝 な視線で彼女をながめつつ、とにかくその後をついていった。と──
唐 突 に、彼女がこちらに振 り向いた。胸元を、ぎゅっと抱 き締 めるようにしながら、
「あなたは外から来たんでしょう? この外から」
「外......って、森の外のこと? なら、そうだけど」
きょとんとしてマジクが答えると、フィエナは光のなかった目をにわかに輝 かせてみせた。振り向いた動作のせいで、くせのある黒 髪 が、ふわっと舞 う。
「外はどうなっているのかしら。この森の近くにソリチアンって村があるんだけど、通った?」
「いや......それは多分、これから通る予定だったんじゃないかな。ぼくら、南のほうから来たから」
「南──アラバルト? キンクホール? レインダストなんて村もあったかしら」
「キンクホールのほう。にしても、随 分 くわしいみたいだね。この辺のこと」
「地元人だから」
「ふうん......」
話題が変わったらいきなり彼女の口調や表情まで変わってしまったことに妙 に感心しながら、マジクは鼻をかいた。もう一方の手で、さっきの地図を取り出して広げる。
「ぼくらは、トトカンタから来たんだ。街道をずっと北上して、アレンハタムと......このキンクホールを通ってきたってわけ。一月半くらいかかったかな」
地図を見せながら説明すると、フィエナが、地図をのぞき込むために身体を寄せてくるのが分かった。彼女のむき出しの腕がこちらの肘 に触 れているのを気にしていると、フィエナは興 味 ありそうに聞いてきた。
「そのコースだと《牙 の塔 》に向かってるみたいね。やっぱり、そこに留学するの?」
と、こちらの黒魔術士然とした格好を見やってくる。マジクは肩をすくめて地図をたたんだ。
「違 うよ。ぼくのお師様は、なんて言うか......金貸しなんだ。借金の取り立てのために旅してるんだよ。もっとも──」
と、付け加える。
「実際お師様は《牙の塔》に向かおうとしてるみたいだけど。別に入門はしなくても、ぼくのことを《塔》に登録しておきたいんだって」
「なんで?」
「助成金が出るらしいんだ。『これで三か月はしのげるはずだ!』って騒 いでたな。お師様らしいよ」
と、マジクが呆 れた様子で嘆 息 すると、フィエナは口元に手を当ててくすくす音を立てた。
「さっきの話だと、あなたの先生はものすごい魔術士だって言ってたのに」
「それは間違いないと思うよ、実際」
とりあえず、こっからここまで、というように指を動かして、
「あまり昔のことを話さないから、よく分からないけど──いや、まあ、頼 めば話してはくれるんだけど、なんかウソくさいんだ。宮 廷 魔術士の候補にもなったとか、《牙の塔》で首席を取ったとか。いくらなんでも、そこまですごいわけはないと思うんだよな」
「もし、本当だったら?」
からかうように、彼女。マジクは苦笑した。
「冗 談 でしょ──そうだとしたら、ぼくは大陸でも最高の黒魔術士に弟 子 入 りしたことになっちゃうんだよ。それはいくらなんでも、出来過ぎだよ」
「そうね」
彼女はあっさり同意してから、
「でもどうせ生徒になるのなら、そのほうがいいんじゃない?」
「やだよ」
マジクは即 答 した。そんな魔術士、厳しそうじゃないかと胸中で付け足す。
フィエナが、ぽつりと言う。
「あなたはあまり、上を見ないのね」
その双 眸 には、また先刻のような、不 透 明 な色がもどったようにマジクには思えた。が、それも、すぐにただの少女のそれにもどる。
(巫 女 と普 通 の娘の、二枚看板なのかな──)
それならばそれで、付き合いやすいほうと話をすればいい。マジクは気楽に考えると、彼女に聞いてみた。
「この地元の人だって言ってたけどさ、君──あ、フィエナって呼んでもいい?」
彼女がこくりとうなずいたので、マジクは気を良くして続けた。
「フィエナも、別にこの森の中に住んでるわけじゃないんでしょ? 近くの村かなにかにいるのかな」
もしそうなら、オーフェンに頼 んでその村に立ち寄ってもらおうとマジクは思っていた。だが彼女はかぶりを振 って、また巫女の声で答えてくる。
「この森の中に、村があるの。地図には載 ってないけど」
「そ、そうなの?」
マジクが聞き返すと、彼女はさっと手であたりを示し、
「森の力を信じる人たちの村......わたしたちは《偉 大 なる心臓》って呼んでるけど」
「《偉大なる心臓》......」
マジクは口の中でその名前を繰 り返した。
辺境信 仰 というのは、なにも文字通り都市外の辺境にだけしかないわけではない──実際、トトカンタにだって辺境信仰から新 興 宗教まで、いくらでもあった。だがそれを言うならいかなる時代、いかなる場所にだって新興宗教というのはあったし、そもそもキムラック教会のそれだって、何百年か前には新興の教えだったには違いないのだ。
だが、それにしても新興宗教というのはいつだってセンスのない名前をつけるよなぁ、と、どうでもいいことをマジクは思い浮かべていた。
(《偉大なる心臓》ってのも、なんだか粘 土 細 工 の三流芸術作品みたいだし)
さすがに目の前にフィエナがいるので言葉にしはしないが、正直な感想はそんなところだった。
フィエナが続ける。
「あなたも来てみない?」
「まあ、おもしろそうだけど......」
マジクは口ごもった。と、誘 うようにフィエナが続ける。
「村には女の子が少ないから、あなたもきっと歓 迎 されるわよ」
「......え?」
マジクは瞬 間 、目を点にして聞き返した。だがフィエナは構わずに続ける。
「あなた、とってもきれいだから、みんなが巫 女 に据 えたがるかもしれないし」
それを聞いて、マジクはその場でヘッドスライディングするようにして、思い切り地面に突 っ伏 した。
「あ、あのねぇ」
土をはたいて落としながら起き上がる。必死の形 相 で訴 えると、フィエナは病気かと思うくらい赤面した。
「あ、あなた、女の子じゃなかったの?」
「ご、ごくたまに間 違 えられることもあるけどさあ。声変わりもしてないし」
ショックを受けた口調で、ぶつぶつとぼやく。フィエナもなんだか衝 撃 を受けたようではあったが、何度も謝 りながら、立ち直ったようだ。
「ごめんなさい。でも男の子でも、歓迎はしてくれるわよ。きっと」
「うう......まあ、それにしても、こんな森の中に村があるなんて、おもしろいね」
マジクが言うと、フィエナはにっこりした。
「そうね。わたしも初めて見たときは、少し驚 いたけど......わたし、あの村で生まれたんじゃなくて、最近そこにいるようになったの。半年......前から」
「そ そう」
言葉の途 中 からいきなり無感情になったフィエナに気 圧 されながら、マジクはあいづちを打った。と、いきなり、フィエナが立ち止まる。また例の巫女の顔のままで。
「ど、どしたの?」
マジクが聞くと、彼女はあたりの気配を見回すようにしながら答えた。
「ごめんなさい」
「......は?」
彼女の言っていることを理解しかねて、マジクは棒立ちで聞き返した。と、フィエナの目が詫 びるように陰 る。
「今から逃 げれば、間に合うかも......」
彼女がぼそぼそと口の中でつぶやくのをようやくのことで聞き取っていると、がさり、と周囲の森がざわめいた。そのざわめきとともに、声が聞こえてくる。
「慈 悲 をかけるのは美徳だが、裏切りはいかんな、フィエナ」
「──え?」
マジクはぎょっとして、その声が聞こえてきたほうに向き直った。森の茂 みから長身の身体を引き抜 くようにして、ひとりの男が姿を現しているところだった。
と、その男に続いて、ふたり、三人と農夫風の男たちが姿を見せる。各 々 、手にナタやら棒やらの得 物 を持っていた。
瞬 間 、つつもたせとかいう単語がマジクの脳 裏 をよぎった。
「ど、どゆこと?」
マジクの問いに、フィエナはかぶりを振って答えなかった。だがその代わり一番最初に現れた長身の男に視線を向けて、
「逃がすべきでした。この魔術士は、連れがいるというようなことを言っていましたし、合流したところを捕 らえれば──」
「二倍お得、か。合理的なことは考えんでいい。フィエナ」
男はきっぱりとそう言うと、ゆっくりした足取りで、こちら──というよりフィエナのほうへと近づいてきた。とがったあごに髭 を生やした厳しい顔付きの男で、年齢は三十から四十のどれでも通用しそうだ。眼光が鋭 く、正面に立たれると苦痛に感じそうだった。登山服のようなものを着ているが、多少着 崩 して身軽にしている。ほかの連中と違って手ぶらだが、その身のこなしにはどことなく訓練を受けた兵士のようなものを連想させた。
男はフィエナのほぼ真正面に位置すると、にやりとして続けた。
「魔術士には罰 を与 える。ひとりたりとも逃がしてはならない」
「それにな──」
また別の声がしたので背筋をぞっとさせる。振り向くと、まったくの真後ろから別の男が姿を見せていた。こちらはもっと若くて、よれよれのシャツと革製のレンジャージャケットを着ている分、先の男より貧 相 に見えた。レンジャージャケットは、本来ならバッジのついているはずのところがナイフで削 られたようになっている。こそぎ落とした跡 らしい。レンジャージャケットにはナイフやら方向板やらを入れておくポケットが山ほどついているが、この男が着ているそれには、なにも入っていないようだった。
代わりにズボンを留 めるベルトの上に、剣の鞘 をグリップできる帯剣ベルトをしていて、そこには明らかに戦 闘 用の長剣がぶら下がっていた。無論こんなもの、レンジャーの標準装 備 ではない。
男はにやけた感じの表情を小 馬 鹿 にするように傾 げさせると、続けた。
「それに、その連れとやらにも、ちゃんとお迎え は出しておいたさ」
と、それに続けて、長身の男。
「この森はわたしたちのものだ。勝手に入り込んだのだから、報 いは受けてもらわんとな」
「この森──《フェンリルの森》の管理は、キムラック教会が王室と責任を分け合っているんでしょう?」
マジクは反射的に言ってしまってから、失言に舌打ちした。案 の定 、その長身の男やレンジャージャケットはもとより、農夫らしき連中もぎょろりとこちらをにらみやってくる。殴 られる、と思った瞬間──長身の男が笑い出した。
「はあはあ! あんな連中になにができる?」
「なにがって──」
教会総本山 の権勢は、各地にある教会という形で大陸のほぼ全土にわたっている。王室──貴族連盟の力については、言うまでもない。
だが男は、そんなことは一 顧 だにしないというように大 仰 な身 振 りをした。
「我々には、フィエナがいるのだ」
と、フィエナの肩をがっしりとつかむ。彼女が怯 えるように身をすくませるのが分かった。男の仕草とともに、ほかの男たちも含 み笑いのようなものを表情に上らせている。
(こいつら、どうかしてる......狂 信 者 、ってやつだ)
マジクはあっさり判断を下した。だとしたら──
(手 加 減 しなくてもいいよね。もしいたら、お師 様 だってしなかったろうし)
「ところでさ」
マジクは飄 々 とした声を出した。
「......なんだ?」
マジクが話しかけたのは長身の男のほうだったのだが、聞き返してきたのはレンジャージャケットの男だった。まあ、どちらでもいいのだが。
マジクはなにげないふうを装 って、
「大声を出してもいいかな」
「......あん?」
レンジャージャケットがすっとんきょうな声をあげる。横から、長身の男。
「助けを求めても、無 駄 だぞ。この辺 りにいるのは、我々の同志だけだ」
「まあ、そうだろうけどね」
マジクはちらちらと上を見上げながら、いかにも無 邪 気 な表情を作った。
「ちょっとだけだよ。叫 びたいだけ」
「妙 な奴 だな......なにを叫ぶというんだ?」
「だからさ──」
と、マジクはすっと長身の男──というより、その手の中のフィエナのほうに近寄った。すっと息を吸い──頭上を見上げて──
「お師様のアホたまにはいいもん食わせろーっ!」
思い切り叫んでから、身をすくませているフィエナの腕をぐいとつかむ。男の手の中から彼女を引き寄せながら、マジクは二、三歩後 退 した。
「......なんだ、今のは?」
「意味なんかないよ」
マジクは、にこっと肩をすくめた。
その瞬 間 ──きょとんとこちらを見ている男の上に、なにやら黒い塊 が落下してくる!
「うわあああああああ!」
男たちが、口々に悲鳴をあげた。木の上から落ちてきたのは、数メートルはある巨大な蛇 である──樹上からこちらをうかがっていたのを、枝が折れたので落ちてきたのだ。無論、枝を折ったのはマジクだが。
「うおおおっ!」
突 然 の落下にのたうちまわっている蛇の下 敷 きになって、長身の男が雄 叫 びのような悲鳴をあげる。レンジャージャケット始め、男たちがそれを救い出そうとパニックになっていた。男のひとりが叫ぶ。
「マクドガル様っ!」
どうやら、あの長身の男の名前らしいが、マジクにとってはどうでもいい。
「さ、逃 げるよ──」
マジクはフィエナの手を取って、引っぱりながらそう言った。彼女はいきなりの出来事に目をぱちくりさせながら、
「な、なに、これは──?」
「魔術だよ。さっきの叫び声を呪 文 にして、枝を折ったんだ」
黒魔術士に限らず、大陸の人間が用いる音声魔術は、すべて声を媒 体 にしている。つまり呪文の声がとどかないところには魔術の効果は及ばないし、その効果も声が消えてしまってからはさほど長くは継続しない。呪文の内容についてはどうでもよく、マジクが今したように意味のない叫び声でも、声さえとどけば魔術はきちんと効果を発 揮 する。もっとも──あまり妙なことを叫ぶと、自分自身のコンセントレーションを失いかねないが。
蛇 と取っ組み合いをしている男たちを尻 目 に、マジクはフィエナの腕を引っぱった。
「とにかく、逃げるよ! お師様のところにも襲 撃 者 がいってるみたいだから──まあ、あの人のことだから心配なんていらないけど......」
「で、でも──」
フィエナは、引かれる自分の腕を、他人のものを見るような視線で見下ろしながら、
「わたしは、無理よ──」
「なにがさ!」
マジクは思わず叫び声をあげた。
「ぼくの魔術はそんなに成功率が高くないんだから! 二度と同じテは使えないよ! 早く逃げないと、もうチャンスは──」
「でもそれなら、あなただけ逃げればいいじゃない」
分からない、というように、フィエナが声をあげる。マジクは癇 癪 を起こしかけて、さらに強く彼女の腕を引っぱった。
「分からない娘 だなぁ、ここで逃げないと、巫 女 の顔に固まっちゃうぞ!」
「......え......?」

目をぱちくりさせて、フィエナがほうけたような顔を見せる。と──
ぱんっ!
乾 いた音が響 く。マジクはそれが、なにかがなにかを平手打ちした音のように思った。つまるところ、自分がなにかの拍 子 に彼女を殴 ったのかと──だが、見ると別にそういったことはない。フィエナはその音に心当たりがあるようで、ぞっとしたように立ち止まって蒼 白 になっている。彼女の腕をつかんでいるマジクも、立ち止まらざるを得なかった。
「なにが......?」
マジクは誰 にともなくつぶやきながら、背後を見やった──フィエナをではなく、もっと後ろ、蛇と取っ組み合いをしている連中のほうを、蛇はもう動かなくなっている──マクドガルとかいうあの男の上に横たわるようにして、ぐったりとしていた。その頭が、なにかにたたきつぶされたようにひしゃげて見える。マクドガルは重い大 蛇 の死体を押 しのけながら、ゆっくりと上体を起き上がらせた。その顔は、どす黒く変色して憤 怒 の形 相 に震 えている。
マジクはなにかに魅 了 されるように、動けなくなっていた。よくは分からないが、人間の力であの大蛇の頭をつぶすことなどできるわけがない。
(なんだ......? ものすごく、怖 い感じがする......)
意味のない恐 怖 感 を、マジクは覚えていた。
マクドガルがこちらをにらみ据 えて、右手をこちらに向ける。その手にはなにか、黒っぽい鉄の塊 のようなものがにぎられていた。宗教的な儀 式 の道具には似つかわしくない、金属的なシルエット──それはどちらかといえば、なにかの農具の部品のようにマジクには見えた。マクドガルが、わずかに動く。
ぱんっ──
鉄の塊が、ほんの一瞬、閃 いた。同時にマジクの左わき腹に衝 撃 が走る──全身をひっくりかえすような激 痛 がその衝撃を受けた場所一点に集中するような感覚で、マジクは悲鳴すらあげられずに、その場に倒 れた。
「きゃああっ!」
フィエナの悲鳴が、やけに遠くに聞こえた。地面へと吸い込まれていくような、無限の落下感に戦慄 する。背中は既 に地面に触 れているはずなのに、その落下感だけが終わらない。
「......」
「............!」
「......!」
急速に白んでいく視界──気絶する瞬間の意識というのはこんな感じなのだろうと自覚しながら、マジクは耳だけを澄 ましていた。だが結局──マクドガルがしゃべっているらしいその声は、異国の言葉でも聞いているようにまったく意味がとれなかった。
「............!」
「......!」
声は、どうやら激 しく口論しているらしい──相手は、フィエナか。
落下感は終わらない。死ぬまで終わらないのだろうと、マジクは思った。もっとも、それならば──この落下感が終わるのは、そう遠くはないのだろう。そうも思う。
さむけが、押し寄せてくる。その最後の瞬間、マジクはようやく声が聞き取れるようになった。マクドガルの、野太い声。
「こいつを癒 すんだ、フィエナ」
それに応 える、彼女の声。相手に聞かれないように、少しひそめてはいるが、マジクには聞こえた。
「......言われなくたって!」
それと同時、寒さに震 える彼の身体に、なにか暖かく心地 いい感触 が押し当てられた。その感触──彼女の手?──から、身体の隅々 にまで行き渡るような、熱いものが流れ込んでくる......
(終わらない落下感──フィエナ──《森》から逃げられない......巫女 ──力に支配されている──蛇の頭を潰 した──手に握 られた、黒い塊──)
混濁 する意識の中でマジクは、うっすらと思い出していた──
あれは拳銃 だ。
「......さて、どーするかな、こいつら」
街道に面している大木の枝から両手を縛 られてつるされている男たち五人を見上げながら、オーフェンは腕組みした。すぐ近くに彼らの馬車が停 めてあり、野営の準備をしている跡 も見えた──が、それは今の騒 ぎの結果としておおむね目茶苦茶になっている。と、彼の背後からクリーオウがぼやき声をあげた。
「残 酷 ねー」
どうやら、襲 撃 者 をつるし上げにしていることに対してらしい。オーフェンは振 り返りもせず反論した。
「武器を持って襲撃してくるような連中に慈 悲 はいらねえよ。だいたい、お前だって一番最初に襲 いかかってきたのを真っ先になます斬 りにしやがったろ」
「なます斬りになんてしてないわよ!......そりゃまあ、あの人、指がちょっとちぎれかけて泣いてたみたいだったけど......あんなに斬れるなんて思わなかったんだもん」
クリーオウはどうやら思い出して、身 震 いしたようだった。オーフェンは嘆 息 して、
「あれ、俺 が魔 術 でくっつけてやらなかったら、本当に取れてたぞ。ったく」
と、少女のほうに向き直って肩をこつんと小 突 いてやる。クリーオウは汚 れたスパッツはもう履 き替 えて、いつものジーンズとシャツにもどっていた。シャツは濃 いベージュの男物(つまりマジクの持ち物だ)で、返り血がついていたりしないかと、彼女はさっきからしきりに気にしていたようだった。
「そもそもなぁ、たかだかスリコギやら棒切れでしか武 装 してない連中に刃 物 振りかざすなんざ、それだけで十分残 酷 だぞ、お前こそ」
「くっくっ......あたいをこんな悪い女にしたのは、どこのどなただったかしらねぇ」
「だから、どこで習ったんだ、そーゆうせりふを......」
小 柄 な身体をくねくねさせながら言ったクリーオウを制しながら、オーフェンはまたため息をついた。クリーオウが、ムッとした様子で口を開く。
「オーフェンだって、そのスリコギでしか武装してない連中とやら相手に、森が十メートルも炎 上 するような魔術を使ったじゃない」
言いながら彼女は、左手の森を指さした。確かに数メートルはあろうかという巨木が根こそぎ吹き飛んで、地面が何メートルか焦 土 となっている場所がある。オーフェンはわざとそちらは見ないようにしながら、しらじらしい声を出した。
「お前を守るために必死だったんだ」
「そーゆう底の割れた嘘 は聞いてて腹が立つわ」
クリーオウは実際腹を立てたようにオーフェンから少し離 れた。と、ふと思い出したように地面に投げ捨てた自分の剣──人を斬 ったら血がついたので驚 いて投げ捨てたのだ──に慎 重 にそろそろ近づいていく。彼女は剣の一メートル手前でこちらを振り返り、
「あのさ、この剣、どうしてもわたしが血を拭 かなきゃ駄 目 ?」
オーフェンは即 答 した。
「自分のものは自分で管理」
「でも......血がついてるのよ?」
「人を斬れば当たり前だろ。いやなら捨てちまえ、そんなもん」
「いやがる乙 女 に無理やり血の後 始 末 をさせようなんて、残 虐 趣 味 と思われても仕方ないわよ、オーフェン」
「なら、その乙女とやらが刃 物 なんて持つなっ!」
オーフェンが叫 ぶと、クリーオウはぶつぶつ言いながら剣の柄 をつま先でつついた。
「老人は若者の失敗を許してはくれない。それは嫉 妬 というのだ──BYお父様・死亡二時間前」
「つくづく口の減らねえ奴 だな、お前は......」
オーフェンは半眼でぼやきながら、またつるし上げの五人を見上げた。全員気絶して──あるいは、気づいていてももう反 撃 する気力もないのか、ぐったりとしている。
まあそもそも、両腕を縛 られて宙づりになり、なお元気に騒 ぎ立てるような人間というのもそうそういないだろうが。
クリーオウはまだ頑 なに剣には触 れず、ぶつぶつと続けている。
「語るのをやめたとき、誰 もが死ぬのだ──死去直前」
「お前の親 父 って......死ぬまでそーゆーコトを吐 きつづけたのか?」
「唯 一 、有意義な死があるとしたら、それは遺 言 だけだ──これは、お医者に死を宣告された直後ね」
クリーオウはこちらにウインクしてから、とりあえず剣の血がついたところに砂をかけはじめた。
◆◇◆◇◆
極 めて奇異 なことではあったが、彼は幸福を感じていた。あまりの安堵 に死んでもいいと思ったほどだ。
安全!──確実!──寒くない──暑くもない──腹も減ってない──借金取りもいない!──思うに、これほどの好条件はこれまでの人生では決して望めなかったことである。
と......ひとしきり至福の涙を流してから、ドーチンはふと気づいた。
「これってひょっとして......当たり前のことだったんじゃなかったかな......」
そう思うと、どっと空 しさが押し寄せてくる。柔 らかい布 巾 でクリスタルの灰 皿 を拭 きながら、ドーチンはふとした寒さに襟 元 をぐっと寄せた。
身長百三十センチほどの『地 人 』──キエサルヒマ大陸でも南方の地人領 にしか住んでいない土着民族である。伝統的な民族衣 装 である毛皮のマントですっぽりと身体を包んで(屋内でも脱 がないのが礼 儀 である)、分厚い眼鏡 をかけている。年齢は十七だが、体格が小さい分、もっと幼く見えるのは仕方がないところか。
と──ドーチンはちらりと、自分の背後を見やった。彼がいるのはとある部屋の中──それも適度に調度にも凝 った応接間だった。もっとも、こんな僻 地 にあるせいか、それとも飾 り付けた人間の趣 味 か、どことなく庶 民 的な居間を連想させる間取りだが。
その部屋に、もうひとり地人がいる。
「......この俺が......掃 除 など......」
もうひとりの地人はぶつぶつ言いながら、いいかげんな手つきでハタキを振 っている。一応、サイドボードのほこりを落としているつもりなのだろうが、どちらかというと単に空中にほこりをばらまいているだけのようだ。
ドーチンは、はあ、とため息をついた。拭いている途 中 の灰皿をいったんもとのテーブルに置きながら、
「兄さん......それじゃいつまで経 っても掃除が終わんないよ」
「なにぃ?」
兄さん、と彼が呼んだ地人が、じろりとこちらに視線を転じる。黒 髪 をぼさぼさにして、なんのつもりか腰に剣など下げている。毛皮のマントを着ているのはドーチンと同じだが眼鏡はしていない。その地人は、ハタキを持ったまま腕組みすると、ゆっくりと続けた。
「はっきり言うぞ、ドーチン」
「うん」
うんざりとドーチンがうなずくと、それはさらに続けた。
「なんで、この俺が──マスマテュリアの闘 犬 とも呼ばれたこのボルカノ・ボルカン様が、こぉんな地 味 な仕事をせにゃならんのだ!? 」
最後のところで、びしとこちらに指を突 き付けてくる。
ドーチンは自分のこめかみを押さえながら答えた。
「あのさ......兄さん、冷静に考えてみなよ」
「冷静に、だと!? 」
地人──ボルカンと名乗った──は、激 昂 したように怒 鳴 った。そのまま、すたすたとこちらに詰 め寄ってくる。
「この俺が──ハタキを持って──ぱたぱた掃除するなど──俺が今まで苦戦の末に葬 り去ってきた強 敵 たちが聞いたら! あの世で涙するに違いない! あまつさえ、しょーが醤 油 でひたし殺されるやもしれんっ!」
と、ぐっとにぎった拳 が鼻先に触 れるくらいまで近づいてきて、ボルカンは止まった。見上げると(と言ってもほとんど身長は変わらないのだが)、虚 空 に向かって男泣きに涙している。ドーチンはうめくように聞いた。
「強敵──って?」
「例えばトトカンタ十三ストリートを根 城 にしていた峻 烈 の赤き魔 王 ダンデ・コプリーズJr. !」
「ああ......肉屋の飼 い犬ね。犬のくせに豚 肉 のソーセージなんて食ってて生 意 気 だ、て兄さんが襲 いかかったやつ」
冷たい声でドーチンがつぶやくのだが、ボルカンはまったく聞こえていない様子で叫びつづける。
「さらには天空の黒き覇 者 マイケル・マグノリア・サミュエルズ!」
「ええと......多分、道に落ちてた銅貨の取り合いをしたカラスのことかな」
「深き淵 より蘇 りたる悪魔の頭脳! 狂 気 の博士ドク・サッペル!」
「......? あ! あの物まねが得意な九官鳥のことだ。鳥 籠 から餌 なんか盗 んだって美味 くもないんだからやめなよって言ったのに、聞かないんだから」
「生命なき百の配下を持つ魔女! 希代の傀 儡 師 ミード・レイン!」
「......最後まで人形劇を見てるとあめ玉くれるミード婆 さんのこと? 別に戦わなかったじゃない」
「............」
ボルカンは一筋の汗をたらしながらしばらく黙 っていたが、やがて気を取り直したのか、芝 居 がかったしぐさで、ばっと横に振 った。
「彼らにいったいどういう申し開きができようか!? 」
「いや、まあ......申し開きができるか、と言われれば......申し開きしようがないけどさ」
でもそれは、申し開きする必要がないからじゃないか──
もごもごとドーチンがつぶやくと、ボルカンは大声で叫んだ。
「そうだろう!」
両手で拳をにぎりしめ、天 井 に向かって吠 える。
「お前に言えるか? 壮 絶 に散っていった彼らに対して! この俺が──ハタキを持って──鼻歌なぞ唄 いながら──かいがいしい新 妻 よろしく──パタパタ掃 除 するなど!」
「いや......いちいち強調しなくてもいいんだけど......」
だが、ぶんぶんとボルカンは首を振って、
「俺にはできん! 主義主張は違えど、奴 らは戦士として最後まで勇 敢 だった! なのにこの俺がぱたぱたハタキがけなど──」
「あ。そー言えば、食堂のおばちゃんが掃除を早く終わらせたら空 いた時間でパンケーキでも焼いてくれるって言ってたよ」
「さあ弟よ。ハタキがけのコツはリズムだ。ほこりが被 るとまずそうなものには、あらかじめビニールをかけておくこと」

ボルカンはあっさりと態度をひるがえすと、いつの間に移動したのかという素早さでさっきのサイドボードをはたきがけしている。ドーチンは、ほっと安 堵 の吐 息 をもらすと、磨 きかけていたクリスタルの灰 皿 を持ち上げようとした──が、テーブルの上には灰皿がない。
「あれ......?」
ドーチンは不 思 議 そうに見回し、そして兄のポケットが異様に膨 らんでいるのを発見して嘆 息 した。膨らみは、ちょうど灰皿ぐらいの大きさである。
(いつの間に......)
あれだけは尊敬してもいいかもしんない、と思う。
とりあえず灰皿はやめて、となりの葉巻入れを拭 きはじめたとき、がちゃ、と応接室の扉 が開いた。おばちゃんかな、と思って顔を上げると、そうではなくひょろりとした体格の若い男が入ってくる。
「よぉ」
男はにやけた笑みを浮かべながら、声をかけてきた。よれよれのシャツの上に、ワッペンのないレンジャージャケットなど羽 織 っている。腰に下げている剣は──ボルカンのものと違って──なまくらということはないだろう。
「あ。どうも──サルアの兄貴 さん」
ボルカンが、急にかしこまったような声を出す。ハタキの手を止めて頭を下げたほどだ。
「おう」
サルアと呼ばれた男は、ほろ酔 いのような表情で部屋の中を見回した。別にこちらがなにか盗 んだのか確かめようとしているわけではなく、意味のないしぐさだろう──とドーチンは思いたかった。
なんにせよ、灰皿がなくなったことには気づかなかったらしい。サルアは薄 い笑みを浮かべて、軽 薄 な声を出した。
「ボルカンとか言ったか......お前さんの情報は正しかったよ──たった今、魔術士のガキを捕 まえてきた」
「あ、そーですか」
兄のせりふを聞きながら、ドーチンはマジクの顔を思い浮かべた。可 哀 想 に。手 荒 なことになってなきゃいいけど。
そんなことを思いながらボルカンを見ていると、兄は、さらに蛇 みたいな表情を浮かべてサルアに猫 なで声を出した。
「で......肝 心 の、黒魔術士のほうは......? 生意気にも《牙 の塔 》の紋 章 なんぞぶら下げてる......」
「そっちは、ほかの連中が行った。報告はまだだが、まぁ大 丈 夫 だろう。腕 っ節 の立つのが五人、くれぐれも奇 襲 でカタをつけるよう厳命しておいたからな」
サルアはそう言って肩をすくめると、あごに手をやりながら続けた。
「ま、情報が本当だったんで、マクドガル御 大 がお前さんらに礼を言いたいそうだよ。夕飯の後になりそうだが──どうやら魔術士の坊 やを痛めつけたがってたみたいだからな。長くかかるだろうよ」
と、にやりとしてみせる。
「あの御大がどれだけ魔術士を嫌 っているか、知りたいか?」
「い──いえ」
答えたのは、ドーチンだった。見ると、どうやら兄はぜひとも 知りたがっている様子だったが。
ドーチンは残 酷 な話というのは苦 手 だった。
へっへっ、とサルアが笑い声をあげる。
「ま、飼 われ犬の俺にはどうでもいいことだがね──お前さんらも、これからも掃 除 夫 としてここで働くつもりでいるなら、あの御大の趣 味 には──おっと、御大のご大 層 な宗教の教義、と呼ぶべきなのかね。とにかくまあ、そんなようなことには逆 らわないほうが無難だぜ」
そんなせりふを残すと、サルアは応接室から出ていった。ずり、ずりと靴 底 を引きずるような足音が遠ざかって聞こえなくなるのを待ってから──ドーチンは、ぽつりとつぶやいた。
「たった五人で、あの借金取りがどうにかなったとは思えないけど」
「............」
兄は無視してハタキがけを再開している。
「知らないよ。兄さんが口を滑 らせて、魔術士が近くにいる、なんて言うもんだから......仕返しは、ぼくは無関係だからね」
「ま、まあ......謝 れば、大丈夫だろう」
答えながらも、声が震 えている。ドーチンは冷たく言い放った。
「あの借金取りの弟 子 が無事だったらね。もし、ここの人たちに責め殺されたりするようなことがあったら──ぼくら、あの借金取りに殺されるよ」
「ゔ............」
さすがにボルカンも、事の危険性に気づいたらしかった。うめき声をあげて、ハタキを取り落としそうになっている。兄はこちらに背中を向けたまま、また浅はかなことを言ってきた。
「に......逃げ出すってのは、どーかな」
「こんな《森》の真ん中にある村から、どうやって逃げ出すのさ。道も分かんないのに」
ドーチンは嘆 息 して、応接室の一番広い壁 を見やった──そこには、村の周辺の地図がかけられている。
広大なる戦士たちの故 郷 《フェンリルの森》──その中にぽつんと、赤丸が記してある。それがこの《偉大なる心臓》村だった。
◆◇◆◇◆
「ここ......のようだな。マジクが捕 まってるってのは」
夜の闇 の中──
オーフェンは茂 みから顔を出して、ぼそりとつぶやいた。背後から、その肩につかまるようにして、クリーオウ。さっきの格好の上に長 袖 の耐 刃 ジャケットを着込んでいる。見るからに暑苦しそうだが、森の中をシャツ一枚で歩き回るよりはマシだと思ったのだろう。
彼女はすぐ近くからじろじろとこちらに視線を当てつつ、
「みたいね──さっきオーフェンが宙づりから逆さづりにつるしかえて、その下で焚 き火 して煙責めにしたらよーやくゲロした捕 虜 の情報によればねー」
「......なにが言いたい」
目を閉じてオーフェンが聞くと、クリーオウはすっとぼけた声を出した。
「べっつにー。たとえあなたが非道のかぎりを尽 くして世界中の全てを敵に回したときも、わたしは味方でいてあげるからね、って話♥」
「なにを言っても小 遣 いはやらんぞ」
クリーオウのブーイングを無視すると、オーフェンは目を閉じたそのまま耳を澄 ました。すぐ近くにいるクリーオウの小さな息遣い以外は、森の中は静まり返っている──とはいえ、無音になることが決してないのも、森の中というものだった。特に、夜間はそうだ。虫の声......そして獣 の足音。葉 擦 れの音。村の近くなので、沢 の音も聞こえてくる。
時刻は──オーフェンの勘 では──そろそろ真夜中というころか。街道からここまで来るのにかなりの時間がかかったようだが、行動を起こすには、まだ早い。
と、オーフェンは目を開けた。視界の中に──星明かりに照らされて、森の中にぽっかりと集落が広がっている。見張りの姿は見えなかったが、どこに隠 れているのか知れたものではない。建物に関しては、こんな森の中なので馬を飼 う必然性はないだろうが、養 豚 場 やその他の家 畜 小屋らしきものはかなり目立った。人間が住む家屋は質素なもので、納 屋 造りの小屋が多い。もっとも村の中心のほうには体育館のような大きな屋根も見え、また背の高い家屋も建っていた。教会の尖 塔 を思わせるその屋根は、やはり似たような機能のものらしく──とがった頭頂に彫 像 が据 えてある。ただしそれはキムラック教会の聖印ではなく──
「......ドラゴン!」
オーフェンは小さくつぶやいた。
《フェンリルの森》を象 徴 するそのまま──巨大な狼 の姿が、ごていねいに漆 黒 に塗 られてそびえている。星の明かりがなければ、闇 夜 のカラスで見 逃 すところだった。
「まずいな」
オーフェンが毒づくと、後ろからクリーオウが聞いてきた。
「なんで?」
オーフェンは尖塔の狼の像を指さして、
「ディープ・ドラゴンの彫像だ。あんなもんを祭ってるとなると......ここはドラゴン信 仰 の隠 れ里 らしい」
「ドラゴン信仰? 聞いたことはあるけど」
あまり理解してはいないような口調で、クリーオウが言う。オーフェンはクリーオウの頭をつかむと、はあ、と嘆息した。
「分かってねえみてえだな......ドラゴン信仰者にとっちゃ、俺みたいな魔術士はモロに天魔か天敵みたいなもんなんだぞ」
クリーオウは頭をつかまれたまま、しばし考えこんでから返事してきた。
「さっきのあの五人にしたことを考えれば、天魔で十分なんじゃない?」
「あのな......まぁいいけどよ。俺はともかく、問題はマジクだ──この村の連中に取っ捕まったとなると──」
と、クリーオウが近くにいるのを思い出して、語 尾 を濁 す。拷 問 ならまだマシで、へたをすれば問答無用で責め殺されている可能性もある。
オーフェンは胸中で歯がみした。救出には時間をかけられない。実際、もう既 に遅いのかもしれなかった。
(くっそ......)
「にしてもあの馬鹿、ただの人間に捕まるなんざ、連れもどしたら補習の嵐 だ」
「既にこの前、自分にもできないくせにスクワット千回とか言って、泣かしたばっかりじゃない」
「......あいつが泣きながらスクワットやってる隙 に、ひとつしかない桃 缶 ふたりで食べたんだから、お前も同 罪 だろ」
「そーいやそーだけど」
クリーオウはぼやいてから、
「......でもオーフェン、なんでドラゴン信 仰 者 が魔術士を目の敵 にするわけ?」
「............」
オーフェンはしばし黙 して村のほうを眺 めてから、さらにトーンを落として口を開いた。
「ドラゴン種族ってのがどういうもんかは、前に話したよな?」
「うん......大昔、神様から魔法の力を盗み出した種族のことでしょ?」
「ああ......」
太 古 の時代──遺 跡 などで発見されるドラゴン種族の年代記によれば一千年以上の昔。巨人の大陸 と呼ばれる神々の国に、神の持つ『魔法』という全能の力の一部分を、全能ならぬ自分たちにも扱 える術──つまり『魔術』──として盗み出した種族があったのだという。全世界の獣 たちの中で最も狡 猾 だった六の種族──ウォー・ドラゴン種族、ウィールド・ドラゴン種族、ディープ・ドラゴン種族、フェアリー・ドラゴン種族、レッド・ドラゴン種族、そしてミスト・ドラゴン種族。
「六ドラゴン種族は神々の追 撃 を逃れて、このキエサルヒマ大陸にやってきた......途 中 、神々の放った配 下 やら手 下 やらと激 烈 な戦いもしたらしいがな。それら全てを退 けて、ドラゴン種族たちはこの大陸を住 処 とした。彼らに遅 れること何百年も経 って、俺ら人間の祖先もこの大陸に入植してくる。これが三百年の昔......」
「人間は、ウィールド・ドラゴンから魔術の力をもらったんでしょ? 前に言ってたけど」
「そう──人間とほとんど容姿の変わらなかった、ウィールド・ドラゴン=ノルニル──天人と人間が混血することによって、魔術士──人間の魔術士、という大陸でも特異な存在が生じた。ドラゴン種族ではないのに、魔術を扱う能力を持つ種族ってわけだ」
と、オーフェンは視線でディープ・ドラゴンの彫 像 を示した。
「ドラゴン信仰者は、それを不 遜 と考えるのさ。実際に過去、魔術士発生の元 凶 たるウィールド・ドラゴン種族が、人間の魔術士を地上から滅 ぼそうとしたって事実もあるからな。ドラゴン種族が俺たち魔術士を邪 魔 と考えるその理由は明らかじゃないが──いつだったかアレンハタムの地下で、天人の遺 したデク人形がしゃべり散らしてたことはあまりアテになりそうにねえしな」
「......でも、つまり魔術が使えるってことが問題なわけでしょ? だったら、ドラゴンって魔術士を独 占 しておきたいんじゃないかしら」
「そいつは、どうだろうな。俺たち魔術士が扱える力は、ドラゴン種族が持っている魔術の一番低いレベルに達したか達していないかって程度のもんなんだ、まあ、人間の魔術は既 にいくつかのドラゴン種族の魔術を凌 駕 した、なんて言い切る魔術士もいるにはいるが......確かにな、ミスト・ドラゴン種族の持っている大気魔術やレッド・ドラゴン種族の獣 化 魔術と、俺たちの音声魔術──特に高度な白魔術までも含めた音声魔術とを比 較 すれば、俺たちの魔術のほうが上かもしれない。だが、それにしたって人間という種族の総合力とミスト・ドラゴン種族のそれとを比較してみれば──人間はミスト・ドラゴン種族のような、地上のいかなる環 境 でも生存できるような強 靱 な身体も生命力も持ち合わせてはいないし、レッド・ドラゴン種族のような極 めて高度な知能も、自然体系知識もない。ドラゴン種族が人間の持っている力を危険視 するってことは、まずないだろうな。嫉 妬 ってのは......可能性としては、あるかもしれねえけど」
「嫉妬?」
クリーオウが聞き返してきたのを、オーフェンは苦笑しながら答えた。
「なんだかんだ言ったところで、大陸で最も繁 栄 しているのは人間だ。もっとも、それを言うんなら──」
苦笑は消さないまま、続ける。
「それにもかかわらず、あくまで大陸の支配者なのが、ドラゴン種族だがな」
「ふうん......でも──」
クリーオウは、どうも不 機 嫌 そうに口をとがらせた。
「結局、なんでドラゴン信仰者が魔術士を目の敵にするのかが、ピンとこないんだけど」
「まあな。俺もよく分からん」
オーフェンがそう言うと、クリーオウは少し肩をコケさせたようだった。フォローするように、オーフェンは続けた。
「ドラゴン信仰者は、ドラゴンを信仰する──大陸の先住者であり正統な 支配者たるドラゴン種族をな。そしてドラゴン種族のいくつかが、俺たち人間の魔術士を嫌 っている。君主の言うことは聞かなければならない──だからドラゴンを信仰する者たちは、魔術士を嫌 悪 する。この程度の論法なんじゃねえかな」
「なんか主体性を感じないわ」
「まあ......人間なんてもんはあんまり主体性があり過ぎても、それで思い上がって自分が世界の支配者だとか錯 覚 し、たいていは自 滅 しちまうんだけどな」
「そんなもんかもね」
クリーオウが、あっさりと納 得 した声を出す。
そんなもんなんだよな、とオーフェンも、胸中で相 槌 を打った。
夜闇に紛 れて、足を踏 み出す──夏場の森の中は、夜になると異様に蒸 し暑くなる。手を振 れば水 滴 でもつきそうなほどの湿 気 の中なら、少し足を忍 ばせれば音はほとんど響 かない。
──だといいんだが、と、平気な顔してぺたぺた足音を立ててついてくるクリーオウを横目で見やりながら、オーフェンは思った。
村の外れの茂 みから、手近な家 畜 小屋──明かりの点 いていない小屋──ゴミ捨て場に続く路 地 などをつたいながら、村の中へと潜 入 していく。見張りにもう見つけられている可能性はあった──しょせん、小さな村である。隙 間 なく見張ろうと思えばいくらでも手段はあるだろう。もはや開き直って潜入するしかない。
クリーオウは真っ黒──というか濃 い紫 の耐 刃 ジャケットの胸に、ぴったりと剣の鞘 を抱くようにして、落ち着いた様子でついてくる。どうもこの娘は細かいことが好きなのか、この前買ってやったばかりのそのジャケットの左胸に人型の紋 章 ──剣と盾 を持った、かなり図案化された印章を刺 しゅうしていた。聞いてみたら、商家であるエバーラスティン家には家紋はないが、同家と数代前に親族関係を持ったというなんとかいう貴族が、この家紋を持っていたのだという。貴族の容 貌 を持つクリーオウが身に着けているから、というわけでもないだろうが、その紋章はかなり見 栄 えがした。エバーラスティン家にほぼ押しかける形で輿 入 れしたその令 嬢 は、死ぬまで自分の姓 を明かさなかったというが、案外、名のある家系のものなのかもしれない。
オーフェンは素早く路地を駆 け抜 けると、小屋の死角づたいに村の奥へ奥へと進んでいった。マジクが捕 らえられている場所に見当がついているわけではないが、敵地でものを探すときにはいつも中心から始めるのが彼のやり方だった。そうすれば、探 索 と同時に逃 亡 のリズムもとれる。
村の中心に見えるのは、やたらに大きな円屋根の建物──屋根のあちこちから煙 突 が突 き出ていて、工 房 のように見える。工房に捕 虜 を閉じ込めるという話は聞かないから、怪 しいのはその隣 に建っている教会のような尖 塔 だろう。一 般 の信者に拷 問 の場を見せたりはしないだろうから、マジクが監 禁 されているのは地下か、あるいは塔の上か──
小屋の物 陰 に身を潜 ませて足を止めると、オーフェンは独 りごちた。
「やっかいだな──見張りがいないわけはないだろうし、出入口に鍵 くらいはかかってるだろう。単純な鍵なら魔術でなんとでもなるけど」
「......見張りから鍵を奪 えない?」
クリーオウも同じ物陰に入ってきて、小声でつぶやく。オーフェンはかぶりを振 った。
「奪うのは簡単だが──騒 ぎを起こさずに、てのは難しいな。多少の訓練も受けているかもしれない相手を、声もあげさせずに素 手 で悶 絶 させるなんてのは至難の業 だ。かといって、魔術を使うにはどうしても呪 文 が必要だし......いっそのこと、村中に火の手をあげて、混乱に乗じて建物に入るか。それなら、扉 を魔術で吹っ飛ばしても分かりゃしねえだろ」
クリーオウが、それを聞いて燃えたというように、ぐっと拳 をにぎる。
「なるほど......邪 悪 な人さらい教団を皆 殺 しにするわけね。すごい決心だわ、オーフェン」
「馬鹿たれ──そりゃまあ、この程度の規模の村なら、ゲリラ戦に徹 すればなんとか渡り合える自信はあるけどよ」
「わたしだって冗 談 よ。でも、村を燃やしちゃったりしたら絶対に死人が出るわよ?」
「ここの教団がちゃんとした組織なら、避 難 もできずに焼け死ぬ者もいないさ。それに、火をかける前に爆 音 でも立てて、村中をたたき起こせばいい」
「......騒ぎを起こすのだけが目的なら、火事にしなくてもいいじゃない。例 えば──いきなり村中の鏡の中から全身バナナ男が現れる、ていうのはどう? きっと大騒ぎになるはずだわ」
「......いまいちどんなもんか分からんが......却 下 」
「じゃあ......オーフェンが全 裸 でけたたましい笑い声をあげながら村を縦断する。その隙 に、わたしが活 躍 するから♥」
「......却下」
「村の人たちが寝ている間に、みんなにこっそり鼻輪をつけちゃうっていうのはどう? 朝になったら大騒ぎ──」
「......お前、ことの深刻さを理解してないだろ。マジクを救出せにゃならんのだぞ」
「あの子なら大 丈 夫 よ。前に、わたしが体育倉庫に閉じ込めたままうっかり忘れて家に帰っちゃって、そのまま連休に突 入 したときも生き延びてたもの。ボールの綿をかじって飢 えをしのいでたんだって」
「そ、それもかなりエグいが......あのな、あいつは今この村で、拷問受けてっかもしんねえんだぞ」
「拷問!? ......なら、連れかえったらマッサージくらいしてあげないと可 哀 想 かもね」
かなり本気で言っているらしいクリーオウに、オーフェンは嘆 息 した。
「いや......お前の靱 帯 断 裂 マッサージは、あいつには酷 だろ。俺でさえ悲鳴あげたくらいだから」
「人のマッサージに、変な名前つけないでよ。まあオーフェンが泣き出したときは、ちょっと驚いたけど」
クリーオウがぶつぶつ言うのを、オーフェンは手で制した。なんにしろ、この娘に『狂信者に拉 致 されて責め殺されているかもしれない不幸なマジク』のビジュアルを理解させるのは不可能らしい。
などと思いつつ、さらに村の奥に進もうとしたとき──
くうぅぅ──おおうぅぅぅぅぅ──......
膨 大 な量の空気が、どこか一点に吸い込まれていくような音が風に流れ──
かっ!──
村の中心に、天まで焦 がすような火柱が噴 き上がる!
「な──!」
オーフェンは絶句するような声をあげ、爆風から顔をかばった──後ろでクリーオウが、きゃあと悲鳴をあげている。爆風は地面の砂を巻き上げ、あたりの小屋の壁 に当たってぱちぱちと音を立てた。火柱はまだ消えず、村の中心──ちょうど煙突のある巨大な建物の正面で煌 々 と燃え上がって、こちらまではいくらか距 離 があるというのに熱波をとどかせていた。村全体を白く照らし、荒 れ狂 うあの炎 の色は──
(ガス爆発の類 いじゃあ、ない──油が燃える色でもない──)
純白の火柱──白い炎は地上自然界には存在しない。何物も触 媒 にしていない真白き光は──
「あれは......魔術の炎だ!」
我知らずオーフェンは、声を出していた。村の中がにわかにざわめきはじめ、あちこちの小屋からばたばたと人が飛び出してくる。もっとも、いきなり燃え上がった火柱に気をとられて、オーフェンらのことを咎 め立てする者は、まだいないが。
「魔術? じゃあ......あれ、マジクがやってるの?」
頭から被 った砂ぼこりをばたばたと落としながら、クリーオウが聞いてくる。オーフェンは、ぞっとしながら答えた。
「あいつがあれほどの魔術を使いこなせるってんなら、もう俺が教えてやれることなんざなにもねえよ」
「......え?」
「あれ......は──人間の魔術なんかじゃねえ──!」
オーフェンは喉 の奥でうめいた。魔術士には、力を操 るための力──魔力というものが視 える──魔術が発動したならば、空間に解き放たれた魔力の構成を読み上げることもできた。そして、その編 まれた構成から、術者の力量を読み取ることも。
「なぁに? また、あの人形!? 」
クリーオウは、叫 びかえしながら剣を抜こうとした──それを押 し止 めながら、オーフェンはつぶやいた。
「やめろ。ンなもんが通用する相手か」
「な──なによ、自分だけ事態が分かっちゃって、ずるいわね」
クリーオウが、少し拗 ねたように言う。オーフェンは、一瞬なかば本気で、頭 突 きかなにかの一発で、相手に思考を伝えることはできないものかといらだった。
「見ろよ!」
と、火柱のほうを指で示す。もう純白の炎 は、とっくに消えていた──が、火が消え、また月下の闇 となった暗闇に、なにか、うすぼんやりとシルエットが映っている。
その場所──村の中心までは、まだ数百メートルはある。その距 離 からでもそのシルエットは、はっきりと判別できた。月の下に映える巨大な狼 のシルエット──
「ディープ・ドラゴン=フェンリル!」
オーフェンは、全身ぞっと震 わせながらその名を叫んでいた。ほんの一瞬前までは、ドラゴンなどいなかったのだ。昔聞かされた、ディープ・ドラゴンについての伝説が、ずらりと頭の中を埋 め尽 くしていく──
「くそ、確かに、フェンリルなら、空間転移の能力も持っているかもしれねえ......」
「な、なになに?」
こんな事態でも、なにやらおもしろそうにクリーオウが目を輝 かせた。オーフェンは、なんだか無意味に泣きそうになりながら続けた。
「だ・か・ら──ディープ・ドラゴンだよ! ドラゴン種族でも有数の力を持った!」
叫びながらオーフェンは、遠くにそびえるシルエットを見やった。漆 黒 の毛並みを持つ巨大な狼は、月明かりでもなければまったく夜闇に溶 け込んでしまうのではないかと思える。ディープ・ドラゴンは決して雄 叫 びなどあげない──足音すら立てず、言葉も使わない。言語思考を行っているであろうというのに、だ。音のないドラゴン。その巨体ゆえ普 段 は水中に暮 らすが、別に地上にいてもなんら不 都 合 はない。むしろ地上にいるときのほうが攻 撃 性 が増すくらいである。
人間が出会った場合、危険なドラゴン種族は二種類あると言われている──最悪なのがミスト・ドラゴン。そして、最悪を通り越してもうどうしようもないのが──魔術に長 けたディープ・ドラゴンである。
「う〜!」
それだけの情報を、口に出せずに頭の中でずらずらと並べ立てながら、オーフェンはうめき声だけあげてクリーオウをにらみやった。無論、伝わるわけがない。自分でも分かっている。
だが、説明の間などないほど、ディープ・ドラゴンは危険すぎる。
オーフェンは、ぐっとクリーオウの肩をつかんだ。こっそりとドラゴンのいるほうへと進みかけていたクリーオウは、いたずらを見つかった子供みたいな表情を見せた。
(こいつは......全っ然分かってねえ!)
と思いつつ、じっと彼女のブルーの双 眸 をのぞき込む。
「逃 げろ!」
「............はあ?」
クリーオウは、しばらくきょとんとしてから、間の抜けた声をあげた──そう言われる可能性を、まったく考えていなかったらしい。オーフェンは、焦 燥 に駆 られながらあたりを見回した。今の爆音で、村人たちが目を覚ましたらしい。あちこちの小屋から、ざわざわと人の気配が現れはじめた。もう既 に家を飛び出し、ドラゴンだ、と叫び声をあげている者もいる。
だが、まだオーフェンらのことに気づいている者はいないようだった。気づいたとしても、村の真ん中にドラゴンが現れたとなれば、それどころではないだろうが。
オーフェンはもう一度クリーオウの目をのぞきこんだ。ここ二か月近くの経験から、この娘 に言うことをきかせるコツは、とにかく反論の機会を与 えないことだと悟 っていた。
「森の中につけてきた目印をたどれば、お前ひとりでも馬車のところまで帰れるな?」
「え? あ──うん。でも──」
「もどったら、通りがかりの誰 でもいいから、隠 してある馬車を動かしてもらって、一番近くのレンジャー詰 め所 に行くんだ。レンジャーに事情を話して、そこで待ってろ。いいな?」
「うん、話は分かったんだけどさ、でもオーフェン──」
「じゃあ、行け! 俺もなんとかマジクを助け出してから、後を追うから!」
「あの──」
「いいから行けえっ!」
オーフェンが腕を振って怒 鳴 ると、さすがにクリーオウも、ちょっとムッとしながら後 退 りしはじめた。恨 めしげな目付きで、こちらに恩を売りながら、後ろ向きに走り出す。
「オーフェン──」
捨てぜりふも忘れない。
「貸しひとつよ──今度はわたしの言うこと聞いてもらうからね」
「やかましいわ、あほたれっ!」
ったく──と、オーフェンは胸中で毒づいた。あのアマ、ちいとも自分の立場ってモンを分かってねえんだからよ、くそ。
(俺ひとりでも、生き延びられるかどうか──)
オーフェンは胸元の、ドラゴンのペンダントを握 りしめて、なにかに祈 るような手つきをした。なにに祈ったのか、自分でもよく分からないが。
(マジクの馬鹿、貸しひとつだ──俺の代わりにクリーオウの言うこととやらを聞いてもらうからな!)
勝手に災 厄 を押し付けると、オーフェンは全力でドラゴンのいるほう──村の中心へと走りはじめた。なんとなく、マジクが捕 らえられているのもそちらのような気がしていた。
ドラゴンは動かない。姿を現した場所そのままに、じっとたたずんでいる。なにかを見つめるように──と、シルエットの頭の角度から、オーフェンは気づいた。ドラゴンは、塔 の近くにじっとしている。その鼻先は、じっと塔の上を見つめているらしかった。
(マジクが捕 まってるのが、あの塔だとしたら、ドラゴンの目の前に出なけりゃなんねえってことか......)
にわかに騒 然 としだした村を駆 け抜 けながら、オーフェンは考えた。
(死ぬかな)
村の中は、もう闇 ではなかった。松 明 の明かりがあたりを照らしている。起き出した村人たちが点 けたものだろう。耳を傾 けるに、村人たちはディープ・ドラゴンの出現にさほど騒然とはしていないようだった──いや、騒 ぎ立ててはいても、パニックにはなっていない、というところか。
(さもありなん──ドラゴンは奴 らの守護神だからな......つうか、奴らはそう思ってるってだけだがよ)
と──声。
《......だ......なのだな?》
「............?」
オーフェンは耳を疑って、足を止めた。今なにか、確かに、耳元で声がしたような気がしたのだが──
(なんだ?)
眉 をひそめて、耳を澄 ます。小屋と小屋の間の、小さな路 地 である。たまたま通路になっていないのか、村人の姿はない。ほかの通りとの交差点で、ちらちらと松明を掲 げた村人の姿は見えたが、彼らもこちらには気づかずに通り過ぎていく。みんな、ドラゴンのところへ向かっているようだった。
(立ち止まっても、いられねえか......)
オーフェンは舌打ちして、また走りはじめた。村人がドラゴンのもとに集まっていっているのでは、ディープ・ドラゴンだけでなく、村人からも逃げなければならない。マジクを救出するのは、ますます絶望的であるような気がした。
(あの馬鹿、手間ばかりかけさせやがって──連れもどしたら、どうするか見てろ──)
と、また、声。
《まだなのだな ?》
今度は、はっきり聞こえた。
(──気のせいじゃない!)
その声は、肉声ではない──大気を震 わせずに、ただ空間に弾 け飛ぶような声だった。頭に無理やりねじ込んでくるような......
(ディープ・ドラゴンの暗黒魔術だ......俺は標的になってないはずなのに、それでも聞こえるのか!? )
ディープ・ドラゴンの魔術は、精神を支配する術だと言われている──それだけなら人間の白魔術も同じだが、決定的な違 いは、フェンリルのそれは生物だけでなく非生物にまで作用してしまうことである。つまり、森の木々はもちろん、土や大気、水、果ては空間にまで精神支配が及んでしまうのだ。
先刻の火柱も、空間を支配して振 動 させた結果、生じたものだろう──あるいは、振動を利用して転移した、その余波で起こったものかもしれないが。
(にしても──知ってはいたが、とんでもねえ威 力 だな)
ぞっとしながら、認める。
人間が声を媒 体 に魔術を用いるのと同様に、ディープ・ドラゴンの魔術は、視線を用いる。だがドラゴンは今、こちらを見てなどいない。つまり、オーフェンはドラゴンの魔術の影 響 下 になどいない のである。それでも、念話の影響を受けてしまう。
(こりゃますます、太 刀 打 ちできるような相手じゃねえぞ......にしても、なんでいきなりドラゴンが現れたりするんだ、この村は?)
ディープ・ドラゴンは《フェンリルの森》を守護していると言われている。《森》に入ってきた人間には容 赦 がない。だがもし、ドラゴンがこの村を滅 ぼそうとして現れたのなら、遠くから一分間も凝 視 してやれば、この程度の集落など、ほどなく灰燼 に帰すのである。なのにドラゴンは村のわざわざ真ん中に現れて、しかも、なにをするでもなくじっとしている。
(まさか──本当にこの村の守護神だとでもいうんじゃねえだろうな?)
まさかまさかとくりかえしながら、路地を出て通りを曲がる。と──
「誰 だ、お前は!」
誰 何 の声に、オーフェンは足を止めた。小さく舌打ちして、わずかに腰を低くする──飛びかかられたときの用心である。振り返ると、そこに長身の男が待っていた。
男は、右手に松 明 を、左手に祭 祀 用の錫 杖 のようなものを持っている。松明の明かりが、男の姿を照らしていた。髭 を生やした、がっしりした中年の男。
その男の背後に、取り巻きのように、また数人の男たちがいる。ただの村人のようだが、いちいち体格のいい連中がそろっているところを見ると、文字どおりの取り巻きなのだろう。もっとも、一番後ろにいる若い男だけは、妙 に雰 囲 気 が違っていた──しかも武 装 している。腰に長剣を下げて、ワッペンのないレンジャージャケットを着た、にやにや笑いの青年である。年は、二十二、三というあたりか。
錫杖の男が、まず声をあげる。野太い、しっかりした声だ。
「何者かな? この村の者ではないようだが」
「......俺かい? 俺は──」
と、オーフェンはなにかごまかそうと口を開いたときには、もう既 に錫杖の男は動きを見せていた──錫杖が、からんと地面に落ちる。
同時に、空いた左手で、男は懐 から黒っぽい鉄の塊 を取り出している。オーフェンは、とっさに後ろに跳 んだ。その後を追うように、男の取り出した塊が、ぱんっ! と弾 けた。
「拳 銃 !」
オーフェンは、短く叫 んだ。弾丸は夜目のせいか、もともと外れていたようで、弾丸が身体の近くを通るときの無言の衝 撃 も感じはしなかった──もっとも、使っている火薬が粗 悪 であれば、弾丸が衝撃波を発するほどの威力は出せないだろうが。
「ドラゴンの次は拳銃かよ──王室令で取り締 まられてるはずだろうが?」
オーフェンがうめくと、拳銃を構えたまま、男は笑った──髭 を盛 り上がらせただけの、顔の下半分だけの笑み。目は笑っていない。
「人界の法など、我が《森》では通じぬ! わたしはドラゴンの御 使 い、《心臓》の教祖マクドガルだ!」
教祖──マクドガルとやらが、また引き金を引く。マクドガルが使っているのはごく一 般 的 な造りのもので、銃身がない。普通知られているかぎりでは、拳銃というのは単に近接戦 闘 の切 り札 として用いられるものだ。だから左手で使う。それ以外の拳銃の運用方法も習ったオーフェンは知っていたが、少しでも距 離 をおけば当たるものではなかった。
が、それでももちろんまぐれ当たりの可能性はいつでもあったし、当たれば致 命 傷 にはなり得る。幸い、二発目も外れはしたが、オーフェンはあえて三発目を撃 たせるつもりはなかった。
「我は放つ──」
「やはり魔術士か!」
マクドガルが、叫んだ。取り巻きたちが、ざわっと押し寄せてくる。オーフェンは構わず魔力を練り上げた。
どうせ、こちらの名前も聞かずに拳銃で撃ってくるような連中だ。
(この際、ひとりやふたり大ケガをしようと知ったことか──!)
「光の──」
完全に間に合うタイミングで魔術が発動しようとする──が、呪 文 は突然妨 害 された。
「くっ──!? 」
左の肩口に、鋭 い痛みが走る。いつの間にか、ナイフが突き立っていた。魔術を放つために身をよじっていなければ、喉 に刺 さっていただろう。
痛みにうめくオーフェンの視線が、マクドガルの後ろからナイフを放った男の視線とぴたりと合った──例の、帯剣したレンジャージャケットの男。にやにやとこちらを見つめている。その目はまるで、こちらを挑 発 しているようだった──『そのくらいじゃ、まさか倒 れねえだろう?』

ぱんっ!──三発目の銃声が響 く。だが外れ。オーフェンは、ナイフの痛みと重量とで肩を落としながら、再び魔術の構成を編 み上げようとした──
そこを、いきなり、真横から一撃される──接近してきた取り巻きのひとりが、持っていた松 明 で横 殴 りにしてきたのだ。左腕が動いていれば、避 けられただろうが、もう遅 い。松明の火が、頭の横でぱちっと弾 ける音が聞こえた。
「こぉの──」
オーフェンはうめくと、頑 丈 なブーツのかかとで、その取り巻きのひざ頭 を思い切り踏 み砕 いた。ぎゃっと叫 んで、その男は倒れる。と、また目の前まで別の取り巻きが迫 ってきている。オーフェンは今度はこちらのほうが先に、相手の胸元に右の掌 打 を放った。敵が、うっとうめいてひるんだ瞬 間 に、魔術を放つ。
「我は流す天使の息 吹 !」
刹 那 、手のひらと男の身体の間に、猛 烈 な空気圧が膨 れ上がる。大気に押 されて、男の身体は後方に吹き飛んでいった──そのまま、マクドガルに衝 突 して悲鳴をあげる。
飛んできた取り巻きに押し潰 され、マクドガルが罵 声 をあげるのが聞こえた。ザマミロと思いつつ、オーフェンは身をひるがえした。
(急いで──マジクを──助けねえと──)
と──
(な............!? )
オーフェンは、愕 然 と足を止めた。振 り返ったすぐ前に、ディープ・ドラゴンがいる。
「おお......!」
背後から、マクドガルが声をあげるのが聞こえた。熱病に浮かされたような、絶望的な感覚の中で。
「我が主よ──!」
我が主よ。オーフェンは、マクドガルのせりふを胸中でくりかえした。
ドラゴンは......じっと、じっとこちらを見つめている。
ディープ・ドラゴン──音無きドラゴンの戦士。伝説には、そう呼ばれる。女神の住まう《フェンリルの森》に在 って、女神のもとへ赴 こうとする愚 かな人間をことごとく滅 ぼす、大陸で最強の戦士。大陸で最も破 壊 力 のある魔術を操 るウォー・ドラゴンやウィールド・ドラゴンを王と女王と称 するならば、このディープ・ドラゴンはまさしく戦士だった。
戦士に逆らうなど愚 かなことだ。勝てるわけがない。
間近で見上げるこの黒狼は、あまりにも圧 倒 的 だった。美しい緑色の静かな目で、じっとこちらを見下ろしている。その一 瞥 で、人間の身体など塵 にまで分解してしまうだろう。夜の闇 に黒光りする漆 黒 の毛 並 みは、皮 膚 から分 泌 される脂 のせいで夜風には揺 れない。口は開かない。だから赤い舌も見ることはない。
大陸で、最も美しい獣 。それがこの、ディープ・ドラゴン=フェンリル。
月光の下、戦士の眼 差 しでこちらを見ている。
「なんで......俺を見る......?」
オーフェンは咄 嗟 に、考えてもいないようなことを聞いていた。だが、聞いてみてから、ドラゴンが、わざわざ自分の目の前にまで歩いてきて、こちらを見つめているというのは道理に合わないような気がしてきた。それとも、このドラゴンは、本当にこの村の守護神で、侵 入 者 である自分を滅ぼそうというのか──
《この男なのだな? 汝 のものを奪 いにきたのは》
(............?)
オーフェンには理解できない会話を、そのドラゴンは、いずこかにいるのだろう誰かと交わしつづける。
《汝、自らのものを守るために我が力を欲するのか?──》
(ヤメロ──!)
オーフェンは、すべての神経を振 り絞 って、ドラゴンの魔術に抗 おうとした──
そして闇に抱かれるように沈 黙 が訪 れた。
闇 の中にたったひとり。彼は浮かんでいた。
立っているのか座っているのかも自覚できない──体に感覚がない。指先になにかを感じているようでもあるし、背中がなにか生 暖 かいような気もする。かと思えば、たまらない寒さに震 えたりもした。
と、目の前に、ぽうっと明かりが灯 る──自分の身体は見えないというのに、その光の中に浮かぶ人影は、はっきりと認識できた。ひらひらと光になびく薄 絹 の衣 装 を着た、まだ子供と言って差 し支 えない少女──
彼女は、唐 突 に口を開いた。
《あなたがオーフェン、ですね......?》
............
返事は、声に出せなかった。だが彼はこんな事態でも、ひどく落ち着いていた。
彼女が続ける。
《ごめんなさい......謝 りたくて、あなたの心に語りかけています》
彼女の表情が、卑 屈 に歪 む。それを見て、彼はいらだったが、なにも言い返すこともできなかった。
《ごめんなさい、ごめんなさい──わたし、あなたを襲 わせてしまった......》
......よく分からない。自分は襲われたのだろうか。なにも覚えていない──というより、思い出すという行 為 ができなくなってしまったようだ。自分の名前さえ、分からない。思い出したいという欲求すら起こらない。
だが彼女は、それについてなにも説明してくれそうにはない。
《あなたがマジクを連れもどそうとしているのが分かったから、ドラゴンにあなたを襲わせてしまった......わたしには、誰 も頼 れる人がいないから》
............
《彼をつれ去って欲しくなかった。それとも嫉 妬 したのかも。彼には助けが来たんだもの》
彼女の声は明 瞭 だったが、言っていることの意味はよく分からなかった。
《でもドラゴンが、あなたを廃 人 にしてしまうなんて思わなかったんです......》
ドラゴン──その言葉は、なんとなく煩 わしい印 象 を自分に与えてくる。聞いただけで逃げ出したくなる。そんな感 触 だ。
《わたしにできる限りの力で、あなたを癒 します。少し時間はかかるかもしれないけれど》
その言葉とともに、周囲の闇が少しずつ薄 くなっていく。
《あと、マクドガルには逆らわないで。彼を殺さないで。彼がいるから、この村は──》
そのあとのせりふは、闇を壊 していく光に紛 れ、なにも聞こえなかった。
◆◇◆◇◆
(......なんだ?)
ふと気が付くと、箱をひっくりかえしたみたいに大量の疑問が襲いかかってきた──質問する主は自分だし、自分に問いかけている。だから順番にあわてず答えればいいだろうとは思うのだが、質問は一向にとどまろうとしない。
ここはどこだ──?
俺 は誰だ──?
痛むのはどこだ──?
息をしているのは、身体のどの部分だ──?
(くそっ......)
彼は、寝 返 りを打った。それだけの動作なのに、全身の力を振 り絞 らなければ動けない。左肩が痛むんだ、と彼は自覚した。負傷している。
(なにも思い出せない......いや?)
覚えていることもある。闇の中に現れた少女の姿──
なにかを恐れて卑 屈 になっているその眼 差 し──
彼は、目を開いた。暗い──が、光はある。うすぼんやりとした明かりは、どうやら彼の背後から射 してきているらしい。彼は横向きに、壁 に向かって寝ていた。壁は土壁で、彼が寝転んでいるのも地べたである。一瞬彼は、自分が洞 窟 かなにかに埋 められたのかと思った。が──
「目覚めたようだな、魔術士」
声......が、自分を呼んでいる。ぼんやりとした記 憶 の中に、その声の主の顔が浮かんだ。自分に向かって発 砲 したマクドガルとかいう男だ。教祖とか名乗っていた。
彼は、また逆方向に寝返りを打った。
最初に視界に入ったのは、靴 だった──マクドガルとかいう男の銃が、寝転ぶ彼の目の前にある。その汚 れた登山靴の向こうには、またもう一組の靴がある。どうやら連れがいるらしい。靴のさらに向こうには、鉄 格 子 が見えた──そして、うっすらと光の射す、曲がった階段。
それでだいたい、自分の置かれている状 況 が分かった。地 下 牢 に閉じ込められているのだ。鉄格子の扉 はわずかに開いて、その前に、マクドガルと、もうひとりの男がいる。ちらりと見上げて、その連れが、例の、自分にナイフを投げ付けた男だと分かった。帯剣しているのは相変わらずで、例のナイフも隠 しているだろう──彼の左肩の傷には、もうナイフは刺 さっていない。血を含 んだ服が皮 膚 に張り付いて包 帯 の役目を果たしてくれていたようだが、それがなかったら失血死していたかもしれない。
(立てるか?)
彼は、自問した。多分、立てるだろう。が、今はそんな体力が残っていることは隠しておいたほうがいい。
マクドガルが、冷 淡 な目でこちらを見下ろしながら、口を開いた。
「名前を聞いておこうか、魔術士」
「............」
彼は、なにも答えなかった──というより、答えられなかった。
(名前?)
思い出せない──頭が混乱して、なにひとつ。夢を見ていたんだ──
と、なにも言えずにいると、やがてマクドガルが嘆 息 した。
「だんまりか」
「そりゃ、進んで答えたくはないでしょうねえ」
顔の通り、にやけた返事をしたのは、剣を下げた男である。昨夜と同じ、ひどく乱雑なふうにレンジャージャケットを着ている。マクドガルが、そちらに聞いた。
「どういう意味だ? サルア」
どうやら、レンジャージャケットの男の名前らしい──サルア、と彼は胸に刻 み付けた。
サルアとやらは、軽く肩をすくめて答えた。
「この男は《牙 の塔 》の紋 章 をつけています。黒魔術の最エリートですよ。それが無 様 に捕 らわれたとあっちゃ、そりゃ名乗れんでしょう」
「ふん......しょせん魔術士だ」
マクドガルは、鼻で笑った。が──
(──《牙の塔》......)
その単語には、彼も胸に響 くものがあった──そう。彼は人生のほとんどをそこで過ごしたのだ。
と──マクドガルが続ける。
「多少痛め付ければ、しゃべらんではいられんさ」
「拷 問 ですか? 魔術士に? 耐 拷問の訓練も受けている連中ですよ」
サルアが言いながら、かぶりを振る。じろりと、マクドガルがにらみやった。
「誰 がボスか、忘れたのではあるまいな?」
「まさか」
へっへっと笑いながら、サルア。
「あなたが心臓ですよ、この村のね──」
それを聞いて、マクドガルは満足したらしかった。うなずいて、こちらを向く。
「聞きたいのは、名前だけではないぞ、魔術士──お前を出 迎 えにいった村人は、どうなった? お前が殺したのか?」
殺す? その単語は馬 鹿 馬 鹿 しい。彼は思わず微 苦 笑 をもらした。
──が、それは、マクドガルの気には召 さなかったらしい。ほんの一 瞬 で、マクドガルの顔面がこわばるのが見えた。
「なにがおかしいっ!」
同時に、教祖の靴が、彼の顔面を打つ。
反撃しようと思えば、いくらでもできた──それこそ、足首を取って靱 帯 をねじ切ることだってできただろう。倒れた教祖の眼 窩 をかかとの角で踏 み砕 き、眼球ごと脳を破 壊 する。わざわざそんなことをしなくても、一言叫 べば済むことだ──魔術の一撃で、この教祖はおろか、後ろに立っている男もこの世から抹 消 できる。
彼が師から教わった技術でならば、それはできたはずだ。が──
彼は地面の上から、黙 ってマクドガルを見上げた。
マクドガルは、その沈黙を服従の意ととったらしい。静かな喜 悦 の光を双 眸 にたたえ、満足げな口調で言ってきた。
「わたしはマクドガル──そしてここは《偉 大 なる心臓》の聖地だ。世界の真理──心臓を探求する者たちの都 だ。お前たちまがいもの とは違う、真に強き力、本物の魔術を持つドラゴンに仕 える戦士たちの故 郷 だ」
「............」
彼はなにも言わない。サルアが、マクドガルの背後で肩をすくめるのが見えた。マクドガルは、ひとりで続けた。
「この場でお前を処 刑 するのはたやすい──が、それはしない。なぜ《牙の塔》の魔術士がこの村に現れたか、お前から聞き出さなければならない。お前の生徒も捕らえてある。どちらかが逃げ出せば、残ったほうを殺すぞ」
生徒?──思い出せない。が、そんなものもいたのかもしれない。
「今は休め──体力を回復させたら、それを後 悔 させてやる。麻 酔 なしで歯を抜かれたことがあるか?」
どうやら、それが捨てぜりふであるらしかった。勝ち誇 った笑みを浮かべ、マクドガルはこちらに背を向けた。
マクドガルとサルアは出ていく。もうなにも言い残していかない。がちゃり、と扉 に鍵 がかかる。
彼は魔術で肩の創 傷 を癒 し、再びそのまま眠りについた。小一時間ほど経 ち、眠りから覚めたときには、もう記憶は回復していた。
◆◇◆◇◆
「......なんでこんな部屋でひとりで暮 らしてんの?」
その問いかけは、彼女を苦しめたようだった──窓から外を眺 めていたフィエナの横顔に、小さな感情の皺 が寄るのが見える。それそのものは一瞬で消えたが、その印 象 は、しばらく記憶に残りそうだった。
(今の彼女は巫 女 じゃない)
と、マジクは思った。
その彼女が、こちらを向く。着ているのはただの部 屋 着 、白っぽい麻 の上下である。彼女は、どこか恥 じるように、
「わたしは、あまり人前に姿を見せてはいけないの......ぼろが出るといけないから」
「ぼろ?」
マジクが聞き返すと、フィエナは笑った──自 嘲 するように。
「わたしは、道具なのよ──この村の人たちをまとめるための。大事な儀 式 にだけ顔を出して、決められたとおりのことを言って、それで......奇 跡 を起こすの」
「奇跡......ぼくのケガを癒 したみたいな?」
フィエナは答えなかった。そのまま、なにかを探すように部屋の中を見回す。
マジクもつられて、あたりを見回した──村の中心に建っている、教団の塔 の最上階に、唯 一 ある部屋。地上十メートルの高さにあるだけあって、さほど広くはない。せいぜい、数歩で端 から端までたどり着ける程度だ。塔そのものが木造のため、部屋の壁 もすべてむき出しの板になっている。部屋の中には、集会場に声を伝える伝声管の据 えられた台と、小さな丸テーブルに、たった一個の椅 子 、そして今マジクが横になっている簡 素 なベッドがあるだけだった。
マジク自身は、女物の寝 間 着 を着せられて、ベッドの上で身動きとれずにいる──寝間着の下は、胴 体 に包帯を巻いてあった。マクドガルに撃 たれた傷は、なぜか痛まないものの、まだふさがってはいない。彼女の話では、もう立って歩くくらいのことはできるだろうが、あまり無理はしないほうがいいとのことだった。
彼女が探していたものは、テーブルの上にあったらしい──彼女は木の丸テーブルに歩いていくと、その上に置いてある水差しとコップを取り上げた。コップの中に水を注 ぎながら、口を開く。
「傷は痛まない?」
「え? うん......全然。身体を動かそうとすると、なんか筋肉が突っ張る感じだけど」
「まだ皮 膚 がつながってないからだと思うわ。お医者じゃないから、よく分からないけど。でも、やっぱり魔術士って身体が丈 夫 なのね」
「そうかな。まあ、お師 様 はむやみに頑 丈 だけどね......」
と言いかけて、ふと、その弟 子 である自分も、いずれあの人のようになるのだろうかと思いついてしまう──良いところも、悪いところも。マジクは身 震 いしてから、その危 惧 を忘 れることにした。
「にしても、なんでぼく、こんなの着てるの?」
と、自分が着ている、だぶだぶのネグリジェのようなものを示す。コップの縁 に口をつけながら、フィエナが、ようやくおもしろそうに笑うのが見えた。
「だって、あなたが女の子だってことにしておかないと、わたしの部屋で世話なんかできないじゃない」
「うう......まあ、そーいやそーだけど」
つぶやくように言いながら、マジクは胸中でうめいた。
(こんな格 好 、お師様に見られたら、どんなことになるやら......ましてや、クリーオウなら──)
そこまで考えて、蒼 白 になる。考えたくもない。
「それはそうと、この寝間着さ、誰のものなのかな」
マジクが聞くと、フィエナはあっさりと、
「食堂のラーザおばさんの」
「......まあ、世の中そんなもんだよな」
なんとなく悟 った声で、口の中でマジクはつぶやいた。
と──
ばたんっ!
唐 突 に扉 が開く。扉を開けたのは、厳 しい顔をしたマクドガルだった。取り巻きも、サルアとかいう用心棒も連れていない。ひとりである。彼を見て、フィエナがびくりと身をすくませるのが見えた。
マクドガルが現れたのも唐突なら、口を開くのも唐突だった。ちらとこちらを見やってから、魔術士などまるっきり一 顧 だにしないという態度で、
「まだ準備をしていないのか、フィエナ」
「なにを......ですか?」
フィエナが、いつの間にか"巫 女 "の顔になっている──マジクは、ふと気づいた。これは、彼女の防御態勢なのだ。
マクドガルが、いらだたしげにほおを上げる。
「言っておいたはずだ──出 立 は近いとな」
「......はい」
フィエナがうなずく。マクドガルは、辛 抱 強 く息をつきながら、
「昨日 も言ったはずだ、お前には。一昨日 もだ」
「わたしは──......です」
つぶやいた彼女のせりふは、マジクにはほとんど聞き取れなかった。だが、マクドガルには聞こえたのか──あるいは、最初から予想していたのか、眼 差 しに理解の色を浮かべている。

だがそれでも、マクドガルは聞き返してきた。
「なんと言った?」
「わた......しは......」
フィエナはうつむいて、繰 り返す。どちらにせよ聞こえないが。彼女の巫女の顔が壊 れていくのを、マジクはなんとなく不安になりながら見つめていた。
マクドガルが、部屋に一歩踏 み入れる。
「半年前、森の中で迷っていたお前を保護してやったのは、わたしなのだぞ」
「わたしは......迷ってなんかいませんでした」
うつむいて、半歩ほど後ろに退 がりながら、彼女。マクドガルの片 眉 が、器用にぴくんと引きつった。
「迷っていなかった? では、なにをしていたというのだ?」
「探していたんです......」
「......なにをだ」
フィエナは、震える声を出した。
「あ......あなたを」
それを聞いてマクドガルは訝 るように眉をひそめたが──やがて思いついたように言った。
「ならば導きだ。違 うか?」
「............」
フィエナは答えない。マクドガルが、また一歩進む。
「この計画にはお前の存在が不可欠だ。そもそも......お前が現れなければ、この偉 大 な展望は開けなかったのだからな。それは感謝している。感謝には──」
と、肩をすくめる。
「感謝には、応 えるべきだ。そうだろう? フィエナ。お前には、その力があるのだからな」
「力......なんて......」
フィエナがまた、口ごもる。マクドガルが、覆 いかぶさるように続けた。
「まさしく、力だよ──そうだろう? フィエナ。お前は、ドラゴンの魔術を扱 うのだからな」
(......な──?)
突 拍 子 もないその一言に、マジクは、一瞬頭の中を真っ白にした。
その間にも、マクドガルは続ける。腕組みして、
「その力で《森》の心臓を捜 し当てるのだ。お前にしかできないことなんだぞ、フィエナ」
「わたしは......──」
と、フィエナがまた聞き取れないせりふを繰 り返す。彼女が胸元で握 っている手を、がっ、とマクドガルが乱暴につかみ上げた。
「聞き分けのないことを言うんじゃない。お前の我 がままはいくらでも聞いてやったろうが──この薄 汚 ない魔術使いもお前にくれてやった」
マクドガルがこちらを示す。さすがにムッときたが、マジクはまだ身体が動かなかった。
教祖は続ける。
「空気を吸いたいというから、窓も開けさせてやった──土を踏 みたいというから、三日に一度《森》を散歩することも許 可 してやった! だが、お前はわたしに協力しないというのだな!? お前は恩知らずの捨 て猫 だ──」
「いいかげんに──」
マジクはそこまで声を出してから、息を吸いなおした。
「しろっ!」
その声を呪 文 にして、魔力を解放する。とたん、マクドガルの身体が一瞬だけ宙に浮き、部屋の向こうへと突 き飛ばされた。フィエナから引きはがされて、丸テーブルに激 突 するマクドガルをにらみ据 えながら、マジクはベッドから起き上がった。まだ負傷した部分に違 和 感 があるため、ゆっくりとしか動けないが、なんとか立ち上がってフィエナとマクドガルの間に割ってはいる。
「この魔術士──」
マクドガルが、毒づいた。厳しい形 相 をさらに歪 めて、どす黒くしている。正直、こういう手合いと向き合いたくはなかったが、この際引き下がるつもりはなかった。
「マジク!? 」
背後から、彼女の声。マジクは、大 丈 夫 だとうなずきながら、
「もう拳 銃 なんかにはやられないさ。お前が抜いて狙 いをつけるより、ぼくが呪文を唱 えるほうが早い」
魔術が成功すればの話だけど、と胸中で付け加える。かなり深刻な問題ではあったが。
マクドガルは、にやりとして、自分の懐 に左手をやった。
「ほう──こいつのことを知っているのか」
「お師 様 に習った。そいつは、王室令で製造も所持も禁止されてるはずだろ? なんでお前なんかが持ってるんだ」
「わたしは──」
マクドガルが、立ち上がる。
「わたしは、手に入れたいものを手に入れる。手に入れるべきものが、手に入るのさ──女神に迎 え入れられる運命なのだから」
(女神......?)
マジクは訝 った。
「運命の三女神 の信 仰 なら、キムラック教会のはずだろう?」
「わたしの女神は、そのようなものではない──わたしに力を与 えてくれる女神さ。いい気になるな、魔術士」
マクドガルの手が、じりじりと懐の拳銃へと近づいていく。
「貴様の魔術など、はるかに及びもつかない強い力を、わたしは得るのだ。《森》の......心臓でな」
「......くっ......」
意味もなく、マジクはうめいた。マクドガルの手は、ついに上着の中へともぐりこんでいる。右 脇 に吊 ったホルスターには、拳銃があるはずだ。
(もし、奴 が本当に抜いたら──)
冷や汗を浮かべつつ、覚 悟 を決める。
(ぼくはあいつを殺さなければならない。じゃないと、殺される──)
それはあまりにも現実離れした想像ではあった。自分が人を殺すなど、夢の中でも考えたことがない。実のところ、現実に可能だとも思わなかった。
(お師様なら、こんなときどうするんだ──?)
マクドガルは、続ける。双 眸 に煮 えたぎるようなものを浮かべつつ、
「必要な武器は、手に入れてきたのだ──この拳銃も、用心棒も、そして、そのフィエナもだ!」
「彼女は、お前のものなんかじゃない!」
マジクは反射的に叫んで、右手を振 り上げた。同時に、思ったよりも数段素早い挙動で、マクドガルも拳銃を抜く。
「我は放つ──」
叫びつつ、マジクは愕 然 とした。放出した魔力が、思うように編 み上がってくれない。
(失敗した!)
マクドガルの銃口が、はっきりと、こちらの眉 間 を指している。黒い銃口の奥の鉛 弾 が見えるような気がした。
(やられる──!)
が──
マクドガルの左手は、こちらに狙 いをつけたまま、ぴくりともしなくなっていた。冷ややかな顔付きで、マクドガルがつぶやく。
「お前の仕 業 だな......フィエナ」
「......はい」
マジクの背後で、フィエナが肯 定 した。マクドガルがいらだたしげに言う。
「魔術を解 け......腕が動かない」
「マジクを殺すつもりがなくなれば、動けるようになります。そういうふうに暗示をかけました」
(精神......支配?)
マジクはびっくりした眼 差 しで、肩越しに彼女を見やった。心を支配するのは白魔術の技 だと、師、オーフェンは言っていた。だがそれにしても、フィエナは呪文の声を発していない。
(人間の魔術じゃない)
愕 然 としている間に、すっ......と、マクドガルの腕が下がる。彼は吐 き捨てるように息をもらし、ホルスターに拳銃を収 めると、
「明 後 日 に......出発する。それまでに準備を済 ませろ」
そのせりふに、フィエナが、はっと息を飲む。マジクはなにも分からないながら、背 筋 に悪 寒 が走るのを覚えた。
「待って──」
彼女が、声をあげる。が、マクドガルは無視して部屋を出ていった。ばたん、と冷たい扉の音が、すべてを遮 る。
沈 黙 の部屋に残されて、マジクはぺたんと床 にひざをついた。体力が尽 きて、汗が噴 き出てくる。声をあげて手をかけてくるフィエナを見上げて、マジクは聞いてみた。
「計画って?」
「............」
彼女は答えない。まあ仕方ないかと思いつつ、彼は、なんとか立ち上がった。
「ぼくの服はどこかな......ここに来るとき、着てたやつ」
「......! 村を出ていくの?」
フィエナが、不安そうな目を見せる。
「まさか」
なにが『まさか』なのだかは分からなかったが、マジクはなんとなくそう答えた。
「少なくとも、今はまだだよ。でも、あのマクドガルって奴 は危険だ。こっちも、いつでも行動を起こせるようにしておかないと」
「行動?」
不思議そうに、彼女。マジクは、思わず呆 れたような声をあげた。
「決まってるだろ!? 逃 げるんだよ、こんなとこからは。フィエナだって、あの男にいじめられてたみたいじゃないか」
「でも──」
「でも、じゃないよ。とにかくこの村を出て、《森》の外まで逃げるんだ。お師様だってこっちを探してるはずだから、なんとか合流すれば、あんなマクドガルなんて、お師様がどうにでもしてくれるさ。頼 めば、ミンチにだってしてくれる」
「あの......」
「ああ、ごめん。今の冗 談 。でもお師様がなんとかしてくれるってのはホント──」
「そうじゃなくて、その、言いそびれてたんだげど」
「......ん?」
フィエナが、申し訳なさそうな声で続ける。
「その人も、もう捕 まっちゃったのよ」
◆◇◆◇◆
「なにを考えてるんですかぁぁぁっ!」
「......叫 ぶな。頭が割れる」
地 下 牢 の、地べたの床 に寝っ転がって、オーフェンはうめいた。頭の中に蜂 の巣 を埋 め込まれたみたいに、わんわんと響 く騒 音 が耳の中から離 れない。二 日 酔 いのときのように身体に力が入らないし、動かす気にもなれない。左肩のナイフの傷はもう跡 も残っていないが、むしろ普 通 の傷の痛みでもないと、そのまま気絶しそうな気分だった。
苦痛は、記 憶 がもどってからやってきた。まるで苦痛のことまで忘れていて、記憶といっしょに思い出したような感じだ、と皮 肉 げにオーフェンは考えた。
牢の前にはさっきまで見張り役の村人がふたり立っていたのだが、マジクといっしょにやってきたフィエナとかいう娘 の一言で、席を外している。マジクが簡単に説明したところでは、彼女はこの村の巫 女 のような存在らしい。
そして、先刻の夢(?)の中に出てきた少女でもある。
「人がせっかく頼 りにしてるのに、あっさり捕まって、しかもなんなんですか身動きできないって!」
牢の鉄 格 子 にかじりつくようにして、マジクが叫ぶ。弟 子 のシャツの脇腹のところに、人差し指の太さほどの穴と、漂白剤で落とそうとした血の染 みがついているのが気になったが、とりあえずオーフェンは別のことを言った。
「......生きてるだけでもほめて欲しいよ。ディープ・ドラゴンに精神攻 撃 を食らったんだ」
と、ドラゴンという単語を聞いた瞬 間 、フィエナが身体を一瞬すくませるのが見えた気がした──が、ただの幻 覚 だったかもしれない。そちらのほうが、むしろ可能性は高いかもしれなかった。マジクが続ける。
「生きてるだけでほめてもらおうなんて、虫が良すぎます! 人間はやっぱり、成果を残してこそ──」
「あー、うるせえな。ったく。ならてめえは、なにやってたってんだよ。一番最初に、あっさり捕まったのはお前だろ。俺はそれを助けにきたんじゃねえか」
「そーゆうことを言いますか?」
マジクは、いつになく強気な様子で、フフンと鼻息を吹 いてみせた。
「聞いて驚 いてくださいよ──ぼくはなんと、この二十四時間以内に、三回の窮 地 を魔術を使って切り抜けたんですからね」
「あのぅ......」
と、マジクの後ろから、フィエナがくいくいと袖 を引く。マジクはそちらをちらりと見て、ちょっと考え込んでから、
「ええと......まあ確かに、三回目に関しては、彼女にちょっとだけ手助けしてもらいましたけど、でも──」
(......こんガキャ、女の前だと思って調子に乗ってやがんな)
オーフェンは胸中で陰 険 なつぶやきを発した──その三回の窮地とやらの中に、一匹でもディープ・ドラゴンなんて化け物がいたとしたら、ほめてやるさ、くそ。
が、マジクはなおもしつこく続けてくる。
「これはもう、お師様もぼくを一人前と認めざるを得ませんよね。しかも、まったくの無傷ですよ!」
「あのぅ......」
「あ、いや、確かにちょっと手傷は負いましたけど、でも無事です。おや、お師様、元気なさそうですね?」
「てめえ、回復したら覚えてろよ......」
脅 しの声に、マジクの表情が少しだけ躊 躇 するように引きつったが、とりあえず目先の楽しみのほうを優先することにしたようだ。やや及び腰になりながらも、続ける。
「こうなったら仕方ないですから......どうです? 一人前のぼくがお師様を助けてあげましょうか」
「あと一言でも言ってみろ。こっちにもそれなりの報復手段があるぞ」
「どんなです? 今のお師様になら、ぼくだって勝てます」
「クリーオウにマッサージさせちゃる」
「......それが報復なんですか?」
「やられてみりゃ分かる。だいたいな、お前、身動きできない俺を相手にふんぞりかえるなんざ、どう考えてもフェアとは言えねえぞ」
「そりゃそうですけど......でもお師様、精神攻撃って、なんです?」
「そのまんまだよ」
オーフェンは土 壁 の天 井 を見上げながら、苦々しくつぶやいた。
「一発にらまれただけで人格が消し飛んだ──それでも俺は《塔 》で精神制御の訓練を徹 底 して受けさせられていたから、まだこの程度で済んだんだ。普 通 の魔術士なら、お前、廃 人 になるだけじゃなくて、へたすりゃ肉体そのものまで分解されて塵 になってるぞ」
「はあ......でも、精神攻撃で、なんで身体が分解されるんです」
「なんで身体が分解されないと思うんだよ」
オーフェンが聞き返すと、マジクは困ったような顔を見せた。
「だ、だって──精神でしょう?」
「じゃあ、その精神とやらが一体なんなのか 、お前に分かるか?」
「............」
マジクは腕組みして、しばし天井を見上げた。
「分かんないですけど」
「それみろ。要するに、俺たち魔術士の間で『精神』つったら、二種類の意味がある──ひとつは、精神制御 みたいな、記憶や神経の情報のこと、もうひとつは──こっちが本義なんだが──物理的に存在しないものの総 称 だ」
「はあ......」
分かったような分からないような生 返 事 を、マジクが返す。オーフェンは痛む頭を抱 えながら、上半身を起き上がらせた。
「魂 とか、予言とか、心の声とか、時間とか──そんなようなもんだよ。人間じゃ、白魔術士が操 る領域だ。俺たち黒魔術士が用いる『力』──つまりエネルギーと物質と意味情報のみっつだが、これとは領域が異なる。ただ、力で脅 し付けて人間を心変わりさせることができるように、白魔術の領域から物理現象を起こすこともできるんだ──ディープ・ドラゴンはな。人間の白魔術士には、そこまでの力はねえけど。精神攻撃ってのは、生き物に対しては極 端 に効力がある。だから、その暗黒魔術に長 けたディープ・ドラゴンには逆らえねえのさ」
「......そんなに危険なんですか? ディープ・ドラゴンって」
「あのなぁ──いいや。俺の今の姿を見て、勝手に判断しろよ......」
と、オーフェンはマジクの後ろに立つ少女に顔を向けた。たったそれだけの動作で、脳 髄 に痛みが走る。
「フィエナ......だったっけ? 聞きたいことがあるんだが」
「は、はい」
少女は、どもった──どうもこちらを直視できないようで、斜 め下あたりに視線をはわせている。彼女が、こちらの心に語りかける術 を持っているのは知っているが──もしあれが本当に彼女の仕 業 だとしたら、あれは人間に使えるような魔術ではない。
「この地 下 牢 があるのは、あの塔だよな、村の真ん中の。なら、この隣 にでっかい建物があったと思ったんだが、あれはなんの施 設 なんだ?」
「あれは......」
と、黙 り込む。語るのを禁じられているのか──なんにしろ、知らないというわけではなさそうだったが、しつこく尋 問 するような気力は、まだ回復していなかった。
オーフェンは別のことを聞いた。
「なら......ドラゴンだ。昨日、ディープ・ドラゴンが村の真ん中に現れたが、ありゃなんなんだ?」
「なんなんだ、というと......?」
目を伏 せて、彼女が聞き返してくる。オーフェンは嘆 息 した。
「ディープ・ドラゴンは《森》の守護者だ──少なくとも、伝説ではな。《森》に立ち入った人間をたちまち討 ち滅 ぼす。なのに、村の真ん中で、あのドラゴンは誰 ひとり攻撃をしなかった──俺を除 いて、だけどな。まさか、本当にこの村の守護神だってんじゃねえだろな」
「............」
「しゃべりたくないのなら、いい。これで最後だ、なんでこの村の教祖──マクドガルとかいう名前だったか?──は、俺たちを拉 致 したんだ? 単に《森》に入ってきたからって、片 っ端 から旅人を捕まえるわけじゃないんだろ?」
「それは......あなたたちが、魔術士だからです。情報があったので......最近村に迷い込んできた地人が、自分たちは魔術士に追われている。もう近くに来ているはずだって、マクドガルに。マクドガルは魔術士が嫌 いなんですよ」
「......あんの福ダヌキども......いちいち人を災 難 に......痛てっ」
それだけ聞けば、知りたいことはもうおおむねなかった。というか──どうしても知りたいことに関しては、このフィエナはなにも話してくれないような気がする。おまけに、話していたら頭痛もひどくなってきた。
(自分で調べるしかねえか......なんにしろ、動けるようになるまで待たなけりゃなんねえが......)
なんでこんな《森》の中にドラゴン信 仰 の村があるのか──
あのディープ・ドラゴンは、なんなのか──
マジクの話に出てきた、マクドガルの使った拳 銃 、フィエナの魔術(?)、そして、計画──
そしてこれはおまけだが、ボルカンのくそダヌキども、どうやって血祭りにあげてくれようか──
どの疑問に関しても、ある程度類 推 することはできる。
だがあえて答えは出さずに、オーフェンはつぶやいた。
「フィエナ」
「は......い?」
不意をつかれたように、彼女が顔を上げた。オーフェンは短くつぶやいた。
「癒 してくれてありがとうよ。命の恩人ってことになるんだろうな」
「そんな......」
「癒したって、お師様を?」
マジクが、彼女に横から聞いている。オーフェンは、彼女がマジクにのたのた説明してやるのを待つつもりはなかった。無視して、続ける。
「あのときはよく分からなかったが、今なら分かる──俺はいったん、精神的には滅びた んだ──人間の力では、それを癒すことなどできない。それは、君も知ってるんだろう?」
「......はい」
うなだれるように、フィエナがうなずく。オーフェンは睡 魔 と戦いながら口を開いた。
「だが君は癒した」
「............」
彼女は、答えなかった。腹の前あたりで弱々しく手を組み合わせて、こちらを見ている。いや──見ているのは、こちらの寝ている地面の、ほんの少し手前だ。あまり人を凝 視 したくないらしい。
「ひとつだけ、質問させてくれ──答えなくてもいいが、目をこちらに向けて欲しい。勝手にこっちで読み取る」
「お師様、そんな尋 問 みたいなこと──」
が、マジクの抗議を遮 ったのは、オーフェンではなく、フィエナだった。彼女は、すっと視線をこちらに伸 ばすと、
「答えられます。答え......られる......ものは」
だんだんと尻 すぼみになっていく。恐らく、答えられないことのほうが圧倒的に多いのだろうなと思いながら、オーフェンは聞いた。
「なら答えてくれ。そんな力を持っていながら、いったいなにを恐れる必要があるんだ?」
「............」
フィエナは答えなかった。そしてその巫 女 のような無表情からも、なにも読み取ることはできなかった。
夜はほどなく訪 れた。闇 の中では、この塔 の階段はひどく上りづらい──手抜き工事もいいところだ、と彼は胸中で毒づいた。もっとも──なにが望めたものか? こんな辺境の、しかも秘 境 の奥地の隠 れ里 だ。この村を造った当時、村にはまともな設計士がひとりしかいなかった。マクドガルがアレンハタムから連れてきた設計士──その男の設計で、村の施 設 はすべて造られた。この教団の塔も、そして──その隣 の工房もだ。
それにしても、上りづらい階段だ。ハシゴに板を渡したのと、たいして変わらないほどの急 勾 配 である。例の設計士の頭では、どうやら螺 旋 階段というものが発想できなかったらしい。
(まあ、俺 の故 郷 とは違 う、ということさ)
暗闇の中で、階段の縁 にごつんとすねをぶつけて、サルアはにやりとした。うっすらと髭 のある顎 が、皮 肉 げな輪 郭 に歪 んでいる。腰に下げている剣が、がちゃりと音を立てた。
(もっとも、故郷を離 れたからこそ......楽しいコトもあるってもんだがな)
階段を上りきると、塔には部屋はひとつしかない。教祖のマクドガル以外は立ち入り禁止の──巫 女 の部屋。部屋の鍵 はマクドガルが肌 身 離さずに持っているし、フィエナもマクドガルの声がかからなければ、内側から鍵を開けたりはしないことになっている。
が、サルアは無 造 作 に扉 をノックした。押 さえた声で、
「俺だ──サルアだ」
ややしてから、扉が開く。扉を開けたのは、寝 間 着 の上にガウンをかけたフィエナだった。彼女はつぶやくように、
「こんな時間に......どうしたんですか?」
「悪いが、今日は話相手になってやりに来たわけじゃねえ──証 拠 に酒 瓶 も持ってねえだろ。にしても、こんな時間といやあ、お前さんもよく起きてたな。鍵をこじあけなけりゃならんかと思ってたが。あの坊ちゃんとイイコトでも──」
と言いながら部屋をのぞいて、サルアは口ごもった。簡素な部屋の中をきょときょとと見回しながら、
「あのガキはどこだ? マクドガルの御 大 の脳天に蛇 を落とした、傑 作 のガキ」
「マジクは......地 下 牢 に行ってます。マクドガルは魔術士を嫌 っているから、動けないままの先生をひとりにするのは危ないって」
「ふん......まあ、妥 当 な判断だな。マクドガルの御大も、あの拷 問 趣 味 だけはなんとかしてもらいてえもんだが......地下牢だな?」
と、サルアはさっさときびすを返して部屋を出ようとした。と──後ろから、フィエナが声をあげる。
「あの──」
「......ん?」
サルアは、肩越しに振 り向いた。フィエナはまつげをぱちくりとさせてから、怯 えた声で続けた。
「こんな夜中まで起きていたのは、理由があるんです。眠れなくて......」
「......例の計画のことか?」
サルアがなにげなく口にすると、フィエナはびくっとしたように顔を上げた。
「! なんで......あなたが知っているんです? マクドガルはまだ──」
「言ってない。俺が勝手に調べたんだよ。計画の実行は明 後 日 、マクドガルも、御大の取り巻きも、この村を離れる──お前さんもだがな。村に残るのは女子供の、非戦闘員だけ。こんな機会は滅 多 にねえからな。利用させてもらうさ」
「あなたは......」
何者なんですか、と聞きたいのだろうが、フィエナは語 尾 を続けられないようだった。
だったら答えてやる義務もない──サルアは微 苦 笑 をもらした。
「どのみち、マクドガル──偉 大 なる御大の『計画』なんぞ、うまくいくわけがねえんだ──そいつは、お前さんもよく知ってるんだろ?」
「......はい」
「なら、お前さんと世間話すんのもこれで最後ってわけだな──マクドガルもお前さんも、明後日には皆 殺 しだ」
「...............はい」
長い沈 黙 の後に、少女はうなだれるようにうなずいた。暗がりの中でよく分からないが、肌 も蒼 白 になっている──怯 えきっているのか、それともあきらめているのかだ。サルアは、チッと舌打ちした。
「ったく──『はい』ときたもんだ。半年前に、この村に迷い込んできたときからそうだったな。ンなこったから、御大なんぞにいいように利用されちまうんだ──見てらんねえから、話相手になってやってりゃ、ちったあマシになるかと思えば、そのまんまだしよ。俺だって当日は、いったんは御大にくっついていって、途 中 で抜け出すつもりなんだから、お前さんもいっしょに連れ出すくらいは簡単なんだよ。死にたくないから助けてくださいくらいのずうずうしいコトは言えねえのか?」
「......死にたく、ないんです......恐 い......」
サルアとしては、別に怒ったつもりはなかったのだが、いらだちの口 調 はどうやらフィエナを怯 えさせてしまったようだった──彼女は押 し殺すように震 え声をもらすと、そのまま目を閉じて、しゃくり上げはじめた。
はぁあ、と聞こえよがしに、サルアは嘆 息 した。
「まるで俺がいじめてるみてえじゃねえか......くそ、この際だから全部言っちまうぞ。あのよ、危険から護 って欲しいなら、いくらでも護ってやるよ。そのくらいは無 料 でいいさ。幸せになりたいってんなら、それなりの代 償 を払 えば──つまり、化 粧 したり媚 び売ったり、なんやかやすれば、だまされやすい男はいくらでもいるんだ。だがよ、泣いてんのは、自力で泣きやまなけりゃ、どうしようもねえからな」
言ってから、彼はまた嘆息した。説教するのは嫌 いなのだ。
(くそ──それが嫌 だから、こんな辺 鄙 な村に取り入るような任務でも、我 慢 してやってるんじゃねえか。説法の免 許 なんて取るんじゃなかった)
そんなものを持っているから、ついつい口から出てしまう。
サルアは肩をすくめると、完全に彼女に背を向けた。フィエナは聞いていたのかいなかったのか、まだしゃくり上げている。
「じゃあな。助けてはやるから、当日になっても泣いてるんじゃねえぞ」
後ろに向かってそう言いながら、サルアはまた下りづらい階段に足をかけた。
階段を下りていき──やがて──
《まだなのだな?》
頭の上から、声がしたような気がして、彼は階上に振 り返った。フィエナが、誰 もいないはずの自分の部屋に向き直って、返事をしている。泣き止 んで、巫 女 の顔で。
「はい......」
(............?)
サルアは暗 闇 でひとり、変な顔をした。さっきの声は、確かにフィエナの部屋の中から聞こえたような気がしたが──
(気のせい──か? いや──)
それ以上は考えないことにして、彼は速足になって階段を下りていった。
「ひいいいいいいいいいいっ!」
悲鳴を聞いてサルアは、ぴたりと足を止めた。教団の塔 の、地下へと続く階段の入口である。
あの魔術士の拷 問 が始まったのだろうか──と一瞬サルアは思ったが、本格的な拷問が始まっているなら、あんな力いっぱいの悲鳴など、普 通 はあげられない。責められて衰 弱 した人間は、ほとんど声すら出せないものだ。
「うひいいいいいいいいいいいいいっ!」
また、悲鳴。いつもなら地 下 牢 の入口にいるはずの見張りも今夜はいない──教祖の取り巻きたちはすべて、例の『計画』の打ち合わせに、マクドガルのところにいるはずだ。この機会をまっていたのだ──サルア自身は、とりあえず腹をくだして寝込んでいることになっている。
「さて......」
かちゃり、と剣の柄 に指で触 れる。傷を負っているとはいえ、相手は魔術士である。なにかの拍 子 に、向こうが飛びかかってくるようなことがあれば、油断はできない。
サルアは階段を下りはじめた。
塔の地下は土 肌 むきだしだが、いちおう手で触れるようなところは薬品で固めてある。そのため階段の中は、奇 妙 な臭 いが充 満 していた。あまり息をしないようにしながら、彼はゆっくりと歩を進める。やがて、短い階段は終わりを告げた。
階段を下りるとすぐに、鉄 格 子 が待ち構えている。牢を目の前にして、サルアは、ぽかんと口を開けた。
「のおおおおおおおっ!」
また悲鳴。同時、すばしゅっ!──と、土壁に、鉄 棒 が突 き刺 さる。鉄棒は、どうやら格子の一部をもいで、先 端 を尖 らせたものらしい。それがすさまじいスピードで宙を飛び、壁に突き立ったのである──そしてその鉄棒が刺さったところから、数センチと離 れていないところに......地 人 の頭があった。
「おおっ! 耳っ! 耳にかすったぞ、コラ!」
泣きながら、地人──ボルカンが叫 ぶ。彼は、やはり格子を壊して作ったものらしい、かすがいの形に曲げられた鉄棒で、土壁に張り付けにされている。弟のドーチンのほうは、失神したみたいにその足元に転がっていた。表情からするに、恐 怖 で倒 れたようだった。
そして、地人たちとは反対側の壁に、頭痛でやつれたような表情で寝っ転がっている、黒魔術士──それが、のんきな声をあげた。
「ほおう......だんだんと狙 いがシャープになってるみたいだな」
「シ、シャープってコラ! まさか、本気で当てるつもりじゃねえんだろうな!」
蒼 白 になって、ボルカンが悲鳴じみた声をあげる。
(こいつら、なにやってやがんだ?)
サルアは頭をかきながら、そんなことを考えた──そういえば、この地人たちの情報で、この黒魔術士は捕 まったんだよな。なら、知り合いってのは分かるが。
と──地べたに横たわっている黒魔術士が、はっはっと気のない笑い声をあげる。
「馬 鹿 を言うなよ、ボルカン。本気だなんて──」
と、彼は口調をまったく変えずに、全然違うことを口にした。
「無論、是 が非 でも当てるつもりだ」
「おおおうっ!? 」
「もどれ」
そのつぶやきが、呪 文 なのだろう──先刻壁に突き立ったばかりの鉄棒が、手も触れていないのに、ふいっと抜ける。鉄棒はそのまま宙を真っすぐ移動して、黒魔術士の上までもどっていった。
どうやら、魔術で鉄棒を飛ばして地人を的 にするという意 趣 (?)らしいが、魔術士は地面に寝転んでいるから、狙 いはほとんど定まらないだろう。もちろんそれは、間違いで命中しかねないという可能性も含 んでいるわけだが。
「あのー......お師 様 あ」
いきなり、声。地人たちの悲鳴に気をとられて気づかなかったのだが、牢の隅 っこに、例の魔術士の見習い──マジクといったっけか──がちょこんと座っている。少年は冷や汗を垂 らして、内容のない笑みを浮かべていた。
そのマジクが続ける。
「一刻も早く体調を回復させなけりゃならないってときに、こーゆう力の無 駄 遣 いをするっていうのは......」
「そ、そのとーりっ! いいことを言うぞ少年っ! 魔術士、休め! お願い──」
「マジク──」
黒魔術士が、ひどく冷静な声をあげると、牢の中は静まり返った──騒 ぎ立てていたボルカンすら、ごくりと唾 を飲んで沈 黙 する。黒魔術士は、目を閉じ、嘆 息 混 じりに続けた。
「もうちょっとで当たりそうなんだ」
「............」
しばらく、マジクが虚 空 を見上げる。ややしてから、少年は口を開いた。
「じゃあ、当たったら終わりにしてくださいよ」
「こらこらこらあああっ!」

ボルカンが叫ぶ。
「ぢょっどお仕置きをずるだけっで言っだじゃないがああっ! 当てるつもりはないがらっで言っだじゃないがああっ!」
涙でべたべたに濡 れながら泣き叫ぶボルカンを、しばらくじっと見やってから、黒魔術士がぽつりとつぶやく。
「......涙でふやけたほうが、きっと矢が刺 さりやすいよな。もうちょっと見てよう」
「なかなか科学的ですね、お師様」
「慈 悲 とかねえのか、お前らはっ!」
泣きまねをやめて、ボルカンが怒 鳴 る。黒魔術士もまた、頭だけ起き上がらせると、怒鳴り声をあげた。
「なにが慈悲だ、この福ダヌキ! てめえがつまらん口すべらせたせいで、こちとらこのくそいまいましい地下牢で、豪 快 に二 日 酔 いじゃねえかっ! 金も返さんと、ロクでもねえことばっかりしやがって、こんなもんで俺の気が晴れると思ってんじゃねえぞっ!」
「なにがだ、金貸し! ケガしよーがなんだろーが気がつきゃ治ってるゴキブリ体質が、もったいぶって根に持ってるんじゃねえっ! ヘアマニキュアで染 め殺すぞ!」
「黙 れ極 楽 ダヌキ!」
「びっくり箱から飛び出し殺すぞ!」
不毛に続く罵 り合いを聞きながら、サルアは、とりあえず状 況 はおおむね分かったと判断した。それにしても......そろそろこっちに気づいてもらいたいものだが。
「なにやってんだ、お前ら......」
ぽつりと、口にする。今さら、はっと気づいたように、ボルカンがこちらを向いた。ぶわっと涙を飛び散らしながら、わめいてくる。
「ああっ! 兄 貴 助けてっ! 俺は全然悪くないのに──間 違 っても、ちょっと口を滑 らせて、この借金取りどもを頭のイカれた教祖に売り渡したりはしてないし、あまつさえ様子を見て身動きできないようならとどめを刺 ──もとい、心配して見 舞 いにきてやったってのに、こいつらときたら、ただの気晴らしで俺を殺そうと──」
一方、平然とした口調で、黒魔術士。
「......実は、その通りなんだ」
「気晴らしで殺すなああっ!」
「あなたは、確か......」
ふたりの口論は別に、じっとこちらを見て静かな声をあげたのは、例のマジクとかいう少年だった。もっとも、子供とはいっても、魔術を扱えるのは知っているから、油断はできないが。
牢 の鍵 は開いている──地人たちを牢に入れるのに、魔術で解 錠 したのだろう。
(便利な能力だ)
たまに、うらやましくなる──もっとも、こんなことを郷 里 の兄が聞いたら卒 倒 するだろうが。
サルアは、開けっ放しになっている牢の扉 をくぐり抜けた。
「俺はサルアだ──お前は、確かマジクとかいったな......あんたは?」
と、これは地面に転がったままの黒魔術士に。昼間、マクドガルに連れられて見に来たときよりもひどく衰 弱 しているようだったが、まあ......ドラゴンなどににらまれたのだから、当たり前といえば当たり前か。
黒魔術士は、憮 然 とした声で答えてきた。
「俺はオーフェンだ」
「へえ?」
サルアはにやりと返事しながら、黒魔術士──オーフェンの横にかがみこんだ。手を伸 ばし、魔術士の胸元にあるペンダントを裏返す。
「剣と、一本脚のドラゴンの紋 章 ──《牙 の塔 》のものだな。なるほど、確かにオーフェン と名前が書いてある」
ぴくり、とオーフェンの表情に動 揺 が走るのが見えた──無論、持ち主であるこの男が知らないわけはあるまい。紋章の裏側にはキリランシェロという名前が刻 み込んであった。
サルアは肩をすくめて、ペンダントをもとにもどした。別に、名前を偽 ったことを皮 肉 ったわけではない──偽 名 を使うのには、それなりの理由があるのだろうと思っただけのことだ。ならばその事情に従うのは貸しを作れることになるし、それに──なんにしろ、口に上らせるのも慎 重 にならざるを得ない。《牙の塔》のキリランシェロ、その名には。
(チャイルドマン教室の〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟キリランシェロ......)
人類史上、ありとあらゆる面で最強の力を持つ黒魔術士チャイルドマン──その後 継 者 と目 されていた、チャイルドマン教室七番目の生徒キリランシェロ。少なくとも大陸で第一級の実力を持った黒魔術士である。五年前に《塔》から失 踪 したとは聞いていたが、こんなところで地べたに寝ているとは思わなかった。
それだけ分かれば──
「ふむ......」
つぶやくと、サルアはレンジャージャケットのポケットのひとつから、小さな飛び出しナイフを取り出した。ぱちんと刃が飛び出し、サルアの手の中で踊 る。げ、とマジクが声をあげた。
「な、なにをするんですか!」
と、思いのほか素早く立ち上がって、こちらに飛びかかってくる──
(素 人 だ)
とサルアは思った。こちらが無 造 作 に振った手に殴 りつけられ、魔術士の弟 子 は壁 まで吹き飛ぶ。土壁にがつんと頭を打って、恨 めしげにこちらを見ながら、少年は動かなくなった。ボルカンが歓 声 をあげた──
「助けてくれるんですね!? 兄 貴 !」
サルアはナイフを閃 かせると、地面に倒れているオーフェンの喉 めがけて、ナイフを突き下ろした。もし本当に身動きができないのであれば、キリランシェロの伝説はここで終わる。それも良かろうと思いながら、サルアはナイフに手 応 えを感じた。
ナイフの刃は地面に刺 さっている。そこには、オーフェンはいなかった。
思わず笑みを浮かべながら、顔を上げる──オーフェンはすぐそばに立っていた。顔色は蒼 白 だが、目付きは鋭 い──こちらを切り裂 きそうなほどに。
「身動きできねえってのは......芝 居 か」
サルアがつぶやくと、オーフェンは事もなげに答えてきた。
「馬 鹿 こけ。本物さ──だが、それでも一日休んだからな」
「タフだねえ......」
サルアはにやりとして、地面からナイフを引き抜いた。そのまま一挙動──いや半挙動で、オーフェンに向かってナイフを投げ付ける。黒魔術士はあっけなく避けて、ナイフはそのまま背後の、ボルカンの頭に突き刺さった。
「ひああああっ!」
──という地人の悲鳴──それが、開始の合図になった。
相手に魔術を使わせるわけにはいかない──サルアは右手を抜き手にして、オーフェンの顔面を狙 った。無論これはただのフェイントで、本命は、それに次いで放った左のボディブロー──でもなく、死角から仕掛ける左足の足 払 いである。
だが、どれにしてもオーフェンは気づいていたらしい──抜き手は無視してこめかみをかすらせ、ボディブローは肘 でブロックしている。足払いにいたっては、足首の急所を思い切り踏 み抜 かれた。靴 に針金の骨格が仕込んでいなかったら、その場で悶 絶 していたかもしれない。
(やはり──キリランシェロ! 本物だ!)
サルアは胸中で歓 声 をあげた──身体中に、皮 膚 が弾 け飛ぶほどの快感が走る。
フェイントであれ、抜き手がオーフェンの顔をかすったのは好機だった。オーフェンは反射的に左目を閉じている。その死角から、サルアは抜き手をそのままひるがえし、ぱっとオーフェンの顔の左半分を手で押 さえた。そして逃 げられないようにしてから、左拳を相手の顔面に放つ──
その手がとどくよりも早く、オーフェンはまったく身じろぎすらせずに、こちらの身体を突き飛ばした──攻 撃 の手数を多くしていたこちらに対し、強 烈 な一 撃 のみで対処してきたわけだ。理 屈 では簡単なことだが、こちらの攻撃を無視してそれを実行できる技術を持っている者は、大陸でもそう多くはいないだろう──そんなことを考えながら、なす術 もなく後ろに転 倒 する。
が──
「へっへえ!」
サルアは、さっと跳 び起きた。一撃食らった下腹は、まだ痺 れるように痛んだが、そんなものはまったく気にならない。素 手 では勝てない、と反射的に思考して、サルアは腰の長剣の柄 に手をかけた。
(奴 が戦 闘 術 における大陸のエキスパートなら、俺はこいつ における大陸の帝王だ!)
剣を抜 けば、自分の正体はばれてしまうだろうが、そんなこともどうでもいい──
と、抜 刀 しかけた、そのとき──
ぐっと、鼻先が押しもどされるような圧力を感じて、サルアは手を止めた。オーフェンがすぐ目の前で、右手を掲 げている──こちらに向けて、ぴたりと。
黒魔術士が、押し殺した声で警告してくる。
「悪ふざけですむのは、剣を抜くまでだぜ」
魔術を使おうとしている。
「無 粋 なことをするねえ......」
サルアは言って、剣から手を放した。オーフェンも、すっと手を下ろす。
「どっちがだ。刃 物 なんぞ抜こうとしやがって」
「そいつはまあ、そうだが......素手じゃハンデがありすぎるだろ」
つぶやいて、サルアは牢 の中を見回した──ボルカンは額にナイフを受けて血まみれになって失神しているし、ドーチンも目を覚ましていない。うなされてはいるが。マジクも、いつの間にか脳 震 盪 で意識を失ったらしい。
「......おあつらえむきに、みんな寝ちまったようだな」
「お前があらかた眠らせたんだろうが──」
と、オーフェンがつぶやく。同時に魔術士は、上げていた右腕を下ろした。サルアは、そのまますっと後ろに跳んだ。表情から笑みを消し、静かで──冷たい、蛇 のような眼 差 しで魔術士を見やる。
もっとも彼の口から出てきたのは、先刻までとあまり大差ない、道 楽 者 の声音だった。
「あまり興 奮 するなよ──死の教師というのを知っているか?」
それを聞いてオーフェンも、サルアの変化を真 似 るように、すっと目を細めた。
彼がつぶやくように言う。
「キムラック教会は、直属の暗殺者たちを飼 っている......教会の意に沿 わない者を、速 やかに地上から抹 消 するために。彼らは死の教師と呼ばれている」
「死の教師サルア・ソリュード。暗殺者の分 際 で、実家のソリュード姓 なんぞ使うと、兄貴に殺されるかもしれんがね」
そのままサルアは、すらっと抜 刀 した。鞘 走 りの、かすかな音。が、暗 闇 にさらされた刀身は、なにもなかった──
「死の教師の、ガラスの剣か......」
オーフェンがつぶやいた。サルアの持っている剣は、柄 の先に刀身がついていない──いや、ついていないのではなく、見えないのだ。わずかにしか光を反射しない、特 殊 な硬 質 ガラスの剣。止まっていれば、まだしも刀身の輪 郭 くらいは見えるのだが、これを高速で振り回されれば、肉眼で捕 らえることは極めて困難である。大振りするだけならまだしも、小 技 も混ぜて扱えば、躱 されることはまずないと言っていい。キムラック教会の暗殺者の、象 徴 ともなっている剣──
からかうように、サルアは言った。
「もっとも、〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟──鋼 の後 継 キリランシェロとやり合うんなら、もっと派 手 な武器も欲しいところだがね......」
「............」
オーフェンが無言で腰を落とした。左腕を上に上げる──いざとなれば左腕を犠 牲 にして、魔術を放つつもりか。外れたら、今度は右腕を犠牲にする。
黒魔術士は、神経にまで達する傷でなければ、その傷をいくらでも癒 すことができる。もっとも、裏を返せば、致命的な傷は一切癒せないということになる。そこがディープ・ドラゴンなどの魔術との決定的な違いだ。
サルアは剣を斜めに構えつつ、半歩ばかり右に移動した。
オーフェンが、言ってくる──やぶにらみの目付きで油断なくこちらを見 据 えながら。
「なんでキムラックの死の教師が......こんなところにいる?」
「なら《牙 の塔 》のキリランシェロが、その同じ場所にいる理由ってのはなんなんだろうな?」
サルアは聞いて、にやりとした──この問いに対して、魔術士がちらりとでも底意を見せたなら殺さなければならない。それは多分、可能だろう。
彼が聞いた限り──キリランシェロという黒魔術士は暗殺者ではない 。いかに優 れた魔術士であろうと......それならば怖くはない。
沈黙──じっと──相手はこちらを見ている。警 戒 し、緊 張 していた黒魔術士の黒い双 眸 はにわかに歪 められ──
そして、気が抜 けたように、呆 れた表情を見せた。
「てめえ......ンな勘 違 いで俺を殺すつもりだったのか!? 」
「......あん?」
サルアの構えた剣の先が、少しコケる。そして──
「なにやってんのよぉっ!」
背後から子供っぽい怒 鳴 り声。さらに、ざぐっ──という鈍 い音と、後頭部に衝 撃 を食らって、サルアはそのまま床 に倒 れた。
◆◇◆◇◆
あう......
そんなうめき声が、喉 から漏 れる。オーフェンは額に手を当てて、すぐ足元にうつ伏 せに倒れた暗殺者を見下ろした。どくどくと血を流して気絶しているサルアを見て、悲鳴をあげたのは彼ではない──
「きゃあああっ!? 」
かん高い悲鳴、そして、剣が、からんと床に落ちる。その刀身に、ほんのわずかについた血 糊 を見て、剣の主──腰までブロンドを伸ばした小 柄 な少女──はまた声をあげた。
「大変、血が出てる!」
当たり前だろ、と胸中で毒づきながら、オーフェンはうめいた。
「お・ま・え・は・なぁ〜!」
と、びしと指を突 き付け、
「どこから生 えた、どこからっ!」
「どこって......そこの入口から、こっそり入ってきたんだけど」
クリーオウが、背後の階段を指さした。
「こっそりって、お前......」
どうやら、サルアと対 峙 していたときに入ってきたので、気づかなかったようだった。
「なによぉ。オーフェンが、レンジャーを連れてこいっていうから、大急ぎで連れてきたんじゃない。村の外れで待たせてあるわよ。とにかくオーフェンを助けようと思って、わたしだけ潜 入 してきたんだから」
「ふつーは、お前が待機してレンジャーが潜入してくるもんだろ。大体俺は、レンジャーを連れてこい、つった覚えはねえぞ。レンジャーの詰め所で待ってろっつったんだ」
「なによぉ」
クリーオウが口をとがらせる。
「ま......お前が俺の言うことを聞くとも思ってなかったけどよ」
オーフェンはぼやきながら、牢 の中を見回した。手 狭 な地下牢は、六人もの人数を中に抱 えて、いっそう狭 苦 しくなっている。壁 に張り付いたボルカンと、その下に転がるドーチン。壁に頭をぶつけて白目をむいているマジクに、頭から血を流して失神しているサルア──その後ろで、遅 刻 して教室に入ろうとしたところを教師に見つかった生徒のような顔で、クリーオウが自分の胸を抱 いている。彼女の耐 刃 ジャケットの胸元の、刺 しゅうされた家 紋 を見つめて、オーフェンは深々と嘆 息 した。
「ったく......にしても、こんなに早くもどってくるとはな......」
それを聞いて、びくん、とクリーオウが眉 を跳 ねさせる。
「あ、あーっ! やっぱり、わたしをのけ者にするつもりだったのね!」
「当たり前だろ! お前がからんで事態が好転したことが一度でもあったか!? 」
「う............」
きっぱりと言い返されて、クリーオウが言葉を飲む。オーフェンはさらに続けた。
「今だって、いきなり後ろから人を斬 るか? へたすりゃ即死だぞ、こんなもん!」
と、うつ伏 せに倒れたサルアの後頭部を指さす。クリーオウが言い訳がましい顔を見せた。
「だ、だって......こんな怪 しげな地下牢で、みんな死んだみたいに倒れてるし......それでオーフェンが剣なんて突き付けられてたから......ああ、なにはともあれこれはピンチだなって思って......」
「............」
言われてオーフェンは、再び牢の中を見回した。ボルカンなどは頭にナイフが刺 さっているし──まあ確かに、そう思うほうが自然かもしれない。
(しかし......『なにはともあれ』で倒すか? 死の教師を......)
「なんにしろ、こいつは癒 しといてやらねえとな」
オーフェンはごまかすようにクリーオウから目をそらすと、サルアの上にかがみこんだ。後頭部の傷に手を伸ばす。不意をついた一撃とはいえ、しょせんは腕力のないクリーオウのものだ。出血はかなりのものだが、骨折などの致 命 傷 には至 ってない。
「我は癒す──」
唱 えかけて、ふと、動きが止まる。
「............」
オーフェンは、呪文を取りやめて顔を上げた。クリーオウも、その視線に気づいてきょとんとした顔で振り向く。彼女の背後──階段に、人 影 が立っている。松 明 の揺 れる明かりに照らされて、足音もなくその人影は階段を下りてきた。薄 絹 の巫 女 服 を着た少女。
「フィエナ......」
オーフェンは、つぶやいた。ここが地下とはいえ、あれだけ大騒ぎしたのだから、同じ塔の最上階にいる彼女が物音に気づいて下りてきたとしても、さほどおかしくはないのだが──
オーフェンは、なにか違和感を覚えていた。それは、その少女の、どこか俗 世 を超越したような顔付きのせいだったのかもしれないが──昼間、マジクといっしょに顔を見せたときには見せなかった表情だ。
「誰 ?」
クリーオウが聞いてくる。オーフェンはぽつりと答えた。
「巫女だ。この村の......」
「へえ......」
と間の抜けた声をあげて、クリーオウがフィエナを見やる。
「可愛い服♪ 触 ってもいい?」
彼女のあげた気楽な声を、フィエナはさっと無視した。そのまますたすたと、牢の中に入ってくる。クリーオウの横を通り過ぎ、彼女はオーフェンの手を押しのけるように、サルアの傷に手を伸ばした。
呪 文 もない──ただ彼女が一 瞥 しただけで、あっという間に暗殺者の傷が消える。
フィエナはそのままその場を動かず、マジクのほうを見やった。気絶したままのマジクの呼吸が、ただ眠っているような、深くゆっくりしたものに変わる。彼女はまた牢屋の中を見回し──少し迷ってから、ボルカンとドーチンの傷も癒した。ボルカンの頭から落ちたナイフが、とっ、と湿 った音を立てて床に刃先を立てる。
傷が癒えても、誰も目覚める気 配 はない──恐らく傷を癒すと同時に、眠りの効果ももたらしたのだろう。疲 労 を回復させるためにあえて眠らせたのか、それとも誰にも聞かせたくない話をここでしようとして、眠らせたのか......
後者だ、とオーフェンは直感した。そう思ったことが合 図 になったように、さっとフィエナがこちらを見やる。サルアの後頭部に、撫 でるように手を添 えたまま。
「あの......」
と、彼女は口を開きかけて、ぎょっとしたようにまたつぐんだ。いつの間にかすぐ横から、指をくわえるようにして恨 めしげにクリーオウがじっと見つめている。
その無言の圧力に押されるようにして、フィエナは言った。
「あ......どうぞ。触っていいですよ」
「きゃ♪」
クリーオウは歓 声 をあげると、物 怖 じもせずぺたぺたとフィエナの巫女服に手を触 れた。
オーフェンは嘆息まじりに、
「どっちが年下だか、分かりゃしねえな......」
「む」
と、クリーオウがこちらをにらみつけてくる。オーフェンは素知らぬ顔で、クリーオウが落とした剣を拾い上げた。刃についた血をハンカチで無 造 作 にぬぐって──このハンカチは後で捨てようと思いながら、剣をクリーオウの手に押し付ける。
「クリーオウ、頼 みがあるんだけどよ──」
「ちょ──ちょっと、ストップ」
クリーオウはあわてるようにして、手で制してきた。剣を鞘 にしまいながら、
「最初に言っておくわよ──『安全なところで待ってろ』とか『先に行っててくれ』とかいうのは、却 下 だからね。いつもいつも、ていよく追い払われたりしないんだから」
「じゃ、退路を確保しといてくれよ。村の外れに待たせてるとかいうレンジャーたちと」
「それも駄 目 。オーフェン、わたしのこと馬 鹿 にしてるでしょ。忘れちゃいないでしょーね、わたしはオーフェンの相 棒 なんだから──」
「そっか。じゃ、俺が退路を確保しておくから、あとよろしくな」
と、オーフェンはフィエナの肩をつかんで牢を出ようとした。後ろから、クリーオウがわめくように、
「あ──そんじゃ、わたしも退路を確保する」
「......ふたりで退路を確保してどーするんだよ。ほれ、相棒っていうからにゃ、役割は分 担 しねえとな」
オーフェンは諭 すように指を振 った。が、それでも納 得 しないように、う〜、とクリーオウがうなり声を出す。
「オーフェン、ひょっとしてわたしのこと嫌 ってない!? 」
「そーゆー問題じゃなくて、ただ単にじゃまなんだ」
「オーフ──」
と、険 悪 な形 相 でなにかを言おうとしたクリーオウの前に、そっとフィエナが身を乗り出した。顔を近づけ──ほとんど鼻が触れるほどに接近すると、ほんの一瞬、かく、とクリーオウの頭が揺 れたように見えた。
(目をのぞきこんだ)
とオーフェンは気づいた。また、なんの音もなくすっとフィエナが顔を離すと、クリーオウの表情は一変していた。なんの表情もなく虚 ろに──読み上げるように口を開く。
「分かった......わたし、言うことを聞く」
クリーオウがそうつぶやくと、さっと牢を出て、階段を上っていった。彼女のスニーカーが立てる音を聞きながら、オーフェンはフィエナに聞いた。
「君の魔術か?」
「はい......あまり時間がないので。すみません......」
彼女は怯 えた視線でこちらを見上げ、言った。オーフェンは頭を掻 きながら、
「いや、いい。手間が省 けた......別に、すぐに解 けるものなんだろう? 今の暗示は」
「ええ。朝までには」
そう答えてから彼女は、きゅっと拳 をにぎりしめ、続けた。
「あの......わたし、お願いがあって来たんです」
「だと思ったよ。なんだ?」
聞きながら、オーフェンはフィエナの顔をのぞき込み、そしてふと、気づいた──マジクが言っていた、この少女の〝巫女の顔〟。
さっきのクリーオウの虚ろな表情が、それによく似ている......
フィエナの頼みとやらは、簡単だった。
「明日の朝までに、この村を逃げ出して下さい──サルアと、マジクを連れて」
それは簡単なことだった。クリーオウですら容 易 に侵 入 できてしまう程度の警備だ──死の教師たる暗殺者の助けまで借りられるというのなら、それこそ脱出ついでにこの村を壊 滅 させることだってできるだろう。ついでに言うのなら、ディープ・ドラゴンの魔術を扱うこの娘 まで味方につくのなら、できないことなどなにもない......
「いえ」
と、すべてを見 透 かしたように、フィエナがかぶりを振 る。
「わたしは行きません......わたしは、ここに残ります」
それを聞いて、オーフェンは少なからず衝 撃 を受けた。が、別に彼女が言った内容に関してではない。
「......君は......俺の心が読めるのか?」
ディープ・ドラゴンの暗黒魔術でなら、それは容易なはずだ。が、その問いに、彼女は再びかぶりを振る。
「いえ。でも今のは、なんとなくそう思ったんです」
「だが......ここに残る? それは君の勝手だろうが、マジクの話では、どうもマクドガルは君を利用して妙 なことをたくらんでいるとかいう──」
「それは本当です。でも......」
そのまま、フィエナの声はかすれて消えた。オーフェンは、まだ頭痛の残る頭をさすりながら、
「どうやら、事情があるみてえだな......もっとも、事情もなく、暗黒魔術なんぞほいほい使われた日にゃ、大陸がめちゃくちゃになっちまうけどよ」
「はい......」
フィエナは小さくうなずいて、ゆっくりした動作でサルアの横にひざをついた。さっと暗殺者の肩に触れて、ぐい、とうつ伏せになった彼を仰 向 けに直す。サルアの眉 についた土を指先で撫 でて落とし、彼女は、唐 突 に口を開いた。
「彼の正体を知っていますか?」
「ああ」
と、オーフェンはあっさりと言った。
「キムラックの死の教師──となれば、大陸でもかなりの実力を持った暗殺者ってことになるな。いや──暗殺者 ってことなら、十本の指に入る奴かもしれねえよ。大陸でも八振りしかないガラスの剣を帯剣してるくらいだからな」
床に落ちている、刀身の見えない剣を見やる──フィエナも、同じものを見つめているようだった。
「わたしも、知っていました。彼が話してくれたんです。酔 って口を滑 らせたような感じだったから、嘘 かもしれないって思ってましたけど。本当みたいですね」
と、視線を剣から、暗殺者の顔へと移す。その目付きを見て──クリーオウと比 較 して、余計にそう思えるからいうわけではないのだが、オーフェンは、この少女が実年齢よりかなり大人 びて見えることに気づいた。ついでに考えつく。
(マジクの奴、失恋 だな)
フィエナは、そのまま聞いてくる。
「あなたは、彼の目的も分かっているんですか?」
「いや。だがこいつは、俺も自分と同じ目的でこの村にやってきたものと誤解してたらしいな。だから斬 りかかってきやがった」
「わたしも......魔術士がこの村の近くに来ているって聞いたとき、同じことを考えました。だから散歩を装 って、マクドガルより先にマジクに接触したんです。彼を見たとき、ただの迷 子 なんだってすぐに気づきましたけど......」
「こいつの目的ってのは、なんなんだ?」
オーフェンが聞くと、フィエナは意識のないサルアの顔を見下ろしたまま、
「マクドガルの暗殺です。マクドガルは、何年か前までキムラック教会の教師だったんですよ」
「キムラック......教会総本山......」
大陸の北端──大陸全土の教会を掌 握 する、巨大な聖都。王都に次ぐ巨大都市でもある。
キムラック教会は人間の魔術士を極端に嫌 っている。その理由はオーフェンの知るところではないが、とにかく、運命の三女神 を奉 じる彼らは、魔術士に関しては存在すら認めない部分があった。
教会総本山は、独自の暗殺者部隊である死の教師を擁 する目的を、主要な魔術士の暗殺のためと公言してはばからない。もっとも、あくまで公然の秘密としてはばからな い、という意味だが。
だが実際に機能するのは、むしろ教会総本山の意に沿 わない動きを始めた異 端 の教師を抹 殺 する場合においてのほうが多い──実際、少しでも名の知れた魔術士が、死の教師によって暗殺されたという事実は、ほとんどない。それは、彼の教師であるチャイルドマンが書 斎 の椅 子 に座 ったまま、客人を装って訪 ねてきた暗殺者を一撃で討 ち滅 ぼすのを目 の当たりにしたことがあるオーフェンには、容易に納 得 できた。魔術士は、おおむね魔術士同盟などの組織に擁 護 されているし、いざとなれば常人には考えもつかないような武器──つまり魔術を持っている。やすやすと暗殺できるものではない。
(もっとも──俺みたいに無防備にひとりでぶらついてるようなのは、どうだかしらねえけどな)
いらだちまぎれに嘆 息 し、聞いてみる。
「マクドガルは、じゃあ、異端の教師だったわけか。キムラックの。それがなんで、ドラゴン信 仰 の教祖に収まってるんだ?」
「............」
その質問を聞いた瞬 間 、フィエナの表情がこわばるのが見えた。
「キムラックで、なにかを見たらしいんです......」
「なにか?」
「分かりません!」
と、強すぎる口調で叫ぶ。驚いてオーフェンが絶句していると、彼女は、はっと気づいたように赤面した。
「ごめんなさい......大声を出してしまって......」
「いや......別に、いいんだけどよ」
オーフェンは咳 払 いした。
「にしても、マクドガルが異端の教師だとしたら......俺が──つうか、魔術士が奴 を暗殺しにやってくる理由がないんじゃねえか? なんで俺を、マクドガルへの刺 客 だと勘 違 いしたんだ?」
「......それは......マクドガルの目的が......」
フィエナはそこで、口ごもった。彼女はしばし逡 巡 したようだったが、やがて顔を上げて、続けた。
「マクドガルの目的はご存じありませんね? この村は、もとよりドラゴン信仰者の住む隠 れ里 でした。先祖代々《森》の中を転々として......レンジャーや、ドラゴンに見つかるたびに逃げ回ったんだそうです。彼がこの村にやってきたのは三年前──そのとき彼は、キムラックから技術者を連れてきていたんです。そして、この塔と、工房を建設しました。拳 銃 の製造工房を」
「......拳銃の製造法は、王都の最機密事項のはずだ。王都の軍隊にしか、帯銃は許 されていない」
「マクドガルは王都の騎 士 から拳銃を奪 って、それを分解したんです。火薬も合成して──でもサルアの話では、そんなものはとっくにキムラックでも極 秘 に研究されているとか。どのみち、マクドガルは拳銃という武器を村にもたらしたことで英 雄 になったんです。教祖となり、村の名前を《偉 大 なる心臓》村と名付けました」
「......で?」
オーフェンは促 した。拳銃の製造というのは、確かに大それたことではあるが、その程度では魔術士に命を狙 われるような理由にはならない──王都の秘密を盗み出すのに成功しているのは、なにもキムラックだけではない。《牙 の塔 》でも、秘密裏に拳銃の製造は行われている。
「でもマクドガルの目的は、この村を掌 握 することなんかではありませんでした。実際、ドラゴンを崇 めることでは、彼はもともとのこの村人たちなんかよりはるかに信仰が深かったですから、彼が幹 部 になったところでさほど不都合もなかったんです。でも......彼は」
と、フィエナは目を閉じた。
「彼は宣言しました。拳銃は、魔術士たちと戦うための武器だって。そして、もっと強い武器を手に入れるのだって。マクドガルは......その武器を手に入れるためには《森》の中心──ドラゴンの聖域たる、本物の《偉大なる心臓》に行く必要があるって、村人たちに説 きました」
「聖域を護 るディープ・ドラゴンの存在を知らなかったわけじゃないだろうな?」
オーフェンは、腕組みしてそう言った。《森》の深部に立ち入った人間は、過去、例外なくディープ・ドラゴンによって滅ぼされている。
「知っていました......だから彼は、ディープ・ドラゴンに対抗するためのなにかを見つけようと、やっきになっていました。そこに......わたしが、この村にやってきたんです」
「君の......魔術で、ドラゴン種族に対抗しようと?」
「そうです」
「馬 鹿 げてるな」
なんということもなく、オーフェンはつぶやいた──フィエナが、ドラゴン種族の魔術を扱えるのは間 違 いない。が、だからといって、それがドラゴン種族以外に巧 みに扱えるのかというと、オーフェンには、とてもそうは思えなかった。一昨日 の夜にこの村に現れたディープ・ドラゴン──それが使った魔術の構成と比べてみれば、フィエナのそれは、あまりにも稚 拙 でたどたどしい。あるいは、借り物の力をなんとか制 御 している、といった感じだ。
本物のディープ・ドラゴンと対 峙 すれば、たちまち殺されてしまうだろう。ドラゴン種族の用いる魔術は、はっきり言って人間の尺 度 ではいっさい測 れたものではない。
だが、その言葉が彼女に与えた印 象 は、そういったものではなかったようだった。
彼女は、急に双 眸 を苦しそうに歪 め──
「そうです......馬鹿げているんです。そんなことを思いつくべきじゃなかったのに──彼は、その計画にわたしを参加させようとしたことで......」
フィエナは喉 がからまったように息を詰 まらせると、強くかぶりを振った。
「墓 穴 を......掘 ったんです」
「墓穴?」
だがオーフェンの問いかけは無視して、フィエナは続けた。
「明日、村は消 滅 します。それには逆 らえません。だから......あなたは、逃げてください。マジクと、サルアを連れて」
オーフェンは、じっと彼女を見やった──双眸に涙を浮 かべて決然とこちらを見ている。追い詰 められた強さだ、とオーフェンは無言でつぶやいた。
彼女は続ける。
「サルアは、この村で唯 一 、わたしの友達でいてくれたんです。多分、ドラゴン信仰者でもない彼にしてみれば、わたしくらいしか話相手がいなかったんでしょうけど。でもわたし、とても嬉 しかった──わたしには、誰 もいないから......」
誰もいないという感覚は、オーフェンにも理解できた──《牙の塔》の魔術士は、ほぼ例外なく孤 児 である。また競争も激 しいから、気の置けない友人などはあまり作れない。だがそれでも──彼には、そういった『気の置けない』連中とは意味が違うが、仲間はいた。現在は──
(そういった仲間を捨てて、俺は友人を作った。どちらが良かったとも言えない。だが少なくとも、俺はひとりじゃなかった......)
「断る」
と、オーフェンは告げた。フィエナの表情が、訝 るように引きつるのが見える。
「君の頼 みは、いっさい承服できない。君をこの村に残すつもりはないな。特に、この村が滅 びるとか聞かされたんじゃな」
「そんな......でも、わたしは......」
フィエナは動 揺 したような眼 差 しで、困 惑 している。オーフェンは、さっと彼女に近寄ると、少女の手首を強くつかんだ。
「痛っ......」
小さな悲鳴を、フィエナがあげる。オーフェンは構わずに言った。
「いいか──ひとつ忠告しといてやるぞ。人にものを頼むときは、説得力ってもんを気にかけておくんだよ。こんな、自分をつかんだ手を振 り払 うこともできないような子供ひとり、危険があるらしい村に残していけるわけがねえだろうが」
それだけ言ってから、手を放す。フィエナは赤くなった手首をさすりながら、じっとこちらを見上げている。ふと、彼女が自分よりも数倍は強い魔術を持っていることが信じられなくなって、オーフェンは嘆 息 した。
(なんでまた、いつもいつも、俺をめんどうに巻き込むのは女なんだよ!)
だが、そんな難 しい問いに答えを用意するためには、朝はもう近づき過ぎていた。
フィエナが立ち去って、一番最初に目を覚ましたのはサルアだった。よほど疲 れているのか、あるいはこれもフィエナの魔術の効果なのか知らないが、彼はなにも言わずにガラスの剣を鞘 に収め、気絶したままのボルカンとドーチンを引きずって、マクドガル邸 の使用人部屋に帰っていった。
「言っておくが、俺はマクドガルの命になんざ興 味 はねえよ」
「だろうな......キリランシェロ、て名前を見た瞬 間 に、それは分かったさ」
「なら、なんで俺に襲 いかかったりしたんだ」
「へっ──」
と、どこか自 嘲 するような笑みを浮かべ、
「そのほうが、おもしれえじゃねえか。ま、気絶したあとなにがあったかは、フィエナに聞けばいいんだろ? 帰りに寄ってくか」
──交わした会話は、そんなものだった。マジクが目覚めるまでには、もう少し時間がかかったが、この生徒に事態を納 得 させるには、さらに時間がかかった。
とりあえず、フィエナに関しては見込みがねえかもしんねえぞ、とは言わないでおいてやった。
夜が明けるのは早かった。実際、あの後眠りについたらすぐだったといっていい。
朝になって、オーフェンは村の中を歩いていた。頭痛が収まっているのを確認してから、地 下 牢 の鍵 を開け、見張りふたりを適当に蹴 転 がし、塔 の外に出た。まだ早朝だが、この村の朝はそもそも早いらしい──村人の大半は目覚めて、もう外に出ている。オーフェンが歩くのを、みな遠巻きにするように、じっと見ていた。
中年の女、それに連れられた子供、がっしりした男、気の弱そうな娘 ──なんということはない、ただの村人たちが、こちらを見ている。若い男というのは、あまりいないようだった。サルアの話では、血の気の多い連中は、みなマクドガルの取り巻きになっているということだったが。
ドラゴン信 仰 者 は魔術士を嫌 悪 する──事実、この村の人間たちも、こちらに向かって気持ちのいい顔はしていない。ましてや、黒魔術の最 高 峰 たる《牙 の塔》の紋 章 を身に着けているのだから、石くらいは飛んでくるかもと正直警 戒 していた。が、とりあえず、そういったことはなかった。今のところは。
(恐 れてるんだ、俺 を──)
オーフェンは歩きながら、そう悟 った。村人たちの表情には、確かに恐れのようなものが見えかくれしている。
(なんで俺を恐れて、マクドガルに危 惧 を抱 かない?)
村人たちにしてみれば、それが当然なのだろうが、オーフェンは不 思 議 でならなかった。
彼は歩きつづけた。目的地は、教団の塔から少し南下したところ──マクドガルの屋 敷 である。
この教祖の屋敷を見て、豪 勢 だと考えるか、質素だと思うか、微 妙 なところだとオーフェンは思った──確かに村の、周 りの家々と比 較 すれば多少は大きめに作ってあるが、それでもオーフェンが渾 身 の力で魔術を放てば、地上から根こそぎ消 滅 させられる程度のものでしかない。ほかの小屋と同じく庭といったものはなく、ただ玄 関 先 に小さな花 壇 などあったりする。屋根の形も窓の数も、普 通 の木造の屋敷である。ペンキは貴 重 品 なのだろう──ほとんどの壁 は、木材むきだしだった。
ノックせずに──ノッカーがなかったので──、ドアノブに手をかける。早朝なので、まだ鍵 はかかっている。教祖の朝は、遅 いらしい。
ようやく普通の村人たちとの区別がついて、オーフェンはなんとなくほっとした。
ほっとしたついでに右手を振 り上げ──ノックがわりにドアにたたきつけようと──
突 然 、がちゃりと鍵が外れる音が聞こえた。きい、と木材のきしみ音を立てて、ドアが開く。同時に、声がした。
「よう。早かったな......細かいことは、フィエナに聞いてるぜ」
扉 を開けたのは、サルアだった。昨夜と同じ格 好 で、剣は下げていない。眠そうな気 配 などまったく見せずに、彼は続けた。
「御 大 はまだ寝てるぜ──昨夜は遅かったんだ。打ち合わせでな」
「俺が来たんだ。起きてもらうさ」
オーフェンはぼそりと言うと、サルアの横をすり抜けて玄関の中に入っていった。
通りすぎるときに、声をひそめて、サルアが聞いてくる。
「あのガキは?」
「知ってて聞いてるんだろう──あいつは、あいつの持ち場にいってるさ。フィエナの話じゃ、村を滅ぼすほどのなにかが起きるのは今日だっていうんだから、もう行動は起こさせてもらう」
「まさかと思うが......マクドガルを逃 がすような真 似 はしねえだろな? あいつを取り逃がせば、俺の首が飛ぶんだ──比 喩 で言ってるんじゃねえぜ?」
「知ったことか。暗殺者の片棒をかつぐつもりはねえ。せいぜい目を光らせておくんだな」
屋敷の中は、えらく雑然としていた──一応、玄関があって廊 下 がある、といった造りにはなっている。オーフェンはなんとなく気になって、一番手前の扉 を開けた──応接室らしき部屋であるが、汚 れている。床 には酒 瓶 やらなにやらが適当に散らばり、向こうの隅 には洗 濯 物 らしき塊 も落ちていた──取り巻きたちが寝 泊 まりしているだけあって、完全に男 所 帯 らしい。
その部屋に入る。後ろから、サルアもついてきた。
「なんだよこの部屋は......」
オーフェンが聞くと、サルアは、へっへっと笑い、
「だからよ、打ち合わせの痕 跡 だよ。おっと......こいつは御大の取って置きだな。一級酒だよ、おい」
「知らん知らん」
オーフェンは言いながら、サルアの取り上げた空 瓶 を蹴 りとばした。ばたんと扉を閉める。オーフェンは嘆 息 まじりに聞いた。
「マクドガルはどこにいるんだ?」
「奥の寝室に決まってるだろ......だが、御大に会ってどうするつもりだ?」
「話をするんだよ。それはそうと、取り巻きたちはどうしてる」
「家に帰ってるはずだぜ? だが、打ち合わせが明け方まで続いたらしいからな。午前中は起きねえだろ」
「ふうん......」
オーフェンはうなずいて、廊 下 を奥に向かっていった。ややしてから、後ろから、サルアがあわてたように声をあげる。
「お、おい、御大と話!? なんのつもりなんだ?」
答えずに、オーフェンは進んだ。なんとなく見当をつけて、扉を開ける。
床にばらまかれた本やら紙片やらは、どう考えても読んでから置いたというよりは、単に投げ出すために本 棚 から出したように見えた。部屋の入口から奥のベッドまで、懸 け橋のように落ちている服は、脱ぎ捨てていったものらしく、手前からサマーセーター、ブラウス、下着、スカート、靴 下 と続いてる。なんで下着とスカートの順番が逆なのか、よく分からなかったが。ベッドは足が一本折れているのか、妙 な方向に傾 いている。ガス灯 が床に横倒しになっているのは、とてつもなく危険ではあったが、この部屋の光景にはふさわしいかもしれないとオーフェンは思った。ベッドのシーツはぐしゃぐしゃで、毛布にくるまって、死体みたいな格好で若い女がいびきをかいている。髪 の毛がぼさぼさになった頭のほかは、素 肌 の足だけが毛布からのぞいていた。
オーフェンは、横目でじろりとサルアを見やった。彼は、自分の黒髪をごしごしやりながら、
「照れるなあ。俺の部屋だ」
オーフェンは扉を閉めた。いびきも聞こえなくなる。
「お前な......本当にキムラック教会の教師なのか?」
「いや、だから、そう思われないための偽 装 だってばよ」
「............」
「ホントだって。ほかにも毎晩酔 っ払 いのふりして、牛小屋から牛逃がしたり、ガキに幽 霊 話 を聞かせて、話に出てきたゴム顔男を追い払うためのおまじないを教えてほしければその飴 玉 よこせとか、この俺の崇 高 な地 を隠 すためにゃ、いろいろ苦労してんだ」
「......いいけどよ。別に」
オーフェンは、あえてそれ以上は追及せず、廊下を見回した。
「にしてもなあ......おい、奴の寝所はどこなんだよ。てめえが最初から教えてくれりゃ、余計なもん見ずに済んだんだろうがよ」
「不 法 侵 入 のくせに、態度でけえな、お前は......」
サルアはぶつぶつ言いながら、それでも自分の寝室の対面の扉を指さした。
「ここだよ。寝室には、拳 銃 は持ちこんでいない......一度暴発してから懲 りたらしい」
「なるほど......」
(その辺の情報は、さすがに抜け目ねえな)
オーフェンは思いながら、扉を開けた。
マクドガルの寝室は、驚くほど整然としていた──そもそも散らかすほどの物が置いていないというのもあるのだが、その様 は、まるっきり教会の教師のたたずまいという気がする──まあ、背後の殺し屋のような罰 当 たりはともかくとしてだ。元教師、というフィエナの言葉を思い出しながら、オーフェンは、部屋の奥のベッドの上を見やった。
マクドガルは、ちょうど身体を起き上がらせようとしているところだった。これも地 味 な寝 間 着 で、もし女房がいたとしたら、絶対に許 してもらえないような色気のない代 物 ではある。マクドガルは独身だろうが。
「いい朝だな」
オーフェンは、わざとらしい声でそう言った。マクドガルは、ちらとこちらを見てから、つまらない冗 談 を聞いて損した、とばかりに唇 を歪 める。口ひげをもごもごさせながら、彼は応 えたきた。
「《森》の朝だ。当たり前だろう」
「雨は降らねえのか? ここは」
「雨が降ろうと《森》の朝は静 謐 だ。静謐で......神聖だ。すべてが始まり、昨日が終わる」
「なるほど。そういうことを言っているのを聞くと、あんたがキムラックの教師だったってのが納 得 いくね」
瞬 間 、マクドガルの表情に、ひび割れるように動 揺 の気配が走る。シーツをどけようとしていた手も、きゅっと力がこもったようだった──ついでに、背後からサルアが、げ、と声をあげるのも聞こえた。
しばし静 寂 が朝を止める。マクドガルは、初めて真正面からこちらを向いた。
「なんのつもりだ? 魔術士」
「なんのつもりだ?」
と、くりかえしたのはサルア──しごく小声で。オーフェンは背後は無視して、
「俺の後ろに立ってるキムラックの殺し屋の言うことは、気にしないでくれ」
ぶっ──と、サルアが吹き出す。オーフェンは構わず続けた。
「それに、あんたが《森》の心臓だかなんだか知らねえが、よりによってドラゴン種族の聖域にちょっかい出そうなんぞと考えていようと、知ったことじゃないしな」
「お、おい、いい加 減 に──いやもう遅 いか。なんのつもりなんだ、おい!」
つかみかかってくるサルアを、オーフェンは肩越しに見やった──そして隙 を見て、さっと身を躱 し、相手の背中に掌 を当てる。
「我導 くは死呼ぶ椋 鳥 !」
呪 文 とともに、触 れていたサルアの身体に直接、破 壊 的 な振 動 がたたき込まれる──暗殺者も、さすがにもんどり打って床 に倒 れた。そのまま床の上を一転、二転するほどの衝 撃 に、絶望的な悲鳴をサルアがあげる。
「てめえ──裏切っ──」
「もとより、暗殺者と協力するつもりなんざねえんだ」
「そんなことで恩を売ったつもりか?」
床に倒れたサルアなど一 顧 だにせず、マクドガルがつぶやく。オーフェンは肩をすくめた。
「いや別に。こいつがどうも、取引を邪 魔 しそうだったんでね」
「取引......?」
眉 をひそめて、マクドガル。床の上から、もう声も出せないのか、サルアが凶 悪 なうめき声をあげる──
オーフェンは続けた。
「フィエナを解放しろ」
「なに......!? 」
マクドガルが、ぎょっと目を見開くのが見えた。それを見 据 えながら、くりかえす。
「そんだけだ。ほかは、うるさいことは言わねえ。真正面から頼 みに来た──彼女を解放しろ。そうすれば多分、あんたも死なずに済む。この村のすべての人間がな」
フィエナは、そんなことはひとことも言っていなかったが、彼女の口ぶりからそうではないかという気がしていた──マクドガルが計画に彼女を利用しようとしたせいで、なにかの危険が訪 れるのだ。十四歳の少女がすんなり死を覚 悟 してしまうほどの、絶望的な危険が。それを回 避 するためには、恐 らく、マクドガルにこの取引を飲ませる以外にはない。逆に言えば、これさえ通ればすべては丸く収 まるはずである。
暗殺者を封じたのは、とりあえずその取引を有効にするためだった──暗殺者が背後に控 えているときに、生命をカタに取引ができるわけもない。
マクドガルは表情を、さっと平静なものにもどした。
「馬 鹿 げたことを......」
オーフェンは答えずに、ゆっくりと足を進めた。床に倒れているサルアをまたいで、マクドガルのいるベッドに近寄っていく。
元教師は、続ける。
「お前には分かるまい......わたしとて、計画の危険性は承知している。計画を立てたがために、わたしの生命を狙 うであろう者が、そこの死の教師だけではないということもな......だが、それでもわたしは続けねばならない」
「なぜだ」
「わたしは、キムラックで、お前が見ていないものを見た。それを見れば、誰 であれ、こう考えざるを得ないだろうよ──現在のままの大陸では駄 目 だ、とな。もっと......力を持った存在が必要とされる。ドラゴン種族をも越えるような......」
そのせりふを聞いて、オーフェンは電流のように、脳 裏 に走るものを感じた。数週間前に出会った、気の狂 れた老魔術士も、キムラックでなにかを見たと言っていた......
オーフェンは、口を開いた。
「俺が前に会った奴も、あんたと同じものを見た──だが、そいつは完全に怯 えきっていて、なにひとつ話すことができなかった。あんたは、まだマシなようだな」
「わたしとて......恐れているのには違いない」
「話を聞かせてくれたら、場合によっては協力する。なんにしろ......暴走はしてもらいたくない」
言いながらオーフェンは、また一歩マクドガルに近寄った。もう手を伸ばせばとどく距離にあって、マクドガルはわずかに伏 し目になり、低い声音を出した。
「すべての原因は、過去 にある──」
つぶやきながら、マクドガルが、少しだけ動いた。同時──
ごずっ──頭 蓋 骨 が、小さな響 きをあげた。視界が小さく振 動 し、目の中央にちっぽけな黒丸が揺 れて、消える。続いて──本当は同時に聞こえたはずなのだろうが──がちゃんと、陶 器 が割れる音。なにか白いものが、ぱらぱらと顔の前をこぼれ落ちた──
オーフェンは、そのまま撲 殺 されたように床にあごを打ちつけた。ばたばたと、マクドガルがベッドから跳 び起きて駆 け出していく。部屋から出ていったのだと、オーフェンは悟 った。どうやら、こちらが近づいたのを幸い、隙 を見て花 瓶 かなにかで殴 りつけてきたらしい。
(くそ──)
いきなりのことで、避 けられなかった。オーフェンは悪態をつきながら立ち上がった。べったりと、額 が血で濡 れている。見回しても、部屋の中に既 にマクドガルの姿はない。床の上に花瓶の破片と、昏 倒 したサルアがいるだけだ。
オーフェンは、マクドガルを追って廊 下 に飛び出した。すぐ近く──ふたつ先の扉 が、ばたんと閉まるのが見えた。
「待て、マクドガル──」
弱々しく、オーフェンはうめいた。同時に、再び閉じた扉が開く。
その中からゆっくりと、マクドガルが姿を現した。その左手には、拳 銃 が握 られている。ちらりと見たところ、彼が出てきたのは書 斎 のようだった。拳銃の保管場所なのだろう。
血が、目に入ってきた。
銃口をしっかりとこちらに向けて、マクドガルが口を開く。
「図に乗るな、魔術士ごときが──場合によっては協力するだと?」
「頑 固 な親 父 だな」
「性格のせいではないさ──どの道、すべての計画のためには、魔術士は地上にいてはいかんのだ。二百年前の、人間の魔術士とウィールド・ドラゴンとの戦いが、なぜ起きたと思っている?」
「天人 は、自分たちが滅 びるのを、生き残る人間の魔術士に対して、嫉 妬 した......」
出血に朦 朧 としながらオーフェンは、随 分 前にアレンハタムの地下で聞かされたことをくりかえした。マクドガルとの距離は五メートルほど──一跳躍で飛びかかれる距離ではない。
マクドガルは、哄 笑 にも近い笑い声をあげた。
「はあはあ! 天人が本当に滅 びたとでも思っているのか!? ドラゴンの女王が!」
叫 びながら、マクドガルの指が引き金を引こうとするのが見えた。オーフェンは口早に唱 えようとした。
「我は放つ光の──」
がっ!──再び、鈍 痛 ──
後頭部に、なにやら固い一撃をもらい、オーフェンは卒 倒 しそうになりながら後ろを見やった──と、額に脂 汗 したサルアが花瓶の破片を片手に立っている。その破片で殴 られたのだろうが──
「てめえ、この裏切り者──」
ゆっくりと聞こえてくる、声──倒 れていく中で、たまたま視線がまた回転したのだろう、マクドガルの姿が映った。マクドガルは銃口をこちらに向け、やはり引き金を引こうとしている。指が動いた。弾 けるように、なにかが動く──刹 那 ──
ばっ──
と、廊下のすぐ右手、目の前で扉が開いた。こちらから向こうへ開く形で、開いた瞬間、木の扉がばしいと揺れる──銃 弾 を防 いだのだろう。
ドアを開けたのは、見覚えのあるずんぐりした人 影 だった。
「......あれ?」
きょとんとした顔で、たぶたぶの寝間着を着たボルカンはこちらを見やった。どうやら、そこは使用人部屋だったらしい。兄のすぐ後に、ドーチンも顔を出している。
説明している暇 はない──オーフェンは意識をはっきりさせると、倒れかけた体勢から、背後のサルアに足払いをかけた。普通なら避けられてしまうだろうが、相手も魔術を一度食らってだいぶ消 耗 していたのだろう。なす術 もなく、廊下に転んだ。サルアの手から、花瓶の破片が落ちる。オーフェンはそれを拾い上げると、倒れたサルアの脳天にそれを打ち下ろした。今度こそ本格的に、サルアが悶 絶 する。
背後で──また、ドアが閉じた。顔だけ振り返ると、ボルカンらが出てこようとしていたのを、マクドガルが無理やり押しもどしたらしい。再び銃口が、ぴたりと狙 いを定める。オーフェンは、とにかくマクドガルの寝室まで逃げ込もうと、銃口に背を向けて思い切り跳躍した。が、寝室の入口まで飛びのいたところで、マクドガルの指が引き金を引くのが見える──
と、また目の前でドアが開いて、銃弾を受け止めてくれた。
「ねえ、どしたのぉー?」
今度ドアを開けたのは、サルアの部屋でいびきをかいていた女だった。胸元から下を毛布にくるまって、寝ぼけた顔をしょぼしょぼさせている。これだけ大 騒 ぎしていれば、家人が起き出してくるのはむしろ当然だろうが、このタイミングの良さは、むしろもてあそばれているような感じがして、なんだか情けなくなってくる。オーフェンはめんどうくさくなって、女を部屋の中に蹴 りもどした。
「どいてろ!」
叫んでから、開いたまま盾 になっているドアに向けて、右手を突き出す。
「我は放つ光の白 刃 !」
かっ!──
放たれた光熱波は木製の扉をたやすく打ち破り、破片を吹き飛ばしながら廊下を燃え上がらせた──轟 音 に、屋 敷 そのものが揺 れる。光の炸 裂 が収まると、廊下は床も天 井 も無数にひび割れ、壁にも鉤 裂 きのような余波の痕 跡 が走っていた。廊下の、あまり離れていない隅 に、マクドガルが倒れている。なぜかその近くにボルカンとドーチンまで黒 焦 げになって気絶していたが、サルアの姿はなかった。
ボルカンとドーチンの心配は、特に必要なかろうと、オーフェンはマクドガルに近寄った。生きてはいるが、身体の各所に砕 かれた扉の破片を受けて出血している。拳銃は、どこかに取り落としたのか、持っていない。オーフェンはマクドガルのほおをはたいて、目覚めさせた。
「おい、起きろよ」
「う──うう......」
うめき声をあげて──弱々しく目をしばたかせて、マクドガルが意識を取りもどす。
オーフェンは静かに告げた。
「いいか──お前が受けたのは致 命 傷 だ。ほっとけば、必ず死ぬ。俺が魔術で癒 さないかぎりはな」
「くっ......!」
マクドガルがうめいたのは、傷の痛みのせいだったのか、それとも嫌 っている魔術で癒してもらうという考えに抵 抗 したためかは、オーフェンには判断がつきかねた。
「命が惜 しければ、話すんだ──お前がキムラックで見たものは、なんだったんだ。人間を発 狂 させるものってのは、なんなんだ」
「う......ふうっ......」
マクドガルは息を荒 げるだけで、なにも答えない。ただ双 眸 に、凄 絶 な満足の表情をたたえて──
(こっちの脅 迫 に抵抗することに快感を感じてやがんだ)
オーフェンは悟 って、いらだたしげに吐 息 をもらした。
「てめえ! 強 情 はってると、本気で死ぬぞ! ちっと話すくらいのもん、なんでもねえだろうが!」
「ふ......ふ......」
「くっ......!」
オーフェンはうめいて、マクドガルから手を放した。突き放されて、どすん、と壁 に後頭部をぶつけても、マクドガルは笑みを消さない。
「この馬鹿......」
オーフェンは目を閉じて、また開くと、もうどうでもいいというように、マクドガルの身体から無 造 作 にぶちぶちと破片を抜 いた。すべての扉の破片を取り除いてから、手をかざして小声で唱 える。

「我は癒す斜 陽 の傷 痕 ......」
魔術によって、マクドガルの傷はあっさりと癒されていった──というか、本当はほとんどかすり傷ばかりだったのだが、こちらが嘘 をついた通りに致命傷だと思い込まれて死なれては寝覚めが悪いので癒したのだ。
傷がなくなるにつれて、マクドガルの気力も回復していく──
「ふ──ふ──ふふふ──」
教祖は、ひどく不 気 味 な声をあげた。思わずぞっとして、後退りする──と、いきなりマクドガルは、身体の下になっていた手を抜き出した。その手には、拳 銃 が握 られている。マクドガルが、どこに狙 いをつけようとしているのかは、オーフェンには分からなかった──意識が混 濁 しているのか、マクドガルの狙いはまず天井を向き、そしてこちらを経 由 して──自分のこめかみに銃口を触 れさせる──
ばんっ!──
──......
暴発した銃弾は、そのままマクドガル自身の頭 蓋 骨 を撃 ち抜いた。首をひっぱられた人形のように、銃弾の衝 撃 でマクドガルの首が伸びる。そして──秘密を知る男は、そのまま横倒しに倒れていった。
「な............」
絶句してオーフェンが立ち尽くしていると、不意につぶやく声がした。
「お前さんの魔術、どうやら拳銃そのものに直撃したらしいな──で、シリンダーが熱を持っちまったんだろうよ。ほれ見ろ、拳銃を持ってる手とグリップが、焼け溶 けてくっついちまってるぜ。シリンダーがこれだけ熱を持てば、そりゃ暴発もするわな」
サルアだった。近くの部屋に逃げ込んでいたらしい。自分の剣を持って、後ろに、例の毛布の女も連れている。
いまだ、ぱちぱちと火の粉をあげる廊下の床を踏 み締 めて、サルアは肩をすくめた。
「ま、これで俺の任務は完了だな──村の中でこの男を殺すのは危険すぎっから、やめてたんだけどよ。この状 況 なら、俺が犯人にされるってことはねえだろうし。村人にフクロにされるってこたあ、ねえだろ」
と、後ろの女が、口元に手を当てて恐 ろしげな声を出す。
「ね、ねえ、あんた、どうして人が死んでるのよぉ」
「気持ちのいい朝だからだよ。なあ、キリランシェロ?」
サルアがウインクしてくる。オーフェンは、なにも反応しなかった。
「どした? 別にあんたが殺したわけじゃねえんだから、気落ちするのは損ってもんだろ? じゃあ、俺は行くぜ──約束どおり、フィエナは俺が連れ出しておく」
「............」
「ね、ねえ、あんたぁ、どうして人が死んでるってのに、あんたそんなに冷静なのよぉ」
「日 頃 の精 進 てやつだよ。決まってんだろ?」
ふたりは、そんなことを言い合いながら、ぱたぱたと玄 関 に向かっていった。と、出ていく瞬 間 、サルアが肩越しに言ってくる。
「結果オーライだったから言うわけじゃねえけどよ。俺、裏切り者ってのは結構好きなんだ。じゃあな」
「............」
サルアはそのまま、気楽に姿を消す──それを見送りながら、オーフェンは呆 然 と考えていた。
(暴発じゃない......マクドガルは確かに、一度俺を狙ってから、自分の頭に銃口を当てた。奴 は、自分で引き金を引いたんだ)
確信的に、最後の数瞬を思い出す。
(なんでだ?......魔術で癒 されたのがそこまで許せなかったか? いや──秘密を漏 らせないから......か?)
「なんにしろ、馬鹿な死に方だよ、マクドガル」
オーフェンはぽつりとつぶやいた。額から流れる血を、手の甲でぬぐいながら。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず笑みまでが漏 れる......
「へっ......大騒ぎして、こんだけのことなんだからよ。俺もどうかしてる──暴発でいいじゃねえか。どうかしてるっていえば、本格的にどうかしてるな、今朝は──まさかあの極 楽 ダヌキどもに命を救われるとはよ」
マクドガルに撃 たれそうになった一瞬のことを思い出し、口の端を無理やり笑みの形にする。緊 張 が解けて、泣きそうな気分ではあったが。
「タヌキも、たまにゃ役に立つってことか。今回ばかりは礼を──」
そこまでつぶやいた瞬間、屋敷の外から聞き慣れた声。
「みなさぁん!──」
屋敷でこれだけ大騒ぎをしたのだから、当然外には人だかりがしているだろう──その気 配 は、壁を越して肌 に伝わってくる。オーフェンはなんとなく廊下を見回した。いつ逃げ出したのか、地 人 たちの姿がない──
サルアの言葉を思い出した。この状況なら、俺が犯人にされるってことはねえだろうし──なら、誰が犯人にされるんだ?
それには、外から聞こえてくる叫 び声──ボルカンの声が答えてくれた。
「みなさぁん! 大変です! 邪 悪 な魔術士が、我らが敬愛すべき教祖さまを虐 殺 しましたよおっ!」
「やっぱり、あの馬鹿は......」
オーフェンは頭を抱 えて、屋敷の外で巻き起こる村人たちの怒 声 を聞いた。
◆◇◆◇◆
「......ヒマだわ」
草 陰 に隠 れるようにして、クリーオウはつぶやいた。その横で、仏 頂 面 の男たちが順番に返事する。
「おう」
「ああ」
「へえ」
「............」
クリーオウは剣の鞘 を抱いて、じろりと三人を見やった──みな三十歳ほどの、レンジャージャケットを着た男たちで、なにやら文句ありそうにぶつぶつとぼやいている。
例の村の、外れである。目の前に小屋が並んでいるせいで、村の中からこちらは見えないだろう。小屋は、すべて納 屋 かなにからしいが、入口も向こう側にあるらしい。ちょうど一昨日の真夜中にオーフェンと隠れていたのと同じしげみに、クリーオウはいた。オーフェンに言い付けられた通り、連れてきたレンジャー三人と村の外れで待機している。
「覇 気 がないわねー」
口をとがらせてそう言うと、レンジャーのひとりがため息をつく。クリーオウのように武装はしていないが、護 身 用の鉄 棒 を持っている。五十センチほどの長さで刃物等を受け止める返しもついていて、これはレンジャーの標準装備のひとつである。
「なんで昨日 のうちに救出できなかったんだ?」
「だって......しょうがないじゃない。オーフェンが朝まで動くなって言うんだから。なんで納 得 しちゃったのか、自分でもよく分かんないんだけど......」
「人質に指示されて動く救出部隊ってのは、いったいなんなんだ......」
レンジャーのせりふに、クリーオウはぴくりとこめかみをひきつらせた。
「あんたら、どーしてそう、人の気勢ばっかり削 ごうとすんのよ。詰 め所 を出るときも、やれ靴 紐 が切れただの、飲みかけのティーカップがひとりでに割れただの、姿もないのに猫 の鳴き声が聞こえただの、飛び立ったカラスに脚 が三本あるのが見えただの......」
「詰め所を出るときもって、自発的に出てきたように言われたくないなあ。刃物で脅 された上に、ひとり人質に取られたから、こんなトコまで──それに靴紐のことも、そんだけ重なれば、むしろ不安になるほうが当然の反応だと思うんだが......」
「なあに言ってんのよ!」
と、クリーオウは深 紫 の耐 刃 ジャケットの胸を、どんと叩 いた。
「わたしなんて、オーフェンにくっついて家を出てからってゆーもの、毎日のように靴紐は切れるわ、ティーカップは割れるわ、落っことしてもいないのに手 鏡 は割れるわ──いいかげん慣れっこよ」
「──で、平 穏 無 事 な旅だったのか?」
「う......」
レンジャーのつぶやきに、クリーオウは一瞬だけ躊 躇 したが、とりあえず無視して村のほうへと向き直った。
「とりあえずは、作戦を立てないといけないわね。どこが警 戒 手 薄 かしら」
熱っぽく語るも、レンジャーたちはごまかされない。
「なあ......やっぱり、なにかがどこかで間 違 ってたような気がしねえか?」
「疫 病 神 なんじゃねえかな」
「母ちゃんの遺 言 なんだけどよ......金 髪 にだまされると救いがねえぞって──」
「ああ、もう! うるさいわね! わたしが悪かったわよ!」
クリーオウは小声で怒 鳴 って、もう、というように膨 れっ面 をした。
と──
「あれ?」
妙 なものに気づいて、クリーオウは声をあげた。彼女の足元──お気に入りのスニーカーの爪 先 に触 れるように、なにやら黒い髪 房 のようなものが地面に落ちている。房は、一握りくらいの太さで、クリーオウは一瞬それが黒いキツネの尻尾 だと思い、そして黒いキツネなどいないということに気が付いた。房──黒い尻尾は、手近な草むらの中へと続いている。長さは──少なくとも草むらからのぞいているかぎりのものは──たいして長くない。犬の尻尾程度だ。
「ねえ、なにかしら、これ」
手近なレンジャーの腕をつんつんとつついて、クリーオウは聞いてみた。レンジャーは、ちらりと見てから、
「さあ......犬の尻尾じゃねえか?」
聞かないでも思いつきそうなことを言ってくる。クリーオウは、そっとその尻尾に触れながら言った。
「犬じゃないわよ、これ......犬の尻尾って、別に湿 ってたりしないでしょ」
「湿ってる......?」
と、ぞっとしたような声を、レンジャーがあげる。
「うん」
うなずいて、クリーオウは無 造 作 にその尻尾をつかんだ。瞬間、がさり、とその草むらが揺れる──
いきなり尻尾をつかまれて、それを確認するような形で草むらから姿を現したのは、真っ黒な子犬だった。くるりと身体を丸めるようにして、自分の尻尾をつかんでいるクリーオウの手と、顔とを交互に見る。その動作は犬にしてはあまりに知性を感じさせたし、それに──子犬と目が合って、クリーオウはぽかんと口を開けた。子犬の目は、鮮 やかな緑色だった。
「ディ──ディープ・ドラゴン──」
レンジャーたち三人が、同時に悲鳴じみた声をあげる──
「ディープ・ドラゴン......?」
クリーオウは、あっけにとられるようにつぶやいた。正確には、その子供だが。
子ディープ・ドラゴンは、声もあげずにクリーオウの手に鼻先を押し付けてきた。甘 えているのではなくて、手を押しのけようとしているのだろうが。その仕 草 に、クリーオウは思わずくすりと息を漏 らした──オーフェンが、この生き物をとてつもなく危険極 まりない暴君のように言っていたのを思い出す。
と──クリーオウは、はっとした。彼女のすぐ横で、レンジャーが鉄棒を振り上げたのだ。その狙 いは──いまだ彼女の手をどけようと無 駄 な努力をしている子ディープ・ドラゴン。
「ちょっとぉ!」
クリーオウは思わず大声を出して、ディープ・ドラゴンをかばうように身体を投げ出した。脂 で湿った真っ黒な毛並みを抱 き締 めた、と思った瞬間──後頭部に、金属の一撃をもらう。鼻から短く息が漏れて、続いて顔面にも鈍 い一撃を受けた──地面に顔を打ち付けたのだ。
「痛つっ......!」
腕の中でもがくディープ・ドラゴンを感じながら、クリーオウはうめき声を出した。驚いたようにレンジャーが声をあげる。
「お、おい──大 丈 夫 か?」
「だ──」
突 然 、猛 烈 に怒りが沸 き起こる。
「大丈夫なわけないでしょ!」
子ドラゴンを抱 えたまま跳 ね起きて、持っている剣の鞘 で男の横 面 を張り倒 す。
「なに考えてんのよ! あんなもんで思いっきり叩 かれたら死んじゃうでしょ!」
「ケガひとつねーじゃねえか......」
信じられないが、という口 調 でつぶやいたのは、別のレンジャーだった。クリーオウは、きっとそちらをにらみつけ、
「この子が、てコトよ!」
と、腕の中の子ドラゴンをあごで示す。子ドラゴンはもうあがくのはやめたのか、あるいは意外と居 心 地 がいいと思ったのか、彼女の胸でこぢんまりと丸まっている。
「い、いや、ちょっと待ってくれよ──」
殴 り倒されて地面に尻 餅 をついたままのレンジャーが、痛むあごを押さえながら声をあげる。
「ディープ・ドラゴンだぞ──《森》の中でこいつらに出会ったら、もう助からねえっつー、あのドラゴンだぞ? 危険極まりない──」
「まだ子供でしょ! それに大声出さないでよ。村人に気づかれちゃうわよ」
クリーオウが言うと、彼は、うっと口をつぐんだ。ここは村の外れで、人 影 も見えないし、大丈夫ではあるだろうが。
「し、しかし......なんでまた、こんなもんが......」
ほかのふたりが近寄ってきて、ディープ・ドラゴンの背中をつつく。クリーオウは肩で、そのふたりの手を遮 った。
ドラゴンは、きょとんとこちらの顔を見上げている。
その鼻先に、ちょんとあごで触 れながら、クリーオウはつぶやいた。
「そりゃドラゴンだって、子供くらいはいるでしょ。この《森》に住んでるんなら、ここにいたって不思議じゃないじゃない」
「いや、ドラゴンってのは、普 通 は人 里 になんか近寄らないもんなんだが......」
「そんなの知らないわよ、迷 子 なんじゃ──」
クリーオウは、不意に言葉を飲み込んだ。なにがあったというわけではない──ただ、背後から、なにか圧 倒 的 な威 圧 感 のようなものを感じた。見ると、こちらを見ていたレンジャーたちも、いつの間にか彼女から視線を素通りさせて、背後のほうを見上げている。
恐 る恐る、振 り返ってみる──と、そこにはとてつもなく巨大な、黒いものが待ち構えていた。
「うあ──」
うめくように口にして、倒れたままのレンジャーが絶句する。音もなく──本当に文字通り音もなく、そこには巨大なディープ・ドラゴンが立っていた。背の高い木々の間に隠 れていたのだろうが──
「どうして気づかなかったのかしら」
クリーオウは、誰にともなく聞いた。レンジャーが震 え声で答えてくる。
「ディープ・ドラゴンてのは、その気になれば、姿を消すことができるんだってよ......」
「もう駄 目 だ......」
と、ほかのふたりが続けて声をあげる。
「やっぱりそうか──俺の家系は、先祖代々金髪にだまされてるんだ......」
クリーオウは無言で、ディープ・ドラゴンを見上げた。
頭の高さは、三、四メートルはあるだろう。漆 黒 の毛 並 みを持つ、狼 のドラゴン種族。とがった鼻先はじっと静かにこちらを指している。動 揺 など微 塵 もなさそうな落ち着いた緑色の双 眸 に、思わず引き込まれそうになって、クリーオウは、はっと自制した。
(なんてきれいな獣 ──)
胸中でつぶやく。クリーオウは初めて、ドラゴン信 仰 が存在する理由が分かったような気がした。
と、やがて、じっとこちらを見つめていたディープ・ドラゴンの眼 差 しが、ふっと細くなる。そのまま、巨大なドラゴンは鼻の先をこちらに近づけてくると、クリーオウの腕の中の子ドラゴンを、口でそっとつかみ上げた。そのまま、ぶらんとぶら下げられている子ドラゴンを持ち上げて──自分のかたわらに下ろす。地面に触れた子ドラゴンは、なにやら嬉 しそうに、その場ででんぐり返しをした。
親ドラゴンは、そのまま特に気にするでもなく、すうっと首を動かすと、クリーオウらと並ぶようにして村を眺 めはじめた。
(このドラゴンの子供なんだわ。でもなんで、このドラゴンはここに──)
まるでこのドラゴンは、村に用事があって待っているように見える。
「あなたたち、この村になにか用なの?」
問いかけたのは、特に深い考えがあったわけでもない。なんとなく聞けば答えてくれるような気がしたのだ。
が、ドラゴンは答えない。
「ねえ──」
と声をあげかけて、クリーオウはまた、はっと止めた。目の前のドラゴンの、すぐ向こうに──またドラゴンがいる。彼女はあわててあたりを見回した。
「な............」
と、驚 愕 のうめきを漏 らす。彼女らの周 りには──村を取り囲むようにして、無数のドラゴンがじっと立っていた。みながみな子供づれということはないが、身体の小さいドラゴンも、ちらほらと混じっている。
剣を抱えたまま、クリーオウは立ち尽 くした。三人かたまって震えているレンジャーを見やり──ドラゴンの鋭 い鼻先を見やり──早朝の村を見やって、わけもなくかぶりを振 る。夢を見ているのだろうか、と彼女は思った。村を取り囲むドラゴンは、全部で数十頭はいる。そのたった一頭ですら、人間の魔術士が一軍団を編制して繰 り出しても敵 わないのだとオーフェンは言っていた。このドラゴンたちの目的がなんであるかは知らないが、──場合によっては、これ以上ないというほどの危険の中に、彼女も、そして村に捕らわれているオーフェンやマジクもいるということになる。
呆 然 と立ち尽くしていると──靴 の横を小 突 かれた。見下ろしてみると、地面を転がって一人遊びをしていたさっきの子ドラゴンが、またこちらまで転がってきたらしい。
子ドラゴンを抱え上げて、クリーオウは嘆 息 した──だから退路は、ふたりで確保しておいたほうがよかったのだ。
扉 を破って最初に飛び込んできたのは、前にも見たことのあるマクドガルの取り巻きだった──頑 丈 そうな男で、手にナタのようなものを持っている。玄 関 の扉を内側に弾 き飛ばしながら、その男は叫 んだ。
「魔術士め!」
見ると、その男に続いて別の取り巻きたちもなだれ込んできている。真っすぐの廊 下 ──オーフェンは先頭の男に向け、右手を差し上げた。
息を吸い、叫ぶ。
「我は流す天使の息!」
魔術の突 風 が、前のめりに駆け込んできた男たちを一気に押 しもどす。罵 声 をあげながら折り重なって倒 れる男たちを尻 目 に、オーフェンは屋 敷 の奥に向かって駆け出した。すぐに行き止まりなのだが、彼はあわてもせずにまた声を張り上げた。
「我は放つ光の白 刃 !」
指先から放たれた光熱波が壁 を撃 ち抜 く。木の壁が張り裂 ける音が、爆 竹 のように鳴り響 いた。オーフェンは、そのまま壁に開いた大穴から屋敷の裏へと逃 げ出した。もうもうと立ち込める砂煙の中を、一気に駆け抜けて外に出る。幸い外は、そのまま細い裏道に面していた。
「外に逃げたぞおっ!」
倒れたままの取り巻きが、そう叫ぶのが聞こえる。舌打ちしつつ、オーフェンは屋敷を振 り返った。
「マクドガル──」
いびつに製造された粗 悪 な銃 弾 のせいで、頭 蓋 の三分の二が潰 れた男の死体を思い浮かべつつ、オーフェンはつぶやいた。
「埋 葬 はサービスだ」
と、頭の上に交差するように、両腕を振り上げる。躊 躇 せず、彼は最大威 力 で魔術を放った。
「我は砕 く原始の静 寂 !」
瞬 間 ──屋敷を中心に空間に波 紋 のようなものが走り、次いで轟 音 とともに大 爆 砕 が起きる。粉々になって砕け散る屋敷の破片から身を躱 し、オーフェンは駆け出した。屋敷の爆発は追っ手を妨 げてくれるだろうし、あるいは──その威力を見れば──追 撃 をあきらめさせてもくれるかもしれない。瓦 磔 の下敷きになった取り巻きたちは気の毒だが、死ぬことはないだろう。ショックで耳が遠くなることはあるかもしれないが、そこまでは知ったことではない。
屋敷が崩 れ落ちる騒 音 に紛 れて、あたりから村人たちの悲鳴もあがる。
戦 況 を味方につけるには、いくつかの方法がある──そのうちのひとつは、混乱を起こしながら自分は冷静であること。
オーフェンは走りながら無 造 作 に右手を横に向け、そちらを見もせずに魔術を放った。
「我は放つ光の白刃!」
膨 大 な光の奔 流 が、大気をかきまぜて螺 旋 の渦 にする。爆光はそのまま数軒の小屋を飲み込んで消失させた。溜 まった熱が、爆発、炎 上 する。
(うまく陽動になってくれればいいが......)
オーフェンは思いつつ、光熱波を放ったのとは反対方向に足を向けた。
と──数メートルもいかないうちに、行く手にばらばらと人 影 が現れる。
「いたぞ!」
「いたさ!」
オーフェンは叫びかえすと、すかさず魔術を放った。
「我は呼ぶ破 裂 の姉妹!」
数発の衝 撃 波 が炸裂し、村人たちをなぎ倒 す。
「......え?」
仲間が倒れた中に、ひとりだけ残った若い男が、間の抜けた声をあげた。倒れた同 胞 をきょろきょろと見回して──
見回しているうちに、オーフェンは、さっと近寄って男の肩に手を載 せた。
「こ、この──教祖様の仇 ──」
手にした角材を振 り上げる男の下腹に、オーフェンは容 赦 なくひざ蹴 りを打ち込んだ。身体を折って、うっと声をあげる相手に、さらに後頭部に肘 を打ち下ろしてとどめを刺 す。男は、そのまま苦 悶 のうめきをあげて卒 倒 した。
「まずいな......数が多すぎる」
オーフェンは、立ち止まらずにうめいた。半数の敵を欺 いても、その残りの人数に追い詰められれば同じことだ。
(それに──なんだ? 嫌 な予感がする......)
「お師 様 っ!」
呼びかけられて、オーフェンは振り向いた。脇道から顔だけ出して、マジクが手 招 きしている。
思わず、オーフェンは怒 鳴 った。
「なにやってんだ? こんなとこで!」
「だ、だって──」
マジクは、そろそろと道から出てきて言い訳してきた。
「お師様に言われた通り連れ出しに行ったんですけど、フィエナが──いなかったんです。塔 の部屋に。それで、村の中を捜 してたら、この騒 ぎが──」
「なんでさっさと逃げ出さなかったんだよ! 俺ひとりならまだしも、お前まで連れて逃げられるか!? 」
「でも、お師様が言ったんですよ。フィエナを村から連れ出さないと、彼女、マクドガルに殺されることになるって......」
そんなことは言っていないのだが、都 合 のいいように解釈したらしい。この生徒は。
オーフェンはいらだたしげにマジクの襟 首 をひっつかまえると、彼がいた脇道に引きずり込んだ。
「見つからなかったらクリーオウと落ち合ってとっとと逃げろとも言ったはずだぞ、俺は」
どうせ、フィエナのことはサルアにも頼んであるのだ。どのみちマジクが彼女を連れ出すことに関しては、さほど期待してもいなかった。
だが言われて、マジクは困ったように顔をしかめた。
「お師様の言うとおりにばかり動けないですよ」
「ったく──いちいち都合のいいように、言い付けを聞いたり聞かなかったり──」
オーフェンは毒づきながら、額の汗をぬぐった。まだ早朝だが、だんだんと気温が上がってきている。と──
「うわあーっはっはっはあっ!」
村中に響 き渡るような哄 笑 が、朝の空気を耳 障 りに汚 す。
オーフェンは、半眼でつぶやいた。
「よおく覚えとけよ、マジク。あれが俺の敵だ」
「......知ってます。言われなくても」
言って、マジクも似たような顔でうなずいた。
哄笑は続く。
「行くのだ村人たちよ! 邪 悪 な殺人魔術使いを討 ち滅 ぼせ! これは決してダーツの的 にされた私 怨 ではなく大 義 であるためあしからず!」
言うまでもなくボルカンの声である。いつの間にか村人たちを扇 動 する役に回っている。
「そーかなぁ......」
と、ドーチンのつぶやきも続いた。
思ったより声が近いので、オーフェンはあたりを見回した。といっても、路 地 に身を隠 しているため周囲の様子などよく分からないのだが。
「こうなりゃ......」
決心したようにため息をつくと、オーフェンは少し腰を落としてから、両腕を振って反動をつけ飛び上がり、手近な小屋の屋根によじ登った。あちこち火の手があがっている村を、屋根の上から一望する。
と、すぐ近く──実を言えばすぐ真下の道を、十数人の村人たち(主に子供だ)を引き連れて、ボルカンとドーチンがのしのし歩いている。
オーフェンは、反射的に叫んでいた。
「我は築 く太陽の尖 塔 !」
刹 那 、なんの前 触 れもなくボルカンが火柱に包まれる。
「どああああっ!? 」
ボルカンを取り巻いていた子供たちも、悲鳴をあげて逃げ散った。ドーチンはいいかげん慣れているのか、別にあわてもせずに、ちょっと離 れたところに避 難 する。かなりの時間ばたばたと、なかなか愉 快 な踊 りをしてからボルカンの火は消えた。ぼろぼろに焦げながら、それでも元気に地人が叫ぶ。
「てめえコラ!」
と、こちらに向かって指さしながら、
「挨 拶 もなしに人を火だるまにする奴 があるか! 夜明けの軍歌で奇 襲 し殺すぞ!」
「それはよく分かんないな......」
と、これはドーチン。オーフェンは無視して叫んだ。
「ぃやかましいっ! てめえこそ、問答無用で人を売りやがって!」
「卑 劣 な人殺しは、当然裁 きの手に委 ねられるべきだろーがっ!」
「このリンチ集団のどこが裁きの手なんだよ、福ダヌキ! だいたい俺は殺してねぇっ!」
「分かるものか地 獄 の砲弾男! 村人のみなさぁん! こいつが人殺しですよぉっ! 寂 しいポエムで読み上げ殺して──」
「死ぬかあああっ!」
オーフェンは声量を振 り絞 って怒鳴ると、それを呪 文 にしてボルカンを吹き飛ばした。光熱波の爆 流 に押し流されて、さすがにボルカンも口を閉ざす──というより、悶 絶 したようだったが。
と、背後から悲鳴。
「う、うわあわ!」
叫びながら屋根に上ってきたのはマジクだった。端 正 な容 貌 を恐 怖 に引きつらせて、どうやら追いかけてきた村人たちに、無理やり屋根の上に押し上げられたらしい。風が吹いて、オーフェンの髪 を撫 でた──
それを合図にしたように、オーフェンはさっとあたりを見回した。彼とマジクが立っている小屋を囲むように、すべての村人たちが集まってきている。もともと包囲されているのは知っていたが......
「追い詰められたか」
オーフェンがつぶやくと、足元を気にしながらマジクが駆 け寄ってくる。
「お師 様 ぁ。どうするんですか?」
情けない声をあげる。オーフェンは嘆 息 した。
「ンなこと言ったってよ......」
教祖を殺したのは自分ではないと言ったところで、耳を傾 けてくれそうな人間はいない。こうなれば......

オーフェンは、マジクの肩を思い切りつかんだ。
マジクがうめく。
「げ──い、痛いですよ、お師様」
「お前もつかまってろ。離 れたら死ぬぞ」
「......え?」
「村の外まで、魔術で転移する。少なくとも、声のとどくところまではな」
オーフェンが言うと、マジクはほっと安 堵 の吐 息 を漏 らした。
「なんだ──そんなことができるんですか」
「できるにはできる──万にひとつの奇 跡 が起きれば、生き延びることができるかもしれない」
「......はあ?」
「転移の魔術ってのは、よほどの熟 練 者 が試みても、極 端 に成功率が低い──十メートルの距 離 を跳 ぶのでやっと。その倍の距離になれば、数パーセントってところかな。声のとどくかぎりとなれば、コンマ以下だ」
「そ、そんなあ!」
マジクが悲鳴をあげる。オーフェンは無視して、視線だけで周囲を見回した──こちらを包囲した村人たちは、殺気立って手にした武器を掲 げている。何人か、屋根に上ろうとしている者もいた。迷っている時間はない。
「失敗すれば、全身の細 胞 が沸 騰 して完全消 滅 を起こす。転移する間に壁 やらなにやらの障害物が入れば、それだけで衝撃死する可能性も高いしな。それでなくても、大気摩 擦 だけでとてつもない熱量が発生する。身体がそれに耐 えられなければ、一瞬で衰 弱 死 する」
と、数百の村人たちに視線を転じて、続ける。
「あるいは、この連中と力つきるまで戦争するかだ。どっちを選びたい?」
「どっちも死ねって言ってるようなもんじゃないですか」
泣きそうな顔でつぶやくマジクに、オーフェンはかぶりを振った。
「いや、違う」
「は?」
「どちらにも生き延びるチャンスはある。くそ......せめてフィエナがいれば、彼女を人質にするってテもあったんだがな」
「させませんよ、そんなこと」
マジクがつっかかってくるが、オーフェンは無視した。意味のない口論をしても仕方ない。既 に鍬 を持った男がひとり、屋根に上がってきている。
「今までもロクなメにゃあわなかったが......こいつは極 め付けだな」
オーフェンは拳 を固めると、そちらに向き直った。やはり転移の魔術はリスクが大きすぎる──それでも最後の手段となれば、考えないわけにはいかないが。
「くそっ」
オーフェンは口の中で吐 き捨てると、躍 りかかってきた男を屋根の上から突き落とした。
◆◇◆◇◆
「......よう。ちゃんと待ってたみたいだな」
サルアが声をかけると、薄茶色のマントをすっぽりと羽 織 ったフィエナは顔を上げた。この半年間で伸 びた髪 を後ろでポニーテイルにまとめ、マントの下も、巫 女 服 ではなく普通のシャツの襟 刳 りがのぞいている。
村の、騒 ぎからはかなり離れた一角である。喧 噪 と、魔術が爆 発 する音が聞こえてくる。だがそれも、遠い場所の出来事のように小さい......
彼女はまずこちらを見て、そして伏 せるようにまぶたを落とした。
「あのひとは連れていかないんですか?」
「? どのひと?」
サルアがすっとぼけて聞くと、少女は少しためらうように肩をすぼめた。
「だから......マクドガルの使用人の。知ってるんです。あのひとと、恋人なんだって」
「俺とあの女?」
別に、そういった仲ではない。少なくとも、兄の逆 鱗 に触 れるのを分かっていても、郷里につれていかなければならないほどの仲では──とはいっても、フィエナ相手にそれを説明できる自信は、サルアにはなかった。
(俺を、女ひとり片腕に抱いて凱 旋 できるヒーローだとでも思ってるのだかね? しがない、みじめな暗殺屋をよ)
サルアは剣帯をがちゃつかせながら、答えた。
「彼女は、この混乱だからな......はぐれちまった。どのみち、この村の人間なんだからよ、ここにいるのが幸せなのさ、彼女は」
正確には、彼女を連れてこの騒ぎを切り抜ける自信がなかったので、わざとはぐれるように足を速めたのだが......せりふの後半は、むしろ本心に近かった。
「行くぜ──あの魔術士が、みんなの目を引き付けてくれてる間によ。なあに」
と、サルアは安 請 け合いして手を振った。
「マジクとかいうガキのことを心配してるんだろうが、死にゃしねえよ──ああ、死ぬわけがねえ」
こっそりと目を光らせる。喜 悦 に。
「こんなところで死ぬわけがねえさ......特に、あいつはな」
フィエナは、それでも安心はできないようだった──不安げに、村の中心を遠く眺めている。彼女は、ぽつりと聞いてきた。
「わたし......逃げてしまって、いいんでしょうか」
ざっ──と、サルアの視線が彼女を撫 でる。彼は、あっさりと答えた。
「マクドガルを失った村人たちに捕まったら、お前、今度こそ逃げる隙 なんぞないほど完全に監禁されちまうぞ。今度は巫 女 でなく教祖としてな。生き延びるのが最重要だろ──逃げもせずに打ち勝ちたい、なんてのはただの自己満足だ。悪いこっちゃねえけどよ」
「わたし......どこに連れていかれるんですか?」
「キムラックだ。とりあえずは、俺の養女になる。正しくは、俺の兄のな。まあ......あまり幸運なことだとは思わないでくれよ」
「あなたのお兄さん、会いたいです」
「そのせりふを後 悔 する日が、きっと来る」
サルアはため息混じりに、彼女の背中をぽんとたたいた。
ちらりと──ほんのちらりと──背後を見やる。オーフェンの魔術の声が、かすかに聞こえた。
「死ぬわけはねえよな......必ず来るはずだ。俺のところによ。それまでは......そうだな」
彼は小さく、つぶやいた。怪 訝 そうにこちらを見上げているフィエナにも気づかず。
「それまでは、退 屈 だな」
そしてサルアはフィエナを連れ、深き《森》へと出ていった。
◆◇◆◇◆
十五人目で、さすがに息が上がってきた──おまけに、多少の手 傷 も負っている。屋根の上、マジクと背中あわせに、オーフェンは深々と息をついた。
「......あと、どれくらいもちそうだ?」
マジクは答えてこなかった。かぶりを振ったのが、気配で分かる。
(ま、善戦したほうだがな)
戦闘訓練などなにも受けさせていないのに、魔術だけで何人かの敵を撃 退 している。が──
「そこまでだ」
ふと気が付くと、屋根の上に、五人の男が上ってきていた──まだ若い、二十代の後半くらいの男たち。手に拳 銃 を構えている。
「マクドガル親衛隊の残党ってトコか」
オーフェンは、皮肉げな笑みを浮かべながらそう言った。五人の後ろからも、ばたばたと次々別の男が上ってきている。そいつらも、拳銃で武 装 しているらしい。
最初に声をかけてきた男が、続けた。
「罪ある魔術士よ──我らが心臓、我らがマクドガル様の仇 を取らせてもらう」
オーフェンは、投げやりにうめいた。
「好きにしろよ。俺は疲 れた」
「お──お師様っ!? 」
マジクが、驚 愕 の声をあげる。オーフェンは無視した。
「しっかり狙 えよ。一発で仕 留 めねえと、ほかの奴 が俺の命を横取りするかもしんねえぞ」
「......横取り?」
鈍 そうな声で、男。オーフェンはにやにやと続けた。
「おんや? 分かってねえのかな。どうせ、こんな田舎 村のこった。教祖の仇を取った奴が、次の教祖──その程度のシステムなんだろが?」
「う......」
少し驚いたように、男たちが互 いに視線を見合わせる──実際に暗 黙 の了 解 で、そういった取り決めはあったのだろう。なかったとしても、今の一言でその可能性を示 唆 できたはずだ。
(あと一息だ)
オーフェンは、続けた。
「おい、ほら──お前がぼさっとしてっから、後ろの奴が手 柄 を狙ってやがんぞ」
「なにっ!? 」
男が慌てて振 り返る。それに反応してか、反射的に後ろの男たちが拳銃を構えた──
(今だ)
オーフェンは、胸中で叫んだ。くるりと振り返り、マジクをはがい締 めにする──そして渾 身 の力を振り絞 り、彼は叫んだ。
「我は踊 る──」
転移の魔術だ。ほかに方法はない──
「天の楼 閣 !」
「ひああああっ!」
さっきの説明を思い出してか、マジクが悲鳴をあげた。実際、さっきの説明通り、長距離を転移すれば、その成功率は極めて低い──ほぼゼロだ。だが、オーフェンが跳 んだのは、通りをはさんだすぐとなりの小屋の屋根だった。すっ──と視界が開け、傾 いた屋根の上に足を下ろしてから、オーフェンは続けて叫んだ。
「我は放つ光の白 刃 !」
渦 巻 く光熱波が、さっきまでオーフェンらの立っていた小屋の壁 に突 き刺 さる。木製の壁はあっけなく撃 ち抜 かれて、小屋の中に溜 まった熱衝撃波は、屋根ごと小屋を一気に炎 上 させた。絶 叫 じみた悲鳴をあげながら、男たちが転落する。
「やった──」
とマジクが歓 声 をあげるが、結局のところ、事態はさほど好転していない──包囲される小屋が、あちらからこちらに変わっただけだ。案 の定 、村人たちはすぐさまこちらの小屋の真下に殺 到 してくる。
「こうなりゃ──」
オーフェンは、汗をぬぐいながら声をあげた。
「とことんやってやる!」
構えをとる。魔術の構成を編 み──全身から力を振り絞って──
──ふわっ──
とした感覚が、身体を包んだ。あまりにも静かに......優しく。
穏 やかすぎて、それが爆 圧 であることなど気づかなかったほどだった。
しゅわ──!
炭酸水が弾 けるような音が、耳の中に響 く。同時に視界を押 し潰 した光量に、オーフェンは悲鳴をあげた。熱風が、汗を含んだ髪を一気に乾 かす。すべてが終わったとき──
オーフェンは、目を開けた。なにも変わっていない。いや......
恐 る恐る、彼は振り向いた。マジクがぺたんと尻 餅 をついている向こう──村の中心に、なにやら巨大なクレーターができている。そこにあったはずの教団の塔 も......工房も、一瞬で蒸発してしまっていた。
「今のは......」
オーフェンは、うめいた。なにもなくなったクレーターの真ん中に......すうっと、空気から現れいでるように漆 黒 の巨体が姿を浮かばせる。ディープ・ドラゴン=フェンリル。
おお......と、村人たちから感 嘆 の声が漏れた。
ざっ──と、背筋が粟 立 つようなプレッシャーを覚えて、オーフェンはあたりを見回した。いつの間にいたのだか......村の外輪を、ずらりとドラゴンが埋 め尽 くしている。
「オーフェン!」
いきなり、黄色い声が静 寂 を破った。よく見ると、村の中心に現れたディープ・ドラゴンの背中にクリーオウが乗っかっている。なぜか小さなドラゴンを胸に抱いて、その後ろで固まって、レンジャーの装 備 をしている三人の男が真っ青になって震 えていた。
あっけにとられるオーフェンや村人たちの表情にも気づかずに、クリーオウがさらに続ける。
「大変なの──大変なのよ!」
と、ぶんぶんと剣の鞘 を振ってみせる。それにあわせて、抱いている子ドラゴンも首を動かしていた。
「このドラゴンねえ──なんていうか──ものすごく怒ってるみたいなの!」
「......あん?」
「なんだか、ここの村の人をみんな殺すって言ってるの!」
彼女の声を、そのまま肯 定 するように──ディープ・ドラゴンが双 眸 を見開く。
瞬 間 、すべてを焼き尽くすような純白の炎 が膨 れ上がった──あまりの光量に、その規 模 も分からない。またなにかが蒸 発 する音──ちゅん、ちゅんっと小さく弾 かれているのは、金属が沸 騰 する音だろう。すさまじいまでの光の中で──オーフェンは両腕で顔をかばった。吹きつける熱風で、肌 がそのままはがれてしまいそうな激 痛 を覚える。
今度の光が消えると──村の半分が、消えていた。
沈 黙 ──そして──
「きゃあああっ!? 」
泣き出すような、クリーオウの悲鳴。
(たった一 瞥 で──村を消し飛ばしただと!? )
オーフェンは絶望的に、ディープ・ドラゴンを見 据 えた。群衆が、悲痛なざわめきを発する──今の一撃で、村だけではない、村人もかなりの数がその魔術に巻き込まれていた。
「暗黒魔術──か」
太 刀 打 ちできるような次元のものではない......
オーフェンは、ぼやくように言った。ぺたんと力つきたように、彼のひざに背をもたれているマジクが、しゃっくりのような悲鳴をあげている。
「な、な、な......」
と震 えるマジクの肩をつかんで、起き上がらせてやりながら、オーフェンは叫んだ。
「クリーオウ! お前はなんでドラゴンの背中なんかに乗っかってるんだよ!」
「だって──」
少女が、半泣きになって叫び返してくる。抱いている子ドラゴンを示しながら、
「この子の親がさ、この村を滅 ぼすから、下がっててって言うから──止めようとしたら、いっしょにこんなところに跳 んじゃって──」
「ったく──」
オーフェンは毒づきかけて、やめた。なにかが、頭の中に割って入ろうとするような気 配 を感じたのだ。
勘 に任 せて視線を転じると──自然、視線はドラゴンと合った。ディープ・ドラゴンの緑色の瞳 が、輝 きを発する。
《汝 らは、禁 忌 を侵 そうとした》
その声──空気を振 動 させる声ではないが──には、オーフェンは聞き覚えがあった。最初にこの村に潜 入 した夜、彼に精神攻撃をかけたドラゴンと同じ感 触 である。
ディープ・ドラゴン=フェンリルは続ける。偉 大 なる心臓と名乗る村で。
《よって処分する》
群衆の間に、不理解の沈 黙 が降りた──が、やがてドラゴンの言葉が浸 透 していくにつれ、徐 々 に......ヒステリーの波が、沈黙にとってかわる。
あまりにも迅 速 な殺 戮 が始まろうとしていた。
(禁忌......?)
訝 しみながらオーフェンは、屋根から飛び降りた。ドラゴンの視線の一 閃 が、三 度 とてつもない熱量を噴 き上げる──
その光の中に、十数の人 影 が消えるのを、オーフェンははっきりと見ていた。天まで焼き焦 がす真白き炎 が、大気に散る。
「お──」
地面に降り立って、オーフェンは胸元のペンダントをつかんだ。どうしようもない衝 動 が──肺 を震 わせる。
「おあ──あああああっ!」
ペンダントの鎖 を引きちぎり、オーフェンは、それがそのままなにかの武器であるかのようにドラゴンに向けて構えた。こちらを無視して、また緑色の視線を放とうとしているディープ・ドラゴンに叫ぶ。
「我は踊 る天の楼 閣 !」
叫んだのは、転移の魔術だった──だが、転移を行うのは自分ではない。手の中の、冷たい銀のペンダントだ。銀細工のドラゴンの紋 章 は、一瞬にして彼の手の中からかき消え、鋭い音を立ててドラゴンの向こうの空間へと現出した──つまり、ドラゴンの身体を突き抜けて向こうに現れいでたことになる。
空間転移といったところで、文字通り空間を跳 躍 できるわけではない──魔術で質量をごまかして、絶大な加速をかけるといった意味でしかなかった。つまり、目に見えなかろうと壁があればぶつかるのだし 、そんな加速状態で衝 突 したのならば、すさまじい衝撃を受けることになる。しかも、質量的には存在していないわけだから、転移した物質自体はまったく破 壊 されずにエネルギーだけが破 裂 するわけだ。
爆 発 はドラゴンの、喉 のあたりで起こった。爆 衝 とでも呼べばそれらしいかもしれない衝撃波が、ディープ・ドラゴンの身体を横倒しにする──背中に乗っていたクリーオウやレンジャーたちが、悲鳴をあげて落下するのが見えた。
ぴぃぃぃぃ──ぃん──と一瞬遅 れて、空中に跳 ねたペンダントが、かん高い音を立てた。それを合図にするように、ゆっくりと黒いドラゴンが......首を起き上がらせる。
(あれすらも通じねえのか......)
オーフェンは、愕 然 とした気分でよろめいた。
今のは、一種の切 り札 だった。普 段 はまずやらない──人間相手なら、抵 抗 も防御もさせないまま、問答無用で殺してしまうことになりかねないからだ。
もっとも、ディープ・ドラゴンは、その爆発をも魔術で押さえ込んだようだった。
起き上がった漆 黒 の獣 と、オーフェンはじっとにらみあった──ディープ・ドラゴンの魔術の炸 裂 がなくなったわけではない。村を取り囲んでいた数十ものドラゴンたちが、ゆっくりと行動をとりはじめていた。ときおり、光が大気をかきまぜ、振 動 が地面を震 わせる......村はもうパニックで、今さらオーフェンに構う者もいなくなっていた。村人たちみんなが、散り散りになって逃げようとし、そして爆光の中に消える。
オーフェンは身動きできずに、じっとドラゴンの双 眸 を見 据 えていた。大陸最強の戦士......《森》を守護するドラゴン種族。
(ひとにらみされただけで──俺はこの世から消 滅 する)
オーフェンはふと、自分が失禁しそうなほど怯 えているのに気が付いた。勝てるわけがない──
「オーフェン!」
呼びかけられて、彼はびくっと身体を震わせた。どこをどう走ってきたのか、背後からクリーオウが近づいてくる。まだ腕に子ドラゴンを抱いたままで、マジクもいっしょのようだった。振り返らずにいると、クリーオウは、さっととなりに並んできた。
「サポートするわ!」
と、きっぱりと言ってから、ふと困ったように聞いてくる。
「......どうすればいい?」
オーフェンは、なんだか無意味に笑い出したくなってきた。なにもかも投げ出して、やめにしてしまいたい──その一方で、ひどく静かに決心する自分の姿も見ている......
(......まだだ......)
まだ彼になにかできると信じているらしいクリーオウや、マジクの顔を見ながら、また──強い眼 差 しで、ドラゴンを睨 めかえす。
キリランシェロだった頃 とは違 う......今ここであきらめることの意味が、あまりにも大きすぎる。
視線はそらさず、オーフェンは言った。
「これだけの数のドラゴン種族を相手に、勝つことは無理だ。奇 襲 も奇策も、ハッタリもきかねえ──奴 らはこっちの心が読める」
「じ、じゃあ......どうするの?」
クリーオウが聞いてくる。オーフェンは、ため息をひとつついた。少女の腕の中の、きょとんとした顔のドラゴンの首を、むんずとつかむ。
「人質だ」
「オ──オーフェン!」
クリーオウが悲鳴をあげた。マジクも、なんだか驚いたような顔でこちらを見ている。どうも、相手の子供を盾 にとることを予想していなかったらしいが、あまり奇 麗 事 を言っていられる場面でもなかろう。
「俺が本気だってことは、分かるはずだな、ディープ・ドラゴン──」
心を読まれていることは承知で、オーフェンは言った。
「突然襲 いかかってきた理由は聞かない──さっさとこの村から消えるんだ」
ディープ・ドラゴンは言葉を解する──というか心を読むのだが、眼前のディープ・ドラゴンの瞳 が、躊 躇 するように揺 れるのを見て、オーフェンは内心ほっとした。クリーオウやマジクを守るためなら、いかに子供だろうとドラゴンの首をへし折るのにためらいはしないが、実際にそれをやったら当のクリーオウらに八つ裂きにされそうではあった。
張本人(?)たる子ドラゴンは、事態が分かっていないのか、首根っこをつかまれても、気持ちいいと思っただけのようだ。
そのドラゴン──彼女? が、このディープ・ドラゴンの群れ全体のリーダーなのか──彼女が動きを止めると、ほかのドラゴンらも攻 撃 をひかえた。唐 突 にまた静かに、そして痺 れるほど緊 迫 した空気が立ち込める。
「このまま立ち去れば、このガキは解放する。早く決断しろ......俺は暗殺訓練を受けた魔術士だ。やると言ったらやるぞ」
言うオーフェンの手首に、子ドラゴンが小さな頭をすりよせてきている。
答えはない......すっと、眼前のドラゴンの双 眸 が、細くなる。
長い沈 黙 の後に、彼女は告げた。
《好きにするが良い》
「──なに?」
信じられない思いで、オーフェンは聞き返した。ドラゴンは平然と、
《我らの魔術を侮 るな......死したものも蘇 生 させる。我らは戦士だ。傷を与 え、傷を癒 すことが能力──》
そして、緑色の瞳が見開かれる。
《スレイプニルが無を──原初を支配し、ノルニルが創造と管理を司 る。そして我らフェンリルは効果的に敵を排 除 する。我ら種族は、無意味に存在しているのではない──汝 らとは違うのだ。自らを無意味に、無価値にしてしまった汝らとは》
「無価値......だと?」
歯をぎしりと鳴らしながら、オーフェンはつぶやいた。

別に、自分になにかの価値があると信じていたわけではない──それほど楽天的でも、能天気でもなかった。だが──
「人を殺した奴が、言うことを許されるせりふじゃない」
光の中に消えた人 影 を思い出しながら、オーフェンは言った。すっと──子ドラゴンの首から、手を放す。彼はその手をそのまま、巨大なディープ・ドラゴンへと突き出した。
「俺が相手をする。俺が死ぬまでは、ほかの誰にも手を出すな」
「オーフェン──」
クリーオウのつぶやきを、オーフェンは無視した。なんとなく、ありがたくはあったのだが。
《我は汝を称 賛 する。だが、汝は理解しなかった》
ドラゴンが、静かな声を発した。そして、さらに静かな声。
《さらばだ》
次の瞬 間 、ドラゴンと目が合った。
ディープ・ドラゴン種族と視線を合わせて、生き残った人間など、史上に存在していない。ディープ・ドラゴンは殺せるときには確実に敵を殺すのだし、相手の術中に入れば、抵抗する力は人間にはない。相手は、神とまで崇 められる種族なのだ。
だがこのディープ・ドラゴンは、その最初の一 瞥 では、なんの攻撃もしてこなかった。オーフェンは、そのままくるりと身をひるがえし、駆 け出した──
ざわ──
まだ逃げることすらできていなかった村人たちが、ざわめきを発する。かなり数を減じた人込みに飛び込んで、、オーフェンは走った。一目散に、目的に向かって。
逃げているわけではない。
背後から一撃を食らって、それで終わりかという覚 悟 もしていたのだが──その攻撃すらなかった。だがそんなことを考える間もなく、オーフェンはまだ炎 上 している小屋に飛び込んだ。さきほど屋根の上で村人たちに追い詰められ、そして数人の村人ごと魔術で爆発させた、あの小屋だ。
中に入ってから、見回す──壊れた家具やらなにやらに混じって、探し物を発見した。壊れたときに、屋根の上から村人が落としたのだろう、鉄製の粗 末 な拳 銃 。
オーフェンは無言でそれを拾い上げた。シリンダーを外して、まだ弾丸が装 填 されていることを確認する。炎の熱で暴発もしていない、弾倉は四連発。ただし、あまり連射すれば、熱でシリンダーが歪 んで暴発しかねないほどの粗 悪 な代 物 だ。王都でなら十年以上前に、とうに廃 絶 されているであろうモデルである。
ふう──と、オーフェンは吐 息 を漏 らした。
「魔術は通じない──こんな武器が通じる相手じゃない──素 手 で戦える相手でもない」
人間の考える小 賢 しい策 などが通じる相手ですらない、とオーフェンは胸中で付け加えた──ディープ・ドラゴンは、こちらの心を読むこともできる。
がちゃり、と手の中の拳銃を振って、オーフェンはシリンダーを定位置にはめ込んだ。普通持つべき左手ではなく、右手で、ぎゅっと銃 把 を握 る。
《準備はできたか?》
──唐 突 に、声が頭に響 く。
オーフェンは、反射的に叫んでいた。
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
同時に、左腕を振り上げる。
振り上げられた腕に紡ぎ上げられるように、無数の光の輪で出来た網 が、彼の身体を包んだ。そして、すべての視界が光に覆 われる──
そのまま眼球が沸 騰 するのではと思うほどの熱量が、彼の身体を圧 倒 した。もっとも、そう思ったのは錯 覚 だったのだろう──皮 膚 は火傷 ひとつ負わなかったし、拳銃も暴発しなかった。ただ、すべての光が消えたとき、彼がいた小屋は塵 すら残らず蒸発して消えていた。
光の網も、消える。
ふうっ......と、砂を含 んだ風が一 陣 ──オーフェンは、ディープ・ドラゴンと対 峙 していた。小屋だけが消 滅 し、あとは彼が小屋に飛び込む前とまったく変わらない景色が残っていた。こちらを見 据 えるディープ・ドラゴン──村の周囲をドラゴンらに囲まれて、逃げることすらできない村人たち。そして村人たちとは少し離れたところで固まっている、クリーオウとマジク──クリーオウはまだ子ドラゴンを胸に抱いている。いつの間に合流してきたのか、レンジャーたちの姿もあった。
オーフェンは無言で拳銃を両手に 構えなおし、引き金を引いた。ぱんっ、と少なからぬ反動が、腕を通して彼の肩をたたく。弾丸は正確にドラゴンの左目を狙 い──そして──銃口と目標のちょうど中間のところで、ぱっと弾 けて虚 空 に消えた。
ドラゴンが、魔術で撃 ち落としたのだ。
オーフェンは、気にせずに口を開いた。
「俺は今から、すべての力を以 てお前を相手する──すべての武器、すべての能力、すべての経験──なにもかもすべてだ」
《ほう?》
と、ドラゴン。なにも動じた気配がない──当たり前と言えば当たり前だが。
オーフェンは、やぶにらみの目をさらに傾 けた。
「俺の前で人を殺すな──ムカついてくるんだ」
《......怒りを持つな。それでは我らには勝てぬ》
「......!? 」
オーフェンが訝 ると、ドラゴンはさらに続けた──無表情な声で。
《我らを憎 むな......我らは戦士の種族だ。主たる者に命じられて、我らは戦う》
ぎしり──と奥歯が鳴った。
「抵 抗 できない人間を殲 滅 するのが、戦いか、お前らの!」
《我らに命じる者が、この村が不要になったと判断した──》
その声に反応したのは、オーフェンではなかった。
「不要だと──!? 」
恐 怖 に引きつった悲鳴が、村人たちの中から沸 き起こる。
「あんたらを、崇 めていたんだ──」
《それも知っていた。使い魔を潜 入 させていたからな》
「使い魔......?」
強力な精神支配により、五感をも共有する生物──通常、術者よりも知能において劣 る生物を用いる──
オーフェンの脳裏に浮かんだのは、フィエナの顔だった。
《そう、あの巫 女 だ──》
ドラゴンは、どういうつもりか、聞いてもいないことまでしゃべりはじめた。
《我らが主は、マクドガルという男の持っている情報を必要としていた──あの男を飼 うために、この村は打ってつけだった》
「......情報......」
銃 把 を握 る手が痛い──気が付くと彼は、それほど強く鉄の塊 を握り締 めていた。
(このドラゴンども──いや、その主とかいう奴は──)
俺と同じ情報を欲しがっている、とオーフェンは悟 った。マクドガルが、マクドガル元教師が、キムラックでなにを見たのか──
《フィエナは手間取ったが、あの男が既 にその情報を失っていると、我は判断した。彼は正気を失っていたのだ。彼は結局、恐怖に追われてここへ逃げ込んできただけだった》
その判断は恐らく間 違 っているとオーフェンは思ったが、反論はしなかった。マクドガルが死んでしまった今、もう無意味なことだ。
その代わり、彼は別のことを聞いた。
「なぜ......そんなことまで、俺に話す」
《それは当然──》
ドラゴンの目がうっすらと光ったような気がした。
《汝 を新たな使い魔とするためだ》
「────!」
オーフェンはとっさに、後方に跳 んでいた──魔術を避 けるときの癖 で、跳び退 りながら防御のための魔術を編もうとしている。が、これは今回は完全に失敗だったと彼は悟った。ディープ・ドラゴンの暗黒魔術は、人間の力ではまったく防げない。
後ろに跳んで、ドラゴンからは遠ざかっているはずなのに──ドラゴン種族の緑色の双 眸 は、いきなりとてつもなく大きくなったように見える。精神支配の影 響 である。
とりあえず、彼は叫んでいた。
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
こんなものでディープ・ドラゴンの魔術は防げない──
が、光の網 が彼とドラゴンとの間を隔 てた瞬 間 、それまでドラゴンから受けていたプレッシャーが、あっさりと霧 散 する。
(────!? )
オーフェンは、信じられない思いで、それでも次の魔術を放っていた。
「我は放つ光の白 刃 !」
網が消えると同時、その残像を撃 ち抜 くように、純白の光熱波がドラゴンの顔面を狙 う。が、それは、ドラゴンの元にとどく前に、吹き消されるように霧散した。
刹 那 、オーフェンの頭の中に閃 くものがあった。
(そうか──こいつら──)
《気づいたようだな》
落ち着き払った声で、ドラゴン。だがその平静な声も、もはやオーフェンをいらだたせはしなかった。
胸中で、叫ぶ。
(勘 違 いしていた──こいつらは、別に神でもなんでもない──ただの魔術士 なんだ!)
『魔術』は万能たり得ない。全能たる力を有するのは、神々の『魔法』だけである。
かといって、ディープ・ドラゴンと自分との能力の隔 たりが一歩でも近づいたわけではないのだが、それでもオーフェンは、奈 落 の迷宮から出口を発見したような心持ちになっていた。
自分の音声魔術が、声のとどかないところには効果が及ばないように──
(こいつらの暗黒魔術は、視線のとどかないところには効果が及ばないんだ!)
圧倒的な熱量で村ごと消し飛ばされれば、それまでであるが、少なくとも精神支配だけは、その視界を遮 るだけで防ぐことができる。
「マジク!」
オーフェンは、拳 銃 を立て続けに二射しながら叫んだ。動態視力に優 れたドラゴンは、その弾丸すらをも見て破 壊 する。もとより、そんなもので倒 せる相手でないことは知っていたが。
「あれ やれ!」
「あ──あれ、ですか?」
マジクが、いきなり叫びかけられてびっくりしたように──そしてクリーオウがいるほうを、バツ悪そうにちらりと見てから、それでも呪 文 を唱 え始める。
(ん......?)
マジクが魔術の構成を編みはじめたのを見ながら、オーフェンは、ふと訝 った。マジクの視線を追ったのだが──クリーオウが、少し移動している。
(また、なんかやるつもりか、あいつ──?)
その瞬間、ややかん高いマジクの声があたりに響 き渡った。
「我は乱す光 列 の檻 !」
用途の割には物々しい呪文を考えるものだとは思うが、そんなことを苦笑している暇 はなかった。彼の周囲の光景が、金属板をくしゃくしゃに丸めたように、めちゃくちゃに歪 む。マジクの、一応、最も成功率の高い魔術──つまるところは使用頻 度 が高いということだが──
《貴様、視界を──》
ドラゴンが、あくまで落ち着いた声でうめく。ただし、視界が遮られているせいで、その声はだいぶ聞き取りづらくなっていた。
「その通り──」
オーフェンは言った。
「光を屈 折 させたのさ。本来なら、死角を補 うために使うんだがね!」
「あわわわ」
と、これはマジクが動 揺 した声。クリーオウに聞かれると思ったのだろうが、そんなことに構ってはいられない。
その間に、オーフェンも魔術の構成を編み上げてある。彼は右手を──空っぽの右手を差し上げて、声を張り上げた。
「我は築く太陽の尖 塔 !」
ぎゅおうっ──圧縮されたものが膨 れ上がる、こすれたような音が響き──
遮られた視界が、不規則に深 紅 に染 まる。狙 いが狂 っていなければ、ディープ・ドラゴンを炎で包み込んだはずだ。
《こんなことで、我を凌 駕 することはできぬぞ──》
「知ってるさ!」
だが、視界を狂わせたのは、なにも相手の魔術を撹 乱 するためだけではない。
(うまくいってくれ──)
オーフェンはぎりぎりの感情を込 めて祈 った。相変わらず、なにに祈ったかは自分でも分からない。あるいはドラゴンの種族に魔法の秘 儀 を盗 まれた、間 抜 けな神々にかもしれない。結果が出るまでは──出るとしたらだが──もう一瞬もかからないはずだ。
(駄 目 か──?)
覚 悟 を決めて、無 駄 と知りながら次の魔術を放とうとした、そのとき──
ばんっ! という、あまりに小さな破 裂 音 と、そしてドラゴンの悲鳴とが響き渡った。
炎のかけらを纏 わり付かせ、地響きを立ててディープ・ドラゴン=フェンリルが横倒しになる。その目の上あたりが、べったりと血 糊 で濡 れているのが見えた。村人たち──そして、村を取り囲んでいるドラゴンたちが、大きなどよめきを発する。
「拳銃の暴発だよ」
オーフェンは、しっかりとドラゴンをにらみ据 えながら言った。
「視界を遮ったのは、細 工 を隠 すためでもあったのさ──あんたの頭のあたりに拳銃をほうってね、魔術で炎を起こした。既 に三発も撃 ってシリンダーが過熱してたんだ。少しでも熱を与 えれば、残った弾丸が暴発するさ。しょせんは粗 悪 な模 造 品 だ。暴発すれば、粉粉に砕 け散る。その破片が、うまいことあんたに命中するかどうかは、はっきり言って分の悪い賭 けだったがね」
《そして精神支配を遮っておけば、その策 も読まれることはない、か──》
至近距離での拳銃の暴発が直撃すれば、軽傷だったはずはないのだが、ドラゴンの言葉によどみはない。
《だが、我を殺すことはできなかったな》
「............」
それは事実だった。ドラゴンには、まだまだ余力がありそうに見える。それでなくても、村を取り囲んでいる数十ものディープ・ドラゴンたちがいるのだ。
勝ち目が見えたわけではない。オーフェンが押 し黙 っていると、フェンリルは続けた。
《我はまだ、汝 を滅 ぼす力を残している》
「............」
オーフェンは、ぎゅっと拳 を握 り締 めた。
だが、続いて発せられた言葉は、完全にオーフェンの予想を裏切っていた。
《キリランシェロ──汝の名は、知っている》
「......なに......!? 」
オーフェンは、実際に殴 られたように、動 揺 のうめきを発した。ドラゴン種族が人間の個人名を知っているはずがないし、仮に聞いたことがあったとしても、そんなものを記 憶 しているわけもない。
《汝の知り合いを知っている──約束があるため、我はお前を殺せない。連れを助けるために、汝が生命を賭 けると本気で言うのであれば、この場は我らが退 こう》
「な............」
オーフェンはなかばパニックを起こして、ディープ・ドラゴンを見つめた。俺の知り合い──人間とドラゴンが──約束をしただと?
神と崇 められる種族と。
そんなことができるのは──
オーフェンの頭の中に浮かんだ名前は、ひとつしかなかった。
(大陸最強の黒魔術士──人間に考えられ得る、最高の能力 を有していた男──チャイルドマン教師......あんたか!? )
胸中で叫 ぶも、ドラゴンは答えない。
疑問は残したままドラゴンが、すっと起き上がる。ケガをしてもその挙動には音がない。
《だが、この村を滅 ぼすことはやめることができない。《森》の最聖域に立ち入ろうと画 策 した者たちは、滅ぼさねばならぬ》
その言葉に対して、反応もできない。それほど早く、ドラゴンたちが一 斉 に動いた。周囲を囲む、すべてのディープ・ドラゴンらが、その高くそびえる巨 軀 の頭頂から視線を放つ──
オーフェンは確かに、その魔術の対象から、自分の身体が外れているのを悟 った。絶望的なプレッシャーが感じられない。だが、心に覚えた絶望感は、今までの比ではなかった。思わず、両目をきつく閉じる。
(次に目を開けたら──もう誰 もいない──死んでいる!)
目を閉じたまぶたの奥まで、膨 れ上がる光が差し込んでくるような気がする。
(なんで俺の力は、お前たちに通じないんだ──)
痙 攣 するような内臓の動 悸 が、叫びを震 わせる。
(殺してやる──目を開けて、全員死んでいたら、お前たちを殺してやる──!)
激 しい感情は、体力を消耗 させた。がっくりと、地面にひざをつく。無力な拳で地面を殴 りつけて、彼は絶 叫 した。
「俺はキリランシェロだ──俺に殺せないものはない んだ! チャイルドマンが、そう約束した──やめないと、お前らを殺すぞ!」
焦 熱 で乾 いた顔を上げる──と、すべては終わっていた。
村はなくなっていた。完全に、地上から。黒々とした焦 土 の上に、大陸の正統なる支配者たち──ドラゴン種族がずらりと並んでいる。頭から血を流しているドラゴンを中央に。
そして、ちっぽけな人間たちは、一 塊 になってそれと対 峙 している。対峙しているというよりは、教師に怒られて廊 下 に立たされているといった様子ではあったが。
クリーオウも、マジクも、そして村人たちも──誰も死んでいなかった。オーフェン、彼自身も。
地べたにはいつくばったままで、オーフェンは呆 然 とドラゴン種族らを見やった──彼のすぐ目の前に、彼に背を向けて、小さな少女が立っている。
(クリーオウ......?)
かと思ったが、そうではなかった。もっと幼い。フィエナ──あの巫 女 だ。巫女の服はもう着ておらず、ごく普通の村娘といった格好だったが。
《なぜもどってきた? フィエナ......》
ドラゴンの声は荘 厳 に、焦土に響 いた。オーフェンは、それに答える少女の声が、やけに緊 張 してこわばっているのに気づいた──そして、驚くほどはっきりしていることにも。
「知っていたからです......逃げられないでしょう? あなたたちが、《森》の聖域を侵 そうと考えたこの村の人を許さないことを、知っていました」
《そう......我は、汝 には教えた。だから、逃げる機会をも与えてやったはずだ。お前といっしょにいた、あの殺し屋、もう逃げたのだろう?》
「ええ──サルアはわたしが 《森》の外まで転移させました。彼も、あなたが知りたがっている情報を持っているようだったから。彼はわたしの友達だもの。あなたには渡しません。ここにいる人達......誰もです」
と、彼女は、ちらりとマジクのほうを見やった──そして再びドラゴンへと向き直り、両腕を広げて続ける。
「あなたと五感を共有することで、わたしもあなたの魔術が使えるんです──ディープ・ドラゴン種族の中でも、有数の力を持っているあなたの力を。知っているでしょう? あなたたちを追い出すほどの力は出せなくても、あなたたち全員の魔術を無効にするくらいはできるんです」
《汝を選んだことは、間 違 いだったようだ──》
ドラゴンがつぶやいた瞬 間 、フィエナの身体が、ばちっと帯電したように弾 けた──恐 らく使い魔とするための精神支配を解いたのだろう。その衝 撃 で、ぺたんと尻 餅 をつく少女の身体を、オーフェンは素早く抱きとめた。彼女は震 えながら、それでも続けた──
「ええ──間違いだったんです。もっと強い人を選べば良かったんです──強い人なら、あなたの言いなりになんてならなかった。マクドガルを説得して、あなたたちに逆らうような無 謀 な計画を撤 回 させることができたのに、わたしは、怖 くてできなかった......」
そこまでまくし立てるように言うと、彼女は、ひくひくとしゃくり上げはじめた──支配を解かれたことで、緊張の糸が切れたらしい。ヒステリーの気配を感じて、オーフェンはマジクに目 配 せした。多少なりとも親しい人間でないと、過 剰 に興 奮 した人間を落ち着かせるのは無理だ。
マジクが駆 け寄ってきて、泣きじゃくるフィエナの身体を受け取った。オーフェンは、すっくと立ち上がった──

「マクドガルが死んだんだ。もう誰も、お前らの聖域なんぞを侵 そうとは考えないさ。あまつさえ、こんだけの力を見せつけられたんだ......」
《我らは危険性のことを説いているのではない──罪 と罰 について言っているのだ》
脂 汗 を浮かべて、オーフェンは言った。
「これだけ壊 せば、十分だろう」
《聖域を侵すことの意味を知っていないから、汝はそう言える......》
「どんな意味があるってんだ──何百もの人間を一瞬で皆 殺 しにするほどの意味か!」
《まさしく、その通り──》
あまりにもあっさりした返答に、オーフェンが二の句を継げられずにいるうちに、背後から声があがった。
「冗 談 でしょ! だいたい、自分の子供も巻 き添 えにしちゃうような奴は──」
クリーオウだ。オーフェンはあわてて振 り向いた。奇 襲 をかけようとしていたのか、村人たちの陰 に隠 れていたのを、ぱっと飛び出してくる。彼女は金 髪 をはためかせ、胸に抱いたディープ・ドラゴンを高く掲 げた──
「やっちゃいなさい!」
叫ぶ。いや、子ドラゴンに命令したのだろうが。
刹 那 、子ドラゴンの小さな瞳 が膨 大 な輝 きを放った。輝きは一瞬で、巨大なドラゴンの群れの足元に突 き刺 さると、そのまま、さらに数千倍にも膨 れ上がった。空間をもひしゃげるディープ・ドラゴンの暗黒魔術が、視界のすべてを一 掃 する。
地鳴りがとどろき──そして、遠ざかり、次の瞬間には、すべてのディープ・ドラゴンは消えうせていた。あの一撃で死んだわけがない。恐 らくは、転移して逃げたのだろうが。ふうっ──と、風だけが通るその虚 空 に、静かな声が残る......
《この通りだよ、人間の魔術士よ......その子のように、我らは支配されれば、従わねばならぬ......》
「............」
オーフェンは反射的に、クリーオウに抱かれた子ドラゴンに視線を転じた。子ドラゴンは、いつの間にか自分の親にするように、クリーオウの首もとに頭をこすりつけている。
《我らの戦士の力とは、そうした代 償 の上に得たものだ。それは王も女王も同じ......人間の魔術士よ。汝らはそうした価値を失ったと同時、自由をも得た......》
「............」
誰も、なにも口にしない。
《その自由は、管理できない......なればこそ危険なのだ。我らは、汝らを滅ぼすだろう。我ら種族は、この大陸を護 らねばならぬ......》
「だから......なんで、俺に話すんだ、そんなことを」
オーフェンは、棒立ちになってうめいた。ドラゴンが答えてくる──わずかに、勝ちを含んだ口調で。
《言ったであろう。汝を手 駒 とするため──精神支配を受けようと受けまいと、これで汝は我らの希望通りに動かざるを得まい。汝は──》
「我は放つ光の白 刃 !」
オーフェンは唐 突 に叫ぶと、空白の虚 空 を光熱波で焼き払った──その轟 音 で、ドラゴンの最後の一言は聞こえない。聞きたくなかった。
そして声は消える。オーフェンは、じっと立ち尽くしていた。焦 土 を撫 でる微 風 が《森》の枝葉をざわめかせる。
誰も、意味のある言葉は吐 かなかった。まだ泣いているフィエナ──すすり泣くのではなく、もっと強く嗚 咽 している。その背中をたたいてやっているマジクに、助かった安 堵 から、やはり泣きはじめる村人たち。そしてなついてくるドラゴンを胸に、じっとこちらを見つめているクリーオウ。透 き通ったブルーの双 眸 が、こちらの姿を映しているのが、遠目にもなんとなく想像できた。
オーフェンは、じっと無表情ですべてのものを見回した。そして視線を上に転じる。ようやく朝になりはじめた空は、極端なグラデーションに波打っていた。
「......ドラゴン種族は昔、人間の魔術士を滅 ぼすために、人間を使ったことがあるんです。人間に、魔術で造った武器を与えて──中には、人間そのものを戦闘のための人形にもしたんだそうですよ......この村は、そのための人間を集めておく、生 け簀 みたいなものだったんです。村人たちは、その末 裔 ......だから、純 粋 なドラゴン信 仰 者 と言えるかもしれませんね」
落ち着いたフィエナの説明を聞きながら、オーフェンはどうでもいいことだと思っていた。もっとほかに、考えることはいくらでもある。
あれから数時間経 つのに、いまだ出 立 の準備はできていなかった。
村が焦 土 と化したため、持ち出さなければならないような荷物はなにひとつない──のだが、それでも村人たちは時間を欲しがった。今まで住んできた場所を後にするために、必要とする時間を。
誰 も、この場所に残って再び住 処 を築こうとする者はいなかった。自らのドラゴン信仰が崩 れたからだけではない──それだけなら、まだ頑 固 にここに残ろうとする者はいただろう。すべては時間にすればほんの短い、フィエナの説得によるものだった。彼女が、外の世界のことを話したのだ。
黒 焦 げになった土を踏 みながら、自分達の家があったであろう場所を、村人たちは思い思いに眺 めている。その村人たちを、さらに眺めて、オーフェンは横にいるフィエナに聞いた。
「ところで、これからどこへ行くんだ? これだけの人数を連れて」
「......わたしの村に帰ろうかと思っています。ソリチアンに。そこが気に入らない人がいたら、このあたりは、小さな村がたくさんありますから、そっちを案内して。どの村も、むしろ人手は欲しいでしょうから、落ち着く先に困ることはないと思いますよ」
「そいつは、君が考えたわけ?」
にやとしてオーフェンが聞くと、彼女は、手を口元に当ててくすっと笑った。
「マジクが、そう言ってたんです。だから、あんまり気に病 むなって」
「......もう、ドラゴン種族の支配は?」
「受けてません。少なくとも──強くは」
と、彼女は、すっと静かな表情を作ってみせた。
「魔術の力もなくなっちゃいましたけど、でも......なんていうか、必要ないって分かった気がします。あなただって、とても敵 わないはずのドラゴンを相手に戦ったんですし......そういうことですよね」
「さあな」
と、オーフェンは肩をすくめてごまかした。続けて聞く。
「別に、こんなこと知りたいわけでもねえんだけどよ。君は......ドラゴン種族の聖域のある場所を知っているのかな」
聞かれて、フィエナは、さっと首を横に振った。
「いいえ。《偉大なる心臓》──聖域のことに関しては、ドラゴンはなにも話してくれませんでした。ひょっとしたらあの子なら、なにか知っているのかもしれませんけど」
と、彼女が指さしたのは、村人たちの中からこちらに向かってくるマジクとクリーオウ──その足元をぱたぱたとついてくる、小さなディープ・ドラゴンだった。あまり真っすぐに歩けないらしく、ふらふらと曲がっては、でんぐり返しをしてブレーキをかけている。それでも挙動が速いため、クリーオウらの歩速と変わらないのだが。
「あの......」
クリーオウを見ているこちらの胸中を読んだのか──彼女には、もう魔術の力はないはずだが──、フィエナが声をあげる。こちらに気 遣 うように。
「あなたが、あの爆発のときに叫んだことは、誰も聞いていなかったと思いますよ。だから──」
そのあとは口に出さず、フィエナはクリーオウらを出 迎 えるように、歩きだした。クリーオウとはすれ違って、マジクの前で足を止める。マジクも立ち止まって、なにやら話しはじめたようだった。
クリーオウとドラゴンだけが、こちらに近寄ってくる。彼女は、疲 れたというようにため息をついた。同時に、口を開く。
「これ......見つけたわ。返す」
と、彼女が投げてよこしたのは、彼のペンダントだった──剣にからみついた、一本脚のドラゴンの紋 章 。オーフェンはそれを受け取って、壊 れた鎖 をもてあそびながら、彼女に視線を返した。
「あの地 人 たち、探してみたけど、村人たちの中にはいなかったわよ。あの騒ぎだったもの──ひょっとして、その......逃げられなかったんじゃないかしら」
言い終わるころには、彼女はもう目の前に来ていた。オーフェンは、はは、と笑ってそれを否定した。紋章をポケットの中に落としながら、
「馬 鹿 こけよ──あいつらが死ぬかって。なんとなりゃ、その辺に穴でも掘 って生き延びられるよーな奴 らだ」
「......ンなわきゃないでしょ。モグラじゃないんだから」
と、疑わしげにクリーオウ。が、オーフェンは取り合わなかった。金 髪 に覆 われた彼女の頭に、ぽんと手を置いて、
「疲 れたよ......ホントにさ。あとで例のマッサージを頼みたいな」
一 拍 おいて、クリーオウは、瞳をぱちくりとさせた。
「ホント? あれ、やだって言ってたじゃない」
「いや......考えてみれば、あのくらいじゃないと効かねえんだよな」
「そう?」
クリーオウはなにやら嬉 しげに──暴行魔が人を殴 るときに見せる笑みにも似ているような気がしたが──うなずいた。と、オーフェンは軽く手で制して、
「あ、でも、俺より先に、マジクの奴にやってやってほしいな。全力で」
「そ......そう?」
で、俺の番になったら逃げればいいや、とオーフェンはこっそり考えた。クリーオウは、にこにこと続けている。
「もち、やるなら全力よ。お父様も、死ぬほど頑 張 れば死ぬことはないのだ、て言いながら泡 吐 いて卒 倒 しちゃったのが病気の発 端 だったし。よく分かんないけど」
「............」
オーフェンはなにも答えずに、クリーオウの頭を押さえたまま遠くを見やった。四方を囲む《森》──この大陸の二割までも覆 う、巨大な樹海。そしてそのどこかに、ドラゴン種族たちの聖域が──秘密が隠 されている。
《我らの望みどおりに動かざるを得まい──》
ドラゴンの言葉が、耳の中に蘇 る。
(だが、お前らは、なによりもそれを恐れている──)
オーフェンはひとりでくりかえした。
(お前らは、俺に賭 けたんだ。賭けってのは、どちらに転んでも福と禍 が両方あるもんさ)
ならば──
と、クリーオウが声をあげる。
「オーフェン......」
「ん?」
「痛い」
言いながら、彼女は頭の上のオーフェンの手を握 った。どうやら、我知らず力を込めてしまったらしい。
「ああ──悪い」
と、オーフェンは手をどかした。と、声があがる──
「みなさぁん! そろそろ出発します! 日が暮れないうちに《森》を出なければなりませんから──レンジャーの方が道案内をしてくれますから、絶対にはぐれないように──」
フィエナだ。マジクも横で、同じことをくりかえしている。
「お師様あ! 行きますよぅ!」
「ああ」
と、オーフェンは手を振って答えた。
すべてを決心したのだ。身体も軽いし、腕も軽かった。
◆◇◆◇◆
そして誰もいなくなって──
数分前までオーフェンが立っていた地面が、もりっと盛り上がった。焦 げた土を撒 き散らして、地面からぼさぼさの頭が飛び出してくる。
「うべほっ!──うぺっ──げほげほっ!」
口と鼻から土を吐 き出し、咳 き込んで、ボルカンは身体をはたいた。真っ黒の顔をこすって、わめく。
「うう──息ができないのが、こんなに苦しいもんだとは!」
それに答えるように、ボルカンの埋 まっているさらに下から、
「知っててよぅ。そのくらいは......」
「たわけもの! 息ができないなんぞ、初めての体験だったんだぞ!」
と、怒 鳴 りながら、剣の鞘 を足元に突き立てる。ぶぎゃ、という悲鳴が穴の中から響 いた。構わずに、彼は続けた。
「くそったれが──あの極 道 魔術士が、人の上でのんびり立ち話なんぞしやがって! 死んだらどーするつもりだ、あの人殺し! 天 井 の染 み数え殺すぞ!」
「......なら、兄さんもぼくの頭の上でわめくのやめてよ......」
「揚 げ足をとるなっ!」
再び、鞘で突く。今度は悲鳴はあがらなかったが、代わりにため息が聞こえた。
ボルカンは、のろのろと穴からはい出した。身体中泥 だらけだが、普段と大差ないと言えば大差ない。
「むう──それにしても、恐 るべきは金貸し魔術士。幾 多 の強 豪 を打ち倒しても、しょせん最後に立ちはだかるのはあの外 道 野 郎 か」
「誰も倒してないのに......」
ぶつぶつ言いながら、ドーチンも穴から顔を出す──が、ボルカンがぎろりとにらみつけると、あきらめたようにまた穴の中にもどっていった。
ボルカンは、ひとりで続ける。
「しかぁし! 勝つのはこのマスマテュリアの闘 犬 、ボルカノ・ボルカン様よ! あの愚 か者 め、どうしてくれるか見てろよ──」
「どーせ、遠くから見つめ殺すとか、雲に乗って流れ殺すとか、そーゆうのでしょ......」
「ンなことをするかっ!」
穴の中からのつぶやきに、ボルカンは叫ぶ。
「することはひとつ! 俺の力を思い知らせてやる!」
「......どーすんのさ」
まだ穴から顔は出さず、ドーチン。ボルカンは得意げに続けた。あさっての方向に指をさして。
「決まっているだろう! 奴 は重大なミスを犯 した──殺人だ! とりあえず《牙 の塔 》に行って、奴の忌 むべき犯 罪 を告 げ口 してくれる!」
「......あくまで他 力 本 願 なわけね......マクドガルを殺したのがあの人じゃないってのは、ちゃんと見てたはずだけど......」
「はあーっはっはっ! そのよーな世論、恐れはせんぞぉっ!」
動揺のカケラすら見せず、ボルカンは叫ぶ。ようやく穴から顔を出して、ドーチンはつぶやいた。どことなく捨 て鉢 な口調で。
「そーだね。でもその名案を実行するには、とりあえず、この《森》から抜け出す道を探さないとね。どーすんの?」
「......うっ──」
ボルカンの哄 笑 が、凍 りつく。
《フェンリルの森》──戦士たちの故郷。
キエサルヒマ大陸最後の──そして永遠の──秘 境 。巨大にして無言の大樹海は、なにも答えず、焦 土 の傷 跡 をどう癒 そうか、そんなことをじっと考えているようだった。
「どうもこんにちは......本巻の巻末を担当させていただきますフィエナです。若 輩 者 にて僭 越 ではありますが最後までお付き合いいただければ──あれ? どしたんですか?」
「(作者)......いや、その......今回は進行のほうがテンション低いなー、と思って、あっけに取られてしまった」
「わたし、テンション低いですか?」
「うーん......こーゆう雰 囲 気 は苦 手 なんだよなぁ」
「............」
「............」
「......こうなったら配役交替──」
「さあ! 枚数も少ないことですし、はしはし行きましょう! 巻末の進行は『考えてみると今までの巻末キャラでヒロインらしいヒロインはわたししかいないぞ』フィエナでぇーすっ!十四歳、やぎ座のA型──」
「(......このパターンか)なんだかなぁ。で、ぼくが作者の──」
「身長百五十一センチ、スリーサイズはヒ・ミ・ツ♥(実は計ってない)趣味はボートと水遊び♪ チャームポイントは『見えないところに隠してます』♥」
「いや、あの──」
「ちなみにこれが足型よ♥ というわけでわたしの足型付きサイン色紙、読者プレゼントの宛 て先 は──」
「やかましい! と叫びつつ宮戸のソバットぉっ!」
「ひああああああっ!」
「エンジンかけると止まらんのか、このクソアマ!」
「い、いーじゃない。ちょっとくらい自己主張したって......」
「一発使い捨てキャラのプロフィールなぞいらんわっ!」
「ひ、ひどい(泣)」
「ったく、つまらんことで枚数使わしおって......」
「いつか復活してやる......(ぶつぶつ)」
「無理だ無理(笑)。さて気を取り直して、気が付いたら本屋さんで四冊目まで、むくむく増 殖 いたしました、このシリーズでございます。読者の皆様方におきましてはご愛 顧 のほど、毎日毎夜多謝いたしております作者ですが(ホントですよ)」
「にしても、ホントに『気が付いたら』よねー」
「実はこの巻で、このシリーズが世に出てから一周年となるわけですが」
「一年で四冊......シリーズ物のペースとしちゃ、まあまあってトコかしら。連載もあるし」
「けっこー頑 張 ったんだけどなぁ。もっとペースを上げようとはしてるんですけどね」
「ま、それはそれとしてちょっと怖いのは......」
「なに?」
「この巻の内容なんだけど、秘 境 の秘密宗教結社、人質の拉 致 、銃 の密造......って、どこかで聞いたようなネタがずらずらと出てくるのよね」
「ゔ......いまいちしゃれになっとらんが──でも、一応断わっておくと、この話のプロットを作ったのって、去年の十二月のことなんだよ。それに実際の内容にしてみれば、あんま関係ないんだし」
「まあ、そうなんだけどね──とか言いつつ、これでまた次の巻で、地震発生装置を作った某国軍に対して謎 の宗教結社が告 訴 する、とかいうネタ出したら、さすがにわたしも怒るわよ」
「......怒ったところで、もう出番なんてないじゃん、お前」
「あ、あー! またそーゆうことをっ!」
「だいたい、この巻末に出てきたキャラクターは二度と出番がないことになっておるのだ。実は。だから一巻の巻末にアザリーが出てこなかったのさ」
「うっ......そんな罠 があったとは......!」
「もう遅い。しかも今回の巻末もそろそろ終わりが近づいておる。遺 言 くらいは言わせてやろう。ほれほれ」
「なんちゅー性格悪......でもヒロインは負けないのよ! 全国のわたしの虜 さん♥たち──わたしの復活支援ハガキは、編集部気付で受け付けております♥」
「ないないッ! ンなものっ! と叫びつつ──」
「甘いわよ! 迎 撃 ! 栗 栖 正伸の椅 子 攻撃ぃっ!」
「どああああああっ!」
秋田禎信











指についた血を舌でなめて落とす──血の量が多くなければ、これが一番いい。布 でぬぐえば、それをどこかに捨てなければならなくなる。
誰 もいない路 地 裏 ──月だけが目ざとく光を落とすレンガ壁 のはざま。彼は死体となった男を見下ろして、しずかに独 りごちていた。
「あなたはぼくに気づいたみたいだね。ぼくは有名すぎる」
彼は死体に話しかけているのだろうが、死体の男の位置からでは、彼の顔は逆光となってうかがえない。もっとも、死体にとってはどうでもいいことだろう──自分を殺した人間の顔など、見えたところで悪夢が長引くだけだ。
彼は続ける。真っ黒な服に、黒いマント──髪 も黒。すべて黒......だが彼の輪 郭 と闇 との境界線は、たやすくついていた。彼には生命の力が満ちあふれていた......誰にも止めることのできない、圧 倒 的な力だ。
圧倒的な力──
「そうだね」
彼は、実際に死体からそう言われたかのように、うなずきながら肯 定 した。
「誰も、ぼくを止めることはできない。彼女がぼくに命じたんだ。ほかならぬ〝彼女〟が──彼女の言葉があるかぎり、ぼくは決して止まらない」
その言葉は、もはや独り言というよりは、まるで呪 文 のようだった。彼が自分にかける、魔 法 の言葉。
死体となって転がっているのは、老人だった。漆 黒 のローブを着た白 髪 の老人である。驚 くほど出血のないまま、だが確実に事 切 れている。通りがかりに見た者がいたとしても、その老人が道で寝ているようにしか見えなかっただろう──ただ、なんでこれほど高い地位を持った人間が路地裏などで寝ているのだとは訝 ったかもしれない。老人の胸元には、銀製のペンダントがかかっていた。剣にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 が。
それを見下ろしながら、殺人者はじっと続けている。
「死神は世界の黄 昏 まで止まらない。決して......」
そこで彼は言葉を切り、自分の胸元をまさぐった。細い手の中に、鎖 が引っ掛かる。それもやはり、銀製のペンダントだった。《牙 の塔 》の魔術士の証 しである、ドラゴンの紋章のペンダント。彼のマントを肩口で留 めている金具にも、同じ紋章が見える。
彼は、馬 鹿 げたことだ、と口の中でつぶやいた。ペンダントから手を放し、その手を自分の下腹に軽く当てた。ふっと......夢から覚めたように、うめく。
「血をなめたせいかな。吐 き気 がしてきた」
そして彼は立ち去った。路地裏に、死体と、そして......小さなつぶやきをもうひとつ残して。
「あなたの言うとおりだよ。ぼくはキリランシェロだ」
◆◇◆◇◆
......ふと思い出してみるに、彼は弟のようなものだった。というか、それを言うのならこの敵だらけの《塔》にあって、同じ教室の生徒たちは家族のようなものだった。
別にそれは、変わったことでもなんでもない──《牙の塔》においては、すべての者がそう思っているだろう。ただの見習いまでも含 めれば数千にも達する数の黒魔術士を擁 する、大陸黒魔術の最 高 峰 《牙の塔》──ただ、その同教室の『家族』においてすら、仲間ではあっても味方であるとは限らない。
睡 魔 にも似ただるさ を覚えるまぶたを閉じ、彼女はほおづえをついて、疲 れたように──あるいは、あきれたように──ため息をついた。
ため息とともに、かくんとほおから落ちた指が、身にまとっている黒のローブのすそを撫 でる。この《塔》においては教師に次ぐ地位を意味する、漆 黒 のローブである。一切の間 違 いも、そして迷いも許さない唯 一 の色、ムラひとつない闇の色──だが、彼女の知っているとある少年はその色を称 してこう呼んだ──錆 びた鋼 鉄 の色、と。
ある意味でそれは、ぴったりの色だ。今の彼女の立場にとっては。
彼女はどこか皮肉まじりにそう思った。そして、またため息をついた。今度は正 真 正 銘 疲れたように。
長い黒 髪 が、流れるように自分の肩から背中に落ちるのを横目で見ながら、彼女はそれを促 すように背 筋 を伸 ばした。彼女の腰掛けている古びた木製の椅 子 が、ぎしぎしと音を立てる。うるさいわよ、と彼女は口の中で毒づいた。なんでもいいから文 句 を言いたい気分だった。
だんだんと、いらだってくる──気に入らない。窓のない壁 も、手 触 りの悪いテーブルも、もちろん音を立てる椅子もだ。最低なのは、あまり広くないこの部 屋 の奥にかかっている壁掛け時計で、振 り子が錆び付いているのか、かすかにキイキイと音を立てている。ふだんならあまり気にもならないだろうが、周りが静かだと耳 障 りに感じる。話相手でもいたらよかったのに──と彼女は思ったが、あいにく部屋には彼女ひとりしかいない。
やるせなくなって、彼女は独 りごちた。
「いつまで待たせるつもりかしら」
と、いきなり背後から答えが返ってくる。
「......すまんね」
どこか寝ぼけているような、とろんとした瞳 を横目にして、彼女は声のしたほうを振り向いた。声の主が誰であるかを確認するよりも先に、口が開いている。
「わたしがこの休 憩 室 のこと嫌 いだって知ってて、三十分も待たせたのかしら?」
「実を言うと、戸口で少し君を観察していたんだ、ティッシ」
「観察ねえ......あなたって、時々そんな馬 鹿 なことをする人よ」
彼女──ティッシと呼ばれた女は、椅子の背を抱 え込むようにして、ぐるりと身体 を回転させた。そこから見上げたところで、長身のがっしりした男と視線が合う。厳 しい顔をしているため多少老 けて見えるが、本当はまだ二十代の中 盤 ──実年齢は、彼女は知らないが。黒髪を少し長めにしてうなじで縛 っているのはあの男 と同じだし、なにを言っても動じない鉄 面 皮 も同様だ。彼に言わせればそれは偶 然 だろうが、実のところは悪 趣 味 な物まねなのだろうと邪 推 してしまう。
彼が身につけているのは、色こそ彼女と同じだが、ローブの縁 に銀の線が二重に入っている。教師の制服と同じデザインだが、彼は教師ではなく教師代理のはずだった。
(どうも忘れがちになるようだけど......とりわけ彼自身がね)
と、胸中で付け加える。彼女は彼から視線を外して、笑 みにならない笑みを浮かべた。彼が彼女の正面に腰を下ろすのを待ってから、口を開く。
「それで、観察の結果、わたしに異常は見つかったかしら?」
「別に」
というのが、彼の返事のすべてのようだった。彼女はあきらめの吐 息 を漏 らして、肩をすくめた。
「で、わたしに用事っていうのは? フォルテ。わたしを呼び出したことまで『別に』で済ませるつもりなら──」
「『わたしが待った分、こちらの愚 痴 にもつきあってもらうわよ』、か」
男──フォルテ・パッキンガムは、ほとんど即 答 といってもいいタイミングでそう口にした。彼女は、さっと眉 をひそめた。
「そう簡単に人の心を読むのはやめたほうがいいって、何度言ったかしら」
「身につけた能力 は活用すべきだ」
「それができなければ?」
「君が今考えたことが、わたしの答えだ。そう......彼のようになる」
そんなことを口にしても、フォルテの表情が微 動 だにしないことに、彼女は一 瞬 底知れないいらだちを感じた。が、すぐに自制する。怒 鳴 りだすかわりに、彼女は静かにつぶやいてみせた。
「過ぎた能力が身を滅 ぼすってこと、考えたことはない?」
フィルテが、馬鹿にするように口の端 を歪 めるのが見えた。
「我 々 のことを言っているのかね? それは魔術の存在を根本から否定することにならないかな」
「ならないわよ。訓練の意味っていうものを、わたしは分かってる。強力な魔術を制 御 するために、わたしたちは死ぬことだって覚 悟 してこの《塔》で訓練を受けたのよ。魔術を制するためにね。増大させるためじゃないわ」
「だが結果として、君の魔術は強大になっただろう、ティッシ──死の絶叫 と呼ばれるほどに」
「その、ふたつ名ってやつ、やめられないのかしら──楽屋で芸の見せっこしてるみたいで、みっともないって思わない?」
「効果があるのならば、虚 勢 も必要だ、ティッシ──」
「ティッシって呼び方もやめて」
「なら、レティシャ。そろそろ用件に入りたいのだがね」
「そうね」
彼女、レティシャは、投げやりに手を振りながら同意した。その用件とやらが聞きたいというよりも、この会話そのものをさっさと終わらせたい。
だが実のところ、その用件も、あまり陽気になれる代 物 ではなさそうにレティシャには思えた。壁掛け時計の振り子が、キイキイと囃 し立てる。それこそ、誰かを呼ぶかん高い死の叫 び声のように。
フォルテ・パッキンガム──《牙の塔》チャイルドマン教室の若き教室長は、その冷 淡 な声で手 短 につぶやいた。
「彼が現れた」
タフレム市は今までで三度滅 びた。伝説ではそう言われている。そのうち記憶に残っている〝崩 壊 〟は二度だけだ。人間とウィールド・ドラゴン種族とが対立したときに一度──キムラック教会と魔術士たちの破局、砂の戦争と呼ばれた戦火により、もう一度。
だが二百年のうちに二度も全壊したにもかかわらず、市街は整然と大地に根を下ろしている。むしろ計画的に築 かれた街 は、きらびやかにデコレートされた菓 子 のように美しかった。西を山 岳 地 、東を《森》を水 源 とする人工湖 にはさまれ、中央に都市の最大の建築物──白 亜 の世界図塔 を戴 いた《牙 の塔》都市。
キエサルヒマ大陸でただひとつ、黒 魔 術 士 たちが心安く暮 らすことを許された場所。
......彼はそこに帰ってきていた。
◆◇◆◇◆
「ここは、歴史のある街なんだ。ある意味では、アレンハタムなんかより、よほどね」
ドーチンはひとりでそんなことをつぶやき、やはりひとりで、うんうんとうなずいた。白いテーブルと白い椅 子 ──居 心 地 のいい学生相手のカフェバーに席を陣 取 り本を広げて、あくまでひとりで続ける。
「なにしろ黒魔術士たちが勤 勉 に歴史を記録し続けたおかげで、過去の記述にありがちな『空白の記述』がないんだから。実を言うと、そういう意味で歴史書の質が一番悪いのはアレンハタムだったりするんだけどね。なにしろ、あそこは旧 王都ってことで、記 載 できないことも数多かっただろうし。でも、魔術士はさすがに正直だよ──他人だけでなく、自分たちに対してもさ」
分厚い眼鏡 をかけた、身長百三十センチほどの『地 人 』──キエサルヒマ大陸でも南端にしか暮らしていない少数民族である。とはいえ彼らは三百年前にこの大陸に人間が入植してくる以前からの先住民族であるし、現在でも、いまだ自分たちの自 治 領 を持ってはいる。人間によって絶滅した種族というのもいるのだから、これはある意味、皮肉屋が言うところの 〝破格の扱い〟ということになる。
彼が着ているぼろぼろの毛皮のマント──これは地人たちの、ごく平 均 的な民族衣 装 で、屋内でも外さない。ドーチンは眼鏡の位置を直しながら、得意げにしゃべりつづけた。
「この街は過去、二度も築きなおされたんだ──これはすごいことだよ。二百年前に、天 人 との対立によって一度根こそぎ滅ぼされ、半世紀前にも、教会との戦争で壊 滅 状態になったんだ。これは、有 事 の際には街の人間すべてを《牙の塔》へ移送するっていう保安システムのせいだろうね。でも、どう考えても街なんかより、最初から城 塞 として設計された《塔》の方が守りやすいんだろうし──」
「あの......」
いきなり、声──すぐ背後からだ。が、ドーチンはそれを完全に無視した。
「ただ分からないのは、街の住人が《塔》に逃 げ込んだんなら、天人や教会の軍隊が、なんでわざわざ無人のこの街を破壊目標にしたかってことだよ。莫 大 な労力だったに違いないもの──実際、キムラック教会が結果として敗走したのはそれが原因なんだ。無人のタフレム市を破壊しているところを側面から、力を溜 めていた魔術士に攻 撃 されたんだ。ま、奇 襲 とはいえ、十倍近い勢力差を覆 しちゃったんだから、魔術士たちの戦 闘 能力っていうのは、とんでもないものだったらしいね──って、これは今さら感心するほどのことでもないか。ぼくらさんざん実例を見てるし」
最後の一言だけ、思い出したように付け加えたしわがれ声。ドーチンは、嫌 な思い出を振 り払うようにかぶりを振ってから、続ける。
「ま、なんにしろ──」
「お客さん......」
また声。また無視。
「今ではもう、このタフレム市にちょっかいをかけてくるような軍隊はない──天人はもうこの世にいないし、教会は、王都の貴族連 盟 に軍隊を取り上げられちゃったしね。その貴族連盟は......微 妙 なトコだけど、でもさすがに大陸の反対側にあるこの街まで遠 征 するほど暇 じゃないだろうし」
「ですから......」
「つまるところ、順 風 満 帆 てやつだよ、ここは。特に産業はないけど人の出入りが激 しいから、それなりに潤 ってるし──」
「............」
とうとう、背後の声は沈 黙 に転じた。そこでちょうど、ドーチンも言うことがなくなり、本を見たまま硬 直 したように声を止める。しばらくそのまま、どうしようもない静 寂 がその場を流れた。
根負けしたのは、ドーチンだった。ぱたんと本を閉じて、振り返る──そこには、ドーチンと似たような格 好 をした、やはり地人の男を、猫 の首でもつかむようにぶらさげている筋肉隆 々 のウエイターが待ち受けていた。三十歳 ほどで、口元に髭 など生やしている。腰から下にエプロンなどつけていて、ウエイター兼マスターというところか。
ウエイターは、愛 想 笑 いのようなものを浮かべながら、こちらを見下ろしている。体格の割に童 顔 で、その笑 みにも底意はうかがえない。ただ、ドーチンにはその笑みは、どちらかと言えば死 刑 囚 に見せる牧 師 の笑みに見えた。
それは多分──と、考える。
店の中が、ほとんど廃 墟 みたいにめちゃくちゃに荒 れているせいだろう、とドーチンはうんざりと分 析 した。数 刻 前は整然ときれいだったはずのそのカフェは、今はなぜかテーブルも椅子も、ほぼ半 壊 して床に散らばっている。無論のこと、ドーチンとそのウエイター、さらに彼がぶら下げている地人以外には、店の中には誰 もいない。とっくに逃 げ出してしまっていた。割れたコーヒーカップとその周囲に広がる茶色の水たまりにつま先を浸 していることに気づいているのかどうか、ウエイターはにこにことこちらを見 据 えている。
ウエイターは、唇 を引きつらせるようにして、ゆっくりと口を開いた。
「これは、お客様の身内ですね?」
と、片手でぶら下げている『これ』を視線で示す──ドーチンも導 かれるようにして、その視線を追った。そこにあるのは、いつも通りの変わらない『これ』である。本当に変わり映 えしない。いつもいつも......
ウエイターにぶら下げられているその地人も、やはり毛皮のマントをすっぽりとまとっている。小 柄 な体格もぼさぼさ頭も、ドーチンと同様だが、眼鏡はかけていない。その代わりというわけではないだろうが、その地人はマントの裾 から剣の鞘 をのぞかせていた。 ぼろぼろの、一見して中古品と分かる代 物 だ。
ドーチンはあっさりと告げた。
「いいえ。そんな人は見たこともありません」
それを聞いても、ウエイターの表情に変化はない──あわてた様子を見せたのは、むしろぶら下げられているほうの地人だった。
「おいコラ! ドーチン!」
指をさして、叫 ぶ。
「そーゆう冷たい奴 だったのか、お前は!? 兄は悲しいぞ!」
じろりと兄を見やり──ドーチンは、大きく息を吸ってから長々と説明した。
「年に一度の贅 沢 をしようって、これから三か月は飢 えっぱなしになることも覚 悟 して注文したシュガーケーキをぼくがトイレに入ってる隙 にふたり分たいらげて、テーブルに備え付けの砂 糖 壺 までなめたあげく、あまつさえほかのテーブルにも乱入して乱 闘 の末、店の大半をめちゃくちゃにするよーな人は、赤の他 人 だってことになってるんです」
「ぬぁにが『なってる』だっ! 血の絆 とは、そーゆうもんではあるまいっ! いいか弟よ、苦楽をともにするとゆーことはだ、苦しみはふたりで分かち半分に薄 め、喜びはふたりで抱 えて二倍にするということだぞ!」
「って、相 乗 した苦しみをぼくひとりに押 し付けてるだけじゃ......」
「そーゆう卑 屈 な考え方をするなっ! それがこの俺様 、マスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカンの弟であるなど、情けないにもほどがあるぞっ!」
ウエイターにぶら下げられた地人──ボルカンは、ばたばたとおおげさな身 振 りでそう叫んだ。手近にいたなら、ついでに二、三発殴 られてもいたかもしれないが、ウエイターはしっかりと兄の襟 首 をつかんではなさない。ウエイターは表情すら、ちっとも変えていない──できればそのまま石化して、兄さんを永遠に宙づりにしといてくれればいいのに、などと思いつつ、ドーチンはぼやくように言った。
「弟、弟って、そんなに強調しないでよ。他人なんだから」
「弟よ弟よ弟よ、そーゆう言い方はないと思うのだが兄は」

「だから強調しないでってば!」
「ま、なんにしろ──」
唐 突 に、ウエイターが口を開く。ボルカンもドーチンも、はたと口をつぐんだ。ウエイターの、白いポロシャツの胸のあたりの筋肉がぴくりと動くのが見えた。
彼はあくまでにこやかなまま、続けた。
「他人でもなんでもいーから、店片付けるの手伝えやボケ」
「はい......」
ぐったりと、ドーチンはうなずいた。と──
からん......
小さな鐘 の音とともに、ドアが開く。振り向いてみると、白い木造りのドアを開けて、このめちゃくちゃに荒 らされた店内に姿を見せたのはひとりの少年だった。
「あれぇ?」
黒 髪 をかきあげつつ、そんなことをつぶやく。背中まで伸ばした長 髪 のせいで、ぱっと見には女のように見える──だけではなく、冗 談 のような女顔で、ドーチンがその少年を男だと分かったのは、単にその服装と、極 端 に痩 せた体格からだけである。年齢は、十四、五というところか。全身これ黒一色で、身にまとっているその雰 囲 気 も含めて、その格好はドーチンに知り合いのひとりを連想させた。
(黒魔術士......)
胸中で、ドーチンはつぶやいた。実際、土地柄 この街には黒魔術士は大勢いる。が、この少年ほどあからさまに黒魔術士然 とした格好をしている者は、むしろ珍 しい。
少年は、ウエイターのほうに視線を転じると、びっくりしたように聞いた。
「なにかあったんですか? フリップさん」
「ああ、ティフィスか......そんな格好をしているから分からなかった」
フリップとティフィス──ふたりの名前を頭の中に収めつつ、ドーチンはちらちらと少年、ティフィスというほうを観察した。魔術士というのはある程度の体力がなければ務まらないから、あんな痩 身 で大 丈 夫 なのかなという気はしないでもない。ついでに、普 通 、特に黒魔術士は短髪である。とすると、このティフィスとかいう少年は、ひょっとしたら単に魔術士の格好をしたただの学生なのかもしれない。
(ンなわきゃないか)
ドーチンは、自分で否定した。むしろ、特別に栄養不良の黒魔術士といったほうが可能性はありそうだ。
なんにしろ、その答えはティフィス自身のせりふであっさりと裏付けられた。自分の着ている真っ黒な服を手で撫 でつけながら照れるように、
「ええ。ちょっと《牙の塔》まで用事があったんです。だから正装してるんですよ。人の服なんですけどね」
「用事?」
フリップが聞き返す。ティフィスが、肩をすくめて答えた。
「たいしたことじゃないんですよ。先生の代理です。彼女、昔の仲間を迎 えに行くとかで、今日は留 守 にしてるから」
「先生......ティッシか。昔の──仲間だって?」
その声 音 に奇 妙 なものを感じて、ドーチンが見上げると──フリップの表情から、初めて笑みが消えていた。訝 しげに、眉 間 に縦 じわが寄っている。彼はその顔で、独 りごちるように続けた。
「きな臭 いことにならなけりゃいいけどな......」
「え?」
と、ティフィス。フリップは、ハハと笑って手を振った。
「いや。そんな気がしただけさ。彼女、大物だろ?」
「先生がですか? そうは思いませんよ。この非常時に、彼女、昔の写真なんて引っ張り出してため息をついてるんだもの......」
そこまで言いかけてティフィスは、ふと口をつぐんだ。今さら気づいたように、店内とこちらとを見回して──
「で、この有り様は、なにがあったんです?」
「こいつらにやられたんだよ」
ため息まじりに、フリップ。
「あの『こいつら』って、ぼくは別に──」
おずおずとドーチンはつぶやいたが、ふたりは聞いてはいなかったようだった。代わりにボルカンが、うんうんとうなずく。
「そーそー。悪いのは、兄を裏切ったこの薄 情 弟だけ」
それを聞いてかあるいは無視してのことか、フリップは手近な床にボルカンをほうりなげた。べちゃ、という音を立てて、ボルカンがあごから落ちる。
「さて、片付けを始めないとな」
フリップが、自分の腰をさすりながらつぶやく。
「手伝いますよ」
とティフィス。フリップが機 嫌 よさそうに笑った。
「いいのか? ま、お前さんの魔術があれば助かるが」
「その代わり、今日は先生がいないから昼食を買って帰らなけりゃならないんですよ。作ってくださいね」
「ああ、安いもんだ」
フリップが請 け合う。なんとなく話が温厚なほうに向かいはじめたようなので、少し安心してドーチンは聞いてみた。
「あ、じゃあ、ぼくはどうしましょう」
フリップは、にっこりと答えてきた。
「お前らは、あの二百キロある棚 を元どおりに直すんだよタコ」
「はい......」
世の中そんなもんだよな、と思いながら、ドーチンは返事した。
◆◇◆◇◆
街道はどこまでも続く。大陸の南端地人領 から、北の果て教会総本山 まで──
夏は盛 りを迎 えようとしている。街道をあやすように包む森の木々は、その数メートルはあろうという身体の中に押さえ込めない生命力を、枝葉の鮮 やかさに反映させていた。太陽は昼に近づくにつれかぎりなく高く、真っ白く輝 きを強める。風が南より吹き寄せて、街道の乾 燥 した地面から、もやのかかったような砂 塵 を舞 い上げた。そして......
「うわあああああっ!」
絶 叫 が、はるか遠くから聞こえてくる──オーフェンはちらりと耳を向けてから、すぐにもとの作業にもどった。馬車の手 綱 が壊 れたので、それを直しているのである。
手綱は──もとエバーラスティン家所有の品物に恥 じず、上等な革 を使ってある。柔 らかい黒革と、油で固めた厚 布 とを組み合わせて使ってあって、その分、直すとなるとめんどうだった。
「なんだかなあ」
途 中 でぶつ切れになった手綱を、麻 紐 で縫 い付けながらオーフェンはぼやいた。街道のわきに停 めた馬車の御 者 台 から、くつろぐように馬の尻 にかかとを載っけている。
「あいつが来てから、極端にやっかいごとが増えたよな、実際」
と、ちらりと視線で馬たちの後ろ頭に問いかけるが、無 愛 想 な牝 馬 たちは頭を振りもしない。気にもせず、オーフェンは作業を続けた。
年の頃 二十歳 ほど、黒髪に黒目の、ごく平 均 的な平民の風 貌 の男である。目付きは悪いが、今はどちらかといえば困ったように瞳 の色を陰 らせている。全身黒ずくめで、動きやすそうな格好でまとめていた。胸元には銀細 工 のペンダント──剣にからみついた一本脚のドラゴンの紋 章 が、シャツのしわに沈 没 するみたいに埋 もれていた。
と再び、遠くから悲鳴が響 いてくる。
「うっきゃあああっ!」
次いで、地面がえぐれて吹き飛ぶような轟 音 ──オーフェンは、今度は顔を上げすらしなかった。ぽつりと独 りごちる。
「最初は、ちょっとした予感だったんだ。なんかヘンだと思ってた」
「たすけ──ひああっ!」
また悲鳴。爆 音 ──それに紛 れて、今度はなんだかかん高い泣き声のようなものも聞こえてきた。
「オーフェェェンっ!」
そして、ふわぁ、と押し寄せてきた生温かい爆風が、オーフェンの黒髪をたなびかせる。が、彼はあくまで無視を決め込んだ。風が運んできた砂ぼこりを瞬 きして払いのけながら、ぶつぶつと続ける。
「次は、あん時だな。クリーオウの作った朝飯を食わずにこっそり捨てたら、そのあと立て続けに不幸が起こった──目の前に大岩が転げ落ちてきたり、わけの分からないところに落とし穴が掘 ってあったり。朝飯捨てたのは、誰 にも見られてなかったはずなのにだ」
ごうんっ! と、爆音が近づいてくる。地 響 きのように地面が揺 れて、御者台の上でオーフェンは手元を狂 わせた。革に紐 を通すための五センチ針の先が、ぷつんと親指に突 き刺 さる。
「痛 て」
と毒づいてオーフェンは、小さな赤いボタンのように膨 れ上がった血の塊 を、左手の親指ごと口にくわえた。ちらりと、街道に沿って広がっている森のほうを見やる──大陸最後の秘 境 である《フェンリルの森》に近いこのあたりは、人が住むところと街道以外はすべて森である。もっともここから少し北上すれば、森はいきなり姿を消し、大陸の住人ならば知らない者などない『乾 いた』土地が現れる。キムラック教会管理区、いわゆる約束の土地──ゲイト・ロックが。
なんにしろ、彼が見たかぎり、森はまだ静かだった。ちらりと木々の奥に、炎 のような赤い閃 光 が走ったような気もしたが。
「で──」
と、指をくわえたまま、もごもごと彼は続けた。
「そのころから、なんとなくおかしいな、とは思いはじめたんだよ。いや、まあ、そもそもあいつ の存在自体が十二分にヘンなんだけどな」
手 綱 を直すのはあきらめて──どうせあとで魔術で修復すればいい──、彼は背中を御者台の背もたれに、でんと押し付けた。目を閉じて大きくのびをする。
「参ったよな──まるっきりアレじゃねえか。ナントカに刃 物 がどーのこーのとかいう昔からの言い伝えが──」
と──
「お師 様 あ〜!」
泣き声をあげて森の中から飛び出してきた金髪の少年に、オーフェンは、ぎょっと目を
見開いた。
「馬鹿! マジク──」
「助けてくださぁいっ!」
マジクと呼ばれたその少年は、あまり似合っていない黒マントをはためかせながら御者台にかじりついてきた。彼は、端 正 な顔を紛 れもない恐 怖 で引きつらせながら、
「あの魔 物 が──」
「やかましい! てめ、逃 げるんなら俺 のほうに逃げてくるんじゃねえって言っただろうが!」
「非情ですようお師様──」
が、泣きながら御者台に上ろうとするマジクをオーフェンはあわてて蹴 りもどした。自分も怯 えるように森の、マジクが飛び出してきたあたりを見やって、
「いちいち俺を頼 るな! お前も俺の生徒なら、自分の身は自分で世話しろ!」
「そんな、自分で世話って言っても、あんな邪 悪 な獣 をどうしろって──」
マジクがしつこく足元に食いついてくるのを、オーフェンはげしげしと引きはがそうとした──が、マジクも必死の形 相 でそれに抵 抗 する。時間の浪 費 に耐 えられなくなって次に声をあげたのは、オーフェンのほうだった。
「俺が知るかっ! お前だって、もうトーシロじゃねえんだから自分で考えろ! いろいろあるだろ──回れ右してあの黒い悪魔と刺 し違 えるとか、この場で腹を切るとか!」
「どっちも死にそうじゃないですかあ!」
「知るか! とにかく俺を巻き込むな!」
馬たちが、ぶるるる、と鼻息を吹きながら前 脚 のひづめで地面をこすっている。御者台のふたりの怒 鳴 り声に驚いたのか、いや、あるいはそれとも──
オーフェンは、かなりぞっとしながら思いついていた。
(この馬どもを怯 えさせるようななにかが、もうかなりのところまで近づいてきてるのか──)
「とにかくお師様! 助けてくださいよー!」
「泣くなっ! 俺だって不 死 身 じゃねえんだ! できることとできないことが──」
「げふ──ち、ちょっとお師様、なんですかこの手は。落ち着いてくださ──」
刹 那 ──
がさ。
草が揺 れる音が、静かに怒鳴りあいを止めさせる。
「............」
オーフェンはマジクの首をしめている指を、ゆっくりと外しながらつぶやいた。
「遅 かったか......?」
マジクも、震 える声でつぶやきかえしてくる。
「多分......いっしょに死にましょう、お師様」
「死ぬかっ!」
オーフェンは、どんと生徒を突き飛ばして馬車の下に転ばせると、物音が聞こえたほうへと視線をあげた。そこにいるのは──
森から姿を現したのは、真っ黒い毛並みの、小さな犬である。いや、犬ではない──姿形も少し犬とは違う。決定的な違いは、目だった。その子犬(もどき)の双 眸 は、背後の森の木々よりも鮮 やかな緑色である。それはこの大陸では、ドラゴン種族と呼ばれる最強の魔術を扱う一族にしかない特 徴 で、それも漆 黒 の毛並みを持つとなれば、それは唯 一 ──〝聖域〟の守 護 者 として伝えられる深淵の森狼 しかない。もっとも、ここにいるのは、まだほんの赤 ん坊 だが。
だがそれでも、この犬コロ(もどき)こそが、たかが人間の黒魔術士でしかないオーフェンが逆立ちしたところで敵 わないような魔術の使い手であるのに違いはない。さらにはここ数日間、彼の頭を悩ませているのも、まさしくこの『魔物』、『邪悪な獣』、『黒い悪魔』──まあ、どれでもいいが──だった。
オーフェンは、その子ドラゴンに向けて、びしと指をさした。
「いいか!」
彼はありったけの声量で叫 んだ。泣きたい気分で。
「俺はもう、たくさんなんだっ!──なんの因 果 か、ことあるごとに俺に襲 いかかってくるバケモノどもと取っ組み合いすんのも、つまんねーやっかいごとに巻き込まれるのも、しょーもない我 がまま娘 のしょーもない我がまま聞くのもだ!」
馬車の下から、マジクがつぶやく。まるっきり他 人 事 の口 調 で。
「......かなり追い詰 められてますねー」
「うるせえっ! とにかく俺は、もーヤだからなっ! 福 ダヌキどもの借金取り立てたら、こぢんまりした家でも買って隠 居 するんだ! 猫を飼 って、誰も家には近づかせない!」
子ドラゴンは答えない。短い手足をもたもたと動かして、なにかを探すように頭をめぐらせている。多分、指示を待っているのだろうが──
その指示をもたらすべき主 は、まだ姿を見せていない。
オーフェンはひとり、酔 ったように続けた。
「とにかく俺はもううんざりして──」
「追い詰められてるわねー......」
「うるせえって言ってんだ──」
ろ、という形の口で、オーフェンは、はたと動きを止めた。
「あれ......? 今のお前か、マジク?」
と生徒の姿を探すが、いつのまにかマジクの姿は消えていた。子ドラゴンを見て、どこかに逃 げ出したらしい。
「となると......誰だ、今の?」
きょろきょろと、あたりを見回す。子ドラゴンのほかは、馬車の周りには人の姿はない。ただ、今の声には聞き覚えがあった。
「ティッシ......?」
つぶやいた、その瞬 間 、再び草を踏 み分ける音が聞こえた。がさり──と、さっきよりも大きく。飛び出してきたものは、さらにやかましかった。
「オーフェェンっ!」
腰まで金髪を伸ばした、十七歳ほどの少女が、泣き声をあげながら森から出てくる。あわてて着込んだのか、ブラウスはボタンが一個ずつずれているし、珍 しくはいているスカートも、森の中を走ってきたせいか少し汚 れていた。彼女は地面の子ドラゴンを抱 き上げ、しつこく泣き声をあげた。
「信じらんなぁいっ!」
「ク、クリーオウ」
ぞっとしながら、オーフェンは少女の名を呼んだ。少女──クリーオウは、泣きじゃくるようにして、地面をスニーカーで踏 みたたく。
「信じられないのよ、あの馬鹿! って誰のことだと思う? マジクのことだけど──」
「ええ、ああ、うん──そう」
あいまいにあいづちを打ちながら、オーフェンは御 者 台 の手 摺 りの陰 に隠 れ、防 御 姿 勢 をとった。さっき言ったとおり──ついに、ナントカが刃 物 を手に入れたのだ。
こちらの様子は見ていないのか、クリーオウは調子を変えずに続けてきた。彼女がかぶりを振 るたびにばたばた振り回されるブロンドは、濡 れているせいかいつもより少し色が落ち着いているし、鮮 やかなブルーの瞳 も、やはり涙で色を変えている。
「あんのガキがさっき、なにしたと思う? 信じられないのよ──ホントに信じらんないんだから!」
「あー...そう?」
なにが起こったか、おおむね想像がついているオーフェンは、シラケた目であさってのほうを向いた。クリーオウはそのまま続ける。
「わたしがさ、向こうできれいな川見つけたからさ、身体 を洗ってる間見張っててって言ったらさ、あいつさ、岩陰からこっそりさ、のぞいてやがんのよ! 信じられる⁉ 」
「えー......あー......信じられねえなあ、うん」
オーフェンはこっそりとその場を逃げ出そうとしながら、口の中でもごもごと言った。とりあえず、今回が初 犯 ではないということは言わないでおいてやったほうがいいようだ、と思いつつ、御者台から下りようとする──クリーオウのいないほうの側へ。
と、唐 突 にクリーオウが絶 叫 にも近い声を張り上げた。
「ちょっとは怒ってよ! オーフェン!」
「へ? あっと......なんてこった! あの野 郎 !」
オーフェンは、びくっと向き直ると、結局御者台は下りられないまま、オーバーアクションぎみに拳 で床をたたいた。
「信じがたい犯 罪 だ! 侵 してはならない領域に踏み込み、我が最愛の友人に涙を流させるとは! その罪 、天の網 のみならず人 倫 の縄 の手からも逃 れられはすまい! じゃ、てなわけで俺は用事があるから──」
「どこへ行くのよ、どこへっ!」
クリーオウは、ぱっと馬車のわきまで駆 け寄ってくると、身軽に御者台に飛び乗ってきた。逃げる間も与 えず背中からこちらのベルトをつかみ、揺 さぶりながら叫 ぶ。
「せりふもなんだかわざとらしくなかった⁉ 」
「えーと、じゃ──あのクソガキ、次に会ったら指を全部へし折って、右手と左手の小指どうしを固 結 びにしてやるぜ。てなわけで俺は用事が──」
「だからなんでいちいち用事ができちゃうのよ! オーフェン──」
と、クリーオウはいきなり冷静な声を出した。
「ひょっとして、わたしがのぞかれよーがどーでもいいとか思ってない?」
「ンなわけないだろ」
オーフェンは、しごく当然といった声を出した。こっそりと胸中で付け加える。
(とばっちりを受けるのは俺なんだからよ)
と、眼前の少女と、その腕の中できょとんとしている子ドラゴンとをさりげなく手で遠ざけながら、
「にしてもだ、さっき森のほうから爆 音 が聞こえてきてたが──」
「うん」
と、クリーオウはあっさりとうなずいた。目の中にたまった涙をこすり取りながら、
「とりあえずわたし、服を着なきゃどうしようもないでしょ。だからその間とりあえずレキに追いかけ回してもらってたの」
言いながら彼女は腕の中の子ドラゴンに、感 謝 するように口の先を触 れさせた。レキというのは彼女がつけたこの子ドラゴンの名前だが、オーフェンやマジクが好き勝手に『黒い悪魔』だの『地 獄 の魔 獣 』だのと呼んでいるため、ドラゴン当人(?)には、いまいちどれが正当な呼び名なのか自覚がない。
それはさておき、オーフェンは諭 すように続けた。
「そうそう。そんだけ追いかけまわして怖 がらせれば、マジクの奴 だっていいかげん反省しただろ。だからこのくらいで勘 弁 してやって──」

「なにがよ⁉ 」
と、クリーオウは声をあららげた。
「怖がらせれば、って、レキの魔術をケガしない程度にぶち当てて、森の中を追いかけまわしたってだけじゃない! どれほどのもんだっていうのよ!」
「死の恐 怖 に近いんじゃないかと思うが......」
「なにがよっ! ぜぇーったい許さないわ。あの子、ここに逃げ込んできたでしょ? どこに逃げたか知らない?」
実は、知らない。が、言っても信じてもらえそうにはなかった。
オーフェンは、なかばあきらめながらも説得を試みた。
「え〜と、俺としてはだな、できればケンカはしてほしくない......」
というか、そのケンカに自分を巻き込んでほしくないのだが、クリーオウにとってはそういう問題ですらなかったようだった。
「別にケンカなんかしてないわ」
「ほう」
オーフェンが、あいづちを打つ。彼女はきっ と表情を鋭 くすると、真 顔 で言い切った。
「処 刑 よ」
「おおいっ⁉ 」
悲鳴をあげてもクリーオウは聞かない。彼女は、さっと御者台の上であたりを見回すと、よく通る澄 んだ声をあげた。
「出てきなさい、マジク! どーせこの近くに隠 れてるんでしょ! わたしのことのぞいたのは右目、左目⁉ ──どっちか好きなほうをくりぬいてあげるから、出てらっしゃい!」
「......両目だったらどーすんだ? 両方くりぬくのか?」
オーフェンはなんとなく気になって聞いてみた。クリーオウが、まったく表情を変えず、真顔のまま静かに答えてくる。
「右目と左目の間に穴を開けてあげるのよ」
「お前って昔は良 家 のお嬢 様 だったんじゃなかったっけ......」
「今でもそうよっ! だいたい、のぞきなんて人間として最低きわまりないわ! そのくらいの罰 は当然でしょ!」
「いや......でも、ちらっとのぞいた程度なんだろ? 別にのぞきをしながらお前の下着を頭にかぶってたとか、そーゆうわけじゃないんだし......」
「かぶってたのよ」
「かぶってませんよっ!」
──と──
思わず声をあげてしまった失 策 に自分でも気づいたのか、突 然 あがったマジクの声は、そこで凍 りついたようにぴたりと止まった。オーフェンもクリーオウも、さっと静かに声のしたほうを見やる──マジクはいつの間にか、どこをどう隠れていたのか、また森の中に逃げ込もうと、木と木の間に身体を半分入れたところだった。黒マントに黒 装 束 。あからさまに怪 しい格好をした紅 顔 の美少年。その表情は、なんだか哀 れなほどに恐 怖 にひきつっていた。
一 拍 遅 れて、子ドラゴン──レキの視線も、くるりとそちらを向く。
「マジク」
クリーオウの声は、かぎりなく静かだった。あるいは、あまりにも静かだった。
「はひ......」
舌が回っていないような、マジクの返事。彼は震 える視線をクリーオウの顔からそらし、助けを求めているつもりかこちらを見つめかえしてきていたが──オーフェンは、力なくかぶりを振 った。どうしようもない。
レキの頭を撫 でながら、クリーオウが、うっすらと笑 みを浮かべて聞く。
「言い残すことは?」
「え〜と......」
オーフェンの位置から、少年が胸元で聖印を切るのがはっきりと見えた。マジクがやったのでなければ、死を覚 悟 したのだと思ったことだろう。
マジクは、恐 る恐る、口にした。
「胸パッドは必要ないんじゃない?」
「死 刑 」
クリーオウが即 答 する。同時に彼女は、胸に抱 いた子ドラゴンをすっと前に差し出すようにした。彼女の意志が伝わってでもいるのか、なんの合図もなしに、レキは眼 差 しを鋭 くする──緑色の、ドラゴン種族の証 したる双 眸 を。
ディープ・ドラゴン種族は視線を用いて魔術をかける。不意に、あたりの空間を緑色の閃 光 が塗 りつぶしたように見えた──それは錯 覚 だったのだろうが──
次の瞬 間 に巻き起こった、マジクともども森を一瞬に消し飛ばした大爆発は、決して錯覚ではなかった。
「──というわけです」
こつ、こつ、こつ......
耳 障 りなのは、机をたたくペンの音だった。
ペンを持っているのは、顔の大半を髭 で覆 われたような、中年のレンジャー隊員である。髭には多く白 髪 も混じり、中年というよりは初老といったところか。森林レンジャーの標準装 備 である、やたらポケットのついた焦 げ茶色のジャケットを着込んでいる。ワッペンに、熊 の図案といっしょに記されているのは彼らの標語──『我々は侵 さない』
レンジャー隊員のペンは、尻 で机をたたくだけで、その机の上にある書類は、さっきから真っ白のままだった。かろうじて埋 まっているのは今日の日付──書類を記入するレンジャーの名前と番号──そして、こちらの名前──最後に分類。
日付には、あまり意味はない──ただ、今日の日付だというだけだ。そしてレンジャーの名前にも意味はない。実際、そのレンジャーの字があまりに汚 くて読めたものではない。こちらの名前は、読むまでもない。オーフェン。間 違 ったつづりでそう記されている。意味がありそうなのは、分類だった。つまり、この書類が記されなければならなかった 理由。
悪筆のせいで読めないのはほかの欄 と同様だったが、オーフェンにはなんとなく見当がついた。『破 壊 活動』とでも書いてあるに違いない──ほかになにがあるのだ。
はあ──と、レンジャーが大きくため息をつく。彼は、がらがらした喉 を震 わせて、なんとかこちらが聞き取れる声を出した。
「つまり、あんたの連れの娘 さんが、これまた連れの坊 ちゃんに水 浴 びをのぞかれて、その仕返しに保護森林を約七百メートルにわたって根こそぎぶっ飛ばしちまったと、そうおっしゃるわけですな?」
「は、はあ......」
レンジャーは確かに彼の言ったことをそのまま繰 り返したはずなのだが、なぜだかオーフェンはだまされているような気分になった。愛 想 笑 いを浮かべつつ、自分の後ろ頭に手を当てて、
「まれにあることでして......」
「まれにねえ......」
レンジャーが、ほとほと困ったようにつぶやく。ペンで机をたたくのはやめない。
「というのは、娘さんが坊ちゃんにのぞかれるのが? その仕返しに森を一面焼け野原にしちまうのが?」
「......おおむね、その両方が」
オーフェンの答えに、レンジャーはなにも返事してこなかった。うなずきすらしなかった。
彼が立っているのは、件 のことがあった場所から最 寄 りのレンジャー詰 め所 である。手 狭 な、殺 風 景 な部屋で、机と椅 子 、くたびれた帽 子 かけと書類用のキャビネットのほかは、床の上に酒 瓶 が三本ばかり置いてあるだけ──うち二本は空き瓶である。
レンジャーが残った一本の瓶に、なんとなく問いかけるような視線を投げるのがオーフェンには見えた。実際、誰かに相談したくもなるだろう──まさか現在のこの平和な世の中で、国家反逆の意志でも持っていないかぎりは、貴族連 盟 ──つまり王室──とキムラック教会によって保護されている《フェンリルの森》に火を放つような人間がいるわけがない。もちろん、密 猟 者 などは後を絶 たないが、それとはまったく次元が違う。
そもそも《フェンリルの森》の保護──というか不 可 侵 を訴 えたのは、数百年前の、創設間もないキムラック教会だった。時の教主ラモニロックによって発されたこの〝女神の命令〟は、以来貴族連盟と教会の手により、ずっと守られてきている。理由はふたつ──ひとつは、そもそも《森》はさほど魅 力 的な開発土 壌 ではないこと。もうひとつは、わざわざ人間などが保護しなくても《森》はもっと強力な守 護 者 を持っていたこと。即 ち数々のドラゴン種族である。
そんなことを考えながらオーフェンは、疲 れて目を閉じた。
(ひょっとしたら俺は、キムラック教会創設以来初めて《森》に対して破壊活動を行なった人間かもしんねえってことか......)
「被 害 状 況 は、わしの仲間が調べてるところだがね......」
と、レンジャーはぼりぼりと自分の髭 をかきながら続けた。
「火災は起こっていない──どういう理由か知らないが。だから、これ以上の被害が出るってことはないだろう」
火災が起こらなかったのは、あれが魔術の炎 だったせいだろう、とオーフェンは見当をつけていた。彼は黙 って、レンジャーの言葉を待った。
レンジャーは、のろのろと続けた。
「とは言え、貴族連盟の管理する土地をあれだけ派 手 に焼いちまったんだ──キムラックのお偉 いさんがなんて言うかをさておいてもな。どんな罰 則 が待っとるかはしらんが、拘 禁 は間違いない。わしらは一応、貴族連盟に役目を認められた管理人ということになっとるが──」
と、ちらりとこちらの胸元を見やる──ドラゴンのペンダントを見たのだ、とオーフェンは気づいた。
「なっとるが、管 轄 はキムラック教会になっとる。だから本筋なら、わしは教会にお前さんらを引き渡さなけりゃならん。だが、お前さんは──」
オーフェンは、こくんとうなずいた。ペンダントを掲 げて、答える。
「魔術士です」
ドラゴンの紋 章 ──剣にからみついた、一本脚のドラゴンの紋章。これは、大陸黒魔術の最 高 峰 たる《牙 の塔 》で魔術を学んだという証 しだった。
今度はレンジャーがうなずく。
「そう。魔術士を教会に引き渡したりしたら──よくて嬲 り殺しだ」
「でしょうね。キムラック教会は、人間の魔術士の存在を嫌 ってるらしい──理由は知りませんが」
「なんだって、こんな馬鹿なことをしでかしたんだ」
鼻息をあららげて、レンジャーはいらだたしげにそう言った。オーフェンはなんとなく、子供のころ野 良 犬 と取っ組み合いして七針縫 ったとき、医者に同じせりふで怒られたのを思い出した。
そのときは、確か人のせいにしたのだと思う。だが今回は、もう少しマシな言い訳を用意できそうだった。オーフェンは、よく分からない心持ちでぽつりと答えた。
「なんだか......人生がうまくいってないみたいなんです」
がちゃん。
「どーすんだよ......」
「どーするのよ......」
目の前で鍵 をかけられた鉄 格 子 から、となりに座 っているクリーオウへと視線を移し、オーフェンは半 眼 になった。去りゆくレンジャーの気 配 が廊 下 の角に消えてから、陰 険 な口 調 でつぶやく。
「そーゆうことを聞ける立場か? お前は......」
それを聞いた瞬 間 、クリーオウが、がばと跳 ね起きた。彼女の胸に抱かれて目を細くしていたレキが、ころんと床 に転げ落ちる。
「わたしが悪いって言うのっ⁉ 」
「じゃあ、誰が悪いってんだよ」
機 嫌 の悪い声でオーフェンが聞き返すと、さしものクリーオウも、ぐっと言葉を呑 んだ。オーフェンはごろんと床に寝そべると、彼らが拘 束 されることになった牢 を見回した。どうもこの娘は分かっていないようだったが、自分たちの置かれた状況というのはお世 辞 にも楽観できたものではない......
「あの場をたまたま警 邏 していたレンジャーに見つかっちまったのがマズかったな。このままじゃ俺たちは《森》破 壊 の罪でキムラック教会に引き渡されて──俺とマジクはそのまま処 刑 、お前は......改宗させられて下位市民に保護されるか、人買いに売っ払われるか知らねえけど、まあそんなトコだ」
牢の中は、当たり前だがなにもない──すみっこに水の入ったポットとブリキのコップ、汚 れた毛布が丸まっておいてあるだけである。その毛布の横には、それとそっくりな姿勢で、ぼろぼろのマジクも転がっている──レキの魔術によってもみくちゃにされて、一度はかなり危険な状態にまで陥 ったのだが、今はとりあえず震 えながら寝言を言うくらいにまでは回復している。
なんにしろ、手 狭 な場所に三人まとめて詰 め込まれて、かなり窮 屈 ではあった。
ため息をついて、オーフェンは続ける。しょげたクリーオウの手を軽くたたいて、
「ま、ここのレンジャーのおっちゃんが、教会に引き渡すのはできるかぎり遅 らせて《牙の塔》に連 絡 を取ってくれるっていうんだ。まったく望みがないわけでもないさ」
「《牙の塔》......」
うなされているマジクのほおを前 脚 でつついているレキを見ながら、クリーオウが繰 り返した。
「オーフェンが育ったところ?」
「ああ」
オーフェンは、静かにうなずいた。床の上から、クリーオウの顔を見上げる。
「お前は──ほれ、トトカンタの魔術士同盟にいた、ハーティアなら知ってるんだったよな。あいつも俺も......みんなあそこで育てられたんだ。先生にな」
きらり──と、クリーオウの目が光ったように見えた。瞬 きしたのだ。
「先生? そういえば、オーフェンにも先生っていたのよね」
「そりゃ、まあな」
「どんな人だったの?」
聞かれてオーフェンは、ふっと笑 みがもれた──ゆっくりと上体を起き上がらせて、クリーオウのとなりに座りなおす。ぱちん、と指を鳴らすと、その音にひかれて子ドラゴンがこちらを向くのが見えた。もたくたとした足取りでこちらに近づいてくるレキをひざの上に抱き上げて、しばし考え込む──思いついた説明は、たった一言だった。
「チャイルドマンという黒魔術士だ」
「......それは出会った頃 に聞いたわよ」
「そうだったっけか? この大陸で、最も強い力を持っていた黒魔術士......ほかに説明は思いつかねえな。つまり、そういうことだ」
「オーフェンよりも強いの?」
少なからず興 味 をそそられたのか、クリーオウは身を乗り出してきた。レキの首を撫 でてやりながら、オーフェンは小さくうなずいた。
「比 じゃなかった──はっきり言ってな。これはチャイルドマン教室にいた生徒すべてに言えたことだが......誰 ひとりとして、師である彼には追いつけなかったのさ。チャイルドマンは史上でもふたりと見ない超 人 的な力を持っていた」
「その人だけが? なんで?」
クリーオウの問いに、オーフェンは目をぱちくりした。
「ヘンなことを聞くんだな。彼は力を持っていたんだ。生まれつきにな。理由なんかない」
「そうかしら」
と、彼女はなんとなく疑わしげに虚 空 を見上げてみせた。
「努力とか訓練とか、そういうのは関係ないの?」
「なくはないさ。どんな才能があろうと、相応の制御力がなければ、いざ力を解放したときに暴走するだけだからな。マジクの奴 がその典型だよ」
オーフェンは言いながら、床に落ちていた小石をマジクの顔に放り投げた。
「だがそれにしても、先天的な魔力の大きさってのは重要なんだ。こればっかりは、そうだな──例 えば身長なんかと同じでね。どんなに頑 張 っても、天 賦 のもの以上にはできないんだよ。ある程度には、成長させることはできるけどな」
「わたし、前々から気になってたんだけど──」
彼女は聞きながら、オーフェンのひざからレキを取り上げた。自分で抱いて続ける。
「《牙 の塔 》って、どういうところなの?」
「......一言で説明するのは難しいな」
「一言じゃなくてもいいわよ。どーせすることなんてないんだから」
「誰のせいだ?」
オーフェンが半眼で聞くと、クリーオウは即 座 に目をそらした。レキもつられて、あさってのほうを向く。
(たまにいじめてやらんと、すぐに忘れるんだな、こいつは)
などと思いつつ、はあ、と息をついて、オーフェンは続けた。
「《牙の塔》ってのは都市の名前だよ。別に、文字通り塔が建ってるわけじゃない。いや、まあ、塔はあるんだけど......」
「......なにが言いたいのよ」
ちんぷんかんぷんな表情で、クリーオウ。オーフェンは困ったように説明をやり直した。
「だからな、《牙の塔》という呼び名にはたくさんの意味があるんだ。ひとつは、塔だ。二百年前、この大陸に人間の魔術士が誕 生 したとき──その発生の原因となったウイールド・ドラゴン=ノルニルは、魔術士のために世界図塔と呼ばれる建築物を築き上げた。まあ、今入ってみても、いったいなんのために造られた塔なのかいまいち分からないらしいし、そもそも世界図塔への立ち入りは厳 禁 されているんだが、この塔ってのが、なんていうか......円 錐 をちょっと曲げたみたいな、つまりは牙の形をしてるんだよ。そのことから、世界図塔は《牙の塔》と呼ばれることになった」
「うん」
クリーオウがうなずくのを見て、オーフェンは続けた。
「で、また別の意味が......都市の名前だ。その世界図塔を中心として広がる都市があってな、こいつも通 称 《牙の塔》都市と呼ばれてる。正式な名称はタフレム市だけどな。まあ、わりと人口も多い、まあまあな街 だ」
「トトカンタと同じくらい?」
「......トトカンタ市と比 べるなよ。規 模 がまったく違う。せいぜい三分の一ってトコだ。で、最後が一番、一 般 的な意味だが──つまりは、タフレム市街から少し離 れたところに、黒魔術士を養成する巨大な施 設 がある。これを大陸黒魔術の最高峰たる《牙の塔》と呼ぶのさ。正式名称は......やっぱり《牙の塔》なんだがな」
「オーフェンが勉強してた場所ね」
「ああ」
オーフェンは頭の後ろで腕を組んで、壁 にもたれた。目を閉じて、付け加える。いくつもの意味を持つ《牙の塔》という名前──
「......どの《牙の塔》にも、思い出がある」
◆◇◆◇◆
「......え?」
彼は聞き返した。殺 風 景 な部屋、ひとりでベッドに腰を下ろして。ふたつある二段ベッドの、下の段。鉄パイプを組んで作られた粗 末 なベッドは、部屋の両 脇 に平行に並べられている。部屋の中央は通路になっていて、ほかには家具らしい家具はない。部屋に窓はひとつ。鉄製の窓 枠 には赤 錆 が浮いて、形も少しいびつになっている。
部屋の入り口に立つ老人を、彼はじっと見つめていた。黒のローブをまとった上に、地位を示すグレイの上 掛 けを羽 織 っている。ローブを身につけることを許されるのは《塔》の高位魔術士だけである。グレイの上着はその中でも長老──エルダーと呼ばれる最高位の術者であることを意味していた。
老人は長く伸 ばした髭 の中から、低い声を出した。静かな眼 差 しでこちらを見 据 えて。
「君だよ」
「ぼく......ですか」
「そうだ。君が上がる んだ」
長老の言葉にはよどみがない──しっかりとした、落ち着いた声 音 で、老人は続ける。
「我が《塔》は微 妙 な位置にある。それは分かるな?」
分かる──はずだが、実はよく分かっていなかった。彼はまだ十歳で、政治のことを言われてもあまりピンと来ないというのが正直なところだ。が、この《塔》にあってはそんな甘 えは許されない。それだけは、はっきりと分かっていた。
だから彼は、すぐにうなずいた。
長老は別に、それでいいともそうでないとも言わなかった。そのまま続けた。
「我々は優秀な人材を必要としている。宮 廷 魔術士《十三使 徒 》へと出ていかない 、この《塔》のためのスタッフをだ。君が、それだ。いや、そうなってもらう」
「............」
「すでに六人の若者──君のような若者が、上がって いる。あの男の教室にだ。その誰もが、天才的な才覚を示した者たちだよ。そう......君のようにな、キリランシェロ」
「ぼくは......」
なにかを言いかけて、彼は、続けられなくなった。なにか明確なイメージがあったわけではなく、単に口から出てきただけの言葉で、意味はない。まったくないと言ってもいいかもしれない。その程度のものだ。
長老にも、それが分かっていたのかもしれない。あっさりと無視した。
「君はまだ幼 い。だが本格的な教育を始めるのには、悪くない年齢だ」
「............」
「君に課せられたテーマはひとつだ。たったひとつ」
長老は目を閉じ、続けた。
「君に教える者を越えろ。それだけだ」
◆◇◆◇◆
──はっ......──
オーフェンは、跳 ね起きるようにして目覚めた。寝汗をかいているわけではない──動 悸 もしていない。それほどは。
だが、とにかく自分があわてていることだけは自覚していた。いやむしろ焦 燥 に近いか。
「ちっ......」
と、オーフェンは舌打ちした。こめかみのあたりをかきながら、あたりを見回す──真っ暗な牢 の中、窓から入ってくるぼんやりとした月明かりに、ぐっすりと寝ているマジクの顔が青白く浮かび上がっている。クリーオウはいない──彼女だけ頼 んで、詰め所の仮 眠 室 を借りさせてもらっている。
窓から斜 めに差し込んでいる月光を、オーフェンはじっと見ていた。なにも考えずに、じっと。
迎 えがきたのは、翌朝のことだった。
窓から差し込む光が、月のそれから朝日に変わる。それを見ながらオーフェンは、いつの間にかまた眠 っていたらしかった。だがそれでも恐 らく、その時間は小一時間といったところだったろう──ふっと、目が開く。
いつも、寝起きには弱い。が、今日はまったくそうではなかったことに、彼は懸 念 を覚えた。
(こんなときは、嫌 なことが起こる......)
胸中でつぶやきつつ、かぶっていた毛布をはねのける。当たり前と言えば当たり前だが、マジクはまだ牢の隅 でぐっすりと眠っていた。オーフェンはゆっくりと起き上がり、あたりを見回した。異常はない。が、違 和 感 はある。
(身体 が勝手に興 奮 している......なにかを予感している?)
自問して、彼はひとりでかぶりを振 った。意味がないぞ、と自分をたしなめて──その証 しというわけではないが、唇 をなめた。喉 が渇 いている。寝起きはいつもそうだが、今 朝 のは少し違う気がする......
「マジク!」
オーフェンは唐 突 に叫 ぶと、丸まって寝ている生徒の肩を蹴 飛 ばした。わひゃあ、とかいう悲鳴をあげて、マジクが跳 び起きる。わたわたと言い訳するように手を振りながら、
「の──のぞいてなんかいませんよぼくは──」
「やかましい! その話題は終わったんだ!」
オーフェンは叫ぶと、きっと表情を引き締 めた。懸念が、どんどん膨 らんでくるのを感じる。根 拠 はないのだが、彼は既 に、もうほとんど確信していた──
(俺が寝ている間に、なにかが起こったんだ)
だがそのことは口にせずに、彼はマジクに聞いた。
「ずっと寝てたか?」
「へ?──ええ、まあ......」
きょとんとした顔で、マジク。彼は、きょろきょろとあたりに視線を巡 らせて、
「あの......ここ、牢屋ですか? なんでこんなところにいるんです、ぼく?」
「クリーオウに聞けよ」
意地悪い気分で、オーフェンはそっけなくつぶやいた。不 思 議 そうにこちらを見ているマジクのことはとりあえず無視して、鉄 格 子 の出入り口に手を触 れる。彼は口 早 に唱 えた。
「我 踏 み入れる招 かれざる門」
魔術が効果を為 して、かちり、と鉄格子の鍵 が外れる音が響 く。オーフェンは無言で格子を押し開けると、さっさと牢から抜け出した。後から続いて出てくるマジクを待ってから、詰め所の表のほうへと続く通路を見やる。
「............」
と、形にならない考えをぼんやりと弄 んでいるうちに、オーフェンはマジクがさっきからじっとこちらを見ているのに気づいた。いきなり蹴り起こされれば当然かもしれないが、しかしその怪 訝 そうな目付きは、なにか別のものを訴 えようとしているようにも思える。
気になって、オーフェンは聞き返した。
「......どうかしたか?」
「いえ、あの......お師 様 、ペンダント、どうしたんです?」
「あん?」
と、オーフェンは反射的に自分の胸元に手をやった。いつもなら、そこに金属の感 触 を覚えたはずだ──いつも身につけているドラゴンの紋 章 は、彼のほぼ唯 一 の身分証明だった。《牙の塔》の黒魔術士である証 しである。が──
そこには、手に慣れた銀細 工 の感触はなかった。なにもない。
「あれ......?」
オーフェンはあわてて、あちこちのポケットを探 った。普 段 寝るときには確かにペンダントは外しているのだが、昨夜は外していなかったはずだ。だが、どちらにせよ、ポケットの中にもペンダントはない。
「落っことしちまったかな」
「どこにですか」
「分かんねえけど......参ったな」
だが、困ったような声を出しつつも、実はオーフェンは半分上の空だった。
(《牙の塔》の紋章なんざ、なけりゃないで、それだけのもんだけどよ──)
今感じている違和感は、その程度では済まないような気がする。
「ち......」
オーフェンは、黒 髪 をかきあげながら舌打ちした。
そのまま生徒の返事は待たずに、視線を厳 しくして通路を進みはじめる。もとより広い詰め所ではなく、数歩も歩けばすぐにロビーに出る扉 に突き当たる。オーフェンは扉のノブをつかむと、鍵がかかっていないことを確かめて一気にドアを押し開けた。
ぱたん......
開け放たれたドアが、右手の壁 にぶつかって跳 ねる。ロビーとはいっても玄 関 口 から続く部 屋 というだけで、どちらかと言えば単に広めの玄関というほうが近い。内 装 としては乗合馬車の待合所といったところで、昨日 オーフェンが調書をとられたのも、この場所だった。玄関からすぐのところに帽 子 かけがあり、ふしくれだった机があり、酒 瓶 が転がり、椅 子 には老人のレンジャーが身を沈 めるように腰掛けている。
レンジャーが座 っている椅子の向こうに扉があり、そこが仮 眠 室 で、クリーオウが眠っているはずだった。ぎゅっと──嫌 な予感が、胸を刺 すのを自覚する。
オーフェンはため息をついた。
「懸 念 が的 中 したな」
「......え?」
マジクの声には答えずに、オーフェンはロビーに足を踏 み入れた。そのまますたすたと、部屋の中央まで進む。
レンジャーの老人は、ぐっすりと寝こけていた。入ってきたオーフェンらにも気づかずに、腹に両手を載 せて、口ひげの奥で沈 黙 している。
(この詰め所には、レンジャーは三人いると爺 さんは言ってたな──爺さん以外は近くに家を持っていて、ここに泊 まり込んでいるのは爺さんだけだとも)
「マジク」
オーフェンは、すぐ後ろまでついてきていた生徒に呼びかけた。
「は、はい」
びっくりしたような声で、マジクが答えてくる。肩越しに少年の顔を見やり、オーフェンは続けた。
「クリーオウは、そっちの部屋で寝てる。馬車まで連れ出してやってくれないか?」
と、仮眠室のほうを指さす。
マジクは、げ、と声をあげた。自分の薄 い胸板を手で示しながら、
「ぼくがですか? なんとか一命を取り留 めたっていうのに。今度こそ本格的に殺されちゃいますよ」
「大 丈 夫 だよ。クリーオウはもう別に怒ってなかったぞ。一発食 らわして、すっきりしたんだろ」
「はあ......」
釈 然 としない面 持 ちで、マジクがつぶやく。少年が半信半疑のていで仮眠室の扉に向かうのを見ながら、オーフェンは寝ているレンジャーのほうへと歩み寄っていた。木の床 を踏 み締 めるブーツの底が、きしきしと囃 し立てるような音を立てる──
マジクが、仮眠室のドアを開ける。
(ノックをしなかったな)
オーフェンは胸中でそんなことをつぶやきながら、老レンジャーの身体 に触 れた。ゆさゆさと揺 さぶりながら、話しかける。
「おい、起きろよ爺さん」
我ながら、あまりの道 化 に下腹を切られるような感 触 を覚えたが、それは表情には出さない。
「朝だぜ。ちっと早いけどな。起きろって」
と──
いきなり、ぐわっしゃん、と大きな陶 器 が砕 ける音が響 く。花 瓶 でも壁に投げ付けたか──まあ、そんな音だった。
「うわああっ!」
マジクの悲鳴。それを追いかけるように、クリーオウの叫びが聞こえてくる。
「なんなのよいきなりっ! しかもお仕置きを受けて二十四時間以内に二本の足で立ってるなんて、とてつもなく生 意 気 よっ!」
「そっ、そんなぁっ!」
「レキ! やっちゃいなさい!」
「お師様の嘘 つきぃぃっ!」
泣き声じみた悲鳴とともに、爆 音 が轟 く。爆風に押し出される形で部屋から飛び出してきたマジクは、そのまま詰め所の外へと駆 け出していった。その後を追って、寝 間 着 姿のクリーオウが飛び出してくる。胸に、前脚を丸めたディープ・ドラゴンを抱 っこして。
「待ちなさいってば! やっぱり自分の手で殴 らないと気が済まないわっ!」
と、寝 癖 のついたブロンドをはためかせながら、彼女もマジクを追って詰め所を出ていく。ふたりの姿が消えてから、オーフェンは小さく安 堵 の吐 息 を漏 らした。
「ふう......」
と、レンジャーの身体を揺 さぶっていた手を離 す。これだけの大 騒 ぎが起こっても、老人に目覚める気 配 はなかった。安らかに目を閉じて、身動きひとつしない......
オーフェンは、ちら、と椅子の下をのぞきこんだ。老人の体重を長年支えつづけ、今は体重の乗った形で固まっているその椅子の下には、小さな水たまりができていた。今もその水たまりに、小さな滴 が椅子から垂 れる。
それはほんの小さな、血だまりだった。
出血量にしてみれば、ナイフで指を切った程度のものだろう──血の滴は、老人の腹に開いた傷口から漏 れている。傷口は一見して、創 傷 ──それも小型のナイフによる刺 し傷 だとオーフェンには思えた。本来ならもっと出血があるはずだろうが、それがないというのは、傷を受ける前に心臓が停 まっていたからだろう。殺される直前になって、恐 怖 でショック死したか、あるいは──
「魔術で最初に内臓を破 壊 されていたか、だ」
オーフェンは静かに独 りごちた。だとしたら、つまりこれをやった人間は、魔術でレンジャーを殺してから、改めてわざわざ死体を刺したことになる。
血だまりを見下ろして、また吐 息 する。覚えていた懸 念 は、これが原因だったのだと、彼は静かに判断した。血の臭 いが、目を覚まさせたのだ。マジクやクリーオウには感じ取れないほどの、ほんのわずかな血の臭い。
「くそ」
とオーフェンは毒づいた。意味がない──意味がない、と胸中で繰 り返す。この老レンジャーの死には、意味がない。
(他殺なのは間違いないが......誰がこんなことを?)
老人は、腹の創傷を押さえるようにして、両手で包んでいる。ふしくれだった指はすべて血にまみれ、動かない身体を自分で押さえ付けているように見えた。
(それに、動機はともかくとして、手段は? 同じ詰め所にいた俺やマジクに気取られもせずに、人ひとりを殺せるものなのか?)
だとしたら──それは、殺人者の技術ではない。
(暗殺者 のものだ。それにしちゃ、とんでもなく大 胆 な奴 だが......)
「どういうことだ?」
オーフェンは自分に問いかけつつ、立ち上がった。いらいらと部屋の中を見回して──乱 闘 のあとも、なにもないのを確認する。レンジャーは居眠りしているところを殺されたか、あるいは気づく間もなく殺されたかだろう。
それにしても、なにかこの殺人の意味を説明してくれるようなものが室内に残されていないかと、素 人 の目でオーフェンは見回した。昨日見たときとほぼ変わらない、乱雑なレンジャー詰め所。一本だけは中身が残っていた酒 瓶 は、もうすべて空 になっていた。物取りの犯 行 ならばキャビネット等を荒 らした形 跡 があっても良さそうなものだが、そういった跡 は見当たらない。
「なにが起こったんだ──くそ、人が殺されたってのに、俺はなんで気づきもしなかったんだ?」

いらだたしげに、彼は吐 き捨てた。そのまま、ぐるりと壁 を見回して──
はたと止まる。
「............」
意味は、あった。少なくとも、その瞬 間 、彼はそう思った。
レンジャーの死体に気を取られて、それまでは気づかなかったのだが......
老レンジャーの見 据 える壁に、血まみれの短剣──凶 器 だろう、間違いなく──が突き立てられている。ナイフの刃 には、やはり念入りに血 塗 られた、彼の銀のペンダントが引っかけられていた。そしてナイフは、ペンダントだけではなく、一枚の紙片も壁に留めている。
オーフェンは、ぞっとしてつぶやいた。
「警告、か......?」
紙片には流れるような書体で、《牙の塔》には気をつけろ、と記されていた。
◆◇◆◇◆
キエサルヒマ大陸における人間の魔術士と、ドラゴン種族のそれとの違いは──ひとことで言えば、意味 の違い、というところだろう。
太 古 の昔、神々から直接に魔法という秘 儀 を盗 みだし自分たちの『魔術』としたドラゴン種族と、今から数百年ほど前に、そのドラゴン種族のひとつウィールド・ドラゴン種族との混血という形で、魔術士という特異な能力者を生み出すことになった人間──
発生した経 緯 も違う──時期も違う──ただ由 来 だけは同じだが、その意味付けも、位置もまったく違う。現在、大陸でもっとも繁 栄 しているのは人間種族だろうが、にもかかわらず種族としての総合的な『力』という意味で、人間はドラゴン種族に遠く及 ばない。
といったことを、かたくなに認めようとしない魔術士も世の中にはいるが......
とりあえずマジクは、そういった輩 に会ったらひとこと言ってやろうと、胸中でかたく誓 っていた。こんがりと焦 げながら。
(間違いなく、化 け物 だあれは......)
ぶつぶつとぼやく。レンジャー詰め所のすぐ外。短い馬車道が街道まで続く、その路上である。まだ早朝のため薄 暗 く、あたりを覆 うようにそびえている森の巨木が、うっすらと青い闇 に浮かぶ。
路上にうつ伏せになりながらマジクは、目線だけを上げた──一番最初に見えたのは、よく知ったスニーカーのつま先。
金髪の少女。寝 間 着 の胸元に抱いている、真っ黒の小さな獣 を鼻先でつついてあやしながら、クリーオウはふと、真 顔 を見せた。
「ひとつだけ聞きたいことがあるのよ、マジク」
「ふぁい......」
嫌 な予感がした──どうか神様──
クリーオウは、そのまま続けてくる。
「なんであんな馬鹿げたコトをしでかしたわけ?」
そんな難 しいことを聞かれても、と思いながらマジクは、きっと神様に祈 ったのが悪かったんだと結論づけた。
「なんでと聞かれても......」
「な・ん・で⁉ 」
クリーオウは退 かない。
(というか、彼女がなにかしら譲 歩 したことがあったかしらん)
そんなことを考えながら、マジクはゆっくりと上体を起こした。クリーオウは、てくてくと足音を立てて、こちらに近寄ってきている。詰 め所 の裏手から、馬が嘶 く声が響 くのが聞こえた。
「え〜と」
マジクは、さりげなく防 御 姿 勢 などとりながら、
「仕返し......のつもりだったんだけど......」
「仕返しって?」
じろりとにらみ据 える目付きで、クリーオウ。マジクはほおをかきながら、
「いやだからその......使い走りみたいに扱われててさ、しゃくに触 ってたとゆーか......」
「......ふうん......」
クリーオウがじっと、疑わしげな眼 差 しをこちらに向けている。マジクは気まずくなり──というより、クリーオウのその態度を攻 撃 の前姿勢だと悟 って──後 退 りした。が、
「ふうん」
クリーオウはそれだけ繰 り返すと、ぺたんと子ドラゴンを左肩に載せて、こちらに背を向けた。のしかかるようにして肩に載せられている子ドラゴンとちょうど目が合う。
(あれ......?)
とにかく逃 げようと中腰に構えていた姿勢だけが虚 を泳ぐ形になって、マジクはきょとんとした。いつものことなら、ここからクリーオウの本格的な攻撃が始まるものと思っていたのだが。
クリーオウは、そのままもうこの話題は終わりだとでもいうように、こちらを向きもしない。ぷらぷらと、レンジャー詰め所のほうを眺 めている感じだ。かえって不 気 味 になって、マジクは声をかけた。
「ね、ねえ......」
「............」
クリーオウは返事してこない。聞こえた素 振 りすら見せなかった。
その代わり、まったくの独 り言 だとでも言うような口 調 で、
「オーフェン──」
「え?」
「オーフェン、なにやってるのかしら」
「............」
マジクは、なにも答えが思いつかずに、呆 然 とクリーオウの後ろ頭を見つめていた。猫のような仕草で顔を洗っているディープ・ドラゴンに気を取られつつ、ふと考えが浮かぶ。
(まさか、お師 様 と合流してから改めて攻撃しよう、なんて考えてるんじゃ──)
だが、そういった雰 囲 気 でもなかった。ぽつりと、つぶやく。
「お師様は......なんか、ヘンだったよ。どこがどうってわけじゃないけど......なにかを隠 してるみたいだった」
「だいぶ前からそうだったわよ。気づいてなかったの?」
いらいらとした口調で、彼女がつぶやく。なんなんだよ、とマジクは口の中で毒づいた。ヤな怒り方だな──と付け足してから、
「ぼくは『みたいだった』って言っただけだよ。だいたい、お師様がぼくらになにを隠す必要があるってのさ」
「......わよ......」
そのせりふはほとんど聞き取れなかったが、彼女が顔を半分だけ振り向かせたせいで、口がぱくぱく動くのだけは見えた。
「え?」
マジクが聞き返すと、彼女は、きっとこちらに視線を走らせ──怒 鳴 ってくるのかと思いきや、静かにつぶやいた。
「......知らないわよって言ったのよ」
「なにを怒ってるのさ」
「怒ってないわよ」
むすっとした顔で、彼女がつぶやく。やや逃げ腰で、マジクはうめいた。
「やっぱ怒ってるじゃない」
「怒ってないって言ってるでしょ」
「だから怒ってるって......」
「別に怒ってな──」
「あ、ほら、その耳たぶの下あたりが怒ってる感じで──」
しつこく繰 り返すと、ぴくり、とクリーオウの目の下がけいれんする──
「うるさいわね、さっきから! 怒ってないわけないでしょ、のぞかれて、いじめの総大将みたいに言われて、オーフェンはなんだか隠し事してるし、そー考えると気まずいから部屋に着 替 えにもどれもしないしっ!」
「ああああっ! でもなんかいつも通りになって安心したぁっ!」
首をしめてくるクリーオウの手をなんとか振り払おうとあえぎつつ、マジクはそんなことを口走っていた。
と──
ふっ、とした気 配 をマジクは覚えた。頭にのぼっていた血が、一気に首から抜けていくような、ぞっとする感覚──身体を震 わせて、マジクは、その気配の方向を視線で探 った。
クリーオウは、今なお続けている。
「オーフェンたらなんだかわたしをお荷物扱いしかしてくんないし! お小 遣 いもくれないし!......って、どうしたのよ」
あっけにとられるように、クリーオウはうめいた。
「え?」
気配の方向──漠 然 と背後だと思ったのだが、ほとんどあてずっぽうのようなものだ──へとなんとか振り返ろうとしながら、マジクは聞き返した。クリーオウが、まだこちらの首から手を放さないまま、ほうけたようにつぶやいてくる。
「なんなのよ、急にしらけちゃって」
「いや......なんだか......」
もごもごと口の中でつぶやきながら、マジクは視線をクリーオウのほうにもどした。この貴族じみた容 貌 の少女は、いつの間にか頭の上へ移動していたディープ・ドラゴンの赤ん坊と同じごく単純な『?』の表情を浮かべている。彼女の顔を、不意でもつかれたような、きょとんとした眼 差 しで見返しながら、マジクは迷っていた──なにも説明できない。なにも分かってないから。ただなにかを感じたんだ......
(............!)
瞬 間 、頭の中でその『なにか』が形を取って、マジクの意識にだけその姿を見せた。
──〝危険〟
マジクはとっさに、なかばしがみつくようにクリーオウの身体を抱 き締 めた。
「な──なにすんのよっ!」
クリーオウが、悲鳴じみた声をあげるのが、耳元できんきん響く。だがそれは無視して、マジクは全力で叫 んでいた。
「我 は紡 ぐ──」
呪 文 の声とともに、一 瞬 で編 み上げられた魔力が自分の体内から空間に放たれるのを自覚する。
「我は紡ぐ光輪の鎧 !」
キエサルヒマ大陸の人間の魔術士は、例外なく音声魔術士と呼ばれる──
音声、つまり呪文を媒 体 にその魔術を扱うことが、その呼び名の由来である。呪文の声がとどかないところにまでは魔術の効果は及ばないし、効果そのものも永続きはしない。声は保存できないからだ。
マジクの呪文も、彼自身の魔力を強く帯びていた──声と魔力とを融 和 させることは非常に難しく、マジク自身もその成功率はさほど高くはない。が、それができなければ、魔術士は魔術を行なうことができないわけだ。
ともあれ、今回はうまくいったと、マジクは胸中で喝 采 していた。彼の叫びに応じるように、無数の光輪の壁がふたりの周囲を覆 う。その光の障 壁 の中で、マジクは必死に祈 っていた。
(どうか、予感した危険が、ぼくの魔術で防げるものでありますように......!)
その瞬間──
光輪の隙 間 を貫 くように、紅 蓮 の閃 光 が瞳 の中に飛び込んできた。
(く──!)
かっ──!
爆 風 が、光の障壁をひしゃげさせかねない勢いで押し寄せてくる。炎 が炸 裂 している。荒 れ狂 うような、激 しい光の躍 動 ──だが、その爆裂の中心となっているのは、彼らではなかった。
レンジャーの詰 め所 だ。詰め所が突 然 爆発したのだ。
──と分かった瞬間、マジクは力つきて、障壁を消した。爆風の余波が、小 柄 な彼を地面にたたき伏せる。クリーオウも、子ドラゴンをかばいながら転 倒 していた。
しばしして...言葉を失い、ふたりで同時に身を起こす。
詰め所は、跡 形 もないくらいに消し飛ばされていた。
「......な............」
クリーオウが、絶句して目を見開く。
マジクも立ち上がりながら、あまりといえばあまりのことに棒 立 ちになった。詰め所は、よくケーキに載 っている菓 子 の家の末路のように、一気にえぐられるように潰 され、派 手 な炎に包まれていた。
油に引火でもしたのか、黒々とした煙が空へと立ちのぼっている......
「お師様が──」
つぶやきかけたマジクは、クリーオウに突き飛ばされた。まだ止まない爆風に金髪をなびかせながら、彼女は素早く立ち上がる。
「オーフェン!」
ぞっとしたような声で、クリーオウが叫ぶのが聞こえた。同じような心 地 で、マジクも胸中でうめく。
(あの小屋にお師様がまだいたなら......助からない......)
詰め所は完全に潰れて、屋根から炎を噴 き上げている。詰め所からだいぶ離れた位置にいたマジクらでさえ、魔術を使ってようやく身をふせいだところなのだ──爆発の中心にいたならば──
反応は、クリーオウのほうが速かった。
「助けなきゃ!」
短く叫んで、炎 上 する小屋へと走りかけている──とマジクは、あわてて後ろから彼女の腕をつかんだ。
「待ちなよ!」
瞬間、弾 かれたようにクリーオウが振り向いてくる。
「なに馬鹿なこと言ってんのよ!」
彼女は、厳 しい口 調 で続けた。
「オーフェンを見殺しにする気⁉ 」
「そ、そうじゃなくて......」
マジクは、困ったように答えながら、とりあえず彼女の腕をはなした。
「あの爆発じゃ、助からないよ──ええと、つまり」
と、こちらをにらみつけているクリーオウの形 相 を見て言い直す。
「つまり、お師様自身がなんの手も打ってなければさ──お師様なら、ぼくらよりよほど上 手 に自分の身を守れるだろ? お師様ですら駄 目 だったんなら、今さらぼくらにできることなんて──」
だが、クリーオウは納 得 しなかったようだ。
「あんたねえ、オーフェンだって万能ってわけじゃないのよ!」
彼女はまたレキを抱きなおしながら、詰め所のほうに向き直った。こちらは見ずに、続けてくる。
「あの中で気を失ってるかもしれないし......心配じゃないわけ? あんたは」
「そりゃ心配だけどさ、ぼくらが出ていって足手まといになったってこと、今までもたくさんあったじゃないか──」
マジクの言葉を聞いて、クリーオウがなにか反 抗 の声をあげようとした、そのとき──
声は、唐 突 にした。
「──そう。つい思い出したんだけど、君らは足手まといだな」
「────⁉ 」
いきなり聞こえた声に、マジクとクリーオウが、同時に振り返る──だが、声が聞こえてきたと思えた背後には、誰の姿もない──
「誰っ⁉ 」
クリーオウが、鋭 く叫ぶように聞く。マジクも一応油断なくあたりを見回した。誰もいない──誰もいないが──
いる ということは分かる。先程まで、人の気配などしなかったというのに、今はその声の気配は、肌 にひりひり感じるほどに、その場に満ちていた。しかも──
(この感じ......どこかで会ったことのある奴 ......か⁉ )
声も、確かに聞き覚えのある感じなのだが、はっきりとは思い出せない。そのことを訝 っているうちに、声は再度聞こえてきた。
「......彼は、彼ひとりでいい」
その瞬間、マジクは気づいた。
「上だっ!」
叫びながら、空を振 り仰 ぐ。そこに、声の主はいた。
覆 面 で顔を隠 しているため、表情は分からない。が......確かにあいつは笑っているんだ、とマジクは直感した。
マジクらの頭上、十数メートルほどの上空に、ぽつんと浮かんでいる。軽く腕組みして、姿勢のいい直立の格好で。下から見上げていることを差し引いても、その声の主──男だろう。恐らく──の背は、あまり高くないと見当がついた。中肉中背、いや、やや痩 せぎみか。遠目に見ても、しなやかそうな、無 駄 のない肉付きをしているのが分かる。全身黒一色で、髪も黒。顔を隠している覆面すらもが、黒だった。
クリーオウが、また叫んだ。
「誰だって聞いてるでしょ! 聞こえないわけ⁉ 」
「......ぼくの名前は有名すぎるよ......」
彼は、にたり、とした口調で、そう答えてきた。
じっと......覆面の隙 間 から、鋭い眼光でこちらを見下ろしている。年齢は若い、とマジクは直感した。へたをすれば、自分とも大差ないかもしれない。もっとも、物音も立てずに自分の身体を空に浮かべるような魔術は、マジクにはまだできないが。
男──いや少年が、小さく呪 文 の声をつぶやくのが聞こえた。それと同時に、彼がすうっと地面まで下りてくる。
とん、と軽い足音を立てて、数歩ばかりの間 隔 を開けて、彼が地面に下り立つ。マジクは反射的に、叫んでいた。
「我は放つ──」
だが、少年は動かない。覆面の隙間からこちらを見ている目すら瞬 きさせずに、小さく告げてくる。
「魔術の構成に失敗している。それでは効 かないよ」
「光の白 刃 っ!」
マジクは構わず叫んで、右手を突き出していた──が、宣告通り、魔術は発動しなかった。微 風 すら起こせず空 にほうり出された自分の右腕を見ながら、マジクは絶句していた。やがて──やや遅 く──それなら成功するまで試せばいいんだと思いついたときには既 に、相手のほうが動いている......
「我は放つ光の白刃」
黒ずくめの少年の声は、低く抑 えられていて、まるでこちらにとどくぎりぎりの声を調節して放ったようにも聞こえた──ひょっとしたら、その通りなのかもしれないが。瞬間──こちらに向けてすっと突き出された少年の右手の先に小さな光が灯 り──
次の瞬間には、視界いっぱいに白光が満ちていた。防ぐことも、逃げることもできないでいるうちに、放たれた光熱波が自分の肌を焼く──
(死んだっ⁉ )
マジクは思わず覚 悟 の悲鳴をあげていた。と──
ばし、と小さな音を立てて、光が消える。気がつけば、あれだけ強く空間に満ちていた光熱波の輝 きは跡 形 もなく消えていた。自分も......死んでいない。
「............」
少年は黙って、こちらを見ている。いや、マジクをではなくて、マジクを素通りして、背後にいる別のものをじっと凝 視 している感じだった。つられて振り向くと、そこには寝 間 着 姿で厳しい顔付きをしたクリーオウと、彼女の抱 えている子ディープ・ドラゴンがひ
かえていた。
「......レキに感謝しなさいよ」
彼女自身、ひやっとしたような口調で、そう言ってくる。マジクは素直に、こくんとうなずいた。
(そっか......レキが助けてくれたんだ)
冷や汗でぐっしょりとなった背中を意識しながら、マジクは理解した。レキ自身は、緊 張 感 なくクリーオウの腕に頭を乗っけてぐったりしている。
たとえ赤ん坊のレキの扱うものだとしても、ディープ・ドラゴン種族の扱う魔術は人間の比になるものではない。そう考えると、マジクは胸中に安 堵 が満ちるのを覚えた。
と、少年がなにやらつぶやくのを聞いて、また向き直る。
少年は、ゆっくりと告げた。
「なるほど......《森》からディープ・ドラゴンを連れ出した人間がいるというのは、本当だったんだな。まあ、アスラリエルが嘘 をついたと思っていたわけではないけど、彼女もときたま酔 狂 をするからね......」
その少年の声には、別にいらだちがこもっているわけでも、焦 りが見えるわけでもなかった。

ただ、少年のせりふの中で、アスラリエルという単語が出てきた瞬間、ぴくり、とレキが頭を動かすのが見えた。なにかに反応するように、ぱちくりと瞬 きしている。
それを見て、マジクはピンときた。
「アスラリエルって、あのディープ・ドラゴンのことか? ぼくらを見 逃 してくれた......」
「そうだよ、少年」
自分もたいして歳 が変わらないだろうに、少年はそんな口のききかたをした。
「でも、だとしたら、ぼくがその子を殺したりしたら、彼女は恨 むだろうな......ディープ・ドラゴンの使う蘇 生 の魔術は死んだ直後にしか効かないらしいから。死体の損傷が激 しい場合もいけないらしいしね......ところで」
と彼は覆面の間で、すっと目を細めた。誰にともいうわけではない口調で、
「本当に死んだんじゃないかと心配したよ」
「ざけてんなよ、クソガキ」
声は、またも上のほうから聞こえてきていた......
「オーフェン!」
クリーオウが、歓 声 をあげる。マジクもつられるようにして、上空を見上げた。そこには、先程の少年と同じような格好で、オーフェンが宙に浮いている。音もなく──ただ全身に軽い火傷 やらすり傷やらケガだらけで、少々動きがおぼつかないような感じだったが。
オーフェンは、ふつっと糸が切れたように、地面に飛び降りてきた。何メートルかの高さから、さして不都合もなさそうにすたっと下りる。ちょうどマジクと少年との間に立ち塞 がるような形で、オーフェンは少年をにらみやっていた。
「お師様、無事だったんですね!」
マジクが声をかけると、オーフェンは振り向かずに、ああと答えてきた。
「死ぬかと思ったがな......誰かと思えば、こんなガキがあの魔術を使ったってのかよ」
「そう......こんなガキだよ」
少年は、なにやらおもしろげにそうつぶやく。マジクの位置からでは表情は見えないが、オーフェンが訝 るように肩を動かすのが見えた。
その瞬間、少年が動く。覆面の瞳 を、ちらりと光らせて。
「我は踊 る天の楼 閣 」
つぶやきも一 瞬 なら、その結果も一瞬だった。ふっ......と少年の姿が視界の中で霞 んだかと思うと、次の瞬間には、オーフェンのほんの目の前まで移動している。
「空間転移──馬鹿な!」
オーフェンが、悲鳴をあげた。少年は事もなげに、
「驚くのはいいけど、動 揺 は隙 を生むよ」
言って、すぐ目の前のオーフェンの額に人差し指を突き付ける。ぴたりと、正確に。
「くっ──!」
オーフェンがうめいて、一歩後ろに跳 んで逃げる。それを見て、覆面の双 眸 から光が消えたのをマジクは見ていた。目を閉じたのではない──なんとなく、マジクは気づいた──『見る』目から、『狙 う』目に変わったのだ、言うなれば。
証 拠 、少年はなんら動ぜず、静かに口にする。
「我は弾 くガラスの雹 ──」
ぱちっ──そんな音が、空間に弾ける。
刹 那 、オーフェンのみならず、マジクの身体までが宙を飛んでいた。
「んな⁉ 」
「だふあああふあああっ!」
それぞれの悲鳴をあげてマジクらは、数メートルほども吹き飛んで地面を転がった。少年と──きょとんとこちらを振り返っているクリーオウの背中とを見送りながら、なんとか起き上がる。
「............」
覆面の少年が、ぼんやりと自分の手を見ながら、つぶやいた。
「やっぱり、ドラゴンには魔術は効かないみたいだな......」
どうやら、クリーオウもいっしょに弾き飛ばそうとしていたらしい──が、レキがその魔術を防いだのだろう。苦 悶 のうめき声をあげながら、マジクの少し後ろでオーフェンが起き上がった。
「くっそ......」
そんなことを毒づいている。
と、ぱたぱたと、マジクのわきを通り過ぎて、クリーオウがオーフェンに駆 け寄っていった。彼女はオーフェンの顔をのぞき込むようにすると、
「だ、大丈夫なのオーフェン? ケガ、レキに治してもらったほうがよくない?」
「いや......かすり傷だ。それよりも、こいつの注意を一瞬でも奴 から逸 らさせるな」
オーフェンは静かな声 音 でそう言って、少年のほうにあごをしゃくった。マジクも、彼のほうへ振り返りながら聞く。
「どういうことです?」
オーフェンの返事は、あっさりしていた。
「今、この場にいる中で、一番力を持っているのは、この黒い毛玉だ」
ぽんぽんと、レキの頭を撫 でながらオーフェンが言う。レキもそれにあわせて、鼻先をつんつんと上に上げていた。
「......はあ」
「二番目は、奴 だ」
言ってオーフェンは、やや腰を落として少年のほうに構えた。はあ? と、クリーオウが声をあげる。
「なに言ってんの、オーフェン⁉ 」
「なにもくそもあるか。お前には分かんねえだろうが。マジク、お前なら分かるだろ。どんな理由だか知んねえけど、あのガキの魔術は俺よりも......数段上だ」
およそ、まがりなりにも魔術と名のつくものを扱える人間にならば、ほかの魔術士が魔術を使ったときに空間に放たれる魔力の構成というものが見える──その構成の精度から、ある程度相手の力量を推測することもできた。
もっとも、マジクの目から見たら、オーフェンが扱う魔術の構成も、じっとこちらを見 据 えている覆面の少年が扱っているそれも、どちらも自分のものとは次元が違いすぎて、比べてみてどちらが上かなど分かったものではなかったが。
(まあ......本人が言うんなら、その通りなんだろうけど......)
師と少年とを見比べながら、マジクはそんなことを思った。が──
「その言い方は、あまり適当ではないなぁ......」
余 裕 のある口調で、少年がつぶやく。
「あなたが 、ぼくより弱いんだよ 。順番を間違えたら、ヘンなことになる」
「............?」
意味が分からなくてマジクは、眉 根 を寄せた。見るとオーフェンも、同じような表情を見せている。
やがて、オーフェンはそのまま立ち上がった。火傷 だらけのところをまた打ち身して、かなり苦しいのかもしれない──脇腹のあたりを手で押 さえながら、息を荒 らげている。
「空間転移の魔術......なぜお前が使える」
ゆっくりと、オーフェンが聞く。少年は答えない。不 透 明 な眼 差 しと、覆 面 とで表情を隠 し、こちらを見て押し黙 っている。
オーフェンが、かっとなったような声で叫んだ。
「あれは、極めて特別な構成を使うんだ──俺の先生が編み出した、特 殊 な構成をだ! 一 般 の魔術士には、絶対に公開していない──《十三使徒》にすら、あれを使える人間はいないんだぞ!」
「......そう。宮廷魔術士に対してすら秘 匿 されている《牙の塔》の最 秘 奥 だね。ま、それだけ危険な術でもあるわけだけど。でも」
と、少年は軽く肩をすくめた。
「ぼくは使える。あなたより上 手 に使えるよ。いや......ぼくが間違えちゃったな。あなたが、ぼくより下 手 なんだ」
「わけの分からないことを──」
「うん。つまんないこだわりだよ。でも、もっと大事な用事もあるんだけどね」
少年は、さっとこちらを指さした。マジクと......クリーオウとを順番に指して、
「さっき思いついたんだ。今朝は命令通り、あなたに警告をするだけのつもりだったんだけど、ついでにさ、あなたにとって重要なことがもうひとつあるんだ」
「警告......やっぱり、てめえの仕 業 か!」
オーフェンが、ほとんど怒りに我を忘れているような形 相 で、一歩前に出る──マジクには、ふたりの会話の内容も意味が分からなかったし、オーフェンがなぜそんなに怒っているのかすら見当もつかなかったが、次に少年が告げたことに関しては、分からないではすまされなかった。
「ま、そうだよ」
少年はそう得意げにうなずいてから、告げた。
「それと、やっぱりあなたはひとりでなくちゃならないんだ。ぼくみたいにね。だから、足手まといのふたりをスタッブしようと思う」
スタッブ──という単語を、マジクは知らなかった。が、それを聞いた瞬間オーフェンが見せた形相からすれば、どうやら、あまりいい意味の単語ではないらしい。
「なんのために......だ」
額に脂 汗 をにじませながら、オーフェンがうめくように聞く──すっと腰を落として、マジクも何度も目にした、彼の戦 闘 体勢である。
(お師様......本気で闘うつもりだ......)
マジクはなんとなくビビりながら、少し後 退 りした。うっかりクリーオウのつま先を踏 んでしまい、後ろから彼女にはたかれる。
そんなことをしている間に、オーフェンの問いに、少年が答えている。
「〝彼女〟の命令だからだよ。あなたを、もとにもどすのが彼女の望みだ。どのみち、あなただって彼女の言葉に逆らえないんだから、従ったほうがいいよ」
あくまではきはきとした口 調 で、少年。オーフェンはなにも答えずに、じっと対 峙 している。いや、少しずつ間合いは変わっているのかもしれないが、マジクには分からなかった。両者の見せている緊 張 に耐 えられなくなって、マジクは、背後のクリーオウにこっそりと聞いてみた。
「ねえ、〝スタッブ〟って、なに?」
クリーオウは即 答 した。いつになくこわばった声 音 で、
「後ろから刺 すこと......つまり暗殺のことよ」
げっ──と、マジクは息をつまらせた。
「お師様っ⁉ 」
悲鳴じみた声をあげる。オーフェンはそのやりとりを聞いていたらしい──短く叫んだ。
「レキから離れるな! クリーオウに抱き着いてろ!」
そして、少年に向かって駆け出していく──信じられないほどのスピードで、オーフェンは暗殺者 (と呼んでも差し支えないだろう。自分で宣言したんだから)に躍 りかかった。小さな動作で、相手の胴 体 の真ん中を狙 う牽 制 の突 きを放っている──
暗殺者の動きは、それ以上に小さかった。ほんのわずか、肩を動かした程度にしか見えないような動きでオーフェンの拳 をあっさりかわすと、暗殺者が、かわした肩をそっとオーフェンの胸のあたりに押し当てる。
それだけにしか見えなかった。
が、そう思ったときには、オーフェンがその場にもんどり打って地面に転がっている。いきなり身体に超重力の魔術でもくらったように地面に昏 倒 して、オーフェンが、吐 血 しそうな勢いで咳 き込むのが見えた。そのまま地面を転がって、暗殺者の足元から後 退 する。
と、そのオーフェンに、暗殺者は告げた。
「驚いたね。こんなに力の差があるとは思わなかった。こりゃ、更 生 には苦労しそうだよ」
「くっそ......!」
暗殺者から数歩ばかり離れたところで、オーフェンが立ち上がる。と、マジクの背後で、いきなりクリーオウが声をあげた。
「レキ! なんでもいいから、あいつをやっちゃって!」
ひどく漠 然 とした命令ではあったが、レキはとりあえず『やっちゃう』ということをそれなりに解釈したらしい──
ぼうっ!
あっけなく、暗殺者の身体を真っ白な火柱が包む。高さにして五、六メートルほどの炎 の柱は、ほんの半秒で暗殺者の身体を見えなくした。
が。
詰め所の火に負けじと天に伸 びる白い炎の中から、はっきりとした声が聞こえてくる。
「馬鹿だね。ぼくがこれを待ってたとは思わないのかな。たとえドラゴン種族でも──」
と、炎の中から、腕がのぞく──こちらへと、ぴたりと狙 いを定めて。
「ふたつのことを同時にはできない。この場合は、攻撃と防 御 だな」
「やめろぉぉぉっ!」
悲鳴をあげたのは、マジクでもクリーオウでもない、オーフェンだった──
だが、暗殺者はやめない。
「我は放つ──」
クリーオウが叫ぶのが聞こえる。
「レキ! 防いで──」
だがその命令は、マジクにも間に合わないのではないかと思えた。自分はといえば、防御の魔術を編み上げようとはしているのだが、とっさのことでなにもできない。
(そんな──)
マジクは、胸中で絶望の悲鳴をあげた。火柱の中の暗殺者に向けて、身動きもできずに手を伸ばしているオーフェンの背中を見ながら──
(これじゃ、ぼくら本当にまるっきり足手まといじゃないか!)
編もうとしていた魔術の構成が、空 しく頭の中を擦 り抜けていく。
こぼれる魔術はなにも為 さない。身を守ってもくれない。
(お師様──)
意味のない悲鳴。マジクは、ぎゅっと目を閉じた。
そして暗殺者の〝スタッブ〟は完了する。
「光の白 刃 」
かっ──!
目を閉じていたので、光は見えなかった。ただ、肌 に炎の熱さを感じてマジクは、とにかく暗殺者が魔術を放ったのだということを知った。自分を狙った──自分をスタッブする魔術を。
............
(............?)
再び、ゆっくりと目を開ける......
まったく自覚はなかったが、マジクはいつの間にか、地面にひざをついていた。がくがくと足が震 えて、感覚がない。恐 怖 で腰が抜けたのかもしれないと思いつつ、マジクは顔を上げた。
レキの造り出した白い火柱は、もう消えていた。多分、防御に専念するためにレキが消したのだろう。すぐ前に、オーフェンがさっきと同じ格好──つまり今のマジクと似たような格好で、地べたにはいつくばっている。クリーオウは、どんな顔をしているのか知らないが、とにかく背後から引き付けのような軽い嗚 咽 が聞こえてきていた。
彼らのすぐ横を、熱線で焼かれたように、一直線に地面が焦 土 となっている。ほんの一メートルばかり横を、暗殺者の放った光熱波は通り過ぎていた。
魔術は外れたのだ。
「そう。つまり──」
まるでこちらの胸中を読んでいるかのように、暗殺者が声をあげる──
「防御と攻撃は同時にはできない、てことだよ」
「............⁉ 」
先刻のレキの魔術によるものだろう、暗殺者の覆 面 は焼け落ちていた。黒髪の、少し拗 ねたような少年の素顔があらわになっている。目は、どこか冷 淡 なようだが、それよりも単純な素直さのほうが目立っていた。衣服もすべて焼け落ち、まるっきり全 裸 になって、立ち尽 くしている。それを見て、うげ、とクリーオウが声をあげるのが聞こえた。彼の身体そのものは──髪も、体毛すらも──傷ひとつ負っていない。つまりレキの魔術を防いだ、ということになるが......
(それにしても、魔術の標的を外すっていうのは......)
マジクは信じられない思いで、暗殺者を見やった。半人前の魔術士ならともかく、彼の師をも圧 倒 するような魔術士が、集中した狙いを外すというのは信じがたい。
と、見ると、暗殺者の右肩にナイフが突 き刺 さっている。そのせいで暗殺者の狙いがそれたのだろうが──
(でも......誰が?)
マジクは訝 って、あたりを見回した。だが、見つけたのは、暗殺者のほうが先だった。
暗殺者は、静かな目付きで、マジクらのずっと背後を見ていた。
「こんなところまで追ってくることはないんじゃないかな」
責めるような口調で、つぶやく。
返答は、暗殺者の声が向けられたほう──マジクらの背後から、返っていった。
「......あなたを追ってきたわけじゃないわ。彼を迎 えに来たのよ」
ぱっと、振り返る──クリーオウも驚いたように、そちらを見ている。視線の先にいたのは、長身の、物静かな感じの女だった。
長い黒髪──クリーオウが度 々 そういった髪をうらやましがっていたのをマジクは知っているが──、つややかな、ストレートのダークヘアが風に舞 っている。年齢は、二十四、五というところだろう。夏も近いというのに長 袖 の、無地の黒シャツに、薄 い、ほとんど白に近いベージュ色のスラックスという格好で、少しだけのぞいている靴 下 の色は赤。どこか眠たそうな──だが鋭 くもある──目で、暗殺者のほうを見 据 えている。
「さすがにチャイルドマン教室の生徒をふたり相手にするんじゃ、分が悪いかな......」
暗殺者は、そんなことをつぶやいた。
(チャイルドマン教室?)
マジクの知らない単語だった。が、女にとっては馴 染 みのあることらしい。特に反応らしい反応もせずに、すたすたと歩いてくる。見上げたら鼻先がひざ頭に当たりそうなくらいにまで近づいてきて──彼女は、ぽんと手を、マジクの頭に載せた。あまり意味のある仕草ではないのだろうが。
彼女は、そのまま告げた。
「消えなさい。キリランシェロの身 柄 は、わたしが預 かります」
言いながらぽんぽんと、タイミングでもとるようにこちらの頭をたたく。ちらと見上げてマジクは、彼女の右手首に細い金の腕時計がついているのに気づいた。どうでもいいことだが。
そして──
(あっ!)
マジクは、胸中で声をあげた。彼女が、すっとシャツの襟 元 に手を入れたかと思うと、そのまま流れるような動作で銀色の鎖 を取り出すのが見えたのだ。銀の鎖はペンダントになっていて、その先についているのは──
(ドラゴンの紋 章 ──《牙の塔》の魔術士だ、このひと!)
彼女のペンダントの先には、剣にからみついた一本脚のドラゴンの紋章がついていた。オーフェンがいつも身につけているものと、まったく同じものだ。彼女は、またそのペンダントを胸元にしまいながら続けた。
「《牙の塔》チャイルドマン教室のレティシャ・マクレディよ。じっくりと顔をあわせるのはこれが初めてになるわね」
「刃 物 を使うような出会いは、『じっくり』とは言わないんだよ」
暗殺者は言いながら、血のしたたる傷口からナイフを抜くと、口早になにかを唱 えた──あっさりと、創傷が跡 もなく消える。
「それに、ぼくのことは、よぅく知っているはずだよ。ずっと昔からね」
彼はそう言うと、すっと自分の裸 の胸を撫 でた。そして、返事も待たずにくるりときびすを返す。
「追ってこないでね」
静かにつぶやく。彼は背中を向けて去りながら、続けた。
「来たら......分かるよね、殺すよ」
レキをけしかけるような姿勢になっていたクリーオウを、そっと、女──レティシャとか名乗ったか? が背後から制する。優しい小声で、
「キリランシェロを見てあげて。そっちのほうが先よ」
「......きりらんしぇろ?」
クリーオウが、怪 訝 そうに聞き返した。レティシャは、しばしきょとんとしてから、ああ、と思いついたように、
「オーフェン──オーフェンのことよ」
「!」
それを聞いて、クリーオウも思い出したようだった。さっきからあまりに静かなので、マジクすら、彼がこの場からいなくなってしまったのかと錯 覚 していた。
「お師様っ!」
呼びかけながら、クリーオウと並んでオーフェンのもとに駆 け寄る──彼はじっと地べたに座 り込んで、微 動 だにしていない。気絶しているのかな、と思いながら、マジクは師の前に回り込んだ。
「大 丈 夫 ですか?」
正直に言って、とても大丈夫には見えなかったが。
オーフェンはぽかんと口を開けて、愕 然 と虚 空 を凝 視 している。地面に両手をついて、放心したように、じっと一点を見つめながら、なにも見ていない。その瞳 が──そして、身体全体が、細かく震 えているのに、マジクは気付いた。
「......寒いの? オーフェン」
間の抜けたことを、横からのぞき込んだクリーオウがつぶやく。レキが、つんつんとオーフェンのこめかみのあたりを鼻先でつついていた。
と──すべてに無反応のまま、オーフェンの喉 の奥から、小さなうめき声が響 く。
「......ば......かな......」
「え?」
というマジクの声に答えるというのでは決してなく、ただ単にくりかえしているだけの口調で、オーフェンがうめいた......
「馬鹿な......嘘だ、あいつの顔──あれは──」
「......そう。あれは、あなたの顔よ、キリランシェロ」
答えたのは、いつの間にかオーフェンの背後まで来ていたレティシャだった。彼女のせりふに、オーフェンの身体がびくんと震える──彼は、さっと彼女の顔を振り仰いだ。
(初めてだ......お師様が、こんなに怖 がってるの......)
マジクはなかば驚くように、そう思った。静かな無表情で、レティシャが続けるのが聞こえる......
「お帰りなさい、キリランシェロ。最悪のタイミングだけれど、歓 迎 するわよ」
そして再び、去りゆく暗殺者のほうに視線を転じる。だが彼の姿は、もう既 にどこにも見えなくなっていた。
「......うわぁ......」
少し気を遣 うように小声で、いまだ寝 間 着 姿のままのクリーオウがうめき声をもらす。金 髪 の頭の上にレキを載 せて、まるで黒い帽 子 でも被 っているようだが、その顔を馬車の窓に張り付かせるようにしながら、
「結構、おっきな街 ね、オーフェン」
「ああ」
オーフェンは、顔だけ上げてふっと笑 みを浮かべた。
「王都メベレンスト、商都トトカンタ、古都アレンハタム、自治都市アーバンラマ──この大陸四大都市が、もし五大都市だったとしたら、五番目にはタフレム市が入っていたさ。《牙 の塔 》都市タフレムってな」
言いながら、揺 れる馬車の中ですっと腰を上げて、クリーオウと並んで窓をのぞいてみる──少し砂に汚 れて色のついたガラスの向こうに、高い市 壁 が見えていた。なかば森に埋 もれるようにして、真っ白な壁 が左右に続いている。
彼らがいるのは、大陸魔術士同 盟 所有の馬車の中だった──六頭立て屋根付きの、かなり大きなもので、内 装 は乗合馬車とあまり変わらない。馬車の外周をぐるりと囲むように、内側に向かってソファがついている。揺 れることを考 慮 してだろう、バネの甘 い、かなり柔 らかいクッションである。天 井 にはガス灯 をかけるフックもついているが、今はなにもかかっていない。出入り口となる扉 は進行方向に向かって右についていて、そこ以外はすべてソファになっていた。椅 子 に囲まれて、馬車の中心には簡単なテーブルなど備え付けてあったが、揺れる中でコーヒーカップが置けるわけもなし、邪 魔 なだけでなんの役にも立っていなかった。
ちらと見るとマジクは、後ろのほうでちょこんと腰掛けている。彼らのほかの、もうひとりの乗客のほうを気にしているようだった。マジクとも、オーフェンらとも離れて優 雅 に腰掛けている──レティシャ。
(いや、ティッシだ)
とオーフェンは胸中で呼び直した。彼女は誰を見るでもなし、少し視線を床 に落とすようにして、じっと静かにしている。黒いシャツに、白っぽいベージュのスラックスは、落ち着いた目をした彼女にはかなり似合っていたが、彼女が《塔》のローブを着ていないのが、オーフェンには少し気掛かりだった。
と、彼女はいきなり視線をあげると、
「市内には実際、本当にそう思っている人もいるわよ」
「............?」
一瞬訝 ってからオーフェンは、彼女が自分のせりふの後に続けたのだということに気が付いた。肩をすくめて、
「フリップのことを言ってるのかい?」
きょとんと、クリーオウがこちらと彼女とを見比べるようにしているのを見下ろしながら、オーフェンはそう聞いた。レティシャとは、目があわせられないが──
彼女が無理に笑うのが、気 配 で分かった。
「街 に帰ってきたんだから、彼のところにも顔は見せるつもりなんでしょ? キリランシェロ。彼のクラブサンドイッチ、まだメニューから消えてないわよ──」
「ティッシ」
オーフェンは、静かに、警告の声を発した──彼女は、肩にかかったダークヘアを指にからめるようにしながら......やや経 って、ようやく気づいた。
「ああ、ごめんなさい、オーフェンだったわね」
「............」
ぶつ切りにでもされたみたいに、いきなり会話が止まる。気まずい沈 黙 が、車内を流れた──
「ああ、もうっ!」
最初に雰 囲 気 に耐 えられなくなったのは、クリーオウだった──彼女は、頭の上のレキを胸に抱 きなおし、ついでにぺんと頭をたたいて、
「いいかげんにしてよ! ただでさえ、あの気味の悪い殺し屋みたいなのに、詰 め所 といっしょにわたしたちの馬車まで吹き飛ばされて、荷物もなんにもなくなっちゃって、着 替 えもできないし、裸 の殺し屋にはヘンなものは見せられるし、オーフェンはケガしてるし、それよりなにより、わたしの剣! どさくさでなくしちゃって──」
一息でそこまでまくし立てて、彼女は、ようやく周囲の視線に気づいたようだった。どよんと視線を下に落とし、ごまかすように嘆 息 すると、
「......つまり、気が滅 入 っちゃってるってことよ」
「............」
結局、雰囲気は一向に快方には向かわなかったが──

しばらくして、がたん、という音が車内に響 いた。驚いて見やると、レティシャが、壁をたたいた音だった。
彼女はそのまま、匙 を投げるように両手をほうり上げる仕草を見せると、
「あ〜あ、やめやめ。やめにしましょ。確かに不健康だわ、こんな空気は」
と、開き直るように目を閉じて声をあげる。
「はっきり言うわよ、キリランシェロ──あなた、よりにもよって最悪のタイミングで帰ってきたわ」
「最悪?」
聞き返したのはオーフェンではなくクリーオウだったのだが、レティシャはこちらに向けて続けた。
「せめて、あと一週間遅 ければね──それまでには、タフレム市の問題は解決してるはずだったのよ」
「......問題......ですか?」
今度は、マジク。だが、レティシャはそちらのほうを見るだけで答えず、厳 しい口 調 で聞かせた。
「......キリランシェロ、そういえば、あなたわたしのことを彼らに紹 介 してもいないんじゃない? もちろん、わたしも彼らを紹介してもらってないしね」
「分かったよ」
オーフェンはため息をつきながら、クリーオウの頭にぽんと手を置いた。
「こいつはクリーオウ。トトカンタで、俺 が世話になったひとの娘 だ。あっちはマジク。俺の生徒になってる。《牙の塔》に登録しようと思ってる」
「......マジクは説明ふたつで、わたしはひとつ⁉ 」
手の下から、クリーオウが険悪な声をあげた。オーフェンは、再度ため息をつくと、
「じゃじゃ馬、我 がまま、世間知らず、刃 物 なしにはベッドに入れない猟 奇 娘──こんなとこでいいか?」
「......わたしっていったい......」
なにやら釈 然 としない口調でもごもごと、クリーオウ。オーフェンは思わず口元をほころばせた。
「......で、最後に、クリーオウの抱いてるのが愛 玩 家 畜 の血の野 獣 」
「レ・キ・よ。わたしたちの仲間のね」
「まあ、そんなようなものだ」
「ものじゃないでしょ!」
「......で、だ」
耳を引っぱるクリーオウは無視しながら、オーフェンはレティシャのほうに向き直った。
「彼女はティッシ──レティシャだ。《牙の塔》時代の俺の先 輩 に当たる。同世代の中ではずば抜けた力を持った魔術士だよ。こんなところでいいか?」
「ええ。いいわよ──」
「まだよ」
レティシャのせりふを遮 って、いきなり声をあげたのはクリーオウだった。まだ耳はつかんだままで、じっとこちらを見ている。
「......まだ、なにかある?」
レティシャの問いに、クリーオウは挑 みかかるように答えた。
「あなたもわたしに紹介してないわ──キリランシェロ 、て人のことをね」
しん......と再び、車内に沈 黙 が訪 れる。マジクが居 心 地 悪そうに、ソファの上で身じろぎしているのが見えた。クリーオウはそのまま微 動 だにしない──かなりの時間が経 ってから、レティシャが唇 を開いた。少し斜 めにクリーオウのほうを見つめて──オーフェンは、それが彼女が、人に感心したときに見せる仕草だということを思い出していた。
「分かったわ」
「ティッシ!」
彼女の答えに、オーフェンは声をあげた。レティシャは構わず続ける。
「キリランシェロというのはわたしたちの一世代 下を代表する黒魔術士で──」
「ティッシ! やめろ!」
その声量に驚いたのは、レティシャというよりはむしろクリーオウのほうだったようだが──ともあれ、レティシャはぴたりと言葉を止めていた。彼女に向けて、オーフェンはつぶやくように言った。
「俺 が話す──後でな」
「早いほうがいいと思うけど......」
「よかろうが悪かろうか、俺が決めることだ」
オーフェンがそれだけ言うと、レティシャは別に構わないというように、肩をすくめてみせた。横から、おずおずとマジクが聞く。
「あの......それで、問題っていうのは?」
「ああ、そうだったわね」
と、彼女は決して忘れていたわけではなかったろうが、忘れていたふりをした──少なくとも、オーフェンはそう思った。彼女は、ひたとこちらを見 据 え、
「タフレム市でね、魔術士の暗殺事件が頻 発 しているの」
(暗殺?)
オーフェンは、胸中で聞き返した。続きは声に出す。
「魔術士をかよ。そんな──」
「そんな馬鹿な、とわたしも思ったわよ。というか、《塔》の誰 もが思ったでしょうね」
レティシャは、顔の前で手を組み、真剣な眼 差 しでこちらを見つめた。
「でもね、死体があれば認めないわけにいかないでしょう」
「誰が殺されたんだ?」
オーフェンの問いに、レティシャは即 答 した。
「誰が、というか、被 害 者 はひとりじゃないわよ──頻発って言ったでしょ?」
「じゃあ......どんな連中が、殺されたんだよ」
「《塔》の長老たち。例外なくね」
「......あん?」
また即答してきた彼女に、オーフェンは間の抜けた声で応じていた。となりで、きょとんとクリーオウが声をあげる。
「長老って?」
オーフェンは向き直り、
「どーせお前のこったから、養老会みたいなのを想像してんだろーが......違うからな。釘 刺 すけど。長老、つまりエルダーってのは《塔》執行部内の役職についている人間のことを言うんだ。まあ、そりゃもちろん、爺 さん婆 さんたちが多いのは当たり前だけどよ」
「でも──」
と、今度横から口をはさんだのは、マジクだった。
「《塔》の人が、タフレム市内で殺されるんですか? なんでわざわざ、街 に出て殺されたりするんです? 護衛とかはつかないんですか?」
「俺は《塔》に住んでたが」
オーフェンは、ちらりとレティシャのほうを見ながら答えた。
「《塔》で役職についている人間は、ほとんどがタフレム市に居住権を持っている。まあ別に、絶対に行使しなければならない権利ってわけじゃねえが、街に住んでたほうが便利なのは便利だからな。長老はほぼ全員、街に家を持って、そこで住んでる」
と、さらにレティシャが付け加える。
「それにね、街に家を持っているっていうのは、ひとつのステータスでもあるの。わたしたちの先生も一 軒 持っているしね。あまり帰ってないみたいだけど......」
「なんでオーフェンは持ってないの?」
実に不思議そうに聞いてくるクリーオウに、オーフェンは深々と嘆 息 した。
「あのな。俺は《塔》を出た当時、十五歳だったんだぞ。家なんて持てる身分かよ」
「《塔》の黒魔術士たちは、たいてい誰もが自分の家を持つことに憧 れるのよ──教師になるとか、長老の一員に加わるとか、そんなことよりも、なによりもね。でも、それを手に入れた長老たちが、今は殺されている」
レティシャは、すらすらとそう言ってから、言葉を切った。しばしして──オーフェンら、三人の表情を順番に見やってから、続ける。
「先週で三人。今週に入ってからもふたり。これ以上ないってくらいにスマートに殺されてたわ。このペースだと、一か月後にはエルダー・メンバーが半減することになるわね。二か月ほっておけば全 滅 よ。とうとう本気になったキムラック教会の死の教師たちだとか、《十三使徒》の仕 業 だとかいう意見も出ているわ。でもね、フォルテ・パッキンガムは答えを知っていて、わたしに教えてくれたわ。彼の〝ネットワーク〟が、暗殺者の顔を見ることに成功したの」
「チャイルドマン・ネットワークか......」
オーフェンは、畏 れをも含んだ声でつぶやいた。フォルテが受け継 いだ、チャイルドマン教師独自の、極 秘 調査網 ──その実態は、当のチャイルドマンとフォルテ以外に知る者はいないというが──
レティシャは、無表情にうなずいてきた。
「そ。突 如 としてタフレム市に現れ、長老たちを無意味に殺 戮 するひとりの暗殺者の名前を彼は突き止めたわ。で、それを始末できるのは、わたししかいないと彼は言った」
「......なぜだ。あんたは確かに戦闘訓練も受けていたが、魔術士を殺すような暗殺者と戦うほどの専門訓練は──」
「専門訓練はいらないのよ。どうせ、誰だって、あの暗殺者を倒 すことなんてできないんだから」
レティシャはそう言って、表情のない顔に、ほんの小さな皮肉の笑 みを浮かべてみせた。
「外見と言動、そして行動のパターン、その技能の度合いから見ても、推測に間違いはないだろうって──何年ぶりよ、フォルテがなにかを断言するなんてことは、彼は暗殺者をキリランシェロだと特定したわ。ちょうどそんなときに、レンジャー詰め所から、オーフェンと名乗る《塔》の黒魔術士を拘 束 しているって連 絡 があって──あなたの名前はハーティアの報告書で知っていたから......」
彼女はかぶりを振 った。
「わたしはね、あなたを連れてどこかに逃 げるか、さもなくばわたしの手で殺そうと思って、あなたを迎 えに行ったのよ」
がたん──
車輪を石にでもつまずかせたか馬車が揺 れる。
地 獄 のような沈 黙 をただよわせて、大陸魔術士同 盟 の大型馬車は、タフレム市へと近づいていった。
大陸のどの街 でもそうだが、よほど地位のある者は別として、馬車は市内には入れない。
そのため徒歩になるわけだが、むしろ旅行者によってはこれを喜ぶ者もいる。いつもなら、クリーオウもその向きだったが......
オーフェンのマントにくるまるようにして、彼女はかなり不 機 嫌 だった。
「寝 間 着 の上にマントかぶされて......家出したところを連れもどされる途 中 じゃあるまいし......」
ぶつぶつと言いながら、道を蹴 っている。頭の上に乗っているレキが、同情するように見下ろしていた。
その横で、どうやら彼女を気に入ったらしいレティシャが声をかけてやっている。
「まあまあ、家についたらわたしの服貸してあげるから」
と、クリーオウは横目で、長身の──ヒールも履 いていないのにオーフェンと同じくらいある──レティシャを見上げ、
「サイズが合わない......」
恨 めしげにぼやいた。根負けしたように、レティシャが吐 息 をもらすのが聞こえた。
「分かった......買ってあげる」
「♪っ」
まんまと少女の術中にはまっているとは、あえて警告してやらずに、オーフェンは無視して歩いていた。タフレム市街──
言葉もなく、彼はあたりを見回した。
どの街でも、街 門 に近いあたりは一番見 栄 えがするように築いてあるものだが、歴史の都合上何度も築きなおされたタフレム市は、それがかなり顕 著 だった。シティガードのチェックを終えて門をくぐると、そこから道が放射状に伸びている──歪 んだレンズでのぞいたような街並みは、主にレンガで築かれ、背の高い建物などはさほどない。民間の住居はほとんどがアパート街で、下水道が完備されている証 し──マンホールがちらちらと道に見えた。市の入り口には、例 えばアレンハタムのような噴 水 や広場はないが、道はかなり広く、多少の人だかりがしても大 丈 夫 なようにはなっていた。いやむしろ、広場がそのまま道になっているというほうが近いか。
そして、街の中央には、空にそびえる白 亜 の塔 が建っている。やや右に傾 いた、曲がった塔──街の象 徴 たる世界図塔である。
道のあちこちには、当たり前だがさまざまな人がいた。クシに刺 した野菜を焼いて売っている屋台から、台車を改造した小さな舞 台 でひとりオペラをやっている若者まで。もちろん、黒魔術士候 補 の学生らしき姿も見えた。ほかにも、道の掃 除 をしているボランティア、巡 回 している警官、買い物カゴをふたりで抱 えた仲の良さような男女、路 商 に花売り、ベンチの横に乳 母 車 を置いて、赤ん坊に本を読み聞かせている若い女──結婚制度のないタフレム市には基本的に主婦というのはいないから、ベビーシッターのバイトだろうか。
「......懐 かしい?」
思わず言葉を失っていたオーフェンの背後から、レティシャが話しかけてきた。オーフェンは振り返らずに、
「そりゃそうさ」
「ねえねえ!」
レティシャの言葉に割り込むようにして、クリーオウが前に回り込んできた。マントの襟 元 を押さえながら、声をあげる。
「ここ、オーフェンが昔暮 らしてたところなんでしょ? オーフェンが住んでたのって、どの辺?」
「さっきも言ったろ。俺が住んでたのは、ここじゃないさ。《牙の塔》の中にいたんだ」
とたんに、クリーオウが不服そうな顔を見せる。
「えー、じゃ、この街、案内できないの?」
「観光なら、わたしが案内してあげるわよ」
少女の後ろから、レティシャが申し出た。クリーオウは、それなら別にいいと思ったらしい──新しい場所に来たときのいつもの調子で、あたりを見回した。
「ねえ、ここって、なんか開けてる街よね──こんな田舎 にあるのに。あ、気を悪くした? ティッシ」
いつの間にか呼び名が愛 称 になっている。レティシャが、別に、というように肩をすくめてみせると、少女は機 嫌 をよくして頭の上のレキの背中を撫 でた。
「開けてるっていうか、人が多いのよね、きっと──あのバケツかぶって歩いてる人はなんなのかしら。あ、フィッシュ・アンド・チップス売ってる。あれ好きなの。あとで買ってね。シアターの予告の看 板 があるわ。偵 察 してきてあげるね──」
言うが早いか、道の向こうに駆 け出している。オーフェンは彼女の後ろ姿を見送りながら、あっけにとられたように嘆 息 した。
「きっと体温が高いんだぜ、あいつ」
「そうかもね」
レティシャが同意する。と、背後から、奇 妙 な音が聞こえてきた。
「ゔ〜............」
うめき声と、足を引きずるような音──あえて振り向かずにおくと、その音は、またうめき声に変じた。
「お〜師 〜さ〜まぁ〜......」
「遅かったな」
ぽつりと、オーフェン。まだ振り返らない。レティシャが代わりに、なにやら驚いたように声のほうをうかがっているが。
彼女は、あごの先に軽くにぎった拳 など当てながら、
「あの、キリランシェロ、やっぱり四人分の荷物は無理だったんじゃ......」
「なに言ってんだよ。クリーオウの荷物はあらかた消し飛んじまってたし、ティッシはもともと荷物なんてほとんどなかったから、たった二人分──」
「やけに重いと思ったら、お師様のカバンの中に、でっかい石なんかが入ってたんですよ! 門のところのシティガードのチェックで『これはなんですか?』って聞かれたときは、死のうかと思いましたよ!」
荷物を抱 え、汗だくになってうるさくわめくマジクに、オーフェンはようやく向き直った。眉 をひそめて、
「あんだよ。いいだろそれっくらい」
言いながら、マジクが荷物の中から取り出して抱えている、人間の頭くらいある大きな石ころを指して、
「だいたい、石、石って馬鹿にすんなよ。大事な石なんだからな」
「大事な......?」
疑わしげに、マジク。まあ、彼にしてみればただの石にしか見えなかったろうが。
オーフェンは、石の端 っこのほうを指さして、
「ほら、ここの模 様 。角度によっては、昔変死した飼い猫みたいに見えるんだ」
「そんな不 気 味 なもの、持ち歩かないでくださいっ!」
どすん、と石をアスファルトに落とし、マジクが喚 き声をあげた。そのまま、じっとこちらを見 据 え、詰 め寄ってくる。
「嫌 がらせなんですか? 嫌がらせですね? 嫌がらせしてるんでしょう、ぼくに!」
「邪 推 すんなよ、浅はかな奴 だなぁ」
「そーゆうことが言えた義理ですかっ⁉ 」
「なあティッシ、こいつクリーオウの水浴びのぞいて、半殺しのメにあったんだぜ──」
「あら、まあ」
「広めないでくださいっ!」
とうとう半泣きになって叫 ぶマジクを、オーフェンは手で制した。
「まあまあ。落ち着けって。ンなことより、ほら見ろ」
と、クリーオウのほうを示す──道の向こうで、彼女はなにやらガラの悪そうな連中と激 しく口論していた。ひええ、とマジクが悲鳴をあげるが、オーフェンは別にあわてず、
「別にあんな連中とやり合ったところで、あいつがどーなるとも思えんが、誰も助けに行かなかったとしたら、きっとあいつすこぶる機 嫌 が悪くなるぞ──」
「ひえええええっ!」
マジクが恐 怖 に震 える悲鳴をあげて、クリーオウのほうに飛び出していく──彼女の身を案じたというよりも、もちろん彼女が機嫌を損ねて彼に八つ当たりをすることのほうを恐 れたのだろうが。
頭を抱えて走っていく弟 子 に、オーフェンはにこやかに手を振ってやった。
「ちなみにこの街ではケンカはご法度 だからなー。殴 られたからって殴り返すと、お前もしょっ引かれるぞー」
「お師様の馬鹿ああああっ!」
わめきながら遠ざかるマジクの姿をほのぼのとした気分で見送っていると、横から、レティシャがつぶやいてきた。苦笑するようにこめかみを親指でかきながら、
「ひどい先生ね、あんたは」
「チャイルドマンのようにはいかないさ。それは分かってる」
「そーゆう問題じゃないと思うけど......」
「俺にとっては、そういう問題なのさ。あまりにも出来の良すぎる教師の下にいると、生徒はコンプレックスを持つ。それも、いい意味で持ってくれればいいんだけどな......たいていの場合は、逆境に弱くなる」
「............」
レティシャは、しばらく黙 っていたが、
「じゃ、わざとなの? あなたの振 る舞 いは」
「いんや。大部分は、楽しいからやってるんだ」
「......あっそ」
彼女のつぶやきに、オーフェンはそちらに顔を向けた。ふと視線が合って、じっと──というほどの時間ではなかったろうが──見つめあう。
視線をそらしたのはオーフェンのほうが早かったが、口を開いたのは、レティシャのほうが先だった。彼女は安 堵 のような息を漏 らして、
「でも安心したわ。さっきから、あなたらしいところが見えなかったから」
「俺らしいところ?」
「わたしにも、よくは分からないわ。でも、さっきは落ち込んでたみたいに見えたのよ」
それを聞いて、オーフェンは鼻で笑った。道の向こうで、鋲 を打った革ずくめの男に、マジクが胸 倉 をつかまれているのを見ながら、
「どうしろってんだ──能天気に笑い飛ばせってのか? 殺されかけたってのに」
「あの暗殺者──『キリランシェロ』については、あとでもっと詳 しく話すわ。だから今は、なにも考えないでいて。わたしの説明を聞くまで先入観を持たないでほしいの」
「どうして?」
「多分......彼について正しい判断を下せるのが、あなたしかいないからよ」
「............」
真剣な面 持 ちのレティシャを見返して──オーフェンは、小さくうめいた。
「俺の猫、元気か?」
「......え?」
不意をつかれた声で、彼女が聞き返してくる。オーフェンは続けて、
「預 けただろ? 俺が《塔》を出たときに。あのときまだ子猫だったけど、もう大きくなったんじゃないかな」
「そりゃあ、元気だけど......返さないわよ。わたしになついてるもの」
「それと同じだよ」
「............?」
「俺も、あんたには返せないものがある。俺のことはキリランシェロと呼ばないでくれ」
静かにオーフェンが見つめると、彼女は、ふと困ったような眼 差 しを見せた──それは昔にもあった表情で、彼がなにか我がままを言ったあと、彼女がその眼差しを見せると、その我がままは通るのだということをオーフェンは覚えていた。
彼女は、それほど膨 らませていたわけではない肺 から、無理に絞 り出すようにため息を漏 らした。そして、片目を閉じて告げる。
「......分かったわ」
向こうでは、いいかげんフラストレーションの限界に達していたらしいマジクが、ごろつき相手に勝てるわけのない乱 闘 をしている。クリーオウが歓 声 をあげて、それを後 押 ししていた。
シティガードが出てきたら止めればいいか、とオーフェンは、懐 かしい街から見上げる、どこの土地でも変わらない空を眺めながらぼんやり考えていた。
『マクレディ教室』
といった看板がかかっているわけではない──そのせいか、その屋 敷 はただの民家に見えた。見たところ、既 に建っていた屋敷を改築したような建物で、庭もかなり広いようだ。道からは高い壁に阻 まれて、中はうかがえない──彼らが今立っている門前からも、あまり敷地内はのぞけないようにしてあった。門から入ってすぐのところを植木で囲んである。
敷地があるのはタフレム市の、にぎやかな繁 華 街 からだいぶ離れたところである。すぐ近くに丘 があり、防風林らしき木立が並んでいる。丘の向こうには小さな段々畑などあり、それは趣 味 の家庭菜園だという話だった。持ち主は《塔》の魔術士らしいが、名前まではレティシャは知らないという。
「そういえば」
ふと、オーフェンは思い出して、つぶやいた。
「ティッシも、自分の家を持つのが夢だって言ってたよな、昔から」
レティシャは、歩き疲 れたクリーオウの手を引いてやっているところだった。だが、ちゃんと聞いていたらしい。ふっと微 笑 を見せると、
「そうね。でも家を持つのがじゃなくて、家族を持つのが、だったんだけど」
「......あの、こんなことを聞くの失礼かもしれませんけど」
クリーオウの後ろを歩いていたマジクが質問の声をあげる。
「なあに?」
「レティシャさん、ご家族がいないんですか?」
少年の問いに、レティシャはあっさりと肩をすくめると、答えた。
「血のつながった肉親はね、いないわ。でもそれは《塔》の魔術士の宿命みたいなものよ」
「宿命?」
「《牙の塔》の魔術士の大半は孤 児 なんだよ。俺だって、家族はいねえだろ」
さっきの乱闘のせいでどことなくぼろぼろになった感のあるマジクは、まっすぐこちらに疑わしげな視線を返してきた。
「お師様は、いろんな意味で規格外だから......」
「どーゆう意味だよ」
「いえ別に......」
「まあまあ」
と、レティシャが割って入ってくる。
「とにかく《塔》の訓練は特殊なものだから、生徒の死亡率が高いのよ。まともな親ならば、自分の子をそんなところに入門させたりはしないでしょ? そういうわけ」
それを聞いて、マジクの顔にふと不安げなものが浮かぶのが見えた。
「......お師様、ぼくを《塔》に登録するとか言ってませんでしたっけ」
「登録するだけなら、多分大丈夫だろ。別に呪 いがかかるわけでもねえし」
「今の状態でもう既に、なにか呪いに近いものはあるような気がしないでもないんですけど......」
などと、マジクが頭を抱 えた、そのとき──
がっ!
オーフェンはいきなり視界が振 動 するのを感じた。目の前がブレて、瞬 間 なにも見えなくなる──一瞬遅 れて彼は、振動したのが視界ではなく、自分の頭だということを悟 った。後頭部に石をぶつけられたのだ。
「な............⁉ 」
悲鳴というよりも驚 愕 に近い声が漏れて、オーフェンは肩越しに背後を見やった。レティシャや、マジクらもびっくりしたようにそちらを見ている。痛みと衝 撃 のせいで朦 朧 としかけている頭を押さえて、オーフェンは顔をしかめた──
ちょっとした大きさの石を片手に、後ろからこちらをじっとにらみつけているのは、小さな子供だった。十歳か、そこらか。女の子で、細く乾 いた感じの髪 を三つ編みにしている。決して憎 々 しげにではなく、どこか使命感に燃えるような目でこちらを見て、彼女はいきなり叫 んだ。
「目標物に対して第二撃、やー!」
同時に、手に持っていた石を投げ付けてくる。それは別に当たり前にかわしたが、本気になって反撃するわけにもいかず、オーフェンは棒 立 ちになって少女を見返した。
少女がうろたえたように、意味があるのかないのか分からないことを叫ぶ。
「目標物は攻撃を回 避 ! どーしよ」
となりで、レティシャが叫び声をあげた。
「パット!」
「......知り合い?」
横目で、オーフェンは聞いた。彼女がうなずく。
「わたしの生徒のひとり。まだ見習いだけど」
「生徒ぉ? あんなに小さい子が?」
と、これはクリーオウ。別に魔術士の見習いとして学習を始める歳 としては、その少女の年 頃 というのは、とりたてて言うほど早くもないのだが、クリーオウにとっては驚くべきことだったのだろう。
少女──パットという名前らしいが、とにかく彼女は、じりじりと後 退 りを始めた。
「目標物のデータから察するに反撃は必 至 ! パットは撤 退 します。ではさよなら──」
「待ちなさい!」
完全に背を向けて逃げ出しかけたパットに、レティシャが声をあげる。
虫ピンで刺 された標本みたいに手足をぎくしゃくさせて、ぴたりと少女の後ろ姿が立ち止まる。
オーフェンが呆 然 としている間に、レティシャは腕組みして無理やり怒 気 を抑 えたような──だが決して完全に隠 してはいない──声を出した。
「パット──わたしのお客様に石を投げつけるっていうのは、果たして正しいマナーと言えるかしら?」
「いえ......あの......先生。つまりパットは......」
少女は、恐 る恐る振り返ると、あからさまに恐 怖 に顔を引きつらせて、
「パットは利用されているんです」
「利用?」
ぴくん、と眉 を動かして、レティシャ。と、まだ痛む後頭部をさすっているオーフェンの横に、ひょいとマジクが近づいてきた。足元からなにやら拾い上げて、こちらに見せる。
「これ、ぶつけられたんですね」
マジクが持ち上げたのは、手のひらくらいの大きさの丸石だった。市内に川原 などはないから、花 壇 の縁 石 にでも使っていたものだろうか。オーフェンは苦々しく笑いながらそれを受け取った。
「俺を殺すには、ちと足りなかったみたいだけどな」
そんなことを言っている間に、向こうでは会話が進行している。
「利用って?」
レティシャはすたすたとパットのほうに近寄って、不思議そうに聞いた。パットは、彼女が近寄るたびに声を小さくしながら、
「ええと......その、ノーラが人質に取られてて、その......」
「ノーラ? 猫がどうしたっていうの?」
「だから、先生の留 守 中にお兄ちゃんがヘンなのを連れてきて!」
追究されてつい大声になって、少女がそう答えた瞬間、聞き慣れた声が響く──
「誰が『ヘンなの』だっ! 人質のことを忘れてそーゆうことを言っていると、汚 れた毛布でくるみ殺すぞ!」
「............」
オーフェンはもはや声の聞こえてくるほうをうかがいもせず、頭を抱 えた。
「お師様......」
「ちなみにあそこよ」
マジクとクリーオウが指さすほうを、いやいやながら見やる──屋根の上。二階建てのレティシャの屋敷の、屋根裏部屋の窓の外。くすんだ赤の屋根の上に、もっこりとした人影がふたつ仁 王 立 ちしていた。
いや正確には、ひとつが仁王立ちになって、もうひとつは屋根裏部屋の窓 枠 にしがみついて、思わぬ高さに身 震 いしている。仁王立ちになっているほうは、毛皮のマントに帯剣した地 人 の少年──もうひとつも、やはり地人で、剣は持っていない。その代わり分厚い眼鏡 をかけている。どちらも似たような黒髪のぼさぼさ頭で、なんにせよ、オーフェンには見知った顔だった。
(あ・い・つ・ら・は〜......)
情けない面 持 ちでうめき声をあげていると、唐 突 に門が開いた。
ばたばたと、門の中から細 身 の少年が飛び出してくる。
「あー! いないと思ったら、あんなとこに!」
少年は出てくるなり屋根を見上げて、そう叫んだ。黒髪を長く伸ばした、十四、五の少年である。ほとんど同時に、パットが声をあげて呼んだ。
「お兄ちゃん!」
「ティフィス!」
名前で呼んだのは、レティシャのほうだった。ティフィスというらしいその少年は、ふたりのほうを向きやると、
「あ、先生、お帰りなさい──」
「いったいどうなってるの⁉ 」
いいかげん、いらだっていたのか、レティシャが怒 鳴 るように聞く。ティフィスは、困ったように身をすくめて、
「いやあの、フリップさんのトコで、騒 ぎを起こしてたんです。あの地人たちが」
「それがなんでわたしの家で も騒ぎを起こしてるの!」
「そ、そんなこと言われても」
「ちゃんと説明しなさい──」
と、口ごもるティフィスにさらに詰 め寄ろうとしているレティシャの肩を、オーフェンは、ぽんと止めた。
振り返る彼女に、うめき声で告げる。
「いや、いいんだ、ティッシ」
「......なにが?」
「君の家だからとかフリップの店だからとかいうんじゃなくて、あいつらのいるところに騒ぎが起こらないことはあり得ねえんだから......」
後ろから、マジクとクリーオウが付け加える。
「公平に指 摘 すれば、お師様がいるとその騒ぎに拍 車 がかかるんですけどね」
「というか、オーフェンが火種であいつらが油なのよね」
「お前ら、人を同類みたいに......」
険悪につぶやきかえしたオーフェンに、ティフィスが聞いてくる。
「ち──ちょっと待ってくださいよ。あなた、あれと知り合いなんですか?」

「認めたくはないが、まあ知り合ってしまったということ自体は別に俺の落ち度じゃねえし......」
嫌 そうに手を振りながらオーフェンが言うと、屋根の上から剣を持ったほう──ボルカンが叫んできた。
「そんなに嫌なら知り合いでなくてもいいわいっ!」
「あ、それ、ぼくも賛成」
と、これは開いた窓枠にしがみついているドーチン。オーフェンは、すっと息を吸うと、即 座 に怒 鳴 りかえした。
「ンなわけにいくか、さすらいのタヌキ兄弟! ことあるごとに高いところに登りやがって純 粋 な馬鹿かてめえら!」
「ふっ! 王者は常に見下ろすものよっ」
「どこのタヌキ山の風習だ、それはっ!」
「大志ある者は、一花咲かせる前には常に高いところに登って下界を眺 めるものと、昔から決まってるだろーがっ!」
「なぁにが一花咲かせるだ、福ダヌキ! てめえなんぞ、そのままそこから足滑 らせて地面にでっかい血の花でも咲かせてろっ!」
「ち──ちょっとちょっと、オーフェン」
レティシャが、声をあげる。オーフェンはちらりと肩越しに見やり、
「あんだよ。あともーちょっとで言い負かせるところなんだ。後にしろよ」
「言い負かしたからどうなるっていうのよ......それより、なんなのよあの地人たちは」
「なに、と聞かれても困るんだけどよ──俺がトトカンタでモグリの金貸しやってたときの客なんだが、いまだに貸した金返しやがらねえんだ」
それを聞いて、呆 れたようにレティシャがつぶやく。
「金貸しって......あんた、そんなことやってるの?」
「割のいい商売だと思ったんだよ、始めたときは」
「はぁーはっはっはっ!」
ボルカンが咄 笑 を始めた。腰に手をやり、なにやら秘 策 でもあるのか、大声で叫ぶ。
「小 生 意 気 な態度をとっていられるのもここまでだぞ、金貸し魔術士! 俺は人質と、貴様に関する重大な秘密をつかんだんだからな!」
その横で、ぽつりとドーチン。
「なんか、毎度毎度のことのような気もするけどね」
「そーゆう覇 気 のないことでどーするっ! ドーチン、人質を出せ!」
「ほい」
と、あまり気のない様子のドーチンがボルカンに手渡したのは、一匹の黒猫だった。首根っこを猫づかみされて、胴 をびろんと伸ばしている。
ボルカンは、それをこちらに見せつけながら、また大笑した。
「はあっはっはっ! 悪魔悪 鬼 とののしるがいいっ! 今、俺に逆らえば、この猫がどーゆう目にあうか定かではないぞっ!」
猫が退 屈 そうに、あくびする。
「......元気そうでしょ? ノーラ」
レティシャが、ぽつりと言う。オーフェンは黙 ってうなずいた。
猫を見て騒 ぎだしたのは、パットだけだった。
「ああっ、敵は捕 虜 を利用してパットを傀 儡 としたのみならず、今まさに彼女を戦線の人柱にするとゆー非道をっ! なんてひどいっ!」
「まあ......非道といえば非道か......」
彼女の頭を撫 でてなだめながら、ティフィスがつぶやいてきた。
「そんなことより先生、あいつら、先生の書 斎 まで荒 らしたんですよ。鍵 をこじ開けて。なにを見つけたのか知らないですけど」
「わたしの書斎を荒らした?──もう〜」
髪をかきあげながら無念そうに、彼女。オーフェンはふと、昔の彼女の部 屋 の中のことを思い浮かべ、もとがあの荒れ具合なら、今さら地人たちが散らかしたところで大差はなかろうと思った。口には出さなかったが。
「ねえ、オーフェン......」
頭にレキを乗せたまま、つつ、とクリーオウが近づいてくる。
「なんだ?」
「人質って言ってるけど、あいつら猫をどーするつもりなのかしら。殺せるわけでもないでしょうし」
オーフェンは事もなげに、
「さあ......そこまでは考えてねえだろ、多分」
「なんかホントに、毎度毎度のことですね」
マジクがぼやく。
多分それが聞こえていたのだろう──ぴくり、とボルカンが咄 笑 を止めた。凍 りついたように手に下げている猫を見つめて、なにやらいろいろと迷ったようだが、
「さ、逆らうと、猫をどーするかというとだな、室内猫に外遊びを教えると、もー二度と家に帰ってこないという......あるいは、今ここで俺がこの猫を可愛 がってだな、お前ら、どーだうらやましいだろう、とか......だから──」
そこまで言ってから、猫をドーチンに返す。ボルカンはくるりとこちらを向いて、開き直ったような声を出した。
「そして作戦その二だ!」
「......ここまでは、まあ毎度のことだな......」
オーフェンはさっきの石を手の中でもてあそびながら、つぶやいた。向こうでは、
「ああ! とりあえず捕 虜 の人権は確保されたわ! 神様ありがとー!」
パットが天に向かって叫んでいる。
「......つまり兄さんに騙 されるのは子供までってことだね」
猫の背中をなでながら、ドーチンがつぶやくのが聞こえた。
それを剣で殴 り倒 して、ボルカンが声を張り上げる。
「作戦その二っ! ドーチン、そんなところで勝手に倒れてないで、例のものを渡せ!」
「殴ったのは兄さんじゃないか......」
ぶつぶつ言いながら、ドーチンがまたなにか別のものを取り出す。彼がボルカンに手渡したのは、一冊の本のようだった。
(アルバム?)
目を凝 らしてオーフェンは、そう悟 った。レティシャの書斎を荒らしたとか言っていたから、彼女のものを見つけたのだろうが──
ボルカンは、それを頭の上に掲 げながら、にやりと笑った。
「金貸し魔術士! 貴様の未来を閉ざす重要な秘密を発見したのだ!」
「秘密......ねえ......」
オーフェンは半 眼 になってつぶやきながら、手の中で石をにぎりなおした。
ボルカンは得意げに続ける。ぱっとアルバムを開き、その中の写真の一枚を指さして、
「貴様、子供の頃 は前歯がなかったろう!」
オーフェンは無言で石を投げ付けた。それはまっすぐ、勝ち誇 ったボルカンの顔面の、ちょうど真ん中に命中する。
──ドーチンが猫を抱いたまま、ふっと肩をすくめたのが、確かに見えた。
「うっきゃあああああああっ!」
なすすべもなく屋根から落下するボルカン──
それを眺めてから、レティシャがぽつりとつぶやいた。左手で髪を押さえ、気の毒そうにこちらを見つめて、
「あれが......『返せないもの』?」
「多分な」
オーフェンは、嘆 息 まじりにうなずいてみせた。
「あ、ホントに歯がないや」
とりあえず半 袖 ブラウスとフレアスカートなど借りたクリーオウが例のアルバムをのぞき込み、言ったせりふがそれだった。
そこは屋敷 の予備の居間で、使われていない暖 炉 (なにしろ煙 突 がない)を筆 頭 として、奇 妙 な人の格好をしたコートハンガー、手の置物など、買ったはいいが後で使う気がなくなったような家具がごちゃごちゃと置いてあった。模 造 品 の虎 の毛皮が敷 いてある上のテーブルにアルバムを置き、ソファに軽く腰掛けて、クリーオウはさっきからきゃっきゃと騒 いでいる。オーフェンはそのとなりで、ところどころ返事をしてやっていた。マジクもテーブルの向こう側から、なんとなく興 味 ありそうに同じアルバムを見ている。レキはクリーオウの足元で、解放された黒猫にじゃれついていた。身体 の大きさではレキより一回り小さいがもう立派に大人 のノーラは、なにやら迷 惑 そうに部屋の中を逃 げ回っている。
オーフェンは横目でクリーオウを見やりながら、仕返しに、お前その服全然似合ってないぞと言いたい衝 動 を必死に抑 えて、
「俺 が七歳 のときだな。日付からすると」
「へえ......歯が生え変わるのって、そのころだったっけ」
写真の中の自分は、黒い服の中年男に手を引かれて、すましているわけでも笑っているわけでもない曖 昧 な表情をこちらに見せている。写真は自分を中心に写していて、黒服の男のほうは、口元から上が写真の枠 から外れていて顔が写っていない。それを遠目に見ながら、オーフェンは思い出して答えた。
「さあな。ただその歯は、戦 闘 訓練で折れたんだ、確か」
「戦っ......⁉ 」
クリーオウは、絶句したようだった。驚 いた顔でこちらを見やり、
「こんな歳 から、そんな卑 猥 なことしてたわけ?」
「卑猥かどうか知らんが......ま、戦闘訓練っても、まだ基 礎 中の基礎の段階だよ。両手を後ろ手に縛 って、布を丸めた棒 でひたすら殴 られつづけるんだ。顔を目がけてなにかが飛んできても目を閉じないように」
「き、基礎ってそーゆうものなの?」
疑わしげに、彼女が声をあげる。と、
「......でも、さっきのパットって子もそうでしたけど、黒 魔 術 士 ってそんなに子供の頃 から訓練するものなんですか?」
なんとなくまじめな顔をして、マジクが聞いてくる。自分がほんの二か月前に生徒になったばかりだから、気になるのだろう。オーフェンは肩をすくめて答えた。
「《牙 の塔 》は、ちょっと特 殊 なところでな。あそこの教師たちは、確かに子供の頃から訓練することを好むな。《塔》の施 設 内で生まれた子供も少なくないし......」
「? それ、どういうこと?」
と、クリーオウ。
「つまりだ、仕事として産んでもらう んだよ──大抵、雇 われるのは女だな。それなりの報 酬 を払って《塔》の魔術士の子供を産んでもらうわけだ。片親だけでも魔術士なら、遺 伝 的に魔術士の素養を持つ子供が産まれる確率はそんなに低くない」
「な──なにそれ」
ぎょっとしたような声を、クリーオウがあげる。オーフェンは、ははと笑った。
「ま、ここ十何年かは、ンなことはしてない。組織の内外から倫 理 的な部分が指 摘 されはじめたのと、それに加えて、いくらなんでも効率的じゃないからな」
「なんだ」
ほっとして、クリーオウが息をつく。
が、オーフェンはにやりとして、
「──で、もっと効率的な方法を考えついたってわけだ」
「ゔ............」
嫌 そうな顔でなにか言い返そうとしている彼女を、オーフェンは軽く手で制した。
「お前が心配するほどひどいことはしてないさ。倫理的にどうか、と聞かれればどうとも答えられねえけどな。孤 児 を収容している施 設 ──公営、もしくは民間の孤児院なんかにコネをつけておいて、できるかぎり身元のはっきりしている子供をリストアップしてもらう。重要なのは、両親のうちどちらか、あるいは両方ともが魔術の素養を持っていたかどうか──魔術の素養は純 粋 に遺伝するからな。で、これはと思った子供を引き抜いてくるってわけさ。これが大陸魔術士同盟を通じて、大陸規模で行なわれてるから、毎年《塔》に連れてこられる子供ってのはかなりの人数になる。俺も、そのクチだ」
「そういえば、お師様も家族がいないんでしたっけ......」
「まあな。まだ俺が物心もついてないころ、俺をベビーシッターに預 けて、ふたりとも旅先で事故死だったそうだ。二親ともが魔術士だったと記録にはあるけどな」
「はあ......」
と、会話が途 切 れる──
その隙 間 をごまかすように、クリーオウがアルバムをめくって明るい声を出した。
「でもさ、オーフェン──気になってたんだけど、なんでオーフェンの写真が、ティッシのアルバムに入ってんの?」
オーフェンはソファに深く腰を沈め、髪 をかいた。
「ん? あー......ま、彼女は家族みたいなものだから」
「......それ、同じ教室の人だったから?」
「いや。俺がチャイルドマン教室に入室したのは十歳のときからだ。このおっさん──俺の最初の先生──に《塔》に連れてこられたのは──」
と、写真の、顔が写っていない男を指さしながら、
「六歳のとき。けど、俺ら三人は孤児院にいたころから同じグループだったんだ」
「...三人 ?」
聞き返してくるクリーオウに、オーフェンは無言でアルバムのページをぱらぱらとめくった。本の中の時間が進み、写真の中の人物が成長していく──やがて、オーフェン自身が十四、五の頃の写真を見つけて、オーフェンは手を止めた。
「これさ」
と、一枚を指さす。クリーオウとマジクが、頭を突き合わせてそれをのぞき込んだ。
写真には、どこかの並木をバックにして、三人の人物が写っていた──ひとり、中心にいるのはオーフェンだった。多分、初めて黒のローブに袖 を通したときの記念写真なのではないかと思う。やや緊 張 した面 持 ちで、こちらをじっと見つめている──見つめられて、思わず黙 り込んでしまうような素直な目で。もうひとり、彼の両肩に軽く手をかけて、少し左にずれて立っているのが、レティシャ。やはり黒のローブだが、写真の中のオーフェンよりは、だいぶ着慣れている様子である。髪はこの頃から長かった。若い──二十歳 になったばかりか、その程度だろう。足元には、子猫が転がっている。
「これがあんたね」
吹き出すような声で、クリーオウが、ちょうどレキに追いかけられてソファに飛び乗ってきた黒猫を捕 まえた。
最後のひとりは、ふたりから少し離れて──とはいってもカメラのフレームの中のことだからたかが知れた距離だが──、ひとりで立っている。やはり黒のローブ、黒 髪 の女。ブラウンの瞳 を、どこか面白がるように挑 戦 的に光らせて、腹のあたりで軽く腕を組んでいる。背は、かなりあり、レティシャと同じほどか。今のオーフェンと同じくらいだから、写真の中の少年とは、少し見上げる程度に違う。
オーフェンは、写真の中の彼女と見つめあいながら、ぼんやりと説明した。
「ティッシと、アザリー──不思議と、縁 が切れなくてね。孤児院で、幼 児 の俺を世話したのが、このふたりだったのさ。ふたりは遠縁の親類とかで、ふたりともが魔術の素養を受け継 いでいた。俺とは血縁はないけどな。それが三人が三人とも《塔》につれてこられて、同じ教室に入ることになったんだから──」
と、そこで彼はふと我に返った。クリーオウとマジクは、いつの間にか聞いている様子もなく、写真とは別の一点をふたりして見つめている。写真の下──子猫よりも下──ラベルに入れられた日付と、そのさらに下に記されたキャプション。
『赤光帝四十二年春の第三十七日。三人で。わたし、アザリー、そしてキリランシェロ』
アルバムを取り上げてページを閉じたほうがいいか──と一瞬考えて、やめる。動 揺 は一切外に出さず──というか、なぜか動揺らしい動揺も心には現れず、オーフェンはなんの気もなく、静かにゆっくりとくりかえした。
「そう......不思議と縁が切れなくてね」
大きな屋 敷 だが、間取りはそれほど難しくはない──オーフェンは変なところに感心しながら、ふらふらと廊 下 を進んだ。クリーオウとマジクはさっきの居間に置いたままで、小用と偽 って部 屋 を出たのだ。別に嘘 をつく必要などなかったような気も、今ではしてきていたが、とにかくそうしたのだった。
本当は、レティシャと話がしたかった。ふたりだけで。
(話すことはいくらでもある......俺のこと、ティッシのこと......)
五年間も顔を見せていなかったのだから、その間にあったことを報告するのが、なんだか義務のように思える。
(アザリーのことも、チャイルドマンのことも、ハーティアのこともだ。彼女には全部話さなければならない。《塔》のことも、いくらかは聞いておかなくちゃならないことがある。彼女の生徒のことも、聞きたいしな──彼女が先生だって? 猫にトイレを仕 付 ける気苦労だけで二キロやせたくせに)
ふとにやりとしながら、オーフェンは思い出していた。なんとなく、天 井 を見上げる──壁 紙 と、壁にかかったガス灯 。そんなものだ。廊下の隅 にプランターの青い葉が見える。金の縁 の、白い陶 器 の鉢 植 え。近づいて見ると、毎日葉っぱまで雑 巾 がけしているのか、塵 ひとつついていなかった。
(......昔からそうだったな。彼女は潔 癖 性 なんだ。自分では掃 除 やらねえくせに、行動すら、なにかきっちりと統制がとれていないと不 機 嫌 になるんだよな。俺のやることに関してもだ──俺が門限守らなかったら、次の日ちゃんと門限守って帰るまで、口きいてくれなかったもんな......)
と、オーフェンは、表情を苦笑に変じた。
(なんだ......話したいのは、昔のことばかりじゃないか......)
我知らず閉じたまぶたの内側に、さっきの写真の絵が浮かぶ。ほんの五年前だ。五年前まで、俺はキリランシェロだった──
〝孤児 〟ではなかった。家族がいた。血はつながっていないが、最愛の姉がふたりもいた。
そして、今は──
(そのうちひとりは、もういない......)
それを思い出してしまったことを、彼は自責した。考えるべきではないことだ──もう二度と。あれは終わったのだから。二か月も前に。
だが、二か月しか経 っていないのだ......
「......ティッシは」
彼は背の高い鉢植えの頭に手を置いたまま、ぽつりと独 りごちた。
「泣くかな。いや、怒り狂 うかもな。それよりも──」
と、自分の持っている精神の最も強 靭 な部分から、頭を下げて力を借りてくるような気分で、オーフェンは無理やり表情を冷静にした──師であるチャイルドマンから、戦 闘 技術と並んで徹 底 して訓練された精神制御 の方法で。
いわく、動揺を打ち消すには、あえて最も直面している苛 酷 な状 況 へと注意をもどすのだという。
『......それでお前に余 裕 があれば、自然と心が真剣に落ち着く。そういったことが必要とされている状況で余裕がないのなら、別にそれまでだ。少なくとも、後のことは心配しなくてもいい』
むちゃな理 屈 ──というよりも、理屈にすらなっていないのだが、それも、
『精神というのは物理的に存在しない事象の総 称 だ。それを、白魔術士でもないお前が制御してみせようというのだ。必要なのは理屈ではないだろう』
──だという。
(この場合は、まだ俺には余裕があったようだな......俺の勝ちだぜ、チャイルドマン)
そう思いつつも、完全には動揺は消えていなかった。彼は胸中で確認するつもりで、思わず声を出してしまった。
「それよりも、ティッシに話だ......彼女はあの暗殺者 のことでいくらか情報を持っているようだったな」
オーフェンは、また適当に廊下を進みはじめた。
廊下はそのまま中庭へと続いていた。離 れへと、まっすぐに伸びている通路に出ながら、中庭を一望する。人工池と、白いベンチ──ちょっとしたものだと、オーフェンは胸中で口笛を吹いた。まあ《牙の塔》の最エリートなら当たり前か......
レティシャが──彼の姉が望んで手に入れた、彼女の家──
オーフェンは、ふと声には出さずにつぶやいた。
(俺だって......望めば、手に入る──このくらいのものは)
「......でも、それには条件がつくね」
「────⁉ 」
独 り言 に答えを返され、オーフェンはぎょっとして振り向いた。声は、別段からかうという調子でもなく、ごく真剣なアドバイザーのような口調で続けた。
「まずは、あなたが《牙の塔》に復帰すること──昔どおりの力を持ってね。長老たちは馬 鹿 じゃないから、あなたに昔ほどの能力がないことを知れば、すぐに不要者だと気づくよ。よしんば、あなたが昔のレベルを取りもどしても──」
そのあたりでオーフェンは、ようやく声の主の姿を見つけた──彼が今立っている渡り廊下の向こうから、すっと......気配は消したまま、人 影 が現れる。ごくありふれた格好で、街ですれ違ったなら学生だと思って気にもしなかったろう。顔を隠 すように、年に一度のオールスターゲームのロゴマークが入った赤い帽 子 のつばを下ろしている。だが、仮に彼がそれで顔を隠しているつもりだったとしても──オーフェンにはそうは思えなかったが──意味はなかった。
オーフェンは、その少年の顔をよく知っていた。
こちらの胸中をよそに、少年は続ける。
「取りもどしても、あなたが五年前に《塔》を飛び出したという過去が消えるわけじゃない。それは汚 点 として残るよ。まあ......長老の機 嫌 をとって、この街の市民の資格を手に入れるのには、何年かかるだろうね」
「なぜ、お前がここにいる」
オーフェンは、静かに聞いた。視線を細め、腰を落とす──左肩をやや前に、右半身は心持ち、ためるように後ろに下がらせる。足も同じだ。誰にでも分かる戦闘姿勢である。
だが少年は無 造 作 なしぐさで帽子を取ると、気にもしていないように、あけっぴろげな動作で両腕を広げた。
「なぜって? そりゃ、ぼくはここにいるよ──この街にね。ぼくは、この街の暗殺者だ。この街のほかには、いないよ」
オーフェンは、とうとうかんしゃくを起こして、少年に怒 鳴 った──自分が先刻アルバムで見たのと同じような視線でこちらを見ている少年に──
五年前の自分──キリランシェロと呼ばれ、自らもそう名乗っていた自分と、寸分違 わない姿をした暗殺者に。
「お前が《牙の塔》のキリランシェロだから、そうだとでも言いたいのか!」
「そうだね」
少年──キリランシェロは、あっさりとうなずいてみせた。オーフェンは、さっと自分の胸を指し示すと、
「俺はここにいる! お前の正体は、何者だ⁉ 」
「ぼくはキリランシェロだよ。ほかになんだと思う?」
「そんなわけがあるか! 言葉遊びをするつもりはねえ──」
「ぼくもだよ。でも、ぼくを見てよ」
と、キリランシェロは優 雅 に、自分を示した。五年前の自分に涼 やかに見つめられて、オーフェンは我知らず、つばを飲 んだ。
どこから見ても、少年の姿はキリランシェロだった──それは間違いない。今の自分とあまり似ていないのはなぜだろうと、オーフェンはなんとなく不思議に思った。目付きのせいか、それとも体格が少し変わったからか──
キリランシェロという少年は、ただの少年だった。外見もなにも、特に取り立てて言うほどのこともない。ただ《牙の塔》にあって、天才的な魔術の勘 のようなものを持っていた。大陸最高の黒魔術士、そして暗殺者でもあったチャイルドマンから、すべての戦闘技術と暗殺術を教え込まれた、唯 一 の生徒。チャイルドマンの秘 蔵 っ子キリランシェロ。その評価は、大陸の向こう端、王都メベレンストまでとどいた。最年少で《十三使徒》へとスカウトもされた。周囲は沸 騰 せんばかりに騒 いだのだ──その騒ぎの中心にいたのは、たかだか十五歳の少年──
オーフェンは、唇 を軽く噛 んで認めざるを得なかった。
(誰がキリランシェロか と聞かれれば、それは確かに、あいつのほうだ......)
俺は変わってしまった......昔ほどの力もない──
「そう」
少年は、にっこりした。
「ぼくはキリランシェロ。あなたは......オーフェンと名乗っていたね。多分、この街を出ていってしまったことで、あなたはもうぼくじゃなくなってしまったんだろうね」

「お前は......俺の過去の亡 霊 だとでも言うつもりか」
オーフェンは、いつの間にか戦闘姿勢も忘れて、ふらっと身体 を傾 けた。渡り廊下の手 摺 りに、どんと背中がぶつかって、それにしがみつく。
へえ、と気づいたように、少年が顔を上げるのが見えた。
「そうだね。それは近いよ。でもあんまり、現実的じゃないかな......」
「現実的だと?」
オーフェンは、その単語を口に出して、さらに吹き出した。
「現実的だと⁉ どこをつついたら、ンな言葉が出てくるんだよ。いきなり五年前の自分が目の前に現れて、そいつが俺を殺そうとしている──それだけじゃない、お前は既 に関係ない人間まで殺したな。あのレンジャーを殺す必要が、どこにあったんだ......」
「彼はぼくの侵 入 に気づいたんだよ。本当は、ただの警告のつもりだったんだけど、顔を見られたんじゃあね」
キリランシェロは、事もなげに、
「あなたは、ぐっすり寝こけていたね──ぼくがあなたの枕 元 に立って、首からペンダントを取ってもだ。もちろん、ぼくだって気配を消してはいたけどね。でも、あのお爺 さんは気づいたんだよ。椅 子 でうたた寝してたけど、はっと目を覚まして、ぼくを見た──殺すしかないじゃないか。まあ......だからって血で警告っていうのは、我ながら悪 趣 味 だったとは思うけどね」
と、そこまで言ってから、彼は視線を哀 れみに変えた──
「分かるかな。あなたは気づかなかった。あなたはもう、こういったことに関しては、あの老レンジャー以下になってしまったんだよ」
「............!」
オーフェンは、喉 が詰 まったように身体をこわばらせた。それでも、弱々しく口を開く。
「......お前は、キリランシェロじゃない。五年前の俺は、人を殺すなんてことはできなかった」
「今はできる、とでもいうような言い方はするもんじゃないよ。誤 解 されちゃう」
「......誰が聞いてるってんだ」
歯がみして、オーフェンはうめいた。キリランシェロは、嘆 息 まじりに、
「気づいてないの? まあいいや。話をもどすとね、あなたが言ってるのは、つまりぼくが五年前のあなたではない、っていうことにしかならないよ。ぼくはそうじゃない──キリランシェロなんだ」
「俺は五年前までキリランシェロと名乗っていた──」
「あなたのそれは、誰にも望まれていないキリランシェロ、だろ?」
そのせりふは、心臓に直撃したようにオーフェンの身体を硬 直 させた。ただ単に泣きわめく、といったことまで含めれば数百にものぼる反論が頭に浮かぶ──が、硬直したままないを思おうと、少年の顔を見つめるほかなにもできない。
少年は、会心の揚 げ足取りをしたというように、満足そうに笑っている。
「ぼくは、彼女に望まれた存在なんだ。彼女のために存在している......」
「彼女......?」
いぶかしく思ってオーフェンが聞き返すが、キリランシェロは、にやりと笑ったまま笑顔を凍 らせて、答えない。
「彼女は彼女さ。ひとりしかいない。分かってるはずだよ?」
「............」
「じゃあね......これ以上いると、ティッシに見つかりそうだから──」
「──! 待てっ!」
オーフェンはとっさに、身を乗り出すようにして飛び出した──が、差し出した右手がかすめる瞬間、キリランシェロの身体がふっと消える──
「空間転移⁉ 」
舌打ちと同時に口走る。が──キリランシェロは、消える直前、呪 文 となる声を発していない。
「音声魔術......じゃない......?」
眉 をひそめてオーフェンは、少年の身体が消えた空間を見つめた。空間にはぽつんと、光の蝶 とでもいうように、白い光の軌 跡 のようなものが残っている。小さな跡 で──指先ほどの大きさか。軌跡はなにかを描くように瞬 き、ジジ......と、ランプの芯 が揺 れるような音を立てて、消えた。
光が描いていた軌跡には、見覚えがあった。
(魔術文字 ......)
大陸のドラゴン種族のひとつ、ウィールド・ドラゴン=ノルニルが用いる、魔術の文字である。ノルニル、つまり天 人 の滅 亡 とともにこの魔術も消滅したはずだが、ドラゴン種族の遺跡というのは、比較的大陸のどこででも目にすることができる。そしてまれに、その遺産を手に入れることも。
ノルニルの遺産は普 通 、それに刻 まれている魔術文字を解読さえすれば、人間にも扱うことができる。もっともその場合でも、ノルニルが直接使った場合より数段効果は落ちるというが。
(それを使ったのか......ひょっとして、今朝、レキの魔術を食らっても傷ひとつ負わなかったのも、なにか別の魔術文字の力を使ったのか? ディープ・ドラゴンの暗黒魔術は人間の力なんぞじゃ防げやしねえからな......)
オーフェンは、肩を落として息をついた。
「なんにしろ──」
顔を上げて、独 りごちる。
「今までの相手とは、ちょっとばかり勝手が違うみてえだな......」
◆◇◆◇◆
オーフェンは気づいていないようだった──渡り廊下には屋根があって、こちらは死角になっているのだから、まあ仕方ないと言えば仕方ない。
(でも......)
と胸の中でつぶやいて、途 中 で止める。ずっとふたりの会話を耳に入れながら、特になにを覚えるでもなく聞き流していた。
興 味 がなかったわけではない。むしろ、自分も上から話に参加しようかと思ったくらいだ。それをしなかったのは、お前なんでそんなところにいるんだと聞かれたとき、『オーフェンと話をしようと思って探していた』と言いたくなかったからだった
あるいは、窓から身を乗り出して自分の金髪を軽く撫 でていく風が気持ちよかったから、ぼんやりしていた──そんなようなことだったのかもしれない。よく分からない。
頭の上に乗っかっているレキの背中をぽんぽんとたたいてみる。ごろごろと、喉 を鳴らしてこのディープ・ドラゴンの赤ん坊は答えてきた。オーフェンは、ディープ・ドラゴンは絶対に音を立てず、ましてや吠 えたりなどしないと言い切っていたが、レキは彼女とふたりだけのときには、喉くらいは鳴らすことがあった。
「............」
なにやら考え込むように、軽くくわえるように唇 に指を当てて──
「......よし」
決心するようにつぶやいて、彼女は、静かに窓を閉めた。
◆◇◆◇◆
「てめえらこそ、こんなところに閉じ込めやがって、のんきな母さんボケ殺すぞ!」
罵 声 は、離 れから聞こえてきていた。
ふっと表情を変え、そちらを向き、しょうがねえな、というように頭をかく──オーフェンは、しばらく立ち尽 くしていた渡り廊下を、離れのほうへと歩き出した。
離れは小さな一 戸 建 で、屋敷を買った後にレティシャが新しく建てたものか、白い壁はまだあまり汚 れていない。渡り廊下から離れの玄 関 へと足を載せて、オーフェンは、近くの窓をひょいとのぞき込んだ。
と、開いたままの窓から、また罵声が飛び出してくる。
「このよーな戒 めで我が身を縛 ろうとも、この俺の闘 志 を封 じることはできんぞっ! マスマテュリアの闘 犬 と呼ばれたあの日より、一度たりと敗北の味などなめたことのないこのボルカン様だ──」
「うるさぁぁいっ!」
──叫んだのは、オーフェンではなかった。
離れは三部屋続きほどの小さなもので、オーフェンがのぞいている位置から見えるのは玄関と廊下、そして一番手前の部屋だけである。部屋の扉が開けっ放しになっているのでのぞけるのだが、部屋の半分ほどは死角になっている。見えるかぎりでは、その部屋は、子供部屋か勉強部屋のようだった。本 棚 に並んだ背表紙のタイトルから推 すならば、恐 らくはティフィスとかいうあの少年の部屋なのだろう。部屋には彼当人と、パットとか呼ばれていた少女──そして、首から下をすっぽりと大きな壺 に押し込められたボルカンとドーチンが並んでいる。
とにかく、叫んだのはティフィスだった。少年は、長い黒髪を押さえ付けるようにしながらいらいらとした口 調 で続けた。
「あのね、どういうつもりか知らないけど、君らが好き勝手なことをしてくれたおかげで、ぼくがどーゆう立場になったか、分かってないっていうんじゃないだろうね!」
「お兄ちゃんの言う通りよ」
ティフィスの後ろから、キャンディー・バーなどなめつつ、パットが続けた。壺の中で身動きも取れず、ボルカンが臆 面 もなく言う。
「失敗をひとのせいにしておるよーでは、この俺のような歴史に名を刻 みまくる大人物にはなれんぞ」
「どんな歴史なんだよ、兄さん......」
と、ドーチン。ボルカンは、首だけそちらに向けると、
「貴様っ! 弟のくせに、ご町内の歴史にその影ありと恐れられた兄の威 名 を忘れたと言うかっ⁉ 」
「ひょっとして、レンゴキンさん家 の裏山の岩 壁 に、全高五メートルの自分の顔を彫 刻 したことを言ってるの......?」
「それもひとぉつ! 偉 大 な業績であった」
「たった一晩で、どうやったら岩壁に自分の彫刻を彫 れるんだか村中の人たちが悩んだんだけど、結局答えが出なかったんだよなぁ......」
「だああああっ!」
ティフィスが、また声をあげる。頭を抱 えて。
「ちっとも反省してないじゃないかっ! 君らが行く当てもないっていうから、なら泊 まる場所くらいは貸してあげようって思って連れてきたのに! 別に恩に着せるつもりはないけど──」
「恩に着せるつもりはないが、せめてこれを機会に友達になってくれと言いたいわけだな」
「きっぱりと違うよっ! ああもう、先生が怒ると怖 いんだから。これでぼくにも、どんな罰 が待ってるんだか......」
と、ぶつぶつつぶやきながら、ティフィスは、ふとこちらを向いた。
「あれ? あなたは──」
「ああ」
こちらに気づいた彼に、オーフェンは手をあげて応 えた。
「入れてもらっていいかな」
「あ......ええ、どうぞ」
ぱたぱたと音を立てて、ティフィスが玄関まで下りてくる。
別に扉 に鍵 がかかっていたわけではない──が、ティフィスにドアを開けてもらって、オーフェンは離れの中に立ち入った。
パットが、飴 をくわえたまま物 珍 しげにこちらを見上げ、その向こうから、壺から突き出たぼさぼさ頭がふたつ、うなり声をあげる。
「出たな金貸し魔術士......俺様との決着をつけるために」
「......ていうか、確かにそろそろ本気で決着つけてあげたほーが兄さんのためというような気がしないでもないです......」
ボルカンとドーチンに、それぞれ半 眼 で視線を送ってから、オーフェンは嘆 息 した。
「お前らに、頼 みたいことがある」
「そーか、てめえがその気なら俺も──え?」
きょとんと、ボルカンが聞き返してきた。オーフェンは、しばし考え込んでから、
「俺からティッシに掛け合って、機 嫌 をとってやる。自由にしてやっから、その見返りに働け、っつってんだよ」
「............」
まるっきり意外だ、というように、ドーチンがつぶやいた。
「ぼくらにですか? 頼みたいことって」
「そうだよ」
とオーフェンは、横目でティフィスを見やり、
「構わねえだろ?」
「は、はあ......」
どこか緊 張 したような面 持 ちで同意する彼からは、さっさと視線を外して、オーフェンは地人たちに向き直った。腰に手を当て、静かに続ける。
「お前ら、いつも、夜とかはどうしてる?」
「あん?」
「いつもって......路上で寝てるときとかは、夜は落ちてるお金も探しにくいですし、さっさと寝ちゃいますけど」
答えるドーチンに、オーフェンは続けて聞いた。
「その夜の間に、人探しを頼めるか?」
「人探し......ですか。夜間は難しいんじゃないですか? ただでさえ、都市内の探 索 には専門の知識がいるでしょうし」
「いや。目立つ奴 なんだよ。つまり──」
オーフェンは、細長いため息をついた。
「暗殺者を見つけだして、そいつがいた場所を俺に報告してほしいんだ」
「地人たちを探 索 に出したんですって?」
「妙 なところで目ざといからな、あいつらは。それに、金がかからねえし」
オーフェンはつぶやくようにそう言って、足元に転がっていた空のバケツをつま先で軽く突いた。どうやら掃 除 をしようとして出したまま、放置されていたものらしいが、それがいつのことだったのかすら知れたものではない。心なしか、バケツの上にはほこりが積もっているように見える。
オーフェンは顔を見上げた。
レティシャの書 斎 は、かなり広い──はずだったが、乱雑に本が詰 め込まれた書 棚 や、書類やらなにやらが積み重なった机、処分する証券類を詰め込んだ箱、無 造 作 に部屋の隅 に追いやられている手紙の束──それら、どれをとっても並みの量ではない紙束に占 領 されて、場末の飲み屋のようにせま苦しく、また薄 暗 くなっている。暗い部屋に差し込む光の中に、宙を舞 うほこりが渦 を描いている。部屋にただひとつの窓もかなりの大きさだが、窓のすぐ外に防風林のような木立があって、日はあまり入ってこない。その窓の前に、彼女は立っている。
オーフェンは目の前のほこりを追い払いながら、なんとなく聞いてみた。
「なんで家のほかのところは馬鹿みたいに掃除してあんのに、自分の書斎はこんな有り様になってるんだ?」
「清 掃 員 をこの書斎に入れるわけにいかないでしょう? 他人には見せられないものが多すぎるもの」
と、彼女は窓の外──月が浮かぶ夜空へと視線をそらしながら、答えた。
「あなたが今踏 ん付けている書類なんてね、長老の連 絡 士 が持ってきた秘密文書よ」
「な⁉ 」
オーフェンは、あわてて足をどけた。
「なんでそんな大事なものを床 の上に置いとくんだよ」
「とうに失効したものよ」
彼女はあっさりとそう言って、こちらに向き直った。長い黒 髪 に縁 取 られた静かな顔が、こちらを見 据 える。どこか眠そうな、けだるげな眼 差 し──
「さてキリランシェロ。話をもどすわよ。あの地人たちを街に探索に出したらしいわね──なにが狙 いなの?」
「言わなくても分かるだろう」
「わたしは言ったはずよ──あの暗殺者 のことは、考えないでって」
「考えるな⁉ 俺を殺そうとした暗殺者のことをか。しかもあいつは、キリランシェロと名乗っているんだぞ!」
「だからよ!」
ばん、とレティシャは、自分のすぐ下にある書斎机を手でたたいた。積み上げられた書類の一角が、崩 れて床に落ちる。
オーフェンは厳 しい顔で、彼女を見返した──いくら手 狭 になっているとはいっても、もとは広い部屋だ。ふたりきりで部屋にいても、さほど近い場所にいるわけではない。それでも、オーフェンの鼻は、黴 びたほこりの臭 いの中から、彼女の匂 いをかすかに嗅 ぎ当てていた。
それに気づいたのか、あるいはこちらの表情から察したのか──レティシャは、ふっとこわばった顔の筋肉から力を抜いた。
「ええ。ちょっとアルコールが入ってるのよ。でも、寝酒みたいなものよ──」
「眠っている暇 はないんじゃないのか? あの暗殺者の捕 縛 命令を受けているんだろう」
「ええ......」
レティシャが一 瞬 、うなだれるように顔の前に前髪を落とした──
「状 況 を説明するわ。奴 が──『キリランシェロ』と呼ばせてもらうわよ、便 宜 上 ──奴がこの街に現れたのは、少なくとも二週間前からよ。今朝、レンジャー詰 め所 にいたあなたのところに姿を見せたところなんかから推 せば、たびたび街を出入りしてたみたいね。奴は既 に五人の黒魔術士を暗殺しているわ。すべて夜間。それも、長老と呼ばれる《塔》の最高執行部のスタッフのみを狙 っている。当然、長老たちも警 戒 して、身の回りを護衛で固めているわ──なのに、もう五人も殺されている。質問はある?」
「......君のほうから、聞きたいことがあるんだろう?」
オーフェンがつぶやくと、彼女は、ぴくりと顔を引きつらせた。それでも、無理やりというようにうなずいて、
「じゃあわたしから聞くわ──質問はよっつ。これは、事件の発生から今までに、わたしが抱いた疑問点よ。あなたが答えられることを期待しているわけでもないけど──まずは第一に、奴、『キリランシェロ』の動機は?」
オーフェンは腕組みしながら、あっさりと答えた。
「ターゲットが長老のみということなら、いろいろと考えられる。執行部をつぶすこと、あるいは単に混乱させるだけでも、《塔》の機能の大部分を麻 痺 させることができる。事実、現在《塔》内の組織で『キリランシェロ』捕縛のために稼 働 しているのは、チャイルドマン教室だけなんじゃないのか?」
あてずっぽうだが、目をつぶって撃 ったわけではない──オーフェンがじっと見つめる前で、レティシャは、苦々しげに笑った。
「ええ。それも、フォルテとわたしだけ、と言ったほうが正確ね──コミクロンは二か月前に事故死 、ハーティアはトトカンタにいるし、コルゴンはもとよりなにを考えているんだか......アザリーは──」
彼女は、無言でかぶりを振 って、そして投げやりに腕を広げた。
「それよりなにより、分からないのは、先生よ! チャイルドマン・パウダーフィールド教師! 彼が失 踪 してから二か月以上が経 つのよ──フォルテですら、彼の所在を突き止められない。まあ、わたしたちが......」
と弱々しくつぶやく。
「先生に敵 わないのは、よく知っていたつもりだったけど。彼が本気で足取りを隠 そうと思っているなら、二か月が二十年になったところで、わたしたちには発見できないんでしょうね......」
「............」
オーフェンは無言で、彼女の泣き言を聞いていた。多分それを、同意ととったのだろう──あるいは、どうでもよかったのかもしれないが──レティシャは、書斎机の上で顔を上げた。
「『キリランシェロ』が《塔》の機能を停止させようとしているのかもしれないってことは、わたしも考えたわ。頭を狙われた途 端 に萎 縮 して、なにもできなくなってしまう──どんなに強固に見えたところで、組織ってそんなものよ。それにお世辞にも《牙の塔》は強固な組織とは呼べたものじゃないわ」
「......なんだって?」
彼女の言っている意味が分からなくて、オーフェンは聞き返した。レティシャは書斎机の引き出しを開けて、手のひらサイズの小 瓶 を取り出した──ラベルに、蒸 留 酒 と思 しき銘 柄 が記されている。その栓 を開けるでもなく、手の中でもてあそびながら、レティシャは答えてきた。
「《塔》の支配者が長老たちでないことくらい、物心ついてない見習いですら知ってるわ。チャイルドマン教室を擁 する最強の黒魔術士、チャイルドマン失 踪 後の《塔》の秩 序 は急速に失われつつある。フォルテが既 に、教室長のローブから教師のローブに着 替 えてるの、あなたは知らないでしょう? ほかの教室──特に若い世代 の魔術士たちで構成されている教室が、不 穏 な動きを見せるようになったし。フォルテのティーカップに、ガラスの砕 片 が混ぜてあったの──もちろん、致死毒を塗 ったガラスよ。フォルテは犯 人 を知ってたみたいだけど、その件を上層部に報告もしなかった。自分で処理することで、主導権を握 れるって──先生みたいにね!」
吐 き捨てるような彼女の口調に、オーフェンは五年前、彼女とフォルテの仲を疑ったことがあったことを思い出していた。レティシャが、顔を上気させて続ける。
「冗 談 じゃないわ! たかだか先走った若い魔術士を自分の手でつるし上げにしたからって、なんの主導権になるっていうのよ! わたしは怖 くって──この頃 は、定期職務以外じゃ《塔》に近づいてすらいない。ローブも、できるかぎり着ないようにしてる──少しでも力を誇 示 することが危険になってきているのよ。《塔》の中で、誰も彼もが主導権争いをしているわ」
「......そうなると、奴 の動機にまた別のものが浮かび上がってきそうだな」
「ええ。チャイルドマンの失踪によってもたらされた《塔》の現状を、さらに混乱させるために誰かが画 策 した茶番ってことも考えられるわ」
「そして、第二のチャイルドマンが台 頭 することを危 惧 する長老たちを、単に邪 魔 者 と思って片っ端から暗殺しているのかもしれない。まあ、だとしたら、あまりにも大ざっぱすぎる計画だけど......別にシアターのプリマ選びとは違うからな。《塔》で力を得るってことは、たとえ過去にどんな経歴や手段があろうと、それを無にできるってことだ。暗殺者だったチャイルドマンなんて前例もある」
「わたしは......力なんていらないわ。わたしが欲しいのは、ただ普 通 に暮 らせる場所なのよ。だから、教室長の役職をフォルテに譲 った見返りに、居住権とこの家を手に入れたのに......」
レティシャはぶつぶつ言ってから、いきなり声のトーンを落とした。酒 瓶 を机の上に置き、落ち着いた声 音 で、
「で、第二よ。動機はなんであれ、手段は? 自らも警 戒 して、護衛も持っているはずの長老たちを、これだけ短期間の間にどうやって殺害できるの? 朝になって、ひとけのない場所で死体が発見される──チャイルドマン・ネットワークですら、暗殺者の姿を一瞬見かけただけで、犯 行 現場はまったく捕 捉 できていないのよ」
「実際にやってるんだから、できるんだろう──ただ、チャイルドマン・ネットワークの〝目〟すら避 けて人間を暗殺できる人間は、大陸でもそう何人もはいないだろうよ。西部では、ふたりだけだな」
「誰と誰?」
「キリランシェロとチャイルドマン」
レティシャが、皮肉げに顔を歪 めた。
「わたしの弟と、わたしの先生──そのどっちが犯人だと思う? オーフェン さん?」
オーフェンも、皮肉で返した。
「あんたの弟は人を殺せなくて《塔》を落ちこぼれた。それが今さら、タフレム市に帰ってきて暗殺を繰 り返すと思うか?」
「......なら、先生だっていうの?」
「チャイルドマンは問題外だ。彼はもう二度とこの街にも《塔》にも帰ってこない」
「......ずいぶんと自信ありそうね。あなた、なにか知っているの? 先生がどうして失踪したのか──」
「知らないよ」
と、オーフェンは嘘 をついた。言いながら、彼女の目をじっと見つめる──明らかに、彼女もこちらの嘘に気づいたらしい。が、なにも聞き返してはこなかった。
(あるいはティッシは、先生がどうなったのか、うすうす気づいてるんじゃないのか?)
そんなことが、胸中に浮かぶ。と、レティシャが聞いてきた。
「なら、西部のふたりは両方ボツね......東部の黒魔術士が、この街に侵 入 したってわけ?そのふたりにも匹 敵 する魔術士となれば《十三使徒》級よ」
「それなら、とうにフォルテが大 騒 ぎしてるはずだろ。四六時中、王都を監視しているらしいからな。《十三使徒》の見習いが王都を一歩出て花を摘 んだだけでも、フォルテのネットワークがそれを発見しているさ」
「ねえ、キリランシェロ......」
レティシャは、疲 れたように微 苦 笑 を漏 らした。
「わたしたち、あの暗殺者の姿をはっきりと見ているのよ──ディープ・ドラゴンが攻 撃 したおかげで、身を隠 すものが一切なくなった奴 をね。変 装 していたとしても、それだって焼け落ちたはずよ。奴は、間違いなく『キリランシェロ』だったわ。そうでしょ?」
「ああ」
オーフェンは認めた。
苦しそうに、レティシャが息をつくのが見える。
「決してね......本気で言っているわけじゃないのよ。いい? わたし、今朝、奴に襲 われているあなたを見て、一瞬思っちゃったのよ──ああ、キリランシェロが、わたしの知らない誰かを殺そうとしているんだって。殺されそうになっている、あの黒髪の男は誰だろうって......」
「それは多分......奴が、誰もが望んでいる『キリランシェロ』だからだろう」
「............?」
いぶかしげに眉 をひそめる彼女に、オーフェンは感情を虚 ろにして続けた。
「俺とは違う──チャイルドマンが育て上げようとしていた、理想の形の『キリランシェロ』......キリランシェロという名前を聞いて、誰もが思い描き、姿を見れば納 得 する〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟......」
「キリランシェロ! わたし、そんなつもりで言ったんじゃ──」
書斎机を蹴 るようにして避けて回り、こちらへ近寄りかけた彼女を、オーフェンは手で制した。実際に魔術で止められたように、レティシャの動きが止まる。
オーフェンは、静かに聞いた。
「第三の質問をしろよ」
「......奴の正体をあえて『キリランシェロ』とは特定しないで、ただの暗殺者ってことで話を進めるわ。だとしたら彼のスポンサーになっている人間がいるはずよ」
「その答えは動機にかかわってくる。『キリランシェロ』と名乗る暗殺者を使って長老を殺害しようと考える人間......となると」
オーフェンは嘆 息 した。
「フォルテが最有力の容疑者になっちまう。それはあまり考えたくないな」
「そうね......身内は疑いたくないわ。第四の質問」
「ああ」
つぶやくオーフェンに、レティシャは、すっ──と切ない瞳 を見せた。
「わたしが嫌 いになった?」
「......? よく意味が分からない」
目をぱちくりさせてオーフェンが聞き返すと、彼女は、それで戒 めが解けたとばかり、さっとこちらに詰 め寄ってきた。
「わたしが......たったひとりで暮 らすために、こんな馬鹿でかい家を買ったとでも思うの? わたしは、五年間ずっと、あなたを待ってたのよ」
と、自分の胸──書斎──書斎の窓の外へと、手で指し示して、続ける。
「いつか帰ってくると思っていたから、みんなで住める場所を用意しておこうって......アザリーの部屋だって用意してあったわ。あの子はそういうの、嫌 がったかもしれないけど......あなたが、誰か自分で選んだ女の子と暮らしたいと思っているんなら、もう一軒くらい離 れを建ててもいいし。実を言えばね、こんなことを聞いたら気でも狂 ったのかと思うかもしれないけど、わたし──わたしがその役でもいいな、と思ってた」
「そんなふうに媚 びるのは、ティッシらしくない──」
「『らしく』ってなによ!」
どんっ! と、誰も触 れていないのに壁 が大きな音を立てた──レティシャは昔から、興 奮 すると自意識抜きで魔術を発動することがある。もちろん、ごく弱い威 力 でだが。今も、彼女が無意識で放った衝 撃 波 が書斎の壁をたたいたのだ。部外者には秘密になっているが、実は、彼女のふたつ名──死の絶叫 も、このあたりが由 来 となっていた。
彼女は、激 昂 したように双 眸 を燃え上がらせ、こちらの胸 倉 をつかみ上げた。
「さっきも──誰もが理想とする『キリランシェロ』⁉ 人が気を遣 っておとなしく聞いていれば、気分の悪くなるようなこと言って! あなた、五年前にも言っていたわよね──名前には意味があると信じてるって! わたしもそう思うけど、あなたのとは違うわよ。名乗っているほうに意味があるんじゃないわ。呼んでいるほうによ。あなたがどんな名前を名乗ろうと、わたしの弟はあなたで、あなたはキリランシェロなのよ!」
信じられない握 力 でシャツを絞 りつつ、彼女は少しだけ、声を落とした。
「で──クリーオウ? あの子にとっては、あなたは見たまんまのあなたで、あなたはオーフェンなのよ」
「............」
オーフェンは、あっけにとられて、十五センチほどの距離しかない彼女の瞳をのぞいていた。思わず震 えてしまう声で、つぶやく。
「まるで説教してるみたいだぜ、ティッシ......」
「もち、お説教よ」
彼女はさらに、指に力を込めた。
「わたしだって、言いたいことは言わないとね──だいたい、この何日間か、わたしがどういう心境でいたと思ってるのよ! 五年間あなたからは音 沙 汰 ないし、二か月前、ハーティアの持ち帰った報告書にはアザリー死亡と明記されてて、あなたはあなたで同盟反逆罪適用寸前になってたのよ、知らなかったかもしれないけど! 失効させるのに、どれだけの手間がかかったと思ってるの⁉ それ以来チャイルドマンは行方 不明──《塔》は雰 囲 気 が怪 しくなっちゃって近寄るのも危険だし、二週間前にはキリランシェロと名乗る暗殺者が長老を殺しまくって! さっきの動機のとき、言わなかったけどね、わたしはその頃、アザリーの仇 討 ちにあなたがこの街に帰ってきたんだと思って疑わなかったわよ!」
と、レティシャは、なんの気なしに言ったのだろうが──
オーフェンはそれを聞いたとき、ふと、脳裏にひらめくものがあった。
が、それをよそに彼女は続ける。
「フォルテが、わたしに『キリランシェロ』の捕 縛 、もしくは抹 殺 の命令を持ってきたわ──わたしは引き受けたわよ。あなただと思ったんだもの。わたしなら凶 行 を止められると思ってた。できなければ、あなたを殺してわたしも死のうと思ってたわ。で、毎夜毎夜そんな決意で夜回りを続けて、いいかげん疲 労 の限界にきてたときに、昨日いきなり郊 外 のレンジャー詰め所から連 絡 があって──あなたを拘 束 してるっていうのよ⁉ わけが分からなかったけど、あわてて出向いて、そしたら五年前とまったく変わらない姿のあなたと、きちんと人並みに成長したあなたとが戦ってる──あなたを助けて家にもどれば、わけの分からない地人が猫を人質に取ってるわ、作ったばかりの花 壇 の縁 石 をパットが壊 しちゃってるわ、あなたには書斎にケチをつけられるわ、おまけに酒 臭 いですって⁉ いいかげんアルコールくらい飲むわよ、わたしだって!──きんきん喚 いてうるさいとでも思ってる⁉ 冗 談 じゃないわ、まだまだ言い足りないわよ!」
叫びながら、彼女はだんだんとこちらに顔を近づけてきている──手にこもる力も強くなっていく。オーフェンは咳 き込みそうになりながら、ただ硬 直 して、眼 差 しだけで、こくこくとうなずいていた。
彼女は、ぎゅっと唇 をとがらせて、続けた。彼女の背後で、ばんっ──と前 触 れもなく書類の山が弾 けるのが見える。
「それと──『らしくない』なら、あなただって人のことを言えた義理じゃないんじゃない? あんな『キリランシェロ』に、ごにょごにょ言い寄られたくらいで、なんだか思い悩んじゃって! 五年前に、あのチャイルドマンにさえ逆らって《塔》を飛び出したあなたが!」
それを聞いてオーフェンは、いきなり金 縛 りが解けた。
「見......見てたのか? 奴 がこの屋 敷 に来て俺に会ったのを──」
「ここはわたしの家よ! 侵 入 者 がいれば、気づくに決まってるじゃない!」
叫ぶ彼女に、オーフェンは、ふっと笑った。
「俺は、奴が姿を見せるまで気づかなかったよ......」
「だからなんだってのよ! 隠 れんぼの達人にでもなりたいってわけ⁉ 」
怒 鳴 られてオーフェンは、逃げようとして思わずほこりの積もった床に尻 餅 をついた。吹雪 のようにほこりが舞 い上がる中、こちらの胸倉をつかんでいるレティシャも、それに引っぱられるようにして、床にひざをつく。
オーフェンは弱々しく、
「でも、五年前だったら、俺は気づいていたはずだ──」
「あー、そう! 昔の名前で呼ばれたくはないけど、昔のようにチヤホヤされるだけの力は欲しいってわけね、違う⁉ 」
さっきから怒鳴りつけてくる彼女の口調に、オーフェンはずっとなにか引っ掛かっていた──この口調は、どこかで聞いたような気がしていた。
なんにしろ、彼女は続ける。
「なにか勘 違 いしてるんじゃない⁉ あの『キリランシェロ』に対して、自分が劣 ってるとでも思ってるんでしょう⁉ どこをどういうふうに劣ってると思うわけ? 殺し合いが下 手 だってこと? あの嫌 みったらしい喋 り方が真 似 できないってこと?」
「俺は──」
「ええ、あなたの言うとおりかもしれないわ──あれは確かにチャイルドマンが育て上げようとしていた『キリランシェロ』かもしれない。彼なら、怪 物 に変 貌 したアザリーを迅 速 にスタッブできたでしょうね──でも彼がチャイルドマンが育てようとした理想の『キリランシェロ』だとしたら、あなたは先生に逆らった理想のあなたよ」
と──少しずつ、レティシャの口調は、速度を落としてきていた。尻餅をついた上にのしかかられるように、オーフェンは彼女を見上げている。ほこりの中に彼女の黒髪が、白い霧の中の黒い滝 のように、きらきらと流れ落ちているのが見えていた。
彼女の眼差しが、いつもと違う気がする──そういえば、アルコールが入っていると言っていた......
「あなたは五年間で変わったわ。たくさんのものを得たわね。時のせいで、引き換 えに力を失ったかもしれないけれど、ほかは全部残ってるわ。この街は消えてなくなったりはしない。わたしも、ここにいる。そう考えることはできないの?」
「俺......は......」
夢うつつのような心持ちになって、オーフェンは繰 り返した。言葉に力が入らない──射 竦 められて、身動きも取れない。
いつの間にかシャツの襟 を離 れたレティシャの手が、ひんやりとほおを撫 でるのを感じる。
「もちろん、全部わたしのひいき目なのかもしれないけどね......」
はっと気づいたときには、彼女の顔が必要以上に近づいてきている──
(ちょっと待──)
そう声をあげようとした刹 那 、
「お師 様 ああっ!」
どばんっ!
声がして、扉 が開くまでは四半秒といったところか。
だがそれまでにオーフェンは、とっさにそれまで尻をついていた場所から二メートルは跳 んでいた。未整理の書類の箱に頭から突っ込みながら、とりあえずなんとか起き上がろうともがく。
「て、てて、てめえ──マジク!」
上半身だけ起き上がらせて、オーフェンは書斎に飛び込んできた生徒に怒鳴りつけた。
「なに考えてやがる──いきなりっ!」
「あ、いや、その......」
開いた扉に手をかけたままで、金髪の少年は、困ったように口ごもった。
「そりゃノックを忘れたのは悪かったですけど、お師様、そんなに真っ赤になって怒らなくたっていいじゃないですか......」
「や、やかましい! 誰が赤くなってるってんだ!」
「誰って......」
「どうしたの? マジク君」
──涼 しげな声が、割り込んでくる。
見ると、書斎机に優 雅 に腰掛けて、にっこりと、レティシャがこちらを見つめていた。
(こーゆう事態には、女のほうが落ち着いてるみたいだな......)
内心冷や汗をかきつつ、オーフェンはこっそりと思った。
(ま、普 段 から外 面 を取り繕 うのに慣れてるせいだろうけど)
などと不 穏 なことも付け加える。と、マジクが、あわてるように腕を振りながら、まくしたてるのが耳に入った。
「ですから、緊 急 事態なんですよ。確かこの街、今は例の殺し屋とかがいて危険なんですよね? 夜なんか特に」
「......まあな」
オーフェンは動 悸 を無理やり抑 え込みながら、うなずいた。マジクが、あああ、とうめき声をあげて続ける。
「クリーオウの姿がないんです──どうも、外に出てっちゃったみたいなんですよ」
◆◇◆◇◆
「──というわけで、わたしも探すからね」
「どういうわけだかしらんが......」
「まあ、いーですけどね」
ドーチンは、黒い子ドラゴンを頭の上に乗せたクリーオウを見上げながら、そうつぶやいた。彼女はこちらを見下ろして、人差し指を立ててなにやら決然とした表情を見せている。
「どういうもこういうも、オーフェンがなんだか腑 抜 けちゃってんだもの。頼 れる相棒としては一 肌 脱 いであげたいじゃない」
と、彼女。借り物なのか、サイズの合わないTシャツをジーンズの上に出している。その上に、深紫の耐 刃 ジャケットを羽 織 っていた。いつもの剣は持っていないが──まあ、人目を恐 れず街 中 で帯剣するような常識外の人間は、ドーチンとしてはこの大陸で兄だけだと思いたい。
「武器も持たずに探 索 に加わろうとは、非常識なこった」
ボルカンが、きっぱりと言うのが聞こえる。
ちらとそちらを見て、クリーオウが反論した。
「だぁって、なくしちゃったんだもん、あの剣。お父様のコレクションの中じゃ、けっこう気に入ってたのに」
「なくした、とはな。戦士の魂 を......しょせんそのへんの自覚が、このマスマテュリアの闘 犬 と、でしゃばり小 娘 との違いというわけか」
「......刃 物 で斬 られるより痛い目があるのって知ってる?」
「あうううううっ!」
拳 でぐりぐりとボルカンのこめかみをえぐっているクリーオウに、ドーチンはぽつりと聞いた。
「でも、まじめな話、身を守る手段がないっていうのは危ないですよ」
「あんたたちにだってないじゃない」
「そーいや、そーですけど......でも別に、ぼくらを本気で殺そうとする人って、あんまりいないみたいですし」
「まあ......それはどっちかって言えば悪いことじゃないけど......」
半 眼 になってクリーオウは、ぽんとボルカンをほうり出した。彼女は、頭の上で目を閉じて前足を垂らしている子ドラゴンを指さして、
「レキがいるもの。たいてい大 丈 夫 よ。オーフェンだって、この子が来てからはわたしを起こさずにどっかに出掛けたりとかしなくなったもの」
「虎 の威 を借る──」
こっそりとつぶやいたボルカンを、クリーオウが踏 み付けて黙 らせる。
ドーチンはため息をついて、あたりを見回した。夜の街──
夜空が夜空なりの明かりを地表に落とす──青くにじみだすような闇 に、白い光を。星、月、それらの明かりを吸い込む雲が風に流れる。タフレムの整然とした街並みには、まばらながら、まだ人通りは絶えていない。
多分、違うストリートからだろうが、トン、トン──という単調な太 鼓 の音と、それに唱 和 するような読 経 の声とがかすかに聞こえてくる......
と、それに気づいたのか、クリーオウがふと顔を上げた。
「なに? この音」
ドーチンは、眼鏡 の下あたりのほおをかきながら答えた。
「アウダトレス・テンポリス・アクティだと思います」
「アウダト──え? なに?」
ぱちくりと、クリーオウ。聞き返しながらも、踏 み付けにしているボルカンの背中からは足をどけない。ドーチンは両手を広げて、
「ドラゴン信 仰 のことです。ぼくらの言葉で、厳密には、違うんですけど......」
それを聞いて、クリーオウは仰 天 したようだった。警 戒 するように、音が聞こえてくるほうに向き直りながら、
「って、ドラゴン信仰が、なんでこの街にあるの⁉ よりによって」
まあ、ドラゴン信仰者と呼ばれる者たちが魔術士と対立していることは、この少女だって知っていることだし、彼女の驚きももっともだと言えるかもしれない。が、この街は少し特別なのだった。
「この街には、天人──ウィールド・ドラゴン=ノルニルの建造物があるじゃないですか」
ドーチンは簡単に説明した。
「世界図塔──それを偶 像 に奉 っているんですよ。なにしろ、大陸に残っているものとしては唯 一 、ノルニルたちが人間のためだけに造ったものですから......それに、黒魔術士たちは度量が広いですからね。市法では信教の自由は認められているんです。崇 めているものがドラゴンだろうと魔王スウェーデンボリーだろうと、はたまた運命の三女神 だとしても、別に気にしないんですよ。だから、この街にだってキムラック教会はあるんですよ」
「へえ......」
気の抜けたような顔で、彼女。と、足の下のボルカンが勝ち誇 ったように声をあげる。
「ふん......無知な小娘がぽかんと開ける大口ときたら、笑って見ずにはおれんな」
「どーせあんただって知らなかったんでしょーがっ!」
「だあああっ! そのぐりぐりは、やめっちゅーにっ!」
いつものことなので気にせずにドーチンがぼんやり見ていると、半泣きになっている兄の上で、クリーオウが唐 突 に目を輝かせてこちらを向いた。
いきなり、言い出す。
「ねえ、見にいってみない?」
「は?」
ドーチンは、すっとんきょうな声をあげて聞き返した。
クリーオウは、こちらの同意を得る前に、既 に兄のことはほうって歩きだしている。
「だからさ、そのアウダなんとかを。おもしろそうじゃない」
「あ、あのー......」
ぱたぱたと彼女に追いつきながら、ドーチンは言った。彼女の耐 刃 ジャケットの裾 をつかんで、
「そ、そりゃ、別に見にいったところで危険だとは言いませんけど、でも儀 式 中の信仰者っていうのは神経質になってますし......」
「なによー。気になるものは見ておかないと、後で後 悔 するのよ」
「あなたの場合──とは言いませんけど──余計なことして後悔することのほうが多いんじゃ......」
「ほうっておけ、ドーチン!」
ばっ──とおおげさな音を立てて、道路に転がっていたボルカンが立ち上がる。ボルカンは毛皮のマントをひらめかせ、芝 居 がかったオーバーアクションで、続けた。
「注意力に加えて集中力も散 漫 な、気まぐれチンクシャ小娘にかかずらっておる場合ではないぞっ! 俺たちには、不用意にも最大の天敵である俺を信用し、土 下 座 して俺らにものを頼 んだ甘 ちゃん金貸し魔術士に、偽 の情報をリークして罠 をしかけた場所に誘 いだし、一気に決着をつけて笑ってやろーという重大な目 論 みがあるのだからなっ!」
「って、それをわたしに言っちゃってどーすんのよ......」
ぽつりと、クリーオウ。
沈 黙 。ボルカンは、しばし考え込むように指をくわえてから、
「あ」
いきなり思い出したように、声をあげた。
「そーいえば、いつもいっしょになって奴 の足を引っぱってたもんだから、小娘が奴の味方だとゆーことを完全に忘れていたぞ」
「い、いまいち反論できないけど......」
クリーオウは、うろたえたようだった。
「で──でも、あんたねー、まぁたそういう無 駄 な計画なんて立ててたわけ? たまには回り道なしに役に立ってみなさいよ!」
「ふっ。小娘が今さら自分になにやら言い聞かせておるぞ、ドーチン──」
「あんたに言ってるのよっ!」
髪の毛を逆立たせて、クリーオウが叫ぶ。兄は懲 りた様子もなく、ほっほっと笑った。
「愚 かなゴメス猿 めが! このマスマテュリアの闘犬ボルカノ・ボルカン様が、金貸し魔術士ごときの機 嫌 取 りなどすると思っているのか!」
「............ゴメス猿......?」
「つまり、子メス猿と言いたかったのだが......」
とうとう取っ組み合いを始めたふたりを遠目に眺めて、ドーチンは額を押さえてまた嘆 息 した。
(こんなこっちゃ、探 索 どころじゃないよなあ......ま、最初から、街の中のたったひとりの人間を捜 し当てるなんてこと自体が無茶なんだけどさ......)
と。
トン、トン、トン──太 鼓 の音が、不意に近づいてくるのに、ドーチンは気づいた。見ると、通りの向こうから、葬 列 のような集団がこちらに進んできている。
街道を集団で進む人 影 というのは、不 気 味 なものだ──それも特に、夜となれば。通行人も、少し遠巻きに避けている。列の人間はすべて、白い頭 巾 のようなものを目 深 にかぶっている。これは、このタフレム市のドラゴン信 仰 者 の特 徴 で、つまり顔を隠 して参加することができるというわけだ。
列の先頭にいるひとりが、太鼓をたたいている。木づちほどの大きさの、玩 具 屋ででも売っていそうな簡単なものだ。その音に合わせて唱 えているのは、他愛 もない祈 りの言葉であったり、また全然意味のないうなり声であったり、とにかくひとりひとりでバラバラになっている。そのため聞き取ることができず、これを音声 魔術士に対する呪 いの意味があるのだと解釈する者もいるが、それは違うだろうというのが、ドーチンの考えだ──つまり、意味などないのだ。バラバラの人間がバラバラに集まってくるから、バラバラになるだけ。
弾圧下の信教というのは、そういうものだ──たとえ法によって存続する権利を得ていたとしても、だからといって無言の弾圧(場合によっては有言のものも含め)がないわけではない。もっとも、まだこのドラゴン信仰などはキムラック教会にも匹 敵 するほど古来のものであるからマシなほうで、これが新 興 のものとなれば、それに対する弾圧というのは辛 辣 を極める。『監視』と称 してプライバシーを侵 そうと、誰も文句など言わないくらいだ。
まあ──その弾圧というのも、必ずしも言われなきものではなかったりするのだから、世の中というのはなんであれすべて一 概 に言えるものではない。
(あれ......?)
ドーチンが妙 なことに気づいたのは、列がかなり近づいてきたころのことだった。
(ここは世界図塔からは全然離れてるのに、なんでこんなところを歩いてるんだろう、この人たち......)
──と、背後ではそろそろ決着がついたところだった。
「少しは思い知った⁉ 」
クリーオウが言いながら、すっくと立ち上がる。路上でぼろぼろになって寝ているボルカンに人差し指を突き付け、
「タヌキに猿なんて言われたんじゃ、たまんないわよ!」
「そーゆう問題なんですか......?」
背後から、ドーチンがつぶやくと、クリーオウはぱっと振り向いた。
「重要よ。いわれなき中傷に対しては断固戦わなければならないわ。わたし、オーフェンに乱暴癖 直せって言われたときには、ちょっと真剣に怒ったもの」
「タバコをやめらんない人たちがサークルを作って、お互いに煙 害 を訴 えあって禁煙するっていう療 法 があるらしいですけど......」
「なにが言いたいのよ」
「いえ別に......」
ドーチンは目をそらして、それが自然、近くを通り過ぎようとしている行列へと定まった。白い頭 巾 の行列は、依 然 うなり声の唱 和 を続けながら進んでいく。大陸の正統なる支配者、ドラゴン種族への祈りを唱えて──
(............?)
と、ドーチンは、ふと目をぱちくりさせた。行列の先頭、太 鼓 をたたいていた人影が、ふとその手を止めたのだ。
列の唱和は、別に消えない。ただ太鼓の音だけが止まり、先頭にいる人間は、自分の後ろの人間に太鼓を手渡した。
そしてそのまま頭巾を取る。
「あっ──!」
クリーオウが、短く悲鳴じみた声をあげるのが聞こえた。頭巾の下から現れたのは、黒髪、黒目、特にどうということのない、少年の顔──
少年がなにかをつぶやいた。それだけは、唇の動きで見えた。が、声そのものは、列の唱和に混じって、なにも聞き取れない。
そして少年の姿が消えた。
(えっ......?)
反射的に、なんとなく背後へと向き直る──クリーオウが悲鳴をあげるのが、ほぼ同時のことだ。少女が金髪の頭を押さえて、路面にしゃがみこむのが見えた。か細い、締 め上げられるような声で、クリーオウが叫ぶ。
「──────レキが!」
彼女の悲鳴の意味は、ドーチンには分からなかった。レキ──あの子ドラゴンなら、ちゃんとクリーオウの頭の上にいる。ただ、そのクリーオウのすぐ前に、姿を消した少年が静かに立っていた......
彼は、動けないでいるらしいクリーオウの頭の上から、ひょいとレキの身体を取りあげた。ぶらん、と力なくぶらさがっているレキの背中には、一本の針が突き立っている。針とはいっても自転車のスポークほどもある長いもので、どうやらその針は、子ドラゴンの背中から腹へと貫 通 しているらしかった。
少年は、動かないドラゴンを抱 えると、また白い頭 巾 をかぶりなおした。
「まずは、一番危険な手 駒 からつぶす──悪く思わないでよね」
そんなことをつぶやいて、また行列にもどる。

「あ............」
クリーオウが、震 える肩を自分で抱 き抱 えて、ふらりと立ち上がった。蒼 白 になった顔で唇を噛 むと、
「待──待ちなさい! レキをどうするつもり⁉ 」
だっ──と、もう何メートルか進んだ行列の少年へと、駆 け出していく。少年は振り返りもせずに、ふいっと列から離れると、子ドラゴンを抱いたまま素早く手近な路 地 へと入り込んでいった。クリーオウも、それを追いかけて、路地の中へ消える。
「な──なにが起こったんだ?」
ドーチンは、ぼんやりとうめいた。行列は、なにごともなかったように進んでいく。なにごともなかったように夜空は冴 えて、タムレム市の街並みにもなにごとも起きない。
だが──なにかが始まったのだ。
クリーオウはそれを追いかけていった。とりあえず、自分のすることは──
ドーチンは、やや遅 まきに判断すると、くるりときびすを返し、走りだした──と、道路に寝転んだままの兄の身体につまずいて、足を止める。
「な──なにやってのさ、兄さん!」
「いや、単にあの小娘にかけられたアバランシュホールドのダメージで身動きがとれんだけだが......」
「ああ、もうっ!」
ドーチンはやけくそになって叫ぶと、兄の身体を頭の上にかつぎ上げた。そのまま、全速力で走りだす。
「......いやドーチン、そんなに急いで医者に診 てもらわんでも、兄の容 体 はそんなに悪くはないぞ」
「誰もそんなこと考えてないよっ!」
ドーチンはきっぱりと吐 き捨てた。多少不満そうに、ボルカンが上からつぶやく。
「......なら、どこに急いでいるんだ?」
「なんのためにぼくらが夜回りなんてしてたと思ってるんだよっ! 決まってるじゃないか──さっきのが殺し屋だったんだ。魔術師に報告しないと!」
ドーチンの背後で、さっき太鼓を押し付けられた人間のものだろう、単調な太鼓の音が、また夜の街に響きはじめていた。
じっと彼を見ていた。じっと、後ろから。
オーフェンは無言だった──こちらに気づいてないとは思えないが、だとしたらかたくなにこちらを無視していることになる。レティシャに、とりあえずということで借りた部屋の中で、ベッドに腰掛けてブーツの調子を見ている。履 きかけているブーツのつま先を見つめて──というよりも、その数センチ手前の空間を凝 視 するように、彼は視線を固定していた。
「ひとりで行くんですか?」
部屋の入り口からオーフェンに、マジクは聞いた。オーフェンはたいした反応は見せなかったが、ちらり、と横目でこちらを見やり、
「ああ」
とうなずいた。
「ティッシには、この屋 敷 を守っていてもらう。少なくとも、お前らは安全にしといてもらわねえとな」
マジクは、なんとか表情は変えないようにと思いながら、
「相手は、あの殺し屋なんでしょう?」
「暗殺者 」
オーフェンは顔を上げて訂 正 してきた。ゆっくりと言い直す。
「スタッバーだ。《塔》で訓練を受けた黒魔術士による暗殺技能者は、特に〝暗殺者 〟と呼ばれる。殺し屋とも、麻 薬 を常用するアサッシンとも違う──純 粋 に暗殺のために訓練された人材、つまり暗殺者だ」
「......そんな奴 と、お師 様 ひとりで戦えるんですか?」
「福ダヌキどもの話は聞いたろう──あのクリーオウの馬 鹿 、見境なしにあっさり敵の術中はまってやがる。見捨てろってのか?」
マジクは一瞬、不安に表情を引きつらせた──
「前にお師様がそんなようなことを言ったときのこと、覚えてますよ......あのキンクホールの亡 霊 屋敷で、クリーオウが殺されたと思ったとき!」
と、息を止める──オーフェンは、じっと無表情でこちらを見ている。
マジクは続けた。
「お師様は......クリーオウが、今度こそ死んだって思ってるんですか?」
「いや」
オーフェンは、あっさりとかぶりを振 った。
「そうは思わねえな。奴 の狙 いは《塔》の長老たちだけだ──そんな気がする」
「で、でも──あいつは今朝、ぼくらをスタ──ええと──〝スタッブ〟するって......そう言ってたじゃないですか......」
「ああ。言ってたな」
「じゃあ──」
「マジク」
オーフェンが、きっぱりとした声を出す──
「クリーオウは死なない。我がままで底抜けの馬鹿だが、そう簡単に死ぬほどの馬鹿じゃないさ。それに──」
言いながら、彼はベッドから立ち上がった。
「あの『キリランシェロ』が、ほかになにを言ったか覚えてるか? 俺は 、俺でなくちゃならない んだとよ──そのためにクリーオウやお前をスタッブしたからって、俺が奴の思いどおりになるとは、奴も思っちゃいないだろ。俺を誘 い出すための方 便 だよ。方便じゃ、暗殺者 は人を殺さない」
「お師様......」
マジクは、噛 み締 めるようにゆっくりと聞いた。
「キリランシェロっていうのは、誰 なんです──いや、なんなんですか? つまり、昔のお師様が、キリランシェロって呼ばれていたってことですか? それがなんで今さら──」
オーフェンは答えてこなかった。いや、少なくとも即 答 はせずに、こちらを見ている。答えられないわけではないのだろう──師の表情を見れば、なんとなく分かった。
だが、答えてはくれないだろう。
後ろ暗いような気分でそう考えていると、オーフェンは、さっとこちらに歩いてきた。
こちらに近づいてくるのではなく、横を通りすぎて、部屋を出ていく。
足音が静かに、そして正確な間 隔 で廊 下 の床に響き、遠ざかっていく。
振り返ってその背を追い、マジクは叫ぶような声をあげた。
「なにもできない上に、なにも知らないんじゃ、ぼくは本当に足手まといのままじゃないですか!」
ぴたり──と、オーフェンが足を止める。
だがマジクは見ていなかった。師の後ろ姿からは目をそらし、彼は続けた。
「なんでなにも話してくれないんです? ぼくが信用できないんですか⁉ 」
言ってから、沈 黙 する。言いたいことをすべて言ってしまったわけではないが、後が続かなかった。
顔を上げると、オーフェンが肩越しにこちらを見ていた。
「お前がさっき言ったとおり『今さら』だよ。なにもかも今さらのことだ......」
彼は無表情だった。ただこちらを見 据 えている。いつも、どこか皮肉げに吊 り上がっていた双 眸 に、今はなにやら厳 しいものが浮かんでいた。
「奴は今さら現れた。ティッシは今さら愚 痴 ってる。俺は今さら、この街に帰ってきた。俺は今さら、迷ってる......」
「......迷ってる?」
マジクは怪 訝 に聞き返した。オーフェンはうなずいて、
「いきなり現れた奴が本物なのか、それとも俺が本物なのか......でも多分、奴のほうだろうな、本物の『キリランシェロ』は」
「お師様......?」
「俺は偽 物 だから、オーフェンさ。トトタンタでモグリの金貸しをやって、借金を返さないくそダヌキどもを追いかけ回している、落ちこぼれの黒魔術士だ」
「.........」
「大 丈 夫だよ」
と言ってオーフェンは、にやりと笑ってみせた──それはマジクがいつも知っている、師の顔だった。
その表情で、オーフェンが続ける。
「クリーオウは連れもどす。それで、お前らが知らない俺のことも、すべて決着をつけちまうさ」
そしてオーフェンが廊下から消えて、屋敷を出ていった後も、マジクはその場でずっと立ち尽 くしていた。やがてしばらくして、廊下の別の方向から、入れ違いのように人の気 配 が漂 ってくる。
同時に足音。振り向くと、現れたのは、痩 せた黒髪の少年だった。自分とは、多分同 い年くらいだろうと思う──確か、レティシャの弟 子 の......
(ティフィス、とかいってたっけ......)
マジクはかろうじて思い出していた。自分も前に女と間違えられたことがあったが、ティフィスというその少年は、それ以上に極端に女顔だった。どういったつもりか知らないが、彼はいきなり現れると、値 踏 みするようにこちらを見て、
「......マジク君、だったっけ」
こちらが思ったのと、似たような感じで向こうも名前を思い出したらしい。マジクは、うん、とうなずいた。
「そうだけど...」
「君は、いっしょに行かないの? その──キリランシェロさんと」
マジクは、ぴくり、と眉 を動かし、仰 天 して声を出した。
「君は......お師様のことを知ってるのか⁉ 」
だが、ティフィスはマジクが衝 撃 を受けることを予測していたように、軽く吐 息 しただけだった。
「やっぱり......なんか雰 囲 気 がヘンだなとは思ってたけど、知らなかったんだね」
「なんで──」
「だとしたら奇 妙 なことだよ。大陸では誰もが知ってる〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟キリランシェロの生徒が、当の先生のことを知らないっていうんだから」
「なにが言いたいんだ!」
マジクは我知らず、声をあららげていた──ティフィスは別に、動じる様子もなく、そのままの様子で続けてくる。
「彼の伝説を聞かせてあげるよ。それを聞いて、その後は君自身が判断すればいい──それが君のためだし、公平なことだと思うんだ」
マジクは吸い込まれるように、彼を見返していた......
◆◇◆◇◆
(こんな見張りに意味があるのかしら......?)
レティシャはうんざりと、そう思っていた。そしてそう思ってしまう自分に、さらにうんざりしていた──
(見張りは必要だわ。たとえ、やろうと思えばいくらでもわたしの裏をかけるような奴 が敵だったとしてもね......)
そう思い直す。そして、彼女は自分の屋 敷 の廊 下 をぐるりと見回した──清 掃 員 に頼 んで掃 除 してもらっている廊下には、塵 ひとつ落ちていない。調度にはさほど金はかけていないが、気は遣 っている。廊下には不必要な家具を置くと、やたら目立つので基本的にはなにも置かないことにしていた。プランターを置くときも、日の当たらないところには置かないようにしている。後者は趣 味 の問題だが、日 陰 の植物というのはやたらみじめに見えるものだと、彼女は思っていた。
(わたしみたいにね)
じくじくと、蛆 でもわくような感 触 がする独 り言 を、レティシャはかぶりを振って追い払った。日陰の植物がみじめなら、夜はすべてがみじめになるのかしら──夜空に向かって諸 手 を広げる木は、確かに不気味だけど──
(まだお酒が残ってるみたいね......酔 いやすいのに飲むもんじゃないわ)
彼女は嘆 息 して、再び廊下を歩きだした。
と──
半開きになっている扉 に気づいて、足を止める。
中から聞こえてくる話し声は、ティフィスと、キリランシェロ──いやオーフェンか──別にどちらでもいい、とにかく彼の生徒のマジクとかいう少年のものだ。
(いつの間に仲良くなったのかしら......)
レティシャは別に気にせずに考えながら、そこを通り過ぎようとした。が──
ふと足が止まる。
立ち止まった彼女の耳に入ったのは、ティフィスの、邪 気 のない説明だった。
「五年前、キリランシェロはひとり殺したんだ」
「いや正確には、殺しかけたんだ。《塔》の魔術士をね」
扉の隙 間 から漏 れ出てくる生徒の言葉を、レティシャは凍 りついたように聞き入っていた。それは確か、二、三年前にアルバムの写真のことを聞かれて、彼女が生徒に話したことだった──が、今はむしろ、彼女のほうこそ初めて聞かされているように、レティシャは衝 撃 を受けていた。
「お師様が......?」
マジクの返事は、むしろあまり気乗りしていないふうだったが。
「お師様が誰かを半殺しにするなんて、別にそんな珍 しくないじゃないか」
「............」
会話が、少し中断する。
しばししてティフィスが、咳 払 いしてから言い直すのが聞こえた。
「さ、最初から話したほうがいいみたいだね──キリランシェロっていうのは、ぼくらの一世代 前を代表する黒魔術士だ。《牙の塔》で主席を取ったのみならず、《十三使徒》にまで抜 擢 されそうになった」
「そんなようなことは聞いていたけれど......嘘 っぽいから気にしてなかったんだ」
「嘘? 現実だよ。もし本当に《十三使徒》に入っていたなら、史上最年少の宮廷魔術士として名前が残っただろうと思うよ」
(ええ、そうよ──)
が、レティシャは胸中でかぶりを振った。
(でもそんなことはあり得なかった......)
「でもそんなことはあり得なかったんだ」
彼女が前に話したとおりに、ティフィスは繰 り返しているらしい。彼女の胸中のつぶやきをなぞるように、ティフィスの声は続く。
「《牙の塔》の実情からしたらね、キリランシェロが《十三使徒》に入るなんて、とんでもなかったのさ」
「なんで? ぼくはよく知らないけど《牙の塔》って、宮廷魔術士を何人も輩 出 しているんだろ?」
何人も、ではない。決してない。
「何人も、じゃないよ──何百人もさ」
ティフィスは、くすと笑った。
「こっからは、馬鹿な話でね。つまり《塔》は、宮廷に対してあまりにも多くの魔術士を放出しすぎたのさ。優秀な魔術士が毎年何人も宮廷に吸い上げられていくから《十三使徒》の力は増す一方──逆に《塔》は衰 退 するばかりなんだよ。決定的だったのは、ずいぶん昔のことになるけど......《十三使徒》にプルートーなんて化け物が現れたことさ。彼のことは知ってるだろ? 宮廷魔術士たちの長、王都の魔人プルートーだよ」
「ぼくは知らないけど......」
「......まあいいや。とにかく彼の出現は《塔》の長老たちにとってもショックだったんだ」
「そのプルートーっていうのも《塔》の出身者なのかな」
そのマジクの質問は、かつてティフィスがしたものとまったく同じだったが──それを覚えていたのか、ティフィスが、少し優越感を含んだ声で笑う。
「違うよ。最大の問題はそこなんだ。プルートーは宮廷で育てられたんだ。《十三使徒》となったかつての《塔》出身者が、自分たちでひとりの黒魔術士を教育したんだよ。それが、持って生まれた才能とあいまって、とてつもなく強力な黒魔術士を生み出してしまった。あわてたのが《塔》の長老たち──分かるよね? へたをすると《塔》の存在意義がなくなってしまうところだったんだから」
かつて、自分が話したときは、長老を馬鹿にした口調で言ったものだった──レティシャははっきりと覚えていた。だが今は《塔》の権 威 が失 墜 することに対する長老たちの恐 怖 感 の大きさは、彼女にも理解できていた。自分の存在意義がなくなってしまうということ──
その恐怖なら分かる。アザリーとキリランシェロという家族を失った彼女は、ただひとり屋敷に閉じこもるだけの、誰にとってもほとんど意義のない存在になっていた。それに気づいたのは最近だったが。
そんなこちらの気など知らず、ティフィスは軽く続けている。
「で、長老たちがなにをしたか──増大する《十三使徒》に対 抗 するために、ひとりの黒魔術士を持ち上げたのさ。どこから現れたのか知らないけど......なぜかプルートーと互 角 か、あるいはそれ以上の能力を持っていた。チャイルドマンと名乗る暗殺者。それを《塔》にスカウトしたんだ。そして《塔》の才能ある子供を弟 子 に取らせて、叶 うならば師と同等の魔術士を量産しようとした──」
「そのひとりが、お師様......?」
「そのとおり。その教室は、チャイルドマン教室と呼ばれたんだ。ただ、長老たちの誤 算 は、チャイルドマンという人間の力を見 誤 っていたことにある」
ティフィスは絶好調のようだった。ぺらぺらと続けている。レティシャはただじっと聞きながら、ひとりで拳 を握 っていた。
「つまり?」
「チャイルドマン教師は優秀すぎたんだ。生徒たちの誰ひとりとして、師に追いつくことはできなかったんだよ。で、せめてそれならってことで、生徒たちはひとつずつ別の技能を修得することになったのさ。すべてをひとりで受け継 ぐことなんて不可能だったからね──チャイルドマン教室の生徒は全部で七人いたから、七種類ってことになる。たとえば最年長のフォルテ・パッキンガム教室長は、チャイルドマン・ネットワークと呼ばれる特殊な情報網 の管理を受け継いだんだ。その補 佐 の役割を受け持っていたのが、ハーティアって人──もう死んじゃったけどコミクロンって人は医 療 技術を専門にしていたらしい。そんな感じでほかにも〝ナイトノッカー〟コルゴンと、天魔の魔女と呼ばれ教室内では最強の魔力を持っていたといわれるアザリー、それにぼくの先生のレティシャ・マクレディ、そして〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟キリランシェロがいた」
「後継者 ?」
「そう......〝鋼 の後継〟キリランシェロ──そのふたつ名の通り、彼はチャイルドマンのすべての戦闘技術と暗殺術を受け継いだんだ。長老たちが、まさか《十三使徒》に渡すわけにいかないって考えるのは当然だろう?」
「......まあ、そうだろうね......」
もうそろそろやめさせるべきだ──キリランシェロのことを思うなら。が、レティシャはそうした理性の訴 えに、なぜか身体を動かせずにいた。
「ここからはぼくの推測も混じるけど──事実に関しては長老たちが秘 匿 しているからね。キリランシェロは《十三使徒》に行きたかったんだと思う。でも、長老たちはそれに反対していた。《十三使徒》の審 問 を受けるために王都に出向いていたキリランシェロに使いを出すんだけど、彼はそれを半殺しにしてしまったんだ。それが明るみに出て、審問は取り消し──キリランシェロは《塔》にもどってきた」
ティフィスが肩をすくめるのが気配で知れた。
「キリランシェロはその後、どういった理由でか五年前に《塔》を飛び出してしまうんだけど......ぼくは、そのことが原因で長老と疎 遠 になったんじゃないかって思ってる。先生は、なんか言葉を濁 してたけどね。五年経 ってこの街に帰ってきたみたいだけど、でも正直、帰参は難しいと思うよ。《塔》の長老は、権 威 とかそういうことにうるさい分、経歴についてはこだわるんだ──ひとつでも汚 点 があれば、それを絶対に消せないのが《塔》ってところだよ」
「............」
「五年間の空白は、多分消せないよ。ぼくが言いたいのはさ、このまま君が、あの人の生徒でいても、あまり将来は明るくないんじゃないかってことなんだ──それに結局、チャイルドマン教師の戦闘技術を専門に修得した、なんて言えば聞こえはいいけど、裏を返せばそれ以外の有益なことはなにひとつ習ってないってことになるから──」
いきなり、がたん、と椅 子 を蹴って立ち上がる音──マジクだろう、多分。
「お師様は──そういう......のじゃ、ない!」
「そりゃ、人間的なことがどうだって言ってるわけじゃないよ。ぼくは」
ティフィスが、あわてて言い直す。
「ただ、魔術による暗殺なんて、もうじき必要なくなってしまうんだよ。現在《塔》で開発されている、もっとずっと強力な──」
──もう限界だ──
「ティフィス!」
レティシャは、自分でも驚くほどの大声で生徒の名前を呼んだ──同時、部屋の中から、がたんとなにかが倒れる音が聞こえてくる。あわてたティフィスが転んだのだろうが......
それよりも、少し遅 れて、扉はいきなり内側から開かれた。中から、切 羽 詰 まった形 相 で、金髪の少年──マジクが飛び出してくる。
「............!」
瞬間──文字どおり、ほんの一瞬の間──その少年と目があった。グリーンの瞳 に射 竦 められて、レティシャは言葉を失った。
マジクのほうも、驚いたらしく──口の中で素早く、なにかをもごもごとつぶやくのが聞こえた。あまりはっきりしなかったので、それが呪 文 なのではないかと思ったほどだったが、明らかにそれは違った。
質問だった。
「あの地 人 たちは、どこにいるんですか?」
その質問の意味するところは、ひとつだった。が、レティシャは聞いた。
「......そんなことを聞いて、どうするつもり?」
「お師様がどこに行ったか、聞くんですよ! 決まってるでしょう!」
レティシャは、すっと目を細めた。
「あなたが行っても、彼の足手まといになるだけよ」
「だからなんなんですか! ぼくが行かなければお師様が無事だってわけじゃないでしょう⁉ そもそもあの暗殺者に、お師様は勝てるんですか?」
マジクの瞳に見つめられ、後ろ暗い気分でうめく。
「勝てるわけがないわ......キリランシェロに勝てるのは、この大陸でひとり、チャイルドマン教師くらいよ......」
「お師様は、今までだって、勝てるわけのない相手と戦ったりしましたけどね──ディープ・ドラゴンとか、天人の遺した殺人人形とか! でも」
と、少年は唇 の端を噛 んだ。
「ひとりで戦ったりはしなかったんだ」
「............」
言葉を失って、じっと見ていると、マジクは、ゆっくりとした口調で決然と続けた。
「ぼくは行きますよ。教えてくれないんなら、とにかく探します──」
と、背を向ける。去りながら、
「それと、お師様のこと、化け物みたいに言うのやめてあげてくださいよ。あなたはお師様の家族みたいなもので、味方なんでしょう?」
「彼は──」
そこでせりふが途 切 れる。
(なにを言おうとしたのかしら......)
彼女は思わず自問した。彼は確かに化け物だったとでも? でも今は多分違うと? そして......たとえ彼が望んだとしても、彼がもとにもどることはないのだと? 過去は復帰しないのだ......
(伝説がある......三人の女神の神話。過去 と、現在 と未来 の、運命の三女神 。三者は同じ女神なのに、互いが出会うことは決してない......過去は現在と未来の存在を知らないし、未来は断絶されている。現在だけが、過去を知り、未来を信じているけれど、なにもできずに檻 の中に閉じ込められている──キムラック教徒の教義ね。まるで意味は分からないけれど......)
だが、どれもこれも、どうでもよいことだ。
だからレティシャは髪をかきあげながら、代わりに小さくつぶやいた。
「彼は、チャイルドマンの屋 敷 に行ったんだと思うわ」
それを聞いて、マジクはくるりとこちらへ振り向いた──そして、ぺこりと一礼してから、たっと駆 け出していく。
やがて、少年の背中が見えなくなると、恐る恐るというように、部屋の中からティフィスが顔を出してきた。
「あ、あの、先生......」
バツが悪そうに、前髪で顔を隠している。レティシャはマジクを見送ったときから表情はまったく変えず、問答無用でつぶやいた。
「罰 として、あんた《塔》の定期報告を一か月代行しなさい」
「ゔ............」
退 屈 な上にめんどうな仕事を押し付けられて、ティフィスは心底後 悔 したようだったが──この際、そんなことはどうでもいい。
「そうね......」
レティシャは、思わず微 苦 笑 を漏 らしながら独 りごちた。
「ちょうど酔 いも覚 めたみたいだし──大事なことは子供たちにまかせっぱなしで、自分は家でため息ばかりついてるってのも、どうにもかっこがつかないわよね。チャイルドマン教室の〝死の絶叫〟としては」
「......へ............?」
扉にもたれて、不思議そうにティフィスがこちらを見上げている──
だがレティシャはかまわずに、満足げに決心していた。
◆◇◆◇◆
考えてみるとタフレム市をひとりで歩くのは初めてだった。
というか、考えてみるほどのものでもない──《塔》において、彼がひとりだったことはほとんどなかった。サクセサー・オブ・レザー・エッジ──キリランシェロが。
オーフェンは夜の街をひとり歩きながら、ゆっくりと思い出していた。
(わずか十五歳にして〝最強〟の二文字を冠した暗殺者 ──その唯 一 の欠点は、なんのことはない、人が殺せなかったということだ)
だが考えてみれば、教室内の誰にだって、欠点はあったのかもしれない。
というか、これも考えてみるまでもあるまい──誰にだって、欠点くらいはあるものだ。
フォルテは自制心に欠けている。チャイルドマン・ネットワークによってもたらされる膨 大 な情報量を捌 くには絶対に必要な、冷静さがない。うわべは落ち着いたふうを装 っていても、目の前にケーキが出されたときに我 慢 できない子供のようなものだ。
レティシャは、チャイルドマンに戦闘術を習っていた──キリランシェロが修得したものとは違う、暗殺術としてではなく、兵士としての生き延びるための戦闘術である。が、まさか彼女に戦場に出るような度 胸 があるとはチャイルドマンでさえ考えていなかったろう──少なくともオーフェンはだいぶ前から気づいていたし、事実そうだった。
彼とほぼ同い年だったということもあり、教室内では親友だったハーティア──彼だって、顕 示 欲 が強いところがある。決して〝補 佐 〟では収まらないような──
ほかの四人も同じだ。誰もが各 々 の世代の中では卓 越 した能力の持ち主でありながら、その師に追いつくことができなかったのは、そうした欠点があったからだろう。
チャイルドマン最強の秘密を、オーフェンは今では、なんとなく理解していた。
彼には欠点がなかったのだ。その技能を抑制するような弱さを、なにひとつ持っていなかった。彼はその才能を全開にしていた──
が、
(チャイルドマンはまるで......俺たちの欠点をそれぞれ最初から見抜いていて、わざとそれに相反するような技能を教えていったみたいだ......)
冷静さのない司令官、臆 病 な兵士、腹心たるまいとする補佐、殺せない暗殺者──
飛べない小鳥たち。オーフェンは、胸中でつぶやいた──《塔》のてっぺんにぶら下げられた、チャイルドマン教室という名前の巨大な鳥 籠 に閉じこもっている、飛べない小鳥たちの群れ──
『人と戦うときには、敵を超 えようなどとは思わないことだ──それでは自分よりも強い敵に出会ったときにひとたまりもない。それよりも、敵の弱点を見つけるのだよ』
チャイルドマンが数多く語った言葉の中から、ぽっかりと思い出す。
『弱点を見つけたら、後は実行を恐 れないことだ。それがなんであれ、たったひとつでも弱点があるのならば、打つ手は無限にある──』
(俺たちは──)
オーフェンは足を止め、苦々しく思いながら夜空を見上げた。
(あんたには永遠に敵 わないのかもしれねえな......多分、俺があんたの望んだとおりに育っていたら、あの『キリランシェロ』になっていたんだろう。欠点のない俺と戦わなければならない──俺が恐れているのは、その事実だ......まるで自分が欠 陥 品 だと客観的に証明されたみたいでね......)
タフレム市は静まり返っている。
夜の空は、とりあえず瞬 いて美しかった。雲ひとつなく、満天に星明かりが流れ、滝 が落ちるように連 なっている。月は下 弦 ──風は涼 やかに流れている。その下に街が、三度破 滅 した都市が静かにたたずんでいる。
そこは上級魔術士たちの多くが屋 敷 を構える、《塔》の別館、と呼ばれる界 隈 である──チャイルドマンの屋敷があるのも、このあたりだった。ドーチンから聞いた、クリーオウが姿を消した路 地 、『キリランシェロ』が去った路地も、ここにある。
(ティッシは、あの『キリランシェロ』を神 出 鬼 没 と言っていた──潜 伏 する場所も特定できないと。だが、考えてみれば、この街で『キリランシェロ』が身を隠せる場所といったら、ティッシの屋敷か、チャイルドマンの屋敷だけだ。俺以外の誰も知らないことだが、チャイルドマンが死んだということを、奴も知っているならば──)
そこを根 城 にするだろう。まさか、この街にはあえてチャイルドマンの屋敷を捜 索 したがる者などいないのだから──ティッシですら、近づこうとはしていなかったようだ。
遠くから、ドラゴン信 仰 者 の太 鼓 の音が聞こえてくる。
オーフェンはひとり拳 をかためて、つぶやいた。自分に言い聞かせるように。
「俺は欠陥品かもしれねえが、未完成品でもあるんだ。こいつは、あんたに対する挑戦だぜ──チャイルドマン」
そして彼は、また歩き出した。
チャイルドマンは、いつごろからチャイルドマン邸 に帰っていなかったのだろう──
オーフェンには確かなことは分からなかったが、少なくとも数か月はほったらかしになっていたはずである。チャイルドマンが死んだのが二か月ほど前、そうでなくとも五年前から、彼は大陸中を動き回っていたはずだから──
だがそれほど寂 れて見えないのは、庭に花 壇 のひとつもないせいか。
オーフェンは屋敷の正門の前に立ち、格 子 越 しに見える夜の庭を見回していた。塀 に囲まれただけの、なにもない庭である。庭木もなければ、門からポーチまでを結ぶ道すらない。ただのっぺりと砂の地面が広がっている。もともとが広い庭だが、なにもないという空 漠 とした雰 囲 気 が、それ自身をさらに虚 しく広げていた。
月明かりが、数条の光の線となって庭を浮かび上がらせている。オーフェンは、鉄 格 子 の門に手を触れて、つぶやいた。
「我 踏 み入れる──」
解 錠 のための呪 文 を唱 えかけて、ふとやめる。彼はにやと口の端を曲げると、門に触れていた右手をすっと引っ込めた。そのまま、右腕を大きく振りかぶり──
「我は放つ光の白 刃 !」
叫ぶと同時、それを振り下ろす!
瞬間、門を撫 で斬 るようにして光熱波が炸 裂 し、熱衝撃波が鋼 鉄 の門を押し倒した。空間に轟 く破裂音と地響きとが、あたりを揺るがせる。
「せっかくの対決だ──」
いきなりの衝撃音に、近所中が騒 ぎはじめるのが気配で分かった。だが、そんなことには構わず、オーフェンは破壊された門をまたぎ、邸内に踏み入れる。
「派 手 にやってやろうじゃねえか」
庭を真っすぐ通り抜けても、ポーチまで五十メートルほどはある。オーフェンは急ぎもせず、空漠とした庭をしっかりと踏み締 め、進んだ。
歩きながら、打算する。
(タフレムの市街警察が、爆発があったのがこの屋敷だと特定するのに五分......《塔》執行部に連絡をとって、上級魔術士の財産に対しての緊急捜索許可をとるのに、十五分てところか)
オーフェンはじっと油断なく、屋敷の玄関を見 据 えながら続けた。
(警官隊がここに駆 けつけるのが、それから五分後......突入準備をすませて、現場の隊長がこの屋敷に踏み込むことを決心するまで、また五分──つごう三十分ってところだな。三十分だけ生き延びれば、死なずにすむわけだ。頼 りない保険だが、俺は死にたがりじゃないんでね)
「どうせ、持ち主のいない屋敷なんだ──ぶっ壊 させてもらうぜっ!」
オーフェンは、玄関の手前で立ち止まると、また右腕を振り上げた。
「我は放つ光の白刃っ!」
かっ──!
再び光熱波が夜闇を引き裂き、屋敷の屋根に突 き刺 さると、あっさりとそれを吹き飛ばした。
次いで、
「我は駆 ける天の銀 嶺 !」
オーフェンが叫ぶと、自分を地面に拘 束 していた重力がほんの一瞬だけ解ける──その間にオーフェンは大地を蹴 って、ふわっと屋根まで跳 び乗った。これを長時間制御して、ある程度空中に浮かぶようなこともできるのだが、よほど注意していないと平 衡 を失って落下することがあるので、あまりやらない。
ともあれオーフェンは一瞬で、先刻自分が光熱波で開けた屋根の穴のところにまで到達していた。
もとより玄関から侵 入 するつもりはない──罠 がある危険性があった。ないかもしれなかったが、安全の可能性よりは、危険の可能性のほうをとりたい。
「さて──行くか」
オーフェンは、暗がりでよく見えない穴の中に飛び込んだ。
(なにもまともに奴とやり合う必要なんざねえんだ。とにかく攪 乱 してクリーオウを探し出す。時間をかせいで──)
すた、と床に降り立って──
待っていたのは、一言だった。
「......悪いけど、そんなに長い間付き合うつもりはないんだ」
「............⁉ 」
はっと、身構える。
顔を上げる。そこは屋根裏の物置らしかった。たいした荷物もなく、がらんとした部屋の中に、闇 に融 け込むような黒いローブを着た少年が立っている。
胸元には、銀のペンダント。何者にも敗 れない『力』を象 徴 するドラゴンの紋 章 ──
キリランシェロ。黒髪の少年は、薄 い笑 みを浮かべ、じっとこちらを見つめていた。
(偶 然 ......? いや違う......)
オーフェンは混乱しながら立ち上がった。
(俺がここに──屋根を破ってここ に侵 入 することを、読んでいた......のか?)
「そうだね。まあ、考えていることさえ分かれば、ここに転移するのは一瞬ですむからね......」
「貴様、俺の心を読んで......⁉ 」
「うん......そろそろぼくの正体も、分かってきたんじゃないかな、オーフェン──オリジナル・キリランシェロ!」
キリランシェロは短く叫ぶと、素早く──飛びかかってきた。
(戦うな!)
自分自身に命令して、オーフェンは右腕を振り上げた。
(まだ奴の弱点を見つけていない────)
そのまま、右手を自分の足元にたたきつけるようにして、叫ぶ。
「我は放つ光の白 刃 !」
膨 れ上がった光熱波が、足元の床を撃 ち抜く──轟 音 とともに、オーフェンは下の階にまで落下した。
壊れた床の残 骸 が降る中、オーフェンは下の階に降りると同時、後ろに跳 んだ。
それを追いかけるようにして、キリランシェロの声が聞こえてくる。
「我導くは死呼ぶ椋 鳥 ──」
ぶわっ──と、一瞬前までオーフェンが立っていた場所に、破壊的な威 力 を持った振 動 波 が収束する。百年物の絨 毯 に一瞬で大穴が開き、灰 燼 のような塵 に変 じて舞 い上がる。
降りた部屋は、どうやら寝室のようだった──ひとつひとつは最高級の価値を持つ家具が、飾 り気 もなく転がっているだけの寝室。ベッドはひとつ、壁に埋 め込まれた据 え付けのクロゼットと、水差しと本の置かれたテーブル以外にはなにもない。
オーフェンは自分が落ちてきた天 井 の穴を見上げると、両腕を突き出した。
「我は砕 く原始の静 寂 !」
最大威力で魔術を編 み上げ、放出する。
天井裏を中心に空間が歪 んで、踊 った──それに伴 い、狂 った空間で力 場 が破 裂 する。
大爆砕に、耳の奥が痛んだ。
(今の威力なら、屋根が半分消し飛んだはずだが──)
オーフェンは油断なく身構えながら、じっとあたりの気配をうかがった。
呼吸を整え、待つこと数秒──
「......なんだかふっ切れたみたいだね。彼女も喜ぶよ。だけど、まだ詰めが甘いかな」
声と同時、なにごともなかったかのように、すい、と天井の穴から少年は落下してきた。軽く降り立って、腕組みなどしてほほ笑みかけてくる。
(全っ然効 いてねえ......⁉ )
ぞっとしながらオーフェンは、半歩後 退 りした。
キリランシェロは、静かに笑みを絶やさぬまま──
「屋根裏じゃなくて、直接ぼくの身体を狙 って爆砕させれば、勝てたかもしれないのにね──でも多分、あなたにそれはできないんだろう」
「............」
「殺さなければ、ぼくは倒せないよ。それは分かっているはずだけど」
「俺は──」
オーフェンはそこまでつぶやいて、言葉を飲み込んだ。キリランシェロは平然と続ける。
「......ひとつだけ、これは教えておいてあげるよ。ぼくがあなたと戦わなければならない理由──」
「............」
沈 黙 して、オーフェンはキリランシェロを見 据 えた。相手はリラックスして、身構えすらせずに対 峙 している。
キリランシェロが、ふと笑みを消した。
「彼女が、望んでいる。彼女が言うには、あなたが必要なんだそうだ。もっとも、オーフェンではなくて、キリランシェロと呼ばれた暗殺者を、ということだけど。彼女は、ぼくがあなたと戦うことで、あなたが昔のあなたにもどると思っている」
「彼女......か」
オーフェンは苦々しくうめいた。キリランシェロが、うなずく。
「でもね、ぼくにはぼくで、あなたと戦う理由があるんだ」
少年は虫でも追い払うように、さっと右手を振った──同時に、せりふを呪 文 にしてのことか、なにもない手の中に肉厚の短剣が現れる。
それを無 造 作 に手にぶら下げて、彼は告げた。
「あなたは昔のあなたにもどってはいけない。きっと彼女を傷つけることになるから。彼女もそれは知っているのに、賭 けをしようとしているんだ──そんなことはさせない。彼女にはぼくがいるんだから、それで十分だ。あなたをスタッブするよ──!」
あくまでも声を抑 えて叫びながら、キリランシェロが、そして彼の手に握 られた短剣が飛びかかってくる──
「我は生む──」
オーフェンはジャケットの中に手を突っ込みながら唱えた。
「小さき精 霊 !」
呪文とともに、青白い鬼 火 が空に弾 けるように浮かび上がった。夜の闇 に沈んでいた寝室が、鬼火の明かりに照らされる。
光の中で、キリランシェロの短剣が閃 いた。そして──
オーフェンのナイフに弾きかえされた。
ジャケットの裏に縫 い付けておいた鞘 から引き抜かれたナイフを、オーフェンはぴたりとキリランシェロのいるほうへと向けた。
静かに聞く。
「俺が聞きたいのは、ひとつだけだ。クリーオウは無事なんだろうな」
「無事だよ。でもあなたには、助け出せない。あのディープ・ドラゴンもね」
「たいした自信じゃないか──俺はそこまで間抜けかね?」
「あなたを恐 れているから、ぼくはあなたをスタッブするんだよ!」
再び、キリランシェロが短剣を突き出してくる。
とりあえず後ろに跳 んでそれはかわし、オーフェンは横 薙 ぎにナイフを振った。二撃目を繰 り出そうとしていたキリランシェロをそれで牽 制 して、呪文を叫ぶ。
「我は放つ光の白刃!」
「我抱きとめるじゃじゃ馬の舞 !」
すっ──と膨 れ上がった魔術の構成が霧 散 する。オーフェンは構わずに、今度は前方に身体を投げ出すようにしてキリランシェロにタックルした。肩で押しやられ、少年の軽い身体は吹っ飛びかけたように思えたが──
ほんの数センチ後ろに飛びのいただけで、キリランシェロは体勢すら崩 さなかった。自分で後ろに跳んでいたのだ。
(────!)
オーフェンは反射的に唱えていた。
「我は踊 る天の楼 閣 !」
転移の魔術が発動し、視界が歪 んでブラックアウトする──
一瞬後、オーフェンはさっきより一メートルほど後方で実体化していた。が、
「──なに⁉ 」
キリランシェロは、完全に読んでいたようだった。ぴったりとついてきていて、実体化した瞬間を狙 ったように、短剣を閃 かせる。
ぎぃんっ!──
かろうじて受け止めた刃 から、火花が散った。
(まともに戦うな!)
再び、自分に言い聞かせる。
(たかだか暗殺者 ごとき に、命を賭 ける必要がどこにある──)
「言ってくれるね!」
キリランシェロが叫んだ。光の尾を引くように軌 跡 を描いて刃を旋 回 させ、こちらのこめかみを狙う──死角からの攻撃だが、オーフェンはぎりぎりかわした。だが体勢が崩れて、次に攻撃されたらもうかわせない──
頭を引っ込めたために中腰になっているこちらに、キリランシェロは、今度は縦 に短剣を振り下ろしてきた──横に跳ばなければ避 けられないが、そんな暇 はない。
ざぐっ──
という音がしたわけではないが、衝 撃 とともに、キリランシェロの短剣はこちらの肩に食い込んできていた。激 痛 と戦いながら、オーフェンは必死に暗殺者の右腕をつかんだ。
見上げるキリランシェロの顔に、恐 怖 ではないが、それに似たようななにかの感情が走るのが見える。
オーフェンは躊 躇 せず、ナイフの刃でキリランシェロの右手首をこすった。キリランシェロの手から短剣が落ち、腕の半 ばまで達する傷口から、あふれかえるように血が噴 き出す──
「このっ⁉ 」
キリランシェロは驚いたのか、こちらを突き飛ばした。ついでにみぞおちに激 烈 な蹴 りを食らって、オーフェンは吐 きそうに息をあららげたが、
「へっ──」
笑 みを浮かべ、痛む肩口を手で押さえながら、オーフェンはにやりとした。突き飛ばされ、尻 餅 をついていた床からすぐに立ち上がる。血のあふれる手首を見下ろしているキリランシェロに、彼は言った。
「ざまあねえな、油断するから──傷は魔術で癒 せるだろうが、失った血液までは補 充 できねえだろ。しばらく右手の握 力 は復活しねえぜ──」
「そうだね......」
キリランシェロは苦々しくうめいて、なにごとか唱えた──手首の傷が、あっさりとふさがる。
オーフェンは再び身構えて、まだ少ししびれる左肩を、ほこりでも払うみたいに右手ではたいた。
刃で一撃されたのに、出血はしていない。キリランシェロが苦笑する。
「シャツの下になにか着込んでいるね」
「ティッシのところに、いろいろと武器があったんで拝 借 したのさ。耐 刃 繊 維 の肌 着 なんて、よく持っててくれたよ」
耐刃服と防剣服には違いがある。防剣服は鎖 などを仕込んで防御力そのものを高めてあるのだが、耐刃服は耐刃繊維と呼ばれる特殊な生 地 によって、刃 を無効にしてしまう──つまり、摩 擦 の強い繊維が、刃を滑 らなくしてしまうのだ。滑らない刃物は、切れ味をろくに発 揮 してくれない。防剣服と比べて薄 手 で身軽なため、便利ではあるのだが、剣で殴 打 された衝撃そのものは吸収してくれないので、どうしても防剣服より防御力で劣 るという欠点もある。
感心したように、キリランシェロがうなった。
「まともには戦わない......そういう意味か」
「お前がちくちくと、くだらねえ嫌 みでもってこちらをいじめてる間に、俺はずっと考えていたのさ──お前を出し抜く方法をよ。みっつほど思いついたよ。今のが、ひとつ────」
「二度は通用しないよ」
「分かってるさ。だから、いくつも考えたんだ。ふたつめは──」
言いながらオーフェンはさりげなく、ナイフをキリランシェロに向けた。柄 のスイッチを押すと──
ばちんっ! と、バネが弾 ける音が響き、ナイフの刃だけがキリランシェロに向かって飛んだ。キリランシェロが、とっさに身をよじってそれをかわす──
オーフェンは素早く駆 け出すと、刃のなくなった柄を捨てて、かわりに床に落ちているキリランシェロの短剣を拾い上げた。そのまま、体勢を崩 したキリランシェロのこめかみを剣の柄で殴 りつける。

「脳 震 盪 までは防げないだろう!」
オーフェンは叫んで、ぐらりと傾 きかけたキリランシェロの頭を、また柄で殴りつけた。少年の身体が、昏 倒 するように床に落ちる──
「終わりだ、キリランシェロ──」
が──
「ぼくを甘く見るな......」
刹 那 、目の前に真っ白な光があふれ──
身体が跳 ね上がるような感 触 を覚えて、オーフェンの意識は弾 けて消えた。
◆◇◆◇◆
「......最初の通報から、三十分が経 ったか──」
チャイルドマン邸 の前に集結した警官隊の中で、警官のひとりがつぶやくのをマジクは聞いていた。あたりを遠巻きにしているほかの民間人らと同じように、ただのやじ馬だとしたら、警官隊が待機している場所にまで近づけるわけはないのだが、後から追いついてきてくれたレティシャの口 添 えのおかげで、とりあえず彼はその助手ということになっている。
......考えてみれば、彼女が追いかけてきてくれなければ、この屋 敷 の位置など知らなかったわけだから、マジクはなんとなくバツが悪かった。
その彼女は、少し離れたところで、警官隊の隊長と話をしている。
「しかし、いくらあなたでも──」
困ったような隊長の言葉に、レティシャは辛 抱 強 く、
「《塔》から指令を受けた権限により、とは言いません、隊長──あなたも立場があるでしょうから」
彼女は黒のローブを着ている──あまり動きやすそうには見えなかったが、それでも足が自由に動けるようにスリットが入っているのに、マジクは気づいていた。胸元にはドラゴンの紋 章 、左手に、剣の鞘 を下げている。長い黒髪こそまとめていなかったが、完全に武装していた。
彼女は続ける。
「でも、あの邸内で争っているのは、魔術士です──端 的 に言えば、あなたの手に負える相手ではないでしょう。無 駄 な死人は出したくないはずです。わたしに一任していただけませんか?」
「............」
隊長が沈 黙 する──
(説得できるのも、時間の問題か)
マジクはそう思いながら、ぐっと身体を緊 張 させた。屋根が吹き飛んで、半 壊 しているように見える大きな屋敷は、いつしか完全に沈黙していた。
(戦いが終わっているのかもしれない......)
だとしたら、勝ったのはどちらなのか──
(もし、お師様が負けて、殺されていたら、クリーオウも死んでいるのかな......レキも)
もし、そうだとしたら──
(復 讐 ......するのかな、ぼくは)
数日前に、自分が人を殺すことができるのだろうかと悩んだことを、マジクは思い出していた。あのときは、激 昂 した男に拳 銃 を向けられていたのだ。そのときでも、自分が相手を殺せるという確信は、彼にはなかった。
(臆 病 なんだろうか、ぼくは......)
マジクは後ろ暗く、夜空を仰 いだ。
(なんにも知らなくて、魔術も半人前にしか使えない......みんなを助けなくちゃならないのに、本 音 はあの暗殺者を怖 がってる)
お師様は、窮 地 をなんとかするための技術も持っているし、明らかに自分より強い相手にも物 怖 じしない──
クリーオウは、なんの技術も持っていないくせに、とりあえず自分のできることだけはやっている──ある意味では、オーフェンよりもとんでもないかもしれない。
(ぼくだけが、本当に足手まといなんだ......多分)
と──
いきなり、背後からぽんと肩をたたかれて、びっくりしてマジクは振り返った。そこには、こちらを安心させるためか、透 き通るようなほほ笑みを浮かべて、レティシャが立っている。
「許可は取り付けたわ......乗り込むわよ」
彼女の言葉に、マジクはうなずいた。とりあえずは、これが自分にとっての精 一 杯 の勇気だと思いながら。
『いい男 に育ったよ、お前は。いつか、わたしの後継者が現れるとしたら、それはお前だろうな』
それはチャイルドマンが言ったのではない、彼女が言ったんだ──
それは寝言なのだろうが、どうやら本当に口走っていたらしい──とにかくオーフェンは、そんなことをつぶやきながら目を覚ました。
闇 の中にひとり──倒 れていた。
どこからか、響 いてくる声......よく知っているひとの......
「わたしに会いなさい、キリランシェロ」
肉声ではない、脳に直接弾 けるような、そんな声だ。
「わたしに会いなさい──」
ゆっくりと......なにかを思い出していた。ふらりと立ち上がる──身体に力が入らない。震 えているのだ。寒くはない──夏の夜だ。だが、しびれるようにさむけがする。
「考えてみれば、簡単なことだったんだよ」
誰 にともなく、オーフェンは独 りごちた。
「あえて『キリランシェロ』という名前を使って、長老を殺す動機を持った人間──あんたが最 右 翼 じゃないか。私 怨 だったんだろう? かつて、あんたを抹 殺 することを指令したのは《塔》の長老たちだ......」
答えはない。闇は静まり返って、彼を包んでいる。
オーフェンは、ざっと右腕を横に振り払って絶 叫 した。
「二度と姿を見せないでくれと言ったはずだ! アザリー!」
答えはない──答えはない......
だがオーフェンは続けた。暗闇に向かって、口早に。
「ずっと俺 を監視していたんだな──クリーオウの馬 鹿 が《森》を焼き払ったときに、あんたの声が聞こえたよ。ティッシの声かと思ったけど......あんただったんだ。白魔術士でもあるあんただったら、精神体だけ飛ばして好きなように俺を監視できる」
そこまで叫んでから、また別の闇に向き直り、
「『キリランシェロ』が、いちいち俺のやったことを知っていたのも、そのせいだろう──つまりあんたは、トトカンタからこっち、ずっと俺を見張っていたんだ!」
「彼女にとって、あなたは危険なんだよ。とてもね。あなたは気づいてなくても......まぎれもなくあなたは〝鋼 の後 継 〟なんだから......」
ふわっ──と、いきなり光が閃 く。
まるで爆発したような、白光の膨 張 だった。ただし、爆 圧 も熱風もない──ただの明かりである。いきなり光量が上がったせいで、オーフェンは一瞬視覚を失いかけた。
やがて目が慣れてきて、あたりの光景が浮かび上がる。
「見覚えのある部屋だろう......?」
「......ああ」
オーフェンは低く肯 定 した。
チャイルドマン邸の地下室──かなり広い、石 壁 の部 屋 。直方体の空間には、隅 にある梯 子 以外には、なにもない。明かりは、天 井 にいくつかぶらさげられたガス灯 ──のはずなのだが、今はどのガス灯にも灯 が入っていなかった。代わりに、中央に大きくひとつ、真っ白な光球が浮かんでいる。一 抱 えほどのもので、その光の中心にはちらちらと虫のようなものが瞬 いていた。が、それは虫ではない──
(魔術 ......文字 、か?)
光球の中心に、一文字、かつてウィールド・ドラゴン種族が用いたという魔術の文字が見える。
その光球の向こうに、キリランシェロが立っていた。
「もちろん......彼女がチャイルドマン教師から受け継 いだものがなんであったのか、忘れてはいないよね?」
軽い口調で言う。オーフェンはうめくように声を出した。
「古代の魔導士たち──ウィールド・ドラゴンの沈黙魔術 の知識......及び、チャイルドマンが遺 跡 から発 掘 し、いずこかに隠 した天人 の遺品の所在と、その使用法......」
「その遺跡の中に、天人 らが遺 した対人兵器の最高傑 作 ──殺人人形 が一体だけあったとしたら、あなたは驚くかな」
「............!」
オーフェンは、ふと目の前が開かれたように──目の前の『キリランシェロ』がなんであるのか、悟 った──
彼は続ける。
「彼女はあなたを監視していたよ。もちろん、アレンハタム市でもだ。そして彼女は、見覚えのある殺人人形が稼 働 するところを見た──そして、チャイルドマンの知識を以 てしても動かすことのできなかったそれを、どうしたら起動できるのかを理解したのさ。彼女はそれを起動し──」
一歩、キリランシェロは、前に踏 み出す。
「それを支配した。ただ破 壊 しただけのあなたとは違うんだよ、彼女は。そしてその人形の口から、ドラゴン種族が必死になって隠 そうとしていた秘密を聞き出した......彼らの聖城の位置も、このキエサルヒマ大陸が現在どういった状 況 にあるのかも......すべて知った。そしてね──」
また一歩──それにあわせて、オーフェンは後 退 した。人形が、少し歩速を速める。
「人形の案内で、まだ発見されていなかった遺跡をいくつも見つけたのさ。で、その中に、こんなものを見つけてね」
キリランシェロは足を止めると、腕を一振りした。ぱっと、火の粉 が散るように細かい光の文字が弾 け、空間から突然一振りの剣が現れる。オーフェンはその剣に、見覚えがあった。
「月の紋章 の......剣! まだあったのか──」
確かにその剣は、アレンハタムで失ったバルトアンデルスの剣にそっくりだった。アザリーと、そしてオーフェンとが、《塔》を出る原因にもなった天人の剣......
そしてその一件によって、アザリーはチャイルドマンを殺害したのだ。
キリランシェロはうなずいた。
「そう。この剣で彼女は、その殺人人形──つまりぼくを、自分の理想のとおりの暗殺者に変化させたのさ......おかげでぼくは、あなたの持っていた技術をすべて使える。かつてあなたが誇 っていたレベルでね。つまり彼女が知っていた時代の、あなたの技術をだ」
と、剣を──バルトアンデルスの剣を構えて、彼は続ける。
「あんまり後退しないほうがいいんじゃないかな......背後を見るといいよ。時間を十秒あげるからさ」
「............!? 」
オーフェンは、反射的に振り向いた。
床に、クリーオウが仰 向 けになって転がっている。腹の上に、レキも乗っかっていた。どちらも目を閉じて、ぐったりと動かない──
だが、死んでいない。ゆっくりとだが、呼吸をしている。
よく見ると胸のところに、一本の針のようなものが突き立っていた。致命傷のはずである。だが、さらに見ればそれは針ではなくて──小さな光の文字が縦 に並んだものだった。魔術文字──マヒの効果があるようだが。
「十秒経 ったよ」
キリランシェロの言葉に、オーフェンは向き直った。
暗殺者は切っ先を、こちらから背後のクリーオウのほうへと、すっと動かした。
「あなたは多分、その子を見捨てて逃げたりしないよね......あくまで多分、だけど。ぼくは別にその子を殺すつもりはないけれど、この剣で斬 りつけるとどういうことになるか......覚えているだろ? 身体 がどんな姿に変化しても、精神はその女の子のままだってことも、知ってるよね。目が覚めて、自分が蛇 とか蛙 とかになってるのを知ったら、泣くかな? 涙が出ると思う?」
オーフェンは、答えなかった。
答える気にもならず──少し腰を落とす。
心が冷え冷えと冴 えてくるのを、彼は感じていた。
ゆっくりとつぶやく。
「お前を出し抜く方法は、あとひとつあったんだけどよ......」
「............?」
キリランシェロが、怪 訝 そうに眉 をひそめたその瞬間──
オーフェンは、駆 け出した。
拳 を握 り──中段から相手に突きかかる。その手首を、キリランシェロが剣で払おうとするのを見て、オーフェンはあっさりと拳を引いた。バルトアンデルスの剣が、空振りして、遠くへ離れる──
その隙 にオーフェンは、ほとんど顔が触 れるほど、キリランシェロに接近した。相手の目の中に、ほんの一瞬だけ、躊躇 の色が浮かぶ──こう接近した状態では武器は使えない──が、それを手放していいのか。武器を持っていることによる躊躇である。よほど戦い慣れた人間でも、これは迷う。
オーフェンは、ぽんと、相手の脇腹に左拳を押し当てた。強くもなく──ただ触れさせるだけである。
とっさに、キリランシェロが、後ろに逃げようとした。そして──
相手が後ろに身体をそらしかけた瞬間、オーフェンの足元で、火薬が破 裂 するような音が鳴り響いた。渾 身 の踏み込みと、全身のバネを使って、オーフェンは押し当てた拳を全力で突き出した──後ろに飛びのきかけていたキリランシェロの身体が、押された勢いでなすすべもなく転倒する。
相手が逃げる勢いと、自分の力とを使って、相手を突き飛ばしたのである。もし拳を押し当てられた瞬間、相手が逆に押し返そうとしてきたのなら、その力に対し正確に真正面から拳を突き出すことによって、カウンターで肋 骨 をへし折ることもできる。
チャイルドマンが、かつて近接戦闘の切り札にしていた〝寸 打 〟の技術だが、これを実 践 できる人間は、大陸にもそうはいない。
ともあれ転倒したキリランシェロに、オーフェンは間 髪 入れずに攻撃をしかけた。素早く駆け寄り、仰 向 けに倒れた敵のあごを、思い切り踏み付ける──ごき、とあごの骨の砕 ける音、そして折られたあごの骨が、かかとに踏み抜かれるまま、喉 元 へと突き刺さった──
キリランシェロの顔が、白目をむき、不気味なほど大きく開いた口 蓋 から濁 った血液があふれかえる。
「お前を出し抜くみっつ目の手はな──」
死体の顔を見下ろしながら、息をあららげてオーフェンは言った。
「あのじゃじゃ馬を助けるためなら、いざとなりゃ人ひとりくらい殺す覚 悟 をしてくるってことだったんだけどよ......相手が人形だったなら、ンなに思い詰めるまでもなかったな」
返事をしているつもりか、ごぼ、ごぼっ──と、血にあふれた喉をキリランシェロが鳴らす。
オーフェンは血まみれになったブーツを一歩退 きながら、
「なるほどね──手首かっ切られて、大量に血を失ってもぴんぴんしてやがるから、ヘンだとは思ってたんだが、人形だったとはな。そーいや、アレンハタムにいたあの人形野郎と話し方がそっくりだ。俺に変化したためとはいえ、血まで流れてるんなら、急所だって人間といっしょだろ」
「まさか......最後の手段が正攻法とは......ね......」
「────!? 」
つぶしたはずの喉から声を聞いて、オーフェンはぎょっと身構えた。
キリランシェロは......砕けたあごを平気で動かして、苦々しく語りかけてくる。むっくりと上半身を起こして、
「でもそれは......これでようやく......ぼくと互 角 に戦えるっていうだけの意味にしか......ならないよ......」
「本当にそう思ってやがるのか?」
オーフェンが、心持ち後 退 りしながら見据えると、キリランシェロは半分砕けた顔面に無理やり笑 みを浮かべた。
「もちろんさ......それで、ぼくが勝つんだ。彼女のために──」
オーフェンは、唾 を吐 いた。
「彼女のため、彼女のため、彼女のためか!」
嘲 るように繰 り返す。キリランシェロが、立ち上がった──
「そうさ! ぼくは彼女のために存在している、彼女の理想の暗殺者だ!」
「そういうせりふを聞いてっと、ムカついてくるんだ! 来いよ!」
「我は放つ光の白 刃 ──!」
高らかに、キリランシェロが唱 える。真っすぐに空間に解き放たれた光熱波を、横に跳 んでかわしながら、オーフェンは叫んだ。
「我は築く太陽の尖 塔 !」
ごうっ! とキリランシェロの身体が、炎 に包まれる。キリランシェロはまったく避 けようとすらせず、炎の中で哄 笑 をあげた。
「馬鹿だね! ぼくのこの人形の 身体は、ディープ・ドラゴンの魔術すら防ぐんだよ!」
「! しまっ──!」
舌打ちするが、遅い──光熱波をかわしたときに跳 躍 したせいで、オーフェンは身体を床に投げ出していた。キリランシェロが一瞬でも魔術にひるんでくれれば、その隙 に起き上がれたろうが──
それよりも早く、炎の中から呪 文 が響いてくる。
「我導くは死呼ぶ椋 鳥 」
放たれる破壊振動波を避けることはできない。防ぐには、ひとつしか手がない──
破れかぶれで、オーフェンも叫んだ。
「我は砕く原始の静 寂 !」
彼のまわりですべての空間が、歪 んで跳 ねる──
波は、例外なくより強い波によって打ち消される。空間爆 砕 によって無差別に広がる衝撃波によって、敵がこちらに向けて収束した振動波を跳ね返せるはずだった。問題は、爆砕する空間の中心にいる自分が無事でいられるかということだが──
(そいつは賭 けだ──!)
衝撃に対する苦痛というよりは、激 しい嘔 吐 感 のようなものを覚えながら、跳ね回る爆発の中でオーフェンはのたうちまわった。ゴム毬 のように跳ねて──石のように沈み──上下も左右もないばらばらの平 衡 感覚の中で、絶叫する。
「お前にだけは負けるかよ、馬鹿たれ!」
転げるうちに、床(だと思ったが、定かではない)に手をついて、無理やりそれにかじりつく。
「人形が化けた、五年前の俺か──てめえには、言ってやりたいことが山ほどあるんだ! このうぬぼれ過ぎの老 けガキが! 彼女のために存在している、だ!? ンなおためごかしのために、てめえはなにもかも捨てたのかよ!」
叫ぶ間にも、空間を歪 めたことによる爆発は連続して鳴り響き、身体のあちこちを痛打した──が、絶叫は止まらない。
「お前を必要としていた人間はほかにもいたのによ! ティッシを見ろよ! 五年間で、なんだか抜 け殻 みたいになっちまってよ! 先生だって、アザリーをもとにもどすために、てめえの助けが死ぬほど欲しかったに違いねえんだ! いけすかねえ長老どもだって、てめえの出 奔 のせいで人生狂 わされたのは、ひとりやふたりじゃねえはずだろ!」
頭のすぐ横で弾 けた衝撃波で、バンダナがちぎれて飛ぶ──同時に肌 に裂 傷 が走り、口の中に血が染 みた。
「たかが背後から脾 腹 を一突きするくらいしか芸のねえガキの分 際 でよ! 何様のつもりだったんだ! あの《十三使徒》にスカウトされたのも、てめえの価値ってよりは先生の生徒だったからだろがっ!」
歪んだ空間では、視覚は無論、聴覚も触覚すらもまともには働かない。ちょうど泥 酔 に似た状態で、オーフェンはそれまで床と思っていた場所から立ち上がった。
「彼女のために存在している!? 嘘だな──お前はなんにも分かっちゃいないガキだったから、彼女くらいしかすがるものがなかったんだ!」
やがて──魔術の効果が終わり、脈動していた空間が、それまでなにもなかったように平静にもどる。
静まり返った地下室に立っているのは、オーフェンだけになっていた。それですら、片 膝 をついてぼろぼろになった姿だったが──
キリランシェロ──いや人形は、ばらばらになって倒れていた。どれかひとつだけを見たならば、とても人体の一部だとは特定できないほどに粉々になって、真っ赤な血の海の中、沈み込んでいる。
人形自身のせりふだった──防御と攻撃は同時にできない。魔術を放った瞬間に、空間爆砕の衝撃波を真正面からくらったのだ。
破壊された人形を、見下ろすというよりは遠くに眺めるような眼 差 しで、オーフェンは小さくつぶやいた。
「哀 れな......俺」
いつの間にかこぼれていたらしい、ほんのわずかな涙を手の甲 でぬぐって、オーフェンは人形の残 骸 に背を向けた。部屋の隅 に転がっているクリーオウとレキの身体から、光の文字による針が、宙に散るように消えるところだった。
じゃり......
砂を踏 むような音が、ふと、聞こえてくる──
じゃり......
足音は、じらすように地下室に響いた。オーフェンは、内臓が痙 攣 するような錯 覚 に襲 われながらもそれを無視して、クリーオウを抱 き抱 えた。少女の腹の上に乗っていたレキが、ころんと床の上に落ちて、ぱっと目を覚ます。
「ううん......」
うめき声をあげて、クリーオウも、そのブルーの双 眸 を開けた。寝ぼけたような顔で、こちらの顔を見て──
そして、こちらの肩越しに人形の残骸を見て、そのままぐったりと卒 倒 した。
それを心配してのことか、ぱたぱたと暴れはじめたディープ・ドラゴンの横にクリーオウの頭を下ろし、オーフェンは少女の横に片 膝 をついたまま、振り返らずに言った。
「来るなよ......アザリー」
「キリランシェロ──」
声が、肉声が、オーフェンの鼓 膜 を震 わせる──
(アザリー......)
オーフェンは両手をわななかせ、そして次の瞬間、はっと気づいた。視覚が暗転し、彼女の声だけしか聞こえてこなくなるような感覚......
(自制するんだ!)
オーフェンは胸中で叫んだ。何年も前にチャイルドマンから施 され......そして自らも己に施した精神制御 の効果にすがるようにして、叫ぶ。
「やめろ!」
背後へと向き直り、またさらに声を張り上げる。
「俺を支配しようとするな!」
「やっぱり効 かないわね。ま、白魔術の精神支配としては、お粗 末 な構成を使っているんだけどね......」
返答は軽い。
向き直った先には、彼女が立っていた。
「アザリー──」
震 える声で、うめく。オーフェンは、表情が引きつるのを感じた。
立っているのは、二か月前に彼が最後に見たアザリーの姿だった。
少しくせのある黒髪の中から、ブラウンの瞳 でこちらを見ている。からかうように斜 めに、話を聞こうとしているように小首をかしげて。
《牙の塔》で、こちらをからかうように見上げていた彼女──
戦闘訓練で、じっとこちらをにらみ据 えていた彼女──
昔から知っている彼女──
もう《塔》のローブは着ていない。その代わり、かなり軽装の戦闘服を着込んでいる。紋 章 のペンダントすら、下げてはいない。もっともあれは、五年前に《塔》で紛 失 しているはずだが......
オーフェンは、ぐらりと頭の中が揺れるのを感じ、左手で軽く押さえた。
「なんで......」
うめく彼に、アザリーはくすと笑った。
「突然現れたように見えた? あなたが後ろを向いている間に梯 子 を降りてきたんだけど......」
「そんなことはどうでもいい! なんでこんなことをしたんだ!」
まだ衝撃波のせいで朦 朧 としている意識を落ち着かせながら、オーフェンは叫んだ。アザリーは、まったく動じず、
「あなたが言ったとおり、私 怨 よ」

「私怨......?」
視界に、ぱっと赤いものが走る。
「長老を何人も殺したことを正当化するつもりか! 五年前のことは、すべてあんたが原因だったんじゃないか!」
「発 端 はわたし......抹 殺 を指令したのは彼ら」
さっと髪をはねのけて、彼女は続けた。
「そんなことよりも、やらなくちゃならないことがあるのよね──」
「そんなこと......!? 」
聞き返すオーフェンは無視して、彼女は人形の残 骸 へと近寄った。血だまりの中からバルトアンデルスの剣を拾い上げると、その切っ先をすとんと残骸の真ん中へと突き立てる。
彼女はなにか呪 文 のようなものをつぶやいたのだと思う......が、聞き取れなかった。
ふっ......と、人形の残骸のすべてが、その大量の血とともに、細かい砂に溶 けて変わった。
「あなたを殺人犯にしたくはないものね」
バルトアンデルスの剣を抱えて、彼女はそんなことをつぶやいた。微 笑 しながら。
「味方面 をするなよ。人形を使って俺を殺そうとしたくせに......」
倒れたままのクリーオウをかばうように腕を広げて、オーフェンはうめいた。肋 骨 が折れたのか、身体が曲げられない。こっそりと魔術の構成を編み上げて──魔術では彼女に
敵 わないのは分かっていたが──
彼女が口を開くのが見えた。その奥から声が漏 れる。
いくら表情は微笑で取り繕 っていても、彼女の声は、どこか悲しげだった。
「......あなたが怖 いのよ」
「怖......い?」
思わず、間の抜けた声で聞き返してしまう。足元で、子ドラゴンがアザリーに向けて毛を逆立たせているのが視界に入った。
彼女は気にしていないようだが。
「わたしにはね、あなたを恐 れるだけの理由があるの......」
「あんたが......俺を恐れる?」
チャイルドマン教室内でも、最大の魔力を持っていた天魔の魔女──それが、俺を恐れる?
オーフェンは胸中で反 芻 して──そして、思わず笑みが漏 れた。
「へっ──」
どちらかといえば、自 嘲 のような笑みだったが。
「だったら殺せよ──今まで邪 魔 者 は抹殺してきただろう、あんたは......」
「キリランシェロ......」
アザリーは、真 顔 で答えてきた。
「あなたを殺すことはできない。あなただけが、あのひとの後 継 者 なんだから......」
そして、悲しげに笑う──
(そんな目で見るな......)
オーフェンは、胸中で叫んだ──いや、懇 願 した。
地下室を照らす光球を、下から支えるかのように左腕を上げて、彼女が聞いてくる。
「キリランシェロ、ずいぶんと前の話になるけど王都に行ったときのことを覚えてる?」
「《十三使徒》......か?」
彼は警 戒 しつつつぶやいた。彼女が、こくりとうなずく。
「ええ。あなたは、長老の使いを殺しかけたわね。それでわたしは、ひょっとしてと思っていたの......」
「あれは──」
オーフェンは、とっさに目をそらした。
「あいつらが、俺を引き留めようとして、くだらねえことを言ったからさ」
「彼らは......あなたがなぜ《塔》に必要だったのか、それを話したんじゃないの......?」
「............」
ぎくり──と心臓が引きつる。折れた肋骨の痛みよりも、なによりも、別の痛みが全身を襲 っていた。
「......まさか、あんなことを真に受けてるわけじゃないんだろ? アザリー......いくらチャイルドマンだって、あんなことを考えるわけがないんだ......」
「先生は、あなたに徹 底 した精神制御の訓練を施 していた──ええ、この地下室で、あなただけに特別にね」
「............」
彼女は続ける。どこか淡 々 と。
「《塔》の魔術士訓練課程の中に、確かに精神制御は正課として入っているわ。でも、あなたほど徹底してそれを受けさせられた人間はほかにいないわね。なぜかしら? あなただけに特別な役割があったからよ。精神制御。つまり白魔術に対 抗 するための訓練──」
「やめろ! アザリー──」
「チャイルドマンは、あなたを白魔術士に対する切 り札 として育て上げようとした──教室内で唯 一 、師である彼を凌 駕 する可能性を持っていたわたしを牽 制 するためにね! キリランシェロ──」
アザリーは、かぶりを振って続けた。
「あなたはね、わたしを殺すために訓練された、この世でただひとり、わたしを殺せる暗殺者なのよ」
「やめろと言ってるんだっ!」
オーフェンは、ほぼ絶叫するような声をあげた。
「先生が、そんなことを考えていたわけがないだろ! よしんばそうだったとしても、だからなんなんだ──俺は暗殺者なんかじゃない。あんたが好きだ。ずっと尊敬していた。ずっとあんたに手を引かれて生きてきたんだ! 俺は──俺は......」
急に、力が萎 える。ぐったりと、オーフェンは嘆 息 した。床を見つめて、続ける。
「俺は、アザリー、せめてどこかで平 穏 に生きていてほしいんだ、あんたには......」
「......無理ね──」
「姉さん!」
反射的に口から出たせりふに、一番驚いたのはアザリーのようだった。きょとんとしたふうに笑ってから、
「十何年ぶりじゃないかしら、あなたが、わたしのこと姉さんなんて呼ぶの......」
「ティッシだって、アザリーの帰りをずっと待って、部屋まで用意してたんだ。あんたは独 りじゃないんだ。頼 むから......」
「無理よ。わたしにも計画があるの」
「計画?」
「チャイルドマン教師が──あのひとが生前、なにを考えていたのか、わたしは知りたい......」
言って彼女は、すっと自分の胸元を手で撫 でるしぐさをした。
「わたしと......いっしょにいなさい、キリランシェロ。あなたが、わたしを殺せる唯 一 の暗殺者だとしたら──わたしは、あなたを理解して、完全にあなたのサポートができる唯一のパートナーでもあるのよ。それは分かるでしょう?」
「俺は......」
つぶやきかけてオーフェンは、言葉を失った。無論イエスなどと言えるわけがない──
無論、ノーと言えるわけもない......
沈黙が、その答えを運んだのかもしれない。しばししてアザリーは、ふっと透 き通るような表情を見せた。微笑ではないが、確かに笑みを浮かべてはいる。
「次に会うときまでには、答えは用意してくれるわよね......?」
「二度と姿を見せないでくれと、言ってあったはずだぞ......」
震える声で、オーフェンはうめいた。感情が、わけが分からなくなって、なんだか泣きそうになっていた。
彼女は笑みは壊 さないまま、眼 差 しだけをなにかきわどいものへと変える。
「女と約束をするのなら......」
その声は、優しかった。
「まずは女に言うことをきかせるだけの力を持たないとね、キリランシェロ......」
「............」
ごく──と唾 を飲 んで、押し黙る。こちらがなにも言えないでいるうちに、彼女は、気軽に肩をすくめてみせた。
「さて──わたしはおいとまするわ。そろそろ、ティッシと、あなたの生徒がこの屋敷に踏み込んだ頃よ。ティッシには会いたいけれど......でもわたしはやっぱり、死んだってことにしておかないとね──ハーティアの報告書どおりに」
「なにを考えているんだ、アザリー......」
どうせ、たいした返事は返ってこないだろう──と思っていたのだが──
彼女は、長いまつげをたたえた瞳を瞬 きさせてから、答えてきた。
「長老を狙 ったのはね、なにも本当に私 怨 のためだけではないのよ──彼らが隠 匿 している情報が欲しかったの。知っている? チャイルドマンがフリーランスの暗殺者だった頃、キムラック教会の教師長をスタッブしようとしたことがあるって」
「............!? 」
「不思議よね......なにからなにまでが、キムラックという場所に集中しているみたい。わたしはそこに行くわ──」
「待っ──」
刹 那 、こちらがなにかを聞き返すよりも早く、アザリーが懐 からなにか、小さな黒い箱のようなものを取り出す──彼女が一言つぶやくと、その箱の表面に魔術文字 が閃 き──
昼間、キリランシェロが転移して消えたのと同じ、小さな光の文字を残して、アザリーの姿は跡 形 もなく消えた。同時に──術者、つまり人形が壊 れたせいで完全に力を使い果たしたのか、遅 ればせながら地下室を照らしていた光球も消える。
闇 が落ちた中、立ち尽 くしていたオーフェンもまた、我知らず力つきて意識を失い、その場で昏 倒 した。
ただ一匹、まだばたばたと暴れているレキの足音を聞きながら、オーフェンは夢の中で笑っていた。緊 張 が途 切 れて、悲しくなるほど笑っていた。
◆◇◆◇◆
チャイルドマン・パウダーフィールドという名前を、マジクは知らない。
大陸で最強の黒魔術士であり、史上最高の知識と実行力を持った偉大な《塔》の教師の名前を、マジクは知らなかった。
ただそれが、自分の師を育て上げた人間のことだということを、彼は、ごく最近知った。たった今と言ってもいいくらいのごく最近、知ることになったのだ。
レティシャが造り出した鬼 火 の明かりに照らされる屋敷の中を、レティシャの後ろについて歩きながら、マジクはふと思いついたように考えていた──
(いったいどうしたら、お師様みたいな人ができるんだろう......)
素 行 も悪く性格も悪い。生活力がなくて、ヤクザ仕事にまで手を出しても、結局は一 文 無 し同然。だが、強力な黒魔術士。
強力で、自分の身を守ることには長 けている。自分の世話は、自分で見ている。それがたまらなく、マジクにはうらやましかった。
(ぼくはいつもお師様に助けてもらってる。今まで気にもしていなかったけれど......)
チャイルドマン邸は広いが、造りは単純だ。廊 下 も一本しかない。長い廊下を歩きながら順番に扉を開けていけば、探 索 は終わるはずだった。
見つかるのはオーフェンか、それども『キリランシェロ』か──
そんなことは、マジクはもはや考えなくなっていた。屋敷の中で戦闘らしき物音がしなくなってから、しばらく経つ。
もう戦いは終わっているのだ。その結果を知ることくらいしか、もう自分にはできない。
(お師様にあって、ぼくに足りないもの......魔術の腕? いや、そんなのじゃない......違う気がする)
廊下を進みながら、扉を開けて中をのぞいているレティシャの後ろ姿を見て、マジクはため息をついた。
(たとえぼくが、お師様くらいに魔術を使えたとして......じゃあ、例えばこのひとがぼくを頼るだろうか? 違うんだ......なにかが──)
マジクは、ふらりと立ち止まった。レティシャは気づかないようで、すたすたと先を急いでいる。オーフェンのことで気が急 いているというのもあるだろうが、それよりもマジクは、自分という人間が必要ないために気をかけてもらえないような気がして、さらに気が滅 入 ってきた。
なんとなく、一番近くで開いている扉をくぐってみる──
部屋に入ると、そこは空き部屋のようだった。なにも置いておらず、なにもない。だからレティシャも、たいしてのぞきもせずに通り過ぎたのだろうが......
マジクはふと、部屋の隅に、無 造 作 に一冊の本が落ちているのに気づいた。黒い革 の表紙の、タイトルもなにもない本。取り上げて、ぱらぱらとめくってみる。中身は、ひどく難解な風 土 記 のようである。知らない単語どころか、見たこともないような文字や記号も混じっており、部分部分にしか、マジクには解読できなかった。
「偉大なる心臓......ドラゴン──偽 物 の。唯一の真なるものは......あれ?」
開いた本のページから、ぱらりと一枚の紙が落ちる。どうやらしおりに使われていたものらしいが、これでどのページにはさまっていたのか分からなくなってしまった。
が、それはそれとして、紙を拾ってみる。ただの紙片で、なにかのメモに使ったものを、たまたましおりの代わりにしていたらしい。
紙にはたった一行、こう記されていた。
『後継者は誰だ?』
「............」
マジクはそのメモを見つめながら、独りごちた。
「《塔》で一人前になったんだ。お師様も、あのレティシャさんも」
思わず、胸元に触れるしぐさをする──がもちろん、そこにはドラゴンのペンダントなどあろうはずもない......
「マジク! どこ!? 」
唐 突 に、声が響いた──レティシャの呼びかけだ。
顔を上げると、彼女は屋敷の奥でなにかを発見したらしい。
「地下室への入り口があったわ! 降りるから、バックアップをしてちょうだい──」
「は──はい!」
マジクは大声で返事して、部屋を飛び出した。本は抱えたまま、意味の分からないメモはその場に落として。
『後継者は誰だ?』
答えのない問いかけは、いつまでも虚 ろな部屋で繰 り返されつづける。
タフレム市を風が吹き抜ける──
吹きすさぶ風の中、屋根の上に、もっこりした人影がふたつ、街を見下ろしていた。
「うむ......」
剣を掲 げ、なにか感じ入るように、人影の一方がうなる。毛皮のマントをたなびかせ、
「平和だ」
「そうだねー......」
答えたのは、もう一方の人影──そのすぐ後ろで猫のように丸くなっている。うつらうつらしているのか、答えもいいかげんだった。
剣を持ったほうは、気づいていない様子で続ける。
「いい街だ。来た早々ちょっとした騒 ぎはあったが、なんやかや知らんうちに解決したよーだし」
「そうだねー......」
「あの借金取りも、全治二週間だとかゆーから、ざまみろではあるし」
「そうだねー......」
「アバランシュ小娘も、その看病で手一杯だとかゆーから、ますます平和だ」
「そうだねー......」
「風もいい......こーしていると、あのたわけ借金取りを一番星で見つけ殺そーなどと思っていたことが遠い昔のことのよーだ......」
「そうだねー......」
と──
「なんでもいいんだけど──」
屋根を見上げて、ホウキを片手のレティシャが陰 険 な声をあげている──
「なんであんたたち、わたしの家に住み着いてんのよー!」
「一度エサをあげちゃったのがまずかったんですよね、きっと......」
庭中に、せっせと犬猫よけの水入り瓶 を置きながら、ティフィスがつぶやく。
「パットの推測では、それなりに決定的な手段を採用しないかぎり、縁 切 りは難しい模様──焼きゴテとか」
と、ティフィスの後ろにぴったりくっついて、熊 の縫 いぐるみを抱いたパット。
だが、そんな会話は気にせず、屋根上に笑い声が響いた。
「はぁーっはっはっはぁっ! 天下天下ぁっ!」
「そーだねー......」
タフレム市の夏は、そろそろ盛りを過ぎようとしている。
◆◇◆◇◆
「......わたしが思うにね、ケガって、本人が治すものよ」
(俺もそうは思うけどな)
「だから、栄養をつける必要があると思うの♥」
(まあ......それも認めよう)
「てなわけで、わたし半強制的健康回復メニュー♪ ってのを考えてきたんだけど──」
(それが認められんのだっ!)
叫ぶが、声にはならない──
病院のベッドの上で、オーフェンは上半身だけ起き上がり、両手をわななかせた。ごわごわした寝 間 着 の下は、あちこち包帯や絆 創 膏 だらけになっているので、かなり動きにくい。首のギプスと、ほおに張られた湿 布 が最悪だが。
(それ以上に悪いのが......くそ、一時的なショックで声帯が使えねえだあ?)
いらいらと考える。まあ、人形といっしょに空間爆砕の真ん中にいたのだから、このくらいは当たり前なのかもしれない──むしろ人形と同じ運命をたどらなかっただけ、幸運だったというくらいだろう。
声が使えないおかげで魔術で傷を癒 すこともできない。ただの外傷ならともかく、ここまでの重傷になると、他人が魔術で癒すのも難しいので、オーフェンは仕方なく退 屈 な療 養 生活を余 儀 なくされていた。
まあそれも、環境次第ではさほど悪いことでもないのだが......
病室は、あまり悪くない。多分レティシャの口 添 えの結果だろうが、個室などあてがわれている。ベッドサイドにはクリーオウが陣 取 り、なんのつもりで持ってくるのかいまいち分からないような見 舞 いの品を、今日もあちこちに積み上げている。部屋の向こうではマジクがひとり椅 子 に座って、マイペースに本など読んでいた。真っ黒な表紙の、タイトルすらない古い本である。
それだけなら、さほど悪い環境でもない──
くりくりと、なにやら機 嫌 よさそうに身体をよじり、ベッドのサイドテーブルに次々と怪 しげな食事を並べるクリーオウを横目で見ながら、無理を言ってでも看病はレティシャに頼めば良かったと、オーフェンは後 悔 していた。
「これが今回の自信作なの♥ 一撃必殺シチューって名付けたわ」
(回復の二文字すら入っとらんのか......)
そのつぶやきを視線で感じたか、クリーオウは、あわてて手を振った。頭の上のレキも、なぜかそっくりな表情で前脚を振っている。
「や、やーね、悪い病気を一撃必殺って意味よ」
(俺は病人じゃなくてケガ人なんだが......)
「とりあえず、ノーラが元気なさそーだったんで、試しに食べさせてみたら、あっと言う間に元気になって、二百メートルほどダッシュして跳 ね回ってたわ。効果は完 璧 よ」
(それって多分、逃げたんだと思う......)
「あとになってノーラ、捕 まえたネズミを持ってわたしのとこに来たわ。お礼のつもりなのよね、きっと」
(降伏の証 しだと思う。俺は......)
「......全部食べるまで、帰らないからね」
(ゔゔ............)
オーフェンはしくしくと泣きながら、なぜか貝 殻 の入っている真っ赤なシチューをスプーンでかきまぜた。こういうときにかぎって、いつもは患 者 に余計な食事を与えないでくださいと小うるさいことを言う看護人が現れない。
「泣くほど喜んでくれるなんて嬉 しい♥ 貝殻も食べてね」
(こいつ、わざとやってるんじゃねーだろーな......)
邪 気 もなくにこにこしているクリーオウの顔を横目で見ながら、オーフェンは殺人人形もろとも自分に魔術をかけたときと大差ない心境で、なぜか刺 激 臭 のするシチューを口の中に入れた。
「......すごかったですねー。お師様、部屋を二十周は駆 け回ったでしょ」
「なにが......すごいっ......てんだ......」
ベッドの中でうずくまって、オーフェンはうめいた。どうやら、シチューの圧倒的な威 力 ──としか表現しようがない──が良かったのか悪かったのか知らないが、とにかく声だけは出るようになっていた。がらがらのしゃがれ声ではあるが。
「グ、グリーオヴ......は、どこに逃げやがった? あんにゃろ......」
「え〜と」
さっきまでクリーオウが座っていたベッドサイドに腰を下ろし、困ったようにマジクが頭をかく。
「お師様が、そのベッドの下で痙 攣 しはじめた時点で、なんだかちょっと長い小用になるかもって、青い顔で出ていきましたけど」
「ぐぞ......なんで普 通 に作る食事はけっこういけるのに、あいつ俺に作るもんはこんなのばっかなんだ......?」
「前に石 鹸 食べさせられましたねー」
「それはお前だって食ったじゃねえか......」
咳 き込みながらオーフェンは毒づいた。マジクが、あっけらかんと、
「明日は百戦百勝ミートローフだそーです」
「いらんわっ!」
オーフェンは怒鳴って、ベッドの中で体勢を直した。ぐしゃぐしゃになったシーツを自分で伸ばしながら、ちら、と生徒の顔を見やる。
マジクは黙って、こちらを見返してきている──いつもはただ素直なだけの双 眸 は、今は感情を隠してひたすらに澄 んでいる。なにかを......待っている顔だ。
はあ──とオーフェンはため息をついた。しゃべるのに邪 魔 な顔の湿 布 をぺりぺりと剥 がしながら、
「なにか、聞きたいって顔だな」
「いえ......ぼくが、言いたいんです。あの、お願いがしたいとか、そういうんじゃなくて、ぼくが決めたことを聞いてほしいんです」
「......言ってみろよ」
マジクがなにを言い出したいのか、なんとなく予想しながら、オーフェンは言った。こくんとうなずいて、また少し躊 躇 してから......マジクが、口を開く。
「ぼく......《牙の塔》に入門しようと思うんです。登録とか、それだけじゃなくて......」
◆◇◆◇◆
「ヘンねー。なにがいけなかったのかしら......」
病院の屋上で、手 摺 りにもたれてクリーオウがつぶやいた。頭の上のレキの背中をぺんぺんと撫 でながら、
「猫で実験したのがまずかったのかしらね。ティッシも、猫じゃなくてワニとか飼 ってれば良かったのに。さすがにワニが走り出したりしたら、それをオーフェンに食べさせようなんてわたしも思わないもん」
それはどーだか......といった表情で、レキが目をそらす。が、頭上のことなのでクリーオウには見えない。
と──
「なにがいけなかったのかしらね......」
「............?」
彼女からは少し離れたところで、やはり手摺りにもたれて、ひとりの女がそんなことをつぶやいていた。どうも、こちらの独 り言 につられて口から出たものらしいが──
(さっきまで、こんなひと屋上にいたかしら......)
不思議に思いながらクリーオウは、その女を観察した。
(あ、なんか、きれいな人......)
背は、長身といっていいだろう──黒髪をうなじのあたりまで伸ばした、二 十 歳 ほどの女である。どこか猫のような挑発的な目付きで、手摺りの上から、街の遠くを見つめている。誰かに似ている──
なんとなく気後れしながらも、つつ、とクリーオウはそのほうに近寄っていった。
はにかみながら、聞いてみる。
「あなたも、なにか失敗したんですか?」
「え?」
びっくりしたように、その女は、こちらに視線を転じた──そして、にっこりすると、
「そうね。まあ、失敗なんてどれもこれもつまらないことばかりなんだけどね」
「わたしも、病人食なんて作ってみたんだけど、やっぱり、ほら──栄養とかそういうことを考えると、なんだか味のほうまで気が回らなくって」
「そう......わたしは、料理のこととかなにも知らないけど、そうね──気が回らないっていうのは、よくあることよね」
彼女はそう言って、くるりと身体を回転させると、腰の後ろを手摺りにもたれさせるようにして、こちらの頭に手を伸ばしてきた。
彼女の手の先に、レキが前脚を伸ばして応じる。
指がぎりぎりとどかないくらいのところでレキをからかいながら、女は笑った。
「あなたの犬? よく慣れてるのね」
「この子、犬じゃないんですよ」
「そう............」
「あ、わたし、そろそろ行かなくちゃ──」
クリーオウは、ぱっと手摺りから跳 ねるように身体を離すと、女に向かってぺこりと一礼した。
「ありがとう。なんだか、失敗ばかりしてるのって、世の中でわたしだけなんじゃないかって思ってたところだったんです。みんな、けっこう失敗なんてしてるんですよね」
「そうね」
女は、くすくすと笑った。
「実を言えば失敗ばかりよ。これは、わたしの先生の言ったことなんだけどね、ひとつの成功もひとつの失敗も、どちらも同じことなのよ。要は、その後にどう立ち回るかで、成功も無意味になるし、失敗も成功に転じるの。わたしはね、失敗を成功に変えるために、努力しようと思ってるの......」
「......わたしのお父様も、生きてる時にそんなこと言ってましたよ。それじゃあ──あの、がんばってくださいね」
「ええ......」
女の返事に背中を押されて、クリーオウはぱたぱたと階下へ降りる階段へ、走っていった。もし、なにかの気まぐれで、階段の下でずっと待っていたのなら、その女がいつまで経 っても階下に現れないことを訝 っただろうが──
タフレム市に起こる出来事の、これはすべて、まだ始まりに過ぎなかった。
「やっほー! この『あとがき』まで読んで、わたしのこと覚えていてくれた読者が何人いたか挑戦よ! 巻末の進行、パットことパトリシアがお贈 りいたしまーすっ!」
「(作者)......そー言われてみれば、冒険だったかな......お前を出すのって。でも今回、お前くらいしか単発のヒロインがいないからしょーがないけど......」
「『しょーがない』とは言 語 道 断 っ! こー見えてもわたし、登場人物の平均年齢を下げる会の会長なのよっ!」
「また、いーかげんなことを......ま、こいつはほっといて、作者でございます──」
「ああ、この本の発売を一か月も延期させた元 凶 男 よね」
「............」
「おまけにドラゴンマガジン本誌の連載でも、毎月毎月、落とすぎりぎりまで原稿があがらず、おまけに落 雷 で電話とFAXまで壊して(当然、保証も効 きませんでした)編集部と連絡がつかなくなり、編集さんに山盛りのメーワクをかけまくった男なのよね」
「........................」
「だいたいこの本だって、発売延期が本当に一か月ですんでるんだかどーか、とても不安だわ。今まで、まがりなりにも四か月に一冊のペースだったのに、それも崩 しちゃって。五か月っていったら、あとひと月で半年になっちゃうのよ。分かってる? どーせ、ンな長々と日数をかけなきゃ作れないよーなお話を書いてるわけでもあるまいに」
「........................」
「おまけにこの本も、なんだか分厚くなってるし──」
「申し訳ございません......(低頭)」
「......なんか素直ね、今回は......」
「いや、これがいつもなら左フックからのコンビネーション及び足技で崩しての体 落 とし、とどめに三角絞 めで悶 絶 させたあげく、勝手にビデオの録画予約を取り消して、読みかけの本のしおりは当然抜いて、さらにはご近所にあることないこと悪い噂 をばらまくといったよーな軽い報復もするんだけど──」
「そこまでする......」
「今回あげられたことは、ほぼ事実なので反論できん」
「ほぼ?」
「落雷はぼくのせいじゃない」
「そんなことでしか反論できないの......?」
「ほかはまぎれもない事実です。えっへん」
「いばるな、うつけ者。ぷん」
「ま、反省はそんなところで切り上げて、明日を楽しく生きましょう」
「一度本気で反省したほうが、あんたのためだと思うわ、パットは」
「本編のほうが転げ落ちるようにシリアス化していく今 日 に、あとがきまで深刻になった日には、切なくて仕方なかろ」
「いや、そーゆう問題じゃないと思うの......」
「(無視)次回も大変だよなー。どーなるんだか。とにかく誰も死なないよーにすることくらいで手一杯だ、この作者は」
「この男は......」
「だいたいこのシリーズ、名前のないキャラクター(その他大勢とも呼ぶ)が死ぬこと死ぬこと。この巻は、そーでもないけど......とか言いつつ、やっぱ死人は出てるもんな。虫も殺せない作者なのに、どーしてこんなことになるんだか」
「なにが悪いって、自分で分かってないところが一番悪いんじゃないかと思うの」
「ま、本編がシリアス化してる鬱 憤 は、その分ドラゴンマガジンのほうで発散してるから、まーいーか。ちなみに連載オーフェンをまとめた本は、来年初めに発刊予定です。おなじみのファンタジア文庫♪」
「(ぼそり)アド作者......」
「............(動きを止める)」
「......? 不可思議な挙動......」
「左フックからのコンビネーション及び足技からの体落とし&三角絞めぇぇっ!」
「どひぃっ! と逃げながら、それではみなさん、さよぉならああっ! 撤 収 ううっ!」
「待てぇぇっ! ビデオを持って逃げるなぁぁっ!」
一九九五年九月──
秋 田 禎 信

「別に殺しはしないわよ」
女は軽くそう言いながら、ぐい、と手首をねじりあげた──その男の胸 ぐらをつかみあげている手を、である。男の身体 はなかば持ち上げられ、壁 に押 しつけられている。表情をひきつらせ、恐 怖 の浮 かんだ眼 差 しで女を見下ろしていた。
粗 末 な家の中だと言える。ぼろぼろになった壁に、腐 ったような臭 いを発する柱──はがれかけたポスターは少し昔の劇場のものだ。窓はない。しみの目立つ天 井 からは旧式のガス灯がぶら下がっている。部屋の中は散らかり、そしてその男の仲間たちが、もみくちゃにされてあちこちに倒 れている。
誰 も似たような格好だ──というか、普 通 の格好だ。街のどこででも見かけるような、ただの男たち。
女は、少し違 う。百七十ほどある身体を、黒い戦 闘 服 で包んでいる。柔 らかそうな生 地 でできた軽装のものだが、弱々しいガス灯の明かりに照らされた光 沢 は、どこか金属質だった。黒髪にブラウンの双 眸 ──その瞳 はむしろ愛 嬌 さえ含んで、どこかいたずらっぽく笑っている。
「殺す気はないわよ。わたしだって殺 人 鬼 じゃないんだから」
女はそう繰 り返して、くすと笑った。
「ただ......知りたいだけ。あなたの知っていることをね」
「儀 式 を邪 魔 しておいて......なんのつもりだ、魔女め!」
男が口 惜 しげにささやく。女は、別に気にしたふうでもなくあたりを見回して、
「そうね。あなたたちの集会に割り込んだのは悪かったけど、あなたたちって、普段は自分たちの信 仰 をおくびにも出さないんだもの」
彼女が見回した先には、乱闘の結果散らばった家具や男たちのほかに、壊 れた祭 壇 やら、過去の生 贄 儀式の名残 である燭 台 などがあった。燭台は、それそのものはただの市 販 のものだが、蠟 燭 の代わりに鶏 肉 の塊 が刺 してある。
女は、小さく嘆 息 したようだった。
「ま、同情はするけどね。この街でドラゴン信仰者が暮らしていくってことがどんなことか、想像できないほど頭悪くないわよ」
「魔女め......!」
男が、繰り返し呪 詛 のようにうめき声をあげる。が、自分の胸 元 をつかんでいる女の手を振 りほどこうとしても、まったく歯が立たない。
彼女は平気な顔でつぶやいた。
「実を言えばね、わたしだって人目を忍 んで生活してるのよ。だから同情できるわけ。本当は損なんでしょうね、こういうの──そこらに倒 れているのを二、三人消し炭にしてあなたを脅 したりしたほうが早いのかもしれないけど......」
と、彼女はふと思いついたように、
「そうね。そっちのほうが早いのかもしれないわね......」
「ま──待ってくれ!」
男が、あわてて叫 んだ。どうせただの脅しだと分からなかったわけではないだろうが──そんな不確かな駆 け引きができる状 況 でもない。
女は、にっこりとした。
「ありがと。あ──確かめる前にお礼言っちゃったけど、今のって、わたしの質問に答えてくれるってことだったのよね?」
「くっ......」
男はうめいたが、否定はしなかった。
「じゃ、改めてありがと。さすが名高い『聖域の集 い』会よね。いさぎよいわ──あらごめんなさい。いさぎよいって、宗教結社に対しては褒 め言葉にならないわよね」
「この......!」
彼女の言葉に、男はかっと激高して叫んだ。
「なぶるのはやめて、聞きたいことを言ったらどうだ!」
「あなたが積極的になってくれるのを待ってたのよ」
女はそう言うと、ふっと目を細めた。笑うようにではなく、冷たく、静かに。
つい先刻までは魅 惑 的ですらあった眼 差 しが、氷の刃 のようにきわどいものに変じる。
にわかに見せた真 剣 な面 持 ちで、彼女は質問を口にした。
「聞きたいのはひとつだけよ──」
と、一呼吸おいて続ける。
「ブラウニング家の『世界』はどこにあるの?」
──ふと──
夢の中で肩 をたたかれて、目が覚めた。暗 闇 の中、ぼんやりと白いものが浮 かぶ。
ふだんなら亡 霊 とでも見 間 違 えたかもしれない──視界の中のもやがゆっくりと消えると、オーフェンは起き上がった。
シーツをほうり出しながら、部屋の中を見回す。部屋はかなり広い上に調度にも金がかかっている。趣 味 がいいのかどうかは知らない──彼にはあまり興味がなかった。ただ、この屋 敷 の持ち主はこの部屋を彼のために用意していたのだとは聞いている。
繻 子 のクッションが並べられたソファに置いてある、くたびれた小さなダッフルバッグだけが、今の彼の持ち物だった──替 えの服が何枚か、いつも軽い財 布 、そして身の回りのこまごましたものが入っている。そのほかは、この屋敷の主人である彼の姉がそろえていたものだ。いつ帰ってくるか知れない自分のためにこの部屋を用意していたという彼女は、実の姉ではない──戸 籍 上の姉ですらない。ただ、子供のころから姉だと思っていたというだけだ。
机の上の置き時計は彼女が昔、誕生日に彼に買ってくれたものである。彼女が《塔 》から持ち出しておいてくれたのだろう。その時計の針が午前二時を少し回っているのを確 認 しながら、オーフェンは東部織 りの絨 毯 の上に適当にほうり出していたいつものシャツを拾い上げた。ところどころすりきれた跡 のある黒いシャツに腕 を通す。
顔を上げると、向こうの壁 にかかっている鏡に自分の姿が映っているのが見えた。吊 り上がった険悪そうな目は、別に意識してやっているわけではない。どこか皮肉っぽい造 作 に関してもだ。黒 髪 、黒目、それは大陸ではごく一 般 的な平民の特 徴 で、実際彼自身、生まれになにか変わったことがあったわけではない。ただし生まれてから二十年ばかり──その年月の間、むしろ数 奇 な出来事のほうが多かったのかもしれなかった。
そんな気がしていた。
ベッドの頭には、革 の上着がかかっている。その横のバンダナと、上着のポケットに入っている銀製のペンダントを取り上げて、彼は嘆 息 した。ペンダントの鎖 にぶら下がっているのは、剣にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 ──大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔》の紋章である。
オーフェンは、手早くそれらを身につけた。ごしごしとこめかみのあたりを手でこすりつつ、ベッドわきのブーツに足を入れる。
「ったく......」
そんなつぶやきが口から漏 れた。
いらいらとかぶりを振 りながら、彼はベッドから立ち上がった。
のろのろとした足取りで、扉 へと向かう。
「クリーオウ──またお前か? いい加減にしろよな、毎晩毎晩......」
つぶやくが、答えはない。オーフェンはドアを開けた。
真っ暗な廊 下 を見回してみるが、人 影 はない。じっと静かに、闇 がにじんでいる。
「? 気のせいだったのかな......」
と、つぶやいた瞬 間 ──
じゃっ!──
鋭 い音が闇を引き裂 くと同時、オーフェンは背後へと跳 び退 いていた。ほんの数センチをかすめて鼻先を切り裂いていったのは、一条の黒い影である。手 刀 だ、と彼はすぐに気づいた。
天 井 に張り付いてでもいたのか、開いた扉の上から、小 柄 な人影が部屋に躍 り込んでくる──飛び降りながら、手刀を放ってきたのだ。
素 早 く後退しつつも身構えて、オーフェンは冷静に観察していた。人影は、見たところ子供のように小柄で、覆 面 を着けている。全身黒ずくめで、武器は持っていない。人影の覆面にも格好にも、オーフェンは見覚えがあった──すべて《牙 の塔 》で支給されるものだ。
(《塔》の魔 術 士 ?──いや──)
侵 入 者 の身のこなしから、彼は即 断 した。
(暗殺者 だ!)
胸中で叫 びつつ。再度打ちかかってくる敵の拳 を掌 でそらす──
そしてこちらから接近し──
肩 口 を敵の身体 の側面に密着させてそこからさらに一歩踏 み込む!
体当たりされた格好で、敵が数歩たたらを踏む。
(ここで追 撃 すれば......倒 せる)
が、そう思いながらオーフェンは、あえて踏みとどまった。ただの相手ならば、ここでたたき伏 せにいっても構わないだろうが......
暗殺者となると、うかつに勝ち急げば痛い目を見るのはこちらということになりかねない。オーフェンは体勢を立て直す相手を見 据 えて、静かに聞いた。
「なんのつもりだ?......ここは《塔》の上級魔術士 レティシャ・マクレディの所有する敷 地 内だぞ」
「そしてお前はキリランシェロ、だろう」
相手もまた、静かに答えてくる。オーフェンは、ぐっと息を呑 みながら目を細めた。鋭 くした眼 差 しで、じっと対 峙 の姿勢をとる。
が、敵はすぐに続けてきた。体格を見て少年かと思ったが、声はかなり低く──もし声 色 を変えているのだとしても、成人しているのは間 違 いなさそうだった。
「見つかってしまっては仕方ない。ひとつだけ聞く。ブラウニング家の──」
と、男がつぶやきかけた、その瞬間──
ばたあああああんっ!
音を立てて、背後の窓が開いた。
そして、開いた窓からまた黒い人 影 が躍 り込んでくる。
(新 手 ⁉ )
オーフェンは胸中で悲鳴をあげながら、素 早 く背後へと向き直った。ついでに後ろ手に──つまり先の相手に向ける形で、叫 ぶ。
「我は呼ぶ破 裂 の姉 妹 !」
刹 那 、空気の壁 を引き裂 くように、衝 撃 波 が炸 裂 する。
その魔術がきちんと第一の侵 入 者 を無力化していたのか、その確 認 をしている暇 はなかった。そのまま注意を、窓のほうへと向けるしかない。
窓から飛び込んできた人影は、そのまま真っすぐこちらに向かってくると、携 帯 用 の警棒のようなもので殴 りつけてきた。全身黒ずくめなのは先の敵と同じで、似たような覆 面 もかぶっている。さらに、これもかなり小 柄 で、ほとんど子供なのではないかと思ってしまう。
なんにしろ、彼は横跳びに侵入者の攻 撃 を避 けた。
人影は、思いのほか素早く反応すると、こちらの足のつけねあたりを狙 って蹴 りを放ってきた。悪くない──むしろ鋭 い動作だが、彼はほんの少し、はたから見たら頭が揺 れた程度にしか見えなかっただろう小さい挙動で自分の身体を後方にずらした。運動靴 を履 いた相手の足の裏が、わずかに触 れるくらいにかわす。
彼は軽く、相手の蹴り足をつかんだ。地面の野菜でも引っこ抜 くようにして、あさっての方向にそれを放り投げる──
「きゃあっ!」
侵入者はかん高い悲鳴をあげると、ころんと転 倒 した。
「............」
それを見下ろして、ため息をつく。彼はぼんやりと口を開けた。
「あのなぁ......」
「まだよっ!」
侵入者は床 に転がったまま叫 ぶと、持っていた警棒をこちらに投げ付けてきた──が、それをひょいと首を曲げて避けると、オーフェンは手のひらを上に向けてつぶやいた。
「我は生む小さき精 霊 ──」
ぼうっ──と、手のひらから白い光を放つ鬼 火 のようなものが浮 かび上がる。明かりは無機質な白光で部屋を照らし、そして、侵 入 者 の姿も浮かび上がらせた。
彼は、頭に手を当ててうめいた。
「いいかげんにしろよ、クリーオウ......」
「うっ......!」
息の詰 まったような声をあげて、ふたり目の侵入者はかぶりを振 った。
「ち、違 うわ、オーフェン──わたしは『愛らしいクリちゃんを《塔 》に連れていってあげてね仮面』よ!」
「えーと......」
オーフェンは、半眼でぼやいた。
と......はっと気づく。
「しまったっ!」
彼は叫んで、振り返った。さっきの魔 術 をやはり避 けていたらしいひとり目の侵入者のほうが、こちらの隙 を見ると素 早 く窓へと駆 け出していく──開けっ放しの窓にだ。
「我は放つ──」
右手を差し伸 べながら叫びかけて、止 まる──彼が唱え終わるよりも早く、侵入者は窓から外へ飛び出していた。あわてて窓に駆け寄って、奇 襲 に注意しながら外を見回す──
だがもう、どこにも人 影 は見えない。気配もない。
「逃 げられたか......」
オーフェンは舌打ちしながらうめいた。と、ふと向きやると、いつの間にかふたり目の侵入者のほうが隣 に並んで腕 組みしている。
見ていると、重々しくうなずいて言ってきた。
「わたしの知らない間に、愛らしいクリちゃん以下略仮面2号が存在していたなんて......」
「なんぼなんでも知らないうちに存在するか、ンなものっ!」
オーフェンは叫 びながら、わななく両手で侵 入 者 の覆 面 を引っこ抜 いた。少し大きめの覆面の下から、金 髪 の少女の顔が現れる──
しっかりと窓を閉めながら、少女に向けてオーフェンはきっぱりと告げた。
「なんにしろ、何度蒸 し返そうと前に言った通りだ──お前は《塔》へは連れてかないからな!」
「ふう」
覆面から解放された顔を両手で撫 でながら、その少女──クリーオウは息をついた。
「その戦 闘 服 、ティッシのか?」
オーフェンが聞くと、彼女はこくんとうなずいて、
「ちょっと借りたの。彼女の昔のものだって。それでもサイズは少し大きいけど」
クリーオウは気楽に言って、くるりと身体を回してみせた──先の侵入者と似た格好なのは当たり前で、こちらも《塔》標準の戦闘服である。柔 らかいが強度のある黒 獣 皮 と耐 刃 繊 維 とを組み合わせたものだ。外からは見えないが、関節のところは三重に皮を組み合わせてかなり自由に動けるようになっている。ツナギのような見た目のくせに動きやすいのは、そのためである。
本来なら身体のあちこちに武器や取り外し式の装 甲 をつけられるよう、留め金がいくつかついているのだが、クリーオウが着ているものは留め金の数が少なくなっていた。ティッシ──レティシャが改造したのだろう。
オーフェンはちらりと見やると、やはり開いたままの扉 のほうへ歩いていった。
「髪 、服の中に入れてるのか?」
「そーなの。だから首が回んなくって」
クリーオウはそう言いながら、服の背中からずるずると長い金髪を引きずり出した──黒髪が平民の特 徴 だとすれば、金髪というのは大陸貴族のごく一 般 的な特徴である。が、この少女に関しては数代前に貴族の血が混じっているというだけで、貴族でもなんでもなかった。
オーフェンはそれを肩 越 しに見ながら、扉を閉めた──と、ふと思いついてまた開けて廊 下 の様子を見るが、足 跡 のようなものは、何も残っていない。
ため息をつきながら、彼はまた扉を閉めた。
「なんでこー、お前ってあきらめが悪いんだ?」
「やっぱり、言いたいことは行動とともに主張するべきよね」
クリーオウは、嬉 しそうに手を組んでにっこりした。
「第一、こーんな頼 りになるわたしを置いていったりしたら《塔 》でいじめられたときにきっと難 儀 するわ。ちゃんと連れてかなくっちゃ」
オーフェンは呆 れ顔で答えた。
「そのお前のせいで、さっきは侵 入 者 をみすみす逃 がしちまったじゃねえか......レキの奴 はどうした? どっかに隠 れてるってんじゃねえだろうな」
「レキ? ああ、寝 てるわよ。起こすの可 哀 想 だからわたしだけで決行したの。エサとかなんにも食べないくせに、寝るのは寝るのよね。ヘンなの」
と──
ふと、会話が止まる。オーフェンは気にするように、彼女のほうを見やった。クリーオウは明るいブルーの瞳 をこちらに向けて、じっとしている。無論、彼女はレティシャとは似ても似つかなかったが、昔の姉の服──といっても戦 闘 服 だが──を着て立っている姿は、こちらになにかを思い起こさせるものがある。
(こいつって──)
オーフェンはふと思いついて、胸中で独りごちた。
(いつまで、俺 にくっついてくるつもりなんだろうな......)
その問いに答えるわけでもないだろうが──
彼女は珍 しくしおらしい仕草で口元に拳 など当てた。視線を少し下に落として、口ごもるように続ける。
「あのね......オーフェンが、わたしのこと心配してくれているのはよく分かっているの」
オーフェンは即 座 に反論した。
「......別に《塔》に行くことに関しちゃ、お前のこと心配なんてしてねえぞ」
が、まったく聞いた素 振 りもなく、クリーオウは続ける。
「最近ね、気づいたのよ。オーフェンがわたしのこと置いてきぼりにするのって、いつも危険な場所に出向くときだって」
「《牙 の塔》でやっかいごとなんか起こされたら、俺なんかがフォローできるもんじゃねえからな」
「でもわたしだって成長したわ──三か月前に出会ったばかりの頃 とは違 うわよ」
「そもそも一 般 人 の入場なんで認められてねえんだし──」
「相棒だもの。まずはわたしを信 頼 してほしいの」
「へたをするとティッシやフォルテにまで迷 惑 をかけることになりかねねえからな」
「あの──」
「まあ妥 当 な扱 いだよな」
「オーフェン......」
彼女は急に、怒 りを浮 かべてこちらをにらみつけてきた。
「ひょっとしてわたしのこと嫌 いなんじゃない⁉ 」
「いや、そーゆうことじゃねえんだけど──」
とオーフェンは、言い訳するように答えだした。目を閉じて、ぴっと指を立てる。
クリーオウは、噛 みつくように顔を近づけて聞き返してきた。
「ないんだけど⁉ 」
オーフェンは頭の中で言葉をめぐらせると、困ったように続けた。
「ねえんだけど──お前って面 倒 事 ばっかり起こすから危なっかしくて連れて歩けないとゆーか──」
「とゆーか⁉ 」
「隙 を見て俺の財 布 持ち出しちゃあ、わけの分かんねえもん買ってくるし──」
「くるし⁉ 」
「我 がままだし乱暴だしわけの分かんねえことで俺に食ってかかるし意見しよーものなら黒い悪魔 の圧 倒 的な火力で以 て武力鎮 圧 をはかってくるし家事万 能 のくせして食事当番のときは俺にヘンなものばっかり食わせよーとするし──」
「するし⁉ 」
「......ええと......」
「それで打ち止め?」
聞かれて、オーフェンはうなずいた。
「ああ。まあ......こんなとこかな」
と、ふと目を開けると、彼女は腰 に手を当てて、きっぱり堂々と言ってきた。
「たったそれだけじゃないの!」
「なにがだぁぁぁぁっ!」
オーフェンは思わず絶 叫 して、彼女につかみ掛 かった。と──
ばんっ!
扉 が、豪 快 に跳 ね飛ばされて開く。
「............」
クリーオウといっしょに見やると、そこにはかなり険悪な形 相 を浮 かべた女がひとり、立っている──
ロングの黒 髪 、どこかぼんやりとした瞳 、引き締 まった唇 ......しゃれにもできないほどの、絵に描 いたような美女。ネグリジェの上にガウンを引っかけて、細い肩 を精 一 杯 いか
らせている。
彼女はゆっくりと大きなため息をついてから、のろのろとうめいた。
「いいかげんにしてよ......三十八時間ぶりに、よーやく寝 られるんだから......」
「はい......」
オーフェンとクリーオウは、同時に彼女に頭を下げた......
自分が悪いのは分かっていた──とにかく、すべての原因は自分だったのだから。
が、結局後始末は彼女に任せるしかなかった。自分が二週間ばかり病院で寝ている間に、彼女がどれだけ眠 れたものかは定 かではない。そのくらいはっきりと、彼女の顔には疲 労 の跡 がうかがえたのだった。
レティシャ・マクレディは、その疲 れた表情をこちらに向けた。
「とりあえず、フォルテのほうは了 承 してくれたわ。彼があなたに悪くすることはないと思うけど」
「すまない」
オーフェンは頭を下げると、相変わらず散らかったままの彼女の書 斎 を見回した。書類や書 籍 の原生林のような部屋の中には、彼女と彼のほかには誰 もいない。

レティシャはあのあと数時間眠ってから、また出 掛 けて帰ってきたところだった。
(超 過 労働もいいとこなんじゃねえか?)
と胸中で独りごちる。が、彼女はすらすらと続けた。
「ここ二週間《塔 》に通いづめだったんだけど、わたしが見たかぎりでは長老のほうに動きはないわ。フォルテが連 絡 してないんでしょうね。彼はまあ、いらないことは言わない人だから──正直あまり好きじゃないけど、こういうときは信 頼 できるわね」
「俺は別に、嫌 いじゃないけどな」
オーフェンは言いながら彼女を見やった。《塔》に出向くときには正装──つまり上級魔 術 士 の制服である黒のローブを着ていただろうが、帰ってきてからすぐ着 替 えて、今は普 段 着 にもどっている。前にも見た黒のシャツとベージュのスラックスだが、少し違 っているようにも見える。ひょっとしたら似たような服を何着か持っているのかもしれない。
彼はといえば、やはりいつもの黒ずくめだった。
(ローブから離 れても黒を選んじまうのは、黒魔術士の性 なのかな)
オーフェンがなんとなくそんなことを考えていると、レティシャは、少し眉 をひそめたようだった。
「フォルテには気を許さないほうがいいと思うわよ。彼、あなたには失望しているみたいなこと言ってたわ」
「だろうな」
言いながらオーフェンは、肩 をすくめた。
が、レティシャがいらだたしげに嘆 息 するのを見て、思わず姿勢を正してしまう──彼女はゆっくりと口を開いた。
「そうじゃないのよ──多分彼は、今回のことではあなたを疑ってるんじゃないかと思うの。そのことでは、わたしのこともグルと思ってるでしょうね」
「疑われる根 拠 はいくらでもあるしな」
オーフェンは苦 笑 すると、指折り数えるようにした。
「二週間前に続発した長老暗殺事件に関しては、フォルテはその犯人をキリランシェロ──つまり俺だと確定していたらしいし。真犯人は俺が......まあなんとかしたが、その死体も足取りもまったく残っていない。チャイルドマン邸 破 壊 の際、その地下室で気絶していた俺をティッシが運び出すのは、その場にいた市街警察やらやじ馬やらがはっきりと目 撃 している。長老暗殺の犯人である俺を、あんたがなんとか拘 束 して、なおかつ屋 敷 にかくまっていると──そう勘 ぐるほうがむしろ自然だろ」
彼女は、きっと視線を鋭 くした。
「......あなた、わたしにも真相を話していないの、忘れてるんじゃないでしょうね」
「言っただろ。あのキリランシェロは、なにかの魔 術 装置だったんだ。《塔 》に保管されていたものが勝手に作動したのか、誰かが作動させたのかはしらないけど、俺の姿を模 倣 して長老を暗殺していたのさ。俺の姿形を知ってる人間なら、《塔》にはいくらでもいるし──」
「あなたの嘘 って分かりやすいから嫌 いよ」
レティシャはまったく取り合わずにそうつぶやくと、もうそれでいいというように手を振 って制してきた。長い髪 を梳 くようにしながら、また嘆息する。
「もういいわ。聞きたくない──とりあえずこれ、読んで」
彼女はそっけなく言って、一枚の紙を差し出した。それを受け取って、しごくゆっくりと目を通す──オーフェンが読むのとほぼ同じスピードで、レティシャがその内容を読み上げた。
「キリランシェロ──二十歳 。チャイルドマン教室ナンバー七。チャイルドマン教師に師事。十五歳二か月で上級魔術士の資格を得る。五年前より極 秘 の《塔》外任務。身元引受人は同教室のレティシャ・マクレディ」
そこまで一気に言って息継 ぎし、レティシャは続けた。
「それが《塔》の最新の形での、あなたの記録よ。十日前にわたしが更 新 したわ。あなたは《塔》の上級魔術士である資格は失っていないけれど、失ってても文句が言える立場じゃない。同盟反逆罪は失効しても、その一歩手前にあることは変わらないから。いい? 分かるわよね。この街でこれ以上《塔》ににらまれたら、本気で《塔》の暗殺者 と戦わなければならなくなるわよ」
「......もう既 にそういう事態にはなってるみたいだぜ」
さらっと告げたオーフェンの言葉に、レティシャは、極 端 なほど表情を引きつらせた。
「なんですって──あなた、もうなにかしでかしたの⁉ 」
「俺はなんもしてない」
オーフェンは、両手を広げて肩 をすくめた。
「昨夜、騒 ぎがあっただろ? いつものクリーオウの『襲 撃 』の前に、別口の訪問があったんだ」
「......どういうこと?」
「俺にも分からない。だがあれは《牙 の塔》の装備だったし、身のこなしなんか見ても、《塔》の暗殺者 なのは間 違 いないだろうと思う」
「また......『キリランシェロ』?」
訝 怪 な顔で聞き返してくるレティシャに、オーフェンはかぶりを振 った。
「いや違う。あれよりは数段腕 が劣 ってた......こういうのも、自画自賛って言うのかな」
「知らないわよ」
レティシャは険悪な声をあげると、うんざりと嘆 息 してみせた。
「でもかえってタチが悪いかもね......例の偽 者 の『キリランシェロ』だったら、力ずくにでも倒 してしまえば終わりだったけど、《塔 》の暗殺者 たちが動き出したのだとすると、最悪の場合、あなたの同盟反逆罪が失効できなかったのかも......」
「いやそれが、妙 なんだ」
「え?」
顔を上げるレティシャに、オーフェンは顔を近づけた。思い出しながら続ける。
「なんか、俺のことなんかどうでも良さそうだったぜ?──なにか捜 し物でもあって忍 び込んだみたいだった。ブラウニングがどうのこうのって言ってたけど......ここに忍び込んで探してたってことは、ティッシに心当たりがあるだろうと思ってたんだけどよ」
「ここには大したものは置いてないわよ──少なくとも《塔》のお偉 方 が興味を持つようなものはね。仮にあったとしても、わたし相手に暗殺者 を使う必要はないでしょう。長老から、よこせと言われたらなんだってさっさと渡 すわよ」
レティシャはどうも、こちらの言った内容そのものに半信半疑のようだった。近づけたこちらの顔に、彼女も少し近づいてくる。
「どのみち詮 索 はしないことね。《塔》の長老たちとつき合う最良の方針は、逆 らわない、近づかない、目に留まったりもしない──これに尽 きるわよ」
「分かってるつもりだけどな」
オーフェンは身を退 きながら、そうつぶやいた。こけるようにあごを少し落として、レティシャがうめき声をあげる。
「どうかしら」
と疑わしげな調子で、
「ならどうして、《塔》に出向きたいなんて言い出したわけ?」
「言ったろ。マジクの奴 を登録しておきたいんだって。助成金が──」
「生徒の登録なんかわたしに頼 んだって構わないわけだし、お金が必要ならわたしが用立てるわよ──いいかげんにして」
彼女はぴしゃりと自分のひざをたたいた。
「わたしの生徒だって、つくのならもうちょっとマシな嘘 をつくわよ」
にらまれて、オーフェンは居 心 地 悪く目をそらした。彼女はかなり本気で怒 っているようだったが──
彼は、かぶりを振った。
「嘘は、ついてない」
(バレるのは分かってるんだけどな......)
自 嘲 気味に付け加える。
......どのみち、どんな嘘だって彼女に見破られなかったためしはないのだ。
それを聞いた瞬間──レティシャの目が、さあっと冷めていくのが見えた。
「分かったわ。わたしにも話せないってわけね。あなたのためにここんところ、ろくに睡 眠 時間もとってないわたしにも」
言っているうち、彼女は完全にしかめっ面 になっていた。オーフェンはなだめるように手を振 りながら、
「根に持たないでくれよ」
が、まったく聞く耳持たずに彼女は続ける。
「あなたの帰りを五年も待ってて、そのためのトラブルを解決してもなにも話してももらえず、後処理にだけは都 合 よく利用され奔 走 させられ、あげくに嘘をつかれても、恨 みに思うことさえ許されないのね、わたしって」
「嘘は言ってないってば」
オーフェンが言うと、レティシャはさらに視線の温度を下げていった──そっぽを向くと、一言だけつぶやいてくる。
「この仕打ちに対する報復はするわよ」
「うっ......」
彼女の言葉にオーフェンは、底知れない嫌 な予感を覚えていた。
◆◇◆◇◆
『巨人の大陸 の崩 壊 』──
表紙もなにもない、黒い革 綴 じの本。その一ページ目の見出しは、確かにそう読めた。
もう幾 度 となく目で撫 でた文字をまた黙 読 して、マジクは奇 妙 な声で独 りごちた。
「巨人の大陸って......神様の国のことだよな?」
正確には違 ったかもしれない──彼の師であるオーフェンか、あるいはレティシャあたりにでも聞けば、もっと詳 しいことを教えてくれるかもしれなかった。が、マジクは実は、この本のことを誰にも言ってはいない。
ここ二週間、特にすることもないので読んでいたこの本は、実は他人の家から勝手に持ち出したものだった。
マジクは嘆 息 した──まだ十五にはなっていない、金 髪 の少年。貴族と縁 があるわけではないのだが、例外というのはないことではない。寝 間 着 のような普 段 着 を着て、テラスにしつらえられたデッキチェアに腰 掛 けている。前に着ていた黒 魔 術 士 ふうの衣 装 は、最近はあまり着ないようにしていた──ここが黒魔術都市であることの気 後 れがあるというのが、表向きの理由(といって、誰かに問いただされたというわけでもないのだが)。本当の理由は、別にある。実は自分に、師の真 似 をする資格があるのかどうか分からなかったのだ。
まあ、当のお師様が聞いたら気味悪がるかもしれないけど──と付け加える。
なんにしろ、ぽかぽかとした正午前の日差しに感じ入るように頭をめぐらせながら、彼は注意を本にもどした。
(にしても......なんなんだろこの本。文字も文章も、なんか変だし......)
少し崩 してあるとか修辞法であるとかの生 易 しいことではなく、見たこともない文字が数ページもずらりと並んでいることもあれば、まるきり意味の取れない文法が頻 出 する。暗号ではないかとも思ったが、この二週間なんとか読み進めた結果、そうではなさそうだった──よく似てはいるが異なる言語。このほうが、感じとしては近い。
数ページのうち読めるのは数行、といった程度のペースで解読したところ、内容はどこかの土地の風土記 か、あるいは戦記であるらしい。
(いや、戦記──そうだな。戦記のほうだ。きっと)
その土地の解説であるらしい部分のほか、文面には『移行』とか『異変』だとかいった単語が目立った。そして一番多く使われているように思えるのが──『変化』。
もちろん、読めない部分のほうが多いのだから、分からない単語のほうが頻出しているのかもしれないが、とりあえず彼の読める範 囲 ではそうだということだ。
(著者は、その土地──多分『巨人の大陸 』なんだろうけど──に起こったなにかの大異変だか大 災 厄 だかについて、延々つづっている......)
ぱらぱらとページを繰 りながら、マジクは胸中でつぶやいた。
(戦争のようなことも書いてある。ドラゴン種族......それに、人間。神々も──?)
『旅立ったドラゴン種族たち。
わたしが見上げるのは大空を埋 め尽 くす積悪の群れだ──
何者の咎 であるのか、それを論じる卓 に着くのは既 に神々ではない。
もはや三人の姉 妹 ですらないそれと、わたしはわずかながら会話した。
そも彼女らの存在自体がシステムの劇的な変化を物語っているのだ。
わたしがかつて見いだしたシステムは、この変化によって崩 壊 している。
簡単な引き算がすべてを決定的にずらしてしまった。
この世界は変移していくだろうが、その行き先は分からない。
変化は激化していくだろう。それは避 けられない。最悪なのは、それが永遠に激化していくであろうということだ......』
「............」
とりあえず一番長く読めた部分が、それだった。大陸のどこにでもある終末の予言──空から魔 王 が降りてくるとか、そういった類 いの──の口 調 に似ていなくもないが、決定的に違 うのは、それが予言ではないということだった。
著者は、破 滅 の中にいてこれを記したようだった。
こうであるから悔 い改めよといった警 鐘 もなければ、破滅を食い止めるための訓示があるわけでもない。破滅は既に起こったことで、歴史と化している。
あるいは──
『それが永遠に激化していく──』
マジクは読み返して、ぱたんと本を閉じた。
(この著者は、いまだその破滅の中にいるのかもしれないな......)
本のすべての記録の最後に、著者の署名があった。ややこしいつづりで、こう記されている。スウェーデンボリー著、と。
「マジクー、なにやってんのよー」
と──
テラスの下からかけられた声に、マジクは、はっと顔を上げた。椅 子 から起き上がって見下ろすと、中庭に見慣れた金 髪 の少女の姿がある。
もうここに間借りして二週間になるが、それでもいまいち馴 染 めないほどにこの屋 敷 は大きかった──オーフェンによれば、《牙 の塔 》における最エリートならばこの程度の財産はあって当たり前だということだったが、この規 模 の屋敷をトトカンタ市で持とうとしたならば、中央銀行の大金庫を根こそぎ強 奪 するよりほかはない。部屋数四十三、離 れが二棟 ──うち一棟は生徒ふたりのためのもので、もう一方は物置になっている。庭はあまり広くはないが、その分中庭が広い──学校のグラウンドほどもあり、その半分ほどの大きさの裏庭まである。
中庭のほうには人工池があり、その池の縁 に立つようにしてその少女はいるのだった。
彼女はスポーツウエア姿で、頭の上には黒い子犬のようなものを載 せて、こちらを見上
げている。子犬は、なぜか彼女になついているディープ・ドラゴンの赤ん坊 で、彼女はレキと名付けていた。まあ多分、ドラゴンの親がつけた本当の名前というのがあるのだろうが、それは知らない。
すぐそばに黒 髪 を長く伸 ばした少年──外見は少女だが──が立っていた。彼もまた、運動服のようなものを着ている。おかげで余計に痩 せぎすに見えた。
(......なんであいつといっしょにいるんだよ)
そんなことを思いながら──
「クリーオウ」
マジクが呼び返すと、彼女は続けて声をあげた。
「降りてきなさいよー。ティフィスが、ジョギングついでに街を案内してくれるんですってー」
ティフィス──つまり彼女の横にいる少年が、それに合わせて手を振 ってくる。マジクは気づかないふりをして、それを無視した。
マジクは本をチェアの上に置くと、あまり気の乗らない声を出した。
「ぼくはいいよ。これからお師様に用事があるから──」
「あ......そう」

クリーオウは面食らったような声を出した──多分、断られるとは思っていなかったのだろう。なんとなく後ろ暗さを覚えながらマジクが見下ろしていると、彼女は続けて言ってきた。
「じゃあわたし、ちょっと出てくるけど、お昼までにはもどってくるから」
「うん......」
小さく答えながら、マジクは手 摺 りから身を退 いた。連れ立って門から出ていくふたりを見送って、不意に吹 き付けてきた風に目を閉じる──
風の中で棒立ちになって、しばし身体が動かなくなる──
再び目を開けると、もうクリーオウらの姿は見えなくなっていた。
◆◇◆◇◆
「お師様ー」
後ろから声をかけられて、オーフェンは振り向いた。見ると、廊 下 の向こうから、ぱたぱたとマジクが走ってくる。小わきに真っ黒の本──最近たびたび見かけていたが、なんの本だかは聞いていない──を抱 えて、あと数歩分というところまで近寄ってきて、少年は立ち止まった。
あれ? と声をあげて、聞いてくる。
「どこかへ行くんですか? その格好......」
と言って示したのは、こちらの格好ではない──オーフェンは別に、いつも通りの服だった。マジクが気にしたのは、いっしょに歩いているレティシャのほうである。
「これ?」
レティシャはくすりと、服を撫 でるようなしぐさをした。
「《塔 》の正装よ。これから《塔》へ行くから。あなたを呼びにいくところだったのよ。いっしょに行くでしょ?」
彼女が着ているのは《牙 の塔》の上級魔 術 士 の証 し──黒のローブだった。戦 闘 用 にデザインされたものではなく、完全にただの儀 式 服 として、かなり高価な素材が使われている。手 触 りはフェルトのようだが光 沢 があり、ちょうどレティシャの髪 と同色だった。襟 元 には、オーフェンがペンダントで下げているのと同じ形のドラゴンの紋 章 が、ピンバッジになってつけてある。無論、ペンダントのドラゴンの紋章も首にかかっていた。
「はぁ......」
上 背 のある彼女を見上げて、マジクはしばしぽかんとしてから、はっと思い出したように我に返った。少し口早に、言ってくる。
「そ、そうだ──お師様。クリーオウ、外に出かけていっちゃいましたよ」
「へえ。ひとりでか?」
聞くと、マジクはちらりとレティシャのほうを見てから答えてきた。
「いえ......ティフィスと」
そう言うマジクの目には、なにやら期待するものでもあるようにも見えたが、オーフェンは別に気にしなかった。実を言えば、あの娘 がひとりでそこらを出歩くよりは、お目つけがいたほうがいくらかマシだ。が──
「あー! あの子! ティフィスの奴 !」
唐 突 に、レティシャが声をあげた──彼女はぱちんと指を鳴らすと、口 惜 しそうにうめいた。
「今日は《塔 》に報告書を持っていかないとなんないのに! 押 し付けられると思って逃 げたわね!」
「実際、押し付けようとしてたんだろ......?」
半眼でオーフェンが聞くと、彼女は両手をわななかせた。
「だって報告書って、三年前から紛 失 していた《塔》のガラクタの蒸発本決まり書類なのよ!」
「......本決まり?」
意味が分からず、聞き返す。
「だからぁ、昔どっかの馬 鹿 な研究者が事故で壊 しちゃってたんだけど、それを認 定 するのを長老たちがしぶってたのよ。もとは貴族連盟の管理物だったから。で、三年経 って正式に《塔》の所有物になったから、それを認めたわけ」
「ま......いいけどな」
「あんなものどーでもいい上に最高執 行 部 のサインを十二人分も書き込んでもらわなくちゃなんないって代 物 なんだから。そのうえ提出先もよく分かんないし──きっといろんな部署を二十往復はさせられるわよ。わたしにやれっていうの⁉ 」
「ええい! だからって俺の首をしめるな!」
オーフェンはレティシャの手を振 り払 いながら叫 んだ。
「とりあえず《塔》には付き合ってやっから──だいたいそんなにめんどうなら、とっととやめちまえよ、ンな閑 職 !」
思わず勢いでそう叫んで──
かちぃん──ときたように、レティシャの動きが一瞬止まる。
一 拍 おいてから、彼女はこちらを向いた。
「気楽に言ってくれるわね......」
言いながら、ずずい──と青白い顔で詰 め寄ってくる。
「あなたが寝 泊 まりしてるこの屋 敷 も、遠 慮 のかけらもなく食べ散らかしてくれてる食事も、その『閑職』とやらで稼 いだお金で買ったものなんですからね」
「ほほう。しばらくそのご尊顔から離 れて暮らしているうちに、おねーさまはお金の亡 者 におなりになられましたか」
詰め寄ってきた彼女を下から睨 み上げるようにして、オーフェンは言い返した。うっふっふ......とレティシャが、気味の悪い笑い声をあげる。そのこめかみに、きっちりと怒 りのマークが浮 かんでいるのをオーフェンは見ていた。
「かわいーことを言っておくれだわねぇ、昔はいじめっ子に切れたトカゲのしっぽを鼻にねじ込まれて泣いて帰ってきたくせに」
「ちなみにそのいじめっ子とやらは、誕 生 パーティーでおねーさまにカエルの卵をぶっかけられた恨 みでもって俺を狙 ってくれたんだけどなぁ」
「あの変態野 郎 が逆 恨 みしたことなんてわたしの責任じゃないわよねぇ。そんなことで責めてもらって、あなたのひがみ根 性 って、わたしの教育の賜 物 かしら。わたし卒 倒 しそーだわ」
「卒倒すんなら後頭部から落っこちろよ──顔面からぶつかったら床 にひびが入るぜ、その面 の皮じゃあよ」
「うっふっふっふっふっ......」
「へっへっへっへっへっ......」
「あのー......」
横からマジクが、声をかけてきた。青ざめて額に汗 などたらしながら、
「ケンカしても意味がないと思いますけど......」
「............」
「............」
言われてオーフェンは、少し顔を離してから、改めてレティシャと向かい合った。しばしふたりとも、さっきと同じ顔でにらみあって──
ふっ......と同時に表情をゆるめた。
「そうね......あなたに当たっても仕方ないわよね」
「だな。俺もティッシには世話になって感謝してるよ」
ほっ──とかたわらで安 堵 の吐 息 をしたマジクを、ふたりは同時ににっこりと向きやった。にこやかに告げる。
「じゃあ、仲 裁 した人間の義務として、書類はおまえが提出しとけよ、マジク」
「ありがとうね、マジク君」
「......やっぱ姉弟 ですね、あんたたちは......」
なぜかあきらめたような口調で、マジクがそううめいた。
◆◇◆◇◆
「ふっふっふ......」
屋 敷 から出ていく三人を陰 から見送り、それは笑い声をあげた──不敵に肩 を揺 すりながら続ける。
「愚 かな。この俺様の存在を忘れ、城を明け渡 してしまうとはな」
柱の陰で、いまいち隠 れ切っていない毛皮のマント──ぼさぼさの黒 髪 ──ぼろぼろの剣の鞘 ──なんにしろ、それはあごに手を当てかぶりを振 った。
「帰ってきたときに驚 愕 するがいい。そして、あえて最大の苦難を見落としていた己 の安 逸 を悔 やむがいい。輪 廻 は回る糸車......」
「兄さん......ここんとこ、あんまり相手にされてないもんだから実は寂 しいんでしょ」
「............」
背後からかけられた声には、答えるつもりもない。それはひたすら、笑 みを続けた。
あまり気のない調子で、背後の声も続くが。
「黒 魔 術 士 の部屋に蜘 蛛 をほうり込んだときも、なんか気づいてもらえなかったしね」
「............」
「スランプなんじゃないの? ちょっと休んだほうがいいよ。できれば長々と」
「捕 虜 の返 還 は勝敗問わず終戦時の義務よっ! ノーラ返してよう」
その女の子の声にも答えずに、ボルカンは頑 固 にも不敵の表情は崩 さなかったが──でもこっそりと、ため息はついていた。
タフレム市は大陸の中でも有数の都市である──が、そのことを自覚する者は少ない。ここが魔 術 士 たちの街だからである。
「──ていうのは極論ですけど」
公園のベンチで休みながら、ティフィスはそう付け加えてきた。
「中央がこの街を正当に評価したがらないのは確かですよ。貴族連盟は、黒魔術士が力を持っているってことを公 には認めないんです。対外威 信 とでもいうのかな。そんなのがあるからだって言いますけど」
「へえ......」
ぼんやりとうなずきながら、クリーオウはあたりを見回した。公園が多いというのもこの街の特 徴 だが、これは人口密度がさほど高くないからである。土地が余っているのだ──無論これは、過去二回も戦争で都市が全 壊 したという理由もある。数十年前の砂の戦争の際、直接的な戦 禍 にあった人間は少なかったが、そのまま都市から去っていった者は多かった。
もう街は完全に復興し、この公園にも、今まで走ってきた街のどこにも、破壊の痕 跡 は見当たらなかった。まったくなかったのだ──街路樹ですら、焼け跡 に植樹されたという気 配 はない。公園には桜の樹 が青々と葉をつけている。でたらめに並べられたようなベンチには、ぽつんぽつんと人 影 が取り付いていた。
胸に抱 いているレキが、もぞもぞと空を見上げている。クリーオウはこの真っ黒い子ドラゴンを、頭の上に乗せなおした。
トレーニングウエアの襟 を直しながら、ティフィスが続ける。
「もともと大陸東部の人間は、西部を下に見る傾 向 がありますからね。ひどいのになると、いまだこのあたりは荒 野 にテントで暮らしているんだとしか思ってない人もいるくらいです。王都の人間にいたっては、王都の外には世界は存在しないっていうのが実感なんじゃないかな」
「そうなんでしょうね」
クリーオウはあまり気のない返事をしながら、視線を街の中で最も目立つ建造物へと移した。ここからは遠いが──それでも街並みの上にそびえる、白 亜 の塔 。
「あれが、世界図塔?」
塔は象 牙 色の身体 をやや傾 けて、じっとしている。風が吹 き雲が流れても、今までずっとそうしてきたように。
「そうです」
ティフィスは、ベンチから立ったようだった。
「この街の最大の建造物──まあ質量でいえば、塔のとなりにある大図書館のほうが大きいんですけど。観光ガイドの受け売りをすればそういうことです。はるかな昔、ウィールド・ドラゴンの種族が、自らが産み落とした黒 魔 術 士 たちのために建造したと伝説にはありますけど......現実にはどうだか分かりません。昔、キムラック教会が、《フェンリルの森》の保護令を提唱したときに、あの世界図塔もその範 囲 内に入っていたんです。結果として塔は一 切 の立入禁止──四十年前に、当時の《牙 の塔》最高執 行 部 が禁を犯 して世界図塔の調査を始めようとしたことで、例の砂の戦争が勃 発 したんだそうですよ」
彼はすたすたと近寄ってくると、長い髪 を風になびかせながら、塔のほうを指さした。
「外観から分かることは、世界図塔は一枚岩から削 り出されたものらしいということ──石を積んで造られたものじゃないんです。入り口はひとつだけ、窓はありません。空気穴すらです。今はその唯 一 の出入り口も封 鎖 されていて、常時《塔》の黒魔術士が監 視 しています」
「世界図塔って、変な名前よね。由来があるのかしら」
クリーオウは、彼のほうを振 り向いて聞いてみた。ティフィスは、思い出すように虚 空 を見上げてから、
「あー、確か、塔を建造したウィールド・ドラゴン種族──つまり天 人 が語ったんだそうですよ。『世界に疑問を持ったならばのぞけ』って。多分、そんなような言葉だったと思いますけど。確か......イスターシバとかそんな名前の女性だったとか」
「あなたはどうなの?」
「......は?」
分からず聞き返してきたティフィスに、クリーオウは繰 り返した。
「だからさ、塔を造ったそのドラゴンの人は、のぞきたいんならのぞけって言ってたわけでしょ? 魔術士のために塔を造って」
「は──はぁ......」
「でも教会の人が世界図塔を調べるなって言ってるから、誰 もその中を見ていないんでしょ? そんなのって勝手じゃない。あなたは、あの塔を調べたいと思う?」
ティフィスは、困ったように顔をしかめてみせた。
「でも、そのノルニルですらも、塔を建造したすぐあとに魔術士を滅 ぼすための戦いを始めたんですよ。そのせいで旧々タフレム市は全 壊 したんです」
「旧々タフレム市?」
「あ、この街の歴史になるんですけど、一番最初に造られたタフレム市を旧々タフレム市っていうんです。で、その後ノルニルによって完全に破壊されたものを建造し直したものが旧タフレム市。砂の戦争以後の現在の街が、現タフレム市なんですよ」
「......まあいいわ。じゃあノルニルの人たちも勝手だったってことよね」
クリーオウはつぶやきながら、頭の上からレキを下ろした。胸に抱 くと、レキはいつも彼女の肩 につかまるような形で身体を安定させる。レキがぱたぱたと、尻 尾 を振 るわせて鼻先を撫 でてきた。その体勢になってから、彼女は、ティフィスのほうを見やった。
ふと思いついたように、聞く。
「......最高執 行 部 って、なんなの?」
それを聞いて、ティフィスは明らかにショックを受けたようだった──まさか知らないとは思わなかったと、見開いた瞳 が雄 弁 に語っている。が、クリーオウが素 知 らぬ顔でそれを見返していると、彼は、ゆっくりと説明を始めた。
「《塔》の......重要な決定を下す、長老たちの組織のことですけど......組織としては、末 端 の庶 務 部 や事務なんかも含 まれることになります。ただ、各教室にまで命令を下す権利は、最高執行部にしかありませんけどね。また逆に、いかなる理由であっても、教室に処 罰 を下せるのも最高執行部だけです。教室間の私 闘 及 び決闘は、無条件で同盟反逆罪に当たります。でないと、教室同士の抗 争 なんて日常茶 飯 事 になっちゃいますから」
「教室......」
クリーオウは、虚 空 を見上げるように、少し視線を上げた。
「オーフェンのいた教室って、なんだったかしら」
「チャイルドマン教室です。ぼくの先生も、同じですけど」
「最高執行部の下の、教室の、さらに下 っ端 ......」
ぶつぶつと続ける。
「オーフェンてひょっとして、たいしたことないのかしら」
「冗 談 じゃないですよ! チャイルドマン教室は別格なんです!」
いきなり声をあららげて、ティフィスが叫 ぶ。びっくりしてクリーオウは後 退 りしたが、彼は追いつめるように、ずずいと近寄ってきた。
「チャイルドマン・パウダーフィールド教師は、一教師の権限を超 越 して、最高執行部にさえ影 響 力 を持っていると言われています──彼が、ここ三か月ほど姿を消しているせいで、急速に《塔》の秩 序 が危 うくなってきてるくらいですよ。逆に考えてみれば、彼がどれだけの力で以 て《塔》の野心家たちを押 さえつけてきたかが分かるでしょう?」
「......よく分かんない」
「いいですか」
辛 抱 強い様子で、ティフィスが瞳 を陰 らせる──じっとこちらを見 据 え、彼は指を一本立ててみせた。
「《塔》の組織を説明します。結局のところ《塔》というのは、ただの学府ではありません──強力な結社というほうが近いんです。独自の機関、独自の諜 報 、独自の財源、独自の営利......とにかく黒 魔 術 士 による、ひとつの社会。それが《牙 の塔》です」
「............」
クリーオウは黙 ってこくんとうなずいた。ティフィスも、ちょんとあごを下げる。
「組織のすべての行動を指図する──あるいは許可する権限を持つのが、最高執行部です。最高位の黒魔術士で編成されています。ただ彼らは、頭脳となるだけで、実際的な行動力は持ちません。それを受け持つのが、各教室なんです」
と、指を引っ込め、ついでに顔も引っ込める。彼は目を閉じて、とうとうと続けた。
「教室は、教師と生徒で構成されます──当たり前ですけど。これは普 段 は、要するにただの教室です。教師の教えることを、生徒が学ぶ。ただ、市 井 の教室との違 いは、彼らは執行部の命令を遂 行 する義務があるということです」
「義務?」
「そうです。その見返りに、黒魔術の最 高 峰 《牙の塔》で学ぶことができるわけです。ぼくだって、なにか命令されることがあれば、それをこなしますよ」
「......なにか頼 まれたことある?」
「落ち葉拾いと下 駄 箱 の修理......」
急に口調から力を失い、ぽつりとティフィスが答えてくる。が、すぐに彼は、ぐっと拳 を握 りしめてみせた。
「でも! チャイルドマン教師のようになるのが、ぼくの夢なんです」
「なれるの?」
「......いや......まぁ、ただの夢です......」
ぼそぼそと付け加える彼に、クリーオウは、思わずくすりと笑いかけていた。
「でも、そんな強い魔術士になって、どうするの?」
「はぁ......」
照れるように、少しほおを赤らめて、ティフィスが答えてくる。
「そりゃあもちろん《十三使徒》ですよ。宮 廷 魔 術 士 です。誰もが目指す究極目標ですよ、これって」
「そう?......そんなになりたいものかしら」
指先を軽く唇 に当てて、クリーオウは適当に疑 問 符 を浮 かべた。と、もうなにを言われても驚 くのはやめたという表情で、ティフィスが口を開く。
「高みを目指したいじゃないですか。キリラン──ええと──オーフェンさんだって、昔は長老たちの意向を無視してまでなろうとしてたんですよ。やっぱり、さっきも言いましたけど、結局のところこの大陸の中心は東部にあるんですよ。王都です」
「......宮廷魔術士になったら、王都に行くんでしょ? だとしたら、パットもいっしょに連れていくの?」
なんとなく、半分は揚 げ足取りのような心持ちで、クリーオウは聞いてみた。言われてティフィスが、少し背 伸 びするように胸をそらし顔をしかめる。彼は故意にトーンを落とすような口調で、ぶつぶつと言った。
「妹は妹ですよ。魔術士っていうのは、独立独歩でなければならないんです」
「独立独歩って、別に離 ればなれでいるってことじゃないと思うけど。ま、いいわ」
肩 をすくめながら彼女は言い、そしてくるりと身体の向きを変えた。再び視線を、白 亜 の巨 塔 に転じる──
「じゃ、次はあの世界図塔のほうまで行ってみましょうよ。近くで見てみたかったのよね、ずっと。オーフェンもティッシもなんか忙 しくしてて、相手にしてくんないんだもの」
「いいですけど......」
返事を確 認 してからクリーオウは、その場でいったん軽く跳 ねてから、ジョギングで公園を出ていった。
魔術士の考え方が、どうにも好きになれない。
──というか、どうも釈 然 としないのだった。
(なんだか、立派すぎるのよね、言ってることが)
クリーオウは走りながら、そんなことを考えていた。スポーツウエアは少し汗 で湿 って、肌 触 りが変化している。規則正しく靴 で路面を蹴 りながら、彼女は声なき独り言に没 頭 していった。
(ティフィスだけじゃないのよ──オーフェンも、マジクも。なんでもかんでも自分ひとりでできなければ、無能の証明だとでも言いたいのかしら。違 うのよね。他人に頼 るのも英断なのよ、多分)
だが、実のところそんなことは、どうでもいいのだとクリーオウも自覚していた。なんとなく愚 痴 りたくなるのは、そんなことのせいではない──
はっきりと気づいていたのだが、オーフェンらと話す時間が、ここ数日極 端 に減っているのだった。
(ヘンなのよね......なんだか最近、避 けられてる気がするわ)
上 機 嫌 で尻 尾 をぱたぱたとさせているレキに、ね? と目 配 せしながら、整然とした並木道を駆 け抜 ける。レキはあまり意味もなく前脚 を伸 ばしてこちらの鼻先を撫 でてくる。
クリーオウは考え事を続けた。
(マジクも、なんだか様子がおかしいし......この前、わたしがティッシといっしょに作った夕食、妙 においしそーに食べてたわよね。使用済みの油に適当に突 っ込んでほっといただけのやつだったのに。あれってなんだか、お別れだから禍 根 を残さないよーにって、そーゆう態度だったわよ)
と──
ふと思いついて、彼女は足を止めた。その瞬 間 、さっと彼女を追い抜 いたティフィスが、あれ? と振 り返ってくる。
「......どうしたんですか? 世界図塔 、まだですけど」
足でもくじいたんですか? と続けて聞いてくる彼は無視する格好で、クリーオウは、ぐっと拳 を握 った──
「ひょっとして──」
虚 空 に向かって声を上げる。
「あのふたり、わたしをティッシに預 けて、ふたりだけでどっかにトンズラしようって計画してるんじゃないでしょうね!」
いつもいつも直感は鋭 いが分 析 はズレているという自分の特性に、彼女はまだ気づいていなかった。
◆◇◆◇◆
タフレム市の西部に、山 岳 地 へと続いていくなだらかな山地がある。市街から徒歩で数時間──馬車ならば二時間足らずといった距 離 。森と丘 とに囲まれて、黄土色のレンガで築かれた城 塞 がそびえている。
山をひとつ越 えているため、市街からうかがうことはできない。また間近に来たところで、敷 地 を囲む高さ三メートルの壁 を見上げるだけである。入り口はただひとつだけ──意外と普 通 に正門とだけ呼ばれる鋼鉄の門。それを開くのに必要なものは、二等以上の市民権──それには過去における犯罪歴の皆 無 、一定額以上の寄付も含 まれ、つまるところはいわゆる名士であるということだ。
もっとも、魔 術 士 であれば、門番詰 め所に近づいて声をかければ事足りる。上級魔術士ともなれば、タフレム市で馬車を手配した時点で早 駆 けの伝令が行くのではないかとも言われている──
「まあ......本当にそうかどうかは知らないけれど、確かに門の前で待たされたことはないわね」
レティシャがそう言ってくすりと笑うのを、オーフェンは見ていた。彼とレティシャ、そしてマジクの三人を乗せた魔術士同盟の馬車は、ごとごとと山道を進んでいく。
六頭立ての大型馬車は乗り心 地 は悪くはないが、それでも揺 れる。彼らがタフレム市まで乗せてもらったものとは違 って屋根がないので、手 綱 を取っている白 髪 の御 者 も見えた。柔 らかに風が撫 でる木々も、透 き通った水の流れのように映 える空もだ。
馬車が向かうのは、大陸黒魔術の最 高 峰 ──《牙 の塔 》である。
「あの......」
それまでずっと目を落としていた、真っ黒な本をぱたんと閉じて、マジクがおずおずと声をあげた。
「あんだ?」
聞き返す。マジクは金 髪 をわずかになびかせながら、答えてきた。
「上級魔術士っていうのは、どういう資格なんですか?」
「簡単に言えば《塔》で教師以上の役職についているってことだ」
と、少し考えて、腕 組みしながら続ける。
「ほかにも、年 齢 十五歳 以上で年間首席をとれば上級魔術士として認 定 される。あとこれは滅 多 にねえけど《塔》外部の魔術士に対しても、なにか多大な業績があれば例外的に認められることもある」
「一種の名 誉 称 号 なのよ」
レティシャが後を続けた。馬車の一番後ろの座席にゆったりと腰 掛 けた格好で、
「わたしは十八のときに主席をとって認められたわ。キリラン──」
言いかけて、途 中 で止まる。彼女は肩 をすくめて言い直した。
「オーフェンは早かったわね。十五のときだったでしょ?」
「そうなんですか?」
マジクが聞いてくる。オーフェンはにやりとした。
「お前、俺 が前に話してやっていたこと、ひとっつも信じちゃいなかったろ」
「だって......あまりにもうそくさいじゃないですか。《牙の塔 》の首席をとったなんて」
「俺が所属していたチャイルドマン教室の生徒は、全部で七人──うち五人が上級魔 術 士 の資格を持っている。結局ここ最近の年間首席は、俺らの教室の生徒がずっと独 占 してた形だったからな。俺と同世代のハーティアと、ひとつ上のコミクロンはずっと次席にいたせいで上級魔術士にはなってない。ま、年に一度の競技会みたいなもんで、実力よりは運の問題なんだけどな」
「ハーティアにはあなたが、コミクロンにはコルゴンが目の上のたんこぶだったのよね」
からかうように言われて、オーフェンはぱっと表情を変えた。かみつくように、レティシャに指を向ける。
「それを言うなら、ティッシだってフォルテの頭をずっと押 さえ込んでただろ。あれははっきり言って可 哀 想 だったぜ。はたから見て」
「なに言ってんのよ。わたしこそずっと次席に甘 んじてたんですからね──わたしの世代には、正真正 銘 の天才がいたんだから」
「あのぅ......」
言い合っている横から、マジクが口をはさむ。ふたりでくるりと向き直ると、彼は混乱したように目をぱちくりさせた。
「......誰が誰ですって?」
どうやら、いきなり次々と人名が出てきたので追いついてこれなかったらしい──オーフェンはそう思い当たって、言い直した。
「ああ、そっか。ええとな、みんなチャイルドマン教室の生徒なんだよ。つまり今、名前の出てきた全員が俺の兄 弟 子 に当たるわけだ」
「教室内ではこの子が一番年少だったからね」
と、後ろからレティシャがこちらの頭をぽんとたたいて、そう言う。オーフェンは目を閉じて続けた。
「俺と同世代──つうか、同 年 齢 のハーティアは今はトトカンタの魔術士同盟で働いている。魔術の腕 そのものに関しては、俺と互 角 かそれ以上だったろうけど、なぜか成績は俺より悪かった。要領が悪かったのか本番に弱かったのか知らないけどな。で、コミクロンとコルゴンは俺らよりひとつ上の世代で首席と次席とを分け合ってた」
「ふたりとも、もう《塔》には残ってないわ。かなり強力な魔術士だったけれど......」
レティシャが、口ごもるように語 尾 をにごす。マジクはもう少し聞きたそうにしていたが、オーフェンは先を進めた。
「で、年長組が、ティッシを含 めた三人だ。教室長のフォルテ・パッキンガム──彼は首席は取ってなかったが、一番早く先生の助手になった。そのときに上級魔術士に認 定 されている。それとティッシ。ヒステリーさえなければ彼女が教室長になっていただろうという、もっぱらの噂 だった」
「あんたたちだったのね。そーゆう噂を立ててたのは......」
背後から険悪な声があがるが、あえて無視して続ける。
「で、彼女らの世代で最高の成績を残したのが──」
「もう死んでしまった人間よ。アザリー──わたしの妹」
「............」
すらっとレティシャが口から漏 らした言葉に、オーフェンは思わず硬 直 した──冷たい指を内臓に突 き込まれたような心 地 で、思わず首をすくませる。
が、なんとか動 揺 を押 さえ込んで、彼は続けた。
「そう。アザリーだ。天 魔 の魔女と呼ばれ、教室内でも最高の魔術を扱 っていた。公式な教室長のフォルテに対して──」
と、音を立てずに唾 を飲み込む。
「アザリーは、どちらかというと先生の私的なエージェントみたいな感じだった。行動技術、知識、そういったものも人よりずば抜 けていたけど、なにより卓 越 していたのが魔術だ。彼女は白魔術士でもあった」
「白魔術?」
びっくりしたように、マジクが聞き返してくる。オーフェンは、ああとうなずいた。
「黒魔術と白魔術を同時に扱う術者というのは、歴史上に何人も存在はしない──ついでに、貴族連盟の管理を逃 れた白魔術士ってのもだ。現在、大陸の白魔術士のすべては貴族連盟の管理する《霧 の滝 》に幽 閉 されている。アザリーは黒魔術士であったということが隠 れ蓑 になって、貴族連盟の情報網 からうまく漏れたのさ」
「......でも、白魔術って......」
もごもごとつぶやくマジクに、オーフェンは続けた。
「そう。力と物質を扱う黒魔術に対して、時間と精神を操 る白魔術は絶対的な位置を持っている。黒魔術士に比べて数は極 端 に少ないけどな。貴族連盟は宮 廷 魔術士《十三使徒》とこの白魔術士たちを擁 することで、現在大陸で最大の権勢を誇 っている。ま、正しい言い方をすれば、黒魔術士の彼女が同時に白魔術を扱えたんじゃなくて、白魔術士の彼女が、ついでに黒魔術も使えたんだってことなんだろうけどな」
「先生はどうだったんですか?」
「俺? 俺が白魔術なんて扱えるわけがねえだろ」
「いや、そうじゃなくって......」
マジクは、ひざの上に置いている黒い本の表紙を撫 でながら、
「お師様じゃなくて、お師様の先生ですよ。なんでもできたっていうような話を聞いてますけど......」
「............」
オーフェンは、思わず虚 を突 かれたように言葉を失った──考えもしなかったのだ。
とはいえ──
「先生がいくら化け物でも、白魔術まで扱 えたりはしないだろ。あれは......そうだな。例えば黒魔術が石を遠くに放 り投げることだとすれば、白魔術ってのはなにもないところから宝石を造り出してしまう。全然次元が違 うんだ」
「じゃあひょっとして......そのチャイルドマンて人、実は大したことないんじゃないですか?」
眉 根 を寄せてマジクが言う。オーフェンはこめかみに手を当ててため息をついた。背後でレティシャが絶句しているのを気配で感じながら、
「何度も言ったように、魔術の素養ってのは純 粋 に遺伝するものだ。できるできないってことは、能力の評価にならないさ。白魔術が使えるから──あるいはそもそも魔術が使えるからって偉 いってもんじゃない。要は、その力をどう活 かすかだろ」
「まあ......そりゃそうですけど」
「でも、確かに言われたとおり、彼女はそういった意味で、わたしたちの中で先生を凌 駕 する可能性を唯 一 持っていたとも言えるわね」
レティシャが、嘆 息 混じりにつぶやくのが聞こえる。
「でも......それだけの才能が、つまらないことで失われてしまったわ」
「そうだな......」
オーフェンは同意しながら、ふっと馬車のはるか前方を仰 ぎ見た──木々の梢 の向こうに、厳然とそびえる巨 大 な建造物が見えている......
(そう......彼女は失われてしまった)
陰 鬱 な気持ちで、オーフェンは独りごちた。
だがそれはレティシャが言うのとは意味が違う。そして彼女が考えているよりも、もっとつまらないことで失われたのだ──
そんなことをぼんやりと思いながら、彼は、大陸黒魔術の最 高 峰 を見上げていた。《牙 の塔 》......
と──
「............?」
オーフェンはふと、なにか気配を感じてぴたりと動きを止めた。
ごとごとと音を立てながら、構わずに馬車は進む。
「ティッシ......」
呼びかけに、彼女はきょとんと顔を向けてきた。
「なあに?」
「なんか人の恨 みとか買った覚えあるか?」
彼女の返事は素 っ気 ない。
「あなたじゃあるまいし、わたしは品行方正に生きてるわよ」
「じゃあ待ち伏 せなんかされたりしたとしたら、それは俺のせいなのか?」
「でしょうね」
............
しばし、会話が止まる。
少し間を置いてから──レティシャとマジクが同時に声をあげた。
「待ち伏せ⁉ 」
多分、それと同時だったのだろう──
周囲から、馬車に向かって無数の投石が飛来してきたのは。
音は立てなかったろうと思う──同時に上空にいくつかの黒点が浮 かんだかと思うと、放物線を描 いて、それらすべてが馬車上の彼らへと降 り注 いできたのだ。
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
オーフェンは両手を空に向けて掲 げつつ、呪 文 を叫 んだ。光で編 まれた鎖 のようなものが網 のように乱立し、壁 となる。ただの投石くらいでは、この防 御 を突 破 することなどできるはずはない──
と彼は思っていた。
実際、光の網にぶつかって、投石のほとんどすべては虚 しく散っていくか、跳 ね返されている。が、その投石の中にひとつだけ、ひときわ大きめのシルエットがあった。
視界の端 にそれを捉 えて、オーフェンは訝 った。
(瓶 ......?)
それは障 壁 に当たった瞬間、重い音を立てて砕 け散った。同時に、砕けた瓶の中から液体が四散し──
無色のその液体は、直接こちらへと降りかかってくるようなことはなかったものの、光の網の上に大きく広がった。投石をも跳ね返すような力場の障壁である。その熱と質量とに反応して、恐 らくはなんらかの薬品であったらしい液体は、激しく音を立てた。
焼かれた肉が脂 を跳ねさせるような音を立てて、あたりに薄 黒い煙 のようなものを発生させる!
「うわあああああっ!」
単にびっくりしたような声を、マジクがあげるのが聞こえた。刺 激 臭 が鼻 孔 を焼く。オーフェンは左手で鼻と口をかばいながら、最後の一息で叫 んだ。
「我は流す天使の息 吹 !」
呪文を唱えつつ、あいている右腕 を振 る。その動作で導き出されたような強い気流が、わだかまっていた毒 霧 を押 し流す。同時に、光の網が消えた。
「なんだなんだぁっ⁉ 」
大げさな悲鳴をあげながら、白 髪 の御 者 があわてて御者台から飛び降りる。しまった、と舌打ちしながら、オーフェンは叫んだ。
「待て! 馬車を停めるな──」
「キリランシェロ、待って!」
こちらも多少あわてているのか、昔の名前でこちらを呼びながら、レティシャが腕を捕 まえてくる。彼女は、逃 げる御者を連れもどそうと飛び降りかけていた彼を止めながら、せっぱ詰 まった様子で続けた。
「囲まれてるわ──」
「なんだって......?」
チャイルドマン教室で、戦 闘 術と名のつくものを専門的に訓練されたのはふたりである──それが彼であり、彼女だった。暗殺術という形で〝仕 掛 ける〟戦い方を習ったのが彼、オーフェン。そして防衛的に〝受ける〟戦い方を習ったのがレティシャである。魔 術 でさえ、彼女は防御する手段に長 けている。
その結果──かどうかはしらないが──彼女は、たとえばこういった状 況 下 で、敵が何人であるか、どういった位置関係でこちらを捕 捉 しているのか、つまりは気配や殺気のようなものが『分かる』のだと、オーフェンは聞かされたことがあった、恐らくは経験や勘 から、そういった人数や状況を推測するのだろう。こちらには見当もつかないことなので実感としては納 得 しがたいが、彼女が囲まれていると断言するのであれば、従うしかない。
そして......ほぼ彼女の予言通り、道を横切ってわきの林間へと逃げ込もうとしていた御者の身体が、うっとうめいて、地面へと倒 れた。
ざっ......
倒れた御者の身体をまたいで、白い頭 巾 で顔を隠 した男が、林間から姿を現す。
「ドラゴン──信 仰 者 ......?」
訝 って、オーフェンはほうけた声をあげた──
白い頭巾の男は、答えず無言で、手にしている鉄棒──今しがた御者を殴 り倒したものだ──を構えながら、こちらへと進んでくる。さらに周囲から迫 ってくる足音にあたりを見回すと、馬車の周り、あちこちのしげみから、似たような白い頭巾の男たちが姿を見せていた。
白い頭巾のほかは別にどうということもない普 段 着 で、手にしている得 物 もそれぞれでばらばら。鉄棒もあれば包 丁 もあり、鍬 もあれば鎌 もある。白い頭巾というのはタフレム市でのドラゴン信仰者の特 徴 で、魔術士たちとは敵対する信仰を持つ彼らも、この頭巾で顔を隠すことによって、なんとか街で生きていくことができるのである。
「お......師様......?」
恐る恐るといった顔で、マジクが問いたげな目を見せる。
馬車上でマジクをはさむような形で、オーフェンはレティシャと背中合わせになった。姿を見せているドラゴン信仰者たちの数は、ざっと数えて二十人というところ──この程度ならば、マジクをかばいながらでも対応できる。

ただし、魔 術 を使って皆 殺しにすることもいとわなければ、だ。
(くそ──)
オーフェンはうんざりと、一番最初に現れた男をにらみ据 えた。
(包囲されて──しかもこちらは全員馬車上にいる。状 況 は最悪だな。敵はみんな凶 器 を所持。毒薬まで使ってきたからには、無条件にこっちを殺す気だろう)
自分が素 手 で戦ったとして、同時に相手にできるのは四、五人というところ──それを考えながら、オーフェンは背後のレティシャへと囁 いた。
「同時に何人相手にできる?」
レティシャは、正直に答えてきた。
「素手じゃね......ふたり捌 くので手いっぱいだと思う」
「武器はないのか?」
「御 者 台 に護身用の剣の一本くらいあると思うけど......」
「分かった」
つぶやいて、オーフェンはそれまで握 っていた拳 を開いた。
「俺が飛び出す──ティッシは援 護 を」
「お師様......ぼくは?」
と、マジクが声をあげた。オーフェンは振 り向かずに、
「なにもするな」
マジクが、むっと押 し黙 るのが、気配でわかる。が、そんなことに構っている時間はなかった。包囲はだんだんとせばまってきている。
(これ以上密集されたら一気に押しつぶされる──)
その瞬間に、オーフェンは馬車上から御者台へと飛び移った。ざわっと、ドラゴン信 仰 者 たちがざわめきを発する。
御者台に飛び込んで、とりあえず目の端 に映った剣の柄 を、彼はほとんどあてずっぽうで引き抜 いた。少し重い──実用的ではない刀身が、鞘 だけを御者台の床 に残して、すらっと抜き放たれる。剣を片手にぶら下げてオーフェンは、間を置かずに御者台からも飛び降りた。地面に降り立ってすぐ目の前に、歳 の若そうな男が片 刃 のノコギリを振り上げている。
「............っ!」
出会い頭 になるのは分かっていたことだし、予想もしていた。オーフェンは小さく息を吐 くと剣を自分の身体に引き寄せて、振り下ろされてきたノコギリを刀身で受けた。カン、と短い音とともにノコギリが弾 き返され、同時にこちらの剣も、手を滑 らせて地面へと落ちる。一瞬、視界が──というよりも、目玉の中が、ぶれるように振 動 する......
その次の瞬間のことは、自分でもよく分からなくなった。目を閉じていたのかもしれない──あり得ないことだが。肺 の中で、吐 こうとしていた息と吸っていた息が衝 突 し、痛みが走る。まるで、今までの呼吸と違 うリズムの呼吸を、身体のほうで勝手に始めたようにだ。
ずだんっ!
音に驚 いて──だがそれは彼自身のかかとが地面を蹴 った音だったのだが──オーフェンは、はっと我に返った。見下ろすと、いつの間にかノコギリの若い男が、折れたひざを抱 えて泣き声混じりで絶 叫 している。頭 巾 が少しだけずれて、悲鳴とよだれとを吐き出している口がのぞいていた──
(......なんだ......?)
訝 しい心持ちでオーフェンは、目だけで左右を見回した。包囲の一辺を突 いたのだから、次の相手の攻 撃 は当然左右から同時にということになる。そのことだって──さっきと同様──分かっていたし、予測もしている。
そして今度は、はっきりと自覚しながら、それが起こった。
時が止まるように、思考が止まる。
右から工業用の柄 の長いハンマーが、左から鎌 が、振 り下ろされてきている。オーフェンは大きく飛び退 こうとした──が、身体がそれを拒 否 したように動かなかった。ほんの少しだけ──頭一個分だけ退いて、踏 みとどまる。鼻先をかすめてハンマーの頭が、空を裂いて地面へと落下した。鎌はそもそも、目測を誤っていたのか、こちらにとどいてすらいない。
落ちたハンマーが再度振り上げられるのを、オーフェンは待つつもりはなかった。息 吹 を止めて──ハンマーの持ち主のほうに半歩踏み込み──そこで再び、息吹を放つ!
──すると、同時に拳 も出ている。
拳が打ち込まれた胸 元 から折れ曲がるような格好で、男が悶 絶 して転 倒 するのが見えた。振り向いて、今度は鎌を持った男のほうに、振り返りざまの裏 拳 を放つ。鼻先にそれがかすり、うろたえる敵に、オーフェンはかなり大きく踏み込んだ。身体がすれ違うほどに深く、強く──そして同時に、相手の身体に肘 を埋 め込む。
とさ......と軽い音を立ててその男も、その場に倒 れた。
しんと、静まりかえる──
(なんだ......?)
オーフェンは信じられないような気分で、自分の身体を見下ろした。いや──変化は、身体ではないような......
数秒だけ、動 悸 が激しくなった──が、すぐに収まる。あとは静かに、体温までもが下がっていくような気がする。
(意識が──感覚が......ものすごくシャープになっている......)
ふと、顔を上げて馬車のほうを振り返った。襲 撃 に馬が興 奮 しているが、御 者 がいないせいか走り出してはいない──襲撃者たちも、そして援 護 の姿勢を取っているレティシャも、各 々 の役目を忘れているように、ぽかんとこちらを見つめている。
マジクはいつもと変わらなく見えるが、それは単に、今なにが起こったのか分かっていないだけだろう。
いつもなら、笑い出したかもしれない──がオーフェンは、黙 って足 下 の剣を拾い上げた。
そして残り十数人をひとりでたたき伏 せた。
「......むちゃくちゃよねー」
レティシャが、ぼやくようにつぶやくのを聞きながら、オーフェンは襲撃者の最初のひとり──つまり一番始めに姿を見せた鉄パイプの男に近づいた。周りには、二十三人(数えた)の白 頭 巾 の男たちが倒 れ伏している。苦 悶 の声やら泣き声やらがあたりを埋 め尽 くしていた。御者台では、気絶したままの御者をマジクが介 抱 している。
ロープなど持ち合わせていなかったので、襲撃者たちの誰も、拘 束 はしていない──が、どうせしばらくは身動き取れないだろうとオーフェンはなんとなく確信していた。
レティシャがぶつぶつと続けている。
「援護もなにもあったもんじゃない。これだけの人数をひとりで相手できるんなら、深刻な顔しないでほしかったわ」
できるとは思っていなかったんだ──
そう言い返そうとしたとき、例の鉄パイプの男が目を開けたので、口には出せなかった。男のほうに注意を向ける。
「あ......う......っ」
打たれた胸が痛むのか、苦しげに息を荒 らげている。オーフェンは、ぐい、と男の肩 をつかみあげた。
「さて......尋 問 だ」
「この──痛つっ......」
反 抗 するように腕 を上げかけて、感電でもしたように身をこわばらせる。オーフェンは嘆 息 しながら男に言った。
「多分、打 撃 で内臓を痛めてる──動こうとはしないほうがいい。それと、息も深くは吸わないことだ」
「貴様──なぞに、忠告されるいわれは......ないっ! 魔 術 士 !」
頭巾を被 ったままなので表情は分からないが──のぞいている目の色は、はっきりと激 怒 の気配を見せている。オーフェンは困ったようにレティシャのほうに視線を投げて、彼女が肩をすくめるのを見てから、また男へと向き直った。
男のほうは、意志とは裏腹に、こちらの忠告を聞かざるを得ないようだった──身動きもできず、無理に息を吸おうにも痛みがそれを妨 害 する。結局、眼球の表面にまで汗 を浮 かべるような気配で、じっとこちらを凝 視 している。
向こうから話してくる様子がないので、オーフェンは口を開けた。
「なぜ俺たちを襲撃した?」
聞かれて、男の目の色が変わる──
恐 らくは、それを聞かれるのを待っていたのだろう。歓 喜 をも含 んだ声で、男は断言してきた。
「仲間の......仇 討 ちだ!」
「仇討ち?」
オーフェンは顔をしかめた。
「ドラゴン信 仰 者 に恨 みを買った覚えは──まあ、ないとは言わねえけど......」
が、男は即 座 に言い返してきた。
「貴様らの存在!──絶対に許さん!」
「無差別テロなら」
口をはさんできたのは、レティシャだった。後ろから近寄ってきて、続ける。
「このままほうっておくってわけにもいかなくなるわよ。口には気をつけなさい」
「魔 女 め!」
男は吐 き捨てるように叫 ぶと──信じられないことだが──半身を起こした。震 える拳 を虚 空 に突 きだし、つばを飛ばす。
「よくもそんなことが──貴様ら! 我らの同志を虐 殺 しておいて──」
と──
「プアヌークの魔剣よ!」
「────⁉ 」
突 如 として響 いた声に、オーフェンは気配を探 って向き直った──声が聞こえてきたのは、馬車の方向か──が、振 り返ると同時──
ごうっ!
......目の前に音が通りすぎる。通り過ぎた先を見やると、そこにはなにもなかった──まったくなにもなく、虚 空 に風が吹 き抜ける、無。本来ならば、白い頭 巾 があったはずの空間だ。ついでに、その頭巾の中の頭なども。
音──恐 らく熱線か──に首から上を消し飛ばされ、怒 れるドラゴン信仰者は、この上もなく頭を冷やして、そのままばたりと地面に倒 れた。
「誰だっ⁉ 」
オーフェンは遅 ればせながら叫んだ。レティシャが目ざとく、声が聞こえてきた方向を特定して振り仰 いでいる。声が発されたのは、地上ではなかった。
「お師様っ......!」
マジクが、仰 天 して叫ぶのが聞こえる。金 髪 の少年が指さしているのはすぐ近くの林の樹上である。オーフェンは答えずに、顔を上げたまま身体をこわばらせていた──
「てめえは......」
オーフェンのつぶやきに、樹上から、声は答えてきた。
「キリランシェロ、か──顔も見たくなかったのはお互 い様 だろうが、迎 えに来てやったんだ。懐 かしそうにしてもらいたいもんだがね?」
声──その男は、馬 鹿 にした笑 みを浮 かべながら、こちらを見下ろして続けた。
「〝ハイドラント〟だよ。覚えているだろう?」
男はそう名乗って、さらに笑みを深めた。
「覚えてるさ」
オーフェンは言い返しながら、頭のなくなった死体へと視線をもどした。それにつられたのだろう──ふとマジクが、思い出したように悲鳴をあげるのが聞こえた......
「お──おおお、お師様ぁっ!」
こいつの悲鳴は、いつも俺の名前で始まるんだ──そんなことを考えながら、生徒のほうに向き直る。マジクはこちらの足 下 に倒れているものを指さしながら、
「ちょっと、それ──ええと──首がないですよ⁉ 死んじゃってるんじゃないですか⁉ 」
「......死体を見たことはなかったっけか?」
陰 鬱 な声でオーフェンは聞いた。マジクは、ぴたりと指をさした姿勢のまま硬 直 し、
「は? あの──ええ。ないです」
「人が死ぬのを見たことはあったな?」
「え──ええ......」
答えながら、だんだん声が小さくなっている。オーフェンは吐 息 して締 めくくった。
「なら、死んだら普 通 はこういうものが残るんだ。殺されてもだ──」
彼は言いながら自然に、注意をマジクから樹上の〝ハイドラント〟へと移した。腕 を振 り上げて、叫 ぶ──
「我は放つ光の白 刃 っ!」
瞬間、彼の振り下ろした手の先から膨 大 な白光が放たれた──縦に撫 で斬 るように、放電する光熱波がハイドラントの立っている木ごと、空と地面とをまたいで炸 裂 する。今までにないほどの──というか、するつもりもなかったほどの強大な熱波が、あたりを一気に乾 燥 させた。膨張した大気が一気に上 昇 し、砂 煙 が舞 い上がりつつも、冷たい空気に押 しもどされて地面に伏 せる──
光熱波は、森の一角を完全に焼き払 ってから収まった。地鳴りのような音が周囲の空気に余 韻 で残っている。
「............」
オーフェンは無言で、振り下ろしていた右腕 を抱 きかかえるように身体に引き寄せた。右腕全体が、うっすらと火傷 している。腕の産 毛 が焼けた臭 いが鼻にとどいていた──
「......魔 術 を制 御 できなくなるほど怒 ることはないだろう?」
ハイドラントの声は、今度は背後から聞こえてきた。ゆっくり振り返る。
二十歳ほど──オーフェンと変わらない歳 の男である。奇 妙 なくらい美しい顔立ちをしているが、それは顔の右半分だけのことだった。だが左半分が醜 い──といった言い方では、いささか誤解が生じる。左半分は、むしろ、顔がない。
巨 大 な傷 痕 に、まぶたも、頬 骨 も、こそぎ落とされているのだった──左耳も──左側頭には頭 髪 もない。こめかみの上から顎 先 にまで達する深い傷に埋 もれて、左目はほとんどのぞいていない。
着ているのはレティシャと同じような《塔 》のローブである。左手に、顔を隠 すマスクを持っている。それを被 り ながら、ハイドラントは続けた。
「信じられない熱量だな。うっかり殺される ところだったよ」
皮肉混じりにそう言うと、ちら、とレティシャに顔を向ける。
「ねえ? ティッシ。なんとか顔半分だけは生き残ったんだから、残ったものだけでも大事にしたいんだけどな、俺としては」
「最高執行部 直属のハイドラントくんがお出 迎 え? わたしってひょっとして人気者なのかしら」
レティシャが斜 めに構えて聞く。その表情には皮肉と同時に、少なからぬ警 戒 も浮 かんでいる──
ハイドラントは、あっさりうなずいてみせた。地面に転がってうめき声をあげている、二十人からなるドラゴン信 仰 者 たちに囲まれて。
「もちろん。《塔》は君たちを歓 迎 しているんだよ」
その一言は──つまり言うところの『歓迎』は──口から出てすぐに風に乗り、そびえる《塔》へと流れていく。
それを見ていたというわけではなかったが、オーフェンは黙 って《牙 の塔》を見上げていた。《塔》は君たちを歓迎しているんだよ。
《牙の塔》は、実は塔ではない。
施 設 そのものの形状からすれば、むしろ〝城 塞 〟である。どうという基準があるわけでもないが──高い防 壁 に囲まれ、入り口はひとつ(防壁には勝手口もあるが)。窓は小さく、ほとんどは高い階層に設けてある。九階建ての高層建築──そのすべてが頑 強 な巨 大 圧 縮 煉 瓦 で造られている。
外壁の内側には、まず敷 地 の四 隅 に物 見 の塔。その気になれば一軍を待機させられそうな広大な敷地。その奥 に、例の城塞のような建物があるわけだ。
外から見るといかにも頑健で、ついでに無 愛 想 なこの《塔》も、内部へと入れば、どうということのない、少し散らかった廊 下 があるだけだ。各階ともすべて同じ構造で、一フロアに数十の部屋がある。一階は主に《塔》執 行 部 の末 端 組織──つまり受付や事務等の部屋が並んでいる。《塔》で簡単な事務手続きをするだけなら、一階だけで事足りるわけである。もっとも──《塔》執行部そのものは最上階にあるために、連 絡 の不行き届きが多々あり、それが問題にはなっているが。
二階は主に物置や保管室──これをクッションにして、三階運動室その他で起こる振 動 ・物音を緩 和 するわけである。残りの階は、すべて教室および実験・実習室になっている。生徒などの寄宿舎は敷地外の別 棟 にあり、そちらへの出入りは、主に勝手口を使う──共同墓地へと続く出口である。
ちょうど正午──その四階にある一室に、彼らはいた。
「いわゆる休 憩 室 ね」
テーブルにほおづえして、レティシャがつぶやく。各フロアの正面階段に一番近い部屋に、必ず用意されている休憩室である。待合室の役を負うこともあるが、まあそういった部屋だ。
オーフェンは彼女のほうを見ながら、にやりとした。
「ティッシの嫌 いな、だろ?」
「そ。この部屋、大っ嫌い」
と口をとがらせる彼女に、横から不思議そうな顔を見せてマジクが聞く。
「なんでですか?」
聞かれて彼女は素 っ気 なく、
「こんな部屋でくつろげると思う?」
とおおざっぱな仕草で部屋の中を示す。
木の長 椅 子 ──しみのあるテーブルには、もしお湯さえ持ち歩いているのならば使えるのかもしれないコーヒーメーカーが置かれている。壁 にかけられた時計は、いかにも面 倒 くさそうに針を回し、おまけに部屋には、窓がない。
(ま、でもこんなもんだよな、ここってとこは)
オーフェンは胸中で納 得 しながら、彼女の腕 に従って部屋の中を見回していた。
だがマジクは、いまいち分からなかったらしい。
「でもお師様は、なんか楽しそうにしてますよ、ほら」
と、こちらに振る──
レティシャの怪 訝 そうな眼 差 しがこちらに向くのを見てから、オーフェンはきょとんと聞き返した。
「俺 ......楽しそうにしてたか?」
「ええ」
あっさりと、マジク。レティシャは無言のままテーブルに突 っ伏 して、顔だけこちらを見上げている。
「............」
オーフェンは答えずに、ふと天 井 を見上げた──木材むき出しの天井は、呪 詛 のようにうねってこちらを誘 っている。別に見る必要もない──はずなのになぜか視線を吸い込もうとする星空のように。
と、思わず一 瞬 黙 り込んでしまい、オーフェンは次にどう動いたものか分からなくなってしまった。そして──
かちゃ、と軽い音を立てて、いきなり扉 が開く。室内の目がいっせいに向いた入り口に立っているのは、ひとりの若い男だった。
その姿を見て、さっと室内が静まる──その男本人は、どうというようにも見えない、ただの魔 術 士 見習いである。黒のローブすら身に着けてはいない。それでも黒を基調としたスタイルで、シャツの下に着ているハイネックの下着(?)だけが白い。右手のリング・フィンガーに指輪──天 地 開 闢 以来最大の悪 趣 味 かもしれない、安っぽい髑 髏 の指輪だが、不思議となぜか、似合って見えた。
年 齢 は、オーフェンと同じほどか──例の白いハイネックの襟 元 に、ピンで襟章のようなものを留めている。《塔 》の紋 章 ではなく秘書の印だった。
彼は静かな、というか寝 言 のような声 音 で、ゆっくりと告げてきた。
「フォルテ師 補 の準備ができたそうです──ただし」
少し笑 みを浮 かべているように見える程度にしか感情の映っていない眼 差 しで、レティシャとマジクのほうを見やる。
「ただし、レティシャ様と少年には、もうしばらくお待ちいただきたいとのことです」
フォルテ・パッキンガムは、ようするに唐 突 な男なのだ。
オーフェンは、そう思っている。なにをするのも唐突。なにを言い出すのも唐突──
そしてその唐突な男は、五年ぶりに顔を見るなりこう言った。
「今の男な──スパイだ」
その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した──その間、とりあえず相手の顔など観察してみる。長い黒 髪 を後ろで縛 って、無 造 作 に垂 らしている。これはレティシャと同じ《塔》の頭 髪 規 定 違 反 だ。落ち着いた黒い双 眸 には光 沢 がない。上下の唇 を離 すことも少なく、そもそも言葉少ななその男は、教師代理のローブをまとっている。このチャイルドマン教室の教室長としての役割を示すローブだ。
専用の教師控 え室──数年前までチャイルドマン教室だったその部屋には、当然見覚えもある。あった。が──フォルテは自分がその部屋を使うようになってから、いくらか模様替 えをしたようだった。
あるいは、自分の記 憶 があやふやになっているのかもしれないが──それは自分では判断できなかった。
「............」
しばらくしてオーフェンは、ようやく思いついた。
「今の男って......さっきの秘書のことか?」
「そうだ」
フォルテはうなずくと、椅 子 に座 り直した。ふっと顔を上げるようにして、続ける。
「ヴィンビ・ストットアウル──偽 名 だろうな、無論。《塔 》に在 籍 していたことはないというから雇 ったんだが。調べてみると、七年前にトトカンタにある教室を素行不良で放校になっている。そんなことは別にどうでもいいんだが、あてもなくぶらついている時に、ウオール・カーレンと接 触 を持ったことがあったらしい」
「ウオール・カーレンって......」
オーフェンは、口ごもるように聞き返した。フォルテは薄 い笑 みを唇 からこぼして、
「ウオール教室のウオール・カーレン教師だよ。忘れてはいないだろう」
(忘れてるわけねえだろうが......)
オーフェンは半眼で独りごちた。聞き返したのは、フォルテが教師の称 号 を付け忘れたからである。
(どうも、ティッシの言ってたことは本当みたいだな。フォルテの奴 、本気で《塔》の教師でもなるつもりなのかよ......)
が、こちらの胸中などよそに、フォルテは続けてきた。
「ウオール教師が目をつけたほどだ。相当な力量の魔 術 士 だろうな。暗殺訓練くらい受けているだろう......」
と、ちらりとこちらと視線を合わせてくる──オーフェンは、そっとそれを外した。
小さくつぶやく。
「なにを落ち着いてやがるんだ」
「?」
眉 を動かしただけで疑 問 符 を浮 かべて、フォルテが聞き返してくる。オーフェンは深呼吸すると、顔を上げて言い直した。
「ウオール教室が裏から手を回して送り込んできた暗殺要員だって⁉ ああ、ウオール教室のことを俺が忘れてるわけがないだろう──《塔》唯 一 の、暗殺者教室だからな! そっちこそ、忘れてるんじゃねえだろうな──俺は十歳 になるまで、あの教室にいたんだ!」
涼 しい顔で見返しているフォルテに、詰 め寄って続ける。
「この《塔》でなにをやるにしても、ウオール・カーレン教師にだけは目をつけられちゃならないんだ──そうだろう!」
「だからこそ、一番最初に潰 さなければならない相手でもある」
フォルテは、よどみなく答えてきた。こちらが、ぐっと息を呑 んだ隙 に、またさらに続ける。
「〝ハイドラント〟と会ったはずだな?」
「............!」
オーフェンは、ぴたりと動きを止めた。言われてみて、ようやく思い出す──
彼は、ゆっくりと言った。かみしめるように。
「そーいや、あの野 郎 、確か《塔》執 行 部 に配属されるまではウオール教室に在 籍 してたな。なんで俺らを出 迎 えになんてきやがるんだと思ったが......」
こくり、とフォルテがうなずく。それを半眼で見下ろして、オーフェンは同じ口調で付け足した。
「昨夜、ティッシの屋 敷 に《塔》の暗殺者 としか思えない奴 が侵 入 してきた。もし本当に《塔》の暗殺者だったのなら、当然ウオール教室がからんでいる」
またひとつ、フォルテがうなずく。彼は無表情のまま、
「既 にウオール教室の何人かのスタッフが、なにかしらの動きを見せているよ」
「あんたを破 滅 させるためにな、フォルテ」
皮肉で言う。が──
「それが実は、そうではないんだよ」
フォルテは肩 をすくめると、そのまま伸 びをした──すっと椅 子 から腰 を上げ、息をつく。
机に両手をついた姿勢で、彼はつぶやくように言った。
「彼らはしばらく前から、妙 な行動を取るようになっていてね──それがどうも、ドラゴン信 仰 者 と関 わりがあることのようなんだ」
「ドラゴン信仰者......?」
「先週のことなんだが──タフレム市郊 外 の家で十数人の人間が虐 殺 されるという事件があってね」
「またかよ」
オーフェンがうめくと、フォルテは、ふっと笑ってみせた。
「まあな。だが、この前の〝キリランシェロ〟騒 ぎのものとは話が違 う。その家の正面玄 関 をぶち破って侵 入 し、家財道具をあらかたぶち壊 し、死体の損傷も著 しい──つまり一 撃 では絶命していないのだな。刺殺でも毒殺でもなく、死因は打 撲 傷 かショック死......」
「派 手 な事件だな」
思わず光景を想像してしまって、オーフェンはげんなりとした。
「俺は入院中だったから──でもそういや、クリーオウの奴 がそんな噂 をきゃあきゃあ話してたような気はするな」
「そんなとこだろうな。なにか気づいたことはないか?」
「いくつかあるけど、話してやんね」
ぷい、とオーフェンは突 き放した調子でつぶやいた。フォルテが、怪 訝 そうに聞き返してくる。
「なんでだ?」
「あんた、絶対こっそり採点してるもんな。間 違 ってて減点でもされたら気分悪いじゃねえか」
「......お前らしいな」
フォルテはそう言って、苦 笑 した。
「まあいい。奇 妙 な点はいくつもある──例えばその屋 敷 がもう何年も前に打ち捨てられた廃 屋 を密 かに改装してあったもので、被 害 者 たちはそんなところに集まってなにをしていたのだろうとか、そういったような。だが最もおかしなことはだ、そのシチュエーションそのものなんだよ。十九名の人間が、全員殴 り殺されていたこと、それ自体がな。人をひとり殴り殺すには、少なくとも同じ人数分の労力が必要だろう──体力的にも、精神的にもな。それだけの人数の犯人が押 し掛 けて、玄関を蹴 り破って侵入し、中にいた人間を殺害したあげくにいまだひとりも捕 まっていない? 冗 談 じゃない」
「つまり、むしろひとりの暗殺者 が素 人 のやり方を装 って行った犯行だというわけか?」
「そのほうが自然だろう。わたしは、なんとなく──恥 ずかしい話、これは正直なところ本当にただの勘 なのだが──ウオール教室が臭 いと見たんだ。それで調査を始めたら、前前から総務に頼 んでおいた秘書の斡 旋 にあっさり応 募 が来た、というわけだ。ヴィンビ・ストットアウル君がね」
ヴィンビ──と言いにくい名前を頭の中で反 芻 してから、ふと思い出して、オーフェンは口を開いた。
「......さっき、ウオール教室の連中がドラゴン信 仰 者 にちょっかいをかけてるようなことを言ってたよな」
「その事件の被害者たち──つまり廃屋にたむろしていた男たち十九人だが、彼らの持ち物や、集会の内容から、彼らがドラゴン信仰者であったことが判明している」
「ひょっとして......それでか?」
「なにがだ?」
が、聞き返しながらフォルテの表情には、既 にこちらの言いたいことを知っているような笑 みが浮 かんでいた。おかしいのではなく──満足の笑みだ。
それに気づきつつ、オーフェンは言った。
「俺らがこの《塔 》に来る途 中 で、ドラゴン信仰者たちの襲 撃 を受けたのさ。魔 術 士 に仲間を殺されたようなことを言っていたから、多分あんたの推測が正しいんだろう。で、ハイドラントの野 郎 が、それを監 視 していたみたいなタイミングで出てきやがって──」
そこまで言いかけて、オーフェンはふと言葉を切った。フォルテの表情が少し変化して、同情するような視線をこちらに向けている......
「フォルテ?」
つぶやくと、フォルテは、軽く嘆 息 した。机の引き出しの中から、一枚の紙を取り出す。
「実を言うと、ティッシをここに呼ばなかったのは、これを見せるのはお前だけにしておいたほうが良かろうと思ったからでね──」

フォルテはそう言って、その紙をこちらに手 渡 してきた。紙──というか書類の写しらしい。まだインクもよく乾 いていないそれを視線で撫 でて、オーフェンは──
指がゆるんで、紙ははらりと床 に落ちた。
フォルテが深刻な顔を見せている。
「そんな書類がわたしの手に渡ることを──あえて阻 止 しなかったのだろうな、彼らは。だとしたらウオール教室は、わたしをそう長く生かしておくつもりもないのだろう。ま、そう簡単に死にたくないものだが」
オーフェンはそんな言葉は、まるで聞いてもいなかった──耳の奥 が、じんじんと痛みを持ってうずき始める。落ちた書類を見下ろして、彼は立ちつくしていた。
書類を作成したのは、ハイドラントだろう。無論。
「......ティッシには見せたくなかったんだ。彼女のことだから、すぐさま奴 らの教室に殴 り込みをかけかねない──」
ばんっ!
オーフェンは踏 みつけるように床を蹴 ると、一気に部屋を飛び出した。もうどうでもいい──敵が暗殺者 の軍団だろうと、知ったことか!
飛び出した部屋の中から、少し遅 れるような形で、ぽつりとフォルテのつぶやきが耳に入ってくる──
「......でもお前でも、同じことだったかな」
オーフェンは別に返答しなかった。部屋を出て、廊 下 を駆 けながら、記 憶 に残っているウオール教室の位置を思い起こす。
書類には、ハイドラントの署名があった──本名でだ。ミラン・トラムという名前で。
内容は、簡単なものだ──報告書だった。
つい先刻起きた小さな騒 動 の詳 細 ──
《塔 》近くの街 道 で起こった襲 撃 事 件 ──
被 害 者 は、上級魔 術 士 レティシャ・マクレディとその連れ──
襲撃者は、顔を隠 した二十三人のドラゴン信 仰 者 ──
ハイドラントの証言のひとつ。わたくしは、上級魔術士レティシャ・マクレディとその連れの行動が正当防衛であったことを証言いたします。
正当防衛 。
報告書には、襲撃者たちは戦 闘 の末、全員死亡したと記してあった。
ばんっ! と走ってきた勢いで扉 を蹴破り──
オーフェンは教室に飛び込んだ。足の裏で床をこすり、身構えた背後で、扉が閉まる。
教室は無人だった。
「くそっ......」
考えてみれば、講義の最中でもないかぎり教室が使われることは滅 多 にないわけだ。
(この時間なら、体技室か)
ようするに対術訓練の場所のことだが、オーフェンはそう判断するときびすを返しかけた。と──
扉に向かいかけてふと、つま先が止まる。
「............⁉ 」
オーフェンはぞっとしながら振 り向いた。なにがどうしたというわけではない──ただ、背筋に悪 寒 が走ったのだ。
無人の教室は、昼前だというのに薄 闇 に翳 っている。汚 れた机。ばらばらに置かれた椅 子 。脚 が曲がって少し傾 いている掲 示 板 には、画 鋲 の跡 が無数についているだけでなにも貼られていない。窓 枠 にはほこりが積もっている。
そしてその窓の横に、ひとりの老人が立っていた。
(いつの間に......?)
思わず戦 慄 しながら、自問する。確かに一瞬前までは、誰 もいなかったはずである。
それが、こちらの顔に出たのか──老人は、ふっと笑って答えてきた。
「死角にいたのだよ。ただそれだけだ」
低い、静かな声。老人とはいっても、身長はこちらより高い──さすがに体重はなさそうだが身のこなしはしっかりしているようである。着ているのは銀の線が入った漆 黒 のローブ。その老人の名前を、オーフェンは知っていた。
「ウオール・カーレン教師......」
「覚えていてくれたのかね、キリランシェロ君」
老人は言いながら、ちらりと戸口のほうを見やった──
「この街に帰ってきていたとは聞いていたがね。挨 拶 に来てくれたのは嬉 しいが、突 然 飛び込んできた理由を言ってから出ていってほしいね」
「ハイドラントを探している」
オーフェンは短く答えて、老人──ウオール教師の目を睨 めかえした。無論そんなことで動じるような相手でもないだろうが。
ウオールは、また笑うと、
「ミラン君は、もうこの教室の生徒ではない。ここに駆 け込んでこられてもな」
「......あんたは《塔 》で最強の暗殺者 だ」
オーフェンは突然、関係のないことを口走った──そして口に出してから、ようやく自分の言いたかったことに気づく。口早に彼は続けた。
「このウオール教室で何人もの危険な暗殺技能者を育てている。ハイドラントの奴 は、恐 らくはあんたが育てた最高の生徒だろう」
それを聞いて、ウオールは、皮肉っぽく口の端 を歪 めてみせた──ひび割れたアスファルトのように、薄 い髭 の間から地 肌 がのぞく。
「真に 《塔》で最強の暗殺者 であるチャイルドマンが育て上げた、真に 最高の生徒である君のようにな」
「心にもないことを言うんじゃない。俺はつまり、責任を取れと言ってるんだ!」
オーフェンはなかば絶 叫 するように大声を張り上げると、腕 を横に振 った。
「あんたのことだ。執 行 部 に提出される書類の写しくらい全部手に入れているんだろう」
「昨日提出された分までしか、目を通してはおらんがね」
「なら、いま俺が話してやる! ついさっき──」
「いらんよ。君がなんで怒っているのか──しかもわたしに向かってつばを飛ばすほどにね。ま、知ってはいたんだ」
ウオールはあっさりと言うと、肩 をすくめた。
「ドラゴン信 仰 者 たちの襲 撃 の件についてだろう」
「報告書では、信仰者たちは全員死亡となっていた──」
オーフェンはふと詰 め寄りそうになって、それはなんとか自制した。
「俺はひとりも殺していない──ハイドラントの野 郎 、俺らがいなくなったあと、動きの取れなかった連中を皆 殺しにしたんだ!」
「そうだな──死体の回収は、我 が教室が行ったよ。もう、とうに執行部へと召 し上げられて、無関係になった者の尻 拭 いを命じられるとは、はなはだ心外だったがね」
老人はそう言うと、すっと目を細めた。そのせいで、それまで浮 かんでいた笑 みが、跡 形 もなく消える。
「ミラン君には相応の罰 則 が適用されたようだ──減 俸 だったかな? ま、あまり彼を責めることもできんとわたしは思うよ。彼は幼い頃 、両親を狂 信 的 な一団に責め殺されているからな」
「......初耳だな。そんなことは」
疑わしげな思いで、オーフェンはウオールをにらみ据 えた──相手は別に、気にするでもなく涼 しげに構えている。
オーフェンは視線をその老人から外して、教室の中を見回した。意味はない。ただ、ウオール教師が唐 突 に現れたように、まだこの教室に何人もの暗殺者がいるのではないかと思えてきたのだ。見えないだけで。
その視線をたどって追いかけてくるように、ウオールがつぶやくのが聞こえる。
「だいたい、それほど怒 るいわれはないだろう、キリランシェロ君? そのドラゴン信仰 者 たちによる襲撃の被 害 者 は、ほかならない君たちなんだから......」
「......彼らは、自分たちの仲間が魔 術 士 に殺されたというようなことを言っていた──ハイドラントに殺される直前にな」
答えながら、また視線をウオールのもとへ返す。
「先週、ドラゴン信仰者の集会所が襲 われて、全員が撲 殺 されたとフォルテが話してくれたよ。彼はあんたたちを疑っている」
「......そんなことを彼に無断でわたしに明かしてしまっていいのかね?」
「あんたらが気づいてることは、フォルテも承知の上さ。奴 を甘 く見ないことだ。数日以内にフォルテの新しい秘書がこの教室の前で変死することになるぞ──あいつはそういうこともできる奴だ。だが、そんなことはどうでもいい。俺の知らないところで、好きなだけ抗 争 でも内乱でもすればいいさ」
オーフェンは、吐 き捨てるように続けた。
「あんたらがドラゴン信仰者のことでなにをたくらんでいようと知ったことじゃない──俺が気にかけるのは、ただひとつだ」
ひた、と指を突 きつける──今度は、自制しなかった。
「ティッシの屋 敷 に忍 び込んだ奴がいた──間 違 いなく暗殺者 だ。《塔 》の暗殺者にはほぼ全員、あんたの息がかかってるはずだな。彼女や俺の連れに指一本触 れてみろ。暗殺者に狙 われる心 地 ってのがどんなものか教えてやる。俺が誰だかを忘れるな!」
それだけ言って、背中を向ける。
背後からウオール教師が、軽く言ってきた。
「なんのことだか分からない──とは言わんよ。とぼけてどうなるものでもないだろうしな。君は結局、自分が事態を把 握 していないことを暴 露 してしまったわけだ」
扉 へと歩きながら、オーフェンはきっぱりと無視した。が、構わずにウオールは続ける。「それと、誰が最強かということに関しては──わたしは別に、おためごかしを言ったつもりはないんだよ。つまりハイドラントは、君に敵 わなかったわけだからな。あのとき に。心底思ったものだよ──君を、チャイルドマンなどに渡 すのではなかったと」
オーフェンは扉を開けた。廊 下 には人 影 はない。左右に延びる通路にはリノリウム貼 りの床 を振 動 させる足音すらない。
ウオールの最後の言葉は、脅 しだった。
「だが、できるならわたしを敵に回さないことを勧 めるね。なんにしろ、チャイルドマンは今《塔》にいないわけだからな──」
扉が閉じる。
廊下に出てから、思わず脱 力 感 を覚える──オーフェンは右手で顔を押さえて、陰 鬱 にため息をついた......
言うまでもなく、ウオール教室を敵に回してしまったのだ。
◆◇◆◇◆
しごくなだらかなスロープになっている街 道 を、ゆっくりと駆 け上がっていく──
街のこのあたりになると建物の数は減り、なにもない空き地や、雑 木 林 が目立ちはじめる。遠くに見える作りかけの屋 敷 は、かなり大きめに敷 地 を取っているようだった。ここに家を建てるのは、ほとんどが上級魔 術 士 なのだとオーフェンが言っていたのを思い出し、クリーオウは、それを聞いたときとまったく同じ疑問を胸中に浮 かべていた。
足 下 を、ちまちまとした足取りでついてくるレキを踏 まないように注意しながら、ゆっくりとジョギングする。
坂道の上に、屋根だけ見えているレティシャの屋敷──わたしの家より大きいかしら?──を見上げながら、走る......
ティフィスは、まだ少し遅 れてついてきているようだった。このジョギングの間中、彼は少し遅れ気味だったが、こちらのペースに合わせてくれていたのかもしれない。
と──急にペースを上げてきたらしいティフィスが、いきなり横に並んだ。レキを蹴 飛 ばしかけて、あわてて足をどけてから、話しかけてくる。
「あの──」
「?」
クリーオウは、視線で返事した。走りながらしゃべるのは、あまり得意ではない──当たり前だが。もっとも魔術士は、運動しながら声を出す訓練もしているものらしい。
実際、ティフィスはほとんど支障なく話しかけてくる。
「ちょっと気になってたんですよ。質問してもいいですか?」
「いいけど......」
(そーいやわたし......二週間も居 候 していながら、オーフェンやティッシ以外とはろくに話もしてないのよね......)
そんなことを思い出す。ティフィスは、前 髪 で目を隠 すような仕草をしながら、少しはにかむように聞いてきた。
「クリーオウさんは、魔 術 士 ではないんでしょう?」
「う──うん」
見れば分かりそうなことを聞かれて、面食らってうなずくと、ティフィスはいかにも、やっぱりといったような顔をしてみせた。
「......それがどうかしたの?」
クリーオウは、こちらから少しつっこんでみた。それを待っていたように、彼が口を開ける。なんとなくクリーオウは、彼が出す言葉がすべて予想できそうな気がしてきていた。果たして──
ティフィスは、その通りのことを聞いてきた。
「なら、どうしてオーフェンさんや、マジク君といっしょにいるのかなって思って」
(ったく、もう──)
クリーオウは思わず、頭を抱 えてため息をついた──呼吸が乱れて、ペースも落ちる。ティフィスはすぐに気づいて自分もペースを落としたが、レキはまったく気づかず、少し前に出過ぎてからようやく左右を見回して、首を振 ったせいでバランスを崩 してその場ででんぐりがえしをした。
「あの......?」
怪 訝 な顔で、ティフィスが問いかける。
クリーオウは聞きもせず即 答 した。
「オーフェンはそんなことは聞いてこなかったわよ」
少し、口調が険悪になっているのに気づいたのだろう──ティフィスは少し、驚 いたようだった。
が、別にクリーオウは怒 っていたわけではなかった──それははっきりと自覚していた。単に、呆 れたのだ。
またペースをもとにもどして、続ける。
「さっきから、考えてたの──このあたりって、魔術士の屋 敷 しかないのよね?」
「ええ......まあ、ここらは大陸魔術士同盟 が一時期買い占 めた場所ですから──遠い昔は《塔 》の建設予定地だったんですよ」
「ま、そのへんの事情は知らないけど......でも普 通 は、ヘンに思うものなのよ。魔術士がいる場所って、みんな魔術士ばっかりで、しかも誰もが、それが当然って顔してるの。あなたが今質問してきたみたいにね」
「はあ......」
「分かってないでしょ」
クリーオウは、言葉を切って、ひたと彼をにらみつけた──見られて、あは、とティフィスが愛 想 笑いのようなものを浮 かべる。
彼女はゆっくりと言葉を選んだ。別に、諭 そうとしての演出ではない。実は自分でも考えながらしゃべっていたのである。
「わたしが育ったトトカンタ市にある魔 術 士 同盟ってね、魔術士しか入れないの。施 設 の中をのぞこうとしただけで、見張りの人間がそれとなく外に出てきたりしてね。《塔》も、わたしだけオーフェンは連れてってくれないし──さっきの世界図塔だって、魔術士が見張りをしてるってことは、ここは魔術士だけの場所ですって既 成 事実を作ってるようなものじゃない。それってつまり、立入禁止じゃなくなったら、魔術士だけが調査できる場所にしますよってことでしょ?」
「まあ......そういうことになりますけど......」
彼の釈 然 としない口調は、そのまま、そんなに単純なことじゃありませんよと抗 弁 しているようなものだったが、クリーオウは無視して続けた。
「んで結局、魔術士がいる場所って、みんな魔術士ばかりで、それ以外の人間は誰もいないのね。ティッシの屋 敷 だってそうよ──魔術士じゃないのって、わたしだけよ」
と、彼女は肩 をすくめた。
「わたしがいたって、いいじゃない」
「そ、そりゃそうなんですけど......」
ティフィスのうろたえたような声を聞きながら、クリーオウは足を止めた。はぁ──と息をついて、両手でひざをこする。
「走りながらしゃべったから、疲 れちゃった」
「あ──すいません」
謝 るティフィスに、クリーオウは手を振 った。
「別にいいわよ。ただのジョギングだもの。歩いたっていいわけだし──」
「あのぅ......」
ふたりが足を止めたことにも気づかずにぱたぱた走っていくレキの背中を見つめるようにしながら、ティフィスが声をあげる。きょとんと見やると、彼は困ったように続けた。
「ぼくが聞きたかったのは、つまりそういうことじゃなくって......そもそもあなたみたいな人が、借金の取り立てにくっついて旅しているのは珍 しいなと思ったからで──好 奇 心 ですけど......」
「へ?」
今度はクリーオウが怪 訝 な顔をする番だった。口元に手を当てて、うめく。
「そんなに珍しいことなの? それって」
「普 通 はないと思います......」
「............」
そのころ前方で、ようやくふたりのストップに気づいたレキが、またこけていた。
「ええと──だからぁ、オーフェンも別に迷 惑 そうな顔はしてなかったし、マジクもオーフェンの生徒になるって言ってたし、なんだかおもしろそうだったし、お母様もお姉ちゃんも止めなかったし......ええと──」
一転、しどろもどろになりながら、屋 敷 の前の街 道 へとたどり着く──
クリーオウはレキを抱 いている手をばたばたさせながら、とにかく言葉を探していた。
「わたし下町の学校に通ってたから勝手に長期の休みを取ったって平気だし、卒業検定にはとっくに受かってたし、あ、だからって別に来ても来なくてもよかったってわけじゃなくって──」
と、彼女はふと言葉を止めた。少し先を歩いていたティフィスが、立ち止まったのだ。
「......どしたの?」
聞く。ティフィスは虚 を突 かれたように、ぼんやりと門を指さした。
「これって......」
呆 然 とした口調で、うめいている。クリーオウはのぞき込むように、彼が指さす場所を見やった。レティシャの屋敷の、鉄 柵 の門である。まだ真新しい、頑 丈 な代 物 だが──なぜか今は、鎖 でがんじがらめになっている。のみならず、その鎖には板がかすがいのようなもので固定されてある。板の向こうには古い机──かなり重そうなソファが立てかけてあり──
「バリケード......かしらね」
総合的に見て、クリーオウは判断を下した。腕 の中のレキは、不思議そうに屋敷の屋根のほうを見上げている──クリーオウはふと感じるものがあって、その視線を自分も追ってみた。すると、屋根の上に人 影 がある。
その人影は、こちらの注意に呼応するように哄 笑 を発しはじめた。
「うわぁーっはっはっはぁっ!」
「あ。なんだ。ボルカン」
「その通ぉぉりっ!」
ぼさぼさの黒 髪 に、ぼろぼろの毛皮のマント──いつもの格好のいつもの地人は、胸を張って大声で答えてきた。
びし、とずんぐりした人さし指を天に向け、
「この雄 叫 びを忘れることはできまいっ! 我 が声は人民を貫 く──」
その指を次 第 にこちらへと下ろしてきながら、彼は続けた。
「知らぬは奥 地 のカエルのみっ! このマスマテュリアの闘 犬 、ボルカノ・ボルカン、天命に従い、愚 民 の群れをサラダ油で炒 め殺してくれるっ!」
それを言い終わる頃には、ボルカンの指はこちらを指し示しており──
クリーオウは、門のバリケードを撤 去 しているところだった。
「あ、ティフィス。この板をそっち側、支えててくれない?」
「案外簡単に外せそうですね、これ」
「こらぁぁぁぁぁっ!」
ボルカンが、大声で叫 ぶのが聞こえる。
「ちょっと待て、貴様らっ! 人がせっかく築いた砦 を勝手に──ああっ! そのソファを立てかけるのが一番大変だったのにっ!」
「うるさいわね! なんなのよ!」
クリーオウは、とりあえずレキを頭の上に乗せて、こちらからもびしと指を突 き返した。
「なんのつもりか知らないけど、こっちはジョギングしてきて疲 れてるんだから!」
「ふっ!──負け惜 しみを言うか、小 娘 !」
ばっとマントをひるがえし、芝 居 がかった仕草でボルカンは叫んだ。
「常に体調を整えておくのも戦士のつとめよ! この戦場に万全の態勢で臨 むことのできなかった、貴様の未熟──」
だが無視して、クリーオウはきっぱりと告げた。
「なんかよく分かんないけど、遊ぶんなら迷 惑 にならないようにしてよねっ!」
「なにが遊びかぁぁぁっ!」
ボルカンは、屋根の上で両手をわななかせた。
「あのな、いいか──ちょっと聞けよ、おい──」
「聞かない。ティフィス、この鎖 って外せそう?」
「まあ、ただ巻き付けてあるだけですから......」
「ああ、こらっ! ええと──あ、そうだ。ほら! その......バリケードをだな、無理に外そうとすると、仕 掛 けておいた罠 が作動するぞっ! うん! それに決めた!」
「まったくあいつら、人の迷惑もちょっとは考えてほしいわよねー。なんていうかロクなことしないんだから......あ、机動かしてみて」
「重いんですよ、これ」
「その──それとだな、だから──うん、人質の生命は保証しないっ! 老後も心配だし、胃腸にも悪いぞっ! てなわけで机を動かすのはやめて──やめろと言っとろーがっ!」
「うるさいわね、本気でっ!」
言われながら机をわきに押 しやって──これでもうバリケードはあらかた撤 去 したことになるが──クリーオウは、とうとう叫 びかえした。
「ちょっとは静かにしてないと、この屋 敷 ごと蒸発させるわよっ!」
「あの......それはなんとかやめてください......」
後ろから、おずおずとティフィス。ボルカンも、屋根の上でちょっとビビっているようだった。
「はぁーっはっはっはぁっ! その通りっ! できるならば、やめてくれるがいいっ!」
「......また、強気だか弱気だか分かんないことを......」
ぶつぶつとうめきながら、クリーオウは門をくぐった。レティシャの屋敷は、中庭や裏庭に比べて、前庭が極 端 にせまい──敷地内をのぞかれないために、ということらしく、屋敷の窓も前庭に面したほうには模様ガラスしか入っていない。そのため正面が北に向いている変な造りになっていた。
なんにしろ、その前庭に入って、クリーオウはレキを足 下 に放してやった。
屋根の上から、しつこくボルカンが声をあげている。
「ああっ! ずうずうしくも勝手に侵 入 してきたな、俺の砦 にっ!」
「ずうずうしいのはどっちなのよ!」
クリーオウは両拳 をひざに当てて、少しかがむようにして叫びかえした。
「だいたい、なんなのよあんたの砦って!」
「なにもくそもあるか! つい先刻この屋敷は俺様が占 拠 した! つまり俺のものだ!」
「なにを勝手なことをほざいてんのよ!」
「なにが勝手か! 占拠したから占拠したのだ! これ以上不法侵入するならば、我 がスペシャル・フォースが黙 ってはおらんぞ!」
「スペ......?」
つぶやきかえしたのは、ティフィスだった。なんとなく、次の展開が予想できたのか、不安そうに左右を見回している......
クリーオウはとりあえず、足下に落ちている、さっき取り外した鎖 の端 っこを取り上げた。そのまま、顔を伏 せて待つ。
と──
「目標確 認 ......」
小さいささやき声を、クリーオウは聞き逃 さなかった。少しだけ顔を上げて、視線を動かす──少し離 れた花 壇 の陰 に、小 柄 な少女がさらに身体 を縮こまらせて、なにやらぶつぶつひとりで確認していた。黒 髪 を三つ編みにした、十歳 ほどの子供である。
ぢゃり──とクリーオウの手の中で、錆 びた鎖が音を立てる。
少女はぶつぶつと続けている。
「目標確認──捕捉任 務 完 遂 。パットは次なる命令書を開 封 します」
と、なにやらくしゃくしゃのチラシを手の中で広げて、
「命令確認。復唱します。ええと......リサイクル家具大安売り......違 うわ。命令は裏に書いてあるんだった。ええっと『大 胆 なる奇 襲 作戦! 目立たず臭 わずくじけずに、気づかれないよーに背後から敵の息の根をとめ、ご下命いかにしても果たすべし。なお、死して屍 拾う者なし』......なんか違うよーな気もするけど──復唱完 了 。命令書は処分します」
命令書を花壇の土に埋 めて、少女は安 堵 するように息をついたようだった。
「処分完了。これよりパットは作戦行動に移ります。おやつまだかしら......」
つぶやいて、少女──パットが顔を上げたときには......
クリーオウは鎖を両手に構え、ずい──とパットのすぐそばで彼女を見下ろしていた。
「............」
しばし、見つめ合う......
数秒ほども経過しただろうか。パットは、ふっと笑 みを浮 かべた。
「パットより野戦司令部へ──我、奇 襲 に失敗せり......ではさよなら」
そのまま、ぱたっとその場に倒 れる。
「......あのね......」
クリーオウは半眼でうめいたが、パットは大きくかぶりを振 った。
「死人に話しかけないで」
「まあいいけど......」
彼女は顔を上げて、ティフィスのほうを見やった。ティフィスは苦 笑 しながら顔をかいている。
「あ、この子は十分もすれば飽 きて生き返るから、気にしないでやってください」
「分かったわ」
クリーオウは頭を抱 えて、パットから離 れた。重い鎖を引きずりながら、また別の方向を警 戒 するように見回す。
「どーせ次は......」
と探すと、不意に上のほうから、窓ががらりと開いた音が聞こえてきた。
ぱっと、見上げる──窓からは眼鏡 をかけた地人が顔を出していた。なぜか彼によくなついている黒 猫 のノーラが、肩 にぶらさがっている。
あまり気乗りのしていないドーチンの上方から、声は響 いてきた。
「行けドーチン!」
ボルカンが宣言する。いつの間に抜 いたのか、中古の剣を虚 空 に向けて。
「先制の奇襲により、敵はもはや半 壊 状態である!」
「そうは思えないけれど......」
つぶやくのはドーチンである。が、ボルカンはまったく無視して続ける。
「ここに我らが究極の破 壊 作戦を実 施 すれば、奴 らを夢の国に招待し殺すことも容易であろう!」
「それを断言できる精神力はどこから出てくるんだか......」
「さあ! 進めドーチン! 母はこの日のためにお前を産んだのだ!」
「............」
もはやうめきもせずに、ドーチンが嘆 息 する。そして足 下 のほうから、なにかバケツを持ち上げて──
それまでぽかんと見上げていたティフィスの頭上に、透 明 な液体をぶちまけてきた。
「どぎゃああああああっ⁉ 」
なすすべもなく頭からそれをかぶって、絶 叫 じみた悲鳴をあげながらティフィスが転 倒 する。ばたばたと地面をのたうちまわる彼を見ながら、クリーオウはさすがに後 退 りして声をあげた。
「熱湯⁉ 」
「ふっ!──金色の小型ヤクザ娘 も、さすがに気づいたようだな!」
自分はなにもしていないくせに、実に誇 らしげにボルカンが叫 んだ。下からクリーオウも言い返す。
「誰が小型ヤクザよっ!」
だが無視して、ボルカンは続けた。
「貴様の耐 久 消費財じみた生命力も、熱湯にかかっては潰 えるよりほかあるまいっ! 死体は深く穴を掘 って埋 めておいてやるから、心おきなく茹 であがるが良かろう!」
「ううううっ......」
半泣きになりながら、ティフィスが起きあがる。よほどの熱湯だったのか、顔が真っ赤になっていた。
「大 丈 夫 ?」
クリーオウは聞きながら、ちらりとレキのいるほうを確 認 した──子ドラゴンが、ドーチンのいる窓の位置からどう熱湯をこぼしてもかからない位置に退 避 しているのを見て、とりあえず安 堵 する。
屋根の上では、まだボルカンが騒 いでいた。
「はぁーっはっはっはぁっ! 我 が権 謀 術 数 に死角なしっ! 稀 代 の策 謀 家 にして無敵の闘 犬 ! ボルカノ・ボルカンが世界を征する日も近い! 俺様の画 策 せる時代の流れに逆らう者、すべからく蚤 取 りグシで梳 き殺されるであろうっ! さあドーチン、攻 撃 の手を休めるな!」
「って兄さん......」
ドーチンは、あっさり答えた。
「お湯、今ので終わりだけど」
「......へ?」
ボルカンの動きが、ぴたりと止まる。ドーチンはこともなげに続けた。
「ポット一 杯 だもの。また沸 かすのに十分くらいかかるから、待ってて」
「............」
風が吹 き抜 けていく。びしょぬれになったティフィスの髪 はたなびかせずに、クリーオウの顔だけを撫 でた。
静かに通り過ぎていく風......ドーチンのいた窓が、ぴしゃりと閉まる。お湯を沸かしにキッチンへ行ったのだろう。死んだふりをしたままのパットも動かず、クリーオウは表情を動かさず、手にした鎖 も鳴らず......
「ボルカーン♪」
上 機 嫌 でにっこりと、クリーオウは呼びかけた。
ボルカンは凍 ったように動かない。が、気にせずに彼女は続けた。
「次の攻撃はなにかしらぁ♪」
「............」
「ないんなら、わたし、ちょっと思うところあってあなたの近く一メートルほどのところに行きたいのぉ♥」
「............」
「そしたらこの鎖って三メートルくらいあるから、二メートル分もあなたを縛 り上げられるわよねぇ♥」
「............」
「そろそろオーフェンも帰ってくるころだと思うから、それまでに鎖の先に鉄アレイくくりつけて、深くて流れの速い川とかも探さなくっちゃ。大変だわ♥」
「あの......どういう性格なんですか、あなたたちって......」
ちょっと青ざめて、ティフィスがうめく。
「『たち』って、まるで同類みたいに言わないでよ」
クリーオウは言いながら、鎖を手に屋 敷 へ入ろうとした。刹 那 ──
ぼさっ、と背後に、なにかが落下してきた。
驚 いて振 り返る──と、屋根から落ちてきたらしいボルカンが、頭を地面にめり込ませている。
「あら。別に行く末をはかなんで自殺なんかしなくたって、ちゃんとわたしが川に流してあげるのに......してもするけど」
「いや──違 い......ますよ」
答えたのは、ティフィスだった。今度は少しどころではなく顔色をぞっとさせて、屋根の上を見上げている。
「え......?」
クリーオウは怪 訝 な声をあげながら、彼の視線を追った。ついさっきまで、ボルカンの立っていたところ──
そこに、見覚えのある別の人 影 が立っていた。
ぼんやりと訝 る。
(なんであんなところに愛らしいクリちゃん以下略仮面2号が立っているのかしら......)
無論彼女は、その黒ずくめが《塔 》の暗殺者 の標準スタイルであることなど知ってはいなかった。
「結局、わたしとは会わないとはね──いい度胸してるわ、フォルテの奴 」
頭の後ろで手を組んで、レティシャはぼやいた。
彼女の屋 敷 ももう見える。坂道の街 道 ──
彼女ら三人は、ゆっくりとそこを歩いていた。
「ま、忙 しそうにしてたしな」
オーフェンがそう取りなすのを聞きながら、レティシャは遠い目で前方を見やった。街のこのあたりは一日を通して人通りもあまりなく、静かなものである。
組んだ手でうなじのあたりをかきながら、つぶやく。
「忙しそうに、ねえ......ま、いいけど。書類のほうも思ったより早く受理されたしね。あ──受理って言えば、マジク君の件だけど」
と、となりを歩いているマジクを見下ろして、
「《塔 》に入門するって──一応、申 請 はしておいたわ」
「......ああ」
後ろをついてきているオーフェンの返事は簡単なもので、マジク自身も、あまり反応を見せなかった。
「正直、わたしはあまり勧 めないけどね......」
レティシャは言いながら、自分の屋敷のほうを見上げた。見慣れた赤い屋根。実はあまり目の良くない彼女は、まぶたを半 ば下ろして視界を細めた。屋根の上に、なにか動くものが見えたような気がした──
「............?」
と同時に、その姿が消える。
(屋根から......飛び降りた⁉ )
さらに、屋敷のほうから、クリーオウのものと思 しき悲鳴が聞こえてくる。
レティシャは、はっと身構えた。オーフェンらも、異変に気づいてこちらを見ている。
「家のほうでなにかあったわ──急ぐわよ!」
彼女は叫 んで、そして駆 け出した。
《塔》のローブは動きやすいとは言い難 い──が、それでもなんとか急いで、レティシャらは屋敷の中に駆け込んだ。前庭に、屋敷にいるべき──でないのもいたが──人間はほぼ全員いる。ティフィス(なぜかびしょぬれ)、パット(なぜかうつ伏 せ)、そしてボルカン(なぜか頭が地面にめり込んでいる)、ドーチンはいないようだが──最後に、クリーオウ。
なぜか、金 髪 を血に染 めている。
「クリーオウ!」
オーフェンが叫ぶのが聞こえた。割れた頭を抱 えてうずくまっている少女のもとに、マジクといっしょに駆け寄っていく。彼が近づくと、クリーオウは朦 朧 としたような双 眸 を、のろのろと上向かせた。
「オー......フェン?」
彼女はつぶやきながら、傷を押 さえていた手をゆっくりと離 した。そして、まるで自分自身の出血が信じられないというようにかぶりを振 って──頭を動かしたことで、痛みを思い出したのだろう。またきつく目を閉じて、地面に突 っ伏 した。
レキが不安そうに、彼女の周りをぐるぐると回る。
「お──おいっ!」
オーフェンが、叫びながら少女を抱 き起こしている。レティシャはゆっくりと、彼女らに近づいた──オーフェンの肩 越 しに、クリーオウの顔に血の筋に混じって涙 の跡 がまだらになっているのが見える。傷はこめかみのあたりで、ただの裂 傷 に過ぎない。跡も残らずに治るだろう。

だが、奇 妙 な傷だった──刃 物 でつけられたものではない。鈍 器 のようなもので一 撃 されたわけでもなさそうである。もしそのどちらかなら、クリーオウがとうに絶命していたということは十分にあった。傷は一条──まっすぐに引っかかれるようにつけられており、しかも刃物のような鋭 さがない。尖 った棒などで突かれたように見えた。
レティシャは、さっとティフィスのほうに視線を転じた。おろおろとうろたえるようにしてから、彼が答えてくる。
「よく分からないんです──突 然 のことで」
と言ってから、彼は続けた。
「でも、その......屋根の上にいきなり暗殺者 のようなのが現れて、彼女が『誰 だ』って聞いたら、飛び降りてきて......指で、突いたんです。彼女を」
「指で?」
レティシャは思わず聞き返した。とすると、殺傷目的ではなかったのかもしれない──まあ、もとよりその暗殺者とやらが少しでもこの少女を殺す気になっていたのなら、この程度のケガですんでいるわけもないが。
「何者なのよ、そいつは」
「分かりませんよ、ぼくには。覆 面 で顔を隠 していましたし。でも、そいつの格好、《塔 》支給品の戦 闘 服 のように見えました」
「《牙 の塔》......の暗殺者 ......」
レティシャはゆっくりと繰 り返した。
「そいつは逃 げたの?」
「ええ。中央市街地のほうに──」
「待ちなさい!」
ティフィスが指さすのを横目で見ながら、レティシャは叫 んだ──驚 いて、ティフィスが半歩ほど後退 りする。なにが起ころうと起きあがらずにいたパットでさえも、ちらりと顔を上げたくらいだ。
だが、レティシャが怒 鳴 ったのは、彼らにではなかった──立ち上がりかけていたオーフェンにである。
彼は、厳しい眼 差 しをこちらに返してきた。
「待たない。俺 が追う──」
「やめなさいって言ってるの!」
レティシャは叫ぶと、さっとオーフェンの前に回り込んだ。彼はクリーオウを抱 きかかえたまま、こちらを見ている。
それをじっと見返しながら──少しでも目をそらせばその隙 に逃げられそうな気分になりつつ、レティシャはうめいた。
「なにか心当たりがあるみたいだけど──言ったでしょ。あなた、この街でまた問題を起こすようなことがあれば、今度こそ長老が黙 ってないわよ」
「知ったことか。俺は──」
「わたしの言うことがきけないの⁉ 」
レティシャが怒鳴りつけると、オーフェンは、ぐっと黙り込んだ──そのまま、彼が言い返してこないうちに、彼女は続けた。
「いいから......その暗殺者 っていうのは、わたしが追うわ。あなたは、クリーオウを看 てあげて。分かった?」
「でも、敵は《塔 》の暗殺者なんだ。いくらティッシだって──」
「いくらわたしだからなんだって言うのよ。こんな真っ昼間に女の子殴 って逃 げてくような三流スタッバーのひとりくらい扱 ってみせるわ」
言いながらレティシャは、大きめの黒いローブをばさっと脱 ぎ捨てた──ローブの下は、本来なら専用のアンダーウエアがあるのだが、外からでは分からないのでよく手 抜 きをして普 段 着 のままでいることが多い。今日もそうしていて、それが幸いした。
黒いシャツに、ベージュのスラックスといういつもの格好で、レティシャは屋 敷 の門へと向かった。早足になって歩きながら、ぶつぶつと考える。
(まったく、キリランシェロは、なにかっちゃ自制をなくすんだから......)
と、じゃまな髪 をかきあげて、なぜかソファやら机やらが横に置いてある門をくぐる。
(わたしがあの程度のケガしたところで平気な顔してるでしょうに。やんなっちゃうわよね。おまけになんなのよ。いくらわたしだって、ていうのは)
独りごちながら、彼女はちらりと肩 越 しに振 り返った。オーフェンが、クリーオウの血をふくためだろう、マジクにハンカチを濡 らしに行かせている。
(どのみち、追 跡 するにしても時間が経 ちすぎてるからね──今からその暗殺者とやらに追いつけるとは思えな──)
そこまでつぶやいて、彼女は動きを止めた。
はっと──背筋を凍 らせながら向き直る。今通り過ぎた門のすぐわき。塀 の下──
そこに、小 柄 な黒ずくめの男が、じっと立っていた。
無言でこちらを見ている。覆 面 は目 深 に視線までも隠 して、その表情は読みとれない。男が身につけているのはすべて《塔 》の支給品──紛 れもなく暗殺者 だった。
「............っ!」
レティシャは言葉もなく身構えた。男は一 瞬 で動き出している。小柄な身体 をさらに縮めるようにして、こちらに向かって駆 け出し、そして──
横を通り過ぎていった。
待て、と叫 ぶこともできず、レティシャは背後へと回った暗殺者を追って振り向いた。敵は、ひとけのない道を走り去っていく......
(わたしを誘 っている⁉ )
でなければ、門のわきで待っている理由がない──そして、姿を見せてから逃 げる理由も。
(ひとりで追うべきではないけど──)
レティシャは、走り出した。小柄な暗殺者を追って。
昨夜、屋 敷 に侵 入 してきたという暗殺者姿の男──
間 違 いない。それが今、前方を走っているあの暗殺者のことだろう。
白昼に暗殺者の姿を見ることなど、まずまれ としか言いようがない──常識であり得ないというより、あってはならないことだ。無論、夜間になら出会いたいというものでもないが。
(なんなのかしら──わたしの屋敷に入り込んで、なにかを探して、今度はクリーオウを傷つけて逃 走 している......)
意味がないわけはない──だが、意味がない。
(《塔》の暗殺者だとしたら、教室に命令を下せるのは長老だけ──でも、長老だとしたら、わざわざこんな回りくどいことしなくたって、直接わたしに命じればいいことだわ。わたしは別に、あえて長老の命に背 いたことは一度もないもの)
走りながら彼女は、考えていた。
(長老の命令でないとしたら......彼ら暗殺者自身が、勝手に動いている? そういうこともあるのかもしれないけど──なんでわたしの屋敷が標的になるのかしら。キリランシェロを狙 ってるっていうわけでもないみたいだし......)
その彼が──オーフェンが、ちらりと言っていたことを、レティシャはなんとか思いだそうとしていた。暗殺者は、なにかを探していたという......
(確か......ブラウニング家がどうとか......)
どのみち、聞き覚えのないことだ。
考えているうちにも、速すぎず、遅 すぎもしない暗殺者の足は、完全にこちらを先導して、いずこかに案内している。
進まないのは推理だけだ。
(わたしの知らないものがわたしの屋 敷 にあるわけがなし......あれが本当に《塔》の暗殺者だとしたら、ウオール教室の連中?)
《牙 の塔》でも有数の暗殺者たちを抱 える、ウオール・カーレン教師の教室である。ある意味で、レティシャが長老たちよりも具体的に恐 れていた者たちだ。
(でも──)
と彼女は、無意味な思考はやめて、足を動かすのにだけ専念することにした。
(関係ない。あの屋敷はわたしの家よ。あそこだけがわたしの平 穏 なのよ。それだけは......わたしが守らなくちゃならない)
意味の分からないまま、彼女は走りつづけた。
突 然 、前を走っていた暗殺者の姿が消える。
ずっと走ってきたために息を上げながら、レティシャは立ち止まった──汗 で濡 れた前 髪 を払 いのけて、目を凝 らす......
無論、暗殺者の姿が突 如 として虚 空 に消えたというわけではない。
整然としたタフレム市街にも、人の目の集まらない街の死角は存在する。走っているうちに、いつの間にかそういった界 隈 に入り込んでしまったらしかった。走ってきた道、曲がった角をいくつか思い出しながら、レティシャは頭の中で街の地図を広げていた。確か、このあたりは──
「迷 宮 街 路 ......そうね。そんな名前だったわ」
街の中央を建てなおす際、建設者たちの仮住まいが設 えられていた区域である。街 道 から分かれる路地のひとつに至るまで計画の上で建設されたタフレム市だが、戸 籍 受付の終 了 間 近 になって、予想された人口よりも多くの人数が都市居住を求めていることが分かった。結局、そのときまで都市計画の中に入っていなかったこの区域を、周囲よりも建物が密集した形で建設することでつじつまを合わせたものの、土地面積の無理な利用が、入り組んだ路地街を生み出すこととなったのだ。
──そんなことを思い出しながら、レティシャは手のひらを拳 で打った。短時間で息を整え、薄 暗 い路地の入り口で視線を動かす。
あの暗殺者が、自分を誘 っているのは承知していたことだ。だとしたら、ついていけば罠 があることも。
(姿を消したってことは、もうこれ以上わたしを案内しないでいいってこと)
ひとけどころか生命の気配すらない乾 いた細い道に、そっと足を踏 み入れる。左右に建つ四階建てのビルからすら、物音ひとつ聞こえてこない。このあたり一帯、すべて廃 ビルになってしまっているらしい。
もとはアパートメントだったのだろう、左手のビルの二階の窓に、空っぽの植 木 鉢 が置いてあるのが見えた。
(助けを求めても......誰もいないってわけ。あからさまな誘いね。それに、あからさまな罠だわ)
ふと立ち止まってから──彼女は、意を決して歩き出した。
(弟になめられっぱなしってのも、ちょっとね)
息を吸いながら、漠 然 と思う──
(たとえ相手が暗殺者でも、ひとりくらいならなんとかなる。伏 兵 の気配は感じないし──囲まれる心配はない)
息を吐 きながら、彼女はひとりでうなずいた。
路地は一ブロックすらも直進はしていなかった。建物と建物の間はせまく、それがところどころに脇 道 になっているが、大人が身体を割り込ませることができるほどの広さもない。例の暗殺者が小 柄 だったことを考えて、そういった場所に隠 れている可能性はあっても、そこをくぐり抜 けて別の路地に逃 げたことはあり得なかった。
「せめて......武器を持ってきたほうがよかったかもね」
素 手 で戦うのは苦手だった。
不安をごまかそうとしているな、と自覚しながら、独りごちる。
「そういうのは、キリランシェロが得意だったのよね──先生もだけど。あんな怪 しげな拳 法 で、よくやるもんだわよ」
ぶつぶつと言いながら、角を曲がる──
彼女は再び足を止めた。
路地はそこで終わりだった。行き止まりになっている。そして、すぐ目の前の廃ビルの勝手口が、ぽっかりと開け放しにされていた。
採光の良い建物の中は、なんの警告もなく、ただその開いたままの入り口から無人の空気を垂 れ流している。
中からは──なんの気配も感じ取れない。だが、あの暗殺者がここに入っていったことは間 違 いないだろう。
レティシャは無言でビルの中に侵 入 した。
入ってみると、そこは勝手口というより、非常脱 出 口 のようだった。内部からなら簡単に開けられる鍵 のついた、頑 丈 な鉄 扉 。開け放たれて、ちょうつがいから金属のこすれるような音を、力なく立てている。入り口はそのまま廊 下 につながっていて、そのまま前方にまっすぐ、正面の入り口へと続いていた。ただし、正面の扉は固く閉 ざされている──取っ手に、角材が鎖 で縛 り付けてあった。
正面の入り口近くに、管理人室と思 しき窓口がある──もちろん無人。そこからすぐに左に折れる通路があり、そこを曲がらなければ、今レティシャの立っているこの非常脱出口にたどり着く。現在見える範 囲 には部屋への扉はなく、例の左への通路に入らなければどこにも行けない。階段すら、そちらのほうにあるらしい。
廊下は大 掃 除 の後のように片づけられており、少なくとも見える範囲には、得物になりそうなものもなにもなかった。
(相手の気配さえ取れれば、奇 襲 ができるんだけど......)
襟 元 をこすりながら、レティシャは顔をしかめた。そのまま、仕方なしに歩を進める。
一度だけ、カツン、と大きくかかとを鳴らしてしまってから、彼女は舌打ちした。一度深呼吸をして──慎 重 に足を踏 み出す。以後は、足音を立てずに進んだ。
左に折れる通路。ちらとのぞいてから、踏み込む。ビルの中が明るいのは、この通路に窓が並んでいるせいだった。窓とは反対側の壁 に、扉がいくつかある。通路の突 き当たりに階段が見えた。
扉に注意を払 いながら、ゆっくりと進む。と──
がしゃん!
「― !」
ガラスの割れる音が響 いた──ただし、この階ではない。上の階からだ。
「デートの場所は、あくまであっちの指示の上ってわけね......」
レティシャはつぶやきながら、親指の爪 で唇 を撫 でた。そのまま駆 け出して──一気に階段を駆け上がる。
二階のフロアに入ろうとした瞬間、再び、音が響いた。
──っしゃあんっ!
また、上の階からである。
(まったく、ご親切に......)
胸中で毒づきながら、また階段を上る。三階まで上ったところで、また上の階からガラスの割れる音が聞こえた。
(最上階......)
レティシャは考えるが早いか、また階段を上った。階段を上りきり、勢いよくフロアに踏み込もうとした、その瞬間──
背後に、気配を感じた。
「............っ!」
声にならない叫 びを発しながら、とにかく前方へと身を投げ出す──転がるように床 を蹴 って、飛び退 きながら彼女は反転した。たった今まで彼女が立っていた場所を、ちょうど鋭 い風が通りすぎたところだった。
その風の中心には、銀色の刃 があった。細身の、冷たい長剣が、甲 高 い音を立てる。
剣を振 り抜 いたのは、例の暗殺者だった──小 柄 な黒ずくめ。顔どころか、目の色すらうかがえない。どこに隠 し持っていたのか、その剣を構え直しつつ、暗殺者は落ち着いた低い声 音 を覆 面 の下から発してきた。
「ひとりで追ってきてしまったか......哀 れだな」
「......なんですって?」
レティシャは身構えて聞き返した。素 手 で刃物と取っ組み合うつもりはないので、素直に魔 術 の構成を編み上げておく──魔術そのものの規 模 で言えば、チャイルドマン教室内でも、彼女に敵 う者はほとんどいない。もうこの世にいない彼女の妹──アザリーを別にすれば、コルゴンくらいなものだ。
「ひとりで追ってきてしまったことが不幸だと言ってるんだよ」
「──え⁉ 」
突 然 の声に、レティシャは驚 愕 の声を漏 らした──その声は、眼前の暗殺者のものではない。背後から聞こえてきたのだ。
目の前の男からも目を離 せず──さりとて背後を無視するわけにもいかず、とりあえず彼女は、窓のない壁 のほうへと飛び退いた。そのまま、壁に背をつけて、通路の左右を見やる。
左手には、黒ずくめの暗殺者──
そして右手には......
「ハ──ハイドラント⁉ 」
《牙 の塔 》最高執 行 部 の、若き幹部候補──彼が、立っていた。顔を隠すマスクは《塔》の支給のものではなく、傷 痕 ──と呼んでしまうにはあまりにも大きい傷痕──を隠すためにいつも被 っているものだ。身につけているのも黒のローブ。つまり、まったくいつもと変わらない格好でいるということになる。
彼は余 裕 ありげにうなずいた。
「本来ならば、キリランシェロを引っぱり出してきたかったんだがね──彼を捕 らえて、あなたと取引をしようと思っていた。ま、どっちがどっちになったところで、別に構わないんだが」
「ミラン」
と、ハイドラントを本名で呼んだのは、黒ずくめのほうである。
「無 駄 口 は慎 め」
「どうせ尋 問 はしなければならないだろう」
「............」
レティシャはふたりの会話はまったく無視するような格好で、うめくようにつぶやいた。
「そんな......気配はなにも感じなかったのに......」
「技能に頼 りすぎなのはよくないね。気配くらいは消せるさ、当然」
ハイドラントは、得意げに鼻を鳴らした。
「狙 いは......なんなの?」
視線を険しくしながら、レティシャは聞いた。ハイドラントのマスクの隙 間 から、口元に曖 昧 な笑 みが浮 かんでいるのがのぞく。
彼は、なにげなく口にした。
「ブラウニング家の......『世界』」
「世界......?」
レティシャは眉 を寄せながら、まったく覚えのない単語を聞き返した。
ハイドラントが気にもせず肩 をすくめる。
「あなたが知っていなくても......あなたたちの誰かが知っているさ」
「わたしたち ?──チャイルドマン教室のことを言っているの?」
「まあ......そうだよ」
答えながら、ハイドラントは少しだけ近づいてきた。
身構えてレティシャは告げた。
「そう簡単に、わたしを自由にはできないわよ」
「簡単に済ませるつもりはない」
つぶやいたのは黒ずくめのほうだった。ずっとハイドラントのほうに注意を向けていたが、不意に、そちらのほうが一気に気配を膨 らませる──
殺気、というものだ。
(死ぬっ⁉ )
なにか予感めいたものを感じながら、レティシャはとにかく身体を縮めて、向かいの壁 ──つまり窓のあるほうへと跳 躍 した。魔 術 を構成する時間もない。とにかく、急所を守るために腕 で身体を抱 えて飛び退 いていた。
だが、殺気は──追いかけてくる。
──っ!
音は鳴らなかった。
つまり、さっきのような、空を斬 る音は。
剣を振 り切った黒ずくめを肩 越 しに見ながら──彼の手の中の剣に、血がついているのが分かる。
刃は確実に、肉を斬っていた。
身体のどこかに、激痛が走る──それが正確にどの部分かは、すぐには分からなかった。とにかく、卒 倒 するほどの痛みが脳を直 撃 したのだけは自覚する。
「ふあ......うっ!」
激痛にあえぎながら、レティシャは再び壁を背にして、その場にひざをついた。痛みがどこから響 いてくるのか──遠い雷 鳴 を聞いて稲 妻 の位置を探 るような心持ちで、彼女は探り当てた。
傷は、左手だった。本来は、その左手でかばっていた腹部を狙 ったに違 いない──左の小指と中指とが、ほぼちぎれそうなほどに深い傷だ。少なくとも骨は折れている。皮一枚でぶらさがっている二本の指を見ながら、考えたのは──すぐに魔術で癒 さなければ、死ぬということだ。蛇 口 から流れる水のように、傷口から鮮 血 がしたたっている。
(死ぬ──死んだら、泣いてくれる? キリランシェロ──それとも怒 るのかしら。アザリーの葬 儀 のときみたいに──)
同時に、傷を癒すための魔術を編み上げながら──その視界に再び銀色の刃が映った。
(避 けないと首がなくなる!)
ひざをついてしまっているために、たいした動きはできない。だがそれでも彼女は、側転するようにその場を移動した。編みかけていた魔術の構成は霧 散 し、消える。彼女の血が、彼女の逃 げた軌 跡 を追いかけるように床 を汚 していた。
「うっ......!」
再び襲 ってきた激痛に、身を縮こまらせる──左手の傷口を押 さえて、レティシャは顔を上げた。もう既 に服は血だらけになっている。床にこぼれた血に、つま先だけを触 れさせるようにして立っているのは、ハイドラントだった──いつの間に出したのか、彼もまた剣を手にしている。二度目に斬りかかってきたのは黒ずくめの男ではなく、彼だった。
「いい判断だ」
にやけるような声。彼はつぶやきながら、身をかがめて血だまりの中からなにかをつまみ上げた。
「でも、指はちぎれてしまったね。動くから」
彼が人差し指と中指とでつまむ、血に染まった細いものを見上げて、レティシャはぞっとしていた──指がなくなったこと、それだけではない。ハイドラントを見上げている視界が、急速に暗くなってきていたのだ。
(気絶しそうになってる......)
血がなくなったために力の入らない左腕 を抱 えるようにして、彼女は下 唇 を噛 んだ。少しでも長く意識を保たなければならない──が、体力どころか気力すらも尽 きつつあるのか、噛みついた唇からも、さしたる痛みは伝わってこなかった。
「死なせてしまっては意味がないぞ」
黒ずくめが、ハイドラントに言うのが聞こえる。が、その声すらも、かなり聞き取りづらくなっていた。
ハイドラントがなにか返事をしたのだと思う。だが、よく聞き取れない。
(先......生っ......)
必死になってすがりながら、レティシャは、そのまま顔を床 に落とした。
朦 朧 とした、なにか巨 大 で圧 倒 的 なものが、のしかかってくる──
ひょっとしたら自分の譫言 だったのかもしれないが、あとは、記 憶 の断 片 にいくつかの声が残っただけだった。
「指がなくなったくらいでは簡単には死なな──」
「だが放 っておけば死ぬぞ。取引は──」
「ふん。たかが本一冊じゃ──」
「それを師に言うか? お前は──」
「先生がどうだってほどの──俺が受けた傷はこんなもんじゃ──」
「私 怨 なら本人に晴らせ」
「お前が奴 を引っぱり出せずにこの女を引っ張ってきたんだろう──」
「指がなくなったくらいでは──」
「──たかが本一冊──」
「私怨なら──」
記憶が暗転し、時間も狂 いはじめる。レティシャは暗 闇 の中で泣きながら、ただ言葉を待っていた。
「俺が受けた傷はこんな──」
「彼女を渡 すわけにはいかないのよ」
「引っぱり出せずに──」
(............⁉ )
レティシャは、不意に訝 った──声に、女のものが混じりはじめたのだ。
「お前──は⁉ 」
ハイドラントのものか、その仲間のものか、驚 愕 の声──
「本当は、渡しても仕方ないって思っていたけど──この待 遇 じゃあね......」
その声を聞いて、レティシャは、一瞬だけ意識を回復させた──が、床 に倒 れたまま、起きあがる力はない。
(そん......な......⁉ )
レティシャはただ、意味もなく絶 叫 していた。声は出なかったが。
(ごめんなさい──わたし──あなたの葬 儀 には出席してないの──)
ぼんやりと夕闇が迫 っていた。
黒い霞 のように、部屋の上半分を覆 っている。
窓からは、果物のように赤い日差しが遠ざかっているのが見えた。吸い込まれるように──その窓の外を見つめて──
ようやく彼女は、自分が意識を取りもどしたことを自覚した。
硬 い枕 の上で、左右に頭を動かす。白い壁 ──白い天 井 。消毒用石 鹸 の、少しすえたにおい。花。柄 のない花 瓶 。無 人 のベッド。清潔なシーツ。天井のカーテンレール。水差しと──
窓 際 に立って、じっと外を見ている男。
一瞬それが、誰だか分からなかった。
(先生......?)
いや、全然違 う。男はチャイルドマン教師のように長身でもないし、長 髪 でもない。身体つきも、あの大陸最強の黒 魔 術 士 に比べれば、一回り小さい。痩 せているわけでもない中肉中背。目つきが険 しい──というより、全体の雰 囲 気 そのものが、どこか皮肉げなのだろうか。その男は──
(やだ......キリランシェロじゃない)
レティシャは胸中で嘆 息 した。彼はこちらが目を覚ましたのには気づかず、じっと外を眺 めている。
彼女もまた、しばらく彼を見つめていた......が、いつしか自然に口が開く。
「ありがとう」
彼女がつぶやくと、はっと、彼がこちらを向いた。あわてて駆 け寄ってくる。
「ティッシ──」
彼はそれだけ言うと、黙 り込んだ。レティシャは起き上がろうとして──その体力がなかった。結局枕に頭を乗せたままで、続ける。
「ありがと。助けてくれたの、あなただったのね、キリランシェロ」
「え? あ──ああ......」
口ごもるようにして、彼がうなずく。
レティシャは、くすと笑った──
「馬 鹿 よね。わたしったら、あなたの声をアザリーと聞き間 違 えるなんてね」
思い出しながら──話題を変える。
「クリーオウは、無事なの?」
「ああ。ただのかすり傷だった。あと脳 震 盪 。なんにしろ大げさなんだよ、あいつは。もう元気になってて、ここにも......いっしょに来ようとしてたけど、俺ひとりで来たんだ」
口早に言って、彼はふと、姿勢を正すように視線を上げた。
口調までもトーンを落として、告げてくる。
「その......ティッシ。ティッシのケガ......のことなんだけど......」
「ええ」
穏 やかに彼女は答えて、毛布の下から、包帯できれいに包まれた左手を出してみた。
彼は、そっと視線を外したようだった。さりげなくではあったが、レティシャはそれに気づいていた。
「指は、無事だった。応急手当もしてあって──いや、俺がして、化 膿 の心配も、多分ないと思う。けど......」
言いにくそうに咳 払 いしてから、彼は続けた。
「一度、神経が完全に切断されたから、そればっかりは魔 術 で治せない──指をくっつけることくらいしかできなかったんだ。だから神経がつながるのは、自然治 癒 に任せるしか......ない。傷痕 も消せなかった。時間が経 ちすぎてたんだ」
「そう......」
うなずいて彼女は、吐 息 した。じっと、彼の顔を見上げる。
「まあ、ポカをしたのはわたしだからね。仕方ないわ。自 業 自 得 ってやつ」
と──レティシャはそこまで言ってから、はっと気づいた。
「なにを考えているの? キリランシェロ」
彼は、じっとこちらを無表情に見つめていた──さっき、窓の外を見ていたのと同じ表情で。
彼は即 答 してきた。息を震 わせて。
「奴 らを皆 殺しにしてやる」
「やめなさい!」
レティシャは叫 んで──そして、その叫んだ勢いで起き上がった。血 塗 れだった服はとうに、病院の寝 間 着 に着 替 えさせられている。彼女はベッドに寝ている範 囲 でぎりぎり彼のほうに詰 め寄った。
「やめて──馬 鹿 なことは考えないで」
「なにが馬鹿なんだ」
静かに──怒 気 すら含 んで、彼が聞き返してくる。レティシャはかぶりを振 った。
「馬鹿としか言いようがないでしょ──やめてちょうだい」
「あいつらは、ティッシに手を出したんだぞ!」
「だからって、わたしの指二本とあなたの人生交 換 したんじゃ、値段が高すぎるでしょうが!」
レティシャは怒鳴るようにそう言うと、はぁ──と嘆 息 した。そっと、右手で彼の胸に手を当てる。
「そんなことしてもらっても、嬉 しくないわよ」
「じゃあ......俺はどうすればいいんだ」
「フォルテに連 絡 しなさい」
レティシャは、当てた手から彼の鼓 動 を聞き取りつつ、ゆっくりと告げた。
「ウオール教室は、どういう意図でか知らないけど、とにかくわたしを拉 致 しようとして、しかも失敗したのよ。もうこれだけで彼らは破 滅 でしょ? フォルテなら、長老たちに連絡をつけて、ハイドラントを解任させ、ウオール教室にもしかるべき処置を下すよう働きかけることができる。喜んでやってくれるわよ──ウオール教室を抹 殺 する、またとないチャンスだもの」
と、肩 をすくめてみせる。
「わたしもすぐに退院できるわよ。コミクロンが生きてたら、すぐに治してもらえたでしょうにね──仕方ないけど。彼が死んだせいで、コルゴンたらショックを受けて《塔 》を出ていっちゃったのよ。どこに行ったんだか......」
レティシャは言葉を切ると、にっこりした。
「いつの間にか、《塔》からみんないなくなっちゃったわ。みんなね......」
言いながら、手が震 える。
「わたしを気 遣 ってくれるんならね、お願い──もう馬 鹿 なことはしないで。ひとりで暗殺者と戦ったり、《塔》を出ていったり......」
「............」
彼は、答えてこない。ふと──浮 かべた笑 みが、力を失ってゆるむのを感じる。
「もうわたしを......この街でひとりにしないで......」
レティシャはつぶやきながら、彼の胸に当てた手に、額を押 しつけた。
彼にもたれかかりながら、彼女は、しばらく涙 ぐんでいた──泣き出すほどには弱くはなかったとしても。
空が青く滲 んで、地上へと降りてくる。
まず草木が黒く翳 り、そのまま、夜は始まる。屋 敷 にもどってきたときには、そんな頃 合 いになっていた。
鉄 柵 の門を押 し開けて、前庭に入る。
「遅 かったわね」
門の横から、唐 突 に声をかけられる──が、オーフェンは驚 きもせずにそちらを見やった。
予想していた──というより、分かっていた。既 に決まり事であるかのように、そこに彼女はいると思っていた。
無言で門を閉めながら、彼女と向かい合う。
「アザリー......」
暗 闇 の中を、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる彼女を見つめて、オーフェンは、ふと、駆 け寄りたくなるのを覚えた。結局、自制したが。
彼女は、その気配に感づいたように歩みを止めた。
「ちゃんと寝 てるの? 疲 れてるんじゃない?──肩 が落ちて見えるわよ」
が、オーフェンは、無視して聞いた。
「なにをしに現れたんだ?」
「いいじゃない、別に──あなたが言ってたのよ。ここにはわたしの部屋も用意してあるんでしょ?」
「アザリー」
警 告 するように、彼はうめき声を発した。彼女は別に、だからといってどうという表情も返してはこなかったが、いつもの斜 に構えたような笑 みを浮 かべたまま、くすと鼻を鳴らした。
「あまりわたしを邪 険 にすると、ウオール・カーレンに負けちゃうわよ」
「......え?」
オーフェンは、きょとんと聞き返した。屋 敷 からはあまり明かりがない──これだけ大きな屋敷に、数人が住んでいるだけで、使用人のひとりもいないのだ。明かりの灯 った部屋などひとつふたつしかないし、そのせいでこの屋敷は、夜間には廃 屋 のように見える。
だから玄 関 先の小さなガス灯の光が、たまたま彼女のブラウンの瞳 を輝 かせたのは、ほんの偶 然 と言っていい。彼女は影 の中に立っていたのだ。
闇の中の小さな光に照らされて、アザリーは続けた。
「中庭に行きましょうよ」
レティシャ邸 の中庭は、ふたつの棟 にはさまれる形になっていて、前庭の数倍は広い。運動場にも使われるし、人工池のほとりにはベンチとテーブルも用意されていて、いい休 憩 所 にもなっている。ある意味でここが、この屋敷の中心なのかもしれなかった。
「明かりを」
アザリーがつぶやきながら、白い燐 光 のような鬼 火 を、人工池の真上に浮かび上がらせる──きらきらと輝きながら、光の粒 を水面にこぼす光球を、オーフェンは静かに眺 めた。光はじわじわ闇 を溶 かしている。
先を歩いていたアザリーが、くるりと振 り向いた。前にも見た黒の戦 闘 服 は、思ったより彼女を小さく見せるようだった。
(いや、それとも、昔と違 って身長が並んだせいか......)
胸中で独りごちる。アザリーは、まっすぐこちらを見 据 えて、聞いてきた。
「あまりしつこく聞くと、嫉 妬 してるみたいに聞こえちゃうかもしれないけどね──遅 かったじゃない」
「病院から帰る途 中 、少し寄り道をしたのさ」
「......《塔 》に伝令を頼 んだわけ?」
「............」
オーフェンは無言で、顔を上げた。彼女からは少し視線をそらすようにして、彼女の肩 越 しに夜の闇 を見やる。
アザリーは別に、こちらの肯 定 を必要としてはいなかったようだった。
「ティッシの指示でしょ。ま──彼女の考えそうなことだけど」
彼女は言いながら、肩をすくめた。
「もう《塔》にメッセンジャーが着いたでしょうね。途中で、不 慮 の事故に見 舞 われたりしなければ、だけど」
「!──なに?」
オーフェンは、はっとして聞き返した。もっとも、彼女が答えてくるのを待たなくとも、言いたいことは分かる──
「ウオール教室の連中が、伝令馬車まで襲 うってのか?」
「それだけで済めばいいけど」
「......どういうことだ?」
「決まってるでしょう」
アザリーは言いながら、闇をかき回すように指を振 った。屋 敷 と、そしてこちらとを指さして、
「彼らが最後の手段に出るってことよ」
「最後の......手段」
オーフェンは虚 ろに繰 り返した。暗殺者たちの最後の手段──とくれば、ひとつしかない
闇の中に踊 るように、アザリーの返事は気楽なものだった。
「そ。暗殺 よ。それも、敵をすべてね」
「馬 鹿 を言うな!」
自分でも嫌 になるくらい動 揺 して、オーフェンは大声をあげた。
「タフレム市にだって司法組織がある──《塔 》の最高執 行 部 だって、無力でも無能でもないんだ。ティッシを襲ったことだって、奴 らにしてみれば伸 るか反 るかの──」
「フォルテ、ティッシ、あなた──あ、そうそう。ハイドラントに顔を見られたから、わたしも含 まれるわね。彼らは今夜中にそのすべてを消そうとするわよ。伸るか反るかってことなら──」
と、唇 に指を当てて付け加える。
「これこそ、そうよ。彼らにはもう後がないの──明日になって、執行部が動き出せば、いやしくも上級魔 術 士 であるティッシを襲 撃 したんですもの。それだけでウオール教室は解体させられるか、拘 禁 されるか。それまでに彼らは、行動を終えなければならないってわけ」
「意味がないだろう」
オーフェンは吐 き捨てた。
「俺 らを殺したところで、罪が重くなるだけだ。いくらウオール教室だって《塔》の全戦力と戦う力はないんだからな」
「でも、逃 げることならできるわね」
「......なんだって?」
聞き返して、オーフェンはまじまじとアザリーの顔を見やった。彼女はこめかみを指でかいてから、少し考え込んで、続けた。
「どう説明しようかしらね──言っておくけれど彼らの暗殺目標は、事件の関係者としてのあなたたちではないわよ。彼らが目標とするのは......チャイルドマン教室のすべて」
「なおさら意味がない」
それを聞いて、アザリーが、つと表情を険しくする。暗 闇 と光が混ざる中 途 のところまで頭を退 いて、彼女は答えてきた。
「意味がないことなんてしないわよ、誰 もね。彼らの狙 いは、ブラウニング家の世界書」
「世界......書?」
オーフェンは怪 訝 そうに聞き返した。アザリーはしごく当たり前にその単語を口にしたが、聞いたことがない。そのことは、彼女も予想していたようだった。
「初耳でしょうね。わたしだって二週間前に長老たちから聞き出したばかりなんだから」
「長老たちを......殺してな」
彼はこだわったが、アザリーのほうは、肩 を小さくすくめるだけで、相手にはしてこなかった。ゆっくりと、言い直す。
「世・界・書──それについては話せば長いことになるわよ。たかだか一冊の本なんだけどね。紙束の分 際 で、これがまぁ人を死なせること死なせること」
「いったい、どういうことなんだ」
「発 端 はね。二百年前にさかのぼるのよ」
アザリーはつぶやきながら、ベンチの背に腰 を乗せた。
「大陸に点在するノルニルの遺 跡 が、基本的にはすべて貴族連盟の所有になっているのは、知っているわよね」
「......ああ」
オーフェンは少し躊 躇 してから、同意した。言いたいことは分かるとばかり、アザリーがくすりと笑う。
「もちろん、魔 術 士 同盟が隠 匿 している遺跡もいくつかあるけどね──取引の末、公式に魔術士同盟の所有物となった遺跡もある。でもね、人類が目にすることのできる最大の遺跡は、いまだ貴族連盟所有のまま。どこの遺跡のことだか分かるでしょ?」
「世界図......塔か」
答えながら、ふと世界図塔の建つ方向へ、顔を向ける。この屋 敷 からでは、塔の先 端 すら見えないが。
「ま、そんなわけよ。教会総本山 が貴族連盟を通じて、わたしたちに立ち入り調査を禁じた世界図塔。実を言えばね、キムラックの連中は、塔の建てられた目的を知っていたのよ。二百年前からね」
「目的?」
「そ。ノルニルたちが、なぜ世界図塔を建設したか──」
アザリーは言いながら、指を立てた。
「それが、人間の魔術士のためであったことは間 違 いないのよ。彼女らは、わたしたちの祖先にこう言い残した──『世界に疑問を持ったならば塔をのぞけ』ってね。塔は強力な魔術の装置なのよ。彼女らは二百年前、強大な魔術を行ったの。塔を利用してね。膨 大 な労力と代 償 、生 贄 まで用いて彼女らのしたことは──」
と、立てた指を、すっとこちらに向けてくる。
「たった一冊の本を召 還 すること」
「............」
オーフェンは答えずに、彼女の指先を見ていた。彼女はその視線に気づいたのか、面 白 がるように、くるくると指先を回してみせた。そのまま、続ける。
「その本が、世界書と呼ばれるものよ」
「なにが......記してあったんだ、その本に?」
「世界の秘密」
ぴた、と指先を止めて、彼女。
「ノルニルたちが、わたしたちに自 ずと気づいてもらいたかったことが、すべてね。その本は、神々の世界で記された歴史書なのよ」
「神様が書いたとでも言うつもりか?」
鼻で笑って、オーフェンは言った。が──アザリーが真顔でうなずくのを見て、ふと、背中が寒くなるのを覚える。
「その通りよ。その本の名前は、スウェーデンボリー。知ってる?」
「魔 王 スウェーデンボリー......キエサルヒマ史前に、神々と戦ったって──神話じゃないか。ただの」
「キムラックの連中は、その時代の神々のことを信じてる──魔王の存在も信じているでしょうね、無論」
彼女は反動をつけて、ベンチの背から腰 を上げた。
「天使と悪魔を従えた、万 物 を制 覇 する魔法使い スウェーデンボリー。時間を呼吸し夜空を食らって飢 えをしのぐ。その彼が記した、神々の世界の書」
と──彼女は、いきなりこちらに顔を近づけてきた。声をひそめて、
「世界書。それが世界図塔 に召 還 されたのが、二百年前。キムラックはその書の存在を、魔術士たちよりも早く察知していた──その理由は分からないけどね。思うに、そのあたりがキムラックの秘密なんでしょうけど......」

オーフェンは、逃 げるように後 退 りした。口をとがらせて──なんだか口論しているような心持ちになりつつ、言う。
「そんなことはどうでもいいじゃないか──その本が世界図塔にあるのなら、ウオールなんかには手が出せやしないだろ。ティッシや俺らには、なおさら関係ない」
「そうね──世界図塔に、今も保管してあるのならね」
含 みを持った声で、アザリーがつぶやく。
ぴくり、とオーフェンは表情をひきつらせた。
「なにがあったんだ?」
「簡単なことよ。四十年前の砂の戦争──キムラック教会と魔術士たちの破局、なんて呼ばれてるけどね。実はあれ、キムラックの狙 いは世界図塔の、その本だったわけ。だから街を破 壊 して、その書を奪 ったら、さっさと背走していったのよ」
「......じゃあ......」
「言いたいことは分かるわよ。さっきと同じこと考えてるんでしょ──キムラックにあるのなら、ウオールなんかには以下同文って。確かにその戦争以後、世界書は教会の聖宝として、キムラック教師長の最名門、ブラウニング家に保管されていたわ。十年前までね」
彼女はすらすらと説明しながら、両腕 を広げた。
「でもね、宝なんてものは盗 まれるものなのよ。ブラウニング家から聖宝を盗み出したのも、ただのケチな盗 賊 。手にした書の価値にすら気づかなかったでしょうね──古本屋にでもたたき売ったんじゃないかしら? 世界書はそのまま裏ルートに流れて......何年間も行 方 知れずになっていた」
「でも、その行方が見つかったから、奴 らが行動を起こしたんだろう?」
オーフェンは、もうだいたいの筋書きが読めてきていた。アザリーが、首をこくんと前に折る。
「この情報が、裏の世界で公 になったのは先週のことよ。書は、六年前からこの街のドラゴン信 仰 者 の手に渡 っていた。彼らは──その盗賊やらなにやらとは違 って──古語をある程度は知っていたから、その書の重要性を、わずかながらにでも気づくことができたってわけ」
「......で、情報が知れ渡ったその週に、ウオール教室の連中はドラゴン信仰者の集会を襲 撃 したってわけか」
「ま......無 駄 足 だったんだけどね」
と、彼女は笑い出した。
「実を言えばね、彼らが集会場にやってきたのは、わたしが集会をめちゃめちゃにした後だったのよ──扉 を蹴 破 って、屋 敷 の中をめちゃくちゃにしたっていうのも、わたし。そのくらいしないと、口を割らなかったんだもの」
そこまで言ってから──ふと笑 みを消す。
「わたしが去った後に、彼らはやってきたらしいわね。状 況 を見て、何者かに出し抜 かれたことを悟 った彼らがやったのは、とりあえず、それ以上情報が流 布 しないようにすること......つまり、口 封 じね。その場にいたドラゴン信仰者を皆 殺しにしたって聞いたけど。そのときに、わたしが聞き出したのと同じ情報は手に入れたみたいだわね」
「つまり──」
オーフェンは、ゆっくりとつぶやいた。それに合わせて、アザリーも続ける。
ふたりは同時に、同じことを口にした。
「その世界書は、最終的にチャイルドマンの手に渡 った......」
「五年前に、ドラゴン信仰者と、なにか取引をしたらしいわ。どんな口車を使ったんだか知らないけどね」
アザリーだけが、あとにそう続ける。
「チャイルドマンが〝失 踪 〟した今──世界書の所在を知っている可能性があるのは、その生徒であるわたしたちだけ。どのみち、いくらウオール・カーレンだって、先生から直接、書を取り上げようと考えるほど無 謀 じゃないでしょうけどね」
「世界書は、どこにあるんだ、アザリー!」
オーフェンは、彼女に詰 め寄りながら詰 問 した。思わず手を伸 ばしかけて──彼女は避 けようともしなかったが──彼女の胸 ぐらをつかむ瞬 間 、思いとどまって止める。
その手を見下ろすようにしながら、アザリー。
「なんでわたしが知っていると思うの?」
「あんたがまだ知らないんだとしたら、俺にその情報を渡すはずがない──俺に出し抜かせるようなチャンスを与 えるわけがないからな。それに、あんたは、その世界書とやらになにが記してあるのか、知っているふうだった。読んだんだろう、内容を!」
ほとんど出まかせのような気分で、オーフェンはまくしたてた。言ってから、とりあえずそれが正しそうだと気づく──
(そうだ──彼女は俺を利用しようとしている......)
アザリーは、それでも軽く笑 みを浮 かべてみせた。ただし......双 眸 は、周りの闇 に合わせるように、翳 らせて。
「あまりわたしを好いてない推理だから、減点1ね──でもまあ、おおむね満点だわ」
言いながら、さっきから突 きだしたままのこちらの手を気にするように、自分の胸元を手で直す。
「世界書はこの屋 敷 にあるわよ。隙 を見て、ちょっと盗 み見もした。でも、その書の在 処 を聞いて、どうするつもりなの?」
「決まってるだろ! ンなもん、ウオールにでもなんでもくれてやればいい!」
「駄 目 よ」
彼女はきっぱりと、即 答 してきた。
じっと、吸い込もうとするような瞳 でこちらを見 据 え、続ける。
「わたしが書を探そうとしていた理由を教えてあげる──書は破 壊 しなければならないのよ。その価値もない人間に、知られてはいけないことが、世界書には記してある......」
「ならそうしろよ。それで、その旨 ウオールに伝えてやればいい。本は燃やしちまいましたってな」
「彼がそれで納 得 すると思う?」
アザリーは、ふっと笑ってそう言った。
「............」
思わず黙 り込んで、考える──確かに、彼女のほうが正しい。ウオールは信じないだろう。というより、《塔 》において別教室の魔 術 士 の言うことなど、カケラも信じたものではない。
(ハッタリも通じない......本 音 ですら通じないのだから)
苦 々 しく、考える。
こちらが、そう思い至 ったことを察したのか、アザリーは近づいてきた。
「選 択 する余 裕 はないのよ。明日の朝になれば、《塔》執 行 部 が機能し始める──でも、腰 の重い長老たちを待つわけにはいかないのよ。ウオールたちは今夜中に動き出す。分かるでしょ? あなたやフォルテはなんとか自分の身くらいは守れるかもしれない──わたしもね。でもティッシは? 彼女はケガをしているし、病院なんて無防備きわまりないわ。彼女まで守りきれるわけがない。言っておくけれど、彼らが真夜中から行動を起こすとして......今から彼らの集合している《塔》に直行して、もうぎりぎりの時間よ」
「......信じられないな」
唐 突 に、オーフェンはつぶやいた。
「え?」
不意を突 かれて、アザリーが聞き返してくる。オーフェンは苦 笑 を隠 すように顔の下半分に手を当てて──大きく吐 息 した。
「あんたが、ティッシの安 否 を気 遣 うことがさ」
瞬間、本気で怒 ったように、アザリーが目をつり上げる──
「キリランシェロ......」
うなり声のようなその呼びかけを聞きながら、オーフェンは、かぶりを振 った。
「ごめん──別に、本音じゃあない」
「分かってるわよ。当たり前でしょ」
彼女は、すっと背筋を伸 ばした。まっすぐにこちらを見つめ──いや、見つめるだけではなく、逃 げるように顔を背 けかけたこちらの目をのぞき込みすらして、続ける。
「やってくれるわよね? できるはずよ。ウオール・カーレンを......スタッブする」
暗殺 ──
胸中で、オーフェンはその単語を噛 みしめた。一度噛みつぶせば、そのこだまが無数に耳の中に響 いていく......
(できるか!)
怒 鳴 りつけそうになりながら、しかしその言葉がつかえて出てこない。喉 だけを震 わせてしばし彼女を見つめかえし──ようやく出てきたのは、別の言葉だった。
「......ティッシと正反対のことを言うんだな」
「あなたを理解しているからね──わたしだけは」
静かに落ち着いて、彼女はそう答えてくる。
オーフェンは拳 を握 りしめた。
「ああ......だから俺を利用できるんだろう。どうにでも」
「でも感謝はしてくれるんでしょう? わたしの思った通り......あなたは、昔の自分と相対することで、昔のセンスをだいぶ取りもどしたんじゃない? あのひとの後 継 者 として、不可欠な力をね......」
(勝手なことを!)
声には出さずに叫 んで、オーフェンは彼女をにらみ据 えた──彼女はポケットから、小さな黒い箱を取り出している。彼女が手に入れたノルニルの遺産で、自由に空間転移が行えるものらしい。
アザリーはその箱の表面に、指で複雑な文字をなぞるようにしながら、告げてきた。
「世界書は、あなたの生徒が持っているわよ。チャイルドマンの屋 敷 から持ち出したらしいわね──書はウオールとの駆 け引きに使える。有効にね──」
箱の上に、無数の光の文字が浮 かびはじめた。
踊 るように、あるいは歌ってでもいるかのように、文字はぐるぐると回り、形を変えて光を増した。その光が、ふっとアザリーの身体 全体を包み──
そして、彼女は消えた。
「勝手な──ことを!」
彼女の姿がなくなってから、ようやくオーフェンは声を出して叫んだ。
「あんたが俺を理解なんてしているものか──人を理解する女が、人を殺すかよ!」
言ってしまってから、ぎくりとしたように、身をすくませる──
恐 怖 したのではない。それだけは分かっていた。
それでも利用されるしかない自分を、どうしようもないくらいにはっきりと自覚してしまったからだった。
◆◇◆◇◆
(......あんな大声を出して、聞かれてないって思ってるのかしら......)
渡 り廊 下 の出口に身を隠 して、クリーオウはぽつりと独りごちた。レキが足 下 で退 屈 そうに耳をかいているが、とりあえず無視する。
(今の女の人......暗がりのせいでよく分からなかったけど......)
どこか見覚えのある女ではあった。いまいち思い出せないが。
池のほとりにひとり残され、呆 然 と立ちつくしているオーフェンを眺 めながら、クリーオウは小さく嘆 息 した。
「オーフェンたら、ずいぶんとせっぱ詰 まった声を出してたわね......」
足下のレキに話しかける。
そして、唐 突 に返事は返ってきた。
「うむ。あれは絶対に訳ありであるな」
「復 縁 を迫 って口論してたように見えたよね」
「────⁉ 」
ぎょっとして、振 り返る──と、渡り廊下の屋根の支柱に縛 られて、地人ふたりが知ったような表情でうなずき合っている。
「な──なんであんたたち、こんなとこにいるのよ⁉ 」
小声で叫 んで、クリーオウはふたりのほうに近寄った。ボルカンが、重々しくうなずきながら答えてくる。
「うむ。クーデターに失敗した者は虜 囚 として生き恥 をさらすべしとかで、あのパットとかいうガキに腕 ずくで縛り上げられたのだが」
「情けないことを堂々と白状するわね、あんたって......」
「だって石持って殴 りかかってくるんだもん、あの子。ぼくは無関係なのに」
のろのろと、ドーチンがうめく。なぜかボルカンよりもぼろぼろになっているようだった。
ばっと、ボルカンが顔を上げる。背中合わせに縛 られているので顔を合わすことはできないが、それでもなんとか肩 越 しに振 り向きやって、
「無関係なわけがあるか⁉ 血を分けた麗 しい兄弟愛は、殉 教 の場においてもその血を分けつづけるのだろーがっ!」
「なんかよく分かんないけど......」
クリーオウは、半眼で頭をかいた。
「あんた、なんの教えに殉じてるつもりなのよ」
「ふっ──」
と、ボルカンは勝ち誇 った笑 みを浮 かべて、
「この俺様の強力な戦士の志 にかかれば、実は無宗教であることなどなんら問題にはならんのだ」
「なると思うけど......」
これはドーチン。
クリーオウは、もう聞くのはやめて、また嘆 息 した。頭の後ろをかこうとして、無理矢理身体を曲げてもがいているレキを抱 き上げながら、オーフェンのいるほうをちらりと見やる。
「あ。オーフェン、屋 敷 に入るみたいね。わたしももどるから──じゃね」
「ええ⁉ ほどいてってくれないんですか?」
ドーチンが、泣き声じみた悲鳴をあげる。クリーオウは、既 に屋敷にもどろうとしていた身体を反転させて向き直ると、
「なんでわたしがそんなめんどくさいことすんのよ」
「なんでって......人情とか......」
「え?──わたし、ケガしてから貧 血 気味で気分悪いんだから、わけの分かんないこと言わないでよ」
「わけ......分からないんですか?......だって人情ですよ......?」
青ざめて、ドーチン。クリーオウは目を冷たく細めると、彼らの縛り付けられている支柱を、ぴっと指さした。
「その柱」
「は......はぁ」
ドーチンがうめく。クリーオウは投げやりな調子で支柱のてっぺんと下とを順番に指さして、
「けっこ古くなってるみたいよ。がんばれば外れるんじゃない?」
「外れるかぁぁっ!」
縛られながら両足をばたつかせて、ボルカンが叫 ぶ。
「ゾウの足よりぶっとい柱だぞコラ! こんなもん引っこ抜 けるくらいなら、それだけで食ってけるわ馬 鹿 たれ! 茶色いバナナ食わせ殺すぞ!」
「がんばってねー♪」
気楽に手を振 りながら、クリーオウはその場を後にした。
居間にもどると、オーフェンとマジクがいた。ここのところずっとマジクがかかりきりだった黒い本のことで、なにやら話している。
(まぁた、わたしのことのけ者にして......)
胸中でうめき声をあげる。
だが、素 知 らぬ顔でクリーオウは近づいていった。足音を聞いて、オーフェンが、すっと振り向く。
マジクはなにやら、青ざめていた。が、別にどうでもいい。

「あ、お帰りなさい、オーフェン──ティッシの具合、どうだった?」
頭の上のレキの背中を撫 でながら、聞く。オーフェンは、ああ──と曖 昧 な表情でうなずいてきた。
「大 丈 夫 だったよ。あのな......」
と、困ったように切り出す──
クリーオウは、内心むっとしつつ、彼が言いそうなことをずらずらと予測していた。
(ったくもう、いつもいつものことなんだから......)
「これから俺、少し出かけるんだ......」
オーフェンは言いにくそうに愛 想 笑いを浮 かべている。
(あーあー。そーでしょ。別にたいしたことじゃないんだけどとか、すぐ帰ってくるとか、ちょっと待っててくれとかね)
いったいどうやって尾 行 しようかと考えながらも、クリーオウはそんなことはおくびにも出さずににこにことうなずいた。
「へぇ?」
返事もしらじらしい──ということに気づいたのはマジクだけのようだった。
オーフェンは別に気づいた様子もなく続けている。
「ティッシをあんな目にあわせた連中と戦いにいく──《牙 の塔 》だ」
(まったくもー、そーやって自分の行き先も目的も秘密にしてさ、こっそりついてかなきゃなんないこっちの身にもなってよね)
「だが、俺ひとりじゃあ無理だ」
(たまに人に頼 ることもできないなんて可愛 くないわよ、ホント)
オーフェンは、言葉を切ってゆっくりと瞳 を向けてきた。
「俺を助けてくれ」
(結局、今回もわたしを置いてけぼりにするつもりなんだから──)
............
クリーオウは、はたと思考を止めた。
ゆっくりと──笑 みの形に固まらせていた表情をほぐし、きょとんとする。
「......は?」
真 剣 にこちらを見つめている彼に、クリーオウは、思いっきり間の抜 けた声を発していた。
既に真夜中を数分ほど過ぎていた。
夜の林間に身をひそめ、時計などあろうはずもないが、なんとなく、それが分かる──空には薄 い雲が渦 巻 いているために、月の位置は当てにならない。時を告げる鐘 が鳴り響 いた、というわけでもない。無論、屋 敷 を出てから時間を数えていたというわけですらなかった。ただ、真夜中は──分かるのだ。
《牙 の塔 》への入場には、警備部のチェックが必要となる。が、素 直 にそこに顔を出すというわけにもいかず、オーフェンらは正門を少し離 れたしげみの中に隠 れているのだった。眼前には、見上げるほどもある壁 がそびえている。
三人並んで、ぽかんとそれを眺 めながら──その沈 黙 を破ったのは、こんな声だった。
「......ま、事情はおおむね分かったわ」
レキを胸にひとりでうなずくクリーオウに、オーフェンは半眼で聞いた。
「本当に分かったんだろーな......」
「ええ」
こくんと、金 髪 の少女は真顔でその小さなあごを喉 元 につけた。
「マジクが本を万引きしたせいで、わたしは頭を割られ、ティッシは病院送り──さらなる追 及 を逃 れるためには、こちらから討 って出て、元 凶 との断絶をはかるほかない、とこーゆうわけね。正論だわ」
「............」
彼女の言った内容を、オーフェンは少しの時間を費 やして、頭の中で繰 り返した──大筋は間 違 っていないし、こちらも適当な箇 所 は省 いて説明したのだから、完全な理解を示せというほうが無理だろう。が......
「お前、本っっっ当に分かってるんだろーな」
さらに目を鋭 くしてオーフェンが追及すると、クリーオウは、言いがかりはよしてと言いたげに、口をとがらせて言い返してきた。
「おおむね理解してればいーじゃない」
「あのー......」
クリーオウの向こうから、マジクが声をかけてくる。オーフェンは真顔のまま、
「なんだ? 万引き小 僧 」
「だーかーらぁ、お師様ぁ!」
泣き出しそうになりながら、彼はばたばたと手を振 った。
「あれはだから、なんて言うかどさくさで──別に盗 もうと思ってたわけじゃ──」
弁解するマジクを眺 めながら、ぽつりとクリーオウがつぶやく。
「つまり火事場泥 棒 ね」
それに続けて、オーフェンは額に手を当てて大げさにうめいた。
「あーあ、俺 ってば、どろぼー小僧の先生かー」
「あうううううう......」
泣きながらマジクはいったん静かになったが、それでも立ち直って聞いてきた。
「でも──その、ぼくら別に悪いことしに来たんじゃないんですから、こんなこそこそと忍 び込むようなまねをしなくたっていいんじゃないですか?」
「っても......警備部が、俺とウオール・カーレンを天 秤 にかけて、俺のほうを取ってくれるとは思えないからな」
オーフェンは大きく吐 息 した。
「レティシャが襲 撃 されたって報告が、きちんと《塔 》までとどいたかどうか確かめる方法がないんだ。こんなとこで警備部と押 し問答している間に、ウオール教室の連中に脱 出 されたらしゃれにならねえだろ」
「......にしても──」
と、クリーオウが、いきなり真 剣 な声をあげた。
彼女の視線に合わせて、オーフェンも別の方向へ向き直る──ふたりで《塔》の外 壁 を見上げて、しばし沈 黙 した。彼女の言いたいことは、だいたい分かる。
オーフェンは先回りして答えた。
「......この壁 をどうやって越 えるか、だろ? 聞きたいのは」
「まぁね......わたし、跳 べないわよ?」
「俺だって跳べるか、ンなもん」
「レキなら跳べるかもよ?」
「......その黒犬だけ向こうに放 り込んで、俺らはここでヤブ蚊 と戦うのか?」
「じゃどうすんのよ」
そう聞かれて、オーフェンは息をついた。肩 をすくめて、自分の胸 元 から銀のペンダントを持ち上げてみせる。
「俺をなんだと思ってるんだ? 腕 力 でできないことは、魔 術 でカバーすんのが魔術士ってもんなんだよ」
それを聞いて、クリーオウがぱっと表情を輝 かせる。どうやら悪意だけはないらしい様子で指を一本立てて、
「つまり、腕力で無理なら暴力にパワーアップしてフォローするってことね」
「......どーも、俺の周りには一度本気で決着つけにゃならん連中が集まるらしいな」
嘆 息 しつつクリーオウの指を押 しのけながら、オーフェンはしげみを出た。あとに続いてクリーオウやマジクも出てくる。警備部の見張りは、真夜中を過ぎると巡 回 の間 隔 が極 端 に長くなることは、《塔 》で学んだことのある魔術士たちの間でなら、有名すぎることだった──つまり、その隙 をついて夜間外出するというわけだが。
あとをついてきながら、まだちょっと落ち込んだ様子のマジクが聞いてくる。
「あの、お師様......」
「なんだ? 置き引き予備軍」
ぐっ......とマジクが退 きかけるのが、物音にさえなって聞こえてくるが、どうやら踏 みとどまったらしかった。いかにも不安そうな声で続ける。
「魔術で壁を越えるって......いつか言ってた、失敗すると一 瞬 で身体 が蒸発するとか、激 突 死 するとかいう、アレじゃないでしょうね」
オーフェンは呆 れ顔で振 り向いた。
「ふたりも抱 えて、ンな危険なまねができるかよ」
と、壁の上のほうを指さす。
「だいたい、空間移転ったって、壁抜 けができるわけじゃねえんだ。それより上が開いてるんだから、飛び越えればいいだけのことだろ。ちょっと重力を中和して、高く跳 べるようにすりゃいいんだよ」
「この前、空に浮 かんでた、あれね」
クリーオウが思い出して、言ってくる。
オーフェンは、ああとうなずいた。
「そういうこと。重力中和なら、空間転移ほど制 御 は難しくないさ」
と、マジクの身体をがっしと捕 まえながら、続ける。
「失敗しても、内臓から爆 砕 する程度で済むしな」
《牙 の塔》の敷 地 内に無事着地して、オーフェンは周囲を見回した。グラウンドの、なにかの資材が積んである物 陰 に、とりあえず三人隠 れる。
暗 闇 の中、いかにも人工物の敷地内らしく、なんの生物の息づかいも足音も聞こえてこない──さっきまでしげみの中で感じていたすべてのものが、なくなっていた。
いるのは人間を食料にするヤブ蚊 だけだ。
レキを頭に乗せたクリーオウが、すっと横に並んでくる。
オーフェンは一応、聞いてみた。小声で。
「レキの魔 術 で一気に《塔 》の中に転移することはできねえか?」
クリーオウは、しばし頭の中で検討したようだった──わずかに視線を上げて、考え込んでいる。あるいは、レキに話しかけているようにも見えたが。
結局、彼女はかぶりを振 った。
「無理だと思う。まだ赤ちゃんだもの。難しいこと言っても通じないの」
「ま......期待はしてなかったけどな」
と、オーフェンは肩 越 しにマジクを見やった。
「例の本、誰 が持ってる?」
「あ......ぼくです」
答えながら、マジクは服の下から真っ黒の革 表紙をのぞかせた。
「そうか......」
つぶやいてオーフェンは、暗闇の中にそびえる巨 大 な《塔》を見上げた。ウオール教室の連中は、まだ《塔》を出ていないはずである──その理由は、いくつかあった。
まず、さすがに十何人もの暗殺要員が完全武装で夜間出動すれば、警備部が不 審 に思わないはずがない。そもそも、魔術士が大人数でなんらかの「作業」を行うのは貴族連盟との協約違 反 だ。協約違反はしばしば行われるとはいえ、しょせんは一 介 の教師にすぎないウオールに、それを強行できる権力はない。
魔術士の出入りはすべて記録されるから、ひとりひとり出ていってあとで合流しても同じことである。
レティシャが襲 われたのは午後半 ば──それから仲間を集合させ準備を整え、襲 撃 計画を練る時間を考 慮 に入れないとして、日があるうちに《塔》を出立できたと仮定しても、それはおおむね論外だ。彼らは自分たちをフォルテがマークしていることを知っている。少しでも《塔》から動き出せば、フォルテの〝ネットワーク〟が、あっさりと嗅 ぎつけてくるだろう......
(だとしたら......奴 らは、一番簡単な手を使うだろう。俺が入ってきたのと同じ──警備部の巡 回 がおろそかになる真夜中過ぎに《塔》を出ようとする......)
つまり、ウオール教室の暗殺者たちは今まさに《塔》を出ようとしているところだということになる。
(今まさに、か......)
嫌 な味のする唾 を呑 み込んで、オーフェンは独りごちた。
「あいつらが、まさか俺の迎 撃 を予想していないはずがない、な──」
「俺の、じゃないでしょ」
クリーオウが聞きとがめて、言ってくる。
「わたしたちのよ」
聞いて、オーフェンはにやりとした。
「いや、奴らが予想してるのは、俺の迎撃さ。お前らのことは、考えてない」
「あ、だから、ぼくらを連れてきたんですか」
驚 いたように、マジク。オーフェンは、しばし目をぱちくりさせてから、あわててうなずいた。
「あ──ああ、そういうことだ」
さっと視線を鋭 くして、《牙 の塔 》へと向き直る──
「行くぞ」
オーフェンはつぶやいて、夜 闇 に足を踏 み入れた。
夜の《塔》は静まり返っている。ひとけもない──敷 地 外にある学生寮 には明かりも灯 っているが、《塔》そのもので多少の騒 ぎがあったところで、聞こえはすまい。問題は、警備部だ──
足音を立てずに歩きながら、オーフェンはひとりで考えていた。後ろから、思ったよりは静かに、マジクとクリーオウがついてきている。
《牙の塔》執 行 部 に所属する警備部は、ふたつに分けられる。ハウスペットとウオッチドッグと俗 に呼ばれるが、つまり《塔》施 設 内の警備を担当する課と門番である。意味は逆転していて前者のほうが上級職と見られているのだが、門番のほうは人手が充 実 しているのに対し、内部警備はよく言えば小数精 鋭 ──実のところは人手不足が慢 性 化 している。(フォルテと確実に連 絡 が取れていればな──警備部を味方につけることもできたんだろうが......)
そんなことを打算しながら、物 陰 づたいにグラウンドを通り抜 ける。
(まあ、ないものねだりはしないが得か)
用具室や、放置された建材の余りなど、グラウンドでは身を隠 す場所には、さほど不自由はしない。クリーオウたちも、よくついてきていた──ふと、脳 裏 にマジクの声がよみがえってくる。
──だから、ぼくらを連れてきたんですか──
(多分......違 うな)
ぼんやりと自答する。
月のない夜道だが、目を凝 らせばあたりは見えた。遠くの、学生寮 からの明かりのせいだろうが。オーフェンはちらりと肩 越 しに、ふたりを見やった。
クリーオウは別に、緊 張 した様子もなく走ってついてきている。いつぞやの耐 刃 ジャケツトには飽 きたのか、昨夜レティシャから借りていた彼女の戦 闘 服 を、また着ている。今度は髪 を背中には入れていない──あのあと、服を脱 いだとき大量の抜け毛を発見して懲 りたらしい。無論、髪が邪 魔 なので覆 面 は被 っていない。
考えてみると、この少女がなにかを怖 がったというのを、見たことがない。今もだ──彼女にとっては、恐 らく《塔》という言葉も畏 敬 の対象にはならないのだろう。そんなことを考えながらオーフェンは、ひとり微 苦 笑 を漏 らしていた。ふと、この金 髪 の少女が、ほとんどひっきりなしに巻き込まれている騒 動 に音 もあげずくっついてきている理由が、分かったような気がする──
その後ろを、マジクが走っている。どちらかといえば、悲 壮 な目の色で。
最近はあまり見かけていなかった、例の黒ずくめの格好である。マントの襟 元 を押 さえるようにして、緊張しているのかもしれない。
《牙の塔》に侵 入 する、と告げたときに、この少年は別になにも言ってこなかった。自分の持ち出した本をめぐって、レティシャが入院するほどの傷を負ったと聞いたときに少し驚 いていた程度だ。
(これが終わったら......全部話してやろう、ふたりにも)
静かに、オーフェンは決心していた。
(もう知ってるのかもしんねえけど......俺が誰で、チャイルドマンが何者で、もう俺の旅が、単なる借金の取り立てなんかじゃなくなってきちまったことも──)
そして──
オーフェンは、足を止めた。
「きゃん!」
背中にぶつかって、クリーオウが声をあげる。マジクは、ゆっくりと彼女のわきを通り過ぎてから、自分で立ち止まっていた。
鼻を押 さえてこちらを見ているクリーオウの頭を、その上に乗っているレキごと、ぽんとたたいて、オーフェンは彼女の視線を促 した。三人の前に悠 然 とそびえている──《牙の塔》に。
城 塞 として設計された《牙の塔 》ではあるが、外周の城 壁 を突 破 されてしまえば、敷 地 内は《塔》そのものまで素 通 しである。が、最後の壁 として《塔》の入場口があった。
外から見ると《塔》の一階には入り口がない──窓もなく、頑 丈 そうな壁だけがのっぺりとしている。中央に幅 五メートルほどの石段が設 えてあり、入場口は、二階にある。ただしこれは外から見ての話であって、実際は、入場口のあるフロアが一階と呼ばれていた。その下は、地下倉庫──ほぼ廃 品 置場だが──になっている。
もちろん、石段を上って、入場口のすぐ横に警備部の詰 め所がある。どう隠 れて上ろうが、侵 入 者 はそこから丸見えになってしまうわけだ。
そのくせ、石段の下からでは、詰め所の窓の内部をうかがうことができない。つまり詰め所の見張り窓の外に照明──《塔》で唯 一 、夜を徹 して灯 されるガス灯がかけられているのである。詰め所の内部にはたいした照明はなく、光の反射の関係で、ちょうど見張り窓がマジックミラーになるわけだ。
(単純な造りのくせにめんどうなんだよな、どこに見張りがいるか分かんねえってのは)
口の中で、オーフェンはつぶやいた。魔 術 で光を誘 導 し、死角を補 うことはできるのだが、それには詰め所の位置まで呪 文 の声をとどかせなければならない。
隠 密 行動にはまったく役に立たないのが、音声魔術全 般 の致 命 的 な欠点ではある。
「......どうすんの?」
小声で、クリーオウが聞いてきた。頭の上でレキも、うんうんとうなずいている。
「《塔》を出入りするにはここを使うしかない」
「非常口とかないんですか?」
マジクが、これも小声で言う。オーフェンはうなずいて、
「いざとなりゃ、どの階の窓からだって飛び降りられる連中に非常口なんか必要ねえだろ」
「そりゃま、そうですけど......」
つぶやいてから、思いついたように目をぱちくりさせる。
「じゃあ、そのウオール教室の人たちって、窓から脱 出 しちゃうんじゃないですか?」
「重力を中和するには、呪文の声を地上までとどかせる必要がある。ンな大声出しながら飛び降りれば、警備部が気づくさ」
「でも、低い階からなら......」
「一階は事務・庶 務 室、二階は保管室だ。どちらも厳重にロックされている上、警報設備もそろってる。わざと複雑な機構を持った警備装置を採用しているから、魔術で無効化できる代 物 じゃない」
「でも......殺し屋なんでしょ? そいつら。鍵 くらい......」
と、これはクリーオウ。オーフェンは肩 をすくめた。
「暗殺者 は金庫破りと違 う。だいたい、暗殺ってのは屋外でやるもんだ──わざわざ相手の家に潜 り込んだりしてたら、簡単にゃ脱出できないからな」
「............」
マジクもクリーオウも、それを聞いてしばらく黙 っていたが──
ふとクリーオウが、きょとんとした声をあげた。
「あのさ、オーフェン──ひょっとして、その殺し屋の人たちって、今夜一晩、この《塔》からは脱出不可能なんじゃないの? だったら意味がないわ」
オーフェンは、それを聞いて、すっと口を閉じた。
彼女がそう言い出すのは、理解できる──言葉を選んでから、彼は、答えた。
「《塔》内部警備員は、常勤四人しかいない......その代わり、入場口を徹 底 して見張るから、彼らに気づかれずに脱出することはできない」
と、続いて後方のグラウンドを越 えた《塔》城 壁 の正門を指さして、
「門番は、百名以上の隊員が八時間交代で四チーム、ローテーションを組んで正門と城壁の外を巡 回 している。彼らの監 視 の目をくぐり抜 けることは、少人数でなら、不可能じゃない。ただ警報ひとつで何十人からがあっと言う間に集合してくるから、見つかったらウオール教室の暗殺者どもだって無傷で逃 亡 するのは無理だろうな」
「......なにが言いたいの?」
「内部警備員を突 破 する方法だよ。気づかれずに、てのが不可能なら、気づかれても突破しちまえばいいのさ──たった四人。ウオール教室の連中になら、容易なことだ」
「......! 殺して突破するってことですか?」
「相手は暗殺者だ」
オーフェンは静かに断言した。
「しかも十何人かいる。俺が《塔》を出てからも出入りがあったろうから正確な人数は分からねえけど、十人より少ないってことはないだろうな。俺ひとりでは......対応できない。お前らを守ってやる余 裕 もあるかどうかだな」
「チャイルドマン教室の仲間っていうのを呼ぶことはできないんですか?」
少し期待するように、マジク。
オーフェンは即 答 した。
「できればやってる」
レティシャは傷そのものは完治したとしても、大量に血を失っていたこともあり、体力的にも精神的にも今すぐ退院というわけにはいかない。
フォルテとは連 絡 が取れない──少なくともタフレム市内の自宅にはいなかった。最悪、既 にウオール教室の手で暗殺されている可能性もある。
コルゴン、ハーティアは、そもそもこの街にいない。
コミクロンとチャイルドマン教師はこの世にすらいない......
アザリーは──
彼女のことを考えはじめて、オーフェンは気分が鬱 に傾 くのを感じていた。
アザリーは、彼が失敗したときのため──あるいは、それほどのことはなくとも、裏をかかれたときのため──レティシャを守るために、こっそりと彼女の病院に待機している。それ以前に彼女は《塔 》に姿を現すわけにはいかなかった。
ティフィスやパット、ボルカンにドーチンとなると、問題外である。
「さて、どーしたもんかな......」
考え込む横で、はぁいとクリーオウが小声で言ってきた。彼女の代わりに、レキが前 脚 を挙げている。
「わたし、いい考えあるわよ」
「ほう?」
応じると、彼女はにっこりと笑って続けた。
「あのね、ここからレキに《塔》ごと敵を吹 き飛ばしてもらうの♡......て、あれ? なんでオーフェン、わたしの首絞 めるの?」
「レティシャさんの身が危ないから、ていうことなら、病院のほうで待機していたほうが良かったんじゃないですか? 入れ違 いになる危険だってあるわけですし......」
マイペースに質問してくるマジクに、オーフェンは嘆 息 しながら答えた。
「暗殺者 を防ぐには、待っていたら駄 目 なのさ──奴 らだって襲 撃 計画を立てる。その計画通りに組織だって攻 撃 してくる奴らを、防ぐことは不可能だ。こちらから攻 め込むしかないんだよ。敵より早くな。それに──」
「......それに?」
と、これはクリーオウ。軽く首を絞めているこちらの手を外そうとして──最終手段なのだろう、噛 みつこうと口を開けながらだ。
オーフェンは、ふっと笑った。
「試 してみたい気もあるんだよ。俺の力で、奴らに勝てるのか。俺が──」
言いながら顔を上げて《塔》を見やる。
「俺が、本当に〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟なのかを......」
クリーオウが、手に噛みついた。
とりあえず手をはなし──ぽかんとしているふたりを眺 める。オーフェンは小声でまくし立てるように、話を変えた。
「ま、こんなとこで考え込んでいてもらちがあかない。とにかく、詰 め所まで飛び込むぞ。とりあえず事情を説明してみて、そっからのことは成り行き次 第 だ」
「う──うん」
クリーオウの返事を聞いて、オーフェンは、石段の下に飛び出した──クリーオウらも、そのあとに続いてくる。
闇 の中から、詰め所のガス灯の光にさらされる場所へと入り込んで、もう物 陰 に逃 げ込むことも、後もどりすることもできなくなる。
入場口へ、石段を駆 け上がりながら、オーフェンは胸中で独りごちていた。
(分かりすぎるほど分かるんだ──)
もう何百年も魔 術 士 たちの靴 でこすり続けられ、すり減った石段を蹴 りながら、跳 ぶように上る。
(サクセサー・オブ・レザー・エッジ〝鋼 の後 継 〟──)
恐らく彼女 は、それを必要としている──自らが殺した偉 大 な魔術士、その後継者を。
(そしてそれだけが、彼女を止めることができる!)

声には出さずに叫 びながら、彼は石段を上りきり、そのまま詰 め所の扉 ──開いたままになっていた──から中へと躍 り込んだ。
「静かにしてくれ!」
薄 暗い室内に向けて、とりあえず声をあげる。敵意がないことを示そうと両手をあげながら、
「チャイルドマン教室のキリランシェロだ。緊 急 事 態 で《塔 》に忍 び込んだ──ん?」
そこまで言って、はたと止まる。
詰め所の中は、机がふたつとロッカーがいくつか──その程度のものしかない。机の上には書類と思 しき紙束が散乱している。えらく汚 れたコーヒーメーカーは、それでもまだ使用されているらしく、黒ずんだ液体が底に少したまっていた。が──
「......誰もいませんね」
マジクがぽつりとつぶやくのが聞こえた。
振 り返ると、マジクが背後に立っている。クリーオウは、えらく散らかったこの部屋に入るのが嫌 だったのか、入り口で待っていた。
「そうだな」
オーフェンも頭をかきながら、同意する。
詰め所の中は無人だった。壁 に貼 ってある当番表を見ると三交代制になっていて、今夜も四人が勤務しているはずである。
それがいない──ということは、理由はひとつだった。
「ウオール教室が......もう行動を始めている......?」
ぞっとしてつぶやく。その刹 那 ──
「いや、たった今からさ」
「────!」
声は天 井 の上から聞こえてきていた。振り仰 ぐと同時──
「ヤスランの棺 よ!」
ごうんっ!──
詰め所の壁が振 動 し、そして、全体にびしびしと破 壊 音が走る。天井から細かい砂がばらばらと降り注ぎ、ガラスが砕 ける音が響 いた──その窓の外で、ごとり、とガス灯が落ちる。照明がなくなり、闇 が空気ににじみ出し、一瞬で埋 め尽 くした。
(詰め所が──圧縮されている⁉ )
「オーフェン!」
クリーオウの声に、オーフェンは反射的に言い返した。
「入るな!」
と彼女のいる入り口に向かって手を振 ってから、天井に向けて魔 術 の構成を編み上げる。さっき声が聞こえてきたと思える場所に、おおまかな見当をつけて叫 ぶ。
「我は放つ光の白 刃 !」
瞬間、熱波の渦 が光を伴 い、天井を撃 ち抜 いた。爆 音 とともに荒 れ狂 う衝 撃 波 が、あたりを鳴動させる。
が──手 応 えがない。
(外れた!)
舌打ちし、高熱波が撃ち抜いた穴の下から飛び退 く──
「プアヌークの魔剣よ!」
声は、その後を追いかけてくるように響いた。先刻開いた穴から、そのままおかえしをするように熱衝撃波が撃ち込まれてくる。
そして詰め所が、大爆発を起こした。
どこをどう逃 げ出したのかはよく覚えていない──窓から飛び出したような気もする。とにかくオーフェンは爆 裂 する炎 を背に、外に身を投げ出していた。背後で、詰め所の小屋が炎 上 を始める。
「マジク! クリーオウ!」
オーフェンは地面に転がりながら、ふたりの名前を叫んだ──が、見回しても、炎が照らし出している範 囲 には、ふたりの姿はない。
「くそ──」
炎を消すために、魔術を編もうとする──が──
立ち上がりながら、小屋へと向き直ったその視界に、ひとりの男の姿が入った。
炎上する小屋の上に、両手をぶら下げてこちらを見下ろしている......
「ハイドラント!」
オーフェンは、その男に向かって叫んだ。ハイドラントは、じっとこちらを見て、そして笑っている。
笑っている。彼は、マスクを着けていなかった。標準の戦 闘 服 に、右手には長剣を下げている。
赤々と夜空まで照らしそうな炎の中、顔の半分をこそぎ取るような傷 痕 をさらして、彼はゆっくりと──ことさらにゆっくりと口を開いた。
「派手にいこうじゃないか、キリランシェロ」
「俺は構わんがね......」
オーフェンは構えを取りながら、皮肉げに笑ってみせた。
「こんなでっかいたき火をおこせば、警備部が気づくんじゃねえのか?」
「そうかもしれないな」
と、笑う──ハイドラントは、だからどうしたというように肩 をすくめると、続けた。周囲で炎 が爆 ぜ狂 い、かなり聞き取りづらいが、はっきりと聞こえてくる。
「だが困るのはウオール・カーレン教師であって、最高執 行 部 直属の俺じゃあない。それに、ウオール教室とチャイルドマン教室の私闘 を仲 裁 したとなれば、多少の点数かせぎにはなるしな。かつての教え子ということでしかない俺に、まだ義理が通じていると思いこんでいるウオールが迂 闊 なんだよ。俺はお前を殺せれば、それでいい」
かっとして、オーフェンは叫んだ。
「貴様はティッシを襲 っただろうがっ!」
「お前らこそ!」
屋根の上から一気に飛び降りて──ハイドラントが叫 び返してくる。
「天 魔 の魔女が生きていることを隠 して、なにをたくらんでいる!」
着地と同時に振 り下ろしてきたハイドラントの剣を、オーフェンは後方に跳んでかわし、ついでに左手を差し伸 べた。唱える。
「我は放つ光の白刃!」
「タマンカマの鏡よ!」
ふたりの間で膨 れ上がり、そして炸 裂 する熱 衝 撃 波 を、ハイドラントの造り出した魔術の障 壁 が包み込むように受け止める──
オーフェンは構わずに、再び後方に跳んだ。《塔 》の外 壁 に沿って、入場口から遠ざかる形になる。
(こいつなんかに構ってる場合じゃねえ──)
冷静に判断して、彼は、ちらと《塔》を見上げた。
(内部警備員がいなかった。ウオール教室の連中に既 に殺されていたんだとしたら、奴 らの行動が、こっちが思っていたより早かったってことになる......)
いちかばちかの思いで、彼は呪 文 を叫んだ。
「我掲 げるは降魔の剣!」
ふっ──と、右手の中に、実際に剣を持っているような重みがかかる。すかさず彼は、別の構成を編み上げた。
「我は駆 ける天の銀 嶺 !」
重力が中和され、ほんの一瞬、体重が軽くなる。
だんっ!
その一瞬で、オーフェンは思い切り地面を蹴飛ばしていた──耳元で気流が渦 巻 く、奇 妙 な音が聞こえてくる。彼は飛び上がり──半秒後には──《塔》の三階の窓に飛び込んでいた。
「行けぇぇっ!」
かけ声をあげながら、手の中の力場の剣を、窓に向かってたたきつける。
ガラスが砕 ける。手にかかっていた剣の重みが消 滅 し、魔 術 の効果が途切れた。両腕 で顔をかばいながら、ガラスのなくなった窓の中へ、彼は転がり込んでいった。
ざっ──
《塔》内部に入り込んでから、立ち上がる。ガラスの砕 片 が散らばる窓 際 から離 れ、部屋の中央あたりに歩いてから、彼はつぶやいた。
「我は生む小さき精 霊 ......」
呪文とともに、彼の肩 口 のあたりに、ぽう、と白い光を放つ鬼 火 が浮 かび上がる。魔術の光明が、部屋の中を照らした。
「......ここ、か......」
オーフェンは少しうつむいて、独りごちた。
彼が飛び込んだのは、三階、体技室だった──体術などの訓練場である。よく見知った、懐 かしい場所......
と、背後から、声──
「ここで決着をつけるというわけかい?」
オーフェンは無言で振 り返った。
彼が飛び込んで、壊 れた窓に、ハイドラントがもたれている。既 に部屋の中に入り込んで、気楽な様子で剣を肩にかついでいた。
体技室はがらんと広く、小さな腰 掛 けが数個散らばっているだけで、なんの器具もない。武器の類 も、木剣などの練習用のものも含 めて、すべて倉庫に片づけてあるはずだった。床 は木──壁 も木。リノリウム貼 りの廊 下 とは違 う。とはいえフローリングそのものというわけでもなく、床の上にわざわざ柔 らかい合成板を敷 き詰 めてある。
ハイドラントは窓 枠 から腰をあげ、言ってきた。
「懐かしいんじゃないか? キリランシェロ」
「ああ」
そっけなく認める。オーフェンは鬼火を天 井 近くにまで遠ざけると、少々光を強めた──こうすると鬼火の寿 命 はだいぶ縮むが、部屋の広さを考えれば、光量はまだ足りないといったところだ。
にらみ据 えているこちらの視線をものともせず、ハイドラントが近づいてくる──あと十メートル、というところか。まだまだまともに戦える間合いではない。魔 術 でさえ、この距 離 があれば、相手の構成を見てから反射的に防 御 の構成が編めるだけの余 裕 がある。
ハイドラントは、空いている左手で、そっと自分のほお──顔のない左側のほおを撫 でてみせた。
「この傷のことを考えたことがあるか? お前は」
「......さあな」
憮 然 とした返答に、ハイドラントの表情が、ほんの刹 那 だけ、怒 りにひきつるのがうかがえた。が、それもすぐに消えると、平静な顔にもどる。
「俺はこの五年間、毎日毎日、この傷 痕 につきまとわれてきたんだよ」
「そいつぁ悪かったな」
言いながらオーフェンは、ジャケットの内側に手を入れた。縫 いつけてある鞘 から、短剣を抜 く。
光の中で、冷たい刃は輝 きもしなかった。
刃先を見つめながら、小さくつぶやく。
「......だが、てめえがつまんねえことを言ったからだろ」
が、ハイドラントは無視して続けた。
「俺はウオール・カーレンの探している本なんざ、どうでもいいんだよ。貴様に復 讐 できればな。どうでもいい──どうでもいいんだ! 王都で貴様につけられた、この傷の借りが返せればな」
「借りたもんは返す。どっかの誰かに教えてやりてえな」
嘆 息 混じりにオーフェンは、ナイフを持った右手を、すとんと横に落とした。そのまま告げる。
「てめえにとっては嬉 しいニュースをひとつやるよ」
と、険悪に目 尻 をつり上がらせる──正面のハイドラントが、こちらに向かって駆 け出しているのが見えていた──
「てめえの傷と同じ──てめえの吐 いた一言が、俺を苛 んでいたんだ!」
ぎぃん!
かん高い音とともに、金属と金属が打ち合って火花が散る──
無 造 作 に振り下ろされてきた剣を、こちらも両手でしっかりと構えたナイフで無造作に弾 き返し、オーフェンは叫 んだ。
「ティッシの指の借り、俺も返さねえとな!」
◆◇◆◇◆
「オーフェン! マジクぅぅ!」
衝 撃 音 と熱風に、入り口から数歩ばかり押 しもどされ、クリーオウは絶 叫 した──たちまち小屋の中に炎 が渦 巻 き、ふたりの姿がかき消える。どうやら屋根の上から、炎の魔 術 を撃 ち込まれたようだったが──
無理に入り口から中に入ろうとし──そして熱気に当てられ足 踏 みしてから、クリーオウはもう一度叫んだ。
「オーフェェェン!」
が、返事はない。炎の轟 音 、膨 張 する空気が小屋の隙 間 から吹 き出す音──なにかが壊 れる音、なにかが倒 れる音、なにかが割れる音ばかりが返ってくる。
その炎の中に目を凝 らし──
クリーオウはなんとか、荒れ狂 う熱波の中に、人 影 らしきものをふたつ見いだした。
「レキ!」
懇 願 するように叫びながら、頭の上からディープ・ドラゴンの子供を下ろす。胸 元 にそれを抱 きしめながら、彼女は続けた。
「お願い──なんでもいいの! ふたりを助けて!」
────!
音らしい音は、なにも起こらなかったが──
クリーオウは直感で、レキが『なにかした』のだと悟 った。子ドラゴン自身は、別にどうということもなく、こちらの首筋に鼻をくっつけてきているだけだ。ただその視線が小屋の中を一 瞥 したのにクリーオウは気づいていた。さっと視線を転じると、小屋の中に見えた、人影らしきものが、もう消えてなくなっている。
「やった!」
歓 声 をあげて彼女は、子ドラゴンの鼻先に軽く唇 を触 れさせた。無論、人影がなくなったのも、完全に炎に巻かれてしまったせいかもしれないのだし、そもそもあれが人影だったのかどうかも定 かではないのだが、クリーオウはとにかくうまくいったのだと思うことにした。
と──
「消えろ......」
ふつっ......と糸が引っ張られて切れるような、そんな音とともに小屋の炎がすべて消える。途 端 、目の玉を焼いていた熱気も、あたりを照らしていた赤い輝 きも、今までが嘘 だったとでもいうように消え失せた。
「レキ?......じゃないわ、ね......」
不意にあたりを包んだ暗 闇 の中で、うめきながらクリーオウは冷たい汗 をたらしていた──焦 げた空気の臭 いに半歩退 がる。だんだんと目が慣れてきて、闇の中に、うっすらと人の輪 郭 のようなものが浮 かびはじめる......
その輪郭が、わずかに動いた。
「照らせ」
つぶやき、そして──その人 影 のすぐそばに光球が出現する。白光にさらされて、人影はもはや、影ではなくなった。
小屋の中にひとり立ち、冷たい視線を流し目でこちらに向けているのは、若い男だった。
もっとも、若いとはいっても彼女自身よりは年上だろう──オーフェンと同じくらいかしら、と漠 然 とクリーオウは考えた。そっと、音もなくかざした男の右手には、おもちゃのような髑 髏 の指輪が飾 られている。
黒 髪 ──黒い上着の下に、白いハイネックがのぞいている。すらっと背が高く、かなりの美男ではある。彼が怪 訝 そうに独りごちるのが聞こえてきた。
「ミラン・トラムめ......いきなりこんな目立つことをして......なにを考えている?」
と、唐 突 に男は顔を上げた。冷たかった視線が、なにかおもしろがるような色に染 まる。
「なあお嬢 さん?」
「さ──さあ、なにを考えてるのかしらね?」
適当に調子を合わせながら、彼女はじりじりと後退していた──が、男も、同じ速度でこちらに近づいてきているように、彼女には見えた。
「あなた......誰?」
無言で歩み寄ってくる男に、彼女は聞いてみた。と──
《ヴィンビ──ストットアウル。最近はそう名乗ってる。本名は二年前に拷 問 されたとき、忘れてしまった》
(え......?)
声は、なんの前 触 れもなく彼女の頭の中に弾 けた──肉声ではない。眼前の男の声に似てもいない。
だがそれが、男の脳 裏 に浮 かんだ一言であることだけは、なんとなく知れた。
自然、視線が下にさがる──
(この子......が中 継 してるの?)
レキの視線が、いつになくぴったりと男に注がれているのを見ながら、クリーオウは素 早 く悟 っていた。
そうしているうちにも次々と、頭の中に声が弾けては消えていく。
《キリランシェロを殺せば今夜の仕事は終わりだ》
《三人いたはずだな......? キリランシェロはミランとかいう馬 鹿 ガキが追いかけていった。小屋の中にはマジクとかいう小 僧 がいたはずだ》
《俺と、スエインが屋根の穴から飛び込んだ──その直後にこの爆 発 だ。ミランの仕 業 だろう──奴 の呪 文 が聞こえた。警備部は感づいたな。ま、騒 ぎに乗じてここを抜 け出すのは難しくはない。俺ひとりなら......》
《妙 だな。三人いたはずだ。マジクとかいうのはどこに消えた? スエインもだ。くそ、残ったのがこんなのじゃ、遊びにも使えやしない──》
「誰が『こんなの』よっ!」
思わず叫 びかえしてしまってから──クリーオウは、失言に舌打ちした。男──ヴィンビとかいうらしいが、とにかく男の表情が、いきなりぴくりと警 戒 するものへと変わるのが見える。
次に飛び込んできた言葉は、短かった。
《なんだ?──殺す!》
未知のものは殺す
(人間って短 絡 過ぎる──!)
胸中で悲鳴をあげながら、とにかくクリーオウは、右手を振 り上げる敵の挙動から身を守るように、左腕 で顔をかばった──ただしほとんど効果はないだろうと自覚はしていたが。ヴィンビが、叫ぶのが聞こえた──
「溶 けろ!」
(そんなのヤ!)
彼女が、死を覚 悟 する暇 もなく──
次に響 いたのは、小さな音だった。爆発音のような、ぽんという音。同時に、クリーオウの左腕をすり抜け、顔面に、なにかがびしっとぶつかってくる。
そして、悲鳴。
「うっ──ぎゃあああああっ!」
ヴィンビが、右手を押 さえてその場にうずくまった。手首を押さえている左手が、血 塗 れになっている。相手が魔 術 を使おうとしているところに、レキが反 撃 してなにかをしたらしいが──
クリーオウは、嫌 な予感を覚えつつも、そっと目を凝 らしてみた。ヴィンビの右手首が、吹 っ飛んだようにちぎれてなくなっている。
(......吹っ飛んで?)
と、ふと思考を止める。そう言えばさっき、顔になにか飛んできた......
それはまだ、眉 間 に張り付いていた。なにか粘 着 剤 のようなもので、ぺっとりと。
青ざめながら、それをつまんではがしてみる──
最初に目に入ったのは、血塗れの髑 髏 だった。
「っきゃああああああっ⁉ 」
思わずまじまじと見てしまってから、彼女は両手を投げ出して絶 叫 した。そのままぺたんと尻餅 をつきながら、すぐ近くでうずくまっているヴィンビに指をさす。
「な──なにすんのよ! 指なんて飛ばして!」
が、当たり前だが、彼は返事はしてこなかった。
「貴......様ぁ......」
怒 りに震 える声を勝手にあげて──目の中にぎらぎらとなにかをたぎらせている。
「治れ......!」
つぶやくと同時、彼の右手の出血が止まった──ちぎれた部分がそのまま、新しい肉に包まれて傷口がなくなる。彼はすっくと立ち上がって、こちらを見下ろしてきた。
「ディープ・ドラゴン......とはな。だが、もう終わりだ......」
「な──なにが終わりよ」
まだ腰 が抜 けているので、地面に尻をついたままじりじりと後退しつつ、彼女は告げた。
「なんかまたヘンなことしてみなさいよ──今度は手くらいじゃすまないから」
「ほう?」
と、にやりとして、ヴィンビは続ける──
「どうやってだ?」
「どうって──」
クリーオウは答えながら、レキを前にかざして見せようとした。そして、ふと動きを止めて青ざめる。
「......あれ?」
空っぽの自分の両手を見下ろして、彼女はうめいた。
「レキ? どこ?」
「さあてな」
と、ヴィンビの返事。
クリーオウはぞっとしたまま、最後の数瞬を思い出していた。悲鳴をあげて、ちぎれた指を捨てようと両手を投げだし──
「レキまで投げ捨てちゃったの⁉ 」
あわてて見回しても、どこにも子ドラゴンの姿は見えない。
「死ね」
「きゃあああああっ⁉ 」
ヴィンビの呪 文 に、抜けたはずの腰で立ち上がり──
爆 音 と炎 を背に、彼女は逃 げ出した。
(冗 談 じゃないわよ、もう!)
暗 闇 の中をがむしゃらに走り──とりあえず、たまたま掘 ってあった溝 に落っこちるようなことはなかったものの、クリーオウはすっかり方向を見失っていた。黒い虚 空 に、黒黒とそびえる《牙 の塔 》のシルエットは見えるものの、大きな建造物はかえってこちらの距 離 感を狂 わせてしまう。
多分、物 陰 づたいに走ってきたのを後もどりしているのだろうと、彼女は見当をつけていた。資材の陰に身を潜 め、じっと息を殺す。
(オーフェンたら、騒 ぎを起こしたらすぐに警備員が殺 到 してくるようなこと言っといて──誰も来ないじゃない!)
来たら来たで、不法侵 入 で彼女も捕 まることになるのだが、この際、そちらのほうがまだマシだろう。
(あのヴィンビとかいう奴 、なんか本気でわたしのこと殺すつもりみたいだったし)
ぶつぶつ言いながらも、とりあえずポケットの中に武器になりそうなものがないか、探ってみる──レキが見つかればそれがいいのだが、正直、さっきの場所にまたもどるのは、さすがに気が進まなかった。
(まったくもう、か弱いわたしにこんなコトさせて──)
結局ポケットの中にはなにもなく──彼女は、急いで靴 を脱 ぎはじめた。
(オーフェンもマジクも、いざって時なんの役にも立たないんだから!)
◆◇◆◇◆
「うわあああああっ⁉ 」
視界を染める、真っ赤な輝 きの群 れに、悲鳴をあげる。
いきなり炎 に包まれるのがどんな気持ちかと聞かれれば──
痛いのだ。無論のこと。この分だと、いろいろ言われている嘘 も暴 けるような気がしてくる──いささか場 違 いなことだとは自覚しながらも、マジクは胸中でまくし立てていた。嘘ばっかりだ──死ぬのは最後の救いである。天国が見えるんだ。それは美しい花畑で......眠 るように身体 が重くなっていく。つらくはないんだ。さあ君も......
(さあ君も、じゃないよ!)
マントについた火を、ばたばたとはたいて消そうとしながら、彼は胸中で絶 叫 した。
(冗 談 じゃない──熱いし、痛いし、周りがなんだか分からないし、息もできなくなってきたし、立てないし、目も開けられなくなってきた......)
唐 突 に詰 め所の中に炸 裂 した炎に巻かれて、マジクはすっかり混乱して暴れていた。といっても、暴れているような気になっているだけで、実際はもう身動きも取れていないのかもしれなかったが──
(しれなかった⁉ なんでそんなことも分からないんだよ、自分の身体なのに!)
自分の感覚に文句を言いながら、彼は痛む喉 になんとか唾 液 を送り込もうとした。が、舌が干 からびて、動いてもくれない。
(まずい──本当に死んじゃう......誕 生 日 には母さん遊びに来るっていうのに、街にももどれずここで終わりなんて......)
............
いつしか、痛みはなくならないのに、熱さを覚えなくなった。むしろひんやりと、夜気が身体を撫 でるような心 地 がしてくる。
(あ──でも、母さん家に遊びに来ても、ぼく《塔 》に入門しちゃうんだっけ......ここって何年制なんだろ? 夏休みくらいはあるのかな? そもそもぼく、なんでこんな《塔》なんかに入門しようと思ったんだろ......)
膝 頭 はずっしりと重く、自分の体重を支えきれないように硬 い床 に張り付いている。立ち上がる力がもうなかった。暗い──目を閉じていても赤く燃える炎 は、まぶたの隙 間 からのぞいていたのだが、それが今は、まったく見えない。
まるで、暗 闇 の中にひとりで座 っているように──
(............あれ?)
気づいて、マジクは頭を上げた。目を開いて、ぽかんとする。
まるでではなく、暗闇の中にひとりで座っていた。
「......ここ......どこだろ」
きょろきょろと見回してから──自分の手のひらを見下ろして、決心してうなずく。彼は再び目を閉じて集中すると、彼の周囲──そして世界全体を思い浮 かべ、静かに構成を編みはじめた。
「我は生む......小さき精 霊 ......」
ふっ──
風が一点に集まるような音がすると、水を受けようとしているように合わせた彼の手のひらの上に、小さな鬼 火 が灯 った。純 粋 に真っ白な輝 きを放つその火の玉は、ゆっくりと天 井 へと上っていく。
光が、あたりを照らし出した。
「......会社?」
浮かび上がった周囲の光景を見回して、マジクはぽつりとそんな単語を口にしていた。
だいたい、そういう雰 囲 気 である──規則正しく並べられた個人デスク。ただその机の上は、書類が山積みにされていたり、気ままに散らかっていたりする。あちこちに立っている白い柱には出勤表やらなにやらが貼 られ、白板に記された職員の名前の横には、なんの意味があるのかは分からないが、丸やらバツやらがつけられている。部屋の奥 まったところには大きな机──その横にでんと置かれた耐 火 金庫。キャビネットには、はみ出しそうなほど紙束が詰 め込まれている。そして、隅 っこの流し台の上に、ぽつねんと置かれた空の花 瓶 。
そこがどこであるかは結局分からないままだが──マジクはピンときて、手を打った。
「あ、そーか。ぼくが火に呑 まれたのを見て、レキがどっかに移動させてくれたんだ。移動......」
と、ぶつぶつと言い直す。
「違 うな。もっとかっこいい言い方があったんだ。移転。引 っ越 し。じゃなくて──」
「転移」
「あ。それそれ。お師様の十八番だ。ドラゴン種族の空間転移に対して、お師様のは疑 似 空間転移だ、とか言ってたっけ......」
そこまでつぶやいてから──
マジクは、さぁっと青くなった。
「だ......誰でしょう......?」
聞きながら、後ろを向く。鬼火の明かりに照らされて、部屋の中は、結構明るくなっている。
振 り向いた先に立っていたのは、黒ずくめの小 柄 な人 影 ──
その装 束 を見せびらかされた覚えがあって、マジクはひきつった笑 みを浮 かべながら震 え声を漏 らした。
「愛らしいクリちゃん仮面2号......」
「どうやら俺も、一緒に転移させられたようだな」
低い声 音 で、黒ずくめ──暗殺者 がつぶやく。マジクは泣きそうな気分になりながら声をあげた。
「そんなぁ」
「小屋が爆 発 したときに、飛び込んだのさ──お前の師はそれより早く窓から逃 げていたようだったが。恐 らく、俺をキリランシェロと誤 認 して転移させたのだろう」
「あああ、あのケダモノぉ」
頭を抱 えてうめくが、どうやら敵は同情してくれそうにもない。
じりじりとこちらに近寄りながら、すっと指をさしてくる。
「まあいい。キリランシェロはミランに譲 るとするさ──剣よ」
最後の一言が、呪 文 のようだった。いちかばちか祈 りつつ、マジクも同時に、こっそりと編み上げていた構成を解き放つ──
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
彼のすぐ目の前に、多少いびつな形で展開された光の障 壁 が、暗殺者の放った光熱波を受け止めた。空気がこすれ、摩 擦 で燃え上がる中、マジクはくるりときびすを返して部屋の出口へと駆 け出した。
(お師様と──合流しなくちゃ!)
背後で爆 裂 していた轟 音 が消える──暗殺者の気配を痛いほど感じながら、マジクは振 り返らずに出口に向かった。が──
すぐに追いかけてくるだろうというこちらの覚 悟 を無視して、次に聞こえてきたのは、穏 やかな声だった。
「逃げるのは構わんが──いいのかね?」
「............?」
なにか嫌 なものを感じ、ぴたと足を止めて、振り返る。
暗殺者は、なにか黒く四角いものを掲 げてみせながら、余 裕 のあるゆったりとした態度で続けてきた。
「詰 め所の中で君が落としたものだが、わたしが持っていってしまっていいのかな?」
「それは......!」
マジクはぎょっとしながら、自分の服の下をまさぐった。シャツの下に入れていた本──確か世界書とかいう──が、なくなっている。
「お前......!」
彼は完全に暗殺者へと向き直って、そうつぶやいた──怒 気 を込 めて。暗殺者は、別段取り合う様子も見せず、本を小 脇 に抱 えながら言ってきた。
「入れ違 いになったときのことを考えて、書を持ち歩いていたのだろうが......裏目に出たな。それにしても、キリランシェロではなく、少年が持っているとはね」
「お師様は──ぼくを信用して、それを持たせてくれたんだ!」
「我が師は──俺を信用して、その奪 取 を命じたのだがね」
言いながら暗殺者は再度、手をこちらに差し向けてきた。
「立ち止まるべきではなかったな。どうせ取り返せはしないのだから。それとも俺と戦うつもりか?」
「我は放つ──」
答えずにマジクは、最大威 力 で魔 力 を練 り上げていた──小細工はない。したところで通用もすまい。覚 悟 を決めて、全力で撃 ち込む──
「光の白刃!」
叫 んだ。刹 那 ──
(......なんだ⁉ )
ぐっ、と身体 が、背後から押 されたように感じた──が、すぐに錯 覚 だと気づいた。押されたのは、背後からではない。体外 ではない──
(この感覚は......前にもあった!)
思い出しながら彼は、さらに掌 を突 き押した。頭の中でなにかが弾 け、すばらしく晴れ渡 っていく──
かっ!──
いつになく強 烈 な光熱波が、彼の手の先から暗殺者のもとまで一直線に伸 びていく。じだんだを踏 みながら突 進 する巨人 のように、衝 撃 波 が整然と並んでいた机を片 っ端 から吹 き飛ばしていた。威力に振 り回されそうになりながら──もっとも構成を少しでも誤って、全威力の一パーセントでも反作用が発生していれば、それだけでこちらの身体が消し飛んでいただろうが──彼は、とにかく対象を敵の身体ひとつに絞 り込んでいった。
光熱波は目標位置にまで達したところで、渦 巻 くように収束していた。破 壊 力のすべてを、ただ一点に集中する。
(消し──飛べ──本なんか焼けちまってもいいんだ──お師様の信 頼 だけは裏切れない──!)
呪 詛 のようにつぶやきながら、光を注ぎ込んでいく。
(お師様は──きっとキムラックに行くつもりなんだ──最後まで足手まといと思われて──ぼくだけ《塔 》に残るのは──嫌 だ!)
一言ごとに、押 し出す力が強まっていくのを覚えて、マジクはさらに熱中していった。
(そうか......)
なんとなく悟 りながら、思い出す。
確か、お師様はこう言ってたんだ......魔 術 を使えることなんてどうというものでもない。要は使いようだ、と──
すっ──
と最後の息を吐 き出して、魔術の効果が途 切 れた。机もなにも全 壊 した部屋の中、マジクは疲 労 とともにその場に座 り込むと、全身をぐっしょりと濡 らしている汗 に気味悪くなりながら、自分の両手を見下ろした。
「火傷 は......してない。制 御 に成功したんだ」
「当たりはしなかったがな」
「............!」
ぎくりと飛び起きて、横を向く──
そこには、まったく無傷で、先の暗殺者が立っていた──小 脇 に本をはさんだ、つい先刻まで見ていたとまったく同じポーズで。
暗殺者は、こちらが呆 然 としている間に、流れるように腕 を上げると、
「剣よ」
一瞬で閃 光 はこちらまで達し──そして、爆 裂 した。
「......まったく、余 裕 など見せるべきではなかったな。最初からこうして一息に殺しておけばよかった。それにしても、これだけの威 力 を出すとは......発動前に飛び出せたからよかったものの」
と、マジクの光熱波が引き起こした破 壊 跡 ──渦 巻 くように机がひしゃげ、融 解 している──を見やる。
「まあ、いい。死んでしまえば、どんな才能でも可愛 いものだ」
「でも、当たってないんだよ」
「なに⁉ 」
さっきの自分と同じような顔──なのだろう、多分──で、暗殺者はこちらに向き直ってきた。覆 面 のせいではっきりとは分からないが、声にははっきりと驚 愕 の色があり、かすかな満足感をマジクは覚えていた。
数秒前まで座 り込んでいた場所から、二、三メートルほど離 れた机の山に埋 もれつつ──机と机の隙 間 から、マジクは顔を出していた。
「できるなんて思わなかったけど──」
「空間転移、だとぉ⁉ 」
暗殺者は、あからさまにうろたえた様子で後 退 りした。
「チャイルドマン教師の最 秘 奥 だぞ⁉ こんな子供に──」
と、思い直すようにかぶりを振 り、うめくように続ける。
「そうか......キリランシェロも、確かその使い手だったな。それでか......信じられんが」
「お、教えてもらったわけじゃないんだけどね......」
つぶやきながら起き上がろうとして──マジクは、ぞっとした。身体 が動かない。
恐 らくは、立て続けの大 魔 術 のせいで、極 端 に消 耗 してしまったのだろうが──まるっきり、指一本動かせなかった。
「あ──あれ......?」
声だけ虚 ろに発してみる──霞 んでいく彼の視界に、ふらりと暗殺者が構えを取るのが映った。
「二度はできんようだな」
冷静な、暗殺者の声。
「剣よ──」
「光よ」
その声は、ほとんど幻 聴 のように脈 絡 なく、横から割り込んできた。
ごっ──
木で岩を殴 りつけるように短い音が響 いて──閃 く輝 きが、暗殺者の顔を横殴りにした。
「えっ......⁉ 」
マジクが目を見はっている間に、光はまた小さく膨 れ上がり、今度は暗殺者の脇 腹 に撃ちつけられた──そして、最後に、また顔面を。
「ああああああっ⁉ 」
燃え上がる覆 面 を押 さえ、悲鳴をあげながら、暗殺者がその場に倒 れる。
(今のは......お師様、じゃない......?)
暗殺者を撃ったのが、かなり威 力 をしぼった光熱波であることに、マジクは気づいていた。その魔術の構成は──構成には自 ずと個性が出るものだが──一見オーフェンのそれに似ているようで、その実かなり違 う。
少なくとも、かなりの力量であることは間違いないようだった──細かい魔術をひとつの呪 文 で三発生み出すようなまねは、オーフェンにだってできないだろう。
マジクは恐 る恐る、あたりを見回した──と、部屋の扉 が開いているのに気づく。
そこに、ひとりの男が立っていた。その男の横を通り抜 けて、ばらばらと四人の魔術士が部屋に入ってくる。
ぱっと見て、戸口に立っている男が、その四人に命令しているのだと知れた。男はかなりの長身で、厳 めしい顔つきに静かな表情を浮かべている。髪 を長く伸 ばし、それを無造作に紐 で束ねているが、それははっきり言って似合っていなかった。なにやら重そうなマントで身体 を包んでいるが、かなり肉付きのいい、がっしりした体格で、少なくとも見た目だけなら、彼の師より数段上の魔術士に見える。
と──
「う──おおおおぅ!」
床 に転がっていた暗殺者が、唐 突 にあげた雄 叫 びに、マジクは観察を中断させられた。首だけ動かして、そちらを見やる──破れた覆面から、焼けただれたほおをのぞかせて、暗殺者が立ち上がっている。脇腹に命中した傷も、かなりの深手のようだった。が──暗殺者は立ち上がると即 座 に、駆 け寄ってきていた四人の魔術士をかわすと、別の出口を魔術で打ち破り、そのまま部屋を飛び出していく。
「待──!」
追いかけようと、マジクは身を起こそうとした。もっとも、腕 も持ち上がらなかったが。
四人の魔術士のほうが、当たり前だがはるかに機 敏 だった。逃 げ出した暗殺者 を追おうと、出口に殺到しかけて──
「やめておけ!」
戸口の、長身の男に呼び止められた。
ぴた、と全員の動きが止まり、男のほうを見やる。
男は静かに、彼らに告げた。
「奴 はウオール教室のスエインだ──へたに追うと無 駄 な犠 牲 者 を出すことになるぞ。どうせ殉 職 するほどの義理はないだろう。あとはキリランシェロにでも任せればいい」
と、こちらに向き直り──
「それに、部外者の拘 束 のほうが先だ」
それを聞いて、マジクはぎょっとなりながら答えた。
「あ......その、ちょっと待ってくださいよ。ぼく、部外者じゃないんです。今度この《塔 》に入門する申 請 をして──」
「そんなことは知っている」
男はそう言いながらも、ほかの四人に命令中止の指示は出さなかった。無表情のまま続けてくる。
「わたしの生徒になるわけだからな」
◆◇◆◇◆
五年前。王都メベレンスト──
キリランシェロは、きょとんと顔を上げた。宮 廷 魔 術 士 《十三使徒》に召 還 されたとはいえ、しょせんはその審 問 を受けるために西部からやってきた試験生に過ぎない彼の部屋は、王宮の中というわけにもいかない。限りなく広大な王都の片 隅 の、ちっぽけな宿屋──教室内のカンパでは、旅費を差し引けばそれが限界だった。
「なんだって?」
開きかけていた、古いダッフルバッグの口をまたしめて、キリランシェロは聞き返した。
部屋の戸口には、ひとりの少年が立っている──キリランシェロ自身とそう大差ない、やはり十五ほどの少年。黒いローブでドラゴンの紋 章 を下げているのも、彼と同じだ。ただしその当時から、ふたりの立場は似ているようでいて、決定的に違 った。チャイルドマン教室の暗殺技能者キリランシェロ。そして《牙 の塔 》最高執 行 部 への配属が既 に決まっている、ミラン・トラム──〝ハイドラント〟
そのあだ名は、恐 らくはその頃 につけられたのだと、彼は記 憶 していた──理由は単純だ。消 火 栓 ならどこにだってある。ミラン・トラムも、どこにだっていた。最高執行部の意向に反して、ここの王都の審問を受けにきた、その日のキリランシェロの目の前にさえ。
ハイドラントが──声 色 も静かに告げてくる。
「だから、君がいなくなっては困ると言うのさ、長老たちは──」
「ぼくが......なんだって?」
聞き返す。と、ハイドラントは、深々と嘆 息 してみせた。
「わかりやすく言い直せと言うわけだな? まあいいだろう」
髪 をかきあげて、続ける。
「いなくてはならないんだよ──《塔》にひとりは、あの天 魔 の魔女をいつでも殺せる人間がな」
彼の言っていることが、即 座 に理解できたわけではなかった──
ただキリランシェロは、理解する前に、自分の中でなにかが弾 けるのを感じていた。
「我は放つ光の白刃!」
叫 ぶと同時──体技室の木の床 が、彼の足 下 からハイドラントの立っている場所まで、一直線に焦 げあがった。それを追うようにして、空間に白い光が破 裂 する。
びじゃあ、と水気を含 んだ雑 巾 を壁 にたたきつけたときのような音が響 き、空気が張り裂 ける──連続して鳴り響く衝 撃 音 、そしてそのリズムに合わせて、焦げた床が細かく砕 けて舞 い上がった。
が、熱衝撃波を磁場障 壁 で受け流しつつ、ハイドラント自身はまったくの無傷で──左に軽くステップする。光熱波の軌 跡 から離 れ、彼は、さっと小さく剣の切っ先をこちらに向けた。
「プアヌークの魔剣よ!」
閃 光 が目のわきをかすめ──おかえしとばかりに、ハイドラントの放った光熱波は床を撫 でながらこちらへと突 進 してきた。時間にしてみれば、脳がそれを知覚するほどの間もなかったろうが、オーフェンは魔術の発動の前に、自分が先刻放っていた光熱波──いまだ放電している──の陰 に隠 れるように移動していた。
追撃してくるハイドラントの魔術が、こちらの光熱波の余波に当たって軌道を変える。
オーフェンはすかさず叫んでいた。
「我は弾くガラスの雹 !」
魔術の構成に捕 らわれて、なすすべもなくハイドラントの身体 が一瞬だけ宙に浮 き──そのまま、向こうの壁 まで吹 き飛んでいった。どがっ!──と決して穏 やかならない音を立てて、彼の身体が壁に打ちつけられる。
それを見 据 えて──オーフェンは、ざっと床に足を滑 らせた。スタンスをやや広めにとった姿勢で真正面からハイドラントをにらみつけ、右手を掲 げる。左手を右肩 に添 えて、渾 身 の力を込 めて彼は叫んだ。
「我は放つ光の白刃!」
かっ!──
真っ白な光の帯は、岩を巻き込む激流のように標的のもとへと収束していった。が──
その光が突 如 として、視界の中に、輝 きすぎるほどに輝きはじめる。
(──逆流してくる⁉ )
次の瞬間には──オーフェンは、爆 発 の中にいた。
「............!」
声には出さずに悲鳴をあげながら、身体を包む炎 から逃 げ出す──熱波は衣服を燃 焼 させるほどには強くはなく、その空間に溜 まっているだけだった。その場から、半 ばよろけるように脱 出 し──ハイドラントの立っているほうへと向き直ると、彼は、いつの間にか完全に待ちかまえているようにじっとこちらを見据えていた。右手を掲げて、こちらが魔術を放ったのと似たような格好で。
オーフェンはゆっくりと立ち直りながら、うめいた。
「......壁にたたきつけられてすぐに、光熱波を撃 ち返していたってわけか」
「魔術の強さでは、俺のほうが上だ。忘れたか?」
にやりとして、続ける。
「チャイルドマン教室が最強ではない。絶対にだ」
「そりゃそうだわな」
オーフェンはあっさりとうなずくと、手の中のナイフを素 早 くハイドラントへと投げつけた。
「────⁉ 」
ハイドラントがあわてて、身をよじってナイフをかわすのを見ながら、オーフェンは一気に駆 け出した──一呼吸で間合いを詰めると、中段に構えた拳 で打ちかかる。
「甘 いぞ!」
大 振 りなこちらの攻撃を、隙 と見てとったか──ハイドラントが小さく罵 りながら拳をかわし、同時にくるりと背後へと回り込もうとする。
だが、それはフェイントだった。
(かかった!)
胸中でつぶやきつつ、オーフェンは囁 くように叫 んだ。
「我は踊 る天の楼 閣 」
「──なにっ⁉ 」
肩 越 しに聞こえたハイドラントの声が、一瞬消え去り──
オーフェンはその場 に、身体 の向きだけを変えて空間転移を行った。反転して──ハイドラントと向き合うように。
驚 愕 のままに固まっている相手の脇 腹 に、ぽんと拳を突 きつけて、オーフェンは告げた。
「こと接近戦においちゃ、魔術の強さなんてもんはカケラも意味がねえんだよ──耳元で爆 竹 を鳴らすだけでも、人間を悶 絶 させることはできるんだからな」
「このっ......!」
怒 りに顔をこわばらせつつも──うかつには動けずに、ハイドラントがうめき返してくる。
敵の脇腹に拳を当て、そして胸 元 に頭を突きつけるような姿勢で、オーフェンは続けてつぶやいた。
「とっさに動きを止めたのは、まあさすがだけどな──でも〝寸 打 〟を見切ったんなら、すぐに反撃に出ればよかったんだ」
言いながら、軽く頭で、ハイドラントの身体 を押 す──
ハイドラントは反射的に、わずかに押し返してきた。
その機を逃 さず、オーフェンは全身の筋肉を破 裂 させるように伸 縮 させて、拳を突きだした。相手の逃げる動きか、あるいは向かってくる動きに対して至近距 離 からカウンターを放つ。これが寸打──チャイルドマンの得意手のひとつでもある。
ずだんっ!
というのはオーフェンが床 を蹴 った音だった──ハイドラントが後方に転 倒 する。オーフェンはすかさず駆 け寄って、倒 れている相手の胸にでもかかとを打ちつけようとしたが、それはさすがにかわされた。ざっと身体を回転させて、その勢いで起きあがり、ハイドラントが叫 ぶ──
「プアヌークの魔──」
「遅 えっ!」
ざっ──
オーフェンは今まさに魔術を放とうとしているハイドラントに向かって、右手を投げ出した。拳ではなく貫 き手 で──相手の吐 いた息を感じるほどに、指は──
ハイドラントの顔面に突 き刺 さった。
「うがぐっ⁉ 」
ハイドラントが悲鳴をあげる──
無論、指で人間の頭 蓋 骨 が打ち抜 けるわけがない。オーフェンの指が突き刺さっているのは、もともと開いていた穴にだった──親指が、口 蓋 から喉 にまで──そして人差し指が右目のまぶたの間に......
「ああああああっ⁉ 」
恐 怖 と痛みから叫 び声をあげるハイドラントに、オーフェンは静かに告げた。
「あの時と同じだな。ああ?」
凄 絶 な眼 差 しで、続ける。
「あの時と同じに、講義をしてやるよ。簡単にな──致 命 傷 には二種類ある」
言いながら、わずかに人差し指を動かすと、ハイドラントの身体がびくりと震 えた。指が第二関節まで入り込んでいるまぶたから、血の混じった涙 がぽろぽろとこぼれている。
「ひとつは、その一瞬で生命活動が停止する大ダメージ。もうひとつは、決して縫 合 できない傷だ。一瞬で魔術で傷口をふさげる魔術士に対しては、後者はほとんど意味がないがな」
「貴様──」
口に指が入っているせいで、聞き取りづらくはなっているが、ハイドラントが怨 嗟 を込 めてうめく。オーフェンはそれを無視した。
声をあららげて──叫 ぶ。
「あの時、てめえの顔面半分引き裂 いてやったように、今度は右側も開いてやろうか!」
「や......めろ......」
「そいつは、てめえが殺したドラゴン信 仰 者 や、ティッシに聞くんだな!」
オーフェンはそのまま──激情のまま、まぶたを引きちぎろうと指を引き抜きかけた。と──
刹 那 、魔 術 を封 じるために喉に突 っ込んでいた親指に、生暖かいものを感じる。
「なっ──⁉ 」
オーフェンはとっさに、親指を引っ込めた──ついでに人差し指も。右手を引き寄せるように胸に抱 いて、見やる。
酸の臭 いが、鼻についた。
(胃液か!)
舌打ちしながらオーフェンは、呪 文 を叫んで酸を中和した──胃液は強塩酸である。かかって即 座 にどうこうということはないだろうが、ほうっておいていいものでもない。

瞬間──
どがっ!──と鈍 い衝 撃 とともに、目の前が暗転した。打たれた衝撃のままに、身体 が横 倒 しになる。床 に顔を打ちつけて、オーフェンは吐 き気を覚えながら立ち上がろうともがいた。が──脳 震 盪 でも起こしたのか、身体が動かない。
(剣で......打たれた......?)
こちらが酸を中和しているときのことだろう。後から追い掛 けてくるように、ずきずきと頭の中がうずき始める。打たれたのは、どうやら頭らしい──流れる血が、顔面を汚 すのが、口の中に染 み入ってくる血の味で分かった。
暗くなった視界の遠くに星が見えるが──どうしても手がとどかない......
「瞬間の判断は......レティシャ・マクレディのほうが上だ......な......」
ぜえぜえと息をつくハイドラントの声が、聞こえてくる。
「指一本を惜 しんでいれば、殺されるのさ......」
(こっ......のぉ!)
自分で自分に一 喝 叫びながら、オーフェンは、なんとか身体を回転させた。意図せずに大の字に転がった指先に、なにか硬 い物が当たる。無意識にそれをつかみながら、彼は目を見開いた。仰 向 けになった視界が開ける──倒れている彼のすぐ上で、ハイドラントが剣を振り下ろそうと構えていた──
半分を傷 痕 でこそぎ落とされた顔で、半分だけの残 忍 な笑 みを浮 かべて、ハイドラントが叫んだ。
「今度は俺の勝ちだ──キリランシェロ!」
同時に剣が、この上ない明快さで、振り下ろされてくる──
(最後の──勝負!)
オーフェンが胸中で叫びながら、さっきつかんだ硬い物を、そのまま上方に突 き上げた──自分が投げた、あのナイフである。ナイフの刃は、剣を受け止めはせずに、そのまま空を滑 っていった。だが、もとより剣をナイフで受け止めるつもりなどはなかった。一瞬の勘で、オーフェンはナイフの柄 についているスイッチを親指で押 し上げた。ばちんっ!とバネが弾 けて、ナイフの柄から、刃だけが飛び出していく──
ざぐっ!
──っきぃぃぃん......
音は立て続けに響 くと、とたんに静 寂 に変じた。
ハイドラントが、信じられないというように、自分の手の中を見下ろしている。彼の空っぽの手の中には、剣はなかった──彼の手をすっぽ抜 けて、離 れた床 に、空 しく跳 ねて落ちる。
「勝負......あったな」
オーフェンはゆっくりとつぶやくと、身を起こした──刃のなくなったナイフを捨て、呆 然 としたハイドラントを見 据 える。
ナイフの刃は、ハイドラントの右手首に突き立っていた。馬 鹿 げた悪夢のように、傷口から景気良く鮮 血 が噴 き出している。力を失った手首は、だらんと腕 の先にぶらさがるようにしていた。
「............」
無言で、ハイドラントが顔を上げる──
彼と見つめ合って、オーフェンはつぶやいた。
「傷を治せよ。腕一本惜 しいならな」
「シ──シヌークの、泉よ......」
ハイドラントが小声で呪 文 をつぶやくと同時、傷が消えて、ナイフの刃が床に落ちた。それを見下ろしてから、再びハイドラントが顔を上げてくる──
どうっ!
オーフェンが即 座 に撃 ち込んだ拳 に、みぞおちを貫 かれ──ハイドラントは、そのまま昏 倒 していった。
◆◇◆◇◆
腕が痛む......
魔 術 で傷口をふさいだ手首を押 さえながら、ヴィンビは慎 重 に警 戒 しながら進んでいった──グラウンドの一 郭 は、無意味に物が散乱していて物 陰 だらけになっている。不必要な資材、あるいは必要な資材、物置やらなんやかや、といった類 だが、実際のところしげみひとつでもあれば、小 柄 な少女が身を潜 めるのはたやすかろう。
本来なら、あんな少女、無視しても構わないといえる──むしろハイドラントやスエインと合流し、伝説のサクセサー・オブ・レザー・エッジを抹 殺 することに協力するべきだろう。そのほうが、雇 い主であるウオール・カーレンの心証も良くするに違 いない。
だが、彼はあの少女を生かして帰すつもりはなかった。
(胸が痛む......)
まさか、まったく無力だと思っていた相手に深手を負わされるとは思っていなかった。
(この俺が......こんな僻 地 に来て、こんな目にあうとはな。まあいい。知り合いにいい義手職人がいる)
彼は自然に顔をほころばせながら、敵を探していた。
(あの女の手を剥 製 にして、俺の手にくっつけてやる。ん?──)
と、気づいて眉 を上げる。すぐ近くのしげみの前に、なにかが落ちていた。
「靴 ......?」
思わず声を出して独りごちる。
(誘 い......か。素人 が......)
近づいて、靴を拾い上げたところを奇 襲 でもするつもりだろうが──別に、こちらとしては、近づく必要などないのだ。
(魔術で吹 き飛ばせばいい)
あまり派手な音を立てると、警備部が押 し寄せてくる可能性はあるが──
(ん? そういえば......)
彼は気づいて、怪 訝 な顔をした。
(警備部はどうしたんだ? あれだけの爆 発 が起こったというのに......警報も鳴らさないとは......)
だが、どうでもいいことだ。
彼は思い直すと、靴の置いてあるしげみに向けて、無事な左腕 を振 り上げた。皮肉げに口を開く。
「ガキのケンカと同じレベルで考えるのが愚 かしいんだよ、俺は魔術士だ──」
「ホント、絶対、魔術に頼 ると思ってたわ」
「なに──⁉ 」
ばさっ!
背後に、なにかが飛び降りてくる──
ヴィンビはあわてて、背後に向き直った。ちらりと、頭上を見やって──夜間なので気づかなかった。少し離 れたところにある大木から、すぐ頭上まで枝が伸 びていたのだ。
そこで待ち伏 せして、飛び降りてきたのだろうが──
振り返ってきたすぐ先には、例の少女がいた。なにかを振りかぶって、勢いよく振り下ろしてくる──
がっ!
こめかみに一 撃 を食らって、ヴィンビは卒 倒 しかけた──が、なんとか踏みとどまると、少女をにらみつけ、そして彼女が振り下ろしてきたものに視線を転じる。
「......靴下に......砂を詰 めたか! 殴 り合いってもんが分かってるじゃねえか」
彼女は右手にそれを構えながら、不敵な表情でこちらを見 据 えている。それが気に入らず、ヴィンビは続けた。
「だが、しょせんは女の腕 力 だな──俺は倒 せねえよ、嬢 ちゃん!」
「実はわたしもそう思って──」
と、少女は言いながら、すっと左手を出してみせた。なにかを持っている。
「もうかたっぽの靴下には、石を詰めといたの」
「............え......?」
思わずぽかんと、彼女がそれを振り上げるのを待ってしまう──
「今度は脳みそ飛ばしたりしないでねっ!」
がぎっ──
光が瞬 いて意識がなくなり──そして後日談になるが──ヴィンビ・ストットアウルは、その夜、その名前も忘れてしまうことになる。
自らの足音を重く感じる──
衣服が少し焦 げたのか、臭 いが鼻についた。朝からの出血は止まっている──傷口もふさいでおいた。脳 震 盪 の後 遺 症 か、まだ腰 から上がどこかに遊 離 しているような感覚は残っているものの、歩けないほどではない。
熱病に浮 かされたような面 持 ちで、彼は廊 下 を進んでいた。息が上がっているな──と自覚しながら、足だけを前に進める。
ずらりと続く窓の外は、まだ夜──
まるで〝夜〟というものの見本市だとでもいうように、窓に黒々とした夜空が映っている。変わらずの曇 り空で、星の明かりもないのだが、それでも視界はうっすらとした光に浸 されていた。闇 を薄 める、光の水。その中をもがくように、彼は泳いだ......
がく、と突 然 、ひざが力を失い、彼は転びそうになった。なんとか踏 ん張るが、動きが止まり──今度はひざが笑いはじめる。
(くそったれ──)
オーフェンは呪 うように独りごちた。
(なにが──キリランシェロだ。満足に歩くこともできねえのかよ......)
そしてまた、ゆっくりと歩を再開する。
ウオール教室があるのは、《塔 》の五階──彼が歩いているのも、そこだった。広大なフロアを、その一歩一歩が床 に根付いているようなスピードで進んでいく。不 思 議 と、待ち伏 せはなかった。
そして待ち伏せがないことを、オーフェンはなんとなく予想していた。
(奴 らは......あそこで待ち受けている......)
遠くに見えるウオール教室の扉 を見つめて、彼はつぶやいた。
(ウオール・カーレン......俺 を《塔》に......連れてきた 男......)
じくじくと痛む頭の中で、過去が浮かんでは消えていく。
(俺の魔 術 士 としての才能を見いだしたのも、そして最終的に育てたのも、どちらも暗殺者だった......皮肉なもんだな。そんな俺が、暗殺者にはなり切れない......)
恐 らく、なろうとしていた時期もあったのだと思っている。
疑問を抱 いていなかった時期が、あったのだと思っている。
(アザリー──)
俺が、あんたを殺すための暗殺者でなかったとしたら──
少なくとも、それを知らされずにいたとしたら──
(あるいは、俺は......)
どばんっ!──とオーフェンは、扉をたたいた......
いつの間にかたどり着いていた、ウオール教室の扉。
鍵 がかかっていない──完全に閉まってすらいなかったのか、たたいた反動で扉は開きはじめていた。それを止めずに身を退 いて、オーフェンは、じっと扉が開くのを待ち受けた。
音もなく、やがて扉の縁 が目の前を通り過ぎる。
オーフェンの前に、ウオール教室が道を開いた。かつて自分が学んだチャイルドマン教室と、さほど大差ない造りの部屋。十八時間前に飛び込んだ、暗殺者たちの部屋──
「......遅 かったね」
暗い部屋に、薄 明るい魔術の灯明が落ちている。オーフェンを出 迎 えたのはその一言だった。それと、ウオール・カーレンを守るように囲んでいる、数人の暗殺者たち。
オーフェンは部屋に入りながら、落ち着いて答えた。
「暗殺者が──予定通りに来るものだと思っていたのか?」
「可哀 想 だがね。君の負けだよ──たった今、これを受け取ったところだ」
窓を背に、ウオール・カーレンはそう告げた。使い込まれた戦 闘 服 姿──ただし覆 面 はしてないが。彼は気楽に腕 を挙げ、その手に一冊の本を持っていた。
なにもタイトルの記されていない、漆 黒 の革 表紙。
「君の生徒からスエイン君が奪 ってくれたというわけだよ。まあ──スエイン君は......」
と、教室の隅 に視線をやる。
それに合わせてオーフェンも、そちらを見やった──隅。本当に教室の隅っこに、動かない黒い塊 が転がっている。べったりと汚 れた、人の残 骸 。既 に完全に事切れて、そのスエインとやらは横たわっていた。
(最初に......ティッシの屋 敷 に忍 び込んできた奴 ......か)
ぼんやりと判断する。
オーフェンは無感動に顔をこわばらせて、ウオールに向き直った。生徒たち──どれも訓練された暗殺者たち──に左右を固めさせ、ウオール教師は、じっとこちらを見つめている。
ウオールはおもしろがるように、首を傾 けてみせた。
「正直、君の生徒がそこまでやるとは思わなかった。まあ、それを言えば君がわたしに挑 戦 するのに、仲間を連れてくるとも思っていなかったがね。君は常に......ひとりなのかと思っていたよ」
「............」
オーフェンは、すぐには口を開かなかった。息をついて──そして背中で壁 を探し、どん、ともたれかかってからようやく、彼は声を絞 り出した。
「......こういう......とき、なんだよな」
「?」
怪 訝 な顔を見せるウオールに、オーフェンは、へっと笑って、
「俺はどうも、短気なようでね」
「......ほう?」
オーフェンはまた深く息をついて、続けた。
「借りたもんも返さねえで平気な顔してる福ダヌキだとか、しょーもないわがまま娘 だとか見てると怒 鳴 りながら魔 術 の二、三発放ってることもあるんだけどよ......結局、てめえみたいな野 郎 が好き勝手にのたくってるのを見てるとき、なんだよな──もう怒 りもわいてこなくなんのはよ」
と、唾 を吐 く。
「てめえが持ってる本──世界書、か。ンなもんは、手に入れてみりゃそんな程度のもんだろが。たかがそのために、ティッシを襲 って、ほかに何人殺したってんだ」
「えらく見くびられたものだな」
ウオールが、軽く笑ってみせる──彼は優 雅 な仕草で、本をぱらぱらとめくった。
「この書には、世界の秘密が記されているのだよ。神の世界が存在するのならば、神の力も実在することが分からんかね? 即 ち、魔法 だ」
と、書の表紙を、ぱんとたたく。
「古代語で記されたこの世界書に、すべての鍵 があるのだ。巨人の大陸 ──そのすべてを支配する無限の力、魔法だ!」
あとは無言で、ウオールはじっとこちらをにらみ据 えてきた──ほかの暗殺者たちも同様だ。九人──合計十八本の視線に釘 付 けにされ、オーフェンはしばし黙 っていた。彼らに対 抗 するようにというより、ただ疲 れたので息を整えていたのだ。
やがて──
「古代語、ねえ......」
オーフェンは、にやりとした。壁 から背中を上げて、バンダナをむしり取る。
「ま、読みにくい字には違 いねえけどな」
「......なに?」
こちらのせりふに、なにかを感じたのか、ウオールはうめくように声をあげた──そして、初めて書の中に視線を落とす。
「こ──」
「これはなんだ、とでも言いたいか?」
うろたえるウオールにオーフェンは、不敵に笑いかけた──同時に、外したバンダナをふたつ折りにしてしっかりとつかむ。血でぱりぱりになった、ただのバンダナだが、一回くらいは剣を受け止められるかもしれない。
オーフェンは、しれっと続けた。
「クリーオウの日記が、ちょうど同じ大きさだったんでね──ちょいと表紙に黒 革 のカバーをかぶせて細 工 したのさ。ま、売る相手を選びさえすれば、小 遣 い程度の額にはなるんじゃねえか? 良かったな」
「貴様......!」
床 に本をたたきつけ、ウオールが怒 声 をあげた──同時に、周囲にいる暗殺者たちが、素 早 く展開しはじめる。
(敵は九人──勝ち目はねえが──)
腰 を落として、オーフェンは目を見開いた。
「ウオール・カーレン! てめえは殺す」
「よく言った!」
叫 び返してきたのはウオール──だが実際に飛びかかってきたのは、暗殺者のひとりだった。全員同じ格好で、顔まで隠 しているので、体格に多少の差 異 があってもほとんど見分けがつかない。ウオール教室の編成から、女も何人か混じっているはずだったが、それすらオーフェンには分からなかった。
壁 を背にしたこちらに対し、集団戦 闘 の訓練を受けた暗殺者とはいっても、同時に飛びかかれるのはふたりが限度だろう。だがそのふたりずつの攻 撃 を四回分──しかもすべてを無傷で切り抜 けられる可能性など、ゼロに近かった。
戦闘服で身体 を包んだ相手に対して、こちらは顔面を含 めてところどころ素 肌 が露 出 している──そういった意味でも不利だった。ひとり目の打ちかかってきた拳 を払 い──ふたり目の肘 を回転して避 け──三人目は武器を持っていた。迫 りくるナイフの刃先を見 据 えて、オーフェンは左腕 を突 き出そうとしていた。
(左腕の腱 に突き刺 して、ナイフをからめ取る──できるか⁉ )
そうした場合、致 命 傷 になりかねないが──
覚 悟 を決めて、オーフェンは敢 行 した。痛みを感じた瞬 間 、敵がナイフを引き抜くか、そのまま刃をひねって空気を入れようとする前に、こちらが腕をひねって、骨に刃を引っかけなければならない。
すべては一瞬。考えている時間もなかったろう。オーフェンはとにかく左腕を、敵の狙 いの上に滑 り込ませて──
どがっ!──......
痛みを覚えないまま、時間が止まった。
(............⁉ )
瞬間、目の前から、その暗殺者が消え失 せている、さっと見回すと、暗殺者は左に吹 き飛んでいた──その眼 窩 に、一本の歩兵槍 を突き立てられて。
「な──!」
オーフェンは絶句しながら、自分の眼前を横一文字に通っている槍の柄 に沿って視線を移動させた。槍は開いたままになっていた戸口から、一直線に暗殺者の頭 蓋 骨 を貫 いている。無論即 死 だろう──痙 攣 すらせず、槍を抱 きしめるようにして暗殺者はその場にくずおれた......
「フォルテ!」
入り口に立っている男を見て、オーフェンは叫 んだ。ざわっ──と教室内の暗殺者たちが、動 揺 を音にして身じろぎするのが聞こえる。
フォルテ・パッキンガムだった。
戦 闘 服 に、中重級プロテクト・アーマー──武装ベルト二本に、サイズの違 う長剣を二本下げている。手 甲 には刃つきの鎖 が巻き付けられ、アーマーの上に羽 織 っているマントにも防 御 用に鎖が編み込まれているはずである。
戦闘用 ではなく──戦争装備だった。フォルテのような長身の魔 術 士 が、これだけの完全武装をすれば、それだけで威 圧 感 は相当のものである。オーフェンは、呆 気 にとられるように彼を見つめた。
「フォルテ──? どうして......」
が──フォルテは、質問には答えてこなかった。代わりに、すっとウオールへと向き直り、淡 々 とした口調で告げた。
「ウオール・カーレン教師。そして生徒諸君もだ」
と、剣を抜 きながら続ける。
「チャイルドマン教室の上級魔術士レティシャ・マクレディ襲 撃 及 び、ドラゴン信 仰 者 の集団暴行致 死 事件に関して質問があるため、拘 束 する──容疑を否 認 するものならば、この要 請 に逆らうことはできない。これは最高執 行 部 の指令による。が──」
そして部屋の中を見回して──オーフェンには、そのときフォルテがかすかに苦 笑 したように見えたが──、彼は続けた。
「それ以前に、私 闘 及び決闘を禁じる規定違 反 だな。ただちに戦闘を中止しなければ、この場で殲 滅 するが?」
「フォルテ・パッキンガム......!」
ウオールの声が、教室に響 いた──うろたえるように。まるで予想外だったのか、ほとんど亡 霊 でも見るような眼 差 しで、彼は叫 んだ。
「最高執行部の指令だと⁉ はったりを言うな! 執行部が機能するような時間ではないだろう!」
「......だが、こんな時刻に元気に動き回っていた執行部員が、ひとりだけいらっしゃって ね──あなたもご存じだろう、ご老体」
「なんだと......?」
ウオールは、混乱したように目をしばたたいた。ふたりを交 互 に見回して──オーフェンは、はっと気づいた。
「ハイドラントか!」
「その通り」
フォルテは、静かにうなずいてみせた。
「キリランシェロからの伝令を受け取った時刻には、既 に昨日の分の執行部の機能時間は終わっていた──ま、定時以降はサインひとつ書けない長老方を、今さら恨 んでも仕方がないのでね。警備部を独自に召 集 し、待つことにしたんだよ。キリランシェロが、ハイドラントを戦闘不能にするのをな」
と、懐 から指令書を取り出し、広げてみせる。
「ミラン・トラムの代理署名で、書類は有効だ。ハイドラント君を見 逃 す交 換 条件だがね。まあ、彼のあの落ち込みようからすれば、どうせしばらくはおとなしくしていてくれそうだからな」
大口を開けて呆 然 としているウオールを前に、指令書をまた懐に収めながら、フォルテは適当に背後を指さした。
「さて。召集された全警備部員は、既にこの施 設 の要所及 び敷 地 内のいたるところに展開ずみだ。乱 闘 を起こしても、混乱に乗じて逃 走 できるつもりだったのだろうが──もう逃 げられはせんよ。言っておくが──」
壁 の死角から忍 び寄っていた暗殺者のひとりに向けて、油断なく視線を向けながら、
「わたしはキリランシェロほど甘 くない。殺さない程度の手加減ができるほど戦い慣れてもいないのでね」
「八対二だぞ、フォルテ・パッキンガム教師補......」
追いつめられた悲 壮 さで、ウオールが警告する。が──
「わたしは人数外?」
ざわっ──
再びざわめきを発しながら、その場の視線が、一点に集まる。
「アザリー⁉ 」
いつの間に開いていたのか、ウオールのすぐ背後の窓に足を組んで腰 掛 けている人 影 を見て、オーフェンは信じられずに叫 んだ。フォルテのように武装こそしていないが、簡 易 戦闘服に身を包み、斜 めになった笑 みを浮 かべて、彼女がそこにいる。
先刻までウオールを見 据 えていたときにはいなかった──窓すら開いていなかった。魔 術 の装置を用いて転移してきたのだろうが......
「アザリー──!なんで!」
「あなたひとりじゃ危なっかしくて」
くすっ、と笑ってそう言ってくる彼女に、オーフェンは取り乱すようにわめいた。
「そうじゃない! 姿を見せちゃ──ここには、フォルテだっているんだ──」
と、戸口のフォルテのほうを見やる。が、覆 面 の下からですら驚 愕 の色を隠 せずにいる暗殺者たちと対 峙 して、フォルテ・パッキンガムだけは、ごくごく平静でいる......
やや拍 子 抜 けしながら、オーフェンはつぶやいた。
「フォルテ──あんた、アザリーが生きていたのを知って......」
「二週間前」
フォルテは。こともなげに白状してきた。
「例の『キリランシェロ』騒 ぎの際、わたしの〝ネットワーク〟は当 該 暗殺者の顔をちらりとしか見ることができなかった。だが、それでもなおわたしは、それをキリランシェロだと断定した。そのすぐそばに、彼女がいたからだ」
「ちゃんと隠れていたつもりだったんだけどね」
アザリーが舌を見せる。フォルテは髪 の生 え際 を指でこするようにしながら続けた。
「生きていることさえ分かれば、コンタクトを取る方法はいくらでもある」
「ウオール・カーレン。どうせあなたは、キリランシェロの襲 撃 しか予想していなかったでしょうからね」
アザリーは窓 際 に座 したまま、危なげな瞳 で老暗殺者をにらみ据 えていた。
「わたしたちは、その背後を突 いてやろうと思ったわけよ。ウオール、あなたが迂 闊 なの──チャイルドマン教室 を敵に回しておいて、キリランシェロしか見ていなかった」
「天 ......魔 の魔女......ミランとスエインの見 間 違 えではなかったということか」
憤 怒 に打ちふるえながら、ウオールがつぶやく──彼はアザリーからこちらへと向き直った。まだ初老の肌 に、深々と傷 痕 のようなしわが寄るのが見える。
彼はふらふらと続けた。
「そしてフォルテ・パッキンガム教師補に──サクセサー・オブ・レザー・エッジ......なるほど、わたしが迂闊だった......のだろうな。わたしの教室が、こんなことで終わってしまう──」
ぐっ、と拳 をにぎって、ウオールは、そこで踏 みとどまった。その一瞬で、彼の顔から、迷いが消える──
「そんなことに堪 えられるかぁぁっ!」
ウオールは叫 びながら──疲 労 度 から一番与 し易 しと見たか、こちらへと突 進 してきた。老いてまだ強 靭 で──チャイルドマン亡 き今、名実ともに《塔》最強の暗殺者であるウオール・カーレンの絶 叫 を耳にし、オーフェンは静かにそれを受け止めていた。恐 ろしく速く──鋭 い老暗殺者の突 撃 を、真正面から見返す......
だが、考えていたのはまったく場違いなことだった。
(サクセサー・オブ・レザー・エッジ〝鋼 の後 継 〟......)
ほんの一瞬間──意志の力で時を止めることができたとして、その程度だろう。その一瞬にも満たない時間の中で、オーフェンの意識は音もなく弾 けた。
(俺が、自分より強大な敵と渡 り合うための、唯 一 の武器──)
全身が急速に寒気を覚える──視界が暗くなる。音も聞こえなくなる。だがそれでも周囲の状 況 は分かったし、ウオールの動きも、はっきりと見えていた。
(俺の〝過去 〟! 過去の感覚──これがそうだ!)
錯 乱 しているためか、ウオールの攻 撃 そのものはほとんど素 人 じみた鈍 重 さだった。つかみかかってくる相手の手──その中指と薬指の中間に、オーフェンは拳 の先 端 だけを打ち据 えた。ウオールの手を打ち払 い、弾き返した腕 の内側へと、半身を滑 り込ませる。
脇 の下の急所に向かって肘 を打ち上げながら、オーフェンは、叫んでいた──
(俺がチャイルドマンから受け継 いだ、ただひとつの技 ──!)
その一瞬後には、ウオールの身体が吹 き飛んでいた。

急所を打たれ──もんどりうって、老暗殺者が悶 絶 して倒 れる。見据えながら、オーフェンはそれを追うように近寄っていった。ウオールは既 に正気もなかったろう。痛みと呼吸困難とにあえいでいる。身体をふたつ折りにし、あがくように肺を膨 らませては縮ませるその身体は、まったく無防備に急所をさらけ出している。たった一撃。拳を打ち下ろすだけで、あとは事足りるはずだ──
オーフェンは、息をあららげながら、じっと彼を見下ろしていた。誰 も止めに入らない──
決めるのは、自分だけだ──自分だけが、この老人の命運を握 っている。
「............」
自分自身の次の挙動を他人事のように見守るようにしながら、オーフェンは、握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。
(そして......たやすく人を殺し、たやすく俺を暗殺者 にする技だ......)
呼吸が、収まっていく......
刹 那 、そっと腕 に触 れるものを感じて、びくりとオーフェンは振 り向いた。アザリーが、そこに立っている。
彼女は、にっこりと笑ってみせた。
「どいて、キリランシェロ──それ以上はできないでしょ? 彼と、彼の生徒から、わたしに関する記 憶 を奪 うわ」
と、教室の別のほうに向き直る──オーフェンもつられて見やると、暗殺者たちは全員、頭の後ろに手を回した投降の姿勢で武装解除されていた。
アザリーが、暗殺者たちに告げる。
「いい子だから抵 抗 はしないことね、あなたたち──無理やり廃 人 にしたてあげてやっても、わたしは構わないんだから」
と、長い詩歌のような呪 文 を吟 じはじめる。
美しい声だ──
彼女の声を聞きながら部屋の入り口に立ったままのフォルテの横にまで後退し──オーフェンは、彼に囁 くようにつぶやいた。
「あんたたちふたりで......俺を利用したんだな」
「そうだ」
否定どころか言い訳もなしに、フォルテがうなずく。
「感謝する。ウオール教室を排 除 するのに、正直、攻 めあぐんでいたところだった」
「本気で......《塔》を掌 握 できるつもりでいるのか?......先生みたいに」
オーフェンのつぶやきに、フォルテは、ふっと......乾 いた笑 みを見せた。わずかに震 えさえしながら、彼がうめく。
「先生が......死んでいたとはな」
「............」
ほかに、返答はなかった。音のない責 め苦のように、空気だけが重さを増す。
と──声があがった。
「......わたしは、感謝できないわね」
アザリーだった。催 眠 状態で誰も彼も倒 れ伏 している教室から、一冊の本を持って歩いてくる。
本の表紙を指で弾 いて、彼女は聞いてきた。
「わたしを出し抜 いたつもり? 本物はどこに隠 したの?」
「さあな」
オーフェンは小声ではぐらかして、また痛み出した頭を押 さえた。
「......まあいいわ」
と彼女は、こちらの腕 の中に本を押しつけてきた。
「ちゃんとあの子に返してあげなさいよ。まさか中を読んだりはしてないでしょうね?」
「当たり前だ」
こちらの返事に、彼女は満足したようだった──あるいは、本物の世界書がどこにあるのかよりも、そちらのほうが重要だとでもいうように。彼女はからかうような微 笑 を見せてから、ふっと、こちらに告げた。
「......ありがとうね。ふたりとも」
「ああ」
答えたのは、フォルテだけである。オーフェンは、無言で彼女を見つめていた。
アザリーは気にしていないように──むしろ優 しげにこちらを見返してくると、
「本気でわたしと決着をつけたいのなら──キムラックに来なさい」
「教会総本山 ......」
何度も耳にしたその都市の名前を、オーフェンは繰り返した。ぱっ──と視界に、前 触 れもなく白い光が閃 く。
アザリーが、転移用の黒い箱を取り出して、発動のための魔術文学 を指でなぞっているところだった。
ぱっ──ぱっ──と光の文字が燐 光 となって消えていく中で、彼女が告げる......
「この借りは返すわよ、キリランシェロ」
それが、今夜彼女に利用されてやったことを言っているのか、それとも世界書を隠したことを言っているのかは、オーフェンには判断できなかった。
ただ、去ろうとしている彼女に、こう答える。
「歓 迎 するよ......いつだって俺は貸し手だからな」
◆◇◆◇◆
無意味な無 邪 気 さで、早起きの小鳥たちがかん高いさえずりをこぼしながら空を舞 っている。朝は無邪気だ。誰もなにも考えつかない。
朝 露 に濡 れたタイルにもたれかかり、ドーチンはぽつりとつぶやいた。
「コケの一念だねー......」
彼の足 下 には、なんとか外れた細いロープ──彼らを一晩中柱にくくりつけていたものだ──がばらりと横たわっている。
「いいや、違 うぞドーチン!」
拳 を握りしめて叫 んだのは、無論、ボルカンだった。男泣きに泣きながら、感きわまって拳を震 わせている。
「これこそが戦士の宿命! 縛 めから解き放たれた今、俺たちがやらねばならないのは、新たなる革命の火種を起こすこと! 確かに強力な呪 縛 ではあったが、我らの使命感のほうが数段上だったということよ!」
「......とゆーか、結び目が、手のとどくところにあったってのに気づかなかったのが致 命 的だったんだけど......」
ドーチンは半眼でうめきながら、眼 鏡 の位置を直した。屋 敷 のほうを見やって──どうやらまだ誰も起きてはいないらしく、静かなものだが──、とりあえずしなければならないことは分かっていた。
それでも一応、聞いてみる。
「で......これからどーすんの? 兄さん」
「うむ!」
ボルカンは大きくうなずくと、
「あと一歩のところで惜 しくも失敗したとはいえ、我らが起こした革命の灯 は既 にこの地に根付いた! 俺たちは、また俺たちを必要としている人民のいる別天地へと旅立たねばならない!」
「逃げるわけだね」
「逃げるのではなぁぁいっ!」
がす、と剣で殴 り倒 されて、ドーチンは慣れた表情で廊 下 に転がった。ボルカンは剣を掲 げ、さらに続けている。
「あの邪 悪 な魔 術 士 を十二色でスケッチし殺すまで! 俺たちの旅は終わらん! とりあえずは──」
と、太陽が顔を見せつつあるほうを指さして──
「北へ!」
「朝日は東だよ」
「細かいことを言うんじゃなぁぁいっ!」
再び殴り倒されるが、今度はすぐに起きあがる。はあ、と嘆 息 しながら、ドーチンはてきぱきと身 支 度 を整えはじめた──といっても、手荷物もろくにないのだが。
「じゃ、急ごうよ。早くしないと黒魔術士が帰ってきちゃうよ」
「......なんか最近殴りがいがないな、お前......」
ちょっと寂 しそうに、ボルカンがつぶやく。
と──ふと気になって、ドーチンは顔を上げた。
「そーいや兄さん、昨日の夜、出がけの黒魔術士になんかもらってたみたいだったけど、なんなのさ?」
「うむ」
とうなずきながら、ボルカンが、懐 からなにかを取り出す。
「つまらなそーな本なのだが......それにしてもあの金貸し魔術士」
黒 革 の表紙──装 丁 はしっかりしているようだが、ただそれだけの本である。タイトルすらどこにもない。その本で扇 ぐようにしながら、ボルカンは胸を張ってみせた。
「なんのご機 嫌 取りか知らんが、こんな本でも売ればいくらかにはなると言って、俺に上納してきたというわけよ! 奴 の蚤 つき脳みそにもよーやく、主従というものが理解できはじめてきたらしいわ!」
「......その本売ったお金で、ちょっとでも借金返せとも言われてるでしょ」
「......うむ」
小さくつぶやくボルカンに、ドーチンは続けて聞いた。
「で、返すの?」
ボルカンは、まるきり意外なことを聞かれたかのように、きょとんとしてみせた。
「なんでだ?」
「......まあ、いいけど......」
そして鮮 やかな朝焼けの中──ふたりは街を抜 け出した。
「......なんで《塔 》に入門する気になったのだ?」
フォルテ・パッキンガムの声は、こちらの頭を通り抜 けるように涼 しく響 いた。
彼のオフィス──もとはチャイルドマン教室と呼ばれていた講義室に机を入れ、使っているのだという。少し薄 暗いが──まだ朝なので、昼になれば日当たりは悪くなかろう。それよりもマジクの注意を引いていたのは、整然と並んでいる十個のロッカーだった。まだすべてに名札がついている──一番右端 に、見覚えのある筆 跡 で読みにくい名前が見えた。キリランシェロ。その下に、違 う筆跡で──誰 かのいたずら書きだろうが、一言だけ付け加えてある。
ただし、かすれていて読めない。
しばし、ぼーっとして......はっと、マジクは我に返った。机について物静かな視線をこちらに注いでいる男に向け、咳 払 いする。
「あ、えーと......その──」
かなり迷ってから、告げた。
「足手まといになるのが、嫌 なんです。お師様の......」
それを聞いて、フォルテは──少し深く吐 息 したようだった。嘆 息 するように。
がたん......というのは、フォルテが少し身体 を動かしたせいだろう。椅 子 の足が鳴ったのだ。立ったまま彼を見つめて、マジクは、漠 然 とした居 心 地 の悪さを覚えていた。
昨夜の乱 闘 については、事前のフォルテの根回しのおかげもあって、マジクらにとってはほとんど不問に付 された──ウオール教室は解体。上級魔 術 士 レティシャ・マクレディ襲 撃 に関して、あるいはほかにも容疑としてあがっているいくつかの殺人に関して、のちの執 行 部 の沙 汰 を待つことになるという。最終的な罰 がどれほどのことになるのか、マジクは見当もつかなかったし、正直、たいして興味もなかった。
ただし──
「キリランシェロは、私闘の首 謀 者 のひとりと認められた」
唐 突 に、フォルテがつぶやく──ぎょっとして、マジクは身をすくめた。まるでこちらの考えを読めるかのように、フォルテは平気な顔で話題を変えてきた。
「《塔 》執行部はとうとう同盟反逆罪を適用したよ」
「......同盟......反逆罪、ですか?」
「死を命じられたも同じだ」
「............」
さっと青ざめるのを感じながら、次の言葉を待つ──
フォルテは、肩 を軽くすくめて続けた。
「もっとも、奴 らなんぞにキリランシェロを殺させてやる義理はないんでね。わたしも悪あがきはしておいた。抹 殺 は免 れたよ。ただし《塔》を永久除名ということになったがな。ドラゴンの紋 章 も取りあげられた。今のあいつは......ただのゴロツキだ」
「......でも......」
マジクは、震 えるのをなんとかごまかしながら、声をあげた。
「お師様は、もとよりゴロツキです」
「君にとっては、そうなのだろうな」
フォルテはあっさりとそう言うと、腰 を上げて立ち上がった──くるりと背を向けて、窓に向かう。朝日に包まれて、外をながめるようにしながら、彼は続けてきた。
「キリランシェロが《塔》を飛び出していったのも、君くらいの年 齢 だったな」
「............」
なにか言おうとして──マジクは、言葉を呑 み込んだ。なにを言えばいいのか分からなかったし、どの道、聞きたい話だった。
「レティシャもわたしも、止めようとはしたがね、聞く耳なかった。彼は優 れた魔 術 士 だった──わたしにとっても気に入りの後 輩 だった。だが青二才だったな」
ちらり、と肩越 しにこちらを一 瞥 し──
「彼の出 奔 が、周囲にどれだけの被 害 をもたらしたか、奴にも分かっているのだかいないのだか......まあ、一度でも顔を見せてくれたのだから、許すがね」
と、また視線を窓の外にもどす。
「ところで、わたしの机に箱が置いてあるだろう」
「?......はい」
マジクは一瞬迷ったが、その〝箱〟というのは、すぐに分かった──ただの紙箱である。靴 かなにかが入っていた箱だろう。
「開けてみろ」
フォルテの一言に促 されて、マジクはその箱を開けてみた。中に入っていたのは──
「これ......」
絶句するように、マジクはうめいた。銀細工の、ドラゴンの紋 章 ──剣にからみついた、一本脚 のドラゴン。細い鎖 にも錆 ひとつない。
それが、ふたつ入っている。
「そのドラゴンは、大陸のドラゴン種族ではなく、もっと別の強大なものを意味していると言われている──伝説では、唯 一 の真なるドラゴン......と呼ばれているものだ」
フォルテの声はそこまで語ってから、すっと声 色 を落とした。静かに続ける。
「そのペンダントは、ひとつはキリランシェロのものだ。長老たちに没 収 されたわけだが、ダストシュートから拾い上げた。早朝からゴミ箱に頭を突っ込んで探したのだから、感謝してもらいたいものだな」
「もうひとつは......なんですか?」
「キリランシェロに渡 せば、奴 なら分かる」
「............?」
怪 訝 に思いながらマジクは、そっと紋 章 を裏返してみた──紋章のペンダントには、持ち主の名前が刻 まれているのは知っていた。ひとつは確かにキリランシェロと刻み込まれている。もうひとつは──
(アザリー......?)
「そのふたつを、奴に渡してやってくれ」
静かに言いながら、フォルテは、こちらに向き直ってきた。こちらが、はいと答える前に、続けてくる。
「ただし長老の決定に反して、永久除名になった部外者に勝手に《塔 》の紋章の入った装備品を渡してしまうのだ──重罪だな。二度と《塔》にもどってこないほうが無難だぞ」
「......え?」
わけが分からなくなってマジクは、呆 けたような声で聞き返した。紋章をふたつ手に持ったまま、フォルテと向かい合う......
彼は静かに再び、聞いてきた。
「なぜ《塔》に入門しようと思った?」
「............」
今度は答えられない。こちらが押 し黙 っていると、フォルテは、笑いもせずに鼻からふっと息を抜 いた。
「悪いが、さっきのはつまらん理由だと思わざるを得なかったな」
「......でも──」
が、こちらの声を無視して、フォルテは続ける。
「それまでいっしょにいた人間が、ある日いなくなるというのは寂 しいものだよ。我々の......ようにな。奴 が、君にいて欲 しくないと言ったわけではないのだろう? だったら、それを君が勝手に決断するのは、お節 介 というものだ」
物静かな口調でそこまで言うと、また椅 子 に座 り直す。
「彼が《塔》を出た理由は......プライバシーというもので、話すことはしない。直接聞くんだな。レティシャに言って、彼らの出発は、午後まで引き延ばしてもらっている。急げば、まだ間に合う時刻だ」
「............」
マジクは紋章を持ったまま──それでも次の言葉を待っていた。が、フォルテは、もう言うことも聞くこともなくなったというように、机に肘 をついて目を閉じている......
目の下を指の背でこすりながら、マジクはゆっくりと口を開いた。
「ありがとう......ございます!」
マジクは叫 ぶようにそう言うと、だっと部屋から駆 け出していった。
マジクが出ていったあとのひとりの部屋で、フォルテは、ぽつりとつぶやいた──
「天 魔 の魔女アザリー......か──黄金の切り札。いや、役なし 、かもな。どうする? キリランシェロ......キムラックはたやすい相手ではないぞ──」
「じゃーん! というわけで、みなさん既 にお気づきでしょーか! 作者の横暴なにするものぞ! ジンクス破ったそのついで、これを機に目指せヒロインの座! パットことパトリシアです! 前回に引き続き巻末の進行を──」
「した後、お払い箱です」
「しくしく......」
「えー、小うるさいのはほっといて、作者でございます。このシリーズ六度目の巻末! 彼女ののたまった通り、『巻末の出番が最後の出番』制度に、ちょこっと狂いが出てしまいましたけど」
「その割にはあんた、どーどーとしてるわね......」
「嘘 つきは罪じゃないっ!(断言)」
「......まー罪人にも胸を張る権利くらいはあるものね」
「(無視)えー、にしてもこのシリーズも、よーやっと六冊も並んだところで、前々からの予定でした《牙 の塔 》編に手を着けることができました。ホントは前の五巻とこの巻のお話とで、併 せて《牙の塔》編の予定だったんですけどね。そうすると登場人物があまりにも多いんで、二話に分けました」
「それで今回、やたら前回からの伏 線 てのが多いわけね」
「そーゆうことです。一応、それぞれ完結するように工夫はしたつもりですが。伏線に関しては、消化しきれなかったものも出ちゃったんで、ちと、う〜むなんですけどね」
「よきにはからうがよろしかろ」
「......それ、ちょっと聞くには普通のようだけど、実はめちゃくちゃじゃないか?」
「パットの言葉には愛があるからいーのっ!」
「愛って......?」
「いやなんとなく......でも今回で《牙の塔》編は終わりなのよね。次はどーすんの?」
「どーする、というより、秋田の感覚としてはどーなるんだって感じだけど(無責任)。本当は、この次に教会総本山 編をまた二話くらいかな、て考えてたんだよな」
「そうはならないわけ?」
「ちょっと番外編的な話をはさもうかと思ってます」
「番外編?」
「だからって、魔術士オーフェン・無謀長編とか、そーゆうのをやるわけじゃないけど。普通に、作中時間的にもこの六巻と教会総本山 編の間に入る話ではあるんだけど、現在作中で進行してる世界の秘密が云 々 というようなこととは関係ないエピソード。ふと立ち寄った村で起こった不可解な事件! あ、そーだな、これに決めた」
「書きながら考えてんのね、あんた......まーいーけど。でも、なんでそんな半 端 なモン間に仕込むわけ?」
「そりゃもちろん、なんか話が進むごとに、だんだんシリアス一辺倒になりつつあるよーな気がするからなんだけど」
「ほほう。あんたも一応、ものを考えてるよーなことも言えるわけね」
「決してキムラック教会の細かい設定が未完成だからではありません」
「......前言撤回......」
「い、いや、ホントに前者の理由からなんだけどね。キムラック教会も(以下秘密。未定じゃなくて。説得力ないけど信じて)」ということで、おおむね決まってるし。だから七巻は、この五、六巻あたりの話に比べたら、多少ドタバタした話になる予定ではあります」
「でも、この作者じゃ、どーせ最後は主人公が血まみれでたたずむんでしょ」
「血まみれでたたずむことが主人公の条件だと、固く信じる秋田です」
「またそーやって自分の首を絞 める」
「だから、嘘つきは罪じゃないんだってば(笑)。でもまー、不義理は罪かな、とゆーわけで、ファンレターの返事等、なかなか書けなくて申し訳なく思っております」
「あ、謹 聴 。ファンレターなんて上等なものが来てんの?」
「お前にはないぞ──と言いたいとこだが。このシリーズ、ありがたいことにだんだんとファンレターの数も増え、最近では秋田ひとりじゃ返事に手が回らなくなっております」
「でも、どーやってもあんたはひとりしかいないでしょ」
「だから手が回ってないんだって。いっそのこと抽 選 で返事を書こうかとも思ってますけどね。そんなわけで、返事が来なくても怒らないでやってください。その分、今年はがんばって長編シリーズと無謀編、併 せて隔月で発刊しますし。なんとか」
「まぁ、それができたら許してやってね、てところかしら」
「うう......とまあ、言い訳をしながらお別れです」
「あんたらしいわよね、すっごく。では、次回の巻末でお会いしましょー!」
「俺だけね(無情)」
一九九六年三月──
秋 田 禎 信











落ち着かず、彼は椅子 の上で身じろぎしていた──さっきから繰 り返して、ずっと。
実際、落ち着くに足る部屋というわけではない。言ってみれば、そこは納屋 のようなものだったからだ。いらなくなったような家具を整理もつけずに押し込めた、そんな部屋である。椅子に座 っているが、その椅子も誰 かが勧 めてくれたというわけではない。チェストと鏡 台 の間に斜 めにはさまっていたものを引っぱり出して勝手に使っているのである。
天井 のガス灯が、頼 りなげに揺れている。街中 でもないのにガスまであるというのは、予想外ではあったが、不安でもあった。整備されていない器具は必ず壊 れる。ガス灯の場合、爆発するか息ができなくなるか。
だがそんなことは、どうでもいいのだ──
ドーチンは、また身じろぎした。屋 内 でも脱がない毛皮のマントと、分 厚 い眼 鏡 をかけている。大陸南方に自治領を持つ少数種族、いわゆる地 人 の少年である。身長は百三十センチほど──ずんぐりした顔立ちと、ぼさぼさの黒 髪 。民族衣 装 である先のマントとともに、地人種族の典型的な姿だった。
さっきから彼は気弱そうに、ちらちらと横を盗み見るようにしていた。
そちらには、やはり椅子に座ってぼんやりとしている兄がいる。ぼろぼろになった毛皮のマントは同じだが、眼鏡はなく、代わりに長剣の鞘 を抱 えていた。幾 度 となくあくびをしている──ということは、この不自然な状況に兄は気づいていないということになる。
と──どんどん! と乱暴に、扉 がたたかれた。
なにかを咎 められたような心持ちになって、ドーチンはびくりとそちらを向きやった──扉は、二回だけたたかれて、そのあとに息を吐 くのもめんどうだと言いたげな、煩 わしそうな声が聞こえてくる。
「おい、もう出るぞ! 呼びに来なけりゃ出られねえのか⁉ 」
当たり前じゃないか。
だが、そう思いながらもなにも言い返さずに、ドーチンは、のろのろと立ち上がった。
そして、いつものようになにも考えていなさそうな兄も、いつものようになにも考えていなさそうに、跳 ねるように椅子から飛び降りていた。
それはつまり、よくあることだった。
「......とは思わないけどね」
皮肉げに、独 りごちる。ただ別に誰に対しての皮肉かは、よく分からない。自覚もない。
ドーチンはともあれ、嘆 息 していた。と、横にいる兄──ボルカンが、うんうんとうなずいている。
「分かるぞ、ドーチン」
「......なにが?」
力なくドーチンが聞くと、ボルカンは、ぐっ、と拳 を握 って断言した。
「ひさびさの大仕事に、思いっきり腕が鳴りつつ、そのやる気を押し隠 して鼻息の代わりにため息をつくその闘志! 兄にはよぉく分かる」
「......どこの世の中に、そんな回りくどいことをする人がいるんだよ」
ドーチンはうめいたが、ボルカンは聞く耳ないようだった──まあこれが、よくあることその一だ。
再びため息などつきつつ、ドーチンはあたりを見回した──
よくあることその二。郊 外 の宿屋は、決して安全な場所ではない。
(......つまり、ぼくらでも簡単に納屋に忍び込めるような宿は、ね)
また胸 中 で独りごちる。
宿屋そのものが、いわゆる盗 賊 の住 処 になっていて、泊 まり客から旅費を強 奪 する。考えてみれば、誰 でも思いつく、当たり前の商売ではある。となれば彼らが今いるその宿も、まあ、言ってみれば月並みなことを考えついた月並みな連中のアジトだったということに過ぎない。最近ではそう多くもないはずのそういう宿に、わざわざ足を踏 み入れてしまったことも、よくあることと言えば、よくあることだろう。よくあることその三。
そしてその四──そんな宿をねぐらにする連中と、なぜか兄が意気投合してしまうこと。
その五。自分がそれにつき合わされていること。
その六。そんな得 体 の知れない人殺しどもの真ん中で、逃げ出す隙 もないということ。
......そのうちのみっつくらいまで重なっていれば、もはやよくあることでもなんでもない。ドーチンはまた、ため息をついた。
「準備はできたか⁉ 」
律 儀 に、大声で叫 ぶ者がいる。とはいえ、別にドーチンに向かって言ったというわけでもなく、全員に言ったのだろう──それに応 えて、あちこちから一 斉 に声があがる。
「おう!」
「腕が鳴るぜ!」
(......鳴るもんか)
毒づいて、あたりを見回す。
宿屋の一階は食堂やら酒場になっているものだが、盗賊宿になれば、つまり集合準備場所とでも呼ぶのだろうか。そんな役割も負うようだった。散らかった食堂に集まっているのは、総勢十五人──ドーチンやボルカンも含 めての人数である。その各 々 が(ただしドーチンを除 いて)武装している。得 物 はまちまちだった。きちんと剣を下げている者もいれば、包 丁 と大差ない不 格 好 な装備の者もいる。なにを勘 違 いしているのか、分 銅 のついた鎖 をじゃらじゃらと鳴らしている者までいた。
ただ言えるのは、仮に警察に見つかった場合、なにか言い訳 ができるような集団ではないということだ。例 えば、こんなような──「ああ、すいません。ぼくら、金 物 マニアの定例集会なんですよ」
それでもドーチンは、警察に見つけてほしかった。こんな郊外を巡 回 しているはずなどないと知りつつも。
ちら、と兄を見る──ボルカンは嬉 々 として、さっきから意味もなくうなずいている。昨晩、納屋にあった生野菜を食い散らかしているところを見つかって、弟を蹴 り出して逃げ出そうとしていたときからは考えられない表情だった。剣を鞘 ごと構えて、堂々と叫んでいる。
「うむ──このマスマテュリアの闘犬、戦士ボルカノ・ボルカンの手にかかれば、どのよーな仕事であろうと薄 氷 を踏み抜くがごとし!」
「......明らかに間違ってるけど、かえって正解だね」
ドーチンは横からつぶやいたが、気づいた様 子 もなく──それは周囲も含 めてのことだが──ボルカンが続ける。
「この俺 の助力があれば、もし仮に例えばの話だが仮定として仮想敵を設定して言 及 すると、道をふさぐ敵が甲 斐 性 なしの赤 貧 極 悪 魔 術 師 であろーと、乾 燥 ワカメを入れすぎ殺すことも容 易 であろう!」
「あー、確かに」
「ついつい入れすぎてあふれたりするんだよな」
周 りの男たちが、いまいち狙 いの外 れた同意を繰 り返すのを見ながら、ボルカンは満足げに鼻息を吹いている。
「まあなんにしろ」
と、さっき準備はいいかと叫んだ厳 つい男が、剣を肩に担 ぎつつ言った。
「人手はあるに越したこたぁねえからな。食い散らかした食い物の分、働いてもらうぜ」
(......つまり、ただ働きってこと?)
声には出さずに聞き返して、ドーチンは自分で自分に答えてもいた。答えは分かり切っていた。
ついでに言えば、少なくとも彼ら全員が手にしている得物の数々を見れば、これから行うことがまっとうな仕事でないことも明々白々である。
と──
いきなり、部屋の中に静 寂 が訪 れた。さっきのつぶやきが声に出ていたかとぎょっとし、ドーチンはあたりを見回した。が、そういうことでもなさそうである。盗 賊 たちは気をつけをするように、宿屋の奥の扉 に向かって整列しはじめている。
その扉が、あっさりと開く。
出てきたのは女だった──特に特 徴 があるわけでもない。そんな女だった。気 だるげな、というよりは明らかにめんどくさそうな目つきである。街中ですれ違ったとして目を引くわけでもないだろう。ただまあ、武装さえしていなければ、ということだが。
年 齢 は、二十四、五というところか。短く切った髪に寝 癖 がついている。明らかに手入れされていない顔を撫 でるようにしながら、彼女は大きくあくびした。多少サイズの大きい(つまり男物なのだ)皮 鎧 を身に着け、腰に剣を下げている。ずらりと並んだ男たちを、まだ半分寝ぼけた眼 差 しで見回し、めんどくさそうに問いかける。
「もう準備、いい?」
「もちろんでさあ、お頭 !」
頭を下げながら、盗賊のひとり。その気合を無視して、軽く女──お頭がうなずく。 彼女はすたすたと、彼らの間を歩いていく。
彼女は懐 から布を取り出すと、器用にそれを頭に巻き付けた。空色の、まあ清 潔 そうな布だ。オーガンジーかな? などと一 瞬 思う──が、幻想だろうと、さっさと忘れることにした。
そして女が宿屋を出ていく。盗賊たちの視線が、その背中を追った。
「じゃあ、行くぞっ!」
誰 が言い出したのか、声があがる。
「......で、目的地はどこなんですか?」
ドーチンは不安に思いながら、手近な男に聞いてみた。その男は──なにに使うつもりかあえて知りたくはないが──手 斧 のようなものを大事そうに抱え、一言で答えてきた。
「カミスンダ劇場だ」
夜空は少なくとも美しくはあった。ただそれ以上に役立ちはしないわけだが。
燃える炎 を、ただひたすらに見つめている。三人、爆 ぜる火を囲んで座 っていた。たき火の中には、串 に刺 して、干 し肉が一切れあぶられている。
「............なぁ」
オーフェンは、ぽつりとつぶやいた。
「......どうする?」
二 十 歳 ほどの青年である──どこか上がり目で、はっきり言えば目つきが悪い。が、今はそれ以前に、どこかやつれたような眼 差 しをしていた。黒 髪 、黒目、その三人の中にあっては唯 一 、ごく平均的に貴族外の風 貌 をしている。着ているものは黒ずくめで、その胸元には、剣にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 ──即 ち大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔 》の紋章が下げられている。
彼のつぶやきに答えたのは、右 隣 でひざを抱 えている少年である。
「どうするって言ったって......事実はひとつじゃないですか」
細い金 髪 に、緑色の双 眸 ──年 齢 は、十四、五というところか。彼もまた黒ずくめの格 好 をしているが、紋章は身に着けていない。彼が着ている黒いシャツとマントに関しては、ほぼカケラも似合ってはいなかった。
そして最後に結ぶのは、そのさらに右隣──つまり火を囲んで、最初のオーフェンの左隣にいる少女だった。十七歳ほどの、ブロンドを伸ばした少女である。ぼろぼろのジーンズのひざに、真っ黒な毛並みの子犬を乗せて、ほかのふたりと同じく、ぼんやりと炎 を見つめている。
「問題は、この一切れを誰 が手に入れるかよね......レキはいつも、なんにも食べないからいいけど。光合成でもしてるのかしら」
と、ひざの子犬の頭を撫 でる。
子犬は目を──鮮 やかな緑色の目を──閉じ、少女の手のひらに頭を擦 りつけてみせた。
「三等分じゃ......駄 目 なんですか?」
これは金髪の少年である。彼のほうに、ちらりと顔を上げて、オーフェンは低い声 音 を出した。
「マジク......」
というのが、その少年の名前だった。そのマジクに、彼は続ける。
「三人ともが一口ずつ食って、全員仲良く飢 え死にするか──それとも、ひとりが体力をつけて、近くの村に救 援 を呼びに行くかだ」
「近くの村って......?」
「二十キロ先にある」
オーフェンは虚 ろにつぶやきながら、その視線を少し上げた。
彼らが火を囲んでいるのは、街 道 を少しはずれた草地である。大陸の二割を覆 う広大な樹 海 ──《フェンリルの森》も、もう見えなくなり、これより北方に進めば、だんだんとその地形は、みずみずしい森林地帯から荒野へと変じていくことになる。ここはちょうど、その中間というところだった。
そして街道の先、二十キロ──正確には二十三キロ少々──先に、人里がある。
そちらのほうを見やり──オーフェンは、さりげなく付け加えた。
「ちなみに俺 が、一番体力があるだろーな」
「いやいや」
干し肉からは視線をそらさずに、マジクがすかさず続ける。
「お師 様はゆっくり休んで、若いぼくに希望を託 すべきですね」
「女の子は......大事にされるべきよね」
少女のつぶやきはその声の小ささに比べて、口 調 は強かった。オーフェンはそのつぶやきに、ぴくんと耳を動かし──一 瞬 だけマジクと視線を合わせて、うなずき合った。
『却 下 』
男ふたり同時に、即 座 に告げる。
「なんでよーっ⁉ 」
立ち上がって悲 鳴 じみた声を上げる彼女を、オーフェンはじろりと横目で見上げると、
「ひとことで言えば、全部お前の責任だからだ」
「納 得 できないわ!」
立ったまま、頭を抱えてかぶりを振 る。いきなり立ち上がったせいで、子犬──レキは地面に落っこちていた。たき火のそばで、ぽかんとしている。
その上で少女は拳 を握り、力 説 した。
「責任というのは過失のことを言うのよ! 不可抗力は認められるべきだわ!」
「ほほう......」
オーフェンは静かにうなずいた。
「ありったけの食料を使って食えない料理をこさえたのは、不可抗力だったと主張するわけだな? クリーオウ」
「食べられない料理だなんて! 不当な決めつけよ!」
彼女──クリーオウは、ずい、と詰 め寄ってきた。指先をこちらに向け、続ける。
「オーフェンだって、二口くらいは食べたじゃない! なら全部食べることだってできたはず──」
「あんな畑にまけば草が枯 れそーな料理だって、半日なにも口にしてなけりゃ、食ってみようかって気にもなるわい、馬 鹿 たれ!」
いつの間にかオーフェンも立ち上がって、クリーオウと対 峙 していた。お互い、突きつけ合った指先が少し触 れている。夜風が悲しい音を立てて、吹き抜けていった。
「ふたりとも、まだまだ元気そうですね」
ぽつりとつぶやいたのは、マジクである。
「ならぼくが──」
ざぐっ!
............
干し肉のほうに手を伸ばしかけたマジクの指先をかすめて、ナイフが飛んだ──そしてそのまま、地面に刺さる。蒼 白 になって、マジクが顔を上げた。
オーフェンはナイフを投げたポーズを取ったまま、ごくごく平静に言い放った。
「死を覚 悟 したことはあるか?」
「いや......そんな、干 し肉一切れで......」
「時と場合によるわね」
その声は、無論クリーオウのものだが──ほんの一 瞬 で、マジクの座る向こう側にまで移動している。一 抱 えほどある石を両手で持ち上げ、構えていた。完全に据 わった眼 差 しで、マジクを見つめている。
すざっ──とマジクが、完全にビビったように後 退 りする。
それを見てもさして騒 がず、クリーオウは淡 々 と続けた。
「馬車は壊 されちゃったからタフレム市から歩きづめ──怪 しげな宿に泊 まったら路 銀 はすられるわ、それで宿代が払えなくて死ぬほどただ働きさせられるわ、残った食料でわたしがせっかく料理してあげたのにみんな食べないわ、これだけあれば、そろそろ死人が出たっておかしくない頃 合 いよね......」
「ひとり死ねば、食いぶちが減るなぁ......」
オーフェンも言いながら、地面に刺さったナイフをのろのろと拾 い上げた。刃の背を自分のほおにこすりつけながら、弟 子 に向き直る。
「ああああああああ」
這 いつくばるように後退して、マジクが泣き声じみた声を上げる。いや実際、泣き声だったのかもしれないが。少年はやけくそぎみにわめき散らした。
「分かった! 分かりましたよ!──ぼくはいいですから、お師様とクリーオウとで分けてください!」
マジクはそう叫ぶなり、拗 ねるように、完全にこちらに背を向けた。炎の明かりを背に受けて、地面にあぐらをかきぶつぶつと毒づいている。オーフェンはそれをしばらく眺 めやってから──着ているジャケットの内側に縫 いつけてある鞘 にナイフを収めた。
そして、クリーオウに向かい合う。彼女もまた、石をどすんと落としたところだった。
「さて......」
オーフェンはなんとなく構えを取りながら、クリーオウに言った。
「マジクの英 雄 的犠 牲 によって、戦局は一気にクライマックスを迎 えたわけだ......」
彼女もこちらを見返し、身構える。
「あとは、わたしたち、どちらが死ヌか、ね......」
じり、とオーフェンはブーツの裏で地面をこすった。手 刀 を構えるクリーオウに、腰を落として拳 を向ける。
「ついにこの時が来たか......」
オーフェンは覚悟を決めながら、低く独 りごちた。遠い眼差しで、眼前のクリーオウに幻 影 を重ねる。
「我が子孫の存 亡 をかけても......ここで死ぬわけにはいかない」
「お師様......」
勝手に聞いていたのか、肩越しにこちらを見てマジクがぼやく。
「干し肉一切れで、そこまで盛り上がんないでください」
それは無視して、オーフェンは叫んだ。
「おっしゃ、決着をつけるぞ、クリーオウ!」
「かかってらっしゃい!」
クリーオウが叫び返した、その瞬間──
「ぎゃあああああああっ!」
つまり、そんないつもの夜のことだったのだが──
いずこからか、派 手 な悲鳴が夜空に響 きわたったのだった。
──そして悲鳴は、無辺の星空へと消えていった。
勝負は一瞬でついていた。悲鳴に気を取られたクリーオウを、正々堂々はたき倒す。地面に顔を突っ伏すように転がっている彼女を尻 目 に、オーフェンは誇 らしげに干し肉の刺さった串 を取り上げた。
「勝利とて、空 しいものだ......」
「オーフェェェェン⁉ 」
がば──と、クリーオウが起き上がる。顔面から倒れたせいだろう、鼻の頭をすりむいている。
少し焦 げている干し肉を口の中に放り込もうとした、その一瞬前に彼女は、こちらの腕に取りすがってきた。同時にわめき立てる。
「今のなし! 無効よ!」
「な、なにぃ⁉ てめ、負けたからってそーゆう、いさぎよからぬことを──」
「お師様っ! クリーオウ!」
と──
横から怒 鳴 られて、オーフェンはそちらを向いた。マジクが、どこかへ走り出そうとしている格 好 で、硬 直 している。
干し肉をクリーオウに奪 われないよう、高く掲 げて背伸びしつつ、オーフェンは聞いてみた。
「......どっか行くのか? マジク」
「どっか、じゃないでしょぉっ⁉ 」
なにやら追いつめられたような面 持 ちで、マジクが叫び返してくる。
「聞いてなかったんですか? 今の悲鳴!」
「聞いてたぞ」
「聞いてたせいで、一回殴 られたわ」
こともなげに、クリーオウも続ける。マジクが両手をわななかせるのが見えた。
「聞いてたんなら、分かったでしょう⁉ 今の、悲鳴でしたよ!」
「ふむ......」
確かに、それはそうだった──つまり悲鳴だった。声の大きさや、反響のタイミングからして、そう遠くない。ついでに言えば、かなりせっぱ詰まった声でもあった。
少しばかり考え込み──オーフェンは、ぱっと顔を輝 かせた。
「そうか! つまり、お前いつの間にか、悲鳴を聞くと発 奮 して駆 けずりまわる変態体質になったんだな! いろいろとストレスのたまる生活してると、たまにあるんだ、そーゆうことが!」
「やったわマジク! とうとう大 人 ねっ!」
クリーオウがすかさず歓 声 をあげる。が、マジクはどうやら気にくわないようだった。
「違うううううううっ!」
地 団 駄 踏みながら、絶 叫 する。
「そーじゃなくってっ! 普通こーゆう場合、助けに行くもんでしょう⁉ 」
マジクは、もうどうやら堪忍の限界とでもいうような表情で、少々泣いてすらいたようだった。ひとけのない夜のしじま──これだけ大声を出せば、先に悲鳴をあげてきた者のところにも、少年の声はとどいたろう。悲鳴の主がこれを、何事かと判断したかは神のみぞ知るというわけだ──ただし、この大陸に神はいないが。
とにかくマジクを眺 めながら、オーフェンは片手で髪をかき上げた──もう一方の手は、ジャンプを繰 り返しているクリーオウから干し肉を守っている。嘆 息 など漏 らしつつ、オーフェンはつぶやいた。
「......分かってるよ、ンなこと。ちっとからかっただけだ」
「からかうって......」
どっと疲れがこぼれだしてきたような様 子 でマジクがうめく。少年はそのまま続けた。
「とにかく、緊 急 事態ですよ。なんだか分からないですけど、助けに行かないと──」
「マジク......」
オーフェンは再び、嘆息した。
しつこく飛び跳 ねているクリーオウを適当に押しのけつつ、遠く──芸もなにもない、ただまっさらな星空を見上げる。
彼は、地平に近い場所にかたまっている星の群 を、空 いているほうの手で指さした。
「あの星の方向に、トトカンタ市がある」
「......ええ」
小走りになる姿勢で足踏みしながら、それでもマジクは律 儀 にうなずいてきた。オーフェンは、うんとうなずいて、
「俺たちがトトカンタ市を出てから、もう三か月が経 ったわけだな......」
「そのくらいになりますか」
「ああ。いろいろなことがあった......」
指折り数えて、続ける。
「まず、アレンハタムじゃ笑う人形にしこたま殴 られた。キンクホールとかいう村では亡 霊 やらトカゲやらに襲 われて、《フェンリルの森》にいたっちゃ、キムラック教会の殺し屋&ディープ・ドラゴンの襲 撃 ときた。それが終わったら終わったで、どっかの馬 鹿 が保護森林を焼き払ったせいで逮 捕 され、タフレム市でちったぁ骨休みできるかと思いきや、着くなり入院、そのあとも四六時中、暗殺者と取っ組み合いばかりやってたような気がするぞ。しかもそんだけのことがあったってのに、一 文 の得にもなってないばかりか、福ダヌキどもの借金も未回収だ」
そこまでオーフェンがつぶやくと、マジクは怪 訝 そうな表情を見せながらも、はあ、とうなずき返してきた。
「......で、それがどうかしたんですか?」
「だからっ! たった三か月の間にこんだけのことがあったってのに、『それがどうかしたんですか』の一言で済まされちまうよーな生活から脱 却 したいんだよ!」
オーフェンは干し肉を刺した串 を握りしめながら絶 叫 した。
「なんでこんなトラブルが日常茶 飯 事 になってるんだよ! 俺は平 穏 が好きなんだ! 今後、自分からやっかいごとに首を突っ込むようなまねはしねえからな!」
一気にまくし立てるようにそう怒 鳴 ると、ようやく落ち着いて吐 息 する──そしてふと、干し肉を見やった。
が、串が途中から折れて、なくなっている。
横を向くと、いつの間かクリーオウが折れた串の先のほうを持ってVサインを出していた。串にはもう肉は刺さっていない──彼女がくわえている。
「おどりゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
オーフェンは叫びつつ、彼女に飛びかかろうとしたが──それを背後からベルトをつかんで止めたのは、マジクだった。
「ちょっとお師様っ! 落ち着いてくださいよっ!」
「これが落ち着けるかぁぁぁぁっ!」
「そんな、泣きながら叫ぶほどのことじゃないでしょう⁉ 」
「首から下を土に埋 めてニワトリに目玉つつかせてやる! 止めるな!」
「止めますよ、そんなもの! とにかく、落ち着いてくださいっ! クリーオウだって、本気で独 り占 めなんてしませんよ!」
言われてオーフェンは、なんとか踏みとどまると(つまりマジクを引きずっていたのだ)、感情を抑 制 するぎりぎりの表情で、クリーオウのほうを見やった。
距 離 にすれば三メートルほど先である。彼女はもう肉をくわえてはいない。手に持っていた。いつの間にかレキを足 下 に従えて、彼女は悠 然 とこちらを見返している。嘲 るように笑い、ふッ、と小さく吐息し、やれやれと肩をすくめると、そのまま──ゆっくりと干し肉をかじりはじめた。
「あの女を殺して食うぅぅぅっ! 止めるなぁぁぁっ!」
「だから止めますってばぁぁぁっ!」
叫びながら、またずりずりと進みはじめた、そのとき──
悲鳴が響いた。再び。
「ぎゃああああああっ!」
「............」
オーフェンはまた立ち止まると、夜空を見上げるようにした──まあ無論、その悲鳴の主 が空を飛んでいくということはない。それでもしばらく待ってから、オーフェンはつぶやいた。
「案外、近いな......」
「そうですね」
まだベルトはつかんだままの格 好 で、きょとんとマジク。クリーオウもびっくりしたようで、それらしい人 影 でもないかとあたりをうかがっている。ただし肉をかじりながら。
が──オーフェンはひとり、あごに手を当てて、真剣な顔でうなずいた。
「......そうだな」

と、考え込んで顔をしかめる。頭の中でぐるぐると、思考の波が渦 を巻いた。そして渦の真ん中から、ひとつの答えが浮上してくる。
「よし! 行ってみよう!」
オーフェンはきっぱりと、ふたりに叫んだ。えー、とふたりとも、面食らったような声をあげてくる。
「なんで今さら?」
「さっきは、あんなに嫌 がってたじゃないですか」
聞いてくるクリーオウらを、オーフェンは手を上げてにやりとしながら制止した。ちっちっ、と指を振って、続ける。
「だから、よぉく考えてもみろって。簡単なことだ──悲鳴。イコールやっかいごと。どうやらなにかに襲 われたらしい。なにが起こったか知らんが、そー血なまぐさいこともなかろ。野 犬 かなにかか? どうせもう決着がついた頃さ。そこに俺らが到着して──」
「戦いで傷を負っているはずのそいつを葬 り去るの?」
「............」
しごく真 面 目 な様子で口をはさむクリーオウに、オーフェンは一 瞬 口ごもったが、
「なんでだ。そうじゃなくて、助けに来たんだが間に合わなかった、てな顔をしとくんだよ。そーすりゃ俺らもお礼のひとつやふたつにありつけるかもしんねーだろ」
「......どちらにせよ、すっごく卑 怯 じゃないですか? それって」
白 眼 になってこちらを見つめながら、ぽつりとつぶやくマジクの一言に、オーフェンは、やはりまた一瞬口ごもりかけた──ただし、今度のはさっきのとは少し違って、ほおに一筋、冷や汗のようなものが落ちていく。
だが、それは決然と無視して──オーフェンは、自分のあごに当てていた手をすっと下ろした。マジクの肩をぽんとたたき、もう一方の手で一直線に再び星空を指さす。
満天の輝 きが、地上を見返してきているようだった。
「マジク。この大自然を見ろ」
「はあ......」
うろんな様子で返事をするマジクに、オーフェンはあくまでゆっくりと続けた。
「自然の偉大さを理解したそのとき、お前にもきっと分かるようになる......」
「発想の卑 小 さを大自然の規 模 に照らし合わせたところで、言い訳 にはなりませんよ」
冷たい眼 差 しはそのままで、マジクは意外とあっさり言い返してきた。
ひくり──と、ほおがひきつるのを感じる。
ひきつったほおを隠 すようにそっぽを向いて、なにごともなかったかのようにオーフェンは言い直した。
「マジク。空の色の深さを見るんだ。世の中の奥深さは、時に真理と思えることを裏切ることも──」
「ねー。そんなことよりさぁ」
と、言ってきたのはクリーオウである。そちらを見やると、少女はレキを頭に乗せて、少ない手荷物をてきぱきと片づけている。
「早く行かないと、間に合わないんじゃない?」
「ああっ! それもそうだ!」
オーフェンは、捨てるようにマジクの肩をはなすと、自分の荷物に取りついた。すり切れた革のダッフルバッグである。出していた携 帯 毛布を適当に詰め込みながら叫ぶ。
「こーゆうのはスピードが勝負だ! 謝 礼 をもらいたおして幸せになるぞ! おらおら、たき火の処理もきちんとしとかねえと、森林レンジャーに怒られっぞ!」
「......《塔 》に残ってたほうが良かったのかな、ぼくって......」
背後から、マジクがちょっと後 悔 したような声でつぶやいていたが、オーフェンは完全に無視して、まだ見ぬ謝礼の額を数え上げていた。
悲 鳴 が聞こえてきたときから思っていたことだったが、声はさほど遠くから響 いてきたのではなかった──せいぜい、二、三百メートルというところだろう。近くに森があるため見通しはよくないが、方向はだいたい特定できる。そのぐらいはっきりとした、よく通る悲鳴だった。まあ、悲鳴というのはたいていそうだが。
「にしても......」
小走りになりながら、オーフェンはぽつりと自問した。
「こんな人里離れたところで、誰 が襲 われたってんだ?」
旅行者の数が急激に増えたのは、ここ近年のことである──
理由としては、街 道 が完全に整備されたことと、それに伴 い、大陸の完 璧 な形での地図が比 較 的 安価に販売されるようになったこと、かてて加えて、森林レンジャーと市街警察の連 携 が機能しはじめたことによって、一昔前に比べれば、都市外の治安も保証されてきていた──そんなことが挙 げられる。
とりわけ街道の整備が大きな理由となるわけだが、それには街道沿 いの宿泊施 設 の増大も含 まれている。昔のように粗 末 な宿で法外な値段を要求される──どころか、宿自体が盗 賊 たちのアジトだったりする──ことも、最近ではそれほど多くない。よほど金に困っているのでもない限りは、野 営 する必要もなくなっている。
逆に言えば、宿代すらままならない連中を盗賊が襲うということもないのである。
「それに......わざわざ野宿なんてしてるような連中じゃ、謝礼なんてロクに払えないかもしんねえなぁ」
「わたしたちみたいにね」
ぽつりとクリーオウが付け加えるが、それは無視した。ちなみに彼女の荷物は、真っ黒な合成革のナップザックひとつである。色 気 も素 っ気 もカケラほどもない代 物 だが、タフレム市で世話になっていたレティシャが昔、野外訓練に使っていたものをそのまま譲 ってもらったので、仕方ない。
「謝礼がないんなら、走って疲れる分だけ損なんじゃないですか?」
彼らからやや遅れてついてきているマジクが、それでも今の会話を聞いていたのか、声をあげる──
オーファンは、振り向いて答えた。
「現金がなければ現物でも可。特に食い物」
「タカリのくせにずーずーしいですね」
半眼でぼやく少年に、オーフェンは少し顔をしかめた。
「......お前、今回はやけにからむな」
「からみもしますよっ!」
と、叫んでくる。
「タフレム市じゃあ《牙 の塔》の上級魔 術 士 なんて出てきて、しかもそのひとが結 構 お師様のことちやほやしてくれたりするもんだから、お師様ってあー見えてすごい人だったんだなぁ、なんて思ったりしてたのに」
ぶつぶつと毒づくマジクに、オーフェンは朗 らかに笑ってやった。
「はっはっ──馬 鹿 だなぁマジク。過去がどーだったからといって、現在の生活が変わったりはしないんだぞ」
「実はそれって......すごく悲しいせりふじゃないですか?」
重そうに荷物を抱えて走る、マジクの一言。思い当たることも多々あったが、あえて無視することにした。
三人の中では、マジクが抱えている荷物が一番多い──というか見たままを言えば、かたまって宙を飛んでいる荷物の隙 間 に彼がはさまれているというほうが近い。言うまでもなく、その荷物の大半はクリーオウの持ち物なのだが、これがお約束通りに服その他なのかというと、そうでもないのだった。
荷物の中で最も目立つのは、やはり一番上の鞄 から、はみ出すように突き出している剣の柄 である。二週間ほど前に、とあるいきさつでなくしてしまったものなのだが、そのあとでレティシャが手を回して回収してくれたらしい──その時にオーフェンはきっぱりとはた迷 惑 だと言い放ったのだが、クリーオウは嬉 々 として返してもらい、レティシャに抱きつきすらした。あとは、やはり同じように残 骸 となった馬車から回収された身の回りの品などである。
なんにしろ、そうして走っているうちに──
道が開けてくる。
悲鳴が聞こえてきたほうに見当をつけ、街道から少し外 れて林間地を走ってきていたのだが、その木々がまばらになりはじめていた。月明かりの下、ぼんやりと青白い夜の闇 が世界を包んでいる。その中に巨大な建物のシルエットが見えた。
「......こんなとこに、あんな建物なんて、地図にあったっけか?」
ぽつりとつぶやきながら、オーフェンは足を速めた。
大陸に出回っている地図は、そのほとんどが魔術士同 盟 発行のものである──これは別に魔術士たちの測量技術が優 れていたとかいうことではまったくないのだが、大陸規 模 で一 貫 した組織力を持っているのが、同同盟くらいしかなかったのだ。ほかにあるとすれば貴族連盟下にある派 遣 警察だろうが、彼らが旅行者のための地図を発行するわけもない。
だが魔術士同盟が編 纂 しただけあって、大陸地図の多くは北方と南方が極端に粗雑なものになっている。どちらも同盟の組織力が及ばないか、もしくはあまり興 味 を持っていない地域である。だがそれにしても──
と、オーフェンは眼差 しを細くした。行く手に見える建物の影は、へたをすればちょっとした神 殿 ほどもある。これだけ巨大な建造物を見落とすことなどあるわけがない──その上まだこのあたりは、魔術士が苦 手 とする教会総本山 の影響 下ではないのだ。
「オーフェン...」
と後ろから、クリーオウが言ってくる。
「なんか、乱闘 ......してるみたいよ?」
「ああ」
それは彼も、気づいていた。建物の近くで、大人数が乱闘しているのが夜目にも分かる。ただ正確な人数までは不明だったが。
と──
「ぎゃあああああああっ!」
三 度 、悲鳴が響きわたった。しかもそれは、乱闘している建物のほうではない──既 に通り過ぎようとしていた、すぐ横のしげみの中からだった。
「な⁉ 」
驚 愕 の声を発して、オーフェンは立ち止まった。そのしげみのほうに向き直る。と、その中から、ばたばたと人影が飛び出してきた。
「きゃあ!」
クリーオウが、悲鳴じみた声をあげる。その人影は、ひとことで言えば血まみれだった。傷だらけで、身に着けている皮 鎧 もずたぼろ、手にした剣も折れている。
男はしげみから転がり出て、ふらふらとこちらに近寄って来ようとしてから──その場にばったりと昏 倒 した。いや絶 息 した。そのまま、動かなくなる。
そして......
五感よりも霊 感 からの指 図 で、オーフェンは瞬時に構えを取っていた。腰をやや落とし、左肩を前に出す。腰溜 めにした右手の拳 を握りしめながら、放つべき魔術の構成を思い浮かべた。
それと同時──だろう。しげみの中から、黒い影が飛び出してくる!
負傷した男などとは比較にならないスピード、威 圧 感で、それはこちらへと躍 りかかってきた。大きさはさほどでもない。一メートルほどの大きさの黒い影である。その影の中心を見 据 えて、オーフェンは叫んだ。
「我 は放つ光の白 刃 !」
突き出した右手の先から、膨 大 な白光がほとばしる。帯電する熱 衝 撃 波 は一直線に影を貫 くと、一気に爆 発 、炎 上 した。爆音が轟 く中、一歩退 がってオーフェンは、力を失って地面に落ちる影を見やった。
黒こげになって身動きもしないそれは──犬のような形をしていた。ただし、野 犬 の類 ではない。それだけははっきりと知れる。
「お師様......」
ぽつりと、マジク。いまいち緊 張 感のない声で、彼は続けた。
「変わった犬ですね」
「......そーだな。背中にコウモリの羽根なんて生 えてるもんな」
「なに落ち着き払ってんのよ!」
両手をわななかせて、クリーオウが叫んでくる。自分こそ限りなく犬離れした犬らしきものを頭上に戴 いているくせに、混乱したようにぶんぶんと腕を振り回して続けた。
「犬なわけないでしょ! なんなのよ、これ⁉ 」
「ンなこと俺に言われてもなぁ......」
ほおを指でかきながら、オーフェンは犬(じゃない)の死体からは視線を外 し、建物のほうへ──そして、その近くで乱闘している連中のほうへと向き直った。
「あいつらに聞きゃ、分かるんじゃねえか?」
言われて、肩を少しコケさせて、クリーオウがつぶやいてくる。
「......そりゃそうでしょうけど......なんでそんなに落ち着いてるのよ」
と、これはマジクに聞いている。少年は困ったようにいったんこちらを見て、
「いやなんとなく。お師様が落ち着いてるから、まだあわてなくていいんだなと思って」
「そーゆう問題?」
半眼で、クリーオウ。それを見ながらオーフェンは、静かに腕組みした。
「......いや、まあこの程度のバケモノならな」
つぶやくと、意味が分からなかったのか、クリーオウが怪 訝 そうに視線を返してくる。
腕組みをして、オーフェンは告げた。
「真の恐 怖 と混乱はだ、ぐろげちょなものがいきなり飛び出してきたから起こるってもんじゃない」
「............?」
「一見まともそうに見えながら、実は信じがたいわがままだったりじゃじゃ馬だったりすることによって引き起こされるんだ」
「どういう意味よっ!」
クリーオウが叫ぶが、説明する気にもならない。オーフェンはあきらめの吐 息 をつくと、再び建物のほうへと進みはじめた。建物の屋根からは尖 塔 のようなものが突き出して、月に向かって拳 を突き上げているようにも見える。
「それに、危ないトコを助けて謝礼プランは、まだ消失していないぞ。なるたけ敵が減ってから着くように、ゆっくり行こう」
「しかも、せこーいっ!」
声をあげながらも、ちゃんとついてきている。それもゆっくりと。
「......でもまた結局、巻き込まれちゃいましたね」
マジクがつぶやいてくる。彼のほうに顔を向け、沈 痛 な面 持 ちでオーフェンは答えた。
「......このメンツで平 穏 な人生を歩もうと考えたこと自体が馬鹿だったのかもしれんな」
──その程度ですまされてしまうあたりが、やっかいごとに慣 れきってしまった人間たちの、少し悲しい現実なのかもしれなかった。
◆◇◆◇◆
建物の屋根には、一棟、さほど高くない尖塔が突き出している──月の光を最も浴 びるその塔は、思いの外 明るかった。なにか機能のある塔ではない。ただ建物のデザイン上、なんとなく設計された塔に過ぎない。
塔は無論のこと古びて、傾いている。柱も壁 も、塔は月明かりで照らし出されている。
その塔の上方に、窓が開いていた。が、月の銀光が煌 々 と射 し込むその窓の中で、なにかが蠢 いていたとしても、誰 も気づかない──
ことり──と、青白い指が、傷だらけになった古びた窓 枠 をつかんだ。
窓枠をつかんでいるその手のほかは、部屋の中に引っ込んでいて、月にさらされてはいない。ただ闇 の中で、興 奮 するように蠢いている。
......音も立てずに、それは身じろぎした。
恐 れたのではない──いや、恐れたのかもしれない。騒 ぎの中で、それは目を覚 ましたのだった。
そして、かねて命じられていた通りに、それは活動を開始した。
ぢぎぃぃんっ!
かん高い音が響 く。犬らしきものに剣を噛 み取られ、罵 声 をあげながら男が転倒した。急いで起き上がろうとするその男に、別方向からほかの犬が飛びかかる。絶望的な声で、男が絶 叫 した──
が、その瞬 間 。
「我 は放つ光の白 刃 !」
オーフェンが放った光熱波が、光 芒 の矢のごとくその犬を撃 ち抜いた。さっきのと同じ、羽根の生 えた大型犬である。眼球がなかば飛び出し、奇怪な形 相 となっている。が、射 抜 かれればそれだけのことだった。衝 撃 に吹き飛んで、力なく地面に落ちる。
ごうっ──と燃え上がった仲間に、もう一頭の犬がうなり声をあげる。犬はすぐさま標的をこちらへと変更すると、けたたましく咆 哮 をあげ、突進してきた。その真正面から、オーフェンは叫 び返した。
「我導 くは死呼ぶ椋 鳥 !」
指し示した指の先から、真正面の犬に向かって、破 壊 振動波が収 束 していった。不可聴の音に、鼓 膜 がかゆくなる。犬は突進の途中で突然身をすくませると、ぎゃんっと一声叫んで、そのままその場に倒れた。同時に、その身体 中の皮 膚 が細かく裂 けて、鮮 血 を噴 き出させる。
地面をのたうちまわる犬に駆 け寄り、オーフェンは思い切りかかとを打ち下ろした。頑 強 なブーツが犬の頭を捉 え、そして沈 黙 させる。動かなくなった犬の口 蓋 から、どす黒い液体がだらりとこぼれた。
と、ちょこまかと後ろからついてきていたクリーオウが、声をあげる。
「......オーフェンて、えぐーい」
抗議するように半眼になっている。それに併 せてというわけでもないがオーフェンも似たような視線を返し、彼女に向かって口をとがらせた。
「どうしろってんだ」
「もっとこー、かわゆく、女の子受けするような倒し方とか研究しなさいよ」
「ないこともないが......」
オーフェンはそれだけつぶやくと、そのまま黙 り込んだ。地面に倒れたまま、呆 気 にとられたようにこちらを見上げている男に、マジクが駆け寄っていく。
「だ、大 丈 夫 ですか?」
と聞かれても、男は呆 然 と口を開けたままだった。落とした剣を拾 うことも忘れ、ぽかんとしている。
荷物を適当にどさどさと置きながら、マジクが続けている。
「ケガとかありません? いったいなにが起こってるんです? ぼくらも困ってるんですけど助けたからお礼とかくれます? それにしてもこんなことには関 わり合いにならないほうがいいと思いません?」
「言ってることに全っ然一 貫 性 がないわよ、マジク」
「どれも本 音 なんだぁぁっ!」
律 儀 に指摘してくるクリーオウに、マジクは男を介 抱 する姿勢のまま、頭を抱えてひとりで叫んだ。
と──
男が、ようやく声をあげた。大きく口を開けて、こちらの背後を指さし、
「あああああああっ⁉ 」
せりふとしては意味などまったくなかったが、その声 音 が暗示するところは容 易 に知れた。オーフェンは素早く身構えながら、男の指さすほうへと向き直った。例の犬が三頭、こちらを目がけて直進してきている。その犬たちの後方には、既 に事切れているらしい男の身体 が一体、地面に転がされていた。
いつものように右手を振り上げようとしている横から、クリーオウが念押ししてくる。
「オーフェン、可愛 くよ!」
「おう!」
応 えてから息を吸い、構成を編 んで放つ──
「我は放つ光の白刃っ♥」
強 引 に闇 を引き裂く閃 光 が、荒れ狂う焦 熱 と化して、三頭の標的を一瞬に黒こげにする......
「............」
消し炭 になって動かなくなった標的をぼんやりと眺 めながら、クリーオウがぽつりとつぶやく。
「ひょっとして......今の『♥』だけ?」
ふう、と額 の汗をぬぐいながら、オーフェンは重々しくうなずいた。
「危険な試 みだったぜ」
「オーフェンて、その程度だったの⁉ 」
「やかましい! ンなもん、考えるまでもなく無理に決まってんだろーがっ!」
「なに馬 鹿 なこと言い合ってるんですか!」
怒 鳴 ったのは、マジクである──見ると彼は、あたりを適当に指し示して、
「まだまだ変なのがうようよしてるんですよ⁉ のんきなことやってる場合じゃ──」
犬の群は、こちらを囲みはしないものの、見回せば無数にたむろしているようだった。周囲はいくつもの人間の身体が転がっている──男の仲間だろう。だがどれも地面に倒れ、事切れているようだった。建物にはまだ距 離 がある──現地点から残り五十メートルほどか──のだが、犬たちはその建物の中からぞろぞろと出てきていた。
だがそんなことは無視して、オーフェンとクリーオウは言い合いを続けた。
「だいたいオーフェンの殴 り方がいやらしいのよね。なんていうか〝どすっ〟て感じで。〝ぽか〟とかいけない?」
「〝ぽか〟で倒せる相手ならそーするわい。だが俺 が先生から習った戦い方は、基本的に『こかして踏 みつける』なんだからな」
「聞いてくださいよぉぉぉっ!」
マジクが悲 鳴 をあげる。
と──
「お、お前ら......!」
聞き慣 れない声にそちらを向くと、例の男が起き上がっている。震 え声で彼は続けた。
「いきなり、なんなんだ? 何者だ? 助けてくれたのか?」
「そうよ」
最後の問いにだけ、クリーオウが答える。鷹 揚 にうなずいてみせた少女に、男はかえって不信が芽 生 えたようだったが、なんにでもすがる気になっているのか、そのまま続けてきた。
「そ、そうなのか? なら、ありがたい──その、頼 みがあるんだ」
「助けろってんだろ? まあ......幸いとは言えないが、あんた以外には生存者は、もういないからな」
オーフェンはあっさり言うと、周囲を見回した。犬たちは死体を食うのか、倒れた者をも執 拗 に攻撃している。だがいずれそれに飽 きたら、いっせいにこちらへと押し寄せてくるだろう。
「あんたひとりなら、連れ出すのはなんとかなる。まだ包 囲 されてないしな」
と彼は、やってきたほうに向き直りかけた。が──その腕をつかんで、男が引き留める。
「いや、待ってくれ! そうじゃないんだ」
「あん?」
オーフェンは声をあげて、振り返った。
「そうじゃねえって──もたもたしてっと、俺らも死人の仲間入りだぞ」
だが男は、必死の形 相 で訴 えてきた。荒い息を何度もつきながら、傷だらけの腕を建物のほうに向ける。
「お、俺は──どうでもいいんだ。あんた、魔 術 士 なんだな? なら、お頭 を──お頭を助け出してくれ!」
「お頭?」
オーフェンはぽつりと聞き返した。が──相手がなにかを答えてくるよりも先に、はっと気づいて口早に囁 く。
「お前ら、盗 賊 団 かなにかか⁉ 」
「違う!」
男は、即 座 にかぶりを振った。落ちた剣を拾 い、うめく。
「違う......俺たちは、盗 掘 に......」
「と──」
絶句してオーフェンは、顔をひきつらせた。
「盗掘だと⁉ くそ、やっかいな......」
「オーフェン?」
不 思 議 そうに、クリーオウが問いかけてくる。オーフェンはちらりと彼女のほうを見やると、頭をかいた。
「......まあいいさ。俺には関係ない。で、お頭を助けろって言ってたな」
「あ、ああ──そうだ。頼 む......」
男がつぶやいた、その瞬間──
ばさっ、という音とともに、頭上に影が落ちる。見上げると、月を背後に例の犬が一頭、羽根を広げてこちらへと滑 空 してきている。
「やっぱ飛ぶのか、おいっ!」
オーフェンは叫びながら、男を突き飛ばした。そうして自分も後ろに飛び退 く。その目の前に、犬は降りてきた。自由落下にも近いかなりのスピードで、地面に降りると同時、弾 けるようにこちらへと飛びかかってくる。
(迎 撃 できないっ!)
オーフェンはとっさに判断すると、両腕で顔を覆 った。犬の動きが一瞬でも止まれば、魔術で撃ち抜くことができる──つまり、一撃で絶命させられさえしなければいい。その一撃を加えられる覚 悟 を決めながら、待つ。ほんの一瞬間。犬はもう既 に眼前まで迫 ってきていた。
がっ──! と、弾 かれる。思いもよらない力でガードの上から突き倒され、オーフェンはそのまま地面に背中を打った。だが、倒れながら魔術の構成は編み上がっている。
「我は射つ光 靂 の魔弾!」
同時に、左手を差し上げている。だが、手のひらに生まれた光弾は標的を見つけられず、そのまま霧 散 した──オーフェンはぎょっとしながら、なにもいない夜空を見上げていた。一瞬前に腕に飛びついてきた犬が、いたはずなのだ。
(まさか......⁉ )
オーフェンは急いで立ち上がった。そして──
「ぎゃああああああっ!」
悲鳴があがる。
突き飛ばして逃がした男の上に、犬が覆い被 さっていた──犬は自 ら壊 れそうなほどの勢いで、その目玉のはみ出した頭部を振り回している。犬の頭が男の身体 に触れるたび、血煙が舞った。食いちぎって......いるのだ。
(俺を突き倒して、その反動で向こうに飛んでいたのか......!)
ほんのひと呼吸後には──男の悲鳴が、止まる。
「くそっ!」
オーフェンがうめいて、駆 け寄ろうとすると──犬はすぐさま反応して、男の上から飛び退いた。地面に降り、こちらをにらみつけ、犬はなにかを確認するように目玉をぎょろつかせた。そしていきなり──あさってのほうを向く。
「............?」
わけが分からず、オーフェンは戸 惑 って立ち止まった。犬の視線をたどると、そこにはクリーオウが立っている。少女は血を見て硬 直 しているのか、身動きも取れずに棒立ちになっていた。
犬が咆 哮 した。跳 躍 して、彼女に襲 いかかろうとする──
そして、真っ白な炎 に包まれ、そのまま蒸 発 した。見るとクリーオウの頭の上で、黒い子犬が緑色の双 眸 を見開いている。
なぜかクリーオウになついているこの子犬は、実をいえば尋 常 な生き物ではなかった。大陸でも最も恐れられる眷 属 のひとつ──《フェンリルの森》の奥地にあるというドラゴンの聖域を守護する、戦士の種族の赤ん坊なのである。一 般 的には深淵の森狼 と呼ばれる、最強の魔術を用 いるドラゴン種族。精神世界を絶対的な強さで操 る、暗黒魔術の使い手たる種族。確かにその魔術でならば、この程度の犬の怪物、ものの数ではない。

「あ......ありがと」
と、クリーオウが頭上の子ドラゴンを撫 でてやるのを見ながら、オーフェンは男のほうへと駆け寄った。いっしょに近づこうとしていたクリーオウやマジクに、近寄るなと手振りで制してから、ずたずたになった男の顔をのぞき込む。
鼻も頬 骨 も、眼球すらも残っていない。正視に耐 える状態ではなかった。もはや魔術の治 癒 も通じない状態で、手の施 しようがない。
消え入りそうな、か細い声で、男がうめくのが聞こえた。周囲の犬たちの吠 え声や、別の悲鳴などで聞き取りづらいが。
「お頭 ......は......この、劇場に目をつけ......て......」
「劇場?」
オーフェンは聞き返しながら、尖 塔 のそびえる巨大な建物を見上げた。男が続ける。
「ここ......は、二百年前に、建てられた......カミスンダ......劇場。秘密......が、ある。お頭は......それを知って、仲間を......三人と、新入りふたりを......引き連れて、建物に入っ......ていった。ごぶっ!」
と、血で喉 を詰まらせる。取り除 いてやりたいが、それをするとますます出血がひどくなりそうな感じではあった。
「俺......たちは、ここでお頭を待つ......はずだった。だが......しばらくしたら......建物の......中から、この......化け物どもが......それで、みんな......死んで──」
そこまでうめいて、男の声は、急に小さくなった。そして、そのまま──
生存者がゼロになったことだけは、はっきりと知れた。いや、そのお頭とやらが生きていれば、ゼロではなかろうが。
「......分かった」
もはや聞いてはいない軀 に向かって、オーフェンはうなずいた。顔を上げて、遠巻きにしているクリーオウたちを見やる。
「お前らは──」
と、彼が言いかけると、死体のほうはなるたけ見ないように顔を背 けながら、クリーオウはさっと口をはさんできた。
「先にどっかに逃げてたりはしないわよ。いつも言ってるけど」
「それに」
マジクも続けて、言ってくる。少し青ざめて──そして、あたりを見やって。
「もう既 に、遅いです......」
「なに?」
オーフェンは声をあげて、あたりを見回した。絶句して、後 退 りする。
「いつの間に......?」
戦 いて声に出したのは、驚 愕 というよりは絶望感のほうが大きかった。さっきまでは死体を襲 っていた無数の犬たちが、まったく気づかないうちにこちらを包 囲 していたのだ。
数十頭はいるだろうか。闇 の中に眼光が輝 いていた。十メートルほど離れて、こちらの退路のすべてを絶っている。うなり声をあげながら前 脚 で地面を引っかいているものもいた。扇 形の包囲──逃げ道は、逃げ道と呼べるとすればだが、建物の入り口だけである。
建物──カミスンダ劇場とか呼んでいたが──の入り口からは、もう犬は出てきていない。扉 の開け放たれた、虚 ろな黒い入り口は、渦 の中心のようにこちらを誘 っていた。
「突破します、か?」
マジクが問いかけてくる。が、オーフェンはかぶりを振った。
「数が多すぎる──し、走って逃げてもどこまで息が続くか知れたもんだ。空すら飛べるような犬の足から逃げられるもんじゃねえさ」
「じ、じゃあ、どうするの?」
と、これはクリーオウ。オーフェンはしぶしぶ、建物のほうにあごをしゃくった。
「あそこに立てこもる。ほかにない......」
「でも、この怪物たち、あそこから出てきたんですよ⁉ 」
半泣きになって叫ぶマジクに、オーフェンは嘆 息 して言い切った。
「今はもう出てきてない。打ち留めに賭 けるしかねえな」
「そんな──」
「行くぞ!」
オーフェンは叫ぶと身をひるがえし、劇場のほうへと駆 け出した。クリーオウも、マジクもついてくる。ただなぜか──犬たちは、追いかけてはこないようだったが。
だがいつ気まぐれで襲いかかってくるとも知れない。全力で走ったおかげか、十秒ほどで入り口までたどり着いた。劇場といったところで広々としたホールがあるわけでもなく、大きめのアパートといった感じだった。入り口もせまく、両開きの扉が一枚ずつ左右にあるだけ。建物の中は明かりもなく暗闇が支配していたが、犬の予備隊が待機しているという気 配 はなかった。それを確かめてからマジクとクリーオウを先に入れ──そして最後にオーフェンも建物へと飛び込む。
そして扉を、思い切り閉じた。ばたぁぁ......ん、という音とともに、多少は射 し込んできていた月明かりさえもが閉ざされ、まったくの闇と化す。
外から見たときにはもちろん、建物に窓はあった──が、内側からふさいででもあるのか、真っ暗である。
「た......助かったんですか?」
はあはあと息を弾 ませながら、マジクが聞いてくる。暗闇で相手の顔も見えなかったが、オーフェンは適当に見当をつけてそちらを向くと、
「いや。まだ、外から扉に食いついてくるかもしんねえし、油断はできないな」
答えてから、手のひらを上に向ける。
「我 は生む小さき精 霊 ......」
と、その手のひらから、ぽうっと小さな音を立てて青白い鬼 火 が現れる。たいした光量があるわけではないが──その光は、建物の中を照らし出した。
劇場といったものがどういうものか、オーフェンにはいまいち馴 染 みがなかったが──大都市にあるようなシアターとは、多少 趣 が違う。彼らが立っているのは、入場口の扉のすぐ近くである。扉一枚がかなり大きく、開閉にはそれなりに力が要 る。犬たちが襲 いかかってきていれば、こう簡単には閉じられなかったろう。入ったところは、ロビーのようになっている。
赤いカーペット──ただし、青い光に照らされているせいか、紫 色に変じている。かなり古いもので、黒っぽく変色しているせいもあっただろう。あちこちすり切れて足 跡 だらけだった。まあ、さっきの犬がここから出てきたということは、ここにたむろしていたのだろうから、当たり前と言えば当たり前だが。
ロビーはかなり広く作られていて、左右に二十メートルほど、奥行きはそれより浅く、十四、五メートルほどである。内装はあまり凝 ってはいないが、金はかかっていそうだった。全体的に木造。右手に受付のようなカウンターがある。もちろん今は無人。ロビーから奥には扉も通路もなく、ただ中央に、二階へと続く大きな階段が構えていた。踊 り場 に、その階段をはさむようにして二体の彫 像 が立っている。二の腕から先が翼 になっている女の像と、逆 立 ちした男の像──そちらは頭が雄 牛 になっている。
「あの像......」
には心当たりがあったのだが、そのことを考えるよりも先に、絶 叫 じみた声があがっていた。
「ああーっ!」
驚 愕 の声である──ぎょっとしながらオーフェンは、声の主 、クリーオウのほうに向き直っていた。少女は金髪を逆 立 たせるようにしながら、マジクを凝 視 している。
「な──なに?」
不安そうな声を、マジクが返す。と、クリーオウは少年をびしと指さして続けた。
「わたしの荷物、持ってきてくれてないじゃない!」
「そ、そんなぁ」
うろたえて、マジクはうめいた。両手を広げて、言い訳 を始める。
「あの騒 ぎで......あんな大荷物、抱えて走れないよ」
「ならせめて、わたしの剣くらい持ってきてくれてもよかったのに!」
「......できればそれだけは永遠に置き忘れて欲しいと願うが」
横からオーフェンは口をはさんでみたが、彼女は聞く耳ないようだった。少年の首根っこをつかまえて、きんきん騒いでいる。
「あんなヘンな犬の真ん中に荷物置いてきちゃって! 今ごろどっかに持ってかれて埋 められちゃったりしてるわよ! 犬ってそーゆうことするんだから!」
「そ、そーゆう問題じゃないと思うけど......」
力なくマジクが抗弁するのだが、そもそもそんなことが通用した試 しはない。彼女はわめきながら、マジクの頭をぶんぶんと振り回しはじめた。

「せっかくティッシに拾 ってきてもらったのに! 今度なくなってたら、あんたに探してもらうからね! だいたいあれはお父様の形見みたいなもんなんだから──」
そんな大事なものなら自分で持っていればいいのだろうが、どのみちオーフェンにとってはどうでもいいことだった。騒いでいる彼女を他人事の顔で(自分に矛 先 が向いていないので)眺 めやりながら、ふと彼女の頭の上の子ドラゴンが、すっくと立ち上がっているのに気づく。
レキはぴんとしっぽを伸ばして──踊り場のほうを見上げていた。澄 んだ美しい瞳 。大陸最強の種族の証 である緑色の双 眸 に映っているのは......見えるわけではないが、分かる。二体の彫像だった。
オーフェンもそれにならって、彫像に視線を移した。無論、自然に在 るような生物の姿ではない。だか、その二体が表しているものがなにかを、オーフェンは知っていた。
(あれは......じゃあ、ここは──そうか。カミスンダ劇場! なんで気づかなかったんだ? 二百年前に、王も招かれたという──)
「分かった!」
ピンときて叫びながら、オーフェンは振り返った。クリーオウに首を絞められ、白目を剥 いてだらんと手を伸ばしているマジクに向かって──
............
「おい......」
しばし硬 直 してから、オーフェンは、拳 を震 わせた。
「なんでいきなり気絶してるんだ?」
「へ?」
聞き返してきたのは、クリーオウである──言われて初めて気づいたとでもいうように、目をぱちくりとさせて、再びマジクの顔をのぞき込む。
マジクは意識もなく、首をのけぞらせてぐったりとしている。
クリーオウはそれを、がくがくと振り回しはじめた。
「そーよ! 肘 のとがったとこで四回こづかれたくらいで擱 坐 するなんて、そんな柔 らかいことでどーするの⁉ 」
「お前に言っとるんだ、俺はっ!」
オーフェンは叫びながら、クリーオウに近寄ると、その鼻先にびしと指を突きつけた。
「ええっ⁉ 」
と、彼女が困り果てた顔を見せる。ごとん、とマジクの頭を落っことしてから、フォローのつもりかあわてて拾 う。
「だってだって、マジクったらひどいじゃない。せめてわたしの剣くらいは持ってきてくれても良さそーなもんなのに」
「なにが良さそうなんだ、そんなもん」
言って、クリーオウの手からマジクを引き剥 がす。少年を床 に寝かせながら、オーフェンは、深々と嘆息した。
「あのなあ、お前......前々から言おうと思ってたんだが、どーしてそう乱暴なんだ?」
「どこも乱暴なんかじゃないわよ」
しれっとした顔で、クリーオウは答えてくる。オーフェンはしばし瞑 目 し──文字通り瞑目してしまおうかとも迷ったが──息を吐 いて、立ち上がった。
「いいか、あのな。別に女だからとは言わないが、人は他人に対して優しくできなければ半人前だぞ」
「......全然説得力ないわよ、オーフェン」
「うるさいな。要するに手本ってものがあればいいんだよな。俺の姉さんたちなんて、若い頃──」
言いかけて、オーフェンはいきなり動きを止めた。いろいろと──思い出して、言いたかったことががらがらと崩 れていく。
しばし迷い──オーフェンは、ぽんと手を打った。
「そーか。お前って意外とおとなしいのかもしれないな」
「......一体どーゆう思い出と比較されたのか、すっごく聞きたいけど、今の雰 囲 気 を壊 したくないから聞かないでおくわね」
少し青ざめて、クリーオウがつぶやく。
「おう」
オーフェンはあっさりとうなずくと、寝かせているマジクの顔に、ぱたぱたと手で風を送ってやった。
思い出は忘れておきたかったので実はありがたかった。まあ、そこはかとなく、結局なんの解決にもならなかったような気もしていたが、よくよく考えてみれば、それこそだからどうだというものでもない。
「それにしてもオーフェン、さっきなにを言いかけてたの?」
倒れているマジクの横にちょこんとかがみ込んで、クリーオウが聞いてくる。位置が低くなったので──踊り場を見上げていたレキはさらに頭を上げなければならなくなって、そのまま仰 向 けに転んで床に落下した。
それを見ながら、答える。
「......この建物のことだよ。ここはカミスンダ劇場なんだ」
「それは、さっきの人が言ってたじゃない」
「そうじゃないんだよ。忘れてたんだ──お前も、歴史の時間かなんかに習わなかったのか?」
オーフェンはそう言って、階段の踊り場のほうに手を振った。鬼火の光で、奇 妙 なほど幻 想 的に、うすぼんやりと照らし出されている二体の彫 像 ......
「あれだよ。あの彫像だ。天使と悪魔の一 対 。名前は、スウェーデンボリーの天使と、スウェーデンボリーの悪魔」
「......なにそれ」
「いや、だから──めんどくせえな。キエサルヒマ史以前の神話だよ。ドラゴン種族が、神々から魔法の秘義を盗み出したって話はしただろう?」
「ええ。覚えてるわよ」
クリーオウはうなずきながら、レキをていねいに拾い上げ、胸に抱いた。
その子ドラゴンを──まさしく当のドラゴン種族であるそれを指さしながら、オーフェンは続けた。
「だが、そいつら──ドラゴン種族らに秘義を盗まれなかった神ってのがいてね。それが万 物 の覇 王 、その名もスウェーデンボリーってわけだ。彼はほかの神々に戦いを仕掛け、自 らが唯 一 神 として君 臨 しようと画 策 し、魔王と呼ばれるようになったのさ。魔王スウェーデンボリーとな」
「へえ」
と、彼女はあまり興 味 なさそうに相づちを打った。
「......で、それがどうかしたの?」
「その魔王スウェーデンボリーが従えたのが、スウェーデンボリーの天使と悪魔なんだよ。分かるか?」
「そりゃ、名前がついてるくらいだもんね」
言いながらクリーオウは、暇 つぶしにレキの耳の中に軽く息を吹き込んだ。びっくりしたように、ぎょっと後 退 りするレキをにっこりと見やって、また抱きしめる。
「分かってねえな」
オーフェンは情けなく思いながらため息をついた。
「国教たるキムラック教会は、この魔王の名前を忌 諱 している」
「......忌諱?」
意味が分からなかったのか、クリーオウが聞き返してきた。咳 払いして、言い直す。
「だから、危険視というか、タブー視というか。とにかく嫌 ってんだよ」
彼女はふてくされるように言ってきた。
「なら、最初からそう言えばいいのに。教科書に書いてあったことそのまま言ってるんでしょ、実は」
「うるせえな、いちいち」
オーフェンはごまかしつつ──実際図 星 だったが──、
「つまり彼らが崇 める運命の三女神をも滅 ぼそうとしている、神々の覇王なんだよ、魔王ってのは。教会より禁 忌 とされたこの魔王の配下たちを象 徴 した像なんて、作っただけで連中からクレームがつくんだ。だが大陸で唯 一 、ここだけは、それがある──ものすごく有名な話だぞ」
「知らないわよ」
しごくあっさりと、クリーオウがかぶりを振る。
「歴史は、貴族たちが最後の王様を八重殺の刑に処してさらし首にしたところしか覚えてないもの。あ、あと、アーバンラマの十三代目の自治長かなにかが、毎週日曜日に夫婦で牛の内臓の投げっこをする変質者で、その現場を息子に見られて自害しちゃったんだって習ったけど、オーフェン知ってた?」
「なんかお前んトコの歴史の教師って、妙 な側にかたよってねえか......?」
半眼になってうめき、オーフェンは続けた。
「まあ知らないなら知らないでもいいが、このカミスンダ劇場ってのは、二百年前に建築された歴史的な建築物なんだ。かの有名な戯 曲 【魔王】が公演されたところなんだよ。当時の王も、ここに招かれたんだ」
──と、立ち上がってまた踊り場を見上げる。恐らくその当時から同じ場所に立っていたであろうその天使と悪魔は、無表情にロビーの入り口を見つめている。つまり、こちらをだ。
「でも、今はさびれちゃったのね。犬の棲 処 になってるなんて」
レキをかまいながら、適当にクリーオウが言ってくる。オーフェンは髪をかき上げながら、軽くうなずいた。
「そうだな......って、別にあの犬の棲処ってことはねえだろうけど。王が招かれた日が最後の公演だったんだ。なぜか王ははなはだしく不快を感じたらしく──この劇場の関係者の処刑、そして劇場の取り壊 しを命じた」
と、さすがにそれを聞いて不自然さを感じたか、クリーオウが顔を上げてくる。彼女の怪 訝 そうな眼 差 しを見つめかえして、オーフェンはにやりとした。
そして、自分も腑 に落ちない思いで、続ける。
「そう──取り壊されて、もう地上には存在していないはずなんだ。この、カミスンダ劇場は......」
マジクが目を覚ましたのは、数分ほど経 ってからだった。
「......こんな不 気 味 なところを探 索 するんですか?」
踊り場に続く階段を上りながら、マジクが恐 々 と声をあげる──オーフェンは先に階段を上りながら、肩越しに振り返った。
「そのお頭 とやらがここにいるんなら、探してやらんと寝覚めが悪いだろ」
「そ、そりゃそうですけど」
もごもごと口の中で、マジクがうめく。横を歩いているクリーオウが、レキを頭の上に乗せながら口をはさんできた。
「でも、その人探し出したところで、そのあとどうするの? 外、あの犬が囲んじゃってるわよ」
「そいつはまあ、確かに懸 案 なんだが......」
踊り場に着いて、オーフェンは足を止めた。ジャケットの中にあるナイフを確かめながら、続ける。
「脱出の時になったら考えるさ。それにあのバケモンがこの劇場から出てきたってんなら、ここを探せば弱点でも見つかるかもしれんし」
「レキに転移を頼めないの? クリーオウ」
なかば落ち込んでいるような口調で、マジクが提案する。が、クリーオウはあっさりと肩をすくめてかぶりを振った。
「無理。だいたい、どうやって頼 んでいいんだか分かんないもの」
結局のところ──このディープ・ドラゴンの子供はなぜかクリーオウの命令を聞いてはくれるが、それが彼女の意 図 から多少ずれているということがままあった。さらには空間転移のような複雑な魔 術 の構成を編んでくれということを、どうやって表現すればいいのか、今度はクリーオウのほうが理解できない。
それならばまだ、「そこらに見えるヘンな犬を全部焼き払え」とでも命令したほうが望みはあるが、あれだけの数がいるとさすがに危険な賭 はできなかった。
「自分でなんとかするしかないってことよね」
嘆息まじりに、クリーオウがつぶやく。
その頃には三人とも、踊り場まで上りついていた。左右に例の、天使と悪魔の彫 像 ──その台座に、プレートがはめ込んである。
「......王家から下 賜 された品だな。この劇場が建てられた時に」
プレートを読みながら、オーフェンはふたりに説明した。
「王家の印がついている──だから、当時のキムラック教会も、この像についてうるさいことが言えなかったんだ。今もそうだが、キムラック教会は貴族連 盟 に取り入ることで国教の地位を手に入れたもんだから」
「......へえ」
まるっきり社会科見学の体 で、クリーオウとマジクがうなずく。オーフェンはプレートから目を離し、続けた。
「魔術士同盟も、それを歓 迎 したんだ。つまるところ、貴族連盟も魔術士同盟も、様々な理由からそれまでの主流だったドラゴン信 仰 を危険視するようになっていた。キムラック教会を台 頭 させることが生命線だったんだ」
「......ドラゴン信仰を危険視って、どういうことですか?」
訝 るように、マジクが聞いてくる。ぴっと指を立て、オーフェンは解説を始めた──もっとも、これも教科書の暗 唱 だが。
「魔術士にとっては、言うまでもない──魔術士狩りの脅 威 があったからさ。天人が地上から姿を消したのが二百年前。だが天人にたきつけられたドラゴン信仰者たちは、あくまで自分たちだけでも魔術士をこの世から根 絶 しようとしていた。貴族連盟にとっては......彼らは天人に地上にいて欲しくはなかったんだ。大陸の遺 跡 の所有権に関することとか......それに、彼女らこそが本来の大陸の支配者だったわけだからな。天人種族が生きている限り、貴族たちの支配権は正当化されない。彼女らがまだ大陸のどこかで生きていると信じているドラゴン信仰者は邪 魔 だったのさ」
「それで、キムラック教会ですか......」
「まあ、そういうことだ。もっとも魔術士同盟にとっちゃ、そのあとすぐにキムラック教会までもが魔術士の全処刑を宣言したわけだから、あまり意味はなかったんだが」
オーファンは軽く言ったが、じっと聞いていたクリーオウは、どうも釈 然 としないようだった。拗 ねるように口をとがらせて、つぶやく。
「お互いに利用しようとしていたわけね。なんだかずるいわ」
「そいつは否定しねえが......あの当時はそうでもしなけりゃ、どうしようもなかったんだよ。まだ人間の社会にとっては、黎 明 期のさらに初期だ。魔術士同盟も貴族連盟もキムラック教会も、まだまだ自分たちだけでその組織力を維 持 できる段階じゃなかった。」
「う〜ん......」
なおも納 得 できない様 子 ではあったが、仕方ない。オーフェンはぽんと彼女の頭の上のレキをたたくと、踊り場の奥を指さした。
「ま、ひけらかしはここまでだ。奥に進むぞ」
踊り場の奥には、やはり両開きの扉 が構えている。オーフェンはすたすたと近寄ると、軽くノブを確かめてみた。鍵 はかかっていない。
「開けるから、ちと退 がってろよ」
オーフェンは言うと、手振りでふたりを後ろに退がらせた。ノブを回し──そして、一気にこちらにひっぱり開ける。
扉が開くと同時、オーフェンは飛び退 きながら鬼 火 を扉の向こうに移動させた。真っ暗だった向こう側が、ぱっと照らされる。その明かりの下にあったのは......
オーフェンはあわてて扉を閉めた。鬼火が閉め出され、こちら側が闇 に閉ざされる。が、しばらくすると扉の間から、するっと鬼火が通り抜けてきた。再びあたりが明るくなる。
ちらっ......と恐る恐る、オーフェンは振り向いた。と、予想通り、クリーオウとマジクが、目を丸くして棒立ちになっている。クリーオウは涙目にすらなっていた。目が合った瞬 間 、少女の小柄な身体 が、がたがたと震 えはじめる。
「きゃああああああっ!」
信じられない声量で、彼女はわめきはじめた──
「オーフェン! 今! そこ! しっ──死体が落っこちてたぁぁぁっ!」
「やかましいいいいっ!」
抵抗するように、オーフェンも怒 鳴 り声をあげた。パニックに陥 ってその場にうずくまる少女の肩を、強くつかむ。
「死体なら、外にも山ほど転がってたろーがっ!」
「だってだって外は暗かったし死体だかなんだかよく分かんなかったんだもんきゃああああああああっ!」
「落ち着け! とにかく!」
水でもかけなければ収まりそうになかったが、オーフェンは取りあえず彼女の肩を乱暴に揺さぶった。かたわらに立っていたマジクがかがみ込んでくるのを見て、声をかける。
「おう。お前も、なんとかなだめてやっておわぁぁぁっ!? 」
オーフェンの言 葉 は途中で悲鳴に化けた。マジクは無言で静かにその場に座 り──ひとりで嘔 吐 している。
「いきなりなんなんだよ、お前は! 吐 くなら隅 っことかに行けよ!」
まだなお悲鳴やら奇声やらをあげているクリーオウの背中を撫 でてやりながら、オーフェンは自分も狂乱しそうになりつつ、声をあげた。レキもびっくりしたように後 退 りしている。
マジクは少し顔をあげると、真っ青になってうめいた。しゃがれ声で。
「そんなこと言ったってお師様......あんなえぐいもの見せられたら......」
「ああもう。俺だって吐きたいわい」
オーフェンは毒づくと、クリーオウをなだめるのはあきらめた。立ち上がり、再び扉 のほうに向き直る。
「取りあえず......俺は向こうに入って、なんつうか......現場検証してくるから、クリーオウの機 嫌 を直してやってくれ」
「はひ......」
文句を言う気力もないのか、力なくマジクがうなずいた。くるりと背を向け、歩き出す。
「明かりは向こうに持ってっちまうから、お前、自分で用意しろよ。俺がいいと言うまで、この場を動いたりはするな」
「分かってます......」
マジクの返事を聞きながらオーフェンは再び扉のノブをつかんだ。今度は細く開けて、滑 り込むように入る。クリーオウのパニックをエスカレートさせるのは避けたかった。
「クリーオウ、大 丈 夫 ?」
「いやあああああっ⁉ なんか酸 っぱい臭 いがするぅぅぅっ!」
そんな叫びを聞きながら、オーフェンは扉の隙 間 をくぐり抜けた。
数分後、彼はロビーの踊り場にもどった。
げんなりとしながら──扉を開ける。顔だけ入れると、クリーオウもマジクも、踊り場の隅 にちょこんと座っている。どういう神経をしているのだか、もう案外けろっとしている様子だった。
「終わったんですか?」
と、マジクが聞いてくる。オーフェンは無言でうなずくと、ちらとクリーオウのほうを見やった。もう大 丈 夫 そうだと判断し、来るように合図する。
「もう入ってもいいぞ」
「ホントに?」
ぶつぶつ言いながらも、クリーオウが立ち止まる。マジクもあとに続いてのろのろと立ちながら、疑 わしげにこちらを見た。
「そんなこと言って、言われるままに入っていって、もっとものすごいものがあったりしたら、その場で泣き出しますからね。しばらく泣きやみませんよ」
「そーゆう脅 迫 をするなよ......怖 いから」
うめきながら、ふたりを招き入れる。
ロビーの次は、ホールになっていた。かなり広々としているが、シャンデリアなどの調度があるわけではなく──木造そのままなので当たり前だが──どちらかというと運動場のような内装だった。無数の靴 底 でこすられて、つやつやになった床 板 に、何本もの木材を組み合わせてあるらしい丸柱。あちこちに設 えられた白いベンチ。どうもここは、待合室のように使われるらしかった。
奥にはやはり、両開きの大きな扉と、その手前に下りの階段がある。階段自体も結 構 な幅 があって、手すりなどを見ても手間と費用はかかっていそうだった。
入ってすぐのところ──つまり、さっきまで死体が転がっていたところに、炭 と灰が積もっている。マジクもクリーオウもすぐに気づいたようだった。指さして、聞いてくる。
「あの、お師様、これ......?」
「ああ。焼いた。息はなかったし、見ていられたもんじゃなかったから」
「そうねー......」
しみじみとつぶやきながら、クリーオウがその灰をのぞき込んだ。別に止めないが、オーフェンはそれを見ながら静かに付け加えた。
「......死体はふたり分あった」
「え? もうひとり死んでいたんですか?」
聞き返してくるマジクに、オーフェンはうなずいた。
「あちこちにな」
「......は?」
「ばらばらになってたんだ。集めてみたら、ひとり分になった」
「うっ......」
胃がひきつりでもしたのか、みぞおちあたりを押さえてマジクがうめき声をあげる。
髪をかきむしりながら、オーフェンは息をついた──と、自分の胃の調子を落ち着けるように、唾 を呑 む。
「そっちもいっしょに焼いたよ。で、そのとき気づいたんだが......」
と、彼はホールの壁 を指さした。どの壁でもいいのだが手近なところに右手を向ける。
そして、叫んだ。
「我 は放つ光の白 刃 !」
光熱波が閃 き、壁を直撃する。が──
炎 が収まっても、壁には傷ひとつついていなかった。すすで汚れはしたものの、それだけである。
「?──なにこれ?」
目をぱちくりとさせて、クリーオウがすっとんきょうな声を出す。
オーフェンは腕を引っ込めながら、低い声 音 でつぶやいた。
「壁も床も、傷ひとつつかねえんだ。こんな木造の建物が改修もなしに二百年も建ってるなんて変だとは思ってたんだが、どうも魔術でシールドされているみたいなんだな」
「魔術で?」
「ああ」
とオーフェンは、クリーオウらのほうに向き直った。
「多分、この劇場のどこかに、防 御 のための魔術文字 があるんだろうと思う。何百年もの持続性を持っているのは、天人 の沈黙魔術 だけだからな。だとしたら、この劇場ってのは、天人が造ったものってことになるが......」
「でも、それがどうかしたんですか?」
聞かれてオーフェンは、天 井 を見上げた──鬼火がちらつく、のっぺりとした天井を。しばらく視線をさまよわせ、再びふたりのほうを見る。
「説明すると長くなるが、要は難 しいことじゃない。さっきの男、盗 掘 って言っていたのを覚えているか?」
「ええ。オーフェン、やっかいだって言ってたわよね」
「実際、やっかいなんだ──現在、大陸に存在するすべての遺 跡 は、基本的には貴族連盟の所有になっている。取引の末、公式に魔術士同盟のものになった遺跡もあるし、同盟が隠 匿 しているものも結構あったりするんだが......」
オーフェンは肩をすくめた。
「遺跡ってのは、天人が地上から姿を消す際に残った砦 やらなにやらだよ。アレンハタムの地下にあったバジリコック砦、あれなんか典型だ。天人種族の後継者たることを公言する貴族連盟は、天人の遺 した遺跡、遺産のすべてが自分たちのものであることを大陸法で取り決めた。盗掘屋ってのは、それを無視して遺跡を荒らす連中さ。怖 いのは、これが窃 盗 とか強 盗 とかそんな生 やさしいもんじゃなくて、反逆罪が適用されることだ。王権反逆罪とか言うらしいんだが、その罰則は決して軽くない」
「はあ......」
マジクが、生返事を返してくる。オーフェンは先を続けた。
「だがまあ、ここはしょせん西部だからな──貴族連盟を恐れるのは現実的じゃない。本当に怖いのは、だ......」
と、オーフェンは言葉を止めた。三対 の眼 差 し──レキも含 めて──が、きょとんとこちらを見上げている。彼は、さきほどの光熱波が当たった壁を示した。
「この劇場には天人の魔術が関 わっている可能性がある。そして、ここの秘密を嗅 ぎつけたとかなんとかで、盗掘屋が侵 入 した。ここまでそろえば、答えはひとつだ──この劇場は、天人の遺跡なのさ。二百年前に、恐らく天人が築 いたんだ」
そして、壁を差していた指を引っ込めて、親指で床の──灰を指し示す。
「既 に犠 牲 者 が出ている。これは統計的なもんだが、天人の遺跡の大半には、侵入者を排 除 するガーディアンの類 が設置してある......」
「! じゃあ......」
ようやく気づいたか、マジクが驚 愕 の顔を見せた。クリーオウは、まだよく分からないのか、ぼーっとしているが。
「ああ」
オーフェンはうなずくと、ホールを見回した。虚 ろな広間は、こだまも返さない──
「この劇場の中も、決して安全じゃないってことさ」
静 寂 はむしろ歌うように、その懸 念 を唱 和 していた。
「──ふと、思い出したんだが」
と──声。
「......なにを?」
もひとつ声。
「ここはどこなんだろう」
「そうだね」
「いつの間にか俺 たちだけになったよーだが、新しい兄弟たちはどこに行ったんだ?」
「いきなり襲 撃 されて逃げ出したときにはぐれたみたいだよ」
「うむ。そーいえば覚えがある。お前も、もう少し度 胸 をつける必要があるな」
「ぼくは腰を抜かしてたんだけどね。誰 かが襟 首 を引っぱって連れ去ったみたいなんだよな。その誰かが誰だとは言わないけど」
「そうだな。俺もそれらしき該 当 人物など見てはおらんぞ......それにしても、ここは、劇場なんだよな」
「まあね」
「劇場とゆーのはだ、箱に入った人間をまっぷたつにして歓 声 をあげたり、幼女に布をかぶせてハトに変えるとかいう見せ物に感動したりする、嗜 虐 的かつ退廃的な催 し物を開く場所だったと記憶しているが」
「......なんかいろいろと誤解があるようだけど、まあいいよ、別に」
「しかしだ、舞 台 にならともかく、通路を歩いていたらいきなり穴が開いて、我 々 を落下させるというのはどうだろうな」
「あまり褒 められた風習じゃないと思うね、ぼくも」
「うむ。まあ幸いにも、我々は鋼 の精神力で落下の恐 怖 に耐 え、持ち前の根 性 でケガもなかった」
「......まー、そーかな」
「しかしだ、普通の人間であれば大ケガをしただろうな」
「十メートルは落っこちたからね。ついでに言えば、そういうことを目的にしている穴なんじゃないかと思うけど」
「仮にこの穴めがいかなる姑 息 な計略によって設置されたものであったとしても、それに引っかかるよーな俺ではないが、先にお前が落ちてしまったとあっては、俺も助けにいかないわけにもいかず、あとから落ちたわけだ」
「......ちなみにさっき落ちたとき、兄さんのほうが下 敷 きになってたんだけど、その意味分かるかな」
「うむ。俺のほうが重いのであろうな。途中で追い越してしまったらしい。まあ、そうした数々のお前の失 態 については、もう言うまい」
「......ありがと」
「まーなんにしろ、そのよーなことがあって、我々はここにいるわけなのだが......」
と、ボルカンが剣を片手にあぐらをかいて、周囲を見回す。ただし辺りはかなり暗く、闇にも近いが。彼はそのまま続けた。
「ここはいったい、どーいった部屋であろうな」
「私見では、落とし穴の底、っていう部屋だと思うけどな」
嘆 息 まじりに、ドーチンは答えた──したたかに打った尻 をさすりながら。
ボルカンは、しかし納 得 できないようで、
「だが、ここが落とし穴であれば、あんなところに出口があるのはおかしいだろうが」
そう言って、落とし穴のかなり上方に開いている、格 子 のはまった穴を指さしてみせる。穴の底には、そのほかには穴らしい穴も手がかりらしい手がかりもなく、ただ壁 、壁、壁が四方を囲んでいる。無論、かなりせまい。小 柄 な地 人 ふたりがいるだけで、あまり身動きするスペースも残ってはいなかった。
兄が指さしている穴を見上げて、ドーチンは冷静につぶやいた。
「......ぼくが見たところ、あの穴から水とか出てきて、ふはははは、絶体絶命だな愚 かな侵 入 者 めって、そーゆうもののように思えるんだけど」
「はっはっはっ。馬 鹿 だなぁ、ドーチン」
ボルカンはそれを聞いて朗 らかに笑うと、
「あの穴からちょっとくらい水をひっかけられたからといって、それで絶命するよーな奇特な侵入者などおらんぞ」
「......まあ、水深が二メートル以上になったりしなければね」
「............」
びくり──と、ボルカンが動きを止める。
構造的に、地人というのは水に浮かばない。そういったようにできている。
「ええと......」
脂 汗 など浮 かべながら、棒読み口調でボルカンがつぶやく。
「ひょっとしてと思うのだか、侵入者とゆーのは......」
「これは伝統的な例示だけど、おおむね、落とし穴の底にいて難 儀 しているような人たちのことを言うんじゃないかな」
別に、皮肉で言っているわけではない──自分でも認めたくなかったのだ。
「............」
岩よりも硬 い沈 黙 が、ただ頭の上にのしかかってくる。
やがて、がこん、と機械的な音が穴の中に響 き──
格子の隙 間 から勢いよく水が噴 き出してきたのは、きっかり三秒後のことだった。
◆◇◆◇◆
「......今なんか、水の音が聞こえてこなかった?」
歩きながらクリーオウが、ぽつりとつぶやく。
「気のせいじゃない?」
というのは、マジクの返事だった。不安そうにあたりを見回している。
「気のせいじゃないわよ。床 下のほうから、どどどって聞こえたもの」
「じゃあ、水が流れてるんだよ」
上 の空で答えるマジクに、クリーオウが少しむっとするのが見えたが、少年は気づかないようだった。
あのホールから階段を下りれば、客席に出る──ずらりと並んだ硬そうな座席。現在、歩いているところがそれである。見上げると、左右に貴 賓 席のようなものもあって、ホールの奥の扉 から、そこに続いているようだった。
「にしても、広い劇場だな」
オーフェンは客席を見渡しながら、独 りごちた。外から見たこの建物の大きさから考えても、かなりの広さがある。客席は後列ほど高くなるように傾 斜 していて、座席の向きも中央に向くように、微 妙 に内向きになっている。すべての座席が導 く先に──当たり前だが、舞 台 があるわけだ。
舞台はかなり高く、床から三メートルは上がっている。無論、舞台のすぐ近くには座席はなく、最前列の座席も、一番低い床から二、三メートルは上がったところから始まっている。それで舞台と座席との間に開いたスペースになにが来るのかというと、楽 団 でも入るのだろう。
「二百年ほったらかしにされてたわりには、きれいよね」
突然思いついたように、クリーオウがつぶやく──オーフェンは、ああとうなずいてから答えた。
「多分それも、魔 術 文字の効果なんだろう。風化に耐えるように──って、そもそも二百年ほったらかしにされていたのかどうか、分からねえけどな」
「どういうこと?」
聞いてくるクリーオウに、オーフェンは肩をすくめてみせた。
「記録では取り壊 されたことになっていても──実際には残っていた。これな、心当たりがあるんだ。魔術士同 盟 が貴族連盟に対して遺 跡 を隠 匿 する、典型的な手段なんだよ。つまり、記録上では破 棄 しておいて、その実そのまま置いておく。王都の監視の目が、西部に対しては意外と甘いんでね、こんなこともできるんだ。だから魔術士が、定期的に探 索 しているって可能性はある......とはいえ、本当に価値のある遺跡だったら、俺が知らないわけはないから──」
というより彼の師や、天人の魔術が専門だった姉が知らないわけがない、ということなのだが、そのあたりは適当に省 いた。
「隠匿したものの、たいしたものは発見できなくて放置されていた、ってところじゃないかな」
「普通は、どんなものがあるんですか? 遺跡には」
小声で問う生徒に、オーフェンはにやりとした。
「なんだ。また盗み出すのか? お前」
「だからっ! おー師ーさーまぁーっ!」
両手をわななかせて、マジクが抗弁する。オーフェンは笑いながら、適当に手を振ってやった。
「まあ、砦 だとかいうのならともかく、ただの劇場なら危険なものはそんなにないと思いたいな。と言って、天人の造った魔術の品ってのは、彼女らにとってはただの日用品だとしても、人間にとっちゃ危険きわまりないなんてことがままあるんだが......」
「どんなです?」
「俺が昔、助 っ人 に駆 り出された天人たちの保養寮 なんかじゃ、台所に壊 れた自動調理装置なんてあって大変だったぞ。俺らを材料と勘 違 いしやがんだ。どこまで逃げても追いかけてくるし」
「えぐいですねー......」
「ここにも食べ物があったらいいのに」
空腹を思い出したのか、お腹 に手を当ててクリーオウがつぶやく。
と、その時──
どぉぉぉぉぉんっ──!
爆音が、鳴り響いた。
「なんだ⁉ 」
左右を見回し、オーフェンはうめいた。爆発は、かなり近いようである。
「舞台の向こうみたいだわっ!」
クリーオウが、舞台を指さし口早にささやく。オーフェンは舞台を見やった。
「舞台裏......か?」
と、駆 け出す。
傾 斜 している客席の通路を走り抜け、舞台の方向へと向かう。客席の両端には舞台に上るための階段がついており、三人はそちらへと向かっていった。
ほどなく舞台の上にたどり着いて、左右を見回す。
「舞台袖 から、裏に回れるみたい」
クリーオウが目ざとく、舞台の隅 にある扉 を発見していた。しかもその扉は──半開きになっている。
「行ってみるか」
オーフェンがつぶやいた、その時だった。
かっ──!
短い爆音が響き、今まさに目 指 そうとしていた扉が向こう側から吹き飛ばされた。いや──向こうから吹き飛んできたものに、ぶち開けられたのだ。
扉を吹き飛ばし、舞台の側へと転がり出てきたのは、人間だった。全身火 傷 して、服も黒こげになっている。大柄な男のようだったが、近づかないと分からない。
まだ生きている。が、ほうっておけば死ぬだろう。
「なにが起こったんだ!」
その男に向かって問いかけながら、オーフェンは駆け寄ろうとした。が──
こちらが動き出すよりも早く、壊れた扉を踏み越え、続いて人影が現れる。
いや、人ではない。
身 体 の材質は見ても判別できない。粘 りけのあるガラスがあるとしたら、その光 沢 はよく似ているかもしれなかった。のっぺりとしていた肌 に、関節部分だけが盛り上がるように膨 れた、細い手足。体毛のないその身体を服で覆 ったりはしていない。胸 部 には、肋 骨 を模 しているのか、多少いびつに凹 凸 がうかがえた。頭部は丸い──人間にはあり得ないほど丸い。頭髪はなかった。ただ頭頂部が、えぐれたようにへこんでいる。
似たようなものを見たことはあった。
「人形......!」
オーフェンは愕 然 とその単語を口にして、その場で足を止めた。天人が過去、好んで造ったという人間の模造品である。
人形はゆっくりと、こちらを向いた。
「また、侵入者か」
と、戸口から一歩前進する。決して滑 らかではない動作で、人形は腕をかざしてみせた。
そして、背後から突き飛ばされる。
「やああああっ!」
かけ声とともに、戸口の向こうから人形の背に剣を突き立てたのは、まだ二十代半 ばほどの女だった。突き刺さった剣に押されて、前のめりに人形が倒れる。それをまたいで通り抜けてから、女は剣を引き抜いた。そのまま、倒れたままでいる男のほうに駆け寄っていく。
「フレッディン!」
女は鋭 くその短い単語──恐らくその男の名前だろうが──をささやいた。ぴくりと頭をめぐらせて、ひどい火傷を負っているその男が女のほうを見上げる。
「お......頭 ......」
「意識があるのならいい。しゃべるな」
彼女はそれだけを言うと、剣を構えなおし、人形のほうに向き直った。
黒髪を短くした、どこか生 真 面 目 そうな女である──ただ横顔がそう見えたというだけだが。たっぷりした皮 鎧 を身に着け、剣は軽量のものを隙 なく構えている。頭に布を巻き付けていて、それが覚めるような空色だった。
(彼女が......お頭?)
そう呼ばれたのだからそうなのであろうが、オーフェンは不 思 議 な思いで彼女の姿を見つめた。真剣な彼女の眼 差 しは、起き上がろうとする人形に据 えられている......
と、その顔がいきなりこちらを向いた。
「あんたたち!」
「......へ?」
前 触 れもなく呼びつけられて、オーフェンは間の抜けた声をあげた。彼女は、それがごく自然だとでもいうように続けてくる。
「あれとわたしらを見比べたら、どっちが敵かすぐ分かるだろ! ぼーっとしてないで、とっとと加勢しなよ!」
「な──!」
それを聞いて怒声を返したのは、クリーオウだった。
「なんなのよその態度! なんか知らないけど、あんたたちが泥 棒 なんてしようとしてるから、わたしたちも巻き込まれちゃったんじゃない!」
「最初は謝 礼 目当てだったんでしたよね」
後方から小さくマジクが同意を求めてきたが、オーフェンはあえて無視した。
あっさりと、女が言い返してくる。
「わたしらは泥棒じゃない! 盗 掘 に来たんだ!」
「どっちも同じよ!」
「違う! わたしらは、魔術士が独 占 している利 益 を──」
せりふの途中で、彼女は口をつぐんだ。人形が完全に立ち上がったのだ。
「死んでいなかったか」
淡 々 と、人形がつぶやく。
剣を構えなおし、女は不適な笑みを浮かべてみせた。
「ふん。あのくらいで、このメッチェン様を仕留められたと思って?」
と、大 見 得 を切るのだが──その直後に響 きわたったかん高い罵 声 のせいで、台無しになる。
「なぁによ偉 そうに!」
クリーオウはレキを抱きかかえて、女──メッチェンと名乗ったが、彼女のほうにびしと差し向けた。
「オーフェンも、あんな女ほっといちゃおうよ! 万一 あの女のほうが勝っちゃっても、ちゃんとわたしがとどめ刺したげるから!」
「そういうわけにもいかんだろが」
半眼で見返して、オーフェンは前に出た。
「戦 闘 目的に造られた人形じゃあねえな......なら、なんとかなるだろ」
「見ただけで分かるんですか?」
と、マジク。構えもせずにぼんやりしている。
オーフェンはかぶりを振って、
「分かんねえよ、そんなもん。ただ──殺人人形だったら、ただの盗掘屋相手に一撃で仕留めそこなうなんてことはあり得ねえさ」
それは別に、ただそれだけの意味だったのだが──
聞いて人形が、はっと顔を上げた。細い目で突き刺すようにこちらを観察し、そして声に出す。

「魔術士か......」
それにつられるように、メッチェンとやらもあわててこちらを見る。どうやら、胸の紋 章 には気づいていなかったらしい。
「魔術士だって⁉ 」
だが、それが隙 になった。
突然走り出した人形は、ひどく無 造 作 にメッチェンの身 体 を押しのけた──不意をつかれて、彼女が派 手 に転倒する。人形はそのまま彼女の横を通り過ぎると、彼女の向こうにいた、火 傷 した男──確か、フレッディンと呼ばれた──のもとにまで一気に接近した。
「しまった!」
メッチェンがうめく。オーフェンは腰を落とすと呪 文 を叫びかけた。
「我 は放つ光の白 じ──」
が、刹 那 ──
「待て!」
制止の声に、オーフェンは言 葉 を詰まらせた。メッチェンである。
「フレッディンにも当たる!」
(よほどのヘボじゃあるまいし、当たりゃしねえよ)
胸 中 で毒づくが、いったん集中を壊 されると再構成には数秒かかる。その間に人形は、フレッディンの身体をかつぎ上げていた。
そして、その場で反転すると、かなりのスピードで引き返し、さっきぶち開けた扉 に駆 け込んでいく──
「我は放つ光の白 刃 !」
追いかけるように放ったオーフェンの魔術が、人形の後ろ姿をかすめて戸口のすぐわきをえぐった。爆音が轟 く中、人形は舞 台 裏へ消えていく。
「フレッディン!」
叫びながら、メッチェンが立ち上がった。転んだときに落とした剣を拾 うと、人形が消えた戸口へと、彼女も飛び込んでいく。
「迂 闊 に追うんじゃねえ!」
オーフェンの声は聞こえていないようだった──もしくは、無視したか、彼女が舞台裏に入っていくのを見送って、舌打ちする。
「奴 がなんのために負傷者をさらっていったと思ってるんだ......誘 いをかけてるに決まってんじゃねえか」
「誘いって?」
クリーオウが聞いてくる。オーフェンは気 短 に息をついた。
「罠 だよ。天人の人形が侵入者を殺そうとしてる。さっきの死体も、多分奴のしわざだろ。てこたぁ、造り主の天人に、ここを守れと命令されたってことさ。ここには、なにかあるんだ──隠 すようななにかがな」
「で、でもそれなら──なおさら追いかけないとあの人、危ないですよ!」
もう既 に追いかける体勢になって、マジクが叫んだ。
「分かってるさ」
うめいて、走り出す。戸口のほうへ。
「そうね。あの女がひどい目にあうのをちゃんと見とどけないと、腹の虫がおさまんないもんね」
ぶつぶつとつぶやくクリーオウのせりふが多少気がかりではあったが、ヘソを曲げてここに残るなどと言い出さないだけまだマシかと、ほうっておくことにする。
扉は人形が放ったものであろうさっきの爆発でなくなっているが、その近くの壁 ──オーフェンが魔術を放った場所は、焦 げている程度である。純 粋 に破 壊 力 の違いを、これで知ることができた。
(人形は沈 黙 魔術を使うからな......そいつだけは気をつけねえと)
警 戒 しながら、舞台裏へと足を踏み入れる。
舞台裏はかなり広く、しかも閑 散 としていた。今入ってきた入り口とは別に、舞台裏から舞台装置を表に出すための通路がどこかにあるはずだが、見当たらない──あるいは天人が作ったものならば、簡単に転移させたりしていたのかもしれないが。
その広い舞台裏を、男をひとりかついだ人形が走り去っていく。メッチェンが、そのあとを追っていた。
後ろから狙 撃 したい──が、メッチェンが間に入ってしまって、さすがにできない。
仕方なくただついていきながら、叫ぶ。
「待てって!」
だが彼女は振り向きすらしない。剣を片手に人形を追いかけていく。人形は人形で、人ひとりをかついでいるくせに、それ以上のスピードで逃げていく。
もっとも、舞台裏の奥には出口らしきものはないようだった。このままいけば、いずれ追いつめることができる。
そのせいだろうか、人形は唐 突 に立ち止まって、反転した。さっと──右手をひと振りし、手 刀 の形を作る。フレッディンを左肩にかついだまま、人形は挑 みかかるような笑みを浮かべた。走り寄っていくメッチェンに対して。
「この!」
メッチェンが、声を出すのが聞こえた。走る速度は落とさないまま、小さく剣を振りかぶる。ひと呼吸後には、彼女の剣と人形の手刀とが交 錯 していた。
メッチェンの剣が、横 薙 ぎに人形の胴に──
人形の手刀が、メッチェンの顔面を狙 う。
ぎん! と音を立てて、人形の身 体 にめり込んだ剣が弾 き返された。その反動で、振り込んだ方向とは逆方向に身体を回転させて、メッチェンは人形の横を通り過ぎた。人形の手は、彼女の額 のあたりをかすめて外 れる。
両者とも、一 瞬 相手の姿を見失い──
そして、同時に発見した。だが、間合いが近くなっていて、メッチェンは剣を振れない。
人形が今度は、手刀で彼女の胸元を突こうとする。
(言わんこっちゃない──やられた......⁉ )
オーフェンはほとんど確信して、さらに足を速めた。どのみち間に合いそうにはないが、人形が急所を外しさえすれば、助けるチャンスはある。
が──
動いている最中に胸元を狙われたら。身をかがめるか倒れる以外には避ける術 はない。身をかがめるのはもう既 に間に合わない。仰 向 けに倒れることも、攻撃に出ようと前のめりになっていた彼女には不可能だとオーフェンには見えた。だが彼女は──その体勢からいきなりしりもちをついたのだ。
「────!? 」
思わず、目が点になる──挙動の素早さにも信じられないものがあったが、それ以前に、そんなことをしてしまっては次の動作に移れなくなる。普通、するものではない。だが、本当の驚 きは、それよりあとにあった。
彼女の上半身が下に逃げたので、人形の手刀はまたも空 振 りしていた。だが人形にしてみれば、次の攻撃で仕留めればいいだけのことだった──実際、突き出した右手を引き寄せて、今度は座 り込んでいる彼女の眉 間 を狙おうと振り上げている。
その刹 那 、メッチェンの剣が、下から振り上げる形で人形の胸を裂 いていた。
「な......!」
思わずその場に立ち止まり、オーフェンはうめき声をあげた。床に尻 をつけて座り込んだまま──つまり、下半身の力を一 切 使わずに人形の銅を切り裂くなど、尋 常 な膂 力 でできるものではない。
突然立ち止まったため、その背中にどすんどすんと、マジクとクリーオウがぶつかってくる。三人その場で立ち止まりながら、オーフェンは自分の目を疑っていた。
だが実際に、メッチェンの剣は人形に深手を与えていた──人形が悲 鳴 もあげずに、二歩三歩と後 退 りする。
それを目で追いながら、メッチェンが立ち上がった。剣を改めて構えて、静かに言い添 える。
「甘く見たね。わたしは、あんたみたいなのと戦うのには慣 れてんだよ」
「ほう。だが──」
人形は苦 悶 の表情を浮かべながら、その傷 跡 に手を当てた。
「こういうのは、見たことがあるかな?」
そう言って、滑 らかな動作で──そのほかのぎこちない動きとは裏腹の滑らかさで、指を閃 かせるように動かしはじめる。五本の指を同時に自在に動かして、傷跡の上になにかを描き出す。その指が描いた軌 跡 の通りに、銀色の光があとを追っていた。
「魔 術 文字!」
オーフェンはうめいた。が、遅かった。
もう既 に、人形の魔術文字は完成していた。彼ら人形を造り出したウィールド・ドラゴン=ノルニル──天人が用 いたという古代の魔術、沈黙魔術 の魔術文字 である。その強力さには、人間が扱 える魔術とは比較にならないものがある。
文字は強く輝 いていた。そして、その輝きが消えたとき、人形の身体に開いていた傷も、きれいに消えていた。同時に──
「ぐふっ!? 」
人形がかついでいるフレッディンの身体が、苦 悶 にあえいで痙 攣 する。火 傷 のせいで素顔も分からない彼の身体に、大きな刀傷が開いていた──数秒前まで人形の身体についていたのと、同じ位置に。
そのフレッディンの傷口から噴 き出す鮮血に染 まることなど、まったく意に介していない満足げな顔で、人形が告げてきた。
「普通は、ケガ人の傷を自分に移して救助のために使う文字だがね──反対のことも、やればやれる」
「貴様──」
メッチェンが、激高して声をうわずらせる──
オーフェンは反射的に、駆 け出していた。人形の横を通り抜け、今にも飛びかかろうとしていた彼女の身体にタックルし、押しもどす。
「邪 魔 するなっ!」
暴れる彼女をなんとか押さえつけながら、オーフェンは怒 鳴 りかえした。
「落ち着けって!」
言いながら彼女のわきの下に手を差し入れ、身体を近づけると彼女のふくらはぎのあたりを蹴 りつぶし、その場に転倒させる。それでももがきながら立ち上がろうとする彼女の足をさっと払ってまた転ばせてから、
「剣では勝てない! 分かったろ!? 」
「そんなことはない!」
むきになった必死の声 音 で、彼女は叫んだ。
「奴 を殺す──」
「殺すんじゃない。人形は壊 すのさ」
静かに言いながらオーフェンは、振り返った──人形が、にやにやとこちらを眺 めて待っている。
ふっと笑ったその口元に、言 葉 が浮かんだ。
「わたしには人格を認めないと? わたしは人間ではないのかね」
「ないね。てめえは主命を受 諾 するのみ──てやつだろ」
「そうした人間もいるぞ」
人形は即 座 に、そう言い返してきた。ただし感情もなく涼 やかに。それを聞いて、メッチェンが突然、びくりとするのに気づいたが──オーフェンは気にせず続けた。
「人間は自分を制 御 できたり、できなかったり──そりゃそうさ。いろいろいる」
と、彼は一歩前に出て、人形と対 峙 した。
「てめえらはシンプルだ。他人によって制御されている」
「......それが人間賛歌になったりしないようにというのが、わたしの忠告だよ......」
人形はそう言うなり、再び自分の身体に文字を描きはじめた。かなり複雑な文字で、描くのにも時間がかかるが、オーフェンはじっと見入るようにして、人形の文字の完成を待った。その文字の形に、見覚えがある......
やがて文字は完成し、人形の姿がその場からかき消えた。空間転移である。
「逃げた......か」
肩から力を抜いて、つぶやく。起き上がったメッチェンは、なにも言い返してこない。ただ漠 然 と目の前の空間を見つめている。
マジクもクリーオウも、ついでにレキもだが、圧倒されたように呆 然 としていた。と、その全員の頭上から、声が響 く......
《ところでね》
はっと顔を上げると、天 井 近くに魔術文字がひとつ、浮かんでいた。ただ人形の姿はない──文字から響いてくる声は、人形のものだったが。
《置きみやげ......だよ》
と、床 下 から、がちゃんとなにかが外 れる音。そして、魔術文字がぱっと弾 けた。
そこに、死体が現れる。
「フレッディン!」
メッチェンの呼びかけに、応 えるようにと思ってしまうといささか残 酷 だが......
死体はそのまま落下してきた。あっと言う間に目線の高さを過ぎて──床に激突する。と、床がいきなりぱくんと開き、死体はそのままその中へと落下していった。
「隠 し通路!? 」
オーフェンは驚 愕 の声をあげながら、その穴をのぞき込んだ。床板が隠し扉 になっていたのだろう──さっきの音は、鍵 が外 れる音か。穴の大きさはかなりのもので、直径四、五メートルの円形。顔は死体といっしょに落下していったようだ。
「地下への道──」
誰 ともなくつぶやいたその一言に、人形は最後の声を残していった。
《ちゃんと、来るんだよ......》
それから数分──
息を整えるために身 体 を休め、その間、ただ開いた縦 穴を見下ろしたりしていた。誰も、なにもしゃべらない。
クリーオウが、ぐうぐう鳴っている腹をなでながら憂 鬱 そうにうつむいている。レキもいっしょになって、その腹を前 脚 でつついていた。だがそれを見ながらオーフェンは、その実盗み見るように──メッチェンを観察していた。彼女はぐったりと、穴の縁 に座 り込んでいる。
その彼女が、最初に口を開いた。
「客席のほうに、わたしたちが持ってきたロープがあるわ。それを使えば降りられるんじゃないかしら」
「降りるつもりなのか!? 」
彼女の言葉にオーフェンは、信じがたい心持ちで叫びかえしていた。
「あのフレッディンとかいうのは、もう死んじまったんだ──間違いない。死体でも拾 ってこようってのか!? 天人の人形がわざわざ誘 い込もうとしている場所に飛び込んで!」
「あ、でも──」
と、マジクが指折り数えながら発言する。
「確か、あなたの部下っていうか手下っていうか。まだあとふたりいるはずですよね?」
だがメッチェンは、かぶりを振った。
「全部で五人引き連れて入ったわ。でも向こうの舞 台 でさっきの人形に襲 われて──ふたりはどっかに消し飛ばされたわ。あの文字でね。そのとき別のふたりともはぐれて、フレッディンは......」
「転移させられたっていうのは、ホールのほうにいたよ。死体は焼いた」
オーフェンは厄 払 いでもするつもりで、手を振った。
「推 測 を言えばだ、あの犬どもは、もとからこの劇場に住み着いていたわけじゃなくて──どこからか、転移させられてきたんだ。あんたが通過したあと、あのホールあたりに来たんだろ。あんたの仲間ふたりもそこに転移させられ、犬の餌 食 になった。犬どもはそのまま正面玄関から外に出て──」
そのあとは言葉を濁 す。メッチェンが、不思議そうに聞いてきた。
「犬?」
「犬のバケモノさ。外に待機していたあんたの部下を全 滅 させ、今はこの劇場をぐるりと包 囲 してる。俺たちは、そいつらに追われて、この劇場に逃げ込んだんだよ」
「じゃあ、脱出経路が、ない......?」
青ざめて──ただし緊 張 してはいるが絶望はしていない表情で──メッチェンが問いかけてくる。オーフェンは静かにうなずくと、
「ああ。この劇場に、なにかその打開策でもあるんじゃないかと探そうと思ってたところを、あんたに出会ったわけだ」
「でも、もうほとんど建物の中は見て回ったと思いますけど......」
「外から見たら塔 みたいなもんが建ってたな。あそこには行ってない」
「わたしたちが行ったわよ。なにもなかった」
メッチェンが、剣の柄 を握りながら、疲労が滲 んだ声をあげる。
「ここは、なんだか妙 なのよ──要所要所に罠 が仕掛けてあったり。劇場によ!? 」
最後の一言は、どこか自 嘲 めいた皮肉が込められていた。オーフェンはじっと彼女を見ながら、
「二百年前に、ンなもんがあったとは思えないから、あとになってあの人形が付け足したりしたんだろ。どうも人間を立ち入らせたりしたくない理由があるみたいだな」
「どんな疑問も──」
メッチェンが、立ち上がりながらきっぱりと言ってくる。
「ここに入れば分かる。そうでなければ分からない。そうでしょ?」
と、床 の穴を示す。だがオーフェンは取り合わずに、
「それなら分からないでもいいさ。とっとと引き上げるぞ」
「でもさ、オーフェン......」
それまで議論に参加してこなかったクリーオウが、離れたところからつぶやく。
「あの犬たち、どうするわけ?」
「屋根の上から一頭ずつ狙 撃 してもいいし、なんにしろ、人形相手に戦うのに比べたらなんだってマシだ!」
後半は、メッチェンに向けてである。が、彼女は退 くこともなくこちらをにらみ返し、
「なら、あんたなんかに手伝ってもらわなくてもいい!」
「てめ──」
指さしながら叫びかけたが、それを邪 魔 したのはメッチェンではなかった。
「だからなんなのよ、その言い草って!」
レキをひざからこぼしつつ、勢いよく立ち上がってクリーオウが怒 鳴 り声をあげる。
「こっちが親切心で助けてあげてるのに!」
「だから......謝礼が目当てだったんだってば......」
聞こえないように小声で、マジクがぼやいている。オーフェンは肩をいからせているクリーオウを見やり──そしてメッチェンのほうを向きやった。
彼女は冷静に怒 りをたぎらせて、こちらを見返している。クリーオウが声をあげたときも、ずっとそうだった。少女を無視しているのだ。
オーフェンはしばし考え込んでから、彼女に聞いた。
「仲間の仇 を討 とうと思って言っているのか?」
「......だったら?」
不敵に笑いかけ、メッチェン。オーフェンは即 答 した。
「あんたひとりで討てるような仇なら、十何人も殺されたりすると思ってるのか」
「............」
言い返してくると思いきや、彼女は無言だった──じっとこちらを見 据 えたまま、瞳 の中に複雑に思案の光をからませて、やがて口を開く。
「分かったわ。本 音 を言う。仇ってのもあるけれどね。ある事情があって、手ぶらでは帰れないのよ」
オーフェンは、ぴくりと眉 を上げた
「事情?」
「それは言えないわ」
「言えないってなによ!」
クリーオウが、彼女に詰め寄ろうととうとう歩き出す。マジクが間に入ろうと進み出たが、彼女はあっさりとその横 面 を押しのけた。
「なんか虫が好かないのよね! 勝手なことばかり言ってさ、そーゆうのわがままって言うのよ、知ってる!? 」
「近 親 憎 悪 ......」
「ちゃんと聞いてんのよわたしはっ!」
「あああああああああ」
いきなり進行方向を変えて、余計なことをつぶやいたマジクの首を絞 めにかかるクリーオウ──とりあえずそちらはほうっておいて、オーフェンは困り顔で髪をかき上げた。
表情を変えていないメッチェンと、しばしにらみ合い──
軽く鼻から吐 息 して、オーフェンは肩をすくめた。
「分かった。つき合おう」
「オーフェン!? 」
マジクを投げ捨てて、クリーオウがこちらを振り向く。
なにを言ってもめんどくさそうなのでそちらは無視して、オーフェンは続けた。
「見捨てるわけにもいかねえからな。ただし、危険を感じたら引き返すぞ。いいな?」
「オーフェンオーフェンそんなのずるいなんかひいきっていうか不公平な感じよやっぱりずるいなんだかずるいわ!」
つかつかと詰め寄りながら、クリーオウがまくし立てる。
オーフェンはなおも無視して、メッチェンの表情を観察していた。彼女は別に、ありがたいとも迷 惑 だともつかない無表情だったが。
「俺も昔《塔 》の命令で盗 掘 まがいのことはしていたからな。あんたのやってることについて是 非 は言わねえよ」
「............」
「なんていうかオーフェンって妙 に他人に甘くない!? わたしのことわがままだとかなんだとかさんざん言うくせに言うくせにっ!」
「ただこんなことで自分が死ぬのはごめんだし、他人に死なれるのも馬 鹿 馬 鹿 しいってもんだ。巻き込まれた俺らが間抜けだったかもな」
「だいたいそれってオーフェンのわがままでもあるわけじゃないこんなこと別にしなくたっていいんだからそーゆう安 易 なダンディズムっていうかとにかくわがままよね」
「だからだ、つまるところ、俺が言いたいのは──」
「わたしはやーよこんな女のために苦労するのなんて全然意味ないわそれにどーすんのよケガでもしたら大事な用事があるんでしょこれから!」
「ええとだな......それで......」
「キムラックに行ってなんかややこしーことがあるんだって言ってたじゃないわたし教会の街 なんて見たことないから楽しみに──」
「やかましいっ! お前はっ!」
オーフェンは一声叫ぶと、つかみかかってきているクリーオウを振り払った。と──
「お前たち、キムラックに行くつもりなのか?」
メッチェンが、そこで初めて不意をつかれた面 持 ちで、驚 きの声をあげる。
「魔 術 士 が?」
と、こちらの胸元を指してくる。
オーフェンもドラゴンの紋 章 を見下ろしながら、ああと肯 定 した。
「まあ、教会総本山 に入ってまで紋章をぶら下げとくつもりはねえけどな」
「ふむ......」
あごに手を当てて、メッチェンは考え込んだようだった。ふと、なにか興 趣 がわいたらしい笑みを浮かべ、
「なら......こういう取引はどう? こちらとしても、そっちの子供に恩着せがましく言われるのは気に入らないしね」
「子供ってわたしのこ──むぎ!? 」
さっきから忙 しくあちこちを向いて叫んでいるクリーオウの口を、オーフェンは後ろから手を回して閉じさせた。わたわたと暴れる彼女を片手で押さえつけ、聞き返す。
「取引と言っていたな」
「そう。わたしはキムラックの近 郊 で育ったのよ。そこまでの道案内をしてやれるし、なんなら総本山都市の検問をうまくごまかす手配りも可能よ」
「検問?」
「知らなかったの? 能天気ねあんたも。教会総本山に素通りできるとでも思ってた?」
「いや......キムラックに関しては、資料がなにもないからな」
オーフェンは素 直 に認めた──そういった類 の関門があるだろうとは思っていたが、それを抜ける具体策も考えてはいない。迂 闊 と言われれば確かにそうだが、現地にも着かずに考えたところで意味がなかったのである。
「悪い条件じゃねえな......いや、破格か」
「そういうこと。有名な《学 びの壁 》を越えた魔術士なんてそう何人もいやしないのよ」
「分かった」
オーフェンはうなずきながら、クリーオウを解放した。うー、と険悪なうなり声をあげている少女のほうは見ないようにしながら、続ける。
「協力しよう」
「じゃあ......頼 みたいことがあるんだけど」
すぐに言ってきた彼女に、オーフェンは苦笑した。考えてみると、彼女くらいの歳の女になにかを頼まれて断 ることができた試 しがないような気がする。
「なんだよ。ロープは客席に置いてきたんだろ? それを取ってくるのか?」
「それをしてくれても、かまわないけどね......」
言いながら彼女は、恐々と穴の底をのぞき込んだ。
「ロープで降りるとき、わたしをおぶっていってね」
「あん?」
「高いとこ、駄 目 なのよわたし」
◆◇◆◇◆
「ごぼがばごぼべぼぐぼぼぼごぼ!」
無意味に大量の泡 を吐 き出しながら──そんなような音を、兄が出している。
水の中でばたばたと両手両足を暴れさせながら、ボルカンが言わんとしていることは、ドーチンには悲しいくらいはっきりと分かっていた。
『なんとかしろ、ドーチン!』
(そんなこと言われたってなぁ......)
頭上、何メートルかまで浸 水 した落とし穴の底で、特に冷静にいられるとしたら、すぐとなりに自分の数倍はパニックに陥 っている人間がいた場合くらいだろう──もしくは、先祖代々、たまたま鰓 が生 えている家系の生まれだとか。なんにしろ前者の理由で、ドーチンはひどく覚めた気分でいた。
もっとも、それがなにか有利に働いているのかというと──
(あと数秒で息が切れるか、はっきりと分かるってことくらいかな......)
もともと水の中は苦 手 なのだった。
地人種族が泳げないのは、なにも理由がないことではない。極 寒 の地マスマテュリアに
は水など存在しない ──少なくともマスマテュリアの地上自然界に存在するのは、氷でしかなかった。とんでもない昔には、マスマテュリアにもまともな川や湖があったと言われているが(三 角 州 まであっては、水流があったと認めざるを得なかろう)、今はとにかくない。水というのは嗜 好 品 なのだ。
だが言うまでもないが、脳天のはるか上方で閉じてしまっているようでは、嗜好品でもなんでもない、拷 問 道具か、あるいは処刑道具だ。
「ごばごぼぐばべばぼぼごぼがぼがばごば!」
兄の踊 りを見ながら、ふうむと腕を組む。
場違いなほど落ち着いてドーチンは、考えをめぐらせていた。
(ここは落とし穴なんだよな。獲 物 が落ちると、水が注 がれる仕掛けになっているらしい)
「ぐぼがばごぼばぼがばがばごぼがぼ!」
(水が注がれるのは、上のほうにある穴からだ。水に浮く人間なら、水かさが増してくれれば、うまく浮かんでここから脱出できるかもね。もっとも、落とし穴の天 井 はフタが閉じてるみたいだけど)
「ぼぼがぶごぶぼがぼがぼ!」

(でもそれはぼくらには無理だから、考えないことにしよう。仮に注水穴──と呼ぶけど──まで上がれたって、格 子 がはまってるから出られない。第一、水が噴 き出してくる穴なんかに、流れに逆 らって入れるわけがないしね。でも、そこ以外には出口なんてないんだよな、ここ)
「がぶぼがぼがぼぶぼぼばばぼがぼかぶ!」
(気になるのは、そこなんだ......出口がない。穴がないなんて、ヘンじゃないか。床 や壁 に隙 間 すらない──なら、一度ここに注がれた水は、どこから排水されるんだ?)
排水──
それを思いついて、ドーチンはふと考えるのをやめた。ものを考えれば脳が酸素を消費する。それでなくとも、もうとっくに限界は通り過ぎているはずだ──つまり、人間にとっての限界は。人間であれば、とっくに絶 息 しているだろう。唯 一 の望みはだ──
と、脳を使わないようにと思いながらも、思い浮かべてしまう。
(ここが......人間相手しか想定してない罠 だったら、ひょっとして──水を長く貯 めておいたら、すぐに設備が傷 んじゃうだろうから......排水はすぐなんじゃないかな)
「ごぼがぼがぶごぼぐぼがぼがぼ!」
兄の立てる騒 音 に紛 れて、それは空 耳 だったかもしれなかったが──
ドーチンは足 下 のはるか下で、がこん、と再び機械音が響 くのを聞いたような気がしていた。すべてを揺るがす、不 気 味 な音。
──そしてすべてが渦 巻 きはじめた。
「...我 は生む小さき精 霊 」
呼び出しに応じて、ぽうっ、と音を立て、新しい鬼 火 が浮かび上がる。闇 の中に唐 突 に生じたそれは、自 らを圧していた黒い空間に光の枝を広げた。あまり明るくはない──携 帯 用のガス灯程度の光量で、暗闇を照らす。
それと同時に、穴の底に行き着いた。
ロープから手を離し──飛び降りる。床 は、上の舞 台 裏の床板と同じ。つまりフタが落下して、そのままこちらでも床になっているのである。隅 に、フレッディンの死体が落ちていた。かなりの高さを落下したので、完全に潰 れている。
オーフェンはそこから目を背 けて──背後に向けて、つぶやいた。
「もう、降りてもいいぞ」
「え? あ──そう?」
メッチェンが──恐 らく、今まで目をつむっていたのだろう──はっと気づいたように、声をあげる。彼女はばたばたとあわただしく、彼の背中かから飛び降りた。
オーフェンは、こった肩をぐるぐると回すようにすると、穴の上のほうに顔をあげた。
そして、声をあげる。
「降りたぞぉーっ!」
声は壁 面 に反射しながら、上までとどいたらしい。しばらくすると、上のほうでなにやら短く言い合うような声が聞こえて──一度、ぎっ、とロープが引っぱられ、そして定期的に揺 れはじめた。マジクが降りはじめたのである。
「......フレッディン。可 哀 想 に」
ぽつりと、メッチェンがつぶやくのが聞こえた。見ると、死体のそばにやるかたない面 持 ちで立っている。
「腕のいいパートナーだったのに。それは、みんなそうだったんだけど」
「............」
彼女がなにを言いたいのか──そもそも誰 に説明しているつもりなのか、オーフェンにはよく分からなかった。が、見やると彼女は、じっとこちらに目線をよこしている。なにか、答えを要求しているふうだった。
「あ、ああ──」
曖 昧 にうなずきながら、オーフェンは咳 払 いした。
「相手が悪かったんだよ」
見回しながら、そう告げる──この穴の底からはぽっかりと、横穴のような通路が開いていた。奥には明かりもなく、闇に閉ざされている。
「わたしは......」
と、メッチェンがつぶやきだしたので、オーフェンはそちらを向きやった。彼女は宙に浮かぶ鬼火を観察するようにしながら、続けてくる。
「わたし以外は全 滅 となると、一言ではすまされないけどね」
「............」
なにか言いたくはあったが──なにも言うべきではない。
が、オーフェンは、ふと閃 くものを覚えた。とりあえず、実際的な方向に話を向けたほうがいいだろう。
「おい──あ、いや、メッチェン。この劇場の情報って、どこから手に入れたんだ?」
「街 でね。買ったのよ。これ以上は言えないわ」
「いや、まあどっちでもいいんだが......その情報買うときに、なにか聞かされたりとかはしてないのか? この劇場の由 来 とか......」
聞かれて彼女は、困ったように小首をかしげてみせた──かしげた方向に手を添 えて、しばし迷ってから口を開く。
「由来、というか......誰でも知っているようなことは知ってるわよ。有名な戯 曲 『魔王』の公演のために建てられた劇場で、その公演に招待された当時の貴族連 盟 の盟主──王が、なぜかこの劇場の閉 鎖 を命じたとか」
「だが、王は劇場の打ち壊 しを命じたんだぞ? それが残っているのはおかしいと思わなかったのか?」
「さあね──」
メッチェンは小さく嘆 息 すると、頭をまっすぐに直した。
「骨 董 品 に関する伝説の類 って、そんなものでしょ。世間では残っていないと言われているけれど、実は、っていう。だからあまり気にしていなかったのよ。なにしろ二百年も昔のことだから、本物のカミスンダ劇場は取り壊されていたとしても、後世に建て直されたのかもしれないし......」
「......まあ、そういうもんかもな......」
いったんは納 得 し、オーフェンは続けた。
「この地下部分があるってことは知っていたのか?」
「いや、情報屋は、なにか秘密があるってことだけを言っていたのよ」
「それだけで動いたりするのか? 盗 掘 屋 ってのは」
オーフェンが眉 をひそめると、彼女は別段気にしないという表情で、軽く肩をすくめてみせた。
「既 に下調べをされてしまった ような遺 跡 に、お宝なんて残ってるわけないでしょ」
「そりゃまあ、そうだが......」
答えながら、オーフェンは再び周囲を見回した。穴底に余 っているロープの長さから逆算すれば、この縦 穴の実際の深さは、二十から二十五メートルというところだろう。
「そうすると、ここって手つかずの遺跡かよ......思ったよりやっかいだな、こりゃ」
舌打ちして、オーフェンは髪をかき上げた。
不 思 議 そうに、メッチェンが聞いてくる。
「......やっかい?」
「当たり前だろ──と言うか、知らないわけじゃねえんだろうが。天人の遺 産 ってのは、人間の手に余るものが多いんだ。訓練された調査隊をあっさり全滅させちまうようなものが、いくつもあったからな、今まで」
「............」
メッチェンは答えてこない。彼女にうなずきかけて、オーフェンは続けた。
「それに俺 は、天人の遺産については専門じゃないんだ。だから見つけたところで、使い方も分からない。どんな効果があるかも分からない──あんただって魔 術 文字は読めないだろ。それこそ、太陽の光に当てたらいきなり大爆発するかもしれないようなもので商売したいとは思わないがね、俺は」
「夢がないのね......」
そう言う彼女の口 調 からは毛ほどの緊 張 感 も感じられない──多少ならずいらだたしく思いながら、オーフェンは目をそらした。
「なんにせよ、さっさと帰るに限るよ。うまいこと脱出の手段を考えてな」
と、気楽に言った、そのときだった。
ふっ──と胸 中 に、白いもやが膨 れ上がるような、漠 然 とした不安を覚える。オーフェンはとっさにメッチェンを突き飛ばし、自分も彼女とは反対方向にその場を離れると、身構えながら上方を見上げた。
光がとどいていない。つまり見上げたところで、天 井 は見えない。頭上に広がるのは一色の黒──まったくの暗 闇 。その中から、なにかが落下してくる......
「ああああああああああっ!」
どずんっ!......
衝 撃 が、穴の底を振動させる。落ちてきたのはマジクである。落下の衝撃にしびれる足を、ふんばるような姿勢でしばし堪 えたあとに──ばっ、と顔を上げる。
「なにするんだよ、クリーオウ!」
穴の上方に向かって、少年は叫 んだ。と、すぐに返事が返ってくる。
「あんたがもたもたしてるのが悪いんでしょ!」
声と、ほとんど同時だったかもしれない──するするとロープを伝って、クリーオウが降りてきた。すとん、と軽く着地すると、それより少し遅れて、レキが落ちてくる。黒い子ドラゴンは器用に、クリーオウの頭の上に狙 いたがわず着地した。
クリーオウが、びしとマジクに指を突きつけて、叫ぶ。
「こんな信用できない女とふたりにしてたら、オーフェンが危ないでしょ!」
「五メートルを自由落下するぼくだって十分に危ないよ!」
「......こいつらほっといて、先に進んどくべきだったかな......」
オーフェンは半眼でぼやきながら、視線を動かした。鬼 火 によって照らされた、奥の通路の入り口。青白く照らされて、幽 鬼 の門のような。
と、ふと気づく──そのときに初めて。通路の入り口は、平らな面を下に置いた半円形。つまりドームのシルエットである。通路そのものも、その形で続くようだった。天 井 までの高さはかなりあり、三メートルほどか。そして入り口の頭に、小さなプレートがかかっている。
錆 びた銅のプレートには、現在となっては大陸古語と呼ばれる言語で、なにかが記 されている。オーフェンは眉 をひそめ、記憶の中からその単語の意味を引っぱりだした。文法となるとさっぱりだが、単語くらいなら分かる。
それには『カミスンダ地下劇場』と記されてあった。そして、さらに一言──『選別の廊 下 』
例 えば、である。天人にとってはなんのことはない日用品であったとしてもだ。
ガスもなにも必要なく、永遠恒 久 に機能し続ける光源があったとしたならば、その価値は計り知れない。ただし天人にとっては、そんなものはそれこそ寝ながらでも造り出すことができたのだ。
彼女らが用 いたという魔術には、それほどの力がある。
これが仮に武器を造ったとしたならば、その危険性は言うまでもない。
つまり、そういうことなのである。
「ってもまあ、さっきのプレートにあった通り、ここが地下だろうがなんだろうが、ただの劇場なら、ンな危険なもんは残ってないだろうけどよ。それでもだ、魔術仕掛けの警備員なんかが残っていてみろ」
「......どうなるの?」
と、メッチェン。オーフェンはうんざりとしながら答えた。
「天人の魔術で造り出された、いわゆる人造人間ってやつは、なにしろ融 通 が利 かねえんだよ。魔術士を殺せ、と命じられた戦 闘 用の人形なんてものが実在するんだが、もしそんなものが無傷で残っていたとしたら、そいつは造られてから何百年経 っていようと、その命令を忘れやしないんだ。しかもやっかいなことに、そいつら融通は利かねえくせに変に知恵が働いたりする。警備人形が残っていたとしたら、入場料を払ってない俺たちをなんとしても排 除 するだろうな──まあ、その『排除』の内容が、侵入者を劇場の外に追い出すだけなのか、それとも折り畳 んで塩 壺 に一晩漬 けておくことなのかは知らんけどな」
「なるほどねぇ」
いまいち危機感を感じさせない声 音 で、メッチェンがうなずいてくる。彼女の目を見返して、ふと彼女の頭を抱えて振り回してみたい衝 動 に駆 られたが──それはなんとか思いとどまる。意味がない。
「さっきの人形は、多分小間使いとか、そんな役割の人形だろうな。だから単純に火を起こすような魔術とか、他人の傷を自分に移すとか、妙 な魔術文字しか持ってなかったんだ。逆に言えば、そんなもんでも、あれだけの力を持っている。戦闘用の人形になると、まともに手向かうだけ無 駄 だ。それに」
オーフェンは陰 鬱 に付け加えた。
「なんにしろ俺は、その天人の人造人間の類 とは相 性 が悪くってな。そいつらと出くわすたびに、ロクでもない目にばかり──」
と。
そこまで言いかけたとき、オーフェンはどすんとなにかにぶつかった──見ると、マジクがいきなり立ち止まっている。後ろ姿なので表情は分からないが、背中の筋肉はこわばって固まっているようだった。ぶつかった反動で半歩ほど退 がると、彼といっしょに壁 を作るように、クリーオウが立ちつくしている。
「なんだよ、いきなり立ち止まって」
文 句 をつけながらオーフェンは、彼らの顔を見ようと前方へと回り込んだ。鬼 火 は前方を照らせるように少し先行させているため、その光の中に飛び込むような形になった。そして、彼らの顔を見上げて──
「............?」
オーフェンは、きょとんとした。マジクもクリーオウも、まるっきり目の焦 点 が合っていない。かかしのようにアンバランスに立ちつくしたまま、ぽかんと口を開けて、眠っているように呼吸が遅く、深くなっている......
刹 那 、脳 裏 に閃 くものがあった。
鬼火の漂 う前方へと──青白い輝 きが照らす、その闇 の向こうへと向き直って身構える。腰を落とし、右手を突き出して、彼は叫んだ。
「我 は放つ光の白 刃 !」
伸ばした右手の指先、その数センチほど向こうの空間に、真っ白な光が弾 けて踊る──輝きは一直線に闇を引き裂 くと、遥 か前方まで一気に駆 け抜けていった。疾 駆 する光熱波が、通路の空気をひっぱたくように振動させながら、闇の中へと突き刺さる。
爆発──
目標に命中したならば、炎上もさせたはずである。が、爆音も振動も伝わってきているというのに、炎 と化した衝 撃 波 は、闇に包まれるようにそのまま消え失せた。が、
「ぎゃああああああ......っ!」
爆音の中、かすかに悲 鳴 が聞こえた。はっと、顔を上げる。手 応 えはあった。悲鳴はもう次の瞬 間 には、沈 黙 に変じる。
「ど、どうしたの?」
メッチェンが、背後から話しかけてくる。オーフェンは振り返らずに、しっと人差し指を立てた。
「静かにしてくれ」
と、耳を澄 ます。
たったったっ......という規則的な足音が、遠ざかっていく。足音は小さく遠くなっていき──そしてやがて、完全に消えた。
「逃げたか」
つぶやく。その瞬間、弾 かれたように、マジクが倒れた。
「!? ──い、痛てて......」
バランスを崩 して転んだものらしい。クリーオウは倒れなかったようだが、それでも不思議そうに目をぱちくりとさせていた。ただ転びかけたので、レキが頭からずり落ちそうになってばたばたともがいていた。
「な......なにか起こったの? 今......」
「単純な精神支配だ。天人の造った人形が、たびたびやるんだよ」
オーフェンは簡単に答えて、背を伸ばした。足音が去っていった通路の奥へと一 瞥 をやりながら、
「大した威 力 でなくて助かった。強力な人形になると、大人数をいっぺんに支配下においたりするからな。でなけりゃ、全 滅 してたとこだ」
「全滅?」
びっくりしたように、マジクが目の色を白黒させる。いらいらと歯を軋 ませて──一度深呼吸してから、オーフェンは続けた。
「だっかっらっ! 危険なんだよここは! さっきから何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も──」
と、いいかげん息が続かなくなって生じた隙 に、うまく紛 れ込むようにして、クリーオウがあははとごまかし笑いをする。
「でもオーフェンがいれば、大 丈 夫 そうだし──」
「言っとくが俺は、人造人間相手にいつまでも立ち回る自信はねえからな!」
「またまた。アレンハタムだって、なんか楽勝っぽかったじゃない。今だって──って、見てなかったけど」
気楽に言ってくれる彼女に、オーフェンは食ってかかった。
「い・ま・は・な! 人造人間たって、ピンキリあるんだよ! 力いっぱい槍 で突けば穴が開く巨石歩兵 なんて粗悪 なものから、殺人人形 なんて問答無用の代物 まで! ンなもんが大量に出てきたら、とてもじゃねえが手に負えんぞ!」
地 団 駄 を踏みながら彼がわめくと、ふたりの表情に、緊 張 のようなものが浮かぶ。ようやくか、というのがオーフェンの正 直 な気持ちだったが。
が──そのふたりの表情が、緊張から失望へと、あっさり変化する。
「なんて......」
ぽつりと、マジク。クリーオウがあとに続ける。
「弱いんだ、オーフェン......」
びしっ──
頭の中になにかが、音を立ててひきつるのが、確かに聞こえる。が──なんとか自制を保ち、オーフェンは拳 を握りしめると、愛想笑いを浮かべた。
「そ、そーなんだ。つまり、危険だから......」
「がっかりよねー」
ほおに手を当てるポーズで、しみじみとクリーオウがつぶやく。レキがいつもの金髪の上で、後ろ足であごの下をかいていた。
あとに続けるのはもちろんマジクである。
「金返せって感じですよねー」
びしぶちと、頭 蓋 骨 の中の肉が弾 けるような音が響 いているものの、それにもなんとか堪 える。指を鳴らしながらオーフェンは、じりじりとふたりへとにじり寄っていった。
「だ、だからな、ほら、危ないってゆーか、危険が危なくて、命が生きるためには死なないよーにしないとだな......」
だが、ふたりは聞いている様 子 もない。
「やー。もー、つまんなぁい。足痛ぁい。ここって暗いしカビ臭 ぁい。なんとかしてほしいわよねー」
「あーあ。どうしたもんかなー。高い月謝払ってるのになー。今からタフレム市にまで引き返して、何日かかると思います?」
オーフェンは静かに──そして渾 身 の力で、マジクの胸ぐらをつかみ上げた。そして、それを前後に振り回しながら叫ぶ。
「俺は自制しているぞぉぉぉぉぉっ!」
「......全然してないわよ」

冷静に、メッチェンが指 摘 してくる。
「............」
ぴた、と動きを止めて──だがつかんだ胸ぐらははなさないまま、オーフェンは目を閉じた。深く息を吸い、いったん止めて、またゆっくりと吐 く。
それを三回ほど繰 り返してから、オーフェンは静かにつぶやいた。
「......分かっちゃいるが、これが俺の性 なんでな」
「分かったよーな分からないよーな......」
困ったように笑みを浮かべて、メッチェンがうめくのが聞こえる。だが彼女は、ふっと真顔になると、
「でも、さっきの危なかったんじゃない? 確認もしないで攻撃なんかして、ひょっとしたら、はぐれたわたしの仲間が前にいたのかもしれなかったのに」
「......そいつは、ない」
オーフェンはあっさり言うと、手をはなした。通路の前方を──闇 の中になんの気 配 も残っていない、単色の闇へと向き直って、薄く目を閉じる。
闇を見通せるわけではないが、そんな気にはなれる。
「ない?」
怪 訝 そうに、メッチェンが聞き返してきた。それに合わせて、目を開ける。
オーフェンは軽くうなずいた。
「さっきの光熱波は高さ三メートルのところを撃 ち抜いたから。人間には当たらないさ」
「三......メートル?」
ぎょっとしたように、今度はマジクが聞き返してくる。口元をひきつらせて、
「でかいんですか?」
「さあ、な。ただ──」
オーフェンは腰に手を当てると、落ち着いて言い直した。自分自身にも聞かせようと、ゆっくりと言 葉 を紡 ぐ。
「でかいから怖 いってわけじゃない。戦 闘 用に造るんだったら、でかくすりゃいいってもんじゃないからな──結局のところ、こう考えるんだよ。ここは劇場なんだ。砦 じゃない。だが、それならば天人がなぜ、地上の劇場の下に『地下劇場』とやらを作らなければならなかったのか? それが分かれば......」
「分かれば?」
不安そうに顔を伏せぎみにして、クリーオウ。オーフェンは彼女に視線をやると、闇に抱 かれて冷静な答えを吐いた。
「そう。それが分かれば。危険がどんなものかも、自 ずと分かってくるさ」
通路はずっと一直線。いくら進んでも壁 も床 も変化はなく、傾 斜 もしていない。八十七歩までは、進んだ歩数を数えてもいたのだが、そこでさっきの騒 ぎとなり、あとは面 倒 くさいから数えるのは中止した。結局のところ、どうでもいいのだ。
慎 重 に──進むのは、なかばあきらめていた。どうせ一度、既 に攻撃されているのだ。歩 幅 を小さくしないように気をつけて、足早に進んでいく。
と、彼は背後にいる三人に手振りで合図した──止まれと。そして自分も立ち止まる。
「ここで待っててくれ」
「え!? ちょ──」
だが静止を無視してオーフェンは駆 け出していた。走りながら体勢を低くする。先行させていた鬼 火 を追い越し、闇の中へと入り込んでも、不思議と不安はなかった。なにも見えない──確かになにも見えないのだが、スピードは落とさない。一度目を閉じ、そして開くと、真っ暗だった視界に濃 淡 が現れる。ある程度なら、夜目が利 きやすいように訓練されていたことがあった。
闇の中を、多少の勘 も頼 りにして走りつづける。息があがってきて──つまり十秒ほど、八十メートルも走ったろうか。
彼は──
立ち止まった。完全に静止して、背後を向きやる。はるか遠くに鬼火の灯 が、そしてその明かりの中に、三人の人影を見ることができた。
そして無言のまま、息を整え、じっと待つ──三人を見ながら。やがて......
その明かりの中に、なんらの前触れもなく、人影がもうひとつ増える。
「きゃああああああっ!? 」
突 如 として虚 空 から現れいでた人影に三人が悲 鳴 をあげるのが、通路中に響 きわたった。
「やっぱり、待ち伏せてやがったか!」
舌打ちしながらオーフェンは、今度は逆方向に、つまり三人のほうへと駆け出した。全力でダッシュしながら、魔 術 の構成を編み上げる。
「我 掲 げるは──」
唱 えながら彼は、その目標を光の中の、現れた人影に集中した。
「降 魔 の剣!」
叫ぶと同時、構えた右手の中に、実際に剣を持っているような重みがかかる。
その頃にはもう、鬼火のところにまでもどってきていた。光に照らされて、三人と一匹が一緒に浮かべている驚 愕 の表情も、そして新たな人影の後ろ姿もはっきりと見える。
人形だった。上で見たのと同じ──恐らく、同一のものだろう。
「こんのぉぉぉっ!」
オーフェンは雄 叫 びのようなものをほとばしらせながら、手に現れた虚 空 の剣を、その人形の背中にたたきつけた。突進しながら打ち込んだ剣は、異常なまでの威 力 を発 揮 した──人形の身 体 を貫 いたのだ。
「────!」
悲鳴もなく人形が、身体をのけぞらせる。剣は完全にその人形の身体に風 穴 を開け、さらには両断しかねないほどの巨大な傷をそこにつけていた。さらに力を込めると、人形が、とうとう威力に負けてか、崩 れるようにその場に転倒する──
同時に、魔術の効果が途 切 れ、オーフェンの手の中から虚空の剣の重さが消えた。そしてさらに、クリーオウの二度目の悲鳴。
「き──」
ものの半秒で、それは止まった。それも、あまりにも唐 突 に。
「な......!? 」
悪 寒 が背筋を凍 らせるよりも早く、オーフェンは彼女の表情の変化に気づいていた。突然のことに驚 いて声をあげようとしていた彼女の顔が、ひきつるように痙 攣 すると──ゆったりと力を失い、呆 けたようなものに変わる。同時に、彼女の頭の上に乗っているレキも、目をぱちくりとさせた──クリーオウの意 思 がなくなったことに戸 惑 ったのだ。
見下ろす。と、倒れた人形が、のっぺりした顔にかろうじてついている目と口とを不 気 味 なほど細めて、彼女の足首をつかんでいた。そしてその人形の指先が、滑 らかに素早く、彼女の足首に光の文字を描いている。
「クリーオウ!」
マジクが、悲鳴じみた声をあげた。だが彼女は、なんの反応も返さない。
「このっ!」
オーフェンは毒づくと、人形の手首を蹴 飛 ばした。頑 強 なブーツのかかとが、一見やわに映る人形のか細い腕を踏 み砕 く。だがそれでも、人形は手をはなさなかった。
「このっ──このっ!」
二度、三度と蹴り飛ばしているうちに、人形の指がゆるむ。
と──オーフェンは、叫んだ。
「みんな、退 がれぇっ!」
突然の命令にマジクもメッチェンも理解できなかったのか、一 瞬 、目をぱちくりさせたが、そのあとはすぐに反応してくれたようだった。顔を上げて、あわてた様 子 でばたばたとその場から離れる。
一呼吸後──つまり、叫んだあとに大きく息を吸って、編み上げた魔術の構成とともに、オーフェンは魔力を解放した。呪 文 の叫びを、倒れている人形に突き刺すように──
「我導くは死呼ぶ椋 鳥 !」
瞬間、破 壊 力 を伴 った振動波が、人形の手首へと収 束 していく。波そのものは目に見えるわけではないが、決して聞こえない騒音に、人形の手首に無数のひびが入るのがはっきりと分かった。細かいかけらが、あたりに飛び散る。人形がつかんでいるクリーオウの足にも無数の浅い裂 傷 が生じたが、この際仕方なかろう。
そして次にたたきつけたかかとが──ぼろぼろになった人形の腕を粉 砕 していた。
「ひィィィィィィィっ!」
痛みを感じるのか、折れた腕を抱えて、悲鳴をあげながら人形がのたうちまわる。転げるうちに、最初につけた胴体の深手に、さらに大きな亀 裂 が入った。
「我は放つ光の──」
その亀裂に熱 衝 撃 波 をたたき込もうと、魔術の構成を編む。呪文を叫びながら振り上げた右手に、燐 光 のような輝 きが灯 った。そのとき──
「────っ!? 」
視界の端で、いまだ無表情のまま棒立ちになっていたクリーオウの姿が、ふっと消えた。レキもいっしょに。
「くっ......!」
失策に舌打ちしながら、彼は気づいた。
「さっき足に描いていたのは、空間転移の魔術か!」
動 揺 が、あと少しで放ちかけていた魔術を途 絶 させた。クリーオウが消えたあとには、折れた人形の片腕だけが残っている。彼女の姿は跡 形 もない。天人の人形も、天人に近いレベルで沈黙魔術 ──文字の魔術を操 るのだが、だとしたら転移の有効範 囲 はとてつもなく広い。へたをすれば、上空一千メートルにいきなり「転移」させられてしまうことだってあり得る。もちろんすぐ近くの壁 の中に埋 めることだってできたはずだ。
「彼女を──どこにやった!? 」
オーフェンは問いただそうと、人形のほうへ向き直った。が、そのときには既 に人形は......怯 えた表情ですり寄るようにかたまっているマジクとメッチェンのほうへと、肘 で身 体 を引きずり移動しようとしている。こちらを──無視して。
(こいつ......)
濁 った白色の人形の背中を後ろから見下ろして、オーフェンはぞっとしていた。
(やっぱり──そういうことか。狙 いは、俺じゃない......)
と、そのときメッチェンがあげた悲鳴が、思考を中断させる。その悲鳴も──先刻クリーオウが最後にあげたものと同じく、途中で唐突に消えていた。
見ると、メッチェンとマジクのふたりが並んで、呆 然 と表情を失っていく......
人形は匍 匐 前進を続けながら、折れていないほうの腕をあげて虚 空 に文字を描いている。その指がなぞった軌 跡 が、銀色の輝きを残していた。図形のような妖 しい文字が、次 第 に力を増していく。
「しつこいっ......!」
苦 々 しく思いながらつぶやく。オーフェンは後ろからその人形に追いつくと、胴体の傷を思い切りかかとで蹴 りつけた。大きな裂 傷 に、最後のひびが入る──ぼぎん、と鈍 い音を立てて、人形の身体が折れた。反動で、人形が身体をのけぞらせる。虚空に描いていた文字も、その一 瞬 で霧 散 した。
オーフェンは無言で素早く、懐 からナイフを抜きはなった。くるりと逆 手 に持ちなおして、背後から、人形の丸い後頭部にナイフの刃を打ち込む──杭 のように。固まった粘 土 にへらを突き刺したときのような感 触 が、腕に伝わってきた。人形が、ひときわ大きい悲鳴をあげる──
彼は構わず、手にしたナイフをえぐるようにひねり込んだ。人形に急所も内臓もないだろうが、それでも効果はあったようで、轢 かれた蛇 のように、人形が痙 攣 した。しばし、そのまま暴れて──次第に動きを緩 慢 にし──
最後には、まったく動かなくなった。
一瞬の沈 黙 。そして、顔を上げる。
そこにはマジクとメッチェンが並んで立っている。精神支配の効果が消え、寝ぼけたような顔で、かぶりを振っていた。高度で強力であるほど、精神支配というのはかけられたあとに肉体的な疲労は覚えさせないと言われている。ふたりのつらそうな顔色から勝手に推 察 すれば、さほど深くは支配されなかったようだが......
ほっと安 堵 した、その瞬間──
ふたりの姿が、消えた。そしてそれと同時に、倒れている人形の姿も。
「な......!」
思わず、驚 愕 の声を漏 らす。人形は、もう完全に破 壊 したはずだった。よしんばまだ動けたとしても、ふたりに転移の魔術をかけるほどの力は残っていなかったはずだ。足 下 を──人形が倒れていた床 を見下ろして、オーフェンは呆然としていた。空間を転移されては、追いかけようがない。
最後に見た人形の姿を思い浮かべる......
胴体をふたつに分かたれ、頭に深々とナイフを突き立てられたまま、焦 点 のもどらない視線をあさってのほうに向けていた。
壊 れていた。壊れていたはずだった。
(まさか......)
はっとして、オーフェンは振り向いた。右手を伸ばして、床にそれだけが落ちていたナイフを拾 い上げる。思いのほかあわててはいたが、それでも取り落としはしなかった。背後を向きやり、視線を鋭 くする──
そちらには、鬼 火 がまだ浮 遊 している。その明かりの中に隠 れもせず、巨大な人影が待ち受けていた。
「さっきの奴 か......!」
毒づきながらオーフェンは、腰を少し落とした。ナイフの腹を見せるように、敵に向かって傾 ける。
人形の全高は、ほとんど天 井 ぎりぎりまであった──つまり、三メートル近く。人型で、それだけ身の丈 があるにもかかわらず、どちらかというとずんぐりとしている。その点では、いま破壊した人形とは正反対の印象だった。腕も、胴も太い。ただし、腕に関しては手首から先が妙 に小さい。恐らくは、魔術文字 を描くための便宜 だろうが。
身体 の材質などは、同じもののようだった。固めたゼラチンのような光 沢 だが、ガラスのようなつややかさもある。関節になんのギミックもないのに動くところから推 せば、決して硬質のものではないのだろうが。
胸のあたり──床から二メートルほどの高さの場所が、薄く、すすけている。最初に放った光熱波が命中したときのものだろう。
人形は、じっと、細い眼 差 しでこちらを見下ろしている。
「......してやられた、ってわけだ。俺は」
独 りごちるように、オーフェンはつぶやいた。先刻の人形に関しては、背後から不意を突いたため、なんとか破壊できた。が、ドラゴン種族の魔術を用 いる人形と、正面切って戦 闘 したところで、勝てる見込みはほとんどない。
だが、彼が毒づいたのは、それだけが理由ではなかった。
ほぼ通路をふさぐような格 好 で立っている人形だが、それでも空間をびっしりと埋 めているわけではない。人形の肩と壁 の隙 間 から──見えたのだった。ずっと、通路の向こうにまで並んで立っている、同タイプの、無数の人形たちが。
(十数──いや、へたすりゃ数十体......てとこか)
場所がせまいため一気に押しつぶされるということはないだろうが、一体一体相手にしていったところで、どうなるものでもない。
身体が巨大なため、かえって恐ろしげには感じないが、不 気 味 さはあった──しかもその体格のせいで、横をすり抜けて奥へ行くこともできそうにない。ふとオーフェンは、人形の顔を見上げながら唐 突 に気づいた。恐らくはそのために こういう形状をしているのだ。つまりこの人形たちは、通路をふさぐためだけに造られた......
こちらが動けずにいるうちに、先頭の一体が、抑 揚 のない口調でつぶやいてくる。
「あなたには、選 択 権 がある」
「生と死、か?」
皮肉混じりにオーフェンはつぶやき返した。人形は、別段相手にしてくることもなく、ただ事務的に続けてきた。
「我々に連れていかれるか、自 らの足で進むか......」
「なにを言いたい!? 」
聞き返しながら、馬 鹿 馬 鹿 しい問いだと自分でも思っていた──明々白々だった。つまるところ、転移の魔術で──いずこにだかは知らないが──すっ飛ばされることと、言われるままについてくることを選べと言っているのだ。
そのことは答えるまでもないと判断したのか、人形は、別のことを言ってきた。あるいは、言うべきことを丸暗記してそのまま述 べているだけなのかもしれないが。
「あなたは、現出せし洪 水 に関する知識を求めてきたのではないのか?」
人形の声にも、その表情にもなんの感情も現れてはおらず、その真意を想像することもできない―オーフェンは、怪 訝 に思いながら聞き返した。
「......なんの知識だって?」
人形は答えてこない。じっとこちらを見 据 えている──薄 気 味 の悪い眼 差 しで。焦 らされているのは承 知 しながら、オーフェンはさらに聞き返した。
「お前は、俺の質問に答えてくれるのか?」
「......あなたの真意が分からない限りは、できない」
「なんの真意だ」
「あなたは、現出せし洪水に関する知識を求めてきたのではないのか?」
人形は二言前のせりふを同じ抑揚、同じ速さで、そっくりそのまま繰 り返した。
(現出せし......洪水?)
胸 中 で反 芻 しても、それらしい知識は浮かんではこない──歴史上の大水害をいくつか思い出したところで、そういうことでもなさそうに思える。
(賭 けるしか、ねえか......)
表か裏かだと覚 悟 を決めて、オーフェンはうなずいた。
「そうだ......俺は、その知識を求めている」
「嘘 だ」
即 座 に、人形は答えてきた。
「あなたは、人間を連れてきた」
「?──俺だって、人間だ。ひとりで来なけりゃ駄 目 だってことか?」
「あなたは人間ではない。半天人である」
「それは──そうなのかもしれないが、人間の間ではそれは人間と同じことなんだ!」
「人間を連れてきた以上、あなたは現出したもののことを正しく知ってはいないのだ」
人形はあっさりと、数秒前の話題を無視してきた──それはかなりしゃくに障 ったが、あまりこだわっていられる場合でもない。聞き出さなければならなかった。
「あいつらを──俺の連れをどこにやった⁉ 返事次 第 じゃ──」
「......製造室」
「ただおかね──え?」
相手の返答から一 拍 おいて、間の抜けた声を、彼はあげていた。相手がなにを言ったのかは聞いていたのだが、理解はできなかった。
「製造室」
人形は、淡々と繰 り返した。
「普通は、侵入してきた人間は殺す。だが今の戦いで、我々は仲間を壊 された。人形を修復するためには、人間をベースにする必要がある──」
「てめえっ⁉ 」
頭の中でなにかが弾 けて──一 瞬 後には、オーフェンは人形の身体 につかみかかっていた。ナイフを手に持っていることも忘れて、押し倒そうとする。といったところで、相手の大きさに腕も回りはしないが。
だがそんなことはどうでも良かった。人形の身体に手を触れて、至 近 距 離 ──いや近接距離から魔 術 を放とうとする。
「我 は放つ──」
だが、その瞬間までに、彼の眼前に光が瞬 いていた。光──銀の光。文字のような、図形のような......
「あなたは選 択 した」
最後まで無感情の人形の声が耳に残る。魔術の構成が完成する。
「光の白 刃 っ──」
人形の身体が爆 砕 するのと同時──
彼の身体の周囲から、すべての世界への接点が消失した。
「──んっ!」
──と叫んだのは、呪文 の語尾だった。
一瞬ですべてが消え──現れる。そして、彼はそこにいた。
「............」
絶句して、彼は目を見開いた──もう既 にそこは、一瞬前までいた通路ではない。それよりは遥 かに広く──そして明るかった。立っているのは、赤いビロードばりの座席の上である。見渡す限りずらりと並ぶ座席の、その中のひとつ。座席の向きに対して逆向きに、魔術を放った姿勢そのままで立っていた。
座席の数は──百や二百ではきくまい。王都にひとつふたつしかないような大音楽堂のような広大さである。彼が立っているのは、ちょうどその真ん中あたりだった。彼が手を差し伸べている先──つまり、座席の向きに対しては最後方に、扉 がある。本来は、あそこが入り口なのだろうが......
座席は一階と二階がある。彼が立っているのは一階のほうだった。二階のほうは下からはちょうど死角になっており、様 子 がよく分からなかった。静かで──無人。虚 ろでなんの気 配 もない。人形の姿もない。ただし、いま向いている方向には、だ......
彼はゆっくりと、背後に向き直った。肩を回し、首を、顔を。完全に振り返ったその先、座席が向いている先には、巨大な舞 台 がある。座席、いや客席と舞台の間にスペースが設 けられているが、それはオーケストラでも入れる場所なのだろう。全体の造りとして、地上にあるものとほぼ同一だった。
だがとにかく彼が凝視したのは、舞台の上だった。舞台の上に、古びた玉 座 が据 え付けられている。幅 の広いその玉座には、その上に覆 い被 さるように、小さな人形が載っていた。玉座の肘 置 きに、細い手が載っている。小さな頭。小さな目──
子供の体型ではなく、ただの人型のミニチュアである。
身体が小さいということ以外には、天人がよく造る人形と特 徴 的な違いはない。ただひとつ奇異であったのは、目だった。細い、つり上がったまぶたの隙 間 にのぞくのは、信じられないほど深い色の蒼 き瞳 ......
それはのんびりとした挙動で、こちらを見返してきていた。
(王......?)
オーフェンは、愕 然 としながらもそれを認めざるを得なかった。不釣 り合いな玉座に深々と座 り、そして頭に──王 冠 を戴 いている。
「よく......来たな。本来は......汝 が歩いていた通路を......さらに進み......折り返す階段を下りてこなければ......ここには......入れないのだが」
ゆっくりとした──というより、ただ単にぎこちない、そんなしゃべり方である。オーフェンは用心深く身構えながら──短くつぶやいた。
「......あんな長い通路、不便だろうが」
「だが......見 極 めをしなければ......ならない......通路番の......人形たちが。あの──『選別の廊 下 』......で」
「見極め?」
オーフェンは聞き返したが、相手は答えてはこなかった。玉座の人形──それが、どうやらそこから動けないらしいことに気づいて、多少は警 戒 を解 く。
改めてあたりを見回しながら、オーフェンはため息じみた吐 息 を漏 らした。
「......一瞬で移動しちまって、変な気分だな」
「一瞬に......ならざるを得なかろう......時間軸 からすらも......消失する──時間転移となると......数秒以上......というわけには......いくまい。さすがにな」
分かるような、分からないようなことを言ってくる。返答に困っているうちに、その物体は、遅ればせながら──こちらに、会 釈 のようなものをよこしてきた。骨格が人間のものと違うのか、微 妙 にいびつな会釈ではあったが。
そして、告げてくる。
「ようこそ......第七の──種族よ。我 は──」
同じ頃、舞台のそでから、ぞろぞろと──奇妙な生物が現れていた。表で何十頭も見かけた、あの翼 のある犬。
それがぞろぞろと──二、三十頭は出てきていた。が、玉座の人形はそれらに気づいてもいないように、続ける。
「我は、魔王スウェーデンボリーで......ある」
その言 葉 にオーフェンは、ただ一瞬──めまいを覚えていた。
◆◇◆◇◆
水の中で意識を失わなかったのは、ほとんど奇 跡 と言って差し支 えなかろう──ただ、その分苦しかったというだけで、メリットはなかったが。水流の中をなす術 もなく流されながら、ドーチンはしみじみと考えていた。
(なんでこーゆう時は、いっつも兄さんばっかり気楽に気絶できるんだろうね)
荒れ狂う、黒色の水──光のない地下を通る水流にもまれていれば、その不条理に腹も立ってくる。だがそれでもなお兄は気絶したままだった。
あれから、落とし穴の底が突然開き、水とともに流れ込んでいったわけである。その先は、長い長い、真っ暗闇の水道──つまりここだ。激しい水流に押し流されながら、方向感覚も上下感覚もとうに失っている。兄が近くを流されているのは分かる(つまり、たまにぶつかるので)が、どのくらいの距 離 を流されたのかは見当つかない。ただどのみちそう遠くないうちに、自分の脳が決定的に酸素を欲してパニックに陥 るであろうことは予測に難 くなかった。
(ホントは、そのほうがいいんだ。どうせなにも見えないんだし......)
だが、そう思った頃に、彼はふと周 りが明るくなるのを感じていた。徐 々 に、行く手に出口のような光が見えてくる。
結局──
彼は意識を失うこともできないまま、その光の中に飛び込んでいた。
伝説を聞いたことはあった。
詳 しくは知らない──というのも、それは伝説 であって、歴史ではないのだから。キエサルヒマ史以前。一千年前。つまり、神話の時代。
が......
「──ンなわけが、ねえだろが」
慎 重 に言 葉 を選び──そのわりには口から出た言葉は自分でも短 絡 に思えたが──、オーフェンは舞 台 の上に群れる犬たちをできる限り観察した。ひとことで言えば、そして黒 魔 術 士 として最高の教育を受けた者らしからぬ言い方をあえてすれば、それらはみな一様に醜 悪 な姿をしていた。爬 虫 類 、いや両生類の容 貌 を持ちながら、全体的な特 徴 は犬なのである。眼球が半分飛び出し、コウモリのような羽根がある以外は。しっぽは短い。脚 は、遠目にだが指が分化していないように見えた。生物学に関するまともな知識などオーフェンはほとんど持っていなかったが──素 人 目 にでも判別できる。それらの生物が、自然界に在 るようなものでないことなど。
だがそれでもなお、彼はかぶりを振った。
「魔王、だと⁉ キエサルヒマ大陸に、神々なんているわけがないんだ!」
「その......通りで......ある」
魔王──とやらは、重々しくゆっくりと、言葉を吐 き出してきた。
「その程度の......知識は、あるの......だな」
と、右腕を肘 掛 けに立てて、その上にあごを載せる。
「汝 ら......は、どれほど保って......いる? 伝 ......承 ......を」
「知るかよ!」
オーフェンは、吐き捨てた。
「いちいちつき合ってられっか。てめえは知ってるのか? 製造室とやらはどうやって行けばいい!」
が──魔王は、あっさりとその問いを無視した。
「答......えよ」
「............っ!」
一 瞬 、憤 怒 で我 を忘れそうになり──だがなんとか自制して、彼はその場に踏 みとどまった。険悪な形 相 で、一気にまくし立てる。
「つき合ってられねえと言ったろうが! 製造室──」
「答え......よ
「だから──」
「答・え・よ......」
「............」
オーフェンは、ぐっと歯を食いしばって、次のせりふを呑 み込んだ。いつの間にか握 りしめていた拳 に、自分の爪 が刺さっている。
彼は残った意志力を総動員して、ゆっくりと拳から力を抜いた。
(どのみち、製造室の場所を聞き出さなければならないんだ......)
覚 悟 を決めて、息を吸う。玉 座 から悠 然 とこちらを見下ろしている魔王を見返しながら、彼は再度口を開いた。
「昔々、ドラゴン種族が神々から魔法の秘義を盗み出しました、神々は怒ってドラゴン種族を滅 ぼそうとしましたが、ドラゴン種族はこの大陸まで無 事 逃げてきました、神々は今でもドラゴン種族を追いかけていますが、大陸は見つかっていません、見つかったら大陸は滅びます!──どこまで本当だか知らねえけどな!」
「魔......王のことは、失伝している......のか?」
「万 物 の覇 王 スウェーデンボリーは、自分以外の神々を滅ぼして唯 一 神 になろうと目 論 んで──」
「もう......いい。汝の無知......知れた」
「なんだと⁉ 」
怒 鳴 りかえして──ふと、そんなことはどうでもいいのだということに気づく。オーフェンは腕を一振りすると、魔王に向かって凶悪な視線を放った。
「──まあいいさ。こっちは答えてやったんだ! そちらにも答えてもらうぜ──俺 の連れはどこにいるんだ!」
「通路番の......すること......我は......関知、せず......」
「なら、製造室はどこだっ!」
オーフェンは叫びながらその声を呪 文 にして、とうとう魔術を放っていた──輝 く光熱波が、一瞬にして舞台に突き刺さり、右端にいる犬の一頭を炎上させる。悲 鳴 もあげずに崩 れて炭 になるそれを指さして、彼は続けた。
「俺は怒ってんだよ。とっとと吐かねえと、次はてめえが消し炭になるか分かんねえぞ」
「我に......脅 し......無意味」
魔王は、あくまでのろのろとした口調のままだった。
「我は......主命を......受 諾 するのみ......」
「てめえらはそればっかりだ」
いらいらとオーフェンは、唇 を嚙 んだ。らちがあかない。
「もういい。自分で探すさ」
くるりときびすを返し、彼は乗ったままだった客席から通路に飛び降りた。駆 け出して、出口に向かおうとする。と──
「いい......のか?」
魔王が、背後からつぶやきかけてくる。一瞬、無視しようと思った。が、立ち止まらざるを得なかった。気にしないわけにはいかない──『いいのか』とくれば。
「......なにがだ」
オーフェンは立ち止まり、肩越しに舞台を見やった。魔王は一歩だに動いていない。消し炭にされた犬も、くすぶって痙 攣 している以外には、その他の犬も動いてはいない。
魔王は目線で、客席の一方を示した。蒼 い瞳 が、少し離れた客席を映 す。それが見えたわけではないが。
その視線に沿 って、オーフェンも視界を移動させた。思わず、声が漏 れる。
「マジク!」
黒ずくめの格 好 をした金髪の少年が、ぐったりと座席のひとつに座 らされている──うずくまるような姿勢をしているため、今まで気づかなかったのだ。少年は声を聞いても、動こうとはしなかった。どうやら意識がないらしい。
「ここに転移させられていたのか......また精神支配されてやがる」
忌 々 しい心持ちで、彼は毒づいた。ここ数か月で常 軌 を逸した進歩を示した(もっとも本人に自覚はないようだったが)マジクだが、いくらなんでも精神支配に対抗できるような訓練はしていなかった。
(させときゃ良かったな)
無茶なことを考えながらオーフェンは、マジクが座らされている座席へと駆 け寄っていった。近くではないが、さほど離れてもいない。ほどなく、生徒のもとにたどり着く。
抱 え上げると、少年の身 体 は力なくぐったりとしている。目を開いたまま昏 睡 状態に入ったようでもあった。ただ精神支配の影 響 を受けたのであれば、そう簡単には目を覚まさない。
「その少年が......最初に......来たので、公演の......準備を......していた、のだ......」
魔王の声が、舞台から聞こえてきていた。はっと顔を上げて、聞き返す。
「公演だと? なにを言ってるんだ⁉ 」
いらだたしくオーフェンは、舞台に向かって怒鳴りかえした。魔王はうなずきもせず、ただ棒読みに続ける。
「であるから──『魔王』だ。真実を伝える、戯 曲 『魔王』......」
「じゃあ、てめえは......」
「そう。我は......魔王スウェーデンボリーの......役を負う......者......」
「た──」
絶句してオーフェンは、気を取り直すように咳 払 いした。呆 れ声で続ける。
「ただ、そんな公演をするために、天人はわざわざこんなでっかい『地下劇場』とやらを作ったってのか⁉ 」
「地上......では、駄 目 ......なのだ......」
「......なんで」
きょとんと聞き返す。と、魔王がふと、ほおづえしていた手から顔を上げた。
魔王は淡 々 と続けた。
「人間......には観 られては......ならぬ。真の戯曲『魔王』の役目なれば......そして」
「......そして?」
漠 然 とした悪 寒 を覚えながらオーフェンは聞き返した。マジクの身体を抱えて、出口に駆け出せるよう体勢を整える。と──魔王が告げてくる。
「知識を受けるに......相 応 しくない者は......排 除 される。それも知られては......ならぬ」
瞬間。
ぎぃ──と耳 障 りな音を立てて、出口の扉 が開いた。両開きの、かなり大きい扉である。幅 三 メートルというところか。出口はそこひとつしかなく、さもなければ二階席まで飛び上がるしかない。
彼がとっさに、そんなことを考えたのには理由があった──
開いたその出口には、先刻の巨大人形がずらりと並んでいたのである。
◆◇◆◇◆
「ああ神よ、わたしは幸せです。死してのちも、あなたに会えない」
「............?」
どこからか聞こえてきたその言葉に、クリーオウは眉 をひそめた──意味が分からなかったことは問題ではない。気に入らなかったのは、死んでまで神様に感謝することはないではないかということだった。それこそ、どうでもよかったかもしれないが。
彼女は目を閉じていた。無論なにも見えない。ひんやりと固いものがほおに当たっている──その感 触 から彼女は、自分がうつ伏せに倒れているのだと気づいていた。石の床 である。少し湿 り気があって、起きたら顔に跡 が残っているであろうことは想像に難 くない。そのことが一層、いらだたしさを助長する。
だが、知ってか知らずか、その声がひとりで続ける。
「わたしは背 教 者 です。背 いた者として、すべてを生きてきたのです。あなたに会えば、わたしは破 滅 するでしょう。あなたを愛しています......」
(......うるっさい死人ね......)
いらいらと彼女は独 りごちた。
(まったくこっちは......頭の中がわんわん騒 いでるっていうのに......)
恐らくこれは二 日 酔 いだ──と、彼女は勝手に決めつけた。首がぐるぐると回転しだしたら悪 霊 の仕 業 だろう(と彼女は確信していた)が、首はそのままで、脳みそだけが激 烈 に回転するということはあり得る。少なくとも、十三歳の誕 生 パーティーのときに悪ふざけが過ぎたときにはそれがあった。だがそのときには、彼女の姉も部屋の隅 で昏 倒 し、介 抱 する父親のズボンに嘔 吐 物 を引っかけたりしたのだから、決して彼女の負けではなかったはずだ......
(──って、そんなことはどーでもいいのよ、別に)
自分で自分にそう言うと、うっすらと目を開く。
視界を覆 うのは、白。多少の水分に翳 った色の、白色である──つまり彼女が今倒れているこの場所には、明かりがあるということだ。
(通路を歩いていた......はずなんだけど......)
激しい頭痛の中で、彼女はなんとか気を失うまでの記憶を探 り当てた。歩いていたのだ。オーフェンがいきなり先行し、それを見張っていたように人形が出てきて──
そのまま意識を失ったのだ。
(じゃあひょっとして、わたしって本気で死んじゃったのかしら......)
ぼんやりと考える。確信はなかったが、早く結論を出さないとまずいことになるかもしれない。死んだときに自分が死人であることを自覚できていないと、いかなることよりも過 酷 なことになるのではないかという気がしたのだ。
(ひょっとして、身 体 なんか半分ぐしゃぐしゃになっちゃってるのに、奇 跡 的に生きてたりしてね。って、ホントにそーだったらどうしよう)
ふと猛 烈 に不安になり、右手を一度開き──そしてまた閉じてみる。かなりはっきりとした手 応 えがあった。少なくとも右手は無 事 らしい。
左手でも同じことをしてみる。同様、手のひらが血で濡 れているといった感触もない。
とりあえず安心して──どうやら上半身は無事のようだから──クリーオウは、そこでようやく完全に目を見開いた。同時に、起き上がる。と、頭の上から、やたら軽いなにかがころりと転げ落ちた。
「......レキ?」
声をあげる。黒い獣 の赤ん坊は、完全に逆 さまになって床に転がってから、なんとかまたまともな体勢へと持ち直した。両前 脚 をぴんと伸ばし、こちらを見上げている。緑色の瞳 で。
「そっか......いっしょにいてくれたんだ」
とつぶやいた瞬 間 ──すっと、身体から抜け落ちるように頭痛も消える。レキが癒 してくれたらしい。
「ありがと♪」
感謝しながらクリーオウは、すまし顔をした子ドラゴンを抱え上げ、頭の上に乗せた。
そして、左右を見回す......
「......あれ?」
きょとんと声をあげて、彼女は凍 り付いた。
最初に気づいたのは、部屋の中の異様な雰 囲 気 ──照明である。真っ白の、冷たい輝 き。太陽の光でもなければガスの灯 でもない。この光の色は見たことがあった。
魔 術 の光である。
見上げると天 井 近くに、光の球 のようなものが浮かんでいる。その中心にはちらちらと、文字のようなものが明 滅 していた。天 井 はかなり高く、大 人 が肩車をしても手がとどかないだろう。部屋の広さは、四、五メートルの正方形。その隅 のひとつに、彼女は倒れていたのだ。
そして、部屋の中央に手術台のようなものがあり──その上に女の身体が、無 造 作 に置かれている。
「......げ」
うめいてクリーオウは、身を退 いた。また死体だと思ったのだ。
──が、少し見れば、それが呼吸をしていることはすぐに知れた。
「メッチェン?」
訝 しげに彼女はつぶやいた。メッチェンが台に乗せられている。生 命 に別状はないようだった。ただ、言動がまともではない──精神支配とやらの影 響 かもしれない。
「なにを話せばいいのでしょう? 夢の中で聞いた声を? ですがわたしは、夢見ることなど望まなかったのです。わたしはあなたにお会いせずに、あなたのもとへと参りたいのです......」

メッチェンは一番上で仰 向 けになり手など組みながら、ぶつぶつとぼやいている。
「......なに言ってんの?」
しごく素 朴 に、彼女は聞いてみた。メッチェンははらはらと涙をこぼしながら、静かに答えてくる。
「それが叶 うのですね。わたしは喜んでもよろしいのですね。犬のように感激してもよいのですね......」
「なんで感激なの」
クリーオウは口をとがらせて聞いてみたのだが、メッチェンは取り合う気 配 もなく──顔をこちらに向けすらせずに、やはり涙をこぼしながら、
「わたしが殺 めた者は、あなたの敵。あなたの顰 み。ですがあなたは怒 りを止めない。わたしには分かっていたのです」
「......そっかなー......それってわがままじゃない?」
「わたしは涙をこぼしました。痛みなど知らずに。汚 れることをわたしは知っていたのです。汚されたときもそれを知っていたのです......」
と、彼女。
とりあえず、ほうっておいたほうがいいだろう──あっさりとそう判断して、クリーオウは再び部屋の中を見回した。あたりはかなり乱雑に散らかっていて、彼女がすぐにメッチェンのところに駆 け寄らなかったのも、正 直 、足の踏み場がなかったからだった。床には金 槌 やら意味不明の器具やら、あまり手入れをされていない錆 びたノコギリまで適当に転がっており、注意しないとかなり危険そうではある。彼女が倒れていた場所だけが、ぽっかりと開いている感じだ。
(なんのための部屋なのかしら......)
当然と言えば当然の問いが、彼女の胸の中に浮かんだ。が、それよりもさらに当たり前の問いのほうが、遅れて浮かんできたくせに優先順位に割り込んできた。
(んで、出口は......?)
部屋には扉 らしきものが、なにもなかったのだ。天井の真ん中に、空気取りのためか四角い穴が開いているから出口にはなるのだろうが、飛びついて中に入れる高さではない。
「なんだか、よく分かんないわね」
顔をしかめてつぶやくと、台の上からメッチェンが答えてきた。
「さもありなん。わたしは死んだのだもの」
「............」
本気で死んじゃったのかしら──あまり緊 張 感 なく考えながらクリーオウは、つま先で床のがらくたをかき分けた。危険なものは結 構 あるのだが、いまいち武器になりそうなものは見あたらない。実際に身に危険を感じているわけではなかったが、丸腰というのは心 許 なかった。
「なくしちゃった荷物があればいいんだけど──ま、仕方ないわね」
妥 協 して、一番近くに落ちていた短剣のようなものを拾 い上げる。ようなもの 、というのはそれが、まったく機能的な形状をしていなかったからだった。朱 色 の鞘 に収められて、柄 があり、多分鞘の中には刃だってあるはずなのだから、短剣には違いない。とはいえその柄は奇 妙 な円 錐 形 で、下にいくほど太くなっている。丸い柄などただでさえ握りにくいだろうに、これでは満足に扱 えたものではないだろう。鞘は、まあ柄に比べればまともだが、それでも儀式用──それもなんだか外 道 ──を連想させるようないびつな形をしている。一目見て彼女が思い浮かべたのは、学校のグラウンドの隅 にあった、春先にカエルが大繁 殖 する濁 った池だった。形がよく似ているのだ。
刺 すことにも斬 ることにも向きそうにない。ひょっとしたら、柄付きの雲 形 定 規 なのかもしれないが、そんなもの聞いたこともなかった。
無 造 作 に、鞘から刃を引き出してみる。結局のところ刀身も鞘と同じ形だった──いよいよもって救いがたい。もしや刀身だけはまともな形ではと期待をかけたのだが。刀身は金属製──ただし鋼鉄とも銀ともつかない色の金属である。表面にはびっしりと細かく、不 気 味 な文字が刻 み込まれている。
(さすがにお父様のコレクションにだって、こんなヘンなのなかったわよ)
思いながら、刀身を頭の上に掲 げて、レキに見せてみる。
「ひょっとしてあんた、これ読めない?」
が、レキは別に興 味 なさげに身じろぎするだけだった。くああ、とあくびをしているのが伝わってくる。
と──
「ディープ・ドラゴン種族がなにゆえ......声を出さぬか、考えつかなかったのか......?」
突然声をかけられて、びくりと彼女は背筋を伸ばした。あわてて、あたりを見回す。が、部屋の中にはそれらしき声の主 の姿はない──メッチェンはひとりでぶつぶつ言っているだけである。
「誰 ⁉ 」
彼女は短剣を構えながら、声が聞こえてきたと思える方向に向き直った。声は、ゆっくりと続ける......
「太 古 から声を持たなかったわけではない......彼らは、言 葉 を失ったのだ。それと同時に、言語も、文字も。魔術による念話の能力を持っていなかったとしたら、彼らは種族としての文化も、なにもかもを失っていただろう......文字など読めるわけがない。それにそれは、我々の 文字だ」
「え......?」
クリーオウは言葉を失って、身 体 を硬 直 させた──その声の内容に、ではない。正 直 なところ、そんなことは半分も聞いていなかった。彼女を絶句させたのは、彼女が見定めたところにあるがらくたの山から、腕が突き出していたから、である。
しかもその腕に彼女は、見覚えがあった。
ずっ──といったん力を入れるように震 えてから、がらくたの中から腕がせり出してくる。細くて冷たそうで、関節だけが異様に膨 れた腕。硬質で滑 らかで、しなやかでぎこちない、人間にあらざる腕......
「さっきの人形! こんなところに」
彼女は、一歩退 きながらうめいた。背中が、軽く壁 に当たる。腕は──じょじょに這 い出しながら、淡々とした声を出してきた。
「壊 れたままなんだよ」
人形はもう既 に、頭を出していた。途中で折れているもう片方の腕も、がらくたをはねとばしながら露 出 する。見ているうちに、そのがらくたの山から上半身だけを突き出してくるような格 好 になって、それはにんまりと笑ってみせた──
「直すには人間が要 るんだ......」
と、両手を使って、虚 空 に文字を描きはじめる。
「運が悪かったな。君が意識を取りもどす前にわたしが蘇 生 していれば、恐 怖 など感じずとも良かったのだ......」
「レキ!」
彼女が叫ぶと同時──人形の身体が、衝 撃 に吹き飛ばされた。床から弾 けとび──壁にぶつかって、また落ちる。確かにその人形には、下半身がなかった。片腕も折れている。が、人形は倒れた場所からあっさりと身を起こした。
「この程度では......効 かない」
人形の描く文字が、銀色に輝 きはじめる。
「このっ......!」
クリーオウはあわてて、改めて身構えなおした。手にした短剣をそちらに向けようとし、そして手を滑 らせて──
床に落とす。短剣は、その無意味な柄 の円 錐 の底面から床に落ち、モニュメントのようにそのまま直立した。だが、どのみち人形は部屋の向こう側にいるのだ。短剣など、役にも立たない。
「レキ、助け──」
彼女は叫びかけたが、それよりも人形の手の中から、光の文字が飛び出すほうが早かった。文字は部屋を横切り、かなりの速度でこちらへと飛んでくる。
(まずい⁉ )
思わず頭を抱えて、しゃがみ込もうとした。そのとき。
ぶわっ──と、シートを広げて振り回したときのような音が聞こえた。同時に、目の前に、光の壁のようなものがそそり立ち、飛んできた光の文字を受け止める。文字は壁に当たると、あっけなく砕 け散った。
「え......?」
呆 けたような声で、クリーオウはうめいた。壁は──よく見ると、すべてが文字の集合である。すべてが細かい光の文字なのだ。形はどこかいびつで、しかもその形状はどこかで見たことがある。
「さっきの......短剣?」
つぶやきながら彼女は、足 下 に視線を落とした。床に立った短剣の刃から、その刃に刻 まれている文字を幻 灯 で映 し出しているような形で、光の壁が発生している。どうやら、そもそもそういった道具であるらしい。
「ちっ......使い方を、知ったか」
人形が、舌打ちするのが耳に入る。と、それでクリーオウは我 に返った。
「レキ!」
と、叫びながら頭をそちらに向ける。人形を指さしながら、彼女は続けた。
「あの人形を、完全に破 壊 して!」
その命令に応じてだろう──頭の上でレキが、顔を上げたのが気 配 で伝わってくる。次の瞬 間 には、人形の身体は急に不自然にねじれ、ひしゃげ、そのまま砕け散った。見えない巨大な手で押しつぶされるように、声もなく潰 れる人形を見 据 えながら、クリーオウはそれでもなお緊 張 は解 かないまま、しばしその残 骸 に向き合っていた。が......数分ほどもそうしてから、ようやく安 堵 の息をつく。
「掘り出し物だった......かもね」
ぽつりと独 りごちて、床から短剣を拾 い上げる。と、光の壁はふっと消えた。床に立てたときのみ作動するのだろう。
「ひょっとして、ほかにもこんなのが置いてあるのかな、この部屋。っても、あまり長 居 したくはないけど......」
短剣を鞘 に収めながらクリーオウは、きょろきょろと周 りを観察してみた。それらしいものもいくつかあるようなのだが、よく分からない。結局短剣だけを無理やりポケットの中に押し込んで、彼女ははたと気がついた。
「メッチェン! さっきの聞いてた⁉ 」
と、彼女のほうを見やる。
「なんだかここって、わたしたちを材料にして人形を直すところみたいなんだけど──」
言いかけて、彼女は動きを止めた。思わず顔がひきつるのが分かる。
メッチェンは既 に、泣き疲れて寝息を立てていた。
「ったく......もう......」
どっと疲れが押し寄せてきて、クリーオウは肩を落とした。
「なんだか、しばらく目を覚 ましそうにないし──こうなったら、わたしだけいったん脱出してから、助けにくるのが現実的かしらね」
いささか自分に都 合 良く分 析 してから、天 井 の穴を見上げる。
細いあごに手を当てて、したり顔でつぶやいた。
「空気穴があるってことは、外に続いているってことよ。しかも天井に空気穴ってことは、ここは地下ってことよね。落ちてきたんだから、十分に論理的だわ」
──と、それを言ったきり、沈 黙 する。
「............」
かなりの時間考え込んでから、ようやく彼女は思い当たった。そんなことが分かったところで、脱出する手段がない。
「え〜と......」
こほん、と咳 払 いしてから、目を閉じて腕組みし、独りごちる。
「断 っておくけど、別にこれはなんとかのひとつ覚えとか、苦しいときのなんとか頼 みだとか、そーゆうわけではないのよ。合理的にいこうと思うと、これが一番手っ取り早いと判断したからであって。美学のために無 駄 な苦労を背負い込むというのは、楽しくないし、実は美しくさえないと思うのよね」
誰 にともなく説明してから、ぱっと目を開ける。それでもなお照れるように左右をうかがって、彼女は小声でつぶやいた。
「レキ......わたし、この部屋から出たいんだけど」
刹 那 ──視界がぶれて、耳の中でなにかが弾 けるような感 触 を覚える。意識を失ったのだろうが、それも一 瞬 で、まばたきしたと思ったときには、彼女の前に新たな視界が開けていた。
そして、身 体 を包む落下感。
「ひあああああっ⁉ 」
あわてて彼女は、手足を突っ張った──彼女とレキが姿を現したのは、縦 穴 のようなところだった。あまり広くない、彼女が手足を突き出せばそれで身体が引っかかるような縦穴で形は四角。壁 の色、そしてその穴の大きさにも、そこはかとなく心当たりがある......
足を壁に押しつけ、足の裏と腰の後ろとで自分の体重を支えながら、彼女はゆっくりと穴の下を見下ろした──そして、半眼になる。穴の底には、妙 に気持ちよさそうなメッチェンの寝顔がうかがえた。
つまるところ、例の空気穴の中に空間移転させてくれたのだ。レキは。
「確かに、部屋の外には出られたけどね......」
ため息をついて彼女は、なんとか全身の筋肉を総動員し、ずりずりと穴の上方に向かって登りはじめた。見上げてみるに幸い、縦穴は三メートルほどで、ともかくも上の部屋に出られるらしい。体力が保 つかどうかは疑問だが。上に出られたところでロープでも見つけて垂らしてやれば、残ったメッチェンも気がつき次 第 、脱出できるだろう。
「まあいいわ。わたしが負けとく」
頭の上でのんびりしているらしいレキを、目玉だけ動かして見上げながら、彼女はぶつぶつと独 りごちた。背中で身体を支えるのには髪が邪 魔 なので、身体の前に持っていきながら、
「わたしって結 構 、我 慢 強 いわよね」
◆◇◆◇◆
ごつん、ごつん、ごつん、ごつん......
単調なリズムに、なにかを思い出しそうになる。この世のすべてはリズムだと、誰かが本に書いていたような記憶が、ドーチンにはあった。というより、誰も本に書かなかったような言 葉 があるだろうか? といった気もしたが。
だがリズムだ。歯痛も、呼吸も、階段を転がり落ちる時に聞こえるあの「ごつ」という鈍 い音も。
そして今、彼に聞こえているのは、定期的に頭を打っている軽い振 動 だった。
目を開けてみる。と、最初に見えたのは、ザリガニである。
ゆっくりと起き上がる。ハサミで鼻をつまんでいたそのザリガニが、ぽとりと落ちた。ぼんやりとした視界がはっきりしてくるにつれ、先ほどから聞こえていたリズム──自分の血管の脈打つ音も、少しずつ遠ざかっていく。
完全に意識がもどって、彼は独りごちた。
「ここ、どこなんだろ」
四角い部屋である──というのが、最初に思いついた感想だった。どんな部屋だってたいていは四角いのだが、それが極 めて分かりやすい場所だったのだ。つまり、部屋の中になにも置いていないのである。それなりに広いが、それほどでもない。中央に幅 二 メートルほどの水路のようなものが通っていて、静かに水が流れている。ザリガニはそこに棲 み着いていたのだろう。水路のせいで湿 気 もだいぶあり──壁 も天 井 も床 も、カビで真っ黒になっている。
水路はこの部屋の中だけでも三段階の構造になっていた。まずは、入り口──かなりの勢いで水が入ってきている。床より一メートルほど上に設 えられていて、途中で途 切 れていた。途切れたところから、その下に受け口を広げている第二段階目に続くわけである。
二段階目は少し幅広のプールのようになっているが、水流がとどまってはいない。それはそのまま出口──三段階目まで続いている。
結局のところ、一段階目の入り口から流されてきて、二段階目に落ち損 なって床に落ちたらしい──ちなみにボルカンは、三段階目の出口のところに引っかかっている。まだ意識を取りもどしていないが、溺 れてはいないようだった。
「なるほどね。さっきの落とし穴の水が、ここに流れ込んできたってわけだ」
つまりここは、配水設備なのだろう。
(納 得 はできた。けど......)
ドーチンは、深々と嘆 息 した。それが分かったところで、できることがなにもない。人が出入りできるような扉 が、どこにもないのだ──三段階目の水路に飛び込む以外には。脱出はできそうだが、肉体から魂 が脱出する危険性のほうが大きそうではあった。
「やること、なくなっちゃったな」
もともとなにもやっていなかったという気もするけど、と思いながら、とりあえずザリガニを水路にもどしてやる。
「なんで出入り口がないんだろ。排水設備ったって、メンテナンスのために人が入れる通路は必要だと思うけどな......」
「空間転移ができる人形たちが整備するんだから、出入り口は必要ないでしょ」
「......は?」
いきなりの声に、ドーチンは振り返った──と、いつの間にか水路の縁 に腰を下ろして、黒髪の女が微 笑 んでいる。
少し迷ってから、ドーチンは聞いてみた。
「あの......さっきまで、いませんでしたよね」
「そうよ。こういう能力があるから、出入り口は必要ないの。彼らにはね」
と言いながら女は、手に持っていた黒い小箱を懐 にしまい込んだ。そして部屋の中をきょろきょろと見回し──
「ここも外 れね。適当に探してても駄 目 なのかしら」
「あのー......」
ドーチンは不安な思いで、声をかけた。女が、こちらに視線を転じる。
二 十歳 ほどだろうか──どこかいたずら好きそうな瞳 と、くせのある微笑の、そんな女である。人間で、どこか誰 かに似ている気がする。黒髪、黒ずくめ、いい加 減 なようで、どこか隙 のない、そんな身のこなし......
そんなことを思いながら、ドーチンは続けた。
「あなた、誰です?」
「わたし? わたしはあなたのこと知ってるんだけどね、いろいろと。のぞき見みたいなことしてたからだけど、そのおかげでこの劇場にも来てあげたんだから、あなたの損じゃないわよ」

「......はあ......」
まるっきり答えになっていない答えを返されて、ドーチンは途 方 に暮れる気分になったが、それをそのまま言って彼女の機 嫌 を損 ねたくはなかった。
「で、なにをしてらっしゃるんですか?」
「まあね。キリランシェロが、わたしも知らないような遺 跡 を見つけてくれたもんだから、取り急ぎはせ参じたわけ。めぼしいものをあさっていこうと思ったんだけど、倉庫とかってシールドされている場合が多いから、うまく転移できないのよね......」
ぶつぶつと言いながら肩をすくめて──ふと、彼女は動きを止めた。
「な、なんですか?」
聞き返すが、なにも答えてこない。ただ、なにかを思いついたというように、まじまじとこちらをのぞき込んでくる。
そしていきなり、形のいい唇 を開いた。
「ひょっとしてと思ったんだけど、あんたたちキリラン──いえ、オーフェンから、この前なんか受け取らなかった? 本なんだけど。表紙の黒い、タイトルもなにもないやつ」
「......知り合いなんですか?」
「そうよ。ものすっごく親しい知り合い。で、本のこと、覚えがない?」
「もらってましたよ。兄が」
取り立てて隠 すほどの意味はなかろうと、ドーチンは軽く答えた。と、彼女の双 眸 に、してやったりとばかりに歓 喜 の輝 きが灯 る。
「で──その本、どこにあるの?」
「さ、さあ」
ドーチンは、かぶりを振った。
「受け取ったのは、兄ですから。兄さんが持ち物をどうしてるのかなんて、知りませんよ。読ませてくれって言っても、見せてくれませんでしたし」
「どこかに売り飛ばしたりしてない?」
「それも分かりませんよ。兄ですから」
その、兄ですから、にはいろいろな意味があったのだが、彼女に伝わったかどうかは定かではない。彼女は考え込むように首を傾 げたが──
やがて、にっこりと微 笑 んでみせた。
「あのね、君──というか君たち、わたしに雇 われてみるつもり、ない?」
「は?」
聞き返す──が、それ以上を聞き返す前に、彼女は言ってきた。
「いっしょにキムラックに行ってほしいの。それだけなんだけどね──報 酬 は破格よ」
彼女はそう言って、後ろ腰についているらしいポケットから、財 布 を取り出した。ぱんぱんとたたいて──振ってみせる。かなり大量の硬貨が入っているらしい音が、派 手 に鳴り響 いた。
刹 那 ──
「ちぇぇぇすとぉぉぉぉぉぉぉっ!」
奇声が、前を横切る。
すさまじいスピードで突進してきた黒い影が、彼女の手から財布を引ったくり──そしてそのまま、勢い余 って水路の中に落下した。ぶくぶくとあぶくの音とともに、水底に沈んでいく......
ボルカンだった。
「......なに? これ」
なにか別世界の生物でも発見したとでもいうような顔をして、彼女がぼんやりとうめく。ドーチンはため息をつきながら、静かに答えた......
「兄が、気絶したままでありながら本能で、お金に飛びついたんです」
「あっそう......」
幸い、彼女は深く追 及 してはこなかった。
「んで、オーケイなのよね?」
彼女の問いかけには答えなかった。水路の中に沈んでいるボルカンの手から、財布がはみ出している。財布の口から、きらきらした金貨が何枚も飛び出して、水底に沈んでなお輝いていた。
◆◇◆◇◆
「戯 曲 『魔王』......だと?」
舞 台 に背を向けて人形の群 と対 峙 し──オーフェンは、静かに聞き返した。抱きかかえているマジクはしばらく目を覚ましそうにないので、座席に置き直す。と、少し遅れて、舞台の魔王が答えてきた。
「それが我 らの......造られし目的......なれば......」
「たかだか、ンなことのためにこんな『地下劇場』とやらを作ったってのかよ。金と労力が有り余ってたんだな、天人ってのは」
皮肉を込めてオーフェンは毒づいた。が──
「あの時代......我らが造物主......には......余分な力など......残ってはいなかっ──た......」
「............?」
魔王の言 葉 に混じっていた、なにか今までとは違う気 配 を怪 訝 に思って、オーフェンは顔の片側だけを振り返らせるように、舞台のほうを肩越しに一 瞥 した。魔王は玉 座 に座 ったまま、小さな指をかざしてみせた。
その指を震 わせながら、続ける。
「だから彼女は......希望を叶 えることが......できなかった......」
「どういうことだ。この劇場が作られたのは二百年前だろう。天人は強大な魔 術 を有していたはずだ」
「呪 い......なれば......」
「呪い?」
意味が分からずに、聞き返す。
「彼女らは未来を奪 われていたのだ」
答えてきたのは、魔王ではなかった。あわてて、向き直る。
開け放しになった出口の扉 の前に、ずらりと並んだ人形のうちの一体、真ん中にいる人形が、口の端 を微 妙 に歪 めてみせる──どこか、嘲 るように。
「現 在 は魔術を扱 えても、いつか必ず消失する──そういった呪いだ」
「そしてそれは、あなたたちにも訪れることなのだ」
別の人形が、口を開く。次々に、また別の人形が続けた。
「ここは、それをあなたたちに警告するために作られた場所......」
「なら──」
と、オーフェンは口をはさんだ。
「俺 や、俺の連れを拘 束 する必要はねえだろうが」
人形は即 答 してくる。
「人間には 知られてはならないのだ。劇場の人形は魔術士をここに誘 い込み、我々は相 応 しい者だけをここに通す。そのための通路番だ」
「そして人間を連れてきたあなたには、知識を得る資格はないと判断した」
「だから──」
人形は次々に言ってから、突然沈 黙 した。みな一様に押し黙 って、うっすらとした笑 みを浮かべながら、こちらを通り越し──舞台のほうに視線を注 いでいる。
オーフェンもつられるように、再びそちらに向き直った。玉座の魔王は、そのすべての視線によって力を与えられたというように......顔を上げる。
「だから......」
最後の言葉を囁 いたのは、その魔王だった。同じ舞台にずらりと並んでいる犬たちが、のろのろと焦 らすように、舞台から降りようと動き出す。
「だから......汝 らを......生かして帰すわけには......いかない......」
「我は放つ光の白 刃 !」
オーフェンは相手の言葉を待たずに、最大威 力 で魔術を放っていた。轟 音 とともに光熱波が、不意を突かれた一体の人形の身 体 を呑 み込み、爆 砕 させる。
そして──
人形たちがいっせいに虚 空 に文字を描きはじめた。その光の文字ひとつを取っても、恐らくは破 滅 的 な力を秘めているはずである。古 今 、魔術文字 の威力に真っ向から打ち勝った人間の魔術士など、存在していない。
数十の人形が描く数十の破滅の文字を見 据 えて、オーフェンが考えていたのは、自分が負けるだろうという、かなり絶望的な確信だった。
(だが──)
こちらも魔術の構成を編みながら、胸 中 で叫ぶ。
(逃げることを含 めて、打つべき次手がなにもなくなったら──なんでもいいから全力を尽くす、それだけだ)
「我は放つ光の白刃!」
再度放った光熱波が、今度は標的のもとにとどきすらせずに消失する。人形が防 御 したのだろう。
(あんたが言ったんだ、先生。こいつが間違ってたら、あの世で殴 るぞ、おい!)
まだ眠っているままのマジクを抱えると、オーフェンは、場所を移動するため、一気に駆 け出した。
◆◇◆◇◆
「わたしは別にね、文 句 があるわけじゃないのよ」
ぶつぶつと文句を言いながら彼女は、空気穴を登っていた。
「ただ、か弱い女の子にこーゆう肉体労働を強 いるのは、世の中が狂ってると思うわけ」
と、壁 に押しつけた足と背中とで体重を支え、一息つく。
そしてまた、ゆっくりと登りはじめた。足場がないので登るのには集中力が要 る──そしてもちろん、体力もである。ある程度凹 凸 のある場所であっても、それが断 崖 絶 壁 であれば登 攀 は重労働だが、それが手がかりにすべき凹凸もなく、しかも縦 穴 の内側を登っていかなければならないとなれば、まともな人間の手には余 る。
実際クリーオウも、いい加 減 痛みがひどくなりはじめている腰に不安を覚えていた。無理な体勢でずっと体重を支えているのである。打 撲 程度ですめばいいが。
ついでに言えば、それまで気づかなかったのだが、なぜか足にたくさん浅い擦 り傷のようなものがついているようだった。さほど痛みはしないが、出血はしているので、いらだってくる。
「まったくもう。レキに頼むと、いまいち望んだ通りにコトが進むとは限らないし」
小声でつぶやきながら、必死に登る。
だが努力のかいあって、その頃にはもう既 に、穴の出口は近くなっていた。もう少し、手を伸ばせば穴の縁 に手がかかる。
「別にいいのよ。レキはまだ赤ちゃんなんだから、そんなに大きな期待はしてないつもりよ。でも食べ物出してって言っても出してくんなかったし、今はこーしてアスレチックみたいなことして。腰は痛いし疲れるし」
と、とうとう出口に──穴の縁に、手がかかる。ふう、と安 堵 の吐 息 をして、彼女は上を見上げた。
「この努力が無 駄 にならないことを祈るわ」
皮肉っぽくつぶやきながら、腕に力を込めようとする──
だが、それと同時に別のところにも余計な力が入ったようだった。ぶち、と呆 気 ない音を立てて、細いベルトが弾 けて切れる。
「え──?」
思わずとっさに、身体が動いていた──ちぎれたベルトを、両手でつかんでいる。ゆるんだジーンズが落ちないように、ひざも屈 めていた。
結果......
当然だが、彼女の体重を支えていたものが、すべて断絶される。
「きゃ──」
悲 鳴 をあげかけて彼女は、次に襲 いかかってくるべき落下感を覚 悟 し、目を閉じた。だが──いつまで経 っても、それが現れない。
「............?」
事態がよく分からずに、彼女は下を見やった。穴の下──がらくただらけの部屋ははるか下。メッチェンの寝顔もそのままである。
ぽつりと、彼女はつぶやいた。
「ひょっとしてわたし......空を飛んでない?」
飛んではいない。宙に浮いているのである。
縦穴の中で、落下もせずに宙に浮いて──釈 然 としないまま、彼女は半眼になった。原因はひとつしかない。ぽりりとこめかみをかいて、口を開く。
「レキ......もしかしたら、このままわたしを上の部屋に連れてったりできない?」
と、彼女は浮上しはじめた。ゆっくりと。
音もなく上昇し──ほどなく彼女は、穴を脱出していた。上の部屋に入り、少し平行移動して、床 の上に、ぽんと放り出される。
軽くしりもちをついて、特にその痛みのためというわけではないが、クリーオウは頭を抱えた。
「なんか......助かったのに、ものすっごく損をした気がする......」
そんなことをうめいているうちに、レキが頭の上から、床に飛び降りた。ころころと転がってから、こちらを見上げてくる。
「......分かってるわよ。別にあんたを責める気はないってば」
なんとなく答えて、レキの頭をぽんとたたき、クリーオウは顔を上げた。
そしてベルトを直しながら、部屋の中を見やる。
「あとは......歩いていけるみたいね」
ほっとしながら彼女は独 りごちた。腰 痛 に顔をしかめつつ立ち上がる。正面の壁 に、まともそうな扉 がついていたのだ。鍵 がかかっているかもしれないが、それはまあなんとかなるだろう。ひとつ覚えなり、苦しい時のなり、手段はある。
床に開いた穴──登ってきた空気穴の近くに縄 ばしごが積み上げられていた。穴 のすぐ縁 に、フックで固定されている。クリーオウはそれを軽く穴の中に蹴 落 とした。これでメッチェンが目覚めれば、勝手に登ってこられるだろう。
だが、それを待つよりも先に──
彼女はレキをまた頭の上に乗せ、ジーンズのポケットから例の短剣を取り出すと、両手にしっかりと構えた。深呼吸し──痛む腰をさりげなくさすったりしながら、扉のほうへと大 股 で歩み寄る。
(しなきゃなんないことなんて、だいたい決まってるのよね)
言葉には出さずに、独りごちる。
だいたい決まっているのだ──と、クリーオウは胸 中 で繰 り返した。今いるこの場所がなんであるか、なんのための施 設 であるかなど、カケラほどの知識も手がかりも持ってはいなかったが、それでもすることは決まっている。
どこかにいる(に決まっている)オーフェンをサポートするのだ。
ふわっ──
文字が触 れると同時、蒸 発 するように客席が破 壊 される。黒い塵 となって空気に混ざるそれらを尻 目 に、オーフェンはとにかく走りつづけていた。肩に抱 えて背中のほうにぶら下げられたマジクの頭が座席の背に当たったりして、かなり景気よくがんがんと音を立てているようではあったが、抱えなおしている暇 はない。
人形の数は、十数体というところ──ただ出口の外の通路にも、まだ待機していそうだった。隙 を見て逃げ出したところで、無 事 にすみそうにはない。しかも──
と、背後を見やる。舞 台 からは例の犬たちが、ゆっくりとした足取りでこちらへと押し寄せてくる。走ればもっと速いのだろうが、座席の間の通路がせまいせいか、それはしてこない。その数が、やはり十数頭というところか。
「我 は放つ──光の白 刃 !」
走りながら後方に手をかざし、光熱波を放つ。解 き放たれた光の帯 が、追 跡 してきている光の文字に触れる。爆発が起こるのだが、それでも文字は消えずに宙を飛んでくる。多少、速度は鈍 ったようだったが。
(一体ずつでも潰 していかねえと、たまらねえな、こりゃ)
座席の上を器用に走りながら、人形たちに目をやる。彼らが紡 ぐ魔 術 文字の群 は、こちらを追いかけてきているものだけで二十は越えていた。
(速度はたいしたことねえんだけど、防げないってのは致 命 的 だな。くそ。こっちの魔術は迎 撃 しやがるくせに......)
客席を、横断するように走りつづけている──ずっとである。そろそろ壁 が目前に迫 りはじめていた。
つまり、追いつめられつつある。
「やってみるか......」
つぶやくと同時、オーフェンは前方に思い切りマジクの身 体 を放り投げた──いまだ精神支配から目覚めていない少年の身体は、放物線を描く余 裕 すらなく、壁にぶつかって床 に落ちた。それでもなお目覚めないようだったが、それを待ってやるような暇 もない。オーフェンは身軽になった肩をさするようにしながら、その場に立ち止まり、背後へと向き直った。追跡してくる魔術文字がいくつも、休むこともなくこちらへと前進してきている。そして、その向こうに、文字の主 ──人形たちが横に並んで立っていた。出口を固めて。
「我は放つ──」
並んだ座席の上でスタンスを広く取り、オーフェンは右腕を掲 げた。左手をその右肩に添 えると、右手を下ろし、指先を人形へと向ける。一番右端の人形へと。
「光の白刃っ!」
虚 空 に生まれいでた白光は、指先から解き放たれると、標的を大きく右に外 れた──そして、そこで弾 けるように角度を変える。鏡に反射するように。
────!
光熱波は標的にしていた人形の側頭部に突き刺さると、そのまま爆発して炎 に化けた。噴 き上げる熱波が、人形の身体を包む。
──と、炎が消えたときには、人形の頭部は砕 けて消失していた。その一体が崩 れて、その場で動かなくなる。
ざわっ......と、人形たちの間に動 揺 のようなものが走った。こちらの眼前にまで迫っていた文字のうち数個が、灯 がかき消えるようにして、ふっと消える。恐 らくは、破 壊 した人形が放ったものだったのだろうが。
残った文字がこちらへと飛んでくるのを、横に跳 躍 してやり過ごしながら、オーフェンはつぶやいた。
「意表さえつけば通じないこともない。いける、か......」
ただ、問題は──
出口から、まだぞろぞろと入ってきている人形たちを見ながら、額 の汗をぬぐう。
(俺の体力がどこまで続くか、だな)
「我は砕く原始の静 寂 !」
オーフェンの解き放つ構成通りに、魔術は発動する。呼びかけに応じて顔を出したかのように、彼が指し示した空間が、一 瞬 歪 んだ。次いで、その空間を中心として光が広がり──そのまま大爆発を起こす。
大音響と振動に対して固く身を縮めながら、あえてその衝 撃 波 には逆 らわずに、オーフェンは後方に跳 んでいた。爆風に押されて、客席を数段分ほどは跳んだか。その爆発の跡 に──
破壊された人形の残 骸 が、ふたつほど残っている。
再び人形たちが、どよめきを発した。中にはあからさまに、放ちかけていた魔術文字を消してしまう者までいる。
「へっ──」
オーフェンは、不敵に笑いかけた。
「この程度の魔術、殺人人形には通じなかったけどな。てめえらは戦 闘 用にできていない分、攻撃も防 御 もいい加 減 なもんだ」
(これで、破壊した人形は三体......)
新たに魔術の構成を編 みながら、彼はちらりと舞 台 のほうも見やった。舞台から降りて近寄ってくる犬たちも、遅い足ながら、じわじわと接近してきている。そうそう無視してもいられなくなる時は遠くなさそうだった。
そしてもちろん、出口からは人形が入場し続けている。
(......また四体増えた)
舌打ちして、数える。
「増えるほうが早 えか。入り口を潰 すか?......いや」
意味がなかった。人形たちは空間転移の魔術を扱 えるのだ。
むしろいっせいに全員、この場に転移してきてしまうかもしれない。
(結局、少しずつでも減らしていくしかねえか......!)
彼は覚 悟 を決めると、両手を前方に突き出した。
「我は放つ光の白刃!」
不意を打たれた人形が、防御する間もないまま、白光を浴 びて爆 砕 する。
人形は、戦闘となればそれぞれふたつずつの文字を扱うようだった──宙を飛んでこちらを追跡してくる文字と、防御用の文字とを。防御のほうは人形の近くに浮 遊 していて、こちらの放った魔術をことごとく迎 撃 してくれる。それに加えて精神支配だが、これはどうというほどの威 力 はない。少なくとも、精神制 御 訓練を受けた魔術士を抵抗もさせずに支配下に置くほどの効力はなかった。それを自覚しているのか、この場においては、人形たちはそれを試 みてもこない。
殺人人形が、これとは比 較 にならないほどの精神支配能力と、さらには数百の文字を身体に内蔵しているようなことを言っていたのをオーフェンは覚えていたが、ここに並ぶ人形たちは、さすがにあれほどの戦闘能力は持ち合わせていないらしかった。
だが、数が多すぎる──
「我は築 く太陽の尖 塔 !」
炎 の渦 が、人形たちをいっせいに包み込もうとするが──途中で消失する。防御の魔術文字に干 渉 されたらしい。
「くそっ」
吐 き捨てて、その場から移動する。追跡してくる文字がかなり近づいてきていたのだ。
(きりがねえ。一気にやるか──?)
と、胸 中 で彼は自問した。見ると、例の犬たちもかなり間近にまで迫 っている。
「我は呼ぶ破 裂 の姉妹!」
衝 撃 波 で犬を牽 制 し、駆 け出す──マジクが倒れているほうへ。拡散した衝撃波で犬たちを仕留められるわけではなかったが、それでも一瞬の足止めにはなった。彼らが身じろぎするように歩みを鈍 らせるのを尻 目 に、飛 来 する魔術文字をかわしながら──駆ける。
客席は扇 形で、出口から入ってくる人形たちと、舞台から降りてきた犬どもとで、オーフェンははさまれる格 好 になっていた。その両者の間を、どちらにも近づかないように真横に走っているのである。客席の端、マジクの倒れている場所へ。
「────!」
背後を襲 う唐 突 な悪 寒 に身をすくませるようにして、オーフェンは声なき声をあげていた。本能的な警告に従って、身体を投げ出す──座席の下へと。客席のせまい隙 間 へと飛び込むように身体をねじ込んでから、肩越しに彼は天 井 のほうを見上げた。見えたのは天井ではなく、二階席の床。そして頭上を通り過ぎていく数個の魔術文字である。
魔術文字は行きすぎたあと、しばらく先でUターンし、舞いもどってきた。座席の間では、転がって逃げることもできない──
「このっ!」
オーフェンは毒づくと、前方の座席の背中を肘 で思い切り突き上げた。木製の座席が、みしっと音を立てて崩れる──さらに二度目、肘を打ち込むと、その座席の足がぽっきりと折れた。床 から外 れた座席をはねのけながら、できあがったその隙間へと転がり込む。
床ぎりぎりまで降下してきた魔術文字が、再度、彼の身体を捉 えそこねて通り過ぎていくのが見えた。
座席の下から立ち上がって、また駆け出す。ほどなくしてマジクのもとにたどり着いた。
「いい加減、目ぇ覚ませよな、おい......」
ぶつぶつ言いながら、少年の身体を肩に担 ぎ上げる。彼は素早く身を起こすと、舞台のほうへと向き直った。じわじわと近づいてくる犬たちを見 据 えて、座席の上を、今度は舞台のほうへと駆け下りていく。
にわかに、犬たちとの距 離 がせばまっていった──
伝説では、天人は人造人間を造り上げること、つまり生物新造を数多く試 みたという。だが完成したものは、まず生物ではあり得なかった 。彼女らの沈 黙 魔術でさえ、生命の創造は成し得なかったのだ。できたのは、擬 似 的な生物だけ......

しかもそれでさえ、人造生命の出 来 というものは、仮にどんなに精 巧 なものであっても、自然世界の生物と比較したら粗悪に過ぎた。言うなれば、自然の選 択 に比して、あまりにも安 直 なコンセプトしか持つことができなかったのだ。
そのせいなのか、犬たちの動きにはろくな知能が感じられない。進むことと飛ぶことと攻撃すること。それをランダムに選んでいるようなぎこちなさがあった。外面だけではないのだ──天人の力が及ばなかったのは。
その犬たちに向けて、空 いている左腕を振り上げる──
「我は弾 くガラスの雹 !」
「────!」
脈 絡 なく彼らの身体を縛 った力 場 に、吹き飛びこそしないものの、犬たちがその場にばたばたと倒れ伏す。オーフェンは倒れた彼らの間を、全力で走り抜けた。犬にはさすがに魔術文字を扱 う能力はないようだったが、それでもどんな特 殊 能力があるか知れたものではない。毒でも持っていれば致 命 的 であるし、なんにしろ飛びかかられたりする危険は避けたかった。
結局、なにごともなく突破する──
オーフェンは犬たちを通り過ぎてからなおも舞台へと駆け寄り、それから振り向いた。のろのろとした動作で立ち上がって体勢を立て直している犬の群 。そして、出口つまり客
席の最後方にずらりと並んでいる──いつの間にか数十体は立っている、人形たち。
さらに振り仰 ぐと、二階席が見える。
「ほほう......」
背後から魔王のつぶやきが聞こえてきていたが、オーフェンは無視して叫んだ。
「我は駆ける天の銀 嶺 !」
瞬 間 、身体の重さがゼロに近いところまで消失する。
オーフェンは床を蹴 ると、十メートル近く上にある二階席に飛び乗った。そこで魔術の効果が終わり、体重が復活する。マジクを抱えたまま、彼はきつく目を閉じると、大規 模 な魔術のための複雑な構成を編みにかかった。
「あの者を......止めよ......」
魔王が、配下の人形たちにだろう、命令しているのが聞こえる。
オーフェンはゆっくりと目を開いていった。薄くぼやけた視界に、一階席と相 似 形 に、扇 形 に広がる座席の群が映 る。その座席の最後列に、ふっ──ふっと、たいした物音も立てずに人形が二体、空間を転移して現れるのも見えた。
が──
「遅 え!」
オーフェンは左腕を振り上げると、高らかに叫んでいた。
「我が左手に冥 府 の像!」
その刹 那 、彼の左手に、小さな黒い渦 の塊 のようなものが現れる──
直径は数センチ。音もなく、炎 のように揺れるわけでもなく、ただ存在を始める。重力体でも、ましてや物質でもなかった。それはただの情報、因 子 でしかない。それ自体がなにか作用を持つのではなく、一種の引き金なのだった。
(チャイルドマン教師の、第一の最 秘 奥 ──〝物質の崩 壊 〟)
彼は左手を振り下ろした。
〝因子〟が、指先から解き放たれて、人形の一体に向かって飛んでいく。空間転移の直後で、防 御 はできなかったのだろう。人形は一撃食らうことは覚 悟 して、その因子を無視し、攻撃のための文字を放とうとしたようだった。
──そしてそれが、裏目に出た。
因子は人形に触れると消失した。触れて消失するだけで引き金としての役割は終わる。
因子が消失した瞬間、人形の身 体 に異変が起こった。なんの前触れもなく、人形の身体の半分近くが、えぐり取られたように分解される。あっと言う間に周囲の空気が帯電し、あちこちで火花が散った。すべては一瞬のことである。最後に──
爆発が起こった。閃 光 が視界を埋 め尽 くす。鳴 動 と衝 撃 が五感を圧倒し、オーフェンはマジクを抱きかかえたまま身体を丸めて防御姿勢を取った。そのあとは成り行きに任 せて、考えることをやめる。
炎も起こったはずである。全身に激痛が走った。呼吸ができなくなる。だがその苦痛すらも、一瞬のこと──
熱を感じなくなり、オーフェンは目を開いた。爆発は──人形は無論のこと、二階席そのものに甚 大 なダメージを与えていた。これだけの威 力 ならば、魔術文字で防御された壁 であろうとひとたまりもない。爆心から円 弧 を描いて、座席がすべてなぎ倒されている。床にも大きな亀 裂 が生じて、特に爆心から壁にかけては深い裂 け目が縦 横 無 尽 に走っていた。ぐらり、とゆっくり大きく、二階席の床が、沈むように揺れる。
(狙 い通り......か)
オーフェンは独りごちながら、身構えた。二階席が──
落下を始める。
落下の速度は、それほど速くはなかったろう。が、それでも人形が転移の文字を描く時間はなかったはずだ。衝撃を予想して身を固め......
閉じる扉 のごとく、二階席が一階の大半を押しつぶしたのは、すぐあとのことだった。
床といっしょに落下して、かなり強くしりもちをついてから、オーフェンは起き上がった。マジクは脇 に置いて、自分だけ。めちゃくちゃに破 壊 された周囲を見回してみる。位置的に、出口あたりに並んでいた人形はすべて下敷きになったはずだった。そして恐らくは、犬の群も。
「勝った......のか?」
ほとんどがれきの山と化したその地下劇場で、オーフェンは拍 子 抜 けしたようにつぶやいた──が。
「それほど......甘くは......ない」
無傷だった舞 台 の上から、変わらず玉 座 に座 ったままで、魔王が静かに告げてくる。
そちらに向き直ると──背後に、なにか気 配 が現れるのを感じた。肩越しに一 瞥 すると──転移に成功したらしい人形が数体、出現している。
注意はそちらに向けたまま、オーフェンは舞台の魔王へとうそぶいた。
「だが──六体。なんとか勝てねえ数ではなくなったな」
「見 事 な......手並み、だ」
と言うほど感動はしていない声 音 で、魔王。
「だが......頭は、良く......ない」
「なんだと!? 」
拳 を握ってオーフェンは、そちらに詰め寄りかけた。が、魔王がふと、右手を震 わせながら挙 げるのを見て──立ち止まる。
「自 らやるってのか?」
だが、魔王は答えない。ただ挙げた右手の指を、ぱちんと鳴らしてみせた。
と──
玉座の横に音もなく人形が──自ら『通路番』と名乗った大型の人形が一体、現れた。
「七体目か」
そちらに近づくのは中止して、オーフェンはうめいた。
だが現れた人形は、いきなりこちらに背を向けた。訝 しく思いながら眉 根 を寄せて──が、次の瞬 間 にはその眉が、びくんと跳 ね上がった。
人形の背中が、クリスタルガラスのように透明に変じている。そしてその内側に、十字のポーズでメッチェンが囚 われていた。
「人 質 ......!」
苦 々 しく吐 き捨てる。
が、魔王は即 座 に否定してきた。
「それ......は、正確では......ない」
と右手を下げる。
「汝 を......処分......したあと、この人間も......殺すゆえ......」
「お前らの目的は、なんなんだ! いったい!」
破れかぶれになってオーフェンは叫んだ──両腕を投げ出し、目つきを傾けて魔王をにらみやる。
「全然分からねえ! 魔 術 士 には伝えなければならないことがあって、人間は駄 目 で、人間を連れてきた俺 は駄目だと!? ──納 得 のいくように説明してみろよ!」
一気に吐 露 して、そのまま硬 直 する。荒れた呼吸を整えながら、彼はその答えをじっと待った。崩 れた劇場の中で、魔王はただ、泰 然 としている......
「真の戯 曲 『魔王』の......目的......なれば」
その声にもまた、乱れはなかった。
「我は......主命を......受 諾 するのみ......」
「う──」
刹 那 、もう既 に考えられることはなにもなかった。
「おおおおおおおおっ!」
自制を失い──それを止めようともせず、オーフェンは絶 叫 していた。その雄 叫 びを、そのまま呪 文 とし、ごく単純な魔術の構成を解放する。
玉座とこちらとの距 離 は、舞台の高さも加えて、五メートルというところ。その間を直線でむすんで、そこに猛 烈 な熱波が生じる。膨 れ上がる光、自らの身 体 をも打つ放電に、オーフェンは苦 悶 のあえぎを漏 らした。雄叫びと苦悶とが混じり合い、悲 鳴 と化して喉 に激痛を走らせる。
「おおお──っ!」
声が途 切 れると同時──
体力も尽 きて、魔術が霧 散 した。が、光が消え、衝 撃 波 が舞いあげた埃 が散って、見えたのは、無傷の玉座である。
魔王は微 動 だ にしなかったようだった。
「我は......攻撃の......ための文字を......与えられては......いないが......」
ゆっくりと、告げてくる。
「何 人 も......我を......止めることは......できず。それが......我の役目......」
「く......くそ──」
力つき、その場にくずおれて、オーフェンは毒づいた。全身から汗が噴 き出しているのが分かる。
すぐそばに仰 向 けに倒れているマジクの顔を見やり、力の入らない腕で床 をつかむ。
「ンな簡単に──」
「──やられちゃうのは、わたしをないがしろにしてるせいなんだからね!」
「............!? 」
ぎょっとして──ほっとしてではなく──オーフェンは、顔を上げた。聞き違えなど起きるはずもない、もう聞き慣 れた少女の声。いつだってわけの分からないところから飛び出してくる、彼女の声だった。
舞台のそでから、金髪をはためかせて、クリーオウが飛び出すのが見えた。その頭の上に、張り付くようにレキがしがみついている。少女は走りながら腰溜 めに、妙 な形の短剣を構えていた。
不意をつかれて、人形たちも対応ができない。メッチェンを体内に取り込んでいる人形のもとに、クリーオウは滑 るように飛び込んでいった。軽く跳 躍 し、高く飛び上がるや、その短剣を人形の背中に突き立てる──

突進の勢いも加わった短剣は、鈍 い音を立てて深々と人形の背中に突き立った。クリーオウ自身は、人形の身体を蹴 って、身軽に飛び退 いている。二、三メートルほども離れただろうか──彼女はかん高い声で、叫んだ。レキを頭から下ろして、
「転ばせて!」
瞬間、子ドラゴンの目が見開かれた。
なんの抵抗もできずに、人形が背中から転倒する──と、杭 を打つようにその短剣の柄 が床に打ちつけられた。その衝撃か、人形の身体にひびが入る。
次に起こったことは、オーフェンにはよく分からなかった。ただ、いきなり短剣が光を放ち、光の壁のようなものを広げだしたのだ。亀 裂 を広げはじめた身体の中で障 壁 を展開されて、人形の身体はさらに大きくひび割れた──と、そこから完全に砕 け散るまで、数秒もかからない。
砕け散った破片の中から、メッチェンが転げ出してきた。意識はないが、無傷ではあるらしい。
クリーオウの行動は最後まで素早かった。レキを再び頭に乗せると、唖 然 としている人形たちを無視して、メッチェンの身体をひっつかむ。そのまま引きずるようにして、彼女はメッチェンといっしょに舞台から飛び降りた。手足の長さが違う分、メッチェンの身体が床にたたきつけられたようだが、まだ目は覚まさない。
そのまま──ばたばたとこちらに駆 け寄ってくるクリーオウを見ながら、なんだか馬 鹿
馬 鹿 しくなって、オーフェンは吹き出した。
「へっ──ったく、俺にはできねえことを易 々 とやってくれるんだからよ......」
「オーフェン! 大 丈 夫 !? 」
ぼとっ、と無 造 作 にメッチェンを投げだし、クリーオウはこちらの顔をのぞくようにかがみ込んだ。と、マジクの存在にも気づいたらしい。
「なによ、まだ寝てんの? あんたって」
と、頭上の黒い塊 (器用に丸くなっていた)に合図して、言う。
「レキ、治 してあげて。あっちのいけ好かない女もついでにね」
言ってから、立ち上がる──
彼女は、きっと眼 差 しを強くすると、玉 座 をにらみつけた。腕組みし、小さな身体を精いっぱいいからせて、叫ぶ。
「あんたたちって、どーしてこーゆーこと、するわけ!? 」
「............?」
あんまりと言えばあまりにも端的な問いかけに、答える言 葉 も見つからなかったのか、魔王が困 惑 の色を浮かべる。
だがそんなことには構わずに、クリーオウが続けた。
「ベルトは切れるし背中は痛いし、人の迷 惑 考えなさいよ!」
と──
彼女はいきなり、振り向いた。素早く、そして強力に、背後に突き刺すような視線をやる。まるで彼女の一 瞥 がそれを成したかのようなタイミングで──こっそりと魔術文字を放とうとしていた人形が三体、粉 々 に消し飛んだ。
無論、それをやったのはレキであろうが。
「言っとくけどわたし、怒ってるんだからね!」
「ああ......なんだか分かんないけどごめんなさぁぁい」
ややうなされているような寝言を、マジクがうめきはじめるのが聞こえた。
だがオーフェン以外には聞こえなかったようだった。床 に這 いつくばったまま横を見ると、メッチェンが、小さくうめきながら立ち上がろうとしている。
ふたりとも、精神支配の影 響 からは脱したらしい。
「形勢......逆転、だな」
なんとか魔王までとどく震 え声で、オーフェンは告げた。
「どうする......? 魔王さんよ」
「別に......こうする......だけだ」
魔王は、別に恐れてもいないあっさりとした口調でそう言うと、両手を挙 げて、複雑な文字を描きはじめた。
「レキ!」
クリーオウが叫び、そちらを向くが──なにも起こらない。レキがなにもしなかったというわけではなく、魔王が描いている文字にかき消されたようだった。
そして、その文字が完成する。かなり大きく、そして輝 きも強い──
「────!」
光に、包まれた。
◆◇◆◇◆
──つまり、変わってしまった、わけだな?
ええ。
......聞こえてきた声は、男のものと、女のもの──
若さは感じない。齢 を重ねた響 きもない。
ただ時において不変の響きを湛 えているくせに、しかしなんらかの変化を迎 えてしまったものの声。
その変化を話題にしている。
ついでに言えば──それらは、五感として捉 えた感覚ではなかった。
誰 かが説明してくれたのだ。恐らくは、あの光の文字が。
「わたしは残念だよ」
男は円 卓 の北側から、そうつぶやく。円卓は広大で──端までが霞 んで見えるほどに広い。その円卓には、もうひとり、女がいる。男の、ちょうど向かい側。
離れ過ぎているため、女の顔は見えない。といって、男の顔が見えるわけでもないが。
「原因は分かっているわ」
「彼らだな。だがその責を彼らに取らせると?」
「責ではないわ」
女の声には、確信に満ちたものがある。感情をすべて超 越 した、時折女が──というより女親がのぞかせるような、そんな根 拠 のない確信。
「ただ、わたしもあなたと同じよ。この洪 水 を止めたいだけ」
「どうやって?」
「大多数の者が考えているのと同じ方法でよ」
「君お得意の大怪獣 かな?」
彼らの言葉は、明らかに未知の言語である──が、もちろん、その意味は明確に理解できた。できなければ、ここにこうしている意味もないわけだから。
「それも使います。あなたの天使と悪魔を貸してほしいのだけど?」
「それは無理だな」
男は、鼻で笑ったようだった。
「君も知っているだろう──そう、お互いに知らないことなどあるわけがないな。我 々 はすべてを知っている、いや知っていた。仮に我らにとってすら未知であるものがあるとすれば、あの天使と悪魔こそそうだろうな。あれらはわたしよりも強大だ。貸す、などと冗 談 にもならん。第一、あれらが承知せんさ」
「魔法 の崩壊 は、あなたにも無関係ではないのよ」
「当たり前だ。君と話をしている、これ自体が大問題だな。だが問題の解決に関するわたしの考えは、君らとは大きく違っている......」
「わたしはバジリコックも使うわ。ヴァンパイアも、そして──」
「ドラゴンも、か」
「ええ」
「あれは、君にとっての天使と悪魔だ──手に余 るのではないかな?」
「世界の崩壊こそが天使と悪魔よ」
女は鋼 の強さを思わせる口調で言い切った。
「わたしは追うわ。彼らをね。世界を崩壊させ、わたしたちを産み出した 彼らを......」
「彼らユグドラシル・ユニットはみな狡 猾 だ。この脳という肉 塊 を持ってからまだ日が浅い我々などより、遥 かにな」
「日が浅いのは、わたしたちだけでしょう。あなたは──」
「ああ。だが、わたしが以前、肉体を持っていたのはほんの三十二年間だけだ。信じられるか? そんな一 瞬 の間に、わたしは人生とはなにかと思 索 したこともあるのだ......」
「感傷は崩壊を早めるわよ。わたしも、あなたも注意しないとね」
女はそれだけを冷たく言うと、静かに席を立った。
「もう行きます」
「止めはせんよ。いずれ、殺しにいくが」
「やはり......」
と、女は苦しげな声を出した。
「あなたは、それを考えていたのね」
「仕方あるまい。わたしにでき得る中では、それが最善だ」
男の声には悪びれた調子も、特に言われたほどの感傷があったわけでもない──ただ仕方ないと告げたそのせりふが示す通りだった。ただその通り、男は仕方ないと思っているのだ。
「さようなら、スウェーデンボリー」
「ではさらばだ、過去か......未来か、誰かは知らないが。運命の女よ」
円卓はただ広い。
そのどこにいるのか、自分でも分からないが──どこにいたところで、その男と女の顔は霞 んでいて見えない。ただ声だけは聞こえてきていた。
ただ見ていた。そして、それが──
真の戯 曲 『魔王』なのだと気づいたとき、光が消えた。
◆◇◆◇◆
「............っ!」
はっと、目を覚ます──
そこは、外だった。土の臭 いが、鼻 孔 を満たしている。一面に生 えた下草が、朝 露 に濡 れていた。
そう。朝だった。朝焼けも終わった頃だろう。だが、まだ太陽は高くはない。オーフェンは立ち上がると──身 体 の節々が痛んだが、それは無視して──あたりを見回した。すぐ近くの地面に、マジクもクリーオウも、そしてメッチェンも倒れている。みなすやすやと寝息を立てていた。今まで起こったことなど、すべて夢だったとでもいうように。
そして......彼らを取り囲むように、犬の怪物の死体が無数に転がっていた。
「な......」
と、絶句する。昨夜(だろう)、彼らを包 囲 して劇場へと追い込んだ、あの犬たちに違いない。ただし、彼らが寝ている間に、この犬たちが一頭でも襲 いかかってきていたら二度と目覚めることもなかったろう。ホールで発見した惨 殺 死体が、ふと脳 裏 に浮かぶ。
その記憶が体温を一度は下げたかもしれない。オーフェンは身 震 いすると、犬の死体の数を数えた──六十三。そのすべてが、完全に死んでいる。いずれも魔 術 の一撃で。
「どういうことだ......?」
自分が寝ている間に、マジクかレキがやったのだろうかと、オーフェンは少年のほうを見やった。だがマジクはぐっすりと寝ているし、レキも、クリーオウの胸に抱かれて寝息を立てている。そういうことをした気 配 ではなかった。
「まあ、いいか......」
腑 に落ちない気分だったが考えるのも面 倒 で、オーフェンはその場に座 り込んだ。そのくらい疲れている。と、奇 妙 なことに気づいた──
「劇場が......ない?」
犬の死体が転がっているのなら、劇場もすぐ近くにあるはずだった。が、どこをどう見回してもそれらしい建物は影も形もない。
あたりを囲んでいる林の形──そして、昨夜マジクが置き忘れた荷物などが落ちている場所から、ここがそもそも劇場の近くであったことは間違いなかった。それ以前に、あれだけの大きな建物である。少しくらい離れていたって見失うわけもない。
「わけの分からないことばかりだな」
やけくそにつぶやいて、オーフェンはまた、別のことに気づいた。彼らの──というより大半はクリーオウのだが──荷物の上に、小さな紙切れが置いてある。
クリーオウの剣の上である。オーフェンは荷物のところにまで歩いていくと、荷物の上に置いてあったそれを取りあげた。ノートをちぎったような、ただの紙。
「............」
ざっと目でたどってから──もう一度確認するように、彼は読み上げた。
「『次からは、自分の身くらいは自分で守りなさい』......か」
署 名 はなかったが、誰の残したものかは筆 跡 ですぐに知れた。
「アザリー......」
苦 々 しく、口の端 を歪 める。
「俺にとっての天使と悪魔、か......」
オーフェンはそう毒づきながら、手に持っていたメモをくしゃくしゃに丸めて、やつあたり気味に地面にたたきつけた。
琥珀色 の闇 がある。真の闇ではなく──薄 明 かりの混ざった、血の通 った闇。ぼんやりと滲 む空気には、外界の匂 いはない。閉じこめられた、外を知らぬ風はそよぐこともない。
そこに玉 座 がある。そこに座す王もいる。深々と腰を下ろすというよりも、玉座に食いつかれてそのまま融 合 してしまったかのような、そんな二者。王と玉座。玉座と王......
王の前には通路番がいる。王は身動きもせずに、闇に溶 け合う小さなつぶやきを吐 いた。
「壊 され......すべてが......台無しになっても......いつまで......待つのであろうな。我 らは......」
「あなたが知らぬことを、わたしが知ることはありますまい」
通路番は、人間味のない──いやむしろ人間離れした妙 な口 調 で、やはり身動きもせずに答える。
「彼女らは、話さなかったので?」
「彼女ら......には......予言はできない」
王の声には落 胆 の色が多少混じっていた。
通路番が告げる。
「ですが予測はしたでしょう」
「......なればこそ......我らを、造った」
「造って──見捨てて、そして、待て、と?」
「見......捨てた?」
王が、笑う。
「見捨てた......か。素 晴 らしい......だが違う。彼女らは......力つきた......のだ。未来を......失って」
「知っておりますよ。ですが彼女らは、現在は克 服 したのです。それが──過去に脅 かされ、未来は見失うなど」
「現世を......想 いすぎたのかも......しれぬな」
「そのために──失うものも多かった、と?」
「そうだ......」
「............」
通路番は答えはしなかった。その代わり先に発した王の問いを今度は自分で繰 り返す。
「いつまで待つのでしょうな、我々は」
「分かって......おるのだろう。我も......汝 も......」
王は、顔を上げたようだった。
「知識を......得るに......十分な......資格を持った......者が、現れる......まで......だ」
「もしくは、我々が朽 ちるまで、ですな」
つぶやきに、苦笑が滲 んでいる。といって口調に変化があったわけではなかったが──その気 配 は、王の声にも伝 染 した。
「疑念を......持って、おるな......?」
「............」
通路番は、しばし黙 したようだったが、
「果たして、現れるのでしょうか? 真実を伝えるに足る資格を持った者など......」
「その資格を......持っている......者ならば......訪 れは、すまいよ......」
自 嘲 めいた口調で、王が答える。
「自 らで......見いだすであろう......」
「......かも、しれませんな......」
声は、そこで途 切 れる。
琥 珀 色 の闇 がある。真の闇ではなく──薄明かりの混ざった、血の通 った闇。ぼんやりと滲 む空気には、外界の匂 いはない。閉じこめられた、外を知らぬ風はそよぐこともない。
そしてまた思い出した頃。あるいは忘れた頃に、王と通路番は同じ問いを互いに投げかけ合う。また嘲 り、沈 黙 し、そして琥珀色の闇がある。
◆◇◆◇◆
それはつまり、よくあることだった。
「一千」
「高いわよ。百五十」
「話にならんな。九百五十」
「冗 談 でしょ。二百」
「限度を知らんのか? 九百!」
「二百二十! これが限界よ。わたしがあきらめたりしたら、どうするつもりなわけ?」
ドーチンはひとりだけ少し遅れて歩きながら──先行している兄と、その兄の横で疲れたように数字を連呼している女の背中とを眺 めていた。三人、ぼちぼちとさほど速くもなく、街 道 を進んでいる。
ボルカンの手には、真っ黒な革 表 紙 の、タイトルのない本があった。女の手には財 布 がある。
これのどこが、よくあることなのかと聞かれれば、どう答えていいのか分からないが──ただドーチンは、確信しながら胸 中 で断言していた。これはよくあることなのだ。
意味などない。根 拠 もない。
「八百八十五!」
やたら小 刻 みになった数字を、ボルカンが叫ぶ。
「二百二十五!」
さらに小刻みに、女が応じた。
二百で既 に──少なくとも彼らにとっては──かなりの大金ではある。
(そーゆう大金を手に入れられるかもしんない、ってところは、全然滅 多 にあることじゃないよな......)
多少冷静になりながら、ドーチンは分 析 していた。
「強 欲 な者は必ず損をするという格言を知らんのか? 八百七十!」
ぱたぱたと本で顔を扇 ぎながら、ボルカンが言うのが聞こえた。歩きながらにっこりと、女が微 笑 んでいる。
「その格言の続きだって知ってるわよ──だがもちろん誰 もが損をしているのだってね。二百五十!」
女は余 裕 ありげな表情はしていたが、結局のところ、どんな値段でもその本を買い取るだろうということは簡単に知れた。それに気づいていないのは兄と、そして誰にでも気づかれそうな顔をしていることに気づいていない彼女当人くらいなものだろう。そのうち歩み寄り、五百で落 札 されるのなら、取引としては上々だ。兄にしては。
(これも、滅多にないことだよな)
珍 奇 なことは、なにもこれだけではない──
あのあと、女の持っていた黒い箱のようなもの(天人の転移装置だそうである)であの出口のない部屋から脱出し、劇場の外に出ると、あの借金取りやらなにやらが地面に転がっていた。しかもその周りを得 体 の知れない妙 な犬が囲んでいたが──こともなげに彼女は、その場にいた数十頭ものバケモノ犬を退治してしまったのだ。これだけの力を持った魔 術 士 が、兄などとまともに会話をしている。滅多にない。
本を買い取ってもらえれば、次の街 でまともな食事にありつけそうである。つまり将来の展望がある。滅多にない。
やっかいごとには巻き込まれたようだったが、借金取りに関 わらずに切り抜けられた。滅多に......これはまあ、最近はままあることのようだったが。
なんにしろ、いつもとは違うのだ。ドーチンはひとりで、首をひねっていた。
街道を──キムラックへと続く街道を北上しながら、ぶつぶつと独 りごちる。なんで、これだけ変わったことがあるのにいつもと違わないような気がするのだろう......
と──
「ぎゃああああああっ!? 」
悲鳴があがる。聞き慣 れた悲鳴。ボルカンである。
見やると、女がいつの間にか立ち止まって、片手で──兄の頭を握り、宙づりにしていた。並の腕 力 ではないらしい。ボルカンの悲鳴に混じって、頭 蓋 骨 がみしみしと音を立てるのがかすかに聞こえてきていた。
それでもなおにっこりと微 笑 んだまま、女がつぶやいている。
「じゃあ、あんたの言い値で買ってあげるわね♥ 八百四十五だったかしら──ただ、なぜか大宇宙的な成り行きであんたの頭を握りつぶそうとしているらしいこの手を外 すのに、わたし、七百九十五はもらわないと満足できそうにないの。差し引き五十ね」
「どぉあああおおおおっ!? 最後は脅 迫 かっ!? 公正な商取引を侵害する輩 は、すべからく白い爬 虫 類 になつかれ殺されるであろ──あぎゃああああっ!? 」
「ああっ! 大変! 素 直 にならないとわたし、少しずつパワーアップしてるみたい」
「分かったぁぁぁっ! 分かりましたぁぁぁっ!」
「............」
絶 叫 する兄を見上げながらドーチンは、自分も足を止めた。いつの間にか五百が五十に化けてしまっている──これで、将来の展望もパーである。
これで『よくあること』への取っかかりができたというわけではないのだが......
(そーか。ようやく分かったぞ)
ドーチンはひとりで納 得 していた。彼女を見ていて、妙に日常的な感覚を覚えた理由。
(このひと、あの借金取りにそっくりなんだ。)
◆◇◆◇◆
正午まで、オーフェンは空を見ていた。
ずっと、ではない──実際、午前の時間の大半は、墓 づくりに費 やされた。
十三の即席の墓 標 が並び、その前で、頭に空色の布を巻いた女が黙 禱 している。
彼はゆっくりと、視線を下ろした。空から──その色を宿した頭 巾 、そして、思ったよりせまいその女の背中へと。
そして、低い声 音 で告げた。
「あんた、盗 掘 屋なんかじゃないな」
「......野 暮 だね、あんたも。人が墓に手を合わせてるって時に」
メッチェンはにべもない──が、否定してはこなかった。
オーフェンは、なかばどうでもいい気分で続けた。
「変だとは思ってたのさ。盗掘屋の『お頭 』にしちゃ、天人の遺 跡 のことをなにも知らなさすぎたからな」
「初任務だったのよ。遺跡に関してはね」
彼女は顔を上げない。目を閉じたまま、答えてきている。
風が吹いている。犬の死体の片づけを押しつけられたマジクが、少し離れたところで焼 却 のための火を起こしていた。それをさらに遠巻きにして、クリーオウが、さっさとやってよね、などと言っている。
もっとも、作業は遅 々 として進まないようではあった──ただでさえ気味の悪い怪物の、しかも死体である。まだ犬の死 骸 は半分ほど残っていた。
風は極 めて心地悪い。死臭に満ちている。
「そいつらは、その任務のために雇 ったのか?」
「ええ──まあ、何週間かいっしょにご飯を食べてれば、情も移るけどね」
彼女はそこでようやく、目を開いた。こちらへと向き直り、続ける。
「わたし、なにかぼろを出していたかしら」
「いいや。ただの勘 だよ。いや──盗掘屋なら、天人の遺跡の怖 さを知らないってのも変だったけどな」
「そうね......でも、怖 じ気 づいて引き返すわけにはいかなかったから」
彼女は軽く、肩をすくめてみせた。ウインクして、笑みを浮かべる。
「あなたはひとつ勘違いしているのよ。あの遺跡は確かに貴族連 盟 に対して隠 匿 されたもの──でもね、それをやったのは魔術士同盟じゃない」
「教会総本山 か」
構えもせずに、オーフェンは言い放った。メッチェンがうなずく。
「二百年前に、当時の王家が劇場の取り壊 しを命じた──戯 曲 の内容が気に入らなかったのね。なんのことはない、魔王賛歌だったから。で、王は取り壊しの手はずを、教会に託 したのよ。教会はそれ以後、劇場を定期的に探 索 していたわけ。ま、なにも見つかるはずはないわよね──」
「あの人形どもが待ちかまえていたのは、魔術士だけだったから、な」
「答えを知ったら馬 鹿 馬 鹿 しいけど──この二百年で出た犠 牲 者 の数を考えればね。まあいいわ。わたしは任務を果たしたもの。あとは......」
と、彼女は腰の剣の柄 に、手を添 えた。
「わたしが受けている命令って、ひとつだけよ。魔術士を、見つけしだい殺せってね」
「あんたは......」
オーフェンは、まだ防 御 の姿勢も見せなかった。彼女との距 離 は──一歩踏み込んで抜き打ちを仕掛けてくれば、首が落ちる距離である。だが、動く気にならなかった。
「改めて、名乗ろうかしらね」
メッチェンは、にやと笑った。
「わたしの名前はメッチェン・アミック──あなたのことを今まで気づかなかったっていうのは、わたしも迂 闊 だったわね。その若さで、あれだけの力を持っている《牙 の塔 》の黒魔術士。しかも《塔》を出 奔 した......考えてみれば、あなたしかいないわ。キリランシェロ──そうでしょ?」
「サルアから聞いたのか?」
オーフェンはじっと彼女の瞳 を見つめながら、《フェンリルの森》で出会った教会総本山の殺し屋のことを言った。あっさりと、彼女がうなずく。
「ええ。それに、あなたがきっといつかこの土地に足を踏み入れるだろうってこともね」
数センチだけ刀身をのぞかせている彼女を見 据 えて、オーフェンは聞き直した。
「〝死の教師〟なんだな? あんたも......」
「そうよ」
うなずく彼女。彼女が昨夜、人形に言ったことをオーフェンは思い出していた。あなたのような相手と戦うのは慣 れている──
彼女が恐らく体得したであろう魔術士に対する暗殺訓練というものが、いったいどういうものなのか、想像はつかない。だが戦えば勝つだろうと、ひどく当たり前にオーフェンには予想できた。クリーオウが大喜びするんじゃなかろうかと、関係のないことまで思い浮 かぶ。
だが、もうひとつ分かっていた。
「俺 をキムラックに案内してくれるんだろう?」
「ええ」
とうとう吹き出し──かちゃりと、わずかにのぞいていた刀身を鞘 に収める。彼女は両手を上に向けて広げ、軽い口調で言ってきた。
「あのお嬢 ちゃんに助けられたしね。あの子が泣くようなことはしないつもりよ──借りを返すまでは、ね」
「なら、キムラックでは敵なんだな」
「それは仕方ないわ。そうでしょう?」
彼女は言うと、頭に巻いている布を取り去った。短い黒髪が、風に揺 れる。
「だが、任務はいいのか?」
多少意地悪い気持ちで、オーフェンは聞いてみた──多少なりと彼女が顔色を変えるのであればそれも面 白 かろうと思い、じっと観察する。が、彼女は別に平気なふうだった。
「神ってなんだと思う?」
「あん?」
いきなり問うには相 応 しくない──あるいは相応しすぎる──その問いに、オーフェンは目をぱちくりさせた。彼女は布で顔をぬぐいながら、ひとりで勝手に答えを告げる。
「あなたがどう思うか知らないけれど、わたしは神官──教師なのよ。わたしが仕 えているのは教師長じゃない。運命の三女神 、彼女たちのために生きている」
と、また笑う。
「神が求めているものってなにかしら? 心の服 従 と平安。それすら求めていないかもしれない。彼女らは全能よ。忘れてはいないでしょ? わたしの剣が、彼女にとってなにかの役に立っているとも思えないわね」
「じゃあ......なんで殺し屋なんかをやっている?」
「キムラックにいるために、ね。それに──最終拝 謁 が許されるのは、教師長クラスの神官か、わたしたちだけ......」
「最終拝謁?」
「そこまではサービスできないわよ。自分で突き止めなさいな」
メッチェンはいたずらっぽくそう言うと、わざとらしく視線をそらした──そして、その視線に導 かれるように、ばたばたと足音が聞こえてくる......
「オーフェーン」
と、いつもより格段に力の入っていない声で呼びかけてきたのは、クリーオウだった。ふらふらと歩いてきて、レキを抱えてため息をつく。
「お腹 すいた」
「お前......俺だって腹が減ってないとでも思ってんのか?」
ぐうう、と同時に腹が鳴る。考えてみれば丸一日、なにも胃 袋 に入れていない。
ひもじそうに指をくわえて、情けない面 持 ちで彼女はぼやいた。最後の手段だというようにきらりと目を輝 かせ、一番近くに転がっている死 骸 を見やる。
「あの犬、食べられないかしら」
「やめれ」
「でもちゃんと調理すれば、なんとかなりそうな気がしない?」
「うまくてもまずくてもイヤだからやめろ」
オーフェンはきっぱりと言うと、メッチェンに目 配 せした。彼女もクリーオウの一言にかなりビビって後 退 りしていたようだったが、そのせいもあってかあわてて言ってくる。
「あ、えーと、ほら。わたしらが拠 点 にしていた宿まで着けば食料くらい残ってるわよ」
「......本当ー?」
疑わしげに、クリーオウ。
「でも念のため、一頭くらい持っていっておこうか」
「やめろっちっとろーに」
半眼でうめいて、オーフェンは少女の金髪の頭を軽くこづいた。
遠くで、マジクが起こした炎 が天に伸び──
その煙は風に流れて、北へと向かっていた。
「はーい! 今回は単発のヒロインがいないんで、急 遽 代行の架 空 キャラクター、ラッツベインでーす!」
「(作者)......なんじゃ、そりゃあ......」
「よーするに、作者が陰 に隠 れてねちねちと考えた裏設定には出てくるけど、本編には登場してない、そんなよーなわたしでーす!」
「う〜、そーいやそんなもんもあったっけか。っても、シリーズが始まった頃に、あわてて作った設定だからなぁ。妙 に凝 ったことまで考えてたわりには、必要な設定が抜けてるもんだからいろいろと困ったような記憶がある......あ、なんだお前、主人公の(未来の)娘じゃん」
「自分で考えたくせに忘れてるなよでーす!」
「(無視)苦し紛 れにバック・トゥ・ザ・フューチャーみたいなネタを考えてた時にできたキャラだな。ボツにしたけど」
「えー! そうなんですかでーす!」
「......そのうっとうしいしゃべり方、そんなことまで設定に入ってないぞ」
「ちょっと脚色してみたんでーす!」
「まあ別にいいけど......ちゃんとあとがきを書くことにしよう。えー、読者の皆様には、もうそろそろお馴 染 みと言ってしまっても罰 は当たらんのではと思います。シリーズ七度目のあとがきです。あんまり書いてないようで、意外と書いてたんだなぁ」
「自覚がないでーす!」
「うるさいな。前の巻末で『今度は番外編じゃあ』とか言いつつ、実は全然番外編になってない今回の話ですが──」
「嘘 つきでーす!」
「うるさいしつこい。言 い訳 はあるんですよ」
「言い訳って、あとからつく嘘のことでーす!」
「............」
「あ、なんか怒ってる目つきでーす!」
「......いいや。お兄さんはちっとも怒ってないよ。ところで君、ここに手首がようやく入るくらいの花 瓶 がある」
「あるでーす!」
「この中にあめ玉が入ってるね」
「入ってるでーす!」
「あげよう」
「ありがとうでーす......ムキー! あめ玉を握 ったら手が抜けないでーす!」
「......ようやく向こう行ったか。えーと、話をもどしますと、このシリーズって、一回番外編とかをはさんだとしたら、進行が四か月も遅れちゃうんですよね。ただでさえのろくさとしか話が進んでないってのに、これでまた遅れたりしたら──」
「ムキー! でーす!」
「考えるとちょっと怖いんで、さっさと教会総本山 編をやることにしました。一応、今回の話を入れて三話で終わる予定(ほら、のろくさしてる)ですが、番外編はそのあとにやろーかな、などと思っております。せっかくだから、かなり突 飛 な設定でやってもいいし......幕 末 オーフェンとか。無理か。ならカレー屋オーフェン。もっと無理か」
「キーキー! でーす!」
「ま、なんにしろそんなことをぼちぼちと考えて──」
「(がちゃあああん!) やったでーす! 石で花瓶を叩 き割ったら解決したでーす!」
「............」
「でも手が血まみれでーす! こんなに血がたれてると、臭 いでワニが集まってくるでーす! なんとかしろ作者、でーす!」
「即座にお前をなんとかしたいが......なんだ、ワニって」
「歩くワニ革 のことでーす! 知らないのかでーす!」
「なるほど。まあいいや......ええと......『哀 れ主人公の娘はワニに食われました』、と」
「ああ! なんか勝手に書いてるでーす! 作者横暴でーす! やめろでーす!」
「やかましい! とっとと向こうでワニと戦ってろ!......というわけで皆様。教会総本山 編全三巻の結末は、このよーに『ボツキャラ墓場』と題してお送りいたしますので......」
「キー! ワニって結構素早く動くでーす!」
「あまり期待せずにお楽しみください。ではまた」
一九九六年七月──
秋 田 禎 信

深く静かに疲 れている。彼はその女を見て、そう思った。というより、そう思い続けてきた。
「汝 には長らくつき合わせてしまったな。罪 に思う......」
それが、その女の言葉だった──
見ていられない。そして、答えられない。彼は視線を天 井 へと向けた。彼が身にまとっている黒いローブが、さわりと滑 らかな音を立てる。
その音が聞こえたのか──女は、顔を上げたようだ。
「なぜ見上げる?」
怪 訝 そうに──と言うほどには訝 しげにではなく、どこか答えを予想しているような声 音 で、つぶやいている。
本当に、なぜなのだろう。彼には分からない。
天井になにがあるというわけではない。そこは砦 の中だった。バジリコックと呼ばれた太 古 の砦──その生き残った地下の部分である。地上部分は遠い昔、強大な魔 獣 との戦いで完全に破 壊 されたと彼は聞いていた。大昔である。彼が──いや、彼の祖先すらが、まだこの大陸に存在していなかったほどの昔。神話にも等しい昔。
(そして彼女は......その神話の時代から生き残ってきたのだ......)
だから疲れているのだ。それは間違いない。彼は、覚 悟 を決めて視線を女のもとにもどした。
同時に、拳 を握 りしめる。
「ここは息苦しい......」
女は、苦り切った顔でそううめいている──緑色のローブの胸元を、煩 わしげに右手で押さえて。明らかに女は、自分たちのいるその場所を毛 嫌 いしているようだった。険 しい眼 差 しで、あたりを見回している。祭 壇 にまつられた、六種類のドラゴン種族の像。そして、祭壇の奥の壁 に掲 げられた、巨大な──自らの肖像画。
肖像画は、彼の目から見てもよく描けていた。絵を背後にして立つ彼女を、生き写しなまでにとらえている。ただひとつ、その肖像画に落ち度があるならば、たったひとつだけ、現実の彼女を再現していない部分があることだった。そしてその分だけ、確実に絵の中の彼女のほうが美しい。
だが苦悩と絶望が抜け落ちた彼女の肖像に、なんの意味があろう?
彼は女を──現実の、生きている彼女を見つめ続けた。
赤みのない表情。口を開けていない時には奥歯を噛 む癖 があるため、常に引き締 められている口元。清 楚 に緩 やかな曲線を描いている薄 い唇 。緑色の髪 。そして、自ら惑 うような落ち着かなげな瞳 ──緑色の瞳。地上最強の生命体、ドラゴン種族の証 となる......緑色の瞳。
彼女は最強の女だ。大陸に存在する中では最強の。
肖像画の下には、つまり実物の彼女のはるか頭上には、その彼女の名が記されている。金属のプレート──仮にこのバジリコック砦の地下部分までもが灰 燼 に帰そうと、このプレートだけは生き残るだろう。ウイールド・ドラゴン種族のただひとりの司祭、シスター・イスターシバの名前だけは。
「苦しいとお思いならば」
彼は、初めて口を開いた。まぶたを半ば下ろし、彼女に告げる。
「ここからお逃 げになれば良かったのだ」
「そのような力......もう......」
イスターシバが唇から漏 らしたのは、そんな弱々しいうめき声だった。彼は、しばらく無言でそのうめきを受け止め──そして、不意に気づいた。
「なにをなさるおつもりです?」
鋭 い口 調 でささやき、そして一歩近寄ろうとした──が、足は動かなかった。
彼女は、前髪がかすかに揺れる程度、軽くかぶりを振 って、
「ここには......我が造り上げた最後の武器、殺人人形 が一千体ある。我は......こののち彼らに命令を、下す......」
「命令?」
「我はまだあきらめてはおらぬ。我々が、存在したことが......無になるなど......」
イスターシバの緑色の双 眸 が険しく輝 き──その上の眉 が顰 められる。
「我らは確かに数多くの禁を犯 した。だが、それがどれだけのことだというのだ......?」
男は、静かに答えた。
「巨人の大陸とコンタクトを取りました」
「世界図塔 の一件......か? そのようなことがどうした。女神はとうに、この大陸を見いだしているではないか」
「〝地下劇 場 〟の件は? 危険すぎました」
「あれに待機する人形には、知識を伝えるべき者の選別を徹 底 するよう、厳命してある。破 壊 されようとも命令には従うはずだ」
男の喉 が動揺するように蠢 き、すぐにも非難の声をあげるかに見えた。だが、それも一 瞬 のことで、男は出かかった言葉を音もなく呑 み込んでしまう。しばし、互 いに言葉を失い、沈 黙 の空気を適当な方向に送り出す。
じっくりと言葉を選んでから、男はその静けさを追い払った──いや、追い払おうとして口を開き、しかし完全には追い払えなかった。
淡 々 と告げる。
「......ほかにも〝聖域〟の指示を裏切りつづけております」
「そんなものは罪 ではない」
素早くささやいた彼女の一言に思わず微 笑 を漏らし──男は、その笑みをこわばらせて自分の胸を指さした。
「わたしたちを産み出しました......」
「そんなものは断じて罪ではない!」
先刻以上に素早く、女が断じる。
男も先と同じく微笑を──いや、自 嘲 の笑みを浮かべた。
勢いよく顔を上げた女と、それを待ち受けるように見 据 えている男の視線とが、ぶつかるというよりは絡 み合うように合わさる。
そして──力なく表情を崩 したのは、女のほうが先だった。絡んでいた視線が、ほどけて落ちる。女はぐったりと肩を落とし、震 え声をあげた。
「そうか。汝までが、それを我が罪 悪 と申すか......」
「シスター。あなたは......あなたがたは──」
男は言葉とともに進み出る──黒 衣 をゆったりと揺らしながら。
「──あなたがたは、わたしたちの祖先を滅 亡 から救ってくださった。流 浪 民 となった彼らを躊 躇 なく都市に招 き入れ、教育を施 し──なによりこれを感謝します──奴 隷 にはしなかった」
自らへの嘲笑を悲しい笑顔へと変じながら。
「冷たくはしなかった。しかし甘 やかさなかった。人間種族すべてを自立させた。命を賭 してまで、わたしたちを守ってくださった。増長させず、絶望もさせず、あなたがたは常に理想の主導者でした。わたしたちはあなたがたを愛した。崇 敬 し、心 酔 した」
そして......懐 から銀色の短剣を抜き放 ちながら。
「でも......あなたがたの行動には、理由があったのですね。そうでしょう」
「それが不服か」
イスターシバは、男の手の中に現れた短剣には目もくれず、小声でささやいた。
「汝らをこの世に産みだしたことが!」
「わたしには不服などではありません。あなたを愛することを決めたのはわたしだ 。たとえあなたにどのような計画があったとしても。ただ──」
男は一歩、また一歩とイスターシバへ近づいていく。
「大多数の人民にとっては、そうではありません。彼らは自分で決めることすら叶 わなかった。いや──決めたと思いこんでいたものに、裏切られていた。彼らはわたしを選び出しました。建 前 としては、あなたを糾 弾 する代弁者として──本 音 では、あなたを殺す復 讐 者 としてです」
速 やかに、しかもあくまでも速やか過ぎずに。祭事の際、神官が儀 礼 的な行進をなんの疑いもなく進むように、神 妙 な早足で。
「そうです。あなたがたは──わたしたちを裏切ったのですよ」
だんっ!
というその音は、踏 み込みの音ではない──
移動する際、足にはふたつの役割しかない。踏み出しと踏み込みである。つまり、地面を蹴 ってその反動で身体 を移動させることと──そのままほうっておいたら倒れてしまうので、適度な場所で地面を受け止めなければならない。それである。
つまり強く蹴るのは、最初の踏み出しだけでいい。踏み込みまでも苛 烈 に行うと、ブレーキがかかりすぎてしまうことになる。
──と、いうわけで、オーフェンは理論通りに強く踏み出し、すり足でバランスを取りながら、掌 で生徒を吹っ飛ばしていた。
「だあああああああっ!? 」
派 手 な悲鳴をあげながら──それ以上に派手に転がって、彼が倒れる。しりもちなどと可愛 いものではなく、文字通りに転倒したのである。
声を大きくしたり小さくしたりしながら、二秒ほどだろうか。ばたばたと三メートルは後転したのち、ようやく生徒──金 髪 碧 眼 の、十四ほどの少年は仰 向 けに落ち着いた。大の字になって、きゅうと目を回している。
オーフェンは無表情にささやいた。
「十秒以内に立ち上がらねえと、踏みつけにいくからな」
突き出していた掌を、そっと懐 までもどしながら、彼はただじっと生徒を見下ろしていた。その少年を転がしたその技 に見合うほどに、なにか強そうであるとか、そういった風 貌 では決してない──体格的にも、せいぜい標準である。あまり輝 かないその双 眸 は暗く静かだが。
黒 髪 に黒目、平 均 的な顔立ち。ただ斜 視 にも近い目つきだけが特 徴 と言えば特徴なのかもしれない。着ているものも、おおむね黒一色である。その胸元に、銀色のペンダントがぶら下がっていた。剣にからみついた、一本脚 のドラゴンの紋 章 。
彼が黒 魔 術 士 ──それも大陸でも最高の黒魔術士のひとりであることの証 である。紋章は、彼が大陸黒魔術の最高峰《牙 の塔 》で学んだ印だった。
彼は手持ちぶさたになった手で、なんという気もなしにそのペンダントをもてあそんでいたが、やがて軽く嘆 息 するとその手をわきに下ろし、ぐっと拳 を作った。
そして、すたすたと少年のほうに歩き出す。
数歩の距 離 だ──すぐに彼のつま先は、いまだ倒れたまま息を荒らげている少年のすぐ前で止まった。
止まると同時、勢いよく右足を上げて──少年の身体へと、打ち下ろすようにたたきつける!
「だああああああああっ!」
再び悲鳴をあげて、転がりながら逃 げていく少年の後ろ姿を、やはり彼は静かに見送っていた。何メートルかばたばたと進んでから、少年は恐 ろしげな表情でようやく止まる。
オーフェンのブーツは、惜 しいところで少年を外していた。
「い──今の、本気だったでしょう、お師 様 !? 」
パニックに陥 った様子で、碧 色の眼を充 血 させながら、少年が非難の声をあげる。
オーフェンは別に、気にもせずに軽く言い返した。
「本気もなにも、踏 みつけるっつっただろ、マジク」
「そーじゃなくて!」
少年──マジクと呼ばれたその少年は、あちこち転げ回ってぼろぼろになっていた。まだろくにできあがっていない身体のそこかしこに、生 傷 も見える。
マジクはこちらを指さして、半泣きになって叫んできた。
「加減を考えてくださいよ! そんな鉄骨が仕込んであるとかいうブーツで思いきり踏まれたら、ただですまないでしょう!? 」
「そりゃ、そのためにわざわざ仕込んであるわけだからな。特注なんだが、随 分 高くついたぞ」
「さらっと言わないでくださいよ! 確かにぼくは戦 闘 訓練を頼 みましたけど、そんなんで死んじゃったらどーすんですか!? 」
「どうもしねえよ」
さっきよりもあっさりと──本当にあっさりと、オーフェンは告げた。
一 瞬 、なにを言われたのか理解できなかったのか、次のせりふを叫ぼうとしていたマジクの口から、そのせりふに代わって、あうあうというあえぎ声だけが漏 れいでる。じっとそれを見下ろしていると、しばらく──とにかくきちんと息ができるようになってから、マジクは、すっとんきょうな声を出してきた。
「......はぁ!? 」
「どうもせんと言ったんだが」
口調は変えず、オーフェンは繰 り返した。腕組みして、少し虚 空 を見上げて──なにか奇 妙 なことを言っただろうかと自問してみてから、さらに自答する。ひとつうなずき、
「うん。どうしようもないな。俺 の知る限り、死んだ人間が生き返った例なんてそう多くねえし」
「............ええと............」
かなり長い沈 黙 を含 みつつ、半 眼 になってマジクがぼやく。そして、思いついたというよりはなんとかひねり出したという口調で、
「お墓 とか、作ってくれないんですか?」
「おお! そーいえばそうだ」
ぽんと手をたたいて、オーフェンはにっこりした。
「ちゃんとお前の死 骸 の上に、死んだ犬の骨とかも埋 めておくから、当局への対応もばっちりだぞ」
「それは絶対にお墓じゃないと思うんですけど......」
「細かいことにこだわるな。まあいいや。そんだけしゃべれるんなら、もう立てるだろ。いつまでも寝てんな」
「はい......」
不 承 不 承 、ゆっくりとした動作でマジクが立ち上がる。そして、彼がぎこちなく身構えるのを見 据 えて、オーフェンは静かな声 音 で聞いてみた。
「マジク」
「はい?」
不安そうにこちらを見つめ返して──これまで二度ほど、話しかけておいて不意に攻 撃 を仕掛けたりもした──、少年が返事する。オーフェンはそのまま続けた。
「なんでまた、いきなり戦闘訓練なんてしてほしいと思ったんだ?」
「え?」
意外なことを聞かれたとでも思ったのか、びっくりしたような声をマジクがあげる。
「そりゃまあ、このところ、なんていうか......危ないことに巻き込まれた時に、ぼくだけなにもできないでいるってことが多かったですから......」
「ふうん」
オーフェンは気のない返事をすると、自分も身構えた。といって、仰 々 しいポーズを必要とするわけでもない──単に、相手に対して身体を横に向ける。その程度のものである。
と、今度はマジクから突 進 してきた。
あまり速くはない──遅 くもないが。動作そのものは鈍 重 でもないのだが、歩 幅 が一定でないせいでかなり不安定になって、本人すら気づいていないほど小さくつまずいたりしている。じっと見つめて、オーフェンは呼吸を止めた。
間合いが近づいたせいだろう、マジクが小走りになってきている。
(プレッシャーに負けたか。ま、しゃあねえけど)
オーフェンは胸中で独 りごちると、行動を開始した。
半歩、前に出る。
次の瞬 間 には、オーフェンの肩がマジクの胸元に触 れていた。
「え──?」
間の抜けたつぶやきをひとつ残して──
再び、マジクは吹き飛ばされていた。
「あうう......」
またかなり転がってから、ふらふらと、マジクがうめき声をあげる。
倒れたマジクを、オーフェンはまた見下ろすようにすると、
「だから、倒されるたんびにいちいち力尽 きるな。さっさと立てって」
「ひょっとしてぼくって、こーゆうの駄 目 なのかな......」
ぶつぶつとぼやきながら、マジクが起き上がる。頭をさすっているところを見ると、地面に打ち付けたのだろうか──つまり受け身も取れていないということになるが。
腕組みしてそんなことを考えながら、オーフェンは答えてやった。
「そんなこともないだろ」
「そ、そうですか?」
疑わしげな視線を、こちらに投げてくる。ぱんぱんと服のほこりを払いながら、彼は続けて聞いてきた。
「でもこれって、なんかさっきから全然進歩がないような気がするんですけど」
「まあそうだな。さっきから二時間ばかり、すっころばされ続けてるだけだもんな」
あっさりと告げたこちらのせりふに──なんのことだか意味が取れなかったのかもしれない。気にした様子もなく、マジクは立ち上がったが、やがて表情が急変した。
「はあ?」
顔をしかめて、困 惑 の声を漏 らす。その声にかぶせるように、オーフェンは説明してやった。
「だから、まだなんにも意味のあることを習っていないんだから、進歩がなかったからって落ち込む必要もねえだろ」
「い、意味ないんですか!? これ」
わたわたと騒 ぐマジクを無視して、オーフェンはあたりを見回していた。彼らがいるのは、小さな納 屋 の裏手の空き地である。向こうにずっと広がっているのは、もとは農地であったろう、黒土の広野だった。ここから北の土地に入れば、そのうちに土の色が変わる──乾 いた金色に。
そしてそこから、魔 術 士 たちにとっては禁断の領域になるわけだった。教会総本山 の管理する、ゲイト・ロックに。
と、オーフェンはようやくマジクに視線をもどした。金 髪 の少年は、非難がましい眼 差 しでこちらを凝 視 している。なんの話題だったかと、一瞬考え込んでから、オーフェンはうなずいた。
「ああ」
「そんな、ひどいじゃないですか!」
地 団 駄 踏 んで、マジクが叫ぶ。
「冗 談 じゃすみませんよ!? 死ぬかもしれないようなことをしておいて、まったく意味がないなんて!」
「あのなあ、マジク」
オーフェンは軽く嘆 息 した。
「どーにも自分では気づかねえみたいだからはっきり言ってやるけどな」
「............」
あまり気は進まなかったが、口を開く。そんな気 配 でオーフェンはマジクを見つめた。生徒はやや憮 然 とした面 持 ちで、こちらを見つめ返してきている。
会話が上の空になっているというわけではなかったが、オーフェンの視界の中で、ゆっくりとマジクの姿はぼやけていった──焦 点 が、少年の背後、そして彼らふたりの背後、遠くの風景へと移っていく。
遥 かな北の土地を見やりながら、オーフェンは続けた。
「これは戦 闘 訓練なんだぞ?」
「ええ」
マジクはまだ拗 ねているようで、口をとがらせてうなずいた。
髪 をかいて、続ける。
「それでだ、マジク。それってつまり、なんのための訓練だと思ってんだ?」
「戦うための訓練ですよ。当然でしょう」
「そだな」
オーフェンは軽く同意してやってから、少し虚 空 を見上げ、言葉を選んだ。言ってやらなければならないことははっきりしているのだが──説明してやるのはかなり難しい。
「さっきから思ってたんだが、お前、いったいなにと 戦うことを想定してるんだ?」
マジクが、意表を突かれたのか、怪 訝 そうに眉 根 を寄せる。
「なにって......これから、教会の街 に行くんでしょう? あそこは敵だらけだって話ですし」
「別に、お前らを連れていくつもりなんかねえぞ」
オーフェンはあっさりと告げた。
「へ?」
聞いて、マジクもかなり気をそがれたようではあった。気の抜けた声をあげて、ぽかんとしている。
「そ──そうだったんですか?」
「当たり前だろ。キムラックに行くのは、単に俺の個人的な事情なんだからな。あんな危なっかしいところに、お前らなんて連れてけるか」
「アザリーさん......て、ひとのことですか?」
「?」
突然出てきた名前に、オーフェンは顔をしかめた。
「なんでお前が、彼女の名前を知ってるんだ?」
「前にアルバムを見せてもらいましたよ。それに《塔 》で、フォルテさんが、ぼくにお師 様 とそのひとの、ふたり分の紋 章 を渡してくれたでしょう。あの時、なんだか事情がありそうな感じでしたから......」
バツが悪そうに──のぞき見でもしていたような気分になっていたのだろう──、もごもごとマジクが答えてくる。それを聞きながらオーフェンは、無言でポケットからドラゴンの紋章を取り出した。自分のものではない。
翼 を広げたドラゴンの背中に、彼の姉の名前が刻 み込まれている。
「ま、そういうことだ。ティッシのところにお前たちを置いてきてもよかったんだが、お前が《塔》から帰ってきたり、なんやかやで、うやむやのうちに出発しちまったからな」
「でも──」
マジクは、決然とした口調で口をはさんできた。
「でも、それでも、ぼくだって、いざっていう時に役に立たないのは嫌 ですよ」
「戦闘訓練ってのはな」
オーフェンは紋章をポケットに入れ直すと、話をもとにもどした。
「戦闘のための訓練だ」

「当たり前じゃないですか」
「そうだな。なら、こいつも当たり前のことなんだが──誰 だって、殴 られれば殴り返すよな」
「......ええ」
徐 々 に気づいてきたのか、マジクの声が、少しトーンを落とす。オーフェンは淡 々 と続けた。自分のあごに指先を触 れさせながら、
「お前が魔術を使って、誰かに攻撃を仕掛けたとする──当然、そうなりゃ相手だって黙 っちゃいないぜ。魔術ってのは強力な武器だ。生身の人間が持つ戦闘能力としては、紛 れもなく最強のものだろう──」
と、彼は両手を広げた。
「それだけに、敵は全力でお前を殺しにかかる。そりゃそうだろ。ほかにどうやって魔術士を無力化できる? 手足を縛 ったって、声さえ出せれば俺たちはどんな魔術だって使うことができる。魔術士を無力化するには、殺すか、殺さないまでも、声を出せないほどにまで深 手 を負わせるか。たいていそれだけ痛めつけられれば、ほどなく死ぬけどな」
返事のないマジクの顔をじっと見 据 えて──広げていた手を、力なく打ち合わせる。
「そして、一回死ねば終わりだ。一回だけで、やり直しはない。だったら、訓練で死ぬことと実戦で死ぬことに、何の違いがあるんだ?」
「そんな──」
抗 弁 しかけるマジクを、オーフェンは一 瞥 で制止した。
「違いがあるように思えるんだろ? 俺だって最初はそう思ってたさ。お前くらいの歳 の時、実際に、一度半殺しの目に遭 った時まではな。死後の世界があるなんて思うんじゃねえぞ──あったって良さそうなもんだが、ないもんはないんだ。人質取って立てこもった強 盗 相手に殉 職 するのも、階段を転げ落ちて頭 蓋 を骨折すんのも、当人にとってどの程度の違いがあるってんだよ。どのみち──こんな程度の訓練で死ぬような奴 が実戦をやらかしたら、それこそ死ぬんだ。確実に」
まくし立てるように言いながら、棒立ちになっている生徒へと近寄っていく。手のとどくところまで近づくと、オーフェンは即 座 にマジクの胸ぐらをつかみあげた。
のぞき込むように、顔を近づける。
「少なくとも、そんな気構えもねえような奴に小 手 先 の技 だけ教えたところで、それこそ何か月すっころばされ続けても身につくかってんだ。いいか──特に分かってねえようだから、これもはっきり言っておくぞ」
と、語気を強める。
「愚 行 ってのはな──いろいろあるが──要するに、取り返しのつかねえことをするってことだ。帰り道も分からないで前に進む奴を、馬 鹿 と呼ぶんだ。空飛ぶこともできないくせに崖 から飛び降りるか? 生き返らせる方法もないくせに人を殺すか? 分かるか? 今のお前なら、そいつをやりかねねえんだよ。この怖さ が分からねえってんなら、今からでも遅くねえから《牙の塔》にでもなんでもとっとと帰れ。あと一言、これだけは聞き逃 すなよ、いいか──」
オーフェンは、マジクの胸ぐらはつかんだまま、もう片方の手で彼の眉 間 に指を突きつけ、短く叫んだ。
「甘くみるな ! 明日まで寝ずに考えとけ。今日の訓練は以上だ」
そう。愚行だ。魔術士が、キムラック教会の総本山に潜 入 するなどというのは──
やや陰 鬱 に、オーフェンは自覚していた。誰に見られていたというわけでもないが、つとめて顔には出さないようにしつつ、胸中で独りごちる。
(人のことは言えねえんだけどな、実際......)
彼は少し足早になって、ひとり歩いていた。言葉もなく立ちつくしているマジクに背を向けて、振 り返りもせずに遠ざかっていく。
前述したが、彼らがいたのは、ただの荒 れ地だった。もとは農地であったろうというのは、碁 盤 のように几 帳 面 に、あぜ道のような通路が造られていたからである。もう耕 す者もなく、土地は荒れ放題になっていた。それを横目に、オーフェンは歩いている。ひとりで。
少し進むと、納 屋 がある。あまり使われた形 跡 のないその小屋をぐるりと回れば、すぐに母 屋 が建っていた。これも、さほど生活感があるわけでもない、粗 末 な家屋である。廃 屋 の一歩手前とまではいかないが、窓ガラスが割れていないことと、汚 れたカーテンが半開きになっていることが、せめて無人の小屋ではないというかろうじての証明だった。湿 ってもいない──乾 いてもいない土を踏 みしめて、その母屋の玄 関 へと向かう。
と──
「オーフェン!」
納屋の陰 から名前を呼ばれ、立ち止まると、ぱたぱたと足音を立てて出てきたのは、長い金髪をはためかせた少女だった。
「クリーオウか」
「そうよ」
別に答えなくてもいいようなことに答えてくる。
華 奢 な──というよりは、ただ単に小 柄 な少女である。珍 しくスカート姿で、頭にはいつもの通り、真っ黒な子犬を乗せていた。ひょいと、納屋の向こう側──つまりマジクが立っているほうをのぞくようにしてから、彼女は振り返り、こちらに非難がましい視線を投げてきた。
「ひっどーい。ような気がするわ。あれはちょっと」
「なにがひどいんだよ」
オーフェンが憮 然 としながら聞くと、彼女は少し困ったように眉 根 を寄せた。
「なにがって......」
と、しばし考え込んでから、
「オーフェンがマジクにあんなに厳 しいこと言うの、珍しいじゃない」
言ってから彼女は、ひとりで勝手にうなずいてみせた。荒れた農地を背景にして、彼女だけが妙 に浮いて見える。オーフェンは深々とため息をつくと、うめき声を吐 いた。
「別に厳しかないだろ。手 遅 れになることを考えりゃ、なんだってマシだ」
うんざりと付け加える。
「それに、十四歳の俺を半殺しにしたのが誰だと思ってやがんだ。俺が先生にあれを言われた時は、転ばされた程度じゃすまなかったんだからな。なにか言おうとしても口が開かねえし──なんのこたぁない。あごの骨が折れてたんだけど。さすがに先生もやりすぎたと思ったらしくて、見 舞 いにバナナとメロンを持ってきてくれたっけか」
無論のこと、そんなもの食べようにも食べられるわけがなく、世話をしてくれていた姉にすべて食べられてしまったのだが。
と──ふと気づいて、オーフェンは彼女をじろりとにらみ据 えた。
「......ンなことより、お前立ち聞きしてたのか? ずっと」
「うん。いつもしてるわよ」
「あっそ......」
まあいいかと思いながらオーフェンは、彼女の小さな金髪の頭を──乗っている子犬ごと──ぽんぽんとたたき、通り過ぎようとした。なんにしろ、この少女と話をしていると色々疲 れるし、今は疲れたいという気分でもない。
背後から彼女が、言ってくる。
「あ、そうだ。そんなことより、オーフェン」
「あん?」
肩越しに向きやると、クリーオウは再び納屋の陰からマジクのほうをのぞきながら、あとを続けた。
「おじさんがね、話があるんだって」
◆◇◆◇◆
素人 なら、こう考える──『剣は、突く道具である』
まあ、そうかもしれない。敵が全身甲 冑 に身を固め、二十キロはある盾 を構えて突 進 してくるような状 況 に置かれたならば。だがそういった重 装 歩兵戦術は、それこそ二百年以上昔に大陸では廃 れてしまった。というより、大 規 模 戦闘そのものがマイナーになってしまったのだが。
ただの常識である。いちいち思い浮かべたりはしない──が、彼女はどこか頭の外でそれを意識しながら、愛剣を手入れしていた。
刀身八十センチ、柄 は三十センチ──柄が長めなのは、彼女の特注だった。片 刃 の反 り身。肉と血管を裂 くための、薄 刃 の剣である。
それゆえに、刃の鋭 利 さが多少でも欠ければ途 端 に有用性がなくなるという、面倒な弱点も持っている。だが、一対一の戦闘ならば、剣というのは極めて有効な武器だ。
彼女──メッチェンは、冷たい光 沢 を放つその刃をじっと見 据 えて、粉のついた綿 をその刀身に滑 らせていた。
と──
「......いい風だ。まだ聖都では、やはり風を楽しむこともできないのかな?」
唐 突 に聞かれて、彼女は顔を上げた。まだ若い──二十五ほどの女である。体格はよくも悪くもない。つまり、戦士としては。ブラウンがかった髪 は、『髪型』と呼べるほどまとまってもいない。かといって、ほったらかしにされているわけでもないだろうが。むしろ、意識的に彼女が自分の手入れをさぼっているとしたら、その瞳 のピント合わせかもしれない。はっきりと起きているくせに、どこか寝ぼけているような、危なげな眼 差 しを、彼女は声の主のほうに向けた。
部屋の中にいる。開いた窓から終わることなく聞こえてきていた悲鳴やら罵 声 やら──あるいはへたくそな説教やらは、つい今、終わったところだった。あの魔術士が生徒に稽 古 をつけてやっていたようだったが、彼女はあまり注意を払っていなかった。その窓際に寄せられたアームチェアに、小柄な男が腰掛けており、部屋の中にはその男と彼女、ふたりきりである。
部屋の中には小さいテーブルや、その上に置いてあるティーセット、使われていない石炭ストーブ、壁 に小ぎれいな絵までかかっているが、別に人が生活するという部屋ではない──ただ人が集まってくる空間というだけだ。この家に住む者は、することがなければこの部屋に来るしかない。そんな部屋である。
部屋は二階にあった。窓 枠 の中の半分ほどを、裏庭の木の枝が覆 っている。
刃の向こうに男を見つめて、メッチェンは、落ち着いて答えを吐 いた。
「『まだ』もなにも......永遠にそうなのではないのですか?」
と、苦笑を浮かべる。
「それに、ここは屋内です。風は入ってきていません」
「比 喩 的なことだ。揚 げ足を取るな、メッチェン・アミック」
男は椅 子 の背もたれにきっちり収まる細い背中を揺すりながら、そう言って微 笑 した。年齢は──
(四十? 五十歳にはとどいていなかったと思うけど......)
六十歳代の肉体を持つその男の実際の年齢を、彼女は知らなかった。そして当然──どうでもいいと思っていた。そんなことは。
メッチェンは、少し眉 間 に力を込めて表情を変えた。返答に困ったふりをしたかったのだ。
「わたしは、聖都が好きです......とても」
「そうだろうな」
男は、独 りごちるようにそう言って、やはりひとりでうなずいてみせた。
それを見ながら、メッチェンも軽くうなずく。
「聖都のことが気にかかるのですか? 師 よ」
「お前の師は、わしではなかろう」
男にそう言われ──メッチェンは自分の視界から、すっと剣を下ろした。彼を見つめ返し、口を開く。
「クオは──」
「クオには従うことだ。ネイムもカールも、そしてお前も、奴 の手ほどきを受けた。その現実だけが事実だ。そして」
と、男は白 髪 の混じった口ひげを、自 嘲 の形に歪 めてみせた。
「クオ・ヴァディス・パテルは聖都にいる。わしは──オレイル・サリドンは、ここにいる。こんな小屋にな。これもまた、現実だけが事実だ」
その男──オレイルは、口を歪めたこと以外はたいした動きも見せずに、チェアに身を任 せている。ただ骨張ったその拳 が、いつの間にか握 りしめられていることに、メッチェンは気づいていた。
あえて見ていないふりをしながら、つぶやく。
「ならば、あなたがサルアを育てたことも事実です」
「それは単に、奴にとっては貧 乏 くじだったというだけのことさ──様々な意味でだが」
深々としたオレイルの嘆 息 は、部屋を横切って彼女のところにまでとどいていた。
彼女はそれに逆らいもせず、指で柄 を締 め付けた。
「サルアは、クオが危険だと言っています」
「ならば、逆らうべきではないということだ」
「ほうっておくこともできないでしょう!」
初めて声を荒らげて──メッチェンは、はっと我に返った。あわてて、空いている左手で口元を覆 う。
「......申し訳ありません、オレイル」
「気にするな。それと、勘 違 いするな」
オレイルの声は、ただただ静かだった。五十キロ程度しかない身体をリラックスさせている。あごを手でこすりながら、彼は続けた。
「クオ・ヴァディスは、よそ見をしているうちにいきなり爆 発 するような、そういった危険ではない──そうだろう」
「ですが......」
「あの魔術士を使って、奴を殺させるつもりか?」
「............!」

今度こそ、メッチェンは顔をこわばらせて硬 直 した。目 尻 がひきつるのが、自分でも分かる。
剣を、近くの壁に立てかけて──手ぶらになってから、彼女は答えた。
「それも考えのひとつでは......あります」
「ほう?」
オレイルは、彼女が否定しなかったことそのものよりも、その言外の意味に興 味 を持ったようだった。古いチェアからわずかに身体 を起こし、改めてこちらを見 据 えてくる。
「つまりメッチェン──ほかにも計画がある、と?」
「......いくつか」
ほとんどささやくように、彼女はうめいた。オレイルは、別に促 してはこない──が、それ以上話すことをとどめてもこなかった。
つまり、しゃべれということだ。
舌の裏にたまった唾 を呑 み込んでから、メッチェンは告げた。
「ひとつは......クオの暗殺には、彼──キリランシェロだけでは不十分だということです。クオ・ヴァディス・パテルは十年前、チャイルドマン教師をも退 けました。オレイル、あなたと共に」
「ああ」
オレイルの声に、ほんのわずかに苦いものが混じったように聞こえたが──メッチェンは特にこだわらなかった。自分の計画に没 頭 するようにして、続ける。
「そして今、クオ・ヴァディス・パテルの近辺にはネイム・オンリーとカーロッタ・マウセンがいます。クオに関しては言うまでもなく、あとのふたりもわたしたち〝死の教師〟のメンバーでは最強と言っていい力を持っています。聖都のサルアと合流できたとして、わたしと彼、そしてキリランシェロ──この駒 をどう利用しても、正直、クオに勝てる自信はありません」
「正しい分 析 と言えるだろう」
オレイルは、微 苦 笑 を噛 み殺すように、四角い鼻の頭に手を当てた。
「あとはクオの側に、教会総本山 二千人の神官と、十七万人の都市信徒を加えれば完 璧 だな。まさか忘れてはいなかったろうが」
「皮肉を言わないでください。もちろん、根本的に布 石 のしようがないことは分かっています。ですから──」
メッチェンが勢い込んで、言いかけた、その時だった。
ドアが、ノックされる。
言葉をのみ込んで、メッチェンはドアのほうへ向き直った。と、視線をもどすと、オレイルはまったくぴくりとも動いていないようだったが。
誰が来たのかは分かっている。
「どなたかな?」
惚 けた声で、ドアに向かって聞くオレイルにも、当然分かっていたはずだ。
乾 いたニスが、ぼろぼろにはがれ落ちかけているドアの向こうから返ってきた声は、少し皮肉げな調子の、若い男のものだった。
「誰もなにも──あんたが俺 を呼んでたって聞いたぜ?」
「ああ。そうだ。鍵 はかかっておらんよ」
ドアが、開いた。姿を見せたのは、当然──黒ずくめの魔術士である。表情には前々から顕 著 に現れていた皮肉さに、今は鈍 い緊 張 感 のようなものが加わっている。ここは魔術士の土地ではない。その警 戒 感 だろうが。
彼がキリランシェロ──今はオーフェンと名乗っているらしい。
メッチェンが、じっと彼を見つめていると、オレイルがいきなり声をあげた。
「『ですから』、なんだ?」
「は?」
甲 高 い声で、聞き返す。オレイルはゆっくり言い直してきた。
「だから、メッチェン──『ですから』の続きはなんだ?」
「は、はい......」
彼女はちらりと黒魔術士のほうを一 瞥 してから、咳 払 いして痰 を切った。
見ると、オレイルはまた深々と椅 子 に体重を預 けている──黒魔術士が、部屋に入ってドアを閉めるのを待ってから、彼女はあとを続けた。
「どんな定 石 も通用しません──正攻法では無理です。ですから」
しばし、息を止める──
「ですから、盤 をひっくり返します。それしかないでしょう」
◆◇◆◇◆
彼が入ってすぐに、メッチェンは部屋を出ていった──軽く目を伏せて黙 礼 して。
だが剣を忘れているようだった。さっきまで彼女が腰掛けていたと思 しきところに、手入れ道具といっしょに放り出してある。オーフェンは、彼女が後ろ手に扉 を閉めてからそれに気づき──振 り返ったが、もう遅 かった。扉の向こうから、早足になってばたばたと廊 下 を進んでいく彼女の足音が聞こえてきている。
「......なに急いでやがんだ?」
なんとなく不服な口調で独 りごち、オーフェンはその剣を拾い上げた。金属製の柄 が完全に彼女の手の形にすり減っていて、彼の手にはまったく合わない。
しげしげと刃の照り返しを観察して──彼は、ぽつりとつぶやいた。
「質は悪くねえけど、普 通 の剣だな」
「剣のことが分かるのかね?」
からかうように聞いてきたのは、無論、部屋の奥の椅 子 に腰を下ろしている小 柄 な老人である。このオレイルという男に、オーフェンはここ数日間、世話になっていた。
オーフェンは、同じところに転がっていた鞘 も拾い、その中に刀身を滑 り込ませると、
「......雑貨屋で、このはさみは切れそうな色してやがるなと思うのと同じ程度には分かるさ。道具の見方なんざどれも同じだ。まさかあんた、剣には魂 がこもってるとかいうクチじゃねえだろうな」
「わたしは生 涯 で何十本もの剣を折った」
くつくつと笑って、さも楽しそうな顔で老人が答えてくる。
「だがわしは生きとるよ。ただ......」
と──言いよどみ、老人の顔から感情が消えた。手をすり合わせながら、続ける。
「生きているからといって、わし自身が折れとらん とは言えんか。まあ、だが──わしは別に、道具に愛着はない」
オーフェンはそれを聞きながら、もとあった場所に剣をもどした。腰に手を当てて、ゆっくりと向き直る。
「で......俺に用事があるって聞いて来たんだが」
「簡単なことだ」
オレイルは、まっすぐにこちらを見 据 えて言い切った。
「教会総本山 へは行くな」
「断る」
こちらも老人をしっかと見据えて、言い返す。オーフェンは、メッチェンが去った扉にちらりと一瞥くれてから、言い直した。
「......あんたらの協力がなければどうしようもないって立場で、でかいことを言うみたいだけどな。俺には目的があるし、それを変えるつもりはない」
「メッチェンが、下 心 を持っているとしても......か?」
「ンなことは、とっくに覚 悟 してるさ。掛け値も二心もなしに、キムラックの死の教師が手助けしてくれると思うほど、俺はお人好しじゃない」
「相手に下心があると分かっていて、なおつき合うというほうが、よほどお人好しだと思うがな」
ぶつぶつとうめくオレイルに──つい、確かにそうかもと思いもしたが、オーフェンはあえて無視した。かぶりを振るつもりで視線をそらし、肩をすくめる。
「決めたよ。明日には出発する」
「突然だな」
虚 を突いたつもりだったのだが、老人は動じもせずにそう言ってきた。口元に余 裕 の笑みすら浮かべている。
オーフェンは、内心舌打ちしながら、
「これまで待ち過ぎてた。ここでなんの準備ができるわけでもなし、もっと早く行動してりゃ、行くなだの下心があるだの、死ぬほど脅 されたりしないで済んだんだ」
「ここにいた数日間分、寿 命 が伸びたのかもしれんのだよ」
意地の悪いオレイルの言葉は無視して──オーフェンは、大 股 で部屋の窓まで歩いていった。外を見やると、最後に見たのと同じ場所でマジクが、最後に見たのと同じ格好でたたずんでいる。少し離 れたところで、クリーオウがうろうろとしているのも見えた。慰 めてやろうとしているのだろうが、マジクが動かないので近寄りがたいらしい。
オーフェンは、じっと動かない金髪の少年を見下ろした。少年が立っている周 りの地面には、当の少年が転ばされた跡 が、あちこちに残っている。風が少しずつ、それを削 り取るまで残るだろう。
「俺があいつに言っていたこと、聞いていたんだろ?」
オーフェンは、気の抜けた声でつぶやいた──小さい声だったため、オレイルには聞こえなかったかもしれないとは思ったが、言い直すのも面倒くさい。
だが、一応オレイルからの返事は返ってきた。
「ああ」
「......どうやって死んだとしても、なんのために死んだとしても、同じことだろ。いつ死ぬのだって同じさ。数日間、死ぬのが先になったところで意味がない。死んだら、それで終わりだ。それこそ、何年か前に死んでいたとしても、五十年後に老 衰 して死んでも、どうってほどの違いはない」
淡 々 と、オーフェンは続けた。オレイルが、少し呆 れ調子で口をはさむ。
「その若さで虚 無 主義かね?」
「違うさ。いつ死ぬのも同じなら──いつだって死には抗 ってなきゃならないってことだ。なにに替 えても、俺は死なないさ。今だって、これほど死ぬのを怖 がってる。キムラックに行くなんざ、正気の沙 汰 じゃない」
オーフェンは肩越しにオレイルを見やると、拳 を握 ってみせた。たいして大きくもない拳が、かすかに震 えている。
「この怖さに、あいつが気づいたら、あいつに戦闘訓練を始めてやってもいいって、そう思ってるんだよ」
窓の下に視線をもどすと、意を決したクリーオウが、とてとてとマジクに駆 け寄っていくところだった。
◆◇◆◇◆
「裏切っただと!? 」
彼女は明らかに、絶句したようだった──絶句して、なおかつ叫んでいた。声になっていたのは言葉ではない。ただ悲鳴が、言葉に聞こえたというだけだ。
彼女に言葉を吐 く余 裕 などなかったはずだった。
「裏切った......だと? 我らがか。我らが汝 らを裏切ったと申したか」
むせ返るように激 しく波打つ胸元に、か細い指を添 えてあえいでいる。男が手にした短剣の刃に、たまたまその彼女の表情が映っていた。彼女の姿を、自らの手中の短剣に封 じ込めようとしている──男はそんな妄 想 を、ふと抱 いた。
無論そんなものに、現実味はない──現実にそうできるものなら、とっくにそうしている。男は刃を翻 して、自分の心を実際の彼女へともどした。
肖像画。そしてこの短剣に映る彼女。自分は彼女を虚 像 に貶 めようとしているのか──そんな思いも浮かぶ。だが結論は待たずに、彼は言葉に出した。
「そうでないのならば、なぜ隠 そうとしていたのですか?」
「知っているであろう!」
イスターシバは、怒 り狂 った眼 差 しでこちらをにらみ付けると、凄 絶 な怒 声 をほとばしらせた。
「〝聖域〟は──始祖魔術士 らは、汝 らを根 絶 やしにしたいのだ! 我らは汝らを守ろうと戦った──」
「それは知っています。問題をすり替 えないでください」
男は、悲しげにかぶりを振 った。
「──わたしは、あなたがたが なぜ隠 したのか、それを聞きたいのです」
「汝らが我らを愛したのと同様、我らも汝らを愛した。ゆえに語れなかった。それでは答えにならぬのか」
「既 に愛は破 綻 したのではないですか」
「その発言は、いささか悲劇的に過ぎるのではないかな」
「ほかの言葉で語っていただきたいと、申し上げているのですよ」
「............」
イスターシバは、かなりの時間沈 黙 した──五分ほどもだろうか。両者ともに、身動きのとれない静けさに捕 らわれる。あるいは囚 われる。
静けさが増すごとに──お互 いの動 悸 が激 しくなり、体内の騒 音 はむしろ激しく聞こえてきていた。
嵐 の中で歌うようなものだ──
と、男は胸中でつぶやいた。歌は誰にも聞こえない。自分にも聞こえない。
それでも歌っているのだ ! 聞いてもらうために!
イスターシバが、乾 いた唇 を開くのが見えた......
「メロンが食いたい」
体温計を口から出したら、そのさきっちょにカマキリの卵がくっついていたというくらいのめちゃくちゃな唐 突 さで、そのせりふはつぶやかれた。
通常なら──つまり、そのような唐突な展開に慣 れっこになっていなかったら──立ち止まって、目をぱちくりさせたかもしれない。だがドーチンは、気にもとめずに歩 を進めた。両手いっぱいの買い物袋を抱 えなおして、一応あいづちだけは打っておく。
「ふうん」
ついでに、ぼそりと付け足した。
「それはつまり、メロンを食べたいってことなのかな。それともメロン氏が、なにか食べたいと言い出したってわけ?」
自分で言いながら、なんのことだか分からなかったが。
「うむ」
だが、兄は──彼の横をのしのしと歩いている兄は、あっけなく納 得 したようだった。
「確か、日 頃 から虐 げられてきたトマトたちが、巨大化して人間を襲 ったという有名な故 事 があったな。あり得ん話じゃない。だがこの場合は、俺 様 がメロンを食いたいという意味だ」
「ありがと。分かった。でも、なんで?」
ドーチンは言葉を短く切りながら、改めて聞き返した。身長百三十センチほどの『地 人 』──大陸の南方にしか生活していない少数種族である。彼ら独自の民族衣 装 である毛皮のマントに身を包んで、もたもたと歩いている。抱えた荷物が当たるせいで眼鏡 がずれるのを気にしながら、ドーチンは兄の答えを待ち受けた。
ボルカンは、あっさりと答えてきた。ちなみに手ぶらである。腰に剣は下げているが。
「ただ単に思いついただけだが」
「その思いつきで何回泣いただろう」
兄には聞こえないように小さくつぶやいて、ドーチンは嘆息した。
ふたりが歩いているのは、道である──それもかなりの大通りである。商店というものがないこの街では、買い物はすべて路 商 からということになっている。その代わりと言ってはなんだが、どの道にも、その路商の姿は途 切 れることはなかった。商品もかなり豊富で、街の外では一日の半分の時間、砂 塵 が吹き荒れ続けているということも忘れてしまいそうだ。
まあなんにしろ、道はそういった路商と、そして通行人たちとでごった返している。その人混みの中を──人々の腰の高さに潜 って進むような形で、ふたりは歩いていた。ただでさえ混んでいる道のうえ、歩いている人間たちが誰 も彼も、砂塵避 けの白い頭 巾 のようなものを着けているものだから、かさばってよけいにせまく感じられる。
ともあれ、ボルカンが歩きながらぶつぶつと続けている。
「メロンメロンメロン」
「そんなもの買ってられないよ。指定された時刻まで、もういくらもないんだから」
「それだ、問題は」
ぽつりと──思いついたようにボルカンがつぶやくのを聞いて、ドーチンは嫌 な予感を覚えたが、つとめてそれを表に出さないように聞き返した。
「問題?」
「うむ」
と、ボルカンが大 仰 にうなずき、立ち止まる──仕方なしにドーチンも、それにあわせて足を止めた。
人の流れの中で、ふたりだけが置物のように固まる。
「つまり──」
目を閉じて、ボルカンは大声をあげて断言した。
「なんで俺様が、あの女に命令されて買い出しになど出ねばならんのだ!? 」
「あのひとにお金をもらってたじゃない、兄さん」
「確かにそーだ! だがしかし!」
拳 を振 り回し──周囲の通行人にひどく迷 惑 げににらまれながら、ボルカンはさらに声を大きくした。
「俺様は金の亡 者 ではないので、駄 賃 はもらっても手伝いはせんのだ!」
「筋が通ってるよーな通ってないよーな......」
「通りまくっている!」
ボルカンはとうとう決めポーズまで入れながら、叫んだ。
「かくなる上は! あの黒ずくめ女をサスペンダーで吊 り殺し、もっと駄賃をもらうが上策であろう!」
「それは強 盗 でしょ」
嘆 息 して──それにしても、嘆息なしに話せる相手がどこにもいないのはどういうことだろうなどと思いつつ──、ドーチンは兄を置いて歩き出した。
「だいたい、勝てるわけがないじゃないか。あのひとは──」
魔術士なんだから、と言いかけて、あわてて口を言い直す。
「......尋 常 じゃないんだからさ。どう考えても」
◆◇◆◇◆
──〝天 魔 の魔女〟──
災 厄 。死魔。まがつび。災 いの名で彼女は呼ばれた。それを気にしたことはない。
誰ともなしに言い出された名である。だからこそ、と言うべきか......正しい呼び名だったのかもしれないと思ったこともある。
寝台の上にまっすぐな姿勢で寝そべって、彼女は自分の名前を呼んでいた。自らの名を呼び、自らの内に入る。自らが自らに取り込まれ、体内に入った自分は、またさらに小さな自分を見いだす。そこにまた侵 入 し、彼女はまた、自らを発見する。
いつしか、無数に見いだした自らに隔 てられ、世界は遠くなっていく......
キエサルヒマ大陸の人間種族が、魔術という力を得たのは、イレギュラーに過ぎなかったと言われている。
三百年前、この大陸に漂 着 した人間種族は、強大な魔術を有するドラゴン種族と出会い、そのドラゴン種族のひとつ、天人種族──ウイールド・ドラゴン=ノルニルとも呼ばれる──と混血した。
その人間種族とドラゴン種族の末 裔 が、現在、大陸で魔術士と呼ばれる人種である。
アザリーは目を閉じていた。もとより世界から遠ざかった彼女──自らに潜り込む前の、最初の〝彼女〟には、外界をのぞき見ることなどできようはずもない。
自らの中に引きこもった〝彼女〟は、静かに身体を伸ばす。寝台の上に寝ている肉体と同じ格好で。
彼女は魔術の構成を編 みはじめた。
すさまじく複雑な構成を、ひたすらに編みつづける。延々と絹 を織 りつづける作業に似ていなくもない。構成を編むのだけは、頭の中でできる──だがそれを発動させるためには、外に展開しなければならない。それに用いられるのが魔力。そして魔力を放出するのに必要なのが、呪 文 である。
構成は完成する。彼女は叫んだ。
《跳 べ──》
肉声ではない。単に意思としての〝声〟だった。
瞬 間 、内側にいる〝彼女〟と、もっとも外側に在 る彼女の肉体とが入れ替 わる。
《光る......!》
その眩 しさにまぶたを半分下ろして、彼女は次に来るはずの衝 撃 に備 えた。その光も、そして衝撃も、物理的にもたらされたものではない。
意識の爆 発 の中、彼女は身体の外へと飛び出していった......
キエサルヒマ大陸で人間が用いる魔術は、音声魔術と呼ばれている。声、つまり呪 文 を媒 体 に行う魔術だからである。
イメージの中の〝構成〟を、声を使って放 つ。これが、その基本となる作業である。編み上げる構成には個人差があり、強力な構成を瞬 時 に編める者もいれば、そうでない者もいる。
そしてその個人差が──もっと極 端 な、魔術としての根本的な差異を生み出した。黒魔術と白魔術である。
力と物質を操 る黒魔術に対して、白魔術は精神と時間とを操る。その効力は極めて強大で、一 般 的に白魔術は黒魔術の追 随 を許さない。音声魔術士にとっては最大の制約である『呪文』すら、白魔術士は必要としないことがあるくらいだ。
白魔術士は黒魔術士に比べて、その素養を持った人間が少なく、また素養を活 かせる人間はさらに少ない。そして彼女は──天魔と呼ばれたアザリーは、白魔術と黒魔術の素養を同時に持つ、さらに希 少 な例のひとつだった。
風の音に鼓 膜 を引き裂 かれそうになりながら、彼女は世界を飛んでいた。ただ垂直に、上へ上へと昇っていく。
どのくらいの速度でだろう──彼女には分からない。ただ彼女の思い通りに、いくらでも昇ることができる。地上に覆 い被 さるように広がっている黄 塵 の天 蓋 に突っ込み、またさらに昇る。別に、彼女の肉体が飛んでいるわけではない──飛んでいるのは彼女の精神体である。人の目に見えることもない。
空は暴風の世界だった。
その風に邪 魔 されたということではないが──彼女は、唐 突 に上昇を取りやめた。ふと、地上を見下ろしてみる。
どのくらいの高度に達しているのか、彼女がいたはずの場所──つまり彼女の肉体が寝ている隠 れ家 は、細かい街の縮図に埋 もれて、どこだか見分けがつかなくなっていた。彼女の眼下に広がっているのは、巨大な街の全体図である。
彼女はひとり、つぶやいた。
《......これが......》
そこは、彼女の目的地だった。
街を見下ろしている。
黄色く乾 いた荒れ地に囲まれるようにして、その街は在 る。
風が吹き荒れ、黄塵を空へと吸い上げてはまた地上へと送り返している。街は一見して、二層に分かれていることが見て取れる。内と、外である。
〝内〟は高い壁 で囲まれている。〝外〟はつまり、その壁をぐるりと囲んで、街の外へだらだらと広がっている感じである。その景観を目玉焼きに喩 える者もいる。直径百キロほどの目玉焼きである。
言わずもがな、〝内〟は富み〝外〟は貧 している。街の中心には、巨大な神 殿 が建っている。その周囲をきらびやかな街並みが囲み、それを守るように外 壁 がそびえている。神殿のあるその区域から漏 れいでたのが、その外周を延々と広がっていくスラムである。
そこは大陸の北端──街から十キロも北上すれば、海に面した断 崖 に突き当たる。
聖都である。人はここを、キムラックと呼んでいる。
《......そして......あそこが......》
彼女は注意を、街の中心へと集中した。それ自体がひとつの石 碑 のような形をしている巨大な建造物が、優に街の数区画分を占 領 して鎮 座 している。キムラックの《学びの壁》の向こう側──教会総本山の、完全なる中心。
ユグドラシル神殿。
キムラック教会の崇 める運命の三女神 が住まうとされている、神界の名を冠 している。
大陸すべてのキムラック教会は、すべてこの教会総本山都市に帰属している。すべての教えが、ここから発せられている。教主ラモニロックの名に於 いて宣言された、キムラック教会発 祥 の地。約束の土地──聖地!
その中 枢 となるのが、間違いなくユグドラシル神殿だった。
《でも、行けるはず──》
彼女は決心を固めると、今度は全力で降下を始めた。
あまりにも緩 やかに、地上が近づいてくる──狂 ったように吹き荒れる風の轟 音 がなければ、自分が自由落下に数倍する加速度で降下していることが信じられなかったろう。
彼女は唇 を一 文 字 に引き締 めると、一直線に降下を続けた。見る見るうちに、彼女の視界の中にキムラック市が広がり、やがて左右を向いても都市の輪 郭 が見分けられなくなる。といって別に彼女があたりを見回していたわけではなかった。彼女は都市の一点だけを凝 視 している。彼女の目的はひとつだった。
ユグドラシル神殿へ。
神殿に向かって彼女は突っ込んでいった。ここに来て速度はこれまでにもないところにまで達していたが、彼女には恐 怖 はなかった。もう慣れていた。この街に来て、同じことを幾 度 となく繰 り返していたのだ──
が、それと同じ回数、彼女は失敗してもいた。
神殿が、目前に迫 る。白く巨大な神殿。まるで墓 標 のような。だが城よりも大きい。
これだけの墓標を建てて、いったいなにを悼 むというのだろう──愚 にもつかない思いが、彼女の心をよぎった。そういえば、自分の墓はまだ《牙 の塔 》の裏の共同墓地にあるのだろうか。空っぽの、無人の墓 。ただ彼女の名が刻 んであるだけの墓標。
そして──
その瞬 間 、彼女は神殿の壁に激 突 し、粉々に砕 け散った。
「............っ!」
悲鳴をあげて、アザリーは飛び起きた。古びた寝台の脚 が、きしんだ音を立てる。
だがそんなことには構わずに、彼女は激 しい動 悸 にあえぎつつ、震 える腕で自分の膝 を抱 きしめた。恐 怖 ──というよりも圧倒的な寒 気 で、思うように身体が動かない。
全身が汗で濡 れていた。湿 っていたのではなく、濡れていた 。寒気を覚えたのはそのせいだったのだろう──身体の中心は、むしろ内蔵が痛くなるほどに熱を持っていた。
息が上がっているのが自分でも分かる。なにか無 性 に恐 ろしくなって、彼女はきつく目を閉じた。
そしてすぐに、激突の瞬間と、自分の感覚がばらばらに壊 れた衝 撃 とを思い出し、さらに身を震わせた。
ゆっくりと......目を開く。
まぶたを開けるのにあわせたように、身体の緊 張 も、少しずつ消えていった。初めて深く息をつけたのは、抱いていた膝をはなしたあたりである。彼女は汗で顔に張り付いた黒 髪 を手でどけると、身体の向きを変え、寝台から足を下ろした。
「............」
無言で、見回す。

もちろん、彼女がもともといた部屋である。彼女は外になど出ていない のだから。だが、もう一度恐 怖 にひきつったため息をついてから──彼女はかぶりを振 った。
「これだけ接近しても、精神体を侵 入 させられないなんて......どういう防御なのよ、いったい」
苦々しく独 りごちると、彼女はつま先を中 途 半 端 に靴 の中に入れ、立ち上がった。
部屋はせまい。身を隠 す目的で、格安で借りた部屋である。寝台以外には家具もない。むき出しの床の上に、食べ物の包みやら、その他のゴミが散らばっていた。手荷物は、隅 っこのほうにほっぽりだしてある。
立ち上がってからもまだ少し目眩 がして、完全に意識が安定するまで、彼女は待った。その間にも、ぶつぶつとぼやく。
「天人の転移装置も、あの神殿内に対しては使えなかった──となると、ノルニルの魔術に匹 敵 する強い防御が、あの神殿にはあるってことになるわけね。キムラック教会はドラゴン信 仰 を否定しているはずだから、そんな馬 鹿 なことがあるわけないのに」
彼女が着ているのは、ごく普 通 のシャツにスラックス。いつもの黒ずくめは、この街に入る時にやめた。あまりにも目立ち過ぎるし、この街で彼女が目立つことは──確実に最悪の死を意味する。
「でも、それを考えたら、わたしの精神体分 離 なんていうのは単に〝五感〟を身体から分離させる程度のレベルだから、試すだけ無 駄 だったかもね。完全に肉体を捨て去っちゃえば別なんだけど......ぞっとしないし」
自分に言い聞かせるように、彼女は続けた。少し視線を上げて──窓の外を見る。この部屋は三階にあった。見えるのは、隣 のアパートメントの壁だけである。
額から鼻筋をつたって、汗が流れる。汗の滴 はそのまま、口に入った。その塩辛い味のしみる唇を噛 んで、彼女はつぶやいた。
「やっぱり......自分の足で侵入するしかないってことかしらね」
◆◇◆◇◆
荷 馬車 に揺られながらオーフェンは、はっと顔を上げた。
すれ違った農夫が、こちらを振 り向いたような気がしたのだ──
「......神経質になる必要はないわよ」
小さな馬車の御 者 台 から声をかけてきたのは、メッチェンだった。
顔を向けると──彼女はこちらを見もせずに、手 綱 をもてあそんでいる。
「あなたが馬鹿なまねをしない限りは、大 丈 夫 よ」
「どう安心しろってんだ」
顔をしかめると、小声でオーフェンは毒づいた。
「俺ら を見たら、とりあえず火あぶりにしねえと気がすまないって連中が、ごく普通に文化的な生活をする権利を持って暮らしているような場所でよ」
「安心しろなんて言ってないわよ。馬鹿なまねをするなって言ってるの。たとえば、不必要にびくびくしてわざわざ目立つようなこととかを、ね」
彼女はそう答えながら、ようやく肩越しにこちらを向いてきた。前に見たことのある青い布 を頭に巻いている──ここに来てやっと気づいたのだが、つまりこの布は防 塵 用のものだったわけだ。ただ、さすがに鎧 やら剣やらは持っていないが。
もっともその剣は、荷馬車に山と積んである荷物(空っぽの木箱ばかりだが)の下のほうにかくして、しっかり持ってきてある。
オーフェンは荷台の上に、あぐらをかいて座 っていた。街の外の街道は言うまでもなく舗 装 などされておらず、がたがたとひどく揺 れる。いいかげん尻 が痛むため、彼はさっきから座り直してばかりいた。
数日間ほども彼らが泊 まっていたオレイルの家から、馬車に揺られて街道を一週間ほど──なにしろ馬が年寄りのため、遅 々 として進まないのだが、とにかくふたりは少しずつ教会総本山、キムラック市に近づいていた。既 に、乾 燥 した砂 塵 の飛び交う教会管理区 に入っている。
「この分なら......キムラックに着くのは明日、か」
空を──黄色がかった空を見上げて、オーフェンが独 りごちた。ついでに、しつこく何度もまぶたまでずり落ちてくる防塵用の白い頭 巾 を押しのける。
例の革 のジャケットやらなにやらは、やはり木箱の中に隠して、彼もまた格好を変えていた。少しだぶついた麻 の上下──色は白である。
「......にしても、この白ってのは、なんか落ち着かねえんだけどな」
「黒より目立たないでしょ。キムラックでは、それがフォーマルカラーよ」
「クリーオウの奴 には爆 笑 されるし、そんなに似合わねえかなぁ」
座ったまま身体を見下ろし、オーフェンはぼやいた。
と──
少し間を置いてメッチェンがつぶやくのが聞こえた。
「......ひとつ聞きたいんだけど」
「ああ」
あぐらをかいたひざに頬 杖 をついて、彼女のほうは見ないようにしながらオーフェンはうなずいた。さりげない口調で、メッチェンが続ける。
「なんで、あの子らを連れてこなかったわけ?」
風が──というより黄 塵 が、せりふをかき消すように甲 高 い音を立てる。無論、それで聞こえなかったということはなかったが、オーフェンはあえて口をつぐんだ。
憮 然 とした面 持 ちで黙 っていると、メッチェンは勝手に自分で答えたようだった。
「わたしが信用できない?」
言いながら、馬鹿にするようにくすりと笑う。
「キムラックに着いてから、教主にあなたを売り渡すとでも思ってるかしら?」
仕方なしに、オーフェンはため息をついた。
(下心、か......)
オレイルの言葉を思い出しながら、うんざりしてうめく。
「......信用してないのなら、そもそも俺自身がついてきたりしねえさ」
「そりゃあそうね」
軽い調子で納得する彼女の声を聞いてから、オーフェンはゆっくりと付け足した。
「だが、ちっとでもその危険がある限りは、あいつらを連れてくるわけにはいかねえだろ」
「それなら、オレイルがあの子たちを処 刑 しないって考える根 拠 もないんじゃない? 彼も、れっきとしたキムラック教徒なんですからね」
それを聞いて、オーフェンは少し目線を上げて考え込みかけたが、すぐにやめた。向き直って、彼女のほうを見やる。さっきすれ違った農夫たちが、十分に遠ざかったことを確認してから、
「あのオレイルっておっさんは、そもそも何者なんだ?」
せっかくこちらが見てやっても、彼女自身は、とっくにこちらに背を向けていた。そのまま答えてくる。
「彼はわたしの後見人みたいなものよ。サルアにとっては師 でもあるわ」
そして、声のトーンを落として付け足してくる。
「......彼も死の教師よ」
オレイル──あの老人も死の教師ならば、サルア・ソリュードというのも、オーフェンが《フェンリルの森》で出会った死の教師の名前である。オーフェンはそれを思い出しながら、続けて尋 ねた。
「死の教師──教会総本山 の暗殺部隊か。いったい、全員で何人いるんだ?」
「そこまで教えてあげる義理はないわよ。でも、わたしを含めて六人」
同時に自 嘲 じみた笑いを漏 らすのを、彼女は隠 したつもりでいたようだが、オーフェンははっきりと聞いていた。
「キムラックに潜 入 してくる魔術士のスパイを、たった六人で迎 え撃 つってわけよ。心強い限りだわ」
「あんたらの任務は、それだけじゃないんだろ?」
「まあね」
彼女は手 綱 を持ったまま、肩をすくめた。
「異 端 の教師の抹 殺 ──これは教主の不 興 を買った人間の排 除 も含まれるけど。ほかにも貴族連 盟 に対して隠 匿 されている遺 跡 の調査や、タフレム市やあるいは王都への潜 入 調査をやることもあるわ。結局のところ、普 通 の教師にできないことは、たいていわたしたちにお鉢 が回ってくるわけ」
「あんたらの身分は、一般人には秘密なのか?」
なんとなく気になって、オーフェンは聞いてみた。あっさりと、彼女がうなずく。
「当たり前でしょ。公式には、わたしたちはあくまでただの教師──キムラック教会の一伝道士に過ぎないわ。説法の免 許 だって持ってるわよ」
がたんと馬車が跳 ねて、しばしの間、彼女が沈 黙 する──どうやら舌を噛 んだらしい。
「その免許といっしょに、戦 闘 訓練やらなにやらを受けたっていうだけ。訓練が終わった時に、教主から剣を賜 った。本当にそれだけよ」
「ガラスの剣、か......」
大陸に八本しかないと言われる死の教師の象 徴 たる武器である。
だが彼女は、鼻で笑った。
「そ。あのやたら重くて使いづらい剣。あんなもんで魔術に対 抗 できると考えた教主様も、お気楽なもんよね」
彼女の言葉にオーフェンが口を開くよりも早く──メッチェンは、ひとりで続けた。
「どんなに訓練を受けたところで......わたしたちは人間よ。あなたたちには勝てない。魔術士には、ね」
「......ずいぶんと弱気だな。それと、俺らが人間じゃないみたいな口 振 りだが」
「怒らないでよ。どうぜ、わたしたちの教義の、本当の部分は知らないんでしょ?」
「ああ」
彼が認めると、彼女はふっと、微 笑 を浮かべた。
「それをここで話すつもりはないわ。どのみち、平行線にしかならないから」
「俺も別に、興味はないよ」
オーフェンは素 っ気 なくそう告げた。本気で、特に興味はない。
見上げると、渦 巻 く黄 塵 の上に雲が見えた。黄色がかった空というのは、ひどく天 井 が低く見える。
が、興味のない態度を取ってしまったことがかえって仇 となったのか──彼女は、蒸 し返すように続けてきた。
「......本音を言うとね、今はまだ、ここであなたと対立したくはないのよ」
「やっぱり、あんたなりの目 論 見 があるってことか。分かってはいたんだが。命を助けられたからって、俺をキムラックまで案内してくれるってのは、ちょっとな」
「話がうますぎる? まあ、そうかもね」
がたごとと進む馬車の上で、彼女は少し声を出して笑った。と、世間話のように、またトーンを変える。
「あの子たちのことだけど──あなたの連れのね」
「......ああ」
「置いていくって言った時に、かなりの剣 幕 だったから......あとから勝手についてきちゃうんじゃないかしら。そうしたら、どうするの?」
「あのおっさんの家からあいつらが徒歩で、キムラックまで最短でも一週間以上かかる」
オーフェンは、ぼんやりと空を見ながら答えた。
「俺らは四日で着く。差し引き三日もあれば俺の用事は終わるし、三日以上もあの街に潜 伏 してボロが出ないとも思えないな。帰り道であいつらを拾えばいい」
「......あなたの用事って?」
「話せない。あんたと対立したくないしな──今はまだ」
別に皮肉ではなく本気でそう言うと、居 心 地 の悪い荷台の上に、彼は無理やり寝転んだ。深呼吸して──たちまち口の中に入ってきた砂に咳 き込む。
「げっ!──ぺっ──くそ、なんなんだよ、この砂は」
「砂は砂よ。大昔からあったわ」
見るとメッチェンは、土地の者の慣れか、いくら口を開いても砂を吸わずにすませているようだった。
「不思議に思わない? この砂ね、どう考えてもここらの土の色と違うのよ。だいたい、このゲイト・ロックの土 壌 は、まったく枯 れていない──砂 漠 化の兆 しもないの。水もあるし、木々も育ってる。でもこの砂 塵 は、いつも吹いているの」
「答えを知っていて聞いているって口調だな」
オーフェンがぽつりと指 摘 すると、彼女はまた微 笑 して、そのまま口をつぐんだ。
彼もまた黙 して、かなりの時間が経 った頃──
メッチェンが、ほとんど聞き取れないほどの小声で、つぶやくのが聞こえた。
「この砂の嵐はね、二百年前から、この土地に吹いている......」
そして、さらに小さな声 音 で続ける。
「この砂は死んでいるわ。この砂の上に種を蒔 いても絶対になにも育たないし、あまり長期間にわたって吸っていると、人間も病気にかかることがある」
「黄 病 ってやつだな。キムラックの風土病の」
「そ。わたしも子供の頃 、三回もかかったわ。三回かかって生き延びた人間なんて滅 多 にいない──でも、結婚はできなくなったけどね。かえってよかったかしら」
「俺も予防したほうがいいのかな」
あまり気にせずに、ただ単に会話の流れから、オーフェンはそんなことを言ってみた。本当の注意は、黄塵の渦 巻 く空を見上げている、それだけである。
メッチェンの声も、どちらかと言えば上 の空な調子にしか聞こえなかった。だが決して──両者ともに──そうでなかったことは次の彼女の言葉でも分かったし、そしてオーフェン自身もそれを聞き逃 していなかったことで、否 応 なく自覚しなければならなかった。
彼は、油断してもいい場所にいるのではない。ちょっとしたことが確実に死をもたらす可能性は、いくらでもあった。
メッチェンが、なにげなく口に出す。
「あなたが注意しなければならないのは......クオよ」
「......クオ?」
「クオ・ヴァディス・パテル──わたしたちのリーダー」
あまり慕 ってもいない声で、彼女は続ける。
「十年前、キムラックに侵 入 してきたひとりの黒魔術士を退 けた人間、と言えばピンと来るんじゃないかしら」
彼女の言葉通りにピンと来た──というほどでもなかったが、それでもオーフェンは、それを聞いて上半身だけをむっくりと起きあがらせた。
「それは......」
「そうよ」
彼女は、静かに断言した。
「あなたの師──チャイルドマン・パウダーフィールドと戦い、そして退けた。クオ・ヴァディス・パテルは、そのときに〝死の教師〟のリーダーになったのよ」
「............」
オーフェンは答えずに、ただ彼女を凝 視 していた。その彼女の向こうに──馬車の進んでいくはるか前方に、巨大な都市の影 が広がっている。とても巨大な、そして深い都市の影......
「どうしたの?」
からかうように、メッチェンが言ってきた。
「怖 くなった?」
「............」
やはりまた答えずに、オーフェンは胸中で雪崩 を起こした思いを反 芻 した。自分でもよく分からなかったのだが──ふと、整然と自分の考えていたことが見えて、その馬鹿馬鹿しさに、彼はひとりで苦笑した。
「くだらねえことを考えてたよ」
「......なにが?」
きょとんと、メッチェンが聞き返してくる。
オーフェンは顔を上げると、深々と息をついて続けた。
「そりゃそうだよな。先生だって──」
「先生だって?」
聞いてくる彼女に、口元をにやりとさせて答える。
「先生だって、そりゃ、なにかを失敗することくらいあるんだよな」
◆◇◆◇◆
ちなみにその頃、クリーオウとマジクは──
せま苦しい木箱の中で、退 屈 な旅に不平を漏 らしているところだった。
◆◇◆◇◆
「それは......」
苦 々 しく、イスターシバが声を紡 ぐ。
「我々には、時間がなかったのだ。未来が......尽 きていた」
砦 の中は静まり返っている──彼女の言葉を迎 え入れるためとでもいうように。
その沈 黙 の中で、彼もまた静かに声を震 わせた。
「......だからといって──我々の未来まで奪 ったのですか!」
「それは違う!」
「なんの荷物ですか?」
赤い制服を着た衛 視 が、気安い口調で彼女に聞く。
メッチェンは御 者 台 の上から、ひょこんと肩をすくめると、
「今回の遠 征 の戦利品よ。上から連 絡 が来ていると思うけど......」
「はい。確かに」
その若い衛視は、太い眉 毛 を親指でかきながら、手元のバインダーをのぞき込んだ。中には、びっしりと書類がはさまっている。
「ただ......」
言いよどむ彼に、メッチェンが寛 容 な笑みを見せる。
「ただ?」
「連絡元が、神殿教師会ですから......できれば、正規の門を使っていただきたいんですけれど」
「あちらは混んでるもの」
メッチェンはあっさりと一 蹴 すると、隙 を見て衛視の手から、ひょいとバインダーを取り上げた。
「あ、メッチェン教師!」
彼の抗 議 の声は無視し、指をつばで湿 すと、ぱらぱらとバインダーをめくる。彼女は唇を少しなめてから、バインダーの表面をぽんとたたいた。
「分かったわ。神 殿 には、わたしから言っておくから。あなたに迷 惑 はかけないわよ」
「しかしですね......」
と、衛視が顔を曇 らせる。
そんなやりとりを、他 人 事 のように荷台から眺めやり──オーフェンは、あくびしそうになって、あわてて唇を噛 んだ。
馬車がたどり着いたのは、広大なキムラック市の外れである。いわば、スラムだった。屋根の輪 郭 だけを見てもでこぼこな小屋の群が、どこまでもどこまでも連なっている。どことどこの小屋の隙 間 が道なのか、見分けがつかないというくらいだった。人 影 はない。人の声もしない。
ただ、小屋の中に引きこもっている人間たちの気配だけが、どこかにどんよりとわだかまっているのが知覚できた。
スラムの外周を、ぞんざいな木の柵 が覆 っている。その数少ない入口が、ここだった。これまたぞんざいな門の横に、木造の詰 め所 が建っている。どちらかというと、納 屋 に窓をつけたような小屋だったが。
どうも見たところ、そこに配置されているのは衛視ひとりのようだった──つまり、この男だ。街 を囲んでいる柵はたいして高さもなく──二メートルほどか──、越えようと思えばどこからでも侵 入 できそうではある。
──わざわざ侵入したいと思えばの話だが。
オーフェンはなんとなく、そんなことを考えていた。
彼が見る限り、なにもないところだった。不格好な小屋が建ち並ぶだけである。
だがキムラック市は、この小屋の群れの向こうにある。
キムラックの中心、神殿街を囲む《学びの壁》は、まだ見えないが──ひときわ高くそびえている神殿の輪 郭 は、黄 塵 の混じった風の向こうにぼんやりと見えていた。
と──
「あら?」
不意をつかれたようなメッチェンの声に、オーフェンは再び注意をそちらに移した。見ると、彼女はバインダーを見て、軽い仰 天 の表情を浮かべている。
「どうかしましたか?」
衛視の問いに、メッチェンはバインダーのクリップを外して書類の一枚を抜き取った。
「サルア教師は、街を出ているの?」
「え? まあ──そういった書類が回ってきているのなら、そういうことになりますが」
「修養研修ということになっているけど......」
「そうですか? サルア教師は大 抵 、こっちの門を使われるんですけどね。ぼくは見なかったなぁ。多分、ほかの者の当直の時に出られたのだと思いますが」
「へえ......」
どことなく考え深げに、メッチェンが眉 根 を寄せる。が、衛視はまったく構わずに、非難がましく声をあげた。
「それはそれとして、書類、返していただけませんか? 公務が続けられません」
「どうせいつも、暇 なんでしょ?」
からかうようにそう答えながらも、メッチェンは、彼に書類を返してやっていた。ウインクして、付け加える。
「じゃ、公務のお邪 魔 はしたくないから、ここを通りたいんだけれど?」
「オーケイですよ。サルア教師のことは、確認が取れたら連絡します──」
と、そこで彼は、ようやく気づいたようだった──荷台の上からじっと見下ろしている、こちらのことを。
「......そちらの方は?」
オーフェンのほうを示して、衛視が聞いてくる。
がメッチェンはそつなかった。
「この馬車の持ち主。一時的に徴 発 させてもらったのよ」
「はあ」
(......詐 欺 の論理だな)
オーフェンは聞きながら、胸中で苦笑していた──本当らしい嘘 をつきたいのなら、本当に本当らしいことを言う必要はない。せいぜい、ひょっとしたらそういうこともあるかも、という程度でいい。もしくは、聞く側にとって完全に突 拍 子 もないような、めちゃくちゃな嘘だ。完全に隙のない嘘を用意しようとしたところで、嘘をつく側が疲 れるだけだし、隙のない話はかえってアラが目立つものだ。
街の外に出たキムラックの伝道師が、現地でなにかを徴発するような権限を持つわけもないし、その必要があるかどうかも疑わしいところだ。だが、市外での伝道師の任務内容など、街に住む衛視はまったく知らなかろう。
つまり 、そういうこともあるかもしれない 。と思う。
逆に言えば、疑わしいところのある嘘を、わざわざ相手がつくだろうかという逆説的な心理も手伝うわけだ。
「でも《壁》の向こうには馬車の乗り入れは許されていませんよ」
「分かってるわよ。壁の手前で荷を降ろすつもり。作業が終わったら、彼だけ引き返させるわ。この馬車といっしょにね」
と、こちらを指す。
衛視は、一応怪 訝 な表情を見せてから──
「ああ、そうですか」
呆 気 なくうなずいた。メッチェンもにっこりと笑みを返す。
「でもメッチェン教師、この荷物、神殿まで担 いで持っていくつもりなんですか?」
「まさか」
メッチェンは手を振 って、けらけらと笑ってみせた。
「箱のほとんどは空っぽよ。中身があるのはひとつだけだから、引きずってくわ」
つまり、彼女の剣やオーフェンの服などが隠 してある箱のことだろう。
「ならばぼくも、手伝いますが」
「務めは大事でしょ。持ち場を離 れたりしたら、殺されちゃうわよ」
「もうすぐ交代の時間なんですよ。そしたらどうせ、ぼくも《壁》の向こうに帰らなければならないですから」
多少鼻息を荒くして、衛視が言ってくる。だがメッチェンは、あくまで取り合わないつもりのようだった。手 綱 を握 り、軽くひと鞭 くれながら、肩をすくめている。
「悪いけど、急いでいるのよ。分かるでしょ?」
「はあ......」
心を残して生返事を返してくる衛視を置いて、再び馬車が進み出した。
饐 えた臭 いが立ちこめる小屋の中へ、どうということもなく入っていく。荷台の上から、オーフェンは奇 妙 な心持ちになっていた。
(意外と簡単だったな......)
もうここは、キムラックなのである。
黄 塵 の中、薄 暗 い視界に、魔術士の存在を許さない人間たちの街が広がっている。
だが、もう遠ざかった詰め所と、その前にぼーっと突っ立っている衛視とを見ながら、オーフェンは考えていることと全然別のことを口にした。
「あの衛視......」
と声を潜 めてメッチェンに聞く。
「よっぽどあんたに気があるのか?」
「まさか」
メッチェンが、かなり派手に笑い声を出す。
「彼は妻帯者だし、キムラックでは──タフレム市とは違って──結婚は極めて重大で、神聖なものよ」
タフレム市には結婚制度がないことを皮肉って言っているのだろうが、そのことをオーフェンが反論するよりも早く、彼女は続けた。
「彼が世話を焼きたがるのは、わたしが教師だからよ。あなただって《牙 の──ええと、故 郷 では大事にされていたでしょ?」
「............」
オーフェンは、しばらく黙 して考え込んでから、
「なぜだか、あまりいい目を見た記 憶 がないな」
「......あ、そーなの......」
ちょっと哀 れみの混じった眼 差 しで、こちらを見る彼女。
それをごまかすように、オーフェンは聞いてみた。
「それにしても、あの衛視、この門から出入りしている人間の顔をすべて覚えてるようなことを言ってたな。だとしたらすごいもんだ。理想の門番だな」
「なら、尊敬してあげなさいよ。確かに彼は、門の出入りをしている人間をすべて知っているわよ」
からかうように笑いながら、メッチェンが続ける。
「この街から外に出る権限を持っている、なんと総勢六人もの人間の顔と名前をね」
「六......人?」
彼女の言っていることが分からずに、オーフェンは聞き返した。彼女は、にやりとしてみせると、視線で周囲の市街を示した。
そして、また少し関係のないことを言ってくる。
「わたしが聞いたあなたの情報では──あなたは五年前......例のあそこを出 奔 してから、大陸の各地を転々としていたのよね?」
「......ああ」
オーフェンがうなずくと、彼女はまっすぐにこちらを向いてきた。

「その間、ひとりでもキムラック市民に会ったことがある?」
「そりゃあるさ」
なんとなくからかわれているような気分になって、オーフェンは口をとがらせて答えたが、彼女は指を一本立てると、それを振 った。
「違うでしょ。あなたが会ったのは、キムラック教徒。キムラックに住んでいたことがある、っていう人には──」
「そういや、ないか」
彼女には最後まで言わせず、オーフェンは独 りごちた。
そして、ふっと視線を上げると、
「じゃあ、この街の人間の大半は、一生ここから出られないのか?」
「そゆこと。外から来た行 商 人 が、まかり間違って街に住み着こうなんて思わないように、商人が店を持つ権利すら認められてないくらいよ。外来の人間には留 まることを許さない──住人は外に出さない。教師の中でも、街の外に出る任務を与えられることがあるのは......わたしたちだけ」
薄 笑 いを浮かべて、静かにつぶやく彼女を見ながら──
(死の教師......か)
オーフェンもまた、静かにつぶやいていた。声には出さなかったが。
馬車はのたのたと、祖 末 な街並みを後方へと押しやっていく。しばらく進んでも、いまだに街に人影は見えなかった。
と、オーフェンはまた関係のないことを思いついた。
「にしても、なんで門番が、衛視の格好なんてしてたんだ?」
さっきの衛視の制服姿を思い出して、聞く。メッチェンはさして気にしていないようだったが、それでも答えてきた。
「逆よ。衛視が、門番なんてやらされてるだけ。ま、実際のところは制服が派手なだけで、特別な訓練なんて受けていないけれどね。王宮警 護 隊 みたいなエリートとは違うわよ。だからまあ、確かに門番が衛視の格好をしているって言ったほうが正しいのかしら。見 栄 えの問題ね、要するに」
「なんだか変な街だよな」
息をつきながら、オーフェンはしみじみとうめいた。一応は人目を気にして、あまり大げさにならないようにしながら、あたりを見回す。
「だいたい、なんで住人の姿が見えないんだよ」
「隠 れているからよ」
「隠れ......なんだって?」
わけが分からなくなって聞き返す──というより、まともな言葉にならなかったが。だがメッチェンは勝手に続けた。
「大 丈 夫 よ。まだ出てこないから」
「まだって......」
「あと十分ほどかしらね。まあ、あなたは気にしなくてもいいわよ。退 屈 なら、世間話でもする?」
「世間話ねえ......」
ぶつぶつとぼやきながらオーフェンは、自分のフードを目 深 にかけ直した。きめ細かい黄 塵 は、目も開けていられないほどひどいということはないが、街に入っても、その勢いは外と変わらない。道は舗 装 されていないが、あちこちにぎっしりと小屋が建ち並んでいるのだから、多少は勢いも弱まりそうなものだが。
まぶたを細めて、彼は聞いた。
「クオって奴 のことは......聞いちゃまずいか?」
「身長百九十センチ、体重八十キロそこそこ──オレイルに比べれば、どうにも痩 せ気味ね。四十歳の人間としては」
彼女は前を向いたまま、淡 々 とした調子で説明してきた。
「顔は、いつもなんだか怒ってるみたいな目つきしてる。でも彼は怒らないわ。決してね。肩が異 様 に盛 り上がってるわ──首がみっつある、とか言われてたこともあったかしら。でも伊 達 の筋肉じゃないわよ。平気な顔してバットをへし折るのを見た時は、さすがに我が目を疑ったけどね......」
と──
唐 突 に、彼女の言葉が止まる。
ん? と顔を上げて、オーフェンは訝った。
「どうしたんだ?」
「十分もいらなかったわね」
仕方ないといった口調で、メッチェン。
彼女が手 綱 を引くと、不平のいななきをあげながら、馬車は停まった。
「なにが──」
なにが起こったんだ、と聞きかけたオーフェンの耳に、ふと、引きずるような足音が飛び込んできた。
「......なんだ?」
荷台の上に立ち上がる。そこから見下ろして──彼は、そのまま動けなくなった。
慄 然 としていたのだ。
まったくの不意打ちだった──あちこちの小屋の、扉 という扉、窓という窓から、人間が顔を出している。誰 がどうという特 徴 があるわけでもない。男のほうが数が多いようにも見えたが、女もいる。年齢はそれこそまちまちで、どの年代の人間もいそうだった。目立ったのは三、四十代の者だ。家の中にいても、頭 巾 や帽 子 などで砂を防いでいる。
見渡す限り、顔、顔、顔──それが、こちらを向いていた。
見ると、小屋と小屋の間、道もすべて、彼らによってふさがれていた。最後にオーフェンが見たのは、彼らのほとんどが、木の棒のようなものを携 えていることだった。長さは五十センチほど、太さは一 握 りにできるくらい──三センチ程度だろう。
簡単で、そして有効な武器だと認めざるを得ない。少なくとも、刃 物 などよりは殺傷力が低い分、かえって楽に扱うことができる。訓練を受けていない一般人が使うものとしては、最良の選 択 だろう。
(訓練を受けていないとは決まってねえけどな)
自分たちの武器は、一番下の木箱の中だ──
胸中で舌打ちしながら、オーフェンはちらっとメッチェンに目 配 せした。
「......早まったことはしないでね」
彼女が、あっさりとそう言いながら、御 者 台 に立ち上がる。
小屋の扉が開き、中にいた者もぞろぞろと外に出てきた。あっと言う間に、馬車の周囲を数十人からなる群衆が取り囲む。その誰もが一言も言葉を発せず、ただじっとメッチェンだけを見つめていることに、オーフェンは気づいていた。
(物取り......じゃねえな、これは......)
周囲の雰 囲 気 に、馬が不安げに身じろぎしている。やがて──
「教師様......」
群衆の中から年老いた男が進み出た。老人だが、体格はしっかりしている。木の棒は持っていない。周囲の反応から見るに、リーダーか、なにかの交 渉 役 といった様子だが。
だが、そんなことよりも、オーフェンは次に聞いた言葉のほうによほど驚いた。
「なんでしょう?」
それを言ったのは、メッチェンだった──
だが、メッチェンの声ではなかった。つまり、いつもの彼女の調子では。
見て、そしてぞっとしたことに、彼女の顔が平面になっている──表情が平 坦 になっていた。虚 ろな眼 差 しで、虚ろな声 音 を発する。
「あなたがたの望みが聞けないことは、分かっているのでしょうに」
聞きながら、げんなりとオーフェンは思い出していた。
(なるほどね......彼女も一応キムラックの教師だってわけだ)
少なくとも、そのふりができる人間だというわけである。となると、これが彼女の教師としての顔なのだろう。
(確かにまあ、説法してる奴ってこんな顔してるよな、おおむね......)
そんなことを思いながら、そこはかとなく後ずさりなどするわけだが、彼以外の誰も、そんなことは気にもしないらしかった。
「今度こそは、聞いていただきたいのです」
先の老人が、噛 みしめるようにつぶやいている。
メッチェンは小さく首を横に振 った。
「あなたがたには証 がありません。証のない者は聖都に入れない。そのことはお話ししたはずです」
「ならば、その男はなんですか!」
怒声をあげたのは、老人ではなく、群衆の中のひとりだった──スキンヘッドの若者である。あまり必要とはしないせいか、フードを背後に跳 ね上げていた。筋肉質の小太りで、ほかの者が持っているのより一回り太い棒を構えている。
彼が指さしたのは、当然、馬車上のオーフェンだった。
「彼は......」
メッチェンが、力のない半眼で、しかしきっぱりと告げる。
「彼は聖都へは入りません。ただの荷物運びの手伝いです」
「嘘だ!」
また別の人間が、声をあげた。波 紋 が広がるように、次々と野 次 が飛ぶ。
「また俺たちをだますつもりだ!」
「あんたらはいつもそうだ! 良き血の混入だかなんだか知らないが、よそ者 を都 に入れて、俺たちはほったらかしで!」
「嘘ばっかりなんだ!」
「ずっと、ずうっと待っているのよ!? 」
「待ち続けているんだぞ!? 」
わき起こる糾 弾 の声にもまったく動じずに、メッチェンは静かに群衆を見下ろしている。穏 やか、かつ冷たい眼 差 しで。
オーフェンは騒 ぎに耳をふさぎつつ──いちいち聞いていたら、かっとして怒 鳴 り返してしまいそうだ──、メッチェンの挙 動 に注目していた。彼女はただ黙 って待っているだけだが、確かにそれが上 策 だったかもしれなかった。少なくとも、同レベルで口論を始めて火に油を注 ぐよりは。
彼女の無言の迫 力 が勝ったか──あるいは単に叫び疲れただけか、群衆は次第に静まっていった。一番最初の老人が、やはりまた口を開く。
「我々は納得ができないのです」
「あなたはわたしの言葉が信じられぬと言う。ならば──」
メッチェンは、よどみなく言い放った。
「それなりの覚 悟 もおありなのでしょう。そうですね?」
その一言で──数秒前まで怒りに燃えていた群衆の顔色が、さっと青ざめる。
それを見て、オーフェンはようやく気づいた。
(こいつら......ここに住む、キムラック教徒か。教師の言葉に逆らう覚悟はあるかとは、よく言うぜ、こいつも)
と、メッチェンの背中を見ながらつぶやく。
(だが、キムラック教徒だったら──)
彼は自問を付け加えた。
(なんなんだ? 聖都に入れるとか入れないとか......)
人種の選別?──階級制度?──彼の頭の中にそんな単語が並んだが、思考は突然、無理やりに中断させられた。脳幹になにか危険信号のようなものが散ったのだ。
ばしい!──
と、とっさにかざした右手で、オーフェンは、飛んできた木の棒を受け止めていた。
見下ろすと、スキンヘッドの男が憤 怒 の形 相 で、こちらに向けて拳 を振 り上げている。
「奴 を引きずり下ろせ!」
その一声が、引き金だった。
わっ──! と、群衆の気勢が盛 り上がる。一度盛り上がれば、あとは噴 出 し続けるだけだった。つまりは、満足するか気 疲 れするまで。満足も気疲れも似たようなものだが。
とまれ、いっせいに、すべての人間が馬車へと押し寄せてくる。
(冗 談 じゃねえぞ──)
ぞっとしながら──どころではなく、オーフェンは心底恐 怖 していた。怒り狂って押し寄せてくる老 若 男 女 の顔を見返して、反射的に魔術の構成を思い浮かべたりもするが、それを放 つわけにはいかない。
魔術の一発や二発で一掃できる人数ではないし、それ以前に、中 途 半 端 な威力では退 散 してくれそうにもない。いや、退散どころの話ではなかろう──彼らに魔術を見せれば、それこそ群衆のヒステリーは爆 発 する。キムラック教徒の持っている魔術士への敵 愾 心 は、外部の人間にとっては不可解ながらも、根の浅いものではない。
オーフェンは、メッチェンのほうへ視線をやりながら、必死に考えていた。思考に割 ける時間は多くない──あと数秒だろう。すぐに群衆は馬車をよじ登るか、ひっくり返すかする。そうなれば、あとは数十人の靴底で踏 みにじられて死体も残らない。この上なく楽な選 択 肢 ではあったが、考 慮 の外である。
見た限り、メッチェンにもさっきまでの余 裕 はもうなかったようだった──自分の言葉で彼らの感情を抑 えつけられないとは思わなかったのだろう。絶望とは言わないまでも、失望しているのが見て取れる。
(どうする──!? )
オーフェンは、とりあえず例のスキンヘッドだけをにらみ返しながら、ともかくも構えは取った。
(死ぬつもりは......ねえぞ!)
あきらめて終わるつもりはない。決心した、その刹 那 ──
ばんっ!
爆音とともに、オーフェンは宙に舞った。
正直に言えば、気持ちよかった。それは認めるしかなかった。
一 瞬 で、鼻の頭にしわを寄せたスキンヘッドから、乾 いた絵の具のような、黄色と青の混ざった大空へと、視界が切り替 わった。それが美しかったことも認めるしかない。
なんにしろ、彼の身体が落下を始めたとしても、それは彼自身にとっては現実から遊 離 した、無重力の快感でしかなかった。落下は痛いはずがない。むしろ素 晴 らしい。自殺者を殺すのはあくまで地面との激 突 であって、断じて落下は悪くない......
落下の結果、頭から群衆に激突し、オーフェンは前言のすべてを撤 回 した。
起きあがると、彼はちょうどスキンヘッドの真上に落っこちたらしかった──ぶつけた脳天がずきずきする。スキンヘッドは頭から血を流して彼の下 敷 きになっていた。それはとりあえず無視して、ゆっくりと起きあがる......
群衆たちが騒 いでいた当の目標が、彼らの上に落下してきたのだから、速 やかに私刑 ショーに突入しても良さそうなものだったが(いや、良くはないが)、ぽかんと見回したところ、彼らはただ呆 然 と立ち尽くしているようだった。群衆すべての視線が、ただ一点に集まっている。つまり──馬車の上に。
オーフェンも、左右に立っている男たちの表情を怖 々 と確認してから、彼らの見つめているものを見ようとした。その瞬 間 、甲 高 い声が響 く。
「なにやってんのよ! あんたたちはっ!」
びしっ、と音を立てて、オーフェンは凍 り付いた。自分がいきなりすっ飛んだ理由も、この上ない明快さで理解する。
馬車の荷台の上。さっきまでオーフェンが立っていた木箱のフタが開いていた──このフタが勢いよく開いたため、彼が吹き飛ばされたのだ。フタの開いた木箱から、金 髪 をたなびかせた小 柄 な少女が、仁 王 立 ちの姿を見せていた。青い瞳 を輝 かせ、その頭上には、いつものように、黒い子犬を戴 いて。
「クリーオウ!」
オーフェンは、その少女の名前を絶望的にささやいた。だが、彼女には聞こえなかったようだった。ひとりで──あんぐりと口を開けているメッチェンのことも無視して──大 見 得 を切り、よく通る声を張り上げる。
「こーんなくそせまいところで、頑 張 って息を殺して隠 れてる人のことも、ちょっとは考えなさいよね!」
めちゃくちゃなことを言っているが、あまりのことに誰も反論しない。
「外が見えないんだから、好き勝手に『殺す』だのなんだのわめかれたら、ものすごく不安になるじゃない! マジク、あんたもなにか言ってやりなさいよ!」
「おなか減ったようう......」
箱の中から、少女が片手で引きずり出したのは、げっそりとほおをこけさせた、やはり金髪の少年だった。少女よりもさらに幼 く、また小柄に見える。
ほろほろと涙をこぼしながら、少年がか細い声でうめくのが聞こえた。
「一日にチョコレートひとかけずつだけで、やることもないし、がたがた揺れるし、つらかったよう......」
「ほら! マジクだって怒ってるじゃない!」
なにが『ほら!』なのだか知らないが、とにかく必要以上の自信で以て、少女はそれを断言してみせた。
彼女が手をはなすと、力なく、ぼとっと音を立てて、少年の身体が箱の中にもどる。
が、少女は構わずに、群衆に向けて大声で叫んだ。
「ちなみにわたしはチョコふたかけずつだったわ!」
両手を腰に当てて、堂々と続ける。
「ついでに、箱の中に入って三日くらいしてから、そーいえばレキに姿を見えないようにしてもらって、馬車のあとを歩いてついていけば良かったんだって気づいたときは、なんだか切なくなって泣いちゃったりもしたし! そのへんをよく分かってほしいわね!」
「............で......?」
小さく──本当に小さくつぶやきを発したのは、最初に出てきた老人だった。完全に呆 気 にとられて、目の焦 点 も合っていない。特に考えてのつぶやきでもなかろう。
だが、少女を黙 らせるには十分だったようである。
「........................」
長い長い沈 黙 の後──
はっと、なんとか思いついたように、彼女は手をぽんと打った。
「そーよ! つまり──」
と、頭上の黒犬──レキ──を、胸に抱 え直す。
「ケンカを売るなら、相手になるわよって言いたかったのよ!」
「ち──」
オーフェンは、その瞬間ようやく呆気の呪 縛 から解かれて、少女に向けて制止の声を発しようとしていた。
「ちょっと待て、クリーオウ! なにをする気──」
「レキ! 派手にやっちゃって!」
少女の叫びとともに、その黒い子犬が、緑色の瞳をさっと群衆に──つまり、オーフェンも含めて群衆に──向ける。
刹 那 、オーフェンにできたことは、ひとつだけだった。
「我は紡 ぐ──」
破れかぶれになりつつ、両手を広げて呪文を叫ぶ。
「光輪の鎧 ー!」
突きだした手の先に、光の網 を組み合わせた障 壁 が広がった。そして──そのさらに次の瞬間には、その障壁は消えていた。
レキが放 った大規模な衝 撃 波 に、消し飛ばされたのだ。
「────!」
障壁のおかげで直 撃 こそしなかったものの、それでも少なからぬ衝撃を受けて、オーフェンは息を詰 まらせた。爆 発 に、また吹き飛ばされる──ただし今度は水平に。数メートルも飛んでから、地面にたたきつけられる。
「きゃああああああああっ!」
起こった悲鳴は、群衆のものだった。近くの小屋がみっつほど、木 っ端 みじんに粉 砕 される。逃 げまどう人間たちの喧 噪 の中、クリーオウの声はひときわ高く聞こえてきた。
「もーちょっとよレキ! 頭から血を流したスキンヘッドが、あっちに逃げてくのが見えたわ!」
「ちょっと待てぇぇぇぇい!」
なんとか起きあがってオーフェンは叫んだが、こちらの声は、どうも彼女までとどかないらしい。
次々に、爆発は続く。細々とした小屋の並ぶ一帯を、レキの視線から為 る魔術はあっさりと一 掃 していった。爆音、炎 、さらには熱線のような派手な攻撃が、キムラックのスラム街に火の手を上げる。
その中でオーフェンは、頭を抱 えて、はっきりと確信していた──
間違いなく、本日この時点をおいてキムラック市は、街に侵 入 した魔術士に対して最高の警 戒 態勢に突入するだろう。
◆◇◆◇◆
彼女は顔を上げて、繰 り返した──ただし、先ほどよりは弱々しく。
「それは......違うのだ」
そのままイスターシバは、かぶりを振 りさえした。顔に疲 労 をにじませて、亡 霊 のように生命力を希 薄 にして。
「違う」
また繰り返す。
「なにが違うというのですか」
彼が、いらだちを込めて詰 問 すると、イスターシバは長いまつげをたたえたまぶたを上下させた。最強種族の証 である緑色の双 眸 が、閃 き、そして閉じられる。
震 え声で、彼女は漏 らした。
「過 ちを犯 す覚 悟 はしていたのだ。だが、罪 を犯すつもりなどなかった」
「現に、わたしたちの同 胞 は死にました。我々は根 絶 やしにされるのですよ」
男は自分の胸元を示しながら、苦悩に満ちた声 音 を出した。力なく胸が震 えるのが、自分の手に伝わってくる。
「タフレム市は全 壊 しました。占 領 されたんじゃない。破壊されたのとも違う。根こそぎ、消し去られたんです! あれではもう再建することもできない。残っているのは......そう。あなたのお建てになった、世界図塔 だけです」
そして──吐 き捨てるように続ける。
「あの役立たずの塔だけなんですよ!」
「......違う」
イスターシバは、こちらの激 昂 にあわせて平静を取りもどしたというタイミングで、静かな目線をこちらにくれていた。ほっそりとした身体を、すっと伸ばすと、気のせいだろうが、そこに月光でも射したような気にさせる。
そう。認めねばならない──
彼は薄 暗 い胸中で、確かに認めた。彼女の美しさを。
だが、それでも聞き返さなければならなかった。
「なにが違うというのですか」
「世界図塔は......汝 らの子孫に必要となろう。誰の手にも渡してはならぬ──そう。魔術士が、あれを支配していなければならぬ。そのためのタフレム市であった」
「あれに、なんの価値があるというのですか」
彼の質問に、イスターシバは眼 差 しを鋭 くした。あるいは、それが最後の意志力を以てのことなのかもしれないが、確かに毅 然 として見える。
「巨人の大陸が現在、いかな姿となっているのか......魔法はどうなったか。それが分かるやも知れぬ。ただ、世界書が塔の中に現出するまで──数十年はかかろう」
「そんなもの、明日にも絶 滅 させられかねない我らにとって、なんの意味があるというのですか」
「汝らは──」
イスターシバは、その美しい唇 に不似合いな、皮肉な笑みを浮かべてみせた。
キムラック市の中心街は、俗に、神 殿 街 とも呼ばれている。
そのままの意味である。神殿を囲むようにして広がっているからだ。そこに住む者たちは、例外なくその街に生まれた者である。そこに暮らす者たちは、例外なくその街で死んでいく。
そして、自分たちの住んでいる場所だけが〝教会総本山 〟であると確信している。神殿街を囲む壁 の向こうになにがあるのか、知ってはいても、理解はしていない。
とはいえ、これには例外がある......
外界になにがあるのか知ることを許された人間が、この街には六人だけ存在していた。
「そういうことでしたら、わたくしの私兵を使いますわ」
白いカーテンを軽くつかんで──カーロッタは、窓の外を眺めながらそう答えた。と、静かに、冷笑するような声が返ってくる......
「私兵......か?」
「あら」
カーロッタは、くすりと笑うと、部屋の中に向き直った。整 った輪 郭 を囲んでいる、ふわりとしたブロンドが、彼女の動作にあわせて軽く跳 ね──そしてまた、彼女の肩に落ちる。
顔の下半分を手で隠 すようにして、彼女はくすくすと続けた。
「悪女のように聞こえてしまうかしら──〝私兵〟だなんて」
くったくのない笑顔で、話している相手を見つめている。年齢は、三十歳ほどだろうか──それより若いということはあるまい。ただ表情は、まだ少女のように無 邪 気 だった。着ている白いレース付きのブラウスよりも、彼女の肌 のほうが白い。病的という雰 囲 気 でもないが、色素から見放されたような体色だった。
カーロッタは、野生動物が時折見せるような伸びやかな手つきで──窓の近くの小テーブルから、真 紅 の扇 子 を取り上げた。それを開けないまま、自分のほおに当てる。
「でも、クオ。わたくしの〝子供たち〟と呼ぶのも締 まりがありませんし」
「......私兵で良かろう」
クオ・ヴァディス・パテルが言葉少なに言ってくるのを見つめて、カーロッタは、なんとはなしに満足感を覚えていた。
どこがどうというわけではない──
例 えば、このクオという男だ。背の高いのも、度が過ぎればかえって不格好なものだとカーロッタは思っていた。ましてやそれが、熊 と取っ組み合いができそうな無 骨 な身体 つきをしているとなると。目つきは鋭 い......のではなく、ただ単に悪い。まぶたが分厚すぎるのだ。額が広いのもいけない。つまるところ、どこかに連れ出してやっても(おっと、連れ出してもらって が正しい)楽しいわけでもなく──そして、これが大事なのだが──誰 かに自 慢 できる相手でもない。
そしてこの部屋。彼女の屋 敷 だが、四棟 ある邸 宅 の、一番南のものだった。ただ単に南館などと呼んでいる。死んだ彼女の父親が、使用人に煩 わされないよう、使用人部屋を作らなかった唯 一 の屋敷である。彼女にしてみれば、わざわざこの南館を使って、人と会わなければならない理由はない。だがクオ・ヴァディスの指定とあらば仕方なかった。彼は人目につくのを嫌 う。つまらない習性だ。
結局、満足すべき要素は、なにもないのだ。
それでもなお、カーロッタは愉 悦 に近い心のうずきを覚えていた。
そう──常に人の楽しみに水を差すべく定められたような、この男の声にも動じないほどにだ。
「どれだけの人数を......集められる?」
「八人というところですわね」
クオの暗い眼 差 しを見返して、彼女は答えた。案 の定 ──クオ・ヴァディスは双 眸 を、さらに陰 鬱 に歪 めてきた。
「少ないな」
「未確認情報ですものね。その程度で十分でしょう」
ばさ、と扇 子 を開き──弧 になった縁 を空いた手で撫 でながら、彼女は続けた。一歩、窓から遠ざかり、部屋いっぱいに敷 かれた赤 褐 色 の絨 毯 につま先を滑 らせる。
カーロッタはクオのほうに進みかけて、そして向きを左に変えた。窓の脇に置いてある、一メートルほどの高さの壷 の横を通り過ぎる。
そのまま足音を立てずに歩きながら、
「サルア坊 やのでまかせかも知れないのですから」
「怖 いのは、でまかせではない。事実だった時のことだ」
鼻息を吹いて、クオが険悪にうめき声をあげる。
「ずいぶんと弱気ではないですか」
カーロッタはからかうような笑顔を向けると、唐 突 に彼の年齢を意識した──四十、いや三十九歳? まだ弱 腰 になる年齢でもないのだろうが。
「職務に忠実だと言ってもらいたいな」
不格好な野菜のような腕を、胸の中に無理やり押し込めて腕組みし、クオがつぶやいてくる。
(それはどうだか......)
というのは彼女の独 り言 だったが、声には出さなかった。しばし──考え込むふりをして、また扇子を閉じる。
「魔術によるものと思しき爆 発 ......しょせんは都市外周でのことですし、目 撃 証言も曖 昧 ですわ。それに報告があってから、既 に二時間が過ぎました。魔術士ならば、すぐにその場を逃 げ出すくらいの機転は思いつくでしょうし──」
控 えめな鼻 孔 から、ふふ、と笑い声を漏 らして、彼女は続けた。
「頭のいい魔術士なら、もたもたせず、とっくに街を出たでしょう。彼らはわたくしたちのことを侮 ってはいませんわ。そうでしょう?」
「奴 らが街を出たという確証はない」
憮 然 とした──つまり、いつもの──面 持 ちで、クオは言い返してきた。

カーロッタも、すぐに答える。
「そんなことをおっしゃられましてもね......そもそも、都市外周での人の出入りをチェックできるわけがありませんわ。あそこの衛兵ときたら、確認の取れていない人間は通すなと何度言っても──」
「その通りだ。だから我々が調査しなければならない」
クオの声 音 は静かだった。
別に揚 げ足を取られたわけではない──だがカーロッタは、それでも少し気分が悪くなるのを自覚していた。
「人を出さないとは言っていませんわよ。ただ、大人数は必要ないと言っているのです」
「まあ......良かろう。では、この件は君に任せる」
「はい、クオ。文句を色々と申しましたけど、誤 解 なさらないでね。わたくし、実を言えば不服はないのですよ。まったくね」
カーロッタはそう言って、胸元をそっと押さえた。
「......サルア坊やが最 期 に言っていたことを覚えてらっしゃいます?」
聞く。が、クオは答えてこない。反応もしない。
気にもせずに、彼女は続けた。
「わたくし、退 屈 していましたの」
にっこりとカーロッタは答え──そして、やはり小テーブルの上に置いてあるベルを軽くたたいた。呼び出された使用人──使用人部屋がないのなら廊 下 に待機させておけばいいのだ、もちろん──に連れられて、クオ・ヴァディス・パテルが退室していくのを見送ってから、彼女は微 笑 まじりに嘆 息 した。
窓の外は、最も眺めのいい中庭。刈 り込まれた芝 生 、小さな森と呼んでも差し支えないほどのバラ園。さえない庭師がそれを手入れしているのが見えた。できれば、バラの見えるところにプールでも作りたいところだったが、実際にそれをやったらたちまち砂場になってしまうだろう。忌 々 しいのはこの砂 塵 だが──仕方がない。この砂が途 絶 えたら、それこそ神 殿 は大変なことになる。
そう、仕方がない。なにもかも仕方がない。クオの指令には逆らえない。私兵も出さなければならないだろう。
だけど、あの男の馬鹿さ加減だけはなんとかならないものかしら?
「まったく......出せ、と言われて持っているものを全部差し出す女がいるとでも思っているのかしらね」
◆◇◆◇◆
「ロンダートカンガルーキックー!」
意味不明の技 を叫びつつ、わけの分からないキックで高価そうな壷 を蹴 り壊 すクリーオウ。
「はっはっはっ。しょうがない奴 だなぁ」
オーフェンは笑いながら、壷の破片を拾い集めた。ついでに、寄ってきた店員に弁 償 してやる。
「スカイツイスタープレスー(自爆)!」
「はっはっはっ。そんなことやってると死んじゃうぞう」
きりもみ回転しながら、頭から地面に突っ込むクリーオウを、オーフェンは優しく抱 き上げてやった。ぱっくりと頭が割れて、首まで折れている少女を、呪 文 を唱 えて癒 やしてやる。
「ありがとうオーフェン!」
気を付けの姿勢で、クリーオウは大声で叫ぶ......
「魔術で治してくれてありがとう! 魔術で治してくれてありがとう! 魔術で──」
「いやあ。はっはっ」
頭に手を当て、オーフェンは朗 らかに笑顔を浮かべた。その間もずっと、クリーオウの感謝の声は続いていたが──
「魔術で?」
その一言で、彼女の声は消えた。
見回すと──彼のぐるりを、フードや頭 巾 をかぶった男や女が囲んでいる。
「魔術で......?」
彼らはいっせいにつぶやくと、一言につき一歩、包囲をせばめてきた。ぼんやりと見ているうちにも、どんどん人数は増えていく。いや、近づいてこられて、人数が密集してきただけかもしれないが。
「魔術で......?」
「あれだけ言ったのに」
その群衆の中に、名前は忘れたが、青い布で頭をくるんだ女がいた。革 鎧 を身につけて、手には大きな剣を抱 えている。刀身がガラスでできた剣。最も恐 るべき武器。
「仕方がないわ。この子は先に死んじゃったけど」
ぼとん、とオーフェンの足下に、げっそりと痩 せ細った少年が──これも名前は忘れたが、金 髪 の少年が──転がり出てくる。
「ひもじいですぅ......」
死体はそんなことをうめいたりもした。
「魔術か......」
群衆は、今度は問いかけではないつぶやきを発した。顔を上げると、群衆は実は、みなスキンヘッドだった。脳天にきれいな傷口が開いて、血を滴 らせている。
クリーオウはもういない。
そして──
「うわああああああああっ!」
自分の悲鳴で、オーフェンは目を覚ました。
ぱっと目を見開き、一番手 近 にいたマジクの顔面を殴 り倒す。
「あああああああああっ!」
悲鳴はマジクではなく、オーフェン自身があげた。ベッドから跳 ね起きて、床 に倒れているマジクをつかみ上げると、そのまま壁 に向かって投げつける──
投げると同時、オーフェンは飛んでいくマジクを追いかけるように連続バク転を始めた。壁に当たって跳 ね返ってきたマジクを、連続バク転の勢いでフライングキックの体勢に移行したオーフェンの蹴 りが、もののみごとに打ち倒す。
「よっしゃああっ!」
床に倒れて完全に気絶したマジクに対し、とどめの技に入ろうとしてオーフェンは──コーナーポストが見あたらなかったので──、ぴたりと動きを止めた。
ふと我に返り、あたりを見回す......
いくつかの呆 然 とした顔が、こちらを見つめ返してきていた。
だがそれよりも、まずは部屋の中だ。
オーフェンが最初に思い浮かべたのは──船室だった。無論、そこは船の中などではなかったが、そのくらいせまい。たったひとつだけの窓から差し込んできている日の光に、金色の砂が反射して輝 いている。
部屋にあるのは、彼が今まで寝ていたベッドと、その反対側の壁に押しつけられている大きなテーブル。チェストにはフタがついておらず、中に服が詰 まっているのが見えていた。そして部屋の真ん中には、少し大きめの、金属製の台がある。てっぺんに、すり鉢 状のへこみがあり、灰 がたまっていた。室内で火を使うための、簡 易 かまどだろう。
かまどをしばらく観察してから、オーフェンは視線を上げた。砂のせいでぼろぼろになっている木の壁を、ぐるりと眺め回して──天 井 の低さについては気にすまいと決心する。隅 っこに隙 間 が開いていて、今にも崩 れそうなこともだ。
床にはマジクが倒れている。格好は、いつもの黒いシャツではない。さすがにこの街に入るのに、黒魔術士然とした服 装 ではまずいということくらいは分かったのか、オーフェンと似たような、なにかの民族衣装めいた白い服を着込んでいた。ただ、大きめの服をいつもの格好の上に羽 織 っているだけのようで、白い服の下に黒のシャツがのぞいている。
正 真 正 銘 、いつもと格好が変わっていないのが、水差しを片手にぽかんと大口を開けたクリーオウである。動きやすいいつものジーンズに、どこで買ったのか(しかも、誰の金で買ったのやら)焦 げ茶色のジャンパーを肩にかけていた。寒くもないのにそんなものを着ているのは、砂よけのつもりなのだろうが、肝 心 の頭を覆 っていない。髪 に砂がからまると、よほど念入りに洗わなければ取れないのだが、もう手 遅 れだろう。この部屋の中にも、空気に砂が浮いている。
彼女の頭の上に乗っているレキは、砂がかゆいのか、後ろ脚 でしきりに顎 の裏をかいていた。今現在、この部屋の中でせわしく動いているのは、この子ドラゴンだけである。
そして最後のひとりは、頭に包帯を巻いたスキンヘッドの若い男だった。
「てめえはっ!」
オーフェンが、指を指して叫び声をあげると同時──
「ちょ、ちょっと待って、オーフェン!」
その男の前に、クリーオウが割って入った。
彼女の背後に下がりつつ、スキンヘッドもあわてた声を出す。
「あ、あわわわわ」
オーフェンはとにかく拳 を固めると、男に飛びかかろうと動きかけた。と──
彼をかばうように両腕を広げながら、クリーオウが言ってくる。
「この人が、オーフェンのこと助けてくれたのよ!」
ぴた──
と、オーフェンは右腕を振 り上げたまま、制止した。一度つきかけた勢いを殺すために踏 ん張っていると、クリーオウの後ろで、スキンヘッドが弱々しい笑みを浮かべた。
「あ、あはは、どーも」
「どぅぉぉぅぅぅぉもぉ!? 」
妙 な節 回 しでオウム返しにして、オーフェンはつかつかとふたりのほうへ近寄っていった。途 中 、マジクを踏 んだような気もしたが、無視する。
「て・め・え・が、あの暴動に火ィ点 けたんだろーが、コラ! てめえに棒切れ投げつけられたの、はっきり覚えてるぞ、おう!」
「い、いやあの、ですから、落ち着いて......」
図 体 と顔つきにはまったく似合わない気弱さで、スキンヘッドが両手を挙げて降参のポーズを取った。
オーフェンは気にせずにクリーオウの頭越しにスキンヘッドの胸ぐらをつかみ上げると、斜 め下からのぞき込むように凄 みを利 かせる。
ただ、間にクリーオウが入っているせいで、実際に彼と目が合ったのは、レキの緑色の眼であったりしたが。
「落ち着けだぁ? おい、悠 長 なこと言ってくれるなぁ、胴 体 の上にダチョウの卵なんざ乗っけてやがるくせに」
「頭なんですけど、一応......」
「ほほう。じゃあ割れねえなぁ。そうでもないか?」
「あああ。なんだか異様に怖 い......」
震 え声でうめくスキンヘッドの襟 首 から手をはなし、その手でそのまま──男の頭をわしづかみにする。
みしみしと力を込 めながら、オーフェンは続けた。
「俺は今、人生で五番目くらいに頑 張 ってるなぁ。ちなみに上位四人は全治二か月だったが」
「あ・あ・あ・あ・あ・あ」
途 切 れ途切れに悲鳴をあげる、スキンヘッドだが──
彼の手前で、クリーオウが小さく嘆 息 するのが聞こえた。
「オーフェンったら、もう、落ち着きなさいってば」
............
オーフェンは──力は抜かないまま──視線だけ、すっと下ろした。こちらを見上げているクリーオウの顔を見て、かすれた声で聞いてみる。
「......なあ、クリーオウ」
「なぁに?」
きょとんと返事する彼女に、オーフェンはにっこりと歯を見せた。
渾 身 の力を込められ、震えている手から、その震えが次第次第に、腕や肩へと広がっていく。
「俺の記 憶 によれば、だ......」
「うん」
彼は最後に、全身をわななかせた。
「事態を決定的に悪くしたのは、お前なんだろうがぁぁぁっ!」
自分の叫び声と同時に、オーフェンは空いている腕でクリーオウも捕 まえようとしたが、彼女は素早く身をかがめると、そのままスキンヘッドの身体を盾 にするように逃 げ出していった。ばたばたと部屋の隅まで逃げてから、声をあげる。
「なんでわたしのことまで怒るのよー!」
「やかましいっ! 今日という今日は、てめえ──」
と──
「まあまあ、落ち着いて」
「落ち着けるか! あのクソアマ、ここらで矯 正 しとかんと、いいかげん......」
歯ぎしりしながらそう言いかけて、オーフェンは、ふと我に返った。驚 嘆 まじりに、自分の両手を見下ろす──両手、である。
気がつかないうちに、スキンヘッドは彼の手から逃 れていたのだ。
見るとすぐ横で、にこやかに立っている。
「とまれかくまれ、頭にのぼった血を静めることです」
「てめえ......」
愕 然 と、オーフェンはうめいた。手持ちぶさたになってしまった両手をわきわきと動かしながら、

「いつの間に抜け出したんだ?」
「病院送りになる前にです」
男は答えながら、包帯を巻かれた自分の頭を指さした。こちらがクリーオウに気を取られている隙 に手を外したのだろうが──まったく気づかなかった。しかも男の包帯は外れていない。つまり、こちらの手の中から無理やり頭を引き抜いたのではなく、注意がそれて握 力 が弱まった時に、隙を見て逃げたということになる。
ただ単にそれをするだけなら簡単だろうが、こちらが気づかないほどスムーズにとなると、なまなかなことではできない。
「それはそれとして、わたしの話を聞いてください。おっと、それよりも先に、各々が謝 罪 するのが先ですな」
「謝罪?」
怪 訝 に繰 り返して、オーフェンは男を観察した。スキンヘッドは厚い唇 をにやりとさせながら、自信たっぷりに言ってきた──
「そうです。お互 いに、仲間を殺してしまうところだったのですから」
正直なところ、落ち着けるとも思わなかったし、落ち着こうと努力する気持ちもカケラもなかったのだが──
数分後には、すべてが落ち着いていた。すぐに部屋も片づき、オーフェンも疲 労 からベッドにへたり込み、クリーオウは結局自分がなにをしたかは自覚してくれず、おいしいコーヒーを淹 れるのだと準備を始めた。あっと言う間に部屋が片づいたのは、そもそも家具が少ないせいだし、オーフェンがひどく疲 れていたのはどちらかと言えば精神的な方面からだった──このことがいつものことだとするならば、クリーオウに罪 の自覚がないのも、それこそ今に始まったことではない。
総 括 的に、落ち着くべくして落ち着いたと言える。
ちなみにマジクはしばらく目を覚ましそうになかったため、ベッドに寝かせてある。
がちゃがちゃと食器を騒 がせながら、自分も騒いでいるのはクリーオウだった。スキンヘッドの再三の警告にもかかわらず、表にまで聞こえそうなほどの声 高 な声で、ことの成り行きを説明してくる。
「......で、大騒ぎになっちゃって、まるでレキの魔術でついでに吹っ飛ばされちゃったみたいな格好で倒れていたオーフェンを、がれきの下から掘 り出してくれたのが、この人なのよ」
「『まるで』じゃなくて、吹っ飛ばされたんだけどな、ちなみに」
ベッドに腰掛け、憮 然 とした表情でオーフェンは毒づいた。コーヒーポットを例の簡易かまどにかけているクリーオウの背中を、つま先で軽く蹴 る。
「あ、やめてよオーフェン」
「うるせ」
彼は口をとがらせてから、その視線をスキンヘッドの男へと移した──
観察すればするほど、人相が悪い。
あまり人のことが言えた義理ではなかったが、オーフェンは彼をじっと見つめて、はっきりと結論を出していた。
そう。第一印象──人相悪し。
スキンヘッドが口を開くよりも先に、オーフェンは彼に聞いた。主導権を握 っておきたかった。多少のことであっても。
「......で、あんたは、なんで俺 を助けてくれたんだ? 魔術士の俺をだ」
さすがに、どの壁 に人の耳があるか分かったものではないので小声で聞く。スキンヘッドもまた、同じくらいの小声で返してきた。
「言ったでしょう。仲間だからです」
「仲間って──」
言いかけて、はたとオーフェンは気づいた。
「ええ」
スキンヘッドは穏 やかにうなずいてみせた。
「わたしも、魔術士です」
「ええっ!? 」
叫んだのは、クリーオウである──火にくべられたポットを、狙 ったように盛 大 に蹴飛ばして起きあがる。倒れたポットが、スキンヘッドに飛びかかっていくのが見えた。悲鳴をあげる彼とそっくり表情で、クリーオウも口を開く。
オーフェンはとっさに、後ろから彼女の口をふさいだ。
「ふにゃもげがもが、ずもがもが、もが!」
意味のないうめき声で延々まくしたてるクリーオウの後ろ頭を、冷ややかに見下ろしながら、オーフェンはただじっと待った。やがて、たっぷり一分ほど大声でうめいてから、はたとクリーオウが静かになる。
彼女が動かなくなり―上 目 遣 いにじっとこちらを見ているのを確認してから、オーフェンは手をはなした。と、不満そうに彼女が言ってくる。
「なにすんのよ、オーフェン。あれじゃ大声で叫べないじゃない」
「叫ぶな、ちっとるんだ」
半 眼 になってつぶやきつつ、オーフェンは唾 でべたべたになった手を、ズボンの後ろでごしごしこすった。もう片方の手で、びしと床 を指さす。
「その証 拠 に、ほれ見ろ。あの卵男も五体投地して抗 議 の意を示しているぞ」
「熱湯かぶって死んでただけですっ!」
スキンヘッドは真っ赤になって──火傷 のせいかもしれないが──、抗議の声をあげた。床に転がったポットを拾い上げ、ちゃんと立たせると、自分も起き上がる。
クリーオウを横に押しのけながら、オーフェンはしばし考え込んだ。人が動き回るたびにふわふわと広がる砂の輝 きが、はっきりと見える──せまい部屋をすべてかき回すように、小さく緩 やかな砂 塵 は吹いている。
彼は改めて部屋の中を見回した。ベッドに寝ているマジクを含めても、そこにいるのは四人だけだった。
「メッチェンは? どうした?」
彼女がいない。
スキンヘッドの答えは、冷静だった。
「メッチェン・アミックですか?」
両手をこすりあわせて──またさらに慎 重 に、声をひそめる。
「実を言えば、彼女を捕 獲 したかったんですがね」
「それで、あの暴動を起こしたってのか?」
このスキンヘッドが、わざわざ騒ぎを煽 動 していたのを思い出しながら、オーフェンは聞いた。彼はうなずくと、頭を覆 う包帯を外し、どこからか取り出した布 巾 で濡 れた頭を拭 いはじめた。
「......その価値はあったんですよ。なにしろ、現役の〝死の教師〟です」
と、布巾の下からこちらをのぞき、付け加える。
「それはそれと、なんであなたが、あの女といっしょにいたんです? おかげで、まさか仲間だとは思いませんでしたよ」
「なんの話してんの? オーフェン」
話の意味がさっぱり分からなかったのか、横からクリーオウが口をはさむ。オーフェンは、そちらを一 瞥 してから──ふと面倒くさくなって、無視した。
代わりに、スキンヘッドに説明させることにする。オーフェンはスキンヘッドに向き直ると、彼のことを聞いた。
「あんたこそ、ここでなにをしてるんだ」
「なにって──常 駐 調査員ですよ。もう二年になります」
答えながら、自 嘲 げに笑ってみせる。
「フリーランスです。ラニオットと申します」
それを聞いて、オーフェンは眉 根 を寄せた。
「フリー......誰に雇 われてるんだ?」
「わたしのことを知らないとすれば、あなたは指令系統が違うようですね」
「俺もフリーなんだよ。で、あんたの雇い主 は?」
オーフェンはこだわって──不 思 議 そうにきょろきょろしているクリーオウを横目で見ながら、問いつめた。スキンヘッド、つまりラニオットとやらは、布巾を下ろすと再び包帯を巻き直した。見えない頭に包帯を巻くのはかなり難しいはずなのだが、無 骨 な指でかなり器用にやり遂げる。
彼はそれを終えてから、答えてきた。
「宮 廷 の、さるお方......とまでしか言えませんが」
「《十三使徒》?」
王都の宮廷魔術士をそう呼ぶのだが、オーフェンは多少驚きの声を含んで聞き返した。ラニオットは、素直にうなずく。
「まあ王都としては、地理的に離 れている分、こちらの動静は気にかかるようで。潜 入 しているのも、わたしひとりではないはずです」
「スパイってわけだ」
これは、クリーオウに説明してやるつもりで、オーフェンはつぶやいた。あごに手を当てて、続ける。
「ふうん......そうか。考えてみれば、この街に潜 入 するのに、街にいるはずの仲間を探そうとしなかったのは間の抜けた話だったかもしんねえな」
「そうかもしれませんな。で、あなたのほうの雇い主は......?」
「え? ああ、俺はフリーだ」
「いえ、ですから......」
「だから」
オーフェンは、きっぱりと断言した。
「正 真 正 銘 のフリーさ。どこからも命令されていない。ただ単に、自分の都合でここに来ただけだ」
「わたしもよ」
会話に加われないことが多少退 屈 だったのか、クリーオウも自分を指さし付け加える。
「はあ......」
ラニオットは、どうも釈 然 とはしないようではあったが、あまり突っ込んだことは聞いてこなかった。ただ、今度は濡 れた服を拭 きながら、聞いてくる。
「それでは、さっきの繰 り返しになるのですが......あなたが、あの死の教師とともにいた理由をお聞かせ願いたいのですが。何人もの魔術士を殺した女ですよ、あれは。王都ではきっちり指名手配もされている、筋 金 入 りの殺し屋です」
「成り行きだよ。ほかに言いようがない。あ、そうだ──」
肩をすくめてから、オーフェンは唐 突 に思いついた。ぱっと両手を広げ、自分の格好を示す。
「なあ、彼女は、白はこの街のフォーマルカラーだなんて言ってたんだけどよ。俺の格好、なんだかヘンじゃねえか? 半 端 な修 行 者 みたいなんだよな」
「それ以前に白が似合わないのよ、体質的に」
クリーオウの意見はとりあえずさておいて、ラニオットのほうを注視していると、彼は少し悩むようにうなり声をあげた。
「そうですな。ですがフォーマルカラー云 々 という話には噓 はないですよ、確か」
「そうかぁ? でも、あんまり似合わないってのも目立ってまずい気がするんだが......よく見てくれよ、ほら」
オーフェンはしつこく聞きながら、ラニオットのほうをじっと見 据 えた。彼もまた、こちらの頭から足までをじろじろと見回して、ため息をつく。
「どうとも言えませんけどね。気にすることはないでしょう」
「ふうん......」
オーフェンはあきらめの混じった返事を返すと、別のことを聞くことにした。
「んで、俺も繰り返すようで悪いんだが、メッチェンはどこに行ったんだ?」
「騒 ぎが起きたときに、馬車を駆 って逃 げたようですな」
「じゃあ俺の服も、あいつが持ってるわけだ......」
「あの馬車に隠 してあったのなら、そうなりますな。それで、あなたの名前をうかがっておりませんが」
「あ、そういやそうか」
はっとオーフェンは、われに返った。クリーオウとマジクを指さし、言う。
「こいつらは人呼んで、ややこしいお荷物と面倒くさいお荷物」
「ちょっとオーフェン!」
クリーオウが叫び声をあげるが、無視する。オーフェンはつかみかかってくるクリーオウの手をさっとかわすと、彼女の頭の上でずっと身体のあちこちをかいていたレキをつまみ上げた。
「この黒いのが、スイッチ付き危険物」
「オーフェン! なんでわたしがお荷物なのよ! 頑 張 ってるのに!」
「ちなみにスイッチを握 ってる人間も危険物だけどな」
「せめてマジクとわたし、どっちがややこしくてどっちが面倒くさいのか、それをはっきりさせてよ!」
少女の突 進 をひょいひょいとかわしながら部屋の中を駆け回り──啞 然 とこちらを眺めているラニオットのほうを向いて、オーフェンは最後に自分を指さした
「んで、俺が──」
と、言葉を切ってはっきりと告げる。
「《牙 の塔 》のキリランシェロだ」
◆◇◆◇◆
「大変だああああっ!」
という悲鳴に対して、彼女がなにをしたのかと言えば──
寝台に横たわったまま、片目をぴくりと上げた。それだけだった。
疲 労 感 が、ずっしりと両腕を、胸を圧 迫 している。見えない、だが極めて重い大気に押しつぶされそうになりながら、アザリーはなんとか肺を膨 らませた。ため込んだ空気を、震 えながら吐 き出す。
その瞬 間 、扉 が開いた。
「大変ですよおおっ!」
あの地 人 ──どうしても名前が覚えられない──の、弟のほうの声である。床に落ちた砂を、改めて空中に舞 い上げながら、それはばたばたと部屋の中に飛び込んできた。
「大変なんですっ!」
大きな買い物袋をどさりと落として、こちらを向いて言ってくる。と──
「その通おおおりっ!」
続けて、兄のほうが飛び込んできた。剣をがちゃつかせながら、叫ぶ。
「なんと! この街 には、どっこにもメロンが売っていないのだぁぁっ!」
ごすっ──
「馬鹿はほっといて」
買い物袋の中から取りだした、でかいヤシの実で兄の頭を殴 り倒し、弟は静かに続けた。
「どうやらなにごとかあったらしくて、街中大騒ぎなんです。警備兵みたいなのが、道中にあふれてますよ!」
「なんですって......?」
さすがにもう無視するわけにいかず──正直、そのまま寝入ってしまいたい気分ではあったが──アザリーは上半身を起こした。と、ふと気づいて聞き直す。
「それはそれとして、なんでヤシの実なんて買ってきたの?」
「いや、こんなこともあろうかと思って」
血をだくだく流して倒れている兄を見下ろしながら、ぽつりと答える弟。
「なあ、ドーチン......」
むっくりと、その兄が起き上がる──彼が呼んでくれたおかげで、アザリーはようやくその弟の名前を思い出した。それはそれとして、兄は、ふらふらとした眼 差 しで周囲を見回しながらつぶやいている。

「いまいち、殴られた前後の記 憶 が定かではないのだが......お前ひょっとして、なんかものすごいことしなかったか?」
「まさか。なに言ってるんだよ、兄さん」
答えながらドーチンが、血の付いたヤシの実を袋に入れ直している。
「あー、ええと......」
アザリーは眠気の取れないまぶたをこすりながら、兄のほうに呼びかけた。こいこい、と手 招 きする。
「ん?」
とこちらを向いた地人の名前を、彼女はしばし記憶の中をさぐってから思い出した。
「なんだったっけ......ああ、そうだ。ポンカン君」
「それは平べったいミカンだろーが!」
ぴんと身体を伸ばして、ポンカン君が怒 鳴 ってくる。彼はこちらに詰 め寄りながら、口早にまくし立てた。
「この歴史に残る大偉人の尊 名 を忘れて、ほかの余計な知識をため込んでおっても、脳に白アリが棲 み付くだけだぞ! ちなみに俺様はマスマテュリアの闘 犬 ! ボルカノ・ボルカンであるから、木 枠 の中にはめ込み殺されようとも忘れんよーに」
「あー、分かったから分かったから」
アザリーは、もう手を伸ばせばとどくところにまで近寄ってきて騒いでいるボルカンに向けて、力なくうめいた──同時に軽く手を振 る。すると、ボルカンの脳天から噴 き出していた血が、いきなり消えた。傷口も消え失せる。
「おおっ!? 」
ボルカンは、大げさに驚 愕 の声をあげた。
「こ、こんなことができようとは!? 」
「こんなの、別にどってことないじゃない」
本気でどうということでもないので、彼女はそう言ったのだが、ボルカンはまだ驚いているようだった。しみじみとひとりうなずいている。
「しかし、このよーなことは初めてとゆーか金 輪 際 とゆーか」
「......キリランシェロとは、いっしょにいたんでしょ。ならこの程度の魔術、見たことないわけないでしょうに」
アザリーは顔に手を当て、眠気覚ましにならないかとこすりつけた。あまり効果はなかったが、取りあえず脳の半分くらいは話を聞く体勢になってくれたようではあった。その半分だけ活性化した頭の中に、ボルカンの感 嘆 の声は響 いてくる。
「俺様が言いたいのは、あの借金取りがこんな傷を治すよーな人間的なことはしてくれなかったということなのだが」
「あっそ......」
発することのできた答えは、それだけだった。ついでに言ってやる。
「ところで、あんた、なんか眠くならない?」
「あん?」
きょとんと、ボルカンは首を傾 げた。
「そーいえば、なんだか眠たいよー......な......」
言い終わるまでには、ばたんと床に倒れていびきをかき始める。
「これも......魔術なんですか?」
びっくりしたように聞いてくるドーチンを、アザリーは、しゃきっとした眼差しで見返した。
「あれ?」
と、さらに不思議そうに、ドーチンが声をあげる。
「目、覚 めたんですか?」
「まあね。このポンカン君に、わたしの疲労を肩代わりしてもらったわけ」
彼女は答えて、ベッドの横に足を下ろした。立ち上がる気にはなれなかったが、頭だけははっきりしている。
「で、騒ぎって、なにが起きたわけ?」
「いや、そこまでは......ただ、壁 の外のスラム街 で暴動のようなことがあったらしいんですけど」
「くわしいことは分からないわけ?」
「噂 話 くらいでは、どうも」
ふうん......と気のない返事をしながら、アザリーは、それが自分の前 途 になにか障害をもたらすものかどうかを検 討 していた。くわしいことが不明ではどうしようもないが、ただひとつ分かっていることはある。
「ま、たいしたことじゃないわ」
つまり──自分が発見されたのではないということだ。
彼女は気楽に言うと、再びごろんとベッドに寝転んだ。あれ? とドーチンが、意表を突かれたようにすっとんきょうな声をあげる。
「いいんですか?」
「警備兵のことは気にすることもないわ。どうせ、街に出ていない時には神 殿 の警備を固めてるんでしょうから、どっちだって同じよ」
「はあ......」
「気にかかることと言えば、そうね──」
途中で止めて、アザリーは枕 の下に手を突っ込んだ。ごそごそと探ると、固いものが指先に当たる。彼女はそれをつかんで引っぱり出した。
彼女が取りだしたのは、真っ黒い表紙の本である。タイトルもなにもない。
「あ。それ──」
ドーチンが、興 味 でもあるのか聞いてくる。
「もうだいぶ読んだんですか?」
「まあね。古語なんて何年も読んでなかったから、苦労しちゃったけど」
気のない返事をし、アザリーは目を閉じた。中にあった一文が脳裏に去来する。
『すべてが現出し、世界に溢 れた』──
(そして、そのために起こった変化が旧 世界をめちゃめちゃにしている。恐らくは、今も......なお)
本に書いてあった内容を、ひとり復 唱 する。
(この世界書には──巨人の大陸 の歴史が記してあった。でも分からない。そもそも、巨人の大陸はどこにあるの ? このキエサルヒマ大陸以外の大陸なんて、誰も発見していない。わたしたちの祖先が、ほかの大陸からここに移住してきたというのは絶対に間違いないんだから、論理的に考えれば、よその大陸にだって人間種族か、ほかの種族がいるはずなのよ。なのにこの数百年間、外海から船が来たことは一度もない......)
こんな馬鹿なことはあるはずがない。外洋を渡る技術は──この大陸に人間が渡 航 してきた三百年前にすら──あったのだから。キエサルヒマ大陸では失 伝 してしまったが。
(あるいは、もう完全にほかの大陸が死に絶えているって可能性もあるけれど......)
世界書には、延々と世界の変化と、それに伴 う破 壊 がつづられていた。
(わたしが見つけたノルニルの遺 跡 にも、いくらかの文書が遺 ってたわ。それによれば、過去においてドラゴン種族は決定的なミスをしているらしい......そのミスのために、彼らは聖域へと引っ込んだのよ。そして彼らはひどく、北にこだわっていた。このキムラックに。そう──《フェンリルの森》のアスラリエルも)
聖域と《森》を守 護 する、ディープ・ドラゴン種族の戦士頭 のことを思い出しながら、薄 目 になって天 井 を見つめる。
(先生も、ね──十年前、このキムラックに潜 入 しなければならなかった理由って、いったいなんなんですか、先生......)
そんなことを考えながら、彼女はまったく別のことを口にした。ひょこんと顔を上げ、いまだに床に寝転がっていびきをかいているボルカンを見下ろして、つぶやく。
「ヘンな魔術を使わなければ良かったわ」
しぶしぶと、彼女は起きあがった。
「わたしが眠れなくなっちゃったじゃない」
◆◇◆◇◆
「汝 らは滅 びることはない」
彼女の声には、静かな──そして悲 惨 な自信が込められていた。
「聖域の者とて......もう余力などないのだ」
「あ、そんなところにいたの?」
突 然 聞こえてきた気楽な声に、オーフェンは、座っている屋根の上から視線を下ろした──小屋の手前にある路 地 から、クリーオウとマジクがこちらを見上げている。
オーフェンは、無言でうなずいた。そしてそのまま、再び星空を見上げる。
教会管理区であるこのゲイト・ロックに入るまでは、上空に渦 巻 く砂 塵 のせいで、星は見えないのでは──そう思っていたのだが、それは違った。夜空を舞 う金色の砂は、無数の流星のように黒い空を波打たせている。星空の端 から端まで、どこまでも。決して美しい光景というわけでもない。
不気味な胎 動 のようだった。その胎動が、この地では二百年間続いたというのだ......
「お前らも......来いよ。話がある」
空を見つめたまま、オーフェンはつぶやいた。もっとも、そんなことを言うまでもなく、
クリーオウは既に屋根に登ることができそうな足場を探していたようだったが。
結局、オーフェンが使ったのと同じ、小屋の横の貯水樽 を踏 み台にして、クリーオウとマジクは登ってきた。
「ひゃー。ここ穴が開いてる」
おっかなびっくり近寄ってくるふたりに、オーフェンは静かに向き直った。
クリーオウはジャンパーの前を閉じていて、その襟 元 からレキが首だけを出している。マジクはまだ元気がないようだったが、それでも一応は衰 弱 状態から脱したらしかった。木箱の中に何日か潜 り込んでいて、用意していた水 筒 は途中で空になってしまったのだと、クリーオウが言っていたのをオーフェンは思い出した。
「人間が水分の摂 取 なしで生きていられるのが、たった二日だって知らなかったのか?」
ぽつりと聞くと、クリーオウがこちらを見てあははと笑う。
「夜中にこっそり箱から抜け出したりしてたのよ。トイレとかいかなくちゃなんなかったし。気づかなかった?」
「......どーせ、レキに足音を消してもらったか、姿を消してもらったかしてたんだろ?」
「そ。考えてみれば、そんなことができるんなら、そもそも木箱に隠 れてる必要もなかったのよね」
彼女はけらけら笑いながら、こちらの隣 に腰を下ろした──そのあとを、マジクもついてくる。結局マジクは、少し離 れた木材の出っ張りに腰掛けた。
「なに見てたんですか? お師 様 」
小さな声で、聞いてくる。オーフェンはマジクを見つめ、そして視線をまた夜空へと転じた。
砂塵の舞 は続いている。誰にも構わずに、ずっと。
数秒ほどそれを眺めて、オーフェンは答えた。
「空だよ」
「そのまんまじゃないの」
クリーオウが、不服の声をあげた。彼女の顔を一 瞥 し、オーフェンは、ふっと笑うと、
「キムラックの空を、だよ。一応ここまで来たんだってな、感 慨 にふけってたのさ」
「......ひとりで?」
「ふたりでふけるもんでもないだろ。だいたいお前らに、この教会総本山にやって来たっていう感慨なんかがあんのか? どーせ観光くらいに思ってんだろ」
横目で彼女を見つめながら、クリーオウに言う──と、マジクがつぶやくのが、はっきりと耳に入ってきた。
「──違いますよ」
「え?」
聞き返したのは、クリーオウだったが──
オーフェンも疑 問 符 を浮かべながら顔をしかめ、マジクのほうを向きやった。この小 柄 な金 髪 の少年は、膝 を抱 える姿勢になって、顔も伏せている。そのためこちらから表情はうかがえなかった。
だがその声には、明確な意志が込められていた。
「ぼくは、お師様を助けようと思ってついて来たんです」
「そんなの、わたしだって同じじゃない」
口をとがらせて指 摘 するクリーオウに──だがマジクは、きっぱりとかぶりを振 った。目は伏せたままだったが。
「違うよ。クリーオウとは、違うんだ」
クリーオウが反論するよりも早く、マジクのほうが彼女に聞いた。
「クリーオウは、なんのためにここに来たのさ?」
「わたしは......」
少女は、返答に困ったようだった。服の中で首を丸めているレキを、相談するように見下ろして、
「なんとなく、来なきゃなんないよーな気がしただけよ」
「ぼくもそうだよ。でもぼくは、なんとなくじゃない」
マジクは早い口調でまくし立てた──誰に対してというわけでもなく、自分自身にたたみかけるように。彼は初めてそこで顔を上げた。泣いているわけでもないだろうに、双 眸 が輝 いている。
「......なんとなくじゃないんだ」
つぶやく彼の上空──
はるか南の空で、厚い雲がとぐろを巻いているのに、オーフェンは気づいていた。
明日は雨だろう。
ざあああああ......
明け方から降り出した雨は、翌日の昼過ぎになっても止む気配がなかった。本降りが続いている。雨雲と雨と砂。すべてが混じり合って濃 紺 色となった街 の空は、沈 痛 ななにかを耐 えている、そんな暗い顔色にも見える。
「雨とは、珍 しいですな」
食器を片づけながらラニオットが言うのを、彼になついたらしいクリーオウが聞き返している。
「珍しいの?」
「ええ。ここではね」
にっこりと微 笑 して、彼は答えた。物置兼流し兼台所、といった様子の部屋の隅 にしつらえてある食器入れに、積み重ねた皿をがちゃんと置いている。
オーフェンは、昨日床で寝たために、いまだ凝 りがほぐせない肩を伸ばしたり縮めたりしながら、ふたりを見ていた。
「でも、長雨になりそうよね」
レキと並んで窓の外を眺めて、クリーオウが言っている。窓の近くにマジクもいたが、少年はひとりでずっと外を見たままだった。クリーオウが近づいても、顔も上げない。
そんなふたりを見やって、ラニオットが続けた。
「降り出すと長いんですよ。そういう風土があるんですかね」
「へー」
感心したようなクリーオウのつぶやきを聞きながら──
オーフェンは口をはさんだ。
「......で、キムラックの中心に入る手段はあるのか?」
その一言で、部屋に静 寂 が訪 れた。ラニオットもクリーオウも──マジクすらも、こちらに顔を向けてくる。
最初に口を開いたのは、ラニオットだった。
「あります」
「なら、なるべく早く移動したいんだ」
「............」
ラニオットは口をつぐんだが、顔はそむけなかった。ただ表情に、困 惑 が浮かんでいる。
「そうおっしゃるとは思っていたんですがね」
「なんで?」
不思議そうにクリーオウが声をあげた──頭に乗ったレキを撫 でながら。黒い子ドラゴンは退 屈 そうにあくびしている。
落ち着いた口調で、それに答えたのは、オーフェンでもラニオットでもなく、マジクだった。
「長いこと潜 伏 するのは危険だから......でしょう?」
「そうだ」
オーフェンは腕組みした。
「誰かさんのおかげで、街に入った早々、大 騒 ぎになって計画がめちゃくちゃになっちまった」
「そーね。ラニオットがケンカをふっかけてきたせいね」
確信に満ちた口調で──つまり完全に本気で、クリーオウがうなずく。
こめかみのあたりが、ひくりとひきつるのを感じはしたが、オーフェンはなんとか自制してあとを続けた。
「そのせいで、街の警備は人員が倍増したって話だし、ぼけっと待っていても、いずれこの──ええと、外 輪 街 とかいったっけか。ここに調査の手が入るのも時間の問題だろ。こうなったら、とっとと用件を済 ませて脱出するに限るさ」
「そうねー......でもラニオットを責めるのも可 哀 想 よね。知らなかったんだから」
「............」
オーフェンは──頭を抱 えるのは我 慢 して──ラニオットに向き直った。
「それで、その方法ってのは?」
「わたしが案内いたしますよ......あなたがただけでは、確実に遭 難 します」
「遭難?」
唐 突 といえば唐突な単語を聞いて、オーフェンは聞き返した。太い指をすり合わせながら(癖 らしい)、ラニオットはにやりと笑みを浮かべる。
「ご存じかと思いますが、このキムラック市は、ここ外輪街と、壁 の向こう、神 殿 を臨 む中心街とに分けられております。」
「ああ」
オーフェンがうなずくと、ラニオットは窓の外を示した──街そのものを示すように。
「そして、食 糧 などを運び入れる商人だけが、この外輪から中心への通行を許可されているんですよ。ただその場合にも、商人は完全に神殿の監視下に置かれ、規定された時間以上、街に留 まることは許されません......事実上、商人に化けてあの《学びの壁》を越えるのは不可能ということですな」
「......で?」
「問題は、外輪から中心へ、通行を許可されていないのは、街の住人さえ例外ではないということです」
ラニオットは解説を続けながら、こちらを向いた。
その彼に、聞き返す。
「なぜだ?──昨日、襲 われた時にもそんなことを言っていたが、少しばかり気になってたんだ」
彼はゆっくりとうなずいた。
「理由は簡単です──キムラック教徒の最も嫌 うものはなんです?」
「魔術士」
オーフェンは即 答 した。ラニオットが、続けてうなずく。
「となれば、当然ではないですかな。魔術士の素養は、遺 伝 しますから......」
それを聞いて、オーフェンははっと気づいた──昨日聞いた単語のいくつかといっしょに。
良き血の混入......つまり悪い血は受け入れられない......
「そうか。キムラック教徒の中には、たとえ潜 在 的にでも、魔術士の素養が遺伝していてはいけないわけだな」
「ご明察です。それを防ぐために、街の神殿庁 は過去において純血の証 が取れない者は、街に入れないという方針を二百年も守ってきたのですよ。大陸の教会組織というのは──教会そのものは全士にわたっていても、真実〝キムラック教徒〟と呼べるのは、中心街の住民だけということです」
「キムラック教会の教義が、ほかの都市で一般化されないのも道理だな。神殿にとっては、街の外の教会ってのはあくまで外 様 だってわけだ」
「そういうことです。ですがこの外輪街の住人も、中心街に入りたくてここに住んでいるわけですから、秘密裏に《壁》を越えるルートはいくつか見つけられているのですよ」
それでラニオットの解説が終わりということはなかったろうが、彼が続きを話そうとするその前に、クリーオウがつぶやいた。
「......よく分かんないなー。教会のことを信じていても、入れてもらえないわけ?」
「彼らは純血にこだわるのですよ」
ラニオットは、釈 然 としない様子のクリーオウににっこりした。
「つまり魔術士というのは、人間種族とドラゴン種族の混血の結果として生じたものですからね」
「どんなに可愛 くても野 良 猫 は飼 いたくない、ってことなの?」
「......ニュアンスは違いますが、そんなところでしょう」
苦笑はしたが、ラニオットは否定しなかった。
「それで──」
マジクが、ぽつりと声をあげる。
「結局、その侵 入 できるルートっていうのは......具体的になんなんですか? 遭難って言うからには、かなり危険なんでしょう?」
彼の背後にある窓の外には、相も変わらずの雨が降り続いている。降り注 ぐ雨粒が軌 跡 を引いて、灰 色 の鉄 格 子 のように世界を閉ざしていた。
雨音にかぶせるように、ラニオットが答える──
「ええ。この雨ですと......」
楽しげにくつくつと笑いながら、彼は続けた。
「水 没 していないことを祈 りましょうかね」
その酒場に入ったと同時──オーフェンは、違 和 感 を覚えた。
どこがどうというわけではない。薄 暗 い店内も、外が雨ならば仕方がないだろう。昼間から酒場に集まっている、十数人からの男たちも、取り立ててどうだということもない。
足の太いテーブルと、天 井 からぶら下げられたランプと、階段と、隅 っこに置かれたいくつかの樽 。せまいことと天井が低いことを除けば、ごく普 通 のバーに過ぎない。
そしてごく普通だけに、オーフェンやクリーオウ、マジクの三人が連れ立って入った時には異 様 に目立った。
あちこちのテーブルから、うろんな顔をこちらに向けてきている。中には、あからさまではないにしろ敵対的な眼 差 しもなくはなかった。
「お師 様 ......」
店内の雰 囲 気 に少し気 後 れしたのか、マジクがつぶやくのが聞こえてきた。
「お前も宿屋の息 子 だろーが」
オーフェンが言うと、彼は、
「でも客が入ったことなんてありませんでしたし、お酒の匂 い嫌 いなんです、ぼく」
と──
彼らより少し遅 れて、またひとり酒場に入ってきた。
「遅いじゃない、ラニオット」
入ってきた男に、クリーオウが文句を言う。
「いやあ、すいません。野 暮 用 でして」
剃 髪 した頭に手を当てて、ラニオットが入ってきた瞬 間 ──店内の敵意が多少和 らいだことに、オーフェンは気づいていた。とはいえそれでも、完全に霧 散 はしなかったが。見えない場所からちくちくと刺 してこちらを急 き立てるような空気が、そこかしこに残っている。
オーフェンは、それらの視線を意識しながら、気づかないふりをした。ラニオットに問いかける。
「ここなのか?」
「......なにがですか?」
空とぼけた表情で聞き返してくる彼に、オーフェンは嘆 息 した。
「だから、ルート云 々 だよ」
「分かっているのなら、聞くまでもないでしょう?」
「......むかつく野郎だな、お前」
だが、ラニオットはさして取り合わず、軽く片手を挙げて笑うだけだった。
「はっはっ。まあ、わたしを信用してください」
言いながら、ずかずかと店の奥に進んでいく。
オーフェンも、あまり周囲を見回さないようにしながら彼のあとに続いた──一応、中にいる客たちと目が合わないように気をつけたつもりだったのだが、クリーオウが遠 慮 もなくきょろきょろしていたので、意味はなかったかもしれない。マジクも警戒心を強めながら、最 後 尾 について来ている。
もしも、この客たち全員に、突然襲 いかかられた場合どうしたらいいのか──
(......魔術を使っちゃまずいってだけで、こんなに頼 りない気分になるもんなのかな)
情けない気分で、オーフェンは独 りごちた。魔術なしでも、うまく立ち回りさえすれば、こんな烏 合 の衆 から逃げ出すのは不可能ではないはずだった。が、それができそうな気に、どうしてもなれない。
今まで、少なくとも精神的には魔術に頼り切りにならないよう気をつけてきたつもりだったが。
(しょせんは、つもりに過ぎなかったってわけか。クリーオウになめられるわけだ)
そんなことを考えているうちに──
ラニオットが、カウンターの奥にいる老人を見つけていた。
それが、ウエイターだったのかどうかは分かりかねた──つまり老人は、カウンターの奥にある古椅 子 に腰掛け、小さな木切れを彫刻しているだけだったから。格好も、客と大差ない。カウンターの横の扉 は開いており、どうやら客は、ここに入って勝手に自分の飲み物を作り、そこらで勝手に飲むようになっているらしい。
「やあ、ジェイク」
ラニオットが陽気な調子で、老人に声をかける。
老人は、片目だけを器用に上げて、こちらを見やった。その手には──彫刻刀によるものらしい無数の切り傷の痕 と──できかけの馬の木彫りがある。
「世間話かね? だったらやめてくれ」
「世間話じゃありません。奥を使わせて欲しいのですよ」
優しくラニオットがそう言った、刹 那 ──
がたっ。
椅子を蹴 る音とともに、答えてきたのはその老人ではなかった。
「おい。ラニオット」
振 り返る。と、一番近くのテーブルから、大男がぎらついた視線をこちらに向けている。
ちなみに立ち上がったのはその大男ではない。同じテーブルの、凶 暴 そうな顔つきをしたご友人である。見回せば、店中の男たちが、因 縁 のふっかけ 顔とでもいうような形 相 で一様にこちらをにらみ付けてきていた。
「なんでしょうか?」
気弱に眉 を落として、ラニオットが向き直る。
と、さっき立ち上がった男が、ジョッキに残っているビールを飲み干してから言ってきた。
「どういうつもりなんだ?」
「......と申しますと?」
「俺ぁ覚えてるぞ。そこの小 僧 。昨日の騒 ぎん時、教師様に連れられていた魔術士なんじゃねえのかぁ?」
ざわっ......と、店内に小さからぬざわめきが広がる。
また同時に、がたがたと音がすると、立ち上がる人間が増えていた。
「なにをおっしゃるんです?」
ラニオットが一笑に付す。
「確かにこの方は、教師様に連れられておった方ですが......それが魔術士であるはずがないでしょう」
「な、なに言ってやがる!」
また別の男が、怒 声 をあげた。そしてまた、別の男。
「あの爆 発 は、どう考えたって──」
(どう考えたって、人間の魔術じゃ不可能なんだけどな)
オーフェンは胸中で独 りごちたが、考えてみれば、そんなことは一般人には──そして特にこの街の住人には見分けがつくはずがない。
レキがやったことなのだが、どうやら彼の仕 業 にされてしまったようである。
男たちの怒声は、次第に大きくなっていったが──
それが、いきなりぴたりと止まった。ラニオットの、嘆 息 混 じりの一言だけで。
「......お話しなければ、なりませんかね......」
男たちをとどめたのは、言葉ではない。ラニオットの表情だということに、オーフェンは気づいていた。
さっきまで気の抜けたような表情を作っていたラニオットが、真剣な面 持 ちを見せている。
彼は静かな口調で語り始めた。
「教師様は、ああおっしゃっておりましたが──本心では、わたしたち外輪街の住人を神殿に近づけさせない神殿庁の人間のやり方に、疑問を持っておられたのです」
「なんだって......?」
(なんだって?)
声に出して疑問を浮かべたのは、男たちだが、胸中で思いっきり訝 ったのは、オーフェンだった──なんとか顔には出さないようにしながら、ラニオットの真意を探ろうと彼の横顔を見やる。
ラニオットは確信に満ちた口調で、そのまま続けた。
「当然でしょう。あのメッチェン教師様は、みなさんも知ってのとおり、街の外に出たことのある、神殿でも数少ないひとりなのです。一生を神殿の中で過ごす内部の人間とは、違う考え方をしておられました」
「なぜ、そんなことをお前が知っているのだ」
最初に声をかけてきた大男が、彼は座 ったままだったが、聞いてくる。
ラニオットはきっぱりとうなずいた。そして──あろうことか──こちらに手を振ってくる。
「昨日、騒ぎの際にこの方々を拿 捕 したわたしは、このお方から、メッチェン教師様のお考えをお聞かせいただいたのですよ」
言いながら、表情に後 悔 の色を混ぜる。
「そして、わたしたちの考えがいかに狭 量 であったかを知ったのです」
「狭量?」
男たちはもう完全に聞く体勢に入っていた──何人か、椅 子 に座り直す者もいる。
「そうです。メッチェン教師様のお考えは、恐 ろしいものでもありました。ゆえに、我々ごときに真実を語ることはできなかったのでしょう」
ラニオットは再びうなずくと、これまた再び、こちらを手で示した。呆 然 としていたオーフェンは、思わずはっと身構えたが──
ある意味、身構えるのは正しかった。ラニオットが、平然と続ける。
「この方々は、悪意と偏 見 を似て神殿を運営する者どもを粛 正 するために、メッチェン教師様が極 秘 裏 にお連れになった暗殺者なのです」
(げっ──!)
それを聞いて吹き出しそうになり、オーフェンはあわてて下腹に力を込めた。なんとか笑い出すのはこらえ、恐る恐る店内を見渡すと──
〝なるほど......〟
こちらを見 据 える男たちの表情に、なにか一言コメントをつけるとすれば、そんなせりふが妥 当 だった。
(なんでこんな荒 唐 無 稽 な話にだまされるんだ、こいつら......?)
オーフェンは心底訝ったが──やがて、気づいた。
(そっか。こいつら、ずっとこんなトコに住んでいて、誰も彼もが似たような境遇なもんだから、イデオロギーまで全員一致で固まってやがんだな)
彼らをだますなら、彼らを虐 待 する神殿を悪者にすればいいというわけである。
(ついでに、メッチェンのことを個人的に知ってるわけでもねえし。そうだな。唯 一 、こいつらに姿を見せたことある、しかも若い女の神官とくれば、英雄に仕立てるにはもってこいってわけだ)
オーフェンの胸中をよそに、ラニオットは滔 々と続ける。
「というわけなのですよ。あの爆 発 が起こった理由というのは、わたしにもよくは分かりませんが。この街 に潜 伏 しているという魔術士のスパイが、教師様を狙 ったテロを起こしたのかもしれませんし」
あの騒ぎでなら、オーフェンが呪 文 を唱 えたことに気づいた者も少ないだろう。
総合的に見てみれば、彼の嘘 というのも、ある程度の説得力はあったのかもしれないとオーフェンも思わざるを得なかった。が──
「なあ。待ってくれんかね、ラニオット」
小さなかすれ声でつぶやいてきたのは、カウンターの中の老人である。
「なんでしょう?」
振り返るラニオットに、老人は木彫りを続けながら、
「どうもその話、お前さんも、そこの御 仁 たちに聞かせられたものらしいが」
「ええ」
「御仁らが嘘をついていないという確証はどこにある?」
その一言で、まるで呪 縛 が解けたというように、店内が静まり返る。いや、あるいは、呪縛にかかったと言うべきか。
「そ、それもそうだな......」
また二、三人、立ち上がるのが見えた。
「ラニオット、お前はだまされてるんじゃねえのか?」
ざわざわと、再びざわめきが広がっていく。オーフェンはこっそりと拳 を固めながら、それを見据えていた。
その時、唐 突 に声は響 いた。
「なんなのよ、あんたたちはっ!」
今まであまりに静かだったので、かえって少し不安ではあったのだが──
見ると案の定、クリーオウがカウンターの上に仁 王 立 ちになって、よく通る声でわめきはじめていた。
「さっきから立ったり座 ったり、うっとーしいのよ! 言いたいことがあるんなら、五分間あげるからみんなで相談してひとつにまとめなさい!」
「なんだとこのアマ!」
「クリーオウ、いいから黙 ってろ──」
うめきながら彼女を引きずり下ろそうとしたオーフェンを、横からさっと止めたのは、ラニオットだった。彼は両手を挙げると、
「......まあまあ」
穏 やかな声にもどって、男たちを制止する。
「わたしも、最初は半信半疑だったのですが」
と、これはカウンターの老人に向けてである。
「彼の実力を、あなたがたご自身の目でご覧 になれば、わたし同様に納 得 していただけるのではないですかな」
「こいつの実力だと......?」
疑わしげに聞き返してくる男に、ラニオットは自信たっぷりににやりとした。
「彼が暗殺者でもなんでもない、ただ嘘つきならば、叩 きのめすのも簡単でしょう?」
(......状 況 を逆手に取りやがった)
オーフェンは、ラニオットを見ながら胸中でつぶやいた。
メッチェンがついていた、魔術士を荷物運びと偽 った嘘を、荷物運びが暗殺者と偽っているという嘘にすり替えてしまったのだ。
嘘を嘘でないと証明することは難しい。が、当たり前のことだが、嘘が嘘であることを証明するのは簡単である。ラニオットは、前者の証明を、後者にしてしまったわけだ。
(そいつはまあ、悪くないが......)
オーフェンは、そっと彼に近寄ってささやいた。小声で、
「おい、ラニオット......」
だが彼は完全に無視すると、男たちに向けて告げた。
「そうですね。フェイにランドに、オルズ。あなたがた三人なら、相手にしてくれるでしょうよ、彼は」
「三人!? 」
オーフェンはさらにラニオットに近づくと、小声ではあるが鋭 く非難の声をあげた。
「しかも素 手 でか、おい!? 」
素手 と言ったのは、別に武器がないことを言ったのではなかった。魔術抜きでということだ。
だがラニオットは、こちらの気も知らないでにっこりと答えてきた。誰にも聞こえないよう、小声で。
「まあまあ」
と、余 裕 たっぷりの笑みを見せる。
「あなたになら、たやすいでしょう―キリランシェロさん?」
(試す気か、俺を......)
舌打ちしてオーフェンは、男たちに向き直った。もう既 に、例の、フェイとランドとオルズだとかいう三人なのだろうが、やけに体格のいい男が前に出ている。
そちらに一歩向かう前に、オーフェンは、これだけはと思いながらラニオットに耳打ちしてやった。
「......詐 欺 の論理だな?」
ラニオットはなにも聞こえなかったかのように表情を変えなかったが、笑みをこらえて口の端がゆがんでいるのを、オーフェンは見 逃 さなかった。
と、フェイたちが低い声をあげた。
「殺し屋ねえ」
一分前まで自分も信じかけていたことなど忘れたのか、うさんくさそうに鼻にしわを寄せている。
「こんな優 男 が、かよ」
「優男!? 」
すっとんきょうな声で聞き返したのは、マジクである。カウンターの上から、クリーオウが答えるのが聞こえた。
「基準の違いね」
「うるせえな」
オーフェンは毒づいたが、彼女の言っていることも理解できた。つまりはこの男──フェイだかランドだか知らないが──、からしてみれば、ラニオットですらも優男に映 ったかもしれない。
背 丈 で一・二倍、幅 で二倍はありそうな大男である。ちなみに、最初に声をかけてきた、あの男だ。
オーフェンは間合いをはかりながら、すぐに構えに入った。三対一というのは、魔術が使えるのならば相手ではないが、そうでない場合、正直あまり自信はない。
(なら、数を減らすことだな)
彼はあっさりと判断すると、腰を落として右肩を後方に下げた。にやにやしながら不用意に近づいてくるフェイ(勝手に決めた)を、上 目 遣 いににらみつける。
「ったく、教師様もこんな野郎に頼 らないでも、この俺が──」
しゅっ──
オーフェンは、もう動き出していた。愚 にもつかないことをしゃべっている相手の口が開いてから、閉じるまでの一瞬に、男の懐 に入り込む。
「──っ!? 」

男の悲鳴は、声にはならなかった。
渾 身 の力を込 めて、男の向こうずねを蹴 り倒す──
刹 那 。
派手に一回転して、フェイは床に倒れていた。
「ぎゃあああああっ!? 」
折れた足を抱 えて、ようやく悲鳴をあげる。
オーフェンは、鉄骨の仕込んであるいつものブーツを少し前に出して見せてやりながら、告げた。
「素手だからって、武器がねえとは言ってねえぞ」
「この野郎──!」
ランド(これも勝手に決めさせてもらったが)が、拳 を振 り上げて躍 り掛かってきた。だが、ひとり目を倒せば、焦 って反射的にふたり目が飛びかかってくるのは、ある程度予想していたことでもある──オーフェンは静かに彼を見 据 えて、相手が殴 りかかる姿勢になってから初めて、構えに移行した。
遅 い、と相手は思ったろう。
だが敵の、殴ってくるモーションのほうがよほど遅い。余分なモーションなしで攻 撃 を繰 り出すことなど、素人 にはとてもできることではなかった。
敵の利 き腕の反対側に、小さく跳 躍 して──
次の瞬間には、オーフェンの左肘 が敵のこめかみをえぐっていた。頭 蓋 骨 を拳で殴るようなまねはしない。
カウンターで脳に一撃を食らい、力なくランドが倒れる。
これで既に一対一。オーフェンは自然体で、残ったひとりに向き直った。
最後に残った名前をつけさせてもらうとすれば、オルズが、呆 気 にとられた様子でこちらを見つめ返している。
啞 然 としているのは、彼だけではない──店の中すべてが、一様に押し黙っていた。
実を言えばふたりとも不意打ちで倒したようなものだが、状況の派手さから、それに気づいた者はいなかったようだった。
静まり返った店内に、思い出したように雨音が響く。
「く──」
追いつめられたうめき声を、オルズがあげた。
拳を握り、ファイティングポーズを取ったところを見ると、逃げるつもりはないようだが。握り拳の先端が少し震えている。
オーフェンは一歩進み出た。
びくり、と大きく震えて、オルズが一歩後 退 する。
また一歩出る。
オルズは後退する。
また一歩。
......後退。
その時点で、オーフェンは飽 きた。手近にあった椅子を、無 造 作 に持ち上げる。
「......へ......?」
間の抜けた声をあげるオルズに、思い切りそれを投げつけて──
顔面に椅子を食らって昏 倒 する彼を後目に、オーフェンは残りの男たちへ向き直った。「まっ最後はちと手抜きだが──」
と、告げる。
「これで証明になるのか?」
彼の問いかけに、答えてくる者はいなかった。
「ここじゃよ」
店の奥に、小部屋があった。
見たところ、酒の貯 蔵 庫 のようである。せまく、そして暗い部屋の壁 はすべて棚 になっており、様々な形の酒 瓶 が並べられていた。ところせましというほどではなかったが、それなりの数がそろえられている。
そして床 に、はずせそうな床板が一枚ある。
老人は無造作に、つま先でその床板をずらした。
その床板が──というよりフタが目立つのは当たり前で、ただ単に床に開いた穴の上に乗せてあっただけだったからだ。穴は一辺一メートルほどの四角形で、かなりの深さがある。地面をかなり深く掘 り抜いてあるようだった。
「穴......」
クリーオウが、いやそうな声をあげた。
「穴には嫌 な思い出があるよーな気がするわ」
「下りるのは簡単ですよ」
ラニオットが小部屋の入口から、縄 ばしごを抱 えて入ってきた。
「これ、なんの穴なんだ?」
オーフェンはマジクといっしょに穴の奥をのぞき込みながら、聞いてみた。問いに答えたのは老人である。
「井 戸 じゃよ」
「じゃあ、水があるの?」
クリーオウがマジクを押しのけ、穴をのぞく。老人は無言でかぶりを振 った。
代わりに──棚の下に、隠 されるようについているフックに縄ばしごを固定しながら、ラニオットが答えてくる。
「昔、この店ができる前にここに住んでいた人が掘ったんですよ。キムラック市には、川がないですよね?」
「......ないの?」
「ええ。十数キロ東に、レジボーンから流れている川があるんですが。たいした大きさではないですけどね。でもまあ、そこから運ばれてくる水を買うのは高くつきますから、せめて地下水でもないかと探したんですね」
穴の中にはしごを落とし込みつつ、そんな説明を続けるラニオットに、オーフェンはぽつりと聞いた。
「近くに川があるんなら、そっちに街 を作りゃ良かったんだろうに」
「そりゃそうなんですけどねえ」
ラニオットは苦笑した。
「まあ、なにか事情があったんでしょう。とにかく結論から言えば、水を堀り当てることはできなかったんですよ」
「じゃあ、空井戸なのね」
「ですが代わりに、もっとすごいものを掘り当てたんですな、その人は」
縄ばしごを引っぱり、強度を確かめながら、ラニオットが言う。
「あん?」
オーフェンは顔をしかめて聞き返した。が、ラニオットはにやにやするだけで答えようとしない。
(まあ、入れば分かるか)
答えは簡単にあきらめることにして、オーフェンはため息をついた。どのみち、これでキムラック中心に入れるというのなら文句はない。
だが、その時だった。
にわかに、酒場のほうが騒 がしくなる。
「ん?」
気になって、オーフェンは入口を見やった。扉 は閉じているのだが、立て付けが悪いので隙 間 から喧 噪 が聞こえてきている。
じっと、黙 ってそれに聞き入り──次に耳にとどいてきたのは、悲鳴だった。
「なんだ!? 」
オーフェンのささやきに、反応してというわけではないだろうが──老人が、さっと木彫りをポケットに入れて扉を開ける。
オーフェンは老人のあとに続いて、戸口から酒場のほうを見やった。さっきの客たちが、なにかを取り囲むようにして並んでいる。酒場の入口を囲むようにしているため、こちらには背を向けていた。
と──
だんっ! という鋭 い音とともに、背を見せていた男のひとりが、後方に──つまりこちらに突き倒される。それにあわせて、どよめきながら男たちは二手に分かれた。はっきりと見えるようになった入口には、数人の男が立っている。
(......なんだ?)
彼らを見て、オーフェンは訝 った。少なくとも、ただの酒場のケンカではない。
入口からぞろぞろと入ってきたのは、八人である。なにかの制服なのか、みな一様に、白い服を着ている。襟 から裾 まできっちりとそろった、鎧 のような服である。頭にかかっているフードも白だが、口元を布で隠 しており、その布の色だけは黒だった。
全員、手に二メートルほどの長さの棒を携 えている。
「オーフェンさん!」
小部屋のほうから、ラニオットの声が響いた。
「あれは神殿庁 の神官兵です!」
「なんだと!? 」
オーフェンは絶句して、彼ら──神官兵を見つめた。同時に酒場の男たちが、わっと気勢をあげた。
「神殿の人間が、なんの用だ!」
神官兵は、つまらないものでも見るように、静かな目で男を見やると──
手にした棍 を一 閃 して、それを打ち倒した。
途 端 に男たちが、いっせいに飛びかかる。
「お師 様 ! 早く!」
背後から腕をつかんで、マジクが叫んだ。オーフェンは振り返ると、
「なにが早くなんだ?」
「なにって──あの穴に入るんだそうです。なんだか、地下道になってるみたいなんですよ! 早く!」
「ったって......」
オーフェンは多少迷いながら、店の中を見やった。ちょうど、足の折れたフェイを、神官兵のひとりが打ち倒したところである。
「あの野郎──」
「お師様!」
歯ぎしりして店の中にもどりかけたオーフェンをとどめたのは、マジクだけではなかった──
「......若いの」
例の老人が、じっとこちらを見 据 えて、静かにつぶやく。
「こいつを持っていけ」
彼は聞き取りにくい声でもごもごとそう言うと、棚のひとつから小さな酒 瓶 を一本取りだした。押しつけられたそれを見てみると、中身は入っていない。ただ空っぽの瓶の中に、折り畳 まれた紙が一枚、入っている。
「これは?」
「あとで見れば分かる。ここも長くは保 たんぞ。あんたが行っちまえば、神官兵もあんたを追いかけていくし、そうすりゃわしらは殴 られんで済む」
「......ああ」
老人の顔をじっと見返して、オーフェンは取りあえずうなずいた。瓶を懐 に入れる。
「早く!」
今度はマジクではなく、穴から顔だけ出したクリーオウが言ってくる。
「分かった」
オーフェンはつぶやいて、マジクの背中を押した。
「先に行け。俺がしんがりだ」
「は、はい......」
ふらふらと進むマジクの背中を見送り、オーフェンはもう一度店のほうを振り返った。乱 闘 はさらに激 しくなり、流血して動けなくなっている者も出ている。
ただ、神官兵のほうには、負傷者は出ていなかった。八人が背中合わせに円 陣 を作って、倍の人数の相手をさばいている。
(兵士......だと? キムラックは砂の戦争以後、貴族連 盟 に軍組織を解体させられたはずじゃないのか?)
「若いの」
老人が、再び話しかけてきた。そちらを向きやると、もう誰も姿を見せていない縦穴のほうを示している。
「お前さんの番だ」
「ああ......」
手で感謝の合図を送りながら、オーフェンは老人の前を通り過ぎて、小部屋にもどった。通り過ぎざまに、老人のつぶやきを聞く。
「......わしはラニオットを信用しておらん」
「............」
聞いて、オーフェンは立ち止まった──だが、老人はこちらのことなど気にもしていない様子で、ただ勝手につぶやき続けている。
もっともその内容は、明らかにこちらに向けた言葉だった。
「メッチェン教師様が殺し屋なぞを雇 うとも思っておらん。だが、お前が教師様といっしょにおったのは、わしも見ておった」
老人が、顔を上げる。
「ラニオットに気を許すな」
「......分かってるよ、爺 さん」
オーフェンはその時になって、渡された瓶に入っているものがなにか、不意に気づいた。
「本当にありがとう。じゃあな」
礼を言いながらオーフェンは、縄ばしごを伝って縦穴に飛び込んでいった。
◆◇◆◇◆
きらめく刃 は既 に、その切っ先を彼女の胸に向けてはいたが──それ以上の主張は失っていた。だがそれでも彼には、それの求める幕切れがなんであるのか、分からないはずもない。
短剣は彼女を真っ直ぐに見つめている。それほどの率 直 さは彼にはなく、彼はかすかな後 悔 を抱きながら聞き返した。
「聖域に......力がない?」
はっ、と笑う。
「街 を焼き、なにもかも壊 し──あなたをすらも軍門に下した聖域に?」
「彼女らの姿を見たことがあるか?」
イスターシバの表情に、苦しげなものが浮かぶ。彼女はその痛みに耐 えるかのように、双 眸 をきつく閉ざした。
「彼女らの老 いは深刻だ。我などより、ずっと」
「誰だって老いるのですよ」
「それは──それを言うのは、汝 らが我らの問題を理解していない証 拠 だ!」
「潜 入 するのは地下から......てのも、定番だよな」
「裏の裏あたりをかいて欲しかったですかな?」
ラニオットの声を聞きながら、オーフェンは閉じた天 井 を見上げた──
キムラックに上下水道の設備はない。だから、というよりそもそも一見しただけで、自分たちがいるその地下道がそういったものでないことは分かる。
だが、それがなんであるのか分からない。
「ここって......なんなんですか?」
不安そうに身 震 いしながらマジクのつぶやく声が、地下道に反 響 する。その後ろにくっついているクリーオウも、レキの頭を撫でながら続けた。
「結構広いわよね」
「お前ら、きょろきょろしてないで、ちゃんとついて来いよな」
オーフェンは後ろを向いて、少し遅 れ気味のふたりに注意を飛ばした。ふたりが、走って追いついてくる。
クリーオウが言ったように、地下道はかなりの広さがあった。地下道というより、地下広間と呼べそうなほどに。ただ、あちこちに分 岐 がある。石造りの壁 、床 は、かなり古いものらしく、ところどころ天井が崩 れてがれきに埋 もれている部分も見受けられた。どうやら、意 図 的 に迷宮のように造られているのではなく──崩れたり埋まったりしている間に、入り組んだ構造になり果ててしまったようだったが。
地下道の中は、地上よりなお砂が充 満 していた。この砂は決して燃えないし、溶 けもしないということだが、そうでなかったら粉 塵 爆 発 でも起こりそうな濃 度 ではある。
口の中にたまった砂を、唾 といっしょに吐 き捨てて、オーフェンは聞いた。
「つまりこの地下道が、神 殿 街 にまで続いてるってことだな?」
「そうです」
ラニオットが──ただひとり携 帯 用のガス灯 を持っているラニオットが、なにやら楽しげに答えてくるのが聞こえた。
「あ。ここから少し低くなっていますな。気をつけないと」
「気をつけるって、なにを?」
きょとんとたずねるクリーオウに、ラニオットは、
「地下道のがれきの隙 間 に雨水がたまっていることが、よくあるんですよ。それが、水の自重で決 壊 したりしますと......」
「鉄 砲 水 か」
オーフェンのつぶやきに、彼はうなずいた。
「ご覧 の通り、誰 も整備などしておりませんのでね。神 殿 の人間も、この地下道の存在は知っているんですが、なにぶんにも規模が大きすぎて、埋めることもできないでいるんですよ」
「そもそもここ、なんなんです?」
マジクの疑問も、もっともではあった──
上下水道の類 ではない。広さから考えても絶対にである。どちらかと言えば、大きな施 設 が地面に没 したという様子だった。
「天人の遺 跡 なんかは、地下にあるものも多いけどな......それにしちゃ、崩 壊 がひどすぎるし」
ウィールド・ドラゴン=ノルニルはたいてい魔術で建築物を防御しているので、その遺跡もほぼ無傷で残っている場合が多い。それにしては、そこはあまりに壊 れすぎていた。
ラニオットは肩をすくめるだけで、答えてこない。
「それよりも、急がないとまずいですよ」
彼は言いながら、上を示した──縄 ばしごが、天井の穴まで続いている。と、しばらくして、ばさりとはしごが落下してきた。
「......爺 さんが、上でほどいて落としてくれたみたいだな」
「そうですね。これで少し時間がかせげる」
天井はかなり高く、そこから地上までもかなり長い縦穴が続いていた。あの酒場の床からは、地下二十メートルというところか──はしごなしに飛び降りられる高さではない。
あの神官兵たちがロープでも持参していない限りは、逃 げる時間くらいはあるだろう。「といって、彼らはこの地下の存在を知っておりますからね。ロープも持ってこないということないでしょう。急ぎましょうか」
「そうだな」
ラニオットが先導するほうへ、息苦しく暗い道を進みはじめる。
地下道は広いのみならず、どこまでも続くようだった。暗いうえ、砂の濃度も高いため、行く手はまったくと言っていいほど見えていない。携帯用の明かりなど、広 漠 とした闇 に溶け込むだけではっきり壁を照らすわけでもなく、冷たい威 圧 感 があたりを包んでいた。心なしか、歩む歩 幅 も小さくなっていくのが分かる。
オーフェンは咳 払 いして、小声で続けた。
「どのくらいの距 離 があるんだ?」
「気になりますか?」
「当たり前だろ」
「......距離的には大したことはないんですが、直進はできませんからね。四、五時間はかかるでしょう」
と、ラニオットは振り返って、自分の分厚い唇 に指を当てた。
「あまりしゃべらないほうがいいですよ。雪山の雪崩 ほどとは言いませんが、鉄砲水を起こしてしまうかもしれませんから」
「──じゃあ、足音も立てないほうがいいのかな」
大声で、クリーオウが言ってくる。
胸中でため息をつきながら、オーフェンは彼女の頭を──というか頭の上に乗っているレキの背中を軽くたたいた。
びっくりした顔で、クリーオウとレキとが、いっしょに振り向いてくる。
「なぁに?」
「お前の声が一番怖 いんだよ。きんきんわめきやがって」
むう、とほおを膨 らませてから、彼女はくるりと視線の向きを変えた。ひとり黙 々 と歩いているマジクのほうへと。
「そーいやあんた、ここんところなにもしゃべらないわね」
「ずっと考えてたんだ」
いきなり話を振られ、やや迷 惑 顔 でマジクがつぶやいた。ちらりと背後を──落ちた縄ばしごを見やってから、
「なんで急に、あんな兵隊が来たんだろ」
「昨日の騒 ぎから、神殿庁が人員を派 遣 していたのですよ。あの店は、以前からマークされていたのでしょうな」
「わたしが言ってるのは、そーじゃなくて」
クリーオウはラニオットを押しのけると、マジクに詰 め寄っていった。
「脱 水 症状から回復してから、なんか元気がないわねって言ってるの」
「当たり前だと思いますが......」
苦笑するラニオットを、少し盗 み見るようにななめに見て──マジクがそのまま黙 り込む。
「なあ」
オーフェンは後ろ頭で腕を組み、誰にともなくつぶやいた。
「さっきから、黙れっつってんのに、だいぶしゃべったような気がするが」
「ですなぁ」
ラニオットが、にっこりと同意する。オーフェンは半眼になって続けた。
「こん中では、俺が一番耳がいいのか?」
「そお?」
クリーオウが、首を傾 げる。
「わたし、箱の中に何匹ハチが入ってるか、当てるの得意よ」
妙 な遊びをしているとは思ったが、この際どうでもいい──オーフェンはラニオットを見 据 えて顔をしかめた。
「気づいてねえわけじゃねえんだろ?」
「困りましたねえ」
この頃には、もう気づいたかどうか確認するまでもなく、鈍 い振 動 音 が響 きはじめていた
「......逃げ道は?」
「ありません」
瞬 間 ──
横道からいきなり噴 き出した水流が、四人を吹き飛ばした。
予想外に激 しい水流にもまれながら、オーフェンは防御姿勢を取っていた──頭を抱 え、身体を丸める。通路の広さを考えれば、いかな水量であろうと壁まで押し流されることはないだろうが。
案 の定 、水はすぐに拡 散 し、オーフェンはゆったりと床に取り残された。砂を吸って重くなった水が、床にまんべんなく散っていく。
オーフェンは、びしょぬれになった髪 を払いのけて、なんとか立ち上がった。歩いていた場所より、数十メートルか流されたようだが。ラニオットが持っていた携 帯 照明の明かりはどこにも見えない。取り落としたか、消えたかしたのだろう。
暗 闇 の中を見回しても、近くに仲間はいないようだった。こんな場合に真っ先にわめき出しそうなクリーオウの声もない。
声すら聞こえないとすると──とんでもなく遠くに流されたということもないであろうから、意識を失っているのかもしれない。
(......どのみち、明かりなしじゃどうしようもねえか)
オーフェンは舌打ちすると、小さくつぶやいた。
「我は生む小さき精 霊 ......」
ぽう、と音を立て、彼の近くに青白い鬼 火 が浮かび上がる。
たいした光量ではないため、照らし出されたのは結局、彼の周囲七、八メートルというところだったが、完全な闇に比べれば照明はありがたかった。
もっともそのありがたい光の中に、人の姿はない。
砂を閉じ込めて泥 と化した水は、石の床を覆 うように広がっていた。オーフェン自身も、泥だらけになっている。まあそのおかげで、空気中に散っていた砂は、多少減ったようではあるが。
深呼吸すると、地下道の湿 った香 りが鼻 孔 を満たした。
「クリーオウ──マジク、どこだ?」
オーフェンは吸った息を、呼びかけにして吐き出した。
「聞こえてんなら返事しろ。どこだ?」
返事はない。彼の声だけが、虚 ろに響 きわたる。
仕方なくオーフェンは、歩き出した。床にべったりと広がった泥の流れを見れば、水流がどちらからのものだったかは分かる。そちらに歩いていけば、少なくとも最初にいた場所にはもどれるはずだった。
泥に足 跡 を残しながら、進む。そして──
彼は、足を止めた。前方に人 影 が見えたのだ。
立ちつくして、こちらを見ている人影。大 柄 というのとも違うががっしりとした体格の影である。一見して知れる。ラニオットだった。
オーフェンは無言で、鬼火だけを前進させた。明かりの中に、ラニオットの姿が照らし出される。
ラニオットはフードを外していた。笑うでもなくこちらを見ている。声もない。このままだんまりを続けるつもりかとこちらが訝 った頃 、それを狙 ったように、ラニオットが口を開いた。
「あの子たちは、軽いせいですかね。かなり遠くに流されたようです」
「そうか。てめえがまだ見つけてないんなら、安心した」
オーフェンは言い放 って、拳 を握 った。腰を落とし──いつもの自然体に近い構えではなく、完全に戦 闘 態勢を作る。
ラニオットの背後に、また別の数人の人影があるのが、既 にはっきりと見えていた。
「お前らってのは、人前に姿を見せる時には必ず立場を偽 らにゃなんねえってマニュアルでもあんのか?」
「サルアよりは、凝 ったつもりでしたがね」
「てめえらが一 枚 岩 じゃねえって様子だから、せいぜい利用させてもらったけどな。キリランシェロの名前を出せば、絶対に先走ると踏 んでいた」
オーフェンは言いながら静かに目を細めると、闇の中に視界を凝らした。
「てめえらみたいなのがいるから、素直な俺が疑り深くなっちまうんだろうが」
「......どのあたりで気づいておりましたか?」
ラニオットは多少興 味 があったのか、眉 を上げて聞いてきた。
口の端を歪 め、オーフェンは答えてやった。
「俺たちは魔術を使うのに、その構成を編 んで放出しなけりゃなんねえ。それをするのに呪 文 が必要になるわけだが、構成を発動さえさせなけりゃ、呪文なしに空間に構成を放出することは可能なんだ。こいつは魔術士にしか知覚できねえが、逆を言えば魔術士には絶対に知覚できる。ああ、どうせ意味は分からんだろうが、聞いとけ」
と、吐 き捨てるように続ける。
「俺の格好が変じゃねえかって、てめえに聞いただろ。あの時俺は、とびっきり攻撃的な構成をてめえに向けて編んでたんだよ。これ見よがしにな。あとは呪文を叫べば発動ってところを見せつけられても、てめえが気づいたそぶりも見せねえから、少なくとも魔術士じゃねえってのは分かってたんだ」
「まあ、そんなところでしょうな。わたしも魔術士に化けられるとは思ってなかったんですよ。看 破 する方法はいくらでもありますからな。ただ、あなたはわたしが嘘 をついていると知っていても、わたしを利用しなければならなかったんです。どうせあなただけの力では、聖都へは入れない」
つぶやきながらラニオットは、背後にいる仲間から──先の神官兵のひとりから、なにかを受け取った。鞘 に収められた、大 振 りの剣である。
「ただ、さっきの鉄砲水は誤 算 でした。まさか本当に、話し声くらいで決壊するとは思ってもいませんでしたのでね。おかげで、あなたのお仲間を見失ってしまいました」
彼は、剣を抜いた。
鞘から抜き放たれた刀身は、ガラスでできている。キムラックの暗殺部隊、死の教師がその象 徴 とする、ガラスの剣である。
オーフェンは視線だけ動かして、周囲にどれだけの気配があるか探った。ラニオットの後ろに三人ほどいる。あとは闇に紛 れ、分からない。
上のバーに押し掛けてきたのは、八人だったが。
剣を真正面に構え──ラニオットは、またもとの、にっこりした表情を見せた。
「名乗っておきましょう。わたしはネイム・オンリー。キムラックを守護する者です」
「そうかい......」
オーフェンはうめいて、神官兵らの頭上で輝いている鬼火に命令を出していた。刹 那 、鬼火がぱっと弾 けて消える──
「──!? 」
やったことは単に、鬼火の光量を上げただけである。そのせいで力を使い切り、鬼火が消えたのだ。ただそれだけのことで、目 潰 しにもなりはしない。
だがそれでも一瞬、ラニオット──いやネイムらの注意が、そちらに向いた。
「我 掲 げるは──」
その隙 にオーフェンはささやきながら、駆 け出していた。
「降 魔 の剣 !」
同時、彼の手の中に、剣を持っているような重みが現れる。
その重みを脇に構えながら、オーフェンはネイムへと一直線に突進していった。こちらの動きに気づいて、ネイムも注意をこちらにもどすが、その拳動に遅れが見える。
防御のため、ネイムが掲げたガラスの剣に──
オーフェンは、魔術で構成した無形の剣をたたきつけた。
特 殊 な硬 質 ガラスでできたネイムの剣は、さしてひしゃげもせずに、そのまま砕 け散る。
同時、オーフェンの手の中からも、剣の重みは消えた。
砕けるガラスの破片が、いまだ宙に舞 っている中、オーフェンは突進した勢いでネイムの身体を突き飛ばした。暗 闇 の向こうに、死の教師の身体が倒れていくのが気配で知れる。(追い打ちすりゃあ、倒せるが──)
神官兵が周りに何人いるのか分からない状 況 では、危険すぎる。
オーフェンは死の教師には構わずに、その後ろに控えていた三人の神官兵に、そのまま突っ込んだ。三人のうちの中央のひとりに、肩口からタックルを食らわせる。
倒れた相手をそのまままたぎ、オーフェンは止まらずに走り続けた。
その三人の後ろには、兵はいなかったが──
「逃げられませんよ! キリランシェロ──」
背後から、ネイム・オンリーの叫び声が迫ってきていた。
「入口の縄 ばしごも、兵が下りてくるのに使ったロープも、上に引き上げました! ほかの出口を探すことなど、絶対に不可能です!」
オーフェンは、答えずに──そして振 り返らずに走り続けた。
◆◇◆◇◆
マジクが目を覚ました時、世界は逆さまになっていた。
──水流に吹き飛ばされたときに、がれきの隙 間 に頭から突っ込んだものらしい。頭に血がのぼり、耳の後ろがひどく痛んだ。ゆっくりと起き上がり、あたりを見回す。
遠くに、明かりが見えていた。
白い、丸い光の中に──数人の人 影 が見える。距 離 はかなりある。が、マジクは、その中のひとりの正体を即 断 した。
「お師 様 ......」
がれきから抜け出して、彼は足を踏 み出した。特に理由はないが、気が急 いている。彼はそれを確かめるように、自分の心臓に手を当てた。
(様子が変だ。お師様、走ろうとしてる)
自分もまた走りだそうとして──
むにゅ、と彼は、妙 な感 触 を足の裏に覚えた。なにか柔 らかいものを踏 んだのだ。
泥 の塊 でも踏んだのだろうかと見下ろすと、彼が踏んだのは、仰 向 けに倒れたクリーオウの顔面だった。
(うわわわわわわっ!)
あわてて、飛び退 く。だがクリーオウには意識がなかったようだった。ぴくりとも動かない。
よくよく目を凝 らすと、レキが彼女の顔の横で、じっとこちらを見上げていた。闇夜のカラスで見えにくいが、緑色の瞳 だけが、遠くの明かりを反射してきらめいている。
「なんだよ」
小声で──向こうにいるオーフェンらには聞こえないように小声で、マジクはレキに聞き返した。なにかをたずねられている気がしたのだ。
じっと観察するが、レキはただこちらを見上げているだけである。
マジクはちらりと、オーフェンのほうを見やった。
「なんの用でもないんなら、ぼくは行くよ。なんか嫌 な予感がする」
と、一歩踏み出す。クリーオウは避 けて。
「......彼女を頼 むよ。どうせぼくなんかより、お前のほうが強いだろ」
だが──
歩きだそうと足を上げた瞬間、彼の眼前で、ばちっとなにかが弾 けた。
「うわっ!」
たたらを踏んで、立ち止まる。
彼はレキに非難の眼 差 しを投げた。
「なにするんだよ!」
ささやきながら、泥の中に手を突いてレキに顔を近づける。子ドラゴンはただじっと、こちらを見つめていた。
「クリーオウじゃないんだから、お前の言うことなんて分からないよ。ぼくになにを言いたいっていうんだよ? お前はなんだってできるんだから、自分でやればいいだろ」
いくら言っても、子ドラゴンの瞳 に変化はない。瞬 きをしない緑色の双 眸 が、彼の顔を映していた。
こちらを吸い込むように、くっきりと映している。
「だがら......」
マジクはさらにつぶやきかけたが、その声から力がなくなっていることに、自分でも気づいていた。意味のない不安感が、先以上に圧 迫 を強めている。だが──いったい、なんの不安なんだ?
と、彼の脳裏に閃 くものがあった。
(......精神支配だ)
レキの瞳の中に、自分はいるのだ、ディープ・ドラゴン種族は視線によって、大陸でも最強クラスの精神魔術を用いる。
暗黒魔術とまで呼ばれるものだ。
(レキの感じている不安なんだ、これは。それを伝えたい......のか?)
じっとこちらを見つめたままのレキは、別にうなずいたりはしない──がマジクは、確かにその返事を聞いたような気がしていた。
「でも、なんの不安なんだ......?」
怪 訝 に思いながらマジクは、クリーオウのほうを見やった。それに反応したレキの影 響 か、心臓が跳 ね上がるように、びくんと震 える──
あるいは、自分の感情だったのかもしれないが。
クリーオウの額から、血が流れていた。
(流された時に頭を打ったのか!)
マジクは急いで、彼女を抱 き起こした。完全に意識のないクリーオウは、だらんと腕を落としている。
「クリーオウ!」
揺すってみるが、彼女の顔に変化はない。打 撲 で昏 倒 したくせに両目を閉じているのは、いったん水に流されたせいだろう。服も濡 れたままであるため、身体も冷えている。
(危険な状態......なのかもしれない)
救急知識のないマジクには確証はなかったが、レキが伝えてきている不安感そのものが、それを裏付けているような気がしていた。
(魔術で蘇 生 させるしかない......けど......)
マジクは唇を嚙 んで躊 躇 した。自分自身の外傷ならば、かなりの成功率で完 治 できるのだが、他人のケガを治すことは極端に難 易 度 が高い。自分の身体を構成している情報ならば、彼自身の身体が持っている。だが逆に、他人の情報を手に入れることはほぼ不可能だった。
「お前にもできないのか⁉ 」
彼は、レキをにらみ付けて声をあららげた。
「なんなんだよ! お前にできないのに、ぼくにできるわけが──」
と、マジクは顔を上げた。思い出したのだ。
「お師様! お師様なら!」
光のあったほうを、見やる。刹 那 。
ずっと遠くに浮かんでいた鬼 火 の光が、弾 けて消えた。
「な......」
うろたえて、マジクは立ち上がりかけた。クリーオウを抱えたまま立つことはできなかったが。
再び訪 れた闇 の中、にわかに騒 ぎの気配が広がりはじめていた。オーフェンのものらしい足音と、それを追いかけようとする喧 噪 が聞こえてくる。
(何が起きたんだ......?)
不安感を振り払ってマジクは、身体を伸ばした。クリーオウを背中に負ぶって神経を研 ぎ澄 ます。ぱたぱたと足音が聞こえ──はっと気づいた時には、レキが飛びついてきていた。じたばたと服に爪 を引っかけて、彼の肩まで登る。
横目で見ると、後ろを向いている。クリーオウの顔が見えるところにいたいらしい。
「お師様、待って──」
叫びながら彼は、一歩を踏み出した。クリーオウのつま先が、泥まみれの床を引きずっている。彼女の身体は思いのほか重く──考えてみれば、どれほど軽かったとしても五十キロはあるのだ──、走っているオーフェンに追いつくのは無理かもしれないという考えが、すぐに浮かんだ。

「お師様──」
声をあげて闇の中を進む。
明かりを点けようかとも思うが、数秒するうちに、目が闇になれてきていた。師が先刻、わざわざ明かりを消したことを考 慮 に入れれば、余計なことはなるたけしないほうがいいのかもしれない。
だが明かりを灯 せば、確実にオーフェンはこちらに気づいてくれるだろう。
(くそっ)
マジクは顔をしかめた。
(なんでいっつも迷うんだ......お師様だったら、きっと迷わないのに)
どちらかが正しいに決まっているのだ。だがそれが決められない。
決めなければならないのに、それが決められない。
「お師様ぁーっ!」
とうとうマジクは絶叫じみた声を張り上げた。
「ぼくもクリーオウもここにいるんです! お師様ぁーっ!」
そして──
マジクは立ち止まった。気配を感じたのだ。足音。息づかい。そんなようなものを。
彼の周囲を取り囲むようにして、それが感じられる。闇に慣れた視界に、空間を埋 めるただの闇と分かれて、もっと暗く重たい影 が映った。
そして彼は気づいた。
彼は包囲されていた。
棍 を持った、八人の神官兵に。
◆◇◆◇◆
自分を呼ぶ声を聞いて、オーフェンは足を止めた。泥に足を取られないよう気をつけて振 り返るが、暗闇の中では、いくら夜目を利 かせたところで数メートルほどの視界しかない。深い闇の向こうにいる少年の姿を識別することはできなかった。
(マジクの声だった......どちらから聞こえてきた?)
前方からではない──と、オーフェンは完全に背後に向き直った。
「くそ──」
「うまい時に振り向きましたね......」
その声は闇の中から聞こえてきた。
次の瞬間、オーフェンはその眼前に黒いものが現れるのをはっきりと見ていた。
「──っ!」
息を詰 まらせながら、後方に跳 び退 く。
(追いついて......きたってのか⁉ )
驚 愕 にあえいで、あわてて身構えつつも、にわかには信じられないことだった──こちらが飛び退いたせいで、現れた影との距 離 は広がり、再びそれは闇の中に消えた。だが、その影の正体は言わずと知れている。
死の教師──ネイム・オンリー。
オーフェンは目を凝 らしたが、さっきまで敵がいた場所には、もうなにもいないようだった。
しかし......その声だけが、こちらに告げる。
「そのまま走っていれば、背後から斬 りかかれるところだったんですがね......あなたは非常に運がいい」
(一度突き飛ばしてから、全力で走ってたんだぞ──)
左右に視線を這わせて、オーフェンは自問した。
(それを、あっさり追いついてきやがっただと? どういうことだ)
しかも、敵はこちらより夜目が利くらしい。正確に後を追ってきたのだから。
明かりがないと不利である。オーフェンは即 断 すると、つぶやきかけた。
「我は生む──」
「明かりはお止めなさい。ほかの神官兵も集まってきますよ」
「なんだと?」
オーフェンは聞き返して、同時に魔術の構成を取り消した。忠告に一理あると思ったというよりは、ネイムの落ち着いた声 音 に、反射的に従ってしまったという具合だったが。
闇に包まれた周囲のどこにも、死の教師の姿は見えない。しかも声まで、反 響 のせいで発生元が特定できなかった。
正体を見せない声で、彼は続けてくる。
「......わたしが、あなたを殺すんですから。邪 魔 は嬉 しくない」
「............」
どういうことなんだ──と、オーフェンは訝 っていた。
(俺には見えないのに、奴 には見える。ンなことがあり得るのか?)
だがネイムは、こちらに考える時間すら与えてはくれなかった。
「さて──」
ただ一言。同時に、オーフェンは右手になにか威 圧 的な気配を覚えた。
相手の呼吸を探る。そういった技術である。彼は振り向くと、左腕を掲 げて思い切り叫んだ。
「我は放 つ光の白 刃 !」
衝 撃 を伴 った白光が、一直線に放たれる。その閃 光 に、ネイムの影 がちらりとだけ見えた気がした。
影は──
そのほんの一 瞬 で、閃光に照らし出されない位置にまで移動したのだ。
(魔術を避 けた、だと⁉ )
胸中で悲鳴をあげる、刹 那 ──
一撃を食らって、オーフェンは後方に突き倒された。泥の中に倒れるが、すぐに跳 ね起きる。どこをどう打たれたのかさえ、理解できない。立ち上がってからしばらくして肩が痛み出したので、そこを打たれたには間違いないのだが。
痛みに耐 えながらオーフェンは再び神経を集中した。ネイムの気配は、またもや完全に消えている。
痛みの消えない左肩をさすってみると、手のひらに、べったりと冷たい感 触 が残った。服は濡 れたままだったが、そのための感触でもない。水ほどは冷たくはなかった。
出血している。かなりの深手だった。
「我は癒 やす斜 陽 の傷 痕 ......」
オーフェンはつぶやいて、その傷をふさいだ。
すぐにネイムが、言ってくる。
「その程度の魔術ならば、いいのですがね」
彼の声は揶 揄 するように、笑みを含んでいた。
「......先ほどの光のナントカいうやつ。あれは止めたほうがいいでしょう。さすがにもう話し声くらいで鉄 砲 水 が起きたりはしないでしょうが、魔術の威 力 が炸 裂 したならば、保証の限りではありません」
「なら、いざって時にはこのあたり一帯をぶち壊 して、てめえらもろとも水 没 させてやる。覚 悟 を決めろってんだ」
「心中ですか。もうそんなに、弱気なことを考えておられるとは」
「うるせえな──」
オーフェンは言いかけて、相手の声がやけに近くなっていることに気づいた。はっと顔を上げると、そこには人間がひとり立っている。
闇を背後に黒い影が、なんの気負いもなくただ、立っていた。その顔も分かる。瞳 も見える。じっとこちらを見 据 え、笑っている──
「ラニオット......」
意識せず、オーフェンは彼を偽 名 で呼んでいた。
「ええ。オーフェンさん」
ネイムもまた、これは意識してか、偽名──ではないが、とにかく違う名前で呼んでくる。
じっと、にらみ合う。といってオーフェンは、ネイムの顔は見ていなかった。無防備にだらりとぶら下げられた、彼の腕を凝 視 している。死の教師の右手には、ひものようなものがぶら下げられていた。三十センチほどの革ひもである。その革ひもの先には、短剣の刃 がそのままくくりつけられていた。
よく見ると、ネイムは右腕にだけ手 甲 を着けている。刃を振 り回した時に腕を傷つけないためだろう。
そのほかは、前とまったく変わりない格好だった。
「逃げはしませんね? 弟 子 を見捨てて」
暗がりの中でもネイムの嘲 笑 は際 だって目立っていた。
「神官兵は、子供であろうとなんであろうと、魔術士を殺すことなど迷いませんよ。一見して貴族との血 縁 があることの分かる娘 もです。結局のところ、貴族連 盟 があなたがたのもう一方の祖先なのだから」
闇 に溶 けて輪 郭 が分からない分、ネイムの嘲笑は、闇そのものが笑っているようにも見える。オーフェンはその場に唾 を吐 いた。
「こんな地下道に誘 い込んだうえに退 路 を断ち、あまつさえ人質たぁ、ずいぶんと念の入ったことだな。俺ひとりを殺すのによ」
「先も申しましたがね。私は現実的なのですよ」
ネイムの嘲笑は、自嘲に化けた。わずかな違いだが。
「どんなに戦闘訓練をしようと、ひとりでは素人 三人に勝てないのが、人間というものの現実です──たちまち袋 叩 きになってしまう。もしくはふたりには逃 げられてしまう。あなたには実感できないでしょうがね。そういった現実を超 越 したのが、あなたがた魔術士という人種です」
笑う闇は静かに広がっている。冷たい手に内臓をまさぐられるように、オーフェンは吐 き気 を覚えた。このままでは負ける。
死の教師ネイム・オンリーを、オーフェンはただ見つめた。耳の奥が脈動する。視界が赤く、暗くなる──
「わたしたちの恐 怖 がお分かりでしょうか? キリランシェロ。そう。あなたの言葉を借りれば、たかがあなたひとりを殺すために、わたしは策 を弄 さなければならなかった。魔術を封 じなければならなかった」
言いながらネイムが、初めて動きを見せる。両手を広げて、彼は大音声をあげた。
「わたしは命を削 ってでもこの聖都を守る! 裏切り者のサルアやメッチェンのようにはならない──」
同時、弾けるように右手が跳 ねて、革ひもの先の刃 が闇の中に踊 る。
オーフェンは、再び後方へと跳んでいた。
(裏切り者......?)
突進してくる死の教師を見据えながら、つぶやく。
(俺を連れてきたメッチェンはともかく、サルア・ソリュードまで?)
どういったことだかは分からなかったが、それどころでもない。
オーフェンは泥 にかかとを滑 らせながら後 退 し、その間に構えを取った。さほど仰 々 しい構えは要 らない──半身が前に出ていさえすれば、攻 撃 は繰 り出せる。問題は、相手のスピードが常識外れだということだ。
だが今は、死の教師は真っ正面から飛び込んできている。いくら速くとも関係ない。
相手の武器の位置を把握し──
(......ない⁉ )
オーフェンは胸中に、その単語だけを吐き出した。ネイムの手の中に、例の刃が見えない。
瞬間、ネイムがスピードを落とした。そしてまた右腕を小さく振り上げる。
本来なら、攻撃の予備動作である──が、その肘 のあたりから、刃がこちらの眉 間 をめがけて飛び出してきた。
「ちっ!」
舌打ちして、オーフェンは左腕で顔面をかばった。腕の筋肉に刃が突 き刺 さり、えぐる。
傷はたいして深くはない──だが大きな出血を残して、刃は通り過ぎていった。
(妙 な武器を持っていやがると思ったら、そういうことか──あの形状なら、ひもを巻きとって簡単に隠 すことができる。おまけに通常の攻撃動作からでなくても攻撃が仕掛けられるってわけだ)
ひもについた刃を振り回すだけなので一撃での致命傷は与えられないが、出血を誘 いさえすればいいのだ。血液の減少はあっと言う間に体力を奪 ううえ、気力をも減 退 させる。
オーフェンは防ぐと同時に、牽 制 のため敵の足下を狙 ってかかとでの蹴 りを放った。ネイムはあっさりと後ろに退 いてそれをかわす。オーフェンもよく使う手だったが、追いつめられてでもいない限り、後方に逃げれば少なくとも追撃は受けない。
(傷を治している暇 はねえ──)
オーフェンは判断すると、これもよく使う手で、後退した敵は真っ直ぐ追いかけた。そのまま、攻撃に移ろうとして──
(......なんだと......⁉ )
ネイムの姿が消えていた。
いや、敵の位置は、分かっていた──もっとさらに前方にいるはずだ。だが、夜目でなんとか見える範 囲 よりも、さらに向こうまで逃げているのである。
こちらが二メートルを踏 み出している時間に、五メートルを移動しているのだ。後ろ向きで。
(動きが速すぎる──)
オーフェンは、愕 然 とするというよりも、相手の動きがまともではないことに冷静に気づいていた。
「なんだってんだ、この身体能力は......」
「言ったでしょう」
闇の奥から、ネイムが告げる。
「......命を削ってでも、と」
「ハシーシャン──服薬暗殺者 か!」
オーフェンの驚 愕 は、とうとう悲鳴となって響 きわたった。
人の命がいかにして生まれたか。神の愛。神の意思。神の約束。奇 跡 的な邂 逅 。大いなる偶 然 。偶然的必然。必然的偶然。説明しようとした言葉はいくらでもある。だが、万人を納 得 させる唯 一 の単語などというものは、ない。
だが、これだけは確実に明言されていることがあった──人間の身体は、化学反応で動いている。
ならば当然、化学的な干 渉 で以 て、その活動を止めさせることも、活性化させることもできた。
「狂 ってんのか、てめえは......」
オーフェンは、ほぞを噛 んで震 え声を発した。
ここまで劇 的 に身体能力に影 響 を与える薬物となると、並 大 抵 のものではない。
副作用──いや、予想された作用だけでも、人体を破 壊 するはずだった。
「現実的なのだと言ったでしょう」
ネイムの言葉が聞こえてくる。
正面から、ではない──移動したのだ。足音もなしに。
「あなたがたと戦う力を得るために......わたしたちは、常に悩んでいる。人生の力、それは即 ち悩みです。ご存じですか?」
「古くせえ格言なんぞに興 味 はないね。服薬暗殺者なんてのも、同様に古くせえ──とっくにいなくなったとばかり思ってたがな」
皮肉を込めてオーフェンは告げたが、ネイムは完全に無視したようだった。
「我々の力には、それだけの意味がある。生まれただけのあなたがたとは、違う。生まれながらに最強の戦士となれる、あなたがた魔術士とは」
声はささやかれるたび、その位置を変えていた。現実的に見れば、周りをぐるぐると回っているだけなのだろうが──声 音 に秘められた抑 揚 と感情とに惑 わされて、どの方向から聞こえてきたのか特定できない。
相手との間合いすらも変わっているように思える。いや、世界全体が彼だけを取り残して伸び縮みしているような──
「わたしは十七歳です。信じられますか? 薬物を併用した訓練は、それだけ使用者を老 けさせる。もう既に、寿 命 の半分は神に捧 げた......」
オーフェンは、背筋にぞっとしたものを感じつつ口を開いた。
「ンなもんなら、俺らと違って結構だ」
「あとはなにを捧げれば良いのか......」
ネイムは、あくまで無視して続けている。
「──わたしは、あなたの首だと思います」
オーフェンはその言葉を聞くよりも速く、跳 躍 していた。
一瞬後──よりも短かったかもしれない。背後で、鋭 い音が空を斬 る。ネイムが斬りつけたのだ。
(素 手 じゃあ、勝てねえ......)
舌打ちしてオーフェンは、出血の止まっていない左腕を押さえた。感覚が失われつつある。
だが魔術を使うのも危険過ぎた。
(なら──!)
なかばやけくそになって彼は、敵の頭を目がけて当てずっぽうに蹴 りを放 った──頑 強 なブーツに覆 われた足が孤 を描き、ぼんやりとしか見えないネイムの側頭部に命中する。
感 触 からすれば、バットで殴 りつけたほどの衝 撃 が伝わったはずだった。が──
ネイムの影 は、斬りつけた姿勢のまま、微 動 だにしていない。
ややしてから、その影は少し動いた。こちらを向いたのだ。
あわてて、足を引っ込めるが──それも遅 かった。ネイムが右腕を振り上げている。その手の先に、刃 が踊 っていた。
(やられた!)
そう思った瞬 間 には、刃はオーフェンの身体の中へと打ち下ろされていた。首筋から胸にかけてを、ぎざぎざの道筋で通り過ぎていく。激 痛 に苦 悶 の声をあげ、彼はその場に倒れ込んだ。
床を転がりながらも意識は保ち、仰 向 けになる。ネイムはとどめを刺 すために、再び刃を振り下ろしてきたところだった。身体を左側に反転させ、ぎりぎりにそれをかわし──オーフェンはひざで床を蹴 った。その反動で立ち上がる。
すぐそばに、刃をかわされ体勢を崩 したネイムがいる。
オーフェンは素早く、渾 身 の力で死の教師の足首を蹴りつけた。薬物で筋肉を強化し、痛覚までもごまかしていようと、関節を強化することはできないはずだった。
同様に、骨の強度そのものもだ。足首を砕 かれ、がくんとひざをついたネイムに、オーフェンは組み付いた。刃をもっている右腕を、逆手に極 める。
(小規模の魔術で、右腕だけをへし折る──)
「我は撃 つ光 靂 の──」
だが。
魔術が発動するよりも先に、ネイムが動いていた。
(なん......だと──?)
腕を極められ、うずくまった姿勢から、あっさりと──その極められた腕で、オーフェンを抱 え上げる。
周りも床も見えない。その状態で数秒ほど、オーフェンは硬 直 していた。すぐに、ネイムが動き始めるのは分かっている。折れた足で、死の教師は立ち上がりつつあった。抜け出さなければならない......
(振りほどけない......つかんでいるのは俺なのに!)
──闇が動いた──
腕を絡 ませたまま、オーフェンはネイムに床にたたきつけられた。反動で床を跳 ねながら、ともかくも死の教師との間合いが開いたことを理解する。
つまり、片手で投げ飛ばされたのだ。
(通じない......のか? なにひとつ......)
動かない身体に活 を入れて、なんとかオーフェンは顔だけを上げた。ひざが震 えて立ち上がることはできない。石の床にたたきつけられた衝 撃 はかなりのものだった。
目がかすんで、もう夜目など利 かない。ただ完全な闇 に、ネイムの足音は聞こえてくる。一歩......また一歩。
血の味が、口の中に広がっている。喉 にも血がたまっているのが、鼻 孔 いっぱいにむせ返るように広がった臭 いで分かった。
刹 那 ──
「うわああああああっ!」
マジクの悲鳴が──いや、雄 叫 びが地下道に響 きわたった。近くではない。かなりの遠くで。そしてまた同時に、閃 光 があたりを照らす。
どぉぉん、という遠鳴りのような振 動 が、倒れているオーフェンの肺を背中から突 き刺 した。光は燃え上がり、猛 烈 な熱風を起こしている。間違いなかった。マジクが、なにか大きな魔術を使ったのだ。
オーフェンはとにかく、そちらを見やった──戦っているうちに離 れたのだろう。何百メートルか向こうである。そこにはマジクが立っていた。小さい点のようだったが、間違いなくマジクだった。なにかを背負っているが。
少年を中心に、炎 の柱のようなものが、熱波をあたりに放出している。熱衝撃波を焦 点 も絞 らずに放 てばそういったようになるが、その威 力 は尋 常 ではなかった。以前に見たものを、さらに上回るような勢いで、光をまき散らしている。あたりの泥 が、熱に水分を奪 われてもとの砂にもどっていく。
爆 発 が、地下道そのものを振動させていた......
(崩れるぞ......)
呆 然 と──むしろ恐 怖 を覚えることすらも忘れて、オーフェンは独 りごちた。この地下道そのものが崩 壊 するかもしれない。そうなれば、誰であろうと関係ない──上の、キムラックの住人たちも甚 大 な被 害 が出るだろう。言うまでもなく、オーフェンらにも生き延びる方法はない。
「なんてこった......」
震えながら、オーフェンは起き上がった。身体が言うことを聞かないが、それでも無理やりに立ち上がる。光は広大な地下道を照らし出していた。あたりを見回し──オーフェンは、一番近くにいる男に気づいた。ネイム・オンリー。
そして、死の教師の顔を見て、動きを止めた。
「ああ......これですか?」
ネイムが苦笑して、自らの顔を示す。
「どうということではありませんよ......」
死の教師は血の涙を流していた。
眼球が、真っ赤に腫 れている──充 血 しているどころではなく、腫れ上がっている。もともと分厚かったまぶたの間から血液が流れ出し、固まりかけていた。見ると、唇の間にも血の色がのぞいている。毛細血管が、弱い部分から破 裂 しているのだ。
向 精神物質とでも呼ぶのか。そういった物質を用いて、限界以上に身体を酷 使 するということは──つまりそのまま、限界を超 えてしまうということだ。
限界を超えれば壊 れる。生命活動は、ただの化学反応なのだから。ネイムは既 に、その限界を超えつつある。だが、
「どうでもいい。神が認めてくれない苦痛は、どうでもいいのです......」
ネイムは──地下道に対して深刻な振動が与えられたことも、そのどうでもいい苦痛のひとつに過ぎないのか、すぐにマジクのほうにも興 味 を失って、こちらへと近づいてきた。
「わたしは幾 度 もの最終拝 謁 を......しかし、神は認めてはくれなかった......」
ぶつぶつと、独 り言 のようにつぶやいている。いや実際独り言だったのだろうが。
「狂 った魔術士のスパイや......愚 かな神官にはお言葉を賜 れて......わたしには......」
死の教師は血の涙もぬぐわず、表情も変えず──ただ、復活しつつある砂 塵 の中を進んでくる。折れた足で平然と。

「そうだ。あなたの師にも......神は......」
「うわああああああああああああああっ!」
オーフェンの雄叫びが──いや、悲鳴が響 きわたる。
彼は絶叫していた。声が裏返り、喉 が破れて激 痛 が走るのも無視して。肺の空気を搾 り取られ、血と唾 とを吐 きながら、オーフェンは駆 け出していた。ネイム・オンリーの穏やかな歩みに、真正面から飛びかかっていく。
腰に溜 めた右拳 を、全力で打ち出す──
ネイムは避 けもしなかった。オーフェンの拳は死の教師のみぞおちに、深々と突き刺さっていった。異様に硬 くなっているネイムの身体が、そこを軸 にふたつに折れる──
同時にオーフェンもまた、右手首に鈍 い痛みを覚えていた。
その一撃だった。死の教師は後方に吹き飛び、そのまま倒れて動かなくなった。血の涙と血の反 吐 を顔中に噴 き出して、胸を大きく膨 らませ──痙 攣 を始める。
オーフェンは、右手首を抱 きかかえるようにしながら、ゆっくりとネイムのほうへと近寄っていった。死の教師は動こうともしていない。今も、攻撃を避けもしなかったが......
近寄って、オーフェンは自分の誤 解 を知った。彼はわざと攻撃を避けなかったのではない。
独り言に夢中になっていたのだ。
今もまだ続けている。かすれ声で。
「神はなにを選んでおられるのだ......わたしがここにいるというのに。分かっているのだ......やらなければならないこと」
オーフェンは無言で、ネイムの身体を見下ろした──腹部に、つまりオーフェンが打った場所に、自分でも信じられないほどの陥 没 がある。
だがネイムが、それに気づいていたかどうか。
「魔術があってはならない......世界を死なせない......ためには......それしか......」
ネイムの目の中には、もう焦 点 も残っていない。だがその顔を、漠 然 とこちらに向けたのにオーフェンは気づいていた。
「キリランシェロよ」
「......ああ」
オーフェンは、静かにうなずいた。ネイムは、にやりとすると、
「わたしは死ぬのか?」
「てめえは、半分どころじゃない寿 命 を献 上 していたんだ......神にだか、なんだか知らないが」
「そうか......ならば、いいことではないか」
答える言葉は、オーフェンにはなかった。
マジクの放 っている光は、いまだ続いている。その光の中に輝く砂が、すべてをひどく味気ないものにしているように、オーフェンには思えた。
「わたしを狂っていると言いましたね?」
ネイムは、楽しくて仕方がないといったように、にこにこしている。彼は視線で、こちらの右腕を示した。隠 している右腕を。
「だが、あなたの手......自分の手が折れるほどに力を込 めてわたしを打っても、魔術で治せるという計算なのでしょう......そのほうが、よほど狂っているとは思いませんか?」
「分かった。お前は......狂ってない」
オーフェンの返事に、彼はまたさらに笑みを広げた。
「そうだ。それで、満足です。とても満足だ。本当だ」
血だらけの歯を見せて、力ない笑いを──咳 払 いにしか聞こえなかったが──響かせる。
「どのみち、わたしはあなたを殺せなくともよかったのだ──どうせこの地下道から脱出することは、あなたにはできないのだから」
「......そいつに関しては、そうでもねえな」
答えるべきかそうしないでおくべきか──オーフェンは少なからず迷ったが、負 債 を抱 えたまま終わらせたくないという思いが勝った。ネイムをじっと見下ろして、自分の懐 から小さな瓶 を取り出す。
バーで、老人からもらったものである。彼はそれを、床にたたきつけた。割れた瓶の中に、紙切れが入っている。
オーフェンは、指でつまんでそれを取り上げた。広げてみて──嘆 息 する。
「やっぱりな。この地下道の、地図だ」
それを聞かされても、ネイムは表情を変えなかったが、それは単に表情を変えるだけの力が残っていなかったのかもしれない。
オーフェンは地図をポケットにしまいつつ、続けた。
「てめえは......嘘 が下 手 だったんだよ。爺 さんはあんたのことを気づいてたんだ。詐 欺 の
論理ってやつも、ばれりゃそこまでさ」
「あはははははは!」
響いた哄 笑 は──それまでにない力を示していた。虚 ろな目で大笑するネイムに、オーフェンはあくまで静かな眼 差 しを注 いでいたが、ネイムは身体を震 わせ、言葉を吐 き出してくる。呪 詛 のように。
「詐欺の論理とは、失礼ですな」
言葉の合間にも、彼の声にはひきつった笑いをはさんでいた。
「あれは説法ですよ。教師学校で習うものです」
くつくつと──声ではなく、首をそのように痙 攣 させて、続ける。
「彼はわたしの言葉を信じなかった。きっと破 滅 する。あなたもだ、キリランシェロ」
彼はそこまで言うと、こちらに向けていた首を、また真上に向けた。なにも映らない瞳 で、なにもない天 井 を見上げている。
「でなければ、公平ではないでしょう。あなたはわたしを──たのだから」
死の教師は繰 り返した。
「わたしを──たのだから」
「............」
オーフェンは、ただ黙 って聞いていた。いくつもの裂 傷 も打 撲 傷も、折れた右手首もなにも感じない。頭の中で渦 巻 くただひとつの痛みの予感に、彼は怯 えていた。
恐 れ戦 きながら──ただ見ているしかない。彼の言葉を彼は聞いていたのだから。
ネイム・オンリーの痙攣は、次第に速くなっていく。
涙も唾 も乾 いて、血の色の仮面をかぶったような死に顔は、もう動かない。ひきつった小さな動きだけが繰り返し続くだけ。
そして、その動きも止まる。
止まってしばし過ぎる。もう動かない。
マジクの魔術の光が、途 絶 えた。再びあたりが闇に包まれる。
オーフェンは、死の教師の最後の一言を思い出していた。
──たのだから。
殺したのだから。
彼は絶叫した。
◆◇◆◇◆
地鳴りはいつまでも続くかと思えた──実際にいつまでも続いたならば、果てしなく続いたそののちに、すべての命を奪 っていたろうが。
だが結局は、地下道の振 動 はしばらくして収まった。なんとか、生き埋 めになるのだけは免 れたらしい。あたりには八人の神官兵が倒れていた。無指向に放った光熱波によって、全員が昏 倒 している。
マジクはほっとして、息をついた。一 斉 に近寄ってきた相手を大魔術で一 掃 するというのは、一か八かの賭 ではあったが、なんとかうまくいったようだった。こちらの消 耗 も激 しかったが。
「うまくいったじゃないか......なあ?」
肩に乗ったレキの尻 尾 (子ドラゴンはあくまでクリーオウの顔を見ていた)に、彼は話しかけた。背負っているクリーオウをもう一度背中に乗せなおし、意識を集中させる。
「我は生む......小さき精 霊 !」
うまくいくはずだと思っていた──今なら、なんの失敗もするはずがない。実際、彼の構成した魔術は完 璧 な形で発動した。彼の頭上に、燦 然 と輝く鬼 火 が浮かび上がる。
「そうだよ。うまくいくんだよ」
マジクは明かりを見上げて、ほおを上気させた。
「ずっと、これが確かめたかったんだ......うまくやれるんだ。決心さえすれば。今まで、それをしなかっただけじゃないか」
ずるずるとクリーオウの足を引きずって(身長差があるのだから仕方ない)、歩き出す。明かりを頼 りに、彼は師の姿を探した。ずっと遠く──かなり離 れた場所に、座 り込んでいるのが見える。
マジクは当然、そっちに足を向けた。倒れている神官兵を避 けながら。
彼は興 奮 して、独り言を続けた。
「うまくいかなくたって、なんとかなるんだ。なっただろ? 囲まれて、ピンチだったのに。クリーオウだって治せるかもしれないぞ。失敗したら怖 いからやらないけど」
と、つぶやいて──自分の自信に水を差したかな、と訝 る。
だが、すぐに忘れることにした。自分は八人の敵を倒した。オーフェンはひとりしか倒していない──遠目に、師のそばに誰かひとりだけ倒れているのが見える。
彼は思いついて、声に出した。
「ぼくのほうがよくやったってことだ」
ならばせめて、クリーオウの治 療 くらいは譲 ってやったほうがいい。そう思うからやらないんだ。実はそう思ってたんだ。そう決めた。うん。
......ラニオットの姿がないようだったが、まあどこかにいるだろう。
「ぼくはよくやってるじゃないか......」
マジクはひとりで、うんうんとうなずいた。
「お師様がぼくを認めないのは、おかしいんだ。だから──おいレキ、聞いてるのか?」
名前を呼ばれてきょとんと、レキが耳を立てたようだった。どうやら、今まで自分に話しかけられていたのだとは気づいていなかったらしい。
ちぇ、と舌打ちし、続ける。
「聞いてないのは困るな。だいたい、前からヘンだと思ってたんだ。お師様はぼくのこと見くびってるんだ。この前怒られた時、本気で考えたのさ。認めてくれないのはヘンなんだ。だからぼくは......怒ることにしたんだ。怒って黙ってても、誰も気づいてくれなくてちょっと寂 しかったけど」
しゃべるごとに力が湧 いてくるような気がして、マジクはほとんど息も継 がずにしゃべり続けた。まだ、数百メートルかクリーオウを背負って歩かなければならないのだが、それもかえって、今の自分にはちょどいいくらいだと思える。
「そう......怒ることにしたんだ。ぼくはよくやってる。なのに、どうしてお師様はぼくを認めないんだってさ。お前もそう思うだろ? きっとみんなそう思ってたんだ」
レキはまったく聞いてもおらず、ただクリーオウの顔をなめている。だがマジクは気にしなかった。ただ元気に──空元気も混ぜて──歩くだけ。まぶしい明かりに先導されて。
その先には、彼の師が、床に力なく座り込んでいる──
オーフェンが虚 ろな眼 差 しで意識を失っていることに気づくには、彼はまだあと何十歩かは歩かなければならない。気づくまでは、彼はしゃべり続ける。
◆◇◆◇◆
彼女の絶叫には涙すら込められていた。それに気づき──彼は、顔をしかめた。
「あなたこそ、我らの窮 状 を分かってらっしゃらない!」
短剣をひと振りし、憎 々 しげに言葉を連ねる。
「なにが数十年後か! 我々には明日すらないのに!」
「違う! 汝 らは死なぬのだ!」
沈 黙 が壁 のように、ふたりを隔 てた。
しばし言葉を忘れ、彼は、震える手で短剣を握 りなおした。彼女は真っ直ぐに立ちつくしている。
「......汝らは死なぬのだ」
涙をたたえた緑色の双 眸 は、凍 った宝石のように光を閉じ込める。
「我が守る。守ってみせる」
彼女の瞳 を見つめながら──そしてその言葉に胸を突き通されながら、彼はしかし動じなかった。苦笑して、うめく。
「あなた自身が、わたしの同 胞 を殺したのではないですか。聖域の手先となって」
「我が死ねば、それこそ汝らを守るものがなくなる」
イスターシバは動き少なにかぶりを振って、そして──弱々しい眼差しを、彼の携 える刃 へと触 れさせた。彼女がこの短剣を正視したのがこれが初めてであることに、彼は気づいていた。
「......わたしたちには、分からないのです」
ふと我に返れば──彼の声 音 からは力が失われていた。
「なにが起こっているのですか......なぜ我々が憎 まれねばならないのです? それに、どうして──我々は、あなたを失わなければならないのですか」
彼は、顔を伏せて絶叫した。
「すべてうまくいっていたのに! 世界は平 穏 だったのに! 誰 もなにもしなければ、誰も死なずにすんだのに! なのになぜ! こんなことに!」
肩を震 わせて、彼は繰 り返した。
「......なぜ、こんなことに......」
「汝らはなにも知らぬ。我らが危 惧 するのは、まさしくそれだ。我はそれを解消すべく、数々の布 石 を打った......」
彼女の声には震えもよどみもなくなっていた。その声から、疲 れが消えたというわけではない──彼女の疲 労 に終わりがないことは、彼にはよく分かっていた。信念が、あるいは確信が、彼女に力を与えている。
イスターシバは同じ言葉を繰り返した。
「汝らはなにも知らぬ。今も我らを追っている神々の影 を知らぬ。蛇 の中庭に起きた破 滅 を知らぬ。我らの始祖が手を出したものが、なにをもたらしたか知らぬ。そのすべてを、我の口から語ることはできた」
と、彼女の言葉は苦 渋 の混じったものに化けた。
「......それをできなかった──しなかったことは、我が卑 怯 だったのかもしれぬ。だができなかった。我は胸を張って告げよう。不可能だったわけではない。ただ、できなかったのだ」
一度だけ、彼女の声が震える。一度だけだが。
「世界には──この我らのアイルマンカー結界には──」
イスターシバの声の不自然さに──
彼は、顔を上げた。そして......信じられないものを、彼は見た。
彼女はすぐ眼前にいた。それこそ鼻先が触 れるほどに。だが決して触れないように。
これほど近しく彼女を見つめたことは──彼には皆 無 だった。涼 しく静かで、そして雄 弁 な彼女の瞳が、彼の瞳と合わせ鏡に無限の鏡面を映している。
彼女はただ一言だけ、答えを告げた。
「我らのこのキエサルヒマ大陸には、既 に滅 びの鍵 が差し込まれているのだ」
夜の中に、彼女は立っていた。
外は雨。雨音が途 絶 えることなく続いている。彼女のいる部屋の中にも、水の臭 いが充 満 している。壁と屋根とに隙 間 があるのだ。
彼女を取り巻く夜は、静 寂 の闇 ──そして影 の中に沈んだ部屋。光も風も星もなく、夜気に涼 むわけでもなく、夜の芳 香 だけがそこにある。
(刃 を携 えて闇を見つめるだけの、夜......)
アザリーは独 りごちて、手の中にある武器を確かめた。あり合わせという感のある、簡素な革 の鞘 に納められた、ひと振りの大剣。柄 にも意 匠 が凝 らしてあり、月と獣 のレリーフが滑 らかに闇に溶 け込んでいる。
月の紋章 の剣。皮肉な話だが、二百年前に、天人 が人間種族の魔術士を滅ぼすために造った武器のひとつだ。
久しぶりに袖 を通した戦闘服は、身体によく馴 染 んでいた。しばし別れていたことなど気にならない親友のように。剣は長いので腰に下げることはできず、鞘をひもでくくって持っていくことになる。ほかに武器はない。彼女が発見した天人の遺 跡 には、まだまだ使えそうな武器もいくらかあったが、結局のところ役に立つのは自分の魔術だけだと、彼女は確信していた──他人の、つまり天人の魔術に頼 ろうとして手痛い目にあった苦い経験が、彼女にはある。
(そのおかげで無 駄 にしてしまった五年間を、取りもどさないとね)
ふふ、と口元に笑みが漏 れる。
(お互 いにね、そうでしょう? キリランシェロ......)
暗い部屋の中で、彼女はなんとなしにあたりを見回した。部屋の隅 に、地 人 の兄弟が転がって寝ている。当分目を覚ますことはないだろうが──眠りの魔術が効 いている限りは。
ふと思いついて、また別のものを探す。目的のものを発見して、彼女はため息をついた。大 股 でゆっくりと──ベッドに歩いていく。
簡 易 寝台の上に無 造 作 に、世界の秘密を記した書が置かれていた。
世界書──
(先生も、これを読んだ......五年前に)
アザリーは腰をかがめると、黒い革の表紙にそっと手を触 れた。
(十年前に、この街 に潜 入 して──それからこの本を探したのですか? なんのためだったんです? 先生......)
まぶたを半 ば閉じ、自分の師の顔を思い浮かべる。師であったし、最も近 しい友人でもあったと思っている──さらには、この手で殺した人物でも。
と、チャイルドマン教師の顔に代わって、また別の顔が浮かんできた。チャイルドマン教師よりも若い──というか幼 い印象の。あどけなさがどこかに残った少年。彼女の弟の顔。
(キリランシェロ......それに、ティッシ──教室のみんな)
アザリーは、本をつかんで立ち上がった。
(そもそも先生は、なんのためにわたしたちを育てたんですか?──《牙 の塔 》の長老たちに請 われたからではないでしょう。なんのため──なんのためだったんです?)
そして、ちくりとした胸の痛みとともに付け加える。
(キリランシェロに、わたしを殺すための訓練なんかしたのは、なんのためだったんですか......)
胸中の幻 影 は、無論なにも答えてなどくれない。答えを求めるように、彼女は順々に視線を移した。剣は、なにも答えない。
書には、半分しか意味の取れない神話と戦記が書き連ねてあっただけだった。
転がった地人たちは、いびきをかいているだけである。
夜の闇は、饒 舌 に答えてくるようならば、夜の価値がなかろう。
そして──
自分自身の顔は自分には見えない。自分自身の声は自分には聞こえない。
誰もなにも答えてはくれない。そのことは、もう分かっていたことだった。
「自分で確かめなければならない。わたし自身が──力と命のすべてを賭 けてでも」
彼女は口に出してつぶやくと、手に取った世界書を一 瞥 した。
問題は、どこへなにを発見しに出向き、なにを見いだすことができるかだ。少なくとも、書はその役を負ってくれない。
闇の中にひとり、アザリーは独りごちた。キムラック教会の教義を。
(伝説がある......三人の女神の神話。過去 と、現在 と未来 の、運命の三女神 。三者は同じ女神なのに、互いが出会うことは決してない......過去は現在と未来の存在を知らないし、未来は断絶されている。現在だけが、過去を知り、未来を信じているけれど、なにもできずに檻 の中に閉じ込められている──)
「閉じ込められてなんていない」
アザリーは低くつぶやくと、ばさりと本を床に投げ出した。小さく手首をひねり──鋭い口調でささやく。
「現在 は、常に未来 に出会おうと歩き続けている!」
きゅぼっ!──
彼女のささやきと同時に、世界書は炎 に包まれた。真っ白な火球の中で激しくページを羽ばたかせ......悲鳴もあげずに灰と化す。
外は雨。雨音が途絶えることなく続いている。
灰色と黒のその灰は、炎のせいで巻き上げられた黄 塵 に混ざって、複雑な色になっていた。灰の中で渦 巻 く死の灰は、なにも主張はしない。だが決して渦巻くことをやめない。生と死の螺 旋 模様のように。
その螺旋模様の中で、彼女は覚悟を決めた。闇に向かって告げる。
「今夜──ユグドラシル神殿。キムラック教会の中 枢 に。間に合わなかったわね、キリランシェロ......」
「......あれ? なんでぼく、こんなところに......」
「なぜもなにもなかろう」
「あ。作者までいる。てことは......」
「その通り。巻末というやつだが」
「ていうと、ここに登場したら、もう二度と本編には復帰できないという、恐怖のトレーダー分 岐 点 ?」
「そんな古いネタ、読者には絶対分からないだろうが、まあそうだ」
「じ、じゃあ、なんでぼくがここにいるの!? キャラ人気投票をすれば二位は確実と言われているぼくなのに!? 」
「まあ、落ち着けマジク」
「落ち着けるかぁぁぁ!? なんで!? なぜにどーしてぼくがここにっ!? これはなにかの間違い......はっ⁉ もしや、実はここは月刊ドラゴンマガジンの読者投稿ページでは? だとしたらぼくが巻末にいてもおかしくない......けど、しまった! 女 装 セットは先日クリーニングに出したばっかりで手元にないんだ!」
「くやしがってどーする。言っておくが、ここはきっぱりと文庫書き下ろし長編のあとがきだからな」
「ああ(泣き崩 れる)......じゃあ結局ぼくは、こんなところで終わるのか。この前買ったBEARのダウンジャケットが似合わないって友人の間でひどく不評な、こんな作者といっしょに。しくしく」
「うるさいな。当人はかなり気に入ってるからいいんだ。お前こそ、フルネーム呼ぶと台所用洗剤になるくせに」
「登 録 商 標 なので載 せられません(嘘 です)。さめざめ」
「まあ落ち着けって。時にお前、いま何歳だ?」
「え?......あれ? 十七歳のような気がする。しかもひとり旅をしてるよーな......」
「そゆことだ。ボツキャラ墓場第二弾。オーフェン3YA設定から、マジク十七歳バージョンです」
「3YA設定?」
「三年後 の設定。こーゆうところ、俺って結構、設 定 魔 だよな。実は月刊ドラゴンマガジンに連 載 するという話が出るよりかなり前に、習作として書いた短編があるんだけど、なんとそれでは、こいつが主人公だったんですねー。しかも十七歳」
「てことは、シリーズ終了後の設定?」
「そゆことだ。舞台はキエサルヒマ大陸じゃないな。しかもオーフェンは既 に結婚していて、ずっと辺境の開拓村にいる。お前はそこを訪 ねるために旅をしている、と。大ざっぱに解説すると、こんな感じになる」
「なるほど」
「まあ、前の巻末に出てきたワニ娘、ラッツに関してもそうなんだけど、これらはあくまで『ボツになった』設定だからね。このシリーズが実際に進行していくと、やがて絶対にこうなるとか、そういうことじゃないです。ラッツベイン嬢の母親についても考えてないし、そもそもあの主人公にああいう娘が生まれるのかどうかも決めてません」
「でも、そうなる可能性もあると」
「まあ、それまで否定はしないけどさ。ま、なんにしろ、あんまし心配しないでもオーケイですよ、札幌のKさん(笑)」
「ヴニャ〜」
「と、そんなところで話を本編のほうに移しますよん。実は前回の巻末で、現在進行中のキムラック編は全部で三冊、と書いたんですが......もう一冊分、延びる予定です」
「てことは......この本の後に、あと二冊続くわけ?」
「そーです。なにぶんにも、話が全然進まなくって。ホントはもう、この巻で◯○◯が×××なくちゃならなかったのになぁ。ついでに△▲△▲を見て、おお、とか、ああ、とか◯○◯が驚 いたりしてないと」
「...全っ然分かりませんが」
「分かられても困る」
「そりゃそーですが」
「うむ。納得したところで、このボツキャラ証明書をやろう。うりうり」
「くっ......(今に見てろ作者)」
「では、今回はこんなところで」
「さようならです!」
一九九六年の最終月──
秋 田 禎 信











すべては半 ば予 想 していたことだった。理由などはない──肌 を包む空気の質。風の音。いずこからか忍 び寄ってくる湿気も感じてはいた。だがそれが理由ではない。
単に分かっていたのだ。彼は胸中で、意味もなく確認した。古くからの約束事のように、分かっていたのだった。
実際それは、古くからの約束事ではあった──彼にとって一 瞬 だったとしても。
彼は目を閉じていた。彼女の魔 術 が彼を包んでから、ずっと。視界を閉 ざし、さりとて耳を澄 ますわけでもなく、ただ意識だけを鋭 く尖 らせていた。夜の感 覚 を、静かに練 っていく。
いまだ五感が馴 染 んでいない。その事実もあって、彼は慎 重 になっていた。ゆっくりと──力を込 めて、指の形を歪 めていく。数秒を要して拳 を作り、彼はまたそれを、さらに倍する時間をかけて開いていった。指は動く。夜の寒 気 に少しかじかんでいる、その感 触 にすら新 鮮 さを覚える。
彼は目を開いた。
光は少なかった。彼の頭上で、巨 大 な木々が枝 葉 の天 蓋 を作っている。月はどこにも見えない。どこにもないのかもしれない。彼は苦笑した──あり得ることだ。世界は変わるはずだ。彼の知っている世界と、今、ここに彼が立っているこの世界。なにが同じで、なにが変わったのか。
知ってはいた。というより、聞かされてはいた。彼女の言葉ならば、一語一句違 わずに思い出すことができる。なにもかも──そう。生まれてから彼女に聞かされたすべての言葉をも思い起こすことができるのではないか。そうすべく仕 組 まれた彼女の魔術は極 めて強大で──そして、それに答えるべく彼の思いは、さらに強い。
強いはずだ。
彼は、自分に対して繰 り返した。答えを言葉にする必要はない。ただ彼は、悠 然 と背 筋 を伸 ばした。
「つまり──」
答えとは関係のないことを独 りごちる。
「......ここが......そうなのか?」
自分の声に、つぶやきに、彼は眼 差 しを鋭 くした。
「世界は......滅 びていない」
果たして、そうなのだろうか? 疑 念 が浮 かぶ。
彼は胸の中に深く呼 気 を流し込むと、それを吐 き出した。冷たい夜 気 が心 地 いい。彼は再び息を吸った。今度は、たいして深くはなく。
澄 んだ空気が、これ以上ないほどに肺 を満足させた。思わず、にやりとする。そうだ。賭 けてもいい──この空気までもが滅びた世界のものだというのであれば。いいだろう、滅 亡 を甘 受 しても構うまい。
だが、そうではないという自信を彼は抱 きつつあった。
開いた右手のひらを、上向かせる。闇 の中に、白い手のひらだけが浮き上がって見えた。その手のひらを──とても自分のものとは思えないその手を見 据 えて、彼は溜 めていた息を吐き出した。
呪 文 とともに。
「光よ」
彼の手首と指先、その二点を使って三角形を作る残りの一点に、音もなく輝 きが灯 る。炎 ではない。まったく揺 れていない。一瞬の閃 光 を、時間を停 止 させて固定したような、そんな輝きである。色もついていない白い光。魔術の灯 り。
光は発生と同時、なにか反動でもあるかのように、わずかに上方へ跳 ねた。そしてそのまま、ふわりと動きを止める。
照 らし出された周囲を、彼は見回した。森の中。それ以上のことは分からない。どこかの高地のようではあるが──木々に邪 魔 されて星が見えないせいで、位置が特定できない。彼はため息をついて、視線を下ろした。白い輝きに照らされ、木々の皮まで白い。白い土。白い下草。木の幹 を覆 う苔 も白い。
白い手のひら。
彼は苦笑した。恐 らくは、その笑 みすらも白いのだろう──彼自身には見えないが。
もっとも、彼の身に着けている黒いローブは、彼自身の造りだした魔術の灯りに染 まってはいなかった。相変わらず黒い。これはデザインした者に言わせれば、一 切 の迷 いを許 さない色なのだという。確かに、彼の周りに開けたこの世界の中で、唯 一 自らの色を保っている。
(さて、どうだか......?)
皮 肉 混じりに、彼は考えていた。色を保つということと、色を変えないということ。似ていることは認めなければならない。だが違 う。
「違う。まあ、どうということもないが」
彼は灯りを消した。先よりも深くなった闇が、なにもかもを閉 ざす。
夜の中に彼の瞳 だけが輝いている。その輝きが彼にも感じられる。彼は手 探 りで、懐 から銀色のものを取り出した。抜 き身の短剣。銀色の刃。手に馴 染 んだ柄 の感 触 。
恐らくは、これだけが変わらないものなのかもしれない。
彼は歩きはじめた。足音はない。そして彼の胸の中には──
与 えられた、ただひとつの命 題 がある。
静かに──
淡 い光が聖 堂 を、暖 かい空気で満たしている。
クオ・ヴァディス・パテルは足音を立てずに、その光の中へと進んでいった。ぼんやりと、どこかくすぐったい、波打つような橙 色 の光。光は丸く放 射 状 に伸 びている。誰 が足を踏 み入れることを拒 むでもない。柔 らかく、暖かい光。
聖堂は、この神 殿 の中央にある大聖堂とは違 い、もっとプライベートな意味合いのものである──もっとも、教会の最高位者たる済 世 者 、教 主 ラモニロックに、私 などというものがあればの話ではあるが......
結局のところこの聖堂における「私」の部分はふたつだけ──まずは、その広さだろう。
(......聖堂とはよく言ったものだ)
表情には出さずに──というより、彼の顔からなにか感情のようなものが出るなどということはあり得ないのだが──、彼は独 りごちていた。
この聖堂は豪 奢 な造りだが、なにもない。運び込まれた家具はどれもすべて最高のものだ──王都から、王家の下 賜 品 として寄 贈 されたものも多い。ただし、そのいずれにも、人が生活している臭 いのようなものが残っていない。教主の私室として使われているはずではあるのだが。個人用の部屋なので、広さはあまりない。だがそれにもかかわらず、室内の光 源 が弱いせいで、部屋は完全には照 らされていなかった。
聖堂は常に光に包まれている。その光に触 れることができる人間は、極 めて限られていた。それに関して言えば──あの忌 々 しい最 終 拝 謁 よりも厳 しく限られている。
光の正体はといえば、明かしてしまえばなんということはない。蠟 燭 の明かりだった。聖堂は、その奥 を一枚の薄 紙 で遮 られており──蠟燭はすべて紙の向こう側から、こちらを照らしている。紙は淡く泡 立 てるようにぼんやりと光を通し、そしてひとつの影 を映している。
薄紙の向こうに座 す、ひとりの聖 者 を。
キムラック教会最高位者、教主ラモニロック。
教主その人は、まったく動いていないはずだが、その影は蠟燭の炎 とともに揺 れ──大きくなり小さくなり、一 時 も静止していない。そのため影だけでは、その姿を想像することもできそうにない。
のみならず、実際に教主の姿を見た者もいないはずだった。
そう。いない......
「クオ教師様」
呼びかけられて彼は、視線だけを横に向けた──できれば見たくはなかったというのが本音だったが。
「......アナスタシアか。なぜわたしだと分かった?」
聖堂の隅 に、じっと立っているその女は、澄 んだ声ですぐに答えてきた。
「足音で、あなたではないかと」
目を閉じた顔を、どこへというわけでもなく、だいたい部屋の真ん中のほうへと向けている。まだ若かったように記 憶 していたが──粗 末 な使用人の格 好 をしているせいで、ひどく老 けて見える。髪 もぼさぼさで、そちらは少女というかさらに下、幼児じみた風 貌 を彼女に加味していた。もとは黒かったその髪は、灰 色 っぽくくすんでいる。
髪に半 ば隠 れるような目元は、鈍 い傷 跡 のようなものがのぞいている。左の目 尻 から眉 間 を通り、そしてもう一方のまぶたへと。両方の眼 球 をえぐった傷 跡 。
(もう見 慣 れても良さそうなものだが......)
彼は、静かに毒 づいた。自分がつけてやった傷を、そういった少女の顔に見るのは、あまりいい気分ではない。
彼女──アナスタシアは、静かに、まるで子供にでも語るように言ってきた。
「祝 福 を与 えてくださった教師様のことは、親のように分かるのです」
「......そうか」
クオは、言葉少なにそれだけ答えると、彼女から視線を外した。こちらが見えていないのならば気分を害すこともあるまいと、自分に言い聞かせる。
「教主様のお言葉を賜 れるか?」
聞きながら彼は、薄紙に映る影を見つめた。影は動いている。だが影の向こうの当人はどうだか分からない。
「教主様は」
アナスタシアは言いかけて、うやうやしく両手を組み合わせて聖 印 を作ると、礼をしてから続けた。
「三日前からどなたにも、なにもお言葉をくだされておりません」
「そうか」

短い答えを再び口にして、クオはきびすを返しかけた。本来ならば、長々しい聖言でも述べていくところだが、やらなかったからどうだというものでもない──少なくとも、部下が見ている前でさえなければ。
と、入り口に向かいかけた時、彼の巨 体 を包んでいる鎧 や剣 帯 が、がしゃりと音を立てた。普 段 はこのようなことはない。特に今、彼が身に着けている深 紅 の甲 冑 は特別なものだった。防 具 としてはどう見ても不完全な代 物 ではある──胸と背中だけを覆 い、腹部や肩 、首筋を守る部品がまったくない。背中からは鳥の翼 のように、衝 立 の形をした装 甲 が二枚飛び出していたが、飾 りにしてはあまりにも不 格 好 で、そして大きすぎる。
剣は二本下げている。剣帯にぶら下げられているのは豪 華 な鞘 に収められた長剣──そして後ろ腰 に、剣帯ではなくズボンのベルトに、三十センチほどの長さの剣が下げられていた。漆 黒 の柄 に、漆黒の鞘。意 匠 に凝 ったところはないが、材質がそこいらの鋼 と同等のものでないことはすぐに分かる。
これらのものが音を立てることは、ほとんどなかった。鎧は部品が少ない分、ほとんどすべてが一 枚 板 である。二本の剣も互 いがぶつからないように慎 重 に身に着けていた。だが、急いで聖堂を退出しようとして、あわててしまったらしい。
そして──
「武 装 しているのか......クオ」
寝 ぼけているような男の声を耳にして、クオは、素 早 く向き直った──聖堂の奥 へと。
今度は音が鳴る鳴らないの問題ではなかった。その場にひざを着いて聖印を作ると、定められた聖言を唱 えはじめる。
「我 ら、原初 の血の聖なるかな──」
「いや。構わぬ。クオよ。武装しているのか?」
長い音節をいくつにも分けるように小さく息 継 ぎしながら──教主の声は囁 かれていた。クオは、ちらりと横目でアナスタシアが床 に伏 せて最敬礼しているのを見てから、ごくゆっくりと顔を上げた......
「はい」
はっきりと答える。いかなる場合であれ、言いよどむことは──神官としては決して許 されない。
「なぜ」
教主の声は、若くもあり、老 獪 でもあり、意味を聞き取れるぎりぎりの抑 揚 しか含 んでいない。言葉を覚えたての子供のようなたどたどしさだった。
クオはわずかに顔を伏せると、
「......侵 入 者 が。〝外 輪 〟にて部下が捕 捉 したようですが、突 破 されたなら、必ず この聖舎にやってくるものと思われます」
「また魔 術 士 か......」
「はい」
「王都の手の者か?」
「確認中です。が、恐 らくは違 うかと」
もし《十三使徒》ならば──
絶対に勝てませんが、と胸中で付け加える。
と、教主はそれまでとまったく変わらない口 調 で、全然別のことを言ってきた。
「剣が折れた。さきほど......分かったのだが」
「............⁉ 」
さっと眉 をひきつらせて、クオは思わず上体までも起こしていた。剣と言えば──彼らにとって剣は、ひとつの意味しか持たない。
クオ自身も剣帯に下げている──死の教師の象 徴 、ガラスの剣。
教主は淡 々 と続けている。
「〝ネットワーク〟......が探知した、ガラスの剣が折られた。地下でだ」
「ネイムです。ネイム・オンリー。突破されました」
答えを待っている暇 はなかった。クオは立ち上がると、角 張 った指を丸めて拳 を作った。
だが、教主の声に変化はない。乾 いた口調で聞いてくる。
「地下......ということは、狙 いは《詩 聖 の間》か......?」
「恐らくは、そうかと」
「今 宵 の警備は?」
「カーロッタはおりません。わたしのみでやります」
「そうか。許可しよう」
許可もなにもないものだが、クオは反論しなかった。無論、まさか教主その人が「頼 んだぞ」などとのたまうはずもないし、それにも増してもちろん、クオもそのようなことを望んでいるわけではない。
だが、それでも──つぶやいてしまう。
「......せめて、オレイルがおりますれば」
「駄 目 だ」
返ってきた声には、躊 躇 もなにもなかった。
「奴 はこの教主の顔を見た。いずれ殺せ。分かったなクオよ」
「はい」
クオはうなずくと、聖堂を出ようとした。が──
「そういえば──」
教主の言葉は、それで終わりではなかった。
「お前は以前、この教主の顔を見た男をひとり取り逃 がしている。お前はカーロッタに殺されろ。分かったなクオよ」
「......はい」
再び、即 座 にうなずく。言いよどむことは許されない。
クオは足を止めずに、もう出口に差し掛 かっていた。というところで、また教主が声をかけてくる。
「クオよ」
「はい」
クオ・ヴァディス・パテルは立ち止まった。聖者を肩 越 しに見ることなど許されないため、完全に振 り返って簡 易 的な礼を取る。
薄 紙 の向こう側にいる、影 だけの聖者は、厳 かに告げてきた──
「我ら、原初 の血の聖なるかな」
聖言。クオは落ち着いて返答した。
「聖なるかな」
教主はそのまま続けてくる。
「生誕の美しきかな」
「美しきかな」
「運命の正しきかな」
「正しきかな」
最後に教主は、一 拍 置いた。意味はないだろう。単に、話しすぎて疲 れただけか。
クオには苦痛だったが。
「死の聖なるかな」
「聖なるかな」
最後の答えを返してから、クオは聖印を切った。そして、いまだ床 にはいつくばっている少女の姿を一 瞥 する──
少女は最敬礼したまま、手できつく両耳をふさいでいた。この聖堂にて唯 一 、聖者と直接に接 触 することを許されているこの者は、見てはならないものを見ることは許されず、聞かねばならないことは聞き逃 してはならず、聞いてはならないものは、決して聞いてはならない。
(誰でもそうだがな......)
そんなことをつぶやきながら、クオは、聖印を解いた。今は真夜中。明日の夜明けをとてつもなく遠く感じる。
◆◇◆◇◆
痛みを感じた時には、どうするだろう?
どうということのない疑問だった。叫 ぶか、泣くか。怒 るかもしれない。本当にどうしようもない痛みであったなら?──彼は静かに結論を出した。静かに、そして速 やかに。
微 笑 むのだ。力なく。
口の端 を歪 ませて、眉 を傾 け、息を吐 き出す。それは間 違 いなく笑 みだった。つまずけばすぐさま泣き顔に変わりそうなほど弱々しく、彼は微笑んだ。声はない。声を出せば、それは確実に泣き声になる。それは分かっていた。
「お師 ......様 ......?」
背後から聞こえてきた不安げな声に、彼は、ぴくりと頭を動かした。ゆっくりと顔を上げ、さらに緩 慢 な動作で肩 越 しに振 り返る。そこには見覚えのある少年が立っていた。
いつの間にか、灯 火 があたりを照 らしていたことに、彼は気づいていなかった──今初めて、その少年の傍 らに浮 かんでいる魔 術 の鬼 火 を発見する。真っ白い炎 はゆらゆらと、彼とその少年、そしてほかのすべてを照らしていた。
彼。
自分を見下ろしたわけではない。だが彼はなんとなく胸の中に、自分自身の姿を思い浮かべていた。変わらないのは髪 の色、瞳 の色──黒。艶 のない、静 寂 の黒色。赤いバンダナ以外、身に着けているのはもともとの彼の服ではなかった。着慣れていない麻 の上下。白い生 地 は、さんざんかぶった泥 水 のせいで黄土色に汚 れていた。
少年。
少年も、似たようなものである。黒いシャツの上に、それを隠 すように白いマントを羽 織 っている。どこか頼 りなげな眼 差 しは、拍 子 抜 けしたような間の抜けた様 子 で、こちらを見ている。
ほかのすべて。
そう、ほかのすべてだ。
彼はそれらを順々に観 察 していった。少年の造りだしたものであろう、魔術の鬼火──小さく揺 れている。波 動 のように放 射 しているその明かりも、同じ形で揺れていた。明かりがすべてを照らし出している。明かりがなければすべては闇 に沈 む。
彼らがいるのは巨 大 な地下道だった。その由 来 は、詳 しくは分からない。が、どこか見覚えのある光景にも、彼には思えた。限りなく広大なこの通路──あちこちに礎 石 だけは見える柱が、ほとんどすべて倒 壊 しているというのに、通路そのものは崩 れていないというのは、明らかに不自然ではある。だが実際通路は崩れていない。空 漠 とした闇をすっぽりと囲んで、虚 ろに笑っているように見える。どこまでも広がっていく闇に、うっすらと色をつけるように、黄色の砂が舞 っている。
地上は雨──ということで、この地下は特に空気が湿 っているようだった。喉 の奥 に痛みを感じる。力の限り絶 叫 した、彼の喉。
まぶたにも痛みを覚えている。泣きたくとも涙 が出なかった、彼の目。
そのほかにも、外傷の痛みであればいくらでも、身体 に浸 透 していた。数本の裂 傷 は、刃 で引き裂 かれたものだ。かたまりかけた血がべったりと、彼の身体を湿らせている。背中と肩 に打 撲 。脳 震 盪 も起こしているかもしれない──そして、折れた右腕。右手首が完全に動かない。骨折してはいないだろうが、確実にひびは入っている。戦った、彼の身体。
弱い。弱い身体だ。
唐 突 に彼は意識した。そう。弱い身体だ。傷つきすぎる。
自分の身体ではないかのような冷 淡 な目で、彼は自らを見下ろしていた。そして当然、ほかのすべても。少年が背負っている金 髪 の少女──頭から血を流して意識を失っている。少年の肩に、こちらに尻 尾 を向けて乗っている黒い子犬。いや、黒い毛並みを持った、強大なるディープ・ドラゴン種族の子供である。
(そうだ。弱すぎる......)
観察しながらも、彼の瞳 はその少年も、少女も、ドラゴンも、なにも見ていなかった。彼が真実見つめていたのは、ただ自分自身の傷ついた身体だけだった。そして──そして、傷ついた、もうひとりの男の身体。
傷つきすぎて、もう動かない男の身体。
その男は、彼のすぐ近くにゴミのように転がっていた。顔といわず首といわず血をこびりつかせて、まぶたを開けたまま、もう動かない。
男は死んでいる。
彼は──つまりオーフェンは──痛む身体を見えない手で引き起こすように、その場に立ち上がった。静かな地下道に、どうしても消えない音が耳に残っている。ただ注意を引くことだけが目的のような、甲 高 い耳 鳴 りの音。
オーフェンは息をついた。少年が、おずおずと繰 り返してくる。
「お師 様 ......?」
不安そうな眼 差 し。少年の碧 眼 が歪 んで見える。
「この人......」
彼は少女を背負ったまま、転がっている死体を指さした。いや──指先は、微 妙 に死体を外れて関係のない床 を指している。死体を指させるほどには、この少年の心も強くないのかもしれない。
(みんな、弱い......)
オーフェンは死体を見下ろした。改めて視線を動かす必要などなかった。どこを向いていようとも──彼の視線の焦 点 は、その死体にあった。破 裂 した眼球から血をこぼしている、愉 悦 にも似た満足の笑 みを浮 かべて事 切 れた、その男。
キムラック教会総本山──つまりこの地下道の上にある神聖都市キムラックを守 護 する、死の教師の死体である。
「死んでる」
オーフェンはぼそりとつぶやいた。喉 がずきりと痛む──先ほど絶 叫 した際、かなり痛めたらしい。胆 汁 の臭 いに混じって血の味が、口の中に広がっていた。
「死......?」
不 思 議 そうにその単語を繰 り返す、少年──オーフェンは、うっすらと笑った。いや、相手にとっては泣き顔に見えたかもしれないが。
「死んだ。殺した。こいつは襲 いかかってきた。俺 は......殺すしかなかった。ほかに方法が──」
一息でそこまで言って、肺の中の空気を使い切り、オーフェンは言葉を切った。そして......
かぶりを振 る。
「いや。あったさ。殺さなくたって......こいつはただの人間だった。魔 術 もなにもない、ただの。今までみたいに勝てた、はずだ......」
「お師様?」
三度目の呼びかけ。オーフェンは少年に向き直り、初めて、自分がこの少年に対して言葉を発していたことを自覚した。
(言い訳をしてた......のか。俺は)
人を殺したことの言い訳を。
彼はまた、かぶりを振った──今度は強く。
「俺はそんなに......弱くは......うっ!」
打 撲 傷 が、しびれるように痛みを増した。衝 撃 を食らったように筋肉が麻 痺 し、膝 がすとんと抜 けて床 に落ちる。うずくまるように頭を抱 えて──
「くそっ!」
「お師様⁉ 」
四度目だ。少年は、背負っている少女を重そうに引きずりつつ、駆 け寄 ってきたようだった。オーフェンは爪 を立てて床をかきむしりながら、倒 れた彼のわきに、少年がひざをつくのを横目で見ていた。弱い手が、自分の肩 に触 れる。
「どうしたんですか⁉ これ──すごいケガなんじゃありません?」
「触 る......な......」
身体 をわななかせ、胆汁の味を噛 みしめながら、オーフェンは声を絞 り出した。思い通りに動かない右腕を突 っ張らせると、なんとか上体を起き上がらせる。折れた手首にはもはや痛 覚 もない。吐 き出した息に吹 かれ、空気に浮 かぶ黄 塵 も乱れて散っていく。彼の目の前から──見捨てるように散っていく。
「俺が、殺し、たんだ。いいか──こいつは死の教師で、俺らをはめたんだ。罠 をしかけて襲 いかかってきた。俺は......いつものように、戦った、だけだ」
(言い訳だ──言い訳をするな!)
胸中の叫 びは無視して、さらに続ける。口の中に、胆汁とはまた違 った苦 みが広がっていった。
「くそったれが──考えてみりゃ、今までだって、こういうことになる可能性は、いつもあったんだ。俺は魔 術 士 だ! なのに......俺は、制 御 ができなかった......」
「制御?」
きょとんと、少年が聞き返してくる。
「魔術を失敗したんですか?」
オーフェンは──笑うしかなかった。
「違う」
またかぶりを振る。ただし今度は、今までで最も小さく。
「自分の制御ができなかったんだ」
「............」
少年には、なんのことだか分からなかったのかもしれない。なにも言ってはこなかった。が、それでもちらりと死体を見てから──死体を見るそのままの眼 差 しでこちらを見ると、弱々しい声を出してくる。
「よくは分からないですけど......でも、仕方なかったんでしょう? お師様も、ひどいケガしてますし......」
「仕方ない?」
聞き返す。
仕方ない。
繰 り返す。
「仕方......ない、か?」
オーフェンは、怯 えたように震 える声を吐 きだした。表情筋が痙 攣 するのが、自分でも分かる。
その表情を見られまいとして──というわけではないがオーフェンは少年から顔を背 け、物言わぬ死体へと視線をもどした。
「俺が自分を制御できなかったことが、仕方ないってのか?」
「そんな──つもりじゃあ......」
弱々しく、少年が言ってくる。
分かっていた。この少年がどういうつもりでそれを言ったのか、オーフェンにも分かっていた。つまりは、この少年は──
(理解して......ねえんだ)
頭痛が治まらない脳の中を、直接かき回してやりたくなるような衝 動 で、オーフェンは自分の髪 をかき混ぜた。汗と地下水とで、まだ濡 れている。粘 り気のある髪の毛が数本、指にからみついたまま引きちぎれた。その痛みも心 地 よい。終わらぬ苦痛の最中では、小さな痛みはかえって快 感 だった。肺が暴れ、息が苦しくなってくる。彼は頭をひっかくのはやめて、両手を胸に当てた。
「う・わ・あ・あ・あ──」
彼はひきつる口を無理やりに開いた。言葉といっしょに唾 液 がこぼれるのを感じる。あるいはそれは、ずっと噛 みしめていた唇 から滴 っている血だったかもしれないが。
叫 び声ではない──それほどの激 しさはない。それでも嗚 咽 ほど弱くはなく、途 切 れ途切れに彼は言葉を吐き出しはじめた。苦痛に叫びながら、その場にくずおれる──
「お師様!」
少年が、声をあげながらさらに身体を近寄らせてきた。とりあえず近くの床 に、背負ってきた少女をごろんと寝 かせて、
「大 丈 夫 ですか? でもあの──クリーオウも、なんか大変みたいなんですよ。気を失ってて、血を流してて。でもぼくじゃあ治せない......でしょう? レキも役立たずだし......お師様!」
少年の声は、耳にというより頭の中に響 いてくる。ことさらに甲 高 く、耳に入ったときは、なんのことはない、ただの少年の声でも──頭の中で無限に反 響 していく間に、どこまでもヒステリックに変調していった。
「うるさい......」
オーフェンはうめいて、少年の手を振 り払 った。
少年はやめない。さらに声をあららげてくる......
「お師様──!」
「うるせぇっ!」
再度振り払った手が──偶 然 ──、少年の横 面 を殴 打 した。
「............あ............」
こぼれた声に、意味が込められるほどの時間もなく──
だがゆっくりと、しりもちをつくように少年が倒 れる。
殴 られたほおを押 さえ、ほうけた表情を見せて、少年は為 す術 もなく転んでいった。石造りの床に、ぺたんと腰 を落としている彼と、数秒間、視線が合う。
殴った手は痛くもない。触 れた感 触 すら残っていなかった。
その手──左手を抱 くように引きもどし、オーフェンはつぶやくように声を出した。
「あ──わ、悪 い」
それを聞いて──いきなり──少年の顔色が変わる。
「なんなんですか、いったいっ!」
少年は叫 びながら、ぱっと飛び起きた。細い肩 をいからせて怒 鳴 り声を張り上げる。
「あ......いやあの、そのな」
口ごもってオーフェンは、とりあえず少年の激 昂 から身を守るように後ずさりした。が、少年は構わずに続けてくる。
「あ もいやあの もそのな もないですよっ! いきなりはぐれて、なにがなんだか分からないうちにそんな大ケガして! しかも心配して近寄ったら殴られるんじゃ、ぼくは片 っ端 から割が合ってないじゃないですかっ!」
大声で──その大声のせいで鉄 砲 水 が起き、はぐれる羽 目 になったということを覚えていないのか、少年は精 一 杯 の声量を惜 しみなく使っているようだった。さっきまで虚 を突 かれていた表情に、今は灯 が入っている。
「だいたいお師様、ぼくのことを半人前だ半人前だって言うんなら、ちゃんと守ってくれたっていいようなもんじゃないですか! それを結局、お師様がどっか行ってる間に、ぼくだってあの白い服着た連中に取り囲まれたりしてたんですからね!」
まくしたてて、少年はこちらを指さしてきた。
「この街 に入ってから、ずっとヘンなんですよお師様は! なんか自信がないみたいにふらふらしてて! いつもだったらもっと、どしんと構えて動くものを見る端 から全部なぎ倒 すくらいのことはするでしょう⁉ 」
「いや......今までだって、ンなことをした覚えはないが......」
気の抜 けた声でうめきながらオーフェンは、痛む右腕を丁 寧 にさすってみた。完全に手首をくじいているうえ、骨に異常を感じる。この程度なら、治せないこともないだろうが......
(治す?──なにを使ってだ?)
唐 突 に、わけの分からない疑問に心をとらわれ、オーフェンはきょとんとした。が、すぐに思い出す。
(魔 術 で、だ。決まってるだろうが。馬 鹿 馬 鹿 しい......)
すぐに思い出したつもりではあったが──そうでもなかったのかもしれない。かなり待たされたように焦 れた様 子 の少年の怒 声 が、彼を現実へと引きもどした。
「お師様っ!」

はっと、意識をもどす。
「な、なんだよ」
痛む頭に左手を添 えて、オーフェンは聞き返した。少年は、焦 りのほうが強くなったのか、単純な怒 りは引っ込めつつあるようだった。不安そうに眉 根 を寄せて、床 に寝 転 がしてある少女を指し示す。
少女は眠 っているように──ただ悪い夢でも見ているように、目を閉じてぐったりとしている。呼吸は深い。小 柄 な身体 は震 えている様子もないが、服が濡 れているせいもあり、かなり冷えている可能性はある。こめかみに、浅い傷。出血しているが、それ自体はどうということもない。
むしろ頭 蓋 骨 のこの部分を、傷が開くほど強打していることのほうが問題だった。
少年は顔の半分だけをこちらに向ける形で視線を上げ、言ってきた。
「クリーオウが......様子がおかしいんですよ。よく分からないですけど動かないんです」
「気絶してりゃ、そりゃ動かねえだろうさ」
オーフェンはぐったりと答えながら、少年と並んで、その少女のわきにかがみ込んだ。指先で、そっと彼女の金 髪 をどけて、傷口を見る。
やはり浅い。
「......俺のほうが、よっぽど重傷だろが」
彼はうめいて、嘆 息 した。
「でも、お師様とクリーオウじゃ、根本的な材質の強度が違 うでしょう」
引っかかるような引っかからないようなことを言ってくる少年に、オーフェンは妙 な表情を返した。
「そうとも思えんが。だいたいこいつは前から──」
と、少女を指さす。が。
うっかり右手で指さそうとして、あわてて引っ込める。麻 痺 していたはずの手首から、鈍 い痛みが伝わってきていた。
「大 丈 夫 ですか?」
心配そうに聞いてくる少年に、オーフェンはなんとかうなずいた。
「あ、ああ──ええと......」
ちかちかと瞬 く視界を、何度か、まばたきして矯 正 する。それでも痛みは退 かなかったが、我 慢 できないことはない。
大きく息をついて、そして──彼は、なにかを忘れていることに気づいた。
「......なんの話をしてたんだっけか?」
「............」
少年は、訝 しげにこちらを見て、
「本当に、大丈夫なんですか?」
「え? ああ......ただ気絶してるだけだよ。ほっときゃ起きるさ」
「いえ、そうじゃなくて、お師様も、なんか変ですよ」
変?
それを聞いて、ふっと......顔から、力が抜 ける。
少年は怪 訝 な表情はそのまま続けた。
「別に、どこがどうというわけじゃないんですけど......とにかく、クリーオウを治してあげてくださいよ。あ、ちゃんと乾 いたところに寝 かせてからのほうがいいですね。きっと文句言いますから」
「あ、ああ」
うなずく。そこで言葉が途 切 れた。
オーフェンは、自分が少年から目をそらそうとしているような錯 覚 を覚えつつ、少女を見下ろした。少女は意識のないまま目を閉じている。彼女の近くを、小さな黒い子犬のような生き物がうろうろと歩いていた。
簡 単 な傷だ。少なくとも傷そのものは。魔 術 で簡単に癒 せる。
オーフェンは、意識を集中し始めた。慣れたことだ。なんの心配もない。ほとんど意識せずに、イメージを魔術の構成として編 み上げる──
同時に彼の中に、周 りの空間に投 射 すべき構成と入れ違 いに、周囲の情報が入り込んでくる。干 渉 しようとしている対象物は、目の前の少女。近くには少年と、子犬のような生物。彼らのいる場所は、あまりにも広大な地下道。黄 塵 が舞 い、空気は湿 って、光 源 は白い鬼 火 のみ。
地上は雨。死体はひとつ。ずっと離 れたところに、昏 倒 しているらしい白服の兵士たち八人。死体はひとつ。彼が殺した死体がひとつ。
少年。
そういえば──この少年の名前はなんだ?
そして、この少女の名は?
(あれ......なんだ?)
彼は、ふと違 和 感 を覚えた。そして──
視界が歪 曲 し、そのまま彼は、昏倒した。
◆◇◆◇◆
なんの前 触 れもなく、ぱかと目を開けて、ドーチンは起き上がった。もう丸一日降り続いている雨の音が、静かに夜を彩 っている。
部屋の中は真っ暗だった。窓ガラスが、わずかに光 沢 を示している以外は、光らしい光がなにひとつない、暗 闇 。ボルカンのいびきが聞こえてきている──ということは、
(これは、兄さんの足なんだろうな)
彼の顔面を踏 みつぶしている足を適当に放 り投げ(いびきは止まらなかったが)、ドーチンは腰 を上げた。手 探 りで蠟 燭 を探し、その燭 台 に突 っ込んであるマッチを擦 る。ぼっ、と点 った丸い灯 を、ドーチンは蠟燭に移した。闇を圧するほどの大きさはなくとも、それでもありがたい明かりが、部屋の中を照 らす。黄塵に反射して、明かりは思いのほか大きくなっている。
マッチを振 って消しながら、彼は訝 った──
彼ら──つまり、ドーチンと、その兄であるボルカンは、床 に寝 ていた。ボルカンは今も部屋の真ん中で大の字になり、大いびきをかいている。彼ら『地 人 』が、いつも身に着けている毛皮のマントがあれば、おおむね寝 具 はいらない。ただこの部屋には、ひとつだけベッドがある。部屋と同じくたいして広くもなく、質 素 ではあっても上等ではない粗 末 な寝台。
その寝台が空っぽになっていた。
◆◇◆◇◆
銀の刃 の役割を、彼は別に忘れていたわけではなかった。彼女は彼のすぐ目の前に立っている──もう既 に刃の先に軽く触 れているのではないかというほどに。
イスターシバの瞳 に射すくめられて、彼は立ちつくしていた。
瞳と、そして彼女の言葉とに。
「......滅 び......?」
彼は、聞き返した。
彼女は身動きひとつしない。返ってくる言葉はなかった。ただその落ち着いた眼 差 しが、あるひとつのことを示していた。
「あなたは......」
わけが分からないながらも、彼は我 知 らず、つぶやいていた。かすれた声 音 で、囁 くように。
「あなたは、真実を語ろうとしているのですね......」
「真実?」
今度聞き返してきたのは、彼女のほうだった。自分の言葉で自らの金 縛 りが解けたというように、言葉といっしょに静かな動作を見せる──彼女のまとっている緑色のローブが、さらりと音を立てた。優 雅 に背中を見せる彼女は──
ひょっとしたら、銀の刃の役割を忘れているのかもしれない。彼の携 えるこの刃が、彼女を殺すために用意されたものだということを。
あるいは、さらにひょっとすれば──忘れていないのかもしれないが。
「真実......」
その単語を繰 り返す彼女の背中を見つめながら彼は、彼女の視線と同じほど、その背中にも圧 倒 されていた。動けない──
(自分は、彼女を殺すために遣 わされた暗殺者 だというのに!)
と、彼女が振 り向いてきた。
どこまでも優雅でありながら、さりげない力強さを感じさせるほどに、彼女が固く拳 を握 っていた。美しいローブは穏 やかな衣 擦 れの音を奏でている──が、やはりその肢 体 はあくまで緊 張 し、こわばっている。
シスター・イスターシバ。ウィールド・ドラゴン種族の、ただひとりの司祭。
それは、そんな女だった。
「我 がこれより語ることは......真実などと美しいものではない」
と、緑色の双 眸 に、黒い針を突 き通すような一筋の陰 が宿る。
「それに、それでは贖 罪 にならぬしな」
陰はすぐに消えた。陰が抜 ければ、彼女の瞳 に残るのは澄 んだ眼 差 し──どこまでも透 明 で、そして世界のいかなる影 までも映すであろう、決心の瞳。
彼女が告げてくる。
「今まで汝 らになにも語らなかった罪 ──最も汚 らわしき言葉で事実を語ることにより、贖 おう」
彼は確信した。
銀の刃の役割を──
アテレンス・フィンランディ。
マーサ・フィンランディ。
目を見開く寸前にその名が胸に浮 かび──そして開いた瞳 を光が射 した時には、オーフェンはその名前を忘れていた。
名前は忘れたが......それが、自分を産んだ人間たちの名前であったことだけが、記 憶 に残る。
産んだ人間である。親であったことは、ほとんどない。両親ともに、旅行中につまらない事故で死亡している。
彼が、まだ生まれたばかりの頃 のはずだ。どのみちそれを恨 んだことは一度たりとなかった。実を言えば周 りにいた人間たちのほとんどが、彼と似たような境 遇 だったのである。彼が育った《牙 の塔 》では、身寄りのない子供たちをスカウトして黒 魔 術 士 へと育 成 することが非常に多い......
(にしても......なんで俺 、そんなこと思い出してるんだ?)
自分が生きていることを確認したかったのかもしれない。というより、誰 かから生まれてきた人間だということを。
額 の上に重くのしかかるなにかを振 り払 いながら──実際にはなにも乗っかっていなかったが──、彼は意識を視界にもどした。仰 向 けに倒 れている彼を見下ろすように、煌 々 とした鬼 火 が宙に浮 かんでいるのが見える。鬼火の白い光の中に、金色の黄 塵 が混じって、まるで太陽のように。
こういった明かりは、簡 単 な魔術で造り出せるものである──造るだけならば。どのような魔術にも言えることだが、特にこうした明かりは、ある程度の長時間存在を維 持 できなければ意味がないため、実はそれなりに難 度 の高い部 類 に入る。まあ、そうとはいえ本格的に難しくなるのは重力中和などの完全な「超 高難度」のカテゴリーに入ってからなので、あまり関係ないといえば関係ないのだが。
(簡単な......魔術。そう......この程度の構成で......)
あまり意識せずに思い浮かべようとして、オーフェンは頭痛に身をすくませた──いまだ脳 震 盪 が続いているのか、複 雑 なことを考えようとしても集中できそうにない。脳の血管が片 端 から詰まったような違 和 感 が、彼の意識を揺 さぶった。
(にしてもこれは......痛 てぇな。どうしようもなく痛い。にしても痛い......)
と、彼は自分の状 況 にふと気づいた。
「ちょっと待てぇぇぇぇっ!」
上半身のバネだけで、跳 ね起きる──ただし、足首をくくっているロープの許 す限りでだが。
両足首にロープを結びつけられ、荷物のように地面を引きずられながら、オーフェンはわめき立てた。
「いきなり、なんで引きずられてるんだよ、俺はっ!」
「お師 様 っ⁉ 」
ロープを持って、彼を引きずっていたのは──
マジクだった。気絶したままのクリーオウを、おんぶ紐 で背中にくくりつけて、肩 にはレキを乗せている。彼は振 り向いてくると、ぱっと表情を明るくした。
「気がついたんですか⁉ 」
「こんなゴツゴツした場所を芋 袋 みてえに引きずられてりゃ、めちゃめちゃ寝 覚 めばっちりだわ、馬 鹿 たれ!」
オーフェンは怒 鳴 りながら足首をひねると、あっさりとロープから右足を引っこ抜 いた。片方が抜ければ、もう片方もほどなく外れる。
地面の砂 塵 をはね上げながら、ぴょんと立ち上がるこちらを見て、マジクが、ぱんと手を打ち合わせて感 嘆 の声をあげた。
「うわぁ。お師様、たまに妙 な特技持ってますよねえ。普 段 あんまり役に立ちそうもないような」
「くそやかましいわっ!」
口から唾 を飛ばしつつ、マジクの胸 ぐらをつかみ上げる。
「なんで足首くくって引きずってんだよ!」
「首をくくったら死んじゃうじゃないですか」
「まあ、そーいやそーだが」
即 答 してきたマジクに、思わず納 得 しかけてしまってから、オーフェンは、あわててかぶりを振 った。
「理由になるかっ! 大ケガしてる俺を引きずりやがって!」
マジクをつかんでいる右手に、さらに力を込 めて──ふと気づく。
「あれ?」
と彼は、マジクのシャツをはなすと、その右手を目の高さまで上げた。わきわきと握 ってみる。痛みは感じない。
「ケガは治ってますよ」
おずおずと、マジクは言ってきた。さんざ怒 鳴 ったせいか身体 が半分逃 げているが、目線はこちらに来ている。
「とにかくなんとかしようと思って、魔 術 でやってみたんです。ぼくが」
「ほほう......」
オーフェンは半 眼 になると、自分の右手を観察した──ほかにも身体をぺたぺた触 ってみるが、確かに外傷はなくなっている。ふさがった皮 膚 の下に微 妙 な痛みが残ってはいたが、こういったことはよくあることだった。
見ると、マジクはレキを肩 に乗せたまま、ふふんと胸を張っている。
「どうです? すごいでしょ、お師様」
しばし、少年のその得意げな顔を見つめてから──
オーフェンは右手首を左手でつかみ、大声で叫 んだ。
「うわあああああっ⁉ 」
「ど、どうしたんですか?」
びっくりしたのか、目を白黒させてマジクが聞いてくる。オーフェンは、右手をわななかせながら、ぞっとした声でうめいた。
「お前、制 御 に失敗しただろ! 指が一本増えてやがるっ!」
「ええええええっ⁉ そんな、本当ですかっ⁉ 」
驚 愕 の声をあげるマジクに──
オーフェンはいきなり冷たい視線を投げると、黙 って拳 を振 り上げた。
「本当ですか、じゃねえ」
めし、とマジクの金 髪 の頭に拳 骨 を落としてやる。
「自信を持って『ンなわけないでしょーが』と否定できないでどーする。そーゆうこったから、半人前だってんだ、お前は」
「ううう。ひどいよぉ」
涙 目 になってしゃがみ込む、マジク。おぶったクリーオウが、だらんと白目をむいている。マジクの肩にいたレキが、その顔の上にぴょんと飛び乗った。
死体のように首をのけぞらせているクリーオウを見て、オーフェンは腕組みした。そうやって身体を動かしても、確かにたいした痛みは感じない──
(まあ、たいしたモンだけどな、実際)
賞 賛 は胸中にしまったまま、憮 然 とした顔つきでオーフェンはつぶやいた。
「それはそれとして、なんでクリーオウは気絶させたまんまなんだ?」
「いえ、魔術で癒 すんでも、失敗したら怖 いですし」
あっさりと答えてくるマジクに、半 眼 で聞く。
「......俺 はいいのか?」
「ていうか、ほっといたらお師 様 、死んじゃいそうでしたから。ぼくが気絶させた兵隊の人たちもそのうち目を覚 ますでしょうし、あそこにずっといるわけにもいかなかったでしょう? ほら、やっぱり引きずらないと」
「なんだかなぁ」
鼻から大きく息を抜 けさせて、オーフェンはうめいた。あたりを見回して──少なくともマジクの鬼 火 が照 らしている範 囲 では結局、もといたところとなんら変わりない光景に見えたが──、頭をかく。
「にしても、どのくらい引きずってきたんだ?」
「さあ......休み休みしながら、二時間くらいは歩いたと思いますけど」
「たまにお前、ヘンに体力あるよなー。別にいいけど。んで、真っ直 ぐに歩いてきた自信はあるか?」
「いいえ」
やたらきっぱりと──なにがそんなに自信があるのだか知らないが──うなずいてくるマジクに、オーフェンはにっこりと、うなずき返してやった。ポケットから、一枚の紙切れを取り出す。
「実はここに、この地下道の地図があるんだが......」
言いながら。
オーフェンが確信したのは、ただひとつのことだった。
道に迷ったのだ。
火事。襲 撃 。戦争。
危機的な状 況 というものは、いろいろとあるわけだが──
遭 難 というのは、最悪のもののひとつなのではないだろうか。
オーフェンは陰 鬱 に考えながら、地図を確認していた。
黄 塵 の舞 う地下道はどこまでも──あざ笑うようにどこまでも──続いている。端 から端まで何度も地図に視線を這 わせて、オーフェンはしぶしぶと認めた。
「......この地下道、とんでもない大きさがあるぞ」
「ホントですか?」
クリーオウを乾 いたところに寝 かせていたマジクが、ひょこひょこと近寄ってくる。さっきまで、クリーオウの上に積もる黄塵をぱたぱた払 ってやったりしていたのだが、十分もやっていたらさすがに飽 きたらしい。オーフェンはまだ続く頭痛をため息で紛 らわせながら、相手にも見えるように地図を広げてやった。
「見た限りじゃ、どの通路も同じ広さがあるらしい──つまり、こことまったく同じ広さがな。この地図は、あの酒場の地下から出口までの道筋がかろうじて書いてあるだけみたいなんだが、縮 尺 だけはそれなりに精 確 らしい。とするとだな......」
スタート地点から目的地まで、指を滑 らせると、
「大ざっぱに見積もって、十キロ以上はありそうだな。なにを考えて、こんなに掘 ったんだ?」
「掘ったって、なにがですか?」
きょとんと聞いてくるマジクに、オーフェンは妙 な顔をした。
「なにがって、お前──この地下道だよ。どう見たって鍾 乳 洞 にゃ見えんし、それなら誰 かが掘ったってことだろが」
「そういや、そうですけど......」
マジクは、あたりを見回すと、
「でも、地下っていうの、多いですよね」
「なにがだ?」
再び地図を食い入るように見ながら、上 の空に返事をする。と、マジクが天 井 を見上げているのが、視界の端 に見えた。地上を意識しているのかも知れないが──この地下道の中には上り下りの坂道もあったので、ここが地下何メートルであるのかは、正確なところは分からない。百メートルまではないだろうが。
ぼんやりと、マジクがつぶやく。
「......遺 跡 とかですよ。いつかのアレンハタムの地下にあったのもそうでしたし、この前の劇 場 も、それに、ここも──」
「天人の遺跡は、確かに地下のものが多いけどな──あの古代の魔 術 士 たちは、もとは地下の種族だったんだそうだ。それでいて天人 って呼び名もアレだが。でも」
とオーフェンは地図を見たまま、適 当 に手を振 って周囲を示した。
「ここは天人の遺跡じゃない。人間が掘ったとも考えにくいんだけどな。こんなでっかい地下道を掘る技術、王都にだってねえだろうし」
「天人じゃない?」
聞き返してきたマジクに、オーフェンは少しだけ顔を上げた。こちらを見ているマジクの顔──そして、寝 たままのクリーオウと、そのそばでうろうろしているレキを順々に見やってから、肩 をすくめる。
「天人たちは通常、自分たちの住処 を魔術で防御 している。彼女らの沈黙魔術 は、媒体 になっている魔術文字 を無理やり破壊 してしまいでもしない限りは不滅 の効果 を持っているから、ここがもし天人の遺跡だったら──」
彼は説明しながら、自分が腰 掛 けている、横 倒 しになった支柱の破 片 をぽんとたたいた。
「こんなに壊 れてるわけがない。この前の地下劇場でもそうだったろ? 木 製 の壁 だってのに、光 熱 波 を直 撃 させても傷ひとつつかなかった。本格的に破壊しようと思えば、物 質 崩 壊 でも仕 掛 けなけりゃ効 きゃしない」
「ぶっしつほうかい、ですか?」
聞き返されて、ふと考え込む。言っておいてやってもいいかもしれない。
また肩をすくめてオーフェンは、口を開いた。
「どうせお前にゃ使えやしないが、覚えとくだけ覚えとけ。魔術構成の究 極 形 、そのひとつだ」
「はあ......」
「お前には理論的なことはなにひとつ教えてねえような気もするが──そのうち教えてやるけどな──、俺の先生であるチャイルドマンは、黒 魔 術 によって引き起こされる現象が、最終的にはみっつに集 約 されると理 論 づけたんだ。それが物質の崩壊、波 動 の停 滞 、意味の消 滅 だ。聞いての通り、これらはすべてなにかが消えることを意味している。だが物質が崩壊すれば波動が流れ、波動が停滞すれば物質は結束する。ただそのふたつに関しては、物質も波動も消滅してはならない。無への消滅を認めれば、無からの発生もまた認めなければならないからだ。ただし、意味の消滅がそれを補 う──これが起きると、そのふたつ、両方が起こる」
「......あの、お師様、なにがなんだか──」
「重要なのは、物理法則はさほど関係ないってことだ。これらの法則はあくまで、音声魔術によって形成される構成の普 遍 的 な特 徴 によって決定されている。だから、人間以外の思考パターンを持った存在が音声魔術を使えば、まったく法則の異 なった音声魔術を使う可能性もあるってわけだ」
「さっぱり分からないんですけど......」
「ドラゴン種族の魔術が、それぞれの種族によってまったく異なるのも、その辺が理由らしい。思考パターンがなにによって決定されるものなのか、実験のしようがないんで判明はしてねえんだが、言語や育った環境が関係してるってのが、今のところの妥 当 な結論だろうな」
「うううう」
「やーい、半人前ー」
しくしくと泣き崩 れるマジクに、オーフェンは最後にはヤジを飛ばしてから、こほんと咳 払 いした。地図を指さして話題をもどす。
「それはそれとしてだ。天人の遺 跡 だとしたら、作られてから千年以上は経 ってないってことになる。天人種族がこの大陸に来たのが千年前だからな。彼女らが地上から姿を消したのが、だいたい二百年前──この程度の年月では、て言い方もすげえけど、とにかくそのくらいじゃ風 化 しないのが彼女らの魔術の、もの凄 まじさってやつだ」
「ぼくらの魔術は......」
オーフェンは、上空の鬼 火 を指さした。
「ああいう簡 単 なもので、保 って一時間。次元が違 うな」
「ですねー」
しみじみと同意するマジクを見ながら、オーフェンはさらに話題をもどした。
「......んで、ここの地下道だが、どうも話を聞いてる限り、地図に書かれている範 囲 の外に出ちまったみたいなんだよな。とは言え、もどるってのも、どうだかな......例の神 官 兵 たちが意識を取りもどしてるかもしんねえし」
「ほかに出口はないんですか?」
あたりを見回して、マジクがつぶやく。地下道の広さに対して、鬼火の光量は完全に不足している──どちらを向いても闇 が視界を閉 ざしていた。壁 も天 井 も見えるわけではない。夜の中に取り残された子供のように、きょろきょろするしかなかった。
オーフェンは地図をしまい込みながら、ふうむと声を出した。こめかみをこすりながら、考え込む。頭痛がどうにも治まらないのが鬱 陶 しい。
「結局のところ、俺らはこの地下道がそもそもなんのために作られたものなのか、それも分かっちゃいないんだよな。それが分かりゃ、なにか考えようもあるんだろうが......」
「でも......なんか......」
マジクが、指を立てて言ってくる。
「やっぱり、雰 囲 気 とかがアレンハタムの地下にあった、バジリコック砦 でしたっけ? それに似てる気がするんですけど」
「砦、か?」
聞き返してオーフェンは、息をついた。立ち上がり、腰に両手を当てて背 筋 を伸 ばす。魔 術 で無理やりに傷を治すと、そのあとしばらく身体 を重く感じることがよくあった。
「だいたい、地下になにかを作るんなら、こんなでっかいスペースを掘 る必要はどこにもねえし、逆にこれだけの大容量を必要とする施 設 なら、地上に作りゃいいんだよ。こんだけの穴を掘って、土 砂 をどけたら、しゃれでもなんでもなく山が一個できるんじゃねえか? しかも、今じゃなんの用 途 もない。無 駄 もいいとこだ」
「少なくとも、キムラックの人が掘ったんじゃないでしょうね」
あごに手を当て、悩 むように言ってくるマジクに、オーフェンはぱちんと指を鳴らした。
「それだよ。気になってたんだが、この街 の連中、どうしてこんな辺 鄙 な場所に暮らしてるんだ? キムラック教会の発 祥 の地が、この大陸北方だとされているんだが、そもそもそれが、この地下道と関係あるのかもしれない」
「キムラック教会と言えば、あれですよね。確か、女神がどうとか」
ひどくあやふやなことを言う。オーフェンは肩 をコケさせながら、マジクに告げた。
「お前、そんなことも知らないでここに来たのか? 運命の三女神だよ。巨 人 の大陸で、ドラゴン種族に魔法の秘 義 を盗 まれたっていう神々のうちの三姉妹だ」
「............」
突 然 ──
マジクが、口をつぐんだ。
いつも愛 嬌 ばかりが目立つ瞳 に、なにか深刻なものを浮 かべて。
オーフェンは、多少ぎょっとしてから、
「どうしたんだ? 別に、きついことを言ったつもりはなかったんだけど」
「いえ、そうじゃなくて」
少年は、中 途 半 端 な微 笑 を見せてきた。この街に入る時から黒 装 束 を隠 すために羽 織 っている白いマントに、自分で手を触 れている。自分で自分を抱 きしめるような仕 草 で。
「今ぼくらの頭の上に何千人も何万人も、そんな疑問に答えることができる人たちが暮らしてるんですよね。そう思ったら、なんか馬 鹿 馬 鹿 しくなっちゃって」
「............」
それを聞いてオーフェンも、しばし黙 り込んでから──
「そうだな」
自 嘲 して、笑 みを浮かべた。
マジクは今さら疲 労 を思い出したのか、力なくその場にぺたんと座 り込むと、のろのろとあとを続けてきた。
「なんとか道を後もどりして、あの神官兵とかいう人たちに聞けば、答えを知ってるかもしれませんね。でも......」
と、小さな肩 をやるせなくすくめる。
「その前に、袋 叩 きにされて殺されちゃうかな」
「............」
オーフェンは答えなかった。自分たちが──そして他人たちが──やっていることが、とてつもなく虚 しいことだという自覚はもともとあったつもりだが、他人から聞かされるとさらに痛感させられる。
だがそれにも増して、しゃべっているマジクはさらに感じているのかもしれない。
それにしては饒 舌 だったが。
「でもひょっとしたら、それはただぼくたちがそうなんじゃないかって思ってるだけかも。誰 も確かめたくないから、確かめてないだけかもしれないですよね......」
慣れない苦笑を浮かべて、笑っている。
「なんなんでしょうね、これって。さっきのお師様の言葉を借りるんじゃないですけど、本当に無 駄 なことって、こういうのを言うのかもしれないですね」
そんな、マジクのつぶやきを聞きながら──
オーフェンは、あまり関係のないことを考えていた。
「分かってはいたんだが......」
オーフェンは、目を閉じた。
「お前たちには、悪いと思ってる」
え?──と、マジクがびっくりしたような声をあげる。
軽く笑いかけて、オーフェンは続けた。
「お前たちは、単に俺のやりたいことに巻き込まれただけなんだよ。俺とかかわったばかりに、まったく関係のない厄 介 事 にな。正直に言えばだ、俺自身、俺がなんでこの街 に来なけりゃならなかったのか、よく分かっていねえんだ。この前お前に言われた通り──俺は自分の姉 貴 を追っかけて、ここに来た」
と、彼はポケットに手を突 っ込みかけて、自分がいま身につけているのが、普 段 の黒ずくめでないことを思い出した。武器も、彼と彼の姉の、ふたつのドラゴンの紋 章 も、服といっしょに行方 不明になっている。
手をポケットから出し、彼はその拳 を握 りしめた。
「俺の姉──ていうか、実の姉じゃあないが、アザリーは確実にこの街に来ている。彼女のことはこれ以上もなく知っているつもりだ──言ったことだけは必ずするひとだよ。彼女はこの街のどこかにいて、恐 らくは、この街の中 枢 へ、ユグドラシル神 殿 へ行くだろう。俺はそれを追っている。だが......」
彼は嘆 息 して、拳を解 いた。
「彼女に追いついたところで、どうしたいのか。なにか言いたいことでもあるのか。俺にはさっぱり分からない。彼女を助けたいのか。彼女の邪 魔 がしたいのか。あるいは──」
その次に浮 かんだ言葉を、彼は呑 み込んだ。声にするよりも早く、思考にするよりも早かったかもしれない。
だから胸に痛みを覚えつつも、自分がなにを思い浮かべたのか、彼は理解していなかった。
かぶりを振 る。と──
「そんなの、決まってるじゃないですか」
朗 らかに、マジクが言ってくる。
「姉 弟 なんでしょう? お師様、その人と仲良くしたいんですよ、要するに」
「仲良く、ねえ」
その単語は複雑だった。そしてある意味、特別でもある。
オーフェンに分かったのは、マジクがその複雑さも特別さも意 図 せずにそれを言ったのだろうということだけだった。自分でもよく分からない。
「俺は昔から、彼女には逆らえなかった......それが結局、こんな──」
言いかけて彼は視界を移した。どこへというわけでもなく、頭を巡 らせて、そして──
ある場所を見て、彼は硬 直 した。
その表情の変化に気づいたのか、マジクが怪 訝 そうにこちらを見やる。すぐさま少年は、こちらの視線に合わせて、その場所へと振 り向いた。
どういうことだかは分からない。
ただ言えることは、いつの間にか、なんの前 触 れもなく──
クリーオウとレキが姿を消していたということである。
「ええい、くそ、なにがなんだか!」
毒 づいてオーフェンは、数分前まではクリーオウが横たわっていた場所に、四つん這 いになって顔を近づけた。マジクもあわてて、駆 け寄ってくる。
「どうですか? なんでなんですか? クリーオウが、いなくなるなんて!」
「どれひとつとして答えられそうにねえな。いや、待て──」
ぶっきらぼうにそう言ってからオーフェンは、騒 ぎ立てる少年を制 止 した。砂が積もっている床 に、うっすらと──
「足 跡 だ!」
砂の上に残っている、わずかなくぼみを指さして、オーフェンは囁 いた。強く叫 べば、細かい黄 塵 はあっさり吹 き飛ばされてしまっただろうが。
と、マジクへ顔を上げる。
「マジク、光量を上げてくれ。足跡をたどれば行方 が分かるだろうが、暗くてよく分からない」
「は──はい」
答えと同時──いやしばらく待ったか──、鬼 火 が輝 きを強める。こうすると鬼火の寿 命 は縮むが、この際そんなことはどうでもいい。
足跡は砂の上を点々と、一定の歩 幅 で規則正しく続いている。ほとんど、巻 き尺 で測りながら歩いているような精確さで、だ。オーフェンはごく短時間、眉 根 を寄せて訝 ったが、とりあえず気にしないことにした。あのじゃじゃ馬が、こんな訓練されたような歩き方をしていたのは見たことがなかったが、絶対になかったとまでは断言できない。
「向こうに、まっすぐ向かってるみたいですね......」
マジクが、その足跡の続いている方向を指さして言う。
ああ、と答えながらオーフェンも、そちらを見やった。もと来た方向ではない。
「追いかけるしかねえな」
「でも......どうしたんだろう。クリーオウ、地べたに寝 かされて怒 ったんだったら、その場で跳 びかかってきたりすることはあっても、こんななにも言わずにどっか行っちゃうなんていつもはしないのに」
「その通り──〝しないのに〟だ」
オーフェンは、親指の腹を舌で舐 めた。
「それをした──あるいは、させられたからには、なにかがあったんだ。急ぐぞ」
足跡をたどることに関しては、さしたる苦労があったわけではない──歩幅はあくまで一定で、しかも真っ直 ぐに続いているだけである。倒 れた柱やら、がれきやら、大きな床 のひび割れすらも迂 回 せず、ただただ進んでいる。
どこまで進んでも、地下道の様 子 は変わらない。どこまでも、暗くだだっ広い空間が続くだけである。
オーフェンもなるたけ急いで、足を進めた。そして──
「ん?」
つぶやいて、彼は目を凝 らした。鬼火の明かりが照 らす前方に、ちらちと、金色のものが見えたような気がしたのだ。
ほどなく明かりの中に、クリーオウの後ろ姿が入ってくる。
「いたな」
オーフェンはマジクに合 図 すると、さらに足を速めた。こちらに気づいた様子もなく、思いのほか速い足取りで歩いていく少女を、がれきを跳び越 え追いかける。歩き続ける彼女の横を、すり抜 けるように追い抜いて──
振 り向いて、クリーオウを見やる。どうということでもなく、彼女は目を閉じたまま、ただ歩いていた。こめかみの傷はもうなくなっている──とりあえずこれだけは、マジクが消したのだろう。
彼女が目を閉じて歩いていることについては、オーフェンはさして驚 きも感じなかった──もとより、彼女は明かりもなしに歩いていたのだから。それでも、つまずきもしていない。彼女の金 髪 の頭の上に、緑色の双 眸 を爛 々 と輝 かせている黒い子ドラゴンの姿があった。
「......なるほどな」
とりあえず速度を彼女の足に合わせながら、オーフェンはつぶやいた。あとを追ってきたマジクが、声をあげる。
「なにがですか?」
「なんとなく、こんなこったろうとは思ってたんだけどな。こいつの仕 業 だったんだ」
と、レキを指さす。
「これですか?」
マジクもレキを指さすと、当のレキが、威 嚇 するように犬歯を見せる。怒 っているのかもしれない。
「フィエナを覚えているだろ? 前に《フェンリルの森》にいた」
「ええ」
クリーオウが早足のため、こちらもふたりそろって小走りになって、オーフェンはマジクに説明を始めた。
「あの娘 、あの森にいたディープ・ドラゴンに使い魔 にされてたらしいんだよな」
「使い魔、ですか?」
「ああ。強力な精神支配で、ほかの生物と五感をも共有させてしまうことができるらしいんだけどな。その段階になると、ある程度その相手を意のままに操 ることもできるんだ。どうもレキの奴 が、クリーオウに魔 術 をかけて操ってるみたいだな、これは」
「......ここ真っ暗だから、魔術を使えないんじゃないかと思ってましたけど」
人間の魔術士が声を媒 体 に魔術を扱 うのに対して、ディープ・ドラゴン種族の暗黒魔術は視線を媒体とする。つまりは、視界内にしか、効 果 は及 ばないわけである。
オーフェンは肩 をすくめた。
「夜 目 でも利 くんだろう。俺はそれより、この黒い悪 魔 がクリーオウの指示もなしになにかできるってことのほうが驚 きだったけどな」
「でも──」
マジクは不 思 議 そうに、首を傾 げてみせた。
「なんでこの毛玉、そんなことをしてるんです?」
オーフェンは怪 訝 な声を出しながら、それでも即 答 した。
「多分......俺らがいつまで経 っても治そうとしないもんだから、誰かほかに助けてくれる人間を探そうとしてるんだろ。なんつーかガキっぽい考えだが、考えてみりゃこいつ、赤ん坊 だもんな」
「ケダモノですしねー」
うんうんとうなずいて、マジク──そして唐 突 に、少年は顔面からべしゃりとコケた。
クリーオウ、というよりレキだが、そちらは特に構わずに進んでいく。オーフェンはそちらを見送りながら、一応足を止めた。とりあえずクリーオウのほうは、心配はなさそうだと踏 んで、マジクに近寄る。

「なにやってんだよ、お前」
「痛 ててて......」
顔をさすりながら、マジクが起き上がる。
「いえ、くぼみに足を突 っ込んじゃって──あ、クリーオウ、行っちゃいますよ」
「え?」
マジクが指さした方向が予想外だったため、オーフェンは多少驚いて振 り返った。見るとクリーオウが、いきなり方向を変えて進んで行く。
「なんだ? ただ真っ直 ぐ歩いてるだけかと思ってたが、目的地でもあるのかな」
オーフェンは独 りごちつつ、マジクに手を貸してやった。立ち上がらせてから、またクリーオウを追いかける。
光の届 く範 囲 から遠ざかり、闇 の中に紛 れようとしている少女を追うのは、森の中で野生動物を追 跡 するほどまでとはいかなくとも、それなりに困難なことではあった。闇だけではなく、いつになく濃 度 を増している黄 塵 もまた、視界を危 うくしている。尻尾 のように闇に揺 れる金 髪 が目立つため、見失う心配は大きくもないが。
「もしかしたら......」
うめいてオーフェンは、横を歩くマジクの顔を見やった。マジクもまた、同じことを思いついていたらしい。
「ええ。あのドラゴンが、クリーオウを助けてくれる人間を探しているんだとしたら......ひょっとしたら臭 いかなにかで、こっちに誰 か人間がいるってことが分かっているのかもしれないですよ」
「......誰か人間、てこともないだろうがな」
こんな場所にいるとすれば、どういった人間かは考えるまでもない──
どちらにせよ、キムラックの住民である限り、彼らの味方であるはずはなかった。
「でもこれで、出口が分かるかも」
「最悪の出口じゃなけりゃ、歓 迎 会 を開こう」
どうしても楽天的な気分にはなれず、オーフェンはこだわった。
そして、不意に──
「あ⁉ 」
マジクが、悲鳴じみた声をあげる。クリーオウの姿が、ふっと消えたのだ。
オーフェンは落ち着いてあたりを見回した。と、気づいて指さす。
「また方向転 換 したんだ。向こうだろう」
彼が指を向けた、そちらには。
クリーオウの姿があった。こちらに背を向けたまま、黄色い光をシャワーのように真上から浴 びて立っている。黄色い光。
マジクの鬼 火 の明かりでは──ない。
「出口だ!」
少年の甲 高 い叫 び声が、地下道にこだました。
断 層 のようなものがそびえている。
なにか巨 大 な地 滑 りでも起きたように、その場所で地下道は大きく崩 れていた。むき出しになった地層。崩れて積もった土 砂 、がれき。地下道そのものが折れて崩れているため──壁 面 がちょうど急 勾 配 の坂道のようになっている。その斜 めにずれた断層は、絶 壁 にも近い急勾配だったが、なんとか足がかりを見付けて登ることはできそうだった。その断層の天 井 から──天井の亀 裂 から、黄色い光が落ちてきている。
光の色はあまり濃 くはなく、オーフェンにはそれが松 明 の光のように見えた。少なくとも、月光などではない。もう夜が明けているのならば、太陽の光なのかもしれなかった。都市のどの部分に開いている出口だかは分からないが。
クリーオウは断層の下で、ぽつんと立ちつくしている。オーフェンもそちらに駆 け寄りかけて──ふと、足を止めた。
「......なんですか、この臭 い?」
マジクがつぶやくのが、聞こえる。
「臭いで分かる、とはよく言ったもんだな」
手で鼻を覆 って、オーフェンも応じた。
鼻をつく異 臭 が漂 ってきている。どう形容しようとも受け入れられそうにない、完全にどうしようもない、悪 臭 である。脳 髄 をえぐり取るような猛 烈 な臭いに、オーフェンは忘れかけていた頭痛がさらにひどくなるのを感じていた。マジクはと言えば、早 々 にマントを頭からかぶり、うめいている。
内臓すべてが一 致 団 結 して催 しているような、悲 惨 な嘔 吐 感 に耐 えながらオーフェンは、水っぽくなった目をしばたたいた。嗅 覚 は既 に麻 痺 しかけ、その悪臭を受け取っているという情報だけが頭の中で飛び交っている。目から涙 をこぼしつつ、オーフェンはそれでも前に進んだ。
地下道には当然ながら風もなく、その場によどんでいる臭 気 はとてつもない濃 度 を持っているようだった。意味もなく手でそれをかき回しながら、粘 り着いてくるような悪臭をかき分けて、彼は歩き続けた。とにかくなにか、進まねばならないという焦 燥 感 が、自分を駆り立てるのを自覚する。
(嫌 な予感が......する?)
いまだかつて、悪い予感だけは外れたことがない。
近寄るにつれて、立ち止まっているクリーオウの足下に転がっている無数のがれきが、本当はなんであるのか見えてきた。
それは──
無数の人骨に間 違 いなかった。
◆◇◆◇◆
手の中の剣 が滑る。
滑っていった先にあるのは──暗 闇 の中の、ひとつの気 配 。
背後にある窓は開け放たれて、薄 っぺらいカーテンを緩 やかにはためかせている。夜空から、雨雲に覆 われた漆 黒 の空から雨とともに落ちてくる風が、部屋の中に吹 き込んできていた。
「......起きたほうがいいんじゃないかしら? カール」
彼女の指にすっかり馴 染 んだ剣は、ぴたりと動かず、ベッドに横たわる人 影 に突 きつけられている。肩 を守る革 鎧 の重さを感じながら、メッチェン・アミックは眼 光 を鋭 くした。冷たく、暗い夜の寝 室 。
部屋に明かりはない──必要もないだろう、とメッチェンは皮 肉 げに考えた。ベッド近くに置いてある小さな丸いテーブルに、これまた小さな金色のベルが置かれている。これを鳴らしさえすれば、明かりを持った使用人がひとりかふたりは姿を見せるだろう。
だから大声は出せない。メッチェンは声を押 さえ、息すらひそめてそのベッドの上の人影を凝 視 していた。
天 蓋 付きベッドは馬 鹿 げて広く、その真ん中で寝 ている人物に剣を突きつけるためには、片足をベッドに乗せなければならなかった。土 足 だが、まあ仕方あるまい。どのみち、そういった礼 儀 のことを言うならば、ずぶぬれになって窓から侵 入 してきた時点でもうおしまいだった。
(この女なら──なにを怒 るかしらね。真夜中に起こされたこと? 剣を突きつけられたこと? 絨 毯 を濡 らしたことかしら?)
そんなことを、ふと思う。しばしして──メッチェンは、ベッドの人影が身動きするのに気づいた。
長いブロンドに埋 もれていた白い顔に、ささやかな眼光が点 る。目を開いたのだ。
「寝ぼけてるふりは無用よ。あなたのお友達みたいにだまされるつもりはないの──あなたが決して寝ぼけたりしないってことくらい、よく知ってるわ、カール......カーロッタ・マウセン」
「......まるで、わたくしの手口のすべてを知ってるみたいな口 振 りじゃない。ねえ? 可 愛 いメッチェン」
ベッドの上の女が、起き上がった。
カーロッタ・マウセンという女のプライベートを初めて見て、メッチェンが反射的に思ったことは──ただひとつだった。
(間 違 ってた......)
表情には出さずに、舌打ちする。
(何年も前から──初対面の時から気にくわなくて──なんだこの派 手 な女はとか思ってたけど......)
勘 違 いだった。
カーロッタは地 味 な女だった。
もっとも──黒 豹 のような地味さを、地味と呼べればのことではあるが。
そう。カーロッタはそんな意味で地味な女だった。シーツを胸 元 に押 し上げて、ネグリジェを隠 している。暗 闇 の中、色までは判別できないが。どこかおっとりとした眼 差 しを、穏 やかにこちらへ向けている。
そしてその視線に対して真っ向から、メッチェンの剣 が、彼女の眉 間 に突きつけられていた。
口元に笑 みを浮 かべて、そしてどうしようもなくおかしいとばかりに鼻で笑い、カーロッタが言ってくる。
「......剣を突きつけて人を脅 すんなら、喉 元 とか脇 腹 に切 っ先 をつけるべきじゃないかしら──いくらあなたが凄 腕 でも、剣で頭 蓋 骨 を貫 けるわけじゃあるまいし、わたくしがいざ反 撃 を始めたらどうするつもりなのかしら?」
「そうは思わないわね」
言い返してメッチェンは、唇 をなめた。続ける。
「あなたが、顔に傷をつけられる危険を冒 すはずがないもの」
「......まあせっかく、持って生まれた資質だものね? 大切にしないと」
カーロッタが、ことさらに──メッチェン以上に──声をひそめていることに、彼女は気づいていた。大声を出せば、すぐに人が呼べる状 況 でだ。だがもとよりメッチェンには目 算 があった。
(人を呼んだりして、メッチェン教師 に剣を突きつけられたなんて常識外れのスキャンダルを、自分の身内に広めるはずがないものね......)
メッチェンは確信していた。
カーロッタは寝 ぼけたりはしない。寝ぼけて騒 いだりすることはない。冷静な打算を忘れることもなく、ましてや打算し損 ねるなどということは決してない。
そう。だから──顔に傷をつけたりはしない。
剣 の柄 をつかむ指に、汗 がにじむのを彼女は感じていた。雨で全身ずぶぬれになっているのだから今さら関係ないが。
メッチェンはささやいた。
「聞きたいことはひとつだけよ。サルアはどうしたの? まさかこの時期に、街 の外に出しているはずがないわね──?」
「白状するとね」
カーロッタは切っ先を目前にしても、瞳 孔 すら乱さない。乱さないまま答えてくる。
「この街に仲間が誰もいなくなって、あなたがおろおろするところが見たかったのよ」
ちッ──
舌を打ってメッチェンは、きっかり三センチ、剣を突き出した。眼 球 をえぐっても、この女が声をあげないという確信はある。

だが。
刹 那 、メッチェンは右腕に走った激 痛 に身をよじった。漏 れかけた悲鳴を左手で押 し殺 し、ベッドから大きく跳 び退 く。剣 ははなさなかったが、かろうじて指を引っかけているだけで、構えることはもうできそうになかった。右の上腕から、熱い痛みがにじみ出している。にじみ出ているのが痛覚だけでなく、出血もしていることは疑うべくもなかった──
ベッドから転がり落ち、しりもちをつくように床 に倒 れながら、彼女は痛みにしびれる箇 所 に触 れてみた。なま暖 かい体液が、止めどなく溢 れている。傷はかなり深いようだった。
絶望的な麻 痺 が、身体 を支配しようとしている。全力でそれに抗 って──メッチェンは顔を上げた。凄 絶 な眼 光 で、カーロッタを射 抜 く。
──射抜いたところで、当の彼女は素 知 らぬふうだったが。
「......あなたは、わたくしの手口をひとつだって知っていない。そうでしょう?」
シーツから、ほとんど常識では考えられないような角度で、白い足が飛び出ていた。カーロッタ・マウセンの足──凍 っているように白く映 える左足。足の親指と人差し指とで、細いナイフをつまんでいる。
「ベッドの中にナイフを隠 していることくらい、予想してもいいでしょうに」
「くっ......!」
メッチェンは唾 を吐 くと、剣を手になんとか立ち上がった──廊 下 から、ぱたぱたと複数の足音が集まってくるのが聞こえてきている。声はともかく、床に倒れた物音は屋 敷 中に、この広大な屋敷すべてに響 きわたったはずだ。
「可哀想 にね、メッチェン......」
足をシーツの下に隠 すと、カーロッタはあくびすら交えてつぶやいてきた。
「あなた、とうとうこの街 で独 りになったわけね。たったひとりでクオに勝てるかしら」
彼女はいつの間にか手に持ち替 えていたナイフを、軽く宙に放 ってまた受け止めた、滑 り落ちるようにベッドから下りて、こちらを見ている。
「......この部屋にある武器は、これだけよ。このちっちゃなナイフだけ。あなたにまだ右腕を振 るだけの体力が残っているか分からないけれど、戦 闘 用の長剣と渡 り合うには心 許 ないわね」
と──ちらりと、この広い部屋の入り口を見やる。廊下を走る使用人たちの足音を意識しているのは明白だった。
一 拍 置いて肩 をすくめ、あとを続けてくる。
「逃 げるなら、今しかないわよ?」
(......わたしを逃がそうとしている......)
それは間 違 いなかった。この場所で──彼女の邸 内 で、さらに言うならば彼女の寝 室 で──教師を殺すわけにはいかないのだ。
単なる嫌 がらせで、この場所で死んでしまおうか。
そんな考えが、ことさら甘 美 にメッチェンを誘 惑 した。なによりも、それが一番楽そうだという理由で。唇 を噛 んで、彼女はかぶりを振った──
「いつか、殺してやる」
うめく。カーロッタはただ微笑 むだけだった。ナイフを持ったまま、ベッドわきの白いテーブルへと近寄り──水差しといっしょに置いてあるグラスを取り上げる。
「殺すのならば、クオになさいな」
冗 談 とも本気ともつかない、そんな口 調 ──そんないつもの口調。
足をひきずるようにメッチェンは、窓まで急いだ。部屋の扉 が、軽くノックされる。
「お嬢 様 。どうかなさいましたか?」
初老の男の声。唇を噛み、歯を噛み、舌を噛んで、メッチェンは窓 枠 を乗り越 えた。雨と風の中へ、まとわりつくカーテンを振り払 いながら転げ落ちる。
背後で、がちゃんとグラスが割れる音。そして、カーロッタの声。
「......タウニー! グラスを割って指を切ったわ。シーツと絨 毯 が血で汚 れたから、染 み抜 きができる子を連れてきなさい──」
雨と風が吹 き付けてくる。
傷の痛みと、身体 から抜 けていく体温とに戦 きながら、メッチェンは逃 げ出していった。夜明けにはまだ遠い、暗い夜道へと。
◆◇◆◇◆
彼女は忘れていないのだと。
それを知ってしまったためか、彼には、彼女の声がどこまでも冷たく聞こえた。遺 言 のような──
イスターシバの声。
「事実を告げよう。汝 らは失敗作だ」
彼女の笑 みには隙 がなかった。入り込めないほどの、深い自 嘲 。
「我 らの、最大のものとなるはずであった魔 術 ──その失敗作だ。我らの役には立たぬ失敗作。我らが〝始 祖 〟に、もっと力があったならばあり得なかったはずの、失敗作。我ら種族が、神に抗 えなかったがゆえの......失敗作。その魔術の、目的は──」
一 瞬 、言いよどむ。
言葉が出なかったわけではあるまい──彼はいかなる要素も見 逃 すまいと、彼女の表情を見つめていた。そして気づいていた。前歯を折りそうなほどに、彼女が歯を食いしばったことに。
「我らの目的は──」
次いで出てきた彼女の声は、苦 渋 に満ちていた。
「滅 びを、止めること......」
「わたしたちを生 贄 に、ですか」
キムラック──
大陸における教会すべての総本山たる、北の都 。そこに雨が降っていた。
暗い夜空から、絶え間なく雨 粒 が落下してきている。見上げれば滴 の軌 跡 が放射線状に広がっていた。都の夜は暗い。その暗い夜に、雨が灰 色 の筋を無数に刻みつけている。
勢いよく落下してくる冷たい滴に顔をたたかれながら、彼女はひとり、じっと立ちつくしていた。
夜の道はただ前にだけ伸 びている。あるいは夜明けへと連なっているのかもしれないが、それがゴールであったとしても、今はまだ見えない。夜明けという遠すぎる終着点は、待ち遠しいようでもあり──あっさりと訪 れたならば勿 体 ないようでもある。
街 には、前日から下された戒 厳 令 のため、人通りはない。もとよりこの雨の中、わざわざ出歩こうと言う物好きもいないだろうが。いつもこの街に尽 きない砂 塵 が雨に流され、建物という建物、道という道を泥で汚している。
(本当に強大な力というものを、見たことがある......)
なんとなく、彼女は独 りごちた。雨に打たれる街並みを見上げながら。
(大陸でも最強の黒 魔 術 士 が、わたしの先生だった──そしてわたしも、その最強の魔術士の一員となった。そしてまたそれとはさらにレベルの違 う、ドラゴン種族の圧 倒 的 な力というものも見たことがある。でも)
皮 肉 な思いに、口元を歪 ませる。
眺める街は闇 に黒ずみ、どこまでも続いている。雨の音以外にはなにもなく、人もいない、石の街。屋根という屋根は街自身を見下ろし、重苦しい雨粒の大群をものともせずに傲 然 とそびえている。
外輪のスラムとは打ってかわって、この街の中 枢 たる神 殿 街 は、彼女に自分の街 を思い起こさせた。黒魔術士たちの街、タフレム市。そこに負けないほどに整然と、そして豪 奢 にすべてが建ち並んでいる。静かで、なにも起こらない街の景 色 。自分にいかなる力があろうとも──たとえ見える限りの建造物を薙 ぎ払 うほどの力があったとしても、この「街」というすべてを壊 すことなどはできない。
もし、それができたならば、人は狂 うだろう。
(そうね......結局はそれが、最強の力......)
それに比べれば、どのような力も霞 む。
雨の中、彼女は歩きだした。
時刻はもう真夜中を過ぎている──月が見えないので正確には分からないが。
漆 黒 の戦 闘 服 に身を包み、手には長大な剣 をぶら下げて、正確な歩 幅 で彼女は歩いていった。剣は簡 素 な革 製 の鞘 に収まっている。標準よりかなり長い剣で、それこそ馬上で扱 うものにも匹 敵 しそうな代 物 だった。飾 り物の剣がそうであるように、剣自身にも装 飾 が為 されている。一番目立つのは、柄 に設 えられている月と魔 物 の紋 章 だった。
彼女自身もまた長身だったが、それにしても剣のほうが長い。刀身が百センチ以上はある。
顔に張り付いた黒 髪 を伝って、雨がしたたり落ちた。それを左手で払 い──彼女は顔をしかめた。いや、というより、表情から感情を消そうとした。物思いのすべてが、感 傷 のように思えたのだ。
進もうとしているはるか先には、黒々とした、ひときわ高い建造物が見える。墓 標 のように殺 風 景 な、巨 大 な神殿。キムラック教会の真の中枢たる、ユグドラシル神殿である。
はるか古代──そしてはるか永遠へと続く神話。伝説では、ユグドラシルと呼ばれる神々の世界に、キムラック信徒の崇 める運命の三女神 が住まうという。すべて生命の誕生とともにあり、それの運命を紡 いで、投 網 のように浴びせかける。彼女らを魔 女 と呼ぶ者もいる──国教たるキムラック教会の手前、声をひそめてであるが。
運命を司 る三人の女神。あるいは魔女。
神々の世界、世界樹 。
その名を冠 した神殿 が、雨に打たれている。
神話ほどの長大な歴史は必要ない。だがこの大陸にとっては長い歳月、その神殿は幾 度 となく無数の雨 粒 を浴びたはずだった。人が生死を繰 り返す歴史の中で、この街に生きた者は誰 であろうとこの神殿を見上げただろう。
この街に生きなかった者でさえ、夢の中でこの姿を思い浮 かべていたかもしれない。
彼女──アザリーは再び足を止めた。実を言えば、意を決して隠 れ家 を出てから、これを繰り返していたのだが。
足を止め、ブーツのつま先で泥 水 が流れを分けているのを見下ろして、彼女はつぶやいた。
(......結局、わたしがやろうとしていることは、その強大な力に刃 向 かうことなのかもしれないけれど......)
だがかつて同じことをした人物を、彼女は知っている。
(先生は──十年前に、ここにいた。きっと......)
妄 想 じみているとは自覚しながら、彼女は確信していた。
(チャイルドマン・パウダーフィールド教師、いや暗殺者 チャイルドマンは、間 違 いなくこの道を通って、あの神殿へと向かった。わたしには分かる......)
と、顔を上げる。神殿は当然、まだそこにあった。夜空に傲 然 と黒い影 を映している。
行かなければならない。行かなければ永遠に師のことを理解できないという確実な思いが、彼女にはあった。
歩き出す。もう立ち止まることはない。夜は必ず開ける。目的地にも、必ずたどり着く。
(理解、さえすれば──)
声には出さず、独 りごちる。
(ひょっとしてわたしのこと、許 してくれますか、先生......)
天魔の魔女 は、多大な労力を使って口元を引き締 めた。
それをしなければ、泣きだしそうな気がしたのだ。
◆◇◆◇◆
「どういうことだ⁉ 」
悪 臭 の中、ろくに息もできずにとにかく出すことのできた言葉は──それだけだった。
うずたかく積み重なった人骨の山。猛 烈 な悪臭は、そこにあるのが骨だけではないことを物語っていた。そこかしこに、まだ人間の形を保ったまま腐 乱 している死体が見える。死体の種類は様 々 だった。男、女、老人、子供。
冷静になって観察すれば、数メートルにまで積まれた眼 前 の山がすべて、人骨というわけではないことが分かる。ようするに、がれきの山の上に人骨が捨てられているのである。
吐 き気 と、そして恐 怖 と。どちらも似たようなものではあったが、それだけにふたつ相乗して襲 いかかってくるのを、オーフェンは感じていた。
「し、死体置き場ですか? ここ」
ふらふらと目を回して──文字通り瞳 孔 がぐるぐる回っている──、マジクが言ってくる。オーフェンは半 眼 になって答えた。
「それにしちゃあ、奥 ゆかしさっつーか、威 厳 っつーか、足りんものが多すぎるような気もするけどな」
うめきながら、足下で黄 塵 と白っぽい石 灰 の粉のようなものが混じり合っていることに気づく。骨が風化して粉になったものらしいが、だとすればかなり古い死体も混じっているということになる。
落ちている白骨も、砕 けるなり壊 れるなりしているものがほとんどだった。
「......どうやら、あそこから全部落っことされたらしいな」
見上げて、つぶやく。はるか上方──地下道の天 井 に開いた穴。そう思ってよくよく見れば、それは亀 裂 などではなく、四角い人工の穴である。
「ひょっとしたら、死体処理のダストシュートみたいなもんかもしれねえな」
「......死体をゴミみたいに捨てたりしないと思いますけど......」
鼻をつまんでいるせいで鼻声になって、マジクがつぶやいた。
ンなこと言ったってな──と、息をしたくないので胸中で答えて、オーフェンはクリーオウへ視線を転じた。彼女は、というよりレキは、のろのろとした動作でがれきの山をよじ登りかけている。確かに、壁 の断 層 をうまく登っていけば、あの天井の穴に入り込めるかもしれないが......
いや、そうではなかった。唐 突 になんの前 触 れもなく、レキが少し天井を見上げたあと──クリーオウとレキ、両方の姿がかき消える。
「転移しやがった!」
オーフェンは毒 づき、クリーオウが立っていた場所へ急いで飛び乗った。ディープ・ドラゴン種族の魔 術 は視線を媒 体 とするため、術者が立っていた場所から見える範 囲 に転移したことは間 違 いない。夜 目 が利 くならば、人間とは視界も違 うかもしれないが。
なんにしろオーフェンはがれきの上に立つと──なにやら、がれきや骨とは異質な、ぐにゃりとした柔 らかいものを踏 んでしまったらしいことは無理やり無視して──、天井の穴を見上げた。
穴は、天井 の隅 に開いている。が、完全な隅っこではない。四、五メートルばかり内側にである。あまりよくは分からないが、穴は斜 めに開いているらしい。わずかにこぼれている光を遮 る形で、どうやらクリーオウのものらしいシルエットが映っているのが見えた。レキは、彼女といっしょに穴の入り口まで転移していったわけだ。
「ど、どうします......?」
あとについて登ってきたマジクが、困った声を出す。
「どうするったって......」
頭をかきながら、オーフェンはうめいた。臭 いのせいでますますひどくなる頭痛に目 眩 を覚えて、一 瞬 、もうどうでもいいような心 持 ちになるが──
「あの断層を登ってみる──しか......ねえみてえだな。気は進まんが」
しぶしぶと、大きく崩 れている壁 面 を指さす。
地下道は、なにか大きな地 滑 りでもあったかのようにここで崩れていた。地下道を筒と考えれば、それが途 中 でぼっきりと折れて半分ずれ込んでいる。そんなふうである。あたりに山となっているがれきも、そのせいで生じたのだろう。なにが原因なのかは分からないが、亀 裂 はうまい具合に斜めに入っているため、ちょうど足がかりにできそうな形になっていた。一番近い足場は、ちょうどこのがれきの位置から飛び乗れそうな位置である。
天 井 の穴も、亀裂によって生じた隙 間 を広げた形で開いているため、この断 層 を登っていけばたどり着けることになる──ただ。
ぼんやりと、マジクがつぶやくのが聞こえた。
「天井に張り付いて五メートルは進まないと、穴に入れそうにはありませんけど」
「............」
自分の生徒の、的確で間違いのない完 璧 な推論に、オーフェンはどうしても賞 賛 を送る気にはなれなかった。
前述したが、穴は地下道の壁 にぴったりとついて開いているのではなく、少し通路の内側に寄っている。つまり──マジクの言った通り、蜘 蛛 のように天井を這 える生物でもなければ穴に潜 り込めそうにはない。
(......あの程度の距 離 なら......重力を中和して、空中浮 遊 できないこともないか?)
自分自身に問いかけて、即 答 できずに彼は腕組みした。
言えることは、ひとつだけだ──
「とにかく行くぞ」
「......なんか、いい手があるんですか?」
期待の色をにじませて、マジクが言ってくる。
オーフェンは嘆 息 して、かぶりを振 った。
「いんや。ただ少しでも天 井 に近くなれば──」
と、適当にあたりを指さす。彼は既 に、断層に向けて歩き出していた。
「こいつらから離 れられるだろ」
「......そですね」
恐 ろしげにあたりを──あたりに散らばった人骨やら死体やらを見回して、マジクがうなずく。
彼らは坂道になった断層を登りはじめた。
思ったよりきつい勾 配 を、十数メートルほど登る。ここまでくれば悪 臭 もだいぶマシになっていたが、登ってしまったことで、ひどく容 易 に死体を眺められるようになってしまっていた。例の天井穴から差している明かりに、人骨の山がぼんやりと照 らされている光景は、どうにも胸を悪くするだけである。
「な......なんとか」
最後の足がかりを踏 みしめて、天井近くまで上り詰 める。オーフェンは、ぜえはあと息を上げながら、あごの下の汗 をぬぐった。
「たどり着いた、な」
「こっからが問題ですけどね」
冷静に、マジクが指摘してくる。
とりあえず下を見やって、オーフェンはげんなりした顔を見せた。
「......飛んでくのは危険だな」
当たり前だが、床 までは登ってきたのと同じ距 離 がある。苦労して登ってきただけの高度を一秒少々で落下するのは、考えただけで彼を憂 鬱 にさせた。ばらばらに散らばっている人骨やら死体やらを見て、少なくともひとりぼっちにはなりそうにないと予想しても、あまり慰 めにはなりそうにない。
重力中和による空中浮 遊 は、制 御 が難しい。一 瞬 だけならまだしも、口を開けている穴 までの距離──五メートル少々──というのは、成功率が低いとまではいかないが、なかなかに難しい数字ではある。空間転移は言うまでもない。
(できるか......?)
それでも一応オーフェンは、試 しに重力中和の構成を編 もうとした。が──
複雑な構成は、すぐに霧 散 した。頭痛のせいで集中できない。
「傷は治ってるはずなんだけどな......」
脳 震 盪 のような後 遺 症 は、なかなか消えない。毒 づいて、彼はマジクの顔を見やった。
なにか言おうとして口を開ける。が、それはそのままため息に化けた。
「どうかしたんですか? お師 様 」
聞いてくるマジクに、オーフェンは弱々しく手を振った。
「......いや。お前にできねえかなと思ったけど、考えただけ馬 鹿 だった」
そして、なんとか次の手を考えようと爪 を噛 む。それだけのことだった。ことだったはずだが。
多少、彼が予想していなかった反応が返ってきた。むっとしたような、マジクの声。
「馬鹿ってことないでしょう。やってみますよ」
「あのな」
オーフェンは、肩 をコケさせた。呆 れてつぶやく。
「つっぱるのは構わんが、やる気だけでできるもんじゃねえんだよ。魔 力 の強さってのは確かに先天的なもんで、お前がそれに優 れてることは認めるがな。構成を編む精度や魔 術 の制御力は、訓練で培 うしかねえんだ。別にお前が劣 ってると言ってるわけじゃない。ただ、まだ未 熟 だと言ってるんだ。ンなものは、いつか必ず克 服 できるんだから──」
あわてるこたぁねえだろ。そう言おうとして──
オーフェンは、ふと動きを止めた。マジクはもう、こちらを見ていない。
両手を胸の前で合わせて──ただし触 れ合わせてはいない──、手の間の空間をじっと見つめている。その場所になにがあるわけでもない。ただなにかの気 配 だけが収 束 していく。
そして、はっきりと見える。マジクの身体 の周 りに、幾 重 にも広がっていく膨 大 な構成。巨 大 で複雑で、そしてある意味単純な、ひとつの構成。
「お前──」
ぞっとしながら、オーフェンは叫 んだ。
「やめるんだ!」
こちらの制止も、集中しているため聞こえないのか──あるいはほかに理由があるのか──マジクは動かない。オーフェンはとっさに、少年の身体をつかもうと手を伸 ばした。が、刹 那 。
「我 は跳 ぶ──」
りんとしたマジクの声が、響 く。
「天の銀 嶺 !」
魔 術 が発動する。
(間に合わなかった......!)
覚 悟 を決めて、オーフェンは歯を食いしばった。
感覚が消える。
次の瞬 間 には、彼らふたりは宙に浮 いていた。ゆっくりと──それまでへばりついていた断 層 を離 れ、虚 空 へと進む。
頼 りなげに宙を進む自分の身体を、オーフェンは冷 や汗 をかきながら見下ろしていた。手も足も空中に放 り出されたまま、為 す術 もなく進んでいく。すぐそばで、マジクがさっきのポーズのまま意識を集中して、必死になって魔術を制御しているのが見えた。
愕 然 と、オーフェンはただそれを見つめていた。正直なところ、マジクはよくやっていると言える──オーフェンは認めざるを得なかった。難しい構成を完成させ、それを維 持 している。無重力状態で感覚も不安定になり、上も下もない状態では、正常な集中力を保 つことは難しい。見ているうちにもマジクの身体が震 え、目も血走っていく。苦しげにうめく息。制 御 が身体 に負 担 となっているのは明らかだった。やがて、ふたりとも、例の天 井 の穴へと入っていく......
穴は斜 めに開いていて、ちょうど前に言った通り、ダストシュートのように思える。大きさは、縦 横 二メートルというところ──これなら死体を転がしても途 中 で引っかかるということはないだろう。かなり急な勾 配 がついているが、壁 面 には凹 凸 がついているため、よじ登るのは難しくないだろう。
──というところで、身体に重さがもどった。
「──っ⁉ 」
オーフェンはとっさに手を伸ばすと、一番近い壁面のへこみに指先をねじ込んだ。勾配に足を滑 らせつつも踏 みとどまり、もう一方の手でマジクの身体をつかむ。
マジクは完全に魔術で力を使い果たしたのか──もともと疲 労 で余力など残っていなかったろうが、抵 抗 もできずに転げ落ちる寸前だった。ぎりぎり、指先だけでマントの襟 を引っかけてから、なんとかつかみなおす。壁面に突 き立てている指先に、ひきつれるような痛みが走った──二、三枚は爪 が剥 がれたらしい。その血で指先が滑りそうになったことに戦 慄 しながら、膝 の筋肉をゆるめてバランスを取る。
なんとか数秒、その体勢を保持してから、オーフェンはじわじわと両腕を引き絞 った。
マジクはぐったりと、下を見つめている。わずかに身体 を震 わせている少年を、ゆっくりと引き寄せてから──
「こンの──」
オーフェンは怒 鳴 りつけた。
「ドアホ! なに考えてやがる!」
「う......う......」
こちらは見ずに、マジクがうめき声をあげる。
「うまく......いった、でしょ?」
「馬 鹿 こけっ!」
下を──つまり、十数メートル下の床 を見たままのマジクに、オーフェンはさらに声をあららげた。マジクはもう体力が残っていないのか、哀 れなほどに肩 をすぼめている。力の抜 けた彼の身体を腕一本だけで支えて、オーフェンは渾 身 の力を振 り絞 った。壁 のへこみをつかみなおし、身体を勾配に対して立てていく。
マジクは自分も、壁に対して腕を立てようとしたようだったが──腕を少し震わせただけで、動くことはできなかったようだった。それを見ながら、オーフェンは小さくつぶやいた。

「......動けねえんだろ?」
「............」
マジクは答えてこない。
ほおがひきつるのを感じる──表情が険 しくなっていくのを煩 わしく思いながら、オーフェンは続けた。
「お前ひょっとして魔 術 を使ったあとは、大 抵 そうなんじゃねえのか?」
「大きな魔術を使うと......疲 労 するんです。でも制 御 に成功しさえすればそんなことはないし──それは、当たり前のことなんでしょう?」
「なんで今まで相談しなかったんだ!」
オーフェンは吐 き捨てるように言うと、今までそれを聞こうとしなかった自分を呪 った。言っておかなければならなかったのだが、気づかなかった──自分自身が、魔術の制御に失敗することなどほとんどなかったせいで、失念していたのだ。
「お前はそれが、どんなに危険な状態なのか分かってない」
「だって、当たり前──」
「知ったふうなことを言うな!」
大声で叱 りつける。と、マジクが身体をすくめるのが分かった。なにを怒 られているのか分かっていないのか、きょとんとこちらを見返している。
頭を抱 えたいが、腕が足りない。ましてや殴 りつけるにも足りてない。舌打ちして、あとを続ける。
「考えたことはなかったのか。制御に成功した時は、疲労を感じたりはしないんだろうが? 言っとくが、術後の疲労度ってのは、制御の成否には関係ない。関係ないんだ! 制御を失敗した時に身体が動かなくなるほど疲労を覚えるのなら、成功したって同じだけの体力を使うはずなんだよ」
分かったのか分からないのか、マジクが目をぱちくりとさせる。オーフェンは声を震わせた。
「じゃあ、なんでお前は疲労したりしなかったり、そんなことになるのか? お前は別に、疲労してるんじゃない。衰 弱 してるんだ」
つかんでいる襟元に、さらに力を込 める。
「そうだよ! 魔術は物理法則からは完全に独立している。だが、それにもかかわらず物理現象に作用している──この意味が分からねえのか? 魔術は、制御 されて初めて魔術なんだ。そして制御されている間しか魔術でいられない。制御から外れれば、ただの物理力にもどるんだよ。つまり物理法則に従 いはじめる。まっさきに現れるのがなにか知ってるか? 反作用だ。見習い魔 術 士 の死亡率が極 端 に高い理由がそれだ!」
怯 えたように視線をそらしたマジクを追いかけて、オーフェンは目をつり上げた。
「お前はかろうじて魔術を制御しているに過ぎない。生じた反作用で、自分自身をも標 的 にしてるんだ! いいか──今より少しでも低いレベルで制御をしくじれば、確実に死ぬことになるんだぞ!」
言っておかなければならなかった──
(最初に言っておかなけりゃならなかったんだ! くそ!)
にらみ付けるが、マジクはまだ目をそらしたままである。自分のこめかみで脈打つ音と、頭痛とが相まって、オーフェンは脳 幹 に異様な痛みを感じていた。
そして──唐 突 に、マジクが、きっ、と視線を返してくる。
「でも......お師 様 にはなにもできなかったじゃないですか」
「......え?」
なにを言われたのか理解できず、オーフェンは聞き返した。マジクはそれで口をはさむ隙 を見つけたのか、襟 をつかんでいる彼の手首を、強く握 ってきた。
「お師様がなにもできないようだったから、ぼくがやったんじゃないですか。なら、お師様に怒 られるいわれなんてないですよ!」
「お前な──」
オーフェンは言い返そうとするよりも早く、マジクに手を振 りきられた。マジクは一度危なっかしくバランスを崩 しそうになりながらも、なんとか手がかりを見つけ、そこに張り付いた。あまり格 好 のいい体勢ではないが、真 剣 にこちらを見 据 えて、言ってくる。
「お師様は......」
少年はそこで、一度躊 躇 したようだった。だが、なにかを呑 み込むように喉 の奥 を動かすと、静かな声でささやくように言う。
「お師様はまるで、ぼくに嫉 妬 してるみたいだ」
血管が大きく脈打ち──
頭痛が激 痛 にまで強まって、オーフェンは身体 をわななかせた。瞬 間 。
「きゃあああああああっ!」
クリーオウの悲鳴が、穴の上方から響 きわたってきた。
「────⁉ 」
声は近い──
勾 配 の続く上方を見上げてオーフェンは、マジクから手をはなした。壁 に手をつき、登りはじめる。
あえて振 り返りはしなかったが、あとからマジクがついてきていることは気 配 で知れた。足を滑 らせないよう注意しながら、ひたすら急ぐ。
穴自体は何メートルも続いているわけではなかった。せいぜい、三メートルほどか。足場が足場であるため、そう簡 単 には登れなかったが、それでも一分少々でオーフェンはその穴から身を乗り出していた。死体を落とすための穴。転がすための勾配。そこから顔を出す。
そこは、通路になっていた。
ダストシュートというのは、あながち間 違 っていなかったのかもしれないと、オーフェンは思いはじめていた。通路に対して直角に、穴は開けられている。つまりは死体をこの通路まで運んできて、この穴に突 き落とすわけである──落下した死体は、そのまま地下道で風化していく。この穴から漏 れる、わずかな明かりを仰 ぎながら。
とはいえ死体を捨てるダストシュートなど、あるわけがない。
「いや......」
オーフェンは通路に下りて、唇 を噛 んだ。ある。
彼は通路を左右に見回した。マジクがおずおずと──居 心 地 悪そうに、穴から顔を出してきている。さっきのことを気にしているのか、こちらに目を合わせようとはしてこなかった。
だが今は、そんなことはどうでもいい。
額 に軽く手を当てて、オーフェンはうめいた。
「最悪のことになっちまったかもしれねえな」
通路には地 下 牢 が並んでいた。
赤 錆 がびっしり浮 いた、重そうな扉 が続いている。通路の壁はすべて堅 固 な石造りで、ところどころに松明 が燃えている以外に光 源 はない──湿 っぽい空気も、暑苦しい雰 囲 気 も、そしてあまりにも静かすぎる影 も、地下室特有の雰囲気をすべてなぞらえていた。壁の向こうにはなんの気配も感じられない。ただ土の重さが、分厚い石 壁 を通しても通路に染 みだしてきている。
空気に混じっている黄 塵 は、地下道よりさらに濃 い。視界がぼやけるほどの砂が、ふわふわと渦 巻 いていた。
腐 敗 臭 が鼻 孔 をくすぐる。オーフェンは緊 張 を高めて、拳を握 った。
「地下 牢 だな。結局これは、牢で死んだ人間を捨てるための穴だった、てわけだ」
と、自分たちがくぐり抜 けてきた穴を一 瞥 してから、また視線を移す──通路へと。
通路はあまり広くはない。大地下道のことを考えれば、ますますせまく思えたが、だがそもそもはこちらが正常だろう。地下に大きなスペースは作れない。特に、この上に建っているであろう建築物が大きければ大きいほどに。上になにもないのなら、地下に施 設 を作る必要もないであろうから、地上が空き地になっていることはないはずだ。
通路はかなり長かった。通路には、互 い違 いになる形で、左右両方の壁に扉が並んでいる。扉には小さなのぞき窓と、扉の下に食事を差し入れるためのものか、隙 間 が開いていた。ただ──この腐臭をかげば──あえてそれをのぞいてみたいと思わなかったが。
「......なにが最悪なんですか?」
小声でマジクが、聞いてくる。ただしあくまで目を合わせてはこなかったが。
オーフェンは肩 をすくめる。
「地下牢なんだよ。分かるだろ? 当然、出入り口は、囚 人 が逃 げないよう監 視 されているはずだ。この街 の衛 兵 なら、俺 たちに友好的に接してくれるとは思えんね」
「ぼくとお師様と、それにクリーオウが回復すれば、レキの魔 術 だってあるんです。戦って勝てないことは──」
ぼそぼそと言ってきたマジクに、オーフェンは怒 りの視線を投げた。口をつぐむマジクに、噛 んで含 めるように言い聞かせる。
「お前は二度と魔術を使うんじゃない。いいな?」
「......そんなことを言ってる場合じゃないでしょう? この状 況 じゃあ、武器になりそうなものはなんだって──」
「どんなことがあろうと諸 刃 の剣 を使うつもりはない。完全な制 御 法 が身に付くまで──何年かかるか分からねえが──、お前の魔術は使用禁止だ。構成を思い浮 かべたりもするんじゃねえぞ。命令だ」
「でも──」
と抗 弁 してくるマジクに──ここで初めて目が合ったが──、オーフェンは、きっぱりとかぶりを振 った。
「違 反 すれば破 門 だ。自分の師の指示すら聞けねえ生徒を、俺がいつまでも我 慢 してると思うなよ」
「横 暴 ですよ! お師様だって──」
マジクはそこで言葉をいったん切り、意を決したように表情を変えてあとを続けた。
「フォルテさんが、言ってましたよ。お師様だって、いろんな人が止めるのを聞かないで《牙 の塔 》を飛び出したんじゃないんですか⁉ 」
「それとこれとは違う」
オーフェンは歯を軋 らせるように吐 き捨てると、
「それに、口論してる暇 はねえ──クリーオウを探さないと」
そして、再び左右を見回す。
かなり離 れた場所に、ただひとつ開いている扉 を見つけ、オーフェンは瞳 の焦 点 を絞 ろうと目を細めた。通路にたくさんある扉は、どれもこれも同じ形である。そのうちのひとつだけが、ねじ曲げられたように開いている。
というより、こじ開けられていた。鍵 を、ではなく扉そのものを。
「あそこだ」
オーフェンはささやくと、マジクを手で促 してそちらへと足を向けた。通路はそれなりに長く続いているとはいえ、しょせんは地下のもので、二十メートルはない。向こうの端 に、地上に続いていそうな階段も見えた──その手前に、鉄 格 子 が縦と横のひとつずつ、二重に通路を閉 ざしているのも見えたが。
とにかく開いている扉へと、オーフェンは駆 け寄った。看 守 の姿がどこにもなかったのは、不幸中の幸いだった。恐 らくは、看守の詰 め所 は例の階段の上にあるのだろう。声が響くので、小声で会話するのも危険なようだが──あちこちの扉の向こうから、時 折 思い出したように悲鳴やら叫 び声やらが響くため、さきほどのクリーオウの悲鳴も、さして目立ちはしていなかったようだ。
石造りの通路で足音を立てないのは無理であるため、そのあたりは開き直って、オーフェンは壊 れた扉の前まで走り寄った。豪 快 な肉屋でサービスしてくれる分厚いステーキ肉を連想させるような、厚い鉄製の扉が、なんの気なしにふたつに折れてねじれている。こんなことができるのは、レキの魔 術 以外にはない──とオーフェンは確信して、扉の奥 を見やった。薄 暗 い独 房 の中に、揺 らめく金 髪 が見える。背中を向けたクリーオウが、頭にレキを乗せたまま立ちつくしていた。
とりあえず無事らしい。悲鳴をあげたということは意識を取りもどして、精神支配も解けたということだろう。ほっとしてオーフェンは、声をかけた。
「クリーオウ。大 丈 夫 か──」
ばっと、金髪の少女は振 り返ってきた。一 瞬 、振り返ってきて「それはこんな顔かい?」とかいう展開を思い出したりもしたが──一応こちらを向いたクリーオウの顔は、特にどうという変化があったわけではなかった。ただあちこち薄 汚 れていて、そして驚 愕 しているだけである。
(......驚愕?)
オーフェンはふと、訝 った。突 然 こんな場所で意識を取りもどせば驚 きもするだろうが、驚愕というほどでもなかろう。地下道だろうと地 下 牢 だろうと、実際どうということでもない。
だがクリーオウは文字通り、驚愕しているようだった。口から泡 を飛ばして、ばたばたと腕を振 る。
「大変よ、オーフェン!」
少女は気安く駆 け寄ってきて、気を引くようにこちらの手を握 った。それをぶんぶんと振り回すようにしながら、上気した顔で言ってくる。
「本当にわたし、いきなり水に流されたと思ったらこんなとこに出てて、なんだか夢見てたみたいなんだけど、あ、考えてみたらこっちのほうが夢見悪いみたいね。だって牢屋なんだもの。牢屋って大 嫌 いなの」
「......まあ、あまり好きって奴 もいないと思うが」
オーフェンのつぶやきに、クリーオウはうんうんとうなずくと、手をはなして今度は頭上のレキをぺしぺしたたきはじめた。黒い子ドラゴンは迷 惑 そうに逃 げるが、せまいブロンドの頭の上で、逃げ場があるわけでもない。
「でも実を言うとね、この子がわたしを連れてきてくれたらしいのは、なんとなく分かったのよね。なんか夢うつつに、誰 かに手を引かれて歩いてたみたいな感じはあったから。それでね、なんとなく行き先に、助けてくれそうな知り合いがいるんじゃないかって、そんな感じもあったの。でね、それで大変なの!」
相変わらずのきんきん声で、まくし立てる。オーフェンは不安になって、通路のほうを見やったが、看守が下りてくる気 配 はないようだった。マジクが一応、そちらを見張っているようだったが。
「大変?」
もうこれ以上大変てこともねえだろうけどな、と胸中で付け加え、眉 を上げる。
「はっきり言ってクリーオウ。大変なことなら、もう聞きたくねえんだ」
「でも、聞いといたほうがいいわよ。それにどうせ、すぐに気づくもの──」
と、彼女は背後を示した。短い腕をぴんと伸 ばして、牢屋の奥 のほうを指 す。
オーフェンもそちらを見やり、そして──
「......?」
目を、ぱちくりとさせた。牢の奥の暗がりには、なにが原因だか知りたくもない染 みがついたぼろぼろの敷 布 がある。だがそれだけで、ほかにはなにもない。
「あれ?」
指さしたポーズのままで、クリーオウ当人も、虚 を突 かれたような声を出している。
「おかしいわね。今ここで人が死んでたのに」
恐 ろしいことを簡 単 に言ってくれる。
(自分が言ってることがなんだか、分かってねえんじゃねえだろうな......)
ぶつぶつとオーフェンは、独 りごちた。聞かれればまた面 倒 くさいことになりそうなので、声には出さないが。通路には明かりがあっても、牢 の中にはなにもない──無論、窓もない。その暗 闇 が自分の表情を隠 してくれていることに感 謝 しつつ、オーフェンは嘆 息 した。
「死体だぁ?」
聞き返す。クリーオウは、レキを落としそうになるほどにはっきりとうなずくと、
「ええ。ここに転がってたの」
「転がって──」
「寝 てただけさ」
首筋に、ひんやりとした感 触 を覚えて──
オーフェンは、とっさに飛 び退 いた。どちらにというわけでもない。ただ、その場から跳び出す。クリーオウを突き飛ばし、反射的に戦 闘 体勢を取る。振 り向いた先にいたのは、ひとりの男、それも見覚えのある男だった。
背後から忍 び寄り、こちらの首に手をかけていたらしい。右手だけを差し出したポーズで、その男は笑 みを浮 かべていた──拗 ねた眼 差 しで。どこかひょろりとした体格の、若い男。斜 めに構えてこちらを見 据 えている。
「............」
その男の名前を、忘 却 の淵 ぎりぎりで思い出し、オーフェンは口早につぶやいた。
「サルア?」
「......ああ。ようやくお前は......来てくれた、ってわけだ。サクセサー・オブ──」
「その名前を呼ぶなっ!」
オーフェンは思わず叫 ぶと、その男──サルアにつかみかかった。伸 ばした手がサルアの着ている礼服のような白いローブに触 れて、べちゃり、と異 様 な音を立てる。
(......べちゃり......?)
感触に、手の甲 がひきつるのを感じる。冷たく、そしてなま暖 かい。地下牢すべてに充 満 する生 臭 い腐 臭 と、源 を同じくする異 臭 。
「ま、そういうこった......」
つかんだ腕を──弱々しく振 り払 い、サルアは口の端 をにやりとさせた。血に染 まった歯が、わずかにのぞく。
「そっちの金色のに、死体と間 違 われんのも、しゃあねえかもしんねえよな」
「お前......」
オーフェンは絶句して、ふらりと一歩、後ろに退 いた。立っていたクリーオウが背中に当たるが、そんなことに構っていられない。
サルアは満 身 創 痍 ──というよりも、単に五体がそろっているというだけで、身体 に無事な箇 所 はないような有 様 だった。ローブは白いが、あちこちに血が染 みだして真っ黒な血 痕 を見せている。左肩 を異様に下げているのは、関節が外れてでもいるのか。なんとか両足で立ってはいるが、どう見てもバランスが悪い。どちらかの足首が折れているのかもしれない。そして、先ほど触 れられた首筋を自分の指で撫 でてみて、オーフェンは顔をしかめた──べっとりと血がついている。サルアの指先には、一枚たりと爪 が残っていなかった。
「オーフェン......」
背後から服のすそをぐいと引っぱり、クリーオウが聞いてくる。
「知り合い? わたしもなんか、どこかで見たことあるような気がするけど」

それを聞いて、サルアが首をコケさせる。
オーフェンは少女を見下ろすと、半 眼 になって告げた。
「そーいや、お前は確か背後から、こいつに斬 りかかっただけだったからな。覚えてないかもしれねえけど......」
「そうよね。知らない相手に斬りかかることなんてよくあることだし」
「......俺 って、こんなのに殺されかかったのか......?」
心 底 傷ついたのか、ぼろぼろの手で頭を抱 えてサルアがうめく。ただし、やはり左腕はあがらないようだったが。
本気で忘れているらしいクリーオウの頭をぽんとたたいて、オーフェンは答えた。
「前に《フェンリルの森》に入った時、村にいた殺し屋だ。このキムラックの......死の教師、サルア・ソリュード。だったよな?」
「自分の名前は人に言わせねえくせに、俺のこたぁべらべら言ってくれるじゃねえか」
皮 肉 げにそう言うと、死の教師はまばらにひげの生えたあごをさすって見せた。
「ま、知られたからってどうってことはない。今は見た通りの半死人だ」
「てゆうか、誰も覚えてない死体なんて、幽 霊 よね」
朗 らかに指 摘 するクリーオウに、サルアが少し疲 れたような声 音 で答える。
「......なかなか鋭 い意見だ。偉 いぞ」
「オーフェン。ひょっとしてわたし、馬 鹿 だと思われてるのかしら」
「知らないほうが幸福なことだってあるぞ」
それだけ言って話題を打ち切ると、オーフェンは牢 の中を適当に見て回った。といったところで、ほとんど動かずにあちこち向いただけだが。見た限り、食器が残っているわけでもなく、部屋の隅 にある便器を使った形 跡 もない。つまり──
「ここに入れられて、長いこと経 った、てわけでもないみたいだな」
「牢の中で過ごす二日間が短いだなんて思うもんじゃねえぞ。ここで手慣れた 連中に尋 問 を受けりゃ──見れば分かるだろうが──出るもんなんざ出なくなるぜ」
ぶつくさとぼやくサルアに、オーフェンは笑う気にもなれず嘆 息 した。
「試したくはねえな。あの穴から捨てられた骨の山を見てきたもんでね」
と──
突 然 、マジクが牢に飛び込んできた。廊 下 を指さして、
「......看 守 が来ますよ!」
「さすがに、騒ぎすぎたな」
軽い口 調 で、サルアがぼやく。
かつ、かつと規則正しい靴 の音──階段を下りてくる靴の音を聞きながら、ぶつぶつと続けている。
「あの足音を聞くと、憂 鬱 になるんだよな。ここの連中も、たまにゃスキップくらいすりゃいいのによ」
「黙 ってろ」
オーフェンは冷たく言うと、通路に落ちている、壊 れた扉 を苦 々 しく見つめた。牢に引きずりこむ余 裕 はないし──どのみち扉がなければ、看守 が興 味 を持たないはずもない。クリーオウに、というよりレキに対して、オーフェンは皮 肉 った。
「......いつかちゃんと、鍵 の開け方を覚えろよな、お前」
「鍵がかかってても扉が開けられるのに、わざわざ鍵から外すのは二 度 手 間 じゃない」
口をとがらせて大まじめな顔で、分かるような分からないようなことを言ってくるクリーオウに、オーフェンはあえてなにも言い返さなかった。足音がかなり近づいてきていたのだ──階段を下りきったらしい。
通路の向こうから、若そうな男の声が聞こえてくる。
「......なんだ?」
「脱 走 か? 扉が、あんな──」
と、そのまま言葉を失ったらしい。厚さ三センチもある鉄 扉 が、紙 屑 のようにくしゃくしゃに丸められていれば、そんなものだろう。
「奴 らは、必ずふたりでやってくるぜ」
薄 目 に笑 みを浮 かべ、小声でサルアが忠告を発する。
「ひとりずつ、一 撃 でやりな。ちっとくらい派 手 にやったって、上にゃ聞こえねえよ。尋 問 中の悲鳴ですら、聞こえてねえってんだから」
「上?」
レキを胸に抱 きなおし、黒い毛並みにうっすら積もった黄 塵 をぱっぱとはたき落としながら、クリーオウが聞き返す。彼女はきょとんと上 目 遣 いになって、あとを続けた。
「......そういえば、ここってどこなの? まだ地下よね」
「なんだよ。知らねえで来てたのか?」
サルアは呆 れたようだったが、確かにここがどこなのか、オーフェンにもまったく見当がついていなかった。
通路から、がちゃがちゃと重い鉄の音──鉄 格 子 を開けているらしい。鍵が錆 びついてでもいるのかかなりもたついて、看守たちの毒 づきも聞こえてきている。
牢の入り口わきの壁 に、身を隠 すように張り付いて、オーフェンは拳 を固めた。サルアの言う「派手」がどの程度のことだか知らないが、武 装 しているかもしれない看守をふたり、素 手 で倒 すつもりはなかった。それでなくとも疲 労 が激 しい。彼は意識の一部を眠 るように集中させて、魔 術 の構成をイメージしはじめた。
それでも頭のどこかを会話へ傾 けて、つぶやく。
「地下道で迷子になったんだよ。お前の仲間──ネイムとかいったか──にはめられてな。で、そこの尻尾 の生えた毛玉が俺 らを先導して、ここに来たってわけだ。どうも人間の臭 いかなにかを頼 りにここにやってきたらしいんだが」
サルアはなにも答えてはこなかった。疲 れていたのかもしれない。
マジクが、クリーオウをかばうように入り口の前に陣 取 っている。少年に、魔術の構成を編 もうとしている気配がないことに、オーフェンは少しほっとしていた。機 嫌 は損 ねたかもしれないが、こちらの言ったことだけは、理解していなかったわけでもないようである。
頭痛が脳 幹 を揺 さぶっていた。激しくではなく、緩 やかにちくちくと。脂 汗 ──もしくは冷や汗を額 に浮 かべて、オーフェンは乾 いた唇 に唾 をつけた。舌でなめると、苦 い砂の味がする。キムラック全土を覆 う、死んだ砂の味。
鉄格子が開いたらしい。ちょうつがいの軋 む音が、無 遠 慮 に神経を逆 撫 でしてくれる。オーフェンが身体 を緊 張 させている時──
静かに、サルアがつぶやいた。
「......ここは、ユグドラシル神 殿 の地 下 牢 ──余人の知らない神殿最 下 層 《詩 聖 の間》の、さらに下だ」
通路を足早に駆 けて、牢の入り口に姿を現したのは、ふたりの神 官 兵 だった。
神官兵という呼び名は、昨日、死の教師であるネイム・オンリーに聞かされたものである──頭の中でその単語を閃 かせながら、オーフェンは神官兵なるものがそもそもどういった仕事をしている役人なのか、分かっていなかった。神官らしく白い服をまとっている。よくよく見れば、サルアが着ているものもまったく同一のものである。どこか鎧 を思わせる、重そうな生 地 と、かっちり固まったデザイン。フードはややたっぷりめで顔が隠 れているわけではないが、顔の下半分を黒いマスクのような布で覆 っている。鋭 い眼 光 だけが、外にのぞいていた。サルアが言った通り、確かにふたりである。
彼らが手に警 棒 を握 っているのを見ながら、オーフェンは編み上げた構成に魔 力 を流し込もうとした。刹 那 ──
じぃんっ──!
金属音にも似た不快な音が、頭を突 き刺 す。と同時に視界が真っ暗になった。うねるような痛みが喉 の奥 から脳を侵 食 する。激 痛 の侵 略 は、たった一 瞬 で彼の全身を支配した。
「ああああああっ⁉ 」
自らの身体 を抱 きしめ、叫 ぶ。
(やっぱり──やっぱり、そうか!)
絶 叫 とともに、視界が少しだけ回復する。夕 闇 のように暗く白く閉 ざされた視界に、こちらに向かって飛んでくる、細長いものが見えた気がした──
次の瞬 間 には、警棒 に打ち倒 され、オーフェンは壁 まで吹 き飛んでいた。痛みは感じない──それ以上の痛 覚 が既 に働いている──が、衝 撃 だけは感じることができる。火 薬 が弾 けたような一 撃 は、警棒のものだ。立て続けに後頭部に当たったのは、牢の壁だろう。こちらのほうが重く、硬 い。乱 暴 な子供の手で振 り回されるぬいぐるみのように、オーフェンはなにもせずにその衝撃を甘 受 した。
やがて、天 井 へと焦 点 が合う。彼は床 に倒れていた。
「オーフェン⁉ 」
「お師 様 っ!」
クリーオウとマジクの声が、遠くから聞こえてくる。せまい牢の中、距 離 にすれば二メートルも離 れていなかったろうが、それにしてもオーフェン自身が遠くに行きすぎていた。気絶したいというのに、それができず──彼は声なき声で、同じことを叫びつづけた。何度も繰 り返した。
(そうだ──やっぱり──そうだ──)
喉に痰 が詰 まり、息があがる。頼 りになりそうにない視覚だけではなく、ぼやけた五感を総動員してなんとか、あたりの様 子 を探 った。サルアが、あの傷ついた身体のどこに余力を残していたのか、神官兵のひとりから手 際 よく警棒を取り上げ、一瞬で相手を打ち倒している。クリーオウとマジクとが、残ったひとりを取り囲んで、特にクリーオウがなにやらやたらひどいこと──よく見えないが──をしているらしい。
そう。よく見えなかった。視界が薄 れていく。涙 だ、と彼は驚 き半分で気づいた。残りの半分は──笑い出したい気分だった。
震 える手で涙をぬぐうと、多少はマシになった。神官兵ふたりはとうに倒れて、やたら嬉 しそうなクリーオウに、ロープで縛 り上げられている。さっきマジクが、オーフェンを引きずってくるのに使っていたものだ──もとは、地下道に下りてきた神官兵たちが使っていたものを拾ったらしいが。だが、そんなことはどうでもいい。
「お師様......?」
怪 訝 そうな表情で、マジクが近寄ってくる。サルアは倒れた神官兵の横に立ったまま、その場から動けないようだったが、視線だけはこちらに向けている。オーフェンはどちらも見返さなかった。見返すことができなかった。
涙をふいた手をそのまま、開いて天 井 に向ける。ゆっくりと簡 単 な構成を編 む。ごく単純な、誰にでもできる構成。簡単すぎて悲しくなるほどの、構成。
彼は、かぶりを振 った。
構成は、知らないうちに彼が意 図 していたものとはかけ離 れた形に変 貌 していた。ばらばらで、まったく意味を成さない。部分部分を取ってすら、まったく形になっていない。構文どころか文字にすらなっていなかったかもしれない。崩 壊 した構成は、いくらまとめ上げようとしても、ただ無意味に広がっていくだけだった。砕 けた破 片 が、水の中に溶 けていくように。
呆 然 と、オーフェンはうめいた。声がうわずっているのが、自分でも分かる。
「駄 目 だ......俺 は......もう駄目だ」
遠鳴りのようにどこからか、しかし無 辺 に──頭の痛みが激 しさを増していく。どこまで逃 げても追いかけてくる、執 拗 な痛み。彼はうめいて、痰を吐 き出した。
「魔 術 が──使えなくなった!」
叫 ぶ。重い沈 黙 が、あたりを支配した。クリーオウの鼻歌さえも、ぴたりと止まり──
「............へ?」
間の抜 けた声で、聞き返してくる。オーフェンは開いていた手を、そのまま警 棒 で打たれた額 へと当てた。砂の混じった血の感 触 が、指の間を湿 らせる。彼は言葉もなくただ、呆 気 に取られたクリーオウの顔を見つめ続けた。
◆◇◆◇◆
「生 贄 ?」
返ってくる声は固い。乾 いたかさぶたのようにこわばって聞こえてくる。
「汝 らは失敗作だ。生贄にもなれなかった」
彼女はきっぱりと、そう言い返してきた。そして──唐 突 に力を抜いて、うなだれる。
「......幾 度 と繰 り返させるな。気が萎 える」
「あなたはいつだって失望してきたのではないのですか?」
特に意味があって、言ったことではなかったが──男は、自分の言葉が彼女に与 えた影 響 に気づいて、意表を突 かれた。脱 力 してなおどこか強さを感じさせていた彼女の美 貌 に、今度こそ決定的にひびが入る。身体 すらわななかせたかもしれない。イスターシバは、静かに顔を上げてきた。緑色の瞳 が揺 れている。
「......そうだ。我 らはあの日から、常に絶望と相 対 してきた。だが」
と、毅 然 とした仕 草 で首を起こす。
「あなどるな! 我らは常に戦ってきた のだ! 顔を背 けたことは一度としてない。汝 らに──」
彼女の双 眸 が、痛 痒 に耐 えるように閉じられた。彼女の髪 が、さらりと揺れる──震 えたのだ。
「汝らにもそれができるのか、我らには......分からないが」
「そのために、我々には真実を語れなかった、と?」
短 剣 を手の中でもてあそび、彼は聞いた。ふっ、とイスターシバが笑 みを漏 らす。
「真実ではない。事実だ」
彼女はこだわった。
「......ただ起こったこと。それだけだ。その意味まで語るほど、我らは傲 慢 ではない」
「むしろ、あなたがたは臆 病 だったのではないですか?」
これもまた、深い意味があってのことではない。だが今度は彼女は、表情を見せてはこなかった。ただうなずく。
「そうだ」
数百年を生きてきたその声は、凍 るように冷たかった。
「我らは臆病だった。滅 びに対しても臆病だったと認めざるを得まい。だが──汝にそれを言う資格があるのか? 我らより、さらに脆 弱 なる汝らに? 我らは滅びを知らぬ種 。そう、それ故に運命 の名を自らに冠 した。ウィールド・ドラゴン=ノルニル! 運命を超 越 し、常世界法則 を解 析 し、〝ユニット〟の首長となった。我らこそが、世界を管理するノルンたち ......永世の魔 女 となるはずだった......」
「なぜ、できなかったのです?」
彼女は即 答 してきた。
「既 にいたのだ。管理者は。いや──いなかった のだと言うべきかもしれぬ。汝を混乱させるだけかもしれぬが、それが正しい。運命の女神はいなかった。それゆえに我らは勘 違 いした。だが彼女らは現れたのだ」
正しかったのは──
それが自分を混乱させるだけ、という部分だけだったかもしれない。男は、苦 々 しくそう感じた。理解できない。
「我ら種族に管理できたのは、せいぜい、この大陸だけだった。ちっぽけな、大陸とも呼べぬこのキエサルヒマ大陸だけ。巨人の大陸 は破 滅 した。いや──この世界、この宇宙、すべてが灰 燼 に帰 した。蛇の中庭 すべてが、現出したシステムの餌 食 となった......」
「分かりません、母よ──」
「理解せねばならぬ! 汝らこそが、第七のユニットなのだから!」
「ユニッ......ト?」
彼は、怪 訝 に聞き返した。聞いたことのない単語である。イスターシバは──
眼 差 しを鋭 くした。
「ユグドラシル・ユニット......現出した神々は、我らのことをそう呼んだ。我ら、ドラゴン種族のことを。そして」
口の中に苦い汁でも湧 いたように、苦 悶 の表情を見せる。
「我らすべての運命を破 壊 した。これは汝らにも起こり得る。汝らが警 戒 せねばならぬことは、それだ──」
「分かりません!」
彼は、絶 叫 するように繰り返した。彼女がなにを言っているのか、さっぱり分からない。混乱した頭の中で、彼はただひたすら自制していた──この場を逃 げ出したりしないように。
「現出? 神々? なんのことですか。ええ、あなたがたの伝説は知っていますよ。神々から魔術を盗 み出したのだ、と。ですが、あなたがたはこうもおっしゃりました──この大陸に、神々はいない、と!」
「この大陸には」
返ってきたのは──
またもや固い声。そしてしごく平静な、冷たい声だった。少しかすれた、美しい声 音 。イスターシバの吐 息 とともに。
この大陸には。
血がのぼった頭に、切り裂 くように冷たいものが横切っていく。彼は、唐 突 に──理解した。
彼はゆっくりと、手の短 剣 を顔の高さまで上げた。きらびやかな刃 は、玩具 のように輝 いている。刃の光 沢 に見入るように、彼はじっと視線を固めた。ふと気づくと、彼女もまたこの刃を見つめている。刃をはさんで、ふたりの目が合った。緑色の潤 んだ双 眸 と、黒色の乾 いた瞳 。
彼女の瞳に、なにか哀 れむような色が混じり──
そして次には、その哀れみを自分に向けて、目を閉じたようだった。彼女がなにを考えているのか、そんなことは分からない。が、なにを感じているのかは、分かるような気がしていた。
自分の身体 が震 えはじめるのを自覚して、彼は初めて自分の感情を理解した。愛ではない。
(愛ではない)
彼は胸中で断言した。そんなものではない。恐 怖 。畏 怖 。不理解。理解。だが、すべてがそろえば──それはおおむね、愛のようなものだ。
「......使えねえ、とか言われてもな」
いらだちも少し混じった、あきれた調子でつぶやいたのは──サルアだった。爪 が再生した指先を、試 すように動かしながら、
「そういうことってのは、よくあることなのか?」
彼らはもう、地 下 牢 にいるのではなかった。階段を上がり、看 守 の詰 め所 に移動している。例の看守たちは縛 り上げて、サルアがもといた牢に(レキに扉 を直させて)閉じ込めてあった。そっくり入れ替 わった、ということになるが。
詰め所は、牢に比べれば居 心 地 が良さそうだった。そこそこに広く、机と椅 子 があるので、少なくとも床 に座 らずにすむ。酒 瓶 とグラスが置いてあるのを見て、オーフェンは多少の驚 きを覚えたが──瓶の口から匂 いをかぐと、中に入っているのがただの水だと知れた。どうも看守のひとりが、水差し代わりに持ち込んだものらしい。
扉は、やはり頑 丈 そうな鉄 扉 ──サルアの話では、ここから神 殿 へとつながっているという。オーフェンはふらふらと部屋を見回して、そして聞いた。
「......お前、なんでここのことに、そんなに詳 しいんだ?」
聞いてから、しょっちゅうこの地下牢の世 話 になっていたのかもな、などと思いつく。
マジクとクリーオウは、彼からは少し離 れたところで、やや不安げにこちらを見ていた。ふたり並んで、そっくりの心配顔を浮 かべている。
オーフェンは聞きながら、サルアではなくふたりを見ていた。サルアも、ちらりとそちらを見やり、へっ、と笑って肩 をすくめると、
「俺たち はな──」
と、彼らは『俺 たち』を強調した。死の教師は、という意味だろう。
「この街 では、その地位も任務も秘密にすることになっている。大 抵 は、この神殿庁 のお偉 い教師様、て立場を隠 れ蓑 にするんだが、教師を演じるには、俺はちと歳 が足りないんでね。さっき、ネイムの奴 に遭 遇 したと言ってたな」
さりげなく言いながらも、眼 光 をきわどいものにしている──その遭遇が、どういった種類のものだったのか、悟 っている目つきだった。
「あのガキも、見かけは老 けてるが歳が歳なんでね。外のスラムで斥 候 みたいな役を押 しつけられてるってわけだ。俺はもうちっとマシで、この街にいる時には神 官 兵 の任務についているのさ。街を出る時は、サルア教師様ってことでお見送りつきだけどな。つうわけで、ここの看守の交代時間も知っている。夜明けまでは、ここは安全だ」
「年 齢 、か」
瓶をテーブルにもどし、オーフェンは独 りごちた。
見た限り、サルアが自分より年下ということはなさそうである──が、いいところ二十二、三というところだろう。
「じゃあひょっとして──マスクのせいで分からなかったが、あの神官兵とやら、ほとんどみんな子供なのか?」
「まぁな。子供ほど扱 いやすい兵隊はいないってことだろ。俺に言わせりゃ、なんだっていいじゃねえか、てとこだけどな」
「ひとつ聞きたいんだが──」
「おい」
サルアは、ぴしゃりと遮 ってきた。ケガはもう既 に、クリーオウがレキに頼 んで、すべて完 治 させてしまったらしい。少なくとも外見上の傷はすべて癒 されていた。いざダメージがなくなり、真っ直 ぐに立ってみると──この死の教師は意外と背 丈 がある。ひょろりとした印象を持っていたのだが、決して痩 せているわけではなく、体格としては標準のようだった。
なんにしろその彼は、不快さを隠 しもせず、つり上げた眉 毛 に表していた。髪 をかき上げながら、言ってくる。
「俺の質問に答えてねえな。答えたくねえって気も分からんではないが」
「今は、そんなことより──」
「現時点で最大の戦力だったはずの人間から、その戦 闘 力 がすっぽりなくなったってことよりも、いったいなにが大事なんだか、答えられるもんなら言ってみろよ」
「............」
オーフェンは無言で、一番近くの椅子の背をつかみ、引き寄せた。しばし──椅子に体重を預 けたまま立ちつくすが、ふとひざから力が抜 ける。
彼はうなだれて椅子に腰 を下ろした。そのまま、両手で顔を覆 う。
「オーフェン!」
びっくりしたような声で、クリーオウが叫 んだ。ぱたぱたと、駆 け寄ってくる足音。少女はむしろ押しつけるように両手でこちらの肩をつかんでくると、間を置かず、サルアに対してだろう、非難の声をあげた。
「──いじめなくたって、いいじゃない!」
「別に、いじめてるわけじゃないと思うけど」
ぽつりとつぶやいたのは、マジクである──オーフェンは顔を伏 せていたため見えなかったが、声が近いので、クリーオウといっしょに駆け寄ってきていたらしい。あるいは、クリーオウに引きずってこられたか。どちらかというと、後者のほうがありそうだが。
「あのな」
呆 れたような、サルアの声。
「ガキはともかく、大人ってのは、たまにゃ、ちっとくらいいじめられたほうがいいんだよ。てなわけで顔を上げろ、キリランシェロ」
オーフェンは、さっと顔を上げた。厳 しい眼 差 しで、サルアをにらみ付ける──だが、どうにらみ付けたところで、相手はぴくりとも動じた様 子 を見せなかった。笑 みすら見せて、言ってくる。
「呼び名くらい、ぐだぐだこだわってんじゃねえよ。だいたい、そこの坊 ちゃん嬢 ちゃんは、この名前の意味も分かっちゃいないんだろが。てめえがあわててるだけ滑 稽 ってなもんだ」
「馬 鹿 にしないでよ!」
言い返したのは──なぜか──クリーオウである。オーフェンは開きかけた口をぱくぱくさせながら、隣 に立って決めポーズのようなものを取っている彼女を見上げた。見ているうちにも彼女は得意げに胸を反 らし、懐 から、ぱっとメモ帳のようなものを取り出す。
「なんとわたしは、なんか聞いたけれどちょっと忘れそーだなー、と思ったような事 柄 は、みんなメモってるんだから! 学校じゃ『メモ魔 クリちゃん』て、ちょっと呼びづらいあだ名つけられたりしてたんだからね!」
彼女は好きなだけまくし立ててから、メモ帳をぱらぱらと繰 り始めた。その間に、オーフェンがマジクに目で問いかけると──マジクは疲 れたように、うなずいてきた。ただそのうなずき方は、どちらかと言えば、まあ、あだ名って自分から言い出したりもできるものですよね、という嘆 息 が込められていたように思えたが。
ぽかんとしているサルアに向けて、クリーオウは、びし! とメモ帳のあるページを掲 げてみせた。その頭上でレキがあくびをして、丸くなって眠 ろうとしている。
「ここよ! ええと──キリランシェロ。舌を噛 みそうな名前第一位」
「なんの分類だっ⁉ 」
さすがにたまらず、オーフェンは椅 子 を蹴 って立ち上がった。詰 め寄るようにクリーオウへ顔を近づけると、彼女はちっちっと指を揺 らしてから、
「ほかにもあるのよ。アナグラムすると、シンリェロキラ。もっと言いにくくなるの」
「やかましいわっ!」
オーフェンは彼女の手からメモ帳をひったくると、そのまま床にたたきつけ、何度も踏 みつけにした。あー! というクリーオウの非難がましい悲鳴は無視して、サルアへと向き直る。
「くそったれ──確かに、てめえの言うとおりだ。落ち込んでても仕方ねえ」
「ちなみにキンラリシってことにすると、きんかくしにちょっと似てるわよね」
「文字が減ってるみたいだけど」
横でわけの分からないことを言い合っているクリーオウとマジクは無視することにして、
「魔 術 士 が魔術を使えなくなる、なんてことは──ない」
オーフェンは腕組みして、断言した。クリーオウらが、ぴたりと口をつぐんでこちらを向くのを意識しながら──あえてオーフェンは、気づかないふりをした。真正面のサルアが、怪 訝 そうな表情を浮 かべる。
なにか言おうとするサルアを、オーフェンは軽く手をあげて制した。
「あるはずがないんだ。どうして魔術が発動しなくなったのか、俺にもさっぱり分からない。俗 に魔力と呼ばれる俺たちの感覚は、先天的に備 わっているものだ──これが消 滅 することはない。で、それを制 御 する術を"構成"っていうんだが......」
「構成?」
きょとんと、クリーオウが聞き返してくる。オーフェンは振 り向かずに答えた。
「説明すると長くなるから、簡 単 に言うと──どんな魔術を使うかっていう設計図みたいなもんだな。俺たちは魔力によって、限定的ではあるが、自分にとって理想となる世界を造る。それが魔術の効 果 だ。魔力は構成によって制御される。この構成ってやつは、イメージによって編成されるんだが、この構成に魔力を注 ぎ込むと、スタンバイOKってわけだ。あとは、魔術が及 ぶ範 囲 を呪 文 によって決定する」
「その作業のうちの、どれが できないんだ?」
さすがに冷静に、サルアが問いを発する。
オーフェンは、しばし考え込んでから──
「構成が編 めなくなったらしい」
「そんな」
びっくりしたような声を、マジクがあげる。オーフェンは、今度は振り返った。汚 れたうえによれよれになったマント姿で、この少年は両腕を広げた。安っぽい仕 草 ではあるが、心 底 あわてているらしい。

「それって──つまり......ようするに......」
自分が気づいたことの意味に加えて、改めてほかの意味も気づいたのか──声が次 第 に尻 すぼみになっていく。最後には、単なる口の中でのもごもごしたうめきになって、そのまま彼は言葉を切った。
横で人差し指をぴっと上げ、クリーオウがあとを続ける。
「つまり、素人 になっちゃったってこと?」
「そういうことだ」
「......マジクと同じくらい?」
「それ以下だ」
オーフェンは吐 き捨 てるようにそう言うと、またサルアに向き直った。
「熱 衝 撃 波 はおろか、そよ風ひとつ起こせそうにない」
苦 々 しく告げる──
サルアは冷静な眼 差 しでこちらを見ている。身体 の傷は治っているが、着ているものはもとの、血 塗 れのぼろ服。例の神官兵たちと同じ服であるわけだが、ところどころ破れているせいか、あるいはもともとそうなのか、彼が着ているものは多少ラフになっている。
見ていると彼は、ため息をついた。じっとこちらを見 据 えていた視線を天 井 へと外して、おどけるように頭をかく。
と、彼が口を開いた。
「鍵 は、夜明けだ。夜だけが、俺たちの味方になってくれる......朝になれば見張りの交代がやってきて、俺の死体がなくなったことに気づくだろう。夜明けだ。夜明けまでに、俺たちは敵よりも一歩先に進まなけりゃならねえってわけだ」
てきぱきと、説明をしながら──
彼は懐 から、さきほどの神官兵から取り上げた警 棒 を二本取りだした。そのうちの一本を、こちらに放 ってくる。
くるくると回転して飛んでくるそれを、オーフェンは受け止めた。長さ三十センチほどで、内部が中空にでもなっているのか、かなり軽い鉄棒である。が、手に覚えた感 触 はかなり硬 い。受け止めた手のひらがひりひりするほどに。それを手にして言葉を待っていると──サルアはため息が鼻から抜 けきらないうちに、言ってきた。
「さっきも言ったが、看 守 の交代は夜明けだ──それまでここは安全なんだが、見つかるまでのんびりしてるわけにもいかねえ。とっとと地上に出て、街 に逃 げ込もう。あまり気は進まねえが、俺の実家に隠れれば、半日は稼 げる。いくらクオといえども、俺の兄貴にはそうそう手 荒 な真 似 もできないんでね」
ぽかんとしているこちらに、にやりと笑 みを作り、器用なウインクまで見せる。警棒を手に、血に染 まった神官服を着たこの殺し屋は、軽くあとを続けた。
「......ま、こんな事態だ。使える武器から使っていこうぜ、相棒」
◆◇◆◇◆
「どぅおぅぉぉぉぉぉぉぉいぅぅぅぅこぉとぉぉだぁぁぁぁっ⁉ 」
「訳・どういうことだ⁉ ──と言ってるんだと思うけど、そんなこと言われたって、ぼくだって分かんないよ」
ドーチンはごくごく当たり前に、そう答えた。小屋の真ん中に、なぜか見つかったたき火の跡 のようなものを棒でつつきながら、顔を上げる。
小さい明かりが精 一 杯 照 らしている部屋の中で、兄が、意味もなくくるくると回転していた。剣 を手に、独楽 のように回ってから──
「つまり、謎 はここだ!」
びし、と剣先を玄 関 へと向ける。
玄関はただ玄関で、つまるところ最後に見た時に玄関であった通り、改めて見てもやはり玄関だった。小屋はほとんど山小屋のような造りで、入り口から内部が隔 てられているわけではない。扉 を開ければそのままこの部屋である。玄関マットも傘 立 ても、ポストすらない。
ただの玄関である。
「............?」
意味が分からずにドーチンが訝 っているとボルカンは、
「──と見せかけて、ここだっ!」
と言いながら、すすっと、切っ先をベッドのほうへと向ける。どうやら、回転していたせいで指し間 違 えていたらしい。
(別にいいけどね)
本気でどうでもいい心 持 ちで、ドーチンは視線をベッドへと移した。
無人のベッドである。そこを占 領 していたはずの女の姿はない。
「あの女、どっこに行きやがったのだ⁉ 確かにあの女のあまりの横 暴 さに、昨日俺様が小 言 を言ったわけだが、少しばかりきつい言い方をしたくらいで夜 逃 げするとは、最近の若い女は社会人としての根性が足りん!」
「社会人は関係ないと思うけど」
たき火の跡は、部屋のほぼ中央に残っている──小さな丸い、灰 の山である。街 を覆 っている黄 塵 と混ざって、レモン色になった冷たい灰。ちょっとやそっとの火力では、なにを焼いたにせよこれほど完全な灰にはできないはずだが。
棒でつつき回しても、灰の中には燃えかすひとつ残っていないようだった。
と──ふと思い出して、ドーチンは口を開いた。分厚い眼鏡 越 しに、兄ボルカンは、いまだ剣 をベッドに向けたまま硬 直 している。
「それはそれとして兄さん、あのひとになんか小言なんて言ってたっけ?」
「俺様の英 雄 的な寛 容 の精神を以 てしても、あのクソアマの甘 ったれた横暴さには、いつまでも無言ではいられなかったのであるっ!」
仰 々 しくわめいてから、ぐっと拳 を握 りしめる。調子が出てきたのか、ボルカンは素 早 くベッドの上に飛び乗った。土 足 のまま仁 王 立 ちになり、続ける。
「ひとつ! 自分はこの小屋で寝 ても覚 めてもごろごろしているくせに、この民族の英雄・マスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様に買い出しをさせるなど、あまりにも不 届 き! まず間 違 いなく、世界を破 滅 させる陰 謀 のひとつである! よって本来ならば、桜吹雪 で遭 難 し殺すところである!」
「ふうん」
そんなもので世界が破 滅 するならば、倦 怠 期 の夫婦のせいで何百万回カタストロフが起きるか分かったものではないが、ドーチンは特になにも言い返さなかった。
「そしてまたひとつ! 恐 るべきことにあの自 堕 落 女 狐 、言うにことかいてこのロンリー・ダンディズム・ボルカノ・ボルカン英雄様に向かって、あんたなんの役にも立たないんだから、せめて誰 かに言われる前にゴミ捨てでもしてたほうがいいわよ、などと言 語 道 断 なことを! これはまさに、謎 の呪 文 で呪 い殺すべき失言!」
「へえ」
ロンリー・ダンディズムってなんのことだろうとは思いつつも、ドーチンはやはりあえてなにも言い返さなかった。
ボルカンは絶好調のようで、再びびしりとポーズを取ると、風もないのにマントをたなびかせた。マントの下から手で煽 っているのが見えたが。
「そう! そういった数々の悪 行 に対し、敢 然 と正義を行うべく定められた出生のこの俺は、あの女に最後通告を告げたのである!──『どうかお願いですから、もうちょっと待 遇 をよくしてくれろ』と!」
「......ホントに少しばかりしかきつくない言い方だね」
どう答えたらいいものか、本気で分からずにドーチンは、思ったことだけを口にしていた。
結局のところ、どうということでもないのかもしれない......
ドーチンは棒で灰をかき混ぜながら、頭の隅 で考えていた。つまりは、あの女の人、アザリーとかいう黒 魔 術 士 は、この街 で──魔術士を見れば即 座 に手 近 にあった得 物 を持って殴 りかかってくるような人々が集まったこの街で、買い出しや街の中の偵 察 やらをやってくれる者として、自分たちを連れてきたのだ。魔術士が、よりによってこのキムラック市に潜 伏 しようというからには、それなりの事情があるはずだろうし、突 然 姿を消すようなことがあっても、さして不 思 議 ではない──明日あたりに死体で発見されることも含 めてだ。
ただ問題は、彼女がいなければ、彼らもこの街から出ることができないということである。
この街に入る時には、彼女が持っていた、ドラゴン種族の物らしい転移装置で入ってきたのだ。ただしあの転移装置では、神 殿 にまでは入れなかったらしいが。よって、街を出る時にもあの装置がなければどうしようもない──地 人 がふたり、身分証もなにもなしで街の検 問 を通過できるはずもなかった。
兄が、そこまで冷静に考えていたのかは定かではないが──

一応、ことの重大さだけは理解しているようなので、ドーチンはほうっておくことにした。
「まあどのみち、できることと言えば、待つことしかないんだけどさ」
ため息混じりに彼はつぶやいた。あの黒魔術士が帰ってくるのを待つしかない。
こつん、と棒の先に変わった感 触 を覚えて、ドーチンはかなり驚 いた。もう完全に灰しかないと思っていたのだが──灰の積もっている場所から少し離 れたところに、黒っぽい破 片 のようなものが落ちている。
ドーチンはその破片に見覚えがあった。いびつな三角形の、黒い革 の破片。
(あの本の、表紙の隅っこのところだ......燃え残ってたんだな)
本を燃やすなんて。
(やっぱり野 蛮 だね。人間は。最高の教育を受けているはずの魔術士ですら、こんなことをするんだから......)
ぶつぶつと文句を言いながらドーチンは、その破片を棒の先で弾 いた。
◆◇◆◇◆
地下だから、だろうか。通路はひどく汚 れていた。
掃 除 などされた形 跡 もなく、床 と言わず壁 と言わず、黄 塵 が張り付いて薄 汚 れている。砂のこびりついた跡 がまだらになった壁は、彼らの行く手を左右からせばめている。あまり広い通路でもなく──天 井 も低い。無論、明かりらしい明かりもない。
サルアが詰 め所 で見つけた携 帯 用 のガス灯 が、ぼんやりとした光の輪を広げていた。その輪に先導されて、進んでいく。
無言で──というわけでもなかった。
「ここはな、すべてのキムラック教徒が聖地と崇 め──祈 り、信じて、ずっとやってきた。そんな街だ」
先頭のサルアが、隣 についてきているクリーオウに説明してやっている。
「そしてその中心となり、またすべてでもあるユグドラシル神殿。誰 がこんな馬 鹿 でかい神殿を作ろうなんぞと言い出したのかは知らねえが、そいつに賛成しちまった連中ってのも相 当 に頭が膿 んでたんだろ。建造に三十年。これでもハイペースな工事だったとは思うけどな。今から約百年ちょい前、この神殿は完成した。もちろん、深 刻 な債 券 を山積みにしてだけどな」
と、警 棒 の先で軽く壁をたたいてみせる。乾 いた音が、通路に響 いた。
サルアの背中をなんとなく見つめながら、オーフェンは口を開いた。これは別に、隣を歩いているマジクに説明しようとしてというわけではないが──金 髪 の少年はずっと、あえてこちらを無視するように口をつぐんでいた。
なんにしろ、オーフェンはつぶやいた。
「当時の教主、ラモニロック。この名前は代々継 承 されてきたもので、現在の教主もおんなじ名前だが......」
へっ、とサルアが鼻で笑い──なんのことだか分からずにオーフェンが視線で探 ると、サルアは肩 をすくめて、邪 悪 を祓 うような仕 草 を見せた。聖印というものである。
「......?」
結局、サルアが笑った理由を説明しようとしないので、あきらめてオーフェンはあとを続けることにした。
「とにかくラモニロックは、一説ではドラゴン種族たちからこの聖地を守るために、砦 としてこの神殿を建てたのだとも言われている。当時はまだドラゴン種族がいたからな。ウィールド・ドラゴン種族が、支配者として俺たちの祖先を保 護 していた......魔術士狩 りの、前の時代だ」
「実際に神殿が完成したのは、魔術士狩りの後、てことになったけどな」
サルアが肩をすくめたせいで、明かりが揺 れた。その明かりを追うように、レキがぐるりと頭を回している。
その子ドラゴンに頭を踏 んづけられて、クリーオウもまた同じような動作をしていた。のんきに質問の声をあげる。
「その時に、さっきの、おっきな地下道も作ったの?」
オーフェンも、それは聞いておきたかった。注意して耳を傾 け、促 すようにサルアを見続ける。
死の教師は──半 ば予想はしていたが──にやりとするだけで、なにも答えはしなかった。ただ、
「あれは人間が作ったものじゃない。そのくらいは、気づいてただろ?」
「じゃあ、何者が作ったんだ」
苛 立 ちまじりにオーフェンは聞いたが、サルアはやはりにやついたままだった。一応、答えるだけは答えてくる。警棒で自分の首筋あたりを軽くたたいて、気楽な調子で。
「お前さんは、魔術の最エリートだ。なら分かるんじぇねえか?」
「分かってたら、いちいち聞かねえよ」
「じゃ、気づいたことをみんな並べてみな」
胸中で舌打ちしてオーフェンは、言葉を切った。それでも歩きながら、言われたとおりにしてみる──
気づいたことは、あまり多くない。
地下道が、とてもではないが、人間の技術力で作れるものではなかったということ。
かなり古いこと。ひょっとすればこのキムラック市そのものより、さらに古いかもしれないこと。
だとすれば、キムラック市が、この地下道の上にわざわざ築 かれなければならなかった理由があるのかもしれないこと。
地下道の造りが、天人の遺 跡 にどことなく似ていること。ただし、天人の建造物であるならば、あそこまで荒 れ果てているはずがないこと......
オーフェンは、大きく息をついた。
「分かった」
「おう」
振 り返らずに、サルア。オーフェンは半 眼 になって続けた。
「お手上げだってことが分かった」
「そうかい」
警棒の先で背中をかきながら、サルアはそれだけをつぶやいた。そして。
──あとは、だんまりのまま、歩くだけだった。
「......なにそれ?」
きょとんと、クリーオウが声をあげる。
「答え、教えてくれないの?」
そでを引っぱって問う彼女に、サルアはやはり顔を向けもしない。ただふらふらと歩きながら、
「若い奴 らってのは、すぐ模 範 解 答 ばかり欲 しがるんだな。もうちっと、自分で考えようって気にならねえのか?」
「なに、それっぽいこと言ってるのよ。あの馬鹿みたいな地下道の由 来 なんて、模範も規範もひとつの答えしかあるわけないし、考えたって分かるわけないじゃない」
いつもの口 調 で軽々と、普 通 では跳 び越 えづらい場所をすっ飛んでいく。クリーオウが学校の廊 下 で雑 談 でもしているような気軽さで、口を尖 らせるのが見えた。
「それに、若い奴らって、あんただってわたしたちとたいして歳 、違 わないでしょ」
「そう言ってもらえると嬉 しいねぇ」
額 にぺしりと手のひらを当て、うなるように言うサルアに、ぼそりとクリーオウがつぶやく。
「......やっぱ、なんかおっさんくさいわ、あんたって」
「嬉しくないねぇ」
一言前とまったく同じ調子で、サルアがうめいた。額に当てていた手をはなすと、どこにしまっていたのか警棒をくるりと持ち直す。
「ひょっとして......」
唐 突 に、言い出したのは──マジクだった。
横を見ると、少年はやはりこちらには顔を向けないまま、漠 然 と口を開いている。考えながらしゃべっているのか、どこか虚 ろな口調で、彼はつぶやいた。
「やっぱり、あそこは天人の遺 跡 なんじゃあないですか?」
「おい、言っただろ。あそこはあまりに──」
オーフェンは言いかけたが、マジクは言葉を止めなかった。突然立ち止まって、伏し目だったまぶたをさっと見開く。
「そう。壊 れすぎてるんです。でも、だからあそこは天人の遺跡じゃないなんて理由にはならないんじゃないですか? そうですよ」
マジクは初めてここで、こちらに視線を返してきた。興奮したのか、大きく息をついてから、続ける。
「壊れすぎているから天人の遺跡じゃないってわけじゃなくって──天人の遺跡をも、あそこまで破 壊 するような、なにかとんでもない出来事があったのかもしれない。あの地下道は古いものなんだから、かりにどんな大事件だったとしても、ぼくらが知らなくても不 思 議 はないですよ。人間がこの大陸に来る以前のことかもしれないんですから。そうですよ──アレンハタムの遺跡だって、そうじゃないですか。あれだって地下は残っていたけれど、地上部分は全部、魔 獣 に根こそぎ吹 き飛ばされて......」
「そうじゃなくって」
オーフェンは、かぶりを振 った。熱っぽくこちらを見ているマジクを真正面に、ゆっくりと否定する。
「そうじゃなくて、地上部分をすっ飛ばされてもなお、地下が無傷で残ってたんだよ。天人が砦 の類 を地下に作るのは、そのほうが防 御 が固いと思ってたからだ。実際それだけに、地下部分はとんでもなく強 固 に作ってやがる。しかも、あの地下道ほどに大規模な代 物 なら、どれだけ強力な呪 符 が為 されていたか、想像もつかねえよ。それを破壊するなんざ、いったいどんな化け物だってんだ」
特にどうというわけではない。知っていることを言っただけのつもりだったが────
返ってきたのは、賛同でも否定でもなく、ただ沈 黙 だけだった。
「?」
分からずに、疑 問 符 を浮 かべる。見ると、クリーオウが沈黙しているのは、びっくりしたようにサルアの表情を見ているからである。マジクもそうだった。死の教師が見せた表情の変化に、呆 気 に取られているふうだった。
そして、サルアが黙 っているのは────
マジクを見ているせいだった。片 眉 をつり上げ、仰 天 と賞 賛 が混じり合ったような眼 差 しを見せている。
口笛を吹きながら、サルアはいきなりマジクの肩 に手を回した。
「ほぉう?」
と、やたらにやにやしながら、クリーオウのほうを見やっている。目をぱちくりさせているクリーオウの額をちょんと警棒で突 いて、彼は言った。
「ほれ。言わなくたって、考えりゃ分かるもんだろが」
「......え?」
最も驚 いた様 子 なのは、マジクだった。怪 訝 そうに表情を歪 めて、ぺたぺたと馴 れ馴 れしく背中をたたくサルアを見つめている。サルアはなぜか上 機 嫌 に、マジクをずるずると前列に引っぱると、足で蹴 ってクリーオウを退 がらせた。
「正解者は、ランクアップして上 座 にいかなくちゃな」
わけの分からないことを言って、マジクから手をはなす。
「なんで蹴るのよー」
ジーンズから足 跡 をはたき落としつつ、クリーオウが文句をつける。といって、もとよりそのジーンズは黄 塵 のせいでひどく汚 れており、あまり意味はなかったが。
と──
ようやくサルアの言っていたことが分かって、オーフェンはすっとんきょうな声をあげた。
「今のが、正解だったのか⁉ 」
「そうさ」
にやけた笑 みを浮 かべて、サルア。ガス灯 のてっぺんについている吊 り輪 を警 棒 に引っかけて、ぶらぶらさせている。
「およそ三百年前に天人が建造した、最大にして最後の砦 なんだそうだ。名前は......なんだったかな。忘れたが。規 模 がでかすぎて、埋 めることはおろかふさぐことすらできやしねえ。なにしろところどころ粉々になっちまってるせいで、雨やらなんやらで地 盤 が弛 むと、わけの分からねえ場所にぽっかり出口ができちまったりするんでな。道に迷ったりぐずぐず落ち込んでたり死の教師に追っかけ回されたりしてなけりゃ、この神 殿 街と外 輪 街もフリーパスみたいなもんだ」
「......その嫌 みな性格直す、いい方法知ってるぜ」
険 悪 に、オーフェンはうなり声をあげた。サルアは、またにやりとしたあとに改めて、興 味 津 々 という表情を作ってみせた──かなりわざとらしく。
「へえ? どんな方法だ?」
「『わたしは死の教師です』って札を首から下げて。《牙 の塔 》のグラウンドから裏口まで鼻歌付きで散歩してみろよ」
「遠 慮 しとくよ。おっさんくさいと言われたまんま死にたくないんでね」
へらへらと笑いながら言う、彼の仕 草 にかちんときたというわけではなかったが。
突 然 、猛 烈 になにかが引っかかって、オーフェンはサルアの手首をつかまえた。ぐっと力を込 めて、ささやく──
「魔術士は、無意味に殺人なんかしない」
忘れかけていた頭痛が、脳を焼いた。その痛みに表情がひきつる。
ただサルアは、笑みを浮かべたままである。ただし、ただ面 白 がるだけだったそのにやにや笑いに、どこか冷笑のようなものが混じるのが分かった。
「......本当に?」
なにもかもを見 透 かしたように、それだけを聞いてくる。
頭痛とともに、右手首に激 痛 が走った──
「くっ......!」
息を詰 まらせて、オーフェンはその場にくずおれた。サルアの手首を握 りしめていた右手は、今は死んだ蜘 蛛 のような形で指をいびつに縮め、痙 攣 している。制 御 のもどってこない右手に舌を打ち、オーフェンは床 にその右手を置くと、左手を強く握り込んで、思い切り右手を殴 りつけた──
「オーフェン⁉ なにやって──」
クリーオウが隣 にかがみ込んでくる。オーフェンは無視して、右手を殴りつけた痛みに顔をしかめた。右手の痙攣はそれで止まったが、今度は身体 が脱 力 して動こうとしない。頬 骨 のあたりで吹 きだしている、涙 の気 配 とでもいうような不快感に、彼は必死で抗 った。振 り払 うようにまぶたを閉じて、自分でもよく分からない問いを投げかけている──
(今のは......殴られた右手と殴った左手、どちらの痛みだったんだ......?)
誰 に対してでも、自分に対してでもない。ただ闇 雲 に投げつける。それは投げ捨てるのと変わらなかったのかもしれないが。
やがて、彼は──
ふう、と吐 息 した。額 に浮かんだ汗 をぬぐいながら、クリーオウの心配顔を見返す。
「......大 丈 夫 だ」
「本当に?」
彼女の声は疑わしげだった。勢いよくかがみ込んだ時に、頭から振り落とされたレキが、足下できょろきょろしている。子ドラゴンは、居 心 地 のいい寝 場 所 からいきなり放 り出されて、結局事態が把 握 できなかったのか、意味もなくでんぐり返りを始めた。
それを少し見てから、胸に抱 き上げて、クリーオウが聞いてくる。
「汗びっしょりよ、オーフェン」
「ああ」
そのうちのいくらかは涙だ。だから大丈夫。
そんなことを声には出さずに付け加えて、オーフェンは立ち上がった。
「ここんところ、落ち着いて眠 れてなかったからな。疲 労 のせいで、立ちくらみが起きたみたいだ」
まだちかちかしている目を押 さえて、オーフェンはかぶりを振った。目を開くと、クリーオウの手を引いて立ち上がるのを助けてやってから、サルアのほうを向く。
「......話をもどすが、天人の遺 跡 をあそこまで破 壊 する存在ってのは、なんなんだ? 知ってるような口 振 りだったが」
「......さあて......」
はぐらかすようにサルアがつぶやくが──
オーフェンは直感的に、彼がなにもごまかそうとしていないことに気づいていた。むっとした表情のクリーオウを手で押さえ、いまだ混乱した眼 差 しであちこちを見回しているマジクを一 瞥 し、サルアへと視線をもどす。
この若い死の教師は、すうっと、笑 みを消した。
冷たく、厳 しい眼差しをこちらへと返してくると、
「お前さんら、俺らを心 底 なめてるんじゃねえのか?」
「あん......?」
意味が分からずにオーフェンは、聞き返した。ただ、相手の態度の変化に、さりげなくクリーオウを退 がらせる──そしてついでに、床 に転がっている警 棒 を見る。さっきの発作で落としていたのだ。
だがどちらにせよ、サルアが即 座 に襲 いかかってくるという気配はなかった。サルア自身もまた、警棒にガス灯 を引っかけて、戦 闘 体勢にはほど遠い状態である。彼は静かに告げてきた。
「俺たちが、自分たちの一生を賭 けてまでやっていることがなんなのか......考えたこともないんじゃねえのか?」
ただそれだけを、押 し殺した声で言ってから、くるりときびすを返す──
そして再び、通路を進み始めた。マジクの腕をひっつかみ、引きずるようにして。
「............?」
オーフェンはクリーオウ(ついでにレキも)と顔を見合わせると、怪 訝 な視線をぶつけ合わせた。一応、警棒を拾ってからサルアのあとを追いかける。
サルアはかなり足早になっていた。大 股 ですたすたと進みながら、静かな声で続けている。
「さっきも言ったが、考えてみるんだな──はっきり言って俺は、てめえら魔 術 士 がなにかを考えてるところを見たことがねえ。俺ぁ別に、良き血がどうとか、呪 いの血 統 だとか、魔術士の血筋なんてもんにさほど興 味 はねえんだよ」
と──しばし、沈 黙 。
「......結局俺は、外の世界を見過ぎたんだろう。あの腐 れ教 主 の言葉を借りればな。魔術士を絶 滅 させる。それがここの教義だが、俺は別にそんなもんを意気に感じて剣を取ったわけじゃねえ。退 屈 すんのが嫌 だったからだ。考えることをしようともしない奴 らってのは、見てて退屈なんだよ。だから──ちったぁ、考えろ」
ンなこと言われてもな。と胸中で独 りごち、オーフェンはうなった。言っていることは分からないのでもないのだが、だからといってどうしろというんだという気もする。
(なんだってんだ? だいたい、なんでいきなりこんな歩きながら、小 言 じみたことをまくし立てて──)
オーフェンは、そこで気づいた。思わず、ぴたりと足を止める。
クリーオウもつられて立ち止まり、後ろのふたりの足音が消えたことに気がついたのだろう。サルアもまた、そこで進むのをやめた。
ぎろりと、振 り返ってくる──腕をつかまれているマジクが、ぞっと後ずさりしようとするほどの形 相 で。オーフェンがただじっとそれを見返していると、サルアは、はっと我 に返ったように、ほおをひきつらせた。
そして、じわじわと変形するように......顔が、皮 肉 なにやにや笑いへともどっていく。
「だ、だから......つまりだな」
咳 払 いして、彼はマジクの腕をはなした。
「なんでもかんでも人に頼 ろうとするんじゃねえ。特に俺に。めんどくさいから」
だが、オーフェンは聞かなかった。びしと指をさし、
「ようするにお前、説教とかするのが異 様 に照 れくさいんだろ。教師のくせに」
「うるせえなっ!」
サルアは赤面して、そう叫 んだ。ぶつぶつと、言い直す。
「俺の兄貴がホンモノの説教屋だから、俺はああはなりたくねえんだよ。て......立ち止まったのはいいタイミングだったな」
と、通路を見上げる。
そこはもう既 に、通路の終わりだった。天 井 に穴が、そして壁 に、鉄製の鎹 を打ち込んだようなはしごがついている。
「ここは?」
クリーオウの問いに、サルアが即 答 した。
「......この穴を上がれば、神 殿 の最 下 層 に出られる」
「最下層って、じゃあ最下層より下のここってなんなのよ」
「最下層の下は、地 下 牢 だ。そういうもんだろう」
憮 然 と答えるサルア。
クリーオウはこそこそと、こちらに耳打ちしてきた。
「ねえ聞いた? オーフェン。今のって、なんかそこはかとなく哲 学 っぽかったわよね。あの人あんなこと言ってたけど、実はお説教好きなんだと思うわわたし」
「......聞こえてるみたいだぞ」
実際、耳打ちしているわりには声がでかいため、サルアには丸聞こえのようだった。こちらを見て、怒 ったように肩 を震 わせている。
「まあいい。俺から昇 るからな」
サルアはそう言うと、はしごに手をかけた。通路の天井が低いため、数段もない。床 に立っていても、せいいっぱい身体 を伸 ばせば天井の穴に手が入る。
「ああ、そうそう──」
と、昇りかけてサルアは、なにか思い出したように声をあげた。
「そう言えば。さっきの話、例の地下道が、砦 だった頃 の名前。思い出した」
「どうでもいいわよ、そんなの」
あっさりとクリーオウが言うのだが、サルアは、まあ一応聞いておけと言いながら手を振 った。そして、ゆっくりと──つぶやく。
「そう。確か......ラグナロク砦、だったな」
そんなことをもごもごと言いながら、サルアははしごを昇っていった。天井の穴から姿を消し、やがて手だけを出して、こいこいと振る。オーフェンは、マジクやクリーオウと順々に目 配 せしてから、はしごに手をかけた──
「待ってくださいよ」
と、マジクに呼び止められ、オーフェンは動きを止めた。マジクはすたすたと近寄ってくると、
「ぼくが先に行きます。お師 様 、身体の具合がよくないんでしょう?」
「............」
オーフェンは、無言で、はしごをつかんでいた手から力を抜 いた。滑 り落 ちるように、手がすとんとはしごをはなれる。
「すいません」
結局マジクは軽く会 釈 のような礼をすると、先にはしごを昇っていった。クリーオウが──今度はきちんと小声で、耳打ちしてくる。
「......どうしたの?」
「いろいろ複雑でな」
頭痛ではなく、胸のあたりにちくりとした痛みを感じながら、オーフェンは苦笑した。
「おい」
と──いきなり、天井の穴からサルアが逆さまに頭を出してくる。彼は自分の口に人差し指を当てると、
「まだ構わないが、もうそろそろ静かにしてくれ。最 下 層 には──今までとは違 って、人がいる可能性もあるからな」
「分かった」
あとは無言だった。クリーオウを先に昇らせてやり、オーフェンは最後に通路をあとにした。黄 塵 の渦 巻 く闇 が遠くへと続いていた、その通路を。
昇ってみると、いきなりそこは小部屋である──それも、恐 らくは物置かなにかだろう。せまい場所に四人押 し込められることになって、さっそくクリーオウが不平をまくし立てるべく口を開いたが──オーフェンは素 早 くそれを手でふさいだ。もう厄 介 事 は、頼 まれても増やしたくはない。
(......なんとかなりそうだな)
腕力では敵 わないため、指を噛 んでこちらの手を外そうと奮 闘 するクリーオウのことを別とすれば、オーフェンは段々と安 堵 しつつあった。なにはともあれ、色々と気にくわないところもあるサルアだが、彼がいればここから脱 出 するのも難しくはあるまい。とりあえず、この神 殿 街 に入ることは成功したわけである──行きすぎて、いきなり神殿の中に入ってしまったというのは計算外だったが。どのみちオーフェンには、この神殿など興 味 なかった。ただ、恐 らく......
(アザリーは、ここに用事があるんだろう......まず、間 違 いなく......)
彼女が、前に言っていた──彼女の目的が、チャイルドマン教師のかつての足 跡 を追うことにあるのなら、ここには必ず来るはずだ。かのチャイルドマン教師が、なにか目的があって十年前にこのキムラックに侵 入 したということは間違いがないようであるから。
オーフェンは、半 ば落ち着いた心 持 ちで、部屋の中を見回した。ごちゃごちゃと、木箱やら棚 やらが並んでいる、ほこりっぽい小部屋である。地 下 牢 への、秘密の出入り口というところか──まあ、さすがに神殿 の地下に地下牢があることなど、余人には知られたくないところだろう。どういった種類の人間を投 獄 するためのものなのかは知らないが。
と──
彼は、また苦笑した。マジクに出し抜 かれるのも分かる──頭の働きが鈍 っているのかもしれないなと、オーフェンは嘆 息 した。投獄されるのはどういった人間か。決まっている。自分たちのような人間だ。神殿への侵入者を投獄し、そして尋 問 するための場所だったのだろう。そして、ついでに──尋問のあとは、ダストシュートから地下道へごろん、で片がつく。
地下道に、かなり風化した白骨が落ちていたことも思い出して、オーフェンは思わず憂 鬱 な思いを味わった。いったいどのくらいの昔から、そんなことをしていたのだろう。
(まあ別に、どうでもいい......)
こっそりと目を閉じて、オーフェンは嘆息した。どうでもいい。このユグドラシル神殿も、地下道も、サルアも、どうでもいい。この神殿から脱 出 したら、もう外は夜明けに近いだろうか。夜明けが鍵 だという、サルアのせりふが頭に浮 かぶ。夜明けまでに一歩先に進まなければならない。
(俺 にとっての一歩ってのは、結局......)
それがなんであるかは明らかだった。地上へ出たならば、すぐにアザリーを探さなければならない。寝 ている暇 はない──
サルアが無言のまま、部屋の出口となる扉 を開けた。
マジクが無言のまま、そこから出ていく。
クリーオウですら無言のまま、それについていった。
〝鍵は、夜明けだ......〟
胸中で繰 り返しながら、オーフェンも扉をくぐり──
次の瞬 間 、はっとして、力の限り絶 叫 した。
「な・にぃぃっ⁉ 」
小部屋を出ると、そこはかなり広い通路になっていた。いや、通路というよりは柱 廊 とでも呼ぶほうが雰 囲 気 は近い。壁 のある柱廊である(矛 盾 しているが)。実際に大理石であるはずはないが、白大理石のような、白い壁。壮 麗 な柱が無数に連なっている。その柱も白。どの柱にも一本につき一枚ずつ、大理石画がかけられている。床 は、ぴかぴかの藍 色 に磨 き出され、立っていても足下に顔が映りそうなほどである。ただ、ここにも充 満 している黄 塵 のせいで、どこかくすんではいたが。
あまり明るくはない。明かりがあちこちに規則的にかけられた古びたランタンだけだ。
驚 くほど天 井 は高い。ふと見ると──小部屋を出て左手に、巨 大 な門。高さ三メートルほどはある門だが、扉はイバラが無数に巻き付いたような模様の格 子 である。そして正面には階段。広く、緩 やかで高い、精密な石段。
その石段に、まるで卒 業 写 真 でも撮 るようにずらりと──
数十人の神 官 兵 が並んでいた。
◆◇◆◇◆
彼女の言葉を彼は待った。そして......
「その刃 は我 を貫 くことはできぬ」
唐 突 といえば唐突に、彼女はそんなことを言ってきた。思わず、剣 の柄 を握 る手に汗 がにじむ──その銀色の刃に、なにがしかの魔 力 があるというわけではない。
ただの短 剣 である。例えば、目の前にいるこの女が日常的に使うような、強 力 無 比 な魔力を備 えているわけではない。人の手にあり、人の腕を剣の刃へとつなぐ、ただの金属の道具に過ぎない。
(そもそも自分は......彼女を殺せるつもりでいたのか? こんなもので......)
意味のない問いが、彼の胸を締 め付けた。意味がないということならば、剣であろうと、魔術であろうと、彼女に対 抗 する力が自分にないことなどは分かり切っていた。
ただそれでも──相 対 したかった。ただその程度のことだったのかもしれない。
打ちひしがれながらもあくまで優 雅 に、彼女はその指をこちらへと向ける......
「我は汝 をこの世から消す」
「............」
彼は、答えなかった。
不 思 議 と恐 怖 が消えるのを感じる。彼女の明確な言葉のせいで。最初から、予想していたことだったのかもしれない。あるいは、期待すらしていたのかもしれなかった。自分のことだけは分からない。彼は、抱 きしめるように両手で短剣を握 りなおした。
「......あなたが産みだしたのです。わたしを」
外に出すことができた言葉は、自分でも驚 くほどに無価値だった。
「あなたに滅 ぼされるのならば──」
「汝らは滅びぬと言ったであろう」
落ち着いたイスターシバの声 音 に、彼は苦笑した。
「生まれ変わりを信じるのですか?」
「神々に呪 われ、運命を解かれた我らは、神の法則をなにひとつ信じることなどできぬ。無論、転 生 もだ」
彼女の指が──ゆっくりと、躍 った。
細い指が、いずれも休むことなく、ただしまったく同じ動きをすることなく、踊 るように歌うように、空 をなぞる。その指先に小さな光が点 り、その光が、はっきりとした銀光の軌 跡 を引いていた。
その軌跡が、複雑な図形を描き出している。
魔術文字 ──ウィールド・ドラゴン種族の沈黙魔術 の媒体 となる、混沌 の文字。
その文字を幾重 にも描きながら、彼女がつぶやいた。
「汝を産んだ者として、我は、汝には最高の教育を施 したつもりだ。汝はすべてにおいて、それを最大限に活かしてくれた──魔術はもとより、およそ現在の人間種族で、知識、行動力、理解力、先見性......いかなる分野でも、汝を超 える者はいない。だがはるかな未来ならば──我らの助けなしでも、汝らの子孫は独自にその段階へと進んでいるやもしれぬ。いないやもしれぬ。それは重要なことなのだ、我 が子よ」
敵の数は二十四人──
数えたわけではないが、オーフェンはほとんど反射的にそう判断した。すべて同じ格 好 の、似たような体 格 の神 官 兵 たちが、二十四人。彼がとっさに目で捕 らえたのは、彼らの持っている武器である。自分が今握 りしめているものと同じ、金属の警 棒 。
その姿が、二十四だった。
「なんともはや──」
状況のわりには軽い口調で、サルアがつぶやくのが聞こえた。わざと相手に聞かせるように声 高 に、ただしあくまで独 り言のように。
「夜明けも地上もくそもなかったな。この《詩聖の間》の前で待ち伏 せとは、思い切ったことをするじゃねえか」
「貴様の思い切りには負けると思うがね、サルア・ソリュード......」
答えてきたのは、神官兵の誰 でもない。
オーフェンは身 構 えながら、視線だけを横にずらした。真正面の、神官兵が並んだ階段ではなく──大きな格 子 の扉 のほうへと。格子は複雑に絡 まりあい、扉の向こうはのぞけないが。
格子の下に、軽く背中を預 ける格好で、腕組みしてこちらを見ている男がいる。ぱっと見て、思わず目を疑うような大 柄 な男である。奇 妙 な鎧 を上半身につけた、悪 魔 のような形 相 の大男......
オーフェンの脳 裏 に、一昨日メッチェンに聞かされた言葉が甦 った。
『「身長百九十センチ、体重八十キロそこそこ──オレイルに比べれば、どうにも痩 せ気 味 ね。四十歳の人間としては」
「顔は、いつもなんだか怒 ってるみたいな目つきしてる。でも彼は怒らないわ。決してね。肩 が異 様 に盛 り上がってるわ──首がみっつある、とか言われてたこともあったかしら。でも伊 達 の筋肉じゃないわよ。平気な顔してバットをへし折るのを見た時は、さすがに我 が目を疑ったけどね......」』
メッチェンの描 写 は、おおむね正しかった。冷たく厳 しい眼 光 が、うなりをあげて──とまではいかないが──前方に投げ出されている。頬 骨 が突 き出て、それ自体が仮面のような顔つきである。寝 ぼけた芸術家の手による彫 刻 のような奇妙な体 躯 に、これまた奇妙な形の鎧を着けている。
オーフェンは、訝 った。
異様な鎧だった。魔 術 士 が戦 闘 装備として開発したようなプロテクト・アーマーなどと比べても、奇 怪 な形 状 をしている。軽量級から最重級までのプロテクト・アーマーは、それぞれの用 途 によって形状が異なるが、どれにも共通する特 徴 がある。つまり、身に着けていても動ける、ということだ。
骨 格 を身体 の中心に持つ人間の構造では、身体の外側に装 甲 を持つ、つまり昆 虫 のような外骨格の動きをすることはできない。完全に腕を覆 う鎧を身に着けていた場合、まず腕を動かすことはできない のである──これを解 消 する方法はない。各種プロテクト・アーマーは、戦車戦用の最重級も含 めて、関節を自由に動かせるような遊びが入っている。防 具 としては明らかに弱点となる部分だった。つまりは、隙 間 なのだから。
人間が身に着ける防具は、必ず不完全なものになる、ということである。
とはいえ──その大男が身に着けているものは、そういった問題とは次元が違 うほどに、滅 茶 苦 茶 な構造をしていた。急 所 を覆っていないのである。その深 紅 の甲 冑 が守っているのは、背中と胸だけだった。死角となる脇 腹 や、下 腹 はむき出しになっている。腕もまったく無防備なため、動きやすいことは動きやすいのかもしれないが、上腕に攻 撃 を受けただけで戦 闘 不能になりかねない。首も同様だった。さらには、翼 のように突 き出した、背部の装甲──これは明らかに邪 魔 である。これがあるおかげで、長大な武器を構えることは不可能だろう。剣 がせいぜいである。ついでに遠くから槍 でここを突かれただけで、バランスを崩 してしまいかねない。
およそ考えられる限り、機 能 性 のない防具だった。ちなみに下半身は──むしろ上半身に比べて装甲が着けやすいはずの下半身は、厚手の布でできた、ただの白ズボンである。
その男は、のそりとした動作で、格 子 から背中をはなした。腰 に下げている剣が揺 れるが──音はしない。
大男は横 一 文 字 だった口をほんのわずか、隙間を開けた。歯の色も分からない程度の隙間である。
「魔術士と結 託 するとは......どういうことなのだ? サルア」
「思い切りは必要ねえな」
ぺっ、と黄 塵 が混じった唾 を吐 き捨てて、サルアがそちらに身体を向ける。オーフェンはそれを見ながら、じわじわと後退していた──
(状 況 が厳 しすぎる......)
退 路 はない。
前に進むこともできない。地上への唯 一 の道であるらしい階段は、二十人以上からなる神官兵で埋 められている。武装した大人数の兵士を相手に、こちらの対 抗 策 となるはずの魔術は使えない。
かろうじて、なにがしかの切り札になり得るのは、クリーオウとレキの魔術だけだが、それを伝えようと手を伸 ばしても、
(あれ?)
オーフェンは、嫌 な予感を覚えて眉 根 を寄せた。数秒前までいたところに、彼女がいない。こういう時は、いつも同じパターンで──
「おいっ!」
彼は叫 んで、気楽にすたすた進み出していたクリーオウに手を伸ばした。ぎりぎり、髪 の毛をつかむことに成功する。
「痛っ」
小さく毒 づいて、びっくりしたように振 り返ってくるクリーオウに、オーフェンはささやいた。
「どこへ行くんだよ、どこへっ!」
「どこって......」
クリーオウはレキを頭に乗せたまま、無表情にこちらを見ている神官兵の、一番端 を指さした。
「あそこから──」
と、すうっと指を移動させる。神官兵のすべてをなぞり、そして、格 子 扉 の前の、大男までを指さしてから、ぐっと拳 を握 る。
「あそこまで、この子に頼 んで分子レベルで沸 騰 させて消 失 してもらうには、全員が見 渡 せるところに行かないと」
「そーゆうことをするなぁぁぁっ!」
あっけらかんと言ってくる彼女に、オーフェンは怒 鳴 り声をあげた。頭上のレキと同じポーズでビビった様 子 のクリーオウが、不 思 議 そうに声をあげる。
「なんで?」
「ここはまだ地下なんだぞ! 上の神 殿 が全部がれきになって落っこちてきたら、それをどう防ぐつもりだったんだよ!」
「それは──」
クリーオウは言いかけて、少し口ごもってから、改めて手をぽんと打った。
「わたしたち、きっと日 頃 の行いがいいから、どうにかなるわよ」
「......こーゆう場所でこんな目にあってる時点で、日頃の行いにはケチがついてるような気がするが」
オーフェンはどうしようもない疲 労 感 を覚えながら、それだけを言った。クリーオウの返事は待たずに、後方へと引きもどす。やはり、あてになりそうにはない。
顔を上げると、サルアが半 眼 でこちらを見ていた。
「......もういいか?」
「ああ」
手を振 って、オーフェンは答えた。と、サルアは警 棒 で首筋をかきながら、大男へと向き直っていった。
大男は終始、無表情のままのようだった。サルアと視線が合うのと同時、再び口を動かさずに言ってくる。
「この前話をした時には、泣いて許 しを懇 願 していたように思ったのだがな」
「さあ。俺は覚えてねえな──なにしろ片っ端 から爪 を折られて、喉 と舌 に針を刺 されたもんでね。なんだって言ったかもしんねえな。しろと言われりゃ、あんたに求 婚 だってしたかもよ。にしてもだ......」
と、サルアはちらりとこちらに視線を投げた。そして、今度は大男にというよりも、ずらりと並んだ神官兵たちに向けて、聞こえよがしな声をあげる。
「結 託 で思い出したんだが、俺としては、あんたがなにと結託しようとしているのか知りたいところだね、クオ。なんとなく、なんとなくだが、あんた、毎週欠かさずにやっていた最 終 拝 謁 を、半年前からは──」
刹 那 。
オーフェンが視界にとらえることができたのは、宙にきらめく、きらきらとした光の筋だけだった。その光が、サルアに触 れたように見えた、一 瞬 ──
「────っ⁉ 」
唐 突 に、サルアの身体 が宙に浮 いた。弾 かれるように勢いよく、最も近い壁 にたたきつけられる。その手から警棒が落ち、床 に跳 ねて高い音を立てた。
「なんだ?」
オーフェンは驚 きながらも、彼に駆 け寄ろうとした。たいしたダメージはなかったようだが、背中から壁に打ち付けられて、声が出せないらしい。床に落下して、ふらふらと起き上がりながら、サルアはこちらに手をあげた。手のひらを広げて、制止の合 図 を送ってくる。
よく分からないながらも、オーフェンは足を止めた。警棒を構え、クオと呼ばれた大男に──遠く離 れたその男に向かって戦 闘 体勢を作る。もともと短い武器は得意であったし、警棒を使った訓練もこなしてはいる。だが。
(今のは......なんだった? それが分からなければ、どうしようもねえぞ......)
光の筋は、もうどこにも見えない。現れたのと同じ唐突さで、いずこかへ消えてしまっていた。なんとか立ち上がったサルアは、こちらに背を向けてクオをにらみ据 えている。彼が言ったことをふと思いだし、オーフェンは胸中で繰 り返した。
(最終......拝謁?)
ネイム・オンリーが死亡前に言っていたことだ。意味は分からないが。
(拝謁? 最高位人物に会うことだろう? だが──誰にだ? キムラック教会での最高位人物といやあ、教主ラモニロックに決まってるが......その程度のことなのか?)
考えても答えは出ない。いや、出るのかもしれない。オーフェンは、横目で神官兵たちを警 戒 した。全員まだ動いてはいないが、命令さえあれば、即 座 に跳 びかかってきそうな隊列にはなっている。
考える時間は限られているようだった──ここで答えが思いつかなければ、そのまま人生が終わってしまうようなきわどさを彼は覚えて、内心、寒 気 を感じる。死ぬわけにはいかないが......
意地を張っていても仕方のないことというのが、世の中には、ある。そんな虚 無 的 な思いが自然にわいてきた。
熱くなっていく身体 を、冷 や汗 が冷 ましていく。そんな堂 々 巡 りを続ければ、体力だけを地 味 に消費していくことになる。うんざりとなって、オーフェンは唇 を舐 めた。虚無の連 鎖 を断 ち切るには──はさみが必要だ。強いはさみが。例えば、希望のような。
(残念ながら、そこまで楽観的な状 況 でもないみたい、だな......)
黄 塵 が渦 巻 いている......
その中で、クオがまたゆっくりと動き出すのが見えた。彼が動くよりも先に、彼が動こうとしている空間から黄塵が逃 げていく。そんな錯 覚 じみた光景を、オーフェンは瞳 に映していた。不 格 好 な深 紅 の鎧 姿 で、腰 の大 剣 ではなく、後ろ腰から短剣を引き抜 く。
長さ三十センチほどの短剣を、それよりはるかに長い右手にぶら下げるようにして、大男は初めて表情らしきものを見せた──笑 み。頬 と額 の皮だけが歪 んだ、暗く、深い笑み。
「お前がなにを言ったのか、教えてやろう......」
つぶやくクオ──確かクオ・ヴァディス・パテルとか、メッチェンは言っていたか──の背後で、例の無意味な翼 状の装 甲 が、かすかに開いたようにオーフェンには見えた。そして......先ほどちらりと見えた、空中にきらめく光の糸のようなものが、いっせいにクオの周 りで広がりはじめる。
光で編 んだ網 のように広がっていく、その〝翼〟に唖 然 としながらも、オーフェンはクオのつぶやきを聞き逃 してはいなかった。
「お前はな、こう言ったのだ。メッチェンとともにわたしを殺して、すべての教義を大陸に公開するよう、教主様に進言するつもりだとな」
ざわ......と、今までまったくの無言だった神官兵たちに、波 紋 のようなざわめきが起こる。水面だけに薄 く広がり、そして──一度広がるだけで、あとは消えていってしまうような。
「へぇ。俺も拷 問 されてる時は、意外といいこと言うみたいだなあ」
サルアは落とした警棒を拾い上げると、それを器用にくるりと回転させた。しっかりとそれを握 り直し、言い放つ。
「魔 術 士 と......いや、聖都以外に住む人類のすべてと対立するような今までのやり方じゃあ、キムラック教会はいつか滅 びる──哀 れなドラゴン信 仰 者 みたいによ、ちりぢりになって顔を隠 して生き延びるのがせいぜいだ。それが分からんわけじゃないんだろうが? どのみち、あんたがあの教主を傀 儡 にしていることは分かってるんだ。あんたさえ排 除 すれば、あとは簡 単 に──」
そこまで言いかけて──サルアが、ぷつりと声を切る。オーフェンも、思わず悪 寒 を覚えて身体 をすくませた。
クオ・ヴァディス・パテルが笑っていた。
ただの笑 みではない。笑い声をあげるわけでもないが、哄 笑 の上に哄笑を重ねたような、異 様 にひきつった笑みを、その大男が浮 かべている。目をつり上がらせ、ぱっと見には憤 怒 の形 相 にも似た笑みである。
そして、なにも言い返してはこない。なによりも異様だったのは、そのことかもしれなかった。
多少、意気を縮小させながらも、サルアが続ける。無理にでもにやにやして。
「さて、俺もおもしろいことを教えてやるよ、御 大 。ここにいるのはな──」
と、彼はこちらを示した。そのまま続ける。
「《牙 の塔 》のキリランシェロ。聞いたことはあるよな? あんたが退けた っていう、あのチャイルドマン・パウダーフィールドの生徒だ。あんたがあの大陸最強の魔術士とどう戦ったか、俺はオレイルに聞かされて知ってるんだぜ!」
サルアがそれを告げた瞬 間 、クオの顔面からその異様な笑みが消えた。そして、さっきと同じ、サルアの周囲に光の筋が閃 く──
だんっ!
強 烈 に床 を蹴 って、サルアは後方に跳 んでいた──つまり、こちらに。サルアが立っていた場所を、光の筋はきらきらと通りすぎていく。
無事、床に着地して、サルアが余 裕 ありげに鼻を鳴らす。
「へっ──あんたご自 慢 の〝緋魔王 〟も、来るタイミングさえ分かってりゃ、どってことねえ」
「呪 われた魔 術 使いと手を結んだお前には、もはや我 らが同 胞 たる資 格 なし......」
サルアの言葉は無視して──クオは短剣を掲 げた。
「死ね」
およそ神官には似つかわしくない単語を吐 き出すと、それが合 図 か、階段の神官兵たちが静かな足取りで動き出した。一段一段踏 みしめて、顔の下半分を覆 っているマスクですら隠 せない、明らかな殺意をたぎらせている。
「おい、キリランシェロ......」
サルアはクオを見 据 えながらも、ぼそりとこちらにささやいてきた。
「クオは俺が潰 す。お前は、あっちの神官兵たちを全員相手しろ」
「............」
あまりと言えばあまりにも無 茶 な指示に、オーフェンは思わず絶句していた。が、なんとかあえぐように言い返す。
「──て、お前、ちょっと待てよ⁉ ンなことができるわけ──俺 は今、魔術が──」
「そいつを悟 られないよう、うまくやれ。神官兵はこの街 から外に出たことがない。魔術士との戦 闘 経験がほとんどねえんだ。魔術を恐 れている......念のため言っとくが、クオひとりのほうが手 強 いんだからな」
「ねえ、オーフェンどうするの⁉ 」
大声で、クリーオウが叫 んでくる。彼女の代わりに、頭上のレキがぱたぱたと手(前 脚 )を振 っていた。
「オーフェンてば、魔術使えないんでしょ⁉ ねえねえどうしようか! わたしも剣 を持ってきてないし、オーフェンも武器らしい武器なんてもってないのよね! ひょっとして、打つ手がなんにもないんじゃない⁉ ねえオーフェン、なんか答えてよ──」
まったく危機感なく、ただやたら響 きわたる声で叫ぶ少女を呆 然 と見ながら──
頭を抱 えて、オーフェンは泣き声じみた声を漏 らした。
「......この......クソアマは......」
「まあ......なんとかうまくやってくれ」
あきれかえった声で──多少絶望感も混じっていたか──、サルア。
サルアはそれを言ってから、再びクオへと向き直っていく。クオは背中から、滝 のような光の筋を広げていく。輝 く翼 のように。光だけで作られた巨 大 な翼は、その無 骨 な大男を天使のように──あるいは悪 魔 のように──見せていた。
オーフェンは、とりあえずそちらはサルアに任 せることにして、神官兵のほうに身体 を向けた。サルアとは、背中合わせの形になる。ぱたぱたと気楽に駆 け寄ってくるクリーオウに、彼は毒 づきかけた。
「お前はな──」
と。
駆け寄ってくるクリーオウの向こうで──
オーフェンは、全身からさっと血の気 が退 くのを覚えた。思わず警 棒 を取り落としそうになりながら、叫ぶ。
「マジク! お前──やめろ!」
接近してくる神官兵たちに向けて、マジクが両手を合わせて構えを取っていた。精 一 杯 の真 剣 な面 持 ちで、標 的 をにらみ付けている。小 柄 な少年の周囲に、膨 大 な構成が展開されているのを、オーフェンは悪夢でも見ているような心 地 で理解した。
集中したまま、マジクは言ってきた。
「建物を崩 さない程度にやればいいんでしょう? クリーオウには加 減 ができなくても、ぼくはできる──」
身体の前で合わせた少年の手に、ぼっ、と純白の火が点 る。神官兵たちが、意気をくじかれた様 子 で立ち止まるのが見えた。マスクのせいで表情はよく分からないが、瞳 が恐 怖 に染 まるのだけは分かる。
オーフェンは立ちすくんで──ここまで発動しているのなら、今から妨 害 するほうが危険が大きい──、クリーオウを引き寄せた。魔 術 が暴発した場合、なにが起こるか分からない。
そうしているうちにもマジクは、追いつめられた表情で構成に力を与 えていく。炎 がひときわ輝き、少年は両手を前方に投げ出して叫 んだ。
「我 は放 つ光の白 刃 っ!」
膨 れ上がる光 熱 波 が、一直線に神官兵たちを打つ──
直前に。
マジクのすぐ目の前に、光の壁 のようなものが出現した。輝きとは違 う、ただ水流のようにきらめくだけの、光の筋が幾 重 にも重なり合った──壁。
光の筋は複雑に重なり合い、入り組んだ紋 様 を空中に描いていた。マジクが放った光熱波を、真正面から受け止め、そして、爆 裂 させる。
白い炎の炸 裂 は、術者自身──マジクを巻き込んでいた。轟 音 とともに燃え上がる衝 撃 と熱風が、少年を包み込む。悲鳴は聞こえなかった......
「マジク⁉ 」
クリーオウが叫んで、そちらに駆 け寄っていった。オーフェンも、あとに続こうとしながら──ふと足を止める。彼はぞっとしながら振 り返った。クオ・ヴァディス・パテルの姿を視界に収める。
クオの鎧 から展開された光の翼 が、途 中 で消えている。マジクの眼 前 に出現したのは、間 違 いない、その翼の先だったはずだ。そして、銀 光 の網 が描き出していた紋様は......
「魔術文字 ......?」
その事実は、オーフェンの理解力を超 えた。キムラック教徒の殺し屋が、ドラゴン種族の魔術を使う?
クオはただ静かに嘲 りを浮 かべている。
「イ・フ・リ・ー・ト。魔 人 の鎧だ」
こちらに背中を向けたまま、サルアがつぶやいてきた。
「お前らの魔 術 は通じねえんだ、あの御 大 には」
オーフェンはその言葉を受け止めて、ふっと──記 憶 の淵 からなにかが浮 上 してくるのを予感した。望んだものではなく、ただ自然に思い出す。メッチェンと出会った、カミスンダ劇 場 。そして、あの鎧。
なんの機能性もない、深 紅 の鎧。キムラック教会は、天人の遺 跡 を秘 匿 していた......
「......天人の遺産か!」
オーフェンは叫 んだ。現在、大陸に残っている天人の武器の大半は、かつての魔 術 士 狩 りの際、魔術の力を持たない普 通 の民衆に、魔術士と戦う力を与 えるために創造されたものだ──天人の魔術によって造られたその武器類は、人間の魔術をはるかに凌 駕 した力を持っている。魔術を完全に防ぐ防具の類 があったとしても、まったく不 思 議 ではない。
クオはなにも答えてこない。光の翼が、もとにもどった。薄 いカーテンのようにたなびいて、クオの周囲を巡 る......
と、サルアが駆 け出した。警 棒 を水平に構え、叫ぶ。
「奴 は俺がやる! 神官兵をたたけ!」
クオに突 っ込んでいくサルアに背を向け、オーフェンはマジクのほうを見やった。クリーオウが助け起こしているが、意識がないらしい。間 近 で熱 衝 撃 波 が炸 裂 したのだ──ぱっと見ただけでも、あちこち焼けただれて、着ていたマントも黒こげになっている。薄い胸が激 しく上下しているのが見えた。まだ死んではいない。
クリーオウが、その身体 を揺 さぶりながらわめいている。
「マジク! ちょっと、なんで返事しないのよ!」
と──
魔術の脅 威 がなくなったことを悟 ったのか、神官兵たちがふたりのほうに殺 到 しようとしているのが見えた。
「くそっ!」
オーフェンは毒 づいて、警棒を手に神官兵の部隊へと突っ込んだ。二十数名いる部隊のうちの五、六人が、こちらへと向き直る。
(全部を引きつけるのは無理か......)
神官兵に取り囲まれて、マジクとクリーオウの姿が見えなくなった。甲 高 いクリーオウの罵 声 だけが聞こえてくるが、様 子 は分からない。
一番手前にいる神官兵が、こちらより先に打ちかかってくる──得 物 は同じ。警棒である。斜 め上から振 り下ろされてきたその警棒を、オーフェンは右肘 で受け止めた。骨まで響 くような痛みが走るが、それは無視する。舌 打 ちする間もなく、彼は右腕をあげたついで、警棒の柄 のほうで相手の眉 間 を痛打した。一 瞬 に切り取られた視界の中、神官兵の目が反転して白くなるのが、確かに見えた気がする。
ぐらりと倒 れる相手の手から、オーフェンは空いている左手で警棒をもぎ取った。クリーオウたちがいたほうをちらりと確認し──群がった神官兵たちの姿しか見えなかったが──右手に持っていたほうの警棒を、床 を滑 らせてそちらに放 ってやる。
「クリーオウ使え!」
短く叫 んだ。混戦の中、彼女がそれを拾えるかどうかは分からないが、うまくやってくれるかもしれない。
もう既 に打ち殺されているかもとは、考えないことにした。
どのみち、もう既に次の相手が、こちらに打ちかかってきている──
今度はふたり同時だった。左右から、真ん中を少し空けるような形で。警棒を転がしたために姿勢を低くしていたオーフェンは、そのまま身体を投げ出した。床を一回転し、起き上がった時には──そのふたりとはすれ違 っていた。
振り返るような暇 はない。周囲すべてが、もう敵に囲まれている。
起き上がろうとした頭を狙 ってくる警棒を、左手の警棒で受け止める。金属が打ち合う耳 障 りな音が鼓 膜 を突 き抜 けた。相手の動きが止まったその一瞬に、完全に立ち上がる。真正面で、再び警棒 を振 りかぶるその神官兵に、オーフェンは迷わず突 進 した──相手の腕の内側に入って、激 しく息を吐 き出す。
同時に、敵の身体の中心に肘 をたたき込む。
ふたり目が、倒れた。
(きりがねえ......!)
どちらを見ても、敵がいる。
再び左右から、前後から、時には上下から、神官兵たちに取り囲まれ、オーフェンはほとんど我を忘れて身体を動かしつづけた。黄 塵 にかすんだ視界に、白い人 影 が無数に連なっているような錯 覚 を覚える。打ち、防ぎ、もう何人倒したのか──あるいは何回倒されたのか──数えるのも忘れた頃 に、唐 突 に......動きが止まる。
「............?」
警棒を手に、オーフェンは、ふと立ちつくしていた。それまでは、ひっきりなしの攻 撃 に対して、反射的に戦 闘 を続けていたのだが──
攻撃が、なくなったのだ。
見下ろすと、四人──いや五人。神官兵が倒れている。少し離 れたところに、最初に倒したひとりが。横を見ると、クリーオウがいた。彼の位置から、やはり少し離れている。マジクをかばうような格 好 で、レキを頭に乗せたまま、ちゃんと拾ってくれたのか、あるいは自分で誰かから奪 い取ったのかもしれないが、警棒を構えている。その足下にも三人、神官兵が床 に沈 んで固まっていた。少しびっくりしたような表情で、クリーオウがこちらを見ている。
(なんだ......?)
状 況 が、よく分からなかった。残りの神官兵は、いつの間にかこちらを遠巻きにしている。残った人数は、十四人になるか。こちらを取り囲むように輪になっているが、襲 いかかってはこない。彼らの目に、困 惑 のようなものが浮 かんでいるのがうかがえた。
十四人。十四?
(ひとり......足りない?)
オーフェンは気づいて、さらに見回した。すると──
背後にひとり、神官兵が立っている。
「なにっ⁉ 」
彼が振り向くと同時、その神官兵は恐 ろしく速い挙 動 で警棒を打ち下ろしてきた。跳 び退 くようにそれをかわして、オーフェンは構えなおした。が、相手のほうが速い──
クリーオウが呆 然 と見つめていたのが彼ではなく、その神官兵のことだったのに気づきながら、オーフェンは再び打ってきた敵の警棒 を弾 き返した。また後方に跳ぶ──ふりをして、今度は左に跳ぶ。
跳びながら、彼は右手に持ち替 えた警棒で、神官兵の右ももを狙 った。が、それには相手も気づいていたようで、空 振 りして終わる。
「オーフェン!」
クリーオウが、叫 んでくるのが聞こえる。返事する暇 はない──それどころか聞いている暇すらない!
「ちいっ!」
同じ武器では勝てない。そう踏 んでオーフェンは、警棒を投げ捨てた。拳 を固めて相手を見 据 える。マスクに下半分を隠 された顔。こちらを見返してきている眼 。
ブラウンの瞳 。
(............?)
オーフェンは一 瞬 なにかに気づきかけたが、結論が出るよりも早く、相手が攻 撃 に出てきた。動き出す一瞬前、警棒を握 る手をゆるめ、再び握るのが見えた。簡 単 なフェイントである。直後、真正面から彼女 は警棒で突 いてきた。
反 撃 するよりほかはない。オーフェンは身体 を大きく反転させた。突き出された警棒の外側へと身体を回転し──その勢いに逆らわずに、敵の耳のあたりに裏 拳 を放つ──
刹 那 。
「オーフェン! その人は──」
クリーオウの声に、オーフェンは拳を止めた。敵も動きを止めている。警棒を突き出したその神 官 兵 と、それを打とうとしていたオーフェンは、結果が出る直前の体勢で、ぴたりと硬 直 していた。
「その人は......」
のろのろと、クリーオウが言ってくる。
「わたしを、助けてくれたの......」
その神官兵が、にやりとしたようだった。
そして警棒を持っていた手を、ぱっと開く──甲 高 い音を立てて、警棒は床 に落ちた。その音に紛 れて、彼女がつぶやきを発するのが、オーフェンには聞こえていた。
「来たれ──」
ふっ......と、開いている彼女の右手に、なにか空気が固まるような気 配 が集中していく。
数秒遅 れて、その手の中に、長い棒のようなものが出現する──いや、長大な剣 。見覚えがある。
いつの間にか、彼女はマスクをむしり取っていた。こちらは、もはや見覚えどころの話ではない。いたずらっぽい微 笑 が、こちらを向いていた。ぎょっとして、後ずさりしながらその名を叫 ぶ──
「アザリー!」
「やっぱり来たのね」
彼女は短くそう言うと、剣──天人の造り出した変化の剣、月の紋章 の剣を一 閃 して、身にまとっている神官兵の服の端 を軽く切り裂 いた。その刃 に、無数の魔術文字が輝 く。文字は膨 らみ、彼女が裂いた服に転移した。服全体が、その光に溶 けて消える。
次の瞬 間 には、彼女が着ていたものは、黒い戦 闘 服 へと変化していた。前にも見たことのあるものだ。変化を終えたあと、彼女はこちらにウインクしながら、その剣を投げ出すように、床に突き立てた。まだなんらかの魔力が働いているのか──剣は石の床に、冗 談 みたいに簡単に突き立つ。
「でも、なあに? その格 好 」
彼女に言われて──オーフェンは、唐突に意識した。ぼろぼろになって、泥 やらなにやらで汚 れた、白い上下。もとは修道服のようだったそれは、今では完全にボロ布の集合体になり果てていた。

「あ、いや、これは......」
オーフェンは、ばたばたとその服を手ではたいた。たたいたところで落ちる汚れでもないのだが、そんなことをしている間に、アザリーが剣 を床 から引き抜 き、その刃 をこちらに向けた。あっと言う間もなく、その切っ先を服に当てる。
と、先刻と同じプロセスで、彼の服に光が移った。ぼろぼろの服が、着慣れた革 のジャケットに変化する。
いつもの黒ずくめにもどったこちらを眺めて、アザリーが笑う。
「そっちのほうが似合ってるわよ。だいたいあんたって、白ってのが体質的に合わないのよね」
「そうそう。わたしも同意見」
ひょこっと横から顔を出し、クリーオウが同意する。マジクも抱 えて持ってきたようだったが。
「ンなことは、どうでもいいだろ」
オーフェンは、バルトアンデルスの剣から身を退 くように後ずさりしながら、思い出して周囲の神官兵へと視線を移した。彼らは、いまだ困 惑 を続けてはいるようだったが、それでもそれなりに状 況 を分 析 して、おおむね正しい判断を下したようだった。つまり──
とりあえず、こちらを皆 殺 しにするのだ。
いつもの格 好 にもどってオーフェンは、じりじりと近寄ってくる神官兵に向き直った。服が変化しただけなので、ドラゴンの紋 章 はない。武器もない。さっき警棒を捨てたことを多少後 悔 しながら身 構 える。包囲されているので、神官兵がにじり寄ってくるのは正面からだけではない。マジクの魔 術 を弾 き返した、さっきの光の壁 を思い出しながら、オーフェンは不安の味を噛 みしめた。アザリーの魔術でも、あれと同じ結果となるのであれば──結局のところ、形 勢 不 利 は変わっていない。
が。
ぽん、と肩 をたたかれて、オーフェンは思わず拳 を落とした。向きやると、アザリーが剣を肩に担 ぎ、気楽に笑っている。こちらを見つめているその瞳 が──ちらと、足下へと下がった。
つられて、オーフェンもそちらを見る。と、アザリーの足下、先ほど彼女が剣を床 に突き立てたところに、光の文字が輝 きを発している。
彼女の黒い靴 のつま先が、その文字を踏 んだ。瞬 間 ──
「うわああああああっ⁉ 」
あがった悲鳴は、神官兵たちのものだった。全員、似たような悲鳴をあげながら、上空へすっ飛んでいく──恐 ろしい勢いで、彼ら全員の足下の床が、それぞれ直径一メートルほどの円柱となって天 井 へと伸 びていったのである。天井はかなり高い──十とはいかなくとも、八メートルほどはあるか。壁 にかけられたランタンの明かりしかないため天井あたりはかなり暗く、あまりよくは見えないが。天井に激 突 するほんのぎりぎりまで円柱は伸び上がり、神官兵たちをぺしゃんこにする寸前、ぴたりと止まった。そして、アザリーの足下から文字が輝きを失う。
「飛び降りたっていいけど──」
彼女は円柱の上にいる神官兵たちに向かって、からかうような声をあげた。
「下は石の床よ。よく考えてね」
「......すっごーい......」
クリーオウが、感 嘆 の声をあげる。
アザリーは彼女の頭(とレキ)をぽんぽんと撫 でつけながら、肩 をすくめてみせた。彼女に、というよりこちらに言ってくる。
「わたしもかなり、この剣の扱 いには慣れたのよね」
と──こちらの表情を見て、笑 みを消す。彼女はやや寂 しげな眼差しを投げてきた。
「......そんな顔しないでよ。確かに、わたしたちにはいわくありの剣だけど──道具は道具よ。賢 ければ、相 応 に使い方を選ぶことができるわ」
オーフェンはかぶりを振 って、関係ないことを聞いた。
「いつ、ここに侵 入 してたんだ?」
「わたしもあなたに同じことを聞きたいわね。多分......あなたと同時くらいだったんじゃないかしら」
答える彼女を、オーフェンはじっと見つめていた。ごくなにげなく、間近に立っている彼女を。アザリー。天 魔 の魔 女 。自分の姉。
ずっと──ずっと、追いかけてきた女。
「俺は──」
彼は声を出そうとして、そして、肺に痛みを覚えた。彼女を見ていて、まぶたがしびれる。考えようとして、頭痛がぶり返してきた。なにをするにも、そうだ......
(結局、彼女のことに関しては、俺は苦痛しか感じられないんだ......)
言うべき言葉はもう分かっていた。言うべき場所はどこでもいい──言うべき時は、今しかない。オーフェンは口を開いた。彼女の姿はもうない。
(......?)
わけが分からず、彼は目をぱちくりさせた。ずっと見つめていたはずだったのだが、彼女がいつの間にかかがみ込んでいたことに気づかなかった。見下ろすとアザリーは、クリーオウからマジクの身体 を受け取り、あちこちに触 れて傷の度合いを調べている。
「アザリー?」
オーフェンが聞くと、彼女は──当然マジクのことを聞かれたのだと思ったのだろう。一番ひどい腕の火傷 を調べながら、言ってきた。
「急いで治 癒 させないと危ないわね。でも......」
「でも?」
クリーオウが、きょとんと聞き返す。オーフェンは、うなずいた。
振り返る。もとより忘れていたわけではなかった。
神官兵を押 し上げた、十四本の円柱が防風林のように立ち並んでいる向こう──黄 塵 の霞 の中から、光の翼 を開いた巨 人 が歩いてくる。
満 身 創 痍 のサルア・ソリュードを片手で引きずって、無言で歩いてくるクオ・ヴァディス・パテルを見つめて、オーフェンはアザリーの言葉を聞いていた。
「彼が......そんなことをする暇 をくれるなら、ね」
アザリーがやるにせよ、クリーオウがレキに頼 んでやらせるにせよ──治 癒 蘇 生 の魔 術 は時間がかかる。外傷をふさぐだけならば簡 単 だが、今のマジクのような重傷を治すには、治癒させる間、かかりきりにならなければいけないはずだ。
(マジクの奴 を見捨てて、三人がかりで襲 いかかれば、ちったぁ楽に戦えるかもな)
最悪の状 況 から、ここまで回復した──三対一にまで。これをまたもとのレベルにまでもどすのは、馬 鹿 げているといえば馬鹿げている。
皮 肉 げに考えて──オーフェンは、頭に手を当てた。と、皮肉な思いがいっそう強まる。アザリーといえばアザリーらしい。彼女は服を変化させる際に、バンダナを忘れていた。
あるいは、わざとかもしれないが。
だが、魔術がない自分は、彼女が望んでいる者にはなれないだろう。
キリランシェロには。鋼 の後 継 には。
──チャイルドマンの代わりには。
「オーフェン」
「キリランシェロ」
同時に──アザリーとクリーオウ、同時に呼ばれて、どちらの名前に反応したのかは自分でも分からないまま、彼は振り返った。肩 をすくめてやる。
(......俺 に噛 みついてくるなんざ、可愛 い生徒じゃねえか)
笑って、彼は決心した。もとより、決めるほどのことなどなかったのだが。
ゆっくりと歩いてくるクオにあごをしゃくり、
「奴は、そんな暇はくれないだろうな。暇なら、俺が作る。マジクの奴を回復させるのに、どのくらい時間がいる?」
「五分」
アザリーがつぶやいて、そして構成を編 みはじめる......
すっくと、クリーオウが立ち上がった。こちらの横について、拾った警 棒 をしっかと構える。
「わたしが、オーフェンのサポートするからね」
同時に、少女の頭の上で、レキが頭を上げた。ただ、クオの鎧 が天人の魔 術 によるものであるならば、ディープ・ドラゴンの、しかも赤ん坊 レベルの魔術など防いでしまう可能性のほうが高いが......
オーフェンは、それについては言わなかった。クオを見 据 えたまま──クリーオウの頭を、ぽんとたたく。そして、
「ああ。サポートが必要だ」
「......オーフェン⁉ 」
半 ばびっくりしたように、クリーオウが叫 ぶ。声に歓 喜 のようなものが溢 れているのを感じながら、オーフェンはあえて気づかないふりをした。
クオの歩みが──
止まる。緋 色 の鎧を着けた、翼 持つ死の教師は、引きずっていたサルアの身体を、ぼとりと床 に落とした。サルアは、やはりまだ息はあるようだが、意識を失っているらしい。治ったばかりの身体に、無数の創 傷 が見える。クオが手にしている短 剣 でつけられたものだろう。
オーフェンは口を開いた。
「お前が、クオ・ヴァディス・パテル......か。死の教師の、頭 領 だったっけかな」
クオは答えてこない。
構わずにオーフェンは続けた。
「ネイム・オンリーを殺したのは、俺だ」
はっ、と──クオではなく、背後のアザリーが顔を上げるのが気 配 で分かったが、振 り向くことはしなかった。
クオは無表情のままである。
オーフェンもまた、その感情のない顔を真 似 するように、表情筋から力を抜 いていった。
「てめえまで殺すとは言わねえ。時間を稼 がせてもらうぜ」
クオが、笑った。夜が明ける。
◆◇◆◇◆
その魔 術 が彼を殺すという確信が──
にわかに曇 ってきて、彼は眉 根 を寄せた。彼女が虚 空 に文字を重ねるごとに、彼女へと集まっていくパワーは、圧 倒 的 なプレッシャーとなってこちらへと反射してきていた。が、その力はむしろ......
「やめてください!」
彼は、弾 かれたように叫 んだ。短 剣 を下ろして、続ける。
「あなたに、そんな大魔術を使うような余力が、残っているはずがない──」
「素 晴 らしい閃 きだ。我 が子よ」
イスターシバの声は、満足げだった。
笑 みすら浮 かべていたかもしれない──ただ、急速に乾 燥 し、ひび割れていく彼女の顔には、表情らしい表情など望むべくもなかったが。
ドラゴン種族の司祭は、その手元に集束していく力と引き替 えに、自分自身の身体 を崩 壊 させていた。顔だけではない。鮮 やかな緑色に、輝 きすら感じさせていた髪 も縮れ、塵 となって崩 れていく。自 重 に耐 えきれなかったのか足首が折れ、彼女はその場にひざをついた──が、魔術文字を描く指だけは、決して止めない。
そして言葉も止まらない。
「まったくもって上出来だ。そう。これは我が生 涯 で、二番目に強大な魔術となろう」
「そんな......」
彼はただ震 えながら、それを見ていた。動くこともできない──構成されていく魔術文字に立ち向かうなど、不可能というよりも、あり得ない ことだ。ウィールド・ドラゴン種族の中でも──始祖魔術士 を別とすれば──最強最大たる司祭、イスターシバの力。
文字は幾 度 も描かれ、なぞられ、そして放 たれて──一点に集中していく。すべて銀の輝きで描かれた、ひとつとして同じではない文字たち。その上で、ひとつとして一定の規格から外れることのない文字たち。
彼はただ力なく見つめるだけだった。崩れゆく、その女たちを。
「この文字は汝 を殺す。最小単位まで分解し、そして数百年の後の時代に、再構築する」
光の文字は刻々と大きくなっていく。そして激 しさも増していく。
「我らの力では時間転移など望むことはできぬが、擬 似 的 にそれを実現することはできる。これは汝 にも良い教訓となろう」
その輝 きが、ついに広間を満たした瞬 間 ──
彼は、絶 叫 した。全身を貫 く恐 怖 と畏 怖 に、失 禁 寸前になりながら泣き叫 んでいた。分からない。なにを恐怖していたというわけでも、ましてやなにを畏怖していたというわけでも。
一体なにを予想しているのか......
自分はあの文字に殺される──それならば死の恐怖だろう。
彼が最も愛し、最も恐 れていた女が、力なく崩 れていく──それならば死への畏怖だろう。死という、厳 然 たる終 止 符 への。
その絶叫が終わる頃 には、光も消えていた。
彼は立っていた。そして彼女は──ボロくずのように──その場に、倒 れていた。顔だけをこちらに向けて。背後には、もはやどこも似ている部分のない、自らの美しい肖像画を祭 壇 に背負って......
彼と彼女の、ちょうど中間あたりに、ひとつの文字が浮 いていた。文字は音もなく、ゆっくりとこちらに、近寄ってきている。
だが、恐ろしく遅 い。彼のもとまでとどくには、数分はかかるだろう。
イスターシバの、うめきにも似たつぶやき声が、広間にこぼれた。
「この文字が......我 の、我の最後の魔術」
彼はなにも言わなかった。ただ、文字を見つめていた。
「この文字に触 れれば──汝の身体 は消 滅 し、そして数百年後、この大陸のいずこかの地に再生される。だが無論」
と、声が自 嘲 に化ける。
「無論、汝はこの文字を避 けることもできるだろう......横を通り過ぎて、我にとどめを刺 すのも容 易 であろう。我 が子よ。汝は決断のできる男だ。ゆえに、決断を任 せよう。いかなる決断であろうとも、我にとってはたいして重要ではない。いずれにせよ。我が死は避 けられぬ。この砦 は、我が種族の墓 所 としては申し分ない場所だ。死 処 で死に抗 うことほど、無 粋 なこともなかろう」
なにを言っているのか、分からない──
何度も繰 り返した言葉を、彼は再び叫ぼうとした。が、声が出ない。
いや。と彼はかぶりを振 った。理解したくなかっただけだ、彼女が死ぬ など!
彼女はずっと、遺 言 をつづっていたのだ......
彼は文字を見 据 えたまま、動かなかった。彼女はそれに気づいたのか気づかないのか、ただひとりで続けている。
「だが、どういった決断にせよ、しばしの時をもらわねばならぬ。汝にはこれから、長い物語を聞かせなければならぬゆえ──」
夜明け前。
夜明け前だと直感的に、天 魔 の魔 女 アザリーは感じていた。無論、いまだ地下だというこの神 殿 の中に、そのような兆 候 があるわけではない。ただ、そう感じただけだ。思っただけかもしれない。
ただ、動き出しているのは間 違 いなかった。夜明けへ。
◆◇◆◇◆
メッチェン・アミックは夜明けを前に、路 地 裏 に座 り込 んでいた──激 しい雨に打たれ、虚 ろに眼 を輝 かせる。
聖 都 に立ちこめる暗雲が、昇 ったならば紫 に燃えるはずの朝日を閉 ざしていた。
戒 厳 令 下 の路地裏には、人の気 配 はおろか生命の吐 息 すら感じられない。雨に濡 れ、冷たく固く、そして重くなっていく身体 を抱 きしめるように、彼女は傷ついた右腕にきつく布を巻き付けた。いつもは頭に巻いている、青い布。雨と血に濡 れた今は、黒バラの色に染 まっていたが。
◆◇◆◇◆
夜明けを知らず、マジクは闇 の中で眠 っていた。
なにが起きたのか分からない──ただ、閃 光 とともに彼は、ここに弾 き飛ばされていた。
誰 かが身体に触 れている。激 痛 にすくむ彼の身体を、あやすようになにかの力で抱 擁 してくれる。
(ああ、そうか。このひとが、お師 様 の──)
まったく脈 絡 なく、彼はそんなことを思っていた。
◆◇◆◇◆
夜明けが見えないことがもどかしい。
サルアは混 沌 とした意識の淵 から、無理やりに起き上がった。口 蓋 も鼻 孔 の奥 も、ただひたすらに血なまぐさい。舌の上の、べたべたとした感 触 に吐き気 を覚えつつ、彼は顔を上げた。うつ伏 せに倒れていた状態から首を立てて、なんとか身を乗り出そうとする──両腕はどちらもほとんど言うことを聞いてくれなかったが。
「ここでは──駄 目 だ、キリランシェロっ!」
喉 から暖 かいなにかがこみ上げる。胃液でないことだけは、間 違 いないだろうが。
「《詩 聖 の間》だ......その門が開けば、クオは威 力 のある武器が、使えな──ぐぁっ!」
吐きかけていたその暖かいものは、胸のあたりで支 えさせられた。後頭部をクオに踏 みつけられて、サルアの意識は再び濁 っていった......
◆◇◆◇◆
夜明けは彼を戦 慄 させていた。
なにがどうというわけではない──ただ、全身の皮 膚 の内側で曲がった針金がのたうつような、きりきりした違 和 感 がうねっている。もう夜が明ける。
「《詩聖の......間》?」
サルアの言葉を繰 り返し、オーフェンはその痛みをなんとか振 り払 った。詩聖の間──
「あの、門の向こうか?」
クオが立っている向こうに、高くそびえる格 子 の門。格子が複 雑 に絡 まり合い、中をうかがうことはできないが、かなり物 々 しい代 物 だった。余人の知らない《詩聖の間》──神 殿 最 下 層 ──そのようなことをサルアが言っていたのを思い出す。なにかは分からないが、この神殿にとって重要な部屋なのかもしれない。
だがどのみち、扉 はクオの後ろである。彼を突 破 しなければ、その《詩聖の間》とやらには入れない。
クオ・ヴァディス・パテルは光の翼 を広げて、悠 然 とこちらを見 据 えていた。その目に隠 すことのない殺意がのぞく。足下には倒 れたサルア。その右手には、巨 体 には不 釣 り合いな短 剣 ──どこからどこまでも、隙 のない漆 黒 の剣。黒 曜 石 から削り出されたような暗い光 沢 。不規則に渦 巻 く砂 塵 の中、その男は死をもたらす魔 王 のように、あるいは戦士を故郷へと導く精 霊 のように、堂 々 と立っている。
オーフェンは片目を半分閉じると、その男を視界の中心に据え、魔 術 の構成を編 みはじめた。が、額 をえぐられるような激痛を覚えて、すぐに中断する。
(やっぱり......駄 目 か)
魔術は使えない。血 涙 で顔面を染 めたネイム・オンリーの死に顔が、目の前にちらついた。
「くっくっくっ......」
笑い声。クオである。顔面だけに収まってしまう小さな笑 みで、彼は面 白 そうにつぶやいてきた。
「バルトアンデルス──月の紋 章 の剣、か。かつての戦乱の際、天人種族がドラゴン信 仰 者 たちに与 えた武器のひとつだな。多 彩 な魔術に対応するため効 果 を限定せず、多少なりとも刃で傷つけた物質を分解、再構成する。ただ、訓練されていない人間にとっては、その再構成を命じるための精神集中が難しかったために、戦中には実用に達しなかった。だが、そうだな。魔術士が使えば、制御は可能だな。皮肉な話だ」
と、肩 をすくめる。
「ちなみに刻まれた文字数は千八十四字。大 意 はこうだ。我 は始めにして終わりなり。そは時の魔 物 。いつでもほかのなにか......本格的に解 析 すれば時間もかかるだろうが、現存している物の多くは習作だ。武器としては魅 力 もない」
オーフェンはただ黙 って、それを聞いていた。向こうも反応を期待していなかったのか、気にした様 子 もない。クオは軽い調子であとを続けた。
「......多少は意外だったかね? お前たちは、天人種族の遺 産 を扱 うことができるのが、《牙 の塔 》だけだと思っていただろうからな......だが、その遺産の力は絶大だ。我々は当然着目していたよ。独自に魔 術 文 字 を解析するのには、かなりの時間がかかった。遺 跡 の隠 匿 に関しては、王都も気づいていないことはないだろうが、今のところはなにも言ってきていない」
「キムラック教会は、運命の三女神 信仰 だろうが。神々から魔術を盗 んだと伝説にあるドラゴン種族は毛嫌 いしてるもんだと思ってたがな」
オーフェンは皮 肉 たっぷりに毒 づいたつもりだったが、どうということでもなかったようだった。クオは、ふんと鼻で笑うと、
「我々も馬 鹿 ではない。有用なものは利用する。どのみち......ドラゴン種族は、ドラゴン種族だ。人類とは関係ない。好きなようにすればいい」
「そんな、話には──」
息を切らしながら、場に割り込んだ声は......
クリーオウだった。いつの間にかクオの左手に回り込むように走っている。小 脇 に抱 きかかえていたレキを、投げ出すように掲 げて、
「興 味 、なーし!」
途 切 れ途切れに叫 んだ、少女の声の直後―クオの周囲に、霞 がかった光が発生した。レキが緑色の目を見開いてそちらをにらんでいる。光はぱちぱちと音を立てて炎 に化け、一 瞬 、振 動 した。
大 爆 発 が起こる。
爆発の中、クオがその身体 を翼 で囲うのを確かに見て、オーフェンは駆 け出した。燃えさかる火柱の中心にいる人 影 に向かって。
(翼を防 御 に使っている今なら、なにもできないはずだ......)
今なら、扉を開けられるかもしれない。
走りながら、叫 ぶ。
「クリーオウ、そこの扉をぶち抜 いてくれ!」
「オーケイ!」
買い物でも頼 まれたような気安さで、クリーオウは手をあげた。くるりと素 早 く、門へと向き直り、彼女は──
弾 き飛ばされた。
「きゃあああっ⁉ 」
火柱から伸 びた翼に打たれたクリーオウは、体重も軽いせいもあってか、かなり派 手 に床 を転がった。巻き添 えを避 けるためだろうが、彼女が投げ出したレキは、ころんと別の方向に転がっていく。少女の身体は、長いブロンドが尾を引いて火の玉のように回転し、壁 に激 突 した。ぎゃ、と短い悲鳴を発し、身体を伸ばして止まる。
床の上でレキが、目をぱちくりさせてから──ついでにもう一回転、自分から転がった。
「......なに⁉ 」
目 算 が外れて、オーフェンはうめいた。それでも、足は止めずに走り続ける。その前方で火柱がふたつに割れ、クオが姿を現した。一方の翼 を伸ばし、もう一方だけを身体 に巻き付けて。
そちらの翼も音を立てずに展開し、クオは表情のない顔をこちらへと向けた。
(背中の装 甲 か......)
あまり意味のないことを、オーフェンは気づいた。背中についている、赤い二枚の板。そこからきらきらと筋を引いて、光の翼が広がっていた。よく見ると、板の先が崩れて無数の糸に変じている。宙にきらめいて見えるのは、その残像だった。糸を紡 ぎ合わせて、翼を作っている。
足を止める余 地 はない──立ち止まれば、クオは間 違 いなくクリーオウのほうからとどめを刺 すだろう。

だが逆に、接近してしまえば、そうそうあの翼も使えないはずだ。
駆 け寄るこちらを見つめたままで、クオは持っている漆 黒 の短 剣 を上げた。その刀身に、左手をそっと添 える。
(妙 な構えだな)
オーフェンは訝 ったが、相手の武器が短剣ならば接近するのに都 合 がいい。あと五歩だ......
クオの指が刀身を撫 でている。あと三歩。
ちらりと、口の端 がめくれ上がり、白い歯が見えたような気がした。あと二歩。もう半秒もかからないはずだ。
刹 那 ──
脳 裏 になにかが弾 けて、オーフェンは横に跳 んだ。光の翼ではなく、今度は黒いなにかが、その横を通り過ぎていく。
床 に足がついてもオーフェンは立ち止まらず、さらに前方に身体を投げ出した。一回転してから体勢を立て直し、また後ろに跳ぶ。
そのすべての動きのあとを追うように、鋭 い気 配 が迫 ってきていた。鞭 のようにしなり、黒い残像がちょうどSの字を描いて床の石をえぐっていた。耳 障 りな音を立てながら、床に深い傷 跡 を引いてクオの手元までもどっていく。
「これは......」
後方に跳び退 いたせいで、再びクオとの距 離 は開いていた。またいつでも跳べるように足を床に押 しつける形で、オーフェンは身 構 えた。
クオの短 剣 が、長剣のサイズにまで伸 びていた。いや、そうではない。
不敵に笑 みを浮 かべる死の教師の手には、黒い短剣の柄 だけがあった。刀身が、複雑なジグソーパズルのピースのように、ばらばらになって宙に浮いている。ちょうど、もともと組み合わさっていた形を間延びさせているようだった。クオが柄をあげると、なんの問題もないように、刀身も上がる。大男はそれを振 りかぶり──
オーフェンは素 早 く伏 せた。頭上をその刃 の群れが通り過ぎていくのを確認してから、起き上がる。
刃はさらに隙 間 を広げて、数メートルにまで延長されていた。クオが柄を引きもどすと、刃も縮む。すべて柄でコントロールできるらしい。彼は鞭を操 るように、その刃の群れを振り回した。
流星群のように剣の破 片 が跳ぶ──
前後左右でうなりをあげる黒い刃を避 けながら、オーフェンはクオの声を聞いた。
「これが、星の紋 章 の剣......ムールドアウル。貴 重 な一振りだ」
刃は伸びれば伸びるほど、当然その隙間を広げることになるのだが、刃の破片ひとつにでも当たれば、致 命 傷 になり得る。破片の数そのものは限られているので、さすがに数十メートルまで伸ばせば怖 くもないだろうが。
刃の破片はひとつひとつ、奇 異 な形状をしていた。文字のような。恐らくは、魔術文字だろう。
(くっそ......!)
間 断 なく襲いかかってくる刃を避けていくうち、次 第 にクオとの距 離 が開いていくのを、オーフェンは悲 惨 に自覚していた。距離が開けば開くほど不利になる──こちらには魔術がない!
いくら《塔 》で体術による戦 闘 法 を身に着けたといっても、魔術士のもつ技能のすべては、あくまで魔術が主体となる──主体であり、きっかけであり、決め手でもある。それがなくなったことがどういうことなのか、彼は悟 って歯がみした。
(なにも......できない! 無力だ)
彼は舌打ちして、かなり大きく跳 び退 いた。これでクオとの距離が、十メートルほどに開いてしまう。
と──星の紋章 の剣 とやらが伸 びるのも、その距離くらいが限界なのか、クオの攻撃 が止まった。流れるように剣の破片が集まっていき、刀身をだいたい腕の長さほどにするまで縮んでいく。
「この鎧 と......剣がなければ、勝てると思っているな? 魔術士よ」
クオのつぶやきとともに、背中の翼 が優 雅 に羽ばたいた。
そして──死の教師は、足下に伏 しているサルアを一 瞥 すると、
「その通りだ」
あっさりと認める。
どうでもいいことを──と、胸中でののしりながら、オーフェンは上がっていた息をなんとか落ち着けようと胸をさすった。
クオは静かに続ける。
「この男が、我々に反逆しようとした理由、お前にも聞かせてやろう。今の体制のままではキムラック教会が滅 びる? そんなことではない。この愚 かな若者は、この街 に退 屈 していたのだそうだ......」
剣が再び、さりげなく伸びていくのを、オーフェンは気づいていた。腰 を落とし、次に備 える。この距離にまで遠ざかれば、無理に攻撃してきたとしても刃の隙 間 が広すぎる。避 けるのはさほど難しくないはずだった。
「退屈だと? わたしは退屈したことなどない。わたしはずっと──」
クオは、剣の柄を中 腰 に構えた。
「ずっと恐 怖 していたのだ!」
そして、彼は剣を突いて きた。
勢いよく、刃が伸びてくる──確かに突 くのならば、隙間がどれだけ広がろうと関係ない。
「ネイムと、似たようなことをっ!」
口走りつつオーフェンは、横に逃 げた。そのまま、クオが剣 を引きもどすよりも早く、前方に突 進 する。
「そうだ! 息 子 だからな!」
クオの叫 びにオーフェンは一 瞬 、気をそらされた。刹 那 、クオが手首を翻 し──突いていた剣をそのまま、横に振 り払 う。
「────っ!」
黒い刃が自分の身体 を輪切りにするように通り抜けていくのを、オーフェンは声なき悲鳴で受け入れていた。無論、刃の隙間があるので両断されたりはしないが、いくつかの破片がかすめて、脇 腹 から胸にかけて数本の裂 傷 を残していく。
痛みとショックに耐 えながら、オーフェンは転 倒 した。出血はさほどではないようだが、複雑な形状をしている刃で切られたためか、傷の痛みが尋 常 ではない。
床 をかきむしってのたうち回りたい衝 動 を抑 えて──オーフェンは、肘 で床を打ち、その反動で仰 向 けになった。一 瞬 前まで倒 れていた床を、いつの間にか上から振 り下ろされてきていたムールドアウルの刃がたたく。オーフェンはさらに身体を反転させて、うつ伏 せにもどってから立ち上がった。必死の思いで顔を上げる──と、充 満 している黄 塵 を突き抜 けて、死の教師と視線が合った。
「この──」
「息子だったからな」
クオは淡 々 とした口 調 で言い直してきた。剣を引きもどし、続ける。
「死んだか。どうやって?」
「奴 は......」
オーフェンは思わず答えかけて──そして、激 痛 に身体を緊 張 させた。胸の創 傷 の痛みと、さらに強まった頭痛とに、視界が歪 む。
──わたしを殺したのだから! ──
ネイム・オンリーの声が、どこかから自分を呼んでいる。
両手を胸に当て、爪 を立てて、オーフェンは意識が遠ざかるのを感じていた。激痛が、彼の意思を崩 していく。
(俺 は......弱い......)
漠 然 と、その意識だけが最後に残る。
と、その瞬 間 だった。
「キリランシェロ! 跳 びなさい!」
煮 えたぎる脳に注 がれた冷水のような──アザリーの声。
反射的に、オーフェンは跳んだ。次いで、彼女が叫ぶのが聞こえてくる。
「波 紋 よ!」
視界が歪んでいてよくは分からないが、覚えのある構成が展開されているようだった。アザリー特有の、精 密 で強 靭 な、魔 術 の構成。
彼女はマジクのもとにいた。一瞬見ただけなので判然とはしないが、マジクの治 療 は終わったらしい。床に寝 かさせている少年の横にしっかりと立ち上がり、右腕を掲 げ、その構成を大きく重ねている。彼女の呪 文 と同時、彼女の足下の床が唐 突 に砕 け散った。床の破 壊 はあっと言う間に前方へと広がっていき──津 波 のように床を侵 食 していった。床から壁 へ、壁から天 井 へと、螺 旋 を描いて破壊が進む。刻み込むような細かい振 動 に、柱も、先刻神 官 兵 たちを持ち上げた円柱も頼 りなげに揺 れた。あたりに落ちていた数本の警 棒 も、乾 いた音を立てて粉々に粉 砕 される。
連 鎖 していく、自 壊 ──魔術以外の防 御 では防げない。クオの間 近 まで自壊は進んだ。クオが翼を自分の前の床 に打ち付けるように下ろすと、破壊の波はふたつに分かたれて、大男の後方へと流れていく。
「ひゃあああっ⁉ 」
間の抜けた、クリーオウの悲鳴が聞こえた。が、彼女の場合は、抱 きかかえているレキが足下を一 瞥 しただけで魔術の効 果 から免 れていたようだが。
オーフェンが跳んでから、床に下りるまでの一秒間で──それだけのことが起こった。クオの背後の壁―そして格 子 の門にも、自壊は進んでいく。廊 下 の半分を粉砕して、アザリーの魔術は終わった。
神 殿 が崩 れるか。とオーフェンはぞっとしながら天井を見上げたが、その様 子 はない。思ったより頑 丈 な造りになっているようだ。
アザリーは右腕をすっと下ろすと、左手で提 げていたバルトアンデルスの剣 を右手に持ち替 えた。にやりと──そう、確かににやりと──凄 絶 な笑 みを浮 かべると、いかにもガラの悪い表情で険 悪 な声を出す。
「......しゃらくさいわね。たかだかキムラックの番犬が」
「この力──察するところ、こういうことか。天 魔 の魔 女 アザリー。チャイルドマン教室最強の黒 魔 術 士 が、生きていたと」
クオはトーンの低い声を吐 き出しながら、身を守っていた翼 を左右に開いた。翼が守っていた彼の足下の床だけが、絶海の孤 島 のように無傷で残っている。その無傷の範 囲 にサルアも倒 れていた。クオは、大 儀 そうにサルアの身体 をぼろぼろになった場所へ蹴 り出すと、
「どういうことだ? この聖都にまで、災 いをまきに来たか?」
「あいにく誰 に頼 まれたって、こんなほこりっぽいところにまで来たくはなかったんだけど──忘れ物があってね」
「......忘れ物?」
会話に口をはさむ格 好 で、オーフェンは聞き返した。アザリーが、こちらを見てふっと笑 顔 を見せる──愁 眉 もともに見せて。
「あのひとの遺 言 を聞き忘れたから、ここに来れば聞けそうだったから、ね」
「戯 言 か!」
クオが、怒 りの声をあげる。
「どのような汚 らわしい仕 業 でここに来たかは知らないが、わたしはこの聖都の守 護 者 だ! まさか生きて帰れるとは思ってはいまいな!」
アザリーは相手にせず、今度は左腕を掲げた──
「光よ!」
炎 の塊 が膨 れ上がる。
マジクが前に放 ったものは、目の前で妨 害 されて弾 き返されたが、アザリーの編 む構成は規 模 も精度も速度も、マジクのものなどよりそれぞれ数倍から数十倍は軽く上回る。光は雷 電 を周囲に放ちながら、真っ直 ぐにクオを狙 っていた。クオの鎧 が、光の翼 を閉じる──
ごうっ!
轟 音 、というよりは衝 撃 に顔を押 されて、オーフェンは腕をあげた。爆 風 から顔を守りつつ、薄 目 を開けて戦 況 を見る。アザリーの放った光 熱 波 はクオを完全に包み込み、炎 上 させていた。ただし......
やはり、爆 炎 の中にクオの姿が見えた。岩を砕 き鉄を溶 かすほどの焦 熱 の中で、仁 王 立 ちしている。これを見た限り、あの翼の防 御 能力は、ほぼ万 能 に近い。
やがて炎が消え、クオはまったくの無傷で姿を現した。炎の余波を振 り払 うように翼を空 打 ちして、手にした星の紋 章 の剣 をこちらへと向ける。
「無 駄 だというのが──」
「察するところ、あなたって学者バカ、てところね」
澄 ましたふうに、アザリーがつぶやく。彼女はにっこりして、肩 をすくめた。
「魔術文字を解 析 したのは、あなたよね? 解析者でもなければ、とてもじゃないけれど天人の武器をそこまで使いこなすことはできないわ。だとしたら、たいしたものだとは思うわよ──実際、わたしの見立てた限りでは、あなたは《牙 の塔 》のスタッフを何十人束 にしたよりも優 れた解析者かもしれない。特に、魔術の訓練もされていないのに、驚 くほど高度な武器を制 御 している......」
「わたしをほめるか?──寛 容 なところを見せてもらって、ありがたいな、天魔よ」
「あら。わたし、あなたが、馬 鹿 だって言ったのよ」
妙 に機 嫌 良 さそうに話す時は──彼女は要注意なのだ。オーフェンは知っていた。だがそれ以前に、呆 気 に取られてもいた......
「わたしの目的を聞かなかったわね、あなた。わたしがこの神 殿 に侵 入 して、どこを目 指 していたと思う?」
アザリーが、しなやかに、クオの背後を指さす。
「それとね、自 壊 した物質は、なにかの干 渉 を受けない限りはその配置を保つけれど──ちょっとした衝撃でも受ければ、しごく簡 単 に崩 れ去るの。後ろを見たほうがいいんじゃない? ええと......クオ・ヴァディス・パテル、だったかしら? あなた」
彼女の言葉を聞いて──クオの顔面に、亀 裂 が入った。表情が破 壊 されたのかと思うほどの、はっきりした驚 愕 の色。彼はその巨 体 を驚くほど素 早 く、振 り返らせた。彼の背後。
壁 。扉 。崩 壊 していたそのふたつが、完全にばらばらになってがれきと化していた。熱 衝 撃 波 をクオが受け止めた余波でだろう。
壁と門はともに崩れて、ぽっかりと穴を開けていた。《詩聖の間》──サルアがそう呼んでいた場所が、姿を見せている。
「なん......だ?」
オーフェンは唖 然 と、声を漏 らした。わけの分からないものが、そこにある。
《間》というのは、単なる呼び名のようだった。オーフェンは広間を予想していたのだが、そんなものではまったくない。崩れた壁の向こうは、そのまま天然の地下洞 窟 のようになっていた。鍾 乳 洞 のようには見えないが、ぽっかりと空 漠 とした空間が広がっている。
どこまでもどこまでも。洞窟ははるか遠方まで続いているようだった。広さもとんでもない。この廊 下 からは切り立った絶 壁 のようになっており、屋根のある谷が、地下に埋 まっているというふうである。見下ろせば、広大な洞窟のすべてが地底湖のようになっていた。暗 闇 を映して黒々としている水面が、静かにたたずんでいる。雨によってもたらされた地下水のすべてが、ここに流れ込んでいるのかもしれないと、オーフェンは直感的に考えた。それにしても──広いが。
だが、それはしょせん、そんなものに過ぎない。
彼を呆 然 自 失 させたのは、その空間に浮 かんでいる人 影 だった。
浮かんでいる──文字通り、宙に浮いている。オーフェンの目に最初についたのは、その緑色だった。流れるような、緑色の髪 。
緑色のローブ......
人影は、美しい女の姿をしていた。洞窟の奥 、廊下の崖 から、街 の一区画分ほど離 れた空中に浮いている。ぶらりと力なく垂らしている手足も美しい。
なぜ、彼女は宙に浮いているのだ?
オーフェンは、簡 単 に疑問に思った。
そして簡単に答えを悟 った。
彼女のすぐ近くの空間から──なんの脈 絡 もなく、腕が一本突 き出している。空間から生えているように。それもまた、女の腕だった。その腕が、彼女をつかんでぶら下げている。
ほっそりした首をわしづかみにして。
彼女の首は完全に折れているようだった。異 様 な角度で首が曲がっている。完全に死んでいるはずだった。が──
オーフェンは、目を凝 らした。途 端 に気づく。
「............⁉ 」
震 え上がって彼は後ずさりした。彼女は──首を折られ、宙にぶら下げられたまま──こちらを見ていた。緑色の双 眸 で、しっかりと。
「女神......よ......」
クオ・ヴァディス・パテルの怯 えきった声を聞いて、オーフェンは失いかけていた自制を取りもどした。クオは、巨体を無理やり畳 み込むようにその場にひざまずくと、宙に浮かんでいるその女に向けて、深々と頭を下げた。
「お許 しを......このような......罪 ......」
こちらを忘れたかのように、震え声で祈 っている。
アザリーも驚 きを隠 せないようで、剣 をぶら下げてその女を見つめている。ぽかんと口を開けたその表情は、滅 多 に見られないものだったが、オーフェンもそんなものに見とれている余 裕 はなかった。見ればクリーオウも、レキの頭を撫 でながらぽかんとしている。マジクはいまだ寝 たままで、サルアも意識を取りもどしていない。
さらに見回せば、円柱の上でどうしようもなくしていた神 官 兵 たちも、クオと同じくひれ伏 している。
(なんだ......この光景は?)
オーフェンは、訝 った。クオは、女神と言っていた。
女神? 地下洞 窟 。地底湖。
女。女神?
様 々 なものを頭の中で整理しながら──オーフェンは、とりあえず自分に分かりそうなところだけを引っぱり出した。クオ・ヴァディス・パテルだ。
彼は気づいた。
クオは我を忘れたように《詩聖の間》に向けてひれ伏している。捕 らえるのならば、今しかない。
オーフェンは忍 び足で、クオへと忍び寄っていった。あれほど大きかった身体 も、うずくまっていれば子供のようなものだ。翼 もいつの間にか消えていた。ムールドアウルとかいう剣 も、柄 を適 当 に放 り出している。クオを守っているものはない。
どのような大男であろうと、隙 を見せているところで一 撃 すれば、昏 倒 させることができる自信が彼にはあった。一歩──また一歩、数分前まではあれだけ困難だった距 離 が、あまりにも安 易 にせばまっていく。
やがて、オーフェンはクオの間 近 にたどり着いた。うつ伏 せている後頭部を見下ろしながら、息を吸って拳 を振 り上げる──刹 那 。
「キリランシェロ! 危ない⁉ 」
アザリーの声に、彼は一 瞬 動きを止めた。
次に来るのは衝 撃 。激 しい衝撃と轟 音 。
その次に来るのは目 眩 。とても深い目眩。
彼の五感が停 止 した。外界から孤 立 した脳が感じることができたのは、猛 烈 な目眩。めくるめく朦 朧 とした迷宮に平 衡 を失い──よろけ、崩 れる。
それまで立っていたはずの床 が消えた。
最後の最後に、感覚が復活する......
彼が理解したのは、頭から落下する自分と、眼 前 に迫 り来る、地底湖のどす黒い水面だった。
◆◇◆◇◆
夜明け前、その男はいきなり彼女の視界から消え、暗く深い淵 へと沈 んでいった。突 然 響 きわたった火薬の炸 裂 音 に、悲鳴もなく後方に吹 き飛んだかと思えば──そのまま、廊 下 から足を踏 み外して、地底湖へと落下していく。
その間、彼女は為 す術 もなくそこにいた。
「そ......んな......」
クリーオウはただ唖 然 と、あえぎ声だけを漏 らした。
◆◇◆◇◆
夜明け前......
夜明け前?
怒 りを込めて、クオ・ヴァディス・パテルは鼻で笑った。夜明け前など関係ない。
彼は起き上がった。皆 殺 しの決心を──神官兵たちも含 めてだ──固めて、起き上がる。まずは、あのキリランシェロを殺した。
彼はその巨大な手の中に、最後の武器である、重く硬 い拳 銃 を握 りしめていた。硝 煙 をたなびかせるそれを、彼はもったいつけながら──呆 然 としている、残り三人の侵 入 者 とひとりの背 約 者 へと向けた。
真夜中には遠く感じていた夜明けが、もう訪 れてしまっている。だがそれも、どうということではない。
彼の人生には夜明けなどない。だから夜が明けようと、関係がない。
◆◇◆◇◆
夜が明けてもいないほどの早朝に目が覚 めることが多くなった──
苦笑混じりにそんなことを考えながら、オレイルは寝 床 から起き上がった。老いが怖 いわけではない──生活に変化を求めなくてもいいというのは、立派な特権だった。今朝もまた、寝床からあたりを見回しても、昨日と変化はない。彼以外にはもう誰 もいない、聖都から遠く離 れた古い家の中。
そしてカーテンをわずかに持ち上げ、外をのぞく。南の空に、うっすらと光 明 が見える。雨が終わる予 兆 を感じて、彼はベッドから足を下ろした。滑 るように。
◆◇◆◇◆
カーロッタ・マウセンは、夜明け前には目覚めない。
◆◇◆◇◆
夜明け前、その男は。
いくら閉じていたところで眠 りの訪 れないまぶたを、大 儀 に思いつつ開いた。苦しくはない──だがすがすがしくもない。あの日から......眠っていない。
聖堂は静かだった。いつも柔 らかい光に包まれて。雨の音も聞こえない。神 殿 の頂点にして最 奥 。ユグドラシル神殿は、彼の鎧 だった。
教主ラモニロックはその鎧──いや、揺 りかごか──に抱 かれて、意味もなく頭を巡 らせた。ゆっくりと、呼ぶ。
「アナスタシア」
「......はい」
常に聖堂の隅 に控 えている、その少女が声を返してくる。
「来い」
「はい」
聖堂を真ん中で隔 てている薄 紙 を通り抜 けることを許 されているのは、この少女だけだった。いつものように──彼女は、聖堂の隅のほうから薄紙をしずしずと押 しのけ、壁 に手をついてこちら側へと入ってきた。
細い手で慎 重 に壁を伝い、少し小首を傾 げ、控える。
顔はこちらを向いていない。傷ののぞく両目を伏 し目にして、こちらの言葉を待っている。訓練途 中 の子犬のように。
ラモニロックは肘 掛 け椅 子 に座 ったまま──あごの下で両手を組み合わせ、じっと彼女を観察していた。どうということのない、ただの少女だ。格好も立ち居振る舞いも、取り立てて見るべきところもない。
彼は、居 心 地 の悪いその椅子から腰を上げた。そして、告げる。
「芝 居 はやめろ」
「......は?」
彼女は、聞き返してきた。ラモニロックは、一歩一歩進みながら、
「芝居はやめろと言ったのだ。お前は、目が見えるんだろう」
「そ......んな......?」
ふらりと肩 を震 わせて──身体 を壁にもたれかけさせるように、アナスタシアは後ろに退 いた。
ラモニロックは、無言で首を左右に振った。
進む足を、速める必要はない。あわてる必要はなかった──退 がれと命令されない限りは、この少女はどこにもいかないだろう。
やがて、手を伸ばせばとどく距 離 で、彼は足を止めた。両手をあげ、動かない少女の首を、そっとつかみ上げる。
彼は穏 やかに、少しずつ力を強めながら、声を出した。
「お前は昨日の晩、クオに気づいたろう。足音で分かった? あの男が、足音を立てて歩くことがあるとでも思っているのか。お前は目が見えるのだ。そうだろう」
「違 いま──」
「そうだろう、と言っているのだ」
「そ、そうで......す」
「恐 れるな。教主は怒 りを覚えてはいない。教主は怒りなど覚えない。それに──なにがお前の罪 だというわけでもない」
ラモニロックは、声を低くした──そして小声に。どうせ聞こえてはいないだろう。
「この教主の顔を見てはならないのだ」
上向いた少女の顔を見下ろして、彼は続けた。
「この顔は、剥 がされている。あれを見た者は、みなそうなる。本当の意味であれを見た人間は、この教主しかいない......いないのだ。この顔は、その刻 印 だ。女神に、運命を剝ぎ取られた印......だから、永遠に──」
淡 い光が聖堂を、暖 かい空気で満たしている。
静かに──静かに、いつまでも。
◆◇◆◇◆
物語が終わって、そして彼の眼前には、光の文字があった。
物語が終わり、もう広間に声はない。
彼女の物語は終わったのだ。
彼の身体 に文字が触 れる。文字は輝 きを強め──彼を包んでいった。閃 光 に目を突き刺され、激 しい痛みが脳を焼く。が、彼はただ無言でそれを受け入れた。苦痛は、すぐに終わるはずだ。
(再び、目が......覚 めてからだ。そう。すべては......)
閃光の気配がなくなり、彼は目を開いた。光は消えていなかった。ただ、淡く頼 りなげなものに変わっている。緩 やかな光は、あやすように彼を包み込んでいく。
手から、銀の短 剣 が消え失 せた──分解したのだろう。
そうしている間にも光が、自分を消失させていく。強 烈 な喪 失 感 と戦いながら、彼は必死に正気を保とうとした。ふと、思いついて聞いてみる。
「ここの人形たちには......なんと命令するおつもりなのですか?」
この砦 に保管されている、一千体もの殺人人形──ドラゴン種族らにとってはどうということはなくとも、大陸の人類をすべて抹 消 しうるほどの勢力となるはずだ。
イスターシバはしばし黙 したが、それは躊 躇 とは違うように彼には思えた。ぽつりと、彼女の言葉が聞こえてくる。
「聖域に命じられた通りの命令をだ。どのみち、ここにある人形はすべて、ドラゴン信 仰 者 たちから改造されたものだ。これ以外の命令は受け付けぬ──人間種族の魔 術 士 を滅 ぼせと。ただし、汝 が再生され、そしてまた死んだあとに、と我 は付け加える。汝はその死 時 を、覚 悟 して決めなければならぬ。無事再生されたならば、己 が死したのちも大陸の命運を任 せられる者を育て上げよ。ここにある一千体の殺人人形をも脅 威 とせず、聖域とも渡 り合える......そんな戦士を。さもなくば、汝らに未来はない」
彼女の言葉は──次 第 に小さくなっていく。
五感が閉ざされていく中、彼は再び目を閉じた。耳だけを澄ます。彼女の言葉は続いていた。途 切 れ途切れになっていくが、それでも聞こえる。
「......我 が子よ......我は死ぬ......が、消え失 せはせぬ......汝ら......は......失敗作......だったかもしれぬ......が......それでも......永遠に......我が......子なの......だから......」
彼は、すべてを閉ざされた。
百数十年の眠りに、ほんの一 瞬 で落ちていく。渦 巻 く深 淵 への、ほんの一瞬間。
そして──
「汝らは主命を受 諾 するのみ──分かっているだろうが」
霊 廟 に響 く声は冷たい。だがそれは感情の冷たさではなく──むしろ、運命の底冷えする冷たさであった。絶望と、もうあり得ない未来への、うす寒い羨 望 。
絶望と、もうあり得ない未来への、うす寒い羨望......
(つづく)
すべては半 ば予想していたことだった。理由などはない──肌 を包む空気の質。風の音。いずこからか忍 び寄ってくる湿気も感じてはいた。だがそれが理由ではない。
単に分かっていたのだ。彼は胸中で、意味もなく確認した。古くからの約束事のように、分かっていたのだった。
実際それは、古くからの約束事ではあった──彼にとって一 瞬 だったとしても。
彼は目を閉じていた。彼女の魔 術 が彼を包んでから、ずっと。視界を閉 ざし、さりとて耳を澄 ますわけでもなく、ただ意識だけを鋭 く尖 らせていた。夜の感覚を、静かに練 っていく。
いまだ五感が馴 染 んでいない。その事実もあって、彼は慎 重 になっていた。ゆっくりと──力を込めて、指の形を歪 めていく。数秒を要して拳 を作り、彼はまたそれを、さらに倍する時間をかけて開いていった。指は動く。夜の寒 気 に少しかじかんでいる、その感 触 にすら新 鮮 さを覚える。
彼は目を開いた。
光は少なかった。彼の頭上で、巨 大 な木々が枝葉の天 蓋 を作っている。月はどこにも見えない。どこにもないのかもしれない。彼は苦笑した──あり得ることだ。世界は変わるはずだ。彼の知っている世界と、今、ここに彼が立っているこの世界。なにが同じで、なにが変わったのか。
知ってはいた。というより、聞かされてはいた。彼女の言葉ならば、一語一句違 わずに思い出すことができる。なにもかも──そう。生まれてから彼女に聞かされたすべての言葉をも思い起こすことができるのではないか。そうすべく仕組まれた彼女の魔術は極 めて強大で──そして、それに答えるべく彼の思いは、さらに強い。
強いはずだ。
彼は、自分に対して繰 り返した。答えを言葉にする必要はない。ただ彼は、悠 然 と背 筋 を伸 ばした。
「つまり──」
答えとは関係のないことを独 りごちる。
「......ここが......そうなのか?」
自分の声に、つぶやきに、彼は眼 差 しを鋭 くした。
「世界は......滅 びていない」
果たして、そうなのだろうか? 疑念が浮 かぶ。
彼は胸の中に深く空気を流し込むと、それを吐 き出した。冷たい夜 気 が心 地 いい。彼は再び息を吸った。今度は、たいして深くはなく。
澄んだ空気が、これ以上ないほどに肺を満足させた。思わず、にやりとする。そうだ。賭 けてもいい──この空気までもが滅びた世界のものだというのであれば。いいだろう、滅 亡 を甘 受 しても構うまい。
だが、そうではないという自信を彼は抱 きつつあった。
開いた右手のひらを、上向かせる。闇 の中に、白い手のひらだけが浮き上がって見えた。その手のひらを──とても自分のものとは思えないその手を見 据 えて、彼は溜 めていた息を吐き出した。
呪 文 とともに。
「光よ」
彼の手首と指先、その二点を使って三角形を作る残りの一点に、音もなく輝 きが灯 る。炎 ではない。まったく揺 れていない。一 瞬 の閃 光 を、時間を停 止 させて固定したような、そんな輝きである。色もついていない白い光。魔術の灯 り。
光は発生と同時、なにか反動でもあるかのように、わずかに上方へ跳 ねた。そしてそのまま、ふわりと動きを止める。
照 らし出された周囲を、彼は見回した。森の中。それ以上のことは分からない。どこかの高地のようではあるが──木々に邪 魔 されて星が見えないせいで、位置が特定できない。彼はため息をついて、視線を下ろした。白い輝きに照らされ、木々の皮まで白い。白い土。白い下草。木の幹を覆 う苔 も白い。
白い手のひら。
彼は苦笑した。恐 らくは、その笑 みすらも白いのだろう──彼自身には見えないが。
もっとも、彼の身に着けている黒いローブは、彼自身の造りだした魔術の灯りに染 まってはいなかった。相変わらず黒い。これはデザインした者に言わせれば、一切の迷いを許 さない色なのだという。確かに、彼の周りに開けたこの世界の中で、唯 一 自らの色を保っている。
(さて、どうだか......?)
皮 肉 混 じりに、彼は考えていた。色を保つということと、色を変えないということ。似ていることは認めなければならない。だが違う。
「違う。まあ、どうということもないが」
彼は灯りを消した。先よりも深くなった闇が、なにもかもを閉ざす。
夜の中に彼の瞳 だけが輝いている。その輝きが彼にも感じられる。彼は手 探 りで、懐 から銀色のものを取りだした。抜 き身の短 剣 。銀色の刃 。手に馴 染 んだ柄 の感 触 。
恐らくは、これだけが変わらないものなのかもしれない。
「わたしは......彼女の子供 」
取 り憑 かれたように、彼は独りごちた。闇の中へ、吸い込まれていく息と声。
「戦乱の時代から──火薬の庭 から送り出された、永遠の子供。わたしは──」
彼は歩きはじめた。足音はない。そして彼の胸の中には──
与 えられた、ただひとつの命題がある。
ただひとつの命題が──母に与えられた命題が。どこまでも求める。命在 る限り求めなければならない命題。
世界が滅びていないのならば──まだ滅びていないのならば。
これが必要となるだろう。世界を。彼の母が造った世界を──世界を後 継 する者はいずこ?
──『後継者は誰 だ?』──
今、彼の胸には、ただその命題だけがある。
上下巻なのに「あとがき」って変だよな、などと思いつつもほかにいい見出しも思いつかず、こんな感じなのですが。どちらかというとインターミッション独白メモという雰 囲 気 で。なにしろ独白なもんで、キャラクターなしで作者ひとりでお送りしております。シリーズ九度目の巻末です(解説)。
いやはや、クライマックスってのは難 しいです。予想はしてたんですが。秋田は話を作る時、一冊で経過する作中時間は基本的に二十四時間と決めてるんですが、今回はなんと六時間しか経過してないんですねー。真夜中から夜明けまで(って、もとよりぴったり二十四時間で終わった話はひとつもないんだけど。数日間かかる話も多いし)。
このキムラック編は登場人物が極 端 に多いから、それらにちゃんとキャラクターをつけようと思うと、なかなか話を進められないんですよね。六巻みたいに、単なる敵 役 とかだったら、それなりに淡 白 にやるんだけど。このクライマックスでそれをやると、なにがなんだか分からないうちに話が終わっちゃうもんな(言い訳)。
と、いうわけでかなり長引いてるこのキムラック編ですが、次の巻で決着がつく──はずです、多分(苦笑)。
まあ、そう言ったところでこのシリーズ全体が完結するわけじゃないんですが。ずっと続いてきた〝西部編〟の完結くらいに思っておいてください。第一部・完でも可。でも劇場版をやるたびに『さらば』『永遠に』『完結編』といちいちうそぶいたあげく新作まで作った宇宙戦艦は不可(関係ないけど)。
このシリーズの新展開については......まだまだ未定なんですが、十巻を書き終わるまでには思いつくでしょう。その前に、番外編とかやりたいな。ただでさえ同じシリーズで、みっつの異なる設定を使ってるもんだからややこしいけど、やるんだったらプレ長編とかかなぁ......無 謀 長編は却下。あんないい加減な話、一冊分もかけて話作ろうとしても、めちゃくちゃになるだけだもん(前振り)。
さて、と。インターミッションがあんまり長くなってもしょうがないし。未完なので日付もつけないことにして、ここはひとまず、こんなところで。秋田でした(ぺこり)。

(......この子は?)
(知っているだろう。キリランシェロという......)
一 瞬 だった。
溺 れるのに要する時間は、本当に一瞬だった。着水の衝 撃 と、その黒い水の冷たさに、身体 が動かなくなる。もがくこともできずに、彼の身体は沈んでいった。なにも見えない水中で──自分の身体がどういった状態にあるのかも自覚できなくなる。ただ分かるのは、上方──どちらが「上」なのか定かではなかったが──で、黒々とした水の蓋 が閉じたということ......
(とりあえず、現時点で教室を移動できるのは、この子だけだ......ミランは)
(意地を張るべきではないと思うのだがね......)
あまりにも大質量の水に呑 み込まれると、抗 うことはまったくの無意味だった。実際、彼は──オーフェンは、指一本動かすこともしなかった。沈んでいく自分を、なるたけ冷静に理解しようと努 めただけだった。理解というよりも、納 得 か......あるいは、切 望 か。
感覚が麻 痺 していく。圧 倒 的な眠気が、すべてを支配していく。だがむしろ彼は、目を閉じて、猛 烈 な激しさでその睡 魔 をかき抱 いていた──眠らせてくれ。
(わたしは知っている......君という男を)
──もう眠らせてくれ!──
(この子に託 したらどうかね? 託すつもりがないのなら、君は用済 みだ......)
衝 撃 が、水の冷たさが、水中の無重力状態が、理解が、納得が、切望が。
彼を叫 ばせていた。
◆◇◆◇◆
クオ・ヴァディス・パテルがこちらを見ている。
無 骨 で巨大な身体を古代種族の鎧 で守り、その手には、黒い金属の塊 を握 っている。虚 無 の目玉のような銃口から、白い硝 煙 をたなびかせた──その武器は拳 銃 だった。左手に構えたそれを、クオという男は、玩具 のようにこちらに向けた。その双 眸 に感情は見えない──押し殺された怒 り以外は。銃口の奥にある弾丸が見えないのと同じように。
アザリーは無言でそれを見返していた。
(............)
胸 中 にも、言葉が浮かんでこない。ただ自分の全身がこわばるのを、彼女は感じていた。胸の筋肉がしまって、肩が震 える。剣を──バルトアンデルスの剣を握っている拳に、力が入った。
壮 麗 ですらあった回 廊 は、彼女が放 った魔 術 のせいで、めちゃくちゃに破 壊 されている。砕 かれた床 、壁 、天 井 、そして......《詩 聖 の間 》とやらを隔 てていた扉 。すべて、彼女が壊したものだった。彼女が剣の力で〝変形〟させた床から、天井近くまでも突き出した無数の柱の上には、今も神 殿 兵 たちが無力に震えている。彼らが震えているのが──数メートルもあるとはいえ──その柱の高さのせいでないことは明 白 だった。神殿兵たちが恐 怖 しているのは、彼女が開いた《詩聖の間》への扉、その向こうに広がっている光景にだった......
黒々とした水を無辺に広げている地 底 湖 。回 廊 の床で死 角 となっているが、その湖 面 に波 紋 がひとつだけ広がっていくのが見える気がした。静かな水面 に揺れる、たったひとつの波紋──彼女の弟が、その黒い湖面に落下した時にできた波紋。彼女の弟を、呑み込んだ波紋......
そして、それよりははるか遠方、地底湖の、ちょうど中央あたりだろうか──その上空に、緑色のローブを着た女が宙づりにされている。虚 空 から突然生 えている腕に、首をしっかりとつかまれ──だらんと四 肢 を伸ばした姿 勢 で、ぶらさがったその女は、遠目にも分かるほど美しかった。喩 える必要もないほど。地底湖の上空には多少の気流があるのか、長く伸びた緑色の髪が風に揺 れている。その女の首をつかんでいる腕は、微 動 だにしていない。花 束 でも持つように、ただその女の首をわしづかみにしている。女の首は、はっきりと折れているのが見て取れた。
「......女神......」
ぽつりと──そして呆 然 としたつぶやきが、静 寂 を破った。自分のつぶやきではない。そのことに理 不 尽 な驚 きを感じつつ、アザリーはつぶやきの主 をちらりと見やった。壁 際 に、ちょこんと座 った金髪の少女である。ディープ・ドラゴンの赤ん坊を膝に抱いて、地底湖のほうを呆然と眺 めている。
少女のつぶやきは、数秒前にクオ・ヴァディス・パテルが漏 らしたことの繰 り返しに過ぎなかった。
クオとかいうこの死の教師が、あの吊 された女を見、怯 えとともに漏らした言葉。女神。罪。
──お許しを──
それを聞いてから、まだ数秒ほどしか経 っていない。その数秒の間に......
アザリーは、はっきりとほおがひきつるのを自覚した。噛 みしめた奥歯が音を立てる。彼女は剣を自分の足 下 に投げ捨 てると、クオに向けて、呪 詛 のように叫んだ。
「殺した......わね! あの子を!」
間 の抜けたせりふだとは、その時は思わなかった。
クオはまったく無表情のまま、こちらへと一歩を踏み出してきていた。死の教師が身に着けている真 紅 の鎧が、再び、光の翼 を展開するのが見える──
だがそんなことは構わなかった。
腰を落とし、両手を突き出す。再短時間で最大の構成を編 み上げると、彼女は絶 叫 した。
「光よ!」
空間に膨 れ上がった光が、一直線にクオのもとに収 束 していく。
反動に身体を打たれながら、彼女は全力で魔 術 を放出した。衝 撃 が、自分の腕と腹部とで、びちびちと音を立てている──クオがそつなく翼を翻 し、鎧の力で彼女の魔術を簡単に受け止めているのが見えていなかったわけではなかったが、彼女はひたすらに力の解放を念じていた。爆音が、神殿を揺 るがしている。
光が、消えた。
クオを取り巻いている熱 波 は、いまだ完全には消失していない。赤みがかった陽 炎 のように、炎 が渦 を巻いている。アザリーはあがった息をなんとか抑 えようとしながら、足下の剣を拾 い上げた。彼女の意 思 に反応して、刀身に刻 まれた魔術文字が白い光を発する。
彼女は躊 躇 せず、その剣を床に突き立てた。そして、叫ぶ。
「沈め!」
天 人 の鍛 え上げた剣が、彼女の命令に従い、水に潜 るように床の中へ溶 け込んでいく。あっと言う間に、バルトアンデルスの剣は床に呑 み込まれた。
視線を、上げる──
クオはいまだに火 炎 に包まれている。熱波が消えないうちは、翼を開いて行動には出られないはずだった。少なくとも、先刻の動きでは、そうだった。だが逆に、翼を閉じている間は、こちらの魔術は一 切 通じない。
(あいつがあの鎧を着ている限り、倒すことはできない──)
アザリーは不 承 不 承 、それを認めた。
そして、懐 から小箱を取り出す。
黒い、小さな箱だった。もう少し飾 り気 があれば、宝石箱と似ているとも言える形である。彼女は動かないクオを見 据 えながら、その箱の表面に指を滑 らせた。一定の規 格 に従って、魔術文字を描く。
(この天人の転 移 装置を使っても、この神殿には侵 入 できなかった......)
複雑な文字を描くたび、箱は少しずつ重量を増している。遠くに行こうと思えば思うほど、多くの文字を描かなければならないのだが、人間が持っていられるような重量の範 囲 内では、百キロは転移できない。天人自身が使う場合ならば、わざわざ手で持ったりはしないだろうが。
箱がある程度重さを増したところで、アザリーは指を止めた。
(でも......中から外に脱出はできるかもしれない......)
刹 那 ──
音のない風を、彼女は感じた。弾 けるような危険信号を感じて、跳 び退 く。
クオが、大きく翼を羽ばたかせていた。彼を足止めしていた熱波が、消失している。
アザリーは、はっきりと音を立てて舌打ちした。
(早い......防ぐだけじゃなくて、ある程度なら、魔術を強制的に無効化するような力まであるの⁉ )
焦 りながらも、次の構成を解 き放つ。
「精 霊 よ!」
総毛立つような寒 気 と、燃えるような恍 惚 とを同時に感じながら、彼女は通常の戦 闘 ではまず用 いない魔術を放っていた。
彼女のかざした手の先に、巨大な──直径三メートルはある光球が具現化した。光は一瞬で転移し、クオの真正面に炸 裂 する。
じいっ!──
爆発とは違う、中 途 半 端 な轟 音 が鼓 膜 を震わせる。光球は圧倒するようにクオにのしかかっていたが──クオの翼もまた、その威 力 に拮 抗 するように、なんとか光球を受け止め、押しもどそうとしている。
「光速で転移する擬 似 球 電 まで防ぐなんて......」
ただ単に構成を編んだ直後に放出される光 熱 波 などならば、空間に放たれた構成に反応して防 御 を行うことも可能だろうが、いったん出現したあと、術者の意思で移動を制 御 できる擬似球電は、人間レベルの魔術士には絶対に防げない。
だが──防御反応そのものまで、魔術に組み込まれているのか、クオの鎧 はそれすらも防いでしまうようだった。
切り札 のひとつを防がれて、彼女は思わず声に出してうめいていた。が。
翼はぎりぎりその光球を防いでいるだけで、消失まではできないでいた──少なくとも、まだしばらくは保 ちそうに見える。アザリーはすぐさま駆 け出した。背後へ。
彼女が立っていたすぐ後ろに、彼女の弟の弟 子 ──確か、マジクとかいったか──が寝ている。重 傷 を治 癒 させたあとなので、そう簡単には目覚めないだろう。アザリーは意外なほど軽いその少年の身体を肩に担 ぎ上 げると、いまだ擬似球電と力比 べをしているクオを一 瞥 した。
意を決して、再び走り出す。彼女はクオのわきを通り過ぎると、力なく倒れている若い男──完全に名前を忘れたが、見覚えはある男だった──のもとに駆け寄った。いくつもの創 傷 を負 って、ぐったりと床に寝ている。ひょっとしたらクオが彼女の前で何度かこの男の名前を呼んでいたかもしれなかったが、どうしても名前が思い出せない。どのみち、どうでもいいことだが。
彼女は顔を上げた。男のとなりにマジクの身体を下ろすと、気 短 に叫ぶ──
「クリーオウ!」
誰 にも教えてもらった覚えのない彼女の名前だけは、なぜか覚えていた。
回廊の壁 際 に、いまだ座 り込んだままの少女。事態を把 握 していないのか、呆 然 としている。その少女に向けて、アザリーは声量を上げた。
「こっちに来なさい!」
と──クオを見る。まだ擬似球電は消されていない──
そしてクリーオウへと視線をもどす。こちらも、まだ動こうとしていない。
「早くしなさい! キリラ──ええと、オーフェンが、本当に 死ぬわよ⁉ 」
ほとんど出 任 せのような気分で、声をあららげる。
が、ともかくも、効果はあったようだった。びくりと身 震 いしてから──クリーオウが、立ち上がるのが見える。取り落としそうになった子ドラゴンをしっかりと抱 え直して、あわててこちらに駆け寄ってくる。
アザリーは、持っていた黒い箱を、すぐ近くまで来た少女の手の中に押し込んだ。転移先を指令された転移装置は、多少の重みを少女の小さな手に押しつけたようだった。
口早に、告げる。
「それを持って、できる限りこのふたりに近づいて。あと三十秒くらいで発動するはずだから」
もう、球電の形が、不 格 好 に歪 みはじめている──
拳を握 りしめ、アザリーは続けた。
「そして、できる限り早くこの街 を脱出しなさい。あなたのドラゴンと、この子の魔術があれば、できるはずよ──この罰 当 たりな街を全部廃 墟 にしてでも、絶対に逃げ延 びなさい。あのデカブツ」
と、クオを指さす。
「あのデカブツが、この神殿から出る前によ......多分、しばらくは、出られなくなるはずだから......」
「ち、ちょっと──」
戸 惑 ったような声 音 で、少女が抗 弁 してくる。
アザリーは、もう彼女のほうは見ていなかった。消 滅 しかかった擬似球電と、クオだけを注視していた。
クリーオウが、言ってくる。
「なにを言ってるのよ? オーフェンが、あそこに落っこちちゃって...・」
少女は言いながら、陰 鬱 に広がる地底湖のほうを指 し示した。黒々とした闇 と、渦 巻 く黄 塵 とが、単調なノイズを描いている。黄塵は、地上よりはるかに濃 くなっているようだった。
自分でも言っていることが分かっていないような口調で──実感できていないのだろう、実際──、クリーオウが続けた。
「助け......助けなきゃ、早く......」
「あの子のことは、わたしが面 倒 見るわよ」
アザリーはきっぱりと告げた。
沈 黙 が──長くない沈黙が、冷たい重さを運んでくる。
「あなたは──」
クリーオウが、今さら思いついたのか、すっとんきょうな声をあげた。
「あなたは、誰なの? オーフェンの、なんなの?」
「わたしはね」
答えながらアザリーは、乾 いた唇 をなめた。クオをその場にとどめていた擬似球電が、ふっと小さくなり──消える。
「わたしは......」
彼女は立ち上がった。クオに向かって、一歩進み出る。
もうそろそろ時間のはずだった。転移装置が発動し──
「わたしは──あの子の......」
瞬 間 。
小さな空気のざわめきを残して、転移装置はクリーオウと、あとふたりを転移させた。
答えを告げる相手がいなくなってしまい、あとを続ける意味を失って、彼女は口を閉じた。静かな視線で、クオをにらみ据 える。
クオの鎧 は翼 を開き、人よりも大きななにかを抱 擁 しようと構えているようにも見えた。左手の拳銃を、ズボンのポケット──恐らくその中にホルスターがあるのだろうが──に入れると、腕組みする。
彼は口元を引き結びながら、まるで腹 話 術 のように声をかけてきた。いや、実際には、口も動かしていたが、その動きはあまりに小さかった......
「一対一で、わたしと戦うつもりかね......?」
そして。
ふわっ──
と動いた光の翼が、彼の立っている位置から数メートルほど離れたところを薙 ぎ払った──つまり、神殿兵を天 井 近くまで押し上げた柱を。
ぼっきりと折れた柱が、ゆっくりと倒れる。
そして、柱が倒れるよりも早く、柱の上で動けずにいた神殿兵が、石の床 に叩 きつけられた。七、八メートルを垂 直 に落下して。
首から落ちたのか、神殿兵はそのまま動かなくなった。
「............?」
アザリーが驚 いて硬 直 している間に、クオはまた二度、三度と同じことを繰 り返した。柱が倒れるたびに、その上に乗っていた神殿兵が石床に落下する。落下してもなお息があった者もいたが──そうした者には、落下したのち、さらにクオのもう一方の翼が一撃した。呆 然 としている間に、数名が絶命する。
「......なんのつもり?」
わけが分からずに、アザリーは口を開いた。だがクオは、知ったことではないとばかりに、こちらを一 瞥 しただけだった。なにも答えてはこない。
ただ──
クオは、翼の動きを止めた。冷たく──怜 悧 にではなく、ただ刺すように冷たく、こちらを見返してくると、
「......取り返しのつかないこと、というものがある。罪は、犯してしまえば償 うことなどできない。人生を終わらせることを以 て、罪もなかったことにするしかない」
どちらかというと、のんきな口調に思えた。
「見てはならなかったのだ──貴様も」
はっとして──
アザリーは、また後方へと跳 んだ。光の翼が、彼女の立っていた場所を勢 いよく横に薙 ぐ。
反撃のための構成もいくつか頭に浮かんだが、
(あの子たちは逃がした......なら、これ以上こんな奴 相手に時間稼 ぎをする意味はないわね......)
それに──やらなければならないことがある。絶対に。
彼女は跳び退 きながら、身体をひねって、クオに完全に背中を見せた。
視界が入れ替わる。
彼女の目の前には、大きく崩 れた門と壁、そして、広大な地底湖。
そしてその地底湖の上で、宙づりにされた女の姿があった。
黒い湖 。闇 と黄 塵 の渦 巻 く《詩 聖 の間 》......
(キリランシェロ......どうか、間に合ってね......)
彼女は全速力で駆 け出すと、彼女の弟が落下した湖へと──
キムラック神殿の最 奥 《詩聖の間》へと身を投げ出した。
◆◇◆◇◆
「......この子は?」
「知っているだろう。キリランシェロという......」
キリランシェロは言葉を交 わすふたりを、ぼんやりと見上げていた──熱病にかかったように意識を浮かされて。
意識だけではない。彼の身体 も浮いていた。床がない。冷たい石の床が。
床を探 そうとは思わなかった。
なぜなら彼は溺 れていたからだ......
「とりあえず、現時点で教室を移動できるのは、この子だけだ......ミランは、執 行 部 のフィナ・トランが欲しがっているし、スエインは、今さら教室を移動して有効な訓 練 ができる歳 でもない。まあ......ちょうど良かったのではないか? この子は、君の教室にいるふたりと、面識があるらしい」
「今は手一杯ですよ」
その男は、こちらを見てそう言った。
キリランシェロは、浮いたままの身体はゆったりと流れに身を任 せたまま、ただ男を見つめていた。
「新しい生徒は必要としていません......今は、ということですが」
「意地を張るべきではないと思うのだがね......」
答える声は、あくまで冷静だった。冷たく、そしてシビアに、続ける。
「わたしは知っている......君という男を」
その一言で、場が停止したことに、キリランシェロは気づいていた。
「この子に託 したらどうかね? 託すつもりがないなら、君は用済 みだ......」
ふたりになって──男が一回だけため息をついた。男はこちらを見下ろし、そして、告げた。
「お前には......わたしの戦 闘 技術のすべてを教える。覚えてみせろ」
その言葉に、なにを感じるでもなかった。
ただ目の前にいるこの男が、大陸で最強の魔 術 士 であるということだけを、彼は知っていた。
彼が意識を失う寸 前 に──男は言った。
「わたしを......超 えられないのならば、わたしがお前に教える意味とは、なんだ?」
キリランシェロはそれを聞き逃 してはいなかった。ただ、彼が言っている意味を理解することは、できなかった。
「こんな訓練に、なんの意味があるんです? 白魔術士と相 対 することなんて、まずないのに」
「......いつの日か、分かるだろう。誰かを止めなければならない時に、その力を持ち合わせていなかったことへの後 悔 が、わたしにはある......」
──そこでようやく、彼は、自分が夢を見ているのだと気づいた。
そして......
ふと気づけば、彼は虚 空 に立っていた。
(これは夢だ......)
オーフェンはぼんやりと、そんなことを考えていた。
(いや、それとも......死ぬと、こうなるのか......?)
だとしたら死など願い下げだ。
彼は心に決めて、目を開いた。
周囲は闇 に閉ざされていた。夜の闇ではない──そんなに優しい闇ではない。冷たい、ただひたすらに光のない、黒い闇。
(死ねば、なにもかも無に還 るもんだと思ってたんだがな......)
神々に対する失 望 を覚えながら、彼は胸 中 で毒 づきつづけた。
(こんな中 途 半 端 な状態で、ただ突っ立ってるだけなのかよ......どうすんだ? 既 に死んだんだとしたら、もうこれ以上は死ねねえよな?......まったく、最悪だ......)
が──
なにかの気 配 を感じて、彼は、止まった。
動きを止めたのではない──もとより身体はぴくりとも動かなかった。思考を止めたのだ。分からなかったが、なにかを感じたその一 瞬 で、彼はもうなにも考えられなくなっていた。だが意識が混 濁 としながらも、感覚だけは鋭 敏 になっていく。
やがて、数秒も経 ったか。
彼の目の前に、女の姿があった。
どこかで見た美しい女が立っている。風もないのに、彼女の着ている緑色のローブが、ふわりと揺 れていた。長い髪も──緑色の髪もまたそれにあわせて揺れている。女は穏 やかな表情で、じっとこちらを見ていた。瞳 の形は、微 笑 んで見える。少し垂 れ下がったような緑色の双 眸 が、闇の中、輝 きをのぞかせている......
(......彼女は......)
ほどなくして、彼は思い出していた。先刻、彼が死ぬ直前に見た女だった。地底湖の上で、空中から突き出した腕に宙づりにされていた女。首をわしづかみにされ、はっきりと首が折れているにもかかわらず、こちらを見ていた 女。
あの死の教師が......女神と呼んでいた女だった。
(女神?)
彼女を見つめて、その姿にその単語を重ねてみる。
(キムラック教会が奉 じる......運命の三姉妹 ......)
人の運命を紡 ぐ女神たち。
「いや──そんなわけが......だって」
彼は、言いかけた。身体は動かなかったし、喉 も口も動いた感 触 はなかったのだが、それでも自分の声が自分にも聞こえたという感覚は得ていた。いらだたしくすら感じる思いが、ふと脳 裏 をよぎる。
「俺 は......生きてるのか?」
突 拍 子 もない考えではあったが、オーフェンはほぼ確信してつぶやいた。漠 然 とだが、死人は声が出せないような気がしたのだ。
「俺は──」
繰 り返してたずねようとするが、口をつぐむ。女が、唇 を動かしたのだ。印をつけておかなければ見失うような薄い唇を。
なにかをしゃべろうとしている。思わずぞっとしながら、オーフェンは彼女の言葉を待った。女の、口が開いた。
「かつて──」
「............⁉ 」
なんということのない言葉に、意味のない戦 慄 を覚えて、オーフェンは総毛立っていた。じっと──そうしなければならないような気がして、じっと──耳を傾 ける。
女は静かに、どこか物 憂 げにさえ見える仕 草 で、あとを続ける。
「かつて......世界は、ただそれであった。世界は世界であるだけで、それ以上でもそれ以下でもなく、世界に存在する物のためになにを用意する必要もなかった。その頃 、世界に住んでいたのは、不死の巨人たちだけだったからだ。巨 人 らは大地がなくとも、海がなくとも、風がなくとも、星が太陽がなくとも、永 劫 を生きる力を持っていた。だが、その地に変化が起こる。虚 無 が満たされてしまったのだ。虚無をくまなく満たしたもの......それが......神々だった」
「............」
思わず肩すかしをくったような気分で──オーフェンは、絶句した。
(どうでもいい......神話じゃねえか......)
眉 根 を寄せる。子供の頃に聞いたことはあったのかもしれないが、たいして気にもとめてこなかった──そして忘れていた──神話だった。それを、彼女は淡 々 と語り続ける。
「神々が降り立ったその地には、名前などなかった。巨大なる虚無の穴。虚 ろの谷──それが、世界だった。ギヌングガガァプと呼んだ者もいたかもしれぬ。だが神々が巨人を滅 ぼし、その巨人の遺 骸 が積み重なった〝大地〟を虚ろなどと呼ぶ者はいなかった」
「あんたは......誰 なんだ?」
オーフェンは、低い声 音 で疑問をひねり出した。女は答えない。聞こえていたようにすら見えない。
ただひとりで続けるだけ。
「神々は力を以 てすべての巨人を殺したが......ただひとつ、世界最大の巨人たる、一匹の蛇 を殺すことだけはできなかった。蛇はあまりにも巨大すぎて、何者にも触 れることはできず、何者にも見ることはできぬ。世界で唯一 の蛇。唯一の真なるドラゴン =ウロボロス。神々はそれを殺せないと知ると、仕方なく、その蛇がとぐろを巻く内側に世界を作った。虚ろではない、本当の世界を。大海より生命が生まれ、大地へと移り住んでいく。世界は創造されたのだ──蛇の眠る内側に。そして世界はもはや虚ろではなく、蛇の中庭 と呼ばれるようになった。そして、巨人の遺骸でできた大地を、巨人の大陸 と呼んだ」
と──そこで初めて女は、こちらから視線を外 した。斜 め上にあごを向け、なにもない暗 闇 を遠い眼 差 しで見つめ、微 妙 にだが、顔をしかめた。
「......誰が呼んだのだ......?」
彼女はひとりで質問すると、自分で答えた。
「神は全能で......全知。ものに名前をつける必要など、神々にはない。神々は意 思 なく、そして意味なく世界を統 治 する。世界を名付ける必要があったのは......我 らだった。我ら──ノルニルの一族......」
答えが出たので安心したのか、彼女は顔を下ろしてみせた。またこちらを向いて、あとを続ける。
「当時、世界には、生命として卓 抜 した六種の──」
ぱっ──
突然、視界に白い波のようなものが入り、オーフェンは面食らって目をぱちくりさせた。
「彼らはそれぞれの文明と社会を築 き上げ、探求の極 限 として、世界とはなにかを──」
ぱぱっ──
再び、波。さきほどよりも激しく。
「なんだ......?」
オーフェンは目をこすりながら、あたりを見回した。闇が......次 第 に薄闇に変化している。それに気づいて、彼はさらに焦 燥 を覚えた。はるか遠方で、何発か立て続けに、光が閃 くのが見える。
波が見えたのは、その光だった。視界を横切るように、幾 筋 もの光が闇を貫 いていく。
唐 突 に──オーフェンは、全身から汗 が噴 き出すのを感じた。振り向くと、背後から、猛 烈 な勢いで炎 の塊 が迫 ってきている。
「我は紡 ぐ──」
呪 文 を唱 えかけて、彼は激しい頭 痛 に脳をかき回された。悲 鳴 をあげて両膝 をつくと、炎がすべてを包み込む──
「────⁉ 」
きつく目を閉じて、悲鳴をあげる。炎の中をのたうち回り、皮 膚 がめくれ上がるような痛みにどこまでも追い回され、彼は床 をかきむしった。石の床に突き立てた爪 がたやすく割れ、剥 がれる。床......?
見 慣 れた床だった。
はっとして、起き上がる──そこには、長身の男が立っていた。じっと無表情に、こちらを見下ろしている。自然体だが、右拳だけは握 っている、いつもの姿で。
(《牙 の塔 》......の......体技......室?)
屋 内 に設 えられた、対術等の訓練場だった。彼はそこにいる。誰もいない。目の前に、もうひとりだけ。
(チャイルド......マン? 先生......)
ゆっくりと、彼は自分の身体 を見下ろした。着慣れた──いや、かつては着慣れていた、《塔》の運動服。汗をよく吸う柔らかい生 地 に、身 震 いするほどの懐 旧 の情がわき上がる。
チャイルドマン・パウダーフィールド教師は、まだ戦 闘 体勢を崩 していない。早く起き上がらなければならない。オーフェンはなんとか床を突き放して立ち上がろうともがいたが、それ以上は身体が動かなかった。伸ばそうとした状態のまま動かず、肘 が震えている。そのうちに、チャイルドマンが動く。
教師が打ちかかってくることを、オーフェンは覚 悟 して待ち受けた。が......
「......キリランシェロ。立たないのか?」
チャイルドマンはただ静かに、問いかけてくるだけだった。
(立てないんです)
声にならない声で、オーフェンは答えた。首の筋 も痛めたのか、うまく見上げることもできないが──チャイルドマンがどうやら嘆 息 したらしいことだけは、呼 吸 で知れた。
そのため息といっしょに、彼の言葉も降ってくる。
「お前もまた、わたしに負けるのならば仕方がないと思っているのか?」
彼はもう一度、嘆息したようだった。
「わたしを......超 えられないのならば、わたしがお前に教える意味とは、なんだ?」
意識が、遠くなる──が、
(違う......俺は......違う!)
オーフェンは、歯を食いしばるというよりはなにかを噛 みちぎるように奥歯を軋 らせながら、床を蹴 飛 ばした。今まで身体が動かなかったのが夢だったように、そのまま立ち上がる。彼はそのまま、師をにらみ据 え──
チャイルドマンはいなかった。
いや、いた。だが、どういうことか、彼は違う人間に見えた。トレーニングウェアではない。黒いローブを着ている。だが身体つきは一回り小さいようだったし、表情がありすぎた。その黒い瞳 に──感情らしい感情が宿ったところを見たこともないその双 眸 に、乾 いた悲しみが見える......
(............⁉ )
彼の瞳に映 った自分の姿を見て、オーフェンは顔をしかめた──そして、自分の身体を見下ろしてさらに驚 愕 した。
(俺の身体じゃない......?)
チャイルドマンの瞳に映っているのは、緑色の髪の、緑色の瞳の女だった。
さっき立っていた女とは、似ているが違う──まったく同じ緑色のローブを着ているが、こちらもまたさきほどの女より、少し若いように思えた。かといって、同一人物ではない。よく似た、だが違う姿。彼はその女を見たことがあった。
(これは......?)
混乱しながら、とりあえずチャイルドマンのほうを見る。その時になって初めて、彼は自分が立っている場所がどこであるかに気づいた。
見覚えのある場所だった。広い、大理石のような白い壁 の広間。見上げるほどに天 井 も高い。自分の背後には祭 壇 がある──なぜか、振り返らずとも背後を見ることができた。
祭壇には、ドラゴン種族の姿を模 した、馬、狼 、獅 子 、熊 、サイ──そしてそれらに囲まれるようにして、美しい女の彫 像 。さらにその彫像の奥には、彼自身となった女の肖 像 画 が掛けられていた。
画家は嘘 つきだ。肖像画はいかにも若々しく、生気に満ちている。その一点だけで、この絵には意味がなくなってしまっているというのに。
(............?)
オーフェンは、違 和 感を覚えた。今の感想は、俺が 抱 いたものではない?
(この身体が──彼女が考えたことなのか? それが俺の意識と混ざっている......)
「汝 には長らくつき合わせてしまったな。罪に思う......」
自分の第一声に、彼ははっとした。身体が勝手に声を出したのだ。チャイルドマンの表情に、つらい、身を切られるようななにかが浮かんで、天井へと顔を上げる。
その女の名前は、身体のほうが知っているようだった。だが、もとよりオーフェンも記憶の片 隅 で覚えていた。シスター・イスターシバ。
バジリコック遺 跡 で、殺人人形が嘲 っていた名前......
(なにが......始まっているんだ?)
なかば錯 乱 して、彼は自問した。答えは返ってこない。刹 那 ──
──起きて!──
誰かに呼ばれて、彼の意識は弾 け飛んだ。
◆◇◆◇◆
(失敗したかもしれない......)
──とは決して思うな、と長い年月教え込まれてきた彼女にしても、はっきりと今は、そう思わざるを得なかった。
水が重い。刺すように冷たい、黒々とした地底湖の水──もう少し時間に余 裕 があったら、服を脱いで飛び込んだのに、と舌打ちする。
どのぐらいの深さまでもぐったのか、アザリーはとうに分からなくなっていた。この湖に落下した弟を追って飛び込んだのはいいものの、水の中は視界もほとんど利 かず、へたをすると自分の心臓まで止まってしまいそうなほど水温が低い──それが数分後になるのか、数秒後なのか分からなかったが。
(キリランシェロが完全に気絶しているのなら......そう深くは沈まないはず。必ず浮いてくるわ......)
となれば、あまり深く潜 行 するのは意味がない。
彼女はそう決断すると、体勢を入れ替えた──頭を水面の方向へ向ける。あまり手足を動かさないように気をつけながら可能な限り静止すると、黒い水の中でひたすらに目を凝らした。
彼はいずれ浮いてくるだろう。だが水面まで浮かせてはならない。クオ・ヴァディス・パテルは、今も必ず、上からこの地底湖をのぞいているはずだ......
(大 丈 夫 、キリランシェロ。わたしが──)
気を抜けば一 瞬 で溺 れ出しそうなぎりぎりの線で意識を保ち、彼女は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。呪 文 のように、力を込めて。
(わたしが守ってあげるから......)
沈むのもまずいが、浮かぶわけにもいかない。彼女はとにかく、彼が浮かんでくるのを待つことにした。無 根 拠 ではあるが、確信があった──彼は、必ず自分の手のとどくところにもどってくる。
──やがて......
視界が利かない闇 の中で、近くの闇が、ゆらりと揺れたように見えた。が──
(違う......目の錯 覚 )
冷静に判断して、そちらに飛び出したいのをこらえる。へたに動けば、自分の体力などあっと言う間に尽 きてしまうことは分かっていた。
水中であるため魔術を使えないことが、いっそう心をかき乱す。それでも彼女はひたすらに待ち続けた。焦 燥 が、一瞬の時が経過することをことさらに長引かせている。それに惑わされてはいけない──自分を制 御 できない者は、魔 術 士 とは呼べない。
刹 那 、
ふわっ......と、真正面から、なにかが彼女に触 れてきた。それはゆったりと流れてくると、力なく、彼女の首に腕を回す。思わず息を吐 き出しそうになりながら──それはこらえて、アザリーは抱きついてきたそれを、しっかりと抱き返した。手でまさぐってみると、間違いなく人の身体 である。
だが、まったく脱力して動きがない。呼吸まで止まっているのかは、確かめようがないが。
(キリランシェロ!)
アザリーは胸 中 で叫 ぶと、その身体をしっかりと抱いて、足 下 の水を蹴 った──潜 水 したまま、水平に進む。

地底湖の広さを考えれば、いくら上からのぞいたところで、水面のすべてを照らせるような明かりなどあるわけがない。飛び込んだ場所から少しでも移動すれば、クオ・ヴァディス・パテルはこちらの姿を見つけることはできないはずだった。このまま泳いで、岸にたどり着ければ、休 息 することができる。
(問題は......)
苦 々 しく、彼女は自覚した。
(岸なんてあるのか、ってことだけど)
あの回 廊 から見たこの地底湖──《詩 聖 の間 》は、地下洞 窟 にたまった水たまりのように見えた。見ただけで分かったことはみっつだ。あまりにも規 模 が大きすぎること。地底湖の端は断 崖 絶 壁 になっているかもしれないこと。ついでに、この水の上に女が首吊 りにされていることだ。
凍 りつくほど冷たい水の中を潜行しながら、光 明 と思えるような要素は──控 えめに言っても──ひとつもない。
(キムラック......教会総本山のユグドラシル神殿......その最 奥 ......そして秘 義 。ここが、《詩聖の間》......)
大 概 の危険は予想し、覚 悟 もしていたが──溺れかけることは考えていなかった。
自分よりも明らかに重い身体を抱きかかえて泳ぐというのは、実際にやってみていても正気の沙 汰 ではないと彼女には思えた。完全に冷え切った手足が、水を切るたびにどんどん重くなっていく。落ち着いてさえいれば沈むことはないのだと分かっていても、内 臓 が圧 迫 されるような不安感が襲 いかかってきていた。
(急がないと......少しでも早く身体を暖 めてあげないと、いくらこの子だって体力がもつわけがない......)
実際、それは彼女自身も同じだった。
やがて──
水をかき分けて伸ばした彼女の指先が、硬 いものに触れた。
(着いた!)
水よりもさらに冷たい岩に、指先を引っかけて、彼女は最後の蹴り足を放 った。顔 面 から岩にぶつかるが、もう感覚が麻 痺 していて痛みも感じない。
どのくらい深くを潜行していたのかを漠 然 と考えながら、彼女は浮 上 しはじめた。闇に閉ざされた水中では上も下も分からないが、勘 に頼 って水面を目 指 す。
(飛び込んで......から......どのくらい経 ったのかしら?)
一分、あるいは二分は経過したのかもしれない──いや、この水温でそう長く泳いでいられたはずがない。一分弱かと、彼女は見当をつけた。と、肩に乗せるようにしていた彼の身体が、突然、重さを取りもどす。
彼女は水面から顔を出していた。
「............」
あえぐように空気を求めながら、どこへ泳ぎ着いたのか確認する──見上げると、はるか頭上に光が見えた。ほぼ垂 直 の壁 面 が目の前にそそり立ち、十メートルほど上方に、大きな横穴が見える。光はそこから、この地底湖を照らそうとしていた。だが無論、光量が足 りるはずもない。
穴は、ほんの一分前、彼女がいた場所だった。飛び込んでから、一番近い壁面──飛び込んできた方向──に向かって泳いだのだから、当たり前といえば当たり前だが。地底湖を見下ろしているはずのクオのつま先でも見えないかと彼女は目を凝 らしたが、疲 労 のせいか、あるいは冷水の中を潜水して混乱していたせいか、焦 点 がうまく合わなかった。だが──
抱きかかえている彼の横顔だけは、暗闇の中でもはっきりと見えた。
(キリランシェロ......)
声には出さずに、呼びかける。彼は完全に意識を失って、目も閉じている。ずぶ濡 れの髪が額 に張り付いていた。顔色が蒼 白 なのは、身体が冷えたのと、出血しているせいだろう──確か、落下する直前にクオに拳 銃 で撃たれたはずだった。ひょっとして弾丸が当たったのではなく、単にびっくりして落ちただけなのかもしれないが、楽 観 する気にはなれない。
アザリーは彼の身体を抱 え直すと、再びあたりを見回した。なんとか水から上がって、身体を休める場所を探 さなければならない。体温を取りもどさなければ、ほどなくして死ぬことになる。ただでさえ準備もなく冷水に飛び込んだのだ。ましてや彼のほうは重 傷 を負 っている。
だが、どこを見ても完全に切り立った壁 ばかりで、入り込めそうな隙 間 すらない。
(あの死の教師に気づかれないように......できるかしら?)
不安に思いながらも、彼女は立ち泳ぎしながら、左手をあげた。右腕でしっかりと彼の身体を抱きながら、意識を集中する──
「......退 け......」
つぶやいてから指先を、壁に触 れさせる。
と、まるで気 泡 が弾 けるように、壁に小さな穴が開いた。見ているうちにも穴は広がり、また深くなっていく。数秒後には、なにもなかった壁面に、奥行き十メートルはある洞 穴 ができあがる。水面から、数センチ上のところである。幅 も高さも思ったより広くはならなかったが、大人 が立って歩ける程度にはなった。
(さすがに......物質を消失させるのは、骨が折れるわね)
最後の力を振り絞 って彼女は、抱えていた彼の身体をその洞穴へと押し上げた。音もなくというわけにはいかないが──上は、まだ混乱しているようだった。多少音がしたところで、クオの耳にはとどくまい。アザリーは水に飛び込んでから初めて、楽観的に決めつけることにした。
彼の身体を完全に押し上げてから、自分もその洞穴へとよじ登る。水から上がって体重を感じると、力尽 きかかっていた彼女はあっさりとその場に倒れ込んだ。酷 使 された筋肉の痛みと、睡 魔 が襲 ってくる──
(......まだよ)
唇 を噛 み切って、彼女はかぶりを振った。眠るわけにはいかない。
仰 向 けに倒れたまま動こうともしない彼へと近寄って、ほとんどすがりつくように──と苦 笑 いして彼女は思った──、彼の胸に手を当てた。
心臓は動いているのかもしれない。が、呼 吸 はしていない。
舌打ちして、アザリーは顔を上げた。彼が水を飲んだのは間違いない。浮いてきたからには、大量に水を飲んだわけでもないだろうが......
自分の感覚も麻 痺 しているようなこの状 況 では、彼の心臓が動いているのかどうか確認しようもないが、少なくとも呼吸だけは確保してやらなければならなかった。彼の鼻と喉 を押さえると、人工呼吸を試 してみる。
冷えて固まった唇に息を吹き込んでも、反応がない。
最悪の可能性が、脳 裏 にちらついた......
(拳銃で撃たれてから、かなり──少なくとも、一分以上......は経 ってる。既 にショック死している......?)
可能性は十分にある。撃たれた瞬 間 から心臓が止まっていたとしたら、もう手遅れかもしれない。
「冗 談 じゃないわ」
アザリーは声に出して毒づくと、ついでに彼の口から吸い出した湖の水を唾 といっしょに吐 き捨 てた。
彼の顔を見ている時間などはない。彼女はすぐに人工呼吸を繰 り返したが、なぜかその間も、じっと彼の顔を見下ろしているだけだったような錯 覚 を覚えていた。実際、目を閉じて息を吹き込んでいても、動かない弟の顔が見えるような気がする。
まるで氷の中で眠っているかのように、白く冷え切った弟の顔。
明かりなどないというのに、彼の顔ははっきりと見えていた。ほとんど今までの生 涯 で、これほど近づいて見つめたことなどなかったことを思い出し、ふと苦笑したくなる。
彼女がよく覚えている弟の姿とは、あまり変わっていないようで、だいぶ変わった、彼の姿。
何度目かの人工呼吸が失敗に終わり、焦 燥 感 を募 らせながら、アザリーは顔を上げた。ぞっと身 震 いして──思いつく。身体を暖めなければならない。彼も、彼女自身も。
(意識が......もつかしら......これ以上疲労しても......)
疑問に思いながらも、やるしかないとなれば、躊 躇 してはいられない。アザリーは右手を開いて上に向けると、口を開いた。彼女の望みを叶 えてくれる世界へと、囁 くように告げる。
「......夏よ......」
ふっ──と、光のない熱の塊 が、手のひらから浮かび上がっていく。見ることはできないが、まるでくすぐるように、冷え切った肌 に熱が染 み込んでくるのが分かった。これで少なくとも、凍 死 の危険性だけは減らすことができる。
「............うっ⁉ 」
我 知らず閉じかけていたまぶたを、彼女は震えながら見開いた。一瞬、意識が朦 朧 としたらしい。
(まだ......眠るわけには......)
歯を食いしばり、彼女はうめいた。弟の顔をのぞき込んで、再び、彼の鼻を押さえる。
(起きて......キリランシェロ。お願い......起きて!)
彼の唇 に噛みついて、アザリーは精一杯の息を吹き込んだ。
瞬間......
「ごぶっ!」
彼の身体が、跳 ねた。
咳 き込むようにして、水を吐き出しながら、彼が呼吸を始める。
(......やっ......た......)
放心しながら彼女は、つぶやいた。彼は──意識はもどらないようだが、軽く身体を跳ねさせながら、水を吐いている。
彼女はもう一度彼の唇を吸うと、吐き出した水を取り除 いてやった。すぐに、彼の呼吸が、穏 やかなものへとなっていく......
「あとは、撃たれた傷を......」
少なくとも脳の七割は眠りについているような状態ではあったが、彼女はなんとか意識を保ちつつ、彼の身体を見下ろした。手 探 りで、銃 創 を探 す。
(......ここ......ね)
目をしばたたきながらアザリーは、彼の下腹あたりに血の感 触 のようなものを感じた。目を近づけてみると、小さな傷が開いている。馬 鹿 馬 鹿 しいほど小さくて、そして限りなく深い傷が。
銃創だった。背中にまで手を回してみると、傷は完全に貫 通 している。弾 丸 が身体の中に残っていることはないだろうと、彼女は踏んだ。
べとべとと顔に張り付いた髪を払いのけながら、すべての力を注 ぎ込んで構成を編 み上げる──かすれ声で紡 ぎだした呪 文 とともに、彼の傷が消えていった。少なくとも見かけの上では。
だが今は止 血 だけでもいい。それ以上は望 めない。
(大 丈 夫 よね......死なないわ、あんたは。キリランシェロ......)
ゆっくりと寝息を立てはじめた彼を見下ろして──彼女は、彼の顔を指で撫 でようとした。が、もう腕も上がらない。
なにも考えられないほど疲労して、アザリーはくずおれるように、弟の身体の上に倒れ込んだ。岩 肌 にそのまま眠り込むのは、ぞっとしない。彼の身体とてまだ冷えていたが、硬 くはなかった──なんと言っても死体ではないのだ。硬いはずがない。そんなことを、彼女は漠 然 と思っていた。
眠りに落ちる一瞬前、彼女がなんとなく見上げた視界には、ちょうど中心に、はるか遠く上空にたたずむ、宙づりの女がいた。緑色の旗 のようにぶら下げられて、揺 れている。その女の目が、じっとこちらを見ているような気がしたが──
彼女には、もうどうでもよかった。
彼にしても、北の地は最悪だと思わざるを得なかった。
「......確かにな、くそ。あいつらのほうが正しかったっていうのかよ」
吐 き捨 てて、あたりを見回す。マントの下から出した手には、一枚の地図があった。
「なにが『この戦 火 の後 始 末 は我 らがその務 めを果たそう』──だってんだ。自分らの街 は小ぎれいに作り直して、隅 っこの土地はほったらかしかよ」
キエサルヒマ大陸が焦 土 と化したのは、もう数十年も昔のことだった。大陸全域を巻き込んで吹き荒れたあの戦 乱 を知らずに成人した者も多い。
彼もそのひとりだった。
だがなんにしろ──天 人 たちの言っている通りにこの大陸が少しずつ豊かさを取りもどしてきているにせよ──、そのスピードは、遅 々 としたものに過ぎなかった。人間の住めるような土地は、まだあまりに少ない。
「......だから、こんな土地だって無 駄 にゃできねえってのに......ち、くそ」
彼は誰 にともなく、毒 づき続けた。
「あの馬 鹿 どもに、なんて説明しろってんだ──目 指 してきた土地が荒れ地だってことを、先 遣 隊 のせいだと勘 違 いしてるような開 拓 公 社 の馬鹿どもが」
憤 懣 をぶちまけて、砂を蹴 る。
この大陸の北端で渦 巻 く黄 塵 は、その戦乱の名 残 だというが、詳 しいことは天人たちしか知らない──つんとすましたあの女たちしか。なるほど、彼女らの力で大陸の自然は回復したのかもしれないし、件 の戦乱の時代にこの大陸に漂 着 した人間種族──そして大陸に足を踏み入れるなり戦火に巻き込まれ、種としての力も文明もすべて失いかけた人間種族を都市に招 き入れ、庇 護 してくれたのも彼女らだった。だが──
根 拠 のない疑念を胸の中で固めつつ、彼は、黄塵の中、歩を進めた。吹きすさぶ風が、耳元をかすめて鋭 い音を発している。枯 れているわけでもなく、乾 いているわけでもなく、ただ、死んでいる砂──黄塵に包まれて。
彼はふと、まぶたを半分だけ下ろした。目をすがめて視界を凝 らすと、前方の黄塵の切れ間に、なにか見えたような気がする......
彼は、顔を上げた。
薄 紙 の裏でたたずみ、蠟 燭 の火が揺 れる音をじっと聞いている──それは、いつものことに過ぎない。だが。
彼はうめいた。苦 々 しく。灼 かれるように。
「女神よ......もうわたしを苛 むな......苛むな......」
強く拳 を握 る。爪 を握り込む。
嫌 な予感がした。悪夢が目覚めたような。夢など見るはずがないというのに。
◆◇◆◇◆
「......派 手 に壊 してくれたものだな、クオ」
ラポワントはその光景を一望して、そう告げた。目の前にいる、大男に。
実際、派手に壊れたものだと、彼はうんざり付け加えた──胸 中 で苦々しく。これを修 復 するのには、莫 大 な時間と費用がかかるだろう。回 廊 は端 から端まで念入りにハンマーで砕 かれたように、めちゃくちゃにされている。いったいどのような破 壊 的な力が生じればこのようなことができるのか、彼にとってはまったくもって疑問だったが。
魔 術 によって、という報告は受けていたが。
(忌 々 しい......)
彼は胸中で吐き捨てた。魔術だけではない。その報告も忌々しい。
壁 も扉 も──禁断の《詩 聖 の間 》の門も、木 っ端 微 塵 に打ち砕かれている。最悪の被害だった。
赤い、不 格 好 な鎧 を着けた大男──クオが、しごく平静な声で答えてくる。
「この扉を破壊したのは侵 入 者 です」
「そうだな。そうだろうよ。それで、お前はなにをしてくれたというのだ? 奴 らを取り逃がしてくれただけか?」
クオの落ち着いた声 音 が癇 に障 ったというわけではないが、ラポワントは顔をしかめてうめいた。
と、ため息をついて自分の格好を見下ろす──教師長の特別な神官服。貫 頭 衣 に近いものだが、もっと複雑な造りになっている。もちろん白が基調だが、長年の間、黄 塵 にさらされて黄色がかっている。いくら念入りに洗わせたところで、この黄塵の色は絶対に落ちない。
なんにしろ、教師長たる彼は、眼前の大男より年下ではあったが、位 は同等だった。いや、死の教師としての地位を隠 すためのかりそめの教師長位でしかないクオに比 べれば、彼のほうが上位ですらある。
ラポワントはちらりと、かたわらを一 瞥 した。こちらには、聖都を守 護 するもうひとりの死の教師──カーロッタがいる。
ちらりと見た印象から言えば、その女がこの事態を退 屈 に感じているのが明らかだったため、ラポワントは苛 立 ちをいっそう強めた。
「......侵入者は、背 約 者 ひとりを含 めて、全部で三人──それをすべて取り逃がしたと、そういうことで間違いはないのだな?」
「はい」
こちらを見ずに、地 底 湖 の上におわす〝女神〟のほうを向いて、クオが答える。
だが──
「四人、ですわ」
なにか面 白 がるような声音で、カーロッタが付け加えてくる。彼女の格好も教師長位の神官服で、デザインはラポワントの着ているものとまったく同じだったが、着ている者が違えば服の印象も変わる。彼女が着てみせると、不格好な神官服も、とりあえずまともな格好には見えるようになる──もっとも正 直 に、寝 間 着 のようだと言えば彼女は怒るだろうが。
あるいは、笑うだろうか? そんな場違いなことを考えながら、ラポワントは眉 を上げた。
「......四人?」
「メッチェン・アミックが、反乱に加わっているようですわ。昨夜、わたくしの寝室に襲 撃 をかけてきました」
「結 束 というものを、一度考えてみてもらいたいものだな」
可能な限りとげとげしく告げたつもりだったが──カーロッタは軽く肩をすくめて皮 肉 を受け流すと、
「無理でしょう。だって、メッチェンはわたしが嫌 いなんですもの。会った時から、そうでしたわ」
ちっ──と聞こえよがしに舌打ちすると、ラポワントはさらに振り向いた。血の跡 が一面に広がる壊 れた床 。
「......それで、そのたった三人の侵入者のためにネイム・オンリーは殺され、二十三人の神官兵を失い、《詩聖の間》の扉は破壊され、明らかに女神のお姿を見たであろうその侵入者たちは無 事 逃げおおせた、と、こういうわけだ。なにからなにまで素 晴 らしいことだな。教主様のお言葉が実に楽しみだ」
「手 強 い相手ですよ。久しぶりに」
クオが、ぽつりと口をはさんでくる。
「まったく、興 味 深い発言だ」
ラポワントはそう吐き捨ててクオの言葉を遮 ると、破壊された扉のほうを見やった。そして......ふと、気づく。
「なんだ、あれは?」
壊れた扉の下あたりに、足を滑 らせたような跡が着いていた。思わず背 筋 に冷たいものを走らせて、クオに向き直る。
「......まさか、侵入者が《詩聖の間》に入り込んだということはないだろうな⁉ 」
「そういったことは、ありませんでした」
きっぱりと、クオが断言してくる。
「............」
ラポワントは、しばらくじっとクオを見つめ続けた──視界の端で、カーロッタすら聞きとがめたのか、いつもの間 延 びした双 眸 に緊 張 のようなものを見せている。もし、クオ・ヴァディス・パテルが嘘 をついているとしたら......
(......いや)
彼は、無理やりに否定した。クオの忠 誠 を疑うのは馬鹿馬鹿しい。
犬の忠誠を疑うようなものだ。
それでもそれ以上はなにも言う気にならず、ラポワントは、かつ、とかかとを鳴らしてきびすを返した。死の教師ふたりを残して、回廊を去ろうとする。と──
「ラポワント教師......」
物静かなクオの声が、追いかけてきた。壊れた床を念入りに踏みしめるように、足を止める。クオはすぐにあとを続けてきた。
「以後の警 備 は?」
「ひとりが引き続き、この《詩聖の間》とユグドラシル神 殿 を警備しろ。もうひとり──どちらでもいいが──は、当然、逃 亡 した侵入者の追 跡 だ。一日以内に結果を出せなければ、その時は、それなりの覚 悟 を固めておくんだな」
「分かりました」
嫌 になるほど従 順 に、クオが答えてくる。そして──
「ラポワント教師。もうひとつ」
再び呼びかけられて、ラポワントはいらいらと振り返った。クオは腕組みした姿 勢 で、じっとこちらを見つめてきている。
「なんだ?」
聞き返すと、クオはあっさり口を開いた。
「......背約者のひとり、サルア・ソリュードが、あなたを頼 ってくるかもしれません」
「奴 がわたしを頼るとは思えんがな」
「それでも、奴にとって肉親はあなただけです。彼があなたの前に姿を見せたら──」
「分かっている。即 座 に捕 縛 してそちらに引き渡す。それでいいな?」
ラポワント・ソリュードはそう言うと、再びきびすを返し、回廊を後にした。
◆◇◆◇◆
「ぶめぎゃ!」
と叫 ぶなにかを踏んだ。
それはそれとして──クリーオウは唐 突 に目の前を覆 った暗さに目を瞬 いた。もともと、あの神殿の地下もたいした明るさではなかったが、光量の変化が完全に一 瞬 だったためか、目の奥に痛みを感じるほどの落差を覚える。
ゆっくりと、暗 闇 に目が慣 れてくる。途 切 れない雨 音 が、聞こえてきていた。雨のせいか、それともそういうものなのか、この街 でならどこにでも充 満 していた黄 塵 が、あまり見えない。せまい部屋の中だった──いや、せまい小屋だと言うべきか。粗 末 な寝台がひとつ。ほかは、部屋の隅 に押しやられたゴミしかない。外界に通じているのは、薄黄色く汚 れた小さな窓と、そのまま玄 関 になっているらしい扉 。
彼女はなんとなく息苦しさを覚えながらもあえて息を殺し、抱いているレキと、手の中にある小さな黒い小箱を見下ろした。箱は、すっかり重さがなくなり、また輝 いていた文字もなくなっている。よくは分からないが、この箱が彼女らをここへと運んでくれたらしい。
(そうだ。マジクと......あのサルアとかいう人は?)
思い出して、彼女は左右を見回した。転 移 する一瞬前、彼女から見てそこにいた方向に、マジクが転 がっている。いまだ意識がないのか、ぐったりと寝こけているようだった。サルアも近くに倒れている。もともと血 塗 れだった服が、改めて血で汚されている。
(満 身 創 痍 、ってやつね)
彼女はため息をついて、さっきから踏んでいるなにかから、ひょいと飛び降りた。「ぐえ!」とうめき声が聞こえてくるが、まあそのあたりもどうでもいい。
(マジクは大 丈 夫 みたい......死にそうな火傷 だったのに、あの人、ホントにあれだけの時間で治 しちゃったんだ。サルアも、まあ全然無 事 じゃないけど、ちゃんと生きてる。生きて──)
さっと、体温が下がる。彼女は顔を上げて、再び部屋の中を見回した。実際には目を凝 らしたというわけではないが──探 していたものがないということは、探すまでもなく分かっていた。
(オーフェン......)
やはり、いない。
しばらく立ちつくし、なにかに鼻の先を押されて、クリーオウは驚 いて我 に返った。見下ろすといつの間にかレキが身体 を伸ばして、前 脚 で顔を触 りにきている。
(どうしようか、レキ)
レキに顔をぺたぺた触られながら、クリーオウは嘆 息 した。
(わたし、なんにもできなかったわよね。オーフェン、ケガ人で──魔術士が魔術を使えないって、ある意味ケガよね?──それで、わたしがちゃんとサポートしてあげなくちゃならなかったのに)
最後の数 瞬 が脳 裏 に浮かぶ。
とは言え、思い出せたことは、ほんの数個の場面でしかなかった。実をいえばあの時、オーフェンのほうを見ていなかったのだ。覚えているのは、あの女魔術士の警 告 の声と、銃声、オーフェンが悲 鳴 をあげなかった こと。
彼の悲鳴を聞いていないことが、ことさらに彼女の不安をかき立てた──ケガをしただけなら悲鳴くらいはあげただろうと、彼女は勝手に決めつけていた。
「............」
しばらく、立ちつくして。
ふっ、とクリーオウは、息を吐 いた。目を閉じてかぶりを振る。
彼女は決心すると、サルアのほうに向き直った。ここがどこだかは分からないが、とりあえずこの男ふたりを起こさない限りはどこにも動けない。マジクは寝ているだけのようだが、サルアのほうは、明らかにそうではない。
「うっわー......」
近づいて観察してみると、サルアはまさしく満身創痍といった有 様 だった──つい一時間ほど前にケガを治してやったというのに、またその状態まで逆もどりしている。深い傷浅い傷、それぞれ取りそろえて、まるで身体に刃物で落書きしたようだった。
雨の臭 いに混じって血の臭いをかぎ取って、彼女はしかめ面 で後ずさりした。一歩二歩さがったところで、さっき飛び降りた時に踏んだなにかを、また後ろ足に踏んだようだが──「ごぎゃ!」──とにかくひたすらにどうでもいい。
「あのー......」
唐 突 に声をかけられて、クリーオウはびっくりしながら振り返った。と、部屋の隅 っこにぽつんと、背の低い人影が座 り込んでいる。
眼鏡 をかけたその人影は、ぽりぽりとほおをかきながら言ってきた。
「いきなり出てきて、兄さんを踏んでるみたいなんですけど......」
「あ。えーと......ドーチンじゃない。どしたの? こんなとこで」
「いや......どうしたのっていうか、ここにいたんですけど。ここ何日か」
なぜかこちらの足下を指さしたまま、ドーチンがつぶやく。いわゆる『地 人 』である。大陸の先住民族で、今は南端の自 治 領 にしか住まないとされている──らしいのだが、クリーオウにしてみれば、そういう話を聞いたことがあるというだけのことだった。
身長は百三十センチほど。丸みを帯 びた体 格 が特 徴 で、毛皮のマントを伝統的な民族衣 装 としている。このドーチンは、分 厚 い眼鏡をかけていた。不安そうな表情でこちらを向いている。
「ここにいた? 何日か?」
クリーオウは二言続けて声をあげてから──ふと思いついて、聞き直した。
「ここ、どこ?」
「どこかの偉 い人が所有してる倉庫の管理人小屋かなにかだと思うんですけど......ここを見つけたのはぼくたちじゃないですから、よく分かんないです」
「いや、そーゆうことじゃなくて、ここってまだキムラックなんでしょ? どのへんなのよ」
「え? さあ。ぼくらは、市 場 までしか往 復 しませんから」
「役に立たないわねー」
「............おい............」
「あ、そーだ!」
どこからか声が聞こえてきた──聞こえてきたような──気がしたが、とりあえず、それより優 先 しなければならないことがある。クリーオウは声をあげると、またサルアへと駆 け寄った。うつ伏 せで倒れているサルアの上にレキを置き、ぽんぽんと叩 きながら告げる。
「あのねレキ、ちゃんと治 してあげてね。できるでしょ?」
レキが特に返事らしい仕 草 を返してきたわけではなかったが、クリーオウはそのまま振り返った。きょとんとこちらを見ているドーチンのほうへ、また近寄る。
「あのな......」
また、どこからか声が聞こえてきたようだが──
「こぉぉの不 法 侵 入 小 娘 ! いきなり扉 も開けず現れて、あまつさえこのマスマテュリアの闘 犬 、ボルぎゃああっ⁉ 」
──ドーチンへと駆け寄る途中、またなにかを踏んだようだったが、もうとにかくどうでもいい。
「でも、市場までは出てるのね?」
「え? ええ、まあ」
なにやらいろいろと言いたげな顔でうなずくドーチンに、クリーオウはさらに詰 め寄った。外はいまだに雨 足 が衰 える気 配 もないが、夜が明けつつあるせいか、どことなく空が白 みはじめている。
「神殿まで案内できる?」
「あ、案内もなにも、あれだけ大きな建物ですから、どこからだって──」
「やめとけ......」
制止されて──クリーオウは、驚きに肩を跳 ねさせて振り向いた。見ると、傷だらけのサルアが、ふらふらと顔を上げている。
彼は血で固まりかけた前髪を手でどけながら、荒い呼 吸 の合間を縫 うように声を出してきた。
「......クオは......絶対に......待ちかまえている......奴 だけじゃ、ねえ......カーロッタって......のが──」
凄 絶 な眼 差 しで言ってくる彼に、クリーオウは思わず息を呑 んで──
指さして、告げた。
「でも、レキを頭にのっけてて、ちょっとプリティな感じ」
「てめえがのっけたんだろーがっ!」
サルアの怒 鳴 り声に驚いたのか、彼の頭からレキが転 げ落ちる。黒い子ドラゴンはそのまま床 をうまく転がっていたが──その転がる先に、なぜか床の真ん中に白い灰の山がある。子ドラゴンは頭からそれに突っ込むと、音のないくしゃみを連発しはじめた。
みな、しばらくその様 子 をみていたが──
「あう......大声出したから......貧 血 が......」
へろへろとまた床に突っ伏 すサルアに、クリーオウはあわてて聞いた。
「ねえ、ちょっと待ってよ、カーロッタってなに?」
「......カーロッタ・マウセン。死の教師──つまりキムラック教会を守護する戦士のことだが、そのひとりだ。現在、神殿を警 護 しているのは、クオ・ヴァディス・パテルとカーロッタ・マウセン。そのふたりってわけだな」
「たったふたりじゃない」
口を尖 らせてクリーオウが言い返すと──サルアは、また顔を上げてきた。どこか皮肉げに、音を立てて笑う。
「クオの鎧 ......〝イフリート〟の結 界 を貫 く手段もねえってのに、たったじゃねえだろうによ」
「なんとかなるわよ、そんなの!」
「......そうだな。まあ、奴に関しては......な」
「え?」
いきなり同意してきたサルアのせりふに、クリーオウは思わず言葉を失っていた。呆 気 に取られているうちに、サルアはさらに上体を起こし──ゆっくりと、床に座 る姿勢を取った。身体を引きずるようにして壁 際 まで這 い進み、背中を壁に預けてこちらを向く。
「だが、カーロッタは、駄 目 だ。絶対にどうにもできねえよ。あの女は──」
「......強いの?」
灰にまみれたまま(途中、なにかを踏みつつ)足 下 まで駆 け寄ってきたレキを抱き上げて、クリーオウは聞いてみた。が、サルアは首を横に振ると、
「そういうんじゃねえ。そういうんじゃねえんだが......まあいいさ。とにかく、俺 たちは幸運にも神殿の外に逃げることができたんだ──みっつのチャンスを得た。隠 れるチャンス、逃げるチャンス、そして......」
口元を、にっと吊 り上げる。
「武 装 するチャンスだ」
「逃げないわ」
クリーオウは即 座 に告げた。
「さっきの神殿にもどるの。この、変な箱の使い方が分かれば、またすぐにもどれるはずでしょ──」
「あ、それ、無理らしいですよ」
彼女が持ち上げた黒い小箱を指さして、あっさりと、ドーチンが口をはさんでくる。地人は眼鏡の位置を直しつつ、朗 らかにあとを続けた。
「あの魔術士の人が、さんざん試 してたみたいですけど、その装置では、ユグドラシル神殿には転移できないんだそうです」
「なんでよ⁉ 」
「え? いやあの、そんなぼくの首を絞 めたって......」
と──
「できるはずがねえさ」
サルアまでもがきっぱりと言ってくるのを聞いて、クリーオウは、ドーチンの襟 首 をはなした。
見やると、サルアはまた笑みを浮かべている。皮 肉 げ、というよりははっきりと嘲 りの色を含 んだ、険 悪 な笑みである。
「天人の魔術じゃあ、神殿には近寄れない......近寄れるはずがねえんだよ」
「なにを言ってるの?」
「もしそれができたのなら......とうの昔に、神殿は滅 びてた──へへっ。ま、そのほうが面 倒 はなかったんだろうが......やっぱ退 屈 ではあっただろう......な......」
「......様 子 が変じゃありません?」
襟元を直しながら、ドーチンがつぶやく。クリーオウは無言でうなずくと、まだなにかをぶつぶつと言い続けているサルアをじっと見やった。暗くてよく分からなかったが、彼の顔色はすっかり蒼 白 になっている──
「......ケガのせいで、意識が確かじゃないみたい」
「ていうか、死にかけてるみたいに見えるんですけど......」
「言われてみれば、確かにそう見えなくもないわね」
そういえば、レキに傷を癒 やしてくれるように頼 んでから、ほうっておいたままだった。傷はかけらも治 っていないようである。
「まったくもー、レキ、ちゃんとやっといてあげてって言ったじゃない」
彼女はレキを抱 えたまま、サルアのほうに進みかけたが、ふと後ろから手を引っぱられて足を止めた。振り返ると、ドーチンが彼女の手をつかんでいる。
クリーオウは目をぱちくりさせながら、疑 問 符 を浮かべた。
「なぁに?」
「いや、あの......またそのまま進むと──ええと、さっきからなにかを踏んだりしてるの、気づいてません?」
気づいていた。気にしてはいなかったが。
「うん。最初、ぶめぎゃって鳴いてたから、ぶめぎゃ虫だと思ってたけど」
「誰がだっ⁉ 」
がばと──床から、なにかが跳 ね起きる。
ドーチンにそっくりな──ただし眼鏡 はかけていない──こちらも地人である。同じ毛皮のマントの下に、不格好 な古い長剣を下げている。顔面 にいくつもの足跡をつけたまま短い人差し指をこちらに向け、それは、大声で叫 んだ。
「さっきから、いちいち往 復 便 で踏みつけていきやがって! なぜ踏む⁉ どーして踏む⁉ 」
ボルカンだった。ドーチンの兄である。クリーオウは思わずしばらくの間ぽかんと口を開けてから、その開いた口でそのまま聞いた。
「あら、あんた、どこにいたの?」
「うっわ、そーゆうことが言えるかこの顔踏み女。いいか、この史上希 なる英 雄 様を膝 から下の部位で触 れてしまった無 礼 者 は、殺し装置で装置殺されるべしとの掟 を、まさか知らんのか⁉ 」
「知らないわよ、そんな妄 想 」
「妄想じゃなくて掟だと言っとろーがっ!」
わめくボルカンを無視して、クリーオウは地人をわきに押しのけた。その横を通り過ぎて、すたすたと進む。
「だいたい貴様のよーなつまらん小娘の足の裏を、重力の下側から見せられて、この屈 辱 をなにによってそそげばいいのだ⁉ やはりこれは原 油 で化 粧 し殺すよりほかあるまいと、市長さんもびっくりだ!」
あとからばたばたついてきたボルカンが疾 呼 するが、クリーオウはあくまでそれを無視した。
「いや、あの兄さん、やめたほうがいいと思うよ。言ってることもなんだかさっぱり分からなくなってるし──」
心配そうに、ドーチンもついてきている。だがボルカンは聞く耳ないようだった。
「この際だから言っておくが、コラ、おい、偽 物 の金むく娘! いいから聞けって──」

クリーオウは──
無言で、振り向いた。唾 を飛ばしてわめき散らしているボルカンと、そのうしろで不安そうな面 持 ちを見せているドーチン、そのふたりを見下ろして、息を吸う。
ボルカンが構わずにわめき続けている後ろで、ドーチンが嘆 息 混じりに幸運を祈 るような仕 草 をしているのが見えた。
「レキ! このふたり、どっか遠くにやっちゃって!」
瞬 間 。
ごぼっ、とやたら鈍 い音がしたかと思うと、地人ふたりの姿が突然消えた。悲 鳴 をあげる間もなく、床下を突き破って、轟 音 とともに地下へとめり込んでいく......
ふたりが意味もなくやたらものすごい勢いで沈んでいったことに仰 天 しながら、クリーオウは、ぽつりとつぶやいた。
「......遠く、って、ちょっと方向が違うみたいだけど」
地人ふたりが沈んでいった大穴をのぞき込むが、穴は深々と真 っ直 ぐ地下へ突き進んでいて、ボルカンらの姿はもう見えない。
「......まあいっか。どうせあのふたりが死ぬわけないし......」
それだけで片づけると、クリーオウはサルアのほうへと向き直った。サルアはいつの間にか、力尽 きたのかぐったりとしている。呼吸はまだしていたが。
と──彼に近寄りかけてなにかにつまずき、クリーオウは顔をしかめた。
見下ろすと、マジクがいまだ寝息を立てている。
「............」
いらいらと頭をかいてから、彼女は、寝ているマジクの頭を軽くこづいた。
「いいかげん、起きなさいって!」
「うう......ん......」
うめき声をあげるマジクをそのままに、サルアのほうへと向かう。
死にかけた殺し屋の横で腰をかがめ、レキに彼の治 療 を頼 んでいるうちに、マジクがごそごそと身動きを始めていた。寝ぼけたような顔で──実際寝ぼけた顔で、寝ぼけたようなことを言ってくる。
「......あれ......? なんで......寝てるんだ?」
「あああ、もう、めんどくさいわね!」
彼女はわめくと──立ち上がった。黄 塵 の舞う薄暗い部屋の中、拳 を握 りしめ、さらに大声をあげる。長い金髪が、ばさりと揺れた。
「あんたはもうケガなんてしてないんだから、さっさと起きなさい! ここがどこだかよく分かんないけど、サルアが動けるようになったら、すぐに出発するわよ! 時間なんてないんだから......ああもう、ぼけっとしてないで、いいからもうちょっとしゃきっとしなさいよ! あ、今、あくび噛 み殺したでしょ。ちゃんと分かるわよ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ......」
わたわたと、混乱したように、マジクが手を振ってくる。少年はあたりを見回すと、困 惑 顔で口を開いた。
「いったい、なにがなんだか......ここは神殿じゃなかったの?」
「あんたがやられて気絶してる間に、いろいろあったのよ!」
「う......うん......」
言われてマジクがあわてながらぱたぱたと服をはたく──これが「しゃきっと」のイメージだったのだろう──のを見て、クリーオウはとんとんとつま先で床をたたいた。なにもかもがいらだたしい。考えてみれば、この街 に入ってから、なにひとつとしてうまくいったことがないのだ。そもそも街に入る前にしてからが、危 うく置いてけぼりにされるところだったし、街に入ったところで、道案内だったはずのメッチェンとははぐれてしまった。ラニオットの手引きで街の奥に進めるかと思いきや、そこでもまた鉄 砲 水 に押し流され、気づいた時は街の中 枢 の神殿の中。そこが目的地かと思えば顔がゴツい変な男に待ち伏 せされていて、しかも......
(オーフェン......)
ぎりぎりと奥歯を噛 みながら、クリーオウは最後の数 瞬 を思い出そうと努 めた──見ていなかったものを思い出せるわけもないのだが。思い出さなければならないような気がしていた。
彼は死んだかもしれない。
アザリーとかいうあの女が、最後に見せた表情。そして声。それだけは思い出せる。思い出せたからこそ、悪い予感が強まっていくのを感じていた。
だが──
(オーフェンは、わたしが死にそうになった時も、なにかをやめたりあきらめたりなんてしなかった......)
レキの魔 術 が効 き始めたのか、サルアの傷がどんどんふさがっていく。クリーオウはそれを一 瞥 して、決然と独 りごちた。
(逃げられるわけがないじゃない)
そろそろ、夜が完全に明けようとしている。
◆◇◆◇◆
闇 と......
水と......
オーフェンは冷たく湿 ったそれを感じながら、目を覚ました。それらとともにある──それらの中にある、鋭 い暖かさも感じながら。
真っ暗だった。だが完全な闇ではなかった。青く染 まった闇。重苦しく寒い闇。四 肢 もまた重く、身体 にはけだるさといっしょに緩 慢 な痛みもある。なにかを思い出そうとし、結局なにを思い出したらいいのか分からず、彼は考えるのをやめた。
(......なんだ?......)
曖 昧 な疑問を自分に投げかけながら、静かに、右腕をあげる。右腕だけが動くようだった。震 える指先は闇の中をさまよい、そしてなににも触 れることができないまま、宙を滑 った。
ふと、鼻先になにかが触れる。見下ろすと──黒い髪が、鼻に触れている。
彼は右手で、それをどけた。少しくせのあるその髪を持ち上げると、見 慣 れた横顔が、彼の胸に顔を埋 めている......
「......アザリー?」
彼は、呼びかけた。が、その横顔は微 動 だにしない。彼女の吐 く息が、彼女の体温を直接こちらへと伝えてきた。
自分が床 に倒れていて、彼女が彼の身体にのしかかって眠っている。その状 況 だけを悟 ると、オーフェンは、大きく吐 息 した。
(彼女が......助けてくれたのか......)
脇 腹 に触れてみると、銃 創 が消えている。クオの剣にやられた傷も、ついでに治 癒 してくれたらしい。
虚 空 から──なにも見えない虚空から、放射してくる熱気を感じる。アザリーが魔術で暖 を取ったのだろう。あの状況下で地底湖に落下した彼を救いだし、蘇 生 させ、傷を治 す......言葉にすると簡単だが、並 大 抵 でできることではない。
(そんなことができるのは、そうだな──あんたくらいだ)
だが、ここはどこだ?
彼はいまだ続いている頭 痛 に顔をしかめつつ頭を巡 らせ、自分たちがいるのが、横にくぼんだ岩 穴 だと認識した。出口のほうを見ると、すぐ外に黒々とした水面が見える。そして、はるか遠く──上空には、緑色のローブを着た、宙づりの女......
(ここはまだ......あの地底湖か。《詩 聖 の間 》とか言ったっけか......)
宙づりの女はじっとこちらを見つめていた。首を折られ、傾 いた斜 めの顔で、ずっと。
その女と見つめ合いながら、オーフェンは嘆 息 した。
(キムラック教会ができてから、もう二百年......ひょっとして、あんたはずっと、そうしていたのか......?)
ふと。夢を──思い出す。
いや、あれが夢であったのか、強い疑念を浮かべながら、オーフェンは〝夢〟の中で彼女が語った言葉を思い浮かべていた。
かつて──
かつて......世界は、ただそれであった。世界は世界であるだけで、それ以上でもそれ以下でもなく、世界に存在する物のためになにを用意する必要もなかった。その頃 、世界に住んでいたのは、不死の巨人たちだけだったからだ。巨 人 らは大地がなくとも、海がなくとも、風がなくとも、星が太陽がなくとも、永 劫 を生きる力を持っていた。だが、その地に変化が起こる。虚 無 が満たされてしまったのだ。虚無をくまなく満たしたもの......それが......神々だった。
(それは......いつの昔だったんだ?)
夢の中で聞かされた神話に触 発 されてというわけでもなかったが、オーフェンは目を閉じて思い起こそうとしていた。《牙 の塔 》で幾 度 も聞かされたはずの、大陸の歴史──ほとんど暗 記 暗 唱 しているはずだった、大陸のすべての歴史を。
否 ──
(すべての、じゃない。人間が知り得た、すべての歴史──それはキエサルヒマ大陸全史に比 較 すれば、ほんの三割に過ぎないんだ......)
キエサルヒマ大陸。その歴史が始まったのは、千年の昔と言われている。
その昔、神々から万 能 の力〝魔 法 〟の秘 義 を盗 み出し、それを万能ならぬ自 らにも扱 える術〝魔術〟としたのは、六種の知恵ある獣 、ドラゴン種族だった。その行 為 は神々を怒らせ、ドラゴン種族は神々の怒 りから身を守るために、このキエサルヒマ大陸に逃げ延 びたのだという──大陸の先住民族たる地 人 や、そのほかの種族を大陸の限られた地域へと押しやり、大陸の主 となったドラゴン種族たちは、その後も神々の放 った魔 物 と戦い続けたという。ドラゴン種族はかろうじてそれらの大 戦 闘 に勝利してきた。大陸は何度となく焦 土 と化したというが、ドラゴン種族は強大な魔術でそれを癒 やし、何百年をも生き延びてきた......
人間種族が、大陸に現れたのは、今から三百年前と言われている。正確な記録が残っていないのは、人間種族の漂 着 と同時に、神々の放った強大な魔物もまた、大陸に姿を見せたからだった──人間種族の祖先は大陸に漂着すると同時、その戦闘に巻き込まれ、文明も、それ以前の歴史の伝 承 能 力 も失ってしまった。ドラゴン種族がその戦いを収 めた時、人間種族の文明は、ほぼ原始生活にまで退 行 していたという。
「その人間種族を自らの都市に招 き入れ、教育を施 したのは、天 人 種族 だった......」
オーフェンは我 知 らず、いつの間にか声に出していた。ほとんど吐 息 そのものと変わらないような、かすれた声 音 で。
と──
「天人種族の都市に住み、人間種族は急速に文明を回復させていった」
ぞっとするほど馴 染 みのある声があとを続け、オーフェンは、はっと目を開いた。目の前に、アザリーが顔を起こしている......
目を覚ましたのならば身体をどければいいようなものを、彼女はあえてそれが分かっているのを隠 そうともせず──とオーフェンには思えた──、面 白 がるように、寝そべった彼の身体の上にのしかかっている。ちょうど腹の上でほおづえをついているようなポーズで、彼女はこちらの顔をのぞき込んできていた。
オーフェンは、息が震えるのを隠そうとしながら、続けた。
「......急速に、とはいってもそれには......数十年の歳月を要した......」
「人間種族に大陸古語──天人の言語──が浸 透 したのも、この頃 。この大陸古語は、後に天人が存在しなくなってから、人間たちの間で極 端 な口語化が行 われることになる」
「......やがて天人種族と人間種族の間で、混血が起こる......そしてそれが......」
「そしてそれが、魔術士の歴史、ひいてはこの大陸における人類全史、その始まりだった──」
そこまで一息ですらすらと囁 いてから──彼女は、くすくす笑いだした。少し肩をすくめて、目を細めたまま、唇 を開く。
「......初等の歴史教科書の序 文 なんて、よく覚えてたわね、キリランシェロ」
「あの暗唱のテストは、みんな文 句 ばかり言ってたけど、俺はそんなに嫌 いじゃなかったんだ」
オーフェンはため息をついて、両手で顔を覆 った。そのまま続ける。
「暗記だけは、アザリーが、手伝ってくれたから」
顔を覆った指の隙 間 から、あまりよくは見えなかったが、アザリーは確かに笑ったようだった。ほんの先端だけだが、舌を出したのも見えた。
「暗記の付き添 いくらいしか、できることがなかったのよね。わたしはテスト勉強の類 が苦 手 だったし、そういうのはティッシの守 備 範 囲 だったから」
「ティッシは先生より厳 しかった」
実際、そうだった。ペンをくわえて、少し上 の空になったふりをしておいて、こっちの手元から視線を外 さない。口 癖 だった──「なんでそんな答えになるわけ? 頼 むからもう一度考えてみてくれない?」
「しつこかっただけよ」
「それに、ちょっと──ちょっとだけ──多分、ほんのちょっとだけ......怒りっぽかったんだ」
たまに物を投げてくることがあった。
「ヒステリーっていうのよ」
手を振って言う彼女に、オーフェンは、笑い返そうとして──
その笑みを、ほおに出る前に押し込めた。静かに、告げる。
「......コミクロンは多分、彼女のことが好きだったんだ」
「............」
アザリーの顔色が、わずかに白くなったように見えた。
彼はゆっくりと、身体を起こそうとした──のっかっていた彼女を、押しのけるように。彼女は特に抵抗もしなかった。すぐに力を抜いて、後ろに退 がっていく。
表情は変えたくなかった。なんの感情も出したくなかった。彼女が身体から離れる前に、オーフェンは続けた。
「彼は死んだ。先生も死んだ」
「......わたしが殺したって言いたいわけ?」
アザリーの表情にこそ一 切 の感情が現れていなかったことに戦 慄 を覚えながら、オーフェンは完全に身体を起こした。彼女も起き上がり、洞 穴 の壁 に背中を預けて、座 り直している。彼は、激しくかぶりを振った。
「違う。もう、変わったんだって......ことだ」
力の入らない拳を無理やりに握 りしめて、続ける。
「昔とは、もう全部が変わった」
「そんなことは分かってるわよ」
「俺が 分かってなかったから、言ったんだ!」
オーフェンは囁 くように叫びながら、手近な壁を殴 りつけた。
拳に痛 撃 が走る──が、そんな痛みなどどうでもよかった。電流のようなものが肘 を突き抜け、肩から先を無感覚にした。それもすぐに消え、鈍 くなった痛みだけが残る。
「あんたの狙 いは、なんなんだ⁉ アザリー......ここになんの用事があった? あの、女神とやらを見に来ただけか? それがなんになったってんだ⁉ 」
痛む拳を開き、宙づりにされた女──クオは女神と呼んでいた──を指さす。アザリーは......
彼女は、視線を動かそうとしなかった。オーフェンが指 し示した先を見ようともしない。ただこちらを見 据 えているだけだ。ほのかに輝 くようなブラウンの瞳 は、闇 の中にあると、金色にも見える。あるいは炎 のようにも。彼女の顔には、双 眸 には感情の色がいまだ現れてはいない。
「わたしはこの姿にもどってから、教室の、みんなを見たわ」
「............?」
ごくごく平らかな抑 揚 で答えてきた彼女の言葉に、オーフェンは言い返そうとして、言葉を失った。意味が分からなかったのだ。
彼女はそのまま、あとを続ける。
「......それで、不完全だと思った。後 継 者 として......」
「まさか、俺を鍛 え直すために、こんなところまで引きずり回したってわけじゃないんだろうな?」
皮肉のつもりで、彼は言った。が、彼女はまったく反応を見せない。
「フォルテは」
アザリーが次に口にした名前に、オーフェンは再び虚 を突かれた。彼女の表情に、色が浮かぶ──感情の色が。
彼女は苦笑したのだ。
「フォルテは《塔》を掌 握 しようとしている。分 不 相 応 にもね。《塔》最高執 行 部 は、控 えめに言っても御しやすい連中ってわけじゃないわ──実際、彼はウオール・カーレンに抹 殺 される寸前だった。皮肉なことに、執行部と対等に渡り合うのに彼がどれだけ力不足か、それを知っているのは、彼自身にほかならない。その姿を見て、わたしは」
と、かぶりを振る。
「彼が数年以内に、確実に《塔》を掌握すると思った。彼が、力量のなさを自覚していたから。自覚した以上、彼は絶対に不足分を埋 める方法を考えつくわ。そう近い将来とは言えないけれど、彼は先生のしていたことをこなせるようになる」
「............」
とりあえず沈 黙 して、オーフェンは彼女の言葉を待った。さほど待たないまま──ほとんど独 白 のような速さで、彼女がまた口を開けた。
「わたしは、あなたのことも観察したわ」
突然──中 途 半 端 に、言葉を止める。
そのまま黙 り込む彼女に、オーフェンは身を乗り出した。
「──それで?」
促 すが、彼女は、寂 しげな眼 差 しを一 瞬 だけ見せると、顔を下ろした。横を向いて、遠くを見やる。
彼女の目が輝いているように見えた。揺 らぐ湖 面 を映 して、波の模 様 を見せているだけかもしれないが。
考え込んだ表情のようでもある。ごまかしているようでもある。
「アザリー──」
「あなた、魔術が使えないとか言っていたわね」
アザリーはいきなり、関係のないことを言ってきた。
唇 を噛 み、オーフェンは言い返そうとした。が──
「例の地下劇場を出てから、あなたのことは見ていなかったの。だから、あれからあなたになにがあったのか、わたしは知らない。話しなさい、全部。魔術が使えなくなったって、どういうことなの? それに......」
と、一 拍 置 いてから、付け加えてくる。
「殺した、ってどういうこと?」
(聞かれた......)
鐘 の音 のように低く──
頭の中に、なにかが響 きわたった。頭 蓋 が破 裂 するような頭痛に、顔をしかめながら、彼は彼女を見つめ返していた。いつになく巨大な鼓 動 が、耳の横の血管で脈 打 つ。終わることのない、だが慣 れることのない脳の痛みに、身体がわななく。
(くそっ......!)
毒 づいて彼は、きつく目を閉じた。必死にこらえるが、痛みはさらに激しくなっていく。痛撃の波の下でもがいて、オーフェンは悲 鳴 をあげかけた。喉 の奥から胃 液 とともに声を張り上げそうになって、そして──
「........................」
ふっと、その痛みが消えた。
気がつくと、彼は自分を優しく抱く腕の中にいた。
視線を上げる。と、アザリーが、彼の首を抱いてくれていた。ぽん、と軽く背中を叩 いて──彼女が言ってくる。
「話しなさい、全部、わたしに。あんたのことなら、わたしがなんでも解決できる。今までだって、だいたいはそうだったでしょ?」
その『今まで』というのが、五年前以前のことなのか、それともつい最近のことを言っているのか、オーフェンはあえて聞こうとはしなかった。実際、聞けなかった。どちらにせよ、彼女は勘 違 いしている──オーフェンは苦笑まじりに考えた──彼女が彼の解決策になったことは一度もない。彼女は昔から、彼のところには厄 介 事 しか持ち込んでこなかった。
「まったく、馬 鹿 な子よね」
アザリーの声は、優しく付け加えてくる。
「......そんな状態でわたしと対決しようなんて、無理よ」
紛 れもない優しさが声となり、それが耳元で囁 かれる......
力が抜けるのを感じながら、オーフェンは、頭痛が消えた代わりに鼻の奥が痛み始めるのを自覚していた。まぶたが重く、緩 くなる。喉の奥が熱い。脱力したついでに涙 がこぼれるのを、彼は止めることができなかった。
(彼女は......)
オーフェンは、泣きながら独 りごちた。
(俺が、彼女を殺せる暗殺者 だってことを忘れていない......)
◆◇◆◇◆
「............兄さん............」
深い深い穴の中で、ドーチンは限りなく惨 めな思いを噛 みしめていた──いや、もう噛みしめる歯すらなくなったような気分だった。ただ単にその惨めさをなめながら、ぽつりとつぶやく。
「なんでこーゆうことになるのかな......?」
「うむ」
こんな時でも、兄の返事は自信たっぷりだった。その自信の出所であるとか、そんなような神 秘 を探 求 する気にもなれないのが、ドーチンにとっては心底残念だったが。
なんにしろボルカンは、あっさりと言ってきた。
「俺様なりにさっきの戦闘を分 析 してみるとだな、やはりお前のバックアップがなってなかったとゆーことで、お前のせいだったわけだが。一応、鼻の穴を片方ふさぎ殺す程度で許そうと思っているぞ」
「......戦闘......だったの? さっきのは......」
「まあ、速すぎてお前には見えなかったかもしれんが、あの小娘が戦 闘 体勢に入った瞬間、このマスマテュリアの闘 犬 もまた剣を抜きかけていたぞ。これを戦闘と言わずしてなんと呼ぶんだ?」
「多分、理 屈 はあってると思うけど......」
結局速かったのは負けっぷりだけだったんじゃないかとは、思っても言わないことにして、ドーチンはなんとか身体を動かそうと身じろぎしてみた。
どのくらい深く埋 められたのかはよく分からなかったが、とにかく穴はせまい。どうもとんでもない力で上から押さえつけられて、地下深くまでめり込まされたらしいが──まあ、普通なら死んでいただろう。死ななかった自分を少しだけ恨 みつつ、ドーチンはため息をついた。
「さて、どうしようか。この状 況 」
「うむ......」
ボルカンが、珍 しく考え深げな声を出すのが聞こえた......
「とりあえず、兄も身動きが取れんよーだ。この状況でだな、考えられるのは──」
(じっとして、救 援 を待つ)
──即 座 にドーチンの頭に浮かんだのは、それだった。もっとも、誰 が救援に来るのだろうかとは考えたくなかったが。
そしてボルカンが続けて言ったのは、これだった。
「──暴 れてみよう」
「へ?」
「どおおおりぁぁぁぁぁぁっ!」
瞬間、悪 夢 が訪 れた。
まったく隙 間 のない穴の中に、からまるようにしてはまりこんでいるところで──その片方が暴れはじめたのだ。ほとんど駄 々 っ子 のように、ボルカンは手足を思い切り振り回そうとあがいていた。もっとも、この閉所では手足を伸ばそうにも岩やら土やら、ついでにドーチンの身体やらなにやらが引っかかって、身動きなど取れはしない。
「ち、ちょっと兄さん、無茶しないでってば! 痛! 鼻に指が入ったってば! ああああああああっ!」
「ふんごるぁぁぁっ!」
こちらの悲鳴など聞きもせずに、兄は暴れつづける。ドーチンはさらに悲鳴をあげて、そして──
ぼこっ。
閉 塞 感 から一転して身体を包んだ落下感に、ドーチンは、結局これが自分の人生なのかと、なんとなくなにかを悟 りつつあった。
顔を隠 すために頭に被 ったマントは、雨に濡 れて重く垂 れ下がっている。そのフードの隙 間 から、マジクはじっと外を見ていた。
雨降り止 まぬ神 殿 街 には、人影らしい人影はどこにも見えなかった。まだ日は低く、朝も早い。だから当たり前と言えば当たり前だが、それ以前にこの静 寂 は、なにかに怯 えたような静けさだと肌 に感じる。
雨 水 は道の上に水面を張り、側 溝 へと流れ落ちて、ごぼごぼと音を立てて流れていく。流れを急にした水は、側溝からまた別の通りへと──そして、いずことも知れない場所へと、動くことをやめずに流れつづけていた。水の流れに終 点 はない。マジクはそれをどこかで聞いたことがあった。どこで聞いたのかは思い出せなかったが、恐らくは学校でだろう。水だけではない。何事にも終点はない。
雨の中を歩きながら、彼は、ぼんやりと考え込んでいた。
街 は見事なものだった──この雨さえなければ、もっと壮 麗 に見えただろう。この街は、白い。白が基調なのだという話を、マジクは覚えていた。黄 塵 が雨に流され泥 水 となっていても、泥はこの街の〝白〟を完全に浸 食 してはいない。
舗 装 された広い道の両脇 に続く、白い壁 、そして白い建物。さらにはるか遠くに見えるのは、巨大な円柱形の神殿だった。この街の中 枢 、ユグドラシル神殿である。
彼は神殿を眺 めるために視線を上げたついでに、さらに空を見上げた。
キムラック市においては、雨は年に数度しか降ることはない──が、一度降り始めたならば、容 易 に止むこともない。
短期間に大量の降雨量があるにもかかわらず、この都市が大 規 模 な水害に見舞われることがないのは、その極端な水はけのよさのためである。もっとも同時にそのおかげで、この都市は昔から水不足に悩 んできたわけだが......
空を厚く覆 う雲は、むらもなく地平の上まで続いている。黒い雲は、そこから落ちる雨 粒 の色と混ざり合って、くすんだ灰色にトーンを上げている。都市を包むのは斜 めに落ちる雨の白い滴 と、遠ざかりもせず近づいてもこない、永遠の雨音だった。間断なく降り注 ぐ雨に頭を叩 かれ、神殿街の建物も、実際より背が低く見える。
「どうにかなんないのかしら、この雨」
クリーオウが、文 句 を言うのが聞こえた。振り向くと、彼女が小石を蹴 飛 ばしながらあとをついてきていた。レキは彼女の頭の上で、平気な顔でちょこんとお座 りのポーズを取っている。雨に濡れるのを嫌 がるかと思っていたのだが、そういうことはまったくないらしい。
(......そういや、普段はもともと水の中で暮らしてるんだっけ。ディープ・ドラゴンは)
なんとなく納 得 して、マジクはクリーオウの表情をうかがった。明らかに不服そうに歩いている彼女に、彼は、できる限り小さな声でつぶやいた。
「でも、雨が止んだらあの砂だよ」
「じゃあ、砂もなんとかしてよ」
「どうにもなるか、そんなもん」
少し離れたところを歩いていたサルアが、言ってくる。ぼろぼろになっていた神官服は、少しでもまともに見えるように取り繕 いはしたのだが──雨に濡れてまたほころびが目立ちはじめている。
「さっさと歩け。いつまでも朝じゃねえぞ」
低い声 音 で言ってくる殺し屋の顔に、マジクははっきりと陰 のようなものを見つけていた。サルアのケガは魔 術 で治 したわけだが、魔術による治 癒 は、疲 労 まで取り除 いてくれるわけではない。むしろ、身体に負 担 を与えることのほうが多かった。
「昼になったらどうなるわけ?」
多少不服だったのか、口を尖 らせながら、クリーオウがうめく──だが言いながらも歩き出すあたりは、彼女らしいと言えば彼女らしかったかもしれない。
サルアが肩をすくめる。
「昼になったら......」
ゆっくりと、その男は答えを発した。雨粒が弾 けたしぶきが、その姿を霞 ませている。
「もう間に合わなくなるかもしれねえ」
「え?」
「いや、なんでもねえよ。重要なのは、昼になったら、こんな雨でも外出しようって奇 特 な奴 が出てくるかもしれねえってことだ。目 撃 者 が増えるのは、なんつーか、ろくでもないとしか言いようがねえ。分かるだろ?」
雨のせいで表情が隠 れ、見ることはできなかったが──
彼の声には、妙 に感情が感じられなかった。まるで、無理に抑えつけているように。
マジクは、盗 み見るように後ろからサルアを見やると、これもまた声をひそめて聞いた。
「......ぼくら、今どこに向かっているんですか?」
「さっき、地 下 牢 で言ったと思ったがな」
彼はどちらかというとのんきな調子でそう言うと、頭をかきながら、肩 越 しにこちらを見下ろしてきた。
「お前らってのは......ちっと考えりゃすぐ分かるようなことを、ちっとも考えようとしねえ。永遠にだ」
どこか嘲 りと、ついでにあきらめをも含 んで、そううめく。
サルアはびしょぬれの髪から指を引っこ抜き、ついた滴 を切るために鋭 く手を振ってから、あとを続けた。
「──俺 の兄 貴 の家さ」
ぱっと見て──というより、ぱっと見渡せるような規 模 ではないその門も、白い雨の中で無抵抗に濡 れている。
「うっわー......」
いろいろな意味で単純なクリーオウの感 嘆 の声が、ほんの数秒だけ、雨音を退 けた。すぐさま雨が彼女の声をかき消すが──よく通る彼女の声が、そのあとまた響 く。
「でも、よくないと思うの」
「? なにがだ?」
その屋 敷 の門──平べったい自然石をそのまま積み重ねた石段に、無 造 作 に足をかけながら、サルアが振り向いて聞き返す。門の両横には高い塀 がどこまでも続く。へたをすれば、通常の一区画以上に広いかもしれない。
今は槍 の形をした栅 が閉じている門。その門をびしっと指さして、クリーオウが告げた。
「確かにいいお屋敷だとは思うけど、それだけにここを襲 撃 して占 拠 するのは難 しいと思うわ」
「俺の家だって言ってんだろーが!」
「非常に怪 しいわね」
「どこがだっ⁉ 」
「とりあえず、言い出しっぺのあんたが正門から、わたしは裏門からバックアップ、マジクは人受けが良さそうだから、声 明 文 を持って新聞社に行くのよ」
「がああああああっ!」
頭を抱 えて、サルアがわめき声を発する。
大 粒 の雨の中、ひとしきり騒 いでから、突然──ぴたりと動きを止める。
彼はクリーオウの鼻先に顔を近づけ、うめいた。
「......念のため聞いとくが、お前、俺のことなんだと思ってやがるんだ?」
「牢 屋 に落っこちてた死 体 」
あっさりと即 答 するクリーオウに、死の教師が確かに殺 意 にたぎった笑みのようなものを見せたのが、マジクには分かったが──するべきことが思いつかなかったので、そのまま静 観 することにした。
「い、一応俺は、神官なんだけどな......ま、まあ、知らなかったんなら、か、勘 違 いするってことも、あ......ある、あるよな?」
ひくひくとほおをひきつらせて言うサルアに、またもやクリーオウが即答する。頭の上にいるレキの鼻を撫 でながら、
「その神官の中でも、思いっきり下 っ端 なんでしょ?」
「ま......まあ、神官兵ってのは、位置的には非公式で、下位神官の扱 いなんだけどよ。いや、でもな──」
「ていうか、一回死体になったのが甦 ったんだから、ゾンビよね」
「............」
サルアの言葉が、止まる。表情が陰になっていて見えなかったが──震 える肩から、水 蒸 気 のようなものがもわっとあがるのに、マジクは気づいていた。よくよく観察してみると、痙 攣 するように頭も震えている。
目の前にいるはずのクリーオウは気づかないのか──あるいは気にしていないのか──、そのまま続ける。
「ゾンビってよく分からないけど、昔はたくさんいたんでしょ? きっとゾンビ光線とか発射して、仲間を増やしたりするのよね。でもなんか、足とか臭 そうだからすごく嫌 よね......って、サルア、どうかしたの? 顔真っ赤にして震えちゃって。あなたを見た周 りの人が、なんか怒ってるみたいって勘 違 いしたら、誤 解 を解 くのが大変よ」
「やかましいわっ!」
怒 鳴 ってサルアは、クリーオウを捕 まえようと腕を伸ばしたが、当の彼女はひょいとそれをかわすと、驚 いたような声をあげた。
「ちょっと! なによいきなり!」
「なによじゃねえだろが! 黙 ってりゃ好き勝手言いやがって、てめえどーゆう性格してやがんだ⁉ 」
「え............?」
クリーオウは、しばし困 惑 の表情を浮かべたのち──
くるりとこちらを向いて、真顔で言ってきた。
「なんか大変よマジク。どうも本当のゾンビだったみたいで、狂暴化しちゃった。いい?くれぐれもゾンビ光線には注意するのよ」
「え〜と......」
どう対応していいものか迷 っているうちに、サルアが叫 んでくる。クリーオウを指さして地 団 駄 を踏み、
「だから、なにがゾンビ光線だ! てめえこそ、その髪の渦 巻 きから光線とか出しそうなくせに!」
「あー! なんで人の髪型にそーゆうことを言ったりするのよ!」
「いやあの......ふたりともさぁ......」
怒鳴りあっているふたりの中に割って入ろうとしながら、マジクは声をあげた──きょろきょろとあたりを見回してから、またふたりを見やる。
とりあえず、声を聞きつけて通りに出てくるような人影は見あたらなかったが、それがいつまでも続くとは、マジクにもさすがに思えない。
「あの、こんなところで怒鳴りあってても、馬 鹿 みたい──」
ここで、ふたりが同時に、きっとこちらに視線を投げてくる。マジクは二歩後ずさりして、両手をあげた。
「あ、いや、ていうか、とにかく意味がないと思うんだけど......」
「はっきりと、愚 かだと言ってやればいいのだ──愚か者たちにはな」
と──
聞いたことのない声が聞こえてくると同時、マジクは、いつの間にか雨の音が変わっていることに気づいた。
舗 装 された道を水が叩 く硬 い音から、もう少し、柔らかい音へと。
振り向く。と、屋敷の門の向こう側に、ひとりの男が立っていた。門から庭の奥へと続いていく石 畳 に、三十歳ほどの男がいる。石畳を叩いていた雨が、男の傘 に弾 かれるようになって、雨の音が変わったのだ。黒い傘を肩に乗せるように抱 えて、男は、柵の向こう側からこちらをじっと見つめている。
冷たい目だった。黒く、動きのない瞳 。背が高く、がっしりした体格は、鍛 え上げられたものというより、年相応に太りはじめたためだというようにマジクには見えた。黒い傘と対照的に、男が着ている服は、白だった。
サルアのものとよく似ている──
(神官の......服?)
マジクの予想は、すぐあとに裏付けられた。
「兄 貴 ......」
いつになく神 妙 な面 持 ちで、サルアがつぶやく。
「愚か者が」
男は繰 り返した。
「お前はいつだって愚か者だ」
言いながら、男はたっぷりした神官服の懐 から、細長いなにかを取り出した──
はっと、サルアが息を呑 むのが雨音の騒 音 の中でもはっきりと響 く。
男が取り出したもの。それは一本の剣だった。
◆◇◆◇◆
「う〜む......」
腕組みしてうなっている兄を横目で見やりながら──
もとい、真っ暗 闇 の地下で、実際に見えていたというわけではない。ただなんとなく、慣 れから想像しただけだった。地下。落下。兄。うめき声。無責任に腕組み。
ドーチンは深々と嘆 息 した。ただし音には出さずに、こっそりと。
「どうしたもんだろうね」
答えを期待して言ったわけではなかったが、黙っているのも座 りが悪い感じがして、彼はつぶやいた。相談するつもりなど毛 頭 なかったが。
「そうだな」
ボルカンが自信たっぷりにうなずくのが、見えたかのようだった。
「落ちてきたということは、登ってみればもとの場所にもどれるに違いないぞ。兄はそう分 析 した」
(登れればね)
彼は、また音のないため息をつきながら頭を抱えた。
さっき、あのクリーオウに床 下 何 メートルだか知らないが盛大にめり込まされて、その穴の下から、少なくとも十メートルは落下した。兄が暴 れ出したせいで、足場が崩 れたのだろうが──
どうもすぐ下に、地下道のようなものがあったらしい。真っ暗でなにも見えないが、声の反 響 から、それなりの広さがありそうに思える。少なくとも、人が数人並んで歩ける程度の広さはあるようだった。
声を発する向きによって、反響の強さも違う。どうやら本格的に地下道──通路であるらしい。
天 井 までの高さは、具体的にどれだけあるか分からないが、背伸びして腕を伸ばしても触 れられなかった以上、もう考えなくてもいいようではあった。ドーチンは、少なくとも二十回はそれを試 していた。
「どうも、上に登るのは無理みたいだよ、兄さん」
「うむ。お前の計画は、いつもそう中 途 半 端 なんだ」
きっぱりと真顔で──これも想像だが──言ってくる兄に、ドーチンはあえて反論しなかった。
「向こうと──」
と、声の反響が弱いほうを漠 然 と指さすが、暗 闇 では見えていないだろう。
「向こうに、ずっと通路が続いているみたいだよ。行ってみるしかないんじゃないかな」
もう片手の手で、また反対方向も指さす。通路は真 っ直 ぐに続いているように思えた。
ただの勘 だったが。
「............」
しばらく待つが、ボルカンの返事はない。
少し不安になって、ドーチンは言い直した。
「通路ってことはさ、どっかに続いてるってことだから、なんかどこかに出られるってことじゃないかな。落っこちたのは、かえって運が良かったよ......多分」
兄のおかげだ、などとは口が裂 けても言う気にならなかったし、実際言いもしなかった。が。
「うむ。兄のおかげであるから、感 謝 を示すのに、次に手に入る食 糧 の九割程度を捧 呈 するといいぞ」
「............うん............」
とりあえず──
闇の中、ふたりは適当に進み始めた。キムラックの地下を。
◆◇◆◇◆
「......と、いうわけだ......」
すべてを語って──話し疲れたということと、胸の中に喪 失 感 にも似た疲労を感じて、オーフェンはため息をついた。頭 痛 は終わらずに続いている。思わず、すり下ろしたりんごが欲しくなるような、不快な疼 き。
アザリーが造ったものらしいこの洞 穴 の中は、彼女の魔 術 のおかげで暖 は取れていたが、それでもすぐ近くの水面から放射されてくる冷気のおかげで、肌 寒 さを感じることは否 めなかった。
洞穴はさほど広くない。が、ふたり寄 り添 っていなければならないほどせまくはない。そのことに心底感謝しながら、彼は正面に座 っているアザリーを見やった。彼女は洞穴の闇の中で、身体 の半分だけを水面からの反射光で浮かび上がらせ、こちらを見つめかえしてきている。
顔の片側だけが照らし出されている。耳の上あたりを押さえている片腕だけが見える。片目だけが輝 いている。
「魔術っていうのはね......」
彼女は表情をほとんど変えなかった──が、まったく変えなかったわけではなかった。少しだけ、まぶたを下ろした。
「なんだと思う?」
オーフェンは即 答 した。彼女の目を見つめながら。
「魔力により、限定された空間に自 らの理想の事 象 を起こすこと」
「限りなく直接的な手段で奇 跡 を起こすこと、だとわたしは思ってる」
ふふっ──と彼女は含 み笑いをしてから、言い直した。
「先生はね......なんて言ったと思う?」
こちらの返事は待たないまま、彼女が続ける。
「──神々の茶 目 っ気 、だって」
「俺は神々に見 捨 てられたのかな?」
「あなたの答えが、一番正しいわ」
彼女はあっさりとそう声に出すと、顔の向きを変えた──洞穴の奥へと。彼女の顔のすべてが、影に覆 われる。
「わたしたち魔術士には魔力がある。世界を作り変える感覚がね。わたしたちは魔力によって、世界そのものを造ることができる。それが、〝構成〟と呼ばれるもの。本来の世界と、わたしたちが造り出した構成とで、世界は二層となる。二層となった世界は、どちらかの層が不要になる。わたしたちはその隙 に乗じて、本来の世界を排 斥 する。採用される構成には、術者の理想が含まれている。その理想が──魔術の効果として現れる」
「そんなことは、魔術士なら誰だって知ってる」
「それだけに、魔術はその奇跡の範 疇 に他者の持つ別の理想が入り込むことに、徹 底 して弱い......転 ばせることくらいならともかく、敵を直接殺すことや、もともといなかったことを求められないのはそのせいね。なんにしろ、そのために魔術は、あくまで敵が死ぬであろう現象を起こして、間接的に願いを達成しなければならない......その一線を超 えることを、精神支配と呼ぶんだけれど......」

「そんなことは知ってると言ってるんだ!」
オーフェンは鋭 く囁 いて、床を叩 いた。瞬 間 、アザリーの肩が、ぴくりと震 える。
その仕 草 を見て、彼は悟 った。
(彼女は、話したくないんだ......)
だがそのすぐあとに、彼女は続けた。
「......わたし、無意識なんて言葉は大 嫌 いなんだけど──人は一 般 的に無意識という状態を信じてる。時に無意識という言葉に罪を被 せ、それを利用する人もいる。それこそ〝無意識〟のうちにね」
アザリーの解説は、唐 突 に方向を変えた。顔を相変わらず、影に隠したまま。
「──でも、無意識が意識を上回るなんてことが、もし本当にあるとしたら......にわかには、信じがたいけど......」
「なにが言いたいんだ?」
わけが分からずに、オーフェンは疑問の声をあげた。と──
彼女は、かぶりを振った。光と影の間を彼女の顔が行き来して、ほんの一瞬だけ、その表情が見える。
「あなたは、分 裂 してる」
「分裂?」
「あなたがさっき、上で魔術を放 とうと構成を編 んだ時から、気にはなっていたんだけどね」
彼女の双 眸 には彼の姿は映 っていなかった。だがこちらを見ていた。
「あなたは、自分を殺す構成を編んでる。自分自身、意識せずにね。でも自分を殺す奇 跡 を願うことは意味を為 さない。奇跡は願わなければ起こらないけれど、自分を殺すことを願うのは、意味的なパラドックスを生じさせてしまうから。魔術は物理を超えることはできても、意味を無視することはできない。なぜなら、それはあくまで奇跡であって、不条理ではないから」
不意に、アザリーの姿が消えた──いや、オーフェン自身が目を閉じていた。
なにも感じなかった。少なくとも、彼女の説明には。ようするに彼女は、彼に解説書きを貼 りつけているに過ぎないのだから。
それでも深い絶 望 を覚えたのは、彼女の目を見たからだった。彼の姿が映っていない彼女のブラウンの瞳 を。
オーフェンは、喉 に一度唾 を流し込んでから、うめいた。
「......俺が......死の教師を殺したことで自 己 嫌 悪 して......意識せずに、自分を殺そうとしているとでも言いたいのか?」
「違うと思うわ」
あっさりと否定し、アザリーは軽い嘆 息 をはさんであとを続けた。
「あなたが自分を許せないのは、あなたが自分自身を制 御 できなかったから──そうでしょう?」
「俺は──」
彼は立ち上がろうとして、動きを止めた。どこからか押さえつけられた気がしたのだ。
「俺は......」
言葉までもが、途中で消える。
アザリーは瞳を動かさないまま、告げてきた。
「心当たりがあるんじゃない?」
「俺は暗殺者になれなかったんだ! なってはならなかったんだ! それはあんたを......殺すことだから」
絶 叫 しようとして──実際に出た声は、ほとんどかすれ声だった。彼女も聞き取れなかったように、怪 訝 そうに眉 を上げている。だが、意味まで伝わらなかったということはないだろう。オーフェンはすぐに続けた。
「疑念は、前からあった......先生が、俺を白魔術士と戦い得 る暗殺者として訓 練 していたことは、勘 の鈍 いキリランシェロ──俺だ―この俺以外は、みんな気づいていた。あんただって、気づいてたんだろう!? 俺が、あんたを殺すために訓練されていたってことを。そうさ。そしてなにより怖 かったのは......先生がそう考えていたのなら、俺は絶対に 姉さんを殺すことになるってことだ」
「それを認める気になったの?」
「早くから認めるべきだったと思ってる。とんだ回り道だった。だが俺は先生を信じていたんだ。彼がそんなことを考えるわけがないって」
「............」
彼女は、なにも答えてこなかった。ただ無言で──立ち上がった。天 井 は低いが、立って立てないことはない。
オーフェンもそれに合わせて、腰を上げた。立ち上がり、腰をわずかに落として、拳 を握 りしめる。
「いや......実際のところは、信じていなかったんだろう。残る逃げ道は、俺が暗殺者にならないことだけだった。殺さなければいい。誰も殺さなければ、姉さんを殺すこともない。だが、俺は殺してしまったよ。最悪の殺人だった。偶 発 じゃない。意味もなく、殺すまでもなかった相手を一撃で絶命させた──まったく自制できずに、完全に自分の意志で、自分の力で」
「わたしを殺すの? 理由は?」
こちらの構えに対して棒立ちになったままで、アザリーはそう聞いてきた。彼女の目は見られない──視線を上げられない──が、その瞳に自分の姿が映っていることを、ほぼ絶対的に彼は確信していた。
「俺は今まで、自分がどうしてここに──この場所に、姉さんの目の前まで来なけりゃならなかったのか、ずっと分からなかった」
唇 を噛 んで、続ける。拳を握り込む力を、さらに強めながら。
「......だが姉さんとふたりきりになって、それが分かった」
「わたしを殺す理由は?」
聞き直されて、オーフェンは、顔を上げた。確かに、彼女の双 眸 には彼の姿が映っている。決然と口元を締 めた、自分の顔が。
彼は、息をついた。新しい酸素を得て、肺が震 える。
「理由......逃げ道がなくなったから、先に進むしかない」
一歩近づく。せまい洞 穴 の中では、それだけでもう手の届く範 囲 だった。
(彼女は反撃してこない......逃げもしないだろう)
オーフェンはそれもまた、確信していた。彼女もまた──逃げ道などとうになくなっているのだから。
じっとこちらを見つめるアザリーに、オーフェンは告げた。
「結局のところ俺は、このためにここに来たんだ......」
そして、拳を開いた。
右腕を振り上げると──思い切り、彼女の横 面 に手のひらを叩 きつける。
ぱぁん、と短いが高い音が響き、アザリーの顔が、横に跳 ねた。彼女はその場から一歩も動かなかったものの、ほおをはたかれ、衝 撃 に片目を閉じて横を向いたままで硬 直 している。
「............」
沈 黙 は、かなり長かった。
オーフェンは、彼女を叩いた感 触 の残る手をしばらく持て余 していたが──しばしして、震える膝を地面に落とした。くずおれて、かぶりを振る。
「──るんだ、アザリー」
声がかすれて、出なかった。再度かぶりを振って、言い直す。
「帰るんだ、アザリー。帰る場所があるんだから。ティッシが待ってる。姉さんが帰るのなら、俺も帰れる。五年前にもどることはできなくても、それに近いものは作れる」
「無理よ」
アザリーは即答してきた。オーフェンは、さらにかぶりを振ると、
「無理じゃない!」
「無理なのよ」
見上げると彼女は、まっすぐこちらを見下ろしてきていた。
「......あなたにとっては、それでいいのかもしれない。でも駄 目 なの。わたしには、あなたじゃ駄目。なんだか、別れ話みたいで悪いけど」
彼女の言葉を浴 びながら──
オーフェンもまた、彼女の顔を見返していた。
歯を軋 らせながら、彼は聞き返した。
「......先生か?......」
「有 り体 に言えば、そうよ。チャイルドマンがいなければ、わたしにとってはそこは帰る場所じゃないの」
「正気なのか? 彼は......死んだんだぞ」
「そうね。あなたじゃないけど──いえ、あなたと同じね。事故じゃない。わたしはわたしの意志で、彼を殺したわ。だから、わたしが責任を取らなければならない。そうでしょう?」
「死ぬ気なのか⁉ ......そんなことはさせない......」
「............」
彼女はそこで、口をつぐんだ。なにも答えてこない。
ただ──
再び、まったく違うことを、彼女は言ってきた。
「あなたのその不調の原因は、精神的なものよ。精神っていうのは、神 聖 不 可 侵 のものじゃない......けれど、壊 すことも癒 すことも難 しい。そこが肉体とは違う。思考とも、少し違う」
「また話をそらすつもりなのか?」
オーフェンは鋭 い声で囁 いた。が、彼女は取り合ってこない。しごく落ち着いた眼 差 しで、ふっと微 笑 んでみせる。
「さっき、変わったって言ってたわね、キリランシェロ。昔とはもうすべてが変わったんだって。そうよ。本当に変わってしまったの。五年前に近いものなら作れる? それすら無理よ。分かっているんでしょう?」
分かっていた──のかもしれない。
彼は、痛みを覚えるほどにそれを承知していた。だから、反論することもできなかった。
アザリーは、そのまま続ける。
「結局、あなたは心のレベルをキリランシェロ......少年時代のものまでもどしてしまっているんでしょうね。それを、本来の成長したところにまでもどすことができなければ、つまりは、あなたは今のままってことよ」
オーフェンは、視線を落とした。目を閉じる。だが彼女の声は聞こえてくる。
「わたしには......手助けできそうにないわね。あなたを最 もキリランシェロに近づけている要因は──多分、わたしだから......」
最後の声は──あまりによく聞き取れなかった。もっとも、聞き逃 しもしなかった。
彼女の声のくぐもり具合に、ふと、オーフェンは馬 鹿 なことを思いついていた。彼女は、泣いているんじゃないのか?
見上げてそれを確認する度 胸 はなかったが。
「ひょっとして」
彼女のつぶやきは、これで終わった。
「あなたには、もう、わたしは......必要ない......?」
◆◇◆◇◆
そこは《詩 聖 の間 》と呼ばれていた。
呼び名に意味などあるまい──単に女神の間では、詩心に欠けるとでも先人が思ったのかもしれない。いや、思ったとすれば、あの教主か......
クオ・ヴァディス・パテルはがれきと化した扉 に足を置いて、どこまでも広がっているような地底湖を眺 めていた。
黒々とした湖面が、ゆったりと揺 れている。水面から立ち上ってくる冷気が、彼の肌 をちくちくと刺していた。否 ──
彼は、思い直した。冷気は立ち上ってきたりはしない。彼の肌を凍 えさせようとしているのは、もっと別のものだ......
目を、上げる。
はるか遠く、湖面の上に、女がいる。
史上──キエルサルヒマ史上ではない、もっと遠大な歴史上、最も愚 かな女が。
緑色の髪をゆったりとたなびかせ、四 肢 を垂 らし、ただそこにいる。虚 空 より伸びる手に首をつかまれて。その女が動くことはない。ただし死ぬこともない。
クオは胸 中 で、聖言を唱 えた。
(我 ら、原 初 の血の聖なるかな──)
果たして、聖なる血は真実、聖なるものであったのか──
(生 誕 の美しきかな──)
生まれるべきであったのか──
(運命の正しきかな──)
それが何者の紡 いだ運命であったのか──
(死の聖なるかな──)
............
彼は無言で、女を見 据 えた。と──
「クオ」
呼びかけられて、クオは、振り返った。あわてる必要はなかった。ただ、手のひらに汗 はにじんだ。
立っていたのは、三十がらみの──もっとも、彼女が年 齢 通り三十歳に見えたとしたならば、それはなにかの勘 違 いだろう──女だった。実際彼女は、クオが知っているどんな女よりも若く見えた。もっともそれは単に年齢的な意味ではない、老 いることを認めようとしない、そういった若さだが。
彼女は珍 しく剣を携 えていた。カーロッタ・マウセンである。
「見張り、ご苦労様ですわ」
からかうように、言ってくる──信用ならない気安さで、彼女は続けた。
「......逃 亡 者 の足取りがつかめました。部下の報告でね。それでわたくし、出向こうと思うんですけれど」
「行けばいいだろう」
クオはそう言うと、再び《詩聖の間》へと向かいかけた。だが、それより早く、彼女が言ってくる。
「教主様よりお言葉を賜 ってきましたの」
彼女の声は明るかった。不必要に明るかった。
その明るさの理由は、考えるまでもなくクオには分かった──カーロッタは教主への拝 謁 を許されてなどいなかったはずだった。それをした、そして、それをして生きている ということは、教主に許された、ということだ......
なにも答えないでいるうちに、彼女はすぐにあとを続けてくる──
「至 急 、教主様の御 許 へ出頭するよう、教主様よりご命令ですわよ──クオ・ヴァディス・パテル」
サルア・ソリュードにとっては、よく知った家だった。
だが、他人の家でもあった。
どこを取っても申し分ない──内 装 も外 装 も、最高のものだ。無意味にややこしいその間取りは、気の触 れた建 築 士 が設計したとかいう代 物 で、屋 敷 全体を三 棟 に分けて、それぞれが半階ずつ、ずれこんでつながっている。どこを見ても柱がないのはそのせいである。すべての階が、ほかの階を支えているのだ。なんにしろ、この屋敷の図 面 を作成した直後にガラスのコップを噛 み砕 いて失血死したとかいう人間の建てたものが、その後五十年も倒 壊 せずに残っているというのだ。これが最高のものでなくてなんなんだと、サルアは皮 肉 混じりに考えていた。
部屋数はさほど多くないが、私室以外の部屋が、かなり大きめに作られている。代々教師長の地位を受け継 いできた家系ならではのものといえるだろう──広間と応接室はいくらあっても足りないのだ。一年を通して数回しか降らないこの長雨の時だけが、この屋敷から来客が途 絶 える間 隙 だった。神 殿 庁 の使い走り、そしてその家族、暇 を持て余 したほかの教師長、そしてその家族、説教を聞いていなければ自 律 神 経 が保てないらしいそこいらの都市信徒たち、そしてその家族......
「......なんで誰 もいないんだ?」
サルアは、門の前で兄に手渡された剣を手に──兄に、問いかけた。濡 れた髪をタオルで拭 きながら、部屋の中を見回す。
兄の書斎である。せまくはない。
白、白、白ばかりの、屋敷のほかの部屋と違って、この部屋にだけは赤いカーペットが敷いてあった。屋敷の数倍は古いという最高級のものだが、触 ってみると手触りは悪い。まったくむらのないただの真 紅 が、床 に広がっている。繊 維 のありとあらゆる隙 間 には黄 塵 が詰 まり、また逆にむらのない黄色い光 沢 を付け加えていた。部屋の左右には書 棚 が構えている。分 厚 い本の背表紙がずらりと並ぶ中、書棚の中のたったひとつ、左奥のものにだけは本の代わりにトロフィーやらなにやらが飾 ってあった。スティックボール、スポーツ剣術、実戦剣術、投げ縄 、料理コンテスト、脈 絡 のない勲 章 の羅 列 だった。応接室に飾りきれなかったものが、ここにある。
すべてがばらばらな勲章の中で、唯 一 の共通点──それはすべてにソリュード姓 が刻 まれていることだった。先祖代々の勲章たち。
たったひとり、サルアの名前だけはどこにもない。
「使用人たちは、すべて神殿庁に引っぱられていった。帰ってはこないだろう」
ラポワント・ソリュード──この屋敷の、現当主は、雨 粒 が激しく叩 きつける大きな窓を背後に、落ち着いてそう答えてきた。
書斎机 の上のガス灯 が、ほのかな明かりを広げている。夜が完全に明けたとはいえ、分厚い雨雲は暗い影を地上に落としている。
「無関係の使用人を拷 問 にかけるほど愚 かじゃねえよ──クオとカーロッタは」
うなるように言いながら、サルアは手にしている剣の柄 を、ゆっくりと握 った。硬 いグリップには、微 妙 に手の跡 が残っている。彼の手には馴 染 まない。もとの持ち主が、いやというほど使い込んだ感 触 があった。
剣はさほど重くない──が、人間を殺 傷 するのに不足するわけではない。抜 刀 したわけではないが、刃が薄いのはすぐに分かる。大陸では、このような肉を切断する鋭 利 さを備 えた剣が圧 倒 的に主流だったが、サルアはあまりそれが好きではなかった。裂 傷 を負 っても、人間はまだ動ける可能性がある。骨を叩き折られた場合、その可能性はない。
剣をもてあそびながら、彼は続けた。
「今は......どうなってるんだ? 神殿は」
「騒 動 。その一言だ。被害が大きすぎた」
ラポワントは、淡 々 とそれを述 べた。ふっと、苦笑するように顔を歪 め、
「あれを修 復 するには、また王都との取引が必要になる」
「どんどん分 が悪くなっていく......な」
「それがお前の狙 いなのではなかったのか?」
苦笑を引っ込めて、ラポワントは顔の前で両手の指を組み合わせた。顔の下半分を隠 して──言ってくる。
「あまり、駄 々 っ子のようなことはしてもらいたくないものだな。お前を──唯 一 血がつながった弟であるお前を、後 悔 させたくはない」
「脅 しか?」
「忠 告 だよ。何度目かのな」
「何十度目かだろう」
言いながら、カーペットの上のサルアは唾 を吐 き捨 てた。両手を広げて、言葉もともに吐き捨てる。
「俺 は俺で、やりたいことをやる。言ったはずだぜ」
「危険な遊びは、やめさせなければならない。兄としてはな」
「俺だってひとりの神官だ! あんたと議論するくらいの立場は得たんだよ!」
反射的に、声をあららげる──が。
ラポワントは、それには答えてこなかった。
カーペットは雨の湿 気 を久々に吸って、足音を綺 麗 に吸収してくれる。サルアは兄に背を向け、歩き出した。剣の柄を肩 越 しに後ろに見せて──聞く。
「彼女は、いつここに来たんだ?」
「今 朝 転 がり込んできた。その直後だ。お前が神殿で反乱活動を行 ったと呼び出されたのはな。とりあえず、寝室に転がしておいたよ。あそこが一番目立たないからな」
兄の答えとともに、サルアは剣を見やった。
その剣は──
メッチェン・アミックのものだった。
三階に兄の寝室がある。兄の──というより、代々の当主の寝室だが。
サルアは廊 下 を進みながら、どこか肌 にちくちくとしたものを感じていた。歩き慣 れた廊下だったが、なにか空気が違う。
雨のせいか。それも違う。
彼は根 拠 のないなにかの皮肉を感じながら、ひとりで進んだ。手に提 げている剣に、我 知らず力が入っていたことに気づく。
寝室は一番奥だった。
寝室、というよりは、三階部分全体が、ひとつづきの家であり、寝室のようなものだった。そうしようと思えば、この三階だけで暮らすこともできる。風 呂 もあればシャワーもある──水不足のこの街 では、おおっぴらには使えないが。遊 戯 室 も、テラスもある。ないのは炊 事 場 だけだ。
どの部屋もすべてつながっているが、廊下から見ると、それぞれの部屋にやはり扉 がある。寝室はそれらの中で、最 も奥まった場所にあった。
「我ら、原初の血の聖なるかな......」
自然に、サルアはつぶやいていた。いや、自然にではない。習 慣 のようなものだが。
寝室まではあと三歩。
「生 誕 の美しきかな」
あと二歩。
「運命の正しきかな──」
そこで止 めて、彼は、最後の一歩を残し立ち止まった。
右斜 め前の寝室の扉をにやりと見つめながら、うめく。
「......死の聖なるかな」
その最後の一 文 句 だけが、寝室の扉に記 してあった。
──『死の聖なるかな』──
サルアにとっては思い出す必要すらもないほどありふれた、聖言の一節である。それを読み上げてから、彼は最後の一歩を床 に刻 んだ。扉を開ける。
寝室の中は、暗 闇 だった。窓に分 厚 いカーテンが掛けられている。
サルアの脳 裏 に、ひっかかるものがあった。兄が、起きた時にカーテンを開けることを忘れるはずがない。使用人がいなかったとしてもだ──
彼は、戸口から跳 び退 いた。同時に、真っ暗な部屋の中から、なにかが飛んでくる。
飾り物の皿 だ、と理解しながら、サルアは身をよじった。暗闇の中から勢 いよく飛び出してきた皿が、彼の横を通り抜けて廊下の壁 に激突する。
皿が砕 ける派 手 な音(そしてその皿の値段)に身をすくませながら、サルアは手に持っていたメッチェンの剣を、床に落とした。床の、自分の右足の上に。
そして、部屋の中からまたなにかが飛び出してくる。
人影だった。確認するまでもない。黒い髪をぼさぼさにした女。皮 鎧 。垂 れ下がった右腕をかばうようにしながら、左腕で殴 りかかってくる──
飛び出してきた女は、こちらを見て、はっと動きを止めた。その瞳 にありありと驚 愕 の色が広がっている。絶句しながらもかすれた声で、彼女がうめくのが聞こえた。
「サルア......⁉ 」
そして、すべてが一 瞬 のうちに。
サルアがとっさに蹴 り上げた彼女の剣が、放心しかけていた彼女の下 顎 に命中し、死の教師メッチェン・アミックは伸び上がるように、きれいな姿 勢 で後方にひっくり返った。
「痛たたたた......」
「いやあ、悪い悪い。なにしろ、とっさのことでびっくりしちまってよ」
あごをさすって涙 目 でうめく彼女を見ながら、サルアは頭をかいて弁解した──もっとも、彼女はじろりと半 眼 でにらみ返してきたが。
「びっくりしたのはこっちよ。おまけに殴られて」
「驚 くこたぁねえだろ。ここは俺の家なんだからよ」
肩をすくめて言いながら、サルアはメッチェンを眺 めていた。自分の剣をひざに置いて、ベッドに腰を下ろしている。いつも頭に巻いていた青い布を右腕に巻き付けているのだが、どうやら負 傷 しているらしい。彼女がさっきからほとんど右腕をあげようともしていないことが気にかかった。
雨に濡 れて髪もぼさぼさ。顔も泥 で汚 れている。サルアは適当に部屋の中を見回すと、ベッドのわきにある戸 棚 からタオルを取り出し、彼女に投げてやった。
ふわり......と空気抵抗を受けたタオルは、ゆっくりと広がって彼女の頭に被 さる。
それを手に取って、メッチェンは言ってきた。
「そうね。どうしようもないほど、あなたの家だわ」
と、苦 々 しげに唇 を歪 めて、
「ここしか逃げ込む場所がなくなって、命からがら潜 り込んだら、あっさりあなたのお兄さんに取り押さえられて──こんな病室みたいなところに放り込まれて」
「それで、さっきの奇 襲 は兄 貴 を捕 らえて人 質 にでもしようとしてたのか?」
「違うわよ。単に一発仕返ししてやらなけりゃ気がすまなかっただけ」
「なんにしろ、俺に返り討 ちにされちまうようじゃ、兄貴にはとうてい敵 わねえよ」
言いながらサルアは笑っていたが──言い終わるまでには、笑みを引っ込めていた。ため息をついて、部屋の内装を見やる。
「......にしても、病室みたいとはぴったりだな。一応、寝室なんだけどよ」
実際──
そこは病室のようではあった。白い壁。固いベッド。窓は大きいが、カーテンを閉じれば昼でも暗室にできる。唯 一 病室らしくないところといえば、さほど清 潔 でないところくらいか。黄 塵 は言うまでもないが。
ベッドの頭には、聖典がきっちり立てて並べてある。
「もし病室だとしたら、皮肉よね、あの扉 の文 句 」
「〝死の聖なるかな〟──」
サルアは朗 々 と唱 えると──指で適当に聖 印 を切った。
「家系の伝説だよ。うちの初代当主ってのは、この部屋で死んだらしくてな。しかもご丁 寧 に、去り際 の一言ってのが、その聖言ときた。以来、ソリュード家の当主はこの部屋で死を迎 えるって伝 統 ができちまったのさ。聖言が唱えられるかどうかは、そいつの死に方次 第 だけどよ。唱えることができれば......その魂 は、ユグドラシルへと旅立つと言われている」
「唱えられなければ?」

「知らねえよ。なんにしろ、死者の悪口を言う奴 はいない」
あっけなく告げる。はぐらかされたことを疑っているのか、怪 訝 な顔を見せているメッチェンに、サルアは笑いかけてやった。
と──
唐 突 に思い出したように、彼女が口を開いた。
「......カーロッタが、あなたは死んだって言ってたわ」
「彼女は、地 下 牢 での尋 問 になんぞ立ち会ったことはないだろうからな」
サルアは、へへっと笑いながら腕組みした。
「クオの野 郎 が尋問材料をそう簡単にゃ殺さないってことも知らなかったんだろうよ。まあ実際......あと半日もほっとかれりゃ死んでたのには違いねえだろうけど。ちなみに、俺は別に今 際 の際 に聖言を唱えようとどうだろうと、関係ないけどな」
「どういうことなの? いえ、聖言云 々 はどうでもいいけど」
タオルを手に、メッチェンが顔を上げる。
天 井 を見上げ──サルアは、後ろに退 がった。窓 枠 に背を預けると、窓ガラス越しに雨粒の感 触 が伝わってくる。
「......キリランシェロが、ちょうど地下から神殿に侵 入 してきてな。どうも、レキとかいうディープ・ドラゴンが、地下道を案内したらしい」
右手をあげ、髪をかきあげる。
彼はわずかに声をひそめた。戸口を見やって。もっとも、あの兄が扉に聞き耳を立てている姿は思い浮かばなかったが。
「これは、ひょっとしてだが──ドラゴン種族と利害が一致したのかもしれねえな」
「ドラゴン種族と?」
「奴らにしてみても、自分の目となる者が女神を確認するのは、長年の悲 願 だったはずだ。教会創立以来、二百年間も果たせなかった望みさ......奴らは何度となく、最 終 拝 謁 を果たした人間を狙 っていたはずだ。マクドガルは実際、あと一歩ってところでディープ・ドラゴンに接 触 するところだった。貴 重 な記録を破 壊 する危険性がなければ無理やりにでも記憶を探 っていたかもしれねえが、なんにしろ、使い魔がもっと協力的だったなら、うまいことマクドガルから最終拝謁のことを聞き出していただろう。俺もそれを待ってたんだが、キリランシェロの余 計 な茶々入れがあってね。やっこさん、自殺しちまいやがった。今にしてみりゃ、それでも良かったのかもしれねえが」
こめかみに拳 銃 の形を作った指先を当て、撃つジェスチャーをやってみせる。
「だが、奴らにしてみれば、最終拝謁を果たした人間が接触してくるのを待つなんて消極的なことよりも、自分の仲間を直接、神殿に送り込むことができれば、それに越したことはないだろうさ。腕の立つ人間の黒魔術士がその護 衛 になってくれるんなら、不可能じゃない......実際、それがかつてこの街 に潜 入 してさらに脱出した男の生徒だってんなら、申し分ないだろ」
「あのドラゴンの赤ん坊が、聖域からの斥 候 だっていうの?」
メッチェンが、笑う。だがサルアは深刻な表情を壊 さないまま、かぶりを振った。
「《フェンリルの森》にいた時に、俺なりに研究してみたんだがな──ディープ・ドラゴン種族ってやつは、 自分で思考できねえらしいんだ。例の呪 いのおかげでな。魔術によって、なんとか自 我 を保っているらしい。こいつは、ドラゴンに使い魔にされていた人間から聞いたことだから、まあ間違いはないだろう」
「使い魔にされていた女の子、ね」
にやにやしながら言ってきた彼女の言葉は無視して、続ける。
「ディープ・ドラゴン種族はその強大な魔術で、ひとつにまとまっている......そうでなくとも、あの赤ん坊が、自分の種族と精神的につながっている可能性はある。となれば、ドラゴン種族たちの〝聖域〟は《詩 聖 の間 》の存在を知った、てことになるな......」
「どうするの?」
メッチェンの問いに、サルアは、顔面から力を抜いた。笑みを浮かべて、腕組みを解 く。頭の後ろに手を組んで、彼はさらに窓枠に体重を加えた。
関係ないことのように、つぶやく。
「オレイル爺 さんの話じゃあ......十年前、チャイルドマン・パウダーフィールドは《詩聖の間》で、平気な顔をして最終拝謁を果たしたそうだ。まるで、そんなことは端 から知っていたというようにな」
当時はまだ無名だったその暗殺者 は推定二十歳──キリランシェロとほぼ同じ年齢だった。それに意味はあるのかもしれない。ないのかもしれない。だがなんにしろ、運命じみたものをこじつけることはできそうだった。
サルアには、それをするつもりはなかったが。
「......今、キリランシェロは《詩聖の間》にいる。事情はよく分からんが、クリーオウの話じゃ、死んだはずの天 魔 の魔 女 もいっしょだそうだ。お世 辞 にも計画通りとは言えないが、少なくとも意 図 していたことは達せられている。んで、ドラゴン種族のことについては──」
緊張した面 持 ちを見せているメッチェンに、彼は、肩をすくめてみせた。
「......ほっとくさ。言っただろ? 利害が一致したってな」
「わたしたちの目的と?」
「そうだ」
目を閉じて、断言する。
「教会の存在を──根底から変えてやるのさ」
◆◇◆◇◆
大男はその部屋に入りながら、自分でも驚 くほどの無心を保っていた──理由は分からない。想像もつかなかった。
自分はこれから、教主より死の宣 告 を受けるに違いないというのに。
不 祥 事 、などという次元の問題ではない。ラポワント・ソリュード教師長が、どれだけひかえめにこの教主に報告を行 っていたとしても(もっとも、そんなことは期待するだけ無 駄 だろうが)、彼の極 刑 は間違いのないところだった。十年前に引き続き──またもや魔術士に《詩聖の間》をのぞかせてしまったのだから。
だがそれでも、部屋の入り口に転 がっている、少女の死体をまたいで通りながら、彼は自分が落ち着いているのだと自覚した。その発想の矛 盾 にも気づいていたが、それを胸 中 で笑ってやれたことに関しては、間違いなく動 揺 がなかったからに違いない......
覚 悟 を決めたせいか──
(覚悟? いや、違うな......)
手 札 がなくなりつつある。やれることが決まってしまっただけのことだ。
「クオか」
部屋の奥から──部屋の中央を隔 てる薄紙の向こうから、声が聞こえてきた。静かな声。
クオ・ヴァディス・パテルは聖堂に入ってからすぐひざを折ると、胸 元 で聖印を切った。目を伏 せて唱 える。
「我 ら、原初 の血の聖なるかな......」
「聖なるかな」
薄紙の向こうに座す男──教主ラモニロックは、座の上で微 動 だにしないまま、聖言を返してきた。
クオは、さらに深く目を伏せた。床 を見つめ、あとを続ける。
「生 誕 の美しきかな......」
「美しきかな」
答えを求めるような心持ちで、床を見 据 える。視線で貫 けるほどに。だが無論、床にはなにも記 されていない。
クオは胸元で聖印を切っていた右手を、ふと止めて下に降ろした。
「運命の正しきかな......」
「正しきかな」
定められた通りの聖言を、この教主は何度唱えたのだろう──この場所で。
クオは唐 突 にそんな思いに駆 られながら、下ろした腕を、背後に回した。そして。
「死の......」
言葉を止める。
沈 黙 が、あたりを包んだ。
「............」
なま暖かい唾 を喉 の奥に流し込みながら、クオはつぶやいた。
「......また、殺してしまわれたようですね、教主様」
「聖言の途中で問 答 か? クオよ」
教主の声に、わずかだが苛 立 ちがこもっているように聞こえる──
すくみ上がりかけた内臓をなんとか落ち着かせて、クオは、言い直した。
「教主様の身の回りをお世話することを、無論誰 もが光栄なことだと思い、また死して余 栄 ありと、その役を受けるのをためらう者もいますまいが......」
「その者は」
と、教主は、仰 向 けになって戸口に倒れている少女の死体を指 し示したようだった。仕 草 は分からないが、気 配 で分かる。
「......この教主の顔を見ていたのだ。クオよ。お前が甘かったのだ。もっと、深くえぐるべきだった」
淡々と、教主の言葉は続く。
「教主は、お前に罰を与えようと思っている......が、その理由をお前に勘 違 いしてもらっては困 るのでな。少女に同情し、それをこの教主よりも重んじた──その心根が情けないと思っているのだよ。傷を、深くえぐれなかった罪。それがお前の最大の落ち度だ」
「あの少女の眼球は、完全に破 壊 されていました......破片を指で引っぱり出したのですよ。少女は教主様の尊 顔 を視線で汚 したりはしておりません。それに......あれ以上深い傷は、脳に達します......」
柔らかい声 音 で──それこそ、赤ん坊をあやすように、彼は答えた。
「あなたと違い 、人間の身体 はもろいのです......よ」
その一言は、切り札 だった。唯 一 の切り札だったが──
それなりの効 果 はあったようだ。教主の言葉が、一 瞬 ならず止まる。
クオはゆっくりと面 を上げた。鎧 に包まれた巨 躯 が、音も立てずに起き上がる。広くはない聖堂の中で、クオは直立して薄紙の人影へと対 峙 した。
「わたしに......精神支配が通じると思っていらしたのですか? 教主様」
「やはり、その鎧は身に着けさせるべきではなかった。いつから気づいていた? 最終拝 謁 か? オーリオウルの入れ知 恵 か?」
「いえ。神の......本当の〝女神〟様のお導 きだと思っておりますよ」
腰を落とす。剣帯についている留め金が、わずかに軋 む音を立てた。彼は右手を開いた。大きく開いた手で、腰の、大剣の柄 を握 りしめる。
長大なガラスの剣──死の教師の象 徴 たる武器、ガラスの刀身を持つ剣を、彼は一息で引き抜いた。重量のある剣が、宙に解 き放 たれ重い風 斬 り音を奏 でる。瞬間、彼は叫 んだ......
意味などない、ただの叫び声だった。
叫びながら彼は、大剣を大きく振りかぶり、薄紙に映 る影に叩 きつけた──特 殊 な硬 質 ガラスでできた刃が、裂 くというよりは引きちぎるように、薄紙を破る。薄紙は長年に亘って蠟 を吸い、かなり硬 くなっていたものの、しょせん、剣を防ぐほどの力はなかった。ガラスの剣が透明な軌 跡 を引いて、その限りなく薄い壁 を──だがはるかな時代を超えてなにかを隔 て続けてきた薄紙を──、ただのゴミに変えた。
振り下ろした剣を引きもどしながら、クオは目つきを険 しくしていた。薄紙は破られた。その奥に、教主がいる。誰もその姿を見た者はいない、キムラック教会の済 世 者 、至 高 の聖人、ラモニロックが......
椅 子 に座したまま、 ほおづえをついてこちらを見返してきているのは、緑色の双 眸 だった。
細い。不自然なほどに細い四 肢 。足を組み、肘 をついているその姿は、大がかりな知恵の輪を連想させる。クオは止まらなかった。剣を振り上げ──
教主に振り下ろした大剣は、木 っ端 微 塵 に砕 け散った。教主の側頭部にえぐるように叩きつけられ──そして、反動で粉々に割れてしまった。
黄 塵 をも圧倒して、きらめくガラスの破片が、宙を舞う。
クオは即 座 に一歩飛び退 いた。座した教主はまったく微 動 だにしていない。にやにやと、ただこちらを見 据 えている。
クオもまた表情は作っていなかった。面 に現れるようなものはなにも残っていない。彼はすぐさま後ろ腰から、漆 黒 の短剣を引き抜いた。むらのない墨 のような刀身に左手で数語、魔術文字を描くと、短剣の刀身が、ぼろっと崩 れ落ちる──
ジグソーパズルのようにばらけた刀身は、だが床に落ちる前に再び浮かび上がり、剣の柄 の前に整然と並んだ。複雑な、文字のような形をした刃の部品は、クオが勢 いよく剣の柄を振り上げた時も、刀身の形を保って追いかけてきた。そして──振り下ろした時も。
無数の刃は、流星群のように一直線で教主を狙 った。だが。
初めて、教主は動きを見せた。左手を、ひょいと上げたのだ。
瞬間──不可視の壁に遮 られたように、刃の部品たちは虚 空 で受け止められていた──なにげなく教主があげている、左手の手前で。
息が、ひきつれる。複雑な音を喉 で鳴らして、クオは柄を握 る手にさらに力を込めた。一瞬だけ、魔剣の力が高まったような気がしたが。
ぱりぃん──
砕 けるような音を立てて、刃は力を失い、ばらばらと床に落下していった。糸を失ったマリオネットのように。
「............」
立ちつくし、クオはただ、砕けたガラスの剣と、力を失った星の紋 章 の剣を見下ろしていた。すべては一瞬だった。その一瞬の間に、教主は二度は死んでいたはずだ。だがすべてが終わってみて、教主がしたことは、こちらを見て、腕を動かしただけに過ぎない。
その沈 黙 を楽しむように、ことさらに口を閉ざしていた教主が──しばらくして、ふっと笑みを浮かべる......
「白魔術というものを知っているか? クオよ」
緑色に輝 く、三角形の双 眸 を、ゆったりと閉じてまた開く。
「人間の魔術の究 極 形 ......いや、人間という種族が魔術に対して出した、最終的な解答といったほうが近いかもしれないな......」
言いながら、教主は左手を下ろした。細い腕。白い肌 の細い腕。奇 妙 な光 沢 を持ち、関節だけが奇妙に膨 れた、不自然な骨 格 。
それがなにであるかを、クオは知っていた──
「ドラゴン種族の造った人形が......」
彼は吐 き捨 てて、同時に剣の柄を床に放り捨てた。と──甲 高 い哄 笑 が、聖堂を満たす。
「あははははは!」
笑ったのは、教主だった。いや──教主の座に座 った、人形だった。
ドラゴン種族、それも天なる人類と呼ばれたウィールド・ドラゴン種族。その魔術によって造られる、一種の人造人間である。いや、人造人間という呼び名は適当ではない。天 人 の人形は、すべて人間を改造して製造されるのだから......
「なにがおかしい!」
クオは怒 号 をあげた。右腕を振り、続ける。
「わたしをたばかってきたな──この聖都のすべてをだましてきたのだな⁉ この人形が──」
「ぬかすな。無 礼 なことを」
静かに返ってきただけのその言葉に。
物理的に感じるほどの圧 迫 感を覚えて、クオは吐きかけていた言葉を呑み込んだ。教主の、緑色の眼が──肌と同じ、奇妙な光沢で、ぎらりと輝く。
「......そうだな。天人の造る人形に、わたしは似ているのかもしれない」
卵 形 の頭部に、不 釣 り合いなほど深く裂 けた口を、教主はにやりとさせた。
「だが、この教主に払うべき敬意を、お前が忘るるいわれなどないのだよ。この教主はまさしく、教主なのだから」
滑 らかにそこまで言って──また口を閉じる。
クオは、ひとりで後に残されたような心持ちになりながら、一歩前に出た。武器はまだ、尽 きたわけではない。
それは教主も分かっていただろう。だが教主はまったく動こうとする気 配 もなく、じっとこちらを見ているだけだった。芝 居 でも見ているような表情で。
「安心しろ、クオ。教主は怒っておらぬ。教主は怒 りなど持たぬ......」
教主はそう言いながら、光沢のあるほおを自分の手で撫 でた。
「この教主も、昨夜の騒 ぎはネットワークで見ていた......あの男の弟 子 なのだろう? 逃がしたか。だが、殺してしまうよりは良かった......」
くつくつと、笑ってさえみせる。
「クオよ。せっかくの機会だ。貴様に話しておこう。わたしは......教主ラモニロック」
口を開かないまま、それは言ってきた。
「そして、運命の女神と邂逅 した、人間種族の始祖魔術士 だ......」
◆◇◆◇◆
外見の優 雅 さには関係なく、ソファーは固かった。
神官の屋 敷 なのだから──と思えば、まあそういうものなのかもしれないが、小一時間座り続けているのも、さすがにつらい。マジクは数秒に一度は座り直しながら、落ち着かない思いで部屋の中を見回していた。細い木を組み合わせたような大時計は、少し曲がった長針を刻々と動かしている。針は互 いに十の手前で重なろうとしていた。雨に叩 かれ曇 った窓。カーテンは風もないのに揺れている。
そこは応接室らしかったが、それにしては家具が少なかった。もしかしたら、一番程度の低い応接室に通されたのかもしれない──実際、それはありそうではあった。部屋の一角には観葉植物が五本、まとめて置いてある。それぞれが極 端 に背 丈 の違う、同じ種類の木々。一本は明らかに天 井 までとどきそうになっていた。白い壁 。どこにも傷はないが、うっすらと黄 塵 の跡 が見える。黄塵がいつも均一に空気に混じっているせいか、砂の跡にも大きなむらはない。
理想的とは言えなくとも、整 った部屋ではある。天井からぶら下がった、大きめのガス灯 。そのシェードも白。膝 ほどの高さのテーブルにも白いクロスがかぶせてある。壁に掛かっているのはタペストリーのようだが、幾 何 学 的な模 様 が幾 重 にも連 なった単調なもので、正 直 、高価そうにも見えない。機械による大量縫 製 品 だろう。この街 では、そんなものでも意外と貴 重 品 なのかもしれないが。あとはテーブルの上の小物。三人の女神の小さな像。からの水差し。使用済 みらしいガラスのコップ。
そして──
鍵 のかかった扉 と格 闘 しているクリーオウ......
マジクは右手で顔を覆 って、つぶやいた。
「開かないと思うよ、多分」
「おっかしいわねー」
動かないノブに張り付いて、がちゃがちゃと音を立てているクリーオウが、突然思いついたように、こちらを振り向いてきた。
「......そーいやあんた、なんとかできないわけ? オーフェンは鍵を魔 術 で開けたりしてたわよ」
「理解していないものに魔術で干 渉 することはできないんだ」
「............?」
疑わしそうに眉 根 を寄せている彼女に、マジクは顔を上げて続けた。
「わけの分からないものを、なんとなく思い通りにしたい──てわけにはいかないってことだよ。レキに命令しても思い通りにしてくれないことがあるって、クリーオウだって言ってたろ? ぼくは、鍵の構造なんて知らないもの」
「オーフェンは、うちのお姉ちゃんの部屋の鍵、開けてたわよ」
「お師様は、ある程度の鍵なら分かるんじゃないかな。それでも、お師様だって本当に複 雑 な機械式のものはどうしようもないはずだよ。それこそ、扉そのものを吹き飛ばすとかしかないんじゃないかな」
「やっぱ、そーするしかないかしら」
「いや、やってくれってことじゃないんだけど......」
とりあえず彼女が本気のようだったので、マジクは立ち上がって止めようとした。
と──
扉が、ノックされた。
「............?」
クリーオウが、訝 しげにこちらを向いてくる。ふたり目を合わせて、ぱちくりさせていると、再び扉が静かに叩かれた。
続いて、落ち着いた声 音 で扉の向こうから声が聞こえてくる。
「鍵がかかっている......開けてくれないか?」
「開かないのよ」
レキを頭に乗せて胸を張り──開かない扉に向かってふんぞり返って、鼻 息 まで吹きながらクリーオウが答える。ややしてから、扉の向こうから声が答えてきた。
「............ドアノブの下にある取っ手を開いてくれ」
「へ?」
胸を反 らしたまま、彼女は間の抜けた声をあげた。疑わしげにそろそろと言われた通りの場所を探 り──
数秒後、がちゃりと音が鳴った。
あとは音もなく、扉が開く。
「............」
そのままの姿 勢 で硬 直 しているクリーオウの背中を見ながら、マジクは、ふと気づいた。
「そーいえば、内側から開かない鍵をつけるわけないよね」
「なんでもっと早く気づかないのよぉぉぉぉっ⁉ 」
と、わめいて突進してくるクリーオウをよけるため、ソファーの後ろにいったん待 避 しつつも、マジクは開いた扉の陰 から見える男の姿を観察していた──三十歳くらいだろうか? 精 悍 な顔つきの男である。角度によっては若くも見え、老 けても見えそうだった。地味な装 飾 の入った白い、神官のような服を着ている。まあ、この街で神官らしく見えるのならば、神官なのだろうが。
「君たちが、神殿に侵入したという魔術士......かね?」
男は入ってくるなり、扉を閉めもせずにそう聞いてきた。顔はこちらを向いているが、視線は微 妙 に違うところへと向かっているように、マジクは思えた。う〜、とうなり声を発しながら近づいてくるクリーオウを気にしながら、なんとか答える。
「......ええ」
「ほう」
男は胸 元 で軽く聖印のようなものを組んでから、部屋に入ってきた──意識してやったというよりは、単なる習 慣 のようだったが。
彼が入ってくるのを見て、クリーオウもとりあえずこちらに突進してくるのはやめて、そちらを見入っている。マジクはとりあえずなにか言わなければならないような気がして口を開いたが、具体的な言葉はなにも浮かんでこなかった。口を半開きにしているうちに、男が穏 やかな顔で言ってくる。
「わたしは、ラポワント・ソリュード教師長......祖先の血の流れの中、この現在の時 を代表してこの家系を預かっている」
ひどく回りくどい言い方だったが──ようするにこの屋敷の主 なのだということなのだろうと、マジクは当たりをつけた。教師長、ということは高位の神官なのかもしれないが、正 直 なところ、教会の組 織 などマジクはよく知らなかった。
ただ──
(キムラック教会の人間ってことは、魔術士を嫌 悪 してるはずだ......)
自分に言い聞かせるように胸 中 でつぶやいて、マジクはこっそりと、いざという時のために発するべき魔術の構成を思い浮かべた。なるたけ警 戒 心 は面 に出さないようにしながら、声を出す。
「......ぼくは、マジクっていいます──彼女はクリーオウ」
「なんであんたが紹介すんのよ」
どうでもいいようなことを横からクリーオウが指 摘 してくるが、とりあえず聞き流しておく。
幸運にも、クリーオウが続けて声を──それも大声を──あげそうに見えた直前に、ラポワントが言葉を発してきた。平静な表情に、かすかに苦笑を浮かべて。
「なぜ、来たのかね?」
「え?」
静かに疑問をぶつけられて、マジクは意味が分からずに聞き返していた。ラポワントはやや鷹 揚 な仕 草 で両手を小さく広げると、続けた。
「この聖都のことは知っていたのだろう?──我 々 が、君たちの訪 問 を望まないことも知っていたはずだね? だったら、あえて我々の平穏を乱すのは、マナー違反なのではないかな」
「いえ、あの──」
―ぼくはお師様に連れてこられただけですから。
とっさに吐 きかけたせりふを、彼は、ぐっと呑 み込んだ。本当に急に思いとどまったため、喉 に反発の痛みすら走っている。全身からどっと噴 き出る汗 と体温とを不快に思いながらマジクは、なんとか言い直そうと言葉を探 した。が、頭が混乱して、なにも出てこない。心臓だけが声より大きく脈打っているように感じる。
と、混乱を救ってくれたのは、クリーオウだった。彼女はなんということもないように、レキを胸に抱き直しつつ、口を尖 らせて言った。
「行っちゃいけない場所とそうでない場所が分かれてるほうが、変なんじゃない」
「もしわたしが君の寝室を荒らせば、泥 棒 だろう? 君たちがやっているのは、そういうことなのだよ。せめて自覚してほしいね」
彼はクリーオウの不平を真正面から浴 びてもまったく気にせずに、穏やかなままそう告げてきた。
「君たちはどう感じているのか知らないが......ここは、我々の、せめてもの安 息 所 なのだから」
その言葉に、かちんときたのか──それともなにか反論されれば癇 に障 らずにいられないのかもしれないが、なんにしろ、クリーオウが弾 かれたように顔を上げる。彼女はさらに嚙 みつくように、口早になった。
「誰 も、来るなと言われなければいちいち来たりしないわよ、きっと」
「我々は──」
「ぼくたちは──」
と、会話が止まる。
クリーオウを遮 るつもりが、ラポワントがしゃべりはじめたところに割って入ってしまい、マジクは再び言葉を失ってしまった。驚 いたような顔がふたつ──クリーオウとラポワントが、視線の待ち合わせ場所に選んだように、両方きっちりこちらを向いている。
思わず後ずさりしそうになりながら、マジクは咳 払 いして踏みとどまった。髪をかき上げるふりをして額 の汗をぬぐい、言い直す。
「ぼくたちは、その──特にあなたたちを困 らせようと思って来たわけじゃないんです。あの神殿に侵入したのも、意 図 してのことじゃなくて......地下道みたいなところで迷 って、あそこに出ちゃっただけなんです。神殿を壊 しちゃったり、神官の人をケガさせたりしちゃったのは、こっちが悪いのかもしれないですけど......それも、そっちが先に襲 いかかってきたから」
「ケガ......?」
なぜか、妙なところでラポワントが怪 訝 な声をあげるのが聞こえたが──マジクは言葉を止めなかった。せっかく踏み出したものを、もとの場所にもどりたくない。
(ぼくが......やらなきゃ。お師様もいないんだから......)
息を吸ってから、彼は続けた。
「出て行けと言われれば、出て行きます。少なくとも、それだけのことはしたと思っています」
「マジク⁉ 」
クリーオウが、甲 高 い驚 愕 の声をあげる。あまりの声量に、レキが耳をたたむのが見えた。
「あんた、なに言ってるの⁉ オーフェンが──」
「分かってるよ! クリーオウは黙 ってて!」
彼女に向かって一声叫 んでから──さっと目をそらし、ラポワントに向けて彼は続けた。
「......神殿には、お師様が──ぼくらの仲間が、まだいるんです。あの地 底 湖 に落下した、って彼女は言ってます。その人の生死の確認をさせてもらうまで、ぼくらはこの街から黙って出て行くわけには──」
マジクは再び、言葉を途 切 れさせた。
が、先刻と理由は違っていた。
夢中になってしゃべっているうちに、いつからか、ラポワントの表情が変わっていることに気づいたのだ。声は少し厳 めしくとも、少なくとも顔だけはあくまでリラックスさせていたラポワントが、ほうけたように、白い顔を見せている。血の気が退 いたのか妙に青白いほおは、それを吊 る筋 肉 の力を失って、だらんとしていた。驚いた、というよりは絶 望 したように見える。
(これと似たような顔を見たことがあった......)
と、マジクは、はっきり記憶していた──半日かけて作った特大ケーキを手にしたまま階段を転 げ落ちる瞬 間 の、母の顔。
すうう......と、奇 妙 な音を聞いて、マジクはぎょっとした。ラポワントが吐 き出した、長い吐 息 の音だった。それが聞こえるほど、あたりが静 寂 に包まれていたことに、さらに驚く。
とりあえずマジクは、クリーオウの顔を見やった。彼女は、ラポワントの変化にではなく、自分が怒 鳴 られたということのほうに仰 天 しているようではあった。なにがあったのか理解できずに、きょとんとしている。胸に抱かれたまま、レキが自分の尻尾 を目の前でぷらぷらさせてひとり遊びをするのが見えた。
再びラポワントに視線を返すと、彼はその短い時間で、多少なりと自分を取りもどしたように見えた。さきほどまでのものに近い表情で──ただしさきほどまでより格段に視線は鋭 いが──、言ってくる。
「......つまり、君は、筋 を通したいというわけだな? だがそれは、君たちの尺 度 での話だ......」
一応、会話の続きを言っているようではあるが、その声がどこか上 の空であることは、誰でも気づいただろう──マジクは用心しながら、聞き返した。
「どういう意味です?」
「我々の立場から言わせてもらえば、君たちはもはや容認できない大 罪 を犯してくれたのだ、ということだよ。とは言え、だ」
服の襟 ぐりを直すような仕草をしてから、言い直してくる。
「──仲間の生死を確認したい、というのはもっともなことだ。くわしく話をしてもらえれば、わたしが力になれるかもしれない。なにしろ報告が、いいかげんなものだったのでね......」
「......そのへんにしておいてもらおうかなぁ、兄 貴 ?」
突然──
ラポワントを制止する声が、部屋全体の空気を凍 結 させた。戸口を見やると──開いた扉にもたれる格 好 で、いつの間にかサルアが立っている。血 塗 れだった神官服はもう着替えて、暗い緑色のトレーナーに、緩 やかな黒いスラックスという出 で立ちに変わっていた。恐らくは部屋着なのだろうが、立 派 な屋敷の中に現れると、むしろ部屋着のほうが、よそから現れた侵入者に見える......
サルアは小さな鍵 ──この部屋の鍵だろう──を、キーホルダーを持ってくるくると回転させながら、おどけた表情でラポワントを見つめていた。対照的に、ラポワントの視線は冷たいようだったが。
「......わたしの屋敷で、わたしに指 図 をしてもらいたくはないものだな、サルア」
「あいにく、これはキムラック教会非公式神官位、死の教師のひとりとしての発言さ。聖都に侵 入 した魔術士に対して積極的に接 触 できるのも、ましてや尋 問 なんぞをすることを許されているのも、死の教師として訓練された神官だけだ──と、こいつはあんたの巣 、神殿庁の取り決めたお約束事だったと思ったがね?」
だが、それを聞いたラポワントに、まったく動じる素 振 りがないのをマジクは気づいていた。そのまま、淡 々 と言い返す。
「忘れたのではないだろうな? お前は今や、反逆者としてその死の教師から追われている身なんだぞ」
「死の教師の追 走 は〝処刑〟じゃなくて〝審 問 〟さ。つまり、クオかカーロッタの持ってる剣をこの身に受けるまでは、俺はあくまで被疑者のままってわけだ。神官は被疑者となっても、神官としての権限は失わないと法律に書いてある......」
「屁 理 屈 だ」
「そうだよ。なにも兄貴の専 売 特 許 ってわけじゃない」
サルアは肩をすくめると──あてつけがましく大げさにため息をついて、こちらを見た。回していた鍵を、こちらに放り投げてくる。
緩やかな放物線を描いて飛んでくるそれを、マジクは受け取った。と同時に、サルアがうめくのが聞こえる。
「......ったく、なんで俺がわざわざ鍵をかけてったか、想像つかないもんだろうかね。どうしてまた、自分から鍵を開けたりするんだか。たまにゃ、考えるってことをさせとかねえと、たるんだ脳が耳から垂 れるぞ」
と、こちらの反論も待たずに、こいこい、と指で招 いてくる。
「な、なんですか......?」
マジクが聞き返すと、サルアは──また自分で考えられねえのかと言い出すかと思ったが──、軽く肩をすくめて言ってきた。
「緊 急 時 は、あくまで迅 速 に──ただし準備はできるだけ」
「え?」
「お前らにも武器をやる。神殿は今 頃 、警備であふれかえってるだろうからな」
それを聞いて、ぎょっとしながらマジクは、ラポワントのほうを見やった──当然、そんなことを聞けば猛 烈 に反発してくるであろうと予想していたのだが。
彼は、言葉を聞いてすらいないようだった。ややうつむいて、目を見開き、肩を震 わせている。いつからそうしているのか気づかなかったが、マジクは神官のその姿に、本能的な恐 怖 を覚えた。
が──
「え、武器?」
妙に明るい声で、クリーオウが、とてててとサルアのほうに向かう。
「どんなのがあるの? 斧 とかはやーよ。あれってどう考えても大 工 道具だもの」
「......大工道具ではないと思うけどな」
サルアのひかえめな反論を聞きながら──
マジクも、戸口のほうに歩き出した。ソファーをよけ、ラポワントの横を通り過ぎる時。「......なにが......起こっているんだ......?」
その神官のつぶやきを、彼は確かに聞いた。
「......ここ、あんたの部屋でしょ」
半 眼 になったクリーオウの、静かな指 摘 に──
「なんで分かったんだ?」
舌を出して、サルアがしゃあしゃあと聞き返す。
ふたりの後ろで、マジクはひとりでこめかみを押さえていた。軽い目眩 が襲 ってきたのだ。
およそ、無茶な部屋だった。扉 を開けるなり、全員を出 迎 えてくれたのは油の臭 いである──一言でいえば、クレヨンを水に溶 かしたような臭いだった。意外と広いその部屋の中に並んでいるのは、ずらりと並んだイーゼルと、白いキャンバスの群 れ。何枚かは、ごてごてと品のない色で、塗 料 を乗せられていた。決して〝描いた〟などと形容したくないような無茶な厚 塗 りで作られたその絵は、どれもこれもが裸 婦 画 であるらしい。というか、ほぼ立体的な裸婦像とも言えそうだった。なかには人間と別の生物との中間のようなものも混じっていたが、それは多分、言わないほうが無 難 なのだろうとマジクは判断していた。
なにしろ目立って目をひくのはそれらのキャンバスだが、そのほかにも、ローラーボードやら、雑誌やら、音 叉 やら(楽器はどこにもなかったが)、折り畳 み式のはしごやら、いろいろと置いてある。なぜかわざわざ日 陰 になるほうの隅 に押しつけてあるベッドは、足を向けるほうが妙に低くなっており、よくよく見てみると、そちらの脚 を自分で切りつめてあるらしかった。マジクがそれをじっと見ていると、サルアがそれに気づいて、聞きもしないのに答えてきた。
「ああ、頭を高くしねえとよく眠れねえんだ、俺」
「はあ......」
とりあえず、生 返 事 を返しておく。
部屋の中に入っても、乱 雑 さがマシになるわけもなく、むしろその混 沌 に足を踏み入れて、ちょっとした後 悔 すらもが湧 いてくる。マジク自身、特に部屋を整理整 頓 した覚えは──特に母親がいなくなってからは──なかったが、それでもこの部屋は、今までの概 念 をなにか覆 そうとしているのは間違いない。
「?」
不思議そうに眉 根 を寄せ、なにやらよく分からない青い物体をつまみ上げているクリーオウが、誰へともなしにつぶやく。
「......なにこれ」
「ああ、それか」
サルアは即 答 してくれた。
「いらなくなったジーンズを雑 巾 がわりにしてたら、気が付いたらそーゆうものになっちまってな。どうやら、油で溶けたらしい」
「............あっそ......」
感情のない声で──滅 多 にないことだが──返事して、クリーオウがそれをぽとりと落とす。
とりあえず、わけの分からないものはそのままにしておいたほうがいいのかもしれない。マジクはため息をついた。
「ま、なんにしろ──」
得 意 げに腕を広げ、サルアが誇 りに満ちた声をあげる。
「青春の部屋、って感じだろ?」
「ある意味、人生の墓 場 とも言えるわね」
「うまいことを言う」
苦笑しながら、サルアもあっさり認めたようだった。
どちらかと問われれば、マジクもクリーオウに賛成だったが、それはそれとして、彼はサルアをちらりと見上げた。黄 塵 のせいでむずがゆい鼻の頭を、指先でかきながら聞いてみる。
「それで......あの、武器っていうのは?」
「おう。ま、別に忘れてたわけじゃないぜ」
と、言いながらサルアは、散らばったがらくたを蹴 散 らしつつ、部屋の真ん中へと進んでいく。
が突然振り向き、人差し指を立てて言ってきた。
「──って、こーやって大事そうなものとかをさも無 造 作 に扱 うあたりが、青春って感じだろ? 俺って若いよな」
「そーやっていちいち確認するあたりが、どうしようもなくおっさんくさいわ」
ひどく正 直 なことを、クリーオウが言う。
ちょっとしゅんとした仕 草 で、サルアはまた部屋の中央へともどると、うずたかく積んであった本をばらばらと押し倒し、ほかにもそこに置いてあった「防火用」と書かれたバケツやら砂取りブラシやらを適当に放り投げ──ぴっ、と床 を指さす。
「ここさ」
クリーオウとふたり、近寄って見てみると、そこには取っ手のついたフタのようなものが、床にはめ込まれていた。一メートル四方ほどの大きさである。
「地下室?」
マジクは見たままをつぶやいた。サルアが、なにやら嬉 しげにうなずいてくる。
「そういうことさ。なかなかのカムフラージュだろ?」
クリーオウが、容 赦 なく答えた。
「猿 知 恵 って感じね」
「ううう......」
鳴き声のようなものをあげながら、サルアはおとなしく、かがみ込んで取っ手をつかんだ。ふんっ、と力を入れて、扉 をひき開ける──まず、空気が流れ込むような音がしてから、蓋 は跳 ね上がるように開いた。
「ち、ちなみにこれはだな、取っ手をある一定の角度で傾けた時だけ、下の通路に空気が流れるようになってて、そうしないとまずまともな腕力じゃ開かないとゆー、実に画 期 的 な代 物 で──」
「そんな無 駄 なこと考えないで、普通の鍵つければいいのに」
「い、いつか......いつの日か......」
よく分からないことを言いつつ悔 し涙 を流しながら、あごにしわを寄せるサルア。
とりあえずそちらは無視して、マジクは開いた扉の奥を、のぞいてみた──地下室への穴は垂 直 で、一応縄 ばしごのようなものが吊 してある。深さは、さほどないようだったが。
奥を指さして、マジクは聞いた。
「......こんな穴、わざわざ掘 ったんですか?」
「馬 鹿 こけ。俺が作ったわけじゃねえよ」
サルアは肩をすくめると、舌を出しているクリーオウを押しのけた。
「よくは分からんが、もともとあったんだ。設計者が、地下室が大好きな奴 だったらしくてな。用 途 もない地下室を図面にものっけないで拵 えたんだと。で、まあ、あるものは利用しようと思ってな。俺が物置に使ってんのさ」
「そーいえば、わたしの家のお父様も、地下室をこよなく愛してたわよ」
横からクリーオウが言ってくるが、とりあえずどう答えていいか分からなかったので、ほっておく。
開けた扉をもどらないように金 具 で固定しながら、サルアが言った。
「ま、人間の地下室好きは、同じく地下好きの天 人 から受け継 いだ伝統さ......無駄口たたいてねえで、入るぜ」
と、ほとんど飛び降りるような素早さで、縄ばしごを降りていく。
しばらくしてから──なにかをこするような、しゅっという音とともに、真っ暗だった地下室に明かりが灯 った。改 めてのぞいてみると、やはりさほど深くはないようだ。
ぼーっと見ているうち、クリーオウがレキを頭に乗せたまま、降りようとしていることにマジクは気づいた。
「武器......ねえ......でもあのサルアのことだから、ひどくちゃらんぽらんな武器か、えらくおおざっぱな武器しかないような気がするのよね」
ぶつぶつと独 りごちながら、クリーオウが降りていく。
部屋にひとり残って、マジクは、ふうと息をついた。ふと、窓を見やる。雨の音はまだ続いている。
窓ガラスを叩 き、曇 らせ、そして洗い流していく雨は、まだまだ続くようだった。雨。水──
(......お師様......)
地底湖に落下していったというオーフェンの姿を、マジクはなんとか思い浮かべてみようとイメージを奮 い立たせた──が、そもそもその地底湖というものすら、彼は見ていなかった。彼を助けてくれた女の魔 術 士 というのも。
(......なにもできないうちに、倒されちゃったんだな、そういえば)
胸 元 に、手を当てる。傷どころか、傷跡もなにもない。クリーオウの話をどんなに過 小 にして聞いたとしても、彼が致 命 傷 を負 っていたのは間違いないというのにだ。それを短時間で、ここまで完 璧 に治 せるとなると、その女の魔術士の力 量 は、並のものではない。いや、それどころか、並の一流どころですらない。
(お師様と同じか、それ以上の術者だ......そんな人が結 構 ごろごろしてるのかな、世の中には......)
だが──
彼は気を引き締 めるように自分の顔を撫 でると、ぐっと拳 を握 った。
(でもぼくだって頑 張 れば、そういう人たちの仲間入りができるさ。いつか──)
「マジク、早く来なさいよ!」
──がんっ!──
いきなり地下室から飛んできたなにかに顔 面 を痛 打 されて、マジクの物思いはそこで途 切 れた。
「......なんなんだよ、これ」
自分の鼻に思いっきりぶつかってきた、その木 彫 りの馬を片手に、マジクは縄 ばしごを降りていった。想像通り、あまり深くはない。見上げれば、まだもとの部屋の天 井 が大きく見えるほどのものだ。縄ばしごを降りきって、その地下室自体もそんなに大きなものではないことが分かる。とは言え、四方が四、五メートルはあるのだから、標準的なものではあるが。
降りると、縄ばしごのすぐそばにクリーオウが待ちかまえていた。降りるなり、腰に手を当てたポーズであっさりと答えてくる。
「たまたま落っこちてたのよ。拾 ってみて、投げやすそうだったから」
「......人の土産物 を、そんな理由で投げるなよ......」
地下室の奥から、なにやら情けない声音 で、サルアがうめく。クリーオウは上半身だけくるりと振り返ると、やたら自信たっぷりに言い切ってみせた。
「物置に置いてある土産物なんて、どーせいらないものなんでしょ」
「自分の部屋に置いとくよりは、壊 れたり汚 れたりせんですむと思ったんだよ!」
サルアが言い返してくるが──クリーオウはやたらあっさりと無視して、再びこちらを向いてきた。彼女の頭の上に乗っているレキが、足場にくるくると回転されたせいで、不思議そうにきょろきょろとあたりを見回している。
もっとも、こちらを向いたからといって、こちらに話しかけてくるわけでもなかったが。クリーオウは瞳 を輝 かせて、嬉 しげな声をあげていた──
「でも、ちょっと安心したわ」
彼女の『安心』の意味は、一 目 瞭 然 ではあった。
地下室は、上の部屋と比 べると、まったくなにかの奇 跡 が働いたかのように整理されている。壁 にかけられた、大小さまざまな槍 。専門の棚 にすべて収められた剣、盾 、数はふたつだけだが、金属製の甲 冑 まである(ただし錆 びているようではあった)。手 甲 やプロテクターのような細 かい防具なら、もっと数がそろっている。かなりの数の武器が、一 望 してすべて把 握 できるように、絶 妙 に配置されているようだった。ふと気づくと、既 にクリーオウが、ぱたぱた足音を立てて剣のほうに近寄っている。
「......壁、木でできてるんですね」
なんとなく、あまり関係ないことに気づいて、マジクは聞いてみた。部屋の奥で防具を物 色 しているサルアが、肩越しに答えてくる。
「ああ、もちろん外 殻 は鉄骨で頑 丈 に造ってあるけどな。なにしろ暗いから、転 んでケガするのもつまんねえし、壁にも床にも、木板を敷き詰 めてあるのさ」
言われて見上げると、確かに天井だけは鉄板のように見える。サルアの言う通り、暗いので、あまりよくは分からないが。明かりは、サルアがこの部屋に常備しているのだろう、床に置かれた大きめのランタンだけである。
と、クリーオウが歓 声 をあげた。
「あ♪ これなんて、なんかいい感じ」
言うが早いか、一振りの長剣を抱 えている。足 下 には既 に、十本以上の剣が散らばっていた──まあようするに、それらは不合格品ということなのだろうが。
クリーオウはすぐさま抜 刀 すると、光に近いほうにその刀身を掲 げてみせた。彼女が前に家から持ってきたものに、よく似ている。銀色の刀身は、ランタンの明かりのせいで橙 に染 まり、黄金のように輝いていた。刃は薄く鋭 い。このタイプのものには珍 しく、両 刃 である。少し膨 らみを帯びたなだらかな曲線を描き、切 っ先 に流れていく。光の粒 をこぼしそうな光 沢 が、マジクの素 人 目 にも美しく見えた。
サルアが吹いた口 笛 が、地下室に響 く。
「なかなか見る目があるじゃねえか。そいつは業 物 だぜ」
「そう?」
ほめられたことが素 直 に嬉 しかったのか、クリーオウは上 機 嫌 で、剣を鞘 に収めた。サルアがなにやら防具らしきもの──腹に巻く皮 帯 だとマジクは想像した──を手にしたまま、にやりとした笑みをのぞかせる。
「そいつの銘 は〝スレイクサースト〟一本物さ......近代名工のひとり、コレリー・カラプスの作だ。いわくつきの、いわゆる魔 剣 ってやつだな」
「魔剣⁉ 」
その単語を聞いて、クリーオウが驚 愕 の声をあげる。もう一度まじまじと剣を観察し、彼女はすっとんきょうな調子で聞き返した。
「じゃあこれ、なんか魔力とか、そーゆうのがあるの? さっき、なんかでっかくて目つきの悪い人が使ってた剣みたいに」
「多分それ、クオのことを言ってるんだろうが、奴 をそーゆう呼び方する度 胸 があるのは、多分お前かカーロッタくらいだろうから、花マルをやろう」
「いや......そんなことはどうでもいいんだけど......」
「分かってるさ。花マルのご褒 美 は、お前さんの誤 解 を解 いてやることだ。誤解は実質的にふたつ──意味的にはひとつ」
芝 居 がかった仕草で、サルアが指を立て、それを左右に振ってみせる──
むう、と音に出してうめき、クリーオウが不服そうな声をあげた。
「どういうことよ?」
「まあ、聞け。まず誤解その一。いわゆる、魔術の力によって鍛 えられた剣ってのは、天人にしか作れない──コレリー先生は人間だ。そして、その二。〝魔剣〟と呼ばれるものは、必ずしも魔力によって鍛えられた剣というわけじゃない......」
サルアは持っていた皮帯を、もともとしまってあった箱へともどすと、一歩前に出て、講義口調で説明を始めた。
と、少し間を取って、ウインクする。
「魔剣ってのは、人の思いが造るのさ」
「思い?」
マジクは思わず、聞き返した。と、こちらを指さして、サルアが続ける。
「そうだ。いわくつきの、て言うだろ? ようするに、その剣を使った者......その使い方......使われた時代......使われた背景。それらはすべて、時とともに消えゆくものだ。使い手はいつか死ぬ。技 も継 承 されなければ失 伝 する。時代は過ぎる。背景は、もみ消される。それらはすべてひっくるめて、伝説としてワンパックにされる」
「なんか話が抽 象 的 なんだけど......」
「いいから聞けって。んで、後世に残るものはなにか? 伝説というそのラベルと、ラベルを貼 られた──その剣だけだ。人はこれを〝魔剣〟と呼ぶのさ。魔力のあるなしは、関係ない」
「ようするに......」
クリーオウは言いながら天 井 を見上げて、まだ考え中のようではあった──が、数秒後、顔を下ろした時には、はっきりとその表情が不 機 嫌 に歪 められている......
「噂 に尾ひれがついてるってだけで、ただの剣と同じってこと⁉ 」
「同じってことはねえさ。伝説に残るだけあって、たいした上 物 なのは間違いない」
クリーオウの言葉を受けて、サルアがひょいと肩をすくめる。ランタンに照らされた陰 が壁 に投 影 されて、さらに大げさに肩をすくめていた。
「いろいろな剣が魔剣と呼ばれ、伝承されてる。有名なオーロラサークルや、九十四日目、ザ・カーニバル......これらはひょっとしたら、伝説通りの能力を持っているのかもしれないさ。刃こぼれが勝手に直ったり、斬 ると同時に傷口に毒 を送り込んだり。名工が創 意 工 夫 を重ねて、そういった剣を開発したのかもしれねえ。だが実際は──自分の手で使ってみなけりゃ、伝説の真 偽 は確かめようがねえってわけだ」
説明を続けながら、サルアはすたすたと地下室を横切り、クリーオウのそばまで近寄ってきていた。彼女の横を通り、剣を収めてある棚 をのぞき込む。
話を聞きながら──クリーオウはぽかんと口を開けている。マジクはもう少し冷静に、サルアの言葉を分 析 しようと努 めた。だが......
(結局......それじゃあ......)
サルアはあくまで平気な顔をしている。その彼の横顔を見ながら、クリーオウがうなり声を発した。
「......みんなしてデマに踊らされてるわけ?」
「ロマンだと言ってほしいね。ちなみにそのスレイクサースト、名工はある男のためだけにその剣を鍛 え上げ、手渡す時にこう言ったそうだ──『さあ、渇 きを癒 やすが良い』ってな。その瞬 間 、そいつの銘 が決まった」
「怪 しげな話......」
少しビビったのか、半歩後ろに退 がりながら、クリーオウがうめく。頭上のレキは気楽にあくびをしていたが。
剣を嫌 そうに抱 えながら、彼女は──
「でも、まあ......形が気に入ったから、これにする」
しぶしぶながら、そう告げた。サルアが振り向いて、にやりとする。
「そんなもんでいいんだよ。伝説なんざ気にする必要はねえ。剣はしょせん道具に過ぎないんだからな。人の思いが魔剣を作るってのは、そういうことだ。折れそうなくらい振り回してやりゃあいいのさ」
と言いながら──棚を眺 め回し、新たに一振りの剣を取り出す。
四十センチほどの長さの短剣だった。地味だが、しっかりとした装 飾 のされた黒い鞘 に収められている。彼はそれを手にして、目を輝 かせた。
「そのスレイクサーストと、こいつが、ソリュード家が収 集 した目玉だよ。ちょうどぴったり、目玉はふたつだ」
彼はその剣を抜かないまま、柄 を持って構えてみせた。そのあと素 早 い手つきで剣を回転させると、鞘の先を握 る。そのまま柄のほうを、彼はクリーオウへと差し出した。
「こいつには銘がない......だがキリランシェロなら、知ってるかもな。奴に渡してやってくれ。その役目は、お前さんがいいだろ?」
「キリランシェロ──オーフェンのこと?」
クリーオウはそう聞き返しながら、その剣を受け取った。すぐに抜こうとした彼女の手を、サルアが押しとどめる。
「それを抜く資格があるのは、キリランシェロだけだ」
「......あなたのこと、もう馬 鹿 にしないって約束するからさ」
剣を抜くのはあきらめたようで、柄に触 れていた手を離しながら、ぽつりとクリーオウがつぶやくのが聞こえた。
「頼 むから、オーフェンのことは、ちゃんとオーフェンって呼んでくれない?......オーフェンだって嫌がってたじゃない」
彼女の言葉を聞いて、さらに彼女の顔を一 瞥 し、サルアはしばし黙 したが──
そのことを約束はしてこなかった。目を閉じてくるりときびすを返しながら、言ってくる。
「あまりにも汚 れちまったんで、柄やらなんやらの拵 えは変えちまったが、刀身には手を加えてねえ。正 直 言って、どうってことのねえ代 物 だし、たいした値もつくわけじゃない。ただでやるよ」
「......この、スレイクサーストってやつは? こっちは高いの?」
「近代の作だからな。べらぼうに高かったりはしねえけど......まあいいや。そっちもやるよ。その分働いてもらうけどな」
「分かってるわよ。で、あなたはなにを使うの?」
聞かれて、サルアが大きな笑みを浮かべてみせる──
彼は、よくぞ聞いてくれたとばかりに、軽い足取りでまたさっき防具を探 していた場所へともどっていった。がさごそと中を探 り、そして、細長いものを引っぱり出す。
剣だった。クリーオウが見つけたものと違い、もっと長大で、重量もありそうな一品である。皮の鞘に収められた剣──彼はそれを流れるような手つきで、すらりと抜いた。
刀身は、ガラスでできているように見えた。

透明な刀身を持つ、長剣。まるで玩具 のようでもあるが、それを掲 げるサルアの手に、ずっしりとした重みが加わっていることが分かる。その重さは、それが冗 談 事 で作られたものではないことをなによりも雄弁に物語っているようだった。オーフェンが以前、言っていたことがあるのを、マジクは思い出していた。キムラック教会の誇 る暗殺集団、死の教師の携 えるガラスの剣。
「こいつさ」
目つきを鋭 くして、サルアが言ってくる。
「クオにはさっき遅れを取っちまったが──こいつがあれば、負けはしない」
またも滑 らかな動作で剣を鞘に入れる彼を見ながら──マジクは、自然と声をあげていた。
「──無理ですよ!」
はっ......と。
我 に返ると同時、クリーオウとサルアの、驚 いたような視線が自分を注視したことを、強 烈 に彼は自覚した。ふたりとも、自分がいたことを忘れていたのかもしれない──ふたりの表情に、なによりも驚 愕 が色濃 く現れていることに、彼は苛 立 った。
「当たり前のことじゃないですか──無理ですよ」
「......なにがだ?」
落ち着いた眼 差 しで、サルアがつぶやく。
マジクは、死の教師を強く見 据 えた。
「その剣があろうとなかろうと、あの鎧 を着た人に勝てるわけがない──そうでしょう?魔術には、魔術しか通用しないんだ。あのクオは、その魔術が通じなかったんです。あの人が持っていたような、魔術の力を持った武器はないんですか? それがなければ......また神殿に行ったところで、今度こそ全 滅 させられるだけです......」
「クオが、何本か所持しているとは聞いたことがある──っても、使えるほどに魔術文字を解読できたものは、あの星の紋 章 の剣とかいうやつだけだけどな」
あまり光量のないランタンの明かりによって、光にさらされたサルアの顔は──あくまでも静かだった。いつになく表情がない。いつも浮かべている。ふざけたような笑みすらも。
「どのみち、そいつが手に入ったところで、文字を解 析 しない限り魔術は発動しない。解析に何年かかるか分からねえが、キリ──ええと、奴 が溺 れ死ぬのに十分なのは言うまでもねえな」
(お師様が......死ぬ?)
馬鹿げた発想だと──
マジクは、反射的に感じていた。オーフェン。《牙 の塔 》のキリランシェロ。当代最強の魔術士のひとり......
それが、死ぬわけがない。
「......でも......だったら、今はまだ......」
ひざが震 えるのをなんとか隠 そうとしながら──隠しようがなかったが──、マジクは声を絞 り出した。肺が妙な音を立てるのを聞きながら。
「今はまだ......行くべきじゃないってこと......です」
「なに言ってんのよ⁉ 」
クリーオウが、叫 び声をあげた。それは予想通りだったが、その声を聞いて、マジクは一瞬、足がすくむのを自覚していた。
このようなせまい地下室ではあまり聞きたくない、きんきん響く甲 高 い声で、彼女が怒 鳴 りつけてくる。
「今だって、のんびりしすぎてるくらいなのに──急がないと、オーフェンが危ないってちゃんと聞いてなかったの⁉ 」
マジクの頭の中で、冷たいものが弾 けた──
「分かってるさ!」
あらんかぎりの大声で、叫び返す。
発声練習も行 う音声魔術士の声量は、軽いものではない。それを全開に張り上げたものを叩 きつけられて、クリーオウが顔をしかめて言葉を呑 み込むのがはっきり見えた。もっとも、サルアは表情を微 動 だにさせていなかったが。
それが気にくわなかったというわけではないが、マジクはサルアに向けて、さらに叫んだ
「意見だよ! ぼくなりの意見だ──助けに行くのなら、せめて自分の身を守る方法だって用意しなくちゃ、意味がないだろう⁉ お師様は強力な魔術士だ──ぼくよりはるかに強力な。簡単に死んだりはしないさ。お師様が! 死ぬもんか!」
(死ぬもんか──)
叫び声よりも強く、胸 中 で繰 り返す──
オーフェンの姿が浮かんだ。暗い視界に。師はただ立っている。こちらを見ている。拳 を軽く横に落とし、右足をわずかに後ろにさげて。
近づく。幾 千 通りもの方法で、たったひとつの結果が出る。近寄って一瞬後、マジクは打ち倒され、地面に転 がっている。
絶対に崩 れない。彼の目の前からは、絶対に。
「死ぬ......もんか......」
もう一度叫びたかったが──口から出たのは、弱々しい声でしかなかった。床 に置かれたランタンが、揺 れる光を発している。地下室いっぱいの武器が、光と、ことごとくそれと同じ形をした影とに踊っている。
サルアが──顔を真っ赤にしてなにか叫びそうな気 配 を見せたクリーオウを、横に押しやるような形で、穏 やかにつぶやく。
「ま、そいつも正論なんだが......」
意気をくじかれたクリーオウまでもが、彼のほうを向いた。サルアは気まずそうに顔をかくと、その顔面に薄笑いを浮かべた。
「準備ったって、これ以上の準備はできないんでね──実際のところ」
「そんな。むざむざ死にに行くなんて──」
「ま、それでもお前さんが行くわけじゃねえんだから、勘 弁 してくれや」
と──
「......え?」
考えてもいなかった一言に虚 を突かれて、マジクは目を見開いた。サルアはやはり、申し訳 なさそうな表情をこちらに向けている。
「お前さんは、ここで留 守 番 だ」
「な──」
マジクは、身を乗り出して抗議の声をあげた。
「なんでですか⁉ 」
「そらまあ、どっちがどっちか、選 択 の結果ってやつだ。クオとカーロッタを同時に敵に回して、いくらなんでもお前さんらをふたりとも守ってやれる自信はねえからな」
「守って......?」
前に突き出しかけた手を、ぱたんと落として──マジクは絶句した。
地下室の中で、五メートルほどの距 離 を隔 てて端に立っているサルアをにらみつけながら、彼は震え声を出した。
「守ってって、なんです......? 馬鹿にしないでください。ぼくだって魔術士なんだ──あなたが、ぼくを守れるっていうんですか⁉ 」
「同じく馬鹿にしないで欲しいものだな。俺だって死の教師だ──魔術士の暗殺を専門にしている、な」
「ち、ちょっと......」
さすがに気まずい空気を察したのか、自分の怒 りを忘れた格 好 で、クリーオウがうろたえた声でうめく。
だがマジクは、それを無視した。サルアも気にしなかったようだった。
死の教師をただ見 据 えて、マジクは吐 き捨 てた。
「お師様には勝てなかったくせに」
「奴は《塔》でも最強の暗殺技能者 だ。半人前の術者に過ぎないお前さんとは違う」
「ぼくはお師様より強い威 力 が出せる!」
両拳を握 りしめて、彼は断言した。
サルアは、しかし動じなかった。小馬鹿にしたように鼻を鳴らす──
「だからなんだ?」
「だからっ......て」
マジクが次の言葉に迷 っているうちに、サルアがあとを続けた。
「あの若さで生徒を取ったあいつが馬鹿なのか、それとも生徒が生 粋 の愚 か者なのか──俺には分からんが、そんなこっちゃお前さん、永遠に奴には追いつけない。証明は簡単だ。してやろうか?」
「え〜と......」
声をあげたのはマジクではなく、クリーオウである。人差し指をくわえて、こちらとあちらを交 互 に見渡している。
マジクはただ無言で、唇 を噛 みしめていた。
剣を足 下 に置きながら──サルアが、言ってきた。
「証明は簡単さ。お前さん、今から俺を倒してみな。ま、表情だけを見りゃ、やる気満々って感じだが──一応アドバイスしてやると、にらみつけただけじゃ敵は倒せんぜ」
「やってやる!」
マジクは、両手を突き出した。
「やってやる!」
繰 り返してから、意識を集中させる。
世界が、見えるようになる。
魔力は、そういった感覚を術者に与える。実際は、どうだか分からない──単に術者の思いこみの産物なのかもしれない。が、コンセントレーションに入った術者は、そんなことを気にしないのが普通だった。瞬間、自分の魔術が世界を支配する。
サルアが馬鹿にしたような笑顔で、背後の壁 に、どんともたれるのが見えた。余 裕 ありげに、腕組みなどしている。
(ぼくをなめている──)
怒りとともに、彼は構成を編 み上げた。
力の網 を、周囲の空間に展開する。あるがままであったすべてを──自分の望むものへとまとめ上げる。マジクは慎 重 に、だが大 胆 に構成を造り上げた。もとより、威力をセーブするつもりなどない。
サルアは丸腰──剣を拾 い上げようともしていない。ただ。
一瞬で、彼が腕組みを解 き、腕を振り上げるのが見えた。そしてそのまま、右拳を──背後の壁に叩 きつけている。
どん、という強い振動が、地下室全体に響 きわたった。
次いで、狙 ったように、サルアの頭上から、短い槍 が落ちてくる。天 井 の暗がりに隠 れて見えなかったのだが、そこに飾 ってあったのだろう。五、六十センチほどの、投 擲 用 の短い槍である。短く、太い。よく研 がれた穂 先 が、輝 いて見えた。
その槍を、ぱっと受け止め、サルアが一歩前に出る。しっかりと肩の上にその槍を構えて──
刹 那 、マジクの構成も完成した。
(こっちのほうが早い──勝った!)
彼は歓 声 をあげて、その構成を解き放 った。呪 文 を叫 ぶ。
「我 は放つ──」
──魔力の放出とともに、脱力感。
(────⁉ )
貫 くような不安感が、襲 いかかってくる。
『今より少しでも低いレベルで制 御 をしくじれば──』
それは間違いなく、オーフェンの声だった。槍を構えているサルアの姿に、怒った師の顔が一瞬だぶる。
『確実に死ぬことになるんだぞ!』
(違う! お師様は、自分が魔術を使えなくなったからぼくに嫉 妬 してるんだ!)
幻 影 の師に叫び返してマジクは、魔術の発動を強行した。
「我は放つ光の白 刃 っ!」
突き出した手の先に、力が収 束 していくのを肌 で感じる。
力の流れのすべてが、彼の味方をしていた。すべてが集 い、標 的 へと向かっていく。それと同時に、彼の体力をも奪 って......
いかなかった。
力は放出されなかった。構成が霧 散 する。突き出した手は、虚 しくただ震 えている......(魔術に失敗した!)
完成しかけていた構成が無 駄 になった。ただなにも起こさない叫び声だけが響いている。彼はなんとか顔を上げた。サルアが見える。視界の中に、クリーオウは見えない。サルアは構えた腕を、しならせるように解き放とうとしている。
魔術士が魔術を放つように。
サルアが勢 いよく腕を伸ばすのが、やけにゆっくりと見えた。
(そう......か......)
自分の思考まで速度を落としている。だが、やけに気持ち良かった。とても。
(分かった......なんとなく、分かったけど......)
サルアの腕が伸びきり、槍が放たれたなら、一秒を待たずして自分は死ぬ。
それが悲しかった。涙をこぼす時間すらなかったが。
穂 先 が、一番鋭 い形で──つまり真正面に──見える......
その瞬間。
視界の外から唐 突 に、クリーオウが現れた。槍がサルアの手から放れる瞬間、彼女の小柄な身体 が、サルアの身体へとぶつかっていく──
サルアの体勢が、すこし崩 れたように見えた。一瞬後。
どがっ──!
鈍 い音が、鼓 膜 を叩 いた。
なにがなんだか分からない一瞬に──呪 縛 から解放されたように、感覚がもとの時間へともどる。マジクは床 にしりもちをつきながら、あたりを見回した。自分が死んでいないことは間違いなかった。
ならば、槍は。
彼の頭の横、恐らくは数センチほどだけを外 して、後方の壁 に突き立っていた......
「............」
言葉も、息も出ない。ただ汗 だけが噴 き出す。床に座 り込んだまま、マジクは空気を求めてあえいだ。が、息ができないのに空気が吸えるはずもない。
と──クリーオウの声。
「な、なに考えてんのよ⁉ 本気で当てるつもりだったでしょ、今!」
サルアに食ってかかっているようだったが、当のサルアは淡々とした表情で彼女を押しのけ、こちらへとゆっくり近寄ってくるところだった。一歩、二歩......あまり大きくない歩 幅 で歩いてくる。すぐに、マジクの座り込んだ目の前に彼は到達し──
すぐに横を通り過ぎて、壁の槍をつかむと、引き抜いた。
そして、その穂先をこちらの鼻先へと──彼を見上げている鼻先へと突きつけてくる。
「サルア⁉ 」
クリーオウの声など無視して、サルアがぼそりとつぶやいた。
「......なんで俺を倒さなかった?」
「──え?」
鋭い穂先に、実際に縫 いつけられたかのように動けず、ただマジクはそれだけをうめいていた。
サルアは、小さく舌打ちしたようだった。
「俺は、唯 一 の武器──この槍を、外しちまったんだぜ? そのあとに俺を倒すのは簡単だったはずだ。それをなぜ、やらなかった?」
「............」
考えもつかなかった──
その唯一の答えを言い出せずに、硬 直 していたマジクは、サルアが......その表情に、次 第 に笑みをもどしていくのをただ呆 然 と眺 めていた。
「このあたりが──」
死の教師が槍を引っ込めて、肩をすくめる。
「お前さんと、奴の違いのひとつさ。まだまだあるぜ? いちいち証明する気にはならねえけどな」
「ぼくは......」
全身の震えを止められずに、マジクは視線を落とした。なにを言えばいいのか分からないが、脱力した身体に、冷たい汗がなにかを伝えようとしているのは分かる。
「ま、すぐに分からんでもいいのさ。とはいえ──そのうちしっかりと理解するためには、お前さんにはあの未 熟 な師 匠 が必要だ」
「............はい......」
なんとか声に出してうなずいた、その瞬間。
どばんっ!──
と、上で派 手 な物音が響 いた。扉 を蹴 破 ったような音。
「......なんだ?」
サルアが、驚 愕 の声をあげて天 井 を見やる。その時には既 に、その天井の上からどやどやと複数の足音が──そして、がらくたを蹴散らすような音が。そして、なにかを引きずるような音が。そして。
しばしして、縄 ばしごの垂 れ下がっている入口から、どさりとなにかが落ちてきた。人間の......死体。
クリーオウが、しゃっくりのような音を立てるのが聞こえた──悲 鳴 が出そこなった音だろう。死体はぼろぼろになった神官服をまとっている。無論、斬 られてぼろぼろになったのだろう。死体にははっきりと見覚えがあった。サルアがうめく......
「兄 貴 ⁉ 」
そして。最後のそして。
穴の上から──限りなく場に不 似 合 いな、おどけた声が聞こえてきた。
「はあい」
やたら気楽な、女の声。
「そろそろ出 頭 の時間よ、坊 や──」
「出やがったな......この妖 怪 女 」
サルアの苦 々 しげなうめき声が──
まるで、床に落とされた死体の声のようにも聞こえた。
メッチェン・アミックは窓ガラスの向こうに、雨で霞 んだ神 殿 の影を遠く眺 めていた。
白い街 に灰色の雨が降り、黄 土 色 の風と混ざり、影の色となる。
それは遠い昔からの光景だった。遠く......人間種族がこの大陸へと漂 着 して以来の。
もう感覚のない右腕をさすりながら、彼女は窓の前に立ちつくしていた。応急手当で血は止まった。が、傷口がふさがったわけではなく、血の気ももどっていない。雨の中を逃げ続けたせいで身体 が冷えたのも悪かったのかもしれない──まだ指先だけならばわずかに動くようだったが、それも長くは保 たないだろうと彼女は悟 っていた。
(そして、もう二度と動かないかもしれない......)
皮 肉 なものね──と彼女は、苦 笑 いを浮かべた。サルアの話では、彼は神殿でクオ・ヴァディス・パテルに滅 多 斬 りにされたらしい。彼女はカーロッタと接 触 し、そして一撃だけを受けた。音もないほどの一 刺 しだけだ。だがサルアは今も五体満足で動き回り、メッチェンの右腕は、もう剣も握 れない。
(それが、クオとカーロッタの差なのかしらね)
舌打ちして、認める。
剣の腕だけならば、サルアに敵 う者はいないだろう──なにしろオレイルに手ほどきを受けたのは彼だけだ。オレイルの眼鏡 に適 った者も。魔 術 文字の解 析 に成功したのはクオのほかいないし、自 らの生命力を削 ってまで戦 闘 力 を上げたネイム・オンリーの身 体 能 力 は確実に人間の限界を超 えている。実戦経験ならば、夭逝 した父の任を少女時代から引き継 いだメッチェンが最 も多い。
カーロッタにはなにもない。彼女はなにもしない。
だが彼女が失敗したという話も聞いたことがない。
十年前──あるひとりの男が、この聖都へと侵 入 した。
どこから入り込んだのか、誰 も知らないまま、男はすんなりユグドラシル神殿に現れた。
その当時は、誰もその男のことを知らなかった。若い、だがどういったわけか老 獪 な、ひとりの暗殺者。男は教師長数名と死の教師三名を殺害し、《詩 聖 の間 》へと進む寸前、クオ・ヴァディス・パテルとオレイル・サリドンによって退 けられた。その際オレイルは重傷を負 い、引 退 を宣言。聖なる務 めを自ら放 棄 したという罪状で、聖都から永遠に追放された。同じくして、クオが死の教師を取り仕切る任を与えられる......
サルアがオレイルに師事したのは、この頃 だったらしい。だがメッチェンは、その頃、他人のことを気にかけている暇 などなかった。人数が激 減 した死の教師のメンバーに、彼女自身が抜 擢 されたからである──理由は簡単だった。殺された三名のうちひとりが、彼女の父だったから。
彼女はもっぱら聖都の外での任務を割り当てられることになった。数年後にメンバーに加わったサルアも同様だが。
(......黄 塵 の吹かない不 浄 の地で、いま見つめているこの光景を──雨に濡 れる聖都の姿を──何度も夢に見た......)
胸 中 で、彼女はつぶやいた。窓 枠 に手を触 れる。まだ動く左手を。
(帰ってくるたび、わたしは泣いた......もう出て行くまいと心に誓 った......死を賭 してもパパが守った、この聖都から)
彼女は窓枠に触れる手に、力を込めた。ぎい、と留め金が軋 む音が、空気よりも腕を伝わってくる。湿 った木の感 触 。表面は砂で汚 れているが、粒 子 の細 かい黄塵には、ざらりとした手 触 りはない。
(でも、そのうち泣かなくなった......)
彼女は窓を開いた。激しい雨 音 が、外界を騒 がしくしている。
雨 粒 が遠 慮 なく、部屋へと飛び込んできた。彼女の身体にも飛びついてくるそれを、彼女は避 けようとは思わなかった。すべて染 み込んでしまえばいい。この雨も聖都の一部だ......
彼女が泣かなくなった頃、聖都を襲 った例の暗殺者の名前が耳に入るようになってきた。キムラックの教師長を暗殺したことで一気に有名になった男──チャイルドマン。その名前は半年を待たずして、チャイルドマン・パウダーフィールド教師に変わった。《牙 の塔 》の教師になったという。
その卓 抜 した能力から、《十三使 徒 》の長、最強の黒魔術士と言われた魔 人 プルートーとも互 角 なのではないかと噂 された。
(チャイルドマン......パウダーフィールド教師。その最後の生徒が......キリランシェロ。今はオーフェンと名乗っている、あの男......)
サルアの話では《詩聖の間》に入ったという。
開け放 たれた窓のすぐ外で、風が渦 巻 いたようだった。いっそう激しくなった雨粒が、顔 面 を叩いてくる。が、メッチェンは両目を開いたまま外を見つめ続けた。見とどけよう──ただ静かに、独 りごちる。
(見とどけよう。かつてわたしを泣かせた街を......それが、すべてひっくり返されるのを......)
「神を封じ込める蓋 を──」
疲れているのだろうか。ふと不安になる。まだ眠ってはいけない時だ。
十年。死の教師となってからの十年。なにもかもを、彼女は実戦から学んだ。剣の扱 いも、魔術士が呪 文 を叫 ぶ時のタイミングも、戦い方も、逃げ方も、かまどの作り方も火の起こし方も安宿のシーツから虫を追い払う方法も手袋をしたまま目のゴミを取る方法も。祈 り方も。愛し方ですら。すべて実戦で学んだような気がする。
「女神よ......わたしの運命を紡 いだ、大いなるひとよ......」
彼女は雨に向かって聖印を切った。右腕が使えないのでややぎこちない仕 草 だが。
「貴女 にわたしの汚 れた顔を見られたくはないのです......それでもわたしは貴女を見なければなりません。すべての者が貴女のために死んだのですから──その〝死〟すらを紡いだのも貴女であるのならば、わたしは貴女のみもとで、わたしの父の名を叫ばなければなりません」
彼女は目を閉じた。聖印を崩 し、左手を、右腕の傷口に巻いてある青い布へと触 れさせる。
「全知......全能......無限のすべて。運命を紡ぎ、網 のように全世界へと投げかける。女神......なのに、なにもしていない 」
風がうなりをあげるのが聞こえた。
「あなたを愛しています。父があなたを愛したように......でも大陸は、あなたを必要としていないんです......誰 も、あなたに顔を見られたくはないんです......」
彼女は腕に巻いた布を引 き剥 がすと、それを片手だけで器用に頭に巻き付けた──この布の巻き方を覚えたのも実戦の中だったように、彼女には思える。布には血の染みがつき、どす黒い紫 色 へと変色していた。
◆◇◆◇◆
なにが起こっているのだ......?
書 斎 の椅 子 に浅く腰を下ろし、机 に肘 を押しつけて、ラポワント・ソリュードはただそれだけを繰 り返していた。
開いた本に手を触れてはいるが、読んではいない。そんな気分を味わいながら、彼は机に押しつけた自分の手をじっと見つめていた。ふと、ペン立てに刺さったペンがかたかたと音を立て始め、ぎょっとする──が、すぐに気づいて嘆 息 した。彼が押しつけた手が震 えていただけだった。
笑っている時ではない。それは分かっている。が、彼は笑いたかった──できるならば。間の抜けた願 望 ではある。それも分かっていた。
(わたしにできるのは......望むことだけ、か)
それを思い浮かべて、ようやく、苦笑できる。
ラポワントは椅子から腰を上げた。壁 に掛けられた時計を見やる。十一時ちょうど。時間だった。
彼は立ち上がり、書斎を眺 め回した。書 棚 。並べられた貴 重 な書物。トロフィー──主 に彼のものだ。そして、窓。扉 。
書斎机の一番長い引き出しを、彼は引き開けた。なにも入っていないのだが、一本の剣だけが置いてある。ごく普通の長剣。
その柄 をしっかりとつかむと、あとは無言で、彼は書斎を出た。
雨は降り止 む気 配 もない。空そのものを落としたような雨が、玄関から正門まで続いている。無論、雨雲は聖都すべてを覆 っているが──彼にとっての世界は、いま立っているこのポーチから、正門までに過ぎなかった。
屋根や地下道でもない限り、いつでも家を背 負 って出なければならない──玄関から出るということは、つまりそういうことだと彼は感じていた。常に背中に家がある。前方には、雨か、風か、黄 塵 か......そして、それらとよく似た人間たちか。それが待ち受けている。
斜 めに落ちる雨の中に、足を踏み出す。激しい雨のせいで霞 んでいる前方に、なにかを見たような気がした。
気のせいではない。
彼は確信していた。あれは、時間を破ることだけは決してない女だ。
雨粒が頭を、顔を、肩を、全身を叩 く。痛いほどの勢 いだった。剣を握 る指の間にも、水が染 み込んでくる。
彼は構わずに足を踏み出していった。一回一回、丁 寧 に。少しずつ進んでいく。
正門は、まだ遠いが──なだらかにカーブした通路の上を歩いていけば、一分ほどかかったろう──、彼はなるたけ最短距 離 を進んでいった。芝 生 を踏んだことで、庭師は怒るだろうか。怒りはしないだろう。教師長たるこのラポワント・ソリュードに怒る? 馬 鹿 げた話だ。
彼は半 眼 のまま進んでいった。やや足早になる。
やがて──正門まで進んできた彼を待っていたのは、こんな一言だった。
「遅いわね。お互 い、これが命取りになりかねないってこと、お分かりになってらっしゃらないのかしら?」

「......ならばそんな目立つ傘 を差してくることもないだろうが」
ラポワントは、即 座 に吐 き捨 てた。
もっとも、言うほどに目立つ傘だとは彼も思わなかった──この雨の中ならば、薄ピンクのぼんやりした染みにしか見えなかったろう。女物の蛍 光 色 の傘を気楽に差して、こちらを見ているのは、言うまでもない、カーロッタだった。いつもの神官服ではない。彼女の後ろにずらりと並んでいる数名の神官兵と似たような、もう少しラフなものを着ている。フードとマスクで顔を隠 してすらいた。とはいえ彼女の目を一度でも見ていたことがあるならば、顔のほかの部分を隠したところで見間違える者などいないだろうが......
彼女はこちらの言葉など耳に入った素 振 りもなく、マイペースに聞いてきた。
「使用人たちは?」
「暇 を出しておいた。明日までは帰って来ないだろう」
「そう」
気楽に言いながら、カーロッタは──あごをしゃくって、控 えている神官兵のひとりを促 した。神官兵は言葉もなく進み出ると、門を開けようというつもりか、鉄 柵 の門の上に、その手を置いた...
瞬間、ラポワントは持っていた剣の刃を、その神官兵の手の上に軽く置いた。神官兵の動きが、ぴたりと止まる。
その神官兵だけではない。カーロッタも、みなすべて意表を突かれた表情で動きを止めた。ざああという雨音だけが、あたりを満たしている。
「どういうつもりかしら?」
にこりともせずに聞いてきたカーロッタに、ラポワントは告げた。雨に濡 れた前 髪 が、まぶたの上に張り付いているのが自分にも見える。
「......わたしの屋 敷 に入る前に、聞きたいことがある」
「ここは教主様のお言葉に守られた聖都ですわよ。あなたの土地などどこにもない」
「詭 弁 なら、なんとでも言え。わたしの専 売 特 許 ではないなどと言われたばかりだ」
ラポワントは毒 づくと、剣の柄 を握る手に力を込めた。刃を当てられた神官兵は手の甲から、血がにじみ出している。
「クオが嘘 をついた」
彼は鋭 く囁 いた。
「......《詩 聖 の間 》に、魔術士が入り込んでいる可能性がある。これはなににも優先する問題だ。神殿に取って返して、事態を処理しろ。これは神殿庁の命令だと思え」
だが──
返ってきたのは、長々としたため息だけだった。
はぁぁ......と、そのため息の主──カーロッタが、軽くかぶりを振る。彼女は目を細めて、猫でも可愛 がるような口調で言ってきた。
「それならば、教主様も知っておりますわよ」
「............なに?」
彼女の言葉は、二重の意味で衝 撃 だった。身体 が震 えるのを感じる。雨の冷たさのせいではなく。
「教主様が知っている、だと⁉ ──いやそれより、カーロッタ、貴様が教主様のお言葉を賜 ったというのか⁉ 」
「門をお開けなさい、ラポワント教師長。それ以上ごねるようならば、弟をかばい立てしていると見なしますわよ」
彼女の目が、絞 られるように細くなっていくのが見えて──
「くっ......!」
ラポワントは、後方に跳 び退 いた。同時に、剣を両手で構え直す。しっかりと構えた剣を、横 殴 りに銀の輝 きが叩 きつけてきた。
ぎぃんっ! と──
鋭 い音と、そして衝撃が腕に伝わってくる。見ると、この剣で手を押さえつけられていたはずの神官兵が、もう一方の手で抜 刀 していた。
誰 が蹴 破 ったのか、門が開く。カーロッタを除 き、全部で五人の神官兵が、いっせいに庭へとなだれ込んできた。すべていつの間にか抜刀している。すべて同じ、少しばかり刃がいびつな剣である。
「ちぃっ!」
歯の間から軋 るような息を吐 いて、ラポワントは神官兵のひとりが繰 り出してきた剣を、切っ先にからめ取るようにして弾 き飛ばした。同時に、後退から前進へと転じて、刃を斜 めに跳ね上げる。
びっ──と、なにかを引っかけるような音がして、神官兵の首を覆 っているフードが、あっと言う間に血の色に染まった。悲 鳴 もなく、ばたばたともがきながら、雨に濡れた地面へと倒れる。
ラポワントはまだ動きを止めていなかった。視線を左右に動かすと、右に跳びながら、迫 ってきていた別の神官兵の刃へと剣を合わせる。剣を触 れ合わせているのは一 瞬 だった。相手が力を入れて刃を押し出そうとしてきたところで──相手の踏み出しよりも長い距 離 を跳 び退 く。と、つまずいて倒れる相手の首の後ろに、ラポワントは鋭く切っ先を打ち付けた。やはりフードに覆われていた首を、一度だけがくんと震 わせて、あとは血を噴 き出しながら動かなくなる......
「たいしたものねぇ......サルアの坊 やより、腕は上かしら?」
唐 突 に、声。カーロッタのものだった。
気が付けば、残りの神官兵三人が、彼女の後ろへと退 がっている。彼女は悠 々 と庭に入ってくると、死体となったふたりをそれぞれ一 瞥 し、自分のマスクを口元から下ろしてみせた。ふっくらとして見える唇 の間から、ほんのわずかだけ舌の先を見せて、彼女は続けた。
「でもなんで、こんな馬鹿げたことをするのかしら? 死の教師の追 跡 審 問 を妨 害 し、神官兵をふたりも殺害......あなたがいくら神殿庁のお偉 い方でも、これはどうしようもないですわよ」
「なんで、だと?......貴様らこそ、いったいどうしたというのだ」
ラポワントははっきりと、自分の歯ぎしりの音を聞いた。雨に混じって血の臭 いが漂 ってくる。
「裏 切 り、仲 間 割 れ、騙 し合 い......諜 報 のままごと遊びでもやっているつもりか⁉ 貴様らはこの聖都の守 護 の任を負 った者だろうが! それをなんだと思っている!」
「さて、どうかしら」
カーロッタは顔色も変えずに言いながら──軽く肩をすくめてみせた......
「わたくしには、むしろこの聖都のほうが、玩具 の箱庭 のように見えますけれどね」
「貴様っ!」
ラポワントは叫 び、そして踏み出した。
一瞬──
カーロッタが笑ったことだけは見えた。ただし顔の下半分だけ。上半分が見えなかったのは、彼女が傘 を──目 深 にするように下げたからだった。
その瞬間は、彼女がなぜそんなことをしたのか理解できなかった。派 手 な色彩の彼女の傘が、雨の中、ぱっと弾 けるように揺れて......
ラポワントは、なにも見えなくなった。
「────!」
喉 から出そこねた悲鳴が、胃 の中で爆発する。
「あああ......ああああっ⁉ 」
剣を取り落とし、彼はその場に倒れ込んだ。顔面が熱い──猛 烈 に、頭 蓋 の奥からしびれるような痛みが染 みだしてくる。
ばさっ......と、これはカーロッタが傘をまた上に向けた音。自分の悲鳴の中であっても、ラポワントはそれを聞き取っていた。鮮 血 の噴き出る自分の左目を押さえながら。
「き──貴様ぁっ......」
荒れる息で、彼はうめいた。カーロッタが哀 れみの視線を投げてきているのをにらみ返して......
彼女は気にもせず、ただふと思いついたように、自分の傘を見上げた。そして、傘の先端になにかこびりついていることに気づいたようだった。少しだけ顔をしかめて──ラポワントはこの傘が彼女のお気に入りだったに違いないと確信した──、傘を畳 むと、ばっ、と一振りする。
尖 った傘の先端にくっついていた肉片が、地面に落ちた。見なくとも分かる。彼の眼球だった。
「残念だわ」
彼女は心底残念そうに、かぶりを振りながら傘を開いた。
「......ふたりも先に殺されてしまっては、あなたを殺したところで、絶対に帳 尻 が合わないんですもの」
そしてラポワントは、彼女が背後にいる神官兵たちに、なにか合 図 するのを見た。なんの合図であるかは、聞くまでもない──落としてしまった剣を探 しつつ、彼は絶望的にうめき声をあげた。落とした剣は死 角 に転 がったのか、どこにも見つからない。
剣を携 えた、三人の神官兵が近づいてくる。カーロッタは微笑 みを浮かべて──既 にこちらを見てすらいないようだった。
「......そういえばあなた、ご自分の寝室で死ねなければ、浮かばれないんですってね?」
からかうような、陽気な声。
「駄 目 。ここで死になさい」
◆◇◆◇◆
「さて、問題はだ」
ボルカンの終わらないおしゃべりを──そんな可愛いものでもないが──聞きながら、ドーチンは歩いていた。闇 の中を手 探 りして進むのはなんとも心 許 ないが、なかなか便利なもので、ずっと暗闇を進むうちに、なんとなく足 下 が見えるような気がしてくる。本当にちゃんと見えているのかどうかは分からないし、彼ら自身知ったことではなかったが、彼ら兄弟はいつまでも続くその地下道をてくてくと歩き続けていた。
なんにしろその横 穴 は真 っ直 ぐで、水平で、真っ平らで。まったくもって、見事なまでになにもない通路だった。転ばずにすんでいるのもそのせいだが、退 屈 きわまりないのもそのせいではある。
──幸運なのか不運なのか、正 直 ドーチンには断定できる自信がなかった。毎度のことだが。
「聞いているのか、ドーチン? 問題は、だぞ」
「うん。問題は?」
上 の空でドーチンは、前を行く──行っているらしい──ボルカンに聞き返した。かなりの時間歩き続けている。地 人 には体質的に筋肉痛は起こらないが、疲 労 は人間と変わらない。こわばった足の筋肉は、いったん立ち止まったら半日は動き出してくれそうにないなと、彼は陰 鬱 に考えていた。
──そんな疲れなどなにひとつとして感じさせない兄の声が返ってくる。
「問題は、この通路に蛇 が出たらどうしようってことなのだが」
考えたくもなかった。
が──言われてしまっては、無視するわけにもいかない。ドーチンはため息をつきながら答えた。
「......ここに餌 がないんなら蛇なんていないだろうし、餌がたくさんあるんなら、蛇はお腹 いっぱいなんじゃないかな」
そんな気休めでも、ボルカンは納 得 してくれたようだった。
「それもそうだな」
うん、と安心したような声を出し──数秒後に、また聞いてくる。
「......熊 が冬 眠 してたら、どうしたものだろう」
「しゃべりながら歩いてれば、熊は近づいてこないらしいよ」
「うむ」
また、数秒後。
「......シャチは、強敵だな?」
「そだね」
結局のところ兄は退屈しているだけなのだと、ドーチンは判断した。
あとは、言葉少なになってまた通路を進む──
時間の感覚も麻 痺 した中、長いような短いような沈 黙 を隔 てて、再びボルカンが声をあげるのが聞こえた。
「ふと、思ったんだが」
「なあに? 兄さん」
「なんで俺 たちは、こんなところを歩いているのだ?」
気のきいた返事が思いつかず、ドーチンは適当に返した。
「さあ......落っこちたせいだと思うけど」
「なんで落っこちた?」
「クリーオウって子に、なんとなく成り行きで......かな」
「ただの成り行きにしては、ひどく過 酷 な状 況 のような気がするんだが」
「それは、ぼくも思ってたとこ」
「こんなことが許されると思うか? 陪 審 員 はなんて言うと思う?──あの逆 噴 射 小娘に毛 生 え薬を飲ませてひげ剃 り殺すアイデアに、みんなして署 名 してくれるだろーか」
「......多分それよりも、なんで法 廷 に地 人 がいるんだ? って言い出すと思うけど」
「種族差別だな。まあ、小 人 どもは英 雄 を妬 むものだ。有名税というやつだな」
「まったく違うと思うけど、まあ別にいいよ。誰 も迷 惑 しないし」
「うむ。ところで、ひとつ気にかかるんだが」
「うん。なに?」
「頭が、割れるよーに痛い」
「ぼくも痛いよ。前からだけど」
「というか俺 様 の場合、なんか血がだらだら流れ出てるよーなのだがバタン」
「え?」
前方に、実際になにかが倒れたような音を聞いて──ドーチンは足を止めた。心底嫌 な予感を覚えながら、ゆっくりと進む。と、つま先になにかが当たった。
柔らかい。石ではない。慣 れた手 触 りの、毛皮のマント。ドーチンが着ているものと同じである。
兄が倒れているようだった。
「あ〜あ」
深々と吐 息 して──ドーチンは、その場に座 り込んだ。ひきつったももの筋肉が、そこに根を下ろすのが夢だったとばかりに、休 息 を歓 迎 している。実際、休 憩 はありがたかった。どうせ兄は、何分かで復活するだろうし。
(まったく......ついてないよな、今さらだけど。そーいえば、あの変な劇場とかでも、似たような目にあったっけ)
嫌な思い出を──嫌でない思い出というのも思いつかなかったが──心に浮かべてしまい、彼は後 悔 した。あれは最悪だった。
もっとも、最悪であったのは、ようするにあの時はこういった通路に閉じ込められたあげく水攻 めになったからであって、その一点を除 けば、今の状況も大差ないのであるが。そういう悲しい現実には、なるたけ気づきたくなかった。
(でも気づきたくないって思った時点で気づいてるってことだよね。まったく......あれ?)
ドーチンは、ぴくりと耳を動かした──というか、動かしたような気分になった。当然、通路は相 も変わらず真っ暗なままだが、どこからか、音が聞こえてきている。
ちょろろろ──という、小さな水の流れである。
(水の流れ......なんだろ? 飲める水かな?)
ドーチンは、さっと立ち上がった。疲労も忘れて、水音がどこから聞こえてきているのか、耳を澄 ます。喉 はからからだった。見えないが、当然空気に混じっているであろう黄 塵 のせいもあって、口の中に苦 い味が染 みついている。飲み水が確保できれば、こんなにありがたいことはない。
とりあえず、兄の──足だか襟 首 だかをつかんで、それを引きずりながら歩き出す。水音は小さかったが、意外と近いようではあった。進んでいくうちに、空気に水の臭 いが感じられるようになる。
「あ!」
彼は思わず声をあげた。ふと、壁 に手を突いたのだが、その壁が湿 っていたのだ。
と──
ごん。と、頭がなにかにぶつかって、足を止める。
「なんだろ?」
手を伸ばしてみると、それまでとても背のとどかなかった天 井 が、そこだけ極 端 に低くなっているようだった。いや──どちらかというと、天井がそこだけ崩 れているといったほうが近いか。そして、その崩れてめり込んできている先端の部分から、水は滴 っており──
ぼろっ......
手 探 りで探っていた天井が、唐 突 に、一部もげた。
「......え〜と......」
頭ほどの大きさの部分が、手の中に残っている。兄を片手で引きずり、もう一方の手にそれを抱 えて、ドーチンはなんとか状況を分 析 してみようと自分に言い聞かせた。
雨が降っていた。というか、ずっと降っていた。
その雨は、当然、空から降ってきた。
重力に従い落ちてきた。
地面に落ちてからも、さらに地下へと落ちていくだろう。
彼らは地下にいる。
今、キムラック市に降り注 いでいる水量を、できる限り過 小 に想像してみる(過小のほうがいいような気がしたのだ。猛 烈 に)。
どぼべばぼぼばどばどば......
さっきの、崩れた天井から滴る──いや、流れ落ちてくる水音は、すっかり変化していた。
「え〜と......」
まだあくまで状況分析に努 めているドーチンは、豪快 に流れ落ちてくるその水から跳 ねまくる飛沫 を全身に浴 びながら、陪審員にでもなんでも助けを求めたい気分ではあった。
◆◇◆◇◆
「わたしだけが、駄 目 だったと思った」
天 魔 の魔 女 は、落ち着いた表情でそうつぶやいた。洞 穴 の天井へと、捧 げるように両手をあげて──
「なにが?」
オーフェンは彼女に、聞き返した。少し離れた場所で、彼女の姿を見ている。
彼女は、視線だけをこちらに向け──まぶたを少し落として、笑みのようなものを作ってみせた。
「サクセサー・オブ・レザー・エッジ―鋼 の後 継 。チャイルドマン・パウダーフィールドのすべてを引 き継 ぐ者のひとりとして、わたしだけが駄目だと思った」
「なにを言ってるんだか」
呆 れたような声で、オーフェンはうめいた。が、彼女はやめない。独 白 のようにただ言葉を連 ねている。
「フォルテはあの人の立っていた場所を求めて戦っている。先生の地位を受け継いだのが彼。コルゴンは......どこにいるのか見つけられなかったけど、彼はきっと先生の強さを受け継いでいたはず。五年前ですら、彼は完 璧 だったわ。それで──あなたは? あなたは先生の技 を受け継いだ。わたしはあなたを試 したかった。人形を使って『キリランシェロ』を造り、あなたを挑 発 した。もちろんほかの目的もあったけど。あなたの力は、それを上 回 った。そして勝った」
「あれは、偶 然 ──」
反 駁 しかけた彼を──アザリーは、ただ視線を強めるだけで黙 らせた。そして、そのまま続ける。
「ティッシやハーティアやコミクロンは? 分からない。でもわたしは彼女たちが羨 ましかった。彼らは......ひょっとしたら、先生の願 望 を、それぞれ体現しているのかもしれないから」
「願望?」
「人を愛することへの願望......誰にも注視されない願望......そして──人生を終わらせる願望......」
「アザリー......?」
意 思 の抜けた声が喉 から漏 れる──オーフェンは自分の胸に触 れながら、もう声は出すまいと心に決めた。彼女にしゃべらせるべきだ。誰かがそう告げた。彼女自身かもしれない。自分かもしれない。違う誰かかもしれない。
アザリーはもうこちらを見てはいなかった。天 井 を見ている。彼女が見つめた場所から──なにか、鋭 いものが、するりと現れるのが見えた。
彼女は続ける。
「わたしは? わたしは先生の知識を受け継ぐはずだった......彼がわたしに用意してくれようとしていた遺 産 は、知識。彼の知識」
天井から現れたものは、切っ先だった。見ているうちにも、壁 を通り抜けてするすると姿を見せる──長大な剣。その刀 身 には、魔 術 文字が刻 まれている。
「でもわたしは、彼の持っていたすべてを受け継ぐ前に、彼を殺してしまった......」
剣が、完全に天井から抜け落ちた。床 に落下して、からんと音を立てる。
「わたしが継 承 者 を名乗るには、彼のことをすべて知らなければならない。そうでしょう? だからわたしは、ここに......来た。暗殺者 チャイルドマンの名声が歴史に登場した、この場所から始めようと思ったのよ」
決然と告げながら、アザリーは、足下 の剣を拾 い上げた。バルトアンデルスの剣を。
そして──こちらを向いた。
瞳 がわずかに曇 ったように見える。涙 の曇りだ。
「......彼をこの世から消してしまった償 いは、きっとできると思ってる。せめて、彼という人間がこの世に存在したことを無 駄 にしたくない。彼の持っていたものはすべて伝えなければならないわ。それが......わたしの償い」
曇りはすぐに消えた。瞬 きすらせずに。
オーフェンは、なにも答えなかった。ただ──ゆっくりとうなずいた。
彼女も──うなずいてくる。
「行くわよ、キリランシェロ。ここから逃げるわけじゃない。この《詩聖の間》で彼がなにを見たのか、それを知るために」
「彼女が知っていそうだけどな」
彼はつぶやきながら、洞穴の外を見やった。
地 底 湖 の上に吊 された女は──やはりまだ、黙 してこちらを見つめていた。
世界が開くように、闇 に光が。
それは湖 面 に輝 くきらめきを、剣が反射したものに過ぎなかった。眩 しくもない。明るくすらない。ただ闇の中に閃 いたからこそ、気づいた光。湖面は相変わらず、肌 がひきつるような冷気を放射している。その水そのものが死の世界であるかのように。死の世界への門であるかのように。
洞 穴 の淵 から、オーフェンは湖面を見つめていた。音はなく、ただ光だけがさざめいている。と、背後に気 配 を感じた。
「行くわよ」
アザリーが立っている。彼は肩 越 しに彼女を見つめた。精 悍 な彼女の顔の中に、いつもあったいたずらっぽい目の光はない。厳 めしい眼 差 し──寂 しげな瞳 でもある。
オーフェンは彼女にうなずいてから、淵から足を滑 り落とした。彼が水面まで落ちる前に、彼女が手に持っている剣の先を、水に突き刺す。
刀 身 が輝いた。輝きが黒い湖面に移り、閃いて消える。
一 瞬 で、湖面は厚い氷へと変化していた。湖面すべてが凍 りついたわけではないが、かなりの広さが氷 原 となっている。ブーツの裏が、その氷へと触 れる。凍った湖面は静かに彼の体重を受け止めてくれた。
と。
ぽたっ......という音とともに、首 筋 に悪 寒 を覚えて、オーフェンは身体 をすくませた。手をやってみると、天 井 から──はるか高い天井から、水滴が落ちてきたらしい。
地上の雨はまだ止 んでいないのだろう。地下のこの場所には、その水量がほとんどすべて流れ込んできているらしい。オーフェンは濡 れた指先を振ると、水滴を切った。指先から弾 かれた水滴が、氷の上に散る。
黒々と広がる湖面──それは瞳のようだが瞬 きもせず、なにも映 さず、ただじっと、そのすぐ上にぶら下がっている女を見つめているようだった。
女......やはりこちらを見下ろしている。指ひとつ動かすことなく、ずっと。
「あれは──女神じゃあないわ」
横から進み出てきたアザリーが、ぽつりとつぶやく声。それが、凍った湖面を吹く風のように遠ざかっていく。
「天 人 の遺 跡 をのぞいて、世界書を読んで、わたしなりに推 測 したことがある。あれは女神じゃない......」
「ご名答」
答えは──
はるか上、光が射 し込んでくる神 殿 のほうから聞こえてきていた。声は続く。
「それはオーリオウル。天人種族の始 祖 魔 術 士 だ」
アザリーと顔を見合わせて、オーフェンは警 戒 を目で合図した。言うまでもなく分かった表情で、彼女がうなずく。
声は続く。
「かつて、キエサルヒマ史以前、千年以上もの昔......神々を直接のぞき、魔法の秘義 を盗 み出した者──それが、始祖魔術士 と呼ばれるドラゴン種族たちの王」
オーフェンはその声を聞きながら、額 を──バンダナのない額を手のひらでこすった。アザリーが、低い声 音 で唱 える。
「浮かべ......」
ふっ──
と、体重が消える。
ゆっくりと、彼の身体は浮かび上がった。見ると、すぐ横にアザリーも同じく浮かび上がっている。重力から解 き放 たれ、彼と彼女はなにごとにも束 縛 されず高度を上げていった。手がかりもろくにない壁 面 を見つめながら、まっすぐに、上に。
声は続く。
「誰 よりも深く〝魔術〟を理解し、行 使 する者......それが始祖魔術士」
オーフェンはなにも答えなかった。答えるべき言葉を持っていなかったわけではないが、それを答えるべきが誰だか、分かりすぎるくらいに分かっていた。
アザリーにも分かっていただろう。その声と対決しなければならないのが、誰であるか。
彼女は相手の顔も見えないこの状態で、はっきりと声をあげた。
「あなたたちが崇 める物が、それであるはずはないわね......?」
キムラック教会の教義は、不可解な秘密主義に守られてきたが──それでもはっきりとしている部分がある。たったひとつだけ。
「魔術を滅 ぼせ──それが、あんたたちの教義のはず」
だが。
声は続く。
「......勘 違 いしてもらっては困 るな。我 々 が越えなければならない壁 は......貴様らだけだ。過去の過 ちから人間種族に出現した魔術士──ただ、それだけだ」
瞬 間 ──
オーフェンは、相手の姿を見た。
高度が上がり、《詩 聖 の間 》を望 む通路へと視界が開ける。いまだ不安定に宙に浮いたまま、オーフェンはただ自然体に視線を投げていた。きっかり六時間前、アザリーの魔術によって破 壊 され尽 くした感のある、広い通路......
視界の端に、真 紅 の鎧 を身にまとったクオがいた。壁にもたれて、腕組みしてこちらを見ている。引き結んだ唇 には、厳 めしさよりも薄い苦痛が見えたように思えた。それ以外には人間はいない──人間は。
オーフェンは、怪 訝 に思って眉 根 を寄せた。クオから離れて立っているのは、もうかなり見 慣 れた姿。
「人形......?」
我知らず、唇から声が漏 れる。
それはかつて見た殺人人形──天人種族の造りだした殺人ゴーレムだった。特 徴 のある、いびつな骨 格 。その硬 質 さを容 易 に想像させる光 沢 のある肌 。丸ハムに刃 物 でつけた切れ目のような口。ガラスのような瞳 。瞳?
さらに訝 る。その人形は、瞳だけが際 だっていた。鮮やかな緑色。人間にはない、ほぼ原色の緑色。光 彩 か、あるいはもっと深い場所からこぼれだしているような輝き。三角形に、つり上がった醜 い双 眸 ......
なにかが違った。判然とはしないが、オーフェンは直感した。反射的に身構えようとして、足場がないことに気づく。
「人形、か」
その人形は、にやり、と口を開いた。
「人形に、これができるか......?」
刹 那 、人形の姿がかき消える。
理 不 尽 な勘 で──オーフェンは、振り返った。偶 然 かもしれないが、ぴったり振り返った先に、人形の姿を見つける。
「空間転 移 ......⁉ 」
うめくオーフェンに合わせるように、アザリーも叫 んでくる。
「擬 似 転移じゃない──確かに転移したわ!」
人形は答えない。向こうも宙に浮いたまま、その細い腕をこちらへと向けて振り上げる。

関節がよじれた奇 妙 な指を五本、ぱっと、弾 けさせるように開く。
それだけだった。
(────っ⁉ )
衝 撃 が、後方へと──神殿の通路のほうへと、ふたりを吹き飛ばした。吹き散らされるように宙から転げ落ち、そして通路の床 へと投げ出される。受け身も取りようがないほど強く背中から落下して、オーフェンは小さな悲 鳴 をあげた。破 壊 され、破 片 だらけになった床を転 がっていく。
二回転も三回転もしたわけではなかったろうが、三 半 規 管 の振動を実際に聞いているような心持ちで彼は起き上がった。打ち付けた背中を手で押さえ、左右を見回してアザリーの姿を探 す──
最初に見つけたのは、クオだった。
その巨体が足音もなく動きだし──例のムールドアウルとかいう剣の柄 を振りかぶっている姿が、はっきりと見える。流 星 のごとく、帯 を引いていっせいに流れていく刃 の群 れ。その、流れゆく先に......
「アザリー!」
オーフェンは、叫んだ。が。
その一瞬後、床に倒れていたアザリーの胴を、クオの魔 剣 が斜 めに引き裂 くのが見えた。
彼女の身体が、大きく跳 ねた。そしてそのまま、動かなくなる。傷の深さまでは分からないが、刃が当たったことは間違いない。
オーフェンは彼女に駆 け寄 ろうと立ち上がった。だがそれよりも早く、クオが、立ちふさがるように、ばらばらの剣の刃をこちらへと向けてくる。細 かい破片に分かれたその刃のいくつかに、血のような汚 れと、彼女が着ているものと思 しき、黒い布がこびりついていた。
「どけ......」
凄 絶 な形 相 で、オーフェンはうめいた。クオはまったく動かない。
「控 えよ」
クオの唇 が、苦笑を浮かべる。
「済 世 者 、教主ラモニロック様の御 前 なるぞ......」
「なんだと.........?」
だが、答えてきたのは人形の声だった。
「それだけではない」
声は──宙に浮いたままの人形の声は。
キムラック教会教主、ラモニロックの声は続く。
「貴様は、我 が運命の女神の御前に醜 態 をさらしている──汚 れた血の醜態を」
(ンなことは──)
知ったことではないと、オーフェンも独 りごちた。クオがかざす刃 の向こうに、アザリーがぐったりと倒れている。バルトアンデルスの剣を抱くようにして、うつ伏 せに。
動きを見せない彼女の後 頭 部 だけをじっと見 据 えて、オーフェンは告げた。
「どけと言っているんだ」
つい、いつもの癖 で、毒 づきながら魔術の構成を編 む。が、構成は彼に頭 痛 を与えただけで、意味もなく霧 散 していった。
(くっそ......)
焦 るが、なにもできない。真 紅 の鎧 をまとった巨人──クオ・ヴァディス・パテルを眼前に、オーフェンは構えを取った。
(こうなったら、やってやる)
かつて天人が、人間の魔術士と戦う力を与えるために遺 したという剣。そして鎧。
(どうせ魔術なんざ、使えたところで通じやしねえんだ。なら、同じことだ......)
自分に言い聞かせ、奮 い立たせる。動 悸 はそのままだが、体温が上昇する。拳 に力を込めて、彼は飛び出しかけた。と──
身体が動かなくなる。
「......死に急ぐこともあるまい?」
身体全体が石になったように、冷たく固まっている。心臓に激 痛 を覚えるほど唐 突 に下がった体温に、オーフェンは戦 慄 した。今さら寒 気 が走るでもなかったが、意識が遠くなる。この感覚は......
気 配 だけで、周囲を探 る。既 に視界が白 んでなにも見えなくなっていたが、その分、ほかの感覚がシャープになっている。クオはまったく動いていない。そして背後に──彼の背後に、いる。
「教主は貴様らに、聞かねばならぬことがある」
身体が──動き出す。
指で触 れられている。教主の指が、自分の首 筋 に当てられていた。なにがどうというわけではない。ただ触れているだけだ。だけだが。
その指先だけに身体を持ち上げられ、さらに──硬 直 して動けないまま、オーフェンは再び後ろへと投げ出された。教主の頭の上を越え、その肩越しに、信じられないほどの勢 いで放り投げられる。
教主の指を離れた瞬間、硬直は解 けた。
ぎりぎりのところで受け身を取って──顔を上げる。見ると、彼は五メートルは飛ばされたようだった。背を向けたままの教主が、にやりと、肩越しに振り向いてくる。
オーフェンは、はっきりと悟 った。
「白......魔術......?」
「そうだ」
教主は笑みを浮かべたまま、うなずいた。アザリーを指 し示し、続ける。
「そこの娘が扱 うような拙 い技 とは違う。本物の白魔術というものを見たことはあるまい? 見れば、貴族連 盟 がなぜ、白魔術士を監 禁 しているのかが分かる......彼らは、大陸脱出の鍵 だからな」
(白魔術......)
見たことがなかったわけではない。アザリーは白魔術と黒魔術、双 方 を扱うことができたし、その才能を隠 そうともしていなかった。だが、確かにアザリーの白魔術は、そのための訓 練 も受けていない、いわば見 習 いのようなレベルのものに過ぎない......
さらには肉体を捨 て去り、精神体になった白魔術士というものに出会ったが、それも大したものではなかった。精神制 御 の特別な訓練を受けたオーフェンならばそう難 しくもなく防 げる程度のものだ。
だが、教主が用 いた魔術には、防ぐどころか抗 うことすらできなかった。呪 文 すら使っていない。それを、天人の用いる沈 黙魔術 にも匹 敵 するほどの力で......
オーフェンは、はっと気づいた。
「どういうことだ⁉ 人形が、人間の音声魔術を使うだと......? 天人の造った人形は、天人の魔術文字しか使えないはずだ」
「貴様もまた、誤 解 するのだな。わたしは天人ごときに造られたものではない」
教主は告げてくると、完全にこちらを向いた。
「教主は、いかなる者の命にも伏 しない......我は、誰 が主命にも従わぬ。我は我が思う通りにあり......」
(人形じゃあ、ない......)
彼は、ぞっとしながら認めた。人形ではない。初めて見た瞬 間 から感じていた、人形たちと違うなにかは──これだった。命令によってではない。自分で動いているのだ。この教主とやらは。
教主はゆっくりと、腕を振った。
「貴様に聞かねばならないことがある......記憶を探 っても良いのだが、触れるや否 や壊 れてしまう者が多いのでな。貴様の口から話すが良い──」
振った腕をまた引き寄せ、それは続ける。
「チャイルドマン・パウダーフィールドと貴様が呼んでいるらしいあの男......奴 は今、どこにいるのだ?」
「先生......だと?」
うめきながら、ひどく痛む脇 腹 を押さえ──オーフェンは、聞き返した。なんとかひざを立たせたいが、床に投げ出された衝 撃 が、身体に残ってそれを許そうとしない。
「そんなことを聞いて、どうするつもりだ......?」
「......唯 一 の男だからな。この教主と相 対 し得 る......唯一の。我が〝ネットワーク〟と同質の力を持つ......」
教主は饒 舌 だった。それがいつものことなのかどうか、オーフェンは分からなかったが──なにか、押し立てるようななにかが、その意 思 ある人形の言葉を後押ししているようにも思える。
思いついたように、付け加えてくる。
「ふむ。無知なる者からものを聞くことはできぬ、か。少し話をしてやろう」
「教主様......」
教主の後ろから、咎 めるようにクオが言葉をはさむが──教主は聞きもせず、続けた。
「貴様、神なるものをいかと考える?」
(............?)
どうでもいい──
オーフェンは、胸 中 で歯がみした。が、ダメージを少しでも抜くために、時間稼 ぎをしなければならないのも事実だった。
床に這 いつくばったまま、教主の姿を睨 め上げる。囁 くように、彼は答えた。
「......キムラック教会が奉 じるのは、運命の三女神 ......旧世界、巨人の大陸において、すべての存在の誕生 とともにあり運命を紡 ぎ、それを結びつける。ドラゴン種族は神々から、魔法の秘義 を盗 み出し、魔術として行使 することを覚えた......」
「世界の誕生。それ自体が神の発生だった」
教主は、こちらの答えを聞いていたのかいないのか、すぐさま告げてきた。こちらから視線を外 し──《詩 聖 の間 》へと向きやる......
「神とは、無限の存在だよ。無 辺 広 大 、無限の力。世界そのものだ、神というものは。全知全能。そして......零 知 零 能 。神には、世界を知ることなど必要ない。そして力など必要ない。世界そのものが、自分なのだから! 赤ん坊に、自分の手がなにでできているか知る必要があるか? 血と肉と血管の構造を知ってる必要があると思うかね?」
「まるで見たような言い方じゃねえか」
「見たのだよ」
教主はあっさりと、そう言った。自分の顔を手のひらでこすり──緑色の眼 だけを、ぎろりとこちらに向ける。
「そして......運命を剥ぎ取られた。魔術の力。不老不死。始祖魔術士。それがこの姿......この教主だ。天人は、このわたしの姿を見て、人間を人形へと変化させるヒントとした」
「戯 言 だ」
オーフェンは毒づくと、なんとか立ち上がった。身体が痛む。そして、頭痛が激しく、深くなっていく──
教主には、その痛みが分かるのではないだろうか。オーフェンがそう思わずにいられないほど、その意思ある人形は彼の苦痛に比例して笑みを大きくしていった。腕を広げ、指を広げ、そして口を広げ、叫 んでくる。
「そうかな? わたしにそれを告げたのは、貴様の師なのだぞ!」
オーフェンは──
とっさに横に跳 んだ。いや、かなりの確率で予測してはいた。彼が跳び退 いたその場所を、漆 黒 の刃 の破片が叩 く。
「クオ⁉ 」
不快そうな声を、教主があげる。その教主を避 けながら前に出て、クオ・ヴァディス・パテルがさらに剣の柄 を振り上げるのが見えた。貫 くような激 痛 が後頭部から額 に走った──だがオーフェンは気づいていた。苦痛を我 慢 さえできれば、その苦痛は自分を鋭 くしてくれる!
クオの次の動きが見えた。彼の予想よりはるかに遅く、ムールドアウルの剣が振り下ろされる。さらに強く、さらに遠くへオーフェンは踏み出した。横にではない。前に。
ある一点で、立ち止まる。
彼を脳天から両断する軌跡で──刃の群 れは、落ちてきた。
そして、途中で......止まる。
あと数センチ。額のほんの手前で、刃のひとつが止まっていた。刃の群れの向こうに見える、クオの驚 愕 の顔。
そして、死の教師の分 厚 い胸 板 を背中から貫いている、剣。
バルトアンデルスの剣の刀身には、クオの血は一滴たりとついていなかった──ただ輝 く文字が数個、銀光を放 っている。黒い戦 闘 服 に血をべったりと滴 らせたアザリーが、その剣にもたれ掛かるように立っていた。両手で抱 え込んだ柄を握 り直すようにし......荒い息を吐 いている。
剣でクオを貫いたまま、彼女は口を開いた。
「......その剣を捨 てなさい。このバルトアンデルスの剣の力は知っていたはずね? 今はあなたに傷ひとつつけていないけれど、わたしが手を離したり意識を失ったりしたら──この剣はただの剣にもどるわよ。わたしの命令ひとつであなたを石にでもバナナパフェにでも《変化》させられることは言うまでもないけれどね」
クオは──無言で剣の柄を床に落とした。同時に、宙に浮いて並んでいた刃 の破片たちも、ばらばらと床に落ちる。
「アザリー......」
オーフェンは、安 堵 の吐 息 とともにうめいた。彼女は気 丈 に、ウインクしてみせる。が、笑顔を作ったところで重傷なのには違いない。その額に脂 汗 がにじんでいるのがはっきりと見えた。
彼女は息をついてから、教主のほうを見やると、告げた。
「......続きを言いなさい。先生が......どうしたっていうの?」
「約二百年前──」
「先生のことを言えって言ってるのよ!」
「奴 の......話なのだがな」
教主ラモニロックは、皮 肉 な笑みを浮かべてみせた。
「この教主と、アイルマンカー結 界 とドラゴン種族と人間種族、天人種族の始祖魔術士オーリオウルと、その使い魔イスターシバ、さらには......イスターシバの門 弟 〝XX〟と呼ばれた青年の物語だ......」
「XX......?」
「裏切りの符丁 として、その男の名前は歴史から抹殺 された。魔術士同盟は、自分たちの歴史にその名前を残すことだけはできなかったのだ。世界でも最強最後の黒魔術士の名前を......」
波 紋 が収 まるように、教主の顔から笑みが消える。
「貴様らは、《詩 聖 の間 》にいながら最 終 拝 謁 を受けられなかったのか? 魔術士であったならば、容 易 であろうに」
「最終拝謁?」
聞き返したのは、オーフェンだった。何度となく聞いた言葉だったが。
教主は軽く、かぶりを振ってみせた。今まで見た人形とは違う、滑 らかな人間らしい挙 動 で。
「〝過去 〟と邂逅 する......最終拝謁」
「過去──」
オーフェンの脳 裏 に、夢の中に出てきた女と、シスター・イスターシバ、それにチャイルドマン教師の姿が浮かんだ......
「貴様は見た か?」
(見た......見たのか? いや、あの夢は途中で終わって......)
動 悸 が高まる。確かに、あの夢は途中で終わったはずだ。アザリーに呼び起こされ......目覚めた......
そして、頭痛までもが高まる。
(違う──)
あの女は──ずっと、ずっとこちらを見つめていた。死んでいるはずなのに生きている眼 差 しで。なにかを言いたげに......
はっとしてオーフェンは、《詩聖の間》を見やった。女は今でも砂 塵 の中、地 底 湖 の上に宙づりにされている。そしていまだ、こちらを見つめている。
その女の瞳 の中に、自分が吸い込まれていくような感覚を覚えて、オーフェンは目を閉じた......
◆◇◆◇◆
「汝 には長らくつき合わせてしまったな。罪に思う......」
その女の──自分の第一声に、彼ははっとした。身体が勝手に声を出したのだ。チャイルドマンの表情に、つらい、身を切られるようななにかが浮かんで、天 井 へと顔を上げる。
その女の名前は、身体のほうが知っているようだった。だが、もとよりオーフェンも記憶の片 隅 で覚えていた。シスター・イスターシバ。
バジリコック遺 跡 で、殺人人形が嘲 っていた名前......
(終わる......)
オーフェンは、静かに予感していた。
水に浮かぶような、あの感覚。死後と思い違いするような浮 遊 感と不安感......
だが目覚めてはならない。最後まで見なければ。
彼は確信していた。
これは、イスターシバの記憶なのだ。
その魔術は彼女自身の生命力を際限なく吸い込みながら、収 束 していく──
だが彼女は文字を描く指を止めようとはしなかった。
そう。止めなかった。もう自分の生命が枯 渇 しているのは分かっている。彼を迎 え入れられるのは、この魔術くらいしかない──
彼女が虚 空 に文字を重ねるごとに、男の顔が驚 愕 から悲 壮 なものへと変化していくのがあからさまに分かった。
「やめてください!」
彼が、弾 かれたように叫 ぶ、短剣を下ろして、続ける。
「あなたに、そんな大魔術を使うような余 力 が、残っているはずがない──」
天人種族は疲 弊 していた。種族すべてが斜 陽 の中にあった。没 落 の原因が、太 古 からの因 縁 ......呪 いにあることを、彼女は知っていた。
彼はただ震 えるだけのようだった。彼女はそれを見て、内心で苦笑した──まだ弱い種族。人間種族。彼らは、自分たちの助力がなくとも生きていけるだろうか?
(恐らくは、可能だろう──)
彼女はむしろ自分を慰 めるように、そう思った。できるはずだ。信じてやらなければ。彼らは、彼女の子供たちなのだから。
彼はただ力なくこちらを見つめていた。自分の死を、どう見るのだろう、その男は──彼女はあえて笑わなかった。微笑 んでやりたかった。だが、その優しさはきっと、彼を悲しませる......
その代わりに、彼女は淡々と告げた。
「この文字は汝を殺す。最小単位まで分解し、そして数百年の後の時代に、再 構 築 する」
光の文字は刻々と大きくなっていく。そして激しさも増していく。
その輝 きが、ついに広間を満たした瞬 間 ──
彼が、絶 叫 した。
なにを叫んでいたのか、聞こえない。聞きたい気もした。聞けば自分は泣くだろう。間違いなく泣くだろう。聞きたい。
その絶叫が終わる頃 には、光も消える。
そして彼女は倒れていた。顔だけをなんとか上げる。それは魔術などよりはるかに困 難 なことのように思えた。背後には、もはやどこも似ている部分のない、自 らの美しい肖 像 画 を祭 壇 に背 負 っている......
そうか。彼女はまた苦笑した。絵には意味があった。
彼と彼女の、ちょうど中間あたりに、ひとつの文字が浮いていた。文字は音もなく、ゆっくりと彼に向かっていく。
だが、恐ろしく遅い。彼のもとまでとどくには、数分はかかるだろう。
彼女の、うめきにも似たつぶやき声が、広間にこぼれた。
「この文字が...我 の、我の最後の魔術」
彼はなにも言ってこなかった。ただ文字を見つめていた。
「この文字に触 れれば──汝 の身体 は消滅 し、そして数百年後、この大陸のいずこかの地に再生される。だが無論」
と、彼女は自嘲 した。
「無論、汝はこの文字を避 けることもできるだろう......横を通り過ぎて、我にとどめを刺すのも容 易 であろう。我が子よ。汝は決断のできる男だ。ゆえに、決断を任 せよう。いかなる決断であろうとも、我にとってはたいして重要ではない。いずれにせよ、我が死は避けられぬ。この砦 は、我が種族の墓 所 としては申し分ない場所だ。死 処 で死に抗 うことほど、無 粋 なこともなかろう」
彼が再びなにかを叫ぼうとしているのが見えた。が、声が出ないらしい。
かぶりを振る、彼。
そして彼はそのまま文字を見 据 えたまま、動かなくなった。彼女はただひとりで語り続けた。
「だが、どういった決断にせよ、しばしの時をもらわねばならぬ。汝にはこれから、長い物語を聞かせなければならぬゆえ──」
その物語は、そう──彼にとっては神話に過ぎなかっただろう。
だが彼女は違う。神話の中から、それを聞かせる......
彼女は、意識が白 んでいくのを感じていた。その感覚が、彼と同調していくことは、彼女には喜びだった。恐らくは最後の。
ぴしっ──
乾 いた音が、耳の奥で鳴り響 く。思わず瞬 きすると、光景は一変していた。
広大な空に、彼はいた。吹き荒れる風は彼に触れない。精神体のような感覚で、空に浮かんでいる。
海はどこまでも広がり、そして無数の大陸が眼下にある。無数の──
無数の 大陸が! キエサルヒマ大陸ではない......いくつもの大陸が。
彼女は語った。
「物語を語ろう。死ぬまでの時を以 て」
ぴしっ──
またもや、耳を打つ音。また瞬きすると、見えるものが変化している。あとはその、繰 り返しだった。
「それは太古の時代......我が主、我らが種族の始祖魔術士オーリオウル様の記憶によれば、八百年以上の昔......いまだ我らが、このキエサルヒマ大陸になかった頃の時代......」
彼が立っていたのは、どこかの地上だった。豊かな森が遠くに見える、小高い丘の上。日の光が惜 しげもなく降り注 ぎ、風が穏 やかに渦 巻 いている。だが、豊かであったのはそうした自然ばかりではなかった。もっとも大きく視界に横たわっていたのは──壮 麗 な都 だった。石造りの螺 旋 の歩道。高い尖 塔 。あまりにも広大で、どこが中心かすら判然としない。
文 句 なく美しい都だった。そこを闊 歩 するのは──人間のように見えた。いや、違った......違うはずだった。
黒い髪......ほぼ全員が黒い髪だが、人間とはどことなく雰 囲 気 が違う。
天人種族によく似ていた。
「世界は緩 やかに繁 栄 していた。なにもなかった。ただ六種の狡 猾 なる種族が、それぞれ独自の文明を築 き......時に交流し、時に争った」
通りを歩く人 混 みには、女が多いように見える。が、男もいる。歩きながらしゃべり、笑い、ふざけ合いすら自然にしている。
まるで......人間種族のように。
「ドラゴン種族──それが、その種族たちの総 称 であった。圧倒的な軍事文明を築いた鋼 鉄 の軍馬、ウォー・ドラゴン=スレイプニル。密林の果てなき放 浪 者 たる、レッド・ドラゴン=バーサーカー。影に息するもの、ディープ・ドラゴン=フェンリル。芸術の美都を築いたフェアリー・ドラゴン=ヴァルキリー。すべてを手にしていたミスト・ドラゴン=トロール。そして我ら......、天なる人類、ウィールド・ドラゴン=ノルニル......」
「その六種族がすべて融 和 した、記念すべき時代がある。そして......それがまた、破 壊 の始まりでもあった」
「我らは自 らの文明を、より高度な次元に押し進めようと、各 々 の種族からひとりずつ、知恵者を送り出した。ドラゴン種族の、六人の知恵者。マシュマフラ。ガリアニ。レンハスニーヌ。プリシラ。パフ。そして......オーリオウル。彼らは賢 者 会 議 と呼ばれ、我ら種族すべての誇 りであった。彼らはその誇りに恥 じぬ計画を持った」
「彼らは......世界を制 御 する方法を......考案しようとしたのだ......」
◆◇◆◇◆
「奴らが発見したものは......この世界を構成する法則......いや、原則とも言うべきものだった」
夢と現 の狭 間 で──オーフェンは、二者の言葉を聞いていた。再び目を開く。数秒と経過していなかったろう。だがすべてを思い出していた。夢の中で見たすべてを。
教主は超 然 と、こちらと、アザリーと......そして胸 板 を剣で貫 かれたまま動けないクオまでを見回して、うなずいた。意味のある挙 動 だったのかどうかは分からない。が、教主はすぐにその視線を《詩聖の間》へと移した。
「《常世界法則 》──奴らは、その法則をそう呼んだ。世界全般 のすべての法則だ。フィジカル・ロウならぬ、フィジカル・システム......フィジカル・システム=ユグドラシル。これは神々のあるべき姿だったのだよ。確かにシステムは絶対だった。が、不変ではなかった......」
教主につられてその《詩聖の間》を見やり、オーフェンは長い吐 息 をついた。女は──オーリオウルは、もうこちらを見ていない。目を閉じている。
(そうか......)
オーフェンは、うなずいた。肩から力が抜けていく。もう構えを取る必要はない。
「彼らはその法則を発見し、そして......それを操 る術 を見いだした」
拳 を開き、彼は続けた。教主の姿を見 据 えて、低い声から──次 第 に声を大きくして。
「魔術」
緑色の目が、こちらを向いた。
「......貴様か、受け継 いだ者は」
「............」
黙 り込んでいると、アザリーが呼びかけてくる。
「キリランシェロ?」
それには答えずに、オーフェンは続けた。言葉が、自分のものではないようにわき出てくる。
「だが問題が起こった。法則を我がものとする魔術は......その法則である〝魔法〟そのものに矛 盾 を作り出した。今の俺 と同じさ。法則を越えてそれを支配する法則を、法則そのものに内 包 してしまったんだ」
「特に、ドラゴン種族の首長──賢者会議が手に入れた力は、絶大なものだった。各々の種族の魔術とは比にならぬほどの魔力に......そして、不老不死。神々に直接接 触 した、かの奴 らは、すべて刻 印 を押され、運命を剥 ぎ取 られた──死ぬことができなくなったのだ。奴らが喜んだのかどうかは、我は知らぬ。知りたくもない。重要なのは、その力を得た代 償 だ──世界に及 ぼされた結果だ!」
叫 びが、広大な《詩聖の間》にまで反 響 していく。
「結果──世界は狂ってしまったのだよ」
教主はいかにもの芝 居 がかった仕 草 で胸を張り、腕を振った。頭を傾 けて、続ける。
「法則、つまり神々は全知全能にして零 知 零 能 。無限の力というものがそういったものだということは、既 に言ったな。だが魔術の出現で、それが壊 れた。神々は全知全能よりひとつ小さくなり、零知零能よりひとつだけ大きくなった。それが......なにを引き起こしたか、貴様は分かっているな?」
こちらへと問うてくる。オーフェンは即 答 した。
「〝現出〟」
「神々の現出、つまり常世界法則としてしか存在していなかったものが、生物として具現化してしまったのだ」
「神々は無限ではないがそれに近しい力を持ったまま、ただの生物として現出してしまった。さらには肉ある生物として存在したことにより、意 思 を持ってしまったわけさ。神々は怒 り狂った。笑った。泣き叫 んだ。そして......旧世界は、その力で破 壊 し尽 くされた」
早口にしゃべりながら──やはり激しくなっていく頭痛に顔をしかめる。痛みを無視して彼は続けた。
「そして、彼らがその脳で考えたのは、ただひとつのことだった。自分たちを、世界をもとにもどすこと。そのために彼らは、ドラゴン種族を全 滅 させることがベストだと判断した。魔術が行 使 されなくなれば、法則にも矛 盾 がなくなる......」
「魔術を......絶滅......させる。神々の......意思。それが、あんたたちの......教義の正体だっていうの?」
息を荒らげて──もういい加 減 、体力も限界だろう──、アザリーがうめく。剣を抱 える手が震 えているのが見えた。血の気 がなくなった表情には、だが、はっきりした怒りがのぞいていた。
だがそれを受け止める教主は、気楽に肩をすくめるだけだった。
「我が教義は......もう少し切実なのだよ。それに、神々がドラゴン種族を滅 ぼしたいのなら、好きにすればいい。我々には関係がない。ことはすべて、我ら人間種族だけの問題なのだ」
「人間種族......人間の......魔術士」
アザリーが、激しく叫んだ。
「人間の魔術士をも、神々は滅ぼす──まさか」
「そのまさかだよ」
呆 気 なく、いびつな卵 形 の頭部が、うなずく。
「神々はこの大陸には、いまだ入り込めていない。だがいずれはその足を踏み入れるだろう。そして魔術士の存在を見れば、人間種族全体をも滅ぼすだろう! だから神々がこの大陸に来る前に......我々は、人間種族から、世界全体の背 約 者 たる〝魔術士〟の汚 れた血をすべて、根 絶 しなければならない」
ぽたりっ......
水滴が再び、オーフェンの首 筋 を撫 でた。叫ぼうとして──なにを叫ぶかはさておいて──溜 めていた息が、悪 寒 とともに消えた。訝 しく思いながら見上げると、やはり六時間前にアザリーの魔術が破壊した神 殿 の天 井 に、大きな水の染 みができている。あの天井部分も地下にあるはずだから、地下水が染みだしてきているのかもしれない。つまりは、地下室の雨 漏 りだ。
だが、そんなことはどうでも良かった。視線を下ろすと、教主に向けて、アザリーが罵 倒 の叫びをあげている。
「ふざけるんじゃないわよ!」
顔色はともかく、怒りのこもった双 眸 にだけは生気が燃えていた。
「そんな、おとぎ話とごちゃまぜの戯 言 で──現出した神々⁉ そんなものが、いつ来るっていうのよ⁉ 」
「もうそこにおわす」
いびつな腕による優 雅 な仕草で、教主は《詩聖の間》を示してみせた。相変わらず、宙づりにされたままの女──
アザリーが、さらに声を張り上げる。唇 に血がにじんでいる。喉 が破れたせいか。あるいはもっと深い場所からの血かは分からないが。
「それは女神じゃない! 見れば分かるわよ! 緑色の瞳 の天人種族! あれがあんたの言う通り、本当に始祖魔術士なのかどうかはさておいてね!」
「では、その首をつかんでいるのは誰 だ」
教主は腕を引っ込めないまま、やんわりと言ってきた。アザリーの声が──ぴたりと止まる。力尽きたせいではない。その瞳に、ありありと驚 愕 が浮かんでいるのが分かった。大剣から、片手がずるりと落ちる。
彼女も悟 ったのだ。
沈 黙 の中、自分の目を指さして、教主が口を開く。
「この緑の双眸について教えてやろう。これが烙 印 だ。神々の姿を見た者への」
その緑色の目が光った......
「わたしは神の姿を見たのだ。そして神に見られた。だからわたしは教主なのだよ。わたしは運命の女神に運命を剥 ぎ取られ、人間種族の始祖魔術士とならざるを得なかった 」
オーフェンは即 座 に思いついて、うめいた。
「くそったれが......結局......てめえの姿を、神とやらが見て刻 印 を与えたんなら、もう人間種族はどのみち駄 目 だってことだろうが......」
「違う。我が人間種族全体にはいまだ刻印が与えられておらぬ。だが魔術士の血が強まっていけば、いずれ、自 ずと刻印が──ドラゴン種族の緑の目が──現れるはずだ。それが人類すべてに広がる前ならば、まだ機 はある」
「そ......んな......」
声を震 わせながら床 に倒れようとしているアザリーを見て、オーフェンは舌打ちした。あの様 子 は、体力が尽きただけではない。
(精神支配!)
とっさに駆 け出そうと踏み出すが、それよりも早く、クオの鎧 から光の翼 が広がるのが見える。
翼はくずおれようとしていた彼女の身体 と、彼女の剣とを、同時に跳 ね飛ばした。水平に転 がっていくアザリーと、弧 を描いて跳んでいくバルトアンデルスの剣。
大きく胸に含 んだ息を吐 き出すように、クオが雄 叫 びをあげる。翼が今までになく大きく展開し、翼というよりも花 弁 のように広がっていく。
オーフェンは全力で駆け出した。教主の横を通り過ぎる瞬 間 、その興 味 なさそうな表情を見た。叫ぶクオが、こちらを見つける──
意識が飛んだ。クオが驚 くほどの素 早 い動作で、両腕を巻き込み、翼を羽ばたかせる。崩 れた床を、光の翼が一打ちし、反動でムールドアウルの剣の柄 を跳ね上げた。死の教師の左手が、それをつかみ取る。
止まらずに、オーフェンは距 離 を詰めようとした。クオの手に剣がもどった瞬間、ばらばらに落ちていた刃 の部品も宙に浮く。
(あと一 跳 び!)
クオの顔のしわまで分かる距離に接近し、オーフェンはさらに踏みだしを強めた。刹 那 ──
間に割り込むように、光の翼が眼前に現れる。
一瞬で、彼は跳ね飛ばされた。どちらの方向にか分からないが、浮 遊 感 が身体を包み、そして衝 撃 。床に叩 きつけられる。
結局、真後ろに弾 き返されたらしい。もと立っていた位置で、彼は倒れていた。だがダメージはさほど感じない。すぐさま立ち上がる。
(すぐに反撃が来るはずだ......!)
オーフェンは身構えて......そして、クオが嘲 笑 を浮かべながら、こちらに背を向けるのを見た。
アザリーのほうへ、剣を向けている。
クオが剣を振り上げた。
「やめろっ!」
魔術のように──叫ぶ。だが叫びでは、敵を振り向かせることすらできなかった。
ムールドアウルの無数の刃が、起き上がろうともがいているアザリーを、再び打ち据 える。今度こそはっきりと、鮮 血 が黄 塵 にしぶきを散らした。
「この──」
再度駆け出そうと、オーフェンは毒 づいたが、今度は身体が動かなかった。眼球だけを動かして見やると、教主の細い指がこちらを向いている。
「クオめ......愚 かな男だが、状 況 判断くらいはできるようだな」
なんとか身体の自由を取りもどそうともがくが、指一本動かせない。こちらを差している指と、こちらを見据えている緑色の目をにらみ返すことしかできない。
「なんで──アザリーをっ!」
オーフェンは唾 の泡 を飛ばして叫んだ。彼女はもう動けなかったはずだ──その彼女をもてあそぶように、クオの魔剣が二度三度と撫 でていく。
答えてきたのは、教主だった。
「貴様には聞かねばならないことがあるからな......貴様を殺そうとしたならば、わたしが邪 魔 していた」
「なら──とっとと聞け! 俺にゃ急ぎの用事があるんだ!」
「ふむ......?」
気を持たせるように、息をつく教主......
相手が実際に口の中にいるのならば嚙 み潰 せると確信できるほどの力で歯を食いしばりながら、オーフェンは相手の言葉を待った。身体が動かない。なんとかこの教主の白魔術を解 かなければならないのだが──
(手がとどく位置じゃねえ......)
仮にとどいたとしても、動けない。
教主は回想するように、涼 しげな声を出してきた。
「わたしと同じ、過去より来たりし者......ドッペル・イクス、いや貴様がチャイルドマンと呼ぶあの男は、どこにいる?」
「過去より......来たりし......」
オーフェンは、確認するように繰 り返した。夢の中の記憶が蘇 ってくる。そうしているうちにも、クオの剣が跳 ね、アザリーの身体が弾 け、鮮 血 が舞う──
彼女の悲 鳴 に、教主がうるさげにそちらを向いた。だが一 瞥 だけでもどってくる。
「わたしは二百年以上も、ずっと......ここにいたのだよ。我が教義のために──人間種族の正義のために」
「御 託 だっ!」
「貴様らの存在が神々の怒 りを買い、種族を滅 ぼすかもしれぬというのにか⁉ 貴様などの命と言葉に、なんの意味がある! この教主が知る必要があるのは、あの男だ!」
「あの......男......」
「我を殺す力を持つ男は、あの男だけだ。この人間種族の始祖魔術士たる我は、不老不死、決して死なぬ。神々に接 触 し、システムの中に組み込まれてしまったからな! 始祖魔術士とは鍵 なのだよ! システムに食い込んだくさびだ! 我を介 して、貴様らは魔術を使っている──我の存在があって初めて、人間はシステムに介 入 できる! だが......我が死ねば、人類から魔術の力は消える」
「人間は魔術の力を......天 人 との混 血 で得た......てめえは関係ねえだろ......」
「天人から得たのは制 御 する力だ。魔力を魔力として感知できる感覚だ。どちらが欠けても魔術とは呼べぬのは、貴様には分かるだろう。種としての生命力に富むドラゴン種族には自 然 に備 わっていたが、人類にはなかった。だが混血によってその特性を得た」
教主はそこで言葉を切り、さらに語気を強めた。
「あの男......奴 はイスターシバから、我を殺すための秘策 を授 かったはずだ。そのために、かのイスターシバはあの男を暗殺者として育てたのだから! 奴の行方 ! 奴は突然、我 が〝ネットワーク〟から消えた──」
「死んだからさ」
その短い言葉に──
教主の表情から、感情らしい感情がすべて消えた。
呆 気 に取られて、こちらを見ている。その間の抜けた顔に、オーフェンは暗い満足を覚えていた。
「死んだよ。チャイルドマンは。だからアレンハタムの人形たちが動き出したんだ。あの夢──最 終 拝 謁 だかなんだか知らないが、要は、あのオーリオウルとかいう女の精神波じゃねえか──ま、なんと呼ぼうと自由だが、てめえもあれを見たんだろう? 精神制御に長 けた者ならば感 応 できる。魔術士になら簡単だ。そうでない者だって、偶 然 感応できることもあるかもしれない。あれだけ強力な幻 視 ならな。イスターシバか。あのオーリオウルの使い魔──司祭だとか言ってやがったか。だから記憶を共有してるんだろう。そういや、イスターシバの肖 像 画 も燃えちまったよ。あの人形を全部ぶっ壊 したのも俺だ......」
思いつくだけ口走るが、教主からは反応がない。
ただ呆 然 と、立ちつくしている。
(くっそ......どうせなら、精神支配も解 きやがれってんだ......)
オーフェンは口の中で独 りごちた。身体はいまだ動こうとしない。
そうしている間にも、クオはアザリーを切り刻 んでいく──武器が武器なため、一撃で致 命 傷 を与えられることも少ないだろうが、浅い傷でも数が増えればそれだけで十分だ。
だがこちらは一歩も動けない......
いや。
(......魔術)
オーフェンは、ふと気づいた。動けなくとも。できることはある。
(声が出せるんだ。構成さえ編 めれば......魔術が使える)
思い浮かべただけでも、頭痛がぶり返してきた。顔をしかめるが、覚 悟 を決める。
(それしか......ない)
彼は、クオの背中を見つめた。翼 は──必要がないからだろう──もう開いていない。魔術さえ使えれば、一撃で倒せるはずだった。
十字に跳 ね回る刃が、ずたぼろのアザリーを、さらに打ちのめしている。彼女はもはや悲鳴もあげてはいなかった。気を失っているのか、ただ動けないだけか。
傷だらけの彼女の顔を見ながら、せめて前者であってくれとオーフェンは願った。
心の中で念じる。自分に言い聞かせるように。
(魔術が──あれば──ほんの一撃だけでもいい。数秒でいい......)
腹の底から──魔術が欲しいなどと願ったことはない。魔術はいつでも彼とともにあった。
絶対に否 定 はできない。魔術は、もうひとりの自分自身のようなものだ。
どちらが大きいわけでもない。どちらも自分だ。
片割れだけでは──もう生きてはいけない。
(今、必要なんだ。なにが足 りないってんだ? なにが足りなくて力が使えない?)
アザリーの言葉が、胸に甦 ってくる。
──結局、あなたは心のレベルをキリランシェロ......少年時代のものまでもどしてしまっているんでしょうね。
(違う......俺は俺だ。昔も今も。俺は俺だ)
──それを、本来の成長したところにまでもどすことができなければ、つまりは、あなは今のままってことよ。
(違うって言ってるんだ!)
彼は叫 び始めた。
「我は──」
構成は、最 も使い慣 れた単純なもの──
「放 つ──」
しかし、最も強大なもの──
「光の──」
言葉よりも速 やかに滑 り出てくるもの──
「白 刃 っ!」
光が──
まぶたの裏に瞬 いて、オーフェンは悲鳴をあげた。激しい苦 痛 が、体内を駆 け回 る。頭痛だけではない。内臓から皮 膚 まですべて念入りに灼 かれるような、苛 烈 な痛みが彼の悲鳴を搾 り取 った。
魔術は──発動していない。
クオが、こちらを見ていた。涙 が流れ出した視界に、その姿が見える。倒れることものたうち回ることもできず、オーフェンはただ絶 叫 した。結局、なにもできない......
死の教師が、もはや血のついていない破片などひとつもないムールドアウルを片手に、無力な自分を──魔術を失った魔術士を、嘲 っている。クオはその切っ先をこちらへと向けた。アザリーに対して振り上げたように、こちらにも高く掲 げてみせる。オーフェンは意味のまったく取れない罵 りを連 呼 しながら──
胸の中は、やけに落ち着いていた。
(これが俺の死か。ここで終わりか......)
死には抗 わなければならない。いつか言った自分の言葉さえ虚 しく思える。
(身体は動かない。魔術も使えない。助けてくれる者もいない。クリーオウの奴 も、マジクも、誰 もいない。これで終わりか......)
ぽたり。
と、また水滴を首筋に感じた。そして。
──ぼごっ!──
その音の意味は、よく分からなかった。
ただ次の瞬 間 、大量の水が頭上から降り注 ぎ、そして、がれきまでもがばらばらと落ちてくる。
轟 音 が神 殿 を揺 らし、衝 撃 が床 を震 わせる。
最後の一瞬に、オーフェンは身体が動くようになったことを悟 った。あわてて、横に跳 ぶ──
クオが振り下ろした剣は、落下してきた水やがれきに阻 まれて、破片のうちのいくつもこちら側まで到達してはこなかったが、どのみち狙 いを外 していた。
なにが起こったか、その場にいる誰もが悟れずにいるうちに──
水もがれきも、すべて床に落ちきった。
ぽかんと、オーフェンは、そのがれきの山を見つめていた。彼が飛び退 いたすぐそばまで、その場の天 井 のほとんどが落下してきたようながれきが積み上がっている。それらは狙ったように、教主が棒立ちになっていたあたりを直 撃 していた。
がれきに埋 もれて、その教主の姿はもう見えない。
すべてのがれきが積み重なった上に。
「きゅう......」
ボルカンとドーチンが、目を回して倒れていた。
「...........................」
沈 黙 。
「...........................」
深く遠く、はるかなる沈黙。
「..................あ............」
震える肺をなんとか落ち着けて、オーフェンは声を出した。
「......あ?」
聞き返してきたのは──その時には誰だか分からなかったが、クオなのだろう、恐らく。ほかには誰も、声が出せた者はいない。
「あ............」
その母 音 だけを繰 り返して、しゃっくりするように、オーフェンは内臓がひきつるのを感じた。なにかが見えてくる。
「あ............」
ちぎれていたなにかが、つながるのが分かった。
「あほかぁぁぁぁぁぁっ!」
オーフェンは絶 叫 すると、右手を振り上げた。世界中のすべての力が──大げさではなくそう感じられた──、自分の望む一点へと収 束 していく。一瞬で、純 白 の光球が発生した。大気をすべて巻き込むような、激しい静 電 気 が音を立てる。自分自身その電流の中にいながら、彼はまったく構わずに力を解放した。
光の帯 が伸びる。光熱と衝 撃 波 の渦 が、やや曲線を帯びて地 人 たちのもとへ到達した。瞬間、つんざくような轟 音 と、跳 ね返ってくる光、熱が、あたりをすべて真っ白に焼 き尽 くす──
「ぎゃああああああっ⁉ 」
悲 鳴 が聞こえたような気がした。だがとにかくその熱を伴 った衝撃波は、爆 裂 してがれきもろとも、地人たちを吹き飛ばした。光はちょうどふたりの中間に炸 裂 し、地人兄弟を左右に吹き飛ばしたが──がれきのほとんどは、真 っ直 ぐ奥に、つまり《詩 聖 の間 》の地底湖へと落下していった。
ばらばらと落ちていく、膨 大 な量のがれきの中に、教主の姿も見える......
「......あれ?」
思わず、うめく。
文字通り壊 れた人形のような格 好 で、教主はあっと言う間に、大量のがれきとともに地底湖へと沈んでいった。
呆 然 と──立ち尽くし、そして沈黙がもどる。
黒こげになって倒れている地人ふたりを、オーフェンは交 互 に見 比 べた。どちらがよく焦 げているということもなく、ふたりまったく同じ程度にこんがり煙 を上げている。ともあれ──
頭痛が、消えていた。まったく消えていた。
静かに──耳の奥で鳴っていた風のような音も、もうどこにも聞こえない。
内臓はもうひっくり返ったりしない。四 肢 もこわばらない。苦痛がすべて消えていた。
冷 水 を浴 びたように、目が──大きく見開こうとする。
いや、オーフェンはまぶたが開ききる前に思いとどまった。にやりと、目つきを斜 めに吊 り上げる。彼は顔を上げた。そこにクオがいる。魔剣と鎧 を身に着けた死の教師。

落ち着いてみれば、状況はすぐに分かった。
地下通路だ。サルアが言っていた。天人がかつて築 いた砦 の上に、この街 はある。
それがたまたま、この神殿の地下部分の近くを通っていたのだろう。
長雨で、通路に水が溜 まることは、オーフェンも思い知らされた。
地下通路に水が溜まり──そしてやはりこの街の地下に無数にあるというひび割れかなにかから、この場所の天井の上あたりに流れ込んできた。
アザリーの魔術で破 壊 された天井は、もともとちょっとした衝 撃 で崩 れるほどになっていたはずだ。それが、水の重みに耐 えきれずに瓦 解 した......
地人がいっしょに降ってくる理由が分からないが、まあそれはどうでもいい。
笑い出したかった。アザリーが起き上がって大笑いしていれば、いっしょに笑っていただろう。
彼は代わりに、クオをにらみ据 えた。死の教師の巨 躯 の向こうに、床 に血をまき散らして倒れているアザリーがいる。
「そうか......そうだな。すっかり忘れてたが、ようやく見せてやれそうだよ」
オーフェンは不敵な笑みを浮かべると、あとを続けた。
「これが俺だ」
「それは、やけくそということか?」
「ぬかしてろ」
オーフェンは、身体 は相手に向けながら横に歩き始めた。ぺっ、と足 下 に鋭 く唾 を飛ばし、唇 に残った滴 を指でこする。
「図 体 ばっかり無 駄 にでかくしやがって。目も釣 り合う程度には育てとけってんだ」
「............?」
さすがにそういった返事は想像していなかったのか、怪 訝 な顔でクオの言葉が消える。
怒ったというわけでもないだろうが──死の教師は無言で、翼 を開いてみせた。真 紅 の鎧 から広げられた、光の翼。
彼の手に握 られている黒い柄 に視線を注 ぎながら、オーフェンは続けた。
「死の教師だかなんだか知らねえが、ほかにやるこたねえのか? たまにゃ窓 辺 に座 って詩でも書いてろってんだ。周 りでぼたぼた鳥が落っこちて、猟 師 さん大喜びだぞ」
「............」
クオはなにも答えてこない。目線だけ、こちらを向いている。
「だいたいてめえ、初めて見た時から、なんやら嫌 ぁな感じがしたと思ったら、体格から言 葉 遣 い からして、先生にそっくりだ。もっとも先生相手にゃ、耳の穴に砂詰 めて上から叩 いてやりたいとは思わなかったがな──」
「チャイルドマン......か。あの若者は」
クオはゆっくりとつぶやいてくると、右手を──剣を持つ右手をゆっくりとあげた。あごを少し上げ、しっかりとこちらを見てから、振り下ろす!
飛 来 してくる刃 の群 れを、オーフェンは斜 め後ろに跳 び退 きながらかわした。前進することに執 着 する必要はない......
さらに跳 ね上がり、水平に薙 ぎ払 われた形で刃の軌 道 が変化する。跳ね上がったものはさらに跳び退いてかわし、そして──
「我 は紡 ぐ──」
一 瞬 で編 み上げた構成を解 き放 つ。
「光 輪 の鎧 !」
光の輪で編み上げられた鎖 のような壁 が、ムールドアウルの剣を受け止めた。その衝 撃 に刃のいくつかが弾 け、クオがすぐに剣全体を引きもどす。防がれたことにはまったく動じた様 子 もなく、クオがつぶやいた。
「......十年前。十年前から、あの若者はわたしの目標となったのだよ」
「十年前、てめえは先生を退 けた、って聞いたけどな」
魔術の障 壁 が消えていくのを見ながら、オーフェンはうめいた。クオは、改 めて剣を振り上げながら──
「奴 はわたしとは戦おうとしなかった」
淡 々 と言う。
「わたしが奴を見つけた時、既 に奴はこの《詩 聖 の間 》で最 終 拝 謁 を果たしていた。そして......わたしを見て......嘲 笑 したのだ」
表情のどこにも変化を見せないまま、剣を握 る手だけに、クオが力を入れているのが分かった。
「奴はわたしの横を通り過ぎて、去っていった。わたしはなにもできなかった。恐れていた。それ以来......ずっとわたしは恐れていた!」
「......今日はまた饒 舌 じゃねえか」
「貴様を倒せば、この恐 怖 は消える! サクセサー・オブ・レザー・エッジ!」
クオの絶 叫 が、こだまする。死の教師は魔 剣 を両手に構えると、大上段に振りかぶった。
「呪 文 を唱 えてみろ。無 駄 な突進を繰 り返してみろ! わたしの記憶の闇 は晴れる!」
叫 ぶと同時に、剣を振り下ろしてくる。
「知ったこっちゃねえが──」
オーフェンは半歩横に歩いて、魔剣の刃をかわした。両手で持てば、剣は自 ずと軌 跡 をせばめる。ばらまかれた玩 具 のように、石の床 に当たって刃の群れが音を立てた。
刃の一個をつま先で蹴 飛 ばして、彼は告げた。
「アザリーにしてくれたことの借りは返すぜ」
クオはもう、なにも口に出してはこなかった。
オーフェンも、すぐに行動に移る──
敵が刃を引きもどしている隙 に、彼は叫んだ。
「我 は放 つ光の白 刃 っ!」
光 熱 波 が、クオに押し寄せる。が、クオの鎧 は翼 の片方だけでそれを弾き飛ばした。爆 裂 する余 波 が、跳 ね返って真横へと飛んでいく。
オーフェンはその結果を見るよりも早く、駆 け出していた。まだ残っているがれきを踏み越え、全力でダッシュしながらも、構成は既 に編 み上げている。
「我は砕 く──」
これを防ぐためには、翼を両方閉じなければならないはずだった。
「我は砕く原始の静 寂 !」
瞬 間 、クオの立っている場所を中心に、空間が振動して爆 砕 の波 紋 が走る。
その一瞬前に、クオの鎧は着用者を包むように翼を閉じていた。光が複雑に変化し、魔術文字へと変化して、構成そのものをかき消す──
結果、翼で包まれた場所だけが、魔術の効果を免 れたようだった。爆音はしたが、その中にいるクオは髪ひとつ揺れていない。
この密 閉 空間の中での爆発は、その衝 撃 波 を均等に周囲の壁 にぶつけ、そして均等にそれを跳ね返らせた──複雑な力の流れが空気をかき乱す。オーフェンはその中を駆け抜けながら、やはり既に次の構成を編み上げていた。
(時間を稼 げさえすればいい......)
「我は踊 る天 の楼 閣 !」
今度は、攻撃のために放った構成ではない。
あと少しになった距 離 を縮 めるために、オーフェンの展開した構成は彼の身体を一瞬で三メートルほど瞬間移動させた。カメラのシャッターのように視界が消え、そしてもとにもどる。
目的地に着いていた。
クオは、こちらを見ている──
オーフェンは足 下 に倒れているアザリーを見つめながら、彼女のすぐそばに落ちていたバルトアンデルスの剣を拾 い上げた。もう刀 身 から魔術文字の光は消えて、金属そのもの に刻 まれた文字跡が冷たく残っているだけだ。彼はその文字跡に指を滑 らせた。
「彼女ほどじゃねえが──」
長大な剣の重量が、ふっ、とゼロに近くなり──そして、刀身に銀色の光で、魔術文字が燃え上がる。
「この剣の使い方なら、俺だって知ってるんだぜ......!」
クオとの距離、五メートル。
これが最後の瞬 間 になる。オーフェンはなんとなく予感した。
互 いに切り札 となる武器を持っている。これ以上、戦いを長引かせる理由もない。
死の教師の光の翼は、もう開いている。クオは剣を腰の横に、全体を切り払う構えを取っていた。
順番を待つように、ムールドアウルの剣は刃 を並べていた。距離がある。圧 倒 的に有利なのは、奴のほうだ──オーフェンは剣を手に提 げて冷静に分 析 していた。アザリーに視線を落とす。
クオが動き出す──よりも早く。
彼は輝 く剣を、アザリーの背中へと突き立てた。まったく手 応 えを感じないことが、ひどく不 気 味 に感じられ、背中が粟 立 つ。刀身の文字が、ひとつひとつ彼女の身体へと移っていく。それがすべて移ったのを確認してから、オーフェンはバルトアンデルスの剣を彼女の身体から引き抜いた。
光の文字が、ぱっと弾 けて消える。瞬時に──彼女は健康体へと変化した。
ひょっとしたら、あの満 身 創 痍 の状態でも意識は保っていたのかもしれない。彼女は待ちかまえていたように素 早 く、転 がって身体の向きを変えると、両手をクオに向けて突き出した。
「光よ!」
彼女の魔術が、炎 と爆音を轟 かせるのに少し後 れて──
オーフェンは足下に転がっているがれきのひとつを、つま先で上に蹴 り上げた。顔の前くらいまで跳ね上がったその石片を手のひらで前方へ弾くと同時、叫 ぶ。
「我は踊る天の楼 閣 !」
疑 似 空間転 移 。だが転移するのは、その石片──
光速にも近い速度で、石片はクオへと飛んでいった。一瞬。つまり石片がクオの身体を貫 通 して、その後方へと実体化するまでの一瞬。アザリーの魔術で既 に炎に包まれていたクオの周囲から音が消えた。空気をすべて引き込むように静 寂 を作ったあと、その空間が一気に破 裂 する。衝 撃 が、風となってオーフェンの顔 面 を叩 いた。
すべてが終わったあと......
クオはまだ、立っていた。まったくの無傷で。
翼 はまだ勢 いを失わずに、その光を放っている。
「............」
オーフェンは無言で、それを見つめていた。横で、むっくりとアザリーが立ち上がるのを気 配 で感じる。彼女はなにも言わないまま、さっと手を差し出してきた。その手にオーフェンは、バルトアンデルスの剣を手渡した。
クオは動かない。右手に剣。双 翼 を挙 手 するように上げて、直立している。険 しい表情にも変化はなかった。
「無 駄 だったな」
それだけを、クオは言ってきた。ただそれだけを。
「......やれるところまでやるさ」
手ぶらになった両手の指を鳴らしながら、オーフェンは告げた。
「少なくとも、あの教主はいなくなった。打つ手がなくなるまで打ち続けてやる。クオ・ヴァディス・パテル」
「我が信仰はいずこ ......」
こちらがなんという気もなしに発した名前を、クオは繰 り返してきた。その口元が壊 れ、数時間前にも見た異 様 な笑みを作り始める。全身の筋肉を使って嘲 笑 するような、病的な笑み。
「教主など......奴 は偽 善 者 だ」
「......偽善?」
予想の中になかった単語に、オーフェンは聞き返した。聞いていたかいなかったか分からないが、クオが続ける。
「チャイルドマンが、奴を殺す方法を知っている? そんなものはありはしない。我が女神ですら、三百年もあのまま で始祖魔術士を殺せずにいる。自分が死ねないことを知っていて、それを探 しているような気になっているだけだ、奴は......そしてこれからも、ずっとそうし続けるだろう。わたしが、お前が、すべての死の教師たちと魔術士どもと、それ以外の人間が死んだのちも、ずっと」
言いながら彼が示したのは、《詩聖の間》だった。
「わたしは最 終 拝 謁 を果たしたことと、そしてこの鎧 を一度身に着けたこともあって、教主の精神支配から逃 れることができた。教主と接 触 したことのないサルアやメッチェン、カーロッタも、今はまだ大した影 響 は受けていまい......」
「──なにが言いたいわけ?」
剣を構え、アザリーが詰 問 口調でうめく。
クオは即 答 した。やはりそちらも──剣を構えて。
「足音が聞こえてきたのでな......時間を稼 ぎたかったのだ」
「......なに?」
オーフェンは、聞き返した。彼らは《詩聖の間》を背に立っている──それと対 峙 するクオの背後には、神殿の地下部分へと続く広い階段があった。
(足音? 時間稼ぎ......?)
「難 しいことではない」
クオの返事を聞きながら──オーフェンはとりあえず、あたりを見回した。ボルカンとドーチンが、いまだ焦 げて転がっている。もともとアザリーが壊 していたうえ、さらに暴 れたせいで、通路はもう無 事 な箇 所 など残っていないほど完全に破 壊 されていた。あちこちに落ちた天 井 の破片。アザリーがすぐとなりで剣を構えている。
やがて。
クオの背後から続く階段に、影が差した。五人ほど──いや七人。一番最初に姿を見せたのは、女だった。扇 子 を手にした、三十歳ほどの女。白い肌 にブロンドはよく似 合 っているが、のんきそうでいて剣 呑 な雰 囲 気 を持った眼 差 しは、それ以外の印象のすべてを打ち消してしまいそうだった。
彼女の後に続くようにして、知った顔が四人。サルアとメッチェン、クリーオウとマジクである。四人とも両腕を頭の後ろに回して、その女についてきている。四人の後ろにふたりの神官兵がいた。それで全員である。
人 質 ──
「これでまだ、打つ手があると言えるかな?」
ぽつりと、クオがつぶやいた。
「............」
オーフェンはなにも答えなかった。アザリーも、まったく動かずに黙 している。
ブロンドの女に連れられた一団は、階段を下りきる寸前まで進んだところで、足を止めた。
振り返らずにこちらを見 据 えたまま──クオが言う。
「よく来てくれた、カーロッタ」
「......はい、クオ」
ブロンドの女──カーロッタと呼ばれたが、とにかく彼女が気楽に答える。
「............」
あくまで言葉なく、オーフェンは立っていた。
「一応、早いうちに報告しておきますわね、クオ。ラポワント・ソリュード教師長がわたくしの審 問 を妨 害 してきたので、処 刑 いたしましたわ」
「ふん。そんなものだろう」
「それと、クオ......聞きたいのですけれど」
「ん?」
「その方たちは?」
と、カーロッタとかいう女が扇子で示してきたのは、こちらだった。クオはなんということもなく、すらすらと答える。
「侵 入 者 だ。もうじき、終わる」
「......そうですか」
これまたなんということもない調子で、答えるカーロッタ。
オーフェンは、うつむいた。前髪で顔を隠 すように──自分のつま先を見つめる。
彼は必死に、感情を出すまいと耐 えた。見せたくはなかった。
「............」
「どうした? サクセサー・オブ・レザー・エッジ」
クオの言葉のひとつひとつに反応したくなるが、それも耐える。
耐えようという必死の思いが──ほんの少しはみ出て、肩を震 わせた。
アザリーがどうしているのかは、よく分からなかった。ただ彼女も黙 っているところを見ると、彼と同じく──耐えているのだろう。
哄 笑 が......いや、嘲 笑 が、静かに響 き始めていた。
「くっふっ......ふ、ははは......」
無論、クオだった。
その背後で、クリーオウの金髪の中から、ひょこんと、黒い尻尾 が飛び出している......
「ふははははははは......」
哄笑は少しずつその声量を上げていった。それを聞きながら、オーフェンはただ肩を震わせていたが──やはり、その程度の「はみ出し」では足りなくなってきていた。喉 が震えて、声に出始める。
「へ、へへへへへ......」
「はははははははは──」
クオの笑い声に比 べれば、小さなものだったが、オーフェンはどうしても笑いが止まらなかった。ヒステリーのように、身体の中のなにかが痙 攣 している。
メッチェンが、左手でカーロッタの肩をぐいと押している......
「へへへへへへへへ──」
「はははははははは──」
メッチェンに強く肩を押されたカーロッタが、どこか呆 れ顔で横にどき、後ろの四人に道を譲 っている......
「へへへへへへへへへへ──」
「はははははははははは──」
サルアが後頭部に回していた手を前に出すと、その手に刀身がガラスでできた長大な剣が握 られている......
「へへへへへへへへへへへ──」
「ははははははははははは──」
同調したように、オーフェンとクオは笑い続けた。オーフェンも、もう顔を上げていた。はっきりとクオの顔を見て笑い声をあげている。両手を広げ、自分でも馬 鹿 馬 鹿 しいと思うほどに、笑いが止まらない。
クリーオウまでもが、なにやら大層な拵 えの剣を構えている......
ついでに言えばマジクもだ。こちらは抜 刀 してはいないが、短刀を抱 えて厳 しい表情を見せている......
「へへっへへへへへへへへ──」
「はぁはぁははははははは──」
笑い続けるクオの背中で。
大爆発が起こった。レキの魔術だろう──前 触 れもなく白い爆 炎 が立ち上ったかと思うと、クオの巨体が玩 具 のように一度床 に沈み、そして跳 ねた。
光の翼 が、片方だけ、ちぎれて消える。
引き裂 かれた絹 のように、無数の光の糸となって、翼は虚 空 に散っていった。
クオは、なんとか振り返ろうとしたかもしれない。だが間に合ったとしても、ガラスの剣を振りかぶったサルアの顔が見えただけだったろう。
不可視の刀身 に一撃され、翼を失ったほうの肩──左肩の鎖骨 が、完全に陥没 した。中途半端 に振り向いたせいで、クオは真横を向いている。それでも振り返ろうと、ある意味最後に残ったただひとりの死の教師はこちらに背中を向けた。
その彼の横を駆 け抜けて、金髪の少年が、声をあげる。
「お師様!」
マジクは持っていた短剣を、こちらに放り投げた。
「それ──使ってください!」
オーフェンはそれを両手でキャッチすると、ほとんど意識しないほどの動きで、その剣 を抜いていた。真新しい黒い柄 は、意外なほどに手に馴 染 む。鞘 は彼の好きな鋼 鉄 製だった。《牙 の塔 》で支給されるものによく似ている。が、その刀身は──銀色に輝 く刀身は、別の場所で見覚えがあった。
(これは......)
だが胸 中 ではっきりした確信を出すより早く、猛 獣 の遠 吠 えのようなクオの悲 鳴 が聞こえてきた。
見ると、クリーオウの剣を、クオが左腕の肉で受け止めている。血しぶきが上がって、今度はそれを見てクリーオウが悲鳴をあげていた。
サルアは──もう数瞬前の出来事だったのだろうが──まだ生きている片方だけの翼に弾 かれて、今は宙を弾き飛ばされているところだった。
その直後に、クリーオウも叩 き伏 せられる。
「このぉぉぉぉぉっ!」
オーフェンは、短剣を構えて駆け出した。クオが、肩 越 しにこちらを見ている。
翼が羽ばたいた。片 翼 しかない魔人の翼が、音もなく──だが素 早 く──薙 ぎ払 うように迫 ってくる。だが、彼はそれに対する心配はなにひとつしていなかった。
「我 掲 げるは──」
構成を放 つべく呪 文 を唱 えている間にも、彼のすぐ後ろを、最 も信 頼 できる人間が守っていてくれるのを感じている。
「降 魔 の剣!」
なにも持っていない左手に、ふっ......と剣を握 っているような重みが加わる。光の翼はもう眼前へと迫ってきていたが──
彼を打ち払う寸前、その動きを止めた。アザリーが飛び込んで、バルトアンデルスの剣をその翼に突き立てている。
彼女がなにかを叫 ぶと同時、ぱんっ、と破 裂 音 のようなものが響 いて、クオの翼が消えた。同時に、無数の紙 吹雪 が──金、銀、白、赤、無数の色の紙吹雪が視界を埋 めた。アザリーが《変化》させたらしい。
紙吹雪の中を突っ切って、オーフェンは雄 叫 びをあげながら、左手の〝剣〟を突き出した。剣の力 場 に、視界をふさいでいた紙吹雪が、渦 を巻いて一点に吸い込まれ──消える。
魔術の〝剣〟はそのまま、クオの右肩を貫 いていた。筋肉が肥 大 しているクオの肩に、大穴が開いている。
それを見ながら、オーフェンは右手の短剣を滑 らせた。クオの右腕は封じた。左は、サルアの剣で鎖 骨 を折られて動かないはずだ。反撃はない。あとは足でも潰 せば、もう完全に無力化するはずだ──
右股 を狙 って突き出した短剣は、なにか硬 いものに当たって弾かれた。
(............⁉ )
わけが分からず、悲鳴をあげる。短剣を受け止めたのは、クオの持つムールドアウルの剣──その柄だった。クオが、右手で持っている......
(本物の化け物か⁉ )
右肩に穴の開いた状態で、クオは、信じられない怪 力 を出してきた──魔剣の柄を振り上げて、一息で、周囲三百六十度、すべてを横 殴 りに剣を振る。

「うわああああっ⁉ 」
一番大きい悲鳴は、サルアのものだった。オーフェンはとっさに身をかがめて刃をかわしたが、全員がそううまくはいかないだろう。実際、階段に棒立ちになっていた神官兵ふたりが、血を噴 き上 げながら倒れるのが見えた。サルアも多少、浅い傷を負 ったらしい。クリーオウはもとから床 に倒れていたのが幸 いして、無傷のようだった。ほかの人間も、うまくかわしたか、たまたま範 囲 外だったか、やはり無傷らしい。
オーフェンはすぐさま反撃に転じようとしたが──クオのほうが早かった。ただし、攻撃をしてくるわけではなかったが。クオは相変わらず巨体に似合わない素早さで、誰もいないほうへと戦場を離 脱 していった。通路の端から端まで逃げると、この数秒で彼に跳 びかかった者全員と対 峙 するような格 好 で、こちらを向いてくる。
無 事 ──とは言えない満 身 創 痍 である。光の翼を造り出していた真 紅 の鎧 は、無 惨 に変形していた。最初の一撃で、左半分がねじ切れてなくなっている。右肩のほうは、きれいさっぱり消失していた。アザリーの剣で、鎧の一部分ごとあの紙吹雪に変化させられたのだろう。翼がなくなると、鎧は途 端 に無防備だった。左鎖骨をサルアが砕 いている。そうでなくとも左腕もクリーオウの剣を受け止めて、ひどい出血をしていた。右肩は、オーフェンが魔術で潰 した。それぞれがすべて致 命 傷 という状態だった。
常人なら、とっくに戦意を失っていても良さそうなものだが......
クオは凄 絶 な眼 差 しで、カーロッタをにらみ据 えた。
「どういうことだ──裏切るつもりか⁉ 」
だがカーロッタは、涼 しげなものだった。
「考えてもみてくださいな。クオ......」
お手上げというような仕 草 をしてみせる──扇 子 を持ったまま。
「魔術士にディープ・ドラゴン。凄 腕 の死の教師がふたりも敵に回って......わたくしひとりでは、荷が勝ちすぎていたのですわ。そうでしょう?」
と、ちらりとすぐ横に立ちメッチェンを視線で示している。メッチェンが左手に持った剣の切っ先を、カーロッタの首 筋 にぴたりと当てていた。というより、刃が既 に二、三ミリ突き刺さっているようにも見えたが。
クオが、舌打ちするのがはっきりと聞こえる。
「こんな時に......」
「それに教主様の命令ですもの。隙 あらば......って」
ちょっとしたわがままだとでもいうように、小首を傾 げて、カーロッタ。
「仕方ないですわよね?」
「貴様も──背 約 するかっ!」
クオが、絶 叫 する。穴の開いた肩で──実際に見ても信じられなかったが──右腕を振り上げ、剣を振り下ろす。無数の刃 の奔 流 が、メッチェンごと、カーロッタを打ち倒した。
「メッチェン⁉ 」
サルアが、叫び声をあげる。メッチェンは仰 向 けに倒れたまま、顔を上げると、
「大 丈 夫 ──それよりも、クオを!」
無 事 だったのは、彼女だけではないらしい。カーロッタも身を翻 すと、素早く階段を上って逃げていく。それを追おうとしたメッチェンを、サルアが呼び止めた。
「ほうっておけ!」
メッチェンが、立ち止まる。驚 くほど速い逃げ足で、カーロッタはもう階段上から姿を消していた。
振り向くメッチェン──唇 を噛 んでいる──に、サルアがかぶりを振る。
「あの女はどうでもいい......今は、まだ」
「......分かったわ」
うなるように言葉を発して、彼女がクオへと向き直る。
オーフェンは短剣を手に、静かにクオを見つめていた。もう言葉はいらなかった──が、平静なのはそのせいではない。
剣を片手にぱたぱたと、金髪の少女が駆 け寄ってくる。頭の上には子犬のようなドラゴンが、気楽に尻尾 を振っていた。クリーオウは彼の横まで来ると──くるりと向きを変え、その切っ先をクオへと向ける。
走ってはいないマジクは、彼女の後ろにすいっと陣 取 ったようだった。とりあえず、そこが一番安全だと踏んだのだろう──いい判断だ、とオーフェンは苦笑を浮かべた。
アザリーは先ほどから変わらず、剣を手にじっと立っている。サルアとメッチェンも、階段の下から自分たちの上司を睨 めつけていた。
それらすべてと、クオはひとりで対 峙 している......
「終わりだな、御 大 」
ガラスの剣を掲 げて、サルアが告げた。天 井 のすぐ下の空間になにかをよどませるような、なにかのこもった口調。
「あんたを殺させてもらうぜ」
「......なぜカーロッタは、貴様らを殺さなかった」
クオ・ヴァディス・パテルは、まるで他人事のようにうめいた。いや、あるいは自問しただけだったのかもしれないが。
「貴様らが彼女の手に余 った? もしそうだったなら、彼女はもとから貴様らなど発見しようとしなかったろう......」
「あの女の対 処 法 で、俺がひとつだけ心 得 てるものがある」
サルアがにやりと、笑うのが見えた。
「取り引きしたのさ。俺らはてめえを殺す。彼女は俺たちを無事ここまで連れてくる」
「ふ......」
笑いとも、吐 息 ともとれるようなどっちつかずの音を、クオが漏 らす。
「結局......彼女がわたしの死を持ってきたか。教主と聖都......わたしの精神支配は、解 けていなかったということなのかもしれんな......」
「......?」
意味が分からず、オーフェンは眉 根 を寄せた。クオは、牽 制 するように右腕を振り上げると、その視線を《詩聖の間》へと向けやった。
暗い地底湖は今でも黄 塵 に包まれて、ただ沈 黙 している。この戦いのすべてを見ていたのだろうか──あるいはまったく見えてなどいないのだろうか。始祖魔術士オーリオウルの瞳 が、虚 しく光を放 っている。
「過去......何人の人間がここで最 終 拝 謁 を受けたのか......」
肩と腕と。大量の出血を抱 えて、クオの全身は鎧 の色とは違う真 紅 に染まっていた。
「あれはこの大陸の滅 びの鍵 だ」
と、オーリオウルと、彼女の首をつかむ腕とを示す──
「わたしが天人 の遺産 を解読するうちに、理解したことがある。この大陸は、始祖魔術士 結界 と呼ばれる強大な防壁 で覆 われている──そのために外界からは隔絶 されている......この黄塵は、死の砂だ。外界から吹き込んでくる、死んだ砂だ......」
血を失って蒼 白 になっていく顔色に反比例するように、クオの眼 差 しに力が入っていくことに、オーフェンは気づいていた。短剣を手に、全身が粟 立 つのを感じる。クオはまだ......死なない。そんなことに、慄 然 とする。
クオはゆっくりと続ける。
「神々をも通さぬ始祖魔術士結界......そのせいでドラゴン種族は、過去幾 度 にも亘る神々の救 済 の手から隠 れおおせてきた」
「救済?」
アザリーが聞き返す。クオは視線を《詩聖の間》からもどしはしなかったが、答えてはきた。
「神々は世界を......もとにもどそうとしておられるのだ。それだけが、この閉ざされた大陸の救済となる。そうであろうが?」
誰 も答える者はいなかった。
「どのみち、結界には抜け穴があったのだ。その抜け穴から、魔 獣 と呼ばれる神の下 僕 たちが降 臨 したが、いずれも敗退した」
クオの息が荒くなっていく。体力は見る見るうちに衰 退 していくのが分かるというのに──オーフェンは、彼が言葉を連 ねるごとに不安が増していくのを感じていた。
誰もがそうだったのかもしれない。だが誰も動けない。
「抜け穴の存在を......ドラゴン種族は、最初の魔獣バジリコックが大陸に侵入してくるまで知らなかった。結界に抜け穴があることを知った時、彼らは戦 慄 したという。大陸は安全なはずだったのだ。かろうじて彼らが出した仮説は......単純なものだった。魔術は、必ずその力に限界がある──始祖魔術士たちの力の総量に対して、このキエサルヒマ大陸がほんの少しだけ、広すぎたのではないかと......結界の不備を知りながらも、決定的な対策は取れないまま月日は過ぎた。そして、三百年前......」
生気そのものを吐 き出しているかのような、クオの言葉。それが続く。
「三百年前。大陸への最後の侵 攻 ──それは、女神御 身 、自 らの来 臨 ......」
ずるり......と、奇 妙 な音。ぞっとしながらオーフェンは悟 った。クオの足音だった。今までは聞くことのなかった、クオの足音。
「ラグナロク砦 の、戦い......始祖魔術士オーリオウルは、自分自身を道連れに、女神を結界の外へと押しもどした」
クオは《詩聖の間》へと向かっている。ゆっくりと。血を滴 らせながら。
「オーリオウル自身の身体 によって、結界の抜け穴もふさがれた。これで女神に打つ手はなくなったのかもしれなかった。だがそれまでの戦いで、ドラゴン種族は既 に深い傷を受けていた。種としてのダメージをな。特に天人種族は深 刻 だった。かってのバジリコックの毒 によって、子孫を残せなくなってしまったのだ」
「............」
「あとのことは、最終拝 謁 が語ってくれた通りだ、キリランシェロ」
その時になって初めて──オーフェンは、クオの言葉が自分に向けられたものだったのだということに気づいた。なにも答えられずにいるうちに、クオは続ける。
「天人種族はオーリオウルを失った後、二派に分かれた......《フェンリルの森》の聖 域 に隠 遁 するオーリオウル派と、オーリオウルの使い魔、そして彼女を崇 めるただひとりの司祭でもあるイスターシバを新たな首長とする派とに。イスターシバは、自分たちの子孫を残すために、あるひとつの計画を目 論 んでいた......」
「......人間との、混血......」
我 知らず、オーフェンはつぶやいていた。クオがうなずく。
「そうだ。可能な限り遺 伝 情報を組み替え、異種族の混血を行 った──だが生まれた者は......人間の魔術士に過ぎなかった。ノルニルではなく」
クオはいつしか──《詩聖の間》を望 む、通路のぎりぎりの淵 にまで進んでいた。
「その頃 、とある愚 かな男が、この不 毛 の戦場跡で、虚 空 から突き出した女の足を発見した。なにも知らない愚か者は、それをこちら側に引き込んだのだ──だがそれによって、女神に勝 機 が訪 れた。結局のところ、それでイスターシバなる女は焦 ったのだよ。教主が始祖魔術士となり──彼女らの造り出した子供たちが、本格的に魔術の力を得てしまった──それまでは、せいぜいが魔術の構成が見えるだけだったものがな。ドラゴン種族の遺伝情報を持っているというだけで危険だったものが、まず確実に女神のお怒 りを買うものへと悪化した。彼女は聖域から糾 弾 され、そして十数年後、人間種族の魔術士と、ドラゴン信 仰 者 ひいては天人そのものとの戦争──〝魔術士狩り〟が起こった。幻 視 で見ることができるのは、その末期の記憶だ......」
ここまで語って初めて、クオはこちらを振り向いた。魔剣を掲 げて──息を吐 く。
「......わたしがなにをするか、分かるな......?」
正 直 なところ、分からなかった。不安を感じはするが、それしか分からない。
クオは唐 突 に、サルアへと視線を向けた。
「......なにを、大陸に公開するつもりだったのだ? サルア。愚かな若者よ」
「なんだと?」
サルアが聞き返す。だがクオは構いもしない。
「このすべての茶番をか? 愚かしい。なにができるというのだ......我々などに。傀 儡 は無力なお前自身だ。お前が、この教主と、聖都と、伝説と──なにもかもに、傀儡にされていたのだ。そうだ。わたしを見ているな? お前の思った通りだ。わたしもなのだよ。傀儡だ」
そううそぶく巨人の口元から、つうっと......一筋の赤い筋が垂 れた。血。だがそれが吐 血 だとは思えないほどに鮮 やかに美しい。
「お前たちの愚かな行動のせいで、わたしは、準備もできていないまま行動を起こさなければならなくなった。わたしがやらなければならないというのに、わたしの命がここで終わる。だが、魔術士の汚 れた 血も、それを受け入れようとする背 約 者 どもも──すべての愚かな背約者どもも、これで、これで終わりだ」
血をぬぐいもせず、クオは剣を掲げてみせた。
「世界をすべて、もとの持ち主へと返 上 する──それでこの不完全な蛇 の中庭が、まっとうなる神の園、ユグドラシルへともどるというのなら!」
「しまった!」
アザリーが、悲 鳴 をあげる。
その声に触 発 されるように、オーフェンもはっと感づいた。
(そうだ......当たり前だった!)
だがクオの動きのほうが早かった。彼は身を翻 し──
最 期 の息を吐いた。
「女神よ!──来たれ......あなたを迎 える者が、ここにいる......」
クオ・ヴァディス・パテルが、星の紋 章 の剣を《詩聖の間》へと突き出す。
オーフェンは飛び出したが、もう遅いことは自分でよく分かっていた。絶望的に、叫 ぶ──
「駄 目 だぁぁっ!」
クオの剣が、その無数の刃 が、暗い地 底 湖 の上を真 っ直 ぐに貫 いていき──
びしっ......!
小さな音を立てて、オーリオウルの蒼 白 の眉 間 に、赤いものが散った。黒い刃が頭 蓋 を貫き、赤い糸と半 透 明 のしぶきとを、その天人の頭蓋骨から飛び散らせた。
そして、鳴 動 が始まった。
ずるり......と、オーリオウルの肩が落ちたように見えた。衝 撃 に口を開き、四 肢 を痙 攣 させている。
彼女の首を握 りしめている腕が──
ゆっくりと、動き出しているようにも見える。それが、オーリオウルの身体 が震 えだしたせいなのか......腕そのものが動き出したのか。その時点では、まだ分からなかった。
「はぁははははははは!」
揺れ動く神 殿 の中で──クオ・ヴァディス・パテルが哄 笑 をあげていた。傷だらけの身体で、血だらけの身体で、その全身をすべて嘲 りと驚 喜 につぎ込んで、彼が笑っていた。
振動を激しくした床 に足を取られそうになりながら──こちらを向く。深く低い鳴動が、彼の嘲 笑 と唱 和 するようだった。
「始祖魔術士は不死......この程度のことでは死なんよ。だが、少しでも彼女の力が弱まれば──女神を押しとどめているものはなくなる!」
眼 を見開き、血走った目を剥 いて、死の教師は首長たる男は叫び続けた。
「仕方がない......良かろう! 人類すべての命を贖 おう! それが世界を蘇 生 させる方法であるのなら! 女神よ──わたしが済 世 者 だ!」
「あんたはぁぁっ!」
アザリーが、完全に声を裏返らせて、叫び声をあげるのが聞こえた。彼女の放 った光 熱 波 が、クオの半身を巻き込む。
爆 音 とともに、大男の身体 が砕 けた。右腕と右足とがちぎれ飛び、地底湖へと落ちていく。その反動で、残った胴体は通路の側へと倒れ込んだ。クオの右腕とともに、ムールドアウルの剣も黒い湖底へと沈んでいく。
死の教師は悲鳴をあげたかもしれない。だが聞こえなかった。満 面 に嘲りを浮かべたまま、仰 向 けに倒れる。
「はぁ......ははは」
弱まった──だが鋭 さはそのままの嘲笑が、その開いた口 腔 からこぼれた。
「はぁ......」
クオの肺から、しゅーっという息が漏 れるのが聞こえる。そのまま大男は、動かなくなった。
だが......鳴動は止まらない。
「女神......様?」
メッチェンが、熱に浮かされたような声でうめいているのが聞こえた。見てみると、剣を床に落とし、ひざを震わせながら......片手だけで聖 印 を切ろうとしている。
「違う!」
否定の声をあげたのは──サルアだった。彼は剣を捨 てていない。
「自分の死を崇 めちまったら、もう駄 目 なんだよ!」
空 いているほうの手で、聖印を切ろうとしたメッチェンの手を、ぐいとつかみ上げる。ひざまずいた彼女を引っぱり上げるように、サルアが力を込めても、メッチェンは動くことを拒 むように肩を揺らした。
と──
「おわわわわわわわ!」
がたがたと揺 れながら、耳 障 りな面 倒 くさい声が──とオーフェンは思った──聞こえてくる。床の振動で頭を何度も打って目を覚ましたのだろう。ボルカンが、むっくりと起き上がっている。
「なんだ──どーした⁉ なんとゆーか、水に流され高いところから落下したうえ困 窮 魔 術 士 の根 性 曲がり魔術を食らったかのよーな痛みだぞっ⁉ 」
「......服が濡 れてて天 井 に穴が開いててがれきが転 がっててちょっと焦 げてるってことは、多分その通りなんじゃないかな」
えらく大ざっぱに──だが正しく、ドーチンが分 析 してぼやいている。こちらもいつの間にか目覚めて、ボルカンの近くに移動していたようだった。もっとも、落下してきた時から意識があったのだったとしても、オーフェンは意外だとは思わなかったが。
「と・いうことはっ──!」
ボルカンは立ち上がると、びしっとこちらを指さしてきた。
「やはり貴様か! このマスマテュリアの闘 犬 ・戦士ボルカノ・ボルカンの栄光の往 路 に最後に立ちふさがる凶 悪 借金取り!」
剣を抜き、なにが楽しいのか生き生きと気 勢 を上げる。
となりで、ドーチンは沈 痛 な面 持 ちだったが。
「......その栄光の往路とやらに、なぜいっつも復 路 がないのか、すごく簡単なことなんだけど答えが分からないんだ......」
なにやら哲 学 的 な袋 小 路 に入り込んでいるらしい。
そんなことには関 わりもないといった風 情 で、ボルカンは続けてきた。
「つまり貴様を倒すため、俺様の究 極 必 殺 技 で、ぬるま湯でぬるまって殺す......あれ? いやちょっと待て。うまくまとまらなかっ──」
ごぎん!
背後から、サルアのガラスの剣で脳 天 を一 撃 され、ボルカンはずるずると床に沈んでいった。ぽてりと倒れた兄の横で、ドーチンがため息をついている。
「ったく、このクソ忙 しい時に......」
ぶつぶつ言いながら、サルアはこちらへと視線を上げた。
「──どうするんだ? キリランシェロ!」
「どうするったって......」
オーフェンはうめいて、短剣を握 る手に力を入れた。いまだに鳴 動 収 まらぬ《詩 聖 の間 》と──そして、アザリーの顔とを見 比 べる。彼女はただじっと、剣を肩に背 負 ったまま、オーリオウルと女神の腕とを複雑な表情で見 据 えている......
鋭 い眼 差 しに、困 惑 の色を深めて、もうクオの死体のほうには視線を向けてもいない。
彼は、唐 突 に気づいた。
(......打つ手が、ないんだ)
なにかあるのならば──彼女はもう動いているはずだ。
(アザリーですらなにもできないのなら......俺にできることなんて、ない......)
絶望的な感情の波が押し寄せてくる。
オーフェンは、視線をアザリーからサルアへと移した。死の教師は剣を手に、やはりこちらを見返している。
「もう──」
駄目だ。
声を出しながら、鳴動する《詩聖の間》へ向き直る。黒い湖面が泡 立っている。細 かい振動が、無数の波 紋 を水面に刻 んでいた。オーリオウルの足 下 に、ひとつだけ、大きな波紋がある。
始祖魔術士の首をつかむ腕が、少しずつ──伸びてきていると、オーフェンは認めた。もう、腕だけではない。肩が見えてきている。
「オーフェン!」
クリーオウが、マジクといっしょに駆 け寄ってくる。
「どうしたの? いったいなにが──」
「危険だ! さがれ!」
オーフェンは近づいてきた彼女を後ろに押しやりながら、叫んだ。そうしているうちにも、《詩聖の間》に、ぱちっと火 花 のようなものが走る。空間に対するひび割れのような閃 光 。黄 塵 が......ひときわ濃 い黄塵が、オーリオウルの周囲で、ぶわっと渦 巻 く。
突然、アザリーの声が響 いた。
「──みんな、伏 せてっ!」
なにが分かったというわけではなかろう──明確な兆 候 があったわけではなかった。それよりは、単に臭 いとして危険を感じ取ったのか。オーフェンには分からなかったが。
それでもとっさにオーフェンは床 に伏せた。刹 那 。
────!
音にしようがない。莫 大 な量の炭 酸 を弾 けさせたような、そんな衝 撃 に大気が波打つ。爆音に大地が揺れた。目を閉じ、身体を包む無感覚に、オーフェンははっきりと恐 怖 した。
やがて──
全身をなにか小さな凶器で無数に叩 かれる。あっと言う間に血で濡 れた身体を、彼はかき抱 いた。息ができなくなる。大きな音。そして風......
彼は、目を開いた。
見上げる。彼の身体を叩いていたのは、雨だった。激しい雨。土 砂 降 りの雨が《詩聖の間》と通路とに降り注 いでいる。天 井 がなくなっていた。
無論、その上にあった神 殿 もだ。神殿のほぼ半分が消え去ったようだった。はるか高くそびえる巨大な神殿が、縦 割 りの断 面 図 のように立っている。
衝 撃 波 に、みな倒れていた。地人の兄弟はダンゴ虫のように硬 直 して転 がっているし、クリーオウとマジクも、サルアにメッチェンまでもが失神している。アザリーは、彼女は立っていた。
「そんな......」
オーフェンは、毒づいた。雨の降り注ぐ《詩聖の間》には、相変わらずオーリオウルと、女神の腕がある。腕がなにをしたというわけではない。ただ、それが動いたというだけで──これだけの破 壊 が起こってしまった。
惨 事 が起こってから数秒遅れの悲鳴が、雨 音 の中、聞こえてきた。
ざわめきが、響 く。先刻からの戦 闘 音 に、既 にしびれを切らしていたのだろうが──地上から、神官やらなにやらの足音が聞こえてくるようだった。ずっと閉ざされていた《詩聖の間》──今は、地上から見下ろせばすべてを見渡せる。
もっとも、大陸が崩 壊 するまでの話だが......
「ドラゴン種族......」
オーフェンは、破れかぶれでうめいた。激しい雨に打たれ、顔 面 にしたたる滴 を手でぬぐいつつ、
「ドラゴン種族なら、あの女神とやらと戦えるはずだ......」
「三百年前ほどの力が、まだ彼らにあるのなら......ね」
静かに、答えてきたのはアザリーである。彼女は剣を肩から下ろし、皮 肉 な笑みを浮かべてみせた。
鳴 動 。この揺れは、どこまで響いているのだろうと、オーフェンは訝 った。この神殿だけか? キムラック全体か? それとも大陸のすべてか?
雨。黄 塵 。そして鳴動。その中で、アザリーの姿はひどく小さくなったように見えた。震 えている。オーフェンは、信じられない思いでそれを悟 った。
彼女は続ける。
「......聞かされた話をすべて信じれば、だけど──三百年前のドラゴン種族には、すべての始祖魔術士がそろっていた。彼らは砦 まで築 いて敵を待ち受けていた。現在、聖域に隠 れ棲 んでいる彼らに、どれだけの力があるのかしら......?」
幻 視 の中で──イスターシバの語った言葉を、オーフェンは思い出していた。ドラゴン種族が隠 遁 する聖域には......もう余 力 はない。
「分かったわ。ようやく分かった......」
アザリーが、こちらを向いてくる。その瞳 には、昔見た、いたずらするように輝 くブラウンの光はもうない。彼女の目は、なにかの覚 悟 と恐怖、そして歓 喜 に燃えていた。
「先生は......滅 びゆくドラゴン種族の後 継 を見いだそうとしていた──彼の『母親』の遺 言 に従って......」
「アザリー?」
「わたしもね、今になって思い出したのよ。わたしもあの幻視を、夢で見ていた......寝ている間に」
かっ──!
閃 光 が、雨粒の間 隙 を裂 いて、闇 と影を圧 倒 した。衝 撃 音 に、顔を腕でかばいながら、オーフェンはその轟 音 が炸 裂 したほうをのぞき見ていた。雷 が、女神の腕を直撃している──雨雲から稲 妻 が発せられたのか、それとも女神の腕から放 電 したものかは分からないが......
なんにしろ、その轟音の中、アザリーは微 動 だにせず《詩聖の間》と向き合っていたようだった。
女神の腕は、もう明らかに肩まで入り込んできているようだった。その細くしなやかな腕が動くたび、黄塵が大量にまき散らされる。
「分かったわ。全部分かったわ。世界書に書かれていたことは、意味のない物語なんかじゃなかった......」
取 り憑 かれたように、アザリーが独 りごちる。
「あれが入り込んできたら......大陸は滅びる。それを......もうドラゴン種族は止めることができない......」
「アザリー?」
オーフェンは彼女の名前を繰 り返した。短剣を鞘 に収めて、彼女へと近寄る。
彼女は、予期していたように、こちらを振り向いた。そのまま、言ってくる。
「手は......あるわ」
「え?」
「キリランシェロ。精神士って、知ってる?」
「......見たことはある......けど──」
つぶやきながら、彼は──彼女の考えを、不意に悟 った。
「駄 目 だ!」
叫 ぶ。彼は、アザリーのもとへ駆 け寄った。
「絶対に駄目だ! そんなことは──」
アザリーの着ている通 水 性 のない戦闘服は、雨に濡 れて窒 息 しているような光 沢 を見せていた。彼女は有 無 を言わさない目つきで、こちらの手に──バルトアンデルスの剣を押しつけてきた。
そして、淡 々 と告げてくる。
「精神士......肉体を精神体にすべて変 換 した、白魔術士の一 形 態 よ。精神体となった術者は、極 めて不安定な存在になるけれど、その代わり一 切 の物理的・肉体的な束 縛 から解放される。その魔力も、ドラゴン種族並みに増大する......」
「できるもんか!」
オーフェンは渡された剣を床に叩 きつけ、怒 声 をあげた。
「無理だ、アザリー──精神体になるような大魔術には時間も技術も必要なはずだろ⁉ 」
「できるわ。一 瞬 で」
アザリーは落ち着いた声 音 で断言すると、彼が叩きつけた剣を拾 い上げた。そして再び、こちらへと差し出してくる。
「この剣でなら、肉体を精神体へと《変化》させられる......」
「────!」
言葉よりも強い息が喉 に詰 まって、オーフェンは言葉にならない叫びを発していた。言い直そうと息を吸いなおしている間に、彼女は続ける。
「ほかに手はないのよ! 精神体になっても存在を保てるのはわたしだけだし──わたし以外には、この剣を使えるのはあんたしかいないの!」
「俺はもう姉さんを失うつもりなんてないんだ!」
雨が、鳴 動 が、雷 鳴 が轟 く。もがくように、オーフェンは顔を上げた。
失望したように、アザリーが舌打ちする。
「......大陸を守るために、先生は二百年の時を越えてきた......」
彼女の声よりも、もはや鳴動のほうが大きい。はっきりとした揺れが、床に転がったがれきやらなにやらをかたかたと鳴らしていた。地上から雨水が流れ込み、くるぶしを濡らすほどになっている。勢 いのある水流が、地底湖へと流れ込んでいた。湖面はもう黒くない──光に触 れて、澄 んだ水 面 を見せている。
オーフェンは雨音のノイズの中で、彼女の言葉を聞いていた。すぐ前にいるというのに、遠くから聞こえてくるような声。
「あの始祖魔術士のために生 涯 を捧 げたシスター・イスターシバは、その命を賭 して、先生をわたしたちの時代に送り込んだ......わたしにはそれが、わたしのためだったように思える」
「アザリーが犠 牲 になる必要はないだろう?」
「先生だって、自分の生きていた時代を捨 てる必要なんてなかった──彼はイスターシバの魔術に従う必要もなかった。わたしだって......」
「どのみち......精神体になったところで、女神に対抗することなんてできるわけがない」
「できるわ」
彼女は断言すると、《詩聖の間》を示した。見ると、女神の腕はもう肩だけではなく、片方の胸まで入り込んできている。そらした首 筋 が見えた。なにもかも、絶望的に思える。が──
その腕の先で、オーリオウルが、自分の首をつかんでいる手を、つかみ返している。始祖魔術士についていた傷は、もう消えていた。
オーリオウルは横 目 で厳 しく女神のほうをにらみながら──左手の指で小さく、光の文字を描いた。鬼 火 のように揺 れながら、銀光の文字が女神の首筋に触れ、弾 ける。
大爆発が、湖水の大半を吹き飛ばした。地上から流れ込んでくる雨水とは逆方向から、湖水が津波となって押し寄せてくる。オーフェンたちが立っている場所にまで達する頃 には高さも膝 ほどまで下がっていたが、それでも彼は湖水の重さに足を取られかけた。
じっと、女神を見 据 えて──アザリーが口を開く。彼女は体重が軽い分、片膝をついていたが、ゆっくりと立ち上がりながら、
「オーリオウルが力を取りもどしている。女神を押し返すには足 りないけれど......加 勢 すれば、ひょっとして──」
「それでも──駄目だ」
オーフェンは、彼女が差し出してきている剣を横に押しのけた。瞬 間 ──
彼女の拳 が、彼の顔面に炸 裂 した。目に雨が流れ込んでいたためにせまくなっていた視界の、死 角 から飛んできた一撃だった。目の裏に火花が散り、横倒しにはり倒される。雨の中、彼は受け身を取った──が、かえってそれを後 悔 した。身体を転がしたせいで、彼女から数メートル離れてしまっている。
「もういい」
彼女はそれだけ言い残すと、彼に背を向けた──《詩聖の間》へと、ゆったりと進みながら、自分で剣の刀身に指を走らせる。
「自分でやるわ」
「自分で自分を《変化》させることはできないって、あんたは知ってるだろう⁉ 」
オーフェンは、濡 れた床 にブーツの底を滑 らせながらも、なんとか立ち上がった。バルトアンデルスの刀身に、ひとつ、またひとつと、光の文字が灯 る。
そして《詩聖の間》は。
いまだ女神と始祖魔術士とのせめぎ合いが続いている。女神の腕が動こうとし──オーリオウルが、それを押さえ込もうとあがく。
稲 光 が、灰色の雨を青白く染 めた。次いで、耳をつんざくような雷 。
彼は叫 んだ。
「絶対に──させない! 俺はあんたを──」
──殺せる唯 一 の──
駆 け出す。水の重みが一歩一歩を阻 んだが、彼は全力でアザリーの背中へと駆け寄っていった。
「あんたを止められる唯一の人間なんだからな!」
叫びながら、理解する。
(そうだ──俺もだ、アザリー。ようやく分かった。なんで先生が、俺をあんたに対抗できる人間に育てたかったのか......)
アザリーが振り向く。
だがオーフェンは、彼女ではなくチャイルドマン・パウダーフィールドの姿を見ていた。いや、というよりは、幻 視 の中で見た、絶望に泣いたあの男を。
(あんたを殺すことだったら、先生にだってできた──先生は俺に、彼にはできなかったことをさせたかったんだ)
ドッペル・イクス──〝裏 切 りの符 丁 〟と教主は読んでいたか。イスターシバを、最 愛 の相手を自分のもとに止められなかった男。
(姉さんは世界に必要になる人間だ......先生にとっても必要だった人間だ──だが理由なんかどうでもいい。俺はあんたを止めるんだ! 五年前だって、俺が止めなけりゃならなかった──)
五年前。
「見ないで......」
まったく同じつぶやきが、聞こえた。
思わず、足を滑らせる──
流れ込む雨水に足を取られ、オーフェンは前のめりに転倒した。あまりにも速く下へと沈む視界の中、はっきりと、彼女の胸に、バルトアンデルスの剣が刺さっていたのが見える。
見ないで──
五年前との違いは、それが悲 鳴 ではなく、懇 願 でもなく、ただ忠 告 だったということかもしれない。
水の中に思い切り突っ伏 して、水の跳 ねる音が鼓 膜 に響 く。
それでも無理やりに顔を上げる。見えたのは、アザリーのつま先だけだったが──
その輪 郭 が、ふっと消えるのを見て、心臓が跳ねた。
最後の数 瞬 は、彼は動けず、瞬 きすらできず、ただすべてを見ているだけだった。
だがあとになって、彼は自分の記 憶 がところどころ定かではないことを知った。
見てはならない。彼女の忠 告 に従おうと、どこかで思っていたのかもしれない。
彼女の足が消えた。その場に、ばしゃんと、バルトアンデルスの剣が落ち──力を使い果たしたのか、ぼろっと崩 れて雨水に混ざる。黒ずんだ剣の残 骸 は、勢 いよく流れる雨水に乗って《詩聖の間》へと広がっていった。
光が視 界 を灼 く。始祖魔術士が、再び魔術文字で女神を攻撃したのだろう。先刻と同じ光だった。その光の中に、白い人影が、吸い込まれていくのを──見たような気がした。
立て続けに光が──直前に閃 いた光が消える前に次の光が瞬 くという形で、連続して爆発する。光だけではなく熱 風 が吹き寄せてくる。雨水から湯 気 が立ち、あたりの湿度を極端に上昇させた。
唐 突 に光が消え......
オーフェンは、ほんの一瞬だけ、それを見た。虚 空 に引きずり込まれるように消えていく、始祖魔術士の足──
女神の腕はもうどこにもなく──
そして、オーリオウルとともに、白い影となったアザリーの後ろ姿が、結 界 の〝穴〟へと吸い込まれて消えていくのを。
「そんな......」
彼は力なくうめいた。
虚空に残ったのは、黒々とした穴だった。空間に開いている、球形の影。結界の穴なのだろうが──それが、見ていて分かるほどに、急速に小さくなっていく。
結界の穴が、閉じているのだ。
と──
「これで......終わったと思うな......よ」
聞こえてきたのは、クオの声だった。ぞっとしながら、振り向くと──さきほど転がっていた場所に、まだクオはいた。だが度 重 なる地底湖からの津 波 や、雨水の流れのせいで、徐 々 に《詩聖の間》へと落下しようとしている......
半身が吹き飛ばされ、生きているはずなどない身体 で、クオは笑みを浮かべていた。
「忌 々 しい始祖魔術士結界には......その力の総 量 に......限界が......ある。この場所で穴が閉じたということは......大陸のいずこかで、また別の穴が開いたという......ことだ。どこだ? マスマテュリアか? 王都か? それとも大陸の中心──ドラゴン種族の聖域か⁉ どこでもいい──我 が女神は......必ず勝つ......」
もう、高い哄 笑 をあげるような力は残っていないだろう。だが、それよりもはるかに強い笑みを浮かべたまま──クオは、地底湖へと落下していった。
「............」
オーフェンは、無言のまま、ただそれを見つめていた。静かだった。驚 くほどに。もうなにも残っていない──
彼は《詩聖の間》を見上げた。結界の穴も、もうどこにもない。
黄 塵 も、薄まったような、そんな気がした。
雨だけが強く降り続く。
短剣を抱くように握 りしめ──短剣に語りかけさえしながら、彼はあたりを見回した。
マジクは少し離れたところに倒れていた。クリーオウも、同じ場所で。水の中でブロンドを花弁のように開いている少女の顔の上に、レキがいる。いかにもディープ・ドラゴン種族らしく水を怖 がってなどいない。一心にクリーオウの顔をなめていた。
サルアとメッチェン。倒れている。サルアは剣を抱 えたまま。メッチェンの剣は少し流されていた。死の教師。だが本当の意味で死の教師と言えた唯 一 の男は──死んだ。
ボルカンは、言うまでもなく無 事 だった。だが言うまでもなく気絶したままでもあった。ドーチンも同様である。オーフェンはため息をついた──色々な意味で。なによりも気が重かったのは、このふたりに礼のひとつも言わなければならないだろうと思いついたからだった......
オーフェンは、立ち上がった。重い。雨に濡 れて重く、そして内からくる疲労と痛みのせいで重い身体を自分で引きずり起こす。
「またどこかに......結界の穴は......開く」
自分に言い聞かせるように、彼はうめいた。
そして──無理やり、笑った。まだ終わってはいない。あきらめる必要もない。
雨だけが強く降り続く。いずれは止 む雨ではあったが、今は永遠にこの聖都に降り続く。
キムラックを包む日の光は、大気に残った湿 気 に反射して、いつになくきらびやかに輝 いていた──
反 射 した輝きが宝石のように形を持って、見る者の目を灼 きそうなほどに光を放 っている。白い都市。濡 れた土地にたたずんだ石造りの聖都。スラムに囲まれた美しき神 殿 ......
その神殿は、半 壊 していた。
そして数百年に亘 りこの地に吹き荒れていた黄 塵 ──
破 壊 された旧世界より吹き込んできている、死の砂。それを舞い上がらせていた、荒 廃 の旋 風 ──
それももう、ない。
神殿の外 殻 の大半が崩 れ落ちても、最 奥 たる教主の聖 室 だけは、まったくの無傷だった。そう、まったくだった──蠟 燭 の一本も倒れてはいない。カーロッタは、そんな皮 肉 は毛の筋 一本にも出すことなく、神 妙 にひざまずいていた。彼女が頭 を垂 れる先──薄 紙 に映 る聖者の影。
それはいつまでも変わらない、聖都の持つ永遠性の一部だった。
視線は動かさずに横を見ると、頭に鉄 仮 面 を被 せられた少年が深々と最敬礼している。床 に這 いつくばったその姿は、ほとんどなにかの置物のようでもあった。こちらもまた、変わらないものの一部。ただしこちらは、なにかが変わらない限り変わらないというだけの、かりそめの永遠だが。
カーロッタは聖者の言葉を待っていた。待つことは苦 痛 ではなかった。どのみち、もう既 に何年も待たされたのだから。
「カーロッタよ」
教主ラモニロックの至 聖 たる言葉が、聖堂の空気に染 みいっていく。
「お前を、死の教師の首 長 と任命する。かつてない艱 難 辛 苦 の時代を、その任を負 って生きよ。これは教会の機密である......」
彼女は深々と頭を下げた。
変化が始まるだろう。
カーロッタは、皮肉げに打算した。
背 約 者 たち──メッチェンとサルア。忌 々 しいあのふたり。少なくとも彼女らは、目的は果たしたわけだ。いずれ、この聖都に変化が訪 れるだろう。決定的な変化が。
だが、変わらないものも残る。
変化。
その中で、変わるものと変わらないものを見定めた者だけが、後者に収まることができるはずだ。
彼女は知っていた。それを平 穏 と言う。平和とも言う。
◆◇◆◇◆
「......先に出るんだってな?」
ナッシュウォータはレジボーンのすそ野に位置する、大きくもなく、小さくもない、そんな都市である。ゲイト・ロックのすぐ南に位置するこの街 に、オーフェンは投 宿 していた。
外 壁 があるでもなく、検 問 があるでもなく、その街の外 れで、オーフェンはふたりを見送っていた。サルアとメッチェンである。
「もうちょっと、療 養 してったほうがいいんじゃねえのか? もうちっと山を登れば、いい湯 治 場 があるらしいぜ」
メッチェンの右腕──包 帯 で首に吊 っている──を見やりながら、オーフェンは一応言ってみた。が、彼女は案の定 、青い布を巻いた頭を左右に振った。
「オレイルが心配だから......一度彼の家に寄ってから、それから、またどこに行くか考えるわ。たたでさえ、聖都からの脱出に時間がかかってしまったし......」
「──だそうだ」
憮 然 とした面 持 ちで、サルアのつぶやきである。
癖 のある目つきでそちらを見やり、メッチェンが笑う。腕を吊るのに不便だからという理由で、彼女は鎧 を着けていないが、その荷物はすべてサルアが持たされていた。
まあそれに関しては、そういうものなのらしい。
「......というわけで、これ」
メッチェンが差し出してきたのは、赤いバンダナと、ふたつの紋 章 だった──剣にからみついた、一本脚 のドラゴンの紋章。彼のものと......もうひとつ。
「服とか武器とかはかさばるから持ち出せなかったけど、このくらいは、と思ってね」
それらを受け取って、オーフェンはうなずいた。
メッチェンから受け取ったバンダナを、きつく巻き付ける。しばらくしていなかったせいで、どこかむずがゆい。彼はさらに、紋章のペンダントを胸に落とした。首の後ろに慣 れた、細い鎖 の感 触 。
と、思いついて、オーフェンは懐 から短剣を取り出した──黒い鞘 に収められた短剣。神殿で受け取ったものだ。それをサルアに見せながら、聞く。
「こいつ、本当にもらってもいいのか?」
この剣の形は、はっきりと覚えていた。最 終 拝 謁 、その幻 視 の中で、チャイルドマンが携 えていた銀の短剣......
「......お前以外、誰 が使うんだ?」
メッチェンの皮鎧が入った巨大なリュックを背 負 いなおしながら、サルアが笑う。
「チャイルドマン・パウダーフィールドが十年前、オレイルの戦士としての生命を奪 った代 物 だ。おっさんの太 股 に根元まで刺さったんだとよ。色気のある話じゃねえが、いわくとしちゃ申し分ねえだろ? かくて──魔剣がまた一本てわけだ。銘 、勝手につけてくれよな」
◆◇◆◇◆
「はぁーっはっはっ! というわけで、水に流され高いところから落下したうえ困 窮 魔 術 士 の根 性 曲がり魔術を食らったかのよーな痛みではあったが、やはり勇者が勇者たるミソは回復力! もーとっくに治 って元気になった!」
「っていうか、車 椅 子 から降りて言ったほうがいいと思うけど......」
からころと車椅子を押しながら、ドーチンはうめいた。
◆◇◆◇◆
キムラック教会の管理区、俗にゲイト・ロックと呼ばれる土地が、大陸の北部に広がっている。
なにもない──それこそ聖都キムラック以外にはなにもない、つまらない土地だが、その土地に入る手前に、さらに誰も知らない小さな小屋がある。
小屋とはいっても人の住んでいる気 配 があった。もう耕 していない畑に囲まれた、木造の家。窓にはカーテンがかけられている。ゴミ捨 て場には、まださほど古くないゴミが出されている。
だが、その小屋には、誰もいない。
小屋も納 屋 も、なにもかも、今は風に揺 られて、少しずつ風化するのを待っている。黙 ってただ、朽 ち果 てるのを待っている......
◆◇◆◇◆
雨が止 んだと、女 房 は騒 いでいた。降れば止むのは分かっている。湿 気 がなくなると黄 塵 が空気に浮くので、聞かなくとも分かっていた。つまらんことで騒ぐなと言ったら、朝 飯 を食わせてくれなかった。理 不 尽 な扱 いではある。
ランドは不 格 好 なギプスに覆 われた足を、ぽんぽんと叩 いた。しばらくはベッドで寝て過ごそう。そう思うくらいしか慰 めがない。
先日、酒場で彼の足を蹴 り折った若造の顔を思い出して、気分が悪くなる。ベッドもひどく硬 く感じた。マットもたまには干 せと言っているのを、彼の命 たるジェシーはやってくれたことがない。
まあ、そこが彼女たる所以 だ──とひとりでのろけた笑いを浮かべながら、彼はベッドのすぐ近くにある窓 枠 にしがみついて起き上がった。カーテンを開ける。
雨上がり。なにも変わっていない。遠くにそびえる神殿の影が、一回り小さくなったような気もするけれど。
「ふ・あ〜ぁ」
彼は大きくあくびをして、あっさり気を変えた。やはり酒場には行こう。このケガはラニオットの奴 のせいなのだから、奴に治 療 費 を請 求 するのは道理が通っている。ジェシーの稼 ぎもそう多いものではない。倹 約 もいいアイデアだろう。奴がこの時間、酒場に来てないなんてことはないんだ。
◆◇◆◇◆
「はぁ〜っはっは! まあ、いろいろあって、車椅 子 ごと階段から転 げ落ちたかのようなダメージも、難なく快 癒 してしまうこの生命力! まさしくマスマテュリアの闘 犬 ・英 雄 様ボルカノ・ボルカンって、最初の英雄に様をつけてしまったらあとのボルカンに様がつけられんじゃないかパーンチ!」
「とりあえず殴 られながらなんでこんなこと言わなくちゃならないのか分からないけど、どーしてもつけたかったら、両方つけてもいちいち文 句 言う人もいないと思うよ」
壊 れた車椅子をごっとんごっとん押しながら、ドーチンはうめいた。
◆◇◆◇◆
キムラックからはるかに南下した土地を、三人の人影が歩いていた。
ひとりは巨大な剣を背 負 うように持った、ひょろりとした男。大きなリュックも背負っている。もうひとりは、右腕を包 帯 で吊 った女。彼女は頭の周 りに青い布を巻いている。最後のひとりは背の低い老人だった。
「なんだかなぁ」
意味のない愚 痴 を、男がぼやいている。
「なんなのよ」
と、これは女。
老人はなにも声を出さず、ふたりのあとをついていっている。もっとも、足が遅いというわけでもなく──むしろ、へらへらと先を歩いている男に合わせて、あえて遅らせているようですらあった。
男はさらに大げさにため息をつくと、
「せっかく身軽になったと思やぁ、保 護 者 つきってのはどういうことなんだよ?」
「なにが『せっかく』よ。完全に逃 亡 生活じゃない......で、なにがどういうことだっていうのよ」
「決まってんだろ?」
男は答えながら、道ばたの草を蹴 散 らした。名もない白い花が、ぱっと散る。
それを見ながら、女が嫌 そうに抗 議 する。
「やめなさいよ、ちんぴらみたいな」
「うっせぇな」
「なにがうるさいのよ。で、どういうことが決まってるっていうの?」
「............」
男はなんとなくタイミングを逸 して言いにくくなったのか、一度口の中をもごもごとさせた。そして──
「また退 屈 だってんだよ」
老人は、二人のあとを無言でついていく。
◆◇◆◇◆
「はぁっはっはぁっ! なにしろそんなわけだからして、ちょっと車 輪 が変形していたせいで真 っ直 ぐ走れないこの豪 華 装 甲 戦 車 が、運転下 僕 ・ドーチンの愚 かなミスによってたまたま道を歩いていたちんぴらにぶつかってしまい、なんやかや因 縁 をつけられてもちろん無 事 撃退したもののえーと、ほら、なんだ......」
「............」
もはや動かない(車輪がないから)車椅子にひもをつけてずるずると引きずりながら、ドーチンはもはやなにも言わなかった。
◆◇◆◇◆
「......こんな本、出版できるわけないじゃないですか。教会に殺されっちまいますよ」
「なにも、大々的に売り出したりしなくたっていいんだよ」
「なんですか、それ」
「一冊だけでいいんだ。一冊だけ作って、そこらの古本屋にでも売り払っちまってくれていい」
「......そんなの、商売になりませんよ」
「損した分は、タフレム市のレティシャ・マクレディに請 求 してくれよ。住所書いとくからさ」
「まあ、そこまでおっしゃるのなら......うちとしちゃ特に損がなければ、やりますがね」
「おしおし。偉 い偉い。そうこなくっちゃな」
「......で、この本のタイトル、どうするんです?」
「なんもなくたっていいさ。あ、いや......そうだな。世界書でいいさ。そうタイトルつけといてくれよ。できる限り派 手 に頼 むぜ。縁 取 り箔 押 しエンボス加工。表紙もピンクで、緑のストライプなんてのどうだ?」
◆◇◆◇◆
そして──
「温泉だぁぁ♪」
ぱたぱたぱたぱた......
となりの部屋からやたら能 天 気 な歓 声 が聞こえてきたかと思うと、しばしして足音が廊 下 を通って接近してくる。
ばたんっ!
ノックもなしに、扉 は開いた。オーフェンが、寝起きの頭でぼーっと戸口を見ているのにも構わず、遠 慮 もなく現れた金髪の少女は、頭にのっけた黒い子ドラゴンごとくるくると回転すると、スカートの裾 を舞い上がらせた。滑 り止めにでも引っかかったように、ぴたと急停止すると、にこにこしながら手をぱんと打ち合わせる。
「ねえねえ温泉おはよう温泉、オーフェン温泉まだ寝てたの温泉? 早く温泉出発しないと温泉、お湯が冷めちゃったら沸 かすの大変よ温泉」
「いや......そんなにはしゃぐほどのことでもないと思うんだが......ただの湯 治 だし......」
ベッドの上に座 ったまま、オーフェンは半 眼 で告げた。クリーオウはちょこんと飛び込むように部屋に入ってくると、
「湯治?」
機 嫌 はいい時はひどく素 直 に首を傾 げたりする。
「オーフェン、ケガなんてしてた?」
「いや、してねえけど......ここんとこいろいろと大変だったから、疲れを取りたいとゆーか、なんてゆーか」
「じゃあ、早く行かなきゃ駄 目 じゃない。温泉街 、この山の上のほうにあるんでしょ? 馬車で半日だったっけ。今日出発するって約束だったじゃない。早く早く。起きないと下の階から床 に穴開けて無理やり外に出しちゃうわよ」
(冗 談 と思えないところが怖 いんだが......)
ぶつぶつと、オーフェンは独 りごちた。
「いや......俺としてはこの街 にもーちょっと滞 在 してから、ゆっくりと──」
「なに言ってんのよ! ゆっくりって、もう一か月もここにいるじゃない! だいたい、そんなことしてたら疲れが取れちゃうわよ。三日分くらいたっぷり疲れをためてから入ったほうがいいと思わない?」
「ンな、一週間ぶりに脂 身 じゃないホントの肉が食えるって三食抜いて備 えるガキじゃねえんだから......」
「そんな怖い生活送ってる人、オーフェンくらいよ」
彼女は言いながらすたすた近寄ってくると、こちらの腕を取って引っぱり始めた。
「早く早く。って、そういやマジクはどうしたの?」
「あいつは早起きしてジョギング行ってるよ。それが帰ってくるまでは、とにかく出られねえだろ。それより、俺 は着替えもしてねえんだからな。出てってくれよ」
「えーん。オーフェンがいじめるー」

泣き声をあげながら出ていくクリーオウを、半眼で見送る。
彼女が後ろ手にばたんと閉じた扉に向かってため息をついてから、彼はベッドから抜け出した。もそもそと着替えをする。
窓の外へ、彼は視線を上げた。よく晴れている。
夜の間、窓は開けっ放 しだったのだが、そのせいで明け方は少し冷え込んだ。もうそろそろ、窓は閉めて寝たほうがいいのかもしれない。
なんとなく、窓に寄る。窓 枠 に手をかけ、彼は身を乗り出した。レジボーン高地の冷たい空気が心 地 良い。
と──
しゅごっ!
窓の外から、なにかがほおをかすめて飛び込んできた。並 大 抵 の勢いではない──少なくとも、視界には影しか映 らないほどの速さだった。ゆっくり振り向くと、後方の壁 に、一本の矢が突き刺さっている。
オーフェンは無言できびすを返すと、壁に突き立った矢のところまで引き返した。力任 せに引っこ抜く。どこかの木の枝に、石で研 い で作ったやじりをつけたというぞんざいな代 物 で、あれだけの勢 いで飛んできたことが奇 跡 だった。とりあえずそれを抱 えたまま、窓までもどる。
と、今度は声が聞こえてきた。
「はぁーっはっはっ! 見たかドーチン、あの借金取り、本気でビビってたぞ! この最強戦車から放たれた砲 弾 が、今日もまたひとつ悪を射 抜 いた! これこそまさに、この民族の英 雄 様ボルカノ・ボルカン様の『わざわざあんな愚 劣 な男のために歩行距 離 を伸ばす必要なんてないからして、遠方からの射撃によりハンガーで吊 り殺してあげちゃおう作戦』! はっきりと今、歴史にこの俺様の勝利が刻 み込まれた──」
「『様』を──」
オーフェンは窓から身を乗り出して、矢を肩の上に振りかぶると──
「二度もつけるなぁぁぁぁぁっ!」
怒 鳴 りながら、それを全力で投げつけた──窓のすぐ下で、やはりぞんざいな造 りの弓を構えている包 帯 まみれのボルカンに向かって。
矢は真 っ直 ぐに、地 人 の脳天に命中した。突き刺さるのではなく激突して、ボルカンが地面に沈む......
ドーチンが紐 をつけて引きずっている、なぜかぼろぼろの車 椅 子 の上から、ぽてりと落下するボルカン。それを二階の窓から見下ろしつつ、オーフェンはうんうんとうなずいた。
「よしよし。これで通算二百四十八勝無敗。二百五十まであとふたつだな」
「いちいち記録してたんですか......?」
ドーチンが、ぼやくように言ってくる。
「そーゆう人なんですよ、本質的に」
まるっきり通りがかったように──
そう言ったのは、マジクだった。タオルを首にかけたジョギング姿で、駆 け足の足踏みをしながら、ドーチンの背後にいる。
「なんか言ったか?」
オーフェンは問うと、マジクはさっと目をそらした。
「というようなことを、この人が言ってたみたいです」
「なんでっ⁉ 」
マジクに無責任に指さされて、ドーチンが悲 鳴 をあげる。オーフェンは、ため息をついた。
たいして困 りはしないが。
「......ずいぶん遅かったじゃねえか。出発が遅れたせいで、クリーオウの奴 お冠 だぜ?」
「ちょっと回り道してきたんですよ」
足踏みはかえって疲れるからか、その場を小さくくるくるとジョギングで回りながら、マジクが答えてくる。
「最近気づいたんですけど、お師様はちょっと訓 練 メニューがゆるいみたいですから。制 御 法 の講義だって、昨日は眠いとかなんとか言ってさぼったじゃないですか」
「まあ、そーいやそうなんだが」
ほおを指でかきながら、オーフェンは曖 昧 に答えた。
マジクは、こちらを見上げて口を尖 らせている。
「今夜はちゃんとやってくださいよ。覚えなくちゃならないこと、たくさんあるんでしょう?」
「まあ......な」
なにがあったかのか知らないが──
オーフェンは、内心、思わずにやりとしていた。厳 しくしろということならば、いくらでもしてやれることはある。
なにか言ってやろうと思ったが、それより早く。
「マジクっ!」
どばんっ! と、宿の玄関を内側から蹴 り開けて、クリーオウが道へと飛び出した。やはりレキを頭にのっけたままで、びしりとマジクを指さす──少年の顔が、はっきりとひきつるのが見えた。
「あんたちょっと、遅すぎよ! ジョギングくらい、なんで二秒で終わらせられないのっ⁉ おしおきってなんだか知ってる⁉ 今までのは茶 番 よ! 本格的なものはこれから五秒後っ!」
「なんでぇぇぇぇっ⁉ 」
悲鳴をあげながら──ジョギングではないスピードで、マジクが逃げ出す。
「あ、ちょっと待ちなさい! 逃げたら罪は重くなるのよ⁉ 」
クリーオウもまた、マジクを追って、通りの向こうへと走り去っていった。しばらくして──
何ブロックか遠くで、ちょっとした爆 発 が起こる。まあ、ここ一か月の滞 在 で、この街の住人もそういったことには慣 れただろうが......
「え〜と」
ドーチンが、困ったようにつぶやいている。
「とりあえず、ぼくはどうしたらいいんでしょう」
「多分、取り急ぎやるべきことは、そこのろくでなしと縁を切ることだと思うぞ」
「......ぼくも前からそう思ってはいたんですけどね」
ぼんやりとうめきながら──ドーチンが、血 塗 れの兄を車椅子(と呼べるかどうかは知らない。車輪がないのだから)に積み込んで、引きずって退場していく......
オーフェンは、ふっと笑った。窓 枠 に体重を預けて、風を楽しむ。
(終わらねえか......ま、しょせんははぐれ旅だ)
結 界 の穴は、また大陸のいずこかで開いている。
無論──そこからならば、結界の外に出ることができる。
キエサルヒマ大陸の外界。アザリーも、そこにいるはずだ。
彼は空を見上げると、少し身をすくませるような風の吹く中、つぶやいた。
「これから、秋になるな......」
「あとがき......おお! あとがき とゆーことは全部終わったんだな⁉ 著 者 校 (せんもんよーご)も終わりだな⁉ 素 晴 らしいぞ! びば・あとがき! どうしよう。この晴れやかな気持ちを、通りすがりの君! 君にもプレゼントだ──あ⁉ なぜ逃げる⁉ 待てや、おらぁぁぁぁっ!」
「おやめなさいって(げし)」
「おうっ⁉ ......血が......」
「出てない出てない」
「むう。誰だ⁉ この作者の歓 喜 に水を差す不 届 き者は!」
「自分で出したキャラくらい覚えときなさいっての!」
「ううむ......ええと......そうだな。榊 原 郁 恵 ......おやつに......おお! カール! カーロッタ・マウセン!」
「......どんな経 路 で思い出しているのやら......まあいいですわ。で、なにをとち狂っていましたの?」
「うむ。よーやく十巻の原 稿 が書き終わったからな。しばらく部屋の真ん中で四メートルくらいに広がってのんびりしようかと」
「四メートル?」
「その通り。しかし、広がっているところでお湯をかけられたらピンチなので、重 要 なのは傘 とかだ。もしくは会社からガメてきた、壊 れた機械の操 作 パネル」
「............?」
「それだけ気を付けておけば、まあ万 全 だな。嘘 だが」
「......嘘なんですの?」
「まあ、とにかくそんなことを口走ってしまうくらい、作者は今ほっとしているとゆーことだ」
「......ほっとしてるというか、人格防御に重大な欠陥を抱えつつあるよーに見えるのですけれど......」
「(無視)しかしまあ、途中どうなることかと思いつつも、なんとか終わってくれたからね。枚数は大 幅 にオーバーしたけど。ううむ。しかしここまで来るのに十巻もかかったんだなぁ。しみじみ」
「無 駄 な時間でしたわねぇ」
「(また無視)まあこうなると、これから次の展開を考えなければならないわけだけど。番外編は、やっぱりボツにしよう(即断)。なんにしろ次の巻では、気楽にどたばたやるよーな話をするつもりだし」
「頭の悪い人が考えもなしに下 す決断って、しばしば即断してるように見えるものなんですのねぇ」
「........................」
「............」
「............おい......」
「さ、どうぞ続きを」
「やかましいわっ! いちいちっ!」
「そんなこと言われましても、正直なところを率 直 に言ってみただけですし」
「涼 やかに言うな涼やかに」
「正直って、損 なことなのですね......」
「(無視)馬鹿はほっといて、まあなんとか、よーやく一応の区切りを迎えたこのシリーズです。皆様には長らくのお付き合い、ありがとうございました(ぺこり)。って、別にこれが最終巻じゃなかったりするあたりがこのシリーズのシリーズたる所 以 というところですが。次からは、新展開を考えております──まあ、やることは、たいして変わらないと思いますけど(笑)」
「芸が無い──」
「(げし)さて。ご想像の通り、これまでが〝西部編〟ときたからには、次からは〝東部編〟です。今まで名前ばかり出てきたけど、ほかは一切不明だったという舞台がぞろぞろ出てくることになりそーです。まあ、ご期 待 いただければ、それには応 えたいと思っております......って、どした? カーロッタ」
「一句、浮かびましたわ」
「ほう......?」
「『そうやって、読者の前では、いい人ぶる』字余り」
「季 語 がなぁぁぁぁぁいっ!(げし)」
一九九七年九月
秋 田 禎 信











「どういうことだ⁉ どういうことだ⁉ 」
繰 り返 されるのはその叫 び──
爆 発 する熱 湯 に呑 み込まれ、もがき消えゆくその叫びだった。
「シーナ! 君は逃 げろ! 裏 切 った──奴 が裏切った!」
彼女は目を見開いて、それを見ていた。いや、見ていたような気になっていただけだったのかもしれない。すべては夢 の光 景 であるように、見たことだけは覚えているが、なにを見たのかは思い出せない。
「違 うのか⁉ なんだ⁉ くそ──」
なにも分からない。眼 球 の中にあるなにかが揺 れる。水の流れにもてあそばれるガラス玉のように、揺れながら沈 んでいく。
地 獄 のごとき暑 さが、息を吸うこともためらわせる。動けなかった。心 臓 だけが激しく脈 打 っているらしい。胸の痛みすら他人事のように、彼女は硬 直 したまま立ちつくしていた。
(胸の痛み......?)
意外なほどの衝 撃 を受けて、彼女は独 りごちた。轟 く爆 音 の中、痛みなど分からない。言葉も分からない。運命すらも、なにも考えられない。
そうだ。
彼女は、まばたきを忘れた目でその光景を凝 視 しながら──割れた心に、壊 れた記 憶 にそれだけを刻 みつけた。はっきりと強く、深く。
──これが痛みだ!
激しい痛み。去ろうとしない傷 。自分のしたことに──しなかったことに──いや、やはりしたことに──延々と続く堂々巡 りの後 悔 に、彼女は震 えた。炎 に焼かれ、息もできず死に行く痛み。棒で打たれ、弁 明 もできずに死に行く痛み。自らの喉 に刃 を突 き刺 し、皮 膚 にぷつりとした痛みを、生ぬるい感 触 を、すり抜 けていくそれまでの感情を、神 経 を傷つけ、腱 を断ち、骨に金属が触 れる凍 るような冷たさを我 慢 する痛み。どのような痛みをも見た。いや、それらに苦しみもだえる人を見てきた。
だが、今初めて知った。
これが痛みだ!
「シーナ! 逃げろ! 逃げろ──」
逃げろ。逃げろ。彼の言葉がどこまでも続く。
「逃げろ! 逃げろ! 逃げ──」
ろ。逃げろ。逃げろ。逃げ
「ろ──!」
「..................!」
音にならない声で、彼女はその男の名を叫んだ。名を呼んだのではない。ただ叫んだ。男はもう遠くに行きすぎている。取り返せない。そのことだけは、痛いほどに分かっていた。
痛み。これが痛み。
喉 の痛み。酒場で繰り返し歌った歌。最後の瞬 間 にそれを思い出すのも痛み。
「逃げろ............!」
その声を聞くのも痛み。忘れることができないのも痛み。轟 音 の中、鋭 い耳 鳴 りに脳が悲鳴をあげる。それも痛み。
シーナは大声をあげて涙 をこぼした。大声をあげたこともあった。涙をこぼしたこともあった。だが同時にしたことは──気がつけば、なかったような......
それを同時にすること──泣くこと。詩のような言葉。それと唱える痛み。
キエサルヒマ大陸にこれといった火 山 帯 がないのは、もとは地下種 族 であった天人種族が地 熱 を嫌 い、大陸そのものを改 造 したからではないかと考える者もいる。
それはこの大陸が火山帯なしには成 型 し得ない地形をいくつか持っているからだというのがその主 張 の根 幹 となるのだが、どちらにせよ、過去、大陸の支 配 者 であった天人らドラゴン種族の力を以 てすれば、そういった地形のひとつやふたつは創 造 できたであろうことも事実であり、結局のところ、真実は人類の記 憶 からは、遠い過去に隔 離 されたままだった。
実際、それで困 っている者がいたわけでもない。
歴 史 を探 究 することは学者たちの大いなる娯 楽 であり、それ以上の意味はない──それが、大陸に住む人々の、おおむね統一された認 識 だった。
無論、そうは思わない者もいる。当 事 者 たち。つまり、歴史学者たちである。
◆◇◆◇◆
「この仕事にはな、人類の未来がかかっていると言っても過 言 ではないんだ。そうは思わんかね? ノサップ研究員」
「はあ。そうですね、コンラッド研究員長」
険 しい山道をゆっくりと登りながら、ノサップは適 当 にうなずいた。とりあえず反論したいこともあったが──たとえば今の彼にとっては、歴史の解 明 よりも、リュックの紐 を肩 に食い込ませずに済 む方法の確立のほうが完成を急がれているように思えたのだ──、まあそれを言うのも大人げない。せめてリュックを防 水 布 製 のものにしたほうが賢 明 だったのかもしれない。昨夜の雨で湿 った革 製のリュックサックは、異様に重いだけではなく、頭が痛くなるような異 臭 まで発するようになっていた。
秋の山。観 光 にはいいのだろうが、興 味 がなければ、涼 やかな地上を離 れ、肌 寒 い高地へと繰 り出すのは馬 鹿 げていた。冬を先取り。まあ、キャッチフレーズとしてはいいのかもしれない。人は春に夏を望 み、夏に秋を待ちこがれ、秋に冬を想 い、冬に凍 死 する。
「実にいいものだ。学 舎 には感 謝 せねばならんな。重大な仕事を任 され、己 の好 奇 心 を満たし、美しい景色を眺 めながら、運動にもなる。まあ、あと、ついでだが、給料も振 り込まれる──いや、娘 の学費がなかなか大変でな」
「そうですね、研究員長」
ノサップはとりあえず賛同した。給料は確かに振り込まれるだろう。ただし、ついでではないが。
それをわかっているんでしょうね?
胸中で皮 肉 げにそうつぶやきながら、ノサップは、先を行く研究員長の丸まった背中を見上げた。山道をのしのしと歩いていくその身体 が、とても中年の体力で支えられているとは思えない──が、容姿ははっきりと中年のそれだった。考えてみれば、研究員長の荷物は手 提 げ鞄 ひとつであり、三十歳にひとつ手前のノサップが背負った巨 大 なリュックと比べれば、年 齢 差のハンデとせいぜいとんとんだろう。そう思えば、なにもこの中年より先に足をふらつかせつつある自分を恥 じる必要などないのかもしれない。
なんにしろ、コンラッド──研究員長の恨 めしき名前──は、陽気にあたりを見回しながら、ふと、遠い眼 差 しになってあとを続けた。
「娘がもう十八になったよ」
知っている。毎日知らされている。
うんざりとノサップは思ったが、研究員長がこちらの考えを読んだことは一度もない。
「不 思 議 なものだな、ノサップ研究員。人は、歳 をとればとるほど、金というものの大事さが身に染 みてくる。だがなにに遣 うのかと言えば、その大事さをカケラも分かっとらん者のためなんだ。娘の進学にいくらかかると思うかね? わたしは礼 服 のサイズを直すのをあきらめざるを得んかったよ」
痩 せればいいんでしょうに。
やはり声には出さずに、ノサップは独 りごちた。
コンラッドがただひとりで、得意げにしゃべり続けるのが聞こえる。
「まあ礼服などはどうでもいいんだがな。問題は煙草 だ。あれをやらん者は、あれは身体に悪い、あれをやるのは自殺行 為 だ、あれをするような奴 はあれをやらない自分たちより劣 っているのだからあれをやるべきではないという自分たちの忠告を聞くべきで、それを聞かないのはあれをやってるせいであれ中 毒 になっているせいだ、とこう言うんだ。分かるかね? ノサップ研究員」
「そうですね、研究員長」
実のところ五つ目ほどの『あれ』でもうわからなくなっていたのだが、ノサップは適 当 にうなずいた。しかし煙草。口が寂 しくなっているところにその名を聞いて、さらに苛 立 ちが募 る。リュックの紐を両手で押 さえながら歩いているため、吸いたくとも吸えない状 況 が何時間も続いていたのだ。
(まあ、仕方ないけどな。研究員長も、我 慢 してるわけだし──)
と。
コンラッドがポケットから紙巻き煙草を取り出し、なにげない仕 草 で火を点 けた。大きく吸って──芳 香 付 きの煙 を吐 き出す。
殺そう。
静かに、ノサップは心を決めていた。
だがそんな妄 想 はよそに、コンラッドは再び美味 そうに煙を吐き出した。満足げなしわを目 尻 に刻んで、にこにこと続ける。
「ああ、至 福 だ──なにしろ、これをしてもなにかととやかく言うような輩 がいないというのが素 晴 らしい。まあそれはそれとして、なんの話だったかな? ああそうだ。人類の未来だよ」
そんな話だったかどうか確信はなかったが、ノサップは無言でうなずいた。否定する理由がない。というより、義 理 がない。
「過去というのは、一部始終、一 切 合 切 、遺 産 なのだよ。未来への遺産だ。文字通りの財産かもしれんし、負 債 かもしれんが。これは個人的なスケールにも当てはまる。若者は恥 そのものを恥じるが、大人になると、少年時代にあまり恥をかかなかったことを恥じるようになる。経験という過去の財産が蓄 積 されていないこと。これを恥じるのだ。これはまったく正しい態度だと言える。分かるかね? ノサップ研究員」
「そうですね、研究員長」
「実際、恥のかき方、取 り繕 い方が身についとらん者といっしょにいるのは、実につまらんことだよ。人は恥によって偉 大 にはなれないが、少なくとも一人前にはなれる......分かるかね? ノサップ研究員」
「そうですね、研究員長」
「だが若者はたいてい潔 癖 性 だ。大人にならん限り、恥というものがどういったものであるか、分からないのだろうな。金というものの価値に関しても同じだ。分かるかね? ノサップ研究員」
三回連続はまずいかもしれない。そう気づくだけの気 遣 いは、ノサップにもまだ残っていた。
だがどうでもいい思いで、彼はうなずいた。
「そうですね、研究員長」
実際に、どうでも良かったようではあった──コンラッドは気にした様子もなく、ぺらぺらと講演じみた長 広 舌 をぶっている。
それもそろそろ、終わりのようだったが。コンラッドはこちらを向くと、確 認 するように言ってきた。
「......ちなみにわたしは、娘の陰 口 を言っているわけではないぞ?」
「はあ」
曖 昧 に、うなずいておく。
やたら長いこの山道を延々と登り続けてきたこの身としては、この際、どんなことでもどうでもいいことのように思えた。ノサップは額から流れ落ちる汗 に、高地の冷気が染 みるのに鳥 肌 を立てつつ、あたりを見回した。山。どこまでも山の風景。レジボーンは有名な山 岳 地帯だった。紅 葉 が本格化するのはもう少しあとになってからであろうが、山々の緑にはやはりもうどこか暗い色がかかり始めているようでもある。風は文句なく冷たい。ここが本当に火山帯であったならば、高地とはいえここまで冷え込むこともなかったろうが。
「素 晴 らしいなぁ」
コンラッドが──伸びをしながら、欠伸 のような声でそんな感 嘆 を漏 らすのが聞こえてきた。煙草はもう吸い終わったらしい。携 帯 灰 皿 にそれを突 っ込みながら、晴れやかに笑 みを浮 かべている。
「実に素晴らしい。ここは下界とは隔 絶 された楽園だ。静かな山と森、心 地 いい空と風、笑い声、悲鳴......」
............
「ん?」
「え?」
コンラッドとノサップは、お互 いに奇 妙 な声をあげながら視線を交 わした。確かに、どこかから、笑い声と悲鳴が聞こえてきたような気がしたのだが。
「猿 の声かな? このあたりには多いと聞いていたが」
不思議そうに、コンラッド。ノサップは、またもやうなずいた。
「そんなところじゃないですか?」
「うむ......まあいい。先を急ごう。さすがに疲 れた。そうではないかね? ノサップ研究員」
「そうですね、研究員長」
険 しい山道を登り続け、足の裏から背筋まで、どこまでもひきつったような痛みが貼 り付いている。彼はかぶりを振 った。まったく、この山道は誰 が作ったのだか知らないが、地元ではなんと呼ばれているのだろう。そんなことを思う。彼は適当に、思いついた名前を並べてみた。
天国へ続く地 獄 の階段。
登り登り登り登り登り道。
ザ・苦行の道。もれなく筋肉痛をプレゼント。自分の背筋に底知れない恨 みがある方に最 適 。
と......
道の脇 になにかを見つけて、ふとノサップは思考を止めた。
考えを改める。
険しい──というほど険しくはなかったのかもしれない。彼が見つけたのは、古い立て札だった。
『にこにこハイキングコース・終点
ご休 憩 は、この先80 M、レジボーン温泉郷で』
◆◇◆◇◆
「うわーははははははははは! とうとう年 貢 の納め時というわけだな、クソ借金取り!納 税 は明 朗 迅 速 、とっとと進み出て、このマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様の偉 大 な手により下 敷 きでこすり殺されるがいい!」
「きゃああああ! 助けてぇぇぇぇっ!」
「はっはっはっ! この日をどれだけ待ちわびたか! 貴様との腐 れ縁 も、ここまでというわけだ! いつもいつも悪 運 のみでこの俺 様 の正義の刃 から逃 げおおせてきた貴様だが、それもここまで! なんてゆーか具体的に言うと、細長〜い感じでとどめを刺 してやるので、十秒やるから細長くなれ!」
「ぎゃあああああああっ!」
「............」
笑い声と悲鳴を聞きながらオーフェンが見たものは、崖 っぷちで思い切り胸を張って大いばりする『地 人 』だった。細かく解 説 すればその歴史だけで数冊の本が書けるだろうが──つまりは、この大陸における先住種族のひとつだった。ドラゴン種族の渡 来 によって大陸の南 端 に追いやられた彼らを、彼ら自身の自 治 領 以外で見かけることなど滅 多 にない。
体 格 は人間より遥 かに小さく、成人しようと身長が百三十センチを越 えることはないらしい。全体的にしっかりした骨 格 をしているので、ずんぐりした印 象 も受ける。子供のように見えるのもそのせいだろう。ドラゴン種族の力により閉ざされた、極 寒 の地マスマテュリア──つまり地人自治領に住んでいるためか、毛皮のマントを民族的な衣 装 としている。
目の前にいるその地人──ボルカン──は高らかに哄 笑 をしながら、腰 に手を当て、ふんぞり返っている。腰には古ぼけた剣を下げていた。
そして──
オーフェンは、自分が右手で猫 の子のようにぶら下げているもうひとりの地人を見下ろした。ぱっと見には、ボルカンと見かけでの差はさほどない。ただこちらのほうは分 厚 い眼鏡 をかけているのと、剣を持っていないのと、手足をばたばたさせて泣きながら悲鳴をあげているのが、その違 いだった。
首根っこをつかまれて、ぶら下げられた地人──ドーチンは、ひたすらに泣き声をあげていた。
「きゃあああああっ⁉ 殺されるうううっ⁉ 」
「え〜と......」
オーフェンは、静かに静かにつぶやいた。なにかひとつ、腑 に落ちない。
身につけたものは黒ばかり。要するに黒ずくめの格 好 をした、二 十 歳 ほどの男である。ただ唯 一 色がついているのは、額のバンダナだけだった。身 体 的 な特 徴 は、特にないと言える──ごく一 般 的 な黒 髪 、黒目、中肉中背、外から分かる傷 もない。胸 元 に下げられた銀色のペンダントが目立つのも、そのあたりが理由かもしれない。剣にからみついた、一本脚のドラゴンの紋 章 。大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔 》で学んだ魔 術 士 の証 である。それは事実上、最高の実力を持った魔術士の証 明 でもあった。

が、今はただぼんやりと立ちつくしている。彼は空いている左手でぽりぽりと頭をかきながら、ぼやくように告げた。
「俺にはちょっと理解しかねるんだが......」
「ふっ!」
と、思い切り勢いづいて声を発したのは、無論ボルカンである。彼はばっと腕 を振 ると、なにやら斜 め四十五度のポーズで言ってきた。
「哀 れな愚 か者 の頭には、少々荷 が勝 ちすぎていたようだな──自らの敗 北 も認められんとは!」
「一応、事態を整理してみよう。ことの起こりはだ、さっき、お前が突 然 木の上から落っこちてきて、斬 りかかってきたんだよな?」
「うむ!」
渾 身 の力で、うなずく地人。
「俺様の完 璧 なる奇 襲 に、貴様らはあっけなく大 打 撃 を受けたわけだ」
「そーか。俺には、リスの巣から木の実を失 敬 しようとしたお前が、たまたま枝から転げ落ちてきたように見えたんだが」
「ふん。敗者の歴史にはそう記 されるのかもしれんな」
「んで、どうなったっけ?」
「あわてふためいた貴様らを、このマスマテュリアの闘 犬 の美 麗 な剣が、その優 雅 さとは裏 腹 に力強く叩 き斬 った!」
「あ、地面を転がりながら一 所 懸 命 じたばたと剣を抜 こうとしてた間に、そんな夢を見ていたわけだな?」
「だが英 雄 にも誤 算 はあるものだ。奇襲は成功したものの、後 続 たる本隊の失 策 により、大局的には戦局は敗色を帯び──」
「ほほう。ようやく立ち上がったお前の上にドーチンが落っこちてきたことは、そーゆうふうに脚 色 されてるわけか」
「俺様は、己 以外の者の無 能 さを呪 いつつ、一時的な撤 退 ......」
「俺の魔術で再三黒こげになりながらなお逃 げる生命力には、なんつーか、とりあえず感心したことは認めるぞ」
「しかぁし! 危 機 を好 機 と転じるのが、英雄の仕事! 俺様は狡 猾 にも、戦場をこの切り立った崖 の上に移動させた!」
「確かにまぁ、切り立った崖だなー。追いつめられてるのはお前だけど......」
「さらに、我 が弟ドーチンに華 々 しい死に場所を用意してやろうと、一 番 槍 を任せた!」
「ああ。こいつ、泣きながら突 っ込んでくるもんだから、あまりに痛々しくて、生 け捕 りにしちまったぞ」
「そして今! 絶体絶命の貴様に対し、俺様は寛 大 にも降 伏 勧 告 をしているわけだ! まあ降伏しても、リング際 でねばり殺すんだが」
「............」
とりあえず、そこでオーフェンは沈 黙 した。目を閉じる。すぐに開ける。息を吸う。すぐに吐 く。なんとなく頭に浮 かぶのは、どうしてだろうという疑問だけだった。どうしてこんなところにいるのか。どうしてこんなことをやっているのか。どうして空は広いのか。どうしてポストが赤いのかは......そのほうが目立つからだ、きっと。
今度は長々と息を吐いて──ため息というやつだ──オーフェンはつぶやいた。
「......そーか。だいたい分かってきた」
「うむ。分かったら、どーなるんだ?」
「こーなるんだ、あほたれがぁぁぁっ!」
オーフェンは力の限り叫 ぶと──
ドーチンを抱 え上げ、思い切りボルカンへと投げつけた。
「どぎああああああっ⁉ 」
それが、ボルカンとドーチン、どちらの悲鳴だったのかは不明だが──
投げつけられたドーチンとともに、ボルカンは、崖の下へと転 落 していった。
あああああああああああ......
時折かすかに途 切 れたりもしつつ、悲鳴の余 韻 がどこまでも響 きわたる。
そして、次 第 に途切れる時間のほうが多くなっていき、やがて完全な静 寂 が訪 れた。
オーフェンは、ふっと息を漏 らすと、
「......終わった......なにもかも......」
「あのー......」
ふと、声。顔を上げると、いつの間にか、近くに少年が立っていた。
線の細い印象の少年である。十四歳だったか──確かそのくらいだったと、オーフェンは記 憶 していた。金 髪 に縁 取られた顔に困ったような笑 みを浮かべ、冷 や汗 のようなものをたらしている。
「おお、遅 かったな、マジク」
その少年──マジクに言いながら、オーフェンは体勢を直した。背筋を伸 ばし、肩 を鳴らす。
黒いマントは、ひいき目に見てもその少年にはまるっきり似合っていなかったが、当人はさほど気にしていないようだった。気づいていないわけではないだろうが。マジクはひとつうなずくと、
「あの地人たちを追いかけるお師様についてくのは無理ですよ。、ものすごいスピードで走ってたじゃないですか。嬉 しげに」
「いや、そんなに楽しいもんでもないんだが......」
「クリーオウ、怒 ってましたよ。お師様、荷物ほっぽりだして行っちゃったから」
「うーむ」
オーフェンは適当にうめくと、腕 組みした。マジクのほうを見やって、続ける。
「どのくらい怒ってた感じだ?」
「どのくらいって?」
「昨日、ふたりで決めただろ。気 まま暴 発 娘 の危 険 度 単 位 」
「あ、あれですか。そうですねぇ」
マジクも、こちらとそろいのように腕組みのポーズを取る。眉 間 にしわを寄 せて、少し考え込んでから、
「......要 ・警 戒 ってところです」
「警戒かー。でもあいつの場合、警戒レベルからいきなり暴発することがあるからなー」
「要・ちょっと警戒のところからも、結 構 ありますしね」
「警戒不要っつっても、必ずしも安心していいわけじゃねえし」
「意味ないですね」
「そーだな」
オーフェンはあっさり認めると、ふと思いついてつぶやいた。空を見上げる。
「なんで俺たち、こんなことで苦労してんだろ」
「謎 ですね」
「あっはっは」
「......な〜に好き勝手なこと言ってるのよ」
もともと甲 高 い声を、なんとかせいいっぱい低くして、うめき声をあげて横から現れたのは──
金髪を背中まで伸ばした少女だった。山登り向けにということなのだろう、少し厚 手 の消 炭 色 のシャツに、いつものジーンズ。シャツはサイズが大きいのか、脇 のあたりがかなり余っているように見えた。小さなナップザックを背負っているが、その口から一見して不自然な細長い金属物がのぞいている。いやどちらかと言えば、ナップザックに収まった部分よりも、露 出 した部分のほうが長かった。銀色の壮 麗 なライン。背を伸ばし、祈 祷 する人間のようなシルエット。剣だった。
だが、振 り返ったオーフェンの視界に最初に入ったのは、彼女自身ではなく、彼女の小さな金髪の頭の上にちょこんと居 座 った、黒い子犬のような生物だった。「のような」というのは伊 達 でもなんでもなく、文字通り、この生物は子犬などではない。
くああ、と大口を開けてあくびするその生物の下で、少女──クリーオウは、口をとがらせて言ってきた。
「わたし別に、理由もなく怒ったりしたことなんてないでしょ⁉ 」
「そーか?」
オーフェンは、マジクと視線を交 わして首を傾 げた。マジクはとりあえず巻き込まれまいとしてか、さっと目をそらして無表情を保っている。
と、その間に、クリーオウが身体 を割り込ませてくる。彼女はマジクを突 き飛ばして場所を作ると、背伸びしてこちらの目をのぞき込んできた。
「どーゆう意味よ」
「だいたい、そーゆう意味だが」
「短気ってことなら、オーフェンのほうがよっぽどそうじゃない!」
「俺のどこが短気だ⁉ 」
「あー! ほら、そーやってすぐに人の首絞 めて! 噛 むわよ⁉ 噛 むわよ⁉ 」
「あのー......」
横からおずおずと手を伸ばすマジクに向けて、クリーオウが素 早 く顔を向けた。しかめっ面 で、告げる。
「似た者同士って言ったら、ぶつからね」
「う......黙 ってることにする」
マジクは退 散 するように、身体を退 いた。
オーフェンは嘆 息 まじりにクリーオウから手をはなした。高地の空気はさすがに肌 寒 い。不 意 に吹 き付けてきた風に、すくむ身体を自分で抱 き寄せると、彼は身 震 いしてつぶやいた。
「......そーいや、マントも荷 物 といっしょだったっけか」
少し後 悔 する。最初から着ておけば良かった。
得意げに、クリーオウが口をはさんでくる。
「ほーら。早く取りに行かなきゃ」
「お前が持ってきてくれりゃ、面 倒 がなかったんだろが」
「わたしはわたしの分は、持ってきてるもの」
さらにいっそう胸を張り、彼女は言ってきた。ナップザックと、頭の上の子犬(もどき)を示して、なにやら勝 ち誇 った表情を見せてくる。実際、この山道に入ることになって、彼女が持ってきたのは、これだけだった──荷物の大半、かさばるようなものは、すべてふもとの街に預 けてある。オーフェンもそれは同じだったが、あの地人たちを見つけて、鞄 ひとつ、道に放 り投げてきてしまったのだ。
「ったく、あいつらと遭 遇 するとロクなことねぇな。もどる分、無 駄 足 じゃねえか」
「......崖 の下にたたき落としておいて、なお文句を言うっていうのは......」
マジクの指 摘 は無視しておくことにして、オーフェンはぼやきながら、あたりを見回した。彼らがいるのは、山の中、山道から少し外れて、切り立った崖の上だった。それなりに見晴らしはいいが、崖下から吹き上げてくる風がかなり体温を奪 う。
鳥 肌 の立った腕 をさすりつつ、オーフェンはもとの山道へともどるため、歩き出した。このあたりは人の手が入っているせいか、道を外れても獣 道 のような細い通り道が幾 本 もあるらしい。それらのひとつを通っていく。
ぱたぱたとあとをついてきて、クリーオウが聞いてきた。
「でも、あと少しなんでしょ? 温泉」
「多分な。道が地図通りなら、あと五分もかかんねえんじゃねえかな」
「結構登ったわよね。まあ仕方ないけど。乗り合い馬車使うお金なんてなかったし」
もう機 嫌 がなおったのか、クリーオウは笑 顔 だった。ナップザックの紐 をつかんで、小走りにオーフェンを追い抜 いていく。三歩ほど先行したところで、彼女は肩 越 しにこちらを向いてきた。ナップザックから突 き出した剣が揺 れている。
「それで、なんて言ったっけ、その宿。オーフェンが選んだのよね?」
「ああ。なんていったかな......ええと、微 妙 に矛 盾 した名前の......そうだ」
オーフェンは後ろの頭に両手を回し、思い出して──告げた。
「ペンション森の枝、だったっけかな」
「温泉つきの宿なんて、なんだかいい感じよね。わたし、そーゆうの初めて」
彼女の機嫌が良くなったのは、単にそれが原因らしかった。頭上に張り付いている黒い子犬をぺしぺしと叩 くと、
「レキもきっと初めてよね。お湯、大 丈 夫 かな、この子」
「どーだろな。だいたい、温泉なんつー奇 特 なもんが、フェンリルの森にあったとも思えんけど」
オーフェンは疑わしげにうめくと、クリーオウの手で叩かれるたびに目を閉じたり開いたりする、その生物──レキを見やった。とりわけ、その目を。一対 の、まん丸い目。緑色の瞳 。地上最強の魔 術 を操 る生物群、いわゆるドラゴン種族の証 となる緑色の瞳である。
深 淵 の森 狼 。ディープ・ドラゴンと呼ばれる。このレキは、その子供だった。もっとも、成体が体長四、五メートルにも達することを考えると、どちらかと言えば赤ん坊 というほうが正しいのかもしれない。ディープ・ドラゴン種族の生 態 など、オーフェンも詳 しいことは知らなかったが。というより、ドラゴン種族の中でも最強と言われるもののひとつであるこの種族の生態は、人類にとってまったくの未 知 と言っても過言ではない。
「ぼくも初めてです。地面からお湯が出てるんですよね?」
とことこと、クリーオウに追いつくように早足でついてきていたマジクが横から言ってくる。オーフェンは、足は止めないまま肩 をすくめた。
「俺だって初めてだよ。前から噂 は聞いてたし、行きたかったんだが......《塔 》の連中は、なんだかみんなそろって馬 鹿 にしてたみたいだな。そーいや、なんでなんだか」
「東部だからじゃないですか?」
「......かもな」
なんとなく思い当たって、オーフェンはうなずいた。
きょとんと、クリーオウが目をぱちくりさせる。
「どういう意味?」
「ああ。ま、一 般 的 に、大陸西部の人間は、東部を得 体 の知れない未 開 地 だと思ってるし......東部の人間は、西部を魔術が支配する恐 怖 の辺 境 だと思ってるし」
「......そんな極 端 なこと考えてる人、いる?」
かなり疑わしげに眉 根 を寄せて、クリーオウ。オーフェンは口元を歪 ませた。苦 笑 の一歩手前でなんとか耐 えて、疑問顔の少女に答えてやる。
「そりゃ、お前みたいにトトカンタのご令 嬢 は、王 都 の近 代 設 備 のことを聞いたこともあるだろうけどな。都市外は、そういう情報から遮 断 されてる。百年前から新しい情報が入ってない辺境の村にでも住んでいれば、認 識 だって百年前のままさ。タフレム市はある意味、西部で一番耳ざとい街かもしれねえが......そこですら、存 外 たかが知れてるもんだよ。魔術士も、しょっちゅう東部と西部を行き来してるわけじゃねえしな」
「どうして?」
「北はキムラック教会、中央はフェンリルの森、南はマスマテュリアに──東部と西部は隔 てられてるからな。海路以外に道がない。互 いの情報も少ないから、偏 見 も仕方がないってところかな」
と──ふと思いついたように、またマジクが口をはさんでくる。
「でもお師様は、東部にも来たことがあるんでしょう?」
オーフェンはマジクへと向き直って、少し迷ってから──曖 昧 にうなずいた。
「まあ......な。一回だけだけど。でも、あん時ゃ、いろいろごたごたしてて、ゆっくり観光なんて場合じゃなかったしなぁ」
「どういうことです?」
「俺も五年前の時は、問題ありありの鳴り物入りで王都入りしたもんだから、宮 殿 魔 術 士 たちの監 視 が──」
と、言いかけたところで、山道へと出た。
無論舗 装 などされているはずもないが、しっかりと踏 み固められ、かなり歩きやすい道になっていた。馬車が通るせいなのだろうが、道 幅 もかなりたっぷりとある。
山の空気。森の香 りが五感を洗う。大きく開けた空が、はるかな高みへと広がっていた。雲は薄 く伸 び、音のない風が吹 く。それはいいのだが......
「あれ?」
オーフェンは、目をぱちくりとさせた。もと来た山道。それに関しては間 違 いないはずだった。
道のわきに、木の枝が落ちている。すぐそばの木から折れたものだ。それといっしょに地人が落っこちてきて、それで結局さっきの騒 ぎになったのだが......
「荷物......」
マジクが、同じようにあっけに取られた声で、つぶやくのが聞こえてくる。
道の真ん中に放 り出してあった荷物。古ぼけた鞄 ひとつ──ふもとの街で、格安で買ったものだったが。
その鞄が、なくなっていた。
◆◇◆◇◆
「冷たいこの山に埋 めてはいけない。
あなたの亡 骸 を埋めてはいけない......」
エリス・ショスキーはいつものように口の中で歌いながら、広間の中央に設 えられた立体地図を眺 めていた。なにもしたくない時は、ここにいるに限る。
「あなたにこの指をあげる。
冷たい皮 膚 の下に暖 かい血があるの信じて......」
「なんじゃい、その歌は」
背後から聞かれて、振 り返らずに答える。
「昔、ママがよく歌ってたじゃない......歌 詞 、違う?」
「そんな、死体だのなんだの血なまぐさい歌が、酒場でうけるもんかい。まったく、いくつになってもお前は馬 鹿 だね」
エリスはそれには答えずに、静かに嘆 息 した。不服だからではない──陰 鬱 にそう認める。そうだ。わたしはきっと馬鹿だ。
エプロンがいつも清 潔 であることが、彼女の誇 りだった。広間の一番上等なソファーに腰 掛 けて、そのエプロンを手でなでる。
地図は言うまでもないが、このあたり一帯の地形を模 している──粘 土 と土と木 細 工 でできた模 型 である。レジボーン山脈と呼ばれる高地を大まかにかたどっている。誰が造ったものなのか、エリスは知らなかった。恐 らくは父親だったのではないかと思っている。誰にも聞いたことがないので、定かなことは知れないが。
ふっと息をついて、立ち上がる。目の裏に軽い倦 怠 感 。立ちくらみというほど強くもないが、一 瞬 だけ意識が身体 から断 絶 される。その一瞬に、彼女は身体よりも先に立ち上がった意識が、自分自身を見下ろしているような錯 覚 を味わっていた。自分でも苛 立 つような、緩 慢 な動き。機 敏 になりたいとは思わないが、遅 いということがなにか損しているのではないかと心をざわめかせる。
二 十 歳 になった自分の身体。どうというわけでもない──生まれた時から彼女とともにあり、そして二十年が経 った自分の身体。鎖 骨 が目立ちすぎるのが悩 みだと友人に言ったら、笑われてしまった。そんなもの、気になるなら隠 しなさいよ。それで済 むんだから、大した悩みじゃないわよ。そう言われた。確かにその通りだと思う。
ああ、苛立たしい。
三 つ編 みにした後ろ髪 が、背中を軽く叩 くように揺 れているのを感じる。彼女は自分の母親のほうへと振り返った。自分より幾 分 か背の低い母親。すっかり白 髪 のほうが多くなった母親を、エリスはきっかり三秒、見つめた。彼女は気づいた様子もなく、モップを持って、黙 々 と床 を磨 いている。
「掃 除 ?」
エリスは、なんとなく聞いてみた。母親が顔も上げずに、素 っ気 なく答えてくる。
「今日は久々に客がくるからね」
「いくら払 ってくれるんだか......」
苛立たしく鼻から息を抜 いて、エリスはかぶりを振 った。腰 に手を当て、母親を見下ろす。
彼女はなにも答えてこない。ただ黙 ってモップがけを続けている。
唇 を噛 んで、エリスはうめいた。
「お金のある客は、みぃんなロッツのほうに行っちゃうのよ」
「愚 痴 ばっかりたれてないで、そろそろ客引きの時間じゃないのかい?」
ようやく答えてくるかと思えば、そんなことを──
今さら怒 りを覚えるでもないが、エリスは落 胆 をさらに深めた。だが──そんなことを表に出したところでどうなるものでもない。
「分かってるわよ」
と──
予感めいた閃 きで、彼女は振り向いた。広間の最も大きな窓から、森と道と、そして宿の玄 関 が見える。
普 段 ひとけのない──苦々しくエリスは認めた──宿に向かって、男がふたり、近づいてきている。ひとりはアタッシュケースを提 げた、背の高いダークスーツの男。もうひとりは、目の据 わった貧 相 な男だった。こちらは登山服姿で、汚 れ具合からすれば、山菜取りでもやらされていたのだろうか。

「また来たわ、あいつら」
エリスは奥歯を噛 み合わせて、毒づいた。エプロンの前を、両手でぎゅっとつかむ。絞 られた布が、身体を少しだけ締 め付けた。
「何度来たって関係ないわさ」
母親が小さくつぶやく。
エリスは、今度は自分が無視して広間を出た。広間のすぐ外は玄関になっている。エリスは塵 ひとつ落ちていない玄関──母親が掃 除 したばかりなのだろう──を見回して、傘 立 てに常備してあるスティックボールの木製のスティックを見つけると、それを取り上げた。表情を固くして、待ち受ける。
ノック。
震 えるように、彼女は息を吐 き出した。肩 がわななく。指 紋 を擦 り込めるほどに、緩 やかな曲線を描 くスティックを強く握 ると、一歩を踏 み出す。
彼女は意を決して扉 を開けた。予想していた顔がふたつ、扉の外にならんでいる。
「やあ、こんにちは」
ダークスーツの男が、慇 懃 な笑 みを浮 かべて頭を下げる。その後ろにいるもうひとりの男、かなり年若い登山服の男のほうは、まぶたを半分下げた表情で、挨 拶 もなくじろじろと宿の中を眺 め回している。
唾 でも吐きたいところだったが、エリスは踏みとどまった。胸中で、境 遇 を呪 う──屋 内 でさえなければ。
「また来たわけ? しつこいわね」
彼女は可能な限り刺 々 しく告げると、これもまた可能な限り胸を張った。
「何度来たって、答えは同じよ」
「そうは言っても、違 う答えを聞かないことには、我々のボスが収まりつかないのでね」
「あんたらのボスなんざ、くそくらえよ」
淡 々 としゃべるダークスーツに向かって、彼女は吐き捨てた。足は震 えていないし、声にも怯 えの色はない──ほっとしながら、彼女はそう自覚した。あと五分は持ちそうだわ。神様ありがとう。
「このアマ、いい加減に──」
「お前はしゃべらなくていい」
不意に口出ししてきた若い男を、ダークスーツが後ろ手に制する。ダークスーツは呆 れたように眉 をつり上げた。
「お互 いに、悪い話ではないと思うのだけれどな......」
「話なら何度も聞いたわよ。で、何度も断ったはずよね。あんたらロッツの都合で、なにもかも好きなようにされてたまるもんですか」
「我々のボスは──」
「失礼だが」
と──
唐 突 に誰かが割り込んできて、エリスは喉 まで出かかっていた言葉を胸の奥 に飲み込んだ。見ると、すぐ横、つまり玄 関 の中にとっての死角から、太った中年の男がこちらをのぞき込んできている。男の闖 入 は、ダークスーツらにとっても不意の出来事だったようで、彼らもきょとんと目を見開いていた。
一瞬なんのことだか分からなかったが──エリスは、ようやく思い出した。今日は客が来るのだ。滅 多 にないことなので、思いつかなかったが。
ぼうっとしている間に、その太った男はのたのたとした動きで玄関の中に入り込んでこようと動き出していた。男には悪 気 はないのだろうが、当然、ダークスーツらを押 しのける格好である。
彼はにっこりと笑うと、
「ここが、森の枝かね? わたしはコンラッド──予 約 をしていたはずだが」
「あ......はい。おひとりですか?」
エリスは、わたわたとうなずいた。その男──コンラッドとやらの荷物を受け取ろうと手を差しだし、その手に握 っていたスティックをあわてて背後へと隠 してから、その男が荷物など持っていないことに気づく。と、これまたのっそりと、今度は貧 相 な若い男が姿を現した。こちらは、馬 鹿 でかいリュックサックを背負って肩 で息をしている。もう涼 しいというのに汗 だくになって、顔色をどす黒く変色させていた。
「彼もだ。彼は、ノサップ君。わたしの助手でね」
コンラッドは自分の腹をさすりながら、その若者のことをそう紹 介 してきた。どう答えていいか分からずに、とりあえずうなずいておく。ちらりと見やると──ダークスーツらは、もうこちらに背を向けて遠ざかりつつあった。まあ、彼らが観光客の前でもめ事を起こすほど馬鹿ではないのは分かっていたが。
「部屋はどこかね? 急ぐわけではないが、わたしにはノサップ君がかなり限界に近づいているように見えるのでね──」
「あ、はい、すみません......あの、お荷物、持ちましょうか?」
エリスは自分で言いながらも、ノサップとやらが背負っているそのリュックサックを彼女が運ぶなど不可能だということははっきりと分かっていた。コンラッドが、朗 らかに笑う。
「ははは。いえ、結構。ノサップ君は、機 材 を運ぶことに対してもサラリーを受け取っているわけです。そうだね? ノサップ研究員」
「そうですね......研究員長......」
どこか──なんというべきか──まあ控 えめに言えば、今にも殺してやりたいと言いたげな暗い眼 差 しで、ノサップがコンラッドへとうめく。
エリスはとっておきの微笑 みを浮 かべながら、はっきりと悟 っていた。
(やっぱり......金を持ってそうにはないわね)
冷たいこの山に埋 めてはいけない。
あなたの亡 骸 を埋めてはいけない。
金を持った客は来ない。来るはずがない──温泉のない温泉宿などに。
「どーゆうことだ⁉ 」
オーフェンは激 しく左右を見回して叫 んでいた。ひとけのない山道。
「ない、ない、ないぞ⁉ ここにもないし、あのへんにもないし、なんかもーそこいらにもないし!」
ばたばたと暴れながら、あちこちの茂 み、木の陰 、大きな石の裏までのぞき込む。
ぼけっと近くに突 っ立って、マジクとクリーオウがのんきな声をあげてくるのが聞こえた──
「あのー、お師様ー」
「オーフェーン。もう鞄 なんてあきらめて、さっさと行きましょうよー」
「馬 鹿 かお前ら⁉ 」
オーフェンは跳 ね上がるように顔を上げると、両手をわななかせた。
「宿代もなにもかも、あの鞄の中だぞ⁉ 宿に着いたところで野宿じゃねえかっ!」
「ええ⁉ 」
「ない、ない、ないわ⁉ ここにもないし、あのへんにもないし、なんかもーそこいらにも!」
「......分かればよろしい」
自分と同じようにばたばた暴れ出したふたりに満足して、オーフェンはうなずいた。なぜか悲しくもなったが。
首を傾 げ、うめく。
「しかし、どういうことだ? 鞄が風で転がされたりするわけでもなし......そうなると、誰 かが持っていったことになるよな」
「通りがかった人が、落とし物だと思って持っていったんじゃないですか?」
言ってくるマジクに、オーフェンはうなずいた。普 通 に考えれば、そんなところだろう。
「そだな」
とつぶやいて、山道の左右を──つまり、登るほうと下るほうを、交 互 に見やる。
「善 意 で拾ったにせよそうでないにせよ、鞄拾った奴 が行けるのは、登りか下り、どっちかしかないわけだが......」
「じゃあ、登りましょうよ」
クリーオウが、ちょこんと横から首を突 っ込んでくる。
「どっちがどっちだか分からないんなら、ここまで登ってから降りるのって、なんか損な気がするもの」
「......まあ、確かにな」
オーフェンはほおをかきながら、山道の行く手を見上げた──
レジボーン山脈、そう呼ばれる高地。すそ野に位置するナッシュウォータは、教会管理区のすぐ南にある。
中 規 模 程度の、取り立ててなにもないその街から、レジボーンの高地に向けて、この山道は続いていた。その行く手には、大陸東部でも有名な温泉街が待っているはずだった。
風が吹 き抜 けていく。
ただでさえ冷たい風が、閑 散 とした街をくぐるとさらに凍 えるのはどういうことか。その神 秘 は不思議ではあったが、あえて追 究 しなければならないことでもなさそうだった。直感的に心に染 み込んでくる冷たさに、芯 から身体 が冷えてゆく。
高地の空は美しかった。ついでに言えば、街そのものもこぎれいではあった。広がりゆく青と白の天空。風は帯を引くように吹きすさび、空と街とをかき回す。優 しく冷たい風の手は、誰の肌 をも撫 でていった。
とりあえず、オーフェンは身 震 いした。
「えーと......」
困って、意味のないつぶやきだけが漏 れる。
見ると、マジクとクリーオウのふたりも、目を点にして棒立ちになっていた。だらんと横に垂らした腕 が、そのすべての感情を物語っているようだったが。
ようやく口を開いたのは、マジクだった。
「お師様......」
つぶやきに意味がなかったのは、自分と同様だったが。そのあとを継 ぐように、クリーオウがこちらに視線を投げてくる。
彼女は控 えめに言ってきた。
「オーフェン......これって、ゴーストタウンなんじゃないの?」
「......ンなわきゃねえだろ」
心にもないことを言ってオーフェンは、また街のほうへと向きやった。
彼らが立っているのは山道の頂点──つまり街の入り口だった。街の周りに柵 があるわけではないが、街とその周囲とは、完全に隔 てられている。街は森に囲まれていた。背の高い建物がそこかしこに建っているため、街は森から頭ひとつ分高くそびえ、圧 倒 的 なほどに広がっている森に対して、決して負けてはいない。ただし、ただそれだけと言えばそれだけの勝利ではあった。
街はなだらかに広がっている。緩 い斜 面 に広く築 かれてきたといった形である。建物は古いものもあり、新しいものもあり、いかにも観光地の街並みらしいと言えた。道は広く、景 観 は良好。あちこちに道順案内の立て札が並んで、あちらは温泉宿、こちらは温泉宿、向こうもその向こうもやはり温泉宿と、うるさいほどに主張している。入り口のすぐそばに、ポリスボックスとおぼしき小さな丸い屋根の建物があったが──それは無人だった。多分、街全体が無人に見えたのも、そのせいだろう。必ず人がいなければならない場所が無人であると、栓 が抜 けているように思える。
もっとも実際に、街は無人に見えた。
風が冷たいからかもしれなかったが、広い道には人 影 がひとつもない。ただ風が通り抜けるためだけの道と化している。
「温泉なんて、どこにも見えないけど」
きょろきょろと見回しながら、クリーオウ。オーフェンは肩 をすくめた。
「そりゃ、外から丸見えじゃ具合悪いだろ。屋 内 にあるんじゃねえか?」
「露 天 風 呂 みたいなの期待して、水着も買ってきたのに」
水着を着て風呂に入るのもどうかとは思ったが、それは言わないでおく。
そのかわりにオーフェンは、街の中に足を踏 み入れた。それまでの山道とは違 って、しっかりと舗 装 された道である。舗装といってもアスファルトなどではなく、しっかりした石 畳 だった──ここまで機材を運べないというのもあるのだろうが、むしろ街の外 面 を良くするための配 慮 だろう。
と──ふと気づいて、オーフェンは足を止めた。
「水着を買った? お前、金なんて持ってないだろが?」
「あ、オーフェン、ほらほらレキって、しっぽつまむと後足だけで立つの」
言いながら実際に彼女が、レキ──少女の頭上で寝 ていた黒い子犬の名前だが──のしっぽを軽くつまむ。と、目をぱちくりとさせて、驚 いたように子犬が立ち上がった。だがそんなものには構わずに、オーフェンは彼女の顔をのぞき込んだ。
「......ごまかしてるつもりか? あのな、俺 の財 布 勝手に持ち出すのはやめろと、何度も言っただろ?」
クリーオウの碧 眼 をぎろりとにらみつけ──告げる。が、彼女はあっけらかんと、ごく当然のように言ってきた。

「いーじゃない。別に」
「なにがいいんだ⁉ ふと財布を開けたらなんか中身が少なくなってた時の虚 しさ、お前は分からんか⁉ 」
と──
クリーオウの表情が、少し変化する。彼女は口をとがらせて、胸 元 で拳 を握 った。だだをこねるようにその拳を上下させ、そして実際にだだをこねてくる。
「だってオーフェン、お小 遣 いくれないんだもの!」
「なんで俺がお前らに小遣いくれてやらにゃならないんだ!」
「じゃあ誰がくれるのよ!」
「知るか! 自分の分くらい自分で稼 げ!」
「ぶーぶーぶーぶー」
親指を下にしてブーイングを行う彼女のことはもうほっておくことにして、オーフェンは再び街に向き直った。
マジクがあちこちを見回している。オーフェンが気づくと向こうも気づいたのか、こちらを向いてきた。小 柄 な肩を落として、少年は静かに口を開いた。
「なんか......嫌 な雰 囲 気 ですよね。観光地なら、誰かひとりくらい道歩いててもいいと思うんですけど......」
「そうだな──なんだか、疫 病 で全 滅 したって雰囲気だよな」
「ヤなこと言わないでよ」
ぞっとしたのか後ずさりして、クリーオウ。オーフェンはため息をついて、また街を眺 め回した。左右に視線を振 って、やはり無人を保つ温泉街を見やる。ないものはない。いないものはいない。
仕方なくオーフェンは、視線を上にあげた。空。太陽はまだ絶頂を迎 えたばかりである。
「昼時か。どう考えても、人通りがなくなるって時間帯じゃねえよな」
と、つぶやいた、その時だった──
空気に、重々しい振 動 が広がる。振動は、耳の奥 にたまりそうなほど鈍 く響 きわたった。ごわん、ごわん、ごわん、ごわん......
「......警 報 ?」
不意に聞こえてきた鐘 の音 に、オーフェンは顔をしかめた。鐘の発生源がどこかは知らないが、街のどこかであるのは間 違 いないだろう。
鐘の音は続く。
「......なんなの? なんなの?」
びっくりした表情で──だがどこか面 白 そうに──クリーオウが、肩 からナップザックを下ろして、ザックの口から突 き出している剣の柄 をしっかと握るのが見えた。
「待たんかい」
オーフェンはあわてて、剣を抜 き放つ寸前の彼女の手を押 しとどめた。意外なことだとでもいうような眼 差 しで、クリーオウが声をあげる。
「なぁに?」
「意味もなく抜くな! 刃 物 なんぞ!」
「なによぅ。意味あるわよ。警報だもの」
渋 々 と剣から手を離 し、クリーオウはあたりを適当に示した。
「それに、なんか街の様子も変だし。きっと危 険 よね。身を守らないと大変♪」
「なんで『♪』がつく、なんで」
気楽に手のひらを打ち合わせて言ってくるクリーオウに、オーフェンは疑わしげに半 眼 で応じた。とりあえずクリーオウの剣が入ったナップザックはこちらで引き取ることにして、右肩に引っかける。
「ったく、なにかっちゃ理由見つけて剣抜こうとしやがって。こんな白昼に街中を抜き身の剣持って歩いてたら、緊 急 逮 捕 されたって文句言えねえだろが」
「されないわよ。悪いことしてないんだもの」
「刃物持って歩くだけで犯罪なんだよ!」
オーフェンは怒 鳴 りつけてから、頭を抱 えた。
「ああああ......誰でもいいし、どんな方法でもいいから、俺を助けてくれ......」
「オーフェン、なんか悩 みがあるみたいね。わたしが聞いてあげよっか?」
「クリーオウ......それ以上言うとお師様泣くかもしれないから、やめてあげたほうがいいと思うよ」
ぼそぼそとつぶやくふたりのことは耳から閉め出し、頭をはさんだ手の間で、オーフェンは弱々しくかぶりを振 った。
「ううう。なんでこんなしょーもないことで苦労しなくちゃならねんだ......」
「なんかぶつぶつ言ってるわよ」
こちらを指さして──見ていないからわからないが、多分そうだろう──、クリーオウが言っている。オーフェンは無視して続けた。
「あの福ダヌキどもは相も変わらず借金を返そうともしやがらねぇ──それどころか返せる見込みすらありそうにねぇ。あんまり見込みがないもんだから、俺もなんだか最近、あいつらの顔見ても『借金』って言葉が浮 かんでこないくらいだ」
「このごろは、言葉よりも先に物理的な攻 撃 が飛んでるみたいですもんねぇ」
と、腕 組みして──これも分からないが、きっとそうだ──、マジクが言っている。これも無視。
「どっかの馬 鹿 娘 は、頭の上にのっけた小動物のせいで見 渡 す限り焦 土 にするくらいの火力を手に入れてから、暴 走 に拍 車 がかかりっぱなしだし」
「誰が暴走で拍車がかかりっぱなしなのよ」
「どっかの馬鹿弟 子 は、なんかむやみに勉強熱心になったはいいが、そのわりにゃー、ちっとも上 達 しやがらねぇ。面 倒 見る時間が増えただけ俺が損じゃねぇか。どのみちバグアップに送金してもらってる月 謝 が増えるわけでもねぇしよ」
「う......上達しないのは認めますけど、お師様、言うほど練習につきあってくれてないじゃないですか」
「なんだかやたらと不幸を感じるぞ!」
オーフェンは叫 ぶと、顔を上げた。ぐるりとふたりを見やって、順番にびしびしと指を突 きつける。
「お前らだ、不幸の原因は! なにかっちゃ俺に面倒かけやがって! もーちょっとこー、通り雨のよーに、なんも残さず通り過ぎることができんのか⁉ 」
「なんで急に比 喩 的 なのよ」
「ンなことに疑問を持ってないで、せめてなんにも起こさんように自 戒 しろよな! 刃 物 も黒い悪 魔 の暗 黒 魔 術 も禁 止 だ!」
クリーオウの頭の上の黒い悪魔──レキを指さし、叫ぶ。くんくんと鼻を動かすレキから指を引っ込めて、
「そーだ、決めたぞ! 俺ももう、変なやっかいごとには首を突っ込まないことにするからな! お前らの尻 拭 いも含 めてだ! てなわけで俺は今から、黒魔術士でもなければモグリの金貸しでもない! 人生ボードにトラブルのピンが刺 さることもなにもない、ごく平 凡 な一 般 市民になる!」
「またさらに比喩的だし」
「うるせえっ! えいくそ、近づくな! なんかトラブルを期待するよーな目で見るな、畜 生 !」
「あー、ひどいじゃない! 人のこと疫 病 神 みたいに言って」
「あのー、お師様......」
「なんだよ! 言っとくが、お前も例外じゃねえからな!」
「そうじゃなくて......あの......」
ふと──
オーフェンは、我に返った。それはマジクの蒼 白 な顔色に気づいたからかもしれないし、クリーオウの甲 高 い声が脳に突 き刺 さったせいかもしれない。あるいは、単に風が冷たかったからかもしれなかった。どのみち、理由はどうでもいい。オーフェンは、我に返ってマジクの指が指し示す先を見やった。
ぞっとしたように少年が指さしているのは、後方──つまり山道の方向だった。クリーオウも、ひとまず黙 ってそちらを見やっている。そして、不思議そうにつぶやくのが聞こえてきた。
「......なに、あれ?」
「............?」
オーフェンは眉 根 を寄せて疑 問 符 を浮 かべていた。山道のはるか遠くから、なにやら砂 煙 が近づいてきている。警 鐘 が鳴り続いているせいでよく聞こえなかったのだが、地 鳴 りのような轟 きも地面を揺 らしているようだった。
その砂煙の中にあったのは──
何台もの馬車だった。猛 スピードで街に入ってくる。街の入り口にいたオーフェンたちのすぐそばを、かすめるように走り抜 けていくと、馬車のすべてはいっせいにすさまじい音を立てて急 停 車 した。中には、馬ごと転 倒 した馬車もあったようだが。停車した馬車の扉 が開くと、そこからばらばらと乗客が吐 き出される。
そして......
第二の地鳴り。振 り返ると、いつの間にか、街中のほうから、信じられない勢いで大勢の人間が走ってきていた。老 若 男 女 、あらゆる人間たち──だがみな例外なく、色とりどりの旗を掲 げている。
どれもみな違 う旗だった。『カーネギーの宿』『ホテル・サリー』『黒の白馬亭 』『ビーフの住処 』......読み上げるだけで目がちかちかしてきそうなカラフルな旗が数十本。そしてそれを掲げて全 力 疾 走 してくる人間が同じ数。全員がにっこりと営業スマイルを浮かべて突 進 してくる。
「な............」
唖 然 と言葉を失っているうちに、ふたつの地鳴りは迷うこともなく正 面 衝 突 した。旗を掲げた彼ら彼女らが一目散に、馬車から出てきた乗客に張り付いていく。
彼らの第一声は──偶 然 かそうでないかは分からないが──まったくの同時だった。
「ようこそ、レジボーンの温 泉 郷 へ!」
あとは、すべての動きが約束事のように整然とこなされていくだけだった。馬車から降りた紳 士 の前に『ドライブ・イン』の旗を掲げた男が滑 り込むと、さっとかがむようにお辞 儀 して、早口でまくし立て始める。
「お客様! レジボーンの温泉郷にようこそいらっしゃいました! 遠路はるばるお疲 れでございましょう! 当宿では二十四時間、いつでも奇 跡 の泉──温泉のことですが──にお入りいただけます! 部屋も一流ならば食事も一流! このご旅行を忘れ得ぬ思い出にすると約束いたします! ご宿 泊 は当『ドライブ・イン』へ......」
また別の場所では、『ジョイ・コントローラー』と書かれた横長の旗を肩 に掛 けて担 いだ若い男が、脱 色 した金 髪 をさらりとかき上げ、微 妙 に不自然な決めポーズで立っている。はしゃぎながら馬車から降りてきた二人づれの女に流し目を送ると、
「ヘイ、ガール──羊を迷わせずに極 楽 へとお連れするのがこの俺さ」
ウインクまでしている。あまり受けなかったようではあったが。
そしてまたさらに別の場所では貧 相 な男が泣きながら五体投地して若い夫 婦 の行く手を遮 っているし、その向こうでは、顔を真っ白に塗 った男がナイフを十本ほどジャッグルして、子供たちの注意をひいていた。
そして──
「おやお嬢 様 ! 実に気 品 あるお顔をしてらっしゃる──それとも、お姫 様がお忍 びのご旅行ですかな? はは」
自分の近くで声があがったので振 り向いてみると、黒いスーツを着た男が、にこやかにクリーオウに話しかけているところだった。手に持った旗には、『ロッツ・グループ』と書いてある。
年 齢 は、声の調子からすれば三十代の半 ばというところだろうか? だがその横顔はもう少し若く見えた。左目の上あたりに小さな傷 痕 があり、恐 らくは前 髪 で隠 しているつもりなのだろうが、正直かなり目立つ。
その男に、クリーオウが真正直に答えるのが聞こえてきた。
「お姫様じゃないわよ」
「おっと、これは残念──もっとも、あなたがお姫様だったとしても満足いただけるお部屋が用意してあるのですが、どうですかなお嬢様? おやおや、こちらの子は弟さんですかな? 姉弟でご旅行? それとも、ご両親がいっしょですか? あ、帽 子 なのかと思えば、可愛 いワンちゃんですか、こりゃ参った」
歯切れ良く言いながら──男はクリーオウの頭の上で丸まっているレキに手を伸 ばそうとした。機 敏 に反応したレキが犬歯を出したのを見て、そつなく指を引っ込めるが。
頭の上に手をやってレキをなだめながら、クリーオウが肩をすくめた。
「全部外れ。マジクは弟じゃないわよ。で、親もいっしょじゃないけど、オーフェンがいるから」
「は?」
「オーフェーン」
クリーオウが、こちらを向いて呼びかけてくる。オーフェンは無言で手を挙 げた。
男はとりあえず、上から下まで、こちらを観察したようだった。ゆっくりと視線が移動していく。
そして──燃料でも切れたように、ふっと、男の顔から笑 みが消えた。
ちっ、と聞こえよがしに舌打ちしてから、男はくるりと背を向けた。
「くそ、俺としたことが、貧 乏 人 に声をかけちまうとは......」
そのまま、ぶつくさとぼやいて去っていく。
「............」
しばし、無言。脳がなにかを思いつきそうなのに言葉を思い浮 かべられない。
オーフェンはとりあえず、顔を上げた。なぜかうつむいていたのだ。顔を上げると、また別の旗を持った男と視線があった。ちょうどその男は、客を取り逃 がしたところのようだった。
微笑 みかけようとした。その男が、こちらに微笑みかけてくることを予想して。
だがその男は一 瞬 ──ほんの一瞬だけ──鼻の穴を片方だけ広げ、やはり片方だけ口元をつり上げ、同じく片方の眉 をひくつかせた。つまりはあからさまに、嫌 そうな顔をしてみせた。
そして、そっぽを向いた。
「............」
また呆 然 としているうちに、別の人間と視線がぶつかる。別の旗を持ったその女は、その一瞬、視線が交 錯 しただけで、手を振 ってきた。『しっしっ』と。
「........................」
海か空か。
なにか青いものを見たくなった。
「なあ」
オーフェンは、かなり長いこと立ちつくしてから──クリーオウとマジクに向き直った。
「なんか俺の身体のどこかに、預金残高とかそーゆうのが書いてあるのか?」
「そうねえ、書いてあると言えば書いてあるのかも......」
「お師様の場合、哀 愁 とかがにじみ出るはずのところから、貧乏臭 さが散 布 されてるのかもしれませんね」
「........................」
「あ! ででででででも、気にすることはないと思うの。確かにお金関係には徹 底 して弱いかもしれないけど、オーフェンのいいところっていっぱいあるわ!」
「そ、そそそそうですよ、気にすることないです。粗 暴 なところとか物をすぐ壊 すところとか意外とものぐさなところとか目つき悪いところとか社会的地位が皆 無 なところとかをフォローする良い部分が、そのうち見つかるかもしれませんし!」
彼がいきなりしゃがみ込んで地面に『の』の字を書き始めたことがよほど驚 きだったのか、あわててなにやら慰 め──にはなってなかったが──を口にし始めたふたりに、オーフェンは指を止めた。ふゥとため息をついて立ち上がる。ズボンの尻 をはたいて汚 れを落としているうちに──
もう既 に見回してみれば、そこに彼ら以外のひとけはなくなっていた。あたりを埋 め尽 くしていた人混みは、ぞろぞろと街中のほうへと移動している。馬車もとうに、街を出て山道へと引き返しているようだった。
ぽつん......と。
風が吹 く中取り残されて、オーフェンは呆 然 とうめいた。
「なんだったんだ......?」
「客引きだったみたいね」
クリーオウがつぶやくのが聞こえてくる。
「ここの名物らしいですよ」
どこからか観光ガイドを取り出して、マジクが読み上げる。
「ええと......温泉宿がたくさんあるみたいですから、お客の取り合いがすごく厳しいんだって書いてありますけど」
「だからって、よーいドンで走ってこなくてもいいような気がするんだが」
警 鐘 はもう鳴りやんでいる。ようするに、あれは馬車が到 着 するという合図だったのだろうが。
「なにか、協定のようなものがあるんだそうですよ? 鐘 が鳴るまで、客引きの人は宿から出てきちゃいけないんだそうです」
「妙 にひとけがなかったのは、そのせいか......」
オーフェンは半眼でうめきながら、腕 組みした。
と──
「ええと......お客様?」
いつの間にか背後から声をかけられて、オーフェンは振 り向いた。もう誰もいないと思っていたのだが、近くの立て看板──『レジボーン温泉郷にようこそ!』──にもたれるように立っていたため、目立たなかったのだろう。女だった。セーターに黒いスカート。そしてどうやらお約束であるらしい旗を持っている。
どうひいき目に見ても好意的とは思えないぞんざいな眼 差 しで──いや、当人は営業用の笑 顔 のつもりだろうが──、こちらを見ている。値 踏 みしているといった目ではないが、だからといって無条件に高い値をつけてくれたというわけでもなさそうだった──単に、値踏みしていないというだけのことだろう。ひょっとしたら、値踏みの仕方をよく知らないのかもしれない。
「あ......ああ」
オーフェンは、とりあえずうなずいた。組んでいた腕を解 いて、近づいてくるその女を観察する。
年 齢 は、自分とほとんど変わらないように見えた──が、化 粧 っけがないせいで、もっと若く、というより幼くも見える。その力のない歩き方は、少し強い風が吹 けばそのまま押 しもどされるか方向転 換 してしまいそうではあった。ついでに言えば、方向を変えたまま、気づかずに進んでいきそうにも見える。旗には、適当に『ペンション・森の枝』と書かれていた。

クリーオウが、後ろから袖 を引っ張って聞いてくる。
「あれ、泊 まるはずだったところじゃない?」
「ああ」
オーフェンは肩 越 しにうなずくと、女に向き直った。女は、今度はあからさまな視線で、こちらを値踏みしてきた──そして、
「ええと、あの......お泊まりは? もうお決まりかしら?」
結局のところ、たいした値をつけてはくれなかったようだが──
オーフェンは、困 惑 しながらかぶりを振った。なんとなく、どう答えていいのかわからないが。
「......いや。金を入れてた鞄 をなくしちまってね」
「あ、そ......じゃ、お金ないのね」
女は明らかに落 胆 したようだった。肩を落とし──旗を持った手も、ぱたりと落とす。
「............」
沈 黙 が通り過ぎた。数秒ほどだろうか。
しばしして、女が顔を上げた。思いつきのように口を開けてくる。客でないと知ったからか、口調はきっちり変わっていた。
「じゃ、どうすんの? 宿」
「いや......鞄拾った奴 が、ひょっとしたらこっち来てるんじゃねえかと思って、とりあえず来たんだけど」
「金を落としたら返ってなんてこないわよ。当たり前でしょ?」
「いや......まあ、そー言われちまうと......」
「うちに泊まる?」
「え?」
唐 突 に言われて意味を理解しかね、オーフェンは聞き返した。が、女は取り合うでもなく、自分で話を進める。
「来たいなら来ていいわよ。ま、たいしたところじゃないけど」
「あ、ああ......ありがとう」
思わず呆 然 と感謝を漏 らしてから──オーフェンは、はっと言い直した。
「て、ちょっと待てよ。本気で一文もねえんだぞ? 飯代も出ないぜ」
「あ、そ。じゃあ、下働き。いいわね?」
「............」
沈黙するオーフェンらをほとんど置き去りにして、女はすたすたと街へと進んでいく。彼らがついてきていないことに気づいていないはずもないだろうが、こちらを振 り返ろうともしない。まあ、いちいち確 認 する義理もないだろうが。
「どうしよう? オーフェン」
成り行きにいまいちついてこられなかったのか、クリーオウが腑 に落ちない表情で見上げてきている。その目を見返して、オーフェンは考え込んだ。
「無 料 だって言ってるんだから......いいんじゃねえか?」
少なくとも、なくした鞄 を探し回るよりはマシだろうと判断して、告げる。
が、心底嫌 そうな顔をして、マジクがうめいた。
「でも、下働きって......」
オーフェンはうなずいた。
「そーだな。大変だなマジク。頑 張 れよ」
クリーオウもうなずく。
「そーね。大変ねマジク。頑張ってね」
「ううう......」
泣 き崩 れるマジクを別とすれば──
特に問題なく、宿は決まったようだった。見ると、女はもうかなり遠くまで歩いて行ってしまっている。どうやら、こちらを待つような気 遣 いはまったく本気でかけらもないらしい。
と、いきなり振り返り、彼女の声が風に響 いた。一 房 に編まれた黒 髪 が、踊 るように跳 ねる。
「あ、わたし、エリス。覚えてね」
オーフェンらが街に入ってから、せいぜい十五分ほど。
その十五分の間に、多数の客を容 赦 なく呑 み込み、にわかに活気づいたレジボーン温泉郷にて。
さきほどまでとは違 う、人間の気配を含 んだ風が、安らかに吹 き抜 けていった。
◆◇◆◇◆
「............」
冷静に考えてみると。
というより、以前から薄 々 感づいていたことではあったが。
いや、正直に言えば、はっきりと分かっていたことではあったのだが。
そして一言で表せば自 明 の理 だったわけだが。
(......なんでぼくまで、こんな目に遭 ってるんだろ)
ひどく深遠な問いかけをドーチンは、目の前の大きな石の上でじっとしている茶色のバッタに投げかけていた。虫に答えられるような問題でもなかろうとは思いつつも、考えてみたらほかに頼 れる相手もいない。
......ふと悲しくなって、ドーチンは目を閉じた。
目を閉じたおかげだかどうかは知らないが、悲しさは薄らいでいった。単に、慣れてきたせいだったかもしれないが。なんにしろ感情が消えると、残ったのは単なる認識だけだった。なぜ目の前に石が落ちているのか。普 通 は足 下 にあるものである、石というのは。
答えはすべて単純だった。
目の前に石があるのは、彼が頭から逆さまに地面に突 き刺 さっているせいである。なぜそこまで物理に逆らった形で地面に触 れているのかと言えば、頭から落下してきたからである。どこからかと言えば、はるか崖 の上からだった。
(なんて簡単な答えなんだろ......)
再び泣きたくなってきたことはなんとか否定しつつ、ドーチンは独 りごちた。
と、声が聞こえてくる。
「うーむ」
声の主はすぐ前方──つまり目の前にある石の向こうにまったく同じ格好で地面に突き刺さっている。バッタはとうにいなくなっていた。答えも出さずに逃 げてしまったらしい。
なんにしろ、声の主は言うまでもなく兄だった。逆 さ倒 立 したまま器用に腕 組みし、目を閉じてうめいている。
「あと一歩だったのだが、惜 しいところで勝利を逃 してしまったな」
「なんかもー、何度もそれ聞いてると、否定する気力がなくなっちゃって、ついうなずいちゃいそうになるところが怖 いな」
「うむ。お前も同意見か。どうやらお前にも、戦 とゆーものが見えてきたようではあるな」
兄はひとりでうんうんと、これまた器用に頭で倒立したままでうなずくと、ぎろりと目を見開いた。みかんのようなもったりした目。眼光だけは、むやみに鋭 い。
「だが今回、奴 は大きな過 ちを犯 した!」
と、ぼて、と倒 れ──そして起きあがる。ちゃんと足で。
ドーチンも同時に倒れ、顔を上げた。目をぱちくりさせて、聞き返す。
「過ち?」
「そうだ! 奴は勢 いに任せて、重大なミッシングを犯したのだ! この過ちは、間 違 いなく奴をチェック模 様 に刺 繡 し殺すであろう!」
拳 を握 り、地鳴りでも背負っているようなポーズで、兄が断言してくる。
ドーチンは、一瞬どうしようかと──もっとも選 択 肢 はふたつしかなく、「それってどういうこと?」と聞き返すほど愚 かなことをするか、あるいはまったく無視するほど愚かなことをするか、どちらかなわけだが──、とにかく迷った。結論が出たのは一瞬後だったが。
つまり、愚かさということならば、どちらも大差なさそうだ。
「それって、どういうこと?」
聞き返すと、ボルカンは大きくうなずいた。
「うむ! 俺様たちは、今回、単に枝から落下しただけで、なんもしとらん! なのに奴は、無意味に攻 撃 をしかけてきたわけだ!」
「まあ、そうだね」
「これはまさしく、正義は我にあり状態! とゆーわけで奴が悪いんだから、このマスマテュリアは悪くないわけで、奴が悪いってことで奴の負けだ。だって奴が悪いし。そうだ。こういうことを言い表す、素 晴 らしい格言があったはずだな」
「えーと......」
ドーチンがなにも思いつかずにいると、ボルカンは、ぽんと手を打って瞳 を輝 かせた。
「うむ思い出した。判定勝ちだ」
「格言......かなぁ」
「うむ。とりあえず気持ちよく勝利したな。この勝利を、とりあえず頭のこのへんで永 久 に記 憶 しておこう。きっとあの青空も、雲も太陽も鳥も覚えていてくれるに違いない」
「確かになんとなく、なかなか忘れてくれそうにないって気はするね」
「さて!」
ボルカンはそこまでまくし立てると、くるりと身体の向きを変えた。高くそびえる崖 を──なにを隠 そう、数分前に彼らが落下してきた崖だが──指さし、さらに声 高 に声を張り上げる。
「ところで、次に我々がしなければならないことも自 ずと決まったわけだ!」
「え?」
聞き返すと、兄は崖を指さしたまま、あっさりと答えてきた。
「ここ、なんとかよじ登ろう」
「......そだね」
ため息まじりに、ドーチンはうなずいた。悲しみを味わう暇 もなく、不幸はいくらでも訪 れてくれる。
ペンション・森の枝。
温泉宿でなにがペンションなのかよく分からないが、ともかくそういった屋号が大きく玄 関 前に張り出されていた。ペンキで描 かれた木製の看 板 はかなり古いが、さほど汚 れていないところを見ると、こまめに手入れされているらしい。
建物は悪くない。やはり、こちらも古いが、あちこち手直しされた形 跡 がある。
「ここがそうよ」
エリスは気楽に手を振 って、そう言ってきた。
クリーオウが、ぽかんと口を開ける。
「うわー」
ついでだが、頭上のレキも意味なく口を開けていた。クリーオウがぱくんと口を閉じるのと同時、それも口を閉じる。最近、なにが面 白 いのかは不明だが、彼女の真 似 をすることを覚えたらしい。
それはそれとして、クリーオウが満足げにうなずくのが見えた。
「なかなかいいじゃない。だいたいこーゆうパターンの時って、なんかとんでもない宿とかに案内されるもんだと思って覚 悟 してたんだけど」
「なんのパターンのことを言ってるのか分からんが......」
オーフェンは、頭をかきながら肩 をすくめた。
「確かに、悪くねえな」
もっとも──
(......ふもとの街で予約した時の値段を考えたら、ちょっと悪くなさすぎる 気もするけどな)
玄関先だけ見 栄 え良く整えてあるだけなのかもしれないが。
エリスがあっさりと言ってくる。
「玄関先だけ見栄え良く整えてあるだけよ」
「............」
「どうしたんですかお師様? なんか急にぐったりして」
聞いてくるマジクに、オーフェンは深々と嘆 息 した。あきらめの表情で答える。
「いや、当たって欲 しくない予想に限って当たるんだなと思ってな」
建物は全体的に見ても、エリスが言うほどに悪い感じがするわけではなかったが、確かにそこいらにある四階建て五階建ての豪 勢 な宿に比べれば見 劣 りする。『森の枝』は二階建てで、普 通 に考えれば、客室になっているのは二階部分、一階を、食堂や厨 房 、そして従業員用の部屋といったところだろうか。外から見たのでは分からないが。実際にそのようではあった。玄関から見える一番大きな窓の中は、広間になっている。
玄関は広かった。
高地には似つかわしくない、枝がなく葉が大きいプランターが、両脇 に置いてある。滑 稽 なようではあったが、かえってそのおかげで、いまいち浮 いた白い壁 がさほど間 抜 けに見えずに済 んでいるのかもしれない。
そちらへと向かいながら──エリスは、突 然 振 り返ってきた。
「ところで、あなたたち、なにしに来たの?」
「え?」
彼女の質問の意味が分からずに、オーフェンは聞き返した。
エリスは真顔で、聞き直してくる。
「だから、なにしにここに来たわけ?」
「いや、だから......ええと、湯 治 かな?」
とりあえず答えを探して、オーフェンはうめいた。エリスが、深々とため息をつくのを見て、眉 根 を寄せる──彼女は明らかに落 胆 したように見えた。が、理由が分からない。
「そう。なんていうか......残念ね」
と、彼女は実際無念そうにうつむいてみせた。
「なんで?」
再び聞き返す。彼女は肩 をすくめると、玄 関 の扉 に手をかけた。そのまま無言でドアを開ける。
また振り返ってきた時、彼女の顔には特に落胆は残っていなかった。
「とりあえず、ここから出入りしてもらって結構だけど、お客さんの邪 魔 にだけはならないでね。空き部屋はあるんだけど、考えてみたら客室に泊 めるってわけにもいかないわよね。使用人部屋を使ってちょうだい──と言いたいところだけど、そんなものないから、そこの女の子はわたしの部屋で寝泊まりしてもらうわね。いいでしょ?」
「......俺 たちは?」
自分を指さし、オーフェンは聞いた。彼女はあっさりと、
「裏 庭 にテント張っていいわよ。多分壊 れてないのが物置に一個くらいあったはずだから。そっちからぐるっと回ってもらえば、なんか適当に裏庭っぽい場所があるから、勝手に行ってちょうだいね」
「......分かった」
まあいいかと思いながら、オーフェンは投げやりにうなずいた。
「......どういうことでしょうねぇ」
「なにがだ?」
その裏庭とやらは、実際に宿の建物の裏手にあった。
〝適当に裏庭っぽい〟というのも至 言 だったかもしれない──裏庭が裏庭たる条件なるものがなにかよく分からないが、その庭から見て、建物がみじめに見えたなら、最低条件が成立したと言えるのかもしれない。裏庭から見上げて、まるでそれが明確な弱点だとでもいうように、宿はみじめに見えた。
表から見える壁 は完 璧 に掃 除 されていたが、こちら側の壁はかなり長い期間ほったらかしにされていたらしい。壁に塗 られた白ペンキの表面は汚 れと傷で変色し、窓も中がうかがえないほどにほこりがついている。雑 草 は生え放題。その雑草に埋 もれた一輪車の手 押 しの部分だけが、なにかどこかへ救い出してくれとばかりに突 き出ている。
あちこち隙 間 の空いた木製の塀 に囲まれた、その放置された箱庭の中で、オーフェンはいったいどこにテントを張るスペースがあるのかと見回していたところだった。草 刈 りから始めでもしなければ、どうしようもなさそうではある──実際、そうしろということなのかもしれないが。
マジクは、裏庭の一角にある、やはり古びた納 屋 の扉 にもたれてこちらを見ていた。テントが入っているというのは、恐 らくその中なのだろうが、一見してその扉が開きそうにない のが知れた──扉が斜 めについている。ちょうつがいがいかれているらしい。
聞き返されて、マジクは不満げに顔をしかめたようだった。
「さっきの女の人ですよ。そりゃ、泊 めてくれるっていうのはありがたいですけど、こんなとこでテント張るんなら、野宿と大差ないじゃないですか」
「そりゃそうだが、愚 痴 ったってしょうがねえだろ」
オーフェンはぼうぼうに生えた雑草を、適当に蹴 り払 った──そんなものでどうこうなるような、やわな荒 れようでもなかったが。
「俺はそんなことより、どうもな......この街全体が、どっかおかしいような気がするんだが」
「まあ、なんかちょっとズレてる感じはありますよね」
「大陸でふたつとない温泉郷ってふれこみだから、こういうものなのかもしれねえけど」
うめきながらオーフェンは、動きを止めた。と──ふと気づいて、目を見開く。
「あれ......なんだ?」
宿の裏手に設 えられたそれを見つめて、彼はつぶやいた。マジクが、あっけなく答えてくる。
「風 呂 釜 じゃないですか?」
「風呂釜だな」
確かにそうだった。黒い樽 型 の、金属製の風呂釜が置いてある。無 骨 な形のそれの近くに、薪 が積んである。雨に濡 れないためにだろう、シートがかけてあった。
しばし考え込んで──オーフェンは、首をかしげた。
「温泉に、風呂釜って必要なのか?」
「追 い炊 きするんじゃないですか?」
「うーん......」
なんとなく腑 に落ちない心持ちで、オーフェンは風呂釜に近寄った。今は火が入っているわけではなかったが、毎日使っているらしく、どことなく煤 が新しい。燃えさしの薪がまだ入っているが、これも古いものではないようである。
「そんなことより、どうします? テントなんて張れそうにないですよ」
すっかり困った表情で裏庭を見回すマジクに、無言でうなずく。
「そもそも、テントってのがどこにあるのかも聞いてないしな。どうもこの街の雰 囲 気 に押 されて、間が抜 けてたらしい。聞きに行くか──なんとなくあのエリスっての、苦手な感じなんだけどな」
と、近くの窓が、がらと音を立てて開いた。
窓の中にはエリスがいる。彼女は素 っ気 ない視線で、物 置 のほうを示した。
「テントはそこよ」
「......ありがと」
「芝 刈 り機 もね」
「ますますありがたい」
「そのへんの準備が終わったら、表から入ってきて。仕事はいくらでもあるから」
「俺が這 いつくばって礼を言うのを期待してるなら、あと一 押 しだぞ」
「......あとは思いつかないわ」
窓が閉じる。
オーフェンは深々とため息をついた。
「ここ、開きませんよ」
物置の傾 いた扉 を二、三度引っ張ってから、マジクがうめくのが聞こえてくる。それを見て、オーフェンは自分の間 違 いを悟 った──傾いているのは扉だけではない。物置自体も、逆方向に傾いている。
思わず目を閉じて、かぶりを振 った。うめく。
「ああ......今まで真 面 目 に生きてきたこの俺に、運命はどーしてここまでの仕打ちを?」
一 所 懸 命 に開かない扉と取っ組み合いしながら、マジクが言ってきた。
「そんなこと本気で言ってるのなら、そのうちホントに罰 が当たりますよ」
「......そうかもな」
オーフェンは目を開けると、腰 に手を当ててふうと吐 息 した。
「運命なんてものがあるんなら逆らえないような気もするが、一応、予防だけはしてみよう。努力ってのはそういうもんだって、姉さんも言ってたし」
ひとしきりうめいてから、オーフェンは物置に向かって歩き出した。手伝ったところでその物置の扉を開けることが物理的に不可能であるのは明らかだったが。最悪の場合、扉を破 壊 するか壁 を破壊するか土台から根こそぎ破壊するか、とにかくそうでもしなければならないかもしれない。どれかひとつをすれば、残りふたつも自動的に達成されそうなほど、がたがたな物置だったが。
と──
「なんじゃ? お前さんらは」
後ろから呼び止められて、オーフェンは振り向いた。裏庭に入って来られる入り口はひとつしかないのだが──そこから、女がひとり顔をのぞかせている。
中年と老年のちょうど中間といった歳 の女だった。小 柄 だが、身体 は健康そうである。彼女はパンの中から虫が出てきたとでもいうような、あっけにとられた眼 差 しでこちらを見つめたまま、
「......けったいな格好をしとるのう」
「そ、そうかな。でもほかに似合いそうな服ってのもねぇんだけど」
とりあえずそんなことを答えてから、気づく。そんなことはどうでもいい。
オーフェンは咳 払 いして、言い直した。
「ええと......なんつったらいいのかな。俺ら、ここの人に言われて、ここに間借りすることになったんだけど」
「ここの人?」
女が怪 訝 そうに眉 間 にしわを寄せる。と再び、なんの前 触 れもなく先ほどと同じ窓が開いた。エリスが顔を、にゅうと出してくる。
「あ、ママ。この人たち、泊 まるところもないって言うから、下働きでもさせてあげようと思って連れてきたんだけど」
「ママ?」
思わず割り込んで、オーフェンは聞き返した。エリスはちらりとこちらに視線を移すと、肩 をすくめるような仕草で答えてきた。
「そうよ。ええと、母のシーナよ。ママ、この人たちは......」
と、疑 問 符 を浮 かべる。
「......名前、なんだったかしら?」
「俺はオーフェン。こっちがマジク。ひとりだけ屋根の下にいる裏切り者は、クリーオウだ」
「誰 が裏切り者よー!」
窓の奥 から、声が聞こえてくる。どうやらそこがエリスの部屋で、ふたりともそこにいるらしい。
が、そんなことよりも、その女とエリスを見比べてみる──言われてみれば、顔の輪 郭 や雰 囲 気 など、よく似ていた。歳はかなり離 れているようではあるが。
「ふうむ」
隠 すつもりもないのか、かなりあからさまに観察の視線をこちらに向け、その母親──シーナとやらは簡単にうなずいた。
「ま、いいじゃろ。薪 割 りも頼 めそうじゃし」
「ああ、そういえば、それもあったわね」
「............」
「ほら、罰 が当たったじゃないですか」
沈 黙 するオーフェンの耳に、ぽつりと、マジクのつぶやきが入ってきた。
◆◇◆◇◆
地人という種族を生物的に考えてみるに、まあおよそ、崖 をよじ登るのに適した構 造 ではないようである。
ドーチンはしみじみと、そんなことを考えていた。地人種族の身体は水に浮かないほど重いし、実は関節も固い。ドラゴン種族の文明が大陸に流入してくる以前に、地人種族が厳 しい野生に対して持ち合わせていた武器とは単に身体の頑 丈 さだったし、食物を手に入れることのできる器用さの代わりに持っていたのは、栄養を摂 取 しなくともなんとなく生き延びられるという生態的なアバウトさだった。とまあ、少なくとも、ドーチンはなにかの本で読んだことがあったように記 憶 していた。著者は人間種族だったように思う。
恐 らくそれらは、生物としては圧 倒 的 に優 れた能力なのかもしれないが──とりあえずドーチンは、ため息をついた。崖をよじ登るのには使えない。
逆さになって、頭から地面にめり込んだ兄を見ながら、ドーチンはしみじみと、そんなことを考えていた。
「......今のは惜 しかったねー、兄さん」
「うむ!」
がば、と跳 ね起きて、兄──ボルカンが斜 めに構えて拳 を握 り(最近の決めポーズらしい)、元気よくうなずく。
「やはりこのマスマテュリアの闘 犬 、ボルカノ・ボルカン様には、苦手なものなどないということが実証されつつあるよーだな! 大自然の困 難 をも克 服 せんとする民族の英 雄 の姿を、すべからくお前もたたえなければならんぞ!」
「そうだね。次は二メートルを目標に登ってみようか」
「げっとれでぃー、ごー!」
再び崖に飛びつく兄はほっておくとして、ドーチンはあたりを見回した。やはり山の中である。崖の下は原生林とまではいかなくとも、木々が生 い茂 り、地表をふさいでいる。
空からの青い光を遮 って、地面に暗い影 を落とす豊かな枝は、ひとつの緑の塊 のようにも見えた。
(すごい森だ......マスマテュリアの永 久 樹 氷 のほうがきれいだけど)
ふと、崖に背を向けて、ドーチンは森に見入っていた。視界に収めることができないほど背の高い木々が、入り込む隙 間 もなく立ち並ぶ。美しい森。誰が言ったのだろうかと、我知らず思い出す──キエサルヒマ大陸は美しい。これを汚 そうとする者はいない。誰もいない。あえて支配しようとする者もいない。ゆるやかに、ただ在 るだけの土地。それがキエサルヒマ大陸だった。
ただ支配されていないということは、管理されていないということでもある。
深い森の暗がりに──見通せるわけがない暗がりに目を凝 らしながら、ドーチンは身 震 いした。詩的な気分から、一気に現実的な思いへと胸の中がバトンタッチする。つまり、このあたりには......肉食の獣 がいたりしないだろうか?
思いついてみれば、これは確かに現実的な問題だった。今度は崖のほうを見回してみる。崖はどこまでも続いているように見えた。目の前にそびえる切り立った崖が登れないとなれば、この崖に沿って道を探すしか脱 出 の方法がない。
そうなれば森の静けさも、あるいは木々のざわめきも、胸に差し込んでくる暗い影でしかなかった。兄のほうへと向き直る。

「ね、ねえ兄さん──」
「なんだ?」
再び逆さになって、頭から地面にめり込んだ兄は、そのままの姿勢で腕 組みして、なぜか鷹 揚 な様子で聞き返してきた。
だがそんな謎 に挑 戦 している時ではない。ドーチンは、わたわたと腕を振 ってあとを続けた。
「思うんだけどさ、とりあえずこの崖を登るのは無理そうだから、早いとこほかの道を探したほうがいいと思うんだけど──ええと、ほら、日が暮れる前に」
肉 食 獣 ってのはだいたい夜行性だと思うし。と胸中で付け加える。
ボルカンは、
「うむ!」
またもや勢いよく跳 ね起きて、うなずいてきた。
「まあ、兄にとってはこのよーな崖など秘 技 ・垂 直 壁歩きで登れないでもないが、お前にはちときつすぎることを失 念 していたな。まあ、英雄はつい凡 人 の無 能 さを忘れてしまうものだから、仕方ないわけで、兄はこんな崖は楽々登れるぞ、念のため」
実はこっちが言い出すのを待っていたのではないだろうかという疑問は胸の奥 にしまいつつ、ドーチンは適当に相づちを打った。
「うん。きっとその通りだね。それはいいんだけど......どうしようか? どっちに行けば道があるかな」
「地図はないのか?」
「ハイキングコースだし......こんな崖落っこちる人もいないだろうから、地図なんてないと思うよ」
「ううむ。結局、お前がいかに役に立たないかを再 確 認 しただけになったよーだな」
ボルカンはそんなことをひとりでうめくと、すぐに──あまり考えた様子はなかったが──右を、つまりハイキングコースの登りの方向を指さした。
「ずばり、向こうが良さげだ」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
「......まあ、こんな時に明確な理由があるってのも、なんだかなとは思うしね」
実際、右も左も、見たところで大差があるようには見えなかった。どちらか分からないのならば、どちらに向かうのでも同じであるし、それに結局──どちらに向かっても不安ということだ。
だったなら、悩 んでも仕方ない。
(まあ、それでも普 通 は悩むものだと思うけど)
そんなことを付け加えて、ドーチンは行く手と決まった方向に向きやった。まだ日は高いが、それもいつまでか分かったものではない。急いだほうが良さそうだった。
「じゃあ、行こうか。まあ、なんか道とかがなくても、少なくとも上まで登れそうな場所が見つかるかもしれないし」
「そんなに急ぐ必要もないと思うが」
「でも、野犬とかが出てきたらいやだし」
「さあ、行くぞドーチン、なにをもたもたしている!」
その時だった。
がさっ──
後方から聞こえてきた物音に、ドーチンは、ぴたりと動きを止めた。嫌 な味が食道に広がっていくのを自覚する。
それは兄にも聞こえたようで、ボルカンは歩き出す姿勢のまま固まっていた。
「......ど、どどどどーしたドーチン。足が止まったようだが」
冷 や汗 を垂らしつつ自分も足を止め──認めたくないのだろうが──兄が、そんなことを聞いてくる。
野犬。自分で口にした単語が自分の耳の中でこだまする。ドーチンは、やはり振 り返らず固まったまま、
「い、いや別になんでもないよ」
「うむ。もちろんそうだな。俺様もなんともないぞ」
「そ、そうだね」
「............」
「............」
しばし時間までも固まる。
凍 った時の中で口を開いたのはボルカンだった。
「......ところでこれは世間話なんだが、逃 げる獲 物 がふたつあった場合、野犬とゆーのは足の遅 いほうを狙 うよな?」
そんなことを言いながら、じわじわと前に移動しているのを、ドーチンは見 逃 さなかった。彼も同じようにゆっくりと前進しながら、
「うん。でもこれはあくまで世間話なんだけど、野犬って一匹 だけじゃないだろうから、結局両方捕 まるんじゃないかな」
それを聞いて、ボルカンははっきりと落 胆 したようだった──あくまでゆっくりと前進しながらだが。
「そうか......ところで世間話の続きだが、ひとりがここに踏 みとどまって死ぬ気で戦えば、もうひとりは逃げ延びられるだろーか」
「世間話だけど、どっちかが早めに死ぬってだけで、結果はおんなじだと思うよ」
「............」
「............」
「ドーチン」
「なぁに?」
「ひとりが野犬もろとも自 爆 するというのはどーだろか」
「........................」
長い長い沈 黙 ののち──
ドーチンは恐 る恐る、肩 越 しに視線を投げてみた。なにが待ち受けているだろうと想像して、身 震 いする。
ずらりと並んだ赤い目。
死を告 げようとするうなり声。
前 脚 の爪 が土を引 っ掻 き──
気がついた時には、なにも見ることは叶 わない。一 撃 で首を噛 み裂 かれ、息を吸っても首の後ろから抜 けていく。肺 だけが苦しさを訴 え、アドレナリンで沸 騰 した身体は恍 惚 とさえ言える熱 狂 の中で悶 える。だいたいそのようなことを予想して振 り返ってから、
「............?」
ドーチンは、目をぱちくりさせた。なにもない。
森も土も崖 も風もなにもかも、ただ静かだった。風がそよそよと、自然を揺 らしている。虫ひとつ顔を出していない。
身体から緊 張 を抜いて、ドーチンは力んでいた肩を落とした。
「気のせいだったのかな?」
刹 那 。
きしゃあああっ!
けたたましい雄 叫 びとともに、近くの茂 みから黒い影 が飛び出してきた。黒々とした毛並みの生きた塊 が、宙を駆 けるように素 早 く、突 進 してくる!
「うわああああああっ⁉ 」
悲鳴だけが響 く、魂 のない無意味な残像の風景の中で、身体を反転させ──
ふたりは逃 げ出した。
◆◇◆◇◆
その土地の伝説として有名なのは、やはり『地 熱 裁 判 』でしょう。
なんといってもマグマの沸 騰 する地下刑場は、今でこそ冷えた岩 塊 となり、だからこそ我々も無防備に見学することができるわけですが、当時の凄 みを今でも伝えてくれています。古代種族がこの場所でなにを裁 き、なにを罰 したのか、訪 れる者の中には、その過去の声を聞く者もいるとかいないとか。不死の古代種族を刑に服させるためにはマグマの力を借りるしかなかったというから恐 ろしさを感じさせます。
この土地にはこの刑場を始め、古代の遺 跡 がいくつか発見されています。既 に調査隊の手を離 れたこれらの遺跡をのぞき、知的な旅を堪 能 するのもいいかも? 入場料を必要とする場所もありますが、詳 細 は宿の従業員に聞くのが得 策 。ひょっとして、びっくりするような穴場を教えてもらえるかもしれません。
もちろん、レジャー関係は完 備 で、抜 かりがないと感心させます。『ロッツ・スポーツ・フェスティバル』は観光客が格安で使用できる最高規 模 のスポーツ・クラブであるとして有名です。ご当地のひいき種目であるスティックボールコートは全面天 然 芝 、プール、テーブルテニス、あらゆる球技に対応できるという体育館等、屋内設備も漏 らすところなくフォローしてあります。
それら観光名所を巡 り、身体に刻 んだ心地いい疲 れは、もちろん有名なレジボーンの温泉で癒 やしましょう。温泉宿は多数、しかもいずれも質の良い泉 質 を格 安 で堪 能 することができます。
ご旅行の相談は、ぜひわたくしたち緑看 板 でお馴 染 みのグリーンライド旅行社まで──
「──っていうことだったのに」
ばたん、とパンフレットを閉じながら、クリーオウが口をとがらせるのを、ただじっと見ている。
彼女はふくれっ面 のまま、眉 をつり上げて不満の声を爆 発 させた。
「なんか違 うんじゃない⁉ 」
不服は分からないでもなかった。
というのも、彼も実際、同じような心持ちだったからだ。だが。
「いいから早くその皿よこせよ」
オーフェンはそう言うと、むくれた表情のまま皿を抱 えている少女に手を突 きだした。
花 柄 のエプロンで手を拭 いて──クリーオウは、マジクが差し出している大皿をひっつかむと、不 機 嫌 そうに舌を出してからそれをこちらに渡 してきた。それを受け取り、食 器 棚 に入れる。
厨 房 の洗い場は広く、三人が並んでいてもまだ余 裕 がある。マジクが皿を洗い──洗い上がった皿をオーフェンが食器棚に並べる。クリーオウはやることがないので、その中間で食器を受け渡してもらうことにしていた。客がろくにいないのか、洗う食器がさほど多くないのが救いだったが。
ちなみにレキは──動物を厨房に入れるのは良くないと、妙 に律 儀 なクリーオウが言い出して──戸口のすぐ外にいた。退 屈 なのか、ひとりでころころと転がっては、あちこち見回している。転がるたびに見えるものが変わるのが面 白 いのかもしれない。
「......ただ働きっていうのが、なんか不毛な感じですよね」
マジクは手慣れた様子で小 振 りな皿を左手だけで二枚持ち、それを器用に同時に洗っている。
オーフェンはふたりの顔を見回して──顔をしかめた。
「ンなこと言ったって、しょうがねえだろ──ほかにどうしろってんだよ、金もねえのに。ここまで来て路 上 で寝 るのか?」

「それはヤ」
きっぱりと、クリーオウが即 答 してくる。
「だろ? じゃ、こうするしかないじゃねえか」
指を突きつけて言うが──彼女は、それでは納 得 しないようだった。食堂から勝手に持ち込んできた椅 子 を引き寄せて、そこにどさりと身体を落とすと、眉 を谷間の形に保ったままうめき声をあげてくる。
「もともとは、オーフェンがお金の入った鞄 をなくしちゃったのが悪いんじゃない」
オーフェンは聞き逃 さなかった。
「お前、それを俺のせいにするのか?」
「なによう。オーフェンが鞄を投げ出して、どっかに行っちゃったんじゃない」
「って、そんなもん、お前がちゃんと拾ってきてくれてりゃ、問題なかったんじゃねえか?」
「だから、なんでわたしが──」
「あのぅ。そんなことより」
洗い終えた皿を乾 いた布 巾 で拭きながら、マジクが口をはさんできた。
「そもそも、誰が鞄を持っていったりしたんでしょうね? それが見つかれば、こんな下働きなんてしないですむのに」
「そうなんだよなぁ......」
クリーオウに向けていた指を引っ込めながら、オーフェンはうめいた──天 井 を見上げて息を吐 く。
「あの道はハイキング・コースになってたけど、結局はここと、ふもとのナッシュウォータ市とをつなぐだけの道だからな。ここに来る奴 か、ここから帰る奴しかあそこは通らないわけだ」
「でもたいていの人は、送 迎 馬 車 を使うんでしょ?」
「そうなんだよな。馬車使うのもケチるような奴か......まあ人のこた言えないが」
「でも逆に、ここに来た 人のほうにだけヤマを張れば──帰っちゃった人に今さらヤマを張ってもしょうがないですからね──、まあなんにしろ、容疑者をかなり絞 れるかもしれませんね」
「そうだな。わざわざ徒 歩 で来るような奴、そんなに多くないだろうからな」
オーフェンはふたりに順々に同意して、ぱしと手を打ち合わせた。
「方針さえ決まれば、やる気が出るってもんだ。そーゆうネコババ野 郎 にはおおむね生存権とかないから、かなりきっついことしても許されるよな?」
「......念のため聞きますけど、お師様の言う『きっつい』って、どのあたりのことなんですか?」
半眼で聞いてくるマジクに、オーフェンはあっさりと答えた。
「その思い出をぬぐって人生の再起をはかるのに十年かかる程度」
「うあ」
「まあ冗 談 はともかくとして、鞄 は見つけないとならんよな。金もそうだが、大事なものも入ってるし」
しみじみとうなずいて、オーフェンはつぶやいた。独 りごちるように──だが、クリーオウは見 逃 さなかったようだった。ぱっと腰 を上げると、さっさとエプロンを外しはじめる。
「そうよね。早く探さないと」
「確かに。じゃあマジク、あと頑 張 ってな」
「......え?」
皿を片手に、マジクはようやく気づいたようだった。顔色を青くして、信じられない口調で聞いてくる。
「が、頑張ってって、お師様たち、どこに行くんです?」
「外」
オーフェンは一単語で答えると、素 早 く戸口へと向かった。こちらを見上げるレキをまたいで、外に出る。
「わたしも!」
ぱたぱたとクリーオウもついてきて、レキを拾い上げる。
あわてて、マジクが声をあげるのが聞こえてきた。
「って、ちょっと待っ──」
だが。
すぐに扉 がばたんと閉じて、その声を遮 った。
ペンション・森の枝。どことなく矛 盾 した名前だと自分で言ったのを、オーフェンはなんとなく思い出していた。内装は、宿というよりは民家に近く、あちこちに気 を遣 っている痕 跡 はうかがえるのだが、金をかけているというわけでもない。
レキを抱 えたクリーオウが、壁 にかかった花の絵を見ながらつぶやいた。
「......マジクには悪いことしちゃったわね」
「過去形で言ってる時点で誠 意 がないぞ」
ぽん、と彼女の頭を叩 いて、オーフェンは告げた。そこは食堂だったが、厨 房 の広さに比べると、どちらかと言えば手 狭 なように思える。食堂は広間に通じていて、広間から玄 関 に出られる。大まかに言えば、そんな造りになっていた。
とりあえず、広間のほうに進みながら、
「だいたい、俺が手伝ったところで皿洗いがはかどるわけでもなし、得意な奴 に得意なことを任せるのが、適 材 適 所 ってもんだ」
「なんか言い訳 っぽいわ」
広間の中央に設 えてあるのは、かなり出来の良い立体地図だった。街の地図ではなく、このあたり一帯の地形を模 している。中央にこの街があり、そしてその周辺、覚えのあるハイキング・コースも、崖 もあった。
インテリアとしては──年季の入ったもののようだが──、価値があるものでもないだろう。
が──
「あれ?」
クリーオウが声をあげるのを聞いて、オーフェンは足を止めた。彼女は地図をのぞき込んで目を丸くしている。
オーフェンはまた歩きだそうとしながら、口を開いた。
「なんだよ。その地図なら、さっきさんざん珍 しがって見てただろ、お前」
「うん。だけど、今気づいたんだけどさ、ほらここ。見て見て」
彼女の指に導かれ、その指先がさし示すあたりを見やる。
「ん?」
うめきはしたが、なにが分かったわけでもなかった──オーフェンは身体を少しもどすと、今度はまじまじと地図に見入った。とりあえず横目でクリーオウのほうを見て、なんのことだか視線で問いかける。
レキを頭に乗せて、クリーオウが言ってきた。
「あのね、ここ──ほら。変じゃない?」
「............?」
彼女がなにを言いたいのか理解できず、オーフェンはただ表情を険 しくした。少女はじれったそうに、改めて地図の一点を指でさして、声のトーンを高くする。
「だからさ。ここのとこよ。さっきの道。崖があってさ、下は森でさ、でもさっき見た時は──」
と──
「あ、危ないっ!」
どだどだごとんどたんがたん!
「きゃあああああああっ⁉ 」
なにやらまくし立てようとしていたクリーオウの声を、突 然 、物音と悲鳴とが遮 る。
「......なんだ?」
オーフェンは悲鳴の聞こえてきた方向を漠 然 と判断すると、玄 関 のほうを向きやった。悲鳴は女のもので──ついでに言えば、エリスのものだとすぐに知れた。広間から玄関のほうに顔を出してみると、実際エリスが廊 下 に尻 餅 をついている。
そして、玄関から広間とは逆の方向にある階段を逆さまに転げ落ちたらしい男が、彼女の座 り込んでいるすぐ目の前に、巨 大 なリュックサックといっしょにもみくちゃになって倒 れていた。玄関には、それをのんびりと見下ろして──よく言えば恰 幅 のいい、そうでなければ太った男が、もごもごと口を開いた。
「......すまなかったね、お嬢 さん。ノサップ研究員には、悪気はなかったんだろうが......人間の骨 格 が、大自然の重力に対していかに無防備で無力であるか、理解が足りなかったようだ」
「........................」
なにも答えず──いや、答えられずといったほうが近かっただろうが、ただひたすら目を丸くして、エリスが硬 直 している。その目の前で、もぞもぞとのたうつようにゆっくりと、リュックサックの男が起きあがった。まだ若いようではあったが、少し老 成 した空気を感じさせないでもない。まあ一言で言えば〝スレた〟面 構 えの若者だった。もっとも言ったところで、オーフェン自身よりは年上に見えたが。
その男、ノサップ研究員とやらは、明らかに自分自身の身体よりも重量がありそうなリュックサックを担 いでなんとか起きあがると、
「ぞ......そうでずね......コンラッド研究員長」
完全に目を回したまま、そんなことをうめいた。太った男──彼がコンラッドだろうが──は満足そうに笑うと、
「うむ。お嬢さんが立ち上がるのに手を貸して差し上げたまえ、ノサップ研究員。そうそう。ああ、愚 かだな。議員と握 手 でもしてるつもりかね? 女性を右手でエスコートしようなどと、今日び──まあ別にいい。それよりも、時は金なりだ。急ぎたまえ。というわけで、お嬢さん、我々は少し、研究のため外に出るが、夕食までには帰ってくる予定です......おや、聞いておられない?」
「え⁉ 」
ノサップとやらに手を貸してもらって立ち上がってから、ぽかんと口を開けたままで呆 然 としていたエリスが、そこでスイッチが入ったように声をあげる。
「あ、ああ......いえ。分かりました」
「うむ。では、よしなに──ノサップ研究員、なにをぼさっとしているのかね? 以前から二次的な研究の候 補 として考えてはいたのだが、君の動作ののろさというのは、どうしたものだろう。どうしてわたしより先に外に出ようとしないのだ?」
「......あのおじさんが邪 魔 で出られないからよね?」
小声でクリーオウが言ってくるのにうなずきながら、オーフェンは、ノサップとリュックサック──あるいはリュックサックとそれから生えた足という様子だったが──が、コンラッドのあとについて出ていくのを見送った。ばたんと扉 が閉じる。棒立ちになったエリスを残したまま。
オーフェンは、廊 下 に出ると、閉じた扉を指さして聞いてみた。
「......今のは?」
「お客さんよ。とりあえず、今のうちの宿の唯 一 の泊 まり客」
エリスの声からは、まだいまいち驚 愕 が抜 けきっていなかったようではあった──あるいはそれは、相変わらずの気の抜けた調子のせいだったかもしれないが。
彼女はとりあえず気を取り直すように前 髪 を何本か手で払 うと、そこでようやくこちらを向いてきた。
「......それで、どうしたの?」
「いや、あのな──」
適当そうな言い出し方を考えながら──オーフェンは、笑 みを浮 かべた。続ける。
「考えたんだけどな。皿洗いを三人がかりでやるってのもなんだし、ここは手分けして、俺たちは外に出て──」
「あ、それもそうね」
エリスはぽんと手を叩 くと──
「確かに薪 割 りは明るいうちにやっておいてもらいたいし。手分けしてやってくれるのなら、助かるわ」
「いや、あの......」
「それと、裏庭のテント。さっき見たら風で倒 壊 してたわよ。張り直しておかないと、今夜雨が降るかもね」
「............」
気配を感じて、オーフェンは無言のまま、背後を見やった。てくてくと、クリーオウが広間へと後もどりしていくのが見える。彼女はにっこりと手を振 ってきた。
「じゃあオーフェン、わたしお皿洗いにもどるから、頑 張 ってね♥」
「............」
「頑張ってね」
こちらはにこりともせずに、エリス──
「............はい」
ほかに言う言葉がないということに、そこはかとない不 条 理 を感じつつ──オーフェンは観念してうなずいた。
大フィーン・ロッツは不 機 嫌 だった。
それは彼にも、はっきりと分かった。のみならず、相 棒 にも分かっただろう。ちらりと横目で見やる──相棒は大きな図 体 を持て余すように、立ったまま片足ずつ交 互 に重 心 を移 し替 えながら、そわそわと視線の置き場を探している。そう。はっきりと分かっているだろう。だが、だからどうだというのだろう?
彼は自 問 した。分かっていたからといって、相棒が事 態 を解 決 してくれることなどあり得ない。
それだけは覚 悟 して、大フィーンの言葉を待つ。葉 巻 をくわえた老 紳 士 。これが、その老人の形 容 だった。それ以外にはない。まあ、確かに、このレジボーン温 泉 郷 のほとんどの温泉宿を傘 下 に収めたロッツ・グループの頭 かもしれないが。
社長室はいかにも、大フィーンに似合った内 装 で統 一 されていた。艶 のある琥 珀 色 の家具たちが几 帳 面 に並べられている。ただひとつ──部屋の中央に設 えられた、温泉郷の立体地図をのぞいて。
立体地図はこのあたりの地形を模 したもので、それ単体として見たならばよくできている部 類 だろうが、この部屋にはあまりにも不 釣 り合 いだった。そもそもどうしてこの部屋にこんなものがあるのか彼には分からなかったが。インテリアとしてなら、宿の玄 関 ホールにでも置いたほうが、よほど有 意 義 だろうに。
と──
老人は口から葉巻を離 すと、紫 色 の煙 とともに言葉を吐 いてきた。
「つまり、こうだな? お前らは手ぶらで帰ってきた」
「ええ、まあ」
決まり悪く笑 みを浮 かべて、彼はうなずいた。そうすべきではないとは分かっていた。案の定、大フィーンはさらに感 情 を悪化させたようではある──だが、ほかにどうできるというのだ?
「ロナン。わたしはなんのためにお前を飼 っている? 客の呼び込みのためか? まあ、そうかもしれん」
彼──ロナンは、なにかを言いかけたが、やめた。大フィーンが手をあげている。しゃべるな、という合 図 だ。ならば逆らうべきではない。が。
「なあ、わたしはそんな無 茶 を言っているかな? どうだろう。無茶かもしれん。ああそうだ。お前には荷 が勝 ちすぎていたか?」
「恐 れながら......」
ロナンはしぶしぶ、口を開いた。
「社長、誰 であろうと同じだと思います」
「どういう意味だ?」
「そのままですよ。誰であろうと同じだということです──毎日毎日、ただ押 し掛 けていって『グループの傘下に加われ』と説得したところで。一度断られれば、もう同じですよ。相手には、グループに加わる意 思 がないんです。だったら、我々もあきらめるべきなんじゃないですか?」
「そういった問題ではないのだ!」
ばんっ! と──
単に、ばん、ではない。文字通り机が跳 ね上 がるほどの勢 いで、大フィーンが机を叩 く。その勢いで老人は立ち上がると、喉 に血 管 を浮き上がらせながら大声を張り上げた。
「なんとしても、あの女に首を縦 に振 らせろ!」
「は、はい、もちろんです!」
あわてて声を出したのは、ロナンではなかった。
ロナンは目を閉じて──天 井 を仰 いだ。大フィーンの気 勢 に押 されて、怯 えた声で相棒がまくし立てている。
「あ、あのアマども、今度はちっと、痛い目を見せてやって──」
が、刹 那 、大フィーンの顔つきがさらに険 しくなった。
「馬 鹿 野 郎 ! ンなことしてみろ、たたっ殺すぞ!」
それまでの声量をさらに上回るほどの怒 鳴 り声 を浴びせられ──
相棒と、そしてロナンは動きを止めた。
そのまま長い時が過ぎる。数分ほどもだろうか。大フィーンの荒 い吐 息 の音だけで時を刻み、そして。
次に口を開いた時には、大フィーンの声からは激しさは消えていた──ただ鋭 さだけがあるだけだった。静かに、そして鋭く。
「......今まで通りにやれ。いいな? 分かったら、とっとと出ていけ」
「............はい、社長」
ロナンは一言だけ答えてうなずくと、そのまま続けて一礼して、くるりときびすを返した。相棒を胸中で罵 りつつ、社長室から退 室 する。
ふたり並んで部屋を出て──
その背後を守るように、分 厚 い扉 を閉じてから。
彼らは同時につぶやいた。
「......参 ったなぁ」
「前任者が腹痛で引退したって噂 、ホントかもしんないですね」
胃のあたりを押さえながらの相棒のつぶやきに、ロナンは静かにうなずいた。
◆◇◆◇◆
「参った......」
「やっぱり天 罰 ですね」
「俺 はもう死ぬ......」
「筋 肉 痛 くらいで死ぬわけないじゃないですか」
「ていうか死にたい......」
「うちの父さんが二 日 酔 いになった時にそっくりですね」
「お・ま・え・は......」
オーフェンはうめきながら、ゆっくりと起きあがった。
人が腰 も立たずに苦しんでるってのに、言うことはそれだけかっ⁉ 」
叫 ぶが──振 り返ってきたマジクの表情は、あくまで平 静 だった。目の前でちょこんと椅 子 に座 り、半眼でこちらを見下ろしてきている。
「お師様だって、ぼくに皿洗い押しつけて逃 げ出そうとしたじゃないですか」
オーフェンは、さっと目をそらした。
「......まあ、それはそれとして、だ」
「なにがそれはそれとしてなんですか?」
「もうすっかり秋だなぁ。故 郷 もきっと秋なんだろうなぁ」
「当たり前じゃないですか」
「♪おー故郷よー」
「歌ってごまかそうとしたって駄 目 ですよ」
「ちっ」
オーフェンは舌打ちすると、とりあえず歌をやめた。
ふたりがいるのは、広間だった──オーフェンがいるのは、そのソファーの上である。あまり大きくないソファーの上に腹 這 いに寝 転 がって、椅子に座るマジクを見上げている格 好 である。無 論 、あまり楽な体勢とは言えないが。
仕方なかった。ほかの姿 勢 が取れなかったのだから。
オーフェンは目を閉じた。怒 鳴 っても駄目だった。歌ってもごまかせなかった。となると──あとは諭 すしかない。
ゆっくりとした口調で告げる。
「お前なぁ......気 軽 に天罰なんて言ってくれるが、薪 割 り三十本は、しゃれにならん労働だぞ。もーすっかり腰が砕 けて、結局テントも張り直せなかった。野 宿 だからな。覚 悟 しとけよ」
「ぼくだって、あの皿洗いのあとはトイレ掃 除 に屋 根 裏 部 屋 の整 理 に、さんざんこき使われたんですから、大変でしたよ」
「あのじゃじゃ馬は?」
「クリーオウも、ベッドメイクとか買い出しとかさせられてたみたいですよ。彼女はそーゆうの得 意 だから、なんかむしろ楽しそうでしたけど」
「くそ、なんか一方的に損 してる気分だ」
オーフェンは吐 き捨てるようにうめながら、なんとか起きあがろうと身体 を動かした──が、やはり背 筋 の痛みにそれを断 念 した。薪割りをしてから数時間、痛めた筋と筋肉痛とで、ひどく動きが制 限 されている。生きたまま剥 製 にされたなら、こんな感じかもしれないと思い、さらに気分を落ち込ませて、彼はため息をついた。
窓の外を見やる。もうすっかり陽 は落ちていた。というよりも、もうとうに宵 の口 を過ぎている。
だが、
「......んで、あのおっさんたち──客らしいが──が帰ってくるまで、夕 食 も出せないってんだろ? 参 ったよ。ホントに参った」
空 腹 の胃がきしむのを感じて、ますます気分が滅 入 ってくる。
「確かに、お腹 減 りましたね......」
これも情けない顔で、マジクがつぶやく。
と。
「──確かに、こんなに遅 くなったんじゃ、わたしたちだけ先に食べちゃったほうがいいかもね」
言いながら広間に入ってきたのは、エリスだった。オーフェンは転がって顔の向きを変え、彼女のほうを向きやった。彼女は昼から変わらないエプロン姿で、とことこと入ってくると、広間の中央にある立体地図をちらりと見てから、こちらに向き直ってきた。
「まったく、遅くなるなら遅くなるって、出かける時に言っていけばいいのに。夕食用意するって言ってあるんだから、そのくらいのこと気づかないものかしらね?」
と、不 服 そうに表情を歪 める。
「......たまに客が来たと思ったら、ろくな客じゃないんだから。本当に」
「いいじゃないですか、たまにはお客が来るんですから」
困ったように、マジクがうめく。オーフェンは、うんうんとうなずいた。
「うむ。客の来ない宿とゆーことならば、こいつの実 家 はなんつーか、すごいぞ」
「......その原 因 が、なに胸張って自 慢 してるんですか」
冷たい目でマジクが言ってくるが、それは無視。
なんにしろ、エリスは──おかしかったのか、それともただの愛 想 笑 いか分からないが──つまりそれが分からない程 度 の笑 みを浮 かべてみせた。
そして、
「つまんない仕事よ。なんでこんなこと続けなくちゃならないのか分からないけど」
そんなことをつぶやいてから、彼女は──全然別のことを言い直してきた。
「......とりあえず、あなたたち、お風 呂 にでも入ってくれば? その間に、食事の用意をしておくから」
「風呂!」
オーフェンは思い出して、指をぱちんと鳴らした。無理矢理に起きあがる──また腰が悲 鳴 をあげたようではあったが、今度はそれを無視した。
「そうだよ──まったくだ。ここにきた目的を忘れてたな。とりあえず、温泉にでも入れば、痛めた筋 もほぐれるだろ」
「そうですね。汗 もかきましたし」
「あ、でも今、あの子──クリーオウが入りに行ってるから、彼女があがるの待たないと──」
彼女がそう言った、その瞬 間 だった。
「なんでえええええええっ⁉ 」
奇 妙 な悲鳴が、宿に響 きわたった。
それがクリーオウの悲鳴だということは、すぐに分かった。
そして、分かってすぐに考えたのは──駆 けつけていいものかということだった。
それはマジクも同じだったのかもしれない。申し合わせたようにふたりで顔を見合わせて、オーフェンは改めて胸中でうめいていた。
(......悲鳴?)
なんにしろ、悲鳴をあげる理由が思い浮かばなかった。
「エリス......」
彼女に聞こうと、声をあげる。が、言いかけてオーフェンは続 く問 いを見失った──エリスはごく平然とした顔で、足早に食堂のほうに姿を消していくところだった。ぱたぱたというのんきな足 音 だけを残して。
「おかしいですね」
ぞっとした表情で、マジクがつぶやく。
「クリーオウが悲鳴をあげたのに、このあたり一帯が爆 砕 しないなんて」
「......考えてみたら、ものすごい環 境 で生きてるんだな、俺たち」
「オーフェンオーフェン! マジーク! ちょっと来てよ! 大変!」
甲 高 いクリーオウの悲鳴が、続けて響いてくる。とりあえず、行かなくてはならないらしい。
「......参ったな」
オーフェンはひとしきりうめいてから、ゆっくりと立ち上がった──腰 に負 担 をかけない程度の速度で。それでも、完全には立ち上がれなかったが。
中腰のまま──
ぺたし。
かかととつま先が同時に床 に触 れる。そんな足取りで、オーフェンは一歩を踏 み出した。あとをついてくるマジクに、振 り返らずにつぶやく。
「推 測 その①。誰かにのぞかれた」
「......どうでもいいですけどお師様、なにかヘンな生き物みたいな歩き方ですよ」
「ほっといてくれ。推測その②。風呂場に脈 絡 なく死体が転がっていた」
「筋肉痛って、魔 術 で治 せないんですか?」
「治らんこともないと思うが、痛みが消せるわけじゃねえからな。意味ない。で、推測その③。入ろうとしたお湯がなぜかコンソメスープ。脱 衣 所 にはバケツに入った塩 胡 椒 が並べてあって『念入りに身体に擦 り込みましょう』の注意書き」
浴 場 は、宿の一番奥 まったところに位置しているようだった──裏庭の風 呂 釜 とつながっているわけだから当たり前だが。ぺたしぺたしと廊 下 を進み、曲がり、また進む。
やがて、〝↑脱衣所〟の表示を見つけ、オーフェンはそちちを向きやった。扉 は開いている。そこにクリーオウが仁 王 立 ちになっていた。
「ふたりとも、遅 いわよ!」

腰に手を当て、頭の上にレキを乗せたいつものポーズで、彼女はこちらを見つけるなりそう言ってきた。
「ンなこと言ったって、今の俺の状態見れば、どんなもんか分かるだろ?」
ぺたしぺたし。
スピードを上げようがない歩き方で、オーフェンは彼女のほうに進んでいった。
クリーオウがそれを見て、怒 りを忘れたようにきょとんと声をあげる。
「......格好悪いわよ、オーフェン」
「分かってる」
なるたけ身体が上下しないように気を遣 いながら、オーフェンはうなずいた。脱衣所の入り口にいる彼女のところまでぺたぺた進むと、そこで止まり、前に出していた右腕 を下ろす。それに一呼吸遅れて左手も下ろして、またもやゆっくりと──ゆっくりと、膝 と腰を伸 ばし始める。
たっぷり数秒を要 して、オーフェンは普 通 にまっすぐ立った姿 勢 を作った。額 の汗 をぬぐって、つぶやく──胸に満ちた熱い満足感とともに。
「ようし」
「......なんか、変 形 してるみたいな手順ですね」
後ろから言ってくるマジクは無視して、オーフェンはクリーオウに聞いた。
「んで、なにがあったんだ?」
「あ、そうそう。聞いて聞いてひどいんだから。ちょっとこっち来てよ」
「え? また移動するのか? ええと、しばし待ってくれ。まずは......膝を屈 めて」
「ああもう! そんなのいいから、早く来てってば!」
と、オーフェンが再びさっきの歩く体勢にもどろうとした瞬間──クリーオウが苛 立 たしげにわめきながら、彼の腕をがっしとつかむ。
背 筋 に冷たいものが走るのを感じて、オーフェンは叫 んだ。
「あ、ちょっと待てってクリーオウ!」
「なにぐずぐずしてんのよ!」
「ぎゃおおおおおおおおおお⁉ 」
無 慈 悲 に腕を引っ張るクリーオウに脱衣所へと引き込まれ、オーフェンは悲鳴をあげた。腰が、膝が、さらには脊 髄 に付 随 するすべてが悪意をもってきしんだようで、激 痛 に海 老 ぞりになりかけて──さらに反 動 で跳 ね返る。ほとんど引きずられるように脱衣所を進みながら、オーフェンはどこかに飛んでいった論理的なものをひたすらかき集めた。ようやくそれを集め終わり、彼は言葉にして吐 き出した。
「やめんかいっ!」
涙 をこぼして、クリーオウの手の中から腕を引き抜 く。
振 り返る彼女の眉 間 に指を突 きつけながら、
「いったいなんなんだよ! なにがあったんだか知らねえけど、俺は今一瞬、かなり死を覚 悟 したぞ⁉ これでまたつまんねえことだった......ら......」
と──
怒 鳴 り声は次 第 に小さくなっていった。かすれるように消えていく自分の声が、どこか遠いこだまのようにも聞こえる。
完全に言葉が途 切 れて、オーフェンはただ、目を見開いた。クリーオウは、分かったでしょ? と無言の言葉をつんとした鼻先で伝えてきている。ひょっとしたら声にも出していたかもしれない。だが聞こえなかった。灰 色 の世界に一本の線。その線をただたどるような、波のない意識。オーフェンはなんとなく、そんなことをイメージした。
イメージ。
見たこともないものなど、人間の頭の中には存在しない 。人はその概 念 を脳に入れるとともに、たとえでたらめであっても、そのイメージを造り上げる。実物を見るまで当人にとってはそのイメージこそが〝本物〟であり、どう自分に言い聞かせたところで、先入観を信じることを防 ぐことはできない。恐 らく。
つまりは、人は自分勝手な想像を容 易 に信じ込む生き物だということだ。
温泉。
その見たこともないものに対して、オーフェンはやはり漠 然 としたイメージを持っていた。人の背 丈 ほどもある自然岩が組み合わさった浴 槽 ──天 窓 からは凍 り付いたように美しい星空。湯 気 で曇 る視界、湯音に湿 る鼓 膜 。わずかに粘 りけを感じる湯をかき分けるように足を伸 ばすと、湯は抵 抗 するように、身体の芯 に対して熱を染 み込ませてくる。
オーフェンは目を閉じた。そして開いた。
脱 衣 所 には積み重なったかご、鏡 、水 桶 、洗面器、かみそり、砥 石 ──いろいろある。が、オーフェンはそんなものを意識の中に入れなかった。ただ見入ったのは、脱衣所から通じている──浴場だった。
黒ずんだベニヤの壁 が見えた。
のみならず、床 は地面そのものだった。
そこに一メートルほどの金ダライが置いてあり、緑色の水がなみなみと入っている。タライの上に水道の蛇 口 があって、その蛇口は、ベニヤの壁につながっていた──恐らく、外の風 呂 釜 からの蛇口だろう。そこから湯が出てくるわけだ。
(ていうか......)
彼は、暗い気分で理解した。
だが、その理解を声にしてつぶやいたのは、後ろからのぞき込んでいたらしいマジクだったらしい。
「......普 通 の、お風呂ですね」
「ど......」
オーフェンは──
「どぉいうことだぁぁぁぁっ⁉ 」
背筋に激痛が走るのにも構わず、身をよじって両手で頭を抱 えた。
◆◇◆◇◆
夜の森を歩くことが、快 適 なはずもない。
ノサップは声なく文句を言いながら、ただ足を運んでいた。足の上にのっかっている上半身やら頭やらがどこへ向かっているのかは知ったことではなかったが──彼は毒づいた。森の道を歩くことが、快適なはずもない。
恐 怖 では、ない。
問題は、鬱 蒼 と茂 った森の中を、巨 大 な荷物を背負って歩かなければならないことだった。言うまでもなく暗 闇 に足 下 の視界も利 かず、つまずけばどこが地面とも分からない闇の中へと放 り出されることになる。
「なにをふらふらしているのかね? ノサップ研究員」
前方から──携 帯 用 のガス灯 を片手に、コンラッドが聞いてくる。
「ああ、まったく、もう疲 れたとでもいうのかね? 若い者がそれでは、あまりに情けないぞ。おっと、そっちじゃない。なんなんだろうな。まともに歩けんのかね?」
(歩けますよ)
陰 気 な声で、彼は独 りごちた。
(あんたのガス灯が、俺の 足下を照 らしてくれさえすればね)
実際、コンラッドは十メートルは先行している──対してノサップは、荷物のせいでその差をどうしても縮められずにいた。遠ざかれば、コンラッドの携 行 する唯 一 の明かりからも遠ざかることとなり、つまりは、まあ典型的な悪 循 環 となるわけだった。
とりあえず、可能な限り感情は押 し隠 して、ノサップは口を開いた。笑っているように見えるといいなと思いながら──どうせ暗いから分かりはしないだろうとも思いつつ。
「あの、コンラッド研究員長」
「なんだね?」
「提 案 なのですが」
「ほほう」
「もうこれだけ暗くなりましたし、いったん帰って、明日出直すのが良いかと思うのですが」
「わたしは思わん。さあ進むぞ」
「............」
まあ、さほど期 待 していたわけではなかった。
そう自分を慰 めつつ、彼はまた見えない道を進み始めた。夜の音、森の音が混ざって、夜の森の音となるかと思えば、実際にそこを歩いてみると、それらはすべて別々のもののようにも思えてくる。足音。上空を掻 く風の音。葉ずれの音。踏 まれた下草から汁 が噴 き出す、悲鳴のような音。夜であろうと、森であろうと、あるいはそのどちらであろうと、すべて同じ音だ──が、変わるのは聞く者のほうだった。その音を夜に聞くかそうでないか、森の中で聞くかそうでないか、聞く者の心は常に変化している。
(俺の気分を知りたいか? 一言だ。ああ、うんざりさ)
架 空 の相手にそう言って、ノサップはかぶりを振 った
そして。
「ですが、コンラッド研究員長」
「なんだね?」
「推 測 なのですが」
「ほほう」
「こういった場所を夜間に出歩くのは、危険だと思うのですが」
「わたしもそう思う。だから、もっと急いで進むぞ」
「............」
手向かっても無 駄 な運 命 というものもあるらしい。
運命という言葉は大好きだった。なんとなくしたり顔でかぶりを振れば、すべて許 される。たまには泣いてもいいらしい。素 晴 らしい言葉だ。
役には立たないが。
ため息ばかりが出る。
と、その時だった。
──がさがさがさっ!
「............⁉ 」
ノサップは足を止めると、あたりを見回した──あまりにも近い闇 。つまりは影 を落とす木々の群れになにが見えたというわけでもないが。
見ると、さすがにコンラッドも立ち止まっている。太った腹を振るように左右を見ながら、
「ううむ......なんだね今のは?」
「分かるわけないでしょう」
ノサップはそう答えると、とりあえず、手早くリュックサックを地面に下ろした。なにか危険な獣 だとしたら、荷物を持ったままでは逃 げることもできない。
草をかき分ける音、枝を踏む音、それはのたうつほどに長く続き──恐 怖 心 を考 慮 すれば正確な判断とは言えないかもしれないが──だんだんと近づいてきているようだった。足音。どたどたと騒 がしい。そして、悲鳴......
(悲鳴?)
ノサップは、自分で自分に聞き返した。夜に、森に、夜の森に──響 いたのは、声だった。
「どああああああああっ⁉ 」
悲鳴をあげたのは彼ではない。突 如 として森の闇の向こうから飛び出してきたふたつの人影だった。
彼はそれを、子供だと思った──
明かりを持ったコンラッドとは離 れているため、実際には彼の周りは真っ暗闇に近い状態だった。その闇から、ふたつの人間型の塊 が出現する。背 丈 の小さいそのふたつの影は、大きくずんぐりとして見えた。というのも、毛皮のマントなど着込んでいたせいかもしれないが。それらは大声で騒ぎながら、こちらのことになど構わずに、ただひたすら一直線に目の前を駆 け抜 けていった。
そして。
そのすぐあとを追いかけて、またなにかが飛び出してくる。こちらもなにか大きな荷物を持っているようだったが、不自由な視界で見る限り、なにやら毛むくじゃらの獣のように見えた。大きな目を爛 々 と輝 かせ、キキキキと奇 怪 な声をあげながら、前を走るふたつの影を追う。
「............」
ノサップが絶句している間に、それらはすべて、再び闇の中へと消えていった。
「ぎゃああああっ⁉ 」
「助けてぇぇぇっ⁉ 」
「キキキキキキキキキ!」
糸に巻かれて引きずられていくような悲鳴が、夜にかすれて遠ざかっていく。
「............」
かなり長い沈 黙 ののち──
ノサップは、かぶりを振 った。とりあえずコンラッドのほうを見やる。と、研究員長はのんびりとあごをさすっているところだった。
どうしたものかと思いつつ、口を開く。
「......あの、コンラッド研究員長」
「なんだね?」
「直感なのですが」
「ほほう」
「なんだかよく分かりませんが、帰ったほうが良いように思うのですが」
「わたしもよく分からん。まあ進むぞ」
「............」
運命。なんて素 敵 なんだ。
胸中で心底呪 いつつ、ノサップは、地面に置いていたリュックサックを背 負 いなおした。
「納 得 がいかねーぞっ⁉ 」
「......そんなこと言ったって、ここいらの温 泉 宿 みんな、似たようなもんよ」
落ち着いた顔でポテトなどくわえつつそう言われたところで──実 際 、納得がいくものではない。
オーフェンは、さらに声を張り上げた。
「じゃあなにか⁉ この街の宿全部、インチキ温泉宿だってのか⁉ 」
「そうよ」
エリスはやはりすまし顔で食事をしながら、あっさりとそう言ってきた。
が、横に座 っているシーナが、ぶちりとパンをちぎって、鋭 く否 定 した。エリスの母親だという話だが、確かに並んでみると、その雰 囲 気 はある。歳 が離 れている分、実 感 しにくいが。
「違 うわい!」
どん、とテーブルを叩 き、叫 んでくる。
「インチキと言うでない! 科学的に合 成 された、立 派 な温泉の素 を入れてあるのじゃ!本物よりも効 能 があるわい!」
夕食のテーブルは、問題なく朗 らかに──というわけにはいかなかった。
メニューは実際、文句ないところである。宿にしては簡 単 なものばかりな気はしたが、スープもパンも、鳥の脚も、クリーオウでさえ歓 声 をあげたほど食 欲 をそそった。
だが、それはそれとして。
オーフェンはシーナのほうを半眼で見やった。疑 わしく思いながら、聞く。
「......一応聞いとくが、どんな成 分 なんだ?」
彼女は自信たっぷりにうなずいてきた。
「着色料と香 料 じゃ」
「そーゆうのは、色 水 とゆーんだ、温泉じゃなくてっ!」
即 座 に叫ぶが──シーナはさして気にした気 配 もなく、うんうんと頭を上下させながら、あとを続けた。
「ちなみに効能は......長く入りすぎると、肌 がお湯の色に染 まることがあるのじゃ」
「効能じゃないっ!」
「ほかにも効能としては、長く入らなくても、肌がかぶれることがあるらしいのじゃ。染 料 のおかげじゃな」
「意 地 でも効能と言い張る気なら、俺 にだって考えがあるぞ」
ばきぼきと指を鳴らしながら、オーフェンはうめいた──と、右 隣 でおとなしく鳥を切り分けていたマジクが、困 ったように言ってくる。
「まあまあ。落ち着いてくださいよお師様」
「そうよ。筋 肉 痛 でろくに動けないくせに」
これは、左隣のクリーオウ。
両脇 から止められて、オーフェンはため息をついた。とりあえず勢いを失って、そのまま椅 子 に座り直す。落ち着いた印 にナイフとフォークを手にとって、彼は、押 しつぶされたような思いでつぶやいた。
「ったく......昔、俺がここに来たいって言った時、先生やティッシがひどく馬 鹿 にしてくれた理由が分かったぜ」
「東部の旅に慣 れた人なんかには、結 構 有名なことらしいんだけどね」
のほほんと、エリス──なにかあきらめたように虚 空 を見上げて、そんなことを言ってくる。
「ガイドには、温泉宿は多数、しかもいずれも質の良い泉 質 を格 安 で堪 能 することができますなんて書いてあったのに」
無念げにうめいたのはクリーオウだった。エリスが、肩 をすくめてみせる。
「温泉宿は確かにいっぱいあるし、みんな自分のところの温泉は最高のものだって言ってるわよ──天 然 のものだとは誰 も言わないけど」
「そーゆうのを、詐 欺 と言うんだ」
自分でも声が不 機 嫌 に歪 むのを感じながら、オーフェンは告 げた。フォークの先でマジクのほうを示して、
「こいつの実家の宿も、そりゃーもう客が来ないことにかけては大陸でも有数のもんだったが、インチキはしなかったぞ。インチキは」
「だから、その最大の原 因 が誇 らしげに語らないでください」
マジクのつぶやきは無視して、オーフェンはきつく目を閉じてかぶりを振 った。視線が横からちくちくと肌を刺 してくるのには気づいていたが。
オーフェンは目を開くと、ごく平 静 な顔になって告げた。
「というわけで、インチキは悪いことだから、俺たちをただでこき使うのはやめたほうがいいと思います」
「......そんな、口調を変えて言われても」
眉 間 に曖 昧 なしわを作って、エリス。
なぜか、クリーオウまでが、口を尖 らせて言ってきた。
「そーよオーフェン。それに、なにもすることがないよりはいいじゃない」
「お前な、薪 割 りやってから言えよな、そういうことは」
彼女に対 抗 するように口を突 き出して、オーフェンは毒づいた。
「だいたい、温泉がないんなら、ここに長 居 する理由もねえんだ。これからも今日みたいな調子でただ働きさせるつもりなら、明日には帰らせてもらうぜ」
「そう」
限りなく短いその声は、エリスのものだった。感情もろくにない、単なる音に近い声。フォークの先が皿をかする音や、付け合わせのポテトをマジクがテーブルに落とした音ほどにも意味がない、ただの音である。人が発したというには、生 気 もなにもない、そんな音。
「............」
なんとなく待たなければならないような気がして、オーフェンはしばし言葉を止めた。息すら止めて、そのなにかを待つ。反 射 神 経 だけで生きていたならば、それこそ永 遠 に待ち続けたかもしれない。それほどにきっかけのない沈 黙 だった。だが、ふと気づき、顔をしかめる。
「え?」
オーフェンは短く聞き返した。
エリスは、こちらが聞き返すことを本気でまったく考えていなかったようだった。意外なことのような眼 差 しで瞬 きをすると、
「? なにが?」
「いや、えーと......」
オーフェンはそこはかとなくひるむのを感じつつ、言葉を紡 いだ。
「その......いいのか? 俺ら、明日出ていっても」
「そりゃあ、あなたたちの自由でしょ」
皮 肉 ではないようだった──もし皮肉で言っているのだとすれば、目の前のこの女は不 世 出 の天才的な皮肉屋だと、オーフェンは胸中でうめいた。ただしあまりに天才的すぎて、意味がない。聞いている人間が皮肉だと理解できないような皮肉では。
恐 らく、皮肉ではないのだろう。
オーフェンは怪 訝 に思いながらも、それを認めた──
「......分かった。明日、俺らは帰るよ。お前らも、それでいいだろ?」
「ええ」
「いいわよ。もうちょっと観 光 とかしたかったけど、考えてみたらどこに行ったって観光はできるんだし」
両脇 のふたりから同意を受け取って、オーフェンはエリスに視線を投げた。彼女は気にしていないように、鳥の脚 をきれいに切っている。こちらのことなどどうでもよさそうに──
(どうでもよさそうに)
オーフェンは、ようやく理解した。そう。彼女は、どうでもいいのだろう。どのようなことであろうと、なにもかも──心底から。
夜空。
大陸のいずこから見上げる空も、同じ夜空だった。見たことのある星がいつも同じ形に並び、一 瞬 たりと同じ姿ではいない夜の地上を見下ろしている。不 同 の世界たる大地を、ある意味最も正確に映 している鏡のような不 変 の空は、空を見上げる人間の慰 めであること以上の意味を持っているはずだった。それは、人類の夢 想 に過ぎないのかもしれないが──
オーフェンは空を見ていた。
そして、ひとつの真 理 に達しようとしていた。それは──
(......空なんてじっくり眺 めてると、眠 れやしねえな)
薪 割 りの結果、残ったものは筋肉痛だけで、テントを張 る余 力 はなかった。結局、倒 壊 したテントは適 当 に片づけて、オーフェンとマジクは例の裏庭で寝 袋 にくるまって眠ろうとしていた。高地のせいか、虫が少ないのは嬉 しいが、そのぶん肌 寒 い。分厚い寝袋に額 の絵 のように収まって、オーフェンはなんとなく寝付けずにいた。
(ったく......なんだろうな)
むくりと、身体 を起こす。横に並んで転がっているもう一個の寝袋を見やると、マジクはその中でぐっすりと寝入っているようだった。働きづめだったせいで疲 れているのだろうが。
オーフェンはため息まじりに、自分の腕 をさすった。声に出して独 りごちる。
「なんか、身体が寝ようとしねえな......」
疲れてはいるのだが、目を閉じても意味のない考え事ばかりが脳をかき回す。考え事に疲れても、いつまで経 っても眠りが訪 れてこない。
まるで、なにかやり残したことがあるというように。
空を、ではないが、再び見上げる──見たのは、宿の建物だった。夜の闇 の中に影 となってそびえる建物。音もなく静かだった。手入れされていない裏庭から見たせいというわけではないが、廃 屋 のように静まり返っている。
屋根の高さを目 測 しながら、オーフェンは寝袋から抜 け出した。立ち上がり、身体を伸 ばす。身体の痛みはかなり良くなっていた。
囁 くように口に出す。
「我は跳 ぶ天の銀 嶺 ......」
身体から重さが消える一瞬に、彼は軽く跳 躍 した。数メートルを跳んで──いや、飛んで、宿の屋根の上に着地する。見上げると、下から見たのと同じ夜空。
そして見 渡 すと、遠くまでこの温 泉 郷 が広がっていた。
大小さまざまな宿が並び、それ以外のものがない、奇 妙 な街並みである。この温泉郷は、ある意味、ふもとのナッシュウォータ市と連続しているとも言えた。直通──というより、それ以外の下界とはつながっていない──の馬車が往復し、人を運び、物を運ぶ。移動のコストはそのまま経 済 となり、ふたつの市、あるいはふたつに分かれたひとつの街に生 気 を与 えるわけである。キエサルヒマ大陸のほかの街が、ほぼ例外なく自給自足の体制を持っていることを考えれば、実際この温泉郷はこれ以上ないほど特 異 な街だった。しかも......
(これが、温泉のない温泉郷だっていうんだからな)
呆 れる思いで、彼は嘆 息 した。
(こんなわけの分からん街があちこちにあるってんじゃねえだろな。みんな、東部は魔 界 だなんて言ってたけど、意外と真実かもな)
そんなことを考える。
昔、一度だけ、この大陸東部を旅したことがあった。五年前のことだった。今の状 況 とは、まったくなにもかも違 ったが。
(五年前、か。確かにいろいろと変わったもんだ)
視線を上向かせる。またも夜空。星のひとつも流れて落ちない。変わらない風景。夜空ばかりが不公平に変わらないことに苦 笑 を覚える。
変わることを望めば苦 悶 を強 要 され、変わらないことを望めば悲 劇 を与えられる。
人ばかりが苦しむ。もっとも、人であれば誰もが苦しむのだから──それは平等な幸福なのかもしれない。
(......この温泉郷で骨休めして、それが最後の休息のつもりだったんだけどな)

感動も感 慨 もなく、彼は独りごちた。
(ま、先を急ぐのは望むところだ。大陸中、くまなく探さなけりゃならないかもしんねえんだからな、アザリー......)
姉の名前を囁 いて、オーフェンはひとりで微 笑 した。そして──
その笑 みは、一瞬で消えた。瞬 きする。静かなる夜の空間に、さざ波のような戦 慄 を覚えていた。
(人の気配か......?)
どのようなものであれ〝足音〟はふたつに分類できると、師に言われたことを思い出しながら、オーフェンは屋根の上に身をかがませた。それは単純な分類だった。
『お前に聞こえる足音と、聞こえない足音さ』
チャイルドマン・パウダーフィールド教師は寡 黙 な男だと、教室外の人間はみな思っていたらしいし、それは表面的には正解でもあったが──笑えない冗 談 を好んで言う男でもあった。もっとも、たとえどのような冗談であっても二度と同じことは言わないところなどは、確かにこれ以上ない寡黙の象 徴 だったかもしれないが。
そして師は、こうも言った。
足音を忍 ばせて、しかし足音をさせていたならば、それは人間のものだ。
それが意 義 のある忠告なのか、それとも冗談の続きだったのか、当時のオーフェンには判断できなかったが──今とて、確信はない。
だが自分なりに見つけだした答えはある。足音が聞こえてきたとしても、音は頼 りにならない。敵が見える位置に移動せよ。
それが無理ならば隠 れ続けることだ。彼は屋根の上に伏 せるようにして、じっと成り行きを待った。もともと、ただの気のせいだったのかもしれない。ただの温泉街である。危険などあるはずもない......
足音は次 第 にはっきりと聞こえるようになってきていた。それなりに足音を忍ばせようとはしていたようだが──単に規則正しく引きずるような足運びをしたところで、結局のところ無音で歩くことはできない。たった二本の足で全体重を支えなければならない人間の構造では、足音なく歩くために工 夫 がいる。
柔 らかい靴 底 であるとか、そういった工夫である──それをしていないということは、この足音の主が、単に忍び足で歩く素 人 だということだった。
都会であれば、真夜中に忍び足で歩く人間など、さほど珍 しいものでもないだろう。理由さえあれば、誰がそうしても不思議はない。娯 楽 の多い街、ここのような観光地ではなおさらかもしれない。
オーフェンは目を凝 らして、あたりを見回した。明かりの点 いた窓は遠い──ペンション・森の枝はほかの宿とは多少離 れた場所に位置している。喧 噪 もとどかないような場所だった。わざわざそんな場所に近づいてくる観光客などいないはずだった。
(......夕方に宿を出ていったあの研 究 員 とかいうのが帰ってきた......?)
そんな路線で予想を浮 かべながら、彼はすぐさまそれを一 蹴 した。違 う。研究員とやらはふたりいたが、聞こえてきた足音は複数ではなかった。
だんだんと近づいてくる足音に、意識を鋭 くさせる。肌 に馴 染 む夜の空気に神経を溶 け込ませると、視覚と聴 覚 が融 合 していくような錯 覚 を覚える。この錯覚は武器になる──と彼は信じていた。分かるようになる。近づいてくるものと、遠ざかるものが特に、自らの呼吸の音は消える。
足音は、宿の玄 関 先で止まった。
屋根の陰 になり、その足音の主の姿は見えなかったが、オーフェンはなにかあればすぐに飛び出せる体勢を作ろうと、上半身を浮かせた。踏 み出して屋根から飛び降り、地面に落下することさえ考えなければ、すぐにも相手を取り押 さえられる形である。地面までは八メートルほど。安全に飛び降りるためには、魔 術 が必要になる。
こちらが屋根から身を躍 らせた瞬 間 に、相手がなにかしらの攻 撃 ──飛び道具のような──を仕 掛 けてくるほどの反射神経と行動力を持ち合わせていたとしたら、それを防 ぐのは幸 運 に頼 るしかないわけだ。
オーフェンは苦々しく、そう判断した。よほどのことがない限り、無 策 に飛び出すのは愚 か者 のすることだろう。窓を割るとか、鍵 をこじ開ける程度のことならば、無視したほうがいいかもしれない。
と──
なにかが臭 ってきた。
「............?」
眉 根 を寄せる。
鼻をひくつかせる。夜の香 気 を押しのけるように、はっきりした刺 激 臭 が鼻 孔 の奥 を反応させていた。
(灯 油 ......の臭いだ!)
考 慮 外 だった。彼は反射的に、なりふり構わず飛び出していた。屋根の上で立ち上がり、地面を見下ろすよりも先に虚 空 に飛び込む──
「我は跳 ぶ天の銀 嶺 !」
呪 文 を叫 び、その呪文が魔術の構 成 を大きく空間に放つ。編み上がった構成は瞬間的に重力を中 和 すると、オーフェン自身の落下の速度を弱めた。感覚的に残った落下感だけが、着地する衝 撃 に対する恐 怖 を予想させるが、実際に地面に触 れた足が覚えた感 触 は軽いものだった。そのギャップにつまずきそうになりながらも、オーフェンは素 早 く振 り向いていた。
宿の玄関。その少しわきに、男が立っている。背は彼自身と大差ない。が、体格はその男のほうがわずかに大きいようだった。暗がりで分かりにくいが、身体のどこにも無 駄 がない。そんな体 躯 である。動作には若さが感じられた──素早く強く、落ち着きがない。突 然 屋根から飛び降りてきた彼に驚 き、思わず動きを止めている。
その手に、なにかを持っていた。壷 。灯油の入った壷だろう。明らかに男は、その灯油を宿の壁 にふりかけていたところだった。
男を見 据 えて──告 げる。
「放 火 か? いたずらとしちゃ、えらく悪 趣 味 だな」
「くっ......」
いったいなにが起こったのか、男には理解できなかったろう──突然屋根の上から人間が飛び降りてきたのだから。壷を抱 えると、横に飛び出してこちらに背中を向ける。そしてそのまま駆 け出していった。
「逃 がすかよ!」
言わなくとも分かってはいたかもしれないが、それでもオーフェンは声に出して叫んでいた。逃げる男のあとを追い、走る。男はあわてているのか、めちゃくちゃな走り方をしていたが、それでもかなりの速さだった。背後から魔 術 で狙 撃 すれば簡単だが、灯油の入った壷など持っている相手にそんなことをすれば、こちらが手 加 減 しようがなんだろうが火だるまになってしまうかもしれない。
追いかけっこが何十秒続いたのか。それは分からなかったが、いくつか道を曲がり、どういった道順で走ってきたのか定かでなくなってきた頃 。スタミナ切れか、ようやく男の走る速度が落ちてきた。
(あと十歩で追いつく──)
オーフェンは直感的に計算した。走ってきたためあがっていた呼 吸 をできる限り落ち着かせ、拳 を軽く握 る。
走って逃げる相手を、背後から攻 撃 するのは意外と難しい。相手より速く走り続けていなければならないからだ。飛びついて押 さえつけるのが一番いいのだろうが、相手がもし武器を持っていたらこの上なく危 険 である。
数歩進み──あと少しで追いつく。その瞬間。
男との距 離 が、唐 突 に零 になった。
(なに⁉ )
胸中で悲鳴をあげて、オーフェンは目を見開いた。突 然 、男が立ち止まり、振り返ってきたのだ──灯 油 の壷を横に投げ捨て、中 腰 になにか を構えて。
夜の明かりは豊かではない。一瞬に目でとらえたそのなにかを照らし出すほどには光量
が足りなかった。見えないものをかわすことはできない。横に跳 ぶ余 裕 もない。
(ままよ!)
祈るような思いで、オーフェンは身体の勢いのすべてを右拳 に託 した。まっすぐに、男に向けて拳を突 き出す。よける余裕がないのは向こうも同じはずだった。ならば、単純に速いほうが先に当たる。
ほんの刹 那 の戦 慄 ──
なにか重大なものをすっ飛ばすような早さで、結果は訪 れた。感 覚 はない。ただ一瞬後、オーフェンも男も、その場に立ち止まっていた。
冷 や汗 。痛みを感じない。オーフェンが思い浮 かべたのは、それだけだった。同時に──
がく、とその場に、男の身体がくずおれる。道路の石 畳 に、からん、と乾 いた音が響 いた。男の手の中からこぼれ落ちた、小さなナイフだった。
ほっ──と息をついて、オーフェンは二歩ほど退 がった。全 力 疾 走 していた勢いがそのまま、拳を通して男の身体にたたき込まれたことになる。これ以上の反 撃 があるとも思えなかったが、問答無用にナイフを使ってくるような手合いには、用心して用心し過ぎることもない。
男は身体を震 わせながら、動くこともできずにあえいでいた──攻 撃 に出ようとして半身が出ていたのが災 いして、こちらの一撃を脇 腹 に受けたらしい。オーフェンは、地面に落ちたナイフを拾い上げると、肩 をすくめた。相手には見えなかっただろうが。
「......どうしたもんだろうな。刃 物 なんぞ持って、人の家に火をかけに来るなんざ、尋 常 じゃねえぞ──まさか、そんなこと知りませんでしたとは言わねえだろな?」
「くっ......そっ......」
口をぱくぱくさせて──なんとか吐 き出してきたせりふが、それだった。オーフェンは視線を、その男から道路わきに放 り出された灯油の壷へと移した。
「単なるはた迷 惑 な趣 味 ってわけでもなさそうだな。目的はなんだ?」
「............」
男は答えてこなかった。じっと、路 上 の意味のない一点を見つめたまま硬 直 している。まあ、確かに、素 直 にべらべらしゃべってくれることを期待していたわけではなかったが──オーフェンはため息をついた。
よく見てみると、男は実際若かった。もちろん、オーフェン自身と何 歳 も違 っていたわけではないだろうが。迷 彩 のつもりか黒いジャンパーを着込んで、顔にはサングラスをかけている。夜のサングラスではろくに周りも見えないだろうが、そんなことは気にしないらしい。
「まあいいさ」
オーフェンは、手の中でナイフをもてあそびながらうめいた。
「放火も傷 害 も未 遂 だ。目 撃 者 もいないんじゃ、このまま警察に突 き出したところで、なにも知らないと言い通せばそれで終わりだろ。だが言っとくが、二度目はねえぞ。今度顔を見たら、私刑 にでもなんでも──」
言いかけて──はっと止まる。
男はいまだじっとうずくまっていた。それを見下ろすように、オーフェンは立っている。夜の街に明かりはほとんどない。だが、ふと彼は、自分の影 が見えることに気づいていた。足 下 から伸 びる影。揺 れる赤い光の中に伸びる影......
「なに⁉ 」
舌打ちして、オーフェンは振 り向いた。後方──走ってきた方向。遠くに赤い炎 が見えた。ちょうど、もとの宿があったあたりである。
「火が......?」
それ以外の言葉は浮 かんでこなかった。火の手があがっている。夜はにわかに明るくなっていた。そして──
ざっ!
砂 利 をこするような音。振り向くと、男が立ち上がって、逃 げ出していくところだった。少し足を引きずり気味に、炎の明かりがとどかないほうへと走っていく。
「くっ......」
追いかけるべきか、一瞬ならずオーフェンは迷った。が。
「くそったれが! もどるしかねえじゃねえか!」
吐 き捨てて、彼は駆 け出した──宿の方向に。
先刻よりもさらに勢いよくダッシュして、来た道をひたすらにもどっていく。一瞬でも早くもどらなければならない。脅 迫 じみた命令を全身に伝えて、オーフェンは走り続けた。炎の色ははっきりと天を照らしている。火が弾 ける音がだんだんと大きく耳に入ってくるようになってきた。気ばかりが急 くが、どこをどうしたところで走る速さが増すわけでもない。
最後の角を曲がり......
彼は立ち止まらずに、宿を見やった。走りながら観 察 する。宿は、炎に包まれているように見えた。
ぞっとする──が、近づくにつれ、それが錯 覚 であったことに気づく。よくよく見れば、火勢が強いのは、灯 油 をかけられていた玄 関 先だけのようだった。火柱のようにそびえ立った炎 が、玄関からその上の二階の客室あたりを焦 がしている。ほうっておけばもちろん危 険 だが、客室には今は誰も泊 まっていないはずであるし、むろん玄関やその近くの広間に寝 泊 まりしている者もいない。今のところは、煙 にまかれて窒 息 している者もいないだろう。
炎が夜風を巻き込んで吠 えている、その玄関先に駆け寄って──
オーフェンは、大きく叫 んだ。
「我抱 き留 める──」
構成が解き放たれ、世界を書き換 える。
「じゃじゃ馬の舞 !」
呪 文 とともに、あたりを打つ、ばしっという衝 撃 音 が響 きわたった。同時に、焦げた木材を残して、炎が爆 ぜるようにしてかき消える。
残ったのは、わずかに熱気を残した風と、灯油が燃えた独特の臭 いだけだった。
見上げると、宿の被 害 はたいしたことはなかったようだった。もっとも、修理にかかる費用という意味であればかなりかかるだろうが。とにかく構造的なダメージを負うようなことはなかったらしい。玄関にかけられてあった看 板 は、燃えかすと化していたが。
と──
「うわあ、なんですか、これ⁉ 」
いきなり聞こえてきた声に向き直ると、裏庭からマジクが現れたところだった。寝 袋 に変な格 好 で収まっていたのかひどい寝 癖 の頭で、驚 いたように目を見開いている。
「火事ですか? なんで玄関から火が出るんです?」
「放火だよ。よく分からんが」
オーフェンは可能な限り簡単な説明を告げてから、あたりを見回した。火が出てから、鎮 火 まで恐 らく一分かそこらというところだったろう。近所には気づいた者もいなかったかもしれない。
「放火?」
怪 訝 な顔で聞き返してくるマジクはとりあえず無視して、オーフェンはひとり疑問に頭を悩 ませていた。よく分からない。宿に火をかける意味も分からなかったが──それよりも分からないことがある。
(時 限 発 火 装 置 のようなものは......なかった。はっきり見たわけじゃねえが、そんなものを仕 掛 ける時間も余 裕 もなかったはずだ)
だとしたらなぜ、あとになって火がついたのか?
(共犯でもいたってのか? だったら最初からふたりで火をかけりゃいいだろうに。俺が屋根の上にいるってことが分かってたんなら話が別だが)
煙草 の火でも落ちていたのかもしれないが──この夜の闇 なら、火の気があれば絶対に目立つ。気づかなかったというのも逆に不自然だった。
(ま......考えたところで答えが出るようなことでもねえか。こんなのは警察の仕事だしな......)
こうなると、あの男を逃 がしてしまったのは間 違 いだったかもしれないが。
なんにしろ物思いは、焼けこげた玄 関 から、がやがやと飛び出してきたけたたましい喧 噪 に阻 まれた。
「もー、なに⁉ なに⁉ どーゆうこと⁉ なんでこれ焦 げてるの⁉ あ、オーフェンがいる。てことはなに⁉ なにか物が壊 れてて、オーフェンがそこにいるってことは......ねえ、オーフェン。言い訳 ができるような状 況 じゃないけれど、これからは毎月ちゃんとお小 遣 いをくれるって約束してくれたら、わたしきっとオーフェンのこと信じてあげられる気がするの」
外に出てくるなり元気よくまくし立ててきたのは──言うまでもないが──クリーオウだった。かなり大きい寝 間 着 姿で、頭にはレキを乗せ、機 嫌 良さそうな笑 顔 を見せている。小遣いを要求するいい機 会 だと思ったのかもしれない。あるいは単に、異 様 に寝起きがいいだけかもしれないが。
あとに続いて──ただしクリーオウよりは格段にゆっくりした足取りで、エリスも姿を現した。やはり寝間着だがその上にガウンのようなものを羽 織 っている。こちらは逆に、起きている時と変わらない仏 頂 面 で、怒 っているのか寝起きが悪いのか判別がつかない。彼女は半分閉じた眼で宿の焼け具合を見回すと、
「......とうとう、ここまでやるようになったわけね、あの馬 鹿 どもは......」
それも当然といった口調でつぶやいた。
聞き逃 さず、オーフェンは彼女に向き直った。
「なんか心当たりがあるのか?」
問いかけると、彼女は投げやりに吐 息 した。手を振 って、あたりを示すと、
「ロッツよ。ここら一帯を取り仕切ってる。表向きはわたしたちと同じ温泉宿だけど、ギャングみたいなものよ。ロッツ・グループ。観 光 ガイドにも載 ってたでしょ? こんな馬鹿なことをしでかすのは、奴 らくらいよ」
「ロッツ......」
繰 り返して口の中で唱え、オーフェンはさっきの男の姿を思い浮 かべていた。ギャング。そう言われてみれば、そんな印象のある男だったと言えなくもない。
と──
「ピンと来たわ!」
クリーオウが──なにが楽しいのか知らないが──ぴょんと跳 ねるように手をあげる。そのばんざいのポーズのまま、彼女は続けた。
「平和な温泉街......しかしその温泉街を牛 耳 ろうとする悪の温泉宿......そして地底から復 活 する大 怪 獣 ! そこにたまたま訪 れた旅人が、華 麗 に活 躍 してその陰 謀 のすべてを打ち砕 く! そーゆうシチュエーションね?」
「......地底から大怪獣って......?」
マジクがあげた疑問の声も気にせずに、クリーオウはくるりと彼に向き直った。ぐっと拳 を握 り、むやみやたらな自信とともに叫 ぶ。

「事件が解決したら、マジクがお団 子 とか喉 につまらせて、みんなでわっはっはで終わるのよ」
「......なんで?」
「どーして、なんでとか聞くの? だいたいそんなもんだって分かるでしょ⁉ 』
「──それはそれとしてだ」
オーフェンは適当に遮 って、エリスに聞いた。
「君のお母さんは? 姿が見えないけど、まだ寝 てるのか?」
「ママなら──」
「ここにいるぞい」
これまた素 っ気 ないつぶやきとともに、玄 関 から、小 柄 な老女が出てくる。彼女もまた、娘 と同じような仕草で、宿の損 壊 した部分を検 分 したようだった。ただし──こちらはなにを言うでもなく、ただフンと鼻息を漏 らしただけだったが。
レジボーン温泉郷。オーフェンにとってのその到 着 第一日目は。
こうして終わりを告げた。
それより、数時間ほどさかのぼるが......
もし疑われたならば、実は──
と、誰 にともなく、彼は白 状 した。実は──そう。自分でも信じられるかはなはだ疑 問 だと言わざるを得ない。
持って回った言い方が嫌 いというわけではないが、好ましくないとは思っている。だが酸 素 不 足 の脳は睡 眠 中のように、脈 絡 のない記 憶 と単語とを羅 列 して止まろうとしない。実際自分は寝 ているのではないかと、ドーチンは夢 想 した──これは夢だ。夢ならすぐに目が覚める。夢ならいいな。夢で会えるさ。
言葉だけがぐるぐると回り、いつまで経 っても結 論 に結びつこうとはしてくれない。だがもどかしさを覚えることすらできない。
ただぐるぐると回り続ける思 考 の輪を、渦 を、見守って待ち続けるしかない。なにを待っているのか、それを考えることもできなかったが。
別に、錯 乱 しているわけではない──と、虚 しく彼は自覚した。
どうだということもない。単に走り続けて疲 れているに過ぎない。何時間も。
(......実際、何時間走ってるんだろ?)
狂 ったような動 悸 を耳の奥 に聞きながら、ドーチンは自 問 した。それが比 喩 でないのは自覚している。比喩などではない。文字通り何時間もだ。もうすっかり日は暮れ──それどころか世界が闇 に包まれている。夜の闇だ。時に全力疾 走 で、また時にへろへろに、また時にあえいで地面に倒 れていた時も、それ は追いかけてきていた。決して追いついてはこなかったが、一定の距 離 を置いて、ただひたすらついてくる。
自分でも信じられないのは、なにやら得 体 の知れないものに追われて何時間も走り続けていることと、そしてその得体の知れないものが、何時間も追いかけてきているということだった。わけが分からない。これだけ長い時間あきらめずに逃 げ続けた獲 物 もいないだろうが、それと同時間追いかけ続けた獣 もいないだろう。
(......獣じゃないのかな?)
相手が姿を見せないので、それも確 認 できない。得体の知れない追 跡 者 は、想像の中でその姿をどんどん不 気 味 なものへと変 貌 させていった。
できる限り真っ直ぐに走ったほうがいいのは分かっていたが、夜の森の中ではそううまくはいかない。枝に顔をひっかかれ、振 った腕 を木にぶつけ、足を木の根に引っかけながら、蛇 行 するようにひたすらに進む。
すぐ横を、ボルカンが同じような格 好 で走っていた。ぜえはあとふたりで二 重 奏 のようにひきつった呼吸を繰 り返す。身体 中がだるい──手足は重く、目の前に星が瞬 いて門のように開く。しびれるように肌 の表面にちくちくと刺 激 が走る。限界なのは疑うべくもなかった。
(もう......駄 目 だ。もう走れない)
走り出してから何度もつぶやいたそれを、ドーチンはまた独 りごちた。走れない。走れないならばどうすればいい? 回転する思考の渦 の中、結論は出てこない。単純な答えがあったはずだった。単純で明 解 な答えが。
そして──
「どわあっ⁉ 」
隣 から、罵 声 。兄がとうとう、足をもつれさせて転 倒 したらしい。それにつられるように、ドーチンも足を止めた。それまで感じてはいたが理解していなかった強 烈 な疲 労 感 が、卒倒しかねないほど深く脳を侵 す。
ぱた──と、抵 抗 もできずにドーチンはその場に尻 餅 をついた。それきり、身体が動かなくなる。単純で明解な答え。限 界 ならば、立ち止まればいいのだ。そのあとにどうなるかは知ったことではない。
「あ......は、あははははは」
身体のどこから出てきたのか分からない、意志のない笑い声が響 いた。その笑い声の主が自分であることが、とてつもなく不自然なことのように思えてくる。不自然で、いけないことのようにだ。
だが今はどうでもいい。ドーチンは力を抜 いて成り行きに任せることを選んだ──身体だけではない。思考からも脱 力 して。
「あははははははは」
「ぬううううううううう!」
がば、と勢いよく、兄が立ち上がるのが見える。不 死 身 なのか、それとも疲 れるということを理解していないのか分からないが、固く拳 を握 りしめ、あごにしわなど作りながら、大きくわめき始めた。
「考えてみたら! このマスマテュリアの闘 犬 、戦士ボルカノ・ボルカン様が、こーも息を切らせて逃 げ回らなければならない理由が分からん!」
「あははははははは」
なにを答える気力もなく、ドーチンは笑い続けた。兄はひとりで叫 び続けている。
「この世にあるもので、およそ勇 者 の勇気をくじくものなど存在しない! ちゅーわけでこの俺 様 がなにかを恐 れて逃げるなど、なんかもー間 違 っちゃってる感じだ! 業界用語で、あり得へん、不 可 能 っちゅーことだ!」
「あははははははは」
「とゆーわけで、もー走るのはやめだ! とにかくやめだ! 疲れたし。この最強戦士ボルカン様を追いかけ回すよーな理 不 尽 大 王 は、必殺剣・天空つらら逆さ卍卍斬 りとかなんかそんなよーな技 で倒 し殺ぉす!」
「あははははっはははは」
「もしくは熊さん人形プレゼントし殺す!」
「あははへらはへへほほふふへはひほほ」
「............殺す......ええと、だから、その」
しばらく困ったように、兄の言葉はさまよい──
そして、唐 突 にこちらを向くと、小声で言ってきた。
「なあドーチン。なんか言ってくれんと、さすがの兄もいまいち収まりが悪いぞ」
「あはははへららへわはへははは──」
かたかたと頭を揺 らして笑ってから、ドーチンは、ふと声を止めた。次 第 に意識がはっきりと醒 めてくる......
「あのさ、兄さん」
「なんだ? ドーチン」
「熊さん人形っていうのは、なんか無理だと思うんだ」
「そんなことはどぉでもいいいいいっ!」
ごげん、と兄が抜 きはなった剣で頭をはたかれて、ドーチンはその場に転がった。兄もそれで収まりとやらが良くなったのか、剣を掲 げると、
「うむ! さあ出てくるがいい! 必殺つらら逆さ剣──」
と、少し言葉を止めてから、
「......いやまあ、ちょっと違うが、大 意 は伝えているのでオーケイだ! なんにしろボルカノ・ボルカン様の凄 絶 なまでの実力で以 て制 圧 してやるゆえ、とりあえず見えるところに出てくるがいい! それで俺様が向こうを指さして『あっ』と言ったらそっちを向いて──」
「あのさ、兄さん......」
ドーチンは倒れたまま──好きでやっているというより力尽 きて動けないのだが、湿 った土がほおに心地いいのも確かだった──、兄に呼びかけた。ボルカンはあっさり、くるりと回れ右して振 り向いてきた。
「どうした? ドーチン」
「ずっと気になってたんだけど......」
これは嘘 だった。考えが、思考の渦 を取り壊 して結論までたどり着けるようになったのは、立ち止まってからである。
まあそれはそれとして、ドーチンはふと気づいていた。
「さっきから、ぼくたち、なにに追いかけられてたんだろ?」
「........................」
期待していたわけではなかったが、案の定ボルカンはその答えを持ち合わせていないようだった──丸い目を見開いたまま、もっともらしく口を開く。兄がこうした表情の時は、まあたいていそうだが、なにも分かっていない。
「うむ。きっとこのボルカノ・ボルカン戦士伝に相応 しい強 敵 には違いないぞ」
とりあえずそれは無視して、ドーチンは続けた。
「あのさ、野犬とかだったら、こんな何時間もぼくらに追いついてこられないっていうのは変だと思うんだ。ぼくら、ずっと走り続けていたわけじゃない し──時々立ち止まって休んだりした時も、向こうは追いついてこなかったんだよ」
「うむ。実に単 純 で誰 でも思いつく平 凡 な分 析 だが、続きを述べても構わんぞ、弟よ」
「ありがと。それで思ったんだけど......後ろにいるのがなんだかは分からないけど、それってぼくらを追いかけてきてたんじゃなくて、ついてきてただけなんじゃないかな? だから、追いついてはこなかったけど、ずっとあとをつけてきてたんだと──」
「確かに、兄もそー思っていたぞ!」
ボルカンはこちらの声を遮 って叫 ぶと、ぶわわと涙 をこぼした。
「この偉 大 な兄と似ていなくもない結論にたどり着くとは、お前も成長したなとほめてやってもいいかなーなんて思わないでもないぞ! なかなか凡人にできることではあるまい。で──どうしよーか」
「......とりあえず、もう動けないからじっとしてるしかないんじゃないかな」
「うむ。兄の思った通りの結論だな」
ボルカンは自信たっぷりにそう言ってくると──やはり疲 れていたのだろう。その場に、どさと座 り込んだ。空を覆 う木々の枝の隙 間 から、わずかに漏 れて落ちてくる夜空の光だけが視界の素 だが、周囲が真っ暗な分、兄の表情もなんとなく見えなくもない。
ただし、それ以外のものが見えるというわけではなかった。森の音がかさかさと耳に入る。だがその音のもとがなんであったのか、目に入るものはなにもない。
感 覚 に飢 えを感じるということがあるとするならば、視覚だけが圧 倒 的 に空腹だった。神経質になった聴 覚 だけが、つまらない音も拾い上げる。
がさり......
草を踏 む音。いや、風が枝を震 わせた音だろうか? ドーチンは判断つきかねて、兄を見やった。ボルカンは座り込んだまま落ち着いて、じっと一点を──物音が聞こえてきた方向とはまったく違 うあさっての一点を見つめていた。というより、音に気づいていないようだったが。
やがて。音は次 第 に激 しくなっていった。決して気のせいとはごまかせないほどに激しく。
さらには、声まで──
(......声⁉ )
ドーチンは自分で自分に聞き返した。動けないほどに疲 労 していたが、最後の力で、首を上げる。
聞こえてきたのは確かに声だった。
「......まったく、参ったな、ノサップ研究員。これは、あれだな、わたし的に言えば、目的地の方位と位置とが曖 昧 になったというところだろうか」
「そうですね、研究員長......ていうか、道に迷ったんだと思いますけど」
「なるほど君的に言えばそうか」
聞くにつれ、声が近づいてきているのが分かる。声。人間の声。すこし鼻にかかった東部なまりの人間語。
ドーチンは──自分でも信じられなかったが──未知の力を発 揮 して起きあがると、兄に向き直った。
「兄さん! 聞こえた?」
「うむ」
ボルカンは、大きくうなずくと、声の聞こえてきた方向に向かって剣を構えてみせた。座ったまま。
「よくは分からんが、道に迷うとは間 抜 けな連中だな」
「......思いっきり限りなく人のこと言えないと思うけど......」
控 えめにつぶやいて、ドーチンは眼鏡 の位置を直した。空から漏 れてくる光よりも強く──木々の陰 から隙 間 を縫 って差し込んでくる光が見える。携 帯 用 のガス灯 かなにかだろう。草を踏む足音と同じテンポで揺 れている。
草木を踏み分け、木の枝を押 し分けつつ進んでくるのだから位置も方向も自 ずと知れる。会話をしていることを抜きにしても、絶対に獣 などではない。間違いなく人間であるはずだ。
(ええとええと、そうだよね? 言葉をしゃべる獣なんていないものね? あ、でも西部には、人間の言葉によく似たうめき声を出しながら人間に接近してきて捕 食 するなんていう猛 獣 がいたっけ)
ドーチンは必死に考えを巡 らせた──というより、魂 が遊 離 して勝手に誰かと話をしているような感 覚 だった。誰かを説得しなければならない。そのために言葉を知識を紡 がなければならない。説得相手は自分自身なのかもしれないが。
(あ、でもあれってもう三十年以上前に狩 り尽 くされて絶 滅 したって話だし、別にうめき声を真 似 て鳴くっていうだけで、ちゃんと言葉をしゃべるわけじゃないもんね。だから近づいてきてるのは人間なんだ。ノサップ研究員と研究員長......なんか芝 居 に出てくる道 化 コンビの呼び名みたいだけど、道化コンビは他人を捕 まえて食べたりしないから、どうでもいいや、うん)
見ているうちにも、光は近づいてくる。どうせ動けないのだから──近づいてくるものの正体がなんであろうと選 択 の余地などないのだが、ドーチンはそれを努めて忘れようとした。
(でも考えてみたら、道化コンビに発見してもらっても、あんまり意味ないかな......道に迷ったとか言ってるし。あ、それでも明かりを持ってるみたいだからありがたいや。ついでだから、屈 強 の森林案内人みたいなのを連れていてくれるともっと嬉 しいんだけど。無理かな?)
迷っている時間は、ある意味幸福だった。考えていられる。恐 怖 とは、考えることを遮 られてしまうことだ。考えることもできない瞬 間 の果てに──死がある。
刹 那 、ついに──
闇 が分かたれて、丸いガス灯 の明かりを手に提 げた太った人 影 が、森の陰から姿を現してきた。
そして、その太った男の後ろに、貧 相 な若い男。無意味にでかいリュックサックを背負っている。顔面は、ガス灯の明かりに照らされてもなお青黒いように見えた。荷物の重さでうつむいているせいもあるだろうが、それを差し引いても顔色が悪い。疲 労 がありありとうかがえる。
とりあえず、言葉を失って──
四人は、ただ呆 然 と見つめ合った。ふたりとふたりではない、四人ともが、お互 いの顔を見た瞬間に筋道だった思考を忘れてしまったようだった。ドーチン自身も、自分がなにをしたらいいのか、頭の中で何度も繰 り返していたことをすっかりどこかへと吹 き飛ばしてしまっていた。ただひたすらに、見つめ合う。
最初に口を開いたのは、明かりを持った中年の男だった。
「おや」
声からすると、さきほど、研究員長と呼ばれていたほうだろう。きょとんとした顔で、あとを続ける。
「これは......あれだな? ノサップ研究員」
と、彼は後ろにいる貧相な男──当然ノサップなのだろうが──に問いかけた。
「どうしたものだろう。さっきちらっと見かけた時から、気にはしていたのだが......」
「なにがですか? 研究員長」
見た限り、ノサップはもうどうでもいいというような表情をしていた──立ち止まるのならば休みたいのだが、どうせそれを許してもらえないことは百も承知だと、そこまで感情が伝わってくる。
だがそれを向けられている当の研究員長とやらが、それに気づいていないのも、はっきりと知れた。のほほんと続ける。
「うむ......君は聞いたことがないかね? 西部の未開地にはよくいるものらしいのだが......こんなところにまで存在していたとは」
「はあ?」
聞き返すノサップに、研究員長は、困ったような視線を投げてから、びしとこちらを指さしてきた。
「うむ。人間の形を真 似 て森に潜 み、近づいてきた愚 かな旅人に菌 糸 を植え付けるという凶 悪 な殺人キノコについての研究論文が昨年提出されたろう。しかし、目の当たりにしてみるとなんとも驚 きだな」
「誰がキノコだっ⁉ 」
それまでぼけっとしていたボルカンが、怒 鳴 りながら立ち上がる──
おおっ、と、ふたり組が驚 愕 の声をあげながら後ずさりした。
一歩前進して、兄は剣を掲 げてみせた。
「くぉの民族の英 雄 、マスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様に向かって、殺人キノコとは、よー言った! その勇気と無 謀 さに呆 れるばかりの敬 意 を表し、段々畑で蜜 柑 育て殺すぞ、貴様ら!」
「おおおっ⁉ 」
「研究員長、あの剣が菌糸なんですかっ⁉ 」
「違ああああああああうっ!」
「えーと、あのー......」
おずおずと手を伸 ばして、ドーチンはなんとか会話に割り込んだ。
「ぼくら、キノコじゃないんですけど」
「なにっ⁉ 」
よほど意外な事実だと言わんばかりに大 仰 に驚いて、その研究員長とやらはかぶりを振 った。
「キノコじゃない............では、キャ......」
「キャ?」
「キャベツ?」
「キノコでもキャベツでも大 根 でも人 参 でも、いわんや雄 々 しく咲 き誇 る薔 薇 でもないっ!」
ぶんと剣を振って、ボルカンが叫 ぶ。
「誰がなんと言おうと永遠のチャンピオン! 運命を剣に託 した魔 王 ! ボルカノ・ボルカン様だ!」
「弟のドーチンです」
「おお、なるほど」
自己紹 介 すると、研究員長はころりと真顔にもどった。
「わたしは貴 族 連 盟 遺 跡 調 査 会 探 索 評 議 会 北 部 レジボーン支部研究員長の、コンラッドと申します。で、こちらが今回の調査の助手を務 めてくれている、ノサップ研究員です。はは、散 歩 には気持ちのいい夜ですな?」
「いや......なんかそー、ころっと態 度 を改められるのも、いまいち釈 然 としないんですが......」
ドーチンはなんとなく居 心 地 悪くうめいたが──
同時に、心の中にひとつ引っかけておいた。貴族連盟遺跡調査会探索評議会......
(遺跡調査?)
人間種族が遺跡と言った場合、それはひとつのことしか意味しない。
大陸をかつて支配していたドラゴン種族、それも人間種族と関係が深かった天人種族、ウィールド・ドラゴン=ノルニルの遺 した遺跡のことである。
「うむ」
見ると、うんうんとうなずいて、ボルカンが剣を鞘 に収めている。
「よくは分からないが、以後は、このマスマテュリアの黒き稲 妻 の滝 のさわやかな風に歌う金色の燃える闘犬ボルカノ・ボルカン様を、キノコと間 違 えんようにな」
なにやら名前の長さで負けたくないのか、肩 書 きが増えている。まあどうでもいいと言えばどこまでも果てしなくどうでもいいことだが。
「それはそれとして......」
ドーチンはつぶやきながら顔を上げた。と、コンラッドがちょうど、つぶやきながら顔を下げてきたところだった。
『......なにをしてるんです? こんなところで』
お互 いの疑問は、そっくりそのまま、お互いの疑問とハモっていた。
「ほほうなるほど。その凶 悪 な借金取りとやらに、崖 下 に放 り投げられたと......それは災 難 でしたな」
「災難だなんて......そんな単語に片づけられないほど根の深い運命のよーなものがあるみたいなんですけど」
その場に四人で座 り込んで、事情を話すこと、三十分ほどだったろうか?
とりあえずドーチンは、こんな場所をさまよっている理由をかいつまんで話し終えたところだった。その間、コンラッドはかなり親身そうに、時に相づちまで入れながら聞いてくれたが──ノサップという男は、まったく興味ないのか、目をつむって黙 り込んでいた。居 眠 りしているらしい。
眠りこけているノサップの背後で、その巨 大 なリュックサックを無 遠 慮 に(というか、それ以前だが)、ボルカンが勝手にふたを開けていろいろ物色していた。ドーチンは見えないことにしておいたし、コンラッドも気にした様子がなかったため、兄はなにやら嬉 しげにリュックサックを探っている。食べ物を探しているのだろうが。多分いやまず間違いなく。
何本目かの煙草 に火を点 けて、なにやら感 慨 深そうに、コンラッドがうなずく。
「まったく、なにがどうなのか、分かるようで分からないのが、運命という奴 ですなぁ。というより、訳 の分からないものをひっくるめて運命と呼んでいるのかもしれませんが。大陸の歴史上、借金取りに崖下に放り投げられるような経験をした者など多くはないでしょうに、あなたはまさしくそういった目にあって、わたしと出くわしたわけです。どうでしょうな? こんな仮 説 には興味ないですかな? 借金取りに崖下に放り投げられることは、金の時計の呪 いの力でボクサーとして勝ち進むのと同じくらい珍 しいと言えなくもない。だとしたら、わたしは今 宵 、金の時計の呪いにかかったボクサーと出会う可能性だってあったわけですな」
「いや、あったわけですな、なんて言われても......」
ドーチンは困 惑 してうめいた。が、コンラッドは気にした様子もなく、あとを続けてくる。
「ふむ。ボクサーと言えば、王宮拳 闘 士 のキノマンの調子が今ひとつなのは、挑 戦 者 を事故で死なせてしまったからだという噂 がありますな? だがわたしには、どうも、あの大 振 りの右フックは、人殺しの味を覚えてもう一度"事故"を起こそうと意 図 してやっているように見えて仕方ないんですが」
「いや、知りませんけど、そんな人......」
「ああそうそう。この前若い研究員と話をしていたらですな、その男、ただの車 輪 に電気を蓄 えることができるはずだなどと、わけの分からんことを言い出しましてな。とりあえず氷水で顔を洗ってこいと言ったら、後 悔 しますよなんて恐 ろしいことを言いましてね。脅 迫 ですよ。警察に突 き出しました」
「えーと......」
選 択 肢 としては──それぞれの頻 度 にかなりの差はあるにせよ──たくさんあったのだろうとは思う。
一、怒 鳴 る──「ンなことどうでもいいんじゃあああっ!(どすっ)」いや、殺してはまずい。多分。
二、泣く──「そんなことどうでもいいんですよ。で、ぼくたちは結局どうなるんですかぁ?(しくしく)」いや、聞いたところでどうしようもなさそうだ。
三、聞き返す──「え?」論外だ。うかつに聞き返すと、本当に事細かに解説してきそうな気がする。
結局ドーチンは、最も一 般 的 な選択肢を選んだ。
「そうですか」
曖 昧 に相づちを打つ。
「それで......ぼくたちはそーゆうわけでこんなところで迷ってるんですけど、あなたたちは?」
聞くと、コンラッドは、ふぅむと大きく息をついてみせた。鼻息がこちらの顔にかかるほどに。
「我々は、まあ肩書き通りのことをしているわけですよ」
「......遺 跡 調査、てやつですか?」
「うむ。その通り。ついこの間、非常に貴重な古 文 書 を発見しましてな。まあ、このあたりにある遺跡と直接関係のあるような記述があったわけではないのですが、気にかかる箇 所 があり、それを確かめに」
「古文書......この間発見したって、そんな簡単に読み解けるものなんですか?」
遺跡と同じく、人間種族の学者が古文書と言った場合、それも天人の書き記 したものである。一か月ほど前までいっしょにいた女魔 術 士 が、そういったものを読むのにかなり時間をかけていたことを思いだし、ドーチンは聞いてみた。
が、コンラッドは自分でもおかしいというように笑うと、
「はっはっ。まあ、現代語で書いてありましたからな」
「それって、古文書じゃないんじゃ......」
「本部もそんなことを言ってきて、予算を回して来ませんでな。仕方なく、ふたりだけで調査に来たわけですよ。なあ、ノサップ研究員?」
「はい......そうですね......研究員長......」
口調からすれば寝 言 のようだったが──ノサップが、答えてくる。
コンラッドはなんの疑問も持たずに、満足したようだった。大げさにうなずいて、ガス灯 の明かりの下で瞳 を輝 かせる。
「知っておられますかな? このあたりには、天人種族の処 刑 場 があったと伝えられておりましてな。ただ、火山の噴 火 で大部分が埋 没 したらしく──まあ、その時に天人種族が火山帯ごと徹 底 的 に鎮火 してしまったため、今では溶 岩 の滴 もありはしないんですが──今まで発見された施 設 は、ほんの一部分でしかない。それらは調査も終わり、観光客相手に入場料を取って開放しているらしいが。だが、肝 心 なものが発見されておらんのです」
「はあ?」
「分かりませんかな?」
そう言って聞いてくるコンラッドの目は、たとえようもなく嬉 しそうではあった。瞳も輝き、きらきらしている。子供の瞳のように──あるいは子供よりも年下に見えるような瞳の輝き。
「分かりません」
素 直 にドーチンが答えると、コンラッドはさらに嬉しそうにうなずいてみせた。
「うむ......」
煙草 を吸って、息を落ち着けてから、あとを続ける。
「天人種族の処 刑 方法を、ご存じですかな......?」
「? いいえ?」
「かの古代種族は──魔術士たちが俗 称 として〝古代の魔術士〟と呼ぶように、強大な魔術を有しておるのですよ。普 通 の方法ではその生命活動を停止させることはできない......その気になれば、精神を遊 離 させ、処刑人の身体を奪 い取ってのうのうと生き延びることだってできる。その魔術の力は、ご存じとは思いますが、大陸の地形を変えてしまうほどのものです。できないことはないと言っても過言ではない」
「そうらしいですね。ぼくらの故郷にはドラゴン種族がいますけれど」
マスマテュリアを歩いていれば適当にそこらをごろんごろんしている、小山のような鋼 鉄 製 の巨 体 の生き物を思い出し、ドーチンはつぶやいた。ドラゴン種族の魔術は、確かに地形を、自然を、世界の摂 理 をも制 御 し、操 る。
コンラッドは、にやりと笑 みを作ってみせた──それまで常に見せていた、顔面に張り付いた慢 性 的 な笑みではなく、もう少し強い笑み。
「ええ。強大な魔術で自らの身を完 璧 に守ることのできる種族。それが、自らの種族の一員を処刑するにはどうするのか? 実を言うと、あなたがご存じないのも不思議ではない。誰も知らんのですからな。そういった処刑方法を明らかにしてくれるような施 設 を、まだ我々は発見しておらんのですよ。処 刑 場 の、処 刑 場 を」
「このあたりに、それが?」
「と、言われてはいるんですがね。このあたりは極 めて凶 暴 な肉 食 獣 の生 息 地 だかで、実はまともな調査隊など入ってはこられなかったので」
「......え?」
聞き捨てならないことを聞いて、ドーチンは聞き返した。
が、それと同時に──いや、むしろ早く、
「研究員長⁉ 」
唐 突 に目を覚まして、ノサップが叫 ぶ。声をはっきりと裏返らせて、
「凶悪な肉食獣⁉ 聞いてないですよ、そんなことは⁉ 」
「ああ、なんだ、ノサップ研究員。知ってると思って言わなかったかな。いやはや、失敗失敗」
「そんな頭なんてかいてないで! そんな危険な場所を、こんな時間に! いくらなんでも無 茶 なんじゃないですか⁉ 」
「実はわたしもそう思っていたのだが」
「思ってないで実行してくださいっ!」
「短気は損気だぞ」
「まるっきり関係ありませんっ!」
ノサップは口早にそうまくし立てると──リュックを探 っていたボルカンごと、がばと立ち上がった。はたから見て分かるほどはっきりと下 唇 を噛 んで、
「帰りましょう、さっさと! もー限界だ。こんな仕事やめてやるからな! 大学まで出て、なんでこんなひどい目に! 納 得 いくかっ!」
「そうたんかを切って飛び出したノサップ──しかし、ふと自分の心に風が吹 き込んだ時、その心の隙 間 に気づくのである......」
「なにを勝手にナレーションしてるんです⁉ 」
「まあそう怒 るな、ノサップ研究員。カルシウムを消 耗 するぞ」
あくまでものんびりとした口調でコンラッドが告げる。それをなにか寸 劇 でも見ているような心持ちで眺 めながら、ドーチンは口をはさんだ。
「あの......それで、危険な獣 って、どういったものなんです?」
「うむ。それがだな」
コンラッドはあっさりと答えてきた。
「ここいら──特にこの森の中に入っていった人間は例外なくばらばら死体になって例の山道近くの崖 下 に発見されるんで、実態を知っている者はいないらしいのだな」
「そんな危険な場所、なんで立入禁止にしてないんですっ⁉ 」
と、これはノサップ。コンラッドは少しうるさそうに彼のほうを見ると、
「わざわざ崖下を立入禁止にする馬 鹿 もいないだろう。降りる道などないんだからな」
「えーと、あのー」
ドーチンは再度割ってはいると、
「じゃあ、あなたたちはどうやってここに?」
「うむ。あの崖にロープをかけてな。一 所 懸 命 降りてきた」
「あの時におかしいと気づいていれば〜!」
頭を抱 えて、大声でノサップが泣きわめく。
と──
「ええい! 落ち着け!」
声が響 いた。
叫 んだのは、ノサップのリュックサックの上に仁 王 立 ちしたボルカンである。腕 組みし、リュックの中から発 掘 したらしいバナナを皮ごと口にくわえて食べながら、
「大の男がうろたえるな! 獣だかなんだか知らんが、どーぶつごとき、このマスマテュリアの闘 犬 がいくらでも駆 逐 してくれる! まさしく、そう、缶 詰 に詰め殺すよーにっ!」
............
一同、しばらく沈 黙 してから。
口を開いたのは、ノサップだった。
「......あんた、そんなとこでなにしてんだ?」
「うむ。気にするな」
堂々と言ってのけて飛び降りると、ボルカンはバナナを一気に呑 み込んだ。剣を抜 き、高らかに叫ぶ。
「ふっ! この戦士ボルカノ・ボルカン様が、動物キラーと呼ばれていることを知らんよーだな」
「......ていうか、ぼくも初耳だけど......」
ドーチンのつぶやきはまるっきり無視して、ボルカンはびしりと決めポーズを取ってみせた。
「あの夜のストリートでの戦い......今でもなお付近の住民は覚えているだろう! 赤い月光が世界を照らす。寝 静 まった愚 かな世界を! 俺様とその凶 悪 な獣 は対 峙 して──」
「ストリートとか言ってる時点で、その獣って野 良 犬 のことなんじゃない?」
「なに⁉ それではなにかまずいのか⁉ 」
ぽつりとドーチンが指 摘 するとボルカンは、うろたえたように振 り向いてきた。とりあえずこちらのやりとりを無視して、ノサップがさらに声をあげる。
「あーもうっ! 絶望だ! こんなことのために家族のもとを離 れて留学したんじゃないのに! こんなんじゃ、研究者殉 職 名 簿 にも載 りゃしない! 母さんは俺の仕送りだけを頼 りにしてるってのに! 見 舞 金 も出ないで俺が死んじまったら、なにがどーなるってんだよ⁉ 」
「気の毒だったな、ノサップ研究員」
「素 直 に謝 ってないで、言い訳 しろよ、せめて⁉ 」
焦 点 すらも定まっていないような眼 差 しで、ノサップがコンラッドに食ってかかる。手を振り上げて飛びかかるようなことはしないようだったが、それでも合図さえあれば噛 みつきそうな勢いではあった。とりあえず部外者がどうこう言うようなことでもなさそうだと、ドーチンはあきらめて引き下がった。それに──知りたかったような情報は、すべて教えてもらったようではあるし。
がさがさ......
ドーチンはため息をついた。風の音も喧 噪 に紛 れていては恐 怖 もなにもない。草の音も。それを踏 み分ける音も。
いや──
(踏み分ける音?)
ドーチンは顔を上げた。なんのことだ? 踏み分ける音だって?
ガス灯 の明かりの中で、視覚は十分に満腹していた。騒 ぎの中で、聴 覚 も。
飢 えていないせいで──小さな音を貪 欲 に求めたりはしなかった。だから、聞き逃 していた......
「踏み分ける音──」
その一瞬の中で、ドーチンが発したつぶやきはそれだけだった。その一瞬の間に、どれだけのことがあったとしても──ドーチンがはっきりと思い出せるのは、自分がそのつぶやきを発したということだけだった。たったそれだけ。それだけが、ドーチンの果たした役割だった。
一瞬が始まる。
唐 突 に、コンラッドののんきな声が消えた。赤い筋が虚 空 を埋 める。ドーチンは、それがなんだか分からなかった──分かっていたら、発 狂 したかもしれない。ゆっくりと、コンラッドが倒 れていくのが見えた。左右に。
右に、でも、左に、でもない。
脳 天 から股 間 までふたつに分かれて、左右に倒れていった。
身体が半分ずつになってしまっては、直立していられる道理もない。それは当たり前のことだったから、理解せずとも思いついた。コンラッドは、それまで立っていた場所に赤い固形の飛沫 だけを残して、左右に倒れていった。
「あれ?」
ノサップのつぶやきもそれだけだった。だからきっと、彼もあとになって思い出せるのはこのつぶやきだけだろうとドーチンは思った。余計なお世話かも知れないが──
倒れたコンラッドの身体の後ろに、なにかが立っていることはすぐに分かった。凶 暴 な獣 。ドーチンはその単語を、見たものに当てはめようとした。が、油にまみれた部品のように、指から滑 って定位置にはまろうとしない。それは小さかった。背 丈 で言えば、自分よりも小さいくらいだったろう。二本足で立っていた。胴 体 が長いため、直立歩行というイメージではなかったが。
手になにかを持っていた。長くて鋭 いもの。コンラッドの──左右に倒れたコンラッドの──ガス灯 の明かりの中に、すらりと閃 くもの。
剣だった。
「うわ?」
緊 張 感 のない、ノサップの声。悲鳴。彼は驚 いたというより、あっけにとられたようにそんな声をあげると──少し、後ずさりしたようだった。どさり、という音があとに続く。彼がリュックサックを落とした音。

ドーチンは動かなかった。動けなかった。脳天から股 間 までが一直線に裂 ける。そんなことがあり得るのかどうか、思わず考え込んでしまっていた。あり得たとして──それは、どのような力なのだ? 剣だ。剣で、人間を両 断 する。剣はむしろ短く、小 振 りだった。人間を"切 断 "できるようなものではない。それを可能にしてしまうのは、いったいどのような怪 力 なのだ?
「うわああああああっ⁉ 」
我を取りもどしたのか──うらやましいことだ──ノサップが、はっきりと悲鳴をあげる。彼はそのままくるりと後ろを向くと、光の外へと逃げ出していった。森の闇 の中へ、全力で駆 け出していく。
ドーチンは動けなかった。動かなかった。
ただ唐 突 に現れたそれを、じっと見ていた。獣としては、それは明らかに奇 妙 だった。なんであるのか分からないほどに。およそ獣じみた姿をしていないのとは違 う。姿形からすれば、それは確かに獣だった。
キ......キイ......
奇 怪 な音。その獣の鳴き声だろう。
猿 に似ていた。というより、猿だった。猿というのはもう少し明るい毛並みであると思っていたが、目の前にいるこれは違う。焼けこげたようなどす黒い茶色。
身体は小さい。それは錯 覚 でもなんでもなく、確かにそうだと思った。違 和 感 を覚えるのは、手である。人間に似すぎていた。道具を扱 う人間に。猿の手首から先だけを人間のものにすげ替 えれば、ちょうどこういった姿だろう。いや──それだけでは、決定的にひとつ欠ける。
その獣の、最も際 だった特異点は、頭部だった。猿の頭である。それは断言していい。しかし、頭 蓋 骨 に突 き刺 さるようにして、円 筒 形 の水 槽 のようなものが突き刺さっている。ガラス製だが中に入っている液体が黄色く濁 っているせいで、恐 ろしく汚 らわしい物体に見える。
その円筒形の水槽の中には、丸い物体が浮 かんでいた。
脳だった。猿の頭蓋骨の中には入りきらない大きさの脳が浮かんでいた。
猿はこちらを見た。瞬 きしない眼 で。
ドーチンは、直感的に悟 った──さっきまで、あとをつけてきていた獣。
(間 違 いない。こいつだ)
だが......
(なんで......急に......襲 いかかってくるんだ? さっきまでは......ついてきていただけだったのに)
そんな疑問も浮かぶが、答えは出てこない。そして。
「ぬうううううっ!」
今度響 いたのは、兄の声だった。剣を手に、状 況 が分かっているのかいないのか、猿に向かってなにやら大声をあげる。
「なんだかよく分からんが!」
やはり分かっていなかったらしい。まあ、それに関してはドーチンも同じだったが。
なんにしろ、ボルカンはあとを続けた。
「頭になんか突き刺して、重たそうだしご苦労だが、このマスマテュリアの闘 犬 に出くわしたのは運が悪かったな! この動物キラーの必殺の刃 が、貴様のよーな生意気な動物をいろいろいじめる! というわけで、筋 弛 緩 剤 でリラックスさせ殺す──」
「あのね、兄さん──」
逃 げたほうがいいと思うんだけどとドーチンが言いかけた、その時だった。
ぞくりとする。
一瞬はまだ終わっていないのだと悪 寒 が告げてくる。
猿が動いた。
そして一瞬の動作で兄の目の前まで駆 け寄ると、その腕 を一 振 りした。剣を持った腕を。
兄の首が、ごろんと地面に落ちた。
「へ?」
それは──当たり前だが、ボルカンのつぶやきではなく、ドーチンのものだった。
今度こそ決定的に理解できなくなって、ドーチンは脱 力 した。
だが。
猿がこちらを向く。とさ、と軽く、ボルカンの身体が倒 れた。虚 空 に揺 れる暇 もなく。猿がこちらを向いている。
頭が働かなくとも、身体は敏 捷 だった。危険はもう分かり切っていた。ドーチンはとにかく、後ろを向いて逃げ出した。猿の視線を背後に感じながら──
自分も駄 目 だ。
絶対に自分も駄目だ。
胸の中に、そんな言葉がこだました。意味もなく駄目になった。ただ身体は逃げ続けた。救いを見込んでの逃 亡 でないことは分かっていた。ただ逃げ出さずにはいられなかった。走る。走る──
キイッ!
猿の鳴き声だろう。鋭 く。聞こえてくる。
そして、なにか気配を感じた。背後から。なにかが──
どんっ、と大きな衝 撃 を感じて、ドーチンはその場に転 倒 した。突 き刺 さった。なにかが背中に。剣だろう。猿が持っていたあの剣。悲鳴をあげたかったが、できなかった。息が漏 れただけだった。
(ほら、やっぱり駄目になった......)
痛みは感じない。足音が聞こえてくるほど、意識もはっきりしている。あの猿が近づいてくる足音。どうするつもりだろう? ぼくはもう駄目になったのに。いったいなにをどうするつもり......
ドーチンは、背中に刺さった剣を見下ろした。その刃 を見た。背中のマントから突き抜 けて、地面に刺さっている。鋭 利 な刃。どこかで見たことがあったかもしれない。猿が持つような剣ではない、となんとなく、ドーチンは思った。そう。暗殺者が持ちそうな短剣だ......
はっ、と気づく。
剣は自分に刺さっていない !
マントに刺さっただけだった。猿が近づいてくる......彼が死んだかどうか、確かめに来るのだ。
(息を止めろ......心 臓 もだ!)
ドーチンは必死に念じた。念じたところでどうできたものではなかったかもしれないが、それでも念じた。
どうせ夢のような出来事だ......
なんでもできる!
そうなれば、息も止まったような気がした。心臓すらも。石になればいい。石を殺すものはいない。それは自然界の摂 理 だ。
足音......近づいてくる......
だがその足音のことすら忘れて、ドーチンは念じ続けた。一瞬、猿の臭 いをかぎ取ったような気もする。だがそんなことは考えないようにした。石は考えないものだから。自分は石なのだから! そして──
石の上を猿は通りすぎるのだ。それが宗 教 であれば殉 教 もできると思えるほどの信念で、ドーチンは祈 り続けた。
............
どれほどの時間だったのかは分からない。
ざっ!
ひときわ強い足音。なんのことだろうかと、ドーチンは訝 った。そしてすぐに悟 った──方向転 換 の足音だ。それを境に、足音はどんどん遠ざかっていく。走り去っていったようだった。方向は、はっきりしている。先ほど、ノサップが逃 げていった方向を、追いかけていったのだろう。
ドーチンは、起きあがった。目をはっきりを見開く。
(あの猿、ぼくが気絶してると思ったんだ)
なんとか立ち上がろうとして──それができずに焦 る。短剣がマントを地面に縫 いつけているせいだと気づいたのは、数秒後だった。
(だから、逃げてったノサップって人を追いかけるのを先にしたんだ。早くここを離 れないと......もどってくる!)
ほとんど無意識に、ドーチンはその短剣を地面から抜 いた。地でべったりと汚 れた刃は、もとは銀色に輝 いていたのだろう。鋼 鉄 の柄 は硬 く冷たい。温 もりを拒 絶 しているかのようだった。剣。
(でも......)
その剣を手に、立ち尽 くす。
(なんなんだよ......なんなんだよ、あいつは⁉ )
混乱して、ドーチンは声なく叫 んでいた。目が回る。なにもかもが回る。さっぱり分からなかった......分かるはずもなかった。
(こんなの......こんなの、変じゃないか⁉ 変だよ、変だ──ええと──そうだ、ルール違 反 だ!)
破れかぶれで思いつきを羅 列 する。
あり得ないことのはずだった。
絶対にあり得ないと思っていた!
自分たちを殺してしまう 者がいるなんて⁉
(嘘 だ......こんなの嘘だ......)
目を閉じる。だが、それは失敗だった。まぶたの裏に、より鮮 明 になって、首と胴 体 が離 れた兄の姿が浮 かんでくる。
兄の死体が!
(あり得ない......)
ドーチンは繰 り返した。あり得ない。だがそのあり得ないことを、あの猿 ──いや怪 物 ──はしでかした。また悲鳴。ノサップとかいう男の声だった。一応、抵 抗 しているらしいが、ドーチンははっきりと悟っていた。
なにもできるはずがない。あんな怪物に対 抗 できる武器を、自分たちはなにも持っていない。
(対抗......できるのは......)
ふっと、ひとつの答えが頭に浮かんだ。
「............」
目を開く。混乱は去っていた。答えがある。明 確 な答えが。
こんな怪物にも対抗できる者がいる。いや、彼ならば、大陸のどんな怪物とだって渡 り合うはずだ──あの男なら!
「うわあああああああっ!」
一声、叫んだ──いや、吠 えた。ドーチンは全力で走り出した。まだ近くにいるはずだ──あの男は。
大陸最強の黒 魔 術 士 ......
陰 険 につり上がった目つき。凶 器 のごとく鋭 利 で、強 靭 な肉体。強大な力を意のままに操 る精神力。どこまでもどこまでも標 的 を狙 う闘 争 心 。
そして彼らの借金の取り立て屋であるあの男を目指して。
血 塗 れの短剣を手に、ドーチンは力のあらん限りを尽 くして走り出した。
(つづく)
「上下巻なのに『あとがき』って変だよな、などと思いつつもほかにいい見出しを思いつかず、こんな感じなのですが。どちらかというとインターミッション独 白 メモという雰 囲 気 で。なにしろ独白なもんで。キャラクターなしで作者ひとりでお送りしております。シリーズ十一作目の巻末です......」
「......そのネタ、前にもやった」
「うっ⁉ ......そ、そんな......このあとに、いやはや、第二部開始も大変ですと続けようと思っていたのに......」
「ますます前にやった」
「......あんた誰ですか?」
「エリス。この巻の」
「さいですか......」
「............」
「ええと......」
「なぁに?」
「なにかしゃべってもいいでしょうか」
「それが仕事でしょ」
「はい。すみません......って、なんでぼくが自分の作ったキャラクターに頭下げなくちゃならないんだ⁉ 」
「下げなきゃいいでしょ。頼 まれたわけでもないし」
「......そうだね。ええと、毎度おなじみ、作者です。読者様にはまたまたのお付き合い、感 謝 しております(深々)」
「深々と刺 したの?」
「違 うわっ!......いいから黙 ってなさい」
「はーい」
「まったく(ぶつぶつ)......えー、ずいぶんと長いことご無 沙 汰 してしまったよーです。ようやくの第二部開始、ここでようやく予告通り、どたばたとした話ができそうではあります」
「まー、それを判断するのは読者さんよね、あんたじゃなくて」
「......せっかくの第二部開始! ということで、多少あとがきを長めにとって、ワイド版ノーカットノーCM(クリアー)でお送りいたします」
「本編が薄 っぺらいから、その穴 埋 めね」
「............(見つめる)」
「続きは?」
「しくしく(泣)。くそう、負けるもんか。まあ、シリーズのことに話をもどしますが、前にも言った通り、第二部は東部編とゆーことで、今度は一行、大陸東部を南下していくことになります。まあ、実を言うと話の内容に関しては、ぼくなんかより読者さんのほうが詳 しいんじゃないかなどと最近思ったりしてますが(笑)」
「泣いたり笑ったり......作者がガキだとこっちが大変だわよ」
「ううう......姑 にいじめられる新 妻 の気分だ......」
「あー、あれって本気で男にゃ理解できないほどものすごい世界らしいわよー」
「ほう。でもお前のその発言ってのも、やっぱり女性蔑 視 なんだろーな。気を遣 ってるつもりでも、難しいな、やっぱりその辺。どうでしょうT嶋さん」
「誰がT嶋よ。それはそうと話がそれてるみたいだけど。行数稼 ぎだって思われないうちに話をもどしたほうがいいんじゃない?」
「......点 呼 でもとろーか?」
「パクリだってばれる前にやめたほうがいいと思うけど」
「そーだね。さて! 第二部開始にしていきなり上下巻! 別に前回に味をしめたわけではありません。ちゅーか、二度とするもんかと思ってたんですけども、なんていうか、ううむ......説明して伝わるかどうか分かりませんが、ぼくの性 分 みたいなもんに最近気づきまして」
「性分?」
「うーんと、今までも何度か、軽い話をやるよ〜、と言いつついまいち実現しなかったんですけど、あれってよーするに、余 裕 がなかったからではないかと」
「余裕?」
「枚数の余裕ですね。ページ数の。会話でギャグをやるの好きなんだけど、あれって落ちがないから終わらないんですよね。ひらたく言うと行数を食うわけ。んで、一冊分の枚数でストーリーをつけて事件を起こしてなんてやってると、本 筋 とは関係のない小ネタみたいなの入れられなくなっちゃうんだな。別にそれでもいいっちゃいいんだけど、思い切って二冊分の分量で一作やってみれば、好きなだけ遊びの会話入れられるんじゃないかと思ったんですが」
「......わたしには、そーゆうつまらないことで悩 んでるのが、気 楽 にできない最大の原因だと思えるんだけど」
「うるさいな。まあ、とにかくそういうことで、今回はどちらかっていうと、ぼくのわがままに、みなさん付き合っていただこうかと。多分おもしろいものにはなってくれる......と思うんで、下巻までのタイムラグ、ちょっと我 慢 してくださいね(ぺこり)」
「えーと、ちなみに本編を既 に読み終えている方に、一応念のため、このずぼらな作者にはミステリーを期 待 しないでくださいね」
「......まあ......否 定 はできんが......」
「好きなトリックは? って聞かれて、ビンゴ教授の嗅 ぎ薬 って答えるよーな奴 だもんねー」
「いーじゃん、好きなんだから」
「まあ、実際どうでもいいけどね......んで、どうなの? 近 況 」
「えーと、ノートパソコンを買いました」
「機械音 痴 のくせに?」
「うっさいな。使えるようになるまで頑 張 るわい。とりあえず、落っことさないように注意しよう」
「恐 ろしく基本的なところから注意するのねー」
「電源のオンオフと、フリーズした時に平然とリセットする精神力は身に付いたんで、なんとかなるだろ」
「なんかガサツだし」
「現実的と言ってくれ。いちいち説明書読んで機械と遊んでる暇 はないのじゃ」
「きっと、機械文明の崩 壊 っていうのは、こーゆう奴の氾 濫 から始まるんでしょうねー」
「人をボルボックみたいに、この女は......」
「ほかにはなにか、変わったことなかったの?」
「ンなこと言われても、ここんとこずっと原 稿 にかかりっきりだったしなぁ。とりあえずハンク編はクリアしたけど」
「......その発言の矛 盾 についてはつっこまないことにしとくけど、意外とつまらない生活してんのねー、あなた」
「どないせっちゅーんだ」
「交通事故にあったとか、宝くじに当たったと思ったらその帰りに黒いベンツをカマほったとか、東の空から高 速 で飛んでいく鬼 を見たとか、そーゆう嬉 しい出来事はなかったわけ?」
「全部不幸のような......いやまあ、鬼はどーだか知らんけど」
「確 定 申 告 は ? なにもなかったの?」
「なにかあったりしたら困るだろ、それは」
「......よし。帰っていいわよ」
「なにがだっ⁉ 」
「ほんの冗 談 よ」
「あ、そうだ。駅からちょっと離 れたところに、新しく床 屋 ができてた」
「......それで?」
「駅前の床屋より、これが格 段 に安いもんで」
「で?」
「今度行ってみようかと」
「............」
「............」
「帰りなさい。いいから」
「なぜっ⁉ 」
「さて、今回は長めにお送りして参りました、第十一巻の巻末──」
「あ、なに営業スマイルでまとめにかかってるんだ、お前⁉ 」
「出演はこのクソ作者とわたし、エリスでした。では、また下巻でお会いしましょう」
「クソってなんだ、クソって⁉ 」
「ではでは〜、しーゆー♪」
「逃 げるな、こらぁぁぁっ⁉ 」
一九九八年三月──
秋 田 禎 信

「......なんだ、夢か」
ボルカンがそうつぶやいたのは、目を開けるのと同時だった。
夢といっても、どういった夢だったのか覚 えていたわけではなかったが、とにかくひどい悪夢であったことは間違いないようだった。脳のどこかに直接冷水をそそぎ込まれたかのように、はっきりとした痛みが残っている。
しごくゆっくりと、瞬 きしてみる。感覚ははっきりしているというのに、身体 の動きだけが緩 慢 にしか感じられない。視界は微 かに白 んでいたが、数秒もすると次 第 に焦 点 が合ってきた。緑色をした石組みの天 井 。石の表面はひっかき傷だらけだった。縦 横 、そして斜 めに。あらゆる方向につけられた傷は文字のようでもあった。もっとも文字であったにせよ、無論ただの傷であったにせよ──読めるわけでもないが。
なんとなく思い出したのは、故 郷 のことだった。マスマテュリア。地 人 自 治 領 。
今さら郷 愁 があったわけでもない。実際、思い出したところで、続いてなにを感じることもなかった。故郷。ただあるべきところにある故郷。ボルカンは大きく息をついた。まだ思うように動けない。なま暖かさが全身を包 んでいる。ここの空気はよどんでいる。彼はそう思った。当然だろう。屋 内 なのだから。
さて。
「......なんだったっけか?」
ボルカンはひとりで顔をしかめた。なにかを言った気がする。だが、なにを言ったのか覚えていなかった。後味の悪いものを残しながら、彼は仰 向 けに寝ころんだまま、首を左右に振った。ゆっくりと。
見えたのは、天井とまったく同じ、緑色の壁 だった。天井もであるが、鮮 やかな緑ではない。かすれて、くすんだ、出来の悪い緑──もし世の中の「緑」たちに一 斉 に試験をさせて順位をつければ、下位に低 迷 することが避けられそうにない、そういったつまらない緑色だった。天井、壁、そしてちらりと見えた床 。すべてが緑色である。
どよんと、視界が暗くなる。まぶたを閉じかけていたらしい。はっとして、ボルカンは目を見開いた。なにか意 図 があったわけではない。単に反射的に、睡 魔 に抵抗したに過ぎない。
だがそれにしても眠い。
彼はそんなことを独 りごちつつ、それでもなんとか意識を保った。戦士であれば──ましてや自分のような民族の英 雄 たる者であれば、なにがなんだか分からないまま、再び眠りにつくことなど許されないような気がしてくる。
理由さえつけば、起きるのは簡単だった。多少、億 劫 ではあったが身体を起こそうとする。彼は自分の身体も含 めて、あたりを見回した。
彼が寝ていたのは、床ではなかった。いや、少なくとも床らしくはなかった──寝 台 のようにも見える。ただしどちらかといえば、部屋の中央で、一段高くなっているだけの床、というほうが近いかもしれない。寝台の高さは一メートルほど。自分の身長を考えて、ボルカンはこれを、かなりの高さだと判断した。
壁の一方には出入り口と思 しき四角い穴が開いていた。扉 はないが、長い通路がずっと続き、どこにつながっているのかはよく分からない。部屋の天井に近いところには、ガス灯とは違う奇 妙 な明かりが浮いている。光を集めただけのような、不自然な光球である。部屋が白んで見えるのもこの明かりのせいらしい。とはいえ、この明かりがなければ部屋の中はまっくらだったろうが。部屋には窓らしきものはなにもなかった。
「たいした問題ではないな」
ボルカンはそう言い切った。
外に出られないということかもしれないが。
しかし──
彼は腕組みし、首を傾 げた。不可解だった。
寝台の上で、彼はうめいた。
「......なんで俺 、死ぬ夢なんて見たんだ?」
◆◇◆◇◆
結局のところ、火 災 自体が致 命 的 なものだったのかどうかは、たいした問題ではなかった。
彼の魔術で完全に修復されたペンション・森の枝の玄関を見て回って、オーフェンは静かに独りごちていた。
(問題は......同じことがまた起こるか、ってことだな)
どうかということであれば、どちらでもあり得る。
放火犯を取り逃がしてしまったことを、今さらながらに後 悔 する。舌 打 ちすらしながら、オーフェンは頭をかいた。
昨夜、放火犯に相当に痛い思いをさせてやったことに関しては、確信があった──それこそ、もう二度と馬 鹿 なまねはすまいと決心させるには十分なほど。だが取り逃がした以上、再犯の可能性を否定することはできない。
つまり、どちらもあり得る。
「......動機による......か?」
声に出してつぶやいて、彼はそれとなくあたりを見回した。都 合 よく当の放火犯がそこいらに隠 れているはずもないだろうが。
と──
「お師様ー」
呼ばれて、彼は声が聞こえてきた方向を勘 で探 った。ペンションの二階にある窓から、金 髪 の少年がこちらを見下ろしてきている。それを見上げて、オーフェンは不思議に思いながら聞き返した。
「なんだマジク。そこ、客室だろ? なんで、ンなとこにいるんだよ」
「お師様、また聞いてなかったんですか?」
マジクは、それこそ意外そうに目をぱちくりさせた。
「エリスさんが、ほら、昨日 お師様が危ないところで火を消してくれたからって、これからいつまでも客室に泊 まっていいって言ってくれたんですよ。だからぼく、荷物を運んでたところです」
「へぇ......」
オーフェンは、ぼんやりと声をあげた。いくつか思いついたこともあるが──マジクに言っても仕方がないので口をつぐんでおく。
かわりに、別のことを言っておいた。
「って、俺たち、今日ここを出ていくんじゃなかったっけか?」
「そういえばそうですけど......」
マジクは、困 ったように顔をしかめた。
「でも、せっかくちゃんとした部屋に泊まれるんですから、もうちょっといてもいいじゃないですか」
「うーん......」
「そうしましょうよ。それに結 構 いい部屋ですよ? ふたり用の部屋なんで、ぼくといっしょですけど。クリーオウは結局ずっとエリスさんの部屋で寝泊まりするみたいで、なんか文 句 言ってました」
「贅 沢 な」
「そうですよね。それと、宿の手伝いみたいなこともやらなくていいそうです。だからお師様、今日はぼくのトレーニング、ちゃんと付き合ってくださいよ」
「............」
オーフェンは、しばし言葉をためた。そして、
「......できればな」
「お師様?」
機 嫌 良さそうだったマジクの顔が、すぐに曇 った──眉 間 に、いつも着ている黒マント同様あまり似 合 わないしわを寄せて、
「できればって、できないわけないじゃないですか! そうやって、すぐにさぼりたがるんだから......ぼくの身にもなってくださいよ。ちゃあんと、制 御 力を身につけるまで魔術は使わないって約 束 も守ってるんですから、その制御の方法っていうのを早く教えてくれないと、フェアじゃないじゃないですか──」
「あーあー、分かってる分かってる」
オーフェンは、一気にまくし立ててきたマジクのせりふを遮 って手を振った。ため息をついて、続ける。
「別に、さぼりたいっつってるわけじゃねえよ。ただな......」
「ただ、なんです?」
まだ納 得 がいかないという表情で、マジク。オーフェンは苦笑しながら、うめいた。
「いや、なんつーか──もう野 宿 もしなくていいし、下 僕 みたいな強制労働も免 除 ときた。万 々 歳 と言いたいところだがな」
と、腰に手を当てて、こぢんまりとした白いペンションを見上げる──マジクが身体を乗り出している窓だけではなく、全体を。
さきほどよりもさらにもっと間を置いてから、オーフェンは告げた。
「......もっと忙 しくなるような気がしてるんだよ、俺は」
気分がいいはずの上天気な朝に、こうまで悩 み事が多いというのはどういうことなのだろう。
(......運命かな。それとも、性 分 か)
オーフェンは苦笑しながら、そんなことを考えていた。どちらであっても似たようなものだろうが。つまるところ、両方とも死ぬまで治 りそうには思えない。
ずっと付き合っていくしかないのならば──苦笑する以外になにができる?
することがまったくなくなるというのも、考えものだった。
朝の心 地 よい風に吹かれ、屋根の上に寝そべってオーフェンは空を見上げていた。高地の空はさらに高い。澄 み切った毒 気 のない青空に、鳥が円を描いている。絵 画 に収 まらない無数の色 彩 をちりばめながら、単一の色へと変化する理想的な空。その空の上になにがあるのかと夢 想 させる。
大陸のどこであっても同じ空だ──広大な空。ちっぽけな陸のどこから見上げたところで、見る方向がさほど変わるわけでもないだろう。この空が無限に広がると言う者もいる。世界の構造などというものが、どれほど解明されたわけでもないが、オーフェンはなんとなくそれだけは信じてもいいような気がしていた。
(空......か)
最も端的な、最も短 絡 的な、最も分かりやすい、最もあけすけな、死の世界。誰 も空では生きられない。
だがそれでも、空で死ぬ者はいない。空に落ちていく者などいない......
「そんな顔するのね」
「............?」
突然話しかけられて、オーフェンは顔を上げた──と、屋根についた四角い跳 ね上げ扉 から、エリスが上半身だけ出した状態でこちらを見ている。扉が地 味 だったため、そんな出入り口が屋根にあったことも気づいていなかったが、なんとなくオーフェンは驚 きを覚 えなかった。空は見上げる者の感情の大半を吸 い込むことがある。
「どんな顔だ?」
再び空を見上げなおし、オーフェンは聞き返した。
ほんの一 瞬 見ただけだったが、青空にその姿が映 し出されているように、彼女の姿が浮かんで見えた。笑ったらしい──こちらの勝手な幻 想 だったかもしれないが。どこか物 憂 げな声 音 で、彼女は言ってきた。
「......どこかへ行こうとする顔......」
「どこかへ?」
「そんな顔をする人、ここにはいないのよ。街 の人は出ていくはずないし」
「観光客は、いつまでも滞在するわけじゃねえだろ」
「彼らがするのは、帰る顔。これからまだどこかへ行く人なんていないわよ」
そいつは言葉遊びだろう──
そんなことは考えても、口に出す気にはならずに、オーフェンは起きあがった。肩越 しにエリスのぼんやりした表情を盗 み見て、うめく。
「俺だって帰る場所がないわけじゃない。ちっとばかし、やらなきゃならんことがあるだけさ」
「............」
彼女は目を細め──笑ったのではない。目を閉じかけてやめたのだろう──、嘆 息 したようだった。遠目からでも分かりやすい華 奢 な肩が、ため息と同じテンポで揺れる。
「わたし、世 間 話 がへたね」
「......かもな。俺だって似たようなもんだが」
完全に身体 の向きを変えて、オーフェンは彼女に向き直った。聞く。
「んで、俺に言いたいことがあるんだろ?」
「実は、頼 まれて欲しいことがあるの」
「昨日 言ってた......なんつったっけ。ロッツ? そのことか?」
オーフェンが聞くと、エリスはこくんとうなずいてみせた。
「調子がいいとは分かってるんだけど、あいつらが、こうまで手段を選ばなくなるなんて......」
「あながち、調子がいいとまでは言えないかもな」
虚 空 を見上げて、オーフェンはうめき声をあげた。肩をすくめて、
「ことが放火だ。命に関 わる。だがどう考えても、警察に任 せるべきだと思うぜ」
「ふもとのナッシュウォータまで行かないと、ちゃんとした警察はいないわ。この街には自警団があるだけで......その自警団はロッツが仕切ってるの」
彼女は淡 々 と、そう言ってきた。というより、それに関してはあきらめたというような口調で。
オーフェンは、一瞬だけ彼女を観察した。昨日と同じエプロン。部屋を掃 除 していて、なんとなくこちらに気づいたのだろうが──はたきを持っている。相変わらずあまり表情はないが、眼 差 しはまだ必死のようだった。
その瞳 を見返して、彼は嘆息した。
「事情を話してくれよ。まあ......なんとかなるだろ」
彼女が、ぱぁっと顔を輝 かせるのを期待していたわけではなかったが──実際、それを聞いて彼女に表れた変化といえば、手に持ったはたきを下におろしたことくらいだった。あとはほんのわずか、ほおがゆるんだことか。
「ロッツは昔からいたわ......ずっと昔から、今と同じように、この街を牛 耳 っていた」
エリスはそこで言葉を止めて、屋根の上に身を乗り出した。危なっかしく屋根の上に出てくると、滑 りやすい木の屋根を四つん這 いになって近寄ってくる。彼女はすぐ近くまで来てから、街の中央のほうを指さした。
彼女の指が指 し示す先には、ひときわ目立つ、大きな建物が見えた。
「あそこがロッツ・グループの......なんて言うのかしら。本家......本部......まあ、そんなようなところよ」
「あそこも、インチキ温 泉 なのか?」
母親に同じことを言った時のように、彼女も反論してくるだろうか──とオーフェンは一瞬思ったが、一目見て、そうでないことは予想できた。エリスは、くすりと笑うと、
「ええ。例外はないわ。ロッツ・ホテル。ロッツといえば、あの大きなホテルのことなんだけど......まあ要するに、ここいらの温泉宿をまとめた組合の長 みたいなものなのよ。それが、ロッツ・グループっていうわけ。かなり強 引 な方法で、傘 下 の宿を増 やしてる。どこかのギャングみたいな奴 を雇 い入れてるわ。最近うるさいのはね、ロナンっていう男よ。もと派 遣 警察官とかで、腕 っ節 が立つもんだから、それまではロッツに逆 らっていたような人たちも、みんな怖 がってる......」
「あんたは?」
話を聞きながらロッツ・ホテルの黒い壁 を眺 めて──オーフェンは、彼女の言葉の空白を埋 めた。それ以上の意味などない。答えは分かっていた。
「怖いわよ。当たり前でしょう?」
エリスの表情から、さっと血の気 が退 いた。両腕で軽く自分自身の身体を抱きしめるようにして、あとを続ける。
「噂 を信じるなら、ロナンって男、人を殺して警察をクビになったって」
「ふーん」
なんとなく、オーフェンはそんな返事をした。エリスにとっては、意外だったようだった。
きょとんと、聞いてくる。
「......あなたは、怖くないの? 相手は人殺しかもしれないのよ?」
「さぁな。噂話はあまり信じないことにしてるんだ。で、結局、俺に頼 みたいことってのはなんなんだ?」
「ロッツはうちの宿も傘下に入れようとして、しつこく言い寄ってくるの──でもわたしたちにその気はないわけ。今までは毎日訪問してくる程度だったけど、とうとう放火だなんて」
「............」
目をそらして、短く息を吐 き出して、軽くかぶりを振って、というような。
怒 りを表現しようとして、いまいち成功していない──
そんな彼女のくすんだ表情を見ながら、オーフェンは口を開いた。
「それを、やめさせたいと?」
自分で言いながら、馬鹿馬鹿しいとは思ったが──言うまでもなく、やめさせたくない人間などいないだろう──、ほかに聞き方が思い浮かばなかった。
エリスは素 直 にうなずいてきた。
「二度とそんなことがないっていう保証が欲しいのよ」
そう言って、ため息をつく。
「もう二度と、いつもあいつらの来る時間にそわそわしたり、道ですれ違う時にわざわざ反対側の歩道に移ったり、あいつらのねちねちした勧 誘 を聞くのは嫌なの! ええ、もちろん、夜中に玄関に火を点 けられるのもね。うんざりするわ。家にいても奴らが来る、外に出ればあいつらに会うかもしれないってびくびくして。こんな退 屈 な街で、ストレスだけは苦労なく手に入るんだから──」
珍 しく口早にそうまくし立ててから。
彼女は、はっとしたように言葉を止めた。咳 払 いに似 た音を立てて喉 を整 え、言い直してくる。
「あの......あなたが、その──魔法を使う人? だと思うから、こんなことを頼むのよ。でも別に、あなたに危険を買ってくれと言ってるわけじゃないつもりよ。実際、火事を消し止めてくれたことだけでも感 謝 してるから、客室を使う件はまったく遠 慮 しなくて構 わないわ。引き受けてくれなくても」
「俺だって恩の押し売りをするつもりはないさ」
オーフェンは肩をすくめた。
「それに......もともとは、ここにはしばらく滞在するつもりだったんだしな」
「引き受けてくれるの?」
「ああ」
オーフェンは、微苦笑しながらロッツ・ホテルを見やった──
「久々に、ギャングみたいな人間らしい人間でも相手にしねぇと、人間不信に陥 りそうだしな」
「............?」
不可解そうなエリスの視線を感じながらも、オーフェンはそれには答えず、視線を地上のホテルから、温泉街 から──
はるか遠くの空へと移した。
「......ねえねえ、オーフェン」
「なんだ?」
「思うにこれって、おかしいと思うのよ」
「なにがだ?」
「お散歩なら、もっと眺 めのいい場所とか、お土産 屋さんとか、そーゆうところに行くべきよね」
「そうだな」
「なんでここなの?」
「それはだな」
オーフェンは、そこでようやく振り返った──といっても、大 仰 に身体の向きまで変える必要はない。会話の相手は彼のすぐ横にいた。ブロンドを腰まで伸ばした、小柄な少女。頭の上にはいつものようにレキを乗せている。見 覚 えのない薄 桃 色のワンピースは、エリスに借りたものだろうか。この少女は、やたらと他人の服を借りたがる悪 癖 があるらしい。オーフェン自身には被害がないため、今まであまり気にしなかったが。
彼女に向かって、オーフェンは告げた。
「子供連れの散歩は、公園と決まってるからだ」
「......ここ、公園かしら......」
ひどく疑わしげに、少女──クリーオウがうめいている。
(......同感だな)
オーフェンもこっそりと独 りごちていた。
もっとも、別に意味があって言ったことではなかった。単なる出 任 せである。彼女を連れてきたことにすら意味があったわけではない。宿を出かける時にたまたま見かけたので、なんとなく誘 ったというだけである。
彼らがいるのは、温泉街の入り口だった──例の、馬車が入ってくると同時に温泉宿の客寄せが始まる、あの広場である。今はまだ静かで、人の姿も見かけない。
昨日 、彼らが街に着いた頃 とほぼ同じ状 況 である。
時間が来れば、この場所にナッシュウォータからの馬車が到着し、それと同時に、宿から客引きたちが突進してくることになる。オーフェンは空を見上げて時間を計 った。定められたその時間まで、あと数十分というところだろう。大ざっぱな勘 でだが。
「でもさオーフェン、いったいどういう風の吹き回し?」
実際には、少女はあまり気分を害していたというわけでもなかったのだろう──頭に乗せたレキも気持ちよさそうに身体を丸めている。クリーオウはにこにことしながら聞いてきた。
「なにがだ?」
聞き返す。と、彼女は少し肩をコケさせてから、
「決まってるでしょー。昨日あんなにわめいて、もう帰るなんて言ってたのに」
「......まあ、ひとことで言や、気が変わったってことなんだが......」
オーフェンは半分口ごもるような口調でつぶやいてから、言い直した。
「昨日の放火騒 ぎのことは、お前だって知ってるだろ。ほっといて帰るってのも、ちと後味悪いしな」
ごく当たり前のことを言ったつもりだったが、クリーオウは納 得 いかないようだった。意外そうに目をぱちくりさせ、眉 間 にしわを寄せる。
「......あれ、オーフェンの仕 業 じゃなかったの?」
「なんでだっ⁉ 」
世間話のごとく朗 らかに無茶なことを言ってきたクリーオウに、さすがに叫 び返す。が、彼女はやはりそのままの口調で、
「だって、玄関が焦 げててオーフェンがそこにいて──」
ぶつぶつ言ってから、少女は不可解そうに腕組みした。
「あと足 りないものは動機くらいだもの。怪 しいところだわ」
「お前が俺をどう認識してるのかは、だいたい分かった」
オーフェンは半眼でうめき声をあげた。クリーオウの頭上で、脚 の先を噛 んでほぐしているレキをちらりと見てから再び彼女に視線をもどす。
「あーあー。分かってるよ。どーせ俺は、あとさき考えない破 壊 魔 兼ころがり暴走魔なんだろーよ。だが言っとくが、今期に入ってからの『無意味に物を壊 しました記録』では、お前のほうがよっぽどひどいんだからな」
「うっ......!」
なにやら痛いところを突かれたようにクリーオウが少し冷や汗 など流しながら顔を背 けるのを、半分閉じた眼 差 しで追いかける。懐 からメモ帳など取り出してページを開いた。自分の額 に手を当て、くらくらとめまいを覚 えるポーズなど取りながらあとを続ける。
「ほら、記録によれば、俺がたった十九件しか物を壊してないのに対して、お前はなんと二十件なんぞという末 恐ろしい数字を叩 き出してるんだからな」
「......たいして変わんないじゃない」
「馬 鹿 いえっ⁉ お前、十の位が二だぞ⁉ 俺は一! これはもー、十件分の違いと言ってもいいくらいだろーがっ!」
「なんでいーのよっ⁉ 」
クリーオウが、ぱたぱたと腕を振りながら大声をあげてくる。こちらの隙 をついて、さっとメモ帳を引ったくると、
「あー! ほら、なんかおかしいと思ってたのよ。ずるいわよオーフェン。わたしのだけ、お鍋 と鍋の蓋 が別件で記録されてるじゃない! こーいうのって大人 のやり方でひどいっていうかどうしても納得いかないわなんでこんなことできるわけわたしがなんか悪いことした⁉ 」
「あー、じゃあお前なにか⁉ 鍋と鍋の蓋はどこまでもふたつでひとつってか。それぞれ独立したもんだから違う名前がついてるんじゃねえのか。鍋の蓋が鍋じゃねえから鍋の蓋と呼んで、鍋が鍋の蓋じゃねえから鍋と呼ぶんだろーが! 鍋の蓋で大 根 煮 て鍋で蓋ができるかっ⁉ 」
「話が違うわよ! わたしが言いたいのはオーフェンのやり方がこすからいってことで、鍋の蓋と鍋の違いなんてどうでもいいのよ!」
「どうでもいいこたぁねえだろ、お前から振っといて! いいか、鍋作ってる職人も、鍋の蓋作ってる職人も、それぞれ自分のテリトリーを守ってきっと日夜──」
「────!」
「──!」
............

ひとしきり──どれくらいだろう。怒 鳴 りあって、互 いに息が整 わなくなってしばらく。肩を上下させながら、オーフェンはとにかくうめいた。
「......やめよう。不毛だ」
「............そーね......」
とりあえずの同意を得てから、再び空を見上げる。
「それはそれとしてさ」
クリーオウは、もうすっかりけろっとして、こちらの顔をのぞき込むように背伸びしながら言ってきた。
オーフェンは、視線だけで彼女の顔を見返し、
「なんだ?」
「結局、なんなんだか分からないんだけど、昨日 の放火って、なんだったの?」
「そうだなぁ」
オーフェンはうめき声をあげると、説明に相応 しい言葉を探 してみた。
見つかったというべきか──あるいは見つからなかったというべきか。彼はゆっくりと口を開いた。
「......ひとことで言や、馬鹿な犯罪さ」
「なにが?」
すぐに聞き返してきたクリーオウに、オーフェンは改 めて向き直った。肩をすくめて、続ける。
「エリスの話じゃあ、あれはここの温 泉 街 を仕切ってる、ロッツとかいう連中の仕 業 としか思えないらしい──ロッツ・グループの温泉ギャングが、エリスのところの宿を自分の傘 下 に収 めようとして、やたらとしつこく勧 誘 してくるんだとさ。まあエリスたちにそのつもりがないせいで平行線なんだろうが、それに業 を煮やしてその宿に火を点 けたんだとすれば」
と、嘆 息 する。
「馬鹿な犯罪だろ。なんの意味もねえんだから」
「でも、火なんか点けられちゃって、怯 えてそのロッツっていう温泉ギャングに従 っちゃうかも」
「宿が全焼して、従業員と観光客が焼死。さすがにふもとの街 から警察が大 挙 してやってきて、大量殺人の罪で人生のなにもかもおしまいって可能性のほうが高かったと思うぜ」
オーフェンは言いながら、クリーオウの頭をぽんと叩 いた。
「どっちかと言えば、下 っ端 がろくな考えもなしに暴走してあんなことをしでかしたんじゃねえかって気がするな。田舎 のヤクザなんぞ、そんなもんだろ」
「そうなの?」
「知らねえよ。俺は専門家じゃねえんだ。そういうのに詳 しいのは──」
と。
昨日も聞いた鐘 が、また高らかに鳴り響 いた。高い空にどこまでも響く。山にこだまし、街に広がるその鐘の音とともに。街の外、ふもとへと続く山道に遠くから砂ぼこりが起こるのが見えた。昨日とまったく同じ──恐らくはずっと昔から変わらなかったのだろう、その光景は、やはりまったく変わらずに同じ展開を迎 えた。
次々と、馬車が到着する。それと同時に、あちこちの温泉宿から、旗 を持った客引きたちがぞろぞろと姿を見せた。馬車から吐 き出される観光客に、それを取り合う客引きたち。少し離れた場所に立って、オーフェンはただじっと一点を見つめていた。
騒 動 は思ったよりも早く終わった。客も、客引きたちも、みなすぐに宿へと引き上げていく。残されたものは風と砂ぼこり。そして──
オーフェンは、にやりとしながら声をあげた。クリーオウにではなく、もう少し声を遠くまで通らせるように。
「──ギャングに詳しいのは、警察と決まってるのさ」
彼が見つめていた先には。
男が立っていた。あまり品が良いとは言えないダークスーツ。左目の上に傷 跡 の残る、どこか尖 った雰 囲 気 を持った男。その雰囲気にそぐわないのは、右手に持った旗だけだった。旗にはロッツ・ホテルの名が記 してある。
「あ、昨日の人」
クリーオウがつぶやくのが聞こえてくる。
笑みを保ったまま、オーフェンは聞いた──じっとこちらを見つめてきているその男に。
「......さぼりか? さっきから見ていたが、客引きはしてなかったようだな」
「楽しんでおられますかな? まだここにおられるところを見ると、あなたがたにも泊 まれる宿があったらしいですね」
「あんたがロナンとかいう奴 か? 当てずっぽうだが、雰囲気がいかにも だ──元警官って話、聞いたぜ」
その男──実際に当てずっぽうだったのだが、本当にロナンだったのだろう。ぴくり、とその表情にひびが入るのが見て取れた。
が。
すぐにその動 揺 も消えた。男は、なにごともなかったように笑みを浮かべた──口の端をほんの少しだけつり上げて。
「どうして、そんなことを?」
「興 味 本位だよ。ただのな」
オーフェンは背筋を伸ばして男と対 峙 した。
「知ってなかったわけでもないみたいだが、俺は今、森の枝で世話になってる。エリスがあんたのことを話してくれたんでね。ちゃんと会っておきたかったんだ」
「──目上の者に対する口のきき方を知らんようだな、若 造 」
ロナンの口調が滑 るように変わった。ごく自然に、切れ目も感じられないほどに。
その目つきも変わっていた。今までは、ただの......
(ただの、その雰囲気を持った男に過ぎなかった)
オーフェンはその視線を瞳 で受けながら、胸 中 で独 りごちた。
(それが──)
と、見て取る。
ロナンの目は、紛 れもなく元警官のものになっていた。元警官で──現 役 ギャングの。
そのことに多少の驚 きを持ちながら、それでも普通に納 得 しながら、オーフェンは告げた。
「昨日、俺とやり合ったのは、あんたじゃないみたいだな。放火のこと、ちったぁ噂 になってんのか?」
「耳には入っている」
「今 朝 に入ってから身動きできない部下がいるんじゃねえのか? だったら、あんたから言っておいてもらいたいな。二度目はねえぞって」
「ふむ?」
ロナンは、微 妙 に笑みを浮かべただけだった。そして、
「話が見えないが、どうも君は我 々 をなにかの犯罪組 織 のように思っているらしいな。だが勧 誘 を禁じる法律はないと記憶しているし、わたし自身、温泉宿がほかの温泉宿に業務的な提 携 を誘 ったという罪で誰 かを逮 捕 した経験もない」
「勧誘の手段によるさ。あんたらがどう言おうと、訴 えるのは被害者の勝手だ」
「法の擁 護 も利用するようになれば、それは暴力だと思うが?」
「放火に比 べりゃ、なんぼか上品さ」
「............」
そこで、打ち止めのようだった──お互 いに。
オーフェンはもとよりなにか明確な意 図 があって、目の前にいるこの男と話がしたかったわけではないし、相手も言葉を思い浮かべられずにいるらしい。その空気を感じたのだろう。ロナンは、ゆったりと息を吐 いた。大 仰 に両腕を広げ、
「良かろう。分 が悪いようだ──君はあの宿に、用 心 棒 として雇 われた。そう思って構 わないわけか?」
「......だいぶ違うような気もするが、そんなところだろ」
オーフェンはなんとなくそう答えると、ロナンに向けて手を振った。
あとは無言だった。しっかりとした足取りで、ロナンが去っていく。
それを見送って──
完全に相手にもう気 取 られないと確認してから、オーフェンはずるずると肩を滑らせるように落とした。力を抜き、かぶりを振る。
「あー、しんど」
うめいてから、向き直ると──
ずっと静かだったクリーオウが、よほど暇 だったのだろう、さっきのメモ帳になにやら書き込んでいる。
「なにやってやがるっ⁉ 」
オーフェンは、少女の手からさっとメモ帳を取り上げた。
「あー! なにすんのよ!」
クリーオウが、非難の声をあげてくる。
それは無視して、メモ帳を見やる。オーフェンはさらに声をあげた。
「ってお前、なに勝手に書き換 えてやがるんだ⁉ あ、俺が壊 した物リスト、耳掻 きの、ほじるとこと綿 のとこをふたつに分けて書くのはなんぼなんでもインチキだろ⁉ 」
「なによー! 名前が違えば違うんだって、オーフェンが言ったんじゃない!」
「────!」
「──!」
再び、終わりそうにない怒 鳴 り合いを始めながら──
オーフェンは、こっそりと視線だけで振り向いた。ロナンの姿は、もう見えない。
昨日と同じ時刻。同じ場所。
レジボーン温泉郷 。滞在二日目を迎 えたことになる。
◆◇◆◇◆
緑色の壁 ──
流れていく気泡──
弱々しくにじむ光──
光の先にはなにも見えない。
生ぬるい感覚がある。うっすらとひだのある溶 液 の中で、じっと外を見つめている。
意味のない時間が流れる......一年、二年......
わたしはそれに堪 えている。待つことに慣 れることなどない。
見えるはずもない空を見上げることが多くなった。そのまま吸 い込まれていきそうになる。少なくとも想 いはとうにどこかへ去っていった。暗 闇 で空を見つめ、問いかけることがある。なぜこんなことになったのか......
ロナンはかつて、これほど急いで歩いたことはないと自覚していた。
走って、ではない──歩いてである。走ることは論外だった。猛 獣 から走って逃げる者がどこにいる? 本当に危険にさらされた時、人間は走るのではなく歩くのだ。それも、死ぬほど急いで歩く。彼はそう信じていた。
彼が足音を響 かせているのは、廊 下 だった。まだここに来て日は浅いが、それでももうすっかり馴 染 んだロッツ・ホテルの従業員用通路。観光客の目があるところでは、こんな歩き方はできない。たちまち使用人頭 にどやされるだろう。
まして、こんなふうにあわてて独 りごちるなどということは──
「ど、どどどどどういうことだっ⁉ 」
従業員用通路は、さほど長くはない。勝手口から入り、厨 房 をわきに見ながら通り抜け、すぐに従業員部屋に着く。ロッツ・ホテルのほぼすべての従業員がここに寝泊 まりしていた。ロナンもそのひとりである。そして、もうひとり......
「ゴドル!」
自分の部屋の扉 を乱暴に押し開けて、ロナンは声をあげた。
「なんかやたら目つきの悪い、あからさまな悪党面 の若 造 に、ねちねち遠回しに脅 されたぞ⁉ ゴドル、お前、怪 しいとは思ってたが、ホントにあの宿に火なんぞ点 けやがったのか⁉ 」
部屋は乱雑とまではいかないが、人間が生活している程度には散らかっていた。床 にほったらかしにされた着替え、ベッドの上に丸められた毛 布 、へこんだ枕 、机 の上のインク壷 には蓋 がない。
その部屋の奥にある二段ベッドの下の段に、男がひとり毛布にくるまり横たわっている。ロナンはその男を見て、足を止めた。
「おおお起きろぉぉぉぉっ!」
木製のベッドの頭を、げいんと蹴 飛 ばす。弾 けるようにベッドは揺れた。驚 いたのか、男──ゴドルが跳 ね起きる。
「な、なななんですか、いきなり──兄 貴 ⁉ 」
「なにが、なんですかだ、おう!」
げしげしとさらにベッドに靴 のつま先を叩 きつけ、ロナンは相 棒 の顔を鋭 くにらみ据 えた。
「とにかく答えろ! てめ、あの宿の火事騒 ぎ、お前がやったなんてことは──」
と──
そこまで言いかけてから、彼は息を止めた。言葉ではない。息ごと止めた。すっと肺を膨 らませ、そしてくるりときびすを返す。彼はばたばたと開いたままの扉に近づくと、外に頭を出して廊下を見回してから、それを閉じた。ふう、と息をつく。
さらに、かぶりを振った。ありとあらゆる方法で間を取りたい。そう思う。爪 を噛 み手を洗い窓の外を眺 めて靴下を履 き替えそれを洗 濯 し花に水でもやりたい。そう思う。だが──
永遠に間を取り続けるわけにもいかないのだ。そう......思う。
ロナンは、たった今閉じた扉に額 を押しつけた。木の凹 凸 に、額の皮 膚 がへこむ。その扉の表面を撫 でるように指を回して、彼は、小声でつぶやいた。
「な......なぁ、ゴドル。お前は俺 の相棒だな?」
「え、ええ──兄貴」
「俺は誰 だ?」
かすれた声が、裏返りつつあるのが自分でも分かる。
だが相棒は、そんなことには気づかなかったようだった──というか単に無 頓 着 なのかもしれない。陽気に、答えてくる。
「決まってるっスよ。兄貴です!」
「い、いや......そうじゃなくって......その。そうだな。五年前だ。俺は誰だった?」
「はぁ......」
今度は少し考えてから、それでもゴドルはまだ気楽に、
「警察の、偉 い人っス!」
「え、偉かったかな?」
「偉かったですよ! 俺みたいなこそ泥 をいじめたりしなかったっス! 兄貴は偉かったっスよ!」
「ま、まぁな......」
動 悸 がする心臓を押さえるように両手で胸を包 みながら、きりきりとどこかで響 く不協和音に顔をしかめる。苦痛の中で、ロナンはうめいた。
「お、お前は、スリの常習犯っつっても、肝 っ玉が小さいのか盗 む額も小 銭 程度だし、いちいちしょっ引くのも面 倒 だったし、どうせ俺くらいの年齢になって三等官のままじゃ、いくら小さいポイント稼 いだところで昇進できるわけでもねぇしよ......」
「そんなことないっスよ! 兄貴は心が広いんです!」
「あ、ありがとうよ。まあ、なんにしろ──ええと、聞きたいんだけどよ。お前は、俺には嘘 はつかないよな?」
「もちろんです!」
「な、なら、ちゃんと話してくれるよな。お前、昨日の夜、部屋にいなかったろ。どこに......行ってた?」
「仕事っス!」
自信たっぷりに断言する相棒の声に、さらにきりきりとなにかが音を立てる......
だがなんにしろ、ゴドルは続けて言ってきた。
「社長に、昨日、怒られたじゃないっスか! まあ、俺はいいんですけど、兄貴のことを怒 鳴 るなんて......兄貴は偉いってのに! それで、俺、ここは俺が頑 張 って兄貴の仕事を楽にしようと思ったんです!」
「へ、へぇぇぇ、そ──それで?」
きりきりきりきりきりきりきり......
ここまで来ると、その音が自分の胃から発せられていることは疑いなかった──そしてそれを悟 ると、ねじれるような痛みが同じ場所から広がっていくのも感じるようになる。
その音は、ゴドルの声にあまりにもハーモニックにマッチしていた。
「だいたい悪いのは、あのアマです! 兄貴が何度も足を運んでるってのに、生 意 気 なことばっかりぬかしやがって! うちの婆 ちゃんにそっくりっス! んで、俺、思いついたんスよ! ああいうのを言うこと聞かせるには、どうしたらいいのか!」
「ほほ......おう」
「これはすごいっスよ! 兄貴もびっくりっス! なんていうか、とにかく驚 かしてやりゃあいいんですよ、ああいうのは! で、俺、夜中にあの宿に行ったっスよ、油持って。兄貴もびっくりっしょ?」
「はぁ」
「それでそれで、俺、あの腐 れ宿の玄関に油まいてやったです!」
「くっ......」
跳 ねるように、胃袋がきしむ。
ゴドルの声は、朗 らかに響 いた。
「それで火を点 けてやろうとしたんスけど、そしたら、なんか空から、変な男が落っこちてきやがって──」
「ぐぐぐ......」
「なんか、黒ずくめの目つきの悪い奴 で、俺もとりあえず逃げなきゃと思うくらい怖 ぇ顔してるんスよ! でも、追いつかれそうになったんで、こりゃあやっちまえって思ったんスけど、いやぁ、そしたら、そいつ、これがまた滅 法 強くて、ひでぇ目に......」
「ぐがぁぁぁぁぁぁっ!」
たまらずに、ロナンは大声をあげた──いや、悲 鳴 だったのかもしれない。自分でも分からない、ひたすらに大きな声をほとばしらせて、彼は両手で頭を抱 えた。涙 がこぼれるのを自覚しつつ、振り返る。ベッドに腰かけにこにこと話しているゴドルに向けて、彼はびしと指をむけた。
「おおおおおおおおお──」
「あ、兄貴、熱血っスね⁉ 」
「違うっ! おおおおお前、よくぞ言った、というわけで、直立!」
「はいっ!」
素 早 く、びしと立ち上がって気をつけの姿 勢 を取るゴドル。ロナンは続けて叫 んだ。
「腕を組めっ!」
「はいっ!」
「歯ぁ食いしばれ!」
「は(いっ!)」
はいの後半は、歯をくいしばったために声には出てこない。
「あごを引け!」
「はいっ!」
「どりゃあああああっ!」
ごぎん、と全力で、ゴドルを殴 り倒す。派 手 に倒れてからすぐに起きあがり、ゴドルは血 塗 れになった口をぱくぱくさせて大声をあげた。
「な、殴ったっスか、殴ったっスか兄貴⁉ 」
「ああ殴った!」
「殴ったんスね、しかもあごを引いた時に、はいって言ったから、口の中めちゃくちゃ切ったっスよ!」
「ああ分かった、次からはあごを引いてから歯を食いしばれ!」
ロナンはひとしきり叫んでから、
「お前はどーしてそう、致 命 的 なことを限りなくスムーズにやらかすんだ⁉ 」
「や、やばかったんスか? やばかったんスか⁉ 」
「やばすぎるわぁぁぁっ!」
「な──なにがやばかったんスか?」
「放火は犯罪だろーがぁぁぁぁっ! 犯罪を犯 してどーするっ!」
全力で叫ぶ。が、ゴドルは目をぱちくりさせて身体 を退 いた──心底驚いたというように。
「え、毎日ほかの宿に押し掛けて、なんか怖い顔して『言うこと聞け〜』って脅 すのは、犯罪じゃなかったんスか⁉ 」
「犯罪なわけなかろーがっ! 犯罪かっ⁉ 犯罪と思うのか⁉ どーこが犯罪だっ! 言ってみろどーこが犯罪だっ!」
まくし立ててから──言葉を止める。息をついた。いったん声が途 切 れると、ふと脳 裏 に冷たいものが走る。大きく身 震 いして、ロナンはうめいた。
「お、お前......この馬 鹿 、このことが社長に知れたら......あの人は本気でギャングだ。どんな目にあわされるか......」
「どんな目っスか? どんな目っスか⁉ 」
「待て!」
ロナンは、ゴドルを制止して目を閉じた。耳を澄 まして、そして──
「ゴドル......聞こえてこないか? ほら」
「なにがっスか?」
「ざわざわと、こう。なんかざわざわと!」
「ざわざわっスか⁉ 」
「ああ、きっとあれだ。総毛立つ音だ。聞こえるもんなんだなぁ......」
しみじみとした感動など覚 えつつ、つぶやく。目を開けると、ゴドルも、うんうんとうなずいているところだった。
ロナンは、静かに指を一本立てた。
「どんな目にあわされるか。それはな」
びくっ、とゴドルが怖 じ気 づいたように震えを見せる。ロナンは身を乗り出して続けた。
「きっと......すごいことになる」
「すごいんスか?」
「具体的に言うとだ、ひどいことになるってことだ」
「すんごく具体的っスね!」
「つまりはお前はしょーもないことしでかしてくれたおかげで俺もとばっちりっつーかそれどころかもー当事者ばりばり扱 いですごいことやらひどいことになるわけでこの怒 りはどーすればお前に伝わるんだそーかこれかどりゃあああああっ!」
ごぎん、と再びゴドルをはり倒す。
さっきよりもさらに血を噴 き出しながら、ゴドルはすぐさま起きあがってきた。
「殴ったっスか、また殴ったっスか⁉ 」
「ああもう何度でも殴る! 話が終わるまでにあと何回か殴って終わったあとにさらに一回殴る!」
「な、殴り過ぎってことないスか⁉ 」
「ないっ! 断じてないっ! 今俺がお前を殺さない理由はふたつ! ひとつは殺すと犯罪だから!」
「法律ってありがたいっス!」
「あと、お前が今死んだら、あとで社長に呼び出しくらうのが俺ひとりになるからだ!」
そして──
唐 突 に、ぷつりと感情が途切れる。
ロナンは、はぁと小さく吐 息 した。こめかみを押さえて、ひかえめにかぶりを振る。と、ゴドルが不安そうに聞いてきた。
「ええと......兄貴、もうどうしようもないっスか?」
見やる。
なにか、よくは分からない心持ちで、ロナンはめまいを覚えた。どう表現すればいいのだろう──特に表現しなければならない義理があるのかどうかは分からないが。ロナンはそんなことを独 りごちながらも、ゆっくりと考えていた。これはなんなのだろう。
多分、友情というのはこういうものなのだろう。かなりの確 率 で。
そしてそれと同じくらいの確率で深い絶望と思えるものを感じながら、ロナンはうめいた。
「い、いや、なんとか手は打っておいた──打っておけた......と思う。多分」
「なにをしたんスか?」
期待に満ちた眼 差 しで、ゴドルが聞いてくる。ロナンはうなずいた。
「ああ、昔からの得 意 技 で、相手をビビらせておいたんだ」
「兄貴の得意技? って、なんです?」
「ハッタリだ」
「役に立つんスか⁉ 」
「だから、多分と言っただろーがっ!」
叫 ぶ。と──
「ほほぉう......」
その声は、本当に唐突に部屋の中に響 いた。
前 触 れもない。予告もない。ただその時点からひょっこり生 えてきたように。
その声が聞こえてきたほうへと、顔を向ける。──
一度目は、外 れだった。扉 は閉じたままで、誰もいない。
二度目も、また外れだった。窓にも誰の姿もない。
そして、三度目。
なにかだまされるような気持ちで、ロナンとゴドルは同時に天 井 を見上げた。
声は、続く。
「なるほど。だいたいの経 緯 は呑 み込めたぞ。こーしてささやかな幸せを、夏も黒ずくめ非常識魔術士に無 惨 にも食い破られる哀 れな弱者がやたらめったらいやがりまくる中、英 雄 ボルカノ・ボルカン様にたまたま通りがかってもらった者などとゆーものは実に運命的にラッキーと言わざるを得まい」
「............」
「............」
なんだろうこれは。
大いなるただひとつの疑問。腕組みし、ふんぞり返るそれ。
なにやら自信たっぷりに、こちらを見下ろしている。天井に足をつけ、逆 さ吊 りになってこちらを見下ろしてきている。ずっとそこにいたらしいのだが、背が小さいため視界に入っていなかったのだ。
それがなんなのか、ロナンには分からなかった。そして、
(想像力なんて嫌 いだ......)
そんなことを独りごちる。
分かりはしない。だが想像はつく。これは──
(幽 ......霊 ?)
はたり、とそこで、ロナンの意識は暗転した。
◆◇◆◇◆
魔術は放置すれば必ず暴走する。だから放置しておいてはならない。
それはつまり、制 御 することである。
程度の差こそあれ、魔術士が優先するのはまずこのことである──魔術を制御すること。
制御されていない力は、たとえどれほど強大であったとしても意味がない。それは魔術に限ったことではなく、感情、意志、欲求、いかなることでも制御されていなければならないと魔術士は考える。

のだが......
「............」
オーフェンはため息とともに独りごちた。
「これはどう判断すればいいんだろうな」
その独り言が聞こえたのだろう──じっと真剣な面 持 ちで構 えていたマジクが、さっとこちらを向いてきた。
「なにがですか?」
と、少年の周 りに見えていた魔術の構成が、さっと霧 散 する。
構成。
魔術は構成なくしては力として実在できない。構成されていない魔術は、まったくの無である。魔術がまったくなにもないところから力を引き出しているように見えるのはそのためだった。正確には、魔術は存在している のである──ただし、構成されない限り完全な無でいられる。
魔術士とは、その実在していない魔術を感知し、そしてそれを構成して実在に転じさせる能力を持つ者と言える。そんなことは、魔術士であれば誰 でも知っていた。いや、理解できるはずだった。理解できなければ、魔術は扱 えない。
構成された魔術は、本来の世界とすり替わってしまうほどに圧 倒 的な実在性を持っている。オーフェンが少年の周囲に見ていたのは、そういったものだった。マジクがイメージし、空間に投射していた魔術の構成である。この構成を見れば、実際に魔術を発動させなくとも、その魔術の効果は理解できる。もっとも、術者の練度によっては、他者が見ても瞬 時 には理解できないほど複雑な構成を編 むこともできるが。
そこはペンション・森の枝の裏庭だった。荒れ果てるがままにされた、しかもさほど広いとも言えない空 き地で、マジクの練習を見ていたのだが......
オーフェンは、ぼんやりとうめいた。
「一種の才能と言えるのかもしんねえな。お前どうして、自分の最大威 力 をためらいもなしに出せるんだ?」
「は?」
理解できなかったのか、マジクが聞き返してくる。オーフェンはしばし考えてから言い直した。
「構成を見ていれば、お前が自分の持ってる力のほぼ百パーセントを放出しようとしているのは分かるんだ。そのこと自体は別に、難 しいことでもなんでもない──誰にだってできる。ただ普通はためらうものなんだ」
「......はぁ」
生返事を返してくるマジクに、オーフェンはさらにため息をついた。どう言えば理解してくれるのだろうかと、思わず眉 間 にしわが寄るのに気づく。
「お前にだって分かってないわけじゃねえんだろうけどな、マジク。魔術ってのは本来、危険なものだ。言うまでもない──人間が生 身 で扱 うのには、ちと威力がでかすぎる。ほんの少し制 御 を誤 るだけで、命を落としかねない。どんなに熟 達 した術者にだって、恐 怖 は残るんだよ。いや逆に、恐怖を持てないような人間は、熟達するほど長生きできないってほうが正確かな。なのにお前って奴 は、あっけらかんと自分の生命線ぎりぎりのところに威力を設定しちまうんだな」
「......ぼく、怒られてるんですか?」
「いや、もうただ単に理解できないってだけだ」
オーフェンはかぶりを振ってそう告げた。と、マジクが少し口を尖 らせて反論してくる──
「でもお師様だって、結 構 つまらないことに魔術を使ったりするじゃないですか。あんまり危険を感じてるようには見えないですよ」
「いや、危険は感じてる。だから威力をセーブしてるんだ」
そう言いながら、さっと手を振る。もう意識せずにも組み上げることのできる構成。一瞬で思い浮かべ、一瞬で消すことができる。マジクにも当然見えただろうが、少年にはその構成を理解することはできなかったようで、目をぱちくりさせていた。
さらに嘆 息 が漏 れる。
「ようするに、失敗してもなんとかフォローできる範 囲 にな。俺が理解できないってのは、そういうことだ──お前の構成を見てると、自爆特 攻 兵を教育してる気分になるよ。最大威力、渾 身 の力で放 つ一撃が必要になることだって、確かにある。が、それはその時以外には決してしてはいけないんだ。余 力 も残さずに放った一撃が失敗して、バックファイアが自分に襲 いかかってきたら、お前どうやって身を守るつもりなんだ? 全身黒こげになった時、その火傷 を治 癒 する余力が残ってなければ、救われようもねえだろが。いつもいつも俺がそばにいて助けてやれるとは限らねえんだぞ」
「じゃあ......どうすればいいんですか?」
「そうだなぁ......」
オーフェンはなんとなく困 って、視線を上げた。どう説明してやればいいものか、うまい言葉が浮かばない。たったひとつ思いついたことは、これだけだった。
「──賢 くなれ、ってとこかな」
「どーなの?」
「......なにがだ?」
裏庭の出口に、クリーオウが立っていたのには気づいていた──が、なんのために彼女がそこにいるのかは、正 直 分からなかった。
いつものようにレキを頭に乗せて、裏庭でまだいろいろと構成を編んで試 行 錯 誤 しているマジクを見やっている。マジクはなにやらしかめ面 で、わざわざポーズまでつけて次々と無 駄 な構成を編んでは消している。中には、消そうとするまでもなく維 持 できずに消失しているものもあるようだったが。
オーフェンは、少女を見下ろし、次の言葉を待った。クリーオウは指を伸ばしてマジクを指さし、
「うーん。なんかこのところ、あいつ、熱心に練習ばっかりしてるじゃない。上 達 とか、はたから見てても分からないし、オーフェンに聞けば分かるかと思って」
「上達ねぇ......」
下 唇 をへの字に押し上げて、オーフェンは頭をかいた。きょとんとこちらを見上げているクリーオウの頭をぽんと叩 き、
「ちょっと来い」
「?」
疑問符を浮かべるクリーオウの背中を押して、オーフェンは裏庭から出て宿の正面のほうへと回った。
「なぁに?」
聞いてくるクリーオウに──
オーフェンは足を止めて、眉 間 にしわを寄せた。
「なぁ、クリーオウ」
「うん」
「あいつの母親って、会ったことあるか?」
「あるわよ」
あっさりと、彼女がうなずいてくる。
オーフェンはあたりを見回した──マジクの気 配 はない。当たり前ではあったが、なんとなく確認しておきたかった。そして、聞く。
「どんな人だ?」
「......オーフェン......」
クリーオウの反応は、予想に反するものではあった。表情を一気に疑わしげに曇 らせると、
「なんか多分、年上の女の人に妙 な思い入れあるんだろーなーとは思ってたけど、ちょっと範 囲 が広すぎない?」
「なんの話だ⁉ 」
思わず怒 鳴 り声をあげてから、咳 払 いする。なにやら敬遠するような視線でこちらを見ているクリーオウに、
「俺はな、あいつの素 養 の提供主 がどんな人間だったんだか、気になってたんだよ。あいつの母親。魔術士だったはずだな?」
「そんなこと言われても......」
金 髪 の上で器用にバランスを取って、ころりと腹を見せるレキとは裏腹に、気むずかしく顔をしかめてクリーオウがうめいた。口元に手を当てて、
「魔術士だとか、そんなこと言ってなかったわよ。普通のお母さんだったわ。あんな山の中に住んでるのはちょっとヘンだけど。お猿さんと仲いいみたい」
「......そーなのか?」
「うん。で、生肉のサラダとか食べてた」
「あんまり参考になりそうにねぇな」
つぶやいて、腕組みする。少し上を見上げると、修復された宿の看 板 が視界に入った。空は晴れている。
「どうも、あいつ、俺と知り合う前になにかの形で魔術の使い方を習 ってたんじゃねえかと──それも正 規 じゃない......いやまあ、どうでもいいか」
「正規だとか正規じゃないとか、見ればすぐ分かるの?」
「............」
気楽に聞いてくるクリーオウに、オーフェンは半眼を向けた。
「あのなお前。自分で言うのもなんだが、これでも俺はこの大陸で一番スタンダードな魔術士訓練を受けてたんだぞ」
「平 凡 な訓練?」
「......普通、斬 新 な訓練とか受けたくないと思うぞ」
えー、とクリーオウが意外そうに声をあげる。
「わたし、天 井 からつるした丸太を揺らして木剣でそれを迎 え撃ったりとか、生卵を剣の上でバランス取ったりとか、そーゆう特訓したわよ」
「だからへたくそなんだよ」
「あー、ひどーい!」
わめくクリーオウのことは無視して──
オーフェンは、身体 の向きを変えた。とりあえず宿に入って休もうと、玄関へと向かおうとする。と。
「......あれ?」
彼はふと足を止めた。
「誰だ? こんなとこにゴミ捨 てたのは」
「え? あ、ひどーい。また昨日 の放火みたいな嫌 がらせかしら」
また口元に手を当てて、同じせりふを繰 り返したクリーオウがうめくのが聞こえる。オーフェンは一瞬あのロナンとかいう男の顔を思い浮かべた。嫌がらせ。
(いや......)
彼はかぶりを振った。
「違うだろ。奴 はプロだ。そこいらのちんぴらとは違う雰 囲 気 があったからな。あれは絶対に偽 物 じゃねえ──今さらこんなつまらんいたずらをするとは思えんし」
と、きょとんと首を傾 げて、クリーオウが聞いてくる。
「さっきの人のこと?」
「ああ。元警官とかいう話だったな。派 遣 警察っつったら、大陸司法の実行部隊としちゃ最 精 鋭 だ。ただの馬 鹿 がおいそれと......なれる......ような......もんじゃ......」
「......なんで口ごもるの?」
「いや気にするな。話すと長くなる」
深いめまいを感じながら、手を振って会話を止めておく。
だがその間に、クリーオウが別のことに気づいたようだった。
「ねえ......」
と、玄関前に置かれた泥 だらけのゴミを指さして、
「これ、ゴミじゃないんじゃない?」
「......え?」
「だって、手があるもの」
「手......って......」
言われてみて、改 めて観察する。
それは一見して、ぼろ切れの塊 に見えた。ひどく泥だらけに汚れている。大きさは、抱 えて抱えられないこともないだろうが、かなり大きい。それに重そうだった。見方によっては、なにかをぼろ布でくるんで捨てたように見える。実際オーフェンはゴミだと思っていた。が、確かに──布の下から、丸っこい指がのぞいている。どこか見 覚 えのある指の形。
よく見れば、泥で汚れて布の一部かと思ったが、ぼさぼさの頭にも見覚えがあった。
よく見れば、外 れかけている分 厚 い眼鏡 にも見覚えがある。
よく見れば、ぼろ布だと思っていた毛皮のマントは疑うべくもなかった。
「......地 人 じゃないの? これ」
言わずもがなのことを、クリーオウがつぶやく。そして。
「────⁉ 」
オーフェンは、はっとしてその地人──ドーチンの身体の下をのぞき込んだ。なにかを抱いている。細長い、金属製のなにか。うつぶせに倒れているドーチンを仰 向 けにしてやって、完全に気絶しているらしい彼がなにやら大事そうに抱えているものを取り上げる。それは、剣だった。
短剣。やはり泥で汚れているが、銀製の刃はまだ金属の光 沢 を失っていない。これにも明確な見覚えがあった。
「これ......俺の剣だぞ? しかし、ひでぇなこりゃ」
刀身は途中で、なにかとんでもなく固い物に打ち付けたようにひしゃげている。刃もいくらかは潰 れているようだった。刃身が歪 んだのはほうっておけば勝手に直るだろうが、潰れた刃は研 ぎに出さなければどうしようもない。
「この子、どうしたのかしら......」
さすがに心配そうに、クリーオウがドーチンの横にしゃがんで、顔の泥を取ってやっている。頭の上のレキが小首を傾 げるようにしていた。
剣を指で叩 きながら、オーフェンはつぶやいた。
「昨日 、崖 下に落っことして......ようやく這 い上がってきた......のかなぁ? にしても、なんで俺の剣なんか持ってるんだ、こいつ?」
「その剣は、どうしたの?」
「昨日なくした俺の荷物の中に入れてあったんだけどな。こいつらが拾 ったんだとしても、鞄 をなくしたのは、こいつらを崖下に投げたあとだったし──どうもつじつまが合わねえな」
ドーチンはぐったりとはしているが、呼吸は整 っているようだった。目立った外傷もない。
ハンカチで顔をふいてやっていたクリーオウが顔を上げて言ってくる。
「中に運び込んだほうがいいんじゃない?」
「そうだな。というか、最初に風 呂 場 か。きれいにしてやらんと、擦 り傷なんかはあるみたいだし......なんか汚れてもいい毛 布 かなにかを持ってきてくれよ。それでくるんで運ぼう。急がなくてもいいみたいだし、わざわざ抱えて俺たちまで汚れる必要もないだろ」
「そうね」
クリーオウが立ち上がり、ぱたぱたと宿の中へ入っていく。ひとり残されてオーフェンは、ほおをかいて独 りごちた。
「なんなんだかな......こいつら、なんでまたこんな──」
と、違 和 感に気づく。
(あれ......?)
あたりを見回す。自分の根 本 的な間違いに思い当たり、オーフェンはさらに首を傾げた。ごく当たり前のように、こいつら と思っていたが......
(かたっぽしかいねぇじゃねえか)
ボルカンの姿が見えない。
それに気づくのと同時だった。
「うう......ん」
ドーチンが、うわごとのような声を漏 らしている。
「意識がもどったか?」
オーフェンはうめくドーチンの横に身を屈 めて、問いかけた。が、反応はない。本当にただのうわごとらしい。
うなされるような、声。
「............ろし......」
「ろし?」
聞き返す。それにも応 えてくることなく、ドーチンは再び沈 黙 したようだった。汗 をかいている気 配 はないが、かなり衰 弱 している。もっとも意識がないのでは、食事をさせることもできないだろうが。
オーフェンはまた、銀の短剣を見やった。歪 んで壊 れた鋭い刃 。
「分かんねぇことだらけだな、この街 は。東部は魔 境 ──ホントかもしんねぇな」
と、声に出して独りごちた頃 、クリーオウが、毛布を持って宿から出てきた。
小柄な女といっしょにである。一瞬オーフェンは、それがエリスかと思った──が、違う。エリスの母親だった。名前は......そういえばまだ聞いていない。どうでもいいと言えばどうでもいいことではあったが。
なんとなく無言で、ふたりを見る。クリーオウはぱたぱたと駆 け寄ってくると、聞いてもいないことをしゃべりはじめた。
「あ、オーフェン。早かったでしょ。ええとね、ほら。シーナが、ちょうどいらない毛布用意してたところだったのよ」
「シーナ......?」
聞き返してから、思いつく。無表情に、こちらの横を通り過ぎてドーチンを見に行っている、エリスによく似 た、この母親のことだろう。
「ふん......」
倒れている地人を見るなり、シーナは嘆 息 ともほかのなにともつかないような音を立てた。
「疲れとるようだね。せっかく掃 除 したばっかりだってのに、また風呂場を汚さにゃならんとはね、仕事ってのはなくならないもんだよ」
ぶつぶつと毒づきながら、手 際 よく、ドーチンの身体を毛布にくるんでいく。
そして、肩越 しにこちらを見ると、
「......手伝わん気かい?」
「あ、いや......はい」
オーフェンは、あわてて前に出た。クリーオウも背 後 から、顔だけ突っ込むように身を乗り出している。
地人は身体が小さいわりに、極端に重い──オーフェンとシーナ、クリーオウの三人がかりであれ、抱 え上げるのは大仕事だった。辟 易 しながらも、一番重い上半身を受け持つ。シーナとクリーオウは、片足ずつである。力の入っていない地人の身体は、どう抱えようとくにゃりと曲がってこちらが運ぶことに抗議しているようでもあった。ふらふらしながら、それでも重心をなんとか抱え上げようと、前に出る。と......
「?」
オーフェンはふと、シーナの首に視線を触 れさせた。襟 の奥。大作業のせいか少し開いて、中がのぞいている。一瞬のことでよくは分からなかったが、かなり大きな火傷 の痕 が見えた。
さっと──その視線に気づいたせいかどうか分からないが、ドーチンを抱えたまま、シーナがすぐに服装を正 した。聞くわけにもいかず、なんとなく、そのままドーチンを運ぶ作業に集中する。クリーオウが聞こえない程度の声でなにやら毒づくのが聞こえた。どうも、こんな時にこの場にいないマジクのことを罵 ったようだったが。
分からないことだらけ。この街は。
自分の言ったことを繰 り返し、オーフェンは、小さくため息をついた。
しびれるように熱い。
刺すように冷たい。
熱はあの人の死因であり──
氷は死の国の風なのだから。
あの人と同じようにそれを味わう。かつてはなにもかも分け合ったのだから。
後 悔 はしている。無論、だから歌うことがある。
「冷たいこの山に埋 めてはいけない。
あなたの亡 骸 を埋めてはいけない......」
◆◇◆◇◆
「問題は、ここがどこだか分からないということだと思わないかね? ノサップ研究員」
「はあ」
慣 れた生返事を返しつつ、ノサップはやはり見慣れた相手を見つめた。決して慣れたくなかった相手──だと今なら断言できる──その男。研究員長であるコンラッドは、正 直 なところ、研究者としても単なる上司としても、決して有能な男とは言えなかっただろう。友人としてもと言えなくもなかったかもしれないが、これはさほど重要なことではなかった。友人だと思ったことは一度もないのだから。
問題は 、ここがどこだか分からないということだ 。
名言だ、と皮肉たっぷりにノサップは毒づいた。
そこは奇 妙 な部屋だった。なにが奇妙なのかといえば、へやの中央に寝台があり、この石造りの寝台が床 に据 え付けになっていることだった。
「これが奇妙なのだよ、ノサップ研究員」
コンラッドは大 仰 に手を振りながら、そう言った。
「部屋の中央にベッドがある! しかも動かせない! ここまで徹 底 して模 様 替えを敬遠する精神とは、いったいなんだと思うね? これは猟 奇 と言っても差し支 えない。いやはや、我 々 はまさに、未知と遭 遇 しているわけだ」
寝台は、どちらかと言えば、ベッドではなく、単に床が長方形にせり上がっただけのものと表現したほうが、その〝精神〟──だかなんだか知らないが──を伝えられるのかもしれない、とノサップは考えた。部屋の壁 はすべて緑色。無論、床も、床と一体化しているこの寝台もである。
(問題は、ここがどこだか分からないってことだ──)
ノサップは胸 中 で繰 り返した。そして問題は、なんで自分たちがここにいるのか、どこが出口なのか、どうすれば出ていけるのか、そして──
ぞっとしながら、付け加える。
(......そして、俺 は死んだはずじゃなかったのか......?)
問題はいくらでもあった。周 りにあるすべてが問題とも言える。
ここはどこだ?──分からない。
なんで自分たちはここにいる?──ここがどこだかも分からないのに? 分かるはずもない。
出口は?──部屋には戸口がある。扉 もない出口だ。だが出口というのは、知っている場所、例 えば故 郷 につながっていて初めて出口だ。またもうひとつの未知の場所につながっている出口は、出口とは言えない。
自分は死んだはずではなかったのか?──生きていることを感 謝 しよう。
「......ここが死後の世界ってんじゃないならの話だけどな......」
「なにか言ったかね? ノサップ研究員」
「いいえ」
ノサップは相変わらずの生返事を返しながら、忙 しなく部屋の中を歩き回って騒いでいるコンラッドを眺 めていた。
◆◇◆◇◆
「う〜ん......ろし......ろし......」
それがうわごとだった。
「ろし」
なんの意味も含 めない、ただの音といった口調で、クリーオウがそれを繰り返す。
ドーチンに外傷は──木の枝やらなにやらに引っかけたものらしい擦 り傷などを除けば、特に見受けられなかった。とりあえず空 いている客室のベッドに寝かしつけたのだが、ただひたすらにうなされている様 子 で、意識ももどりそうにない。
「ろ紙?」
なんとなくつられて、オーフェンはつぶやいた。部屋の入り口に立ち、少し遠目にベッドの上のドーチンを眺めている。
「路地?」
さらにつれられてつぶやいたのは、マジクだった。すぐ隣 で、きょとんとしている。
「これはきっと──」
ぐっ、と拳 を握 り、クリーオウ。
「路地裏にある老人ホームの路 床 をロジカルに露 出 不足で」
「いや分からんからやめとけ。そのへんで」
とりあえず、オーフェンは手で制した。クリーオウが、不服の声をあげる。
「えー。あと、ローションとかロボトミーとかいろいろあったのに」
「最後のは強 引 過ぎると思うけど......」
と、これはマジク。
ふぅ、と嘆 息 の音が響 く。見やると、エリスだった。どこかよそよそしく──といっても今までと変わったというわけでもなかったが──、うなされているドーチンを見つめている。彼女はこちらの視線に気づくと、視線を上げて見返してきた。
「......知り合いなの?」
聞いてくる。オーフェンは曖 昧 にうなずいた。
「あー......まあ、そうだな。知り合いだけど」
「なにがあったのかしら」
脂 汗 を浮かべ、首を左右に振ってうわごとを繰り返すドーチンを見ながら、彼女がつぶやく。オーフェンは、目を閉じて、落ち着いて答えた。
「最後、崖 下に投げ込んだのは覚 えてるんだが」
「そうよね。ごく普通の別れ方よね」
「そーなの......?」
同調するクリーオウとこちらとを見 比 べるようにしながら、エリスがどこか呆 れたように言う。彼女は、ドーチンが着ていた毛皮のマントを広げてみせた。乾 いた泥 が、ぱらぱらと落ちる。
汚れたマントの真ん中に──引き裂 かれたような穴が開いていた。
「なんだか、尋 常 じゃない雰 囲 気 なんだけど......」
「う〜ん......」
オーフェンはうなると、天 井 を見上げた。尋常ではない雰囲気。そうかもしれない。
刹 那 。
本当に、瞬 間 だった。ただ一単位だけの時間。感覚が切り取ることのできる最小のワンカット。ベッドのドーチンが、飛び上がったのである。
それは紛 れもなく飛び上がってきた──ばっと跳 ね起き、そしてこちらをにらみつけてくると、突然駆 け出す!
「うわあああああああっ!」
声をあげたのは、ドーチンだった。寝ているドーチンの眼鏡 を外 すべきでないと主張したのはクリーオウである──特に意味はないのだろうが──だがそのおかげで、眼鏡の奥の表情は見えない。あまりのことにオーフェンが身 構 えることもできないうちに、ドーチンはそのまま部屋を横切って突進してきた。
「人殺しぃぃぃぃぃっ!」
なんとなく、悪いとは思いつつも──
オーフェンは、さっと横に避 けた。勢 いづいたまま横を通り過ぎていったドーチンが、真正面から壁 に激突する。すさまじい衝 突 音と、少なくとも構造材がめり込んだ、みしっという音。土台のどこかが揺れたのか、足下に振動を感じたような気もした。
ほとんど大の字に壁に張り付いたドーチンに、オーフェンは恐る恐る手を伸ばした。
「お、おい......?」
みな、呆 気 にとられてなにもできない。
そんな中で、ドーチンはなにごともなかったかのように、ぐるりと振り返ってきた。割れた額 と鼻血とで顔面を血 塗 れにして、低くうなり声をあげているのが聞こえてくる。
「この、人殺しぃぃぃぃぃ......」
「え〜と......」
オーフェンは困 惑 を覚えながら手を振った。
「なんのことやら話が見えんのだが」
と、うめいていると──
ふと、クリーオウとマジク、そしてついでにエリスの表情が目に入った。いつの間にか三人固まって、なにやらひそひそ話をしている。
「なにを殺したのかしら──」
「あの子が持ってたナイフ、オーフェンのものらしいわよ」
「お師様の凶 器 ......なくしたふりをして、ぼくたちまで欺 いていたってことも」
「なにを脈 絡 なく信じる方向に動いているんだ、お前らっ⁉ 」
オーフェンは、びしと指をさして叫 び声をあげた。すぐさまドーチンに向き直ると、
「お前も、いきなり不吉なこと言いやがって!」
「人殺しを人殺しと言ってなにが悪いんですっ!」
だが、ドーチンはきっぱりと反論してきた。流れる血をぬぐいもしないため、思わず後ずさりするほどの形 相 で、続ける。
「あなたが、毎回毎回、お気楽にやってくれたことのせいで、とうとう──いつか、こういう日が来るとは思ってたんです!」
血に涙 が混じった。まだらになった顔で、じわじわと近づいてくる。
「うう......兄さんが......兄さんが!」
「にい──?」
オーフェンは、きょとんと聞き返した。
場の空気が、凍 り付く。
意識が白く、鈍 感 に変化していく。オーフェンは、ゆっくりと言い直した。
「ええと......ドーチン」
「なんですか?」
厳 しく聞き返しながら、近づいてくることはやめない。オーフェンは後ずさりしてそれを避 けようとすることをもうやめていたが。
「あのな、一応確認しておきたいんだが......」
「ええ」

「つまりお前は、あのボルカンが死んだって言いたいのか?」
「そうですよ!」
だん! とその場で床 を蹴 って、ドーチンが声を荒らげる。
「あなたがぼくらを崖 なんかから突き落としたせいで、全部めちゃくちゃだ! さんざん逃げ回ったあげく、兄さんが......兄さんが、あんなことに!」
「............」
はたり──と、あげていた手を落として。
オーフェンは、すっと表情が消えるのを自覚した。無表情のまま、くるりとクリーオウ、マジクのほうを見やる。
ふたりとも、自分と同じような表情だった。目を点にして、ほおから力がなくなっている。
「マジク」
「はい」
「......お前、トレーニングの途中だったろ。続きちゃんとやれ」
「はい」
淡 々 と返事して、マジクが部屋からぱたぱたと出ていく。拳 を握 りしめていたドーチンが、目をぱちくりさせながらそれを見送るのが見えた。
「あの......」
少し拍 子 抜けしたように声をあげているが、それは無視してオーフェンは、クリーオウに向き直った。
「クリーオウ」
「うん」
「マジクの奴 がさぼらないか、見ていてやってくれ」
「うん」
これもまた淡々と返事して、頭で寝ているレキが起きないほどに首を上下させずに、すーっと歩いてクリーオウがマジクのあとを追おうとする。と──
「ちょっとちょっと!」
ドーチンの非難の声が、部屋に響 いた。
「なんなんです、なんなんですかこの反応は!」
「いや、だってお前──」
オーフェンは半眼で彼に答えた。
「なにを言い出すのかと思えば、あの福ダヌキが死んだとか、わけの分からんこと言われても......」
「なんかぼくらのこと勘 違 いしてませんっ⁉ 」
さらに語気を強めて、ドーチンは叫んできた。
「なんかぼくらのこと、絶対死なないとか、勝手に思いこんでるでしょう!」
「だってそーじゃん」
「そーじゃないですっ!」
わたわたとドーチンは、あわてているように手を振りながら、
「ぼくははっきり見たんですよ! なんかあの崖の下で、猿 みたいなのに追いかけ回されて、それで、兄さんの首、首が......」
「......騒 がしいね、まったく」
いきなり話を遮 って、別の声が入り込んでくる。見やると戸口に、水とタオルの入った洗面器をもったシーナが立っていた。不 機 嫌 そうに、口を引き結んでいる。
「あ──いえ、だからその──」
続きを言おうとしたドーチンを、一 瞥 だけで黙 らせて──半分閉じたまぶたで地人を睨 み据 え、口を開く。逆 らえない力でも特別に内 包 しているかのようなきっぱりとした口調で、シーナが改 めてドーチンに告げる。
「......また汚れたね」
「いや、今はそんな──むぎゅ」
血だらけの顔面にタオルを押しつけられ、ドーチンが言葉を引っ込める。
片手だけだが、女特有の奇 妙 な腕 力 で、有 無 を言わさずごしごしとドーチンの顔面をぬぐいつつ、シーナはこちらを向いてきた。
「もう出ていきな。今日、ここを出ていくつもりだったんだろ?」
「ママ......」
エリスが、横から口をはさむが、シーナはまったく聞こえていないようだった。剣 呑 な視線をちらちらと投げてくる。
「エリスがなんて言ったか知らないが、無 料 でいつまでもいられちゃ迷 惑 なんだよ。薪 も割れないんじゃ、人手にもなりゃしない」
「なによー!」
クリーオウが、腰に手を当てて甲 高 い声をあげる。
「昨日 、火を消してあげたの、もう忘れちゃったわけ⁉ 」
「あんたが消したわけじゃなかろ」
「いや、そーだけど......」
即 座 に言い返され、指を口にくわえてクリーオウが黙 り込む。
そのまま、会話が失速した。不器用な沈 黙 が空気を濁 らせる。
なにもしゃべっていないのは、オーフェンだけだった。自然、自分に集まってくる視線を感じて、彼は──ゆっくりと、意を決した。
(まあ......いいだろ)
オーフェンはため息をつきつつ、口を開いた。
「そこまで言われちゃ、俺もそっちのご厚 意 に甘えるわけにもいかねぇな──」
「............⁉ 」
激しく反応したのは、エリスだった──裏切られたように傷 心 の瞳 を向けてくる。クリーオウは流れに乗っていないのかなにも考えていないようだったし、シーナはまったく感情の動きを見せずにただドーチンの顔をふいてやっている。ドーチンは無論そのおかげで、なにか言うどころではない。
全員を見渡してから、オーフェンは肩をすくめた。懐 から、例の折れた短剣を取り出す。鞘 には入らないため、刃に布を巻き付けてベルトにはさんでいたのだが。
「宿代は払う」
「どうやって?」
聞き返してきたのは、クリーオウだった。頭の上でレキがあくびをしている。オーフェンは短剣をゆらゆらと振ってみせてから、
「こいつが見つかったってことは、これを入れていた鞄 もそこにあるってことさ。そうすりゃ旅費だって取りもどせる。そいつを回収するまでは、悪いが泊 めておいてもらうよ。どうせもともと後払いだったはずだよな?」
「納 得 できないね」
シーナは強 情 にかぶりを振った。こちらを見てはいないが、横目でしっかりと睨 んできている。
「うちは、払える見込みもない客は、さっさと追っ払うことにしてるんだよ」
「ママ......」
今度はエリスが、自分のエプロンの端をつかんでいらだたしげに声をあげた。
「なに言ってるのよ。分かるでしょ? ロッツが──」
「あんたは黙ってるんだよ!」
ぴしゃりと声を叩 きつけられ、エリスが黙り込む。シーナはじろりと、さらに視線を強めてきた。充血した目に、ほかの部分では出さない分の感情を凝 縮 しているというように。
「......どうするんだい? 担 保 でもあるってんなら──」
「担保ねぇ」
オーフェンは銀の短剣から、巻き付けた布を引き剥 がすと、一瞬で意識を沈静させ、囁 いた。
「──我 は癒 やす斜 陽 の傷 痕 ......」
と、音もなく、ダメージを負 った刃がもとのように修復する。曲がっていた刀身は蔓 のように伸びて、刃からはぎざぎざの傷が消失した。完 璧 に修復した短剣を、オーフェンは鞘に収 めてシーナに差し出した。
「......とりあえず、こいつが俺たちの持ち物の中じゃ、一番値打ちがあるかな」
「............ふん」
シーナは洗面器を床 に置いて短剣を受け取ると、鼻 孔 から短く吐 息 した。
それが承知の意であることを勝手に解 釈 して、オーフェンは、クリーオウを連れて部屋から退出した。
「兄さんが──!」
タオルの隙 間 から、なんとか漏 れたドーチンの一声を聞きながら。
◆◇◆◇◆
大フィーン・ロッツは、今日の気分をどう表すべきか、そんなことを思案していた。
きっかけは、些 細 なことだった。ちょっとした報告を受けたのだ。
そして、そのすぐあとにちょっとした噂 話 を聞いた。
最後は調査だった。結果、ほぼ間違いないと、彼は判断した。
ひたすらに。
ひたすらになんの抵抗もなく、とにかく激 怒 というものをどうすれば相手に伝えられるだろう。彼はそんなことを思案していた。が。
(老 いたのだから......)
と、彼は皮肉げに独 りごちた。
(こんなことを悩 むことなどはないのだ。老いた者が怒ることに対して遠 慮 する必要があるか?)
結局彼は、悩むことをやめた。そして、社長室の扉 を開けて、たまたま廊 下 を通りがかった従業員にこう告げた。
「あのふたりに伝えろ。わたしが呼んでいるとな」
その従業員が、怯 えたような表情を浮かべたところを見ると──あのふたりが、どのふたりであるのか、正しく理解した証 拠 だろうと大フィーンは満足した。すかさず彼の顔を記憶しておく。有能な者は優 遇 してやるべきだ。
扉を閉め、部屋にもどった瞬間その従業員の顔は忘れてしまったが、あまり気にせずに大フィーンは社長室の豪 奢 な椅 子 に腰を落ち着けた。息をつく。ゆったりと身体 の力を抜いて、視界には部屋の中央に置いてあるこのあたりの立体地図を眺 めた......
(ジュニア......)
静かに、胸 中 でつぶやく。
(早く帰ってこい。わたしが生きている間に......その程度には、お前だってわたしを愛してくれていただろう......)
机 の上には写真立てがふたつ置いてあった。古い写真と新しい写真。新しいほうは、どうというものでもない──このロッツ・ホテルを三年前に改装する直前に、古い姿を保存しておこうと撮 影 したものだ。古いほうには、人物が写っている。自分とジュニア。二十年前の古い写真。
写真の中のジュニアははにかんだように笑っていた。
(......二十歳を過ぎたというのに、いつまで経 ってもお前から子供っぽいところが抜けないのが、悩みだったな。ああ、幸せだった──そんなことを悩むだけですんだのだから。どうでも良かったのだよ、ジュニア、そんなことは。お前のことで悩みたかったから、悩めるところを探 しただけだ。今ならそうと分かる。もっとも)
と、舌打ちする。
(子供の部分がなくならないせいで、あんな女に引っかかったとも言えるか)
しばらく写真を眺めたまま、胸中で語り続けていると──
扉がノックされた。机の上に手を伸ばし、写真立てをぱたんと伏 せさせる。
「誰 だ?」
分かりきったことを、あえて聞いた。怯える声を聞きたい気分だった。
が。
「......ロナンとゴドルです」
扉越 しに聞こえてきたのは、ロナンの声だった。ただし、予想していたほどに、声に震 えも怯えもない。大フィーンは顔をしかめて、喉 を震わせた。誰が見ているわけでもないのは知っていたが、腕を振って告げる。
「入れ」
扉が開くまで、多少の逡 巡 があるのかと思えば、これもまた期待外 れだった──扉はすぐさま開き、扉を開けたロナンと、ゴドルが社長室に入ってくる。ふかっとした絨 毯 がふたりの靴 を呑 み込む。ふたりは入ってくると、あんまり感情を見せない余 裕 のある表情で、気をつけの姿 勢 を取った。ふたり並んで立ったまま、沈 黙 の時が過ぎる。
相手が怯えているのならば、その沈黙を長引かせても良かろうと思っていた。怯える相手を叱 るのは簡単なことだった──黙 っていればいいのだから。だが、入ってきたふたりには、怯えの色はまったくない。
はっきりいえば、不 愉 快 なことだった。大フィーンはふたりを順番に、ぎろりとにらみつけると、
「お前たち。わたしはな、今 朝 、面 白 い話を聞かされた」
「はい」
ロナンである。よどみなく、ごく平静にうなずいている。いや、先を促 そうとしている──この大フィーンの言葉を。
(良かろう......むしろ、覚 悟 はできていると見てやろうさ)
こめかみに力を入れながら、彼は独 りごちた。
「どうやら昨夜、森の枝で、ぼや騒 ぎがあったらしいな」
「そのようで」
「放火だそうだ」
「ははあ」
のらりくらりと返事をしてくるロナンを──
勘 弁 してしまうほど老 いてはいないつもりだった。ついでに言えば、堪 忍 できるほど老いてもいない。
遠回しに言うことをやめて、大フィーンは聞いた。
「......お前たちか?」
謝 罪 の仕方によって、殺し方を決めよう。
暗い炎 をくすぶらせながら、大フィーンはふたりをにらみ据 えた。
と──
ふたりは、なにも答えてはこなかった。だが、沈黙ではない。肩を小 刻 みに震わせて、なにか音を立てて息を漏 らし、そして胸さえも上下させて......
「ふっふっふっ......」
笑っていた。なにかこらえきれないように口元を歪 ませて。
「ふっふっふっ──はっはっはっ......」
次 第 に笑い声を大きくしながら、こちらに背を向ける。
「はぁーっはっはっはっはぁっ!」
最後には大笑いしながら、ふたりはそのまま、のしのしと部屋を出ていった。扉が閉まっても、廊 下 から笑い声が響 いてくる。
「............?」
あまりのことになにも考えつかず、大フィーンはただそれを見送っていた。どこまでも響くふたりの笑い声は、耳には入ってくるが脳まではとどかない。
「......狂ったか?」
呆 然 とひとりつぶやいて。
彼の社長室に、静 寂 がもどった。
◆◇◆◇◆
「まあどーせあいつのことだから死んでるはずもないが一応まあ可能性としてひょっとしてもあり得ねえけどそれでも一通りは見ておいたほうがあとでなんにもなかったときに言い訳 できるから行ってくる」
「......そこまで信用しないの?」
クリーオウが──まあこれもどうでもよさそうではあったが──そうつぶやくのを聞きながら、オーフェンはうなずいた。
「真 面 目 な話、鞄 のことがなかったら行くまでもないって気はしてる」
「勝手なことを〜......」
うめき声をあげたのは。
ドーチンだった。
見下ろすと、なにやら肩をいからせている。毛皮のマントのせいでよく分からないが。
なんにしろ、あまり気にならなかったのか、クリーオウが気楽な声で言ってきた。
「鞄って、オーフェンがなくした鞄? あるかしら」
「まあ、可能性の問題だ。向こうの道で鞄を見つけた人間が、金だけ抜いて崖 の下に捨 てた、なんてオチかもしれないけどな」
と、その崖の下をのぞき込む。
昨日 、ボルカンとドーチンを投げ落とした、ちょうどその場所である。崖はほぼ断 崖 絶 壁 で、深さは四、五メートルというところだろうか。崖下は森になっており、どうなっているのかよくは分からない。
森は、かなりの遠方まで広がっていた。それこそ、遠くに見える山々にまでつながっているようにも思える。森の中に入ってしまうと、木々の枝が深く重なり合っているせいで空も見えないだろう。川や丘など、目印になりそうなものも見あたらない。
「にしても、お前ら......」
と、これはドーチンに対してである。顔をしかめて見やる。
「なんでこんな、あからさまに、迷 うためにあるような森ん中に入っていったんだ? 崖づたいに進んでいけば、そのうち登る道だってあっただろうによ」
「だから、変な猿 に襲 われたって言ってるじゃないですか!」
憤 慨 したように、ドーチンが言い返してくる。
「追いかけられて、気がついたら森の中に入ってたんです!」
「そりゃまあ、人を襲う猿だっているかもしれないが、そんなにしつこく追いかけてくるもんかね?」
「そんな話じゃないんですよ。なんていうか......異常な獣 だったんです」
慣 れない怒 りがいまいち持続しなかったのか、それとも、なにかを思い出したのか──どちらかといえば後者のような様 子 で、ドーチンが身 震 いした。
「ふむ......」
とりあえず再び、崖下をのぞき込む。
「クリーオウ、ロープ持ってきてくれたか?」
「うん、ほら」
少女が抱 えてきたのは、細いロープだった。細いといっても見た目のことで、実際は鋼 線 も含 んだ繊 維 を縒 り合わせてある、極 めて頑 丈 なものである。人ひとりの体重を支 えるためというよりは、山 岳 での工事などの際、岩 塊 や崖を固定するためにも使えるような代 物 だった。長さは、十メートルほどか。宿の納 屋 にしまってあったのをエリスが思い出して、引っぱりだしてきてくれたのである。
オーフェンはクリーオウからそれを受け取って、品定めするようにあちこち引っぱってみた。
「へえ。さすがに雨 ざらしで何十年と岩を固定するようなもんだけあって、しっかりしてるよな」
「それ使って、下に降りるの?」
「ああ。まあ、ちゃんとしたクライミングの器具でもありゃもっと安全なんだろうけど」
と──
滅 多 にないことだったが、ドーチンが会話に横から割り込んできた。
「降りたら、ちゃんと注意してくださいよ!」
顔色を蒼 白 にしながら、口調だけは熱がこもっている。
「油 断 してたら、いきなりばっさりやられかねないんです! 見たんですから! に、人間が、頭からまっぷたつに......」
そこまでまくし立ててから、唐 突 に声が凍 り付いたらしい。がちがちと歯を鳴らして──当人はきちんとしゃべっているつもりなのだろうが──口をぱくぱくさせるだけになった。
「その話は何度も聞いたよ」
オーフェンは嘆 息 しながら、まだなにやらわたわたしているドーチンを手で制した。さすがにうんざりし、うめく。
「んで、何度も言った通りだ──俺の剣は確かに折れ曲がっていたし、刃も欠けてたが、それでも人間ひとりを縦に 一 刀 両断した状態とは言えねえって」
「だから、信じないから何度も言ってるんじゃないですかっ!」
「あのなぁ」
ようやく再び声が出せたらしいドーチンを見返して、それが実際、嘘 を言っているように見えたかどうかということであれば、オーフェンは百パーセントの確信があった──この地人は嘘などひとつもついていないだろう。
だが恐 怖 は判断を誤 らせるし、恐 慌 は記憶をも狂わせる。尾ひれがついたとまでは言わないが、どのみち、ドーチンの話は腑 に落ちない点が多すぎた。
肩をすくめて、告げる。
「人間の身体 ってのは、粘 土 と違うんだ。骨 格 があるし、場合によってはそれよりも強度のある筋肉がある。それを──しかも全部位で最も強固な部分のひとつである頭 蓋 骨 から、縦 割 りにずんばらりなんてのは、猿だろうが人間だろうが熊 だろうができる芸当じゃねえんだよ」
「で、でも──」
「まあ仮に、その猿がお前が言うみたいになにかの化け物で、それができるほどの膂 力 を持っていたとしてもだ、剣が耐えられるはずがない。もともと、大した出来じゃねえんだ、あの短剣は。お前の言ったようなことが可能なほどの力で振り回しても、刀身はともかく、柄 の留 め金が吹っ飛んで終わりさ」
「ぼくは見たんですよ、実際に......」
「パニックに襲 われた瞬 間 の人間の観察力なんてのは、雨の日の革 靴 程度にも信用できやしないんだよ、悪いけどな」
「うう......」
納 得 はしていないようだが、しゃべる材料がなくなったのか、ドーチンが押し黙 る。
オーフェンはかぶりを振った──激しくはなく、ゆっくりと。改 めて崖下に広がる森を見やって、肩を震 わせるドーチンの頭をぽんと叩 く。
「ま、なんにしろ、行ってみりゃ分かるさ」
「くっ......!」
口 惜 しそうにうめいて、ドーチンはこちらを睨み返してきた。ぱっと手を振り払い、眉 毛 をつり上げて言ってくる──
「分かりましたよ! 確かに、その場に行かないと信じてもらえないみたいですから!」
「ああ......って、あら? おい」
「急ぎましょう! 急ぐんです! 急ぎますよ!」
とドーチンは、こちらの制止も無視して、わめきながら崖の縁 に突進し──
そこから転 げ落ちた。
悲 鳴 も聞こえてきたかもしれない。数秒ほどすると、なにか重いものが地面と衝突する鈍 い音が響 きわたった。
「......ロープを固定するまでも待てないかね。どうも、よっぽどひどい目にあったってのは間違いないみたいだな」
「性格まで変わっちゃってるみたいだもんねー」
と、これはクリーオウ。ロープを近くの木の幹 に固定してきてくれたらしい。
彼女からロープを受け取り、何度か思い切り引っぱって強度を試 してから、オーフェンは多少驚 いて目を見開いた。
「......へえ。なかなかすごいな。ロープの固定の仕方なんて、誰かに習 ったのか?」
「え?」
クリーオウは、なにを言われたのか分からなかったように、ぽかんと口を開けただけだった。レキも頭の上で首を傾 げている。
オーフェンは、多少嫌 な予感を覚 えつつ、
「......いや、だから、ロープの固定の仕方だよ。普通の結び方じゃなくて、ちゃんとクライマーがやるみたいな」
「普通のちょうちょ結びだけど」
「......結び直す」
低い声 音 でうめきつつ、オーフェンは大 股 に、ロープの結んである木の幹へと歩いていった。見ると、確かに普通にちょうちょ結びで固定してある。
「えー、なんでー」
彼女はごく当然の権利だとばかりに、不平の声をあげていた。
オーフェンは無言で、手早くロープをほどいた。と、不平の声が消えて気づくと、クリーオウがこちらの手元をのぞき込んで、ふんふんと声をあげている。
「へえ。そーやってやるんだ......でも、ちょうちょ結びと変わらないじゃない?」
「......どう見たら、同じに見えるんだよ」
うめいてオーフェンは、クリーオウではなく彼女の頭上のレキの顔を見やった。時にこの子ドラゴンは彼女の感情変化の、最も分かりやすい発信元になっていることがあるため、こちらを見たほうが彼女自身を見るよりも考えが読みやすいことがある。
レキは、前 脚 でクリーオウの頭をぱふぱふ叩 いて、寝 床 を整 えているところだった。複雑な思いで考える──さてこれは、クリーオウもまた興 味 のあるふりをしているだけなのだと見るべきか、あるいは単にレキ自身が眠いだけなのか。
どちらも五 分 五 分 と見るべきだろう。オーフェンは思わずにやりとしていた。
「ま、こんなものはな、一回覚えりゃなかなか忘れないもんだ。俺だって別に、なにも大げさに、これでございと習ったわけでもねえしな」
「ふうん」
気のない返事をしてくる彼女のことはとりあえず置いておいて、今度こそしっかりと結べたかどうか、何度もロープを引いて確かめる。木の幹に結びつけたため、それを引くたびに、なにかの涼 やかな楽器のように枝が揺れ、葉が鳴った。
「......こんなもんかな」
オーフェンはつぶやくと、ロープの結んでいないほうの端を崖 下に落とそうと、歩きかけた。
と──
「............?」
なんとなく気 配 を感じて、向き直る。視線の先には少女がいた。いつもと変わらない、金 髪 の少女。髪をいじられるのが嫌だったのだろう。眠たげに目を閉じているレキを胸に抱き直して、じっとこちらを見ている。
なにを感じたというわけでもなかったが──オーフェンは、ただ視線で彼女の言葉を促 した。
「ねえ、オーフェン」
どことなく気まずそうな声で、クリーオウが聞いてきた。目を少し閉じようとしたのだろう。まつげが揺れる。
「なんだ?」
オーフェンは、後ろ頭を掻 きながら返事した。クリーオウは、そのままの口調であとを続ける。
「......鞄 のことなんかただの言い訳 で、本当は、あの地 人 が死んじゃったって心配してるなんてこと......ないわよね?」
「なんでそう思うんだ?」
空は季節に相応 しく、どこまでも抜けて高かった。上空で風が渦 巻 く気配がすれば、冬が近づいてきたことも感じられるだろう。まだそれは見受けられなかったが、そう遠くもないことは予感できる。
空を見ながら聞き返した。視線をもどすと、クリーオウはじっとこちらを見ていたらしい。
「ん......なんかちょっと想像したの。そう考えた時、オーフェンってどんな顔するかなって。そしたら今のオーフェン、なんか不安そうに見えたから」
「............」
オーフェンは、きびすを返した。崖の縁 に向かって進む。ロープを手に、眼下に広がる人外の域に。
クリーオウがついてきているのは、足音ですぐに知れた。ちらりと肩越 しに見やると、胸の中でレキが振る尻 尾 に顔をくすぐられ、片目を閉じている。
「クリーオウ、お前、俺のパートナーになるって言ってたな」
「うん」
「パートナーってな、どういう人間のことだと思う?」
オーフェンは肩をすくめつつ、それを聞いた。クリーオウは──いまいち釈 然 としないままも、一応は答えを返してきた。
「......同じくらい腕が立って、信 頼 できる人のこと?」
「違うよ」
オーフェンは即 答 すると、ロープを崖下へと投げた。くるくると渦を巻いて、重力の滝 に強 靭 なロープが流れ落ちていく。
初めて気づいたが、転 げ落ちたドーチンはそのまま地面にめり込んで動けなくなっているらしい。
もう一度、彼は強くロープを引いた。木の幹 に固定されたロープはびくともしない。
ロープを握 って、足を崖の側面へと滑 らせる。降りる体勢を作ると、自然、振り向いて、クリーオウと向き合う形になった。
彼女はまだ中 途 半 端 な表情で、こちらを見つめてきている。オーフェンは静かに告げた。
「......んじゃ、頼 むぜクリーオウ。これからもな」
とりあえず、会話が続いたことを歓 迎 してか、クリーオウの顔がぱっと明るくなる。彼女は少しあわてるようにしながら、任 せてと胸を張ってみせた。
「うん。宿のことでしょ? あのロッツとかいうギャングのことなら、ちゃんと注意しておくから──」
それを聞きながら、オーフェンはロープを持つ手を少し滑らせた。ロープの表面といつも着けている革 のグローブがこすれる音がはっきりと聞こえる。視界がすぐに、味 気 ない土の壁 で埋 まった。見上げても、もうクリーオウの姿は死 角 に入ってどこにもない。
しかし、声だけはまだ聞こえた。少し間を置いてから、彼女がきょとんとうめくのが聞こえてくる──
「......これからも?」
その声にオーフェンは軽く苦笑しながら、ロープを伝って崖を降りていった。
見回してみれば、森は美しくさえ思えた。
箱 庭 的な美しさとは違う──実際には森はただ鬱 蒼 とした緑のカオスに過ぎなかったからだ。混 沌 とした渦 を美しく思い、ノイズに聞き惚 れることがあるのなら、この森は間違いなくその対象になったかもしれない。
とりあえず、そこが危険な場所に見えたかということであれば、答えはノーだとオーフェンは胸 中 で自答していた。ちらりと、ドーチンを見やる。この目立たない地 人 は、それこそ余分な不幸を招 き入れそうなほどにびくびくとした様 子 であたりを警 戒 しているようであった。
怯 えた者にできることはひとつだけだ──毛 布 をかぶって寝てしまうこと。間違っても自分が用心できるなどと思ってはいけない。
昔聞かされたそんな言葉を思い出しつつ、オーフェンは再び自問していた。恐 怖 というものが、心で感じる脅 威 のことならば、怯えとは身体 が感じる脅威のことだろうか。あるいは心に閉じこめておけなかった恐怖が怯えといえるのかもしれない。恐怖とは戦うことができる。屈 服 させ、支配することさえできる。だが怯えは暴走する。取り押さえておくこともできない。
「この森の奥で会った人がいるんですけど」
ドーチンは恐ろしげな表情で言ってきた。
「その人が言うには、このあたりには凶 暴 な肉 食 獣 がいるとかで、調査の手も入ってないそうです。多分、ぼくが見たのがその危険な獣 ってやつだと思うんですけど......」
「観光地のすぐ近くだぜ?」
オーフェンは肩をすくめると、森の奥をのぞき込んだ。
ボルカンとドーチンが入っていったのであろう痕 跡 は、すぐに発見できた──乱暴に下草が踏み荒らされ、森の中に続いている。
検分といっても、たいしたことができるわけではなかったが、踏まれた草をかき分けて地面を調べながら、オーフェンはつぶやいた。
「そんな獣の噂 があるんなら、絶対に耳に入ると思うんだけどな」
「観光地だから、秘密になっているってこともあるかもしれませんよ?」
「秘密とかなんとか──噂ってのは、そんなものとは関係なしに漏 れるもんだ」
と──手を止める。
「......調査隊が近寄れない場所......ここってのは、天 人 種族の遺 跡 が数多くあるとかなんとか、ガイドブックに書いてあったよな。考えられることとしては、調査隊が危険性を秘 匿 して......温 泉 街 の連中はその危険を知らない 」
「......え?」
不可解そうに声をあげたドーチンは無視して、オーフェンは続けた。
「危険を知らずにい続けるには──最低限、危険にさらされていないことが必要だ」
「どういう意味です?」
「犠 牲 者 がひとりでも出れば、必ず誰 かがその危険をかぎつけるってことさ」
「いったいなにを──」
聞きかけて、ドーチンははっとしたようだった。
「この森に危険があるってこと、信じてくれるんですか⁉ 」
「う〜ん。どう言ったらいいかな......」
オーフェンは言葉に迷 って、ドーチンのほうを肩越 しに見やった。立ち上がることもできないし、身体の向きを変えることもできない。
「............?」
疑問符を浮かべた表情で、ドーチンはとことこと近づいてきた。
「なにか見つけたんですか──」
と。
こちらの手元をのぞき込んだ瞬 間 、その顔色が蒼 白 になる。
悲 鳴 は、確実にワンテンポ遅れた──
「ひいいいいいいいいっ⁉ 」
大声をあげて後ずさりし、尻 餅 をつくドーチンに、オーフェンはかえって覚 めた感覚で嘆 息 していた。
「さて、どーしたもんだろか......」
地面を調べようと、草をかき分けていた彼の右手首を。
地面からなんの脈 絡 もなく伸びていた、動物の手──確かに猿 の手に見える──が掴 んでいる。
万 力 のようにがっしりと、ただし掴まれているという感 触 すらないほどにぴったりと、その獣の手はこちらの手首を固定していた。
「ああああああああ」
地面に尻餅をついたまま、こちらを指さしてうめき声をあげているドーチンに、オーフェンはかぶりを振った。
「まさか、地面の下に隠 れてやがるとはなー」
「ああああああああああ」
「だいたい、どーゆうことだ? 来るかどうかも分からない俺 たちのために、わざわざ土にもぐって、ここに手をつくかどうか予想して、じっと待ってたってのか?」
「ああああああ」
「納 得 いかんなー。さて、どうしようか」
「なにを落ち着いてるんですかっ⁉ 」
ようやく言葉を取りもどして、ドーチンが叫 んでくる──
「ンなこと言ったって、あわてるタイミングを逸 するとこんなもんだ」
「そ、そーですか?」
「いやよく分からんが。ちょっと退 がっててくれ」
言われなくとも、ドーチンはしゃべりながらじりじりと後ずさりしていたようではあった。オーフェンは数秒待って意識を落ち着かせると、頭の中に魔術の構成を思い浮かべた。乾 いた綿 に念入りに水を流し込むように、その構成に力を与えるためには、呪 文 が必要となる。呪文の内容はなんでも構 わない。息を吸 い、そして声に出す。
「我 は撃つ──」
と、変化が起こった。
右手を掴んでいた獣の手が、ゆっくりと動き出す。いや、ゆっくりと見えたのは、意識がそれに集中していたせいだろう。実際は、一瞬だったに違いない。花がつぼみへと縮 むように、獣の手が小さくなっていく。握 りしめられていく。
苦痛は感じなかった。一 切 、まったくの苦痛を。それはただ結果としてだけ、網 膜 に残った。獣の手が完全に握りしめられた瞬間──ごく当然の手順として、オーフェンの右手首はぼとりと地面に落ちた。
「────⁉ 」
頭の中を衝 撃 が走る。オーフェンはとっさに魔術を中断した。中断せざるを得なかった。集中が崩 れ、編 みかけていた構成が霧 散 する。本来ならば、棍 棒 で殴 り倒される最中にでも、正確な構成を編むことができる自信が、オーフェンにはあった──が。
(......これは......⁉ )
地面に落ちた右手首を、獣の手はすぐにつかみ取った。そして──
あまりにも長い一瞬のあとは、本当にただの一瞬が待っていた。目の前に黒い影が走り、地面から獣の手が消える。残像をたどってオーフェンは視界を移した──上方へと。地面から、いや地中から跳 び上がったその獣は、すぐ上の木の枝に、巻き付くように取りついていた。確かに、猿に似 ている。いや、そもそも「手」がある獣ならば、たいていのものは猿に見えるのかもしれない。ただしそれは絶対に猿ではあり得なかった。首が前方にせり出している。それはあるいは頭の重量のせいだったのかもしれない。猿の後頭部からは、いかにも重たげなガラスの容器がはみ出していた。容器の中には薄緑色の液体と、脳らしきピンク色の肉 塊 が入っている。
脳は、容器の中に浮いているというわけではないようだった。どちらかと言えば、頭 蓋 骨 に入りきらなかった脳がそちらへと膨 れ出ているというふうである。
身体 の割には大きな歯が並んだ口を開き、その獣 は鋭 く吠 えた。
「キキキッ!」
威 嚇 なのだろう。が──
オーフェンもまた、その獣に吠えた。
「我は放 つ──」
と、手首のない右腕を標的へと向ける。
「光の白 刃 っ!」
虚 空 から一直線に、その獣へと白い光が収 束 する。轟 音 を立てる熱 波 と衝撃の渦 が、枝からさらにまたどこかへと跳ぼうとしていた獣を呑 み込んだ。標的を包 み込み、閃 光 を伴 って炎 上 する──
その炎 の中から、獣はなにごともなかったかのように飛び降りてきた。焦 げ目どころか煤 ひとつついていない。こちらを向くと、躊 躇 なく突進してくる!
「こぉのっ!」
オーフェンは横に跳んで猿の突進をかわすと、すぐに振り向いて左手を向けた。口早に叫 ぶ。
「我は呼ぶ破 裂 の姉 妹 !」
衝撃波が弾 けるのが見えるはずもないが、反発するような音がこちらの顔をも叩 いた。下草が倒れ、落ちていた葉が急激に舞 い上がり、狂ったように風に躍 った。その爆発の中で──
猿はただ、空 いているほうの手のひらをこちらに向けただけだった。その手の中心に、光り輝 く文字が見える。
見 覚 えがあるというと語 弊 がある──その文字は読めないからだ。具体的にその文字がなんの意味を持っているのか、それはオーフェンの知るところではなかったが、確かにその文字には見覚えがあった。何度となく目にしてきた文字。
(魔術文字 ......!)
猿は衝撃波をまったく意に介さず、そのまま走り続けた。その先には、ドーチンがまだ地面に尻 餅 をついたままになっている。
(くそっ!)
オーフェンは毒づいて、構 え直した。破 壊 することができないのであれば──
「ドーチン!」
残っている時間はあと数秒。という中で、オーフェンは叫んでいた。
走り寄ってくる猿を凝 視 して、ひきつった返事をドーチンが返してくる。
「はい?」
「死ぬなよ」
「へ?」
その時には、オーフェンは既 に全力で構成を編み上げていた。限界ぎりぎりにまで自 らの力を支払い、造 り上げるその魔術を求める。
猿は変わらず、走りながら手のひらの魔術文字をこちらへと向けている。オーフェンはその手のひらに狙 いをしぼっていた。
「我が契約により──聖戦よ終われ!」
きゅぼっ!
光が再び、猿を包 み込んだ。が、先ほどのものとは性質が違う──ただの光である。
あるいは、錯 覚 の光と呼ぶべきか。
光自体に意味はなかったし、必要でもなかっただろう。ただ光は瞬 き、そしてその光が消えた時、猿の身体の左半分、左腕、肩、上半身のほとんどが消 滅 した。そのまま、ドーチンの目の前に、走っていた勢 いそのままで猿が倒れる。
「うわああああっ!」
今さらになって、ドーチンが悲 鳴 をあげた。わたわたと後ずさりして猿の死体から離れると、
「ど、どどどどどどどどど──」
「えーと」
オーフェンは適当に推 測 して、パニック状態のドーチンに答えてやった。
「もし、どうやって倒したのかって聞きたいのなら、情報破壊による存在発生源の除 去 、意味の消失。まあそんな理 屈 にこだわらないのなら、いわゆる必 殺 技 ってことで構わないだろうな──成功率 はせいぜい五分五分ってとこだろうから、必殺かどうかは知らんが。もーちょいうまい術者がやれば、狙いを外 したり制 御 を失敗したりなんぞというミスも多少は減るんだろうが、俺だとこの程度が限界だな」

「どどどどどど──」
「なんだ、違うのか? ええと......じゃあ、どこから出てきたんだって聞きたかったのか? ンなこと俺が分かるわけねえだろ」
言いながらオーフェンは振り向いて、獣 が飛び出してきた地面を見やった──そして、顔をしかめる。地面には、獣が飛び出してきたような痕 跡 はどこにもなかった。土が掘 り起こされているわけでも、下草がなぎ倒されているわけでもない。数刻前とまったく変わらない、そのままの地面があるだけだった。
「どどどどどど──」
ドーチンは、まだ続けている。どうやら、今のも違ったらしい。
オーフェンは右手で頭をかこうとして、手首から先がないことに気づき、仕方なく腕組みした。
「どうしてこんなところに猿がいたんだろう──か? そうだなぁ。待ち伏 せしてたようだったが、俺たちがここに来るってことをどうやって知ったんだろうな」
「どどどどどど──」
「え? これも違うのかよ。じゃあなんだ? ううん......どのくらいお礼を言えばいいですか?」
「どどどどどど──」
「違うのは分かってたよ。ほかにはなにがある? どんどん行きましょうこの調子で?」
「どどどどどど──」
「ちょっと発想を変えて、どたばたするんじゃねぇよこのくらいで、とか?」
「どどど......ど」
このあたりで、ドーチンの声が止まった。唐 突 にしゃっくりが収 まった時には、こんな顔をするのかもしれない。地面に座 り込んだまま、ふらふらとした目で、虚 空 を見つめている。
オーフェンは、半分しか残っていない猿の死体をつま先でひっくり返すと、猿がまだ持っていた自分の手を左手で取り上げた。ちぎれた傷口から、溶 けたチーズのように、だらりとなにか赤いものがたれている。
まだ呆 然 としているドーチンに、オーフェンは聞いてみた。
「結局、なにが言いたかったんだ?」
「......どぎぁあ」
「悲 鳴 か、おい」
「いや、そんなことはどうでもいいんですよ!」
ぱっと跳 ね起きて、ドーチンはこちらへと近寄ってこようとし──そして途中でやめた。
こちらを指さして、聞いてくる。
「あ、あの──それ、ホントに手ですか?」
「ああ?」
オーフェンは、自分の右手を掲 げて見せた。自分自身でも確認するようにしげしげと見やって、付け加える。
「そうだな。俺の手だ」
「ち、ちぎれちゃったんですか?」
「うーん。そうみたいだな」
「あの......聞いていいですか?」
「いいぞ」
「さっきも聞きましたけど、なんでそんなに落ち着いてるんですか?」
「............」
眉 間 にしわを寄せて──オーフェンは、少し考え込んだ。実際、最初に手首が落ちた時には、ショック状態に陥 るところだった。が、そうはならなかった。
その理由を、今さらながらに言ってみろと言われても、うまい言葉が見つからない。オーフェンはかなりの間悩 んでから、一番最初に浮かんできた答えを告げた。
「......変だから」
「変?」
「いや、明らかにおかしいんだよ。ほら」
と、さらにドーチンに、ちぎれた手を近づけてやる。
ドーチンは嫌 がるように後ろに退 がったが、それには構わず、オーフェンは続けた。
「よく見てろよ」
「はぁ?」
「人差し指」
オーフェンは静かにつぶやいた。そして──
完全にちぎれて分離しているはずの右手が、機 敏 に人差し指を曲げたり伸ばしたりするのを見た。
「......痛くないんですか?」
「痛みは感じないな、まったく」
崖 の下にある岩のひとつに腰を下ろして、改 めてしげしげと、自分の手首を見やる。
奇 妙 な心持ちで、オーフェンはため息をついた。
右手。自分の右手である。普通に暮 らしていればそれをいちいち観察することなどないだろう。昔、自分の手をデッサンしろと言われてそうしたことがあるが、その時にじっくり見たのは左手だった。右手を見ながらデッサンすることなどできない。
利 き手には、自分のしてきたこと、学んだことがすべて現れるのかもしれない。そうだとすれば、こうして手を観察することにも意味はあるだろう。そんなことを思いつつ、手の甲 、手のひら、交 互 にひっくり返してみる。ごく普通の手──だと思う。
《塔 》で格 闘 技 を学ぶ魔術士の中には、少数派ではあるが、拳 そのものを鍛 える者もいる。少数派である理由は、単に破 壊 力 を求めるのであれば魔術に頼 るほうがよほど手っ取り早いからだった。さらに言うならば、腕 力 にせよ魔術にせよ、破壊力を求める者もさほど多いとは言えない。相手を破壊しなければならないほどの戦闘など、普通に生きていれば起こり得ないからである。
オーフェンも、これに関しては多数派に属していた。拳を鍛えたことはない。破壊力を求めたこともない。ただし理由はといえば、大多数の魔術士たちの持っているものとはかなり異 なった──拳を鍛えなかった理由は、彼が十五歳までしか《塔》にいなかったからである。肉体を改造するような強 引 な練習は、ある程度身体 が成 熟 するまでは決して許可されない。破壊力を求めなかったのは、それが必要になるような局面など遭 遇 し得ないと思っていたからではない。あまりにもたびたび遭遇しながら生きてきたため、本当に必要なのは破壊力などではないと身にしみて分かっていたからである。
自分の右手。
どちらかと言えば、大きな手だろう。誰に比 べてというわけでもないが、オーフェンはそう思った。鍛えたつもりはなかったが、それでもやはりところどころの皮が厚くなっている。一番強いのは指先だった──その気になれば、薄い木の板程度なら撃ち抜ける自信がある。手の甲にいくつかの傷。手のひらには傷が残らないというのに、手の甲には容 易 に残るというのはなぜなのだろう。そんなことをふと疑問に思う。
「......というかこれは......ちぎれたのか? 本当に」
ぴこぴこと指を──ちぎれた手首の指を自在に動かして、オーフェンはドーチンのほうを見やった。
ドーチンは、気味悪そうにそれを見ながら、
「それ、どうやって動かしてるんです?」
「いや別に、普通に指を動かすようにしてるだけだ。つうより──傷口がおかしくねえか? これ」
と、傷口を見やる。
腕の傷口、手首の傷口、どちらもまったく同じような様 子 だった。出血は、まったくない。というより、出血だと思っていたものが、そうではなかった。傷口は、熱したチーズのようにだらりと溶 け落ちている。赤とピンクが混ざった色になっているのは、筋肉と血液の色なのだろうが。
わけが分からず、オーフェンは首を傾 げた。
「最初は、焼き切られたのかとも思ったんだが、どこにも火傷 ひとつしてねえし。単に、溶けただけって感じだもんな。痛みを感じないのは、神経がつながってる せいか──指が動くってことは、そうとしか考えられない」
「で、でも腕がちぎれてるんですよ? 神経だけつながってるなんて......」
「あの猿、魔術文字を使ってやがった。沈黙魔術 ──天人種族の魔術だったら、なにが起こったって驚 くほどのことじゃないのかもしれないぜ?」
言いながら、ふと思いついてオーフェンは、ちぎれた手首の傷口と、右腕の傷口とをゆっくり近づけてみた。溶けたように垂 れ下がった部分が、触 れるほどに近づくと──
は虫類のような唐 突 さと素 早 さでその溶けた部分が吸 い付き、一瞬後には右腕は元通りになっていた。つながった右手を握 っては開き、そして振ってみる。まったく違 和 感なく、痕 跡 ひとつ残っていない。
元通りに治 った右腕をドーチンに見せ、苦 笑 いしながら、オーフェンは肩をすくめてみせた。
「......ほらな」
大きく口を開けてぽかんとしているドーチンはほうっておいて立ち上がる。大きく伸びをしながら、オーフェンは聞こえよがしにつぶやいてやった──
「これで、お前が言ってた、人間まっぷたつの件も信 憑 性 が出てきたな」
「はあ......」
意味が分からなかったようで、ドーチンはただの吐 息 ともとれる返事をしてきただけだった。
とりあえず気づくまで続けてやろうかと、あとを続ける。
「ただの推測だが、あの猿の手にあった魔術文字、多分、俺がさっき使った魔術と同質のものなんじゃねえかな──物質の意味を変えてしまう。俺にはその意味を破 壊 して、それが存在しなかったことにするくらいが限界だが、天人の魔術なら、つながっていなければ機能しないはずのものを、機能を失わないまま分断してしまったり、地面を〝透 過 〟させてその中に隠 れたりってことも可能なんだろうさ。俺の魔術だって、威 力 を透過させて防いでたってわけだ」
と──にやりとして付け加える。
「その能力と組み合わせれば、俺の短剣なんぞで人間をまっぷたつにしたり、頑 丈 きわまりない福ダヌキの首を打ち落としたりもできるだろうな」
「............!」
そこまで言われて、ドーチンは気づいたようだった──あまりのことに脳がマヒしていたのだろう。ぱっと顔を輝 かせると、
「じゃあ、兄さんは生きてるってことですか⁉ 」
「そうなる。まあ──」
オーフェンは曖 昧 に、虚 空 を見上げた。
「分かったのはこの猿どもの手口で、目的じゃない──そもそもこいつらがなぜここにいて、こんなことをするのか、それが分からない限り、なんとも言えないけどな」
「そ......そうですか。そうですよね......」
しょぼんと、ドーチンがうめき声をあげる。
もう動かない獣 の死体を見下ろしても、今分かった以上のことを語ってくれるわけでもないだろう。が、それでもオーフェンは視線を移した。無論、どう考えても自然に存在する生物などではないだろう。天人の魔術を使ったということは、天人種族──ウィールド・ドラゴン=ノルニルに造られた下 僕 の類 か。彼女らの魔術では、生命そのものを造り出すことはできないと伝えられている。その代わりにこの強大なドラゴン種族は、なにかの生物を改造し、それに役目を与えるということをたびたびしていたという。
「これも、その類か......なんだかな。悪いことをした気もするな」
「そうですね......」
オーフェンはつぶやくと、獣の死体に近寄った。かがみ込んで、じっとそれを見やる。動かしたわけではないのだが、後頭部に突き刺さっている水 槽 が、たぷんと重い音を立てた。もう動かない獣の死に顔をじっと見つめる。獣の目には光もなく、なにも映 すことなくただ濁 ったまま見開かれていた。
◆◇◆◇◆
いつもの時間、いつものことではあったが、青 果 売場から出る。なにかかわりばえなどするはずもない当たり前の野菜を手 提 げ袋に入れて、エリスはやはりいつもの通り、店を出てから三歩目に──静かにため息をついた。
歩数にたいした意味はない。店を出てすぐにため息というのは、店員に聞かれれば気まずいだろう。店を出て二歩目。どちらにせよ、そんなところで立ち止まればほかの人の迷 惑 になるかもしれない。そして、三歩目に、結局のところそんな気 遣 いがなにになるのかとため息をつく。
もとはなんのためのため息だったのかなど、どうでもいいと言えばどうでもいい。
エリスは自分の支払った金額を思い出しながら、無地の布でできた手製の手提げ袋──いかにも雑な造りだが、野菜を入れて持ち歩くのにはこんなものだろう──をのぞき込んだ。大 根 、人 参 、ゴボウにレタスにじゃがいもにトマトにレンコン、ほうれん草。それらを眺 めてから、そういえば、そもそもなにを作るのか考えていなかったことを思い出す。売場に入って、棚 に並んでいる順番に取ってきたのだ。
(まあいいか......どうせ夕 飯 作るのはママなんだし)
とりあえず渡せば、なんとでもするだろう。
考えるのをやめて、歩き出す。悩 むのは馬 鹿 馬 鹿 しいことだ。いつものようにいつものことをした。つまりはいつものようにつつがなく今日が終わる。なにが起こるわけでもない。
平 穏 には常に不満がつきまとうが──その不満が大きくなりすぎなければいい退 屈 しのぎでもある。そう思いながら彼女は、再度ため息をついた。
「結局のところ......」
道を歩きながらであるため、無論、人に聞こえるほどではないが、独 りごちる。
「わたし、なにがやりたいのかしら」
細 かいことならば、いくらでも浮かぶ。
まずは靴 だ。舗 装 もされていないこの温 泉 街 では、靴はまったくの消 耗 品 である。だが、宿に客が来た時に、玄関を掃 除 していると、玩 具 のようなハイヒール、服の色にあわせたエナメルのブーツ、どこをどうやって履 けばいいのかも分からないような紐 ばかりのサンダルといった代 物 を目にすることがある。だったら自分だってそういったものを持っていてもいいような気はするのだが。靴だけではない。鞄 も服も帽 子 も。ディナーとて、泊 まり客と同じテーブルで母の手料理でなくともいいはずだ──たまには。
と──
家の近くまで来て、彼女は足を止めた。なにか、口論しているような声が聞こえてきたのだ。
「............?」
声には聞き覚 えがあった。さっと駆 け出し、曲がり角を曲がると、
「──だから、わたしの目が黒いうちはここは通さないって言ってるでしょ!」
甲 高 い、だがはっきりと意志のある少女の声が、街 中 に響 けとばかりに叫 んでいる。
「さっさと帰りなさい! 言っておくけれど、別にオーフェンのこと頼 りにして言ってるわけじゃないわよ。あんたたちくらい、わたしが追っ払うんだから」
「......クリーオウ?」
珍 しく覚えた客の名前を、エリスは口にした。ペンション・森の枝──彼女の家の玄関前で、ピンクのワンピースをひらひらさせて仁 王 立ちしているのは、まさしく昨日 からここに泊まっている客のひとりだった。金 髪 の頭の上に黒い子犬を乗せて、なにやら大 層 な剣を携 えている。さすがに剣を抜いてはいないようだったが。
彼女と押し問 答 しているのは──
どちらかといえば、こちらのほうが彼女には馴 染 みは深かった。苦 々 しく認める。
「頼りにするもなにも──」
黒いスーツで、いつもの慇 懃 な笑みを浮かべて、その男がクリーオウに言っている。凶 器 を持っていようと、子供にそんなものが使えるはずがないとでも思っているのか、あるいは使われたところでどうにでもなるということなのか、クリーオウの剣に対してさほどの注意を払っている気 配 もなかった。
肩をすくめるような仕草で──続ける。
「あの男は、さっき街を出ていったと聞いてますけれどね? 違いますか?」
「ちょっと出かけただけよ!」
クリーオウが、鋭 く言い返している。
「それに、さっきも言ったけど、オーフェンのことは関係ないの! それともなに? わたしじゃ役不足だとでも言いたいの⁉ 」
「役者不足......」
「なにわけの分からないこと言ってるのよ! と・に・か・く! さっきとぎゃーとか叫んでばたばた逃げながら覚えてろよって言いつつ転 んだりもしなさい!」
「いや、そんな細かく注文をつけられても......」
「なによ! これからどんどんもっと細かくなっていくのよ! 手の指をぴんと伸ばして勢 いよく振りながらあごを引いてスプリンターダッシュもしなさいとか」
「う〜む」
「こぉのガキ、黙 って聞いてりゃ調子に──」
怒 声 をあげたのは、これまた馴染みの、着 崩 れた登山服姿の男である。いつもこのダークスーツとセットで現れる男だった。名前は知らないが。
「よせ、ゴドル!」
ダークスーツの男、つまりロナンがその男を制止する。名前を呼んだのだから、それが名前なのだろう。ゴドル。
どちらにせよクリーオウは、気にも止めなかったようだった。はっと短い笑い声をあげると、頭に手を当て、少し腰を屈 めてゴドルに向かって舌 を出している。
さらに怒気を強めた様 子 のゴドルに、クリーオウがさらに声をあげた。
「なぁによ。大声あげちゃって。あんたなんてどうせ、自分のことを怖 がらない人とはろくに話もできないタイプでしょ。どーなのよ」
「なっ......!」
「どーなのよ!」
「この──」
「どーなのよどーなのよどーなのよ!」
「ぐぐ......」
クリーオウにまくし立てられ、ゴドルとかいう男はかなり傍 目 からも分かるほどに後ずさりしていた。苦 汁 をなめるように脂 汗 を垂 らし、握 りしめた拳 を震 わせている。
「馬 鹿 に──」
と、周囲の視線が集まる中で、ゴドルがゆっくりと口を開いた。
「馬鹿にするなよ。俺が虚 勢 ってか......言っておくがな。俺が、自分を怖がらない相手には話もできねえなんてのはとんだ誤 解 だ」
そこまでは震え声で。
そして、ばっと顔をあげ、一気に口早になってあとを続けた。
「そういう相手には、ちゃんとへりくだって取り入っているぞ俺はっ!」
「悲しいぞお前......」
これは、ロナンの言葉。
そのつぶやきを無視して、クリーオウは素 早 く割り込んでいったようだった。びしとゴドルに指を向けて、叫んでいる。
「じゃあ、わたしだってあんたのことなんてちっともさっぱり怖がってないんだから、へりくだりなさい!」
「ふざけるなっ!」
少女に対抗するように大 仰 な身振りで、ゴドルが見 栄 を切り返す。
「腐 ってもこのゴドル・ザ・ファウルランニング! あからさまに自分より見かけ弱そうな相手にへりくだったりするものかっ!」
「ゴドル......」
少し後ろで、ロナンが情 けなさげにかぶりを振っているのが見えたりもしたが。
これ以上続けても無 駄 だと思ったのだろう──実際無駄にしか見えなかったが──、ロナンはかくんと肩を落とす仕草を見せると、
「まあいいでしょう......今日のところは帰りますよ、お嬢 さん」
「兄 貴 、帰るっすか? そんな、こんなガキなんぞ──」
「どーしろってんだ。この子ひっぱたいてわきにどかせってか? アホか。帰るぞ」
お手上げのポーズで、くるりときびすを返し、帰ろうとする──
そして。
振り向いたところで、こちらの存在に気づいたらしい。ふたりの視線が自分に集まり、そしてまた別のところへと向く。特にどうという言葉を残すでもなく、ふたりはさっさと退散していった。
「............」
なんとなく呆 然 と立ち尽 くす。と、ぱたぱたという音が聞こえて我 に返った。クリーオウが駆 け寄ってきたのである。
「エリス、お買い物してきたの?」
気安い友人のような口調で、少女が聞いてきた。それを気にする必要を特に感じなかったため、エリスはこくんとうなずいて、買い物袋を見せてやった。
「あいつら、なにをしに来たの? いつもとは時間が違うけど......」
いつもの傘 下 参入への誘 いであれば、客引きの時間より前に来るはずだ──客が街 に来て、散歩をしたくなる時間帯に騒 ぎを起こすのはどう考えても得 策 ではないのだから。だが今は夕 飯 の支 度 をする頃 合 いである。まさしくその時間帯だった。
さあ? とあまり深く悩 んでいないような口調で、クリーオウが疑問を疑問符付きのまま打ち切ってきた。
「よく分からないけど、宿の中にある模 型 の地図を見せろって」
「地図を......?」
わけが分からない。
宿の外から広間をのぞき込めば、そこに模型の地図があることは簡単に分かる。だからふたりがこの宿に模型地図があることを知っていてもおかしくはない。だが逆に言えば、見たければそこから見ればいいだけのことだろう。それをわざわざ間近で見たいという理由を、エリスは思いつけなかった。
「なんにしろ──」
と、顔をしかめる──ゴドルの怒 鳴 り声にも気 圧 されなかった少女に効果があるかどうかは分からないが、言わないわけにもいかない。
「あいつらのことは、あなたの連れに頼 んであるんだから......あなたは危険なことしないでね。もしなにかあったりしたら──」
「大 丈 夫 よぉ」
「刃物なんて持ってたって、危険なものは危険なのよ。お願いだから、大人 をふたりも相手にして挑 発 するようなまねはしないでちょうだい。放火するような連中なのよ」
それを言うと、クリーオウも多少はしゅんとしたようだった──と見えた。が、そうではなかった。単に、少し引っかかって考え込んでいただけらしい。すぐに顔を上げると、聞いてくる。
「......犯人、あいつらなの?」
「え? そうだと......思うけど。証 拠 はないわよ」
「うーん。そういうことをするような人にも見えなかったんだけど」
剣を持ったまま、後ろ手に両手を回した格 好 で、クリーオウがつぶやく。
どう答えたらいいものか分からずに、エリスはしばらく黙 っていた。と──背中に影が触 れたような感 触 を覚 える。
振り向くと、見えたのは母親だった。エリスが今帰ってきた道をそのまま同じように歩いてきている。かなり近づいてきてから、シーナはちらりとクリーオウの剣と、そしてこちらとを見回してきた。無言で近寄ってきて、さっと手を差し出してくる。
エリスもまた無言で、その手に買い物袋の手 提 げ紐 をかけてやった。
すぐに袋の中をごそごそとかき回し始める母親に、ふと気になって問いかける。
「......ママ、どこかに出かけてたの?」
「なにがだい」
袋の中から視線は上げずに、シーナ。エリスはあとを続けた。
「だって、この時間は夕飯の準備じゃない......なのに向こうから帰ってくるなんて」
「夕飯の支 度 ったって、材料もないってのになにができるんだい。お前があんまりもたもたしてるから、迎 えに行ったんじゃないか。つくづく馬鹿だねお前は」
「そう......」
冷たくそう言ってくる彼女に、なにか釈 然 としないものは感じつつもエリスはうなずいた。
「ひっどーい」
唐 突 に、クリーオウが声をあげる。
「なんかそんな言い方しなくったっていいじゃない」
「いいのよ」
エリスは手を伸ばして、クリーオウの言葉を遮 った。しかめっ面 で、少女がこちらを向いてくる。頭の上に乗っている黒い子犬も、丸い目を精 一 杯 つり上げようとしているようだった。
「でも──」
と、口を尖 らせ、不服そうにそう言ってくるクリーオウの声を再び制したのは、エリスではなかった。
「エリス」
シーナだった。買い物袋から顔を上げ、ほとほと呆 れたように吐 息 する。
「......また、野菜しか買ってこなかったのかい?」
「............」
しばしの空白をはさんで。
「あ」
エリスはぽつりと声に出した。
そういえば、なにも考えなかったため──
八 百 屋 にしか行かなかった。
森の中を歩く際に、気をつけなければならないことがある。
道に迷 わないで進もうなどと思わないことだ。
──いや本当は違うのかもしれないが、オーフェンはだいたいそのあたりで覚 悟 しておくことにしていた。そもそも空も遠くの峰 も、木々の枝に邪 魔 されて見えない。不規則にそびえる木々のため、真 っ直 ぐ歩くことなど望むべくもない。山道の高低差はそれまで歩いてきた距 離 を勘 違 いさせ、下草を払い、乗り越 えながらの行 程 は容 易 に体力も集中力も奪 い去っていく。おまけに現地人も足を踏み入れない未開地となれば、それらしい地図があるはずもない。
「迷わないはずがないんだよなー」
しみじみと、オーフェンはつぶやいた。
「そーなんですか?」
と、これはドーチン。彼が踏み分けた後を、なんとかついてきているらしい。
オーフェンは振り向かずに続けた。足は止めず、歩き続ける。
「だってお前、こんなとこをひたすら歩いてて、疲れもしない方向も見失わないなんてのは、もはや動物だぞ」
「いやまあ、そうかもしれませんけど」
「かれこれ、どれくらい歩いてるんだ? 俺 たち」
「分かりませんけど......一時間ってところじゃないですか?」
「うーん。そろそろ日が暮 れてもいい頃 だよなー、多分」
「あの。昨日 ぼくが襲 撃 を受けたのも、夜になってからなんですけど......」
「うううう」
とりあえず、なんの言葉も思い浮かばなかったため、うめいておく。
実際、道に迷うことに関しては、なんの疑問もなかった──なんの抵抗もなく、ごく当然のように道筋を見失ったに過ぎない。実際、道もない森の中で迷わずにいることは至 難 の業 である。漠 然 と歩きやすい場所を選んで進んでいると、実はえんえんと同じ場所をぐるぐる回っていただけだった、などということもあり得る。
ただ、不可解だったのは──
顔にかかった葉を押しのけながら、オーフェンは聞いてみた。
「お前、よく帰ってこられたな?」
「え?」
虚を突かれたような声を出したドーチンの顔を、オーフェンは肩越しに見やった。実際ドーチンはなんのことだか分からないようにぽかんとしている。
オーフェンは聞き直した。
「いや、だから、お前があの猿から逃げ出したのって、この森の中なんだろ? そこからよくちゃんと帰ってこられたなぁと思って」
「いや......無 我 夢 中 で逃げてたから、よく覚 えていないんですけど」
少し額 の前あたりを見上げ、口元に指を当ててドーチンはかなり困 ったようにそう答えてきた。
「それに、あの崖 をどう登ったんでしょうね? あの崖が登れないから、この森に入ったはずなのに」
「あん?」
オーフェンは眉 間 に力を入れて聞き返した。
「......ってお前、あの崖を登れないって?」
ドーチンは、しごく当然というようにうなずいてきた。
「当たり前でしょう?」
「まあ、そりゃそうなんだが......じゃあお前、どうやってここから上の温 泉 街 まで逃げてきたんだよ」
「......そう......なんですよね」
他 人 事 のように首を傾 げるドーチンに、さらに聞く。
「だいたいそもそも、俺が泊 まってる宿をどうやって調べたんだ? 今まで気にならなかったわけじゃないんだが」
「あれ? あれ?」
聞かれるたびに自分でも疑問が増 えるようだった。と、いきなり思いついたように、ぽんと手を打つ。
「あ、こういうのどうですかね? どこかに街 に通じる近道だか抜け道だかがあって、無我夢中で逃げてるうちに偶 然 そこを通ったとか」
「崖のことはそれでいいのかもしれんが、俺の宿の前で行き倒れてた理由がないぞ。そいつも偶然か?」
「......一生に一回くらいはそういう偶然があってもいいと思うんですけど」
真 顔 でそう言ってくるドーチンに、オーフェンはため息をついた。
(まあ、考えたって仕方ないことではあるんだけどな)
話している時も足を止めていたわけではなかったのだが、後ろを向いていたため、進むスピードはかなり落ちていた。それをもとにもどし、ひたすらに前を目 指 す。もっとも、所 詮 人間は真 っ直 ぐには歩けないのだから、その「前」が今までの「前」と同じものなのかどうか、はなはだ怪 しいところではあったが。
オーフェンは、どこか漠 然 とした違 和 感を抱 きながらドーチンに告げた──いや、誰 に告げたのでもなかったかもしれないが。
「こんな格言知ってるか? 起こってしまった偶然を疑うのは愚 か者だってな。ただ俺の先生に言わせれば、偶然を疑わない奴 は永遠に必然に行き当たらないってなことになるんだそうだ」
「でもそれは、どっちもどっちだと思うんですけど」
「まあ、確かにな。それでもやっぱり、俺は後者の信者だよ」
腐 葉 土 状になった土を踏みしめて、オーフェンはそうつぶやいた。
「運命論なんてのはピンと来ないけどな、この世ってのは複雑だから、純 粋 な偶然なんてなかなか起こらないような気がするんだよ。偶然ってのは無限大に重なれば必然に近くなっていくだろ? 山ほどの偶然を束 ねる、ひとつの鍵 があるんじゃねえかって思うよ。それがあれば全部がぴたりと当てはまる。だがその鍵だけが見あたらない。そんな感じなんじゃねえのかな」
「......じゃあ、ぼくの兄さんがあなたに借金をしたのも、なにかの必然だったって思うんですか?」
「難 しいところだな」
オーフェンは少し考え込んでから、あとを続けた。
「ボールを上に向かって投げると落ちてくる。これは必然だな?」
「ええ」
「十メートル先の的 に、ボールを当たるまで投げ続ける。何球目に命中するか。これは偶然だと思うか?」
「違うんですか?」
「何球目に当たるのかってことに関しては、確かに偶然だけどな。当たるまで投げ続けるんだから、いつかは絶対に当たる。こっちの必然のほうが実は大事なんじゃねえかな。別に、金を貸したのが俺で、借りたのがお前らだってことはさほどの問題じゃなくて、俺が貸さなければ誰かが貸しただろうし、お前らが借りなければ誰かが借りてただろ。で、全体としては、それは必然になる」
「分かるような分からないような話ですけど」
なにやら不満そうに、ドーチンは言ってきた。
「一応念のため指 摘 しておきたいんですけど、あなたからお金を借りたのは兄さんひとりであって、ぼくは全然関係ない──」
「話がそれちまったな。とにかくだ、俺が言いたかったのは、確かにそれ自体が偶然であっても、それが重なればだな、重なるだけの理由があってもいいはずだってことだよ」
「いやそんなに急いで話をもどさないで、大事なことなんですけど。お金を借りたのは兄さんだけで、ついでに言えば遣 ったのも兄さんひとりで──」
ドーチンは口早にまくし立てながら、歩くスピードを速めてこちらに追いついてきたようだった。それに対抗して、オーフェンも速度を速める。森の中では思うようにはいかないが。
早足で歩いているせいで、ぴしぴしと下草が身体 をはたくのを感じながら、オーフェンはしゃべり続けた。
「結局のところ、問題意識ってのはそこから始まるわけで──」
「ぼくはあくまで借金にはまったく関係ないんですよ聞いてます?」
「問題意識なんて言うといかにも大 層 だが要するに思考停止しないってことだな。いやこっちのほうが大層か」
「あの──」
「............」
唐 突 に。
オーフェンは立ち止まった。すぐ直後に、どすんと背中にドーチンがぶつかってくる。
しばし沈 黙 ──どうやら鼻をぶつけたらしいドーチンが体勢を整 えるのを待つ程度の時間を沈黙して過ごす。
ふっ、と笑って、オーフェンは振り向いた。
「ドーチン」
「はひ?」
本気で鼻をぶつけたのか、声が変わっている。顔面を手で押さえているその地 人 に、オーフェンはゆっくりと告げた。両手を広げ、天使のポーズで、
「もうひとつ格言を教えてやろう」
「はあ」
「とても大事な格言だぞ──債 権 者 は多ければ多いほどいい」
「......その論理はどう考えても時限爆弾だと思うんですけど......」
「はっはっはっ。そんなこと言われても騙 されないぞ」
オーフェンはあさっての方向に笑ってから、とりあえず落ち着いてあたりを見回した。
森の中。それが変わるわけではない。実際、同じところをぐるぐると回っているだけなのかもしれない──と苦 々 しく思う。この予感が厄 介 なのは、実際に知っている道に出るまで確認のしようがないことだ。
本来、遭 難 したのならば、一 所 で動かずに助けを待つのが定 石 なのだろうが、救助などお世 辞 にも期待できない状 況 ではある。
「......信じて歩き続けるしかないってことか)
自分を信じることがなによりも難 しい。標語のようなことを考えながら、オーフェンは近くの木の幹 に手を触 れた。さっきもこれと同じ形の木があったように思えてくる。これが本当に同じ木ではなかったという保証はどこにもない。
「......森の中ってずっと暗かったから気づかなかったですけど」
不吉なことを、ドーチンが言ってきた。
「もう日が暮 れかけてるみたいですね」
不安そうに口を歪 めて、空を見上げている。枝の間から差してきていた陽 が薄れつつあった。すぐに真っ暗 闇 になるだろう。こうなると、さすがにそうそうは身動きがとれなくなる。本格的な遭難を覚 悟 するしかないのかもしれない。
とりあえず、オーフェンは手のひらを上に向けて囁 くように唱 えた。
「我 は生む小さき精 霊 ......」
弾 けるようにその手のひらの上に、白い鬼 火 が浮かび上がる。光の球は周囲を白く浮かび上がらせると、風に流されるようにふわふわと頭の上の高さまで昇っていった。
その光を見上げて、ドーチンが小さくつぶやくのが聞こえてくる。
「昨日 もやっぱり、夜になって休んだところで襲 われたんですけど......」
「いっそのこと、そのほうが手っとり早いかもしれねえな──まああの猿 がさっきのやつのほかにまだいるのかどうかも分からんし、そもそもあくまで襲われても本当に危険がない ってのが前提だが」
「問題意識の話ですけど......」
「あん?」
「そもそも、あの猿ってなんのためにいるんでしょうね。あなたの話だと、ドラゴン種族が改造した獣 だろうって──意味もなくそんなことをするはずもないでしょうから、きっとなにか役割があるはずなんですよね」
そうとも限らないけどな、とオーフェンは胸 中 でつぶやいた。口に出しては、こう告げる。
「何百年か──あるいは何十年か知らないが、とにかくそんな未来、この大陸の人類が滅 んだあとに、また別の種族だか民族だかが大陸に来てお前と同じことを言うのかもしれないぜ? むう、この古代種族はバットを三回空 振 りするとアウトだと決めていたらしい。なにか理由があるはずだってな」
「じゃあ、意味はないと思うんですか?」
「いや。言ってみただけだ。お前さんの言うことに賛成だよ。ただ──」
投げやりに、オーフェンは両手を広げた。
「ただ、考えたって答えが出そうにないからな。一番いいのは、あの福ダヌキとか、お前が昨日この森で会ったらしい人間ふたり──多分、うちの宿に泊 まってたあのふたりだと思うんだが──に会うことだろうな。少なくとも今の俺たちよりは情報を持ってるだろ」
「そうですね......」
「そうかなぁ......」
............
しばし、会話が止まる。
あまりにも唐 突 で、なんのことだか一 瞬 分かりかねたが、ふよふよと漂 う鬼火の下でオーフェンはなんとか理解した。第三者の声が声が割り込んできたのだ。
「誰 だっ⁉ 」
誰 何 の声をあげながら、振り向く──声が背 後 から聞こえてきたという確信があったわけではなかったが。
そこには。
「⁉ 」
木の枝から逆 さ吊 りにされた男。それがじっとこちらを見つめていた。
見 覚 えははっきりとある。昨日、宿で一度だけ見た。巨大なリュックサックを担 いで、階段から転 げ落ちた男である。確か、遺 跡 の調査員だとかいう話をしていたが。ドーチンがこの森で会ったというのはこの調査員と、この男の上司だとかいうもうひとりの男なのだろうとは思っていたため、この男がここにいること自体は不思議でもなんでもないのかもしれない。
ただ──木の枝から逆さにぶら下がり陰気に顔を曇 らせて、どんよりと濁 った目でこちらを凝 視 しているのだとすると。
いくつかの可能性が、オーフェンの脳 裏 をかすめた。幽 霊 。亡 霊 。怨 霊 。お化け。もしくは、ただひたすらぶら下がるのが好きな男か、ただとにかくぶら下がるのが得 意 な男。
最後のふたつが最も恐ろしい気がする中で、オーフェンはその疑問を解消すべく、意を決して話しかけた──
「なあ」
と、腕組みしてきっぱりと聞く。
「アンケートに答えてくれ。第一問・あなたは幽霊ですか?」
「なんてストレートな」
なにやら疲れたように、ドーチンがうめくのが聞こえてくる。
なんにしろ無視していると、逆さ吊りの男は、悲しげにかぶりを振った。
「死んでないぃぃぃぃ──と思いたいよう」
しくしくと涙 をこぼすと、その涙はほおにではなく眉 間 とこめかみのしわをたどって頭へと流れていく。
オーフェンは、ドーチンに向き直ると、
「どうだと思う? 嘘 発見ドーチン」
「いや、なんの断 りもなしにそんな役割を押しつけられても困 るんですけど......」
「じゃあ、とりあえず触 ってきて危険がないかどうか確かめドーチンというのはどうだろうか」
「ですから......」
「ちっ。心が狭い奴 だ」
舌 打 ちして、オーフェンは男のほうに再び顔を向けた。
逆さ吊りでいることを除 けば男の容 貌 はひたすら地 味 で、実際、危険ということならば、どこをつついても危険などなさそうではあった。だが世の中の危険がすべて、キノコの法則に倣 っているというわけでもあるまい。
そんなことを考えつつ、口を開く。
「まあ、幽霊ってのはいささかどころかあまりに突 拍 子 がないにしてもだ。逆さ吊りってのは......うん。健康に良くないぞ」
「そういう問題なんですか?」
ドーチンの指 摘 は再び無視して。
オーフェンは、心持ちその男のほうに近寄った。半歩ほどか。相手に反応がない──驚 くなり飛びかかってくるなり酸を吐 いてくるなりなんだって良かったのだが──ことを確認してから、また少し前進する。
「一応念のため聞いておきたいんだが......あんた、昨日 の昼に俺と同じ宿にいたよな?」
「ええ? 森の枝とかいう宿? それだったら、そうだけど」
「う〜む。やはりか」
「............」
しばし硬 直 したあと──
オーフェンは、男のほうを指さしてドーチンに告げた。
「ほら、やっぱり俺が言った通り、こいつらちゃんと無 事 に生きてたじゃねぇか」
「どこがどう無事なんですかっ!」
納 得 してくれなかったようで、ドーチンが叫 んでくる。
なんにしろ、もしかすればこれが、この温 泉 郷 に来てから初めて、自分の思い通りに事 態 が進展してくれたことだったのかもしれなかった。
◆◇◆◇◆
「クリーオウ、風 邪 ひくよ」
後ろから声をかけられて──
クリーオウは、少し頭を揺らす形で振り向いた。宿の玄関から扉 を開けて、マジクが顔だけ出している。
彼の言うことにも一理あった。
まだ秋とはいえ、日が暮 れてからずっと玄関前の階段に腰を下ろしてじっとしていれば、確かに風邪もひくだろう。実際、ここが高地のせいか、夜気に肌 寒 さを感じる。毛 布 代わりにひざに置いていたレキを胸に抱き直し、クリーオウはまた顔を前に向けた。温泉街 を塗 りつぶす夜の色をじっと見つめる。
マジクのため息が聞こえてきた。一応、隠 そうとはしていたようだったが。
「そりゃあ、お師様が帰ってこないのはぼくだって心配だけど、お師様のことだから大 丈 夫 だよ。今までこういうことがなかったってわけじゃないんだし」
「......別に心配してるわけじゃないわよ」
特になんという気もなしにそう言ってから、ふと、強がりに聞こえてしまっただろうかと思いつく。クリーオウは、気持ちを焦 げ付かせたような気 配 を感じながら、そのまま口を閉ざした。言い直せば、なおさら強がっているように聞こえるだろう。
そうではなかった。ここにいるのはもちろんオーフェンを待っているのもあるが、ひとりになりたかったからでもあった。
「ん......じゃあ、毛布でも持ってこようか? 羽 織 るんだったら、お師様の上着でもいいかな」
「そうね」
彼女がうなずくと、背 後 で、ぱたんと音がした。扉 が閉じたのだろう。
(......心配してるわけじゃないわよ)
クリーオウは、胸 中 で繰 り返した。
ただ、ふと不安になっただけだった。
これからも。あの時オーフェンは、確かにそう言った。
(結局、意味はよく分からなかったけど......まあオーフェンがわけの分からないことを言うのはそんなに珍 しいことじゃないし)
ただなんとなく、嬉 しくもあった。だが同時に、胸の同じ場所にぽっかりと浮かんできたものもある。
それが気分悪い。
つらつらと浮かんで消える思いはあれど、それらをきちんと考えるわけでもなく、クリーオウはただぼーっと暗 闇 を、いや夜を見つめ続けた。
自然に、唇 が軽く開く。
いつ覚 えたのか記憶にない、そんな歌を口ずさみ、クリーオウは腕の中で眠りこけるレキの背中をていねいに撫 でてやった。なだらかに丸い背中に沿 って、設 えられたかのように美しくなびく毛並みに、思わずうっとりする。よく見ていないと分からない程度に呼吸するその生き物にクリーオウは微笑 んだ。
と、扉が開く。
マジクだろうと思って、特に振り返らなかった。歌もやめない。だが。
「......いい歌ね?」
聞こえてきたのは、マジクの声ではなかった。驚 いて身体 の向きを変えると、開いた扉から、毛 布 を抱 えたエリスが出てきたところである。
目をぱちくりさせて、クリーオウはつぶやいた。
「エリス?」
「ちょっと話が聞きたくて、あの子と代わって毛布持ってきたの。いいかしら」
「え......うん」
彼女が差し出してきた毛布を受け取りながら、クリーオウはうなずいた。
エリスはゆらゆらと音もなく、すぐ隣 に並んで腰を下ろしてきた。レキは、クリーオウが動いたせいで目を覚 ましてしまったらしく、頭をあげてあくびしている。それをのぞき込んで、エリスが声を出した。
「可愛 いわね」
「......うん」
ほかに返事が思い浮かばず、とりあえずうなずいておく。
こちらがどんな顔をしようと、エリスはあまり構 わないようだった──さきほどまでクリーオウが見つめていたのと同じような場所へと視線をやって、相変わらずの物静かな声で言ってくる。
「あのね、聞きたかったのは」
「うん」
「楽しい? ってことなんだけど」
漠 然 としたことを、しごく明確な問いかけのように、彼女は聞いてきた。
少し答えに迷 うが──
「そうね」
起きたレキが、勝手に肩をよじ登って頭の上に乗ろうとするのはほうっておいて、クリーオウは告げた。
「温 泉 がなかったのはがっかりだけど、まあお風 呂 にも入れないってわけじゃないし。普通の宿に泊 まったんだと思えば、まあこんなものかなって。それに、久々にベッドメイクとか、家のことできたから──」
「そうじゃなくって」
細い右手をあげて、エリスが答えを遮 ってくる。彼女は苦笑するように唇 を歪 めていた。もっとも、クリーオウに対して、という気 配 ではなかったように思えたが。
「ここのことじゃなくて、あなた、ずっと遠くからここまで来たんでしょう? そういうの、楽しいのかなって思って」
「んー」
これこそ返答に困 る問いだった。頭の中になにも浮かばず、顔の皮だけがぐにゃりと反応するのが分かる。
「楽しいとか、よく分かんないかな。もう何か月もオーフェンたちといっしょにいて、こっちの生活のほうに慣 れちゃった感じだし。でも最初のうちはいろいろ楽しくて......今つまらないって思わないのは、楽しいままなんだからだと思う」
自分でもよく分からないことを言ってから、クリーオウは、それをごまかそうとするような気分で聞き返した。
「エリスは、楽しくないの?......いろいろと」
「わたしは......ちょうど逆かしら」
今度こそはっきりと苦笑して、彼女はかぶりを振った。
「面 白 いって思ったことがないから、つまらないんだと思う」

「......友達とかと遊んでいても、そうなの?」
「友達」
彼女はそれを未知の単語のように繰 り返してきた。遠くを見つめて、複雑な表情を見せている──苦 いと分かっている物をなめてみて、やはり苦かったというような。
「友達──よく分からないのよ」
「? いないの」
「よく分からないの。確かに、親しい友達もいたと思うんだけど......ふと気づいた時はひとりで。話したこととかはいろいろ思い出すんだけど、顔を覚 えていないし」
彼女の言っていることがさっぱり理解できず、クリーオウはただ首を傾 げた。頭からずり落ちそうになったレキが、わたわたともがいている。
「......記憶喪 失 とか?」
「そうなのかも。ふと気づいたら、ここにいて、ママと暮 らしてたって感じかしら。それで、なんとなく、自分がここを出ていきたがっているのは理解できるの。でもなぜか、ここにいなくちゃならないような気がして......」
「............」
クリーオウは答える言葉もなく、ただエリスの話を聞いていた。エリスはすらすらと──よほどこの話をするのに慣れているのか、あるいは頭の中で何度もひとりで練習したかのどちらかだろう、単語ひとつに詰まることもなく、滑 らかにしゃべり続ける。
「それに、なにか思い浮かぶことがあるんだけど、その理由が分からないってことがたびたびあって。聞いたこともないはずの歌を知っていたりとか。あとは......ロッツ」
「あの連中がどうかしたの?」
「......見るだけで吐 き気がするの。もっとほかにも嫌 いなものはあるのに、あいつらにばっかり、どうしてこんなに嫌 な感じを受けるのかよく分からない。嫌いだし......怖 いの。どうしようもなく」
「ギャングなんだから、嫌いで怖いって問題ないと思うけど」
ごく当たり前のことを言いながら、クリーオウはかたわらに座 っているエリスに、少し身を寄せた。肩が軽く触 れる程度だが、このくらいでも相手の体温を感じることはできる。
「あいつらのことなら大 丈 夫 よ。わたし、あんな連中怖くないし。オーフェンのほうがよっぽどヤクザなんだから」
「......そーなの?」
なぜかそのことに関してはあまり感 銘 を受けてくれなかったようで、エリスが疑わしげなものを目に浮かべている。
挽 回 するために、クリーオウはあわてて言い直した。
「あ、いや、よーするに心配しなくていいってことよ。お父様も、心配なんてものは未来の笑い話の種 に過ぎないなんて言ってたし。多分......そう思えば怖くないってことなんだと思うんだけど」
「未来......」
エリスは、どこか呆 然 とその単語を口にした。目を伏 せて、つぶやくのが聞こえる。
「未来なんてあるのかしら」
「いや、そんな思い切り最終段階な心配をされても困るんだけど......」
うめいてからクリーオウは、とにかく、ばんと胸を叩 いて大 見 得 を切ることにした。立ち上がって、少し声を強める。
「と・に・か・く! まあ生活云 々 のことはまた別だけど、ロッツのことだったらなにも考えなくてもいいわよ。わたしがちゃんと責任を持つから。人呼んでお助け少女プリティクリちゃんとして、この宿を世界一安全な場所にしてあげるから。とりあえず今、必 殺 技 としてプラズマダイナミックギガバーンって研究中なんだけど」
「プリティなのに......?」
そんなことを話していると──
遠くから、なにかが聞こえてきた。
「............?」
とりあえず会話を止めて、エリスと顔を見合わせる。ひとけのない道で、聞こえてきたのはどうやら足音のようだった。なにか重いものを運んでくるような、ゆっくりと引きずるような足音。
「なにかしら」
ぎゅっ、と自分のスカートの端を掴 んで、エリスがうめく。クリーオウは顔をしかめてあたりを見回した。よくは分からないが──空耳ではない。確かに足音だと、彼女は確信した。あまり規則正しいとはいえないその足音といっしょに、荒い息づかいのようなものも聞こえてくる。
エリスを見下ろすと、怯 えた眼 差 しが返ってきた。
「大丈夫よ。わたしに任 せて」
クリーオウはそう言うと、なんとなく身 構 えてひたすら待った。なにが来るのか、そもそも本当にここに向かっている足音なのか分からないと気づいたのは、しばらく後のことだったが。
それよりも先に──曲がり角からもたもたと姿を現したのは、ひとりの男だった。
月明かりの下でも、はっきりと分かる。昼間の、ロッツの男たちの片割れである。登山服を着て、貧 相 な顔つきのほうだった。なにやら重そうに大きなバケツを持って、ゆっくりと──というよりもたもたと、こちらに近づいてくる。
曲がり角から二十メートルほど。これを歩くのに一分はかかっていた。ぜえはぁと息を弾 ませながら、一 抱 えはある巨大なバケツを持って、にやりと笑みを浮かべている。
玄関前までやってきたその男に、クリーオウは一歩前に出てきっぱりと告げた。
「もう来るなって言わなかったかしら?」
「ガキの大 見 得 なんざみっともねえってんだ」
男はそう言うなり、バケツを抱え上げ──
「────!」
クリーオウは、一瞬判断に迷 った──飛びかかるのがいいかもしれない。バケツにはなみなみと水のようなものが入っていた。男は疲れ切っているようで、動作もひどく緩 慢 になっている。飛びかからないまでも、横に跳 んで逃げればいいだけのことだろう。が。
ぞっとしながら思い出す。エリスはまだ自分の足 下 に座 っているままだった。彼女が逃げられるはずがない。
バケツの中に入っているのはなんなのか──
思い出すことがあった。放火。もし、油の類 だとしたら?
無論、それらを論理的に思いついたわけではない。クリーオウの脳 裏 に浮かんだ明確な言葉はこれだった。
(逃げられない!)
もし危険なものであれば、レキが防いでくれるはずだ。
それを信じて、クリーオウは身 構 えた。身をすくめた、というほうが近かったかもしれない。どのみち、バケツでなにかをかけられるなどということに対して、有効な防 御 姿 勢 があるわけでもなかった。
(レキ、お願い......!)
頭の上にいつもいるその生物に呼びかけて、クリーオウは次の瞬間を待った。結果はすぐに出るはずだ──
ばしゃん!
男がバケツを振り下ろすのと、殴 られるような衝 撃 を受けるのとは同時だった。大量の液体を真正面から受けたのである。結果はすぐに出た。
液体は花のように弾 けて、すぐに広がった。衝撃はすぐに通り過ぎ、あとには足下でだらりと広がる水たまりと、ぽたぽたと垂 れる雫 の音だけが残る。クリーオウは頭からずぶ濡 れになって、静かにつぶやいた。
「......ただの水......?」
レキは気楽に、頭の上でくつろいでいるらしい。
オーフェンが以前、ディープ・ドラゴン種族というのは成体になると体長数メートルにも育つため、水の中で暮 らすようになるのだと話してくれたことを思い出す。水は、レキにとってはなにひとつとして脅 威 ではない。水を脅威としては認識してくれない。
見ると、エリスもびしょ濡 れになっている。
クリーオウは半眼になって、バケツを振り下ろしたその男を見やった。男は得 意 げにうなずくと、
「ああ、ただの水だ」
「......なんの意味があるの?」
聞く必要があるかどうかはさておいて、聞かずにはいられなかった。男は、これも得意げに、
「ただの嫌 がらせ」
「........................そう......」
クリーオウが静かに静かにつぶやくと──
男はくるりときびすを返し、そのまま全力で逃げ出した。
「じゃ、そういうことで、あばよ!」
「あ! ちょっと待ちなさい! 逃がすわけないでしょう⁉ 」
レキを胸に抱き直し、水を含 んだせいで余 計 に足にまとわりつくスカートを蹴 りながら──
クリーオウもまた、全力で男を追いかけた。
「ひちっ!」
小さくくしゃみをしながら宿にもどるまでには、三十分ほどが過ぎただろうか。
「まったくもー......あのチンピラ、あちこち逃げ回るわ隠 れるわ......こっちはスカートで走りにくいっていうのに。ずぶ濡れで走り回れば、そりゃ風 邪 もひくわよ。結局取り逃がしちゃうし。もう──ひちっ!」
玄関前はいまだに水 浸 しだった。今さら靴 が汚れるのを気にするわけではないが、水たまりを迂 回 して玄関に近寄る。エリスはさすがにもう宿の中に入っただろう。彼女に頼 んでお風 呂 をわかしてもらおうなどと思いながら、ドアノブに手をかける。
と──
そこで、異変に気づいた。
なにかを感じて、横を見やる。そこは広間の大窓になっていた。その窓ガラスが完全に割れている。
「えっ⁉ 」
意味のない声を漏 らして、クリーオウはその窓の前に回った。窓ガラスは外から割られたものらしく、ガラスの破片が部屋の中に向かって散らばっている。散らばった破片が部屋のガス灯にきらきらと輝 き、美しくさえあったが、それに見とれる余地はなかった。広間に、人がひとり倒れている。
「マジク!」
クリーオウは叫 ぶと、割れたガラスを避 けながら広間に入り込んだ。マジクが、ガラスの破片の上に倒れているのではないことにほっとしながら、駆 け寄る。
「どうしたのよ!」
別に、気絶なり失神なりしていたというわけではなかったらしい──単に倒れていただけのようだった。ふらふらと顔を上げると、マジクは弱々しい声で言ってきた。
「いや......なんか突然、窓ガラスを割って、変な男が入ってきて──いきなり殴 られて、抵抗もできなかったんだ」
「エリスは? シーナは?」
クリーオウはわめきつつ、あたりを見回した。ふたりの姿も気 配 もない。ほとんど直感的に、この宿にはクリーオウとマジクのふたりしかいないことを、彼女は察していた。
「分からないよ」
混乱したように──というより、よほどひどく殴られたのか目を回しているようだった──、マジクはかぶりを振った。頭を動かしてから痛みを思い出したのか、びくりと顔をひきつらせている。
「ここにいたんだ......で、エリスさんが、なんだか玄関でクリーオウと水をかけられたとかなんとか言っていて、そしたら窓ガラスが割れて──」
「どうなったのよ」
「なんだか黒いスーツ着た男が入ってきて......ぼくが前に出たらいきなり殴られて、なんだか分からなくなっちゃったんだ......」
と、そこまで言って、顔を曇 らせる。傷の痛みに対してだけではなかったようだが。
「──ごめん、クリーオウ」
「まったくもー。殴られるくらいなら逃げなさいよ」
クリーオウはいらいらとそう言ってから、マジクの頭と顔を眺 め回した。左のほおが既 に腫 れかかっているほかには、目立った怪 我 や傷はないように思える。それ以上のことは医者にでも聞かなければ分からないだろう。
「あったまにきたわ」
クリーオウは拳 を固めてうなり声をあげた。
「やっぱりギャングよあんな奴 ら。こーなったら、やっぱり必 殺 技 ・プラズマダイナミックギガバーンの封 印 を解 くしかないみたいね」
「......なにそれ」
自分の顔の腫れた部分に怖 々 と触 りながら、マジク。
と──
「いかんな」
重々しく響 いた声に、クリーオウはびくりと背筋を伸ばした。瞬 間 的に、くるりと身体 の向きを入れ替えて臨 戦 態 勢 を作る。ギャングが帰ってきたのかと思ったのだ。だが。
そうではなかった。
「若い婦 女 子 がそのような必殺技を持つのは、わしとしては感心せん。そうは思わんかね、ノサップ研究員──って、おや、どこにもいないな。ノサップ君」
そんなことを、なにごとも不自然さがないように話しているのは、天 井 から逆 さにぶら下がった太った男だった。
見 覚 えははっきりとある。昨日 、宿に客としていた、研究員長とかいう男だろう。だがあの時は少なくとも、天井から逆さにぶら下がっていたりはしなかった。
すぐ頭の下に、広間に置いてある例の模 型 地図がある。研究員長は、ひとりでうんうんとうなずいたあと──
なにやらつぶやいて、ふっ......と姿を消した。
その建物は森の中、目立たずにただひっそりとたたずんでいた。見るからに古さを感じさせる壁 の色は、あちこちに見える苔 と黴 とも混ざり合ったくすんだ緑である。
見えるのは夜空に霞 む、ぼんやりとしたシルエットだけだったが、なんとはなしに輪 郭 は分かる。純 白 の魔術の明かりに照らされた壁。揺れる鬼 火 に光の波がその壁の表面で、水面のように広がっていた。
そのどことなく保 護 色を感じさせる緑色の建物を見上げつつ、オーフェンは誰 にともなく問いかけた。
「......ここか」
「うう......そうだよう」
なにやら泣きながら答えてきたのは──当然?──例の研究員である。確か、ノサップとかいう名前だったか。
相変わらず、木の枝から逆 さ吊 りである。
(......いや)
オーフェンは、声には出さずに独 りごちた。
微 妙 に違う。
ノサップはここまで、木の枝の下を、飛び移りながら歩いてきていた。
まるで、木の枝に足が吸 い付いているように。
いやそれも実は正確ではない。木の枝に張り付いているわけではない。
彼が動くたびに、木の枝が揺れる。上に向かって。彼の足の重みにたわんでいる。上に向かって。彼はその体重を、木の枝に託 すことで落下を防いでいるわけだ──ただし、くどいようではあるが、上に、はるか空へと落下していく身体 を。
つまり彼は、木の枝にぶら下がっているのではなく、木の枝に下側から、逆さまに立っている のだ。
(重力が逆転している......?)
としか思えなかった。
どういった意味があるのかは分からなかったが。オーフェンは考え込みながら、視線を建物へともどした。
地面に頭を突き刺して、逆さまにそびえる四 角 錐 。ぱっと見には、それはそのように見えた。大きさはかなりのものがあるが、色が緑色であることと、建物の上にまで木々の枝が張りだしているのとで、上から見たのでは発見は困 難 だったろう。崖 の上から見てなにも分からなかったのはこのせいかと、オーフェンは静かに理解した。建物にはまったく窓も、出入り口らしい場所もない。
(......いや)
まったく同じことを独りごちる。
うすうす、気づいていなくはなかったが──
逆四角錐の、底辺に近いほうに、人が通れるほどの穴がぽっかりと開いている。
ちょうどまさしく、四角錐の建物が、逆さになったような形である。
「ひょっとして......?」
オーフェンはその穴を指さして、ノサップに聞いてみた。研究員は、はいとうなずいて、
「ああ、あそこから出てきたんだ。あそこから、木を伝って......」
「やっぱり」
「登れない......ですよね?」
ぼやいてきたのはドーチンである。
登る手段はいくらでもあったが、オーフェンは顔をしかめてあたりを見回した。ふたりの顔を見て、肩をすくめる。
「俺 ひとりだったらなんとでもなるけどな。お前らはどうするんだ?」
「ここで待ってます。兄さんをよろしく」
「もうもどりたくないしなぁ......あんなとこ」
ドーチンとノサップ、ふとりともが即 答 してくる。
ため息をついて、オーフェンは手を振った。
「まあ、そんなところだろうとは思ってたよ。まあいいさ。久々に足手まといなしってのもいいもんだ」
と、ぼやきながら魔術の構成を思い浮かべる。逆四角錐のてっぺんにある小さな入り口へと狙 いをつけて、跳 躍 しようと──
「............っ⁉ 」
した瞬間、オーフェンは衝 撃 を受けて我 に返った。見下ろす。
「な、なんだよ、おい。急に腕をつかむなって」
跳 び上がろうとしてなんとなく下げた腕に、こわばった表情で、ドーチンがしがみついてきていた。と、
「うわあああああっ⁉ 」
木の枝に立っていた──そう言ってしまっていいものかどうか分からないが──とにかくノサップが、悲 鳴 をあげるのが聞こえた。見ると、あわてた様 子 で研究員が、木の上方の枝に飛び降りて いく。どうやら、枝を伝って例の建物の入り口へと向かっているらしい。
「......なんだ?」
わけが分からずに、オーフェンはぼやいた。その疑問に答えてくれる声はなかったが、そのかわりに、がたがたと身体を震 わせたドーチンが、漠 然 と後ろを指さしていることに気づく。なにか喉 の奥に苦 いものを、こめかみに重いものを、耳の中に鋭 いものを、とにかく嫌 な感覚を覚 えつつ、オーフェンはその視線を、震えるドーチンの指にゆっくりと従 わせた。
そして──
振り向かずに、視線だけで探 る。
魔術の明かりはそれほどの範 囲 を照らしているわけではなかったが、それでもうっすらと周囲が見えた。
あちこちの木々。いや、周囲の木々すべて。その枝と幹 、豊かな葉に隠 れるように、獣 の顔があった。じっとこちらを凝 視 しているその獣たちは、間違いなく、先刻、遭 遇 した猿 と同じものだった。姿は猿に酷 似 し、奇 妙 に発達した指を持ち、そして頭 蓋 からはみ出た脳を、同じ頭からせり出した水 槽 で保護している。音もなく、気 配 もなく現れたのは、それが魔術で〝透 過 〟して現れたからか。
戦 慄 は感じなかった。ただオーフェンは、静かに判断しただけだった。
「......さて」
身体はまったく動かさないまま、ドーチンに聞く。
「ここで待ってるか?」
「いいえ」
これもまた即答してくる、ドーチン。ぎゅっとこちらのジャケットをつかみながら。
見やると、既 にノサップの姿はなかった。とうに例の入り口へと入っていったらしい。
オーフェンは、静かに息を吸 った。中 座 していた構成を、再び編 み上げる。
無数の獣たちの、無数の視線。無数の対 になった眼、眼、眼。それらがあまりにも単純な模 様 で交 錯 する中心点で、オーフェンは叫 んだ。
「我 は跳 ぶ天の銀 嶺 !」
足を蹴 り出すと同時、身体の重さが消失する。
ドーチンを抱えて、森の色をしたその建物へと跳び上がりながら──
彼は、あるひとつのことを思い出していた。
◆◇◆◇◆
その建物は温 泉 街 の中心に、誰 はばかることないとばかり、堂々と建っていた。建物自体は古いものなのだろうと思う──こまめに改装しているのか、外観は真新しい印象だったが。
月明かりの下、ぼんやりと霞 むその姿を不 気 味 なものと評するのは、いささか公平ではないのかもしれない。だがマジクは容 赦 なくどんよりとしたものを感じながらそれを見上げていた。夜の温泉街。見回してひとけがないはずもない。実際、ホテルの入り口から出入りする客らしい人々の視線が、なんとはなしにこちらを向いたりしているのは、気づきたくなくとも意識せざるを得なかった。
「......ここね!」
「そうだね」
ロッツ・ホテルの入り口の真正面に立って、拳 を握 ってつぶやくクリーオウに、マジクは力無くうなずいた。横を(多少遠巻きに)通り過ぎていった三人連れの主婦らしき女たちが、少し離れてくすくす笑いをしているのが耳に入る。
どうやら、クリーオウには聞こえなかったらしいが。
彼女はずぶぬれになった服を着替えて、いつものTシャツとジーンズ姿になっていた。いつものように、頭の上にはレキがいる。それだけであれば、まあそれだけですむのだが......
剣を抱 え、白いTシャツの上にどこから見つけてきたのか、なにかのスポーツの防具のようなものを着けている。肩と、胸と腹、腿 と膝 を、パンケーキのような形をしたラバー製のパッドで包 み、背中には、なにやら途中で微 妙 に折れ曲がった木のスティックを背 負 っていた。
「どうでもいいけどクリーオウ、そのかっこ、なに?」
どうしても黙 っておけず、マジクは聞いてみた。クリーオウは、ん? と振り向いてくると、
「よく分かんないけど、スティックボールとかなんとかいう競技の道具みたい。パンフレットに書いてあったけど」
「......なんで着けてきたの?」
「身を守るためよ。当たり前でしょ」
あっさりと、クリーオウが答えてくる。それはマジクにしてみれば、最も恐れていた答えではあったのだが。
「え〜と」
少し後ずさりしながら、マジクはさらに輪をかけて恐れていた問いを口にした。
「なんで身を守る必要があるのかな」
「だって、殴 り込みに来たんだもの」
「ああああっ! やっぱりぃぃぃぃっ⁉ 」
やはり即 答 してきたクリーオウに、マジクは悲 鳴 じみた声をあげながら頭を抱えた。
後ろを向いて逃げようとするのだが、そこを背 後 から、むんずと襟 首 をつかまれる。恐る恐る振り返ると、やはりクリーオウだった。仏 頂 面 で言ってくる。
「なぁんで逃げるのよ」
「ううう......顔が腫 れてきたので早退しますう」
泣きながらうめくが、クリーオウはまったく取り合ってこなかった。襟首をつかんだまま身体 の向きを変えて、ロッツ・ホテルのほうへと歩き出す。当然引きずられながら、マジクはわめいた。
「ああっ! クリーオウクリーオウ、とにかくそんな殴り込みとかしておかないほうが、ていうかあの宿で朝まで待ってたほうが安全っていうかわざわざ危険なものを踏まないですむっていうか!」

「なに言ってんのよ!」
構 わずに進みながら、クリーオウがきっぱりと声をあげる。
「エリスとシーナがいなくなったのよ! あいつらに誘 拐 されたに決まってるでしょ!」
「決まってないと思うけど!」
「なんでよっ!」
「だいたいおかしいんだって! ぼくが気を失ってたのって、ほんの数秒のはずだし、そんな間にひとりでふたりを連れて逃げるなんて──」
「なに言ってんの。起こったことが事実よ!」
「じゃ、じゃあ、天 井 に立ってた人はっ⁉ 」
「よくわかんないから保 留 っ!」
「できればこんな殴り込みなんてほうを保留して欲しいんだけど──」
と。
マジクはふと、自分がもう引きずられていないことに気づいた。クリーオウが立ち止まっている。そろそろと立ち上がり、彼女の後ろ姿を見る。レキだけがこちらを向いて首を傾 げていたが。
斜 めになった緑色の瞳 を見ながら、マジクはうめいた。
「......クリーオウ?」
「来たわよ」
そう言ったのは、無論レキではなく、クリーオウだった。
「えっ?」
嫌 なものを感じながら、視線をレキではなく、クリーオウの肩越 しに、彼女が見ている方向を見やる──つまりは、ロッツ・ホテルの入り口のほうを。かなりの距 離 引きずられて、もう間近になっている。嫌みではない程度に目立つロッツ・ホテルの看 板 。その下にある広いロビーの入り口から。
出てくる人影があった。普通の観光客とは明らかに違う、どこか慇 懃 で、背が高く、落ち着いた、つまりはそのような種類の男である。
着ているものは従業員用のぴしっとした茶色のスーツで、明らかに染 めたものと分かる金 髪 。これは、ほおと下 顎 の面積が広すぎるせいで、へたな美 男 子 などよりは、どこか微妙に似 合 って見えた。
「あの、お嬢 さん」
丁 寧 な物腰で、仁 王 立ちするクリーオウに声をかける──
「そのぅ、お客様より、苦情がありまして。あなたのそれは、あまり外を出歩くのに適した格 好 ではないのではないかと......それに、玩 具 とはいえ剣に似たものを持ち歩くのは感心いたしませんよ」
「えい」
ごぎん。
ほんの一 瞬 。鈍 い音が響 き、次いで、その男が鼻血を噴 き出しながらその場に倒れるのが見えた。クリーオウが剣を鞘 ごと振り上げた姿 勢 で、こちらを振り向いてくる。
「戦 闘 開始よ、マジク。あんまり邪 魔 にならないようにしてよね」
「......だったら、連れてこなければいいのに」
泣きたいような笑いたいような複雑な心持ちで、マジクはぼやいた。もっともそうは言っても、彼女ひとりを行かせるわけにはいかないため、結局はついてこなければならなかっただろうが。
と、見ると彼女は躊 躇 もなく、すたすたとロッツ・ホテルのロビーへと入ろうとしている。地面に倒れている男と同じ格好をした男たちが二、三人、あわててそれを止めようと集まっているようだった。
ため息をついて、あとを追おうとする。刹 那 ──
「おいっ!」
びくっ、と身体を震 わせて、マジクは立ち止まった。声は背 後 から聞こえてきたものだった。向きやると、いかつい顔をした大男がその顔面を紅 潮 させて近づいてくる。服装は、ごく普通のシャツとズボンだったが、腕章のようなものを着けていた。暗くてよくは分からないが、その文字は読めないこともなかった──というより、予想がついていた。『自警団』と書いてある。
その男は大 股 で近づいてくると、こちらの肩を手荒くつかんできた。ほとんど揺さぶるようにして、問いかけてくる。
「どういうことだ⁉ お前ら何者だっ⁉ 」
「え〜と......」
いくつかの選 択 肢 が脳 裏 をかすめた。だが──
謝 ってもどうしようもないだろう。魔術を使うことはオーフェンに禁止されている。オーフェンでさえ感 服 するような完 璧 な制 御 力が得られるまで、もう使うまいと思う程度のプライドはあるつもりだった。事情を説明......これほど馬 鹿 馬 鹿 しいことはないという気もする。泣いてごまかす。笑ってごまかす。天に祈 ると空から天使が降りてきて邪 悪 な男を星の矢で射 抜 いてくれる。
(結局のところ......)
なにかをあきらめる気持ちで、マジクは嘆 息 した。
(ぼくだけ遠 慮 してる意味なんてないのかな)
なぜか頭の中には、キムラックにいた殺し屋の顔が思い浮かんだが。
決心すればすることはひとつだった。たったひとつ、イメージできたのは、お師様ならどうする? ということだけ。状 況 は非常に分かりやすいと言える。怒 りの大男。肩をつかんでいる。勝てそうにない。
反射的に、身体が動いた。足だ、と直感で感じる──オーフェンであれば、膝 を蹴 り砕 いてから、うずくまった相手の後頭部にでも肘 を打ち下ろしただろう。何度も見たその動きを思い描 いた瞬間、自分の身体も動いていた。
右足のかかとで、相手の右膝を狙 う──
げしっ。
「痛て」
「............」
反応は、それだけだった。男はきょとんとしたような顔で自分の足 下 を見下ろしている──マジクの右足が、彼の右膝を蹴ったまま止まっていた。
「......あれ?」
つぶやく。見上げると、男の表情が、さらに怒りの色を濃 くしたようだった。当たり前と言えば当たり前のことだったが、どこか不条理なものも感じる。マジクは、男が怒りに身体をこわばらせている間に、その男の手から肩をすり抜かせると、数歩ほど開いた距 離 であわてて手を振った。
「あ、あの、いやその今のはちょっとしたアレで──ええと、謝ります! それで事情を説明して、泣いて笑ってごまかします! ああ、できれば五分ほど、天に祈る時間が欲しいんですけど......」
「こんガキ!」
男はこちらの言うことには耳を貸す様 子 もなく、怒りのまま拳 を振り上げ駆 け出してきた。一瞬、息が詰まる。いや──
息を吸っている。
自分が息を吸いながらその男の動きを見ていることに自分自身多少の驚 きを覚 えつつ、マジクは振り下ろされてくるその拳を目で追った。自分に向かってくる拳。ほうっておけばそれに当たる。半身を横にずらしてその軌 跡 から外 れると、マジクは落ち着いて右足だけをその場に残した。次の瞬間、自分の横を通り過ぎようとしたその男が、マジクが突き出した足につまずいてバランスを崩 す──
「ああああああっ⁉ 」
二、三歩勢 いのまま進んだ、その先には。
「うげっ⁉ 」
さきほどクリーオウに殴 り倒された金 髪 の男が、意識を取りもどして立ち上がりかけていた。
「うわあああああっ⁉ 」
お互 いに悲 鳴 をあげながら──
激突し、次の瞬間には、ふたりとも目を回したままそこに積み重なっていた。
「あわわ」
単なる偶 然 ではあったが、自分のしたことの効果に思わず戸 惑 い、マジクは口に手を当ててあたりを見回した。
その瞬間。
どむっ!──と、爆発音が響 く。
その発生源は疑うべくもなかった。ロッツ・ホテルのほうを見やる。クリーオウがなにかをしたらしく、ロッツ・ホテルのロビーからなにやら黒 煙 が昇っている。悲鳴をあげながら、客や従業員がわらわらと逃げ出していた。
「......あっちのほうが、あわわだなぁ」
ぽつりとつぶやいて、マジクは気絶したふたりを残し、人が逃げていく流れに逆 らってホテルへと向かっていった。
ホテルの中はひどい状態だった。
破 壊 された壁 や柱が煙 をあげ、従業員らが容 赦 なくあちこちに倒されている。逃げ遅れた客の泣き声やわめき声が聞こえるが、さほどの被害が出ていないのは、クリーオウがこのホテルを「焼き払う」のではなく「ぶっ壊 す」つもりだからだろう──大 規 模 な火 災 になどなれば尋 常 ではない被害を出すところだった。そのあたりを、当のクリーオウが意識しているのかいないのかは分からないが。
逃げまどう人たちでごった返すロビーを、マジクは素 知 らぬ顔で通り過ぎた。人の流れに逆らうのは難 しいようではあったが、端によって壁伝いに進めばさほどのこともない。幸運だったのは、クリーオウが進んでいった先が容 易 に知れることだった。廊 下 のひとつの奥から破壊音や悲鳴が響いてきている。
とりあえずその廊下を急いで進み──
たいした労もなく、クリーオウの背中を発見する。
「クリーオウ!」
例のスティックボールの棒で、料理長らしい男を殴り倒している彼女に、マジクは呼びかけた。
クリーオウは、さっと振り返ってくると、
「あら、マジク」
まるで他人事のような声を出してくれる。
こめかみに痛いものを感じながら、マジクはうめいた。左右を見回し、とりあえずこの廊下に、従業員やら警備員やら、とにかくそういった者がいないことを確認しながら、
「ええと......気になってたんだけどクリーオウ、攻撃目標とかって、決めてるの?」
「決まってるでしょ、そんなの」
彼女は腰に手を当て、堂々と答えてきた。
「根こそぎぶっ壊すのよ」
「あああああ」
なかば予想していた答えに、また頭を抱 える。
(なんとかしないと......)
漠 然 とした使命感につつかれながら、マジクはとっさに思い出して、ぽんと手を打った。
「あ! そうだ......あ、あのさ、クリーオウ。大事なこと忘れてないかな? ええとほら、ここに来た本当の目的は、殴り込みじゃなくて、エリスさんとかを探 し出すことだったんじゃなかったっけ」
「......そーいえば、そーだったかしら」
頼 りなげに虚 空 を見上げ──どうも本当に忘れていたのかもしれない──、クリーオウがつぶやく。
マジクは文字通り飛びつくように言葉を続けた。
「そーだよ! 彼女たちを探す前にここ壊したりしたら、みんな死んじゃうよ! ええと、きっと誘 拐 した人を客室に監 禁 したりはしないから、従業員の部屋とかに閉じこめられてるんじゃないかな──ここ、ちょうどそういう部屋のあるところみたいだし。とりあえず、片っ端からドアを開けて確かめてみようよ!」
「そうね!」
スティックボールの棒を持ったまま拳 を固め、クリーオウが力強く同意してくる。頭上のレキも、なにやら前 脚 をなんとか丸めて拳のようにしようとしていた。
「とりあえず、扉 を開けて知り合いがいたら十点ね。ちょっと待って記録用紙作るから。一列ビンゴでトラベルチャンスよ」
「いや......即 興 でそんなこと言われても困 るけど......」
つぶやきながらも、なんとか時間を稼 げたことに満足して、マジクは一番近い扉に手をかけた。ノブをひねって、大きく押し開ける──
そして。
「......十点......」
きょとんとしながらクリーオウとふたり同時、同じことを口にしていた。
返ってきたのは──
「だぁれが十点だっ⁉ 」
そんな怒 鳴 り声である。それはロープでぐるぐる巻きになった状態で、身体 をくねくねさせながらさらに声を張り上げてきた。
「それどころか俺様は、毎度おなじみ百二十点満点の英 雄 ・マスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカンなので、穴 掘 って叫 び殺されたくなければ、この際助けてくれなさい」
「いやまぁ、いいけど......」
マジクはつぶやきながら部屋に入った。続けて入ってきたクリーオウが、不思議そうに声をあげるのが聞こえてくる。
「......なんであんた、風船みたいになってるの?」
「断じて風船ではないっ!」
風船だった。
というか、マジクにはそう思えた。ボルカンは部屋の中央に、ロープでぐるぐる巻きにされて浮かんでいる。
普通に天 井 から宙づりにされていれば、それだけのことだったろうが、ボルカンを巻き付けたロープはそのまま、下にある粗 末 な机 に固定されてあった。つまりは、そう──風船のようになっている。
それだけを見れば、重力に逆 らって浮かび上がっているボルカンを、ロープで高さ二メートルほどのところに結びつけてあるように見えた。ロッツ・ホテルの天井は高い。三メートルほどか。そのため、天井まではかなりのスペースがあった。
部屋はかなり散らかっている。二段ベッドに、雑多な荷物。あまり使い古した雰 囲 気 はない。比 較 的新しい従業員の部屋か。
と──
見ているうちに、すたすたと無 造 作 にクリーオウが部屋へと入っていった。剣を鞘 から抜くと、さっと左から右に、その銀の刃を走らせる。ボルカンをつなぎ止めていたロープが、ぷつりと切れた。
「どわあああああっ⁉ 」
どさっ、と、ボルカンは。
落ちていった──天井に。
そして、ロープでぐるぐる巻きにされたそのまま、天井に足を着けて逆さまに立つと、
「こらこらこら! そーゆう安 直 な行動を取ることが許されるのは、六歳児までだぞっ!なぜ六歳児なのかとゆーと、七歳からはバナナはおやつですかとか聞くと笑われるからだ」
「いやなんの理 屈 かよく分からないけど......」
困 ったようにクリーオウが──天井に立つボルカンを見上げて、ぽつりとつぶやいている。どうやらその表情からすると、ボルカンを助けたというよりは、ロープを切ったらどうなるのか試 してみたかっただけだったのかもしれない。
マジクも部屋に入ると、とりあえず聞いてみた。
「な......なんで、逆さまになってるんですか?」
「なにっ⁉ 」
ボルカンは、とんでもなく意外なことを聞かされたというようにうろたえる様 子 を見せると、真 顔 で聞き返してきた。
「逆さまなのは、お前らではなかったのか? 全世界的にそーゆうのが流 行 りだしたのかと思っていたのだが」
天井で仁 王 立ちし、そんなことを言っている。
マジクは、なにかふらっと意識が横に倒れるのを感じながら、
「多分......逆さまなのは、あなただと思いますけど」
「それよりも、なんでこんなところにいるのよ。崖 の下に放り投げられてたくせに」
「あ! そうだ。あなたの弟さんが、あなたのこと死んだって言ってましたよ!」
いろいろなことを思い出し、指 摘 する。が、ボルカンにとってはあまりたいしたことではなかったのかもしれない。ロープで巻かれて芋 虫 状態のままではあったが器用にふんぞり返ると、
「はーっはっはっ! この不死身の魔人、頑 丈 大会二位の実績を持つこの俺様が、そうそう簡単にくじけたりするはずがなかろう! というかなんで死んだとか思うのか、それが謎 だ」
「いや、だからそんなこと言われても......」
「しかも二位なのね」
ぽつりと、クリーオウがつぶやくのが聞こえる。
ボルカンは、改 めて言い直してきた。
「ふっふっ。まあそれはそれとして、貴 様 ら馬 鹿 じゃりどもにも、この俺様がここでどうしているのか、その英雄的な顛 末 を聞かせてやろう」
「......なんで?」
「......いや、聞かせれば、なんとか助けてくれるんじゃないかなーと思って」
「いいですけど......」
「それは、緑の部屋から始まったのだ!」
びし──と指をさしたかったのだろうが。
あくまでロープで縛 られたままであるため、縛られたなりに小さく指を一本立てるにとどまっている。
そのまま、ボルカンは大声であとを続けてきた。
「目が覚 めた! そして廊 下 を歩き、みょーな模 型 があって拾 った日記でそれをあーしてこーすると良いと書いてあってその通りにして気がついたら、なんかこの建物の中にいたのだった! んでたまたま入ったこの部屋にいた馬鹿丸だし二人組にも日記を見せてやったら、こーなったわけだ。ああ英雄ボルカノ・ボルカン様の明日やいかに。続く」
「............」
「......なにか分かった?」
クリーオウが、聞いてくる。マジクは無言のままかぶりを振った。
ボルカンは、どうやら呆 れたらしい。あからさまに嫌 そうな顔をすると、
「むう。やはり子供は子供。理解力は無 脊 椎 な感じか。さっきの二人組も、同じ説明でなにひとつ閃 きを持たなかったよーだったが」
ひとしきりそううなってから、その地 人 は改めて言ってきた。
「つまりはだ、お前たち愚 昧 な小 僧 どもにも分かるよう、アナグラムしてみるとだな」
「......アナグラムなんてされたら、もっと分からなくなるだけなんですけど......」
「あっ!」
と、クリーオウが叫 んだのは、唐 突 だった。
声に驚 きつつも、次の瞬 間 、ばさっとなにかが床 に落ちる音を聞く。どうやら、ボルカンの懐 から滑 り落ちたものらしいが──それは、本だった。
本というより、なにかのノートだろうか。薄っぺらい灰色の帳面である。クリーオウがそれを素 早 く拾い上げ、そして開いた。それを横から、マジクものぞき込む。
「ああっ!」
ボルカンが、やや遅れて悲鳴をあげていた。
「むうっ。お前たち、そーやって英雄の落とした物をだな、軽々しく拾ってのぞき見るというのは、本来なら丸クッションで埋 め殺されるべきものという──」
「うるさいわねっ!」
ボルカンの話を聞くよりも、明らかにこちらのほうが手がかりらしいと踏んだのか──マジクもまったくの同意見だったが──、クリーオウが即 座 に叫ぶ。こっそりとしゅんとなっているボルカンはとりあえず無視して、マジクはそのノートを凝 視 した。
ボルカンが、それを『日記』と呼んだ理由はすぐに分かった──ノートの各ページには、日付が細 かく記 されてある。古いノートだった。紙は変色し、文字のインクもかすれている。だが読めないことはない。ページに欠 損 はなく、それがよほど大切に保管されていたことを感じさせた。その第一ページ目。そして、第一文......
タイトルだった。決して簡 潔 とは言えない、しかしひとつの。
「......天 人 種族の処 刑 場なる遺 跡 における、不死の種族の処刑方法の推 測 」
マジクは静かにそれを読み上げた。タイトルの下には、署 名 がある。
「フィーン・ショスキー=ロッツ」
みしっ......
「誰 っ⁉ 」
クリーオウが、弾 かれたように振り向いた。マジクもそれに倣 って、部屋の入り口に対して身 構 える──床が軋 む音。決して大きくはないが、静 寂 の中ではひときわ大きく響 いた。
扉 は開けっ放 しになっていた。不用心かもしれなかったが、もとより隠 れようという発想がなかった──思い出して、マジクは自分のことながら呆 れた。これだけ騒 げば、今さら隠れるのもと思ったのだが、わざわざ扉を開けておく必要はなかった。その扉の陰 に、人影が見えた。気 配 を立てたのは、間違いなくそれだろう。
「フィーン・ショスキー=ロッツ」
その人影は、針 でも呑 むようにその名前を繰 り返しながら、扉の陰から姿を現してきた──
「そんな名前を、見たこともない子供から聞かされるとはな......」
それは、老人だった。
厳 しい表情を何十年となく顔に刻 み続け、ついにはその形に固定された、そんな雰 囲 気 を持つ老人だった。
火の点 いていない葉巻を手に持って、つり上がった眉 毛 の下からこちらを見ている。
「......お前たちか? わしの宿に、殴 り込んできた子供ってのは」
「そーよ!」
クリーオウが、物 怖 じせずに一歩前に出る──
「エリスとシーナを返してもらうわよ! 言っとくけれど、あんたんとこのチンピラがふたりを誘 拐 したのは間違いないところなんだから!」
「あ、えーと......その、そうです」
なにかフォローしようとして──クリーオウににらみつけられ、マジクは言葉を引っ込めた。代わりに、告げる。
「その、お互 い警察なんてことはヤでしょうし、ここはなんとか穏 便 に収 まらないと、クリーオウは本気でここいら一帯を焦 土 にしかねないんですけど」
「そうか」
あっさりと、顔色も変えずに、その老人。
「そうか、って......」
マジクは言葉に困 って、その老人の言うことだけを繰り返した。
老人は──ただ淡 々 と、あとを続けてきた。クリーオウにでもなく、こちらにでもなく、ましてや天 井 できょとんと座 っているボルカンにでもなく、ただ独 りごちるように。
「シーナ、か......あれはまだ、続けているのか......?」
「え?」
クリーオウが、聞き返す。彼女は怒 りをはぐらかされた格 好 で、かくんと肩をコケさせているのが見えた。
なんにしろ、老人は取り立てて反応らしい反応も見せてはこなかった。しばし、ただ沈 黙 を葉巻のようにくゆらせて──
数秒後、こちらを向いてきた。
「お前たち」
「は......はい?」
なんとなく気 圧 されて、マジクは返事した。老人が特になにをしてきたわけでもない──眉毛を上げたわけですらない。ただ自分を見てしゃべるその老人に、マジクは意味もなく動 悸 を覚 えながら対 峙 していた。
老人は続ける。
「お前たちをどうこうするつもりもない。別にわたしにとって、警察の介 入 はまったくもって恐れる要素などないとしてもだ。だが、そのノートを返してもらおう。それはもともと、わたしの息 子 の物だ」
彼は、ゆっくりと胸 元 で──持っていた葉巻を、片手で握 りつぶした。
「二十年前に死んだわたしの息子の物だ」
◆◇◆◇◆
そこは広大な部屋だった。
しかしその大半を水 槽 で占 められ、人が存在できるスペースとしては、数メートル四方と、水槽の隙 間 であるせまい通路だけだったろう。そのわずかなスペースは、床 に倒れたふたりの女と、そのふたりを見下ろすように置いてあるこの付近一帯の立体模 型 地図、そして、それらすべてに背を向けて水槽を眺 めているダークスーツの男とで、十分に手一杯になっている感がある。
「......へへぇ......」
男はほかに思い浮かんだ言葉もないのか、意味のない音を口にした。
水槽にはどれも、薄緑色の液体が充 満 している。何十、何百とある水槽の列を眺めて、意味のあるせりふを紡 ぐことは無理だった。その液体自体が発光し、あたりを緑色に染 めている。
と──
ぽうっ、という小さな音とともに、模型地図の上に光が灯 った。その光はすぐに巨大化し、床の上に転移すると人の形を取った。そして......実体化する。
「兄 貴 ! ようやくあのアマ、まいたっスよ! それで──」
実体化したその人影は、先にいたダークスーツの男に向かって声をあげた。
「言うとおりにしたら、ホントに兄貴の言うとおりになったっス!」
「......そうか」
ダークスーツは、さほど感 慨 を示しはしなかったが──
手が震 えているのが、わずかにのぞいていた。
「てこたぁ、あのノートに書いてあったことは本当だってわけだ。こいつぁ、いけるんじゃないのか?」
「いけるんスか、兄貴⁉ 」
「ああ」
「でも兄貴、なんでそんなの気にするんすか?」
「馬鹿、お前。天人の遺 跡 だぞ。それも、手つかずのだ──こいつは金になるんだよ。俺も報告書でしか見たことねえけど、動いてる金額っつったら」
「すごいんすか? すごいんすね」
「それにお前。処 刑 場 だぞ。処刑場っつったら......処刑のための道具があるってことだろうが。それも不 死 身 のドラゴン種族を殺すような道具だぞ。もはや兵 器 と言ったって差し支えねえ。誰を相手に売りつけたって、一生どころか来 世 に投 資 したっていいくらいの金になる」
「あああ、兄貴ぃぃ。涙が止まんねっすよ」
「ああ。あんなところで、わがままな社長に怒 鳴 られてるのなんざ、クソみたいな思い出にしちまえるってもんだ」
男は断言すると、自信たっぷりにうなずいた。
そして──相 棒 の首 筋 に、銀色のなにかが閃 くのを見た。
............
あなたのことを知らなかったわけではないのだ。
忘れていたわけでも。
ただ眠かっただけ。
わたしは何年も無 為 な時間を過ごしてきた。
それはいい。だが。
あなたは......あなたは、どうだったのだ?
◆◇◆◇◆
「我は放つ光の白刃っ!」
せまい入り口へと殺 到 してきた猿の群れに向けて、魔術の光が収 束 する──
爆発は激しくこちらの生 態 を揺 さぶった。轟 音 と熱 波 に内 臓 が悲鳴をあげる。光熱波はなんとか猿を数匹、後方へと押し流したようだったが。
その大半は──両手に光の文字を輝かせながら、なにごともなかったように炎の中を突破してきた。
「くそっ──」
舌打ちする。
(やっぱり通じねえ......が、まったく通じねえってわけでもない、か)
熱 衝 撃 波 だったが、何匹かには効果があった。恐らくは、「透 過 」させるのが間に合わなかったのだろうが。
「うわぁっ!」
後方にいるドーチンが、悲鳴をあげている。この入り口に飛び込んでからまだ数秒。先に、奥に逃がしたかったのだが。
振り向いて確認したいが、追いかけてくる猿たちをなんとかしなければ、そうもいかない。
(反応できないことは、防 げない──)
オーフェンはそう判断すると、大きく詠 唱 した。
「我は描く──」
空間に放たれた魔術の構成が、彼の力を得て活性化する。
「光 刃 の軌 跡 !」
叫びとともに、彼の周囲に、握り拳ほどの光の球が七つ浮かんだ。光はいつものように色味のない白。それぞれが、震えるようなジジジという音を甲 高 く奏 でている。
猿たちの動きが、止まった。警 戒 するように両手を広げているが、こちらの攻撃の正体が分からないせいか、魔術文字は発生していない。
(こぉの──)
頭 蓋 から眼球が飛び出るほどのプレッシャーで、オーフェンはその視界の中に、自らの造りだした光球たちのそれぞれの軌 道 を描き出した。そして。
じっ......!
セミが鳴くような、そんな一瞬の音が鼓 膜 に残った。彼が思い描いた通りの軌跡をたどって、光の球が空間を滑 っていく。
──のが見えたはずもないが。
光速で転 移 する疑 似 球 電 は、猿の群れに悲鳴をあげる猶 予 を与えることすらなく、すべてそれぞれの目標に着弾した。獲 物 を巻き込んで膨 れ上がり、激しく燃焼する。通路の温度が上昇する中で、オーフェンは目で追って確認した。入り口から追いかけてきた猿は、これでとりあえず全滅したらしい。
(......全滅?)
ひやりと、背筋が凍る。そんなはずはない。
(数が少なすぎる!)
声なき悲鳴をあげながら、オーフェンは振り向いた。明かりといえば彼の魔術の鬼 火 だけ。だがそれに照らされた暗い通路の少し先で、ドーチンが固まっている。
地人の硬直の理由は、すぐに分かった──そして、入り口から入ってきた猿が少なかったことの理由も。ドーチンが震 えて凍 るすぐ先の、通路の壁から、床から、天井から、「透過」した猿が、ゆっくりと姿を見せようとしている......
「だあああああああっ!」
どうしようもなく、オーフェンは声を張り上げた。後方からドーチンをつかみ上げると、またもや全力で構成を編み上げる。
「我は踊る──天の楼 閣 っ!」
視界が、消えて。
再び現れた時には、彼は一瞬前に立っていた位置から、数メートルほど通路の奥へと移動していた。まだこのあたりには、猿は出てきていない。

「くっそ......」
ドーチンを床に置き、猿たちが出てこようとしている通路を背後に見ながら、オーフェンは息をついた。疲労で身体を重く感じる。
「今日は大魔術のオンパレードだな」
「景気がいいんですか?」
妙にのんきなことを、ドーチンが聞いてくる。オーフェンは半眼で答えた。
「すぐに力尽 きちまうってことだよ!」
見ると、壁から出てこようとしていた猿たちは、もうほとんど姿を現している。
「奥に逃げるぞ!」
オーフェンは叫んで──
通路の奥に向かって、全力で駆け出した。
◆◇◆◇◆
一瞬だった。
ほんの一瞬で、その四人はその場に姿を現した。
その模 型 の地図の上に光が灯り、それが床に降りて実体化する。光はよっつ。みっつは
床にそのままとどまり、そしてひとつは、実体化した瞬間、天井へと落ちていった。
「ぼぎぇ!」
天井に落ちた、一回り小さい人影が、そんな音を発する。
そこは広大な部屋だった。それだけに、天井も高い。
床に降りたのは、頭に黒い子犬を乗せた金髪の少女──鞘 に収まった剣を抱えている。彼女に少し遅れて、金髪の少年だった。そして最後に、不似合いな古いノートを持った、厳 しい眼光の老紳 士 である。
「ひゃー」
少女の声が、あたりに響いた。目を丸く見開いて、あっけらかんと驚きを口にしている。
「なにこれ。いきなりこんなとこに来ちゃった──転移ってやつ?」
「そ、そうだね」
少しバランスを崩 しながら、少年が同意する。なにかを見るようにきょろきょろと頭を動かし──
「ここは......どこだろう」
広いスペースにところせましと並べられた、緑色の水 槽 の列 。緑色の燐 光 を放っているのは水槽そのものではなく、中に入っている液体だった。ほんのりと緑に染まった空間に、液体の中で弾 ける気 泡 の音が鳴り続けている。
「蘇 生 装 置 」
「......え?」
少年が、聞き返す。
声をあげたのは、老人だった。ノートを見ながら──額に浮かんだ脂 汗 を、意志の力だけで駆 逐 できるとばかり頑 なに無視して、
「蘇生装置だ」
それだけを繰り返す。
と──
「あー!」
今度は少女が、大きな声をあげた。少し離れたところを指さして、
「エリス!」
彼女が指さした先に、女が倒れていた。まだ若い。黒い髪を、ひとつに束ねた、どこか細い印象を与える女。
少女の頭から、黒い子犬が飛び降りる。その犬を従えながら、少女はすたすたとその女のもとへと近寄った。
「ほかには誰もいない......」
少年が、慎 重 な面持ちであたりを見回しながら、そうつぶやいた。少女はあまり気にした様子もなく女の横にかがみ込むと、
「大丈夫。生きてる」
「当たり前だ」
無感動につぶやいたのは、老人だった。少女は、さっと振り返った。機敏に動く彼女の周りで、彼女自身の柔らかい金髪が跳ねて踊る。
「でも──」
叫ぶ彼女が指し示す床の上に広がっているのは──
ぽっかりと丸い、拳大ほどの血 痕 だった。
◆◇◆◇◆
石造りの緑色の通路。
その中で足音を刻 みながら、オーフェンは叫んでいた。
「ドーチィィィン!」
「はいいっ⁉ 」
同じように横を走っているドーチンが、必死の声で返事してきた。それに向かって、続ける。
「ひとつ気がついたんだが!」
「なんでしょうっ⁉ 」
走りながらの会話は無情に呼吸を苦しくしていくが、それでもオーフェンはそれをせずにはいられなかった。前方を指さし、
「俺たちは、ずーっと一本道を走ってる!」
「そうですねぇっ!」
「なのにだっ!」
「はいっ!」
「俺たちより先にここに逃げ込んだノサップに、どーして追いつけないんだっ⁉ 」
「実は、ものすごく足が速い人だったんじゃないですかっ⁉ 」
「そーは見えなかったぞ!」
「じゃあ、もう既 に捕まっちゃってるんじゃ⁉ 」
その答えに、オーフェンは足を止めた。靴の裏が床をこすって、鈍い音を立てる。突然立ち止まったこちらに面食らったように、ドーチンも数メートルほど行きすぎてから足を止める──
「ど、どうしたんですか⁉ 」
聞いてくるドーチンに、オーフェンはかぶりを振った。
「捕まってないと仮定する」
「......はぁ?」
ドーチンが、すっとんきょうな声で聞き返してくる。
「こ、根 拠 は?」
「ンなもんない! 希 望 的 観 測 だ! あいつが捕まってないとして、その理由はいったいなんだ⁉ 」
オーフェンは破れかぶれに声をあげると、走ってきた通路を振り向いた──猿たちは、石の通路ではあまり早くは走れないのか、かなり遅れてついてきている。あと十数秒は大丈夫だろう。もっとも、追いつかれそうになったとして、もう一度走り出すなどということができればの話だが──とうに体力の限界を過ぎた身体 は、酸 素 を求めてひきつるように脈 動 していた。
(だいたい、あいつが捕まってたら捕まってたで、その場に出くわさなければおかしいだろうが?)
まったくどこにもいないというのならば、考えられるのは、抜け穴か隠 し通路の類 である。
(そんなものが......?)
と、通路を見回す。
通路はいたってシンプルなものだった。高さ、幅ともに三メートルほどか。継ぎ目の見えない奇妙な石造りの壁で囲まれている。ほんのりと光を放つ緑色の壁である。それだけでは明かりが不十分であるからか、天井にもいくつか、白い明かりを放つ魔法文字が十メートルほどの間 隔 で描かれてあった。
抜け道も、隠し扉もありそうには見えない。あったとしても、探している時間などないだろう。
(あいつと俺たちの違い......)
出身地? 年齢? そんなものがぽんぽんと頭をかすめていき──
オーフェンは、はっと気づいて顔をあげた。同時に、ドーチンが叫ぶのが聞こえてくる。
「あああああっ⁉ もーあんなとこにっ!」
振り向くと、猿たちがもうあと数歩というところまで追ってきていた。
それは無視して、オーフェンはドーチンを捕まえた。抱え込んで、天井を見やる。
「こういうことかっ!」
彼は叫ぶと、天井で輝く魔術文字に向かって魔術の構成を展開した。
「我は跳ぶ天の銀 嶺 っ!」
そして──
抱えたドーチンごと、彼は、魔術文字の中に飛び込んでいった......
「だああああっ!」
石の床に転げ落ち、肩をひどく痛打しながら、オーフェンはなんとか体勢を立て直した。最初に視界に映ったのは緑色の床。もといた場所と同じ、緑色の床だった。あてずっぽうな覚悟で天井の魔術文字に飛び込んでみたのだが、どうやら外れだったらしい──
舌打ちしつつ、迫ってきていた猿たちのことを思い出して破壊的な魔術の構成を思い浮かべる。ドーチンを押しのけながら起きあがり、右手を掲げてその構成を放とうとして、彼は、はたと動きを止めた。
「......あれ?」
そこは、もといた通路とは違う場所だった。壁も床も天井も、似たような緑の壁だったが、そこは部屋になっていた。なにもない、つまらないと言えばこれ以上のものはない部屋。
変な造りをしていた。出口はある──床から一メートルほど高い場所に、出入り口らしい通路がぽっかりと開いていた。天井には、直方体を寝かせたような形の、意味のない出っ張りがあった。なにに使うものなのかは分からないが。大きさは、ちょうど人間がぴんと背筋を伸ばしたほどの大きさ。つまりは棺 桶 サイズだった。
「............」
しばし見回し、
「どうやら、一応は逃げられたみたいだな」
うめく。不思議そうに、ドーチンが問いかけてきた。床に転がって、逆さの姿勢のままで。
「......どういうことなんです?」
「要するにだ、ここは──」
オーフェンは立ち上がりながら、漠然とあたりを示した。肩をすくめる。
「逆さま なのさ。ノサップを見たろ? 重力が逆転してた。ここは、重力が逆転した状態で生活できるように造ってあるんだよ。さっきの通路、魔術文字は照 明 のためにあるんだと思ってたんだが、あれは転 送 のための文字だったんだ。天井を歩いてれば、自然と転送される。ここのこれも」
と、天井にある直方体の出っ張りを指さし、
「寝台かなにかに使うんだろ。出口が天井にくっついてるのも、天井を歩いているのなら、そのほうが使いやすいからだ。まあ......根本的な目的はよく分からんけどな」
「ここ......なんなんですか?」
「パンフレットには、天人の処刑場がどーのこーのと......まあ、どこまであてになるか分からねえけど」
「さっきの猿も、結局なんなんでしょうね?」
「襲 いかかってきた以上は、遺 跡 の守 護 者 の類なんじゃねえかなぁ」
オーフェンは部屋の中を横切って、出口へと近づき、背伸びしてのぞき込みながら続けた。
「にしても、考えなしに飛び込んできちまったけど、ここから外に出られるんだろうな......?」
「行き当たりばったりですねぇ」
「うるせえな。ほかにどうしろってんだ」
自分でも不本意であったことを指摘されて、オーフェンは憮 然 と言い返した。
「だいたい、あの温泉街に着いてから、わけの分からねえことばっかりなんだ。なにがどうなってるのかさっぱり分からねえ。どーでもいいから、誰かひょこっと出てきて一から説明してくれりゃ面 倒 がねんだけどな」
「ンな無 茶 な」
ひどく冷静に、ドーチンが言ってくる。まったくその通りではあったが。
嘆 息 混じりに、オーフェンは顔を上げた。その時だった。
「ならば!」
どこからか、声が響く。
「わたしが助けになるだろう!」
「............⁉ 」
オーフェンは目をぱちくりさせながら、部屋の中を見回した──ドーチンも奇 妙 な様子で困り顔を見せている。見回しても声の主の姿はなく、その声が、例の出口の外から聞こえてきていることはすぐに知れた。自然、そちらへと視線が集まる。
しばらくして、その通路から──
太った指が、親指を下に向けた〝処刑〟のポーズで、ぬっと現れた。
「............」
ぽかんと見ていると、その声は静かに咳 払 いをした。そして、
「わたしは常々、疑問に思っていたのだが」
世間話でもするような口調で、実際に世間話としか受け取りようのないことを言ってくる。
「なぜ、学生は質問をしないのか。これは非常に理解しがたい現象なのだ。知りたいから学生なのではないのか? なのに、それを知らないということをアピールできない。これは奇妙な問題だな。走らない自転車があるかね? 食べられないパンがあるかね? あったとして、それが『いやあ、それは教授が悪いんのサ。授業が面白くねぇんだモン』などと意味不明なことを言ってくるかね⁉ 」
「............」
無言でいる以外なにもできないでいるうちに、その指は、ゆっくりと部屋の中に入ってきた──手首。腕。肘。そして全 貌 が明らかになるにつれ、その指が示していたポーズが、処刑ではなかったことにオーフェンは気づいていた。親指は、上を示そうとしていたのだ。ただ、身体全体、逆さまになっていただけだった。
やがて太った中年の男が、天井を歩いて姿を現す。男は目を閉じ、どこか超 然 とした態度であとを続けてきた。
「こういった格言がある。なにかを知らなかったこと、それ自 体 を恥じる必要などない。しかし、自分が無知であることを恥じないのならば、それは恥知らずであろう、と。君は質問した。誇 ってもいいのだ──ところで来 期 のわたしの研究室に参加せんかね? ボランティアと人は言うが、勉学の場はそれに参加できることが報 酬 なのだということを忘れてはならない」
「......いや、ていうか、あんた誰?」
あっけに取られつつも、なんとかまだ活動していた脳の一部分だけで、オーフェンは聞いてみた。見覚えはあった──昨日、宿で見かけた男だろう。ノサップといっしょにいた。
男は、彼にとっては逆さまに存在しているはずのこちらのことは気にもとめず、のんきな鷹揚さでうんうんとうなずいてみせた。
「わたしは、コンラッド。貴 族 連 盟 遺 跡 調 査 会 探 索 評 議 会 北部レジボーン支部研究員長を務 めさせていただいておる。君は?」
「あー......ええと......オーフェンです。なんか......魔術士なんだけど」
どことなく苦手な空気を感じながら、オーフェンはしどろもどろにそう告げた。
後ろから袖を引っぱって、ドーチンが言ってきた。
「あ、この人ですよ。昨日森の中で、まっぷたつにされてたのって」
が、コンラッドは、ドーチンのそのせりふを完全に無視したようだった。突然、ぱっと目を輝 かせると、身を乗り出して声をあげる。
「魔術士!」
その声は歓 喜 に満ちていたが──オーフェンは本能的になにか敬 遠 すべきものを察 して、半歩ほど後ずさりした。コンラッドは、これにも気づかなかったようだった。あるいは、自分に都合の悪いものは根本的に理解しないようにできているのかもしれない。
コンラッドは、こちらが退 いた半歩分、勢いだけで身を乗り出してくると、嬉 しげに叫んできた。
「これは素 晴 らしい! わたしの知人にもいないわけではないが、なんとも非協力的な連中でしてな。あなたのように、こういった実地に足を運んでくれるようなお方は非常に珍しい。やはり、ロジテク・オンヒューディー博士の『真理へと至 る学究の光 芒 』はお読みになられましたかな?」
「......いや、誰だそれ?」
正直に半眼で、オーフェンは聞き返した。コンラッドの目から、薄 皮 一枚剥 がれるように、光が翳 る。
「ああ......まあ、あんな本は分厚いだけで意味はないからどうでもいいのだけれども。では、キャサリン・マハト博士の『頑 張 ろう若者たち』は......?」
「知らないし」
「うう。パラップ・ノッコ氏の『九九は八十一』くらいは」
「......知らんっちゅーに」
「あああああ。なんてことだ」
コンラッドは、ひどくわかりやすく困 惑 の声をあげると──なにやら非難がましく斜 めにこちらを見て、聞いてきた。
「......折り紙くらいはしたことありますかね?」
「なんかそのレベルの落とし方がひじょーにムカつくが」
腕組みして、オーフェンは冷たく告げた。
「だいたい魔術士ってのは、魔術の制 御 だけで普通は手一杯なんだよ! 学習期間の大半をそいつに取られちまうんだ! それでもそこらの高等教育なんぞよりよっぽどハードな学習させられてるんだから、ほっとけ!」
「むう。これは一本取られましたな」
ごねるかと思いきや、妙に素 直 に、コンラッドが納得する。彼は感じ入ったようにまたうんうんとうなずくと、
「おや?」
と、今さらドーチンに気づいたのか、反応を見せている。丸い目を見開いて、
「そこにいるのは、殺人キノコではない人のひとり」
「......そんな変な覚え方するんだったら、忘れててください」
「いやいや、覚えておりますぞ」
すすす、と前に出て、ドーチンが立っている上を見上げ──というより、こちらから見れば見下ろしてということになるが──、コンラッドは疑問の声をあげてきた。
「実は、困っておりましてな。実は君の兄上が、わたしがここで発見した先達の研究ノートらしきものを、持っていってしまったようで」
「......は?」
「あのノートがあれば、大陸全土をセンセーショナルな衝 撃 で包むこともできるのですが──なんと聞いておりましたかセンセーショナルですぞ。こんな単語、一生で何回使うものやら」
「はあ......」
生返事しか返すことができずに──
オーフェンは、ドーチンと同じく、ペースに乗り遅れた気分でただ見ているしかなかった。
「わたしがここで発見したもの、これを聞けば、あなたがたもきっとセンセーショナルですぞ」
天井に逆さに立ったまま平然とそう言ってくるコンラッドを見上げ、いい加減首が痛くなるのを感じながら、オーフェンはドーチンが聞いてくるのを耳にした。
「......センセーショナルの使い方がかなり違うって言ってあげたほうがいいんでしょうか?」
言ってやったほうがいいのは考えるまでもない。ただし、言ったところでどうなるものでもないだろうが。というわけで、オーフェンは黙っていた。コンラッドは、なにやら嬉しげに笑みを浮かべると、なにやら自 慢 そうに言ってきた。
「今まで、天人種族の処刑場。これが発見できなかったわけです」
と、指を立て、適当にそこらを指し示す。
「不死の天人種族を、どうやって刑に服させることができるのか。これが謎だったわけですよ」
不死。
オーフェンはその単語を、苦々しく頭の中で繰り返した。無論これは、文字通りの〝不死〟などではない。天人種族が現在、歴史から姿を消しているそのことがそれを証明している。
天人種族の不死。それは彼女らが強大な魔術によって、死を遠ざけることに長 けていた──彼女らは長大な寿命を持ち、自 然 災 害 をも魔術でねじ伏 せ、あらゆる病を癒 やし、外敵に対しては戦った──その程度の意味でしかない。
が、それも時と場合による。特に魔術で死そのものを遠ざけることができるのであれば、その種族は、処刑者より強力に魔術を扱 う犯罪者を決して裁 けないことになる。平たく言えば、強い者を裁けないことになる。
だが実際には天人種族は、極 めて円 滑 に社会を運営していたとされている。司法の処理を含めてである。このことは、天人種族が地上から姿を消してから長い間、人間の歴史学者たちには大きな矛 盾 として疑問視されてきた。そのことは、オーフェンも聞いたことがあった。
だがそれでも苦々しく思ったのは──先 刻 、思い出したあるひとつのことがあったからだった。
(天人種族には......)
だがこちらの表情には気づかなかったのか、コンラッドはそのままあとを続けてきた。
「この遺跡──我々が今いるこの遺跡、これ自体は、まったく発見されていなかったわけではありません。調査隊が何度かここに来て......まあ、帰ってこなかったりもしたわけですが。帰ってこられなかった理由は、自分の身体で体験いたしました」
「............?」
よく分からず、オーフェンは視線で問いかけた。コンラッドは、これはすぐに察したらしい──学生の疑問には敏 感 なのだろう。すぐに付け加えてきた。
「あの獣 ですな。猿によく似た。あれの能力、理解できましたかな?」
「......さあ。なんだか、物質やらなにやらを透過させるのは見たけど、衛 兵 の類としちゃ、実 戦 的 じゃあねえな」
オーフェンは考えたままをそのまま口にした。なんとなく、昔教室にいた時のことを思い出しながら。横から、ドーチンが口をはさんでくる。
「苦戦してたじゃないですか?」
ため息をついて──オーフェンは肩をすくめた。
「天人種族が、純 粋 に戦 闘 のために作った生物があれだけたくさんいたら、〝苦戦〟なんぞじゃ済まないんだよ。いつぞやの殺人人形を覚えてるだろが? つまりは、俺たちが今生きてることイコール、奴らは実戦的じゃねえってことさ」
「然 り、然り」
コンラッドは満足そうにうなずいた。重力に逆らって、腹が揺 れている。
「あれは衛兵などではない。衛兵の意味はないのですよ。指で虚 空 をひとなでするだけで最高の兵士をすべて塵 にしてしまうような種族に、衛兵など馬鹿げてるわけですな。あの獣たちの役割は、自分たちの能力を罪 人 に対して用いること。そしてその能力とは──罪人を、この施 設 から外に出られないようにすること。
「......どうやって?」
「決まってるでしょう」
ひどく得意げに、自分を示す。
「標 的 の身体を傷つけないまま分 解 して、その体内に魔術文字を埋め込むわけです。さすがに自分の体内にある文字は解 除 できない──かの天人種族にすら。その文字の効 果 は、見てのとおり、その人間に働く重力を逆転すること。この建物から一歩でも外に出たら、そのまま、永遠に落ち続けるしかないわけです。空に向かってね。まあ、ここまでは、先 達 の研究で推 測 が立っていました」
「ひどく落ち着いてるんだな」
オーフェンは、半眼でつぶやいた。コンラッドはまるでガーデニングのちょっとした秘 訣 でも語るような口振りだったが、その内容はとてもではないが穏 便 なものではない──特に、コンラッド自身にとっては。
「......俺の勘 違 いじゃなけりゃ、話を総合すると、あんたは一生そのままでいるしかないっていうことになると思うんだが」
「まさか」
その中年の研究者は、しごく気楽に肩をすくめた。胸元のポケットを探り──なにを探したのか知らないが、目当てのものはなかったらしい──、なにも掴 めなかったその指を少し恨 めしげに見やると、
「所 詮 、立ち入り禁止区域内に入っただけの軽 犯 罪 です。二日もすれば、文字は自 然 消 滅 するはずですよ。過去に実例がある──この近辺を調査した調査員が、行方不明になって三日後、粉 々 になってこの森で発見されたそうです。推 論 はこうです。この森の中で、あの獣に捕まった調査員。哀 れにも天 空 へと落下していきました。まあ、数分で死 亡 したでしょうが。で、しばらくして文字の効 力 がなくなり、また地上へと落下してきた。これは地動説を否定する材料として、過去何度か報告書が学会で使用されておるわけですが」
「......裁 判 もなしに、猿が刑を執 行 するわけか?」
疑わしい気持ちで、オーフェンは聞いた。コンラッドは笑うと、
「いや、刑場に近づいた者をとりあえず捕 獲 して拘 束 する、緊 急 措 置 でしょうな。天人種族にしてみれば、重力逆転はさほど致 命 的 なことではないでしょうし」
と──ふと思い出したように、あたりを見回す。
「こういった説明をしようと思った前に、ノサップ研究員──わたしの助手ですが──がどこかへ逃げ出してしまったようでしてな。どうやら外に出る道を探そうとしていたようですが。そんなことしなくとも、出る方法はあるというのに......」
ぶつぶつとつぶやくコンラッドに、オーフェンは先を促 した。
「そいつなら、さっき会ったよ、多分無事だ。ンなことより、結局なにが言いたいんだよ、あんたは」
「ああ、そういえばさっぱりと話の核 心 を離 れておりましたな」
と、あくまでのんびりとした動作で、研究者は言ってきた。しまったというように額 を叩いてすらいる。
「わたしは偶然、貴重な古文書を手に入れましてな。それを見て、昔研究報告書にあったここの刑場について、ひとつ疑問がわいたのですよ。その古文書によると、実は天人は千年前から──」
「既に絶滅の危 機 にあった」
「............」
初めて、コンラッドという男の、あっけに取られた顔を見て──
特に満足感を覚えるというわけではないが、オーフェンは彼をにらむように見 据 えて腕組みした。
「最初の魔 獣 バジリコックとの戦いで、彼女らは既に子孫を残す能力を失っていたんだ。種族全体に滅亡が宣 告 されたからって司法が必要なくなるわけじゃねえだろうが、滅びようとする種族にとって、死刑ってのはいかにもナンセンスだろうと思うよ。わざわざこんな大規模な処刑場を作る意味があるとも思えない。だったらこの場所には、ほかの存在理由があってもいいんじゃねえかな......」
「素晴らしい!」
コンラッドは、感極まったのか完全に裏返った声でまくし立ててきた。
「わたしが古文書を見て初めて知った事実を、まるでとうに知っていたかのように! 特に天人種族が子孫を残す能力を失っていたことなど、知る者など誰もいないと思っておりましたぞ! いったいどこで、その知識を⁉ 」
「ん......まあ、ちょっといろいろあってね」
適 当 にごまかして、手を振る。ドーチンが、首をひねって声をあげていた。
「あの、昨日 から気になってたんですけど......古文書って? なんか、現代語で書いてあったとか言ってませんでした? そんなものが信用できるんですか?」
それを聞いて。
オーフェンは、思わずぎくりとした。思い当たって、聞こうとする──が、聞くまでもなく、コンラッドはなにかを自慢したい子供のような笑顔で、懐 に手を入れていた。
「ほほう......知りたいですかね? この有名な禁 書 のことを。わたしも古本屋でこれを発見した時には、我が目を疑いました。この一冊のために数多くの者が命を落としたとまで言われております。どうやらこれは翻 訳 された写本のようなのですが」
その説明に、確信を強めて、オーフェンは頭を抱えた──
「これです!」
きっぱりと叫んで、コンラッドが懐から取り出したのは。
ぺらっとした外 観 の、安っぽい一冊の本だった。紙の質が明らかに悪く、見た目よりさらに軽いだろう。装 飾 は派 手 だった。縁 取 り箔 押 しエンボス加工。それらの加工が、質の悪い表紙をさらによれよれのものとしている。色遣いはどうしようもなくいい加減だった。ピンク地に緑のストライプ。そしてでかでかと記されているタイトルは......
ドーチンが、ぽつりとそれを読み上げる。
「......世界書?」
「どーです! 素晴らしいでしょう! どうですか近寄って見てみませんか? 天井まで浮かんできてくれればいくらでも見せますぞ。そちらに渡すのはご勘 弁 ください。手を離すと本がそちらに落ちてしまうので回収できません──って、おや? 魔術士の方、どうして落ち込んだかのよーに床にうずくまっておられるのですかな?」
「い......いや、なんでもない......」
(い、一応まあ重要な歴史資料だったはずのもんを、俺たちの都 合 のごたごたで姉貴が燃やしちまったって話だから、さすがにちょっと悪いなーと思って俺が短くまとめてやったんだけど......)
頭を抱えたまま、オーフェンは独りごちた。どうせ二度と見ることもあるまいと思っていたのだが、あっさりと再会してしまった。
コンラッドは、その〝世界書〟をぺらぺらとめくって、ひとり思 案 顔を見せている。
「......しかしよく分からんのは、『というわけで、なんかよく分からんがこの神様ってのがどっかから出てきたもんだから困ってるらしい。帰れ神様』という記 述 なんですが......どう思われますかな?」
少しだけ開き直って立ち上がり、オーフェンは小声で言い訳した。
「いや......なんか最初のうちはまともに書くつもりもあったんだけど、なんかそんなヨタ話みてえなの延々書くの、途中から馬鹿馬鹿しくなっちまって......」
「ほう。確かに、そういう解 釈 もありですなっ!」
「ンなことより!」
オーフェンは大声で、思い切り叫んだ──ごまかそうという意 図 がなかったわけでもないことは、胸中でだけ素直に認めておいた。

「とりあえず、事 態 がたいして緊 急 性 ないってことは分かったけどよ、どっちみち、あのノサップっていう奴と、天下分け目の大抜けタヌキは見つけておいたほうがいいんじゃねえか? またよりいっそう馬鹿なことになる前に」
「それもそうですな。まあ、こちらの通路の先に転移装置があるんで、その使い方をきちんと解 明 すれば、人捜しも簡単だと思うんですが。なにしろ、さっきも言いましたが、この遺跡で発見した誰かの研究ノートを、殺人キノコではない人の兄のほうが持っていってしまったようで」
「いや。ですから......」
疲れたように、ドーチンが抗 議 の声をあげるが──
そんなこととはまったく別に。
オーフェンはうっすらと、頭の中に警 告 が走るのを感じていた。
別に具体的ななにかがあったわけではないが。
(......なんだろうな?)
なにか重大なことを忘れているような。
「............?」
腑 に落ちないものを喉 の奥にため込みながら、オーフェンは、その緑の部屋から出ていくコンラッドと、床からは少し離れているその出口へとよじ登るため、壁にかじりついているドーチンを見やった。
そして。
かぶりを振って、その悪 寒 を払い落とした。
◆◇◆◇◆
構わないのだ。
わたしは、構わない。
この時がすべて徒 事 であっても。
永遠に迂 遠 であったとしても。
ただ、あなたに伝えたいことがある。もういいのだ。
もう、いいのだと......
その男にそうすることは、さほど難 しいことではなかった。
首筋に銀色の鋼 を差し込む。
悲鳴もなかった。
返り血を心配する必要もない。
出血などほとんどないはずだった──死なれてはいけないのだから。少なくとも、材料になってもらうまでは。
その男の相 棒 が、こちらを振り向く。今まで気づかなかったのだろうか? 思っていたより、抜 けた男なのだろうか。まあ、どちらにせよ構 わない。
構わない。その男の胸にも、鋼を差し込む。
その男が懐 からなにかを取り出して、そしてそれを投げた。
閃 きとともに、多少の痛みを感じる。
痛み。だが。
構わないのだ──
倒れていくふたりの男を見下ろして、彼女は静かに独 りごちた。
泣くことを覚えたあの日から。もう構わないのだ。なにがあっても、あとで泣けばいいのだから。
◆◇◆◇◆
「血 痕 がひとつだけって、なんか不自然な感じしない?」
というのが、クリーオウの意見だった。
「それが血だと決まったわけでもなかろう」
相変わらずノートを見ながら、冷 静 に、フィーン・ロッツ。
どちらと言われても、マジクには判 断 つかなかった。あえて言うならば、どちらでもいいのではないかというのが正直なところだったが。それが血痕であろうと、そうでなかろうと、ここが得 体 の知れない場所だということに違いはないのだから。得体が知れない。つまりは、危険だということだ。
気を失ったままのエリスは、なにも語 ってはくれない。ケガひとつないようではあったが。
そして──
「おーい」
ひどく高い天 井 ──十メートルほどか──に逆 さまに立った、ボルカンの声が聞こえてくる。
「なんか、俺様だけ遠くて寂 しいんだが」
「知らないわよ」
薄 情 に、クリーオウが告げる。
マジクはため息をつきながら、あたりを見回した。思わず、二の腕を抱きしめる──不安は拭 えなかった。ここがなんなのか、それは分からなかったが、この雰 囲 気 だけは何度も味わってきた。広大な空間を含 んだ造り。傷ひとつない床 、壁 。意味の分からない装 置 の群 れ。緑色の液 体 で満たされた巨大な水 槽 は、幾 重 にも重なって延々と並んでいる。
そう。この雰囲気には馴 染 みがある。天人種族の遺 跡 には、すべて共通するなにかがあった。
振り返ると、壁に押しつけられるように、このあたりの模 型 地 図 がある。森の枝で見たものと同一のものだ──そして、ロッツ・ホテルの社長室にあったものとも。すべてにわたり精 緻 で、温泉宿の建物まで再現されている。天人種族の造ったものだとすれば数百年前のものとなるはずだが。
「......それは、変化する」
まるでこちらの心を読んだように、ぼそりとフィーンが言ってきた。
見やると、老人はノートから顔も上げてない。目を細め──老 眼 なのだろう──まるでノートの記述を読み上げてでもいるかのように、淡 々 とあとを続ける。
「それの実 態 は、無限に色が変化する砂の塊 だ。実際の地形を模 して変化するように造られている。その模型の地図上以外には転 送 の力は働かないようになっているらしい。一種の制限だな。地図に手を当て、所 定 の合い言葉を唱えれば使用できる。転送装置はこの地 域 に複 数 あって、ほかの転送装置がある場所以外には転送できない」
マジクはただじっと、彼を見ていた。特に意味はなかったが、ただ視線をそらすきっかけがつかめなかった。その視線を不 快 に思ったのか、あるいはほかの理由があったのか──、フィーン・ロッツは、ふとノートから顔を上げた。ノートを見るために細めていた目を、また違う様子ですぼめると、
「......ジュニアは、ここから持ち出したのだな。わたしのところにある装置と......もうひとつを」
ギャング。なんとなく、マジクはその単語を思い浮かべた。
「あの〜」
とりあえず、聞いてみる。
「それはそれとして、結局、なにがどうなっているのか、さっぱり分からないんですけど......」
老人は、すっとこちらを向いてきた。なんとなく、気 後 れして後ろに退 がる。だが、老人は静かにこう告げてきただけだった──
「シーナを見つけたいのだ、とお前たちは言っていただろう」
それはただ唐 突 な言葉で、意味は分からなかったが、マジクは聞き返すことができずにただじっとしていた。老人は、そのまま続けてくる。
「あの女が姿を消したのなら、ここにいる」
「姿を消した?」
振り向いて、クリーオウが口をとがらせた。
「そうじゃなくて、あんたの手 下 にふたりがさらわれたから──」
老人は、まったく取り合おうとはしなかった。面 倒 くさそうな素 振 りすら見せずにただ手を振ってクリーオウの声を振り払うと、
「わたしはわたしで、息子を探している。この研 究 ノートの著 者 だ。つまらん道 楽 だが、あれはひどく、ここの遺 跡 に入れ込んでいた......なんだ。ここの装置が、すべての悲 劇 を覆 すのだ、などと馬鹿げたことを言っていたな」
フィーンは、あたりを見回したようだった。頭を巡 らせている。
「二十年前になるか」
その年月をすべて背負い込んだような、そんな疲れが、彼の声には含 まれていた。
「わたしの息子は、この遺跡で消 息 を絶ったのだ。当時、わたしのホテルの酒場で歌っていた女......シーナ・ショスキーとともに」
そして、その瞬 間 ──
静かだった遺跡の中に、けたたましい笑い声が響きわたった。
◆◇◆◇◆
今日もまた、浮 遊 するそれを見つめる。
漂 うそれ。
音もなく、滑 らかに流れる溶 液 の中を、なにかを取り返そうと探し回るように。
液体はくまなく満たされている。それはその中で、計画通りに育ち、満たされようとしているのか。
あるいは、自らもまたその溶液の中に溶け出されようとしているのか......
笑い声。嘲 るような、震 えるような。
自分の笑い声だった。馬鹿げている。だが、止まらない。
せっかく泣くことを覚えたというのに。なにを笑っているのだろう、自分は?
◆◇◆◇◆
「......ん?」
オーフェンは確かになにかを聞いたような気がして、顔を上げた。髪を引かれるような、なにかを感じる。
具体的ななにかではない。きっかけがあったわけですらない。実際には、耳の中になにが残ったわけでもなかった。
(......悲 鳴 ?)
なんとなく、彼はそう思った。
相変わらず腑 に落ちないものを残しながら、向き直る。
そこは、例の部屋からただひとつしかなかった出口を出て、すぐのところだった。長い廊 下 に、無数の入り口が並んでいる。想 像 したとおり、すべて天 井 を歩いていれば入りやすいように、オーフェンから見て入り口が床から浮いていた。
留 置 場 だろうか、と、この場所の由来を思いながら想像する。鉄 格 子 もなにもない。もとより、天人種族ならば魔 術 を使えば転 移 できるのだから、閉 じこめておく意味はないだろうが。
廊 下 の突き当たりに、ほかのものとは多少違った入り口があった。どこが違うのかと言えば簡単で、ここにだけ扉 がついている。軽い木製の扉だった。やはり逆さまに、左に開くようになっている。鉄格子がないのと同じ理由だろうが、鍵 はついていないらしい。部屋はさほど広くもないが、ほかの部屋とは違って天井の寝台がないためかえって閉 塞 感 は減じていた。
そして部屋の奥に、今コンラッドとドーチンがのぞき込んでいる、見覚えのある立体模型地図が置いてある。どういう理由でか、この装置だけは、天井に逆さまに設置されているわけではなく、ごく普通に床に設 えてあった。
しげしげと見るまでもなく、宿にあったものと同じものだということはすぐに分かる。民家に近い造りの宿にあるよりも、こういった非現実的な場所に放置されているほうがしっくりと収まっているように思う。
「つまりは、これが転移装置なのですよ」
コンラッドは突然、思い出したように振り返ると、そう言ってきた。なにやら得 意 げですらある。
眉を上げながらオーフェンは、うんざりと告げた。
「さっきも聞いたよ」
実際、この部屋に来てからコンラッドの解 説 は、十数回にも及んでいた。もっとも、彼がいくら頑 張 ろうと、装置は動こうとしないようだったが。
「ううむ」
顔をしかめて──というほど、顔がしまったわけでもなかったが──、コンラッドは再び装置をのぞき込んだ。
「さっきはうまくいったんだがなぁ。だいたいの行きたい場所にこう指を当ててだ、合い言葉は──」
ぶつぶつと言っているのでよくは聞こえないが、だいたいの事情はよく分かる。
(......まぐれでしか動かないわけだな)
嘆 息 混 じりにそれを悟 る。
(にしても──)
悟っているだけではなにもならないから、というわけではないが、オーフェンは思考をしばし彷徨 わせた。緑色の天井は、ほかの壁と同じく、淡 く発 光 している。それを見上げて、思う。
(これが天人種族の転移装置だとしたら......そんなもんがどうして、温泉宿なんかにあるんだよ?)
これと同じものは、このあたりの遺跡にはいくらでもあるらしい。調査隊によって発 掘 されたものも少なくないだろう。無論こういった天人種族の遺産などに関して、その所有権はほぼすべて貴 族 連 盟 にある。王 権 反 逆 罪 にて断 罪 される危険性を無視して盗 掘 を行う者がいないわけでもないが、それで流 通 (できたとして)している物はある意味、王家から買い取るよりも高価につく。一般人が手に入れることはまずあり得ない。
まあ、これが天人種族の作ったものだと気づかずに、横流しされたという可能性もないではないが。きちんと調べなければ、ここにある転移装置は、よくできた立 体 地 図 にしか見えない。
(......まあ、調査隊ってのが、みんなこんなのばっかりってこともないとは思うが)
半眼で、オーフェンはコンラッドを見つめた。
似たような表情で、ドーチンも彼を見上げている。なにやら難しく悩んでいるコンラッドに、
「......ひょっとして合い言葉、覚えてないとかいう話じゃないですよね?」
「そんなわけないだろう。というか、そんなわけがあると君たちがなかなかわたしを尊 敬 しづらくて君らも困 るだろう」
「いえ、もっと差 し迫 った感じで困るんですけど」
「合い言葉はだな」
天井に立ったまま、にこやかに、コンラッドは言ってきた。いくつかの古語を口にしたあとに、
「これは、『我らの時を終わらせない』という意味なのだがね」
「それでなんで、装置が動かないんです?」
「それが問題なんだが」
腕組みし、首を傾げるコンラッド。
どこか他人事のようにオーフェンはふたりを見ながら、胸中で繰り返していた。
(我らの時を終わらせない)
だが、彼女らの時は──彼女らが生きることができた時間はすべて、もう失われたのだ。
彼女らは過去となった。そして彼女らの、様々なプライベートであったはずの場所を遺跡として、自分たちはここにいる。
オーフェンは目を閉じた。
すべてを失うとは、つまりこういうことなのだ。自らが悲 嘆 に暮 れることもない。怒りに震 えることもない。なにもない。天 国 も地 獄 もない。本当に、すべてを 失うこと。すべてを失うことは、ほかのなにものでたとえることも、代用することも、贖 うことも......できない。
思考の中に、さらに潜 り込 もうとして──そして。
「ん?」
オーフェンは、顔を上げた。またなにか聞こえたような気がしたのだが。
だが今度は、悲 鳴 だとは思わなかった。
(違う......笑い声だ)
と。
「うっわっ!」
ドーチンが驚 愕 の声をあげている。あわててそちらを見やる。コンラッドとふたり、さっきと変わらず転移装置を見ていたようだが、その装置に変化が起こっていた。装置の上の箱 庭 を形成している細かい砂が、竜 巻 のように舞い上がっている。砂は瞬 くように色を変化させながら、次第に意味のある〝絵〟を紡 ぎだしつつあった。空間に描き出された、砂の映 像 ──
その映像に映されたものを見て、オーフェンは絶句した。
それは、まるでノイズだった。
ノイズのような物体だった。それが、なにか──どこかを漂 うようにしている。表現しようのない、不 可 解 な姿。形はただひたすらに不規則な連 鎖 を続け、まったく意味のないものへとなっている。砂の映像は鮮 明 ではないためよくは分からないが。
「............⁉ 」
言葉もなく、その一瞬の驚 愕 に固まっているうちに、砂の映像はあっさりと途切れた。浮力を失ってばさりと落ちた砂が、もとの立体地図へと変わっていく。
「............ほう」
驚いたように、コンラッドがうめいていた。
「なるほど。どうやら発音が間違っていたらしいな。ええと......辞 書 があれば一発なのだが。残念なことに、荷物はノサップ研究員が運 搬 していたうえ、紛 失 してしまった。運搬と紛失を直線で結びつけることは盗難を意味するが、ノサップ研究員はそのような邪 悪 な者ではないので念のため」
「いや、いいから!」
オーフェンは初めて身を乗り出した。
「今のは、空間がつながりかけたんじゃないのか? 装 置 が作動したんだろ。どうやったんだ? 思い出せ!」
「どうしたんですか、急に乗り気になって」
まくし立てる横から、ドーチンが口をはさんでくる。オーフェンは、自分でもよく分からない焦 燥 感 を感じつつ、叫ぶ。
「いいから!」
ふたりを押しのけるように装置へと乗り出して、彼は続けた。
(今の不快感は......なんだ?)
それがなんであるのか理解できないまま、今はもう動きを見せない装置を、オーフェンはにらみ続けた。
◆◇◆◇◆
炎 。自分。
宿に火をつけたのは自分。
笑いながら、うなされるように思い出す。
滴 る油に火 種 を近づけた。
弾 けるように広がった光。
なにかを求めてそれをしたのだが。
なにを求めていたのかは覚えていない。
誰かに命じられてそれをしたようにも思うし、自らがなによりもそれをしたかったようにも思う。
炎。自分。それはすべてを断ち切っていたかもしれない。
馬鹿げている。
──望んでいるはずがないではないか。この終わらぬ想い。あのひとへの想い。なによりも強い願い。その願いとともに生きる。この楽園に生きることを......
◆◇◆◇◆
かたん。
(......足 音 ?)
クリーオウは腰の後ろで手を組んだまま、きょとんと背後を振り返った──急に回ったため、頭の上にいるレキがずり落ちそうになったのを感じる。レキはばたばたと騒 ぎながら、いつもの定位置へともどったようだった。
細かく瞬きしつつ、あたりを見回し──
つくづくつまらない場所だと、彼女はため息をついた。
なにかを連想するかと聞かれれば、自分の家にある倉 庫 を思い出す。父親の倉庫ではない。庭にある物置のほうだった。いらないもの、役に立たないものが押し込んであるだけ。扉に鍵をかけ、その扉が開くことなどすっかり忘れ去ってしまうような、そんな意味のない空 間 。
(お姉ちゃんとかお母様、どうしてるかな......)
なんとなく思い出し、また嘆息する。
(けんかなんかしてなけりゃいいけど)
どこか鬱 なものを感じさせる緑色の水 槽 。いや、中に入っている液体が緑色なのか。水槽は一見規則的なものを思わせる不規則な配置でどこまでも続いている。重なり合った部分がより濃い緑となり、大ざっぱなグラデーションを作っていた。
壁 際 にぽつんと置かれた、例の模型地図。これがなければ、自分がもといた場所などとうに見失っていただろう。それほどまでにここの風景はつまらない ものだった。観 察 する気も失せるほどの。
模型地図のすぐ近くに、フィーン・ロッツ──あの老人が立っている。なにやら思わせぶりなことを言って人をこんなわけの分からないところに連れてきたあげく、ひとりでぶつぶつとノートに見入っているわけだ。その足下に仰 向 けになって、エリスが寝かせてあった。彼女には外 傷 らしい外傷などなかったが、目を覚ますこともなくずっと眠り続けている。彼女が目覚めれば、もう少し事 情 が分かったかもしれないが。
少し離れたところで、やることがなくて暇 なのか、マジクがぶらぶらと歩き回っている。ちょうどその上あたりに、これまたやることがなくて暇そうなボルカンが、天井であぐらをかいていた。
とりあえずクリーオウは、剣の鞘 をかちゃりと鳴らすと、その刀 身 をゆっくりと引き抜いた。滑らかな鋼 の刃 が、きりと音を立てながら空気を吸 う。キムラックでいけ好かない殺し屋にもらった剣だったが、確かに良い代 物 のようだった──実を言えばよくは分からなかったが、オーフェンもそう言っていたようだったのでそう思うことにしていた。
(多分、実際これで人を斬 っちゃったりなんかしちゃったら、違いが分かるのかもね)
そんなことを考える。もっとも、果たしてそんなことがあり得るのかどうか、自分でもよく分からなかったが。
突 然 抜 刀 したことに驚いたのだろう──マジクが、声をあげた。
「クリーオウ?......どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないわよ」
彼女はいらだたしげにつぶやいた。鞘をどうしようかとしばし悩んで、留 め具 を無理やりベルトにはめ込んでから、あとを続ける。
「いつまでもこんなことしてたって、なんにもならないじゃない。ちょっと、シーナを探してくる。その血の跡 も気になるし」
クリーオウは言いながら、床に丸く広がっている血痕を指さした。と、落ち着いた声が制止してくる。
「やめておけ」
フィーンだった。いつの間にかノートを閉じて、それを小 脇 に抱えている。
「危険だ」
「そのとおぉぉぉぉぉり!」
頭上からは、遠 慮 もなにもないわめき声──
「小娘が小娘的発 想 で小娘的ピンチを招 くのは、まあ知ったことではないとはいえ、貴様の場合そのピンチが必ず他人にふりかかるので迷 惑 至 極 。というわけで、このマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン、なにも天井にいて貴様のごときちび娘の手がとどくはずもなく安全だから言うわけではないが、まずは糸ようじで出血し殺されたくなければって、おわああっ⁉ 」
最後のは、クリーオウが天井に向かって投げつけた剣に危 うく刺 し殺されそうになってあげた悲鳴だったが。
音を立てて床に落ちた剣を拾い上げ、クリーオウはきっぱりと告げた。フィーンへと向き直り、
「危険危険って、そんなのわけが分からないのに比べたらいくらかマシよ! シーナも、あんたのとこの二人組もどこにもいないし! 探しにいかなくちゃなんにもならないじゃない!」
「どうせ向こうから来る」
「なんでそんなこと分かるわけ──」
言いかけて、クリーオウははたと言葉を止めた。
怒ったままの顔を固まらせて、動けなくなる。
馬鹿馬鹿しいような、そんな思いで、彼女はゆっくりと表情から力を抜いていった。
フィーンの背後にある模型地図に、変化が起こっていた。地図を構 成 していた砂が崩 れ、舞い上がり、なにかの画 像 のようなものを造り出す。その画像は光を放ち、渦 巻 いてなにか吐き出した──人間の形をしたものを。
押し出されるようにして、それは模型地図の上から床に落下した。画面から、どさりと。だが石 造 りの床に激 突 しても、うめき声ひとつあげない。
それは人の形をしてはいたが──
決して人間ではなかった。もっと端 的 に言えば、獣 だった。一番最初に理解したのは、それが猿 に似ているということだ。が、決して猿などではなかった。その獣は頭 蓋 から水槽が突き出ていた。その中に、溶液に浮かんで、脳のような肉 塊 がのぞいている。
(なんなの──?)
思考が止まるのを、クリーオウは自覚した。そして──彼女は思考しないまま、身体 が勝手に最良の行動を起こすことに賭 けた。
「レキ!」
叫ぶ。意味があって、意 図 があってのことではない。ただ叫んだ。だが頭上の子ドラゴンの動きは迅 速 だった。瞬 間 、空間に弾き出されてきた猿が、白い炎に包まれる。
猿はのたうつように、床に転げた。倒れているエリスの横を危うくかすめて、消えない炎に焼かれ続ける。フィーンが、エリスを抱え上げようとしている。マジクがなにか悲 鳴 をあげるのが聞こえた。ボルカンは......よくは分からないが、こちらもなにかわめいているらしい。
その悲鳴の内容が聞こえたわけではない。ただ、なにか絶望的なものを感じはしていた。
横目で見やる。いや、どこを見たところで同じだったが。視 界 のすべて。どちらを向いても。床。壁。天井。すべて。
そこかしこから、今炎に包まれたのと同じ、猿が姿を現しつつあった。転移装置からではない。床や、壁。水中から浮かび上がってくるかのように、無数の猿が突き抜けてきている。その両手に、光 り輝 く文字が見えた......
「レキ──」
再び、叫ぶ。思考は停 止 したままで。
猿はすぐに見えなくなった。
視 界 がすべて、眩 しい光に包まれて──
クリーオウは意識を失った。
◆◇◆◇◆
どうしろというのだろう。
仕方のないことではないか。
今までがそうであったように。
これからも、ずっと──この夢は終わらない。
ずっと終わらない。
終わらない──ですって?
(............⁉ )
意識の石組みに、冷たい水が染 み通 ってくるような。
そんな感覚とともに、目を覚ます。
目を開けようとして、彼女はひどく後 悔 した──鈍い、だがはっきりとした痛みが、頭蓋を震わせる。実際に、頭に穴が開いていたとしたら、こういった痛 撃 を覚えるのではないかと、彼女は感じた。
しばらく、無言で耐える。
痛みは消えなかったが、それでも慣れることはできた。
そして痛みではなく、別の感覚に意識を集中することができるようになると、とたんに今度は不 快 なものを覚える。なにか、どろりとしたものが身体を包んでいた。粘 液 質 なもので、べったりと身体が汚 れている。目を開けていないため自分がどこにいるのかも分からなかったが、少なくとも清 潔 なベッドなどではないことに気づいて、いっそこのまま目を覚まさないほうが良かったのかもしれないと、かなり本気で彼女はうめいた。
自分の名前を思い出す。ショスキー。エリス・ショスキー。
エリスは覚 悟 を決めると、まぶたを開いた。
「まったく、無茶をしてくれるもんだよ......他人の領 域 に勝手に入ってきて......」
聞こえてきたのは、その声だった。反 射 的 に身体がこわばる。なにか絵 空 事 のように、頭の中には感 情 の光が浮かんでは消えた。手足がうまく動かない気がする。感覚はあるのだが、意 識 がついていかない。
最初に見えたのは床だった。緑色の床。傷ひとつない床に、どこか羊 水 を思わせるなま暖かさを持った緑色の液 体 が流れ出している。その液体に、うつ伏 せで浸 かっていたわけだった。液体にはなにか砕 けたガラスの破片のようなものが混じっているように見える。そして緑に混ざらない、赤黒い肉 片 も。
エリスは悲鳴をあげた。身体が動かないまま、起きあがる──
待ち受けていたのは、非現実的な光景だった。
起きあがろうと床についた手が、粘 液 に滑 りそうになる。その不快感に耐えて、彼女は歯を食いしばった。というよりも、喉 が詰まっただけだったのかもしれない。あえぐように空気を求め、胸 部 の骨 格 すべてが一度縮 み、そして広がったような苦 痛 。
よくは分からなかったが、そこは緑色の床と天井がどこまでも広がる場所だった。窓のようなものはないが、その壁や床が光を放っている。広大な空間に巨大な水槽がいくつも並び、どういったわけか、そのいくつかが派手に破 壊 されていた。床を汚 している液体はそこからこぼれだしたものらしい。その液体に混じった肉片や血液は、あちこちに転がっている奇 妙 な動物の死体──その破 片 のようだった。
獣たちには、死んでいないものもいた。というより、死んでいないもののほうが多いのかもしれない。それは猿によく似ていた。頭からせり出した水槽を別にすれば。それらはなにをするわけでもなく、ただじっと立っている。立ち並ぶ水槽の陰 に、ただぼーっと。
すぐ近くに、ていねいに並べられて、人が倒れている。すべて知っている人間だった。確か、マジクとかいったか──あとは、その横にクリーオウ。そして......
その老人には、よりはっきりとした覚えがあった。というより、レジボーン温 泉 郷 で、その男の名を知らない者などいない。大フィーン・ロッツ。反射的にぞっとするほどの嫌 悪 を覚えながら、エリスはその老人を見つめた。三人とも同じだが、気 絶 しているらしい。大きなケガはないようだが、あちこち焦 げていたり汚れていたりしている。周 囲 の壊 れ具 合 から見ると、爆 発 かなにかに巻き込まれたのだろうか。クリーオウが倒 れているかたわらに、剣が落ちている。確か、クリーオウがもともと持っていたものだ。模 造 刀 かなにかだと思っていたが。
最後に、母がいた。
こちらに背を向けて、真正面の水槽を見つめている。その水槽の中には、最も不 可 解 なものが浮かんでいた。
それは肉 塊 だった。というより、引 き裂 かれた巨大な肉片というところか。くらげのようにだらりと伸 びて、水槽の中を漂 っている。まったく意味のない形をしているそれは、明 確 な不 快 さを持っていた。
大きさは、エリス自身の身長の四、五倍はあっただろう。体 積 は、どれくらいだろうか?
十数倍? 数十倍? 推 測 することもできない。
肉塊はなんの意思も感じさせず、ただ漂っていたが──それがただの肉塊などではないことはすぐに分かった。肉塊から、足が生えている。明らかに人間の足が。
(......⁉ 違う......)
足はズボンをはいていた。黒いスーツの下半分。黒いスーツ。何度となく見た。
ふわっ......と水槽の中で肉塊が揺れ、反転すると、裏 側 からは腕が突き出していた。太い腕だった。はっきりとは分からないが、きっと大 柄 な男のものだろう。
(あの二人組だ......ロッツの手下の)
横 殴 りにされるような衝 撃 の中、エリスはそれを悟 った。どう考えても、生きているようには見えない。肉塊は反転を続け、再びもと見せていたほうの面をこちらに向けた。その時には足はもうなくなっていた。肉塊の中に......引き込まれたのだろう。
「............⁉ 」
分からない、分からないが──
ふと、エリスは心の中に落ち着きを発見した。自分は驚 いている。だが、その驚きを冷 静 に見つめるもうひとりの自分がいるような......
「ママ......?」
ほかにどうしようもなく、エリスはつぶやいた。こちらに背を向けている母に。シーナはゆっくりと──道ばたで呼びかけられたのと変わらずに、ごく普通に、振り返ってきた。その顔には特にどうという表情もうかがえない。
ぞっとする想像が、脳 裏 をかすめた。なんの根 拠 もないが。自分を冷静に見つめるもうひとりの自分。それはきっと、この母と同じ顔をしている......
「エリス」
シーナが発してきた言葉は、それだけだった。振り返った母を見て、無数の疑問が頭に浮かぶ。それを声にして聞く前に──
エリスは、はたと動きを止めた。母が、剣を持っていることに気づく。確かあのオーフェンが、母に預 けたものだ。だが、あのロッツの手下が窓を割って宿に入ってきた時にも、持っていたのだろうか?
彼女がなにも言えないうちに、シーナは淡々とした声で話しかけてきた。瞬 きすらほとんどせずに。
「......どうせいつかは話すことになると思っていたさ」
「なに? どういうこと?」
ふらふらとかぶりを振り──エリスは、問いかけた。
「......ここは、どこなの?」
「遺跡だよ。宿にあった箱庭の地図には細 工 して......見えないようにしてあったんじゃけど。おかげで丘 がひとつ増えちまったけどねぇ」
「............?」
「どう説明したらいいんだか。つくづく、お前は馬鹿だよ。説明するのにも悩まなけりゃならない」
ぶつぶつと言いながら、また水槽のほうを向いてしまう。

つられてエリスも、また肉塊へと視線を移した。
そして──
「きゃああああああっ⁉ 」
悲鳴をあげる。肉塊は変化していた。
人間の姿へと。いや──
人間に近い姿へと。
どちらかといえば、子供が粘 度 で作った人形程度のものだったが。それでも確かに、肉塊はぶくぶくと気 泡 を弾 けさせながら人型になろうともがいているように見える。肉が裂け、腕になろうとして──指を形作ることができずにねじれてあらぬ方向へと伸びていく。ひどくデフォルメされた頭部には斜めにずれて二重に顔が浮かび上がっていた。混乱している。もとより人間のサイズではない肉塊が、その質量のまま人間になろうとしているため、それは悪 夢 のように歪 んでいた。複数の人間が無理やり巨人の形に組み合わさった悪 趣 味 な組 体 操 。つまりそういうものに見えた。
「うるさいよ!」
シーナが鋭 く、叫んでくる──またこちらを振り返ってきたその表情には、はっきりと怒りが見えた。
「まったく馬鹿な子だね! 悲鳴をあげるなんて──これを見て悲鳴をあげるなんて......!」
口の端がひきつって、細かく震 えている。これほどに母が怒るのを見たのは、これが初めてだった。小さな肩をいからせて──力をこめた腕が、その手に握る銀色の短剣が、揺 れている。
「本当に、どうしようもない、馬鹿な──」
「馬鹿は貴様だよ、シーナ」
その声はただひとり、この非現実の中で冷静に──
同時に、どすっ、という鈍い音が響いた。
シーナの腹部に、剣が突き立っている。
剣を持っているのは、老人だった。大フィーン・ロッツが床に寝たまま、クリーオウの剣をシーナの脇 腹 に差し込んでいた。シーナは冷たく、それを見下ろしている。
エリスは声もなく、ただそれを見ていた。遠くから、この目の前の光景とまったく関係がないほど遠くから、声がするのを聞いたような気がしていた。
なにをしている──もういいのだ。
と──
「結局のところ、お前はこんなところでわたしの息 子 を飼 っていたわけだ」
大フィーンの声には、鉄のような響 きがあった。
「ついにつかまっちまったね」
そしてシーナの声には、氷の響きが。
剣の切っ先を腹に埋め込まれたまま──彼女の声には苦 痛 も、絶望も感じられなかった。挨 拶 でも交わしているだけのような、なにもない声。
フィーンはゆっくりと上体を起こし、立ち上がった。剣を持ったまま、
「返してもらうぞ、貴様が盗 んだ、息子の......遺 体 を」
「聞き捨てならないね」
シーナは剣呑に目を細めた。
「彼を裏切ったのは──あんたじゃないか!」
叫ぶなり、勢 いよく後ろへと退 がる。
切っ先が、腹から抜ける。鮮 血 が噴 き出すことを予想して、エリスは身体 がすくむのを感じた。が、
後ろへ退がったシーナは、まったくの無傷のようだった。数センチは突き刺さっていたはずの傷もなにもない。フィーンが、驚 愕 の声をあげている。同時にシーナの腹に、なにやら光の文字のようなものが浮かんで──
そこからの出来事は、またもやエリスが理解できる範 疇 を越えていた。
シーナの身体から、例の獣が──手のひらに文字を輝 かせて、猿 が飛び出してきたのだ。見たままを信じるならば、彼女の身体の中に隠れていたのだろう。その猿が、飛び出した勢いそのままで、フィーンへと飛びかかる。
「このっ!」
老人は、似合わない俊 敏 な動作で剣を横に振ると、猿の急所を一気に引き裂いた──かに見えた。が、剣は水を斬るようになにもなく猿の身体を通り過ぎただけだった。猿はけたたましい鳴き声をあげながら、老人の首に組み付いた。手のひらの文字が、ひときわ強く閃 光 を発する。
「がああああああっ⁉ 」
老人の手から剣がこぼれ落ち、刃を床に当てて金 属 音 を奏 でた。彼の姿が一 瞬 、歪 むのをエリスははっきりと見ていた。猿は一度すとんと床に飛び降りると、再び老人に飛びかかった。今度はタックルするように、思い切り老人を押してかかる。猿に体当たりされたフィーンは、そのままつまずくようにしながら、水 槽 へと押しつけられた。そして、そのまま──いかにも厚そうなガラスを通り抜けて、水槽の中へと入り込んでいく。
老人の口は悲鳴の形に固まって、そのままガラスの向こうへと押し込められていった。緑色の液体の中にゆらりと揺れて、もがくこともないまま──水槽の中をゆったりと支配している、肉 塊 へと近づいていく......
肉塊に後 頭 部 が触れた瞬間、大フィーン・ロッツの顔に絶 望 的 ななにかが浮かぶのを、エリスは見ていた。肉塊は大きく膨 れ上がると、老人の身体を一気に包み込んだ。あまりにも早くではなく、ただしさほどの時間はかけずに、先刻と同じような変化が肉塊に起こる。いびつな人型へと変化し──そしてその変化を無駄にして、もとの肉塊へともどっていく。
すべては数秒もかからない出来事だった。大フィーンを水槽に押し込んだ猿は、そのままぱたぱたと、仲間たちが遠巻きにしている中へと入り込んでいく。
「............」
エリスはただ無言でそれを見ているしかなかった。残ったものは、床に落ちた剣......
聞こえてくるのは、
「馬鹿な男だよ」
シーナはただそれをつぶやいただけだった。銀の短剣を抱えるように持って、
「温泉ギャングをしていれば良かったのさ。死ぬまで」
「......ママ......?」
黙っていたかった──なにもかもが終わるまで、ずっと。口を閉ざしていることへの誘 惑 は信じがたいほどに強かった。それ以上に楽なことはないのだから。だが、そういった生理に反して彼女は声をあげずにはいられなかった。
「なんなの......? 説明してよ。なにも分からない......わたし」
シーナは、すぐには答えてこなかった。すたすたと歩くと、倒れているクリーオウとマジクのほうをしばし観 察 する──この子らも狸 寝 入 りをしているのかと確かめたのだろう。このふたりの少年少女を見て、シーナの持つ短剣の切っ先が静かに揺れた。それを見て、全身が粟 立 つ。エリスは声を強めた。
「ママ⁉ 」
「分かってるわい。どう説明すればいいのか、考えていたのさ」
(違う──)
エリスは、胸中で叫んでいた。
(殺そうかどうか、迷ったのよ──あの子たちを。全然関係ない、ロッツでもない、なんでもないあの子たちを)
「エリス」
と──こちらを真っ直ぐに見 据 えて声を発してきたシーナには、そういった無 謀 な悪 意 があるようには見えなかった。が、それでも感じたものが誤 解 だったのだと思えるようななにかも見えはしない。
なんにしろ、シーナの言葉には変わらない、氷の気 配 がこもっていた。
「エリス。これはね」
彼女が示したのは、背後にある水槽、巨大な肉塊が漂う、その水槽だった。
「すべての悲 劇 を覆 すもの。つまり、死者の蘇 生 装 置 なのさ」
◆◇◆◇◆
どさっ──
転移装置が稼 働 し、一瞬の意識の断 絶 のあと、聞こえてきたのはそんな音だった。
見上げると、やたらと高い天井に落下 していったコンラッドが、妙 に身 軽 に受け身を取って、さらにはポーズまで決めている。
「そうか、なるほど」
頭 上 から聞こえてくる、ひどく落ち着いたコンラッドの声に、律 儀 に聞き返したのはドーチンだった。
「な、なにがなるほどなんです?」
「発音は完 璧 だったのだな。問題は、転移には集中力が必要なのだろう。転移先を強くイメージしていなければならない。残念ながらわたしは、さっきまで、娘の婚 約 者 を自 称 する詐 欺 師 のことを少し考えておった」
「はあ......」
「そんなことのために、こんな手 間 取 ったのかよ」
オーフェンは毒づくと、あたりを見回した。
「だいたい、ここは遺 跡 のどのへんだ?」
巨大な水槽が並ぶ、広大な部屋。いや部屋ではなく、施 設 とでも呼ぶのだろうか。ただし周 囲 一 帯 はかなり巨大な爆発でも起きたようにめちゃくちゃになっていた。水槽もいくつか破 壊 され、床に内 容 物 をぶちまけている。ほとんどが粘 液 状 の液体のようだったが、例の猿の死体もかなり転がっていた。
「......戦 闘 の跡、だな。事 故 にゃ見えない」
独 りごちる。
と。
「うわわわわっ⁉ 」
「むっ⁉ 」
天 井 から、声がふたつ、響いてくる。そして次の瞬 間 には、天井からふたつの人 影 が落ちてきていた。
ひとつは、頭から思い切り床に激 突 し──
そしてもうひとつは、奇 妙 なほど華 麗 に受け身を取ると、またもや決めポーズを取る。
ほとんど音もなく見事に着地したのは、コンラッドだった。そして、もうひとつのほうは......
オーフェンは潰 れたカエルのようにべったりと床に貼 り付 いたそれに対して、静かに聞いてみた。
「......なにやってんだ? 福ダヌキ」
「タヌキにあらずっ! というかむしろ万 人 が望んだ究 極 英 雄 !」
がば、と勢いよく起きあがり──それは、横でポージングしているコンラッドと競 うように、剣を抜いてなにやらポーズを取ってみせた。
「このマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様にしてみれば、落下中ふと昔の思い出とかにひたれるくらいの自 由 落 下 とて、なんかもー大きく大 丈 夫 ! というわけでここで会ったが百年目、三角目の邪 悪 魔 術 士 を見たら成 敗 したり倒したり警 察 に連 絡 したりとかすると決めているため、紙 芝 居 うっかり二枚まとめてめくり殺される覚 悟 を決めておくといいぞっ!」
「............まあ、とりあえずは元気なよーだな」
半 眼 で告げる。
ポーズを取ったまま、コンラッドが説明口調で言ってきた。
「どうやら、魔術文字の効力が消えたようですな」
そして。
「兄さん!」
声をあげたのは、ドーチンだった。ばたばたと近寄ると、
「良かったよ。死んだと思ったもの」
「ううむ。なんでみんな、死んだとか思うのだか。兄は無 敵 だと常 日 頃 から言っているだろーに」
「......にしても、ホントに、こんなところでなにやってたの? 兄さん」
「うむ!」
ボルカンは大きくうなずくと、
「いやよくは分からんが、なんかあの、くる髪小娘に無理やりこんなとこに連れてこられたかと思ったら、いきなり猿どもの襲 撃 を受けてな。まあ、この動物キラーの俺様としては即 座 にごつごつ倒したりしたんだが、これまた突然あの小娘が無茶な爆発を起こしやがって。とりあえず戦 況 を見定めようと陰に隠れていたんだが、そしたらどーやら、猿どもは奴らを担 いで向こうのほうに行っちまったよーなのだが」
「よーするに、クリーオウの暴発のどさくさに紛 れて逃げたら誰も追いかけてこなかったもんで、ここにいたってわけだな。にしても、なんでクリーオウがここにいるんだよ」
「転移装置は、宿にもあるわけですからな」
もうポージングに飽きたのか、つつつ、と近寄ってきて、コンラッドが口をはさんだ。
「この殺人キノコでない兄のほうが持っていったノートに、使い方は書いてあったわけですし」
「むう......この俺様の呼び名ということでは、殺人という響きは悪くないが、キノコが気にかかるところだな」
「そういう問題かなぁ」
ぼんやりと、ドーチンがうめく。
オーフェンは舌打ちした。後ろ頭を片手で抱えて、
「ったく、あいつら。いちいち厄 介 事 を増やしやがって──で、猿に連れていかれたって、どっちのほうだ?」
「教えて欲しければ、六万回まわってワンと──」
「尖 った拳で突かれるのが嫌だと一瞬でも思うんなら、素 直 に答えたほうがいいぞ」
「向こうです」
ボルカンは即 答 し、びしりと広間の中央の方向を指さした。
刹 那 ──
「きゃああああああっ⁉ 」
エリスの悲鳴が聞こえてきたのは、まさしくその方向からだった。
◆◇◆◇◆
「このノートはね」
そう言ってシーナが懐 から取り出したのは、古びた一冊のノートだった。使い込まれているようだったが、決してくたびれてはいない。彼女はその表紙を愛 おしげともいえる手つきで撫 でてから、掲 げてみせた。
「二十年前に、とある男が書いたものさ。この遺跡に関する調査の記 録 ......へぼな追跡調査隊のものなんかとはわけが違う。あのひとは、本当ならこんな田舎 で不完全な教育しか受けられないような、そんなことじゃいけない人だったんだ」
陶 酔 しているのか、瞳 の色が薄 れる。ノートを手に、そして銀の短剣を手に、シーナは歌うようにあとを続けた。
「あのひとの研究は完璧だった。このノートに、この遺跡の機能のすべてが記 されているんだよ」
と、そしてあたりに立っている猿たちを手の先で示して、
「その猿たちは、わしの手足となって動いてくれる......その脳に、わしの感 覚 と共 有 するものを埋め込まれているのさ。わしの命令で動き、わしに同 調 し、望むことをしてくれる......こんなことをする方法も書いてあるのさ」
「............」
エリスはただ、聞いていた。
理解しているという自信はなかった──さらに言えば、本当に聞いているのかどうかすら、怪しいものだと自覚していた。意識が朦 朧 としている。なにか、知りたくないことを聞かされているのだと、彼女は理由もなく怯 えた。
だが、シーナはあとを続けてくる。
「二十年前。わしは、この街に来た」
昔話。聞いたことがなかったわけではない。だが、以前聞いたものとなにかが違う。
シーナの目だ──エリスは震 える腕で自分の身体を抱 きしめながら、自分を見つめる彼女の目を見返した。過去のことを語る時、シーナはこちらと目を合わせることがなかった。だが今はこちらを見ている。
(......でもなんで、そんなに懐 かしそうにわたしを見るの......?)
その疑 問 に答える者はいない。
ただ静かに、シーナが語る言葉だけがあたりにあふれていた。
「歌 姫 として、この街で一番大きな宿──ロッツさ、もちろん──の酒場に転がり込んで、そこそこの仕事をしたよ。でも、フィーン・ロッツには一人息子がいてね。わしより十は若かったけれど......そんなことは、どうでも良かったんだ、わしらには」
彼女は語りながら、かぶりを振った。
「......彼は、フィーン・ロッツ・ジュニア。わしらは結 婚 した。誰も祝 福 はしてくれなかった──どころか、認 めすらしてくれなかったけれどね。でもわしらは結婚したのさ。さっきも言ったけれど、彼は本当に聡 明 な若者だったんだ。わしはどうしても、彼を王都に連れていきたかった。本物の勉強をさせてあげたかった。彼もそれを望んでいた。ただね、先立つものもなしに、どこへも行けやしない」
シーナは再び、ノートを掲げてみせた。
「彼はね、子供の頃から、ここの遺跡に出入りしていたのさ。実はこの遺跡に危 険 性 がないことを、彼は知っていた。そして魔術文字は解読できなくても、この遺跡の機 能 に関しては誰にも負けない知識を持っていた。わしはね、この知識を調査隊に売れば、まとまった金になると彼に言ったんだよ。彼も、乗り気だったさ。自分の知っていることをすべてこのノートにまとめたんだ......」
彼女は声を尻 窄 みに小さくすると──そっとうつむいて、なにか音を立てた。唾を吐いたような音だった。
「だけれど、あのひとは裏 切 られたのさ。大フィーン・ロッツは一人息子を失いたくなかったんだ。ノートを取り上げて、自分が遺跡調査隊にそれを渡そうとしたのさ!」
再び顔を上げた時、シーナは鼻の下をひきつらせ、背後を振り向いた。水槽に漂う巨大な肉塊。その中に──そう、その中に、大フィーン・ロッツもいるはずだとエリスは身 震 いした。
シーナの話は続く。
「もっとも、調査隊の手に渡ったノートは不 完 全 なものだった。走り書き程度のものさね。本物の研究ノートは、わしが預 かっていたんだ。発 掘 して隠していた転移装置も隠してあった。でも彼は、不安を覚えたようじゃった。自分の研究は不完全だと言われるのではないかと。それで彼は、それまでは近寄ろうともしなかった遺跡の最 深 部 ──ここさ──へと入っていった」
彼女は次第に早口になっていった。息も荒らげ、
「わしは、三日待ったよ。だがあのひとは帰ってこなかった。わしはノートを頼りに転 移 装置を使って、遺跡の内部へと入った。あのひとは......」
と。
瞬間。その勢いのすべてを失い、言葉を止める。
シーナは振り向き、水槽に漂う肉塊を悲しく見上げた。
「どういう経緯があったのかは知らないさ。多分、調査の最中、なにかが失敗したんだろう。わしが見たのは、この水槽の中に漂う、このひとだった」
瞳 が震 えている。水槽の表面に手を触れて、
「何度も夢を見たよ。このひとの死ぬ瞬 間 を見たわけではないからなにも分からないけど。でもわしは、初めて泣いたんだ、夢の中で。泣いたんだよ」
しばらくして──
彼女は、水槽から指を離した。短く嘆 息 すると、そこですべてを振り払ったかのように、声からは感 傷 が失われた。
「理 屈 は知らないが、この溶液の中では、生物は死なないのさ。このひとも、この水槽を漂 いながら、ずっと生きていた ! ただ──」
と、両腕を広げる。
「時間が経つと、次第にあのひとの身体が変化し始めた。崩 れ出したんだよ。生きてもいない、死んでもいない。そんな狭 間 の状態で。蘇 生 装 置 は不完全な代 物 だと、このひともノートに書いているよ......人間であるということを構 成 する要 素 がなくなっていくんだとさ。なんていうのかは知らないけどね。それを補 充 してやらないと、この人は......人でなくなってしまう」
広がった肉塊のひだが、それに唱 和 するように揺れている......
「だから、それを補充してやっているのさ。当然だろう? ずっと続けて──いつか、このひとがきちんと蘇 る時まで。当然だろう⁉ 」
シーナはひたすらにそれを繰り返した。当然。しゅっと息を吐くと、自 嘲 するように笑う。
「わしはここにあった、日用品のようなものを売り払って金に換えた。宿を手に入れる資金にしたのさ。わしはここにとどまらなければならなかった。このひとを、ずっと見ているためには......」
彼女の自嘲は、さらに濃 くなった。
「皮肉なもんさ。本当なら、あのひとを王 都 に連れていく資金にするためのものを、このひとをここに隠すために使ったんだ。でもいつかこのひとを復活させることができるのなら、選 択 の余地なんてなかった」
ずっと──
彼女にだけしゃべらせていた。エリスはしかし、どうしても出さなければならない言葉を吐き出した。
「そんなことは不可能よ......」
喉から絞り出した声は、やはり──予想していた通り──どこか枯 れていた。泣き声のように。
「二十年間も、誰にも気づかれずにそんなことを続けられるはずがないじゃない。全部冗 談 ......なんでしょう?」
「つくづく馬鹿だね、あんたは」
シーナは、にべもなかった。呆 れたように肩をすくめ、
「確かに街の人間がいなくなれば、大 騒 ぎになるだろうさ」
と、冷たく続ける。
「だが旅行客だったら......帰 り際 に、ふらっといなくなったところで、ただの行方 不 明 さ。特に、頻 度 が少なければね。せいぜいに数年にひとりってところだよ。今日は三人も補 充 することができたから、この先、十年は必要ないんじゃないかね? どっちみち、死体が出てくることなんて、ないんだ」
「そんな──」
信じられない思いで、エリスは叫んだ。
「じゃあ、何人も、今みたいにその──それに、生 け贄 みたいに捧 げてきたの⁉ 何年も、何年も......ロッツの連中がいなければ、その子たちをしていたの⁉ いえ──ロッツだって、いくらなんでも、こんな......」
床に倒れたままの少女を、少年を、そして肉塊の浮かぶ水槽を指さして、叫び......泣く。左目から、熱い雫 がこぼれるのをほおに感じた。
「こんな......残 酷 な......」
「残酷だって⁉ 」
シーナにとって、その単語は意外なものだったらしい。激 昂 したように、繰り返してくる
「残酷、残酷だって⁉ 言っただろう。選択の余 地 なんてなかったし、これからもないんだよ! それにね、エリス、なにか勘 違 いしているんじゃないかい⁉ 」
彼女がこちらに向けたのは、短剣の先だった。限りなく尖 った刃 物 の先 端 ──
「これからは、お前が、わしがこれまでしてきたことを引 き継 ぐんだよ! 選択の余地はないんだ。お前はわしなんじゃから!」
「な......」
意味が分からず、自分もまた意味のない言葉をうめくことしかできなかった。シーナはあとを続けてさらに大きく叫ぶ。
「お前が何者だというんだい? わしの娘──まさか! これがなんだか知っているかい、エリス?」
言うなり彼女は、襟 を引っぱるようにして自分の胸元を見せた。そこには大きな傷 跡 がある。ひきつれたような傷跡が。
エリスはうめいた。
「......傷......火傷 の跡 だって、言ってた......」
「火傷ね──ふん! まあそうさ。肌を焼きはがした 痕 だよ。生きた肉片から、ここの装置は生物を造ることだってできるのさ。そのやり方は、このひとが解 明 していた」
と──もうこれで何度目だろう──肉塊を示す。まるで崇 拝 者 が神を引き合いに出すように、幾 度 となく指し示された。
「猿たちを従わせるために必要な、脳の一部は、それで造ったのさ。でも、そんなことはしょせん副 産 物 に過ぎなかった。わしが必要としていたのは......」
暗く光るシーナの瞳には、もうなにも映っていないようだった。陰 すらない。光もない。ただ開いているだけの眼球の入れ物。そこになにを見せるでもない。なにを現すでもない。エリスはただそれが恐ろしかった。
そしてまた、言葉も。
「わしが必要としていたのは......このひとが蘇 った時に、わしがいなかったら ──意味がないだろう? このひとと釣 り合 うわしがいなかったら。エリス。それが......お前だよ」
ぐっ──
音が聞こえた。耳の奥で、軋 むような音。
「何年か前に、お前をここで培 養 して──拾 ってきたとして養 女 にしたのさ。わしの記憶も引 き継 がせようと思ったけど、それはうまくいかなかったようだね。いつか、あのひとを迎 え入 れる時のために......」
それがわたし。
大きく傾 く世界の中で──
彼女は叫ぼうとした。なにか大きく嘔 吐 しようと。
だがそれはあまりに大きすぎた。喉 につかえて吐き出せそうにない。だが、その代わりに。
彼女は走ろうとした。身体を傾 け、床に落ちている剣を拾おうとする。が。
いつの間にかシーナが、目の前にいた。もう怒ってもいない。ただ感情のない目でこちらを見て──銀の短剣を突きつけてくる。
エリスの指先は、あと数センチ、床の剣までとどいていなかった。
「............」
「なにをやろうとしたんだい? お前は......馬鹿な子だよ」
答えられない。切っ先に射すくめられ、震えることしかできない。だがその時。
声を聞いた。
別に優しくも美しくもない。だが鮮 烈 で、強い。鋭い叫び声。
「我は放つ──」
その声には力があった。彼女が飢 餓 感すら感じるほどに。
「光の白刃っ!」
白い閃光が一直線に、猿の群れを打ち抜いた。ただ立っていた猿が十数匹か、その鋭い輝きの中に消し飛んでいく。爆発の振動を感じて、エリスはうめき声をあげた。光は別に、猿たちを狙 ったものではなかった。その光が目指したものは──
びしいっ!
巨大な肉塊がこれ以上ない平 穏 の中で漂 う水槽へと、それは突き刺さっていた。水 槽 のガラスは──よほど強固なものなのだろう──砕けはしなかったが、その表面に数本の亀 裂 が生じた。乱 雑 な蜘 蛛 の巣のように描かれた亀裂。
シーナが声にならない悲鳴をあげている。荒 れ狂 う熱 波 の中で、エリスはそれを聞いていた。
かつん......
すべてに区切りをつけるように、足音が響いてくる。
水槽の陰から姿を現したのは、黒ずくめの男だった。皮 肉 げな眼 差 しに、今は鋭いものを宿して。
「なるほどねぇ」
男は、腰に両手を当てて、肩をすくめたようだった。
「インチキ温泉のオチとしちゃ、ちょうどいいのかもしれねえな──インチキ処刑場のインチキ蘇生装置ってのはよ」
◆◇◆◇◆
「なにがインチキかっ⁉ 」
彼女の激昂は、予想できたことだった。
だからというわけではないが、オーフェンは落ち着いて続けた。一歩前に出る。シーナがエリスの首筋に突きつけている短剣が冷たく輝くのが見えた。
(これ以上は......近づけねえか)
ちょうど人質を取られた格 好 で、オーフェンは足を止めた。ふたりの向こうには、倒れて動かないクリーオウとマジクの姿も見える。
「............」
彼女らをそれぞれ見ながら、オーフェンは告げた。
「なぁにが処刑場だか。滅びを目前にした天人種族には、要 するに仲間を殺すことなんて論 外 だったのさ。だからこんな大げさな蘇生装置だ。処刑してから、一定期間をかけて蘇生させる。多分、これが彼女らなりの刑期なんだろうな。彼女らが、より強い魔力を持った罪人を裁 けなかっただろうことも、これで解決するわけだ。そりゃそうだろ。あとで蘇生できると分かってりゃ、危険を冒 してまで反 抗 する必要はないんだしな」
思わず、苦笑する。
「罪 を無 実 化 すること。これが、司法を円 滑 にするための、彼女らの結論だったわけだ。不死の種族らしい、なんとものんきな答えだよ」
「だかそのおかげで、あのひとを蘇らせることができるのさ」
「できないね!」
オーフェンは、大声で叫び返していた。拳に力が入るのを感じる。
「俺にだって分かるこった。ここの装置は不完全なんだ。いや、完全な蘇生装置なんて、大陸のどこにもない。だから天人種族は、この遺跡のことを人間種族に伝えなかったんだ──俺たちが間違って手を出さないように!」
と──
シーナの目を見 据 え、オーフェンはトーンを落とした。半 眼 になって、つぶやく。

「実際、天人種族は地上から姿を消したんだ──誰ひとり、復 活 してくることなく」
そこでちょうど、ばたばたと大きな足音とともに、コンラッドらが追いついてきた。走るのはいかにも苦手らしく、ぜえはあと息を弾 ませながら姿を現す。ボルカンとドーチンも、である。
「えーと」
なかなか息を整えることができず、胸のあたりをさすりながら、コンラッドは言ってきた。
「話はおおむね聞いていたんだが」
「ああ」
「研究者として合 理 的 なことを言わせてもらえばだ、その男が生きているのなら、自分を培 養 したのと同じ方法で、その男を培養すれば良さそうなものだと思うんだが」
「合理的か......? それは」
「的 確 なつっこみと言 い換 えてもよろしい」
「いや。だからさ」
オーフェンはうめくように言ってから、シーナにちらりと視線を投げた。彼女は──一応、これをまともな発言と受け取ったらしい。
「何度か試 したさ。どうしてこの......ひとが、これだけでっかくなっちまったと思ってるんだい?」
「理 屈 に合わんではないか。どうしてそちらのお嬢 さんだけうまくいく?」
「......まあ、生体としては、男は不安定だしな。こんな無 茶 な装 置 で培養すりゃ、全身が一種の癌 細 胞 になったって、俺は驚かねえよ」
「むう。わたしもあれの一部になっとったかもしれんのだから、癌はやめてほしいところではあるな」
そういう問題なのかどうかは知らないが、本気でそれだけは嫌 だというようにあごにしわを作って、渋 い表情でコンラッドがうめいている。
が、シーナは冷たく言ってきた。
「あんたなんぞ、使いものにならんさ」
嫌悪の眼差しでコンラッドを射抜いて、続ける。
「煙草 吸うんだろう、あんた......このひとはデリケートなんだよ」
コンラッドは──なにやら、情けない表情を見せた。
「こんな状況でさえ嫌 煙 権 がはびこるとは」
「だから、そーゆう問題じゃねえだろ」
オーフェンはコンラッドに告げると、彼を後ろに退 がらせた。ほほう、と声をあげながら、コンラッドが尻 餅 をつくように後退する。尻餅をつくように、というのはなにかにつまずいたからであり、なにかというのは言うまでもなくボルカンとドーチンだった。むぎゅ、と音を立てて、ふたりが下 敷 きになっている。
「おいこら、借金取り! この偉 大 な英雄をおっさんの下敷きに──」
非難の声をあげてくるボルカンの顔面を横から蹴って黙らせ、オーフェンはシーナに向き直った。
「どっちみち──」
と、右手を掲 げて告げる。彼女と、エリスの首 筋 に当てられた刃とを見やって。
エリスは、言葉を発することもできずに、ただ硬 直 している。それが刃を恐れてのことなのか、あるいは違う理由のためか、オーフェンには判断がつかなかったが。
「どっちみち、話が通じるとも思えないね。だが忘れんなよ。人質を取ってるのはあんただけじゃない。俺がもう一度魔 術 を試 せば、その培養槽、破 壊 できるぜ」
それまで、じわじわと包 囲 の輪を狭 めようとしていた猿たちの群 れが、ぴたりと止まった。
指先はしっかりと、額 縁 のように肉塊の姿を飾 る水槽へと向けてある。
「ボルカン、ドーチン」
オーフェンは、ようやくコンラッドの尻の下から這い出してきた地人ふたりに声をかけた。
「あそこで寝てるクリーオウとマジク、連れてきてくれ」
「あ、はい」
と、わりあい素直にうなずきかけたドーチンの首を、後ろから押さえつけて、ボルカンが叫んできた。
「って、おい、この万国びっくり魔術士! 貴様、きっかり三十八秒前に顔面の一番へこんだとこに蹴りをくれといて、どーゆうつもりで人に命令できるってんだ⁉ いい加減にしとかんと、顔面つかんで手首回転し殺す──」
「借金をチャラにしてやる」
「............え?」
わけが分からないような顔で聞き返してきたボルカンに、オーフェンは真 顔 で繰り返した。
「頼みを聞いてくれたら、借金を全部チャラにしてやる」
「............」
それでもしばし、ボルカンはその言葉の意味が理解できなかったのか、眼球をくるくる回転させるようにして考え込んでいたようだったが──
ぱっと目を見開いて、彼の口の形が確かに『はい』の形になりかける。が、その一歩手前で踏みとどまって、ボルカンは聞き返してきた。
「ホ──ホントだろーなっ⁉ 」
「ああ」
「ホントってことは、嘘 じゃないってことなんだよな⁉ 」
「俺が嘘つくはずがねえだろ」
「イエッサー黒魔術士様!」
ボルカンは、ささっと敬礼のようなポーズを取ると、口 早 にまくし立ててきた。
「このボルカノ・ボルカン、いくらでも素 早 くあの小僧どもを回 収 して参ります! ああ、どんどん速くなれ俺様の手足!」
妙な呪 文 を唱えながら、ばたばたとふたり、クリーオウとマジクのところまで駆け寄っていく。途中、シーナらの横を通り過ぎるが、シーナは動きを見せなかった。こちらから──というより、水槽へと向けたオーフェンの右手から、視線を外そうとしない。
帰りもまた大 騒 ぎしながら、それでもなんとか、ふたりの地人はクリーオウらを担 いで引きずってきた。もどってきて、男泣きに泣きながら、再び敬 礼 を取ってくる。
「もどって参りました、黒魔術士様!」
「おう」
オーフェンは、まったく表情を変えずにボルカンに告げた。
「ボルカン」
「はい」
「あれは嘘だ」
「おい⁉ 」
「やっぱり」
なにやら悟 ったように、ぼそりとつぶやいたのは、ドーチンだったが。
全力で抗 議 してくるボルカンのことはまったく無視して、オーフェンはいまだに気絶して動こうとしないクリーオウとマジクを見やった。こんな時だというのにのんきに寝ている。
「ったく、こっちは膠 着 しちまってどうしようもねえってのによ」
だが、ふと──
(ん......?)
オーフェンは、ふと怪 訝 に思って眉 根 を寄せた。
(レキの奴がいない......?)
いつでもクリーオウの近くをうろうろしている子ドラゴンの姿がなかった。
と、まだぶつぶつと文句を言っているボルカンが、そのクリーオウのほうへと向き直る。
「あー腹立つ! というか腹が立ち、あえて言えば腹が立っている! とうとう真顔で嘘までほざくようになりやがって極 道 シーズン真 っ盛 りの借金取りが、貴 様 がそーゆう態 度 に出るのならな、この俺様がなにをするかというと、こーだ!」
拳を固めて、寝ているクリーオウの顔面を、思い切り殴りつける──
ぐしゃっ。
少女の顔面は陥 没 し、そしてそのまま──床を汚している培 養 液 とまったく同じ緑色の液体となって、無 惨 に広がっていった。同時に、隣 にいるマジクもどろりと溶けて同じ状態になる。
「............⁉ 」
目を丸くし、総 毛 立 った様子でひきつったボルカンを見ながら、オーフェンは反 射 的 に防 御 態 勢 を取った。
「と・ゆーわけで、ばれちゃったから奇 襲 スタートっ!」
聞き慣れた甲 高 い声が、どこからか響 きわたる──
目の前の、つまりはシーナと自分との間の空 間 に、大きな歪 みのようなものが生じる。
そして一瞬後、そこにレキを頭に乗せたクリーオウと、彼女に首 根 っこを掴 まれたマジクとが姿を現した。
(空間転移⁉ )
オーフェンは胸中で悲鳴をあげた。ディープ・ドラゴン種族の空間転移は見たことがある。距 離 、つまり空間に対して精 神 支 配 をしかけ、その物理的距離をゼロにしてしまう強 引 な構成。支配はほんの一 瞬 だけで、それが解 けた後 には、当然、空間は正常な距離へと復 元 するため、瞬間的に膨 張 する。
結果、どういったことになるか。
大爆発に吹き飛ばされながら、オーフェンは走 馬 灯 のように様々な思い出を噛 みしめた。姉たちにろくでもない目にあわされた少年時代、世間というものにろくでもない目にあわされた青春時代、あとはまあ、とにかくいろいろなものにろくでもない目にあわされ続けたここ最近。
そして現在。今こうして、ろくでもない爆発に吹き飛ばされていたりする。
床を転がるようにしながら、オーフェンはなんとなく泣きたくなった。
爆発が終わって。
とりあえず、近くにあった水槽のガラスに押しつけられた格 好 で、オーフェンは止まっていた。なにやら重いものに押しつぶされている。意 識 が完全に復 活 してから目を開くと、逆さまに倒れた自分の上に、クリーオウがちょこんと座っていた。同じ方向に吹き飛ばされたらしい。
レキを頭に乗せて、こほんとむせるように咳 をしてから、少し焦 げたクリーオウはきょとんとつぶやいていた。
「あれぇ? シーナのすぐ後ろに現れて、かっこよくエリス助けるはずだったのに。なんで転移してから吹き飛んじゃったんだろ」
以前見たディープ・ドラゴンは、転移後にも別の構成を編んで、爆発から自分の身を守っていた。これは当然だろう。
だがまだ子供に過ぎないレキでは、そうそううまくいくはずもない。防 御 が不 完 全 だったため、吹き飛ばされたのだ。命が助かっただけ、まだ成功したといえるほうだろう。
とりあえず、その説明はせずにおいて、オーフェンはうめき声をあげた。
「......なるほど。レキの魔 術 で、培 養 液 に精 神 支 配 をかけて形だけお前とマジクに仕 立 て上げたわけだ。自分たちはどっかに隠 れて、奇 襲 のチャンスをうかがってたんだな?」
「いい案でしょ?」
身体の上をどこうともせずに、クリーオウが聞いてくる。オーフェンは半眼で告げた。
「俺が半 径 一キロ以内にいる時は二度とやるなよ」
彼女を押しのけて立ち上がる。
あたりは、さらにひどい状態になっていた。爆発のせいで砕 けた水槽はさらに増えている。床にこぼれだした培養液の量も。
「......どこまで吹っ飛ばされたんだ? 俺たちゃ」
「そんなに飛んでないはずよ」
あまり説得力のないことを、しかも理由すらないまま自信たっぷり、クリーオウが言ってくる。
爆 心 地 ──つまりさきほど自分たちがいた場所は、見ればすぐに分かった。実際、さほど離れているわけでもない。吹き飛ばされたのも、十数メートルというところか。命を落とさずにすんだ自分の幸 運 に感 謝 しつつ、オーフェンはあたりを見回した。あちこちに、それぞれの格 好 でみんなが倒れている。うつ伏せになって目を回しているマジクに、折 り重 なってなにやらわめいている地人の兄弟、なぜか平 穏 無 事 にしているコンラッド。猿たちは、無事であったりなかったりしたようだったが、よくは分からない。だがぱっと見ただけでもまだあと二十匹はいるようだった。そして......
丁 度 反対方向に吹き飛ばされたせいだろう。ひび割れた水槽に、シーナとエリスが押しつけられた形でもたれている。額 から血を流して、意識もはっきりとはしていないようだったが、シーナが持つ剣は相変わらずエリスの首 筋 に押しつけられていた。
好 転 も悪 化 もしていない。なにも変わらず、ただ距離が開いただけだ。
オーフェンは、あちこち細かく痛む身体を引きずって、前に出た。と、びくりと震 えるように、シーナが短剣を握り直す。エリスに押しつけていた刃をさらに強く押し当て、彼女は吠えた。
「近づくんじゃないよ!」
その目からは、どうひいき目に見ても、理性のいくらかが剥 げ落ちつつあるようにしか見えなかった。
「殺すよ! どうでもいいんだ、別に──どうでもいいんだよ! どうせまた、造り直せばいいんだから! 少しでも近づいてきたら──」
「やめて!」
悲 鳴 じみた声をあげたのは──エリスだった。かぶりを振って、そのせいで押し当てられた刃に血がにじんだが、叫び続ける。
「もうやめて──!」
「うるさいね!」
シーナが叫び返す。彼女は刃を使っても相手を黙らせることができないと悟ってか、締 め付けるようにエリスの首に腕を回した。
「うるさいね! だいたい、あんたにそんなことが言えるはずがないんだ──あんただって、この猿たちと同じなんだよ!」
「............⁉ 」
エリスの身体が、びくりと震える。シーナは続けた。
「あんたは、わしの思考を追うようにできているんだ。最後には、わしが望むことを考えて、わしが望むようにするんだよ。そのはずなのに──あんたは、つくづく馬鹿な子だ!」
「わたしは......ママの考えを......追っている?」
「そうさ。あたしが望むことを自 ずとね」
「ママの......考えだけを」
エリスの目に、なにか、呆 然 としたものが──そして、呆然とした中にはっきりとしたものが浮かんでいる。
「わたしが考えることは、ママの考えることと同じ......」
「そうだと言っているだろう! うるさいよ!」
「宿に火をつけたのは......わたし」
「............⁉ 」
初めて──シーナの顔に、驚愕の色が走る。
「思い出した......今。宿に火をつけたのはわたし。わたしが......わたしが......でも、なぜ?」
自 問 したのはエリスだったが──その答えを知るかのように、シーナがたじろぐのが見えた。動 揺 したのか、手から短剣を取り落とす。銀の短剣が、床に当たって弾んだ。
エリスはそんなことには構わず、次第に声を強めていった。
「外に......出たかった」
「うるさい──うるさい──」
逆に力を奪われるように、シーナの声に怯 えが走っている。エリスが身体をこわばらせた。締め付けられている首に、指を差し込んで、抵 抗 する。
「わたしは......あんな宿になんかいないで、外に出たかった」
「なにを言って──」
「あの魔術士を連れてきたのはわたし!」
エリスの声は、叫びに変わりつつあった。
「ママを止める人を連れてきたのはわたし!」
「うるさいって言ってるんだよっ!」
刹 那 ──
オーフェンは、なにかを罵 った。
なにをかは、自分でも分からなかった。自分自身をかもしれない。今まで生きてきて、何度も罵った気がする。
目の前で起こったこと。
それが起こった理由もまた、分からなかった。シーナとエリスが暴れたせいかもしれない。あるいはただ単に時間が経ったからかもしれない。ほかの理由かもしれない。彼女たちが背中を預けていた水槽が──何重にも亀裂が生じていた水槽のガラスが、いきなり割れたのだ。
あふれ出す緑色の培養液が、あっと言う間にふたりを押しつぶした。そして、さらにその上から──巨大な肉塊が覆い被さる。
「エリス⁉ 」
叫んだのは、クリーオウだった。頭の上の子ドラゴンを下ろして、その顔をのぞき込む。彼女が発した声は、悲鳴じみていた。
「レキ、なんとかして──」
だがドラゴンは緑色の目をぱちくりさせるだけだった。オーフェンはかぶりを振って、大きく右腕を上げた。肉塊が床に跳ね、コンラッドやマジク、ボルカンにドーチンたちが、あわててこちらへと逃げてくるのを見ながら──
「我は放つ──」
「待ちなさい!」
言ってきたのは──誰が言うのよりも意外だったが──コンラッドだった。再びぜえはあと息を弾ませながら、
「あの子も巻き込むことになる!」
「分かってる!」
オーフェンは、走ってきた中年の男に対して、噛みつくように叫び返した。
「なんとか、加 減 して......」
「君の腕では無 理 だ」
コンラッドは、あっさりと断言してきた。むっちりとしたほおに、正体不明の自信がうかがえる。この年 代 の男に特 有 の、経験の自信とでも言うべきか。
だが──
「じゃあ、ほかの誰にできる⁉ 」
「考えたまえ。よく見て、考えるんだ。魔術士ならば、それを学んだはずだろう」
「考えたところで、なにができる!」
相手の言っていることが正しいのは、分かっていた。だがオーフェンは破れかぶれに叫んだ。こうしている間にも、肉塊は床に広がり、空気に触 れ、のたうつように蠢 いている。巨大な質量を持つその肉塊が暴れ、水槽を押し倒し、飛びかかる猿たちを取り込んで、さらに巨大化していく......
「装置を......壊 している、のか......?」
オーフェンは我知らず、つぶやいていた。
「お師様!」
「おい、クソ魔術士!」
マジクとボルカン、ドーチンが、同時に駆け寄ってきた。マジクはすっかり青ざめた表情で、
「に、逃げないと──あの転移装置のあるところまで」
「......待て!」
オーフェンは、マジクを押しとどめるように叫んだ。言われたから、というわけではないが、見る。荒れ狂う津波のような巨大な肉塊のダンスを、観察する。見てなにが分かったというわけではない──苦々しい思いで、オーフェンは認めた。だが、なにかの予 感 がした。見ていれば、なにかが分かる......
肉塊の表面が、奇妙に盛り上がっているところがあった。その部分だけ、床から弾 け上がりもしなければ、蠢 きもしていない。ただ奇 妙 に盛り上がっている。そして、その白い表面が唐 突 に裂 けた。銀色の刃が、内側からその肉塊を引き裂いたのだ。銀の短剣を両手で構えて、細い腕が姿を見せる。なにかを求めるようにあえいで、肉塊の中から出てきたのは、エリスだった。
「エリス!」
クリーオウが、歓 喜 の声をあげている。
エリスはあわてながら、なんとかその肉塊の中から身体を引き出した。剣を抱え、ふらふらと──こちらへと駆け出してくる。
「エリス!」
再びクリーオウが、繰り返して叫ぶ。コンラッドが、なにやら満足げにうなずいているのが見えた。
「無事......なのか?」
信じられない思いで、オーフェンはつぶやいた。エリスは途中から気を取り直したように強く、走り出した。すぐにこちらのもとにたどり着いて、彼女は──無 言 のまま、銀の短剣をこちらに手渡してきた。
「............」
こちらも無言のまま、それを受け取る。
ふと、顔を上げた。肉塊はいまだ暴れている。のたうち、水槽をなぎ払い、最後の抵 抗 をする猿たちを呑み込んでいく。
「......行こう。どうせ培 養 槽 の外に出て、長く生きられるわけでもない」
コンラッドの声で、オーフェンは意識を取りもどした。うなずくと、全員の顔を見回す。
「行くぞ──転移装置まで、走る」
「急ぎましょう。ほら......長く生きられないのかもしんないけど、なんかすぐこっちまで来そうだし」
暴れる肉塊を指さして、クリーオウがうめいた。
走れば、転移装置のある場所まで、さほどの距離があるわけでもない。背後に破 壊 の音を聞きながら、全員、走り続けた。壊れた水槽、床を浸す培養液、その上を走り、やがて、壁際に置かれた模 型 の地図が目に入る。
「着いた!」
マジクが、声をあげた。ばたばたと全員、装置を取り囲むように集合する。
またもや息を荒らげて──さらに今度は長距離を走ったため顔色が紫 色 になっている──、コンラッドがその装置に手を突いた。息を落ち着かせてから、いかにも研究者らしく目を閉じ、合い言葉を唱える──
「『我らの時を終わらせない』」
............
なにも起こらない。
眉間を押さえて、コンラッドが嘆きの声をあげた。
「むう。やはり、あの詐欺男のことが脳 裏 をかすめる......娘さんをくださいなどと、愚 かなことを言う男なのだが」
「もういいから引っ込んでろ!」
オーフェンはコンラッドを押しのけると、模型の地図の上に手を置いた。息を吸い込み──そして叫んだ。
「『我らの時を終わらせない』!」
「違う......」
弾ける感覚の中──
どこか憑 かれたようなエリスの声が、耳に残っていた。
「時は......終わる。いつだって終わっている。終わらせて──変えていかなくちゃならない!」
光の中にすべては消えて。
そして、転移装置が作動した。
「あー、なにやってんのよマジク! 卵も割れないわけ? なんでできもしないくせに片手で割ろうとかすんのよ。ほら、殻が入ってるじゃない」
「い、いや、できるよ。クリーオウが横からうるさいから......」
「あーもー。こっちはいいから、そこの味付け見ておいてよ。って、ちょっとマジク、それ蓋 ついてないわよ?」
「......へ?」
続いて台所から聞こえてきた悲鳴を聞きながら、オーフェンは顔を上げた。ペンション・森の枝の食堂兼広間。部屋の真ん中には立体模型の地 図 が設 置 され、まったくもとの通りにもどっていた。窓の破 損 も魔術で直し、ひびひとつ残っていない。
その食堂でオーフェンは、特にすることもなく椅 子 に座ってぼんやりしていた。ロッツ・ホテルの襲 撃 および、そのオーナーである大フィーン・ロッツの死 亡 ──温泉街は決して小さからぬ騒 動 に揺れていた。ロッツ・ホテルは半日かけてやはり魔術で修 復 したし、フィーン・ロッツの死に関してはコンラッドが証言してくれたおかげで冤 罪 を受けることもなくすんだ。様々な疲労にしっとりと身体を浸しながら、静かに緩 やかな時間を堪 能 していたのだが......
しばらくして、台所の扉が開いた。ひょこんと、クリーオウが顔を出す。なにやら困ったように眉 間 にしわを寄せていた。
「......オーフェン......」
名前を呼んでくる。オーフェンはうめくように返事した。
「なんだ?」
「マジクがお鍋 の中に、タバスコ一 瓶 空けちゃったんだけど、食べられるかな」
「食えるかっ!」
とりあえず、叫んでおく。だがクリーオウはくじけずに、ぱんと手を叩 いてみせた。思いついたように、
「でも、ひょっとしたら美 味 しいかもしれないし」
「食いたきゃ自分で食えよ」
「うーん。なんかこう不 思 議 と抗 しがたいものを感じたりもするのよね」
ぶつぶつと難しくつぶやきながら、また台所へと消えていく。
またしばらくして──扉が開いた。が今度は台所のほうではなく、廊 下 からだった。
見ると扉を開けて、エリスが入ってきたところだった。彼女は、今のやり取りを聞いていたのか、ふっと笑みを浮かべると、
「......なにか悪いわね。お客さんのあなたたちに、食事の準備までさせちゃって」
オーフェンは、また再開された台所の喧 噪 に耳を傾けてから、肩をすくめた。
「ま、君の話を聞いて、あいつらなりに気 を遣 ってるんだろ。こういう時は、甘えちまうほうが楽だぜ」
「そうね。きっと......そうなのよね」
「それより、こっちこそ悪いな。旅 費 なんてもらっちまってよ」
「そっちこそ気にしないで。結局、鞄 、見つからなかったんでしょう?」
「ああ。ま、剣は取りもどせたし、ほかはたいしたもんが入ってたわけじゃないからいいんだけどな」
そう言ってからオーフェンは、しばしエリスの顔を見つめた。やはりその表情からなにを読みとることができたわけではない──どこか芯 が抜けたような瞳。曖 昧 な口 元 。
(実は......全然似てないんじゃねえのか? シーナとは......)
ふとそんなことを、オーフェンは独りごちた。まあそれは、当たり前のことなのかもしれないが。
と──
考え事をしている間に、エリスの表情に、なにか暗いものが浮かんでいた。肩のあたりを抱え込んで、彼女は呆然とつぶやいた。
「わたしは......どうして助かったのかしら」
恐らく、誰に聞いたというつもりもないのだろう──そのことに気づかなかったわけでもなかったが、オーフェンは咳払いしてから口を開いた。
「......魔術士らしく解説してやるとだな。もちろん推 測 だけど」
声を聞いて、エリスがはっと注意をこちらに向ける。オーフェンは椅子から立ち上がり、彼女に背を向けると、部屋を横切って窓へと近寄っていった。
「あれはもう、人間なんて呼べた代 物 じゃなかった──むしろ二十年もの間、与えられた他人を取り込んでなんとか形 質 を保ち続けるうちに、かえって、ただそれをするためだけの物体に成り果てていた。人間にもどろうとするために他人を取り込むんじゃなく、ただ他人を取り込むためだけの性質を獲 得 していったわけさ」
窓枠に手をかけて、それを押し開ける。流れる秋の風が、食堂に吹き込んできた。
「触 れるだけで、無 条 件 にその人間を取り込むわけだ。だが一度取り込めば、まったく同じ人間を取り込む必要はないんだろ。どっちみち、この世に同じ人間なんて──普通はいないんだしな。倒れた時に......君より先に、シーナに触れたから、君は取り込まれなかった」
と、そこまで言ってから振り返る。エリスはどこか不安げに、こちらを見ていた。彼女が言いたいことは理解できていた。だが、それを口にするのは──きっと──つらいだろう。
先手を取るように、オーフェンは言い直した。
「でもな」
と、告げる。
「別に......あの男が求めていたのがシーナ・ショスキーで──君がシーナじゃなかったから助かった、でもいいんじゃねえのかな」
「シーナ......じゃない?」
「そりゃそうだろ。死人が蘇 らないのと同じ、同じ人間を造り出すことなんてのも、できるはずがない」
「............」
彼女はなにか、頭の中で整理するように視線を上にあげた。いや、そんな大 層 なことでもないのかもしれない。数秒ほどもして、彼女はすぐに忘 我 の淵 から帰 還 してきた。
くす、と笑って、
「......ありがとう」
その微笑は、言うなれば──魅 力 的 だった。
もう一度大きく咳 払 いして、オーフェンは、微 笑 む彼女から目をそらした。
「ま、なんにしろ、君もここにはいないほうがいいだろうな。コンラッドがナッシュウォータに下りたし、あの遺 跡 に関する報告が広まれば魔術士同盟も動くだろ。そうなると、君は重 要 参 考 人 だ」
「......どこに行けばいいのかしら」
彼女の声には、再び不安の色がにじんでいた。見ると、遊びに行くのを断 られた子供のように、斜 めにうつむいて組み合わせた指をもてあそんでいる。
「どうやって生きていけばいいのかしら。わたしはここ以外の場所なんて知らないのに」
オーフェンは、ため息をついた。窓から外を見て、そして──つぶやく。
「......さあな。言ってただろ? 自分で」
なにも変わらない静かな温泉街を見つめながら、告げる。
「時は終わるから、変えていくんだって」
そして静かに付け加えた。
「忘れないことにしておくよ、俺も」
と、細かくちぎれた雲が流れていくのを見やって、
「多分、そのことだけが、天人種族──過去にしか生きられないあの連中と、俺たちの違いなんだろうからな」
窓から身を乗り出し、高い空を見上げ、つぶやく。
そして──
「できたー!」
花 柄 の鍋 を持って、クリーオウが台所から姿を現す。
チューリップ型の鍋つかみ(エリスは花好きらしい)に抱えられた鍋は、まだぐつぐつ音を立てている。なんとなくオーフェンは、顔をしかめた。
「......クリーオウ」
機 嫌 良 くぱたぱた歩いてくる彼女に、問いかける。
「なぁに? オーフェン」
「ずいぶん早いな」
「......なにが?」
「作り直したにしては、えらく早いなって思ったんだが」
「作り直した?」
「だから......タバスコ」
「ああ」
ようやく合 点 がいったように、クリーオウが目を輝かせる。うんうんとうなずいて、
「やっぱり意 外 と美 味 しかったわよ、これ」
「いらんと言っとるだろーがっ!」
全力で否 定 し、叫ぶ。
まあ、なんにしろ......
◆◇◆◇◆
「なんか......そうだよ。やっぱり前々から、そう思わないでもなかったんだ」
ぶつぶつと、愚 痴 る。愚痴りたくもなる。生きていれば。
「そうなんだよ......俺って、いつの間にか忘れ去られてる感じなんだよな?」
ノサップは遺跡の中、とりあえず安全な入り口に腰掛けて──
山の陰 になって見えないが、遠くレジボーン温泉郷の方角を見つめ、そんなことをつぶやいていた。
「あー......」
「えーと」
「うー......」
「あのね」
「えー......」
「............」
「のー......」
「てい」
「どはうっ⁉ ......だ、誰 だ⁉ いきなり背 後 から作者の後 頭 部 を金 属 バットで脅 かすのはっ⁉ 」
「わたし。エリス。ほらあとがき始まってんだから、しゃんとしなさいって」
「ううむ。確かにもっとも。しゃんとしよう(しゃん)」
「......今の、もしかしてしゃんとした音?」
「さて! 長らくお待たせいたしました、十二度目の巻 末 ! まったくもって世 間 もいろいろ物 騒 になるわ、原作者がのこのこラジオに出るわ、編集部の陰 謀 によりこの十二巻の発売が十二月だとかゆーデマが流れるわ、いろいろ起こった半年間! みなさまいかがお過ごしでしょーか作者です」
「いやまあ、そのへんはどーでもいいんだけど。にしてもなんか、上巻と下巻で、えらく厚 さが違うのはなんでなわけ?」
「一見、厚く見えるかもしれませんが気のせいなので気づいちゃ駄 目 です。さらに、本 棚 に並べて十巻と十二巻の間にはさんであったりすると十一巻の薄 さがひたすら目立つので、本屋さんも平 積 みにしておいてくれると吉」
「吉......なの?」
「まあ真 面 目 な話 、配 分 間違えたのは確かかな。とゆーか、もともと上下巻に分けるようなネタでもなかったんだけど。作者がやりたいと思ったこと全部やってみたおかげで、ちとイビツになったと思いねぇ」
「よーするに、あんたの不 手 際 ?」
「うっさいな。意識的に書き方なんかもちょこちょこ変えてみたりもしたんだけど、次回からはもとにもどします。っても、ぼくが細かくこだわってるよーなことなんて、読んでる人にとってはどうでもいいことだったりするのかもしれないけど」
「弱気ねー」
「現実的と言ってくれ。まあ、他人にとってどうでもいいからこそ、こだわりがいがあるってもんだ」
「......つくづく、分かるよーな分からないよーな理 屈 で生きてるわね、この生き物」
「生き物って」
「いいじゃない別に。それはそれとして、じゃあ、次からはどーなるの?」
「どーって......どうしたもんかなぁ」
「悩まないでよ」
「うーん。まあ、あれをこーするつもりでずっといたんだけど、でもあれをこーするよりは、あっちを先に......いやでもなぁ」
「えーと」
「とはいえあっちは、早ければ早いほど......いや、そんなこともないか。だからやっぱりあれでいいんだよな、うん」
「あのね」
「そーそー。あれで良し。その中でちょっとずつあっちを」
「............」
「だからつまり──」
「てい」
「ばふぁっ⁉ ......だ、誰だ⁉ いきなり脅かすのは後頭部を作者の金属バットで背後からっ⁉ 」
「分からないし。では、こーゆう生き物はほっといて、そろそろお別れですー」
「あ、前回に引き続きまたまとめよーとしてる、こいつ」
「というわけで、またもやしーゆー♪」
「また次の巻末でお会いしましょう!」
一九九八年九月──
秋 田 禎 信











故 郷 をあとにする時、父がつぶやいた言葉だけははっきりと覚えている。馬 鹿 げた妄 想 かもしれない──当時、まだ自分が子供だったことは知っている。覚えているはずがないということも。
だが確信を持って言えた。彼が怒 りとも悲しみともつかない奇 妙 な眼 差 しでその美しい故郷を見つめ、涙 していたこと。その声がくぐもり、風に紛 れて消えてしまいかねないほど小さなつぶやきだったこと。湖 面 が輝 きその水面をなだらかな波 紋 が揺 れ、そして太陽が白く輝いていたこと。水底に、緑色に苔 むした巨 木 が沈 み、そのねじれた枝の間を銀色の魚が無数に泳いでいたこと。深い、あまりにも深い森の中でその膨 大 な水は鏡のように美しく、そして冷たく見えた。
そこはとても神 聖 な場所だったのだと、数年もして父は語った。いや、娘 にそれを語ることができるようになるまで、数年間を要したと言うべきか。彼の怒り、あるいは悲しみが、どういった由 来 のものだったのか、それはついに聞けなかった。彼が胸に秘 めたまま逝 った数々の言葉。ひょっとすれば語られるはずだったのかもしれない言葉たち。それがいくつあったのかすら、もはや知ることはできないが。
故郷。それが父にとって大切なものだったことは、疑いを持たない。彼はたびたびその光景を夢 で見たのではないだろうか。旅 人 も通わぬ街 道 で、一枚の毛布にくるまり親 娘 で体温を保っていた夜などは特に、父の追 憶 は深くなっていたのではないかと思う。彼はよく、自分の娘 をじっと見つめた。見つめられて、彼女も特に気にはしなかった。ただ父の悲しげな瞳 に、どうすればそれを止められるのだろうかと、夜空に問うた。
父はよくため息をついた。良くないことだと何度も注意したが。本人も分かってはいたのだろう。息をつくというよりは生気を吸い出されるように、父は年月を追うごとに嘆 息 の数を増 やし──そしてやつれていった。同年代の男たちと比 べて、明らかに体重が足りなくなり、誰 の目にも明らかになった。彼は病 んでいたのだ。
病状は、それを看 る者たちの一喜一憂を試すがごとく、時に快方に向かい、時に絶望的な発 作 を呼んだ。その運命の実験は、半年ほど続き、衰 弱 と発作とが彼をもはや追憶に迷い込むことすら許さなくなった。彼女にはどうしようもなかった──何者にも、運命を操 る存在でもなければ、なす術 はなかったろう。高価な治 療 と延命は、蓄 えをあっさりと食いつぶし、父の悲鳴は彼女の睡 眠 時間をも削 っていった。このままでは、ベッドに縛 り付けざるを得ない。医者は折れた自分の眼 鏡 を恨 めしげに見せながら、そう言った。彼女は笑った。縛り付ける? かつて悲しく自分を見つめていたあの瞳は黄色く濁 り、充 血 し、見開かれ裏返っている。縛り付ける?
医者が往 診 をやめてから二日後、父は死んだ。その臨 終 に発作がなかったのは、神の配 剤 なのか、あるいはもうそうした反 応 が起こるだけの生命力すらなかったのか。どちらであっても構わない。ただ彼女は感謝した。父の苦しみが終わることに。悲しみは終わらなかったのかもしれないが、もうそれでいい。祈 りに意味があるのならば、もうそれだけでいい。
末 期 の言葉は静かなものだった。自らの剣 を抱 え、そして最期にやはり、あの悲しい目を見せた。故郷を去った時の瞳──だからかもしれない。彼女には、その言葉が、故郷を去った時の言葉と同じだったのではないかと思えてならなかった。
偉 大 なる剣士であった父は、こう言い残して人生を終えた。
「先人の生き様を継 ぐ資格など......誰にもありはしない。もしあったとしても、罪 までも背負うのだから。罪を背負う者は、心して──自らの背中にのみそれを負うが良い」
この時、父の瞳は、もうなにも映してはいなかった。
「主を捨て、自分だけの人生を求めるのならば、そうするしかない」
「う〜......ん」
クリーオウは大きく伸 びをしながら息を吸うと、朝の香 りを空気といっしょに肺 に送り込んだ。澄 んだ芳 香 が鼻 孔 をくすぐる。ゆるんだ涙 腺 からにじんだ涙 を手の甲で拭 いて、彼女は窓枠にもたれかかった──肩 越 しに見ていた外の景 色 は、見事に朝の色に染 まっている。淡 色 の屋根が連なっているのが彼方 まで見えるのは、この宿が小高い丘 に建てられているせいだった。
と、頭上に、もぞもぞとした気 配 を感じる。彼女はくすっと笑うと、頭の上から、黒い塊 を胸に抱 き直した──黒い子犬のようなその生き物を抱いて、改めて外を見やる。
朝日が輝 いて、街 に光を与 えている。まだ眼 球 の奥 に眠 気 が残っているのを感じつつ、クリーオウはそれを振 り払 うように、子犬を抱いたまま再び肩を伸ばした。子犬は頭から下ろされたことに気づいていないらしく、目を閉じて眠ったまま、ふにゃふにゃと前 脚 でなにかを探っている。髪 の毛の感 触 を探しているのだろう。しばらくその仕 草 を続けてから、とりあえずそれは、寝 間 着 の襟 のところで落ち着いたようだった。肩にもたれかかるように鼻を押 しつけた姿勢で、また寝息を立て始める。
「朝ねぇ」
誰 にでも分かるようなことを、彼女はつぶやいた。
朝の風に、長い金 髪 がぱらぱらと揺れる──
いかにもの朝日。薄 目 でそれを眺 めながら、彼女はしばし陽を浴びることを楽しんだ。街 はなにか厳 かな式典でも始まるように静まり返っている。まだ道に人があふれるような時間ではない。パン配達が出歩いているかどうかといった頃 合 いだろう。
「なーんとなく、起きちゃったけど」
ふう、と吐 息 して、クリーオウはうめいた。独 り言 ではない。すうすうと眠っている、腕 の中の子犬を見下ろして、
「こんな宿に泊 まってると、早起きしたってやることなんてないのよねー。厨 房 借りて朝御飯作るってわけにもいかないし。どーせオーフェンとマジクは昼 頃 まで起きるわけないわよね......どうしようか、レキ?」
その子犬のような生物──レキに呼びかけるが、返事があるわけでもない。ただ聞こえはしたのか、ぴくぴくと耳を動かしていた。
のような というのは伊 達 ではなく、この生き物は子犬ではない。ではなにかと聞かれると、実はよく分からないのだが、クリーオウは、それを他 人 に説明したことがなかった。
オーフェンの言葉をそのまま借りれば──と彼女は漠 然 と単語だけを覚えていた──、レキは、ディープ・ドラゴン種族といったものらしい。数か月前に、森の中で出会ったのだ。成体になると頭の高さが三〜四メートルになる巨 大 生物なのだが、レキはまだ実際、子犬ほどの大きさしかない。
理由はよく分からないが、自分に懐 いてくれている。まあそういったことには元来理由などあるものではないのだと、彼女は気楽に納 得 していた。
「考えてみたら」
彼女は、ぽんとレキの背中を叩 いて顔を上げた。
「遠くに来たわよねー。ここって、トトカンタから大陸の反対側じゃない。蒸気船でも一週間かかるところを延 々 歩いてきたんだから。帰ったら自 慢 できるわよね、みんなに」
なかば、呆 れるような心持ちでつぶやく。
背中を叩かれたからだろう、レキが顔を上げて、きょとんとこちらを見ている。鮮 やかな緑色の瞳に、ほのかな光が灯 っていた。水面に弾 けるような光。その中に自分が映っている──それが見えたわけではないが。
「あんただって、お母さんとかに自慢するわよね?」
レキに問いかけて、クリーオウはくすりと笑った。再び外を見る。薄 青 色 に波打つような風が、もう肌 寒 い。よく冷えた、清 々 しい陽気だった。
「いいお天気」
空には雲ひとつない。空気の層が見えるのではないかというほどに、風までもが澄 んでいる。
「お散歩にでも行こっか」
クリーオウは口に出してひとりでうなずくと、窓枠から身を退 いて、両開きの窓を片手で閉めた。カーテンを閉じると、レキをベッドの上に置いて、両手を組み合わせてまた伸 びをする。
備え付けのクロゼットから、服を取り出して。
これは──ここまでは、彼女が今まで幾 度 となく体験してきた、普 通 の朝に過ぎなかった。
◆◇◆◇◆
「......というわけでまだ、ここにいるんです」
「誰 に言ってんだ? マジク」
誰がいるわけでもない窓の外に向かってなにやらぼやいているマジクに、オーフェンはつぶやいた。
ナッシュウォータは静かな街 だった。朝のきんとした空気が昼下がりまで続くような、そんなところである。
大陸にある「街」としては、小規模なほうだろう──
オーフェンは、顔を上げた。黒 髪 黒目、いつもの黒ずくめで、とりあえず意味のないあくびなどしてみる。開いたあごをなでてから閉じ、彼は肩 をすくめてやった。
「ま、仕方ないだろ。どこに行ったらいいんだか分からねえし」
とはいえ──
(確かに、この街にとどまってる理由ってのもねえよなぁ)
それも正論ではある。
大陸東北に位置するこのナッシュウォータ市は、キムラック管理区、つまりゲイト・ロックに最も近い都市になる。もっとも、その交通は皆 無 に等しいことから、東部の大多数の人間には最 北 端 の都市として認識されているようだった。特 徴 があるわけでもなく、特産があるわけでもなく、観光地に近いことだけがこの街の生命線となっている。
人口は、都市の規模に比 べれば多いほうだろう。一万二千人余り。高地の裾 野 にあり、街の面積の六割が斜 面 になっていることを考えると、さほど住み良い環 境 とは言えない。ただ自然には恵 まれ、それに関しては、工業地帯に毒 されたアーバンラマとは位置的に近いため、ことさらに比 較 されることが多かった。
マジクはこちらを向いてから──どこか不満げに顔をしかめている。そろそろ十五歳 になると言っていたか。もともと愛 嬌 のある顔立ちをしているだけに、暗い感情はすぐに読みとれた。
「でも、レジボーンの温泉から下りてきて、もう二週間ですよ」
ようするにお前、退 屈 してるんだろう──
口をとがらせて言ってくる弟 子 に、オーフェンは嘆 息 混 じりにそんなことを独 りごちた。
なんとはなしに、自分の胸元に手が伸びる。慣れた感 触 。そこには金 属 製 のペンダントがあった。剣 にからみついた、一本脚 のドラゴンの意 匠 。銀 細 工 のそれは、大陸黒 魔 術 の最高峰《牙 の塔 》の紋 章 だった。それを弄 んでしばし時間を作り、黙 して考える。
「でもなぁ」
言い訳は、いくらでもあった。
「前みたいに、馬 車 旅 ってわけでもねえしなぁ......目的地も分からねえってのに動くのはどーも気が重くて」
「そりゃそーかも知れませんけど」
「金ならまだあるから、宿代も当面は大 丈 夫 だし」
「エリスさんからもらったやつですか?」
「ああ。ま、一応この前の働きの報 酬 ってことでな」
「......なんかしましたっけ? ぼくたち」
「なんもしとらんのはお前だけだろ」
オーフェンは半 眼 で言ってから、座 っているベッドの下に手を伸ばした。ちょうど足下のあたりに、鞄 が置いてある。ごそごそと中をかき回して、彼は一冊の本を取り出した。地図である。大陸魔 術 士 同 盟 が発行したもので、通常手に入り得る大陸全土地図としては、最も信 頼 度 が高いとされている。
慣れたページを開く──ここ数日、何度も開いた場所である。最も広くこのキエサルヒマ大陸を描いたページ。大陸全図を眺 めて、オーフェンはうめいた。横からのぞき込んできたマジクを横目で見上げ、
「ここが、いま俺 たちがいる......ナッシュウォータだ」
「一番近い都市は、アーバンラマですよね」
「そうだな。キムラックより近いだろ」
東海岸に位置する自 治 都 市 アーバンラマを指さして、続ける。
「アーバンラマは自治都市だ──といって、もう今さら珍 しいことでもないけどな。中央からの独立性を言えば、トトカンタのほうが進んでるかもしれない。タフレムなんざ、むしろ筆 頭 だろ。それでも歴史上最初に誕 生 した自治体がアーバンラマだ。ナッシュウォータの資本も、大半がアーバンラマの支配下にあると言われてる。もともとは、大陸鉄道の受け入れを王 都 が嫌 ったってんで、じゃあこっちに伸ばしてやれってのがナッシュウォータ都市計画の発 端 らしい」
「はぁ」
「もとは天 人 種族の遺 跡 でしかなかったレジボーンが観光地化したのも、多分その計画のあおりなんだろうな。まあ結局のところ鉄道実験は大 幅 に変 更 されて、王都に向かって行われてるわけだが」
「鉄道って、見たことないです。確か、鉄でできた道を、でっかい蒸気機関で走るんですよね?」
マジクが、そんなことを言ってくる。少年の顔をちらりと見上げ──その目にどこか期待のようなものが映っていることには気づかないふりをして、オーフェンは答えた。
「原理はそんなもんだろ。俺だって見たことないけどな」
と──視 線 を地図にもどす。アーバンラマから王都メベレンストまで、うっすらと延びた線には、平行して赤字で注意書きがなされていた。
〝大陸縦断鉄道計画──未完成〟
「実際は海路のほうがよっぽど早いし安価だってんで、計画はほとんど頓 挫 してるらしいな。一部ではごく限られた人間が利用することもあるらしいが。よっぽどの技術革新──安全性UP、輸送性UP、速度UPってとこか?──そんなものがないと、当初の規模まで計画が回復するのは無理だろうな」
「なんだ。じゃあ。全然乗れないんですか......」
と拍 子 抜 けしたように、マジク。
形の良い眉 を、残念そうにめいっぱい垂 らした生徒に、オーフェンは肩 をすくめてやった。
「しょせん都市間交通の基本は海路だからな」
そのままあとを続ける。
「ま、うんちくはそんなとこにしておいて、つまるとここのナッシュウォータってのはアーバンラマの子供みたいなものなんだな。レジボーンが孫 か。順番で考えりゃ──とりあえず、これからアーバンラマを目指すのが順当なんだろうとは思うんだが」
「なにか問題があるんですか?」
(のんきに聞いてくれる)
オーフェンは顔に出さず苦笑して、口の端をひきつらせた──傍 目 には、笑ったように見えたかもしれないと思いつつ、
「順当なのはいいんだが、その線をずっと延ばすとだ、そのまま王都に結びついちまうだろ」
「王都が嫌 なんですか?」
マジクにしてみれば、それは意外なことであるらしかった。驚 いたように目を見開いてこちらを見ている。
それを見返してオーフェンは、
「......あんまりいい思いをした場所とは言えねえからな」
憮 然 と答えた。
地図を少し持ち上げ、そこに大きく記された扇 形 の王都メベレンストを見てから、オーフェンは地図帳を閉じた。適当にベッドの頭にそれをほうって、頭の後ろで腕 を組む。
宿の、くすんだ色をした天 井 を見上げて、彼は続けた。
「いっそのこと、アーバンラマから定期船で西部にもどっちまおうかという気もしてるんだが」
「もどるんですか?」
さらに驚いた声を出して、マジクは言ってきた。
「もどるって......どこにです? トトカンタですか?」
「とりあえず、アーバンラマから船に乗るとすると、最初に着くのはタフレム市だな」
答えて彼は、ここで打ち切りのつもりで手を振った。話してみたはいいが、どうしても考えがまとまらない。
「結局のところ、目的地がなくなっちまったら、それを探すため一番いいのは......出発点にもどることさ」
「出発点なら、トトカンタなんじゃないですか?」
「......もうちょい前の出発点だ」
マジクは納 得 できないようだった。言葉を探すように軽くあたりを見回して──
この少年が、見つけたものに満足したのかどうかは分からないが、ともかくもマジクは口を開いて、思い出したように言ってきた。
「クリーオウ、王都に行くの楽しみにしてるみたいですよ」
「行くんだったら、トトカンタにもどってからでも、船で行けるだろ。ずっと楽に」
「そうじゃなくて──なんて言ったらいいのか分からないですけど、このまま行きたいんですよ、きっと」
「............」
両手を広げる金 髪 の少年を、じっと見やると、彼はまた言葉探しをするために視 線 を動かした。肩をすくめ、付け加えてくる。
「......ぼくもですけど」
「............」
今度はこちらが言葉を探す番だった。方法はいくらでもある。視線を動かす。咳 払 いをする。話題を変える。ため息をつく。
だがオーフェンはそのまま、口をつぐんだ。窓の外はまだ朝の光に輝 いている。
◆◇◆◇◆
「ふむ。つまり君はこういうわけだな? 君がその新聞紙を百回折 り畳 んだなら、世界は崩 壊 すると。よし、看 護 夫 を呼ぶから二歩ほど退 がってくれないか?」
「いえ、ドクター・フューリー! 本当なんです! 数学者として申し上げます。確かにこれは世界が壊 れる唯 一 の方法ではないかもしれません。ですが、そのひとつであることは確実なのです!」
「だから分かったと言っておる」
「分かっておりません。この知識の恐 ろしさ。わたしはどうしても、手に入れてしまった禁断の知 恵 を消す処 方 を必要としているのです」
「はて、ブルータスはもう既 に首にしたのだったかな? あの男、患 者 を殴 りすぎるのが唯一の欠点だったのだが、こういう時のために必要な男ではあった......」
「............」
ぱたぱたと忙 しなく左右に動く人形劇を、つま先立ちで眺 めることにも飽 きて──
クリーオウはシャーベットの最後のかけらを口に放 り込んだ。路上の人形劇『残 酷 医 師 』は最 高 潮 を迎 えつつあり、集まった子供たちも熱心に見入っている。シャーベットの入っていた紙 袋 をくしゃくしゃと丸めながら、クリーオウはあたりを見回した。
顔を上げて見えるのは、ナッシュウォータの街 並 みというよりも、その上にある広大な空だった。山脈へと連なる蒼 空 は、冷たい風を吹 き下ろして世界を白 ませる。と、その視界に黒いものが見えた──どうやらレキが、頭の上からこちらをのぞき込んできたらしい。近すぎて、黒い塊 にしか見えなかったが。
「どうしようか。そろそろ帰る?」
レキに問いかける。ディープ・ドラゴンはなにも答えてなどこなかったが、クリーオウはなんとなく、ひとりで納得してうなずいた。
「そうね。そろそろオーフェンたちも起きてるかもしれないし」
丸めた紙袋を、近くのゴミ箱に放り投げて、彼女は人形劇をちらりと見ながらその場をあとにした──小さな箱形の舞 台 には、人形を操 っているのはひとりだけだというのに、どういうトリックなのか、三体目の人形が登場して薄 汚 れた数学者を押 さえつけようとしているところだった。
「ああ、どうかドクター聞いてください! わたしはわたしのこの恐ろしい知識を封 じなければならないのです──」
金 切 り声を背後に聞きながら、通りを歩いていく。
昼前というにはまだ早いが、だいぶ日は昇 ってきていた。三時間ほども、あちこちを歩き回っただろうかと、クリーオウは適当に計算した。途 中 見つけた喫 茶 店 でホットミルクを飲んだ時間も含 めれば、実際そんなところかと結論する。
「あんまし疲 れなかったわね。ちょっと休んだからかな」
彼女は独 りごちて、なんとなく頭の上のレキを胸に抱 き直した。こちらを見上げて鼻を動かしているレキにあごの先で応 え、
「にしても、毎日やってるとさすがに散歩も飽 きちゃうわ。オーフェン、いつまでこの街にいるつもりなんだろ」
ぼやく。
坂道の多いこの街だが、うまく道を選べばそのほとんどの距 離 を下りにできる──まあ結局は登った分下り、下った分登っているはずなのだろうが。クリーオウは既にそういった地理を把 握 する程度にはこの街に慣れていた。はきなれたジーンズをしまい込み、その代わりに新しいスカートなどはいて、花 壇 が目立つこの街並みをのんびりと歩くのは悪くない思いではあった。が、慣れるということは飽きるということでもある。
万 事 、時間がゆるやかなこの街では、道を急ぐ者もいない。クリーオウも、特にそのスピードから離 脱 するつもりもなく、ことさらにゆっくり歩いていた。
実際、歩くのはもともと遅 いほうだったのだ──昔 を思い出しながらクリーオウは、静かに吐 息 した。階段を昇るだけで一苦労だった時期もある。
(エンデは元気かしら)
自分によくしてくれた乳 母 のことを思い出して、彼女はなんとはなしに胸にちくりとしたものを覚えた。
(孫 が生まれたって喜んでたっけ。わたしの名前つけるって言ってた)
と──
「うわああああっ!」
「⁉ 」
聞こえてきた悲鳴に、クリーオウは立ち止まった。
花の街に相応 しいとは言えない、苦 悶 の声である。と同時に、なにやら鈍 い打 撃 音 のようなものが数度、そしてかけ声が響 く。
「うらぁっ!」
「立て貴 様 ぁっ!」
とりあえずあたりを見回し、クリーオウは目をぱちくりした──物思いを中断され、不快にうめく。
「......なんなの? ケンカ?」
通りを歩く人の数は、多くはないが皆 無 でもない。だがそれらの通行人は、互 いに暗い表情で目 配 せして、歩調を早め通り過ぎていくだけのようだった。すれ違 った中年の男が、ぼそりと独りごちるのが耳に入る。
「また奴 らか......」
(なんなの?)
同じことをつぶやいてクリーオウは、通り過ぎていく人々が、それとなく一 瞥 していく方向を見定めた。悲鳴や打撃音が聞こえてくるのは、近くの路 地 からだった。
正義感というよりは、好 奇 心 だったかもしれない──そのことを素直に認めたのは、反射的にそちらに身体 の向きを変えてからだった。抱いていたレキを今度は頭の上にのせて、足早にその路地を曲がる。
最初に見えたのは、赤い色だった。
「え......?」
信じられずに、うめく。
路地はそのままさほど奥 行 きもなく、行き止まりになっていた。その行き止まりで、血 塗 れになった少年が倒 れている。その周りを四人の男が、手に木 剣 を持って取り囲んでいた。
既 に気絶しているらしい少年の顔面を染 めているものと同じ赤い色が、その木剣にもこびりついているのが、すぐに分かる。
立ち止まると、ふわりとした感 触 がすねを撫 でた──スカートをはいていることを、痛 烈 に後 悔 する。クリーオウは下 唇 を嚙 んで身構えたが、誰 もこちらには気づかなかったらしい。
男たち、とはいっても、年 齢 は倒れている少年とそう大差ないように見受けられた。その中で、最も年かさであろう二十歳過ぎほどの長身の男が、なにやら不気味に笑みを浮 かべている。意志のはっきりした笑み──なによりも不気味に思えたのは、その笑みだった。誰もが日常的に浮かべるような、曖 昧 な笑みではない。
顔立ちそのものは美しいとさえ言えた。太い眉 、広い額、下唇に小さな傷 がある。どこか粗 野 な印象ではあるが、長い黒 髪 が軟 派 にも思える。体格は大きいが、細い。背が高いためことさらにそれが言えた。
奇 妙 な格 好 をしていた。運動服のようにも見える黒いトレーナーだが、肩の部分からノースリーブになっている。そのおかげで、引き締 まった肩の肉がはっきりとうかがえた。
もっとも、奇妙なのはその男だけというわけでもない。ほかの三人も、そろいの黒い運動服である。なにかのユニフォームなのかもしれない。
と、観察している間に唇 傷 の男は、木剣を軽く肩に担 いで、囁 くような声を発した──倒れて動かない少年に。
「これで分かったろう。貴様らの腕 がどの程度のものか」
もはやその少年に聞こえているとも思えないが、彼にとっては、それはどうでもいいことだったらしい。無 反 応 の相手に対して、そのまま続けている。
「次から出かける時は、俺たちとは違う通りを選ぶことだな」
「へっ。ざまあねえや」
ほかの三人のうちのひとり──クリーオウにはどれも同じに見えた──が、嘲 るように笑い声をあげた。また別の男が、少年の血だらけの頭を木剣で軽く小 突 いて、
「これで三人だ。ロッテーシャの奴も、もう黙 っちゃいられねえだろう」
「望むところさ」
と、最後のひとり。
「そろそろ奴らとじゃれてるのにも飽 きたところだ。これで決着がつくのなら、ちょうどいい──」
つぶやきながら木剣を振り上げたのは──唇 傷 の男だった。先 端 の丸まった木製の剣を構えて、その視 線 は倒れた少年に定まっている。男が、なにをやろうとしているのかは明白だった。
が、木剣が、振り下ろされるその一瞬前に。
「ちょっと、やめなさいよっ!」
反射的にクリーオウは叫 んでいた。そこでようやく気づいたのか、はっと、その四人がいっせいに振り返ってくる。いや──
あわてて振り返ってきたのは、三人だけだった。唇傷の男は、ちらりと視線だけこちらを向いて、そして、
「......ふっ」
吐 息 のような笑いを漏 らすと、木剣を振り下ろした。
ごっ!──と、鈍 い音が響 く。打ち下ろされた木剣は少年の背中に命中し、血で濡 れた身体をわずかに跳 ねさせた。軽く振ったようにしか見えなかったが、躊 躇 を感じさせない威 力 がある。打たれた少年が痙 攣 し、気味の悪いごぼごぼという音を立て始めた。なにかを吐 いたらしい。
「............⁉ 」
思わず後 ずさりして、クリーオウは唇傷の男を見やった。吐血する少年を足下に、彼はことさらにゆっくりとこちらに向き直ってきた。薄 笑 いを浮かべて、言ってくる。
「......なにか用かい? お嬢 ちゃん」
なにか言い返さなければならない──
本能がそれを必要としている。無言のままでは身体が萎 縮 してしまう。それは分かっていたのだが、頭の中になにも浮かんでこない。
「......なっ......」
ひきつったつぶやきだけを喉 から漏 らして、クリーオウはかぶりを振った。
「なにかじゃないでしょ⁉ なにやってんのよ、あんたたち!」
「なにをしていたと思う?」
唇傷の男は、なんのことはない口 調 で聞き返してきた。
「なにって......」
と、こちらが答えられないでいるうちに、男の両目に、不 透 明 な光が灯 る。四人はまるで、なにかが連動しているとでもいうように、同じ動作で一歩こちらに近づいてきた。生理的に冷たいものを覚える、危険な笑みを浮かべて。
言葉を発するのは、唇傷の男だけだった。
「すぐ分かるさ」
肩をすくめて、
「これからたっぷりと解説してやる」
「いろいろとな」
また別の種類の下 卑 た笑いを浮かべて、別の男。誰が言ったのかは分からない──クリーオウはただひたすら、唇傷の男だけをにらみ据 えていた。
咄 嗟 に、剣 を求めて腰 に手をやるが。
(......持ってきてるわけないじゃない)
彼女は舌打ちした。剣は宿に置いてある。正確には、マジクの荷物の中だ。
そうしているうちにも、男たちはそれぞれ木剣を手に、こちらに近づきつつあった。大 仰 に構えてなどいない。こちらが丸腰では、仕方のないところだが。
(どうしよう)
近づきつつある相手を視 線 で牽 制 しながら──あまり効果がなかったことは認めざるを得なかったが──、クリーオウは必死に思考をまとめようとした。一番いいのは、逃 げることだろう。もと来た通りまでは、数メートルとない。だがそうすれば、奥に倒れている少年がどうなるのか分かったものではないし、ついでに、人目のあるところまで逃げたからといって、あきらめてくれるような相手とも思えなかった。
(いくらなんでも手ぶらじゃあ、身を守ることもできないし)
その瞬 間 だった。
頭上で、なにかが動く感 触 。レキが立ち上がったらしい。
「え?」
なにかを聞いたような気がして、クリーオウは声をあげた。それと同時だったろう。一番近くまで来ていた男が、木剣を振り上げて飛びかかってくる。
(しまった!)
なんとか避 けようと、クリーオウは身をひねろうとした。が、虚 を突 かれたせいもあって明らかに間に合わない。一 撃 されることを覚 悟 して、両腕で頭を守る。レキと、そして一撃で昏 倒 される可能性の高い急所とを。たとえどれほどの一撃が来るとしても、意識だけは決して失ってはならないことを、彼女は覚悟した。もし気を失ってしまったら──その危険性は、いま打ちかかってくる男の目の色に表れている。
が。
ぎぃんっ!──と鋭 い音が響 きわたった。来るべき衝 撃 も苦痛もない。ただその音だけが耳に入った。
「............?」
無言で、見上げる。最初に見えたのは、襲 いかかってきたその男が後方に弾 き飛ばされ、驚 愕 に目を見開いていることだった。そして、
「剣?」
彼女を守るように、真っ白な剣が浮 遊 していた。この剣が、木剣を跳 ね返してくれたらしい。
からん、と地面に落ちた剣を、クリーオウはあわてて拾い上げた。
(剣......じゃない。これ、石でできてる?)
手にしてみると、剣というよりは十字形の石の塊 に過ぎなかった。ちらりと横を見ると、手近な建物の壁に、これとまったく同じ大きさ、同じ形のくぼみがある。どうやら、そこから外れたものらしい。
(レキが作ってくれたんだ)
両手で剣を構えて、クリーオウは木剣の一団と対 峙 した。刃 すらない石の剣だが、木剣の一撃を防いで折れなかったところを見ると、石のままの強度ではないのだろう。なんにしろ、武器さえあれば身を守ることができる。
あわよくば、それ以上のこともだ──彼らの奥にいまだ倒れている少年を見て、クリーオウは唾 を呑 んだ。誰だかは分からないが、早く手当をしなければ危険であることは疑いない。
「こ、こいつ......どこに剣なんて持ってやがった⁉ 」
尻 餅 をついたまま、男がうめくのが聞こえてくる。どうやら、彼女がこの剣を隠 し持っていたと思ったらしい。まあ確かに普 通 は、頭の上の子犬が魔 術 で削 りだしたとは思わないだろう。
「このアマ、もう手 加 減 なんぞ!」
別の男が、飛び出してくる──
斜 めに打ち下ろされてきた木剣を、石の刀身で受ける。しびれるような衝 撃 が伝わってくるが、クリーオウは後ろ足を半歩ほど退 いてそれに堪 えた。取り残された前足を払 うように、木剣が再度飛びかかってくるが、それはなんとか足を上げてかわす。
できれば避 けながら反撃したいところではあったが、腕 のしびれがまだ残っていた。こちらが打ち返さなかったことで安心したのか、男はすぐに三度目の打ち込みを仕 掛 けてきた──今度は、左から右に、真横になぎ払って。
彼女は即 座 に反 応 した。相手は複数。そうそういつまでも守勢にいるわけにはいかない。
「はあっ!」
短く息 吹 きを吐 いて、クリーオウはその男が木剣を握 る手を狙 い、剣を振り下ろした。鋭 い軌 跡 が交 錯 し──
「うっ⁉ 」
男のうめき声だけを残して、木剣が消えた。砕 かれた男の手からすっぽ抜けて、あさってのほうに飛んでいく。
「うわああっ!」
指が二本ほどあり得ない方向に曲がった手を抱 えて、男がその場にくずおれた。もう彼に構う必要はない。クリーオウは視線を強くして、残った三人に改めて構え直した。
(うまくいったわね......)
冷や汗を感じつつ、独 りごちる。リーチと体力の差を考えれば、相手はまさか自分が一撃で倒され得るとは考えてもいなかったろう。石の塊で殴 られれば破 壊 力 に関しては関係ないだろうが、それでも体力差はそのまま武器の速度の差になる。真正面から競 争 すれば、必ず男の剣のほうが先にこちらにとどいたはずだった。
が、こちらに向かってくる 部位を狙えば、リーチ差もスピード差も一 緒 に無効にできる。必要なのは正確な狙いと、あとは実行するだけの意志だ。それは練習次第でなんとでもなる。
自分より力量の勝 る相手には、こうして不意でも突 かなければどうしようもない。以 前 、オーフェンに剣の練習を見てもらった時から考えていたことだったのだが、いきなり役に立つとは思っていなかった。
「たいしたものだな」
どこか古くささを感じさせる口 調 で、そう言ってきたのは──唇 傷 の男だった。傷 跡 の残った唇をほとんど動かすこともなく、声を出している。
「兄貴!」
ようやく緊 張 した声 音 で、ほかの男たちがうめいている。指を折った男も、その痛みを嚙 みしめるようにしながら、ふらふらと退 がっていく。唇傷の男は、自分を兄貴と呼ぶ者たちに返事もなく、ただ一歩前に出た。
そして、右手でぶら下げるように木 剣 を構える。冷たい目で、彼は声を発した。
「......実際たいしたものだ。ロッテーシャの仲間か?」
「?」
わけが分からずに眉 根 を寄せると、それだけで相手は勝手に理解したらしい。それ以上は聞いてこなかった。
そしてそのかわりに、打ち込んできた。悲鳴すらあげる間もなく、木剣の軌跡を石の剣で受ける。
上方から、左右から──流れるように数度、唇傷の男の打ち込みは続いた。それらをすべて受けることができたというわけではない。二、三回は明らかに大きく後 退 してやり過ごし、クリーオウは奥 歯 を嚙 みしめた。
(速いっ......!)
視 界 に映ったのは、相手の剣というよりも、むしろ足だった。地面をこすりながら、素早く這 う足さばき。もとより木剣の動きが見えるはずもないのだが、勘 で受けることすら間に合わなくなりつつある。
逆にこちらは──
(スカートが......)
足にまとわりつく布 が、動きを制限している。煩 わしさが次第に焦 りに変わっていくのが嫌 でも実感できた。今のところはうまくいっているが、そう長く保 ちそうにはない。
先ほどと同じ手は通用しないだろう。違 う切 り札 を用意しなければならない。
ざっ──と足を止め、腰 溜 めに剣を構える。
当然、男は突 きを警 戒 しただろう。だが同時に安 堵 したはずだ。
それは油断したと同じことになる。
(これならかわせないはず──!)
クリーオウは剣を突き出すと見せて、その場でしゃがみ込むように体勢を低くした。と同時に身体を反 転 し、背を向ける。身体ごと一回転しながら放 ったのは、相手の足首を狙 う抜 き打 ちだった。体勢を低くしたのは抜き打ちの出 所 を相手に悟 られないため、不意を突くため、そして相手からの反 撃 をかわすためでもある。視界が変化し、切 っ先 が狙う的 の足首を見た、と思った瞬 間 。
「え?」
クリーオウは、動きを止めた。石の剣が、虚 しくアスファルトに跳 ね返る。そこに、あるべき標 的 はいなかった。
そして。
がんっ!
目の奥に、衝撃が走る。
いや少なくとも、彼女はそう感じた。きな臭 い感 触 が頭 蓋 の中で膨 れ上がる。これは気 配 だった。血。痛み。ケガ。そういったものの予感。
身体が浮いていた。実際は、地面に転 がっただけかもしれないが。クリーオウはただ夢 中 で手足を丸め、念じていた──止まれ、と。止まらなければならない。浮 遊 する世界を捕 まえ、起きあがり、傷 ついた箇 所 を確認し......そしてできれば、逃 げなければ。
最後のひとつ以外は、意識を回復してすぐに達成できた。ふと気がつくと、空が見える。路 地 の壁 の間にのぞく、藍 色 の空。仰 向 けに倒 れたらしい。身体を動かそうとして、背中がしびれて起き上がれないことに気づいた。打たれたのは背骨らしい。
顔だけ起こすと、傷
跡
の目立つ唇
を真っ直ぐにしたまま、木剣を手にこちらを見下ろす男と目があった──はっと、身じろぎする。痛みもしびれも無
視
して立ち上がろうとするが、
すっと音もなく、その男は近づいてきた。手にした木剣を無
造
作
に突
き下ろしてくる。
かつっ!──と冷たい音を立てて、木剣の切っ先が股 と股の間に突き立った。思わず、短く悲鳴をあげる。背筋にひやりとしたものを感じながら見下ろすと、木剣のその切っ先がスカートを押 さえて地面に押しつけられていた。動けない。
「............」
無言でクリーオウは、状 況 を理解しようと努めた──手の中に、剣は残っていない。どこかに落としてしまったのだろう。レキはまだ頭の上だった。できれば街 中 では避 けたかったのだが、こうなったらこの子ドラゴンに助けてもらわなければならないかもしれない。が、それは、
(もう少し......)
状況を見てからでも構わない。自分に言い聞かせるように、クリーオウは独 りごちた。本当の窮 地 になったなら、遠 慮 をするつもりはなかったが。
男もまた無言のままである。その黒い目にはなんの感 慨 も表れてはいない。いつの間にか、唇傷の男はクリーオウよりも路地の出口に近いほうに回っていた──つまりはほかの三人とで、はさんでいる形になる。背中から攻撃されたことを考えれば、状況を推測するのは簡 単 だった。しゃがみ込んで打ち込んだ瞬 間 、こちらの頭上を跳 び越えて背後に回ったのだろう。不意を突 いたつもりが、逆 に突かれてしまったわけだ。
と──
「ロッテーシャの仲間でないのなら......」
唐 突 に、男は聞いてきた。
「いったい、なぜ俺 に突 っかかってきた?」
「なんですって?」
数秒間、意味が把 握 できずにクリーオウは沈 黙 した。唇が半開きになっていることに気づいて、そしてようやく言葉を見つける。
「なぜって、そんなの、当たり前でしょ。あの子、死んじゃうじゃない」
背後を指さすことができれば良かったのだが、動いた時にどうなるものか分からなかったため、クリーオウは曖 昧 に視 線 で、後方にいるはずの少年を示した。
男の表情は変わらない。
「お節 介 というわけか」
そんなことをぼそりとつぶやいてくる。背後から、はっ、と笑い声が聞こえてきた──嘲 るような調子で。
かっとして、クリーオウは叫 んでいた。
「なにがおかしいのよ!」
「確かに面 白 くはないな。つまらんことだ」
そうでなくとも笑いなど忘れたような眼 差 しで、唇傷の男が口を開く。
「こんなことをして、まさか無事に帰れると思っているわけではないだろう」
「......わたしは」
声を出すたびに、背中が痛む──よほどひどく打たれたらしい。だがそれは考えないことにして、クリーオウは続けた。
「わたしは、わたしのやりたいようにしただけよ」
「そうか。なら、俺たちは俺たちのしたいようにする。いいな?」
足音が耳に入った。背後からである。ほかの三人が近づいてきたのだろう。下 卑 た笑いも聞こえてきたような気がする。
クリーオウは、唾 棄 するような心持ちで囁 いた。
(いいわけないでしょ!)
頭上でのんきに丸まっているレキ──この事態でもディープ・ドラゴンにとっては危機的な状況とは言えないらしい──に、攻 撃 を頼 もうと口を開きかける。刹 那 、
「待ちたまえ」
「............⁉ 」
自分に対して制止の声がかけられたと思いこみ、思わずクリーオウは舌 を嚙 んだが、その声が男たちにかけられたものであることはすぐに分かった。声は、唇傷の男のものではなく、そのほかの三人のものでもない。一 瞬 、クリーオウはオーフェンの顔を思い浮かべたが、声に似 たところがあったわけではなかった。むしろ、どこか気 取 ったようなイントネーション、口 調 にしても、天地ほど違 う。聞いたこともない声である。
唇傷の男が、さっと、木 剣 を引いた。もうこちらのことなど忘れたかのように、そのまま振 り返る──声は路 地 の入り口のほうから聞こえてきた──、そちらへと。
姿を見せたのは、青年だった。年 齢 はよく分からない。青年、としか言いようがない。いまいち軽 薄 そうなキャベツ色の服は、ダンス用のレオタードにも見えた。唇傷の男やその仲間たちの着ている運動服も見ながら、クリーオウはなんとなく、この街 にはまともな格 好 をしている者はいないのだろうかと訝 った。とりあえず、眉 根 を寄せながら立ち上がる。路地のわきへと退 散 すると、背後から近寄ってきていた男たちは、その横を足早に通り過ぎていった。そのまま、唇傷の男と同列に並 んで、新たに現れた青年と対 峙 する。
彼らは、その青年のことをよく知っているようだった──誰 何 の声もあがらない。申し合わせたように木剣を構え、彼を牽 制 していた。その中で唇傷の男だけが、剣を構えることもなく腕 組 みして青年を見 据 えている。
よく分からない緊 張 感 の中で、クリーオウはとりあえず、いまだ倒 れたままの少年へと駆 け寄った。かがみ込んで観察するが、重 傷 なのはすぐに分かる。髪 の毛が、血で固まりはじめていた。死んでいたとしてもおかしくないケガだろうが、生きている。うつ伏 せに倒れた背中が、わずかに上下していた。
「......レキ」
と、促 す。
頭上にいたレキが、のそりと動くのが分かった。目に見えて、少年の傷がふさがっていく。ディープ・ドラゴンの魔 術 なら──とクリーオウはオーフェンが以 前 に教えてくれたのを思い出していた──、たいがいの傷を癒 すことができるという。死者ですら、蘇 る可能性があるとか。レキにはまだ無理だろうが。
これで大 丈 夫 だろう。と安 堵 して、クリーオウは改めて路 地 の入り口のほうを見やった。変わらず、正体不明の青年と、やっぱり正体不明の男たちがにらみ合ったままである。いや、青年のほうは、にらむといった表情とはほど遠い。笑っている。
(......なんなのかしら)
クリーオウは、静かな疑問を胸に感じた。この状 況 は、特に自分にとって好 転 したとも思えない。青年がなんなのか分からないし、仮 に自分を助けてくれるのだとしても、頼 りになるのか分かったものではない──唇 傷 の男の横顔を見ながら、そう思う。ほかの三人はともかく、あの男だけは別格だった。仮に警官が二、三人駆 けつけてきてくれたのだとしても、安心はできまい。

抱 きかけた期待にあえて水を差しておいたのは、油断しないためでもあった。いつでも行動に出られるよう、腰 は上げておく。
だが──
青年の表情を見て、クリーオウはなにか自分が的 外 れな心配をしているのではないかと直感的に感じていた。そう。青年は笑っている。
それは愚 鈍 な笑みとも卑 屈 な媚 びとも違う、なにか解答を知りながら試験に臨 むそれだった。手には男たちと同じ、木剣を下げている。なんとか優 雅 に見せたいのだろう、すらりとした指で軽く撫 でる仕 草 などしているが、間 の抜 けた三 文 歌劇程度の優雅さであればかろうじて達成していたかもしれない。草色のタイツ? の上にそれを少し濃 くした色のジャケット。ズボンはきちんとはいている。が、裾 からやはり上半身のタイツと同じ色がのぞいているところを見ると、どうやらタイツは全身を覆 っているらしい。靴だけは立派な革靴だが、本物らしいのはこれで終わりだった。そのほかは、身に着けたあらゆるものがあらゆる意味において、どこか奇 妙 に嘘 臭 い。
髪 は、珍 しいくすんだブロンドだった。金というよりはクリーム色に近い。切れ長の瞳 を流して、薄 い唇を開くと、そこから漏 れたのは甲 高 い忠告だった。
「ふっ......君たちが、うちの練習生を狙 って狩 りをしているという噂 、信じたくはなかったヨ」
「うるせえっ!」
身も蓋 もない叫 び声を、男たちのひとり──唇傷の男ではない──があげる。が、青年はまったく聞いてもいないようだった。角 張 ったあごをつんとあげて、そのまま続ける。それは明らかに、失望のジェスチャーだった。あからさますぎて、かえって疑問に思うほどの。青年は悲しみを隠 すつもりはないようだった。
「剣の道を志 す者同士、些 末 な対立はあっても深 奥 では分かり合えるもの、と思っている......」
「ライアン」
唇傷の男が、ぼそりと声をあげる──
それが名前らしい。青年は、くるりと芝 居 がかった仕 草 でそちらを向いた。
「なんだね? エド」
名前を呼ばれても、唇傷の男はなんの反 応 もない。ただ言いたかったことを告げるだけの愛 想 のない声 音 で、肩 をすくめている。
「......その些 末 な対立だけが、剣の存在価値だと俺は思うよ」
その口調が、これまでより、多少くだけていることにクリーオウは気づいた。どういうことかは分からないが。
ライアンとやらは、やはりあくまでインチキ臭 い優雅さでかぶりを振 ってみせた。
「ロッテーシャは、協調を何度も呼びかけたじゃないか」
「俺も、ある意味では協調しようとしたはずだが?」
「残念だが、彼女は頑 固 なんだ。君たちに剣は渡せないと言っているヨ」
剣は渡せない。そう聞いた瞬 間 。男たちがぴくりと反応したように見えた──ほんの一 瞬 だけ。すぐに消えた。
唇傷の男、エドだけが、冷笑を浮 かべてじっとしている。
「......お前も同意見か?」
柔 らかい針。そんな調子である。痛くはないが確かに刺 さる。貫 くこともあるかもしれない。
ライアンは、ふっと笑ってみせた。
「ぼくは無論、ロッテーシャの意に従う」
「そうか」
と──
それで終わりのようだった。男たちが、適当に散開する。路 地 の限られた広さの中で、なんとか剣を扱 えるほどに各々の距 離 を取ると、エドもまた木剣を構えて金 髪 の青年をにらみ据 えた。
ライアンは、静かに笑うだけだった。その笑みが、余 裕 の笑みから異質のものへと変化する。誰もが気づいただろう。憐 れみの微 笑 みだった。
「問答無用というわけか」
手にした木剣を、対 峙 した四人に合わせるように、ふわりと構える。
「残念だ......君たちのような才能のある若者を、殺してしまうかもしれないとは。このライアン・スプーンが一昨日ぐらいに身に着けた奥 義 、味わうがいい」
と、いきなり木剣をがばっと──このほかに擬 音 が思い浮かばないほどにはっきりと振 りかぶって、四人の相手へと大きく踏み込む!
「秘 剣 ・猿 人 殺 法 、うっきぃぃぃぃっ!」
ごぎんっ!
ごしっ、ごん、がんげんべしぼすごすどごぐじぼかげしげしげしげし......
「............」
クリーオウは遠くから、じっとその光景を見つめていた。
最初の物音は、ライアンが敵の二メートル手前で振り下ろした木剣が、思い切り地面にぶつかった音だった。
次に聞こえてきたのは、思わず剣を取り落としたライアンの顔面に、エドの木剣が叩 きつけられた音。
次のはまた別の男の木剣が横腹を打ち払った音。その次は、さらに別の木剣が肩を打った音。顔面からライアンが倒れる音。その背中と尻 に連打される木剣の雨。等々......
数秒後──その程度の時間だろう──、残ったのは、地面に倒れて痙 攣 するずたぼろのライアンと、それを見下ろす四人の男だけだった。
ぜえはあと、呼吸の音だけが路 地 に響 く。
しばしして、のろのろと、ライアンが起きあがった。髪 もぼさぼさとなり、顔も泥 だらけだがそれをぬぐうこともせず、ジャケットの懐 に手を入れると、
「......これを」
取り出したのは、財 布 のようだった。それを男たちのひとりに手渡して、無表情にぺこりと頭を下げる。
「じゃあな」
慣れたことなのか、エドと男たちは、財布を受け取って、さっさと路地を出ていった。
風が吹 き抜 ける。
ライアンは、にこりとこちらに向き直ると、右手の親指をぐっと立ててみせた。
「どうやら、助かったようだネ」
「うんと......まあ、助かりはしたけど」
きらりと歯など輝 かせているその青年に、クリーオウは半 眼 でつぶやいた。が、ライアンはまったく気にした様子もなく近寄ってきた。なにやら考え深げに腕 組 みして、かぶりを振 っている。
「うーむ。奥義たる秘剣が敗れるとは......なんとも不条理な」
「不条理かなぁ」
いまひとつ自信を持てず、クリーオウはうめき声をあげた。と、ついでに聞いてみる。
「あんた、なんなの?」
「はっはっ。名乗るほどのライアン・スプーン/剣 術 競 技 者 ではありませんよ」
「......じゃないの?」
「いえ、名乗るほどの者ではないということだけど、どうやら君はぼくの名前を既 に知っているご様子」
「名乗ったもの」
核 心 を指 摘 したつもりだったのだが、ライアンはまったく取り合ってこなかった。お辞 儀 して、聞いてくる。
「できれば、あなたのお名前もお聞かせ願いたいものです」
「クリーオウよ。この子はレキ」
「良い名だ......あたかも、少女と黒い子犬のような」
「違 うって言われても困るわ」
二度目の核心のつもりだったのだが、これもまたライアンは無 視 してくれた。
つつつ、とその視線を流して、倒 れている少年へと移す。ライアンはさしてあわててもいない調子で言ってきた。
「おや、といったところでふと思い出すのは血 塗 れ練習生のことだけど」
「ふとしないと思い出さないの?」
こちらの言葉はやはり無視して、少年──どうやら練習生らしい──のかたわらにひざをつく。仔 細 に検 分 してから、彼は感心したようにうめき声をあげた。
「ふうむ......傷 もないのに血を流すとは器 用 な奴 」
傷口がないのは、レキが魔 術 でふさいでくれたのだから当たり前である。もうこうなれば、大 事 はないだろう。クリーオウは、ライアンの漂 白 されたような髪 を見下ろしてつぶやいた。
「この子が治 してくれたのよ。さっき見た時は、ひどいケガだったわ──あいつら、本気で殺すつもりだったのかしら」
最後のは、もう姿を消した四人組に向かって吐 き捨てる。
ライアンは、すっと立ち上がってこちらの胸元をのぞき込んできた──思わず後 ずさりするが、どうやら抱 いているレキを観察したかったらしい。ふんふんと鼻を鳴らしている子ドラゴンをじろじろと見回したあと、
「ほほう。見かけによらず、お医者もびっくりな動物なのだね」
「そ、そうかな」
「便利なペットじゃないですか」
どうやら、レキが少年を癒 したということを、特に疑いもなく受け入れてくれたらしい──ドラゴン種族であるということも確認せずに。
ひょっとすればそれはかなり異常なことなのではないかという気もしたが、クリーオウはあまり深く考えないことにした。そういう人もいるのだろう。それよりも、気にしたことを言っておく。
「ペットじゃないわよ。友達」
うんうんと、ライアンはうなずいた。
「なるほど。友とは、なおさらに良い。強 敵 と書いて親 友 と読む」
「いや、そーゆうのでもないけど」
「というわけで、ぼくの負 傷 も治してくれると嬉 しいです」
「なんとなくやだなぁ」
クリーオウは顔をしかめて、ライアンを見やった。ぼろぼろになった青年を眺 めまわし、うめく。
「だいたい、ケガなんてしてないじゃない......」
と。ふと気づく。
(......ケガしてない?)
あれだけ木剣で打たれていて、目に見える負傷がほとんどない。本来なら、ケガどころか、いま足下に倒れている少年と同じくらいの重傷を負っていても不思議はないところだろう。
だが、髪やら服やらあちこち乱れている以外は、実際彼に負傷はないようだった。
「あのさ、大 丈 夫 なの? あんた」
「なにがです?」
「あれだけ殴 られて。しかも木剣なんかで。よく動けるわね」
「ふっ......」
彼は、人差し指を額に当てて、目を閉じた。聞かれるのを待っていたのかもしれない。
「このぼくとて、奥 義 を授かる身。ロッテーシャには敵 わずとも、鍛 えに鍛えたこの身体 、多少ばかり傷ついたとて、くじけるものではないのだよ」
「へえ」
そういうものでもないような気はしたが、否 定 する理由というのも思い浮かばない。
「さっきから、そのロッテーシャって、誰なの?」
「剣 の女 神 」
彼は即 答 してきた。
「女神?」
「どうやらあなた、興 味 を持ったようだね?」
人差し指を一本立てて──つつと寄ってくるライアンに、クリーオウは曖 昧 にうなずいた。
「ま、まあ、これだけ大 騒 ぎされれば、気にはなる......かな?」
「分かりました」
礼をして、ライアンは、倒れている練習生を指さした。
「では、そちらの足のほうを持ってくれないかナ。道場まで運ぶのを手伝っていただければ、我らが剣の精 髄 、じっくりとお見せいたしましょう」
「............」
なんとなく、断 る言葉も思いつかず──
クリーオウはレキを頭に乗せなおすと、力のない練習生の両足を抱 え上げた。平 凡 な朝は、どの時点で終わっていたのだろうかと、そんなことを考えながら。
「え? ああ、分かってるさ。例のものは取り返す。それでいいだろう。計画というほどのもんじゃないが、とりあえず進行は滞 ってない」
ヘルパートはベンチの背に大きくもたれて、空を見上げながらそうつぶやいた。昼前の公園はひとけもまばらで、誰 が聞きとがめるわけでもない。そのつぶやきは漂 い昇 って、ひんやりとした秋 気 に紛 れて消えた。しばしの沈 黙 を経 て──そして言い直す。
「俺 は役目を分かってるし、仕事をしくじったことは一度もない......いや、まあ、そんなにはないって意味だけどな。任 せておいて欲しいもんだ。あんたらが動き出すと、なにもかもめちゃくちゃになっちまう。自分たちが器 用 に振 る舞 えないことに関しては、自覚するべきだな。だから俺のようなのが必要なんだろう」
三十歳 ほどだろうか──もう少し若いかもしれない。顔の中に収まるいくつもの不 均 衡 が、彼の年 齢 を分からないものにしていた。瞳 。目には光がある。淡 い虹 彩 のブルーアイ。宝石ではなく食用のゼリーを思わせる、涙 にしめった眼 球 には、今はその色と同じ空が映っている。しわの多い顔には脱 力 したように表情がない。糸が抜 けてばらばらになった服が、それでもなんとか人 型 を保っている。そんな様子だった。ブロンドの巻き毛が緩 やかに耳を型どり、襟 元 に隠 れている。
身につけているのは上等なスーツだが、クリーニングに出してからいささか時が経 ちすぎているのが明白だった。ゆるんだネクタイにはタイピンも刺 さっていない。
彼の周りには誰の姿もない。だが彼は構わずにしゃべり続けていた。
「忘れちゃいないさ。俺だってこの大陸を失いたくない」
つぶやくその口元には、皮肉げな笑みが浮 かんでいる。
「......だがそういうのは一心同体じゃなくて、一 蓮 托 生 っていうのさ」
今度の沈 黙 は、多少長かった。唇 を閉じ、遠くを見つめるような眼 差 しでじっと天高くを見 透 かしている。石 畳 の公園にはまばらな枯 れ葉 が舞 っている。それはわざわざ落 葉 樹 を植えて掃 除 を面 倒 にしているという見方もあったろうが、それでも景観としては悪くなかった。ベンチから見える道には通行人の姿も見える。が、その誰も、こちらを気にする気 配 はない。
(そういうものだろう)
彼は内心で独 りごちた。
(すべてはすれ違 って過ぎていく。そういうものだろう......)
そんなことはどうでもいい。
嘆 息 し、彼は再び口を開いた。
「ああ」
空を見上げたままではうなずけないが、表情でだけ、了 解 したと目を細める。
「あんたの意図は分かっていたよ。俺を遣 わしたってことは、つまり成功を期待しているってことだろうからな」
一息継 いで、彼はうめいた。
「......再び力を。悲願だな。分かっているさ」
うなずきたくなかった理由があるわけではない。ただ空から目を離 すことに不安を感じただけだった。久 しく嵐 など味わっていないこのキエサルヒマ大陸の──風に掃 き去られることがない故 の、美しく濁 った空を。
◆◇◆◇◆
それが本意かと問われれば、自分でも首を傾 げざるを得ない。
オーフェンは多少陰 鬱 にそう考えながら、通りを歩いていた。銀杏 並 木 には様 々 な通行人が集 う。買い物帰りの主婦から犬を連れた子供、寄り添って歩くアベックに、客を待つ似 顔 絵 描 き。上 の空で歩いていても、誰 にぶつかることもない。通りにはその程度の広さがあった。だから──というわけでもないのだが、オーフェンはぼんやりと物思いにふけっていた。
と──
「いませんねぇ」
少し遅 れてついてきているマジクの声に、はっと我に返る。見やるとこの金 髪 の少年は、きょろきょろとあたりを見回して言ってきた。
「どこ行ったんですかね? クリーオウ」
「あ、ああ──まあ心配もいらないとは思うけどな」
咳 払 いして、答える。
彼女が部 屋 にいないことに気づいたのは、あれから一時間ほどしてからだった。もっとも、クリーオウが暇 を見ては出歩いていることは知っていたし、ナッシュウォータはそうそう危険が転 がっている街 というわけでもない。
それをわざわざ探しに出たのは、自分が少し外を歩きたい気分だったからでもあった。煮 詰 まった際の、ごく一 般 的な気分転 換 ──のつもりだったのだが、オーフェンは苦笑を浮 かべた。
(その悩みってのが、世界の果てにぶっとんじまった姉を探すにはどうしたらいいでしょうか、ときたもんだからな)
キエサルヒマ大陸の外 界 。
そんなことを意識したのは、ある意味で初めてのことだった。無論、大陸の〝外〟ということについての当たり障 りのない概 念 なら持っていた。それは神話に等しいものに過ぎなかったが──巨 人 の大陸。神々の国。だが、彼自身もそうだったが、大陸の人間が持っている知識というのは、それらの単語が漠 然 と融 合 した、曖 昧 なものでしかない。少なくともオーフェンが知る限り、ここ数百年、大陸から出ていった者はいないし、外界から来た者もいない。
彼の姉以外には。
(アザリー......)
オーフェンは、声に出さずつぶやいた。
(フォルテのネットワークなら......アザリーの行 方 をなにかつかんでるかもしれない......)
《牙 の塔 》にいるはずの、兄 弟 子 にあたる魔 術 士 の顔を思い浮かべながら、オーフェンはひとりで続けた。相変わらず無表情な厳 つい顔は、笑いかけてくれるわけでもなかったが、それでも懐 かしいことは懐かしい。
(アザリーの行方を探すのなら、方法は大きくふたつに分かれる。フォルテのネットワークに頼 るか、それとも、白 魔 術 士 の砦 ──《霧 の滝 》を探すかだ)
キムラックで教主ラモニロックが、大陸脱 出 の鍵 と明言した白魔術士たち。それがどういった意味かは分からないが、もしそうならば──
彼らは、始祖魔術士 結 界 の外に出ていった彼女を見つける方法を知っているに違 いない。
もっとも、
(あれだけ最高執 行 部 に逆 らった以上《塔》にもどるのもそれなりに危険だし、《霧の滝》なんざ探して見つかるってもんでもねえだろうし......)
手がかりはあっても、手 詰 まりであることには違いない。まだしもあてになりそうなのは《牙の塔》だろうが。
と──
「ん?」
オーフェンは、足を止めた。すぐ後ろを歩いていたらしいマジクが、どすんと背中にぶつかってくる。
「痛 て」
わかりやすい声を、マジクがあげるのが聞こえてきた。
「いきなりどうしたんですか? お師 様 ......」
「............」
オーフェンは無言のまま手で制して、目を細めた。通りには人ごみというほどの人ごみがあったわけではない。だが、行き交う人の流れの中に、気になる人 影 があったように見えた。
「まさか?......でも」
うめく。横に回り込んだマジクが不思議そうにのぞき込んできているのには気づいていたが、気にしている場合ではなかった。
もうその人影はない。瞬 きでもした隙 に脇 道 に消えたのか──あるいはただの白 昼 夢 だったのか。それはどちらとも言えなかったが。
なんにしろ、ここで立ち止まっていても仕方ない。オーフェンはマジクに向き直ると、口早に告げた。
「あ、ちょっと用事ができた。行ってくる」
「はあ?」
マジクは、きょとんとした声で聞き返してきた。
「行くって、どこにですか?」
「よく分からない。お前は、適当に宿にもどってろ」
「もどってろって、いつまでにもどってくるんですか?──お師様ぁ!」
と、大声で抗 議 してくるマジクを残して、駆 け出す。
人影を見たと思える場所まで近寄って左右を見回すが、目に入ったのは細い路 地 だけだった。ほかには店の入り口があるわけでもないし、身を隠 す場所があるわけでもない。路地は数メートルほど延びて、そこで直角に曲がっているようだった。見たところ人ひとりがぎりぎり通れる程度の広さしかないが、見 間 違 いでなければ、ここに入っていったとしか思えない。
オーフェンは路地に入って、なるたけ奥 に急いだ。転 がっているごみを適当に蹴 散 らして進む。きっかけもなく、彼は舌 打 ちした──せまいのはどうとでもなるが、視 界 が悪いことに苛 立 ちを覚える。
数度も曲がり、別の通りに出た時──
左右を見回しても、知った顔はどこにもなかった。ただ、路地を出たすぐ目の前に公園がある。見失ったとすれば、そこだろうと、オーフェンは公園の中をのぞき込んだ。ひとけのない公園にはベンチがまばらに並 べられ、ただそれだけだった。
「人違い......か?」
初めてオーフェンは、つぶやいた。胸中で続ける。
(考えてみりゃ、彼が俺から逃 げるってのも変な話だしな)
彼はそのまま、きびすを返した。ひとけのない公園に背を向けながら──ふと気になって動きを止める。肩 越 しに再びのぞくと、木の陰 に隠 れたベンチに、目立つ男がひとり腰 掛 けている。
目立つ、というのはその男のブロンドのせいだったのかもしれないし、端 正 な容 貌 に不 似 合 いな、くたびれたスーツのせいだったのかもしれない。だがそれ以上に気を引くのは、男の表情だった。顔を空に向けて、ただ無心に虚 空 を眺 めている。いや、無心というのは正しくない。男にははっきりと表情があった。ひび割れたグラスのような......それは絶望というものだったのかもしれない。
のけぞった喉 仏 をぴくりとも動かさず、男はただ空を見つめている。オーフェンは嘆 息 して、男から目を離 した。
(なんだかねぇ。公園のベンチで絶望している男......か。こーゆうのは、やっぱり季節のせいなのかな?)
そんなことを考えて、微 苦 笑 を浮 かべる。
(ひょっとしたら、俺も同じような顔をしてたのかもしれないけどな)
オーフェンは肩 をすくめると、そのまま帰 途 についた。背を向けた大通りに、乾 いた風が吹 き抜 けていったのを気 配 で感じながら。
◆◇◆◇◆
彼は、空を見上げたままで、顔をしかめた──
視 線 を下ろし、こちらに背を向けて路 地 に消えようとしている、黒ずくめの青年の背中を見やる。
「うむ......あの男、見覚えがある?」
自分に対して確認するように、口に出す。
記 憶 の中にあるスイッチが入ったのは自覚できたのだが、そのつながりはと言えば霧 中 だった。見覚えがあるのは確かだと思えるのだが、どこで見たのか思い出せない。
「はて。確認する価値はあるか?」
男が消えていった路地を見たまま、彼は立ち上がった。特にほこりが気になったというわけではないのだが、ひざのあたりを二、三度音を立ててはたく。これをしないと、立ったという気になれない。
「どうせ暇 だしな」
そんなことを聞こえよがしに独 りごちてから──あたりに誰 も姿もなかろうと聞き手がいることを彼は疑っていなかった──、ヘルパートはゆっくりとした歩調で公園を出ていった。
◆◇◆◇◆
「......剣術教練所?」
クリーオウが、その建物を見上げて発した言葉はそれだった──
と、ふと我に返り、あまりに間 が抜 けていたことを自覚して口をつぐむ。聞き返す意味などなかった。入り口に、読み間 違 えようのないしっかりとした看 板 がかかっている。剣術訓練所。
都市では派 手 なスポーツクラブや娯 楽 施 設 が珍 しくなくなった昨 今 、貴重といえるくらいに旧 態 依 然 とした道場がそこにあった。非常にシンプルな、真 四 角 の建物。中からは威 勢 のいいかけ声と、剣 の打ち合う音が聞こえてくる。
「いかにも、その通り」
ライアンはそれ以外にはなにもないとばかりに、きっぱりとそう言ってきた──担 いでいる練習生はぐったりとまだ動かないが。
「ここがこのナッシュウォータ随一の剣術教練所──通称ボラの穴というわけさ」
「通称は嘘 でしょ」
「はい」
あっさりとうなずく彼のことはいったん無視して、クリーオウは改めて道場のほうを見やった。よく掃除されてはいるようだったが、壁は古びて窓も小さく、日当たりも悪い。花の街たるナッシュウォータにあっては、余計にそれが目立っていた。もっとも道場があるのは、そもそも大通りから大きく外れた裏道の、しかも廃 屋 らしき崩 れかけた屋根の並んだ場所だったが。
「それにしても」
クリーオウは、抱 えていた練習生の足を持ち上げなおしながら口を開いた。レキは頭から降りて、その練習生の腹のあたりで丸くなっている。
「随一って、この街ってそんなに剣の練習場なんかがあるの?」
「いや。ふたつっきり」
これまたきっぱりと、ライアンが断言してくる。
「さっき見ただろう......あのエドという者が率いているもうひとつの道場があったりして。なんというか目の上のこぶ」
「それじゃ負けてるじゃない」
「みなさんそうおっしゃいます」
彼は気楽にそう言ってから、きらりと目を輝 かせた。どこか頼りどころのない、平べったい瞳 を。
「しかぁし! 我々にはロッテーシャがいる!」
声をあげながら腕 を上げ拳 を握 ったので──当然、抱えていた練習生が、頭からごとんと地面に落下した。びっくりしたようにレキが飛び降りる。が、ライアンは気にもかけずにあとを続けた。
「というわけで、これからも彼女に頼りっきりの楽な人生を生きていきたいと思っているのだけれど」
「そんなこと言われても困るんだけど......」
誇 らしげですらある表情で語るライアンに、クリーオウは半眼でうめいた。
「それより、結局そのロッテーシャっていうのはなんなのよ」
「まあつまり、我々の指 南 というか、そんな感じかな?」
ライアンは落とした練習生を拾い直して、にっこりと笑った。笑うと、思ったより若く見えることにクリーオウは気づいた──ひょっとすると、同い年くらいかもしれない。
と、こちらが黙 っているのを見て、言ってくる。あまり似合っていないウインクをして、
「腕 は素 晴 らしい。彼女は天性の剣士だよ。強くなりたいのなら、相談してみるといい」
「......へえ」
どうというつもりもなく、クリーオウはつぶやいた。と──彼が言ったことに気づいて、顔をしかめる。
「って、なによ強くなりたいのならって。わたしそんなこと言った?」
「あれ?」
ライアンのあげた声は、いかにも意外そうだった。
「そう見えたんだけれど。まあいいさ」
こだわることなく言い切って、道場の入り口に向かって歩き出す。それに引っぱられて、クリーオウもあとに続いた。それなりの人数が出入りする建物だけあって、入り口は広くできている──とはいえ意識を失った人間ひとりを抱 えながら建物に入るのは存外骨ではあったが。中身は外装と似たようなものだった。古く傷 んだ壁を、手入れの良さでうまく隠そうとしている。押し花の額がかかっている下を通り過ぎるとトイレの札がかかった扉があり、すぐ奥は広い板間になっていた。数人の男女がめいめい運動服姿で木剣を手に、気勢をあげている。
板が敷かれた床は、大人数に激しく靴でこすられ蹴 られ、削 られてきたのだろう──傷だらけだった。練習生たちはほとんどが若い。思わずそのことに驚いてから、クリーオウは自分がここしばらく同年代の他人というものと話をしていないことに気がついた。
(まあ、オーフェンもマジクも、そう歳が離れているわけじゃないけどね)
自分で自分に指摘してから、訝 る。
(なんでこんなに若い人ばっかりなんだろ。町道場なら、もっと年輩の人がいても良さそうなもんだけど......流 行 ってないのかな?)
彼らの練習を見回してみる。
さすがにふざけているわけではなく、裂 帛 の気合いとともに型を練る練習生たちの動きはたいしたものではあった──もちろん個人差はあるが、自分では三本に一本も取れないだろうと、素直に認める。たださらにそれ以上の圧倒的な強さを誇 る人間が身近にいるせいで、刮 目 して舌を巻くというところまではいかない。数えてみると今ここにいる練習生は七人、うちふたりが女だった。ふたりともクリーオウより数歳年下だろう。
(学校はどうしたのかしら。って、人のことは言えないけど)
誰 に対してというわけでもないが適当に目をそらして、そんなことをうめく。
と──
「ライアン?」
こちらに気づいた練習生が、振り下ろしかけていた木剣を途中で止める。その声につられて、全員の視線がこちらに集まった。
思わず後ずさりするが、彼らの関心はクリーオウには集まらなかったようだった。
「どうしたんだ? それ──アランか。ケガしているのか⁉ 」
どうやらここまで運んできた彼のことらしい。練習の手を休めてわらわらと近寄ってくる仲間に、ライアンは余裕たっぷりの笑みを返したようだった。こちらには背を向けているので見えないが、気配で分かるほどの微笑 みを。
「ああ、心配はいらない。いつものことさ。それにまあ、エドの奴は、このぼくがしっかりと話をつけておいた」
「なんだって⁉ 」
練習生のひとり、一番年かさに見える男(ライアンを除 いて、だが)が怒りに紅 潮 して声をあげた。輪 郭 が角張った、骨太のスポーツマンタイプ、というところか。
「じゃあ噂 は本当だったのか──奴 らの仕 業 だって。くそ、これで三人目だぞ⁉ 」
また別の男が、いらだってうめくのが聞こえてきた。波 紋 のように、次々と怒りの声があがってくる。
「もうほうっておけない。だいたい、なんでロッテーシャは......」
「彼女は、奴 らには絶対に逆 らうなって──」
「俺たちの腕 を信用してないんだろう。そりゃ、あのエドは軍隊仕込みの剣を使うらしいが、ほかの連中はただの取り巻きだろう?」
「ふん。彼女がエドをほうっておくのは、ほかの理由があるだろうさ──」
それらの怒 声 にきょろきょろと顔を向けながら、クリーオウはどうしたものかと困 惑 していた。口をはさめる雰 囲 気 ではないし、挨 拶 すらできそうにない。
まず自分を紹 介 してくれなかったライアンに、腹立ちを視 線 にして投げつける。クリーオウはとにかく、彼らが一通り怒 りを吐 き出すのを待つしかなかった。もっともそれが数分なのか数時間なのか、まったく知れたものではないが。
実際、数時間のほうかもしれない──とめどなく続く憤 懣 の声を聞き流しながら、クリーオウがなかばあきらめかけた、その時だった。
混 然 と渦 巻 くそうした怒気のもやを切り裂 くように、凜 とした声が響 く。
「人を非難するんなら、当人の前でやってくれませんか?」
それはそのまま、綿 を貫 く針のような一声だった。綿に針を通すのは──必要以上に綿が厚ければ特に──容 易 ではないが。ざわついていた練習生たちが、ぴたりと口をつぐむ。
「あ」
止まらなかったのは、間 が抜 けた調子のライアンの声だけだった。
「ロッテーシャ」
練習生たちの視線は、今度はクリーオウが入ってきた出入り口とは反対側、奥 に続く扉 へと集まっていた。扉は開き、そこにはほっそりとした人 影 が姿を見せている。
「ロッテーシャ?」
聞き返すような口 調 で思わずうめいたのは、クリーオウだった──誰 も相手にしてくれそうにはなかったが。だがそんなことには構わずに、彼女はぽかんとそのロッテーシャなる人物を見つめて呆 気 にとられていた。
自分の習い事の経験から、クリーオウは漠 然 と、その〝剣 の女 神 〟なる剣士を、品のある中年の女性だとイメージしていた。勝手な想像ではあったのだが、特に否定する要素もなかっただけにかなり強固に先入観として固まっていたのだ。だが、そこに立って練習生たちの注視を集めている剣の女神とやらは、どう見ても十七、八歳の少女でしかなかった。ほぼ自分と同 い年 なのは間 違 いない。
実際に背 丈 もあまりないだろうが、彼女を余計に小 柄 に見せているのは肩 の細さのせいだろう。およそ剣の練習などしているようには見えない。黒い髪 をうなじのあたりで短 髪 にしている。くせっ毛が左右に跳 ねて、そのあたりの無 造 作 な容 姿 が、無理に解釈すれば体育会系らしいと考えることもできるだろう。彼女に剣術競技者としての要素を見いだせるのは、その程度のことしかなかった。
柔 らかい生 地 の運動服姿で腕 組 みし、彼女──ロッテーシャなる剣の女神は、やや不 機 嫌 そうに表情をひきつらせていた。
「で? あなたたちはどうしたいんですか? 木 剣 片手に奴 らの道場に殴 り込んで、全員叩 きのめしてから火でもつけて帰ってくるわけですね? それで警察に捕 まったらみんなでそろって、主 犯 はロッテーシャ師 範 代 ですと自供するんでしょう。違いますか?」
と──
ふと、クリーオウは彼女と視線が合ったことに気づいた。ロッテーシャが苦笑を見せる。
「ああもう。お客様の前でみっともないじゃないですか──」
彼女がお手上げの仕 草 を見せてはじめて、全員の注意がこちらに集まってくる。
(......まさか、この人たちみんな本当にわたしがいること気づいてなかったのかしら)
クリーオウは眉 根 を寄せて、こちらへと振 り向いてきた練習生たちに軽く会 釈 した。気づいてはいたが、認識していなかった。そんな感じなのかもしれないが。
「とりあえず......」
多くの視線にさらされ、思わず息をのんでしまうが──
「この人、どっかに下ろしたほうがいいと思うんだけど」
いまだ寝 たままの練習生を抱 え、クリーオウはつぶやくように声を発した。
ロッテーシャ・クリューブスター。その名前を聞いてクリーオウが思ったのは、ようするに長ったらしい名前だなということだった──まったく人のことは言えないが。
そういった感想を持たれることに慣れているのか、あるいはこちらの心を読んだのかは分からないが、彼女はくすっと笑って、すぐ自 己 紹 介 のあとに付け加えてきた。
「ロッテと呼んでください。みんな、あまり呼んでくれないけれど」
「ロッテ」
言いやすさを確認したかったというわけではないが、クリーオウはとりあえずその名前を口にしてみた。ひざに抱いているレキの背中を撫 でながら、うなずく。
「うん。わたしも、こっちのほうがいいと思うわ」
「ありがと」
そこは先ほどの練習場の奥にある、応接間だった。といって物々しいものではなく、休 憩 所 というほうが近いかもしれないが。五人いると手 狭 に感じるかというその部 屋 に、今は四人がいる。ソファーのひとつに寝かされた、例の練習生と、ロッテーシャ、そしてクリーオウと──ライアンである。
みっつあるソファーのうち、まだしも汚 れていないものに、クリーオウは座 らされていた。どうやらこれが来客用のソファーらしい。残ったひとつに、ロッテーシャとライアンが並 んで腰 掛 けている。まだ奥に部屋があるようだが、扉は閉じていた。
改めて見てみると、ロッテーシャは座り方から折り目正しい様子だった。背筋を伸 ばし、姿勢がいいところからは、外見からは分からない鍛 え方がなされているのかもしれない。真っ直ぐにこちらへ視線を向け、彼女は静かに頭を下げてみせた。
「まず、お礼を言わせてください。アランの危ないところを、助けていただいたそうですね」
「あ、別にたいしたことはしてないのよ」
クリーオウはあわてて取り繕 った──実は自分も危なかったところを、ライアンに肩代わりしてもらった形になるため、負 い目 がある。
「ええと、通りがかって、悲鳴が聞こえたもんだから、見に行って......で、あとは成り行きで」
「でも──」
と、顔を上げて言ってくるロッテーシャの声の調子には、非難するようなものが混 じっていた。やや広い額にしわを寄せて、
「あなたは、とても危険なところだったんですよ?」
「そう......みたいね」
唇 に傷 のある男の顔を思い浮かべながら──つぶやく。
実際にはレキの助けを借りることもできたのだから、絶体絶命というわけでもなかったろうが、逃 げ場 のない場所にまで踏 み込んでしまったことは、いくらなんでも迂 闊 だったかもしれない。オーフェンが聞いたならもっと怒 っただろうなと思いながら、クリーオウは、多少深く吐 息 した。
が、ロッテーシャはそれを、小 言 を聞かされて不平の嘆 息 を漏 らしたと受け取ったのだろう。さらに警告するように、非難の調子を強めてきた。
「この道場の最初の被 害 者 は、女子だったんです。あなたと同じくらいの。彼女は、もう......わたしにも会おうとしません」
「............」
「クリーオウさん、あなたは、ここの地元の人ではないようだから知らないでしょうけれど、あいつらはいざとなれば、なんでもやるんです。警官まで襲 撃 されたって聞いた時には、さすがに耳を疑ったけれども」
「............」
言葉がなかったのは──
状 況 の激 しさを聞かされたためばかりではなかった。さっきの練習生たちの憤 懣 を思い出していた。
ロッテーシャは完全に小言の姿勢になっていた。しっかりとした口調で、
「だから、もしまたこんなことがあったとしても、決して近寄ったりしないで、自分の身の安全を──」
「それじゃあ、まるっきり無法じゃない」
気がついた時には。
しまったと思いつつも、クリーオウは口に出していた。唐 突 に言い返されて、今度はロッテーシャが言葉を失っている。まったく驚 いているようだった。
ちらりと見やると──彼女のとなりで、ライアンは素知らぬ顔をしていた。
我知らず舌 打 ちして、クリーオウはロッテーシャへと視線をもどした。続ける。
「さっきの人たちが文句を言うのも分かる気がするわよ。なにか理由があるのかもしれないけれど、ほうっておいたら、誰 かがあいつらをなんとかしてくれるわけ?」
「もちろん警察が監 視 しています」
そう言ってくるロッテーシャの表情には、はっきりと悔 しさが見えていた。口元がひきつって、小さな八 重 歯 がのぞいている。
「なら、わたしたちがすることなんてないでしょう? 先ほどの繰 り返しになりますけど、殴 り込みをかけるべきだって言うんですか? それこそ無法でしょう」
「わたしなら──」
二週間前に温泉ギャングのアジトに殴り込んだばかりよ──とはさすがに言えず、クリーオウはそこで口をつぐんだ。丸まったレキの背中をぎゅっと押 さえていると、ロッテーシャが囁 くような声音でつぶやくのが耳に入る。
「......私刑 も私 闘 も、わたしの父は望みませんでした」
「? お父さん?」
「ここの道場の、もと主 です。偉 大 な剣士でした」
あまりリアリティのない肩 書 きを、自分は女ですと主張するのと代わりないごく当然の口調で彼女が口にするのを、クリーオウは半ば聞き流していた。でした 、とロッテーシャは過去形で言っていた。そのことに、同情が浮 かばなかったわけではない。早 世 した自分の父のことも頭をよぎった。だが。
「偉大?」
クリーオウは聞き返した。分かってはいた。偉大とはつまり恐 らく、腕 の立つ剣術競技者という意味なのだろうが──
「弟 子 が何人も叩 きのめされてるのを黙 認 して、偉大もないんじゃないかしら」
「父を侮 辱 しないでください!」
弾 かれたように、ロッテーシャが語気をあららげる。が、クリーオウは退 くつもりもなかった。
「死んだあなたのお父さんのことを悪く言うつもりなんてないわよ。いくらお父さんに言われたことだからって、今はあなたが言ってるんだから、あなたの言葉でしょ?」
「くっ......!」
言葉に詰 まったのか、顔を紅 潮 させたロッテーシャが、うめき声を漏 らす。こうなって初めて、彼女は年相応に見えた──じっと見つめながら、クリーオウは下 顎 に力を入れた。これも行きがかりで口論になってしまったが、なってしまった以上は仕方ない。
だが、それをどう続ければいいのか。迷っている隙 に、横から口をはさんできたのは、ライアンだった。
「なんていうか──」
存在すら忘れていたところに話しかけられて、クリーオウはあわててそちらを見やった。ロッテーシャは彼の不作法に眉 を上げている。だがライアンは、どちらの視線も同じように受け流し、あとを続けた。
「他 人 事 にずいぶん本気で怒 るんだねぇ、君は」
「え......?」
自分に対して言われたことだと察するに、しばしの時間を要した──
クリーオウはなにかを言い返そうと言葉を探したが、彼のほうが早かった。にやりとした笑みを浮 かべ、
「でも、人には人の事情というものがあるんだ──」
「ライアン!」
さらに激しく、ロッテーシャが声をあげた。その反 応 は予想していたのか、ライアンが驚いた様子もなくそのまま口を閉じる。
それにあわせて、ロッテーシャは頭から熱を退 かせたようだった。改めてこちらを向いたその表情には、にわかに見せていた激 昂 も衝 動 もなにもない。礼儀正しさだけが残っていた。
「取り乱してすみません......あなたは恩人なのに」
「わたしも、ごめんなさい」
気まずいものを下腹に抱 えて、クリーオウは頭を下げた。理由は分からないが、傷 つけてしまったらしい。こちらに向かってわびるロッテーシャの唇 は、かすかに震 えているようだった。
短 髪 の頭を左右に振 って、彼女が言ってくる。
「ライアンの言う通り、事情があります。それを言うことはできませんが、あなたのような人に迷 惑 をかけたくないんです。だから、彼らにはもう......関わらないようにしてください」
「............」
返事はしなかった。いや、しようとはしたのだが──
機先を制するように、声が聞こえてきた。
「わーははははは!」
聞き覚えのある笑い声が、扉 を通して練習場のほうから響 きわたる。
「わーははははは! 我が弟 子 よ! 我が弟子はいるかっ⁉ 」
「おおっ」
ばっと立ち上がったのは、ライアンだった。見るとロッテーシャは、軽く頭を抱 えている。
彼女のことには構わずに、ライアンは軽 薄 にひと跳 びして扉まで近寄ると、それをがちゃりと押 し開いた。クリーオウもとりあえず、その後ろ姿を追うように首を伸 ばしてのぞき込んだが──
見えたのは、おおむね予想通りのものだった。しかも当たったところで嬉 しくもない。
練習場の入り口から、身長百三十センチほどの、毛皮のマントをまとった『地 人 』がふたり、ずかずかと上がり込んできている。ひとりはぼさぼさ頭で剣を差し、やたらと無意味に大きい笑い声をあげていた。その陰 に──あるいは別の陰に──隠 れて、不安げにあたりを見回しているのがもうひとりで、こちらは分厚い眼 鏡 で顔が隠れていた。周囲にいる練習生は、無視を決め込んでいるのか、わざとらしいほどことさらに顔を背 けて練習にはげんでいる。その中を、地人たちは進んできていた。顔を出したライアンを見つけ、剣を差したほうが表情を輝 かせる。
「おお、弟 子 よ!」
「師 匠 !」
ライアンは歓 声 をあげて、そのふたりを出 迎 えに出た。腕 組 みし、ふんぞり返った地人のところにまで駆 け寄ると片 膝 を落とし、頭を垂 れる。

「これはご機 嫌 うるわしゅう。本日もまたこのライアン・スプーン、教えを乞 いたく思います」
と、ライアンの言葉に、もったいつけながらも地人が応じる。
「うむ。結構。一昨日授けた奥 義 は会 得 したか?」
ライアンは顔を上げた。こちらからでは表情はうかがえないが、拳 を握 って口 惜 しげにかぶりを振 っているのが見える。
「それが師匠、奥義として賜 った秘 剣 ・猿 人 殺 法 はもろくも敗 れましてございます」
「なに、またか⁉ ううむ......野には恐 るべき剣客がいるものよ。では今日もまた新たなる奥義、覇 王 沈 殿 骨 髄 液 を授ける故、準備をするが良い」
「はっ」
「......なにやってんの、あんたたち」
「うっ⁉ 」
遠くからクリーオウが発したつぶやきに──
その地人たち、ボルカンとドーチンが、うめき声をあげた。剣を持ったほう、つまりボルカンはあわてた表情で短い指をこちらに向け、
「で......弟子よ。なぜここに、このよーな悪 魔 の搾 りカスが?」
「あんたって、つくづく人の名前覚えないわね」
クリーオウは半 眼 で告げ、扉から出た。レキを頭に乗せてから腰 に手を当て──いろいろと言いたいことがある中で、最も先に頭に浮 かんだことを聞き返した。
「......弟子って?」
聞きながら、片膝ついたままのライアンと、こちらを向いて硬 直 している地人たちを見比べる。
が、地人の硬直はそれほど長くはなかった。ばさりとマントの下で腕を振り、ボルカンが挑 戦 的にこちらを見上げてくる。
「ふっ! 知れたこと!」
なにやらポーズをつけながら、地人は言ってきた。
「一週間前のこと──ある大 義 により、この俺様はこの道場へと忍 び込んだ......」
「お腹 減 ったんで、食べ物を探そうって、兄さんが」
ぼそりと後ろで、もうひとりの地人、ドーチンが付け加える。それに構わず、ボルカンはあとを続けた。びしとライアンを指して、
「だがこのマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様の前に立ちふさがったのは、この男!」
「宿 直 だったらしいです」
「そうして起こった、宿命の対決──熾 烈 を極めたその立ち会いは、だが一 瞬 で勝負がついた!」
「窓から入り込もうとしていた兄さんが、声をかけられて落っこちて......」
「かくして、優 れた剣士にしか分からない、激 闘 を通じて得たなにかが、我々を師 とし弟子としたのだ!」
「なんかよく分からないけど、気があっちゃったらしいです。まあ、奥 義 だかなんだかを教えに来るとご飯 食べさせてくれるから、いいんですけどね」
「まあ、だいたい分かったけど......」
クリーオウは鼻の横を指でかきながら、聞いてみた。
「その展 開 で、どうしてあんたたちが師匠で、ライアンが弟子なのよ」
「いや、兄さんが窓から落っこちたあとに、ちょっと続きがありまして」
ひどく淡 々 とした説明口調で、ドーチンが答える。その声には深いあきらめの響きがあった。
「落っこちた場所にちょうど野 良 猫 がいまして、びっくりして暴 れ出したその猫が、この人を倒 したんです」
「......どっちもどっちっていうことなのかしら」
「どーしていつの間にか、そっちとメインで話をしている⁉ 」
叫 び声をあげるボルカンのことは無視して、クリーオウはライアンへと向き直った──青年は先ほどから姿勢を動かすこともなくじっとしているが、一応顔だけはこちらに向けていた。これまで無視を決め込んでいたほかの練習生たちも、手を休めて遠巻きに見物している。
ため息をついて、クリーオウは口を開いた。すまし顔でこちらを見ているライアンに、
「だいたい、こいつらに剣なんか師 事 して得るものとかあるわけ?」
半円になって見守っている練習生たちが、それに同調して一 斉 にうなずくのが見えた。
が、
「ええ⁉ 」
ただひとりライアンの顔には、意外なことを言われたかのような驚 愕 が浮 かんだ。
「しかしこの方は、一昨日もぼくの必殺剣を八十七回食らってぴんぴんしていた、まさしく強者オブ強者ーズ!」
「なす術 もなく八十七回も食らってた時点で、かなり弱いと思うけど」
「ええっ⁉ そうなんですかー⁉ 」
「あー......」
と、後ろから声が聞こえてくる──
肩 越 しに見ると、ロッテーシャが顔を出していた。彼女はなにやらいろいろと疲 れたように顔色を暗くしていたが、そのつらさに負けない程度の我 慢 強 さは持ち合わせていたらしい。驚 きに震 えているライアンに指図の声を飛ばす。
「ライアン。あなたはもういいから、表へ行っていてください。掃 除 当番、あなたの順番だったでしょう? あ、ついでに、その方たちを連れて、外で食事してきたらどうですか?そうしてください」
「はっはっ。他人が聞いたらあたかも厄 介 払 いされているかのよーにも誤 解 されかねない言い方ではあるような気もしないでもないけれど、行って参るです」
「うむ。今日は向こうの肉屋でステーキが割引だったぞ、弟子よ」
「わあい。お店で売ってる肉なんて、もう一生縁 がないかって思ってたのに」
と──
厄介払いされて去っていくライアン(および地人たち)を見送りながら、クリーオウは、はぁとため息をついた。その吐 息 がひとつでなかったことに驚いて顔を上げると、ちょうどロッテーシャもきょとんとしてこちらを見たところだった。どうやら、彼女も同時に嘆 息 していたらしい。
思わず、ふふっと笑みを漏 らす。
誰が指図したわけでもないが、練習生たちも、ぼちぼちと練習にもどっていく。
と、無言のままロッテーシャが右手を差し出してくる。それにどういう意味があったのかは分からないが──
それを軽く握 ってクリーオウは、心を決めていた。
(あれじゃ勝てんわな)
一見して、それは知れた。もっとも、それは見て感じたほど明確な差だったわけではなかっただろう──が、
(体力の差はなし。覚 悟 、思い切りの良さだって拮 抗 している。とはいえ、技量が違 い過ぎるか)
木 剣 は弧 を描 くことをやめて、今は鋭 く触 れあう程度に揺 れて交 わっている。見るからにクリーオウには速度が不足していた。練 度 の違いもあるだろうが、むきになってがむしゃらに手 数 を増 やそうとして、意味のある手数──つまり防 御 せざるを得ない手数──が減 っている。打ち下ろし、振 り抜 け、振り上げ、そして突 く十数回もの彼女の攻 撃 を、その黒 髪 の少女はこともなげに、たった数回の手数で打ち払っている。
ロッテーシャ。その名前を、オーフェンは思い浮 かべた。この道場で、彼女より年上の練習生もいる中にあっても、その少女の動きは際 だっていた。頭の上のレキ──さすがに動き回るのに邪 魔 なので、クリーオウが置いていったのだ──を見上げ、オーフェンはつぶやいた。
「お前、分かるか? こーゆうの」
このディープ・ドラゴンの子供は、やはりさほど興 味 ないのか、鼻先を自分の腹 に押 しつけて寝 たままのようだった。自分の頭上なので見えないが。
分からないだろう──と、オーフェンは苦笑しながら独 りごちた。生 来 的に強大な魔 術 とその制御力を持って生まれてくるドラゴン種族には、分からないだろう。強 靭 な体 軀 と迷いのない意志、自然の脅 威 を代弁しその加護も得る彼らには。
それらをひとつとして持たない人間種族が必要としたのは、弱さを強さへと変える方法だった。知 恵 を持ち道具を得たことにより失った力を、それで代 替 しなければならない。数々のものが生み出され、その中のひとつが、武器とその扱 い方だった。
武器としては、剣は最もポピュラーなものだと言える。ほかにも練習生たちが稽 古 する練習場で、少女ふたりが振 り回している木剣の軌 跡 をぼんやりと眺 めながら、オーフェンは昔 のことを思い出していた。剣に関しては、それほど身を入れて学んだというわけではなかったが。
それでも、彼には分かった。ロッテーシャはひたすらにクリーオウの剣を受けることに 専念している。普 通 ならば、この状態が数秒も続けば、攻 撃 する側が攻 めきっていたはずだった──しょせん永遠に守ることなど、できるはずがないのだ。だがそれでもクリーオウの剣は、もう二分近くもさばかれ続けている。
「やあっ!」
短いかけ声とともに、クリーオウが木剣を突 き出す。ロッテーシャは動かない──いや、たいした動きを見せないだけで、しっかりと優位の位置へ踏 み出している。突き出された剣先に自分の剣を絡 め、無 駄 なく弾 きながら。クリーオウも気づいていないだろうが、強く弾かれた彼女の剣は次手の攻撃の幅 をせばめられ、ロッテーシャにとっては予測を容 易 にする。これが天性によるものか訓練によるものかはわからないが、
(恐 ろしく目がいいな。反 応 も速い。相手の力が不完全であるうちに、相手の次 手 を予測してそこを狙 ってる。たいして力も使わずにこれだけ圧 倒 できるのはそのせいか......)
防いでいるのではない。ただ攻撃していないだけで、確実に攻めている。
もしこれが攻め手に回ったら、どうなるか──
そのことを考えた瞬 間 、変化が起こった。
かしんっ!
と、クリーオウが踏み込みと同時に真横に振り払った木剣を、ロッテーシャの剣が打ち返す。踏み出したところを押し返され、クリーオウの動きが止まった。刹 那 。
クリーオウが、再び剣を構え直し、動こうとした時には、もう彼女の前に相手の姿はなかった。
「え......?」
彼女の声が聞こえたのと、ほぼ同時か。
「きゃあああっ⁉ 」
大きな悲鳴をあげて、クリーオウの身体 が一回転する。翼 のように金 髪 を広げて、彼女は床 に叩 きつけられた。板の間に振 動 が伝わり、足下が跳 ねるのを感じながら、オーフェンは独 りごちた。
「こうなるわけだ......」
倒れたクリーオウの後ろに、ロッテーシャが立っていた。木 剣 を両手で抱 えるようにし、くすっと笑みを漏 らしている。たいしたことをしたわけではない──一瞬の隙 をついて死角に回りつつ、クリーオウが踏み出そうとした足を木剣で跳ね上げただけだ。ここまできれいにクリーオウが転 倒 したのは、既 に彼女の息が上がってバランスを崩 しやすくなっていたせいもあるだろうが。
なんにしろ、こうまで単純な高等技術は、そう見られるものではない。木剣を杖 のようにしてのろのろと起きあがるクリーオウに、ロッテーシャが手を差し出した。それにつかまりながら、クリーオウがうめく。
「いったぁ〜......」
「あ、ごめんなさい。大 丈 夫 ?」
「うう。ケガはないけど」
「ちょっと調子に乗っちゃったみたい。でも、あなたがあんなに前に出てくるから」
(まあ、あれだけ相手に隙 があると、いろいろと妙な技 を試 したくなるんだろうな)
遠目に見ながら、オーフェンはそんなことを考えていた。自分にも似 たような覚えがあるが。
「──で」
とオーフェンは、視 線 を自分の足下へと移した。ふたり折り重なった地人が、彼に踏 みしかれてぐったりしている。
「お前たちは、こんなところでなにやってやがるんだ?」
聞く。と、ぼろぼろになりながら、ボルカンが顔を上げた。
「なに落ち着き払って質問しやがる、とがり目魔 術 士 ⁉ 」
ばたばたと手足を振 り回しながら──しっかりと踏み押さえているため身動き取れないが──、地人は声をあららげた。
「この俺 様 がしごくまっとーに弟 子 を取り尊敬されているのが、そこまで気に入らんか拗 ね男! さっさとその足をどけて俺様を至急解放しくさらんと、クッションの綿 ぬき殺すぞ!」
下になったドーチンは、もう身動きする気力もないのか、涙 を流してぐったりしている。とりあえず無視して、オーフェンはうめいた。
「とまあ、どーせ理由を問いただしたところで馬 鹿 な答えが返ってくるだけなのは分かっているから、ほうっておくとして、だ」
「ほーっておくなら足をどけろ! おいコラ、いいか、十秒以内だ!」
「マジクの奴 、あれは本気か、おい」
その少年はといえば、道場のまた別の隅 で、十歳くらいの子供に追いかけ回されながらぺしぺしと木剣で打たれている。それを目で追いながら、しみじみとオーフェンはつぶやいた。
「分かってはいたが、はっきりと現実を見せられると、なんつーかぐったりくるなー」
「よーしカウントするぞ九八七六......あ、聞いておらんな貴様! 断っておくがこのカウントが〇になった時、この俺様は覚 醒 し真の力を得るぞ! そーなると、なんかいろいろ十倍くらいだぞ、いいのか⁉ 」
と──
「どうですかー? 専門家の目から見て、我らが剣の女神は」
いつの間にか近づいてきたのは、くすんだブロンドの男だった。緑色のタイツのような、奇 妙 な格 好 をしているが、ここの練習生らしい。
「弟子よー!」
足下のボルカンがなにやら叫 ぶが、オーフェンは無視してつぶやいた。
「別に俺は専門家じゃねえんだけど......どうしてそう思ったんだ?」
「いやなんとなくそう見えただけで」
その男──確かライアンとかいったか──は、飄 々 とそう言ってきた。そして、ようやく気づいたようにボルカンらを見下ろすと、
「ところで師匠、なぜそのよーなところで、わざわざ人の足の下に回り込んでいるんです?」
「うっ......!」
それまでわたわたと騒 いでいたボルカンが、あわてて口をつぐむ。
「う、うむ。つまり戦 闘 においては、敵の予期せぬ方向からの攻撃が吉 であるとゆー、まあそーいった奥 義 の型なのだが、弟子よ、盗 めたか?」
「そんなこと言ってないで、素直に助けてもらおうよ兄さん──ぐっ!」
訴 えかけたドーチンを、上から押さえつけてボルカンが黙 らせた。そのまま続ける。
「と・ゆーわけで、俺様はしばらくこのまま特訓を続けるため、弟子も気にせず精 進 するよーに」
「おおっ! さすがは師匠、たゆまぬ精進ですね!」
「え〜と......」
嘆 息 混 じりにつぶやいて、オーフェンは改めてライアンの顔を見やった。素直に感 激 しているらしいその剣士に向かって、聞き返す。
「まあいいや。剣の女神って、彼女のことか?」
ロッテーシャを示すと、彼はうなずいてきた。目を閉じ、右手を軽くあげ──こんな仕草にもどこか伊 達 な気 配 が感じられる。
「ええ。競技者としては彼女の右に出る者はいませんね」
「剣術競技者か......最近じゃ、あまり聞かないよな」
「そうですねぇ。まあ、流 行 るものではないですし」
つまりは、競技として剣術を学ぶ者をそう呼ぶのだが。
単なる戦闘訓練との区別は曖 昧 で、いちいち気にしている者もあまりいない。実際オーフェンも、こういった道場を見るのは初めてだった。《塔 》の訓練カリキュラムの中には武器の扱 いも含 まれていたため、似たような雰 囲 気 はたっぷりと味わったが。
違 いはなにかと問われたところで、具体的になにをあげることができるわけではない。それでも無理に違いをひねり出すとすれば、それが生活に占 める比 率 だと言えるかもしれなかった。常に脅 威 ──特に最大の脅威となるのは自らの魔術だが、それに嫌 でも相 対 しなければならない魔術士にとって、どのようなものであれ訓練は自分の身を守る唯 一 の手段だった。少しでも未 熟 な部分を残せば、自 ずと排 除 されることになる。排除されたくなければ、全身全 霊 を以 て自分を制御し、鍛 えなければならない。生活のすべてが訓練であり、それを疑問に思うこともない。
(だが──)
練習場を見回して、オーフェンは目を細めた。木剣で打ち合う練習生たちには、この練習場以外の生活がある。生活を楽しむのと同じく、この訓練を楽しんでいる。
むしろ、こちらのほうが普 通 なのだろうが......
「考えていること、分かりますよ」
ぽつりとつぶやいてきたのは、ライアンだった。夢 想 を遮 られ、言葉を探すこともできずに見やると、やはり口元にきざな笑みを浮 かべ、あとを続けてくる。
「でもロッテーシャはむしろ、あなたのお仲間かもしれない」
「......そうかもな」
オーフェンは静かに同意した。
向こうでは、再び立ち上がって息 を整 えたクリーオウが、威 勢 よくかけ声をあげながら、木剣を掲 げてロッテーシャに躍 りかかるところだった。結果はまあ、変わりはしないだろうが──それはともかくとして。
一言でいえば。
木剣を持ったロッテーシャは、特に楽しげには見えなかった。
「で、どう思った? オーフェン」
「う〜ん......」
首を傾 げて聞いてくるクリーオウに、オーフェンはただ一声うめいた。クリーオウはあちこちにすり傷 を作って(つまりさんざん転 がされたわけだ)、気楽にこちらを見上げてきている。道場からの帰り道、緩 やかな坂道を下りながら。
帽 子 のように頭に乗せたレキが、のんびりと手足を伸 ばしている。彼女というよりその子ドラゴンに、オーフェンは答えた。
「どうと言われてもな。普通の道場じゃねえか?」
「それはそうなんだけどさ」
期待していた反 応 ではなかったのだろう。小石でも飛んできたような顔をして、クリーオウが口をとがらせる。彼らより少し遅 れてついてくるマジクのほうを見やってから、
「あんたはどうだった、マジク?」
「どうって言われても〜......」
マジクは正 真 正 銘 、ぼろぼろのようだった。身体 中痛むのか、歩き方までおかしくなっている。
「ひたすら痛いし疲 れるしさんざんだったけど。あの子きっと、十年にひとりの天才なんじゃないかな」
「あんたが鈍 すぎなのよ」
容 赦 なく、クリーオウ。オーフェンも肩 越 しに弟子を見やってつぶやいた。
「お前しばらく、あそこに通え。クリーオウといっしょに」
「えー!」
力の限り不服の声を、マジクがあげる。が、すぐに横から歓 声 があがった──クリーオウが胸元で手を組み、目を輝 かせて言ってくる。
「ホントに⁉ 」
彼女が跳 び上がらんばかりに顔を上げたため、転 げ落ちそうになったレキが、あわてて身体を起こした。クリーオウは片手を添えてそれを手助けしてやりながら、甲 高 い声で騒 ぎ続ける。
「じゃあオーフェン、わたしの言ったこと分かってくれたんだ!」
「んー......まあ、そいつはまた別の問題だが」
オーフェンは頭をかいて、半分だけまぶたを下ろした。生理的ななにかが、疑わしさを警 戒 しているのを感じる。
「だいたい、お前が昨日襲 われたっていう......エドとかいう剣術競技者か? そいつのことだってさっぱり分からんし」
「でも、ほっておけないでしょう⁉ 」
「気持ちは分かるが、彼女──ロッテーシャって言ったか? 彼女も事情があるから関わって欲しくないっつってるんだろ? お節 介 になりゃしねえかなと思うんだが」
「そんなことないわよ!」
いったいどういう根 拠 だか、底抜けにきっぱりと、クリーオウが断言する。拳 を握 り、紛 れもなく一 片 たりと疑いを持っていないらしい──オーフェンは内心苦 悶 の声をあげながら、彼女を見ていた。彼女には気の毒だが、その確信が深ければ深くなるほど、周りにいる人間は疑い深くならざるを得ない、そんな気がする。
口にはしなかったが、それは気 配 で伝わったのか、クリーオウはすぐに言い直してきた。すすと近寄ってきて、おねだりのポーズを取り、
「だって、これって単なる善 意 じゃない。悪い結果が出てくるはずないわよね、うん。そうでしょ? すべての問題は愛によって解決するのよ」
「善と偽 善 とゆーものに関して、明確な一線を引いてくれそうなせりふではあるな」
「ひっどーい。わたしが偽善者だっていうの?」
「いや。せいぜいお節介ってとこか」
表情を一変させて詰 め寄ってくるクリーオウに、オーフェンは肩 をすくめた。不 機 嫌 にほおを膨 らませていた少女が動きを止めた隙 に、すかさず付け加える。
「ようするにお前は、俺にあの道場の用 心 棒 になれって言ったんだぞ? しかも、ただ働きどころか押し掛け働きってか。今は懐 に余 裕 があるから、報 酬 がないのは別にいいとして、当事者がそれを望んでいないってのが、とにかく引っかかるんだよな」
「う〜ん......」
さすがにクリーオウも、多少引き下がって顔をしかめる。しばし悩 んでいたようだったが──
「じゃあさ」
良いことを思いついたというように、クリーオウがぽんと手を打った。
「ロッテーシャには関係なく、オーフェンがとにかくそのエドとかいう奴 の道場に殴 り込んで、めちゃくちゃに暴 れてくるっていうのはどう? これなら単にオーフェンが勝手に暴れるだけなんだから、彼女に迷 惑 かかんないし」
「それで俺はどーなる、俺はっ!」
両手をわななかせて叫 ぶが──クリーオウは意外そうに、えー、と不満の声をあげるだけだった。
「キムラックでオーフェンがやったことって、だいたいそんなだったと思うけど」
「い、いやまあ、そりゃそーだったかもしれんけど、一応あれは不 可 抗 力 とゆーか......」
「あの〜」
と、それまで無言でついてきていたマジクが、か細い調子で言ってきた。
「話はよく見えないんですけど、ぼくとクリーオウがしばらくあの道場に通って、その間にお師 様 が、なんか細かい背後関係とか、そーゆうのを探ってみるってことでどうですか? その結果、なにもする必要がないと分かればそれで良し、そうでなければその時考えるってことで──次の目的地も決まってないわけですし、どうせまだしばらくはここに滞 在 するんでしょう? なにもすることがないよりは、マシでしょうし」
「ま、そいつが一番まともかな」
もっとも、ただまともを目指すのならば、このままさっさとこの街 を出て先を急ぐというほうが上だったろうが──そのことは考えずにおく。それを選ぶとなると、行く先を決定しなければならない。ついでに言えばこれはクリーオウが納 得 しないだろう。
「それに......」
なにやら瞳 の中に決然と闘 志 を燃やし、マジクがつぶやくのが聞こえた。
「確かにあの子は百年にひとりの天才剣士かもしれませんが、ぼくもこのまま負けっぱなしというわけにはいきませんし」
「だからあんたが鈍 いだけだってば」
冷たく、クリーオウが告げる。
オーフェンはそれらを聞きながら、あきらめ半分でうなずいた。
「どっちみち剣の使い方を覚えたって損にはならねえし、それなら専門家に見てもらうのもいい経験だろ。お前たちがあの道場にしばらく通うってことに関しては、俺も異存ねえよ。そのエドだかなんだかいう奴のことは、ついでに調べてやってもたいした手 間 じゃねえだろうし」
「......ついでに?」
たいした意識もなしに言ったことだったのだが、耳ざとく、クリーオウが聞き返してきた。ああ、と返事して言い直す。
「俺も昨日ちょっとばかり、気になる顔を見かけてな。追いかけたんだけど見失った。人 違 いかもしれないんだが......」
「誰 ?」
問われて、名前を出すことは簡 単 だったのだが──
なんとなく、オーフェンは躊 躇 した。言ったところでこのふたりには理解できない名前だったろう。だがそれ以前に、あまり口にしたい名前というわけではなかった。
「そうだなぁ」
口ごもり、そしていくつかの単語を頭の中で選んでから、自分が言葉を濁 そうとしていることに気づき、苦笑する。
あごに手を当て、微苦笑を隠 しながら、彼は続けた。
「予告なしのどしゃ降り、てところかな」
「? なにそれ」
「それ自体には悪意もないし、それどころか絶対不可欠なものだ。だがそれでもなお迷惑でしかない......そんな奴だよ」
「俺の目的がなにかと聞いたのか? キリランシェロ」
その男はいつだって、そんな口の聞き方をした──常に先 鋭 的で、誰よりも高みにあり、そして誰からも遠く。
「愚 問 じゃないのかな? 俺にそんなことを聞いてきたのは、お前だけだ」
彼は自分の左胸のあたりを、親指で指し示した。黒いローブに覆 われた、心臓の上。
「意志だよ。常にここにある意志に従う。誰が必要だってわけじゃない。俺が誰かと共にいるのは、そしてここにいるのは、それに足る理由があるからだ。理由がなくなれば、俺はいなくなるだろうよ。誰の前からも......」
誤 解 されることも多かったものの、だが彼は決して傲 慢 ではなかった。むしろ、誰よりもどん欲に訓練を欲していたかもしれない。
そう。どん欲。彼は歩き回り、あらゆるものを欲していた。今でも恐 らくはそうだろう。それだけは、永遠に変わらないものと思える。どこへでも行き、どこへでも現れる。あらゆるものを欲し、望めばそれを手に入れる。きわめて迷惑な来 訪 者 。
激 しく吹 き荒 れる。苛 烈 に駆 け抜 ける。なにもかもを吸収する。そして。
理由がなくなれば、いなくなる。誰の前からも......
「......そんな奴だよ」
夜。宿のベッドの中で、もう何十度目かになるだろう寝 返 りを打ちながら、暗い天 井 を見上げ──
オーフェンは声に出さず独 りごちた。
◆◇◆◇◆
「ほほう......参ったね。俺にコンタクトしてくる奴がいるとは」
ヘルパートは夜の闇 の中で──そしてさらに深い意識の闇の中で、静かに感 嘆 の声をあげた。揺 らがない闇に包まれ、すべては安定している。水面のように。
「しかも、俺が眠 っていて無防備な時にだ。見たところ君は単に、ネットワークに逆探知をかけてきただけか? 自らネットワークを管理できるのなら、こちらに気 取 られる危険を冒 す必要などないものな。君がやっているのは、つまり賭 なんだよ。そんな状態で俺と渡 り合うのか?」
返事はない。つまり、明確な返事は。
だが彼には相手の言葉が分かったし、こちらの言葉が向こうに伝わっていることも疑いなかった。
「そう──世界がつながっている以上、ネットワークの機能に優 劣 はないな。君は賢 い。おや? 世 辞 は嫌 いかね。まあそう言うな。俺は人をほめたくて仕方ないんだよ。使いっぱってのは、実にそんなもんだとは思わないか?」
にやりと笑う。
向こうが笑ったかどうか知りたいものだと、ヘルパートは心底考えた。今のはとっておきの冗 談 だったのだが。
答えはすぐに返ってきた。
「なに、面 白 くない? ふん、若 造 には分からんかもな。さて。わざわざ自分の存在をこちらに告げてまでコンタクトしてきたってことは、なにか用件があるんだろう。それを済 ませてもらいたいな。多分俺は今、道ばたで眠りこけているんだろう。財 布 を盗 まれたくないんだ。家族の写真が入っているんでね」
今度の答えが返ってきたのも、すぐだった。
「キリランシェロ......? 俺が見張っている奴の名前か? その情報......《牙 の塔 》を五年前に出 奔 ──現在はオーフェンを名乗る......暗殺技能者 。なるほど、確かに顔に見覚えがあったはずだ。要注意人物じゃないか。さて。興味がわいてきたよ。なぜこんな情報を送ってくる。君はだれだ......?」
「誰だ......?」
自分のつぶやきで、目を覚ます──
壁 にもたれた姿勢のまま、ヘルパートはゆっくりと目を開いた。うたた寝 をしたのは、ほんの一 瞬 のことだったろう。でなければこのまま道に倒 れていたはずだ。もう明かりの消えた宿の窓を見上げ、彼は苦笑した。ひどい油断だ。プライドは傷 ついたが。
(有意義ではあったな)
眠 った状態でのコンタクトは、目が覚めると同時すべて忘れ去ってしまう危険性があったが、それはクリアーしたようだった。もっとも今回の場合は、そのあたりまで相手が謀 っているのかもしれないが......
何者かによって、利用されようとしている。この自分が。それは言うまでもない。
が──それはあとからでも挽 回 できるはずだ。
「まあ、いい。まずは手に入れた情報を役立てるとしよう」
彼は路 地 の壁から身を起こし、独 りごちた。
「さて」
公園の入り口で、オーフェンはひとり腕 組 みしてつぶやいた。今日も変わらず晴天で、さほど強くもない陽光が地上を照らしている。ぼんやりとした太陽に風も起こらず、街 は静かだった。人の歩く音だけがかすかなノイズとなって聞こえてきている。
左右を見回して、彼は自分に確認した。
「見失ったのは、ここなんだよな」
といってもう一昨日のことである。よほどの偶 然 でもない限り、ここでまた同じ人間を見かけることはないだろうが──手がかりらしい手がかりといえば、これしかない。
宿で売ってもらった、ナッシュウォータの散歩マップを手に、首を傾 げる。小 冊 子 になったその地図は、細かい路 地 などはすべて省略されているものの、そこそこ詳 しくこの街の道、公園、施 設 などが記されている。原色を基調としたイラストが並 ぶ地図を眺 めて、オーフェンは独 りごちた。
「偶然......かな? これは」
この街に、剣術教練所はふたつあるとクリーオウは言っていたが──
昨日行ってみたロッテーシャ・クリューブスターの道場とは別の、もうひとつの道場が、この公園の近くにある。二ブロック先、近すぎるということもないが。
(いっそのこと、こっちを先に片づけるか?)
こちらも、なにか明確な手がかりがあるというわけではない。煮 詰 まれば、クリーオウが言っていたように、それこそ意味もなく殴 り込みにでも行くしかなくなってしまうだろう。が、聞き込み程度はできる。
「問題は、どこに聞き込みに行くかだが......ま、オーソドックスにやるかな」
地図を懐 に入れながら、オーフェンは肩 をすくめた。
「武 者 修 行 ? また時代錯 誤 なことをやってるんだねぇ、兄ちゃん......おっと、失言かな? ま、若い頃 はどんなことでもやるもんだ」
その初老の警官は、呆 れたようにそんなことを言ってきた──それこそ、何十年か前にどんなことでもやってきたような世慣れた風 体 で、制服もくたびれてしわが目立つ。歳 をとっても体格がしっかりしているのは、外回りでよほど活躍してきたか、そういった危険には遭 わずに大ケガしないようにしてきたか、どちらかだろう。
「ええ、まあ──」
オーフェンは曖 昧 に返事して、素知らぬ顔を作った。
「で、この街にも教練所があるというので、どちらかに世話になろうと思ったんですが。ただ、あまりよくない噂 も耳にしたので、一応確かめておこうかと」
「よくない噂ねぇ。よくない。ま、あんたがまだこの街にとどまろうとしているってことは、本当の噂は聞いちゃいないと俺ぁ思うがね」
警官は皮肉げに──誰 に対する皮肉かはよく分からなかったが──そうぼやくと、天を仰 いでみせた。
それにつられて、というわけでもないが、オーフェンも視 線 を上げてあたりを見回した。そのポリスボックスはふたり詰 めには少々手 狭 で、奥 は見えなかったが、恐 らく仮 眠 室 と簡 易 留 置 所 があるのだろう。警官のひとりは警 邏 中なのか、ボックスにはその初老の警官しかいなかった。机の上には街の地図が広げられ、食べ物染 みであちこち汚 れている。壁 にしろ机にしろ、備品の数は多くないだろうに、そこそこ散らかっていた。
ビスケット──昼食代わりだろう──を頬 張 りながら、老人が続けてくる。
「健康が大 事 なら、この街から出ていくことだね。多少腕に覚えがある奴 ほど、トラブルに巻き込まれる。普 通 に暮 らしてさえいりゃあ、いい街なんだここは......」
ごま塩色の口ひげからビスケットの粉を飛ばしつつの老人の言葉に、オーフェンはうなずいた。
「つまり、道場には関わらないほうがいいと?」
「そういうこったな」
「どちらの道場です?」
オーフェンが聞くと、老人は奇 妙 な顔を見せた──
「どちらの?」
ビスケットを食べる手を止めて、こちらを見上げてくる。
「タチが悪いことに関しちゃ、どっちもどっちだと俺は思うがね。奴ら、たちまち路上を無法地帯にしちまった」
「逮 捕 すればいいでしょう?」
というより、それが仕事だろうに。そんなことを胸中でつぶやきながら、言ってみる。
だが老人は、年少者に対する忍 耐 を表情に浮 かべ、大げさにため息をついてみせた。
「二年前のことだ。最初の事件が起きた。まあ、その当時はまだしもどうってことはなかったんだ......ほんのケンカさ。当然俺たちは、そいつらを逮捕した。どうなったと思う?」
オーフェンが答えるより先に、老人はあとを続けた。
「報復さ。警官の家族が無差別に、何人か襲 われた。たいした手 際 だったよ──逮捕してからほんの三時間後だったんだからな。地元の人間をパクるってのは、こういう危険がある。上層部は怒 ったね。奴らを一 網 打 尽 にしろと声 高 に叫 んだよ。自分たちの家族を郊 外 に逃 がしてからな」
へへ、と苦々しげに笑って、老人はかぶりを振 った。
「俺らがやる気満々で出動したとでも思うか?」
オーフェンもそれにならって、左右に首を振った。老人の言っていることも分からないではないが、とりあえず反 駁 しておく。
「でも、このままだといずれ取り返しのつかないことになるんでは?」
「そうだな。いずれはやらにゃならんのかもしれん。だが暗 黙 の了 解 ってやつを作っちまうほうが楽なんでな」
「......暗黙の了解?」
「ああ。奴らが、奴ら同士で馬 鹿 馬 鹿 しい抗 争 をしているうちは、知ったことじゃない。こちらがほうっておけば、奴らも一 般 人 には手を出さないからな」
「彼らも、趣 味 で道場に通っているだけの一般人でしょうに」
「そんなことは、あのエド・クリューブスターを見てから言うんだな」
老人は、心底馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑ってみせた。
「夫婦で師 匠 を取り合って、殺し合いをやらかす連中なんぞ、人間じゃねえってことよ」
「............」
話を聞きながら──聞かされたことがにわかに理解できず、
「......はぁ⁉ 」
オーフェンは、自分でもすっとんきょうと思う声をあげていた。
◆◇◆◇◆
「............」
机の上で伏 せられていた写真スタンドを手に取って、クリーオウは思い切り首を傾 げた──頭上のレキが、ぼとりと肩にずり落ちる。
「なんでこんなとこに、敵の頭 領 の写真があるのかしら」
「ねえ、クリーオウ......」
後ろから聞こえてくる声は無視して、写真をのぞき込む。そこに写っているのは、ロッテーシャと、例のエドとかいう男、そしてもうひとり、知らない男だった。最後の男は頭に白いものが混 じった中年の男で、ふたりの肩に手を置くようにして微 笑 んでいる。いかにも鷹 揚 な仕 草 で、クリーオウはなんとなく、この男がロッテーシャの父親なのではないかと直感した。写真を撮 った場所は、この道場の前らしい。
四角いフレームの中に収まっているロッテーシャは、少し肩をすぼめて、ややはにかんでいるように見える。何年前の写真かは分からないが、そう昔 のものではないだろう。日付はない。
と──
「あのさ、調査はお師 様 に任せるってことになってたんだから、ぼくらこんなとこにいないほうがいいと思うんだけど......」
「もー、うるさいわね」
クリーオウは振り返って、しかめ面 を見せた。ひきつった面 持 ちで、おどおどとこちらを見ているマジクに、口をとがらせて続ける。
「できることはしておくの。当たり前でしょ?」
「だからって練習中に抜 け出して、人の部 屋 に忍 び込んで物 色 するっていうのは、当たり前のことじゃないと思うけど......」
「だって鍵 が開いてたんだもの」
「なにが、だってなんだよー」
抗 弁 を聞き流し、クリーオウは写真スタンドを机の上にもどした。きっちりと整 理 整 頓 された机の上には、このスタンドのほかには、ロウのたまったろうそく入れ、白紙のメモ用紙とペン立てくらいしか物が置かれていない。
机だけでなく、部屋自体も片づいていた。道場の中にある私室部分など、ろくに掃 除 もしていないのではないかという先入観があったのだが、そういったことはないらしい。カーペットも、カーテンも、ベッドも、しごく当然に清 潔 に保たれていた。家具は少ないが、これも必要なものはすべてそろえてある。ロッテーシャがここで生活しているのだから、当たり前といえば当たり前だが。
なにを求めてここに入ったのか、自分でもよくは分からなかったが、クリーオウは注意深くそれらの部屋の内装を見回した。分かることは少ない。せいぜいが、ロッテーシャは青が好きに違 いないということくらいか。装 飾 が少なく、禁 欲 的 で、清潔な部屋。クリーオウは嘆 息 した。
「ロッテって、何歳くらいだと思う?」
マジクに聞く。不安そうに扉 のほうを見ていた金 髪 の少年は、こちらを向いて答えてきた。
「うーん......クリーオウと同じくらいじゃない?」
「そうよね」
少し虚 空 を見上げ、うめく。
「──でもなんだか、そんな感じがしなくて」
「そりゃあ、いろんな人がいるだろうし」
あっけなくそう言って、マジクは再び扉のほうに視 線 をもどしたようだった。よほど不安なのだろう──まあ確かに、見つかれば言い訳できる状 況 でもないが。
思考に水を差されたような気持ちで、クリーオウは眉 根 を寄せた。
「まったく、もう。大 丈 夫 だってば。ロッテはまだしばらく組 稽 古 を続けるだろうし、彼女が練習してる間は、誰 も休まないみたいじゃない。あと五分は余 裕 があるわよ」
「そんなこと言ったって、誰かが気まぐれで休 憩 室 をのぞいたら、ぼくらふたりがいなくなってるのを不思議に思うだろうし......」
「その時はその時よ。わたしたちまだここに不慣れだから、トイレに行こうとして迷ったとかなんとか、そう言えばいいでしょ」
「迷うほど広くないよ、この建物」
「うるさいわねー。信念を持って言えばだませるわよ」
「やだよ、そんな信念」
「やじゃないわよ。自分をだませば、他 人 をだませないはずがないって、お父様の日記に書いてあったもの。死後、家族みんなで回し読みしろって遺 言 状 に書いてあって」
クリーオウは人差し指を立てて言ってから、あたりを見回した。こんなことを言い合って、時間を浪 費 している場合ではない。
「とりあえず、手分けして探すわよ。あんたはそっち」
「探すって、なにを探すんだよ」
「分かるわけないでしょ。そんなの。オーフェンじゃあるまいし、こんなことすんの初めてなんだから。でも絶対なにか、あの騒 ぎの理由が分かるようなもんがあるわよ」
適当に本棚の本を端 から目でなぞり、クリーオウはつぶやいた。肩のレキをなでながら、とにかく考える。
「だいたいね、何かを隠 すとなると、誰でも自分の部屋に隠 そうとするものよ。人って不安の塊 なんだから──ってお父様も言ってたわ」
「......前から気になってたんだけど、クリーオウのお父さんって、なにやってた人なの?」
「ええとね──」
答えようと、彼のほうを向きやって、クリーオウは、あっと声をあげた。
「なにやってんのよ!」
クロゼットを開けようとしていた姿勢で、びくっとマジクが動きを止める。驚 いて振 り向き、彼は言ってきた。
「え? だって、こっちを調べろって......」
「だからって、クロゼット開けていいなんて言ってないでしょ、この変態」
「変態はないだろ?」
情けない声で言い返してくるマジクを押 しのけ、身体 でガードしながら、クロゼットの扉を細く開く。当然中は暗くてよく分からないが、
「............?」
服、下着入れ、小物箱、それらしいものの中に混じって、似 つかわしくない金 属 の光 沢 が見えたような気がした。刹 那 、
びくんっ!
と、肩の上でレキが跳 ね起きる。あわてて見やるが、総 毛 だった子ドラゴンは緑色の目をつり上げ、クロゼットの闇 の中をじっと凝 視 していた──ディープ・ドラゴンの習性として歯は見せないが、それこそうなり声をあげていてもおかしくない形 相 である。クリーオウは、呆 然 と声をあげた。
「な、なに? どうしたの、レキ?」
わけが分からず、レキにならってクロゼットをのぞき込む。
もう少し大きく開いて──マジクは視線で追っ払ってから──、クリーオウは内部を観察した。つり下げられた服に隠 れるようにして、奥 に、長い物体が見える。
取り出してみる。と、それは、
「剣?」
まさしく、剣だった。ごく普 通 のサイズの、つまりクリーオウにとっては長めの剣だった。物 々 しい彫 金 の施 された赤い柄 、金属製の鞘 。全体的に滑 らかな曲線で構成されたその剣には、どこか見覚えがあるようにも思える。はっきりとは思い出せない──そもこの剣自体を見たことなどはないとも確信できる。ただ似 たようなものを見たことがあるような......?
レキは変わらず警 戒 態勢で、その剣をにらみつけている。滅 多 にないことだった。なんとはなしに不安を覚えながら剣を見ていると、マジクがつぶやくのが聞こえてくる。
「あ、それ......」
「なにか分かるの?」
剣を凝視したまま、クリーオウは聞き返した。うなずくような気 配 をマジクが返してくる。
「文字が刻 んである。それ、魔 術 文字じゃないかな?」
「魔術文字?」
「ええと......ほら。天 人 種族が使ってた、ものすごく強力な魔術だよ。バルトアンデルスの剣とか、覚えてない?」
覚えていないわけではなかったが、もともと魔術は管 轄 外 である。マジクが文字だと言った装 飾 も、正直クリーオウには模様にしか見えなかった。とりあえず、ここに怪 しげな剣があり、その正体が分からない。
状 況 を整理して、クリーオウはその謎 を解明する唯 一 の方法を、ごく端 的 に弾 き出した。
「よし」
つぶやいて、剣を抜 こうとする。
が、ふた呼吸ほど力を込 めて引いてから、クリーオウはあきらめた。剣は鞘から抜けなかった。鍵でもかかっているように、動かない。
と──
「あ!」
「なによ?」
マジクの声に、振り返る。そこで、彼女は動きを止めた。
「......あれ?」
少年が見ていたのは、戸口だった。いつの間にか、音もなく開いていたその扉から、困ったような顔をして少女が姿を見せている。木 剣 を抱 え、例 えるならば逃 げた子猫を連れもどそうとしている親猫のような面持ちで──ロッテーシャが唇 を開くのが見えた。
「その剣は抜けませんよ......誰にも」
いかにも競技者らしい忍 耐 が、その声にはにじんでいた。
「クリーオウさん、ひょっとして、よく人にお節 介 だって言われませんか?」
「あー......昨日言われたばかりだったりするんだけど......」
ゆっくりとした口 調 でうめいて、クリーオウは視線を移した。頭を抱 えるマジクに、
「なんでばれたのかしら?」
が、答えはマジクからではなく、ロッテーシャの口から漏 れた。彼女はあくまで無表情だった。
「......話し声が聞こえたから」
「あ、そ、そーなんだ。意外な盲 点 ──」
と、クリーオウはふらふらとマジクににじり寄り──
がっしとその襟 首 をつかまえた。

「あんたが騒 ぐからよ!」
「絶対クリーオウのほうが声が大きかったよ!」
「まあ、とにかく......分かりました」
完全にあきらめきったロッテーシャの声 音 に、クリーオウは動きを止めた。見つめる。磨 りガラスのような眼 差 しが、こちらを見つめ返してきている。
彼女は、いつも半 眼 に見える目をさらに細めた。
「あなたがたが聞きたいのなら、事情を説明します。結局のところ、すべてはわたしの優 柔 不 断 が招 いたことなんですから......」
◆◇◆◇◆
ビードゥー・クリューブスターがいつからこの街 にいたのか、それを知る者はなぜかいないという。
確実なのは、十年前にはおらず、九年前にはいた。それは間 違 いないという──その間のいつか、幼 い少女を連れたその剣 士 は、この街に剣術教練所を開いた。まだ発 展 途 中 だったこの街で、小さな土地を有り金すべてで買い、道場を建てた。その金の出 所 に関しては、今なお益 体 もない想像を働かせる者もいる。その男は一見して、大金など持ち歩くのが不自然なほどやつれ、身なりもぼろぼろだったからだ。
だが腕 は凄 まじかった。
当時、アーバンラマに近かったこのナッシュウオータには近辺に武 装 強 盗 団 なども出 没 し、治 安 に大きな不安を抱 えていたのだが、ビードゥーはそれこそ単身で斬 り込み、いくつもの強盗団を壊 滅 させたという。深 紅 の剣を手に鬼 神 のごとき強さを発 揮 した彼のもとに、入門者が殺 到 したのは言うまでもない。数年が経過し、その娘 ロッテーシャもまた非 凡 な剣 才 を見せたとあっては、人々はこの親 娘 を街の守護神のようにして慕 った。その頃 には、既 に街は数年前とは見違えるほどに発展し、山上のレジボーン温 泉 郷 とも結びついて潤 い始めていた。治安も向上し、入門者の数も多少は落ち着いて、このまま緩 やかにすべてが続いていくものと誰 しも思ったろうが。
五年前に現れたのが、エドと名乗る男だった。
「ふむ......」
一昨日──だったろうか。この公園で見かけた、空を仰 いで絶望していた男。それとまったく同じポーズで、オーフェンはベンチに身体を休めていた。背もたれに体重を預 け、両腕をかけて上を向く。
空は一昨日と変わらない、秋晴れだった。薄 い雲がたなびく藍 色 の空。
「要は、お家 騒 動 ってわけか......それとも、夫 婦 喧 嘩 かな?」
警官に聞いた話では、あまり詳 しいことは分からなかった。ただ、エドなる男は突 然 ふらりと現れ、ビードゥーに師 事 し、その娘ロッテーシャと結 婚 した。この極めて若い夫婦──当時、ロッテーシャ・クリューブスターは十四歳、エド・クリューブスターも、少なくとも二十歳 になったかならなかったかではないか?──は一年ほどで破 局 を迎 える。
破局の理由は、ビードゥーの死に関わっているのではないかと、あの老警官は物 々 しい口 調 で語った。ビードゥーの死に際して、彼の剣を受け継 ぐ正統の後 継 者 として彼が指名したのが夫婦のどちらであったのか、それを知る者はいない。だが指名されなかったほうが、それを不服としたのは間違いなかった。ロッテーシャとエドは、それこそ破 滅 的な別れ方をしたらしい。この騒動で、道場は門 下 生 の大半──特にビードゥーその人を慕って入門した年 輩 の練習生を失った。エドもこの際、街から姿を消している。
街には、もうひとつの剣術教練所があった。主としてビードゥーの課す苛 烈 なトレーニングについていけなくなった者が集まる、もとより評判の良くなかった道場だが。威 勢 を失ったロッテーシャの剣術教練所は、彼らを台 頭 させる隙 を作ってしまうことになった。抗 争 が始まったのはこのあたり──つまり今から二年前のことであるという。
「結局のところ、最大の〝力〟の象 徴 だったビードゥー・クリューブスターがいなくなって、お互 いが小 競 り合 いをすることでしか、自分たちの力を証明する手段がなくなっちまったんだろうな。タガが外 れるってのは、こんな時だ。《牙 の塔 》だって、先生がいなくなった途 端 にウオール・カーレンの暴 走 なんて事態が発生した......」
ぶつぶつと、独 りごちる。
実際、状 況 はそれに似 ている。ただ違 うのは、この街の剣術競技者たちには、《塔》における最高執 行 部 のような強力かつ無 慈 悲 な制御機構がないということだ。それにあたるべき警察が見て見ぬふりをしていることで、彼らは文字通り歯止めがない状態で暴走を続けている。
そして──
ある意味で、この騒動に終結をもたらすかと思えた出来事が、半年前に起こった。エドが再びこの街に姿を現したのである。だが彼が住 処 としたのは、元妻であるロッテーシャのもとではなく、敵対している道場のほうだった。
これは、事情を知る者すべてを驚かせたが、また逆に納 得 させもした。
抗争はさらに過激化し、いずれは警察も無視を通すことができなくなるだろう。そうなれば、すべては終わる。結局のところ騒動というのは、時が過ぎれば自然に終わるものだ。誰がいつ終わらせるのか、その違いだけでしかない。オーフェンは正直、事態に対する興 味 をほとんど失っていた。それを自覚して、虚 しく天を見る。
いや、あえて興味を持っていたのは、それらの事態とは関係のないところだった。
どうでもいいことだというのは分かっているのだが──
人間は超 人 にはなれない。その例外となったのが、魔 術 士 だが。
「どんなに強かろうと、剣一本で何十人もの武 装 強 盗 を退 治 するなんてこと、できるのかね?」
しょせんは伝説である。噂 話 の尾 鰭 の類 かもしれないが。
「まあ、俺は門 外 漢 だしな......」
オーフェンは、顔を起こした。空一色に染 まっていた視界が、下界を映す。
「あんただったら、分かるかい?」
聞く。ほかに誰もいない公園。ベンチの前に、ひとりの男が立っていた。いや、男という年 齢 でもない──まだ子供といえば子供か。十七、八の少年が、木 剣 を手にこちらをじっと見ている。
距 離 は、三メートルほどか。オーフェンは目 算 して、ベンチに座 ったままその少年の顔を見上げた。
「できるさ」
その少年の答えは簡単だった。少ししわがれた低い声で、続ける。
「あの剣 があれば......何十人が何百人だろうとな」
「へえ」
オーフェンはそれだけ言って、そして──ふと顔をしかめた。つぶやく。誰に言うでもなく、
「......早過ぎるな」
「なんだと?」
少年が聞き返してくるが、オーフェンは無視した。それがかんに触 ったのか、少年の表情が大きく歪 む。
彼が木剣を構える動作を見せる前に、オーフェンはベンチから立ち上がった──目の前にする、怒 りに震 えたこの少年が、間 合 いを楽しむタイプでないのは明らかである。既 に少年は木剣を振 り上げ、こちらに突 進 してきていた。
(早過ぎる......)
ほとんど上 の空 で、オーフェンは同じことを繰 り返した。拳 を固めて、一歩前に出る。相手の踏 み出しに予想を立てて身体をずらすと、広げたままの左 掌 を突 き出した──振り下ろされる直前の、相手の腕 に向けて。
音も立てず、少年の腕を受け止める。少年は自分が置かれた状況に気づいてもいないようだった。相手が表情を変える隙 も与えず、オーフェンはさらに半歩を踏 み込んだ。右拳はいつでも打ち出せる状態で、自分の胸元にある。
「ふッ!」
息 吹 と同時、がら空きの脇 腹 に拳を突き入れると、少年の喉 から、空気が抜 けるような音が漏 れた。そのまま、弾 き返されたボールのように、後方へと倒 れていく。少年は苦しげに声をあげ、地面の上で身体をくねらせた。それが抵 抗 の意志なのか、単なる苦 悶 なのかは分からないが。
「ぐうっ......くっ......!」
それを見下ろして、オーフェンは右腕を振り上げた──
「我は呼ぶ──」
魔術の構成を編み、展 開 し、そして発 現 する一連の手順を、いつものように組み上げる。
「破 裂 の姉妹!」
呪 文 とともに、衝 撃 が倒れた少年の身体を包んだ。爆 発 する空気の中で、力なく少年がバウンドするのが見える。
呪文の効果が終わって、少年は、失神して動かない状態で倒れていた。木剣はとうに手を離 れ、数メートルほど向こうに転 がっている。
少年をではなく、その木剣を見やって、オーフェンはまた繰り返した。
「早過ぎる......」
腑 に落ちず、頭をかく。
「聞き込みを始めたのは、ついさっきじゃねえか。なんでいきなり襲 われるんだ?」
あたりを見回す。幸いにも、見える範 囲 に通行人の姿はなかった──あれば、もう少し大 騒 ぎになっていただろう。
いずれ、こういった展開になることを予想していなかったわけではない。むしろ、期待していたほどだった。クリーオウの言ったことではないが、なんにしろ一番手っ取り早い。ここまで早い段階で、その機会が訪 れるとは思っていなかったが。
「エド・クリューブスターか......向こうが既 に、こっちの動きを煙 たがってるっていうのなら」
白 目 をむいて失神した少年の身体を担 ぎ上げ、オーフェンは静かに独 りごちた。
「会いにいってやるのが、まあ、早道だからな」
だんっ!
いかにも立て付けの悪そうな扉 に少年の身体を投げつけ、ぶち破る──
内側に倒れたドアをさらに踏み割って、オーフェンは声をあげた。
「入らせてもらうぜ」
道場は、古い建物であるという以上に、寂 れた哀 傷 が染 みついていた。手入れがされていないというわけではない。日当たりが悪いというわけでもない。単に、面 構 えの問題だろう。
入り口からすぐ、練習場らしき広間になっている。扉を破った少年の身体は、二転ほどしてぐったりと床 に放 り出された。中にいた数人の男たちが、怒 声 をあげる。
「てめえっ!」
こちらが何者か分かって、というわけではないだろう──単に反射的なものなのは間 違 いない。一番手前にいた男が、素 手 のまま飛びかかってきた。入り口を通り、半呼吸分、待ちかまえる。
お世 辞 にも、男の動きはでたらめだった。両腕を振り上げ、躍 りかかってくる。オーフェンは肩 ひとつだけ動くと、無 造 作 に体勢を下げた──と同時に、右拳を突く。
「ごふッ!」
真正面から胴 の中央に一 撃 を食らい、男が倒れる。もうこの相手に構う必要はないと判断し、振り返ると、ほかの男たちがばたばたと奥 へ駆 け込んでいくのが見えた。
どさ、と男の身体を床に捨てる。悶 絶 した男は動きもしない。オーフェンは息を整 えてしばし待った。
と──奥へ逃 げ込んだ男たちが、また姿を現す。全員、おのおの手に武器を持って。
「......五人か」
初めて相手の頭数を数え上げ、オーフェンはにやりとした。
「五 分 五 分 ってところかな?」
「ふざけるなっ! てめえ本 拠 に襲 撃 たぁ、いい度 胸 だ。生かして帰さねえぞ!」
剣──木剣ではない──を振り上げて、男たちのひとりが声をあららげる。
オーフェンは静かに息を吸った。両腕を掲 げ、
「我 は放 つ──」
唱 え始めると、男たちの間にさっと緊 張 の色が走る。悲鳴じみた声が、道場内に響 きわたった。
「魔術士だぁっ⁉ 」
「我は放つ光の白 刃 っ!」
吸い込まれるように──
とめどなく流れ出す光の奔 流 が、ほんの瞬 間 にはそう見えた。純白に輝 く熱と衝 撃 の渦 が、四角い練習場を縦に割って炸 裂 する。
爆 発 が収まり、熱波がいまだ空気を焦 がす中に、衝撃に打ち倒され気絶している人 影 をふたつ確認してから、オーフェンは改めて戦 闘 態勢を作った。拳 を構え、右半身を退 く。
接近戦、しかも混戦になれば、魔術の有効性は大きく減じる。構成を編み、展 開 し、呪 文 を唱 えてからさらに魔術の効果が現れるまで、いちいちすべてに多少のタイムラグがあるせいだった。無論まったく使うこともできないというわけではないが、今のような大きな術は使いにくい。魔術士相手であれば、向こうも魔術を使いたがる分、むしろ使いやすくもなるが。
(どのみち、三対一なら魔術なしでも相手をコントロールできる......)
オーフェンはつぶやいて、敵の位置を確認した。剣を持ったのが右手にひとり、それぞれナイフを構えたのが左手にふたり。
迷わず、左を向く。魔術の威 力 を目 の当たりにしたせいだろう、ふたりともがむしゃらに突っ込んでくるつもりのようだった。オーフェンは彼らに向けて、素早く踏 み込んだ。
交差は一瞬だった。先行していたひとりがナイフを突き出してくるのにあわせて、左足を振り上げる──鉄骨入りのつま先が、小さな弧 を描 いてその男の右 肘 を腕の外側からえぐった。ほんの一瞬。あり得ない方向に曲がった腕 を抱 えて、その男が悲鳴をあげる。
そして、彼が取り落としたナイフが床 に落ちる前に。
続けて斬 りかかってきた男の横を、オーフェンは半歩ほど身体を右にずらして通り過ぎた。と同時に、相手の背中を追うように身体の向きを入れ替える。当然、男もこちらを向こうとするが、上半身はともかく下半身までは完全に回 転 できない。後ろ向きになっているその男の膝 の裏に、オーフェンはブーツのエッジを打ち込んだ。男が、驚 愕 に目を見開いて──氷の海に沈 むように、床に倒れる。身体の支えを失ってうめく男の背骨に、さらに強めに蹴 りを入れると、男は完全に動かなくなった。
と、刹 那 。
(......来たかっ!)
オーフェンは背後に気 配 を感じて、身体を投げ出した。倒れた敵を飛び越えて床を転 がり、再び飛び起きる。と、後回しにしていた剣の男が迫ってきていた。見やるとちょうど、一瞬前までいた空間を、その剣が通り過ぎたところだった。
まだ先ほどの熱波が収まりきっていないせいか、相手の額に脂 汗 がにじんでいるのが見えた。振り下ろした剣を引きもどして、右 斜 めに構えている。一対一となって、じっとりとした汗が手の中にわき出るのを感じながら、オーフェンはつぶやいた。
「......もうあんただけだぞ」
倒れた者に、もう回復の気配はない──視 線 だけで見回して、オーフェンはそれを確認した。魔術で倒れたふたりは論外、ひとりは折れた右腕を抱きかかえた格好で震 えているだけ、もうひとりは背骨を強打されて身動きも取れなくなっている。
剣を構えて、最後のひとりであるその男も、同じことを確認したようだった。ちっ、と舌 打 ちするのが聞こえてくる。
「エドがここにいりゃあ、てめえなんぞ......」
「へえ」
オーフェンは、舌打ちを返した。
「あんたがそのエドかと思ってたよ」
「はっ!」
男は、鼻で笑ったようだった。いかつい顔に怒 りのしわを寄せて、切 っ先 をさらに高くする。
「エドの顔を知らねえってことは、てめえ、ロッテーシャの手の者ってわけでもねえみてえだな。目的はなんだ......?」
「こっちが聞きたいね。そいつが襲 ってきたんだ。ついさっきな。ま、とりあえずここの練習生だと推測してとどけに来た」
と──床に転がっている少年を示す。
「なんだと?」
男の顔に、はっきりと動 揺 が走った。その少年を見やって、
「知らんぞ、そんな奴 は」
「え?」
その瞬間、だった。
すたんっ。
ひどく乾 いた音だった──人間ひとりが飛び起きるにしては。ほんの刹 那 のことでしかない。これまで動きもしなかったその少年が、体操選手のような気軽さで、その場に立ち上がる。
少年はこちらに背中を向けた状態で、頭を動かしもせず、すっと右腕を、剣の男のほうへと向けた。ここまでまったく音もなく。そして、
「──なっ⁉ 」
男の悲鳴は、断 末 魔 のものとなった。
数メートルもある距 離 を、弾 丸 のように伸 びた少年の人差し指が男の右目を貫 いていた。凄 まじい絶 叫 をあげながら、男が倒 れる──少年の指は触 手 のように、男の眼 窩 を深くえぐってさらに深部をかき回したようだった。男の身体が跳 ねても、その動きは止まらない。のけぞって奇 怪 なアーチを作り......男が動きを止めた。もう、動かない。
「............⁉ 」
ただ見ているしかなかった。まったく虚 を突 かれ、オーフェンは物言わぬ少年の後頭部を見つめていた。ほんの数秒して、少年が、こちらを向く。
いや、もはや少年などではなかった。
伸びた人差し指はそのままで、外形が変化していく。小 柄 な体格が一回り膨 らみ、骨張った無 骨 な大人の身体へと成長した。顔つきも、肌 の調子すらも変わっていく。髪 の色は黒からブロンドへ。皮肉な笑みを浮 かべた表情に、冷たい口元の歪 みが加わった。着ているものすら変化していく。運動着から、くたびれたスーツへと......そして。
もとは黒かった瞳 。だが今はまったく違 う。膨 大 化 した瞳が、鮮 やかな緑色に輝 いている。すべての変化が終わった時、その色は濁 った青色に落ち着いた。
間 違 いなかった。
オーフェンは、はっきりと思い出していた。そうそう忘れる外見でもない──一昨日、公園で絶望していた男。間違いなかった。
変化がすべて終わった──と思えたその瞬 間 、オーフェン以外の意識を保っていた者の口から、悲鳴がほとばしった。わけの分からない変化を目の当たりにして、恐 怖 に任せて絶叫している男たちは、だが次の瞬間にはまたすぐに静かになっていた。
男の瞳が、再び緑色に輝いている。そして一瞬前に見た光景と、間違い探しのようにまったく変化がない男のポーズの中で──新たに、右手の中指と薬指が大きく伸びていた。関節の構造を無視して複雑にうねった二本の指が、倒れていた男たちの喉 をそれぞれ貫いている。噴 き出した血が、道場内の空気を深 紅 に染 めた。
「どうして──」
瞳の色をブルーにもどして、突 如 として変化した男は、そんなつぶやきを口にした。
淡々と、ただひたすらに淡 々 と、
「どうして俺が、殺しの時にはわざわざこの姿になるのか、同族の中には疑問を持つ者もいるんだが......俺自身にも分からない。まあ、生理的なものなんだろう」
身動きせず──喉を動かしすらせずにしゃべるその姿に、オーフェンは戦 慄 を覚えた。なにがどう、と具体的なことはなにも浮かばないが、全身が危険を警告してくる。見てはならない、聞いてはならない、知ってはならない。が、
(くそっ......)
オーフェンは、認めた。どうしたくとも、聞き入るしかない。絶望の男はまったく変わらない調子で、あとを続けた。
「別にどんな格 好 でも問題はないんだ......本当だよ。殺す相手と同じ姿で現れて驚 かしてから、などという悪 趣 味 な同族もいる。いろいろな奴 がいるわけさ。で、俺はこの姿だ。別にこの格好が好きなわけじゃない。さて、本当にどうしてなんだろうな」
「お前は......」
震 え声で、オーフェンはうめいた。が、言葉が続かない。
絶望の男は、初めて表情を変化させた。どうというほどでもないが──唇 を軽く開く程度に。
「想像がつかないかね?」
男の言葉に、オーフェンはかぶりを振った。緑色の瞳。それを持つのは、
「ドラゴン種族......」
「レッド・ドラゴン種族。見たことはないだろう? もし姿を見せた同族がいたとしたら、我々の恥 だ」
レッド・ドラゴン──
オーフェンは、その単語を思い浮かべた。レッド・ドラゴン=バーサーカー。赤毛の大 熊 と言われているが、その実体を確認した者はいない。人間種族にとっては、実在を知りながらそれを確かめることができないドラゴン種族のひとつ。
彼は、静かにあとを続けた。
「アスラリエルとは会ったことがあるそうだな? なら俺の名前も覚えておくといい。ヘルパートだ」
しゃべりながら。
音もなく、残った右手の親指と小指が伸 びる。はっとして、オーフェンは叫 んでいた。
「やめろっ!」
だが──
知覚できないほどの速度で伸びた指は、その時には既 に道場の奥 に、倒 れていたふたりの首をはねていた。ほんの一 瞬 だった。撫 でたようにしか見えなかったが、ぶつん、と神経を逆 撫 でするような不快な音を立てて、人間ふたりの首が簡 単 にちぎれ飛ぶ。
ヘルパート。そのレッド・ドラゴンは、指以外のなにも動かしてはいなかった。手首すらも。
視 線 も。彼が一度も瞬 きしていないことに、オーフェンは唐 突 に気づいた。色の変化する瞳で、じっとこちらを見つめ、変化のない声で言ってくる。
「俺はアスラリエルとは違う。イレギュラーと裏取引などしない。人間の魔術士よ」
彼はわずかに、顔をうつむかせた。視線だけはこちらから離れないが。
「人間の魔術士よ。いや、人間種族の代表として、お前は、滅 びに瀕 するということに耐 えられるのか......?」
(なんなんだ......?)
いったい、なにが起こっているのか、それは分からない。だが、
(そうか......)
オーフェンは、その時にはっきりと悟 った。
ともかくも眼前にいるこのドラゴン種族は極めて具体的な滅びそのものであり──そして、自分はそれにさらされているのだと。
「そう! 真横に転 がると見せて前に転がったり後ろに転がったり転がらなかったりあきらめたりくじけたり立ち直ったり! というわけでこれが究 極 奥 義 ・ぬるま湯ハッピーライフだ! 理解したか弟 子 よ!」
「はいっ! 師 匠 !」
道場の表の道では──練習場から追い出されたのだろう──ボルカンとライアンが、なにやらわめいている。少し離 れて、ドーチンが体育座 りしているのも見えた。二階の窓からそれを見下ろし、クリーオウは静かにつぶやいた。
「......気楽なもんよね、あいつらは」
「でもわたしのやっていることって──」
それに答えたのは、ロッテーシャだった。そこで止まる。深 紅 の剣 を抱 きかかえて瞳 に虚 ろなものを宿しているその姿に向き直り、クリーオウは彼女の言葉の続きを促 した。彼女は、ふっと自 嘲 するように微 笑 むと、
「わたしのやっていることって、結局あれと大差ないのかもしれないって思うんですよ」
と、ロッテーシャの目に光がもどった。それが窓の外を向く。
「ひどく残 酷 なパロディって......そう思えませんか?」
「でもあいつら、馬 鹿 よ?」
「わたしだって馬鹿ですよ」
ロッテーシャはそう言って、今度は自嘲ではなく笑ってみせた──短い黒 髪 に縁 取 られた素 朴 な微笑みが、彼女の顔を染 める。そのまま彼女は、自分の机へと近寄ると、伏 せてあった写真スタンドを取り上げた。
「自分がこのひとを愛していて──そしてあのひともそのはずだって、まだそんなことを考えたりするんです」
ずっと変わらずにロッテーシャの部 屋 にいるわけだが、居 心 地 はだいぶ変化していた。
クリーオウはなんとはなしに気まずいものを覚えつつ、視 線 の居 所 を求めて、しばらく前から何度もあたりを見回していた──写真を見つめて今にも泣きそうな微笑みを見せているロッテーシャを見ていられるはずもなく、自分と同じように部屋の隅 で所在なさげにしているマジクはまったく頼 りにならない。開いた窓の下で馬鹿騒 ぎをしているボルカンらのことに話を振 れば、残酷なパロディとくる。
苦 手 な空気だったが、相手を責めるわけにもいくまい。クリーオウはこっそりと嘆 息 した。
考えてみれば、この部屋はロッテーシャそのものだと言えた──あるいは、ロッテーシャがこの部屋そのものなのか、どちらでもいいのかもしれないが。必要なものがあり、必要なものしかない。そしてなによりも本人が、そのことを知っている。
そんなことを考えながら、クリーオウは結局、彼女へと視線をもどした。
「そんなの、全然馬鹿じゃないわよ」
口 調 のせいで自然と口がとがるのを自覚する。一 拍 おいてそれを直し──責めているように見えて欲しくなかった──、ロッテーシャが剣を抱いているようにレキを胸に抱き上げて、クリーオウは言い直した。
「ひょっとしたら、その通りなのかもしれないんだから」
ロッテーシャを見やる。彼女の表情に変化はなかった。さらに重く苦いものを飲み込みつつ、聞く。
「......その写真、あなたといっしょに写ってるの、あのエドとかいう奴 でしょ? 恋 人 とか......だったの?」
「彼は夫 でした」
「夫ぉ⁉ 」
広くない部屋の中に、叫 び声が響 く──
しばし呆 然 としてから、クリーオウは、口を開いたままで固まっているマジクへと、つかつかと近寄った。げし、と少年の足を蹴 飛 ばす。
「痛!」
「どーしてそーゆう叫び声をあげるのよ! なんか失礼でしょ!」
「絶対クリーオウも叫んでたよ、今!」
蹴られたすねを抱 えて片足でふらふらとバランスを取りながら、マジクが抗 議 の声をあげてくる。と──
笑い声が聞こえてきた。振り返ると、ロッテーシャが口元に手を当ててくすくすと笑っている。彼女はにっこりと言ってきた。スタンドを机にもどして、
「いいんですよ。確かに、珍 しいことでしょうから。わたしがエドと結 婚 したのは、三年前──十四歳の時でした。わたしの故 郷 では、それほど変わったことではないらしいんですけど......」
「故郷?」
「幼 い頃 に父に連れられて出てきたので、よく覚えてはいません」
彼女はそう言うと、部屋を横切って窓まで歩いていった。外に広がるナッシュウォータの清 涼 な秋 気 を眺 めるようにして、あとを続ける。
「──でもとても美しいところだったと思います。幼い頃の思い出は、楽しいものばかりだったから。いつも梢 に風が触 れる音が聞こえて、水が冷たくて。父がこの街 を住 処 にしようと決めたのも、きっと、この街の風景がそれを思い起こさせたからだったんじゃないかって思うんです」
花の街、ナッシュウォータを見つめる彼女の目は──美しく澄 んでいた。
「それなら──」
ようやくほっとして、クリーオウは笑いかけた。少なくとも、八方ふさがりではないらしい。
「今の思い出だって、きっと楽しいもののはずよ。でしょ?」
「......そうですね」
と、そうつぶやきながら振 り返ってきたロッテーシャに、クリーオウは口ごもりつつ、聞いてみた。
「でも、その──聞いてもいいのかしら。夫でした って......」
ロッテーシャは、うなずいただけだった。
それがなにを意味していたのか、正直分かりかねたが。ただしばししてから、窓 枠 に背中を寄りかからせ、彼女がなにを見るでもなく虚 空 を見上げたのに気づいて、クリーオウは開きかけた口をそのまま閉じた。
非常にプライベートなことなのだ──当たり前だが。そんなことを悟 って、声なく独 りごちる。
(......待つくらいの礼 儀 は必要よね)
そして。
ロッテーシャが、ちょっとした仕 草 を見せた。抱 えていた深 紅 の剣 を、そっと、こちらのほうに差し出してくる。クリーオウは数秒間それを見つめてから、ふと、声をあげた。
「......わたし?」
自分を指して聞く。と、ロッテーシャは先ほどと同じ、ただ黙 してうなずいてきた。
とりあえず一歩前に出て、その剣を受け取る──剣は見かけよりかなり軽く、実在感に乏 しい。マジクが言っていたのは、魔 術 が関係しているとか、そういったことだったろうか? とにかく、そのあたりの影 響 なのだろう。重量は感じないのだが、質 感 はある。形は角 張 った直 刀 で、柄 の長さを見ると両手で扱 うもののようだが、それほどには刀身の長さがあるわけではない。
複雑な彫 金 が施 されているものの、宝 飾 の類 はなにもなかった。繊 細 なようで無 骨 でもあるようで。単なる置物なのか実用に足る武器なのか。どう認識すればいいのか面 倒 な代 物 ではある。
「フリークダイヤモンド」
「え?」
剣を見つめて考え事をしていたところに単語を聞いて、虚 を突 かれて顔を上げると、ロッテーシャがこちらをのぞき込んでいたその視 線 にぴったりと目が合った。寂 しげに陰 る彼女の瞳 は一度瞬 きし、その陰がけしてぬぐえることがないと証明しているようでもあった。思い出を語る目。我知らず、そんなことが頭に浮 かぶ。
ロッテーシャが言い直してきた。
「父はその剣をそう呼んでいました。父は優 れた剣士でしたが、伝説的な強さの秘 密 は、その剣にあったと自分でも認めていました。それは魔 剣 です。父が死の間 際 に、それの真実の銘 を教えてくれました......」
と、一度区切って、唇 をなめてからあとを続ける。
「コルクトの剣、と」
「こる......?」
「蟲 の紋 章 の剣という意味だそうです」
「じゃあやっぱり、天 人 種族の鍛 えた剣なんだ」
それまで言葉なく聞き入っていたマジクが、唐 突 に声をあげる──彼は少し遠巻きに剣を見つめ、感 極 まったように声を震 わせた。
「それなら、剣が抜 けないのも分かるよ。お師 様 が言ってたんだ。天人種族の魔術によって造 られた武器は、よほど特 殊 なものじゃない限り、安全装置がかけられてるって。その武器の使い方とか効果とかを知らない人には扱 えないんだ」
聞いて、クリーオウはロッテーシャのほうを見やった。彼女は軽くかぶりを振 ると、
「使い方はわたしも知りません。誰も知らないんです。父は──」
クリーオウが剣を支えている手の上から、それに指を重ねるように彼女も剣に触 れて、ロッテーシャはつぶやいてきた。嘆 息 まじりに。
「父は、わたしもエドも、自分の後 継 者 には相応 しくないと言って、息を引き取りました。剣の秘密を持ったまま......」
「じゃあ──」
なにを言うつもりでもなく、相づちを打つ。が、どのみちこちらの言葉を遮 るように、ロッテーシャはいきなり表情を歪 めてみせた──鼻の横にしわを寄せ、目を斜 めに見開き、眉 をつり上げて。思わず後ずさりしそうになるが、彼女の手に触 れられているため数センチで止まらざるを得ない。
彼女は奥 歯 があるあたりのほおを震わせながら、静かに口を開いた。べき、と妙 な音が聞こえて発生源を視 線 で探ると、自分の手の上に添えられたロッテーシャの指が鉤 爪 のように引き絞 られている。鳴ったのは、指の関節だった。なにかをかきむしるように握 りしめられた指の。
「そしてエドは、わたしのもとを去りました」
語る声だけは、平静を保っていた。
「──もうここにいる必要はないと言い捨てて」
◆◇◆◇◆
オーフェンはただ静かに、拳 を固めていた。それがどの程度意味のあることなのか、それは分からないとしても──あごを引き、腕 をしぼり、そして腰 を落とす。半身をわずかに退 いた馴 染 みの体勢で、彼は無言で対 峙 した。その具体的な滅 びと。
五体もの死体が転 がる道場の中で、その滅びはといえば、伸 ばした指を音もなく通常の長さへともどしただけだった。血と肉片のこびりついた右手をひと振りして、赤黒い飛 沫 を飛ばす。
ヘルパート。オーフェンは、その名前を胸中で繰 り返した。無論、覚えのない名前だったが。レッド・ドラゴン種族という単語には聞き覚えがあった。
レッド・ドラゴン=バーサーカー。
もはや伝説にしか登場しない、失われたドラゴン種族のひとつである。勇 猛 で退 くことを知らない狂 戦 士 。いや、殺す以外の行 為 を知らない狂 気 の種族と言う者もいる。だが彼らは時として奸 知 にも長 け、敵前で秘 密 の会話をするために、即 興 で新しい言語を作ることすらできるという。彼らの扱 う獣 化 魔 術 には未知な点も多いが、ただひとつ分かっていることがある──己 の肉と体液を媒 体 とすること。それを無限に変化させる。一 瞬 で指を伸 ばし、人間の喉 をえぐるほど強 靭 に。
「なるほど」
唐 突 に、思いついたようにつぶやいたその顔には、悪意もなにも表れてはいなかった。純 粋 にただ口に出ただけというように、淡 々 と言ってくる。
「なるほど......つまり君の正体を聞かされた以上、俺は君を止めなければならない......ふむ。無理やりに利害を一致させたわけだな。彼の意図はそれだったか」
「? なんのことだ」
分からず、オーフェンは聞き返した。この種族の者と会話を成立させることは極めて困難だ──基礎となる知能の根 幹 が違 う──が、根 気 よく情報を引き出すことは不可能ではない。
が、ヘルパートは乗ってこなかった。世間話をしているように唇 をなめて、
「こちらに損をさせることなく手伝わせるというのは、泣きわめいて庇 護 を求めてくるよりも可 愛 げがない。これは傲 慢 かな?」
「俺の正体だと?」
「この状 況 で得 をする者は、明らかだ。今 頃 、彼は剣を奪 いに行っているところか。これまでは、俺を警 戒 して動かなかったわけだな。あてが外 れた。結局、我々の存在は感づかれていた。好かんな」
「我 は放 つ──」
オーフェンは、全力で魔 力 を展 開 した。
「光の白 刃 っ!」
ひとりでしゃべっていたヘルパートの立っている場所へと、輝 く白光が収 束 する──
激 震 と閃 く電 撃 が、建物を縦横に揺 るがせた。標 的 となった空間の真下の床 が一 瞬 で焦 げ、黒い円が爆 発 するように広がるのが見える。熱線の放射が終わり、視界がもどった時には、そこにはもうヘルパートの姿はなくなっていた。
「......このくらいで、効 いたか?」
つぶやく。
息を整 えながら、オーフェンは待った──終わっていないことは分かっている。案 の定 、声は背後から聞こえてきた。
「殴 られても、衝 撃 波 で攻 撃 されても──」
振 り返る。と、そこにくたびれたスーツ姿の彼の姿があった。軽く片足に重心を乗せて立ち、ふらっとこちらを見つめてきている。
「打 撲 はさほど苦 にはならない。そういう体質なんだ。だが灼 かれては敵 わないな。話をしている時に攻撃してくるとは、ひどいじゃないか?」
「自分ひとりでほざいてただけだろ」
唾 を吐 いて、オーフェンは再び身構えた。
「人間ってのは、コミュニケーションに失敗すると攻撃的になるんだよ。覚えとけ」
「ふむ。歴史のない種族というのは野 蛮 だな」
そう言って、彼は指をこちらに向けた──一応警 戒 した、というポーズなのだろうが。
その指が、知覚できないほどの速度で殺人を犯 せるというのは既 に見せつけられた。相手の動きを見 据 えて、目を凝 らす。こめかみのあたりが緊 張 で痛むのを、オーフェンは自覚していた。
「ま、どちらにせよ、俺には損がない」
つぶやきつつ、ヘルパートは、こくりとうなずいた。
「相 棒 が剣を見張っている」
「剣?」
「つまらん玩具 さ。だがあんなものでも、必要になってしまった......」
「我 導 くは──」
これが通じないということは聞かされたばかりだったが、避 けもしないわけではあるまい──魔術を放 ちながら、身体を横に跳 ねさせる。
「死呼ぶ椋 鳥 !」
ばんっ!
と、空気が破 裂 する。強力な振 動 がヘルパートの身体へと押 し寄せ、光景そのものをぐにゃりと変形させた。オーフェンはそれをじっと観察しながら、次 手 を編んでいた。相手の手 札 がなんであるのか見極め、それを潰 さなければ勝ち目はない。
刹 那 ──
ヘルパートの左手が、なんということもなく伸 びた。勢いよく伸びた手は壁 を押 し、ヘルパートは身体ごと大きく右へ弾 き飛ぶ。魔術が炸 裂 した空間には、彼の左 腕 だけが残っていた。強力な振動波が、スーツの袖 をぼろぼろに崩 し、そして骨ごと、その左腕をへし折る。
皮と血管、肉と骨がちぎれ、壊 れたマリオネットの部品のように、伸 長 して細くなった左腕が逆方向へと吹 き飛んだ。が、ヘルパートは顔色ひとつ変えてはいない。見ているうちに、ちぎれた部分から彼の左腕は瞬 時 に再生された。そして、胴 から離 れた左腕のほうは。
「──なに⁉ 」
宙を飛んだ左腕もまた、瞬時に再生した──胴体部分を。そして頭部を、手足を。ふたりになったヘルパートが、同じ表情でこちらを見ている。
「......どちらが本物だと思うね?」
ヘルパートは両方同時に、同じことを言ってきた。
「擬 態 のほうは、あと数秒で死体と化す。どちらを攻 撃 する......?」
そして、どちらともが、右腕を掲 げこちらへと向けてくる──
「ちぃっ!」
オーフェンは軋 るような声をあげると、後ろへと数歩分を跳 躍 した。考えている時間はない。だが二分の一の賭 をするのに、自分の命というのはベットが大げさすぎる。

(なら──)
叫 びながら、彼は魔術の構成を編み上げた。
(全部吹き飛ばす!)
「我 は築く太陽の尖 塔 !」
視界すべてを、白熱した炎 が包み隠す──
熱波、そして同時に轟 音 が轟 いた。荒 れ狂 う炎が蛇 のようにうねり、安 普 請 の道場を粗 末 な巣 のようになめ尽 くす。オーフェンは転 がるように、壊れた扉 から表へと飛び出した。度重なる悲鳴や轟音のせいだろう。外には既 に幾 人 かの野 次 馬 が集まっていた。
「なんだ?──どうした⁉ 」
混乱した顔で、頭がはげ上がった中年の男が駆 け寄ってくる。この道場の悪評のせいか、明らかに部外者に見えるだろうオーフェンに疑いをかけることは思い浮かばないらしい。それはありがたかったが、今はそれどころではない。
「逃 げろ!」
オーフェンは、その男だけではなく、その場にいる全員に聞こえるように声を張り上げた。
「化 け物 が出てくるぞ!」
悲鳴があがる。
野次馬のひとりがあげたものらしい──道場はあちこちに火の手が回り、一気に崩 れるほどではないにしろ、あちこち大きな傷 を開けている。オーフェンは脱 出 の際多少熱気に当てられ火傷 した腕 の皮 膚 をさすりながら、振 り仰 ぐように道場へと向き直った。
失 策 だったかもしれない。
そんなことを思いついて、彼はかぶりを振 った。二分の一の賭 をすべきだったのかもしれない。
燃え上がる道場の屋根の上から、傲 然 とこちらを見下ろしてきているヘルパートの姿を仰ぎながら、オーフェンは必死に考えていた。ヘルパートは完全に無傷だった。あの運動能力を以 てすれば、たとえ炎に巻かれても屋根を破って脱出する程度のことはしてのけるだろう。予想しておくべきだった。敵に、無限に移動し、隠 れることができるスペースと、そして......より簡 単 に殺せる余分な標 的 を与 えてしまった。
(まずい......)
オーフェンは、まだ逃 げていなかった男に向けて、繰 り返した。
「逃げろ。ここから全員逃げろ。逃げてない奴 がいたら、みんな逃がせ」
そっと、胸のペンダントに手を触 れながら、うめく。
「俺は《牙 の塔 》の魔術士だ。この事態は収拾する。だからそれまで、避 難 してくれ」
伝わったのかどうか、確認している暇 はない──うなずいたように見えたその男から視 線 を外 して、オーフェンは再び屋根を見上げた。炎にあおられ風に吹かれ、ヘルパートは動きもせずにただそこにいる。
まったく、動きもせずに。
「............⁉ 」
不意に気づいて、オーフェンは肺 がひきつるのを覚えた。屋根上のヘルパートは動かないまま──ぐらりと頭を垂らし、力なくそこから落下した。物のようにばたばたと転がって、地面へと激 突 する。その身体はもう、死んでいた。
「こっちが擬 態 か!」
毒 づいて、振り向く。注意を引きつけた以上、その逆側に移動しているはずだった。街 道 、あまりひとけのない道を、野次馬だった数人が逃げていく。ちょうど見た瞬間──鞭 のように閃 いた細いなにかが、その全員の身体をばらばらに切り刻 んだところだった。
「............」
声もなく、立ち尽くす。すっと──血 煙 と肉片の舞 う中に、伸 ばした指をしゅるしゅると自分の身体に巻き付けているヘルパートの姿を見つけて。
「すまないね。言っただろう。見られるのは恥 なのだと。この忌 まわしい姿を、醜 い宿 業 をね」
気になったのは、指が震 えることだった。
ヘルパートのではない。自分の指だ。わななくように震え。落ち着かない。がくがくと痙 攣 する右手を顔の高さまで持ち上げて、オーフェンは告げた──
「......あやまるこたぁないさ」
指はまだ落ち着かない。彼は右手の小指に犬歯を突 き立てた。そのまま、指先の肉を嚙 みちぎり、その血の味を口の中で唾 液 に混 ぜる。
「てめえは俺を怒 らせた。ただで済 むと思うんじゃねえぞ」
指の震えが、すべて収まった。
焼け落ちる道場と、風の音が、無人の道に響 く。
ヘルパートが、恐 れ入って泣き叫ぶことなど期待していたわけではないが──
だがそれでもその相手が、涼 しげに目を細めるところを見て、オーフェンは首の後ろに力を込めた。もう構えなど必要もない。技 もなにも必要ではない。どのみち通用しないのであれば、関係がなかった。
殺すだけでいい。過去に幾 度 か体験したあの感覚。怒 りの衝 動 の中で、オーフェンは相手の姿だけを見 据 えていた。見た通りの存在ではない──レッド・ドラゴン種族。だが見ているだけで、それを絶命させるための数百もの方法が、イメージの中に紡 がれる。
が。
「......やめよう」
ひどく簡 単 に言ってきたのは、ヘルパートだった。肩 をすくめ、ステップでも踏 むように一歩退 がる──安全距 離 へと。
「なんだと?」
低く、オーフェンはうなり声をあげた。だがヘルパートはあくまで気軽に、
「俺に勝ち目がないようだからな。よくは分からないが、そんな予感がした」
「てめえ、そんなことが──」
「俺はイレギュラーと裏取引をするようなことはしないが」
ヘルパートはあくまでマイペースに、ひとりだけで会話を続けた──それはもはや会話などではないが。
「......君の力、それほどのものなら──正 統 の力を継 いでいるというのなら、話は別だ。これは借りておく」
「てめえが借りるのは、そんなもんじゃねえ」
オーフェンはうめきながら、一歩前に出ようとした──が、すんでの所で踏みとどまる。相手が一度安 全 圏 に逃 げたことで、すべてが変化していた。間合いも、方法も、位置も、なにもかも。迂 闊 に踏 み込めば、どちらが危険であるのか分からない。
こちらが踏み込めないでいることを悟 り、そして満足したのだろう。ヘルパートは、初めてにやりと笑ってみせた。絶望の男の、絶望的な満足。
「君は自覚していないようだが、既 に自分が気楽な放 浪 者 であるなどと思わないことだ。君を注視している者は、意外と多いのだよ。正しくは、君の姉のせいなのだがね......」
「......アザリー⁉ 」
「それはそうだろう。あれだけのことをしてくれて」
ヘルパートはそう笑い──そして、また一歩退 がった。
「また会うこともあるだろう。俺のほうからは、いつでも会いに行けるのだから。ああ、そうそう......君の連れの子供たち。助けに行ってやったほうがいい。俺の相 棒 は気のいい男だから無茶はすまいが、剣 を狙 ってあの道場を襲 うのは恐 らく、俺より凶 暴 な奴 だ。もう今 頃 、始まっているかもしれないが」
また一歩、退がる。
あとは簡単だった。次々と退がり、そして去っていく。姿が見えなくなるまで、オーフェンは動けなかった。身体中が痛みを訴 えてきている。夢 中 になっている時は気づかない打 撲 や火傷 が、痛覚を刺 激 した。
つぶやく。
「......アザリー......」
そして、気づく。彼女の行方 を知り得る者たち。もうひとつあったのだ。考えるまでもないことだった──大陸の外界と。結 界 の外に在 る神々と。一千年を戦い続けてきたドラゴン種族たち。結界の隙 間 から外へと出ていった彼女のことを、きっと監 視 しているであろう大陸の主たち......
だが、今は。
オーフェンは、顔を上げた。遠くから風に乗って、警 鐘 の音が聞こえてきている。火事の通報が回ったのだろう。彼は重い足を引きずるようにして、駆 けだした。
「クリーオウたちが......危ないだと?」
口の中で独 りごちて、彼はロッテーシャの剣術教練所へと走り続けた。
◆◇◆◇◆
「うむ! 見事だ弟 子 よ。我が究 極 の秘 術 、七 転 八 倒 父 さんをよくぞここまでモノにした!もう教えることはなにもない......」
と、男泣きに涙 する兄に、ドーチンは後ろから静かにつぶやいた──
「教えることがなくなっちゃうと、もうお礼にご飯 食べさせてもらう理由も終わっちゃうよ」
「だがまだしょせんは習い始めのひよっこに過ぎんことを忘れてはならんぞ、弟子よ! 剣 の道は長く険 しく長く長く。特に三番目の長くが特に長くて、まあはしょって言うとあと三十年くらいは続けたいと思う。分かったか弟子よ」
「はい、師 匠 !」
なにやら重々しく跪 いて、その金 髪 の男──といってもひどく偽 物 くさいブロンドだが──は声をあげた。頭を垂 れ、膝 の前に木 剣 を置き、完全に恭 順 の姿勢である。その前に仁 王 立 ちになっている兄の背中を見つめ、ドーチンは生あくびをこらえきれずにいた。
往 来 で剣の練習をすることについては、ひどく危険なことなのではないかと思えたが、もともと人通りが少ない道なのか、文句を言ってくる者もいなかった。もっとも、見た者がいたとしても、剣の練習だと思わなかったかもしれない。爪 先 に木剣を立てて手を離 しバランスを取る練習を飽 きもせず続けるふたりを見て、普 通 は関わりたくないと思うだけだろう。
もっともこれでまともな食事にありつけるのであれば、文句はない。ドーチンは久方ぶりに平和な心持ちで、秋の日差しを楽しんでいた。のんびりとひなたの中でくつろぎ、馬 鹿 げた特訓が終わるのを待つだけでいい。どうせ馬鹿げたことにはもう慣れていた。
と。
ふたりから離れた場所で座 ったままで、ふと近くに知らない人間が立っているのに気づき、ドーチンはびくりと背筋を伸ばした──文句を言いに来た近所の人だろうか。だとすれば、自分がなんとかなだめなければならない。
ちらりと見ると、男は妙 な黒いマントをまとっていた。マントの下に着ているものがなにかは分からないが、手にはなにか細長い包みを持っている。一メートルほどの長さの棒 に、布を巻き付けたような代 物 だった。髪 は長い。男だったが、人間としては恐 らく美しい顔立ちなのだろう。よほどの特 徴 があるか、あるいはいくらか見慣れない限り、人間種族の顔は識別しづらいが、この男ならば明日もう一度見ても思い出せるのではないかと思える。年 齢 は、二十歳をいくらか過ぎたあたりだろう。
「あ」
ドーチンは、その男に向き直って声をあげた。その唇 に傷 跡 のある男に。
「なにか......用ですか?」
扉 を閉めたのは、マジクだった──いつの間にか部 屋 の入り口まで移動して、開いていたドアを閉じている。ばたん、という音に振 り返ると、彼は決まり悪そうにこちらを見返してきた。
「あ......その、気になったもんだから」
それが理由ではないだろうと、クリーオウは直観したが、問いただすほどのことでもなかった。ともかく、ロッテーシャの顔から一度視 線 を外 すことができたのには感謝しなければならない。剣 を抱 えたまま──振 り返ったせいでロッテーシャが触 れていた指からも離 れることができた──、そっと、再び彼女を見やる。
見えたのは、悲しげな微笑 みだった。
一 瞬 だけ現れた形 相 が錯 覚 であったかのように、ロッテーシャは静かに微笑んでいた。
「あなたが言っていたことも、分かるんです」
と、唐 突 に言ってくる。
なんのことか分からずに、クリーオウは二、三度瞬 きした。ロッテーシャが、その笑みをもう少し深いものにする。
「エドとのこと。放置せずに、わたしが決着をつけなければならないことなんです」
「あ、そのこと──」
クリーオウは、喉 をひきつらせた。
「そのこと、なら、あのぅ、ええと......そんなややこしいことだったなんて知らなかったから──」
「とても単純ですよ」
そうつぶやく彼女の顔には、微 かに苦しげな陰 がうかがえた。表情から力を抜 いて、言ってくる。
「彼は一度わたしの前から去って、再び姿を現しました──わたしの父の剣、フリークダイヤモンドを求めて。恐 らく、使い方を解明する手がかりでも見つけたんでしょう。そう、見て見ないふりをしていたところで、いずれきっと彼は来るんです」
それが苦しいのだ──
と、クリーオウはどこからか声を聞いたような気がして言葉に詰 まった。言葉にせずとも、それは明確に感じられる。ロッテーシャにとって、苦しいことなのだ、それはきっと。つまり、エドという男に会うことは。
気 丈 に笑うロッテーシャに、クリーオウは自分が同情しているなどと気づかれないよう、なんとか唇 を嚙 んで顔に出すことを堪 えた──ひどく不 遜 なことのように思えたのだ。
「彼が来るつもりならば......それに立ち向かうのはわたしであるべきです。それは分かっていました」
「手伝うわ!」
安 請 け合いと知りつつ、クリーオウはとっさに声をあげていた。後ろから、マジクがあわてて言ってくる。
「ク、クリーオウ⁉ 」
「だってそんなの、お父さんの形見を奪 おうとするなんて、泥 棒 だもの。律 儀 に果たし合いなんてする必要ないわよ。マジクは足手まといになるかもしれないけど、オーフェンだったらあんな奴 に負けやしないわ。わたしだって──」
と。
ノックの音が、言葉を遮 った。口をつぐみ、振 り返る。マジクもきょとんとした表情で、扉を見ていた。しばらくの静 寂 。そして、ロッテーシャが聞く。
「......誰 ?」
「ぼくです。緊 急 事態なもので、開けますヨ」
ドアが開き、姿を見せたのは、ライアンだった。どこかとぼけたような面 持 ちで、部 屋 の中を眺 め回している。緊急事態と言いながら、その動作にはあまり緊張したものが見られなかった。
「おや?」
彼はこちらの手の中にある、剣に目を止めたようだった。
「それはお父上の剣ですか。陰 干 しでも?」
「ライアン。緊急なら、急いだほうがいいと思うのだけど」
慣れてはいるようだが、それでも少しあきれた調子で、ロッテーシャが告げた。はは、と笑い声をこぼし、ライアンがうなずく。
「確かに。ロッテーシャ。あなたにお客様です」
「お客?」
「まさしくタイムリーと言うべきではないでしょうかね」
「......立ち聞きしてたのね?」
今度は完全に叱 責 するように、ロッテーシャの声に怒 りがこもっている。だが結局は、ライアンにとってはどちらも同じことのようだった──相変わらずの気楽な様子で後ろ頭をかくと、
「いやあ、聞くともなしに」
そして。
彼は、ウインクをひとつした。ロッテーシャに対してなのか、それとも自分にだったのか、クリーオウには判断つきかねた──それほどに、曖 昧 に。
この乾 いた空気の中、ライアンの声は耳 障 りなほどに芝 居 がかっていた。
「エドです」
階下に降り、練習場をのぞくと、そこには異様な緊張感が張りつめていた。
いや、張りつめていたというより、黒々と居 座 っていたと言うべきか──それは動かしようのない巨 大 なモニュメントのようなものだった。緊張は、切れればそこで崩 れ去る。だがここにあるそれは、もっと異質だった。鉄 鎖 によってがんじがらめにされた扉。それには既 に開 くべきものとしての役目はない。解 かれないことを約 束 された緊張感とは、そういったものだった。
練習生たちが、ひどく険 悪 な形 相 で木 剣 を抱えている。そのことが恐 くもある。クリーオウはぞっとするものを背中に感じながら、ロッテーシャに続いてゆっくりと練習場へ足を踏 み入れた。
ロッテーシャ。
そう。彼女だ──と、クリーオウはロッテーシャの背中を見つめて独 りごちた。彼女の顔が見たい。なにを感じているのか。なにを考えているのか。それを知っておいたほうがいいと、本能が告げていた。
進みながら、彼女の後頭部は揺 れてすらいない。姿勢良く歩く剣 士 の後ろ姿について、クリーオウは抱えている剣──ロッテーシャの父親の剣──を、しっかりと抱 き直した。頭の上のレキが、鼻先を前 髪 のあたりに押 しつけてきているのを感じる。こちらの緊張を感じ取っているのだろうかと、クリーオウはなんとか肩 の力を抜 こうと意識した。子ドラゴンは、発 汗 の臭 いを嗅 いでいるのだろう。
ロッテーシャの表情はうかがえない。が、その彼女が見 据 えている先に立っている男の顔は見えた。練習場の入り口近くに、壁 にもたれて腕 組 みした黒髪の男の姿がある。黒いマントをまとい、細長い包みを持ったその格 好 は、数日前に見たその男のものとは違 っていたが、艶 やかな長い黒髪、超 然 とした眼 差 し、なによりも唇に残った傷跡は、間違いなく彼だった。エド。
クリーオウのあとに、マジクとライアンもついてきている──ちらと振り返って、彼女は確認した。練習場は決してせまくはないが、人数が増 えて息苦しさは増 していた。エド、ロッテーシャ、クリーオウ、マジク、ライアン。それにこの道場の練習生たちが七人。なぜか隅 っこで大きな顔をして、ボルカンとドーチンもいる。
恐 らく、そうだろうとは予想していたが──
いきなり開口したのは、地 人 たちだった。この場所にいて、この緊張も、なにも感じずにいられる唯 一 の存在。
「と・ゆーわけでっ!」
ボルカンの声が、練習場に響 きわたる。
「この俺 様 、マスマテュリアの名だたる剣 豪 にして民族の英雄、即 ち偉 大 なるボルカノ・ボルカン様の立ち会いのもと、この長っ細い剣客が、この道場の師 範 代 に他 流 試合を申し入れてきた!」
長細い剣客とは、つまり、エドのことらしかった──地人から見ればたいていの人間は長細いだろうが。なにを言われても、この男は眉 ひとつ動かしはしなかったが、ほんの少し、失笑したようには見えた。
この道場の師範代、つまりロッテーシャはと言えば、こちらも動きを見せていない。クリーオウからの位置では結局顔が見えないため、本当に動 揺 がなかったのかどうかは分からなかったが。
「久しぶりですね、エド」
彼女の声は、低くしっかりとしていた。少なくとも、動揺を外に出さずに済 む程度には落ち着いているらしい。クリーオウはほっとして、彼女に並 ぼうと前に出かけた──が、刹 那 、肩 をつかまれ立ち止まる。驚 いて見やると、ライアンが片目をつぶってかぶりを振 っている。彼の手を振り払ってから、クリーオウは、その場にとどまることにした。
向き直ると、ロッテーシャは近くにいる練習生から木 剣 を受け取り、黙 したままのエドと対 峙 している。
「当道場では」
彼女は剣を構えず──相手が構えていないのだから構えるわけにもいかないのだろうが──、静かに告げた。
「他流試合は禁じています」
ざわっ、と、声をあげたのは練習生たちだった。口々に抗 議 を発する。
「ロッテーシャ⁉ 」
「まだそんなことを──」
が、ロッテーシャはそのどれひとつに対しても反 応 を見せなかった。ただ淡 々 と、あとを続ける。
「ですが」
その声は......冷たかった。
「果たし合いとしてなら、受け付けましょう。どうせ、あなたの意図はそれでしょうからね」
「今まで逃 げ回っておいて、今さら度 胸 を見せつけられてもな」
答えるエドは、冷たいのではなく、ただ乾 いていた。苦笑を浮 かべ、壁 際 から一歩出る。しゃりん、と金 属 がこすれる音がかすかに聞こえてきた。マントの下は、なにか重 武 装 をしているのかもしれない。
「よくは分からんが、まとまったらしいな」
やたら偉 そうに物 々 しく、ボルカンがうめく。この場を取り仕切っているのは自分だとアピールしたいのだろう──ふんぞり返って、鼻息を吹 いた。半 眼 の、嫌 みったらしい目つきでエドとロッテーシャとを見回す。
「ところで、こーゆう試合で重要なのは、審 判 に渡す袖 の下だと思うわけだが」
「いらんな」
エドはにべもなかった。

「決着は明確な形でつくだろう。得 物 にはこれを使う」
彼は持っていた長い包み──ホッケースティックのようにも見えた──を壁 に立てかけて、それとは別に、マントの下からすらりとした銀色の刃 を出してみせた。黒ずんだ金属が鈍 く輝 いている。流線型をした、両刃の長剣。重々しいその死の担 い手は、床 に切 っ先 を触 れさせて動きを止めた。
「ちょっと!」
クリーオウは、思わず声をあげていた。
「殺し合いでもするつもり⁉ 」
この空間には場 違 いなほど生 々 しい単語に──あるいは誰もが想像していながら存在などしていなかった幻 想 生物を目 の当たりにでもしたように、場の空気がざわついた。上気していた練習生たちの顔色まで、さっと青ざめたように見える。
エド当人は、肩 をすくめただけだった。
「殺し合いと言うが、変な言葉だと思わないか? ふたりともが死ぬことなどあり得ないじゃないか」
「そうやってわたしを怯 えさせようとしているのなら、無 駄 なことです」
ロッテーシャは肩越しに、こちらを振 り向いた。
その顔は死体のように白かったものの、平静ではあった。
「クリーオウさん、奥 の部 屋 に、剣があります。持ってきてくれますか?」
「え?」
なんでわたしが、とも思うが──改めて見回してみて、分かったような気もした。誰もが動 揺 している。ふとしたことで自制を失いかねないほどに。
ここの人間は、思ったより実戦など知らないのだと、クリーオウは唐 突 に悟 った。それはロッテーシャも含 めてかもしれないが......
(わたしなら、なにか頼 んでも余計なことはしないって思ったんだ)
うなずいて、奥へと退 がる。抜くことの出来ない深紅の剣を抱きかかえたまま。
と、後 ずさりしながら、ふらっとライアンがついてきていることに気づく。気にしていなかったが、彼もまたこの場でしごく冷静にいた。じろりと見上げるが、その視 線 をすっとかわしながら、近づいてくる。
「なんであんたがついてくるのよ」
低くうめくと、彼はにっこりと笑いかけてきた。やはりどこか、噓 を感じさせる笑みだったが。
「いやあ、剣を持ってくるのなら、案内がいたほうがいいと思って」
「あんたが行くのなら、わたしが行く必要ないじゃない」
「でもロッテーシャが頼んだのは君なわけで」
「......分かったわよ」
いまいちなにを言っても通じないこの男に徒 労 感 を感じつつ、クリーオウは憮 然 と同意した。不安げにこちらを見ているマジクに、目で合図を送って──「ちゃんとしていなさい」と──、足早に練習場から奥にもどる。
「まったく」
走りながら、クリーオウはつぶやいた。
「どいつもこいつも馬 鹿 みたいに──」
「しかし賢 明 に生きたからといって後 悔 しないわけでなし、好きなようにするというのも考え方ではあるヨ。どうせ誰もが同じく......いつか死ぬんだからね」
後ろから言ってきたライアンのことは無視して、休 憩 室 を通り過ぎる。
廊 下 の右手に、物置があった。剣があるとすればここだろう。古びた扉 に頑 丈 な鍵 がかかっているのだが、練習場に人がいる時ならばいつでも開いているらしい。意味があるのだかないのだが分からない防 犯 設 備 ではある──まあ、だからこそロッテーシャも、父親の形 見 である剣を自分の部 屋 に置いていたのだろうが。
蝶 番 のきしむ音を聞きながら、扉を開ける。木 剣 や防具などがきちんと整 頓 されて並 んでいる奥に、覆 いをかけられた箱が見えた。入ってその覆いを取ると、予想通り、棚の中に剣が並べてある。
種類はいろいろあったが、どれも装 飾 があるわけでもなんでもなく、そういった意味では大 工 道具と大差ない代 物 ばかりだった。クリーオウはしばし迷って、自分が一番使いやすそうな剣を取り出した──自分がロッテーシャとほぼ同じ体格であることを思い出して。恐らく、自分が使いやすいものが彼女にとっても使いやすいはずだ。
と──
「さっきの話だけど」
見上げると、ライアンが無 遠 慮 に近づいてきていた。薄 暗 い物置の中であっても、彼の珍 妙 な格 好 は目立っている。ひらひらと重みのない調子で手を振 って、彼はあとを続けてきた。
「君はどうなのかな? どういった生き方が、真実有意義なものであると思う?」
「生きるための信念って、自分のしたいようにするってことよ。でも」
クリーオウは、フリークダイヤモンドといっしょにもう一本の剣を抱 え、じろりと彼をにらみつけた。
「でも、それで人を傷 つけてもいいっていうんなら、そんなのはただの屁 理 屈 だってお父様も言ってたわ。死ぬ時じゃなくて、正気の時にね」
「他人を傷つけることもなく、我 を通すことができるとでも?」
「できるわ」
なにか意味もなく悔 しくて、クリーオウはきっぱりと即 答 した。
「賢 くなればそれができるのよ。できないなんて考えるほうがどうかしてるわ」
そのまま、物置を出ようとする──が、いつの間にかそれを妨 害 するように、ライアンが立ちふさがっていた。苛 立 たしく嘆 息 する。
「ちょっと、どいてよ。急がなくちゃならないって、分かるでしょ?」
だが、ライアンは聞いていないように見えた。
ただこちらを見て、力なくたたずんでいる。
いちいちはったりじみていた仕 草 が、不意に消えたことにクリーオウは戸 惑 いを覚えた。浮 かべている笑みも、軽く握 った拳 も、なにもかも、今だけは噓 ではない。そう見える。
「......君は、絶望というものを知らないから」
変化はいつからだったのだろうかと、クリーオウは訝 った。ずっと、いつもの軽 薄 な調子で話していたものだと思っていたが。
ライアンは、軽くかぶりを振 って、手を差し出してきた。
「そんな君にわざわざ絶望なんて教えたくはない。蟲 の紋 章 の剣、ここで素直にぼくに渡して──いや、返してもらえないかナ?」
「あんた......」
クリーオウは後 ずさると──フリークダイヤモンドを後 ろ手に背後の棚へ置き、抱 えていたもうひと振り、ロッテーシャに渡 すはずだった剣を、ゆっくりと抜 いた。その抜 刀 をゆっくりと見守ってくれるほどに真 摯 な彼の眼 差 しを見返しながら、頭の上でレキが、いつになく素早く立ち上がるのを感じていた。
切 っ先 を彼の顔に突 きつけて、クリーオウはつぶやいた。
「あのエドって奴 と、仲間なの?」
「いいや」
ライアンは、首を左右に振った──剣を突きつけられながら、まったく警 戒 する様子もなく。
「ぼくの使命なんだよ。ドッペル・イクスとしての、ぼくと、ぼくの相 棒 のね。ぼくと相棒は、まったく違 うやり方で、この使命を続けてきたんだ。長い間......」
「どっぺる......?」
「君が知る必要のない言葉だよ。いや、ある意味で、君はぼくと同類なんだが」
「なんのことよ!」
「まだ名前も継 承 していないとはいえ、誇 り高きディープ・ドラゴンが、なぜただの人間の娘 と行動をともにしていると思う?」
クリーオウは、はっとして剣を引いた。
「......レキのことを知ってるの⁉ 」
「試 しに斬 りかかってみればいい。このぼくに。そうすれば、真実が分かる。繰 り返して言うが、ぼくは本当は、こんなことは教えたくなかった」
「なにを──」
と、前に出ようとして、
「え?」
クリーオウは、動きを止めた。いや、動けなくなっていた。指一本。まぶたを閉じることすら。
ぽとっ、と目の前を、黒いものが落下していった。視 線 だけは動かせる。足元に、レキが飛び降りたのだ。彼女とライアンの中間で、こちらに背を向けて、レキは立っている。
途 端 に、身体が動くようになった──レキの視界から外 れたことで、魔 術 が解 けたのだろう。ディープ・ドラゴン種族の扱 う魔術は、視線を媒 体 にすると、以 前 オーフェンに教えてもらった。
(ていうことは......)
ふらっ、と身体を退 いて、クリーオウはつぶやいた。
(レキがわたしに魔術をかけて、動きを止めたっていうこと? ライアンを守るために)
「このチビは、聖 域 から出た者という意味で、ぼくの同志なのさ」
ライアンは、優しい目でそのディープ・ドラゴンを見下ろしていた。
「いずれはアスラリエルの名を継 ぎ、大陸で最強の戦士として戦わなければならない。ぼくなどより、よほど──」
「違 うわよ!」
クリーオウは、声を振 り絞 って叫 んでいた。近くの床 に剣を放 り捨てて、レキに近づこうとする。
が。
「違わないのさ」
その声に、足が止まる。ライアンの言葉は静かだった。そして──あれだけ偽 物 づくしであったこの男の言葉であったから、なおさらに明確だった。噓ではないと。
「このドラゴンは、いつの日か《フェンリルの森》へと帰り、不用意な侵 入 者 を排 除 する役目と、そして、破 滅 と戦う運命とを負う。ディープ・ドラゴン=フェンリルにはそれを拒 絶 するような自 我 はない。だからこそ彼らはキエサルヒマ究 極 の戦士なのさ。戦うことに生 涯 すべてを捧 げる彼らに敵 う存在など、ドラゴン種族そのものを含めても、なにひとつとしてこの大陸にはいない。だがその彼らでさえ」
高まりかけていたライアンの声が、しゅっと音を立てて──これはため息だったのかもしれないが──、萎 えた。
「その彼らでさえ、破滅に立ち向かえば、必ず死ぬ。絶望とはそういったものだ......すべてを無 為 にする。虚 無 だ!」
「違う!」
「違わない。決死の定 めを負っているからこそ、名前を継 承 する。死す前に子に名を与 え、名を与えたなら死の戦いに挑 む」
「違う!」
クリーオウはさらに声をあららげた。レキは背中を見せたまま動かない。だがそれでも構わなかった。声の限り叫ぶ。
「違う違う! そんなことはさせないし、そんな目になんてあわせない! レキだってきっとそうしたいって──」
「フュゥゥゥゥゥゥオオォォォォォォォォォ......」
「──......?」
奇 妙 な音を聞いて、クリーオウは言葉を途 切 れさせた。
呆 然 と、それを聞く。笛 のような、甲 高 い、だがすり切れるほどにもの悲しい、暖かい音。分からないが、血の上った脳に染 みわたるように、その音は響 いた。自然と──見下ろす。
レキが天を仰 ぎ、口を細く開いて吠 えている。
「え......?」
理解できず、クリーオウはただそれを凝 視 した。身 震 いが来る。少なくともレキは今まで音らしい音を発したことはなかった──足音も、尻 尾 で地面を叩 いている時も、なんの音も立てなかった。吠えるどころか、口を開いたことすらなかったはずだ。息をしないで倒 れているためあわてたら、ただ寝 ていただけだったということもあった。ディープ・ドラゴンはそもそもそういうものだと、オーフェンも言っていた。つまり音のない狩人 であり、即 ち戦士なのだと。
そのレキが、吠えている。天を見たところで蜘 蛛 の巣 がかかった天 井 しかないが、顔を上げて長い声を発している。口先を尖 らせ、その鳴き声がなにかを呼んでいるのか──それとも呼ばれているのか。クリーオウには分からなかったが。
「ディープ・ドラゴンの遠 吠 え......か」
ライアンが、驚 きを隠 せない表情でつぶやいた。
「滅 多 に聞けないものを......どういうつもりで──?」
刹 那 、レキが頭を下げた。遠吠えも消える。いつものレキである。
ほんの瞬 間 の出来事だったが、ライアンの顔がひきつるのが、はっきりと見えた。それだけでも僥 倖 だったと、クリーオウはその一 瞬 、確かに皮肉な満足を感じていた。そしてすべてが──
光に包まれた。
◆◇◆◇◆
(......そうだよ。クリーオウに似 てるんだ)
なんとなく、マジクはそんなことを考えていた──もはや無言になってエドと対 峙 するロッテーシャの姿を見て。
なぜそう思ったのかは、よく分からない。見た限り、彼女にクリーオウと似たところはひとつとしてなかった。ロッテーシャ・クリューブスター。剣 の達 人 で、そこそこの練習生を集め、達観し、折り目正しく落ち着いていて。外見はもとより、共通項といえば年 齢 くらいのものかもしれない。
木 剣 を手持ちぶさたにして、クリーオウが帰ってくるのを待っている。苛 立 っているのは間 違 いないところだろう──少々時間がかかりすぎていた。だが、それを表に出さないようにうつむいて自然体を保っている。
「時間がかかりすぎるのではないか⁉ 」
声をあげたのは、ボルカンだった。爪 先 でとんとんと床 を叩 き、焦 れているのか不 機 嫌 に顔をしかめている。
「だいたいにおいてこのマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様をこーまで待たせておいて、茶と茶菓子と袖 の下のひとつも出さんとは、ここいらの礼 儀 はどーなっとるのだ?まったくもって理解しがたい。このよーな仕打ち、地面から生 え殺されるところだと俺様は思う」
「よーするになにももらえないのが嫌 なんだね兄さん」
ひどく冷静に、ドーチンがつぶやくのが聞こえてくる。
大半の者は無視したが──それまで余 裕 たっぷりにしていたエドの顔が、はっと変じた。奥 の扉 をにらみつけ、つぶやく。
「......遅 すぎるんじゃないか?」
「............」
ロッテーシャも、こちらを振 り向いてきた。扉の近くにたまたまいたため、なんとなくその責任者であるかのように気まずいものを感じながら、マジクはわたわたと手を振った。
「あー......ええと、その、クリーオウって凝 り性 だから。剣を選んでるんじゃないかな......って思ったりしなかったり」
しどろもどろに告げる。が、エドはそれこそ無視してくれた。
「だいたい、なぜふたりで剣を取りに行った?」
「ふたりが剣を持ち逃げするとでも?」
鼻で笑って、ロッテーシャ。
「使い方すら分からないあの剣を? あれはもう、この道場の師 範 の証 というだけの意味しか──」
「お前は馬 鹿 だ」
冷たく、エドが言い放 つ。また練習生たちがざわついたが、もとより彼らのことは眼中にはないのか、エドは気にもとめずに一歩前に出た。
「黙 ってそこをどけ。もうなにもするな」
「......どきません」
決然と、ロッテーシャが応じる。エドの顔にとげが現れた。
「結局俺に逆 らえず逃 げ回っていたお前に、なにができる」
「......違 う。あなたこそなにも分かってない」
彼女は敏 捷 に一歩跳 び退 くと──さっと、木剣を構えてみせた。
「わたしが、あなたのことを放置していたのは、もし事を構えれば──殺さずにいる自信がなかったから」
「いい理由だな......いや、別れた時よりも、ずっといい」
エドもまた、剣を掲 げる。片手でぶらりと構えるだけだが。
「え......?」
その姿を見てなんとなく、マジクはなにかを連想していた。似 ているという話ならば、ロッテーシャがクリーオウに似ているなどということ以上に、エドの姿がもっと見慣れたもののように思う。すぐには分からないが。
だがその夢 想 は、ロッテーシャの怨 霊 じみた声に遮 られた。じり、と間 合 いを狭 めながら、震 える声で彼女が告げる。
「わたしにだって自尊心はあるけれど」
声が低くなっているのは、唇 を嚙 んでいるせいだろう。
「父が死んで、もうなにも分からなくて──どうしようもなくて。そんなだったから、支えて欲しかった! 支えて、支え合って、ごまかすのでも、やり過ごすのでもいい......噓 だって構わない」
その声に、マジクは思わず時間を忘れていた。どうしたらいいのかは分からないが、なにかをしなければならないような切 迫 した気配が心臓をうずかせている。
(なんだ......? 嫌 な予感がする......)
剣を構えて向かい合うそのふたりを見ながら、マジクはただ立ち尽くしていた。
かぶりを振 り、ロッテーシャが声を絞 り出す。
「悲しみを忘れられるだけの方 便 が欲しかった......」
「そうやって依 存 して、己 自身の主にさえなれない。だからお前は馬鹿だというのさ」
これはただの痴 話 喧 嘩 ではないか──
そんなことを、マジクは考えていた。ただお互 いに突 き付けあっているのは剣と木剣。人を殺 傷 し得る凶 器 である。
と。
(......そうか!)
エドという男の姿に、言葉に、立ち居振 る舞 いに──不意にマジクは気づいた。なぜ今まで気づかなかったのかと、不思議に思うほどに。あの男が、誰に似ているのか。それが分かった。
彼女は勝てない。その確信に、彼は身 震 いした。彼女は確かに剣の達人かもしれない。だがそれでも、あの男には絶対に勝てない !
「駄 目 だ!」
叫 ぶ。だが既 にその時には、ロッテーシャが剣を振りかぶり、踏 み出しているのが見えた。
永遠のスローモーションの中で──
剣と木剣は、交差すらしなかった。ただすれ違 って、もっと奥 へと突き進んでいった。
それは実際、相応 しいことだったのかもしれないが。
目を閉じることすらできない短時間。無造作に放 たれた刃 が、肉を求めて疾 駆 した。たったそれだけ。
「────!」
刹 那 。
肩 から胸に剣を食い込ませ、ロッテーシャが床 に倒 れる。
どさり、とたいして大きな音も立てずに、小 柄 な少女はその場に昏 倒 したようだった。無数の靴 跡 が残った練習場の床 に、あふれる鮮 血 が黒々と広がる。間 違 いなく、致 命 傷 となっていた。
「ロッテーシャ!」
練習生たちが、いっせいに木剣を手に前に出る。武器を持った数人の相手を、エドはただ涼 やかに見返していた。かつて自分の妻だった者を打ち捨てた剣を引きもどし、次の標 的 を探している。
(関係ない)
マジクは絶望的につぶやいた。
(関係ない......何人いようと、武器を持っていようと、関係ない──勝てない!)
反射的に、魔 術 の構成が頭に浮 かぶ。
オーフェンには、使用を禁じられている──いまだ制御が未 熟 な自分には、魔術という大きな力は危険すぎると。だがマジクは躊 躇 しなかった。あのエドという男。分からない。が、分かっているようにも思える。倒 す方法はこれしかないと。
両 腕 を掲 げて意識を集中する。魔術の構成を編み上げ展 開 し、ここまでは問題ない。ただあとは、この構成を本当に制御できるかということだった。
(やらないと、みんな死ぬ!)
力を込 めて、マジクは祈 った。エドが、ぴくりと表情を変えて、こちらへと視 線 を投げてくる。気づいたらしい。
「我 は放 つ──」
瞬 間 。
「違 う!」
声が響いた。
制止されたのかと思い、構成が霧 散 する。だがそうではないようだった。声はクリーオウのものだったが、見回してもこの場に彼女はいない。どうやら、同じ建物の別の場所で大声をあげているらしい。小さな建物である。どこで叫 んでも、聞こえないことはない。
「違う違う! そんな事はさせないし、そんな目になんてあわせない! レキだってきっとそうしたいって──」
突 然 の声に驚 いて、場の時間が止まる。誰 もが虚 を突 かれて、目を見合わせていた。次いで聞こえてきたのは、笛 のような、甲 高 い、奇 妙 な音......
その瞬 間 だった。
大 爆 発 が起こり、なにもかもが暗 転 し......消えたのは。
◆◇◆◇◆
地上で最強の戦士。それがディープ・ドラゴン種族だと、彼は知っていた。すべてを無に帰する力を持つウォー・ドラゴン種族でもなく、あらゆる奇 跡 を造形するウィールド・ドラゴン種族でもなく、大自然のすべてを具体的な助けとするフェアリー・ドラゴン種族でもなく、破 壊 不能な生態を誇 るミスト・ドラゴン種族でもなく、万能の殺 戮 者 であるレッド・ドラゴン種族でもなく......
音もなく敵を制し、戦いにのみ全生命を傾 けるディープ・ドラゴン=フェンリル。
その殺意の視 線 にさらされれば、それが分からない者などいない。ライアンは即 座 に気 配 を読みとって、可能な限り早く、命令を伝えていた──自らを守る鎧 に。
数日前に、木 剣 で袋 叩 きにあった時のように、威 力 をセーブして使うようなわけにはいかない。彼が命じたのは、全力で防御しろということだった。ざわ、と身体の表面が、なにかでこすられる。スネークグリーン。緑 宝 石 の鎧。この服を造った魔術士はそう呼んでいた......
ばっ──と、まとっていた服が変形を始める。服の表面から生じた枝が、葉が、あるいは幹までもが、せまい物置の中に広がった。ほこりだらけの暗い部 屋 の中で、目に涙 を浮 かべてこちらをにらみつけていた少女と、その足元で最強生物の証 である緑色の瞳 を燃え上がらせているディープ・ドラゴンの姿をかき消すように。
そして、爆 発 が起こった。
ディープ・ドラゴンの暗 黒 魔 術 。無生物にまで精神支配を行う暴 虐 の術 が、巨 大 な爆発を引き起こす。膨 れ上がった炎 を巻き込むように、緑宝石の鎧から生じた無数の葉と枝が大きく伸 びた。
(どれだけ威力を殺せるか──?)
鎧の能力を信じて、彼は目を閉じた。防ぎ切れなければ、即 死 だろう。ディープ・ドラゴン種族に限らず、ドラゴン種族との戦いは、そういったものになる。
実際、爆発は枝の大半を吹き飛ばした──落石も楽に受け止める、強 靭 な人工生命の触 手 が。あふれる火 炎 が閉じたまぶたの隙 間 からも視界を圧 倒 した。爆発。崩 壊 の音。安 普 請 の道場など、根こそぎ消し去るかもしれない力。
それに抗 って、後方に吹き飛ばされながら、ライアンは目を開いた。
炎は意志でもあるように──実際にあるのだろうが──、さらに荒 れ狂 い、物置の壁 を、屋根を圧 壊 させていく。鎧から伸びた枝はほとんどすべて消し飛んでいたが、完全になくなってはいなかった。破壊的な嵐 の中まだ再生し、巨大化しようとしている。
炎と破壊。その主の姿は見えなくなっていたが、ライアンはぞっとしながらうめいていた。
「くっ......これが、敵 を得たディープ・ドラゴンの力......か」
胸を押 さえて、舌 打 ちする。鎧はほとんどの衝 撃 を緩 和 してくれたはずなのだが、あばらが折れているのは間 違 いない。
「だが、それでもまだあのちびちゃんは、名も受け継 いでいないんだ」
かなりの距 離 を吹き飛ばされたはずだった──彼が座 り込んでいるのは、もう既 に物置ではない。炎 と煙 にまかれ分かりにくいが、涙ににじむ視界でなんとか彼は、もといた場所を探ろうとした。
「......使命は......遂 げないと......」
剣は持ち帰らなければならない。どうという価値のある剣でもないが、そんなものでも必要なのだから。
と──
音のない気 配 。そんなものを感じて彼は、顔を上げた。鎧に新たな命令を与えて、身構える。同じ防御法は使えないことを彼は認めた。ディープ・ドラゴンを敵として、そんな迂 闊 は許されない。仮 にうまくいったとしても、あばらが数本折れたこの身体で同じ衝撃を受ければ、今度は内臓が傷 つくだろう。
炎の中から飛び出してきたのは、小さな黒い毛玉だった。まだ体長数十センチでしかないディープ・ドラゴン。丸い瞳 を無理につり上がらせ、全身の毛も逆 立 っている。戦士としての冷静さはまだ望めなくとも、この種族はただの怒 りだけで人間などひねり殺すことができる。
明確な怒りと殺意をたぎらせているそのドラゴンを前に、ライアンは全身の枝を、めいっぱいに伸 長 した──めきめき、という音とともに、無数の枝が、建物の壁 、天 井 、床 にめり込み、同化する。
(タイミングを測って......)
ライアンは、次の命令を下した。
伸ばしていた枝を、一 斉 に集める。
道場の建材を引きむしり、質 量 の増 した枝がすべて正面に集まった。密度を高めた触 手 で子ドラゴンを巻き込み、捕 らえる。後方以外には逃 げ場 はない。逃げられたとしても、少なくとも時間稼 ぎにはなる。うまくいけば、いかなディープ・ドラゴンといえど圧 死 はまぬがれ得ないはず──
轟 音 を立てて、煙をくすぶらせる建材と枝とが巨大な塊 と化した。虫を握 りつぶすような、気味の悪い音を立てながら、その塊の密度は加速していく。
新たに開けた視界には、もうドラゴンの姿はなかった。
「......やったか......?」
独 りごちる。が。
肩 の上に重みを感じて、ぞっと背筋が凍 る──彼は視 線 だけで、そちらを見やった。すぐ間 近 。信じられないほどに間近。音もなく、存在もしていないように、ディープ・ドラゴンは彼の肩の上にいた。
「......視界が閉ざされる一 瞬 で、転 移 してきた......?」
枝を広げたために、こちらへと視線がとどいたのだろう。だが、転移の反作用すら押 さえ込んで無音で転移してくるなど、それこそ成体のディープ・ドラゴンでもおいそれとできることではない。
ライアンは、ふっと、笑みを漏 らした。仕方がないのかもしれない。
「どうするんだ......ぼくを殺すかい? ちびちゃん」
仕方がないのかもしれない──絶望ならば知っている。
(これでもいい)
彼は胸中でつぶやいた。
(ここで死ぬのであっても......)
ディープ・ドラゴンは肩の上にいても、こちらの目線ほどの高さしかない。だがそれでも超 然 と首を伸 ばしたその姿は、王者のように威 風 堂 々 としていた。戦士の種族を敵としてしまった。自分のミスだった。ならば仕方がない。
ドラゴンの瞳が、こちらを見やった......死の約 束 たる視 線 が自分に触 れている。
と。
「レキ! 駄 目 よ!」
声が響 いた。炎 の中から、がれきをかき分けて、金 髪 の少女が姿を見せる。あちこち煤 で汚 れ、ひどい有様だったが、目の輝 きだけは失われていなかった。蟲 の紋 章 の剣を抱 えて──この火の中を、ずっと探し回っていたのだろう。ディープ・ドラゴンに向かって叫んでいる。
「そんなことをしちゃ駄目──駄目よ......」
ディープ・ドラゴンは、初めて躊 躇 を見せたようだった──彼女のほうを見、なにかをねだるように前 脚 で足元をこする。
が、少女はきっぱりとかぶりを振 った。ドラゴンはまだなおふらふらと鼻先を巡 らせていたが。
突 然 、ばっと、ライアンの肩から飛び降りた。そのまま、逃 げるように近くのがれきの中へと逃げ込んで姿を消す。
「あっ......」
彼女が手を伸 ばして、それを追おうとした。と同時に──
ライアンは腕 をあげると、袖 から一本だけ、細い枝を伸ばした。彼女の抱 えている蟲 の紋 章 の剣にそれを絡 めると、すぐに引きもどす。一瞬後には、剣は彼の手の中にあった。彼女はあっと言う間に剣を奪 われたことに呆 然 としていたようだったが、
「持っていけばいいわよ!」
すぐに、声をあららげて叫 んできた。
「そんなもの、持っていけばいいじゃない!」
彼女の青い瞳 から涙 がこぼれるのを、ライアンは無言で見つめていた。触 手 のすべてをもどすよう、声に出さず命令する。がらん、と巻き込んだ大量のがれきを大量に落として、すべての枝が鎧 へと引き込まれていった。
「誰もいらないわよそんなもの! 人を傷つけてまで! レキだって傷ついてた! そうやって馬鹿なことをしていればいいわ。あんた以外のみんなが、あんたのこと笑うようになるまで!」

だが少女は気づかなかったかのように、ただひたすらに声を張り上げた。興 奮 して錯 乱 しているのかもしれない。どのみち、言葉は通じないだろう。
言葉では通じないだろう......
「そんな剣が欲しくて、ほかのなにもいらないんでしょう──だからこんなことするのよ! いいからどこにでも、それ持って消えちゃってよ──」
「そういうわけにもいかないな」
どすっ......
少女の身体がふわりと浮いて、そしてその場に倒 れ込んだ。
意識を失い、失神した彼女の後ろから──人 影 が現れる。
ライアンは、苦笑した。
(また別の意味で言葉など通じない者が現れたわけだ......)
そんなことを考えながら、蟲の紋章の剣を抱える。腕組みの姿勢で、彼はその男を出 迎 えた。
黒いマントに身を包んで、細長い鉄 棒 のような包みを提 げ──エド・クリューブスターが口を開く。傷 跡 の残るその唇 を。
「なるほど、やはりな......お前もそうだったか。お前たちは人間種族のことを蔑 みながら、その実ひどく慎 重 だ。単独で行動したりはしないと思っていたが」
ライアンは、肩をすくめた。口元に笑みが浮かぶ。あの少女に比 べれば、なんて話しやすいんだと──微 苦 笑 がこらえきれなかった。
息とともに、言葉が滑 り出る。
「ぼくたちドッペル・イクスについて、くわしいようだネ。それはとても──不自然なことだよ? 説明して欲しいな。どうして一 介 の剣 術 屋 なんかが、ぼくたちのことを知っているんだ?」
「............」
エドは答えない。ただこちらを、剣 呑 な眼 差 しで見通そうとしてくるだけである。
それを見返して、ライアンは続けた。
「君が時折そういった不自然さを見せるから、ぼくは待っていたんだ。この剣はいつだって奪 取 できた。実際、与 えられた使命は剣を取りもどすことだけだったけれど、どうしてだろうな。君という人間は放置しておいてはいけないと、そう思える......ま、君がなにか行動を起こすのを待っているうちに、もっとややこしいことになってしまったようだけれどね」
「............」
返ってきたのは、再び沈 黙 だけだった。いや、
「長居し過ぎたようだ。これ以上は、まずいことになる」
頭を巡らせると、エドはあっさりと言い捨ててきた。頭にならってきびすを返し、そのまま立ち去るポーズを見せる。
「俺は行く」
ライアンは、蟲の紋章の剣を掲げてみせた。聞く。
「この剣は?」
「......もういらん」
「実は使い方を分かってなどいないんだろう、エド」
なんとはなしに、彼の後ろ姿へと話しかける。
「そうじゃないか? 人知れず、剣士ビードゥーを、誰よりも崇 敬 していた君のことだ。彼の形 見 となる剣......単に欲しかっただけだろう」
ここまで聞いて、エドが足を止めた。肩越しにこちらを見て、暗い眼差しを鋭 利 に冷やしている──氷 の刃 のように。
ライアンは続けた。肉を凍 らせるようなその刃を受けながら。
「だから許せなかったんだ。彼が、自分の娘 であるというだけの理由で、ロッテーシャと君を天 秤 にかけたことが。実際、彼ほどの剣士が、君とロッテーシャの技量の差を理解できていなかったはずがないからね」
「............」
ようやくにしてエドが、再び口を開くのが見えた。ただ発してきたのは、にべもない一言に過ぎなかったが。
「ぺらぺらと口を動かす奴 は好かないな」
「ぼくは相 棒 とは違って、なんの力も持たないただの人間 なんでね......おしゃべりなのさ」
「いずれその口、閉じさせる」
それだけをつぶやいて、エドは姿を消した。崩 壊 し、炎 上 しつつある道場の中で、ライアンは、ふっと鼻先を震 えさせた。肩 、喉 、胸。ひきつったように笑いがこみ上げてくる。涙 をこぼして、彼はしばらく──飽 きるまで、笑い続けた。
◆◇◆◇◆
すべては悪 夢 だったのではないかと思う。
いや──悪夢などというものはない。夢はすべて夢だ。苦しいものであろうと、悲しいものであろうと、立ち向かって覚めない夢 はない。
ただ......
疲 れていた。なにに疲れていたのか、くたくただった。考えることに疲れた。叫 ぶことに疲れた。
(もう、いいわよ)
ぐったりと、彼女は独 りごちた。
(どうでもいい......誰にも分かってもらえないのなら、どうでもいい。結局、そうなのかもね。馬 鹿 なのはわたしだったのかもしれない)
そうなのだろうか?
答えなどあるはずもない。ないがゆえに、どちらとも言えない。だとすれば、しょせんはどちらでもいいのかもしれない。
そうなのだろうか?......
意識が覚 醒 していくのを、彼女は感じた。睡 魔 、痛み、感覚がもどってくる。うつ伏 せに倒 れ、息がしにくい。
クリーオウは、ゆっくりと目を開いた。なにかが見える。
火は収まっていた。めちゃくちゃに壊 れた道場は、どうしようもないが。起きてあたりを見回すところだが──彼女はそうしなかった。開いたばかりの視界に、なにかが見えたのだ。
ぼんやりと、黒ずんだ丸いなにか。その中に、緑色の瞳 が輝 いて、こちらを見つめ返してきている──
「レキ!」
彼女は叫んで、倒れたまま、その子ドラゴンを抱きしめた。
「おお、するとこれを、お前がたまたま拾ったとゆーわけかっ⁉ 」
見るからに怪 しげな、赤く塗 られた剣を手にし、兄が叫んでいるのを聞きながら──
ドーチンは、それを横からのぞき込んだ。
「へえ」
だが、その剣に見覚えがある。
「でもそれって......あの道場で、渡せとか渡さないとか言ってたやつじゃないのかな......だとしたら、持ち主はあの女の人なんだと思うけど」
「ぬ⁉ 」
街道をてくてくと歩きながら──
ドーチンは、兄の顔が一瞬硬 直 し、そして朗 らかに歪 むのを見た。これは翻 訳 すれば、つまり図 星 なのには気づいたが、良い言い訳を思いついたということになる。
「そうかもしれんな、弟よ。だが、考えてもみろ──ほれ、あの場は火事だった」
「......そうだね」
わけの分からない爆 発 が起きて、道場にいきなり火の手があがり、とにかくあわてながらも逃 げ出したわけだが。
兄の言いたいことが分からずに、ドーチンは首を傾 げた。ボルカンは、剣を両手で捧 げ持つようにしてあとを続けてきた。
「つまり、火事の現場で手に入れた物は自分の物にして良いという法律に基づいて、これは俺様の物となったわけだ!」
「そんな法律あったっけ?」
「火事場泥 棒 という」
「それって犯 罪 のことなんだけど......」
「しかし、これはお手 柄 であるぞ、弟 子 よ!」
ボルカンは無視して、彼らのあとについてきている男に、向き直った──
彼は相変わらずのキャベツ色の格 好 で、にこにこと相 好 を崩 している。大げさな身 振 りで、感激のジャスチャーを見せると、
「ありがとうございます、師 匠 ! お褒 めに与 り、このライアン身に余る光栄!」
「うむ。この功 績 によって、貴様を弟子から、弟子ゴールドブリリアントスペシャルへと格上げしようと思う」
「ああ! なんとゆーか、この栄光だけで夜道を照らせそうな気分です、師匠!」
「なんだかなぁ」
なんとなく遠巻きになって、ドーチンはひとりつぶやいた。
「まあいいか。無 一 文 で旅しなくていいみたいだし......」
秋の空の下。
アーバンラマへと続く街道を進みながら、どこへ向かうにせよ、ともかくも南下していくことに関しては、ドーチンには異論なかった。
故 郷 のマスマテュリアへと近づいているということなのだから。
◆◇◆◇◆
ある意味では、もうそれは単に事後処理でしかなかった。道場に駆 けつけた時には、すべてが終わっていたからだ。
ただ正確には、もはやそれは道場などと呼べたものではなかった。
花の街 ナッシュウォータの治 安 を煩 わせていた問題は、ほんの短時間で消 滅 してしまったことになる。この街にあった道場が、ほぼ同時刻に焼失してしまったからだ。
焼け跡で気絶していた者たちの中で、一番の重体だったのは、言うまでもなく、大量に血液を失っていたロッテーシャだった──病院のベッドで意識をいまだ取りもどしていない彼女を、そのベッドの横で見下ろしながら、オーフェンは思い出していた。彼女が命を落とさなかったのは、単にレキがいたおかげにほかならない。そのレキは、病院の清 潔 なシーツが気に入ったのか、ロッテーシャの身体の上にうまくくぼみを作って、そこで丸くなっている。
「こんなことって、絶対に許せないわよ!」
怒 っているのは、やはりベッドの反対側に陣 取 ったクリーオウだった。マジクにだいたいのあらましを聞いてから、ずっとこの調子でわめき続けている。
「オーフェンだって、許せないって思うでしょ⁉ こんなのひどすぎるじゃない。あいつ、ホントにロッテを殺すつもりだったんだわ」
「......結局、俺はそいつの顔も見てねぇからなぁ」
そのせいか、いまいち怒 りに乗れずにいたのだが、クリーオウはどちらにせよ大声でひとり怒りをぶちまけ続けた。看 護 婦 がいちいちうるさい目で見ていくのだが、分かってはいても声量を鎮 められないらしい。
オーフェンは嘆 息 混 じりに、隣 のベッドを見やった──爆 発 が起こった時、その影 響 を一番大きく受けたとかで、マジクも腰 をひどく痛めてベッド生活を余 儀 なくされている。うつ伏 せになってかなり惨 めな様子で、ぽつぽつとつぶやくその声は、怯 えているようでもあり怒っているようでもあった。
「でも実際ひどかったですよ」
と、珍 しく、他人を非難するようなことを口にしている。
「あの爆発のあと、なんだか分からない状態で練習生の人がいっせいに飛びかかっていって──それは剣も使わずに全員叩 き伏せちゃってるんです。ロッテーシャさんにだって同じことができたんでしょうに、彼女にだけ剣を使ったんですから」
「とにかく許せないのよ!」
天に向かって、クリーオウが吠 える。その瞳 に炎 が燃えているのが見えたようにも思う。
(事後処理、か......)
オーフェンは、軽く頭を抱 えた。
事態は火事だけで済 むようなものではなかった。おびただしい数の死体が残っている。目 撃 者 がいないことが、幸いでもあり不幸でもあった──道場が焼け落ちる直前に、交番で警官にその場所を尋 ねていることで、当然オーフェンにも容 疑 がかけられ、実際今まで一昼夜、取り調べを受けていたのである。ヘルパートの姿を見た者はみな殺されたため、そのことを持ち出しても容 易 には信じてもらえなかったが、とにかくその事件現場の惨 状 に、犯 行 は魔術によって行われたことは明確となっていた。結局、ヘルパートが身元不明の謎 の魔術士ということになり、容疑者として指名手配されてこの件は終わりになりそうだった。オーフェンとしては、自分が魔術を使うところを見た者もいなかったことが幸いしたわけだ。例の初老の警官が、彼が身に着けていた紋 章 のことを思い出さなかったという幸運にも助けられながら、ようやく釈放されたのである。
ロッテーシャの道場のほうは、目撃者──というより当事者たちが全員生き残っていたため、もっと状 況 は簡単だった。エドが犯人とされ、同じく指名手配されたらしい。街から出ていったという目撃があったため、ここから先は、派 遣 警察の仕事となる。
だがある意味でこれらは、事後処理などでは済まなかった。
なにひとつとして終わってなどいなかったのだから。
オーフェンは目を閉じて、つぶやいた。
「どのみち、そのライアンなりエドなりが、この街からどこへ向かうつもりにせよ、荒 野 を強行軍するなんて馬鹿げた真 似 をしない限りは、アーバンラマに行くしかない......」
「意地でも追いつくわ! 絶ぇぇぇっ対に許さない!」
クリーオウの鼻息は荒 かった──それこそ、ベッドで横になっているロッテーシャが起きるのではと不安になるほどに。ロッテーシャのベッドの頭に置いてあった、彼女の写真スタンドを取り上げ、それをこちらへと突きつけながら、クリーオウはひとりで口早にまくし立ててきた。
「こいつよこいつ! エド! はーっきりと記 憶 したわ。次に会ったら、遠 慮 なんて一切なしよ! 生きてるのを後 悔 するくらいひどい目にあわせてやるんだから! ライアン!あいつもそうよ! 人を馬鹿にして!」
スタンドを受け取って、オーフェンはため息をついた。
(ま、落ち込んでるよりはマシか......)
たまには休めとも思うけどな、と胸中で付け加え、クリーオウの怒 声 に適当に相づちを打ちながら──
ふと、気づく。
オーフェンは息を止めた。すっと、目の前が暗くなるような感覚。
「......エド......だと?」
写真に写ったその男を見つめ、オーフェンは独 りごちた。
「はーい、今回とっても縁 起 の良い十三度目の巻末! ご案内するのはこのわたし、人呼んでハマの大天使、必殺技はひらあやまり、飛距離は軽く三百ヤードオーバー、せくしーだいなまいつ&ぷりちーだいやもんど、ピリリクチリプ・キトロロノ・ブリリアント・ケミ子、略 して長野小百合でーす。さあみんな、用意はいいかなー?」
「って、誰じゃお前はぁぁぁっ⁉ (げしっ)」
「はうっ⁉ ......く、くふぅ、腐 れ作者のくせに、なかなかの殺人キックだわね」
「ンなことはどーでもいいから、誰だお前」
「忘れたのっ⁉ 巻末には、その巻に登場した単発のヒロインが出てくるお約 束 でしょ」
「いや、だから今回は単発ヒロインいないし、どーしたもんかなーと悩んでたところなんだが」
「やーねー。単発ヒロインいないなんて言って......わたしのことをお忘れでない?」
「忘れてるもなにも、知らんぞケミ子なんて」
「もー。ちょっと二十八ページのあたりをよく読んでよ」
「......どっちみちいないが」
「そのあたりに書き足して欲しいんだけど」
「するかっ⁉ 」
「けちー」
「えーい。まあこの際いいか、ここまで書いちまったし......気を取り直して、とーとー十三巻も書いてしまったこのシリーズ。前回、本筋に関係ない話を書こうと頑 張 った反 動 か、いきなり強 烈 に本筋にもどっております」
「登場人物も多いしねぇ」
「まあ、それは別にいいんだけど。話そのものは、ちょっといつもより短めかな?」
「そーね」
「って仕事のことばかり書いてても仕方ないか。実は最近、エアガンづいてます」
「?」
「いや、前にもちょっと、気にしてたことがあったんだけど、また性能のいいやつとか売ってるの見たもんだから。あんましリアリティーとかディテールとか気にしないで、イメージとか好みだけで集める感じなんだけど。実は好きなんだよね、武 器 とかの玩 具 って」
「そーいや、部屋に模 造 刀 とかあんのよね、あんた」
「うむ。本物の刃 物 とかは怖いから駄 目 だけど。というわけで、しばらくマイブームとして、エアガンとかガスガンとか電 動 ガン売ってる店を渡 り歩 く秋田がいることでしょう。まる」
「まるって」
「誰か秋田を戦 場 に連れてってください」
「うーむ。どんなことするわけ?」
「いや、ごく普通に。味方を撃 ったり姿をくらましたり噓 をついたり」
「迷惑だからやめなさい」
「あ、このグレネード欲しいな。飛ぶとか言ってるし。あとショットガンとかも心 惹 かれるものがあるんだよね。ちょっと手が出ないけど」
「なに嬉 しげにカタログ見てんのよ。だいたいあんた、そんな遊んでる暇 とかあんの?」
「あんましないけど......でも時間は自分で作るもんだい」
「(げし)」
「......なんで蹴 んの?」
「いやなんとなく偉そうなこと言ったから。だいたい時間作るって、どうするっての?」
「方法1......原稿を早くあげる。方法2......原稿を早くあきらめる」
「まあ、どうとは言わないけど......」
「お。H&K USPっていい感じじゃないか?」
「またカタログ見てるし」
「いーじゃん別に。さて真 面 目 にもどると、シリーズのほうもまた一段落ついて、いい加減そろそろ新シリーズなんてのも立ち上げたいところですね。今年中に......できるかな?(ちょっと弱気)」
「とっとと頑張りなさい」
「ふぁい。では、こんなところで。また次の巻末でお会いしましょ!」
「というわけで、次回とうとうわたしが登場」
「しなーい!」
一九九九年三月──
秋 田 禎 信

その真夜中にあるのは、いつもの夜空と、当然の星明かりと、月と、雲と......あってもなくても構 わないような地上の世界。それがすべてだった。
地と空の中間にはなにもなく、それらを隔 てる境 界 線 すらあり得ない。楽 の音 もなく、囁 きも瞳 もない。虫、あるいは人の鳴き声。これも、あるようでない。これほどまでに人が集まれば野生生物の存在する余 地 はないのだが、その当の人間たちは、この街 ではほんの噂 が罪 悪 だと信じてでもいるのか、誰 も囁かない。あるのは空 虚 な挨 拶 だけ。無意味な手振りと虚 ろな笑顔と、脆 弱 な骨 格 と妥 協 された血肉と。必要な世 知 と不必要な世知。あとはまあ、愛と情。そんなものに満たされ、それらは誰でも、不自由せずに手に入れることができる。
ジャック・フリズビーは夜空を見上げて、分かり切ったことを改 めて確信し直した。ここには自由と、そして当然、自由のもたらす先 鋭 的 な危険が満ちている。
「そう。つまりこれが、自由であるということなのだろうな......お前のように」
声に出してつぶやく必要などはなかった。いや実際それは危険なことですらあった。ほんの噂が罪悪なのだから。
「ぼくが自由?」
答えてきたのは──闇 でも夜でも、虚でもなかった。
影に隠 れてはいたかもしれないが。ひょろ長い印 象 を持った、ひとりの男に過ぎない。それには実体があり、実体があるならば恐 れる必要はないと、ジャックは信じていた。
月 光 は夜空に建 物 の形を影の色で浮かび上がらせていた。その影に比 べれば、夜空はあまりにも青すぎる。沈 んだ蒼 空 の色ににじむこともないはっきりした影の形は、とがった切 っ先のようにも見えた。ただし違 うのは、その切っ先の頂点の先に、余 分 な物がついているということだった──聖 印 。
屋根の上に飾 られたその両腕 がそれぞれ天と地とに曲げられた十字のシンボルは、本 来 ならば偶 像 として忌 諱 されている物体だった。だが教会はそれを奉 じ、こんな罰 当 たりな地にて朽 ち果 てつつある彼とてそれは例外ではない。教会は、たとえば大陸最北に総 本 山 を構えるキムラック教会のような、大 規 模 な宗 教 とはまったく異 なるものだったが、それでも多くの人々を救 ってきたし、あるいはより多くの人々を破 滅 させてもきただろう。このようなマイナーな信 仰 は大陸に無数にあるはずだった。そして、
「わたしよりかは、な」
ジャックは苦笑のかけらも漏 らさずに、そう告 げた。自 らのまとう、黒いウールの聖服の胸 に、敬 礼 するように軽く腕を当てながら。
男の返事は予想できたことだった。そして実際、影に覆 われ姿 を見せず、男は言ってきた──発言の後半を除 いては、まったく予想通りに。
「あなたはとても自由ですヨ、ジャック。あなたはもちろん、これを拒 否 することだってできる」
予想外だったのは、その言 葉 それ自体ではなかった。彼がわざわざ嘘 をついたことだった。いや、無論、それは悪意あってのことではあるまい──
ジャックは乾 いた吐 息 を漏らしながら、胸 中 でつぶやいた。拒否などできない。彼らのことを知っているのだから。その特権の代 償 は、ひどく単純なものだった......
(蒸 し返したところで、始まるまい......)
表情には出さないまま、つぶやく。
彼はどれくらいを意 図 しているのだろうか? と、ジャックは訝 った。そもそも、彼は愚 かなのだろうか、第一印象の通りに? それともその後思い知らされた通りに、また別のものなのだろうか? 彼は愚かなのか、怜 悧 なのか、あるいは英 明 とまでいえるのか──それとも残 酷 なだけか? そのすべてとも言えるのか、単に愚かで残酷なだけか。
そんなものはパズルのピースのようなもので、正しい組み合わせはひとつしかないにしても、どのみち完成形に興 味 がなければどうでもいいことなのかもしれない。そんなものは徒 労 を吸 い上げる遊 戯 でしかない。
長 考 したような心持ちではあったが──現実には、吹 き始めた風が終わる程度の間だったらしい。ジャックは感じた苦 みを喉 の奥に流し込んでから、口を開いた。
「それで、わたしは誰を殺せばいい?」
「恐 らく、当代随 一 の殺人者を、です」
「......わたしを買いかぶり過ぎているのではないかな?」
「我 々 のほうは、もっと困 難 な役割を受け持ちます」
影の中でくつろいだ姿 勢 のまま、男はかぶりを振ったようだった。刹 那 の沈 黙 をはさんで、続ける。
「──女ふたり、子供ひとりを殺します。替 わりますか?」
「............」
ジャックは答えなかった。相手に、弁 解 の時間を与えてやるつもりだった。
が、答えてきたのは、その男ではなかった──
「そいつを仲間にすることが必要なのか? ライアン......ライアン・キルマークド」
足音も、気 配 もなく。それは驚 くようなことではなかった。むしろ、それの接近を前もって感 知 できていたりすれば、自分自身ひどく面 食 らっただろう。
声を頼 りに、振り返る。と、背 後 ──それほど近くもなく、遠くもなく──に、またひとりの男が姿を現 していた。やはり夜に縁 取 られてはいるが、姿を隠しているというほどではない。薄い金 髪 に、しわだらけのスーツ。ズボンのポケットに手を入れて、虚 ろな眼 差 しでこちらを見ている。もっとも、この種族が真実その眼球で物を見ているという保 証 など、どこにもないのだが......
「ライアン・スプーンと呼んで欲 しいな......ヘルパート」
その男──いや、性別すらも不明だが──に対して、影に隠れていた男、ライアンが声をかける。それは反論というよりは、ただの念押しに過ぎないようだった。
「どう考えても、我々だけでは駒 が足 りない。そもそも決戦の必要性を提案してきたのは、君 だヨ」
「突然生じた〝彼ら〟という要素が、本当に重要なものなのか......それに対して最 もはっきりとした返答をしてきたのは、お前だ、ライアン」
「それに関しては、持 論 を変えるつもりはないサ」
鼻 につく口 調 で、ライアンが続ける。
「我々はひとつの選 択 をしなければならない。ただしこれは、どちらにしようと悩 んで決める類 の選択肢 とは違うと考えている」
「それは選択とは言い難 いのではないかな?」
しごく真 面 目 な口調で、ヘルパートが言い返す。
ジャックは思わず、笑わずにはいられなかった──鼻から漏 れた失 笑 が、出 来 損 ないのくしゃみのように弾 けただけだったが。
ライアンは平 静 だった。たとえ、ヘルパートまでもが同じ失笑を見せたとしても、同じだったろう。
「......非常に簡 単 なことなのサ」
影の中に沈み込むような肩の動きで──そうつぶやくのが聞こえてくる。
彼が次 いで、その理由を言ってくるものだとばかり、ジャックは思っていた。が、ライアンはそうせず、いきなり立ち上がった。くしゃくしゃに色の崩 れたようなブロンドが、冷たい月光にさらに色落ちして浮かぶ。ボタンのない茶色のジャケット。黒いズボン、革 靴 。インナーとして着ているのは、珍 妙 にも見える緑 色 のタイツだった。手と頭部以外をすべて覆 うものである。
そして、彼はその手に、一本の剣 を携 えていた。
もっとも、それが剣と呼べたものなのかどうかは不明だが。
それは夜 目 には、金 管 の楽 器 のようにも見えた。金属製の、装 飾 が施 された真 紅 の剣。鞘 と柄 が微 妙 に一体化して、抜くことができるようには見えない。
ライアンはふらっとした足取りで、じっと黙 して動かないヘルパートのもとへと近寄ると、その剣を、彼へ差し出した。
「これは、あなたが使うといい」
「蟲 の紋 章 の剣?」
「そう。まあ、ぼくはもう既 に、持っているので......」
持っている、というのは間 違 いなく、ライアンがまとっている鎧 のことだった。緑 宝 石 の鎧──見た目が滑 稽 な必 殺 武器というのは、天 人 たちの趣 味 なのだろうかと思わないでもない。目を細 めて、ジャックは夢 想 した。いや、彼女ら種族は、武器というものについては、お粗 末 な発想しか持てなかったのかもしれない。
「使い方は、まあ、あなたのご主人に直接聞けば良いだろう。無論、ぼくだって知ってるわけじゃない。時間をかければ、調べられる自信はあるけどネ」
「ネットワークのほうが早いのならば、そうしよう」
ヘルパートはあっさりと言って、剣を受け取った、一 瞬 、迷 ったようにも見えたが──付け足す。
「......惜 しいのは時間だ。自 尊 心 などではない」
「あなたの自制は賞 賛 するヨ」
ぱちぱちとおざなりな拍 手 をしてから、ライアンが、大げさに天を振り仰 いだ。芝 居 がかった仕 草 で、そのまま立ち去ろうとしていることが誰にでも分かるように手を振って、彼は続けた。
「さて、これは計画と言えるような大 層 なものじゃあない──この前と同様にネ。好 機 を見 逃 さず、ただ待っておく。それだけのことだ。最良の努力と、せめてもの結果を望みたい。では、友人たちよ、またいつか──」
が。
「まだ質問に答えていないな。ライアン・キルマークド」
ヘルパートの囁 きは、夜に存在するいかなる凶 器 よりも鋭 かった──
「我々がしなければならない選 択 とは、なんのことだ」
沈 黙 をはさんだ。去りかけたライアンが振り向き、顔を上げるだけの時間。
「簡単なことさ、とても」
そしてライアンの答えは、夜に存在する誰よりも傷つきやすく見えた──
「誰が正しくて、誰が間 違 っているのか。我々はこれから、正しく在 るのか、間違って在るのか。それを選ぶのサ。運命によって、ね」
「......違うな」
ジャックはそこで初めて、彼らの会話に割って入った。意 識 したわけではない。ただ、口が開いた。
「それをなんと呼ぶか、知らないわけではあるまい? ライアン......少なくとも、選択ではないな」
ふたりの裏切り者 たち──その符 丁 の意味を知る者も、大陸にはもう少ないだろうが──の視線が、こちらを向く。ジャックは唇 の上下をこすりあわせてから、重く感じる喉 を震 わせた。
「......決して、選択ではない」
繰 り返してから、告 げる。
「審 判 だよ」
水はぬるかったが、それでも傷にしみた。街 道 に珍 しくもない安 宿 で、たらい一 杯 の水が──格安で──得られたこと自体が幸運なのだから、それ以上のことなど望んでも仕 方 がないのは分かっている。だがそれでもロッテーシャはくすぶるものを抱 え、顔をしかめた。水に浸 した手ぬぐいから、じわりと、薄い膜 のようなものが遊 離 する。血だった。
どこかをケガしているに違 いない。その考えは、馬 鹿 馬 鹿 しいともいえた。両腕 を見下ろすと、どこもかしこもあざだらけになっている。ケガなどどこにだってある 。
宿の主人が水を用意してくれる気になったのも、この容 態 を見たせいだろう。宿の部 屋 の中で、残されたわずかな力を振り絞 るようにして、上半身裸 になって身体 を拭 いていたのだが、ケガが打 撲 だけでなく、どこかに裂 傷 もあるとしたならば、この水の不 潔 さは気にしないわけにはいかなくなってしまった。少なくとも、傷口は避 けておこう。そう思って、とりあえず左腕を上げて脇をのぞく。傷はすぐに発見できた。腰の、すぐ裏のあたり。ここを打たれた覚 えはなかったが、どのみち怪 しいものだった──実際、今日 一日、自分がなにをどうしたのかも、思い出せないような気がする。
「......情 けないわね」
独 り言 を言 う癖 はなかったと、自分では思っていたが、我 知らず彼女は独りごちていた。
ぼんやりと傷を眺 め、そして──いい加 減 疲 れて腕を下ろし、その腕が自然と、胸と肩に巻かれた。傷 跡 すら残っていないが、そこには見えない線でも引いてあるように、生 々 しい感 触 が身体に刻 み込まれている。肌 に指を滑 らせて、彼女は皮 肉 な思いを嚙 みしめた。これでは、誰 が信じてくれる? 愚 痴 を言った時、まるで無傷となったこの身体で、誰が信じてくれる? 自分は右肩から胸まで、肩がずれるほどざっくりと、剣 で斬 り裂 かれたことがあるなどと。
何度も地面に転 ばされ、土で汚 れた上 着 は、近くの椅 子 にかけてある。疲れ果 て、洗う気にもなれなかったが、実際にさぼるわけにもいかない。
彼女は目を閉じて、顔を上げた。倦 怠 感 が渦 巻 く。
その中で、彼女はつぶやいた。
(つまり、これが──)
ぬるい水。傷ついた身体。汚れた服。街道の安宿。傷の残らなかった身体。血。疲 労 。皮肉。自分の身体を抱 く自分の腕。倦怠。目を閉じて見上げる視界。そんな、すべてのもの一 切 合 切 が──つまりは。
人を殺したいと思う、ということなのだろう。
一通り身体を洗ったら、身体が冷える前に、着 替 えを用意するべきだろう。物思いはすぐに、そんな簡 単 な義務感に切り替 わった。今は疲れている。怒 りを持 続 するほどの余 裕 はなかった。
◆◇◆◇◆
「あー......」
「......うー......」
「えーと......」
「ふうむ」
「............」
草の混 じった砂 地 に、仰 向 けに寝 転 がったまま、無意味なうめき声をあげ続けるのも、そう長いことは続かなかった──長く続けたかったわけでもないが。実際それは、二メートルほど離れた場所で同じことをやっているマジクにとっても同様だったろう。起きあがる気にはならず、顔をそちらに向ける気力もなかったのだが、オーフェンはなんとなく気 配 だけで、弟 子 のいる位置を探 っていた。
天気は良くも悪くもなかった。実際、ナッシュウォータにいた頃の蒼 天 が懐 かしくなるほどに。山を下 り、街 道 のわきから見上げるその空は、白くうっすらと雲に濁 っている。かといって雨が降 る気配もない。乾 いた砂が、丈 の短い草むらから風に引き剝 がされ飛んでいく。オーフェンは、その風に意 識 を乗せるような気分で、呼 吸 を緩 やかにまとめていった。
髪 は汗 に湿 っていたが、風が次 第 に乾かしてくれる。彼は気 だるい心 地 で、自分の黒髪を右手ですいてみた。指に絡 む感 触 には、砂も混 じっている。
汗に濡 れているのは、服もいっしょだった。いつもの革 のジャケットはもう脱 いで、近くの地面に置いてある。呼吸に上下する胸 を包 む、湿った黒いシャツの上に、しわの間に埋 もれるようにして、剣にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 があった。銀製のペンダント。大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔 》で学 んだ者の証 である。
オーフェンはふと、自分が呼吸と心 音 に聞き入っていることに気づいて、苦笑した──こんなところで眠るつもりはなかったが、脳 が拒 否 しても身体 がそうしようとしているのかもしれない。地べたに寝ているせいか、首の後ろが痛い。
「あのぅ」
呼びかけられて、オーフェンは右目だけを開 けた。偏 った視界に、逆 さまに、金 髪 の少年の姿 が映 る。いつの間 に近寄ってきたのか、頭のほうからのぞき込んでくるその姿勢で、少年──マジクは言ってきた。
「ちょっと、思いついたんです。ひょっとしたら勝てるかも」
「............」
なにも答えずにオーフェンは、重く感じる身体をひねって、立ち上がった──顔を上げるとマジクは、もう既 に両拳 を固めて構 えを取っている。オーフェンはただ立ち上がったまま、なにも姿勢を変えずに、視線で促 した。
慣 れた沈 黙 。やや後方に重心を移し、待ちかまえる形で、マジクがなにをしてくるのか見るつもりでいた。
だが、いったん間 を外 す形で、マジクが口を開いた。
「考えてみたんですよ」
「考えて?」
なんとなく、オーフェンは聞き返した。分からなかったわけではなかったが。
マジクは我 流 の構え──自分のものと似 ているといえば似ているが──のまま、あとを続けてきた。
「正 面 から行ったって、話にならないし......でも左右に振ったって、回り込む分、すぐに見られちゃうし。それで、どうしたらいいかなと思って、ずっと考えてたんですけど」
「ああ」
説明は、それで終わりらしかった。愛 嬌 のある少年の瞳 に、真 剣 さが加わる。
そして──
飛び出してきたマジクの動きにあわせて、オーフェンは軽く後方に跳 んだ。跳 躍 というほどの強さではなく、つま先で地面を蹴 る程度に。
動き始めた世界に、意 識 だけが取り残されるような、奇 妙 な残 像 を見ている。身体を動かす時はいつもというわけではないが、そんな意識があった──傍 観 者 、それも俯 瞰 でのぞくような。実際は、視界の外が見えるわけでもないし、人の気 配 がつかめるはずもない。だが知 覚 のどこかで、自分がどこから襲 われるのか分かる気がする。
そのメカニズムは分かっている。ごく単純なものだ。それは経 験 と呼ばれる。
能 書 きはその程度で十分だった。この目の前から飛び込んでくる弟 子 相手に、さほどの警 戒 は働かない。ここ一か月ほどの訓 練 で、この少年のスピードも、威 力 も、行動に移る時の目の動きも、想像力も、たいていのことは理解できている。未知のことですら──未知の要素というものはいつだって残るものだが──、
(......考えてみりゃ、奇妙なことだけどな)
未知のことですら、既 に知っている 。それも、経験からくる予測というものだ。
実際には一秒とかからなかっただろう数 瞬 間 に、いくつかのことが起こった。声をあげながらマジクが、腕を振り上げ、癇 癪 でも起こしたように拳 を投げつけてくる。もとより距 離 が開いたことで、かわすまでもなく空 振 りしたその拳を追って、マジクはさらに踏 み込んできた。今度は下から、反対側の拳。この頃 にはオーフェンは足を止めていた。半身をずらしてそれをかわす。
身体ごと相手の攻撃をかわすことの利点は、そのまま死 角 に移動できることだ──勇気があればの話だが。この場合、それはたいして問題ではなかったが、オーフェンは足をあげずに滑 るようにして、マジクの右側に体 さばきしていた。マジクが無 防 備 な側 面 を見せて、通り過ぎていく。これだけのことであったなら、今までと変わらない。何百回、あるいはその桁 を越 えて繰 り返されてきた、今までのことと。
変化は微 妙 だった。
足を滑らせながら、オーフェンは、ふと俯瞰するその感覚の中で、障害物があることを悟 った──視線が一瞬、そちらに移動する。左足の滑っていく先に、靴 が見えた。
正確には、足だった。マジクが飛び込みながら、大きく足を開いて、こちらの行く手を遮 っている。
こちらが回り込むことに慣 れて、その行く手を妨 害 しようという作戦なのだろう。実際オーフェンはそこで動きを止めざるを得なかった。そしてマジクが、してやったりと雄 弁 に語る歓 喜 の表情で、体勢をこちらへと向き直らせようとする──
オーフェンは即 座 に、両足を大きく開いている少年の股 間 を蹴 り上げた。途 端 に、マジクの顔色が変化する。
当たり前だが、効果は絶大だった。悲 鳴 もなく、ただひきつったような音を喉 から絞 り出して、マジクがその場にうずくまる。
それを見下ろして──
「相手の前で急所を広げる馬 鹿 がいるか?」
呆 れ声で、うめく。
オーフェンは、しばらく動けそうにないマジクの背中を叩 いてやりながら、ため息をついた。
「ま、自分なりに考えたってのは悪くないか......そろそろ型から教えてやってもいいのかもな」

「ううう」
ようやく顔を上げる程度に回復したのか、マジクは情 けない表情でこちらを見上げてきた。はっきりと涙 ぐんだ目で、
「いくらなんでも、今のはひどいじゃないですか、お師 様 ぁ」
「ンなこと言ったって、こーゆうもんだ。急所を無防備にすれば攻撃される──ま、考えようによっちゃ、人間の身体なんて急所だらけだけどな」
「......そうなんですか?」
「あらゆる関 節 、筋 肉 、内 臓 。どこの肌 が裂 けたって出血することには違 いない。結局、さほど致 命 的 ではない急所で相手の攻撃を受け止めて、本当の急所をガードしてるに過ぎないわけだ」
と、肩をすくめる。マジクが立ち上がるのに手を貸 してやってから、オーフェンは続けた。
「本 来 なら魔 術 士 は、それを完 璧 に防 御 できるはずだった」
「どういうことです?」
聞いてくるマジクに、うなずく。
「魔術があるからさ。自分の身体を使わずに、完璧なガードができる。ただ......」
真剣な表情で聞き入る弟 子 の顔から視線を外 し、オーフェンはかぶりを振った。
「ただ、魔術の構成を編 んで、展 開 し、発動させるには、どうしたところで一 瞬 から数秒のタイムラグが生じてしまう。魔術を魔術で防 御 するのは問題ない──たいていは、相手が構成を展開してからそれを読みとり、防御の構成を編むだけの時間がある。逆に言うと、魔術士同士が魔術を使って戦 闘 している限り、そうそう決着なんぞつかないってことだな。そこで、魔術士たちはどうするのか」
彼は苦笑して、顔の高さに拳 を作ってみせた。
「原 始 的に殴 り合う。もしくは、もう少し文明的に、武器を使う。もちっと頭が良くて文明の進歩に意 欲 的な奴 なら、そもそも魔術士とは争 わず、金で雇 える第三者とか、心をえぐる一 言 とか、そんな文明的な武器を使う。どの方法も、魔術では防 ぎにくい......最良の方法は、言うまでもなく最後のだがな」
「魔術士のほとんどが戦闘訓 練 を受けるっていうのは、それが理由なんですか?」
聞いてくるマジクに、オーフェンはまたうなずいた。
「理由のひとつ、だな。最大の理由は、かつての被 迫 害 時代、魔術士にとって自分の身を守る手段が、戦闘能力を高めることしかなかったからだ」
「は?」
「人数も少なく、財産があるわけでもなく、忌 み嫌 われ、恐 れられていた。そんな魔術士たちが自分の存在価 値 を高めるには、自分たちがいかに手 強 い相手なのか、社会にアピールするしかなかったのさ。特に黎 明 期 、今みたいな魔術構成理論もなく、戦闘方法もろくに確立されていなかった昔 の魔術士たちは、利用できそうなものならなんでも利用した。素 手 での戦闘方法は真っ先に取り入れられたわけだ」
「......あのう」
と、それまで、相 づち以上のことは口にしてこなかったマジクが、こちらの説明を制してきた。
「ん?」
「魔術士が普通に学ぶ戦い方って、みんな共通のものなんですか?」
「? どういう意味だ?」
分からずに聞き返す。とマジクは、言い直してきた。
「魔術士って、みんな、同じような戦い方をするんですか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える......ってとこかな」
オーフェンは虚 空 を見上げ、つぶやいた。
「実を言えば、まったく戦闘訓練なんぞ受けてない魔術士ってのも多いんだ。特に現代じゃ、そう殺 伐 とした訓練ってのは意味を成 さないしな。《牙 の塔 》で戦闘訓練が正 課 として義務づけられているのも、昔からの慣 習 という程度の意味でしかない。お前程度にも動けない奴 だって、《塔》にはごろごろいるんだぜ?」
「そうなんですか?」
意外に思ったのか、マジクの表情には驚 きがあった。それを見ながら、肩をすくめて続ける。
「ま、いろんな奴がいるってことさ。逆に、俺 の手にも負 えないような連中だって決して少なくない。今簡単に思い出せる名前だけでも両手に余 る。ま、話をもどすと、《塔》に関して言えば、戦闘方法における理論なり技術なりってのは、教える人間によってまちまちだろうな。もちろん、基 礎 ってのは共通する部分も多いんだろうけども」
そこまで言ってから、首を傾 げる。ここまでは、教科書通りの説明だった。
ここからは、多少違う。オーフェンは数秒かけて、慎 重 に言 葉 を選んだ。じっとこちらを見ている青い瞳 の少年に、
「ちなみに──こんなことを話して、なんの意味があるのか、ちと分からないが──、俺の戦闘方法は、とんでもなく古いものだ」
「はぁ?」
「多分......天 人 種族から直接、人間種族に伝えられたものだ」
「............」
マジクは、きょとんとしていた。無理もないが──オーフェン自身、自分の言っていることに確信を持つのが難 しかった。ほぼすべてが推 測 で、しかも推測の材料があまりにもあやふやなものに過ぎない。
「戦闘方法と一口に言っても、いろいろな意味がある。もちろん、実際の身体 の動かし方やそんなのも、そのひとつだが、それは一面的なものに過ぎない。それを行 うための理論、時にはその理論を裏 切 る見 切 り、実際の決断、覚 悟 、そんなものも含 めて、初めてひとつの戦闘方法として成立するわけだ......ま、それはそれとして」
と、彼は続けた。
「俺に戦闘方法を教えた人間はふたりいる。ひとりは、ウォール・カーレン教師。現代を代表する強力な暗 殺 技能者だ。基礎は彼に叩 き込まれた。これは紛 れもなく《塔》最新の理論によるものだ......そのあとで、俺にその、古い戦い方を教えたのが、チャイルドマン・パウダーフィールドという教師だ。公式には、彼が俺の師ってことになってる」
「それは聞いたことありますよ」
明るい声でそう言ってきて──
こちらの顔を見て、マジクが、口をつぐんだ。そう厳 しい顔をしたつもりもなかったが、マジクの表情を見るに、そうでもなかったらしい。
彼は、もごもごと、ややくぐもった声であとを続けてきた。
「......あの、レティシャさんに......だったかな? 違う気もするけど......とにかく、聞いたことが、あります」
「いや、まあ、いいんだけどな」
オーフェンは、なんとなく呆 れて──弟 子 にではない。考えてみれば、今まで話していなかったというのも馬 鹿 馬 鹿 しい話だった──、苦笑した。
「チャイルドマン教師......先生について聞いたことがあるってんなら、まあだいたい聞かされたことは想像つくさ。大陸最強の黒 魔 術 士 。《塔》を実質的に仕切っていたのが彼だった。まあ、そうでありながら、特に最高執 行 部 の意 向 を無 視 したこともなかったと思うけどな」
その唯 一 の例外が、数か月前──いや五年前からか──にあったわけだが、そこまでは話す必要もない。
「彼に......俺は、学んだんだ。戦い方を。俺はそれしか知らないし、結局、俺がお前に教えてやれる戦闘方法ってのは、それだけなんだ。でも多分、その戦い方は、古くて──」
「............?」
「古くて......」
そこまで語って。
オーフェンは、ふと、言 葉 を止めた。ちょうど言葉に迷 った時に、視界の隅 に、見えたものがある。
ふたりがずっと身体 を動かしていたのは、街 道 から少し外 れた空 き地だった──もっとも〝空き地〟というのは便 宜 上の呼び名で、この街道が横切る不 毛 の荒れ地のどこに、空き地でない場所があったわけでもない。単に、街道から、つまりクリーオウが休んでいる宿 からさほど離れておらず、少し低地になっていて人目につかないうえ、ある程度の広さのある砂 地 で、ここ数日間マジクの戦闘訓練の前準備を続けていた。いや、マジクだけではないが......
宿から出てきた、黒 髪 の少女の姿 を認 めて、オーフェンはその名前を口から漏 らした。
「......ロッテーシャ?」
マジクも驚 いたように目をぱちくりさせて、彼女の姿を探 したようだった。彼女はなにか忘れ物でもしたように宿から出てくると、こちらへ真 っ直 ぐ向かってくる。その手には、木 剣 を提 げていた。
呆 けたような声 音 で、マジクがつぶやくのが聞こえてきた。
「......あの人、さっき、もう休むって言って引き上げたんですよね......」
「ああ」
うなずくと、オーフェンは彼女が近づいてくるのをただ待ち受けた。先 刻 、かなり手ひどく〝相手〟してやったため、本気でプライドが傷ついたのか、引き上げていったのだ。もうしばらくは──つまり数日はということだが──もどってこないと思っていたのだが、まだ彼女が宿に帰ってから、一時間と経 っていない。
やがて、彼女はすぐ近くまでくると、立ち止まった。
「ええと」
用意してきた台詞 を再 び口の中に並べるようにして、彼女が言ってくる。木剣を両手で抱 きかかえ、むしろそれにもたれかかっているかのようにも見える......
「もう少し、身体 を動かしておこうと思って。あの、病 み上がりだからって、大 丈 夫 ですから」
それが明らかにオーバーワークだとは分かっていたが──
オーフェンは、無 言 でうなずいた。
「お師様?」
マジクが、半 ばびっくりしたように、非 難 の声をあげた。それに反応して、さっと、ロッテーシャが少年のほうを向く。
冷たい──というのか、この感情を映 さない眼 差 しは──表情でこちら側に踏 み込んでくるようなこの少女を、マジクが苦 手 にしているらしいことは、ここ数日の様 子 を見て気づいていないわけではなかった。が、オーフェンは特に助け舟は出さず、ほうっておいた。知らぬ顔で、あさってのほうを見ながら肩をほぐす。
視界の外のことで見えたわけではないが、マジクの表情はそれと知れた。怯 えるように声を沈 ませて、それでもロッテーシャに告 げる。
「あの、ロッテーシャさん......いくらなんでも無理し過ぎに見えますよ。ナッシュウォータの道 場 でだって、そんな練習の仕 方 はしていなかったでしょう?」
「だから──」
彼女は即 答 しかけたが、途 中 で言葉を切ってしまっていた。そのあとの沈 黙 は、息 継 ぎにしては長い。再び口を開いた時、ロッテーシャの声は平 静 だった。
「だから、負けたんです」
「でも、身体をいじめたところでどうなるわけでも......」
「あなたたちはそうしてるじゃないですか」
「ぼくは、お師様に授業を受けてるんです。別に無理はしてないですよ」
「なら──」
と、ロッテーシャの声が大きくなった。
声量を変えたのではない。こちらを向いたのだろう。肩越 しに、彼女らのほうを見やる──と、想像通り、ロッテーシャの薄い瞳 が待ちかまえていた。
彼女はきっぱりと言ってきた。
「なら、わたしにも教えてください。前から頼 んでいるのに、はぐらかしてきましたよね──なぜですか?」
「教えるまでもないからさ」
オーフェンは答えながら、場違いなことを考えていた。
(ロッテーシャ......か。この子の瞳......)
こんなにも、薄かっただろうか?──そんなことを。
その薄すぎる瞳に険 しい光を灯 して、彼女の唇 が歪 んだようだった。歯嚙 みしたか、なにか辛 辣 なことを言いかけてやめたのか。
だが彼女の唇から漏 れてきたのは、そのどちらでもない、理性的な言葉だった。
「......意味が分かりません」
「文字通り、俺が教えるまでもないってことだよ。剣の扱 い方なら、明らかに君 のほうが俺より巧 い」
「巧い?」
彼女は初めて、声の調 子 を変化させた。
「さっき、わたしはあなたから一本だって取れなかった──」
「そうだな」
オーフェンは、お手上げのポーズを見せながらあとを続けた。雲のかかった空が、一 瞬 視界に入る。
「君が、実戦のつもりでやってくれと言うから、そうしたんだ。競 技 試合だったら、手も足も出なかったのは俺だろう」
「わたしは、実戦で強くなりたいんです!」
木剣の柄 を強く握 り、ロッテーシャが一歩前に進み出た。その意気だけで、マジクを後 退 させながら、それに気づきもしていない。
「何度もそう言ったじゃないですか! 競技剣術じゃない、本当の、剣での戦い方を教えて欲 しいって!」
「なんのために?」
「そんなの──」
小さな肩をいからせて、また途中で言葉を切る。
今度は、言い直してもこなかった。ただ木剣を握りしめ、立ち尽 くしている。オーフェンは、静かに告げた。
「もう一度だけ言うぞ。君みたいに技量が完成している人間に、教えられることなんてなにもないんだよ」
彼女がなにか言い返そうとする機 先 を制して、かぶりを振る。
「あとは、自分で考えるしかない。俺にできるのは、その考えるヒントを与えてやる程度のことだな──さっきさんざんやられた、あの中でなにも思いつかないのなら、いくら言葉で説明してやったとしても、どうせ身につかないさ。ま、そういうことだ」
これで終わりと、手で合 図 する。
ロッテーシャが納 得 したのかどうか、少なくとも顔色からは判断できなかった。ただ彼女は、傍 目 にも苦労して表情から怒 りを消すと、そのままゆっくりと、木剣を振り上げた──そして、素 振 りを始める。
「............」
もうこちらを見ようともしない彼女から、視線を外 し──
「今日 は、ここまでにしとこう」
オーフェンは、マジクに告げた。
◆◇◆◇◆
ウィノナは、いつもの通りにいつものことをすべきだと、それを忘れたわけではなかった。それが最大の自 衛 策 であるし、自衛しているということはいつでも攻 められるということでもある。武器の手入れを忘れることがあり得ないのと同様──愛する〝ディーディー〟は今日 も好 調 子 だ──、心 構 えもまた、整 備 することを忘れてはならない。そんなことは、誰 でも知っている。今日負ければおしまいというのは、所 詮 インターハイまでのことだ。それ以後の人生では通用しない。
自分を見る他人の目が、やはりいつものように奇 異 の発見に驚 いているのは無視できなかった。だが、慣 れはした。総重量三十キロの、一 抱 えほどもある革 袋 を背 負 う大女は、どうしたところで目立つのだ──感情がささくれ立つのを感じながらも、それを認 める。忌 々 しいことではあるが、認めたくないことを認めることでしか、成長することはできないのだから。
涼 しくなってきたからといって、気 候 はさほど夏とは変化していない。動きやすさのことも考えて、あとついでに、自分の年 齢 に対しての多少のプライドから、彼女はTシャツとジーンズという簡 単 な格 好 でこの遠 出 に挑 戦 した。大学のロゴが入ったシャツはややすり切れていたが、かえってそれらしく見えてくれるかもしれない。学生の無 賃 旅行に見えれば良いのだが。
(武 者 修 行 かい? と言い出したら、ぶん殴 るよ)
現れた、いかにも小 男 面 をした宿 の主人に、彼女は声に出さず警 告 した。
が、彼の第一声は、まあ無 難 なものだった。
「いやあ、いらっしゃい。おひとりで?」
無難なだけではなく、その声に心 底 から──と思える──労 りが含 まれていると見て取って、彼女はやはり声に出さず、彼にわびた。うなずく。
「ええ」
見回すと、宿の一階にある食堂には、何人か客の姿 があった。こんななにもない街 道 だが、旅人というのは結 構 いるものらしい。あからさまにじろじろとこちらを見ている男四人の集団、まあこれは本物の学生旅行なのだろうが、彼らに一 瞥 だけ冷たい眼 差 しを返してやってから、続ける。
「部 屋 はある?」
「ああ、いつでもあるよ」
主人は愛 想 良 く笑いながら、虫にでも食われたらしい首 筋 をぼりぼりとかいてみせた。と、自分のしたことに気づいて、肩をすくめる。
「いや、ベッドに虫なんぞわいちゃいないさ。不安なら、殺虫剤もある」
「ありがとう。一応、携 帯 してるから」
空 いているほうの左手を軽くあげてからそう言って、促 す。
「で、部屋は? 勝 手 に探 すの?」
「ああ、こっちだ」
世 辞 を言う義理もなかったが、だがどのみちお世辞にも、宿の建 物 は上等な代 物 と言いかねた──それは覚 悟 していたことだったし、まったく慣 れていないわけでもないが。天 井 の染 み、汚 れた皿 、壁 の隙 間 、砂 だらけの床 ......さほど珍 しいわけでもない。
彼女は改 めて、中を見回した。なにか事情でもなければ、こうした街道の宿に二泊 以上する者はいない。昼下がりのこの時間にまだここにとどまっている人間は、そうした事情があるか、それとも単に怠 け者かだろう。そうして考えてみれば、それらしい連中と言えなくもない。いまだこちらを見てにやにやしている学生らの視線には気づかないふりをしておきながら、観 察 を忘れなかった。そう、習 慣 を忘れてはならない。
彼らを学生だと断定できる要素としては、単に、こうしたところで暇 を潰 していられるのは学生くらいだろうという理由でしかない。あとは、みすぼらしい格 好 もか。彼らはだいたいが髭 面 で、スポーツクラブで鍛 えたらしい上 腕 の筋 肉 を誇 示 するよう、軽く拳 を握 っていた。ひとりは眼鏡 をかけている。それ以外には、どうといった特 徴 は見あたらない──というより、主人のあとをついて足を進めながらでは、その程度しか見て取れなかった。話し声は低く聞き取れないが、笑い声だけは理解できる。
と、がちゃりと音を立てて扉 が開き、なにやら汗 だくの若者が二人、食堂へと入ってくるのが見えた。こちらもまた、観察する。
剣にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 ──ここ東部ではそれほどメジャーなものではないが、大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔 》の紋章である。ひとりの男は、そのペンダントを身に着 けていた。よほど激しく運動していたのか、汗と砂でぼさぼさの黒髪に、疲 労 でぐったりしていてもなお鋭 さの残る眼 差 し。まだ若い。二十歳ほどだろう。黒ずくめで、歩き方も雑なように見えるが、その実、一度もふらつくような様 子 がない。彼について入ってきたのは、まるで対 照 的 な金 髪 の少年で、こちらは文字通り疲労困 憊 しているようだった。
「お師様〜」
金髪の少年が、小さくつぶやくのが耳に入る。彼は疲 れているだけでなく、身体 のあちこちが痛むのか、歩き方がかなりぎこちなかった。
「あのひと、ほっといていいんですか?」
と、黒髪の男が、めんどくさそうに応じる。
「......ンなこと言ったって、さっき言った通りだよ。それに、なんつーか、あんまりあいつと関 わり合いになりたくないんだよな」
「はあ?」
不 思 議 そうな声をあげる、少年──そこまで聞いたところで。
ウィノナは無 言 で彼らの前を通り過ぎた。そのまま階段を昇 り、部屋の前に案内される。そこで主人を適当に追い払い、階段を降 りていく足音が聞こえなくなってから、ようやく彼女は息をついた。
(さて......)
部屋の中に入り、彼女は尻 のポケットから、くしゃくしゃになりかけた似 顔 絵 を一枚、取り出した。そこに描 かれている、目つきの悪い黒髪の男の顔を見て、うなずく。
彼女は小さく、独 りごちた。
「無 事 、目標を補 足 」
そして、持っていた似顔絵をびりびりに破 り捨 て、机 の上にある灰 皿 に入れた。
◆◇◆◇◆
結局のところ、彼に頼 るというのは論外だ──もともと分かっていたことを確 認 したに過ぎないが、ともかくもそれが結論だった。つまるところ、本 末 転 倒 に過ぎるというものだ。彼は男なのだから。
日は落ちて、夜空が広がっていた。満天の星空とは言えないが、それでも多くの星が無数に光の脚 を下ろしている。
(目 指 すところへは、自分で行かなくちゃならない......)
ロッテーシャは、空 虚 な胸 の中に自分の声をこだまさせた。
(どっちみち、それでなくちゃ、意味がない......)
分かっていたことだった──あの陰 険 な黒 魔 術 士 に言われるまでもなく。分かっていたはずだったのに、それでも馬 鹿 みたいに頼ろうとしてしまったことが、痛 切 に悔 しい。
もう数えることもしていなかったが、木 剣 は変わらない速度で空 を斬 り続けた。どれくらいこれを繰 り返しているのか、もう思い出せもしない。肩が上がらなくなるまで続け、休 憩 をはさんでから、また始める。
と──
足音でも聞こえたか、それとも目の端 に姿 でも見えたか、自分でも分からなかったが。
気 配 を察して、ロッテーシャは動 作 を止めた。忘れかけていた疲 労 が、ずっしりと両肩にのしかかってくるが、それは耐 える。振り向くと、
「......ごめん。邪 魔 しちゃった?」
バスケットを抱 えた人影が、そう言ってきた。
最初、その人影が誰 であるのか、分からなかった──疲 れていて、なにも考えられなかったせいかもしれない。長い金 髪 の頭の上に、奇 妙 な黒い子犬を載 せている。犬は眠っているのか、鼻 先 を腹に押しつけて丸まっていたが、閉じた目の中から、緑 色 の輝 きが漏 れてきているような、そんな錯 覚 を感じさせた。実際は、動物特有の浅い眠りで、目を半分開 けているだけなのだろうが。その子犬の下で、人影、彼女はわびるように少し目を伏 せている。夜の闇 の中だというのに、碧 色の瞳 にかかった睫 毛 ははっきりと見えた気がした。だとしたら、彼女の瞳には灯 でも入っているのかもしれない......
思い出せたわけではない。なんとなく、それは断言できた。ただロッテーシャの口からは、自然と彼女の名前が漏れた。
「クリーオウ」
「夕 飯 。持ってきたの......ひょっとして、ずっとこんなことしてたの?」
言葉の後半は、明らかに驚 愕 を伴 っていた。目を見開いて、その視線は、今は地面に軽く切 っ先を触 れさせている木剣へと向けられている。
どう答えればいいのか──やはり見当もつかないまま、ロッテーシャは自分の身体 が自然と反応するのを、傍 観 者 のように眺 めていた。
「ええ。でも、休みながらだけど」
「へえ......」
感心したように、クリーオウがうなずく。
それを見て、ロッテーシャはようやく、遊 離 していた感 覚 がもどってくるのを自覚した。息をつく。彼女の持ってきてくれたバスケットの覆 いがわずかにめくれて、丸パンに、大 雑 把 に野 菜 や卵をはさんだサンドイッチがのぞいている。よく見ると、肩にポットも下げていた。ただし、ひとり分には多すぎる量に思える。
そのことに気づいたのか、クリーオウは微 笑 んで、
「いっしょに食べようと思って」
「......うん」
なにを言っていいか分からず、ロッテーシャは声に出してから、間 の抜 けたことを言ったものだと苦笑した──もっとほかに言うべきことがあったはずだった。礼 を言うなり、喜ぶなり。
それを取り繕 うために、というわけでもないが、ロッテーシャは聞いてみた。
「でも、あの人たちは?」
「あの人?」
きょとんと聞き返してくるクリーオウに、笑う。
「ほら......ええと、なんで名前、覚 えられないのかしらね」
ロッテーシャは、なんとか記 憶 の中からその名前を掘 り起こした。
「オーフェン、だったかしら。変わった名前だから、覚えられそうなものなのに」
「ああ、オーフェンたちなら、宿で食べてるわよ」
彼女はそう言うと、あたりを見回し──都 合 の良い場所を見つけたのか、明るい表情を見せてから、適当な場所にハンカチを広げた。そこに腰 を下ろして、バスケットとポットをわきに置く。子犬は頭から下ろさなかった。相 変 わ らず、その犬は丸まったまま微 動 だにしない。
クリーオウの横に回りながら、ロッテーシャは聞いた。
「......もう具合はいいの?」
「ええ、大 丈 夫 。オーフェン、わざわざ個室まで取ってくれたし、ゆっくり休めたから」
実際、彼女の返事は快 活 そのものだった。が、その表情がすぐに曇 る──山の天気のように。
「ごめんなさい。あの......ほら。日 射 病 だか過 労 だかで、わたしが倒れちゃって。こんなとこで何日も足止めされて、ロッテ、怒 ってるんじゃないかって思って」
「............」
ロッテーシャは、クリーオウの隣 に、そのまま腰を下ろした。どうせ運動服だし、汚 れることを気にする必要はない。
クリーオウは、そうではなかった。道中ではほとんど見なかったスカート──ナッシュウォータで初めて会った時、はいていたものだ──に、柔 らかそうなブラウス。それがどういった風の吹 き回しなのか分からないが、実際には意味などないのだろう。ただなんとなく、自分がなにかデートでもしているような奇 妙 な感覚を覚えて、ロッテーシャは思わず天を仰 いだ。
(......なに考えてるのよ、わたし)
と、自分が会話していたことを思い出して、慌 てて相手に微 笑 みかける。
「......気にすることはないわよ」
不安そうなクリーオウに、言いながら目を閉じる。
「追いかけていれば、いつかは追いつくんだから。彼だって、四 六 時 中 、どこかへ向かって進んでるってわけじゃないんだし」
まぶたを閉じた闇 の中で、言葉はすらすらと浮かんできた。再 び目を開いた時、こちらを見ていたクリーオウの表情は、ほぼ想像通りのものだった。
安 堵 ──こちらの言葉を、そのまま信じてくれたらしい。
もっとも、嘘 を言ったつもりもないのだから、当然といえば当然なのかもしれないが。
ロッテーシャはさらに続けた。
「それに、むしろ、自分のことを見つめ直すいい時間をくれたって思ってるわ」
「見つめ直す?」
と、聞き返されて、うなずく。
「足を止めて考えたおかげで、自分のやりたいことが──本当にやりたいことが、分かった気がして」
「へえ」
クリーオウが、明るい声をあげながら、ポットからお茶を、ブリキのカップに注 ぎだした。芳 香 が夜 気 に漂 う中、手元を見つめて茶の準備をする彼女の横顔を、ロッテーシャはそれとなく観察した。無 邪 気 な口元に、すっきりとストレートな感情がいつものぞいている。
「はい、これ」
突然、中身の入ったカップをこちらに差し出しながら、彼女がこちらを向いてきた。視線をそらすのが一 瞬 遅 れたが──
「......どしたの?」
彼女が発したのは、それだけだった。向き直る。
「ありがとう」
両手でカップを受け取って、ロッテーシャはなんとかそれだけを返した。クリーオウは、特にそれ以上なにもなく、すぐに興 味 をバスケットの中身へ移したようだった。じっと凝 視 されていたことについて、特に疑問を持たなかったらしい。
(......変な子)
カップの中を見下ろして、ロッテーシャは胸 中 でつぶやいた。
そして──声に出しては、別のことを言った。
「そうよ」
自分自身に言い聞かせるように、うめく。
「......追いかけていれば、いつかきっと追いつくわ」
凹 凸 のあるブリキの容器の中で、色のついた液体が渦 巻 いている。湯 気 が顔を撫 でていくのを感じながら、彼女は吐 息 した。
と──横から、声が聞こえてくる。
「そうね......あんな奴 、絶対に追いついて、ひどい目にあわしてやらなくちゃ気がすまないわよ!」
拳 を握 ってそう叫 ぶクリーオウを、どこか遠くから眺 めるような心持ちで──
ロッテーシャは、ふとおかしく思った。クリーオウも、こちらの視線に気づいたのか、なにか協調したように、にっこりと笑いかけてくる。
(............?)
数秒、理解できなかったが、すぐに分かった。我 知らず、彼女の言葉に微 笑 んでいたのだろう。それを見て、クリーオウが笑みを返してきたのだ。
だが。ずれていた。
(この子は、なにを言ってるのかしら......)
不 思 議 に感じる。
理解できないことが不思議だった。明 瞭 だった水面に、不可解な染 みを発見したように。それが分からない。
仕返し? 自分は、そんなことは考えていない。
人は、同じようなものだと言うかもしれない。だが、それは明確に異 なるもののはずだった。
そう、明確なのはその違 い、ひとつだけ。そのほかは、この湯気のようにあやふやで形がなく、ただ暖 かいだけで意味もない。
彼は──エドは、自分が殺すのだ。暖かい湯気に顔を包 まれながら、ロッテーシャは、自分の意 識 が氷のように研 ぎ澄 まされていくのを心 地 よく思った。
「ぬう!」
右を向けば、煤 に汚 れた塀 に乱雑に仕切られた、祖 末 なアパートメントが建 ち並び──
「おお!」
左を向けば、なだらかなスロープ、美しく開かれた公園、道路には塵 ひとつなく、並 木 が整 備 されている。
両者の間に、たとえば有 刺 鉄 線 なり、レザーワイヤーが巻かれた障 壁 なりがあったならば、それはそれで納 得 できたことかもしれない。なんならば、鞭 を持った衛 兵 やら、看 守 やらも。
だが実際にはそんなものはなく、ただそれ以上に明確ななにかで区切られていたに過ぎなかった──雰 囲 気 、そういったもので。
意味があるのかないのかということならば、明らかに意味のない嘆 息 を、ドーチンは漏 らした。こういった光景ならば、見たことがないわけではない。実際、人間種族の領 域 を転々としていると、とうに見 慣 れていてもおかしくなかったかもしれなかった。人間種族は、生活空間に必ず他者との格差を作る。
つまり、さほど特 異 な街 というわけではないのだ、このアーバンラマは。
「うう〜む」
先ほどから、なにやらひとりで感じ入ったように、左右を見回し声をあげている兄 ──ボルカンが気になって、ドーチンはそちらを見やった。兄の格 好 は、自分とさほど変わらない。誰 が見たところで、仲間と思うだろう。もとより毛皮のマントはごく普通の民族衣 装 というやつで、仕 方 ないのだが。
違 いらしい違いといえば、兄は腰 に剣 など下げている。あまり意味があったことなどない剣だが。まあ意味があっても困 る。
「どしたの? 兄 さん」
ドーチンは、後ろから声をかけた。ふたり、古びた建 物 の屋根の上にいる。少し傾 いた、奇 妙 なシンボル──両腕 が上下に曲がった十字──が立てられている、急な屋根の上。街の栄 えている場所からはかなり離れているため、あたりは静かだった。
裏 庭 にあった梯 子 を立てかけて昇 ってきたのだが、無論これは兄の発案だった。希 有 なことではあったが、悪いアイデアではなかったかもしれない。高 所 から眺 める街の遠 景 は、たとえそれが絶 景 ではなくとも十分に感 銘 を呼び起こしてくれる。風は涼 やかで、ここは半径十キロ以内で最 も居 心 地 の良い場所かもしれないとまで思わせた──足場がもっと安定していればの話だが。
剣のような屋根の上で、ボルカンが振り返ってきた。なにやら難 しげに表情を固くして、きっぱりと言ってくる。
「うむ!」
丸っこい拳 を握 って、
「今気づいたのだが、ドーチン。えらいことだぞ」
「うん?」
分からずに、聞き返す。ボルカンは確信げだった。
「こんなところに昇って屋根を見ていたところで、とっても暇 だ」
「うーん」
どう答えたらいいのか分からず、ただうめく。
結局兄は別にどうでもいいことだったらしく、そのまま街の遠景を左右に眺めながらのぼやき大会を再開させた。とりあえず、ほうっておいても良いものらしい。ドーチンはため息をつくと、背中を丸めた──
(......ん?)
と、気づく。建物──教会と、ここの持ち主は呼んでいるようだが──の扉 が開いたらしい。身体 を回して見下ろすと、ちょうど、建物の中から黒ずくめの男と、緑 っぽい青年とが姿 を現 したところだった。ふたりとも、ごく普通に歩いているだけで、それ自体はどうというわけでもないのだが......
(なんだろうな)
漠 然 とした、なにかの感情を、ドーチンは感じていた。
青年のほうはと言えば、知った人間だった。いつも緑色のタイツのようなものを着込んでいて、そのせいで道 化 じみて見える。漂 白 したような金 髪 、へらへらとした歩き方、実際に、道化と断じてしまってまずい理由もないだろうが。ライアンと名乗っていた。ナッシュウォータという街で──これがどうしようもなく意味不明なのだが──兄に、剣の弟 子 入りをした。まあ、そのおかげで、こうして不自由なく旅ができるのだから文 句 を言うのも筋 違 いなのだが。
そして、黒い男。
黒ずくめには悪いイメージしかないが、よく知っている〝黒ずくめの男〟とは、まったく印 象 の違う男だった。その男がまとっているのは、黒いウールの制服のようなコートで、彼はそれを聖 服 と呼んでいた。住処 を教会と呼び、衣服を聖服と呼ぶ。これが教師服であれば、キムラック教会なのだろうが、そもそもキムラック教会は偶 像 の崇 拝 を禁じているはずだ──と、ドーチンはすぐ隣 に突 っ立っている、見たこともないシンボルを見やった。
大陸には、特に人間領には、マイナーな信 仰 など無数にある。まあ、宗 教 の第一勢力であるキムラック教会においてさえ、各地に点在する教会は方 針 もなにもばらばらで、総 本 山 以外、まったく別の宗教だという見方もできるだろう。
(それにしても──)
疑問に思って、ドーチンは首を傾 げた。
(信者らしい人が来るわけでもないようだし、よっぽど流 行 ってないんじゃないかな......ここ)
ライアンは、その男のことを、叔 父 だと言って紹 介 してくれた。
『ジャック・フリズビー......ぼくの叔父サ。ま、困ったことがあれば、なんでも良いようにしてくれる。そんな人だヨ』
そう説明して、笑ったのだ。
ふたりは歩きながら、なにかを話しているようだったが、さすがにそれは聞き取れなかった。顔を近づけ、談 笑 しているふうにも見えるし、口 論 しているようにも見える。真上からのぞいていたのでは、表情もなにも分からない。
かすかに聞こえてくるのも、途 切 れ途切れの単語ばかりだった。
「確かなのか?──」
「──恐 らく。そちらは?」
「彼のことは」
「気にしない、か──」
「未確定の──」
「イレギュラー──」
「──イレギュラー──」
イレギュラー。
なんとなく引っかかったのは、その単語だった。普通、使う言 葉 ではない。
まったくちんぷんかんぷんだったが──
ただ、確かなのは。
五分ほど話して、最後にふたりは、うなずいた。なにかを同意したか、確 認 したかするように。
そして話をやめて、ライアンは建物の中へ。ジャック・フリズビーは、街に続く道へと歩いていき、ともに去っていった。
◆◇◆◇◆
どうしようもないじゃないか。
──我 知らず、そんなことを独 りごちていたことに気づいて、オーフェンは苦笑した。そう、どうしようもないじゃないか。
とはいえ、そう悲 観 しなければならない理由というのも、特にあったわけではない。天気は上々だった。街 道 を延 々 歩くのに、日が照 りすぎるということもなかった。風が乾 いているせいで喉 が渇 くが、その程度のことである。
「ま、快 適 な道中ってところかな」
と──
なにやら、恨 みがましい声が、後ろから聞こえてくる。
「お〜師 〜さ〜ま〜」
肩越 しに見やると、なにやら巨大なリュックサックを担 いだマジクが、疲労にあごを上げながら、うめき声をあげていた。
「快適って、誰のおかげだと思ってるんですかぁ〜?」
「うーむ」
とりあえず──歩みは止めずに、視線を上げる。
そして、ぽんと手を打って、
「重そうだな、マジク」
「言うことは、それだけですかぁ〜?」
マジクが歩くたび、荷物はふらふらと左右に揺 れた。リュックサックは大きく膨 らんで、丸めた毛 布 やクリーオウの剣の柄 などがはみ出していたりする。総重量がどれだけになるのか知らないが、少なくとも大きさは少年の体格を軽く上 回 っていた。
「人に荷物、全部持たせてぇ〜。すぐに替 わってくれるって言ってたくせにぃぃぃ〜。もう二時間は歩いてますよぉ〜」
「......替わってやりたいのは山々だったんだが」
オーフェンは、かぶりを振って、少し足を速めた──マジクが手を伸 ばしても、とどかないところに。
「お前が自分から、交 替 してくれと言い出すまで、俺 が手を出したりしたら、お前のプライドが傷つくんではないかと──」
「替わってください」
「おーい、クリーオウ。マジクの奴 が、荷物持ち替わって欲 しいそうだぞー」
「ええっ⁉ 」
声をあげると──
少し遅れて、ロッテーシャとふたり並んでついてきていたクリーオウが、さっと表情を険 しくするのが見えた。マジクには、振り返ることができなかっただろうが。
頭に黒い子犬のような生き物──ディープ・ドラゴン種族の子供であるレキを乗せたまま、クリーオウが、小さな拳 を振り上げる。
「なによー! そんな馬 鹿 でっかいの、人に持たせる気ー⁉ 」
「ク、クリーオウの荷物も入ってるんだよ、これ......」
一応、抗 弁 するつもりになったのか、マジクがふらふらとうめく。オーフェンは素 知 らぬ顔をして、前方を向いた。最後、ちらりと視界に、ロッテーシャの表情が見えたが──
(やっぱ、嫌 われたかな)
彼女はこちらを見てもいなかったようだった。
(ま、仕 方 ねえか......)
どうしようもないことだ。
胸 中 で繰 り返して、嘆 息 する。
マジクとクリーオウの口 論 は、まだ続いていた。弱々しく、マジクの声が響 く。
「ちょっとくらい、持ってくれても......」
「病 み上がりなんだから無理しないで任 せといてって、あんたが言ったんじゃない!」
「い、いや、確かに言ったけどさ。絶対次に倒れるのぼくだよ、これ──ていうか、お師様が交 替 してくれれば済 むことじゃないですかぁ!」
矛 先 がこちらに向いてきたのにあわせて、オーフェンは振り向いた。どうごまかそうかと、適当にまず口を開いた、その瞬 間 。
「......え?」
マジクの横から、突然、ひょいと──軽く──彼の担 いでいた荷物を持ち上げた腕 があった。
急に、身体 を押さえつけていた負 荷 がなくなったことに驚 いてか、目をぱちくりさせつつ、マジクの身体が反動にふらつく。彼の荷物を持ち上げたのは、
「......だらしないわよ?」
その女は、冗 談 っぽく笑いながら、そんなことを口にした。
「この程度の荷物で騒 いじゃさ」
「............」
言 葉 を失 ったのか、ぱくぱくと、空気でも求めるようにあごを上下させて、マジクがその女の顔を見上げる──
見上げる、というのは文字通り、はっきりとそのままのことだった。彼女の身長は、百八十を越 えていただろう。マジクとは、ゆうに頭ひとつ分は違う。
姉 ふたりがやはり長身だったため、オーフェンには慣 れがあったが、それでも彼はなんとなく気 後 れを覚 えた。彼女が、いつの間 にそこにいたのか、気づいていなかったのだ──ほんの少し、前を向いた隙 に追いついてきたに間 違 いない。彼ら全員よりだいぶ遅れて、ラフな格 好 をした女がひとり、同じ道をついてきていることは知っていたのだが。
「あ──あの」
ようやく、マジクが声を出すことに成功した様 子 だった。まだ実際の声に対して、口をぱくぱくさせる回数が多いようではあったが。
「あの、すいません。ええと──」
「ウィノナよ。ウィノナ。綴 りは聞かないで──両手がふさがってるから、説明しづらいわ」
マジクが聞こうとしたのは名前ではなかったろうが、それを先回りする形で、彼女は名乗った。相 変 わ らず、平然と荷物を持ち上げたまま、

「君 は?」
「えと、マジクです」
あっけに取られた表情のまま、マジクが名乗る。
驚 いたのは、彼女──ウィノナと名乗ったか──が、もう一方の肩に、それ自体数十キロはありそうな革 のナップザックを背 負 っていることだった。色落ちした深 緑 のTシャツに、ジーンズといった服装。クリーオウも似 たような格 好 をしていることがあったが、印 象 はまるで違う。スポーツ選手のような機 敏 そうな歩き方、加えて荷物を増 やしても肩を微 動 だにさせていない。体格以上に鍛 えられていることは一 目 瞭 然 だった。
伸 びすぎた髪 を邪 魔 にしないためか、少し長めの鉢 巻 きを額 に巻いている。年 齢 は分かりにくい。二十代ではあるだろう。
「うわあ」
と──
少し早足になって、クリーオウが彼女のところまで追いつき、声をあげた。ウィノナが本当に荷物を持ち上げているのか、確かめたかったのだろう。
「すごぉい」
感 嘆 の声を発して、彼女の前に回り込む。
「あの、初めまして。わたしはクリーオウ。この子はレキね」
歩きながらのため、簡 単 に一 礼 してから、あとを続ける。
「彼女がロッテーシャ」
と、最後にこちらを示して──
「あの、黒くて目がとんがってるのが、オーフェン。黒くて目がとんがってるけど、そんなに悪いチンピラじゃないから気にしないであげてね」
「おいっ⁉ 」
とりあえず声をあげておくが、誰 も取り合わないまま、ウィノナが口を開いた。
「あなたたち、アーバンラマへ行くの?」
「うん」
返事をしたのはクリーオウだった。ウィノナも、会話役を彼女だと判断したらしい。ひょこひょこと後ろ向きに歩く金 髪 の少女に向かって、続けた。
「宿 でいっしょだったみたいね──あなたたちみたいなの珍 しいから、気になっていたんだけど」
「珍しい?」
意外そうに、クリーオウが聞き返す。
ウィノナは、笑ってみせた──こちらのメンバーを、順に見廻してから、
「家族のようには見えないし、なにかの同 好 会 の旅行にしてはみんな若すぎるし、さりとて、集団家 出 ってわけでもないようだしね。あなたたち、学校は?」
「休 学 届 け、出したの。もうあとは卒業するだけだったから」
「ぼくは、あの、お師様に弟 子 入 りしてるんで......」
クリーオウ、マジクと答えて、そして──
ウィノナが、特別に彼女のほうを見やったというわけではないが、ロッテーシャに気 配 を送る。
それまで、会話に加わるのを避 けるように足を遅 らせていたロッテーシャが、おずおずとつぶやくのが、なんとか聞こえてきた。
「父 さんが......わたしには必要ないって......覚 えなくちゃならないことは父さんに教えてもらって......だから」
「彼女、道 場 の師 範 代 なの。剣術の」
付け加えられたクリーオウの解説に、ふうん? とウィノナがうなずく。
彼女は最後に、こちらを向いてきた。
「それで、あなたは?」
「俺 は──」
どう説明して良いものか、ふと迷 うが。
オーフェンは、一番手っ取り早い方法を選ぶことにした。胸 のペンダントを持ち上げて、見せると、
「これでも、弟子を取る資格を持ってる魔 術 士 なんだ。《牙 の塔 》の、最低位の上級魔術士として認 められてる」
本当はもう破 門 され、除 名 されているはずだが、たいした嘘 にはならないだろう。資格を得ていたこと自体は本当である。
「魔術士......」
東部の人間には、やや馴 染 みの薄い人種だろう──ウィノナが、唇 を細 めて高い音を立てた。
口 笛 の後に、続ける。
「初めて見たわ。ねえ、怪 物 とか出せる?」
「残念だが出せない。ついでに言うと、手から旗 も出てこないし目も光らないし空も飛べない。念のため」
「ごめんなさい。からかうつもりはなかったのよ」
笑ってみせる。なにを隠 すでもない、屈 託 のない笑い方だった。
「ねえねえ、あなたは?」
聞いたのは、クリーオウだった。すっかり興 味 を持ったのか、上体を傾 け、目の色を輝 かせている。
ウィノナは──荷物を持ったまま──肩をすくめてみせた。
「あたしはね、まあいわゆる、趣 味 の旅行よ。お金をかけずにあちこち出向くには、足を使うのが一番だからね」
と、話をもどすという意味なのか、にやりとすると、
「で、あなたたちは?」
「人 捜 しさ」
オーフェンは、両手を頭の後ろに回して告 げた。が。
「人捜しだったの?」
クリーオウが、ぽつりとつぶやくのを耳にして、肩がコケる。半 眼 で見やり、
「......お前な」
「あ、そっか。意 趣 返 しだって、人捜しの一種よね」
(いや、そっちじゃないんだが)
手を打って納 得 の仕 草 をするクリーオウを半眼で見つめたまま、オーフェンは独 りごちた。
だが考えてみれば、姉 のことに関しての顛 末 は、キムラックからの脱 出 の困 難 さにうやむやになって、彼女らにはまともに説明もしていない。どのみち、クリーオウらにしてみれば、どうでも良いことだろう。
「意趣返し?」
さすがに聞きとがめて、ウィノナが聞き返す。
「ええ!」
クリーオウは陽気な声で、それに答えた──頭 上 のレキは相 変 わ らず丸まったままだったが、彼女が両手をあげるのに同調してか、尻 尾 がぴんと立っていた。
「ひっどい奴 がいるもんだから、そいつをとっちめてやるのよ。多分そいつ、アーバンラマに向かったんじゃないかと思うんだけど」
「......へえ」
クリーオウの、限りなく曖 昧 な説明に、ウィノナが、まあ妥 当 な返事をする。
「まあ、事情は知らないけど──」
と、彼女は、やれやれとばかりに苦笑したようだった。
「やったやられたなんて、いつまでも延々続けたところできりもないし、つまんないもんじゃない? やめた者勝ちだと思うけどね」
「......そう思いますか?」
凛 とした声 音 で──
つぶやいたのは、ロッテーシャだった。彼女の木 剣 も、マジクの荷物の中にある。が、彼女はそれを抱 えているように、ぎゅっと腕 組 みしてみせた。
どこか、調 子 の中に呆 然 としたものを含 んで、続ける。
「わたしは、違 うと思います」
「............」
目をぱちくりさせて、ウィノナがそちらを見ていると──
クリーオウが、加 勢 する。
「そうよ。絶対に許 せないことだって、あるんだから」
「ま、まあ、そりゃそうかもね──」
こんなことで反 駁 されるとは思っていなかったのだろう。やや困 惑 した様 子 で、ウィノナがうめく。
が、
「いえ」
あくまで静かに、ロッテーシャの声が響 いた。
「......いつまでもなんて、続かないと思います」
「............」
みなに、見つめられながら──
ロッテーシャの視線は、誰にも向いていなかった。ただ前方を見つめるだけ。瞳 には誰も映 っていない。
いや。
「!......見えた、か」
そのことに、不意に気づいて、オーフェンはつぶやいた。
「明 日 には、着 くかな」
彼女の視線の先には、まだ霞 んではいたが、都市の姿 が見え始めていた。
自 治 都市アーバンラマ。
◆◇◆◇◆
『ねえ、あなた......あなたに秘密があるなんてこと、とっくに知っていたわよ』
幻 聴 だということは分かっていた。その声がいつの時代から聞こえてきているものなのか、それも分かっていた。覚 えているのではなく、分かって いる──
『あなたはいつもそう。どんなこともばれっこないって思っている。だから、神の声なんかが聞こえるのよ......』
声は甘 ったるく、多分に嘲 りと、そしてかすかに自 己 憐 憫 を含 んで大きくもなり、小さくもなった。一定しない波のように、時に心 地 よく、時に、耐 えきれないほどに。
『分かる? あなたはね、人に騙 されるのだけでは飽 き足 らなくなって、自分にも騙されてしまったのよ。それが、あなたの神の声。違う?』
違わないのだろう、恐 らく。
彼は、砂 をこぼすように、そう独 りごちた。
黒い帽 子 の縁 を、指で押さえて目 深 にする。
幼 稚 な信念に過ぎない。誰もがそう言った。仮に言わずとも、誰もが密 かにそう嘲っているのは知っている。
神の声など聞こえるはずがないではないか──
聞こえるはずが......
繰 り返す鐘 の音 のように、ぐるぐると、意 識 が回転する。それはとっくに馴 染 んだ感 覚 だった。立ち止まって、それが通り過ぎるのを待つ必要もない。どれだけめまいを感じようと、アーバンラマの街並みは、正確に歩くことができた。
アーバンラマ。
その街の名前を繰り返し、ジャックは、微 笑 した。
ひとりで笑うべきではない。それは悪 魔 がすることだ。神は諸 々 と笑う......だが、いくらそう自分に言い聞かせても、この悪い癖 は抜 けそうになかった。とりあえず、聖 服 の襟 を立てて、口元を隠 す。誰にも見られないように。
(......誰が見るものか、知らないがな)
視線だけで通りを見回し、そう付け加える。
荒れ果 てた、といった形容は正しくない。そこはむしろ、生 気 に満ちているとも言えるのだから。
空を覆 う煤 煙 は、今はいつもより薄い──昼休みだからだろう。煤 や油で汚 れた煉 瓦 の道を踏 みしめて、ジャックは音も立てずに歩き続けた。両側には、窓 の数が多すぎるような狭 苦 しいアパートがそそり立ち、窓 辺 にだらりと洗 濯 物 を垂 らしている。窓の外に干 すのは論外だった。一時間もほうっておけば、洗う前より汚 れることになる。まあ、あまり関係ないことかもしれない。そのシャツの主 は、翌 日 にはそのシャツを着て仕事場に行くのだろうから。
くしゃくしゃに丸められた新 聞 紙 が、風に追われて転 がってくる。道を行く者たちは、誰も足を休めず、早足で進む。数日前の雨の名 残 がまだ残るへこんだ路上で、つまずくことも何度かあるが。壁 のあちこちに貼 られたポスターは、ほとんどが半分ないし四半分、あるいは四 隅 のみをわずかに残しただけで剝 ぎ 取られている。路上生活者が焚 き付けにでも使ったのだろう。今は焦 げたドラム缶が点在するだけだが、夜になれば、むしろここには人があふれる。
我 が街アーバンラマ。
ジャックは、また繰り返した。が、今度は笑わなかった。
大陸最初の自 治 を確立させた都市──かつて、ここには夢があると喧 伝 された。
人を欺 く街。人を欺く人々。通りに残されたのは、つまり、夢を見続けることができなくなった人間たちなのだ。再 び夢を見ることができれば、楽園に......街の北側に渡ることができると、もう思い出すことすらできない人々。
楽園に......街の北側に。
ジャックは足を止めた。
理由なく止めたわけではない──彼は、すぐ横にそびえる建 物 を、帽 子 の縁 に隠 れながら見上げた。飽 きるほどに並んでいるアパートと、たいして変化があったわけではない。昔 はオフィスビルだったのだろうが、今はもともとの権利書すらも失 われ、誰か管理するつもりのある者が、そこを自分のものだと言い張っている。それを他人に貸 して、払ってもらえるかどうか分からない家 賃 を取り立てる。まあ、そんなところだろう。
三階の、とある窓を観 察 する。窓ガラスが割れているせいか、カーテンは完全に閉じてある。
なにが分かったというわけではない。だが彼はそのまま、ふらりとそこを立ち去った。
いや──立ち去ったふりをして、一ブロックほど進んでから、別の道を回り込んでもとにもどる。今度は違う路 地 の物 陰 からその窓を見上げ、変化がないことを確 認 してから、彼は吐 息 した。これから、しばらくここで待たなければならない。待つこと以上の労働はない。
二十四時間が経 った。まったく動かず、視線すら動かさず、そのままで。
彼はゆっくりと確信した──そして、歩き出した。隠れることもなく、真 っ直 ぐに、丸一日見上げていた建物へと。
どこのビルもそうだが、正 面 入り口に鍵 などかかっていない。ドアがあればましなほうだった。大 股 で進み、ビルに入り、すぐ見つけた階段を昇 る。駆 け足にはならない程度の早足で、彼は安 普 請 の建物に足音を刻 みつけた。ビルの構造は単純で、見張り続けた部 屋 はすぐに見つかった。部屋番号などとしゃれたものはついていなかったが、扉 がきっちりと閉 まっている。彼はポストになにも入っていないそのドアのノブをつかんで、それをひねった。鍵がかかっている。
彼は横を見やると、隣 の部屋の扉の前に移り、そちらのノブをひねった。簡 単 に開 く。ドアを開け放 った瞬 間 、部屋の中から生 活 臭 が漂ってきた。食べ物や、人間の脂 、虫の死 骸 、そういった臭 い。と同時に、悲 鳴 があがる。
「な──なんだてめえ!」
部屋は広くない。扉を開ければすべてが見渡せるほどの、つまらない間取りである。汚 れたシャツを着た若い男が、細 いあごを開いて叫 んでくる中を、構 わずに彼は部屋の中に入っていった。
「お、おい、なんのつもりだ⁉ 強 盗 か⁉ はっ、ここにゃなんもねえよ──」
そこで、若者の声が止まる。ジャックは、男の胸 ぐらをつかみ上げ、黙 らせると、静かに尋 ねた。
「......隣の部屋に、誰 かいたか?」
「はぁ⁉ 」
「物音くらいは聞くだろう。最近、隣の部屋に、誰かいたか?」
「......だ」
言葉をつまらせて、虚 勢 の中 に怯 えた瞳 を閉じこめながら、その若者が答えてきた。
「誰も、いねぇよ......多分」
ジャックは彼をそのまま無 造 作 に投げ捨 てると、もとの部屋の前にもどった。閉ざされた扉を、しばし見やって──
ちょうつがいのあるほうに、拳 を叩 きつける!
鈍 い音を立てて、安物の扉が奥に吹 っ飛んだ。割れたドアを踏 み越 えて、部屋の中を見やる。
中は、空 っぽだった。
彼は舌 打 ちすると、ビルを出ようときびすを返した。隣のドアの隙 間 から、こわごわと、さっきの若者がのぞいているのを、ちらと見やりながら、そのまま通り過ぎる。
馬 鹿 げていた。
確実に言えることが、ふたつほどあった。まず、敵 は既 に自分のことに勘 づいているということ──そして。
その敵に、二十四時間もの時間を与えてしまったということだった。
◆◇◆◇◆
「ここにするの?」
クリーオウの期 待 に満ちた声は、ひとけのない寂 れた街 角 によく響 いた。だいぶ長いこと歩いたため、疲 れたのだろう──一度倒れたことを考えれば、よく我 慢 したとも言える。少しばかり青ざめた彼女の顔を見やって、オーフェンはうなずいた。
「そうだな。問題ないんじゃねえか?」
改 めて見上げると、こぢんまりしたその宿 は、いかにも居 心 地 が良さそうだった。赤い屋根、偽 物 の煙 突 、白くて太い窓 枠 と、どこか現実離れした雰 囲 気 ではあったが、乾 いた街 道 を延 々 歩いてきた身としては、むしろ歓 迎 したいほどだった。
「あたしのお勧 めよ」
言ってきたのは、一 抱 えほどもある革 袋 を背 負 った、長身の女だった──ウィノナ。アーバンラマには慣 れているらしい彼女に聞くと、真 っ直 ぐにここに案内された。彼女の横には、やはり巨大なリュックサックを背負っているマジクがいる。
「でもここらへん、あんまり治 安 が良くないって書いてありますよ、お師 様 」
ガイドブックを広げて、そんなことを言ってくる。
「こっちの、街の北側にしたほうがいいんじゃないですか?」
「もしそうしたいなら、案内しても構 わないけど」
ウィノナは、さほど取り合わず、肩をすくめるだけだった──
「この街じゃ、安全は高価よ......他人に頼 ろうとするとね」
「ここでいいんじゃないですか?」
最後に言ってきたのは、ロッテーシャだった。街道から少々遅 れ気 味 だった彼女は、全員から少し離れたところをついてきている。彼女にしても、道中はだいぶつらかったはずだろうが、結局泣き言らしいことなど耳にしなかった。
「そんなに危 ないようには見えませんし......」
と、あたりを見回して、付け加えてくる。
オーフェンもつられて、周囲に視線を巡 らせた。
危険に見えなかったのは、あたりに人間の気 配 が感じられなかったせいだろう──そうした時、人は落ち着 くこともあるし、不安に駆 られることもある。だが。
(無人じゃあ、ねえな......)
宿の両隣 を、朽 ちたビルがはさんでいる。一ブロックと離れていない場所に、食料品店があったが、それも閉店しているわけではないようだった。ただ店員の姿 がなく、客も見えない。廃 ビルの入り口には扉 がなく、誰 かがそこに潜 むことを歓 迎 しているふうですらあったし、結局のところ、見知らぬ街で完 璧 なものを望んでも仕 方 ない。
こちらの考えていることが分かったのか、ウィノナが言ってきた。少し笑って、
「ま、夜に出歩くのはやめたほうがいいわね」
彼女の苦笑の理由は、自 ずと知れた──彼女にしてみれば、それは説明するまでもないことだったのだろう。
「ここいらはホームレスの溜 まり場だしね。彼らは基本的に無害だけど、もっとたちの悪い学生やら逃 亡 犯 やらが集まってくることもあるし。でも宿の中はおおむね安全よ。ここの宿の主人はストリート・ギャングと協定を結 んで、文 句 も言わず安全代を支払ってる」
「......安全代?」
ぽかんとした声で、クリーオウが聞く。
ウィノナはウインクしたようだった。やや不 器 用 だったが。
「言ったでしょ。この街じゃ、安全は高価だって」
と、こちらに向き直って、
「それでも北側で言う高価と、こっちの高価とでは、桁 が違うけどね。どうする? 懐 に余 裕 があるのなら、北のブルジョアたちをもっと裕 福 にしてあげるために遣 うのも、別に悪くはないと思うけど」
「余裕ってほどの余裕はないな」
オーフェンは認 めた。街道で余 計 な時間がかかったこともあって、ナッシュウォータを出た頃 にはまだゆとりのあった足代は、かなり目 減 りしていた。
「そうそう。ここでいいじゃない」
頭にレキをのせたままうなずき、腕 組 みしてクリーオウが声をあげる。頭からずり落ち、べろんと顔の前に垂 れ下がったレキの位置をもどしながら、きっぱりと彼女は続けた。
「問題なんて起こらないわよ」
「問題よ!」
部 屋 に飛び込んでくるなり叫 んできた声に、顔をあげるとクリーオウだった。
オーフェンはとりあえず、同室のマジクと顔を見合わせた──ちょうど夕食から帰ってきて、ゆっくりしようかと思っていた矢先だった。スプリングが死んででこぼこになっているベッドの上で上体を起こし、聞き返す。
「......なにがだ?」
部屋になにか問題があるとすれば、窓 が開かないということだった。すえた空気が低い天 井 の下でぐるりととぐろでも巻いているように、部屋全体を圧 迫 している。部屋の中にはベッド以外、家具らしい家具もなく、部屋の隅 に荷物を積 んでも、それなりに広く見えた。床 と壁 。ベッド。開かない窓と低い天井。それらは総じて牢 獄 を連想させる。要するに、外見ほど居 心 地 の良い宿ではなかったということだった。
だが、それだけといえばそれだけのことに過ぎない。
「だから、問題なのよ──」
クリーオウは寝 間 着 の肩に上 着 を引っかけて、いかにもあわてて部屋から飛び出してきたらしい。レキを抱 き上げるのも忘れたのか、子ドラゴンは彼女の足にしがみついている。彼女は食 欲 がないと言って夕食にも出てこなかった──ここに着いてからずっと、部屋で寝ていたのだろう、長いブロンドもおかしな形にはねている。
と、彼女は唐 突 に我 に返ったのか、きょろきょろと左右を見回した。
「......今、何時?」
「九時ってとこか?」
部屋の中に時計などないが、だいたいの勘 でオーフェンは答えた。横からマジクが付け足 してくる。
「さっき食堂では八時過ぎでしたから、そのくらいだと思いますよ」
金 髪 の少年は、自分のベッドに座 って、さっきからずっとガイドブックを眺 めていたところだった。どうやら観光でもしたいらしいが。
「う〜」
クリーオウが、怒 ったような、困 ったような、微 妙 なうめき声を発してくる。
「どうしたんだよ」
顔をしかめて立ち尽 くしている彼女に、オーフェンは尋 ねてみた。クリーオウの言う『問題』が、実際に問題になったことなどほとんどないが、それでも彼女の表情には、いつもは見あたらないほどの険 しさがあった。
その険しさを消せないまま、クリーオウが低い声 音 でうめく──
「わたしの剣がないのよ」
「?」
言っている意味がよく分からなかった。
「お前の剣って、荷物に入れてたやつか?」
「そう」
その荷物を運んできたのはマジクだが、クリーオウの分は分けて、彼女の部屋に置いてあった。その中には、彼女の剣も含 まれていた。
オーフェンは完全に起きあがると、ベッドの下にある自分の靴 を探 した。
「なくなったって、盗 まれたってことか? でもお前、ずっと部屋にいたんだろ?」
「......うん。でも、寝てたから」
うなずく彼女の表情が暗い。
怪 訝 に思いつつ、オーフェンは続けた。
「って、鍵 もかけてなかったのか? それはいくらなんでもお前──」
「戸 締 まりしてたわよ! でも──」
クリーオウはじれったそうに、地 団 駄 を踏 んだ。レキがころんと、足から落ちる。
「でも、あのね......剣は盗まれたんじゃないと思うの」
前髪に隠 れるように顔を伏 せて、ためらいがちに言ってくる。
なんとなく待ちきれなくなって、オーフェンはため息をついた。促 す。
「じゃあ、なんなんだよ?」
「あのね」
意を決したのか、クリーオウは顔を上げた。自分が言おうとしていることの意味、それ自体になにか悪 寒 でも覚 えるのか、眉 根 を寄せ、肩をすぼめ、その表情は弱々しくさえ見える。
声が震 えている。あるいはうすうす、こんなことが起こり得るとは予感していたのかもしれない──それをオーフェンが感じたのは、ほかでもなかった。彼自身、漠 然 と予想していたことではあったからだった。
だから。彼女が発した言 葉 に、オーフェンは驚 きを覚えなかった。
「あのね、ロッテーシャがいないの。それで......わたしの剣も、ないの」
「え?」
と、マジク。
クリーオウは答えず、激しくかぶりを振った。
「彼女の荷物もないの。オーフェン──」
「......分かった」
なにが分かったと言うのか。
自問しないでもなかったが、オーフェンはうなずくと、ベッドから立ち上がった。ちょうど、ブーツを履 いたところだった。
(......本当に、なにが分かってるってんだ)
胸 中 で繰 り返す。
分かっていることもある。だが、今は関係ない。
こちらを見上げ、立ち尽 くしているクリーオウに、オーフェンは告 げた。
「探 しに行こう。武器を持ち出すってのは、ただごとじゃなさそうだ」
「............!」
クリーオウの瞳 に、光がもどる。彼女は素 早 くきびすを返すと、そのまま部屋を出ていった──廊 下 を走る音と、扉 がまた開いて、閉じる音。自分の部屋に、着 替 えにもどったのだろう。
「お師様......」
小さく、マジクがつぶやいてくるのが聞こえてきた。向き直ると、ガイドブックを小 脇 にして、どこか神 妙 な眼 差 しを投げてきている。
(......試 してみるか)
意味があってそう思ったわけではなかった。だが、口の中に広がった嫌 な味の唾 を呑 み込んでから、オーフェンは聞いた。
「お前、なにか気づいていたか?」
「ロッテーシャさんの様 子 ですか? 馬 鹿 でもなければ、誰だって気づくでしょう?」
彼は、非 難 するように口を尖 らせた。
「お師様だってクリーオウだって、気づいてたんでしょう? あの人、間 違 いないです。エドって人を殺すつもりで、ぼくたちについてきたんですよ。彼が、この街 にいるに違いないって思って」
「............」
オーフェンは黙 って、彼の言葉の続きを待った。
マジクがうめく言葉を、数でも数えるように機械的に頭に入れていく。
「あの、エドっていう男......あっと言う間 にロッテーシャさんを斬 り殺した──ええ、斬り殺した んですよ。命があったのは奇 跡 みたいなもんじゃないですか、あんなひどい状 況 で。彼女、復 讐 するつもりなんだ。でも......」
それから数言は、ぱくぱくと口を開け閉めする音だけが少し続いた。そして──
マジクの顔に、はっきりとした感情がのぞいた。恐 怖 に目を見開いて、
「絶対に......」
その単語を、彼は嚙 みしめた。ざわっと、少年の首の後ろが膨 らむのが見える。
それは実際には錯 覚 だったのだろうが......それでも、マジクは総 毛 立 ったような表情を見せていた。
「絶対に勝てるはずがないのに。ぼくは見てたんです。彼女が斬られるところを。お師様、彼女は勝てないんです。実戦がどうとか、そんなのは関係ない。お師様!」
「聞いてるよ」
オーフェンは静かに、そう返した。
「お前の言う通りだ。彼女は勝てない。絶対にだ。どんな幸運が味方しようと、間 違 いなく、絶対に。あの男には、絶対に勝てない」
それだけ言うと、身体 の向きを変え、部 屋 の隅 に置いてある鞄 の中を探 る──一番奥にしまっていただけあって、取り出すのは手 間 がかかった。着替えに引っかかり、タオルにからまり、なかなか引っぱり出せない。
「お師様......」
マジクの声は慎 重 だった。
「お師様は、エド・クリューブスターには会ってないはずですよね?」
「いや」
即 座 に、否 定 する。
オーフェンは、立ち上がった──ようやく鞄から取り出せた、短剣を持って。
「......俺はあいつをよく知っている。ロッテーシャは確かに勝てない」
彼は、静かに待った。扉 が開く。入ってきたのは、着替えを終えたクリーオウだった。急いでいたわりには、しっかりと髪 まで直っている。いつものジーンズに空色のシャツという格 好 で、レキはいつもの定位置──頭の上にもどっていた。
彼女を見ながら、オーフェンはつぶやいた。短剣を鞘 ごと、懐 に入れつつ、
「あいつがそれを望んでいるのでもない限りはな」
「まったく......せっかちだね。そんなに死に急ぐ必要があるのかどうか、きちんと考えてごらんよ?」
彼女は静かに独 りごちた。そして──手早く、自分の荷物を開いた。
着 いた早々、長い夜になりそうだと、運の悪さを呪 いつつ。
◆◇◆◇◆
彼女に、行くべきあてがあったとは思えなかった。無論、人は誰 であれ秘密を持っている。ナッシュウォータで育ったと自分では言っていたが、このアーバンラマに知り合いがいたとしても驚 くほどのことではないだろう。
だがそれでもなお、彼女には行くあてなどなかったのだと直感が告 げていた。
(街 に着いた途 端 、武器を確保して逐 電 か......行動力がある、っていうのかね、こういうのも)
オーフェンは胸 中 で毒 づきつつ、アーバンラマの夜道を見回した。
「頑 固 な向こう見ずか。さて......」
「は?」
独りごちたのを聞きとがめたのか、マジクが聞き返してくる。オーフェンは、苦笑してごまかした。
「あんまり離れるな、って言ったんだよ」
「......それは、クリーオウに言ってくださいよ」
困 ったような顔をして、マジクがうめくのが聞こえてきた。前方を、何歩か先行している少女の背中を示 しながら。
クリーオウは、ひどく目立っていた。もっとも、特に彼女が普 段 と違 うわけではない──いつもの格 好 、いつもの忙 しない立 ち居 振 る舞 い、いつものレキに、いつもの金 髪 。ただこのアーバンラマという街が、彼女の存在を受け付けないようだった。割れた街 灯 、砕 けたガラスが散らばる砂 混 じりのアスファルト。穴の開 いたドラム缶に煌 々 と火が焚 かれ、その周囲に汚 れた服にくるまった人々がすり寄っている。さほど気温は低くない。彼らがすり寄るのは、その火の明るさにだろう。オーフェンは露 骨 にならないように注意しながら、そのうちのひとりをちらりと見やった。ぼろぼろのコートのサイズが合っていないのは、それが拾 ったものだからだろう。ポケットから、破 れた軍手がのぞいている。足元にある鞄 の中にマフラーや毛 布 、あるいは正 体 不明の布の端 切 れでもなんでも、詰 め込んであった。冬への備 えというわけか。月はあるが、夜 間 でも上空を覆 う薄い靄 に、星の輝 きはほとんどかき消されている。道のあちこちで焚かれている火に、ストリートの空気全体がくすぶった臭 いを漂 わせていた。どの建 物 の窓 にも明かりと、その明かりの中にあるべき生活のシルエットはなく、カーテンに閉ざされた細 い光がまれにのぞくだけ。建物の入り口には扉 がないか、三重の鍵 で固 く閉ざされているかどちらかしかない。
オーフェンは、軽く嘆 息 した。そう。あの少女は、ここにいることがなにか決定的な間 違 いであるかのように、浮いている。
(まあ、そりゃあ、そういうもんだろうな)
今度は声に出さずに、つぶやく。
(なんだかんだ言ったところで、トトカンタ名 家 の令 嬢 なんだし。街 道 を強 行 軍 して過 労 で倒れたりしてないで、ホントなら、あいつの姉 貴 ──ええと、なんて名前だったっけか──まあとにかく、あれみたいに、深 窓 でおとなしく平和にお茶して暮 らすのが普通なんだろうしな)
クリーオウはこちらの物思いに気づくはずもなく、厳 しい眼 差 しで、きょろきょろと左右を見回している。ロッテーシャの姿 でも痕 跡 でも、探 しているつもりなのだろうが。道にはホームレスがあふれており、身を隠 せそうな廃 ビルも簡 単 に見つけられる。三人で一晩探したところで、女ひとりを発見できる望みは薄い。
もっとも、クリーオウとてそのことに気づいていないわけではないだろう。オーフェンはなんとなく、彼女の返答まで想像できた──『そうよ。すっごく難 しいんだから、一 所 懸 命 に探さなくちゃ、見つかるものも見つからないじゃない。当たり前でしょ』
(......あいつにとっちゃ、困 難 って言 葉 はあっても、不可能なんて単語は辞 書 に入っちゃいねえんだろな)
そんなことを考えながら、とりあえず、探 索 に意 識 をもどす。と、かたわらをついてきていたマジクが、声をひそめて聞いてきた。
「......お師 様 」
「? なんだ?」
「あの......見つかると思います?」
宿 で完全に休 憩 する前に、また歩きづめに動く羽 目 になって、マジクの顔色ははっきりと悪くなっていた。青ざめた肌 に生 気 がなくなってきている。
オーフェンは、クリーオウの背中を見やって、告げた。
「小一時間も探して見つからなければ、もう無理だろうと踏 んでたよ」
「......ぼくたち、どれくらい探しましたっけ」
「そろそろ二時間ってとこかな。もうこの近 辺 にはいないか、もしまだいるとしたら、絶対に外から分からない場所に潜 んでいるかどっちかだろう。ロッテーシャ──彼女とは結局あまり口もきかなかったが、俺 が知る限り、あの年 齢 にしちゃ、ずば抜けて切れそうだったしな」
「切れるって、なにがですか?」
ぽかんとした顔で、マジクが聞き返してくる。オーフェンは肩をすくめた。
「頭だよ。ずっとこの数日間、血が昇 って逆 上 してたようだが、ここにきて俺たちが予想もしないところでさっと姿を消してくれた。今さら、見つかりたくない相手に見つかるようなヘマはしないと思うね」
「じゃあ......どうしようもないんですか?」
「なにやってんのよ、あんたたち!」
怒 鳴 り声が聞こえて──顔を上げると、クリーオウが足を止め、こちらを向いていた。両手を腰 に当て、眉 をつり上がらせている。怒 っているというより、苛 立 ちが高まった表情だった。頭の上のレキまで、耳と尻 尾 を上げている。
こちらが近づいていくのを待ったのか、一 拍 置いてから、あとを続けてくる。
「ちゃんと探してよ! 絶対見つけなくちゃならないんだから!」
オーフェンは、表情を変えずに言い返した。
「どうして、探さなくちゃならないんだ?」
「え?」
と──クリーオウにとっては、意外らしかった。いきなり声のトーンを落として、うろたえるように顔をしかめる。
「そ、そりゃあ、どうしてって言われても、困 るけど......」
彼女は視線を下げて、ごにょごにょと言ってきた。うつむいたせいで顔の大半は前 髪 に隠れたが、不服そうに、唇 が突き出ているのが見える。
「ひょっとしてオーフェン、彼女のこと、愛 想 の悪い人だって思ったかもしれないけどさ......それは、あんなことがあったんだし、仕 方 ないのよ」
「そうじゃなくて」
オーフェンは、ようやくクリーオウの前まで追いついて、足を止めた。ため息混 じりに、聞く。
「なんでお前が、彼女のことそんなに気にかける必要があるんだよ?」
「それは──」
クリーオウは、さっと顔を上げてきた。が、いったん動きを止めたあと、すぐに首を傾 げ、
「......なんでかしら?」
「お前たちは、宿にもどってろ」
彼女の返事を聞いてから、オーフェンは告げた。と──気づいて、付け加える。
「ふたりだけで、もどれるか?」
「大 丈 夫 よ。オーフェンは、どうするの?」
胸 を張って、クリーオウが聞いてくる。
オーフェンはうなずいた。
「俺はもう少し探 してみる。俺のせいで追いつめちまったような気もするしな」
「............」
無 言 でしばし、彼女は見つめてくるだけだったが。
やがて、隠せなくなったというように、口を開いた。声が震 えている。
「なんか、すごく嫌 な予感がするのよ」
それについては同感だったが、それを真 正 直 に言うつもりはなかった。聞き流したふりをして、マジクを手 招 きする。
「なんですか?」
その声はしっかりと落ち着いているように聞こえた。あるいは単に疲 れて、声が低くなっているだけなのかもしれないが。
なんにしろオーフェンは、マジクに告げた。
「俺も朝までにはもどるつもりでいるけどな、場合が場合だから、不 測 の事 態 ってのが起こるかもしれない。ロッテーシャが気を変えて宿に帰ってくる可能性もないわけじゃないが、明日 まで待ったら、見切りをつけて移動しよう」
「移動? どうしてですか?」
「本格的に人を探 すんなら、この街に詳 しい人間に助力を頼 むしかねえだろ。戦 闘 訓 練 を受けた女がひとり、武器を持って姿を消したんだ。協力してもらえるだろ。あいつなら、警 察 にもコネがあるだろうし」
「......ああ、だいたい分かりました」
どことなく嫌そうな顔は見せたものの、マジクがうなずく。
「住んでる所とか、知ってるんですか?」
「いや。だがかなり有名な資産家らしいからな。調べりゃ分かるだろ。もし俺がもどらなかったら、お前たちで探せ。俺もそっちを目 指 すから」
「はい」
「............?」
わけが分からないという表情で疑 問 符 を浮かべているクリーオウのことはとりあえずほっておいて、ふたりから視線を外 す。向き直った先は、ぽつりぽつりと焚 かれている炎 と人型の影に支配された夜道だった。我 知らず、宿を紹介してくれたあの女──ウィノナとか名乗っていたか──が言っていたことを思い出す。この街では、安全は高くつく。宿屋の主人ならばギャングに上 納 金 を支払い、泊 まり客はその金が上乗せされた宿代を払う。それは単純なことだった。考えるほどのこともない。あえて逆 らうほどの価 値 もない、単純な構造に過ぎない。
(だが──)
オーフェンは、隠れて苦笑した。復 讐 を決意し、剣を携 えた女ひとりに対しては、この街はどういった支払いを要求するのか......?
高価、どころでは済 まないかもしれない。
「オーフェン......」
その時には既 に、マジクもクリーオウも宿にもどろうとしていたようだった。が、クリーオウが肩越 しにこちらを向いて、言ってくるのが耳に入った。
「ん?」
振り向いて、見やる。
クリーオウは、ゆっくりと腕 を上げた──それほど明確にではないが。意味のある仕 草 には見えなかった。そのまま、あとを続ける。
「あのさ、大 丈 夫 だよね?」
「なにがだ?」
「今までだってさ、なにかひどい状態になったって、オーフェンがなんとかしてくれたし......」
(ん......?)
違 和 感 を覚 える。オーフェンは改 めて、彼女の顔を見つめた。眼 、瞳 、口、首の傾 け方。そう長いつきあいとも言えないが、ある程度分かるくらいには一 緒 にいた。
外見がなにか変わったはずもない。彼女が息を吸 うことまで分かるほどしげしげと見つめているうちに、クリーオウがまた続ける。
「なんか......すごく嫌 な予感がするの」
彼女は同じことを繰 り返した。
軽くうなずいて、応じる。オーフェンは静かにつぶやいた。
「そんなに思い詰 めるなよ」
と、笑いかける。
「一見、絶望的に思えた時なんてのは、あきらめさえしなければ、意外となんとか切り抜 けられちまうもんさ──じゃなけりゃ、俺たちゃとっくに死んでる。そうだろ?」
「......うん」
クリーオウも微 笑 んだように見えたが、ひどく弱々しかった。まだ全快しきっていないのかもしれない。レキも無表情に、ただぼんやり顔を上げている。手をあげて挨 拶 し、オーフェンは彼女らに背を向けた。注意を引きもどして歩き出す。
夜道に変化はなかった。人間ひとりの行方 を探 す困 難 さも、なにも。
歌が聞こえた。酔 っぱらいが、通りのどこかにいるらしい。この暗さでも、それらしい姿 を見かけたところで、確実に本人だと気づく保 証 はない。それでも現状では、これしか手段がない。
『絶対見つけなくちゃならないんだから!』
クリーオウの声が、脳 裏 に蘇 った。彼女らしいといえば彼女らしい。目的があれば手段を選ぼうともしない。最悪の手段しか残されてなかったとしても、最良の目的のためならそれを選ぶだろう。
............
オーフェンは、足を止めた。
(あいつらしい......か? それがホントに?)
似 ているようだが、違う。
なにがどうと言えるわけでもなかったが、大きな誤 解 をしている。
ざっ──と、ブーツの裏 が地面をこする音を聞きながら、彼は背 後 に向き直ってクリーオウの姿を探 した。もう夜 目 には分かりにくいほどに、マジクといっしょに離れていたが、少女の背中まで伸 ばされたブロンドは、まだ闇 との見分けがついた。ただ宿への道を進みながら、会話もないように見える。オーフェンは訝 って、眉 根 を寄せた。
「あいつ......」
独 りごちる。自問するように。
「ひょっとして、ロッテーシャはもう駄 目 だと思っちまってる んじゃねえか?」
答えられる問いでもないが──
ただ、クリーオウの金 髪 が、ふらふらと......闇の中に消えていくのを、オーフェンはしばらく見送っていた。
◆◇◆◇◆
「元気出しなよ、クリーオウ」
「どうしてよ」
険 悪 な声で聞き返す。マジクが、面 食 らったように目を見開くのが見えた。
「どうしてって、落ち込んでても仕 方 ないし」
「こんな時に元気いっぱいだったりしたら、馬 鹿 そのものよ」
クリーオウはうめきながら、ため息をついた──もっとも、マジクのほうが正しいのは百も承 知 だったが。
もとの宿までは、まだしばらく歩かなければ帰れない。その時間をだんまりというのも、あまりに気まずい。正 直 、それが嫌 であるというだけの理由で、クリーオウはなんとかあとを続けた。
「......ごめん」
「まあ、いいよ」
マジクはそう言うと、頭の後ろで腕 を組んだ。話題を変えたかったのだろう──顔を明るくして、トーンを変える。
「そういえばさ、クリーオウとこういうふうに話すのって、久しぶりなんじゃないかな」
「......そうかしら」
聞き返す。
彼は、うなずいて続けてきた。
「うん。ほら、ぼくもようやくお師様に、戦 い方を教えてもらえるようになったしさ。いろいろ忙 しかったから。ていうか、トトカンタを出てから、ふたりきりになることもそんなになかったしね」
「そういえば、そうかもね」
と、うなずこうとして──
ふと浮かんだ疑問を、クリーオウは口にした。
「......あんた、戦い方なんて習 ってるの?」
「え? そうだよ。知らなかったの?」
「いつから」
「えーと。まあ、ここ最近のことだけど......」
「そんなの習って、どうするのよ。なにと戦うの?」
聞いてから、それを言うならばロッテーシャなども、どうして剣術などやっているのだろうかと思いつくが──それはまあ、父親が道 場 主 だったというのだから仕方ない。が、マジクがそんなことをしているというのは、ひどく奇 妙 に感じられた。
マジクは虚 空 を見上げ、どう答えたものか迷 ったようだったが、
「ええと......まあ、そりゃ具体的になにってわけじゃないけど、戦 闘 訓 練 って言 葉 の響 きが、なんとなく本当の魔 術 士 っぽいって感じがしないかな?」
「するけど、あんた全然魔術士っぽくないもの」
クリーオウはそれだけ言って、頭の上のレキを胸 に抱きかかえた。黒い子ドラゴンは突然視点の高さが変わったことにきょとんとしたのか、あたりを見回している。くるくる揺 れる頭をあごで触 ってやりながら、彼女はマジクを見やった。
「そうね......そういや、あんたって魔術士だったんだっけ」
「う、うん。一応ね。って、なにを今さら言ってるのさ」
同意しかけてから、あわてて言ってくる。
クリーオウは、肩をすくめた。
「今さらっていうか、わたしあんたのこと魔術士だって意 識 したこと、なかったわよ。考えてみたら」
「うーん。そんなにらしくないかなぁ」
と、ぶつぶつ言いながら、マジクが自分の格 好 を見下ろす。黒魔術士を意識したのか、妙 に黒っぽい衣 装 。似 合 っていないどころか、むしろ積 極 的 に印 象 が悪い。
眉根を寄せて、クリーオウはつぶやいた。会話というよりは、自分に語るような心 地 で。
「......なんていうかね、結局、魔術士よりはマジクなのよね。魔術が使えるようになろうと、どんな訓練しようと、マジクはマジクっていうか」
「うん」
彼の相 づちが聞こえるが、特に構 わず続ける。
「オーフェンだってもちろん、ただのオーフェンなんだけど、でも、ああやっぱり魔術士なんだなって思うことあるのよね。そういうのが、違うとこなのかしら」
「それは、あれじゃないかな。クリーオウ、お師様と初めて知り合った時には、もうお師様のこと魔術士だって分かってたでしょ。だから、魔術士っていうのはお師様みたいな人だっていう先 入 観 っていうか」
「違うわよ。わたし、オーフェンを知る前に、魔術士見たことあるもの」
「......そうなの?」
「そりゃトトカンタで結 構 大きな商売でもしてれば、魔術士同 盟 とは嫌 でも関 わりができるわよ。お父 様 も、何人か魔術士の知り合いがいたみたい」
「ふうん」
マジクは、なにやら感じ入ったように、腕組みしてつぶやいてきた。
「じゃあ、そういう人たちとお師様に共通する、なんか魔術士っぽいモノみたいなのが、やっぱりあるのかな......」
「そうじゃないと思うのよね」
「......え?」
「その人たちも、魔術士っぽく見えなかったんだ」
「なんだよ、それ」
拍 子 抜 けした顔で、マジクがうめく。クリーオウは難 しく顔をしかめた。
「そんなこと言ったって、そういう感じだったんだもの」
「ううん......」
と、困 惑 したマジクの声を聞きながら、クリーオウは黙って足を動かし続けた。初めての道、しかも夜道だったが、不 思 議 と迷 わない。あまり意識せずに歩いているせいかもしれない──なんとなく、そんなことを考える。
「あ、そういえばさ」
いきなりマジクが、話題を変えてきた。
「みんな、どうしてるのかな」
「みんな?」
「ほら。学校のみんなとか。ぼくの父さんも──トトカンタを出てから、半年くらい経 つんだよね」
「やめてよ」
クリーオウは、即 座 に制した。手を振って、彼を黙らせる。
「......え?」
目をぱちくりさせるマジクに、彼女は苛 立 たしく続けた。
「わたし、最近ちょっとホームシックなんだから」
「そう......なんだ」
会話が、完全に途 切 れる。
あとは結局、無 言 になってしまった。黙 々 とただ、歩き続ける。急ぐこともなかったが、無言の行進は自然と足を速めた。ほどなく、宿 が見えるようになる。
(もう少し気の利 いたこと思いつきたいとこだけど)
クリーオウは、しみじみと独 りごちた。
(こんなとこで宿なんて、経 営 成 り立つのかしら)
街の外、街 道 にあるのならば分かる──たとえどのような祖 末 な宿であろうと、泊 まるよりほかにない。アーバンラマ市は大陸東部と西部の海 路 をつなぐ、重要な窓 口 であることを考えれば、街中に宿があってもおかしくはない。ただし、港 があるのは街の北側、つまりあのウィノナとかいう女に言わせれば〝少なくともこちらよりは高価な〟側で、そもそも海路を利用できるような人間は、こんなスラム街には来ないだろう。
(普 段 、どんな人が利用するんだろ)
ぽつりと考える。静まり返った、暗い窓。宿にはへたをすると人の気 配 すら感じられない。実際、ウィノナと彼女ら以外には、泊まり客などいなかったようにも思う。となれば、今あの宿にいるのは宿の主人(ひょっとしたらその家族もいるかもしれないが)と、ウィノナだけだった。
ふと、あくびが出る。クリーオウは目をこすりながら、ようやく睡 魔 を意識した──すっかり忘れていたが、ろくに食事もせずに、何時間も歩き回れば、さすがに疲 労 は深かった。
(......ロッテには悪いけど、失 踪 するんなら、明日まで待ってくれれば良かったのに)
少々薄 情 かなとも思いながら、胸 中 でつぶやく。
(どうするつもりなんだろ。こんな広い街で、人ひとり見つけられるはずがないのに)
それはまったく、こちらにも同じことが言えることで、つまるところ、ロッテーシャも同じような考えなのかもしれない──探 さなければ始まらないのだ、と。
と──
クリーオウはふと、足を止めた。彼女より先に、マジクが立ち止まっていることに気づいたからだが。音は立てないように舌 打 ちして、彼女はうめいた。
「ちょっとマジク、こんなことでいちいち怒 らないでよ。わたしだって疲 れて──」
そこまで言ってから、言葉も止める。
マジクはこちらのことを見てもいなかった。目をそらしている、というわけではない。なにかを感じ取ったように、呆 然 と、宿の建 物 を見上げている。
「............?」
怪 訝 に思いながら、クリーオウは彼の視線を追った。特に建物になにがあるというわけではない。相 変 わ らず静かで、比 べればこの活気のない夜道ですらにぎわしいと思えるほどだった。拭けば飛ぶような粗 雑 な造 り、壁 や屋根の古さを見るに、少なくとも年月に耐 える程度の強度はあったということだろう。
だが、なんにしろ、変わったところは見つからない。
「どうしたのよ」
聞いてみる。マジクは、自分でも分かっていないのか、不 思 議 そうにこちらへと視線を転じてきた。
「いや、あの...」
くちごもりながら、言ってくる。
「気のせいかも、しれないんだけどさ」
彼は、どことなく声を震 わせながら、指を上げた。宿を示 して──続ける。
「宿がさ、一回り、大きくなってるような気がしない?」
「え?」
意味が分からず──だがあまりに単純なその指 摘 を受けて、クリーオウは再 び建物を見上げた。どうというわけでもない、木造の古い宿。出てきた時より一段階古くなってないかと言われれば納 得 もできたが、宿が巨大化するというのはあまりに突 拍 子 もない話でしかなかった。顔をしかめて、マジクに告 げる。
「あんたね、なにわけの分かんないこと言ってるのよ」
「いや、だって──そう思えたんだけど」
「思えたって言ったって」
クリーオウは口の中でその言葉だけなぞると、宿に駆 け寄った。夜──しかも火を焚 いている浮 浪 者 もここには近づいてこないため、ひどく暗く、近づいたところでそれほど詳しく観 察 できるわけでもない。闇 に浮かぶシルエットだけだったほうが、まだしもよく分かったのではないかと思えるほどだった。
「......なんにも変わってないわよ」
マジクに向かって言いながら、入り口のドアに手をかける。ここを出る際に、真夜中までは鍵 をかけないよう主人に約 束 させたため、ノブは問題なく回った。中を見ても、なにも変化はない。ひとけがなく、真っ暗であるというだけで──一階は酒 場 になっているというのに、こんな時間に閉めているというのは妙 といえば妙だが。
その、刹 那 だった。
変わってない、と口の中でまだこだましているようなタイミングだったが、それと裏 腹 に、頭の中でなにかが弾 けた。危険信号。
いつも例外なく、そんな時に浮かぶのは姉 の顔だった。なにかにつけて部屋に遊びにくるのが好きなマリアベルは、こちらがのぞいて欲 しくない時にもしばしば扉 をノックしてくれた。手紙を書いている時、台所からデザートの残りをくすねてきた時、両親に秘密でバイトして稼 いだ給料を、机 いっぱいに広げて勘 定 している時──
それと同じレベルのものなのかどうか、それはなんとも言えなかったが。
クリーオウは、はっとして、扉のちょうつがいに視線を集中した。実際、それは奇妙に変形していた──扉が、ではない。扉が一段階、くぼんでいると言うべきか。いや、正しくは、扉以外、建物の外側の壁 が、すべて数センチほど分 厚 くなっている。
同時──
胸 に抱 いていたレキが、突然暴 れ出した。首を左右に振って腕 から逃 れると、肩を蹴 りそのまま頭の上に跳 び乗る。マジクの声が聞こえた。
「クリーオウ、逃げて!」
(間に合うわけないじゃないっ!)
そんなことを、胸 中 でののしりながら──
それでもクリーオウは、なんとか後ろに飛び退 こうとした。だが、それよりも速く、膨 らんでいた壁の一部がさらに変形するのが見える。
「──っ⁉ 」
悲 鳴 をあげて彼女は、目にもとまらないようなスピードで手首に絡 み付いてきたその蔓 を見下ろした。右手を引くことも押すこともできないほど強く締 め付けるその細 い木の蔓は、変形した壁から剥 離 してきたものだった。
声が、聞こえてくる。
「夜だから......気づかないかと思ったんだけどネ」
「ライアン⁉ 」
クリーオウは、その名前を叫 んだ。相手の姿 を探 すが、見つからない。そして、
「うわああっ!」
「マジク!」
聞こえてきた悲 鳴 に、また名前を呼ぶ。
腕を固定されたまま、首だけひねって振り返ると、マジクはそこにいた。
空を飛んでいた。
困 惑 して、思 考 停止したまま約一秒ほどか。宙 を飛び、そして落 下 して路面に叩 きつけられるマジクを見つめる。彼の身体 が転 がるように跳 ねるのを見て、クリーオウはようやく、彼が投げ飛ばされたのだと気づいた。が、いったいどうすれば、人間ひとりを軽く放 り投げられるのかは分からない......
「くっ!」
転がったマジクには、さほどダメージはなかったようだった──はずもないだろうが、少なくとも動けないほどのケガはしなかったらしい。すぐに起き上がって、身 構 える。
と同時に、また弾 き飛ばされた。
まったくなにもなく、ただ転んだようにも見えた。マジクの身体に、なんらかの衝 撃 が加えられたのは間 違 いない。ただ、それをしている者の姿がどこにもない。クリーオウは可能な限り首を回して、あたりを見やった。そうしているうちにも、マジクがまた不 可 視 の一撃を受けて倒れている。彼自身、まったく混 乱 しているようだった。敵 は夜 闇 に隠 れているのだろうが、それにしても、攻撃手段まで完全に隠している。
もう何度目か転がされて、それでもマジクが起き上がるのが見えた。彼はすでに息を荒らげ、泣きそうなほどに表情を歪 めている。一 瞬 だけこちらを見──そして、また次の攻撃が来るのではないかと思える方向へと視線を転じた。
こちらを見た時、彼がなにを考え、そしてそれを取りやめたか、すぐに分かった。
だからというわけではないが──クリーオウは叫 んでいた。
「マジク! いいから逃げて!」
なんとか大きく声をあげる。
「わたしのほうはなんとかするから──」
「でも!」
「あんたがわたしを助けられるわけがないでしょ⁉ 」
言われて──
はっきりとマジクが傷ついた表情をしたのも見てとれた。この闇を考えれば、それはほとんど奇 跡 か、あるいはただの想像に過ぎないのかもしれないが。
議論している時間はない。これで打ち切るつもりで、クリーオウは告 げた。
「できる限り騒 ぎを大きくしながら逃げるのよ! そうすれば、オーフェンがこっちに気づくから!」
「......くっ!」
どういう意味だか、マジクがうめき声をあげるのが聞こえてきた。なにか反 駁 しようと口を開いたようだが、そのままくるりと体勢を変えて──
両手を振り上げた。そして、今まで聞いたこともなかったような大 音 声 で、叫 ぶ。
「我 は放 つ──」
その声は、なにかやけくそのようにも聞こえた。マジクの身体が、なにかに押されたように後ろに退 がる。と同時に、そのかざした両手の先に純 白 の光 球 が膨 れ上がった。
「光の白 刃 っ!」
音は聞こえなかった──
鼓 膜 は震 えても、脳 が拒 絶 したのかもしれない。視界を圧 倒 的 な光が押し包 み、塗 りつぶす。轟 きがつま先から腰 を貫 いて、呼 吸 を阻 害 した。大地が震えているのを感じる。それほどの衝 撃 だった。実際、彼が放った魔術が、自分を標的にしたのではないかと疑うほど。
だが、一 瞬 後、その光が貫こうとしたのが自分ではなく、宿の建 物 だということがすぐに分かった。炎 上 する熱 波 が、空気を歪 ませている。
その衝撃の余 韻 の中、マジクは最初と同じポーズのまま立っていた。要するに建 物 を破 壊 してこちらを解放してくれるつもりだったのだろう。だが。
「......そんな」
信じられないといった口 調 で、彼がうめく。
宿には傷ひとつついていなかった。
いや、それは正確ではない──あらゆる窓 は割れていたし(おかげでへたをすれば雨あられとガラスの破 片 をかぶるところだった)、見ると扉 もなくなっている。衝撃のせいで、内装はぐちゃぐちゃになっていた。だが壁にはまったく損 傷 がなく、空中に残っていた火球も、もう消えつつある。熱波に吹 き付けられ、全身から汗 が噴 き出すのを感じたが、その熱をもってしても、木製の壁に焦 げた臭 いも残していなかった。
呆 然 としているマジクが、また転 がる。
また立ち上がった彼に、クリーオウは再度叫 ぼうとした。が、それよりも、彼のほうが早かった。

「もどってくるから──」
きびすを返して走り出しながら、彼は叫んできた。
「お師様を見つけて、すぐにもどってくるから!」
と、幾 度 も転がされながら、夜道を駆 け去ってゆく。彼の姿 が見えなくなるまでは、多少の時間がかかった。
「............」
それを見送ってから、クリーオウは、いまだ固定されたままの右手首を、改 めて見下ろした。木の蔓 。細 い木の枝。そして、さっきの声。予想というより、もう確信しても問題はないように思えた。つぶやく。
「レキ......あんたも、勝てないって思ったら、いつでも逃げていいんだからね」
「この場合は、あの少年のことを案じたほうがいいと思うヨ」
声はまた、聞こえてきた。
きっ、と顔を上げて、なんとなく聞こえてきたと思える方向をにらみつける。声は明らかにこちらが見えているようで、なにを言うのか数秒待ってくれたらしい。が、なにも言えないでいるうちに、あとを続けてきた。
「あの少年を追って、ぼくの相 棒 が行った。申し訳 ないけれど、およそどんな人間であっても、ぼくの相棒に追われて 生き延 びることはできない。そう......これは、絶望というものだ」
「あんたのそれは、もう聞き飽 きたわよ」
暗い声 音 で、うめく。
「いったいなんのつもり? この前の剣 だけじゃ足 りない? 今度はなにが欲 しいのよ」
「そうだね」
ライアンの声が、耳元から聞こえてきたような気がして、あわててクリーオウは振り返った。だが、やはり誰 の姿もない。
声は聞き逃 しようがないほどはっきりと聞こえてくるのに、その姿はいまだ見せようとしていなかった。
「そうだね──ぼくは君の信念が欲しい。だが実を言えば、君を死なせることくらいしかできそうにないな」
ざわっ......
音を立てて、いつの間にか。
宿の壁 はまた変形し、複数の蔓を伸 ばし始めていた。すべて、こちらへとゆっくり向かってくる──そのうちの一本が、自分の首を狙 ってきていることを、クリーオウは他 人 事 のように自 覚 していた。
爆 音 が聞こえてきた。
振り返ると、見えたのは、天を白 ませるほどの火 炎 の渦 ──オーフェンは頭の中で距 離 と方向を目 算 し、それが宿 の位置で起こったものだと悟 った。もとより、自然界には存在しない、あの白い炎 は、魔 術 によるものに違 いない。少なくともこのアーバンラマで、あれだけの規 模 の魔術を放 てる術者は、自分自身を除 外 すればふたりと一匹しか心当たりがない。
仮にその誰 が放ったものだったとしても、他 人 事 ではなかった。
「──ちっ!」
事 態 の把 握 はあきらめ、オーフェンはすぐにきびすを返そうとした。どれだけ急いだところで、宿までもどるには数十分を要するだろう。なにが起こったのかは分からない──文字通り最悪の事態から、クリーオウの気まぐれまで、なんでもあり得る。
可能な限り急いで、夜道を駆 ける。闇 の中で火を囲 んでいた浮 浪 者 たちが、唐 突 に明るくなった空を見上げて騒 然 としているのを尻 目 に、オーフェンは全速で走ろうと一歩を踏 み出した。
刹 那 ──
「えっ......⁉ 」
我 が目を疑って、足を止める。
急停止に膝が笑ったようで、がくんと曲がった。その体勢を直しつつ、目の前の道路を横切っていく、ほっそりとした人影の姿 を見つめる。混 乱 が理解を拒 むが、なんとか逃 がさず引き止める。
道を横切って、そのまま無人らしい廃 ビルに入っていったのは、ほかでもないロッテーシャだった。剣 と、簡 単 な手荷物を持ったまま、すたすたと入り口の暗がりに消えていく。こちらをちらりとも見なかったが、それは偶 然 と考えるにはあまりにも都 合 が良すぎるタイミングだった。いや──
(タイミングとしちゃ、むしろ最悪か)
胸 中 で、毒 づく。一 刻 も早くもどりたいというのに、ここでロッテーシャを見 逃 せば、次のチャンスは二度とないかもしれない。
時間にしてみれば数秒だったろうが、オーフェンは頭の中で、ざっと打算した。どちらかを選べというのなら──迷 う必要すらない。クリーオウとマジクが巻き込まれているかもしれない異常事態を確かめるためにもどるべきだ。それに比 べれば、ロッテーシャに関 わっているような余 裕 などない。が、
(......くそっ)
舌 打 ちする。
思い浮かべたクリーオウの眼 差 しが、その優先順位とは違うことを訴 えかけてきているような気がしてならなかった。
歯 嚙 みして、身体 の向きを変える。ロッテーシャが入っていったビルの入り口を見 据 えて、オーフェンはつぶやいた。
「俺に任 せりゃうまくいく、か」
かぶりを振る。
「今まで、どのあたりがうまくいったことがあるって勘 違 いしてやがんだ? あいつは」
そして──廃ビルの暗い入り口へと歩き出す。
空を染 めていた白い輝 きは、もう消えていた。
当たり前だが、建 物 の中は真 っ暗 闇 だった。窓 から差し込むわずかな明かりがぼんやりと内部を照 らしているが、たとえるなら黒絵具にわずかな色むらが生じる程度のことで、役に立ちそうにはない。ロッテーシャが中に入っていったことは間 違 いないにせよ、この状 況 では仮に目の前に相手が突 っ立っていたとしても、気づくかどうか疑わしい。
(逆にいえば、ロッテーシャもこの中じゃ、そうそう好きに移動できやしねえだろ。入り口の近くに、必ずいるはずだ......)
拳 を硬 く固めて、独 りごちる。できれば、早くけりをつけたかった。手早く片 づける方法を、頭の中でいくつかシュミレートする──
その中で、最 も簡 単 で確実、そして短時間で決着する方法を見つけ出すのには、時間は必要としなかった。
すうっ──と息を吸 い、声をあげる。
「ロッテーシャ......いるのか?」
声をかけながら、オーフェンは闇の中に右手を差し伸 べた。
「これから、明かりを点 けるぞ。話がしたい。逃げないでくれ」
言いつつも、自分の嘘 に苦笑する思いだった。言うまでもない。最短の解決法とは、彼女がここで痕 跡 も残さず逃げてくれることだ──追いかける手段もないほど見 事 に。そうすれば、あきらめて宿にもどることができる。
期 待 半分、覚 悟 半分という心持ちで、オーフェンは続けた。いったいどういった結果を期待し、どういった運命を覚悟していたのかは、自分でもよく分からなかったが。なんにしろ呼びかけではなく、呪 文 を口にのぼらせる。
「......我 は生む小さき精 霊 ......」
ぼ。と音を立てて、真っ白な鬼 火 が手の先に浮かび上がる。光の輪 が、闇の中に視界を押し開いた。ビルの中は、荒れ果 てるといえるほど物が残ってすらいない。つまらないごみが散らかっている床 の上から、数本の柱 が物悲しく天 井 を支 えているだけだった。
そこは、まだ建物が使用されている時には、ホールだったのだろう。かなり広い。奥にはいくつかの入り口が見えたが、そのどれにも扉 は残っていなかった。
見える範 囲 には、誰 の姿 もない。
が──
(......いちいち気に食わないことをしてくれるな、ったく)
自然、顔がひきつるのを自 覚 しながら、オーフェンは毒 づいた。奥にある、もとはなにかのテナント用のスペースの入り口。同じようなほかの入り口と見分けがつくわけでもないその入り口のひとつに、ロッテーシャのものであろう、手荷物が置いてあった。はっきりと見えるように。
ただ、彼女の姿だけが見当たらない。
(それと、剣もか)
考えられることは、ひとつだけだった。
わざわざ分かるように荷物を置いたのは、おとりだろう。となれば、その場所にこちらをおびき寄せて、奇 襲 を仕掛けてくるということになる。
(問題は、相手がどれだけ本気なのか、だな)
突 き刺 すようにこちらを見るロッテーシャの顔を思い出しながら、それを想像する。
(驚 かすだけのつもりかもしれないし、殺すつもりなのかもしれない)
実際に彼女がどこにいるのか──そしてどのタイミングで行動を起こすつもりでいるのか、それは予測以上のことはできない。この建物に彼女が入っていってからの時間を考えれば、大がかりな罠 はあり得ない。彼がここの道を通ったことは単なる偶 然 なのだから、彼女にだって、あえてこの場所を選ぶことのできる余 地 はなかったはずだ。
ほぼ正 攻 法 に近い形の奇襲。オーフェンはそう判断すると、建物の中に足を踏 み入れた。判断し、行動を始めたならば、疑念を残していてはならない。ゆっくり息を吸 い、頭の中から雑念を追い払って、一歩、また一歩と足を進める。
「......俺 は今、入り口から三歩進んだ。ゆっくりと歩いている。注意は、前方に向けている──視線は、君 が置いた荷物の周辺だ」
しゃべり始めたのは、彼女への牽 制 でもあり、忠 告 でもあった。
彼女が、こちらの予想を裏 切 るほどの奇襲を用意していなければ、どうにでも対 処 できる──そして、あわてて無理に裏切ろうとすれば、それはそれで対処できる。競 技 剣術とはいえ兵 法 をかじった彼女になら、それは言わずとも理解できるだろう。
理解してくれれば、無意味に危険を冒 さずに済 む。自分にとっても、彼女にとっても。
「恐 らく君は、その荷物から二メートルと離れていないところにいるんだろう? 二メートルってのは、君の腕プラス、剣のリーチを考えれば、それ以上離れたらとどかないからだ。俺が荷物に手を伸 ばしたら、ばっさりと斬 りかかってくる。そうじゃないか?」
返答はない。
相手が動く気 配 すら、感じられなかった。
続ける。
「君には悪いことをしたと思ってる......俺の言ったことが気に障 ったんなら、謝るよ。クリーオウも心配してる。説明すれば長くなるが、俺はな──」
オーフェンは、自然とひきつる口元を意 識 した。
「君が、もう二度と、その──エドか。彼と会わないことが、最 善 だと考えてる」
さすがになんらかの反応があるかと、待つが──やはり、沈 黙 は解 けなかった。
オーフェンは足を止めた。
「いいか? 俺はさっさと回れ右して建物を出てから、たった一 言 叫 ぶだけで、このビルごと吹 っ飛ばすことだってできるんだ。あるいは、ンなことしないでも、そのまま立ち去ってもいいんだよ。それをしないのは、君に対して負 い目があると思うからさ」
ほんのため息でも聞こえないかと耳を澄 ましながら、続ける。
「......なら、取 引 ってのはどうだ? 俺は君に、姿を見せることを要求する。その代 わり、君は俺になにかを要求してもいい。どんな形になるにせよ、話し合うべきだと思うんだけどな」
魔 術 の明かりに照 らされた建物の内部は、白 々 と冷たい空気に満ちていた。それは魔術の光に暖かさが欠けているせいでもあり、季 節 のせいでもあり、単に廃 墟 だからでもあった。ふと、胸 中 に皮 肉 が浮かんだ。ロッテーシャは、もうとっくに、目の前に姿を現 しているのではないか? だがこの白い明かりの中に、保 護 色 で溶 け込んでいるのだ──血 色 を失 った彼女の顔を思い浮かべながら、苦笑する。
(結局、飛び込んでみるしかねえか)
緩 い心持ちで決心して、嘆 息 する。
唇 を軽く嚙 んで、オーフェンは再 び進み出した。わざと足音を立てて。
無 造 作 に進み、ロッテーシャの荷物が置いてある入り口の目の前に着 いてから、彼はわざと一瞬、歩みを止めた。タイミングをずらしてから、さっとその荷物を飛び越 える──
見回して。
ロッテーシャを見つけるのに、半秒も要しなかった。が、
「............⁉ 」
ぎょっとして、動きを止める。
彼女はそこにいた。
全 裸 で。
顔色よりも白い彼女の肢 体 は、どこか若い苗 木 を連想させる。足 下 に、慌 てて脱 ぎ散らした服がまとめて置いてあった。細 い左腕で漠 然 と前を隠 して、ロッテーシャはただ、こちらを見ていた。強い眼 差 しに、光が見える。どこよりもその瞳 に、オーフェンは気を引かれた──全身に、あまりにも遅かった警 戒 が走る。
彼女が右手に持っていた刃 が、無 駄 なく翻 るのが見えた。魔術の光源から壁 に隔 てられ、室内は薄暗い。だがそこにある光をすべて跳 ね返したように、ロッテーシャの掲 げる剣 が閃 く。
「ちぃっ!」
オーフェンはそれでもなんとか、後方に跳 ぼうとした。が、彼女のほうが速い。
たった一 閃 に過ぎなかった。その一閃が──
彼女の切 っ先を、ぴたりと自分の胸 に突きつけられた状態で止まるのを、オーフェンは許 すしかなかった。
「............」
数秒の、沈 黙 。
動 悸 する心 臓 から、数センチほどしか離れていないその切っ先をちらりとだけ見下ろしつつ──オーフェンは、言 葉 を探 した。一 糸 もまとわず剣だけを携 えて、こちらを見 据 えるロッテーシャに。
だが、ここでも彼女のほうが早かった。薄い唇を開くと、すらりと静かに言ってくる。
「......あなたが呪 文 を唱 えるより、わたしが切っ先を何センチか突き出すほうが速いですよ。試 しますか?」
冗 談 のような脅 し文 句 といえる。ただし彼女は笑いすらしなかった。オーフェンも、笑う気にはなれなかったが。
そのまま、ロッテーシャは続けてきた。
「前に一度......一度だけ、エドに勝とうとして、同じことをしたことがあるんです。なんとなくなんですけどね、あなたにも通じるんじゃないかって思ってました」
「夫 婦 喧 嘩 の手口に巻き込んでほしくはないんだけどな」
なんとか、言い返す──
彼女は、笑ったようだった。
「〝考えろ〟って言ったのは......あなたです。ご教 授 を感 謝 してます。本当ですよ?」
剣 呑 な気 配 は崩 さずに、続けてくる。
「随 分 と探 してくれていたようですね」
なんとか間 を持たせたくて、オーフェンはうめいた。
「見つからねえはずだよな......あちこち探すのに夢中になって、探してるその目標の当人が、自分らを尾 行 しているのにも気づかなかったってわけだ」
「あなたとふたりきりになるチャンスを探してたんです。姿を見せれば、追ってくるって思ってました。ちょうど宿のほうで、なにか騒 ぎがあったようですけど......」
と、彼女は宿のある方向を気 配 で示した。
「どうやら緊 急 事 態 みたいですね。今にも帰りたいんじゃないですか? でもわたしは、一晩中、こうしていたって構 わないんです」
「......風 邪 ひくぞ」
オーフェンは低くつぶやいて、慎 重 に彼女の言葉を待った。おおむね、予想通りのことを彼女が言ってくる。
「取引の話をしていましたね。わたしは姿を見せましたよ? しかも、あなたの命を握 っているおまけ付きです」
「......なにを要求してくるんだ?」
「エドを探す手伝いを、頼 むつもりでした。あと、わたしにきちんと戦 い方を教えること──でも」
彼女の喉が、ごくりと唾 を呑 むのが見えた。それと同時に、切っ先がほんのわずか、前進したようだったが、彼女が意 図 してのことなのかどうかは判別できなかった。
「でも、それより気になることを言ってましたよね。どういう意味ですか? エドに会わないのが最善だって」
「剣を持って殺し合うつもりのふたりが再会するべきじゃないなんてのは、世 間 一 般 的 にごく当然のことだろが?」
「ごまかさないでください──あなたは、違うことを言おうとしてたみたいでした」
今度こそ完全に意図されて、切っ先が一段階近づいてくる。
迷 うほどのこともない......
頭の中で、何者かが囁いた。彼女には知る権利がある。
が。
オーフェンは、ゆっくりと口を開いた。
「その剣の銘 、知ってるか?」
「え?」
きょとんと、聞き返してくる。この状 況 で質問をはぐらかすのは、危険だったかもしれないが──いっぱしの剣士なら、剣の話題を持ち出されて、まるっきり興 味 を持たないこともないだろう。特に、自分が極 端 なアドバンテージを握って余 裕 がある状態ならば。
彼女が怒 り出すよりも先に、オーフェンは先を続けた。
「スレイクサースト。伝説では、ある名 工 が、根っからの殺人狂としてあちこちから手配されていた剣士に与えたものだそうだ。そのままさ──『これにより渇 きを癒 やせ』って言い添 えてな。その剣士は、喜んで渇きを癒やそうとした」
「............」
「だが結果を先に言えば、彼はその剣を手にしてから、一度として人が斬 れなくなった。どうしてだと思う?」
「......改 心 したから?」
ぽつりと、ロッテーシャが聞いてくる。
オーフェンは軽くかぶりを振った。
「その剣は、純 粋 に、その剣士のために鍛 えられたものだった。重さ、バランス、柄 の太さまで彼の指の長さにきっちり合わせて作ってある。刃の曲線、厚みも、その剣士が最 も好 んだ太 刀 筋 を最大限に活 かすよう設計されていた。名工は、その剣士が斬 った死体をひとつひとつ丹 念 に調べ上げ、完 璧 なものを造 り上げたんだ」
と──笑う。
「剣士は、自分の技 の完全な理解者がいることを知って、もう十分に渇きが癒やされたんだよ」
「......それが......どうかしたっていうんですか?」
分からない様 子 で、彼女がつぶやくのが聞こえた。
それに応 えて、うなずいてやる。
「彼は偉 丈 夫 だった。軽量に見えるようで、その剣は重い」
オーフェンは、静かに告 げた──心持ち、重心を下げてすぐに動けるようにしながら。
「......片手で支 えるには、そろそろ疲 れてきてるんじゃないか?」
「──っ⁉ 」
はっと、彼女の表情に危 機 感が広がるのが見えた。
迷わず、右に跳 ぶ。とっさに突 き出された剣が、左脇 をかすめていくのを見送りながら。
すれ違いつつ、ロッテーシャの横顔をオーフェンは観 察 した。怒 りか。単なる驚きか。ひとつの感情が人間を完全に支配するなどということがあり得るのならば、彼女が見せたのは、ごく純粋な焦 りだったのかもしれない。相手を殺すことも覚 悟 して剣を突き出したのだとは、考えたくなかった。
初 撃 さえ外 してしまえば、それまでだった。ロッテーシャが振り返ってくる。その目には躊 躇 があったが、彼女の動きは停 滞 しなかった。
「ああああああっ!」
獣 のように叫 び──
再 び、剣が振り上げられる。
その時までにはオーフェンは、拳 を固めて体勢を整 えていた。
斬りかかってくる彼女に、真 正 面 から応じる。踏 み出して床 を蹴 る。衝 撃 とはならず波として、その力は脚 から腰 を、腰から背中を、背中から肩を貫 いた。可能な限り速く、拳を突き出す。
──がっ!──
衝撃音は、彼女の声なき悲 鳴 に紛 れた。ロッテーシャの裸 の腹に埋 め込まれた拳が、腹 筋 の弾力で返ってくる。それと同じ力によって、彼女は後方に吹き飛ばされていた。からん、と乾 いた音を立てて、彼女の手から離れたスレイクサーストが床に落ちる。一 瞬 後には、身動きもできずに、彼女は床にうずくまっていた。
「............」
ふう、と息をついて、オーフェンはうめいた。
「息ができないようなら、床を叩 いてくれ。人工呼 吸 くらいならできる。悪いな──武器を持った相手には手 加 減 しないことにしてるんだ」
「......くっ......!」
彼女はこちらを見上げることすらつらそうではあったが、それでも額 に脂 汗 を浮かべながらぎらりとした眼 差 しを投げてきていた。とりあえず、それには気づかないふりをして、床に転 がっていた剣を拾 う。
見回して、鞘 を探 すと、壁 に立てかけてあった。それを取りにいくついでに、ロッテーシャの服と下着も拾う。
剣を鞘に収 め、それを小 脇 にはさむように抱 えると、オーフェンは彼女の衣服を持ってロッテーシャに近づいていった。この十数秒の間で回復できるようなダメージではないはずだが、彼女はなんとか呼吸を整えて、じっとしている。今は両腕 で身体 を隠 そうとしていた。その彼女に、服を手渡しながら、告 げる。
「着 替 えが終わったら呼んでくれ......もう逃げないでくれよ? 服を着る間もずっと見張ってなくちゃならないなんてのは、なんつーか、疲れるからな」
剣だけは持ったまま、その入り口から出る。
(いっそのこと......)
ぽつりと、オーフェンは胸 中 で独 りごちた。
(どこへでも逃げて、もう二度と現れないでくれと思わないでもないけどな)
それを言うならばむしろ、自分が逃げたいくらいだった。
(分かんねえな、しかし──)
額 に手を当てて、天 井 近くを漂 っている鬼 火 を見やる。目を刺 激 しない魔 術 の光は、瞬 きもしない。
(ロッテーシャ・クリューブスターか。彼女は、なんなんだ ?)
心の声すら沈 黙 する。ようやくオーフェンは、彼女のことを意 識 した──青ざめた決心の表情。こちらを見もせずに木 剣 を振る姿 。勝ち誇 って、剣を突きつけてきた時の顔。獣 のように叫 ぶ......
特に変わったところがあるわけではない。と思える。もっとも、世の中には変わった人間など存在しない。誰 もが、当然人間でしかない。仮に、他人から奇 異 に見えたとしても。何者にも理解できなかったとしても。
と──
背 後 に、足音を聞いた。振り返ると、着替えを終えたロッテーシャが手荷物を抱 え、じっと立っている。
なにを言えばいいのか。
オーフェンは、言 葉 を消 失 して視線をさ迷 わせた。とりあえず、聞く。
「......いっしょに来るか?」
ロッテーシャは、無 言 でうなずいてきた。疲 労 のせいもあるだろうが、表情はない。
とりあえず、続ける。
「君が正 気 でいられないことに関して、理解できないわけじゃない──さっさと立ち直れなんぞと、まさか言えないしな。ただ、君 がやってることはやつあたりみたいなもんだ。俺 たちに対するやつあたりだ」
肩をすぼめて立ち尽 くす姿は、彼女をさらに一回り小さく見せた。伏 し目がちにこちらを見ながら、ただ立ち尽くしている。
吐 息 してオーフェンは、肩をすくめた。
「はっきり言って、君の助けにならにゃならん理由も、君の助けになれる方法も、俺には思い浮かばない。それでも、君にいっしょに来るつもりがあるのなら、それでいいと思ってる」
「............」
彼女がうなずいたのかどうか、よく分からなかった──単に、身体 がふらついただけだったかもしれない。追及すべきではないだろうと、陰 鬱 に判断して、オーフェンはそのまま続けた。
「......せめて、クリーオウにくらいは謝 ってやってくれよな」
「はい」
ようやく、彼女が声を絞 り出してきた。
そして──
顔を上げて、表情を変える。どこか悲しく突 き放 して、ぽつりと、
「......あなたは、エドと同じです」
そんなことを、彼女は言ってきた。
「わたしに優 しくない」
◆◇◆◇◆
それはそれでいい。
不 器 用 としか言えないが、それでも収 まったのならばそれでいい。
こんな茶番を見ることが任務だというのなら、それを我 慢 する程度の忍 耐 は持ち合わせているつもりだった。忍耐。そう。それこそが必要とされたものだった。誰でも持ち合わせており、そして誰にとっても足 りないもの。
彼女は苦笑しながら、ふたりを見守った。あの男がビルに入っていった時には、最悪、〝ディーディー〟を使うことも覚 悟 したが、そこまでのことはなかったようだった。確かに報告通り、迂 闊 な男だが、その迂闊さをカバーできる程度の技量はあるらしい。これはむしろ歓 迎 すべきことだろう。彼女に要求されたのが忍耐であったように、彼に要求されているのは、まさしくそれだ──彼女は皮 肉 に苦笑した──迂闊さ。
『ふむ......なるほど君は彼を相応 しくないと言うが』
脳 裏 に蘇 る声に、彼女は耳を傾 けた。何度となく傾けてきたように、今も。
『ならば聞こう。君に、迂闊なことができるかね ?』
人間にできることなど、たかが知れている。運命を変えることすらできない。ならば。むしろ人には、欠点を要求すべきなのだ......
「なんにしろ」
建 物 から出てきたふたりを確 認 しながら、再 び身を隠 す。
「死ぬのなら、あたしが叱 られずに済 むような死に方をして欲 しいものね」
口の中で独 りごち、彼女はそのまま闇 に沈 んだ。
「......なんだ、こりゃ?」
自然と口から漏 れるつぶやきを聞いて、オーフェンは自分自身、ようやくその疑問を自 覚 した。
それは異常といって、これ以上ないものだった。
宿 が、ねじ曲げられている。
明らかに凄 まじい力が働いたことは考えるまでもない。それこそ巨人に軽くひねられたとばかり、その宿は斜 めにひしゃげ、変形していた。壁 も柱 もぐしゃぐしゃに砕 けながら、なお原形だけは保 っているところを見ると、その変形が一 瞬 のことだったか、あるいは極 端 にゆっくりだったのか。なんにしろまともな状 況 でないのは確かだった。
ぽかんと口を開 けて、ロッテーシャも絶 句 している。
オーフェンはとりあえずあたりを見回すと、抱 えていた剣を持ち直した──すぐ抜 けるように。
しばらく前に、この近 辺 で放 たれたに違いないあの魔 術 の爆発を思い出す。あの爆発と、この現象とは直接関係なかったろうが、関 わりがないということもないだろう。だとすれば、この場所で、あれだけの魔術を用 いての戦 闘 が行 われたということになる。
宿は入るまでもなく、無人と知れた──仮に中に人がいれば、建 物 に加わった衝 撃 からして、文 句 なく即 死 だったろう。
(............)
頭に浮かんだことがあり、オーフェンは舌 打 ちした。
(あの爆発......タイミングからすれば、クリーオウとマジクが宿にもどった頃 に起こったはずだよな)
この破 壊 された建物の中に、ふたりがいる可能性もある。
「あの......」
唐 突 に、ロッテーシャが声をあげた。宿を指さし、聞いてくる。
「なんですか? これって......」
「俺 が、なんだこりゃと言ったの聞いてなかったか?」
嚙 みつくようにうめいて、オーフェンはその宿から視線を外 した。
「言っておいてやろうか? こいつが、君 の言った──〝なにかの緊 急 事 態 〟だ。ひょっとして、君のことなんざほっといて急いでもどれば、間 に合ったかもな。なにが起こったのかはさっぱり分かんねえけど」
それだけをまくし立てるように告 げる。ロッテーシャが、はっと顔色を変えるのが見えた。夜は相 変 わ らず暗いのだが、それでも分かるほどに。
「そんな」
彼女は肩を落とし、よろめきながらうめいた。
「......だって......わたし、こんなことになってるなんて」
「............」
しばらく、彼女の声を聞きながら──
オーフェンは、嘆 息 して認 めた。関係ない。どのみち、爆発が起こった時には、ここから離れすぎていた。急いでもどったところで、関係なかったろう。そのことが分からなかったわけではないが、どうしてもそれをわざわざ言ってやるつもりにはなれなかった。
「まあいいさ」
つぶやいて、夜道を見回す。あたりには人影ひとつ見あたらなかった。これだけのことが起きれば、野 次 馬 がいてもおかしくないはずだったが。
「とりあえず、中に入ってみるよりないだろうな」
「......大 丈 夫 なんですか?」
「さあな」
天を仰 いでからオーフェンは、一 呼 吸 して、彼女に向けて、剣の柄 を差し出した──視線を下ろすと、ロッテーシャは意外そうに、こちらの顔と剣とを見 比 べている。
肩をすくめ、告げる。
「悪いが、できる範 囲 で、自分の身は自分で守ってくれ。正 直 、これだけのことができる奴 を相手にして、他人を守る余 裕 はない」
と、宿の建物を示 す。
彼女は無 言 のまま、剣を受け取った。それを抜 かずに携 えると、じっと、こちらの指 示 を待つように見つめてくる。
目をそらすような気分で、オーフェンは視線を転じた。宿の入り口には、扉 がなくなっていた。ちょうつがいのところで引きちぎれて、建物の内側にめり込んでいる。外からのぞく限りでは、内装もめちゃくちゃになっていた──まるで建物ごと振り回したように。
「あの」
ロッテーシャが、おずおずと声をかけてくるのが聞こえてきた。
「......クリーオウと、マジク君......ここにいるんですか?」
「いないと思いたいな」
即 答 する。
ひいきめに見ても、もしここまで破 壊 されたこの建物の中にとどまる理由があるとすれば、そこから出られないか、死体になっているかどちらかだろう。
それを理解したのか、ロッテーシャは続けて聞いてはこなかった。彼女の顔は見ないまま、オーフェンはつぶやいた。
「はぐれた場合、一応、落ち合う場所については決めてある。だから俺としては、この宿にふたりがいないことを確 認 したいだけだ」
「はい」
「この宿がこんなことになった理由については、興 味 ないわけじゃないが、さほど重要でもない。ふたりに会うことができりゃ、多分分かることだしな」
「はい」
「言うまでもなく、最大に優先すべきなのは自分の身の安全だ。それは君も同じ。間 違 っても、俺のフォローをしようなんて思うなよ」
「はい」
テンポよく、彼女がうなずいてくる。
それに関しては満足し、オーフェンはうなずき返した。宿の入り口を示して、
「じゃあ、行くぞ」
慎 重 に足を踏 み入れる。
その一歩目の足音だけが暗 闇 に響 いた。
崩 れかけた床 が、不安定に沈 む。内部はまさしく崩 壊 していた──ひっくり返ったテーブル、椅 子 、食 器 棚 。割れるものはすべて砕 け、あちこちに散らばっている。割れた床の間にガラスの破 片 でもはさまっているのか、じゃり、と耳 障 りな囁 きが聞こえてきた。闇と静 寂 は静かであれば静かであるほど、雄 弁 になっていく。
手のひらににじんだ汗 を指でこすって、オーフェンは息をひそめた。気 配 を消すことにどれだけの意味があるのかといえば、まったくなかっただろう。が、自分の存在を殺すことが正しいと思われるなにかが、この闇にはあった。
「............」
その感 覚 は知っている。嫌 な味を喉 の奥に感じて、オーフェンはロッテーシャのほうを見やった。彼女は少なくとも外見上は落ち着 いたふうで、鞘 に収 まった剣を抱 えたまま、ほとんど足音も立てずについてきている。彼女のほうが体重が軽いせいだろう。気配を消すことに関しては、彼女のほうに分 があるようだった。
「あの......オーフェン、さん......」
おずおずと、ロッテーシャが呼びかけてくる。
ふと、彼女が自分の名前を呼ぶのはこれが初めてのような気がして、オーフェンは場違いに苦笑を覚 えた。なんにしろ、彼女の言 葉 を聞く。
「中に向かって呼びかけるんじゃあ、駄 目 なんですか? 小さな建物ですし......」
「そうしたって構 わない。が、ふたりが声を出せない状態になっていることも、一応考えないとな。呼びかけて、返事があっても中に入っていくしかないし、返事がなくても入っていくしかないのなら、同じことさ」
と、一 拍 おいて付け加える。
「......まあそれでも、呼びかけたっていいんだ......実際、呼びかけるべきだな。だが、くそ......なんなんだ?」
なにか本能的に、それをさせようとしない雰 囲 気 を感じる。
ため息をついて──オーフェンは、つぶやいた。
「なあ、ロッテーシャ」
「はい」
「エドを探 す方法をひとつ教えておいてやる」
「......え?」
彼女は驚 いたように、目をぱちくりさせた──抱えていた剣をずり落としそうになりながら。
彼女に、続ける。
「この空気を覚えておけよ。あいつがなにかをした場所は、これと同じ空気になる」
「............」
わけが分からず、返答もできないロッテーシャには構わず、オーフェンは今度は足早に奥へと進んだ。もとは、厨 房 かなにかだったのかもしれない──ここまで壊 れていては定 かではないが。斜 めになった扉 を、オーフェンは適当に押し開 けた。中をのぞき込む。
と。
「......これと同じになるんだよ」
後ろから、ロッテーシャも同じものをのぞこうと首を伸 ばしてくるのを感じた。彼女が小さく、悲 鳴 をあげる。
そこに倒れていたのは、人間だった。宿の主人だった男だろう、恐 らく。
確証がないのは、それは個人というよりは単なる男であり、人間というよりは人間大の死体としか言いようがないほど、破 壊 されていたせいだった。
宿を襲 った衝 撃 とは、別物だろう──もっと直接的に、鈍 い刃 物 でずたずたに引き裂 かれたかのように、皮 膚 が剥 がれている。獣 の爪 痕 というのが、一番近いかもしれない。硬 直 して動けないロッテーシャを、オーフェンは背中で押しもどした。彼女は手を口に当て、肩を震 わせている。見開いた目に、涙 がにじんでいるのが見えた。
「どういう......ことなんですか?」
彼女の声は、なかば嗚 咽 と化していた。
「エドが、これをやったっていうんですか?」
「いや。あいつなら、こんな無 様 なまねはしないだろ。意味もなく人殺しなんてまねをするような奴 じゃ──」
言いかけて、口をつぐむ。
実際に彼に殺されかけた人間を前にしてでは、かぶりを振るしかなかった。
「ただ、あいつによく似 た奴が、やったんじゃないかと思うよ」
「心当たりが?」
「あるとも言えるし、ないとも言える」
「............?」
「これだけ大 事 をしでかしてくれるような奴が、単なる通りすがりの破 壊 魔 ってこたぁねえだろ。間 違 いなく、心当たりはあるはずさ──なんらかの形でな」
オーフェンはそれだけ言うと、舌 打 ちした。
「くそっ!」
転 がっていた椅 子 の脚 を蹴 って、建物の奥へと向き直る。
「なんなんだ、このタイミングは⁉ 」
「タイミング......?」
聞き返してくるロッテーシャに、オーフェンは視線を向けた。
「俺 たちは、たまたま今日 、この街 に着 いた」
「......はい」
「たまたまクリーオウが街 道 で倒れて余 計 な時間がかかったし、今日じゃなくて昨日 着いたとしても、明日 着いたとしてもおかくしなかった」
「............」
こちらの言おうとしていることを察したのか、ロッテーシャが押し黙 る。だがオーフェンは構 わずに続けた。
「たまたま君 が、こっそり抜 け出してそれを探 し回った。たまたま俺は、ふたりだけを先に宿にもどした。そうしたら、たまたまこの宿がこんなことになったってわけだ。どういうことだ? 誰 かが俺たちを監 視 していたとしか思えないじゃないか」
「でも、誰がそんなことを──」
「わからねえよ! だいたい、なんで俺じゃなくて、あのふたりなんだ──クリーオウとマジクの奴 を、わざわざこんな大げさな方法で襲 う理由ってのは、なんなんだ⁉ 」
「まだ!」
こちらに合わせてか──ロッテーシャの声も、トーンが上がる。
彼女はほとんど叫 ぶようにして、言ってきた。
「まだ、あのふたりが巻き込まれたかは分からないじゃないですか」
「............っ!」
それは衝 動 としか呼びようがない──
しかも、意味のない衝動としか呼べなかった。それ以外の呼び方をすると、それは現 世 より高 次 なものを認 めなければならなくなる。
あるいは、そうであっても良いのかもしれないが。
オーフェンは頭の中になにかが弾 けるのを感じた。蹴 飛 ばすようにして、その場を駆 け出す。目 指 したのは二階への階段だった。やはり崩 れかけ、裏 表 がひっくり返っている階段を、全力で駆け昇 る。ブーツのつま先が、折れた板を何枚も踏 み抜いたが、オーフェンは気にせずただそこを駆け昇った。二階の床 も損 傷 がひどかったが、一気に駆け抜け、ひとつの扉 を目指す──
その扉だけは、無 事 だった。それは偶 然 だったのだろうが。
クリーオウが泊 まっていた部 屋 。
オーフェンは、無 言 でその扉を蹴り開 けた。
ちょうつがいが弾 け、破 片 のひとつがほおをかすめる。オーフェンは痛みに目を閉じ、そしてすぐに見開いた。部屋の真ん中に、ぽつんと座 り込んでいる人影を視界に収 めるために。
彼女はまるで、水 辺 に座る乙女 のようだった。
というより、その絵 画 というべきか。
ひざをたたんで、背 筋 を伸 ばし、柔 らかく手を置いて、前方を見つめている。真 っ直 ぐに伸びた視線は──なにも捕 らえてはいなかった。ただ目の前を見ているだけ。瞬 きすらしていない。艶 やかなブロンドはそのまま背中を包 み、血だまりにその先端を浸 している。
床に座った彼女のひざの上に、目を閉じた少年の頭があった。ずたぼろに切り刻 まれた、やはり金 髪 のその少年は、ぐったりと力を抜 いて、全身から血が流れ出るに任 せている。それは水遊びを連想させた。
冷静に。
そんな言 葉 が、どこからか聞こえてきた。衝 動 に逃げてはならない。見えたものを信じてはならない。目にした事実は、ひっくり返し、丹 念 に調べ上げ、確 認 し、初めて真実となり得る。
オーフェンは、ゆっくりと息を吐 いた。肺 から空気がなくなっても、なお。浮かんでくるのは、自分に警 告 を必要とした衝動でも怒 りでもなく、それが自分自身にも意外でならなかった。
その少女は、クリーオウだった。そのことを時間をかけて、自分に納 得 させる。
彼女がひざに抱 いているのは、マジクだった。これを理解するのにも、時間がかかった。
と──
悲 鳴 が聞こえた。背 後 から。
振り返るまでもない。ロッテーシャだった。追いかけてきて、そしてようやく追いついたのだろう。彼女はひきつったような声を、二度繰 り返した。
「なんで──なんで──⁉ 」
「............」

それは意 識 の外に響 きわたる音に過ぎなかった。声として、言葉としては意味を成 さない。オーフェンはただ黙 して観 察 した。悲鳴が響きわたっても、クリーオウの視線はまったく動かない。胸 がかすかに膨 らみ、しぼむ、わずかな呼 吸 の動作のほかは、すべて放 棄 してしまっている。
わずかに開いた唇 。そこから涎 が垂 れている。
「............」
彼は、静かに独 りごちた。
「なんで──いないんだ?」
「ふたりともいます!」
叫 んできたのは、ロッテーシャだった。錯 乱 しているのかもしれない。こちらの肩をつかんで、強めに揺 さぶってくる。
「分からないんですか──ふたりとも、ここに!」
「いないのは、おかしいんだ」
彼女の手を振り払って、オーフェンは続けた。部 屋 を見回す。部屋の中は、宿 のほかの部分と同じくめちゃくちゃになっていたが、そのどこを見ても、目的の姿 は見当たらない。
「オーフェンさん──」
「レキの奴 がいないんだ。なぜいない⁉ 」
とうとう叫ぶ。
拳 を握 って、彼は続けた。
「ディープ・ドラゴンだぞ......あいつはいつだって、クリーオウを守ってたんだ。それが、どうして」
「──誰だって、どうしてと叫ぶんだ。さて、俺はどうしてと聞き返す。死ぬ時くらい、どうして静かにしていられない?」
「............!」
声には、聞き覚 えがあった。向き直る──
マジクが顔を上げていた。いや、それは明らかに、知っている少年ではなかったが。
床 に寝そべったまま、身体 にいくつもの傷を開 けたマジクが、人間としての骨 格 を無 視 した角度で、じっとこちらを見つめてきている。その瞳 が、いつもとは違う、鮮 やかな原 色 の緑 に輝 いた。
刹 那 。
ほんの一 瞬 の変化だった。するり、と少年の身体が変形し、蛇 のようにクリーオウの身体に巻き付いた。そのまま流動体じみた動きで、しかし重力に逆 らいながら上 昇 し──まったく動きを見せないクリーオウのすぐ隣 に、また人型にもどって現れた。くたびれたスーツ、どこか、よろっとした角度で立って、乾 いた瞳 でこちらを見 据 えてきている。
ただし、その右腕 だけは、軟 体 生物の触 手 のように、ぐるりとクリーオウの首に巻き付いたままだった。
「......ヘルパート......」
そのレッド・ドラゴン種族の殺し屋の名前を、オーフェンは喉 から絞 り出した。とっさに右手をあげるが──
「やめておいたほうがいい。この娘 は本物だ。心はどこかに行ってしまったようだがな」
ヘルパートの発してきた冷たい声 音 に、動きを止める。
相手を視線で貫 いて、オーフェンはうめいた。
「なにが目的だ......マジクはどこにいる」
「宣 言 だ」
「......なに?」
「目的だよ。聞いただろう。宣言するために、俺はここにいる」
「なんの宣言だ」
オーフェンは嚙 みしめるようにゆっくりと、聞いた。ロッテーシャは、事 態 が把 握 できないせいか、なんの動きも見せていない。剣 を抜こうともしていないことには、安 堵 を覚 えた──まったく無 駄 であるどころか、害にしかならない。できれば、それを自 覚 して抜 刀 しないでいるのであって欲 しいが。
そうでなかったとしたら、落ち着いた瞬 間 、斬 りかかりかねない。
そのことを意 識 しつつ、彼は続けた。
「言ってみろよ。なんの宣言だ?」
ヘルパートは、にやりとすらしなかった──ただ横に広がった口を歪 めて、深い声で喉を震 わせるだけ。彼の返事は一言だった。
「滅 びる」
「......俺がか?」
「いや、この街 が」
「アホか?」
即 座 に、言い返す。呆 れる思いで、オーフェンは顔がひきつるのを感じた。
「大陸四大都市のひとつだぞ──アーバンラマ市。どれだけの人口を抱 えてると思ってんだ? 北側には、魔 術 士 同 盟 の支部もある。武器も豊 富 だ。市民はほぼ全員、兵 役 を経 験 してる。まあ、少なくとも建 前 ではな」
鼻 で笑って、続ける。
「聞かせろよ。どうやって滅 ぼすって?」
「滅ぼすなどと言っていない。だが結果として、滅びる。我 々 が決戦すれば」
「......なんのために、ンなことを」
「ライアンによれば、それが必要だからということになる」
「ライアン?」
聞き返したのは、ロッテーシャだった。知った名前が出てきて、驚 いたのだろう。
一歩踏 み出して、堰 を切ったように、まくし立てる。
「クリーオウから......聞いたわ。剣を奪 って持っていったのは、彼だって。これにはライアンが関係してるの? 彼はどこにいるのよ」
「......俺は宣言した......」
ヘルパートは、まったく無 視 する形で、それだけをつぶやいた。そして、再 び瞳 を緑色に輝 かせると、ぐにゃりと変形して床 の隙 間 に沈 んで消える──一瞬で。
「くっ!」
追いかけようかと、反射的に身体 は動くが、どうしようもない。今からどう追っても、もう相手は建 物 の外に逃げ出しているだろう。もとより、床に開 いたわずかな穴からあっさりと抜け出してしまうようなモノを、追 跡 する手段などあるはずもない。
それよりもオーフェンは、クリーオウに駆 け寄った。彼女は今なお忘 我 の眼 差 しで、ただ虚 空 の一点を見つめている。床が振 動 したせいだろうか。わずかな揺 れが、力のない彼女のバランスを崩 した。音もなく、蛾 が落ちるように、仰 向 けに倒れる。
「クリーオウ!」
触 れた指が怯 むほどに軽い彼女の身体 を抱 き起こして、オーフェンは呼びかけた。まったく反応はない。見た限り、外 傷 もないようだが。
「クリーオウ! 起きろ! くそ、心がどこかに行っちまうだと? ンなことあるか!さっさと起きろよ。なにが起こったんだ⁉ マジクはどこだ!」
と──
「オーフェンさんっ!」
せっぱ詰 まったロッテーシャの叫 び声が響 いた。同時に、みしっと、建物が大きく軋 む。
「......崩 れる⁉ 」
それは声に出して言うまでもなく、知れたことではあった。支 柱 もなにも失 っているであろう壁 と床が、限界を越えてもとの形を保 てなくなっている。ヘルパートが床を貫 いて退場した時に、なにかをしていったのかもしれないが......
なんにしろ、それを考えても意味がなかった。クリーオウを抱きかかえ、叫ぶ。
「我 は放 つ──」
一瞬で構成を編 み上げ、展 開 する。力に満ちた空間を引き裂 くように、彼は右腕 を掲 げた。
「光の白 刃 っ!」
空間の一点に光が集まり、そして逆に膨 張 する。
爆発する白い輝 きが、部 屋 の中を満たした。視界すべてを埋 め尽 くすような光の中で──その閃 光 の奔 流 が、一方へと加速する。熱 衝 撃 波 が轟 きながら、天 井 と、その上にあるものの大半を吹 き飛ばした。その衝撃が、建物の崩 壊 に最後の一押しをする。
あとは、落 下 感 だった。二メートルほどか──下にがれきが積 もることを考えれば、それほどの距 離 を落ちたはずはないが、体感したのは長時間の恐 怖 だった。悲 鳴 もなく、ただ崩れる床 の上でなんとか体勢を保つ。ぐにゃりとしたクリーオウの身体を支 えて、オーフェンは目を見開いていた。
すべてが終わると。
彼は、ばらばらになった宿の残 骸 の上に立っていた。首を仰 け反 らせたクリーオウを抱 え直し、あたりを見回す。ロッテーシャも無 事 のようだった。床に手をついて、こちらを見上げてきている。
「な、なにをしたんですか......? さっき」
「屋根を吹き飛ばしたのさ。生き埋めにならないように」
つぶやいて、オーフェンは天を見上げた。薄ぼんやりとした夜空。風が吹くとも、この街 の空は晴れない。
「滅 びる......だと?」
独 りごちる。
「なぜ......なんのために......どうやって......?」
どの疑問にも、答えが出そうにない。
オーフェンは、長く吐 息 した。足を引きずって、その場を離れようとする。あたりにはいまだひとけがない。ここまでの騒 ぎが起きて、見 物 人 のひとりもいないとなると、何者かが近辺の人間をすべて遠ざけたとしか思えなかった。
(まあ、あのヘルパートとかいうドラゴン種族なら、簡 単 なことだろうな......)
彼の姿 もない。
しゃくに触 るが、それは感 謝 すべきことなのだろう。
(あいつと決着をつけるなら、俺ひとりでないと駄 目 だ。誰かを守りながらじゃ、絶対に戦 えない)
静かにオーフェンは、それを認 めた。
「あの......」
呼びかけてきたロッテーシャに、振り向く。と、彼女は近寄ってきて、クリーオウをのぞき込んだようだった。白い眉 間 に、不安そうなしわが寄る。
「クリーオウ......どうしたんですか?」
彼女にならうように、力なくもたれかかってくる少女の顔を見やる。まったく変化はない。あれから一度もまぶたを閉じもしていないのではないかとすら思えた。
すうっと──心が冷えるのを感じる。
オーフェンは、かぶりを振って答えた。
「分からん。ただ、まともな状態じゃない。ただのヒステリーだか、気絶してるだかじゃないのは確かだ。医者に連 れていく必要があるな。くそ、このがれきの中から、荷物を探 し出さねえと......いや、見つけられたとしても駄目か。金がない」
「あの、わたし、少しは持ち合わせがありますから──」
と、小型の鞄 を差し出して言ってくる彼女に、向き直る。
なにか反射的に、反論しようかと口が動きかけたが──ぎりぎりのところで踏 みとどまって、オーフェンは目を伏 せた。うめく。
「......すまない。借 りることになると思う。どのみち、医者に連れていって分かるものかどうかも定 かじゃないんだが」
あとは、ゆっくりと歩いた。がれきの中からなんとか抜け出して、暗くすさんでいようとも、まだしも安全な路上に出る。
「さっきの......男?」
ロッテーシャは動 揺 のせいか、黙 っていることができなくなってしまったらしい。忙 しなく視線を転々とさせながら、早口で聞いてくる。
「マジク君だと思ったのに、いきなり......変身して。なんなんですか、あれは?」
「ドラゴン種族──まあ、人間が知らないだけで、ああいう怪 物 は実在するってことだろ。もっと詳しく説明もできるが、その余 力 はないな。マジクの奴 も、結局行方 不 明 だ。いったいなにがあったんだか、それすらも分からないとはな」
「探 しに行かないと」
「さっきも言ったが、落ち合う場所は決めてある。それとこれも言ったが、最優先すべきは自分の安全だ」
「ほうっておくっていうんですか⁉ 」
「エドと戦うために、俺と同じ力を手にいれたいと思っているのなら!」
オーフェンは、とうとう声を荒らげた──彼女をにらみ据 え、怒 鳴 りつける。
「それが必要だと、今でもまだ思ってるのなら、まずは俺のやり方を信じろよ。それができないのなら、君の好きなようにすればいい」
「............」
それを持ち出されるとは思っていなかったのだろう。殴 られた時と同じように──実際、同じような顔をしていたかもしれない──ロッテーシャが黙り込む。
その彼女からすぐに顔をそむけ、背を向ける。実際は、目を見られたくないせいだった。舌 打 ちする。毒 づく。
(探せば見つかるかもしれない......そこらの路 地 で隠 れてるのかも。ひょっとしたら、今踏 み越 えてきたがれきの下に埋 まってるのかもな)
夢 想 ならば、いくらでもできた。が、現実は別だった。それは手の中にある動かない少女の身体 であり、また疲 れ切った自分の限界でもある。ヘルパートが嫌 みたらたらに変身していた、血だらけになったマジクの死に顔を思いだし、それもまた現実のひとつとして付け加えなければならないことも分かっていた。死んでいる可能性の高い弟 子 を探し回って、相手が与えてくれた時間──どういう理由かは分からないが、警 告 を与えたうえで放 置 された時間──を無 駄 にするわけにはいかない。クリーオウを安全な場所に運び、自分も休まなければならない。できるなら、身を隠さなければならない。
(それに......)
オーフェンは、唇 を嚙 んだ。
(あいつには、もう教えはじめたんだ。戦 い方なら。少なくとも、逃げ方くらいは)
ほんの数週間のことでしかないが、これまで教えたことを活 かせないような弟子なら、これから教えるつもりだったことも活かせないだろう。
「訓 練 を受ける......ってことは」
小声でつぶやく。ロッテーシャに聞こえるかどうかは分からないが、仮に聞こえなくともそれは構 わないと、彼は苦笑した。しょせん言い訳 に過ぎないことは自 覚 している。
「学 んだことを身に着 ける責任を負 うってことだ。自分の面 倒 を自分で見るっていう宣 言 だ。そうやって魔 術 士 は、生きてきたんだ......」
ロッテーシャの返事はなかったが、聞こえただろうという気がした。あるいは、彼女がなにも言ってこなかったせいで、そう思えたのかもしれないが。
なんにしろオーフェンは、視線を上げた。人間ひとりを運んでいるせいで、自然と足 下 を見ていたらしい。行く手を見 定 めようとし、そして......その視界の中に、人影を発見した。
さっと、身 構 える──大げさになにをするというわけではないが、相手を見 据 えていつでも地面に倒れ伏 すことのできる体勢を作る。クリーオウを抱 えたままではさすがに大きく移動することはできないため、せめてもの次 善 策だった。その代 わり、反撃には手 加 減 の余 地 もない。最大限の力で魔術を放 つ覚 悟 をしておく。
が、数秒。
「......あんたは?」
虚 を突 かれて、オーフェンはうめいた。
彼女──ウィノナは、例の巨大な荷物を右肩に背 負 って、野性的な印 象 の笑みを浮かべてみせた。肩の筋 肉 に食い込んだ鞄 の紐 を直しつつ、崩 壊 した宿 のほうを示 し、口 笛 を吹 く。
「なんともまあ......なにが起こったんだい?」
「無 事 だったのか」
「まあね」
彼女は、気楽なものだった。すたすたと大 股 で近寄ってくると、それが当然なことなのかもしれないとこちらにも思わせるほど無 造 作 に、クリーオウの身体を受け取ろうと手を伸 ばしてくる。
「......預 けなよ。あんた、今にも倒れそうに見えるよ?」
「............」
躊 躇 はする──が、選 択 の余地はなさそうだった。膝 に力が入らない。
「頼 む」
彼女の腕 にクリーオウの身体を託 して、そのまま脱 力 し、オーフェンはその場に座 り込んだ。見るとウィノナは器用に左腕だけで、少女ひとりを抱きかかえている。
「......変な男に、宿の部屋追い出されてね──しばらく外をぶらついてろってさ。でも」
と、軽く肩をすくめ、
「善 意 からの忠 告 だったと受け止めておくべきなのかもね。どうやったら、あんなふうに建 物 をぶっ潰 せるのかしら?」
「まるで、善意だったら許 せるとでもいうような言い方じゃないか? くそ、いったいなにが起こってるんだか......」
吐 き捨 てるように、うめく。
「......あのさ」
彼女は、ふっと笑って、言ってきた。
「あたしが全部説明してあげようか?」
「......え?」
分からずに、顔を上げる。と、彼女はこちらを見てはいなかった。動かないクリーオウの顔を眺 めて、あとを続けてくる。
「旅行が趣 味 なの。いろんなものを見てきたわ。多分、あんたより多くのものをね。人を見るとね、そいつがどんなやっかいごとに巻き込まれてるか、ぱっと分かるの。そういうもんよ」
「はっ......」
彼女の冗 談 につきあうつもりにもなれず、オーフェンは突 き放 した。座り込んだまま、拳 だけ固める。
それが最後だった。意 識 を失 う一瞬前に、声が聞こえてきた──
「旅行が趣味なの......多分、生 涯 の趣味ね......」
意識が暗転するに任 せ、オーフェンは心 地 よい闇 へと飛び込んでいった。
朝になっても誰 も帰ってこないことに関して、そんなことは関係ないと思う自分と、そうでない自分とがともに相 反 せずに存在した。そのこと自体は、どうということはない──心には、常に相反するふたつの考えがあるべきだ、少なくともわずかなりと知性があるのなら。相反しない知性などは存在しない。
もっとも、これに関しては、それほど大げさなことでもなさそうだった。ドーチンは、タンスの引き出しに上半身を突 っ込んでなにやらごそごそ物 色 している兄 を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
「......あのさ、兄 さん」
「なんだ?」
わけの分からないがらくた──壊 れた玩具 が多い──を外に放 り出しながら、兄、ボルカンが聞き返してくる。見たところ、作業に夢中になっての生 返 事 というふうだった。
まあそれでも、返事は返事だ。あきらめて、あとを続ける。
「思うにこれは、ものすっごくまずいことだと思うんだけど......」
「そーか?」
「だいたいこれって、空 き巣 っていうか、もっとひどいもののような。えーと、そうだ。恩 知 らずっていうのかな」
「ふむ?」
興 味 を示したような声に、ドーチンはぱっと顔を上げたが──兄の姿 を見て、また嘆 息 した。ボルカンは引き出しの奥から、玩具の宝 石 箱 を見つけて、それに歓 声 をあげただけらしい。
宝石箱は蓋 がねじれて閉 まらなくなっているようだったが、鍵 だけはきちんとかかっていた。がりがりと、歯を立ててそれを開 けようとする兄に、ドーチンはぼんやりとうめいた。
「あの人たち、今にも帰ってくるかもしれないんだしさ」
「そうは言ってもだ、ドーチン」
と──
ボルカンは、いったん箱を開けることはあきらめ、なにやら小 難 しそうな表情をして、指を立ててきた。もっともらしく口を開くが、兄に関しては、もっともらしい時にもっともらしかったことなど、一度としてなかったような気はする。
「今回、俺 様 の弟 子 として特別に入 門 させてやった、あのキャベツだが──」
あのライアンとかいう男のことだろう。確かにキャベツ色の変なタイツを着ていた。兄が人間の名前を覚 えることなどまずもってない。
「大事な大事な大事な大事な師 匠 をほうっておいて、夜 間 に外出。朝 飯 も用意しとらんとあっては、どー考えてもまあ、三角コーナーにうっかりカビ生 え殺されたとしても仕 方 あるまい。とゆーか勝 手 になにか食べて良し。かくして、時代は奴 ではなくこの英 雄 ボルカノ・ボルカンを選んだわけだ」
「............」
よくは分からないが自信たっぷりに言って、ボルカンは再 び玩具の箱を開きにかかった──どのみち、そんな壊 れた玩具をこじ開けたところで金 や食べ物が出てくるとは思えなかったが。
それは言わず──共犯者にはなりたくなかった──、ドーチンはため息をついた。散らかった部 屋 の中を見回して、陰 鬱 な気持ちになる。これを片づけるのは、誰の役目なのだろう?
教会の中は無人だった。その主 も、ライアンもいない。あの黒い服の男は前に出ていったきりだし、ライアンも、夜になる前には出かけていった。どちらの行 方 も分からない。どこかへ連 れてこられて、あとはほったらかし。人間種族の世界に足を踏 み入れてからは、この繰 り返しだったようにも思う。
結局ここにいても陰鬱な気分をエスカレートさせるだけと悟 り、ドーチンは部屋を出ようと、きびすを返した。物 色 に夢中の兄を背 後 に、散らかった床 をふらふらと、足場を探 しながらなんとか抜け出す。
廊 下 は、どよんとした空気がまだ消えていなかった──朝日とともに払 拭 されるべきなのだろうが。汚 れた窓 からは、汚れた朝日しか入ってはこない。
この建 物 は、どこもかしこも同じだった。どこも適当に汚れており、ガタがきているが、それなりに住める程度にはとどまっている。教会と呼んでいたが、それらしいところといえば屋根の上の偶 像 くらいなものだった。いや。
廊下を道なりに進んで、ドーチンは思い直した。もうひとつある。
たいして急ぐつもりもなく、ドーチンは廊下突き当たりの扉 を開けた。薄い扉が、がたがたと音を立てながら道を開ける。そこは広間になっていた。向こうの壁 には、両開きの扉が見える──そこはこの建物の、最 も大きい出入り口だった。扉は今では、片側しか開かないらしいが。
広間は、かつては礼 拝 堂 のように使われていたのだろう。ドーチンが入っていった側、つまり建物にとっては奥になるほうは、ちょっとした舞 台 になっている。それだけといえばそれだけで、あとは床の上に、机 や椅 子 、ひょっとしたらオルガンや偶像があったのかもしれない無数の跡 が残っているだけだった。ぐるりと並んだ窓は、やはり汚れている。その光景は、使われなくなった倉 庫 か、取り壊 しを待つだけの廃 屋 の中を思わせた。朝日に無数の埃 が浮かんで、きらきらと輝 いている。美しくもなんともないきらめきだが、きらめきには違 いない。
(きっと、借 金 だろうな)
なんとなく、ドーチンは想像した。マントの中で腕 を縮 めて、虚 しくかぶりを振る。
(こういう建物の維 持 にはお金がかかるしね。価 値 のありそうな椅子とか像とかを担 保 にしてて、それで持っていかれちゃったんだ。だいたい、貴 族 連 盟 の庇 護 がないマイナー信 仰 は、それでなくても苦しかったはずだし......)
ふと、昨日 から姿 を見ない、黒服の男を思いだし、同情する。
(あの人も、信者のひとりも残っていない教会なんて押しつけられて、なんかふらふら金 策 でもしてるんじゃないのかな。なんか陰 気 な感じだったし。ひょっとしたら、昔 の信者の家とか回ってるのかも。石でも投げられてるんじゃないのかな)
と──
がたんっ。
唐 突 に聞こえた物音に驚 いて首を伸 ばすと、もう一度、叩 かれたように扉 が揺 れるのが見えた。自分が入ってきた扉ではない。両開きの扉のほうだった。扉に設 えられた窓──磨 りガラスではないはずだが、汚れのせいで透明度はゼロに近い──に、ぼんやりと、人の頭が映 っているようにも見える。
とっさに思いついたのは、まずい、ということだった。
(......誰か帰ってきた⁉ )
ぞっとして、振り向く。廊 下 の奥に向かって警 告 を発したかったが、遅いだろう。どれだけ急いだところで、あの部 屋 を片づけるには数分かかる。
ドーチンは祈 るようにして、またがたんと揺れた扉を見やった──扉には鍵 がかかっている。まあ、木ぎれのような閂 に過ぎないが、鍵は鍵だ。あれなら部屋の片づけに要する数分間をねばってくれるかもしれない。
と、希望的に思った瞬 間 だった。
「......え?」
思わず、声が漏 れる。眼鏡 の位置を直して、ドーチンは自分が見たものを観 察 し直した。突然、閂が、跳 ね上げられるように弾 け──外 れたのだ。
一 瞬 、なにか細 い木の枝のようなものも見えた気がしたが、いかんせんこう遠くてはよくは分からない。扉の隙 間 から、細い枝で閂を外したのだろう。床 に落ちる、もう用を成 さなくなった木ぎれを眺 めながら、ドーチンは天を仰 いだ。もう偶 像 もなにもない礼拝堂だが、自分の幸運くらいには祈っても構 わなかろう。
(......幸運なんてのが残ってればの話だけど)
胸 中 で付け加える。ドーチンはとにかく、兄のいる部屋へととって返そうとした。急いで警告すれば、逃げ出す時間くらいはあるかもしれない。この建物には勝 手 口 やらなにやら、出入り口はいくらでもあった。神は万 人 に扉を開く、まあそういうことだろう。なんの神だかは知らないが。
逃げ出すのに一歩遅 れた。だがそんなことには構わずに、身体 の向きを変えようとする。扉が開いた。逃げようとしながらも肩越 しに、一応のぞいておく。
扉を肩で押し開けて──転 げるように入ってきたのは、顔 面 に幾 筋 も血を流したライアンだった。軽 薄 そうな顔を蒼 白 にして、足取りもおぼつかなく、入ってくるなり床に膝 をつく。
「あれ?」
ドーチンは、駆 け出そうとしていた足を止め、間 の抜 けた声をあげた。倒れたライアンが、今度は扉ではなく床を叩く──顔面で。
そしてそのまま、動かなくなった。
刹 那 ──
「どわあああああああっ⁉ 」
これもまた唐 突 に、悲 鳴 が響 く。
ドーチンではなかった。ライアンのものでもない。
彼は訝 しみつつ、廊 下 のほうを見やった。奥から聞こえてきたのは、兄のあげた声に間 違 いなかった。そして次 いで、どたどたと足音が近づいてくる。
扉を派 手 に蹴 り開けて、ボルガンが広間へと飛び込んできた。目を見開いて、両手をばたばたとさせながら、わめき声をあげる、
「ドーチン! 大変だぞ、とゆーか多分大変だ! あのしみったれたタンスにはもうなにも期 待 しないと絶 縁 状 を叩きつけ、俺 様は床板を剝 ぐことを決心したわけだが──」
「......そんなことまでしたの?」
半 眼 になってドーチンはうめいたが、兄はどうやらそれを前向きに受け止めたようだった。ぐっと拳 を作り、感 極 まったのかポーズを取って、
「そのよーなことまでしたっ! しかし完 璧 主義者の兄にそこまで尊 敬 の念を抱 かずとも、慈 悲 深いこのマスマテュリアの闘 犬 は、お前を分け前を与えてやっても良かろうと思うぞ──」
と。
そこまでまくし立ててから、ボルガンは、開いている扉と、その近くの床に転 がっているキャベツ色の男の存在に気づいたらしかった。いや、キャベツ色なのは彼が着ているタイツのことだが、今はあちこちに血 痕 がついて、それだけではなくなっている。
「む? あれに見えるは、弟 子 ではないか?」
さほど興 味 なさそうにつぶやいて、こちらを見てくる。ドーチンは、なんとなく勢 いをそがれたような雰 囲 気 を感じながら、曖 昧 にうなずいた。
「うん。多分」
「死んだか......」
ボルガンは、一応残念そうに肩をすくめてみせた。
「まあ仕 方 ない。奴 に昨日 伝 授 した、都 市 攻 略 用広 域 殲 滅 必 殺 技 『ひとめぼれ』は、自 らの寿 命 を七十年ばかし縮 めかねない大技。まあどう考えても練習だけで死ぬので、名前だけ覚 えて感 謝 しておけと釘 を刺 しておいたのだが。教え料は七千古金貨。ツケにしておいた」
「一応聞くけど、どういう技なの、それ?」
「いや、まあ、全力で頑 張 って十万人ほど殺す、という抽 象 派 の技である。具体的にとかは嫌 いだ」
「............」
とりあえずほうっておいて、ドーチンはライアンのもとに駆 け寄った。こちらの足音を聞いても、顔を上げようともしていない。実際、もう死んでいるのかもしれない。
泥 棒 の次は死体。
なんとなく泣きそうになったが──ふと、どうやっても泣けないことに、ドーチンは悲しくなった。この程度のことには慣 れてしまったらしい。
約半分ほど血で固まりかけたライアンの髪 を見ながら、彼のかたわらにかがみ込む。死人と、単にそのうちそうなるであろう人間との違 いを見分ける術 など、漠 然 とした知 識 はあってもどうしたものかは分からない。そもそも、死んでいるかもしれない相手に手を触 れなければならないのだろうかという考えが浮かんで、ドーチンは無 思 慮 に駆け寄ってきてしまったことを急速に後 悔 した。
うさんくさい奴だとは思っていたが、まさかこんな嫌 がらせがあり得るだろうか? なぜぼくがやらなければならない?
それでも怖 々 と、指を伸 ばす。目 指 したのは首 筋 だが、頸 動 脈 というのがどのあたりにあるのか、いまいち分かりにくかった。言うまでもなく血 管 というのは外からでは分からないようにできている──逆にあまりにも分かりやすい 状態になっていた場合、まあ通常は、もう頸動脈になど用がなくなっていることのほうが多い。きっと、医者というのはぼくが思ってる以上に因 果 な商売なんだね、と独 りごちながら、うつ伏 せに倒れているライアンの首に触れた。
脈はないように思えた。体温は、あるような感じもする。つまりはなにも分からなかった。
とりあえず、出血はひどい。傷口がどこか分からないほど、血が固まった範 囲 が広かった。指を引っ込め、困 惑 して、ドーチンはつぶやいた。
「......それで、どうすればいいのさ?」
「そのままにしておいて......くれれば......いいん......ですヨ」
当のライアンが、答えてくる。
ぎょっとして後 ずさりする──が、それにも気づかなかったように、彼はそのままあとを続けてきた。
「ぼくは......じっとしてれば......そんなには......死なない......ですか......ら......」
言っていることは分からなかったが、どのみちできることなどなにもなかった。なにもしなくて構 わないのなら、それに逆 らうつもりも毛 頭 ない。
とはいえ、ドーチンは思わず口走っていた。
「でもあの」
死人と話しているような、奇 妙 な心 地 で続ける。
「とりあえず、こんなところで倒れてるより、奥でちゃんと安 静 にしたほうがいいと思うんですけど......」
「そ、それはそうかも......しれないですネ」
力が入らずにがくがくと肘 を震 わせながら、それでもなんとか、ライアンが起きあがろうとする。横から、ボルガンが、にゅっと顔を出した。いつも同じ、腐 ったみかんのような眼 差 しで彼を見下ろすと、
「むう。いつもにも増 して、半殺し風 味 のようだが、弟 子 よ」
「は、はは......ええ。まあそうです」
と、軽く笑って身体 を起こすライアンの横顔を見て、ドーチンは、思わず一歩退 いていた──どういった力が働いたのか、想像もできないが、どうやら彼の顔 面 は、半分はがれかけていた。表 皮 は裂 けていないのだが、まるで卵の殻 の中からきれいに中身を取りだした状態のように、何ミリか、顔面の皮と中身とがずれているように見える。眼球には血がにじんで、恐 らく視界などほとんどなくなっているだろう。意 識 が残っていることが信じられなかった。
そして、身体を見る。服のせいでよくは分からないが、ところどころ、骨 格 が不自然に変形して見える部分があった。右腕 はまったく動かないらしい。下半身と左腕で、ずるずると、床 を這 い始める。
「あ、あああ、あの......」
さすがにあわてて、ドーチンは手を差し出した。
「や、やっぱり、動かないほうが──」
「あら、そうです......か」
今度はそうつぶやいて、ばたりと、その場に倒れる。
彼が正 気 でないのは間 違 いなかった。なにがあったのか分からないが、完全に錯 乱 している。無理からぬことではあるが。
「医者を!」
誰 にともなく──兄にではないのは確かだ──、ドーチンは叫 んだ。この街 のどこに医者がいるのか知らないが、とにかく必要なのはそれだった。いや、葬 儀 屋 かもしれないが。幸 い、墓 地 なら近くにあるだろう。ここが教会なら......
(ぼくまで混乱してるや)
かぶりを振って、ドーチンは、力つきたライアンを見下ろした。きょとんとしている兄とを見 比 べて、なにができるか、なにができないかを次々思い浮かべる。
一番良いのは、なんの脈 絡 がなくとも構 わない、突然とにかくこの場に医者が現れて、適切な治 療 なりなんなりをしてくれることだった。それが無理ならば、その次はいきなり最 も悪いものになる。つまりはこれ以上苦しまずに、彼が息を引き取ってくれるよう祈 るしかない。
ドーチンはとりあえず、いまだ開いたままの、扉 を見やった。外が見える。郊 外 の教会からでは、近所に病院を望むべくもない、なだらかな道が、遠くに延 びているのが見えるだけ──なのだが。
じゃりっ......
その視界に、黒いものが入り込んでくる。ドーチンは最初、それをなにかの影だと思った──空間に実 像 した、あべこべの影だと。その黒いブーツの底が、広間の床との間に砂 利 をはさんで音を立てたのだ。
すぐに、それがただの、黒 装 束 の人間のものだとは知れた。とっさに、ある人間の顔が頭に浮かぶ。
「あ、あの、この人、死にそうなんです──」
とにかくドーチンは叫 んでいた。が、そこに立っているのが、自分の知っているあの借 金 取 りとはまったく別人なのは、見上げてすぐに分かった。
その男は蒼 白 な顔になんの表情をも浮かべず、傷 跡 のある唇 をただ真横に引き絞 ったまま、その右手を、黒いマントの下からのぞかせた。やはり黒い、小さな鉄の塊 を軽く握 っている。それは奇 妙 な物体だった。が、見たことがないわけでもなかった。艶 やかで、シンプルなライン。以前、別の人間が手にしていたものを見た時は、それはもっと複雑な形 状 をしていたように思う。だが今、男が手にしているのは、むしろ単なる取っ手のついた短い鉄 棒 と言ってもいいような代 物 だった。その鉄棒の先には丸い穴が開 いていた。眼球のない頭 蓋 骨 を連想させるような、深い穴──しかも一つ目の。それを、まっすぐにライアンへと向ける。
距 離 は、三、四メートルというところか。
その数字を意 識 してドーチンは、ライアンが思ったより頑 張 ってここまで這 いずったのかと、そんなことに驚 きを覚 えていた。
男の構 えていた鉄の塊が、ぱん、と激しい音を立てて、弾 けた。男の右手ごと、わずかに跳 ねる。同時に、ライアンの背中になにかが当たったようだった。鈍 い衝 撃 に、そのずたぼろの身体が震 える。
「ええ......?」
分からないで見ているうちに、男の持つその武器は、二度、三度と弾けた。同時にその武器の右側から、銀色の筒 のようなものが、火 薬 の臭 いのする煙 とともに飛び出して床に落ちる。実を言えば、その武器が弾けた回数を理解できたのは、その筒が落ちるのをじっと見ていたせいだった──数秒後、動きが止まる。
床に落ちた小さな筒は、全部で八個だった。それを数えてからドーチンは、改 めてライアンを見やった。そして、悲 鳴 をあげた。
砕 けた頭の中身が扇 状に、床にぶちまけられている。胃 からなにから内 臓 のすべてから逆流してくるものを感じて、ドーチンはその場にうずくまった。男がなにをしたのかは、分からないでもなかった。その武器についてまったく知 識 がないわけでもなかった。拳 銃 。王 都 の、騎 士 団 だけが所 持 を許 された武器だ。それ以外には考えられない。以前《フェンリルの森》の中で信者を率 いていた、なんとかいう教 祖 もその武器を持っていた。だが──男が今使ったそれは、明らかに威 力 でも精 度 でも、まったく比 較 にならない高度な代物だと素 人 目 にも知れるものだった。

胃液の味にさらなる吐 き気 をもよおしながら、ドーチンは顔を上げた。男が何者か、もう思い出していた。ナッシュウォータで、道 場 破 りに来たあの男だ。名前は覚えていないが。それがなぜか、ここにいる。
そしてライアンを殺した。
兄を見やると、彼は明らかに数秒ほどテンポを遅 らせて、驚 いたような表情を見せていた。
男は──手にしている拳銃を、わずかにずらして、こちらに向けたように思えた。理 不 尽 な死。それを強制する冷 淡 な眼 差 しが、その顔にのぞいている。
逃げることすら思い浮かばず、ドーチンはただ震えていた。言 葉 もない。刹 那 ──
男が表情を変えた。はっとしたように目つきを引き締 め、後方に跳 ぶ。同時に、彼が立っていた場所をなにか閃 光 のようなものが薙 いだ。
それは閃光ではなかった。むしろ、しなやかな鞭 のようなものだった。まるでバターでも切るように床 と壁 とを裂 くと、音も立てずにまたもどっていく。目で追える速度ではなかったが、それでもドーチンは無理に残 像 を追って、その鞭の出 所 を探 った。
ぼとり、と音を立てて、目の前に、天 井 からなにかが落 下 してくる。それは人影だった。なにやらくたびれたスーツを着た、飾 り気 のない男の背中。ブロンドをふわりとさせて──彼はちらりと、肩越 しにこちらを向いた。
その瞳 が、緑 色 に輝 いている。
「......原 住 民 か。逃 げてください」
男は、奇 妙 な口 調 で、そう言ってきた──いや、奇妙なのは口調ではなかった。
言語そのものだった。滅 多 に聞きつけない。いや、そもそも聞いたところで危 うく理解できなかったかもしれない。
大陸新語。大陸に住む言語族のほとんどが使用する言 葉 より、はるかに古い──大陸古語よりも古い。
それは、地 人 語 だった。
「逃げてください」
嚙 みしめるように、男が繰 り返す。ボルカンは、理解できなかったのだろう。目をぱちくりさせていた。
「兄さん!」
ドーチンは、叫 びながら立ち上がった。そして──
「逃げるよ! 奥に!」
全速力で、建 物 の奥へと逃げ込んでいった。
◆◇◆◇◆
突然現 れたそのドラゴン種族の暗 殺 者 に、彼はただ静かに銃 口 を向けた。立て続けに発 砲 したおかげであたりは硝 煙 に満ち、その臭 いが鼻 孔 をくすぐっている。自動拳 銃 の鉄の感 触 が手首に心 地 よいが、その感 覚 が危険だということも自 覚 はしていた──これはしょせんただの武器であり、万 能 ではない。残 弾 はあと三発。
どたばたと無 駄 に慌 てて逃げ去っていく、地人ふたりの背中を視界の隅 に置いておいて、彼はそのドラゴン種族の見せる顔を、冷たく見つめた。
その暗殺者の顔に、表情はうかがえなかった。ブロンドに、やつれたようなほおの輪 郭 。落ちくぼんだ目。今は緑色に輝 いている。レッド・ドラゴン種族。地上に六種類ある、どのドラゴン種族にも言えることだが、やっかい極 まりない相手だった。
とりあえずは、引き金を引くよりほかない。トリガーにかかった人差し指に力を込めた瞬 間 ──それを見 計 らったように、そのドラゴン種族が口を開いた。
「......作業だと思っていなければ、できないことだな」
「?」
分からずに、ただ疑 問 符 を返す。
眉 根 を寄せて彼は、トリガーを引くのを、少なくとも数秒ほどは遅 らせることにした。つぶやく。
「......なにがだ?」
「殺しを、作業だと思っていなければ、できないんじゃないか?──殺した直後、すぐに周囲に気を配 るというのは......」
ドラゴン種族は特に、笑いもしなかった。ただ淡 々 と答えてきた──自分の身体 をいかようにも変化させるレッド・ドラゴン種族だが、意外とつまらないことは表現できないのかもしれない。感情や、そんなことは。
あるいは、もともと持ち合わせていないのかもしれないが。
彼は、一 拍 置いてから聞き返した。床 に脳 を広げたライアンを、ちらりと示 して、
「奴 を殺して、俺 が気を抜 いた隙 を突 こうとしていたということか?」
その返事も、冷 淡 だった。うなずきもせず、ドラゴン種族が言ってくる。
「まあ、そんなところだ」
「............」
間 合 いを取るつもりで、彼は半歩ほど退 いた。これで、相手との距 離 は三メートルほど。どちらに有利というわけでもない。両者ともに、攻撃ができる距離だった。もっとも、銃 弾 がレッド・ドラゴン種族を殺せるという保 証 はどこにもないが。
だが、鉛 の塊 が相手を砕 けるかどうかは分からずとも──
「よほど仲間意 識 が薄いのか? お前たちドッペル・イクスというのは」
言葉ならば、確実に通じる。
案の定 、ドラゴン種族はぴくりと視線を動かした。声を発するのが一瞬遅ければ、攻撃動作に入っていたかもしれない。
「そうか。ライアンから聞いてはいたが、にわかには信じられなかった。君 は我 々 の存在を知っている......どういうことだ?」
「お前たちが活動を始めて、たかだか十年かそこらだろう」
彼は、告 げた。
「そういった意味では、いくら大 物 ぶったところで俺 と大差ない。対等なんだ」
「対等......とは言えんな。我々は、君のことが分からない......」
「お前たちよりは、俺が慎 重 だったということだ」
「追う者と追われる者との違いに過ぎんと思うがね?」
ドラゴン種族は、鼻 で笑ったようだった──ようだった、というのは、口 調 に表 れる以外、それらしい仕 草 も表情も見せなかったからだが。
軽く右手をあげて、続けてくる。
「君は自分自身の優位を、ごく当たり前に信じすぎているように見える。実際のところ、我々は君に関していくつかの疑問を持ってはいるが、ただそれだけのことだ。恐 れてはいない」
「......どういう意味だ?」
「どうしてここの場所が分かった?」
相手の質問に──彼が最初に考えたのは、それを答えた場合の結果だった。相手に情報を与えることで、どれだけが看 破 され得るか。
「............」
否 。彼はただ、黙 して相手を見返した。
相手にとっても、それは予想の上だったのだろう。さして動じもせず、言ってくる。
「ふむ。まあ道 理 で考えれば、俺の相 棒 殿 が尾 行 されたというところだろう──昨夜 は大変な目にあったようでね。彼がするはずだった宣 言 を、俺が代 行 したほどだ。ここにもどってくるだけの気力があったことを驚 こう」
と──言ってから、一 呼 吸 おいて、また聞いてくる。
「我々は、お前を監 視 していたつもりだった。どうしてお前は自由に動いている?」
「............」
これも沈 黙 。やはり、レッド・ドラゴンは静かに自分で自分に答えた。
「ジャック・フリズビー──まあ、そんな名前なのだがね。彼がまかれたということだろう。どうということでもない。どうなんだ? 彼は死んだのか? それとも、まだ君があの部 屋 にいると信じて、じっと窓 を見上げているのか?」
そして、
「この程度のことなのだ、疑問などというのはな」
彼は、肩をすくめてみせた──初めて見せた、人間らしい動 作 。続けて、手 品 師 のように両手を広げると、
「聞けば分かる。答えてもらえずとも、推 測 はできる。疑問は疑問でしかない。恐れるのは愚 か者だけだ。さて......」
世 間 話 よろしく、話題を変えてくる。
「一人前の条件、をどう思う?」
また答えずにいると、彼はさほど待たずにあとを続けた。
「問いだよ。問いに答えるということだ。いつ、なにを問われても、一人前になったならばそれに答えられなければならない。そういうことだ」
と、笑う。
「おっと、当てこすっているつもりはない。つまりは、君の問いに答えておこうと思ったわけさ。我々の仲間意識に疑問があるようだったな。答えよう」
その緑 色 の瞳 に、吸 い込むような、奇 妙 な光が灯 るのが見えた......
「くそくらえだ、と言いたいところだが──俺も、相 棒 殿 が本当に死ぬ と思ったなら、止めていたさ」
「............っ⁉ 」
言ってる意味は、一瞬では理解しかねたが──
彼はとっさに、床 に倒れたままのライアンの姿 を見やった。いまだ同じ場所に、うつ伏 せに転 がっている。汚 れた床に広がった血や体液もそのままだった。が。
ライアンの着ている、緑色のタイツ。それが銀色に輝 く文字をいくつも燃え上がらせていた。見ると、タイツから生 えた木の枝が、複雑な文字を幾 重 にも描 いては自分自身を燃やしている。その光は、ライアンを包 み込みつつあった。そして、完全に破 壊 したはずの彼の頭部を再生させている。
(自動的に蘇 生 させるのか⁉ )
もしこの状態から蘇生が可能であるならば、つまりそのタイツを脱 がせない以上、絶対に殺せないに等 しい。
胸 中 で舌 打 ちして彼は、改 めてレッド・ドラゴンのほうへと視線をもどした。が、一 瞬 遅かったのだろう。ドラゴンはその時にはもう、もとの場所にはいなかった──残 像 だけが残っている。また天 井 へと跳 び上がったらしい。
数瞬後には、攻撃がくる。
そのことを、彼は覚 悟 した。それは必ずかわさなければならない。だが、どの方向に?
判断は、すぐについた。
前に駆 け出す。
ライアンが倒れている場所へと、彼は飛び出した。同時に、拳 銃 を両手で構 え直す。既 に見 失 ったレッド・ドラゴンの姿を探 すことはしなかった。どうせ間に合わない。背 後 で、大きな音──攻撃だろう。床をえぐって破 壊 したらしい。そのことは無 視 して、彼は、視界の中にライアンの姿だけを収 めた。
通り過ぎながら、再生しつつあるライアンの頭部に、残った弾丸をすべて撃 ち込む。
また同じように、くすんだ金 髪 の頭が砕 けるが──前と同じでしかない。またしばらくすれば再生を始めるだろう。だが、しばらくは、少なくとも今まで会話していたくらいは、再生まで時間を稼 げたはずだった。
空 になったマガジンをイジェクトして、新しいマガジンを装 填 する。
その時にはもう、振り向いていた。ちょうど位置を入れ替 わったような形で、入り口にレッド・ドラゴンが、ライアンのすぐ近くに自分がいる。
彼は──真 っ直 ぐに銃口を向けた。そのままトリガーを引き絞 る。銃声を二度響 かせると、弾丸はドラゴン種族の顔 面 に着弾した。ライフリングされた弾 が、思いのほか大きくその異種族の皮 膚 に弾 痕 を残す。ぺちゃ、と水に跳 ねるような音を立てて、標的の眉 間 と左ほおを、ぐにゃりと歪 ませた。
さほど効果がなかったことはすぐに分かった。レッド・ドラゴンはこちらが撃 つより早く、自分を軟 体 化 ──というより流動化していたらしい。弾丸も衝 撃 も透 過 させ、致 命 傷 を防 いだのだろう。彼は顔を変形させたまま、こちらへと右手を向けた。刹 那 、その手首から先が大きく伸 びた。
右手は多少うねりを見せながら、こちらへと突 進 してきた──その動きは、ホースから水が吐 き出されるのを連想させる。一度床に当たり、跳ね上がるようにして接近してくるその不 格 好 な右手に、彼はまた二発、発砲しながら後方に跳んだ。一発だけ命中したらしく、その衝撃で右手の速度が落ちた。後 退 が稼いだ距 離 と、その減 速 とで生じた半秒ほどの時間に、改 めて引き金を引く。先ほど命中したらしい手首の弾痕に重なるように、新しい穴が開 いて、レッド・ドラゴンの細い右手がちぎれ飛んだ。そのまま重力に逆 らうこともなく、ぼたりと床に落ちる。だがそれを見 届 ける間 もなく、脳 裏 に警 戒 が走った。
今度は左側から、左手首が迫 ってきている。ドラゴンは左手をそのまま突 撃 させてくるのではなく、数メートルほど離れた死 角 で動きを止めていた。その位置から、指だけを伸ばして攻撃してくるつもりなのだろう。五本の指すべてを貫 き手のようにして、こちらに向けている。
迎 撃 は不可能──
彼は拳 銃 を、レッド・ドラゴンの本体へと向けた。相手は避 けようという動 作 も見せない。実際、この銃弾で相手を殺すことができないのは分かっていた。が。
銃は三度弾 けた。標的の右肩、左肩、そして下腹に、ほぼ同時に命中する。結果は先 刻 と同じ、相手の身体 を歪ませただけに過ぎない。だが均 等 に撃ち込まれた衝撃は、大きくドラゴンの身体を傾 がせた。バランスを崩 し、後方へと倒れる、
そして一瞬で伸びてきた五 指 はわずかに軌 道 を変えられて、彼の身体をかすめ、通り過ぎていった。
残弾は、また三発。
放 った弾数の多さに比して、まったく効果が上がっていない。ゆったりと余 裕 を持って起きあがってこようとしているレッド・ドラゴンに、彼は残った弾丸をすべて撃ち込んだ。が、それまで緩 慢 に動いていたドラゴンは突 如 として横に跳 ねると、その弾丸のすべてをかわしてみせた──まったく人間の骨 格 を無視した動きで。
また空になったマガジンを床に落とし、新たに装弾する。マガジンがキャッチにはまる音を聞きながら、だが彼はそれを構 えはせず、マントの下のショルダーホルスターに押し込んだ。
そのまま、両手をぶらりと腰 の横に垂 らす。
「......あきらめたのか?」
ドラゴン種族の暗 殺 者 が、言ってくる。
銃弾によって何度も変形させられた身体を、あっさりともとにもどしつつ、彼は口を開いた。
「こうしているうちに、じき俺の相 棒 殿 が復 活 する......どうしようもあるまい?」
「そうだな」
彼は、静かにつぶやいた。
笑ったあとにしわの残る目の前の男を見 据 えて、右腕 だけをマントの下から出す。ちらりと見やると、ライアンはまた光の文字に包 まれ、頭 蓋 に開いた穴も、もうふさがれつつある。
「......使用者の死に反応して、蘇 生 を始める、か......ここまで強力な天 人 種族の武器が存在していたとはな」
「みな、この程度のものだと思っていたか?」
言いながら、ドラゴンが取りだしてみせたのは──
フリークダイアモンド。複雑な形状をした、決して抜 くことのできない剣 だった。どこにしまっていたのかは分からないが、それが体内であったとしてもさほどの不 思 議 はない。なんにしろ剣を気軽に掲 げて、彼は続けた。
「ひょっとして俺も、これを使えばもう少し楽ができたのかもしれんな?」
と、その考えを試 すようにわずかに虚 空 を見上げるが、肩をすくめて懐 にもどす。
それを見て、彼は、つぶやいた。
「その剣......」
相手が、聞いていることを確かめてから、続ける。
「お前の質問に答えてやる。その代 わりに、その剣を......俺に返せ」
「............?」
相手の表情に、疑問が浮かぶということはなかったにせよ──
意味を考え込んだのは間 違 いないところだった。数秒ほど沈 黙 してから、聞き返してくる。
「......なにを考えている?」
「希望をそのまま言っただけだが」
「俺は、イレギュラーとは取 引 をしない。ましてや、イレギュラーな取引はできない」
彼の言 葉 はよどみなかった。が、また数秒ほどの黙 考 ののち、言い直してくる。
「もっとも、最近それをしたばかりではある。質問だけは与えてやろう......その答えいかんでは、考えてやる。お前は何者だ?」
「領 主 の頼 みで動いている」
彼は即 答 した。これだけで分かるはずだった。
ドラゴン種族の暗殺者が、今度はさっきに数倍する沈黙をはさんで──うめくのが聞こえてくる。
「領主?......領主......」
つぶやくうちに、思い当たったようだった。よほど記 憶 の奥まった部分に埋 もれていたらしい。
「最接近領の領主......? 唯 一 の、聖 域 の敵 対 者 ......」
こちらを見 据 え、彼は吐 息 した。呆 然 とした口 調 で、
「彼が動いたのか......」
「彼はいつだって動いていた。お前たちが、気にしようとしなかっただけだ」
と、右手を差し出す。
「剣を返せ」
「悪いが──」
レッド・ドラゴンは、すっと背 筋 を伸 ばしつつ、冷たい声で答えてきた。完全な戦 闘 態 勢 ということなのか、両脇 がわずかに開く程度に、腕 を上げる。
「最悪の答えだ。生かしておくわけにはいかない」
「......そうか」
彼は差し出していた右手を引っ込めはせずに、嘆 息 した。
眼 前 の男を見つめる。生まれついての暗殺者──レッド・ドラゴン種族というものは、それに尽 きる。全能力が、まるで何者かにそれを意 図 されたとでもいうように、なにもかも暗殺行動のためにある。
それが今、自分に向けられていた。万 能 の暗殺者、レッド・ドラゴンが、語りかけてくる......
「では、さらばだ」
「そうだな」
前方に向けていた右手をくるりと反転させて──指 揮 者 がするように振り上げ、彼は瞬 時 に構成を編 み上げた。そして、つぶやく。
「我 は放 つ光の白 刃 」
膨 れ上がった白光が、視界を塗 りつぶした。
◆◇◆◇◆
暗 闇 の中で、オーフェンはある男のことを思い出していた。
それが夢だとは自 覚 していた。目 覚 めれば忘れてしまうだろう。どうでも良い、ただの幻 の記 憶 に過ぎない。
その男は、ある意味で自分の家族の一員だった。
様 々 な人間に出会った。が、家族同然と呼べる者は、そう多くない──そのうちのひとりだったはずだ。彼は。
大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔 》で、最強の魔術士に師 事 した、仲間。
だが。
彼を魔術士だと思ったことはない。
そう考える理由はいくつかあった。彼の姿 を見 据 えながら、思い出す──
(彼は......魔術を使わない)
使えないわけではないだろう。一度だけ、彼が魔術を使うところを見たことがある。それは特別な場所というわけではなかった。ただの模 擬 試合だった。
(あの時は、ティッシを圧 倒 したんだ。彼は......)
《塔》でも最強と恐 れられる、彼の妹──レティシャ・マクレディを一 蹴 するだけの魔術の力と制 御 力を持ちながら、それを使うことがない。
魔術士であれば、魔術を行 使 する。それはごく当たり前のことなのだ。生 来 、そういった特 殊 な能力を持った者は、自然、それに頼 ることになっていく。これはむしろ当然のことだった。自分の足で歩くことを、自分の足に頼り過ぎて情 けないと考えるなら、それはただの偏 執 狂 だろう。魔術士は生まれてから常に魔術とともにあり、死ぬまで魔術士で在 り続ける。
だが。
(それをしない......ということは、魔術士じゃあないってことだ......)
奇 妙 な話だった。彼は間 違 いなく魔術士なのだ。だがそれにもかかわらず、魔術士のふり をしているのだ。
彼はいったい、なにに頼って生きているのだ?
そして。なんとはなしに、付け加える。
自分はいったい、なにに頼って生きているのだろう......
ユイス・エルス・イト・エグム・コルゴン。迷惑来訪者 とも呼ばれる、その男の長い名前の中に、オーフェンはぼんやりと、もうひとつ名前を追加した。エド。
天魔の魔女と並ぶ、災 厄 の魔術士。
ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン。
彼に向かって、笑ったことがあった。何年も前のことになる。彼が、その長い名前を──自分と、あとふたりの仲間にだけ、こっそりと──教えてくれた時のことだ。まるで呪 文 のような名前だと、みんなでそう笑った。
当のコルゴンだけが、どこか笑いを乾 いたものにしていた。
「そう。呪文かもしれない。だが、まだ不完全な呪文だ」
その時の彼の笑みは、どう好 意 的に解 釈 しても、ぞっとしないものだった。
「本当にすべてが完成した時......それを唱 えたら、なにが起こるんだろうな?」
船上でレティシャ・マクレディは、遠くを見つめながらため息をついた。
もはや、心配事があったわけではない──実際、今日 は船の揺 れも小さく、潮 の香 りにももう慣 れた。ティフィスとパットについては、屋 敷 ごとフォルテに預 けてきた。まあ、そのことが多少、不安ではあるが。生徒を持ったことのない、手 加 減 知らずの男、しかも《塔 》で最 も強力な魔 術 士 のひとりであるフォルテ・パッキンガムが、あのふたりにどう手玉に取られる か、それを見られないのは残念に思えた。
蒸 気 船 による海上便 は、数こそ多くはないものの、大陸における一 般 的な移動手段だった。大陸の北 端 を迂 回 し、西部と東部をつなぐ。
そのデッキの手すりにもたれて、彼女は風に髪 を梳 かれるに任 せていた。大陸は今、彼 方 ににじむ黒い靄 でしかない。沖 のほうが海流が安定しているという理 屈 は分かっているものの、ここまで陸地から離れることに内心驚 かなかったわけでなかった。
黒いシャツに、薄いベージュのスラックス。細 い金の腕 時 計 と、慣 れた格 好 でこうしているのは、これが私 用 だったからに他 ならない。《塔》の予算でこの船の二等船室を確保したのならば、建 前 としては制服の黒ローブを着込んでいなければならなかったろう。もっとも、今回の旅費は、彼女のポケットマネーから出たものではない。彼女は、ふっと笑って海面を見下ろした。海は青い。が、底は限りなく暗い。考えてみると、彼の目はこれとそっくりだった──この船旅は、彼の提案だった。
(ま......感 謝 しておくべきなのかしらね、フォルテには)
胸 中 でつぶやく。
(それとも、また帰る時には、実は感謝するほどのこともなかったって思い知らされるのかしら?)
仮に善 意 だとしても、彼自身にとって必要以上の善意などは持たない男だ、彼はというのは──
そう付け加えて、苦笑する。
と。
「良い眺 めですね──まあ、さすがにもう慣れましたけれど」
唐 突 に話しかけられて、レティシャはあわてて顔 面 から笑みを追い払った──なるたけ無表情を取り繕 って、振り返る。と、身なりの良い男がいつの間 にか近づいてきていた。
「そうね?」
曖 昧 に、答える。
見たこともないその男は、役者のように分かりやすい笑みを浮かべて、頭を下げてきた。胸 元 に手を当て、自 己 紹 介 してくる。
その名前にも覚 えはなかったし、レティシャは聞くなりあっさりと忘れてしまった。結局、彼女と同じく、暇 を持て余 して船内を散歩しているらしい。
(──で、自分と同じ、暇そうな話し相手を見つけたってわけね)
言 葉 を探 す時間はかなりあった。口を開いて、告 げる。
「外洋は、もっと違う風景だと聞いたことがありますよ?」
「冗 談 でしょう。まあ、見られたとしても、地 獄 の風景でしょうね。大陸から離れすぎて、理 不 尽 に沈 没 する船は今でもあとを絶 たないんですよ」
男は、やはり分かりやすくあからさまに驚いた表情を見せて、そう言ってきた。彼は間 違 いなく役者だと決めつけながら、レティシャはあとを続けた。
「でもわたしたちの祖 先 は、外洋からやってきたというじゃありませんか?」
「はは。魔 術 士 たちはそう言ってますね──ぼくは最近発表された、人間種族はもともとこの大陸の原住民であって、天 人 種族が自分たちに都 合 の良いよう、歴史と知 識 を捏 造 したのだという説を取りますが。神々の魔物がどうのこうのなどというおとぎ話よりは、よほど現実的でしょう」
「あら......歴史に、お詳 しいんですか?」
意外に思って、レティシャは眉 を上げた。男は、白い歯を見せて笑うと、
「これでも学 徒 です。タフレム市に、いまだ未公表の古 文 書 があるのを知っていますか?この公表を求めに行ったんですが、すげなく断 られました」
「はあ」
「もっとねばるつもりでいたんですが。父が──いや、義 父 が──ああっと、いずれ義父になる予定の、といったほうが正確かな。とにかくなにか事故に遭 ったとかで、もどらなければならなくて。やはり学者で、最後に会った時には、ブラウニング家の世界書を発見したなんて、わけの分からないことを言っていたんですが......多分、フィールドワークでケガでもしたんでしょう」
「............」
黙 って話を聞きながら、レティシャは彼が与えてくれた情報を簡 単 に整理していた。つまりは、こういうことなのだろう──彼は自分の仕事に誇 りを持った自 慢 屋 で、婚 約 しており、どうやら役者ではないらしい。
学者なのかどうかは問題ではない。そんなものに本物も偽 物 もないのだから。自称すれば誰 でも本物と言えるし、他人から指をさされれば誰でも偽物だ。
レティシャは、肩をすくめて微笑 んだ。自分のシャツの襟 元 に指を入れ、告げる。
「騙 すようなことになる前に、白状しても良いかしら?」
と、彼女はそのまま、服の下に入っていたペンダントを引っぱり出した──剣 にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 。それを取り出し、相手に見せる。タフレム市にまで来るような学者なら、これを見たことないはずはないだろう。
「......それは」
男は、文字通り目をまん丸にして、少なからずショックを受けたようだったが、
「参 りましたね。魔 術 士 だったとは」
「《牙 の塔 》の、レティシャ・マクレディです。今は私用なので、《塔》最高執 行 部 に告げ口なんてしませんよ?」
「いや、参ったなぁ」
男はぼりぼりと頭をかきながら、心 底 弱ったように見えた。思わず、ふふっと笑みが漏 れる。
レティシャは、ペンダントをもとにもどしながら続けた。

「どのみち、わたしなんて執行部からはとうに見 放 された人間ですから、気になさらないで結 構 ですよ」
「はあ......そう思えませんが、そうであって欲 しいと思いますよ。正 直 なところは」
彼はすぐに立ち直ると、改 めて聞いてきた。
「私用だということですが......差し支 えなければ、どのような?」
「大したことではないんです」
彼から視線を外 し──海を、船の行く手を見やって、レティシャはつぶやいた。
「......弟 に会いにいくだけですから」
「弟さんに?」
「ええ。妹 のことで、ちょっと」
「......はあ」
「あの」
レティシャは咳 払 いしてから、彼に向き直った。真 っ直 ぐに、その男の淡 い瞳 を見つめて、聞く。
「もう一度、お名前、聞かせていただけません?」
◆◇◆◇◆
その朝日が、普 段 の朝日となにか違う点があったというわけでは、決してない。
もしも、焦 げ目をつけたトーストにバターをたっぷりと乗せ、黄 身 を潰 した目玉焼きをはさんで頬 張 ることを禁じられれば、驚いた者もいただろう──だがそういったことはない。ワイシャツに致 命 的 な染 みをつけかねないその朝食も、剃 れない剃 刀 に文 句 をつけることも、窓 を開 けてテラスの鉢 植 えに水をやることも、なにひとつとして制限は課 されなかった。
だが、そのいつもと変わらない朝日の中で、アーバンラマ市の人々はあるものの出現を受け止めなければならなかった。
最初にそれを発見したのが誰 か、それは分からない──
誰もが驚いたことは間 違 いない。ただしパニックが生じなかったのは、それがなにを意味するのか、発見者にはことごとく理解できなかったせいだろう。半 端 な不理解であれば、狂乱する余 地 もあったかもしれないが。
アーバンラマ市の北側にある、最 も広い公園に突 如 として現 れたそれは、微 動 だにせず、朝日の中で鎮 座 していた。水平に構 えた視線も、重量のある体 軀 も、滑 らかに後方へと流れる漆 黒 の体毛も、なにひとつとして動かない。ただじっと、そこに在 る。ジョギング中に、牛乳配達中に、通 勤 途 中 に、それを見た者たちは、理解できないながらも、漠 然 と感じることはあった。それは、王者だった。決して動かすことはできず、在ることを受け入れるしかない。絶対の王者。
見る者が見れば、それが何者であるか、分かったかもしれない。あるいはそれ自身が、名乗ったかもしれない。
ただ、今は動くこともなく、ただ朝日を浴 びている。頭の高さにして数メートルにもなろうかというその巨大な王者は、ある時 刻 を待っていた。
ディープ・ドラゴン種族の究 極 の戦士たるアスラリエル。その名を持った漆黒の毛 並 みの王者は、その種族の掟 に従 って、音もなくそこに存在していた。
某月某日。秋田的メインウエポンに決定したMP5のハンドガードに、牙の塔の紋 章 をくっつけることに成功。別に、どうということのない改造なのだが、ちょっと嬉しい。それにあわせて、マグパウチなども購入。これもたいした買い物じゃあないが、なんか嬉しい。以前から弾詰まりに悩んでいた銃を思い切って分解整備。以後良好な状態に。かなり嬉しい。調子に乗って、コルト・パイソンにカスタムバーツを組み込む。容 赦 なく壊れる。幸せとゆーのは難 しいと悟る。
現在、ABSにレタリングする良い方法がないかと模索する毎日。MP5に「RAZOR EDGE」と銘を入れたいんだけど、どうしたら良いのかしらん。初心者はつらい。
とまあ、時候の挨 拶 も済んだところで、十四巻目のあとがきオーライ!
いい加減ずーっと単発のキャラがいない状態が続いてるのに、いままで通りの対話形式って無理だよねって気づいた自分って賢 明 だとか思ったり(ちゅーか、七巻くらいで気付いとけという噂もある)。
てなわけで、こんな感じです。
さて、スレふぁい買うため秋葉原を探し回ったりポケモンセンターに出没して魂 を発 憤 させたり近所のやたら不 味 いステーキ屋を友人に薦 めたり仕返しに○○○○薦められたり作家さんに銃を買わせたりDTエイトロンのLDBOX買って「いやこれだよ、98 年度のイチオシはこれだって」とか友人に勧めまくってうるさがられたり、多少忙 しい日々が続いておりますが、まあたまに仕事もしてます。
......とか書くと本気にする人とかいそうですが。担当さんとか(びくびく)。
ホントのところは最近、遊ぶ暇 を作るのにも苦労しとります。なんかばたばたと日々が過ぎるせいで、一か月前の記憶とか希 薄 になってるし。体重とか8キロ減ってるし。なにがなんだか。
とはいえ遊べない遊べないでパンクしててはお話にならないんで、適当に息抜きするようにはしてるわけです。
最近のマイブームは、秋田の知人間ではもはや秘密でもなんでもないですが、実は銃の玩 具 。いわゆるエアガンというやつです。ちょっと興味を持って編集部に話してみたら、なんか同志がやたらぞろぞろといると判明。サバゲーに混ぜてもらったところ完全にハマってしまったという次第。作家さんを集めてチームを編成し、編集軍団を叩くのが目下の目標。チーム名は「チーム拷 問 列 車 」トレードマークは吊 革 にぶら下がった手首(だけ)。
以下私信。えー、富士見関係作家さんで、チームに参加してくださるというお方、連絡お待ちしております。初心者大歓迎(ちゅーか現在、初心者しかいないんですが)。
さらにしつこく銃の話。
秋田が、ああガンアクションっていいなぁと思った映画がいくつかあるんですけど......でもその中で、どうしてもタイトルを思い出せないのがあるんですよね。確か、グロリアだとかなんとか、そんなタイトルだったよーな記憶はあるんですが。実は話の内容もよく覚えてなくて、ただラストシーン近くで、主人公の女ギャング(?)が歩きながら拳銃をばしばし撃つシーンが、やたらと格好良くて。多分かなりメジャーな映画だと思うんですが。
と。一応念のため。秋田は武器の玩具が好きなんであって、武器は嫌いです。刃物とか見るのも嫌だし。まあモラリストを気取るつもりもないですが。実際、ナイフとか嫌いなんですけど、ゲーム用のゴム製ナイフとかは何本も持っていたり。
......ってさすがにこれだけしつこく引っ張ると、なんのあとがきだかよく分からんですにゃ。
まあ、なにはともあれこれで十四巻。十五巻はかなり派手な展開になりそうだなぁ、などと今から覚悟を固めておりますが。どうなることやら。まあ、楽しみにしていただければ幸いです。
では、次の巻末でお会いしましょう!
一九九九年九月──
秋 田 禎 信











ダミアン・ルーウが見ていた闇 は、果てしなくなにもない、ただそれだけの闇に過ぎなかった。
威 圧 も、孤 独 もない、体温と同じなま暖 かさを持つ空 虚 。温 もりを不快と思うのであれば、そこは確かに居 心 地 の悪いところだった。
そこが、現実の世界──つまり全方向への広がりを持つ空間でないことは分かっていた。恐 ろしく一方的で、しかし決まった流れのない、閉 鎖 された無限の空間。
(いや......)
ダミアン・ルーウは考える。皮肉を交 えて考える。
(今じゃ、現実の世界こそ、閉鎖された空間なんですが......そうでしょう? 領 主 様)
答えはない。
もとより、力を備 えた領主であろうと、この場所へは──まさかここには、力と知 恵 の手を伸 ばすことはできまい。そんなことは分かっていた。この大陸にはいくつかの絶対的な力がある。決して抗 えない、抗っても意味がない、そんな領域が。それを避 けるなり、利用するなり、対 処 法 に関しては、様 々 なことが考えられたが。
ダミアン・ルーウは観察する。慎 重 に観察する。
どういった対処をするにせよ、相手がどういった存在であるか、把 握 できなければ始まらない。
(強大な力だ......人間の領域にはまだ存在してはいけないほどの、強大な)
これは容 易 に今後の歴史を決定してしまいかねないほどの、不 可 抗 力 になりかねない。
そんなものは、あってはならない。何者にもどうすることもできない力などというものは、すべて、あるべきところに封 じておかなければならない。すべからく除 去 しなければならない。呪 われた聖域へと。
ダミアン・ルーウはつぶやきを発する。ほんの小さくつぶやきを発する。
「......ドッペル・イクスか。いちいち面 倒 ごとを」
だが、今は考える時間などはない。
時間は極 めて限られている。現 世 の時間で、どれくらいになるのか。時間の波打つこの空間では、ちょっとした誤 差 が大きく響 くこともある。数秒が数時間にもなり、数年間が数分になり得る。トータルでは、現世の時間と大差なくなるはずではあったが。短期であれば短期であるほど、誤差を無視できなくなる可能性が高い。
急ぐに越したことはない。
ダミアン・ルーウは前進する。疾 く前進する。
そこは人の立ち入れない領域だと、自覚はしている。警 戒 には意味がない──向こうがこちらを滅 ぼそうと思えば、一 瞬 でそれは為 される。なんの対策もできないまま、自分は永久に放 逐 されるだろう。それが恐 ろしくないわけではない。
唯 一 といえる対抗手段は、幸運だけ。祈 る神もないというのに。陰 鬱 に笑わざるを得ない。
神と自分との関係。
世界は神々から、過去を、歴史を得た。未来は取り上げられてしまったとしても。
(そもそも、大陸の歴史とは、なんだったのか......)
終わりが来れば意味のなくなる日記に過ぎなかったのか。
墓 標 に刻 まれるたった一文に置き換 えられ得る、無 駄 な時間に過ぎなかったのか。
(おそらくは、その通りだったのだろうな)
歴史はこれまで、人間種族に文明をもたらした。英知をもたらした。社会をもたらした。娯 楽 をもたらした。書物をもたらした。大きな傷をもたらした。平和を維 持 する意志をもたらした。
そして、魔 術 をもたらした。
その魔術の究 極 が自分だとすれば、人間種族の歴史が作り上げたのは自分なのか。
(まあ結局のところは......作り上げたものの一部というべきなのだろう。市民ひとり分以上の価値だと自 負 するまで、傲 慢 にはなれないか)
キエサルヒマ大陸。神々の気まぐれに生かされている......
と。彼は足を止めた。
ダミアン・ルーウは発見する。ほどなく順調に発見する。
とはいえ。
なにを見つけたわけでもない。言うなれば、見つけたのは、その場所だった。なにもないが、なにかがある。すべての闇 の中心点。
これ以上は進めない。中心なのだから、ここから動けば、遠ざかるだけでしかない。
大陸最強の力の真ん中で、ダミアン・ルーウは嘆 息 した。
(つまりは、この空間そのものが力の総量だというわけだ)
闇のすべて。ディープ・ドラゴンの果てなき力のすべて。
「領主様」
彼は、静かにつぶやいた。
「無理ですよ。わたしにも無理です......これを殺すなどというのは」
かぶりを振 って、付け加える。
「ディープ・ドラゴンは無敵の存在です。弱点はなく、攻 撃 性は極 めて高い。旧世界・旧時代より、何者にも敗 れたことがない究極の戦士です」
大陸で最強の術者として──無論この地位は非公式のものであるが──彼は、言葉を待つように声を途 切 れさせた。じっと一点を見つめ、しばらくして、
「ならば、お覚 悟 を決めていただきたい。これと戦うならば、我 々 が持つ全戦力と引き替えになります。なおかつ、勝てる保証はありません」
ついでに、舌打ちする。
「それとも、我々を失ったのち、代役をあの殺し屋に任 せられるおつもりか? 聖 域 との......決戦を」
また、数秒の沈 黙 。
その間に、意識に直接とどいてくる、無音の言葉。
それに対して、口を開こうとし──
《......誰 ? あなたは......》
問いかけられ、彼は目を見開いた。
「............なんだと?」
彼はうめいた。あり得ないことだった。
自分の見たものをただ見 据 えて、彼は、軽く拳 に力を入れた。この状態では五感など失 っているというのに、ときたまに、汗 の感 触 を覚えることがある。なればこそ、崩 壊 せずにいられるのではあるが。
まさか、と思う。領主がこのことを予 測 していたというのは、いくらなんでもできすぎだった。そんなはずはない。これは幸運なのか。そう、分かっていた。唯 一 の対 抗 手段は幸運だけだ......
「領主様。あり得ないことですが」
ダリアン・ルーウは報告する。その意味を考えながら、報告する。
「......このディープ・ドラゴンは......弱点を持っています」
それは歓 喜 だった。
間 違 っているとは分かりつつも、押 さえ込むことができそうにない、わき上がるひとつの衝 動 。それは歓喜だった。
自分の両手を見下ろして──叫 ぶ。声にはならずとも。
(制 御 ......できた!)
火傷 もない。熱さすら感じなかった。全力で力を放出して、その全力に対して自制が劣 ることがなかった。すべてを把 握 し、御 することができた。
世界を作り替 え、自らの思うままにする。魔 術 の完成には、常 に恍 惚 がある。マジクは、腹の底から膨 れあがるものを圧 殺 できずに、もう一度繰 り返した。
(制御できた!)
完 璧 な出来だった。放たれた熱 衝 撃 波 は闇 夜 を白く塗 り替え、標的に突 き刺 さって爆 発 した。威 力 を存分に振 るい、その激 震 が大地を震 わせる。
が。
「............⁉ 」
ぎょっとして、彼は目を見開いた。魔術の爆発のあと、そこに、数秒前とはまったく変わらない、宿が姿を現 した。クリーオウの腕 を──どういう機能でか──くくりつけたまま、まったく無傷で、そこに木 造 の建物が残っている。
数メートル手前に火 球 が渦 を巻き、まったく効果をもたらさなかった威力を霧 散 させようとしている。
ぞっと、背筋が震える。完璧な構成だった。魔術士として、誰 に対しても誇 れる、完全な術だった。
それが、なにひとつ意味を為 さない。
(どういう......こと?)
架 空 の何者かに、問いかける。いや。
その架空の人物は、すぐに実在の名前に化 けた。だがその人物は、ここにはいない。
(どうにかしなくちゃ......)
拳 を握 る。
クリーオウはこちらを見て、呆 然 としているようだった。彼女にはなにもできない。なんとかしなければならない。
わけが分からなかった──およそ、理解を超 越 したことだった。宿屋が巨 大 化 していた。クリーオウが近づいたら、それが彼女に襲 いかかった。同時、自分も転 ばされた。なんで転ばされたのか分からない。ただ、身体 が突 き飛ばされ、意味もなく倒 された。ようやくにして起きあがり、完全無 比 な構成を編 み上げ、放った魔 術 はまったく無効だった。自分の身に起きたことを、列 挙 する。どれひとつとして、なにが起こったのか分からない。
(お師 様 なら......分かるのかな)
ふと、そんなことを思う。だが、そんなはずはない。分からないものは分からないのだ ──誰にとっても。
ただ、理解できずとも最善──に近い──策を実行する勇気があるかどうか。たったそれだけのことに過ぎない。
たったそれだけだが......
(......最善策って、なにさ?)
焦 る自分が苛 立 たしい。あと一 瞬 後には、クリーオウは殺されるかもしれない。いや死ぬのは自分かもしれない。敵が何者か、どんな手段を使っているのかも分からないのだから、なにが起ころうと不 思 議 はない。一番可能性が高いのは、ふたり同時に殺されることだろう。どのみち、どちらが何秒先に死ぬのであろうと大 差 ないが。
(最善......なのは)
唇 を嚙 み締めて、マジクは叫 んだ。
「もどってくるから──」
言うと同時に、きびすを返す。今まで歩いてきた方向へと、駆 けだしていく。
「お師様を見つけて、すぐにもどってくるから!」
刹 那 、身体が宙 に浮 いた。
(くそ──)
また正体不明の力に背中を突き押 され、彼は毒づいた。転びはしなかったが、大きくつんのめって速度が落ちる。
それでも踏 ん張って、走り続ける。
「もどってきて、クリーオウが死んでいてみろ」
無人の夜道を視界がさまよい、足音が刻 み、うめき声が吐 き出される。結局、走っているのかただ転ぶまいと右 往 左 往 しているだけか、自分にも分からなかったが、マジクはひたすら足を踏み出した。
「根こそぎぶち壊 してやる──根こそぎ。どこに隠 れていようと関係ない。根こそぎだ!」
相手に聞こえているとも思えなかったが。
「こんなわけの分からないこと......許 せるもんか!」
「世の中はなにも信念で成り立っているわけではない」
「......っ⁉ 」
聞こえてきた声に。マジクは、思わず足を止めた。
立ち止まってから、焦 燥 を覚える。自分がどうして立ち止まったのか、分からなかった。突き飛ばされようと、転がされようと止まらなかったのに、たった一声で、どうして立ち止まらなければならなかったのか。
むしろ、理 不 尽 だった。走り続けなければならなかったはずなのだ。最善策は、師を──オーフェンを見つけることなのだから。なにがあろうと、立ち止まってはならない。
だが彼は立ち止まり、そして膝 は二度と走り出せそうにないほど、がくがくと揺 れていた。
「......誰だ?」
声まで震 えているのは、隠せなかった。
なんにしろ、相手は聞いている様 子 もなく──ただ勝 手 に語りかけてくるだけではあったが。
「信じるものに裏切られ、悲 鳴 をあげる者がいる。それは無意味なんだ。もとよりそれが信ずるに値 するものではなかったと、それだけのことなのだよ。そして、信じても良いものなど、この世界には存在しない」
「信じられるものならあるぞ」
マジクはあたりを見回しながら、荒 い呼吸をなんとか落ち着かせようと胸をなでた。じっとりと汗 ばんだ肌 に、服がこすれる。
「ぼくは魔 術 士 だ。お前が姿を見せたら、全力で撃 ち込んでやる」
「それで、俺 を倒 せることを信じるというわけか? ふん。いいだろう......いい答えだと思う」
どれほど走ったのか──
アーバンラマの夜道は、言われているほど物 騒 にも見えなかったが、それは先刻からまったく人 影 が見あたらなかったせいかもしれない。
不自然なほどに無人。だが、今はそれを考えていても仕方がない。
相手がどこから出てくるのか。そんなものは予想のしようもなかったが、分からないままじっと待つ。彼は大 股 に道の真ん中に移動した。どこから出てくるにしろ、到 達 してくるまで最も時間がかかる場所へ。
なにも考えない。敵が姿を見せたなら、最大威 力 で魔術を放てるよう、意識を整 える。
呼吸を数える。ひとつ、ふたつ......
「待ちかまえる必要はない」
声は最も注意を払 っていなかった方向から聞こえてきた。
「俺に、隠 れる必要がないのと同じ理由ではあるが」
つまり、正面から。
「────っ⁉ 」
あわてて、両腕 を掲 げる。すべてはひとまとまりの動 作 。約束された手順だった。
「我 は放つ光の白 刃 っ!」
現 れた標的へと収 束 し、爆 裂 して消 滅 する一手順。構成に問題はなかった。
音を感じない衝 撃 ──いや、爆発したのだから音も響 いたのだろうが。その光景だけが切り取られ、それしか記 憶 に残らなかったとでもいうように、爆音は耳にとどいてこなかった。
光が途 絶 え......
「......効 かない......どうして」
マジクは、それだけをうめいた。構成は完 璧 だったはずだった。問題はなかった。が。
現れた男は、なにを失うでもなく、ただそこにいる。
見覚えはなかった。が、なにか本能的に危険を感じる。それが最悪の敵であると、空気が告げている。
くたびれたスーツ姿に、剣 を一 振 り──この剣には覚えがあった。奇 妙 なことだったが。はっきり覚えていた。ロッテーシャの剣だった。天 人 種族の魔術文字が刻まれていることを、自分が気づいたのだ。クリーオウの話では、ナッシュウォータの一件で、ライアンが奪 っていったという。それをどうして今この男が携 えているのか、さっぱり分からない。
恐 らく、ライアンの仲間かなにかなのだろうが......
決 して抜 けなかったはずのその剣は、抜 刀 されていた。白い、光 沢 のない刀 身 が闇 に浮 かんでいる。鞘 は見あたらない。
男は真っ直 ぐ、こちらを見ているだけだった。
「俺だったら、もう一度試 すね──俺が動こうとする前にだ」
それは......どう解 釈 しても、忠告だった。
冷 めかけていた体温が、また上 昇 するのが分かる。
「馬 鹿 にするなっ!」
マジクは叫 んで、再び光熱波を撃 ちはなった──意識の中で、自分と相手の距 離 を最短に結ぶ直線を引いて。
純白の光は問題なく、男の間 近 にまでとどき、
「......また......?」
その男の手前で爆 発 した。見えない球形の障 壁 にでも包まれているように、男のもとへは威 力 が及 ばない。
男は、手にした剣を軽く握 り直してみせた。剣には魔 術 があり、そしてその力は発動している──それは間 違 いない。魔術文字によって引き起こされる魔術の構成も見えるのだが、天人の魔術を解 析 することは不可能だった。
「フリークダイヤモンドと......ビードゥー・クリューブスターは名付けたらしいな。本来の名 称 は、虫の紋章 の剣」
軽く、世 間 話 のように説明してくる。
「ご多 分 に漏 れず、かの時代、聖 域 が人間種族の社会にばらまいたものだ......自分の手で、自 らの種族の汚 点 を取り除けるように」
と、誰 に対しての皮肉か、男は口 調 を変えた。
「つまり、魔術を持たない者に、魔術へ対 抗 し得る力を与 える道具。そういうわけだ」
(完 璧 な構成だったのに......効かない......)
そのことが衝 撃 だった。
この上なく完全な魔術を行っている。それが通用しない。この男だけではない。あの奇 妙 な宿にも通じなかった。
(なら......魔術なんて、なんの役に立つのさ......?)
なにを呪 えば良いのかも分からないが、毒づく。
それでも。
「くそっ!」
マジクは身体 を反転させると、そのまま逃 げ出した。男に手を向け、走ろうとする。刹 那 。
「うわっ⁉ 」
身体が浮 いて、地面に叩 きつけられた。転がってから、たまたま視界がその男のほうを向いて止まる。男は一歩も動いてはいなかった。
「なるほど......」
一回、剣を振 って、うめくのが聞こえてくる。
「やはり、距 離 が近いほうが精 度 が上がるようだな」
「我導 くは死呼ぶ椋 鳥 っ!」
倒 れたままの体勢で、マジクは叫 んだ。空気がざわめき、男に向かって破 壊 的 な振 動 波 を叩 き込んだはずだが──
やはり、効果がない。なにかに弾 かれたような、そんな音が響 く。
(やっぱり、壁 のようなものがある)
こうなると、自分の身体 が突 然 転ばされたり持ち上げられたりするのも、種も仕 掛 けもないものなのだろう──不 可 視 の力でなにかされているのだ。それが魔 術 の効果だというのなら、単にそれだけのことで、それ以上考えても意味がない。
「壁なら貫 けばいいっ!」
自分を鼓 舞 するように声を出し、マジクは上体だけでもなんとか起こした。道は舗 装 されているとはいえ、ゴミでもなんでもいくらでも落ちている。持ち上げられる程度の石をつかみ、それを突 き出すようにして、彼は一度だけ試 したことのある構成を編み上げた。
「我 は踊 る──っ⁉ ......つ......」
言葉が、止まる。
腕 から力が抜 けた。持ち上げていた石が、ごろんと地面に落ちる。
すべては一瞬のことだった。肘 が折れていた。
「............?」
理解できなかった。痛みを感じることすら。ただ、右腕の肘から先が、あり得ない方向に大きく折れ曲がっている。完成しかかっていた構成も、あっさりと意識から滑 り落ちていた。
見ると右腕に、細いものが巻き付いている。視界が霞 んだ──意識が緩 む──そして、あきらめかけている自分を自覚して、ぞっとする。その中で、その細いものが男の手元へと伸 びているのを確 認 した。鞭 か、とも思うが、違 う。そもそも、鞭で人間の腕を折れるはずがない。
もっとも、その男が剣 を持っている手の指を一本だけ数メートルも伸ばし、そしてそれをこちらの腕に巻き付け、肘関節をねじ切ったとなると、それこそそんなことができるはずがなかっただろうが。
実際に起きたのだから、鞭よりはリアリティがあるのだろう。朦 朧 とする意識の中で、マジクは左腕をあげようとした。
もう一本の指が左肩 に突き刺 さっていたので、それもできなかったが。
鎖 骨 も折れたのだろう──身体 が動かない。マジクはようやく、悲鳴を上げた。
「うっ......ああうあああああっ⁉ 」
「魔術に腕が必要ということもないだろう──我々と違って」
男は、そんなことをつぶやいていた。それを聞き取れたのは、さほどありがたくもないが奇 跡 のようなものだった。男の目が、緑色に輝 いている。
「だが、集中を失えば、構成は編めない。お前達人間種族には、痛 覚 があるからな」
「ああああああっ⁉ 」
どこで間違ったのか分からないが──マジクは身をよじって苦痛に喘 いだ──、逃 げることすらできなくなってしまった。血の臭 いがした。左肩が熱い。
男が一歩、前に出る。霞 んだ視界は、涙 に曇 って余計に混 沌 としていたが、その姿は見えた。髪 をかきむしりたいが、それもできない。
激痛に苛 まれ、悶 えることもできない──
「嗜 虐 心 だと思って欲 しくはない。我々にもプライドがある」
遠く、遠くから、男の声。
「身体を固定して、それからとどめだ。この剣の結 界 を出ないで確実に仕 留 めるには、こうするしか──」
「あああっ......あ──」
悲鳴は、そこで止まった。苦痛がなくなったわけでも、力尽 きたわけでもない。ただ、肺から空気がなくなって、声が出なくなっただけだった。痙 攣 し、呼吸もできない。
ふっ......と、苦痛が消える。
意識を失う──そして二度と目覚めることはないと、緩 やかに認める。
(母さん......)
そしてその男とも違う、まったく別の声が聞こえてきた。
「何処 からも来る。飄 々 と気配の刻む故 郷 に」
ひゅごぎっ!──
一瞬にまとめると、そんな音だった。空気が集められ、そして弾 かれたような。
白んでいた視界が、衝 撃 の中で見開かれる。意識と五感とを同時に蘇 らせた代 償 としては、再び襲 いかかってくる激痛、それだった。だが今は、その激痛に感謝して、むしろ縋 りつく。意識を失う一瞬間。圧 倒 的 な快感ではあったが、本当に味わってしまってはならないものであるということは、うっすらと理解していた。
残っている力で、片目だけを開く。自分の身体 は地面に倒 れていた。これは奇 妙 なことに思えた──例の男の指。それが突 き刺 さっている限り、倒れることもできなかったはずだったが。
その男は、さっきまでいた場所にはいなかった。指も残っていない。男が立っていた場所に、えぐられたような跡が残っているだけのことだった。
「............?」
分からなかったが。わずかに視線をずらすと、男が倒れていた。ノックアウトされたわけではない──ただきょとんと、尻 餅 をついていた。破壊跡のある場所から何メートルも弾き飛ばされて。
「お......師......様......?」
とも思うが。違 う気がする。
風が吹 き始めるように、聞こえてくる声。
「帰りきたる。痕 の多い獣 の檻 。大にしてうねり、小にしてわめく」
再び、鋭 い轟 音 ──
金 槌 で打たれる曲がった釘 のように、男が、音と同じ回数、弾かれた。例の壁 によって衝撃そのものは防 がれているようだったが、その壁ごと男を吹き飛ばしている。
「肝 にある蟲 。腸 にある蛇 。南 風 に捧 げられ埋 め尽 くす砂 利 ──」
そして。
男の姿が、さっと消えた。どうやら、逃 げ出したらしい。
「............」
どくどくと、自分の心音を聞きながら、マジクはただ熱に浮 かされていた。それともこれは、出血の音か? 次 第 に思考できなくなっていく。ただ、分かったこともあった。
聞こえてきた、その歌のような文句。間 違 いなく呪 文 だった。魔 術 の構成も見えた。一瞬、オーフェンかと思えたのも、そのせいだろう──師にも匹 敵 するほどの緻 密 な構成だった。そうそうあるものではない。
(でも......誰......?)
もう声も出せず、彼は目を閉じた。
◆◇◆◇◆
クリーオウ・エバーラスティンの人生は、十七年前に始まった。
どうということもない出産であり、誕 生 だったと言えば、関係者は怒 るかもしれない──つまりは人並みの愛情と苦労と奇 跡 があって、生まれてきたということだ。母はティシティニー・エバーラスティン。父エキントラの婿 入りは誰 の目から見ても妥 当 な縁 談 であったが、既 に父母を亡 くしていたティシティニーが、当時後 見 人 だった叔 父 の言いなりになっていたというわけではないらしい。その叔父というのも夭 逝 し、代々短命の家系であるエバーラスティン家の悪 しき伝統とでもいうべきか、エキントラも、クリーオウが十五歳 の時に病死した。
彼女には姉がいたが、その名前は母がつけた。クリーオウの名前は父がつけた。そのためか、クリーオウはよく父に懐 いていたようである。
ライアン・キルマークドは、闇 の中から彼女を見ていた。身動きとれず、怯 えている彼女を。
表には出ていない──その少女は毅 然 として見えた──が、彼女の脈 拍 、呼吸、体温の上 昇 、すべてが感じ取れる。心の交流がすべて錯 覚 ならば、これもそうなのだろうが。
彼女は理解しているのだろうか? 触 れあっているという意味を。
家族に手を握 られて死に逝 く者もいる。医師にまぶたを押 し開 けられて死が確 認 される。だが彼女は、殺害者と触れあって死ぬことになる。
(このぼくと......だ)
今の自分は、ただ闇の中に在 る一 対 の目。それも彼女からは見えないはずの。臆 病 なものだと自分でも思うが、彼女の頭の上で後ろ足を伸 ばして立っている守 護 者 のことを考えれば、慎 重 になってなりすぎるということはない。
自分が、少女の生命を終わらせる者だとすれば──
それは、彼女の生命を永遠のものにしかねない存在だった。
ディープ・ドラゴン=フェンリル。
ドラゴン種族の最強力。
少女にとって自分が死となるならば、自分に対して死となって立ちふさがるのはこれだろう。
幼少時は、体調を崩 すことが多かったらしい。それは疾 患 というよりは、精神的なものに起 因 していたかもしれない。なんにしろ両親が彼女に対して過保護になったのは言うまでもないことで、そのせいでたびたび姉とは仲 違 いしていたようだ。
もっともしばらくして、そういった問題は成り行きで自然消 滅 した。特 記 するほどのことでもないが。
彼女はことごとく家 名 に相応 しくない──とは大 叔 父 の言 だが──行 状 を好んだ。下町でアバウトな教育を受けることを望み、学校では子供の頃 の鬱 憤 を晴らすように身体 を動かすことを楽しんだようだった。特になにに恵 まれたというわけでもなかっただろうが、周囲からは活発な人間と認 知 され、当人もそう振 る舞 う。
他人とのぶつかり合いも多かったであろうが、それをはねつけることに執 着 しなかったことが幸いして、特に恨 みを買うことは少なかったらしい。結局のところ、人は他人に望まれている通りをしていれば、嫌 われることはないのだから。
緑宝石の鎧 。これが、彼の唯 一 の武器だった。唯一にして最強の。同じくドラゴン種族によって造り出された魔 術 兵器。
頭部以外の全身を覆 うこの緑色のインナーウェアは、彼の意思に対して、過 敏 に反応して作動する。
(これが自分に出せる唯一の切り札......)
そして。
(ぼくの絶望でもある)
ならばこそ──
(相応しい武器だ。舞 台 に相応しい武器だよ──そうじゃないか?)
この鎧 はいくらでも変化する。樹木に酷 似 した触 手 を発生させ、千 変 万 化 し、特定の魔術文字を描 くこともできる。
大ざっぱにならば、擬 態 も可能だった。
たとえば、古い木造の建物のようなものにならば。
建物の表面をすべて、触手で覆う。あとは記 憶 に従って擬態する。宿の中にいた人間をすべて処分してから、自分は宿の中心に居 座 り、ひたすらに待つ。
少女が宿に──自分の触手に──触 れた時は、正直震 えた。少年のほうは、相 棒 が排 除 してくれることになっている。そうなれば、あとは、決着の時間だ。
宿の中心にある廊 下 。鎧の触手に埋 もれた通路の真ん中で、彼はじっと、闇 に瞳 を輝 かせていた。もう既 に手首は捕 らえた。あとは引き寄せるだけでいい。
心臓でも眼球でも脳でも心でも、奪 うことができる。奪うことも踏 みにじることもできる距 離 。触れ合うとはそういうことだ。
少年の、無 駄 な魔術の爆 発 を意識せずに払 いながら、彼はこれから自分がすることを、ぼんやりと思い浮 かべていた。すること。しなければならないこと。
(......おかしなものだ......)
苦 笑 する。本来ならばこれは、単なる任務でしかなかったはずだった。魔 剣 フリークダイヤモンドと同様、アスラリエルの子は、聖 域 に取りもどさなければならない。それに関しては聖域の指令は受けていないが、考えるまでもないことだ。ディープ・ドラゴン種族の戦 士 頭 の力は、これからの聖域に必要なものなのだから。そのためには、恐 らく、あの少女──ついでに少年も──殺さなければならないだろう。ただそれだけのことで、わざわざ誰かに報告しなければならないことではない。ナッシュウォータではそうしようとした。ディープ・ドラゴンの幼 生 が自発的に自分に襲 いかかってきたことは誤 算 ではあったが、イレギュラーというのはいつだって起こるものだ。
(例 えば......そうだな。オーフェンだかキリランシェロだかいったか。あの黒 魔 術 士 のようにだ。いや、人間種族の魔術士、それ自体がすべてイレギュラーか......もとをただせば、世界とドラゴン種族すべてが)
ついでに思いついて、彼は吐 息 を漏 らした。気が抜 けるような、虚 しい息。
(そう。クリーオウ。君もイレギュラーなんだ。ぼくにとっては)
処理すべき仕事ではなく、挑 戦 すべき標的となった。
どうしてなのか。分からないはずもないが、言葉にできない。
あるいは恐ろしく単純な言葉になってしまうのだが、それを認めるわけにはいかない。それくらいなら、分からないほうがいい。
と──
「レキ......あんたも、勝てないって思ったら、いつでも逃 げていいんだからね」
聞こえてきた声に、彼は──はっとしたわけではなかった。ただ、闇 の中で、瞳 の色を変えた。湿 ったような気がする。自分自身には見えないので分かるはずもないが。
彼女の声は触 手 が直接聞き取ることができる。盗 み聞きのための機能というところか。もともとこの鎧 は、諜 報 に向いた道具だった。自分の声はといえば、宿の中と外とでは、直接話しかけることはできないが、触手を使って擬 似 的 に自分の声を作り出すことはできるはずだった。滅 多 にすることはないが。
それを使って、彼は答えた。
「この場合は、あの少年のことを案じたほうがいいと思うヨ」
語りかける。金 髪 の少年──未熟な魔術士のようだったが──は、そう長く生きられるはずがない。
「あの少年を追って、ぼくの相棒が行った。申し訳 ないけれど、およそどんな人間であっても、ぼくの相棒に追われて 生き延 びることはできない」
と、付け加える。口元に感触。歪 んで吊 り上がった自分の唇 の。
「そう......これは、絶望というものだ」
「あんたのそれは、もう聞き飽 きたわよ」
彼女は即 座 に言い返してきた。
「いったいなんのつもり? この前の剣 だけじゃ足りない? 今度はなにが欲 しいのよ」
なにが欲しいのだろう。
一瞬だけ考え込んだ自分に、彼は自 嘲 して笑った。
教えたいことがあるのだ。
そのおかげで、このなんでもない、ただの娘 がイレギュラーに化 けた。
話したいことが。
諭 したいことが。
認めさせたいことが。
それはつまらないことだったかもしれないが──
彼には大事なことだった。
ことによれば、ディープ・ドラゴンのことなどどうでもいいほどに。
「そうだね」
だから、彼は告げた
「そうだね──ぼくは君の信念が欲しい。だが実を言えば、君を死なせることくらいしかできそうにないな」
鎧 は彼の感情に過 敏 に反応する。
殺意にも。恐 怖 にも。情欲にも。さらにすべてが同じ意志を示しているのならば、躊 躇 することもない。細い蔓 のような触 手 を数本、彼女の身体 へと伸 ばしていく──
学校生活は、ごく単調な騒 がしさと、無 駄 遣 いしても尽 きない時間の中で過ごした。友人は多くも少なくもなく、これもまたよくあるように、特に仲の良い少数の親友と、そのほかとに分かれる。
学業の成績は極 めて良好だったようで、とにかく決断の早い性格からか、グループ内ではなにかと物事を率 先 することが多かったらしい。当人より年下の友人が多かったことも無関係ではないだろう。
刹 那 ──
衝 撃 が伝わってくる。先刻の魔 術 とは質の違 う、深く鋭 いダメージ。
途 端 に、触手による知 覚 が消える。すべて叩 き伏 せられ、ねじ伏せられ、破 壊 される。鼓 膜 を打ち据 える轟 音 で、ライアンは我 に返った。迂 闊 だった。油 断 していたというわけではなかったが、夢中になりすぎていた。攻 撃 を仕 掛 ければ、反撃されるのは当然のことだったろうに。
舌打ちして、とりあえず身構える。みしみしと音を立てているのは、宿の柱や壁 だった。宿の外側から、圧 倒 的 な力で押 しつぶされようとしている。持ちこたえているのは鎧の触手のおかげだろう。もっとも、それも何秒保 つのか知れたものではないが。
こうなると、脱 出 するしかない。このまま宿の中に留 まっても利点がない。彼は鎧に命じた。全力で防ぐことを。
そして、自分に命じた。全力で戦うことを。
彼女の日記をのぞいてみると、意外とつまらないことが書いてあった。
日付と天気、あとだいたいの勘 で書かれたのであろう気温だけということも少なくない。
心情的な記述は一 切 といって良いほど見あたらない。一日、一文から三文程度のもので、長い文を書くのが苦 手 なのかもしれない。三文といっても『眠 い。寝 る。ぐう』という日もあった。
自分と出会った日にはなにも書いてなかった。そして──これが最も興味があったのだが──自分に裏切られた日の記述。
『レキがいなくなってしまうかと思った。でも帰ってきた。良かった』
思うに、これを見た時に引き返せなくなったのかとも思う。
触 手 の大半ごと、宿の屋根から飛び出した瞬間──抵 抗 する力を失って、建物は一気に破 壊 された。雑 巾 でも搾 るように、大きくねじられる。こぶのようになった触手から首だけ出して、ライアンは外をのぞいていた。潰 されていく建物から宿り木のように突 き出した位置より、少女がいたはずの場所を見下ろす。彼女はとうに宿から離 れ、瞳 を緑色に輝 かせる小さなドラゴンを胸に抱 え、こちらを見上げていた。
会話をする時間もない。
ライアンは寒 気 を覚えて、身をよじった。同時に触手の束 が変形し、さらに規模を広げて自分と少女の間に森の壁 を造り出す。今度はただの力ではなく、爆 発 を伴 った振 動 がその壁を叩 いた。爆圧に押 しやられ、屋根の上から、後方の路面へと落 下 する。
衝 撃 は、やはり触手が防いでくれた。落ちるより先にディープ・ドラゴンの魔 術 に焼かれて、焼けこげた部位を切り捨てる。身軽になってからライアンは、横に駆 け出しながら、右腕 の部分にだけ、数本の触手を伸 ばした。数歩走ると、宿の陰 から、金 髪 の少女と、黒い子ドラゴンの姿が見えるようになる。
少女は、まだこちらに気づいていないようだった。が、ドラゴンの視線はこちらを向いている。一瞬で他者の命を奪 う視線。
それを見返して──ライアンは微 笑 した。
「怖 がったりはしないんだ、ぼくはね」
腕にからみつくように丸まっている触手を腕ごと、彼女のほうへと突き出す。
「ただひとつのことに支配されているから......」
槍 のように鋭 く伸びゆく触 手 は、彼女が悲 鳴 を上げるより早く、瞬時に消失した。内部から崩 壊 させられたらしい。ディープ・ドラゴンの瞳が輝いている。
今度は左腕から触手を伸ばし、それを地面へと突き立てる。地中深くへと潜 らせながら、ライアンは全身から最大速度で触手を膨 張 させた。森が爆 発 することがあるならば、これがそうだろう──木の枝の形状をした触手が、放射状に膨 れあがる。視界をすべて触手が覆 い隠 す寸前に、少女の甲 高 い声が聞こえてきたような気がした。
「なんでこんなことをするのよ!」
「............」
その問いには答えたつもりでいた。だが聞いてくるということは、理解されなかったということなんだろう。
ライアンは触手を膨張させながらも喉 を震 わせた。
「君に理解してもらえなかったから」
「なにをよ!」
うねる触手は、もう木の枝から幹 くらいには成長している。じき、彼自身がこの触手の中に埋 もれて肉声での会話はできなくなるだろう。その前に、彼は叫 んだ。
「絶望を教えたい──君にね」
「そんっ......なこと!」
爆発──
巨 大 なものになろうとしていた触手の森が、一瞬で粉々に砕 け散る。中にいる彼自身を含 めて吹 き飛ばす程度の威 力 はあっただろうが......
それより一瞬早く、彼は行動していた。地中に突 き刺 していた触手もまた、もう既 に直径二メートルほどの太さにまで成長している。根となっているその部分へと、彼は自分の身体 を移動させた──鎧 の中は、自在に動くことができる。地中深く、十数メートルまで潜 ってしまえば、もうディープ・ドラゴンの魔 術 では容易にこちらを探 し当てることはできまい。彼ら種族の魔術は、視線を媒 体 とする。
一方こちらは、触手によってある程度の知覚を行い、攻 撃 できる。知覚には制限があるため、逃 げられてしまう可能性もあるが。
地中に潜る一瞬前まで、標的が立っていた場所は覚えている。これを基準に探 知 していけば、そうそう逃げられるということはないはずだった。
再び、触手を伸ばす。
少女はまったく動いていないようだった。こちらが死んだと思ったのかもしれない。
「ぼくは殺しが仕事なんだよ、クリーオウ」
誰に言うわけではないが、ライアンはつぶやいた。
「命じられて、その通りにする。ぼくが生きるも死ぬも、ぼく以外の誰かが決める。ぼくに与 えられた自由意思は、標的を生かすか殺すかだ......うまく仕事をすれば、関係者を殺さずに任務を遂 行 できることもあるかもしれない。たとえばだ 、あの時君がフリークダイヤモンドを素 直 に渡 してくれたら、ぼくはそのまま逃げることができた。そのディープ・ドラゴンも回収できただろう。でも、君はイレギュラーを起こした。もうぼくは、君を殺すことを選ぶしかない」
触 手 はなんの抵 抗 も受けずに、標的に巻き付いた。そのまま少し力を込めて絞 れば、か細い少女の身体 など数個に分割できる。ディープ・ドラゴンの力を以 てしても回復できないほどに。彼女は死ぬだろう。
それは楽なことだ......死ぬことができるのは楽なことだ。
(ただ死なせはしない)
ライアンは、さらにわめいた。肉声が伝わらないのは分かっていたが。触手が伝達してくれているはずである。
「ぼくは殺すのが嫌 だ......道徳者を気取るつもりはない。ぼくにはぼくなりの理由があって、人を殺すことは屈 辱 なんだ──死ぬのは楽なことだ。ぼくは絶望を抱 いて生き続けなければならない。それに比 べたら──死ぬのは楽なことだ!」
触手からは肉体の柔 らかさが伝わってくる。触感とは違 う。単にデータとしての柔らかさだが。それが人 肌 であるのは間違いない。
「死ぬ前に、絶望を知ってもらう。ぼくが味わっているものの千分の一も持っていってもらう。そのくらいしなければ、しゃくに障 るじゃないか、ええ?」
と──
彼は違 和 感 を覚えて、言葉を止めた。
触手から伝わってくるのは、少女の身体 の柔らかさ──しなやかさ──もろさ。それは間違いない。だが。
(......どういうことだ? 柔らかすぎるんじゃないか? これは......)
抵 抗 がない。
まったくなかった。ディープ・ドラゴンによる反撃もなければ、単に触手を振 り払 おうとする無 駄 な抵抗すら感じない。捕 まえているのは間違いなくその少女だというのに。
(本当に......間違いはない)
彼女に触 れている触手をさらに増 やし、確 認 する。人型。背 丈 ・体重から、髪 の長さ、漠 然 とはしているものの、触 手 の持つ擬 似 的 な視覚からも、彼女であると特定できる。既 に死んでいるというわけではない。心音も呼吸音も間違いなく存在する。ただ......
その身体は、完全に脱 力 しているようだった。触手を離 せば、そのまま倒 れるだろう。
(......罠 ? いや、どんな罠だというんだ? 彼女はこちらが、相手の異常を知ることができるのかどうか知らない。分かっていたところで、こちらが構わず絞 め殺す可能性のほうが高いんだ)
理解できないことだった。確かめようと思うのなら、地上に出るしかない。
「なんてことだ......」
ほぼ確実に、あのディープ・ドラゴンと出くわすことになる。が。
「確かめずにこのまま殺すのは......駄 目 だ。彼女は理解していない」
彼には大事なことだった。
ことによれば、デイープ・ドラゴンのことなどどうでもいいほどに。
もう一度つぶやいて──彼は苦 笑 した。
そしてゆっくりと、慎 重 に、自分の身体 を地上へと吐 き出すよう、鎧 に命じた。
クリーオウ・エバーラスティン。十七歳。トトカンタ市出身。無職。簡単な経歴や性格については前述の通り。
相 棒 に頭を下げてまで調べてもらったところでこの程度。ネットワークもたかが知れている──人の心や記 憶 までは知ることができない。それどころか、誰かが知っていることしか調べることができない。
結局は、自分で知ろうとするしかないのだ。本当に知りたいことは。
聖域の母はなにも教えてはくれなかったが、それゆえに、そのことは実感した。
そして、たった今、知ったことがある。
罠は、一見危険がないような場所に仕 掛 けられているのが当然であると。
まして、運命の落とし穴なら。
地上に出て、最初に発見したのは、その少女だった。
触手はすべて解 いているため──予想通り、彼女はだらんと手足を伸 ばして地面に横たわっていた。目は見開いたまま瞬 きもしない。ゆっくりと胸が上下しているが、動きらしい動きはそれだけだった。表情も最も弛 緩 した形で、無表情というのならば、これ以上それらしい無表情もないだろう。
「......どういうことだ?」
地中でうめいた言葉を、ライアンは繰 り返した。理解できない。
「死の恐 怖 でショック死......いや、死んではいないんだ。脳死? そんな馬 鹿 なことが──」
見回す。あたりに気 配 はない。そもそも、あの騒 ぎの中、通りすがりの何者かが彼女に危害を加えて去っていくというのも意味不明だろう。
彼は警 戒 しながら、彼女に近づいた。倒 れている少女は、ぴくりとも動かない。罠 はあり得ない。観察しているだけで五分以上経 っている。瞬きひとつなく横たわっていることは不可能だろう。
少女の身体 の横にかがみ込み──
「とりあえず......これを回収する......か?」
回収、と自分の言葉に、はたと気づく。そもそも回収するはずだったものが見あたらない。
振 り返る。それはなにかに気づいてのことではない。それがそこにいるだろうということを、単に予想してのことでしかない。罠だとしたら、背 後 にいるのが一番自然だ。
それは、そこにいた。
ライアンは見上げて──全身が引きつるのを感じた。それはそこにいた。
巨 大 な頭が、こちらを見下ろしている。闇 の中に黒々と浮 かぶ影 。月明かりに照らされることもなく、ただシルエットだけが闇に縁 取 られている。黒の密林の王。古い言い回しを、彼は思いだしていた。それは音もなく現 れる。警告のない死を敵に与 えるために。
「ディープ・ドラゴン......!」
だが、先ほどまでいた、子ドラゴンではなかった。頭の高さ四メートルはある。漆 黒 に輝 く狼 の巨 軀 。獣 は静かにこちらを見下ろしてきていた。鋭 い緑色の眼 差 しで──
こんな場所にいるはずがない。すべてのディープ・ドラゴン種族は、《フェンリルの森》にいる。聖域を守護するために。森に踏 み込んだ侵 入 者 をすべて排 斥 するために。こんな、人間の街 にいることはあり得ない。
ただ一匹 を除いては。
「唯 一 ......深淵の森狼 の聖域外聖域戦力 ......アスラリエルの幼 生 ......」
彼は悲 鳴 を上げた。
「アスラリエルはまだ生きているというのに──名を継 承 したとでもいうのか⁉ なんのために! なんのためだ!」
声はそこで消えた。ディープ・ドラゴン=フェンリルに問いかけるなど、愚 かなことでしかないのは分かっていた。
相手は戦士だ。敵を滅 ぼす以外のことはしない。
ライアンは大きく口を開いた──自発的にではなく。骨格のすべてが歪 み、身体が動かなくなる。骨の砕 ける音が身体 中から聞こえてきた。ぐちゃりとした感 触 、そして味が口の中に広がる。全身が沸 騰 するように熱い。そして芯 だけが刺 さるように冷たい。四 肢 の感覚は失 せ、自分がどのような格 好 をしているのかも分からなくなる。視界はすぐに閉ざされた。激しく輝く、緑色の双 眸 だけが記 憶 に残る。
(ああああああああああああああああああああああああああああああああああ......)
文字が、永遠に並べられていく。意識は既 に飛んでいた。言葉も紡 げない。ただ文字だけが浮 かんでいく。
激しい振 幅 。
ライアン・キルマークドはその生命と死の振幅の中で──
人生で何十度目かの死を遂 げた。
◆◇◆◇◆
別の通りの暗がりから。
ゆっくりと姿を消していく巨 大 な獣 を眺 めて、その男はぽつりとつぶやいた。
「......予想外だったな」
「そうですか」
その男がそう言うのならば、こう答えるしかない。彼は立ち尽 くす形で、男が次の言葉を吐 くのを待った。
しっかりとした痩 身 とでもいうのか──その男は、そんな男だった。身につけているものはごく一 般 的 な衣類でしかないが、彼が着るとどこか軍服めいて見える。三十数歳 という年 齢 から来る感情の静けさも、加 味 されるからだろうか。短く刈 り込んだ髪 、几 帳 面 に剃 られた髭 、金属は嫌 いだという口 癖 通り、時計も装身具もなにもない。無論、武器も持ってはいないだろうが、もとよりその男には必要ない。
男は、たっぷりと時間をかけて考え込んでから、言い直してきた。
「これは領 主 様にとっても、予想外だっただろう。間 違 いなく」
「でしょうね」
彼は──なんとなく唇 に残った傷 跡 がうずくような気がして、マントの下から腕 を出してそれを指でかきながら、うなずいた。身体 中に取り付けられた武装の留 め金が、小さくざらりと音を立てる。
それが耳 障 りだったのか、男は視線をこちらに向けた。
「ユイス」
と、男は通りのほうを指さした。獣に一瞬にらまれただけでずたぼろになったライアンが、傷ついた身体を引きずるようにして逃 げようとしている。
「お前が追 跡 しろ。あれだけの深 手 で逃げようとしているんだ......恐 らく、本 拠 地 に帰るんだろう」
それまで命が保 てばの話ではあるが。
そのことを、男は付け足してはこなかった。見れば分かることだった。
そもそも、ライアンが瞬時に絶命しなかったことのほうが不 思 議 だった──逃げようとしているとはいっても、ライアンは壊 れた身体をなんとか引きずっているだけで、どう見積もっても致 命 傷 を十箇 所 は負 っている。倒 れている少女を路上に放置していくつもりのようだが、もうライアンにも意識はないのだろう。ただ本能で、ディープ・ドラゴンから遠ざかろうとしているだけかもしれない。当のドラゴンは、既 に破 壊 した相手のことなどもう興味を失って、姿を消してしまったようだが。
そのことも、言うまでもないことだった。だから言葉には出さず視線だけで、彼は男に問いかけた。
男は、だが意見を変えなかった。
「先刻、わたしが遭 遇 したレッド・ドラゴンも、ろくに反 撃 もせずに退散した。未知の勢力と出くわして、互 いに情報を交 換 するはずだ。彼らのネットワークは、それほど完全なものではないようだからな」
「同一世界にあるネットワークに優 劣 はない、と彼は言っていましたが」
「分かった。認めよう。我 々 のネットワークとて完全に機能しているわけではない」
と、男は嘆 息 してみせた。
「だが命令は変わらんさ。お前は奴 を追跡して、奴らの本拠地に行け。そして我々がまだ知らない戦力を奴らが有しているのかどうか確 認 してから、可能ならすべて撃破しろ」
男は意見ではなく、命令と言った。そのことにこだわっても意味のないことかもしれないが──
とりあえず、彼は聞き返した。
「......俺 だけで?」
男が、苦 笑 する。
「素 直 に聞いて欲 しかったな。お前は既に奴らにマークされている。それを逆利用するためにわざわざ、お前を監 視 していた聖服の男に、わたし自 ら暗示をかけたのだ──あと半日は、なにがあろうと彼はあの場所で立ちんぼし続ける。男がそれを疑わない限り、この事実はネットワークでも探知できない。奴らは未 だ、お前は監視の下 にあると思いこんでいるわけだ。それに」
表情を引き締 めて、付け加えてくる。足下に倒 れている金 髪 の少年を示してから、
「この少年を適当に治 療 できる場所に移してから、わたしはディープ・ドラゴンを追う。ここまで言えば文句は出まい?」
「あの少女は?」
と、放置されたままの少女を指さす。彼女はまったく動こうともしない。
男はさらに苦笑したようだった。
「ディープ・ドラゴンがなにかしたような対象に、あえて触 れたいとは思わんね。動かした瞬間、大 爆 発 を起こすよう暗示がかけられているのかもしれない──まあ、本気でそう思うわけではないが。どのみち、ウィノナがどうにかするだろう。あれは彼女の管 轄 だ」
「分かりました」
彼は、うなずいた。
仕方のないところだろう。と声には出さずにつぶやいて、ライアンの姿を探 す。死にかけた男──だか、死に損 なった男だか──は、まだ何歩も進んではいなかった。
彼は、懐 の武器を確 認 した。ドッペル・イクスを相手にできるだけの装備は持ってきている。レッド・ドラゴン種族が相手となる可能性があるならば、足りないかもしれないが。
どう見たところで、尾 行 に注意は必要ないだろうと踏 んで、彼はそのまま歩を踏 み出そうとした。
と。
「領主様に協力すること、心変わりしたということはあるか?」
突 然 、男に呼び止められ、足を止める。彼は振 り向いて、聞き返した。
「なぜです?」
男は確認するように、こちらの顔をのぞき込もうとしていた──厳 めしい表情に、一筋の隙 を残すような形で。
「......いや。ウィノナが奇 妙 なことを言っていたのでな」
角張ったあごを撫 でるポーズで、言ってくる。
「お前が、標的を殺し損ねたと」
「............」
彼は答えないまま、歩みを再開した。
その朝日が、普 段 の朝日となにか違 う点があったというわけでは、決してない。
もしも、焦 げ目をつけたトーストにバターをたっぷりと乗せ、黄身を潰 した目玉焼きをはさんで頬 張 ることを禁じられれば、驚 いた者もいただろう──だがそういったことはない。ワイシャツに致 命 的 な染 みをつけかねないその朝食も、剃 れない剃刀 に文句をつけることも、窓を開 けてテラスの鉢 植 えに水をやることも、なにひとつとして制限は課されなかった。
だが、そのいつもと変わらない朝日の中で、アーバンラマ市の人々はあるものの出現を受け止めなければならなかった。
最初にそれを発見したのが誰 か、それは分からない──
誰もが驚いたことは間違いない。ただしパニックが生じなかったのは、それがなにを意味するのか、発見者にはことごとく理解できなかったせいだろう。半 端 な不理解であれば、狂 乱 する余 地 もあったかもしれないが。
アーバンラマ市の北側にある、最も広い公園に突 如 として現 れたそれは、微 動 だにせず、朝日の中で鎮 座 していた。水平に構えた視線も、重量のある体 軀 も、滑 らかに後方へと流れる漆 黒 の体毛も、なにひとつとして動かない。ただじっと、そこに在 る。ジョギング中に、牛乳配達中に、通勤途 中 に、それを見た者たちは、理解できないながらも、漠 然 と感じることはあった。それは、王者だった。決して動かすことはできず、在ることを受け入れるしかない。絶対の王者。
見る者が見れば、それが何者であるか、分かったかもしれない。あるいはそれ自身が、名乗ったかもしれない。
ただ、今は動くこともなく、ただ朝日を浴びている。頭の高さにして数メートルにもなろうかというその巨 大 な王者は、ある時刻を待っていた。
ディープ・ドラゴン種族の究 極 の戦士たるアスラリエル。その名を持った漆黒の毛並みの王者は、その種族の掟 に従って、音もなくそこに存在していた。
◆◇◆◇◆
「えっほ、えっほ、えっほ......」
かけ声だけが規則的に朝の静けさを揺 さぶる。いや、揺さぶるというほどのこともない。ドーチンは思い直して、独 りごちた。せいぜい、撫 でつけるという程度か。それ自体が朝の静 寂 を破るということはない。
「ねえ、兄さん......」
棺 桶 のような、巨大な長 櫃 ──実際それは棺桶だったのではないかと思えたがそれは忘れて──の前の部分を頭の上に抱 えて、ドーチンはうめいた。
「むう、なんだドーチン。やはり最初の提案通り、かけ声はえいさえいさのほうが良いか?」
「いや。そーじゃなくて」
ドーチンはかぶりを振 った。
「これってきっぱり、泥 棒 だと思うんだけど」
「む?」
同じように、箱の後方を持ち上げているはずの兄が、まるっきり意外なことでも聞かされたというように言い返してくる。
「そーか? だってあれだぞお前。このマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様のポジティブバイブレーショナルソナーすなわち耳が。聞いた覚えあるぞ。あのキャベツ男が、自分のいない間、建物の中にあるものは自由にしてていいと」

「いや、でも......建物の中に隠して あったものは自由にしちゃいけないんだと思うな」
「むう。臨 機 応 変 な。しかし例外事 項 なしと決めたゆえ、気にしてないのでだいたいオーケイだぞ」
「兄さんが気にしなかったところでどーなるもんでもないと思うけど...」
「はーっはっはっ! 分かっておらんな弟よ。この世はすべて力と金だぞ。『なにかがまずけりゃ丸め込め』──これを来年あたりのキーワードにしようと思うのだが」
「思ってても」
「♪おーおー。今日 もゆくゆく黄 金 色 〜。頑 張 れ正義の贈 賄 だー」
「歌まで」
げっそりとうめく。
幸いにも早朝の街 にはすれ違 う通行人もなく、どこからどう考えても怪 しげな自分たちを呼び止める警官も見あたらない。いや、警官は二十四時間いつでもいないとおかしいのだが、ポリスボックスというのは避 ければ避けられるものではある。
ただでさえ、地 人 というのは目立つ──大陸の南方にある自 治 領 にほとんど隔 離 され、人間の街に姿を現 すことなどほとんどないのだから当たり前だが。あからさまに民族衣 装 の毛皮のマントを着込んで、仮 にそうでなかったとしても、人間種族とは体格が違い過ぎる。兄は兄でさらに中古品の剣 を腰 にぶら下げているし、いつどこで職務質問を受けたところで不 思 議 はない。
そして恐 らく、受けたら終わりだ。
身 震 いして、ドーチンは認めた。
「♪都 合 が悪けりゃ使い捨て〜。なに? 捨てた? よく拾え〜」
調子外 れの兄の歌が、なにやらサビに入ったようだった。
◆◇◆◇◆
「──だからさ、腕 力 もつけないでケンカに勝とうなんてのが、虫が良すぎんのさ。そうじゃない? どーすんのそのほっそい腕 」
「はあ......」
「知 恵 と勇気なんてのは夢よ夢。単なるタワゴト夢物語。いーい? あらうっかり、でなにもかも駄 目 になっちまうような姑 息 な奸 智 より、振 り向きざまに敵のあごを砕 く鉄 拳 鍛 えるほうが確実だってば。あたしの言うこと信じなさい」
「うーん」
「それにさ、あんたのエドなんて実はたいした相手じゃないってばよ。あたしゃ、訓練所で何回あいつを這 い蹲 らせたか覚えちゃいないんだから」
「......は?」
まどろみの中で聞こえてきたのは、言ってみれば戦闘馬鹿ふたりの物 騒 な会話だった。目を開くと朝日。窓から差し込んできている。
静かな朝だった。なにも起こらなかったかのような......そんなことを考えて、オーフェンは苦 笑 した。
(のんきなもんだ。ここがどこだかも分からないってのに)
苛 立 ちを覚えて両腕を上げる──清潔な匂 いのするベッドの毛布の下から腕を出して、顔面を覆 った。この心 地 よさに、かえって泣きたくなってくる。今さら涙 も出ないが。
(さて、どうする......?)
彼は自問した。
(残されたのは俺 と、陰 気 な復 讐 女と、口やかましい世話焼き。それだけだ。さあどうする?)
「それだけじゃないね。言わせてもらえば」
「............?」
口に出してもいないことに反論されて、オーフェンは思わず飛び起きた。ぎょっとしながら横を見やると──自分が寝 ている寝 台 からはやや離 れて、やたらと大 柄 な女と、それとは対照的に小柄な女とが、きょとんとしたような眼 差 しでこちらを見返してきている。どうやら、突 然 起きたことに驚 いた様 子 だったが。
反論してきたのは、大柄な女──確か、ウィノナとかいったか──のほうだった。昨日 と同じ、大学のロゴが入ったシャツに、洗い込まれたジーンズ。賭 けてもいいが、同じ服を二枚持っているということではあるまい。彼女は一度、目をぱちくりさせてから、もうひとりの小柄な少女、ロッテーシャに向き直った。
「だからさ......それだけじゃないってことさ。ぶん殴 った後、そいつが肝 心 なんじゃない? そだろ? 一生忘れられないような言葉で決めてやらなけりゃ、復讐なんて終わりゃしないってもんさ」
「いえ、あの......」
診 療 室 の背のない椅 子 に座 っていてなお、かなりの身長差がある話し相手を見上げて、疲 れたような表情を、ロッテーシャが見せている。オーフェンは、密 かに嘆 息 した。違 う会話だったらしい。
診療室。
なにげに思い浮 かべたその単語を、彼は再び認 識 した。違 和 感 はなかった──そこはまさしく、診療室に見えたからだ。というより、学校の保健室というほうが近いか。普 通 は、診療室に患 者 は寝かさないだろう。ベッドがふたつ、そのうちひとつは自分が寝ていた。部屋の半分はそれが占 めている。残りは診療台にそれらしい器具が並んで、医者と患者が座るのだろう椅子には、今はウィノナとロッテーシャが腰 を下 ろしている。物が多すぎるせいで全体的に手 狭 で、窓の外にはたいした庭もなく、すぐ壁 になっている。あまり背は高くない壁で、日光はまだ傾 斜 が低かった。室内に時計は見あたらなかったが、まだ早朝だろう。
「あたしが十四の時、ぶん殴 ってやった奴 の話はしたっけ? え、聞いた? ま、同じ十四でもあの頃 は週替 わりで違う奴殴ってたから、多分違う話さね──」
止まらないどころかよどむ気 配 もないウィノナの声に背を向けて、オーフェンは、部屋にひとつしかない扉 から廊 下 に出た。適当に見当をつけて、洗面所を探 す。なにも考えたくない時は、とりあえず顔を洗いに行くのがいい。
幸いに、分かりやすい場所に手洗いを見つけて、入り込む。ここが誰 の建物だったにせよ、家の中には自分とウィノナらのほかには誰もいないのか、気配らしい気配も感じられない。とりあえず、レバーを押 して蛇 口 から水を出す。
透 明 な液体を手ですくい、思ったより冷たい秋の水に手のひらが痺 れる。何度か顔を洗ってから、オーフェンは正面の鏡を見やった。
生 気 のない眼 差 しが、こちらを見返してきている。
どこにでもいると言えば、どこにでもいる──黒ずくめの男。首になにもかかっていないことに気づいて、ポケットを探 ると、細い銀の鎖 のペンダントが入っていた。昨夜意識を失ってから、誰かが外 して入れておいてくれたのだろう。それを胸にぶら下げてから、改 めて鏡に映った自分を見つめた。剣 にからみついた一本脚 のドラゴンの紋 章 。大陸黒 魔 術 の最 高 峰 《牙 の塔 》の紋章であり、最高の術者の証明となる。
だが鏡に映った男は、力のない笑 みを浮 かべているだけだった。
「ったく......」
舌打ちして、きびすを返す。いや、返そうとして、さらに振 り向いて鏡を見やる。
「なんなんだよ。確かになにもできなかったさ──なにができたってんだ? ああそうだ。自分の周りを誰がうろちょろしてようが、そいつがクリーオウやマジクを狙 うなんざ考えてもいなかった。まるっきりだ。想像もしてなかった」
なにかが変わっていることを期待していた自分に腹が立ち、毒づく。洗面台に手をついて、鏡に鼻先が触 れるほど近づくと、さらに独 りごちた。
「なにが起こってる? なにが起こり得る?」
それを知る必要がある。
昨夜のことを──昨夜までのことを考えなければならない。
ナッシュウォータで、ドラゴン種族と遭 遇 した。人間にも擬 態 できる、レッド・ドラゴン種族。ドラゴン種族の中でも突 出 した戦 闘 力 を持った種族である。もっとも、突出していないドラゴン種族などいないが。
「奴 ──ヘルパートとかいったか。あいつはライアンと組んで、ロッテーシャの剣 、もとは天 人 種族が鍛 えたものだったらしい魔剣を手に入れようとしているところだった」
なぜ今さらドラゴン種族がそんなものを欲 しがるのか分からないが。
確かに天人種族の遺産というものは強大な力を持ったものがしばしば発見されるが、それも所 詮 はたかだか一振りの剣に過ぎない。個人で使う分には、劇的な効果が望める場合もある──たとえば職業的な暗殺者ならば、多少の困難を乗り越 えても手に入れたがるだろう。とはいえ犠 牲 を払 ってでも入 手 しなければならないほどのものではない。ましてやドラゴン種族が生 来 持っているそれぞれの魔 術 や能力を考えれば、わざわざ人里に出 没 してまで奪 い取らなければならないこともないだろう。兵器ではなく骨 董 品 、珍 品 としてならば価値は高く、盗 掘 品専門の闇 マーケットも存在しているらしいが、もとより人間社会の通貨や財産と引き替 えることを目的としてドラゴン種族が動くはずもない。
つまりは、わけが分からないということだ。
見つめる目と見返す目が、同時に鋭 くなる。
「その中で、俺 と出くわしたのは偶然だったようだが、ヘルパートは、アザリーのことで、俺を監 視 するつもりだというようなことを言っていた......」
そのことは、特に驚 くようなことでもなかった。姉が本当に、キエサルヒマ大陸を旧世界から隔 離 するアイルマンカー結 界 とやらから飛び出していったのなら、それは結界の管理者であるドラゴン種族から注視されないはずがない。むしろ好 都 合 だと思っていた。向こうからつついてくれれば、手も足も出せなかった姉の行方 について手がかりが得られるかもしれない。
「なのになんで、クリーオウなんだ? マジクなんだ......?」
唇 を嚙 む。結果としてふたりを失うことになった。
「なんでこんなことになる......⁉ 」
どうしようもないことになってしまった。取り返しもつかない。やり直しもきかない。
「くそ!」
鏡を叩 くようにして、顔を離 す。今度こそきびすを返して、彼は廊 下 を駆 けもどった。
オーフェンはそのまま真っ直 ぐにもとの診 療 室 にもどると、扉 を開けた。
「おい、ここがどこだか教えてくれ。俺はこれからマジクの奴 を探 しに行くから──」
「そいつは止 めときな」
実際その言葉に暗示でもあったかのように、オーフェンは動きを止めた。部屋の入り口で立ち止まる。
なんでこんなことになる......?
そんな皮肉に胸がよじれる。
「ホント......領 主 様のおっしゃる通り。迂 闊 な奴だよあんたは」
銃 口 をロッテーシャのこめかみに突 きつけてウィノナが冷たく吐 いたのは、そんな一 言 だった。
◆◇◆◇◆
ゆっくりと......ゆっくりと......
暗い視界に、赤い点が浮 かぶ。その色は限りなく影 に近く、周囲の闇 とその点との見分けはつきにくい。だが注意してのぞき込めば、その違 いは分かる──どうしてそんなことをしなければならないのかと問われれば、それが本能だからとしか答えようがない。
点は次 第 に大きくなっていく。単調に揺 れて、複雑に歪 んで。
突 然 、なにかがつながるのが分かる。小指と手、手首と腕 、腰 と背骨、首と頭......
次々と接続されて、まず蘇 るのは──寒けだった。冷え切った身体 に体温がもどってくるのはもう少しかかる。生命活動が再開して、ほんの少しの間。痺 れるような悪 寒 の中、身 悶 えする。筋肉が収縮し、多少の熱を稼 ぐ。緩 慢 な思考が、最初の言葉を紡 いだ。
(ライアン......自分の名前)
これだけは確実に思い出せる。間違いなく思い出すことができる。そして、ふたつ目。
(聖 域 ......自分の故郷)
安らぎとともにある言葉。目の中に映し出される。
深い森。澄 み渡 る空の下、その鏡 面 となって広がる、輝 く湖。苔 むした巨 木 が沈 んだ湖底には、小さな魚 影 もうかがうことができる。聖域。魂 の安らぎは、いつであってもそこにある。
苦 悶 を感じる。いつも同じタイミングだ──と思い出す。生命活動が再開した以上、呼吸をしなければならない。粘 土 のように固まっていた肺を、ゆっくりと収縮させる。全身にあった痛みが、小さく鋭 くなっていった。もう視界には、赤い点は見えない......
ライアンは目を開いた。見えたのは、古びた教会の天 井 だった。
見回す。倒 壊 寸前のその建物は、なにか強力な爆 発 物 の被 害 にでも遭 ったかのように破 壊 されている。放射状に焼け焦 げた床 から、壁 一面をきれいに吹 き飛ばした跡 までを確 認 してから、彼は上体を起こした。ずきずきと痛む頭を押 さえる。渇 ききった舌が口 腔 内 で縮 こまっていた。
と──
「ライアン・キルマークド......以前と変わりない、か?」
声が聞こえてきた。振 り向く。そこには男がいた。
というより、その半分だけが。
男は右腕 と右肩 、右胸までをきれいにえぐり取られていた。致 命 傷 にしか見えなかったが、炭 化 して真っ黒な断面をのぞかせるだけで、その男にとってはどうということでもないらしい。
くたびれたスーツ姿で、さらにくたびれた姿勢で床に腰 を下ろしている。察するに、自分が蘇 生 するまで、じっとそうしていたのだろうか。その男は慣れたようにこちらを見ている。
ライアンは男の視線をそのまま見返して、記 憶 の接続を待った。次々と情報が浮 かんでくる。自分。聖域。緑宝石の鎧。任務。そして、相 棒 。
「ああ......ああ」
彼は、うなずいた。
「大 丈 夫 ......ですヨ。覚えて、います。ぼくは──」
と、言葉を止めて、
「ぼくは、変わっていません......よね?」
相手に聞かれたことをそのまま聞き返す形になったが、男は特に、それで構 わない様 子 ではあった。肩をすくめ──とはいえ片方だけだが──、言ってくる。
「当面は問題なさそうに見える。どの記憶が欠 落 したのかは、あとで調べよう。差し迫 った問題がある」
「え、ええ」
頭痛。というより頭 蓋 骨 に残った刺 すような違 和 感 ──誰 かがよほど手ひどく破壊したに違いない──はだいぶ収 まっていたが、それに取って代 わって、激しい嘔 吐 感 が胃の奥 から神経を浸 食 してきていた。手を何度も開いては握 ってやり過ごすが、乾 いた肌 に、じわじわと汗 が浮かんでくるのが分かる。
だが構わずに、男──相棒は続ける。レッド・ドラゴン種族随 一 の暗殺者たる、ヘルパート。
「アスラリエルの名が継 承 されてしまった。これは特に問題ない」
「......そうですネ」
予定にはなかったことだが、いずれ起こることなのだから、そのこと自体は騒 ぐほどのことではない。多少早まったというだけのことだ。
が──
ヘルパートは淡 々 と続けた。
「だが、その新たなディープ・ドラゴンの戦 士 頭 は、我 々 に敵対する姿勢を見せている」
「異常なことですヨ」
ライアンはかぶりを振 った。
「ディープ・ドラゴン種族には、個の意志なんてものはないんですから......」
「そういうことだ。まあ埒 外 だと文句を言ったところで始まらない」
相変わらず物事にこだわらない──とでも言うべきか──ヘルパートらしいが、こればかりはそうそう気楽に受け入れて良いものではない気もする。ディープ・ドラゴンと戦うことのできる力などこの大陸にはない。ディープ・ドラゴン同士が争うことなどないのだから、真実、無敵の存在ということになる。そしてそれが、自分たちと対立している。
笑い出したい心持ちでライアンは、相棒の顔を見やった。感情の伴 わない擬 態 。右胸より外側を全部失い、それでも人間の形態を保 つことに深い意味はあるまい──火傷 だけは再生に時間がかかると、かつて聞かされたことがある。ディープ・ドラゴンとの違 いはその一点だ。ドラゴン種族として同列の存在でありながら、レッド・ドラゴンには弱点がある。ほかのたいていのものもそうだが。
(認めはしないだろうが......彼には勝てまい)
ライアンは静かに認めた。
(とすれば、だ......)
彼は、考えながら口を開いた。
「ヘルパート。この街ひとつを巻き添 えにしても良いのなら、対 抗 手段はありますヨ。ぼくにはね」
「街を巻き込むことなら、もとよりそのつもりだった。人間種族には......まあ、警告はした。宣言というか。彼がそれを真に受けたかどうかまでは責任取れないが」
「どうするつもりで?」
「連 絡 可能な我 が眷 属 すべてを集める。そして総力で攻 める」
(......そして、全員が皆 殺しになるでしょうネ)
声には出さずに答え、そして代わりに別のことを口にする。
「そんなことをしなくとも、ぼくひとりで十分ですヨ。ただ、誰にも邪 魔 されたくないんです......あなたには障害を排 除 して欲 しい。ぼくの準備が整 うのに、あと四、五時間ほどかかります」
「分かった」
あっさりと、ヘルパート。確かに、それで済 むのなら願ったりというところだろう。
が──
しばらくして、相棒が言ってきた。感情がないはずの眼 差 しにどこか不 可 解 な気 配 を浮 かべて、
「まだこだわっているのか?......あの連中との決着に」
「あの連中?」
わけの分からないことを聞いてくる相棒に、ライアンは首を傾 げた。
「誰のことですか?」
そして自分を守る緑宝石の鎧に、究 極 の攻 撃 命令を与 えた。
◆◇◆◇◆
なんでこんなことになる......?
オーフェンは半 眼 で繰 り返した。引きつった顔のロッテーシャが、わけの分からない様 子 で目をぱちくりさせているのを見ながら。というより、その彼女の首をしっかりと抱 え込んでいるがっしりした腕 と、彼女のこめかみに突 きつけられた拳 銃 とを。
そのどちらも、ロッテーシャの背 後 にいる大 柄 な女のものだった。ウィノナ。
ウィノナは特に笑っているわけでも怒 っているわけでもない。ただじっとその硬 直 状態を続けている。彼女が左手に握 っているのはごく標準的な──希 有 な武器であるのは間 違 いないが、まあ標準的な──拳銃だった。回転式の弾 倉 を備 えた黒光りする鋼 の武器。
すっと──腕を上げようとしたこちらの機 先 を制すように、ウィノナが口を開いた。
「動かないほうがいいわね。あんたが呪 文 を唱 えるより、あたしのほうが速いよ」
どこかで聞いた台詞 に、ロッテーシャが複雑な表情を見せている。
気づいているのかいないのか、ウィノナが続ける。
「こいつがなんだか分かるでしょ? 手 加 減 のできない武器だからね。知ってる? 人間の脳ってのは血が詰 まってる。そいつをぶちまけたくはないのよね、あたしとしては」
「............」
それを無言で聞いて、オーフェンはそのまま、右腕を懐 に入れた。
「............?」
疑 問 符 を浮かべ、ウィノナの眉 間 にしわが寄るのが見えた。舌打ちするように言ってくる。
「動くなと言ったはずだよ」
「聞いたよ。あんたが正しい。たとえば俺が構成を編 んで、魔 術 を具 現 化 し、効果が発 揮 されるより、あんたの玩具 の中に入ってる薬 莢 から弾丸が飛び出すほうが速い。ましてや、ここから飛び込んで猫 だましをかまし、あんたの意表をついて撃 鉄 の中に指をつっこみ、勝ち誇 ってその腕に嚙 みつくかなにかしてロッテーシャを解放してから肝 臓 に一撃 食らわすよりも、トリガーを引くほうが素 早 いわな」
と、嘆 息 して、
「でも、俺 がこうして三十秒間しゃべくる間、あんたは一回も引き金を引けなかったんだよ」
「......なにを......?」
「分かんねぇかな。人間ってのは、結局きっかけがなけりゃなんもできないってことだ。俺は既 に懐 に手を入れた。俺がこの右手を出すのと、あんたがトリガーを引く速度なら、まあ互 角 だ。俺が右手になにを持ってると思う?」
「ふん」
ウィノナは、馬 鹿 にしてか鼻を鳴らしてみせた。ロッテーシャを抱 え込む右腕 に、さらに力がこもったのが分かる──口と鼻を押 さえられた彼女が、顔をしかめるのを見なくとも。
「どうせスローイングダガーの類 だろ? 鞘 から抜 くのには結 構 な時間がかかるさ。はったりを言ってるだけだろうに」
「試 すか? 試されるのは俺の命じゃない。そこのロッテーシャと、あんたの命だ。俺は構わんぜ?」
「............」
「やめとけよ。本気とは思えない」
「分かったわよ」
あっさり両手をあげるとウィノナは、ロッテーシャを解放した。ばたばたとあわてて、ロッテーシャが彼女から身体 を離 す──オーフェンは、ゆっくりと右手を懐から出した。握 っていたのは、銀の短 剣 だった。
それを見て、ウィノナが肩 をすくめる。
「およそ投げられる武器には見えないけどね」
「はったりはお互 い様だろ。あんた何者だ?」
「悪いね。手っ取り早く、あんたがどんな奴 か確かめたかったのさ」
と、拳 銃 を──近くに落ちていた彼女の鞄 の中からのぞいているホルスターにしまおうとしてから、思い直したのかそれを掲 げてみせて、
「あたしの素 性 は、こいつを見れば分かるだろ?」
「騎 士 ?」
拳 銃 は、大陸でも、貴族連盟が許可した者にしか携 帯 を許されない──つまりは騎士団の、その中でも限られた人間にしか。
ウィノナはその武器を、愛 おしそうに撫 でた。
「ディーディーって呼んでる。あたしは派 遣 警察官さ。とはいっても......非公式のだけどね」
「非公式騎士 ......?」
オーフェンは、うめいた。聞いたことはある──誰であれ聞いたことはあるだろう。だが実在を信じている人間などそんなにいるわけではないし、実在を知っている人間となれば、どれだけいるものか分からない。
まだ多少ショックが残っているのか、まともに話を聞いている様子もなく、とにかく彼女から離 れようとしているロッテーシャをかばうように半歩ほど移動して、オーフェンはあとを続けた。
「特定の貴族の私用で動いているっていう、アレか?」
ドラグーンというのは、そういったスタッフに対する、一種のあだ名だった。法や体面といった足かせから解 き放たれた、フリーな軽 騎 兵 という意味だ。言うまでもなく彼らは騎兵ではないが。極 めて近 衛 騎 兵 連隊的であり、凶 暴 であり、鳩 のように紛 れ込む。そういった意味からきている。
「まぁね。まさしくそうだろうね......あたしは領 主 様の命令で動いてる」
彼女はそう言ってから、背中を丸めてかがみ込むと、今度こそ拳銃をホルスターに収 めた。それをごそごそと、彼女の持 参 の巨 大 なザックに詰 め込もうと──
刹 那 。
ロッテーシャが飛び出した。虚 を突 くタイミングで。
ウィノナの腕 から逃げ出した時に、手に入れていたのだろう。鞘 に収まったままの剣 の切っ先で、うずくまった相手に突 きかかろうとし、
「──ふっ⁉ 」
息が抜 けたような音を残して、ロッテーシャの走っていた軌 道 が急変した。だん、だん、と不規則な足音を立てて、部屋の隅 に派 手 に転 がっていく。壁 に激 突 して、ようやくその勢いは止まった。かなり強く頭を打ったようにも見えたが。
見ると、ウィノナは床 にかがみ込んだまま、ただ腕を一 振 りしてみせただけだった。
「言ったろ?」
顔も上げずに、告げる。
「単なるタワゴト夢物語ってさ」
「............」
無言のまま。
オーフェンは、右手に持っていた短剣を投げつけた。一 瞬 の残 光 。空 を裂 く短剣の刃 が、ウィノナが振り上げた右手の指先を少しかすめて、向こうの壁に突き刺さる。
「............?」
これも無言のまま、ウィノナの視線が──ぎょっとした視線が、こちらを向いた。ちらりと、右手を見やってから。彼女の右手の中指に、先 端 から、じわりと血の玉が膨 れあがっている。
彼女に、オーフェンは告げた。
「得意がるのもいいけどな。俺の質問に答える途 中 だったろ」
少しかすれた口笛を吹 いて、ウィノナが立ち上がる。こちらへと向き直って、
「なるほどね......キリランシェロ、究 極 の戦 闘 者 ってわけだ。驚 いたわよ」
「どっちでもいいさ。ただどっちだったとしても、虫の居 所 が悪いのは同じだ。さっさと答えろよ──こっちがいちいち質問しないでも、答えられることを全部だ」
「それほど時間に余 裕 ないんだけどね」
「......なんの時間だ?」
「あんた、さっきから、それを視界に入れようとしないみたいだけど──」
笑って──いる。
ぎり、と奥 歯 を嚙 み合わせて、オーフェンは彼女がうながしたほうに視線をやった。自分が寝 ていたベッドの、隣 のベッド。
そこにはクリーオウが眠 っていた。
目は閉じている──最後に見た時のように、目を見開いたまま微 動 だにしないという状態ではない。ただそれでも、これだけの騒 ぎの中まったく目を覚まそうともしていない。ただ規則的な、しかも異常なほど緩 やかな規則で、胸を上下させているだけだった。
「............」
オーフェンは、嚙み合っていた歯をなんとか引き離 し、うめいた。
「彼女を医者に見せないと」
「見せたわよ......といって、免許を持った医者じゃないけど」
「この建物の主 か?」
部屋の中を見回して、聞く。ようやくロッテーシャが、のろのろと起きあがろうとしていた。剣 を杖 に、怒 り狂 った眼 差 しをウィノナに向けているが、しばらくは動けないだろう。
ウィノナは気にしていないようだった。肩 をすくめて、自分の隙 を見せびらかしている。
「ここはベッドを貸してもらっただけ。街の北側で、休めるところも欲 しかったしね」
「うん......?」
「あたしの仲間──いえ、監 視 役 ? 指 揮 官 ? まあどうでもいいけど。そいつに暗示をかけてもらってね。とりあえず何日か、どこでもいいから適当に過ごしてくるように。って、ここの持ち主のことよ? ちなみに、その子のことを見てくれたのも、そいつ」
オーフェンは確 認 のため、ロッテーシャに目 配 せした。彼女は明らかにまだ回復していない様子でつらそうに片目を閉じていたが、それでもふらふらとうなずいてみせた。
「ええ......なんか、知らない人が......いました。さっきまで......」
「ダミアン・ルーウ。今のところは彼のこともあたしのことも信用してもらって構わない。領主様があんたを必要としているしね」
「誰だ。その領主ってのは」
と、思い出して、
「貴族内革命以後、領主なんてのはいないだろ。貴族連盟は全人民に人権を与 えて、土地も解放し、その上で大陸を自分たちが統治することにした。過去の天 人 と自分たちとの関係を倣 う形でだ。中央から管理官を派 遣 はするが、それ以上のことは──」
「大陸全土でただひとつ、残ってるのさ。解放されなかった土地がね。まあいいじゃないか。いずれ連れて行くよ」
ウィノナは軽い調子でそう言うと、ふとあたりを見回すようにして、先刻投げつけた、短 剣 に目を止めた。壁 に突 き刺 さったままの短剣に近寄ると、それを引き抜 き、にやりと笑ってみせる。そして、つぶやいた。
「最接近領......と呼ばれてる」
なんとなく聞き返すのもしゃくで、オーフェンは黙 してただ彼女を見返した。彼女は短剣をもてあそぶように、手の中で何度かひっくり返してから、その銀の刃 に、ふっと息を吹 きかけて見せた。
「領主様は、あんたを必要としている──あるいは、少なくとも有用だと思ってる」
繰 り返してくる。オーフェンは苛立 たしく思いながら嘆 息 した。彼女の意 図 は非常に分かりやすい。どうということはない。とにかく、こちらに聞き返させたいのだろう。
彼は口を開いた。
「いったい何者だ。その領主様ってのは」
「取引を持ちかけたいのよ。分かるでしょ?」
彼女は目を細めて近寄ってくると、短剣の切っ先をつまみ、柄 をこちらに向けて差し出してきた。
なんとなく、ロッテーシャの視線が気になったが──オーフェンは、その柄を取ると、そのまま短剣を懐 の鞘 にもどした。間 を取るために、聞く。
「取引?」
「あんたが聞きたいことをすべて答えてあげる。その代 わり、領主様に会って欲 しいわけ。事態が解決したあとでね」
「............」
彼女の言ったことを反 芻 する。半秒も考える必要はなかったが、相手に問いただすことがみっつ出てきた。
「......聞きたいことをすべて?」
「ああっと。ええと、ほとんどすべてね」
悪びれずに言い直す彼女に、眉 根 を寄せてから、
「その領主ってのは、俺になんの用事があるんだ?」
「さあ」
「事態って、なんの事態のことだ」
「そうねぇ。たとえば」
彼女は、ベッドの上で寝 息 を立てる、金 髪 の少女を指し示した。
「この子、治 してあげなくちゃあ......まずいでしょ?」
がたんっ。
オーフェンは、半歩飛び出した。
相手が反応できないうちに右足を相手の側面にまで滑 り込ませ、ウィノナのふくらはぎをかかとで引っかける形で、踏 みつける。ひざを折られ、がくんと身体 を沈 ませた彼女の首筋に人差し指を、刺 さるほどに突 きつけて──
その位置が、頸 動 脈 の位置だと、彼女が気づかないはずはない。目つきを鋭 くして、彼は問いかけた。
「......詳 しく聞かせろ」
「ったく」
ウィノナは、面 食 らった部分が半分、だが不敵なものも半分残した笑 みを浮 かべて、こちらを見上げていた。床 に片 膝 をついた体勢で。右足を踏んで押 さえているため、そうそう動きは取れない。
はずだったが。
「はっ!」
息 吹 ひとつで、彼女の身体 全体が跳 ね上がった。信じがたい筋力で、仮に自分が彼女の背中に乗っていたのなら、身体ごと放 り出されたのではないかと思える──とにかく、とっさに足を引いて、転 ばされないのがやっとだった。立ち上がる彼女との間 合 いを取って後退し、拳 を固める。
ウィノナは満足しているようだった。今まで見せたことのなかった歓 喜 にぎらぎらと瞳 を輝 かせて、いかにも軍隊式に構えてみせる。それまでも大 柄 だった彼女の身体が、筋肉に力を得てもう一回りほど大きくなっていた。
「領主様が、どうしてあんたのスカウト役にあたしを選んだのか、分かった気がするわ!」
「俺にゃ分からんね。教えてもらおうか分かりやすく!」
「ああ、こういうのがシンプルで手っ取り早いわさ!」
叫 んで、彼女が巨 体 に似 合 わず小さく拳を引く。なにかしらの拳 法 だろうが──オーフェンは、彼女を見 据 えて完全な戦 闘 態勢を取った。小 賢 しい掛 け合いはもう必要ない。こちらにとって必要不 可 欠 なカードはもう見せられてしまった。相手にそれ以上の切り札があろうと、それは関係がない。
(半殺しにしてでも──)
相手が飛びかかってくるタイミングを見計らい、全力で打ち出す。そのために呼吸を止めた。刹 那 。
「やめてー!」
声が響 いた。見ると、ロッテーシャが剣 を抱 きしめるようにして絶 叫 している。
「そんなことをしている場合じゃないでしょう⁉ 」
「............」
「............」
気 勢 をそがれた形で──
オーフェンは、ウィノナと同じ視線で、ロッテーシャを見つめた。彼女は目にうっすらと涙 までためて、身体 を震 わせている。
半眼で、彼は告げた。
「君もしっかり殴 りかかってた」
「殴りかかられたわよ」
「あああ、言わないで」
ウィノナにまで言われて、頭を抱 えてかぶりを振 ってみせる。ロッテーシャはそれでも気を取り直して顔を上げると、意識不明のままのクリーオウに向かって、ばっと手を広げた。
「とにかくっ......クリーオウを、もとにもどせるっていうのなら、それのほうが大事です。どういうことなんですか?」
最後の一 言 は、ウィノナに向けられたものだった。鉢 巻 きのようにしているバンダナがかゆいのだろう、決まり悪そうに頭をかきながら、彼女が答える。
「全部推 測 さ。それでも、ダミアンはこういったことの権 威 だよ......多分ね。あたしにゃよく分かんないけど」
「俺にしてみりゃ選 択 の余地なんてない。言えることを全部言え。そのあと、領主だかなんだかに会えば済 むことならそうしてやるさ」
オーフェンは腕 組 みして、促 した。ウィノナは、こちらに向き直ってくると、
「一から話すのが一番だと思う。けど、とりあえず、この子のことを言っておくよ。長話の最中、ずっと急 かされたんじゃたまんないからね」
彼女は、一度興奮した頭を落ち着かせるためか、小さく深呼吸してから、あとを続けた。
「この子を殺したのは、あのディープ・ドラゴンの子供だよ」
◆◇◆◇◆
その朝日が、普 段 の朝日となにか違 う点があったというわけでは、決してない。
もしも、黴 びて重くなったカーテンを開 け、暗かった寝 室 に黄色い朝日を吸い込ませることを禁じられれば、驚 いた者もいただろう──だがそういったことはない。夜通し騒 いだ結果として床 に散らばったゴミや灰を適当に壁 際 に寄せることも、窓のすぐ下に集まっている浮 浪 者 を追い払 うことも、また一日生きなければならないことを我 慢 するため煙草 に火を点 けることも、なにひとつとして制限は課されなかった。
だが、そのいつもと変わらない朝日の中で、アーバンラマ市の人々はあるものの出現を受け止めなければならなかった。
それははっきりとした異変だった。街が、数十ブロックにわたって消 失 したのだから。いや、正確には、そこに森が出現していた。建物や通りは森に呑 まれ、消えてなくなっていた。密集した木々の向こうに、ひょっとすれば折れた標識や割られた屋根が見えたかもしれない。森は、早朝出現したのに間違いなかった。昨夜まではあったブロックが、今 朝 はもう存在していない。
混乱は起こらなかった──起こりようがなかった。森の中から出てきた者はいない。森はゆっくりと広がっている。次々と地中から木々が生 え、舗 装 された道を突き崩 し、呑 み込んでいく。
見る者が見れば、その森がなんであるのか、分かったかもしれないが。だが市民はまだ、街の北に出現した異変と、この南に出現した異変とを結びつけてはいなかった。
しかし、彼らが。
街の北に現 れた巨 大 な狼 と──
街の南に現れた森。
この両者がにらみ合うように対 峙 し、そして森が、動かぬ狼に向かって街を浸 食 して進んでいることに気づくまで、そう長くはかからなかった。
「市民の避 難 に関してはおおむね問題はない。少なくとも、半径二百メートル以内では完 了 しつつある」
「足りないな。警 戒 区域を半径一キロ以内に広げる」
「正 気 か? 軍 役 を経験した市民ばかりというわけではない」
「それに、家 財 を持ち出したがっている者がほとんどなんだ」
「家に火を点 けてでも追い出せ。気にするな。明日には感謝してもらえる」
急 遽 設 けられた対策本部でかわされる会話を取り留 めもなく聞きながら、彼女は椅 子 の上でじっと腕 組 みしていた。間 が悪いとしか言いようがないが、運不運などというのはこんなものだろう。
(そうね。こんなものでしょ)
たとえ、三日前にアーバンラマ港に着いたばかりでいきなり、歴史上類を見ないこんな事態で足止めを食らおうとも、だ。
そんなことを半 眼 で独 りごち、レティシャはため息をついた。大陸魔 術 士 同盟職員たちが緊 張 した面 持 ちで右 往 左 往 する会議室の中で、彼女に気をかける者などはいない。
赤と黒を基調とした同盟職員の制服をぼんやりと眺 め、彼らの様 子 を観察する。たまたまなのか、ある程度以上の地位の者はすべて避 難 でもしたのか、若い同盟員が目についた。通常、さほどたいした議題などかかることのないこの会議室で、今はいずれも力のある魔術士たちが混乱し大声で一方を罵 倒 し、目を血走らせて問題を解決する糸口を探 している。いや、探しているというのは適当ではないかもしれない──せいぜいが、求めている程度だろう。問題は、それを打 破 する手段を彼らがなにも持っていない、持ち得ないことだった。根本的過ぎて、いかんともしがたい。
彼女は片目だけ上げると、会議室の一番奥 に座 る彼女にも楽に読めるほどホワイトボードに大きく書かれた議題を見やった。
(ディープ・ドラゴン出現と同時に発生した異変への対応)
住民の避難誘 導 に関しては市軍が主に担当し、その計画も指揮も、アーバンラマ自 治 部 が行っているはずだった。だが、これが単なる天災であるのならばともかく、出現した相手がディープ・ドラゴン種族では、魔術士同盟も動かないわけにはいかない──最終的な決断のひとつとして、そのドラゴンとの決戦も含 まれるならば、魔 術 以外に対 抗 手段はないのだから。

大陸魔術士同盟は、無能をさらすわけにはいかない。魔術士の地位を貶 めることは、そのまま大陸全土の魔術士の人権と生命を危 うくしかねない。
実際にそれほど差し迫 ったことなのかどうかはともかくとして、それがここに集まった人間の共通認識だった。
(仕方ないところかもね)
やや冷 淡 に──と自分でも認めざるを得ないが──、あきらめを繰 り返す。
(無 駄 死 にだと自覚して、こんな分 の悪い作戦には参加できないもの)
しかし、人の死はすべて無駄死になのだ。
人生を無駄にしたくなければ、生きなければならない。レティシャ・マクレディは、かぶりを振 った。
ホワイトボードには、現在の状 況 がおおざっぱに書き記 されている。住民の避 難 状況、既 に市が被 った損 害 、予想される損失、等々......
明け方、突 如 として現 れた巨 大 なディープ・ドラゴンは、市の北部、住宅地の中心にある公園で、今も沈 黙 を続けている。かつてないことだった──人里にディープ・ドラゴン種族が出現するなど。フェンリルの森に住み、森に入ってきた人間をことごとく滅 ぼしてきた深 淵 の森 狼 。あらゆる物質を支配する暗 黒 魔術を視線で用い、およそ無敵の存在として広く知られている。音もなく背後に現れ、標的となった者は振 り返る時間もなくこの世から消 滅 させられる。その魔術への対抗手段はなく、逆に敵はこちらの魔術を一 瞥 で消 去 してしまう。
だが今のところ、このドラゴンの存在は問題となっていない。ディープ・ドラゴンは出現以来、まったく沈黙を保っている。公園の真ん中で、なにかを待つように、じっと。それがいつまで続くのかは分からないが、それよりも先に差し迫ったことがあった。
森の出現。
これだけを見ると、なんのことだかは分からないが──実際に、そうとしか言いようのない事態ではあった。出現したドラゴンと対 峙 するように、市の南部から、巨大な森が出現した。森は急速に増 殖 し、既に市街を広 範 囲 にわたって呑 み込んだ上、今なお広がっている。今のところ森に「食われた」のが主にスラムであるため被 害 は把 握 できていないが、市が相当の労働力を失っているのは疑いない。事態が収 まったとして、復 興 にはかなりの時間と金を要するだろう。自治都市として王都からの援 助 を期待できないアーバンラマとしては、致 命 的 である。
森は真っ直 ぐ、ドラゴンに向かって浸 食 を続けている。速度から計算して、この大陸魔術士同盟員たちは、ひとつの時刻を弾 きだしていた。
それは単純な推 測 だった。今の速度のまま、森が北 上 を続けた場合、ディープ・ドラゴンと接 触 するのは正 午 頃 となる。
(......あと三時間半......)
左腕 の時計を見下ろして、レティシャは独 りごちた。
◆◇◆◇◆
「おんや?」
突 然 なにかに気づいたように声をあげ、立ち止まった兄に、ドーチンは戸 惑 いを覚えた──どのみち、同じ長 櫃 を担 いでいる以上、兄が立ち止まればこちらもそれに従わざるを得ないが。無人の街 をえんえんと歩き続けてきたが、とりたててなにか目立った変化があったわけでもない。兄の気を引いたのがなんなのか、見当もつかないまま、ドーチンは兄のほうへと振 り向いた。
ボルカンは、腑 に落ちない表情であたりを見回している。
「なんかおかしくないか? ドーチン」
「そう?」
聞き返してドーチンも、周囲を見やった。
なにがあるのかということになると、なにもない。街の様 相 に変化はなく、時に密集した路 地 を走ったような気もすれば、さびれた商店街を抜 けたような記 憶 もあり、今いる場所は、小学校の裏門の前だった。
「考えてみたらさ」
ドーチンは、ぽつりとつぶやいた。
「ぼくら、どこに行くつもりだったんだっけ」
聞くまでもない──と、ドーチンは胸 中 でうめいた。まったく考えていなかった。
あちこちの壁 に落書きされた古い校舎は不 気 味 なほど静まりかえり、鳥の声がかすかに聞こえてくる以外、なんの動きも見せていない。やせた植木と、足 跡 の残っている花 壇 。うさぎ小屋すらもぬけの殻 で、金 網 の戸がだらしなくぶら下がっていた。風でも吹 けば錆 びた音でも立てたろうが、空は晴れているというのに風の気 配 はない。校舎の窓、すぐ目の前の門も開 け放たれており、いかにも不 用 心 だった。
(考えてみたらさ)
今度は、声に出さずに繰 り返す。
(あんなことがあって、とにかく飛び出してきて。それでやみくもに逃 げ回ってただけだし。どこに行ったらいいのか分かんないんだから、考えたからって同じだったんだろうけどさ)
彼らが寝 泊 まりしていた教会に、突 然 早朝に妙 な男が押 し入ってきて、彼らの知り合いを殺害した。とりあえずまた別の妙な男が降ってきて──文字通り天 井 からだ──、その場を逃 れることができた。
突 拍 子 もないことがあまりに立て続けに起こったため、常識的な判断ができなくなっていたらしい。ドーチンは途 方 に暮れて、兄に顔を向けた。
「やっぱりさ、警察に行くべきだったんじゃないかな」
「はっはっ。なにを言うドーチン」
ボルカンは、朗 らかに言ってきた。
「お前、あれだぞ。警察っていえば、ほれ。なんつーか、警 棒 とかだぞ。あと手 錠 だ。それと釘 。はさみ」
「いくつか関係ないものが混 じってるみたいだけど......」
「まあおよそ、拷 問 とか投 獄 とかされたくない奴 は近づかないほうがいいというのが、俺 様 の研究結果だ」
「ていうか、近づいた瞬 間 逮 捕 されかねないような生き方をしないことのほうが大 切 だと思うよ」
ドーチンはうめいてから、小声で付け足した。
「この......これだって、すぐ警察に渡 せば罪にならないかもしれないしさ」
と、抱 えている長 櫃 を軽く叩 く。ボルカンが、驚 いたように目を見開いた。
「なにぃドーチン、お前、もう大金持ちの生活に飽 きたのか⁉ 」
「いや、そーじゃなくて......」
否定するが、ボルカンは聞いた様 子 もない。長櫃を頭に載 せて腕 組 みし、必死になにか考え込んで眉 間 にしわを作っている。
「むう。お前がそこまで飽きっぽい奴だったとは考えもしなかったぞ、しかしだ、とりあえず、そっくりの浮 浪 者 と服を取り替 えるくらいにしておけと忠告」
「動くな」
「そうだドーチン動くなよ。ってなんでだ? とどーして俺がお前に問いかけるのかよく分からん俺がお前に言ったはずで」
「しゃべるな」
「ここには俺とお前しかいないわけであるからしてお前に対して言われたことは全部俺が言ったはずの自明の理というか──」
と、そこでようやく兄の声が止まる。
声だけでなく、息を止め、ドーチンは、唐 突 に現 れた相手を見やった。
特に細 工 のひとつもなく、男がひとり、行く手をふさいでいる──見覚えのあるなしを考えるまでもない。つい先刻見た顔だった。鈍 重 そうな黒いマント、長い黒 髪 、そして唇 の傷......
身体 のあちこちが焦 げたように薄 汚 れていたが、それ以外は特にどうといった変化もなく、どこか決定的に無関心な眼 差 しでこちらを見下ろしてきている。担 いでいる長櫃の陰 から相手の顔を見上げ、ドーチンは再び胃の中に異 物 を感じて身をすくめた。この男が、目の前で人間の頭を吹 き飛ばした時と同じ異物。なま暖 かく鋭 く冷たい、ずっしりとした胃のしこりだった。
「貴 様 は!」
兄が──自分の背 後 から──叫 ぶ。
「えーと......なんか黒いけど、借金取りじゃない奴 !」
「い、いやあの兄さん、もっとなんか大きな問題を置き去りにしてるような気がするんだけど......それ......」
「むう。では、あれだ。えーと。なんか長細い奴」
「いや、外見じゃなくて」
「ひょっとして、こいつが行く先々で人を殺しまくってるあたりを指 摘 してやればいいのか? まあ確かにそれはあんまり良くないぞ。よせ」
「兄さんんん」
「............」
男はただ淡 々 と、黙 している。両腕 もマントの下に隠 して──これはなんとなく、少なくとも戦 闘 態 勢 の一歩手前のように思え、ドーチンはなんとか安心しようと努力した──、細い目に光だけ灯 している。
と──
ボルカンが、ふっふっと不敵な笑い声をあげるのが聞こえてきた。
「大 丈 夫 だドーチン。兄は既 に、奴の弱点を見切っている!」
「......ホント?」
期待しても意味がないことは分かっていたが、聞き返す。だがボルカンはあくまで自信たっぷりの様 子 だった。大きくうなずいて、
「うむ。奴は構造上、多分、剣 で斬 られたりすることに弱い。あと、ほかにも、鈍 器 で殴 られたり、馬車に轢 かれたり、さらには、ええと、猛 獣 に食われたりするのにも弱いに違 いないぞ。弱点多すぎだ、貴様!」
「申し訳 ない」
「謝 ってるし⁉ 」
指をさして指摘した兄に対して小さくつぶやくその男に、ドーチンはつられて叫 んでいた。思わず声をあげてしまってから半歩ほど後ずさりするが、男は特にどうといった変化もなく、ただ沈 黙 を続けていた。
こうなると、こちらにも話せることはない──居 心 地 の悪い静 寂 の中で、ドーチンは恐 る恐る、あたりを見回した。ひょっとしたら、なにか都 合 の良い助けでもあるかもしれない......
「もうこの近 辺 には、誰 もいない」
こちらの考えを見 透 かしたように、男がつぶやいてきた。見ると、彼は既 にこちらに意識を配るでもなく、あさっての方向を向いている。
「むう?」
兄が、聞き返す。男は数秒ほど無視したらしかったが、しばしして言ってきた。
「......お前たちが、奴 らと関係がないのなら、特にどうでもいい」
と、見ているのとは違うほうを指さして、
「ここは既に危険区域になっている。しばらく前に、住民は強制避 難 させられた。あとそれほど待たずに、森が来る。逃 げるのならこちらに行け」
「森?」
「気にするな」
「気にするなって言われても......」
意 味 深 なことを立て続けに言われれば、無視することも難 しい。が、男は特になにも答えてこないまま、表情をかすかに引き締 めた──今まで吹 いていなかった風が吹き、男の長い黒 髪 と、重たげな黒いマントとをなびかせる。
そして、地 鳴 りが響 き始めた。
「ふえ?」
見て分かるほど地面が揺 れ始めたのも、すぐのことだった。振 動 の中、なんとかバランスをとって長 櫃 を支える。
男が小さくつぶやくのが聞こえてきた。
「思ったより早い......」
そして。
地面が盛り上がり、小学校の校舎が一瞬にして崩 れ、轟 音 とともになにもかもを呑 み込んで──
森が押 し寄せてきた。
◆◇◆◇◆
「聖 域 ......と言って、通じる? 彼らは自分たちの住処 をそう呼んでいるし、領 主 様もそう呼んでいる。ドラゴン種族が今でも生きている、最後の砦 のことよ」
「何回か聞いたことはあるような気がする」
空を見ながら、オーフェンはうなずいた。蒼 空 に残るひっかき傷のような薄 い雲が、ゆっくりと流れていく。街 は静かだった。屋 上 から見回しても、人の姿はどこにもない。そして──
遠く。数百メートル離 れた空 き地──いや公園だろうか? そこに、漆 黒 の巨 大 な獣 が見える。
以前にも遭 遇 したことがあった。この距 離 でも見 間 違 えようがない。ディープ・ドラゴン=フェンリルの巨体。
オーフェンは息をついて、初めて、長いこと呼吸を止めていたことに気づいた。苦 笑 して、背 後 にいるウィノナへと向き直る。
「ドラゴン種族の聖域......大陸の中央に位置するんだろ? 誰 もがそう言うみたいだけどな」
今いるのは、目を覚 ました時にいた、あの診 療 所 の屋上だった。そこそこ広く、見晴らしも悪くない。あまり使われていないのか、だいぶ汚 れてはいたが。ひとつだけある出入り口の扉 も、ちょうつがいが錆 びかかっていた。
「結局のところ」
ウィノナの声は大きかった。朝の静けさ、そして無人の街の静けさに、深く響 く。
「避 難 所 さ。女 神 との戦いで、ドラゴン種族はその力のほとんどを失った。ウィールド・ドラゴン......それまであたしたちの祖先を支配していた天 人 種族は、文字通り絶 滅 したとも言うね」
そのまま、何度でも練習してきたようにてきぱきと、あとを続ける。
「あんたは、どうなんだい? なんて教わった? ドラゴン種族に関してさ」
「出会うな」
「......あん?」
「俺 の先生はそう言ったよ──出会うな、逆 らっても無 駄 なものに逆らうな、とさ」
オーフェンはそう答えると、肩 をすくめた。
と、ウィノナの表情が、厳 しく引きつるのが見える。彼女は顔をしかめるのと舌打ちするのと言葉を吐 き捨てるのとを、まったく同時にやってのけた。
「無 駄 じゃない。あたしらは、戦 果 をあげている」
「......つまり」
慎 重 に、オーフェンはうめいた。
「お前たちってのは、ドラゴン種族──聖域とやりあってるってのか⁉ 」
「だったらどうなのさ?」
ウィノナはそう言うと、明らかに慎重さではなく単なる見 栄 で間 を取ると、腕 組 みして胸を軽く反 らしてみせた。強 靭 な上腕 の筋が、際 だって見える。間 違 いなく......
オーフェンは、声に出さず認めた。
(領 主 ってのが何者なんだか知らないが、その中で間違いなく、最強の兵士のひとりなんだろう......下っ端 って柄 じゃねえよな、どう見ても)
そう認めてから改 めて彼女を見やると、それを否定する材料というのもないように思えてくる。鍛 え方に隙 がなく、遊びがなく、驕 りの塊 であるかのような戦士の身体 。騎 士 ──派 遣 警察官だと言っていたが、こうまで戦 闘 に特 化 した者もそういないだろう。派遣警察組織には有名な対武 装 盗 賊 戦闘課なる武装化部隊が存在するが、それらの鍛 錬 法 ともまた違う。
彼女の眼 差 しを見返して、その眼 の中にある意 図 を読みとることは容易だった。
対武装盗賊戦闘課。それはしょせん、武装した人間の集団を鎮 圧 するためのものだ。だが彼女は、
(......まるで、人間を越 えるものを相手にしようとしてるとしか思えない......か)
オーフェンは長い時間を経 てから、口を開いた。
出てきたのは、自分でも苦 笑 しかねないほどの──正論だった。
「ドラゴン種族と戦うことなんてできない」
「できるさ。いや、してるわけだしね」
対して、彼女の返事はひどくあっさりしていた。
「そりゃ楽勝だとは言わないけどさ。仲間も何人も死んだし......」
と。
唐 突 に、言葉を止める。
「ん?」
「しっ」
聞き返すこちらを制して、ウィノナは足音を立てず、ひどく素 早 い歩き方で、出入り口の扉 に貼 り付いた。間 髪 を入れず、そのノブをつかむと一気に引き開 ける。
「きゃあっ⁉ 」
悲 鳴 をあげながら転 がり出てきたのは、ロッテーシャだった。床 に転んだあと、すぐに起きあがり、下 唇 を嚙 んでウィノナを睨 め上げる。
だが剣 を抱 えた少女に睨 まれても、ウィノナは気楽な仕 草 で両手を広げ、言うだけだった。
「なにをすんのか、って言いたいんだろうけどさ。盗 み聞きしてた奴 はそんなこと聞かないもんだよ、ホント」
「聞く権利があります!」
立ち上がり、ロッテーシャが叫 ぶ。
ウィノナが、きょとんとしてみせた。
「権利?」
「エドのことも話しているんでしょう? だったらわたしも──」
「聞いてどうする?」
オーフェンは初めて、口をはさんだ。
ウィノナに対し、なにか言い返そうとしていたのだろう──口を何度かぱくぱくさせてから、ロッテーシャはこちらへと向き直ってきた。なにか儀 式 めいた手つきでクリーオウの剣を抱えた彼女を見返して、オーフェンはうめいた。
「どうするんだよ」
促 す。彼女は小さく首を震 わせて、
「彼に会います......もう一度」
「もう一度殺されるか?」
オーフェンは、即 座 に言い放った。
「今度は、君を蘇 生 させてくれるレキはいないけどな」
と──なんとなく肩 越 しに、遠くの公園を見やる。漆 黒 の巨 獣 は、いまだまったく動かずにその場所にいた。風が目にしみる。
涼 しさよりは寒 気 を覚えて、オーフェンは続けた。
「君は一度殺されたんだ。一度あったことだ。繰 り返されるだけさ」
「............」
ロッテーシャはなにも言ってこない──顔を見る気にはなれなかったが、どんな表情か想像はついた。
と──
「そうだね」
ぽつりとつぶやいてきたのは、ウィノナだった。彼女が割り込んでくることは予期していなかったが、振 り向いて見やると、どうということもない調子で、ゆっくりとあとを続けていた──どこか夢見るように淡 々 と。
「繰り返されるだけ......かもしれないね」
奇 妙 な口 調 にも思えたが。
オーフェンは、ロッテーシャへとうなずいた。
「まあそれでも、除 け者にする理由にはならないかもな。聞きたければ聞けばいい」
黒 髪 の少女が、ぱっと顔色を明るくするのを見て、なんとなく自分の意気を吸い取られたようにも感じる。
(この徒 労 感 はなんなんだろな)
分かっていることを自問して、彼は嘆 息 した。
(ったく。誰のせいか知らないが、問題が多すぎるんじゃねえか? いくらなんでも......)
愚 痴 るが、聞く者もいない。
ロッテーシャの同席を認めたことで、ウィノナが反発するかという気もしていたのだが、彼女にとってもどうでも良いことらしかった。先ほどと変わらない調子で、語り始める。
「ドッペル・イクスと、奴 らは名乗ってる」
「うん?」
「どういう意味かは知らないさ。要は聖 域 の外に出て、なにやらこそこそ探 り回ってる連中なんだけどね」
「裏切り者のことだろう。ドッペル......イクス」
「だったと思うよ。でもまあ、そんなことは奴ら当人に聞いてほしいさね。あたしが知ってるのは、とにかく聖域のドラゴン種族が、なにかの目的でエージェントを聖域の外に派 遣 してるってことさ」
彼女はそう言うと、自分の胸を親指で指 し示した。
「あたしたちは、それを見つけて、暗殺する。例外なくね」
「どうしてそんな必要がある?」
「そいつは領主様に聞いてちょうだいな。あたしからうまく説明できる自信はないから」
「自分でも分かってないってだけなんじゃないのか?」
オーフェンが言うと、彼女はきょとんと瞬 きして、鼻の頭をかいた。その間、数秒もかかるはずはなかったが、彼女はそれだけの時間をかけた。考え込んだということだろう──オーフェンは、そう判断した。図 星 だったということかもしれない。まったくの的 外 れだったということはあるまい。
ウィノナが、口の端 を皮肉げに歪 めるのが見えた。
「言い方を変えるわよ。多分それは、領主様が自分で直接話したがるだろうから、あたしは言わない。どのみち、領主様に協力する気があるのかどうか分からない奴 には話せないしね」
「ずいぶんとその領主様の機 嫌 をうかがうじゃねえか」
「そうね。でもあんたなら──」
「結局、なんだっていうんですか⁉ 」
ロッテーシャの澄 んだ声が、会話を分断した。
不敵な笑 みを浮 かべて口を開きかけた顔で──なにか気の利 いた皮肉でも言い返そうとしていたのだろう──ウィノナが、彼女のほうにしらけた視線を投げるが、会話が進まず苛 立 っているらしいロッテーシャには通じなかった。
「そのドッペルとかいうのが、わたしたちとなんの関係があるっていうんです?」
「既 にたっぷり関係してるんだ。君の知らないところで」
オーフェンは、嘆 息 混 じりに答えてやった。自分自身、なにが起こっているのか確信はなかったが。
「君の剣 を奪 っていったライアン。あいつと組んでいたのは、ヘルパートとかいうレッド・ドラゴン種族だ」
「そういうこと。あんたの知らないことがたくさんあるのよ、嬢 ちゃん」
肩 を叩 こうとしてウィノナが手を伸 ばすが、それを露 骨 に避 けてから、ロッテーシャが声をあげる。
「だからなんで、ドラドンなんかが剣を欲 しがるんです?」
甲 高 い声はやつ当たりのようにも聞こえてきたが、確かにそれはまっとうな疑問ではあった。とりあえず自分には答えようがないので、ウィノナを視線で促 す。
彼女は大きく吐 息 してから、静かに答えてきた。
「奴らの意 図 なんてあたしに分かるはずないだろ? ただね、これは教えてあげる、嬢ちゃん──あんたがエドと呼んでいる男はね、別に本気であんたの剣が欲しくてナッシュウォータの古 巣 に帰ったわけじゃない。あんたの剣を狙 っていたのは、ヘルパートっていう、奴らドッペル・イクスの中でも随 一 の殺し屋さ。殺し屋って言い方が悪けりゃ、戦 闘 生物ってとこかしら。あのレッド・ドラゴンってのはさ」
「............」
沈 黙 し、唾 を飲むロッテーシャの横顔を見ながら、オーフェンはうめいた。
「レッド・ドラゴン種族は、天 性 の殺 戮 者 だ。先生が、関 わるなって言った理由は分かり過ぎるくらいに分かる」
うなずいて、ウィノナが続ける。
「ヘルパートには、仲間が何人も殺されてる。ライアンってのも、一味だったようだね。ユイス──あ、エドのことだけど──は領主様の御命令で、ヘルパートを殺すためにナッシュウォータに帰ったんだ。で結局しくじって、剣 は奪 われ、奴 らのうちのひとりも倒 すことはできなかった。で、今度はこの始 末 。ま、あいつもツケは払 わなくちゃね。今頃、改 めて奴らを抹 殺 するために出向いてるはずさ」
「とりあえず、そのへんにゃ興味ない」
オーフェンは告げると、胸にあるペンダントに軽く触 れた。
ウィノナが笑う。
「ずいぶんと薄 情 ね」
「あいつが誰かを殺そうと思って、そして殺しに行ったなら、まあ無 事 に仕事をやり遂 げるだろうさ。胸 くそ悪いが、俺に止められることでもないしな」
「なんだか買いかぶってない?」
「そうか? 俺が知る限り、あいつは最も先生に近づいた魔 術 士 だ──」
と、ロッテーシャの視線に気づいて、言い直す。
「ああ。俺はあいつをよーく知ってる。何年も前からの知り合い......いや、家族みたいなもんだ。言っとくが、俺が知ってる名前はエドでもユイスでもない。くそ、昔から放 浪 癖 でもあるみたいにぶらぶらしてた奴だったが、可能なのか? 何年も、いくつもの名前を持って生活するなんてことが」
「あんただって似たようなもんだろう? ねえキリランシェロ?」
「............」
舌打ちして、オーフェンは手すりになっている鉄 柵 を叩 いた。
「......まあ、あいつのことはいいさ。お前たちってのが、その領主だかなんだかの命令で動いていて、ドラゴン種族と抗 争 してるってのは分かった。だがこれじゃ、なにも分かってないのと大差ない。結局のところ、ここに落ち着くんだ──いったいなんのためにそんなことをしなけりゃならない?」
「うっさいねぇ。そのことはもう言ったろ」
心底あきれたような口調で、ウィノナ。大 儀 そうに顔をしかめている。だがこちらがじっと見つめると、彼女は言い足してきた。
「なら、こう言えばいいのかしらね。あたしたちは聖域への十分な対 抗 力 を持たない限り、しょせんは潜 在 的 にドラゴン種族の支配を受けざるを得ない。真の独立と自立のために、彼らと互 角 に戦える方法を模 索 する必要がある、とか」
「最後の、とか、ってのが露 骨 に嘘 くさいぞ」
「正 論 ってのは、そんなもんでしょ」
たったあれだけの正論をぶっただけで肩 でもこったのか、彼女はやれやれと腕 を回すと、ほんの数歩で柵 の前までやってきて、それに身体 を預 けた。頑 丈 な柵が軋 む音を立てて落ち着くまで待ってから、遠くへと視線を投げる──彼女が眺 めたもの、それは考えるまでもなかった。視線を追うと、巨 大 な黒の王者、ディープ・ドラゴンの姿がある。
「あれ一頭が出てきただけで......この大陸四大都市のひとつがさ。大 騒 ぎさね。どうなんだい? あれがその気になれば、この街の大半を滅 ぼしてしまえるのは事実だわね。そして、街の南から現 れて、あの育ちすぎの黒犬に向かって突 き進んでくる〝森〟」
人差し指で、地図でもなぞるように実際の街の景 色 をすっと示し──
「奴 らにいつまでも好き勝 手 させておくつもりはないよ、あたしは」
「この街に市設の軍隊がある。魔 術 士同盟だって黙 っちゃいない」
「あ、そうそう。魔術士同盟ね。あんたの知り合いが来てるよ......ま、覚えてたら会いに行っておきな」
「?」
「あの......」
ロッテーシャが声をあげた。先刻までと比 べれば幾 分 落ち着いた声で、ウィノナが振 り返るのを待ってか間 合 いを置く。
結局ウィノナは気づいたそぶりさえ見せなかったが、少女は剣 を抱 いたまま、あとを続けた。
「エドがいる場所を教えてもらえないですか......?」
「教えられない理由がみっつほどあるわね」
ウィノナが身じろぎして、鉄 柵 が不快な音を立てる。
「ひとつ。今のところ、ユイスの奴をあんたに殺されちゃ困る。ふたつ。そこにいる目つきの悪い兄ちゃんの心配事を増 やすのは忍 びない。みっつ。ユイスはあたしを許しちゃくれない......あ、あと一個いいかい。答えようにも、あたしは知らない。あいつがいるのは、この街のどっかさ。あいつ独自の判断で、標的を探 して殺す。手 綱 のない猟 犬 なんだよ。分かるかい?」
「俺もその猟犬に仕立てようってのか?」
オーフェンは聞いて、ウィノナの反応を観察した──笑うだろうという予想に反して、彼女はしごく真 面 目 にかぶりを振っただけだった。
「他人の犬は飼 えない。そうでしょ?」
「じゃあ、なんで俺にかかわるんだ?」
「あんたにしかできないことがあるからさ。そして、領主様は、自分のものにできない相手には、対等の取引を持ちかける」
彼女の目が鋭 く光を帯 びたように見えた。
「あのクリーオウって娘 を助けたいんだろ?」
「ああ」
「あんたがどう思うかは知らないけどね、領主様は現実的なお人よ。当代随 一 の暗殺技能者を敵に回したいとは考えていない。あの方が望むのは対等な 取引。あの方の申し出は絶対にあんたの損 にはならない」
「聞いてみなくちゃ分からんだろう?」
「もとより、あたしたちもこんな事 態 を予想していたわけじゃないわ。取引の材料として、クリーオウの健康回復を持ち出したのは成り行きに過ぎない。領主様が用意していた報 酬 は、もうひとつあるの」
「......なんだ? それは」
彼女の視線に居 心 地 の悪さを覚え──オーフェンは、首の後ろがちくちくとしてくるのを感じていた。嫌 な予感。いつでもやってくる時と場所を選ばない、悪 寒 と凶 兆 。
落ち着いたものとなったウィノナの声も、その寒 気 を後 押 しするだけだった。
「およそこの大陸で、あんたの姉の居所を探 れる人間は、領主様しかいない......あのお方は既 に、彼女とのコンタクトに成功してる」
「............」
息が止まる。
ウィノナはそのまま続けた。
「ほんの数秒。しかも、相手にこちらの存在を気づかせることすらできなかったけど。生存だけは確 認 できた。彼女との交 渉 の切り札として、領主様はあんたを必要としている......あたしに話せるのはここまでさね。もっとも十分話しすぎたけど」
「............」
ようやく息をついて。
首の回りににじんだような気がする汗 を手で撫 でて、熱を逃 がす。手のひらはひどく冷えていた。ウィノナの顔を見ながら、相手の表情など目にも入らなかったが。オーフェンはゆっくりと、言葉を探した。
「......まずは、クリーオウのことだ。アザリーは、自分で自分の面 倒 くらい見られる」
「オーケイ。ちょっと安心した」
ウィノナが笑 顔 を見せた──今までとは多少違 う、くだけたものに見えたが、それも錯 覚 だったかもしれない。彼女は鉄 柵 から身を離 すと、ぱたぱたと手を振 ってみせた。
「あんたのことも安心させてあげるわ。あんたの生徒は、ダミアンが保護して安全なところに移してある。意識を回復させるのには、もうちょっと時間がかかるだろうけど、心配しなくてもいいはずよ」
「このうえゴネてたら、マジクのことも取引材料になってたのか?」
「せっかく協力できそうな流れになったんだからさ。つんけんしないの」
彼女は、いかにも剛 胆 に笑みを浮 かべてみせた。そして、その笑みをすぐに消すと、
「眠 り姫 ね──あ、クリーオウって子のことよ──、ダミアンの見立てじゃ、精神だか魂 だか、なんかまあそんなようなもんが、抜 けだしちまってるとか。身体 は死んじゃいないけど、いつまで保 つか分からないってさ。場合によっちゃ......あのまま死ぬか、別人になっちまうことも。そう言ってた」
「推 測 なのか?」
「ダミアンは強力な白 魔 術 士 よ。彼が言っている以上、九 分 九 厘 間違いないと思うね」
「白魔術士......?」
ぎょっとして、聞き返す。ウィノナはあっさりとうなずいた。
「眠り姫になにが起こったのか、それを話しておくよ。彼女は宿に帰るところをライアンとかいうドッペル・イクスに襲 われた」
「ライアンが......?」
引きつった悲 鳴 ──ロッテーシャがあげたものだった。口元を押 さえて、目を見開いている。
ウィノナが、軽く眉 を上げた。肩 をすくめるかわりなのかもしれない。
「聖 域 のエージェントとして動いているのは、ドラゴン種族だけじゃない。まあ、人間の中に混 じってなにかするには、人間が一番目立たないわけだからね」
「でも......ライアンは、半年もわたしの道場に──」
「ユイスの奴 がいたからだろ。あいつら、いざ行動を起こすとなると大ざっぱなくせに、思いのほか慎 重 だからね」
「ライアンが、クリーオウをあんな目に?」
オーフェンが話をもどすと、ウィノナは首を左右に振 った。
「いいや。ただ、彼女を殺す一歩手前まで追い込んだんだ。あたしはその場にいたわけじゃないから、詳 しいことは知らないけどね」
彼女は難 しげに顔をしかめると、
「問題は、あの子には、ディープ・ドラゴンが守 護 者 としてついていたってことさね」
「レキが、クリーオウを殺したと言ったな」
オーフェンは、思い出しながらうめいた。
「そんなことがあるとは思えない。レキが、彼女に危害を加える理由がないだろ」
少なくとも今まで、あのディープ・ドラゴンの子供は、どんな局面であろうとクリーオウを守っていた。
聞いて、ウィノナが苦 笑 した。困ったように言ってくる。
「そりゃそうさ。危害だなんてとんでもない」
と。
彼女が言葉を止めた。ロッテーシャが、じれったそうに口を尖 らせるが、それを手で制し、鼻をひくつかせる。臭 いをかいでいるわけではないだろうが。
そして──
素 早 く身構え、視線だけ、ある方向を見 据 える。出入り口のある方向を。
彼女が警 戒 態勢をとった理由は、肌 で感じた。気 配 とでもいうべきか、明確な脅 威 に神経が反応する。オーフェンは懐 に手を入れた。銀の短 剣 。その柄 の手 触 り。こんなものが役に立つのかどうか分からないが......
短い静 寂 をはさんだだけで、ウィノナがつぶやくのが聞こえてきた。
「......まあ詳 しいことは多 分 、こいつに聞いたほうが早いと思うよ」
「そうだな」
そうつぶやく声の出 所 は、背 後 ──手すりの下からだった。
振り向く。同時に鉄 柵 の下から、金 髪 の男が飛び出してきた。両目を緑色に輝 かせ、大きく口を開き、犬 歯 を見せている。手すりを乗り越 え屋 上 へと入ってくるそれに対して、オーフェンは懐から短剣を抜 き放つと、そのまま刃 を男の顔面に突 き立てた。
紙風船を斬 りつけるような手 応 えと共に、その男の身体 が弾 けて消えた。
次の瞬間。
轟 音 を立てて、なにかが吹 き飛んだようだった。音は、また背後。最初に警戒した、出入り口の扉 が粉々に粉 砕 されている。たった今斬りつけたのとまったく同じ姿の男がそこにいた。扉を破 壊 する際に伸 ばしたのだろう。だらりと垂 れ下がった二メートルほどの手首を、一度振 ってもとの長さへともどしている。
つまらない格 好 だった──どうということもない、くたびれた地 味 なスーツ。すさんだ輪 郭 。くたびれた顔。髪 。ただひとつ異常なほどの輝 きを見せる、緑色の双 眸 を除いては。
どこにでもいる男にしか見えなかった。
その男が、入り口から一歩踏 み出て──
右腕 を無 造 作 に一 閃 する。
鞭 のように伸びた指が、避 けそこねたウィノナの身体を真横に飛ばした。彼女の身体が床 に数回バウンドするのを見ながら、オーフェンは短 剣 を構え直しつつ、魔 術 の構成を展開した。
「我 は放つ光の白 刃 っ!」
純白の光 芒 が、現 れたそのレッド・ドラゴンの身体を包み──
そして、見えない壁 に押 しやられるように軌 道 を変え、無 益 な方向で爆 発 した。
「なに?」
戸 惑 い、うめく。が、考える時間はなかった。
レッド・ドラゴン=バーサーカー──ヘルパートが、こちらを向く。
ようやく、ロッテーシャが悲 鳴 をあげた。
ヘルパートが、それまで背後に隠 していた左手を出すと、その手には一振りの抜 き身の剣があった。奇 妙 な形状、およそ実用的ではない飾 り剣のような、細い直 刀 。刀 身 が白く輝き、その剣のいわれをそれとなく主張している。
「フリークダイヤモンド!」
ロッテーシャの声に構 わずに、オーフェンは横に飛んだ。ウィノナを払 った指が、今度はこちらへと振り下ろされてきたのをなんとかかわす。
(魔術を防ぎやがった......)
彼は舌打ちして、次手を練 った。
剣。魔術を防いだ。それだけで、だいたいのことは分かる。
かつて天 人 と人間種族の魔術士との戦争──と呼ぶ者もいるが実際は単なる鬼 ごっこに過ぎなかった──にて、天人種族は、自 らに従う人間種族に、魔術士と戦う力を与 えようと、無数の武器を与えた。それらは天人種族の紡 ぐ魔術文字によって強大な力を発 揮 し、あまり表に出ない天人種族そのものよりも多くの魔術士を殺 戮 した。その性質上、それらの武器はほとんどが、魔術を防ぐ能力を有する。
かの時代より人間種族の魔術というものが格段の進歩を遂 げたとはいえ、それらの防 御 を突 破 するのは容易なことではなかった。
しかも──
(こいつが持つのかよ、それを!)
ドラゴン種族の暗殺者たる、レッド・ドラゴンが。
輝く剣 を振 りかざす怪 物 の姿を見て、絶望的にオーフェンはうめいた。もとより、痛 覚 も急所すらもないレッド・ドラゴン種族に、刃 物 や打 撃 が通じるものではない。そのうえ、魔 術 までも防ぐとなると、倒 す方法がないことになる。
(熱 衝 撃 波 まで跳 ね返したとなると、近づくこともできねえだろ、どうせ)
起きあがろうとして──それを止めて、オーフェンは手のひらを床 に当てた。
(隙 を作って剣を奪 い取るしかない)
息を吸い、高度な構成を編 み上げる。彼は呪 文 を叫 び放った。
「我 は歌う──」
そこで、息が止まった。
視界が急速に、暗転し──ぞっとしながら、空気を求めてあえぐ。酸欠に朦 朧 としながら、オーフェンは身をよじった。だが、背 後 から強力ななにかに首を締 め上げられ、満足に身動きできない。
それでも無理矢理に振り向くと......
「なに......?」
そこに、ヘルパートがいた。
ただし、多少異 なっている。右胸が腕 ごと、えぐり取られたようになくなっていた。傷口となる断面は炭化しているが、それ以外は特にどうということもなく淡 々 としている。首を絞めてきているのは、長く伸 ばした左腕だった。それがぐるりと首に巻き付いて、気を抜 けば骨ごと砕 きそうな力で締め付けてくる。
視線だけ動かして、屋 上 の入り口に立っているヘルパート──剣を掲 げ、五体満足の──を見やると、ちょうどそれがぼろぼろと崩 れ始めたところだった。剣が床に落ち、からんと音を立てている。
「ひとり目が擬 態 だったのだ。ふたり目がそうでも不 思 議 がることはない」
残ったヘルパートが、小さくつぶやいた。
「ぐっ──!」
オーフェンはうめきつつ、首に巻き付いた腕に短剣の刃 を突 き立てたが、通じないのは分かっていた。そうしている間にもヘルパートの腕の力は増 し、ゆっくりと、彼の身体 を持ち上げつつある。
鼻の頭が熱くなる。喉 が軋 み、顎 が歪 んだ。なによりも、声が出せない──呪文が放てない。そのことに焦 りを覚える。
「オーフェンさん!」
ロッテーシャの声。そして、なにか投げ出されるような、どさりという音。彼女がなにかしようとし、そしてヘルパートに弾 き返されたのだろうが、もう視界がほぼ暗転し、見ることもできない。
痺 れるような。震 えるような。全身が沸 騰 し、頭 蓋 がこすれる音を聞いて、すべてを投げ出しそうになる。
誘 惑 は強かった。
少なくともこれは恍 惚 の終わり方だ。
長く続いてきたものを一瞬で終わらせる。永遠に終わらせたままにできる、そんな誘惑。
いつだってある。誰にでも囁 く、誘 いの手。
楽であるということでいえば、至 上 の選 択 だった。現 世 に魂 も極 楽 もないと証明されたこの時代であれば、特に。
神が存在しなくなり、生と死は等価になった......
────
(ざけんな!)
胸 中 で叫 ぶと、オーフェンは右腕 をいったん下 ろしてから、振 り上げるようにして、何メートルか離 れたヘルパートへと、持っていた短 剣 を投げつけた。その刃 が当たったかどうかは分からないが、首に食い込んでくるドラゴンの腕に、空 いた両手の指を突 き立てる──敵の腕をもぎ取ろうとオーフェンは全身の力を振るった。一瞬後、その腕が少し緩 んだように思えた。短剣が命中したらしい。すっかり涙 で霞 んで、なにも見えないが。
刹 那 ──
「りゃああああっ!」
薄 れた意識の中に、雄 叫 びが聞こえてきた。衝 撃 、そして唐 突 に腕が解 け、身体 が解放される。見ると、ウィノナが剣を──ロッテーシャが抱 えていた剣を──、ドラゴン種族の腕を両断した姿勢のまま、構えている。
「......いい剣じゃない」
彼女がそうつぶやき、改めて剣を構え直すのと、ヘルパートがどうということもない表情で、叩 ききられた左腕を再生させるのとは、ほぼ同時だった。
喉 に突き刺 さっていた短剣を無 造 作 に引っこ抜 き、それを横に投げ捨てて、ヘルパートがつぶやいてくる。
「──の時まで、手出しはさせない」
「............?」
言葉の前半は、よく聞き取れなかった。だがヘルパートは──聞かせることが目的ではなかったのだろう──、構 わずそのままあとを続けた。
「俺の同 志 が......生と死をすべて賭 けたいと言っているのだから」
それをいい終えるのが早いか。
いや、確実にそれよりも先に。
ヘルパートが吼 え、そして建物が一瞬で爆 砕 した。
「ライアン。あなたはこの世界の外に行くのです」
その声は、零 下 の風に鳴る鈴 の音 のように美しかった。
(なんだ......なぜ、こんなことを思い出す......?)
たとえば目が覚 めた後、見ていたはずの夢はいずれ思い出せなくなる。
その瞬 間 がいつなのかは分からない。ただ、いつの間 にか思い出せなくなる。
夢を見たことだけは覚えている。その夢の中に誰 かがいたことは覚えている。
だが思い出すことはない。
なにも思い出すことはないが......
(なんだ......ぼくはなにをしている......?)
緑宝石の鎧は、天 人 種族の生み出した最強の兵器のひとつだった。稀 代 の術者、イスターシバの手によって造 り出された、究 極 兵 器 。文字通りに、武器の理想を実現する。使用者を完全に防 御 しながら、無 尽 蔵 の攻 撃 能力を発 揮 する。
少なくともスペック通りの機能を有していさえすれば、それ以上のものは望めない、最高の兵器となるはずだった。
実際には、その一歩手前というところだったが。死に瀕 したイスターシバの力では、その一歩を注ぎ込むことはできなかった。
結果として、欠 陥 がいくつか残った。
しかし聖 域 は、その欠陥を認めてもなお、有用な武装であると、この緑宝石の鎧を採用した。
「驚 いたかしら──? ええ、『外』と言ったのよ。そこには、わたしたちの力は及 ばない......だからこれを。あなたに」
外。
少年──というより子供であった自分が、その単語に対して抱 いた恐 怖 は、ひどく漠 然 としたものだったように思う。世界が滅 びつつあると予言を繰 り返す第二世界図塔 管理者らのご託 にも慣れ、今さら恐 れを感じる必要などないと思えるというのに、その単語が意味するものがあまりにも大きく、あまりにもあやふやであることが、絞 りきったはずのものをさらに染 み出させた。外。
外。ここの外。ここより外。
実際に『外』に出てみれば、そこにたいした危険があったわけでもなかった。初めて降り立ったのは、今そこにいる、アーバンラマ市。
十年前、初めて死を体験したのも、そこだった。
「この鎧 はね......あら、おかしいかしら? こんなものを鎧だなんて。でもこれはね、この世のどんなものよりも強固な防具となり、武器となるものよ。あなたの感情と意志に反応して、絶大な効果を生み出す。あなたを傷つけないために、あなたを死なせないために、永遠に働く」
万 全 の鎧。
彼女がそう呼んだのは、どう見てもおかしな代 物 だった。緑色のタイツ。ほぼ全身を覆 う。色が緑色なのは、いかにも天 人 種族の造り出したものらしい。陽光に弱い天人種族は、なぜか地上の緑に憧 れを持っていたという。彼女らはその色を最も美しく感じたらしい。
それはいい。だが彼は、どうしても引っかかるものを感じていた。いや、誰でも気づくことなのかもしれない。彼は尋 ねた。その鎧が万能であるなら、なぜ今まで自分に渡 されなかったのか。生まれた時に着せられてもおかしくないではないか。
母の声は優 しく、答えてくれた。
「天人種族の魔 術 には、造れないものなんてなにもない。でもね。完全なものは......ひとつとしてなかったのよ」
◆◇◆◇◆
「......このどこかにいるはずなんだがな」
「うわわわわわわわわわ!」
「さて、どうしたものか」
「あわわわわわわわわわ!」
「............」
ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン──
彼は、自分の周りをぐるぐると回りながら悲 鳴 をあげているふたりの地 人 を見下ろして、嘆 息 した。眼鏡 をかけたほうはとにかく慌 てて、もうひとりの剣 を持ったほうは長 櫃 を引きずりながら、わたわた走り回っている。どうというものでもないが、邪 魔 ではあった。
そのさらに周囲では、次々に建物が倒 壊 し、あらゆる地面から『噴 出 』してくる巨 大 な木々に呑 み込まれ、没 していく。地鳴りと振 動 の中でバランスを取りながら、コルゴンはとりあえず、つま先を差し出した。
「どおおっ⁉ 」
ブーツの先に蹴 つまずき、走っていた地人のひとりが、長櫃を抱 えたまま転 倒 する。それに折り重なるように、もうひとりも転倒した。
「なにをするっ⁉ 」
思ったより早く、地人のひとりが跳 ね起きてきた。自分の上に倒 れている仲間を押 しのけるようにして立ち上がり、
「このマスマテュリアの闘 犬 、そしてさらに本日未明を以 て究 極 金持ち王の座を得た、無 欠 の英雄たるボルカノ・ボルカン様の通行を妨 害 した罪、軽かろうはずもないと渾 身 の力で叫 ぶっ! というわけで、きっと極 刑 言い渡 し殺すが故 、よく聞いておくよーに!」
と、なにやらわめていたが、
「って、にょおおっ⁉ 」
その眼前に、なんの前 触 れもなく、太さ数十センチはある樹 木 が地面から突 き出してくる。とりあえず相手が黙 ったところで、コルゴンは視線だけであたりを見回した。
ほんの数秒の出来事に過ぎなかったはずだが──見渡す限りの街 並 みがすべて、崩 壊 していた。文字通り街を呑み込むように現 れた森が、すさまじい速度で密度を増していく。数メートル間隔で現れた大 木 の間を、さらに細かく分割して次々と木々が噴 出 し、音を立てて蔦 が絡 まり合い、原生林を越 えて黴 の塊 のような異常な森を形成していた。
(......あるいは、引っ越し前の荷造りのような、というところか)
森全体の質量は、まともなものではない。街を押しつぶすばかりの樹 海 が、信じられない速度で成長しているのだ。
肩 のすぐ横をかすめた枝を軽くかわしながら、彼はまぶたを半分下ろした。
(この樹海のどこかにライアンがいるわけか......見つけだすのは絶望的だな)
もはや、手持ちの武器でどうなるという次元の問題ではない。
またもや首の後ろに伸 びてきた枝を──振 り返らずに──かわそうとし、コルゴンは動きを止めた。いや、止められた。視線だけで見下ろすと、足首までびっしりと、苔 のようなものに埋 まっている。
ようなもの、というのは、それがただの苔であったなら、特に問題なかったはずだからだった。膠 にでも貼 り付けられたように、足が動かない。棒立ちになっている間に、肩に、首に、腕 に、身体 に、黒いマントごと蔦が巻き付いてくる。
「ぎょおうっ⁉ ドーチン、ちょっと考えろ! お前もしかして、兄の知らない間にこのよぉな植物に底知れぬ恨 みを買ったりしなかったか⁉ ほかにこの現 象 の説明がつくのなら、即 座 に答えつつ解決しろ!」
「知らないよー!」
叫 ぶ地 人 たちの声を聞きながら──
コルゴンは目を閉 じた。意識の中に無数の線が紡 がれて、刺 繍 のように、一枚の絵を造 り出す。構成は瞬時に完成した。編 み上げたそれを、解 き放ち、叫 ぶ。
「我 は歌う破 壊 の聖 音 !」
刹 那 。
自分に触 れていた蔓 が、土のように崩 れ去る。それに連 鎖 して、自 壊 は瞬 く間に広がっていった。木々が出現するよりも速く。円形に、現れた森がすべて崩壊していく。
「うわっ⁉ 」
唐 突 に自分を戒 める木々が消 滅 したことに、地人らが驚 きの声をあげている。コルゴンは構わず、マントの下から抜 刀 した。魔 術 の効果は迅 速 に広がり、そして急速に消失する。いったんは、とりあえず周囲──十数メートルほどか──にある森をあらかた分解して消したものの、すぐにまた足 下 から新たな木々が出現してきている。
伸 び上がった蔓 を剣 でなぎ払 って、コルゴンは後ろに跳 んだ。もはや、見える限りすべて、隙 間 もない樹 海 に呑 み込まれ、逃 げ道もないが。
(さて......どうする?)
静かに、彼は自分に問うた。特に慌 てる必要はない。
(とりあえず飛び込んできたものの──勝てる相手でもなかったか)
とすれば、逃げるよりほかにない。
逃げ道はないのだから、作るしかない。
作るための方法は、ひとつしかない。
適当な方向に──だいたいの勘 で、森の壁 が手 薄 に思える方向へと向き直って、彼は息を吸った。剣を持ったままの右腕 を掲 げ、叫 ぶ。
「我は放つ光の白 刃 !」
純白の光熱波が、密集した木々の壁に水平に突 き刺 さり、大きく炎 をまき散らす。爆 発 の衝 撃 に、樹海が大きくえぐれるが。
そこまでだった。いくらかの木々は破 壊 できる。が、それを埋 めるように、また地面から次々と新しい樹 木 が膨 れあがってきた。もはや粉々になったアスファルトには原型もない。潰 された家のがれきや標識を押 しのけて、新たに巨 大 な幹や無数の蔓が増 殖 していく。
「......発生するほうが速いというのか?」
コルゴンは、小さく独りごちた。
と──
「こらぁぁっ!」
聞こえてきた声に振 り向くと、例の地人が、拳 を振り上げて叫んできたところだった。
「ぬぁにを突 然 現 れて好き勝 手 したあげくあきらめかけているっ⁉ とりあえず俺 様だけでも助けようと努力せねば、申し訳 が立たんだろ俺様に!」
「あきらめたつもりはないが」
彼はつぶやいて、剣 を持った腕 をぶらりとたらした。
少しだけ形 相 を和 らげて、地人がきょとんとする。
「お、おおう。それなら良し」
「ただ、打つ手がないだけだ」
「駄 目 だろーがっ⁉ 」
うるさくわめいてくる地人に、多少苛 立 ちを覚えて眉 間 にしわを寄せ──短く嘆 息 しながら、とりあえず間 断 なく地面を割って出てくる木や蔓をかわす。と。
ふと、地人たちのほうを見ていて、彼は気づいた。
その地人の後ろに、弟のほう──だったろうか?──が倒 れている。長 櫃 にもたれかかるようにして。その長櫃も、地面に横倒しになって、蓋 が半分開いていた。その隙 間 から、なにか金属の光 沢 がのぞいている。
「............?」
言葉は発しないまま足早に、コルゴンは地人の横を通り過ぎ、その長櫃に近づいた。古びた木の蓋 を蹴 り飛ばすと、中からがしゃんと音を立て、何十本もの細長いものが転がり出てくる。
ばたばたと、地人が追いついてきた。
「おいっ! 貴 様 、なんの断 りがあって、マスマテュリアの闘 犬 の私有財産に蹴りを入れるっ⁉ む。そーか。貧 乏 人 ほど金に群 がるわけだな。よし犬。得をしたければそこに並べ」
「............」
戯 言 は無視して、彼はじっとそれを見下ろしていた──長櫃の中に大量に収 められていた、無数の武器。剣 が多いが、武器と呼べないようながらくたもいくつかあった。ただひとつ、共通していたのは、そのどれにも、魔 術 文字が刻 印 されていること。
「天 人 の武器だ」
コルゴンはうめくと、地人を見やった。びくりと、その地人が後ずさる。
「......どういうことだ? お前たち、これをどこから持ってきた?」
「う、うーむ。いや、つまりだな。今 朝 方 、貴様の殺人現場で床 下 から発 掘 した。で、ひょっとして法的には俺様の所有物としても問題ないのではなかろーかという気がしてきたりしたので、それでまあ」
「まあいい。使えるものがあるかもしれない」
「おい、貴様なにをするっ⁉ 」
とりあえず剣を足下に置いて、コルゴンは長櫃の武器を次々に手に取ってみた。ちらりと周囲を一 瞥 し──あまり時間がないことは明白だったが──、手に取る端 から捨てていく。
「ああっ! なんか乱暴に投げ捨ててないか軽々とっ! 一応もう一度念を押 しておくが、それはこの民族の英雄ボルカノ・ボルカン様がこれから大金持チックな生活を送るための大事な財源というか聞いてるのかっ⁉ 」
聞いてはいなかった。
剣、ただの棒、時計のようなもの、剣、装身具、箱、剣、剣、本......
櫃 の中にあったものをどんどんわきに捨てながら、一応は魔術文字の刻印に目を通す。通常、この手の道具を使用するためには、刻まれた魔術文字の意味と機能を理解していなければならない。が、文字の解 析 を行うことは論外だった──天人種族の魔術文字は、専門家でも、意味を解読するだけで数か月単位の時間を要する。機能を発 揮 させるためのアクションを解明するのには、さらに時間と手 間 がかかり、ついでに危険まで伴 うことが多かった。結局は、暗号の解読に似ている。鍵 を知っている者にとっては容易なことが、知らない者には極 めて困難なものになる。
だがそれでもまれに、魔術文字の意味を知らずとも、使用者の意思に反応して勝 手 に動き出す道具もないわけではない。特に天人種族の鍛 えた武器の大半は、過去、魔術の力を持たない人間に、魔術に対 抗 する力を与 えるために造 られたものである。危機に際して使用者を保護する機能を、大 概 が有している。
あながち分の悪い賭 というわけでもない。
(これも違 う......これも違う......なにも起きない......)
「あわわわわわわ」
どうやらこちらが投げ捨てているものを片 端 から受け止めて右 往 左 往 しているらしい地 人 が、うめいているのが聞こえてくる。
構わずに、コルゴンは続けた。が、長 櫃 の中身はどんどん減っていくが、いつまで経 っても成果はない。
額 が汗 ばむのを感じ、喉 に唾 を流し込む。
あたりは目に見えて暗くなってきていた。発生する樹 海 が、とうとう空をも遮 りつつある。もう一度、木々を破 壊 して時間を稼 ぐ必要があるかもしれない。コルゴンは顔を上げた。手を伸 ばせばとどくところにも、もう樹木の壁 が迫 りつつある。
そして、長櫃の中に残った最後のひとつ──拳 大の、漆 黒 の色をした卵状の石──を摑 んだ、その瞬間だった。
「............」
なにも起こらない。が。
「お前たち......それをどこから持ってきた......?」
声は、全方位から聞こえてきた──言うなれば、周囲を包む木々すべてから。
ライアンの声に似ていなくもなかったが、聞き取りにくい。くぐもった声に首筋をつかまれた心地になって、コルゴンは顔を上げた。夢中になっていて気づかなかったが、森の動きが止まっている。様 子 を見るように、じっと。
「......なんか言ったか?」
そうつぶやいたのは、例の地人だった。天人種族の遺産を抱 えきれないほど持ったまま、木々にからまれて身動きが取れなくなっている。コルゴンは、軽くかぶりを振 った。
「いや」
黒い卵を握 りしめて──立ち上がる。
相手の姿がないまま話しかけることは、思いのほか困難だった。それでも漠 然 と、やや上方を見やって、告げる。
「お前のいた、教会......だそうだ」
「盗 みだそうと言い出したのはこいつです」
即 座 に、例の地人が、気絶したままの弟を指さして付け加えるが、まあそれはどうでもいい。
木々の声──ライアンの声だろう、間 違 いなく──が、やや震 える。
「それは......ぼくたちが集めたものだ......ジャックに預 けてあった......どうしてお前たちが、それを持っている?」
「............?」
声の調子に、どことなく違 和 感 を覚えて、コルゴンは顔をしかめた。そのまま答える。
「この地人たちが、あった場所から運び出した。それだけのことだ」
「お前たちは何者だ⁉ 」
「?」
「いや、何者でもいい──それは、ぼくたちが......十年かかって集めたものだ。返してもらう──」
「......別にこんなものには興味ないが」
答えながら。
コルゴンは、手の中にある石を、ゆっくりと掲 げてみせた。
「必要な時には使わせてもらうしかないな」
石はガラスのように透 明 になっていた。その内部で、無数の文字が輝 きはじめている。
(賭 に勝った......か?)
森が再び、動きを再開する──が、それより早く文字の輝きが強さを増し、膨 れあがった。瞳 を灼 かれないために、まぶたを閉じる。もうこうなれば、自分にできることはなにもない。手の中にある道具の機能がどういったものかは、まったく分からない。ただ、それが活動を開始したことは間違いない。あとは、それが自分を守ってくれることを信じるだけだった。
(もっとも)
数秒して、彼は目を開いた。
(俺 の人生に、負けなんてものはない。それは分かっている......)
そこは静まりかえっていた。蠢 く蔦 が打ち合う音も、木々が地を割る轟 音 も、そこにはない。
見えたのは、壁 だった。古い建物の内部らしい。それにしては天 井 が低すぎると感じてから、すぐに、自分がなにかの台の上に立っているのだと気づいた。足場はひどく不安定で、重心が少しずれるだけでぐらりと揺 れる。ブーツの底を通して感じるところでは、その台はひどく柔 らかかった。高さとしては、椅 子 程度か。
見下ろすと、見覚えのある連中が、ぽかんと口を開 けてこちらを見上げてきていた。見覚えがあるといっても、顔ではない──その格 好 だった。赤のラインが入った、黒 装 束 。大陸魔 術 士 同盟職員の制服。かかわりを持ったことは一度もないが、見たことならば何度もある。彼らはどうやら、会議の最中だったらしい。彼らの背後にあるホワイトボードに貼 り付けてある資料からすると、アーバンラマ市に発生した異変について、役にも立たない議論を延 々 続けていたのだろうが......
そこまで見回して、彼はようやく、自分が踏 んでいるものの正 体 を発見した。それらの会議の席から少し離 れて、椅子に座 って足を組んでいたレティシャ・マクレディの、その膝 の上。
彼はそこに、漆 黒 の卵を掲 げた格 好 のまま、突 っ立っていた。
◆◇◆◇◆
「うわああああ──」
宙 に投げ出されながら。
なんとかバランスを取るために、目を見開く。少なくとも上下関係を見定めないことには、受け身も取れない。
見回して。
とりあえず、得たものはふたつあった。
ひとつは、少なくとも視界内に地面が見えたこと──これは幸運だった。後 頭 部 を下にして落下していたとしたら、絶望するしかなかったところだ。とりあえず地面が見えるならば、対 処 できる。
もうひとつは、同じ視界内に、ヘルパートの姿もあったことだった。また擬 態 かもしれないが。
不安定な空中で困難な構成を編 みつつ、標的に向かって右手を伸 ばして、叫 ぶ。
「我 は放つ光の白 刃 っ!」
大気を切り裂 いて光の束 が、片腕 のレッド・ドラゴンへと集まっていく。が、純白の輝 きが爆 発 を起こす一瞬前に、ヘルパートの身体 が変形するのが見えた。左腕をロープのように伸ばし──そして、地上のどこかに引っかけたのだろう。空中で大きく落 下 の軌 道 が変化する。
虚 しく見当違 いの爆発を起こす光熱波の爆風を受けながら、オーフェンは地面に落ちた。勢いは、爆圧で幾 分 弱まっている。そのおかげで、多少よろめく程度で身体を起こすことができたが。
すぐに、振 り向く。落ちた場所は、建物の近くにある大通りの真ん中だった。出現したディープ・ドラゴンを臨 む区画だけあって、人の気 配 はない。粉々に吹 き飛ばされたように思えた診 療 所 も、改 めて見てみれば、屋上部分が分解しただけのようだった。
安 堵 して、つぶやく。
「なら......クリーオウは無事だな」
「君が死ななければな」
「────っ⁉ 」
反射的に、横に跳 ぶ。
声は、凶 器 と同じだった──とにかく、そう思えた。それは正しかったのだろう。飛び退 いたその場所を、鋭 い鞭 のようなものが貫 いてゆくのが見えた。それはほんの一瞬でまた引きもどされ、持ち主の手元に返っていく。

(......手元、ってことはねえか)
改 めて身 構 えながら、オーフェンは苦 笑 した。伸 ばした左腕 を標準の長さにもどしたヘルパートが、じっとこちらを見ている。緑色の瞳 で。
ドラゴン種族は、なにげないたたずまいで立っていた。物 陰 に隠 れもしない。通りの中央に──自分と同じく──対 峙 している。
そのヘルパートが、口を開 けた。
「まず君を殺そうと思う。一応、理由がある......君の仲間を先に殺すほうが楽ではあるが、仲間を殺された君を相手にするのは困難なように思える。先の経験では」
「............」
オーフェンは答えずに、相手の出 方 を待った。というより、こちらからでは手の出しようがなかったというのが本 音 だったが。
(......真正面からの熱 衝 撃 波 すら避 けやがる相手だ。実際、有効な手なんぞありゃしない)
じわり、とこめかみあたりに汗 のにじむ感 触 を覚える。だが。
(ここなら、余 計 な邪 魔 は入らない。ロッテーシャはともかく、あのウィノナとかいうのは馬 鹿 じゃない。さっさと逃 げるだろ。クリーオウも運んでおいてくれるとありがたいんだけどな)
拳 を固めて、オーフェンはうめいた。
「もう遅 いさ」
「うん?」
聞き返してくるヘルパートに、告げる。
「今さら聞いたところで意味ないことかもしれないけどな。お前は既 に、クリーオウとマジクに手を出してる。なぜだ?」
「......勘 違 いしているようだが」
ヘルパートのかかとが、かつんと音を立てた──移動しようとしたのかと意識を引き締 めるが、レッド・ドラゴンは特に動こうとしたわけでもないらしい。しばらく見て、その戦 闘 生物が、右腕を失ってバランスを狂 わせているのだと、気づく。
なんにしろ、ヘルパートは続けてきた。
「今回、我 々 の第一の目的は、あのディープ・ドラゴンを回収することだった。聖 域 には必要な力だ。それは理解できるだろう」
「............」
オーフェンは答えずに、わずかに数センチほど後退した。話しながらでも、可能な限り間 合 いを開いておきたい。
相手は......追ってこない。そのまま、
「その一 環 として、ライアン・キルマークドが、ディープ・ドラゴンへと決戦を仕 掛 ける。我々にとっては、ほぼ唯 一 、ディープ・ドラゴンに有効な武器を使ってだ。結果として、この都市を巻き添 えにすることになったかもしれないが......」
と、漠 然 とあたりを示して、
「理解して欲 しいものだ」
「ンなことは知ったこっちゃあないが」
オーフェンは、吐 き捨てた。
「あれは本当にレキなのか......? 一晩でああまで育つもんなのか、ディープ・ドラゴン種族ってのは」
地上に立つともう見えないが──
方角からすれば、ヘルパートのはるか後方に、レキが座している公園があったはずだった。ヘルパートは、特に振 り返りもせず、気 配 だけでそちらを指した。
「ディープ・ドラゴン=フェンリルについて、お前たちはなにも知らない。そして」
と、一拍 おいて、
「それと同じくらい、我々にも知らないことは多い。ディープ・ドラゴン種族は、およそ、あらゆる生物的な要素から解放された種族だ。全も個もなく、食事もガス交 換 も必要とせず、生 殖 せず、つまり増 えない。だが減ることもない。あの破 滅 的 な神々との邂 逅 の日を経 て、ドラゴン種族となり......あの種族に残ったのは、ただ圧 倒 的 な力だけだ。まあ、相応 しいだけの力を得たのだと思うよ。あの力を得たのがウィールド・ドラゴン種族だったならば、数日のうちに自 滅 していただろう」
「お前らだったなら?」
「同じことだろうな」
ヘルパートはあっさりと認めた。
「我々が得た力というものの重さを、お前たちは知らない......魔 術 の力を、手足の延長程度にしか思っていないお前たちは、危険な幼児に過ぎない」
その顔が──今まで一度として、大きな表情を見せたことのないその顔が、ふと一瞬、陰 るのが見えたような気がした。いや、見たことがないわけではない。
(......あの時の目だ)
初めて見た時の、あの顔。
空を見上げていた、絶望の眼 差 し。
彼が見せたのは、それに間 違 いなかった。
ただ、今は空ではなく、こちらを見ている。そして擬 態 した薄 茶 色 の眼 ではなく、緑色に輝 く瞳 で、
「ライアン・キルマークドはそれを理解している人間だ。だから俺 は、奴 を同志だと考えている」
「相 哀 れんでろよ!」
オーフェンは、横に駆 けだした。右腕 を突 きだし、叫 ぶ。
「我は放つ光の白 刃 !」
呪 文 の声にあわせて──
ヘルパートも瞬時に反応し、身体 の半分を変形させ、弾 けるようにして真横に跳 躍 した。
そして、オーフェンはそれを見ながら、完成寸前の魔 術 の構成を霧 散 させた。熱 衝 撃 波 は発生させず、別の構成を組み立てる。
「我は駆 ける天の銀 嶺 !」
瞬発的な重力中和。後方へと、大きく跳躍する。一瞬前にいた場所を、どこの死 角 から忍 び寄っていたものか──ヘルパートの身体 の一部が、鋭 く薙 いでいるのを見送りながら。
(距 離 を稼 ぐ......可能な限り)
近くの民家の屋根へと着地して、オーフェンは独 りごちた。
(あたりに気を遣 う必要がないのなら、正面から挑 む必要もない)
最遠距離から、最大の力で吹 き飛ばす。
万能の暗殺者たるレッド・ドラゴンに対 抗 する、唯 一 の方法とも言えた。暗殺を無効にする、大規模破 壊 。
「我は放つ光の白刃!」
意識のたがが飛ぶほどの、衝撃が身体を貫 く。
それは物理的なものではなく──反作用だとしたら一秒と生きていられたはずがない──、自 らが力を紡 ぎ出す、その意志の奔 流 だった。制 御 をせずに力を噴 出 することは、魔術士にとっては禁 忌 に近い。だがオーフェンは構わずに、すべての力を打ち出した。視界はすべて光に包まれ、その爆 発 の中、チキチキと虫の声のような小さな破壊音が聞こえてくる。発生する熱はすべてを溶 かし、衝撃の波がその残 骸 を押 し流す。音を立てて、なにかが弾 けた。両手を包んでいた革 のグローブが、沸 騰 して消し飛んでいく。その痛みと熱さは腕から肩 に、全身に広がり、そして。
「──あああああああああっ──!」
光が消えた時、彼は、自分が悲 鳴 をあげていたことにようやく気づいた。ぶすぶすと焦げて異 臭 を発する革ジャケットを脱 ぎ捨て、足下に叩 きつける。
巨 大 な穴だけが、前方に残っていた。
数区画を完全に溶 解 して、魔 術 による破 壊 跡 が炎 の渦 をまだ残している。全身に負 ったであろう火傷 の痛みにのけぞって、彼はその場に膝 をついた。それでも奥歯を嚙 みしめて、時を待つ──具体的になにを待っているのかは自分でも分からなかったが。
一分。二分。
呼吸の数だけで曖 昧 に時間を計り、オーフェンは、身 震 いした──業 火 の焼け跡には、なにも動くものが見あたらない。
ヘルパートは死んだ。そのはずだ。渾 身 の魔術で灼 き滅 ぼした。
「やった......か......?」
「今 朝 、似たような奇 襲 を食らわなかったなら、引っかかっていただろうな」
「────っ⁉ 」
舌打ちして、身をよじる。
ほおをかすめて、なにかが通り過ぎていった。一瞬で、血の臭 いが鼻 孔 を満たす。
なんとか体勢を立て直し、身構えると、そこにヘルパートが待ちかまえていた。伸 ばした指をもとにもどしつつ、
「エドとかいったか......不 思 議 なものだが、あの男と君はよく似ていると感じる。経歴にしても、タイプにしても、接点はなさそうに思うのだが──」
「似てるはずだ。同じ先生に学んだ」
ざっくりと裂 けた左頬 に手を当てて、オーフェンはつぶやいた。ヘルパートが、かぶりを振 る。
「そんな接点があれば、ネットワークで分かったはずだ」
「そんなもんはくそくらえだ。同じ戦 闘 法 。同じ訓練。同じ教育。俺とあいつは、同じものを学んだのさ。ネットワークがなんだってんだ。事実までねじ曲げられるもんじゃないだろう」
「......ふむ。ネットワークの不備は認めよう」
が、ヘルパートの言葉は聞かずに、オーフェンはひとりでつぶやき続けていた。火傷を負った皮 膚 の不快感と激痛とが、言葉だけを噴 出 させる。
「違 うのは、奴 は秘 密 裏 に、俺は公然と先生の戦闘法を身につけたってことだけだ。結果として、俺は先生の技 を得た。あいつは......コルゴンは」
自分の血でべっとりと汚 れた手を顔から離 して、うめく。
「先生の強さを手に入れた。とは、アザリーの弁だがな」
「君の言っていることはどうも理解できな──」
「先生の強さってのはなんだ? てめえの右腕 を奪 ったのがコルゴンなら、同じことをしても俺はかすり傷ひとつ与 えられなかった。そういうことか⁉ 」
「............」
「だが先生は死んじまったし、もう俺たち生徒もばらばらだ。そんなものに──」
「......痛みで錯 乱 していると見なした。もう余力もあるまい」
「そんなものに、今さらなんの意味がある?」
「これからとどめを刺 すが、抵 抗 しないことを勧 める」
「もうこれは、俺の力だ。俺の守りたいものは、俺の力でしか守れない!」
叫 ぶと同時──
身体 が軽くなるのを、確かに感じた。
(死んだのか......?)
そう思うほどの解放感とともに、肉体が動き出す。
ヘルパートも、動いていた。左手の五 指 をすべて広げ、爆 発 したようにその指が大きく伸びてくる。
その指の一本が、左足の股 を貫 いた。別の一本が、反対の脇 腹 を深く切り裂 いてくる。
見えていたが、避 けようもなかった。そのことで、自分が速く動いているというわけではないと悟 る。
が、オーフェンは気にせず、駆 けだしていた。ヘルパートへと、真っ直 ぐに。
三本目の指──薬指だろうか? どうでも良かったが──が、左手の手のひらから、布でも縫 うように、また肘 を貫き、さらに肩 へと抜 けていった。
それでも止まらない。痛みを感じないのだから、止まることを思い浮 かべられない。
四本目。背中から、内臓を狙 って背筋をえぐろうとしているらしい。だが、前進を続けるこちらの動きに追いつけず、皮を浅く削 っただけで終わったようだった。見えないはずの背 後 がどうして見えたのかは、自分でも分からない。
そして、最後の五本目。
それは真正面から向かってきていた。眉 間 へ。頭 蓋 を破 壊 し、脳をかき回すために。
人間が対応できるような速度ではない。が。
オーフェンは、右手で軽くそれを払 った。軌 道 をずらされた最後の指が、顔をかすめて後方へと伸びていく──もっとも、それで右耳を引きちぎられたかもしれない。耳の穴になにか液状のものが詰 まったようだった。血だろう。
どのみち、止まらない。気がつけば、彼の身体 はヘルパートに触 れられるほど接近していた。
レッド・ドラゴン種族が──
痛 覚 も、恐 怖 も持たない生 粋 の殺 戮 者 が、大きく口を開いて絶 叫 するのが見えた。耳で聞いているのではないと断言できたが、彼がなんと叫 んでいるのかは理解していた。
「──なぜ止まらない──⁉ 」
オーフェンは右手の指を伸 ばして貫 手 にし、それをヘルパートの口の中へと突き入れた。その口 蓋 の中で舌を摑 み、握 りしめる。と、唐 突 に──聴 覚 が復活した。
自分が叫ぶ声を聞くためだったのかもしれない。
「我は放つ光の白 刃 !」
小さな爆 発 だった。力はほとんど、先ほどの全力攻 撃 で使い果たしている。残ったものは、決して大きくはなかったが。
それでも、炎 が膨 れあがった。敵の体内にある自分の右手ごと、レッド・ドラゴン種族の身体が燃え上がり──そして爆 裂 四 散 する。
その炎の中にのめり込むように、オーフェンは倒 れた。全身に感覚がもどる。それだけで死にかねないショックが神経を苛 んだ。肉体のいくつかの部分を失い、そして巨 大 な松 明 のように燃えるレッド・ドラゴンの身体と一 緒 に倒れ込み、自分もまた炎に包まれるのをどうにもできない。力が残っていないだけではない。受けたダメージはこれ以上ないほどに深刻だった。
(冗 談 じゃねえ──)
肉が焼ける悪 臭 に身 悶 えしながら、毒づく。
(こんな殺し屋相手に相打ちして死んでる場合じゃねえんだ。やらなけりゃならないことが山ほどある......)
と──
涼 風 が吹 いた。
「ならば、立ちたまえ」
いや、涼 しく感じたのは声だった。顔を上げる。腕 組 みし、こちらを見下ろす人 影 。
歳 経 た貫 禄 ──そう言うのは場 違 いだろう。男はまだ壮 年 で、若いと言ってしまえば若い。几 帳 面 そうな無感動の眼 差 しは、どこか、見慣れた別の人間を思い起こさせずにはいなかった。大陸最強の魔 術 士 であり、自分の師であった人間の名前が、脳 裏 によぎる。
だがもちろん、そこにいたのは、まったくの別人だった。
言われるままに、オーフェンは立ち上がっていた。ふと足下を見やると、もう既 に炭 化 し冷え切った、レッド・ドラゴンの死体が転 がっている。自分は無傷だった──信じられない思いで身体 のあちこちを確 認 する。傷どころか、魔 術 のバックファイアで生じた火傷 も、髪 の毛に焦 げた跡 ひとつすらも残っていない。
わけも分からず男を見やると、彼はこともなげに言ってきた。
「癒 した」
あり得ないことに思えた。
魔術でも、あれだけの重傷を──というよりきっぱりと致 命 傷 を──、なんの後 遺 症 も残さずに癒すことは不可能に近い。少なくとも、人間種族の魔術士には無理なはずだった。
だがそんな疑問には構 わずに、男は続けてくる。
「わたしは、ダミアン・ルーウという。時間がないので、自 己 紹 介 はこんなものだ」
「あんたが......白魔術士の?」
ウィノナが言っていた名前を思い出し、オーフェンは息を漏 らした。
その男──ダミアンが、うなずいてみせた。淡 白 に、浅く。倒 れている、レッド・ドラゴンの死体を見ながら。
「正直、驚 いたな。この化 け物は、ユイスでなければ倒せないと思っていた。まあいささか......スマートさには欠けた結果ではあったが」
「嫌 みを言うためにケガを癒してくれたってんなら、礼は言わないでおく。なんの用だ?ウィノナの話じゃ、一番事態を把 握 してるのはあんただってことだが」
傷はなくなっても、疲 労 は抜 けない。よろけつつ、オーフェンは尋 ねた。
ダミアンは、ゆったりとした足取りで近づいてきた──反射的にオーフェンは身構えたが、相手はどうということもない様子で、ただ死体を確かめにきただけらしい。じろじろと眺 め回してから、
「間 違 いなく死んでいる、な。君は、相手を殺せない暗殺者だと聞いていた。キリランシェロ?」
「今だって別に変わりゃしない。ただ......ほかにどうしようもなかった」
「ふむ。決断ができたことは評価されるべきだろう。まあ、自分まで死んでしまえばそれも無意味だが。自分の力を、個人以上の大きなもののために使うつもりはあるかな?」
「ない」
オーフェンは唾 を吐 いた。喉 の奥 に、痰 の塊 のような不快なしこりを感じるが、それが錯 覚 だとも分かっていた。ダミアンから一歩後ずさりして、続ける。
「だが、取引がどうのって話なら、さっきウィノナに同意したばかりだ。彼女は、クリーオウの回復を条件に出してきた」
「わたしとしては、そういった取引は好かない」
彼は足を止め、その腕 を振 った──屋根の上から遠くに見える、じっと動かないディープ・ドラゴンのほうへと。
「件 の少女を回復させるためには、相当なリスクを負わなければならないことを言っておく。これはわたし個人の意見だが、そのリスクに値 するほど、君の力、君の姉の力も含 めて、我々に必要だとは到 底 思えない」
「なら、とっとと失 せろ」
「だがしかし、領 主 様の意向なのでな」
ダミアンは軽く肩 をすくめたらしい。彼に背を向けかけたところで制止され、苛 立 たしく思いながらオーフェンは振り向いた──肩越 しに、にらみやり、
「はっきりしろよ。いらいらする」
が、相手はあくまで本題を避 けた。
「時間がないことは察しているようだな。いいだろう」
それだけ言ってから、なにかを拾い上げる。ヘルパートの死体ではない。似たようなものだったが。焼け焦 げて原型も残っていない、革 のジャケットだった。
「ただ、リスクに関しては嘘 を言ったつもりはない。君の意見を聞きたいな。どの程度のリスクなら冒 せる? 君にとって、あの少女がなんだというのだ?」
「クリーオウは──」
答えようとして言葉に詰 まり、オーフェンは苦 笑 した。馬 鹿 げた質問だった。しかし愚 かな質問に答えることは、さらに愚かだろう。
生きていると、自然とそういった愚かなことは避けていけるようになる。それが賢 さだが、愚かなことのひとつもできない窮 屈 な賢さの中にあって、人の心は腐 っていく。異 臭 を発するわけでもなく、見た目が変わるわけでもなく、ただ腐っていく。
分かってはいたが、だからといって格 好 の悪いことができるわけでもない──オーフェンは、低くうめいた。
「決めたんだよ」
「決めた?」
「さっき決めたんだ。俺は守りたいと思ったものを守る。全部だ。あいつはな、そこらで馬鹿やって、大 騒 ぎして、あたりに被 害 をまき散らして、本人だけけろっとしてりゃいいんだ。それが一番いいんだ。だから俺は、その状態を回復する」
震 える息を吐 いて──続ける。
「馬鹿だったよ。もっと気をつけていれば良かった。最近、あいつは変だった......こんなことが起こると分かってたみたいに」
「正しいかもしれんな」
「......なんだと?」
当てずっぽうで言ったというわけでもなかったが──それでも同意されるとは思わずに、オーフェンは聞き返した。
ダミアンは、溶 けた革 ジャケットの中を探 り、なにかを取り出してみせた。内側に縫 いつけてあったはずの、短 剣 の鞘 。それだけを残してまたジャケットを落とし、彼が答えてくる。
「正しくは、だ。ディープ・ドラゴンがある程度の危機を予測していたはずだ。自分以外のドッペル・イクスと接 触 した以上、聖 域 から、自分に対してなんらかのアクションがあるのは間 違 いないところだろうからな。もっとも、ディープ・ドラゴン種族には個というものがないから......あくまでこれは、我々に分かりやすい形で、思考を翻 訳 するとそうなのではないかと──」
「どうでもいい。具体的には、どうだってんだ?」
「ディープ・ドラゴンは準備をしていたはずだ、と言っているんだよ。とはいえ自分の身の安全について、心配する必要はない。ディープ・ドラゴンは無敵の存在だ。その無敵の存在が図 らずも抱 えてしまったアキレス腱 は」
「クリーオウか!」
弾 かれる思いで、オーフェンは叫 んだ。
が、ダミアンは笑いながらも首を左右に振 り、
「君もだ。そして、君の生徒も。ロッテーシャ・クリューブスター......彼女もか。失ったとしたら、あの少女が心に傷を負 うであろうすべて。その中には、意外な人物の名前も含 まれていたな」
まるでなにか名 簿 でも見てきたかのような口調で、ダミアンは語りながら、短剣の鞘を軽くもてあそんだ。合 間 に、軽く歌うようになにかを唱 え──
「ライアンとかいったか? 奴 も、だ」
その一 言 と同時に、鞘の中に、銀の短剣が出現する。さっきの騒 ぎで失ったものだが、ろくな呪 文 すらなく、それを回収したらしい。魔 術 には間違いないが、その構成を把 握 することすらできなかった。
最高度の白魔術士は、呪文を口にすることもなく魔術を使うことがあるとは聞いていたが、それを実際に見るのは初めてだった。
(いや......前にもあったか? キムラックの教主......)
教主ラモニロック。人間種族の始 祖 魔術士と名乗っていた。それが事実なら、人間種族にとっては最強の魔術の使い手ということになる。確かに、無言で精神支配までしてのけた。だがそれも、今このダミアン・ルーウという男の手並みを見せられた後では、いかにも荒 削 りで拙 かったように思えてくる。
その驚 きを隠 すためというわけではないが、
「ライアン?」
へらへらした笑いを浮 かべるキャベツ色の服を着た男の顔を思い浮かべ、オーフェンは聞き返した。
「あいつは敵だろう?」
「それは立場の問題に過ぎないだろう。あの少女は敏 感 だよ。いや、言い方が悪いかな......そう。利 発 だよ」
言いながら、銀の短 剣 を鞘 ごとこちらへと差し出してくるダミアンに、オーフェンは顔をしかめた。
「他 人 事 なのは仕方ないが、評論家ぶった話し方は気分が悪いぜ」
とりあえず、短剣を受け取る。抜 いて確かめてみるが、確かに持っていた短剣だった。納 刀 し、言い直す。
「確かに、クリーオウの奴 は図 抜 けて聡 いよ。それがなんなんだ?」
「自分に好意を寄せる男をだ、敵だからという理由であっさり抹 殺 して、それでのほほんとしていられるほど鈍 くはない、ということだよ」
「............?」
会話しながらバンダナを外 そうとし──その途 中 で言われたことに混乱して、オーフェンは手を止めた。
「言ってる意味が分からない。なんだって?」
「評論ぶった会話はしたくないのではないかな?」
「皮肉しか言えねえのか?」
オーフェンは毒づくと、バンダナを解 いて外した。そのバンダナで、左腕 に、短剣の鞘をくくりつける。具合を確かめてから顔を上げると、ダミアンは真顔で言ってきた。
「彼女は、君に会いたいと言っている。あそこへ来たまえ。続きは、彼女自身に聞くのがいい」
「? なにを言って──」
だがダミアンは、最後にある地点を指さしてから、そのまま、炎 が風に呑 み込まれるように、その姿をかき消した。跡 形 もなく消 失 した彼の姿を、あたりを見回し探 してから、オーフェンは不意に、ダミアン・ルーウがその場所に、最初から存在していなかった のだと気づいた。
(精神士か!)
白 魔 術 士 の究 極 形 。そう言われている。物理との接 触 を断ち、肉体のすべてを捨て去った、いわば幽 霊 だが。
物理の束 縛 を解 かれたということは、その恩 恵 も受けられないということでもある。精神だけの存在となり果てて、その理性を保つことは極 端 に難 しい。通常は、そう長い時間もかからずに消 滅 してしまうだろう。だがもし、自 我 を失わないまま精神体でいられるならば、人の目には、それは万能の存在にも見える。実際には、彼らは彼らなりの法則に従って、彼らなりの束縛の中で行動しているのだろうが。
「来い......だと?」
オーフェンは繰 り返して、ダミアンが最後に指さした方向を見やった。考えるまでもなかったが......
それは、ディープ・ドラゴンの居 座 る公園だった。
無人の街 を歩くのは、自分がどれほど疲 れているかを自覚することに他 ならなかった。
足を引きずるようにして、決して短くない道のりを進む。どれだけ歩いたのかは、もう曖 昧 になっていた。疲 労 が、距 離 や時間を推 定 することすら難しくさせる。
オーフェンはゆっくりと呼 吸 を確かめながら、休まず前進することに努 めた。休めば、自分が思っている以上の時間、その場から動けなくなってしまうだろう。
確信があったわけではなかったが、限られた時間が相当な勢 いで削 られていくような焦 燥 感 が、間 違 いなく存在していた。休めない。そのことを自分に言い聞かせる。
実際──
(限られた時間、か。どこから限られていたんだ?)
膨 れあがる疑 問 を助けにしながら、歩き続ける。
(考えてみりゃ、ナッシュウォータで、コルゴンの奴 を見かけてから、なにかおかしくなってきやがったんだ。次から次へとややこしいのが)
相手の澄 ました顔を思い浮 かべ、毒づく。
(ライアン......ヘルパート......ロッテーシャ......で、ウィノナに、ダミアン? あとは、領 主 様とやらか。最接近領の領主......)
名前さえ並べてしまえば、構図そのものは単純だった。領主とやらの下で働いている、ウィノナとダミアン──そしてコルゴン。彼らは聖域と対立しているという。ドラゴン種族の聖域からの命令によって動いているのが、ライアンとヘルパート。この抗 争 に巻き込まれたというわけだった。
もっとも、レキの存在を考えると、あながち自分たちもまったくの部外者というわけではなかったのだろうが。となれば遅 かれ早かれ、ヘルパートらとは接 触 することになっていたのだろうし、そうなれば、彼らをマークしていたというダミアンらにもいずれ出会うことになる。巻き込まれたというよりは、いずれ遭 遇 するはずだった災 難 に、自分たちから突 っ込んでいってしまったというところか。
(......いや)
と、ふと思いついて、顔をしかめる。眉 間 を指でかいて、オーフェンは思い直した。
(ロッテーシャは......なんなんだ?)
彼女の存在だけが浮いている。
ライアンとヘルパートが、なんらかの理由で狙 っていた、例の魔 剣 の持ち主だった。
そして、コルゴンと結 婚 していた。
浮いているわりには、関係が深すぎるようにも思える。奇 妙 なアンバランスを感じて、オーフェンは独 りごちた。
(単に、剣の持ち主だったってだけなら、それでいいんだが......なんなんだろうな、これは)
昨日 までいた南側とはまったく雰 囲 気 の異 なるこのアーバンラマ市の北側は、街 並 みも整然として、道 幅 も広く造られていた。人っ子ひとりいないため、なおさらに広く感じる。避 難 の際に、誰 かが倒 したものか、ゴミ箱がひとつ横倒しになっていた。もともと中身がなかったのか、紙くずがひとつふたつこぼれているだけだったが。
それを横目に通り過ぎ、オーフェンは不意に気づいた。
(そうか。彼女じゃない──コルゴンの奴 がずれてるんだ)
彼の行動はいちいち矛 盾 している。
ナッシュウォータでは、ロッテーシャの魔剣を手に入れようとしていたらしい。欲 しかったのなら、二年前に、彼女と別れる前に奪 っていけば良かったのだ。それができなかったわけでもないだろう。実際、二年経 ってから、彼女を殺害してまで手に入れようとしたのだから。
逆にそれが、ウィノナの言うように、魔剣を手に入れるために動いていたライアン、ヘルパートと接 触 するための狂 言 だったとしたら、ロッテーシャを殺そうとする必要などなかったのだ。
(っても)
オーフェンは、疑 わしげに付け足した。
(ウィノナか。あいつの言うことはどれもこれも信用できねえな。嘘 をついてるのは確実なんだが......どこからどこまでが嘘なんだかまったく分からない。あいつの嘘がうまいってより、こっちの持ってる情報が少なすぎるんだ)
コルゴンに会う必要がある。
「そろそろ頃 合 いだろ」
声に出して、彼はうめいた。
「あの野 郎 、どこにいるんだか知らないが、こそこそ逃 げ回りやがって──明らかにこっちを避 けてやがる。そもそも、あいつに問いただせば全部分かることばかりじゃねえか」
問題は、彼に接 触 する方法だったが。
ロッテーシャのことを考えると、慎 重 に考える必要があった。少なくとも彼女より先に、コルゴンに会っておきたい。
(とりあえず、ぶん殴 らなけりゃならないだろうからな)
なんとなく、気が重くなってくる。
(俺 がそうなると、ロッテーシャの奴 を止める役がいなくなっちまう)
どう考えても、あまり愉 快 なことにはなりそうもなかった。
とまれ、それは今考える必要のないことだ。
そう思い直し、嘆 息 する。
「まずは......クリーオウだ。くそ、あの精 神 士 、どうせならレキのとこまで俺を転移くらいしてくれたっていいじゃねえか。それができないってわけでもねえだろうに」
先はまだ長い。いったん立ち止まって、背 筋 を伸 ばそうとし──
「──ぶぎゃっ⁉ 」
短い悲 鳴 をあげて、彼は転 倒 した。背後から、なにか重いもので殴りつけられたらしい。後頭部への鈍 痛 に、意識が遠くなる。地面にうつ伏 せに倒 れたまま、状 況 を把 握 しようと、彼は耳をすました。
(なんだ──? まだ敵がいたのか⁉ )
正直、またヘルパートのような相手と戦うだけの力は残っていない。知らない街で逃げ道を思い浮 かべるのは困 難 だったが、なんとか逃 げ延びるためのルートを模 索 する。とりあえずは、重い身体 をなんとか起きあがらせようと、転がり──
重いのは、当たり前だった。なにかが乗っかっているのだ。背中に。
「なるほど」
ぽつりと、声が聞こえてくる。
「つまりこれは、危機が迫 った時に、一番近場にいる親しい人間のところへと転移する緊 急 避 難 装 置 か......もしかしたら、使用者をより危険な場所へと放 り出す修 行 器具かと思ったが」
「............」
聞き覚えのある声だった。どっと疲 れが押 し寄せてくる。
顔を上げて、オーフェンは叫 んだ。
「コルゴンー!」
「よお。久しぶりだな」
気楽に、言ってくる。
自分を見下ろす冷たい顔──いや、単になにも感じない顔ということか──に、オーフェンは爪 を立てて地面をひっかいた。腹が立つよりも、力が抜 ける。コルゴンの表情は、偶 然 久しぶりに出会ったそれだった。それだけだった。つまりは、状 況 そのままの。今までに起きたあらゆることが、むしろ虚 構 だとでも言いたげな。

五年前から、現在。その間に起きたすべてのことを否定する。いくつもの名前。殺人。ドラゴン種族。聖域。ウィノナ。白 魔 術 師 。拳 銃 。騎 士 。領主......最接近領の。
そして、ロッテーシャ。それらがなにもかもが嘘 だったように、そこにいたのは、最後に見た時からなにも変わっていないコルゴンだった。
なにもかもが、ぐるぐると頭の中を巡 る──そして叫ぶ。
「軽いぞっ!」
が、やはりあっさりとした口 調 で、コルゴンが言ってきた。
「かなりの重 装 備 だが」
「ああ確かに重い! さっさとどけよ!」
わめいて、オーフェンは、背中に乗ったままの彼を追い払 った。ようやく荷がなくなって、起きあがる。
コルゴンは、特にどうということもない様子で、じっとこちらを待っていた──無 性 に
むかむかするものを感じて、声が漏 れる。
「よくもまあ、脈 絡 なく出て来やがって......」
「それは違 う、キリランシェロ」
真顔のまま、コルゴンは──マントの下から右手だけ出して、言ってきた。その手には、卵 形 の、黒い石のようなものが握 られている。
「事情がある。聞け」
「......言ってみろよ」
「今も言ったが、これはどうやら、持っている人間が危険を感じた際に、その人間を最も近い場所にいる身内のところへと転移させる装置らしい。〝身内〟の概 念 についてはどうにも曖 昧 なような気がするが」
彼の言う『これ』とは、持っている石のことのようだった。今はなんの反 応 もしていないが、そう解説されてみれば、いかにも天 人 種族の道具らしく、傷ひとつなく不自然な光 沢 を放っているようにも見える。
コルゴンはそのまま続けてきた。
「ライアン・スプーンの抹 殺 を遂 行 しようとしたんだが、どうにもならない事態になってな。すんでの所で、この装置に助けられた」
「......で?」
半眼で促 す。コルゴンは、嘆 息 してみせた──よくよく観察すると、見 覚 えのない傷 跡 が唇 にある。ここ五年の間についたものだろうが。そのほかは、最後に話をした五年前と、やはり差 違 は見られなかった。伸 ばした黒 髪 も、陰 気 な目つきも、淡 々 とした口調も、腹が立つほどに変わっていない。大陸黒 魔 術 の最 高 峰 たる《牙 の塔 》で生活していた、五年前と。
彼は、ゆっくりとかぶりを振 った。心持ち目を伏 せて、
「......しかし転移した場所に問題があってな。危 うく殺されるところだったが、またこの装置が働いてくれたわけだ」
「よく分かんねえけど」
「服に、くっきりと足 跡 をつけてしまったのがまずかった」
「ますます分かんねえ」
「ここはどこだ?」
唐 突 に、コルゴンは聞いてきた──あたりを見回し、世 間 話 のように、
「......この街は、どうにも特 徴 がないのだな。突 然 放 り出されると、位置が分からなくなる」
「あんたの故 郷 だろ」
「俺は南側の出だ」
「そうかい」
「だから、北側の豪 商 に生まれたフォルテとは、うまが合わなかった。忘 れたか?」
「忘れてねえよ。だが今は、他人のプロフィールでも読んでるようにしか聞こえない」
とげとげしい口調で──とは自分でも分かっていたが──、オーフェンがうめくと、コルゴンはきょとんとしたようだった。右手をマントの下に入れて、黒いオブジェのように棒 立 ちになっている。マントのシルエットから、彼がその下に各種の武 装 を隠 しているのは明らかだった。
彼がなにも言ってこないため、オーフェンはさらに続けた。
「後から決めた、架 空 の生 い立ちでもしゃべってるような口調だって言ったのさ。そうだろ? エド 。それともユイスか?」
「名前が複数あることに関しては、お前に言われたくないな」
コルゴンは顔色ひとつ変えなかった──少なくとも、見た限りでは。そのまま、言ってくる。
「本名がどれかと聞かれても困るんだよ。俺は、お前にとってはコルゴンという黒魔術士だ。ダミアン・ルーウに言わせれば、ユイスという名前が一番古いのだから本名だということになるのだろうが」
「違 うってのか?」
「俺はお前にユイスと呼ばれたことはない。ということは、俺とお前の間では、それは名前じゃない」
それは屁 理 屈 だろう──
と言いそうになって、やめる。確かに自分にも、身に覚えがないわけではない。彼の言っていることは理解できた。
だから、口から出た時には、言葉は別のものに化けていた。
「領主とやらは、お前のことをなんて呼ぶんだ?」
「旧友と呼ぶよ。冗 談 を言っているわけじゃない......本当にそう呼ぶんだ。少なくとも俺の前では、彼が俺の名前を呼んだことはなかったと思う」
コルゴンはそう言うと、笑ってみせた。どこか虚 しく、そして懐 かしむように。
「奴 が一番正しいんだろうな。俺には名前なんてないんだ。俺も奴を、領主としか呼ばない」
「その一番正しい奴の下にくっついて、殺し屋をやってるのか?」
鋭 い口調で、告 げる。コルゴンはその言葉から身をかわすかのように、わずかに横を向いた。無人の街に吹 く風が、その視線に導 かれてゆるやかに流れていく。道に落ちていた紙くずが動かない程 度 の風。
コルゴンは、そのままゆっくりと言ってきた。
「お前がどう思おうと、......俺は俺にできるようにするしかない」
と、こちらに向き直り、改めて口を開く。やや口早になって、
「とにかく、お前たちを死なせることはない。領主の頼 みでお前たちを巻き込んだが、本来は、迷 惑 をかけたくなかった」
小さく、付け加えてくる。
「俺の家族だ」
それは本来なら、口答えしてはならない言葉だったのかもしれないが──
オーフェンは、唇 を嚙 みしめた。透 明 な輝 きを含 んだ、薄 い瞳 を思い出す。時に無感情に、時に怒 りを燃やして自分を見つめてきたことのある瞳。
「......なら、どうしてだ?」
彼女の眼 差 しを思い出した時には、勝手に言葉を吐 いていた。
「ロッテーシャを殺したのはどうしてだ? 結婚していたんだろう?」
「目的のためだ」
あっさりと、コルゴンが答えてくる。
「............?」
意味が分からず、オーフェンは聞き返した。
「目的のため──彼女を殺したことがか? それとも、結婚したことが?」
「両方だ」
あくまでも落ち着いた声 音 で返ってくる返事に、苛 立 ちを覚える。コルゴンの顔を見ても、なにも理解できないであろうことは分かっていた──昔から、この男の目を見て考えていることを推 量 できたためしはない。長い黒 髪 。身体 を覆 う黒いマント。感情を押 し包む黒い瞳。
その中には、先ほど記 憶 に浮 かんだ怯 える妻 の瞳が見えてこない。
オーフェンはそのイメージを振 り払 うつもりで、かぶりを振った。手を開き、つぶやく。
「なんで嘘 をつくんだ」
「......どういう意味だ?」
「ことロッテーシャのことになると、あんたのやってることは支 離 滅 裂 だ。ナッシュウォータで、ヘルパートは、あんたが奴 を警 戒 して半年も剣 に手出しできずにいたんだろうと言っていた──俺に言わせれば、とんだ勘 違 いだ。あんたはなにも恐 れない。それをなんだ? たいして関係があるわけでもない練習生を暴行して回ったんだってな? クリーオウも危ないところだったらしい。言っとくが、許 すつもりはねえぞ」
開いていた拳 を握 って、それを相手の胸 元 に突 きつける。コルゴンは身じろぎもしなかったが。
オーフェンも、構 わずに続けた。
「それにだ。いざ動いたら動いたで、、ロッテーシャがあんたに斬 り捨てられてから、クリーオウがそれを見つけるまで、何分あった? 致 命 傷 を負わせたからって、それを放置していくのは、あんたらしくないんだよ。とどめを刺 さなかったのはどうしてだ」
「............」
コルゴンは無言だった。ひたすらに時間だけを手のひらからこぼしていく沈 黙 。
虚 ろな街の静 寂 の中で、オーフェンはうめいた。うめいてから、その内容を、つまり自分がずっと考えながら思いつけずにいたことを、不意に理解する──
「迷っていたのか?......だったら、なにをだ?」
「............」
沈黙は長びいた。
だが、その間、彼の表情が変わったわけでもなかった。傷 跡 のある唇 をゆっくりと開き、そして。
「なんだろうな?──なんでもかんでも聞くな。俺はチャイルドマンではないんだ」
それだけだった。ほかにはなにもない。
言葉はなにもない。ただ、相手の目の中に、それ以上の追 及 を拒 絶 する光がちらりと見えただけだった。
嘆 息 する。
「そうかよ。じゃあ、俺が聞くことはもうなにもねえよ」
拳 を引いて、オーフェンはつぶやいた。コルゴンが、小さく言ってくる。
「すまないな」
これもまた、あっさりした返事だった。ほんの、あっさりした感 謝 。
拳を抱 えるように腕 組 みし、オーフェンは改めて彼の顔をみやった。
「これからどうするんだ?」
聞く。と、コルゴンはマントの下で肩 をすくめてみせた。
「もう俺にできることはなにもない。街を離 れる。最接近領に行くのなら、また会うこともあるだろう......領主は悪い相手ではない。協力してやって欲 しい」
「それはこっちの都 合 で決めさせてもらうさ。ところでちょっと、さっきの装置とやら、また見せてもらえるか?」
「うん?」
聞き返しながらも素 直 に、コルゴンはマントの下から手を出した──例の、黒い卵が握 られている。それを彼がこちらに見えやすい位置にまで掲 げるのを待ってから、オーフェンは右手を差し向けた。
告げる。
「我 は放つ光の白 刃 」
光が膨 れあがり、コルゴンの足下に爆 発 を起こす。その一 瞬 前に、装置が透 き通った輝 きと魔 術 文字の燐 光 を残して、彼の姿を転移させた。また自分以外、無人になった道の真ん中で、オーフェンは独りごちた。
「なにも話せないってんなら、人に押 しつけるんじゃねえよ。自分の始末くらい自分でやれ」
そして、自分が進んでいた方向を見やる。混乱しかけた自分の脳 を落ち着かせるためというわけではなかったが──彼は、声に出さず確 認 した。
(まずは......クリーオウだ)
◆◇◆◇◆
「......とりあえずは安全だよ。まあ、あいつが、うっかりこっちに向かって馬 鹿 げた光線撃 ってきたりしなけりゃの話だけどさ」
自分に向けられたそのつぶやきを、聞いてはいなかった。彼女はただ、痛む身体 でなんとか立ち上がることに苦心していた。しばらく意識を失っていたのは間 違 いない──数 瞬 か、数秒か。あるいは数分か。鈍 痛 を振 り払 うように首を振って、息をつく。膨 らもうとしない肺 に空気を送り込み、なんとか意識を保 とうとする。
いつ、剣 を抱 いたのかは覚えていなかった。だが自分の腕 の中に、その剣はあった。恐 らくは、あの緑色の目をした怪 物 が、これを捨てた時なのだろうが──ほかに拾うチャンスはなかったのだから──、なぜ拾おうと思ったのかすら、思い出せない。
馴 染 んだ柄 の感 触 は、いつの間にか、変わってしまったと思えた。父が死んだ日から、何度となく手に取った剣だったのだが、数週間を経 て再び自分の手の中にもどり、もう既 に自分のものではなくなってしまったかのように、触 感 を拒 む。冷たくもなく、暖 かくもない、真 紅 の金 属 で造られた剣。あの怪物が持ち出してきた時には、剣は抜 き身だった。この剣が鞘 から抜かれていたところは初めて見たが。拾った時も、確かに剣は抜き身だったと思う──が。
目を開けると、なぜか剣は鞘に収 まっていた。
ロッテーシャは嘆 息 した。失望か、安 堵 か。自分でも分からなかったが。どちらか迷う程度には理解していた。
フリークダイヤモンド。伝説的な剣士、ビードゥー・クリューブスターの魔剣。父の遺 品 。
それが自分の手にもどってきたことが、非現実めいて思える。
気を失う直前までいた場所は、今はもう遠く離 れていた──とはいっても百メートルも離れてはいなかったろうが。屋 上 から落下し、がれきの中でうめいているうちに、気がつけば目の前にウィノナが立っていた。診 療 所 の中から連れ出してきたらしいクリーオウを肩 に担 ぎ、剣を片手に。スレイクサーストとかいう銘 だったか? 小 振 りとはいえ重量のある剣を、包 丁 のように軽々と片手で持っている。
そう。その時に、自分が、フリークダイヤモンドを抱きかかえていると気づいた。あとはわけも分からずに怒 鳴 られて、走り出した。背後で、とてつもなく大きな爆 発 が起こったように思う。走ることができたのは、純 粋 に恐 怖 のおかげだろう。意識を失うほどに急いで、ここまで逃 げてきた。そして完全に気絶した。
どさり、と音を立て、ウィノナがクリーオウの身体 を下ろすのが聞こえてきた。乗 合 馬 車 の待合所。そのベンチの上にである。だらんと地面まで垂 れた彼女の腕 を、そっと拾って腹の上に置いてやってから、ウィノナは抜き身だった剣を鞘に収め、同じベンチに腰 を下ろした。
そして、唐 突 に聞いてきた。
「どっちが勝つと思う?」
「は?」
分からずに、聞き返す。と、彼女は苦 笑 したようだった。太い指をあげて、指し示す──逃げてきた方向。今なお、先ほどの大爆発が、大きな炎 をあげている。純白に揺 らぐ熱波。風になま暖かさを加えていた。
それを眺 めながら──不意に、自分がとんでもなく間の抜 けた顔をしているに違 いないと気づいて、ロッテーシャは口を閉じた。疲 れていて、どうでもいいとも思えたが。
なんにしろウィノナは、そのまま続けてきた。ずっと走ってきただけあって、さすがに彼女も息があがっている。
「あのドラゴン......ヘルパートっていうんだけどね。奴 はこの十年で四十九人の魔 術 士 を殺してる。あたしたちが把 握 してるだけでもね。その誰 もが、あのバケモノを滅 ぼす密 命 を受けた、屈 強 の暗殺技能者 だった。最高記録は、一日のうちに八人。さて」
と、そこまで一気にしゃべってから、肩 をすくめる。
「あの黒ずくめの兄ちゃんは、勝てるかね?」
「......さあ......」
曖 昧 にうめいて、ロッテーシャは彼の顔を思い浮 かべた。頼 れるかと聞かれれば、ノーと言うよりほかはないだろう──正直、あまり良い印 象 は持っていない。なにかこちらを避 けるようにしているかと思えば、口やかましく余計なことばかり言ってくる。なんのつもりかは分からないが横 柄 で......
と、そこまで考えたところで、ウィノナがまた口を開いた。大きな身体 を丸めて、もうこの時には呼吸を整 えている。
「奴が負けたら、あたしらも終わりさ──レッド・ドラゴン種族は、一度遭 遇 した獲 物 を逃 したりはしない。どこまでも追ってくるよ」
瞬間、また理由は分からないが......
対 抗 心 のようなものに背中を押 され、ロッテーシャはうめいた。
「勝ちますよ」
「うん? あたしらだけで? 寝 ぼけてんのかい?」
「いえ。多分......あの人が、勝ちます」
ごぉぉぉぉ......と、風の音か、炎の音か、まだ消えない白い熱波がうなりをあげている。
それを見上げて、ロッテーシャは続けた。
「あの人は多分、誰にも負けない人です」
「根 拠 になるの? それは」
「匂 いが......同じなんです」
確信はないまま、ロッテーシャは言葉を探した──見つけようとしているものの形が分からない状態でいくら探しても、見つかるものかどうかは分からなかったが。見つからないまま、言葉だけが出てくる。
漠 然 と思い出せるのは、昨夜の、ほんの一瞬の交 錯 だった。彼を追いつめたと思った。だが結局、倒 されていたのは自分だった。
それは、同じだった──よく覚えているものと。どうしようもなく馴 染 んだものと。
父の形見の剣 を握 りしめて、彼女はウィノナの顔をにらみつけた。
「彼は、エドと同じ匂いがしたんです。なにをしても......最後には勝つんです。エドは......」
言ったところで、理解してはもらえないだろうとは思っていた。実際ウィノナは、ただ苦 笑 するだけだった。ふんと鼻 を鳴らして、言ってくる。
「自分を捨てた男のことを、ずいぶんと持ち上げるじゃないさ?」
「違 います!」
反射的に、叫 ぶ。
「わたしは──」
「ユイスを殺したいほど憎 んでる、かい?」
「わたし......は......」
ウィノナの落ち着き払 った眼 差 しににらみ返されて、ロッテーシャは言葉を切った。思考までも途 切 れたのではないかと思えてくる──喪 失 のめまいが、あたりの風景を濁 した。倒れてはいけない。そんなことを不意に悟 って、なんとか踏 みとどまる。実際、卒 倒 するところだったのだろう。知らないうちに傾 きかけていた身体 を、彼女は自分で抱 き留 めた。
フリークダイヤモンドは、足下に落ちていた。落とした音を聞かなかったということは、また何秒か意識を失っていたに違いない。朝から何度となく頭を打ったせいもあって、身体はとうに限界を訴 えてきていた。
「繰 り返されるだけかもしれない」
聞いたせりふを、また聞かされる。違う人間の口からだが。
ロッテーシャは声をあげた。
「次は、負けません! わたしは──」
「違う」
だがウィノナは、冷たく断定してくるだけだった。もっとも──
「違う......?」
なにか違うものを感じて、ロッテーシャは眉 根 を寄せた。胃 の中に、冷たいものが広がる。
ベンチに座 ったまま、それでもかなりの目線の高さで、ウィノナは続けてきた。
「違うけど......繰り返されるだけかもしれない。そういうことさね」
「............?」
「あいつは勘 違 いしてるみたいだけどさ」
ウィノナは、ちらりとまた白い炎 のほうを見やったようだった。
「あんたは殺されてない ......生きてる。繰り返されるというのなら、ひょっとして──」
「なにを言って......」
「なんでもないよ。気にしないでいい」
あっさりと手を振 ってそう言ってくると、ウィノナは大きく口を開いてあくびした。すぐに回復したようにも見えたが、やはり疲 れていないわけではないのだろう。あるいはそのまま、退 屈 していただけかもしれないが。
見ているこちらも、眠 気 を感じる。と、その隙 をついてくるように、
「ユイスに会わせてやってもいいかもしれないね」
ロッテーシャは、はっと顔を上げた。
「さっきは! 駄 目 だって」
「んー。気が変わった、てとこかな」
「そんな......いい加 減 な」
「他 人 事 だからね。そんなもんさ」
「でも、そんな」
口ごもる。眠りかかっていた身体 も、動 悸 を速めてさむけすら感じる。気楽そうにしているウィノナに、無 性 に腹が立ってくるが──彼女の申し出にはなにを言って良いものか判断がつかなかった。飛びつけばいいのか、拒 絶 するのか。泣き出せばいいのか怒 るべきか。分からない。
「なにさ」
ウィノナは座ったまま、しかめ面 をしてみせた。
「会いたいの? 会いたくないの?」
「それは──」
ロッテーシャは答えを探すつもりで、あたりを見回した。見つかるはずもなかったが。先ほどの爆 発 を最後に、街は静まりかえっていた。右を見ても左を見ても、視界に入るのは黒マントの陰 気 な男ひとりだけだった。
「え?」
声をあげて硬 直 する。
見ると、そこにエドがいた。右手になにか黒い卵のようなものを持って、突 っ立っている。
ロッテーシャはあわてて、ウィノナを見やった──が、彼女もぶんぶんと手を振 って、自分の責任ではないと合 図 を送ってくる。なにがなんだか分からないでいるうちに、エドが、つぶやくのが聞こえてきた。
「......そうか。こういうことか。あいつめ......」
なにやら口 惜 しげにうめいてから、持っていた卵を、思い切り地面に叩 きつける。卵は割れることもなく、道を転がっていった。
「............」
頭の中が、真っ白になる。ロッテーシャは両手を握 りしめ、彼のほうを見つめた。
だが、とっさに、足下に落ちているフリークダイヤモンドを拾おうと手を伸 ばし──
ぱんっ!
そんな音だった。鼓 膜 を圧 迫 するような、破 裂 音 。同時に、魔 剣 が弾 けた。数センチ跳 ねて、また地面に落ちる。
手を止めて──顔を上げると、エドが右手になにかを構えていた。黒光りする、角張った奇 妙 な物体。穴が開いており、それが真っ直 ぐに、フリークダイヤモンドを狙 っている。
動けない。無理な体勢で硬直したまま、何秒が経 ったのか、指先が目に見えて震 え始めた頃 、ウィノナがつぶやくのが聞こえてきた。
「〝テンペスト〟の弾 は貴 重 だろ? 無 駄 撃 ちするんじゃないよ」
エドはゆっくりと、その武器──テンペストと呼ぶらしいが──をマントの下に収めた。
「狙 撃 の概 念 を開発したのは《塔 》だ」
「......そいつをリークしたのがあんたってわけだ。だから、好き勝手に使うってのかい?あんたに支給されてる装備は全部、領主様の財産だよ」
「............」
エドはそれ以上なにも言わない。そのあたりが限界だった。ロッテーシャは、その場にひざを落とした。体勢が低くなった分、手が魔剣に触 れる。
鞘 に収まったまま、なんの役にも立たないフリークダイヤモンドをつかんで、彼女は顔を上げた。
「やめておけ」
冷たい声で、エドがつぶやく。
「時間が惜 しい。もうじき、例の森がここまで来る。逃 げなければ全員死亡だ」
「森?」
ロッテーシャは聞き返したが、誰 も答えてこなかった。自分以外のふたりは周知のことらしい。
「今の弾 丸 を」
口を開いたのはウィノナだった。言いながら、クリーオウの身体 を担 ぎなおしている。
「眉 間 に当てれば時間はかからなかったろ? 無 駄 遣 いが気にならないのなら、もう一発撃 ったって何秒もかからないわね。実際、今の状 況 は理想的なんじゃないの? 人が何人死のうと、この騒 ぎのせいにできる」
(......なにを言っているの......?)
ロッテーシャは彼女の言葉を聞きながら、剣 の柄 を握 りしめた。
エドが、淡 々 と答える。
「俺がどう動くかは──」
「あんた自身が決める。そうだったね。まあいいさ」
軽く肩 をすくめて、ウィノナが立ち上がった。もう逃げるべき方向が分かっているのか、迷いもせずに一方に歩き始める。
エドもまた、歩き出していた。こちらに向かって。すぐそばを通り過ぎ、そのまま進んでいく──
「......あ......」
喉 の奥 から、小さく漏 れだした声は、瞬間、爆 発 的 に大きくなった。
「ああああああっ!」
叫びながら魔剣を振 りかぶり、立ち上がる──エドはこちらに背を向けていた。マントを着ているせいか、その下にさらに防具でもつけているのか、実際より一回り大きく見える。その背中の真ん中に向かって、ロッテーシャは鞘 に収められたままの剣を全力で叩 きつけようとした。
が。
これもまた瞬間だった。そのマントが、大きく翻 る。黒い布が視界を覆 ったと思った時には、それが剣を絡 め取り、弾 き飛ばしていた。剣に引っ張られる形で、身体 ごと、その場に倒 される。
それでも剣を手放さなかったのは、自分でも信じられなかった。これで最後だと信じて、再び立ち上がろうとあがく。間 違 いなく、立ち上がる前に殺されるだろう。そんな確信もあったが、そんなことはどうでもよかった。
(最初からこうすれば良かった......)
どの時点のことが〝最初〟なのか分からないまま、彼女は叫 んでいた。
(考えずに、こうすれば良かった!)
そうすれば──
少なくとも、こんな思いはしないですんだのだ。
立ち上がった時、エドはこちらを向いていた。全身をマントで包まれた格好で。武器は持っていない。構えてもいない。
(なめられてる......⁉ )
かっとして、剣 を振 りかぶる。刹 那 。
ざぁぁぁぁっ!──と、大量の虫が広がって逃 げていくような、耳 障 りな音が響 いた。構 えている剣からである。見ると、剣は鞘から解き放たれていた。白い刀身が、輝 きを放っている。
「抜 けた......?」
「そういうことだ。その剣は、発動している んだ。使用者が手にした時には自動的に」
エドが、静かに言ってくる。
「ただ、その剣の発動した形を誰も知らなかったから、操 作 もできなかった。それだけのことだった」
「これなら......!」
抜き身の剣を改めて構え、ロッテーシャはその切っ先をエドへと向けた。
が、エドはあくまでそのまま身じろぎもしなかった。
「もっとも、剣が実際にどう機能するのか、お前は知らないだろう。やめておけ」
「............」
言葉を出せず、息だけを荒 げて、ロッテーシャは相手をにらみやった。対 峙 していたその男は、この騒 ぎに関 わろうともせず先行して進んでいくウィノナを追うように、きびすを返した。顔だけを半分こちらに向けて、淡 々 と言ってくる。
「人は誰でも、死の予定が決まっているのだそうだ......だがそれは、どのようなものだろうな。たとえば、俺と出会うことでお前が死ぬなら、それは予定された死なのかもしれない。少なくとも、俺はいつだって、予定表にお前の死を書き込むことができる」
ぎり、と歯を食いしばってから、ロッテーシャは叫 んだ。
「わたしはまだ死んでない......!」
「......これが終わったら、二度と俺の前に現れるな」
エドは最後につぶやいてから、完全に背を向けた。
「忠告は一度だけだ......次は、また殺す」
そのまま、歩いていく。
立ち尽 くしたまま、ロッテーシャはただ自分の剣 の切っ先を見つめていた。花のように静かな、白い、なだらかなライン。その刀身が細かく震 えだしている。それは剣の機能ではなく、それを構えている人間が震えているせいだと気づいたのは、数秒の意識の空白をはさんでからだった。
再び視線を上げると、エドとウィノナは、数歩先を進んでいた。そちらに向かって、声を張り上げる。
「気取ったところで、あなただってただの男でしかない。そのことは、わたしがよく知ってる」
罵 るように、彼女は口走った。
「次に殺されるのは、あなたよ。わたしを怒 らせた償 いは、必ずさせる。あなたを殺す方法を、必ず考えてみせる」
エドは、振 り返りもしない。
背中を揺 らし、去っていく。
ロッテーシャは、自分の顔に触 れた──その時初めて、自分が泣いていると気づいた。
「わたしのことなんて、恐 れもしないっていうの⁉ 」
その声すらとどかない。
息をひとつだけつくと、剣は再び先ほどと同じ音を立て、鞘 に収まった。
ゆっくりと、切っ先を下げる。駄 目 だ。悟 って、彼女はかぶりを振った。
(今は......駄目。通じない......)
ふたりに追いつくために、ロッテーシャも歩き出す。と。
「?」
奇 妙 なことに気づいた。ウィノナがちらりと、こちらを振り向いている。そのこと自体が奇妙だったわけではないが。
変わっていたのは、ウィノナの表情だった。興 味 があるような、冷たいような、面 白 がるような、憎 々 しげなような──
今まで見せたことのない、そんな眼 差 しで何秒かこちらを見てから、ウィノナは視線をそらした。
緑 宝 石 の鎧 は、無 尽 蔵 とも思える増 殖 を繰 り返し、その触 手 を広げている。結局のところ、単 純 な戦法ではあった──一 瞬 では滅 ぼせないほどの大質量を、標 的 に叩 きつける。触手の増殖には時間がかかるが、邪 魔 になりそうな連中に関しては、ヘルパートが個別に暗殺してくれているはずだった。一度だけ、あの黒マントの魔 術 士 に妨 害 されたが、それほどの問題にはならなかった。もとより、個人単位の魔術が、それほどの脅 威 になるということはない。
自分は、ディープ・ドラゴンを殺すことだけを考えればいい。
ディープ・ドラゴンを。それが任 務 だったはずだ。ほかに優先事 項 はなにもない。
(なにもない......はずだ)
ライアンは、鎧 の中に深く深く沈 み込んで、独 りごちていた。
(よく分からない......記 憶 がない? またか。今度はなにを失ったんだ......?)
鎧の中、闇 の中で、身体 を丸めて身 震 いする。
今は考えるべきではない。
あとで、相 棒 に聞けばいい。今度はなにを忘れたのかを。
◆◇◆◇◆
ディープ・ドラゴンは美しい獣 だと、そう思う──間近に見上げて、オーフェンはそんなことを独りごちた。人の気 配 がない静かな街 の真ん中で、秋の空を背後に、悠 然 と頭を上げている。
出会うことが確実な死となる、その獣。迷 いもなく自分の命を奪 うであろう、その獣。結局のところ、それは単純で素 朴 な決まり事に過ぎない。この獣に自分が殺された時、その理由を考えたところで意味のないことだろう。
だが今、ディープ・ドラゴン=フェンリルは、ただじっとしているだけだった。公園の広場を巨 体 で占 有 して身じろぎもせず、ひたすらになにかを待っている。オーフェンはゆっくりとした足取りで、公園の、入り口にある柵 をくぐり抜 けた。
「なんつーか......」
言葉が漏 れる。
「こう静かだと、むしろ怖 いよな」
出会った時点で、殺されているのが当然という存在だ──ディープ・ドラゴンというのは。
それを、しげしげと眺 めている。奇 妙 な感覚だった。
「ダミアン!」
オーフェンは声をあげて、あたりを見回した。白 魔 術 士 の姿はどこにもない。
「来たぞ! ここで全部事情を話すと言っていたよな!」
「言っていない」
姿がないまま、声だけが返答してくる。特に驚 く気にはならなかったが。
声は間 違 いなくダミアンのものだった。それが、静かにあとを続ける。
「彼女に聞け、と言ったんだよ、わたしは」
「............?」
彼女、と言われても、意味が分からない。と──
ふと、気づく。変化があった。それまで虚 空 の一点を見つめ、動こうとしなかったディープ・ドラゴンが、わずかに動いている。はっきりと、こちらを向いていた。
「なん......だ?」
輝 くような、緑色の瞳 にさらされて、オーフェンは後ずさりした。ドラゴンは地面に伏 せているため、頭の高さはそれほどでもない──普 通 に立った時の半分ほどか。それでも、自分の身長よりははるかに高かった。
ディープ・ドラゴンを、神と崇 める者もいる。というより、ドラゴン種族全体をだが。ドラゴン信 仰 者 たちが、自らの信仰対 象 を語 る際、最 も多いのは無論、人間種族を導 いたという天 人 種族、ウィールド・ドラゴンたちである。彼らにいわく、彼女らは女 神 であり、人の進むべき模 範 であり、完全なる無 辜 者 だった。特に不 思 議 なことではない。人間種族にすべてを教え込んだのは彼女らなのだ。倫 理 観 も、道徳も、生きることの意味も、すべて彼女らの教授が基準となっている。
そして彼らドラゴン信仰者が、ディープ・ドラゴン種族を語る時、それは絶対の死を連れてくる文字通りの死神とされる。彼らの裁 きには抗 う余地もなく、疑問を差し挟 むこともできない。信仰者ら(あるいは犠 牲 者 ら)の弱 音 を一 切 寄せ付けない、容 赦 ない死。それはあるいは、解 脱 するための最も容 易 な道とも言える。
それは滑 稽 な理 屈 に過ぎなかったが──
ドラゴン種族と相 対 すれば、納 得 はせずとも理解はできる。実際に何度かドラゴン種族と遭 遇 した結果として、オーフェンはそう思っていた。
だから。
そのディープ・ドラゴン=フェンリルが、突 如 として音もなく立ち上がり、目を閉じて、頭を振 りながらこちらに突 進 してくるのを目 の当たりにした時には、言葉を失った。
巨 体 が全速力で走ってくるパワーというのは相当なものだったはずだが、ディープ・ドラゴンは足音を立てないため、その光景も現実感のない絵のようにしか見えない。それでもなんとか、反 射 神 経 は働いていた──巨大な黒 狼 に踏 みつぶされるよりも早く、身体 は横に跳 んでいる。
《オーフェーン!》
頭の中に弾 ける、声。肉声でないことはすぐに分かる。だが、それに答える暇 もなく。
ドラゴンは、あくまでも音を立てずに、横を通り過ぎていった──柵 を踏 み壊 し、公園の外にまで。
道を横切り、向かいの市内川に飛び込んで、しばらく姿を消す。
「......なんっ......?」
もはや完全な言葉など吐 けない。意識を真っ白にして、ドラゴンが通り抜 けていった後をじっと見つめていると──
ひょこ、と、狼 の黒い頭が川からのぞいた。のそのそと道まで這 い出してくると、大きく身体を震 わせて、水を弾 き飛ばす。

大きな浅い水たまりを作ったその道に、ぺたんと腹を下ろして、フェンリルの森の王者たる黒狼は、なにかを探すように耳をぴくぴくと動かしてみせた。やがて、ドラゴンがぴんと耳を立て、前 脚 で地面をばしばしと(といって、音は出ないが)叩 いたのを見て、オーフェンはようやく悟 った。なんとか怒 っている仕 草 ができないか探していたのだ、この神の獣 は。
《なんで逃 げるのよー!》
「痛っ!」
再び、頭の中をかき回すような声が響 いて、オーフェンは顔をしかめた。しかめたのは、声が大きかったからだけではない。ここに至 れば、なんとはなしに、なにが起こっているのかは想像がつく。
「まさか......クリーオウなのか⁉ 」
悲 鳴 をあげる。と、
「そういうことだ」
涼 しく、同意が返ってきた。これはクリーオウのものではない。見やると、すぐ横に、ダミアン・ルーウの澄 ました顔があった。
「......あのディープ・ドラゴンの子供は、この少女に、自分の身体 と魔 術 の力を貸し与 えたわけだ。おかしいとは思っていたんだ。わたしがこのドラゴンの意識の中へと入り込んだ時、迎 撃 されない理由はなかったからな。だが、なんのことはない。自分の意識内に入り込んだ外敵と戦うような繊 細 な術構成を、この娘 が編 めるはずもないからな。バレてみればつまらないことだった」
「だが......こんな......!」
「たいしたことではあるまい? 彼女と話をしたが、あのディープ・ドラゴンの子供は、たびたび彼女の頼 みを聞いて魔術を使っていたのだろう? それをほんの一歩進めただけのことだ。ほんの一歩。ディープ・ドラゴン種族にとっては、たったそれだけだよ」
ダミアンは静かに腕 組 みして、淡 々 と言ってくる。うっかりと、素 直 に納 得 してしまいそうな自分に気づいて、オーフェンは苦 笑 した──完全に錯 乱 している。勢 いをつけようと腕を振 って、彼は叫 んだ。
「たった一歩⁉ 冗 談 だろ!」
振った腕を、ディープ・ドラゴンへと向ける。黒 狼 は、きょとんと首を傾 げていた。
「だいたい、馬 鹿 げてる! そんなことをする必要がどこにあった⁉ 」
「そんなこと、わたしの知ったことか」
「あのな......!」
《わたしが、頼 んだから》
彼女のつぶやきに、オーフェンはドラゴンの姿を振 り仰 いだ。そこにいるのはドラゴン種族の巨 大 な姿であって、よく知っている少女のものではない。
そのことが、妙 に悲しくもある。
だがとりあえずは感情を殺して、彼は聞き返した。
「頼んだ......? 誰に」
《レキに》
既 視 感 を覚えないでもなかった。以前、フェンリルの森でディープ・ドラゴンに出くわした時も、こういった形で思念の会話をかわしたことがある。しかも、まったく外見のそっくりな、巨大な黒狼と。
とはいえ今、眼前にいるドラゴン種族が、それほどあの時の会話を思い起こさせるかというと、そうでもなかった──紛 れもなく、クリーオウなのだ。声が頭の中に響くたびに、彼女の姿が目に浮 かぶほどに。実際、こうして彼女の声を聞きながら、どうして目の前に忙 しなくぱたぱたと身振りする少女の姿がないのか、疑問に思ってしまう。
(ったく......)
頭をかいて嘆 息 し、オーフェンはうめいた。
「なにを頼んだんだ」
《えっとね......どこから話せばいいのかしら》
と、ちらりと、ダミアンのほうを見たらしい。白 魔 術 士 は、気のない様子で肩 をすくめている。
オーフェンは促 した。
「最初から、全部話してくれりゃいい。さっぱり分からねえんだ、なにもかも」
《わたしがやらなくちゃならないことなのよ、これは》
こちらの忠告を無視して、彼女の話は──やはりと言うべきか──中 途 半 端 なところから始まった。
「あまり時間がないな......手 短 にしたほうがいい」
ダミアン・ルーウがぽつりとつぶやく。それに答える言葉はない。というより、思い浮かばなかった。見回しても時計はないが、そもそもその白魔術士がなんの時間のことを言っているのか見当つかない。
ただ、正午に近づきつつあることは、なんとなく分かっていた。輝 きの落ちた秋の日差しを薄 目 で見上げ、うめく。
「それはこいつに言えよ」
と、視線を、巨 大 な獣 に移す。ドラゴンは──あるいは、クリーオウは──、公園内にもどって、またもとのようにぺたんと腹を下ろしていた。なにかの合図のつもりか、時折ぱたぱたと尻 尾 を振 ってみせるあたりが、微 妙 に威 厳 を欠 くところではあったが。
《だって長くなるわよ、どーやっても》
「......まあ、声には似合いかもな」
《なにが?》
「気にするな」
言ってから、顔をしかめる。
「だいたいお前、落ち着きすぎてないか?」
《ないわよ。大変だったんだから。こーやって話ができるのも、ダミアンにやり方を教えてもらってようやく覚えたんだし》
「それができる、ということを自覚さえすれば、たいていのことはできる。ディープ・ドラゴン種族の力は底なしだからな」
付け足してくるダミアンに、オーフェンは苦 笑 した。
「そうかよ。じゃあ、クリーオウは、かつて人類が手にしたこともないような、最強の力を手に入れたわけだ。んで、どーすんだ? ヘルパートの奴 は、ディープ・ドラゴン種族以外の者が、その力を手に入れれば自 滅 するしかねえと断言してくれたよ」
と、ダミアンが眉 を上げた。どういった基準でかは分からないが、興味を引いたらしい。
白 魔 術 士 は腕 組 みしたまま、答えてきた。
「彼女が感情に変調を来 さなかったことに関しては、わたしも驚 いている」
正直、そんなことに考えが及 んでいたというわけではなかったが、オーフェンはそのまま続けた。
「どんな副作用があり得るんだ? こんなことに症 例 もないだろうけど」
「たとえばだ、こうして普 通 に話をしているだけでも──彼女は、我々の心の中までのぞいている」
「い......?」
さすがに、ぎょっとして言葉が詰 まる。だがダミアンは、こともなげに解説を続けてきた。口元に手を当てて、淡 々 と、
「望む望まないにかかわらず、わたしの思考も君の思考も筒 抜 けのはずだ。普通は、他人の心中になど触 れれば、錯 乱 しそうなものだが──」
《そう? 人の心まで分かるんなら、心配事が減 って安心すると思うんだけど》
「......だそうだ」
口に当てていた手をひらひらさせて、投げやりにつぶやく。想像はついたが──クリーオウとダミアンは、今のようなやり取りを何度も繰 り返したのだろう。なにを言われても驚 かない気 構 えはできあがっているらしい。
オーフェンはまだそこまで達 観 するつもりにはなれなかった。
「ンなこと言ったってお前。じゃあ俺 が考えてることも全部分かるってのか?」
《分かるわよ》
「ホントに?」
《......意外と、あんまし変なこととか、びっくりするようなことは考えてないのよね、オーフェンて》
「悪かったな。と言うのが相応 しいかどうか分からんが」
ダミアンにつられる形で、腕 組 みする。考えてみれば、レキはいつでもクリーオウの思考を読みとって行動していた──彼らにとっては、ごく当たり前の力なのかもしれない。
反射的に、精神支配に対 抗 するための精神制 御 を思い浮 かべるが、相手がディープ・ドラゴンでは抵 抗 するだけ無 駄 だろう。力なく悟 って、自分に言い聞かせる。
(あきらめろよ。クリーオウが落ち着いてるんなら、つまりはどうってことないってことだろ)
と。
《ライアンの心をのぞいた時は、ちょっと驚 いたけど......》
ぽつりと、クリーオウが付け加えてくる。
オーフェンは、顔を上げた。
「だから、最初から話してくれ。さっぱり分からない」
《だから昨日 、オーフェンと別れた後、ライアンに、宿で待ち伏 せされたの。マジクはさっさと逃 げちゃったし。そいえば、ロッテは見つかったの?》
ロッテーシャのことらしい。オーフェンは低くうめいた。
「心が読めるんだろ?」
《読めるけど、情報がいっぺんに飛び込んでくるから、よく分かんないのよね......あのさ、オーフェンひょっとして、昨日あれから、わたしに言えないようなとんでもないことしてない? ロッテのことで》
「あとで彼女に聞いてくれ。とりあえず無事だ......と思う。それより、話を急いでくれないか? 時間がないそうだから」
《そうそう。ないの》
ディープ・ドラゴンは、こくんとうなずいた。前脚 で鼻 をかいてから、続ける──なにか仕草がないと続けづらいらしい。
《どう言ったらいいのかしら。レキがつらそうなの、分かってたから》
「うん?」
彼女の話は分かりづらいことこの上なかった。彼女自身が要点を分かっていないわけではないのだろうが、それを伝えるとなると途 端 に感性が鈍 るのか、口べたになる。オーフェンが聞き返すと、彼女はまたしばらく考え込んでから、言い直してきた。
《ナッシュウォータでね、ライアンと......会ってから。レキが、つらそうだったの。なんだか、ライアンとレキは仲間で、争うのは嫌 だったみたい》
「聖 域 外聖域戦力。ドッペル・イクスと彼らは自 称 している。早い話が、聖域の外で、聖域のために働く者は、みなドッペル・イクスということになる。そのディープ・ドラゴンは、聖域の仲間と、その少女との板 挟 みになってしまったわけだ」
ダミアンの横やりも、この時ばかりはありがたかった。
が。腑 に落ちずに、問い返す。
「理解はできるが......レキの奴 は、これで完全に聖域と対立しちまったってわけだろ? そこまでクリーオウのことを気にかけるものなのか? 自分の種族を捨ててまで?」
「微 妙 に違 うな。どちらも捨てきれないから、板挟みになったのだろう」
《しばらくは、レキが......ライアンと戦っていたんだけど。レキが悲しそうだったから......もういいから、あとはわたしがやるって言ったら......なんかよく分からなくなって......》
口ごもった彼女に代わって、またダミアンが口を開いた。
「ここからは、わたしの仮説に過ぎない。が、おおむね正しいだろうと思っている。ディープ・ドラゴン種族には、個というものがない。自分の周囲にいる固体を、たったふたつに分けるだけだ──仲間か敵か」
黙 って聞いていると、彼は慣 れた講 義 口 調 でそのまま続けた。標 本 でも示すように、実物のドラゴンに手を振 って、
「つまりは彼らにとっては、仲間であることイコール、自分と同一なんだろう。仲間であれば、それと同化することにも抵 抗 がない。もともと個がないのだからな。ライアンと戦っている最中、彼女は、あとは自分がやると言った。ただし、客観的にどう考えても、彼女の提案は自殺行 為 だ。それは筋 が通らない。だから彼女に自分の身体 と力を与 えて、自分は無力な彼女の身体へと入り込んだ。現在、彼女の身体の中にいるのは、ドラゴンの精神体ということになる」
彼の口調は最後まで講義だったが、それほど面 白 い内容とも言えなかった。しかも、肝 心 なことがすっぽりと抜 け落ちている。
「もとにもどれるのか?」
尋 ねると、ダミアンはあっさりとうなずいてみせた。
「恐 らく。特に問題ない」
「......さっきは、えらいリスクがあるようなことを言ってなかったか?」
「方 便 だ。君の心構えを聞いておきたかった。話した通り、彼女は今、心を読みとってしまう。半 端 なことを考えているようなら、会わせないほうが得策だろう」
《嬉 しかったよう》
なにやら前脚 で顔を覆 って、泣 き真 似 のような仕草をしているディープ・ドラゴンと、その横で腕 組 みしてうなずいている男を見やって、オーフェンは半眼でつぶやいた。
「お前らふたり、これだけ手間かけて俺を担 いでるだけってことはないだろな?」
《冗 談 でこんなことできるわけないじゃない》
「お前の冗談に納 得 したこともなかったが」
《とにかく、こんなことになって、ライアンの顔を見たら......あの人の考えてること全部こっちに飛び込んできて。あの変な服の機能とか、なにもかも、全部。そしたら、こうするしかないって分かったのよ》
泣き真似はやめて、今度は力説するディープ・ドラゴン──今さら、自分がとんでもなく希 有 なものを見ているのだと自覚が浮 かんでくるが、そんな感 慨 も、遠くから響 いてくる地鳴りのような音に途 切 れさせられた。振 り返る。
音は、それまでずっと、ディープ・ドラゴンが見つめていた方向から響いてきていた。
「これは......?」
「タイムアウトだ」
ダミアンが、小さくつぶやくのが聞こえたが、地鳴りの音が高まって、半分はかき消されていた。
「なにがだ? なにをするんだ?」
とりあえず、聞く。と、答えてきたのはクリーオウだった。
《決まってるでしょ。わたしがやんなくちゃなんないの。あんな奴 に負けるつもりはないんだから》
彼女の声は、確信に満ちているようだった。
漠 然 とした不安感を覚えて、オーフェンは聞き返した。
「なんだ? あのライアンと戦うってのか?」
だが彼女は、きっぱりと言ってきた。
《ライアンを助けるの!》
「なに──?」
うめくが、地響きのせいで、もう聞こえもしなかったろう。
いや、もうそれは、地鳴りではなかった。
一瞬で、公園の敷 地 を、大地の亀 裂 が切り裂 いた──そして、その地割れの中から、それこそ無数の巨 大 な木々が出現する。見回すと、あたりは既 に原生林のようなもので包囲されつつあった。声をあげる間もない。
そしてさらに、それだけではない。
なぜかその木の枝の一本に引っかかった、気絶して目を回しているらしいボルカンとドーチンの姿を見つけて、自分の脳が、事態の把 握 を拒 むのが分かった。
(確かに──)
思考停止したまま、彼は自分の声が胸中に響くのを他 人 事 のように聞いていた。
(こんなわけの分からないことを収拾できるのは、クリーオウしかいない!)
そして次の瞬間、彼は、狙 って叩 きつけられてきたようにこちらに向かって落下してきた地 人 たちの下 敷 きになっていた。
◆◇◆◇◆
ついに標的を発見し、ライアン・スプーンは全身の血が沸 き立つのを覚 えた──これは常にないことではあったが、別段異常なことだとも思わない。敵は、大陸で最強の存在、無敵の魔 術 士 である、ディープ・ドラゴン=フェンリル。自分の持つすべてをぶつけても足りることのない死神。
正面から対 峙 することは論外だった。この緑 宝 石 の鎧 が有しているアドバンテージを最大に活 かさなければ勝機はない。自分自身、本体は決して敵の視線に触 れるところに置いてはならない。敵に見えない場所に沈 み込み、触 手 の感覚だけで戦いを挑 む。
今の自分は、ただ闇 の中に在 る一 対 の目。それも彼女からは見えないはずの。臆 病 なものだと自分でも思うが、彼女の頭の上で後ろ足を伸 ばして立っている守 護 者 のことを考えれば、慎 重 になってなりすぎるということはない。
(......なんだって?)
自分の脳 裏 に閃 いたイメージに、彼は訝 った。自分がこれから敵対するのは、最強のディープ・ドラゴンであるはずだ。取るに足らない少女などではない。
(それとも......また起こったのか? 同じことが)
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
血は冷 めた。が。だからどうできるというものでもなかった。
「絶望は、今さら始まったものではないんだヨ......!」
彼は叫 んだ。闇の中で。
◆◇◆◇◆
ライアン・スプーンの人生は、二十年前に始まった。
少なくとも、年数でいえば、二十年前になる──彼自身の主観では、また違 った年月だったのだが。
彼が育った場所は、とても美しいところだった。すべてが整然とし、静 粛 で、澄 み渡 り、怯 える闇もなく、狂 騒 もなく、ただ、白い壁 と天 井 と、柔 らかいシーツ、ふかふかの枕 、水の入っていない花 瓶 、真四角の鏡 、飲むことのできる歯 磨 き粉 ......そんな生活だけが、漠 然 と続いていた。自分がいつ生まれたのか、そして歳 を取る速度も忘 れそうになる、静 謐 な時間。
蛙 を飼 っていたことがあった。小さな水 槽 に、親指の爪 ほどの大きさの蛙を二匹 。それを眺 めながら、母に聞いたことがある。
「どうしてこの蛙たちは大きくならないの? ずっと小さいままなの? 蛙たちは永遠に変わらないの?」
母は、不 思 議 そうに微 苦 笑 を漏 らして、答えてくれた。
その蛙たちは、もう既 に変化してきたものなのだ。大人 になったのだから、もう変わらない。春にはまた、卵 を産むだろうから、そうしたら今言ったことが分かるようになる。
それほど考えたうえでの答えではないだろう。なんにしろ、冬を越 す前にライアンは蛙のことなど忘れてしまい、蛙たちは小さな水槽ごと、知らないうちに部屋から消えていた。
誰が持ち出したのかは知らない。母かもしれないし、違うかもしれない。
「蛙はさ」
数年後、突 然 蛙のことを思い出して、彼がつぶやいた言葉がある。
「自分が幼 虫 だった頃のことなんて、気にしてもいないんだろうね」
それを聞いていた母は、蛙は虫ではない、とだけ訂 正 した。
クリーオウは立ち上がると、感覚の冴 えに慄 然 としていた──目を凝 らすこともなく、必要なものはすべて頭の中に入ってくる。押 し寄せてきた樹 木 の触 手 は無数。だが、その一本一本の挙動、出現する位置、そして数秒後に到 達 するであろう未来まで、すべてが分かる。恐 らくは、ディープ・ドラゴン種族の生来的な感覚なのだろうが、その負荷はあっさりと自分の限界を超 えてしまいかねない。そのことを本能的に悟 る。
(そんなに長くは保 たないんだ......やっぱり)
すぐ前でオーフェンが、なぜが触 手 にひっかかって現れた地人ふたりに体当たりされ、悲鳴をあげている。その三人を、津 波 のように押し寄せてきた森が、押しつぶそうとした瞬間。
(散 れッ!)
命じる。
にらみつけると同時に、森が蒸 発 した。熱はない──ただ、無数の木々が、塵 にでも化けたように霧 散 する。消えたのは、一 瞥 を与 えた眼前の森だけではなかった。貫 いて奥 へと、連 鎖 し浸 食 していく。出現しかけた樹 海 が、根こそぎ吹 き飛ばされる。
(できる......やれる)
彼女は独 りごちた。
が。
《わたしに暗示をかけて......しゃべらせなかったな》
心に直接話しかけられて、背 筋 に悪 寒 が走った。巨 大 な獣 の強 靭 な身体 であっても、人間の感覚は残っている。
見やると、ダミアンが、宙 に浮 かんでこちらを冷たく見つめてきていた。その向こうで森の触手の第二波が、もう既 に現れつつあったが──
気にも止めない様子で、彼が続ける。
《リスクを説明させなかったな》
会話は必要ない。思うだけで、どうせ相手にも伝わる。
(......言ったら、オーフェンは止めるに決まってるじゃない)
《止めさせようと思って、連れてきたのだ。彼は、わたしの部下と対等以上の技能者だ。彼は恐らく、この樹海の中からライアンを見つけだして暗殺できる。君が危険を冒 す必要はない》
(心が読めるのよ! あんただって、レキを手に入れたいだけなんでしょう⁉ )
《君が、完全にこのディープ・ドラゴンの力を制 御 できるようになるならば......それは魅 力 的 な力なのだ。隠 すつもりもない》
(消し飛ばすわよ!)
叫 んでから──
ぞっと、我 に返る。自分は今、なにを叫んだのだ?
《もう既に、力に酔 いはじめている。長くないぞ、君が自 我 を維 持 できるのは。ディープ・ドラゴン種族の全体意思に溶 け込んだならば、もう何者にも手出しはできない。君は完全なディープ・ドラゴンになってしまう》
(レキの身体 が、わたしを溶かしたりするわけないじゃない!)
《アーバンラマに、本物の ディープ・ドラゴンを出現させるわけにはいかない! この街が消えてしまう!》
文字通り、心は完全に読めた。いや、読めなかったとしても、彼の表情から悟 れなかったとしたら相当の馬 鹿 だ──なにか、どうしようもなく毒づきたい心持ちで、クリーオウは理解した。ダミアンから、紛 れもない殺気が伝わってくる。
混 沌 としていた暗がりから、鋭 い刃 物 が飛び出してきたように、こちらの意識の先 端 をえぐる。それが殺意だった。殺意だけなら実害はない──と思いたかった──が、よくは分からないがダミアンという男は白 魔 術 士 とかいうもので、今の自分と似たような力を持っている。びしっ、と乾 いた音を聞いて、顔面に激 痛 が走った。
予測も予知もできなかった。が、なにが起こったのかは分かる。眉 間 のあたりの皮が、大きく裂 けていた。本来のレキならば、簡単に防 げた攻 撃 なのだろうが......
(この力、わたしじゃ扱 いきれないんだ......!)
鮮 血 が、視界を覆 いつつあった。自分の顔面に流れる血をかわせるというわけではなかったが、とりあえず後方に飛び退 く。とりあえず、完全に視界をふさがれるということはなかったが。出血が続けばどうなるか分からない。
前方を見やる。そこにはもう、ダミアンの姿はない。そして、話している間にまた巨 大 化 していた樹 海 の触 手 が、再び押 し寄せてこようとしていた。
「ライアン。あなたはこの世界の外に行くのです」
その声は、零 下 の風に鳴る鈴 の音 のように美しかった。
宣告は、唐 突 に為 された。なぜ、その時でなければならなかったのか、理由もあったらしいが、母は説明してくれなかった。
ただ、こんなことを語ってくれた。
「過去の亡 霊 が現れました。イスターシバの〝子供 〟──これは予測されていたことでもあります。結 界 の寿 命 を誰 よりもよく知っていたのが、彼女なのですから」
問い返しても無 駄 であることは分かっていた。
「そしてこれは、世界に残されている時間が、もうわずかであるということの証明でもあるのです。あなたにも、そろそろすべてを語らなければなりません。そして、わたしたちの戦士とおなりなさい。この聖域の外へと赴 く」
いや、問い返すことを、なにかが拒 否 していた。防衛本能かもしれない。違 うかもしれない。知ってしまうことで、どれだけのものが壊 れるのか、母の目を見れば分かる。
「驚 いたかしら──? ええ、『外』と言ったのよ。そこには、わたしたちの力は及 ばない......だからこれを。あなたに」
手 渡 されたのは、緑宝石の鎧だった。これが、彼女の精 一 杯 であるということは、後に分かったことだった──彼女は、彼らの世界、つまり聖域にある数 多 の武器の中から、最強のものを選び出したのだ。本来の聖域ならば、ただの玩具 に過ぎなかったはずの、最強兵器。
ダミアンの姿は見えずとも、彼は近くにいることは分かっていた。とりあえずは、ぐるりと周囲を見回して、迫 りつつあった樹 海 を一 掃 する──たった一瞬のことだったが、それだけで全身の感覚が消失する。いや、身体 は動かせた。だが、なんのために動かしているのか、どこへ行きたいのか、なにがやりたいのか、すべてが急速に希 薄 になっていく。
(これが......溶 けるってこと?)
感覚の喪 失 は、それほど長くはなかった。それでも気を抜 けば、またさらに長く眠 り込んでしまいそうな感じではあったが。
(......急がないと......)
彼女は首を上げた。額 の傷が激しくうずく。森は確かに今の一 撃 で大きく後退したものの、大勢に変化はない。何度も繰 り返し、増 殖 する。
(急がないと!)
こうしているだけでも、ライアンの意識や記 憶 を、ディープ・ドラゴンの力が勝手に受信している。ちくちくと刺 すように自分の集中力を殺 ぐそれらの情報は、苛 立 たしいばかりではなく致 命 的 なものでもあった。全体としては漠 然 とした印 象 にしかならないものの、細かい単語が蓄 積 していく。聖域。母。緑宝石の鎧。蛙 。外。外。外!
もう一度、彼女は視線を解放した。樹海が接近してくる前に、ここまでずっと街を潰 しながら押 し寄せてきていたはるか遠方まで、触 手 を消し飛ばす。見える範 囲 すべてを薙 ぎ払 うが、全体としてはまだ根絶するには程 遠 いだろう。
『ライアン。あなたはこの世界の外に行くのです』......
声が聞こえてくる.ライアンの記憶の中にある、母の声。
ライアンは、なにも言い返さなかったらしい。問い返すこともしなかったらしい。
(そんなだから......!)
わけもなく、怒 りがふつふつと湧 いてくる。
と──
それを冷 却 するように、まぶたの下ににじみ出した血が、左目の視界を閉ざした。ぬぐい取りたいが、身体 がうまく動かない。
(......動かない?......って──)
ぞっとする。
敵のことを理解したというより、単なる反射的な直感で。ダミアンの姿がない理由が分かった。
今 朝 と同じ──こちらの意識の中に入り込んで、内側から破 壊 しようとしている。
(そんなの......どうしようもないじゃない!)
彼女は悲鳴をあげようとした。ディープ・ドラゴンの喉 からは、声は出なかったが。
前脚 の踏 ん張りが利 かなくなり、身体が地面に落下する。そんな時でさえ、この身体は物音をさせなかった。
(どうすればいい......?)
身動きが取れないまま、彼女はうめいた。
なにをすれば良いのか分かれば、それをするのに躊 躇 はない。分からなかったとしても、躊躇 わないこともあったが。だが、なにをする以前に、なにもできない。この状態では。
(なにもできないの......? わたし......)
怒 っても、焦 っても、立ち上がることすらできない。
出血が、完全に視界を閉ざした。
◆◇◆◇◆
「むううう......ドーチン。いいか。大金持ちというのはだ。いかなる状 況 におかれても、沈 着 冷 静 にだな、うむ、そんな感じだ......あわてていいのは、アレだな。インフレだ。あと株。落としちゃいかんらしいから注意しとけ......」
「うーんうーん......兄さん......多分どんなお金持ちも、変な木の枝に引っかかって何十キロも引きずられるよりは、インフレのほうがましだって言うと思うんだ......」
「............」
うわごとをつぶやくふたりを押 しのけて、オーフェンは瓦 礫 の下からなんとか身体 を引きずり出した──奇 跡 かなにか自分でもよく分からなかったが、ケガはない。
「そーか。つまり、そーゆうことなんだな」
毒づく。
「もう今日だけで何回死んでるんだ? 俺は。結局生きることってのは、死にたいと思ってからが長いんだ──」
見回すと、あたりは更 地 のようになっている。いったん、森が建物をあらかた壊 したうえで、その森が消え去ったのだから、そうなるよりほかないだろう。
自分を押しつぶそうとしていた、どこかの民家のものであろう屋根の一部。それを持ち上げながら、なんとか脱 出 する。ようやく起きあがって、彼はため息をついた。まだ疲 労 の抜 け切っていなかった身体が、休息を求めてめまいを起こす。が、誘 惑 に屈 服 するわけにもいかない。
彼は再び見回した。森は遥 かに後退している──まっさらにされた街並みの向こうから、イナゴの大群のような影 を膨 らませ、こちらに向かって進軍してくるのは見えたが。どれだけの速度なのかは分からないが、ここに到 達 するまでにはしばらくかかるだろう。対 抗 する手段がないのなら、逃 げなければならない。
「......クリーオウ!」
今さら気づいたというわけではないが、オーフェンは唐 突 に声をあげた。少し離 れた場所に、ディープ・ドラゴンの巨 体 が横たわっている。もう跡 形 もなくなった公園の中から、半分はみ出して、ときおり痙 攣 のような動きを見せるだけで、返事はなかった。近寄ると、負傷している──ディープ・ドラゴンが。
「冗 談 だろ?」
自分が、これと同じ大きさのディープ・ドラゴンと相 対 した時のことを思い出して、オーフェンはうめいた。
「なにやったって傷ひとつつけられなかったってのに......あの雪崩 みたいな森がそんなに大したもんか?」
駆 け寄る。一 抱 えはある巨大な頭に触 れて、傷の様子を見ると、どうやらそれほど深いものではなさそうだった。
「クリーオウ!」
《オーフェン......》
呼びかけに応 えたところで、息をつく。ディープ・ドラゴンは、重そうな頭をゆっくり上げた。一メートルも持ち上がらなかったが。
《動けないの......よく見えないし......》
「傷はたいしたことない。すぐ治せる。動けないってのはどういうことだ?」
《あの人......ダミアンが......》
傷を癒 すために、手を伸 ばしかけて──
彼女のつぶやきに、動きを止める。そういえば、白 魔 術 士 がどこにもいない。
「......精神攻撃......か?」
いくらダミアン・ルーウという男が優 れた白魔術士だとしても、本来のディープ・ドラゴンなどに通じるものではないだろうが、その中身がクリーオウだというのなら、話は別になる。が、
「って、なんであの男がお前を攻 撃 するんだよ。筋が通らねえだろうが」
《わたしが......》
そこまでだった。ドラゴンの頭が、力を失って地面に落ちる。
「おい......おい、クリーオウ⁉ 」
あわてて鼻先を抱 き上げるが、返事はない。
もともと、生きるために呼吸も必要としないディープ・ドラゴンである。これがどの程度危険な状態であるのか、まったく分からないが──到 底 、健康状態とも思えない。ぴくりともしないドラゴンの頭を抱きかかえ、オーフェンは声を荒らげた。動 悸 が激しくなるのを感じた。
「クリーオウ──いいか、聞け! 白魔術ってのは、精神を司 る。要は、途 中 経過を理 不 尽 にすっ飛ばして結果を直結──いや、ええと──分かりやすく言えば、不 条 理 の塊 なんだ! だから、なんだってできる。人の心に直接飛び込んだり、自分の人格を精神体として脳と関係ないところに保存したり!」
気がついてくれ──
念じながら、抱きしめている頭を揺 さぶる。クリーオウには制 御 できないとはいえ、ディープ・ドラゴンの力が、圧 倒 的 にダミアンより勝 っていることは間 違 いない。
(なら......その力の一 端 でも制御する糸口が見つかれば、クリーオウだってダミアンに対 抗 できる)
それを信じるしかない。オーフェンは叫 び続けた。
「だが逆に、不条理は不条理でしかないんだ。プロセスがないせいで、結果が保証されてない。熱 衝 撃 波 を食 らえば、誰 がどう文 句 を言ったところで身体 ごと消し飛ぶしかないが、精神支配ってのは、最後までその魔術の完 了 を否定できるんだ! 分かるか? あきらめるな!」
《............》
返事があった──ようにも思えたが。
気のせいだったかもしれない。オーフェンは抱く腕 に力を込めてから、ゆっくりと肩 を下ろした。そっと、ドラゴンの頭部を横たえる。
あとは、彼女が勝つのを信じるしかない。
腕にくくりつけた短 剣 を、鞘 から抜 き放つ。彼は立ち上がって、振 り向いた。
まだそれほど近づいてきているというわけではないが、森がだいぶ接近してきている。よくは分からないが、クリーオウが言っていたことからすれば、この森というのはライアンの仕 業 なのだろう。
(これだけの派 手 な仕 掛 けは......天 人 の遺 産 か? 奴 の服から木が生 えて攻 撃 に使う云 々 ってのは聞いてたが。ここまで増 殖 するとなると、もう手が出せる相手でもねえな。あのコルゴンが逃 げ出すわけだ)
ちらり、とドラゴンのほうを見やる。彼女は倒 れたままだった。ついでに、かなり離 れた場所で、地 人 たちも同様だが。
(とりあえず、できることは──)
オーフェンは、剣を持っていない左腕 を掲 げてみせた。強く、叫 ぶ。
「我 が左手に冥 府 の像!」
指先から放たれた黒い弾 が真正面から樹 海 の壁 に突 き刺 さり──そして、大 爆 発 を起こす。
森を消し飛ばすとはいかないまでも、かなりの勢いを殺 ぎ落とすことができた。次の魔 術 の構成を編 むために、再び精神集中に入りながら、独りごちる。
「ったく、どいつもこいつも──」
吹 き飛んだ部分まで盛り返そうと蠢 く森をにらみ据 えて、彼は叫んだ。
「俺の周 りにあるもんを壊 さずにゃいられねえってのか⁉ 」
白い輝 きがうなりをあげて、復活しかけた樹海の壁を貫 いた。
◆◇◆◇◆
時間稼 ぎのつもりらしい。標的の前に立ちふさがるその魔術士は。
無 駄 なことを、と思う──笑いはしなかったが。ライアンは、触 手 のもたらす不完全な視界にその男の姿を捕 らえて、彼の姿を観察した。見覚えはない。
街を潰 すほどに拡大した鎧 の触手は、ディープ・ドラゴンの攻撃でまたかなりの量を削 られたが、それでもまだ健在だった。一瞬ですべて蹴 散 らされることまでを覚 悟 していたのだが、なにか不 都 合 でもあったのか、ドラゴンは活動を停止している。自分とその標的とを隔 てているのは、たったひとりの黒魔術士。取るに足らない。
聖域のために、命を惜 しむ必要はない。緑宝石の鎧で完全に守られている以上、そもそも命を失うこともないが。鎧には多少の副作用もある。だが、たいしたことではない。
絶望。それ以外のものは怖 くない。恐 れる必要はない。なにも欲 しくはない。
ライアンは笑った。当たり前だ。自分には絶望がある。自分は絶望を知っている。
ほかに必要なものはなにもない。
◆◇◆◇◆
「まず、必要のないことだと思うのだよ。わたしは、昨夜から君たちを監 視 していたからね。君と、このディープ・ドラゴンが入れ替わったこと自体は、奴 に捕 まってからの緊 急 避 難 であったと考えられなくもない。が、だからといって君が、危険を冒 してまで奴と決戦する理由にはなるまい?」
「理由なんていらないわよ」
意識のどこかで聞こえてくる声に、彼女は言い返した。目を開けることもできず、立ち上がることもできず、それでも人と話をする余力はどこにあったのか、自分でも分からなかったが。
「レキに、つらそうなことなんてさせられないもの。それに、ライアンの心を読んでしまったから......」
「自己満足だ、などと陳 腐 なことは言うつもりはない。わたしもこういった身だ。ある程度、人の心をのぞくこともできる。もっとも、魔 術 などなくとも、ちょっとした英知があれば事足りることなのだがね」
「ライアンは可 哀 相 よ」
「そうかね? 彼は何年も、工作員として活動していたはずだ──が、我々はつい最近までそれを把 握 できていなかった。よほどの腕 利 きだと見るべきだろうな。言っておくが、ドッペル・イクスという連中は、あまり倫 理 的 とはいえんよ」
「ドッペル・イクスだとか、聖域だとか、そんなのはよく分からないけど」
クリーオウは、ようやく相手の姿を見つけて、口を尖 らせた。ダミアン・ルーウは、黒い空間の真ん中で、静かに立っている。
彼女は続けた。自分がどこにいるのかは、いまだよく分からなかったが。
「ライアンの、服のことは話したでしょう?」
「緑宝石の鎧、かね?」
ダミアンが、鼻で笑ってみせた。
「それが同情の元だというのなら、やはり陳腐だと言わせてもらうよ。あれは強力な武器だ。実際、進行形で、都市の広 範 囲 を殲 滅 し得 る兵器であることを実証している。そして、それ故 に欠 陥 もあった。それだけのことだろう」
「彼が彼であることを全部否定されちゃうのよ?」
「記 憶 を失うだけだ──奴 の心をのぞいて、そう知ったのだろう?」
「記憶って、結局、やっぱりその人そのものってことじゃないの?」
「だが奴は現実に、きちんと活動している」
「ライアンを助けるべきよ」
「君の計画は、控 えめに言っても無 謀 だと、わたしは判断している」
「どうして?」
「成功率、失敗率について語る気はない。どちらかが百パーセントでないのなら無意味だ。だが成功したところでどうなる? そして失敗すれば、君は完全なディープ・ドラゴンとして、活動を開始するだろう。つまり君が知覚できる範囲にいる人間は皆 殺 しだ。恐 らく都市が壊 滅 するだろう。賭 としては著 しく公平性を欠くと思うのだが?」
「............」
「どうした? 失敗しないから大 丈 夫 だと、言いたかったのではないかな?」
「............」
「言えないだろう。実際に、ディープ・ドラゴンの力に触 れた後では」
「............」
「だから、わたしは君をここで排 除 する。明け渡 したまえ。ライアン・スプーンは......まあ、わたしが助力すれば、君の連れを勝たせることはできるだろう」
「わたし」
クリーオウは、断言した。
「あんたみたいに嫌 な奴って見たことない」
◆◇◆◇◆
持久力を気にする必要はない──
もともと万 全 ではないところに、立て続けに大 魔 術 を放っている。気にしたところで、そう長く保 つこともなかったろうが。こちらの攻 撃 に何度も押し返されながらも、大局としてはじわじわと包囲を狭 めてきている樹 海 の壁 に対して、オーフェンは叫 んだ。
「我は歌う破 壊 の聖音!」
連 鎖 する自壊。それまで活発に蠢 いていた木々が、瞬間動きを止め、自ら砕 け、潰 れ、散る。破壊は瞬 く間 に感 染 し、樹海は木くずの堆 積 へと化けた。
編み上げる構成の内容が変わっても、結果はそれほど大差ない。押し寄せてくる森をある程度は消し去るが、根絶するには、決定的に力が足りない。
が。
あまり関係はない。逃 げようにも、背後に倒 れているディープ・ドラゴンの身体 は動かせるものではないし、彼女が無事に復活するにせよしないにせよ、そう長くかかるものではない。
(クリーオウの奴 が勝つか、負けるか──それまでの時間稼 ぎができればいい。ってより、それしかできないが)
ただ単調に、森に向かって魔術を放ち続ける。
と。突 然 まったく唐 突 に前 触 れもなく。
森が動きを止めた。
「............?」
訝 るが、好機を逃 す手はない。オーフェンは一瞬で、全力の構成を編み上げた。
「我は砕 く原始の──」
刹 那 ──
真正面に見 据 えていた木々の壁の表面に、変化が現れた。枝が数本伸 びて、視覚で捕 らえきれないほど素 早 く、複雑な軌 跡 を描 く。そしてそれ自体ややこしい形状となった枝が、燃えて消えた。その炎 の形が、見覚えのある記号へと変わる。
(魔 術 文字⁉ )
ぎょっとして、自分に制御をかけようとする。が、間に合わない。
「原始の静 寂 !」
解き放たれた構成が、具 象 化 し、大 爆 発 を起こした。空間を歪 曲 させて発生する振 動 が、激しく轟 いた。だがさらにそれを覆 い包むように、魔術文字も広がり──
強 引 に、その爆発を押 し込めた。瓦 礫 と化した街をかすかに揺 らしただけで、魔術の効果が途 切 れる。
(......防ぎやがった⁉ )
今まで無 抵 抗 に前進してくるだけだったために、油断していた。相手は、天 人 種族の遺産──こちらの魔術を防ぐ機能があったとしても不思議はない。
致 命 的 だった。今までは、一 撃 ごとにいくらかは相手を後退させて時間を稼いでいたものが、すっぽかされてしまったことになる。樹 海 の進行速度を考えれば、次の魔術を準備する間合いはない。オーフェンは唇 を嚙 んで、短 剣 を構え直した。破れかぶれではあったが、再び前進を始めようとしている巨 大 な樹木の群に対して、武器らしい武器はこれしかない。
(クリーオウ......!)
肩 越 しに、背後を見やる。ディープ・ドラゴンに変化はない。
森が動き出した。低く鳴る地 響 きに、向き直る。オーフェンは一度だけ大きく息を吸い、そして止めた。
足下の瓦 礫 が弾 けて、その隙 間 から一本また一本と蔓 のようなものが飛び出してくる。そのうちの一本──自分に向かってきたものを、オーフェンは短剣の刃 を一 閃 させてそらした。そうしているうちにも、森の塊 が眼前に押 し迫 ってくる。
(ライアンの......本体の位置さえ分かれば!)
それさえ分かれば手の打ちようはいくらでもあるのだろうが──これだけの質量を持った森すべてが彼の服から出現したものだとすれば、こんな敵の真正面に本体を置くはずもない。
通常の木の枝より一回り太い、そんな枝が、どこから忍 び寄ってきていたのか、唐 突 に左腕 にからみついていた。身体 の自由を奪 われているうちに、また別の枝が、蔓 が、身体に巻き付いてくる。
「......君はあんなことを言うべきではなかったのだ」
不意に耳元から来こえてきた声に、体温が下がった。
もう自分の周囲には、木や蔓しかない。完全に密集した森の中に取り込まれている。もう指一本動かす隙間もないその状 況 で、その声は静かにあとを続けた。
「いや、君の言ったことは間 違 いではなかった。あれが白 魔 術 への対 抗 法 として考え出された手段だというのなら、なかなかに面 白 い発想だと思ったよ。だが、ああいった精神制 御 には熟 練 が必要だ......彼女のような素人 に教えたところで、逆に、プロセスを与 えてしまうことになるだけだ」
「てめえ......」
うめく。
が、声は聞くつもりもないのか、間 隔 を置くこともしなかった。
「分かるかな? 彼女は、わたしに対抗し、負けることで支配されてしまうという、プロセスの中に陥 ってしまった。無論、プロセスを得ることで対抗の手段とするというのが、君のマインドセットなのだろうから、これは不 可 避 の欠点だが。おっと、息ができないんじゃないのか? 君に死なれてもらっては困る......」
そのつぶやきと同時──
なんの前 触 れもなく、身体が自由になった。がんじがらめにしていた無数の枝が、あっさりと消失したらしい。背面から地面に倒 れることになって、吐 きかけた息が限界以上に絞 り出されたが、あえいでいる暇 はなかった。飛び起き、周囲の状況を見回す。
そこはもう、森のドームの中、といった様相だった。上下左右、すべてを木々にふさがれている小規 模 な空間の中にいる。自分を完全に呑 み込んだ樹 木 や枝の、一部だけが消し去られたのだから、当たり前といえば当たり前だが。背後に、ダミアンが立っている。やはり腕 組 みして、平然と。
空まで完全に森に覆 われてしまっているため、視界がほとんど利 かないほどに暗かった。その中で、どうしてダミアンの姿だけが見えたのか、それは分からない。精神体というのはそういうものなのかもしれない。なんにしろ、樹 海 は完全に動きを止めていた。先ほど、一瞬止まったのとは、また感 触 が違 う。もう二度と動き出さない──そんな予感があった。脊 髄 を凍 えさせるほどの悪 寒 とともに。
(............)
なにも思い浮 かばない。
それまでの地鳴りも、轟 音 も、すべてが嘘 だったかのようにモノトーンの静 寂 へと変じていた。動 悸 だけが激しくなっている。地べたに両手をついたまま、オーフェンは、自分がなにをしていたのか、思い出そうとしていた。
(俺は......森に呑み込まれた)
記 憶 を失ったわけではない。それは分かっていた。だが、どうしても思い出すことを拒 否 している部分がある。
(なんのために、この森を押 さえ込もうとしていた?)
そして。
(それに失敗した......てことは)
思い出すよりも前に、彼は叫 んでいた。
「我は生む小さき精 霊 !」
ふわり、と、純白の鬼 火 が現れる。真っ白い輝 きが、闇 を押しのけた。
森が、動きを止めたのは当然だった──もう動くこともないだろう。その必要もない。ライアンは、目的を果たしたのだから。
自分を呑み込み、そしてさらに後方へと雪 崩 れ込んでいった樹海は、倒 れていたディープ・ドラゴンをも包んでいた。その木々のうちの数本が、巨 大 な黒い獣 の胴 体 に突 き刺 さっている。赤黒い体液が、黒い毛並みに奇 妙 な光 沢 をもたらしていた。そのほかに、ディープ・ドラゴンには、先ほどと変わったところは見受けられない。ぴくりとも動かず、倒れている。
オーフェンは絶 叫 した。落ちていた瓦 礫 をひとつ、我知らず摑 んでいる。なにかの壁 の一部だったらしいそれは、あっさりと握 りつぶすことができた。ダミアンの声が聞こえる──
「さて。ライアンのいる位置を探 ろう......とどめは君に頼 みたい。わたしは、生物を殺傷するような直接的な手段には長 けていないからな」
「貴様ぁぁぁっ!」
飛び出す。疲 労 もなにも感じない。手の中にあった短 剣 を、ただ真っ直 ぐに標的の胴体へと打ち込むだけ。
ダミアンは、避 けもしなかった。銀色の短剣が、白 魔 術 士 の左肺を突 き上げるように、その身体 をえぐる。
意外なことだったが、手 応 えはあった。が、出血もなく、白魔術士の口から苦 悶 が漏 れてくるわけでもない。ダミアンはただ平然としていた。腕 組 みを解いて、身体に突き刺 さった短剣を握っているこちらの手に、そっと触 れる。
「無 駄 なことだ」
そして、ダミアンが手に力を込めると、短剣はそのまま引き抜 かれた。刀身に血の跡 もない。オーフェンは、ゆっくりと後ずさりした──
白魔術士は、淡 々 と言ってくる。
「立場の違 いに過ぎんよ。どうというほどのこともない。さあ、どのみち、ライアンは殺さないわけにはいかないだろう......」
「クリーオウは、あいつを助けると言ったぞ」
「それも、立場の違いに過ぎんよ」
と──
動かないと思っていた森が、再び動き出した。が、今度は今までのような速いものではない。むしろゆっくりと、しかも後退していく。ドラゴンを貫 いていた樹 木 も、その体液をこびりつかせたまま、ざわめきつつ退いていった。覆 われていた空も、すぐに開ける。正午の太陽が、明るすぎるほどに光をもたらしていた。そして。やがて。
これまで、巨 大 な蛇 のように増 殖 し、街を呑 み込みながら突き進んできた樹海が、今度は本来の形と言うべきか──塔 のように、いや、一本の巨大過ぎる樹木のように、柱状になって空へとまとまっていった。太さも高さも、地表から見上げたところでそうそう目測がつかない。途 中 、動きを加速させて、変形していく。
言葉もなく、その変化をただ見上げているダミアンを無視して、オーフェンは動かないディープ・ドラゴンのところへと歩いていった。近づく前に、びちゃり、となにかを踏 む──地面へと染 みだした、獣 の体液。嚙 み締めた奥 歯 が、音を立てるのが聞こえてきた。
ドラゴンは、死んでいた。キエサルヒマ史上、初めてのことかもしれない。この最強の戦士たる生き物が殺されたというのは。胴 の中央から、ばっくりと開いた傷は、その深さを測るまでもなく致 命 傷 だった。こぼれだした内 臓 もすべて黒い。さらには、
「............ん?」
自分の見つけたものを、彼は訝 った。
が、答えを見つけだすより先に、声が聞こえてきて、彼は振 り返った。ダミアンが、やはり無感動に、つぶやいている。
「......張り合いがないな。投降するつもりか?」
白 魔 術 士 が語りかけているのは──冗 談 じみた大きさの巨 木 の中から、ゆっくりと進みだしてきた人 影 にだった。ひょろりとした、若い男。彼の着ている緑色のタイツのような服から、木の枝や蔓 が伸 びて、巨木につながっていた。
「ライアン・スプーン。聞いているのか?」
ダミアンが、問いかける。ライアンは特に興味もない様子で、ふらふらと進み出てきていた。その姿は、確かに無防備にも見えたが。
「もう恐 れるものがないから出てきただけだヨ......投降するのは、あなたたちではないかな? 特に勧 めはしないけれど」
ライアンは、肩 をすくめてみせた。
「あなたがたには、ぼくを殺す手段はない。この緑宝石の鎧は、ぼくを完全にガードする。人間程度の魔 術 では、この防 御 は貫 けない」
見ると、数本の細い枝が、彼の周りをとり囲むように蠢 いていた。一瞬で魔術文字を描 くことのできる枝。と、彼は背後の大木──大木と呼ぶのも馬 鹿 馬鹿しくなるほどの──を見上げ、苦 笑 したようだった。
「ディープ・ドラゴンに対 抗 するために......触 手 を限界まで広げたんですヨ。もっとも、そのわりには手 応 えがなかったけれど」
「これは、クリーオウだ──」
こちらも背後にある、ディープ・ドラゴンの死体を示して、うめく。が、かぶりを振 ったのは、ダミアンだった。
「彼には記 憶 が無いはずだ」
「......なに?」
見ると、ライアンは確かに、きょとんとした表情を見せている。ダミアンが、そのまま続けてきた。
「鎧 の効果さ。緑宝石の鎧......強力に使用者を守り、それでも使用者が傷ついたり死亡したりすれば、蘇 生 の魔術文字まで用いて、使用者を回復させる。おおむね万 能 で、隙 もない」
「ふざけんな」
オーフェンは、反射的に吐 き捨てた。
「ンな強力な武器があるわけねえだろ──あったとしたら、天 人 種族は死なないってことだろが」
「副作用がある」
今度は、ライアンがつぶやいた。口元が引きつっているのが見える。彼はしばらく考えてから、ひとりで納 得 してあとを続けた。
「......なるほど。今 朝 、蘇生する前に、あなたに会ったことがある、ってわけだネ。すまないけど、覚えてないんダ。蘇生すると、記憶の大半が消し飛んでしまう。脳を破 壊 されると、特にネ」
解説するのを邪 魔 されて苛 立 った──からではないだろうが、ダミアンが、すぐに口をはさむ。
「記憶だけではないだろう。君の心をのぞいたという少女が、いろいろと説明してくれた。彼女の説明は分かりにくかったが、的確ではあったよ」
「そうだね。記憶だけじゃナイ。自分では、よく分からないん......ダ。人格も変わっているかもしれない。ちょっとずつ壊 れていくんだヨ。身体 もね。多分。内臓もほとんどが癌 細 胞 になっているはずダ......」
「生きていられるはずがない」
また反射的に、オーフェンはつぶやいた。ライアンには、なにかが可 笑 しかったらしい──へらへらとした笑 みを見せた。
「死ぬことだけは、ないヨ。この鎧 が......生かしてくれるからね。まあ、なんていうか......やっぱり、内臓がいけないんだろうネ。なにを食べてもすぐに吐 いてしまうようになったのは、ちょっと困ったけど......慣 れたヨ」
と。ダミアンが、冷たくつぶやくのが聞こえてきた。
「同情でも買いたいのか?」
「買ってどうなるんダイ? ボクの運命が変わるわけじゃない......」
ライアンは、あっさりとそれだけ言うと、細い両手を広げてみせた。薄 い唇 が横に広がり、見ようによっては笑顔にも見える。当人は、ただの笑顔のつもりなのかもしれないが。
「審 判 だヨ」
「なに?」
「ううん......思い出せないナ。誰かがそう呼んだんだ。審判てね。運命を確かめること......」
その目には、ひからびた喜 悦 がにじんでいた。使い古された喜びともいえるかもしれない。なんにしろ、ライアンが満足しているのは間 違 いなかった。
「さすがに、ディープ・ドラゴンには、勝てないと思っていた......でも勝てるのなら、仕方ない、もうしばらく生きていかなくちゃ......」
(ひょっとして──)
オーフェンは悟 って、独りごちた。
(こいつ、死ぬことができる最後のチャンスだったんじゃないのか? これは......)
大陸の最強力。ディープ・ドラゴンと戦って、生き残ってしまった。
胸中のつぶやきが伝わったわけではないだろうが、ライアンが、かぶりを振 る──あるいは、自分と同じことを思いついてしまったのかもしれないが。
「おっと。ぼくを死にたがりだとは思わないでくれ。使命があるんダ......聖域のための。ぼくはそのために生きなければならない......死んでいく君たちには、せめて、絶望というものを教えてあげる......」
それが合図だった。ライアンの後方に控 える、樹 海 の触 手 ──細い枝という枝が、いっせいにざわめき始める。そのうちの数本が魔 術 文字を描 けば、こちらの魔術が通用しないのはもう分かっていた。それが、
(......何万本だ?......何千万本かもしれねえけど)
ライアンの口 振 りを考えれば、その単語を思い浮 かべるのもしゃくではあったが──
オーフェンは、胸中でつぶやいた。絶望的。
巨 木 と化した森。この街を押 しつぶすほどの質量を相手にするのは馬 鹿 げている。狙 うなら、ライアン本人をどうにかするしかない。できればの話ではあったが。
とりあえず、ダミアンのほうを観察する。白魔術士の態度は案 の定 、変わっていなかった。彼は恐 らく、この場からさっさと逃 げ出すこともできる。余 裕 があって当然といえば当然だった。
(つまりは、俺ひとりでなんとかしろってことか)
天人種族の鎧 によって、死すらからも防 御 された相手を、どうできるというのか。
《こうすればいいの》
そのクリーオウの声もまた、合図だった。
ダミアンが、ぎょっとした表情でこちらを振り向き──
ライアンが、びくりと身体 を震 わせ──
そして、一瞬で、緑宝石の鎧から紡 ぎ出された巨木の触手が消 滅 するための。
ディープ・ドラゴンの暗黒魔術。生物・非生物を問わず精神支配にかける強力な暗示は、劇的に鎧の触手を消失させた。巨木の中心に穴が開き、その空 隙 が、爆 発 するように広がる。破 壊 は徹 底 的 だった。塵 すら残さず、森が消える。最後に、ライアンの身体 を守っていた触手が消滅して、さらには、彼が全身に着ていた緑色のタイツがぼろぼろと崩 れ落ちた。全 裸 になったライアンが、言葉もなく、その場に倒 れる。
「............」
驚 愕 したまま固まったダミアン・ルーウの顔を見ることができたのは、痛快ではあった──が、そんなものをいつまでも見ているつもりはない。オーフェンは、ゆっくりと振 り向いた。予想していなかったわけではなかった。緊 張 が途 切 れて、身体から力が抜 けていく。
ディープ・ドラゴンの死体はそのままだった。だが、その大きな傷口から、ひょっこりと、頭を出しているものがある。
それは、窮 屈 そうに頭を振ってから──なんとか身をよじって、そこから脱 出 しようとしていた。体液でべたべたになってはいたが、もともとの大きさのレキ、つまりはディープ・ドラゴンの種族の子供である。緑色の双 眸 を輝 かせ、たっぷり何秒もかけてから、それは自分の死体から抜け出した。
「なん......だって?」
震 え声で、ダミアンがうめく。オーフェンは、にやりとした。
「......クリーオウのほうが上 手 だったんだよ。てめえよりな」
まだ理解できていないらしい彼に指を突 きつけ、続ける。
「てめえは、精神支配のプロセスに失敗 してたんだ。クリーオウが勝ってたのさ──じゃなけりゃ、あいつの自 我 が残ってるはずがない。ただてめえをようやく追い出した時には、身体 が破壊されちまってた。だから、その傷口から、まだかろうじて生きていた臓器の一部に暗示をかけて、自分の複製を作ったんだ。そいつに精神体を移したんだろ」
《......なんで分かったの?》
不 思 議 そうに、クリーオウが聞いてくる。オーフェンは頭をかいて、うめいた。
「さっき死体を見た時、傷口から尻 尾 が見えた」
《逆 子 になっちゃったもんだから、なかなか抜け出せなかったのよね》
呆 気 にとられているダミアンのことは、もうどうでもいいのか、子ドラゴンは、やはり足音は立てずに地面に飛び降りた。身体を震わせたが体液は落ちない。そのまま走って、ライアンへと近寄っていく。
《あの変な服をどうにかするには、もうこれ以上あの木とかを出せないって状態になったところを、いっぺんに消さなくちゃならなかったの。でも、うまくいって良かった......ライアン!》
動かないライアンの頭に、ぺたんと前脚 を置いて、子ドラゴンが声──と言うべきか──をあげた。
《なーにが絶望よ! わたしの勝ちよ。こんなの、なんてことないじゃない。なんかもー無 辺 際 にあちこち迷 惑 かけまくって。片 っ端 から謝 ってもらうからね! って、拗 ねてないで何か言いなさ──》
ライアンは答えない。身動きもしない。
気になって、オーフェンも近づいた。ライアンは倒 れ伏 したまま、ぴくりともしない。
《............》
子ドラゴンが、一歩退 いた。
破壊 された街を、相応 しい秋風が吹抜 ける。それまでは気にならなかった肌寒 さが、急に染 み入ってきた。オーフェンは、ライアンの肩 に触 れると、彼の顔を見るために、表に転がした。
《あっ......》
仰 向 けになったライアンに、クリーオウが絶句する。
骨組みに表皮を貼 り付けただけのようなライアンの身体 も、どす黒い死 斑 が現れている胸や腹も──彼の顔に比べれば、たいした衝 撃 にはならなかった。白目をむいて、かさかさになった唇 も、だらりと開かれている。先ほど倒れた時に抜けたのだろうが、歯が数本欠けていた。喉 が異様に盛り上がっている。息でも詰 まったように。実際、呼吸はほとんどない。
脈 を調べようという気にもならない。誰の目にも明らかに、ライアンは急速に死にかけていた。
《どうして......?》
クリーオウのつぶやきが、震 えている。
《あの鎧 とかいうのをなくしちゃえば──》
「緑宝石の鎧がなくなれば、あとに残るのは、致命的 に健康を害した半死人だけというわけだ」
冷静さを取りもどして、ダミアンが言ってきた。さっと子ドラゴンがにらみつけるのに合わせて、付け加える。
「......もうこれは、手の施 しようがない」
《そんな......》
白 魔 術 士 が正しいようだった。ここまで死が進行しては、ディープ・ドラゴンの力でも癒 せないだろう。というより、
「......むしろ、とうの昔に死んでいたはずのものが、おかしな具合で生かされてただけなんだ」
オーフェンは、ぽつりとつぶやいた。ひゅうう......と、なにかが鳴る。
耳を澄 ますと、それがライアンの喉から漏 れている音だと分かった。なにかをしゃべりたいらしい。ほとんど言葉になっていないが──
「君に......教えたかったんだヨ。ぼくの気持ちを伝えたかった......」
無理に聞けば、聞き取ることができる。
「ぼくの感じている絶望を!」
《ライアン!》
クリーオウが、彼の名を叫 んだ。
《......記 憶 がもどったの?》
だが、ライアンは──死にゆく男は、弱々しくかぶりを振った。
「違 うよ。記憶が残っていたなんて......そんなことじゃない。そんな奇 跡 を期待しちゃあ......いけない......」
ふらっと、手をあげる。なにかに触 れたかったのかもしれないが、その手はあまり長くもない時間虚 空 をさまよったあげく、彼自身の胸の上に落ちた。

吐 息 とも言葉ともつかない声が、続く。
「何度もあったんだ。こんなことは......今までも。だから、今回もそうだったんだろうと......思っただけさ」
あとはもう、うわごとだった。目に光もない。瞳 に影 も映っていない。
「絶望か。悪くないな。絶望がなにか、知っているか?」
クリーオウは、聞いているのかいないのか、目を閉じて首を左右に振っていた──激しく。聞きたくはないのだろうが、言葉は続く。
「死というのは、なんだと思う?」
問いかけに誰も答えないうちに、ライアンは続けた。
「心臓が停止し、蘇 生 不能の状態になることか? ふん、医者なら、そう言うのかもしれない。でもそんなものはただの要因に過ぎない。死とは、もっと......そのさらに先にある結果だ」
と、詩でも吟 じるように、
「死とは、そのすべてを永遠に失うということだ。指からこぼれ落ちるのは一部ではなくすべて。いつの日か拾い直せることなど決してない永遠。決定的なくさび。それを信じられない者の愚 かな甘 えなど、あざ笑うことすらなくただ拒 絶 する絶対の結果。闇 の中にあってさらに深く暗い一 握 のなにか。のぞき込むがいい。なにも見えやしない。でも、それを知るに値 する想像力があるのなら、見えるはずだ」
止まりかけていた呼吸が、激しくなっている。だがそれは回復へと向かうものではなく、蠟 燭 の炎 が最後に踊 る、それとしか思えない。
もう少し力が残っていたならば、ライアンは再び手を上げたかもしれなかった。どのみち、彼がつかめるものはなにもないのだとしても。
「神のいないこの世で、奇 跡 など決して起こらない。だが奇跡が起こらないことなど絶望ではない。奇跡の不備を、誰もが知っているというのに、それでも生きていなければならない。それが絶望だ 」
《ライアン! わたし──》
「......ぼくを助けに来ないところを見ると、相棒殿 も死んでしまったか......まあいいさ。ああ、本当に、どうでもよくなってきた......ヨ......」
彼が、死んだからというわけではない。
が、オーフェンは自覚せずに、天を見上げていた。
太陽は最も高い場所にあった。
街 に住民がもどってくるのには、三日とかからなかった。どのみち、どこへと避 難 したところで、もどってくるしかないのだ──人というのは。
ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン、彼は、アーバンラマ北側の通りを、ひとりで歩いていた。港へと。
行くべきところが、どこかあったわけでもない。とりあえず、東部にもどるつもりでいた。今回のことで、しばらくは、領 主 からの頼 まれごとをすることもない。領主にとって当面の大敵であったドッペル・イクスを減らすことができた。なにか用事でもあれば、また背後に、ダミアン・ルーウが現れることになるのだろうが。
『......滅 びなかったな』
そのダミアンが、別れ際 に言ったことが、なんとなく思い出される──すべてが終わった後、合流してのことだったが。
コルゴンは聞き返さなかったが、白 魔 術 士 は独 りごちるように続けてきた。
『あのレッド・ドラゴンは、自分たちがディープ・ドラゴンと全力で決戦することで、この都市が消えてなくなると言っていたらしい。だが、破 壊 された面積は確かに広大だったとはいえ、市が自力で復 興 できないほどではない』
たいして興 味 はなかったが、ダミアンが言う通りなのだろう。彼は最後に、付け加えた。
『もう、ドラゴン種族自身が思っているほどには......彼らは人間種族を御 せなくなっているのかもしれない。彼らが聖 域 に引きこもってから、二百年の間に』
(そんなことにも気づいていなかったのか?)
そう思いはしたが、口には出さなかった。
すべての装備を外した身体 は軽かった──服とマントは変わらないが。〝テンペスト〟を含 め、武器はすべてダミアンに預 けてある。全装備は領主からの頼みを聞く時にだけ、貸し与 えられる約束になっていた。
いつからか......実際、その取り決めに従っているのがいつからだったのか、忘 れかけている。この生活は長かったようにも思えるし、そう思うよりは短かったかもしれない。だが、少なくとも退 屈 をすることはなかった。もうしばらくは続けても構 わない。
と。
不意に、ダミアンの声が聞こえてきたような気がして、彼は足を止めた。だがそれは、自分を呼び止める実在の声とは違 った──もっとも、厳 密 にはダミアンという人間は実在していない のだから面 倒 くさいが。
『......いや。ウィノナが奇 妙 なことを言っていたのでな』
それはただの空 耳 だった。
『お前が、標的を殺し損 ねたと』
コルゴンは、無視して歩みを再開した。
◆◇◆◇◆
「たまーにね、まだ変な気になるのよね。なんかこう、ふわっと、ばらばらになるっていうか。やっぱり、自分の手足が一番いいってことよね、多分」
並んで歩いている少女のつぶやきに、オーフェンは無言でうなずいた──といって、相手の話していることにそれほど聞き入っていたというわけではなかったが。身体 に違 和 感 が残っているのは、自分も同じだった。ダメージによって身体がどうなったということでもないのだろうが、一度、完全に死ぬほどの目に遭 うと、感覚のどこかが変わるのかもしれない。
「まーったく大 騒 ぎよね。そりゃまあ街のあちこち、壊 れちゃってるみたいだけど。どういうことになるのかしら。わたしたちのせいってばれたら、怒 られるのかな?」
「......大 丈 夫 だろ」
曖 昧 に、オーフェンは答えた。結局、無関係な連中にとっては、今回の騒ぎというのはまったく意味不明なまま終わったことになったのだろうし、それを自分たちに結びつける筋 もない。
(ま、あるとすりゃ──)
オーフェンは横目で、少女の頭の上に鎮 座 している黒い小犬を見やった。
(あるとすりゃ、こいつか。いつまでもこの街にいるべきじゃあねえな)
嘆 息 する。もともと、それほどのんびりできるつもりでいたわけではなかったが。
当のアーバンラマ市は、あっさりと復興のムードに包まれていた。破 壊 された地区の近くも通ってきたのだが、そこここで瓦 礫 の撤 去 や測量が始まっている。南側ではどれだけの犠 牲 者 が出たのか定かではないらしいが、北側では住民の避 難 が間に合ったということもあって、人的な被 害 は軽 微 だった。北と南で、また格差を出し、そしてそのまま埋 葬 してその上に未来図を築 き上げていく。それが結局、この街なのだろう。
この街に限ったことではないのかもしれないが。
とはいえ、少なくとも上 辺 だけは、街も平和を取りもどしていた──それは感謝すべきことなのだろうが。
(......俺 の力だけじゃ、どうあがいたところでこの事態を乗り切れなかった)
ちくりと胸 を刺 すつぶやきを、自分で漏 らす。助力者がいて、ようやく生き残ることができたのだ。
(最接近領の領 主 、か。どんな奴 だ?)
ダミアンのような白 魔 術 士 、ウィノナのような騎 士 、そして、コルゴンのような暗殺者を擁 する人物。想像もつかなかった。
頭をかこうとし──
腕 を上げようとしたところを、不意に横から押 さえつけられた。見ると、クリーオウが近寄って、その腕に抱 きついてきている。
「......まだよく歩けないのか?」
「うん」
彼女がうなずいたため、オーフェンはあきらめて嘆 息 した。ぶら下がるような格 好 で、右腕に体重を預 けてくるクリーオウは、彼女が意識を失っていた時に感じたほどは軽くなかった──重量に変化はないはずだが。
だが、なんとなく、悪い思いはしない。
「あのさ」
彼女が言ってくる。
「結 構 、怖 かったのよね」
「うん?」
「わたしがレキになっちゃって。なんていうか──」
「そりゃまあ、よくパニックを起こさなかったもんだと思うよ」
正直、半 ば呆 れる思いですらあった。
だが、クリーオウはかぶりを振 ったようだった。見たわけではなく、腕にすがりついている彼女の頭が揺 れたのを感じただけだが。
「そうじゃなくて。突 然 身体 が入れ替 わって、目の前にライアンが現れて──その時は確かに混乱してたんだけど──、ちょっと反 撃 してやろうって思ったら、その......一 瞬 でぐちゃぐちゃになっちゃって」
あわててうめくのが聞こえてくる。彼女は一息ついてから、続けてきた。
「それで、わたしも逃 げたんだけど......なんていうのかな。好きな時にいつでもああいうことができるっていうのも、結構怖いわよね」
「......魔 術 士 の憂 鬱 、って言うんだけどな、《塔 》では」
オーフェンは嘆 息 した。自由な左腕 だけで肩 をすくめて、
「たいていの魔術士は、一度はこいつに引っかかるんだ。魔術ってのは、どう考えても生身の人間には扱 いかねる代 物 だからな。制 御 に自信が持てなくて、必要な時ですら、とっさに魔術を使うことをためらっちまう。一度大きな事故を起こした魔術士なんかは特に──」
「オーフェンは?」
「俺が魔術を使えるようになったのは、だいぶガキの頃 だったからな。恐 怖 心 は強かった」
「ふうん」
クリーオウが、こちらを見上げてくる。
「どうやって治したの?」
問われて、少し虚 空 を見上げ、答えに迷 う──
自分でも首を傾 げるような形で、オーフェンは答えた。
「自信があろうとなかろうと、使わないと死ぬ、て状 況 ばかりだったからな。自然と慣 れた」
「訓 練 とか厳 しかったんだ」
「いや......日常生活のほう......だったような気がする」
「?」
彼女はよく分からなかったのか、きょとんとして見せた。が、すぐに笑って、
「分かったような気がしたのよね」
「なにが」
「ああ、オーフェンて、やっぱりわたしと違 うんだなぁって。ずっと分かってはいたんだけど、よく分かってなかったというか。分かっていた部分が半分で分かっていなかった部分が残り半分だとすると今は分かっていなかった部分のさらに半分が新たに分かった部分として今まで分かっていた部分に加えられたというか」
「......こっちが分かんねえよ」
早口言葉のような彼女の言葉を遮 って、うめく。だが、彼女は別に構わないようだった。
「いいのいいの。わたしも、もっといろいろ勉強しなくちゃねって思っただけ」
「? ふーん」
話してるうちに、目的地に近づいている。
「お、ここか」
つぶやいて、オーフェンは足を止めた。クリーオウも少し遅 れて、立ち止まる。見上げると、やや大きめの市民病院だった。騒 ぎがあった地区とは、だいぶ離 れている。
クリーオウが顔を上げ、聞いてきた。
「ここにマジクがいるの?」
「そのはずだぜ。ウィノナの話じゃな」
「この子を連れて入っても大 丈 夫 かしら」
と、頭の上のレキを示してつぶやくクリーオウに、オーフェンは苦 笑 した。
「駄 目 だろうな。そこのベンチで休んでろよ。俺が引き取ってくるから」
「うん。あのさ、オーフェン──」
「ん?」
腕 から離れたクリーオウに呼び止められて、オーフェンは振 り向いた。彼女は手を後ろで組んで──妙 に真 摯 な瞳 で見つめてきている。口ごもるように唇 が、一度動いた。その後で、彼女の口は開いた。
「わたし多分きっと、勝手なことしてライアンのこと死なせちゃったんだね」
「............」
黙 って見ていると、彼女は、くすっと笑ってみせた。震 えながら。
「どうしたらいいのかな?」
その微 笑 みが、以前と変わらないように思えれば──そうも思う。だから。
「......今までと変わらないように、そう振る舞 うんだ。そんなふうに努力するしか......ないだろ」
オーフェンは手を振って、病院に入っていった。変わらないものなどなにひとつないと分かってはいても、それはどうしようもない。
(ライアン......か。よくは知らなかったが)
彼は恐 らく、望みを達したのだろう。クリーオウに絶望を与 えることができたのだ。
とはいえ。
(それでどうなっちまうかは、当人次 第 だ)
独りごちながら、盗 み見るように、クリーオウの姿を見やる。
彼女はレキを抱 いて、空を見上げていた。
◆◇◆◇◆
コルゴンは、我知らず、自分が早足になっていることに気づいて、歩調を緩 めた。あがりかけていた息を、深呼吸して正す。風は涼 しいが、体温はすぐには下がらなかった──そのくせ、汗 の冷たさにぞくりとする。
(なにを焦 っている......?)
港に近づき、道は混み合い始めている。その中で、彼は苦 笑 した。
(まるで逃 げ出すみたいじゃないか......)
なにから逃げるというのか。なにもない、名前すらない自分が。
手の甲 で、額 の汗をぬぐう。収まらない動 悸 を聞きながら、彼はふと、目の前に黒い人 影 があることに気づいた。
「............?」
ずんぐりとした、丸い肩 。どこの人間の隙 間 から現れたのか分からないが、一呼吸前にはいなかったことが断言できる。なにかの定形のような、黒い服。丸い輪 郭 の、黒い帽 子 。拳 。
(拳......⁉ )
思った瞬 間 には、至 近 距 離 からその男の放った拳が、みぞおちに突 き刺 さっていた。声もあげられないうちに、全身の力が抜 ける。どうしようもなく重いその拳に触 れた衝 撃 が、足 腰 を砕 いたようだった。脱 力 して、その場に倒 れる──その寸前を、その男当人に支えられる。
「......くっ......⁉ 」
息だけ漏 らす。視界の隅 で、男がさらに、なにか細長いものを取り出すのが見えた。注射器。
周囲の通行人たちは、なにも気づかないのか、変わらないざわめきだけを残して通り過ぎていく。黒い壁 のように。
針が首筋に触れる。ちくりとした痛み。なにかが侵 入 してくる、冷たい感 触 。
視界がぼやけた。粉々に打ち砕 かれ消えていく意識の中で、網 膜 に映 った最後の絵を、なんとか記 憶 しようと努める。
それは無 駄 な努力だったが、耳元で囁 かれた声だけは、はっきりと聞き取ることができた。
「......死人との約束などどうでもいいのかもしれないが......それでも、お前をこのまま逃がすわけにもいかないのでな。ライアンの......後任としては」
声は聞き覚えはない。だが、想像はついた。
「わたしといっしょに来てもらおうか......」
(聖服の──男──)
ジャック・フリズビー。監 視 をまいたまま、放置していた。
コルゴンの意識は、そこで途 切 れた。
『そうか! そうだったんだね川相くん! 君がどうしてダムに毒を入れたり岡崎先生を謀 殺 したりしたのか、そんなに深い理 由 があったなんて。あと石 斧 振り回しながら通勤時間帯の駅構内を練り歩いたりとか、放送局を乗っ取って毒 電 波 を垂 れ流したあげく軽く八百人ほど粛 正 したり。あの核ミサイルも君かぁ......でもよく考えてみたら多分、理由があっても駄 目 だろこれ』
『いや違うんだ聞いてくれ。理由があるとかないとか、大人の都 合 でぼくたちは傷ついていくんだ。父さんはぼくを愛していないのか⁉ 』
『父さんじゃないよぼく。あと、理由があるかないかって大人の都合なのかなぁ。川相くんの言うことはいつも難しいや。二百倍だー』
『なんの二百倍?』
『さあ。あと川相くん、君もう五十八歳になるんじゃなかったっけ?』
『それは秘密だって言っただろー! ひどいやロドリゲス』
『誰さそれ』
『君だよ』
『うん、ぼくロドリゲス。八番目の父親と十四番目の母親から生まれたよ』
『うわ。それ意味分かんないけどなんかすごく重 要 そうな情報だなぁ』
『馬鹿言うなー!』
『ぎゃー! ほかになにされてもいいから、その虫パンチはやめてくれよ』
『そうだねー。カマキリ握って君を殴 ってる自分がかなり嫌だし』
『気づけよぉ。かなり前の段階からさー』
「......と、以上、港楽島町リベラルホールからお送りいたしました。『そうかそうだったんだね川相くん(飯島さん)』作・演出は、おおまかな分類ではフランス人らしい悪 魔 おじさん。出演は、特に誰も。え? 舞台に人がいた? 変だなぁ。気にしないでください」
「なにがじゃあああっ!」
「ひゅおうっ⁉ 」
「正 気 を疑 われる前にとっととやめときなさい。作者のあんたが疑われっと、わたしら全員が巻 き添 えなんだから」
「むう。今の技......泰 山 妖 拳 ・蛇 咬 帯 ......⁉ 」
「違う」
「じゃあ、次 郎 拳 」
「弱そー。いや、そうじゃなくて。いいからマトモにしめてちょうだいよ。あとがきなんだから」
「うむ。あとがきかもしれない。さてと、今日も今日とて十五巻のあとがきです。って十五巻のあとがきって初めて書くような気もするけど、心持ち大きめに見逃しておいてください」
「だから分かりにくいってのに」
「しかしこうしてみると、十五冊と一口に言ってもかなりの量ですな。テキストによる総データ量、推 定 4MBくらい。このパソコンのHDD容 量 が7・85GBですから、このデータの膨 大 さというものがよく分かります」
「また無茶なこと言い切って」
「最近、仕事のせいか、HDDの容量が足りなくて」
「まずそのブリタニア大陸への接 続 手 段 を消しときなさい」
「ん? わけの分からないことを言うな」
「PKされて泣いてたくせに」
「えー。まあ、つらいこと苦しいこと。いろいろと乗り越えて、頑 張 ったんだけどPS2は買えなかったぼくですが。しっかし結末までやたらと長引いたドッペル・イクス編も、よーやくいったんの幕 引 きです。このシリーズもう一方の軸 になっている無謀編は、なんとか連載終了いたしましたが、こっちはまだ長くかかりそうな気配で。最後までおつきあいいただければ幸いです(ぺこり)」
「うむ」
「とまあ、このような次第で。また、次の巻 末 でお会いしましょう。ではでは〜」
「では〜♪......ところで、わたしって誰だったの?」
二〇〇〇年三月──
秋 田 禎 信

「姫 ! 戦 況 を報告いたします!」
直 立 不 動 の姿 勢 で声を張り上げる部下を見下ろして、姫は自 らの無 敵 の軍がどういった状 況 におかれているか──報告されるまでもなく──悟 った。悪い。戦況は限りなく悪い。極 悪 とすらいえる。
(やはり、焦 るべきではなかったのか......?)
あごの上を、汗 がつたうのを感じる。外は涼 しくとも、司 令 テントの中は蒸 し暑 い。身体 を隙 なく包む鎧 の留 め具 がこすれる音を聞きながら、その暑さは重 甲 冑 のせいかもしれぬと思い直すが、だからといってそれを脱 ぐわけにもいかない。ここは戦場であり、鎧を着ない者は戦場にはいられない。それが戦 であり、この大 陸 で長らく続けられてきた作 法 であり、そして未来に続く威 厳 であるはずだった。
組み立て式のテーブルの上に広げられた地図、そしてその上に置かれた自分の兜 。兜には強 靭 な軍馬を模 したたてがみがしつらえられている。見事な意 匠 が、戦場では遠くからでも敵兵に彼女の存在を知らせるだろう。敵は喜び勇 んで、自分の首を──戦場の生 ける伝説にして不 敗 の将 軍 である自分の首を、その兜ごと胴 体 から切り離 すべく突 進 してくるだろうか? とすれば敵軍は、その慌 て者 たちを数名か、数十名か、自動的に失うことになる。彼女は手 っ甲 の中で拳 を固め、その光景を思い描 いた。まあ、実際にそういったことがあったわけではないが──多分そうなる。きっとそうなるのだろう。そうに決まっている。
「話せ」
彼女は短 く静かに、そう告 げた。部下のすべては、自分よりかなり背が低い──ため、見下ろす姿勢が自然と型 になっている。テントの天 井 を危 うくかすめそうな、その部下の長 大 な矛 の穂 先 が気がかりになっても、彼女の視 線 はあくまで部下の目を見定めていた。その部下が錯 乱 しているのか否 か、その報告が正確かどうか、見 極 めるのは重大なことだった。たとえ知らない間にテントの屋根に穴 が開き、雨天に使い物にならなくなろうとも。優先順位はそれほどのものではない。三番目か、四番目といったところだ。
とまれ、部下はまず自らの兜の位置を正してから、早口でまくし立ててきた。
「左 翼 大 隊 は、ほぼ壊 滅 状 態 です!」
その声には涙 すらにじんでいるように聞こえた。無論、屈 強 の兵士が、そのようなものを表 に出すはずはないとしても。
「かろうじて、伏 兵 の存在はまだ看 破 されてはいないはず。しかし時間の問題でありまするぞ! 早いうちに投入せねば──」
「僭 越 であるぞ」
彼女は冷ややかにつぶやいた。
「我 が軍の将は、姫である」
「はッ! 失礼いたしました!」
再び直立不動の敬礼を取り、部下は続けてきた。
「敵軍の目的は、我 々 の殲 滅 ......民 族 の撲 滅 であることは明らか! 容 赦 のない攻 撃 を繰 り返してきております! 我ら全軍、言うまでもなく全力で反撃しておりますが、敵軍の火 力 は史上かつてない熾 烈 さを──」
「報告に推 測 はいらん。事実のみを申 せ」
「はッ......! つ、つまり......その......左翼大隊は壊滅です」
「よろしい」
彼女はうなずくと、地図上に並 べてあった駒 をひとつ横に除 け、そして倒 してあった駒を起きあがらせた。
「伏 せてあった遊 撃 中 隊 を投入せよ。迅 速 にだ。躊 躇 はいらん。これをもって、敵軍の側面を撃 滅 する」
「は......はい! 伝えて参 りまする!」
大声で答え、そして部下がテントから飛び出していく。彼女はそれを見送ってから──司令部に自分しかいないことを確かめ、息をついた。ガラスの色に輝 くブロンドを、首を振 ってはね除 け、そしてうめく。
「特 務 小 隊 も......報告はないが......もう動いてはおるまい」
口 惜 しさに奥 歯 を嚙 みしめ、
「ならぬのか......? この戦 、既 に姫の手のひらからこぼれ落ち、その破 片 が姫の心臓を狙 っておるか⁉ 」
「報告ーッ!」
また別の部下が、テントに飛び込んでくる。
「姫、て、敵軍に伏兵が......!」
「なに⁉ 」
さすがにその報告には度 肝 を抜 かれて、彼女は狼 狽 の声をあげてしまった──これが失態であることが分からなかったわけではないが。将 が焦 ることは部下を焦らせる。百 害 があり、そして一 利 もない。
落ち着くように自分に命じ、そして部下の目を見定める。その報告は真実か過 誤 か?
だが、傷 ついた部下の眼 差 しには、悲 壮 な覚 悟 は見受けられるとも、浮 ついた混乱など見て取れなかった。
「あまりにも忽 然 と......あの布 陣 からはまさか考えられませぬ。しかし伏兵が現れましたッ! し、しかも恐 るべき数......!」
「なんと......」
なんということか。
肩 から力が抜けるのを自覚したのは、鎧 の装 甲 が派 手 な音を立てたせいだった。これは、部下にも聞こえただろう──むしろそのことが、彼女には気がかりだった。鎧は時代物の重甲冑だが、彼女の体格には大きすぎる。そのため、内部はがらんどうに近かった。まさか、彼女の軍団の中に、それを上げ底などと言う無 礼 者 はいないだろうが、後ろ暗い罪 悪 感 が、胸を締 め付けるのは否 めない。
(いや)
彼女はかぶりを振 った。違 う。筋肉の量は関係がない。力などに頼 らずとも自分は有能な戦士なのだから。部隊が壊 滅 し、自分ひとりになろうとも、敵を殲 滅 できる可能性は必ず残っている。彼女は最強の兵なのだから、それができる。できるはずだ。
最後には自分に言い聞かせて、彼女は顔を上げた。あごで空を指し示す。そのつもりで、姿勢を正 す。
そして、号令した。
「これより、最終決戦に挑 む!」
兜を手に取り、彼女は神に祈 った。神を見失った下 劣 な敵どもに負けるはずはない。
カラビンカという名前がなにを意味しているのか、それを知らないということはたいしたことではなくとも、調べる気にすらならなかったのは、彼を知る者からすれば、驚 きだろう──無 知 の恥 とは、それを知らなかったことではなく、知らずにいるのを気にしないことなのだから。彼を無知だと言う者もいないが、全能でないことを責 める者もいない。フォルテ・パッキンガムがその単語を調べる気にならなかったのは、その言葉の意味などよりも、その言葉そのものが、実 物 を示しているのならばそれでいいと思ったせいだった。つまるところ、カラビンカがタフレム市の繁 華 街 にある市民向けの劇 場 であると知っていさえすれば、誰 がどういった意図でそれを名付けたのかなど、どうでもいいことだった。
いやむしろ、その単語の意味で、劇場の存在そのものが変質してしまうのではないか──そんなことを思わないでもない。二十五歳 。老 練 ぶることには慣れたが、年 齢 通 りに考えれば若 造 じゃないか。そんなことを胸中でつぶやきながら、皮 肉 に微 笑 む。ただし、表 には出さずに。
ひとりで劇場に来たのは久しぶりだった。大 抵 は、誰 かを誘 う。そもそも、ひとりで出かけるのは好きではなかった。恐 ろしく無 駄 なことをしているような、そんな脅 迫 じみた後ろ暗さから、わざわざ逃 げずにいられるのならば折 り合 ったほうがいい。別に、相手は誰でも良かった。レティシャ・マクレディでも構わない。彼女が歌 劇 を死ぬほど憎 悪 する理由など知らないが、それでも機 嫌 の良い時にはつき合ってくれる。特に演 目 が冗 長 なミュージカルなどではなく──パンフレットに上演時間四時間半などと堂々と書くことのできる劇団の神経が知れないが──、短 ければ短いほど。小劇場のコントや演 劇 などのほうが彼女の好みなのだろう。何度か連れて行って、大 概 は好 評 だった。
彼女の生徒は、もっとやっかいだった。タフレム市を留 守 にしている彼女に替 わって、彼があの悪 魔 たちを預 かっているが、あの兄妹 が娯 楽 に飢えていることに気づいてはいても、どこかに連れ回したいとはどうしても思えない。子供が嫌 いなわけではない。苦 手 なわけでもない。あのふたりが極 端 に扱 いづらい連中というわけでもあるまい。フォルテは自 嘲 を強めて、静かに認めた。単に、避 けておきたいというだけに過ぎない。必要以上に距 離 を縮めたくない。あのふたりは仲の良い兄妹だ──兄のほうには、多少、向上心があるようだが。恐らく、妹 が望む限りは今の場所に留 まるだろう。どうだろう? 妹は、一生、兄が家族であることを望むだろうか。それとも、思 春 期 あたりにあっさり兄 離 れして、その十年後ほどに和 解 するだろうか。どちらも平 凡 で、ありそうなことに思えた。どちらでもいいだろう。あのふたりは永遠に兄妹だ。
(我 々 のような、仮 初 めの家族とは違う)
彼は、今度は表に出してため息をついた。暗い劇場の中の、どちらかといえば出口に近い席で、少しばかり緊張を緩 めることまで自 らに禁じるつもりは毛 頭 なかった。自分は先生ではない。
いや、大陸最強の魔 術 士 ──チャイルドマン・パウダーフィールド教 師 など、実は万 人 の妄 想 の産物なのではないか。彼が《塔 》の実 権 を握 ったのは、今の自分と同じ年 齢 の時だ。あの伝 説 の男は、もうその時既 に老 練 そのものだった......
(そう思ってしまうことが、妄想の元なのかもしれないが)
一応、魔術士らしく冷静に、そう考える部分もある。
(好評は過 大 になっていくものだ。人 伝 に、先生のことを聞かされたのなら、わたしだって信じないだろうな、そんな驚 異 の存在が、実在したことなど)
が。
自分は実際に数年間、彼に師 事 したのだ。
自身、究 極 の才能として持ち上げられ、自分を抱 える腕 がそれを運び込んだ先が、あの教師のクラスだった。チャイルドマン教室。
舞 台 では大 柄 な女 優 が──パンフレットによれば──絶 対 音 感 というハンデを克 服 して得たというソプラノを、客 席 天 井 の広大な空間に向かって放 射 していた。無論そんなものは目には見えないが、それでもなにか刃 のように鋭 い網 目を思い浮 かべずにはいられず、彼は数 瞬 だけ、空 想 に耽 った。その網の中をくぐろうとしている小鳥......網目はあまりにも小さすぎて......そして。
想像の世界は、そこで終わった。もともと、イメージだけをいつまでも膨 らませていくことは自分には向いていない。だが、それでも小鳥の運命は知っておきたかったようにも思えた。誰 かがそれを見せたくなくて、自分の目の前から取り上げたとしたら、それは何者だろう。自分自身? その小鳥? 注意散 漫 な客を発見した女優の呪 詛 ?
馬 鹿 げている。馬鹿げている、が──
そこで眠 ってしまったらしい。カーテンが開く音で目が覚めた。暗かった客席に、夕 日 が差し込んでくる。演 目 はすべて終了したらしい。気の長い客がいまだ拍 手 を続け、気の短い客はもう席を立って出口に集まりつつある。悪い舞台ではなかったのだろう。とりあえず彼は、それだけ記 憶 した。五年後にまた来てみよう。それまでこの演目が続いているのなら。次には、分かるようになっているかもしれない。
彼もまた席を立とうとし、
「............?」
眉 をひそめ、浮かしかけた腰 を席にもどした。隣 に座 っていた男──気楽に舞台の方向を眺 めて、指先をしならせた、緩 慢 な拍 手 を送っている──を、もう一 瞥 する。
なにかを言おうとするよりも、その男が拍手をやめ、はっきりとこちらを向くほうがほんの一拍、早かった。
「態度が良くないな、フォルテ・パッキンガム」
面 白 がるようにあごを撫 で──髭 どころか体毛すらないのではないかと思える無機質な肌 から指先を離 し、あとを続ける。
「眠るのは良くない。いい舞台だった。特に、あれだ。そう......すまんね。感動を言葉にするとどうしても陳 腐 になってしまう。ああ、良かった。おおむねだいたい良かった。王が絶望して王 妃 の首を絞 めるんだが、呪 いのかかった姫はそれを助けてしまう。そのことが、自分の死を意味すると知りながら。さて、君が訝 っている理由は分かっている。ここは、君が予約した席だものな?」
「連れはいないがな」
「まあ、そうつんけんしないでくれ。敵意がないのは見れば分かるだろう」
「そんなものが見て分かるか」
フォルテは素 っ気 なく告 げると、席を立った。
私用なので、いつもの《塔》のローブは着ていない──当たり前だが、武 装 もしていない。
それは相手も同じだった。おとなしいベージュのスーツに、青いネクタイ。反射的に拒 絶 はしたが、実を言えば、彼に敵意がないことは見れば分かった 。根 拠 などはあるはずもないが。
顔に見覚えはない。だが、相手はこちらを知っている。本 格 的 に客が帰り始め、静かな喧 噪 に包まれた客席の中で、落ち着いていまだ座り込んでいる。拍手をやめた手を組み合わせ、親指で鼻をかいているその男を、フォルテは改 めて観 察 した。敵意は感じない。敵かどうかは分からない。
屈 折 しているようであけすけな、その笑 みのせいかもしれない。鼻の下で、きれいに整 えられた短い口ひげのせいかもしれない。こんな退 屈 な舞台を眠らずに見ていられたらしいこと、それかもしれない。
それだけ見て取って、フォルテはうめいた。
「わたしになにか用事が?」
「ないかもしれない。ないわけもない。あるに決まっている」
三段階、わざわざ手 振 りまでつけて言ってから、その男はひとりで笑った。
「自 己 紹 介 しよう。俺 は、クラベ・ラシール」
「偽 名 か?」
「みなそう言う。時間を無 駄 にするつもりがあるのなら調べればいいさ。もっとも、君ならこの名前に心当たりがあっても良さそうなものだと思うのだが──」
「ある。だから偽名かと聞いている」
苛立 たしく、フォルテは続けた。
「だが、そうまで言うのなら騙 りではないのだろう。わたしが知っているその名前は、宮 廷 魔 術 士 の五位にある」
「《十三使 徒 》ナンバーズのひとり、クラベ・ラシール。これでも君の先 輩 だ。タフレムに来るのは久しぶりだよ」
「............」
喧噪は、収まりつつあった。席を去りながら、最後列の座席で──およそ和 やかとは言えない面 持 ちで──にらみ合っている自分たちを、ちらちらと不 思 議 そうに見ていく客が少なからずいることを意識して、フォルテは咳 払 いした。
「どういうことだ?」
聞く。なるたけ、敵対的にならないように注意しながら。
実際にそれがうまくいっていたかどうかは分からなかったが、少なくとも意 図 は伝わったろう──それが分からないほど愚 かな相手というわけでもあるまい。なんにしろ、そのクラベという男は一 瞬 、惚 けたように虚 空 を見上げてから、視 線 をこちらへともどしてきた。年齢は、三十ほどだろうか? こちらより年上なのは確実だが、そう離 れているわけでもない。
宮廷魔術士は、さほど具 合 の良いはずがない劇場の座席に座り直し、すっかりくつろいだ様子で言ってきた。
「チャイルドマン・パウダーフィールドに会いたい。一 刻 も早くだ」
その声には、それを発した当人の姿 にまったく似 合 わず、追い立てられた感情が含 まれているように聞こえた。
◆◇◆◇◆
「我 は放つ、光の白 刃 っ!」
やや緊 張 した張りを持つ声が、続いて轟 いた爆 発 音 にかき消された。
十数メートル先の、地面から突 き出した三角の岩が光に包まれ、爆発する。光の渦 は標 的 を破 壊 したその空間でしばし炎 上 してから、そのまま消えた。オーフェンはそれを眺 めて──そして、視線をゆっくりと水平に移動させた。
魔術を放ったのは、彼ではなかった。やや離れたところで両手を掲 げ、じっとりと汗 を垂らして固まっている生徒を見つめて、声をあげる。
「合格だ。上を見ればきりがねえけど、制 御 に余 裕 があるくらい完 璧 な構成だ」
「............」
「マジク?」
「え? あ、はい。そうですか......」
驚 いたように腕 を下げ、金 髪 の少年がうめくのが聞こえた。碧 色 に輝 く瞳 を白黒させて、自分がしたことをなにか第三者の仕 業 だとでもいうように、どこか現実感の欠 けた表情で己 の手のひらと、破壊された岩とを見 比 べている。
オーフェンは後頭部をかきながら──あとを続けた。
「いったんコツをつかんじまえば、簡 単 なことだろ。要 は、自分に扱 いきれない限 界 の一歩手前で自制することだ。あとは繰 り返し、その手 加 減 を忘れないよう練習すればいい。どんな状 況 で、どれだけの力が必要とされるのか。そのうち、それができて当然になる」

「はあ」
マジクが、ぼんやりと生 返 事 を返してくる。
街 を離 れ、街 道 を外 れると、まず人に会うこともない。大 陸 の交通の主流は海 路 であり、都市間道路も整 備 されているとはいえ、陸路に危険がないわけではなかった。ましてやその街道すら離れれば、何者の管理も及 んでいない地 域 というものは意外と多い。大陸の総人口は緩 やかに増大しており、農村の開 拓 に需 要 があるとはいえ、開拓業者が目をつけるべき土地は都市近 郊 にまだまだ存在していた。
アーバンラマ市を出たのは、一週間前のことになる。
荒 野 の風に、空に、吹 かれつつオーフェンはあとを続けた。
「魔 術 ってのは暴 発 しやすい反面、いついかなる時でも制 御 できる力ではある。全体の危 険 を十とするなら、術 者 はその時必要とされている力がそのうちの一なのか九なのか、把 握 できていないといけない。時には、力の限界以上のものを要求されることというのもないわけじゃないだろうが......勧 めはしないな。制御できない魔術を使うことと、それでなければ対 処 できない事態に魔術なしで立ち向かうのと、どちらがマシかなんてのは、正直言って俺にも分からんね」
「ええ」
「昔 から魔術士が戦 闘 訓 練 をしてきたのは、魔術士狩 りの歴史があったからだが、今ではそれほど現実的というわけじゃない......」
大陸は平和になり、魔術士も人 権 を持ち、自 衛 のための組 織 もある。
人々の意識も変わり──つまりは、生活が向上して迫 害 すべき攻 撃 対 象 を作らずとも精神のバランスが取れるようになったのだとも言える。逆に言えば、バランスが崩 れれば途 端 に攻撃者となるとも言える。
「まあ、教科書通り、歴史において魔術士が一方的な被 害 者 だったなんて、今どき誰 も信じちゃいないけどな」
オーフェンは肩 をすくめると、肩を回して関 節 をほぐしながら、話していた生徒から数メートル離れて、対 峙 した。ぽかんとこちらを見ているマジクに、告 げる。
「んじゃ、試 してみるか」
腕 を上げ──指先をマジクに向けてから、改めて身体 を九十度旋 回 させて、向きを変える。
構成は一 瞬 で事 足 りた。使い慣れたイメージを具 現 化 するプロセスは、既 に意識する必要すらない。
「我 は放つ光の白 刃 」
呪 文 をつぶやくと、先ほど生徒が見せたのと同じ白い輝 きが渦 を巻いて放たれた。腕の先が指し示す地 点 を大きくえぐり、爆 発 を起こす。
爆音がまだ消えないかどうかのタイミングで、オーフェンは再びマジクへと向き直った。
「呼吸は分かったか? 今から俺が、お前に向かって魔術を放つ。そいつを防 ぐんだ」
「............」
「マジク?」
聞いた様子もなしに、目を見開いて爆発地点を呆 然 と見つめているマジクに、オーフェンは呼びかけた。はっと、大 仰 に驚 いて、金髪の少年がこちらを向いてくる。
「え?──は、はい」
「聞いてたか?」
「聞いてました......ええと、あの、いえ、なんの話ですか?」
「あのなぁ」
半 眼 で、うめき声を漏 らしかけるが──止 めて、言い直す。
「俺が、これからお前に向かって魔術を使うから、そいつを防げって言ったんだよ」
「はあ⁉ 」
素 っ頓 狂 な声を、マジクがあげる。
突 然 ばたばたと両手を振 り回すようにして、その場から一歩下がる。
「そ、そんなの、お師 様 の魔術なんか防げるわけないでしょう?」
「別に全力でやるなんて言ってない」
呆 れて、うめく。オーフェンは、ずっと上げていた腕を下げた。
「奇 襲 するわけでもない。一、二の三でタイミングを測 って──」
「それでも、ぼくが防御の構成に失敗したら、死んじゃうじゃないですか」
「さっきも言っただろ。お前の構成に問題はない」
「でも──」
しどろもどろに繰 り返すマジクに、オーフェンは嘆 息 した。
こちらがもう、なにも言うのをやめたのにも気づかず、マジクはしばらく言い訳を続けようとしている。
止めなければ、ずっと続けるかもしれない。
オーフェンは胸中でつぶやいた──誰 にも聞こえない小声で。街 道 を離 れた荒 野 に聞き手がいるわけでもなく、誰に隠 すようなことでもないとはいえ。
(魔術士の憂 鬱 ......か)
(考えてみたら、俺がキムラックで陥 ったのも、ある意味、同じ症 状 か......あれほどではないにしろ、かなり重 症 だな、マジクの奴 )
生徒に自主練習を言い渡して、その場を後にしてからひとり歩きながら、考え込む。
魔術士たち──それも未 熟 な術 者 たちが一度はつまずくと言われている、有名な症状だった。突 如 として、自分の魔術に恐 怖 を覚え、それを使うことを躊 躇 するようになる。むしろ、生 身 で扱 うには危 険 すぎる、魔術という力に対する健 全 な危機感とも言えるのだが、自 覚 症状がない場合、実際にその魔術が必要とされる──たとえば頭 上 に植 木 鉢 が落ちてくる、階段から転 げ落ちる、処 女 の生 け贄 で古代の魔王が復活する──そういった場面での躊躇は、かえって深 刻 な事態を引き起こしかねない。自覚がある場合には、さらに面 倒 なことになる。魔術士が魔術士をやめることはできない。自分の身体 に遺 伝 子 レベルで刻 み込まれた魔術という十 字 架 を、恐怖しながら生活していかなければならない。
特 効 の治 療 法 は、ない。恐怖に慣れるほかにこれといった解 決 策 はなく、それは時間が解決してくれることを祈 るしかない。
(むしろ、憂鬱を経験しない術者のほうが危 なっかしいんだ。魔術の怖 さを理解してねえってことだから。となれば、まあ、ほっとくのが吉 か)
とはいえ......
「普 通 の状況なら、そうなんだろうけどな」
「今が普通じゃないっての?」
と。
目の前に、ひょっこりと姿 を現した大 柄 な女が、ずっと会話をしていたとでもいうような気 軽 さで聞いてくる。
骨 格 と、筋肉と。バランス良く鍛 え上げられた体 軀 は不自然さもなく、彼女の浮 かべているにやりとした笑 みにマッチしていた。
その女──ウィノナは、くたびれたトレーナーの胸元で腕 組 みして、こちらの返事を待っている。オーフェンは皮 肉 に口元が引きつるのを、はっきりと感じていた。
「ドラゴン種族と抗 争 しているとかいう能 天 気 な輩 の部下の非合法員に案内されて、その能天気な輩の領 地 だかなんだかに連れられている最中だ。尋 常 なことかよ」
「そのうち、それが日常になるわけよ。あたしたちだけじゃない。大陸全土がね」
「さっきのを省 略 する。能天気な非合法員、にしても意味は通じそうだ」
「あたしは非合法じゃない。れっきとした派 遣 警 察 官 だって言ったろ? 非公式かもしれないけどね」
そのあたりの議論をするつもりは毛 頭 なく、オーフェンは適当に手を振った。見ようによっては、肯 定 とも否 定 とも取れただろうが。ウィノナは、降 参 と受け取ったらしい。
「領 主 様 が、あんたを必要としているのはさ。別にあんたが従 順 であることを期待してのことじゃない。けど、そのあんたを従順にさせるのも、あたしの役目のひとつだと思ってるのよね」
「せいぜいとは言わないが、頑 張 ってくれ」
それも投げやりに受け流して、オーフェンは彼女を避 けて進もうとした。が、その行く手にウィノナがつま先を差し込んでふさいでくる。
「なんでそこまで、ドラゴン種族を恐 れるの? あんたは強力な魔術士だよ。恐らくは、大陸にもふたりといないほどのね」
「《十三使 徒 》をあたれよ。あそこにゃ、俺 より強力な術者がごろごろしてる」
「はっ。真っ先にケツまくって、王 都 でその尻 震 わせてるトーシロどもさ、あんなのは」
「俺だってその候 補 だったんだが。しかも試 験 に落ちた」
「この大陸にいる魔術士の、いったい誰 がレッド・ドラゴン種族の最悪の暗 殺 者 を滅 ぼせる?.........あんた以外にさ」
「もう一度やれば、俺が死んでるさ。いや、というよりダミアンに助けてもらわなけりゃ、俺は死んでた」
うんざりと息をついて──オーフェンは、ウィノナの肩 を押 しやった。抵 抗 されれば微 動 させることもできなかっただろうが、彼女はあっさりと後ろに退 いた。どこか冷たい、だが熱っぽい目でこちらを見やりながら。
「ダミアン・ルーウは、助ける価値のある相手だけを助けるのよ。領主様にとって、価値のある相手をね」
「今さら俺をおだて上げたところで、なんになるんだ?」
オーフェンは顔をしかめてつぶやいた。
「その領主のところには行く、と言ってるだろ。だから文句も言わずに、あんたについて来てるんじゃねえか」
「領主様に、姉 の消 息 を聞くために、だろ?」
「ああ。そういう約 束 だろ」
「できれば、領主様のために領主様に会って欲 しいと、あたしは思ってる」
ウィノナが、それで会話を打ち切って、すれ違 うように去っていく。
オーフェンは振 り向かず、気 配 だけで彼女を探 っていた。彼女もこちらを見る様子はなく、そのまま真 っ直 ぐ進んでいく。マジクがまだ練習をしている方角を目指しているようにも思える。まったく関係なく、ただ適当に離れているだけかもしれないが。
彼は立ち止まったまま数分、そこにいた。
(なんなんだ......?)
疑問が浮 かんでくる。
(最 接 近 領 の領主......か)
ウィノナは、無 私 でその領主とやらに仕 えているように見える。
ドラゴン種族と戦うことなど、まったくの無 茶 だということがわからないほど愚 かだというわけでもあるまいに。
(あのコルゴンでさえ、領主の頼 みで動いているようなことを言っていたな)
大陸で最強の術 者 。ということであれば、思い浮かぶのはむしろ、自分の兄 弟 子 になるその男のことだった。《十三使徒》も比 較 にならない。
(さらには、白 魔 術 士 のダミアンか......)
ここ十数日で知っただけでも、この三人。
(こんな連中を、心 底 から仕えさせるような人間なんてのが存在するのか?)
なにか、担 がれているような気がして仕方がない。
腑 に落ちない気分を抱 えたまま、当人に会ってみるしかなさそうだった。
(ま、納 得 のいかない人間関係なんてのは、結構いくらでも転 がってるもんなのかもしれないけどな)
「必 殺 ・燕 返 し六枚おろしぃぃぃっ!」
派 手 な叫 び声をあげながら、振りかぶった木 剣 を予想しようもないほどに──としか言いようがないが──振り回し、飛びかかる少女に対して、同じく木剣を構えて待ち受けている相手はひどく落ち着き払 っていた。横 殴 りの敵の剣を軽く、剣の先で弾 き返すと、そのままその一点から加速して、標 的 へとその刀 身 を叩 き込む。
防 具 に包まれた胴 とはいえ、木剣の一 撃 を受けて耐 えられるほど、少女の身体 に体力があったはずはない。それでも、金 髪 を振り乱した少女が二、三歩後 ずさりしてそのまま尻 餅 をついた程度で済 んだのは、その一撃が、多分に手 加 減 されたものだったからだろう。転んだ相手を見下ろして、もうひとりの黒 髪 の少女が剣を下ろした。
「大 丈 夫 ?」
「う......うん。なんか、ええと、慣れたし」
複雑な表情で、金髪の少女が──クリーオウがうめくのが聞こえる。
まだふたりとも、こちらには気づいていないようだった。数メートル離れたところで、転がって砂遊びをしている黒い子犬をまたぎながら、オーフェンはふたりを比 べて観察していた。
ふたり、同じ防具を着け、同じ木剣を持っている。それらのくたびれた防具やらなにやらは、もうひとりの少女、ロッテーシャの道場から持ってきたものだった。日に一時間はこうして飽 きもせずに特 訓 だかなんだかをしているらしいが、実力の差は歴 然 としていた。それでも身体を動かせば気分が良いのか、ロッテーシャも特に嫌 がりもせずに、クリーオウのわがままにつき合っている。
(納 得 のいかない人間関係、か)
オーフェンは胸中で独 りごちた。
(まったくだ)
と、こちらに気づいたのは、ロッテーシャのほうが早かった。
「あ」
どこか栓 の抜 けたような瞳 をこちらに向けると、
「......見てたんですか?」
それがなにかルール違 反 だとでも言いたげに口を尖 らせ、言ってくる。どうにも答えようがなく言葉に困っていると、クリーオウが勢いよく立ち上がった。長い金髪を逆立たせるほど怒 り狂 って、木剣を持ったままこちらに近づいてくる。
「オーフェーン!」
彼女は目の前で立ち止まり、背 伸 びして声をあげた。
「オーフェンに昨日 聞いたやつ、全然駄 目 じゃない!」
「聞いたやつ?」
首を傾 げると、それを追いかけるようにしてばたばたと横に回り込んでくる。
「必 殺 技 よ、必っ殺っ技! これがあればもう大丈夫とか、なんか思いっきり保 証 してたじゃない!」
「あー、あれ。どんなの試 したんだ?」
あくび混じりに聞く。と、クリーオウはいったん身体を引っ込めて、指折り数えだした。
「ええとね、今のが燕返し六枚おろしでしょ。さっき、つづら山シムノン斬 りやったけど駄目だったし、膝 枕 六 角 叩 きは出す前に潰 されたし、銀 河 流 星 ハンサム殺しはまだ試してないけど」
「それやってみろよ」
「あ、ホント? それでいける?」
「多分」
一 転 して喜びに変わったクリーオウの頭を軽く叩きながら、オーフェンはうなずいた。と、ずっと話を聞いていたロッテーシャが、怪 訝 そうに聞いてくる。
「あの......さっきから、なんなんです? その技って」
「ああ、クリーオウがさ。どうしても君に勝てないもんだから、なんかいい手はないかと言うんで」
「そーよ」
説明していると、クリーオウが横から得意げに胸を張り、あとを継 ぐ。
「次こそはロッテも油 断 しないほうがいいわよ。ほら、構えて構えて」
「う、うん」
後ろ暗い返事をかえしつつ、ロッテーシャが再び剣先を上げる。そして──
「銀河流星っ!」
クリーオウがその剣を、大きく右肩を越 えるように振 りかぶり、声をあげた。
「カナブン殺しぃぃぃっ!」
そのまま突 進 するが。
剣を振る隙 もなく、身を低くして一歩前進してきたロッテーシャに、身体ごと体当たりされて動きを止めた。軽く吹 き飛ばされ、そのまま倒 れる。
「............?」
ロッテーシャが、わけが分からないというようにクリーオウを見つめているうちに、クリーオウはさっさと立ち上がった。倒れた際に取り落とした木剣を探 しながら、

「変ねー......なんで通用しないのかしら」
「そうだなぁ」
こちらに飛んできた木剣を右手で受け止めた姿 勢 のままで、オーフェンはいっしょに疑 問 符 をあげた。
「やっぱタイミングだろう」
「そうかしら」
「あの」
おずおずと手を伸 ばし、ロッテーシャが聞いてくる。
「結局、なんなんです? これ」
「ああ」
オーフェンはうなずいて、
「とりあえず大声で技叫 んで打ち込んだら、びっくりして引っかかってくれるかなと思ったんだが、通用しないみたいだな」
「最後のなんか、さりげに技名間 違 えたりする高等テクだったのにね」
「なにがっ⁉ 」
叫んでくるロッテーシャに、オーフェンは肩をすくめた。
「仕方ないだろ。勝ちようがない相手をなんとかしたいのなら、奇 襲 くらいは考えねえとな」
「......わたしとクリーオウの技術は、そう大差ないですよ」
元・剣の道 場 主 をしていた少女が、木剣を抱 えて説得力のないことを言う。オーフェンは苦 笑 を隠 すために口元に手を当てて、うめいた。
「紙 一 重 の勝ちを百パーセント拾えるのなら、今さら謙 遜 はいらないだろ。君は俺が知る限り、トップクラスの剣 術 競 技 者 だと思うがな」
「............」
「ん?」
突 如 として沈 黙 したロッテーシャの無言の声に、オーフェンは聞き返した。彼女がなんの言葉を発しようとしたのかは分からないまでも、言いたいことは理解できなくもない。ロッテーシャは剣を鞘 に入れるように木剣を逆 手 に下げると、クリーオウへと向き直った。運動服と防具を叩 いて砂 埃 を落としている彼女に、無表情な声を投げる。
「今日 はこのへんにしておきましょう、クリーオウ。奇襲はともかく、筋 ははっきりしてきたと思う。剣は面 と面の面積の取り合いだってことが分かってくれれば、わたしの構えのどこに隙 があるのか見えてくると思うんだけど」
「うん」
分かっているのかいないのか、気楽にクリーオウが返事する。虚 空 を見上げ、
「でも、どうしてもスピードで負けちゃうのよね」
聞いて、ロッテーシャは困ったように頬 をかいた。
「剣の速度は変わらないわよ。腕 力 にそんな違 いがあるわけないもの」
「そう?」
「違うように思えるのは、わたしのほうが先手に動いてるから。後 から動いても先 を取る、そして相手の機 先 を制するの──って、こんなのはまだ考えなくていいことだけどね」
「ふんふん」
と。
熱心に聞き入るクリーオウに、ロッテーシャがふと、表情を変えた。
どこか、不安げに目を細め、喉 が一度震 えたのも見える。細い身体を居 心 地 悪 そうに身じろぎさせて、彼女は小さく問いを発した。
「......なんでこんなことをするの? クリーオウは」
「へ?」
目をぱちくりさせて、クリーオウ。オーフェンは、口出しせずにずっと見ていた今までのまま、腕組みしてふたりを見つめていた。その視 線 に気づいたのか、また別の理由があるのか、ロッテーシャがちらりとだけ、こちらを見上げた。
ほんの一 瞬 のことで、すぐにそれも消える。ロッテーシャは珍 しく愛 想 の良い笑 みを、のぞかせる程度にだけ見せると、道場の作法で軽く一礼した。
「いえ、なんでもないの。じゃあわたしは、ちょっと歩いてから着 替 えにもどるから」
と、手を振って歩いていく。
それを見送って──
(納得いかない人間関係、か)
ふと、考え込む。
(なんで、コルゴンは彼女と結 婚 なんかしたんだ......?)
理由など考えても意味のないことなのかもしれないが。理由のあることならば、その理由が理解できそうにない。そんな気はする。
気がつくとクリーオウはもう防 具 を外 して、いつの間にか足 下 に転 がってきていた黒い子犬──ではなく、ドラゴン種族の子供であるレキを抱 き上げようとしているところだった。几 帳 面 に畳 まれて地面に置かれている防具を見て、自分が自覚しているより長く黙 考 していたことを悟 り、ゆっくりとかぶりを振る。
このところ、考え事をしている時間が多くなっていることは自覚していた。
そのほとんどが同じ疑問ばかりで、答えも出ないままぐるぐると回り続けている。意味がなく、益 もない。
ただ......
(もう少しで......答えがぽんと出てくるような、そんな感じもしているんだけど、な)
頭上の定位置にレキを乗せるクリーオウを見ながら、オーフェンはぼんやりと、そんなことを考えていた。
◆◇◆◇◆
嫌 な予感はしていた。予感なしに悪いことが起こったことはなかったようにも思う──が、ただそれは四六時中、ひっきりなしに悪い予感がしているせいではないかとも思う。不安はよく慣れた友人のようなものであり、伴 侶 のようであり、血を分けた兄 弟 みたいなものだった。最後のは、文字通りなのかもしれないが。
だが、最近なにか、もうひとつ別のものが加わったような気もする。
「──で」
その女が、およそ好意的とは言えない冷ややかな口 調 で静かにつぶやくのを聞きながら、そう思えてならない。
「本当にあなたたちが、キリランシェロを見つける手がかりになるんでしょうね」
「はーっはっはっ! 無 論 だ! このマスマテュリアの闘 犬 についていれば問題はないっ! なにしろ!」
やたら堂々と腕 組 みし、毛皮のマントを翻 して大笑する兄──ボルカンに、その女の表情が、多少でも氷 解 したとは見えなかったが、なんにしろ兄が、そんなことを今さら気にかけるわけでもない。ポーズを取って、きっぱりと言い切る。
「俺 様 こそが、あの腐 れ魔 術 士 が血 眼 で追い求める、究 極 の強 敵 であることは疑う者もなしっ! ほうっておいても、奴 のほうからやってくる!」
「でもこのところ、すっかり忘れ去られてる気 配 すらあるような......」
「そんなことはないぞ。わけの分からないことを言うな、ドーチン」
ボルカンは自信たっぷりにうなずくと、無意味に大きな動作で、その女のほうへと向き直った。
「というわけでっ! 目的を達したならば、それ相 応 の溢 れかえるがごとく大きいつづら的な報 酬 を忘れるなっ!」
「分かったから分かったから」
秋の荒 野 の黄色い風を背に、彼女の髪 がふわりと広がる。アーバンラマ市より、かなりの急ぎで進んできたにもかかわらず、彼女の黒髪に一 筋 の乱 れもないことになにがしかの理 不 尽 を感じつつ、ドーチンはもうひとつの理解できない点に思い当たっていた。
ぽつりと、問いかける。
「ところで、どうしてあなたがここにいるんです? 急 かされたまま、ついてきちゃいましたけど」
その女には、以前会ったことがあった。この東部の地ではなく、西部、黒 魔術士たちの都市で。
彼女は、問われて驚いたようだった。確 かに、なにを今さらといった疑問ではあったが。
レティシャ・マクレディ──あの黒魔術士の姉だとかいうその女は、困った表情で答えてきた。
「いいじゃない。そのおかげで、わたしがあのがれきの中からあなたたちを掘 り出してあげたんだから」
「まあ、そうですけど......」
どう考えても、答えをごまかされたとしか思えなかったが。特に聞き直しはせずに、ドーチンは口をつぐんだ。
と、兄が再び哄 笑 する。
「まあ気にするなドーチン!」
「なんで兄さんが保 証 するの」
「とりあえず、こっちのほうに向かってるっていう情報だけど......それすら正確なんだかどうだか。あの人も結構つまらないところでドジを踏 むし」
「あの人?」
「あー、いえ。気にしないで」
大 儀 そうに、手を振って、彼女。旅行バッグをひとつだけ手に提 げて、もう数時間は歩きづめだというのに、いまだ疲 れた様子もない。見た目は普 通 だが、よほど鍛 えられているということだろう。格 好 は、ひどく簡 潔 だった。黒いシャツに、スラックスというのは旅 向 きなのかどうか微 妙 ではあったが。小さな金色の時計を手首に巻いている。すらっとした容 姿 に不 似 合 いな大きさの靴 は、普通の歩行靴よりさらに一回り頑 丈 そうな革靴だった。
「どっちみちね。キリランシェロの行き先は知ってるんだから、いずれは落ち合うんだけどね。できれば早いうちに見つけておきたいのよ。まったく、日を追うごとにややっこしくなっていくんだから......」
後半は、独 り言 とも愚 痴 ともつかない陰 気 なつぶやきと化していたが、聞き取ることはできた。
「できる限り急いではいますけど」
ドーチンは、あたりを見回した。街 道 を外 れた荒 野 。行く手を阻 む森や河があるわけでもなく、秋 風 に生気を奪 われた乾 いた大地が広がっている。でこぼこした丘 が切り立ち、岩が連なり、果てしなく過ごしにくい土地だった。誰 が荒 らしたわけでもなく、自然のままに荒れた土地。
自然は生まれいづるのみの生命ではない。死も天 工 として存在している。いや、死のほうが、割合としてははるかに大きいのではないか。広い部 屋 に放置された、消えかかった蠟 燭 の炎 は、羽 虫 にとっては巨 大 な炎 熱 なのかもしれないが......
「そうね」
いきなり同意されて驚 いたが、無論のこと彼女は、こちらの心を読んだわけではなく、直前のつぶやきに対して多少遅 れて相づちを打っただけのようだった。
「あまりに単調だから、ちっとも進んでる気がしないけど、だいぶ進んだはずなのよ。ま、なにかちょっとした騒 動 くらいなら歓 迎 したいところね──」
唐 突 に願いを叶 える神というのは、いる。
「我 は放つ光の白 刃 っ!」
聞き覚えのある声と同時に膨 れあがった光が、レティシャ・マクレディを横 殴 りに吹 き飛ばすのを、ドーチンはぽかんと見つめていた。
◆◇◆◇◆
戦 場 の光景は一変していた。
破 壊 の恍 惚 をも冷 ますほど、それは凄 惨 な結果でもあった。悪 夢 は容 易 に具 現 する──だからこそ誰もがうなされる。その破壊を紡 ぎだした自 らの指先を下ろして、彼はかぶりを振 った。
「戦場は......」
風が、爆 風 によって熱せられた空気の奔 流 が吹きすさぶ中、つぶやく。
「戦争は、環 境 を、社会を、資 源 を、心を、一 瞬 で消 費 し尽 くす。花火のようなものだ。我々はそれを見上げ、涙 しながら、次の祭 りはいつかとどこかで期待している。そうだろうスィートハート? 俺 たちは魔 人 だ。誰もが魔人だ。刺 激 を欲 している」
頬 に一 筋 流れる涙を拭 いもせず、目を開けられないまま、呼びかけたほうへと顔を向ける。その先には、腕 組 みしてため息をつく、あきれ顔の女が立っていた。
「小学生の反 省 文 じゃないんだからさ」
服にかかった埃 を払 いつつ、その手を──胸元のペンダント、剣にからみついたドラゴンの紋 章 のところで止める。
「どうでもいいけど次からは、こんな間 近 で爆 発 させないでよ。あんたら〝スクール〟の人間って、なんでこう、おおざっぱなんだか」
「分かっている。分かっているよスィートハート。君は戦争のあまりの過 酷 さに心を閉ざしてしまった。この世に愛があることを忘れてしまった。しかし僕は、君が憎 まれ口を叩 きながらも無言で祈 りを発しているのを知っているよ」
「だー」
女──スィートハートと呼ばれるたびに顔をしかめ、奥 歯 を嚙 みしめて苦 々 しくうめいていたが、とうとう彼女は声を出して空気を叩くような仕 草 をした。涙を流しているその男に顔を近づけて犬 歯 を出すと、
「いーかげんにしてよ、カクラコ──カケレコ──ああ、くそ、カキキケクケカカ......カ!」
もつれた舌 を直すため、自分で頬を張って、言い直す。
「カコルキスト・イストハン!」
「ぼくの名前を少しでも長く口にしていたいなんて......君はいじらしい人だ」
「言いにくいのよ! 改 名 してよ!」
「愛するママからもらった名前を変えることはできない」
「だーもー!」
地 団 駄 を踏 み、彼女はまた別方向へと向き直った。そこには、珍 しい平らな岩の上に腰 掛 けて、落ち着いて爆 発 跡 を見つめている別の男がいる。
若く見えるのは剃 髪 しているせいだろうか。あるいは顔立ちそのものかもしれないが。ゆったりしたマントを幾 重 にも重ねた格 好 で腰を下ろしていると、なにか置物のようにも見えた。厳 しいというほど厳しい風 貌 でもなく、冷 徹 でもなく、寛 容 でもない。単に、必要なものに必要なだけ視 線 を触 れさせて、じっと待っている。
女はそちらに向けて、声をあげた。
「なんとか言ってやってよ、シーク! あんたこいつの先生なんでしょ!」
「............」
彼は数秒間、沈 黙 のまま、顔を動かしもしなかった。
ゆったりと、カコルキストのほうを向いて──口を開く。
「これは戦争ではない」
そしてまた、もとの爆発跡へと視線をもどす。
「大陸における最後の戦争が行われたのは、四十年前のことだ」
「いや、そっちのことじゃなくて......」
疲 れたように、女が言いかけるが、力つきて声を消す。
「ですが、師 匠 !」
横から、カコルキストが暑 苦 しく声を荒 らげた。
「人と人が争えば、それは戦争なのです!」
「違 うよ。敵を人だと思っているうちは、それは戦争ではないんだ」
「あんたら......」
女は半 眼 で、うめくだけだった。
「よくこんな状 況 で、真 面 目 ぶって話せるわね」
そろそろ、爆発跡から気流が霧 散 しようとしていた。吹 き上げられていた砂も、煙 も消えて、荒 れ地をえぐる鉤 裂 きのような跡が見えるようになってくる。
爆 発 跡 は、ただそれだけだった。そこにはなにも残っていない。
「......死体も焼 き尽 くされた、てことだと思う?」
ふたりのうち、どちらへともつかずに彼女が問いかける。
首を横に振 ったのは、カコルキストだった。

「いや、あの熱 量 では、骨まで炭 化 することはないはずだよ」
「爆 発 で跡 形 もなく吹き飛んだのかしら」
「それほどの爆発力があったならば、我 々 とて無事では済 まなかっただろうな」
と、今度は剃 髪 の男──岩から飛び降り、油 断 なく周囲を見回す。
「我々の魔術は、この敵には通じない......そう思ったほうが良さそうだ。これだけ長く戦っているというのに、死体がひとつも残らないということはな」
「幽 霊 と戦っているとでもいうわけ?」
「戦争は──」
「うるさい」
女は拳 でカコルキストを黙 らせると、まともな話し相手はこちらだけだと見切ったのか、剃髪の男のほうへと、完全に身体を向けた。
「こうなったら魔術は使わないで、素 手 で取り押 さえるしか」
「大軍で押しよせてくる、武器を持った相手をか? 君たち《牙 の塔 》の出身者は、どうにも自 信 過 剰 になりすぎるきらいがあると、前々から思っていた」
「歴史の裏付けがあるからです。あなたたちとは違います」
「ふむ。まあ、そんな議論をしたところで詮 無 いことだ......」
と、男は胸元で一度手を握 ると、指を何度か複雑に振って、魔 除 けのような仕 草 をした。
「かの領主は、奇妙な存在だ。死 霊 を呼び出し、領地をそれに守 護 させていたとしても、わたしはさほど驚 かんね」
「......わたしは驚きますけど」
「ならば君は、自分が戦おうとしている相手への認識が足りないということだ」
あっさりと言い捨てると、彼はマントの下から剣を取り出した──細 身 の軍刀。
それを見て、反 駁 しかけた言葉を呑 み込み、女がつぶやく。
「これから、どうするんですか?」
「彼らの配置には一 貫 性 がある。何者かが指 揮 している。それを潰 す」
「ああ、戦争は終わらせるために、常に悲 劇 の作戦を必要として──」
またしゃべり出したカコルキストを殴 って黙らせて、女はうめいた。
「わたしの自信が過剰かどうか、見ていてください」
「見 栄 は......意味のないことだよ」
それだけを答えると剃髪の男は、剣を鞘 から抜 いた。
秋風から爆 風 が消え去って、温度を少し、下げていた。
ディーディーというのは、子供の頃 に飼 っていた犬の名前だった。
そのディーディー──拳 銃 を分 解 整 備 しながら、なんとはなしに思い出す。銃は、大 陸 でも類 を見ない、強力な兵器のひとつではあった。が、最強ではない。便 利 ですらないかもしれない。数発撃 つごとに暴 発 の危 険 性 は高まり、さりとて一発目から危険がないわけでもない。故 障 も多い。それでもなお、この武 器 は騎 士 たちの誇 りであり続けた。大陸の治 安 を守る者だけが使うことを許された聖 なる武器。
(......かどうかは知らないけどさ)
整備といっても、たいしたことができるわけでもない。せいぜいが、分解して汚 れを落とし、オイルを塗 るくらいのことだ。火薬の爆 発 による部品の歪 みや、金 属 疲 労 などは、目に見えないまま蓄 積 されていく。銃の構 造 というのは極めて単純なものだった。トリガーを引けばハンマーが落ち、薬 莢 を叩 いて火薬を爆発させる。弾 丸 はそのパワーで射出され、運が良ければ敵の内臓にえぐり込まれる。自分の足を撃ち抜 くことがないとは言えない。昔 から、そのシンプルな機構は変わらなかった。
岩の上にハンカチを敷 き、その上に並 べられた金属の部品を眺 めて、彼女はひとつの欠 けもないことに満足した。十年来をともにした武器。自分のそばから離 れることは一度としてなかった。
旧 態 依 然 としたこの武器を、もっと新しいものに切り替 えたらどうか?──そう言ってくる者もいる。
既 に死んだ仲間や、あるいはコルゴンといったような、どうしようと死にそうにない連中も。
そうする気にならなかったのは、どうしてだろうと自分でも思う。特に理由があったわけでもない。なにか本能的な退 避 があったわけでもない。
(ま、そんなことはよくあることさね)
彼女はあっさりと思 索 をあきらめると、手早く銃を組み立てた。完全形となった武器を左手に構えて、慎 重 に弾 倉 へと弾丸を挿 入 してから、セーフティーをかけてホルスターにねじ込む。そのホルスターを背 負 って、一息ついたところで、目の前を少年が駆 け抜けていった。
「............?」
きょとんと、瞬 きする。
こちらを見向きもせず──というより気づいた様子もなく、必 死 の形 相 で走っていったのは、マジクだった。あの黒 魔 術 士 の生徒とかいう少年。それにしては見るべきところのない弟 子 だと思わざるを得 なかったが。
そして。
そのすぐ後をもうひとり、長 髪 の女が追いかけていく。女もまた、こちらに目もくれず、走り抜けていった。なぜか少し焦 げて、一 瞬 横顔が見えただけでも、怒 り狂 っているのは、すぐ知れる。
「............」
呆 然 と見送っていると、さらにしばらく遅 れて、背の低い地 人 たちふたりが走っていった。このふたりは、どうやらこちらに気づかなかったわけではなかったようだが、ちらりと一 瞥 しただけで、ふたりを追って走っていく。毛皮のマントの後ろ姿 を、しばし見送ってから。
ウィノナは、独 りごちた。
「......なにあれ」
◆◇◆◇◆
「あのさ、結局わたしたちって、どこに向かってるわけ?」
彼女の疑問は当然のものだった。が、それを答えられるかどうかということになれば、まったく別問題ではある。
荷物をまとめてあるキャンプ地──とはいっても、岩の隙 間 に見つけた、ちょっとした岩 窟 に過ぎないが──にもどって、クリーオウがなにげに発した問いがそれだった。彼女は荷物の中に、適当に防 具 と木 剣 を押 し込みながら、
「てっきり、王 都 に向かうんだと思ってたんだけど」
「うーん」
オーフェンはうめいて、肩 をすくめた。
「俺 だってそのつもりだったけどな。ちょっと用事ができちまってな」
「どんな?」
「............」
口を開こうとして、自分がなにを言おうとしていたか不 意 に気づき、苦 笑 する。
クリーオウが、目をぱちくりさせた。
「どしたの?」
「いや、この期 に及 んでごまかしても意味ないよな。ウィノナの、なんつーか、雇 い主 みたいなもんだと思うんだが。それに会いに行くことになってる」
「へえ」
分かったような分かっていないような中 途 半 端 な返事を口にしながら、岩窟の入り口に吊 した毛布を避 けて、中に入っていく。着 替 えるためだろう。毛布の位置を直して完全に隠 れてから、
「なんていうかさ、ウィノナって、変わってるわよね」
「そうか?」
お前に言われちゃあな、と胸中で付け加え、首を傾 げる。
クリーオウはすぐに言ってきた。
「ロッテーシャのこと、随 分 気にかけてるみたい。なんかいろいろ聞かれちゃった」
「どんな?」
「んー、あのエドっていうのに、襲 われたじゃない。その時のこととか。まあわたし、その時はその場にいなかったんだけどさ」
(エド......か)
エド──コルゴン。
(あいつもいつの間にか、姿 くらましちまったしな)
オーフェンは、しばらく考え込んだ。と、岩窟の中から、着替えを終えたクリーオウが出てくる。たいして格 好 が変わったわけではないが、汚 れたシャツだけ取り替えたらしい。そして、
「オーフェンはさ、ロッテーシャのこと、気にならない?」
唐 突 といえば唐突なことを聞いてくる。
面 食 らったような思いで、オーフェンは聞き返した。
「なにが」
「ほら、ロッテーシャ、前はすごく思い詰 めたような感じだったけど、この頃 はそうでもないでしょ。なんかあったのかなと思って」
「そうだな」
思いつくことはいくつかあったが、想像の域 を出ない。それでも構わないのかもしれないが、口に出すのはなんとはなしに、はばかられた。
「ふっきれたんじゃないか? ま、いつまでも思い詰めていられるほうがどうかしてるとも言えるしな」
「良いことだと思うんだけどね」
クリーオウはそう言うと、外に出していたレキをまた抱 き上げた。子ドラゴンは、それまで一心にかまっていた蟻 の行列から遠ざかったのにも気づかず、まだ前 脚 を地面に向けて振 っている。
その前脚をつかんで止めるクリーオウを見ながら、オーフェンはつぶやいた。
「どっちかっていうと、お前のほうが心配だけどな、俺は」
「そう?」
自覚なく、聞き返してくるクリーオウに、続ける。
「落ち込む時にゃ、落ち込んだほうがいいんだ。あんなことがあった後だしな」
「わたし、落ち込んだけどさ」
レキの背中に顔を埋 めて──まさか、表情を隠 すためではないだろうが、閉じる前の瞳 にはなにかが映 っていたようでもあった。ややくぐもった彼女の声が聞こえてきたが、それはしっかりとしていた。
「でも、ライアンが言ってることも分かったような気がするから。だからなおさら、わたしは一歩もそれを受け入れることはできないし」
「......ああ」
「オーフェンもいるし、マジクもいるしさ。いいことも悪いことも、楽しければいいじゃんて、あれ?」
彼女が顔を上げたのは、奇 妙 な音が聞こえてきたせいだろう──オーフェンも気にかかって振 り向いた。長細い、悲鳴のような音が遠くから聞こえてきている。
「おおぉぉおおぉおぉぉおおおぉぉぉぉぉおお──」
高きから低きへ、低きから高きへ。
時にかすれて消えながら、その声は──
「おおおおお師 様 ぁぁぁぁぁっ!」
いきなり飛び込んできたマジクが、そのまま速度を落とさずに通り過ぎ──
「たぁぁぁすけてぇぇぇぇぇっ──!」
そのまま、遠ざかっていった。
「.........?」
クリーオウとふたり、顔を見合わせ、呆 然 としていると。
その足音が、いつまで経 っても消えていないことに、ふと気づいた。いや、どちらかといえば、新しい足音がまた聞こえてきたというような。
そちらを見やった瞬 間 。
足音は消えた。
ぴたりと──走っているポーズそのままで立ち止まって、そこにいたのは、長身の女だった。
視線 が合う。
重力に逆らった姿 勢 のまま、完全に静止しているのは、彼女に自然力が働いていないせいか。そう思えないこともない。超 絶 した者。それが彼女だった。あらゆる者から、あらゆる力から。
だが、
(なんで、だ──?)
オーフェンの心の中に浮 かんだ言葉は、それがすべてだった。そして。
「たぁすけてぇ──」
「なんで逃 げるの。あんたまで」
咄 嗟 に身 を翻 し、全力で走ろうとしたところを、あっさりと襟 首 を摑 まえられる。
息が詰 まり、生 命 を脅 かす感 触 が喉 元 に食い込んで始めて、オーフェンは足を止めた。さっと、彼女がもといた場所を見やると、そこには誰 の姿 もない。ほんの一 瞬 前には、そこにいたというのに、意識にも捕 らえられないほどの速度で回り込んでこちらの襟を摑まえたというのか──あるいは、彼女を見たその瞬 間 で自分の意識が硬 直 して、彼女が近づいてきたことに気づかなかったのか、どちらかは分からないが。あながち、前者の可能性も否 定 できない。
「ティッシ!」
声をあげたのは、クリーオウだった。
「はあい」
気楽に、彼女──レティシャが返事するのが聞こえてくる。オーフェンは、がくがくと硬直する身体 をなんとか御 して、振 り返った。確かにそこに、レティシャが、彼の姉 がいる。
「な、な、なんでこんなとこに──」
「いいじゃないどこにいようと」
彼女はそう言うと、ようやく手を離 してくれた。慌 てて逃 げて、彼女から数歩離れたところでようやく向き直る。レティシャは、呆 れたような顔を見せていた。
「なにをさっきからびくびくしてるのよ。なにか後ろ暗いことでもあるわけ?」
「いや、あるよーなないよーな......」
じりじりと後 退 しつつ、オーフェンはうめいた。冗 談 ではない──冗談にもならない。
まさしく、ウィノナに連れられて、例の領 主 とやらの元に向かっているのは、行方 不明になったもうひとりの姉、アザリーのことを知るためなのだから。
(アザリーのことなんて知られたら、どうなる? ティッシには刺 激 が強すぎるだろ、いくらなんでも──)
とりあえず、出たのはこんな言葉だった。
「どこにいようとって、どうでもいいわけないだろ。いきなりなんで」
「あなたに用事があって追いかけてきたんじゃない。決まってるでしょ」
「よ、用事?」
と。
消えたと思っていた足音が、再び響 いた。マジクではない──彼が走り去った方向とは逆だった。現れたのは、
「はーっはっはっはっ! やはりいたな邪 悪 な黒百パーセント黒魔術士! やはり俺 様 の人生に立ちはだかるのは貴 様 かと、貴様程度を少しばかりライバルと認めてやろうというこの温 情 」
「えーと、あの、ごめんなさい。久しぶりですし、この際、吹 き飛ばすのとかは後にして、それ以外の選 択 肢 を探 してみませんか?」
「あー......」
ちらりと見やり、地人が三人そこにいることを確認して、オーフェンはうめいた。
「また、めんどくさいのが──」
と。
はたと言葉を止め、そして叫 ぶ。
「三人んん⁉ 」
「敵 影 確認ー!」
いつもの地人ふたり──ボルカンとドーチンが並 ぶ隙 間 から、望 遠 鏡 のようなものを突 きだして、髭 を生 やし、緑の帽 子 をかぶった地人が声をあげた。
「偵 察 部 隊 、撤 収 ぅぅぅ!」
そして、くるりと身体の向きを変え、走り去っていく。
「............?」
白い羽 根 の刺 さった帽 子 を片手で押 さえながら、猛 スピードで消える後ろ姿を、ぽかんと見送って。
「......なんで?」
ほかにつぶやく言葉もなく、全員でただ、その場に立ち尽くす。
風が吹 き抜 けた。白い心にはなにも浮 かばず、その風がすっぽりと通り抜けていく。
その空白の時の中で、ドーチンが震 え声でつぶやくのが聞こえてきた。
「に、兄さん......あれは」
「むうう」
ボルカンまでもが、顔 面 を蒼 白 にして、身体を戦慄 かせている──いや、単に震えている?
「間 違 いない。ここは、合 戦 場 だ!」
「うわああああ⁉ 姫 だああああ⁉ 」
ふたりだけでうろたえる、その兄 弟 を見ながら、オーフェンはとりあえず、様 々 な単語を胸中に並べていった。領 主 。魔 術 士 の憂 鬱 。レティシャ。地人。三人。合戦場。姫。気 苦 労 ならばいくらでもあるというのに。
(まだ増 えそうな気がするのはどうしてなんだ?)
運命だからかもしれない。
思いついた答えを、彼は黙 殺 した。
◆◇◆◇◆
ろくなことがないじゃないか──
ほとんど泣きたい心地で、独 りごちる。
少しでも速度を稼 ごうと、大きく振 っていた腕 が引きつった痛みを訴 えてきている。
(ただ、魔術の練習をしてただけなのに)
いきなり通りがかった誰 かに、それが当たったらしい。
理 屈 はよく分からない。どれほど手 加 減 していたとはいえ、熱 衝 撃 波 の一 撃 を受けて、平気な顔をして起きあがってきたその女──見覚えがあるような気もしたが思い出せなかった──は、次の瞬 間 、にっこり笑って片手をあげた。間 髪 入れずにその女が空間へと描 き出した魔術の構成は、解 読 しようにもその片 鱗 すら理解することはできなかった。ただひとことで言えば、そう、それが途 方 もなく危 険 な代 物 だということはすぐに知れた。いやこれは構成を解読したからではなく、彼女の笑顔を見たせいで分かったのかもしれないが。
今にして思えば、その女が彼の魔術を食 らっても平気だったのは、とっさに防 御 の構成を編 んだからに違 いない。不 意 に受けた光 熱 波 を完全に防 ぐというのも、並 大 抵 の実力でできることではないが。
あたりを焦 土 と化 す大 爆 発 に、マジクはとにかく逃 げ出した。あとは、恐 怖 が身体を突 き動かすのに任せて、ひたすらに走り続けた。そして──
「......あれ?」
ふと気がついて見回すと、誰も追いかけてきてはいなかった。どこまで走ってきたものか、風景に変わりがないせいで分かりにくいが、キャンプ地にした場所からもかなり離 れてしまったらしい。自分の心臓の動 悸 と、とめどなく肌 を湿 らせている汗 、平 衡 を失った筋肉の痙 攣 に、少なくとも生まれてからこれまで、体験したこともないような距 離 を走り抜 けてきたことは想像できた。
「参 ったなぁ......」
当たり前だが、来たのと同じ距離をもどらなければならない。しかも、追いかけてきたあの女と鉢 合 わせになることを警 戒 しながら。
暗 澹 たる思いで、かぶりを振 る。まったく、ろくなことがない。
「なんだろうな。なにが悪いんだろ。やっぱり家に帰ったほうがいいような気がしてきた。だいたい、いくらなんでも東部にまで来るつもりはなかったし......」
あたりを見回す。ここが東部を象 徴 する地というわけではないが、そうであっても良いというような思いはあった。
「お師 様 が言うように、ちゃんと制 御 して魔術が使えるってことは、ぼくはもう魔術士なんだよな。だったら別に、もうこれ以上習うことも」
そこまでつぶやいて、立ち止まり、右手を掲 げる。一応、周囲に注意を払 って、誰もいないことを確認してから、
「我 は放つ──」
その時だった。
「敵、発見んんんんっ!」
「⁉ 」
「突 撃 ぃぃぃぃっ!」
振り向く間もなく。
だが確 かに、振り向いてはいたはずだった──突撃の雄 叫 びをあげて飛び出してきたものを、確かに見たのだから。最初に見えたのは、尖 ったものだった。きらきらと陽光に輝 く、銀 色 の槍 。雑 草 のように大量に、揺 れている。
ひとりやふたりではなかった。武 装 した子供たちが大 挙 して、岩の陰 からぞろぞろと飛び出してくる。
(な──)
脳が停止したのが分かる。それ以上、指一本動かせない。思いついたのは、魔術だった。編 みかけていた構成は、もう使えない。自分の制御を外 れて、消えてしまった。把 握 しなおすくらいならば、新 たに組んだほうがいい。
だが、どちらにせよ──時間がない!
空が見えた。吹 き飛ばされたらしい。
その空が、すぐにふさがれた。次々と敵が、覆 い被 さってくる。あっという間に、自分にのしかかってくる物体の重さが増 していった。ひとり、またひとりと積み重なっているらしい。その間、聞こえたのは延 々 と、全員のあげる歓 声 だった。
そして、恐 らくは最後のひとりが乗っかった時、ひときわ大きい歓声が起こった。
「勝利ぃぃぃぃぃ!」
「うわわわわわ!」
なにがなんだか分からないまま、なんとか身体をひねり、地面を這 いずって、人の隙 間 から外へと顔を出す。と。
頭だけが自由になった瞬 間 、その鼻先に突きつけられたのは、剣だった。
ぴたりと、止まる。
「え〜と」
うめいていると、冷え込んだ朝の霜 のような、耳に痛いほど凛 とした声が聞こえてくる。
「ふっ......部隊の接近に気づかぬとは、愚 かな」
若い女──いや、少女の声だった。
なんとか視 線 だけで見上げるが、そこにいたのは兜 を始め完全な重 甲 冑 を着込んでいる以外は、想像通りの少女だった。長い透 明 な銀 髪 が、こぼれる水のように鎧 の板 金 を伝っている。白い肌 に、溶 け込むような水色の瞳 。ふっくらとしたピンク色の唇 が、わずかに動いて声を発する。
「これが、これが我 が軍を壊 滅 に追い込んだ巨 人 だというのか? 姫 は、無 能 の将 かっ⁉ 」
「滅 相 もございませんっ!」
身体に乗っかり、塚 のようになっていた群 れから、ひとりが飛び降りて、その少女──姫?──の横に控 え、叫 ぶ。
「これも姫の直接の指 揮 があったればこそ! 我が軍の勝利、見えて参りました!」
(地人......?)
飛び降りたのは、地人だった。いや、地人なのだろう、恐らくは。身長は百三十センチほどで、小 柄 な〝姫〟の胸元くらいまでしかない身体を、さらに控 えて縮こまらせている。毛 皮 の襟 巻 きに、簡単な鎧のようなものを着け、頭には羽 根 飾 りつきの緑の帽 子 。見たことのある地人の姿とは多少違 っていたが、よく見れば全員、同じ格 好 をしているらしかった。積み重なっているのもつらいらしく、あちこちから「あー」だの「うー」だの、「つらいよな宮 仕 えも」「ミヤヅカエってなんだ?」といった声が聞こえてきている。
と、姫とやらが静かにため息をついたようだった。
「良い......分かっておる。姫はあきらめたわけではない」
剣を引き、それを腰 の鞘 へと落とし込むと、
「かくなる上は、この捕 虜 を拷 問 にかけ、敵の情報を」
「ええっ⁉ 」
思わず、叫ぶ。と、控 えていた地人が飛び出すやいなや、その靴 底 を顔に蹴 り込んできた
抵 抗 もできずに、受けるしかない。目の前が真っ暗になり、そして白 むが、すぐに血の味で意識が回復する。
地人が、なにやら必死に怒 鳴 り始めた。
「無 礼 者 っ! 貴 様 、姫の偉 大 なお考えに対して、不満の声を発するとはっ⁉ 」
「そ、そんなこと言われても──」
「拷問は、なにが良いかのう」
「は。この私 めが愚 考 いたしまするに、ザ・頭 突 き地 獄 がよろしいかと」
「ああっ! なんかやたらと痛そうだしっ!」
マジクはなんとか腕 を引き出すと、ばたばたと振 り回した。
「だいたい拷問って! 拷問なんかされたって、なんの情報をしゃべればいいのさ! 聞いてくれれば話すってば! なんでも!」
「むう。どう思う?」
姫はさほど興 味 を持ったふうでもなく、地人に問いかけた。地人がうなずき、答える。
「はっ。信 憑 性 は4でございます」
「なんの数値っ⁉ ていうか何点満点⁉ 」
「拷問か......」
「御 意 」
「ああああああっ⁉ 」
と──
「姫えええええっ!」
また別の地人が現れたようだった。格好は、また同じだが、滑 り込むように姫の前で停止すると、そのまま控え、
「敵の新 たなる援 軍 を発見いたしましたっ! いや、規 模 からすれば、それこそが本隊かとっ!」
「なにっ⁉ 」
悲 壮 な叫 びを、姫があげ──
「なんということか。敵の戦力は底なしだとでもいうのか⁉ 」
「強大な敵であることは間 違 いございません、姫!」
先の地人が、顔面のかなり危険と思われる部位にまで血管を数本浮 かび上がらせて、叫び返す。
「ですが、どのような戦 にも、無限の敵はおりませぬ。見失ってはいけませんぞ!」
「分かっておる! 貴 様 、僭 越 じゃ!」
「ははっ、これは申し訳──」
「処 刑 である。そこらに埋 めい」
「うわ、そんだけで⁉ 」
マジクが声をあげている間に、また別の地人がぱたぱたと飛び降り、先の地人を捕 まえると、そのまま引きずって岩 陰 まで去っていく。その先がどうなったのか、確認することはできなかった。すぐさま、姫が再び抜 刀 してその切 っ先 を突 きつけてきたため、それどころではない。
「答えよ。貴 様 、どれだけの軍を派 遣 してきたのだ? この姫の合 戦 場 に」

「へ......?」
分からない。軍と聞いて思い浮かんだのは、王 都 の騎 士 団 くらいだったが──そもそも、この大陸に〝軍〟と呼べるものがどれだけあるのか、どうにも想像がつかなかった。アーバンラマ市は独自の軍隊を持っているというが、その規模はどちらかといえば、自 警 団 に近いものだ。キムラックの有名な軍隊は、大 昔 、貴 族 連盟によって解 体 された。実際、自分がキムラックであれだけの騒 ぎを起こしても、軍隊らしきものは出てこなかったのだから、本当なのだろう。タフレム市の黒 魔 術 士 たちは、軍隊に似 ているといえば似ているが、最後あるいは最初の一線において、軍隊ではない。彼らは軍人ではないのだから、他 人 や国家のために命をかけたりはしない。トトカンタ市にも、軍隊はない。王立治 安 構想に与 している都市は、独自の軍を持つ必要がないという建 前 がある。そもそも、なにに対して軍を持つのだ? 誰 が攻 めてくるというのだ? 馬 鹿 馬 鹿 しいにもほどがある。
と、いうのに。
この姫とやらは、軍を率 いているという。
(......地人たちの軍隊?)
としか思えないが。彼女以外、そこにいるのは地人たちだけだった。
「えーと......」
マジクは、なんとか声を絞 り出した。慎 重 に、答える。
「ぼくは、その......民 間 人 です。ここには、たまたま通りかかっただけで」
「民間人だと?」
姫は、うろたえる様子もなかった。剣が一段階、近づいてくる。
「機 密 を知られるわけにはいかん。超 法 規 的 措 置 により抹 殺 しよう」
「軍人ですっ! 捕 虜 の扱 いに関する条約だかなんだか、ええとよく分からないけど、人 権 の保 障 をしてくれると嬉 しいような気がします!」
「むう。条約か。条約は守らねばならぬな」
出 任 せは、有効だったらしい。思い直してくれたのか、少なくとも、首筋に触 れかけていた刃 は少し遠のいてくれた。
「さて、では答えよ。この地に送られた貴様らの軍の規模と、目的、そしてあと......あと......」
「司令部の位置では?」
と、言葉に詰 まった姫の後ろに、先ほど後からやってきた地人がそっと近寄り、耳打ちする。
姫は即 座 に告げた。
「僭 越 である処 刑 せよ」
「ひいいいいっ!」
また、地人がふたり新 たに飛び降りて、その地人を引きずって岩 陰 に去っていく。
「さて......」
改 めてこちらを見下ろし、姫は静かに言ってきた。美しい瞳 が、冷ややかに細められている。それは嫌 な眺 めではなかったのだが、剣や武 装 がどうにも不協和音を奏 でていた。
「捕 虜 、答えよ。答えれば、条約に則 り、遺 骨 は国に帰してくれよう」
「うわ寛 大 」
「答えよ! 我が軍は常 勝 無 敗 、負けることはないのだ!」
「あうう」
この際、野 良 犬 に嚙 まれたとでも思って、処刑されるしかないのだろうか......
わけの分からない覚 悟 すら浮 かんでくる。
なにを答えたらいいのか分からないが、答えれば答えたで、用 済 みになりそうな気がしてならない。
どうしようもないこの状 況 で、浮かんでくるものは。
マジクは、ゆっくりと顔を上げた。
「あのですね」
破れかぶれで、告げる。
「亡 命 したいんで......保 護 ......して、もらえたり、すると、ハハ」
「............」
沈 黙 は長かった。
文字通り長かった。
石化したように固まって、一分ほどは動きがなかったのではないかと思える。
唐 突 に、姫がつぶやいた。
「集合」
彼女は地人たちを全員集め、ぼそぼそと──しかし丸聞こえで──相談を始めた。
「......どう思う?......」
「これはなんというか、さすがに軍の裁 量 で扱 えることでは......」
「......しかし本国と連 絡 と言いましても......」
「国家の威 信 がかかっておりまする」
「処刑したほうが手っ取り早いのでは......」
「面 倒 事 は面倒ですぞ。だってかなり面倒くさいですからな」
「捕 虜 として収容後、殺さない程度に拷 問 して、しかるのち亡命を認めれば、全員満足、万事が八方丸く収まるのでは」
「僭 越 である。処 刑 せよ」
「............」
なんにしろ、それを聞きながら。
自由の身になったマジクは、そのままこっそり、そこから逃 げ出した。
◆◇◆◇◆
「相 容 れない者 同士がさ」
銃 口 を標 的 の眉 間 に突 きつけて、ウィノナはつぶやいた。
「そこにいたら、戦うしかないんだ。恨 み辛 みとも、少し違 うね。あんたが死ぬことは前から決まっていたことで、ただそれはあたしの役 割 ではなかった。それでもね......やらなければならないわけさ」
誰 もいない荒 野 で、相手とふたりきり。怯 えた眼 差 しでこちらを見上げる標的に、憐 れみを覚えなかったといえば、嘘 になる。だが、憐れみがその生命を尊重する理由になるかというと、それもまた歴史が作り出した大いなる嘘に過ぎない。
「あんたには、わけが分からないんだろう。あいつはなにも言わなかったのか? そうなんだろうね。あたしの疑 念 は裏付けられたと思う。あいつはしょせん、味方未満の存在でしかないってことさね。あたしだけだ。あたしだけが、領 主 様 のために働いている」
死は最も安定した解決方法だ。だがそれを避 けて、不完全な方法を人間は模 索 する。それほど大 事 なものならば、どうして他人を罵 倒 できるのだ? その返礼が、鋭 い金 属 が肋 骨 の隙 間 に差し込まれる感 触 なのかもしれないと、どうして想像できない? 傷 つけることが容 易 な者同士が、自 らが傷つけられることなど想像もせずに傷つけあっている。それが人間の世の中というものであって、建 前 はうまくそれを覆 い隠 してくれている。
まさしく、人類の英 知 !
社会は大いなる綿 だろう。なにかを包んでいる真 綿 。
人は社会というものから抜 けだし、相手とふたりきりになるまで、暴力の存在を忘れている。
「この銃にはね、ディーディーって名前をつけた。ディーディーっていうのはさ、あたしがガキの頃 に飼 っていた、犬の名前だよ」
彼女は、左手の拳 銃 を握 りなおした。弾 力 のある銃 把 が、逆に手のひらに食 い込んでくるような感 触 。それは心 地 よい。
その感触の中で、社会の真綿の中で、暴力は途 絶 えることなく生きている。
少なくとも、自分はそれを生 業 としてきた。
「あたしの相 棒 さ。いっしょになって、馬 鹿 やってた。あたしが命じると、ディーディーは誰 にだって飛びかかっていった。肉を何十グラムか嚙 みちぎって、そいつを泣かせるわけだよ。血の臭 いに興 奮 して、二度三度と嚙みつくこともあった。誰だってディーディーを恐 れて、泣いて許しを請 うたもんさ。あたしは気分良かった。無 敵 だったからね」
虚 しい思いで、語る。
思い出を語る時は、誰だって同じ気持ちだろうが。
「とある警官に──いつものように──つっかかっていった時のことさ。そいつが、警 棒 の一 撃 でディーディーの脳 天 をぶち割った。泣いたのはあたしだよ。だくだくと血を道路にぶちまけるディーディーを抱 いて、頼 むから医 者 に連れて行かせてくれって懇 願 した。誰も聞くわきゃないよね。犬といっしょに袋 叩 きにあったよ。ディーディーは死んじまった。あたしが気絶するより早く死んでたんだろうね。固くて、冷たくなってた。死っていうもんをあたしに教えてくれたのは、ディーディーだったわけさ」
語りながら見下ろす相手の表情は、やはり恐 怖 に怯 えたままだった。馬鹿げたことだ。だいぶ馬鹿げたことだ。
怯えることはないのだと、いつも思う。まれに、標 的 となる者を諭 すことすらある。
仕方のないことなのだから。自分は嗜 虐 の趣 味 はない。できれば速 やかに仕事を終えたいと思っている。それは思いやりだ。このさき生きていて、これほどの思いやりを得 ることが期待できるのか? そう言い聞かせる。
たいてい、標的は納 得 しないが、自分だけはそれでも、半分程度は納得できる。
それで十分だった。
「しばらくして、身体が動くようになってからさ。まあ、後 遺 症 がなかったのは、奇 跡 みたいなもんかもね。自分の強運に感謝したよ。で、警官に復 讐 しようと思った」
銃をグリップする左手以外が、わずかに震 えるのを感じた。
「その頃 かな。領主様に出会った。段 取 りもなんもない。ただ道ばたで、ばったりとね。領主様は、なんの用事か、王 都 に来たんだろ。あの人は、特になにを聞いたわけでもないのに、あたしにこう言った。一字一句覚えてる──『ついてくれば、お前の一番大事なものを蘇 らせてやろう。だが、警官を殺したなら、それを生き返らせてやることはできない』」
ウィノナは、ふっと笑った。
「もちろん、なにを言ってるんだか、分からなかった──でもびっくりしたよ。心でも読まれたのかと思った。まあ実際、読んだんだろうけどね。無 視 するつもりだったんだけど、どうしてだか、あたしはついていっちまったらしい。彼の屋 敷 についてから、あたしは問答無用に、なんとかいう鬼 教官のところに放り込まれた」
とまれ──
そんなことは、どうでもいいではないか? どちらにせよ、殺人の際の自己満足に過ぎない。
「あとは、はしょるよ。話さないでも分かるだろ。あたしは領主様のためなら、なんでもする。死にもするし、殺しもする。そして、誰にもそれを笑わせない」
標的が、哀 願 を予想させる仕 草 で口を開いた。
ウィノナは彼女の──ロッテーシャのその表情を見返しながら、ため息をついた。
どうということでもない。
「ま、本番 も......」
皮 肉 に顔をしかめて、うめく。
「これくらい、スマートにいってくれりゃいいんだけどね」
そして、引き金を引いた。
銃 声 が、荒 野 に鳴り響 いた。
「マリア・フウォンは、我 々 の側の人間だよ。それは分かっているのだろう? フォルテ・パッキンガム......いや、フォルテ教 師 と呼んでも構わないのかな?」
「迷 惑 です」
と、即 答 する。
「教師補 と、きちんと名乗ったはずですが?」
場所を《塔 》に移したのは、それが妥 当 であるからということ以上に、自分の立場を明示したいからでもあった──移動には一時間ほどかかったが、その間ずっと世間話に終始できるような相手には、それなりの態勢で臨 まなければならない。
(ある意味では......)
フォルテは、胸中でつぶやいた。
(同 胞 であるはずなのだがな)
西部と東部。その程度の差でしかない。民族が、種族が違 うわけでもなく、哲 学 が異 なるわけでもなく、倫 理 観 においてすら隔 たりはあるまい。言うなれば、組 織 が異なるに過ぎない。属 する場所が。
(《十三使 徒 》......宮 廷 魔 術 士 。我々の《塔》が大 陸 黒魔術の最 高 峰 だとすれば、彼らは、その頂点の行き着く先か)
《牙 の塔》は、数多くの宮廷魔術士を輩 出 している。この、クラベ・ラシールのように。その男は教師控 え室 に入るなり、わざとらしい仕 草 でポケットからペンダントを取り出してみせた──それを首にかけるでもなく、座 る席 の近くにあるテーブルに、そっと置く。それを返上することが目的だったと言われたら、それはそれで納 得 したかもしれない。《牙の塔》の紋 章 ペンダント。宮廷魔術士の身分証明を持つ者としては、確 かに無価値なものか......
そこまでの嫌 みがあったとしても、それを表 には出さず、クラベなる魔術士は愛 想 良 く微笑 んでみせた。どのような時でも、世 辞 を言う余 裕 をなくすことはない、そんな類 の男なのだろうが。
その世辞を、言ってくる。
「時間の問題だろう。君ほどの魔術士は、大陸にも数人とはいない」
フォルテは苦 笑 した。自分のこの、拗 ねたような物の見方は、いずれ矯 正 しなければならないものなのだろうが──たとえば恋 人 に求 婚 するようなことが必要になった時になどは──、今は役に立っている。この相手には気を許 してはいけない。その危 機 感 を素 直 に信じて、口を開く。
「実力本位の考え方は、一見合理的なようですが、行き過ぎれば害にしかならないと考えています。どちらにせよ、内定すらしていないことを、揶 揄 するつもりだけで持ち出すというのは大人 げないでしょう」
「ふむ。我々は子供なのだよ。社会はそれほど進歩していない」
「子供の喧 嘩 がしたいのならばご随 意 に」
フォルテは肩 をすくめると、愛用の椅 子 に腰 を下ろした。
「ふむ」
それは同意なのか、どうにも理解できかねる返事ではあったが──
彼は、すぐに話題をもどしてきた。
「簡 単 に言えば、我々はマリア・フウォンから、チャイルドマン・ネットワークの存在を聞いた。彼女とて多くを知っているわけではなかったが、それでも我々の様 々 な活動によって、この大陸に......なんというか」
言葉に迷って、ということはあるまい。これも一種の世辞だろう──自分の理解が深くないと見せかける。
「非常に不 可 解 な、無 形 の情 報 網 のようなものが存在することが疑 えなくなってきた。どう考えても、あり得 ないことのように思えるのだがね」
「先生は、特にそれを秘 匿 しているわけではありませんよ」
フォルテは真 顔 で嘘 をついた。
「マリア・フウォンごときがそれを知っていたのは、つまりそういうことです。先生はたびたび、生徒が落とした財 布 の在処 を見つけることにも、ネットワークを活用していますからね」
「ならば、我々のためにも活用してくれると?」
「お望みとあれば」
と、答えて身体 の力を抜 く。椅子がきしんで、身体の骨を受け止めてくれる感 触 をしばらく試 してから、フォルテは相手の言葉を待った。
向こうもまた、なにかを待っていたのかもしれない。クラベはあごを撫 でて、目を細めた。
「......原 理 は教えていただけない?」
「チャイルドマン先生自身にも、よく分かっていないのではないかと思われます。意外ですか? 有用だから使っているだけだと」
それもまた、嘘だった──明らかな嘘というわけでもないが。チャイルドマン・パウダーフィールド教師は、原理を知っているとも知らないとも語らなかった。
クラベの目が、ちらりと色を変える。
「......今の発言、それが天 人 種族の遺 産 であることを意味しているのであれば、それは重大な協 約 違 反 ということになるが......?」
ドラゴン種族が地上から姿 を消し、天人種族の遺産のすべては、貴 族 連 盟 が相続した。それは歴史の重大な約 束 だった──それにより、現在の大陸の姿ができたといって過 言 ではないのだから。例外なく、天人種族の遺産は貴族連盟が所 有 権 を持ち、それを使う際には、貸 与 もしくは譲 渡 といった手続きを得なければならない。ましてや、貴族連盟が把 握 していない遺産を秘匿することは、王 権 反 逆 罪 にあたる。
だが。
フォルテはかぶりを振 った。
「遺産という意味では、我々の力そのものが天人種族より受け継 いだものです。ネットワークも、その類 のものだとわたしは思っていますよ」
「根 拠 は?」
「実体がないからです。天人種族の魔 術 は、魔術文字が媒 体 とならなければ存在できない。にもかかわらずその実体がなく、なおかつネットワークが存在している以上、これは天人種族ではない何者かの力ということになります」
「魔術文字そのものを隠 蔽 することは可能だ」
冷静に、クラベが指 摘 する。
(それが狙 いか......?)
フォルテは、顔をしかめた。チャイルドマン・パウダーフィールド教師を王権反逆罪に問うことが?
それに意味があるかどうか、彼はおおざっぱに計算した。答えは、ノーだった──《塔》の権 威 を失 墜 させることは、必ずしも《十三使徒》の益 とはならない。彼らの大半が《塔》出身者であることを考えればなおさら。
(とすれば、単にこれは、値引き交 渉 の類 か......)
揺 さぶって、値を引き下げておく。最終的に、こちらになにを要求してくるのか。その札 はまだ開かれていない。
ならば、へたにこちらの情報を開示するよりは、引き下がっても構うまい。そう判断して、彼は口を開いた。

「チャイルドマン教師が、それをしなかったという証 拠 は提示できません。もとより、しなかったことを証明する手段はないですからね」
「彼自身の証言以外にはね」
と、彼はわざとらしく、部 屋 内を見回した──
「俺 は、彼に面会を申し込んだのだが?」
「先生は《塔》外です。いつもどってくるかは分かりません。わたしがその代 行 です──だから、教師補と」
「《塔》外か。君たちはいつもそうだ。《塔》の中と外。世の中を、その見方でしか測 っていない」
「かもしれませんね」
「俺はね、フォルテ・パッキンガム教師補......君が彼の代行をするのなら、教師補ではなく教師と名乗ったほうが良いと思っている」
「《塔》の人事に関して助言を聞きたいとは──」
「思っていないだろう。だがね、俺の信念がどうとかいう話ではない。ごく常識的な指摘だよ──死人の補 佐 はできん。本当に彼の代行をするのならば、彼そのものにならなければ」
「............」
吐 きかけた言葉を呑 む。
唐 突 に突 きつけられたカードは、思いがけない方向から致 命 打 を持ち込んできた。息を止め──無 遠 慮 な声をあげそうになるのをなんとか抑 え込み、少なくともしばらくはその場にとどまってくれと、その気 配 に釘 を刺 す。机の下で拳 を握 って、フォルテは改 めてクラベを見つめた。彼はしごく冷静に、そこにいる。
呑み下 した言葉が消えて失 せるまで、数秒がかかった。フォルテはゆっくりと、口を開いた。舌 が震 える。
「......なんのことですか?」
「なめてもらっては困る。といって......確信できたのは、ここに来てからだが」
彼は立ち上がるのではないかと思えた。怒 り狂 って椅 子 を蹴 るようなタイプではないだろう──が、それが必要ならば演 じることを躊 躇 はしないだろう。
まずは相手に先制された。このクラベという敵が、今のものより大きい手 札 を隠 しているとは思えないが、同じような切り札を複数持っていないとも断言できない。
なんにしろ、ゲームならば、お互 いにルールを決めなければならない。なにを求めて参加しているのか。最初はそれだ。
「ご要望をうかがいたい」
フォルテは静かに問いを発した。
「先ほどお聞かせいただいたのは、チャイルドマン教師に面会することでした。それは無理です。彼は現在《塔》にはおりませんので」
「我々が必要としているのは、チャイルドマンではない。ネットワークだ」
「わたしが答えます」
「ならばそれでもいい。事態は逼 迫 している。一部の者が、取り返しのつかない犯 罪 を犯 そうとしている。まずは理解してくれ、フォルテ・パッキンガム。今の生活が大 事 ならば、我々は仲間だ」
「と言いますと?」
理解しかねて、聞き返す。じっと、その男の表情を観察しながら。
クラベの顔面に、わずかに刻 まれたしわの上を、痙 攣 が走った。
忌 まわしい単語を通すため、その喉 が苦 悶 せずにいられないとばかりに、引きつり、震えて......
伝えられた言葉は、明 瞭 だった。
「この大 陸 に、戦争が起こる」
◆◇◆◇◆
「姫 だああああ! 姫だああああ!」
「あああああああああああ! はんぎゃらうーばーすてらっち、こんとらこんとらべんたらー!」
その場をぐるぐると回りながら叫 ぶ、地 人 。もうひとりの地人はうずくまり、地面に顔を伏 せて意味不明のことをわめき散らしている。
腕 組 みしてそれを見つめ、オーフェンはうめいた。
「なんだなんだ。狂 ったか?──まあ前から分かってたけど」
「今さらって感じよね」
「いったいなんなの?」
隣 で気楽にうなずくクリーオウに割り込むようにして、レティシャが聞いてくる。どうやら、突 発 的 に起こった異 変 に、とりあえずは興 味 を移してくれたらしい──内心でほっとしながら、オーフェンはかぶりを振 った。地人の考えることなど分かるわけがない。言えることは、これだけだった。
「まあある意味、収まるべき形に収まったんではなかろーかと」
「好き勝手なことを言わないでくださいいっ!」
がばと跳 ね起 き、ドーチン。なにやら泣きながら、
「あなたたちは知らないんですっ! これは由 々 しきことなんですよ!」
気の弱いこの地人の弟 が、これだけ強 硬 に非 難 の声をあげる姿 というのは、オーフェンの記 憶 にもそうはなかったが──
どちらにせよ、分からないことには変わりない。
「ンなこと言ったって、はんぎゃらうーぱーすてらっちで状 況 を把 握 しろというのはかなりの難 関 だろ」
「ぼく的な守 護 霊 様 への祈 禱 の言葉はともかくとして──」
「そこはちょっと突 き詰 めておきたい気もするが」
「ともかくとして、あの衣 装 は、誰 でも知ってる、悪 夢 の象 徴 !」
ぐっと拳 を握 りしめ、眼鏡 が無意味に陽光を反射する。地人の弟は、そのまま続けた。
「歴史から抹 殺 された、戦争の記 憶 です」
「戦争?」
なぜかわくわくと瞳 を輝 かせ──クリーオウが、前に出ようとする。が、表情を隠 す地人の眼鏡に見返され、その足を止めた。今は光を反射しているそのレンズの向こうに、ついぞ見たこともないような厳 しい眼 差 しがあることは想像に難 くなかった。
「戦争です......あなたたち人間種族が、想像もつかないような過 酷 な戦争です」
「ん?」
ふと気にかかって、オーフェンは聞き返した。
「それって、いつの時代の戦争のことだ?」
大陸ではこの数十年、戦争と呼べるものは発生していない。最も新しいとされるのは、四十年前に教 会 総 本 山 と大 陸 魔 術 士 同 盟 の間で起こった異常な戦 闘 状 態 、砂の戦争ということになる。それ以前は、それと似 た規 模 の戦闘がたびたび起こっていたらしいが。広さに限りのある大陸の上で、そうしたことを恒 常 的 に続けていれば容易 く破 滅 が待っていると悟 るのに、その期間は長かったとも言えるし、短 かったとも言える。
「地人が戦争したなんて話は聞いたことねえぞ」
「ぼくたちが、地人領で生活を始める以前のことです......あの記憶が、あまりにも恐 ろしいものだったから、ぼくたちはもうなにがあっても、戦争はしません。ご先祖が、そう誓 ったんです」
「ふむ」
うめく。
様 々 な評価はあるだろうが、少なくとも文化程度において、地人種 族 は人間種族などより遥 かに上だと断言する民 族 学 者 もいる。マスマテュリアに押 し込められた彼らに、物質的な、あるいは物量的な恩 恵 はなにもないが、彼らはその環 境 で高 尚 に生き抜 いているのであると。
と、気づき、オーフェンはぽつりと聞いた。
「やめたんなら、さっきのはなんだったんだ? 敵 影 とか言ってたぞ」
「伝 説 があるんです」
「ひょっとして、銀 月 姫 のこと?」
確信のない声で、レティシャがつぶやくのが聞こえてくる。オーフェンは横目で、彼女のほうを見やった。姉 はこちらの視 線 には気づいていないようで、やや眉 をひそめているようにも見えるいつもの表情で、突 然 言い出したその単語を反 芻 していた。
「なんだよ、それ」
聞くと、彼女は曖 昧 に手を振 ってみせた。
「土 地 柄 、まあ有名といえば有名なお話なんじゃないかしら」
「有名です。あらゆる地人種族が今なお恐 怖 し、語り継 いでいます......」
陰 を落として顔色を濃 くし、ドーチンがうめく。ずっと騒 いでいたボルカンのほうは、もう声をあげるのはやめて、近くの岩にしがみついて震 え上がっている。
オーフェンは、うなずいた。
「マイナーメジャーってやつか」
「それってマイナーってことよね」
あっさりとつぶやくクリーオウに、ドーチンが抗 議 の声をあげる。
「話の腰 を折らないでください。大変なことなんです。早く逃 げないと......」
「あれは、おとぎ話でしょう?」
レティシャがうめくと、地人は眼鏡 を振り落とすほど、激 しくかぶりを振ってみせた。
「とんでもない! 史実ですよ。大 昔 、種族に訪 れた呪 いだって言う人もいますし、なにかの陰 謀 で用意された罠 なんだって言う人もいます。でも間 違 いなく、何百年にも渡 って、ぼくたち種族は大勢の犠 牲 者 を──」
「ねえ」
クリーオウに袖 を引っ張られて、オーフェンは彼女を見下ろした。抱 いているレキの頭をあごの先で撫 でながら、少女が言ってくる。
「話、長くなりそうだしさ。なんか危 険 なら、わたし、ロッテーシャを探 してこようか。話ならあとで聞いてもいいし」
「うーん」
反射的に、駄 目 だと言いそうになったが思い直す。むしろ、そうしてもらったほうがいいのかもしれない。実際に危険があるのかどうかは分からないが、呼んできてもらって悪いことはない。
「っても、危険とかいうことだったら、お前ひとりで行くのも本 末 転 倒 だろ。俺 がいっしょに行くから──」
言いかけて。
石を踏 む音が耳に入って、言葉を途 切 れさせる。
クリーオウが、その気 配 のほうへと向き直った。
「ロッテ?」
──ではなかった。精 悍 な顔つきをした大 柄 な女が、岩を避 けるようにして姿 を見せたところだった。銃 の収められたホルスターを肩 にかけ、見知らぬ顔ぶれに怪 訝 そうな眼 差 しを投げてから、
「いや、あたしだよ」
見れば分かることを言う。そして、困ったように頬をかいた。
「ロッテーシャ、いないのかい? あの坊 やも? なんであんたら、いちいちバラけて行動すんのさ」
「いちいちってわけじゃない」
抗 弁 するが、ウィノナは聞く素 振 りも見せなかった。レティシャを見やって、無 遠 慮 に尋 ねてくる。
「この人は? ここは旅行者の来るようなところじゃないよ」
「旅行者じゃない」
「目的があってここにいるのなら......あたしも、余計な人間を連れて行くわけにはいかないんだけどね」
じろじろとのぞき込むウィノナに、それまで黙 っていたレティシャが口を開こうとする。いい加 減 、不作法に腹を立てたのだろう、にらむように眉 の端 を上げている。
「わたしは──」
「彼女は部外者じゃない」
「あんた、ない ばっかりだね」
ウィノナはそう言って可 笑 しそうににやけると、
「まあいいさ。声がでかかったからね、ちょっとは話、聞いてたよ。ロッテーシャを探 しに行くんだろ? ひとりじゃ危 ないってんなら、あたしがついていってやろうか?」
「え?」
目をぱちくりさせて、クリーオウがうめく。なぜかこちらを見てなにやら言いたげに口元を動かす彼女に、オーフェンはふと、クリーオウが自分の返事を待っているのだと気づいた。それが、なんのためかは分からないが──オーフェンはうなずいた。
「じゃあ、そうしてくれよ。ついでに、マジクの奴 も探してきてくれ」
そう告 げる。どちらかといえば、レティシャと話をするのに他人がいないほうが都 合 がいいというほうが本 音 ではあったが。
言われると、それまでの躊 躇 をあっさりとどこかに捨てて、クリーオウは気楽に手をあげた。
「うん。じゃ、行ってくるね」
「ああ」
「ロッテ、どこに行っちゃったんだろ」
「さあね。とりあえず、このあたりはそれほど詳 しいわけじゃないんだよ、あたしもさ......」
「............」
去っていくふたりを見送って、その気 配 が消えるのを待ってから、オーフェンは肩 をすくめた。それぞれの顔を見回す──岩に張り付いたボルカン、青ざめて固まったドーチン、そして、不 機 嫌 顔 のレティシャ。
(さて)
声には出さずに、独 りごちる。
(なにがなんだか......)
さっぱり分からないが、手っ取り早く思えるほうから片づけるしかないようだった。促 すために、声をかける。
「んで、伝 説 ってのは結局なんなんだ?」
「だから、姫 ですよ」
悲痛な面 持 ちで、ドーチンがつぶやいた──
「ぼくたちは、姫には絶対に逆らえないんです。死ねと言われれば死に、生きろと言われれば、どんなことをしてでも生きのびます。そして、伝説の銀月姫は自分の民 に、祖 国 を守るため死ぬまで戦えと」
「?......なに言ってるんだ?」
「ですからっ!」
声を荒 らげる。
「銀月姫は生 涯 を賭 して、ドラゴン種族に奪 われたこの大 陸 の覇 権 を取りもどそうと誓 って──」
結局、それも理解できたわけではなかったが。
どちらにせよ、突 如 として響 き渡 った声によって、その言葉は遮 られた。
「おおおおおおお師 様 ああああああああ!」
見やると、マジクが姿 を見せるやいなや、横を駆 け抜 けていった。そのまま、走り去っていく。先ほどとは、逆方向に。
「?」
呆 然 と、見ていると、続けて聞こえてきたのは、鬨 の声だった。膨 大 な声量が、いっせいに膨 れあがる。同時に、がちゃがちゃという派 手 な足音──ひとりやふたりではない。大人数と言うにも甘 い。大集団 。
「ひいいいいいっ⁉ 」
騒 動 に、悲痛な声が混じる。岩から転 げ落ちた、ボルカンの悲鳴だった。恐 怖 に引きつった眼 差 しで見ている先に──
いっせいに姿を現したのは、緑色の服を着た地人の集団だった。毛 皮 のマントを短 くしたような、毛皮の襟 巻 きを巻いた格 好 で、手には槍 のような斧 のような、馬 鹿 でかい刃 物 を構えている。
「突 撃 部 隊 ー! 敵本体を発見、突撃部隊ゆえに突撃ー!」
全員が、一呼吸の乱 れもなくその雄 叫 びを発する。岩 陰 から、道の向こうから、数十人の地人が飛び出してくるのは、絶句するよりほかにない壮 絶 な眺 めだった。とっさに飛び退 く。まだ相手の武器がとどいてくるような距 離 でもないが、この集団に文字通り「突撃」されたなら、骨も残りそうにない。
一 瞬 で構成を編 み上げ、それを──放つより先に、冷ややかな声が空気をふるわせるのが聞こえた。右手を掲 げ、風に髪 をなびかせ、姉 がつぶやきを発している。
「光よ」
レティシャが組み立てた魔術の構成は、速いだけではなく、限定された力の総量をせまい空間に引き絞 って放出する緻 密 なものだった。舌 を巻くしかない、大陸でもまさしく最強の力を持った姉の魔術。激 震 をただ一瞬、一点に叩 きつける。爆 発 する光熱波が、押 し寄 せる地人の群れの足 下 に炸 裂 し、爆発を引き起こす。
その破 壊 の余 韻 が消えた後には......
「......え?」
姉が、複雑なうめき声をあげた。そこには地面をえぐり取った痕 跡 以外には、なにも残っていなかった。
「消し飛んだ? そ、そんな......嘘 でしょう? 人が死ぬほどの威 力 なんて、出してない──」
衝 撃 を受けてうろたえる彼女を追い打ちするように、まだ途 切 れずに地人の軍隊が姿 を現す。仲間が吹 き飛んだことにもお構いなしに、武 器 を並 べて声をあげる。
「ひるむな! 突撃部隊ゆえに突撃ゆえに止まらず──」
「我 は呼ぶ破 裂 の姉 妹 !」
オーフェンは、いったん中断しかけていた魔術を続けて放った。衝撃波が、地人の第二波を打ち据 えて──
そして、消し去った。
(こいつは......?)
今のも、姉と同様、威力を抑 えて打ちはなったものだった。もとより、これほど大人数の相手を死体も残さず吹き飛ばすような魔術を使おうと思えば、簡 単 にはいかない。
(違 う。この地人たちには、実体がない)
つまりは。
思い当たることはあった。胸にずきりと、不 意 打 ちのような痛みが走る。と......
「さるむな! 今のはひるむなの上位形と独自的に断定! 突撃部隊ゆえに突撃ゆえに止まらずゆえに──」
またもやあふれ出てくる地人たちに、思考を中断する。逃 げるしかない。レティシャのほうへと向き直りかけて、
「突撃ー!」
その声があまりにも身 近 で起こったことに、オーフェンは戦 慄 した。勘 だけで身を翻 す。と、ひねった肩 先 をかすめるように、見覚えのある刃 こぼれした剣 が空を薙 ぐのが見えた。その剣を構えているのは、ボルカンだった。明らかに普 段 とは違う声 音 で叫 んでいる。
「即 席 の突撃部隊ゆえに、即席に突撃──」
「突撃ー!」
続けて叫んだのは、ドーチンだった。空手ではあるが、足 下 の石を拾い上げ、こちらへと凶 暴 な眼 差 しを向けてきている。
「な......!」
声が言葉にならず、オーフェンはうめいた。
そして──人 垣 の向こうに、新 たな人 影 が現れたことに気づいていた。全員同じ格 好 の、地人の軍隊。その向こう。銀 色 の重 甲 冑 を身につけた、銀のブロンドの少女が、ぞっとするほどに美しい声で叫 んでいる。
「ゆけ! 我 が祖 国 を守る剣 の群 れ! 愚 かな侵 略 者 たちに、自 らの薄 汚 れた故 郷 を思い出させてやれ! 奴 らはきっと帰るだろう、その血にまみれた魂 だけでも──」
「あれが......銀月姫?」
その呼び名は、教えてもらわずとも思いつきそうだと、そう思える。ドーチンは、なんと言っていた?──石を片手に熱 狂 的 な鬨 の声をあげる眼鏡 の地人を見やって、オーフェンは自分の記 憶 を探 った──地人の姫? 姫には逆らえない......
「キリランシェロ!」
レティシャが、自分を呼んだ。彼女はすっかり狼 狽 して、両手を見下ろして肩 を震 わせている。
「いやよ! どういうこと? わたし、死なせるつもりなんて──」
(......どうする?)
意識の中で時を止め、オーフェンは状 況 を分 析 しようと努めた。地人たちの人数は底なしのようだった──いや、底なしに違いない 。推 測 が正しければ。
驚 異 は眼前にある。時間はない。姉 に、自分たちの置かれた状況を説明して、落ち着きを取りもどさせることは不可能に近い。だとしたら、すっかり混乱したレティシャを守りながら、自分ひとりで探さなければならない。

(敵の......核 心 を)
それさえ見つければ、すべては終わるはずだ。
(ひとりじゃ無理だ)
サポートが要 る。その考えが禁 物 であることは、知っていた。迂 闊 なことを考えれば、召 喚 が起こる可能性がある。自分にとっての助けが召喚される可能性もある。だが、そうでない可能性もある。
(くそ──!)
時を止めたつもりになっても、時は動いていた。ボルカンが振 りかぶった剣が、再び自分の身体 を追って振り下ろされてくる。それをかわして、オーフェンは頭の中から、その考えを締 め出そうとした。過去、かかわったすべての人間の顔と名前を記 憶 の中から消し去ることなどできようはずもないが。意識を制 御 して、そうしなければならない。
が。
ドーチンの投げつけてきた石を避 けながら、人の顔が浮 かんできた。ややきつい目つきをした、金色の髪 の女性。どうして彼女の顔を思い出したのかは、想像もつかなかったし、考える余 裕 もなかった。彼女のことは数年間、思い出すことすらなかったというのに。時折、その女性はその眼 差 しを柔 らかくすることがあった。食べ物を人にあげるのが好きだったらしい。自分もよくもらった。気の強いところがあるのは、《塔 》の魔 術 士 の一 般 的 な特 徴 とも言えるが、彼の姉──あのアザリーと好きこのんで張り合おうとするような手合いはそういない。
ほかの誰 でも良かったはずだ。
はっきりと、そう思う。彼女を思い浮かべる理由はなにもない。
記憶は即 座 に実体化した。視 野 の端 に、その女の姿 が現れる。どこから出てきたのか、それは自覚できなかった。どこからか現れ、いつの間にかいる。そういうことなのだろう。それはつまり、幽 霊 のようなものなのだから。
「青の、衝 撃 っ!」
その女が高らかに叫 んだ。放たれた電 撃 が、網 のように広がって地人の大半を消し去る。同時に──
「............⁉ 」
見覚えのない男が、ふらりと目の前に姿を見せた。頭を剃 って、幾 重 にもマントをまとった、奇 妙 な格 好 の男だった。剣を手に提 げている。女の魔術の範 囲 から外 れていた地人のひとりを、その切 っ先 で軽く貫 く。やはり地人は、即座に消 滅 した。
そしてまたさらに、知らない男──
「スィートハート、ひどいじゃないか!」
叫びながら、飛び出してくる。先に出てきた女に対して言っているらしい。
「ぼくが君を守りたがっているのは知っているだろう──」
「そうしてくれると助かるわね、わたしはあなたを守りたくなんてないから」
「ひどいよ」
その会話を聞きながら、不 意 に悟 る。
(......本物?)
自分の記憶が生み出した幻 影 などではなく。
(本物の──)
叫んだのは、レティシャだった。
「イールギット? どうしてこんなところに」
呼ばれて──女が、ようやく気づいたのか、はっと振り返ってくる。細い眉 を縮めるように眉 間 に寄せて、レティシャを見ると、
「レティシャ・マクレディ?」
ふたりの魔術士が顔を見合わせ、硬 直 する。その時だった。
「撤 退 ー!」
銀月姫が、声を張り上げた。どのような喧 噪 の中にあっても、最も遠くまでとどきそうな、激 しく強い声。
「敵軍の合流を防げず! 作戦を変える! 撤退ー!」
「撤退ー! 撤退ゆえに撤退ー!」
地人たちの行動は機 敏 だった。総 員 すぐさま、身を翻 すと、出てきた時と同じように次次岩 陰 に逃 げ込んでいく。
「............」
呆 気 にとられ、そして我 に返った時には。
地人たちは、もうどこにも残っていなかった。いくつかの破 壊 跡 があるだけで、あとはなにもない。ボルカンとドーチンの姿 すらない。
「............」
「............」
その場に残った五人で、それぞれ、順番に視 線 を合わせる。そうしようという打ち合わせがあったわけではないが、誰ともなしに。
「あー......」
オーフェンは、近くの岩にもたれ、つぶやいた。額 に手を当て、天を仰 ぐ。
「なんで人の家に招 待 されてまで、こんなことが起こるんだ?」
◆◇◆◇◆
追っ手がいなくなったことは気づいていたが、それでも足を止めるつもりにはなれず、走れなくなるまで走った結果は──つまるところ、力つきて倒 れるということだった。それでも、そのまま地面に転 がることは避 けて、適当な木にもたれかかる。枯 れかけ、あとは朽 ちるだけの痩 せ木ではあったが、それはなんとか自分の身体 と疲 労 とを受け止めてくれた。
背後を見る。わけの分からない地人の軍隊がいないことを確認して、マジクはようやく安 堵 の吐 息 をついた。荒 れる呼吸の中での、ぎこちないため息ではあったが。
それでもどこか安心できず、木の陰 に隠 れるように身体を沈 ませながら、彼は独 りごちた。
「......なんなんだよ、まったく」
額をぬぐい、汗 で濡 れた手を一 振 りする。
「やたら怖 い魔 術 士 に追いかけられたと思ったら、今度は捕 虜 だの拷 問 だの。なんでこんなに走り回らなくちゃならないんだか。もう二度と走らないぞ、くそ。なにがあっても、ここで休んでてやる」
ぶつぶつとぼやきながら腰 を落ち着けると、痙 攣 する筋肉から疲労のきしみが抜 けていくのが実感できる。一時的なものでしかないというのは分かっていたが、それでも休息は必要だった。
リラックスして空を見上げる。
と。
ぱん、と激 しい音が背後で響 いた。布 団 を棒 で叩 くような、はっきりした音。意識を休ませかけていたところに騒 音 で驚 かされ、マジクは不快に顔をしかめた。背後。肩 越 しに向きやるが、ちょうど薮 に覆 われてよく見えない。その向こうから聞こえてきたのは間 違 いなかった。手を伸 ばし、隙 間 を少し開けて──
見えたのは、足だった。卒 倒 するように、跳 ね上がって──仰 向 けに倒れていくところだった。足以外は、岩 陰 に隠れて見えなかったが。
靴 には見覚えがあった。少し底のすり減 った、小さなスニーカー。クリーオウのものだった。それが倒れて、岩の間に消える。
(え......?)
さらに視 界 を広げると、倒れていくクリーオウを、ウィノナが見下ろしているのが見えた。身体の大きなその女は無表情で、倒れた少女を助け起こすどころか、駆 け寄 りすらしていない。それはそうだろうと、思えた。ウィノナの左手には、金ぴかの、ちゃちな玩 具 のようにも見える──拳 銃 があった。銃口から硝 煙 をたなびかせ、荒 野 の風に薄 い靄 を混 ぜている。
「............⁉ 」
無言の叫 びをあげながら──
マジクはそこから全力で逃 げ出した。
「お久しぶりね、レティシャ・マクレディ? 二年ぶりくらいになるのかしら」
どこか怒 りを含 んだ冷たい声で──
そんなことを改 めて言われ、警 戒 するようにやや身体 をそらした形で、レティシャがうめく。
「そうなるかしらね、イールギット」
「イールギット・スィートハート よ。今はもうあなたと同じ、家名ありの身なの。別にちゃんとした資 産 があるわけでもないけどね。なめてもらっては困るわ」
傲 然 とあごを上げ、告 げてくる彼女に、さらにレティシャが後ずさりするのが見えた。退 がりながら、
「なめてなんて......そうね。宮 廷 に行ったんだものね。マリア教 師 もいっしょだったっけ?あの人もお変わりないかしら」
「わたしのこと、先生と抱 き合わせで王 都 に行ったと当てこすっているつもり?」
「いや......そんなわけじゃ」
げんなりと、レティシャ。
と──
「察しはついているだろうが」
頭を剃 った男が、口をはさんでくる。いまだ収めていない軍刀をだらりと地面に向けて、声もまた同じ向きに向かっているように聞き取りづらい。
「我 々 は《十三使 徒 》から、任務があってこの地に派 遣 されてきた。どうやらイールギットが紹 介 してくれそうにないから尋 ねさせてもらうが、あなたはレティシャ・マクレディ? あの」
さらにそれを遮 るように、イールギットが声をあげる。不本意であるのは、はたからも見て取れた。
「これから紹介するつもりでいました、シーク──いえ、シーク師 」
「我々は急いでいたはずだ」
「分かっています」
彼女は、それこそ当てこするように、大げさな身 振 りでその男と、もうひとり、若い男──自分より年下であるように、オーフェンには思えた──を示して、
「レティシャ。彼が、一応現時点での仮 のチームリーダー、シーク師よ。シーク・マリスク師。王都のスクールについては説明しなくてもいいでしょ? そこの、教官よ。そっちのユル軽いのが、カコルキスト・イストハン。彼の生徒」
「ユル軽いって、ゆるくて軽いってことかい? スィートハート」
「念 を押 す意味ってある?」
冷たく告げてから、その腕 をレティシャのほうへと向ける。
「シーク、カコルキスト。彼女がレティシャ・マクレディ。《牙 の塔 》の」
それで説明は十分というように、イールギットはそこで打ち切った。実際、それで通じたのだろう。シークとかいう男も、カコルキストというのも、それ以上どうとも聞いてこなかった。
そして──
「............」
沈 黙 。数秒ほどだろうか。オーフェンは黙 って待っていたが、イールギットはそれ以上特になにもなく、同じように黙り込んでいる。レティシャが、きょとんと目をぱちくりさせた。沈黙が長引くにつれ、《十三使徒》たちも次第に決まり悪げに視 線 を見合わせるようになる。
「レティシャ」
とうとうイールギットが、苦 笑 混 じりの声で言ってきた。
「こっちの紹 介 は終わり。良ければそこの人のことを教えてくださらない?」
彼女が視線で指してきたのは──オーフェンだった。
「え?」
思わず、うめく。
レティシャが、深 々 と嘆 息 するのが聞こえてきた。
「多分......そんな気はしていたのよ」
疲 れたように目を押さえ、かぶりを振 っている。
さっぱり分からないまま置き去りにされた形で、イールギットの目に不平の色が浮かんだ。
「どういう意味?」
問われて、レティシャは力の入らない指先で、こちらを示した。
「分からないのも無理はないけど......この変わり果てたのが、キリランシェロよ」
「なんかそれはユル軽いよりさらにカドが立つぞ、ティッシ」
半 眼 で、つぶやく。
訪 れた沈 黙 は、先ほどよりさらに長かった。妙 な音が聞こえて──壊 れた笛 の音のような──、オーフェンはようやく、イールギットがその沈黙の間、ずっと息を吸い続けていたことに気づいた。
そして、その音が止まった。瞬 間 。
「うそっ!」
イールギットが叫 び、まるで瞬間移 動 でもしてきたように、たった一歩で間 を詰 めてくる。すぐ前に飛び込んできて、早 業 でこちらの手を取ってまじまじと顔をのぞき込んできてから、
「うっわー。言われてみれば確 かにそうかも。ひっさしぶりねー、キリランシェロ君。元気だった? わたしが王都に行ったのって、あなたがタフレムを出ていってからしばらくしてのことだったし、知らなかったでしょ」
「......なんか、わたしに言った『ひさしぶり』と随 分 ニュアンスが違 うように聞こえるんだけど」
「気にしないで、レティシャ。気にするべきじゃないわ。わたしたちが険 悪 になると、きっとキリランシェロ君が嫌 な思いをすることになるのよ」
「誰 もそんなこと言ってないでしょ──」
「ところで、思い出して欲 しいのだが!」
声を大きくしたのは、シークだった。びくりと肩 を震 わせたイールギットへと、厳 めしい視 線 を送り、
「......我々は急いでいる」
「あー......ええと、シーク師 。彼がキリランシェロです。《牙の塔》の」
「......ほう?」
多少、声の調子を変えて、シークがうめく。その横で、ユル軽い──というのは言い得 て妙 ではあった──少年が、首を傾 げている。
「師 匠 、高名なお方なのですか?」
「行方 不 明 だと聞いていた。久しぶりだな、キリランシェロ君......と言わせてもらうよ。君は覚えていないだろうが、一度だけ会ったことがある。君が審 問 さえ受けていれば、君はわたしの部下になるはずだった」
と、彼は生徒のほうへと向き直り、
「五年前、彼は《十三使徒》の審問を受けるはずだった。残念ながら審問は行われなかったが。つまりは、そういった人物だ」

「なるほど」
カコルキストは快活な笑顔でうなずいてみせた。こちらを向いて、右手を差し出してくる。
「よく分かった。《十三使徒》の審問は確かに厳 しいものなのだから、力が及 ばなかったからといって、必ずしも恥 に思う必要はないと思うよ。またいずれチャンスはあるさ、キリランシェロ」
「......まったく分かっていないようではあるが、まあ気にしないでやって欲しい、キリランシェロ君」
「はあ......」
カコルキストのぺらぺらした手を軽く握 りながら、生 返 事 を返す。と、思い出し、告 げる。
「今は、オーフェンと名乗っています。《塔》にも籍 はありません」
「彼らが軽 挙 をすることについては、さほど驚 きはしないな」
彼ら、というのは《塔》執 行 部 のことだろう。シークは話している間もまったく顔色を変えなかった──どころか、目に表情すら映 し出さなかった。
「君は、《塔》を出た後に王都のスクールに来るべきだったんだ。若い才能を闇 に葬 ることはなかった」
「いえ......まあ、やらなければならないことがあったので」
レティシャの視 線 を──ちくちくと──感じながら、うめく。と、ふと半 眼 になって、オーフェンは聞いてみた。
「ところで、会ったことがあるはずなのに、ぱっと見で俺 だと分からなかった理由はなにかあるんでしょーか」
「我々は急いでいるわけだが──」
答えず、さっとあさっての方向を向いて、シークがしゃべり出す。
「まさかこんな土地で、君たちも物 見 遊 山 ではあるまい。差し支 えなければ、目的を教えて欲しい。どうやら、共通の厄 介 事 に巻き込まれたようであるし」
「厄介事というほどのことでもありません。さっきの地 人 たちのことなら、多分すぐに解決します」
「......え?」
なにやら、いつの間にか顔を近づけてにらみ合いをしていたらしいレティシャとイールギットとが、驚いたようにこちらを見て声をあげる──
「どういうこと? あなた、なにか知っているの、キリランシェロ」
聞いてくるレティシャに、オーフェンは後頭部をかきながら、しばし言葉に迷った──恐 らく、これは本来イールギットや、ましてや《十三使徒》の魔術士に聞かせて良いものではないのだろうが、隠 しておいたままどうできるものではない。
(仕方ねえよな)
胸中で、フォルテに謝 りながら。
オーフェンは肩 をすくめた。
「ひとことで言えば」
地面に残った破 壊 跡 を指し示して──
「あれは全部、幽 霊 です」
◆◇◆◇◆
「君が既 に手を打ったことは知っているのだ。レティシャ・マクレディを東部に送ったな?」
「ゲームの差し手を気取るつもりはありませんよ」
寒かったわけではないが、ひざの上で手のひらをこすりあわせて、フォルテは否 定 した。むしろ、肌 はわずかに汗 ばんでいる。
(そもそもが、向かないのだな、こういったことには......)
自分のことを自分で批 評 するというのは、気分の良いものではなく、またさほどの意味もないことではあったのだが。
みなが陰 で同じことを思っているのも、知らないわけではない。自分は気の弱い人間なのだ、などと言うと大 抵 の者は笑ってまともに取り合ってはくれないが、それでも心の中で思っているのだろう──そうかもしれない、と。
それでも、人 並 み程度に外面を取り繕 うことには慣れた。静かに、低く、声を抑 えて続ける。
「少なくとも、あなたがたのゲームに参加するつもりはない。わたしは、もう少し......ほのぼのとした遊びが好きなもので」
クラベが、それを見 抜 いたのかどうかは、フォルテにも分からなかった。ただその《十三使 徒 》は、ごく一 般 的 な反 応 として、苦 笑 してみせた。
「我 々 とて、火遊びは好まん。つまらんゲームを現実に持ち込もうとしているのは、あるひとりの......なんというか、強力な男だ」
「奇 妙 な言い回しをしますね。あなた方の一員ですか?」
聞く。
目の前の男が首を左右に振 るのを見ながら、フォルテが想像していたのは、魔 人 プルートーという名前だった。王 都 の魔人。《十三使徒》のナンバー1で、最強の黒 魔 術 士 。もちろん、コルゴンやレティシャといった連中とはまた質 の異 なった強さではあるが──かつて一度だけ見たこともあるが、それほど怖 いとも思わなかった。いかにも〝スクール〟出らしい魔 術 士 だ、と思えたに過ぎない。
なんにしろ、そうではなかったらしい。もとより、問題の主がプルートーであるのなら、クラベが《牙の塔》に問題を持ち込むことはあり得 ないわけだから、そもそも想像がそちらに向いたことが間 違 いだったといえる。
クラベは、陳 腐 に演 出 を考えながら──としか思えなかったが──慎 重 に、言葉を紡 いできた。
「件 の男──男だ──は、彼は魔術士ではない。いや、とにかく我々は彼の正体を知らない。ただ、貴 族 たちの、切 り札 のような立場にいるのではないかと、漠 然 とした推 測 をしたことがある。そこで調 査 を終えてしまったのが、大きく災 いした」
「どうして終わりに?」
「できなかったからだ。最 接 近 領 という言葉を聞くたびに、我々は犠 牲 者 を出した。魔王に生 け贄 を提供してきたようなものだ。今回も、そうなるかもしれん」
まぶたの縁 の、老 獪 な曲線を、音もなく歪 める──
彼は、ことさらに時間をかけてその名前を口にした。
「最接近領の領主。その呼び名しか、我々は知らん。王都に姿 を見せることもある。だが追 跡 できない。彼は強力な守 護 者 を抱 えている──君には知らんとは言わせんよ。ユイス・コルゴンという名前に心当たりがあるだろう」
「半分だけ」
肩をすくめる。
と、クラベは即 座 にあとを続けた。
「嘘 をつくな。チャイルドマンは知っていたはずだ。件 の領主からの間 者 だと知っていて、彼は自分の教室にその少年を迎 えたのだ。いや、今ではもう少年ではないか......」
「コルゴンを敵に回せば、厄 介 でしょうね。彼にぶつけて勝てる可能性がある魔術士を、わたしはひとりしか知りません」
「キリランシェロか。サクセサー・オブ・レザー・エッジ。そもそも、彼をキムラックに送ったのも、君の指 図 ではないのか?」
その考えには、今度はこちらが苦 笑 せざるを得 なかった。苦 笑 いとともに、うめく。
「彼は自分の意志で行ったのですよ。わたしは止めました......確 かに、強くは止めませんでしたが」
クラベが、その言葉を信じたようには見えなかったが。それでも彼は、とりあえず無 視 してあとを続けてきた。
「領主の、もうひとりの守 護 者 ──こちらのほうがある意味では厄介だが。これも全 貌 はつかめていないが、名前だけは分かっている。ダミアン・ルーウ。表 舞 台 に出てくることはないが、大 陸 で最高の魔術士だ。はっきり言おう。君などとは比 較 にならない、ネットワークの使い手だ」
興 奮 してきたのか、早口になっている。
「白魔術士。それも、精神体となって数十年も消失を免 れているという、図 抜 けた精 神 士 だ。恐 らくほかにも、領主の配 下 となって働いている者がいる。特にここ数年、その活動はエスカレートしている」
「具 体 的 に、なんなのですか?」
「彼らは、ドラゴン種族を刺 激 しているのだ!」
とうとう、クラベは声を荒 らげた──忌 々 しげに、拳 を固めると、それをかざして、
「これがどれほど危 険 なことか、説明しなくても分かるだろう。つつかないでもいい薮 をつついて、大陸を呑 み込む大 蛇 を呼び出しかねん」
ひとしきり吐 き捨ててから、彼は、拳を解 いた。埋 め合わせというわけではないだろうが、口 調 を弱めたため、フォルテはわずかに身を乗り出さなければその言葉が聞き取れなかった。
「......実際、ドラゴン種族は彼らに対 抗 するため、強力なエージェントを何人も送り込んできている。まあ、どちらが先手なのかは知らないが。噂 を聞かなかったか? 二週間前のアーバンラマ市の壊 滅 には、突 如 として現れたディープ・ドラゴン種族がかかわっていたと」
「ふむ」
相づちだけ打って、フォルテは相手の言葉を待った。ちらりと、窓の外を見やる。それほど時間をかけて話をしていたわけではないが、空はもう暗くなっている。
(劇 場 に行くのに連れがいたなら、今ごろ食事でもしている頃 か)
ふと思いついて、ついでに空腹を意識するが、クラベはまったくそういったことに意識が回らないようだった。
彼は、力を持てあまして、わずかに声を震 わせてすら──いた。
「結論を言おう。我 々 と組むんだ。《塔 》と《十三使 徒 》......大陸魔術士同 盟 そのものを以 て、最 接 近 領 の暴 走 を止める」
フォルテは小さく嘆 息 を漏 らした。
◆◇◆◇◆
「お師 様 ぁぁぁっ!」
横 滑 りに飛び込んできたマジクを、オーフェンは地面に座 ったまま、横目で見上げた──ぜえはあと息を切らし、汗 だく埃 まみれの生徒が、半泣きの声をあげてくる。
「た、たた、大変なんです! 今、あっちで──」
わめく少年を。
座ったまま、オーフェンは殴 りつけた。呆 気 なく、マジクが後方に転 んで、静かになる。
「ふむ。つまり──」
倒 れたマジクを、時間をかけて観察してから、
「これは、本物ってわけだ」
「なにがですかぁぁっ⁉ 」
と、再び叫 びながら飛び起きてくるマジクを押 しとどめるように手を振 って、オーフェンはうめいた。
「あーあーあー。怒 るな怒るな。仕方ないんだって」
「なにがいきなり殴りつけておいて仕方ないってどういう──」
と、
きょとんと、マジクが言葉を止めた。不 思 議 そうに、その場にいる全員の顔を見回してから、
「......どなたですか?」
そのほとんどに、面識がないことに気づいたのだろう。わけが分からず、顔をしかめている。
「あー......」
オーフェンも、それと同じように視 線 を巡 らせて、説明の言葉を探 した。簡 単 に言えば簡単に言える──全員、ただの通りすがりだと。いや、姉 だけは違 うか......
レティシャ・マクレディ。
イールギット・スィートハート。
シーク・マリスク。
カコルキスト・イストハン。
全員が全員、間違いなく自分と同等か、あるいはそれ以上の術 者 ばかりだということを気にしなければ、その説明だけで事 足 りる。
とりあえず、オーフェンは姉を示した。
「ティッシだ。俺の姉......みたいなもんだ。彼女のことは覚えてるだろ? タフレムで世話になった」
「は?」
覚えるもなにも、姉と会って、彼女のことを忘れるような人間は滅 多 にいない──実際、今まで皆 無 だったと言っていい。オーフェンは複雑な思いで、そんなことを独 りごちた。
今さら気づいたのか、マジクが声をあげる。
「あ、レティシャさん?」
「さっきはどうも」
なにか含 みがあるような声 音 で、姉が告げる。マジクが数歩、後ずさりするのが見えたが、とりあえずはそれはそれだけで終わった。
それを見ながら、あとの三人を示す。
「そちらの三人は、宮 廷 魔 術 士 、いわゆる《十三使 徒 》だ。なにか用があってたまたま通りがかったらしい。というわけで、こいつはマジク。俺の生徒で──」
「いや、それどころじゃないんですよ、お師 様 !」
マジクはこちらの紹 介 を遮 ると、無 駄 に暴 れながら近づいてきた。錯 乱 していたことを思い出したのか、また両手をばたばたさせて、
「クリーオウは、クリーオウはどこです?」
「さっき、ウィノナといっしょにロッテーシャを探 しに行ったよ」
「ああああ、やっぱりぃぃぃ⁉ 」
さらに腕 の動きを増 して──マジク。
オーフェンはうんざりと、少年の顔面を押 しやるようにして遠ざけた。
「なんなんだよ、さっきから。こっちはこっちで今、ややこしいことが──」
「こっちはもう、ややこしくなんかないんです」
ぐずりと鼻を鳴らして──泣いているらしい──マジクが、かぶりを振 る。絶望的に、声を詰 まらせていた。
「もう、終わっちゃったんです。銃 で、一発で、倒 れて、くそう」
「筋 道 立てて話してくれ。さっぱり分からない」
「ですから、向こうのほうで、ウィノナがクリーオウのこと銃で撃 ったんです!」
その怒 りをなぜかこちらに向け、声を荒 らげて、マジクが叫んできた。
「それで、クリーオウが倒れて──ぼくが見た時にはそうなってて、それでそこから走ってきて」
「三点だ」
「......は?」
「十点満点中、三点。銃弾を受けた、倒れた、イコール死んだとは限らない。もしそういうことがあったのなら、その場でウィノナを取り押 さえて、クリーオウの状態を確認し、可能ならば蘇 生 する。それで九点。十点が取りたければ、軽く一発、奇 跡 でも起こしてヒロインを助ける。分かったか?」
淡 々 と告 げるこちらの顔を──
「............」
惚 けたように見返して。呆 然 としていたマジクが、突 然 、瞳 に怒 りを灯 した。
「なに落ち着き払 って言ってるんですか、お師様!」
「お前、自分が魔術士だってこと忘れてるんじゃないだろうな。犯 罪 を犯 したウィノナに対して絶対的に有利な立場にあったのは、お前なんだぞ。逃 げてきてなにになるんだ? お前がここまで走ってきて、しかもここからまたもどるのに要する時間で、本来ならなにができた?」
「そんなこと......!」
マジクは、それだけ言って言葉を切り、そしてきびすを返して駆 けもどっていった。
ぼんやりとそれを見ていると──
「いいの? ひとりにしちゃって」
レティシャが、言ってくる。オーフェンは肩 をすくめて、彼女のほうに向き直った。
「構わんだろ。あいつのゴーストが出てきても怖 くない」
「それに、あの子が言っていたこと......クリーオウが死んでるかもって」
「クリーオウは死んでない。多分、かすり傷 ひとつ負 ってない」
言いながら、自分の頭の中で整 理 する。
「多分、現状で誰 よりも安全な立場にいるのが、クリーオウだよ。人の心を読んで、殺意を感じた瞬 間 に相手をこの世から消し飛ばせるディープ・ドラゴンに守られてる。多分、誰がなにをどうやったところで、あいつに危 害 を加えることはできない。んで、誰にも増 してそれを知ってるのがウィノナだろうさ。さっきの女のことだけど。まさかクリーオウに手を出すような愚 を犯しはしないさ」
愚 かでないから厄 介 なんだ──と、胸の内で付け加え、あとを続ける。
「そのあたりなにもかも総 じて、本物の クリーオウが殺された可能性は、限りなく0に近いと思う」
「でも──」
「ああ、分かってる」
あくまでも不安げなレティシャに、とうとう根 負 けするような形でうめいて、オーフェンはひとつの単語を繰 り返した。
「分かってる。分かってるよ。万が一ってことは、なんだってあり得る。だからマジクの奴 に行ってもらったんだ。ほかにどうしようもないだろう? 本物のクリーオウを見分けられるのは俺かマジクだけだろうし、この状 況 をみんなに説明できるのは俺だけなんだから。それに」
深 々 と嘆 息 する。
「今も言ったが、ウィノナは馬 鹿 じゃない。あいつがクリーオウに手を出す理由は、少なくとも表向きにはなにもないし、それにクリーオウになにかあれば、レキがどうこうする以前に、俺が許さん。そのことは分かっているさ」
と。
横からイールギットが、口をはさんできた。
「キリランシェロ君、わたしそのクリーオウって人のことなにも知らないんだけど。女性の名前、よね?」
ああ、とうめいて──うなずく。
「恩 人 から預 かってる子供だよ」
「本当にそれだけ?」
「それだけと言えばそれだけだけど......半年ほどいっしょに旅 してるからな。まあ、なんだ。話してて退 屈 しない相手だよ。なんだったら、あとで紹 介 する」
「そう」
と、なにやらぶつぶつと言いながら、イールギット。意外と手広いんだから......とかなんとか聞こえたような気もしたが。
オーフェンはゆっくりと、構えなおした。
「さて、説明をやり直そう。さっきも言った通り、必要なのは──」
「いや待ってくれ」
シーク・マリスクだった。鞘 に収めた軍刀を抱 えるようにして、地べたにあぐらをかいている。
「実を言えば、先ほどの説明はほとんど呑 み込めなかった。君は、あの地 人 の群 れをなんと言った?」
「幽 霊 です」
「正 気 か?」
「いわゆる、霊 魂 がどうとかいうものでないことは確 かです。一番簡 単 に納 得 する方法は、これがある種の魔 術 によるものだと考えることだと思います」
説明する。が、腑 に落ちない表情で、シークがうめいた。
「しかし、魔術ではない、ということだな? その口 振 りでは」
「術者がいません。魔術だと言うことはできないでしょう」
「なるほど」
一応は納得したように、シークはうなずいてみせた。
「何者によっても制 御 されていないものを魔術とは呼ばない。その理 屈 は分かる。だが矛 盾 がある。術者がいないのなら、そもそもその魔術は存在できないだろう」
「あるんです。極 めて特 異 な魔術だと思います。俺たちは──」
と、レティシャを示す。彼女はいまだ、なんの話なのか分からずにいるようだったが。
オーフェンは、そのまま続けた。
「俺たちはそれを、チャイルドマン・ネットワークと呼んでいます」
「......キリランシェロ?」
びくりと反 応 して──レティシャ。オーフェンは目 配 せだけして、彼女が指 摘 しようとしたことを、自分も分かっていることを伝えた。これは口外すべきことでないのは理解している。が、全員がこの現象を理解していなければ、状況は打 開 できそうにはない。

「チャイルドマン・ネットワークというのは俺たちが勝手につけた名前で、本来はただのネットワークと呼ぶものらしいです。具 体 的 に、それがどう働くのかは、俺も知りませんが──」
なんとはなしに、授業で発表でもしているような気分になりながら、シークへと説明を続ける。ほかの魔術士たちにも聞かせてはいたが、とりあえずシークに話すことが最も容 易 なようだった。
「とにかく、ネットワークの使用者は、過去の情報を現在のものとして呼び出すことができるんだそうです。要 は、情報をすべて無 距 離 にするとかなんとか。それによって、使用者は情報を得たり、他 者 と連 絡 を取ったり、そういったことが可能になります。もっとも効 果 は万能ではなくて、かなり限定的にしか作用できないらしいですが」
「チャイルドマンは、その使用者だったと?」
「そうです。彼はそれを、高々度の白魔術だと言っていましたが、それをどうして先生が使えるのか、それは説明してはくれませんでした」
「ふむ......」
それこそ、生徒の発表に点数をつける教師のような面 持 ちで、シークがうめく。
「まあいい。どう考えても、突 拍 子 もない話だが。それと、先ほどの地人の軍隊と、どう関係があるというのだ?」
「制御されていない魔術であるため、ネットワークには齟 齬 があります。それも、恒 常 的 な」
「危 険 なものかね?」
「場合によっては。特に、その齟齬を正 そうとした場合、どうしても危険が伴 います」
「詳 しく説明してくれ」
「この現象を、先生は〝ゴースト〟と呼んでいました。ネットワークの局 地 的 な暴 走 です──まあ、もともと制御されていないものに暴走もなにもないですが。とにかく、この現象の中では、過去の情報が一方的に具 現 化 します」
「過去の情報?」
と、聞き返してきたイールギットに答える形で、今度はレティシャが聞いてきた。
「つまり......さっきの地人たちは、蘇 った情報だっていうの? なんでキリランシェロ、そんなこと知ってるのよ」
「一度、そのゴースト現象を消 滅 させる任務をもらったことがあるんだ。本来はハーティアの役目だったけど」
それは半分以上嘘 だったが、真実を言うことに意味はなく、それによってレティシャから数分間の小言をもらうことは避 けたかった。今は急ぎたい。
「......あ!」
イールギットが驚 いて、声をあげる。思い出したらしい。
「だいぶ前だけど、先生が──あ、ええと、マリア・フウォン教 師 がそのことで騒 いでいたような......」
「ああ、そうそう。なぜだかマリア教師が俺の援 護 に来てくれたっけ」
いまだにあれがなぜだったのか、それが分からないが。
「ゴースト現象には、必ずひとつの核 心 があってそれを中心に発生します。結論を先に言うと、その核心を消滅させれば現象は丸ごと消滅します。それまでは、核心が存在する地 域 や、現象の内部にいる人たちの意識などから、ゴーストは無限に発生し続けます。これは、ある程度の衝 撃 を与 えると壊 れて消えますが、一番良いのは、発生させないことです。なるたけ、過去のことは意識しないよう努めたうえで、迅 速 に核心に接近する。核心はゴーストの中心にあります」
「それは危険なことだというわけだな?」
念 押 ししてくるシークに、うなずいて続ける。
「そうです。ゴーストは具体性を持っています。幻 や思いこみなどではなく、実体と同じです。つまりは、先ほどの軍隊は実際に人を殺せる影 響 力 を持っています」
「思うにだね──」
と、それまで退 屈 そうに地面に絵を描 いていたカコルキストが、最後だけ締 めくくろうという意 図 か、立ち上がってポーズまで取って言ってくる。
「これだけ魔術士の数がそろっているんだ。あの軍隊が問題ならば、すべて吹 き飛ばしてしまえばいいと提案するよ」
「それは無理だ。あの中に、生 身 の地人がふたり紛 れ込んじまった」
ボルカンとドーチンのことを思い出しながら、首を傾 げる。
「......そういや、どういうことだ? あいつらも正気じゃなかったようだが」
「銀 月 姫 よ」
神 妙 に、レティシャがうめいた。座 っていることに疲 れたのか、ゆっくりと立ち上がって、手 近 な岩に腰 を引っかける。
「ああ、そういえばなにか騒いでたっけ」
つぶやくと、彼女はうなずいてみせた。
「地域の影響を受けるって言ってたわよね。まさしくそれだと思う。銀月姫って、千年前の人物らしいし......」
「千年」
脈 絡 もない数字に、カコルキストが天を仰 いだ。
「そんなの──あれだよ。ぼくが生きていたはずはないよね」
「多分ね」
冷たく、イールギットが告 げる。が、カコルキストは、めげた様子もなく、
「でもねスィートハート。永遠の愛は人類が存在する前からあったとぼくは信じているんだ」
「......こいつはわたしが黙 らせておくから、説明続けてね、レティシャ」
「ありがとう」
のろのろと、カコルキストを関 節 技 に取り始めるイールギットに、レティシャが礼を言う。
「わたしもそれほどたいしたことを知ってるわけではないの。確 か大 昔 に、ドラゴン種族がこの大 陸 へとやってきた時、大陸の先住種族であった地人たちは、ふたつに分かれたらしいの。新しい住人を迎 える側と、彼らを追い返そうとする側に。銀月姫というのは、その後者の最 筆 頭 で、死ぬまでドラゴン種族と戦いつづけた将 軍 の名前だったと思うわ。その最終決戦の地が、確かこのあたりだったと」
細い肩 を──どうしてあの強 肩 がそのサイズに収まるのか、誰 もが理解に苦しむその肩を──すくませて、彼女は付け加えた。
「なにしろ時代が時代だから、どこまでが真実でどこまでが伝 説 なのやら」
「ドラゴン種族の力ならば、地人種族がどれだけ団結しようと一 瞬 で消し去ってしまいそうなものだが」
シークの疑 問 はもっともなものではあったが、非現実的なものでもあった。もっとも、非現実的なことが平然と起こるのが、現実というものかもしれないが。そんなことを思いながら、オーフェンは口を開いた。
「......彼らがなにかを滅 ぼす気になったなら、確かに一瞬で終わるでしょうけど、そうならなかったということは、そうしたくなかったってことでしょうね」
レティシャが、うなずく。
「そうね。ドラゴン種族にしてみれば、負 い目があったから、地人種族を滅ぼして解決しようという気にはならなかったのではないかしら。彼らの倫 理 観 はよく分からない部分があるけれど、そうとしか思えないところはあるわね。銀月姫は、何十年も戦い続けたそうよ。もちろん地人種族の武器でドラゴン種族は殺せないし、ドラゴン種族に彼らを滅ぼす意図はなかったようだから、延々それを続けるしかなかったみたい。最終的には、銀月姫は自分は永遠に戦い続けるという妄 想 に陥 って、不死の存在として自 らの軍勢とともに無限に最終決戦を続ける、っていうようなオチだったと思うけど」
「オチ?」
「おとぎ話としか思えないでしょ。でも彼ら種族は、それを本気で信じてるみたい」
「それのゴーストか」
力なくうめいて、オーフェンは腕 組 みした。
「にしても、あの福 ダヌキどもの変 貌 ぶりはなんだったんだ?」
「地人種族のことを、ドラゴン種族が造 り出した戦 闘 生 物 だって言う人もいるんだけど──まあこれだと、歴史的な事実と矛 盾 するけどね。彼らがそう言われるのには理由があるの。尋 常 ではない生命力の強 靭 さも含 めて、なんていうか、戦闘生物としての特性としか思えないものを備 えすぎているのよね」
「どんな?」
「彼らは、姫に逆らえないの」
「うん?」
「女 王 蜂 みたいなものよ。種族の女性の中に、まれに特別な姫が生まれるらしいんだけど。その命令には絶対服従、完全な指 揮 系 統 ね。死ねと言われれば死ぬし、岩になれと言われれば本気で岩になるらしいわよ。うずくまってそのまま、餓 死 するまで動かないんですって」
「それこそガセっぽいけどな」
疑 わしげにつぶやく。が、あの時に見たボルカンらの形 相 を思い出し、納 得 せざるを得 ないのも自覚する。
「......よりによって、あのあいつらがあれだけ服従するんだ。否 定 はできないか」
「わたしだって、実際に目にするまで信じてたわけじゃないわよ」
と──
「呑 気 にディスカッションしてる場合ではないと思うけど」
「うわぁ。すごく痛いよ、スィートハート」
なにやら複雑な関 節 技 を極 めながら、きっぱりと言ってくるイールギットと、どう考えても人間の骨 格 では不可能な形状になっているカコルキストが、ひどく無感動に声をあげてくる。
その体勢からカコルキストを適当に投げ捨てて、イールギットは、こんな時だけは有能に見えなくもない事務的口 調 で口を開いた。
「だいたい情報は出そろったわけよね。あとはどうすればいいの?」
「シーク師 、あなたが全体の指示を出してください」
オーフェンは、最年長の魔術士に話を振 った。
「相手が多すぎます。これだけ大 規 模 なゴースト現象は、俺も聞いたことがありません。どうやったところで個人の力では押 し切れませんから、俺たちも部隊として行動するのが肝 要 だと思います」
「だろうな」
剃 髪 された頭をいったん下げ、反動をつけて立ち上がってから、シークはうめいた。やや、声が曇 る。
「なるほど。まがりなりにも相手が軍隊ならば、戦争というわけだ」
「悲 劇 がまた始まるわけですね」
拳 を握 り、立ち上がるカコルキストに、シークが告 げる。
「話を聞いた限りでは、誰 も死なんようだぞ」
「あ、じゃあゲームだね。ヒョーホー! 七 面 鳥 撃 ちだぜみんな!」
無 視 して、シークはあとを続けてきた。
「問題は、その核 心 とやらがどこにあるか、ということか。差し当たって怪 しいのは、その銀月姫とかいう敵の司 令 官 だな」
「............」
思いつくことはあったが、それは胸中にとどめておく。言っても詮 無 いことだろう。なんにしろ、銀月姫が最有力の候 補 であることは間 違 いない。オーフェンが考え込んでいるうちに、シークは話を進めたようだった。
「チームを分けよう」
「分 散 するの?」
聞き返したのは、イールギットだった。シークはさほど感動もなく、彼女のほうを見もせずに答える。
「部隊は集団とは違う。それぞれ役割を分 担 すれば、個人個人もまた部隊だ」
「あ、じゃあじゃあ、わたしはキリランシェロ君と──」
「悪くない。《牙 の塔 》出身組と、スクール出身組とで分かれることになるな」
と、晴れかけたイールギットの表情が、途 端 に陰 った。あからさまに嫌 そうに、彼女がうめき声をあげる。
「......それって、レティシャもこっちのチームってことですか?」
「なんか文句でもあるの?」
「いーえ」
半 眼 で告 げるレティシャに、説得力のないしかめ面 で、イールギットが否 定 する。
こっそりと、シークが嘆 息 したのに気づいたのは、自分もまた同じタイミングでため息をついたせいだった──なんとはなしにこの男に共感を覚えながら、オーフェンは聞いてみた。
「この編 成 には、なにか意味が?」
「チームワーク」
自身、カケラも信じていないといった口 調 で、シークがつぶやく。そして、
「あとは、魔術構成の精 密 さ、正 確 さ、威 力 、すべてにおいて強力な者三人を、そちらのチームに集めた。君たちが主力になる。そしてまた、おとりになる」
「そちらのチームは?」
「キリランシェロ、君を前にこのようなことを言うのは気 恥 ずかしいように思うのだが」
シークは、片目をつぶって、初めて笑ってみせた。
「わたしはね、暗殺者 としての訓練を受けている」
◆◇◆◇◆
とまれ──
「あなたの話を総 合 すると、つまりは貴 族 連 盟 に無断で、《十三使 徒 》と《塔 》が同 盟 することになります。そして、その最 接 近 領 だかなんだかいう領主......念のため聞いておきますが、当然貴族ですよね? それと戦うと」
それこそ、戦争が起こる。大陸では四十年前に封 印 された、巨 大 な武 装 対 立 が。
「およそ、一 介 の教 師 補 が返事できることではないですね。これは、バーで上 司 の愚 痴 を言い合っているのと大差ないですよ。なんの生産性もない。本気でそうしたいなら、《塔》最 高 執 行 部 へと掛 け合うべきで」
フォルテはすらすらと、それを告 げた。言いながら、自分でもこれは教科書的で、愚 かしく聞こえるとは思いながら。それでもなお、クラベが言っていることが本当に危急のことであれば、有効なことではある。全員が、なにも考えずマニュアルに従うというのは。だがクラベは、一歩も引くつもりはないようだった。
表情を変えることなく、告げてくる。
「合法な戦争を仕 掛 けるのならば、そうだろうな。だが俺は、歴史に悪名を残すつもりはない」
「ご都 合 のよろしいことで」
「皮 肉 を言うな。貴族殺しの悪名を負って、魔術士の地位を二百年前にもどすわけにはいかない」
(つまりは──)
彼の言っていることというのは。
それを悟 って、フォルテは自然と眉 間 に力が入るのを自覚した。魔術士の歴史は、迫 害 の歴史だったと、現代の魔術士たちは言いたがる。そしてまた、戦争の歴史でもあったと。だが彼らが忘れかけていることもある──暗 殺 の歴史であったこと。
それは避けられない、魔術士の特 技 だった。身体 ひとつで、地上のいかなる兵器以上の殺 傷 力 を持ち得る人間たちの。
一呼吸おいて──うめく。
「世間一 般 では暗殺も、戦争と同じく忌 諱 されていますがね」
「君が言ったんだぞ──《塔》の誇 る最強の暗殺技能者 ならば、最接近領の領主に対 抗 できると」
「キリランシェロは、《塔》を永 久 除 名 になりました」
「ならば我 々 が拾う」
「かつて捨てたことがあるというのに?」
「つまらん奸 計 で、史上最年少の《十三使徒》誕 生 を阻 止 したのは《塔》執行部だろう。俺とて、もとはこの《塔》にいた。あのエルダーどもを嫌 う理由は分かるはずだ」
言い合う形となり、次第に語気を強めるクラベを、じっと見 据 える。と、見られていることを意識してだろう。クラベはすぐに平静を取りもどしたようだった。
「......話がそれたな。どのみち君は言葉と裏 腹 に、この上なく強力な魔術士をふたりも、最接近領に近づけている。これが君の思 惑 なのかどうかなど、議論するつもりはない。どちらにせよ水 掛 け論にしかならないだろう。俺もまた、最も手 練 れの部下を送り込んだ。あとは君が、ダミアン・ルーウのネットワークを封 じることができれば、領主は暗殺できる」
「無理でしょう」
フォルテは即 答 した。
「なぜだ?」
「そのプランでは、あなたひとりだけが、なにもせずに楽 して終わることになります」
クラベの顔面が、さっと朱 に染 まる──
「............!」
「もうひとつ。どうしてもおかしい」
机の上に身を乗り出し、フォルテは続けた。
「マリア・フウォン教 師 が、進んでネットワークのことを口外するとは思えません。彼女を拷 問 にでもかけたんですか?」
──と。
一 拍 おいて、かぶりを振 る。
「そんなことができるわけがない。わたしはね、クラベ・ラシール。今ここにいるあなたよりは、彼女のほうを信用します。彼女のプライドをね。あなたはどこから情報を得 たんです?」
問いかけに、クラベは答えてはこなかった。ただじっと、こちらをにらみ返してきている。最初に会った時のような余 裕 はなく、さりとて慌 てているふうでもなかったが。
ただ瞳 の中に、冷ややかななにかを浮 かび上がらせていた。誰かが誰かを呪 い殺すのならば、こんな眼 差 しをするのだろう──なんとはなしに、そんなことを思いながらフォルテは、似 たような目で相手を見返していた。
そして、数秒。
クラベの身体が、ぐにゃりと溶 けた。そのまま、跡 形 もなく虚 空 に消え失 せる。
「............⁉ 」
(まさか、本当に呪いが効 いたか──?)
愚 にもつかないことを考えついた自分に苦 笑 を漏 らし、フォルテは部 屋 の中を見回した。なにも見つからない。無人の部屋に、自分がいるだけだった。が。
唐 突 に、聞こえてきた声があった。
「......偽 者 を使って会話するのも、疲 れたよ。いや、正確ではないな。わたしは疲 労 を感じないから」
「誰だ?」
「想像はつくだろう」
「............」
どこからというものでもなく耳元で囁 かれる声に、フォルテは全神経を集中して、その出所を探 ろうとした。が、そのささやきには方向性を感じない──部屋のどこかに誰かが隠 れており、そこから聞こえてくるといった類 のものではない。悪 寒 とともに、それを悟 る。
それでも会話を引き延ばそうと、彼はうめいた。
「こんな凝 った真 似 をした理由は?」
相手にも、その意 図 は分かっていただろう。答えてこない可能性も考えていたが、声はあっさりと言ってきた。
「こちらも話してみて、得たものがある。特に君のような人間の思考は直接は読めないからね。君は本当に思 惑 があって仲間を東部に送ったのではないらしい......それを確認したかったのだが」
淡 々 と続ける。声は明らかに、クラベのものとは違 う。聞き覚えもない。ただ壮 年 の男のものに聞こえた──ついでにいえば、むやみに伊 達 を気取った男の。
「本物のクラベ・ラシールは、明日到 着 する......彼は君が指 摘 したように、《塔》最高執行部へと、今と似たような話をするはずだ。それが当然だからな」
「............」
「だが、君がいなくなってしまえば、無 駄 足 だな。君がわたしを殺せないのと同様、わたしもまた君を殺す手段は持っていないが......」
声がそう語るのを聞いて、フォルテは編 みかけていた構成を取りやめた。いざとなれば部屋ごと爆 破 して逃 げようと思っていたが、直感が、それが無駄になることを告 げてきている。声の主は、ここにはいない 。ここには、自分しかいない。突 如 として、そんな確信が胸に生まれる。
(実在しない相手と会話をしている......今のわたしは)
自分が今話している相手が何者なのかも......自 ずと、浮 かんできた。
フォルテが無言でいるうちに、声はひとりであとを続ける。
「ネットワークの使い手は、少なければ少ないほどいい。領 主 様 の力が、完 璧 へ近づく。それは聖 域 との戦いを前に、必要となる」
そして、会話はそこで終わった。
「わたしは、ダミアン・ルーウだ。お初 にして......そして、おさらば」
身体 が跳 ねた。そう思えた。
相手がなにをしたのか、それは理解できなかったが──
訝 る間 もなく、フォルテは闇 の中、椅 子 から転 げ落ちて床 へと激 突 した。
(あまりにもひどいじゃないか!)
マジクは走りながら、ひたすらに罵 り続けた──師 のしたり顔を思い出して、なおさらに怒 りがかき立てられる。
(もうちょっと慌 ててくれたっていいじゃないか。いや別に慌てなくたっていいから、ぼくの言うことを真に受けてくれたっていいじゃないか。くそ、確 かに倒 れたのは、クリーオウだったんだから......!)
と、はたと立ち止まる。
同時に思考も止まって、唐 突 に生 々 しく感じた冷たい気 配 にマジクは身を震 わせた。
(てことは......クリーオウは、死んだってこと? 撃 たれて?)
撃たれると、どうなるのか──
「一 般 的 に、外 傷 によって人体が死亡する要因は、三通りほどしかない」
聞こえてきた声は、背後からのものだった。
振 り返る。と、見えたのは、岩 陰 から現れた、鋭 い目つきの男──鋭いようでいて、どこかのんびりしたものも含 んだ、そんな眼 差 し。
「お師様......?」
よく分からず、マジクはうめいた。
「お、追いかけてきたんですか? あそこからずっと?」
が、現れた師は答えてはこないで、そのまま続けた。
「神 経 系 が破 壊 されるか、血 液 系が破壊されるか、臓 器 が破壊されるか。どの場合であっても、そう長く生きられるわけじゃない。傷 を受けてなお生きていられるというのは、それが致 命 傷 ではないからだな。神経系が破壊されたとしよう。つまり脳だ」
なにやら講 義 をしながら、自分の頭を指さすオーフェンを、マジクはなんとなく、後ずさりして距 離 を開けながら見つめていた。なにか違 和 感 がある。具 体 的 にどうとは分からないが。
頭の横から手を下ろし、師が笑う。嘲 るように。
「これは一 瞬 だ。破壊された瞬 間 、それで終わり。次は血液系。大動脈か心臓だな。急 激 に血液が体外に放出されて、血圧の低下からショック死する。そうでなくても、酸 欠 で即 死 することになる。十秒と持たない。仮 に蘇 生 できたとしても、後 遺 症 が残る可能性が高い」
一応、聞いてはいたが、話の大半は頭の中から滑 り落ちていった。疑 念 がちくちくと、肌 を刺 激 するのを感じる。目の前にいるのは、自分の師。それは間 違 いない。だがおかしい。
しゃべり方も、動作も、変わったことはなにもないが。
「......最後が、臓器だ。多少は長く苦しむことになるが、どのみち死ぬ。まあ、あまり大差はない。一瞬か、数秒か、数分の違いだ──」
「馬 ぁ鹿 。一瞬と、そうでないものの差は大きいさね」
同じ岩陰から、ウィノナの太い腕 が出てきて、そして師のこめかみに拳 銃 を突 きつけた。銃が弾 け、オーフェンの頭 蓋 が変形し、顔面の半分が砕 け散 って──
といった残像を残して、その姿 が消 滅 した。
「......え?」
声をあげる。だが誰 も答えてはこない。
そのまま、姿を現したウィノナは、その銃口をこちらへと向けた。
「この距離でもさ──」
三メートルほどか。マジクが目測している間に、銃の先 端 にある黒い空 洞 はぴたりと動きを止めた。その奥 に、その空洞よりも黒い、危 害 の塊 を隠 した、あまりにも丸すぎる銃口。
ウィノナの瞳 も、同じ色だった。
「結構、当たることもあるさ」
「やあああああっ!」
今度の声も、背後から──ただし師が出てきた時から身体 の向きを変えているため、反対方向ということにはなるが。自分の頭上を飛び越 えて、そのままウィノナの顔面に鋭 い剣 の先 端 を突 き刺 したのは、クリーオウだった。なんと言ったか、名前は忘れたが、キムラックであの死の教 師 からもらった剣を両手で抱 えて、その切 っ先 を、さらにえぐるように押 し込む。刃 が回 転 するまでもなく、やはりウィノナもまた消滅した。クリーオウの身体が、ようやく地面に落下する。
と、バランスでも崩 したのか、彼女は頭から岩場に激 突 した。そして、クリーオウも同じく消えてなくなる。
「なんだ......これ?」
ひとり残され、マジクはうめいた。荒 野 の風は岩にぶつかり甲 高 い音を立てるが、そんなものは返答になっていない。望みもしないのに見せつけられた人 形 劇 のようなものだが、それにしても意味不明だった。実在感は間違いない。
「なのに、なんなんだろ。すごく、変だ。まるで──」
「まるで、あまりにもあんたの思い通り過ぎる 人物像だろう? 思いこみがそのまま実体化したような。でもそんなのは、現実感とは程遠いものさね」
今度の声もまた背後から聞こえ、そのことにはもう驚 く気にはならなかった。マジクが振り向くと、そこにはウィノナが立っていた。
身構えて、うめく。
「今度は──」
「本物さ」
どう説得力を感じれば良いのか。
それは見当もつかなかったが、それでもその言葉を信じる気になったのは、ウィノナの格 好 が違っていたからかもしれない。彼女が着ていた──いや、身につけていたのは、半身を覆 うようなボディアーマーだった。ホルスターには、先ほど銃口を見せた拳銃がある。彼女の背 負 っていた、重そうな荷物のことを思い出し、その荷物の大半がそのアーマーであったことを、マジクは悟 った。服の上からところどころを、主 にワイヤーのようなもので守る形で、強 靭 さと動き易 さを兼 ねているのだろう。
それを着たウィノナは、いかにも頑 健 な戦士に見えた。その防 具 が魔 術 の貫 通 を妨 げるほどの信 頼 性 を持っているわけがないのは分かっている。それでも、それを試 すことを躊 躇 させるのは、彼女の生命への危 惧 などではない......
こちらに一歩近づこうとした彼女のつま先にでも吐 きかける心 地 で、マジクは叫 んだ。
「動くな!」
「............」
彼女は、しばし視 線 を上げてこちらを見てから、
「......あたしは本物だって言っただろ」
「だから動くなって言ってるんだ」
マジクは右腕 をあげて、彼女に向けた。手のひらを精 一 杯 開き──特に意味のある動作ではなかったが、それでもそれが威 嚇 的 に見えるよう祈 った。
「ぼくがお師 様 でないからって、甘 く見るな。クリーオウを撃 っただろう。さっき」
「馬 鹿 げてるね」
ウィノナは、即 答 してきた。
「今の異 変 を見ただろう? 詳 しい説明は避 けるけどさ、さっきからこのあたりは、こんなことが頻 発 してるのさ。その、あんたがさっき見たものってのが、今のと同じく幻 覚 じゃないなんて保 証 できるかい?」
「......なら、クリーオウはどうしてるんだ。あんたといっしょに行ったって、お師様が言ってたぞ」
「二 手 に分かれたんだよ。早くロッテーシャを探 すためにね。あの子にはあの、ちみっこいドラゴンがついてるし、心配ないからさ」
聞いて、感じたのは──
(こいつ、本物だ)
今さらながら、そんなことだった。彼女は本物だった。偽 物 ではない。理由はボディアーマーではない。彼女の言動が、ことごとくこちらの希望に反したものだったから?
恐 らく、そうなのだろうと思えた。ちくりと胸を刺 す罪 悪 感 を無 視 して、マジクは認めた。こちらの希望──クリーオウが彼女に殺されているというのが希望であったわけではない。だが、ウィノナの言葉を信じようという気持ちがどうしても浮 かんではこない。
にじみ出る汗 を意識しながら、マジクはつぶやいた。
「筋 が通ってる......」
「だろ?」

「なんで納 得 できないんだろう......」
「あんたが頑 固 ってだけだよ」
「でも」
激 しく、息を吐 く。喉 からこぼれた吐 息 は、身体そのものを震 わせるようにも感じられた。駄 目 だ。その言葉だけが、頭の中を巡 る。
「駄目だ。クリーオウが無事だって、はっきり見せてもらうまでは、絶対に納得しない。いいか、しないんだ。クリーオウはどこだ?」
「............」
ウィノナは顔の半分を大きく歪 ませて、笑 みを作った──運動選手らしい、快活な、常 人 では作り出せないような苦 笑 。
万 全 であっても、幸運を味方につけても、それでもなおままならないものがあると、それを物語るような......
「......十点満点さね、坊 や」
「⁉ 」
師の言ったことと重なったのは、偶 然 なのだろうが。マジクは心臓を跳 ねさせて、彼女を見やった。
ウィノナは、苦笑を崩 さない。
「......でも今は九点......八点......」
次第に点数を下げながら、近づいてくる。広げた右の手のひらをすくませて、マジクは悟 った。謎 かけのようなものだった。彼女は行動で語っている。今のうちに魔 術 で先制する以外、彼に勝ち目はないと。それは時を過ぎるごとに、成功率を下げていく。下がっていく点数は、そういうことだろう。
近づいてくる彼女に向けて、魔術を放つこと。それは容 易 なことだった。構成を編 み、その構成を具 現 化 すること。自分にはそれを制 御 する力がある。制御できるだけの意志の力がある。師の言葉を思い出す──
『完 璧 な構成だ』
完璧な構成。マジクは意識の設 計 図 を、そのまま空間に描 画 した。ウィノナはまだ距 離 を開けている。彼女にはこの構成は見えない。これは魔 術 士 にしか見えない。彼女は、彼がどれだけの力を以 て彼女を打ちのめそうとしているのか、それを悟ることもできずに撃 退 される。その筋 書 きに、あやはない。
『その時必要とされている力がそのうちの一なのか九なのか、把 握 できていないといけない』
彼女の防具はどれくらい有 効 なのだろう? それは想像するしかなかったが、たとえば格 闘 には役立ったとしても、魔術の攻 撃 に対してまともな防 御 力 を発 揮 するようなものには見えなかった。全力を出す必要はない。きちんと制御した一 撃 を見 舞 えば、自分の勝ちだった。意識を集中し、標 的 を中心に構成を完成させる──
(今だ......)
タイミングにも、問題はない。
「我 は放つ──」
刹 那 。断 末 魔 といっても良かったかもしれない。
その構成に、巨 大 な亀 裂 が走るのを、マジクははっきりと見た。集中が途 切 れ、すべてが拡 散 し、霧 散 する。
──その程度の力で足 りるのか......?
囁 きが、世界から音を奪 って、彼の耳を占 領 した。
ちらついたのは、アーバンラマの町 並 みだった。姿 を見せたドラゴン種 族 。レッド・ドラゴン種族だと、あとで聞いた。魔術を以てしても、決して倒 せない相手。大 陸 に存在する無 敵 の力のひとつ。
──お前の力は足りないのではないか......?
(そんなことは──お師様が言ったじゃないか! ぼくの構成は完璧だって──)
それを叫 ぶと同時、囁きは消えた。呆 気 なく。だが。
その時には既 に、ウィノナが眼前に迫 っていた。いや、ウィノナの一部が。彼女の拳 の先 端 が。顔面に触 れようとしていた。
巨大な拳だった。その一撃が顔面を砕 き、頭 蓋 を貫 き、その骨の器 の中にある彼そのものをぐしゃぐしゃの無形の肉に叩 きつぶすのを感じながら──
マジクは、割れた構成をつなぎ直そうと、両手をばたつかせて、無 為 な努力をしながら眠 りについた。
◆◇◆◇◆
冗 談 のようにきれいに卒 倒 した少年を見下ろして、ウィノナは自分の拳をさすっていた。さほど強く打ったわけではない──実際、少年は鼻すら折らなかった。どちらかといえば、勝手に気絶したのだろう。凄 まじい形 相 で、びくびくと痙 攣 している。
「まったく」
呆 れながら、独 りごちる。
「なんなんだか。さっさと家にでも帰してやったほうがいいんじゃないのかね?」
実際、誰 にそれを提案したとしても、反対する者もいないのではないかと思えた。なんにしろ判断するのは自分ではないが。
彼女は虚 空 に顔を上げた。
「ま、とりあえず、これであたしのノルマは終わりだね」
見えない相手に注文を告 げるのは馬 鹿 馬 鹿 しい気分ではあったが、あえて気にせずに続ける。
「さっさと運んでおくれよ、ダミアン」
そして。
彼女は足 下 の少年が消えるのを見てから、次に自分自身が移動するのを待った。
◆◇◆◇◆
「さて......」
こんな場合の常 套 句 となると、そんな曖 昧 な一言しか思い浮 かばないが。川の涸 れた跡 か、細長い地面の窪 地 に身を伏 せて、オーフェンはつぶやいた。頭を上げ、のぞいてみると、だいぶ離 れた先に大人数の群 れが見える。
「あれの注意を引きつけるわけか」
「尋 常 じゃないわね」
既 にうんざりした様子で、レティシャ。さらに後に続いたイールギットが、彼女だけ陽気な声をあげている。
「ねえねえ、キリランシェロ君、覚えてる? もう何年前になるのかしら。あのさ、合同山中訓練で──」
「ああ、そういや、これと同じメンバーだったっけ」
覚えてはいた。
「その時の傷 跡 がまだ残っていたような......」
「やーねー。なんでケガなんかしたのかしらね」
「いや、サバイバルナイフで斬 り合おうとするふたりを止めに入ろうとして」
半 眼 で告げるのだが、イールギットは聞いていないようだった。レティシャですら、さっと目をそらしてあさってのほうを向いている。
イールギットは両手を顔の前で組み合わせ、大きめの瞳 をきらきらと輝 かせた。
「残念ながらふたりきりじゃなかったけど、あれはとても楽しい思い出だったと思うの」
「十四針 が?」
「魔術で治せばいいのにねぇ」
「塞 がりきらなかったから縫 ったんだよ」
なんとなく痛みが復活したような心 地 で背中のあたりを撫 でながら、オーフェンは嘆 息 した。言い直す。
「さて......」
こんな場合の常 套 句 となると、そんな曖 昧 な一言しか思い浮 かばないが。
窪 地 に隠 れ、ふたりを見回して、
「俺たちの役割は、攻 撃 と陽動だ。真 っ向 からぶつかって、相手の注意を引きつける。で、シークとカコルキストが相手の核 心 を潰 すのを待つ」
「ものすごく単純ね」
レティシャはどこか物足りないようではあったが、作戦などというのはこんなものだろうとオーフェンには思えた。そっと窪地から、外を見る。
敵軍──とでも呼べばいいのだろうか。例の銀 月 姫 と地 人 たちを見つけるのは、それほどの難 題 でもなかった。今はこの窪地から百メートルほど離 れた空き地で、なにやら議論だか討 論 だかをやっているらしい。たまに、中から地人ふたりが地人ひとりを引きずって岩 陰 に去っていくのが見られたが、意味はよく分からない。
その集団の中に、ふたりだけ格 好 の違 う地人の兄 弟 を発見する。ほかの地人たちと同様、熱 狂 的 な眼 差 しで姫を見つめ、その放 射 される同心円の一部となっていた。実際に見ても、いまだに信じがたい気がして、オーフェンは喉 の奥 でうめいた。
「なんだかなぁ......」
リアリティのない風景ではあった。そもそも、地人がこれだけ大勢集まっているというのも、彼らの自 治 領 以 外 ではまずあり得 ない。行き来が制限されているわけではないのだが、そのことが両者の交流を促 進 するものではない、というわけだ。実際、人間種族と地人種族は、ほとんど没 交 渉 といっていい。ごく限られた一部で交 易 がある程度だった。
「どうするの?」
レティシャを押 しのけ、イールギットが近づいて、聞いてくる。
わきに追いやられた姉 が、にっこりと笑って拳 を握 るのを見ながら、オーフェンはとりあえず視 線 を地人たちにもどした。
そのまま、答える。
「あまり凝 ったことをしても意味なさそうだ。相手はゴーストだし。各 個 撃 破 でいいんじゃないかな。で、余 裕 があれば、銀月姫も攻撃する」
「そうね」
うなずいたのは、なぜかレティシャだった──一 瞬 前までイールギットがいたはずの場所に彼女がいて、イールギットはほとんど天地逆さまになって少し離れた場所に倒 れている。
特に驚 きはせず、オーフェンはそのままあとを続けた。
「ゴーストに対しては、意志をしっかりと持つことが重要なんだ。あくまで相手がゴーストだと、信じること。迷 信 と決別すること......」
「なるほど」
これは、イールギット。
再び視 線 をそらし、もどした時には、その位置には彼女がいた。イールギットの突 きだした肘 に顔面を貫 かれ、レティシャは横に押 しのけられている。
「............」
自分自身になにかチャンスでも与 える心 地 で、オーフェンは目を閉じた。続ける。
「あれが霊 魂 や幽 霊 の類 だと思ったりすると、躊 躇 が生じる。そんなものはこの世にないと、きっぱり信じること。相手に哀 れを覚えたりしないこと。でないと、自分が危 険 になるから」
「分かったわ」
と、レティシャ。イールギットは彼女に踏 みつけられてばたばた暴 れている。
オーフェンは、ゆっくりとため息をついた。
「あのさ」
軽く頭を抱 えて、うめく。
「どーして、ほんのちょっと上 辺 だけでも仲良くしとくってことができないわけ?」
「あ、なんかちょっと昔のキリランシェロっぽい言い方」
「そうじゃなくて!」
両手を戦慄 かせ、オーフェンは彼女へと詰 め寄 った。と、足の下で、なにか、ずるり という異 様 な感 触 。腐 った野菜でも踏んだような。見下ろすと、レティシャの足から逃 げ出そうとしていたイールギットの頭を、彼のブーツが踏みつけていた。
「あ」
「ひどいいいっ!」
泣きながら、イールギットが飛び起きてくる。
「ひどいひどいあまりにひどくないっ⁉ そーなのそーなの? やっぱり小 姑 を選ぶわけ?」
「なんの話だよ!」
叫 んでから、
「ったく......だから、もう今さら仲良くとは言わないから、せめて喧 嘩 せずにやってけないか? ふたりとも」
「無理」
「無理無理」
「あ、なんであなたのほうが一個多いのよ。無理無理無理」
「なによ、わたしのほうがより我 慢 しているのは当然でしょあんた真 似 しないでよ無理無理無理無理──」
「がああああっ!」
オーフェンは割り込むと、さらに声をあげた。
「なんでそんなに仲が悪いんだよ!」
「そんなに仲悪いかしら」
「今日 は結構仲良くやってるほうよね?」
「いや......ええと......もういい」
口々に言ってくるふたりから、ふらふらと離 れて、オーフェンはかぶりを振 った。絶望的な気 配 が忍 び寄 ってくる。このふたりは一切、あてにできない。
(まさか、あのシークっていう奴 ......単にイールギットを厄 介 払 いしたくてこの編成にしたんじゃないだろうな)
それも否 定 できない。できそうにない。
なんとか気力を取りもどし、オーフェンは振り向いた。無 駄 であることは悟 りつつあったが、それでもあきらめられなかった。というより、とにかく仮 にでもなんでも、このふたりをまとめない限り、ひとりであの軍勢を押しとどめることなどできるわけもない。
「なんにしろ、ふたりとも──」
言いかけて。
ふたりの視 線 が、こちらを向いていないことに気づく。
彼女らは、ややこちらを外 れて、背後、斜 め上のあたりを見つめていた。きょとんと、驚 いたように。
「あ」
その声に、つられるように視線を追って──
そこにいたのは、緑色の帽 子 をかぶった地人だった。望 遠 鏡 をこちらに向けて。
「敵 影 発見ー! 敵影ゆえに、敵ー!」
結局は、
(どーにもならないってことか⁉ )
オーフェンは胸中で罵 り声をあげながら、全力で駆 けだした。
◆◇◆◇◆
「......始まったか?」
シーク・マリスクは遠方からそれを眺 め、つぶやいた。
傍 らにいるカコルキストが、うなずく。
「そのようですね」
「では、行くか」
「はい」
連れだって歩き出し、シークは鞘 に収まった軍刀を指で撫 でた。鉄の感 触 。人体を破 壊 する、人体よりも硬 く、鋭 利 なもの。古来よりの道具。それは有用なものであり、だから永遠に歴史に埋 もれなかった。これからも、失われることはないだろう。形を変えながらも、使い手を変えながらも、未 来 永 劫 、人体を破壊し続ける。
それでも彼は、少しだけ振 り向く余 裕 は持っていた。地人の軍は動き出している。イールギットら、《塔 》の魔 術 士 たちを追って。
「彼らの到 着 は、どれくらい遅 れるのだろうな」
さほどの意味を持たない疑問ではあった。生徒が、気楽に推 測 を答えてくる。
「ぼくたちより、一日遅れってところじゃないですか?」
「そんなところか」
特に反論する内容を思いつけず、シークは同意した。
「......まあ、イールギットまで死にに行く必要はないものな。最 接 近 領 、か」
そして彼らは、出発した。
◆◇◆◇◆
窪 地 から飛び出すのが先決だった。逃 げるには、そうするしかない。真正面から抗 するつもりはなかった──負けが目に見えている。
「どうするの⁉ 」
短いレティシャの問いかけに、オーフェンは答えた。
「距 離 を取って時間を稼 ぐ!」
回り込んで地上に駆け上がるため、回り道をしようと──
する前に、声が響 いた。
「青の衝 撃 っ!」
叫 ぶイールギットの指先から、純 白 の輝 きが走り、窪地の縁 を直 撃 する。爆 発 は土 砂 を吹 き上げ、一瞬視界を暗くした後、地面をえぐり取って地上までの緩 やかな上り坂を作った。腕 を下げ、彼女がつぶやく。
「ここを登ったほうが早いわよ」
「......だな」
オーフェンは素 直 に認めて、そちらに足を向けた。まだ砂が熱を持って燃 えているが、魔術で発生した熱はすぐに消える。
斥 候 の地 人 は、もういなかった。本隊のほうへ逃 げたのか、あるいはゴーストらしく消えたのか、それはどちらか分からない。どちらでもありそうではあったが。
「とにかく逃げて、敵を伸 ばす」
「伸ばす?」
並 んで走り出していたイールギットが、聞き返してくる。
オーフェンは言い直した。
「相手の集団を、一列になるようにするんだ。そうすれば、どの場所も手 薄 になる。シークが突 入 しやすくするんだ」
「うまくいくかしら?」
あとから続いてきたレティシャが、うめくように言うのが聞こえた。不安というよりは、もっと積極的な懐 疑 ──シークという《十三使 徒 》を信 頼 しても良いのかどうか、イールギットの手前、そう露 骨 には言わずに聞いてきたというところか。オーフェンは答えなかったが、これがかなりの安 全 策 だという自信はあった。どう考えても、地人たちが自分よりも速く走れるとは思えない。瞬 発 力 でも、持 久 力でも。
肩 越 しに見やると。
大量の地人たちが、すぐ後ろに迫 ってきていた。
「のおおおおおっ⁉ 」
「気づいてないと思ったのよね」
疲 れ顔 で、レティシャ。
オーフェンはさらに速度をあげながら──それでも十数メートル後ろの地人たちが、次第に間 を詰 めてきているのはすぐに分かったが──、叫んだ。
「なんであいつら、あんなに速いんだよっ!」
「知らないわよ。速く走れって命令されたからじゃない?」
「ンな馬 鹿 な──」
反 駁 しかけて。地人たちのさらに後方から、少女の甲 高 い声が聞こえてきた。
「全軍行け! 風のごとく疾 く! 敵軍を追 撃 せよ!」
「行けー! 行くがゆえにやたら速く行けー!」
実際、また速度が上がったようにも思える。
「............」
ぞっとしながら、オーフェンはうめいた。
「ドラゴン種 族 とも、結構いい勝負したんじゃねえかこの分だと」
特に異論はないようで、レティシャもイールギットも、無言で走り続けていた。どちらが聞いてきたものかは分からないが、尋 ねてくる。
「どうするの?」
このままでは、すぐに追いつかれる。それは間 違 いなかった。この状態を続けることはできない。ならば早く行動を変えなければならないのだが──選 択 肢 はほとんどないように思えた。
それを口にする。
「散開する! 二 手 に分かれるんだ」
「意味あるの? 相手も、分かれて追いかけてくるだけでしょ」
「姫 はひとりしかいないんだろ⁉ 」
オーフェンが告げると、ふたりともすぐに理解したようだった。彼はすぐさま、右方を指さし、
「俺 はこっちに行くから──」
「あ、じゃあわたしも」
「わたしが」
即 座 に言ってきたレティシャとイールギットが、お互 いを牽 制 するように、さっとにらみ合う。
つき合ってはいられない。オーフェンは彼女らの隙 をついて、最後に告 げた。
「じゃあ、ふたりはそっちに行ってくれ!」
そして、左方に向かって急 激 に方 向 転 換 した。
◆◇◆◇◆
弟 があっさりと視 界 から消え、そしてイールギットとふたりで残されたと気づいた時に、レティシャが口にしたのは短 い一言だった。息を吐 くのと変わらない。だが今の状態では、その吐 息 こそがなにより難 しい労働だったが。なんにしろ、それは一言だった。単なる一言。
「うげぇ」
「なにそれどういう意味⁉ 」
イールギットが、わめく──まったくもってうるさいが、口論したところで黙 らせることができるわけでもない。
(うげぇ、になんの意味があるっていうのよ、まったく!)
彼女は声に出さず毒 づいた。
(聞いたまんまのほかになにが!)
もっとも、別の意味に取りようがなかったからこそ、イールギットが眉 をつり上げて叫んできているのかもしれないが。そのマリア・フウォン教 師 の最も不 出 来 な生徒──と他教室の者はよく言っていたのだが──は、キリランシェロの姿 が見えなくなったからだろう。さらに不 機 嫌 に声を張り上げてきた。
「だいたい、この際はっきり言っておきたいんだけど、レティシャ・マクレディ!」
「いちいちフルネームで呼ばないでよ!」
「あんたがわたしのことイールギット・スィートハートと呼ぶようになったらやめてあげるわよ! いーい? あんたね、独 占 欲 丸出し、血がつながってもいない弟のことで過 保 護 になるのって、ものすっごく不 健 全 よ! 分かってんの⁉ 」
「誰 が過保護よ! あの子、五年間も放 浪 してたんですからね! その間、どっかの農場の娘 と結 婚 の約 束 までするわ、妙 なへっぽこ婦人警官のお守 りをするわ、ついでにピント外 れの司 書 官 につきまとわれてまんざらでもなかったりとか──」
「なによそれ! あんた偵 察 でもしてたわけ⁉ 最 っ低 ーじゃない!」
「違 うわよ! わたしだって最近まで知らなかったんだからそんなの! 偵察してたのはわたしじゃなくて──」
会話に夢 中 になりながら、背後から、鋭 い気 配 を感じ取ることができたのは、訓練の結果というよりは本能だったろう。
とっさに、身をよじる。半歩分速度は落ちたが、ちょうどそこを──自分の背中があったところを巨 大 な槍 の穂 先 が貫 いた。
ぞっとしながらも、どこかで冷静な声が自 らに告 げる。もう既 に追いつかれている 。ここで戦うしかない。
立ち止まる、振 り向く、構える。それを一動作で行う。さらには、組み上げた構成を具 現 化 するのに躊 躇 はなかった。最も効果的な防 御 とはつまり、永遠に防 ぎ続けることではない。ほんの一 瞬 だけ防ぎ、そしてそこから一 撃 で敵を無力化する。彼女はそれを自分の胸の中で唱 えた。喉 からは、呪 文 だけを発した。
「光よ!」
標 的 を見てはいなかった。どうせ背後に迫 っていたのだから、確認しても意味はなかったろう。振 り向いて見えたのは、予想通り無数の地人たち──と、それを呑 み込む白光の渦 だった。爆 発 する火 炎 と、衝 撃 波 の奔 流 が、接近しようとしていた地人たちをひとまとめに消し去った。
つまりは、地人たちの、一部をだが。
相手は無数だった。爆発によってかなり勢いをそいだものの、後続は絶え間なく押 し寄 せてこようとしている。
次いで構成を編 み上げているうちに、声が響 いた。
「紅 の疾 風 っ!」
先ほどの槍の穂先を、彼女とは反対側に逃 れていたらしいイールギットが、自分を真 似 したようなポーズで呪文を叫んでいた。イールギットのばらまいた火 球 が、立て続けに地人たちに降り注 ぎ、爆発を起こす。白い炎 を吹 き上げた破 壊 跡 の中には、地人の姿は残っていなかった。
それもまた、地人たちの、一部を消したに過ぎないが。
「......わたしの魔術のほうが、多くを倒 したわよね」
当てつけるように傲 然 とあごを上げ、イールギットが言ってくる。
それが合図だった。
レティシャはことさらに時間をかけて、背筋を伸 ばした。標的ではなく、自 尊 心 たっぷりの眼 差 しでこちらを見ている女に対して意識を向けたまま、叫ぶ。
「天 魔 よ!」
物 質 崩 壊 が発 動 する。空間が軋 んで音を立てた。膨 れあがった爆発が、さらに殺 到 しつつあった地人たちを打ち消して──そして、イールギットのものよりも巨 大 な破壊跡を残す。
レティシャはなにも言わなかった。
イールギットも、なにも言ってこなかった。
ただ彼女もまた、今度は両腕 を掲 げ、
「緑の爆 鳴 !」
衝撃波が。
「雷 よ!」
雷 電 が。
「無色の咆 吼 !」
乱気流が。
「断 裂 よ!」
空間爆 砕 が。
「黒の言葉よ!」
極低温が。
「はあっ!」
たまに、素 手 の一 撃 なども混じりつつ。
そして──
「待てえええええいっ!」
ふと響 いた罵 声 に、レティシャは我 に返った。ずっと、イールギットをにらみつけたまま、魔術を連発してきたが。
見やると、そこにはもう地人の軍隊などはいなかった。地面を焼き払 い念 入 りに掘 り起こしたような無数の破壊跡があるだけで、もうなにもない。なかば埋 もれて、黒 焦 げになったふたりの地人を除 いて。
叫 んできたのは、そのひとりだった。剣を抜 いて、ずたぼろになりながらも声は大きい。
「貴 様 ら、なんかなんてゆーか、いくらこの民族の英 雄 、マスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様が脅 威 とはいえ、なんかこー、うわぁ、てくらいしつこいぞ念入り破壊魔!」
「ていうか、殺すつもりならそう言ってください頑 張 って覚 悟 決めますから......」
もうひとり、眼鏡 をかけたほうが、悲 惨 に泣きながらうめいている。
なにかを思い出して、レティシャは、ぽんと手を打った。つまりは、
「あ。洗 脳 解 けてる」
「ということは、姫はこっちには来なかったってことね」
イールギットも納 得 して、うなずいている。
が、その地人は焼けた土から脱 出 しながら、不平の声をあげてきた。
「貴様ら、分 析 より先にすることがあるやなしやっ⁉ 」
「キリランシェロ君、大 丈 夫 かしら......」
「心配より先にっ!」
「なんだか分からないうちに気がついたら黒焦げになっていたぼくら以上に心配なことがあるんでしょーか」
口々につぶやくふたりを眺 めて、レティシャは再び考え込んでから、
「さあ......」
「その無責任な言動に対して猛 省 を求め殺すっ!」
「すごいわねー。なんで物質崩 壊 まで受けて燃え残るのかしら」
「どっちかっていうと、ゴーストとかいうのより、こっちが化 け物 よね」
「受け入れがたい感心の仕方をするなぁぁっ!」
ごろごろ転 げ回ってなにやらわめいているそれはそれとして。
(......キリランシェロの言っていたことが正しいなら)
このゴースト現象とやらの核 心 が、銀月姫であれば。
こちらの地人たちが消 滅 したのは、自分たちの魔術のせいなどではないかもしれない。単に、核心から離れたから勝手に消えたとも言える。だとすれば、
(向こうはキリランシェロひとりで、全員を相手にすることになるわけ?)
レティシャは、さっと目 配 せした。イールギットも、同じことを考えついていたらしい。なにも言わずとも、厳 しい眼 差 しを返してきている。
うなずく彼女に、レティシャは告 げた。
「キリランシェロは追いかけられている。わたしたちもそれを追いかければ、敵の裏を突 けるわね」
「そうね」
「急ぐわよ。追いかけられて逃 げ切れなかったものに追いつかなけりゃならないんだから」
「分かってるわよ」
「あっ! 逃げるか、貴様らぁぁっ⁉ 」
「兄さん、いちいちそんな、猛 獣 を追っかけるような真 似 をしないでも──」
背後の叫 びを無 視 して、レティシャは息とタイミングを整 えるためのかかとを一回だけ鳴らすと、一気に駆 けだして、叫び声を上げている。横にぴたりと、イールギットがついてきている。
後ろからどたどたと地人の兄 弟 の罵りを聞きながら、彼女は全身の筋肉を跳 ねさせるように、速度を上げていった。
◆◇◆◇◆
どちらかと言えば、それは賭 ですらなく、やけくそだと──
(ハーティアの奴 なら、そう言うかね。フォルテも同じことを言いそうだ。いや、誰 でも同じことをいうか? 誰が見たって、確 かに、やけくそだろうこれは)
オーフェンは振 り向きざまに、息とともに呪 文 を叫んだ。
「我 は砕 く原始の静 寂 っ!」
空間を歪 ませる爆 発 が、視 界 すべてを振 動 させて光を奪 う。
が、それはすぐに回復して地 面 に巨 大 な穴 を残すだけの荒 野 を映 した。その爆発の跡 に、ぞろぞろと、再び地 人 たちが入り込んでくる。
(......ゴースト現象の核 心 を潰 さない限り、こんなことを続けていても意味はない)
舌 打 ち混じりに、オーフェンは独 りごちた。
(姫ってのは、どこだ?)
目を凝 らす。
砂 塵 と人 垣 の向こうに、銀色の甲 冑 と剣 が見えた。
「いけるか?」
半信半疑ながら、足 下 の石を拾い上げる。普 通 に攻 撃 したところでとどかないだろうが、すべての防御を無効にする切 り札 のひとつやふたつはある。
「我は踊 る──」
石を持った手を、銀月姫に向け、唱える。
「──天の楼 閣 !」
疑 似 空 間 転 移 。手の中の石が消える。
だが、実際には転移していない 石は、直進しながらあらゆる物体に衝 突 し、衝 撃 を与 えて貫 通 していく。密集隊形で姫を守る地人たちをすべて通り抜けて、確実に目標へと破壊力をとどかせるはずだった。
が。
「防げ!」
という声を、魔術が発 動 する直前、聞いたようにも思えた。
いや実際、聞こえていたのだろう。手前にいた地人が、背 伸 びをして、腕 を高く上げるのが見えた。
ばし、と軽い音を立てて、その手のひらに、石が収まる。
「......え?」
一 瞬 、なにが起こったのかまったく理解できず、オーフェンは動きを止めた。だが、目の前で起きたことが嘘 でないのならば、誤 解 の余地はない。
(疑似空間転移されたものを......つかんで止めた?)
あり得 ることではない。石を止めた地人の姿が消えて、無力となった石ころが地面に転 がる。その光景に視線を釘 付 けにされながら、身体を動かしたのは理性ではなく本能だった。
「全軍、突 撃 ー!」
「突撃ゆえに前進して皆 殺 しー!」
乱れもなく、総 員 で叫 ぶ地人に背を向け、全力で走り出す。
(冗 談 だろ⁉ )
冗談だとしても信じがたく、オーフェンは走りながらかぶりを振 った。
(どんな命令でも聞く、ったって、そういうのはなんか違 うだろが⁉ )
逃 げたところで、追いつけと命令されれば追いつかれることになる。絶対に逃げ切れない。
踏 みとどまって逆 転 を狙 っても、通じない。
(言葉がそのまま実現するってのか? いや......ンなわけがない。そんなことはあり得 ないんだ)
オーフェンは、自分に言い聞かせた。
(およそ、超 常 の力でも手に入れたというんじゃない限り、あんなことはできるわけがないんだ。ゴーストとなって、ネットワークに再 構 築 されたことで、特 徴 がデフォルメされて拡 大 解 釈 されてる?)
それもまた、あり得ることとは思えなかったが。
まるで、ネットワークがあえて悪意を持ってこのゴーストを造 り出した、というのでもない限りは。
(............?)
ふと思いついたその考えに、オーフェンは考え込んだ。
(このゴースト現象は、ネットワークの齟 齬 から自然発生したものじゃなくて──)
肩 越 しに、振り返る。
(何者かが、俺 たちに危 害 を加えるつもりで造り出したものだったとしたら?)
オーフェンは、足を止めた。
地人たちはいなくなっていた。背後には無 人 の荒 野 があるだけで、彼はひとり、そこに立っている。
「そんなことができる奴 は......」
つぶやくと同時。
背後に気 配 を感じて、オーフェンは身体 をひねった。同時に懐 から、短 剣 を抜 いてその気配からの一撃を受け止める。
金 属 が打ち合う音が響 いた。突然現れた銀月姫の剣を短剣で受け流しながら、後方へと跳 ぶ。息をついて、オーフェンは改 めて構えを取った。銀月姫はたったひとり、甲 冑 を着けているとも思えない軽い動きで、剣先をぴたりとこちらに向けている。ガラス色のブロンドが、風に散って水面のようにうねっていた。
音もなく。
切 っ先 が踊 る!
今度は受けずにかわして、オーフェンはさらに後方へと跳 んだ。だが距 離 がまったく開かない。二度、三度と眼前をかすめる刃 に、背筋がひやりとするのにも慣れた頃 、今度はまったく速度の違 う突 きが飛び込んできた。横にかわすが、相手との距離を詰 めても攻 め手がない。魔 術 を使えるほどの隙 はないし、重甲冑を着込んだ相手に手持ちの短 剣 ひとつで飛び込むのは難 しい。
(剣 は)
なんとはなしに、ロッテーシャが言っていたことを思い出して、オーフェンは苦 笑 した。
(面と面の取り合い、か。競技剣術なら一 理 ある)
が──
(奇 襲 なら、こんなのもあるけどな)
さほど狙 うでもなく、短剣を、相手に向かって放り投げる。
姫の反 応 は迅 速 だった。その短剣を横に打ち払って、そのまま斬 りかかってくるつもりだろう。姫の剣の動きが、投げた短剣と重なる直前に、オーフェンは叫 んでいた。
「我 掲 げるは降 魔 の剣!」

手の中に、剣を握 っているような重みが、ふっと現れる。
不 可 視 の剣を構え、オーフェンは自分の短剣を狙 って振 り上げた──姫の剣の軌 跡 が見えないのなら、相手が確実に剣をその場所へと運ぶ道を作ってやればいい。短剣がそれだった。短剣を打ち払おうとしていた姫の剣を、力 場 だけの魔術の剣が迎 え撃 つ。さほどの力は要 らなかった。衝 撃 が弾 け、銀月姫の剣が半 ばから砕 けて折 れる。
はっとした姫の顔を、オーフェンは真正面から見 据 えていた。手の中から剣の重みが消える。その両手をそのまま、掲げ──
「我は放つ光の白 刃 !」
魔術の爆 発 が、銀月姫を消し去った。
「............」
風の余 韻 が、荒 野 を静まらせる。
あたりを見回しながら、オーフェンは足 下 の短剣を拾い上げた。
「終わった......か?」
が、瞬 間 。
短剣が落ちた。右腕 から、力が抜 ける。見下ろすと、背後から鋭 い剣先が肩 を貫 いていた。激 痛 に息を漏 らさないよう、歯を食いしばりながらそれを引き抜いて跳 ぶ。方向はどちらでも良かった。次いで来るであろう、とどめの一 撃 を避 けられるのならば、どこでも良い。
転 がりながらその場を逃 げて、見上げるとそこに銀月姫がいた。無 傷 の剣を構え、たった今そこに現れたように──いや実際、今そこに現れたのは間 違 いないが。ゴーストは常に視 界 の外から現れる。出血する肩に手をやって、オーフェンはうめき声をあげた。魔術で治 癒 しない限り、右腕は動かせそうにない。いや、それ以前に、
(銀月姫は......核 心 じゃないってのか)
ほかに、ゴーストの核となっているなにかがあるということになる。銀月姫と戦うことは、すべて無 駄 だ。
(なんだ......? でもほかに、核心らしいゴースト現象なんてあったか?)
続けて斬 りかかってきた銀月姫の剣をぎりぎりでかわして、オーフェンは自問した。あらゆる人間が、一度は自分の視界の外に出ている。つまりは、出会った者がすべて、ゴーストだった可能性はある。姉にしろ、イールギットにしろ、クリーオウやマジクにしろ。いや、シークやカコルキストですら、イールギットが造 り出したゴーストだった恐 れはあった。あるいはまだ、その核心とは出会っていないこともあり得る。
「ゴーストは、ネットワークの事 故 で発生する──誰 かの無意識の問いかけに、ネットワークが返答する形で。つまり、ゴーストが発生したからには、誰かがネットワークから呼びかけを受けているはずなんだ。そして、そこからゴーストの中 枢 を推 測 できる」
鋭 い突 きと切り返しを身体ごと避 けつつ、オーフェンはつぶやいた。
「確かに最初から、変ではあったんだ。これほど大 規 模 なゴースト現象なら、誰も呼びかけを受けていないというのはおかしい......」
真正面からの突きを、のけぞってかわす。後方に跳 びたかったが、動かない右腕が重荷だった。身体のバランスが崩 れかけている。
「でもこれが、意 図 的 に起こされた事故だとしたら、どうだろう。だとしたら、そもそも俺の前に核心を提出したりはしないだろうな」
「誰と話している!」
苛 立 たしげに、銀月姫が声を発した。その瞬 間 だけでも攻撃の手が止まったことを感謝しながら、オーフェンは距離を取った。
無視して、独 り言 を続ける。
「だが、どういうことなんだ? 単に俺を殺したいのなら、あのまま地 人 の軍隊で追いかけるだけで良かった。どうして、攻撃の方法が変わった?」
「巨 人 めが、姫の戦術に口出しをするのは僭 越 である!」
白い肌 を真 っ赤 にして、姫が斬 りかかってくる。次第に身体を動かすことも億 劫 になってきてはいたが、オーフェンはなんとかその刃 の軌 跡 から身をかわした。
「俺を追い立てて、追いつめて──だが殺す気はない、そういうことか?」
「我 が軍の前に立ちはだかる者は殺すのだ! ほかに選 択 肢 などないわ! 笑 止 !」
「......ちょっと黙 っててくれ」
オーフェンは意を決して、彼女のほうへと踏 み込んだ。剣の軌跡の内側、さらに彼女の腕の内側にまで。接 触 するほどに接近され、姫の顔色が変わる。
すれ違 いざま、姫のふくらはぎのあたりをかかとで踏み抜 く。悲鳴を上げて転 倒 する姫の、装 甲 に守られた心臓をそのまま構わず、オーフェンは蹴 り込んだ。ブーツには鉄が仕込んである。衝 撃 で、銀月姫の肺から空気が吐 き出される奇 妙 な音が聞こえたと思った時には──姫は消えていた。
とりあえず、右肩 の傷 を魔術でふさぎ、今度こそ短剣を拾い上げながらあたりを注意深く見回す。相手はゴースト、意味のない情報の具 現 化 に過ぎないと言い聞かせながらも、胸のむかつきは取れなかった。その不快感にこだわってしまうと、ゴースト現象に立ち向かうことはできない。それは分かっていたが。
それでも、気 配 を感じると同時に、短剣を投げつけることには躊 躇 があった。だが放たれた刃には迷いもなく、標 的 にまっすぐ突 き刺 さる。
わずか数メートルを隔 てたところで、喉 を貫 かれているはずの銀月姫は、明 瞭 な声で言ってきた。
「愚 かな......奴 らに与 するというのだな、巨人どもが!」
短剣を投げた姿 勢 のまま、オーフェンはその言葉を聞いていた。言葉をはさむ気にもならない。
姫は喉の短剣を引き抜こうとしながら、消えかかった両手でそれに触 れることもできず、ただ足 掻 いただけに終わった。声だけは続く。
「奴らを信ずるなど、愚かなことよ! 奴らは自 らが力を得ると引き替 えに、世界をすべて滅 ぼした種族ぞ!」
声には苦 悶 が、悲痛な痙 攣 が含 まれていた。
「それだけではない......それだけでは済 まぬと、どうして分からぬ⁉ こんなものは、一瞬の安 寧 に過ぎず、その先にある破局は、今日の死をも上 回 るものと、どうして先見できぬ⁉ 」
既 に消えかかった銀月姫の肌は、白さを通り越して青みがかってすらいる。消 滅 には苦痛があるのか、それとも喉を刺 された痛みか──どちらにせよそれはかつて存在していた銀月姫という地人の姫の、形 態 を模 写 したイミテーションに過ぎないのだが、オーフェンは目をそらした。それを言うのならば、地人の軍隊すべてがそうだった。
現実を苛 む、虚 構 の人格たち。
そのひとりである姫が、断 末 魔 を長引かせる叫びを続ける。
「この姫を、狂 った姫と思っているのだろうな、巨人よ! 狂っているのかもしれぬ。だが、姫を狂わせたのは、戦 にはあらず! 戦に勝ちがないことではない! 良いか、姫にはその先にある未来が見えるのだ。醜 悪 な破 滅 が。迫 っているのだ! それを避 け得 るのならば、姫は、嘆 きながらも永 劫 を生きよう......」
こらえきれなくなって、オーフェンはうめいた。
「絶望なら、もう聞かされた」
ようやく完全に消滅した姫の身体から、短剣が落ちる。オーフェンは顔を上げて毒 づいた。あたりには無論、誰の姿 もないが。
「......俺を騙 そうとするなよ。いや、銀月姫、あんたじゃない。あんたのふりをして、ほくそ笑 んでいる奴に言っている」
返事は、すぐに返ってきた。
「笑ってなどいない」
声は正体を隠 すつもりなどないとでも言いたいのか、すぐに姿を見せた。
(現実を苛 む、虚構の人格......か)
自分のつぶやきを繰 り返し、嘆 息 する。オーフェンは現れたその白 魔 術 士 ──ダミアンに向け、うめいた。
「俺に、ドラゴン種族を脅 威 だと思わせたいのか?」
ダミアンは淡 々 と、
「今のは実際に、銀月姫が死ぬ際に遺 した言葉だそうだ。彼女が恐 れた巨人とは、なんだったのだろうとわたしは思うのだよ。もちろん、彼女が生きていた時代には、人間種族などこの大 陸 にはいなかった......とされている。ネットワークによって過去を再現してみると、こういった矛 盾 がいくつも見つかるんだ。わたしはたびたび、人にもそれを聞かせている」
「......で、銀月姫の伝 説 ができあがった、てわけか?」
ボルカンとドーチンが言っていたこと──銀月姫は今なお生きている──を思い出し、オーフェンは苦 笑 した。これは、たびたび行われていたことなのか?
ダミアンは笑わなかったが、それでも声に、呆 れたような気 配 を感じさせてはいた。なにに対して呆れたのか、それは知りようもないが。
「意味などないのかもしれないな。少なくとも、たいした意味は。人間種族がこの大陸に来たのが一千年前だろうと、三百年前だろうと、どうでもいいことではある。どのみち、歴史はすべて天 人 種族によって語られたものしか、我 々 は知らないのだ......」
「そんなことをいちいち聞かせるために、これだけの大 騒 ぎを演 出 したってのか?」
「違 う。わたしはただ通常の役目を果たしただけだ。滅 ぼすべき相手が領 土 に入ってきたというのに、コルゴンが捕 まえられなかった。わたしが人間を滅ぼそうと思うと、その手段はだいぶ限定されるからな。うまくいきかけていたのだが、君がそこに乱入してきて、中止せざるを得 なかった」
「滅ぼすべき相手?」
「......まあ、いい。ほかにも手の打ちようはある。それに、アクシデントはアクシデントとして、利用させてもらった」
「............」
尋 ねるべきだったのだろうが──
なにも言えずにいるうちに、ダミアンはそのまま姿を消した。
「キリランシェロ──!」
「キリランシェロ君!」
遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえてきたのは、それと同時だった。
◆◇◆◇◆
ロッテーシャは荒 野 の真ん中で、それに出会った。考えていたことは、そろそろ着 替 えにもどろうということだった──身体 を拭 くことはできるだろうか? 水は貴 重 だ。でも、節約して、少しくらいならあの黒 魔 術 士 も大目に見てくれるだろう。実際、彼はクリーオウの頼 みにはめっぽう弱いように、彼女には思えた。いっしょに頼めばなんとかなるに違いない。
木 剣 を手に、そんなことを思いめぐらせながら歩いて、ふと自分が予定外に遠くまで来てしまっていることに気づく。
「あ」
誰もいないことは分かっていたが、声に出す。
「もどらないと......」
出会ったのは、その時だった。帰ろうときびすを返した時に、ひとりの男の姿が目に映 った。はっとして、身構える。腰 を落とし剣を掲 げ、ロッテーシャは呼吸を止めた。ほんの数メートルの距 離 。そこにいたのは、自分の夫 ──もと夫だった。
「コルゴン......?」
「意味がない。剣を下ろせ。俺はそこにいない 」
黒いマントで身体を包んで、相変わらずの陰 気 な面 相 のまま、彼はつぶやいてきた。ぼそぼそした、暗い声 音 。夜道の怪 談 のような、かすれた、冷たい声......
「なんのこと?」
木剣は構えたまま、ロッテーシャは問い返した。
コルゴンは、身じろぎもしないまま繰 り返してきた。
「俺は、そこにいないんだ。お前は......領主のところに行こうとしているのか? キリランシェロとともに......」
「ふざけないで」
吐 き捨てる思いで、彼女は告 げた。
「あなたは、その領主とかいう人のところにいるんでしょう? だから行くのよ。わたしはあなたを──」
「俺は今、領主の元にはいない。別の......ところにいる。誤 算 があった。小さな誤算だったが、それが今、きわどい均 衡 を崩 してしまうかもしれない」
彼は初めてそこで、動作らしい動作を見せた。ゆっくり、小さく、首を横に振る。その時になってロッテーシャは、彼がそれまで唇 すら動かしていなかったことに気づいた。
「彼らが故 意 に起こしている、ネットワークの暴 走 ......ゴースト現象の隙 を......ついて話をしている。領主も誰も、これを盗 聴 できないはずだ」
(......幻 ?)
としか思えなかったが。
コルゴンは説明してくれないまま、あとを続けた。
「駄 目 だ。行くな。お前は自分のことを分かっていない」
「分かってるわ。わたしはあなたを殺すの」
きっぱりと、告げる。動 揺 もしない相手を憎 々 しげににらみつけて、ロッテーシャは前に出ようとした。幻でもなんでも構わない。せめて一 撃 しなければ──
が、コルゴンが発した言葉に足を止められた。
かすれ声に、多少の力を取りもどして、
「ならば......一 時 たりとも魔 剣 を手放すな。キリランシェロを頼 れ。俺が手を出せないと知れば、領主はお前を利用しようとする。自分を守れ!」
「なにを......言っているの?」
わけが分からず、ロッテーシャはうめいた。
「わたしを殺そうとしたあなたが、なにを言ってるのよ!」
「............」
彼は答えなかった。なにを気にしてのことか、目を伏 せる。
「長くは話せない。そろそろ限 界 だ......」
「逃 げるなぁっ!」
彼女は叫 び、飛び出した。木剣を一 閃 する。
練習用の剣の軌 跡 は、確 かにその男が立っていた空間を真横に薙 ぎ払 った。ちょうど、頭 蓋 骨 の上半分の位置を。
斬 り払ったその一撃が、それを成 したのかどうかは分からないが──
次の瞬間には、コルゴンの姿はどこにもなくなっていた。
荒野の風の中、ロッテーシャは木剣を振り切った姿勢のまま、ただひたすらにじっと、硬 直 を崩 せなかった。
クリーオウはゆっくりと、目を開いた。最後の記 憶 にあった、荒 野 の風景がそこにないことを、驚 くべきなのかどうか──どうしても自 問 して、驚けない。身体 に残る空 虚 な気 だるさは、寝 ている間に身体が甘 やかされたせいだと、そんなことを思う。こんな豪 勢 なベッドに入っていれば、眠 気 が覚めないのは当たり前だ。
「............?」
訝 りながら、彼女は顔を上げた。自分がベッドの中にいるのは間 違 いなかった。それも、飛び抜 けてクッションの柔 らかい──起きあがろうとして肘 を突 っ張っても、それが埋 もれて幾 らも起きられないような。ひらひらとしたレース。天 蓋 からは無数のカーテン。やはりひらひらのレース。部 屋 は極 端 に広い。ベッドしかないということは、ここは寝 室 なのか? 病室なのかもしれない。病人を、こんなベッドに寝かせるのはお笑いぐさだが。
窓があることが、いくらかの安心感を与 えてくれた。外も見える。閉じこめられたのではないらしい。多分──と付け加える。
(一階じゃないみたいね)
窓のすぐ外にある、大きな木、その枝を見ながら、彼女は自分に言い聞かせた。
(いざとなれば、あれを伝 って下りられるって誰 でも考えつくだろうし。だったら囚 人 をこの部屋に入れるわけないってことじゃない?)
ベッドから抜 け出すと、自分が着ているのが、いつものシャツとジーンズだと分かる。靴 もきれいにそろえてはあったが、代 わり映 えしないスニーカーだった。汚 れを落としてすらいない。それはあまりにこの部屋とは不 釣 り合 いであり、どうしてこう気が利 かないのかと──誰にともなしに、彼女は毒 づいた。別に、この格 好 が嫌 だというわけではない。だが世の中には、TPOというものがある。
(そうよね......って、あれ?)
いつものように呼びかけて。
クリーオウは、きょとんとあたりを見回した。レキがいない。
どうしようかと考え込み──だがなにも思いつかずに、彼女は嘆 息 だけ漏 らした。どうしようもない。寝て起きて、いきなり解決できることとできないことがある。
(こんなタイミングで、お目覚めかねー、って入ってくる人でもいたら、絶対悪人よね。まあそれは別にいいんだけど。なにが起こってるのか、説明してくれるんならさ。わたし、なにがどこでどうなってたんだっけ?)
思い出そうと、身体ごと首をひねる。
確か、ロッテーシャを探 しに行こうとして、そこでいきなり記憶が途 切 れている。
答えが出そうにはなかった。
と──
「お目覚めかね?」
扉 が開き、人が入ってくる。クリーオウは顔を上げると、その男を見やった。
そして、ほんの数分ほど、会話した。
彼は、この土地の主。
魔 王 崇 拝 者 。
アルマゲスト・ベティスリーサだと名乗った。
◆◇◆◇◆
「どういうことよ!」
彼女は怒 り狂 っていた。当然といえば当然か。
「シークはどこに行ったの! あいつ、したり顔で偉 そうに言っといて、気がついたらどこにもいない──」
「予想はしてたけどな」
怒 声 を張り上げるイールギットに、オーフェンは告 げた。もっとも、確率は低いと思っていたのだが。
「......なにが?」
聞き返してくる彼女に、ふっと笑って、
「彼は言った通りにしただけさ。俺 たちをおとりにした。そして、そのまま目的地に向かったんだ」
「なぜ!」
「彼は自分を暗 殺 者 だと言ってたっけ」
つぶやくと、イールギットはすっかり気勢を引っ込めたようだった。唾 を飲むのが、喉 の動きで分かる。
オーフェンは、彼女に問いかけた。
「そもそも、君たちがここに来た目的っていうのは、なんだったんだ?」
「......多分、あなたたちと同じでしょ。最 接 近 領 の調 査 よ」
「わたしは──」
と、横から声をあげかけたレティシャの鼻先に叩 きつけるように、イールギットが再び声を張り上げた。
「ただの調査よ! 暗殺なんて、そんな前時代的なことがあるわけないじゃない」
「............」
しばし黙 考 し、オーフェンはその単語を嚙 みしめた。調査。暗殺。調査ついでの暗殺。
「なんにしろ、彼らの姿 はなくて、彼らの目的地は最接近領、てわけだ。で......ウィノナの姿も見あたらない。クリーオウとマジクも、ロッテーシャもな」
「はぐれただけかも」
「ウィノナに関しては、それはあり得 ない。彼女は、俺の監 視 者 だ。いや......案内人かな」
「だとしたら?」
「......もう案内する必要がないほど、最接近領に近いのかもしれない」
レティシャに言って、あたりを見回す。荒 野 。なにが変わったわけでもない。標 識 があるわけでも、そもそも道らしい道があるわけでもない。大 陸 の地図を思い浮 かべることにさほどの意味はないとしても、そこがアーバンラマの遥 か西方、東部側のフェンリルの森に近いあたりだということは想像できた。最接近領。
(なにに接近している領地なんだ?)
そのことは、予想はついていても、結論は出せずにいた。が、もう断定しても良い頃 だろう。ウィノナは、ドラゴン種族と抗 争 していると言っていた。ならば当然、最接近領は聖 域 に挑 む者の地なのだ。ドラゴン種族の聖域に。
「理由があると考えよう。シークとカコルキスト。ふたりが俺たちを出し抜いて、最接近領へと急ぐ意味は?」
「誰かの暗殺をするのなら、馴 染 みのないわたしたちといっしょには行動できない。多分、イールギットも含 めてね」
「暗殺なんてしないって言ってるでしょ⁉ 暗黒時代とは違 うのよ!」
冷静な声で答えてくるレティシャとは対照的に、イールギットが声をあげた。自分の胸を指さして、
「わたしたちは暗殺者なんかじゃないわ! れっきとした市民なのよ」
「............」
答えず、オーフェンはあとを続けた。
「ウィノナ。彼女が、クリーオウとマジクを連れて姿を消したとする。まあ、クリーオウと最後にいっしょにいたのが彼女だからという理由だけだけどな。マジクもウィノナを探 して走っていったし。意味は?」
レティシャは、かなり長いこと考え込んでいたが──オーフェンが思い浮かべていたことと、まったく同じことを口にした。
「そのふたりを、領主とやらに会わせたくないか、あるいは先に会わせたかったか。どちらかね」
「ウィノナ──というより領主は、俺になにかを要求しようとしている。その人 質 にするつもりかもしれない。ほかに理由があるにしても、愉 快 なものではなさそうだな。どさくさ紛 れにさらっていくからには」
「......キリランシェロ?」
「くそっ!」
地面を蹴 って、オーフェンは叫んだ。
「奴 らを甘 く見過ぎてた。少なくとも、こちらに対して迂 闊 なことができないくらいの鍵 はこちらが持ってると思いこんでいたんだ。甘かったんだよ!」
「......さっき言っていた、ロッテーシャっていうのは? 初めて聞く名前だけど」
「ああ、ティッシは知らないか。って、なにから話せばいいんだか。あながち、赤 の他 人 とも言えない。コルゴンが──」
と、言いかけて言葉を止める。ふと、近くの岩 陰 からひょっこりと、黒 髪 の少女が姿を見せたのだ。
「............?」
イールギットが、無言で警 戒 の構えを取る。オーフェンはかぶりを振った。
「いや、ゴースト現象は終わってる。彼女がロッテーシャだ」
「オーフェンさん?」
木 剣 を片手に、見覚えのない女ふたりを怪 訝 そうに見ながら、ロッテーシャが近づいてきた。やや興 奮 気 味 に、息を弾 ませている。
「あの、もとの場所にいなかったから、かなり探したんですけど......なにがあったんですか?」
「クリーオウとマジクがさらわれた。ウィノナだ」
今度は断言し、空を見上げる。何者かが聞いているという確信はあった。息を吸い、そして吐 き出すまでにはだいぶ落ち着きを取りもどしていたが、それでも脳に昇 った血液がそう簡 単 に薄 れるわけでもなく、オーフェンは毒づいた。
「対等の取引をするつもりだと言っていたはずだな、領主!」
その声をこだまさせるほど、広がる荒野はせまくはなく、そして風の音も弱くはなかった。
まずはお詫 びを。本十六巻を楽しみにお待ちいただいておりました読者様方。突然の発売延期につきましては、言い訳のしようもありません。頭を下げるよりほかに気の利 いたお詫びを思いつけない甲斐性なしの作者ではありますが、これより作品のため一 層 の努力をいたしますことで多少なりと汚 名 返 上 できればと思います。
図 々 しい願いかもしれませんが、次作もまた手にとっていただければありがたく存じます。
......と、お詫び申し上げたあとでいつもの調子にもどるというのも不 謹 慎 なので、今回はこのままで進めますが。
今回で十六巻。て、毎回あとがきで同じことを書いているような気もしますが、気がついたらえらい巻数を重ねておりました。今回はクライマックスへ向けての準備編ってことで、なおさらそれが感じられたり。
準備編だけあって、軽めの話にできるよう意 識 してみたわけですが。このところの本編の展開、ぼくらしくない重い調子が続いていたんで、ちょうど良いのではなかろうかと。いや、まあ、らしくないってこともないのかにゃ? いったい自分がどういうイメージで見られているのかって、よく分からないんですが。まあ、作者のことなんてどうでもよろし(笑)。
さて。なにやらいつも本を出すたびに、作者の趣 味 暴 露 コーナーと化しているような気もするこのあとがきですが。この頃の秋田ラブは、DVDのソフト探しに注がれております。
......いや、映画を観るとかではなくて。ソフトを探すことに凝 ってます。町で売り場を見つけるたび、棚 の端 から端までを検 索 。もともと映画にそれほど詳 しくない秋田としては、知っているタイトルより知らないもののほうが多いわけですが、なんとなく目を引くものがあればそれを手に取る。そして値段が二千円以下であればゲット!
うう。なんだか自分で書いていて、かなり虚 しい遊びのような気がしてきたんですけど。でも結構楽しげです。二千円くらいの価 格 帯 って、洋画とかが多いですし、外れてもそれほど損した気分にはならないのが良い感じ。勝っても負けてもストレスのない遊びは久しぶりかもしれぬ、ということで、あまり入れ込まずに遊んでます。
買ったソフトは帰ってすぐに観ることもあれば、そのままほったらかしになることも。いずれまとめて鑑 賞 会 の予定。時間に余裕があれば、DVDソフトじゃなくて、ちゃんと劇場に足を運んで映画観るのだけれど〜。
んでもって、玩具 もさらに増えてます。
寿 命 を終えたノートパソコンの代わりとして、二代目のモバイルを買ったわたし。そしてわざわざ早朝のファミレスに出かけて原稿を書くわたし。さすがに人の目が気になってきて、プライバシーフィルターを買うわたし。そのうち、仕事と旅行を平 行 できたらいいな、などと目論むわたし。どうでもいいけど最初の起動の「ぴぽ」ってやつは鳴 らないようにできないのかなと悩むわたし。
というわけで? 今年あたり、月一くらいで遠出をしようと狙っているわたし。目 標 は、三十歳になるまでに全県制 覇 することさっ。ああ、なんか中 途 半 端 な若さの燃 焼 って感じでとても良いぞ。うむ。
てなところで。
それでは、また次回の巻末でお会いできれば幸いです。
世紀末にこれを書いている秋田より、新世紀にこの本を手に取ってくださったあなたへ。
ではー。
二〇〇〇年十二月──
秋 田 禎 信











「身体 が動かないだろう......それは仕方のないことだ。君の身体は今、急速に酸 化 しつつある。つまり、腐 っている」
彼は確 かに、動けずにいた。ベッドの上に横たわり、開いたまぶたを下ろすこともできない。部屋は燐 光 に満ち、ぼんやりと白く煙 っていた。あるいはこれは、実際の光ではなく、乾 いた眼 球 の見せる幻 なのかもしれないが。
あとは、悪 臭 だった。耐 え難 いほどの臭 いが、ふさぎようのない鼻 孔 から入り込んでくる。その苦痛の中には拷 問 というほどの激 しさはなく、さらに最悪の緩 慢 さだけがじわじわと自分を押 し包んでいくのが分かっていた。
まだ意 識 はある。
彼は微 かに、つぶやきを発した。まだすべてが封 じられたわけではない。どうしようもない腐 臭 の中でも、まだ自分は覆 い隠 されていない。
「生きていることが不 思 議 なのではないか? 生命を保ったまま、身体だけを腐 敗 させる毒......あまり趣 味 の良いものとは言えないが。聖 域 はそんなものも持っている」
その声は、腐 敗 臭 と同じく、ふさぎようのない鼓 膜 から入り込んできたものだった。
「現在の君の体重は......あちこち崩 れてこぼれ落ちたからね。四十四キログラム。もっと減 っていく。死ぬまでにはまだだいぶかかるよ。君のような相手を捕 らえておくのに、ほかに方法がなかったわけではない。だが、これを選 択 したのはわたしだ」
なるほど。
静かに納 得 する。
そして、言葉によってとどめを刺 そうというわけだ──彼は胸のうちでつぶやいた。こちらの意気をくじき、抵 抗 力 を奪 って、尋 問 する。なにを求めている? 問題はそれだった。なにを聞き出そうというのだ?
「ユイス・コルゴン......これが君の名前かね? ほかにも名前があるようだ。卓 抜 した黒 魔 術 士 。優秀な戦 闘 技 能 者 だな。恐 らくは大陸でも有数の使い手だ──使い手だった」
わざわざ言い直して、声は続けた。
「それは過 去 のことだ。再生はできない。このまま、君はもう立ち上がることもできないまま緩 やかに死ぬ。助かる方法はある」
沈 黙 。一 呼 吸 では済 まない──長い沈黙。
「だが生 憎 と、これは尋問ではなく処 刑 なのだよ。知っての通り、聖域はネットワークを持っている。君からの情報を必要とはしない。取引には応 じられない。つまり、君は、死ぬ」
一言ずつ区 切 って、声はそう断 言 した。
だが嘘 だ。
これもまた静かに納得する。脅 しに過ぎない。
(なんと言ったか──)
単語が思い出せないまま、彼はつぶやいた。明らかに思 考 能 力 が低下している。脳 が腐 っているのか──いや、考えるべきではない──なんにしろ、これはこちらの心を折るための手 管 だ。つまるところ、あのための......単語が思い出せない......
(絶 望 させるための)
ようやく記 憶 を取りもどす。彼は苦笑した。徹 底 して優 位 性 を誇 示 して、言葉を引き出そうというのだろう。彼らのネットワークが万 能 でないことは知っている。チャイルドマンの、そしてダミアンのネットワークもまた万能には程 遠 い。所 詮 は、誰 のためにも制 御 されていない魔術に過ぎない。結 局 、誰の役にも立たない。
ダガモシカシタラ。
思 考 にひびを入れる不協和音を、聞く。
だがもしかしたら......聖域にあるものは、それとは桁 が違 うのかもしれない......聖域には、人間種族には望むことすらできない魔術の究 極 があるのだから......
(考えるな)
自分に命じる。体温は上がらない。もとより、身体中が燃えるように熱かった。腐 敗 する時、肉は熱を発する......
考えるな、と繰 り返して、思考の筋 を正す。
ドラゴン種族。聖域に存 在 するもの。人間種族が、大陸の覇 権 をかけて争うべき最後の敵 。確か、領 主 はそう語った。
(......俺は聖域にいるのか !)
唐 突 に、悟 る。
声は無 情 に先を続けた。
「あきらめろ、といったところで君は抗 うことをやめないだろう......断 末 魔 まで、わたしの言葉を分 析 して、戦いのチャンスを探るのだろうな。分かっている。君のような男をほかにも何人か知っている。君は戦士だ。君をうらやましく思う。わたしは戦士ではないというのに、戦わなければならない」
その声の主が何者であるのか、それほど無 理 はなく記 憶 に残っていた。ぼやけた視 界 にはその姿 はないが、はっきりと思い出せる。聖 服 の男。アーバンラマで、自分を見 張 っていた。
職 業 的 な殺し屋。それは間違いない。聖域のエージェントとして使われているのならば、一 筋 縄 でいく相手ではあるまい。裏切りの符丁 。ずっと戦ってきた相手。ずっと、彼らに聞きたいことがあった──聞く機 会 はないとあきらめていたが。お前たちは、なにを裏切っているというのだ?
だが今も、声は出せそうにない。
声は続ける。腐 臭 の中、涼 やかな言葉が続く。
「最 接 近 領 の領主。君はその男の守 護 者 だったそうだな。わたしには、なんのことだか分からないが。新 参 者 には冷たいところのようだ、この聖域というのは......」
と、肩 をすくめるような、そんな気 配 。
「その男を殺してこい、と命じられたよ。移 動 は、彼らが面 倒 みてくれるそうだ。いろいろと不 満 もあるが、ドラゴン種 族 の魔 術 というのが便 利 であるのは否 定 できないな。わたしは散 歩 にいくのと同じ手 間 で、その男を殺して帰 還 できるらしい」
これも策 だ。自分に言い聞かせる。はったりに過 ぎない。そんなことができるのであれば、とうの昔 に領主は死んでいたはずだ。
が、
「またとない好 機 なんだよ」
こともなげに、男はつぶやく。
「今、大 勢 の人間が、その領主なる男を殺すために動いているようだよ。わたしはそれに便 乗 するだけでいい。なるほど。聞いたところによると、君たちはうまく均 衡 を利用してきたようだ。だが、最小の力で崩 すことができるから......均衡というのは危 ういのだ」
付け加える。
「もっとも......盤 石 の正義を求めて、失敗した男というのも知っているがね」
策に過ぎない。こちらに絶望を植え付けて、望むものを手に入れるための。
呪 文 のように繰 り返す。自分の名前。ユイス・エルス・イト・エグム──
気配が変化した。声の調 子 も変わる。きびすを返したらしい。聞こえにくくなった声が、ぎりぎりに鼓 膜 にとどいた。
「ここからでは、君は仲間にコンタクトを取れない。助けは来ない。わたしが帰ってくるまでには、君は死んでいる。今 生 の別れだ。では」
そして、去っていく。
無視して、彼はつぶやき続けた。ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン。いくつもの名を名乗り、必要なことも、必要でないこともしてきた。
策に過ぎない。こちらを絶望させるための。常 套 手 段 だ。毒というのも出 任 せだ。身体の自由を半 端 に奪 って、暗 示 をかけようとしているだけだ。相手がこちらから、なにを聞き出そうとしているのか。逆 に探れ。相手の秘 密 を引き出せ。常 に戦え。敵は策を弄 している。ほかになにも有 効 な手がかりがないという証 拠 だ。むしろ自分は優位にある。
策......
(どうしようもない愚 か者 か、俺 は!)
馬 鹿 げている。負けを認 めないだけで勝てるのであれば苦労はない。
(認めろ。これは窮 地 だ)
動けない。現 状 を回 復 する手段はない。
領主のことは考える必要はない。領主はキリランシェロを利用するつもりだ。それがうまくいくのであれば、切り抜 けられるはずだ。たとえなにと敵対しようと関係がない。鋼 の後 継 を殺すことができるのは、自分しかいない。自分を殺せるのが彼しかいないのと同様に。問題があるとすれば──
思い出した顔があった。いや、顔ではない。小さな肩 。震 える声。剣 術 競 技 者 として生きてきた、訓 練 されたしなやかな筋 肉 と厳 しい眼 差 し。彼女だ。ダミアンの裏を突 いて、ほんの短い警告を送ることはできた。だが彼女は、自分の言葉を聞き入れただろうか? 彼女にとっては自分は、復 讐 すべき仇 だ。彼女自身を殺 害 した仇。
常に戦え。
死ぬまで戦う。身体を腐 らせ、死につつある今でも。この絶望的な状 況 であっても。負けることが分かっているとしても。
絶望......絶望?
いや。
まだ意識はある。封 じられたわけではない。覆 い隠 されてはいない。生きている。
まだ終わってはいない。そして、打つ手さえ間 違 えなければ、最後の勝利者は必ず自分になる。
「六人が死ぬ。それが予定だ」
それだけを断 定 するために、闇 の奥 から這 い出してきたというわけではないだろう──それを信じる根 拠 があったとも言えない。だが完全に信 頼 する以外に、選 択 肢 もない。それはそういった存 在 だった。キエサルヒマ大陸の悪 魔 。
「はい」
彼はうなずいた。肉体的にという意味ではない。
それが悪魔だとするならば、自分はなんなのだ? 天使か? 嗤 う。
「この犠 牲 によって、我 々 は最も重要なものを手に入れることができる」
「つまり?」
「時間だ」
「先 延 ばしを?」
「そうだ。その隙 に、敵の喉 元 に突 きつける刃 を研 ぐ。鋭 ければ鋭いほどいい」
「確 かに今回のこの予定には、危険の要 素 はありません。ですが、彼らは騙 されてくれるでしょうか?」
「騙す必要はない。戸 惑 わせるだけでいい」
悪 魔 の声には隙 らしい隙もない。完 全 なる信 頼 。それを受けるに相応 しい声。確かに。
彼は聞き返した。
「戸惑うのは、彼らだけではありますまい?」
「構 わない。ネットワークを使用する敵 と戦うのであれば、味 方 もまた敵となる──敵への情 報 源 という形でだ」
「気がかりがあります」
「言ってみろ」
「......未 知 の要 素 を感じます。把 握 している勢 力 に対しては、すべて手を打ってありますが」
「適 宜 対応せよ。そのためであれば、限 界 まで力を使用することを許 可 する」
「はい」
通信は、そこで途 切 れた。悪魔との接 続 が断 絶 する。
情報の闇 の中で、彼はその呼び名を反 芻 した。悪魔。敵との戦 闘 が本 格 化 した現在、ネットワークで実名を呼び合うのは危険となる。悪魔。相手がそう名乗ってきた際 、自分が驚 きを感じたことに、さらに驚 嘆 した──数十年ぶりの動 揺 だった。
なにに驚く必 要 があろう? そうも思う。こんな一時的な呼び名になど意味はない。名前になど意味はない。
だから自分は名乗らなかった。ネットワークの覇 者 として、この情報世界の中では彼が名乗る必要などはない。
「......完全なる世界のために」
そのつぶやきもまた、無意味だった。ほんのわずかな波 紋 を残すだけで、消失していく情報。現実世界において、情報はすべてそうだ。情報は必ず摩 耗 する。そして消失したものから、このネットワークへと沈 殿 していく。過去の蓄 積 。
◆◇◆◇◆
風は乾 燥 した大地の残 骸 を飛ばし、塵 の混 じったまだら模 様 を空に描 いている。開 拓 業 者 に見向きもされないその荒 野 には、ごく静かに浸 透 していく餓 死 の気 配 だけがあった。かつてここがどういった土 地 柄 であったのか。あるいは太 古 よりこの姿だったのか。だとしたならば砂 漠 化 は大げさとしても、ここが広大な砂場とならなかったのはなぜか。そんな益 体 もない疑 問 を解 くための英 知 は、いつだって不足している。
なにもない。死の押 し売りがあるわけでもない。死 滅 という運命は大げさに君 臨 するわけではなく、ただ普 遍 的 にすべてを見つめている──こちらの手のとどかない場所から。ずっと。
生命は無 限 には続かない 。子孫は途 絶 える。種は絶 滅 する。世界は終わる。自然界においては、それが正しい。
「......道案内はできるわ。最 接 近 領 という呼び名は初めて聞いたけれど、わたしの行き先もそこなんだと思う。多分ね」
「多分?」
奇 妙 な言い回しをする姉に、オーフェンは聞き返した。視 界 には荒 野 ばかりが広がり、姉の姿 はない。彼女は背後にいた。話しかけてくるのならば、どうして前に回り込んでこなかったのか──それは分からないが。なんにしろその表情はうかがえない。
彼は、振 り向いた。長い黒 髪 を風にさらわれて、透 明 な眼 差 しでこちらを見 据 えている姉が、そこにいる。
厳 しく口元を引き締 めて、彼女は続けてきた。
「わたしがどうしてここにいると思う?」
苦笑する──オーフェンは、かぶりを振った。
「分からないよ。さっき聞いた時は答えなかったよな」
「そうね」
彼女はそれだけつぶやくと、口を閉ざした。
あるいは、最初から話すつもりもなかったのか。レティシャはそのまま数秒、視 線 もこちらからわずかに外 した。
そして、いつも整 って崩 れない表情をこわばらせる。
「あなたの力が通用しない敵を排 除 するのがわたしの役 割 だからよ」
「役割?」
それもまた、分からない言い回しではあった。聞き返す。
「役割って、なんのための役割なんだ」
「誰かが用意したものではないわ。あなたが、自分の役割を自分で見いだしたのと同じようにね」
「なにを言ってるんだ?」
うめく。と、彼女は即 座 に告 げてきた。
「あなたが経 験 したここ数年の出 来 事 。すべてとは言わないけれどかなりの部分が──わたしの知 識 の中にある」
「............」
沈 黙 は、風が吹 き消した。いたずら蠟 燭 の炎 のように、一 瞬 で消え、そして揺 れながらもとの大きさへともどる。
言葉はなく、荒 野 にほんの数秒。
あくまでも、理 解 できない言い回しを続けるレティシャに、オーフェンは何度か口を開きかけた。そのたった数秒の間に、だがその度に言葉を呑 み込む。なにを言っていいのか、なにを言おうとしていたのかすら自分で分からず、喉 の奥 にどの言葉を封 じたのかも思い出せない。
結果、彼女の言葉を待つことになった。顔を変えないまま、レティシャが言ってくる。
「みんな教えてもらったわ。わたしは今、ネットワークの接続下にある。ある程 度 なら、ネットワークの機能を使うこともできる。コルゴンと......同じ立場ってわけね」
「フォルテの仕 業 か。スパイってのは、趣 味 が悪いな」
《塔 》で唯 一 ──というより、大陸西部で唯一か──ネットワークを扱 う資 格 を持つ兄 弟 子 の名前をつぶやいて、レティシャを見やる。彼女は苦笑したようだった。それほど表情は変わらなかったが。
「わたしの言葉をあなたがどう解 釈 しようと、あなたの勝手よ」
「役割って言ったな」
彼女がここに来た理由というのは、もうどうでも良かった──フォルテが彼女を寄 越 したのであれば、それは彼なりの理由があるからだろう。ついでに言えば、彼女がその指示に従 ったのも、彼女なりの理由があるからだろう。それは詮 索 しても仕方がない。話したくなれば、彼女から話してくれるはずだ。
それよりも、気になることがあった。オーフェンは彼女に一歩近寄ると、風に逆らってうめき声をあげた。
「俺 の役割って、なんだ」
「誰 かが用意したものなんかじゃないって言ったでしょう。あなたが、自分で決めたはずよ」
「俺がなにを決めたって?」
それは疑問ではなく、ただのつぶやきに過ぎなかった。誰に聞いたところで答えなど返ってくるはずはない。この荒野の光 景 こそが待ち受ける天然の運命であるのならば、同様に人間の生 き様 にも特 別 な役割などはない。
死に方にも意味などはない。それでも感情だけがそれを否 定 する。
風が吹 いた。それまでと同じ強さで。
「......俺の力が通用しない敵 ?」
オーフェンは、大気の流れに揉 まれる自分を見下ろす心 地 で、小さく聞いた。レティシャは腰 に両手を当てて、きっぱりと答えてきた。
「これから出会うほとんど全員よ」
「誰も彼もが敵だって言いたいのか?」
「そうなるわね」
と、彼女は刹 那 、顔をしかめた。ちらりと、横を向いて──
「あるいは、彼女もね」
「イールギットのことか?」
姉の視線の向きを追って、オーフェンは聞き返した。そちらには、イールギットがいるはずだった。王 都 に集 う最高の黒 魔 術 士 たち、《十三使 徒 》の一員である、イールギット・スィートハート。
レティシャはわずかにあごを動かす程度、かぶりを振 ってみせた。
「場合によっては、ってことよ」
「さっぱり意味不明だ。なにを言ってるんだ?」
癇 癪 を嚙 みつぶして、うめく。オーフェンは彼女を見 据 えて、さらに続けた。
「なにか勘 違 いしてないか? 俺は、その領 主 とかいう奴 に招 かれて、そいつに会いに行くんだ。クリーオウたちのことは気がかりだが、奴らの意 図 がはっきりしないうちに、そいつらが敵に回ると決めつけるのは危険だろ。コルゴンだって、その領主とかいう奴に協力してるんだぞ?」
「彼には彼の役割があるわ。分からないのは、領主なる人物の役割よ」
「その役割っての、やめてくれないか。なんだか、誰かになにか押 しつけられてるみたいで落ち着かない」
こちらの言葉に、姉がまったく表情を変えなかったことに苛 立 ちながら、告 げる。
彼女は特になにを言ってくるわけでもなかったが、承 知 はしてくれたようだった。言い直してくる。
「大 勢 の人間が動いているわ。そのすべての集 約 点 にいるのが、その領主を名乗る人間なのよ。それだけの人物が、部外者にはまったく存在を知られずにいるというのも不自然なことで──」
と、なにかに気づいたように、レティシャは言葉を止めた。別の声が割 り込んでくる。
「最接近領の領主は、貴 族 連 盟 のトップシークレットよ。わたしたちにもその実 態 はつかめていない。その名前が、少なくとも二十年以上前から囁 かれているにもかかわらずね」
見やる。と、崩 れかかった岩 陰 からのぞき込むように、女がひとり姿を見せていた。陽気な造 りの輪 郭 に、冷ややかな影 が落ちているのがうかがえる。
彼女はその岩陰から一歩踏 み出して、あとを続けた。
「ここにきて《十三使徒》の上層から、その男の実像を明らかにしろと命令が出たのは、貴族連 中 を無 視 したまったくの独 断 よ。貴族連 盟 がわたしたちの動きを知ったら、ひとりやふたりじゃ済 まないくらいのクビが飛ぶでしょうね」
「聞いてたの?」
レティシャが、聞く。出てきた女は──イールギットは、分かりやすいほどに大きく苦笑してみせた。
「気づいてたんでしょ?」
「いいえ。悪いけど眼 中 にないから」
「あーそー」
と、しばし険 悪 ににらみ合ってから──気力が続かなかったのか、イールギットは嘆 息 を漏 らして顔を伏 せた。
「まあね。あなたの言いたいことは分かるわよ」
「俺にはさっぱり分からん」
蚊 帳 の外に置かれた気分で、毒づく。
イールギットが再び苦笑を顔に広げた。
「仲間に見 捨 てられたからといって、わたしはあくまで《十三使徒》であって、あなたたちはそうじゃないってことよ」
「任 務 を遂 行 しなけりゃならない?」
「ええ。わたしは最 接 近 領 に潜 入 して、領主を探らないと」
聞いて良いものかどうか──
それについての確 信 はなかったものの、オーフェンは口を開いた。この質問が、彼女を敵にしてしまいかねないことは自覚していたが、聞かないわけにもいかない。
「......君の任務はそうだとして、シーク・マリスクと、ええと──」
「カコルキスト・イストハン。分かってるわ。彼らの任務は、どうもわたしとは違 うみたいね」
あきらめた様子で、ぐったりと、イールギットがうめく。
「彼らは暗殺技能者 。それも、とびっきりのね。キリランシェロ君、現役を退 いたあなたとは違うわよ」
「別に俺は、現役の暗殺者だったことなんか一度もない」

つぶやく。自然と口が突 き出た。
が、彼女にはどうでも良いことだったのだろう。そのまま、続けてくる。
「彼らが今まで、そういった任務を請 け負 っていたなんていう公式な記録はないけど──当たり前ね──、噂 だけは囁 かれてた。キリランシェロ君にも覚えがあるでしょうけど、暗殺技能者としての戦 闘 訓 練 を受けた魔術士になら、ついてまわるお約 束 の噂よね。信じたくはなかったけど、どうやら否 定 もできなさそう」
と、レティシャが聞く。
「彼らの任務が暗殺なら、どうしてあなたも同行することになったの? 足手まといにしかならないでしょ」
彼女をにらみつけてから、イールギットが答えた。
「わたしをこの任務に同行させたのは、マリア先生よ。多分......先生は、知ってたんでしょうね。だからわたしをストッパー役にしようと」
そこで唐 突 に言葉が途 切 れる。
彼女がなにを言いかけたのか、そしてどうして言うのをやめたのか。それは容 易 に知れた。役割。
それを吹 っ切るように、彼女は声を大きくした。
「彼らを止めないと」
「コルゴンだ」
「え?」
唐突につぶやいた言葉に、イールギットが声をあげた。レティシャはとうに気づいていたのか、じっとうつむくだけで動きもない。
思い出したことがある。現役の暗殺者......ということならば。
(誰を差し置いても、あいつじゃないか)
オーフェンは繰 り返した。
「コルゴンだ。領主のために働いてる──あいつ自身がそんなことを言ってた。だとしたら、危ないのはあのふたりのほうだ。返 り討 ちにあうぞ」
役割。
自分の声で、自分の心に響 く言葉。
それがコルゴンの──キエサルヒマ大陸で紛 れもなく最高の暗殺者の、役割。
◆◇◆◇◆
「ひとつ大事なことを忘れている気がする」
それは誰 だって、いつだって、なんだってそうだ。声に出さず、胸の内でつぶやく。
あえて答えなかったのは、そもそもその声が、自分に向けて発せられたものではなかったからだ──離 れた場所で、どうしてか岩の上にわざわざ仁 王 立 ちして兄 弟 で話している地 人 たちを眺 めながら、ロッテーシャはぼんやりとよどむ感情を不 定 型 に空へと広げていった。まとまった考えなど浮 かばない。人の心が脳 にあるのか、心 臓 にあるのか、かつて哲 学 者 は悩 んだものらしい。だがどちらも間 違 っている。肉体などに心はない。だからといって魂 などという不 確 実 で曖 昧 なものがどこかにあるわけでもない。つまるところ、人には心などない のだ。
そう思う。が、やはり、声に出しはしない。父の形 見 の剣 を緩 く抱 きかかえて、彼女は嘆 息 した。人には心などない。この嘆息にも意味などないはずだ......
「大事なことを忘れてる気がするぞ、ドーチン」
返事がなかったことが不 服 だったのか、その地人は同じことを繰 り返した。その岩の下に座 っているもうひとりの地人が、ぐったりと声を返す。
「ひとつやふたつじゃないと思うんだけど」
「そんな気もするが、しかし大事なことはひとつだ。そもそも俺たちは、どうしてこんなところにいるのだ?」
どうしてこんなところにいるのだろう。彼らではない。自分はどうしてここにいるのか。
心も持っていないくせに、疑 問 は尽 きなかった。疑問の数ではない。問いの深みが尽きない。足まで......腰 まで......胸まで......どこまでも沈 み込んで、まだ底がない。だが抜 け出すこともできない。疑問は尽きない。
(わたしはどうしてここにいるの?)
決まっている。エドを、自分の元 夫 を殺すためだ。この手で。この剣で。
(......この剣、で?)
父の形見の剣で。使い方も分からない魔 剣 で、エドを殺す。
エド。コルゴン。ユイス。
大 勢 の人間が、それぞれ違う名前でその男のことを呼んでいる。自分の知らない名前で彼のことを。結 局 のところそれは、自分がいかに、彼のこと知らなかったのかということだ──名前の数だけ、知らない彼がいる。
(そんなことをわざわざ思い知らせなくたっていいじゃない?)
独 りごちる。
エド。彼はエド。
と、地人が──ドーチンとかいう弟のほうが、つぶやくのが耳に入った。
「どうしてって、兄さんがあの髪 の長い魔術士と約束したんじゃなかったっけ」
「うむ。そうだ。あの借金取りと会うことができれば礼をすると言っていた」
「言ってたね」
「だが礼をもらってない」
「もらってないね」
「......どうしよう」
「いや、なんでそこで弱気なのさ」
そんな会話を聞くともなしに聞きながら、ロッテーシャは違う言葉を思い返していた。風の中に浮かび上がった幻 像 が。語った言葉。
『自分を守れ!』
それは──
(......わたしを案じてる? どうして?)
まったく意味が分からない。
まったく意味などないのかもしれない。
だとすれば考えるだけ無 駄 だ......それは風の音が、たまたまそういった言葉に聞こえただけに過 ぎないとも考えられる。心などない。単に、復 讐 を欲 する自分の肉体と、その目標との肉体があるだけ。両者の関係でしかない。その間に交わされた言葉になど意味はない。聞く必要も、考える必要も。
(ない? 本当に?)
「そんなことはないぞ」
岩の上の地人が、断 言 する。
弟のほうが、それに答えた。
「でも、向こうはお礼のことなんて、すっかり忘れてるんじゃないかって思うけど」
「遠回しに聞いてみるというのはどうだろう」
「たとえば?」
聞きながら、その声には八 分 ほどのあきらめが含 まれているようだった。
「よこせ」
「いいんじゃないかな」
十分のあきらめ口 調 で、弟。
自分とは無 関 係 な会話──その一部が、頭の中に反 響 するのを、ロッテーシャはそれこそ他 人 事 のように聞いていた。
よこせ。それでいい。よこせ......
そうして奪 われたなにか。
それが、自分と彼の間に横たわっている。ひとつではない。とても多くのこと、多くのものが。この魔剣も、そのひとつだった。
「そうか? リハーサルは十分か? いいか、チャンスは一度きりだぞ。なんとなくそんな気がするからな。この際 だ。がっぽりと儲 け殺す」
「うまくいくといいね。いやホント。なんていうかホントに」
と。
十分強 のあきらめ声──それはつまり泣き声にも聞こえたが──で繰 り返す地人に、ロッテーシャは声をかけた。衝 動 的 に、立ち上がりながら。
「あの」
地人たちの反応は鈍 かった。自分のことを忘れていたのかもしれない。恐 らくきっと、そうなのだろう。驚 いたように目をぱちくりして、こちらを向き、
「なんですか?」
かけている眼鏡 の位置を直しながら、弟が聞いてくる。なんとはなしに気 後 れを感じつつ、ロッテーシャはつぶやいた。
「みんなは、どこかしら」
「あっちだと思いますけど」
と、指さした方向を見る。どちらを向いても変わらない荒 野 。太陽の位置だけが、一定の軌 跡 を描 いてじりじりと変化している。影 が変わっても、この風吹く光 景 には大差ない。だが、向かうべき方向がひとつだけ指し示されているのであれば、こんな土地にも意味はある。
(いえ......意味はない......はずなのだけど......)
締 め付ける胸の中から空気を絞 り出し、彼女はそれを声にした。
「わたしも、行ってきます」
「そですか」
たったそれだけ。その言葉を背に、歩き出す。
足 跡 も残らない。誰も自分を見ていない。父は死んだ。エドは去った。自分は......死に損 なった。
意味のないこの世界に、まだ生きている。
(こんな虚 無 感 ......馬 鹿 みたい)
自分に毒づいて、彼女は足を速めた。
(復 讐 は虚 しいことだなんて、そんなことない。わたしはやり遂 げる)
エドは手 強 い敵 だ。それを思い知って、弱気になっている。それだけのことだ。
からからと、回し車のような音を立てて吹 きすさぶ荒 れた風に背中を押 されながら──彼女は、進み続けた。
◆◇◆◇◆
ちっ......
唇 の間から漏 れた音は舌打ちではなく、奥 歯 のこすれた音だった。十数年来──文字通り十数年ずっと、食いしばることを繰 り返し、すっかり潰 れた奥歯が軋 む音。
一 瞬 の接 触 に過ぎなかった。しかも不 意 打 ちを仕 掛 けたのは自分だったというのに。砕 けたのは、自分の半身だった。肉体ではない。お守 りほどにも役に立たないボディーアーマーの半分が、止め紐 を引きちぎって派 手 に吹き飛んだだけだった。なにを食らったのかは、よくは分からない。だが接触だった。たった一 瞬 の接触。
それが、爆 発 物 でも使ったように、アーマーを引きちぎった。
(やるね......!)
荒 野 の地面に靴 底 をこすりつけて倒 れかけた身体 を支え、ウィノナはうめいた。防具はどうでもいい。どのみち意味はない。左手に構えた拳 銃 を握 り直し、トリガーガードの外に置いていた指を引き金にかける。
(どこへ行った?)
反動を膝 で吸 収 すると同時に、左右を見回す。敵の姿 は視 界 になかった。気 配 も感じない。呼 吸 も聞こえない。大気の流れと鼓 動 とが一 致 しない不 快 感 が、うなじを撫 でるように神 経 をつつく。
神経繊 維 は肉体の内にありながら、外気との接触を敏 感 に訴 えてきていたが、肝 心 の敵の位置だけは察 知 できなかった。敵の動きを目で追う。そんな素 人 のようなことをしなければならないとは!
(つまるところ......この敵とあたしの力の差は、玄 人 と素人くらいあるってことかね)
動くことはやめた。踏 みとどまった姿 勢 そのままで、再びあたりを探る。
隠 れる場所がいくらもあったというわけではない。にもかかわらず、この敵は気配を完全に消した。地面に溶 けて沈 んだか、空でも飛んで逃 げたか──そうとしか思えなかったが。見回せば、崩 れかかった岩と、腕 の太さほどの地面の亀 裂 、朽 ち木くらいしか目につくものはない。砂の色に染 まった風。
見当もつかなかったというわけではなかった。
人がひとり、隠 れられる場所というのが確実にある。その隠れ場所ならば、地形を選ばない。凍 った湖 面 の上だろうがどこであろうが、間 違 いなく身を潜 めることができる。地面に溶 けて失 せるのと同 等 に。
ウィノナは前方に身を投げ出した。受け身を取って転がり、背後に向けて起きあがる。予想通り、敵 は──自分の背後に隠れていた。
視 界 に人 型 の黒い影 が映ろうとする。刹 那 。
「────っ⁉ 」
眼 球 に激 痛 が走った。左手に衝 撃 。発 砲 音 ──トリガーに指をかけたまま動いたため、拳 銃 が暴 発 したのだろう。視界が閉 じたため、その弾 丸 がどこへ飛んでいったのか、それは分からなかった。敵には当たらなかったろう。そうそう都 合 の良いものではない。敵との距 離 は数メートルはあった。弾 道 の安定していないこのディーディーの弾 は、零 より上の距離で命中を期 待 できない。
それよりも眼 だ。まぶたをこすりたいという誘 惑 に必死で耐 える。自分にとって敵が遠距離にあったということは、敵にとっての自分もそれと同等の遠距離にあったということにほかならない。回転するこちらの動きを見定め、眼球に対して精 密 な攻 撃 ができたはずはない。魔 術 士 でなければ、の話だが。呪 文 の声は聞こえなかった。
顔に涼 気 を感じていた。皮 膚 の水分を奪 って揮 発 していくなにかの触 感 。

(薬品を......かけられた?)
それならば、ある程度距離をおいていても、目つぶしを狙 えるかもしれない。
思い当たる薬品の種類がいくつか、ざっと頭に浮 かぶ──が、意味のないことだった。即 死 性 の猛 毒 かもしれないし、ただの泥 水 かもしれない。なんにしろ数秒は眼を開けられないことに変わりはない。その事実だけが厳 然 としてある。気配の読めない敵の前で視界を潰 され、そして恐 らく数秒のうちに、敵は間違いなく次の攻撃を仕 掛 けてくる。その現実だけが冷 厳 としてある。
(殺される)
今度はアーマーではなく、肋 骨 を爆 発 させられる。その次は内 臓 か。その次は背骨か。どのあたりで死ぬだろう。
(でもね)
敵が零距離の接触でこちらの身体を吹き飛ばすことができるのは分かっている。
だがこちらも、零距離ならばありったけの弾丸を撃 ち込むことができる。そのうちの一発でも、敵の神経の奥 にめり込めば、役目は果たせる。
そのあと生きていられるかどうかは、今さら考えることでもない。
待ち受ける。
ディーディーの内にある、残り五発の弾 丸 。一発が人の命を容易 く奪 う、だが千発撃 っても見 当 外 れの方向に飛んでいくだけかもしれない不 確 実 な殺人兵器。
整 備 は万 全 だった。機 械 的 な暴 発 はない。弾 は撃ち尽 くせる。そう自分に言い聞かせる。
待つ一 瞬 。待ちわびる数瞬間。
それが数秒へと化 けて──彼女は、まぶたを開けた。
視 界 は涙 でひどくぼやけていたが、見えないこともなかった。かすみながら網 膜 に映ったのは、荒 野 の風 景 。地 獄 の一歩手前の死んだ土地。最 接 近 領 ......
敵 の姿 はなかった。彼女はただひとりで、そこに立ち尽くしていた。
拳 銃 を下げる。顔面を手でぬぐう。目を潰 したのは、薬品ではなかった。手のひらについた土の塊 を見やって、苦笑する。砂をぶつけられただけだ。こちらが目を閉 じている間に、敵は逃 げた。
「伸 るか反 るかの賭 はしないってか......つまらん手合いさね」
独 りごちる。
屈 辱 とは感じなかった。生き延 びたことを認める。ただそれだけに過ぎない。自分が戦っている相手がなにであるかを思えば、それだけに過ぎない。
(逃げたって、どうせ行き先は分かってるんだ。領主様のところまで、まだまだ近くはないし、あたしは追 跡 をやめやしないよ)
と。
歩を進めようとして、横目で気 配 をつかむ。敵ではなかった。身構えることなく、ただ足を止める。
そこにいたのは、自分よりやや背の低い、無 愛 想 な男の姿──それが男でも女でもなく、そもそも人間でもなく、そんな存在でしかないことは知 識 では分かっている。しかしそれでも実在感を持ってそこに在 る男の姿には、不自然な部分をあげろと言われても難 しかった。
大陸における魔術のハイマスター。最高にして無 比 の魔術士。ダミアン・ルーウ。彼を見やって、ウィノナは口を開いた。
「......とうとうヤキが回って、あの世に行く日がきたのかい? この深度まで敵の侵 入 を許したことはなかったはずだよ」
吐 いた言葉には血の味がした。知らない間に、口を切っていたらしい。唾 とともに、赤い錆 の塊 を吐 き捨てる。
ダミアンには変化はなかった。まるで空中に腰 掛 けるようなつま先立ちの奇 妙 な姿 勢 で、言ってくる。
「ユイスが呼び出しに応じない」
「さっきも聞いたよ。だから、手順を切り替 えたんだろう? あの嬢 ちゃんたちはどうしたのさ」
「今、領主様と話をしている。特に問題はない」
「だったら、こっちも問題なしにして欲しいもんさね」
皮肉って、ウィノナは鼻を鳴らした。両手を広げて、続ける。
「あのゴースト現象は陳 腐 だったよ。まるで通じやしなかった」
「《十三使徒》め、よくもまあ、あれほどの魔 術 士 を使い捨てる決心をしたものだ」
「日 頃 、最強の魔術士だなんだとふんぞり返って、こんな時に格 下 の相手をどうにもできないのが、あんたってわけだ?」
癇 癪 とともにぶつける。予想の通り、ダミアンはまったく動じなかったが。
その最高の白 魔術士は、静かにお定まりの文句を口にした。
「外 敵 を始 末 するのはユイスの役割だ」
「領主様をお護 りするのが、あたしたちの役割さ。どう違 うっての?」
「たとえ、この最 接 近 領 に入り込んできたのが魔 人 プルートーだったとしても、わたしはそれを滅 ぼすことができる」
虚 栄 ではない落ち着いた口 調 で、白魔術士は続けた。もとより、この男に──いや、この存在に、虚 栄 などというものは無 縁 であると、とうに分かってはいたが。
「だがそれをすれば、わたしはほぼ全部のエネルギーを使ってしまう。わたしは決して全力では戦えない。それは白魔術の限 界 であり、制 約 だ。わたしが力を使い果たせば、最接近領は無 防 備 になる。アーバンラマの件で、我 々 は聖 域 に存在を知られているのだ。冒 険 はできない」
「なら悠 々 自 適 に死に絶 えるがいいさ。あんただけね。領主様は護るよ、あたしが」
結局のところ──
本当の意味で、領主を守 護 するのは本心の知れない黒魔術士でも、得 体 の知れない白魔術士でもない。自分だけだった。自分だけが、この最接近領において真 性 の意味で領主に仕 えている。
この最接近領に、同 志 と呼べる仲間もいる。ひとりやふたりではない。だが自分だけなのは変わらない。
「誰 が来ようとあたしが殺す。それでいいんだろ? 今消えた奴 の居 場 所 を教えな。追いかける」
「足 跡 をロストした」
「......あん?」
いい加 減 に苛 立 ちは最 高 潮 に達していた──眉 間 に強くしわを刻 んで、うなる。
「馬 鹿 言ってんじゃないよ?」
「馬鹿を言っているつもりもない。どうやら敵は、ネットワークの監 視 網 を誤 摩 化 す手を知っているらしい」
「あんたがいつか、役に立つ日が来ると良いさね。人手を集めな。トリンキーとライドなら近くにいるはずだろ。それでも足りなきゃ、あの黒魔術士たちに今さら頭下げて頼 むんだね」
言い捨てて、歩き出す。気配を捉 えられないのであれば、目で追うしかない。同じように、ダミアンがあてにならないのであれば、自分で探すしかない。
◆◇◆◇◆
(魔術士は理 想 を体 現 できる)
それは証明されていない歴史──つまりは実証されていない歴史ではあったが、信ずるに足ることだったはずだ。
(現実という現 象 に負けることのない理想。それを体現できる。魔術という端 的 な成果から、魔術士はその理想を信じるだけの確証を得たのだと......それを言ったのは)
それを言ったのは、誰 だっただろう。彼女には思い出せなかった。自分ではない。教師でもない。自分の知っている誰かではない。イールギットは、あてにならない記 憶 を探りながら、無 言 で妥 協 した。
恐 らくは、大 昔 の魔術士かなにかだろう──大陸魔術士同 盟 結 盟 時 の演 説 であれば、いかにももっともらしいと思える。魔術士は理想を体現できる。愚 劣 な過 去 とは決別できる。子孫が恥 じることのない世界を作ることができる。確 かに、演説らしい。出来の良い演説とは言えないが、聴 衆 は喜んだだろう。
理想に打ち勝つということが、理想をあやふやにしてしまうとは、誰も考えなかったのか?
「こんなの覚えてる?」
彼女は顔を上げて、微笑 みかけた。
「いつだったか、山中訓 練 にあなたが水着持ってきてて──」
「手が留 守 になってるわよ」
冷ややかな声が返ってくる。
あえて抗 弁 はせず、イールギットは自分の手元を見下ろした。ずっしりと重い連 射 式 ボウガンが、装 弾 の途 中 で手の中にある。
四発が一 束 になっているカートリッジをレティシャの鞄 の中から探り出し、彼女はかぶりを振 った。あまりにも愚 かしい。
レティシャはこちらに背を向けて、アンダーウェアの上に黙 々 と黒革の戦 闘 服 を着 込 んでいるところだった──《塔 》では標 準 装 備 だが、王 都 のスクールでは、とうに時 代 遅 れの廃 物 とされたものだ。なにを持ってきたのかと思えば、わざわざそんなものを運んでいたらしい。確かに耐 刃 繊 維 と革を組み合わせた強度は優れもので、各所に武器を隠 して携 帯 できる。だが長 距 離 を移動するには向かないし、長時間着て過ごすにはさらに向かない。それでもそれは、自分も含 めて《塔》の魔術士たちが奉 じる、一種の偶 像 だった。
当たり前だがレティシャは、イールギットの分までは持ってきていなかった。服の背中から長い黒 髪 を引っ張り出して、手早く留 め具を留めていく彼女を眺 めて、イールギットはつぶやいた。
「あなたが武器を使うなんて知らなかった」
「そりゃ、普 段 から使うようなものでもないしね」
こともなげにレティシャはそう言ってくると、肩 越 しにこちらを振 り向いた。続ける。
「あなたも使えるものは持っていったほうがいいわよ。かなり余分に持ってきてあるから......持ちきれないものはどうせここで放 棄 していくんだし」
「わたしは......いいわ」
我 ながら驚 くほど、弱々しい声が漏 れた。カートリッジをボウガンに押 し込み、安 全 装 置 となるピンを挿 すと、それをレティシャに手 渡 す。
苦 笑 いは隠 せなかった。
「こんなもの、どこで手に入れたの? まさか武器商人とつきあいがあるわけでもないでしょう?」
「フォルテの交友関係を図にして見せてあげましょうか? ゆすりだけで食べていけるわよ」
さほど冗 談 とも思えない口 調 で、彼女が言ってくる。イールギットは空 っぽになった手を見下ろして、ついでに、地面に置かれたレティシャの鞄へと視 線 を移した。確かに、冗談でもなさそうではある。
戦闘服を着込んだレティシャ・マクレディは、どことなくマリア・フウォンを連 想 させた──ともに、イールギットが知る限り最も戦闘に特 化 した黒魔術士。確かにタイプは似 ている。外見は似ても似つかないが。マリア教師が若すぎることから、自分と彼女と師 とは、奇 妙 な関係にあった。マリア・フウォンとレティシャ・マクレディは基 礎 クラスでの先 輩 と後輩、そして自分とマリア教師とは師 弟 関 係 にある。自分とレティシャとは歳 もそれほど離 れていないのだが。考えてみれば、レティシャとその師、チャイルドマン・パウダーフィールドも、五歳 ほどしか違 わなかったはずだ。
そのレティシャが、鞄 の上にかがみ込んで、黒い紙にくるまれた木製の小箱を──手投げ爆 弾 のようにも見えたが、まさか──取り出すのを、見下ろす。彼女は次々と、なにかのコントのように鞄から武器を取り出してみせた。鞘 に収められた大型のナイフ、肉厚で不 格 好 なパリイング・ダガー、折 り畳 み式 の警 棒 、ベルトにずらりと収 められた数本の投げ短刀は、肉屋の軒 先 に吊 されているソーセージを思わせる。
最後に、細いチェーンを左 腕 に巻き付けながら、レティシャがふと、目をぱちくりさせたようだった。
「あ、これキリランシェロのだわ」
「え?」
聞き返す。鞄の中に残っていたのは、段 ボール製の靴 箱 だった。
彼女が取り出したそれに、なにげなく手を伸 ばす──視 線 で問いかけると、レティシャは特に止めようとはしなかった。そのまま箱の蓋 を取り外す。と。
息が詰 まる激 痛 に、イールギットは悲鳴をあげた。肺を絞 ったのは、自分の筋肉だった。目の前が暗くなる。見えたものをそのまま鵜 呑 みにすれば、それはつまり、ひとつの結論しか導 き出さなかった。レティシャ・マクレディ。《塔》の最エリートたる黒魔術士。この女は狂 ったのだ!
「これ......あなた!」
それを呼び表す言葉を思い出せず、叫 ぶ。が、レティシャは平然とこちらを見返してくるだけだった。狂っているのは、そちらなのだとでも言いたげに。
「《塔》の最 機 密 よ。でもどうせ、発案者は先生だしね」
「わたしは今は《十三使 徒 》なのよ⁉ 分かってるの⁉ 」
「〝ヘイルストーム〟──キリランシェロが使い方を忘れてなければいいけど。これの専門訓練を受けたのは、コルゴンとキリランシェロだけだから」
こちらの言葉を無 視 して、彼女は淡 々 とそんなことを口にした。冷たい瞳 に、かつて数多くの男子生徒が灯 るのを期待して叶 わなかった、ほのかな熱の塊 を宿して。そのまま続けてくる。
「デリケートな武器だから信 頼 性 は低いし、魔術に比 べれば威 力 は劣 るけれど、それでも......多分必要になるわ」
騎 士 は王 権 による治 安 構 想 の中で、ひとつの武器を象 徴 とした。

それは平和の理 想 だった。願わくば、何者もその武器に逆らうことがないようにとの。
拳 銃 。しかも、ここにあるのは王都で実 際 に騎士に支 給 されている旧 態 依 然 とした代 物 とはまったく違う。
(噂 だけなら、聞いたことはあったけど......)
実物を目に映して、震 えを覚える。《塔》で極 秘 に、次世代の能力を持った拳銃と、そしてそれのまったく新しい形での運用を開発しているということは、よほど噂にうとい者以外には周 知 のことだった。外 観 は従 来 の拳銃と似ているようで、まったく違 う。あるいは共通しているのは殺人への鉄の意志だけだった──引き金を引けば手 加 減 のない死を送り込む明 確 な機能。そのためだけの装 置 。
レティシャの手が、そっと蓋 を閉じた。
そして静かに、本当に静かに告げてくる。
「あなたもなにか武装したほうがいいわ」
「わたしはいいって──」
刹 那 。
強烈な力で、突 き飛ばされた。いや、胸元を摑 んだまま、背後の岩へと押 しつけられた──レティシャが立ち上がるのは見えず、彼女の手の動きもまったく把 握 していなかった。激 しく強く、ことさらにじっくりと、この戦闘服の魔術士が発 揮 する悪魔のような握 力 に喉 を潰 されていくのを、イールギットは声も上げられないまま体感した。
押し殺した声 音 で、レティシャが言ってくる。
「はっきり言っておくわ。あなたは邪 魔 なの」
こちらの動きを封 じて、彼女は鼻が触 れるほどに顔を近づけてきた。息 遣 いまでもが感じられる距 離 で、あとを続けてくる。
「あなたがいることなんて予想してなかった。あなたは足手まといになる。キリランシェロもわたしも、あなたを気にして死ぬかもしれない」
「なんだか、馬 鹿 げてるわ」
レティシャがわずかに指をゆるめたことを、こちらにしゃべれという合図だと信じて、イールギットはなんとか声を発した──しわがれた声で、うめく。
「なんなの、この装備は。誰と戦うつもりで用意したのよ──」
「足りやしないわよ」
彼女は即 答 してきた。
首を絞 めている、レティシャの手首を摑み返す。イールギットは相手の目をにらみつけながら、力を入れて押 し返した。震 える吐 息 を声にする。
「シークと同じようなことを......言うのね。最 接 近 領 の領主。あなた、なにか知ってることがあるんじゃないの⁉ 」
相手は片 腕 だというのに、こちらは両手でなんとかぎりぎり押し返せるだけ。その事実に歯がみする。
「レティシャ・マクレディ......答えなさい! あなた、なにが目的なの!」
「あなたには関係のないことよ」
ふっと──唐 突 に、レティシャが力を抜 いたせいで、つんのめる。こちらが転んだことなど気にもとめずに、彼女はあとを続けてきた。
「ここに来たのは私用よ」
「そんなことが通用するとでも思ってるの?」
咳 き込むことはなんとか堪 えて、イールギットは毒づいた。
レティシャは、軽く首を左右に振ってみせただけだった。髪 が揺 れるほどの仕 草 ですらない。
「無理でしょうね。でもどうせ、言ったって信じてもらえない」
「今さら」
「本当に、今さらよ。今までなにもしてこなかったのが。でも──」
そこまで囁 いて、レティシャが言葉を切った。悲しく笑い、そして同じことを繰 り返す。
「あなたには......関係のないことよ」
終わりだった。聞けない。聞いても無 駄 だろう。
負けを認 める不 快 感 ──あるいはもっと別種の虚 しさに、ため息をつく。イールギットは胸元を正すと、背筋を伸 ばして彼女を見返した。
「どのみち、わたしだって任 務 があるのよ。別に、あなたたちに守ってくれなんて言わないわ」
「そうね......そうでしょうね」
レティシャはそううなずくと、拳 銃 の入った靴 箱 を抱 え上げた。ここまで着てきた服と、鞄はここに捨てていくらしい。ナイフや鎖 を装 備 された全身の戦闘服。レティシャ・マクレディの、表情に影を落としたうめき声。聞こえてきたのは、小さなつぶやきだった。
「ひとつ聞いていいかしら」
「なに?」
あまりにも気 配 が変わったことに、押さえきれない動 揺 を覚えながら、聞き返す──レティシャの表情からは、こちらを恫 喝 してきた力がすっかり抜け落ちているように見えた。彼女の視 線 が......地面を見つめている。
聞き取りづらい声で、彼女は聞いてきた。
「シーク・マリスクと、ええと......」
「カコルキスト・イストハン」
「そのふたりを相手にして、わたしは勝てる?」
「え?」
思わず、間の抜 けた声をあげる。二、三度まばたきしても、相手の姿は変わらない。
レティシャがそのまま、続ける。
「二人一組で行動する専門の暗殺技能者を相手にして、わたしは勝てるかしら」
見る限り、彼女は本気で言っているらしい。
慌 てて、手を振 り上げ──イールギットは口 早 に叫 んだ。
「あのふたりと戦うことになんかならないわよ。そうでしょ? まさかあいつらと殺し合うことなんて──」
言ってから。
空 虚 な響 きに、胃が音を立てたように思える。
そこまでだった。なにも言えなくなる。レティシャが顔を上げなかったから、ではない──もっともらしいことを言おうとして、自分の声が裏返っていることに気づいたからでもない。気づいたからだった。
勝てるわけがない。
だが。でも。
レティシャ・マクレディは戦うつもりでいる。
魔術士は理想を体現できる。暴 力 と暗 闘 の歴史は終わったのだと言葉は告げる。
虚 しい言葉は、風に消える。
あとは、これといった会話もなかった。数秒ほど気まずい沈 黙 と、どちらともなくうなずいただけのやり取りと。
それは納 得 の合図ではなく、先送りのごまかしに過ぎないとは分かっていた。なんの役にも立たない。その時 刻 はどうしたところで近づいてくるのだから。
イールギットは緩 慢 な時の流れに沈 み込んで、その視線さえ翻 弄 され流されるような感覚に、痛 覚 も鈍 くなっていくのを感じていた。似 つかわしくもない重 武 装 をした親友の後ろ姿を見ながら、それについていく。こんなことは非 常 識 だと、訴 える理性も虚しい。ここは荒 野 だ──文明からも理性からも見 放 されたこの土地でなら、誰 が殺 戮 の道具で盛 大 に遊んだところで不 思 議 はない。
しばらく歩いて、レティシャが足を止める。それにつられて、自分も立ち止まった。顔を上げる。
そこには、戦 闘 装 備 に身を固めたキリランシェロがいた。
レティシャのものと同じ──サイズは違うが──戦闘服に身を包んだ、目つきの鋭 い暗殺技能者。彼のその格 好 を、見たことがなかったわけではない。あの頃 、彼はまだ少年だった。実験で姉が死亡するという事件で《塔 》を出 奔 し、行 方 不 明 になっていたサクセサー・オブ・レザー・エッジ。チャイルドマン・パウダーフィールド教師から、殺人と戦闘の技術を受け継 いだ生徒。彼はレティシャほどの重武装をしていたわけではなかった。もっとも、《塔》の戦闘服は各種の暗 器 を内蔵しているが。はっきりと外から知れる装備としては、鋼 鉄 製 の鞘 に収められた短 剣 だけだった。
彼もまた、無言だった。こちらに視線を合わそうともしない。照 れているのかもしれない。事 態 が事態でもなければ、そう思うところだった。
レティシャが、抱 えていた靴 箱 を彼に手 渡 した。怪 訝 そうな顔で、キリランシェロがそれを開ける──はっきりと表情を引きつらせて、彼が顔を上げた。
「......これは?」
「使わずに済 むのなら、それに越 したことはないけど」
レティシャの返事は、それだけだった。苦 笑 いを続けて、キリランシェロがうめく──
「道 理 で、こんなもんが入ってたわけだ」
そう言って彼が掲 げてみせたのは、革 製 のホルスターだった。慎 重 な手つきで靴箱から拳 銃 を取り出すと、弾 倉 を確認してからホルスターにねじ込む。それをそのまま、腰 と股 に固定する彼を見下ろしながら、レティシャが続けた。
「何年も《塔》の倉庫にほったらかしになったまま、まるっきり整備もされてない代 物 よ。今は手入れしてる時間なんかないけど、使うならそのつもりでね」
「弾 がどこから飛び出すか分かりゃしねぇな」
「予備の弾までは用意できなかったわ。でも......と戦うことになるのなら、必要になるでしょ」
(............?)
なにと戦うことになるというのか──そこだけ、聞き取れなかった。キリランシェロには聞こえたのだろう。特に聞き返しもしなかったようだった。
姉 弟 の会話に立ち入れないことに苛 立 ちながら、イールギットは頭 をめぐらせた。気 配 がした。体重の軽い足音の気配。姿を見せたのは、確 かなんとかいう名前の少女──確か、ロッテーシャだったか?──だった。奇 妙 な装 飾 の剣 を抱 きかかえるようにして、どこへ向いているとも分かりにくいぼやけた瞳 で立っている。
全員そろった。
我 知らず、嘆 息 する。肺から抜 けていく空気の冷たさに、イールギットはぞっと身 震 いしていた。時間が近づいてくる。そうはっきりと感じられる。具 体 的 になにが起こるかは分からないが。それがいつなのかも分からないが。破 滅 的ななにかが迫 ってきているのは分かる。一分前より、一分近づいてきている。十秒前より、十秒近づいてきている。未来になにかが待ち受けている
こんなことは馬 鹿 げている......非 理 論 的だ......法を無 視 している......抗 議 の言葉はいくらでも胸に響 いた。冷えた心には、その反 響 が無 価 値 に通り過ぎていくだけだとしても。
つぶやいたのは、キリランシェロだった──それは不思議なことだと、なぜか思えた。どうして彼が号令するのか。彼は、そして彼の姉も、こんなこととはまったく無 縁 の人間だったはずだ。自分も。
それでも、それは彼の声だった。
「行こう」
誰もなにも言わず、そして自然と、視線を一方へと向ける。
一歩も歩いてなどいないというのに。最 接 近 領 が近づいてくる。それを感じた。
「まさかとは思うが、奴 ら、俺 たちのこと忘れてやしないよな」
「うーん」
小一時間も岩の上に仁 王 立 ちしたまま、砂の風に吹 かれて埃 を積 もらせた兄に、ドーチンはどうとでも取れる返事を返した──つまりは、忘れてるに違 いないと確 信 して。というより、そもそも記 憶 の中にもないのではないかと思える。こちらも同じようにきっぱり忘れてしまえば、それで良いと思うのだが。
それを否 定 する材料はなにもない。そもそも、自分たちはどうしてこんなところにいるのだ?
(......それは誰 にも答えられないような気がするけど)
運命。偶 然 。腐 れ縁 。どれも違うように思う。そんな大 層 なことでもなければ、そんなにくだらないことでもない。疑 いなく、今までに何度も、これをやめる チャンスは幾 度 となくあった──きれいさっぱりあの借 金 取 りとは縁 を切り、少なくともここのような荒 れ果てた馬 鹿 広 い空き地に置いてきぼりにされる前に、もっと平 穏 な選 択 肢 を選ぶ道があったはずだ。
それでもその選択の機 に、自分たちは──主に兄がだが──常 に確実に悪いほうへ悪いほうへと進んできたような気がしてならない。今にしてだからこそ考えられることなのかもしれないが。
と──
「万に一つの可 能 性 として、このマスマテュリアの闘 犬 、ボルカノ・ボルカン様の存 在 をうっかりど忘れすることがあり得るとして、だ」
兄が、うめくのが聞こえてくる。
「どうしたらいいだろか」
「そうだね」
ドーチンは、絶 望 的 につぶやいた。
「そもそも、ここからどうやって帰ればいいのかな、ぼくら」
荒 野 の地平から地平へと、風が吹き抜 けていく。
◆◇◆◇◆
拳 銃 という武器は、昔 からあった──その発 祥 は、貴 族 内 革 命 時代にまでさかのぼる。人間種族が天 人 種 族 の主 導 を脱 し、自分たちで開発した武器として、その殺 傷 能 力 には注目が集まった。魔 術 士 たちも当然、着目した。そして軽い落 胆 とともに出た結論が、実用性に乏 しいということだった。
仕組みは単純だった。弾 薬 は、標 的 に撃 ち込んでダメージを与 えるための金 属 製 の弾 頭 と、その射 出 のパワー源 となる火薬、そして両者を詰 め込んだ薬 莢 で構 築 されている。これを拳銃本体に装 塡 し、トリガーと連動したハンマーによって弾薬に衝 撃 を与えて、火薬の爆 発 力 によって弾頭を飛ばす。その弾頭の貫 通 力 と、標的に与える衝撃力は、携 行 できる武器としては群 を抜 いたものだった。それまで大陸に流通していた防具のほとんどを貫通でき、そして人体に致 命 的 なダメージを与えることができる。画 期 的な武器として、貴族連 盟 は王 立 治 安 構 想 における常 備 軍 の装備に、まさに相応 しいものと採 用 した。そして危険な武器として、騎 士 団 以外の帯 銃 を禁じた。
魔術士が落 胆 したのは、その武器の最大の利点──つまり拳銃の破壊力が、魔術の威 力 にまったく及 ばなかったことだった。さらには、火薬を使用する武器には、暴発という宿命的な欠 陥 がつきまとう。携行できる武器としてそのサイズが自 ずと限 定 される拳銃は、その後改 良 が加えられてなお、不 発 率 、暴発率が極 めて高かった。当時の魔術にも同様に、制 御 の難 という欠点が指 摘 されてはいたが、それは魔術士同 盟 結 盟 後 、魔術構 成 理 論 が整 備 されるにつれ、人間種族には不 可 能 とされていた完 全 制 御 がそれほど難 度 の高いものでないことが実 証 された。それに付 随 して魔術の威力もさらに格 段 の進歩を遂 げ、魔術士たちはその新兵器についての興 味 をほぼ失った。
......かに見えた。
それらの落胆を貴族連盟へのフェイクとして、魔術士たちが拳銃という兵器を〝自分たちにとっても〟実用的なものへとするため水面下で研究を重ねたのは、単に興 味 本位の理由からではなかった。拳銃という武器を貴族連盟に独 占 させまいとする政治的な意 図 、拳銃が明らかに対 魔術士用として開発されているのではないかという懸 念 、そして、大陸にもたらされた王立治安構想という名の平和なるものが、決して盤 石 のものではないというもっともらしい分 析 によるものだった。
この動きを、貴族連盟が気づかなかったということはあるまい。彼らが黙 認 したことにもまた理由があっただろう。結局のところ騎士軍を以 てしても、大陸魔術士同盟すべてを敵 に回して無 傷 の勝利を得ることはできない。ましてや魔術士狩 りの時代以後、貴族連盟は魔術士同盟と提 携 することの旨 みに慣 れきっていた。ただでさえ資 金 と手間のかかる兵器開発を魔術士同盟が代 行 してくれるのならば、それで貴族たちにどれほどの害があるというのか? 技術は裏の取引でいくらでもフィードバックできる。貴族連盟にとって、魔術士同盟は取引のしやすい相手だったはずだ。互 いに互いの組織に対して負い目があり、貸 しがあるという関係。共通の敵も持っている──各地に潜 伏 するドラゴン信 仰 者 ら、そして密 かに、キムラック教会も数十年前までは、無 視 できない戦力を保 有 し、貴族連盟をも威 圧 していた。
こうして拳 銃 は改 良 を重ねてきた。安定性を増 すために、パーツとギミックを単 純 化 して、整備を簡 略 にした。威 力 を増すために、弾 頭 には比 重 の重い金 属 が使用されるようになった。装 塡 される弾数を増すために、輪 胴 式 の弾倉が開発された。それらの技術は公然の秘密として、貴族連盟へと供 与 された。
だが。
真の機 密 として、秘 匿 されている技術もあった。それらは仮 に流 布 すれば、高度に洗練された魔術でさえ対 抗 できないほどの殺 傷 力 を持つのではないかと、開発者たちをも恐 れさせた。それらは具体的な情報こそ厳 密 に秘されていたものの、噂 話 としては生徒間にまで広まっていた。特に、その技術が実用のものとなれば、古典的な暗殺技能者などまったく不要になるのではないかと囁 く者は多かった。その技術を発案したのは、チャイルドマン・パウダーフィールドという若い教師......
「キリランシェロ?」
呼びかけられ、物思いを中断し、オーフェンはあわてて振 り向いた──肩 越 しに、背後へと首を回して、それほど後方でもなかったとまた急いでもどす。声をかけてきていたのは、並 んで歩いているレティシャだった。声の調子からすれば、それが一度目の呼びかけでないことは明白だった。
咳 払 いして、うめく──
「あ、ああ。なんだよ?」
「急ぎ過 ぎよ」
彼女はそれだけ言ってきた。よく分からずに立ち止まってから、ようやく意味を悟 る。少し間を空 けてイールギットが、さらにロッテーシャが数メートルか、遅 れていた。
それを待ちながら小声で、告げる。歩きながらしていた考え事の内容のせいか、腿 のホルスターの重みがどうしても気になった。
「俺 は、ティッシのペースにあわせていたんだぜ?」
「わたしは、あなたにあわせていたのよ」
呆 れたように、彼女が言ってくる。重い連 射 式 ボウガンを肩 に抱 えて、うんざりと、
「実を言えば、もっと急ぎたいんだけどね......」
「わたしのことは気にしないでください。ついていきますから」
と、ちょうど追いついてきたロッテーシャが気 丈 に訴 える。だが声からも、彼女が過 剰 に気を張 っているのはすぐ知れた──既 に息が上がって、額 ににじんだ汗 に、砂がこびりついているのが見える。
と、その隣 から、それよりは多少ましな顔色で、イールギットが声をあげた。
「みんな地平線の向こうまで駆 けっこがしたいのなら、止めはしないけど」
あごの下の汗 を手で拭 って、付け加える。
「......目的地に着くまでにのたれ死ぬかもしれないっていうのは思い浮 かばない?」
「もちろん考 慮 のうちよ。でも先行する暗殺者ふたりに追いつきたいのなら、もっと急がないとね」
険 悪 に、レティシャが応じる。
ふたりがにらみ合うより先に、ロッテーシャが顔をしかめた──
「あの、わたし、話がよく分からないんですけど......」
「............」
肩すかしに沈 黙 する全員を、順番に見回して。
オーフェンは、両手を広げた。
「オーケイ。分かった。無 理 しても意味がない。休息がてら、事 情 を整理しよう。ティッシ、いいか?」
「......分かったわ」
もとより、彼女も限 界 だったには違 いない──彼女が特別に健 脚 であるはずはないのだから。苦 い顔をしながらもその場に腰 を下ろすと、彼女は深々と吐 息 してみせた。砂のせいで絡 まった髪 を気にしたのか、指先でつまんでは嘆 息 の数を増 やしている。
その隣に座 り込んで、オーフェンはほかのふたりを待った。近くの岩にもたれるイールギットと、すぐ前に膝 を曲げて座ったロッテーシャと。ふたりの位置の違いは、話を聞きたいか、そうでないかの差なのだろう。それを意 識 してというわけではないが、オーフェンはロッテーシャに口火を切った。
「君が別 行 動 を取ってる間に、色々なことがあったんだ。正直、俺も現 状 を正確に把 握 してるとは言い難 い。ただ、かなり切 羽 詰 まっているんじゃないかとは思う」
「......オーフェンさんのその格 好 、なんなんですか?」
「あー。ええとだな。これもどこから説明すればいいんだか分からんが」
「暑 苦 し大 賞 ?」
「いや、そーいったものではない」
口ごもる。と、ロッテーシャは瞳 に逡 巡 を見せてから、おずおずと言ってきた。
「あの。わたし、エドに関係のあることから教えて欲しいんですけど」
「コルゴンは、俺の兄 弟 子 にあたる黒魔術士だ。前にも言ったと思うが、《牙 の塔 》で、同じ教師に学んだ。こっちの、ティッシにとっては弟弟子になる」
「......エド?」
今度はレティシャが、聞いてくる。
頭を抱 えて、オーフェンはかぶりを振 った。
「信じてくれとは言いたくないが──俺だって未だに実感ねぇし。彼女、ロッテーシャは、コルゴンと結 婚 していたんだそうだ」
「はぁ?」
よほど意外だったのか、素 っ頓 狂 な声をあげる姉に──
言ってから気づいて、オーフェンは聞き返した。
「って、さっきは俺の知ってることなら全部知ってるとかいうようなこと言ってなかったか? ティッシ」
「全部だなんて言ってないわよ。わたしが知ろうともしないことまで教えてくれるわけではないもの......ネットワークは」
イールギットを意識してだろう。小声で答えてくる。
と、改めて彼女はロッテーシャへと視 線 を転じた。じっと見定めるように凝 視 して、ぽつりと聞き返す。
「......結婚?」
「はい」
ロッテーシャが、うなずいた。そして、順番というわけでもないだろうが、今度はイールギットが首を突 っ込んできた。最初は無 関 心 を貫 くつもりだったのだろうが、どうにも我 慢 できなかったのだろう。
「結婚ん? ねぇ、コルゴンって、あのコルゴンの話をしてるのよね?」
「ああ」
うなずいてやると、イールギットが天を仰 いだ。祈 るように、目を閉 じる。なにかに打ちのめされたのか、それまでもたれかかっていた岩 肌 に、さらに深々と身を沈 め、
「うっそ。彼? よりによって彼? なにかこう、知りたくない事実を知ってしまったって感じ」
「ホントに」
うめくレティシャは、イールギットよりはショックを表 へ出さずに済 んでいるようだった。もっとも、大差はないが。笑いたいのに笑えない──そんな表情で、顔の半分だけは緩 んでいるのに残り半分は引きつっている。あるいは、泣きたいのに泣けないのか。もっと別のものも混ざっているのか。
なんにしろ、きょとんとしているロッテーシャだけを取り残して、魔 術 士 の内 輪 だけで得 も言われぬ緩 慢 な痛みを共有してから、オーフェンは声をあげた。
「まあつまり、そーゆう奴 だったんだ、俺たちにとってあいつは」
「......よく分かるような分からないような感じですけど」
「聞かないでくれ。うまく説明できない。あいつのことは、俺たちにだってよく分からないし、誰もあえて分かろうとしなかった」
一通り言ってから、聞いてみる。彼女を見返して、
「考えてみたら、君のほうがあいつのことをよく知ってるかもな」
「............」
彼女は答えてこなかった。口の端 を、わすかに嚙 んだのがうかがえる。
あまり、そのあたりにかかわらないほうがいいかもしれないと判断して、オーフェンは話題の向きを変えた。
「俺が知ってるのは、あいつが最 接 近 領 の領主とかいう奴の下で働いてるってことくらいか。ウィノナも、あのダミアンもだ。俺たちが今向かってるのが、その最接近領。クリーオウとマジクを連れ去ったのがダミアンたちだとしたら......正直、きな臭 いのは否 定 できない。だからまあ、こんな大 層 な武 装 までしてるわけなんだが」
「どうしてクリーオウを?」
気にかけたのはその部分だけらしい。聞いてくるロッテーシャに、オーフェンは嘆 息 した。
「さっぱり分からんさ。ウィノナも、突 然 姿をくらましちまったからな。そのほんの少し前までは、俺を 領主のところに連れて行くのが、あいつの役わ──任 務 だったはずなんだが」
言葉が喉 に引っかかるのを感じて、言い直す。
「ダミアンが、ちらりと漏 らしていた。なにか予定が変わったらしい。俺が思うに......」
オーフェンは、イールギットのほうを見やった。告げる。
「《十三使 徒 》の暗殺技能者が領 内 に入り込んでくることが、奴らにとってはイレギュラーだったんじゃないか? それでなにかが狂 ったとか」
「こう言ってはなんだけれど──」
イールギットは険 しい表情にさらに力みを増して、だが声にはどうしても力を入れられずにうめいてきた。
「件 の領 主 というのは、王 都 でも極 めて深 刻 に危 険 視 されているの。少なくとも、宮 廷 魔 術 士 の間ではね。その名を口にするのも問題になるくらいよ。プルートー師 すら迂 闊 に手を出せないほどの戦力を持っていながら、王 立 治 安 構 想 にも組み込まれていない貴 族 。これがへたに公 になれば、貴族連 盟 の致 命 的 な失 策 になるわ。それほどの存在なのに、得 体 が知れない。わけが分からない存在よ。口 惜 しいけど、逆に相手がわたしたちをそれほど気にしてるとも思えないんだけど」
「それは俺も感じてた。どう考えても、なんていうか......リアリティーがないんだ。領主とかいう奴 の話を聞けば聞くほど、そんな奴が実在しているって確 信 が揺 らぐというか」
投げやりに手を振 って、続ける。
「まあ、ドラゴン種族と抗 争 してるってくらいだ。まるっきりの冗 談 ってわけじゃないんだろうが」
「エドは、そんな人の下で働いているんですか? その人の命令かなにかで?」
「......それほど、コルゴンのことを知ってるってわけでもないみたいね」
割って入ってきたのは、レティシャだった──自分では、さほど強く言ったつもりでもなかったらしい。会話が途 絶 えて、視 線 が自分に集まったことを、なにか意外だったように眉 を上げている。
その視線に促 されてか、彼女はやや早 口 で付け加えてきた。確 信 があったわけではないのだろう。口ごもるように聞き取りづらい。
「彼は、誰 の下にもつかないわよ。そうでしょ?」
「......領主の頼 みでどうのこうのとは言っていたが、命令とは言っていなかった......と思う」
思い出しながら、オーフェンはつぶやいた。アーバンラマで、ほんの数分話したに過ぎない。コルゴンはこちらの質問になにひとつ満足な答えを返さなかったし、どうと判 断 できるほどの情報を提 供 してきたわけでもない。
「まあ、考えたところでなにが分かるってわけでもないんだ。一応分かってるのは、領主とかいう人物がいて、ドラゴン種族と抗争してる。そのエージェントであるウィノナが俺のことをそいつのところへ連れて行こうとしている途 中 で、いきなり姿を消しちまった。クリーオウとマジクを連れてな。《十三使 徒 》は領主を危険視していて、とうとう暗殺者まで差し向けた。ダミアンはそれを駆 逐 しようと、さっきの馬 鹿 げたゴースト現象を起こしたが、役立たずだった。今、俺たちは最 接 近 領 に向かってる」
指折り数えてあげていく。そして、最後に。
「もし最接近領というのと敵 対 するのであれば、俺たちはコルゴンやダミアンといった連中と戦うことになる。敵対せず協力するのであれば、《十三使徒》の暗殺技能者と対立する。どちらでもない場合、多分......その両方が敵に回る」
「......エドは......でも、その、わたしのことでなんだか」
なにか言いたかったらしい。ロッテーシャが身を乗り出してつぶやきかけた。
が、それも一 瞬 のことだった。言葉を吐 息 に化 けさせると、すぐに口をつぐむ。彼女は前に進み出てきた分、律 儀 に後 退 して、焦 点 のぼやけたいつもの表情の奥 へと引き込んでいった。
「彼に会いたいんです」
「俺だってそうだ。今度こそあいつの首根っこ摑 まえて全部説明させる」
「できるの? そんなこと」
聞いてくるレティシャに、オーフェンはうなずいた。
「あいつ、ティッシのこと苦 手 にしてただろ」
「わたしがやるの⁉ 」
レティシャの、悲 鳴 じみた抗 議 にはあえて答えず──
オーフェンは顔をあげて、その館 を見上げた。
「とりあえずそのあたりのことは、そこの屋 敷 に入ってみれば分かるはずだ」
「そうね」
同意しながら、イールギットも顔をしかめる。
「......ん?」
ふと、奇 妙 な違 和 感 を覚えて、オーフェンはつぶやいた。
「なにか今、不自然なことが起こらなかったか?」
「不自然って、なにが」
「いや、なにがどうってわけじゃないんだけど」
口の中でぼやきながら、改めてその建物を見やる。
四階はある、古びた館。窓の奥 は暗く、外からのぞいても、知れることはたかが知れていた。土台には地面から伸 びた蔦 が這 い上がりかけていたが、壁 までは達していない。荒 野 にひとつ、脈 絡 もなく建 てられた屋敷。
みんな死んでしまった。自分ひとりしかいない。だが、それでも、行くしかない。その館にいる男を殺す。そのために。
「............?」
またも、心の中に疑 念 が浮 かぶ。
見回した。ほんの少し前まで、姉と話していたような気もする。イールギットや、ロッテーシャとも。そんなはずはない──そんなはずは。
足を引きずって、進む。
真夜中、荒野の風に月も霞 んでいる。暗がりの深 淵 に沈 むように、黒々とそびえる領主の館へと足を踏 み入れて、オーフェンは血の臭 いが混 じった空気を吸 った。
◆◇◆◇◆
対 峙 した瞬 間 、その男の吐 息 を感じたように思えて、指が震 えた。
そんなはずはない──距 離 的 な問題ではなく。自分がそんなものを感じるはずがない。ロッテーシャは歯を食いしばると、自分の動 揺 を否 定 した。思い浮 かんだものがすべて、他 人 に筒 抜 けになっているのではないかと、お定まりの不安が胸をよぎる。そんなことがあるはずはないと分かっていながら、妄 想 を振 り払 うには確 証 が足りない。
門下生たちが見ている。生まれ育った道場は、今日に限ってあまりにせまく感じられた。剣 において敵 を凌 駕 するということは、相手よりも広い領 域 を支配するということにほかならない。踏 み込める距 離 、手先の素 早 さ、判 断 の速さ。それらを総 動 員 して、支 配 領域を広げる。支配していない空間に剣先をとどかせることはできない。自分が支配している領域よりも、敵の支配のほうが広大であれば、その位置からの攻 撃 には対応できない。それを死 角 という。
技量でいえば互 角 。体力、身体能力では及 ぶべくもない。
だが、何年もこの瞬間を夢 見 てきた。いや、夢にうなされてきた。寝 ても覚 めても、この男に勝つ手 段 を考えてきた。その蓄 積 がある。彼には、それはあるまい?
剣の重みは感じない。それは手足と同 質 のものだった。正確には、彼女の全身が、剣を取って初めて真のバランスが保てるように訓 練 されていた。
ナッシュウォータは快 晴 だった。だが道場の中にいれば関係ない。突 如 として道場に殴 り込んできたその男をにらみ据 えて、ロッテーシャは動揺を忘れようとした。努力は要したが、不 可 能 なことではなかった。
だが、声を出すとそれは割れた。
「わたしにだって自 尊 心 はあるけれど」
歯と歯の先 端 が、唇 の皮に食い込んだ。尖 った犬 歯 が皮 膚 を食い破ることを止められず、言葉もまた止まらない。
「父が死んで、もうなにも分からなくて──どうしようもなくて。そんなだったから、支えて欲しかった! 支えて、支え合って、ごまかすのでも、やり過ごすのでもいい......嘘 だって構わない。悲しみを忘れられるだけの方 便 が欲しかった......」
「そうやって依 存 して、己 自 身 の主にさえなれない。だからお前は馬 鹿 だというのさ」
「お前は自分のことを分かっていない」
声がかぶった。
重なり合う声が、耳の中に反 響 し、膨 れあがっていく。
「意味がない。剣 を下ろせ。俺 はそこにいない」
「そういうことだ。その剣は、発動しているんだ」
「人は誰 でも、死の予定が決まっているのだそうだ......だがそれは、どのようなものだろうな。たとえば、俺と出会うことでお前が死ぬなら、それは予定された死なのかもしれない」
「忠告は一度だけだ......次は、また殺す」
また。
また殺す。
何度でも。会うたびに、何度でも。
予定上の死が履 行 される。どこまでも死んでいく。何度でも対 峙 して、何度でも死んでいく。自分はこの男に会うことをやめることはできない。この男を追うことをやめることはできない。
そして、これからも死んでいく。
剣が揺 れた。握 りしめた木 剣 が音を立てることなく、躍 る。
無音でそれを制 圧 するのは、金 属 色 の刃 。
刀身は絡 むことなくすれ違 った。彼女の木剣は、底なしの沼 に沈 み込むように、どこまでも突 き進んだ。前のめりに、なにに触 れることもなく。
身体 だけが後ろに跳 ばされた。冷たい衝 撃 。痛み。どうしようもない痛み。肌 の傷 みではない。皮下へ、肉の下へ、さらに奥 へと侵 入 してくる、最悪の痛み。
どうなったのかは分からなかった。ただ、力は入らなかった。誰かの悲鳴を聞いたようにも思う。
床 へと落下する途 中 、なにかに抱 きしめられた。それが死神だと悟 って、ロッテーシャは眠 りについた。
◆◇◆◇◆
「マリア・フウォン教師はわたしに言ったよ。君が生きてもどらなければ、わたしを殺すとね」
それは風の音だった。
(......殺す!)
イールギット・スィートハートは絶 叫 とともに進み出た。
(殺す......殺す......殺す......)
遠い空の彼方 から、連 続 して聞こえてくる風の音。ひとつが吹 けば、もうひとつがさらに高く響 く。夜に星が増 えるように、ひとつまたひとつと数と強さを増 していく。地上にいる哀 れな自分にのし掛 かり、吹き付けてくる。
暗 殺 戦 闘 訓 練 を受けた魔 術 士 を相手に、自分が勝てるはずはない──レティシャ・マクレディや、あの可哀 想 なアザリーと喧 嘩 するのとはわけが違 う。敵 の首を折ったつもりになっても、その時に自分が死んでいる。それが暗殺戦闘だった。敵より一 瞬 でも速く敵に触 れ、その瞬間に絶 息 させる。必要となるのは、技術、威 力 、精 密 性 、戦術、知識、覚 悟 、偶 然 ......
いくらでもある。その中にひとつ、彼女は付け加えた。どの教本にも載 っていないであろう必要性──風だ。この風の音を聞くこと。
吹き荒 れる風など存 在 していない。それは分かっていた。その音を聞く。その音しか聞こえない。意識を閉 じて、身体だけは黙 々 と動き続ける。前進を促 すには血液が足りず、感覚が鈍 化 していくことに身もだえしながら、彼女は叫 び続けた。風とともに。存在しない叫びを。
折れた剣を握 りしめる。敵から奪 った軍刀。重く、扱 いづらい武器。魔術士にとっては幼 稚 と言わざるを得ない原始的な武器──武 装 しておけと自分に忠告した声を思い出す。それを誰が言ったのかは記 憶 になかったが。なぜそんなものが必要なのか。魔術士には魔術がある。あらゆる武器に勝 る武器がある。それがあればすべてが足りる。それを持っている。
なぜそれに劣 る武器を持たねばならないのか。秘密は解 明 された。これは死への挑 戦 なのだ。死が目前にあり、魔術を失い、それでもなお敵を倒 さなければならない瞬間に必要とされる。死が決しても敵を殺すための。
死にゆく自分。
──それは魔術士の理想とは相 反 するものだ!
風が吹く。空気の重みを叩 きつけてくる風の渦 。存在しない風。存在しない叫び声。
「わたしっ......はッ!」
喉 から出るはずのない声は、当たり前だが、外気に触 れる前にただの咳 へと変じた。血だまりが口からこぼれ落ちる。とめどなくあふれ出す。
既 に存在していない自分。
死んだのだから、それは当たり前だった。
◆◇◆◇◆
「......未 来 視 の罠 、ね。古典的な白 魔 術 」
映像を無 視 して、レティシャはつぶやいた。
映像──だけではない。五感すべてを圧 倒 する体感だった。自分自身もまた、その体感を演 じさせられる。虚 構 と分かっていても、それを無視するには最大の自制を必要とした。本来ならば、人間には不可能だろう。それに逆らうのは。
魔術によって作り出された自分の体感を、じっと他 人 事 のように眺 め──そして、
「君に通じないのがどういうわけか。不 可 解 だ」
返事がくることもまた予想のうちではあった。たいしたことではない。この敵 と戦えるのは自分だけだ。そのことは分かっていた。
自分だけだからこそ、この敵の注意を自分に引きつけておく必要がある。
平静を保っていることを慎 重 に確認して、彼女は聞き返した。
「そう?」
「だが、まったく通じていないというわけでもなさそうだ。君は今、自分の未来を見ているな? ただ、それでも君の理性を現在の時制へと引きもどしている別の力がある。力の存在を感じる。わたしにも匹 敵 するユーザーだ。何者なのだ? わたしにも姿を見せないとは」
「あなたは勘 違 いしているようだけど、大陸最強の魔術士はあなたじゃない」
告 げる。
思っていたよりは、相手の声もまた冷静だった。
「わたしに見 栄 はない。肉的な欲求や虚 栄 とは、とうに隔 絶 された。その肩 書 きは事実としてあるだけで、それ故 に事実なのだよ」
「なら、新しい事実を教えてあげる。最強の術 者 の座 をかけて、わたしと戦いなさい。これは見栄じゃないわ。度 胸 よ」
「レティシャ・マクレディ。その、すべてを分かっているかのような振 る舞 いは、小 者 のあがきを見るようで悲しくなる」
「それはあなたの領主にでも諌 言 するといいわ」
「本来、君の力ではわたしの魔術には抗 えないはずだ。わたしは君を自由に支配できる」
乗ってきた──
確 信 して、レティシャは笑 みを浮 かべた。安っぽい挑 発 でいい。この男は、そんなものでも見過ごせないだろう。
「でも、それができないから、あなたは動 揺 してる。あなたの言い回しを借りれば、それは事実としてあって、それ故に事実なのよね?」
「君は罠 にかからなかったが、かえってそのために孤 立 したことを分かっているか? 君はひとりで全員を助けなければならない。そのためにどういった運命が待ち受けているのか......恐 らくはその未来を今、見ているはずだ」
脅 しに応じてやる必要はない。レティシャはかぶりを振 った。
「あなたが作った幻 覚 に過 ぎないわ」
「違 う。時を制することは、わたしにとってはそれほど難 しいことではない。時を止めることも、遡 ることも、君が思っているほどに困 難 なことではない。君が空間を制するのに使うのと同じ労力で、わたしは時間を制する」
「これが本当にわたしの未来だとしても、たいしたことじゃない」
「そうかね? 果たして、本当に、そうかね? 予 言 しよう。わたしの予定では、六人が死ぬ。これからの戦いに不要な者は一 掃 される。君もそのひとりだ」
「わたしに暗 示 をかけようとしても無 駄 よ」
「フォルテ・パッキンガムは倒 れたよ。まあ、死んだわけではない......わたしの技 では、生物を殺すことは困 難 なのでね。だが意識を閉 ざされて、植物状 態 だ。君にネットワークの力を与 えたのは彼なのだろうが、もう彼の助力は期待しないことだ」
「彼に期待することなんてなにもないわ。昔も今も、これからもね」
「未来を使って君を制することができないのであれば、現在時制に実在する暴 力 を以 て殺すよりほかにないな......」
声はそこで途 切 れた。会話が終わったことを理 解 したのは、映像が終わったからだった──なにも変わっていない。動いていない。腰 を下ろして話をしていた、荒 野 の一点にそのまま、彼女はいた。
ただ、自分ひとりだけだった。誰 もいない。キリランシェロもイールギットも。あの少女も。
初めて、心臓の動きを意識した。背筋に冷たいものが走る。が、
(駄 目 ......違う。わたしがやるべきことは決まってる)
まぶたを閉じて、自分に言い聞かせる。
勝たなければならない。死ぬことも許されない。
死......
六人が死ぬ。
レティシャは胸 中 で、確認するようにつぶやいた。自分がその予定のひとりに含 まれているのであれば、自分以外に、あと五人。
(最 接 近 領 の領主のために働く白 魔 術 士 ......にとって、邪 魔 者 となるのは、わたしと《十三使 徒 》の三人......)
あとのふたりは誰だ? ダミアン・ルーウの予定表に名を連 ねているのは?
「君に頼 みたいことがある」
その言葉が唐 突 であることに、今さら驚 きも感じない。オーフェンは振 り向いて、つい今まで絶 対 にそこに居 なかったはずの男の姿 を視 界 に入れた。
男、少なくとも男の姿をしていた。実体のない存在に、今さら遺 伝 子 的 な差 違 など見いだしたところでどうにもならないだろうが。肉体を、物理の枷 を脱 して精神体となった白魔術士──精 神 士 。
立ち止まり、そしてあたりを見回す。白魔術士ダミアン・ルーウを見 据 えて、オーフェンはつぶやいた。
「......どうして俺 ひとりなんだ?」
記 憶 の混 乱 があった。どこまでが確 かか知れないが、ひどく現 実 的 な夢 から覚 めたような焦 りを感じる。ふと口をつぐみ、ダミアンがなにかを言ってくるより先に、彼はうめいた。
「俺は、どこに向かっていた?」
「君の未 来 視 は封 印 しておいた。当 面 、君の精神に傷 をつけたくはないのでね」
「未来視?」
聞き慣 れない単語を、聞き返す。ダミアンは知らせたくないのか、それともこちらの想 像 に任せようということか、なんにしろ説明はしてこなかった。そのまま続ける。
「君にだけ話がしたかったので、一時的に支配して転 移 させた。君だけ突 然 消えたので、ほかの三人は面 食 らっただろうが」
「なんで俺だけなんだ?」
聞きながら、自分の格 好 を確 かめる──どこまでが現実でどこまでが夢 だったのか、確 認 するほかの方法が思いつかなかった。いや、いま現在も夢の中なのかもしれない。
(白魔術への対 抗 訓 練 もしてる俺を、こんな簡 単 に支配できるもんなのか?)
苦 々 しく、オーフェンは自答した。できるのだろう。この白魔術士にならば。桁 が違 う。
手で触 れて調べる。《塔 》の戦 闘 服 と戦闘装 備 。ホルスターの拳 銃 もある。完全装備と言えた。革 と鋼 と耐 刃 繊 維 の装 甲 。その内側にあるのは、武器の動力となる無力な人間。
つまらないものでも見るようにこちらを眺 めているダミアンを見返して、聞き直す。
「いやそれ以前に、なんのつもりなんだ? 俺を領主のところに連れて行くんじゃなかったのか?」
「その点に関しては弁 解 がある。君が《十三使 徒 》と共 闘 する姿 勢 を見せたことで、わたしも躊 躇 せざるを得なかった」
「同じやっかいごとに巻き込まれたんだ。当 然 だろ」
「それはウィノナの失 態 だ。詫 びよう。君を保 護 しきれなかった。わたしは単に、領主様への暗 殺 者 を食い止める必要があっただけだ......それに、君が巻き込まれていると分かった時点で、ゴースト現象は消 滅 させた」
「さっきは、なにか事 態 が変わったと言っていたな?」
筋が通っていないわけではない──が、だからといって飲み下せないものもある。打ち消しようもない疑 わしさを感じながら、オーフェンは相手からは分からない程 度 に身 構 えた。
ダミアンが、構わず答えてくる。
「変わった。敵は思った以上に手 強 い。そして当方は、切 り札 であるユイスを見失ったままだ」
「コルゴンを?」
「言っておいたはずなのだがな。ユイスと連 絡 が取れなくなった。さらにどういう理由かは分からないが、《十三使 徒 》の暗殺者ふたりも、突 如 としてネットワークで補 足 できなくなった」
それは、たいしたことではないように聞こえた。オーフェンは顔をしかめると、
「もともと、ネットワークは万能ではないんだろう? いつどんな不 具 合 が起こったところで不 思 議 のないものだと、フォルテは言ってたぞ」
「偶 然 にしては、すべて我 々 に不 利 に働き過 ぎているように思えるのだが?」
我々、とダミアンは言った──それにこだわるのは無 意 味 だろうと知りつつも、オーフェンは心に引っかかりを覚えていた。まさか、その我々 の中に、俺を含 めてるんじゃないだろうな?
こちらの心を読んでいるはずの白魔術士は、だが素 知 らぬ顔で続けてきた。
「このままでは、暗殺者が領主様の元へと到 達 する可 能 性 がある」
「......どうも忘れてるようだから言っておいてやるが、こちらはクリーオウとマジクをさらわれたまま、説明も聞いてないんだがな?」
「この最 接 近 領 で、一番安全な場所が領主様の館 だ──」
(......館......)
どういうわけか、その一言が頭の中で、不 快 に響 いた。
が、それについては分からないまま、ダミアンの言葉は続く。
「とりあえず、戦 闘 力 のない者はそこに保 護 させてもらった」
「こちらに聞かずにか?」
「どうせ言ったところで反対しただろう」
「当たり前だ。が、事 後 承 諾 で聞き分けが良くなるとでも思ってんじゃねえだろな」
うなる。ダミアンは顔色を変えもしない。
「君なら、ユイスの代わりをしてくれるのではないかと期待しているのだが」
オーフェンは苦笑して、告 げた。
「ふざけてろ。ていのいい人 質 じゃねえか。アーバンラマの取引もそうだが、人にものを頼 むのに、相手の弱みを握 っておかなけりゃ気が済まないのか?」
「そうだ」
今度はごまかしもせずに、断 言 してくる。
嘆 息 するしかない。間を置いて黙 考 するふりをして、オーフェンは白魔術士と自分との距 離 を目算した。殴 って意味がないことは分かっているが。そもそも殴れるだろうか。殴れなくともいい。相手の気分を多少でも害することができるのであれば。が、打 算 が終わる頃 には、気持ちも冷めていた。
と、疑 問 が浮 かんだ。どうでもいいと言えばどうでもいいことではあったが。思わず口にする。
「......どうせ保 護 するなら、どうしてロッテーシャは保護しなかったんだ?」
「うん?」
ダミアンは、気安く首を傾 げてみせた。
「無 論 、その娘 も保護するつもりだったのだが。我々も手 一 杯 でね」
なにかが見えた──
ような気もしたのだが。そのダミアンの表情には。
だがそれが本当になにを意味しているのかまでは分からず、オーフェンは顔をしかめた。ただひとつ言えることはある。
(嘘 をついている......ひとつか、ふたつ。あるいはもっと)
それを確 かめる必要がある。が、この白魔術士自身は手がかりになるまい。
「ということで、引き受けてくれるかな?」
くそくらえだ。
即 答 しかかった言葉を押 しとどめるのに、さほどの理性は必要なかった。もとより、余 計 な犠 牲 を出す前にあの《十三使 途 》を止めるのなら、この最接近領の連中と手を組むのも悪い手ではない。問題は感情だった。
(こいつらを信用できれば......な)
それがないものねだりだとは知りつつも、毒 づく。
「選 択 の余 地 はないだろ」
オーフェンが告 げると、ダミアンは、無 造 作 にある方向を指さした。この荒 野 では、どちらを向いてもそれほどの差があるわけではないが。
白魔術士が、口を開く。
「この方向に三十分ほど歩くと、ウィノナと合流できるはずだ。ここの地理は彼女に頼 れ。もちろん当方のエージェントは彼女だけではない。無 用 な衝 突 を避 けるためにも、彼女と行動をともにしろ。我 々 の部下のほとんどは、君と《十三使徒》の魔術士を見分ける方法を知らない」
「......ティッシやイールギットは?」
「別の部下を合流させる」
それで用件は終わりということか。ダミアンは姿 を消した。
オーフェンはしばし、話し相手が存在していた空間をにらみつけてから、ダミアンの示した方向に向き直った──なにもない。行く手になにもないただの荒 野 。
「さて......」
歩き出して、オーフェンは独 りごちた。
「分 断 されて、言いくるめられてる。相手を信用しないことしか、対 抗 材 料 がない。くそ、まるっきり子 供 扱 いじゃねぇか」
◆◇◆◇◆
数年間、彼らを観 察 した結果として得 られた結 論 は、それほど大げさなものではなかった──彼らが優秀な兵士であるということ。
得 難 い人材ではあった。優秀な事 務 員 、優秀な庭 師 、優秀な看 護 人 などと同様に。だが、たとえば優秀な魔 術 士 といった連中とは意味が異 なる。魔術士の優 劣 を語る場合、それは技能の高低が問題となる。本質においてはまったく無 意 味 なはずの、ただそれだけが議 論 される。兵士は違 う。彼らの優秀さを論 じるのならば、問題になるのは結果だけだ。彼らがどのような能力を持っていようと関係ない。どういった任務を与 えられ、そして遂 行 してきたかどうか。
そういった意味において──ダミアン・ルーウはもう一度記 憶 の中を検 索 し直した──、彼らは優秀な兵士だった。これ以上は望 めない。
四十歳 になるライドは、もうこういった仕事には向かないようにも見える。頭は半分がた禿 げ上がっているが、これは年 齢 のせいだけではない。初めての任務で負った大 火傷 と、かろうじて生命を維 持 した大がかりな皮 膚 移 植 の結果だった。小 太 りで、目に見えて動作は鈍 い。今も飾 り気 のない長 剣 の鞘 紐 を、不 器 用 に結んでいる。手足が短いため、このサイズの鞘を剣 帯 につなげば、抜 剣 できないのは疑 いない。結ぶ必要のない鞘紐を一心にもてあそんでいるこの男が、その剣を最 短 距 離 で敵の急所に突 き立てる術 を誰 よりも承 知 している。
外界に対して無 関 心 なライドとは対 照 的 に、若いトリンキーは視 線 を忙 しなく四方八方に移している。確 か、二十一か二十二だったか。たった一年間の任期で六十名を越 す武 装 盗 賊 を殺害し、法 廷 で極 刑 を言い渡 されたこの派 遣 警 察 官 を登用したのは領 主 の一 存 だった。人を殺すことに飽 きたこの若者にとって、それはまずまず申し分のない契 約 だったといえる。そして、聖 域 との戦いにおいてすら一 瞬 たりと恐 怖 を覚えない兵士というのは、領主としても貴 重 な手 駒 だったろう。利 害 が一 致 して、そして彼はここにいる。
このふたりの非公式騎士 を改めて観察し、ダミアンは先ほどと変わらず納 得 した。彼らは優秀な兵士だ。彼らは任務を期待通りに遂行する。この命令は彼ら以外には与 えられない。彼らにしかできないだろう。
だから彼らを使い捨てる。それ以外の選 択 はない。
「それで」
こちらの胸中を読みとったということか──だとしてもさほど驚 くには値 しないが──、トリンキーが、落ち着かない息 継 ぎをはさみながら声をあげた。
「俺 たちの回 収 は?」
答えは予想していたに違 いない。ダミアンも事 務 的 に、決まり切ったことを告 げた。
「勘 違 いするな。聖域との戦争は、もう始まっている。お前らの命など、いちいち保 護 してられん」
「そりゃそうだ」
笑うトリンキーに、ダミアンは続けた。
「......どうせすぐに、誰が死ぬの誰が生き残るの言っていられなくなる。小 競 り合いが終われば、次は全面戦争」
一 拍 おいて、
「それまでの時間稼 ぎだ」
「そりゃまた、やる気の出るお言葉だね」
やや、鼻にかかった声音。ライドだった。視 線 はこちらに向けないまま、鞘 紐 をいじっている。剣 帯 に結ぼうというのではなく、ただ紐が邪 魔 なため、ちょうちょ結びがしたいだけらしい。アルコール依 存 症 に震 える指では、そんな単 純 作業にも数分かかる。
「不 服 はあるまい?」
ダミアンが告げると、ライドはやはりちょうちょ結びを続けながら──どうしても結び目からすっぽ抜 ける輪 を、見ているのかいないのか分からない眼 差 しで見下ろし、続けて聞いてきた。
「ないですわ。だが、奇 妙 な命令だ。《牙 の塔 》の魔 術 士 を始 末 する、と?《十三使 徒 》ではなく?」
「侵 入 してきた暗殺者──《十三使徒》の魔術士は、ウィノナのチームが対 処 する」
「あの娘 ひとりで?」
問い返してくるライドは、その件に関する興 味 も薄 いように見えた。が、聞き返してきたということは、気にしていないわけでもないのだろう。
ダミアンは、さほど力も入れずに否 定 した。
「チームだ」
「あいつは単独でしか動かなかった。今までは」
これは、トリンキーだった。笑っているように上 向 きに歪 んでいる唇 を、苦 々 しく曲げながら、付け加える。
「......あのけったくそわるい殺し屋野郎と同じによう。チームワークってもんを分かってねえんだ、あいつら」
ユイスのことだろう。答えるために、ダミアンは口を開いた──その必要があるというわけではないが、こんな肉体的な仕 草 を省 くと、部下の士 気 が低 下 することがある。彼らはこちらの声を、肉声だと思い込んで聞いているのだから。
「ウィノナは新しくスカウトした魔術士と行動をともにしている。彼女と同行している者にはかかわるな。お前たちの存在を知られてもならない」
「そいつにゃ秘 密 で行動しろと?」
「そうだ」
「俺たちはひとり殺すだけでいい?」
「そうだ」
「あー、あと、最後に」
言いかけてライドは初めて、こちらを向いた。ちょうちょ結びは完成していない。
「この任 務 が終わったら、飲んでもいいですかね?」
「好きにしろ」
告げて、ダミアンはその場から転 移 した。
◆◇◆◇◆
ウィノナはすぐに見つかった。三十分かかったとは思えなかったが、恐 らく限りなく正 確 に三十分なのではないか──そう思える。ダミアン・ルーウの声が、望みもしないのに耳に残っていた。
この方向に三十分ほど歩くと......
苦 笑 いでそれを振 り払 い、オーフェンはウィノナがこちらに気づくのを待った。彼女はちょうど、こちらが斜 め右後ろから近づいているといった位置で、早足で進んでいる。まだそれなりの距 離 があった。声をかけても、この風の中では気づくかどうか。荒 野 を吹 きすさぶ悲 鳴 のような気流は、時間を追うごとに強まっていた。
(たとえば、あの派 遣 警 察 官 だ......)
ウィノナ。大 柄 な女──というだけではなく、身体的に研 ぎ澄 まされた非 公 式 騎 士 。特定の貴 族 のためだけに働くエージェント。単なる筋肉屋ならどうということはない。が、彼女は自身の力を持てあましてなどいない。むしろ不足を訴 えているようにすら見える。格 闘 試 合 をすれば、自分が彼女と互 角 以上に渡 り合えるかどうか、それは微 妙 だと思えた。
派遣警察は、王 立 治 安 構 想 の根 幹 を支える司 法 組 織 だった。都市の自 治 範 囲 を越 えて活動する。都市外に跋 扈 する武 装 盗 賊 の取り締 まり──というより駆 逐 ──は、派遣警察にある対 武 装 盗 賊 戦 闘 課 が行う。恐 らく、まず間 違 いなく、彼女はそこの出身だろう。どういった変 遷 を経 て、この怪 しげな領主とやらの下に収まったのかは分からないが。
屈 強 の騎 士 。速度を上げて彼女との距 離 を詰 めながら、オーフェンは静かにイメージを広げた。
(......たとえば彼女を出し抜 くカードが、俺の手の中にあるか?)
彼女を取り押 さえる。それは可能だろう。不意をつくまでもなく、容易 いかもしれない。だがそれで、彼女から必要な情報を聞き出せるかというと、問題は変わってくる。
(殺されても、なにも吐 きゃしないだろうな。もともとこのゲームには、俺 の勝ちが存 在 しない。いかさまなんだ)
トリックだらけのテーブルの向こうで、姿 すら見せない領主なる人物が笑っている。それを思い浮 かべて、オーフェンは鼻を鳴 らした。
(いや違う。領主にとって本当の敵 は、俺じゃないんだ。俺を打ち負かしたところで、領主には得 もない。そいつが敵対してるのは、ドラゴン種族の聖 域 で、領主とやらはあくまでそのために、俺をなにかの布 石 にしてるに過 ぎない......)
それを見失えば、自分はゲームを続けることすらできなくなってしまう。クリーオウとマジクが敵の手の中にいる。レティシャとイールギットとも分 断 された。もともとの約 束 だった、アザリーの情報も手に入れていない。この状 態 で下りるわけにはいかない。
勝つ方法があるわけがない。自分は手 駒 に過ぎないのだから。手駒は役割を果たすことしかできない。
(そうか、それで、役割か......くそっ)
レティシャの言葉を思い出し、うめく。
(なるほど。自分で自分の役割を決めて、手駒から抜け出さないと、なにもできないってわけだ。アザリーのことも、クリーオウたちのことも、全部領主に利用されて、お膳 立 てされちまった)
きっと、クリーオウもマジクも、無 事 にもどってくるに違いない──自分が手駒として行動を完 了 させれば。
このトリックには従わざるを得ない。罠 だと分かっていても。ほんの小さなものでもいい、なんらかのイレギュラーが起こるまでは。
ウィノナがこちらに気づいて、足を止めた。
彼女は手を挙 げて挨 拶 してくるわけでもなく、ただつまらなそうにこちらを見ているだけだった。半 端 に防具をつけて、眉 間 の皮 膚 だけを険 しく引き締 めている。待っている時間が惜 しいのか、にこりともしない。
ようやく声がとどく距 離 になって、彼女はぼそりと言ってきた。
「走れないのかい?」
オーフェンは駆 けだした。
真 に受けて走り始めるとは思っていなかったのだろう。ウィノナはきょとんとまばたきして──そして、不意に気づいて罵 声 をあげた。だが、その時にはもう腕 一本分の距 離 まで肉 薄 している。
跳 躍 し、その勢 いに乗せて全身の筋肉をしならせる。突 きだした拳 は、彼女の顔面に突き刺 さった。不 意 を突かれたウィノナは、為 す術 もなく後 退 した。
が、倒 れなかった。数歩分つまずいただけで体 勢 を立て直し、迷わずに反 撃 してくる。
こちらは既 に着 地 していた。構 えは必要としない。通 常 ならば安全となる距離から、ウィノナは大きく足を振 り上げてきた。それは隙 のない獣 というより、単に丸太が飛んでくる様 を連 想 させる。ただ速度は獣のそれだった。
退 いて、それをかわす。ウィノナの次 撃 の前に飛び出すか、それとももう一 瞬 待つか。葛 藤 は必要なく、オーフェンはその場に踏 みとどまった。先 制 を一 撃 食らって鼻をへこませたウィノナが、さらに一歩踏み込んで拳を突きだしてくる──それは先 刻 の蹴 りとは打って変わって、お手本のようにコンパクトな牽 制 だった。それでも人ひとりを昏 倒 させるほどの威 力 はあっただろう。さらに一歩、オーフェンは後 退 した。見るからに頑 丈 そうな拳が、顔面すれすれをかすって通り過ぎていく。
もう一歩退く、その気 配 だけを見せて、オーフェンは横に跳 んだ。最も基本的な体術だった。つられたウィノナが、気配のほうだけを追って踏みだし、異 変 に気づいて顔色を変えている。
通 常 ならば、これで終わりだった。敵 の視 界 から体をかわし、死 角 より密 着 して致 命 打 を与 える。
が。
ウィノナの拳が、それを阻 んだ。突き出されてきた彼女の右 腕 を受け、横に払 いながら確認する──彼女はこちらを見ていない。勘 だけで攻 撃 してきたに違いない。こちらの気配を読んで。
(油 断 してたら、やられてたのは俺か......)
静かにそう認めながら、オーフェンは無 感 動 に、触 れている彼女の腕を抱 え込んだ。そのまま関 節 をねじりながら、近いほうの足に蹴りを入れる。木の幹 がへし折られるような音を立てて、ウィノナの腰 が沈 んだ。
関節を極 めた状 態 で彼女を突 き倒 し、彼は告 げた。
「このまま利 き腕 と永遠にさよならするか、一言二言、俺 に本当のことをしゃべるかだ。どっちだ?」
「腕が折れる直前に、ダミアンがあたしを回 収 する。あんたはダミアンに殺されるだけさね」
「奴 は来ない。《十三使 徒 》にかまけて余 力 がないはずだ」
それは当てずっぽうだったのだが、ウィノナが歯の間から漏 らした苦痛の音を聞くからには、それほど信 憑 性 のないことでもなかったらしい──彼女は顔を地面に押 しつけられながら、可 能 な限りの声で言ってきた。
「腕一本であたしがしゃべるとでも思うのかい?」
「命と引き替 えならどうだ?」
「あんたがあたしを殺す?」
予想通りではあったが、彼女は嘲 笑 じみた声をあげるだけだった。オーフェンは、聞こえないように嘆 息 した──片手で彼女の腕を保 持 したまま、空 いている手で腰のホルスターから銃 を抜 きだした。
それを、彼女の顔の横に差し出す。ウィノナの身体 が、びくりと震 え、彼女がそれを見たことが分かった。
なるたけ淡 々 と聞こえるように注意しながら、オーフェンは続けた。
「これがなんだか分かるだろう? 俺が殺せるの殺せないのと、そんなものは関係ない。これはそういう 武器だ。震える指が少しトリガーに触 れるだけで人の命を奪 う。臆 病 者 を殺人者にする。これはそういう武器だ──おっと、そういえばお前も同じものを持ってたな。その左手を下ろせ」
彼女の腰にあるホルスターに、今にも触れようとしていた彼女の左手をにらみつける。
「次に左手を動かしたら左 肩 を撃 ち抜く。それでもまだなにかしようとしたら次は背中だ。内 臓 のいくつかが壊 れる。最後は後頭部を撃つ。脳 が弾 丸 の衝 撃 に堪 える確 率 はゼロだ。が、俺の質問に答えてくれるのなら、俺も弾 を無 駄 にはしない」
「領主様を撃つつもりかもしれない弾丸なら、どっちにしろ後であたしの身体で受けることになるんだ。今だって大 差 ないさね」
「そうしたいのならそうしろ。だがどうせ答えるさ──聞くぞ。クリーオウとマジクは無 事 か?」
しばしの沈 黙 。ウィノナはゆっくりと答えてきた。
「なにかと思ったら、そんなこと?......無事だよ。危 害 を加える理由があるかい?」
「そう信じたいんだけどな。次。コルゴンの奴 がいないってのはどういうことだ?」
「知らないよ。ユイスは、領主様の部下ってわけじゃないからね。姿 をくらますこともあるさな。これが初めてってわけでもないし」
これは即 答 してきた。彼女の言葉を反 芻 し──オーフェンは、最後に聞いた。
「《十三使徒》の暗殺者を殺すつもりなのか?」
「......なにを言ってるんだか分からないね。あんた、自分の家の軒 先 に侵 入 してきた殺し屋を、無事に帰すのかい?」
「俺にとっちゃ、彼らは暗殺者じゃない」
「仲間かもしれないって?」
皮 肉 げに言ってくる彼女の腕 を解 放 して、オーフェンは二歩ほど後ろに下がった。ウィノナが反 撃 してくるかと思ったのだが、彼女は極 められていた腕をさすりながら、地面に座 り直しただけだった。
拳 銃 をホルスターにしまいながら、彼は告 げた。
「仲間かもしれない。そうだな。領主がまっとうなテーブルにつくまでは、判 断 のしようがない」
ウィノナはそれには答えず、思い出したように、打たれた鼻をつまんでほぐしていた。鼻血は出ていない。渾 身 で食らわせた一 撃 だったのだが、それほど効 いてもいないようだった──あるいは、効いてもいないと見せかけるため、彼女がひたすら苦心しているのかもしれない。
時間をかけてから、ようやく彼女は言ってきた。わずかに身体の向きを変えて、左腕を死 角 に隠 している。拳銃を持つ左手を。
「そんなことを宣 言 するのなら、あたしを解放すべきじゃなかったね。あんた、暗殺者になるつもりかい?」
「そのつもりもない。《十三使徒》にそれをやらせるつもりもない」
オーフェンは、肩 をすくめた。
「領主に接 近 する最後の関 門 がダミアンなら、それに対 抗 する手 段 は俺にはないしな」
「......本当に?」
ほんのちらりと──彼女の瞳 の色が変化したようにも思えた。それがわずかにのぞいた本 音 なのか、新たな嘘 なのかは知りようがないが。
なんにしろ、苦笑するしかなかった。

「幽 霊 だぜ? 既 に死んでるものをどうやって殺す?」
「ユイスは──」
彼女は、声のトーンを大きく落とした。薄 い笑 みが、頬 の上を滑 り落ちていく。
「ユイスは、あたしらの仲間内では、ダミアンと最も多く関わってる。実はその方法を探してるんじゃないかと......そうも思えたよ」
それは、意外な話ではあった。見せかけではない驚 きを感じながら、聞き返す。
「あんたたちは、一 枚 岩 なんだと思ってたけどな」
「そんな組織はありゃしないさ」
彼女はそう言うと、立ち上がった。視 線 が下方から、わずかに上へと移る。服の土 埃 を払 うこともせずに、ウィノナはあとを続けてきた。
「別に、隠 しゃしないよ。ダミアンは、どうもおかしい。仲間はみんなそう言ってる。あたしもそう思ってる。きっと......領主様も、そう思ってるはずさね」
「ならどうして放 置 してるんだ?」
聞く。答えは予想していたが、その通りのことをウィノナはあっさり認めた。
「戦力として有 効 この上ないからさ。いや、気分悪いけど、不 可 欠 だと認めざるを得ないね。聖 域 と戦うのなら」
「この会話、多分ダミアンに聞かれてるぜ?」
「だとしても、あの男は気にしやしないさ。どうせあたしらには、ダミアンを殺 る手 段 はないんだから」
いかさまのゲーム──
これはいかさまのゲームだ。
オーフェンは、ウィノナを見ながら胸中でつぶやいた。
彼女が素 直 に質問に答えることなど、最初から期待していなかった。だが、嘘 だと分かって聞くのであれば、嘘も情報になる。
思った以上の情報が得られた。少なくとも、ウィノナはこちらから取引を持ち出すことができる相手だと分かった。手 駒 であることをやめた時、それは役に立つかもしれない。
いかさまのゲーム。ゲームであることが終わった時──
『この呪 文 が完成した時、なにが起こるんだろうな?』
ふと記 憶 に蘇 った、コルゴンの言葉を聞きながら。
オーフェンは、口を開いた。他 人 事 のように自動的に、言葉がこぼれる。
「とりあえず、《十三使徒》の暗殺者を捕らえることには協力する。だがいつまで協力するかは保 証 しない」
「虫の良い話さね?」
「たまには、こっちに有 利 な条件があったっていいはずだろ」
それだけ告 げて、彼は見 渡 す限りの荒 野 を見回した。いかさまのゲーム盤 。対戦相手は、キングの位置さえ明らかにしていない。
「思ったより無 防 備 だな」
「......そうですね」
そんな短いやりとりをして、暗殺者たちは数秒の時間を無 駄 にした。ひとりが死体にかがみ込み、しばらく検 分 してから立ち上がる。頭を剃 り上げたその暗殺者は、その遺 体 に最後の一 瞥 を投げた。
取り立ててなにがあったというわけでもない。死んで、動かない男というだけのことだ。標 的 である、最 接 近 領 の領主──その守 護 者 。
もうひとり、近くの岩に腰 掛 けてぼんやりと風に吹 かれていた若い暗殺者が、軽い調子で声をあげた。
「こんな簡 単 なことなら、もっと早くに行動を起こしても良かったかも? プルートー師 も、クラベ師も、変なところで慎 重 だから」
その声に、剃 髪 の男が答える。抑 揚 を抑 えた、冷たい声 音 。
「これまでに、彼らの放 った斥 候 がほとんど生きて帰ってこなかったことを考えると、そうも言えないな」
「そりゃ、雇 い入れたごろつきや、流れの殺し屋じゃあ、そんなところでしょう」
「中には、わたしより優れた技能者もいたさ」
男はそれだけ言うと、若いほうへと向き直った。付け加えるように、言葉を続ける。
「カコルキスト・イストハン。お前よりもな」
子供じみた仕 草 で岩から飛び降りて、言われたほうは笑ってみせた。カコルキストと呼ばれた若い暗殺者は、手ぶらの両 腕 をすくめるように広げて、
「そうは思いませんね。プルートー師 は俗 物 です──大事なものは最後まで取っておく。手 遅 れになるくらい最後まで。今まで使い捨 てられた者が、ぼくらより先に使い捨てられたのは、その程 度 の価 値 だったからでしょう? 今回も、彼はマリア・フウォンをメンバーから外しました」
「笑えんな」
「ぼくは生きて帰るつもりですよ? 領主だかなんだかを始 末 して、無 事 に脱 出 して、王 都 にもどる。暴 君 に、文句のひとつも言ってやらないと気がすみません」
冗 談 のように、だが冗談ともつかない口 調 で、カコルキストがつぶやく。
シーク・マリスクは、その生徒をじっと見つめて──そして、言いかけた言葉を呑 み込んだ。
「......つまらんことは考えるな。お前は集中力に欠ける」
死に向かって集中する、暗殺者の眼 差 しで、男が告 げた。
「そろそろ日が暮 れる。朝までに領主を見つけ、殺 害 する。それより時間をかければ、我 々 の体力が保 たん」
「そのあと脱出することを考えると、真夜中までには仕事を済 ませたいですね?」
生徒のその提 案 には、シークは答えなかった。
◆◇◆◇◆
「ホントか嘘 か分からない話でもしてやろうか?」
ウィノナが唐 突 に、そんなことを言ってきたのは、意外ではあった──彼女はそれまで小一時間、ろくに話しかけてくることもなかったのだから。オーフェンは、彼女が発した言葉をいくつか思い出してみた。こっちだ。そっちじゃない。進みな。黙 れ。
それに比 べれば、愛 想 のある言葉ではあった。怪 訝 に思いながら、向き直る。
「あん?」
聞き返す。と、彼女が続けてきた。
「どうして領主様が、こんな荒 れ地にお住まいになってるのか」
「興 味 ないな」
そっけなく、告 げる。だがウィノナは構 わずにあとを続けた。どうでもいい。話したかったのだろう。
「領主様は、人類の守 護 神 なんだよ」
「そうかい」
担 がれただけだった。ややうんざりしながら、ウィノナに視 線 をやる──
と。オーフェンは足を止めた。彼女は真 顔 だった。
ウィノナは立ち止まらなかった。歩き続けながら、
「あんたは、領主様のことをもっとよく知るべきだよ。ドラゴン種族と戦える人間は、ひとりでも多く仲間に欲しいさ。あんたが領主様のことを理 解 して、そして領主様と話をすれば、きっとその気になる」
自分を追い抜 いていく彼女をしばらく見送って、オーフェンも歩みを再開した。さきほどから周 囲 の風 景 は変わらないが、ウィノナにとっては慣 れた庭なのか。迷いもせずに進んでいる。

「その守護神が、聖 域 と戦う理由はなんだ? ドラゴン種族と人間種族が対立したことは一度もないはずだぞ」
もう、興 味 がないとは言えなかった──領主の情報であれば、なんであれ欲しい。オーフェンが聞くと、ウィノナはそれがお気に入りの話題だとばかりに即 答 してきた。
「魔 術 士 狩 りは?」
「魔術士とドラゴン種族は対立したが、そのほかの人間種族はドラゴン種族の側についたか、あるいは傍 観 した」
「その時代から、ドラゴン種族は聖域に隠 遁 して、外界とは没 交 渉 になった。これは控 えめに言っても、緩 やかな絶 交 状 態 じゃないかい? 領主様は聖域が、外界を裏切りつつあるとお考えなのさ」
自信たっぷりに言ってくるウィノナに、オーフェンは顔をしかめた。
「やぶ蛇 かもしれないだろう?」
「そうかい? なら、ドッペル・イクスの存 在 をどう考えるのさ。聖域は外界に手 下 を送り込んで、あちこち暗 躍 させている。言っとくけれど、ヘルパートなんてのは、その一部に過 ぎないよ」
ピッチを上げて、彼女に追いつく。並 んでも、彼女は速度を落としたりはしなかったが、無 理 に速めもしなかった。
あのレッド・ドラゴンのことを思い出すと、今でも背中に痛みを感じるような気がする──自分があのドラゴン種族を倒 したというが、最後の数 瞬 は実感がなかった。なんにしろ、いつまでも覚えていたいような記 憶 ではない。オーフェンは、静かに告 げた。
「どっちが先かなんて水 掛 け論 になるんじゃないだろうな」
「ドッペル・イクスは百年以上昔から、外 界 で好き勝手やってきたんだよ。理由はいまだに分からないけど、そうだね......主目的は略 奪 」
「略奪?」
突 拍 子 もない単語に驚 いて、うめく。
ウィノナは──こちらから一本取ったということでか、気分良さそうに続けた。
「ナッシュウォータで、あんたも見ただろ? たかだか剣 一本のために、何人も殺した」
「まあ......確 かに意味の分からない事件だったな。ロッテーシャの剣には、なにかあるのかとも思ったんだが」
あの件 に関しては、考えても分かるはずがないと、考えることをやめていた。ウィノナが、大 柄 な肩 をすくめてみせる。
「なにもないさ。少なくとも、ユイスが調べた限りではなんでもなかった──ちょっとばかり便 利 なだけの、ただの剣だよ。だから奪 われても良かったんだ。特にあのヘルパートが動いてるってんで、本来なら関 わりたくはなかったしね。無 駄 に戦力を奪われるわけにはいかないから」
「......じゃあなんでコルゴンが半年もかけて剣を守ってたんだ?」
「あいつの希望さね。あいつ、あの剣を欲しがってた。それに、あたしたちとしても、悪い話じゃなかった──どうせレッド・ドラゴンに対 抗 できるのはユイスしかいなかったし、あいつひとりでヘルパートを倒してくれるんなら悪くない。それに、まあ、あいつには別の任務もあったのさ」
「任務?」
それが気になったのは、まるで彼女が、コルゴンを領主の配下であるかのように言っていると聞こえたからだった──が、ウィノナは別の意味に取ったらしい。にやりと笑ってみせると、
「細かい任務についてまでは明かせるわけがないさね。聞きたきゃ、忠 誠 を誓 って、領主様ご本人から聞きな」
結局は、そこに行き着くらしい。聞こえよがしに嘆 息 して、オーフェンは告げた。
「なるほど。ホントか嘘 か分からない話だ」
「あんたも嫌 みな奴 だね」
冷めたように、きょとんと、ウィノナ。
「性 分 だよ」
本当のことを話さない人間ほど、相手に嘘 を許さないものだ──そんなことを考えていると、彼女は牽 制 するように言ってきた。
「誰 も、知らない間に領主様に恩 義 を受けてるのさ。領主様だけが聖域と戦ってる。魔 術 士 同 盟 も貴 族 連 盟 も、ドラゴン種族からは逃 げるだけだろ」
「俺も、本当か嘘か分からない話を聞かせてやる」
半 眼 で彼女を見やり、オーフェンはうめいた。
「......俺の先生もな、ドッペル・イクスと呼ばれていたらしい。大 昔 にな」
「うん?」
意味が分からなかったのだろう──無 理 もないが。
そのあたりの説明などしても仕方ないし、意味があったとしても、するつもりもなかった。プライベートなことに過ぎない。彼女の理 解 を置き去りにして、オーフェンは視 線 を外した。
「だから俺は、その言葉の意味のほうが気にかかる。裏切りの符丁 。聖 域 のエージェントが、聖域のために働いているっていうのなら、どう考えてもこの呼び名はおかしいんじゃないか?」
「たいした問題だとは思えないね」
あっさりと言ってくるウィノナに、鼻で笑う音を聞かせる。思いつくまま、オーフェンは言った。
「狂 信 者 は、疑 問 を疑問と思わない。信じるに足るものがあるってんなら、それは幸せなことだがな」
「......あたしが?」
彼女の声が、一気に険 悪 に変じる。当たり前のことではあっただろうが。
なにも変わらない地面を踏 みしめて、そこにつま先をとどめる理由などはない。それでも自然と足を止めて、オーフェンはウィノナと対 峙 していた。次 第 に盛 り上がっていく彼女の肩 の筋肉を眺 めながら、口を開く。
「聖域と小 競 り合いをして有 頂 天 になってるのが領主って奴なら、俺はそいつが信用できない」
「領主様のお考えは──」
と、叫 びかけた彼女を制して、オーフェンは続けた。
「アーバンラマは壊 滅 しかかったぞ」
「でも、あたしたちはドラゴン種族を制した! あれは大きな勝利だったさ」
「俺がヘルパートを潰 して、クリーオウがライアンを止めた。お前らがなにをしたってんだ?」
口 早 に囁 く。ウィノナの沈 黙 が長引いて、ふと、風に紛 れてこちらの声がとどかなかったと危 ぶんだ頃 、ようやく彼女は言ってきた。
「......領主様にはお考えがあるのさ。あんただって、領主様に会えば分かる」
「分からねぇだろうな。俺が領主を認 めない、一番の理由を教えてやろうか──」
自分より身体 の大きい相手の胸 ぐらを摑 み上げるのは、我 ながら滑 稽 ですらあった──が、感情の沸 騰 がそれを無 視 した。ふつふつと、抑 えのきかないものが喉 の奥 に詰 まるのを感じながら、声を強める。
「お前らは、クリーオウにライアンを殺させたんだ!」
「そんなことで──」
しゃべる途 中 で、ウィノナが転 倒 した。いや、彼女がこちらの手から逃れようとする瞬 間 に突 き倒 した。
彼女が起きあがるのに先んじて、彼女の膝 を踏 みつける。立てないウィノナを見下ろして、オーフェンは告 げた。
「領主には会ってやる。こっちにもたっぷりと言いたいことがあるからな。だが、こいつは忠 告 だ。俺を洗 脳 しようとするな。ムカつくだけだ」
「......分かったよ」
苦 渋 に満 ちた声で、ウィノナがつぶやくのを聞いて、オーフェンは足をどけた。
彼女が立ち上がるまで、気持ちを落ち着かせる時間はそれなりにあった。相手にあわせて視 線 の角度を変えながら、待つ。
顔を上げる一瞬間、ウィノナが動作を止めたように見えた。と、こちらを向いて言ってくる。
「ダミアンから連 絡 がきた。近くに、あの娘 がいるよ。早急に確 保 しろ、だってさ」
「娘?」
「ロッテーシャだよ」
◆◇◆◇◆
納 得 できる理由さえあれば、永遠に目が覚めなくとも構 わない。というわけではなかったが......
なぜ自分が倒 れているのか思い出せずに、ロッテーシャは目を開いた。顔についた砂を落として──うつ伏 せだったのだ──、あたりを見回す。頭の中に巣 くった実 体 のない疼 きを追い出すため深 呼 吸 して、思い出そうとする。なにを思い出したいのかも記 憶 にはなかったが。
たとえそれが悪 夢 だったとしても、夢 のことを気にするのはくだらない。彼女は自分に毒づいた。悪い夢など見 飽 きている。
起きあがって、つまずいた。見下ろすと、剣がある。父の形 見 の魔 剣 。フリークダイアモンド。
剣を身体 の下に敷 いて倒れていたせいだろう。腰 から胸まで、直線に痛む跡 があった。痣 にでもなっているのかと服の下をのぞくが、痕 跡 はない。痛みだけが残っている。
(......違 う......?)
ふと、思いつくものがあった。その痛みの跡は、なにか別のものを意味していたようにも感じられる。根 拠 があったわけではないが。覚えがあった。痛みだけ。目に見える跡はない......
「......嫌 な偶 然 」
ようやく思い出して、うめく。次 第 に退 いていくその痛 感 は、かつてエドに斬 られた傷 痕 をなぞっていた。
記憶に蘇 ると、苦痛もまたぶり返したようだった。唇 を嚙 んで、剣を拾い上げる。
別のことを考えるべきだ。理性の声に従って、彼女は独 りごちた。
「どうして、わたしひとりなのかしら」
誰 も答えてはこない。誰もいないのだから。
少なくとも見える範 囲 には、人 影 も気 配 もなかった。魔術士たちの姿 はどこにもない。彼女らと別れの挨 拶 をした覚えもなく、ただ唐 突 に、そこに倒れていた。
なにかに殴 り倒されたのかしら? 腑 に落ちない思いを抱 えて、顔をしかめる。昏 倒 させられて、そのショックで襲 われた記憶を失った人の話というのを、聞いたことがあった。自分が暴 力 の悪意にさらされたという現実を認めたくないがために、その記憶を封 鎖 してしまうのだと。それを語ったのは父だったろうか......
苦 々 しく、笑 みを浮 かべる。暴力の悪意に堪 えきれず?──自分がそんなにうぶ だろうか。元 夫 に殺されて、死にきれなかった女だ。
(強くなるのに必要なのは)
ロッテーシャは、静かにつぶやいた。強くなるのに必要なのは、こんな時にいちいち慌 てないことだろう。理解に努め、推 測 し、解 決 する。
ひとりになったのは、好 都 合 だと考えるべきだ。くわしいことまでは分からないが、あの魔術士たちは、全員エドと旧 知 の仲 らしい。自分がエドを殺そうとした時に、敵 に回る可 能 性 は高い。
魔 剣 を握 りしめて、覚 悟 を固める。
エドもまた、魔術士だった。それを理 解 しなければならない。彼にはいくつもの名前があり、それぞれ違う役割を演じてきた。ユイス......コルゴン......エド。優 秀 な魔術士だったらしい。もとより、剣でも敵 わない。道場時代でも、彼と互 角 に渡 り合えたのは──すぐに病 に伏 せたため、短い期間ではあったが──父だけだった。ほかの練 習 生 の手前、エドはたびたび彼女にも三本に一本は取らせてくれることはあったが。これは、それほど珍 しいことでもない。彼女自身も、練習生に自信をつけさせるため、勝敗に含 まれない一本を譲 るくらいのことはよくしていた。なんにしろ、彼に勝てたことはない。
普 通 にかかっても勝てない。だが、この魔剣の使い方が分かったとしたら......?
(なんとかなるかもしれない)
ビードゥー・クリューブスターの魔剣。父はこの剣で、数十人からなる武 装 盗 賊 を一 網 打 尽 にしたこともある。少なくとも、噂 ではそう聞いた。魔術を越 える武器になり得るのかもしれない。エドに勝てる望みがあるとしたら、これしかない。
(でも......どうすればいいのかしら)
見当もつかない。アーバンラマでは一度だけ、この剣を鞘 から抜 くことには成功した。いや、鞘から抜いた と言うべきなのかどうかは分からないが。だが結局、どうして使えば良いのか理 解 できたわけではない。
剣を構える。意 識 を集中して、念 じる──念じるべき呪 文 が思いつくわけでもないが。剣に変化を求めるが、なにも起こらないまま数秒が過 ぎた。
嘆 息 して、剣先を下ろす。エドと対 峙 してからこれだけ時間をかけていたら、とうに殺されている。
と。
剣を使おうとして視 線 を上げたせいで、見えたものがあった。広がる荒 野 に比 べれば、文字通り砂 粒 のようなちっぽけな黒い点にしか過ぎなかったが──見覚えのある生物が、離 れた地面にぽつんと腰 を下ろしている。
後ろ暗いところを見つかったような心 地 で、心臓が跳 ねるのを彼女は感じた。その生物にではなく、それが連想させる別の人物の名前を叫んで、駆 け寄る。
(クリーオウ?)

それほどの距 離 ではなかった。突 風 も、その小さな生き物のことまでは構 っていられないとでもいうように、まったく風に揺 れることもなく、それはいた。漆 黒 の毛 並 みの、子犬のようにも見える。緑色に輝 く瞳 を、ただ一方向に向けたまま、微 動 だにしていなかった。
それは奇 妙 な仕 草 だった。そっくりの人形か剝 製 のように、ぴくりとも動かない。触 れられるほど近寄っても、こちらに顔を向けもしない。ロッテーシャは剣を抱 えたまま、怪 訝 な思いで手を差し伸 べた。
「......どうしたの?」
動物に話しかけるのは馬 鹿 馬 鹿 しいような気もしたのだが、確 かクリーオウはたびたびこの犬と会話していた。
だが、その生物──確か、レキとかいう名前だったか──は動きを見せなかった。聞こえなかったのかと、咳 払 いしながら彼女は、レキの真 正 面 に出ようと移 動 した。
向き直る。緑色の瞳が一 対 、こちらを見 据 えていた。
「ねえ、クリーオウはどこに──」
爆 発 音 が聞こえて、なにも見えなくなった。
◆◇◆◇◆
「......おんや?」
気の抜 けたような、ウィノナの声──
それに倣 ったわけではないが、オーフェンも目をぱちくりさせた。巨 大 な爆 発 跡 が、地面に描 かれている。その縁 に立っていたのは、抜 き身 の剣をぶら下げたロッテーシャだった。
それは単に、予告されていたことに過 ぎなかった。ロッテーシャがいる。だからここに来た。彼女は目を見開いたまま棒 立 ちになって、こちらに気づきもしない。立ったまま気 絶 しているのかもしれない。だが、ウィノナが声をあげたのは、そんなことが理由ではなかったろう。
なにもない空間──すぐ目の前の空間に手を差し伸べて、ウィノナが不 思 議 そうにつぶやくのが聞こえてきた。
「通り抜けられないよ?」
戯 言 だとも聞こえた。彼女が手をかざしているところには、なにもない。
いや、少なくとも彼女自身には、そう思えただろう。が、オーフェンには見えたものがあった。
(魔 術 の構 成 ......か?)
理解はできない。自分にすら読みとれない構成を編 める魔 術 士 は、大陸にはほとんどいないとも言えるし、いくらでもいるとも言える。
つまりは、人間種族にはほぼ存 在 しない。しかし人間種族を問題外にした魔術が多数、大陸にはある。それがドラゴン種族の魔術だった。
耳 障 りな、低い羽虫の音のようなものが鼓 膜 を揺 さぶっていた。その音に重なるように、空間に魔術構成が描 画 されている。これは魔術士にしか見ることはできない。極 端 に複 雑 で、緻 密 で、広大な。ドラゴン種族の造 った魔術に間 違 いなかった。その魔術によってもたらされた効果が、その空間への侵 入 を拒 んでいる。空間の中心に、ロッテーシャがいた。
ロッテーシャが右手に持っている剣 ──白 刃 をさらした直 刀 。彼女の父親の愛刀だったという、魔剣だった。ウィールド・ドラゴン種族が造 り出したという魔術の遺 物 。起動する方法の分からなかったその剣が、発動している。
そのあたりのからくりは、ウィノナにも見当がついたのだろう。こちらに視 線 をくれながら、特になにを聞いてくるでもない。オーフェンも手を差し伸 べて、彼女が押 しもどされた空間に指先を触 れた。弾 力 のある空気の壁 の感 触 と、皮 膚 に弾 ける、静 電 気 じみた軽い衝 撃 。手で押せば押すだけ押し返される。
無 言 のままオーフェンは、鞘 から短剣を引き出した。切っ先で、見えない壁をつつく。結果は指と同じだった。
ナイフをしまい込み、つぶやく。
「......レッド・ドラゴンが、一度使ってたな。あの剣」
「破 れるかい? あの嬢 ちゃんは放 心 状 態 のようだけど」
聞き返してくるウィノナに、オーフェンはかぶりを振 った。
「天 人 種 族 が、使 用 者 を守る意 図 で造り出した魔術だとしたら、中にいる人間を殺すつもりでもないと破れないだろうな」
こんな時に、防 護 を無 視 するような切 り札 がないわけでもない。が、それは文字通り内部にいる標 的 の無 事 を保 証 できる類 のものではなかった。
刹 那 。
それまであたりに充 満 していた羽虫の音が途 切 れた。砂を流すようなノイズの入った音の流れが、ロッテーシャのほうへと収 束 していき──そして、構成が失せた。支えを失ったのか、結 界 の中心にいた少女が倒 れる。
「ロッテーシャ?」
オーフェンは駆 け寄ったが、大 事 はなかったらしい。近づく前に、ロッテーシャは表情を惚 けさせながら、砂地の上で身を起こした。もとより気を失っていたわけではなかったのだろう。なにかを振 り払 うように首を回して、こちらを向く。
「オーフェン......さん。わたし」
ゆっくりとうめく彼女に、オーフェンは聞き返した。
「なにがあったんだ?」
「あの......レキが......」
彼女はそこまで言って、思 考 が続かなくなったのか口をつぐんだ。ふと、ウィノナに気づいて、ロッテーシャが声をあげる。
「あ......!」
少女の顔に浮 かんだのは、恐 怖 だった──ように見えた。瞬 間 、なにを感じたのか座 ったまま後ずさりし、剣を強く抱 きかかえる。剣は、いつの間にか、鞘 に納 刀 されていた。だが、そこでようやく、恐怖を覚える意 味 がないことに気づいたのだろう。目をぱちくりさせると、またかぶりを振ってみせた。
「あの......ごめんなさい。わたし、混 乱 してるみたいです......」
「レキがどうしたって?」
聞きながら、彼女の近くにかがみ込む。見る限り、確 かに彼女は錯 乱 しているようだった。すぐ近くにある、爆 発 跡 を考えれば、突 発 的 ななにかがあったのは間 違 いないところだろうが。
ロッテーシャはいくつか呼 吸 を繰 り返すと、次 第 に落ち着きを取りもどしていった。黙 ったまま突 っ立っているウィノナのほうをちらりと見やってから、
「いたんです。ここに......レキちゃん」
「ここに?」
訝 しく思いながら、オーフェンはウィノナへと視 線 を投げた。非 公 式 騎 士 が腕 組 みして、きょとんと眉 を上げる。
「変だわね。いっしょに領主様のところへ連れて行ったはずなんだけど」
「レキがいたってことは、クリーオウもいっしょにいたのか?」
再びロッテーシャに向き直り、聞く。彼女は剣を抱いたまま、首を左右に振ってみせた。
「いえ。いませんでした。多分ですけど......あの子に近づいたら、いきなり目の前が真っ白になって」
と、震 える声でうめきながら、すぐ近くの爆発跡を示す。
そして──
「分かったんです!」
唐 突 にロッテーシャが、声を張 り上げた。驚 いて、反 射 的に半歩下がろうとしたところを、追いすがるように彼女が腕 を摑 まえてくる。唾 が飛ぶことにも構わずに、彼女はまくし立てた。
「分かったんです──この剣の使い方が! わたしのことを守ってくれたんです!」
「うわっ──たっ──いいから、落ち着け。落ち着け!」
彼女を押 しのけて、オーフェンは彼女の剣を示した。
「剣が守ってくれたってのは、それほど珍 しいこっちゃねえんだ。天人種族の魔術は、たいてい使用者を自動的に守るから」
「そんなんじゃないんです。本当に! 剣が勝手に抜 けて、その時、声が聞こえて──」
押しのけた分を近寄ってきて──その強さは、先ほどの見えない壁 と同じく、ロッテーシャがさらに声の調子を上げる。
それでもあきらめず後 退 しながら、オーフェンは一言だけつぶやき返した。
「......声?」
「そうです! 父さんの声と──あと」
そこで、彼女の突 進 が止まった。すっと身体 を退 き、こちらが下がった分とあわせて、唐 突 に彼女と距 離 が広がる。
その距離を隔 てて、小さくなったロッテーシャの声は、ひどく聞き取りづらくなっていた。
「あと......エドが」
「うん?」
これを聞き返したのは、ウィノナだった。だがロッテーシャは彼女の存 在 を無 視 して、独 り言 でもつぶやくように、のろのろとあとを続けた。
「剣を手 放 すなって」
さらに、顔を上げて、
「......それと、あと、誰 かに頼 れって。守ってもらえって」
「誰だよ。誰かって」
オーフェンが聞くと、彼女は自信の欠 けた表情で答えてきた。
「聞いたことがあるようなないような名前で......長ったらしい、なんか嫌 みな感じの。伯 爵 モドキって風 味 で、でもどことなく貧 乏 そうな」
「どんな?」
「確 か、キリランシェロとかいう」
「そいつには頼るな」
半 眼 でオーフェンが告 げると、その頭を飛び越 えるような形で、背後からウィノナが声をあげた。
「幻 聴 でしょ。ヤバいって時に、意 味 不 明 の声が聞こえるなんてのは、よく聞く話だわね?」
「............」
意気が乗っていたところに水を差され、ロッテーシャが黙 り込む。
それを見ながら、オーフェンは胸中で独 りごちた。
(幻聴? ただの?)
ロッテーシャは、キリランシェロと言った。はっきりと、間 違 いなく。
(だったら、なんで彼女がその名前を知ってるんだ?)
自分が名乗った記 憶 はなかった。が、レティシャかイールギットあたりが、彼女の前で自分のことをそう呼んだこともあったかもしれない。クリーオウが面 白 がって話したのかもしれない。ロッテーシャははっきりとその名前と彼とを結びつけてはいなかったようだが、どこか記憶の底に残っていたというのもあり得ない話ではないだろう。
「聞こえたんです......」
口の中で、未 練 がましくうめいているロッテーシャに手を貸 して立ち上がらせてやりながら、オーフェンはその魔 剣 に注 視 していた。彼女の勢 いに押 されて論 点 を見失いかけたが、分からないことはそれだけではない。
(レキがいた? ここに? クリーオウとは別に?)
理由は考えないでおくとしても。
それは、クリーオウの無 事 を保 証 する要 素 がひとつ失われたことを意 味 していた。
ぞっと──皮 膚 と肉とが触 れるあたりから、寒 気 がにじみだすのを感じながら、そのことを考える。これもなにかの、いかさまなのか? それとも、 ただのアクシデントなのか? とまれ、ミスできる許 容 範 囲 が狭 まったことには違いない。
爆 発 跡 を見やって、オーフェンはつぶやいた。背 後 のウィノナの顔は見ずに。
「レキが、ロッテーシャを攻 撃 したってわけじゃないだろう。多分これは、空 間 転 移 の余 波 だ。レキがどっちを向いていたか覚えているか?」
ロッテーシャに、聞く。彼女はしばらくわたわたと手を振 り回して記憶を探ってから、一方向を指した。
「最後に、わたしのほうを見ていたはずですから......あっちだと思います」
そちらを見やる。荒 野 に地平の果 てがうかがえた。その地表と空の狭 間 に、黒い陰 が混 じっている。ディープ・ドラゴン種族の使う魔 術 の媒 体 が視 線 だといえ、地平線まで一気に転移できたはずはないだろうが、少なくとも分かる範 囲 にレキの姿 はなかった。遥 か行く手の陰 。日が落ちかかり、空の暗さがその陰 影 に溶 け込みつつある。
「あれは......?」
と、オーフェンが言い切るまでもなく、ウィノナが言ってきた。
「お察 しの通り、《フェンリルの森》さ。ここは最 接 近 領 の西 端 だよ。ドラゴン種族の聖 域 へと接する地点......ま、そうは言っても歩いていけば森まで三日かかるだろうけどね」
◆◇◆◇◆
「見つけたぞ! 暗殺者だ!」
その声を聞いて、彼女が感じたのは歓 喜 だった──が、それが筋 違 いだと気づく程 度 の理 性 も残っていた。その叫 びが示す暗殺者とは、自分のことかもしれないのだ。少なくとも、彼らは自分とシークらを見分けてなどいないだろう。
だが、それでも、同じ叫びが繰 り返されるのを聞き、そしてそれが自分に近づくのではなく遠のいていると分かって、イールギット・スィートハートは自分の歓喜が正しかったと安 堵 した。追っ手がかかっているのはシークとカコルキストで、このすぐ近くにいるということなる。
まぶたを開いても闇 が晴れないことに、ぎょっとした。その闇が、夜が近づきつつあるための暗がりであると理解するまでに数 瞬 か、数秒か。どうしてこんなところで自分が寝 ていたのか。茂 みの中にいたせいで、身体 のあちこちにひっかき傷 ができている。茂みの中......?
記 憶 がない。それは珍 しいことでもない。ただ、今までこうして記憶を失った時には、そうなる以前のことを推 測 するだけの材料がたいてい転がっていた。酒 瓶 や、嘔 吐 物 で汚 れたスーツ──コンパ用にしつらえたもの──、数人が折り重なっていびきをかいている友人の部屋、無 人 の酒場で無 愛 想 に明 細 書 を突 きつけてくる店主等。
だが、今はなにもなかった。脳 が頭 蓋 の容 積 以上に肥 大 して圧 迫 される不 快 感 や、釘 を何本も刺 されたような苦痛もない。なにもない。昼からの記憶を失った自分だけが、そこにいる。
足音が響 いていた。倒 れたまま、耳を地面に押 しつけている。なにやらわめきながら、複 数 の人間が走り回っている。口々に、暗殺者の発見を叫んで。
(起きないと──!)
それは、衝 動 だった。衝動は意 志 の力だった。考えている場合ではない。なにもしないで倒れているわけにはいかない。
起き上がろうとして、頭のすぐ上にある枝に引っかかる。拘 束 するように身体の上で網 を張 る茂 みに、彼女は舌打ちした。奇 妙 なことではあった──直前になにが起こったのか、事 情 はどうあれ、ここに倒 れ込んだのなら、枝が下 敷 きになっているのが正しいはずだ。だというのに、自分の身体 の下には地面しかない。これでは、自分がまるで地下から生 えたか、突 然 ここに現れたみたいではないか? あるいは、誰かが彼女のことをここに隠 したような。
彼女を押 しつぶそうとしている茂みは思いのほか鬱 蒼 と濃 く、重く感じられた。それを無 理 やり、上 腕 を振り回して押しのける。音が立つのも、この際 構 ってはいられない。思いつくままに罵 りながら、イールギットは身体を返した。ようやく呼 吸 する心 地 になって、ため息をつく。
手のとどかない高みから、黒い影 が自分を見下ろしてきていた。
悲 鳴 をあげる寸前で、喉 を閉じた。その影は人間ではないと自分に言い聞かせ、自 制 を保 つ。
彼女が見上げていたのは、屋根だった。大きな屋 敷 。その花 壇 の植 え込みに、自分は倒れている。
分かってみれば、たいしたことではなかった。花壇から這 い出し、立ち上がる。服をはたいて埃 を落とす。花壇の湿 った土の中に埋 もれていたため、大部分の汚 れは落とせそうにない。下着にまで染 み通る、不 快 な湿 気 に辟 易 しながら、彼女は訝 った。荒 れ地にいたはずだ。自分はあの乾 き切った荒 野 にいた。
見回すと、その屋敷を取り囲むようにして、そこはちょっとした庭 園 になっていた。よほどの手 間 と根 気 と財 産 をつぎ込んでも、なかなかこれほどの庭は造 れまい──ましてや、荒れ果てた土地の上には。天 人 種 族 は、地形や気 候 をも塗 り替 えるような大 規 模 な魔術を使ったというが。
騒 ぎは、遠ざかっていた。緑の多い庭園に、日 暮 れの近づいた暗がり。隠 密 に行動するには、都 合 の良い条件ではある。追っ手より先にシークたちを見つけ、説 得 し、その場で投 降 させるのだ。それしかない。まだ彼らが相手に被 害 を与 えていなければ、まさかその場で私 刑 ということもないだろう。もしそうなるのなら、今度は相手も説 得 しなければならないが。
(暗殺なんて......馬 鹿 げてる)
動 悸 が、速まるのを自 覚 した。
(暴 力 なんて馬鹿げてる。太 古 の混 沌 期 じゃあるまいし。わたしたちは無 法 者 なんかじゃないんだから)
追っ手が遠ざかっていった方向に見当をつけて、向き直る。小走りに、足音を立てないよう苦心しながら、彼女は歩き出した。実 際 には、靴 底 と地面とが、こすれて咳 き込むような音を立てているのは分かっていたが。
(キリランシェロ君のようには、いかないか)
彼は普通に歩いているように見せながら、望む時には、気軽に無 音 で歩く。
そのコツを、何度も尋 ねたことがあった──昔のことだ。彼はダンスのステップでも披 露 するように簡 単 に、ローブの裾 を上げて足下を見せてくれた。
歩くのに余 計 な力を入れなければいいんだよ。強すぎれば音が出るし、弱すぎれば転んじゃうよね。ちょうと良い感じで歩けばいいんだ。疲れずに済むよ。忍 び足で肩がこるなんて人はね、実は余 計 に音を立てているんだ......
自分は忍び足で肩がこる手合いに違いない。苦笑して、彼女は進んだ。
そして、何歩目かに足音が消えた。
奇 妙 な感 触 に、足を止める──なにか柔 らかいものを踏 んだため、音が消えたのだ。見下ろす。黒い塊 に、つま先がめり込んでいた。
庭園の通 路 を塞 ぐように、大の字になって寝 ころんでいる男の、髪 の毛。それを踏んでいた。彼女の靴の先が、毛 髪 を引きちぎるほど踏み込んでいるにもかかわらず、男は痛みを感じていない様 子 だった。身体 は仰 向 けで、頭だけはうつ伏 せだった。
彼女は、その場に転んだ。そのままどう悶 えようと、靴が、その男の髪の毛から抜けない。なにかの呪 いであるかのように──実際には、単に足がすくんでいるせいだと分かってはいたが。
(そんな──こんな、こんな!)
叫 ぶ。
男が死亡していることは、確 かめるまでもなかった。折 れ曲がっているのは頚 椎 だけではない。よく見れば、身体全体がどこか歪 になっていた。腹が不自然に膨 れあがっているのは、内 臓 の位置が変化しているからか。猛 烈 な力にさらされて、完 全 に絶 命 している。
もう、殺しが始まっている。
(駄 目 なの......? 遅 かった)
絶 望 的 に、彼女はうめき声をあげた。そして、聞こえてきた悲 鳴 に身を縮 ませた。
目の前が暗くなる。
「シィィィィク!」
自分自身の声がほとばしるのを聞く。声 帯 を震わせて、彼女は起き上がった。騒 ぎが起こってるほうへと、もう足音など気にせずに走り出す。
「カコルキスト! 馬 鹿 ! あなたたち! 裏切り者──」
支 離 滅 裂 に、叫 ぶ。
駄 目 だった。それを思い知って、あとは叫ぶしかない。
彼らは暗殺者だ。ゴミのように人を殺し続ける。
いくつもの死体をまたぎ越 えて、彼女は走り続けた。ここの屋 敷 の使用人か、用 心 棒 か。武 装 したそれらの男たち、女たちは、いずれも身体 を破 壊 されて倒 れていた。殺害ではなく、破壊。無駄なまでに強力なパワーで、肉体を潰 され、ねじ切られている。
人 間 業 ではない。人間を越えた者にしか、こんなことはできない。
超 人 たる、魔 術 士 の特 権 。
(でもそんなのは、魔術の在 るべき使い方じゃない!)
鼻をすする──我 知らず、泣きわめいていた。
「ぶっ殺してやる! あなたたち、もう、言い訳 することなんて──」
地面が揺 れた。
自分のめまいのせいではなく、激 しい音を立てて純 粋 に地面が揺れた。同時に、走っていたすぐ近くの木立の間から、人間の身体がひとつ飛び出してくる。
骨 格 の砕 けた人体は、ぼろ雑 巾 のようだった。手足をぶらつかせながら、こちらへと飛んでくるその死体を、イールギットは横 殴 りに振 り払 った。木立を、にらみつける。

「そこにいるのね......!」
怒 りに染 まった怨 嗟 を、そのまま口から漏 らす。
「出てきなさい。シーク? それともカコルキスト?」
答えはない。夕 闇 に陰 った黒の森が、しんと構えるだけ。
イールギットは両手を突 き出し、身 構 えた。最大級の魔術の構成を編み上げながら、続ける。
「宮 廷 魔術士の誇 りどころか、人間の常 識 もなくしてしまったようね──それとも、もともとなかったの? わたしが決着をつけてあげる。後 悔 する気持ちがあるのなら、せめて素 直 に死になさい」
返答がないまま、時間が過 ぎた。その間に、構成が完成する。強力な破 壊 の設 計 図 を造 り上げ、感じるのは恍 惚 だった。力の恍惚。魔術士ならば誰 でも感じる。強大な力を得て、それを制 御 することに責 を負うのが魔術士だった。その宿命からは逃 れられない。
「あなたたちは道を間 違 ったのね。誰かの命令だなんて言わないでよ。魔術士は自分で自分を律 することを誓 ったんだから」
暴 発 寸 前 の構成に包 まれて、彼女は声を荒 らげた。庭園はいまだに沈 黙 している。
「わたしにできないとでも思ってるの⁉ あなたたちみたいに、魔術で人を虐 殺 するのに嫌 悪 がないわけじゃないけど、でも──」
(......魔術で?)
ふと、気づいた。
彼らが魔術を使っていたのならば──どうして、呪 文 が聞こえてこなかったのか。構成の一 端 でものぞかなかったのか。
魔術でないのならば。
そんなことが、あり得 るのか。
慌 てて、イールギットは振 り向いた。先ほど、自分がはね除 けた哀 れな遺 体 が転がっている。胴 体 の真ん中から均 等 の位置で手足が砕 け、不 気 味 な人形のポーズで事 切 れている。顎 が折れているため、顔面は人だと判 別 がつかないほどに変 形 していた。
(魔術じゃないなんて......あり得 ない。こんなの、人間の力でできるわけが)
編み上げた緻 密 な構成が、動 揺 に負けて消え失せた。すり抜けていく力を、維 持 できない。そして──
木立から、なにかが飛び出してきた。
死体ではない。もっと鋭 く、強く、速い、黒い影 。
丸め込むように肩 を縮 めた姿 勢 で、それは瞬 時 に彼女に肉 薄 した。
とっさに反 撃 できたのは、日 頃 の戦 闘 訓 練 の賜 物 だった──相手に近い、左 拳 を突 き出す。それは黒い人影の中心に吸 い込まれ、手 応 えを残した。
(勝った──)
自分の間 違 いは、すぐ分かった。
敵 を打ったと思えた左手は、相手にしっかりと受け止められていただけだった。抱 え込まれ、引こうにも抜 けない。捕 まれている場所から、激 しく一 瞬 、波打つような衝 撃 が伝わってくる。
視 界 が回転した。横でも縦 でもなく、不 規 則 に。つまりは、投 げ飛ばされたらしい。
重力を失い、背中から、木の幹 に叩 きつけられる。背 骨 が折れなかったのは幸運だった。打ち付けられ、跳 ね飛ばされ、転げ落ちて、地面をなめる。歯の根本が顎にめり込むと思えるほどに歯を食いしばって、彼女は顔を上げた。敵の追 撃 に備 えて、構えを取ろうとし──それができないと悟 る。
もとより、敵の姿 はもうなくなっていた。気 配 も、なにも、どこにもない。彼女はひとりでそこにへたり込んでいた。
「あはは」
彼女は、乾 いた笑いを唇 から漏 らした。身体 が動かない。
すぐ足下に、肩 からちぎれて落ちた自分の左 腕 が横たわっているのを見下ろして、目の奥 から涙 がこぼれ落ちた。それが痛みのせいだということを、神 経 が脳 に伝える許 容 量 を超 えてしまったためにかえって感じることのできない激 痛 の中で悟 り、イールギットは悲 鳴 をあげた。
無 意 味 な門ではあった。
門しかない──庭 園 は柵 に囲まれているわけでもなく、荒 野 の中の箱 庭 のように、作り物の自然を主 張 していた。柵も壁 もなければ、門を作る意味もない。だが門はそこにあった。門 柱 に挟 まれた鉄 扉 。錆 ひとつない平面の扉 を縁 取 る、蛇 の図 案 。
いや、無意味ではない。レティシャは思い直して、苦 笑 した。この門は皮 肉 なのだ。神々に対する皮肉。世界の現 状 に対する皮肉。この庭園は、蛇の中庭。だがそれを囲むものはなにもない。それを示すためだけの、蛇の門。
(こんな皮肉のためだけに......よっぽど暇 を持てあましてるんでしょうね)
連 射 式 ボウガンから安 全 装 置 のピンを抜 いて、彼女は独 りごちた。酔 狂 者 の皮肉に付き合っても仕 方 ない。
この庭園の奥 に、領 主 がいる。
(わたしはここまで侵 入 したわよ。ほうっておいていいの? ダミアン・ルーウ)
胸のうちで問いかける。まだ余 裕 があるというのなら、向こうがこちらを無 視 できなくなるまで進むしかない。
静けさは、不 快 だった。庭園の奥に、館 が見える。もうすっかり日は暮 れ、闇 夜 に影 を浮かばせるだけの館。窓に灯 りもない。見 張 りの数ダースは想 像 していたのだが、庭園は無 人 のごとく静まり返っていた。
あるいは。
ボウガンを構 え、まぶたを細めてあたりを見回す。
(......本当に無 人 なのかもね)
シークと、あと、あのなんとかいう若い魔 術 士 が既 に到 着 して、戦 闘 を開始している可 能 性 はある。もっともその場合には既 に、ふたりともダミアンに倒 されているだろう。自 業 自 得 ともいえる──本 音 を言えば、よく知りもしない暗殺者のことなど案 じていられるような余 裕 はどこにもなかった。
慎 重 に、レティシャは庭園に足を踏 み入れた。
ダミアン・ルーウは、現実に実 在 する力で以 て彼女を殺すと予告した──自分では手出ししないということだろう。本当に追いつめられるまでは。つまりは、彼の部下が全 滅 か、全滅に近い状 態 になるまでは。
領 主 の配 下 の非 公 式 騎 士 たちがどれくらいいるのかは分からないが、それをすべて倒さなければならない。
(手 加 減 できそうにはないわね)
手元の、ボウガンへと視 線 を落とす。ダーツほどの大きさの矢を、四本連 続 して射 出 する武器だが、それほどの殺 傷 力 があるわけではない。威 嚇 と牽 制 には丁 度 良いが、逆 にいえばその程 度 のものだ。
魔術抜きでは突 破 できまい──陰 鬱 に、彼女はそれを認 めた。死人も出るかもしれない。自分は人殺しになる。
大 義 などで殺人はできない。できるとすれば、それは真 性 のテロリストでしかない。自分は違 う......違うと思いたい。レティシャは、うめいた。狂 った独 善 の大義など認めないというのなら、そのほかに、他人の生命を踏 みにじってまで、貫 かなければならないことなどあるのだろうか。
(ある。わたしはそのために来た)
自分に、言い聞かせる。いや、
(ない......でも、わたしは来るしかなかった)
自答は数秒ごとに逆 転 を繰 り返した。ぐるぐると巡 る。
吐 き気はとめどなく、気道の奥 から押し上げられてくる。殺人。それも、明らかに圧 倒 的 な力を持った魔術士が、そうでない者を殺すのであれば、それは最悪の犯 罪 だ。抵 抗 できない者を、力によって押し込めるのであれば。
強さとはなにか。
どう在 れば、強いといえるのか。
他 者 を圧倒して無 視 できることか。
他人を抑 圧 して自 らが自由であることか。
強さを示すには、それをしなければならない。だが、本当にそうしてそれを最後まで貫 いたとして、自分以外のすべてを圧 殺 して君 臨 するようなものが、そんなものが強さであるはずはない。
強さとは、強いということはいったいなんなのか。単に人から強いと言われることが強さの証明なら、最強という呼 称 を持っている者など、いくらでもいるというのに......自分も含 めて。
レティシャは左 腕 だけで、自分の身体 を抱 いた──呼吸の音が大きくなる。静めなければ駄 目 だ。自分に言い聞かせる。
ついでに、思 考 することも禁じることにした。
今は集中する必要がある。こんな考え事をしていてはいけない。
思考を締 め出して、単 調 な警 戒 に浸 る。レティシャは視 線 とボウガンの狙 いを、同じ速度で巡 らせた。暗い庭 園 。音もなく、果てしなく人 気 のない舞 台 。
風だけが鳴り響 いていた。星空を背後にした巨 大 な楽器のように。庭園の中に入ると、それも遠ざかる。床 を布 でこするのにも似 た、かん高くかすれた風の声。寒 気 を誘 う不 愉 快 な呼び声を無 視 して、彼女は警 戒 に努めた。
気 配 は感じない。静まり返った庭を、味わうようにゆっくりと......じっくりと進む。
最初の死体を、そこで見つけた。
道に横たわって、手足を四方に広げている。生死は確認するまでもなかった。武 装 している。領 主 の部下のひとりだろう。断 末 魔 に、苦痛はなかったに違いない──頭部がなくなっていた。手には剣 を握 ったまま、死後の世界があるのなら、いまだそこで自分の死を認められずに、今 際 の際 に対 峙 した敵 と戦っているつもりでいるのかもしれない。
(死後の世界なんてない)
自分の冷静な声が、妄 想 を戒 めた。
そんなものはない。この兵士は、人間から物体へと変わっただけで、そこになにかの大いなる違 いを認めようとするのは、人間という動物が生きる上で学習した、迷 信 の強さにほかならない。投げられた石と落ちている石に大差がないように、生前のこの兵士と、今の兵士にもたいした違 いはない。自分と、自分が見下ろすこの死体とにも大差はない。
だがそれもまた、気分の悪い妄 想 だ──
(戦 闘 が起こったのは、かなり前のことね)
思いを振 り払 い、多少でも現実を把 握 しようと、彼女は独 りごちた。死体に近づく気にはなれなかったが、夜目にでも、その犠 牲 者 の血が凝 固 して、吐 き気を促 すどす黒い色に変色しているのが見て取れる。
(躊 躇 もなく殺してる。事 故 でもなんでもない。本物の暗殺者の仕 業 、ってわけね。気 配 がないからって安心できない......)
頭を剃 髪 した宮 廷 魔 術 士 ──いや、宮廷魔術士に飼 われている暗殺技能者と呼ぶべきか。あのシーク・マリスクの顔を思い出して、彼女は嘆 息 した。もし彼らがまだ生きていて、自分と出くわしたなら、無 視 しても良い相手なのかどうか。現 時 点 では、あの暗殺者たちと自分は敵 対 していない。むしろ共 闘 さえできる可 能 性 もある。彼らの目的は、領 主 の暗殺。自分の目的は、それとは多少異 なるものの、重なる部分も多い。
いや。
彼女は否 定 した。領主を殺されてはならない。その男には、まだ役割がある。退 場 させなければならないのは別の男だ。
(それに......)
胸中で、付け加える。
浮 かんできたのは、イールギットの顔だった。衝 撃 を受けた、やるせない表情を浮かべている、哀 れな彼女。残 酷 な役割を彼女に与 えたマリア・フウォンに、少なからぬ怒 りを感じながら、レティシャはうめいた。マリア教師にも選 択 肢 はなかったのだろうが。
(イールギットがシークを止めようと立ちはだかった時、彼女が殺されない保 証 なんてどこにもない──いえ、きっと殺される。誰 も守ってあげられない)
その前に、自分があの暗殺者たちを無 力 化 できれば、イールギットは生きて帰れるかもしれない。
頭上から飛び降 りてきた人 影 が、その勢 いで、彼女の右手のボウガンをはたき落とした。同時、両 拳 をいっしょに突 きだしてくる奇 妙 な構 えで、こちらの胸を殴 りつける。
為 す術 もなく後 退 させられ、背中が木の幹 にぶつかったところで止まる。ようやく攻 撃 を受けたことを自覚して、敵 の姿 を見定めようとした時には、背後から伸 びてきた白 刃 が自分を捕 らえていた。軍刀の刃 が、喉 元 に触 れている。

木から飛び降りた猿 そのものの格 好 で、だらんと両手を垂 らして中 腰 になっている、あのなんとかいう若い暗殺者が、真正面からこちらを見ていた。ならば、背後から刃を突きつけてきているのが誰なのかというのも、考えるまでもなかった。冷静な、シークの声が耳元に吹 き込まれてくるのを、じっと聞く。
「さて......レティシャ・マクレディ」
暗殺者の顔は見えずとも、首に触 れる刃がそれを代理していた。
「いろいろと問いたいことがあるが、その前に言っておくことにしよう。君が我 々 を殺すのは無 理 だ」
◆◇◆◇◆
風の音が聴 覚 を奪 っていた。
鼓 膜 の上にねじ込まれた、騒 々 しい空気の奔 流 。
なにも聞こえない。聞こえるのは耳の内側から聞こえてくる声だけだった──自分の声。
こんなことは、理 想 に反している。
すべて間 違 っている。
起こるはずのないことが起こっている。
間違いを正すために、やらなければならないことがある。
風の中で。
闇 を彷徨 う。
彼女は自分の声にだけ、心を傾 けた。それは心安らぐ、美しい理 想 を語っていた。
◆◇◆◇◆
「問いその一だ。君は我々の敵 か?」
暗殺者の問いかけは、闇の深さに相 応 な気 配 を潜 ませていた。前面と背後に分かれて隙 なくこちらを見 据 えているふたりの男。突きつけられた刃。そして問いかけ。すべてがそろえば暗 闇 にひとつの結 末 を形作る。
レティシャが迷ったのは、その問いの内容にではなかった──躊躇 う必要がなかったわけではないが。慎 重 に、息を吸 う。その呼 吸 の音が引き金となり、結末が襲 いかかってくるかもしれない。
否 ──
(違う)
彼女は、跳 ね上がりそうになっていた心臓に、冷えた血液が注 がれるのを感じていた。この死はない 。皮肉とともに、確 信 が浮 上 してくる。ダミアン・ルーウの死の幻 影 が見せたのは、この死に方ではない。自分はまだ、ここでは死なない。
「あなたたちがわたしの敵 ならね」
口から滑 り出た言葉を、自分で反 芻 する。暗殺者たちはその返答を奇 妙 とは思わなかったようだった。確 かに、ありきたりな返事だとはいえる。
そして、ありきたりなやり取りが続いた。
「......では問いその二だ。我々は君の敵か?」
「あなたたちの役割によるわ」
「想像はついているのだろう」
シーク・マリスクの声が耳元に、そして鋭 利 な刃 が頸 動 脈 の数ミリ上に。きわどい接 触 に、皮 膚 が粟 立 つのを感じながら、レティシャは自分が動くことのできる範 囲 を胸中で目算した──刃の猶 予 。つまり数ミリのみ。それ以上を動けば、シークはこちらを殺すだろう。
もうひとり。正面の、若い暗殺者。いかにもの隙 を見せつけて、両手を垂 らしてこちらを見ている。にやけるわけでもなく、威 嚇 してくるわけでもない、無 関 心 な眼 差 し。だが決して、こちらの手のとどくところまでは近寄ってこない。そしてシークを振 り解 いたとしても、一 瞬 でこちらを捕 らえられる間合いからは離 れようとはしない。無 論 、視 線 は一度たりと外 れない。
レティシャは、ゆっくりと喉 を膨 らませた。
「最 接 近 領 の領主を暗殺するのが、あなたたちの任務? 東部じゃ、いまだに時 代 錯 誤 な戦争ごっこが流 行 りみたいね」
「君が思うほどに、これは異 常 なことだというわけではないのだがね。まあ、どう考えようと君の勝手だ」
背 後 の暗殺者は、期 待 していたほど動 揺 することもなく、当たり前のように言ってくるだけだった。
「それで、レティシャ・マクレディ。問いをはぐらかすのは傲 慢 なことだ。そして、生命を軽んじて投げ出すのは、思 慮 のない態 度 だ」
「あなたたちがそれを言うの?」
皮 肉 に胃 がよじれそうになるのを感じながら──うめく。
シークの微 笑 が、触 れている刃を伝わって感じられた。いや、苦笑いして、柄 を握 り直したのか。
「わたしにもわたしなりの倫 理 観 というものがあるよ」
「なら、問いに答えてあげる。その倫理観とやらで、わたしを納 得 させることができるのなら、あなたたちを倒 すのは遠 慮 しておいてあげるわよ」
「この状 況 で、我 々 に勝てると?」
聞き返された声に、レティシャは相 反 するふたつの答えを胸中で返していた──不 可 能 。可能。どちらも本当であり、どちらも嘘 だった。この束 縛 を解 く方法など、まったく思いつかない。それでも、拘 束 を打ち破 る方法は存 在 している。
だが、今はそれをしたくない。
(ダミアンと対決する時までは......)
自分の手の内を知られたくはない。あの白 魔 術 士 は、間違いなく今も自分を監 視 しているはずだ。
「こんな時にはね」
レティシャは、笑みを含 んだ声でつぶやいた。
「どこからともなく助けが入るもんじゃないかしら」
「この庭 園 に、生きている人間は我々しかいない」
とりつくしまもなく、あっさりとシークが言ってくる。
「君が魔術の構成を組もうとしても、その前にわたしの剣 が君の喉 に穴 を開ける。いいかね? 君に脱 出 する手はない。我々にも、それほど余 裕 があるわけではない。いつまでもこうして問 答 するくらいならば、同 胞 も殺す」
「だから、協力しろっていうの?」
「黙 過 するだけで構わない。我々に敵 対 するな。我々も、君と戦って犠 牲 を出したくはない。君の目的がなにかは知らないが、干 渉 しないで済 むのであれば、自然の成 り行きには従 うべきだ」
会話しながら──
(刃 の下に、腕 を差し込む)
取るべき手順を、レティシャは脳 に刻 み込んだ。
(この体 勢 じゃあ、剣で腕一本斬 り落とすことはできない。腕で刃を止めているうちに、最大の構成を編 んで、正面の敵を消す。その後に、接 近 戦 でシーク・マリスクを制する)
いくつかの問題はあった。うまくいっても腕一本を犠牲にすることになる。魔術で暗殺者をひとり倒せるのかどうかは分からない。しかもその間に、シークが背後からこちらを攻 撃 してくれば、生き延 びられる可 能 性 は低い。
が、考えられる手はこれしかない。
(こんな馬 鹿 げた戦い方をするのは、キリランシェロだけでしょうにね──)
だが、弟ならば、これを成功させるだろう。どれだけの被 害 を受けようと、前後の暗殺者を倒すだろう。
自分にもそれができるかどうかは未 知 数 だが、賭 けるしかなかった。ダミアンの予言に頼 って覚 悟 を決めるのは、どう考えてもしゃくに障 ったが──
首と刃 の間に、左 腕 を差し込んだ。同時に魔 術 構 成 を編 み上げるべく、意 識 を集中する。連 鎖 する自 壊 。防 御 物 を間にはさもうと、その障 害 ごと標 的 を破 壊 する、大 規 模 な構成。絶 対 に防げない。
刹 那 ──
「シィィィィク!」
叫 びが。
彼女の編み上げた構成を覆 い隠 すように、響 き渡 った。それはあながち比 喩 でもなく、その叫びとともに拡 大 する魔術の構成が、レティシャの構成を圧 倒 する。押 し流される自分の構成を捨 てて、レティシャはその新たな構成を見定めた。暗殺者たちのものではない。その叫びも、彼らのものではない。
単 純 な構成だった。そして明 解 な構成だった。小 賢 しい理 屈 も遠回しな伏 線 も必要としない。暗殺者たちを──そして自分をも──存在の根本まで抹 消 する、巨 大 な力の錯 乱 。
純 白 の輝 きが膨 れあがった。いや、輝きなどと儚 いものではなく、空間をその色に染 め上げる痛 烈 な一 撃 だった。
間に合うことを祈 りながら、叫ぶ。自壊連鎖を取りやめて、新たに編み上げた構成にすがり、
「──異 界 よっ!」
すべての感覚が消え失せる。
実在との接 点 を失い、質 量 、方向、座 標 のすべてから離 脱 する。ひらたく言えば、この世から消え失せる。あらゆる物理的な影 響 から逃 れる究 極 の防 御 ではあるが、この状 態 を長く維 持 することはできない。
恐 らく数秒ほどで、現世へと帰 還 した。感覚が回復するための、猛 烈 なブラックアウトに耐 えながら、レティシャは目を見開いた。消失する瞬 間 にいた場所から、一歩たりと動いてはいない──存在を失うのだから動けるはずがない──が、自分以外のすべては一変していた。あたりの地面がえぐれ、炎 上 している。暗殺者たちの姿 もなかった。今の爆 発 で消し飛んだか、あるいはなんらかの方法で防御して退 避 したのか。
庭 園 が燃えていた。全体の広さからすればほんの一部だろうが、その中心に立ってみれば、その炎熱は伝説の火薬の庭の惨 状 をも思い起こさせる。火炎の中、酸 素 不足にあえぎながら、レティシャは叫んだ。
「......イールギット⁉ 」
炎を割って──自 らが造 り出した魔術の炎の中に踏 み込んで現れたのは、彼女だった。なにがあったのか、服を血 染 めにして。左 肩 の傷 が、一番ひどいようだった。生命を損 じるのには十分に事足りるほどの出血で、それでも彼女は立って歩いている。右手で左肩を押 さえ、だらりと垂れ下がった腕 が力無く揺 れていた。
血と泥 で固められた髪 が、ひとかたまりになって身体 に貼 り付いている。その中心にある顔は、笑っていた。口だけが、けたたましく笑っていた。
傷で錯 乱 している。
いや──
(狂 ってる......)
イールギットの形 相 を、血にまみれた安らかな鬼 面 を見て、レティシャはつぶやいた。
警 戒 は働いていた。全 神 経 が、危険を訴 えてきている。すくむ腰 に力が入らない。白 魔 術 士 の忌 々 しい声が、決して鮮 やかにではなく陰 鬱 に、蘇 った。
君はひとりで全員を助けなければならない。そのためにどういった運命が待ち受けているのか......
(彼女は死ぬ。もう死んでる)
楔 を打ち込むがごとく、囁 く。
(ダミアン・ルーウの攻 撃 は始まってる。逆 らわなければ、わたしは陥 れられる!)
イールギットを救う方法はない。彼女を救おうとすれば、自分も死ぬだろう。
その発 想 が、自分のものだとは信じられなかった。いや、本当に自分の発想ではないのかもしれない 。ダミアン・ルーウに対 抗 できる力を得るための代 償 として、それはあり得ることではあった。ダミアンが、彼女の身体を支配できない代わりに、この身体は自分のものでもない。その自分ではない支 配 者 がわめいている。迷うな。戦えと。
(戦い......戦い。戦い? これが戦い?)
その戦いとは、つまるところ、死にかかった友人を殺すことなのだ。
信じたくないほどに残 酷 な発想のもと、彼女は、行動を起こそうとしていた。考える時間はなかった。自分は燃えさかる森の中にいる。魔術の炎は一分とかからずに消えるだろうが、炎上する木々はそのままだろう。どのみち、酸 素 を得られないこの炎のただ中で、一分だろうと半日だろうと、じっとしていられないことに違いはない。
煙 に揺 れる視 界 が、こちらの姿を見つけようといるイールギットを捉 えている。
イールギットは笑っている。あとどれほどの時間、彼女は生きているのか。それは分からないが、決して長くはないその寿 命 を使って、道連れを増 やそうとでもしているのか。それも分からない。
心に浮 かんだ構 成 は、自分が受けた魔術に負けず劣 らず、単 純 なものだった。そして強力なものだった。正気を失ったイールギットには、防 ぐことはできまい。彼女のとどめを、自分が刺 すことになる。
息を吸 う。煙 の混 じった、苦い呼 気 。苦い唾 液 。苦い舌がうねって、喉 の奥 へと引っ込んでいくような、苦い錯 覚 。
「光よ!」
構成が完 成 する。こちらを見て笑っていたイールギットの表情が、驚 愕 に強 ばり──
魔術は発動しなかった。構成が消え失せ、魔術として具 現 しかかっていた魔力が行き場を失い、その衝 撃 に転 倒 する。転んだ拍 子 に口に入った泥 を吐 き出して、レティシャは起き上がった。手のひらで汗 をぬぐう。炎 の中、肌 が焼かれる激 痛 と、また別 種 の痛みとに叫 ぶ。
「イールギット!」
地面に押 しつけたまま握 りしめた拳 が、焦 げた泥を摑 んだ。熱い。
「生きてるの⁉ 正気なの⁉ 返事をして──」
「レティシャ」
耳 障 りな哄 笑 をやめて、イールギットが叫び返してきた。左肩を押さえたまま、ふらりと頭 をこちらへ巡 らせて、
「気をつけて......ふたりとも、まだ生きてる!」
ふたり。どのふたりのことか。
それを理解するのに、数 瞬 の躊 躇 があった。
その躊躇の間に、容 赦 なく現実が割り込んでくる。その不 快 感 に、悶 える。
「轟 け」
厳 然 とした声が、なにかを命じた。
命令は、現実への強制力を持っていた。魔術の構成とともに放 たれた呪 文 。迎 撃 するだけの時間はあったはずだったが──
レティシャは動けずに、その構成を見上げた。煙にむせて、声が出せない。できるのは、その構成を見て取って理解することだけだった。力が収 束 していく。重 傷 のイールギットへと。
爆 音 が、イールギットをずたぼろに引き裂 く。縦 に跳 ねて、地面に打ち付けられてからまた空へ放 り上げられるイールギットの姿 は、場合が場合であれば滑 稽 ですらあった。かろうじて身体に貼 り付いていた彼女の左腕が、身体からすっぽ抜 けて別 個 に飛んでいく。
狂 っていたのか。正気だったのか。それを確 かめる余 裕 すらなく、イールギットの身体は地面に落ちて、そして動かなくなった。
そのことが、なによりも理 不 尽 に思えた──確かめられなかったことが。
(分かりそうなもんじゃない......?)
顔を見て、会話をかわせば十分だろう。友人の正気を見定めるのに、それで足りないとは思えない。だが、確かめられなかった。
レティシャは顔を上げた。魔術によってもたらされた爆 風 が、炎の勢いを自分から遠ざけているうちに、立ち上がる。
木々の間から、暗殺者が、シーク・マリスクが姿 を見せたところだった。折れた剣 ──最初の熱 衝 撃 波 から逃 れる際 、破 損 したのだろう──を握 った右手を、突 きだしたまま歩みだしてくる。
駆 け出しながら、拳 を固めた。レティシャは真 っ直 ぐに暗殺者の正面に駆け寄ると、こちらを向いた男を蹴 りつけた。コンパクトに振 り上げた脚 で、男の右腕を打ち払 う。剣が、暗殺者の手から抜けて落ちる。相手の顔に、驚 きはなかった。
倒 されることすら予想していたように、蹴られ続ける間もシークは沈 着 冷 静 だった。彼が反 撃 できないうちに、レティシャは蹴り脚を下ろさず、敵 の右 腿 、下腹と順番にブーツの爪 先 を突き刺 した。最後、衝 撃 に屈 んだ暗殺者の胸元を蹴り上げる。
仰 向 けに倒れたシークの顔面を踏 み砕 いて、レティシャはそのまま振り返りもせず、庭 園 の森の中に逃 げ込んだ。最初の爆 発 でここまで飛ばされていたらしい、連 射 式 ボウガンを拾 い上げ、木々の間を縫 って走る速度を上げていく。
大声をあげることはしなかった。が、冷静を取り繕 うつもりもなかった。
怒 り狂 って、レティシャは走り続けた。庭園の奥 、領 主 の館 に向かって。
(ダミアン・ルーウ──)
震 える息が、呪 詛 となって吐 き出されるのを自分で聞く。
(出てきなさい。わたしの前に出てきなさい!)
叫 びながら、それが叶 わないのは分かっていた。
白魔術士の手 管 は読めた。
こちらの隙 をついてキリランシェロを遠ざけ、彼の見えない場所で、自分と暗殺者たちが潰 し合い潰れ合うのを傍 観 する。そして、勝ち残った者を始末して偽 装 し、すべてを収める。
彼らが、レティシャを邪 魔 者 として排 除 したい反面、最終的にキリランシェロの協力を必要としていることを考えれば、確 かに良い手だ──つまりは、レティシャが死んでも、それを暗殺者の仕 業 にできればキリランシェロの反発を招 かずに済 む。疑 念 を抱 きながらも、キリランシェロは納 得 せざるを得ないだろう。まだ彼らの手の内には、クリーオウやマジクのような人 質 がいる。
敵にとって、この計画にはリスクがない。
ただひとつ、本当に領 主 が暗殺されてしまいかねないことを除 いては。
(そして、もうひとつ)
彼女は、胸中でつぶやいた。暗殺者と、イールギットと、自分。生き残るのがレティシャであった場合、ダミアンはどうしても、彼女と直接対決しなければならなくなる。
逆に言えば、ダミアンの手 駒 がなくなるまで勝ち続けなければ、白魔術士と相 対 することはできない。
この庭園にいる、領主の兵士たちは全 滅 したとシークが言っていた。それが本当なら、残るは、暗殺者のもう片割れ──あのなんとかいう若い男だけだった。相 棒 を倒 されたというのに、周囲に彼の気 配 はない。領主の館に向かっているに違 いない。それを追って、レティシャも足を速めた。
◆◇◆◇◆
「レティシャ・マクレディ。やはり、君が我 々 を殺すのは無 理 だ」
シークはそうつぶやくと、ゆっくりと上体を起こした。打たれた箇 所 に触 れて負 傷 の具 合 を確かめながら、独 りごちる。
「死 亡 を確認もせずに行ってしまうようではな」
落とした軍刀を探そうと見回したのは、ただの感傷に過ぎなかった──刀身の砕 けた剣を見つけたところで、持っていく意味はない。視 線 が、こちらに向けられた切っ先に触 れた時、彼は動きを止めた。
それを奇 跡 だとは思わなかった。自分とて、彼女の死亡を確 認 などしなかったのだから。人の生き死にとはそんなものだ──暗い淵 の水底にある石の形を、手探りで調べるのにも似 ている。確かめるまでは理解できない。確かめたと思っても裏切られることがある。腕 一本を失い、魔 術 の直 撃 を受けて壊 れた身体 で、不安定に立っているイールギットを見つけても、ただそれだけのことだった。彼の軍刀を構えて、こちらに向かってこようとしている。足取りを見る限り、十年待っていたとしても、たどり着くことはなさそうではあったが。それもまた裏切るかもしれない。
シークは口を開いた。
「マリア・フウォン教師はわたしに言ったよ。君が生きてもどらなければ、わたしを殺すとね」
一呼吸はさんで、続ける。
「だから、できればせめて君だけでも生きて帰って欲しかった。そう思う」
静かだった。森を焼いていた炎 も消えて、こんな時に必ず無 駄 口 を入れてくる生徒もここにはいない。
「さて......わたしも行くよ。カコルキストかわたし、どちらかが目的を達する。レティシャ・マクレディも、ふたりいるわけではないからね」
振 り返り、彼は庭 園 の奥 を目指して歩き出した。まだこちらに向かって進んでこようとしているイールギットの死亡を確認するつもりにはなれなかった。
◆◇◆◇◆
「光よ!」
白光が虚 空 を貫 く。
空間を歪 ませる障 壁 に激 突 し、それが爆 発 する。感じる震 えが、その振 動 なのか、それとも身体の震えか。判 断 がつかずに、レティシャはただ寒 気 を感じていた。
熱 衝 撃 波 は容易 く木々を薙 ぎ払 い、視 界 を開いた。輝 きと炎とが、闇 夜 を燃え上がらせる。
にわかには、信じられないことではあった──が、驚 くほどのことでもなかった。そのひとつの事実を、彼女は胸に刻 み込んだ。
(......わたしと互 角 の術 者 !)
魔 術 士 とは、魔術を扱 える人種のことだ。様 々 な者がいて、得意とするものも異 なる。そして、その扱う魔術の威 力 にも個人差があり、癖 がある。
およそ、その力の総 量 において、自分に匹 敵 する魔術士など、《塔 》にもそうそういなかった。教師のような化 け物 連中を除 けば、妹であるアザリーか、同教室のコルゴンくらいのものだったろう。
真正面から撃 ち合えば、自分だけが力負けすることなどまずあり得ない。その自負があった。その相手が、チャイルドマン・パウダーフィールド教師であろうと、マリア・フウォンであろうと、王 都 の魔 人 プルートーであろうと。
その渾 身 の魔術を真 っ向 から弾 き返し、暗殺者は炎に照 らされた明るみから、木々の陰 、さらに深く視 線 のとどかない闇へと姿 を消していった。
(東部の魔術士にも......いるってわけね。こんなのが)
どうしても名前を思い出せないその若い暗殺者の、せめて顔だけでも記 憶 しておこうと思いながら、その姿 を追う。
右手でボウガンを構えたまま、左 腕 を掲 げる。暗殺者が姿を消したその陰 に、もう一度確 かめるように、彼女は叫 んだ。
「光よ!」
光熱波が標 的 を襲 い、そこにあるものをなんであれ焼き尽 くそうと、猛 り狂 う。人体を構成する物質など、容易 く灰 にする熱 量 。確 実 な死をもたらす。だが、そうはならないだろうという確信も、レティシャにはあった。
「撃 て!」
聞こえてきたのは、高らかな呪 文 だった。同じく膨 れあがった真っ白の光の渦 が、彼女の放 った魔術とぶつかり合って爆 音 を立てる。
ふたつの魔術が効 果 を無 駄 にして、炎だけを残して消えた。
爆風に吹かれて、ボウガンを突 き出す──
炎 と熱とが、さらに深く闇 をえぐったはずだったが、その奥 に暗殺者の姿はなかった。こちらを無 視 して進むつもりか、それとも罠 を張 っているのか。
強大すぎる魔術には、難 点 もある。強ければ強いほど極 端 に制 御 が難 しくなっていく。力が同じならば、その使い方で勝敗は決まる。彼女はそれを胸に刻 み込んだ。そして舌打ちした。自分に、キリランシェロほどにまで卓 抜 した制御力があれば、問題はないのだろうが。ないものねだりをしても仕 方 がない。
力 押 しが通用しない相手。かといって、変化を工 夫 するだけの制御力は自分にはない。
(魔術は使えない......)
接近して、制するよりほかになかった。
駆 け出そうとする。
と──
タイミングを合わせたように、声が響 いた。
「踊 れ」
構 成 の展 開 は迅 速 だった。空間を圧 倒 し、周 囲 を埋 め尽 くす。
発動までのタイムラグを、レティシャは覚 悟 のために使った──それと、防御のための魔術の構成を編 み上げるのと。
「壁 よ!」
叫ぶ。
衝 撃 波 の踊 る気 配 が、彼女の造 り出した壁 の向こう、空間を断 絶 した暗 闇 の向こうに連続して鳴り響 くのが分かった。壁が消える。同時に、レティシャは飛び出した。ボウガンを構え、姿 勢 を低くして間合いを縮 める。
暗殺者が立っていたはずの木立の間。そこに飛び込むが、敵 の姿 はなかった。が、気配を感じる。
(右......)
総 合 的 な勘 でしかないが、それは確 信 だった。彼女が振 り向くと、また声が聞こえてくる。
「砕 けろ」
「壁よ!」
ふたつの魔術の構成が衝 突 し、ともに消えた。なにも残らず、闇と夜風が通り過 ぎる。
「なっ......⁉ 」
レティシャは無言で硬 直 した。敵が放 った構成を読み解 く時間はなく、最も効果がありそうな構成で対 抗 したのだが、どうやら相手はそれを見 越 していたらしい。暗殺者が放ったのは、こちらの構成を砕 く構成だった──攻 撃 するのではなく、こちらの防 御 を消すための魔術を造 り上げたらしい。
となれば、次は。
(攻撃してくる──!)
レティシャは身構えて、歯を食いしばった。構成の編 成 には集中力を要する。続けざまに構成を編 むこともできないわけではないが、確 実 性 を損 なう。自分の構成力では不 可 能 だろう。
だがそれは、相手も同じはずだった。
消えた壁の向こうから、暗殺者ののっぺりした顔が飛び込んでくるのが見えた。一気に距 離 を詰 めて、接 近 戦 を挑 むつもりか。それならば、望むところだった──ボウガンの引き金を引き絞 って、それに応じる。
小 刻 みにボウガンが震 え、矢を四本射 出 した。なだらかに空を引き裂 いて、標 的 へと突 き進んでいく。暗殺者は全速力で走りながら、器 用 に身を翻 してそれをかわした。信じがたい動きではあったが、それは予想のうちでもあった。連 射 式 ボウガンの台 尻 からフックを引き出して、レティシャは相手が接近してくるのを待った。待ったというほどの時間でもない。半秒か、一秒もなかったろう。だが長く感じられた。
暗殺者が突 然 転んだ──ように見えた。まるで前転するように頭から地面に転がり、そして、逆 立 ちの姿 勢 になるところで、地面を摑 んでいる両 腕 を突きだした。伸 び上がった足が、顔面に向かってくる。
奇 襲 ではあったが、見えていればどうというほどのものでもない。レティシャは体 さばきしてかわすと、暗殺者が地面に突 いている腕 を蹴 り払 った。
そして、足首を摑 まれた。
(............っ⁉ )
最初から、それが狙 いだったのだろう。気がつけば暗殺者は寝 ころんだまま、こちらの右足首をしっかりと抱 え込んでいた。いつの間に取り出したのか、彼の左手に、細い短 剣 が現れている。男の表情に変化はなかった。のっぺりとした無表情で、その短剣の刃 を垂 直 に、こちらのふくらはぎに突 き立てる。
微 かに痛みが走ったが、戦 闘 服 に救われた。暗殺者の剣が黒 革 の表面を滑 り、多少の傷 は受けたかもしれなかったが、それだけだった。力任せに、足を引き抜 く。そのまま、かかとで敵 の身体 を蹴り抜こうと狙 ったが、暗殺者はまた身体を回転させると、すぐにとどかないところへと逃 げていった。三歩ほど離 れた場所で、素 早 く立ち上がり、こちらを向く──同時ではなく、それより速かったろう。手の中のナイフを投げつけてきた。追 撃 しようとしていたこちらの鼻先をかすめて、刃の銀光が通り過ぎていく。
レティシャは相手を見 据 えたまま、ボウガンのフックを、手 近 な木の枝に引っかけた──訝 しげに、暗殺者が顔をしかめるのが見えたが、もともとこのフックはそのためのものだった。枝に引っかけられたボウガンに体重をかけて、思い切り引く。と、フックと連動した弦 が巻き上げられ、新しいカートリッジがセットされる乾 いた音が響 いた。
これがどういった武器であるか、悟 ったのだろう。暗殺者は身 軽 にその場を飛び退 いて、その射 程 から逃 れようと間を空 けた。が、遅 い。レティシャはボウガンを構えると、標 的 を狙 って矢を放 った。四本の矢は暗殺者の身体をかすめ、一本だけが、脇 腹 に突き刺 さった。小さな悲鳴があがる。暗殺者は無 造 作 にその矢を引き抜くと、それを地面に捨 てた。
捨て鉢 になったのか、彼はそのまま再び飛び込んできた。ボウガンの中にはまだ予 備 のカートリッジが残っているが、さすがに再び弦 を引く時間はない──レティシャはボウガンをその場に投げ捨てると、構 えを取った。手 傷 を負った相手と格 闘 ならば、負ける要 素 はないと思えた。暗殺者が両手を広げて、襲 いかかってくる。
拳 を固めて突きかかってくる相手から、一歩飛び退いて間合いを広げ、レティシャは低めに蹴りを放った。水平より下に、敵の腿 を狙 って爪 先 を飛ばす。男の身体に、ブーツの先 端 が突き刺さった。バランスを崩 して、暗殺者が転 倒 する。
いや、よろけただけで、彼は踏 みとどまったらしい。が、隙 は隙だった。続けて踏み込むと、レティシャは勢いをつけて右足を振 り上げた。胴 に折 り畳 むほどに足を上げると、そのまま、体 勢 を崩 して低くなった敵の首 筋 を狙 って、かかとから振 り下ろす。
直 撃 すれば首が折 れていただろうが、暗殺者はぎりぎりで受け身を取ってかわしてみせた──が、それでも肩 口 を足がかすめて、引きずり倒 される形で彼は倒れた。
これで終わり。つぶやく間もなく、レティシャは倒れた暗殺者の腹を思い切り踏 みつけた。敵の肉と骨が歪 んで、決定的に壊 れる不 快 な感 触 がブーツ越 しに伝わってくる。そして、痛み。
(......痛み?)
激 痛 だった。頬 が引きつる。暗殺者は地面に寝 転 がったまま、こちらの足を抱 え込んでいた。既 視 感 にも似 た、軽い驚 きと、もうひとつ、レティシャは驚 愕 にうめいた。
暗殺者の手の中には、ボウガンの矢が一本、握 られていた。恐 らく、先ほど彼に突 き刺 さったものだろう。暗殺者はそれを、抱 え込んでいるレティシャの足の、先ほどナイフを刺そうとしたまったく同じ場所に深々と突き立てていた。
(矢を......捨 てたふりをして持っていた⁉ )
罵 って、飛び退 く。足から感覚が失 せていく。筋肉を支配する感覚が失せて、痛みだけが伝わってきていた。
暗殺者が──踏みつぶされた脇 腹 を抱えて、立ち上がるのが見えた。向こうのほうが重 傷 なのは間違いないが。レティシャはうめいた。足が動こうとしない。ボウガンは、地面に転がっている。
「治しなよ」
唐 突 に、暗殺者が言ってくる。レティシャは苦 笑 して、口を開いた。
「......その隙 に、飛びかかってくるんでしょう?」
「とても長い足だ。とても、長い足だね。あなたの足」
そのつぶやきも、唐 突 だった。暗殺者は、悪ふざけをしているふうでもなく、血のにじむ腹を手で押 さえたまま、淡 々 とこちらを見つめてきている。
「............?」
疑 問 符 を浮 かべて、レティシャは顔をしかめた。暗殺者があとを続けた。
「......気になってるんだけどね」
と、息をつく──ボウガンで撃 たれ、そして踏み抜 かれた脇腹は、確 かに重傷なのだろう。暗 闇 の中で、もう息をひそめることもできず、荒 い深 呼 吸 を繰 り返している。だがそれでも声だけは冷静なまま、彼は続けてきた。
「レティシャ・マクレディ。名門《牙 の塔 》の誇 る魔 術 士 のひとり。紛 れもなく最強のバトル・アスリーテス」
「アスリート」
「バトル・アスリート。ぼくの敵 う相手とも思えない」
彼は存 外 にあっさりと、言い直しに応 じてくれた。それが、自分でも可 笑 しかったのか、そんな笑いを浮 かべて、
「──というのに、なかなかどうして、なんとか互 角 に渡 り合えそうだ。なんでだろう」
「............」
「さっきから足しか使わないね。よほど性格がおおざっぱなのか、それともぼくを侮 ってるのかと思ったけど、そうでもなさそうだ。ひょっとして......手を使えない理由でもあるのかな」
ぎょっとして、レティシャは思わず左手を後ろに回した──もうそれほどはっきりと傷 痕 が残っていたわけでもなく、近づいて観察しなければ分からなかっただろうが。はっきりと、それは下 策 だった。舌打ちする。挑 発 に乗ってしまった。
だが。
隠 してから、その馬 鹿 馬 鹿 しさに気づく。レティシャは左手を、彼によく見えるように掲 げてみせた。
拳 を握 ろうとする。が、曲がったのは、四本の指だけだった。小指だけは震 えながら、動こうとしない。
「からかってるわけじゃないわよ。古傷......ってほど古くはないけれど。治りきらなかった。それだけよ」
「なるほど」
「右手は使えるわ」
「片手じゃ戦 闘 はできないね。なるほど。妙 に武器に頼 ったりして、変だと思ったんだ」
しゃべるごとに、暗殺者の容 態 は悪化しているように見えた──顔面も蒼 白 になっているというのに、見開かれた目は血走っている。
だが状 態 が悪くなっていくのは、こちらも同じだった。矢が突 き刺 さったままの右足が、震えを大きくしているのが分かっていた。
レティシャは、左手を下げて、聞いてみた。
「キリランシェロのことは知らなかったのに、わたしのことは知ってるみたいね」
「知ってるよ。ぼくより強い魔術士のことは、みんな知ってる。あなたの弟のこともね......そりゃそうだ。ぼくはひょっとしたら、あなたたちの暗殺を命じられることもあったかもしれないんだ」
そこまでだった。暗殺者の身体 が、がくんとひざまずいた。力つきたのか、腹 を押 さえたまま両 膝 をついて、呼吸をさらに荒 らげる。
「なんで......出しゃばってきたの......かな? あなたは、こんな荒 事 をするようなタイプじゃない......と思うんだ」
今 際 の際 の繰 り言に、答える価 値 があったのかどうかといえば、それははっきりと否 だった──が、レティシャは暗殺者を見下ろすと、かぶりを振 った。
哀 れを感じたのではない、と自分に言い聞かせる。それがなんであるのか分からないまま、彼女は告 げた。
「......呼び声が......ね。ある夜よ。突 然 目が覚めて、わたしを呼んだのよ」
「まるで......わけが分からないね。そんな理由で......邪 魔 されたんじゃ、さ」
「あなたが殺した人たちも、そう思ったでしょうね」
と、言ってから、死に逝 く者に無 用 の鞭 を打ってしまったことにレティシャは軽い後 悔 を覚えたが、暗殺者はかえって気に入ったようだった。笑いだし、横 隔 膜 の痙 攣 に短い悲 鳴 をあげてから、言ってくる。
「そりゃあ......そうだね。そりゃそうだね」
ヒステリックな笑いの発作の後、暗殺者は急に、声の調子を落とした。
「どうせなら......シーク師 も......止めてくれないかな。あなたを攪 乱 してから、別行動で任務を遂 行 するって......言ってた。あなたが止めてくれれば、捕 虜 になるくらいで......済 むかも。ぼくもね」
「彼なら既 に──」
言いかけたレティシャを、暗殺者は引きつった笑 みで制した。
「倒 したと思ってるかもしれないけど......無 理 だよ。彼は領 主 のところに向かってるさ」
「あなたたちを断 罪 する資 格 なんてわたしにはないわ。けれど、あなたたちを助ける義 務 もないわよ」
冷たく、告 げる。暗殺者は、また笑った。いや泣いたのかもしれない。
「そりゃそうだけど......きついな」
「第一、領主の兵をさんざん殺したんでしょう? 今さら捕 虜 になんかなったところで、私 刑 の餌 食 になるだけで」
「殺してない」
低いつぶやきだった。聞き取れないほどの。
目をぱちくりさせて、耳をすます──と、彼はもう一度繰 り返してきた。
「ぼくらは殺してない......奇 妙 だ......とても奇妙なんだ。ぼくらが殺すまでもなく......みんな死んでた。ぼくらが来た時には、既に」
「そんなこと、信じるとでも思ってるの?」
「あなたは......ぼくを断 罪 しないんだろう? だから......言ってるんだよ。信じなくても......いい。聞いてくれれば」
暗殺者は脂 汗 の量を増 やして、口 早 に囁 いた。噓 を言っているように見えたわけではない。が、レティシャは顔をしかめた──
(なにを言っているの? 彼は)
わけが分からずにいるうちに、暗殺者は続けた。言葉とともに、ぐらぐらと身体を揺 らしながら。
「イールギットも......ぼくらがここに来た時には......死にかけていた。治 療 しようとしたけど、どうしようもなかった......彼女は錯 乱 していたようだし、近づくこともできなかった」
暗殺者が顔を上げた。が、既 に焦 点 が合っていない。
「ぼくらは......ひょっとしたら、あなたがやったんじゃないかって思ってた......ここの兵士を皆 殺 しに。でも、その手じゃ、できたはずがない......ね。いや、そんなことは問題じゃないな。シークが言ってた。みんな、素 手 での一 撃 で殺されてる......って。人 間 業 じゃ、ない......まるで......ドラゴン種族の......」
「誰 か......ほかに暗殺者がいるっていうの?」
聞き返す。いまだ名前を思い出せない、この眼 前 の男はなんとかうなずいてみせた。
刹 那 。
土と靴 底 がこすれる、足音が耳に入った。
背筋に、冷たいものが走る──暗殺者に告げられたことが、すべて脳 にあふれて命令の洪 水 を起こしたようだった。身体が動かない。もとより、負 傷 した足は動かせない。身動きできないうちに、視 界 は二度、変化した。
まず見えたのは、暗殺者の背後に、人間がひとり、ふらっと現れたことだった。剣 を構えた、中年の兵士。それが剣を一 閃 して、若い暗殺者の首を切り落とした。
そして、視界全体が激 しく振 動 して、なにも見えなくなった。地面を転げ回っている──それは分かっていた。背中から、一 撃 。強 烈 な衝 撃 を受けて、吹 き飛ばされた。ようやく回転が止まり、地面に倒 れたまま顔を上げると、そこに拳 銃 を手にした年若い兵士がひとり、立っているのが見えた。銃口から細い硝 煙 が伸 びている。レティシャは背中に手を回した。べったりと、血がついている。撃 たれた、と短く理 解 した。見下ろすと、戦 闘 服 の腹 部 に小さな丸い穴が開いている。弾 丸 が背中から腹に貫 通 したのだろう。
現れたふたりの兵士たちに、見覚えはなかった。が、ここの私兵であることは疑いなかった。剣を抱 えたほうが、小さくつぶやくのが聞こえてきた──
「......これで、酒が飲めるな」
レティシャは、絶 叫 した。同時に勝手に 編 み出された魔術の構成が、世界に具 現 した。拳 銃 を持ったまま、棒 立 ちになっていた若い兵士の身体が、なんの前 触 れもなく圧 壊 する──あるいは身体の内側から、何者かの手によって折り畳 まれるようにして、人の形をしていたものが、呆 気 なくつまらない肉 塊 へと変じた。突 如 として圧力を強めた空気に押 しつぶされ、血を飛び散 らせることすらなくこの世から抹 消 される。
もうひとりの兵士が、なにかを毒づいたかもしれない。だがレティシャは聞いていなかった。身体は動こうとしなかったが、顔だけをそちらに向ける。剣を振 り上げ、こちらに突 進 してこようとしているその男へ、彼女はさらに激 しく叫 び声をあげた。
意味のある叫びなどではなかった。悲鳴にしか聞こえなかったろう。が、その声は魔術の構成を伴 っていた。
男の身体が、炎 に呑 み込まれた。熱 衝 撃 波 の渦 に、溶 けて消える。
それでも終わらない絶 叫 を耳に──レティシャは、頭を支えていた首から力を抜 いた。どさり、と地面に倒 れ込む。動けなかった。声も出せない。
(死ぬ......)
レティシャはつぶやいた。夜空が見える。傷 口 から盛 大 に血 液 があふれ出ていく感 触 に、おののく。
(死ぬの......? わたしは)
「わたしは君を癒 せるがね。どうする? レティシャ・マクレディ」
聞こえてきた声に、レティシャは考えを止めた。
見上げる夜空。そして、こちらを見下ろすように、男がひとりそこに顔をのぞかせていた。
ダミアン・ルーウ。レティシャは、微 笑 した──ついに。出てきた。
呼吸はとどまらず、疲 れ切った肺 をいつまでも収 縮 させた。だがそれが、どこまでも苦痛であろうと、止まるよりはましなのだということも分かっていた。止まれば、もう二度と動かせない。
レティシャはまぶたを開いたが、視 界 がかすんでいくのをとどめる役には立たなかった。指一本、動かせない。身体から体液が減 っていく。肺が酸 素 をいくら取り入れようとしても、それを全身に運ぶだけの血液が血管に残っていない。
死が間 近 に近づいている。それは分かっていたが、レティシャは笑いをこらえることができなかった──ダミアン・ルーウの顔が見える。手のとどくところにいる。
彼は余 裕 たっぷりに、続けてきた。
「いまだに君の目的が分からない。それを聞くまでは、癒 すわけにはいかないな......分かるだろう?」
「わ、た、し、の、目的、は」
一句一句を区切って、レティシャは声をあげた。止まろうとしなかった呼 吸 が、そこで途 切 れる。
ダミアンの顔が、少し近づいたように思えた。屈 んだのだろう。
(死んだと思ってる?)
レティシャは、声に出さずにつぶやいた。背中に回していた左手で──ベルトの後 ろ腰 に留 めてある鞘 から、パリイング・ダガーを引き抜 いた。競 技 用 のもので、実用性はあまりない武器だが、受け流し用のハンドガードがちょうど手首を固定してくれるため、指の不自由な左手でも保 持 できる。
上体を跳 ね上げ、剣 先 を放つ。肉 厚 の刃 が、ダミアンの口の中に突 き刺 さった。白 魔 術 士 は、避 けようともしなかった。脳 に達するところまで刃が突き込まれてからようやく、彼は仰 け反 って驚 愕 の表情を見せた。

「この庭は?」
オーフェンは腕 組 みして、門を見上げた。鉄製の、蛇 の門。ウィノナが答えてくる。
「この奥 に、領 主 様 のお屋 敷 があるのさ」
聞かなくとも分かるようなことではあったが。
それはあえて言わず、オーフェンは視 線 を門からウィノナへ、そしてもうひとり──ロッテーシャへと移した。
「大 丈 夫 か?」
かなりの距 離 を歩いた。レキがいたという西 端 から、数時間はかかっている。が、いつもならばついてくる体力などなかったはずのロッテーシャは、目を潤 ませて、常になく興 奮 している様子だった。疲れがないわけではないだろうが、それを感じていないのか。剣 を抱 き、息を弾 ませ、頬 を紅 潮 させている。
「ええ」
彼女は、意 気 込 んで進み出てきた。
「ここに、エドがいるんですか?」
「いないって言ってんだろ」
無 愛 想 な声 音 で答えたのは、ウィノナだった。拳 銃 の輪 銅 式 弾 倉 を外して、弾 丸 を確 かめながら、
「聞いた端 から忘れてんのかい?」
「あなたには聞いてません」
きっぱりと、ロッテーシャが告 げる。
必要以上に激 しく音を立て、ウィノナが弾 倉 をフレームの定位置に押 し込んだ。瞳 をぐるりと移 動 させ、横目で剣 士 の少女をにらみやると、皮 肉 げにうめく。
「急に態 度 がでかくなったじゃないさ?」
「あなたは、なんだか不 愉 快 なんです。前から、ずっと」
「剣が使えるようになったとかで、安全だとか思ってんのかい?」
銃口を──
ロッテーシャに向けるほど愚 かではないらしい。ウィノナはホルスターにそれを収め、挑 戦 的 な仕 草 で鼻を鳴らした。
逆に、それを無 視 できるほどには老 練 ではなく、ロッテーシャが声の調子を何段階か上げる。
「父の剣です。使うからには、父と同じようにうまく使います」
「そんなくだらない棒 っきれでユイスを殺せると思うのなら、試してみりゃいいさね──」
「うるせぇ。黙 ってろ」
横から静かに、オーフェンは告げた。
目つきを鋭 くして、ウィノナがこちらをにらんでくる──同時に、勝ち誇 った笑 みを浮 かべるロッテーシャにも、オーフェンは続けた。
「ロッテーシャ、君もだ。本当に聞いた端から忘れてんのか。アーバンラマで言わなかったか? コルゴンに通用する力が欲しいなら、この空気を覚えておけってな」
「え?」
きょとんとする彼女に、冷たく視 線 を投げる。
オーフェンは、戦 闘 服 の首もとを直しながら、深 呼 吸 した。視界の闇 がいっそう深まり、そして、薄 くなる。
「ウィノナ。領 主 は、身 近 に護 衛 を置いていないのか?」
「なわけないだろ。ここにゃ、何人も配 置 されてる」
「全員死んでるぞ」
気 配 ではない。臭 いというわけでもない──
が、暗い庭 園 の森の奥 を見 据 えて、オーフェンは断 言 した。
「そうかい」
さほど感動もなく、ウィノナがつぶやくのが聞こえてきた。そのまま、淡 白 にあとを続ける。
「......ぐるりと見回って、残るはここしかないってんで来たんだ。そりゃ、暗殺者は当然、あたしらより先行してここにたどり着いているはずさね?」
「最初から、ここに来れば良かったんじゃないですか?」
まだ続きを引きずっているのか、とげとげしくロッテーシャが声をあげた。ふん、と一笑して、ウィノナが答える。
「暗殺者相手に守りを固めるのは大 馬 鹿 者 さ。見つけだして、こちらから狩 るんだよ」
「関係ない。逃 げるしかない」
「え?」
口をはさんだオーフェンに、ウィノナが聞き返してきた。肩 をすくめて、オーフェンは続けた。
「本気で暗殺者に狙 われたなら、守っても攻 めても無 駄 だ。逃げるしかない。暗殺者なんていくらでも代わりがいるが、狙われた者の命はひとつだけだからな」
「領主様は逃げやしないさ。あの方は」
「なら、死ぬだけだ。俺 の知ったこっちゃないが、クリーオウたちに害 が及 んだ時には」
そこまで告 げて、言葉が途 切 れた。それを、躊 躇 と思ったのか、ウィノナが、にやりとする──
「及んだ時には、なにをするってんだい?」
本当に、なにをするのだろう。
オーフェンは声なくつぶやき、そして嘆 息 にして漏 らした。
(気に入らない人間を皆 殺 しにでもするか?)
物 騒 なことを考えながら、自分の感情が動かないことに、虚 無 感 を覚える。この戦 闘 服 のせいか、とも思えた──《牙 の塔 》の戦闘装 備 。これは一種のマインドセットだった。装備は目的を明 確 にし、そして意 志 を固定する。レティシャがわざわざ自分の分までこんなものを持ってきた理由が、なんとはなしに知れる気がした。
(ティッシはなにかを覚 悟 していた)
最後に見た姉の様子を思い出しながら、つぶやく。
(俺 にも、なにかを決めろと言っているようだった......こんな拳 銃 まで持ってきて促 すってことは、戦えと言いたいんだろう)
だが、その戦う相手とはなんなのか。彼女は言わなかった。
当面は、《十三使 徒 》の暗殺者を止めなければならない。
が、人の気 配 がない庭 園 の闇 をのぞき込んで、オーフェンはうめいた。
「......もうとっくに、終わってるんじゃないのか? どうにも、ひとりやふたりの死体じゃないって感じだぞ」
「ダミアンからの連 絡 がない。まだ終わってないってことさ」
自信たっぷりに言ってくるウィノナに、顔をしかめる。装 備 をいくつか確 かめて、オーフェンは聞き返した。
「こっちから確認を取ることはできないのか?」
「向こうにその気があればね。さっき、声が聞こえてきたようにも思ったけど、なにかを伝えてくる前に途 切 れたよ。空 耳 と区別しにくいのが最大の欠点だと、あたしは思うね」
冗 談 なのかと一 瞬 思ったが、ウィノナの表情を見る限り、それは本気のようだった。
が、それならばそれでいい。オーフェンはつぶやいた。
「お前らはここに残れ」
「ざけてんじゃないよ。領 主 様 をお守りするのが、あたしの役目さ」
凄 むウィノナに、肩 をすくめる。
「なら勝手にしろ。俺はひとりで行動する。暗殺者相手に足手まといは欲 しくない。アーバンラマで懲 りたんでね」
「わたしは──」
困ったように声をあげてきたロッテーシャに、オーフェンは向き直った。みなまで言わせず、告 げる。
「好きにしろよ。ついて来たところで、コルゴンはいないぞ。いたら、こんなところまで敵 を侵 入 させやしないさ」
装 備 に問題はないようだった──未メンテナンスの拳 銃 は論 外 としても。すべてが一ないし零 挙 動 で取り出せる位 置 にある。
シーク・マリスクの顔を思い浮 かべた。それほど知っているわけでもない。《十三使徒》に所 属 するほどの魔 術 士 、かつ暗殺技能者となれば、《塔》を出てからブランクのある自分より数段上の相手であることは間 違 いない。もうひとり、なんとかいう名前の生徒も、わざわざこんな場所に連れてくるからにはそれと同 等 以上の術 者 だろう。が、不 思 議 と恐 れは感じなかった。
(......なんだろうな。怖 くない。)
ふと、違 う顔が浮 かんできた。ヘルパート。レッド・ドラゴン種族の暗殺者。アーバンラマで滅 ぼした相手。自分が戦わざるを得 なかった相手の中では、最強の存 在 だったはずだった。が、これももう怖 くはない。炎 の中に溶 けて消えたあの形 相 に、哀 れすら覚える。
(なんだろう)
直 面 している事 態 とはまったく関係のない疑 問 を浮かべ、オーフェンは庭 園 の闇 を見やった。暗い静 寂 が、答えを誘 ってたたずんでいる。
◆◇◆◇◆
シーク・マリスクはその館 を見上げて、場 違 いな感 慨 を覚えていた。
数々の間 者 がここに至 ろうとし、あるいはたどり着いたのかもしれないが、帰ってはこなかった。それはプルートー師 には、不 愉 快 なことであったに違いない。壮 年 に熟 し、最近では自 らを魔 法 使 いとすら称 する、人 知 を越 えた黒 魔 術 士 の長 。最 接 近 領 の領主は、彼にとって唯 一 の、そして最大最後の敵 であったはずだ。ついに決戦を決意して、差し向けた暗殺者が、自分となる。
チャイルドマン・パウダーフィールド教師ならば、どうしただろう。愚 にもつかない思いを、シークは嚙 みしめた。プルートーはあの若い暗殺者を歯 牙 にもかけないだろうが、一部は、力では互 角 と見る者もいる。あの《牙 の塔 》の暗殺者が最接近領の領主と戦うつもりになったならば、どうしただろう。やはり自分の生徒、たとえばサクセサー・オブ・レザー・エッジを遣 わせるだろうか。
(......もし、キリランシェロ君がここに来た理由というのがそれだとしたら、辻 褄 は合う......かな)
だが、違うと思えた。
チャイルドマンという魔術士と面 識 はない。が、聞く噂 ならばいくらでもある。キムラックに単 身 潜 入 して、教主を暗殺しようとしたとか、それは噂の尾 鰭 としても、どうしただろう──彼ならば、この最接近領にも自ら単 独 で乗り込んだだろうか? それもまた、あり得ないことのように思える。
(恐 らく彼ならば、手を出さないのではないかな)
彼はこの最接近領の領主とは、戦わない。
そう感じる根 拠 は、薄 弱 なものだった。聞く限り、チャイルドマンは《牙の塔》最 高 執 行 部 には逆 らわなかったという。逆らっても無 駄 なものがあるということを知っているのだ。いくら刃 向 かったとしても、動かせないものがあると。
今、標 的 が存在するであろう館 の前にいて、なおシークは懐 疑 的 だった。この暗殺は成 功 しない。領主は殺せない。心静かに、そう感じてしまう。成功を期待する高 揚 もなにもなく、自分はこの館の扉 を開け、それと同時に落 胆 しながら死を迎 え入れるような、そんな妄 想 だけが心を支配している。
(カコルキストは......どうなった? レティシャ・マクレディに挑 んだか? とすれば、うまくいけば捕 虜 になれるな。彼女は敵 を殺しはしないだろう......いや、どうかな?)
分からない。ただ、空耳とは思えない声が、耳の奥 にわき上がった。王 都 にて、怒 り狂 ったプルートー師 が、第二の刺 客 を指名する。
それはマリア・フウォンだろうか? その想 像 は面 白 かった。
だが彼は笑わなかった。館の扉に手をかけた。庭 園 の見 張 りはみな死んでいた。館の中にも、庭と同じく死の臭 いが濃 く漂 っていることを、彼は悟 っていた。呼 吸 がつかえ、剃 髪 した頭に汗 がにじむのを感じた。
◆◇◆◇◆
庭園は静かだった。
闇 に彩 られた静けさは、ただの静 寂 とは微 妙 に違 う──それは音ではなく、色でもなく、肌 で感じるものだった。
オーフェンは特に気にせず、その闇の中を進んだ。緩 慢 な警 戒 が働いているが、それも無 駄 なことかもしれなかった。歩く先に次々と、死体が現れる。
(......なんなんだ? これは)
すべて、領 主 の配 下 と思 しき人間だった。庭園を守っていたのだろう。それが不自然だったわけではない。異 常 は、その死体の状 態 にあった。
足を止めて、頭を粉 砕 された男を見下ろす。即 死 で疑 いない。首ごとねじれて、歪 んだ顎 が笑った形で固まっている。
(どんなことをすれば、こんな死体になるんだ? 魔 術 じゃない。力が一部に集中し過 ぎてる)
楔 を打ち込んであるようなものだった。一 瞬 一点に集中した破 壊 力 だけが、この結果をもたらす。魔術のように、有 り余 る力を叩 きつけるものとは違った。
(ドラゴン種族......? それも違う、か。ものすごく大 口 径 の拳 銃 ......ってわけでもない。どの死体も、傷 がひとつしかない。必ず一 撃 で殺されてる)
拳銃は、そこまで確 実 性 のある武器ではない。百発百中で急所に撃 ち込むことなどできるはずがない。
と。
「ふがいない連中だとでも思ってんのかい?」
聞こえてきた声に、オーフェンは振 り向いた。唐 突 に聞こえてきたという声ではない。庭園の入り口から、ウィノナは同 道 していた──オーフェンは苦 笑 すると、彼女に告 げた。
「俺 はひとりで行くっつっただろ」
「行き先が同じなだけさ。あたしも、領主様をお守りしに行くんだから」
不 機 嫌 そうに唇 を突 きだして、ウィノナ。オーフェンは頭をかいて、うめいた。
「だったら俺といっしょに立ち止まることはないだろ」
「うっるさいね。足手まといってのは、ロッテーシャのことだろ。あたしじゃない」
彼女は手を振って、そう言い切った。
実 際 、ロッテーシャは庭園の入り口からついてはこなかった。ひとりで置いていかれることに不平が出るかとも思っていたのだが、そういったこともなかった。剣 を抱 いたまま、それで構 わないとあっさりうなずいた彼女の顔を思い出して、嘆 息 する。
大 差 はないさ、と言いかけて、口をつぐんだ──口 論 しても実りはない。オーフェンは死体を示した。
「この死体を見て、思うことはあるか?」
「もう領 主 様 の役には立たないね」
「もう少し考えろよ。こんな死体、見たことあるか?」
こちらが言いたいことをようやく察 したのか、ウィノナは顎 に手を当てて黙 り込んだ。それほど長い時間ではなかったが、怒 りに焦 った狂 信 者 ではなく、優秀な兵士の顔にもどる。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「......王都にね。とんでもなく高いところを飛ぶ鳥と、運の悪い馬 鹿 がいてさ」
「うん?」
聞き返す。と、彼女は考え深げな表情を崩 して、あとを続けた。
「なにを考えたんだか、ある日、鳥が空から石を落っことした。大したことない石っころだよ。ちょうどその下を、運の悪い馬鹿が歩いててね。それを思い出した」
「意外と外れてないかもな」
オーフェンはうめいて、また歩き出した。ついてきながら、ウィノナが聞いてくる。
「なに言ってんだい? まさか鳥がやったことだとか言わないだろうね」
「少なくとも、それと同じ威 力 を持った武器だ。魔術じゃない──こんな精 度 の高い魔術はあり得ない。《十三使 徒 》が、なにかこんな新兵器とかを使ったってな可 能 性 があると思うか?」
「聞いたことないね。つまりは、ないってことさ」
「じゃあそれこそ、鳥がやったってことになるな」
破れかぶれにオーフェンはうめくと、足を速めた。庭園の奥に、大きな屋 敷 の影 が見える
(《十三使徒》とは違う......もしなにか特別な武器でもあるのなら、イールギットが教えてくれそうなもんだ)
と、視 界 が開けた。
そこは、森が焼 き払 われた跡 だった。広 範 囲 にわたって、木々が一方向に向かって薙 ぎ倒 されている。これは魔術の仕 業 だ──と、疑 問 もなくつぶやく。
そして。
はっと気づいて、オーフェンは声をあげた。倒 れている人 影 に、見覚えがある。
「イールギット!」
駆 け寄る。
焦 げた土は、踏 み出すたびに不安定にブーツをくるぶしのあたりまで呑 み込んだ。その焦 土 に突 っ伏 すように、イールギットが倒れている。重 傷 ──というより、死体にしか見えなかった。腕 が一本なくなっている。近くに、剣が落ちていた。刀 身 の半 ばで折れているが、これにも見覚えがあった。シークの持っていた剣だった。
抱 き起こして、彼女の顔と髪 から、土を払いのける。信じられないことだったが、彼女には息があった。ひどい火傷 を負っている。魔術で癒 せるような状 態 ではなかった。が、それでも構 成 を思い浮かべ、展開しかかった右手に、そっと、イールギットが触 れてきた。焼けこげた彼女の指先を、ぞっと見つめる。彼女は震 えていた。
「どうしたんだ......なにがあった?」
見当はついていたのだが、聞く。
もはや視 力 があるとも思えない彼女の瞳 が、こちらを向いた。それまで彼女もまた、自分の指先を見ていたらしい。咳 き込んでから、彼女は言ってきた。
「暗殺者......」
「すまない。聞くべきじゃなかった。しゃべるんじゃない」
彼女の声には、破 れた肺 から空気が漏 れる、笛 のような音が混 じっていた。一言を発するのも苦痛だったろう。イールギットを黙 らせるつもりで、手で口をふさぐ。
が、彼女の手がまた伸 びてくると、こちらを振 り払った。喘 ぎながら、続けてくる。
「みんな......みんな死んだ! きっと死んだわ......レティシャも。カコルキストも」
「やめるんだ──」
唇 を嚙 んで、うめく。彼女はやめようとしなかった。抱 きかかえられたまま、身を乗り出すように胸を突 きだして、わめき続ける。
「わたしももう死んでるわ! だから、わたしにも呼び声が聞こえた......今も聞こえてる。死んでるはずのわたしが、こうして話しているのは」
と、そこまで言ってなにか考え事でもするように、黙 する。あるいは、なにか彼女にしか聞こえない声を聞いているようにも見えた。
「あなたに言葉を伝えるため──あなたにも伝えるため!」
「落ち着け。錯 乱 しているぞ」
「キリランシェロ君......これは伝言よ。今は忘れてもいい。でも、必要な時に思い出して」
摑 まれた腕 。彼女にまだ、握 力 が残っていることが不 思 議 だった。こちらをとどめて、言い聞かせるだけの握力。
イールギットの言葉を、聞くしかなかった。急速に死につつある彼女を見下ろして。
「あなたの家族が待ってる......三人がそろうのは、十四日後!」
彼女が強く、咳 き込んだ。吐 血 するほどの血は残っていなかったのかもしれないが、内 臓 が傷 ついているのは外から見ても分かる。イールギットの息は、はっきりと血の臭 いを漂 わせていた。
「これは予言ではなく伝言......忘れないで。あなたが望まなければ、これは叶 わない。聖 域 で......待ってる人がいる......」
聖域で待っている。
十四日後。
言葉に出さず、その言葉を繰 り返す。一 瞬 、意 識 が遠いところを彷徨 うのを感じて、オーフェンは目を閉じかけた。が、やめた。彼女の眼 差 しが、ずっと見つめられることを望んでいるように思えてならない。
イールギットが言葉を止めた。発 作 的 な呼吸も、突 如 として衰 える。
最後に──それが最後なのだと、はっきりと分かった──、彼女は口を開いた。それまでとはまた違 う、か細 い声 音 で、言ってくる。
「もっと言いたいことがあったんだけど、もう言えないの」
事 切 れた彼女を、オーフェンは地面に横たえた。彼女に触 れていた自分の手を見下ろすと、血の跡 もついていない。生 乾 きの、彼女の血の感 触 が残っているだけだった。
いつの間にか、背 後 に近寄ってきていたウィノナが、つぶやくのが聞こえてきた。
「墓 を作ってる時間はないよ」
殴 ろうと思ったが、それはやめた。やつあたりにしかなりそうにない。
その気配を感じたか感じなかったか、彼女は続けて言ってきた。
「まさか、こんなので泣き出したりゃしないだろね? 死体ならほかにもごろごろ転がってるよ。今さらなんだってのさ」
オーフェンは立ち上がったが、振 り返らなかった。イールギットの死に顔を見下ろして、そして次 いで、折れたシークの剣を見やる。
「彼女を殺したのは《十三使徒》だ。これまでの死体と手口が違うな」
「ふうん?」
ウィノナは、さほどの興 味 を示さなかった。横目で見やると、領主の館のほうを気にしている。頭にあるのは、主人の安全のことだけらしい。
急かすように、彼女が聞いてくる。
「どうするんだい?」
「やるべきことは変わらないさ。この馬鹿げたことをやめさせる」
オーフェンは答えると、同じく、遠くにそびえる領主の館を見上げた。
館は庭以上に、静まりかえっていた。中から漏 れる光のひとつもない。これだけ大きく、古い建物ならば、軋み音のひとつもありそうなものだったが、それもなかった。夜の影がそのまま立ち上がったように、そこにある。
扉 は、開いていた。もう二度と閉まることはない。直さない限り。
根こそぎ吹き飛ばされていた。大がかりな爆 発 物 でも使ったように──だが、焦 げた跡 も、なにもない。ばらばらに砕けた扉の破片が、あたりに散らばっている。最も大きい破 片 はふたつだった。
ひとつには、シークの右半身が。もうひとつには、左半身が貼 り付いていた。
自分自身の血を接 着 剤 のようにして、ふたつに裂 かれた暗殺者が、そこにいた。
「こいつは──」
ウィノナの声すら、さすがに怯 えを含 んで震えていた。拳銃を取り出し、それを手の中で構 え、いや、その手つきは杖 にすがるようでもあったが。
「鳥の仕 業 じゃないね」
オーフェンは答えずに、館の中をにらみやった。扉の中。そこは玄 関 のホールになっている。
誰 もいない。気 配 もない。足を引きずるようにして、中に入る。
数歩歩いて、オーフェンはくるりときびすを返した。外を向く。扉 は、内側から真 っ直 ぐに吹 き飛んでいた。死体となったシークと、冷 や汗 を浮 かべたウィノナと、真正面に向き合って。
オーフェンは、足下を見やった。足 跡 がある。木 製 の床 をめり込ませている、ふたつの足跡。
その足跡に自分の足を合わせて、オーフェンは拳 を固めた。軽く、構える。
「......なにやってんだよ」
聞いてくるウィノナに、オーフェンは小さくつぶやいた。
「ここに、こうして構えていた奴 が、シーク・マリスクをそこまで吹っ飛ばした。一 撃 で、身体 を粉々にするほどの威 力 でだ。ほかの兵士を殺 ったのもこいつだ」
「なに言ってんのか、分かってんのかい?」
馬 鹿 にするように、ウィノナが声をあげた──ずかずかと、館 に入ってくると、拳 銃 を持っていない右手を振 り回してあとを続ける。
「まさかあんた、これが素 手 でぶん殴 った結果だって言うんじゃないだろうね」
「さあな。だが威 力 だけだったら、魔 術 のほうが上だ。戦えない相手ってわけじゃない」
ただし、恐らく同じことを考えたであろう《十三使 徒 》の暗殺者が手も足も出ずに殺された。その事 実 はあえて言わず、断 言 する。
足跡にはまっていた足を抜 き出して、わきに退 く。館の、天 井 を振 り仰 いで、オーフェンは続けた。
「ンなことより、クリーオウだ。ここにいるっつってたな? なにが安全な場所だ」
「領 主 様 が、あの子たちは保 護 するとおっしゃったんだ。無 事 さ」
「てめぇの寝 室 にまで敵 に踏 み込まれてるんじゃねぇか!」
苦い口 調 でうめくウィノナに、毒づく。館の中に、それと分かる生き残りの気配はない。腹の底に、嫌 な冷たさを覚えて、オーフェンは額を押 さえた──クリーオウなら。マジクなら。真っ先に飛び出して、真っ先に殺されるのではないかと思えてならない。ロッテーシャの言う通り、レキがここにいないのであれば......
「ふたりは館のどこにいるんだ!」
つかみかかるように、ウィノナに問いただす。と、彼女は後ずさりしながら答えてきた。
「そんなことは知らないさ。あたしゃ、ふたりをここまで運んできただけだ。ただ......領主様のお部屋は、四階だ。領主様はふたりに話をされたがっていたようだったから、そこにいるかも」
「ちッ!」
舌打ちして、館 の奥 へ走る。広い屋 敷 ではあったが、階段を見つけるのは苦 ではなかった。死体が転がっているということもない。乱 闘 の痕 跡 もない──玄 関 の扉 以外は。ただ呼 吸 を阻 害 するほどの静けさが、邸 内 に濃 縮 されていた。
階段を、駆 け上がる。あとをついてくるウィノナには構わず、それらしい扉を蹴 り開けた。彼女の罵 声 を背に、部屋に突 入 する。
真 っ暗 な部屋に、窓の外から、月明かりがまぶしく差し込んできていた。真昼とはいえないまでも、それに近い明るさではあった。部屋の中心に、真っ黒な、ずんぐりとした人 影 がひとつ、立っているのが見える。
その足 下 に、中年の男が倒 れていた。痩 身 、だろう。胸が陥 没 して、血だまりの中に沈 み込んでいる死体の原型がどうであったかなど、想像しても詮 無いことではあったが。岩の下 敷 きにでもなったように、胸と腹が潰 されている。傷 と呼ぶのも馬 鹿 馬 鹿 しいほどの巨 大 な傷は、背中まで貫 通 すらしているのではないかと思えた。飛び出しかけた眼 球 が、白目をむいている。喉 と舌が、すべて口からはみ出していた。
「領主......様!」
ウィノナが、声をあげた。さすがに、悲鳴ではなかった。怒 りの叫 びをあげて、先行していたこちらを押 しのけ、部屋の中にいる黒い人影へと突 進 していく。
人影は、それほど動かなかった。体格でいえば、ウィノナのほうが大きかったろう──が、つかみかかっていく彼女に軽く触 れると、そのまま無 造 作 に、背後へと放り投げた。背後の、窓へと。
派 手 な音を立てて、ガラスが砕 けた。輝 くガラス片と、窓 枠 とを突 き破 って、ウィノナの身体が四階の窓から飛び出していく。そのまま、落下して消えた。
オーフェンは動かないまま、残った人影を見 据 えていた。最初に見た姿 勢 から、腕 一本分しか変わっていない。黒ずくめの格 好 は、闇 に溶 けずに、不 思 議 と区別できた。やはり黒い帽 子 を目 深 にかぶっている。なにか、宗 教 関係の衣 にも見える。聖 服 。
低い......ぼそりとした声 音 で、その聖服の男がしゃべり出した。
「ネットワークには欠点がある。ひとつに集中すると、ほかが極 端 におろそかになる──許 容 量 以上の情報を、人間が扱 うことの、自然な欠 陥 だな」
なにを言い出しているんだ? にわかに動きを速めた心臓を抱 えて、オーフェンは独 りごちた。男は抑 揚 なくあとを続ける。
「つまりは、陰 謀 家 には向かないということさ」
そこまで言って、顔を上げた。特になにがあるというわけでもない、普 通 の男の顔。それがつぶやく。
「ふむ......やはり、その男が領 主 なのだな。とりあえず、見つけた者はすべて殺そうと思っていた。それが確 実 だろう」
男が言ったのは、足下に転がっている、潰 れた死体のことらしかった。
(これが......最 接 近 領 の領主?)
見下ろして、うめく。死んでいる。どうしようもなく死んでいる。
部屋の中に、死体はそれだけだった。どこかの家具から金 髪 の端 でものぞいていないかと、自 暴 自 棄 になってオーフェンは見回した。刹 那 。
横に跳 んだ。そのぎりぎりの視 界 を、躍 るような動作で大きく腕 を振 り下ろして──聖服の男が通り過 ぎていく。すんでの所でその一 撃 をかわし、オーフェンは身体が流されないうちに、足の裏を床 に叩 きつけた。身体が止まる。迎 撃 の体勢を作り、敵 を視 界 に収 める。
(......拳 法 ......か!)
なんの小 細 工 もない。
新兵器もない。
ただの素 手 の一撃。
それだけで、あの大量の死体の山を築 いてきたのだ。
(ふざけんな......こんなことが、あるわけがない)
歯ぎしりして、つぶやく。
すぐに追 撃 が来るものと思っていたが、男はそこで、ぴたりと動きを止めた。こちらを見て、気楽に告 げてくる。
「君も邪 拳 を使う、か。悪くない。たいした技 量 だ。だが、付け焼き刃 だな」
「......なんだと?」
息が荒 くなっていることを悟 られまいと、声をひそめたが──無 駄 だろうとオーフェンにも思えた。対 峙 しただけで、自分自身が知ってる以上のことを敵に知られてしまったような。ぞっとする確信が、身体を支配する。
強 ばった拳 の先で、聖服の男はこともなげにつぶやいてみせた。
「君の技 には含 蓄 がない。そう言ったのだ。」
「くっ......」
真正面に見 据 えていた相手の身体が、爆 発 するように膨 れあがった。
それは錯 覚 だった──分かっていたが。相手が突 進 してくると分かってから、接 触 するまで、まったく間がなかった。敵の拳が自分に触 れる。それは避 けられない。身体は反射的に、防 御 しようと両 腕 を突 き出そうとしていた。が、それを躊 躇 しようとする動きもあった。
死体を思い出す。防げない 。この敵 の拳 は。
身をよじった。完全にかわせないことは分かっていた。それでもなんとかバランスを崩 して、この拳の威 力 を少しでもそらさなければ、この部屋に転がっている死体を哀 れむこともできない。
身体をかすめたものがあった。大した接 触 ではなかったはずだ──戦 闘 服 の表面に、軽くこすれたに過 ぎない。
だが内臓が破 裂 するような衝 撃 が、身体を吹 き飛ばした。
なにもできない。逆 らわずに、部屋の壁 に激 突 する。そこが窓でなかったのは幸運だった。いや、四階の窓から放り出されたほうが、あるいは生きのびるチャンスはあったのかもしれない。痛みに喘 ぎつつ、壁から離 れて向き直る。聖服の男はそこにまた構えていた。
体 術 では対 抗 できない。
認 めるしかなかった。
面 白 がるように、男が言ってくる──
「崩 しの拳 だ──勘 がいいな。これを避 けられる者がいるとは思わなかった」
(最小の動きで衝 撃 を伝える打撃法......そんなとこか。そんなに珍 しいもんじゃない。威 力 が桁 外れだが)
食らえば、もう動けまい。
いや、生きていられないかもしれない。
修 練 だけで、これほどの力が得られるものなのか──魔術の助けもなしに。
(魔術......)
その単語を嚙 みしめて、オーフェンは意識をまとめた。相手は魔 術 士 でもない、ただの人間。しかし魔術を使わなければ対抗できない。しかも、生 半 可 なものでは通用しそうになかった。
が、魔術の構 成 を編 もうとしたその一 瞬 前 に、耳に滑 り込んできた男の言葉が、それを制 止 した。
「君は魔術士なのだな?」
《塔 》の戦 闘 服 を着ているのだから、それを悟 られたとしても不 思 議 ではなかった。が、そんなこととは関係なく、こちらの心を読まれたようにも感じられる。オーフェンがなにも言えず、造 り上げようと思っていた構成を意識から消 散 させている間に、男は言葉を続けた。
「そう。君がわたしを倒 すには魔術しかない。だが、できるかな? 相手に予想されている攻 撃 を繰 り出せる胆 力 と機 知 が、君にあるかどうかだ」
そしてきっと、それをやろうとしてシークは死んだのだ。暗殺者の死に様が頭をちらついた。それでもシークには、この聖服の男への対 抗 手 段 が魔術しかなかった。
自分には、ほかにもある。
オーフェンは、そっと、腰のホルスターに手を添 えた。相手はまだ気づいていないようだが。一 瞬 で終わりをもたらす、武器。
(何年も整 備 されてない拳 銃 だ......撃 てるか? 暴 発 する可 能 性 のほうが高い)
それでも、このまま戦うよりは、成算がある。
(......本当に?)
自分に問いかける。どうしてもホルスターから手を離 せないまま、オーフェンは敵 を見 据 えた。すぐにかかってこられれば、どうしようもなかったろう。が、男は明らかに、この拳 の勝負に面白みを感じつつあるようだった。それが何故か、予想はついた。恐 らく、この男の攻 撃 を二度までもかわした人間など、ほとんどいなかっただろう。聖 服 の男の目には、好 奇 の光があった。
相手はこちらの目になにを見たのか──笑みを作ろうとしていた口の端 から、すっと力を抜 いたようだった。
淡 白 な無 表 情 へともどって、告げてくる。
「君は、絶 望 していないのかね? まだなにか、作戦を持っているようだ」
どこかで聞いたような言葉だった。
やはり、こちらがなにも言えずにいるうちに、続けてくる。
「もう神はいない。人類が、それを知ったのはいつからだろう」
男は、聖 印 のような仕 草 を見せた。それは、足下の死体を無 視 して切られた聖印だった。
「途 方 もない昔から、薄 々 とは感づいていたのかもしれない。それとも、つい昨日のことかもしれない。気づいていながら、まだ未 練 を捨て切れていないところを考えると、本当の意味でそれを理 解 する日は来ていないとも言える。だからわたしは、意 地 になって唱 えるよ。何度でも。暇 さえあればね。もう、神は、いない」
芝 居 がかった口 調 で、一言ずつ区切って、そうつぶやく。
唐 突 に男は、両手を広げて身体を開いた。それは隙 にも見えた。が、打ち込んで勝てると思えない。
「善行を積 んでも、それを評価して報 いてくれる父はいないのだ。悪を罰 する約 束 はないのだ。この世界にはね。とても......無 慈 悲 だ。どうしてそれが堪 えられる? 神はいないのだ。ドラゴン種族は神というものを、くだらん化 け物 にしてしまった。いや、それ以前に、神などというものを解き明かしてしまった 。もうこの世界に幻 想 は望めないのだ。もうこの人生で隣 人 を愛することなどできないのだ」
男の声がつぶやきから朗 唱 へと高まり、そして、
「では、神を失って、人は自立したか? それもできない。人は今でも祈 っている。だが、その祈りを聞く神がいないことも知っている。どこまでもつきまとう。この、知らぬ間に神によって補 われ、その不足を知るや絶 望 し果てる人の心というものが──」
叫 びへと変じるほんの一 瞬 前 に、男はそこで言葉を止めた。忘 我 状態から我 に返ったように、ふっと冷静になって、こちらを見つめる。
「ライアンは死ぬ時になにを語った? 見当はつく」
(ライアンの......仲間か)
オーフェンは、独 りごちた。聖 域 のエージェント。ドッペル・イクス。
聖域に抗 争 を仕 掛 けた最 接 近 領 の領主が、聖域の手によって殺された。つまりはただそれだけのことだ。大したことではない。
が、オーフェンはうめくようにして、聞いた。
「金 髪 の、娘 と......その弟みたいなガキを殺したか? この屋 敷 にいたはずだ」
「さあな。覚えていない」
男は、動 揺 もなく答えてきた。
「だが、この館 に生きている人間は残っていない。我々ふたりだけだ」
「そうかい」
その答えは、どうとでも解 釈 できた。
クリーオウとマジクは殺されたかもしれない。だが、この男がここに来る前に館を出られたかもしれない。
どちらとも言えない。だが確 かめるには、自分がここで殺されるわけにはいかない。
オーフェンは、ホルスターから手を離 した。拳 銃 では駄 目 だ。もっと確 実 な方法でなければ。
(なにがある......?)
頬 を伝って、汗 が流れ落ちた。
そして。
「......ほう」
男の目に、好 奇 がもどった。眉 を上げ、感心したようにうなり声をあげてくる。
「拳 で決 着 をつけるつもりか?」
こちらの構 えを見て、聖 服 の男は自分も構えを取ってみせた。
「わたしの挑 発 に乗せられたという目ではないな。君は戦士か?......いや違 うな。わたしと同じか。戦士とは、違う」
「さっきからごたごたと。アホか」
オーフェンは、それだけ吐 き捨てた。
聖服の男が、眉 を上げる。
「......わたしの言うことが間違っているかね?」
「いんや。正しいね。だからアホだっつってんだよ」
わけが分からないといった眼 差 しでこちらを見る聖服の男に、オーフェンは笑いかけた。構える。
大 仰 と思える構えを、彼は取った。腰 を落とし、足を前後に開き、右 肩 を引く。一本の線をイメージする──自らと、相手を結ぶ一線。それは足下から始まり、腰を、肩を通り、拳 の先 端 から敵 の身体 の中心へと貫 いていく。在 るべき力の通り道だった。
この敵が、このたった一 晩 で何十人となく殺すため、貫き通してきた、力。それと同 質 の力。自分にも同じことはできる。特に疑 いもせず、オーフェンはそれを信じた。たった一 撃 で人を殺す。造 作 ない。
それは、チャイルドマンから学んだことだった。自分はチャイルドマンと同じことをする。倒 せない敵はない。
その直線を見つめながら、オーフェンはつぶやいた。
これは、クリーオウから聞いたことだった。
「神はいない」
静かに、認める。
「人は自立しない」
冷たく、受け入れる。
「だが絶望しない」
そして唇 を閉ざすと、拳を固めて、オーフェンは激 しく、踏 み出しの音を立てた。
◆◇◆◇◆
傾 いた頭が──
さらに低く、横に、折れた。口 蓋 の奥 に突 き刺 さったバリイング・ダガーが、ともに動く。地面の一番低い位置からそれを見上げ、レティシャは笑 みを消した。一 撃 を与 えた。深い一撃を。震 える左手を、右手で押 さえ込む。その白 魔 術 士 の口の中、本来ならば収まりきらないところに、短 剣 が入り込んでいた。顎 の上、柔 らかい肉を引き裂 いて刃 が滑 り込む感 触 を、まだ覚えている。
嘔 吐 はしなかった。その時になって、今さらそれがどうしたのかという声も聞こえていた──意 識 の中で、自分が発した声。ただでさえ、馬 鹿 馬 鹿 しいほど大量の死体が並 べられた夜。
地面にうずくまった、首のない暗殺者の死体。それを目の端 に捉 えて、レティシャは苦く笑った。彼を笑えない。自分のやっていること、これこそ暗殺だった。
ダミアン・ルーウはゆっくりと、仰 け反 るように倒 れようとし......
そして、顔を空に向けたところで動きを止めた。
地面に、短剣が落ちるのを、レティシャは見つめた。白魔術士が顔を上げ、こちらを向く
彼は無 傷 だった。
「こんなもので、わたしを傷つけることはできない」
「ナイフは虚 を突 いただけ」
レティシャは素早く囁 いた。そして、その場に身を起こした。痺 れを伴 った激 痛 が身体中を支配していたが、それを無 視 して立ち上がる。皮の内にあるのは、肉でも骨でもなく、ただ痛みを感じる神 経 だけ。震 えながら、白魔術士と対 峙 する。
が、自分でも不 思 議 なほど、声は滑 らかに喉 から漏 れた。
「あなたがわたしを恐 れた一 瞬 の隙 を利用して、あなたの能力を封 じさせてもらったわ。その一部をね」
ダミアンは、動じていないように見えた。
「それは精 神 支 配 だ。できるはずがない。君の言っていることは荒 唐 無 稽 だ。ルールに反する......」
「いかさまを仕 掛 けてきたのは、そちらでしょう」
それだけ告 げて、レティシャは戦 闘 服 の隠 しポケットに手を入れた。
史上、最も長く存在している精 神 士 ──強大化し過 ぎた白魔術士。ダミアン・ルーウ、無 敵 の存在。彼が、その鉄 壁 の表皮に、ほんのわずかな亀 裂 をのぞかせる。笑 みだった。ただの笑みではない。なにかを捨てた、驚 愕 の笑み。
「結 局 、君の目的というのは、わたしを滅 ぼすことなのか」
意外そうに、ぼやく。
「意味が分からんな......わたしを排 除 して、君の益 になることがあるのか? 心が読めれば楽なのだが」
レティシャは無言のまま、隠 しポケットに入れてあった小さな木箱をふたつ、取り出した。燃える庭 園 を動き回り、いまだにこれが無 事 だったのは、ちょっとした幸運ではあった。強く握 り、木箱の一部に亀 裂 を入れる。

彼女はそれを白 魔 術 士 の足下に投げつけた。そして、叫 ぶ。
「光よ!」
ダミアンが、邪 魔 をしないであろうことは、疑 っていなかった。彼は無 視 するだろう。熱 衝 撃 波 が轟 音 を上げて白魔術士を包 み込み、そして投げつけた爆 薬 が熱を浴 びて爆発しても。
効 果 は思った以上だった。激 しい衝撃の渦 が炎と混 ざり合い、複 雑 な絵を見せる。聴 覚 を失っても不 思 議 はない爆 音 が消えて、ダミアン・ルーウの物静かな声音がまだ聞こえたのは、それが肉声ではなかったからだろう。
「こんなことが通用するのであれば」
静かに静かに......告 げてくる。
「わたしはプルートーにすら勝てないよ」
その声は確信に満ちていた。まだこちらを侮 っている──そう感じて、レティシャは笑った。
意表を突 かれた相手の、呆 気 にとられた顔が見られないのは残念ですらあった。彼女はその頃 には既 に、視 線 のとどかないところにいた。空 間 転 移 が始まり、物理的な接点は失われている。
だが恐 らく、まだ思念は通じる距 離 だろう。彼女はつぶやいた。
「どうでもいいわ。あとは退 くだけだから。あなたは、わたしを殺すまでは力を取りもどせない。これからは、嫌 でもわたしの挑 戦 を受け続けるしかない......ならわたしも、今わざわざ傷 ついた状 態 で戦う必要はないものね」
「レティシャ・マクレディ......」
白魔術士の声から、困 惑 が感じられた。
「転移しただと......どういうことだ。それは人間の限 界 を超 えた力だ。精神士にしか許されない力だ。君は何者だ? よほど強力な白魔術士の助力を得ているはずだ。だが、わたしに互 する魔術士などいないのだ! どういうことだ。なにがしたいのだ?」
「ダミアン・ルーウ。あなたがやったのと同じことよ」
短 剣 を突 き刺 すのと同じ心 地 で、レティシャはつぶやいた。鋭 く告げる。
「ネットワークに触 れる者は、少なければ少ないほどいい。でも、最後に残る覇 者 はあなたじゃない」
不 慣 れな空間転移に手 間 取 っていたが、それもそろそろ終わりに近づいていた。完全に接点が途 切 れる最後の一 瞬 に、ダミアン・ルーウの叫 び声がこちらへととどいてくる。それが悲鳴じみた恐 慌 の気 配 を見せていたことに、レティシャ──と、もうひとり──は満足した。
「分かった......分かったぞ ! 君を守 護 する力の正体が分かった」
叫ぶ、ダミアンの声。
「貴 様 か! 天 魔 の魔女!」
レティシャはその場から消失した。
◆◇◆◇◆
腐 臭 に満ちた部屋で、コルゴンは自 らが死ぬ瞬 間 までの時を、心静かにカウントしていた。数字が大きくなっていくことだけしか、時の進みを感じることはできず、動けないまま、ただ緩 慢 に溶 けていく。自分の身体 が腐 り落ちていく、信じがたい無 感 覚 の中、数え続ける。
数字がいくつまで増 えたか。それは分からなかった。まともに数を数えることもできないほどに、脳 が劣 化 したか。淡 々 と、そんなことを思う。感情らしい感情は、しばらく前に失せた──脳のその部分が欠 損 したからだ、と彼はやはり静かに、判断を下していた。
認 識 はもはや失われていた。もはや、自分がひとかけらの肉片でしかないことを悟 ったのが、その時だった。頭 蓋 骨 の中にある、ちっぽけな肉の塊 。それが自分であって、自分はそこから出ていくことができない。手足が残っていたとしても動かすことはできず、なんの価 値 もない。神経は真っ先に破 壊 されたらしい。
そのうち、数字も理解できなくなった。
数字の代わりに浮 かんできたのは、単語だった。数字と単語の区別がつかなくなっているのかもしれない。名前。様 々 な名前が浮かんでは消える。だがそれも、意味が分からなかった。名前のうち、いくつかは、なにかを思い出すことを彼に強要しようと働きかけてきたが──無 駄 だった。なにも残さずに消えていく。
安らぎとは、つまり、これなのだ......
思 考 力 を失い、そんな概 念 も思いつけたはずはないのだが、コルゴンはそうつぶやいた。頭蓋骨の中に押 し込められること。これに勝る安 息 などはない。自分はただ、数えるだけでいい。
「汝 を癒 そう」
声が聞こえたが、それを理解できたかどうか、自分でも分からなかった。ただ、味わっていた安らぎに違 うものが混 じって、煩 わしく感じたことだけは自覚した。
この平 穏 を壊 す言葉が、続く。
「汝 を害する毒 。我 には癒 すことができる。慈 悲 を受けるか?」
女の声だった。見上げる。
そこには、女がいた。緑色の髪 。緑色の瞳 の。
聖 域 。そんな言葉が蘇 った。俺 は聖域にいるのか......だから安らいでいたのだ。だからこのままで良かったのだ。
その女──緑色の瞳の女は、唇 に緩 やかな曲線を浮 かべて、歌のような声を紡 いだ。
「我は、汝 を受け入れよう。汝が、我らを受け入れるのであれば......聖域の誘 いを受けるのであれば」
天 人 種 族 。
ウィールド・ドラゴン=ノルニル。
彼女らの魔術に、造 れないものはない。偉 大 な創 造 の技 を伝えるというドラゴン種族。人間種族に文明と英知を授 けた。確かに、どのような毒だろうと、彼女らは癒すだろう。すべてを癒すだろう。ここは聖域。彼女らがここにいて、不 思 議 はない。
と。
不 意 に、問いかける声を聞いた──どうして見える? とうに視 力 は失っていたはずなのに、どうして見える?
そこまでだった。コルゴンは跳 ね起きると、その女を突 き飛ばした。驚 愕 の表情を浮かべる間もなくバランスを崩 した彼女の背後に回ると、女の尖 った顎 に右 腕 を引っかけるようにして、締 め上げる。そのまま、固定した。女は動けない──動 脈 までは絞 めていないため気を失うことはないだろうが、呼 吸 はできないはずだ。コルゴンは静かに告 げた。
「......癒せ。ただし、慈悲は要 らない。死にたくなければ癒せ」
腐 臭 は失せていた。そんなものを嗅 ぎ取っていたことも嘘 だったように。今は、押 さえつけている女の体 臭 しかない。
「そ、そんなものは、ない」
気道を潰 された状態で、女は、なんとかそれだけうめき声をあげた。意外なことでもなかった──もとより、絞める腕にその程 度 の余 裕 を残しておいたというだけのことだった。が、返事は期待していたものとは違 う。
「そうか」
ならば用はない。コルゴンは腕に力を入れようとした。首を折れば、数秒で人間は死ぬ。天人種族も同じようにいくかどうかは知らないが、大差はないだろうと思えた。ひとりにさほどの手間をかけるわけにはいかない。身体が動くうちに、毒を癒せる相手を見つけなければならない。
首の骨が外れようという一瞬前に、女はさらに声をあげた──これは、意外なことだった。
「ち──違う! 汝 に投 与 されたのは、ただの麻 酔 で」
「............」
コルゴンは沈 黙 して、とりあえず腕 から力を抜 いた。舌打ちする。そんなことではないかと、予想していた。というのに、籠 絡 される寸 前 だった。
やつあたりも兼 ねて、険 悪 につぶやく。
「やはり、はったりか。俺に暗 示 をかけていたな? さっきの男は脅 し。お前が懐 柔 役 か? 俺からなにを聞き出すつもりだった」
「悪 魔 ......」
女の声には焦 りがあった。急に間 近 となった死への恐 怖 だとすれば、それは奇 妙 なことでもなかったが、それとは違 うものも感じられる──
まぶたを半分、下ろす。女の感じている恐怖が、自分のことだけではないと悟 って、コルゴンは怪 訝 に顔をしかめた。女は、なにか別のことを恐れている。その恐れとともに、震 える声で吐 き出した。
「キエサルヒマ大陸の悪魔」
「なんのことだ?」
聞き返す。と、女は口早にあとを続けた。
「魔 王 崇 拝 者 、アルマゲスト──お前たちは、領 主 と呼んでいる。あれは、とうに死んでいなければならなかった男だ!」
「............?」
もう既 に、首を絞めてはいなかったのだが、女はいまだにあごを上げたまま、引きつった浅い呼吸を繰 り返していた。
「新たな聖域外戦力 を遣 わした──ジャック・フリズビーは牽 制 の役には立つだろうが、失敗するだろう。ダミアン・ルーウがいる限り、領主は殺せぬ! 大陸のために、言え!あれを滅 ぼす方法を!」
若い女だった。少なくとも、最初の印象では、そう思えた。不老の天人種族としても不自然ではないほどに。
だが一言ごとに、その女は年 老 いていくようにも見えた。取り繕 っていた無表情が崩 れ去ると、今ではもう、中年といっても差し支えない。
それだけではなかった。コルゴンは、彼女が頭を振 るたびに、女の瞳 の色が変化するのに気づいて、さっと手を伸 ばした。女の顔に貼 り付いていた、薄 い膜 のようなものを剥 ぎ取る。見てみると、それは黄色がかった透 明 なフィルムだった。それを取り上げて、改めて見やると、女の瞳が青色に変じている。
もう一度、それを目の前に持ってきて通すと、女の瞳が緑色に見えた。
フィルムを握 りつぶし、コルゴンはうめいた。
「その髪 も染めたものか。天人種族ではないな。どういうことだ」
女は──その頃 にはもう、騒 いではいなかった。
首筋を押 さえて険 しい表情で、静かに告 げてくる。
「二百年が経 った」
またさらに二百年、それを待とうかという気 配 で、沈 黙 をはさむ。が、気配だけを残して数秒ほどで、女は再開した。
「聖 域 にはもはや力が残っていないと、汝らは、とうに気づいていたのではないか?」
そして彼女は嘲 るように、醜 い笑 みを浮 かべてみせた。
「六人が死ぬはずだった」
「はい」
「予定通りに進めて欲しかったのだがな」
「レティシャ・マクレディの死 亡 を確 定 できなかったことは、わたしも無 念 です。あれはわたしのアキレス腱 になります」
「もうひとり。こちらは、つまらないミスだ」
「......魔 剣 に護 られました」
「予想して然 るべきだったのではないか?」
「あの娘 が魔剣を使用することをですか? わたしは、使用できないと予 測 していました」
「単に、それだけのことか?」
「はい」
「............」
「ですが、予定は狂 ったものの、大 勢 に影 響 はありません。そして、ひとつ判明したことがあります。お分かりでしょうが」
「ふむ?」
「天 魔 の魔女が、キエサルヒマ大陸に帰還 しつつあります」
◆◇◆◇◆
「君が死ななかったのは、たまたまわたしがいたからだということは分かって欲 しいな」
戦 闘 服 を着たままで、朝日を浴 びる。
奇 妙 な感覚ではあった──自分が生きていることにも違 和 感 がある。だがこうして、領 主 の館 の一室で、ベッドに寝 そべり、窓から外を見ている。そして皮 肉 を聞いている。
オーフェンは乾 いた心 地 で、つぶやいた。
「......分かってるさ」
部屋にいるのは、自分ともうひとり、嫌 みな笑 みを浮 かべたダミアン・ルーウ──あとは剣を抱いたまま部屋の隅 に控 えているロッテーシャと、別のベッドで寝息を立てているウィノナだった。自分と同じく、ほぼ即 死 状 態 からダミアンに癒 されて、ろくに身動きもできないほど衰 弱 している。
アーバンラマでこの白 魔 術 士 に癒された時には、すぐに動き回れるようになったのだが、今回はそうはいかないようだった。もっとも、この状 況 では、安静でいられるほうがありがたいともいえる。
陰 鬱 に、沈 んでいく。鼻歌でも歌おうか──そうすれば、ダミアンは嫌がるだろうと、ただそれだけの気持ちで歌いかけた歌を阻 むように、白魔術士がさらに言ってきた。
「どうして勝てなかった? わたしには理 解 できない。あれはただの男だろう。魔術士でもない。君はかろうじて生きていたが、死んでいてもおかしくなかった」
「どうしてかって?」
オーフェンは、鼻で笑った。
「そんなものがいるとは思わなかった。想 像 すらしていなかった。だが、いたんだ」
「なにを言っている?」
存 外 に、この白魔術士は頭が鈍 い。胸中でうめきながら、オーフェンは手を振 ってやった。
「チャイルドマンでも敵 わない暗殺者。それがあれさ。ただそれだけのことなんだろう」
大したことではない。今まで生きてきた確信の中で、大きなものが崩 れたが。そんなことは大したことではない。
声に出さずに繰 り返したのは、ダミアンにではなく、自分に言い聞かせるためだった。そしてダミアンには、別のことを問いただした。
「それで、クリーオウは? マジクは?」
すました顔で突 っ立っているダミアンをにらみやって、聞く。
「ティッシはどうした。無 事 なのか?」
白魔術士は、すぐには答えてこなかった。なにかを考え込むような様 子 があったわけでもない。ただ時間をかけて、言ってきた。
「君の姉は死んだ。《十三使 徒 》の暗殺者と相 打 ちの形になったようだ」
「俺はイールギットしか見ていないぞ」
「遺 体 が残らない死に様もある」
今度は、即 答 だった。
叫 びだそうとしたが──それだけで身体 に激 痛 が走って、断 念 せざるを得ない。オーフェンはうめき声をしばらく漏 らしてから、ベッドの上でかぶりを振 った。
「くそっ──たれが!」
「まさか、聖 域 の暗殺者まで入り込んできているとは感 知 できなかった。ネットワークの弱点については、そうだな。その聖服の男とやらが言った通りだ」
当たり前のように言ってくるダミアンの口 調 は、かんに触 った。が動けない。シーツに爪 を立てて、罵 声 を繰 り返す。
「のんきに言えたことか!」
「失敗の経験は、以 後 に活 かそう」
「これから? どうするってんだ。領 主 は死んだんだろ。まさか、それも生き返らせたなんて言わねぇだろうな?」
いかなダミアン・ルーウでも、死者は蘇 生 できない。
が。
特にどうということもない無表情で──精 神 士 は、言ってきた。
「それについてだが。我 が領主様が、これからお会いになるそうだ。起立したまえ。いや、無 理 か?」
「......なに?」
聞き返して、すぐに。
部屋の、扉 が開いた。顔の向きを変える。
そこから、クリーオウとマジクが。
そのふたりに先 導 されるような形で、ひとりの男が。
姿 を見せた。
◆◇◆◇◆
もうそろそろ、完全に忘れ去られた頃 なのではないかと、ドーチンには思えた。それを待っていたというわけでもないのだが、腰 を上げる。
「行こうよ、兄さん。多分ぼくら、向こうから来たんだと思うんだよね......」
丸一日待てば、十分だった。その間、岩場の上でずっと風に吹 かれて砂まみれになった兄が、ゆっくりとうなずく。
「まあ、それもそうだな」
なにを思っていたのか分からない、あるいはなにも考えていなかったのであろうことなら容 易 に想 像 のつくもっともらしいしかめ面 で、兄がうなずいてみせた。
「考えてみたんだが」
「うん」
「多分、親 父 もそろそろ死にそうなんではなかろーか」
「かもね」
「とりあえず、帰るとしよう」
「そだね」
それだけ話して、来た道を振 り返る。と──
ドーチンは、動きを止めた。
つい先ほどまで大地を包 んでいた、闇 。もう朝日に押 しやられ、幕 を上げた、夜。
その闇夜よりも遥 かに黒々とした漆 黒 の影 が、そこに見えた。
ひとつやふたつではない。
見ている間に、音もなく増 えていく。
なにもない、つまらないこの荒 れ地を、まるでなにかを包 囲 するようにずらりと並んで、どこまでも増えていく。
「兄さん......」
「うむ」
兄は、あくまで気楽だった。
「こんなでっかい犬は初めて見た。いや、そうでもないな。何度か見たか?」
実 際 、何度か見たことはあった。それがなにか、ドーチンは覚えていた。
身 の丈 数メートルはある、黒き狼 。緑色の眼 が輝 いている。
数え切れないほどの、ディープ・ドラゴン=フェンリルの大 群 が──
一頭、また一頭と数を増 し、荒 野 の遥 か遠方まで、ぐるりと取り囲んでいくのを、彼らは呆 然 と見つめ続けた。
えー。前巻に引き続き、連続になってしまって本当に面 目 ないというか、情けないことこの上ないのですけれど。この本の発売延 期 に関しては非 常 に申し訳なく思っております。
次こそはきちんと......と思うのですが、こうなると信じてくださいと言うことも虚 しく、またぼく自身も確 信 を持って保 証 できかねるというのが偽 らざるところです。無 論 、今後については編集部とも相談をし、こういったことが繰 り返されないよう対 策 なども考えているのですが、それがうまくいくかどうか、叶 うならば今後もつき合っていただければ僥 倖 に存じます。
以下のあとがきに関しては、発売延期が決定される前に書かれたものであることをご了 承 ください。ここに書かせていただいた謝罪とともに、全面的に書き直そうかとも思ったのですが、そうするとひどく陰気なものになってしまいそうですし、それは読者の方々が望むこととは思えないので......
最後にもう一度、本当に申し訳ありませんでした。
◆◇◆◇◆
この本が出るまでには、P90 の多 弾 数 マガジンは発売されているんでしょうか。日々そんなことばっかり考えて生きてます。秋 田 です。
このあとがき、出先のファミレスで書いてるんですが、隣 のテーブルにいるアベックの片割れが、「わたしモー娘。の◯◯に似てるよね」とか「藤 原 紀 香 に似てるでしょ」とか言い出しました。あまつさえ男、同意してます。でも似てません。秋田です。
関東は先日から梅 雨 入り。気がつけば、外は雨が降り出しているようで。こうして、窓の中から雨の街を眺 めるのも悪くはない気分です。ていうか傘 持ってきてません。秋田です。
帰れないので、さっきから店でねばってます。持ってきた藤 沢 周 平 はとっくに読み終わりました。仕方ないので原 稿 書いてます。夕方の混 み合う時間帯 なもんで、お店の人の視 線 もステキに冷ややか。秋田です。
そういえばこの前、知人の結 婚 式 に呼んでいただきまして。そこで「ライスシャワーの代わりにおにぎりとか投げつけたほうが絶 対 に面 白 いよね」と発言したところ、「異 常 者 」「失せろ」「なにか嫌 なことでもあったんですか?」等 々 の心温まる返事を頂きました。秋田です。
でも、飛 来 する無 数 のおにぎりに対し、新 郎 新 婦 が完 璧 な回 避 性 能 と機 動 性 を見せつけてくれれば、両家のご両親も安心するのではないでしょうか。いや、いいんです同情はやめてください。秋田です。
結婚式といえば、この原稿書いてる時点では、まだ六月なんですね。この頃 月日の経 つのが早いような、遅いような、不思議な感じです。なんとか元気に生きてます。秋田です。
雨が弱くなってきました。そろそろ帰ろうかなと思うわけです。秋田です。
でも調 子 に乗って書き始めたものの、このあとがきってオチがつきそうにないなと、ちょっと後 悔 し始めてます。秋田です。
外を見ると、向かいの牛 丼 屋 の軒 下 で、雨宿りしてる人を発見。多 分 彼も、ご飯食べてる間に雨が降 り出して傘もないのだけどやっぱりお腹 一 杯 だしもう一度別のお店に入って時間を潰 すというわけにもいかず困り果てて空を眺 めかといって雨に濡 れて帰る気にもならなくてこのまま待っていればひょっとしたら憧れのあの人が偶然通りかかっていっしょの傘に入っていかないかと誘 ってくれるかもしれないと淡 い期 待 を抱 きつつもなにも起こらないまま雨は降り続きいつしかその雨は涙 へと変わり、といったミニストーリーなど想 像 してみました。秋田です。
ふと見ると、隣 のテーブルには藤原紀香に似ている(似てません)アベックはもうおらず、今度は編集部のKさんにそっくりな人が、すげぇ美人を連れて飯 食ってます。でも人違いだろうな。秋田です。
ファミレスって、見てるといろんな人が来ていろんな人が去っていって(まあファミレスに限ったことでもないけれど)。見ていて退 屈 しないので結 構 好きです。なんとなく執 筆 がはかどるので、ここで仕事すること多いです。でもお店に迷 惑 かけると悪いから、いつもは深夜に来ます。この前領 収 証 くださいって頼 んだら「お宛 名 は秋田様でよろしいですね?」と聞かれてしまいました。すっかり顔覚えられてしまったみたいでちょっと困った感じ。秋田です。
日が長くなったとはいえ、外も暗くなってきました。夜の雨。この時間になると、子供の頃 カックラ◯ン大放送でよく誰かが歌っていた十九時の町(うろ覚えだけど、確 かこんな曲名)の最初のフレーズが頭に浮かびます。あれって誰が歌ってたんでしたっけ。どうしても思い出せません。秋田です。
ていうか今の読者さんは、カッ◯ラキン大放送とか、ナオコおばあちゃんの縁 側 日記とか、カマキリ拳 法 とか知ってるはずないんですよね。言ってる自分もかなり記 憶 が怪 しいので間 違 ってるかもしれません。秋田です。
というところで、そろそろ帰ろうかと思います。牛丼屋の彼は、まだ憧れの人を待つつもりみたいですけど。ぼくは濡れて帰ります。秋田です。
てなわけで、今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。また次の巻末でお会いいたしましょう。ではでは〜。秋田でした。
二〇〇一年六月──
秋田 禎信

わたしはドラゴン種族というものを考えてみる......
それはかつて、世界で最も繁 栄 した種族たちだった。力ある六種。彼らは常 世 界 法 則 を意のままとする技 術 ──魔 術 を見 出 し、そして結果として世界を崩 壊 させた。
彼らはなぜ、魔術を必要としたのだろう? 他 人 事 として見れば、彼らは力を増 大 させる必要などなかったはずだ......しかも彼らは魔術を、六種族が奇 跡 的 に和合した時代に共同で造 り出した。互 いに争い競 い合っていた時代ではなく。
平和に満ち足り、満足しているはずの時代に、彼らは魔術を必要とした。
それはなぜなのだろうと、わたしは考える。
彼らは魔術を力として、武 器 としてではなく......もっと別のものとして欲 したのではなかろうかと。わたしは考える。
どうでもいいことなのではないか。腹 心 は......ダミアンはそう告 げる。だがわたしは考え続けている。
それが重要だと思えるから──いやそれは嘘 だ。実をいえばわたしも、この疑 問 を解 くことが戦いの命運を決するとは思っていない。重要事だとは思っていない。
そのうえで考えている。戦いについてはもう既 に勝利を手中にしつつあるのだから、その方面について、わたしが考える必要はない。だから別のことを考えている。
ドラゴン種族。
ウォー・ドラゴン=スレイプニル。
ウィールド・ドラゴン=ノルニル。
ディープ・ドラゴン=フェンリル。
フェアリー・ドラゴン=ヴァルキリー。
レッド・ドラゴン=バーサーカー。
ミスト・ドラゴン=トロール。
この六種族。
魔術を生み出し、それを使う六種族。
常世界法則とは世界を構 成 する根本の法則だった。彼らはそれを、生体的な力で操 る技術を開発した。その魔力を放出するためにはなんらかの合図──媒 体 を必要とし、その媒体の及 ぶ範 囲 でしか魔術は発 揮 されない。行使された魔術は強大で、彼らは事実上、無 敵 の力を得ていた。
魔術を持ったその六種族は、明らかなる霊 長 種 となったのだ。世界に在 るすべての生物の頂 点 となった。魔術を持たない生物はドラゴン種族の力には決して及ぶことがない。彼らは世界を、六種族だけで分かち合ったようなものだった。
彼らは世界を支 配 したのだ。魔術を生み出した、その一 瞬 だけ。
魔術と同時にこの世に生まれたものがあった。彼らは魔術を手に入れると同時に、魔術では決して抗 えない天敵をも生み出してしまったのだ。そして瞬 きもしない間に天下を失うこととなった。常世界法則の擬 人 化 という最悪の厄 災 を引き起こしてしまった。本来なら意志などあるはずもなかったすべての法則が、生物として現 れた。真の意味での、絶 対 の頂点......
ドラゴン種族は、それを神々の現 出 と呼 んだ。
どうして、そんなものを神だと思ったのか。わたしはまずそれを疑問に思う。
恐 らくその現出した神が、自らを神と名乗ったのだろう──それが最も、道理が通じそうに思える。
常世界法則としての神は、全知全能にして零 知 零 能 。現出した神は、そのどちらでもなくなった 。彼らは万 能 ではないが、万能よりほんの少し劣 るだけの力を持っていた。伝説を素 直 に信じるならば、神々は本能的にドラゴン種族を敵 と見なしたのだろう。即 座 に敵対した。
わたしはこれをひとつの鍵 だと感じる。なぜ、神々はドラゴン種族を滅 ぼそうとしたのだろう。これは不自然なはずなのだ。
神々が生物として具 現 化 したのならば、生命に対する執 着 と感 謝 があるべきだった。自らが生物として現れたのは、ドラゴン種族のおかげではないか? それがたとえ、彼らの愚 かさ故 の過 ちだったとしても。
よそから見れば、神々がドラゴン種族と戦う理由はなかったはずだ。
現出した神が生物ならば、死を恐れるはずではないか。せっかく得た肉体を自ら放 棄 し、もとの無存 在 へと還 るというのは、彼らにとっては自殺と同意ではないか? 生まれてしまったことは仕方ないと、あきらめながら生きるしかない──それが生物というものではないか。そうでないものは、果たして生物と言えるのか。それこそ、法則に反しているではないか?
どうして現出した神々は、ドラゴン種族を滅ぼそうとしたのだ。どうして無にもどろうとしたのか。そんな些 事 には構 わずに、生を謳 歌 すれば良かったではないか?
ひょっとして......ドラゴン種族が......先に......現出した神々を殺そうとしたのではないか......
わたしは、そう感じることがある。
それが、ドラゴン種族と現出した神々との対立の発 端 なのだとしたら──
今度は、これが疑問となる。ドラゴン種族は、どうしてそんな無 謀 な戦いを始めたのだ? 勝てないと、分かっていたはずだ。
想 像 することはできる。そしてもとの疑問にもどることになる。
ドラゴン種族はなぜ、魔 術 を求めたのか。
彼らはなにを求めたのだろう? 既 に満たされていた彼ら種族が求めるものとはなんだったのだろう。
わたしの推 論 はこうだ。
彼らは絶対的な愛情を求めたのだ......自らを祝福された種族として、高次のものから寵 愛 の保 証 を得たかったのだ。恋 人 たちが結 婚 を求めるように。たった一枚 の書面で愛なるものの保証を求めるように。
ドラゴン種族が神に愛されているのならば、世界は彼らに魔術という力を与 えてくれるはずだと。ドラゴン種族たちは寵愛の具体的な証 拠 として、魔術を求めた......それがあれば、神々が彼ら種族を特別に愛しているのだと、信じられる。
そう考えた。
魔術を手に入れた結果として、彼らは神々というものを召 還 してしまった。それは求めたものとは違 うものだった。
つまり......現れたのは、高次のものを否 定 する結果だった。
神々は現れたが、それは彼らの期待した神ではなかった。
彼らが本当に信じたかった神というものの姿 を、神々は裏 切 った。
愛を求めたのに、それを裏切られた。
ドラゴン種族は、愛なるものの背 信 を認 めたくなかったのか。
それは、ありそうなことだと思える。あの強 靭 な種族にとってさえも。
結局のところ、この問いに答えは出ない......
真実を知る者は、大陸にはいない。いや、いるのかもしれないが、ネットワークでも探 り出すことができないほどに、彼らは嘘 を塗 り重ねてきた。彼ら......聖 域 の住人たち、彼ら当人ですら、自分の語ったどの言葉が嘘でどの言葉が真実なのか。分かっていないということは大いにあり得る。
あるいは、大陸の外にならば当事者がいる。現出した神々は問いに答えてくれるだろうか? 仮 に答えてくれるものとしても、その時には、大陸の滅 亡 が決することとなる。
それに換 える価 値 がある答えでもあるまい。
だが、これらのつまらない疑 問 。
誰 も気にしない、無数の疑問。
考える価値もない、答えを見 出 したところで報 いもない、無 益 な疑問。
答える者は誰なのだろう。
答えるべき相手は誰なのだろう。
わたしは、考えてみる──すべての疑問を、解 を、受け継 ぐ者。
後 継 者 は、誰だ?
その墓 標 の下に死体はない。自分で作った墓なのだから、それは分かっていた。遺 体 はどこなのか──それを探 そうという気にはなれなかった。
消えてなくなってしまったのだろう。そう思うしかない。静かな庭園の中で、オーフェンは墓標、いや、とりあえずそう見立てて彼が置いた、大きな丸石を見下ろしていた。
我 ながら、馬 鹿 馬 鹿 しいほどに稚 拙 な墓ではある。彼は皮肉に顔を歪 めた。
(ペットの墓じゃなかろうにさ)
むかむかと胸 に溜 まる、なま暖 かい嘆息を吐 き出して続ける。
(ちゃんとしたのは......こんな胸 くそ悪い場所に作るのもしゃくだしな。そのうち、タフレムにでも、改めて建てるから、さ)
あるいは──
顔を上げて思う頃 には、彼は皮肉を追い払 っていた。無 表 情 に、つぶやく。
(......もう王都に、用意してあるのかもしれないか)
彼女は《十三使 徒 》として、この地に送り込 まれた。その上司らが最初から彼女らの帰 還 を絶 望 視 していたとしても不思議はない。それでもなお強行するだけの理由が──
(あったと言いたいんだろう。くそ)
墓石はひとつだった。それが彼女の墓標だと知れる印もなければ、それを証 す遺体もない。この庭園で死んだ人間は彼女ひとりというわけではない。彼女の仲間だけに限 っても、あとふたり。《十三使徒》の暗殺技 能 者 らが命を落としている。彼らの墓標は作らなかった。いくつかの理由はあったのだが、結局のところ、そんな義 理 はないからだと、彼は自分で結 論 づけた。
そこで考えることをやめておげば、余 計 なことを思わずに済 む──
「なにをしてるんですか?」
その問いは、背 後 から近づいてきた少女の発したものだった。
驚 かすつもりでもあったのか? それを聞く気にはならなかったが、本当にそのつもりがあったのかもしれない。一 振 りの剣 を大 儀 そうに抱 きかかえたその少女は、足音を忍 ばせたままさらに近 寄 ってきた。線の細い、そして色も薄 い娘 。脆 弱 そうに見えるというわけではない。それどころか、彼女の歩き方には隙 のない運動神 経 の良さもうかがえた。
「ロッテーシャか」
彼女の名前を、オーフェンは口から漏 らした。
ナッシュウォータの剣 術 道場の娘──ロッテーシャは、笑うでもなく真 面 目 な顔で聞いてきた。
「誰だと思いました?」
「いや別に」
同じ年頃の別の少女を想 像 していたとは言わなかった。視 線 を落とし墓石を見下ろす。
「じゃあ俺 も聞くが、なにをしてると思ったんだ?」
「立っていますね」
ロッテーシャはごまかさず答えてきた。剣を抱いたまま回り込んでさらに訊ねてくる。
「ほかには......なにもしていないように見えます」
「なら、そうなんだろ」
投げやりにオーフェンは告げると、振り向いた。視線は彼女を通り越 し、もっと背後の大きな影 へと──この庭園の木々に宿る影が、もつれて組み上がったかのようなその屋 敷 を眺 めて、息をつく。
「......あの中は、落ち着かなくてな」
「わたしも」
疲 れた声で、ロッテーシャもつぶやいてくる。
屋敷に、外から知れるような特 異 な部分があったというわけではない。
それでも長く観 察 すればそれが見つかるのではないか──我知れずそんなことを思い浮 かべて、オーフェンはその屋敷を見つめていた。
間 が長くなっていた。それを気まずく思ってだろう。ロッテーシャが、トーンを間違えた不自然な声 音 で話しかけてきた。
「その服、着 替 えないんですか?」
彼女が言ったのは、彼が着ている革 製 の戦 闘 服 のことだった。全身をくまなく、というわけでもないがかなりの範 囲 で保 護 し、各所に武 器 も隠 している。言うまでもなく着 心 地 については劣 悪 で、運動性は損 なわないものの長期間着込んでいれば身体 のほうが悲鳴をあげる。身体を洗 う際 などには脱 ぐしかないわけだが、再 び着るのにも時間がかかった。総じて、実用的な装 備 とも言えない。
自分でも理 解 しがたい心地で、オーフェンはつぶやいた。自然と苦 笑 が出る。
「......なんとなく、まだ着ておかないとならないような気がしてな。着 慣 れた服は、もうどこだか分からないような場所に置き去りだし」
「別に、ここで出してもらった服でいいじゃないですか」
言う彼女は、その通り真新しい服に着替えていた。仕立ては良いが動きやすそうな、つまるところは作業服のようなものだろう。屋敷と並 べて見てみると、使用人といった風 情 ではある。
それと同じものを着るのか──と、ふと想像してオーフェンは頭をかいた。なにもできずにこんな場所に誘 導 され、そして使用人の格 好 をする自分。こだわるべきところではないのかもしれないが、それでもそれを皮肉と感じるうちは受け入れられそうにはない。
「油 断 したくないんだよ」
曖 昧 に告げると、ロッテーシャが感情的に反 応 してみせた。引っかかったように眉 を上げると、強い調子で聞いてくる。
「わたしが油断してるって言うんですか?」
「......別に当てこするつもりはないよ。言葉のあやだ。気を悪くしたなら謝 る」
「エドに会いたいんです」
彼女は唐 突 に、話の向きを変えた。オーフェンは目をぱちくりし、動きを止めてロッテーシャを見やった。なにも言えずにいるうちにその少女は細い目の内になにかを見せた。それは単 純 に考えれば瞳 だった。もう少し黒い、澱 みだと思うこともできる。不定形の。いずれ、なにに変じるとも知れない。
彼女はこちらを見ずに、言ってきた。
「昨日の夜、エドはここにいないと言いましたよね? どこにいるのか知っているんですか?」
「さあな」
オーフェンは静かに否 定 した。ロッテーシャが、不 快 そうに顔をしかめるのが見える。
「とぼけるんですか?」
「どうして俺が知ってると思うんだ?」
「それは......」
彼女は言いよどんでから、きっぱりと言ってきた。
「あなたにしか聞けないからです」
「それで俺が都 合 良く知っているとしたら、君はきっとよっぽど幸運の星の下に生まれついてるってことなんだろうな。ダミアンに聞けよ。なにか知ってるとしたら、奴 以外にいないだろ」
ぼやいて、オーフェンはきびすを返した。聞き返してくるでも、ついてくるでもない彼女を残して、彼は屋敷の周りをゆっくりと歩き出した。
庭園は、先入観さえなければ快 適 な場所だと思うこともできた。こんな辺 鄙 な土地で、そう簡 単 にこれだけの植木を維 持 できるはずはないのだが。それとも、この土地の主──領 主 とやらの配下には、腕 の良い庭 師 も含 まれているのか。考えてみれば、それほど馬鹿馬鹿しい連想ではないのかもしれない。この庭がそれほど大事なものならば、庭師は必 須 の人材だろう。
だが、どうでもいいことではあった。
と──
「あの!」
駆 け寄 ってきたロッテーシャが、横を追い抜 いていった。こちらを向いて立ち止まり、行く手をふさぐ。
「ひょっとして......お墓を作ってたんですか?」
突 然 話題を変えたと思えば、そんなことだった──軽く唇 を嚙 んで、オーフェンは否定した。
「そんな大 層 なもんじゃない」
が、彼女はしつこく食い下がってくる。
「だとしたら、ごめんなさい。邪 魔 をしてしまって」
「別に邪魔じゃなかった」
「気を遣 わなくて良いんですよ。つらいでしょうし......」
(だったら、てめぇが気を遣えってんだよ)
罵 りかけて、それを呑 み込 む。善意の迷 惑 というのは、扱 いが厄 介 だった。自然と険 しくなる表 情 をなんとか隠 そうと視 線 をそらすが、ロッテーシャはそれこそこちらの遠 慮 と見たらしい。言葉を止めるつもりはないようだった。
「わたしも、身内を亡 くしましたから......いえ、病死ですけど、でも理 不 尽 なものだって思いました。父は、この剣 と道場をわたしに遺 して──」
「ああ、そのへんのことは聞いたよ」
聞き流しながらも、あまり邪 険 にできずにオーフェンは相づちを打った。目の前にいるこの少女がどうだというわけではない──胸 中 で言い訳 して、虚 しい感情を嚙みしめる。善意の迷惑。正義感の強かったイールギット。久しぶりに再 会 した昨日の彼女ではなく、五年前の彼女の様 を思い出して、オーフェンは奥 歯 を軋 ませた。守れなかった。自分はなにもできなかった。
せめて、彼女を悼 みたかった。だから......
(......静かにしててくれよ、頼 むから)
きつく告げる心持ちにはなれない。冷たくあしらうこともできず彼は、ロッテーシャの止め処 ないおしゃべりが通過するのを待った。
「──それで、お姉さんだったんですよね? あまり......その、似 てるとは、あ、いえ、ごめんなさい」
(要は、話し相手がいなくて退 屈 なんだろう、君は)
と、彼女が言っていた言葉をようやく頭に入れて、はたと疑 問 を浮 かべる。
(......お姉さん?)
《塔 》時代のイールギットは、たまに出てきては気の利 いたところを見せてくれる相手ではあったが、姉ほど図 々 しくはなかった。ロッテーシャがなにを言っているのか分かりかねて、視線で疑問を返す。が、ロッテーシャはそんな合図に限 って散 漫 に見 逃 すと、自分の言葉だけをまた続けた。
「少し話しただけですけど、とても知的な人だと思いました。ああいう方には憧 れます」
「............」
それは葬 儀 の席で死者を悼む常 套 句 程 度 のお世 辞 に過 ぎなかったのだろうが──
「あっ」
オーフェンは声をあげて、立ち止まった。ロッテーシャの言っている意味が、ようやく理解できた。彼女の誤 解 、そして自分の誤解を。
「............?」
ロッテーシャは怪 訝 そうに、こちらを見ている。オーフェンは苦 笑 もせず、怒 るわけでもなく、ただ平 坦 に──無感動に胸中でつぶやいていた。
(......彼女は、ティッシが 死んだってことを言ってるのか)
とどまったままそこで思考も止まり、ひとけのない庭園の中で、彼は口を半開きにしたまま立ち尽 くした。
屋 敷 の正面玄 関 には、破 壊 された痕 跡 のひとつも残ってはいなかった。死体と同様ダミアンが、破壊された事実を消してしまったということなのだろう。重いノブを回して、扉 を引き開ける。屋敷の内側は、ひんやりとした暗がりに満ちていた。
水 槽 の中に踏 み入れるように、その涼 気 へと潜 る。ロビーにも、埃 ひとつ落ちていない。踏 み割 られた床 板 も、どの部分が破 損 していたのか見分けがつかなくなっていた。
その涼気を、腐 った水のように感じたのは......屋敷の中に、人の気配を感じなかったせいかもしれない。死 骸 の浮かぶ水槽と同じ空気が、そこにあった。
(つい昨日のことなんだ......ここで人が死んだのは)
庭園に散らばった、無数の死体。
あれは、この最 接 近 領 の人口ほぼすべてだったのではないか──無人の静 寂 に固まったこの邸 内 の気に触 れると、それもあながち的外れだとは思えなくなってくる。数十人、あるいはそれより上の桁 だったかもしれない。そのすべてが一夜で惨 殺 された。
その、手 触 りなのだ──オーフェンは声に出さず、つぶやいた。死 霊 などという曖 昧 なものではなく。死が満ちたという事実が、凍 えた指先でもって首 筋 を撫 でてくる。振 り払 うこともできない。逃げ出すこともできない。
ロッテーシャは、まだついてきていた。ほかに知り合いのいないこの場所で、居 所 がないのは自分だけではないということなのだろうと、オーフェンはようやく気づいた。
彼女が聞いてくる。
「......結局、昨日の騒 ぎというのはなんだったんですか?」
彼女の声に親しみはなくとも、少なくとも空気の冷たさよりはましだった。オーフェンはちらりとだけ彼女に視線をやると口を開いた。
「ここは最接近領の領主とかいう貴 族 の屋敷だ。領主なる人物は、ドラゴン種族の生き残りと抗 争 をしている。その殺し屋が、一夜にしてこの領地を破壊させた」
「殺し屋......」
実感を伴 わないロッテーシャのつぶやきに、オーフェンは肩 をすくめた。
「コルゴンがいれば、防 げたかもしれないな」
「でもその殺し屋というのは、魔 術 士 ではない普 通 の人なんでしょう?」
不思議そうに、彼女が声をあげた。
「あの......ダミアンとかいう人が言っていたじゃないですか。どうして防げなかったのかって。わたしにはよく分からないです」
と──
ロッテーシャが微 妙 な一 拍 を置いたことに、オーフェンは気づいていた。素 知 らぬ顔で待っている間に、彼女があとを続ける。
「......普通の人でも、魔術士に勝てる方法があるってことですか?」
(それが聞きたかったのか)
小さく嘆 息 して、オーフェンは答えた。
「魔術が使える状 況 だったら、そりゃ俺の勝ちだっただろうさ」
「使えない状況だったんですか?」
「屋内でいきなり接近していた上、部屋の中のどこかにクリーオウなりマジクが隠 れている可 能 性 もあった。迂 闊 なことはできないさ。さらには、敵 のあの技量だ......《十三使徒》の暗殺者 が正面から殺されてるのを見せられた以上、同じことをやれば同じ結果になるのは目に見えていた」
ちょうど、今立っている場所だった。
オーフェンはロビーの床 から、背 後 の扉 までを視 線 で追った──そこに、暗殺者シーク・マリスクは倒 れていた。
それを思い出すと同時に、死の手が首 筋 から背 中 へとおぞましく広がってくるのを感じる。戦闘服の内側で鳥 肌 を立てた腕 をさすりながら、オーフェンはかぶりを振った。
「魔術ってのは、言うほど便利な武 器 じゃないんだ。ちょっとした制 限 から使えなくなることも多い。接近して効 果 を発 揮 できる魔術の構 成 ってのも、いくつか研究してはみたけどな。やはりいざって時に有効かというと、問題が......」
そこで途 切 れたのは、ロッテーシャが聞いていないということに気づいたからだった。彼女はなにかに気づいたように、ロビーの正面、階 段 の上を見上げている。オーフェンもならって顔を向けると、踊 り場からこちらを見下ろしてきている人 影 があった。
最接近領の領主。彼がにっこりと品の良い笑 顔 で、こちらを見ていた。朝の挨 拶 というところだろう。軽く会 釈 すると、そのまま奥 へと引っ込んでいく。
「............」
見送って、オーフェンは特に言葉を発しなかった。ロッテーシャも黙 して、死よりも静かな生 の静寂が屋敷に満ちた。
記 憶 に残っていたのは、もっと悲 惨 な形 相 だった。
それが、その領主なる男の落ち度だったというわけではない──たとえば貴族ならば、統 治 する対象である民間人に危 惧 を抱 かせるだけで重大な過 失 と見なされるとしても。王立治安構 想 において、貴族連 盟 は全大陸民に安心を保 証 した。宣 言 にいわく、大陸における人間種族は生活を保 障 される。自然死を迎 える権 利 を得ている。
あらゆる宣言と同じく、貴族連盟の宣言もまた理想的なものだった。そしてあらゆる理想と同じく、王立治安構想の理想もまた現実に照らし合わせれば齟 齬 があった。
昨夜、この庭園に死体が散らばり、自分も死にかけた。二階の窓 から庭を見下ろして、オーフェンはかぶりを振った──窓から周囲を警 戒 でもするふりをして。部屋のすぐ下に、自分で置いた墓石がある。偶 然 ではなく、自分の手近に置いておきたかった。皮肉を思いついて、つぶやく。
(......死体が消え失 せたのは、現実を理想に近づける手 管 かもな)
死体がなければその惨 劇 はなかったことになる、というわけだった。
出来の良い冗 談 だとは思わなかったが、それでも振り切るように窓から離 れて、オーフェンは自分に与 えられた部屋の中を見回した。
客室だった。少なくとも、招 かれてこんな土地にまで出向いたなりの待 遇 ではある。天 蓋 つきのベッドだというわけではなく、また、それを欲 していたわけでもなかったが、オーフェンは弾 力 のあるマットの上に腰 を下ろした。身体 にはまだ疲 労 が染 みついていた。ベッドの軋 み音と、柔 らかい羽根布 団 の感 触 とが眠 気 を誘 う。
欲 望 を振 り切って、彼は両手で顔を覆 った。一息つく。昨日の記 憶 がまざまざと蘇 ってくる。
「......領 主 」
彼は小さくつぶやいた。昨夜見た顔。
部屋に踏 み込んだ時に見た、領主なる男の顔。それは紛 れもなく悲惨な形相だった。だがそれを落ち度とするのは気の毒だっただろう。それは、どうしようもない 形相だったからだ──
死 因 は尋 常 ならざる打 撃 による致 命 傷 。内 蔵 のほとんどを一撃で叩 きつぶされ、喉 と舌 を口から吐 き出して倒れていた。明かりのない部屋で月光のみにて映 し出されていた死に顔は、はっきり見えたはずもないのだが、記憶に焼き付いて離れなかった。
(どうしてだ?)
そしてまた、疑問も頭から離れない。
(......あれは死んでいた。どう見ても死んでいたんだ)
庭園に転がっていた、領主の私兵たちの死体。誰ひとりとして疑 う余 地 もないほど破壊され、死んでいた。それと同じ、領主もまた昨夜死んでいた。
(なのに、どうして今 朝 は生きているんだ?)
あまりにも呑 み込 みようのない疑問に、息を震 わせる。オーフェンは顔を埋 めている手のひらに力を入れた。手 袋 の中で、指の節がこすれる。昨日のことを、思い出せる範 囲 で細大漏 らさず記憶に蘇らせようと、彼はうめいた。
領主を殺害した殺し屋に、オーフェン自身もまた倒された──一命を取り留 めたのは、領主配下の白魔 術 士 ダミアンに助けられたおかげだった。意 識 を取りもどしたのは今朝のことで、その時には領主が生き返っていた。
(ダミアン・ルーウには、人を生き返らせるほどの力がある......? そんな馬 鹿 なことがあるか、くそっ)
顔を上げる。
(まだ人違いだってほうが腑 に落ちる。死に顔しか見てないわけだしな。影 武 者 、死んだふり、幻 覚 、すべては俺の見てた夢......ほかにどんなトリックがあり得る?)
ノックの音が聞こえた。
またもや考え事を邪 魔 されて、だからというわけではないが、見当はついていた。無 視 していると、扉 の向こうから声が聞こえてくる。
「あの......オーフェンさん」
(なんなんだ)
オーフェンは立ち上がると、扉のノブに手をかけて鍵 を外した。簡 単 な鍵でしかない──魔術士でなくとも心得があれば外せるだろうし、もとよりダミアン相手には無 駄 でしかなかったろう。
それでも鍵をかけておいたのは、邪魔をされたくなかったからだが。
(考えてみれば、内側から鍵なんてかけたら居 留 守 も使えねぇじゃねえか)
鍵をかければ部 屋 にいるのを主 張 することになり、鍵をかけていなければ扉を開けられて結局ばれてしまう。どちらにしても同じことだった。自分の愚 かさを呪 って、扉を開ける。
開いたドアの陰 に隠 れるようにして、そこにいたのはやはりロッテーシャだった。なんとか邪 険 にならないよう努力して──ぎりぎりの努力だったが──オーフェンは、彼女に問いかけた。
「......まだなにか用が?」
「まだっていうか、オーフェンさん、結局わたしの聞いたこと答えてくれてないじゃないですか」
「聞いたこと?」
思い出せずに、彼は聞き返した。
と、ロッテーシャはさりげなく隙 をついて部屋に入ってきた。相変わらず剣 を抱 えたままで、しばらく黙 り 込 む。やがて彼女は言ってきた。
「エドは、どうしてここにいないんですか?」
それは、先ほどの問いと同じようで、まったく違 う問いだった──そのことはあえて言わず、オーフェンは聞き返した。
「というと?」
「ここにいるって聞いていたから、ここに来たんです。なのに、ここにはいないって。どうしてなんです?」
「コルゴンの奴 に用事があって、うまく見つけられたことなんて一度もなかったような気がするよ」
投げやりにつぶやくと、オーフェンは部屋を横切って、彼女から最も離 れた壁 に背 を預 けた。
ロッテーシャの顔を見やると、彼女は怒 りか落 胆 か、どちらとも取れない複 雑 な表 情 で身を乗り出してきた。実 際 、彼女自身にもどちらか分かっていなかったのかもしれない。鼻の詰 まった声 音 で抗 弁 してくる。
「でも、あなたが」
「待ってくれ。一 応 言っておくが、俺 は君の案内人じゃないんだ。君は勝手についてきた。俺は俺の用事で手一 杯 だし──」
と、言いかけてから躊 躇 する。
オーフェンは息を吸 い直すと、改めて口を開いた。乾 いた唇 が、嫌 な味を舌 に残しているのを感じながら、
「コルゴンは、キリランシェロとかいう奴 に頼 れと......そう君に言ったんだっけ?」
「え? ええ......」
ロッテーシャには、彼がどうしてそんなことを言い出したのか理 解 できなかったようだった。怪 訝 そうに目をぱちくりさせている。
「............」
長くは沈 黙 しなかった。意識したのは、自分でなければどう考えるだろうかということだった──たとえば、コルゴンなら。
(そもそもあいつは、どういうつもりなんだ......?)
誰もが自分の意図を隠 したまま、厄 介 事 だけをこちらに押 しつけてくる。コルゴン、ウィノナ、ダミアン、最 接 近 領 の領主。そして、レティシャも。
そう考えれば、眼 前 で剣を抱 き顔を険 しくしているこの少女は、まだしも正直だと言えた。少なくとも嘘 がうまくないという程 度 には。
(結局のところ、協力者は必要なんだ)
観念の為 所 かもしれなかった。
「分かった。協力しよう」
気の進まないまま、オーフェンはつぶやいた。
だがそれすら、ロッテーシャには意外だったらしい──なにを言ったところで意外と取るのかもしれない。驚 き混 じりに、彼女が聞き返してくる。
「協力?」
「協力は協力だ。ほかに意味なんかない。俺たちの目的が一 致 しているとは言い難 いが、それでも同じ方向を向いてはいるんだ。つまり、ここの連中から本当のことを聞き出したい。奴らの正体を暴 きたいと言い換 えてもいい」
オーフェンはゆっくりと、言葉を選んだ。
「状 況 を整理しよう。既 に話したこともあるかもしれないが聞いててくれ。全体の枠 組 みはこうだ──この大陸は、ドラゴン種族によって支 配 されている。だが実 質 上、大陸を統 治 しているのは人間種族だ。ドラゴン種族は聖 域 と呼 ばれる場所に隠 遁 して、俺たちに姿 を見せることもない」
ロッテーシャがうなずくのを待ってから、オーフェンはさらに続けた。
「貴 族 連 盟 は建前上、ドラゴン種族からその権 利 を引き継 いで大陸を統治していることになっている。そして実際、そうなっている。だがそれでも、ドラゴン種族がなにかの気まぐれだかなんだかで聖域から出てくれば......人間種族はどうあがいたところで再 びその支配下にもどるしかない。貴族連盟の真意なんてもんはさすがに分からないが、彼らが聖域と対立するのは自然なことだと思う。その抗 争 の担 い手がこの館 の主、最接近領の領主なんだろう。それが今のところ、彼ら自身が自 称 している自分たちの役 割 で、ここまでは昨日も話したよな? ウィノナの説明を素 直 に信じれば、そういうことになる」
「わたし、あの人は嫌 いです」
吐 き捨 てるように、ロッテーシャがつぶやいた。
と、不 躾 な態 度 を自覚したのか、恥 じ入るように目を伏 せて、
「......いえ、あの人もわたしのこと嫌ってるんだと思います。なんていうか、ものすごく蔑 んで見られているみたいで苛 々 するんです」
「領主のために働いているということでは、コルゴンとウィノナは同志だ。君がコルゴンと対立するなら、そんなもんじゃないか?」
「そうでしょうか......」
落ち込んだというわけではないだろうが、彼女は沈 痛 な顔を見せた。
オーフェンは、壁にもたれた背中の位置を直すふりをして、彼女から目をそらした。たいした時間ではなかったが、その間にロッテーシャは気を取り直してくれたらしい。彼女に再び聞く態 勢 ができたところで、オーフェンは説明を続けた。
「ドラゴン種族は、聖域の外で活動する役割を持ったエージェントを用意しているらしい。人間種族や、ドラゴン種族のな。それをドッペル・イクス──ひらたく言えば、〝裏 切 り者〟って意味だが──と呼ぶんだそうだ」
「ライアンも......そのひとりだったんですよね?」
おずおずとつぶやく彼女を、手を振 って制 止 する。
「ああ、君の魔 剣 を手に入れようとしていたらしいが、コルゴンがそれを邪魔していたらしい。コルゴンはコルゴンで、その剣を欲 しがっていた」
それを聞いてロッテーシャの表 情 が曇 るのに気づきながら、オーフェンは無 視 して先を急いだ。
「だがそれは領主の頼 みでもあったんだ。ドッペル・イクスを遊 撃 する暗殺者のような立場にいたんだろうな、コルゴンは」
「だったら、わたしに言えば良かったんです。全部説明してくれれば──」
「どうなった? 聞く耳あったか?」
聞き返すと、彼女は口をつぐんだ。口 惜 しそうにきつく剣を抱く指先が、白くなっているのが見える。
オーフェンは、肩 をすくめた。
「まあ、それでも相談すべきだっただろうとは思うけどな──道場を襲 ったりするよりは遥 かにましだ。アーバンラマで会った時にそのことを問いつめてみたが、要領を得なかった。あいつにはあいつなりの考えがあったんだろうと言いたいとこだが、あいつに関しては、まるっきりなんの考えもなかったんだとしても驚きはしないね。だてに迷惑来訪者 なんてふたつ名がついていたわけじゃない。他人が傷 つくことに対して罪 悪 感 がないんだ。人 格 としては最低最悪だが、それでも本当に 人に危 害 を加えるようなことはしない奴だと思ってたんだけどな......」
ロッテーシャの──迷惑来訪者 の元妻の──反 応 を期待していたのだが、彼女はなにも言ってこなかった。氷 像 のようにも見える白い手で、剣の鞘 を握 りつぶそうとしている。それは見た目よりも遥かに冷えた指先ではないかと思えた。
触 れる気にはなれない手。
オーフェンは話題を変えた。
「......アーバンラマまで巻 き込 んだ騒 動 の結果、ライアンは死んだ。ライアンの仲間もだ。だがむしろ俺たちにとっての問題は、その中で最 接 近 領 の領主なる人物に目をつけられたことなんだろうと思う」
それはなぜなのか。ロッテーシャは視線でそれを問いかけてきていたが、オーフェンは気づかないふりをした。説明しようとすれば長くなり過ぎる。
アーバンラマでウィノナが持ち出してきた交 換 条 件 によれば、領主は大陸を飛び出したアザリーの行方 を追っているらしい。その手がかりとして、彼を必要としていると言っていた。アザリーの行方を探 す手 段 のないオーフェンにとっても、その利害は一 致 してしまっている。断 れない取引だったのだ。
そのあたりについては言葉を濁 して、オーフェンは続けた。
「で、俺たちはこの最接近領に誘 導 された......領主は俺に取引を申し出たんだ。その取引は、俺にとっても有 益 なものだった。プライベートなことだけどな。君もついてきた。コルゴンに会うために」
「......はい」
「一連の出来事は、突 発 的 なものだったとはいえある程度は領主の思 惑 通りに動いていたはずだ。だが予定外のことも起こったんだ。つまり途 中 でもうひとつ別の勢 力 が絡 んできたおかげで、この最接近領の組 織 は壊 滅 しちまった」
「あなたのお姉さん?」
聞いてくるロッテーシャに、かぶりを振って否 定 する。オーフェンは言い直した。
「ティッシは違 う。もうひとりいただろう? 君は会ってないが、彼女のほかにさらに仲間がふたりいた。宮 廷 魔 術 士 《十三使徒》ってのは話したよな?」
「ええ......」
「最高ランクの黒魔術士だ。貴 族 連 盟 の下で働いている。本来なら領主と共 闘 する立場なんだろうが、彼らも彼らで、思惑があったんだろう。領主を暗殺するために彼女らを送り込んだ」
と......
ふと黙り込んで、オーフェンはつぶやいた。自問するように。
「......ティッシはなにをしに来たんだ......? 結局なにも教えてくれなかった......」
また黙 考 しそうになるところを、話し相手の視線で我 に返る。
ごまかすわけではなかったが、口早になってオーフェンは続けた。
「同時に、またドッペル・イクスも最接近領に入ってきていた。コルゴンの奴が行方をくらましたこともあって、戦力を欠いた領主の手勢は全滅しちまったんだ。《十三使徒》も全員死 亡 した......とまあ、これが現 状 だ」
自分自身、まだ分からないことも多かったが。
それでも理解している範 囲 で語れば、そんなところだった。決定的な部分は、手がかりもないに等しい。
「あのぅ......」
そのことは、彼女も察したのだろう。わずかに不満そうな気 配 を含 んだロッテーシャの声を聞いて、オーフェンは覚 悟 を決めた──わざわざ語ることを避 けていた質 問 を、彼女が投げてくるのは分かっていた。
若 い剣の道場主は、こんな時だけ、いかにも剣士らしい隙 のない視線を見せていた。
「クリーオウと......マジク君はどうしたんですか? そもそも、どうしていっしょにいないんです?」
この部屋のどこかに隠れているのかとでも言いたげに、あたりを見回してから、
「今朝、顔を見たっきりじゃないですか」
「............」
答えられずにいると、彼女はさらに詰 め寄 ってきた。
「またわたしが知らない間に、なにかあったんですか?」
「いや」
嫌 な味が混 ざるのを意 識 しながら吐き出す言葉は、自分でも苛 立 たしく感じられるほど歯切れが悪かった。オーフェンは鼻の頭をこすって、手の甲 で表情を隠した。
「なにもない......俺も、今朝回復して、領主といっしょに部屋に入ってきたあのふたりを見て以来、見てない。話もしてない」
「どうして」
「君も見てたろ。顔を見せたと思ったら、挨 拶 だけして当然のような顔で領主といっしょに退 室 しちまった。それが気に入らない」
ロッテーシャが、きょとんとしてみせた。
「......無 愛 想 だったから怒 ってるってことですか?」
「違う」
苦 笑 して、相応 しい言葉を探 す。天 井 を見上げて、オーフェンは告 げた。
だが頭に浮 かんでいたのは、足 下 にぽっかりと開いた落とし穴だった。
「なにか、でっかい罠 にはまっちまってるような気がするんだ。俺たち全員が」
「でも、話を聞いている限 りだと、領主って人はわたしたちに危 害 なんて加えないみたいじゃないですか。見た感じも、良い人っぽかったですし。むしろ貴族なら、市民を守るのが仕事で......人を襲 うのは、そのドッペルとかいう人たちなんでしょう?」
「問題はコルゴンだ」
その名前を出すと、彼女は息を詰めるようにして言葉を止めた。腕 組 みしたままオーフェンは、彼女を見 据 えた。
彼女の言っていることはもっともだった。現状では、領主の──そしてその配下の連中の──取っている行動は、気にくわない部分が目につくものの、自分たちにとって益 になっている。白魔術士ダミアンには、二度までも生命を救われた。この地に至 るまで降 りかかってきた災 難 はすべてイレギュラーで、しかもすべてが領主配下の者以外の手によって仕 掛 けられたものだった。
領主を警 戒 するのは筋 違 いといえる。
が。
オーフェンは繰 り返した。
「コルゴンがな。アーバンラマで言ったんだ。領主はいい奴 だ。できれば協力してやってくれってな」
「エドが......?」
「信 頼 する気にならねぇだろ?」
冗 談 で言っているつもりはなかった。ロッテーシャも同じことを考えたらしい──目に浮かんだ困 惑 の光で知れた。
うなずいて、オーフェンは続けた。
「警 戒 の要あり。そんなとこだ。だがチャンスでもある」
「チャンス?」
「ここまで忍 耐 ばかり試 された。相手の有利なゲーム盤 で、自分の駒 も持てずにひたすら相手の手番だけを見せつけられたんだ。とうとう相手の懐 を捕 らえられた──そして同時に、相手の懐に食いついたとも言える」
「どっちなんですか?」
素 直 に聞いてくる彼女に、オーフェンは無理やりににやりとしてみせた。
「どちらかさ。いずれ分かる」
そのことはそれで終わりにして、彼は腕組みを解 いた。壁 から身を起こし、
「協力しようってのは、こういうことだ──分からないことが多すぎて、俺ひとりじゃ手に余 る。あてにできる相手が、君以外には誰 もいないんだ」
「わたしに、なにかできますか?」
「一番の不安はクリーオウとマジクだ。あのふたりの様子を探 って欲 しい。白魔 術 士 は精 神 支 配 で人格をも掌 握 できる。魔術のことは分からなくても、ふたりが正気かどうかくらいなら、何週間かいっしょにいた君なら分かるだろ?」
「......わたしもその支配とかいうのにかけられたりしたら?」
「そうしたら、ダミアン・ルーウが敵 だとはっきりする。洗 脳 されてるのがふたりだろうと三人だろうと大差ない」
それを聞いて、ロッテーシャは多少ならず衝 撃 を受けたようだった。眉 間 にしわを寄せて、口を尖 らせる。その仕草はクリーオウに似 ていなくもなかった──彼女らが同世代の少女なのだということを今さら理 解 して、オーフェンは苦笑した。意外だと思ってしまったのだ。
ロッテーシャは非 難 するように言ってきた。
「ひどいじゃないですか。そんなのが協力ですか?」
「敵の姿 を手のとどくところに引きずり出さなけりゃ、戦うこともできないんだ。仕方ないだろ? 敵であることが分かりさえすれば、俺がなんとかするさ。それに──」
と、口ごもる。
言葉が続かなかったふうを装 って、オーフェンはそのまま笑 みを浮かべた。
(それに......どちらかと言えば、先に狙 われるのは俺だろうさ)
「俺たちは手が足りないんだ。増 やせるあてがあるのかどうかも分からない。悪いが呑 んでくれ。その剣、使えるようになったんだろう?」
彼女の抱く剣──魔剣を示 して、告げる。
ロッテーシャは曖 昧 にうなずいただけだった。それはお世 辞 にも自信たっぷりとは見えなかったものの、オーフェンはぎりぎり自分を納 得 させて小さく付け加えた。
「ティッシもいないしな」
と──
「あのう」
申し訳 なさそうにまばたきしてから、彼女が声をあげてきた。
「ごめんなさい。こんなことを言うべきではないって分かっているんですけど」
「............?」
不思議に思いながら見やると、ロッテーシャはさらに一 呼 吸 おいてあとを続けた。
「お姉さんが亡 くなられたっていうのに、随 分 と冷静なんですね」
彼女がなにを言っているのか、しばらく理 解 できなかった。
しばらく思考を止めていたらしい。ふと気がつくと、彼女のいる位置が変わっていた。こちらを気 遣 うように、近づいてきている。
オーフェンは手をあげて、それを制 した。かぶりを振 って告げる。
「そうだな......自分でも不思議だよ。いや」
違うということは分かっていた。思いつくままに、言葉だけを紡 ぐ。
「そうでもないな。なんとなく分かるような気もする。つまりは──ティッシが死んだなんて、どうしても信じられないんだ。俺は」
「でも......」
言いかける彼女をさらに制止して、オーフェンはきっぱりと首を横に振った。
「いくら否定しても無 駄 だ。俺は信じない」
戦 闘 服 の内側で拳 を握 り、それを壁 に押 し当てる。
力を込めずとも、古びた壁 面 が軋 み音を立てた。言葉よりも強く、その物音がロッテーシャを沈 黙 させる。
思い出したのは、今もまだ耳に残っている苦 痛 に満ちた声だった。イールギットの末 期 の言葉。彼女はそれを、伝言と言った。
十四日後──いや、一日経 ったから残り十三日か──、聖 域 にて家族三人がそろう。
それは意味不明の言葉だった。単に死に際 の彼女が錯 乱 しただけかもしれない。が、オーフェンはそう思っていなかった。
(伝言だ......イールギットは嘘 をついたことなんかない。家族が三人そろうと言っていた。家族......)
自分にとって、家族と呼 べる者たち。その中にレティシャが含 まれていないはずがない。
その時、彼女が、自分が、どんな状態なのかは分からない──が、それを確 かめるまでは彼女が死んだと考えるつもりもなかった。
だが、そもそもそれは誰の伝言なのだ?
オーフェンは拳を下ろすと、静まり返った室内から目を離して窓の外を見やった。
陽 は昇 りきって、誰がどう抗 弁 しようと、一日の始まりを否 定 できない時 刻 になったことを示していた。
氷に閉 ざされたマスマテュリアを思い出したのは、当然のことだったかもしれない。
ドーチンはその光景を眺 めて、自分にそうつぶやいた。
なにもない荒 野 。白っぽい砂 嵐 が吹 き荒 れるその広い不毛の地は、懐 かしいマスマテュリアの氷原を連想せずにはいられない。その細かい粉 塵 の靄 の中、巨 大 な影 がいくつもそびえている。地上に、これほど巨大な生物はいくつかしか考えられない。それはひとつの種別にまとめられていた。ドラゴン種族。マスマテュリアに無数に転がっているドラゴン種族は目の前にいるものとは種類が違 ったが、巨大さは同等だった。
見ている間にも次々と虚 空 から姿 を現 すその黒い巨大生物たちは、巨体を別とすれば漆 黒 の狼 の姿をしていた。吹き荒れる風がドラゴンらの毛 並 みに触 れて、不平じみた不協和音を奏 でる──にもかかわらず、その狼たちは身動きしても物音ひとつ立てずにいた。その身動きすらも、ほとんどなかった。なにもない空間から前触れもなくそこに現れ、まるで絵画のようにそこを占 領 し、まばたきもせずそこにとどまる。
それは、ディープ・ドラゴンとして広く知られる生物だった。大陸では、ミスト・ドラゴンと並 んで最悪の危 険 をばらまくと噂 される。
それらの数は既 に、眼 前 の荒野を埋 め尽 くすほどにもなりつつあった。百や二百などという次元ではない。見回しても、周囲はすべて漆黒の毛並みにふさがれている。そのさなかで呆 然 と立ち尽くし、ドーチンはただの一言だけで、すべての心情を吐 露 することに成功した。
「......もう駄 目 だ」
その場にがっくりとくずおれると、ドーチンは地についた両手で乾 いた砂 を摑 み取った。どうしようもない。今までもわけの分からない危険に巻 き込 まれることは何度もあったが、これほどではなかった。
「ん? どーしたドーチン。なにかまずいことでもあったか?」
と、兄の声を聞いてそちらを見ると、地面に横 倒 れになったボルカンが腕 組 みしながら平然とした顔で言ってきたところだった。
「まあ、俺 様 はこうしていきなり現れたでっかい犬の前 脚 に身体 ごと思いっきり踏 みつけられて身動き取れないわけだが、それほど困 ってないぞ」
「......いや、なんか心の底からすごいって思ったよ今。兄さんのこと」
ドーチンはぼやくと、身につけている毛皮のマントを身体に引きつけた。それがなんの役に立つというわけでもないが、それでもこれでどこかに隠 れられるというのなら、そうしたいところだった。
兄は巨大なディープ・ドラゴンに踏みつけられたまま──というより動きようがないのだろうが──、意外と平気そうにあとを続ける。
「しかしまあ、あれだな。このでっかい犬どもはどこから現れたのだ? なんかこー、あれだぞ。犬なら犬らしく現れる前にまず吠 えて欲 しかったぞ」
「犬じゃないよ、兄さん。これはディープ・ドラゴン種族だよ。見たことあるでしょ?」
「それは犬の一種か? デカイヌクロビカリと名付けようと思っていたところなのだが。こっちのほうが良いと思わんか?」
「じゃなくて。ていうか名付けなくていいから」
ドーチンは軽く頭を押 さえてから、めまいを振 り払 うために目を閉 じた。なんとか起きあがる気力を回復させてから、また口を開く。
「ものすごく危険な生き物なんだ......本当にものすごく」
「危険か」

いまいち実感できないのか──兄は他人 事 のようにつぶやいてから、はっと目を輝 かせて言い直してきた。
「危険だと⁉ このマスマテュリアのミスター不 世 出 、ボルカノ・ボルカンが危険な状 態 にあるということかっ⁉ 」
「うん多分。まあそんな感じきっと」
投げやりに同意すると、兄は数秒間沈 黙 し、今度は慎 重 に聞いてきた。
「......この犬はどれくらい危険なんだ? ひょっとしてトンガリカジリネコくらい危険なのか?」
「いや、まずその生き物がなんなのか教えてよ」
「むう。無知な輩 はこれだから困り果てる。しかし、俺様が危険なことになっていたとは、てんで思いつかなんだ。まさしく、ばったり出くわし殺されるところだった」
「そんなに長く心配しなくても良いと思うよ。ぼくの知ってる限 りでは、ディープ・ドラゴン種族に出会ったら、残りの人生はあと何秒とか、そういう話らしいから......」
あたりを囲む巨大な狼を適 当 に示 して、絶望的にうめきを漏 らす。それが万分の一でも兄に伝わることを期待していたわけではないが。
果たしてボルカンは、はっきりと理 解 したようにうなずいてみせた。横倒しになっているので、横向きに。
「それは結 構 困るぞ。あとで保 健 所 に抗 議 すべきだと俺は思う」
「そうだね。してもいいと思う」
ただし、そのチャンスがあればの話ではある。
胸 中 で付け加えて、ドーチンは一番近くにいるドラゴンの顔を見上げた──それはつまり、兄を踏みつけている狼ということだが。
あと、ほんの数秒の命。それを、自分を殺す生き物を見つめることに費 やそう。心に決めて、ドーチンは眼 球 の奥 に涙 が沸 き出すのを感じていた。眺 めれば眺めるほど、美しい生き物だった。尖 った鼻先は荘 厳 に天を指している。鮮 やかに輝く緑色の瞳 は、遥 か遠くの地平を見つめているようだった。どのドラゴンもまた、同じ方向を見つめている。
(なんで、あんなほうを見ているんだろう......なにもないのに)
それとも、なにかがあるのだろうか? 自分には見えないなにかが。
覚 悟 を決めても、疑 問 は浮 かんだ。不思議に思ったことに対して答えが得られないまま死ぬのは嫌 だというそれだけの理由で、ドーチンは慌 ててドラゴンらの眺める方向に視 線 を転じた。答えを見つけるならば急いだほうが良かった。残り何秒の猶 予 なのかも分からないが。
解答を求めて、遠くを見やる──眼鏡 越 しに眺める地平には、やはりなにもなかった。どこを向いても同じ風景の荒野があるに過 ぎない。
強 いて言えば......
ドーチンは、自信なく自答した。
(あの方向は......あの借金取りとかが進んでいった方向なんじゃないかな?)
そう思って眺めていくと、ドラゴンたちが完全に一方向を向いているのではない ということが分かってきた。そもそもずらりと並 んだドラゴンたちは、適 当 に現れてそのまま突 っ立っているというわけでもないらしい。方向ではなく一点を眺めるように、同心円上に展 開 している。
(なにか......なにか一点を、包囲してるんだ)
その先になにがあるのかは分からないが、ドーチンはさらに目を凝 らした。なにも変わらない。
が──
変化は、見ていない方向で起こった。異 変 は最初に、聴 覚 に侵 入 した。背 後 から、凄 まじい不協和音が鳴り響 く。
「うぎ......⁉ 」
耳を押 さえる間もなく、鼓 膜 に突き刺さるような、ねじくれた金 属 音 が響き渡 った。薄 いガラスが砕 ける音......断 末 魔 の悲鳴じみた音......ただひたすらに立て続けに起こる打 撃 の音......聞き分けようもない騒 音 の渦 が、限りなく一 瞬 に近い短時間で爆 発 する。
振 り向くと、音もなく──ドラゴンたちがその場からいなくなっていた。飛び退 いたのか、もっと別の移 動 方法を使ってか、もといた場所から何メートルも退 避 している。狼 の群 は、異変の生じたその空間を凝 視 しているようだった。聴覚の次にその異変を捉 えたのは、視覚だった。
続きがあるとも思えなかった。その出来事に触 れられるとも思わない。臭 いもなく、味覚は論 外 だろう。そこにあったのは、思いつく限りの色を球状に圧 縮 したような、奇 怪 な模 様 だった。それに質 量 があるとは見えなかった。ただ空間に、不気味な模様が描 かれている。
言うまでもなく、見たことのない代 物 だった。周りにいるドラゴンたちも驚 いているのかそれは分からないが。はっきりしているのは、飛び退いたドラゴンから解 放 された兄が、今度はその球体に押しつぶされそうになっているということだった。
いや、球体ではない......
球体からこぼれ落ちた、むやみに長い足にだった。黒の革 の服に包まれた足。次いで現れたのは腰 、腕、背中、髪 。
長い黒髪が現 れた時、球体が消えた。そこに、長身の女がひとり残る。
その女はその場に膝 を突 いた──わざとではないのだろうが、膝 頭 が踏まれている兄の顔面をこそぎとる。兄が悲鳴らしい悲鳴をあげる間もなく、女が苦 痛 に満ちたうめき声をあげた。
「転......移に、こんな時間がかかって。何時間......かかったの?」
なにかに文 句 を言っているらしいが、よくは分からない。
「まったく......昔から、手 際 が悪いのよ......あなたは......」
ぶつぶつと続けて──
女は突 然 、顔を上げた。怪 物 じみたばらばらの黒髪が不気味に顔へとかかっている。
「あなたたち......良かった。まだいたの......ね」
怪 我 をしているようだった。下 腹 のあたりを両腕で押さえている。黴 の臭いが混 じった砂 の風に、生々しい血 臭 が溶 け合った。見るからにひどい有様だったが、その女はまだ死ぬつもりはないらしい。
「この近くに......わたしの荷物が......置いてあるはず。あのバッグ......持ってきて......衰 弱 して......栄 養 剤 が......」

そして、そのまま昏 倒 した。
その女の名前は覚えていない──が、この寂 れた荒野まで彼らを連れてきた、髪の長い黒魔 術 士 だった。
◆◇◆◇◆
領 主 。
──という呼び名に相応 しいと言えるほど、その屋 敷 がむやみに広大なものだったというわけではない。十数部屋あるレティシャ・マクレディの持ち家と、同じ程 度 のものだったろう。それでもかなりの広さではあるが。
迷 うほどではなかった。古い絹 の絨 毯 に無 粋 な黒 革 のブーツの跡 をつけながら、オーフェンはその内 装 を見て取った。昨夜入り込んだ時には夜間だったせいか、闇 と影の印象しか残っていない。こうして日中に見れば、暗がりのひとつひとつに感じていた圧 迫 感 と殺気の痕 跡 もない。
天 井 の高さ、廊 下 の幅 、ひとつひとつの間 尺 が標 準 より大きいのかもしれない。中で運動会ができる──というほどでなくとも、
(学芸会程度ならできる、か)
ひとつひとつの調度は質 もよく、年代物であるように見えた。廊下の突き当たりに置いてある一 抱 えほどの壺 の縁 に指を触れさせてから、オーフェンはその指先をまじまじと見つめた。壺の価 値 など分かるわけもない。作られた年代を特定できるような知 識 があるわけでもない。
廊下の隅 、階 段 の手すり、窓 枠 のすり減 り具合......次々と観察していく。使い込 まれているのは間 違 いなかった。急ごしらえで作られた屋敷というわけではないらしい。
(古い......な。結 構 古い屋敷だ。こんな開 拓 業者も入ってないような辺 鄙 な場所に。この最 接 近 領 とかいう土地は、かなり昔からあったってことか?)
聖 域 との抗 争 。そんな理由でもなければ、このような荒 野 に屋敷を構 える理由はないように思えた。
「さて。この館 が、かつては聖域との友好を求めて建てられたものだと言ったら、君は信じるかな?」
深い男の声が、古びた通路に広がった。
傷 んだ壁板は声を反 響 させはしなかった。うっすらと埃 の染 みた絨毯も。
いや。
オーフェンは、否 定 した。肉声ではないから、こだまが起こるわけがない。顔を上げると、通路の曲がり角からひとりの男が姿 を見せたところだった。その男に別 段 変わったところはない。立ち居 振 る舞 いにも、不自然なところは見受けられなかった。ほくそ笑 むように、口の端 を上げている。
その男はそのまま続けた。
「大使の仮 住 まいとして建てられたのだ。フェンリルの森のほとりに。本来はね。だが森林は衰 退 し、遠のいた。この館の役 割 が変わり、そしてここが最接近領と呼 ばれるようになったのは、それほど大昔というわけではないのだよ」
「あんたにとってはな」
「わたしを不老不死かなにかだと勘 違 いしているね? わたしは......君が思っているほど長く現 世 にとどまってはいない」
語りながら男は、前に出てきた。緩 やかに腕 を振 って、我 が身を示 すと、
「わたしが肉体を捨 てたのは、百年も昔ではない。ほんの数年前でもない。その間のどこかさ。興 味 があれば、そのあたりのことについて話しても良いが?」
「いらねぇよ」
オーフェンは即 答 すると、相手に向き直る動作をしながら、さりげなく半歩後 退 した。とはいえこちらの心を読める──と主張している──相手に、警 戒 を隠 す意味はないかもしれない。
白魔術士ダミアンを前にして、オーフェンはつぶやいた。
「だいぶ調子がもどってきた。礼を言っておく」
「うん? 怪 我 を治してやったことかな? それは礼だけで済 ませて欲 しくない。領 主 様 が君を必要としているというので、わたしは役割に従 ったまでだ。領主様の厚 意 を無 駄 にして欲しくはない」
(厚意ね)
皮肉を言葉ににじませて、毒づく。
「呼ばれて来たんだ。だが領主とやら、挨 拶 して通り過 ぎるばかりで、ろくに話もさせてもらえない」
「君が避 けているのではないかと思っているのだが」
「話をさせてもらえるってのは、俺が相手の胸 ぐらを摑 んだ状 態 でってことだ」
「......それは敵 愾 心 かね?」
言われて、オーフェンは肩 をすくめた。
「着いて早々、とんでもない虐 殺 を見せつけられたんだ。少しくらい慎 重 になったって罰 は当たらんだろ」
と、相手に攻 撃 的 な視線を投げて付け加える。
「ついでに言えば、あんたらの部隊は全 滅 しちまったわけだ。コルゴンもいない。聖域に対 抗 する──実 際 今までできてたかどうかも知らないが──それだけの力が、まだ領主に残っているのか?」
「全滅したわけではない。優 秀 な部下を大 勢 失った被 害 が小さいものだったとは言わないが」
見た限 りでは、ダミアンの様子に動 揺 はなかった。もっとも、肉体を捨 てて精 神 体 になった白魔 術 士 が、多少言葉を吐 きかけられた程 度 で表に変化を見せるわけでもないのだろう。
ダミアンは紳 士 然 とした態 度 を崩 さず、余 裕 を含 んだ口調であとを続けてきた。
「幸い、領主様は無事だった。それだけで最接近領は維 持 できる。そういうものだ」
そう言ってからこちらが言葉をはさむより早く、白魔術士はふと思いついたようにつぶやく。探 るような目つきで、
「なにかを探 していたのかね?」
屋敷をうろついていたことを咎 めているようにも聞こえたが──オーフェンはそれを非 難 ではなく単なる質 問 だと受け取ることにして先に進めた。
「最初は、死体を探そうと思った」
「ほう?」
それほど興 味 もなく返事するダミアンに、即 座 に続ける。
「なぜ死体を消したんだ」
「............?」
無言で、理 解 できなかったゼスチャーか、白魔術士が自分のあごを撫 でる。オーフェンはそれを見ながら声を低くして続けた。
「昨日の死体だよ。今朝起きたら、騒 ぎなんて起こってなかったみたいに跡 形 もなく消えていた。あんたが片 づけたんだろう?」
「残しておいたほうが良かったかね?」
「こんな時に、そんなことに気を遣 うあんたでもないだろうと思ったのさ。もしかして、死体を調べられたらまずいことでもあったんじゃないのか?」
オーフェンは指折り数えて立てた指を二本、相手に突 きつけた。聞く。
「シークとイールギットの死体は見た......もうひとりの魔術士と、ティッシは?」
「《十三使 徒 》は全員死 亡 した」
涼 しく告げてくるダミアンに、オーフェンは声を上 擦 らせた。
「ティッシは!」
「彼女も......死んだよ。ほかの者と同じ死に様だった。あまりに悲 惨 でね。君が見なかったというのは幸運だった」
「ティッシは死んでない」
断 定 する。
が、ダミアンは哀 れむようにこちらを見て言ってきた。
「どうしてそう思う」
「まさか、否 定 されるとは思わなかったな。あんたこそ、第六感の塊 みたいなもんだろうに」
「なるほど。肉親の死を認 めないという精神の防 御 行動はとりあえずは有 効 なものだ」
(くそっ)
胸 中 で罵 って──といって、表に出さなかったわけでもなく、オーフェンは毒づいた。否定する材料がなにもないのも確 かだった。レティシャは実 際 に姿 を消しているのだから。死んだという以外にその理由が思いつくわけでもない。
実際、ダミアンが正しいのではないか。自分は意 固 地 になって姉の死を認めまいとしているだけなのか。そんなことを考えそうになり、それこそそこから逃 げ出すようにオーフェンは別のことを口にした。
「......ウィノナは?」
聞く。
ダミアンはすぐに答えてきた。
「兵士の詰 め所に移 した。いつまでも領主様の館 に置いておくわけにもいかんだろう」
「暗殺者に狙 われた直後だぜ? 護 衛 を遠ざける意味があるとは思えないけどな。ここの兵士で生き残ったのは、彼女だけなんじゃないのか」
怪 訝 に思って、オーフェンは告 げた。あの男──数十人を一夜にして殺害した黒服の男は、聖 域 はその気になればいつでも手勢を好きな場所に移 送 できると言っていた。その実際の真 偽 はともかく、可 能 性 の低い話だと断じる根 拠 もない。
ほかならぬダミアンが、それを甘 く見ているわけでもあるまい。そう思っていたのだが、白魔術士は思いのほか気楽に構 えているように見えた。些 末 なことを指 摘 されたというふうに微 笑 すると、こちらを示 して言ってくる。
「護衛ならば君がいる。君ならばドラゴン種族が相手でもひけを取らない」
「俺は引き受けた覚えはない」
きっぱりと告げるが、ダミアンは退 かなかった。
「ならば引き受けたまえ。領主様よりお話を賜 れば、その気になるだろう」
(取引に自信があるってのか。アザリーの行方 のほかに、別のカードも持ってるってことか?)
それはいずれ、領主と対決して確 かめるしかない。
だがそれよりも先に、確かめておきたいことがいくつかあった。オーフェンは切り捨 てるように手 振 りで否定した。
「覚えておくさ。兵士の詰め所ってのは、どこにあるんだ?」
聞いてみると、ダミアンはあっさりと答えてくれた。廊 下 の窓 外 へとあごをしゃくったのは、普 段 の紳 士 ぶった態 度 には似 つかわしくなかった。だがその眼 差 しに感情的なものが宿ったというわけでもない。
「館の裏 手 だ。林の陰 に隠 れている。平屋だから、目につきにくいかもしれない」
そして次に浮かべた笑 みは、勝ち誇 っているようだった。
「兵士宿 舎 へ行くのかね? ちょうど良かったよ」
「............?」
「領主様もそちらにいらっしゃると思う。まさか挨 拶 を避 けたりはしないだろうね?」
オーフェンは答えず、礼も言わないまま屋 敷 の玄 関 へと向かった。
兵士宿舎と呼 ばれているらしいその建物は、教えられた通り、館の裏手にあった。ダミアン・ルーウが嘘 をついていると思っていたわけでもないが、それでも期待を裏切られた心 地 にオーフェンは舌 打 ちした──なにかつまらない嘘でもつけばいいんだ。と、胸中で独 りごちる。そうすれば、少なくともダミアンが嘘つきであることを確 信 できる。
(いや......なにか嘘をついているのは間 違 いないんだ)
自分が疑 り深いわけではない。いや、疑り深いのかもしれない──相手が嘘をついているのは分かっているというのに、それを確信できずに疑っている。なにも信じることができていない。
考えをまとめられないうちに目的の建物を見つけてしまったことは、余 計 に苛 立 ちを募 らせた。大勢が詰める宿舎だからだろう。それなりの大きさがある。広さだけでいえば、領主の屋敷などより遥 かに大きなものだった。明らかに屋敷より新しいが、施 工 が粗 末 なせいか、ほころびはこちらのほうが遥かに多い。
出入り口が屋敷に向いているのは、なにかがあった時まず屋敷に殺 到 できるようにということか。
昨夜の惨 劇 の舞 台 にならなかったからか、それとも、なったのだが庭園のほかの箇 所 と同じくダミアンに修 復 されたのか、目立った破 壊 跡 も見あたらなかった。せいぜいが、ひびの入った窓 に貼 られた隙 間 埋 めのテープや、壁 の虫食い穴 に詰められたぼろ布 の塊 程 度 のものしかない。屋根は汚 れていた。屋敷もそうだったが、掃 除 の手が行き届 いてはいないらしい。それは昨日の騒ぎで使用人が死亡したとかそういった次元のことではなく、長らく放置されていたようにうかがえた。
実 際 、ここの領 主 は生活にさほどの秩 序 を求めていないのかもしれない。それは貴 族 らしくないといえばらしくなかったが──逆 にそれは自分が、貴族という言葉の印象に勝手な思い込みを持っていただけとも言えた。貴族内革 命 以前ならばともかく、現 代 の貴族などというのがそういったものだとしても驚 くほどではないのだろう。
適 当 に自分を納 得 させて、オーフェンは詰め所の入り口に近 寄 った。中からは人の気 配 も感じられない。ウィノナも重 傷 だったが、ダミアンが妙 な差別でもしていない限 りは、自分同様そろそろ動けるようになっているはずだった。彼女と話す必要がある。
できれば、領主をうまく避 けて。
自分自身がどういった根 拠 でその優 先 順位をつけているのか。その自覚もなかったが、オーフェンは入り口の扉 に手をかけた。鍵 はかかっていない。引くだけで、抵 抗 もなく開く。釘 が蝶 番 に引っかかったような、不 快 な物音が立ったのを別とすれば。
廊 下 にいきなりバケツが横 倒 しになっていた。その上にぞんざいに被 せられた雑 巾 が乾 いてその形に固まっているところを見ると、それが定位置であるらしい。もとはモップだったらしい棒 も近くに立てかけてあったが、先 端 が折れて肝 心 の部分は見あたらない。靴 の泥 落 としもなく、靴跡を描 く砂 の塊が点々と奥 に続いていた。どれも派 遣 警 察 官 の──つまりは対武 装 盗 賊 戦 闘 課 の連中の──愛用するスパイクの跡に見えたが、そうでないものも混 じっている。
間取りは分からないが、難 解 な造 りをした建物ではない。廊下を奥に進んで一番最初にある扉が予想通り、詰め所だか待機所だかであるらしい。数人が詰められる広さの事 務 部屋に、大きなテーブルがひとつ。椅 子 はばらばらに置いてあるだけだった。ファイルキャビネットはそれほど大きくはないものが一個設 えてあるだけで、さほど使われた形 跡 もない。確 かに想 像 してみれば、ここで書類仕事が煩 雑 になるのというのは考えにくいことだった。壁には勤 務 表が貼りだしてあるが、日付は数か月前のもので──もしかしたら数年前のものかもしれない。警察官は、警察官らしい場所でしか働けない。そんなことを誰かが言っていたのを思い出して、オーフェンは苦笑した。彼らは、結局のところ自分の働く場所を警官らしくしておかないと落ち着かないのだろう。特定の貴族の下で働く非公式騎士 も、派遣警察官には違いない。
この最 接 近 領 に集められた非公式騎士 たちが、主に対武装盗賊戦闘課から引き抜かれているのであろうことはほぼ間違いがないところのようだった。都市から離 れて生活する武装盗賊の取 り締 まりは、派遣警察の業務では最上位の優 先 事 項 となっている。武装盗賊にも、様々なものがある。革命を宿願とした政治犯 から、農村のパン配達を襲 うガキ大将の集 団 まで。派遣警察対武装盗賊戦闘課の警察官らは、有事には騎 士 軍に編 入 されることすらある半軍人たちだった。
警察官と軍職 員 の最大の違いは、敵 に対する姿 勢 だった。犯人を死 亡 させれば殺人罪 に問われる警察官とは違って、軍人にとっては敵を生かすことは事後に禍 根 を残すことにほかならない。対武装盗賊戦闘課の派遣警察官は、その中間の立場にいた。場合によっては、実際に戦争に参加することのない軍などより遥 かに過 酷 な任 務 に就 いているとも言える。彼らは戦闘のプロフェッショナルだった。
ウィノナを思い出し、つぶやく。
彼女が優 れた警察官だとは思わない──彼女の話によれば、そもそもそれほど長く警察業務に就いていたというわけでもないらしい。彼女は戦闘のプロというより、戦闘そのもの のプロといったほうが近いだろう。敵を腕 力 でねじ伏 せることに特化し、それ以上でもそれ以下でもない。
詰め所の内部を進んでいく。頑 丈 そうな扉に目を引かれてプレートを確かめると、装備室と記してあった。続いてロッカールームがあり、訓練場があり、食堂がある。脱 衣 所 と浴 場 もあったが、水タンクにはそれほどの備 蓄 はないようだった。
(ウィノナは優れた格 闘 者 だ。少なくとも技 量 ならトップクラスだろう)
そういった意味合いでは、ロッテーシャに似ている──剣 術 競 技 者 のあの少女も、自分の土 俵 の中でなら誰にも負けない技 を持っているに違いない。それが実戦で通用するかどうかというのは、つまりその土俵を本来の広さより拡 げることができるかどうかだ。
ロッテーシャにはまだ分からないかもしれない。だが、ウィノナはきっと分かっているのだろう。
自覚していて、それができるかどうかというのはまた別次元の問題だった。オーフェン自身、それができているという自信はなかった。どれだけ実 践 しているつもりでいても、手のとどく範 囲 の外に......死角がある。
その死角から、敵の手がこちらにとどくようならば──その時は負ける。
昨夜の痛 みを再 び感じたような心 地 で、オーフェンは胸 のあたりを手でさすった。傷 もダメージも残ってはいなかったが、手 触 りが安心を与 えてくれるわけではなかった。
当たり前だが、宿 舎 内は静まりかえっていた。誰もいない。内部の造 りから考えて、ここにはやはり常 時 、数十人の兵士が詰めていたはずだった。
それがすべて殺されたということか。
そして......
オーフェンは、つぶやいた。
(殺されて......殺されたままになっている )
それは本来ならば、馬 鹿 げた理 屈 だった。考えるまでもないことだった。殺されて、殺されたままになっていないわけがない。
だが領主は生きている。
(もしダミアンに、領主を生き返らせることができるのなら......殺された兵隊も生き返らせればいいんだ。そうしない理由はない。辻 褄 があわない)
どう考えても奇 妙 だった。
奥 に進むにつれて、宿舎の散らかり具合もひどくなっていく。やがて、目当ての部屋を見つけてオーフェンは足を止めた。
私室。
といっても、一部屋に数名の寝 床 を敷 き詰めただけの、そんな代 物 だった──《牙 の塔 》の学生寮 を思い出すが、それより遥かに扱 いは悪い。三段 のパイプベットはただでさえ手 狭 だが、どの寝 台 もその容 積 の半分以上を雑 多 な荷物で埋 められている。あちこちに積み重ねられた古雑 誌 、古新聞の類 は、娯 楽 に乏 しいこんな場所では紙面を指でぼろぼろに削 り崩 されるほど読み返されても、なお使い捨てられることがないらしい。
一部屋目には誰 もいなかった。二部屋目、三部屋目とのぞいていくが、どの部屋にも鍵 はかかっていない。開けっ放 しで閉 じた形 跡 のない扉 もたびたび見受けられた。何部屋目か数えるのをやめた頃 、話し声が聞こえてきた。
「............」
オーフェンは舌 打 ちして、立ち止まった。会話は内容までは聞き取れないものの、声には聞き覚えがあった。ひとりは探している相手──ウィノナだった。もうひとりは、男の声だった。
領 主 。
もう一度舌打ちしようと思ったが、物音を立てたくなかった。足音を殺して、手近な部屋の中に入る。扉は閉 めずにおいた。屋敷の客室でやったことと同じ間違いをするつもりはない。扉の陰 に、身を潜 める。
(......会話を聞いておいたほうがいいのか?)
意 識 せずに耳をそばだてて、そう考える。
が、すぐにあきらめた。内容を理解できるほど近づけば、領主はともかくウィノナには感づかれるに違いない。
(どうせたいしたことを話してるわけでもないだろう)
重要なことならば、誰にも聞かれる心配のない場所──屋 敷 には領主の執 務 室 もなんでもある──に彼女を呼 びだして話すに違 いない。こんな、誰が隠 れているとも知れない宿舎ではなく。会話の調子、なんとはなしに感じ取れる感情の含 みから、負 傷 したウィノナへの見 舞 いの類ではないかと思えた。
(部下思いの領主......そして感 激 する部下。まあ、そんなところか)
それこそ、そのうちに拍 手 でも混 じってくるのではないかというウィノナの声を聞き流しながら、オーフェンはつぶやいた。
そして、
(優 れた格 闘 者 だ......トップクラスの)
ウィノナに関する評 価 を、再び胸 に刻 む。
いや、それは自然と浮かび上がってきたものだった。上司に恵 まれたことを感 謝 する彼女の感極 まった歓 声 ──それを聞いて。
(要領さえ悪くなけりゃ、優れた警 官 にもなっていただろうさ。まあ、そいつが良いことなのかどうかはさておいて。ほかに居 場 所 がないってわけじゃあない。もっと割 の良い仕事だっていくらでもある。彼女自信がことさら素 直 で騙 されやすいってわけでもないだろう。それが)
どうして、ここまで領主なる人物に心 酔 できる?
答えの出ない問いは、暇 つぶしの役に立ってくれた。聞こえてきたのは静 寂 だった──唐 突 に訪 れた無音が、騒 音 となって聞こえてくるように錯 覚 させる。オーフェンは顔を上げて、そのかわりに影 に沈 み込 むように身を縮 めた。
領主とウィノナの会見は終わったようだった。扉が閉まる音が振 動 となって床 を伝わってくる。そして、ゆっくりと慎 ましく床を踏 みしめる音。その足音は、ウィノナの体格から発せられるものではあり得なかった。
物陰から視 線 だけ抜 け出して、オーフェンは廊下を見やった。人影が映 る。
軽い歩き方だ。そう感じる。気取りもなく、ただ身体 を前に移 すためだけの足取り。着ているものも、どうということもない──屋外でも動きやすそうな軽装の上着とズボン。真っ先に連想したのは、森林レンジャーの格 好 だった。実 際 には、派 遣 警察官らの標 準 装 備 から武装をすべて取り払 ったものが近いのだろう。人目を気にしないのであれば、丈 夫 で、肌 のほとんどすべてを砂 や虫から守ることができ、ついでに、数日は洗 濯 せずとも通気性を保 てる。つまりはそんな服装だった。
なにも持っていない。身体の横に下げられた指先には、中性的に尖 った爪 が目立つ。その男は立ち止まらなかったため、観察できたのも一 瞬 のことでしかない。しかも不自然な角度から見上げた状 態 では、人相をはっきり見ることができたとも言い難 い。だがオーフェンは、網 膜 に映ったものが必要以上に記 憶 に残るのを奇 妙 に感じた。風 貌 に目立った特 徴 があるわけではない。だが、印象には残った。全体的に造 作 は細い。昨夜見た口の間から舌 を盛 り上がらせた断 末 魔 の表 情 と比 べれば、どうしたところで無個性な顔に見えただろうが。穏 やかな半円を描 く眉 。しわのない眉 間 。年 齢 は、四十歳 代なのではないかと思えた。もっとも、コルゴンの言葉を思い出すに──彼と旧友と呼び合っているとなれば、もう少し歳 が近いこともあり得る。
領主は通り過 ぎざま、こちらに気づいたのかどうか、視線をこちらに向けたようでもあり、そんなことはまったくなかったようでもあった。思った以上に顔が印象に残ったのも、領主がこちらを向いたせいかもしれない。ただの錯覚かもしれない。断 言 できることがなにもない......
その男が通り過ぎ、足音も聞こえなくなってから、オーフェンは身を起こした。領主が建物から出ていったことは間違いなかった。聞いた覚えのある、釘 と蝶 番 の競 演 する騒音が耳に入る。扉 が閉 ざされて、宿 舎 には再び静寂が訪れた。
近くにまだいるはずのウィノナが物音ひとつ立てていないことに、オーフェンは奇妙な不安を覚えて苦笑いを浮 かべた。これで彼女の部屋に行くと、死体がひとつ転がっている可 能 性 はある。その場合、領主は敵だろうか? 味方だろうか?
(安 易 なことばかり考えてるな、俺は)
苦笑の元は、それだった。隠れていた部屋から通路に出て、先を見やる。物音らしい物音が聞こえてこない理由は、さらに安易なことではあった。領主がいたと思 しき部屋の扉は閉じたままになっていた。仮 にウィノナが鼻歌を歌っていたとしても聞こえはしなかっただろう。
領主が閉じた扉なら、ウィノナが開けることはないのではないか、とオーフェンは皮肉半分につぶやいた。餓 死 するまでそこにいるかもしれない。もしくは、領主が扉を開けに来てくれるまで。
自分が開けると怒 るだろうか? そんなことを本気で危 惧 するでもないが、オーフェンは唯 一 閉じている扉の前で足を止めると軽くノックした。がたん、と、座 っていたものから腰 を滑 り落とすような音──あるいは、緊 張 の一瞬を終えてくつろごうとしていたところでその緊張の根元が舞 いもどってきて驚 愕 するような音。どちらでも大差はなかったが、彼女がそれ以上慌 てる前に、オーフェンは声をあげた。
「......俺だ。ウィノナ、いるか?」
扉の向こうが透 視 できるわけではなかったが、なにか変化があったとすれば、その変化は露 骨 だった。
「なんだい?」
失望の混 じった声が聞こえてくる。扉越しのため、くぐもって不 機 嫌 そうではあった。違う理由かもしれないが。
それは気にしないことにして、オーフェンは続けた。
「用 件 を言う前に、扉を開けてもいいか?」
「ここは上等な個室ってわけじゃないしね。あんた、ここの部屋の同居人たちより遥 かに行 儀 がいいよ」
それは許 可 であると受け取って、オーフェンは扉を開けた。中は、ほかの部屋と変わらない──パイプ製 の三段ベッドと、詰 め込 まれた荷物と。なによりも大きい荷物が、部屋の真ん中に陣 取 っているウィノナだった。
せまい部屋の中にいるせいだろう。彼女はなおさら大 柄 に見えた。自分の姉たちも長身だったが、このウィノナに比 べればまだ華 奢 に見えただろう。憮 然 としたウィノナを見て、オーフェンは《塔 》時代の兄弟 子 のことを思い出していた。フォルテ・バッキンガムとこの彼女を力比べさせたら、きわどい勝負になりそうだった。
「気分は?」
相手も同じことを訊ねたそうだったが、オーフェンは先んじて聞いてみた。ウィノナが、にやりとしてみせる。
「ガタガタだよ。でも動けるさ。十分にね」
友好的なものではない。肉食獣 の威 嚇 の笑 みだった。彼女がまだベッドで寝 ていたというのに、こちらが歩いて訪 ねてきたことでプライドをつついてしまったのだろう。
譲 歩 して、オーフェンはうなずいた。
「たいしたもんだ──俺より重 傷 だったはずだけどな」
「おべっかを使いにわざわざ来たのかい?」
見 抜 かれている。だがとぼけて、彼はかぶりを振 った。
「......聞きたいことがあって探 していた」
「まあ待ちな。言い慣 れないことを言ってやるからさ。ええと......よくやってくれた、でいいかい?」
「うん?」
理 解 できずに、聞き返す。
と、彼女は照れるように鼻の頭をこすってみせた。
「あんたが領 主 様 を守ってくれたんだってね? あの黒い服の男からさ」
「............」
否 定 か肯 定 か──彼女の間 違 いを指 摘 することが損 か得か、とっさに考えたのはそれだった。が、結 論 を待たずにオーフェンはきょとんとつぶやいていた。
「なにか勘 違 いしてないか? 俺はなにもしてないぞ」
担 がれている心 地 で、うめく。だがウィノナは頑 固 に言ってきた。
「たった今まで、領主様がいらしていた。わざわざこんなむさ苦しいところにね。で、あんたは信用できる人間だっておっしゃってたよ」
「なるほど。信用くださって、お言葉をおかけくださって、それで無料 で使ってくださいやがるってわけか?」
冗 談 で言ったつもりだったのだが、ウィノナの表 情 が強 ばるのがはっきりと見て取れた。
とりあえずはまだその〝信 頼 〟とやらが勝ってくれたらしい──彼女は汚 れを拭 き取るように視 線 を外して間合いを整えると、再び向き直って言ってきた。
「それで?」

用向きを訊 ねてくる。彼女が見えにくい位置で拳 を握 っていることは無 視 して、オーフェンはつぶやいた。
「俺には確 信 がない。君にそれがあるかどうか聞きたくてな」
「確信?」
「昨日のことさ。昨日のこと、なにもかも......出来事だけは頭の中に入っていても、どれもこれもあやふやではっきりしない」
一気に告 げて、彼女の反 応 を待つ。
沈 黙 をはさむと、自分の言ったことこそあやふやで意味不明だということが分かってきた──自分で気づいたというより、聞き手の表情を見てそう思えたということだが。オーフェンは咳 払 いして、言い直した。
「あれが領主だったという確信はあるか?」
「なにを言ってるんだい?」
やはり理解しない彼女に、やつあたりだと承 知 しつつも口調を尖 らせてオーフェンはあとを続けた。
「昨日だ。領主の部屋で、死んでいる領主を見ただろう。君が叫 んで、あの黒い服の男に突 っ込 んでいったから、俺もあの死体が領主だと思った」
暗い執 務 室 ──
倒 れている死体──
月明かりの窓 。そしてそこにシルエットを映 す黒い服の男。
それらを記 憶 の中に反 芻 して、オーフェンはまぶたを半分下ろした。彼女に聞く。
「あれが領主の死体だったと、今でも断 言 できるか?」
彼女は、あっさりと即 答 してきた。
「しないさ」
「......なぜ」
こともなげな彼女の口調に、多少の驚 きを隠 せずつぶやく。彼女はそのまま、同じことを繰 り返してきた。
「逆のことなら断言できるよ」
「だから、なぜ」
「なぜって」
今度こそ、ウィノナはこちらをとんでもない馬 鹿 者 だと評 価 を下したようだった──哀 れむように目つきを和 らげると、言葉までゆっくり言ってくる。
「領主様は生きておられる。あたしの見間違いだったんだろうさ」
それは、正 論 といえば正論だった。反論することも馬鹿馬鹿しいほどの。実 際 、自分も同じことを考えていたのだから──あれはトリックなのだろうと。
それでも疑 わしく、オーフェンは訊 ねた。
「見間違いで殺し屋に突 進 したあげく、窓から放 り投げられたってのか?」
「あの時は勘違いしちまったんだから仕方ない。あたしの浅 慮 だったんだよ。落ち着いて考えてみればだ、領 主 様 が、あんな無様な殺され方をするわけがないじゃないさ?」
彼女はあくまで、確信たっぷりだった。座 っているスツール──彼女が身動きするたびにがたがたと音を立てるそれの上で身体 をわずかに揺 らしながら、
「あたしの鍛 錬 が足りなかったんだ......領主様はお許 しくださったけどね」
(正気で言ってるのか?)
声には出さずに聞き返して、オーフェンは顔をしかめた。だが、
(いや、彼女のほうが正しい......か?)
死人が生き返ったと騒 いでいる自分のほうが、どうかしているのかもしれない。それについては自信を持てなかった。
こちらを見ている派遣警察官の目を見つめ返す。彼女の瞳 には曇 りもなく、迷 いも戸 惑 いもない。ただひとつの重要な確信を持っている。
自分はそれをうらやんでいるのか──居 心 地 の悪さは首 筋 をかくことでごまかして、オーフェンはそれでも消すことのできない疑 問 を口にした。どうしたところで、領主の行動には理 解 できない部分が残っている。
「なんの意味があるんだ」
「なにって?」
また同じように聞き返してくるウィノナに、オーフェンは告げた。
「殺されたふりなんていうトリックが使えるんなら、領主が一番奥 にいる意味がどこにあるんだ。真っ先に殺されていれば──一番最初に殺されたふりをしてみせれば、部下は誰ひとりとして死なせずに済 んだだろう」
そしてまた、彼女からもたらされたのは迷わない即答だった。
「馬鹿かい? 真っ先に殺される場所に領主様がいたら、相手が疑 うじゃないさ」
「だったら最後から二番目でも三番目でもいい。なんでよりによって、部下を全員殺された後でなければ辿 り着けない場所に隠れてたんだ。それじゃあわざわざ──」
生け贄 を多くして、事 態 を大きくするようなものだ。
言いかけた言葉が喉 の奥にあるうちに、彼女の言ったことがこちらを遮 った。
「天 意 さ」
「............?」
吐 けなかった息を声にせず逃 しながら、オーフェンは視 線 だけで問い返した。彼女は腰 掛 けている椅 子 を音を立てて引きずり、座る位置を変えた。そして、
「領主様がこうと思ったことなら、それは天意なのさ。騎 士 がそれに従 えなかったら、領主様はどうやって物事を治める?」
答えでもなんでもない。オーフェンは、歯がみしてうめいた。
「そんなことは、イールギットにはまったく無関係だった」
「そいつは領主様を殺すために入り込んできた暗殺者だろ」
「彼女は違った」
告 げる。だが。
いくら言ったところで、ウィノナは退 かなかった──肩 をすくめて、あたりを示 す。彼女がなにを指さしたのか、一 瞬 分からなかったが、しばらくしてオーフェンは理解した。本来なら、この部屋で寝起きしていたはずの仲間が使っていた、空きのベッド。彼女の示さんとしているものは明白だった。昨夜死んだのはひとりだけではない。
彼女はベッドの隙 間 ──居心地よく眠 るのには不十分としか思えないその空間を順々に見やってから、言ってきた。
「それを見分けることをあたしたちに要求するのは筋違いさね? いいかい、あの女は紛 れもない《十三使徒》で、暗殺者を仲間として、許可なく領地に入ってきた。それに、領主様がおっしゃっていたよ──《十三使徒》を殺したのはあの黒服のドッペル・イクスだってね」
認 めたくはなかったが、その言い分は正当なものと言わざるを得なかった。聞こえよがしに鼻で笑い、オーフェンは彼女に指先を向けた。
「君自身も死にかけたんだぞ」
「ヤバいとこだったよ。でも領主様は報 いてくださった」
「報いた? 今のご大 層 な表 敬 訪 問 がか?」
「茶化して欲 しくないね。領主様が死んで、あたしが生き残っていた──それが最悪の事態だとするなら」
と、自分の胸 に手を当てて、彼女は陶 酔 するように瞳を潤 ませた。
「あたしがなんとか生き延 びて、領主様もご無事だった。こいつは最高のことさね。あたしは報われてる」
「そのために何十人も──」
なおも食い下がろうとすると、ウィノナの表 情 が一変した。椅子を蹴 って立ち上がり、腕 を真横に振 って叫 んでくる。
「くどいよ! あたしたちは戦争やってるんだ! 犠 牲 なんて覚 悟 のうえなんだよ!」
「なら次は死ねよ。あの黒い服の男がもう一度来たら。そんなものが戦争だっていうのならな。ガキの喧 嘩 だ」
間をおかず、オーフェンはそう告げた。
ウィノナの体重から解放されたスツールが、床 に倒 れる音が響 いた。その物音にすべてを奪 われたかのように、場が静まり返る。
やがて、彼女が小さくつぶやいた......不 敵 な視 線 をこちらに投げて。
「来ないさ」
「ん?」
理 解 できなかったのは彼女のつぶやきそのものではなく、自信に満ちたその眼 差 しだった。でまかせやはったりではないその表情を変えないまま、その非公式騎士は先を続けてきた。
「どうして来るんだよ......考えてもみな。奴 らは、領主様が死んだと思ってるんだ。少なくとも、しばらくは来ない」
「そう長くは保 たないさ。聖 域 はネットワークを使える。ごまかせるとして、ほんの数日だろう。数時間かもしれない」
オーフェンは口早に告げた。だがそれこそ待ち受けていたように、ウィノナがさらに眼 の光を強める。
「だったら今度は、あたしがそいつを仕 留 めれば済 むことさね」
彼女が真 剣 にそれを言っていることを察して──
なにも言わず、オーフェンは部屋をあとにした。呆 れたわけではなかったが、語るべき言葉を思いつけなかった。逃げるような心 地 で早足になる。
(ほんの数日。ほんの数時間、か......)
ウィノナの罵 声 が追いかけてくるかと思っていたのだが、背 後 からはなにも聞こえてこなかった。だが彼も、既 に彼女を意 識 してはいなかった──通路をあともどりしながら、考えていたのは違 う人物のことだった。
(また来るのは、あの男......か? 聖 服 の男)
もう残っていないはずの傷 が、また一度痛 みをぶり返した。
目の前に、あの黒い服の男がいる。黒いフェルト製 の帽 子 の下から、ぬるりとした鱗 のような眼 でこちらを見ている。
月が出ている。窓 の外から青い明かりが差してきている。嵐 雲 のような暗い夜空。だが雨音のノイズを期待しても、静 寂 の綿 が耳を覆 ってなにも聞こえない。指先にまとわりつくのは、刺 々 しく冷えた空気。氷の池で溺 れるように、その中をかき分ける。
その男は太い肩 をこちらに向けて、構 えを取っている。オーフェンは対 峙 しながら同じ構えを取った。相手は動かない。こちらも動かない。呼 吸 を整え、互 いに相手を待っている。
ブーツの中で、足の指の位置を変える。体重の分配をミリ単位で調節しながら、最善の場所を探 す。自然と、体 勢 は低くなっていった。筋 肉 によって骨 を引き絞 るのは、弓のそれに似 ている。
呼 吸 を練る。それを吐 き出すタイミングを求めて、視 線 が巡 った。
敵 の技 は見切っている。
崩 しの拳 ──そう言っていた。最小の動きで最大の威 力 を発 揮 する打 撃 法を、聖 服 の男はそう呼 んでいたようだった。その発想自体は、およそ一 般 的 なものに過 ぎなかった。拳の技 術 論 には必ず登場するものだと言っていい。それは基 礎 であり、究 極 の技 でもあった。最高の理想は、まったく動かずに致 命 的な破 壊 力 を導 き出すこと。一歩も動かず触 れすらもせず、敵を吹 き飛ばし勝利する。だがそれは究極の空想であり、駄 法 螺 だった。
だから現実の技術は、その空想の一歩手前、いや何千歩も手前で完成を見せる。オーフェンは拳 を固めて、それをイメージした。彼が身につけた打撃法──寸 打 もその一種ではある。敵に密 着 し、その状 態 から打撃タイミングを導き出す。全身の力を数センチ距 離 の打撃に注ぎ込んで、カウンターの要 領 で敵の内 蔵 にダメージを直撃させる。それは命中すれば、一撃で敵を無力化することもできた。
そう。拳によって一撃で相手を倒 すことはできる。
が。
眼 前 の男を見 据 えて、オーフェンは疑 問 を浮 かべた。
(そのたった一撃で、頭 蓋 骨 を砕 く、全身を粉々に吹き飛ばす、四 肢 を両 断 する......この男の破壊力は人間としておかしい )
あり得ないことだった。仮 に筋力と修練がそれを可 能 にしたとして、体 格 がついてこられるはずがない。頭蓋骨を砕けば、それよりも柔 らかい拳もまた砕けるのだ。
(なにか秘 密 があるはずなんだ......魔 術 か?)
超 人 の特 権 たる、魔術。
人間の魔術では不可能でも、たとえば天人種族の魔術文字ならば隠 して携 帯 できる。男が聖 域 の寄 越 した殺し屋であれば、魔術の武 器 を持っていたとして不自然なことではない。実 際 、ライアン・スプーンは都市を潰 すほどの武器を持ち歩いていた。
踏 み出す。その踏み込 みだけで力尽 きても構 わない思いで、オーフェンは全身を跳 ねさせた。跳 躍 が距 離 を縮 め、一瞬地面から離 れた足が再 び地面に吸 い付くと同時、相手の急所に拳を突き込む。男は動かなかった。表情を変えることもないまま、イメージの中からその姿 を消した......
館 の裏 手 にある木の陰 で、オーフェンは拳を突き出した格 好 のまま、ため息をついた。イメージトレーニングを試みようとしても、敵の技の正体が知れなければなにも考えられない。
見上げると、太陽の位置は最も高いところからわずかに傾 いていた。風は肌 寒 い。秋風は、噴 き出した汗 を冷やすだけだった。

(ティッシなら......あの男を倒せるか?)
想像の中に再びあの男の姿を再 現 しながら、訊 ねる。彼女の技と身体能力ならば、聖服の男の攻撃をかわすことは可能か?
無理だろう──結 論 はすんなりと胸 を通過した。技術も体力も上回る相手に、レティシャはなにもできない。正攻法で戦う限 り、あの男には勝てない。
(コルゴンは?)
彼ならば、どんな手を使うだろうか。およそ正攻法には縁 のない男だ。敵のタイミングを外し、敵の予期せぬ致 命 打 を放 つ。それならば、すくなくとも勝 率 が零 になることはない。もっとも──
(......あの男も、同じレベルの奇 襲 で対 抗 してくる......だろうな)
実際には、同じレベルということもあるまいと思えた。聖服の男のたたずまい、言動を思い出してうめく。つまるところあの男は、ひたすらに無手の技を練ってきた拳法家なのだ。少なくともそれに関しては、こちらより頭ひとつ上だと考えざるを得ない。
頭ひとつ上──
その言葉につられて浮 かんできた顔があった。つぶやく。
(先生なら......チャイルドマン・パウダーフィールドなら?)
いや。
思い直す。オーフェンはかぶりを振った。聖服の男に勝つ方法ならあるのだ──考えるまでもなく。なんの苦もなく勝てる方法はある。魔術を使えば、それで勝てる。魔術を使って戦える状 況 さえ用意できれば、それで勝てる。
(問題は、相手もそれを分かってるってことか)
《十三使 徒 》の暗殺者すら為 す術 もなくあの男に敗れたことを考えれば、それは言うほど容 易 なことではないのだろう。だが最も成算は高い。
そして、もうひとつ──
腿 のホルスターに収 められた拳 銃 に軽く触 れて、オーフェンは嘆 息 した。分解整備をしておいたほうが良いかもしれない。場合によっては必要となる。
(魔術でも、技でも倒せない相手を無効化する武器......か)
グリップに指を巻 き付けて、軽い金 属 製 の拳銃を引き抜 いた。革 製 のホルスターから、鯉 口 のように銃をひねるだけで抜き取ることができる。
〝ヘイルストーム〟
それは、そう名付けられていた。銃 匠 の虚 栄 心 か、ちょっとした遊びだろう。刻 みつけられた銘 は、はっきりと読める。出所を示 すような刻 印 はない。これは《牙 の塔 》が極 秘 に研究した武器だった。従 来 の拳銃とは一線を画したコンセプトを持った最新兵器。騎 士 のように左手ではなく、右手で保 持 する。
右手で持ち上げ、そのグリップに左手を添 えるのが正 規 のポジションだった。できる限り自然な体勢で構 えることが望ましい。腕一本だけでは、命中精度を得られるようなバランスは保 てないのが人間の身体 だ──銃、右肩、左肩の三点でようやく安定する。利 き目に合わせて照 準 を取るための構えである。
従来の騎士用拳銃とこのヘイルストームは、ちょうど、弓とボウガンのような関係といえた。つまり、数メートルという長 距 離 から狙って当てる ことを可能にしたのである。命中率は旧 式 拳銃とは比 較 にならない。発 射 構造の中で螺 旋 状の回転を与 えられた弾 丸 は、かなり直進に近い軌 道 で飛行する。弾丸の回転は、貫 通 力 と殺傷力の増 加 というおまけももたらした。つまりこの拳銃を使用すれば、離れた距離から有 無 を言わさず敵を仕留めることができる。
命中精度や威 力 という点では魔力に及 ばなくとも、高度な精神集中と構成の展 開 、そして呪 文 の発生という難解な手順を踏まなければならない魔術とは違って、拳銃は訓練次 第 では一秒に満たない時間で照準、射撃をこなすことができる。《牙の塔》がこれを危 険 視 して極秘のものとしたのは、拳銃による狙 撃 術 が本格的に実用化した場合、それへの対抗手段がなかったからだった。
実 際 にはもちろん、問題も残っていた──この最新式の戦 闘 機械はあまりにも構造が複 雑 過ぎた。生産が極 めて難しく、コストも莫 大 なものとなる。機械的な故 障 の多さは言うにおよばず、整備も簡 便 なものとは言えない。連続で射撃すれば衝 撃 で機 巧 が歪 み、照準が狂 う。そもそも狙撃術はどれほどの訓練をしたところで完 璧 なものにはなりにくい。距離をおけば、やはり命中精度は下がるのだ。ましてや動く標的に弾丸を命中させることは至 難 である。そして、動かない標的などいない。
(技術屋が考える欠点は、そんなところなんだろうけどな)
拳銃を再びホルスターにもどして、オーフェンは独 りごちた。恐 らく、発明者たちが思いもしなかったような問題点が、この武器にはある。
(手 加 減 ができない武器だ。標的を殺さずに済 むかどうか、運 頼 みしかない)
つぶやきながら、視線を上げる。
当てずっぽうではあったが、顔を向けた方向にはフェンリルの森が──そしてドラゴン種族の聖域があるはずだった。
と。
かの地よりも遥 か手前、というよりほとんど眼 前 に、少女が立っていた。屋 敷 から出てきて、こちらに向かってくるところだったのだろう。彼が視 線 を向けたので、そこで足を止めている。
「クリーオウ」
金 髪 の少女の名前を、オーフェンはつぶやいた。呼びかけたつもりだった。が、相手の耳にとどいたかどうか、自信はない。彼女は屋敷のほうを指さして口を開いた。
「食事。用意できたって領 主 様 が」
それだけを言うと、さっさと背 を向けて立ち去っていった。
「......ああ。分かった」
彼女が聞こえない距離まで離れてから返事したのは、特にわざとというわけではなかった。
食堂には昼食が並 べられていた。コーンスープとパン程 度 の簡 単 なものだが、出来合いのものを持ち出しただけでないことはテーブルクロスの上に広がる芳 香 で知れる。屋敷を歩き回っている時には気づかなかったが、厨 房 でまともに調理されたものらしい。テーブルには、この領内で生き残っている人数より多くの椅 子 が用意されている。だが食事は人数分だった。

長いテーブルの上には花まで活けてある。最も遠い席──ホストの位置に、領主がいた。こちらを見るでもなく、口元に薄 い笑 みを張 り付けてじっとしている。その両脇に、真新しい服に着替えたふたりがいた。クリーオウと、マジク。表情からはなにも察しようのない涼 しい顔で、やはりどこを見るでもなく神 妙 にしていた。
そこから、やや離れてロッテーシャ。
ダミアンとウィノナの席はないようだった。
「......誰が作ったんだ?」
残っている席──誰が配置したものかは知らないが、領主の向かいとなる、最も入り口に近い席につきながら、オーフェンはつぶやいた。屋敷には、使用人も残ってはいないはずだった。まさか、領主が手ずからパンを焼いたわけでもあるまいが。
わざわざ聞いてみたのは、マジクが焼いたのかもしれないと思ったからだった。が、返事はなかった。ロッテーシャが気 遣 わしげな視線をこちらに投げてきている。もうひとり、顔の向きを変えたのは領主だった。
その領主が答えるか、と思った刹 那 だった。声は別方向から聞こえてきた。
「わたしだ、と言ったら驚 くか?」
振り向くと、入り口から音もなく入ってきたのはダミアン・ルーウだった。オーフェンはさほど興 味 なく、椅子に座 った。
「あんたの分を作り忘 れてるようだぜ?」
「わたしの分? わたしに必要なのは、もう少し違うものだよ」
ダミアンは笑いを含 んだ声でそう言うと、その入り口から一歩入ったところで立ち止まったようだった。つまりは、彼の背 後 に。そこで食事を見物するつもりらしい。
と、オーフェンは聞きとがめた。
「......あんたが作った?」
振り向いて、うめく。と、ダミアンは気楽な様子で答えてきた。
「君は〝ゴースト〟現 象 に詳 しいようだったが」
「死んだ使用人のゴーストを使って、作らせた?」
「そういうことだ。食物に罪 はない。嫌 がらずに食べて欲 しいものだな」
反 論 することに意味はないと思えた。ついでに実際、空腹でもある──オーフェンはおとなしく食事に向かい合い、そして改めて全員を見回した。
全員、こちらを見ている。領主、クリーオウ、マジクの視線がすべて同じものに見えるのはどうしてか。皮肉をこめて、オーフェンは領主に尖 った笑みを投げ返した。
ロッテーシャはひとり離れた場所に座っている心細さからか、落ち着かない様子でテーブルクロスの端 を丸めては伸 ばしている。ちらりと足 下 をのぞくと、彼女はこんな場所にまで剣 を持ち込んできているようだった──もっとも、戦 闘 服 のままの自分に言えたことではないが。ダミアンは動かない。
口火を切ったのは、領 主 だった。
「みなが信じるものがなにか、それは知らない」
と、祈 る仕草で手を動かしてから、優 しく言い添 える。
「わたしが信じるもののために、この食事がある。君たちの信じるもののために、この食事がある。すべて等しく感 謝 してそれぞれの流 儀 で食する」
そこまで聞いてからオーフェンは、ようやくそれが食前の祈りの言葉だったと気づいた。ぽかんとしている間に、さらに唖 然 とすることが起こる。クリーオウとマジクが、静かに唱和したのだ。
「感謝します」
(......なんなんだ、いったい)
あとは無言のまま、食事は進んだ。オーフェンもスープにひたしたパンを二個ほど胃に収めると、ほかの誰も食べ終わらないうちに席を立った。
不作法に驚いたのは、ロッテーシャくらいなものだった──領主も誰も、顔を上げすらしない。が、振り向くとダミアンが先ほどから位置を変えずにそこにいた。道をふさぐように。
「せっかちだな」
白魔 術 士 の声に、非 難 の響 きはなかった。オーフェンはダミアンの丸い瞳 を見たまま嘘 をついた。
「あと少しで悟 りが開けそうでね。俺 があの聖 服 の男を倒 せるようにならないと、あんたも困 るんだろう?」
「ジャック・フリズビー。余 人 には〝悪 霊 〟と呼ばれている」
言ってきたのは──
ダミアンではなく背後からの声だった。よく通る、はっきりとした肉声。大げさな抑 揚 もないが、か細さを感じるわけでもない。
肩 越 しに振り向いた。遠くテーブルの向こうにいる人物に視 線 を注ぐ。
ごく一 般 的 な天候の話でもしているように、領主はあとを続けた。
「言うまでもないだろうが、職 業 的 な暗殺者だよ。ドッペル・イクスとしての活動は昨日が初めてのことだ」
「随 分 と確 信 たっぷりに言うんだな。相手が名乗ったわけでもなさそうだが」
「もちろんわたしが調べたわけではない。ダミアンは実に手早く調べものをしてくれる。そしてそれを、わたしの手 柄 のようにしてくれる」
領主は食事を終えていたが席を立つつもりはないようだった。穏 やかな態 度 を崩 さないまま、こちらを見返してきている。
「ジャック・フリズビーは強力な暗殺者だ。わたしも危 うく殺されるところだった。わたしの不 手 際 で大勢の犠 牲 が出たことについては、悔 やんでも悔やみきれるものではない」
「クリーオウ」
オーフェンは話している相手を無視して、その傍 らにいる少女に向き直った。彼女は聞いているのかいないのか、黙 々 とパンをちぎっては口に運んでいる。
その横顔に、彼は続けた。
「レキはどうしたんだ? ここから随 分 離 れた場所で、ロッテーシャがレキを見たと言っていた。レキは、フェンリルの森に向かっているようだった」
彼女はこちらを向いた。口を開きかけたが──途 中 でやめてまた視線をそらした。
もとより返答を期待していたわけではない。オーフェンはそのままマジクのほうを向くと、
「マジク。昨日はどこにいたんだ?」
金 髪 の少年はパンにもスープにも手をつけず、ずっと顔を伏 せていた。足の間に手を挟 んで動こうともしない。
オーフェンは嘆 息 した。
「答えられねぇよな。精 神 支 配 されてたんじゃ」
がたん──
と、音を立てて立ち上がったのはロッテーシャだった。剣 を引きずるようにして椅 子 から下がる。彼女は警 戒 じみた視線をこちらに投げてきている。なにかを言いたげではあったが、構 わずにオーフェンは続けた。
「はっきりしたな。お前たちは敵 だ」
領主を見つめながら、殺気は背後のダミアンへと集めている。ダミアンは強大な敵には違 いない。正面の領主が何者かは分からないが、少なくとも風体からは戦闘訓練などを受けた様子はうかがえなかった。それを人 質 に取った形になる。
(......こいつが影 武 者 だか替 え玉だか、偽 者 でなければの話だけどな)
胸 中 で付け加えて、オーフェンはいつでも魔術を放 てるよう意 識 の裏 に構 成 を思い浮かべた。
「オーフェンさん」
呼びかけてきたロッテーシャを手で制 して、オーフェンは敵の反 応 に意識を集中した。領 主 を見つめる目つきをさらに厳 しいものにして続ける。
「なにを考えている? お前らの行動は怪 しいところだらけだ。顔合わせひとつ、含 みなしにはできないんじゃねぇか。いったい──」
「精神支配?」
とは、領主のつぶやきだった。苦 笑 のひとつも浮かべてはいない。真顔で領主なる男は聞き返してきた。
「どういう意味かね?」
「どうもこうも──」
「オーフェンさん!」
ロッテーシャが、さらに強く叫 んでくる。横やりに腹 を立てて彼女を見やると、ロッテーシャは渋 い表 情 で言葉を吐 いた。
「わたし、言われた通りにふたりに会って話をしたんです。そしたら......」
と、クリーオウのほうへと向き直り、かぶりを振 る。
「違 うんです」
「いつもと違うんだろ? 見れば分かる」
どうでもいいことを繰 り返す彼女に苛 立 ちながら、オーフェンは告げた。が、ロッテーシャはさらにはげしく首を振ってみせた。
「そうじゃなくて、違うんです!」
ロッテーシャの叫びに促 されるように、クリーオウが席を立った。
見たくもなかった──親しい友人が精神支配されているのは思った以上に自分を動 揺 させる──が、無 視 するわけにもいかずオーフェンはそのクリーオウの視線を受け止めた。彼女は胸 のあたりを押 さえて、弱々しく言ってきた。
「あの......オーフェン。ごめんね。でもわたし、話しにくくて」
「小細工をするな!」
クリーオウにではなく、ダミアンへ叫ぶ。白魔 術 士 はもう背 後 にいなかった。注意していたつもりだったのだが、いつの間にか消えている。
すっと、なんの前 触 れもなくダミアンは領主の横へと移 動 していた。対決の兆 候 を感じて守るべき対象のもとへと移 ったということか。
(上等だ......)
オーフェンはまとめかけていた構成を別のものにした──あまり強力な魔術を放てばクリーオウらも傷 つきかねない。精神支配されているということはマジクが敵に回ることも考えられた。それが脅 威 というわけではないにせよ、ただでさえ厄 介 な敵 を前にして傷つけることのできない敵がもうひとり増 えるのは面 倒 なことには違いない。
ロッテーシャがどの程 度 あてにできるのか。それを意識しかけたが、すぐにやめた。次になにをするのか分からないところはクリーオウと同じだが、ロッテーシャの場合にはそれが致 命 的 なことにしかならないと思える。おまけに、魔 剣 の効 果 がプラスになるのかマイナスになるのか分からない。
考える時間も沈 黙 も長続きはしなかった。もうひとつ、椅子の脚 が床 にこすれる音がしたかと思うと、マジクが立ち上がっている。
「オーフェンさん、落ち着いて──」
(オーフェンさん?)
マジクの発した自分の呼び名が変わっている。そのことに怪 訝 な眼 差 しを投げると、マジクは慌 てて言い直してきた。
「ああ、いや、そうじゃなくて......お師 様 ......」
「............」
精神支配の副作用だとしても、それはお粗 末 だった──ことにダミアンのような白魔術士の仕 業 であるとするならば。なにかがおかしい。気づいてオーフェンは、改めてクリーオウを見やった。彼女は不安そうな表情を変えてはいない。心の底からこちらを気遣うように、今まで見たこともないほどの愁 眉 を見せている。
(なんだ......? 俺は間違っている......?)
クリーオウが口を開いた。長い金髪が揺 れたのは、彼女が肩 を落としたからだった。
「オーフェン......わたしね。この領主様と話をしたの」
「それで?」
言いようのない不安が胸に広がるのを感じて、オーフェンは顔をしかめた。クリーオウが嘆 息 するのが見えた。やるせなく、力無く。
「領主様が、わたしと取引しようって」
「取引......」
愚 かしく相手の言葉を繰り返しながらオーフェンは、領主の顔をにらみつけた。当の本人は涼 しく裏 表 のない──ように見える──澄 まし顔で座 っている。置かれた食器の前で行 儀 良く、恥 じるところなどないがごとく。
クリーオウは言葉を詰 まらせていたが、かすれ声とともにあとを続けてきた。
「わたしの間違いを直 してくれるって」
「間違い? 直す?」
これはわざと繰 り返した。クリーオウがうなずいてみせる。
「あの......正確にはね、領主様はレキと取引をしたの。だからレキがいないの」
「なにを取引したんだ?」
彼女に話させておくといつまでも要点にたどり着かないのはいつものことだが、それにしてもいつになく歯切れの悪いクリーオウを、オーフェンは促した。不安は胸 に広がるだけではなく、身体 の外まで膨 張 して今は部屋中を押し包んでいるようにも思えてくる。
その重々しい空気の中に、少女の声は聞き取れないほど小さく響 いた。
「ライアンが死んだことを......なかったことにしてくれるって」
「......はっ」
長引きそうだった沈黙に押しつぶされる前に、オーフェンは嘲 笑 をあげた。
「生き返らせるってのか?」
今度もまたクリーオウにではなく領主に向けて嘲 る。不安は瞬 時 にどうしようもないむかつきに化けた。
だが、領主はたたずまいを崩 すことなく否 定 してきた。
「まさか。ただ、彼女に贖 罪 の機会を用意してあげようと言ったのだ」
「贖罪だと?」
「ライアン・キルマークドをドッペル・イクスとしてあのような魔道に陥 れた者たちを、放ってはおけないだろう?」
もう一度、椅子が鳴った──が、残ったひとりである領主が立ち上がったというわけではない。クリーオウが椅子の背 にもたれながらくずおれるのを見て、オーフェンは息を詰まらせた。彼女は質 素 な木の背もたれに爪 を立てて、金切り声をあげた。
「わたし!......わたし、もうレキに頼 ったりしないって......レキにつらいことさせないって思ってたのに。でも、レキは行っちゃった......止めたけど行っちゃった。多分、わたしが心の底でそう望んだのが伝わっちゃったのよ!」
「クリーオウ──」
呼びかけてオーフェンは、一歩を踏 みだそうとした。が、それよりも早くロッテーシャがクリーオウのもとに駆 け寄 って肩 に手をかける。近 寄 りそこねた彼の前で、クリーオウはすがるようにロッテーシャの手に腕 を回した。ロッテーシャが、非 難 するようにこちらをにらみつけてくる。
後ろ暗く息を呑 んで、オーフェンはマジクへと視 線 を移 した。彼のほうは取り乱 してはいなかった。ただ丸い瞳に似 つかわしくない暗い影 を落としていた。
「......ぼくは、お師様のところでこれ以上練習しても、もう上達はしないでしょう?」
「なんだって?」
素 っ頓 狂 なことを言い出した生徒に、仰 天 してうめく。マジクはそのまま、あとを続けた。
「お師 様 は、もう十分だって言ったじゃないですか。でもぼくは結 局 それでも役立たずで──」
「マジク」
「彼は、とても優 れた魔 術 士 だとわたしには感じられた。才 能 がある。時間をかけて訓練すればユイスのような使い手になれる」
落ち着いた様子で口を挟 む領 主 に、オーフェンは叫んだ。
「なれない!」
コルゴンは特 殊 な魔術士だった。才能ひとつでは手に入れることのできない力と、そしてなにより、余 人 には追求しても追いつかない決定的な強さを持った魔術士だった。その秘 密 がなんなのか誰も知らない。が、オーフェンにもかろうじて理解できると思える事 柄 がひとつだけあった──
(あれは取 捨 選 択 の強さだ。不必要ななにかを捨 てて必要なものを得る。その見切りだ。他人を殺して自分を生かす。そんなもの手に入れられるわけがない。マジクに......)
だがそれを説明しようと思うと言葉が見つからなかった。口ごもっているうちにマジクと目が合う。生徒の表 情 に浮 かんだものを見て、オーフェンは自分のミスを悟 った。大きくしくじった。悟った時にはもう遅 い、そういった類 の失 態 。
はっきりと失望の色を目に浮かべて、マジクが言ってくる。
「お師様の教えてくれたことが無 駄 だったなんて思いません。でも、ぼくはお師様のようにはなれないから......」
「それで、なにになるってんだ。領主の兵隊か?」
正面にいる男を指さして、オーフェンは罵 り声をあげた。
「そいつはもうすぐ死ぬんだ! 聖 域 が──」
「ジャック・フリズビーなら、君が防 いでくれるのだろう?」
面 白 がるように言ってきたのは、ダミアンだった。オーフェンは皮肉を返す余 裕 もなく即 答 した。
「お前らを守るためにやるわけじゃない。それに、それを防いだからなんだっていうんだ⁉ 」
テーブルを蹴 飛 ばし、オーフェンはさらに声を荒 らげた。
「お前たちのやっていることはただの小細工だ。ドラゴン種族が本気になったら手も足も出ないくせに、こそこそ隠 れて相手を挑 発 してるだけだ。お前たちは負ける喧 嘩 をやっているんだ! なら他人を巻 き込 むな!」
「わたしがあのディープ・ドラゴンに、どのような取引を申し出たと思うね?」
「対等な取引 とやらか。いよいよもって怪 しいもんだけどな」
告 げる。が、領主は皮肉だけ聞こえなかったように無 視 すると、さらに落ち着いた声 音 で言ってきた。ロッテーシャに取りすがって泣いているクリーオウの背 中 に、ほんの一 瞥 だけ投げかけて、
「君の言う小細工ではある。それは認 める。だがわたしはこの戦争に勝つつもりでいるのだよ。犠 牲 は避 けられない。それも認める。」
と、遠くを見やるように目を細めてみせた。
「勝たなければならないのだ。聖域が今、なにを考えているのか......三百年間のきわどい安定を経 て訪 れた破 局 的 な変化に際 して、どんな計画が始まるか。わたしはそれを予見していた。だからわたしは、今日まで戦ってきた」
「予言者だとでも言いたいのか」
「いや、せいぜいが予想屋だな。だがね、知っての通りドッペル・イクスには人間種族の者も含 まれている。中には聖域を裏 切 る意 志 を持っている者もいた。わたしはそういった者とも接 触 した。そして、いずれ来るであろう大陸の再破局に対して、聖域がどういった対 策 を予定しているのかも推 測 できた」
領主は言葉をまったく切らずにあとを続けた。
「君はわたしが犠牲者を選別することを許 さないのだろうが、わたしにも言い分はある。人間種族全体の問題として聖域と抗 争 するわけにはいかない......それではそれこそ人類の滅 亡 にもつながりかねない。だから少数の犠牲で戦うため、この最接近領がわたしに与 えられたのだ。貴 族 連 盟 の指 示 で」
今さら気づいたが、先ほどテーブルを蹴飛ばした際、どのスープも中身をテーブルにこぼしていた──領主のそれも同様だった。彼はそれを押しのけると、唐 突 に思いがけない名前を口にした。
「チャイルドマン・パウダーフィールドも、聖域と戦うために君たちを鍛 え上げた。そうではないかね? 彼と共 闘 できれば良かったのだが......」
「............」
オーフェンは沈 黙 して、呼 吸 を整えた。魔術で戦う気は既 に失 せていた──そんなものは通用しない。はっきりとそれを理 解 する。ダミアン・ルーウが横に控 えていることも問題ではない。領主に魔術士と戦うだけのスキルがあるかどうかも関係ない。
そこにいる敵には確 信 があった。望む限 り存 在 し続ける意志と、そのための手 段 と。まさか、その意志が故 に昨夜も死から蘇 ったというわけではないだろうが......
「......あんたの信じるものってのはなんだ。最接近領の領主」
半 眼 で、オーフェンは訊 ねた。感情はどれほど煮 えたっていようと心は冷たかった。
思い出していたのは祈 りの言葉だった。領主の唱えた祈り。
わたしが信じるもののために、この食事がある──
君たちの信じるもののために、この食事がある──
領主は堂々と答えてくる。
「そういえば、まだ名乗っていなかったかもしれない。アルマゲスト。尊 大 な名前と思うかもしれないが、わたしの名前だ。わたしが信じているのは」
と、あたりを示 して、声を響かせる。
「人間と、その友人たち......そのためならば、命など惜 しくはないと思っている」
「よくできた冗 談 だな」
話している相手の死に顔を思い出して、オーフェンはつぶやいた。
あとは静 寂 だった。クリーオウの低い嗚 咽 も収 まって、泣き疲 れた子 供 のように静かにしている。マジクはうつむき加 減 に立ち尽 くすだけだった。ダミアンはもとより音を立てるような身体の構造をしていない。しごく真 面 目 な面 持 ちの領主とにらみ合うだけで、オーフェンにも言葉を紡 ぐ余裕がなかった。
そして、刹 那 。爆 発 が起こって屋 敷 に振 動 が走っても、ほんの半秒ほどはその沈黙は続いた。
爆 発 は決して規 模 の小さいものではなかった──いや、屋 敷 が半 壊 したのではないかと思えるほどの衝 撃 と轟 音 が響 いてきている。揺 れる床 に足を取られてオーフェンは、つまずきながら爆発の方向を探 った。
「本館ではないな」
聞こえてきた領 主 のつぶやきを肯 定 するのはしゃくだったが、その通りのようだった。爆発は、館 を直接破 壊 したものではない。外で起こったものだった。それも、かなり近い場所の。
(......この屋敷の近くにあって、破壊する価 値 のあるもの......)
考えるほどのことでもなく、オーフェンは閃 いた。
(兵士宿 舎 か!)
ウィノナはまだそこにいるはずだった。ウィノナが爆発を起こしたというのでなければ、侵 入 者 がまず生き残りの兵隊を狙 ったということになる。
見ると既 にダミアンは姿 を消していた。領主は窓 の外を気 遣 わしげに見つめている。その眼 差 しは、部下を案じているように見えた。
彼になにかを言われるより先に──助けを乞 われれば拒 絶 せざるを得ないだろう──、オーフェンは食堂から飛び出した。玄 関 ロビーよりも厨 房 の勝手口から出るほうが早いと察 して、そちらに向かう。外に出ると木立の向こう側に砂 埃 が立っているのが見えた。宿舎が炎 上 しているということはないようだが、かなり大きな被 害 を受けたらしい。
(ドッペル・イクスが......もう来たのか?)
オーフェンは息を呑 んで、あたりの気 配 を探った。黒服の男のプレッシャーを思い出して肌 がひりひりと反 応 するが、この手口はどう考えてもあの男のものではない。
(魔 術 か? まるで誘 い出すために、わざわざ大げさな騒 ぎを起こしたみたいだ)
ウィノナひとりを狙 うにしては破壊の規模が大きすぎた。魔術士ならば、もう少しうまい手もあったはずではある。
陽動の可 能 性 もある。それを思いついて、オーフェンは出てきた屋敷へと振り返った。領主はともかく、クリーオウとマジクの守り手がいない。ロッテーシャにそれを期待するしかない。本来なら侵入者をダミアンに任 せて自分が守るべきなのだろうが、本 能 がそれを拒 んだ。あの白魔術士を信用するつもりなどさらさらなかった。
林を抜 けるのに手間はない。視 界 に入ってきた宿舎は壊 滅 状 態 だった。さほど離 れてもいない距 離 から粉 砕 されている。
見るとそこに人 影 があった。腕 組 みして、破壊された宿舎を眺 めている。ダミアン・ルーウだった。
「......来たのか」
それが意外だとでも言いたげな口調ではある。白魔術士はこちらを見もせずに聞いてきた。
「どう思う?」
「単 純 に考えてドッペル・イクスの第二陣 だろう」
「可能性は低い」
断 言 するダミアンに疑 わしい視線を投げると、彼はすぐさまあとを続けてきた。
「だが、あり得ないとも言わない。彼らはまだ領主様のご無事を知らないはずだ。わたしがネットワークを封 鎖 している。とはいえもちろん不 備 ということは起こり得る」
「どっちなんだ」
「《十三使 徒 》の別働隊というのはどうだ? この破壊跡 には、黒魔術士による仕 業 の痕 跡 を感じる」
「それこそ可能性は低いだろう。プルートーは馬 鹿 じゃないんだ──少なくともなにを考えてるのか分からない聖 域 よりはな」
オーフェンは早口にまくし立てて、そして、ふと眉 根 を寄 せた。
(じゃあ本当に......誰 なんだ?)
白魔術士を見やると、ダミアンは静かにつぶやいたところだった。
「君はもどれ。これは陽動だ」
(なんだ?)
これにも違 和 感 を覚えて、口を開く。
「あんたがもどればいいだろう──領主を守るのが役目なんじゃないのか?」
「探 索 ならば、わたしのほうが向いている」
ダミアンの言っていることにも態 度 にも、不自然な点を見出すことができたわけではない。が、オーフェンはダミアン自身に対するものとはさらに別の不信感を募 らせながらなおも反 駁 を試みた。
「昨日は役立たずだったじゃねぇか」
「君もだろう」
「............」
沈黙したのは図星だったからではない──ということもなかったが。オーフェンは胸 中 で訝 った。具体的な証 拠 はなにもないが、不可解なものが腹 の中でねじれている。
(なんだ?......こいつ、急に余 裕 をなくしてないか? なにを隠 している?)
無 論 、ダミアンの外観に変化などない。
感じたものに根 拠 を与 えられないまま、オーフェンは相手を見やった。ダミアンは自分をこの場から追い払 おうとしている。
「ドッペル・イクスでも《十三使徒》でもないとすれば、じゃあ誰なんだ」
オーフェンが聞くと、白魔 術 士 は即 答 した。
「そのどちらかである可能性が高い」
「さっきと言っていることが違うぞ」
「......わたしとて、意見を変えることはある」
「いい加減にしろ。お得意のネットワークで分からねぇのか」
勢 い込 んで詰 め寄る。
ダミアンは、否 定 の仕草で言ってきた。
「現 在 、わたしは聖域から情 報 を隠 蔽 することに全精力を注いでいる状 態 だ。昨日以上に余力がない」
目をそらす、発 汗 する、息遣いが変わる──といった肉体的な変化を期待しながら白魔術士の返答を待ち受けていたのだが、もとよりそれを望むことが無 駄 であることも分かっていた。思い通りにならない苛 立 ちにほぞを噛 んで、オーフェンはうめいた。
彼がさらに問いを投げるより先に、ダミアンは重ねて告 げてきた。
「君はもどれ。状 況 は非 常 に危 険 だ。わたしはウィノナを見つけて、しかるのち侵 入 者 を撃 退 する」
「............」
頭の中で、その申し出の妥 当 性 を計算して──
オーフェンは答えないまま、駆 け出した。屋敷に向かってではない。破壊された宿舎を迂 回 しつつ、庭園を探 索 するように走り出す。
制 止 してこなかったダミアンをあとに置いて、オーフェンは自分でも分からないものを探し始めた。
◆◇◆◇◆
走り去る黒魔術士を見送りながら、ダミアン・ルーウは自分の手のひらをその男の後 背 に重ねた。視 界 から隠したところでその存 在 が消えてなくなるわけではない。そもそも自分に視覚などないことを思い出して、苦 笑 する。人間らしい感覚。まだ肉を持って生きていた頃 の余 分 な遺 産 。
胸に浮 かぶはずのない不安感を覚えて、意 志 の力でそれをかき消す。面 倒 なことではあった。すべては昨夜のイレギュラーから起こった、ほんの些 細 な計算違 いに過 ぎない。だが綻 びは大いに好ましくない。今は時期が微 妙 だった。
(あれだけ傷 を受けて......もう力を回復させたというのか......天魔の魔女。いや、魔女たち......化け物めが)
間違いなかった。あの女どもが来たのだ。
レティシャ・マクレディのあの負 傷 をもう治 癒 させたというのならば、確 かに天魔の魔女は彼に対 抗 しうる力を持っている可能性はある。正 規 の訓練も受けていないような白魔術士──奔 放 に我 流 で伸 びただけの素人 が、である。
この爆発は弟を誘 い出すためのものだろう。鋼 の後 継 は、すべての予定の中にあってはさほど重要な要素というわけではない。ことに、天魔の魔女が自力でアイルマンカー結界内に帰 還 しつつあるというのなら。魔女の弟の存在は、魔女に対する交 渉 材料以上の意味はなかった。魔女がはっきりとこちらと敵 対 する意志を見せた今、鋼の後継は取るに足らない存在に過ぎない。
それでも、会わせるわけにはいかなかった。
(聖 域 の手にかかって失われたユイスの穴 を埋 められるのは、あのキリランシェロしかいない......)
昨夜、魔女の存在を看 破 できずに取り逃 がしたことの苦 渋 を思い起こし、ダミアンは手のひらを拳 に固めた。領 主 の立てた計画はイレギュラーを見つけるたびに修 正 されていく。その修正速度は場合によっては時間の速度をも超 える。自分はそれに従 えば良い。領主にしかできないことと、彼にしかできないこと。その遂 行 に対して、天魔の魔女の横やりは唐 突 に致 命 的 な破 綻 を突 きつけてきた。
ダミアン・ルーウの抹 殺 という破綻を。
(ネットワークを使うことはできない......いまだ聖域は領主様の暗殺が成功したものと錯 覚 している。いや少なくとも成功するはずのないものが成功してしまって戸 惑 っている。わたしがネットワークの締 め付けを緩 めれば、必要以上に早く彼らの混 乱 を治めてしまうことになりかねない)
ネットワークを使用せず、決定力を持つ手 駒 のひとつもない状態で、一個の魔術士として敵と戦わなければならない。
襲 撃 者 が天魔の魔女ならば領主に危 険 はない。守 尾 を留 守 にして全力を使うことを、領主も咎 めはしないだろう。
(厳 しい......が、まさか負けはせんよ。たかだか成り行きで精 神 体 になったばかりの小 娘 ごときに)
拳をどけると、もうそこに黒魔術士の後ろ姿 は残っていなかった。ダミアンは姿を消し、鋼の後継より先に敵を探 し当てるべく、探 索 を開始した。
◆◇◆◇◆
破壊された建物があげる炎 の音以外にはこれといって耳に入ってくるものもなく、庭園は静まり返っていた──物音らしい物音も声らしい声も聞こえてはこない。オーフェンは走りながら、そもそも自分がなにを探しているのか、それを探していた。
(......ドッペル・イクス?)
それが最も自然な推 測 だった。聖域からの刺 客 ならば、この最接近領に侵 入 して建物を破 壊 しておかしいことはない。
が、それならば逃げる必要もない。一 気 呵 成 に目的の領主まで攻 め進めればいい。
(既に一回攻めてるんだから、こちらの戦力は分かってるはずなんだ。様子見することもない。昨日の時点でさえ、聖服の男は迷 うことなく領主を狙 った)
襲撃者がドッペル・イクスであることを完全に否 定 するほどの根 拠 でもないが、確 かに腑 に落ちないところではある。
(......《十三使徒》?)
それもあり得ないことではない。王都の魔人プルートーはたびたびこの地へ斥 候 を放っているとイールギットも言っていた。
だが、シーク・マリスクを失っているのだ。宮 廷 魔術士の人材も底なしではない。暗殺者シークは間 違 いなくトップクラスの魔術士だったはずだ──同じレベルの暗殺者をそう簡 単 に用意できるものでもない。
(暗殺目的でこの領内に人を放っていることを、貴 族 連 盟 に知られればまずいという話だった。立て続けにやれるもんでもないだろう。それに、いくらなんでも王都の連中がシークの失敗をもう知っているというのは変だ)
推測はここで途 切 れてしまう。襲撃者がそれ以外のなにかであるとすれば、いったいなんだというのか。
(ダミアン・ルーウは、この襲撃者と俺を会わせたくない......?)
先ほどの会話には、その感 触 があった。
これにも確 たる根 拠 があったわけではない。ダミアンが彼に領主のもとにもどるように指 示 してきたことに、疑 いようもない齟 齬 があったと言い切る自信もなかった。
それでもこれは、彼ら──領主と白魔 術 士 の演 出 するこのすべての舞 台 に参加して初めて見いだした隙 だった。初めて、彼らの指示を裏切り出し抜 くことが可 能 な場面だった。この襲 撃 者 に会う。
それで、少なくともダミアンが動 揺 するのならば。
結果なにが起こるのかは分からないが、いかさまのゲームから抜け出す手がかりになってくれる。
(だが──どこだ? 誰なんだ?)
はやる気持ちを抑 えながら、オーフェンは走る速度だけは上げていった。物 陰 を見つけるたびにその奥 へ踏 み込み、死角をひとつずつ潰 していく。
やがて、突 然 に出くわしたのは長身の人 影 だった。
「うわっ!」
向こうにとってもまたいきなりだったのだろう──罵 声 に近い調子で叫 んでくるのが聞こえた。左手の拳 銃 をこちらに向けることすらしてきた。
「ウィノナか」
オーフェンは敵 意 のないことを手を挙 げて示 すと、見つけた相手の名前を呼んだ。彼女もまた、大げさに息をついて言ってくる。
「なんだ......さっきの攻 撃 、あんたじゃないだろうね?」
「宿 舎 の爆 発 か? いや、俺もあれを聞いて飛び出してきたんだ。無事だったのか」
聞くと、ウィノナはいったん疑わしげにこちらを眺めてから、その視線を外して肩 をすくめてみせた。あたりを警 戒 しながら、
「なんか嫌な感じがしてね。ちょうど建物を出たところで呪 文 みたいな声が聞こえて、それで屋根ごとねぐらがぶっ飛んじまったのさ。気配を頼 りに追いかけたけど、だいぶ前に見失っちまったよ。怪 我 で勘 が鈍 っちまったかね」
「呪文......じゃあ、魔術士か。それもドラゴン種族じゃないな」
確かめるように、オーフェンは訊 ねた。彼女がうなずく。
「だろうね。聞き覚えのあるような声だったけど......あたしもぼーっとしててはっきりしなかった」
それがよほど悔 しかったのか、ウィノナは左手の拳銃を余 裕 なく握 り直した。ほかには武 器 らしい武器も持っていない。着ているものも部屋着だった。もっとも、最初に出会った際 に着ていたものとそれほど差はないが。
彼女の緊 張 には気づかないふりをして、オーフェンは質 問 を続けた。
「ほかに、分かったことは?」
「なにもない。相手が手 強 いってことだけさね」
「ダミアンは、頼りにできないらしい」
それとなく告 げる。彼女は鼻で笑ってみせた──軽くではなく盛 大 に。
「いつだってそうさ。特に大事な時には必ずね」
「ネットワークが使えないんだそうだ......君の言った通り領 主 の生 存 を聖 域 から隠 すのに、力の大半を割 いているらしい。あと、もうひとつ」
「うん?」
上の空といった様子であたりを見回すウィノナに、囁 くように声を抑えてオーフェンはつぶやいた。
「断 言 はできないがダミアンはなにかを隠している。この襲撃者に対して、なにか含むところがあると見た」
「............」
「昨日、奴 を排 除 したいと言っていたな?」
沈 黙 するウィノナの横顔を観察するのは、慎 重 にコインを積み重ねるような心 地 だった。賭 け金は考えて決めなければならない。
相手の答えを待っていたが、彼女は無言のまま立ち去ろうとした──ように見えた。だが踏 み出しかねて立ち止まり、振り返って小さく言ってくる。かすれるような小さな声音で。
「......時期が悪いさ。状 況 が変わっちまった。現状じゃ領主様の守り手はあたししかいない。領主様にはダミアンが必要だよ」
「当面は、ということか?」
「ひどく難 しい話さね。たった一夜で、こんな......」
「また状況が変わるまでに、なにかの伏 線 くらい用意しておいたほうがいいだろう?」
口ごもる彼女に、オーフェンは告げた。
ウィノナが、ゆっくりと──本当にゆっくりと聞いてくる。
「あんた、なにを言いたいんだい?」
「自分でも分からない。だが、ものすごく重要なことかもしれない。取るに足らないことかもしれない」
「あたしになにをさせたい?」
問いかけてくる彼女の口調からは既 に戸 惑 いが消えている。オーフェンは、うなずいて続けた。
「もし今、ダミアンがあんたに命令を出すとしたら、どんなことを言うと思う?」
「......侵 入 者 を発見して抹 殺 しろ、てとこじゃない?」
「それに逆 らえとは言わない。ただ、遂 行 する前に一 呼 吸 おいて欲 しい。飛びつく前によく考えるんだ。その侵入者が何者で、なにを目的としているのか」
「それで、なにが得られるのさ」
「分からないと言ったろ。襲 撃 者 が単に領主の暗殺を目的としているのなら──手口を考えるとそうは思えないんだが──、君の好きにしていい。ただ、違 う目的を持っているようならそれを確 かめてくれ。ひょっとしたらダミアンを震 え上がらせるようななにかを持っているかもしれない」
「あんた、まるで扇 動 家 だね」
ウィノナは苦 笑 をひとつ残すと、今度こそ早足で去っていった。襲撃者を探 して木々の間に消える。
彼女がはっきりとした返事をよこしてこなかったのは、ダミアンの聞き耳を警 戒 してのことかそれとも単に呆 れたからか、それは判 断 しかねた。
いや──と、オーフェンは胸 中 でうなずいた。
(脈 はあったな)
もとより、ウィノナが完全な協力者になってくれることを期待していたわけではない。彼自身が領主に対する態 度 を明確に決めない限 りは、それは不 可 能 だろう。それを考えれば彼女の返事は上等のものだった。そう考えて、満足しておく。
オーフェンもあたりを見回し、なんのヒントも与 えてくれない沈黙の庭園を探 ろうとした。扇動家とは、よくできた言い回しだった。自分はウィノナになにも与えていない。それで彼女を都 合 よく利用しようとしている。
(......まずは敵 の姿 を目の前に引きずり出すことだ。そうすれば戦える)
と言ったところで、はっきりした敵などというものは、この世にいないのだろう。たとえばウィノナにしてみれば、自分は敵だ──が、彼女は彼とは敵対できない。そう仕向けたのはほかでもない、彼女の周囲にいるすべての人間だ。領主、ダミアン、コルゴン、そして彼自身も。
だが考えてみれば、誰と誰に対しても同じようなことが言えるのだ。
それでも戦おうと思うのならば、敵かどうか分からないものをはっきり敵と決めつけなければならない。敵として存在してもいない虚 像 を、目の前に引っぱり出さなければならない。
(因 業 ってのは、こういうのを言うのかね)
余 計 な考え事で時間を無 駄 にしたことに自 嘲 して、オーフェンは再 び駆 け出した。
◆◇◆◇◆
領 主 様 にはダミアンが必要だ。
それは自分の言ったことではあったのだが、いやらしいほどにしつこく彼女の胃を締 め付けた。プライドではない──それほど安っぽくはないつもりだった──それを責 めるのは、己 の無力だった。
(まったく......余計な力を持っている連中ってのはみんな、領主様に災 いしてばかりじゃないか!)
毒づいてウィノナは足を止めた。あがった呼吸を整えながら、汗 で湿 ったシャツの裾 をめくって秋の冷気を入れる。それは一時的には心 地 よかったが、脂 肪 の少ない彼女の身体 には毒であるとも分かっていた。
拳 銃 ──ディーディーを構 えて彼女は、木々の一本一本まで把 握 しているこの庭園の地図を思い浮 かべた。侵入者は宿 舎 を破壊したのち、完 璧 に姿を消している。これは土地に不 慣 れな者の仕 業 だとは思えなかった。
もしくは、姿を消す能力を持っているかだ。ドラゴン種族と抗 争 していると、そんなことも気にしなければならない。ウィノナはうんざりと息を吐 き出した。領主に仕 えるために、自分はできるだけのことはすべてやってきたつもりだった。多くを望むつもりはないが、こんな時に敵を一 網 打 尽 にできるくらいの報 いがあったとしても良さそうなものではないか?
(参ったね。弱気になってるよ)
彼女はつぶやくと、妄 想 を振 り払 った。
(生まれながらに人知を超 えた力を持ってるような、惰 弱 な魔 術 士 どもとは違うんだ......奴 らは、あたしのようにはなれない 。そうさ。楽な報 酬 は求めない)
毎日のトレーニング。加えて普 段 歩く際にも常 に爪 先 立 ちを意 識 してバランス感覚を養う。何度もヤスリで削 って皮 膚 を硬 くした拳 は、今では木板を割 っても血豆ひとつできない。それらの訓練は無 論 今でも欠かすことなく続いているうえ、繰 り返される実戦で生死をさまようことにも慣 れた。
ここが普 通 だ。ここにいないのは堕 落 した奴らだ──派 遣 警 察 官 らの訓練標語を唱えて、彼女は笑 みを浮かべた。あのサドの教官どもを何度殺してやろうと思ったことか。そしてふと、自分には本当に教官を殺せるだけの力と技 があるのだと自覚した時、彼女は教官と抱 き合って号 泣 した。同じく歓 喜 の涙 を流してくれた、大 恩 あるそのサディストたちに初めて心から礼を言ったのち、彼女は派遣警察官になった。そして一年後、その地位と身元を抹 消 し非公式騎士 になった。自分で自分の死 亡 届 を作成しながら心にあったのは、ついにその場所に手をとどかせたという感 慨 だった。犬しか持ち物のなかったただの不良少女が、最 接 近 領 の領主に仕える真の騎 士 となった瞬 間 だった。
楽を求めることはない。魔術士は確 かに生まれた瞬間からの超 人 なのかもしれない──が、代 償 に生まれながらの惰弱をも抱え込んでいるのだ。彼らを羨 むことなどあってはならない。それは人の力の否 定 となる。
人間種族の完全な自治を求める領主に、最も必要なのは人の力であるはずだ。
魔術はその露 払 いに過 ぎない。
(領主様だって......きっと分かっておられるさ)
そのことだけはなにがあろうと信じていた。疑ったこともない。
襲 撃 者 が人間であるとして──つまり人間の魔術士であるとして、最も効 果 的 な逃 走 経 路 はなんだろうかと、ウィノナは地図の上を想 像 でなぞった。屋 敷 は庭園の中央に位置している。庭園の造 りそのものが、際 だった要害だというわけではない。最接近領は十年もその存在を聖域から悟 られずにドッペル・イクスと暗 闘 してきた。その隠 れ蓑 は主にダミアンによるネットワーク上の隠 蔽 工作による。制 度 上ではこの最接近領は騎士軍の末 端 にあった。無 論 、無名の組 織 として。最接近領はその存在を表 沙 汰 にせず、聖域から直接の襲撃を受けずにいた。実 際 、聖域が最接近領の関 与 を知ったのはアーバンラマの一 件 からだろう。あの時にどうして情 報 が漏 洩 したのかはわからないが、それを知られた途 端 に組 織 は壊 滅 した。
黒魔術士に一理あることを認 めざるを得なかった。圧 倒 的 な戦力不足。量も質 も。ウィノナは拳銃の重みを手で確かめた。この武 器 ではドラゴン種族を殺せない。
(まあ......考えても詮 無 いことさ)
今は一番近くの敵 に集中する。
物思いとともに、敵の逃 走 経 路 にも見当がついていた。宿舎が破壊された時、敵は魔術がとどく範 囲 内 にいた。これは間違いない。異 変 に気づいた自分はすぐに飛び出し、敵の位置を探 った。その時、既 に襲撃者は逃げていた。攻撃としてはお粗 末 なものだったと言うしかない。不意打ちして、ろくな戦果を出していないのだから。
(そのくせ、この逃げ足の速さはどうだろうね。それとも誘 いをかけての罠 ?)
目の前の茂 みをのぞき込んで、そこに誰もいないことを確 認 する。罠ならば、こちらが多少隙 を見せてやれば逆に食いついてくる可能性はある。その時の敵の攻撃が、身体 ごと蒸 発 させられるような怪 光 線 でなければ──そして蒸発するのが自分の身体でなければ試 してみたい賭 けではあった。
(さて。それでも賭けなきゃならんかね?)
唇 の周りを舌 で撫 でると、ひどく塩 辛 い。どれだけ覚 悟 を固めたつもりでも身体は緊 張 している。彼女は肩の力を抜いて拳銃を下ろした。後ろ腰 のホルスターにディーディーを収めると、茂みに分け入るために、尖 った庭木の枝 の間に両手を差し込んだ。中を探るふりをして、背 後 を警 戒 する。
(来ない......あの黒魔 術 士 より、あたしのほうが先行している。あたしのほうが敵に近い。自信がある)
敵の思考を読むために想像力を働かせる。ウィノナは襲撃者の意識をトレースした。敵地にあって敵に追われている。もし自分ならどうするか......
(各個撃破さ、もちろん)
確信たっぷりに彼女は念じた。
(ほら、あたしはひとりさ。しかもあんたにとっては一番与 しやすい無力な兵士だよ。いかにも使い走りの筋 肉 馬 鹿 に見えるだろうが? 大陸最高の暗殺技能者でもなければ、得体の知れない化け物でもない。さあ、足音を忍 ばせて、そろそろ背後に回ってきていてもいい頃 合 いじゃないか?)
魔術による不意打ちはない。
そう信じることにした。魔術の威 力 は強大だが、音声魔術ならば無音で効 果 を発 揮 することができない。まさか各個撃破の初 っ端 から、ほかの敵に位置を知らせるような真 似 はすまい。
(こう言っちゃなんだけど、あんたチキンだよ。さっさと来な。いくら魔術士だって、あたしが十年鍛 えた拳 を顔面にぶち込まれたら生きてはいられないって証 明 すんのに協力しておくれよ......)
一撃必殺。それを心に決めて──
ふと、黒魔術士の言葉が脳 裏 をよぎった。敵を仕 留 める前に観察しろ?
(調子のいいことを言ってくれるよまったく。お気楽な魔術士らしい妄 言 さね。魔術士を相手に、あたしらが一 拍 置くってことがどんなことか分かってんのか?)
だが、それがもしダミアン・ルーウに対するなんらかの切り札になるというのなら、価 値 はある。
(成り行き次 第 さ)
彼女はうめきながら、植木の中にさらに腕 を突っ込んだ。茂みの中の地面に触 れて、柔 らかい砂 を一 掴 み握 り取る。
刹 那 。
「ふぬぁっ!」
彼女の叫 び声は、実 際 には鼻息に過 ぎなかった──叫ぶような時間も余力もない。一瞬で振り返ると、手の中の砂を背後の気 配 へと叩 きつける。彼女自身も昨日食らった不意打ちだった。当てずっぽうに砂を投げただけだが、相手が油 断 していたならば牽 制 にはなったはずである。
同時に身体を退 いて腰 を落とし、左手で拳銃を抜 く。彼女の背後にいた人 影 は、期待していたほど接近してきていたわけではなかったらしい。砂をまいた場所より多少遠のいたところで、残像をわずかに置いて木立の奥 に姿を消すのが見えた。
(早すぎた......! ビビってたかね、あたしもっ!)
反省は手短にして、ウィノナは飛び出した。敵の姿を見ることはできなかったが、それでも漠 然 とした印象が網 膜 に残っている。全身を黒 装 束 で覆 っていた──これは魔術士には珍 しいことではない。長い黒 髪 。そして、人間離れした俊 敏 な反 応 。
疑 いなく一線級の暗殺技能者と思えた。敵も不意打ちに失敗したが、それはこちらも同じである。次の瞬間には魔術で決着をつけようとしてくるかもしれない。そうなるより先手を狙 って、ウィノナはなりふり構わずに発 砲 しながら前進した。二発。敵が消えた木々の間を狙って当たるわけもない弾 丸 を撃 ち込 む。

木の陰に回り込んでも、そこに敵はいないのではないか──またもや姿を消しているのではないか。逆 にあり得ない不安を胸 に、ウィノナは敵が消えた場所に踏み入れた。昨日はみすみすドッペル・イクスを領主のもとへと行かせてしまった。二度続けて失敗などするつもりはない。
靴 底 を地面に滑 らせて彼女は身体を止めた。息を詰 める。観察は一 瞬 でいい。
そこに敵はいた。そして、
「......なんで......⁉ 」
一瞬だけで済 まなかった観察に、驚 愕 の声をあげる。
身体 が浮 かび上がるかのような感覚。ウィノナは全身でその衝 撃 を受け止めて、そして意識を失った。永 遠 に。
「これは銃 創 だ」
屋 敷 のベッドに横たわったウィノナの身体 を見下ろして、ダミアンの声は冷静だった。
言われなくとも分かるようなことをわざわざ言うことは馬 鹿 馬 鹿 しいが、それでもその診 断 に意味があることは認 めざるを得ないと、オーフェンは顔をしかめた。言われなければ、それをことさらに意 識 することもなかった。
ダミアンは淡 々 と続ける。
「腹 部 に二発。傷 は深い。長くは持たないだろう。彼女の体力でも、あと一時間というところか」
「治せるだろう、あんたなら」
オーフェンはつぶやいて、部屋の中を見回した──昨夜、傷ついたあと蘇 生 して目覚めた部屋である。ウィノナは昨日と同じ寝 台 に逆 戻 りして、腹部の傷に包帯を巻 いた状 態 で意識を失っている。
部屋にはほかに、誰 の姿 もなかった。ロッテーシャはまだ、クリーオウといっしょにいるのか? 恐 らくそうなのだろうと、オーフェンは判 断 した。ならばマジクもそこにいる。そして領 主 も。
その視 線 を追いかけてくるように、ダミアンがこちらを向いていた。特に力を入れずに言ってくる。
「余 力 はない、と言っただろう......そうそう、つまりは君も、わたしの力をあてにして怪 我 などして欲 しくはないということだ」
「............」
答えずにオーフェンは、ウィノナを見つめた。銃創。銃 弾 は臓 器 のいくつかを破 裂 させて、彼女は緩 慢 に死につつある。出血は止まっているはずだったが包帯は見るたびに赤黒い滲 みを大きくしているようにも見えた。顔色は既 に体温を宿した生物の皮 膚 の色というよりは、湿 った土の色へと変じつつある。
疑 いなく致 命 傷 だった。自分の魔 術 が通じる状 況 でもない──実 際 、銃声が聞こえたあとに彼女を発見して即 座 に治 療 を試 したものの効 果 はなかった。自分の魔術でも傷はふさぐことができる。オーフェンは奥 歯 を嚙 みしめた。だが、最も重要な破 損 臓器の回 復 や、失った血 液 や体力を補 充 できるわけではない。
だが、ダミアン・ルーウならばこの致命傷を癒 せるはずだった。昨夜にはもっとひどい状態の彼女を癒してみせたのだから。
横目でにらみやると、オーフェンは告 げた。
「急に力を使い惜 しみするようになったじゃねえか」
「もともと無 尽 蔵 なものではないのだよ」
と、話題を変えてダミアンが右手を差し出してくる──その手には小型の拳銃があった。グリップではなくバレルのほうを持って、白魔術士が言ってくる。
「彼女の銃だ。弾 は残っていなかった」
「銃声は一発じゃなかった。彼女は自分の銃を敵に奪 われて撃 たれたのか?」
「分からんね。よほどしっかりと現場を調べなければ結論は出せんな。だがわたしの推 測 を言わせてもらえば、彼女はそんな間 抜 けではないよ」
本当にそう思っているのか不明だが、ダミアンはそう言い切った。ウィノナの呼 吸 音 は思いのほか静かで、不服がないようにも見える。
オーフェンは白魔術士の差し出した拳銃を受け取り、それを子細に眺 めやった。それでなにが分かるわけでもなかった──単によく使い込まれているということだけだ──が、その殺人器具の軽量さが、まるで魂 の抜けた形 骸 を思わせる。さほど的外れな感 傷 とも言えない。その軽さは、弾 倉 が空であることを意味していた。
ウィノナの銃の回転式弾倉の装弾数は五発。数えてオーフェンは、想像を巡 らせた。ウィノナならば、死の間 際 に全弾一気に撃ち尽 くすことも可 能 だろう。いや、そうしたに違 いない。弾は、彼女自身が撃ち尽くしたのかもしれなかった。
「じゃあ、侵 入 者 も銃を持っているということか?」
聞くと、ダミアンはしばし迷 ったようだった。その透 明 な瞳 がなにを考えたのかは分からないが、口調だけは丁 寧 に分かりやすい。
「......君は銃をどこで手に入れた?」
唐 突 に質問で返され、オーフェンは白魔術士の顔を視界に収 めて瞬 きした。腰の銃に触 れて、つぶやく。
「ティッシが《塔 》から持ってきた。俺がウィノナを撃ったとでも思ってるのか? 生 憎 、この銃は撃てないぜ。まだ整備もろくにしてない」
「持ち込んだ銃は一丁だけか?」
「おい。彼女を撃ったあと、どこかに隠したと──」
あくまでこちらを疑っているらしい白魔術士に抗 弁 しようと、オーフェンは不 機 嫌 に声をあげた。が、ふと途 中 で思いとどまる。
白魔術士はなにかを考え込んでいるようだった。こちらを注 視 してもいない。追及してくる様子でもない。先ほどにも感じた奇 妙 な違 和 感 が上 塗 りされる。オーフェンは胸 中 でつぶやいた。
(俺を疑ってるわけじゃない。こいつ、なにを隠してるんだ?)
と、ダミアンが再び顔を上げた時には、それまでの逡 巡 などきれいさっぱり消え去っていた。明朗に言ってくる。
「《牙 の塔》に、たかだか一 介 の魔術士に持ち出せる銃があるくらいだ。《十三使 徒 》の別働隊ならば、拳銃で武 装 する可 能 性 もあるな?」
「騎 士 軍 の装備だぞ。貴 族 連 盟 が貸 し出すことがあるのか?」
「わたしとしては、侵入者は《十三使徒》の手の者だという説を推 す。それが最も自然だろう」
「一番自然なのは、ウィノナを蘇 生 させることだ」
オーフェンは断 言 すると、寝台の彼女を指 し示 した。彼女の体 軀 も横たえられると小さく縮 まって見える。
そちらを見もしない白魔術士を、半 眼 でにらみやる──オーフェンは声も低くして続けた。
「まるで治したくないようだな」
凄 んで詰め寄るが、ダミアンは退 かなかった。詰まった距 離 に、圧 迫 感 を感じているのは自分だけかもしれない。弱気になる自分を罵 る。手の中にあるウィノナの拳 銃 を握り直して、オーフェンは怒 声 で告 げた。
「......ウィノナを回復させれば、すぐに襲 撃 者 の正体も分かるだろう。なにか不 都 合 なことでもあるのか?」
「............」
ダミアンはなにも答えてこない。沈黙を守ったまま、顔を窓 の外に向けた。
昼下がりの陽 が、窓ガラスを輝 かせている。まだ早い時間だというのに秋の太陽はひどく高度を下げていた。
「君には領 主 様 の護 衛 をお願いしたい。気に入らない役目なのだろうが、断 れないはずだ。あの少女らや、君の生徒のことも守らなければならないだろうからな」
「話をそらすなよ、白魔術士」
「一 晩 だ。明日の朝までにわたしは侵 入 者 を排 除 する。効 果 的 に〝ゴースト〟を使えば、さほど労力を使わずに可能だろう。君よりは安全にことを運ぶことができる」
「おい──」
「有り体 に言おう。ウィノナのごとき使い走りを蘇 生 させるのに、わたしがどれほどのパワーを使わなければならないと思う? そしてそれは、君が万一重傷を負っても同じことだ。だが領主様は君が必要だと考えておられる。わたしとしては、自分でやったほうがリスクがないのだよ」
突 然 多 弁 になったダミアンに、思わず反 駁 の言葉を迷 っているうち、白魔術士はそのまま続けてきた。会話を打ち切るためだろう。虚 空 に溶 けるように姿 を消しながら、
「明日の朝。領主様が必要としていた時間は、明日の朝までだ。それでこの最 接 近 領 と聖 域 との力関係が逆転する。君はその間、黙 って領主様の安全を保 っていてくれれば良い」
ダミアンの姿は消え、そして声も途 切 れた。
それを見送って、オーフェンはうめいた。ウィノナはやはり不服もないように──死へと近づく深 呼 吸 を、ただひたすらに繰 り返していた。
◆◇◆◇◆
こんな僻 地 に、新 鮮 な──少なくとも新鮮そうな──ミルクが置いてあったことは驚 きだった。真新しい瓶 の封 を解 いて、中身を手近な鍋 に移 す。コンロは旧 式 だったが十分に使えそうだった。マッチを擦 って火を点 けると、その上に鍋を置く。一息ついてロッテーシャは、後ろを振り向いた。泣きやんだクリーオウが、決まり悪そうにこぢんまりと椅 子 の上で身を縮 めている。
厨 房 には簡 単 なテーブルと椅子があるだけで、あとは意外なほどすっきりとしていた。棚 を開ければ食器や調理器具が詰 まっているが、館 の主が使うような華 美 な食器があるわけではない。つまりは、使用人が食事をするための場所なのだろう。ロッテーシャは腰 に手を当てると、ミルクが温まるまでのしばしの時間をどう潰 そうかと思案した。クリーオウに話しかけても良い。ただ、ここ数十分の間、一方的に話し続けてもう話題がないというのも事実ではある。
近くの壁 に立てかけてある魔 剣 を意 識 した。風の中に、おぼろげに聞いた言葉を思い出す。剣を手放してはいけない。彼女は苦 笑 した。まさかあの馬 鹿 亭 主 も、ミルクを火にかける時間まで神 経 質 に警 戒 しろと言っていたわけではあるまい。なにやら庭で騒 ぎがあったようだが、館の中は静かだった。
(......騒ぎがあったくらいのほうがいいのかしら)
ふと、そう思う。ロッテーシャは見るともなしに同じ場所にいる少女の姿を盗 み見た。沈 黙 はひどく気まずいものだったが、それを打開するうまい手も思いつかない。なんにしろ、クリーオウがひどく落ち込んでいるのは見ていてつらかった──初めて見た時の印象から、大きく変化し過ぎてしまったのではないかと思える。
自分が他人の変化に気づいてしまったこと、それが後ろめたい理由なのだろう。そんなことを分 析 してロッテーシャは、湯気となって芳 香 を漂 わせるホットミルクに鼻 孔 を広げた。砂 糖 でも入れて飲ませてあげれば、クリーオウも多少気力を回復させるかもしれない。感情の動きは、しょせん甘 味 の補 給 には逆らえない。
「オーフェンさ」
いきなりクリーオウが声をあげるのに、ロッテーシャは無 駄 に大きく反 応 しかけた。慌 てて振 り向いて、目をぱちくりさせる。まさか向こうから話しかけてくるとは思っていなかった。が、言葉の続きを待っても、クリーオウは呆 然 とこちらを見るだけで口を閉 ざしている。
「......どうしたの?」
ロッテーシャが聞くと、クリーオウはまた足 下 に視 線 を落とした。テーブルの上にかがみ込んでいるようにも見える。ぼそぼそと聞き取りづらい声 音 で、彼女は言ってきた。
「オーフェンさ、怒 ってたかな」
「怒っていたのではないと思うわ。ええと......まあ少なくとも、あなたに対しては」
実 際 どう見ても怒 り狂 っていたあの黒魔術士を思い出し、ロッテーシャは咳 払 いした
──まったく、調子に乗った男というのは厄 介 者 でしかない!
「ただ、その、昨日はいろいろあったみたいで──わたしも詳 しくは知らないんだけど。でも、とにかく大変だったみたいなのよ。それで気が立ってたんだと思うわ。あなたは悪くないわよ」
彼の姉が死んだことや、なんやかやは伝えるべきなのか──迷ったが、ロッテーシャはあえて触 れないほうを選んだ。実際のところ詳 細 に関しては自分は知らないし、これ以上クリーオウの心労のもとを増 やすのもどうかと思える。
「そう......」
クリーオウは苦しげにそううめくと、急に頭を上げてきた。それほど元気にというわけでもなく、やはり顔色は陰 っていた。
「でも、わたし、レキのほうが心配で」
「いいんじゃない?」
無 責 任 かと自分でも思いながら、ロッテーシャは請 け合った。だがあの無 遠 慮 な黒魔術士ならば、いちいち他人が心配などしないでも勝手になんとかするだろう──それよりは確 かに、あの小さい黒犬のほうが心配ではある。

荒 野 でぽつんと座 っていたレキのことを思い出し、彼女は告 げた。
「そういえば、レキちゃんを見かけたわよ。昨日。方角はちょっと分からないけど......ここから結 構 遠くで」
クリーオウはこちらを向いたが、口を開いただけでなにも言ってこなかった。なにかを言いたくはあったのだろう。唇 が二、三度、未 練 を込 めて動くのも見えた。声を出すのを躊 躇 したというよりは、なにを言っていいのか分からなかったのかもしれない。
温 まった鍋 を火から下ろして、ロッテーシャは持ってきておいたマグを流しの上に並 べた。飲み物がこぼれないよう慎 重 に鍋からマグに注 ぎながら、続ける。
「よく分からなかったけど、どこかへ向かってたみたい」
「森に帰ったのよ」
ぽつりと、クリーオウ。
よく聞こえなかったため耳をそちらに向けると、クリーオウも今よりは大きな声で言ってきた。
「もうもどってこないかも」
彼女の声はわずかに震 えていた。
根 拠 は見つからないがとにかく否 定 しよう──そう思い、ロッテーシャはかぶりを振った。
「大 丈 夫 よ」
と。
唐 突 に、それこそ邪 魔 をするにはこれ以上ないタイミングで足音が響 いた。木の床 を無 骨 なブーツが叩 く耳 障 りな音。入り口近くまで近 寄 ってきて、そして扉 が開く。
顔を見せたのは、あの黒魔 術 士 だった。
「......オーフェン」
クリーオウが、小さくつぶやく。驚いたというよりは、あっけに取られたような声音だった。黒魔術士が彼女のほうを見やり、うなずく。
「ああ」
「どうかしたんですか?」
聞いたのは、ロッテーシャだった。オーフェンは上の空で、厨 房 の中を見回している。ひどく焦 っている様子だった。
嘆 息 して、言ってくる。
「ダミアンを探 してるんだ」
あの幽 霊 のような男のことらしい──思い出してロッテーシャは顔をしかめた。白魔術士とか言っていたので魔術士なのだろうが、それ以前に、自然と他人を見下すように接するその態 度 から名乗らずともそれと知れる。
(まったく......魔術士って人たちはそんなのばっかり?)
クリーオウに声をかけもしないこの黒魔術士をも含 めて胸 中 で罵 って、ロッテーシャは聞き返した。
「いないんですか?」
つぶやきながら、クリーオウの様子を見やる。彼女はじっとオーフェンを見つめているが、自分が会話に加わらなくて済 みそうなのをほっとしているようでもあった。胸中まではっきりと知れるわけではないが、気持ちは分かる気がする。ロッテーシャは、とりあえず鍋をもどして火を消した。ふたつのマグカップに入りきらなかった牛乳の残りが、少しだけ余 っている。
砂 糖 壺 を探しにかかるまで、黒魔術士の返事は返ってこなかった。ためらいがちにゆっくりと、彼は言ってくる。
「ああ。もう一度説得して、ウィノナを蘇 生 させる......」
「蘇生?」
思わず呆 気 にとられて、つぶやく。なにか騒ぎがあったことは知っていたが、あの不 愉 快 な女が巻 き込 まれたことは聞いていなかった。
黒魔術士は、また入り口から退 散 しかけた足を止め、腕 組 みする姿 勢 でうなずいてみせた。
「さっきの襲 撃 で、ひどい怪 我 を負った。ダミアンにしか治せない」
がたん──
と、騒 々 しくクリーオウが立ち上がる。だが、やはり彼女はなにかを言いたげにするだけで口を閉 ざしていた。なにを言いたいのかは、今度ははっきりと想 像 できた。レキならば同じことができると言いたかったのだろう。ナッシュウォータで、あの黒犬が自分を蘇生させてくれたことをロッテーシャは覚えていた。
同じことは、オーフェンにも分かったらしい。気にするなというように手を振 ってみせる。だがロッテーシャは、それよりも気になることがあって声をあげた。
「彼女は敵 でしょう?」
それを聞いて、黒魔術士が呆れ顔を見せる。彼は、鋭 い目に困 惑 を乗せてつぶやいた。彼にとっては意外なことだったのだろう。
「ンなこと割 り切ってどうすんだ。死ななくていいものを死なせることはない。それに、彼女は重要な情 報 を持っているはずなんだ」
「重要な?」
「分かるだろ。ウィノナに傷 を負わせたのが誰か、彼女自身が見てるはずだ」
「そんなことが重要なんですか?」
ロッテーシャが聞くと、彼は肩 をすくめた。
「分からねぇよ。どちらかといえば、ダミアンがなぜその情報から逃 げるのか、そっちのほうが気になる」
「オーフェン、わたし、やっぱりレキを探してくる」
外へ駆 け出そうと勝手口に向かいかけたクリーオウに、オーフェンが叫 んだ。
「いや。いい──」
「でも」
「違 うんだ。屋 敷 から出ないでくれ。襲撃者がいる。しかもそいつは、容 赦 なくウィノナを殺害した」
彼はそう言ってから自分の失言に気づいて顔を伏 せた。陰 鬱 に、あとを続ける。
「ウィノナはもう長く持たない。だからレキを探しても間に合わない。くそっ......ダミアンの説得は続けるつもりだが、とりあえずはできることをしていくしかない」
「オーフェンさん」
ロッテーシャが呼 びかけると、彼はそれも手で制 した。彼自身、考えながら話しているのだろう。たどたどしく続く。
「まず忘 れちゃいけないのは......危 険 が迫 ってるってことだ。既 に敵 がこの近くに入り込んできていて、その正体が知れない。聖 域 の刺 客 、昨日の聖 服 の男みたいなのも、そのうち必ずもどってくる。ダミアンはごまかしているつもりでいるが、時間の問題だ。その時までに時間の余 裕 があるのなら、せめて有利な状 況 を作っておかないと」
「でも、領 主 様 は、ここは安全だって──」
と言いかけたクリーオウを見やる黒魔 術 士 の視 線 は、はたから見ても複 雑 なものだった。ロッテーシャが思い出したのは、亡 き父の眼 差 しだった──もっとも、連想にあったのはもっと下 世 話 な状況下での父の表 情 だった。生活苦から、父は所持していた愛 剣 を何本か手放さなければならないことがあった。その時に見せた、壊 したくないものを壊す、哀 悼 の顔。
改めて見直せば、黒魔術士の表情がそれほど亡 父 のものに似 ていたわけでもなかった。似ていないこともないが、決定的に違う。なんとはなしにロッテーシャは直感した──どこに違いがあるのか。この黒魔術士はきっと、自分がなにを失いつつあるのか分かっていないのだ。
「はっきり言えることがある。あの領主は信用できない。ダミアン以上にだ」
オーフェンの言葉は、まるで脅 迫 のように不 吉 な響 きを含 んでいた。
「あいつは、自分が戦っているようなことを言いながら、なにも手放してないじゃないか──」
「でも、わたしたちを逃 がしてくれたわ!」
クリーオウが声を荒 らげる──彼女は胸 に手を当てて黒魔術士を咎 めた。
「昨日、あの殺し屋だかなんだかが屋敷に入ってきた時......抜 け穴からわたしとマジクだけを逃がしてくれたのよ。自分のことは心配ないからって。自分を殺せば、侵 入 者 は帰っていくからって」
「だが実 際 のところ、領主は死ななかった」
「そんなの......責 めるのは可 哀 想 よ!」
なおも抗 弁 するクリーオウに、黒魔術士の表 情 が引きつるのが見えた。彼が致 命 的 な一言を発することが予見できたのは、自分が冷静だったせいだろう──ロッテーシャは自覚して、会話を止めようと一歩踏 み出した。
が、遅 かった。オーフェンがとうとう声を張 り上げる。
「イールギットは殺されたんだ! ティッシも行方 が知れない......」
クリーオウの返事を待たずに、黒魔術士はその場から立ち去った。聞こえてきた時と同じ不吉さで足音が遠ざかっていく。黒魔術士は一 呼 吸 も待たなかったが、どのみち少しばかりその場にとどまっていたからといって、クリーオウの返事は聞けなかったろう。彼女は無言のまま、蹴 った椅 子 を引き寄せて再 び腰 をもどした。うつむいて、長い沈 黙 を挟 んだ後、ほんの小さくつぶやくのが聞こえてくる。
「やっぱり怒 ってるじゃない......」
「あれはやつあたりよ」
と、それが非 難 しているように聞こえてはいけないと思いついて、ロッテーシャは付け加えた。
「そんなに気にすることないわよ。あの人、さっきわたしにも言ってたけど、はっきりした敵 を見つけたくて仕方ないみたいだから」
「わたしが領主様の味方をすると、敵になるのかしら」
ぶつぶつとぼやくクリーオウに、ロッテーシャは笑いかけた──無理な笑 みだということは承 知 の上だったが。間 が開いたせいで冷めかかったミルクに砂 糖 を入れて、マグふたつ持ってテーブルへと近寄る。
うつむくクリーオウの前にカップのひとつを差し出しながら、ロッテーシャはようやく考えついた言葉を口に出した。
「あの人、クリーオウのことをすごく心配していたのよ。自分が迂 闊 だったからってすごく責 任 感 じてたみたい。なのにあなたが無事で拍 子 抜 けしちゃったのよ。少しぎすぎすしてるように感じるかもしれないけど、なにかひとつうまくいくようなことでもあれば、それでころっと直っちゃうわよ。きっと」
「............」
クリーオウはマグカップを両手で包み込むようにすると、その温 もりを手の中で転がすようにもてあそんでから言ってきた。
「なんでわたしより、オーフェンのこと詳 しそうに言うの?」
それに文 句 があるというより、単に疑 問 だったのだろう。不思議そうに首を傾 げている。ロッテーシャは目をぱちくりさせてから、嘆 息 混 じりに告 げた。
「あの人、エドに似 ている感じがあるから」
「全然似てないわ」
これははっきりと文句ありげに、クリーオウが口を尖 らせる。
「あのエドって奴 がなにをしたか絶 対 に忘れないわよ。わたしも本当にヤバかったし......道場だって、あいつに潰 されちゃったようなもんでしょ」
(別に潰れてはいないけど)
似たようなものではあるが。
ロッテーシャは反 論 せずに、自分も椅子に座ることで間を保 った。
(そうね。わたしも忘れない......)
彼がなにをしたか。自分になにをしたか。絶対に忘れない。
すべてを吸 い込むような、迫 り来る刃 の恐 怖 。それを思い出して、否 応 なく肌 が粟 立 つ。ホットミルクはそれを遠ざけるのに役立った。一口飲 み込んで、甘 さが舌 を潤 すのを味わってから息をつく。
「たとえば......わたしは、あなたたちがナッシュウォータに来る前のことはよく知らないけど」
ロッテーシャは天 井 の梁 を見上げて、続けた。
「もし、あなたといっしょに旅行していたのがエドで、わたしと暮 らしていたのがオーフェンさんだったら、どうなってたのかしらって」
と、言ってからクリーオウの顔を見やると、彼女は怪 訝 そうな眼 差 しでこちらを見返してきていた。その目を見て自分がなにを言っていたのか気づき、慌 ててロッテーシャは手を振 った。勢 いよくテーブルに置いたカップが派 手 な音を立てる。
「あ、いえ、変な意味で言ったんじゃないのよ。ただの、たとえの話......わたしから見るとなんとなく、ふたりはよく似ているってこと。ごめんなさい」
「......別にロッテーシャが謝 るようなことじゃないわよ」
それでもやはり疑問が残る曖 昧 な口調でクリーオウは言ってから、マグに口をつけた。それほど飲んだようには見えない。飲みたくなかったのだが、一 応 こちらに気を遣 って飲むふりをしたのかもしれない。
と、思い出したように彼女は言ってきた。
「ティッシが行方 不明って?」
「あの髪 の長い女の人のことよね。ここに来る途 中 で、いなくなってしまったのよ。というよりあのダミアンは、あの人は死んだって言ってたわ」
「............」
クリーオウの持っているカップが、目に見えて震 え始める。そのマグの持ち主はといえば顔面を蒼 白 にして、
「ティッシって、オーフェンのお姉さんよ。わたしもお世話になったの。死んだって......そんなのって」
「オーフェンさんは、信じないって言ってたわ。不自然なところがあるって。だから、そんなことを言うダミアンは信じられないってことなんだと思う」
「わたし、やっぱりオーフェンに謝ってくる。ひどいこと言っちゃったような気がするし......」
そうつぶやくと、クリーオウはマグを置いて厨 房 から出ていった。黒魔 術 士 のブーツの音と比 べれば格 段 に軽い少女の足音が遠ざかっていく。
ひとり残ったテーブルで、ロッテーシャは長いため息をついた──なにかが嚙 み合っていない。なにかひとつ進 展 があるたびに、歯車がひとつずつずれていく。だというのに当事者たちはそれに気づいていない。
(それに気がつくわたしは、当事者じゃないってことなのかしら......)
そうなのかもしれない。
虚 しい自覚とともに、独 りごちる。
離 れた壁 に立てかけてある魔 剣 ──父の形見の剣を横目で見やって、
(わたしは......あの人たちのしていることとはまったく無関係のことを目的としているんだものね......)
と。
コツンという小さな音が耳に入った。古い屋敷が軋 みを立てたのかとも思ったが、立て続けにもう一度、同じ音が聞こえてくる。
不思議に思って振 り向く。音を立てたのは、厨房にただ一枚 だけある窓 ガラスだった。また、コツンという音。誰 かが外から、窓に向かって小石でも投げつけているらしい。中にいる人間に合図するように。
心 臓 の鼓 動 が速まるのを感じて、ロッテーシャは立ち上がった。壁まで駆 け寄 ると剣を摑 み、それを抱 きかかえる。魔剣の使い方は分かっている──つもりだったが、実 際 にきちんと使えるのかどうか。それは確かめていない。黒魔術士の言葉が脳 裏 に蘇 った。ここは危 険 で、すべては時間の問題なのだ......
合理的ではないと分かりつつも、思い浮 かんだのは空き巣だった。ノッカーを叩 く、なにかしらの合図をする、様々な手段で家に誰もいないことを確 かめてから、おもむろに侵 入 してくる。
(そんなわけないじゃない......こんな場所で)
空き巣ではない。来るとすれば、もっと危険なものだ。
ロッテーシャは剣を構 えた。鞘 は刀身を包んだままだが、もとよりこの剣は引っぱったところで抜 剣 できない。だが少なくとも剣は自分を守ってくれる。危険が迫 ったならば、彼女の身を守ってくれるはずだった。それを信じてさえいれば魔剣は働く。ビードゥー・クリューブスターの魔剣。
合図は続いていた。同じ周期で窓ガラスに小石が当たり続ける。
ロッテーシャは足音を殺して、勝手口に近づいた。もどって、あの黒魔術士に助けを求めたほうがいい──とは思いつつも、プライドがそれを拒 絶 する。それに、なにかがおかしいと感じていた。
勝手口の扉 に手をかける。ノブを回して押 し開けば、外に出られる。窓の位置は近かった。出た瞬 間 に、小石を投げている相手に出くわすはずである。熱い──だが冷えやすい汗 が、うっすらと額 に滲 む。剣を左手に、ノブに触 れた右手に力を入れて、ロッテーシャは外へと飛び出した。
そして。
「............!」
驚 愕 しながらも、瞬時に身構えることができたのは戦 闘 訓練の賜 物 だった。勢 いをつけて飛び出した先には、誰の姿 もない。
(誰もいない......? そんなわけが)
一番近くにある、身を隠 せる木立から、屋敷の勝手口まで──数メートルほどの距 離 がある。窓ガラスに狙 って石を投げるには、さほど難 しいというほどでもないが簡 単 でもない距離だ。ましてやまったく同じ間 隔 で正 確 に当て続けるのは困 難 だろう。だとすれば、合図をよこした主はもっと近くにいたというのに、姿が見えないということになる。
姿が見えない人間などいない。
(ということは......)
意外と冷静でいられる自分に我 ながら感心して、ロッテーシャは視 線 を這 わせた。敵は死角にいる。気 配 を殺して潜 んでいる。
まったくの勘 で、彼女は身体 を反転させた。鞘に収 まったままの切っ先をぐるりと巡 らせて威 嚇 する。
見えたものがあった。虚 空 になにかを記す絵筆のような、長い黒髪。そして全身の黒 装 束 。だがそれははっきりとした姿などではなく、印象にわずかに残った影 に過 ぎなかった。そして、もうひとつの別の人影がある──
「......え?」
息を詰 めて、ロッテーシャは自分でも間が抜 けて聞こえる声をあげた。もうひとつの人影は、動きもせずにそこに立っていた。悠 然 と、じっとこちらを見つめて。
ダミアン・ルーウだった。
「......敵は逃げたよ」
それだけを、ぼそりと告 げてくる。
どうやら彼女と同時にここに現 れたらしい──例の窓ガラスへの合図を、彼もどこかから聞いたのだろう。そして、その合図の主は逃げていった。
ダミアンはしばらく、なにか未練がましくあたりを見回していたが、彼自身もすぐに姿を消した。
またもやその場にひとり残されて、ロッテーシャは剣先を下ろした。目を閉 じて、まだ網 膜 に残っているかもしれない黒い人影の姿を探 る。
だが、思い出すことはできなかった。失望の吐 息 を漏 らして、彼女はまた勝手口から屋敷の中へと入っていった。
◆◇◆◇◆
銃の本体はむしろ弾 丸 なのだ。銃本体は鞘に過ぎない。
そう思えば、この銃は既 に使い物にならないのではないか。オーフェンは分 解 してテーブルの上に並 べた銃の部品を見下ろして嘆 息 した。本体の整 備 にしても、たいしたことができるわけではない。部品の歪 みについては気にすることはなく──誰も撃 っていないのだから──、埃 を落とす程 度 のことでいい。パーツの不足はなかった。空撃ちしてみても機 巧 的 な問題はない。
ただ弾丸となると、話は違った。見えない部分で錆 が浮いているかもしれないし、炸 薬 の不具合はそれこそ見た目では分からない。《塔 》の保 管 状 況 がどういったものだったのか、それも不明だった。もともと練習用の試作品である。何年も整備されずにほったらかしになっていたほどだ。
銃の性 能 の大半は、弾 によって決まる。
精 度 の高い弾丸をどれだけ大量に生産できるか。《塔》の銃 匠 が気にかけていたのはそのことだった。どれほど習 熟 度 の高い使い手でも、真 っ直 ぐに飛ばない弾丸で標的を狙 うことはできない。不発弾は銃の機能を停止させてしまう。もっとひどければ、たった一回の暴 発 で生命を失いかねない。
一番いいのは弾丸をすべて新しいものと替 えることだ。それは分かり切っていた。だがスペアの弾などあるわけがない。結局は、不発するか暴発するか分からない弾を、無事を祈 りながら使うことになる。
銃の組み立ては、急がなくともすぐに終わる。オーフェンはうろ覚えの手順で拳銃を形にすると、最後に弾倉を銃本体に押し込んだ。金 属 がはまる小気味の良い音は、最も信 頼 度 の低いこのパーツが立てる声なのだと思えばいかにも皮肉だった。弾倉にこめられている弾は八発。ともすれば、外気に触 れやすい一発目が一番信頼できないことになる。そしてその一射目が不発ならば、恐 らくもうこの銃を撃つ機会などあるまい。
オーフェンは銃をテーブルの上に置いて、そこから目をそらすように天 井 を仰 いだ。瞬 きすると乾 いた眼 球 に涙 が染 みる。昼食を食べたその食堂には、今は自分以外誰もいない──食器もすべて片 づけられ、花 瓶 に活 けられた花が先ほどよりは生気を失って置き去りになっていた。
その食堂に、人が入ってくる気配があったことには気づいていた。分かっていて作業に集中していたのだが、こちらの手が休まったことできっかけになったのだろう。背 後 から声が聞こえてきた。
「お師 様 ......」
マジクだった。
椅 子 に座 ったまま振 り返ると、オーフェンは入り口でたたずむその弟 子 の姿 を簡 単 に観察した。小 柄 な体 格 は頼 りないといえば頼りない。消 沈 した面 持 ちは、もっとはっきりと頼りない。金 髪 の少年は、こちらの返事を待たずにそのまま言ってきた。
「今、大 丈 夫 ですか?」
「なにがだ?」
「話がしたいんですけど......」
「ああ」
オーフェンはうなずくと、椅子ごと身体の向きを変えた。促 すつもりで問いかける。
「どうしたんだ?」
「お師様は、反対なんですか?」
マジクは入り口から一歩近寄ってくると、両手を広げて聞いてきた。
「その......ぼくが、別の人に習うことに」
「いや。望むなら、フォルテでもティッシでも紹 介 してやるよ。どっちも面 倒 見 のいい連中とは言い難 いが、俺よりはマシな教師だろ」
「でも、お師様は《塔 》には帰れないんでしょ?」
「俺はな。だが執 行 部 がいちいちお前のことなんて覚えてるかよ」
肩 をすくめて告 げてから、オーフェンは嘆 息 した。力尽 きたような心 地 ではあった。
マジクは変わらずじっとこちらの言葉を待っている。たいしたことが言えるわけではなかった。また自分は生徒の期待を裏 切 ることになるわけだ──オーフェンは独 りごちると、自然と肩 が落ちるのを自覚した。ひざに手をついて、自分が辞 儀 をしているような体 勢 になっていると気づく。
視 線 だけを上げて、彼はつぶやいた。
「マジク。これは今まで一度も聞いたことなかったかもな。お前、どんな魔 術 士 になりたいんだ?」
「え?」
戸 惑 ったようなマジクの表 情 を見つめて、オーフェンはあとを続けた。
「いや......半年近く俺のところにいて、どんな魔術士になれると思っていたんだ?」
「ぼくは、よく分かりません」
マジクの答えは、率 直 といえば率直だった。眉 間 に似 合 わないしわを作って、答えてくる。
「ただ一人前になりたかったんです」
「一人前って、どんな奴 を一人前だと思うんだ?」
「役立たずじゃないってことです」
ようやくに躊 躇 をなくして、マジクはすらすらと──急ぎすぎるくらいに──滑 らかにつぶやいてみせた。
「ぼくは、お師様みたいな魔術士になりたかったんです」
「俺は今まで、誰の役にも立ったことなんてねぇよ」
自 嘲 混 じりにつぶやくと、オーフェンは椅子から立ち上がった。腰 を伸 ばして遠くを見やる。視界に窓 がなかったため、見つめたのは壁 だった。真っ白の壁。のっぺりとなにもない、冷たい壁。
自然と、嘆 息 がこぼれた。
「俺も結局、どんな魔術士になりたかったんだろうな......」
「お師様?」
「なあマジク。俺はお前に、魔術の制 御 に関しては問題なくなったといったな?」
「ええ......」
苦 い思い出でも嚙 みしめるように微 かな渋 面 を浮 かべてマジクがうなずく。オーフェンは生徒のほうを向きやると、静かに訊 ねた。
「お前はなにを感じたんだ?」
「ぼくの魔術は役に立たなかったんです。いくらお師様に問題ないって言われても、実 際 にはなんの役にも立たなかったんです」
「お前の才 能 はたいしたもんだ。それは認 める。たった何か月かで、ナチュラルに魔術の制御法を修 得 しちまうってのは希 有 なことなんだ。しかも今もってお前は、最初に見せた魔力の強さを失ってない。手 加 減 することなく自身の最大威 力 を完全に制御するのは、ティッシにもできないようなことなんだ」
「............」
疑 うようにこちらを見ているマジクに、オーフェンは笑いかけた。
「今さら特に誉 めるつもりはねぇよ。俺が言いたいのは、そんなことはお前の天 性 に過 ぎないってことだ。モノにできるのは当たり前だ──できるべくしてできることなんだからな」
「でも」
「まあ聞けよ。俺のようになりたいと言ったな。お前はいったい俺を、どんな魔術士だと思ってそれを言っているんだ?」
オーフェンは聞きながら、マジクの返事を待たずに続けた。
「俺になにがあると思った? 魔術の強さでいえば、フォルテにもティッシにも及 ばない。精 度 では、コルゴンに勝てるかどうか自信はないな。生物的な限 界 をいえば、そうだな、逆 立 ちしたところでレキに勝てるわけはないな。ダミアン・ルーウは大陸でも最も優 れた魔術士のひとりだろう。殴 り合いの技 術 なら、ウィノナだってたいしたもんだ。剣 ならロッテーシャに習うか? さて、俺にはなにがある?」
「でも......」
同じ否 定 を繰 り返して、マジクは口をつぐんだ。迷 っているのか。単に困 惑 しているだけか。
オーフェンはかぶりを振 った。自分になにがあるのか。そんなことは分かるわけがない。ここでマジクになにを言われたところでそれも間 違 っている。
「だけどな......だとしたらティッシにはなにがあるんだ? フォルテには? レキには?ダミアンには? 彼らには余 人 にはない特別な運命だかなんだか、そんななにかがあると本気でそう思うか?」
次々と名前を並 べて──
最後に、彼は最も小さな声 音 でつぶやいた。
「最 接 近 領 の領主に、たとえば大陸の命運を自分勝手に背負うような権 利 があるか?」
「じゃあぼくは、誰に習えばいいんですか......」
「分からないか? 特別なものなんてなにもない ってことに関しては、誰もが同じなんだ。誰もがつまらない個人に過ぎない。希有な才能? 秀 でた能 力 ? そんなものがそれを覆 したりはしないんだ。できることだけをすればいい。力を持つことが魔術士の運命なら、それでできることだけをすればいいんだ」
一息ついてから、続ける。
「だがそれはな、本人が思ってるほど大それたことができるわけではないんだよ。それを勘 違 いした輩 が死に急いでいく。俺はもうそんなものを許 すつもりはない。アーバンラマでな。決めたんだよ。ようやく思い出した。もう決めていたはずだったんだ。犠 牲 となって未 曾 有 の崩 壊 を救う一個人なんてものは、もう二度と許さない......」
思い浮 かんだのは、いくつかの光景だった。
アーバンラマを埋 め尽 くす破 壊 の樹 海 。それと対 峙 するディープ・ドラゴン──いや、ドラゴンの身体 を借りた少女。
荒 野 に突 如 現 れ、無 責 任 なことを言い放って自分だけ戦いを挑 み、姿を消した姉。
世界の亀 裂 から姿をのぞかせる破 滅 の女神。その前で、傷 だらけになって哄 笑 する死の教 師 。世界を正すため、自らの死で贖 って女神を招 き入れようとする。
その逆に、動き出した女神を押しもどすべく結界の穴 へと消える者もいる。
ほかにいくつもの光景が連なった。
そして......
幻 視 で見た光景があった。緑色の髪の女。それと対峙する男の短い会話。男がその女に突き立てようと思っていた銀の短剣は、今はオーフェンが持っていた。鋼 鉄 の鞘 の中で、銘 も持たないまま息を潜 めている。
我 知 らず、拳 を握 っていた。それを開いて身体から力を抜 く。
自分の言っていることは、今はまだマジクには意味不明だろう──それを悲しく認 めながら、オーフェンは口を開いた。
「たったひとりのありふれた一個人として、誰からも等しく学ぶんだ。師 匠 が誰かなんて選 り好みをすることはない。お前はどこまでも半人前なんだよ──俺と同じく、な。学ぶべき相手を見つけたら学べ。それでいい。だがここの領主は駄 目 だ。あいつはきっと、お前がほかから学ぶ道を閉 ざそうとする」
「............」
マジクからの返事はなかった。きょとんとこちらを見つめてきている。そして、
「オーフェン」
呼びかけられたのは食堂の外からだった。入り口を見やると、壁からひょこりと、マジクによく似 た少女が顔を出す。クリーオウは困 ったようにあとを続けてきた。
「あのね──」
「聞いてたのか?」
なんの気なしに、オーフェンは聞き返した。立ち聞きを恥 じたのだろう。クリーオウが気まずそうにうなずいてみせる。
彼女の気後れを解 こうとして、オーフェンは肩をすくめた。告 げる。
「なら、聞いたとおりだ。お前も、いろいろ気がかりなことあるんだろうけどな。ひとりで背 負 い込 むのはやめよう。お互 いに」
見ると、クリーオウは唇 を嚙 んでいた。
それでもそのまま彼は続けた。
「レキのことも気になるんだが当面は手の打ちようがない。が、なんとかするさ。全部俺に任 せろとは言わねぇよ......それじゃ本末転 倒 だしな。俺の力だけでできることなんてたかが知れてる。お前たちにも協力して欲 しいし、俺は俺のできることをする」
「なにをすればいいんですか?」
言ってきたのは、マジクだった。オーフェンは向き直る前にテーブルの上の拳 銃 を手に取った。ホルスターへとねじ込んで、答える。
「お前たちが正気だったのは、正直ほっとしたよ。もっと面倒なことになるんじゃないかと思っていた。ダミアンを警 戒 していて欲しい。あいつの動きが気になるんだ。なにかを隠 している......か、もしくはなにかを隠そうとしている」
「なにかって?」
「なにかさ。分からないが、ダミアンにとっては致 命 的 なもんであることを願うね。ほかに対 抗 手 段 が思いつかない」
視 線 を左右に這 わせたのは、ダミアンの盗 聴 を気にしたからではなかった──ネットワークが使えないというのは嘘 ではないだろうと思える。だがそれでも、白魔 術 士 にとっては姿を見せずに聞き耳を立てる手段はいくらでもあるだろう。警戒するだけ無駄だった。
探 したのは時計だった。壁にかけられた、飾 り気のない箱形の時計。時 刻 は昼を下って、早い夕刻かという時刻を指している。
思いついて、オーフェンはつぶやいた。
「この屋 敷 の中を適 当 に探 って、食べられるものを集めておいてくれるか? なけりゃ一食か二食分くらいでいいから、俺とロッテーシャの分も含 めて」
「え?」
きょとんとした声をあげるクリーオウに、オーフェンは時計を指し示 して続けた。
「ダミアンの様子を見てる限 りじゃ、また使用人のゴーストだかなんだかを用意する余 裕 なんてなさそうだったからな。まああのミスター幽 霊 はともかくとして、俺たちには食事が必要だろ。朝まで動き回らないといけないかもしれないからな」
「朝まで......ですか」
時間を数えているのだろう。上の空のような口調で、マジク。
オーフェンはうなずいた。
「ダミアンの設 定 したリミットが、明日の朝だ。それでなにか状 況 が変わるらしい。少なくともそれまでは、この最 接 近 領 は無 防 備 に近いんだそうだ。奴 を信用しないのなら、その状況の変化とやらにも対 応 できるように余 力 は温 存 したうえで朝まで耐 えないとならないわけだ」
「お師様は、信用しないんですね? ここの......領 主 の人も」
最後の確 認 というように──マジクが聞いてくる。並 んでクリーオウも、確 かめるような眼 差 しを見せていた。
それは奇 妙 な最後通 牒 だった。領主当人に面と向かって問われたわけではない。ここでどう返事しようと、それを覆 すことはできる。
だがそれでも、ここでは本当に最後の意 志 を決めなければならないのだと、なんとはなしにそう思えた。オーフェンは言葉を吐 く前にしばし迷い──告 げた。
「ああ。奴は俺を駒 に仕立てようとした。だが俺は俺だ。俺の役 割 は......たった今決めたよ。さっき言った通りだ」
「わたしも......でも、オーフェンが言ったからじゃないわよ」
なにかに弁 解 するようにそわそわと、だがきっぱりとクリーオウが言ってくる。胸 に手を当てながら、彼女は眉 を立てて意志を強めた。
「ここの領主様がどうかは分からないけど。でもレキに頼 んだことは間 違 ってるって気がする。わたしも間違ってた。わたし、レキを助ける」
鼻息荒 く締 めくくって、金髪を揺 らすほどにかぶりを振ると、気合い入れのつもりか自分のほおを両手ではたいてクリーオウは駆 け出していった。食堂を後にして、気 配 が遠ざかる。厨 房 へと向かったようだった。
「ぼくには、よく分かりません」
マジクの声は、わずかに震 えていた。だがそれも大きな動 揺 ではなかった。なにかに立ち向かうように足を踏 ん張 ってから、あとを続ける。
「お師様の言っていること、すごく自分勝手なようにも聞こえます。だってお師様は実 際 に大きな物事を左右するような力を持った上で、それを言うんですから」
「魔術士が超 人 だと信じるのか? 超人の責 務 を信じるのか? マジク」
「分かりません。分かりません......でも、力を持つことに意味を求めてはいけないんですか?」
少年の淡 い瞳 が潤 んだのは、涙 と感情の色が混 ざったからだった。詰 め寄 ってくるマジクに、オーフェンは手を振って否 定 の仕草を見せた。
「正しいことと間違ったこと。そんなことを判 定 する資 格 は俺にはないよ、マジク。お前が超人の運命を選ぶというのなら、俺は止めない。俺が止めるのは、お前が死に急いだ時......それだけだ」

「お師様」
「餞 としちゃ、たいしたことは言えないけどな。いいか、お前は行く──だが、いつもどってきてもいい。分かったか?」
「......はい」
その弟 子 はうなずくと、くるりと背中を見せて、クリーオウほどには騒 がしくなく立ち去っていった。それを見送るのにそれほどの時間はかからなかった。だがマジクの姿が見えなくなってからもしばらく、オーフェンはその場に立ち尽くしていた。
(俺はあいつを一人前と認 めた......弟子が独 り立ちするのは当然のことだ)
独りごちる。
胸がざわついたが、それは悲しみでも怒 りでも、喜びでもなかった。
安 堵 とも違う。来 るべき時が来ただけというほどに、あの少年が長く弟子でいたというわけではない。
羞 恥 だった──意 識 の底からその言葉をひねり出して、オーフェンは苦 笑 した。紛 れもなく羞恥を感じていた。恐 らく自分は、たった今マジクに聞かされたのと同じことを考えて、五年前に《塔 》を出たのだ。自分だけが、アザリーを救えるただひとりの超人だと信じて。
五年経 ってタフレム市にもどれば、《塔》には自分の帰るべき場所が残っていた。《塔》の仲間が、帰るべき場所を残していてくれた。その場所が残っていなかったら......自分は本当に超人になっていたかもしれない。超人として、なんらかの犠牲になるべく自 暴 自 棄 に死んでいたに違いない。
(だから......今度は俺が、場所を守っていてやらないとな。アザリーやティッシ、コルゴン、レキにマジクもだ。恐らくはほかにも大勢。勇 み足で飛び出していった超人どもが帰ってくる場所を守るために、俺はこの馬 鹿 げたゲームを覆 す)
そしてあるいは、イールギットも。彼女を死なせてしまった──が、それでも彼女には帰るべき場所を用意してやらねばならない。
銀の短 剣 が収 められた鋼 鉄 の鞘 を軽く叩 いて、オーフェンは最後だけ声に出してつぶやいた。
「あんたもな」
(そのために、あんたは俺に力を授けたんだ。そういうことだろう?)
オーフェンは、改めて時計を見やった。話をしている間に時間がどれほど進んだというわけではない。
朝までに、もう一 波 乱 くらいはあるのだろう。覚 悟 を決めて、彼は吐息した。
◆◇◆◇◆
その静かな部屋の中に、領 主 は音もなく現 れた。
なにかの手品ではない──ただ普 通 に、扉 を開けて入室した。ただしノックはしなかった。部屋の中に誰 もいないことは最初から分かっていた。否 、少なくとも、返事をするような者は誰も。
その静かな部屋には、寝 台 がいくつかあった。そのひとつに、大 柄 な女がひとり横たえられていた。腹 部 に包帯だけはしっかりと巻 いてある。だがそれがあまり意味を為 さないことは、患 者 の顔色を見れば一 目 瞭 然 だった。彼女の服は大量の汗 を吸 った痕 跡 として皺 を作っていたが、今は逆 にすっかり乾 いている。彼女は目を閉 じて深い眠 りについている。夢 などない深 淵 の微睡 みに。
領主は、やはり音もなくその寝台の横へと近づいた。仮 にどれだけ大きな靴 音 を立てたとしても、彼女が気づいたはずもないが──それでも領主は、彼女が自分に気づく ことを疑 ってはいなかった。寝 ている彼女の枕 元 へと顔を近づけ、囁 く。
「ウィノナ。我 が騎 士 ......」
呼 びかけられて、彼女のまぶたが震 えるのが見えた。唇 もまた、同じように震える。なにかを求めて蠢 くようにも見えたその唇からは、小さなつぶやきが漏 れ出ただけだった。
「領主......様......」
「誰なのだ?」
間 髪 入れずに、領主は詰 問 した。
喉 になにかが詰まっているのか、ウィノナの声は聞き取りづらい。何度か呼 吸 を引きつらせてから、彼女はもう一度繰 り返した。
「領主様......」
「ウィノナ。聞いているか?」
辛 抱 強く、領主は告げた。
「お前が魔 術 士 ならば──惰 弱 な彼らならば、こんな時には泣き言を言うのだろうな。きっとそうに決まっている。だがお前は違う。騎士なのだ。末 期 に一息だけが許 されているのならば、その一息までも、有 益 な情 報 を伝えなければならない」
「はい......領主......様」
従 順 に答えてくる騎士に、領主は満足してうなずいた。もう促 す必要もない。彼女は答えてくるだろう。必要とする答えを。
彼女は絶 え絶 えに、名前を口にした。
「ユイス......が。わたしを、撃 った......」
「............」
それにはなにも答えずに、領主は起きあがった。感 慨 はない。必ずしも予想していたことではなかったが、まったくの予想外というわけでもない。計画に大きな修正を必要とするようなことでもない。
領主は、無言で振り向いた。
彼が顔を向けた先の暗がりに、ダミアン・ルーウが無 表 情 に控 えていた。
なにを話すでもなく白魔術士が姿 を消す。
アルマゲスト・ベティスリーサは、それを見送っても表情を変えなかった。
ウィノナは日 暮 れまでに死んだ。
その死に顔は安らかだった。なにか、大きな仕事を成し遂 げたように満足していた。
白い布 が用意してあった。誰 かの洒落 か──それとも、そういうものなのか。悪 趣 味 ではあっても慣 習 には逆 らえず、オーフェンはその布をウィノナの顔に被 せた。
彼女は安らかだった。彼女は満足しているように見えた。布をかけたのは、それを隠 したくもあったからだった。
死ねよ、と彼女に告げたのは今朝のことだった。そのために彼女が死んだ、などと呪 詛 めいたことを信じるわけではなかったが、胸 中 にあったのは固く重いわだかまりだった。それは自 責 にも似 ていた。似ているのなら、自責といっても同じかもしれない。
彼女は満足して死んだ。それを否 定 するつもりもない。それでもなお、オーフェンは独 りごちた。
(死んで、なにを満足するっていうんだ......)
その場にとどまったのは、ほんの少しの時間だった。
嘆 息 して、オーフェンは部屋を出ていった。
◆◇◆◇◆
「バターは要 るかな」
「かじって食べられるわけでもないし......でも一 応 取っておく?」
ロッテーシャはそう言うと、クリーオウの差し出してきた丸い包みの塊 を受け取った。形がへこんでいるのは、多少使った跡 だろう。ネズミがかじったのかもしれないが。それは考えないことにした。
再 び棚 の奥 へと突 撃 していくクリーオウを見送りながら、彼女はテーブル上の段 ボール箱に、そのバターの包みを放 り込 んだ。厨 房 にもどってきたクリーオウが、急に食料を集めだしてから小一時間ほどが経 っている。箱はそろそろいっぱいになろうとしていた。乾 燥 肉 、薫 製 から安酒の瓶 まで、整理を考えずに押 し込 んである。
「こっちに缶 詰 があったよ」
声をあげたのは、クリーオウによく似た金 髪 の少年──マジクだった。両手に五個か六個、ラベルのない缶を運んでくる。彼はそれをテーブルの上に転がした。
と、振り返ったクリーオウの顔は不 機 嫌 だった。獲 物 を捕 らえたマジクにむしろ敵 愾 心 を燃 やすように、
「なんであんたがここにいんのよ」
「いるよ。なんでさ」
驚 いたように、マジク。だがクリーオウも退 かなかった。
「あんたは、領 主 様 のほうについたんでしょ。敵じゃない」
「クリーオウも、『様』とか言ってるじゃないか」
「いいのよ命助けてくれたんだから。感 謝 はするのよ」
分かるような分からないようなことを断 言 して、彼女は胸を張 ってみせた。それに比 べれば、マジクには威 勢 が足りていない。缶詰だけを置いて身体 を退くと、
「ていうかクリーオウ、全部立ち聞きしてたの?」
「聞いてたわよ」
堂々と即 答 する彼女に、返す言葉を失ったのかマジクが口をぱくぱくとさせる。
その隙に、クリーオウがまたきつい声を発した。
「なんでこんなとこでいっしょに缶詰あさってるのよ」
「なんでって......いいじゃんか。手伝ったって。それに、別にぼくは敵になろうなんて思ってないし」
「でも、領主様の部下になるんでしょ」
「違 うよ! 別にそういうわけじゃない」
マジクは狼 狽 して、あとを続けた。
「お師 様 とは、ちょっと意見が合わなくなっただけだよ。どっちみち、この状 況 じゃ敵も味方もないじゃないか」
「敵と味方ははっきりしてるわよ。殺し屋が来てるんでしょ」
「領主の人を殺しにね......ほら、敵は誰だか分かんないだろ」
「そういやそうだけど」
ようやく、困 ったようにクリーオウが息を止め──揚 げ足を取られたことに気づいたのだろう。不機嫌顔のまま缶詰を拾い集めて箱の中に詰め込んだ。
ふたりを眺 めながら、ロッテーシャはまったく関係ないことを考えていた。特に気にせずに厨房で食べ物を探 しているのだが......
(これって泥 棒 なんじゃないかしら)
言っても仕方なかろうと思い、口には出さずにつぶやく。
それでも自分にだけは、犯 罪 をしているという自覚と気後れがあるのだ、これが免 罪 符 になるかどうかはしらないが。ロッテーシャは一 杯 になった箱を示 して、ふたりに告 げた。「もうそろそろいいんじゃない? 日持ちのしないものも混 じってるけど、一週間分になりそうな量よ」
「この倍くらい欲 しいのよね」
クリーオウはあっさりと言うと、また棚 の奥 を物色し始めた。誰にともなくマジクが指 摘 するのが聞こえてくる。
「......お師様は、明日の朝くらいまでの分でいいって言ってたけど」
「別にオーフェンに言われたからやってるわけじゃないのよ」
肩 越 しに振り向いたクリーオウの顔には強 ばった皺 が寄 っていた。緊 張 を隠 せずに、声も震えている。
「レキを探しに行かなくちゃならないんだから。あのなんにもない広いとこを探すっていうと何日かかるんだか......」
「何十日探しても無理だよ」
当たり前のことをマジクが告げる。
それが不 手 際 であるとでも言いたげに、クリーオウはさらに渋 面 を作ってみせた。喉 からうめき声を絞 り出す。
「やってみなきゃ分かんないでしょ」
「ねぇ」
たまらずにロッテーシャは、横から口を出した。クリーオウの注意を引いたことを確 かめてから続ける。
「さっき言ってたけど......レキちゃん、領主って人となにか──ええと──取引? なんかそんなのをしたんでしょう? どこに行ったのかは、領主が知っているんじゃないかしら」
「そうだと思うけど、これから裏 切 ろうって相手に話をしにいくのはなんか不義理な感じがするじゃない」
「裏切ろうとしてる時点で不義理だけど......」
また当たり前の指摘をマジクが口にするが、それは幸いクリーオウの耳には入らなかったらしい。
彼女は、もう棚の奥にはめぼしいものはないと見切りをつける気になったのだろう。後ろ手にバタンと音を立てて棚を閉 めると、
「それにもちろん最初にレキのことが話に出た時、何度も聞いたわ。レキはどこに行ったのかって。領主様は、そう遠いところじゃないって言ってたけど、詳 しいことを教えてくれなかった」
「遠くない?」
「うん。場合によってはわたしたちのほんのすぐ近く、じきに姿 を見られるようになるだろうとか......まあなんかそんなようなこと」
「じゃあ、すぐ会えるんじゃない?」
と、またマジク。
クリーオウは聞こえよがしに、長いため息をついてみせた。
「それじゃなんだか間に合わないような気がするから、その前に探しに行きたいって言ってるのよ」
「間に合わないって?」
これを聞いたのはロッテーシャだった。クリーオウは忙 しく向き直りながら、
「取引って、なんか嫌 な響 きでしょ。なにかをもらえるのかもしれないけど......なにかを支 払 えってことだもの。代金がいくらなのかはっきり言わないなんて、詐 欺 よ」
言ってから彼女は、新たな物色場所を見つけて目を輝 かせた。
「ここ、怪 しくない?」
クリーオウが指し示 したのは床 だった。正しくは、床下にあるなにかの蓋 である──くぼみがあって指が引っかけられるようになっている。
「物置の扉 かしら」
ロッテーシャがつぶやくと、あまり興 味 なさそうにマジクも続いてぼやき出した。
「そんなの、食べ物なんて入ってないよ。開かないようになってるじゃないか」
彼が言ったのは、扉の上に食器棚が半分ほど載 っかっていることだった。完全ではないが、確かに扉はふさがっている。棚を動かした跡 が見られないため、その扉も長いこと開けられてはいないようだった。
「非常食とか貯 め込んでるかもしれないじゃない」
と口を尖 らせるクリーオウに、マジクはあくまで懐 疑 的 だった。
「いざって時、取り出せないようなところに?」
「いいから、そっち持って。棚を動かすわよ」
中身が入ったままの重い食器棚を動かすには、それなりの時間がかかった。最後にはロッテーシャも手を貸 して、なんとか蓋の上から障 害 物 を取り除 く。
「開けるわよー」
かなり疲 れていたはずなのだがひとりだけ気力を失わず、クリーオウが扉を開ける。湿 った土と黴 の臭 いが漂 う。ロッテーシャも横からのぞき込んだが、中は真っ暗でなにも見えなかった。それなりに深い。梯 子 かなにかあるかと思いきや、それらしいものはないようである。
「んー?」
なにかを見つけたのか、クリーオウが上半身を地下の入り口に突 っ込む。
そして──
「きゃあっ!」
悲鳴をひとつ残し、クリーオウの姿が消えた。中に引き込まれたように、一 瞬 でいなくなる。入れ替 わりに穴 の中から、けたたましい足音と罵 声 のようなものが響いた。クリーオウの声も混 じっていたようだが。
「............」
しばし、残されたふたりだけで顔を見合わせて。
ロッテーシャは、不意に気づいて叫 んだ。
「クリーオウ!」
穴に駆 け寄 るが、さすがに無 防 備 にのぞき込む気にはならなかった。ずっと抱 えていた魔 剣 を握 り直し──飛び降 りようとしたが、下にどれほどの深さがあるのかそれも分からない。とりあえず入り口の脇 にかがみ込むと、なんとか中を観察しようとした。だが、陽 が暮 れかかった今では窓 からの明かりは期待できない。ガズ灯 の準 備 もなかった。
と、やはり駆け寄ってきていたマジクが声を発する。
「我 は生む......小さき精 霊 !」
魔 術 なのだろう──よくは分からなかったが。彼が大げさにかざした両手の先に白い鬼 火 のような光が灯 る。光の球は迷 うことなく地下の入り口へと下りていった。あまり見やすいとは言えない真っ白の明かりで、内部が照らされる。
下は地下室ではなく、通路になっていた。左右を見るに長い通路のようだったが──既 に人 影 らしいものはない。クリーオウの姿もなかった。
「クリーオウ!」
ロッテーシャは通路に向かって──どちら側に叫べばいいのかは分からなかったが、ともあれ声を張 り上げた。通路の中に声が反 響 し、そして石の壁 に吸 収 され消えていく。通路からは、ひんやりとした冷気が立ち上がってきている。中は濡 れているようだった。
「これ......水道?」
ようやくに、気づく。
厨 房 に扉があることもそれで合点がいった。今は涸 れているようだが、かつて水道として使われていたのだろう。こんな荒 野 に、水を引くべき水 源 があったのかどうか不明だが......屋 敷 が建てられた当時にはあったのかもしれない。
返事はなかった。息を潜 めて、耳をすます。と、微 かに遠くから足音が響いてきていた。ただし、左右に伸 びた通路のどちら側から聞こえてくるのかは判 別 できない。
ロッテーシャは入り口から離 れると、手近な椅 子 を蹴 倒 した。そのまま踏 みつけると、脚 を一本ずつへし折っていく。きょとんとしているマジクに顔を向け、彼女は告 げた。
「あなたは右。わたしは左に。いい?」
「え?」
呑 み込みの悪い少年に、ロッテーシャは苛 立 って吐 息 した──折り取った椅子の脚を四本抱えて、今度は窓にかかっているカーテンを引き剥 がす。窓 際 にかけられていただけで、長らく使われていなかったのだろう。大量の埃 が舞 った。
そのカーテンを、やはり手近にあった包丁で四枚 に切り裂 いて、椅子の脚に巻 き付けていく。あとは油 壺 を探して、彼女はあたりを見回した。
まだ棒 立 ちになっているマジクに、怒 気 を強めて叫 ぶ。
「あなたは右!」
「え?......あ、そうか」
ようやく理 解 して、彼は鬼 火 とともに地下水道に飛び込んでいった。足音が響いて、彼が駆けていったことが分かる。
置いてあったマッチ箱をひったくるようにして、中を確かめる。運良く、中身は半分以上残っていた。一本を取り、油にひたした椅子の脚──即 席 の松 明 をすべて抱えて彼女も地下水道の入り口へと向かう。
鬼火に照らされた少年の後ろ姿 が遠ざかるのが見えた。それとは逆 の方向を向きながら、暗 闇 の中でマッチを擦 る。松明に火が灯 った。
暗闇に向かって、ロッテーシャは駆け出した。火の灯った松明を左手に、残り三本の松明と魔 剣 とを右手に持って。
石の通路を走りながら、ふと疑 問 が胸 に浮 かぶ。
(......わたし、なんで飛び出したのかしら)
迷 いもなく、クリーオウを追うべきだと判 断 して身体 が動いた。
(思いやり? 友達だから? 違う......そんなのじゃない)
自分はそんな人間ではない。もっと重要なことがあり、それ以外の危 険 には近づかないのだと誓 った。昨夜も、クリーオウたちが危険な状 態 にあると知りつつ、殺し屋の待つこの庭園には入っていかなかったではないか。
(わたしはそんなにうぶ じゃない。なにかあるって......そう思ったから?)
理解できなかった。だが、こうすることが自分の利 益 になるのだと直感的に悟 った。だから動いた。
(どういうこと......? 虫の知らせ?)
もしそんな便利なものがあるのなら、もっと早くに発 揮 できても良さそうなものではないか。
皮肉な考えに、ロッテーシャは松明の明かりの中で唇 を嚙 んだ。
そう。たとえば──エドと出会った時に、なにかを悟れていても良さそうなものではないか。
単調な自分の足音が思考を止めた。あとはなにも考えず、彼女は走り続けた。
◆◇◆◇◆
階下に降 りてオーフェンは、邸 内 が不自然に静まり返っていることを悟った。人の気 配 がない。
「......なんだ...‥?」
独 りごちる。不安が胸をよぎった。手近な部屋からのぞき、そして順番に厨 房 へと踏み入れて足を止める。
中には誰 もいなかった。集める途 中 なのか、集め終わったのか──テーブルの上に大量の食 糧 が積んである。内部の変化はすぐに分かった。食器棚 が不自然な位置まで移 動 させられ、床 下 に通路のようなものが開いている。
と──
「どうかしたかね?」
まるっきり前 触 れもなく、背 後 の戸口から現 れたのはこの館 の主だった。
どこにいようと、そこにいるのが当然といった余 裕 ある態 度 で、入り口から泰 然 と部屋の中を眺 めている。
「その通路か」
こちらがなにも言わないうちに、領 主 は床の通路に気づいたようだった。続けて言ってくる。
「かつてフェンリルの森が奥 地 へと衰 退 する前......まだ水 源 が近かった頃 は、その水道が使われていた。昔の話だよ」
「それがなんで開いてるんだ」
「誰かが開けたからではないかな?」
領主の涼 しげな返答は、こちらの感 情 を逆 撫 でした。オーフェンは開けられた蓋 を軽くつま先で小 突 くと、
「誰が開けたんだ」
「鍵 がかかっていたわけではない。開けようと思えば、誰にでも。ただ、下から開けたなら相当の力自 慢 だろうね......その棚は何年も動かしていなかったはずだ」
横にずらされた食器棚を見やって、オーフェンはつぶやいた。意味が分からない。
「じゃあ、クリーオウたちが開けたのか」
「この部屋を片 端 からひっくり返してくれていたようだからね。その扉が目についてもおかしくない」
「ならどうしてクリーオウたちの姿 がない」
訊 ねながらオーフェンは、腕 組 みした。領主に視 線 をやりながら、警 戒 して言葉を待つ。こちらを拘 束 するためにクリーオウらを連れ去る手口は、既 に見せられたばかりだった。同じことを二度やらないという保 証 もない。
領主はやや上を見上げて、考えるふうを装 ってみせた──いや、実 際 に考え込 んだのかもしれないが。それにしては空々しい口調で言ってくる。名 案 を思いついたというように指を立て、子供っぽい仕草で、
「こういうのはどうかね? この通路は無 防 備 だ。だから侵 入 者 はここから屋 敷 に入り込もうとしたのだよ。そこをちょうど、たまたま好 奇 心 からここを開けたあの娘 たちとはち合わせた......」
「たまたま? どんな偶 然 なんだそれは。それに、クリーオウたちが姿を消した理由になってない」
「侵入者に手 傷 を負わせて、それで追いかけていったとか......?」
「あいつらが誰を傷つけるって?」
いちいち的外れなことを言ってくる領主に苛 立 って、オーフェンは鼻で笑った。そのまま続ける。
「ウィノナを殺 ったような敵 を相手にか? ああ、言っておくがウィノナは死んだぞ。ついさっきだ。ダミアンが蘇 生 を渋 ったことは知ってるんだろうな? 領主様としては」
険 悪 に告 げるのだが、領主は肩 をすくめてみせただけだった。
言ってくる。
「彼女は優 秀 な部下だった。これでも君は、まだわたしがなにも失っていないと言いたいか?」
と──間を置いて、領主は付け足した。
「それとも、まず盗 み聞きを詫 びたほうが良いか?」
「あんたの屋敷だからな。聞きたいことを聞いてればいい」
皮肉で返すと、オーフェンは続けた。疑 問 に浮 かんだことをそのまま。
「随 分 と落ち着いているな。襲 撃 者 が狙 ってるのはあんたの命だろう」
「身の危 険 を感じるから、君のところに来た。君とともにいるのが最も安全だろう」
「俺はあんたを守るつもりなんてない」
きっぱりと告げる。
領 主 はしかし、確 信 を揺 るがすことなく笑 みを浮 かべてみせた。同じ部屋に入ってくると、優 雅 な手つきで己 を示 し、つぶやく。
「だが見殺しにはすまい? それに......襲撃者の動きはなんとも奇 妙 だ」
「そんなことは、さっきからそう言ってる」
「今だけではないよ。昼からずっとだ。わたしを狙う隙 はいくらでもあったというのに、襲撃者は何時間も無 駄 な行動を繰 り返している。わたしはね、心当たりがあって言っているのだよ」
見ていると領主は躊 躇 なく近づいてきた。自然と道を開けることが正しいと思えて──我 知らず、オーフェンは場所を開けて相手を通していた。地下通路の横で身を乗り出すようにしてのぞき込み、領主がようやく言葉を継 ぐ。
「襲撃者は、ここで機会を待っていたのだ。自分の望む機をね。本当は、頃 合 いを見て自分から屋敷に入ってくるつもりだったのだろう。襲撃者は忍 耐 を知っている人物だ......」
「短時間でウィノナを殺害できるような奴 でもある」
「ふむ。それもそうだ。さらに襲撃者の狙いは、どうやらわたしの命ではないようだな。では彼の目的とはなんなのか」
「今、彼と言ったか?」
聞き咎 めて、オーフェンは聞き返した。領主はまたもや腕組みのポーズで肩 を上げ下げして、
「東部の流 儀 を詫 びろと言うのかね? 男 尊 女 卑 だと?」
「いや......」
「指 摘 は正しいよ。わたしは彼と言った。おおよその見当がついているのでね」
(見当?)
落ち着いた領主の目を見返して、オーフェンはつぶやいた。見当ではない──直感する。領主は襲撃者を知っていて隠 している。
「なら、その見当とやらだけを言えばいい。時間の無 駄 だ」
オーフェンが釘 を刺 すと、彼はもっともらしくうなずいてみせた。
だが結局それで態 度 を変えるわけでもないらしい。そのことは予想していた。恐 らくは、完全な味方にならない限りは簡 単 になんでも教えてはくれないということなのだろう。領主は変わらずに、もったいつけて続けてきた。
「彼はなにかを誘 導 しようとしているのではないか? 誰かひとりだけを誘 き出したいように見受けられる。思うに彼はこの屋敷にいる誰かひとりに用事があるのだが、ほかの誰かには顔を合わせたくないのだ......そこで君に、今こそ取引を申し出たい」
領主はそう言うと、突 然 に向き直ってきた。礼儀正しく控 えめにこちらを見つめて、
「侵入者を撃 退 してもらいたい。できれば抹 殺 して欲 しい」
「断 るつもりだが、一 応 はその取引の代 償 とやらを聞いてみようか?」
「君の望む情 報 すべてだ。君がわたしを助けてくれる限り、わたしとダミアンから無 制 限 に情報を得られる。その中には君の姉の行方 も含 まれている。天 魔 の魔女のね」
「つまりは、コルゴンと同じ立場になるってことか」
つぶやいた声は、自分でも意外なほどしわがれていた。それほど意 識 したつもりもなかったが、顔に出た嫌 悪 感 も隠 せはしなかったろう──覚 悟 を固めてオーフェンは、険 しく続けた。
「ドッペル・イクスと敵 対 しろと?」
「その代わりに君はダミアンの助力の下、ネットワークを扱 う力すら得る」
「同時に、監 視 下 に置かれる」
「それは考えすぎだ。ダミアンとて一個人に過 ぎない。実 際 、我 々 はユイスの行動をすべて把 握 できていたわけではないのだよ。そして現 在 も把握できていない」
領主は弁 解 してみせたが──その言葉に真実の一 片 が含 まれていたとしても、オーフェンは信じる気になれなかった。
一 掃 するように、手を横に振 って拒 絶 する。
「断る。それで話が終わりならどけ。クリーオウたちが本当にここから出ていったのなら追いかける。時間を無駄にしたくない」
「右に行くべきか左に行くべきか、それすら分からないではないか? わたしの合 力 を得たほうが合理的だと思うがね」
「最悪のタイミングに自分の足音を摑 ませる隙 を敵に与 えるってのは、あまり合理的ではないね」
素っ気なく告 げてオーフェンは、領主をわきに退 かせるべく、相手の胸を軽く突き押した。
さほど抵 抗 もなく横に移 動 した領主の前を通り過ぎ、地下通路に向かって飛び降りようと身を屈 めてから──不意に、オーフェンはつぶやいた。
「......あんた、話すことがいちいちダミアンに似ているな」
領 主 はなにも答えてはこなかった。横目で見つめる間、ただすまして笑ってみせるだけでなにもない。
(なにもない男だ......なんてことない。こんなのが、コルゴンやウィノナを従 えるような領主なのか......?)
怪 訝 に思いながら、オーフェンは彼から視線をそらした。飛び降りようとした時、領主が一言だけつぶやくのが耳に入る。
「クリーオウ・エバーラスティンを追うのなら、向かって右方向だ」
「............」
返事はせずにオーフェンは飛び降りた。冷たい石の床 に靴 底 が触 れた瞬 間 、ひざで衝 撃 を逃がす。それなりの深さがあった。見上げた入り口が小さくなるというほどでもないが。それでも暗がりの中で、苦笑しても気づかれまいと、オーフェンはかぶりを振った。
なにもない男。
(いや......)
結局は自分とて、こうして相手の申し出を拒絶しながら都 合 良く使われているではないか?
その男の情報を信じる気になったわけではない。だがそれでもオーフェンは呪 文 を唱えて光球を造 り出しながら、右のほうへと走り出していた。
領主を信じたのではない。領主が自分を利用するのなら、ここでは真実を言うに違 いないと判 断 したからだった。
◆◇◆◇◆
通路の空気が乾 いてきたのは、出口が近いからではないか。
ロッテーシャは二本目の松 明 から三本目へと火を移 しながら、そう感じていた。かなりの時間を、この目印もなにもない涸 れた水道を進むことに費 やしている。時間だけではない。体力もだった。よどんだ空気の中をずっと走ってきたため、肺 の中に呼 吸 の泥 が溜 まったような感覚を覚えている。
べっとりと髪 を濡 らす汗 を手の甲 で拭 って、ロッテーシャは嘆 息 した。
(......こっちは外れだったのかしら)
考えてみれば、誰かがクリーオウをさらっていったとして──人をひとり担 いで逃 げているということになる。これだけ走って追いつけないというのも妙 な話ではあった。
(引き返す?)
松明を半分使った。ここで引き返さなければ、暗 闇 の中に取り残されることになりかねない。
(それとも、このまま進んで地上に出たほうが近い?)
迷 って彼女は、来た道と行く手を見 比 べた。どちらにもそれと分かる兆 候 などない。ここが水道であれば、水 源 だった場所に出るはずだった──あるいは排 水 口 へ。ここまで来た以上、それがそう遠いところにあるとも思えない。どうせ帰るのならば、松明の残りを気にしながら来た道をもどるよりも、月明かりのある地上を帰ったほうが安全だろう。
と、はたと気づいた。
(悩 んでる......さっきはなにも考えずに即 決 したのに。やっぱりあれはただの錯 覚 ......なのよね)
その考えは気持ちを落ち着かせた。暗闇のプレッシャーは相変わらず感じるものの、それもまた安 堵 とともに受け入れる。
(そうね......わたしは変なところなんかない)
走る体力は残っていなかった。息をついて、歩いて進む。
やがて──行く手に、光が見えた。
大きな光明ではない。松明がもう少し明るければ気づかなかっただろう。斜 めに射 す空の明かりだった。月明かりに向かって、ロッテーシャは足を速めた。
(出た......)
通路はそのまま出口につながっていた。外に出ると、すっかり夜になっている。どうやら水源のほうだったらしい──涸 れかかってはいるが小さな泉が、泥だまりとなって残っている。荒 野 の小さな水源だった。はっきりした位置は分からないが、昨日さんざん歩き回った荒野のどこかだろう。
周囲をもっと観察しようと、彼女は松明を掲 げた。刹 那 。
ぱん、となにかが弾 けるような音。同時に左手で高く差し上げた松明に強い衝 撃 が走り、手の中から吹 き飛んでいった。火は消えなかったが、遠くの地面に落ちて光の範 囲 が縮 まる。
「............⁉ 」
なにかが起きたことは確かだった。立て続けに同じ、ぱん、ぱんという破 裂 音が聞こえてくる。自分に今なにが起こっているのか、分かりそうで分からなかった。ただ激 しい焦 燥 を覚える。どこかに逃げなければならない。
(どこに......?)
背 後 の地下通路。そこが一番近い。
ロッテーシャは身を翻 すと、通路に駆 けもどった。松明はもう一本ある。マッチもあるので点 けることはできる。が。それに手をつけて光を灯 せば、自分の姿 もその明かりにさらすこととなる。
彼女は目を凝 らして、月明かりに視 界 の明度を合わせようとした。通路からはそれほど広い範囲が見 渡 せるわけではない。出口から少し離れた場所にある泥の沼。もともとは泉だったのだろう。そこを中心として、あたりは広い窪 地 となっている。地形は複 雑 で、大きな岩場なども複数積み重なっていた。人が隠 れられそうな場所ならばいくらでもある。(今のは、拳 銃 ? 松明を狙 って撃 った?)
もう銃声は聞こえてこない。襲撃者はこのあたりのどこかに身を潜 めて、自分を撃った。ただの威 嚇 かもしれない──この距 離 で拳銃の弾 が当たるわけがない。
いや。
アーバンラマで見たものを思い出す。拳銃を構 えたエド。何メートルも離 れた位置から、正 確 に彼女の足 下 に銃弾を撃ち込んでみせた。
「エド⁉ 」
叫 ぶ。声は窪地に反響して繰り返された。だが、返事はない。
(松明を撃った......んじゃない。そのあとも撃ってた。わたしを撃って、たまたま松明に当たっただけ......)
歯がみして彼女は、魔 剣 の柄 を握 りしめた。
「エド......」
呪 うつもりでうめく。剣の金 属 に触 れている指が震 える。今自分はひとり──そして恐 らく、エドもひとり。魔剣が使える。邪 魔 も入らない。
(絶 好 のチャンス。紛 れもない好機)
悦 びが胸 を占 めた。それを、焦 りと怒 りと恐 怖 と、次々と湧 き出す感情が少しすつ押 しのけて心を平 常 にもどしていく。
飛び出せば撃たれるだろう。それは分かっていた。が、剣を構えたままロッテーシャは足を伸 ばした。
月明かりを浴びに、躍 り出る。
すぐに銃声が響く。ロッテーシャは落ち着いていた。落ち着いた自分を自覚していた。
魔剣に命令を送る必要はない。ただ、自分がこの剣を使用しているという自覚がありさえすればいい。剣は既 に働いているのだから──それさえ勘 違 いしていなければ、剣は作用する。
ざぁっ......と、虫の羽音にも似た響きが広がっていく。剣の刀身が白く輝 き、抜 き放たれた。耳 障 りな羽音が周囲を包み込む。それを貫 くように、また銃声。そして同時に硬 い物が柔 らかい物にぶつかって弾 ける、独特の衝 突 音 が生じた。
なにもないと思える空間で、その音が弾けた。弾丸が、そこで結界に当たったのだろう。ロッテーシャは即 座 に、その位置を把 握 した。それも剣の作用なのか──見当違いの勘なのか。分からなかったが、彼女は目算して自分の場所と弾丸が跳 ね返された位置から、敵 の潜 む場所を推 測 した。向き直り、吠 える。
「エドぉ!」
剣が完全な機 能 を発 揮 したことに気を強くして、ロッテーシャは続けた。
「出てきなさい──逃げたって無 駄 。この剣の射 程 は」
「約五十メートル。確かに逃げられない」
あっさりと言って、岩場の陰 から長身の人 影 が姿を現 す。陰 気 な黒 装 束 の奥 から冷たい眼 差 しを放ちながら。それは夜そのものをまとっているように凍 え、すさみ、枯 れた殺人者の姿だった。手には拳銃。弾倉を入れ替 えながら、進み出てくる。だがその武 器 が無 効 であることを悟 ってか、構え直しはしなかった。右 腕 といっしょに、だらしなく横に垂 らしている。
黒いマントの色が髪と溶 け合い、それを含 めた一個の生物のように息づいて見える。ロッテーシャは膨 張 した意気が、多少ならずしぼむのを感じていた。暗い視界の中で、白い切っ先はその男の胸 を狙っている。尖 った先 端 がぴったりと胸の中心を目指していた。距 離 は五メートルほどか、もう少し遠い。
自分の持っている武器、そして相手の武器を考えれば、有利な距離だった。
その間合いで対 峙 して、ロッテーシャはその男にとどかない息を吐 きかけた──
「エド......」
「虫の紋 章 の剣。銘 の由来は、その機能から来ている」
淡 々 と、なにかを読み上げるように彼は言ってきた。
「その刃 こそが、その剣の鞘 だ──そして鞘が刀身なのさ。剣は常に機能している。鞘は人間の目には捉 えられないほど極 小 の〝虫〟の集合体で、機能状態では分離して使用者の周囲に展 開 している。刀身は、それを操 る中 枢 の役 割 を持っている。虫は相 互 に干 渉 して特 殊 な力場を線状に発生する。ふたつの虫が一本の力場を、みっつの虫が三本の力場を。よっつなら六本。いつつなら十本......ちなみに、その鞘が実 際 に何体の虫に分離しているのかについて知る者はいないようだ」
感 情 を交えずそんなことを語っている敵をにらみ据 えて、ロッテーシャは一歩踏 みだそうとした──こちらが近 寄 れば、エドもそんなのんきな口上を述べてはいられまい。そう信じて、動こうと......

だが、足は動かなかった。見えないなにかが警 告 を発していた。いま近づけば負ける。
(なんで......圧 倒 的 に有利よ)
だが負ける。予感は揺 るがなかった。
呼 吸 の速度が、汗 の噴 き出る量が増 えた──彼女は視 界 の中心で微 動 だにしないエドの姿から目を離すこともできず、ただ相手の言葉を聞くしかなかった。
エドは変わらずに続ける。
「虫たちが互 いに近い位置にいるほど、力場も強くなる。中央に位置する使用者は刀身によって守られるので、たとえ魔 術 を跳ね返すほどに強まった力場の中にいても動くことができる。また、おおざっぱにだが力場を自 在 に働 かすことも可 能 だ。前述したがその場合の効 果 範 囲 は数十メートルから百メートル以下」
と──
そこで区切って、エドはつぶやいてきた。
「その剣は、ただそれだけのものだ」
「あなたはそれに負けるのよ」
嘲 笑 って、ロッテーシャは告 げた。動けなかった手足が、わずかにだが動かせるようになる。震 えながらであっても、固まっているよりはましだった。
声を出せば出すほど動けるようになる──そう感じて、彼女は続けた。
「馬 鹿 げたことをしてたわね。あなたの接 近 領 だかなんだかは、みんな死んで滅 茶 苦茶になっちゃったわよ。今さら帰ってきて、領主に会おうとしてたのね? でもわたしに見られたくはなかったんでしょう。昼から、人を誘 き出すようなことばかりして」
「勝ち誇 った半 可 通 になにを言っても無 駄 かもしれないが、お前は勘違いしている。事実を把 握 してもいない」
「把握してるわ。わたしはここであなたに勝つのよ」
もうひざが笑うこともない。彼女は意を決して、間合いを詰 めようと踏 みだしかけた。今度は、動ける──
エドの、冷たい一言さえなければ。
「俺はお前に会いに来たんだ」
◆◇◆◇◆
「──だからつまり、このマスマ──」
「──んでなのよっ!」
前方から聞こえてきた会話の声に、オーフェンはほおを引きつらせた。まだそれなりに距離があるらしく、また反 響 が激 しいためはっきりとは聞こえない。だが、その声と響 きとに聞き覚えがある。
(どう言えばいいのか......)
誰に告げるわけでもない。
自分自身に説明するような心 地 で、オーフェンは絶 望 的 なつぶやきを発した。
(あれは......どんな時でもハズレだ......ハズレの声だ......)
その時点で、走るのはやめにした。速度を一定に保 って歩き出す。頭を抱 えて、走るためにかなり先行させていた鬼 火 を手元にひきもどした。
「だいたいなんでこんなことになるのよ!」
もう一度聞こえてきた声──悲鳴じみた甲 高 い叫 び声。これはクリーオウのものだった。
そして、
「仕方なかろうがというか、俺 様 にはなにひとつとして落ち度などないぞ!」
こちらの声は、さらに馴 染 みの深いものだった。ここ最近は聞いていなかったが。
「というわけでマスマテュリアの闘 犬 、このボルカノ・ボルカンはきっぱり無 罪 ! 辻 強 盗 くらい無罪! 墓 荒 らしと同じくらい無罪!」
「意味分かんないよ兄さん......」
「であるからして超 銀 河 無罪王者である俺様に罪 を被 せようとした貴 様 は即 刻 、親類の結 婚 式に出るため三日間も走ったあげくもどってきてノコギリ引きの刑 ! 承 知 したならとっととパンダ模 様 に塗 り殺されるがよかろ──」
そこで声が途 切 れたのは、殴 られたのだろう。
「あれ? なんか光が......ほら」
気がついたように、クリーオウの声がそうつぶやくのが聞こえた。こちらの明かりを見つけたらしい。向こうからも、走り寄 る足音が響いてくる。
「オーフェン!」
叫 びながら、金 髪 の少女が明かりの範 囲 に飛び込んだ。理由は分からないが、背 中 にマジクをおぶっている。マジクは完全に気 絶 しているらしく、クリーオウの肩 に顔を突 っ伏 してぐったりと動かなかった。
ついでに──
「おおっ! 貴 様 は誰だっ⁉ 」
続いて近づいてきて、叫んだのは剣を持った地 人 だった。どう答えてよいものか迷 っているうちに、その地人──ボルカンは後ろを振り返って、あとからついてきたもうひとりの地人に誇らしげな様子でつぶやいた。
「どうだドーチン。いつかやろうと思っていたのだが兄は今達成した。奴 を忘 れてやってみたぞ」
「まあ、今まで一方的に忘れられまくってたしね」
「えーと......」
オーフェンはとりあえず、クリーオウに向き直った。聞く。
「なんなんだ?」
「なんだって......オーフェンこそ、なにしに来たの?」
あっさりと聞いてくる彼女に、自分がとんでもなく馬 鹿 げたことをしでかしたような心持ちでオーフェンは答えた。
「いや、お前らの姿 がないから探 しに......」
「あ、ホント? ここにいるけど」
「見れば分かる」
「こっち、行き止まりよ。鉄 格 子 になってるの」
背 後 を示 して──つまり行こうとしていた先を示して、クリーオウが言ってくる。指をさして、背負っているマジクの位置がずれたのだろう。それを直しながら、
「ひどい目にあったわ」
ぶつくさとこぼす。
とりあえずは、もうもどっても良いということだろう──オーフェンはそう判 断 して、きびすを返した。一 応 、クリーオウを先に通してやってから彼は訊 ねた。
「で、なにがあったんだ?」
「台所でさ、食べ物探してたのよ。で、床 に扉 があって」
「ああ」
そこまでは見当がついていた。オーフェンはうなずくと、クリーオウが説明を続けるのを待った。彼女はこともなげに続けてくる。
「なにかあるかもって思って開けたのよ。ロッテとマジクも乗り気だったし。で、中が真っ暗だからのぞき込んだんだけど......」
と、ここで初めてクリーオウは怪 訝 な顔を見せた。
おぼつかない暗唱のように途切れ途切れで、つぶやく。
「そしたら......下からなにかに摑 まれて、それで引きずり落とされて......なんだか分からないけど多分殴られたんだと思う。気を失って......それで気がついたら、このふたりがわたしのこと担 いで走っていて」
クリーオウがそこで口ごもったせいで、自分に話が振られたと思ったのだろう。ボルカンが声をあげた。
「うむ。全力疾 走 だった。なにしろ俺様は夜目が利 くからな」
「......そうなのか?」
聞き返す。答えてきたのはドーチンだった。
「いいえ。でもなんか『お前たち種族は夜目が利くんだったな?』とか適 当 なこと言われて兄さんがその気になっちゃって。本当は見えないのに見えるような気がしたってだけでここまで走ってきたんだからすごいと思いませんか?」
「いや、よく分からんが......」
困 り果ててオーフェンがうめいていると、クリーオウが言ってきた。
「おかげで、鉄格子にどかーん、て。激 突 。しばらく気を失ってたみたいなんだけど」
「......マジクもか?」
「あとから追いかけてきて、やっぱり同じ鉄格子にぶつかったみたい。わたし踏んづけられたんだわ、ほらここに足形ついてるし。マジクが気 絶 しちゃったから、マジクが持ってきた明かりも消えちゃったみたいで」
「そーか」
最後まで聞いても、やはりどうでもいいことだった顛 末 を聞き終えて、オーフェンはこめかみを押 さえた。領 主 にさんざん脅 されたあげくが、こんなことだったらしい。
と──
はたと気づいて、オーフェンは顔を上げた。
「下から引きずり落とされた?」
つぶやきながら、天 井 を見やる。魔 術 の明かりが天井すれすれを漂 っていた。通路の高さは、あの入り口からずっと変わっていない。
向き直って、地人たちを眺 める。どう目測しても足りなかった 。
クリーオウも、同じことを思っていたようだった。眉 間 にしわを寄せて、不思議そうに言ってくる。
「そうよね。わたし、なにに摑まれたんだろ」
地人たちの背 では、どうやったところで天井までとどかない。と、ドーチンが簡 単 に声をあげた。
「あ、それはですね──」
「......ちょっと待て」
もうひとつ疑 問 が浮 かんで、オーフェンは遮 った。当たり前すぎて、思いつけなかった疑問点。ますますわけが分からなくなって混 乱 した声をあげる。
「......お前たち、なんでこんなところにいるんだ⁉ 」
「ですから」
ドーチンは説明を始めた。
すべてを聞いて──オーフェンは罵 声 をあげると、地下水路を全速力で走り出した。
◆◇◆◇◆
にらみ合いを続けて、どれくらいが経 ったのか。
感覚はとうの昔に曖 昧 なものとなっていた。見つめている相手の影 が形を変えていることに気づいて、月の位置が変わったのだと悟 る。だがそれも錯 覚 だったのかもしれない。エドが体 勢 を変えただけということもあり得た。体勢を変えるということは、次の瞬 間 には攻 撃 に移 るに違 いない......
(落ち着いて)
自分に言い聞かせてロッテーシャは、不安から生じる疑念を振 り払 おうと努めた。
(そんな時間は経ってない。息を止めていた......息をしていなかった。何分もそうしていられたわけがない。きっとまだ一分も経ってない......)
少なくとも黙 したままの対 峙 は、その程 度 の経 過 でしかない。そのはずである。
沈 黙 を破 ったのはエドだった。
「ビードゥー・クリューブスター......は分かるな?」
「父の名よ。分からないわけがないでしょう」
馬 鹿 にされているのかと思い、辛 辣 な口調で答える。
が、彼は、しごく真 面 目 にあとを続けた。
「彼の正体については?」
「正体?」
伝説の剣 士 ビードゥー・クリューブスター。彼女の父。正体もなにも、それがすべてだった。病 に倒 れ、死んだ......
それを口に出して言ったわけではなかった。だがエドには聞こえたらしい。ゆっくりとかぶりを振 ると。
「ビードゥー・クリューブスターの魔剣。彼はそれをどこから持ち出した? 考えたことはなかったか? 天人種族の鍛 えた魔剣だ。そこいらに転がっているものではない」
と、彼は自分で問いかけて自分で答えた。
「聖 域 だ。彼は聖域から来た男だった──俺たちは当然、彼がドッペル・イクスだと警 戒 して接 触 した。領 主 が選んだ刺 客 が俺だった。だが、結 論 を言えば彼はドッペル・イクスではなかった」
「どういうこと?」
聞き返して、緊 張 が崩 れた。彼の言っていることがさっぱり分からない。
エドはしばし言葉を止めた。そして、言い直してきた。
「ビードゥー・クリューブスターは、ドラゴン種族の聖域で生まれた。そして外界に出てきたんだ」
「............」
嘘 だということも考えた。
混 乱 した頭で、ロッテーシャは眼 前 にいる男が自分に嘘をついて攪 乱 しようとする可 能 性 について考えていた。状 況 は、彼女に有利なはずだ。だからそれを逆 転 するために、エドが破 れかぶれの嘘を言っていたとしてもおかしくはない。
「変よ!」
彼女は声を張 り上げた。
「父さんは......わたしには、そんなことまったく──」
だがエドは、まるで聞いていないように先を続けた。
「彼は逃 亡 者 だった。ひとりの子 供 を連れて聖域から逃 げ出してきた。いや......それは正 確 ではないな。彼は死ぬ前に語ってくれたよ。ビードゥーは、本当はその子供から逃げ出そうとしたんだ」
「え?」
「だが彼はその子供から逃げられなかった。殺そうとしたこともあったらしい。だが殺せなかった。今 際 の際 に彼は断 言 してくれた。それは愛 情 ではなく、別の力だと」
むかつきが、生ぬるい体温を圧 して広がるのをロッテーシャは感じていた。話を聞けば聞くほど、体温が上がっていく。熱い感 情 は肌 にまで噴 出 すると、汗 となって肌寒さを残した。
熱いのか凍 えているのか分からない。
「なにを言って......」
ロッテーシャの問いかけを、やはりエドは黙 殺 した。先ほど、剣のことを話していたのと同じ冷 淡 な調子で、続ける。
「その子供は彼を支 配 して、自分を保 護 させたんだ。彼は子供に逆 らえなかった。数年して彼は発 狂 し、死んだ。彼はそれを魔剣の呪 縛 ではないかと──」
「なにを言ってるの!」
「彼が死んで、その子供は次の庇 護 者 を求めたはずだ。だが俺は逃げおおせた。その子供の力がなんなのか、俺は離れて確 かめた。単にビードゥーが狂 っていただけかもしれない。なんの変 哲 もない娘 を恐 れるほどに、目前の死が衝 撃 的 だったのかもしれない」
「............」
彼がなにを言っているのか、もはや聞き返すまでもなかった。話の内 容 はさっぱり分からないままだったが、ロッテーシャは彼が発する次の単語までも予 測 できるような心 地 でそれを聞き続けた。
「ドッペル・イクスであることを疑 われたビードゥーが死んで、とりあえず俺の仕事は終わっていた。彼の連れていた娘のことは領主にも報 告 しなかった。最接近領の連中にも伏 せておいた。あとになってビードゥー・クリューブスターに娘がいたと知った連中は大いに憤 慨 したがね。ましてや、俺がそれと婚 姻 関係まで結んでいたとなれば。おかげで俺は聖域の内 偵 だろうと疑われた。まあ、それはいい」
エドは、鷹 揚 に手を伏 せて続けた。
「秘 密 にしたまま調べ尽 くした......その娘の存 在 は、なんなのか。だがたいしたことは分からなかった。娘自身が無自覚だったのは明白だ。《牙 の塔 》で、俺はとうとう師 に訊 ねたよ。彼はこう言った。それは自分の知っている、ある存在に似 ているところがあると。俺自身も、それをよく知ってるはずだと」
彼の右目が、暗い輝 きを発していた。そこには感情もなく、死の事実を伝える死神の落ち窪 んだ眼 窩 であったとしても違 和 感 はない。
喉 の奥 ではなく、その虚 ろな眼球から──彼の声は聞こえてきた。
「その娘は最接近領の領主 だと、彼は言ったんだ」
「あなたこそ狂ったの?」
ロッテーシャは吐 き捨 てた。
エドが、軽くうなずいてみせる──だが肯 定 したわけではないようだった。
「狂っていたのは俺の師だ。俺はそう思った──溺 愛 していた教え子たちが離 散 して精 神 がいかれたに違 いないとな。とりあえず俺はビードゥーの遺 言 通り、魔 剣 を疑うことにした。ドッペル・イクスを狩 って情 報 を得た。その剣は天人種族が護身用に鍛 えた品に過 ぎないと。だが、あの連中の造 った代 物 がくだらない副作用を起こすというのはよくあることだ。成り行きの中で魔剣を手に入れようとして、俺はその娘を殺した」
と、そこで初めてエドの瞳 に人らしい心の動きがのぞいたように見えた。彼は腑 に落ちない疑 問 符 をその目に浮 かべて、そして続けた。
「実は俺にもこれがよく分からない。殺す必要などどこにもなかった。だが、気がついたら彼女は剣の下に倒 れていた......」
「分からないですって⁉ 」
激 昂 は、簡 単 にとは言えないもののプレッシャーをはね除 けた──ロッテーシャは叫 ぶと、眼前の男に斬 りかかった。エドが、その一刀を飛び退 いてかわす。
二度、三度と太 刀 筋 を変えて空 を切 断 する。だがそれすらも、エドは簡単にかわしてみせた。刀身ではなく、周囲に展開しているはずの剣の結界を使って攻撃すれば良いのだと気づいたのは、その後だった。
だが、それを実行するより先にエドは口を開いた。その言葉が、攻撃を止めさせた。
「それで気がついた。俺もあの時、その娘に支 配 されていたんだ。ビードゥーと同じように」
彼の言っていることは相変わらず支 離 滅 裂 だったが、これはその最たるものだった。冷えかかった頭に、再 び血を昇 らせてロッテーシャは叫んだ。
「わたしがあなたを思い通りにして、そしてわたしを殺させたっていうの⁉ 」
「そうだ。俺に自分を理 解 させるために」
あまりの言いがかりに身体 が震える。彼女はもつれかかった舌 を嚙 んで止めると、
「......馬 鹿 げてる......! あなたは、わたしを殺した理由すらわたしのせいにしようとしている!」
「お前は死んでいない」
彼は即 答 してきた。
ロッテーシャもまた、すぐさま告げた。叩 きつけるように。
「助けてもらったからよ!」
「いや。今ここでまた死んでも、お前は死なないんだ。それが分かった。聖 域 に行って、すべて分かった。」
つぶやきながら彼は唐 突 によそを向いた。どういうつもりか分からないが左方の夜空を見上げながら、あとを続ける。
「つまるところ俺の師は正しかったんだ。お前は最 接 近 領 の領主と同 質 の存在だ。ただ領主に比 べれば自覚がない分、その力も不正確だが......お前を理解することで、俺は領主の存在も理解した」
こちらを見ていないせいもあったが、それはまるっきり独 り言の口調だった。
「わたしを......どうするの」
彼がなにを言ったところでそうするつもりはなかったにせよ──彼女は問いかけた。
エドは視 線 をもどさないまま、小さく告 げてきた。
「聖域に連れもどす。殺してでもだ。どうせ生き返る」
「エ......ドぉぉっ!」
金切り声で、ロッテーシャは叫 んだ。
そのまま全力で斬りかかる。プレッシャーも、感情も、なにもない。空白に満たされた頭の中は、ただその手の中にある刃 を夫であった男の身体に潜 り込 ませることしか考えていなかった。刃でなくともいい。爪 でも、歯でも、指でも、拳 でも。その男に悲鳴でも、苦 悶 の声でもあげさせることのできる部位であれば、なんでもいい。
エドは避 けようともしていなかった。変わらず、虚 空 を見上げている。こちらのことなど忘れているかのように。だが疑問には思っても、それが突 撃 を止める理由になどなりはしない。純 然 たる殺意の釘 を真っ直ぐに、ロッテーシャは前進した。
そして──
「何 処 からも来る。飄 々 と気配の刻 む故 郷 に......」
奇 妙 な文 句 が聞こえてきたかと思うと、横 殴 りの力に身体を突き飛ばされた。剣の結界ごと持ち上げられ宙 を滑 る。平 衡 感覚を失いながら、ロッテーシャはそれでもエドの姿を探していた。彼がもといた場所には彼の姿はない。それを分かった時、地面に叩きつけられた。
落下の衝 撃 に、肺 から空気を絞 られ悲鳴をあげる。特別に尖 った石の上に落ちなかったのは幸運だった。起きあがると、手の中に魔 剣 はない。
(落とした......?)
見回すと、自分はかなりの距 離 を吹 き飛ばされたようだった。地下水路の出口から驚 くほど離れている。剣が守っていなかったら即死だったろう。
剣がどこにいったのか、闇 の中ではすぐに見つけられない。あれがなければならない。あれがなければ、エドを殺せない。彼女はひたすらに罵 声 を繰 り返して、あたりを探 った。こうしているうちにも、エドがこちらにとどめを刺すに違 いない......
いや。
見つけたエドは、今なおこちらを向いてはいなかった。先ほどより位置を変え──彼女と同じく突き飛ばされたのだろう──、それでもまだ空を見上げている。彼はなにかの到 来 を予見しているように、拳 銃 を構 えた。見つめている上方にではなく、緩 く下方に武 器 を向けた姿 勢 で、じっと。そして。
「はははははははははは!」
哄 笑 が響いた。同時、エドが見つめていたのとはまったく違う 空の上から、輝 く人 影 のようなものが落下してくる。哄笑をあげていたのはそれだった。それは銀色の矢のように、一直線にエドを貫 こうと──
だがエドも、逆にそちらをこそ警 戒 していたように素 早 く向き直った。銃口を上げて先ほどにも聞いた炸 裂 音 を続けざまに引き起こす。エドの持つ武器が小刻みに揺 れて、白い煙 と火花を散らした。
矢の動きが止まった。見えない壁 にでも当たったように。エドの拳銃が放つ射 撃 音 に同調して、音のたびに後ろに弾 かれる。やがてエドの武器が音を発しなくなった。途 端 に人影に勢 いがもどる。だがそれが最初の狙 い通りにエドのいた地点を貫いた時には、エドは数歩退 いて、別の位置にいた。
地面に落ちたのは、紛 れもなく人の形をした光の塊 だった──それが光を失い。一目では人間と変わらない姿へと変わる。壮 年 の男が地面からゆっくりと起きあがった。銃で何度も撃たれたはずだが怪 我 ひとつない。ダミアン・ルーウだった。
エドはその時には既 にまた武器の弾 倉 を入れ替 えていたようだった。無言でそれをまたダミアンへと向ける。だがそれが再 び動作するより先に、異 変 が起こった。道化が使う道具のように、いきなりエドの拳銃がばらばらに砕 け散る。大きな部品、細かい部品あわせていくつも、無力になって使い手の足 下 へ散らばる。ダミアンの笑い声が、さらに高まった。
さほど気にした様子もなく、エドは手に残っていた部品をもその場に捨 てると、マントの下から剣を引き抜 いた。剣は構 える間もなく消え失 せた。離れているため聞こえなかったが、エドが舌 打 ちしたらしいのが分かった──表 情 と仕草で。
「無 駄 だよ」
ダミアンの哄笑が止まった。
そして笑い声と変わらない響きの声 音 で、叫 び続ける。
「ユイス! ユイス! ユイス──紛 らわしいことをしてくれた。襲 撃 者 はお前だったのか、ユイス!」
「とりあえず、今はお前に用はない」
エドのつぶやきは小さかったはずだが、ロッテーシャは聞いていた。突 然 にひとり蚊 帳 の外に放 り出され、痛 みにうめいて動くこともできない。
情 けない。どうしようもなく自己を押 しつぶす感 傷 に吐き気がする。突然邪 魔 をしてきたあの化け物も、エドも、こちらのことをもう忘れているように見える。
(なんで......こんな時にまで失敗するのよ!)
叱 咤 は、動かない身体 を起きあがらせる役に立った。めまいに耐 えながら魔剣を探す。
その間にも彼らの会話は続いていた。
「迂 闊 だな! わたしの領 域 内 で、長々と会話するなど!」
ダミアンが高らかに声をあげた──
「ネットワークは使えなくとも聞いていたぞ。なんの話をしていた⁉ どういうことだ。なぜお前は裏 切 った。その娘 は何者だ⁉ 特別なものであるのなら、領 主 様 にさえ感知できないというのはどういうことだ⁉ 」
「答えるつもりはない。どうせお前はここで始末される」
傍 目 にはなにも起こっていなかったようだが、それも攻 防 なのか、エドは時折、身をかわす動作を入れながら会話に応 じていた。なにか、見えない武 器 を避 けるために間合いを変化させるように。
エドは空手だったが、黒マントの下で両手を構えていた。これが魔術の構えかなにかなのかもしれない──よくは分からなかったが。ロッテーシャは、ふとそんな小 競 り合いを見つめていた自分に気づいて、かぶりを振った。剣 を探さなければ。
再 び目を離したあとを追いかけてくるように、エドの声が聞こえてきた。
「忘れてはいないだろうな。俺の装 備 ......テンペストを始めすべての装備はお前が回 収 していたはずだ。それがどうして今、俺の手にあるのか......」
「そんなものは、わたしには効 かない」
「愚 鈍 は哀 れだぞ、ダミアン」
よその話を聞きながら、ロッテーシャは地面を這 い回った。やがて見つけた剣は、呆 れるほど近くに落ちていた。
それを拾い、立ち上がる。いまだ平 衡 感 覚 は怪 しかったが、会話が聞き取れるほどなのだ──あのふたりの位置がそう遠いはずはない。十分に剣の効 果 範 囲 のはずだった。包むように両手で摑 み、刀身を現 そうと願う。
会話は雑 音 だった。煩 わしくも、彼女を無 視 して続いている。
「言っておく。聖 域 は、領主の暗殺が失敗していることを知っているぞ」
「ほう?」
「いやむしろ、今回のお前の小細工で聖域は確 信 を強めた。領主の存 在 について。そしてお前たちが稼 いだと思い込んでいた時間は、聖域が逆 に利用した。朝まで待っていれば、滅 びるのは最接近領のほうだ」
「だから向こうについたというのかユイス? それは貴 様 らしくないな」
集中は必要ない──が、平静でなければ勝てるわけがなかった。ロッテーシャはふたりの話を意識の外に追い出しながら呼 吸 を整えた。数を数える。ひとつ、ふたつ......そして。
「聖域に対 抗 できるのは領主だけだと思っていた」
エドがつぶやくのが聞こえてきた。
「だがもう違う。同 質 のものがもうひとつあるのだから」
(また......言うっ!)
痛 いほどに目がつり上がるのを自覚する。ロッテーシャが意識の闇 に火を点けるのと同時、剣の刀身が現れた。虫の羽音が広がり、魔剣が機 能 する。
(行け──殺せ)
彼女は渾 身 の力を込めて、理 不 尽 な男たちの死を願った。父の剣に語りかける。
(どれだけ凄 惨 でもわたしはそれを見とどける。父さん、父さん......)
剣の作動音にはエドもダミアンも気づいていたようだった。だが、構わずに彼女は続けた。
(彼を殺せば、きっと彼のしたことも言ったことも、全部嘘 になるわよね......!)
剣の力場は彼らをともに圧 殺 するはずだった──
エドの足 下 の地面が、ひしゃげてめくれ上がる。彼はそれを飛び退 いてかわすと、また飛び降 りた地面が同じく崩 壊 する前にもう一度跳 んだ。次々とそれを繰 り返し、後 退 していく。彼は最初に隠 れていた岩 陰 まで退 くと姿 を消した。
追撃するつもりだった。剣の威 力 を頼 みに、すべてに決着をつける。前に踏 みだそうとした時、ロッテーシャはもうひとりの男が残っていることに気づいた。
ダミアンは、まったく無 傷 でそこにいる。特に命じたわけではなかったが、その場にいたなら一 瞬 で圧 壊 するほどの力の中で、髪 一 筋 揺 らすことなくそこに立っている。ロッテーシャは息を詰 めた。いかにも大 儀 そうに、男がつぶやくのを聞く。
「帰りきたる。痕 の多い獣 の檻 。大にしてうねり、小にしてわめく......」
また、なにかに突き飛ばされた。
今度こそ呼吸ができないほどの威 力 を横 隔 膜 に受けて、ロッテーシャは無自覚に理 解 していた──力で押されたのではない。それならば剣が守ってくれたはずだった。もっと別の方法で、そんな力が存在しているかのようにこちらに思い込 ませているのだ。実際のダメージはないのに、身体 は言うことを聞かなくなっていく。
地面に倒 れて、ロッテーシャは顔だけを上げた。またもや剣は手元から離 れてしまっている。喉 から、笛 のような呼気が漏 れた。動けない。
(どうして......どうしてわたしのすることは失敗するの......?)
奪 われた分を取りもどしたいだけだというのに。喉に詰 まった痰 にむせて、咳 き込 む。自分だけが理 不 尽 に拒 絶 されている。そう感じる。ごく普 通 に愛してもらうだけでいいというのに。この世界のシステムにはそれが含 まれていない。
(なんで......なんでこんな愛のない世界になってしまったの?)
錯 乱 していると分かっていた。だがそれを押 しとどめるだけの自 制 はもう残っていなかった。体力とともに尽きている。復 讐 のために培 われたすべての理性はもう終わっていた。もうなにも考えることはできない──少なくとも合理的には。
この世界に愛の報 いが保 証 されているのなら......自分の復 讐 は果たされるべきだ。
それができない理由はなんなのか。まるでこの世界は、人を絶 望 させるためにあるようだ。希望を与 え、失望を覚えさせ、絶望を植え付ける。誰が望んだ? 誰がそんなことを望んでいる?
彼女は憤 怒 を轟 かせて、土を摑 んだ。立てないのならば這 いずっていく。なにも考えずに彼女は腕 を引き寄 せようとした。どちらに進むのか。それすらもどうでもいい。自分の怒 りを受け止めてくれる犠 牲 者 がいる場所ならば、どこでもいい。
それでも身体は理性的に剣を求めていた。進む先に剣が落ちている。やがて指がかかる──というところまで近づいて。魔剣は彼女の目の前で別の手によって拾い上げられた。
魔剣を手に取ったダミアンは、それきり彼女のことはどうでもいいというように、身体の向きを変えた。エドが姿を消した岩 陰 に歩き出しながら、先ほどの話の続きだろう。なにごともなかった態 度 で続ける。
「我 々 を裏 切 り、そして次にまた聖 域 をも裏切るというのか、ユイス」
エドはもうその場から逃 げているのではないか──ロッテーシャは、そんなことを考えていた。苦 悶 にうめいていた時間がひどく長く感じられたせいで、その隠 れ場所にまだエドがとどまっていることが不自然に思えたのだ。
だが、エドはまだそこにいたらしい。ダミアンに答えて、つぶやくのが聞こえてくる。
「事態はもうひとつ単 純 だ。聖域は既 に聖域自身を裏切っている。ドッペル・イクスの名はなんのためにあったと思う」
ダミアンはこちらから遠ざかっていく──後ろ姿だったため表 情 は分からないが、なんとはなしに笑 顔 なのではないかとロッテーシャは直感した。敵 を嬲 る笑みを浮 かべているに違いない。彼女は報 われないというのに、この化け物は他者を圧 倒 し、快感を得る権 利 を持っている。そう思うと、ロッテーシャも自然と笑みが浮かんだ。馬 鹿 げている。こんな世界に、人が無理をして生きていく価 値 などあるものか。
(みんななにを勘 違 いしているの? 幸せがあると思っているの?)
勘違いを信じるよりも、遥 かに楽な方法がある......それは。たったひとつの明解な単語で言い尽くせる。それを思いつきさえすれば、楽になれる。
やがて、エドの潜 む岩の前でダミアンが立ち止まった。距 離 にしてみれば、もうあと三歩もなかっただろう。告 げる。
「いやに饒 舌 だなユイス......追いつめたぞ」
沈 黙 は、心 臓 が一拍 打つ間のことでしかなかった。だかそれでも確 かにその沈黙はあった。エドが、つぶやき返す。
「俺が話し続ければ、夢 中 になったお前は追ってくる。引き返せないところまで。ネットワークに頼 り切りだったお前がネットワークを使えなくなるというのがどういうことか。お前だけが自覚していない」
「調子に乗るな──わたしを滅 ぼす方法などここにはないのだ」
相手を引きずり出そうというのか。ダミアンは岩陰に右 腕 を突き込んだ。
そして、動きを止めた。
ひやりと......冷たい風が肌 を撫 でるのをロッテーシャは感じていた。なにかが変化したらしい。決定的ななにかが。
「本当に......?」
その岩陰からダミアンに語り返した声は、エドのものではなかった。
ダミアンが、一歩引き下がる。
彼の腕を、なにかが摑んでいる。退 がるダミアンにあわせて、その腕は進み出てきた。女の手だった。
「............⁉ 」
言葉にできないうろたえた声 音 で、ダミアンがなにかを囁 いた。祈 りの言葉かもしれない。彼について岩陰から出てきたのは、女だった。血にまみれたずたぼろの戦 闘 服 を身につけた長身の女。昨日、この荒 野 で初めて見た時にはひどく美しく感じられた長い黒 髪 も、荒 れた風に痛 めつけられたせいだろう。ぼさぼさになっていた。
死んだと思っていた──死んだと聞かされていた。あの黒魔 術 士 の姉だった。泥 に汚 れた顔面を壮 絶 な笑顔に固めて、つぶやくのが聞こえてくる。
「またわたしを恐れたわね ?」
ダミアンが悲鳴をあげた。容 赦 なく、弁 解 してもごまかせない巨 大 な悲鳴。恐 れを盛 大 に喉 から吐 き出して、その化け物がしたのはまず、女の手を振 り払 うことだった──女はさほど抵 抗 もしなかった。
自由の身となって、ダミアンはなりふり構 わず──放り出すように魔剣をその場に残して上空へと飛び上がった。出てきた時と逆 に光の筋 となって、夜空に消える。
女は追わなかった──いや無 論 、空に逃げたものを追えるはずもないのだろうが、ダミアンの行方 を視 線 で追いすらしなかった。ふらふらと頼 りない足取りで前に進み出る彼女の姿 からは、一 瞬 前 の悪 鬼 のような表情は跡 形 もない。そこには疲 れた女がいるだけだった。疲れ、傷 ついている。
今の自分と同じように。
彼女の名前を、ようやくロッテーシャは思い出した。記 憶 が回 復 してくると、先ほどまで感じていたひどく気落ちするようななにかの感情──それが逆に、なんだったのか思い出せない。レティシャ。確 かそんな名前だった女を見ながらロッテーシャは泣いていた。わけも分からず泣いていた。
レティシャは数歩前に歩くと、そこで立ち止まった。遅 れて同じ岩陰から、エドが姿を見せる。彼の気 配 を感じてレティシャが振 り向いた。会話もなく、しばし見つめ合う。
「............」
「............」
口火を切ったのは、エドだった。
「......俺と戦うか? レティシャ」
「わたしが勝つわよコルゴン。あなたには負けない」
それは戦うという意味だったに違 いない──少なくともレティシャの表情を見つめていたロッテーシャは、そう思った。女が怒 り狂っているのはすぐに知れた。なにを怒 っているのかまでは分からないが。
(......いえ......)
分かっていた。ロッテーシャは理 解 して、すがるようにレティシャを見つめた。彼女は自分に同情してくれている。エドの横 暴 に怒っている。
(助けてくれるかもしれない......助けて......)
だが、それでもレティシャは力無く首を左右に振 った。
「いいえ。行けばいい。どうせここはもう終わりよ。協力には感 謝 するわ」
「俺も装 備 を手に入れてもらった。取引は公平だ」
ぼそりと、エド。地面に散らばった鉄くず同然のがらくたを見やって、
「テンペストはもう使えないが......ほかの装備にはまだ使い道がある」
「そう」
と、素 っ気 ないレティシャに、エドは気楽に続けた。
「いきなり背 後 を取られた時には驚 いたが」
なんにしろレティシャはさほど感 慨 もないふうで、冷たく言い放 っただけだった。
「わたしもね、隠 し芸のひとつも覚えないとなかなかやっていけないのよ」
無感動なのはエドも同じだった。低く、聞く。
「次は、聖域でか」
「そう遠くないうちにね」
女はそう答えて、道を開けた。
(道を開けた......?)
なぜそんなふうに思ったのか、ロッテーシャは自問した。そして全員の位置関係を悟 って、気づく。女は、エドと自分を結ぶ間に立っていた。そこを退 いたのだ。
エドがゆっくりと踏 みだし、こちらに近づいてくる。途 中 に落ちていた魔剣を拾い上げながら。
(助けて......?)
地面に寝 たまま、すがる思いでロッテーシャはその女を見やった。助けてはくれないのか? 自分はこの夫に虐 待 されている。助けが必要なのだ。
思いが相手に伝わらなかったわけではないようだった。女は唇 を引き結んでなにやら厳 しい面 持 ちを見せると、嘆 息 混 じりに言ってきた。
「行きなさい......彼についていくのが安全よ。ひとまずはね」
「わたしは、行きたくない。彼とは行きたくない」
か細い声で、ロッテーシャはうめいた。忘れかけていたあの感情──心をすべて呑 み尽 くすようなあの圧 倒 的 な空 虚 が押 し寄 せてくる。エドが、やり取りを聞かずにマイペースで近づいてくる。
彼が横を通り過 ぎるのを眺 めながら、女がうなずく。
「わたしがあなたでも、そう言うわね。でも今、あなたのために戦ってあげるだけの力はわたしにはないの......」
と、言いながら女は背 中 を丸めた。月明かりだけでよく分からなかったが、顔面から急速に血の気が引いているように見える。ゆっくりと......本当にゆっくりと、レティシャはつぶやいてきた。
「......致 命 傷 をなかったことにするほどの力は、まだないのよ。進行を止めるくらいはできてもね。まったくいつも中途半 端 なんだから......急ぎなさいよ......アザリー......急がないと......わたしは死ぬわよ......」
腹 の上あたりを押さえて、女はその場にくずおれた。
◆◇◆◇◆
「......遅 かったな」
暗 闇 の中、現 れたその男にオーフェンは告げた。椅 子 の上でひざに頰 杖 を突 き、眼 球 の向きだけで相手を捉 える。
「どこに行けばいいのか分からなかったんでな。とりあえず、ここにいりゃあんたは帰ってくるだろうと思った。コルゴンのところまで駆 けもどったところでどうやら間に合いそうもねえし」
「どこまで知った?」
「自分が訊 ねる時は単刀直入なんだな。虫が良すぎやしないか?」
オーフェンはつぶやくと、いったん椅 子 に体重を沈 み込 ませ──相手を焦 らしてから立ち上がった。闇とはいっても、昨夜と同じく月光が窓 から部屋を満たしている。最 接 近 領 の領主、その執 務 室 を。
なにからなにまでが昨日の夜と同じに見えた。静まり返った屋 敷 。今入ってきた男と自分以外、誰もいないのだから当たり前だが。乾 いた、だがどこか甘 さを残した小麦粉のような香 り。これは殺気だった。落ち着いた夜気をわざわざ掻 き回す野 暮 の予感だった。執務室は荒 らされているわけではない。むしろ片 づいている。そこだけは、昨日と違 っていた。
床 には領主が倒 れている。
部屋に入ってきた男──扉 も窓 も開けることなく入ってきた白魔 術 士 ダミアンは、確 認 するように聞いてきた。
「殺したのか?」
「まさか。悪いと思ったんだが、まあ、かつがれた仕返しもあるしな。少しばかりのばさせてもらった」
オーフェンは言いながら、白魔術士との間合いをはかった。ダミアンは部屋に入ってきてから動いていない。いつになく憔 悴 した様子で、見ただけで胸 が悪くなるような余 裕 ぶった態 度 を取り繕 うこともできないらしい。息を荒 らげているのではないかとすら見えた──それは馬 鹿 げた考えだとしても。ダミアンが精 神 体 ならば、呼 吸 などしているはずがない。
と、ダミアンを見 据 えたまま、オーフェンは付け加えた。
「......なんで消えないんだ? こいつは」
「............」
ダミアンは答えてこなかった。そのまま無 視 するかと思えた。
だが数秒の迷 いの末、彼は──あきらめたように、
「通 常 の現 象 ならば、ゴースト情 報 が現実世界に与 える影 響 力 というのは物 質 に劣 るものだ。ダメージによって消失する。だがこれは特別製 で、死すら無視して存 在 を続ける......物質以上の存在であり続けるのさ。つまり、理想型だ」
「俺はゴーストなんて言ってないぜ」
揚 げ足を取ったわけではない。ダミアンが白状を始めた以上、無意味なことだった。だが技術的な説明に歯止めをかけてから、オーフェンは相手の言葉を待った。
白魔術士は、混 濁 した眼 をこちらに向けた。やはり精神体にとっては意味のない動作だったはずだが。
「ほかの者たちはどうした?」
とダミアンが聞いてきた意味を理 解 しかねて、オーフェンは顔をしかめた──が、すぐに分かった。クリーオウたちのことだろう。
「さあな。もうそろそろもどってくるんじゃねえか?」
彼女らがどれだけ急いであとを追いかけてきていたとしても、もう少しはかかるはずだった。十分な時間がある。話をするのには十分な。
ダミアンは、捨 て鉢 な声をあげた。
「そうだ。最接近領の領主は〝ゴースト〟だよ」
身 振 りまで交えて、解 説 を始める。眼に浮かんだ自 暴 自 棄 は、もう引き返せないところにきているようだった。
「ただし、死者を再 現 したものではない──もともと存在していない人 格 を造 り上げた。ネットワークから生まれ、ネットワークに根ざし、ネットワークに浸 透 している人造人間だ。君も先日体 験 したろうが、ゴースト現象は情 報 を理想化して再現することができる。それを応用して造り出されたのがこの最接近領の領主様さ。わたしが、ネットワークを使って入手した情報を引き入れ、分 析 し、答えを算出する。その計算速度は時に現実の時間をも凌 駕 する。未来を見通すことも可 能 となる。彼の計画は常に正しいものとなる。まるで、状 況 こそが進んで彼に付き従っているかのように」
「それが、いかさまのネタか。あんたの力の源 でもあったわけだ」
倒れたままの領主をまたいで、オーフェンは前に進んだ。軽く跳 んで、飛び降 りた靴 底 が床 を叩 く。鳴るかと思ったが、靴音は鳴らなかった。
逃 げずに、ダミアンはその場に踏 みとどまった。はっきりと言ってくる。
「そうだ......わたしの力の集大成だ」
と、胸 を示 し誇 らしげに声を大きくする。白魔 術 士 の声は、肉声でもないくせに鼓 膜 だけでなく肌 でも感じられた。空気を揺 らしているのは、彼の声ではなくもっと別の──そんなことがあり得るのなら、怒 気 なのだろうが。
「なにより素 晴 らしいのは、領主が存在することによる現実世界への影 響 力 だ......領主様は精 神 支 配 を用 いずに人を支配できる。わたしが同じことをすれば、どれだけのエネルギーを消 耗 するか......」
「なるほど」
オーフェンは小さく、声に出して納 得 した。
呑 み込 んだ言葉はすぐに体内にある感情を煮 沸 した──ふつふつと、舌 を乾 涸 らびさせる苦 渋 がこみ上げてくる。この白魔術士はとんでもなく分かりやすいことを言った。笑い出したいほどに。オーフェンは鼻の頭にしわを寄 せ、陰 険 な笑 みを作った。
つまりダミアン・ルーウが気にしていたのは、消費するエネルギー量のことなのだ。それを思いつき、皮肉に胃がねじれる。
「くだらない......くだらない!」
彼は、叫 び声をあげた。
「そんなもののために、イールギットやシークは死んだってのか! ウィノナもだ──」
「......虚 構 として実在し、理想として存在する。くだらないと思うか? だが君も、これと似 たものと長く接してきただろう」
「なんだと?」
オーフェンは聞き返した。ダミアンは口調に勢 いを増 し、続けて言ってくる。
「彼のような男が実在するのはおかしい......なんでもできる、万 能 の、理想の人間がいるのはどこか変だ。そんなことを考えたことがあるだろう。長らくその男に師 事 しながら、そう思ったことがあるだろう」
白魔術士の言わんとしていることを察して、オーフェンは飛び出しかけていた足を止めた。あと一 跳 びで敵 の首を食いちぎれる距 離 にあって踏 みとどまる。
その効 果 を分かってだろう。ダミアンは叫び続けた。
「彼は虚構ではなかったかもしれないがね──少なくとも二百年前は生きた人間だった。だが肉体を失って、ネットワークの情報に従 って再 構 成 されたという手順に大差はない。いや、肉体そのものを再生された分、チャイルドマン・パウダーフィールドは〝ゴースト〟よりも劣 る。そのため、彼は凡 人 として死 亡 した。そうではないか?」
そして──
「どうかね? まだ、領主様を......くだらないと思うか?」
一 瞬 の隙 をついて、ダミアンは虚空に姿を消した。たった一言、叫び声だけを残して。
「くだらないと思うのなら、これを倒してみせてくれ!」
白魔術士が消えたのと同じ空間に、別の人影が現れる。やはり長身の、壮年の男。
いや、壮年というにはまだ少し若 いか。それはよく知った顔だった。厳 めしい顔つきでこちらを見ている。髪は伸 ばしっぱなしで後ろに束ねていた。そのくせ、髭 はいつも几 帳 面 に剃 っていたようである。奇 妙 な男だった。その男は実 際 、《塔 》でも奇人として通っていた。
チャイルドマン・パウダーフィールド教師が体育着でそこに立っている。大 仰 ではない自然体の構え。だがその実、戦 闘 態 勢 にある。彼こそが大陸最強の、最高の魔 術 士 だった。負けることのない無 敵 の術者。
その〝ゴースト〟──
オーフェンは飛び込むと、迎 撃 の形でこちらに打ちかかってくる師の腕の内側に貼 り付いた。拳 を相手の脇 腹 に添 えて、裂 帛 の気合いとともに足で床 を踏 みつける。突き出した拳は、内 蔵 を砕 く感 触 を十分以上に伝えてきた。
「......勝てねぇよ」
彼がつぶやくまでには、師のゴーストは消 滅 していた。
「先生は最初から最後まで不完全なただの人間だったさ。〝ゴースト〟じゃない。彼を理想型に仕立て上げていたのは俺たちだ──だが今の俺は先生の強さの限 界 を知っている。だから俺が後 継 者 だ。ダミアン・ルーウ。過去を力とするお前は、俺には勝てない」
その部屋の中にはいない──だが聞いていないはずのない敵に向かって、オーフェンは囁 いた。
「言い直してやる。くだらないのは先生でも領 主 でもない。お前だ」
姿 は見えずとも、気 配 は感じていた。ダミアンは屋 敷 から逃 げていない。オーフェンは執 務 室 の入り口に向き直ると、躊 躇 なく扉 を蹴 り開けた。
廊 下 に飛び出し、敵を探 す。
(俺では倒せない相手......? ティッシは間 違 っている)
オーフェンは鋼 鉄 製 の鞘 から、短 剣 を抜 いた。銀色の刀身は暗 闇 に溶 けて輝 くことなく濡 れた光 沢 だけを残す。
(あれは、俺にしか倒せない敵だ!)
「わたしを倒す手 段 はあるまいっ!」
やはり姿は見せないまま、屋敷の中に声だけが響 く。
廊下に出たオーフェンを待っていたのは、複 数 の兵士だった。三人。屋内でも使えるナイフを振 りかざし、押 し包むように殺 到 してくる。オーフェンは最も速いひとりを見て取って、かかとを滑 らせて身を沈 めた。倒れ込むほどに体勢を低くして、短剣の刃を跳 ね上げる。
悲鳴があがった。ゴーストが一体消える。その隙 間 から敵の背 後 へとオーフェンは脱 出 し、壁 を背 にして振り向いた。残ったふたりの敵もこちらを向いている。オーフェンは手早く右手の短剣と、左手で抜いていた投剣とを同時に投げた──剣はそれぞれ標的の喉 を射 抜 いて向こうの壁へと突き立った。ゴーストは闇に薄 れて消 滅 した。
「そうだな。お前を倒すのには手段は要 らないんだ」
壁に刺 さった短剣を二本回収し、両手に持ってオーフェンは告 げた。姿なき闇に。
「お前は俺から逃げられない。お前は俺を退 けられない。お前は俺の邪 魔 をすることもできない。それだけで、お前は磨 り減 っていくんだろう。精神体のお前は! 無価値になった瞬 間 に滅 びる! 生まれたというだけの理由で意味もなく生きていけるのは肉体だけだっ!」
「わたしは......脆 弱 ではない!」
声が否 定 を発してくる。
反 論 は許 さず、オーフェンは嘲 笑 った。
「これから弱っていくのさ。急速にな」
気配を覚えて、身体 の向きを変えた。廊下の向こうから派 手 な足音を立てて、大 柄 な兵士が突 進 してくるのが見える。それと同時に、逆の通路から、足音のない兵士が来ているのも分かっている。
通 常 なら、窮 地 だったろう──が、オーフェンは落ち着いて両 腕 を突き出した。叫ぶ。
「我 は放 つ光の白 刃 っ!」
魔 術 の構 成 を解 き放つ。純白の光が一直線に、廊下の闇を引き裂 いた。大柄な兵士は、ひょっとすればウィノナのゴーストだったのかもしれない。だがそれを視 認 するまでもなく、その影は衝 撃 波 の渦 に消えた。
破 壊 された廊 下 に背を向け、もう一方から来ていた若い男──ひねくれた目をした男へは、投剣の一刀で足りた。
次の敵がまた来るかと警 戒 するが、訪 れたのは静 寂 だった。オーフェンは残った短剣を構えて告げた。
「攻撃が単調だぞ。ゴーストまでひどく雑 だ。対武 装 盗 賊 戦 闘 課 の連中ってのは、こうまで容易 くあしらうことのできる相手じゃなかったけどな。少なくとも、俺が昔相手にした現実の連中はよ!」
「黙 れ。貴 様 など、駒 に過 ぎぬ者が──」
「ああ、そうだ。だがお前だけが有利なゲームはもう終わったんだ」
一言ごとに、意 識 が冴 えていくのが分かる。勢 いに任 せてオーフェンは言葉を続けた。力関係が逆 転 していくのを肌で感じていた。ダミアンは弱っている。
「俺に勝てる駒を用意できるのか? ウィノナは死んだ。コルゴンは去った。お前にはなにも残っていない」
「あるぞ......」
その声だけは──ダミアンのその声だけは、怯 えを含 んでいない。
だからオーフェンは、吐 きかけた言葉を呑 み込んだ。予想していたことだった。ダミアンが出してくる駒に、それが含まれるであろうことは分かっていた。
小細工もない。奇 襲 もない。そのゴーストは、廊下の先に不意に現 出 した。闇の果てにあって、闇よりも黒々とたたずむ者。漆 黒 の服の男。丸い帽 子 が頭半分を隠 している。帽子の縁 から上 目 遣 いにこちらを見つめる眼 もまた、不気味なほど丸い。
聖 服 の男。
(ジャック・フリズビー......?)
領主が言ったその男の名前を、オーフェンは思い浮かべた。
その男のずんぐりとした体 躯 は重々しく、だが足音も気 配 もなく、踏み出す一歩をこちらに向けた。
(この距離──)
オーフェンは迷 わず構 えを取った。魔 術 の構成を編 み上げ、解 き放 とうとする。十分な間があった。労することなく魔術で制 することができる。
そのはずだったが。
「......わたしは直 接 君に危 害 を加えられないがね」
背 後 から、ダミアンのつぶやきが聞こえてきた。なにかが背 中 に触 れたように感じる。実 際 にはなにも触れていなかったろうが──ダミアンの精 神 支 配 の感 触 が背筋を凍 らせた。

「邪 魔 をするくらいのことはできるのだよ!」
編みかけた魔術の構成は霧 散 した。白魔術士の精神支配は、さらに深い領域まで侵 食 しようと力を加えてきていたが、オーフェンは全力でそれに抗 った。敵の意 志 をはね除 け、心の独 立 を保 つ。
それは一 瞬 のことだったが、聖服の男がこちらへの間合いを詰 めるのに十分な時間でもあった。もう魔術のために集中している隙 はない。オーフェンは後ろへ跳 んだ──聖服の男は既 に眼 前 で攻撃の態勢に入っている。小さな構え。小 刻 みな一歩とともに打ち出してくる破壊の一撃。確か男が崩 しの拳 と呼んでいた攻撃だった。
横にかわすには、廊 下 は狭 すぎた。かといって後ろに跳んだところで男の前進する速さから逃 れられるわけでもない。だが聖服の男は、追撃を遅 らせた。ほんの瞬 き一度分の躊 躇 だった。オーフェンが跳び退 く際 、虚 空 に残すように投げつけた短 剣 が、男の拳をかすめるのが見える。
オーフェンは銃 を抜いた。
スライドを引いて撃鉄を起こす。立ち止まる余 裕 も、両手で構える隙も、照 準 する時間もない。トリガーを引いてもまともに弾 が出るかどうかは分からない。すべてがうまくいったとして、弾が命中する率 は高くない。ジャック・フリズビーが与 えてくれた勝機は決して大きいものではなかった。
だが。
(こんなもんをまともに使う必要はない──)
声にならない叫びをあげて、オーフェンは拳銃を、再 び突進してくる聖服の男の足 下 へと叩 きつけた。ジャックは避 けもしなかった──避けようがない。床 に投げつけただけなのだから。
拳銃は乾 いた木 製 の床に鈍 い音を立てて跳ね上がり、そして当然、暴 発 した。
暴発した銃の弾がどちらに跳ぶのか。そんなものを予測できる者はいない。都 合 良く敵に当たってくれることを願っていたわけではなかったが、聖服の男が動きを止めればそれで良かった。
──のだが、幸運は過分に作用して、ジャック・フリズビーのゴーストが消 滅 した。弾が当たったらしい。
とはいえ、消えたのはしょせんゴーストに過 ぎない。
(次が来る......次は、どうやってしのぐ?)
オーフェンは服に隠 されたポケットから残ったスローイングダガーを取り出して、警 戒 の視 線 を左右に振 った。ダミアンはすぐに次のゴースト──恐 らく、また同じ聖服の男のゴーストを出してくるはずだった。
しのげばしのぐだけ、相手の攻撃をかわせばかわすだけ、ダミアンは弱っていくはずだった。実際には、そう急速にというわけではないだろうが、それでも精神体であるダミアンは、宿命的に消滅を避 けられない。本来、ダミアンが長らく消滅を免 れてきたのは、その力の強大さゆえのことだった。それが失われれば、ダミアンは精神の本来の状態──無──へと還 ることになる。
(いつまでかかるか分からないが......だが、やれる。敵はすべてゴーストだ。本物じゃない)
銃は落としたままになっている。
暴発した銃は、奇 跡 的 に破 損 していないようだった。といって拾ってまた撃 てるかといえば、そんなことを試 すつもりもなかったが。オーフェンはナイフを手のひらに挟 んだまま、過ぎる時刻と磨 り減 っていく殺気とを味わっていた。
やがて──
足音が聞こえて振り向く。聞こえてきたのは悲鳴だった。
「きゃあっ!」
階 段 を昇 って姿 を現 したのは、クリーオウだった。廊下がひどく破壊されていることと、こちらのナイフに驚 いてか、口元に手を当てて目を見開いている。どこかで見つけたのか、燭 台 に灯 を入れて持っていた。揺 れる明かりの中で、彼女が聞いてくる。
「ど、どうしたのこれ。なにかあったの?」
(ゴースト......か?)
ダミアンの性 格 を考えるなら、こういった搦 め手はいかにもあり得そうだった。オーフェンは、ナイフをしまうふりをして手の中に隠 したまま、構えを崩してみせた。
彼女が駆 け寄 ってくる。気がつくと屋 敷 の中に、別の気 配 も感じていた。どたどたとうるさいのは、地 人 ふたりの足音だろう。なにやら階下を走り回っているらしい。屋 敷 が無人と見て、好き勝手になにか漁 っているのかもしれない。
クリーオウは目の前まで来ると、灯 火 を差し出してきた。
「オーフェン......?」
「いや.........」
困 惑 して、オーフェンはうめいた。このクリーオウはゴーストではない。
(ダミアンは......逃げたのか?)
刹 那 。
絶 叫 が響き渡った。
◆◇◆◇◆
(なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだ──何 故 、倒せない⁉ )
最 接 近 領 の屋敷の上空から見下ろして、ダミアン・ルーウはその不 可 解 な結果を受け入れられずにいた。ネットワークは使えなくとも、彼の視 覚 は光を必要とせず、屋敷の中を把 握 できる。
仕 留 めたはずだった。確実に仕留められたはずだった。あの黒魔 術 士 はジャック・フリズビーに勝てない。それ以前に、黒魔術士自身の理想を擬 似 具 現 化 したチャイルドマン・パウダーフィールドのゴーストに勝てるはずがない。あの黒魔術士が──小 賢 しい若 造 が──自身の理想をも上回る意志を持っているのでもない限 りは。
(そんなものがあるはずがない......そんな意志があるはずがない。なにも知らない幼 子 でもなければ。挫 折 を知り、失敗を知っているはずだ。諦 観 と己 の限 界 を知っているはずだ。絶望を知っているはずだ......)
知っていれば、その先に希望などはない。
絶望なのだから。その先などない。
生物として生きる彼らに、それを相 剋 する力などはあり得ない。
彼らは朽 ちていく肉の塊 だ。生 暖 かい体液と蠢 く腱 。その集合だ。限界を持つべくして限界を持つ物 質 だ。
(それが、あきらめずに前に進むなど──あるはずがないのだ!)
いずれ滅 びる種 ではないか。
いずれ死すべき個人ではないか。
(世界の運命は、そんなものに託 されているのではない。だから肉化した神々は魔 王 に滅ぼされるのではないか。世界は、生きているもののためにあるのではない。生物は、存 在 として間 違 いなのだ! 肉は、世界の終末を待たずして滅びるべきものだ! 精 神 だけを残して──尊 い精神だけを残してだ)
あの黒魔術士に対して、ゴーストはもう通用しないかもしれない。
ぞっとしながらダミアンは認 めた。かといって直接の精神支 配 は、あるいはゴーストを利用することよりも難 しいかもしれない。物理に作用できないこの身体 では打つ手がない。物質として最強である存在に対して、ぶつける武 器 がない。
月の下。
輝 かんばかりにまぶしい月光の中。
ぽっかりと、浮 かんでくる思いがあった。
(わたしは......無力......なのか......?)
そして聞こえてくる声があった。
──ひどく弱ったものね──
無 論 それは、肉声ではあり得なかった。寒風にさらされて、その肌 寒 さを感じることもなく、だがダミアンは存在の奥 底 から──逃 げ場のない根本から聞こえてくるようなその呼びかけに戦 慄 していた。精神の王としてあってはならない動 揺 が、身体を揺 らしていた。
──時間がない。ここですべていただくわよ──
違 和 感 があった。はっとして、自分の両手を月にかざす。
それもまた、意味のない行動だった。自分の視 覚 は光を必要としないはずなのだから。だがそんなことを思い出すゆとりもなく、彼は悲鳴をあげた。両手の形が違っている。右 腕 に途 方 もない冷たさを覚えていた。刺 すような冷気。その腕からはなにも感じない。ちょうど、あの不 愉 快 な女に摑 まれたあたりから感覚を失っていた。その腕は既 に自分のものではない。ダミアンはようやく理 解 した。右腕だけ、女の腕になっていた。
「わたしっのっ......!」
腕に感じた冷たさは、全身に広がりつつあった。
猛 烈 な喪 失 感 ──自分の存在が自分ではなくなっていく。彼は絶 叫 した。断 末 魔 の声が、最 接 近 領 に轟 く。
「持っていた力をすべて......奪 い取る......というのかっ! 消し去るのではなく!」
それで終わりだった。
彼女は静かに、その場にたたずんだ。月を見上げて。
「これで......準 備 は整った......わね」
アザリーは独 りごちると、自分の身体を見下ろした。肉体ではない。精神体の身体。特に意 識 したわけではなかったが、かつてキムラックで結界より外へ出た際 に着ていた戦 闘 服 の姿 である。もっとも格 好 など、意味のないことだった。
水平に頭を巡 らし──彼女はこれからやらなければならないことを列 挙 していった。時間は限 られているが、決して不十分ではない。まずは、自分の助力を失って無力になっているレティシャを助けなければならない。まだ死んではいないはずだ。
そして。
彼女はそのまま、その方向を見つめた。遥 か向こうにフェンリルの森がある。
(キリランシェロ......あなたは来るの? わたしの伝言を真に受けて、わたしに会いに来るの?)
会いに来るとしたら......それは、いったいなんのためなのだ?
じっとしていれば、その答えを告 げに、この上空まで弟が来るのではないか──
そんな益 体 もない思いをつぶやいてアザリーは、もう用のなくなった最接近領をあとにした。
まだ夜明けまでは遠い。
夜の帳 に包まれた屋 敷 の周囲を、無音で闇 を移 動 する漆 黒 の巨 体 と、緑色に輝く無数の眼 が取り囲んでいるのも見えていた。それらは時間をかけて包囲の輪を縮 めてきたのだ。愚 かなダミアンが、自らネットワークを封 じているうちに。
彼女はなにもせずに、その上空を通り過ぎた。
それは美しい思い出だった。
そこがどこの風景だったのか、彼女ははっきりと覚えていたわけではない。だが今は違 った。自分の記 憶 がどれだけ確 かなものであったか──それを悟 って、彼女はうなだれた。自分は、ここに帰ってきたかったのか? だからこうまではっきりと覚えていたのか?
湖だった。それは確かだ。深い樹 海 の中、木々に阻 まれて風はない。強い陽 が射すこともなく、冷ややかな湖面がどこまでも透 明 に輝 いている。
自分は、そこから外に出たのだ。
この清 浄 の地を離 れ、汚 れた外界に。
それは馬 鹿 げた選 択 だったに違いない。自分が選んだものではないとしても──いや、自分が選んだのか? 自分をここに連れもどした、悪魔のような男はそう言ったではないか。その男は今、自分を連れて横にいる。だがこの風景の中では、その男はいないも同然だった。そこは彼女の思い出なのだから......その男はいない。
思いの中にあるその風景は静かだった。あまりの静 寂 に、耳が鳴る音までも聞こえてくる。
とても静かで、汚 れた言葉など唇 から出ることはない。
胸の中になにも浮かばない。
まっさらな感情だけが、湖面と同じ透明度をたたえて胸 を埋 め尽 くす。
それは美しい思い出だった......が。
そこに、その思い出の風景がそのままあったというわけではない。
むしろ跡 形 もなく無 惨 に変わり果てたものが君 臨 していた。
瑚は砂 に埋 もれていた。ナッシュウォータでも、時折その黄 塵 がキムラックから吹 いてくることはあった。だがこれほど大量の黄塵が吹 き荒 れているのを見るのは初めてだった。それを吸い続ければ死ぬと言われている滅 びの砂。渦 巻 いて、思い出までもすべて滅びに塗 り固めようとしている。
そして、その黄塵が吹き出す中に女がいた。宙 に浮いて、静止している。
空に浮かんだその女は、祈 るように両手を胸の前で組んでいた。
細い指を互い違いに、軽く握 り合うようにして。
目を閉じている。黒い髪 が浮かび上がっているのは、その髪の房 が、彼女の頭上に引っぱり上げられているせいだった。虚 空 の穴 に引っかけられるように。
まるで、蜘 蛛 の巣 にかかった蝶 ──か、あるいは蜘蛛の巣に陣 取 る蜘蛛そのものか。
女は美しかった。生物ではないように。ひたすらに純 白 で、滑 らかで、冷ややかな。自然に積 もった雪 像 にも似 ている。人の手で造 られた像ではない。かといって、純然たる自然が造 り得るものでもない。
その女を中心として、黄塵が吹き荒れていた。女は虚空に髪を捕 らえられていることで動けないでいるのか微 動 だにしなかった。
ここが聖 域 。すべての核 心 。
ロッテーシャはそれを見上げて、涙 をこぼした。
それが破 滅 的 なものであると、なぜか知っていた。
ああ。
にょろにょろと。
にょろにょろと生きていきたい。手足もなくそこらの隙 間 を音もなく這 いずって生きていけたらどんなにか素敵だろうか。
というわけで日常的に誰もが思うファンシーな願い事をしながらあとがきです。流れ星なんて見えなくてもきっと叶 うさ! 前向きだなぁ。秋田です。
十八巻ですよ十八巻。ついに十八巻です。きりがいいようなどうでもいいような数字です。
全然関係ないですが、ロト6買ったわけですよ。宝くじなんて買うのは生まれて初めてです。数字を六個マークしますです。一口二百円×五口を一シートで買えるので、千円分買ってみたっすよ旦 那 。
でたらめに数字を選んでみるですよ。選んでみたのですよ。結果はかすりもしませんでしたけど。で、自分が選んだ数字をよく見てみると......
ランダムに選んだつもりが、8と16 と24 をやたらと選んでるのですよ。ってここまで書いて気づいたけど、十八巻ホントに関係ないじゃん。まあどうでもいいですよね。八は縁 起 が良いから別にいいです。なんか今回のあとがき妙 にテンション高いですけど、風 邪 で寝込んでるんでやけくそです。ごめんなさい。
健康というのは大事だなぁと思うわけです。風邪なんて寝て休むよりほかに治す方法もないじゃないですか。迷惑っすよ。なんとかしてくださいよグレゴリーさん。誰ですかグレゴリーさん。知らないっすよそんな人。
......って、最後までこの調子で突き進む自信がなくなってきたので仕切り直し。
十八巻の巻末です。おつきあいいただきました読者の方々にまずは御 礼 申し上げます。著 者 校 正 していて気づいたんですけど、本書の通し番号は40 -35 。つまり富士見ファンタジアの四十人目の作家(ということでいいのかな?)の三十五冊目の本なのです。こっそりと三十五冊も書いていたんですね。こっそり?
オーフェンシリーズだけでいうと、ちょうど三十冊なのでした。まあ、記念になにがあるわけでもないんですけど、一 応 区切りってことで。
シリーズを始めたのはいつ頃でしたっけ......
八年前? うげ。
前も同じような計算したことありますけど、八年で三十冊と考えると、一年に四冊弱。まあたいした数字ではないですな。別シリーズとかを計算に入れると、四冊強ってとこですね。思ったより書いてない。
しかし八年も経 ったわけですよ。このあとがき書いている時点ではまだですが、本が出る頃にはぼくも二十九歳ですよ。
老 けるわけだ......
なんかしみじみしてしまいます。
ってこのパターンも前にやったかも。うう。
八年間というとあれですね。八年前に小学生だった子が、もう成人して足にロープつけて櫓 から飛び降りたり、素 手 でライオンを狩りにいったりだとかするわけですね。八年間、いろいろなことがあったでしょう。つらいこと、悲しいことを乗り越 え、出会いと別れ、そしてまた出会い。
さらにまた別れ。あまつさえ出会い。もういい加 減 別れ。しつこく出会い。なんていうか金 輪 際 別れ。なのにまた出会い。このくらい繰 り返せばもう立 派 なストーカーです。教えることなどありません。
なんの話だったか忘れましたけどまあいいですよね。インフルエンザに風邪を併 発 すると最悪です。普 段 考えたこともないような専 門 用 語 とか浮かんできます。スペキュレティブプリコンピュティションとか。多分もう二度と使うこともないと思いますけど。
思うに八年間というのは(あっ話題もどってる)、過ぎてみればあっと言う間......と言いたいところですけど。今もってぼくにとっても、とんでもなく長い歳 月 だったような気がします。
どうなんでしょう。世の中は八年経 ったからといって、たいして変わってはいないと思いますけど。
個人ひとりひとりは、八年間でどれほど変わったのか。変わっていくのか。
ぼくはなにかが変わったのだろうか。
今からそれを確かめようにも、日記などという都合の良いものをつけているわけでもなく。
ひょっとして八年前の今日もまた、風邪で寝込んでいたりしたのでしょうか。うんうんうなったり悩 んだりしながらあとがきを書いては......いなかったでしょうけど。
なんの記憶もありません。
そこで取り出してみるのは八年前に書いた自分の作品。
つまりはこのシリーズの一作目。
怖 々 とページを開き、のぞいてみる。
そして気づく。
......なんかあまり進歩ねぇかも、俺......
ま、まあいいか。いいよね。八年程 度 じゃ人は成長しないさ。ふふ。
とまあ、わりと絶 望 的 になったところで自分をいじめるのはもうやめにして、明るいことを考えましょう。
でもなんかあったっけか......
このところ、また仕事仕事と仕事ばかりの生活で、これといったネタがないんですよね。
しかしこんな時に限って、今回担当さんから言い渡されたあとがきの枚数は八ページ。
「余 裕 ありまくりなんで、書きたきゃ十五ぺージくらい書いてもいいっすよ」
ううう。しくしく。
あ、そうそう。こんなことがありました。
とても不 思 議 な話です。
原稿のデータをね。検 索 することってあるわけですよ。単語とか。
大抵は、なにをどこに書いたのかというのは概 ね把 握 してるので、検索するまでもないんですけど。だからそうしょっちゅうすることはないのですが。
たまーに、するわけです。
それで、やってみたら。
検索する単語の欄 に、前回検索した履 歴 が残ってるんですよ。
「マイケル」って。
......いや、そんなもん検索した記憶ないんですけど。
ていうかマイケルなんて原稿書いた覚えもないですし。
ナイト財 団 の呪 いに違いないと思うわけですが。どうでしょう。
そんなことはともかくとして、時代はアレですか。本が出る頃にはオリンピックは終わってるでしょうから、W杯ですか。
ってもサッカーあまりよく知らないんですけどね。嫌いではないのでW杯くらいは観 ます。でも、開催前に気になることがあるんですけど。
だいぶ前のニュースで『フーリガン対策の訓 練 やってます』だとかそんなトピックがあったんですよ。日本じゃないっすよ。そのフーリガン対策の訓練。なんか特 殊 部 隊 みたいな黒い服着た人たちが大勢ヘリから降りてきて、マシンガン構えて前進してる映像が流れてたんですよ。
............
撃 つんですかッ⁉
い、いやまあ、どう言っていいのか分かりませんけど......フーリガンってそんなに怖いもんだったのか......
なんかその映像のインパクトが強すぎて、本当にW杯を楽しみにして良いものなのやら悩んでます。あえてタイトルをつけるなら『惨 劇 の日』です。ていうかこの前夢に見ました。悩みすぎですか? 謎 は深まるばかりです。
それともあのニュース映像は、少年の日に見た一 瞬 の幻 影 ? 教えてよメーテル。メーテルといえば食 玩 に入ってたこの白いメーテルはなんじゃらほい? 控えめに言っても白すぎるんですけど......999はTVシリーズも映画も全部観 たつもりでいたんですけど、白いメーテルなんていましたっけ。でも観たの子供の頃だし、記憶が薄 れてるのかも。とにかくこれも謎です。白い恋人ブラックとかを思い出します。いやブラックのほうが好きなんですけどね。
と。こんな具合で血の惨劇と北海道の名産お菓 子 を同列の話題にしつつ、本書におきましてはこんなところで。ちっとも仕切り直せてないし。
ではでは、また次の巻末でお会いしましょう〜。
二〇〇二年二月──
秋 田 禎 信











霊 の回 廊 は、《霧 の滝 》に最も近い入り口と言われていた。とはいえ生身が通れる入り口ではなく、そういった意味では王 城 の無計画な増 築 の産物──袋 小 路 、無 価 値 な場所でしかない。ただそれでも、本来は封 じられている存 在 が漏 れ出てきては囁 きをこぼす。そういった集会場になっている。その囁きには価値があった。
どうしてここがそういう場所になっているのか。
理屈は分からなかった。距 離 的な意味で、位置的な意味で、《霧の滝》の所在地は彼も知らない。考えても詮 無 いことなのかもしれない。彼が現 在 の地位に就 いた時、彼を利用しようとすべての権 限 を与 えてくれた連中が教えてくれたのは、この霊の回廊のことだった。《霧の滝》の力を借りることのできる、唯 一 の手がかりがこの回廊だと、彼らは語った。彼はありがたく拝 聴 した──拝聴して、手に入れた。彼らが、彼に余 計 な力を与えすぎてしまったことに気づいた時にはもう遅 かった。
皮肉な思いで、彼は渋 面 を作った。感 情 を隠 す必要はない。彼はこの王都で奔 放 に振 る舞 った。誰 も文 句 を言いはしない。言わせないだけの働きをしている自 負 はある。王都の魔 人 プルートーは、厚 い筋 肉 に覆 われた肩 をぐるりと回した。この霊の回廊に来ると、得 体 の知れないなにかが肩にのし掛 かってくるような気がする。
四十歳 に近くなり、肉体のコンディションは絶 頂 から円 熟 の頃 合 いへと移 ろうとしている。戯 れにスクールに出向いて、若 い魔 術 士 たちを笑いながら蹴 散 らすのは楽しみのひとつだった──努力を惜 しまない学生たちが、彼の技 を盗 んで日に日に格 段 の成長を見せてくれることも含 めて。
その才気溢 れる彼らを。未来ある若者を。
(......また死なせなければならないか?)
渋面のまま、苦い息をこぼす。
もっとも、この大陸に果たして未来があるのかどうか。そもそも、あてにできないことではある。
霊の回廊は落ち着いた闇 をどこまでも深めている──光を灯 しても、それをいくらでも吸 い込 んでいくように。この回廊は地下にあった。王都の誇 るエッセンシャルバイツ城、その余人の知らない扉 から延 々 と階段を下り、番人の面通しを経 てようやくにたどり着ける。着いたところで意味があるかどうかはまた別問題だった。この回廊の住人たちは、気まぐれという点では際 限 がない。
さもありなん。肉も骨 も脳 も神 経 もなにも持たない連中に、人間と同じ道理を求めたところで詮無いことだった。
「だが」
彼は低く、うめくように声をあげた。
「今夜、わたしを呼 び出したのはお前たちだ──だんまりということはないだろうな?」
無人の回廊へと、空気の波 紋 は広がっていく。
彼の造 り出した魔術の光 明 は、圧 倒 的な闇を少しだけ押 し返すことに成功している。回廊はそれほど広くはないはずだが、闇のせいでどこまでも無限に空間を連ねているようにすら見えた。
やがて、その無限の彼方 から......
《......最 接 近 領 ......滅 びた......》
肉声ではない呼び声が響 いてきた。
否 。無限の彼方から、ではない──王都の魔人は妄 想 を振り払 った。迷 信 に負けるわけにはいかない。会話の相手は無限の力を持った悪 夢 の怪 物 などではなく、もっとはっきりした存在だった。精 神 士 。肉体を捨 てた白魔術士たち。精神体となって存在を続ける超 自然体。
相手の正体を見定めていなければ、判 断 を誤 ることになる。彼は自分に言い聞かせて言葉を続けた。
「当たり前だ。シーク・マリスクは最も優 れた戦士だ。最後の賭 けだったが、わたしは最初から勝つつもりでいた」
《勝った......のは......シーク......マリスク......ではない》
「ではカコルキスト・イストハンか。どちらでもいい」
《どちら......でも......ない......》
「?」
理 解 できずに、彼は疑 問 符 をあげた。と、回廊の精神士たちはさらに遠くから、姿 のない声を響かせてくる。
《最接近領......恐 るべき悪 霊 ......ダミアン......ルーウは......天魔の魔女によって......滅ぼされた......》
「なんだと? あの娘 は帰 還 しない、女 神 と戦い滅びたと、お前たちはそう言っていただろう」
プルートーは声を荒 らげた。
「お前たちが言ったのだぞ──チャイルドマン・パウダーフィールドの用意した手 駒 はすべて尽 きたと。だからわたしは、最接近領の領主を殺せる者を部下の中から選ばなければならなかった。急 かしたのはお前たちだ。勘 違 いだったでは済 まさんぞ! わたしに同 胞 を生 け贄 とさせたのか!」
《チャイルドマン......パウダーフィールド......あの大魔術士......》
声はひとつのものか。複数の声が混 ざっているのか。それすらも分からない。音声ではないのに壁 に反 響 する、奇 怪 な絶 叫 だった。それが続く。
《彼は計画など......立てていなかった......彼はただ......備 えていた......》
「どういう意味だ? なにが違う?」
《危 難 が訪 れた時......自然とそれに立ち向かう者たちを......育てていた......ただそれだけ......彼は手駒を用意していたのではなく......》
「ふん。つまりはあいつを褒 め称 えたいだけか。いいだろう。奴 はお前らのお仲間だからな──太 古 からの死 に損 ないという意味で」
彼は鼻で笑うと、改めて声をあげた。
「どうせなら、本当に奴をお前らの仲間にして蘇 らせたらどうだ。そうすりゃ役に立つ。意味もなく、うっかり弟 子 に殺されるなんぞという死に様をさらして許 されるような立場でもなかったろうに──」
「あの人は天 魔 の魔女を切り捨てられなかった。ただそれだけよ」
聞こえてきた声に、振 り返る。
女の、それも聞き慣 れた──いや、痛 いほど耳に残っていた声 音 だった。思わず身を退 くような、きつい女の声。
彼を追うようにゆっくりと、足音を立てて回 廊 を歩いてきたその女に、彼は問いかけた。
「......どうやってここに? マリア・フウォン」
「わたしも召 喚 されたのよ。ほかにあの番人の前を通 過 する方法はないでしょう?」
返事はすぐに返ってきた。その若 い魔女は、年 齢 には似 つかわしくない──そしてその立場にも似つかわしくない堂々とした足取りで近づいてくる。《牙 の塔 》の紋章を誇 らしげに身に着けたマリア・フウォンは、否 応 なく別の人物の名前を思い起こさせる存 在 でもある。
別の人物。そして、別の組 織 。
彼女は《牙の塔》を代表する黒 魔 術 士 のひとりだった。
苦々しい思いで、プルートーは訊 ねた。
「それで? どういった名目で呼 び出されたのだ?」
「イールギットが死 亡 した、と」
生徒の名前を口に出すのと同時、彼女は足を止めた──感 傷 ではなく、それ以上近づいてくる必要を感じなかったためだろう。魔術の灯 明 にさらされた顔は青ざめてはいたが、特に感 情 を示 してはいなかった。
(鉄でできた女 が......胸 くそ悪い)
胸 中 で罵 って、プルートーは続ける。
「シークとカコルキスト──あのふたりも死んだそうだ。まさか、あのふたりを倒 せる者が大陸に存在するとは思っていなかった」
「ふざけないで。知っていたはずよ。最 接 近 領 にはユイスがいる。何者をも上回る黒魔術士がね」
「どうして黒魔術士が互 いに殺し合うのだ!」
憤 懣 に拳 を握 り、彼は叫 んだ。
「ユイス──お前があえてその名前で呼びたいのならそう呼べばいい──ユイス・コルゴンは狂 っているのか。大陸魔術士同 盟 は、魔術士の友愛と団 結 を謳 った!」
「だけど閉 鎖 的に過 ぎた。それに反発する魔術士がいることも理解するべきよ」
即 座 に言い返してくるマリアを無 視 する形で、プルートーは付け加えた。
「......何 故 、得体の知れない領主などという男に従 う。意味がないはずだ......」
と、なにもない空間──そう見える──に向き直り、
「そして天魔の魔女か。チャイルドマン教室の連中が、横やりを入れてきているということか? 三人の死にも奴らが関 わっているのか?」
《......すべて......は......聖 域 の......手の中に......ある......》
その声がマリアにも聞こえているのか彼女に目配せして確 かめてから、プルートーは声を張 り上げた。
「人になにかをさせたいのなら、全 容 を明らかにしろ! なにも分からずに仲間を死地に送り込 まなければならなかったのは、誰のせいだと──」
《......我 々 とて......知らぬことは......多い......時を越 える我らは......時を見 逃 すことも多い......》
「言い訳 などいらん! お前たちはわたしを動かし、《十三使 徒 》を動かし、貴 族 どもを動かしてきたのではないか? そうだ。最接近領を動かしていたのも貴 様 らの代表であるダミアン・ルーウとかいう化 け物だ」
《ダミアン・ルーウは......滅びた......稀 代 の術者が次々と......失われていく》
「............」
歯がみして、彼はうめいた。
「なにが言いたいのだ」
「変化が起こるということ──そうでしょう?」
答えてきたのは死 霊 たちではなく、マリアだった。ただし、死霊よりも死霊らしい声には聞こえた。
ふらりと、彼女がついに彼よりも前に進み出る。マリア・フウォンは回廊全体に響 くように声をあげた。
「なにかが新しい段 階 に入るのだと。でも、犠 牲 が淘 汰 だと言うのなら、わたしは」
と、彼女は口ごもった。感情をあらわにすることに抵 抗 があるのか、ゆっくりと、苦い味でも呑 み込 む面 持 ちで、
「たとえそれが正しいことなのだとしても......わたしは、死んでいった者たちに代わって......それを怒 り続ける。決して許 せない」
《誰にも......悲 嘆 がある......無数の......渦 巻 く慟 哭 を餌 にして......この一千年という時代が積み重ねられてきた......》
「その餌が、なんとも都合よく進歩と呼ばれるその餌が、馬 鹿 者 の鼻先に吊 られた人 参 でないと貴様らに言えるのか? どこまで追っても得られない、すべてが単なる破 滅 ではないと誰に言える?」
「犠牲が必要だということは認 めましょう。でも、だからといって命を貪 る者の存 在 を看 過 することはできない! 自分や仲間の命を守ることもできないのなら、わたしたちの力はなんのために与 えられたの⁉ 」
《十三日後......聖域はすべてを捨 てる》
声は、彼とマリア、ふたりの叫びをまったく無視した。
無視して、続けた。
《これは予言ではない......すべてが今のまま進めば......十三日後......聖域のみを残してすべてが捨て去られる......予定となっている......》
「誰が立てた予定だ!」
プルートーは問いつめた──相手の姿 が見えたならば摑 みかかりもしただろうが。死霊たちは暗い淵 から出てこようとはしない。
ただ言葉だけを伝えてくる。
《......誰でもない......聖域......神々......そしてお前たち......すべてが望んだこと......》
「滅 びなど、誰が望むか!」
《滅びか......? 再 生 かもしれない......》
「自 らの命が滅ぶこと、それが滅びだ! 馬鹿どもがきれいごとを重ねようが、科学がそれを証 明 している。生命は自 衛 のために戦うのだ!」
言いながら。
これがいかにも虚 しい主 張 であることは分かっていた。自分が生命のない死霊に──それも自ら望んでその死霊と化した者たちに向かって語っていることを思い出し、彼はかぶりを振 った。馬鹿馬鹿しい。この精 神 士 たちこそが、科学を捨てて妄 想 ときれいごとに逃 避 した愚 か者のなれの果てではないか......そして自分は、そんなものの言葉をあてにしている......
彼は咳 払 いして、言い直した。
「お前たちが滅びを肯 定 するのなら、どうしてわたしを利用してまで聖域に対抗させるのだ?」
《肯定は......しない......滅びが再生ならば......我らは......世界の再生をこそ......望まない......》
「なにが言いたい?」
《神はどこにいるのか ......》
鼻で笑って、プルートーは告げた。
「そんな問いかけなど! 実在が立証された時には、神々はただの化け物になっていたのだろう! 力を振るって世界を滅ぼすだけの最悪の化け物にだ──」
《だから......本当の......神は......どこにいるのだ?......心の......平安は......?》
声とは別に、金切り声のようなものが響いた──背 筋 を粟 立 たせるような、鋭 い悲 鳴 が。
それもまた肉声ではない。死 霊 たちの怨 嗟 の怒 号 だった。
《力を求めたダミアンのような者を除 き......我 らは......それを求めて......ただその答えだけを求めて......この存在へと......昇 華 した......それが大陸からの......脱 出 ......なのに平安は......どこにある......我らはどこに行けば......良いのか......それを知るまで......世界を終わらせてしまっては困 る......》
「神はどこに......」
これは、空気を震 わせた人間の声だった。
ぞっとして、見やる。死霊が肉を持って蘇 った──のではなく、それまで黙 り込 んでいたマリア・フウォンの囁 きだった。うつむいて、床 の一点を見つめている。こちらの視 線 に気づいて、彼女は顔を上げた。
「わたしたちに宗 教 家 になれっていうの?」
自 嘲 の笑 みを浮 かべる彼女のことはあえてほうっておいて、プルートーはつぶやいた。
「死霊ども、まさかわたしを震え上がらせるためだけにここに呼 び出したわけではあるまいな? 十三日後と言ったからには、十三日以内に必要な場所にわたしを送り出す準 備 はあるのだろうな?」
《無 論 ......ダミアンが滅びた今......我らは自由だ......ダミアン......鬼 の王......に成り代わった新たなる覇 者 ......天 魔 の魔女は......我らの邪 魔 はしない......》
「本当だろうな?」
と。
念押 ししていると、マリアが横から聞き返してくる。
「あなたを 送り出す?」
彼女のほうは見ずに、プルートーは告げた。
「今度はわたし自身が行く。《十三使 徒 》の長 としての面子 を通す」
「それはできないでしょう? 貴 族 連 盟 はとっくに気づいていて、口出しする機会を待っているだけなのよ」
「最初にわたしが行っていれば、犠 牲 を出すことなどなかった!」
叫 ぶ。
が、マリア・フウォンはにべもなかった。益 体 もない正論の口調で言ってくる。
「犠牲がなくなるなんてことはない──どうやっても犠牲は出るのよ。わたしたちの側に出るか、向こうの側に出るか、ただそれだけの違 い。軍隊を使わないというだけで、これは戦争ですものね」
「お前は平気なのか......お前の生徒も恐 らくは死んだぞ。平気なのか!」
とうとう彼女に向き直って、怒 声 を重ねる。
そして──正面から見 据 えて、初めて気づいた。マリアの唇 が嚙 み切られている。その血が唇をますます赤いものにしていた。
「誰 が平気ですって?」
自らの唇を嚙みしめるそのままの口調で、彼女は凶 暴 な眼 差 しを突 きつけてきた。
「でもね、暴走した最 接 近 領 とドラゴン種族の聖域とが、大陸すべてを無にしてしまうかもしれない時となれば、神でも悪魔でもならないといけないでしょう⁉ 」
「お前はそんな女ではないはずだ」
「あなたに言われる筋 合 いではないわ」
口論になることを避 けるため、プルートーは口を閉 じた。ただ、別のことを告げることにした。
「最接近領が終わったのならば......次は、聖域を滅 ぼす。もとより、ずっと前からそうしなければならなかったはずのことだ。《十三使徒》の全人員を投入してでも、これを果たす。そうすれば、この大陸は人間種族のものになる」
「いいえ。誰のものにもならないわ。それでも──すべてを滅ぼす神々のものになんか、させない」
マリア・フウォンの言葉は、最後まで彼に反論し......それはプルートーには気に入らないものだった。
灯 火 の揺 れる音や、壁 から埃 が落ちる音。耳をすましたとしても、聞こえるか聞こえないかあやふやな音。それらに囲まれて、オーフェンは待っていた。蝋 燭 ひとつしか明かりのない部屋の中は、まるで影 の住人がひしめいているかのように、暗く狭 く感じられる。実 際 には、部屋には十分な広さがあった。彼が椅 子 に座 り、そして床 に倒 れた男が意 識 を回 復 させるまで、待つのには十分な空間が。
時を刻 むなにか──ただし時計はここにはない──に意識を傾 け、仮 眠 しながらそれに聞き入る。夢 うつつに考えることがある。世界が始まって以来、時が止まったことはあるのだろうか。止まったとして誰も気づけないのだから、何度かそういうことがあったのだとしても否 定 はできない。
(いや......)
時は動き続けてきた。一度として速度を変えず。一度として止まることなく。一度として溯 ることもなく。
過 去 と、現 在 と、未来。その三者を交 わらせることのないまま、時間は進んできた。三者は決して出会わない。三者の邂 逅 があるとするならば、時の速度が変わり、時が静止し、時が逆 行 するその時に他 ならない。
それこそ、世界が終わるその瞬 間 ということになるのだろう。
「............?」
彼は、顔を上げた。ふと疑 問 に思った。
(どうして......そんなことが気にかかる? なんで急にこんなことを考えたんだ? もっとほかに考えなけりゃならないことはいくらでもあるってのに......)
誰かが耳元で囁 いたのかもしれない。
苦 笑 して、まぶたを下ろした。視 界 は閉ざされたが、彼のほかに部屋にもうひとりいる、その存 在 のことは意識していた。倒れたまま動かない男。
最 接 近 領 の領 主 。
オーフェンは嘆 息 して、その男の目覚めを待ち続けた。
◆◇◆◇◆
「この仕打ちはいかなる理由か、説明を要求するぞ、小 娘 」
「なに言ってんの。潜 入 してきた殺し屋の手先になってたくせに」
訊 ねてきた地 人 に、クリーオウは即座に答えた。と、ロープでぐるぐるに縛 られた地人ふたり──兄弟のうちひとりが、声を大きくして言い返してくる。
「誰が殺し屋風 情 の手下だっ⁉ このマスマテュリアの闘 犬 、ボルカノ・ボルカン様としては、そのよぉな犯 罪 者 扱 いは断 固 抗 議 するっ! 具体的には縄 っ!」
「解 いたらどうするわけ?」
「戦 略 的に撤 退 する」
言われて、クリーオウは腕 組 みした。きっぱりと告げる。
「逃 がすのもなんとなくムカつくから縛ってあるんじゃない」
「言い訳 などいらんっ! そこをなんとかしてくれなさい!」
「ていうか、ムカつくからなんだ......」
地人がそれぞれわめくのを無視して、クリーオウはあたりを見回した。
彼女らがいるのは、調理場だった──集めた食料がまとめてあるため、なんとなしに待機部屋にされてしまったような感がある。
夜は長かった。とはいえ、館 にもどってきてから何時間も経 ったというわけではない。ただじわじわとしか進もうとしない時間が、ひたすらにもどかしい。あまり大きくない魔 術 の灯明を睨 みつけて、クリーオウは眉 根 を寄 せた。理由もなく苛 立 っている。
「なにやってるんだろ。オーフェン。なんか変な感じ」
「クリーオウももう少し落ち着きなよ」
言ってきたのは、調理場の隅 に座 り込 んでいる少年だった。
馴 染 みの顔である──学校の同級生だったのだから。それもだいぶ遠い昔のことのように感じられたが、ほんの半年前のことでしかない。クリーオウは彼のほうをやや強めの視線で見やって、そのまま告げた。
「落ち着け? なんかよく分かんないけど悲鳴が聞こえて、領主様は倒れてて、レキに続いて今度はロッテーシャがいなくなっちゃったのよ。なにを落ち着くのよ」
「慌 てるよりはいいじゃないか。お師 ──オーフェンさんだって、あとで説明するって言ってたし」
「そう言って説明してくれたためしがないんだから」
ぶつぶつと独 りごちてから、クリーオウははたと気づいて、
「それで、オーフェンは領主様が意識を取りもどすまで待ってるんでしょ。あんたはなんでこんなとこにいるのよ。あんたが領主様を看 てればいいじゃない。あんな大 見 得 切ってたんだから」
言われて、少年──マジクは視線をそらすようにうつむいた。そのまま、小さくつぶやいてくる。
「ぼくは独り立ちしたいんであって、別に領主様にこだわってたわけじゃないよ」
「だったら、ひとりでもできることをやりなさいよ。わたしもなんか考えるから」
「ぼくにできることは──」
と、彼は口ごもった。
クリーオウが視線で促 すと、マジクはまだしばらく迷 いつつも、あとを続けた。
「ぼくにできることは、ここにいるクリーオウたちを守ることだよ。クリーオウの言った通り、なんか次々に人がいなくなってる。なにか攻 撃 を受けてるんだ。守り手がいないと、オーフェンさんが身動き取れなくなる」
「............」
言われて──本 能 的になにかを言い返したくはあっても、反 論 すべき点が見つからずにクリーオウはただ音のない息を吐 いた。
会話が途 切 れれば、調理場は静かだった。領主の館 そのものが静まり返っている。自分たちを除 けばほぼ無人なのだから、それも当然だった。地人たちが縄を解こうと身体 を揺 すっているが、その音すら静 寂 を破 るのに決定的ではない。
どうしたところで破れないのかもしれない──嫌 な空気を感じながら、クリーオウは続けた。
「いったい、なにがどうなってるんだろ」
「領主様の言っていたことは覚えてるだろう?」
マジクの声にも陰 鬱 なものが混 じっている。
「この最 接 近 領 は、ドラゴン種族の聖 域 と戦っている人たちの基 地 なんだ。それで攻撃を受けて......つまり負けたってことなんだろうと思う」
「それは分からないでもないけど......」
気むずかしい心 地 で、クリーオウは腕組みした。そのままつぶやく。
「だったら、ここはどうなるんだろ」
「分からないよ。でも、あのダミアンとかいう白魔 術 士 が消えてしまって、ここにはとうとう戦える人は誰もいなくなっちゃったんだ」
「それで、まだ攻撃を受けるの?」
「領主様が残ってるから......そのへんのことを確 かめたくて、オーフェンさんは待ってるんだろうと思う。逃げようったって、こんななにもない土地でしかも夜間じゃ、危 なすぎるんだろうし」
「レキを探 しにいきたかった──んだけど......」
クリーオウは思いつきを口にして、声を落とした。
「でも、ドラゴン種族がそんな感じなんじゃ、余 計 にレキを苦しめるだけかな......」
「でも、領主様がレキになにかを頼 んだんだ。それがうまくいけば、聖域との力関係が逆 転 するって言ってたよね」
「わたしは、それをさせたくないのよ」
「じゃあ、どうして欲 しいのさ」
こだわってくるマジクに、クリーオウは不 機 嫌 に口を尖 らせた。
「分からないわよ」
「じゃあ、クリーオウだって、自分になにができるか分かってないんじゃないか」
「だから、考えるって言ってるでしょ......やつあたりしたのは謝 るわよ。ごめん」
告げると、地人たちのほうからも声があがった。
「できればこっちのやつあたりロープも解 いて欲しいんですけど......」
とりあえずそれは無 視 して、クリーオウは椅 子 を引き寄 せた。調理場の椅子はひとつが壊 されていたが、それは片 づけておいた。昨日、自分は恐 らくその椅子に座って、ロッテーシャにホットミルクを出してもらったのだ。思い出し、彼女はますます気落ちする自分を自覚した。そのロッテーシャも行方 不明である。マジクの話では、クリーオウがいなくなった時、殺し屋を追いかけていってそのまま帰ってきていないという。あまり安心できる情 報 ではない。
ロッテーシャの持っていた剣 はもとより、ごたごたで自分の剣もなくしてしまった──キムラックであのじじむさい死の教 師 とやらからもらった剣である。もとより、使い勝手の悪い骨 董 品 だったが。あれよりはマシな武 器 を探しておきたかったのだが、この領 主 の館 には武器らしい武器はなかった。領主の護 衛 がいたという宿 舎 は、昨日跡 形 もなく吹 き飛んでしまっていた。調理場の包丁でも持ち出そうかとさえ思ったが、気乗りせずに断 念 したのだった。もとより、自分が刃 物 など振 り回したところでどうにかできる事 態 でもないらしいことは分かっている。
(多分、わたしが余計なことしないほうが良いんだろうしね)
空 虚 な吐 息 をつく。仮 にどんな力があったところで、使い方を知らなければ暴 走 しかできない。魔 術 士 が魔術士であること──それは力を持っていることではなくて、持っている力の制 御 を行うことだった。自分にはその訓練も心 構 えもない。レキの身体 を借りた時に、それは思い知った。
(レキの魔術でも、剣でも武器でもなんでも、同じことかな......)
「とにかく」
どこにともなく──あえて言うならば夜の静 寂 に向かって、クリーオウはつぶやいた。
「わたしはわたしのことを、ちゃんと決めなくちゃ」
小さな声だった。誰にも聞こえなかったのだろう。誰もなにも、反 応 しない。
◆◇◆◇◆
「これに着 替 えるんだ」
調理場に入ってオーフェンは、持ち出してきた長 袖 の作業着二着をテーブルの上に置いた。室内の視線が集まってくる。特に少女の碧 眼 を意 識 していると、彼女はおずおずと聞いてきた。
「領主......様は?」
「まだ起きてない。というより、待つべきじゃなかった。すぐにここを出るぞ。領主はここにほうっておく」
言いながらオーフェンは時計を探した──といって調理場に時計があることを期待したわけでもない。カーテンのない窓 からは外が見えたが、星や月が見える角度でもなかった。もとより、だいたいの見当はつけていた。あと二時間ほどで夜明けが来るはずだった。
「ほっとく?」
と、自分の分の服を手に取って、クリーオウ。
オーフェンはうなずいた。
「詳 しい説明は省 くが、領主なる人間は実 在 しない。ダミアン・ルーウの作ったデミヒューマン、傀 儡 だ。考えてみたら、ダミアンがいなくなって二度と目覚めるのかどうかも定 かじゃない。それよりも、なにか嫌 な予感がする」
革 製 の戦 闘 服 の中で身 震 いするのを感じ、付け加える。
「ここから逃 げたほうがいい」
「逃げる? どうやって。どこに?」
彼女は作業着を広げて、気に入らなかったのか、やや眉 をひそめたようだった──が、さほどこだわらずにもう一着をマジクのほうに押 しやると、不安そうに続けて聞いてきた。
「オーフェンもいっしょに来るのよね?」
「ああ」
もう一度オーフェンはうなずき、調理場の、外 したままになっている床 蓋 を指し示 した。その下の空間は枯 れた水路になっている。
「この地下通路がある。脱 出 はなんとかなるだろ。それから先、どこに向かうかについては......確 信 はないな。ただ、ここは危 険 だ。ダミアンの言葉を信じるなら、朝になると聖 域 からのなんらかのリアクションがありそうだった」
思い出したのは、黒い聖服の男......だったが。
それだけではない──それどころではない力を、ドラゴン種族の聖域はいくらでも有している。彼らは都市ひとつを壊 滅 させる武器を無 造 作 に持ち出せる。ドラゴン種族と人間種族の力量差というのは、厳 然 としてあった。
(それを思えば、警 戒 が足りないくらいだったな、くそっ)
胸 中 で毒づいて、オーフェンは続けた。
「なにしろ夜間だし、これから先どうなるのか分からない。少しでも暖 を取れる格 好 でないとな。俺 はここの食料を携 帯 できるように詰 め込 んどくから──」
と、クリーオウらに集めてもらっておいた食料品の入っている箱の中を見やって、一番上にあった得体の知れない紙包みを取り上げる。その重さを確 かめると、ようやく中身に見当がついた。
「......これ、バターか? これだけ食うのか?」
「注意すれば日持ちするかと思って」
「確かにまあ携行食としちゃ上出来だが......そんな腐 った軍事マニアの晩 餐 会 みたいなのは嫌 だぞ、俺は」
「言ってる意味はよく分からないけど、わたしだって嫌よ」
クリーオウはそれだけ言うと、着替えるためだろう、服を抱 えて調理場を出ていった。
残った三人を見回す。マジクはずっと黙 っていたが、もそもそと着替えを始めている。そして地人たちは──
なにやら不 機 嫌 そうににらみつけてきているボルカンとドーチンの格 好 を観察して、オーフェンはただ一言、感想を漏 らした。
「む? なんだお前ら。完全体か?」
「ぬぁにが完全──ぎゅっ⁉ 」
わめき出したボルカンの口にバターの包みを押 し込んで黙らせると、その横から、縛 り上げられたままドーチンが、あきらめきった静かな口調で聞いてきた。
「......縛られてるだけですけど、なんでそれが完全体なんですか?」
「だって、とても自然じゃないか」
ごく普 通 に答える。
が、ドーチンは理 解 できなかったようだった。また一 瞬 、諦 観 のこもった表 情 を見せた──眼鏡 の奥 にそれらしい光があった──が、そのまま質 問 を繰 り返す。
「とりあえず聞きたいんですが、それはどんな認 識 なんでしょうか」
「うーん。まあとにかく、お前らが困 ってるととても心が朗 らかになるというか、こう、胸 の中に暖 かいなにかが、ぽっと灯 る感じで」
「それはなにかの病気だと思われます」
「そうかなぁ」
と言っていると、横から怒 鳴 り声が響 いてきた。
「貴 様 、なんか俺様が黙っている間に好き勝手言ってないかっ⁉ 」
「うわっ! 平気で食べ終わってるしかも包みごとっ!」
さすがに脅 威 を感じてオーフェンが後ずさると、むしろ満足げに唇 の周りをなめ回してからボルカンは言ってきた。
「うむ。久 しぶりに人間らしい食事をした気がする」
「まあ人間の食料には違 いないが」
「文化生活の始まりを宣 言 しようと思うが故 、このルネッサンスとは限 りなく程 遠 いロープをとっとと解 きやがってください」
「うーん......だってそういうのムカつくし......」
オーフェンが悩 んでいると、今度はドーチンが割り込んでくる。
「いや、その程 度 は人としてムカつかずに解いておきましょうよ。ぼくらさっぱり意味なく縛られてますし。ひょっとしてじゃなくてかなりの確 率 で犯 罪 じゃないでしょうかこれって」
と──
「あの、オーフェンさん......」
マジクだった。着 替 えを終えて、なにやら気 後 れしているようにうつむきながら言ってくる。
「ぼくは、その」
「まさかお前、ここに残るとは言わないだろうな。もう領 主 は役に立つのかどうかも分からないし、ここは聖域の攻 撃 にさらされる危険がある。俺は独 り立ちは認 めたが、それでも道理には従 ってもらうぞ」
とりあえず箱の中にある食料の選別を始めながら、オーフェンは顔をしかめた。持ってきておいたナップザックに、かさばらないものから詰めていく。
マジクはゆっくりと近づいてくると、選 り分けを手伝おうというのか箱からビスケットの包みを取り出してこちらに置くと、あとを続けてきた。
「ここを離 れるというのはぼくも賛 成 です。できれば領主様を連れて行きたいですけど......でもそれよりも、まだ目的地を話してもらってません」
「......俺は聖 域 に向かうつもりだ」
「えっ?」
聞き返してくるマジクに、オーフェンは告げた。ふと、手が止まる。
「とはいえ、十三日以内にフェンリルの森を抜 けてその中心地──しかも正 確 な位置が分かってるわけですらない中心地に着ける見 込 みなんざ、ゼロに等しいか......」
「なにか必要な条 件 があるんですか?」
「ああ。っても、そもそもどういう意味なんだか俺にも分からないけどな」
十三日後、聖域に家族が揃う──
これは予言ではなく予定──
つまりは、黙っていてもそうなるということではなく、そうしなければ成されることはない。そういうことなのだろう。
(イールギットの遺 言 ......か)
断 末 魔 の譫 言 だと断じてしまうこともできる。
が、オーフェンはかぶりを振 った。家族。現 在 、姉のレティシャは行方 不明。ダミアン・ルーウは彼女が死んだと強 硬 に言い張 っていたが、その後にボルカンとドーチンが生きているレティシャと遭 遇 している。昨夜、このふたりを使ってロッテーシャを館 の外に誘 き出すよう指 示 したのはコルゴンと......レティシャのふたりだという。
そして再 び行方をくらまして、今はどこに向かっているのか──と考えると。この最 接 近 領 からわざわざ進む土地となれば、聖域という可 能 性 が高い。
思案して、オーフェンは独りごちた。
「どうにも気になる符 合 なんだよな。そもそもティッシがこんな土地にひょっこり現 れた理由もいまだに分かってないんだが」
「は?」
「なんでもない。こっちのことだ」
と、中身を詰 め終えた鞄 の口を閉 めてから、オーフェンは縛 られた地人たちのほうを見やった。
「そういえばお前ら、ティッシといっしょに現れたじゃねぇか。なにかここに来た目的とかなんとか聞いてないのか?」
「さあ......ただ荷物持ちが欲 しいだけだったみたいでしたけど。あとは、あなたを探 すのに人手がいるから手伝えとか。しかも約束のお礼もらってません。これって訴 えればなんとかなるでしょうか」
ぼんやりと──色々とあきらめた様子でぼやくドーチンの問いには答えず、オーフェンは改めて腕 組 みした。吐 息 混 じりにつぶやく。
「ティッシか......それに」
アザリー。
その名前を思い出して、気が重くなるのを自覚する。もともと、この最接近領には、彼女の所在を知るためにやってきたのだ。現在、彼女にコンタクトできるのは領主──というよりダミアンだけだということだったが、今となってはどうしようもない。
と、こちらが関係ない独り言を続けていることに腹 を立てたのか、マジクが声をあげてきた。
「クリーオウは、レキを探したいって言ってました。レキは確 か、ロッテーシャさんが最後に見た時、フェンリルの森のほうに向かっていたってことでしたよね? だとすると、やっぱり聖域なんですか」
「だろうな」
「ぼくは──」
言いかけてマジクが声を萎 ませる。
それを眺 めやって、オーフェンは──多少、意地の悪さを自覚しつつも──訊 ねた。
「お前だけ聖域に行く理由がない、か?」
さすがにむっとしたのか、マジクの表 情 が険 しくなったように見えた。とはいえ視 線 はこちらに向けないまま、少年は言ってきた。
「......ずっと蚊 帳 の外にいましたけど、なにか危 機 的なことが起こってるんだろうっていうのはぼくにだって分かります。ぼくだって魔 術 士 ですから、それを止めるために力になりたいです。だから聖域に行くというのは変ではないと思います」
「別に止めねぇよ。やりたいことがあるのなら止めない約束だしな」
「ところで俺様たちは、こんなわけも分からず縛られる上、約束の謝 礼 ももらえんような場所からは全速力で離 脱 したいのだが」
「そりゃまあ、別にそれも止めんが」
一 応 つぶやいてきたボルカンにそう答えて、オーフェンはようやくふたつのナップザックを中身でいっぱいにした。この食料がどれだけ保 つのか、体力を維 持 できるのかということになれば疑 問 ではあったが、ないよりは遥 かに有 効 なはずではある。
と、そこで。
ばんっ、と扉 を開けて、クリーオウが飛び込んできた。
「着 替 え終わりっ!」
作業着は案の定 、彼女には大きすぎたようで、両手足の裾 を何重にか捲 っている。
「よし」
オーフェンはうなずいて、ナップザックのひとつを彼女に突 き出した。
受け取りながら、クリーオウが訊ねてくる。
「これは?」
「これはって、食料に決まってるだろ」
答えると、彼女はきょとんとしながらも言い返してきた。
「そうじゃなくて、なにを詰めたの? ビスケットはこっち? 例のラメ入り紫 パテが出てきても食べないわよわたし」
「いや好き嫌 い言ってる場合でもないだろ。ていうか紫パテってなんだ」
「ロッテと食べ物集めてる時、なんか見た目、そういうのがあったんだけど......」
クリーオウは、まだいくつか中身の残っている箱へ視線を投げたようだった。
「食べられるのかどうか分からないけど、いちかばちか命を賭 けてみようってことになったのよね」
「頼 むからやめろ。そういう格 好 良さは」
言って、もう一 個 のバッグを背 負 い、オーフェンは地人たちに向き直った。
「よし行くか。じゃあお前らには、このへんの微 妙 に手のとどかないあたりに包丁とか置いといてやるから、努力と苦 悶 の末にがんばってなんとかしてくれ。大 丈 夫 だ。朝になってこの館 にとてつもなく破 滅 的ななにかが起こっても、どうせお前らは死なない。多分」
「だからってなんでそんな無意味な試練を......」
「黒魔術士! 貴 様 ひょっとしてもしかしてと思いつつまさかとは思うが、このマスマテュリアの闘 犬 ボルカノ・ボルカン様に敵 意 を抱 いていないか⁉ 」
それぞれ声をあげるドーチンとボルカンに背を向けて、床 下 の廃 水 道 をのぞき込 む。湿 った空気を吸 って、オーフェンは魔術の構 成 を編 みながら呪 文 を唱 えかけた。掲 げた指先に意 識 を集中し、
「我 は生む小さき──」
「逃 げる必要はない」
聞こえてきた声に、その構成を霧 散 させた。
オーフェンは視線だけで、調理場の入り口を見やった。昨夜にも似 たような姿 、似たような光景を見ている。そこにはぴったりとその機会を狙 ったように、ひとりの男がいた。余 裕 を持った笑 み。精 気 に満ちた両目でこちらをのぞいている。最 接 近 領 の領主。
その男は、見た目だけならば、その正体──実 在 していない〝ゴースト〟であるということも信じがたい。物静かに、だが刺 すように、告げてくる。
「いや。ここから離 れれば、待つのは確 実 な死だぞ、鋼 の後 継 ......」
「それを鵜 呑 みにしてあんたに従 うのが、死ぬよりたちの悪い破滅でないと言えるのか?最接近領の領主」
「言えるさ、旧 友 よ」
領主は優 雅 に手を振 ると、順番に声をかけた。まずはマジク。
「......我 が最接近領はまだ力を失っていない。マジク・リン。わたしを見 限 るのは早 計 というものだよ。わたしは君を、大陸で最も強い術者に鍛 え上げることもできる──ユイスと同じ高みに」
次に、クリーオウに。
「クリーオウ・エバーラスティン。君はドラゴン種族の友達に再 会 したいのだろう? ならばなおさら、ここにいるべきだ。これは当て推 量 などではない。厳 然 たる予定があり、すべてはそれに従うことになっている」
そして最後に、地人たち兄弟を見つけて──
「おやおや。また知らない客人が増えている。もちろん歓 迎 しよう、この大陸にあって聖 域 に与 しないすべての者のため戦う。それがわたしの役目なのでね」
「あんたの役目は、この馬 鹿 げた騒 動 をとっととやめることだ」
オーフェンは即 座 に告げると、廃水道にかがみかけた腰 を上げて領主に向き直った。その間にクリーオウとマジクの顔を盗 み見る──ふたりは押 し黙 って領主を見つめている。光量の足りない室内で一 瞬 うかがっただけでは、彼女らの表 情 の下にある感情まで読みとることはできなかった。が、そこにあったのは少なくとも服 従 でも後ろ暗さでもない。領主の言葉を受けてその意味を探 ろうとしているのだろう。
「分かったぞ!」
と大声をあげたボルカンは無 視 して、オーフェンは食料の残っている箱の中を探った。なにやら素 焼 きの容 器 を取り出して蓋 をずらすと、異 様 な紫色のペーストがのぞいている。
「いや実は分かってないんだがとにかくおい貴 様 、この邪 悪 な黒吊 り目を爽 快 にかっ飛ばして、俺 様 のロープを解 いてくれるとありがたい──」
叫 ぶボルカンの口に容器ごと謎 のペーストを突っ込んで、オーフェンはそのまま告げた。
「あんたのやっていることは勝てない喧 嘩 だ。昨日も言ったはずだな」
「聞いた。だが旧友よ。君はわたしがどういった存 在 かを知った後も、同じことを言うつもりか?」

領主は入り口から一歩入ってくると──こちらの眼 差 しを浴びて、そこで足を止めた。オーフェンは苦 笑 した。彼の手がとどかないわずかに外側。別 段 、こちらの攻 撃 が怖 いというわけでもないはずだが。胸 中 でつぶやいて、声に出す。
「あんたが出来の良いゴーストだろうと、聖 域 に対 抗 する具体的な戦力はもうなにもない──もともとあったのかどうかも怪しいところだけどな」
「出来の良いゴースト、か......その程 度 の認 識 でよく言ってくれる。君も魔 術 士 だが、ダミアンとは違 うな。彼はもうひとつ進んだことを考えていた」
「なんだと?」
口の端 から声を漏 らしながら──
オーフェンは不 条 理 に歯がみしていた。無視して去ればいい。それができないわけではないはずだった。だが。
横目で見やると、今はクリーオウもマジクも、領 主 でなくこちらを見つめてきている。声を発さずとも、その目は明確に訴 えてきていた。領主は端 的 にこのふたりにとって、どうしても聞き出さなければならない情 報 の一端を突 きつけたのだ。
時間の流れを、オーフェンは意識した。夜明けまではあと数時間。だが夜明けという時 刻 ははっきりしたものではない──解 釈 によってはあと一時間かもしれないし、もっと長いかもしれない。
(一刻も早くここから立ち去ったほうがいい......はずなんだ。が)
聞くしかない。
が、オーフェンが質 問 のために声をあげようとするよりも先にクリーオウが叫 んでいた。
「領主様! あの......レキのことでなにかあるのなら、教えてください!」
彼女は声を萎 ませて、ゆっくりと続けた。
「わたしが悪いのは分かってるんです......わたしが望んだからレキが従ったんだって分かるんです。なのに今はこんな感じで、勝手に領主様の館 から出ていこうとしていたりとか。でも」
混 乱 して支 離 滅 裂 なまま言葉を途 切 れさせ、クリーオウは倒 れるようにテーブルにもたれかかった。うなだれて黙り込 む。不意のことに疲 労 が吹 き出したのだろう。
気 丈 に振る舞 っていたが、考えてみれば彼女も夜通し走り回っていたことになる──それを思い出してオーフェンは、テーブルに突いた少女の手を軽く叩 いてやった。
と。
「────?」
突 然 、食いつくように、クリーオウが両 手 でその彼の手を握 った。戦 闘 服 の手 袋 の上からでなければ爪 が刺 さっていたかもしれないほどに。引き抜 こうと思うならば、できないわけではない。が、それを迷 いながらもオーフェンは悟 った。この娘 は縋 り付こうとしてきたわけではない。
質問を肩 代 わりしようとした彼を、押しとどめたのだろう。クリーオウは再 び顔を上げ、今度は先ほどよりはしっかりした口調で領主に問いかけた。
「レキは今どこにいるんですか?」
「あのディープ・ドラゴンは務 めを果たそうとしている。わたしとの約束......その役 割 を果たすために出かけている。いずれもどってくる」
柔 らかく、なだめるように、領主が答える。
クリーオウに手を摑 まれたまま、顔だけを領主に向けて、オーフェンは告げた。
「このふたりの足を止めるには十分な切り札をお持ちのようだがな。あんたは俺になにも提 供 できないんだろう。ここに来ることを誘 われた時とは随 分 と事情が変わっちまった。そもそもここに来たのが間 違 いだった──俺はもとより他人を危 険 にさらしてまでアザリーの行方 を知りたいとは思ってねぇよ」
「提供できるものは......ある。夜明けまでここに留 まるがいい。そうすれば、わたしは君をいつでも聖域に送ってやることができる。天魔の魔女はそこにいるぞ」
領主はあくまでこともなげに言ってくる。
息を止めたことを気取られないように──虚 しい努力をしながら、オーフェンは相手の言葉を待った。最 接 近 領 の領主、アルマゲストはそのまま続けた。
「君の言葉を半分借りようか。朝になればわたしは聖域と対 抗 するにこと足りる具体的な戦力を有することになる。そうなればわたしは万 能 になるわけだ」
「万能か。それなら俺をとどめる必要もないだろう?」
「......性 急 な言い間違いだった。わたしが盤 石 の体 制 を整えようと、それを打ち壊 す可 能 性 のある者がいる」
「誰 だ」
オーフェンがイメージに浮 かべたのは、ずんぐりした黒いシルエット──聖服の男の姿 だったが。
領主が口にした名前は、それとは違うものだった。
「我 が旧 友 ──ユイスさ。白 状 しよう。彼は聖域に捕 らえられた後、わたしから離反した。というより、彼にとってわたしは利用価 値 のある存 在 ではなくなってしまったのだろう。彼はロッテーシャを聖域に連れて行った」
「?」
顔をしかめて、オーフェンは聞き返した。
「なんでだ? なんの意味がある?」
「そのうち説明しよう。だがさしあたって今は、ユイスに対抗できる存在は君しかいない......」
「どうだかな。あんた名目上は貴 族 なんだろ。だったら、王都の魔 神 プルートーでも連れてくりゃいい」
「《十三使 徒 》が貴族連 盟 の飼 い犬であった時代はとうに終わっている。少なくともプルートーの台 頭 とともに終わったのだ。力ある魔 術 士 が生まれるたびに均 衡 がひとつずつ壊れていくという事実は面 白 いと思わないかね?」
それは実 際 、この領主にとっては面白い冗 談 なのだろう──笑 みの形に歪 んだ口元を手で拭 って、彼は続けた。
「プルートーにとっての不幸は、彼当人を除 いてダミアンやユイスに対抗できる手 駒 を用意できなかったことにある......マリア・フウォンではいささか力不足だろう? が、もうそんなことは関係ないのだな。彼はもう己 自身を投入する決心をした頃 だろうから。事 態 は動いている。流れを止めることはできない。十三日後の、すべての終 焉 に向けて」
ぴくり──
と、オーフェンは眉 を上げた。問いただす。
「十三日後。その日付になにかが起こるのか。なにが起こるんだ?」
「どうしてわたしに聞く? 旧友よ。君はわたしの力に頼 るつもりはないのだろう? 君に言わせれば、わたしは少し出来の良いゴーストに過 ぎない......そんなものが予知する未来を信じられるかね?」
嬲 る口調で、領主が返事を拒 む。
オーフェンが舌 打 ちするより先に、彼は再び口を開いた。
「君はひょっとすれば本当にユイスと双 璧 を成すほどの強力な術者かもしれない──誰よりも、ダミアン・ルーウよりも強力な」
その眼 差 しは笑っていない。むしろ威 嚇 のように鋭 い。その視 線 を受け止めて、オーフェンは息を止めた。全力で押 し返すべく、拳 に力を入れる。
(こいつは俺を支 配 しようとしている......)
出来の良いゴースト。オーフェンは胸 中 で繰 り返した。その思いを読みとったように、領主は皮肉を口にする。
「それでもやはり、しょせんは魔術士と言うべきか。ダミアンも、認 めるのに迷 いがあったようだった。ひょっとしてと危 惧 しながらも、自ら生み出したものの意味を履 き違 えていた。彼はわたしのことをなんと言った? 自分の力の集大成だと? 魔術士は......己 が力を制 御 できている という思い込 みが強すぎるのだよ」
「それが魔術士の本 質 だからだ」
囁 くように割 り込んだオーフェンのつぶやきも、この領 主 には一 蹴 された。
「違うな。本質ならば、わざわざ自他に言い聞かせる必要もない。自 ずとできていたはずだ。わたしに言わせれば、いまだ力を完全に制御できた魔術士などというものは存在しないのだ。この世界そのものが、常 世界法 則 を魔術として制御しきれずに崩 壊 した」
アルマゲストが一 拍 おいた隙 に、オーフェンは視線を外 し──黙 して構 えているクリーオウやマジクを見やった。金 髪 の少女はうつむき、会話など聞いていないようですらある。が、彼女が一語一 句 聞き逃 していないことは分かっていた。クリーオウはまだ彼の手を放していなかった。その力が、領主の言葉を聞くたびに強まりもし、弱まりもする。
マジクの反 応 は意外だとも思えた──が、そうでもないのかもしれない。マジクは瞳 を鋭くして、領主を見 据 えている。それは敵 意 に見える。領主が魔術士を侮 蔑 したからかもしれない──あるいはもっと単 純 に、領主がコルゴンに対抗する者としてマジクではなくオーフェンを持ち上げたからかもしれない。どちらにしても独 り立ちを認 めた弟 子 の胸中を読みとることは、急に難 しくなっていた。
(......いや、読めないのが当たり前か)
ふと気づいて、オーフェンは胸 にちくりと刺 すものを覚えた。むしろ彼自身こそが、ひたすらにマジクを格 下 と侮 って扱 っていたのだろう。だから単純に魔術の扱い方以上のものを伝えることなどできなかったし、伝えることを思いつきもしなかった。それは後 悔 しても取り返せるものではない。
ボルカンとドーチンは。
地人の弟は、退 屈 そうに床 を見ている。兄のほうは妙 に静かだと思っていたら、紫 色 の妙な物体を口から垂 れ流して気 絶 しているようだった。彼らに視 線 を転じて、オーフェンはようやく息をついた──確 かにこんな会話は、無関係な者にとっては無 価 値 な茶番に過ぎない。
一回りしてオーフェンが領主に向き直ると、彼はそれを待っていたようだった。自分の胸を示 して、深く、ゆっくりとなにか柔 らかいものに突 き刺すように宣 言 してくる。
「わたしは悪魔だよ。悪魔だと名乗っていた」
手 駒 。終焉の流れ。
そんな言葉を容 易 に使うせいもあるのだろう──アルマゲストの言動にはいちいち芝 居 がかった滑 稽 さがつきまとっていた。そしてそれは高 潮 に差し向かっている。その連想に、オーフェンは歯がみした。まず間違いなく、この領主という存 在 は、聴 衆 の苛 立 ちを察しながらそれを刺 激 しようとしている。
領主は仰 々 しくあとを続ける。
「わたしと同一の存在が自然と存在していた......図 られることなく偶 然 に造 り出されていたというのは面 白 い。わたしが悪魔ならば、もう一方は天使かね? この世界にあとひとつ足りないのは魔王だ。魔王スウェーデンボリー......神をも滅 ぼす人間の王。人間種族の希望。わたしはこう考える。もしそれが現 世 に存在するとすれば、その名は魔術を制 する者に与 えられるのではないかと」
結局のところ領主の言っていることは、さっぱり理 解 できなかったものの──
オーフェンは不 機 嫌 を隠 すつもりもなくつぶやいた。
「ごたくをこねくり回すより、聞かれたことに答えて欲 しいね。その前にいくつか言っておく。まず旧 友 ってのはやめろ。意味が分からねぇ」
「誰にとってもわたしは旧 い友なのだよ。わたしはこのアイルマンカー結界そのものに根ざした──」
「違う。友人になったつもりはないって言ってんだ」
ぴしゃりと告げる。
厳 しく言葉を発しても、短い沈 黙 と言えるほどにも、領主を黙 らせることはできなかった。彼は鷹 揚 にうなずいてみせると、言い直した。
「よかろう。では順番に語ろう。まずは朝になるとなにが変わるのか。朝になると同時に、この館 には大陸の最強力が集結する」
「......最強力?」
「ディープ・ドラゴンの全種族」
それは──
簡 単 には信じることのできない言葉だった。が、領主の表 情 を見やって、オーフェンは──この顔の持ち主は人間ではない、他人を支 配 するための白魔 術 士 の道具だと自分に言い聞かせながらも、認 めざるを得なかった。
領主はそのままの意味で、それを言っている。血の気の引いた顔を撫 でながら、オーフェンは苦 笑 した。つぶやく。
「逃 げることもできないってわけか」
「その必要はないと言ったろう。そのディープ・ドラゴン種族の長 はアスラリエル──新たなるアスラリエルのはずだ。彼女はわたしに従 う盟 約 を交 わしている」
自信に満ちた領主の言葉を聞いて、はっとクリーオウが身じろぎする気配が空気を伝わってくる。
彼女の理解は、彼よりも早かったということだろう。オーフェンは胸 中 で繰 り返した。
(新たなるアスラリエル......?)
次いで、声に出す。
「レキのことか」
領 主 はうなずいてみせた。
「そうだ。ディープ・ドラゴン種族のすべてがわたしに従う。これで聖 域 は敵 ではなくなる。だが真の目的を考えれば、この力ですら足りない......ふたつめを語ろう。十三日後になにが起こるのか」
長 広 舌 をまくし立てながら──ただし必ずしも調子を速めすぎることもなく──、彼はあとを続けてきた。薄 暗 がりの調理場に、悪魔を名乗る男の声が蔓 延 していく。
「少し考えれば分かりそうなものだがな。わたしは天魔の魔女が帰 還 したと言った。アイルマンカー結界の外部から大陸に入ってくるには、結界の穴 を通るしかない。彼女が帰還したということは、彼女とともに大陸から押 し出されたものも同じ道から帰ってくるということだ......」
なにかの効 果 を確 かめるように、アルマゲストが言葉を止める。
領主はオーフェンへと視線を注いでいた。なにかが欲しいのか。同意か。否 定 か。恐 慌 か。ひれ伏 すことか。オーフェンは皮肉を嚙 みしめた。
(俺 にとっての天使と悪魔......)
そのつぶやきが聞こえたかのように。領主は笑 みを浮 かべる。彼が確かめようとしているのも。それは痛 いほどにオーフェンにも自覚できていた。彼の絶 望 の度合いだった。
現時点では満足したのだろう。変わらない調子で、領主はさらに続ける。
「結界の穴は大陸の中心、聖域に開いた。運命の女 神 は十三日後、この大陸に侵 入 してくる。君もどこかで目にしたことがあるであろう天人種族の遺 言 を信じるなら、女神を殺せるのは魔王スウェーデンボリーだけだ。十三日以内に魔王の召 喚 を果たさなければ我 々 は負ける。我々は、聖域にあるまだ稼 働 中 の召喚機──第二世界図塔 を手に入れなければならない」
窓 の外で──
緑色の眼 が輝 いたように思えた。
その視 線 がすべてを摑 み、呑 み込 み、握 りつぶし、すべてを爆 砕 させた。
◆◇◆◇◆
「ここは湖の底の、さらに地下だ。おかげであの砂 もここまでは侵 入 してこない」
その男が何 故 そんなことをわざわざ説明するのか──
彼女には理 解 できなかった。が、こうも思えた。考えるほどのことでもないのだ。その男がその説明を口にしたことには二 心 もなく、底意もなく、深いなにかがあるわけでもなく、たいした意味があるわけでもなく、ただ言っただけなのだと。理解できないのも当たり前だった。無意味なつぶやきに過 ぎないのだから。
知 識 をひけらかしたわけでもない。親切心でもないだろう。愛情でも友情でも、間を取るための世間話でもない。男はなんとなく思いついたことを口にしただけだ。話し相手がいなくとも、ひとりでつぶやいたかもしれない。その程 度 のことでしかない。
ロッテーシャ・クリューブスターは虚 ろな思いで、あたりを見回した。真っ白な壁 がどこまでも続く通路。壁に継 ぎ目もなく、床 が傾 斜 している様子もなく、光 源 があるわけでもないのにあたりは白く明るい。地下にこれだけの施 設 を造 る──そんな強大な力を持った存 在 には見当もつかないが、そこを我 が物 顔 で案内しようとしているその陰 気 な男の背 中 を見て、彼女は苦笑した。
彼にとっては、神々の祭 壇 すら自分のものなのだろうか?
そうかもしれない。
もはや傷 の痛 みを感じることなどないものと覚 悟 していたというのに、彼女は胸 に鈍 痛 を覚えて息を詰 まらせた。肉体的な傷ではない。
それでも黙 して、その男についていく。
かつて自分の夫であった男。エド。ほかにも多くの名前を持つ男。いや、より多くの者が呼 んでいる名前こそ本名とするならば、エドこそが偽 名 か......彼をその名前で呼ぶ者は、もう彼女くらいしかいない。
(勝手過ぎる......あなたは勝手過ぎる)
彼はなおもぼそぼそと、つまらない解説を加えながら通路を先 導 していた。ロッテーシャを振 り返りもせずに。黒い外 套 に覆 われた、固い背中。それを追いかけて、彼女は自然と足を速めた。
胸中で──まるで元夫そっくりに、つまらない言葉を繰り返しながら。
(あなたは勝手過ぎる。父が死んだ時、わたしを見 捨 てたくせに。忘れようと思っていたら、また現 れてわたしを殺そうとした。わたしが追いかけようとしたら、二度と自分に関 わるなと言った。なのに、今はわたしをこんなところまで連れてきて、どこかに追いやろうとしている)
白い通路と、虚ろなつぶやきはどこまでも続いた。
(あなたがやろうとしていることはいったいなんなの? わたしになにがしたいの? なにもかも意味のない気まぐれなの?)
今は何 時 なのか......
ふと、それが気になった。昨夜この男に捕 らえられてから、一 晩 中歩いている。最 接 近 領 だとかいうあの館 から、この土地──聖 域 だとエドは呼んでいたが──までは、どんな仕 掛 けになっているのか瞬 きするほどの時間で移 動 させられていた。だが黄 塵 の吹 きすさぶその湖のほとりから地下に入り、この施 設 を進むのは徒歩だった。
歩けば歩くほど、心が渇 いていく。もう涙 を流すことにも疲 れていた。ロッテーシャはもう普 通 の呼 吸 と変わらなくなっていたため息をゆっくりとついた。父の魔 剣 も、今はエドが携 えている。なにもかも失い、この男を殺す手 段 も、生きる目的も、すがるべき思い出も残っていない。
と──
「ここだ」
エドが短く、そう言ってきて足を止めた。
「え?」
聞き返す気力がまだ自分に残っていたことに驚 きながら──ロッテーシャは、惚 けたようにつぶやいた。
「......まだ通路が続いてるわ」
そして、それ以外に扉 もなにもなかった。エドの鉄 面 皮 に、不 快 そうな笑 みが浮 かぶのが見えた。
「話を聞いていなかったのか。通路が続いているように見えるのはカモフラージュだ」
「カモフラージュ? でも......」
ロッテーシャは目を細めて、通路の先を見やった。仕掛けがある様子もなく、ただ真っ白な壁の廊 下 がひたすら真 っ直 ぐ続いているようにしか見えない。
あっさりとエドはその視 線 の先を手で振り払 ってみせた。それで見える風景が変わるわけでもなかったが。嘆 息 し、彼は続けた。
「お前が自分の機 能 をきちんと使えるようになれば、こんなことをいちいち説明しないでもいいんだろうがな。ここはドラゴン種族の聖域で、住人は入り口を開けっ放しにして安 穏 とするような連中ではないということだ。この通路そのものが、魔 術 によって防 御 されている──」
「機能 ?」
彼の説明は耳に入らず、その単語だけを彼女は突 き返した──なにもなかったはずの胸 中 に湿 った熱い塊 がこみ上げてくるのを感じながら、さらに声が裏 返 る。
「わたしを人間じゃないみたいな扱 いしないで! あなたには、もうこれ以上わたしを蔑 む資 格 なんて──」
「この点については昨日あらかた話したはずだ。お前は本当に人の話を覚えていない」
「あなたが話すことなんて!」
叫 んだ。が。
聞く耳がないのは、むしろ彼のほうだった。あっさりと無 視 して、手つきでなにかの合図を送り、通路の先に向かって声をあげる。
「俺だ。帰 還 した」
その言葉と同時に。
なにが起こったのかは、はっきりとはロッテーシャにも分からなかった。ただ通路が突 然 真っ暗になり、輝 きを残したのは無数の記号......文字のような奇 妙 な羅 列 だけになる。五感がすべて入れ替 わるような奇 怪 な感覚が身体 をひっくり返し、その悪 寒 が過 ぎ去ると今度は──
「............?」
その次に周囲が明るくなると、そこにあったのは、先ほどまでと大差ない真っ白な風景だった。
違 うのは、今度は通路ではなく円形の部屋だったということ。入り口も出口もなにもない、ただそれだけの部屋だった。
そしてその純 白 の空間に、なにかの影 のようにくっきりと、黒い人影がある。
瞬 間 、ロッテーシャが連想したのはあの黒魔術士だった──いちいち気に障 ることばかり言ってくれた、あの男。その男と人影に、似ているところがあったわけではない。だがどことなく共通する空気は感じられた。ついでにいえば、自分の元夫ともだ。
そのエドといえば、不思議なほど静かにその人影を見つめている。様子から、ここが彼の意 図 した目的地だったというわけではないらしい──エドは低く押 し殺したような声 音 で、誰 にともなくつぶやいてみせた。
「どういうつもりだ?」
一 応 は、待ち受けていた黒い人影に対して告げたということになるのだろう。もっと別の相手に訊 いたようでもあったが。なんにしろ、答えてきたのは黒い人影だった。
「さて。想 像 はつくかね?」
その男は、奇妙な黒い服──なにか聖 職 者 の着る衣 のような真っ黒のコスチュームに身を包んでいる。屋内だというのに黒い帽 子 を目 深 にかぶって、その下から白く冷たい眼 差 しを光らせていた。大 柄 な男だった。ただ離 れて立っているだけだというのに、自然とこちらを後 退 させるような怪 しい気合いがある。
ロッテーシャは盗 み見るように、エドの横顔を一 瞥 した。エドでさえ、それと同じようなことは感じていたらしい。他人などを恐 れるなどあり得ないとしか思えない、この男ですら。
エドがつぶやく。マントの下に隠 れている背 中 が、音を立てず緊 張 を高めているのは気配で知れた。武 器 を握 っているのかもしれない。
「......約束を果たした俺を出 迎 える礼 儀 が、これか」
「お前はドッペル・イクスを怯 えさせすぎたのだ」
その聖服の男は、一歩も動かず告げてくる。動くことが億 劫 というより、そもそも無 駄 に動くことを知らないような佇 まいではある。
「ユイス......か。お前を殺しはせんさ。ただ警 告 を与 えるために寄 り道してもらった。怯えた者は、次には怒 り出す。お前の目的は知らんが、怒らせてはならないものを怒らせないことだ」
「ふん」
エドが──別の名で呼 ばれたエドが、鼻で笑ってみせた。あとを続ける。

「貴様の技 。愚 直 な一 撃 で敵 を粉 砕 する。それも最小動作で。拳 の技としては理想だろうが──以前一度、打たれて分かった。貴 様 がどうしてそうしなければならないか 。〝悪 霊 〟と名乗っているそうだな、貴様」
彼の挑 発 に──
「ああ。まさしく悪霊が取り憑 いているのだ。わたしの身体には......」
聖服の男が、そう応じる。
わけの分からないこの男たちは、わけの分からない会話を続けていた。聖服の男はそのまま動かずに自分を示 すと、
「人間の力ではない。わたしの生 涯 の大半は、その悪霊を御 することに費やされてきた。技も、生 業 も。これからもそうだろう。わたしの悪霊を凌 駕 する悪魔がわたしを止めようとしない限 りは。わたしは死ねないかもしれない。永 遠 かもしれぬ」
と、言葉を切る。聖服の男は初めて動きを見せた。指し示すように、右手を広げたまま指先をエドへと向ける。そして、
「だがユイス・コルゴン。お前はただの悪 党 だ。悪魔とはもっと根の深いものでなければならない」
「今、俺とやり合えば貴様が死ぬ。それを分かってきく口がそれか」
エドが脅 しを口にする。
「負け惜 しみか! ジャック・フリズビー......」
が、その聖服の男──ジャック・フリズビーというのが名前らしい──は、手を下ろして泰 然 と告げるだけだった。
「お前にあるのは強さだけだ。お前はその娘 を絶 望 さているではないか?」
突 然 、ジャックはこちらへと視 線 を転じてそう言ってきた。不意を突 かれてロッテーシャが息を引きつらせている間に、さらに続ける。
「この世に溢 れているありふれた絶望の、その一 端 に乗って粋 がっているに過 ぎない。そんなものをわたしは恐れない。たとえ殺されたとしても、敗れる要 素 はない。わたしが望む悪魔とは、貴様と同 質 で、しかも正 逆 の存 在 であろうよ」
男の言っている内容は──
理 解 できるようで、理解はできない。ただ息苦しさを覚えて、ロッテーシャは胸 に手を当てた。そのまま、ゆっくりと膝 を曲げる。くずおれはしなかったが。それでも吐 き出せない煩 悶 に、背が折れるのを自覚した。
エドはなにも答えようとしない。ただ聖服の男を見 据 えている。憎 々 しげに見ているのか──とも思えたが、違 った。エドの目は見開かれ、口元は酷 薄 に引き締 められている。だが怒っているのではない。この男と過 ごした時間から、ロッテーシャはそれを理解していた。エドは笑っている。上 辺 ではなく、本気で心の底から。ともに暮らしていた時ですら、滅 多 に見たことはない表 情 だった。
(エドは......喜んでいる。自分と対等にやり合える相手と出会って......)
そして自分がそれを打ち負かすことを信じているから。笑っている。彼女の父親と初めて出会った時も、彼はこの笑 みを浮 かべていた......
対してジャックは、仮 になにかを感じていたとしても表には出していなかった。静かに、締めくくる。こちらへ、ロッテーシャへと視線を転じて。
「あるいはその娘と同質で、しかも正逆の存在か。そういった者が、わたし以上の力を以 てわたしをねじ伏 せれば......わたしは敗 れるやもしれないな」
途 端 に──
再 び周りが暗くなった。文様だけが光り浮かび上がる中、また感覚が逆転していく。
警告はこれで終わりということなのだろう。視覚が回 復 した時、そこにはもう聖服の男の姿 はなかった。
場所も移 っていた。もう白いだけの通路でも、白いだけの室内でもない。そこは天 井 のある庭だった。天 蓋 は、これまでと同じ純 白 ──だが広いドーム状 の空間には土があり、まばらな木々があり、芝 生 まで植えられている。自然な緑を取り入れるために造 られた、自然ならざる緑。つまりはどこででも見かける公園と同じ緑だった。虫も住めそうにない芝生は、すべて同じ丈 に刈 りそろえられている。木々は細く真 っ直 ぐに伸 び、枝を広げているが葉が少ない。あちらこちらに、どれひとつとして平行にならない角度でベンチが置いてあった。
今までとの最大の違いは、そのドームから、四方に出入り口が開いていること──つまりは、ここはもう聖域とやらの内部なのだろう。
だが。
ロッテーシャはそんなことは気にもせず、ただひとつのことを考えていた。
(わたしやエドと同質で......正逆の存在?)
それは誰のことか。
エドを見やる。彼の顔からはもう笑 みもなくなっていた。ただ無表情で、公園の眺 めをつまらなそうに見つめているだけだった。
「そろそろ夜明けかな......」
明け方、ひとけのない道でつぶやいた声は、思いのほか遠くまで響 いたようだった。気づいて、首をすくめる──アパートの隣 室 にいる住人は、このところますます気むずかしくなっている。彼が奇 妙 な時間に帰 宅 することに関して、その住人の同意が得られたことはない。彼が歩いていたのは、ちょどその隣室の扉 の前だった。
夜遊びというほど派 手 なものではないが。退 屈 そのものの仕事を終えて、そのままひとりの部屋にもどることは一度もできなかった。ここトトカンタ市にやってきてから、ただの一度も。
部屋の鍵 を探 して、ポケットを探 る。いつも適 当 に持ち歩いているため、時々なくす。そんな時は魔 術 で開けてしまう。その程 度 の鍵だった。別に、不 審 者 に侵 入 されて困 るほどのものも置いていない。
だが今日は、ついているようだった──ハーティアはようやく鍵を見つけて、取り出した。と、微 苦 笑 を漏 らす。別 段 、ついているわけではない。マイナスでなかったというだけのことだ。
「馬 鹿 げてるよ。ぼくはついてないわけじゃない。全部自分で選んだことだ──落ちぶれることも含 めて」
と、また独 り言をつぶやいてしまって、隣室を見やる。だがすぐに肩 をすくめた。既 に片 足 を自室に入れている。自分の部屋で独り言を口にするくらい、責 められるほどのことでもない。
とはいえ、隣室の住民はしばしば包丁を持ち出す──それを思い出して、ハーティアはそそくさと部屋に入った。扉を閉 める。意 識 せずに、また続きも独りごちていた。
「いや、落ちぶれているわけですらない。ほかの連中に比 べればマシなほうだ......」
部屋の中は暗かった。カーテンを閉 じている。なにもない、だがそれで広いというわけでもない部屋だった。学生の頃 に住んでいた寮 部屋 と比べてすら殺 風 景 である。
だが少なくとも──しばらくシーツを替 えていないにしても──ベッドがある。これから何時間かは眠 ることができる。
と──
シャツのボタンに手をかけながら、ふらふらとベッドに向かいかけて、はたと気づく。窓 にカーテンなど掛 けていなかったはずだった。
はっきりしていなかった意識が、一 瞬 に冴 える。彼は向き直り、この部屋にある唯 一 の窓に拳 を向ける。実 際 に不審者に入られて、やはりこの部屋に惜 しいものがあったわけではないが──その中に自分自身を含 めて良いのかといえば、はっきりとノーだった。頭の中には、こんな場合に有 効 な幾 通 りもの魔術による対 応 法 が浮 かんでいる。
だが、そもそも何者が侵入したのか。隣室の住人が、とうとう決着をつけようと心を決めたのか。そんな愚 にもつかないことまで考えて、目を瞠 る......
窓を背 にしてそこに立っていたのは、見覚えのある姿 だった。
いや、なによりも深い馴 染 みと言ってもいい──
ハーティアは、絶 叫 した。隣室の住人のことも、なにもかも頭から弾 け飛んでいた。
「うわあああっ!」
拳を振 りかぶり、突進する。避 けようともしない標的の横 面 にそれを叩 き込 んで、さらに大きく叫 ぶ。
「コミクロンは死んだ! 死んだんだ! 先生もだ!」
軽く──驚 くほど軽く横 倒 しに倒れたその人 影 は、さらに頭から壁 に激 突 して跳 ね返ってきた。立ち上がろうとしない相手の腹 を、さらに蹴 り上げる。
「あんたを追ってキリランシェロまで飛び出して、ティッシがどんなになっちまったか知ってるのか! キリランシェロも! 今じゃ《塔 》の名 簿 から抹 消 された......行方 不明者追跡名簿から消えてたよ。ぼくの今の部下が不思議がってた。彼女に聞かれても......ぼくは......ぼくは......知らないふりをするしかなかった」
相手が起き上がってこないことで、手持ちぶさたになっていた。叫びも次 第 にかすれ、最後にはうめき声と変わらなくなる。
その人影は、女だった。
殴 られても蹴られても、なにも痛 痒 を覚えていないのか──まるで優 しく起こされたように、彼女は起き上がった。聞いてくる。
「一通り、フォルテが話したのね?」
アザリーだった。五年ぶりの──ただし五年前となにも変わらない彼女。それが唐 突 に今、彼の部屋にいる。
なにかが奇妙ではあった。眼 前 に彼女がいることは分かっているというのに、どこか現 実 感 がない。その違 和 感に軽いめまいを感じながら、ハーティアは苦々しくうなずいた。
「ああ。彼は──」
「その彼も今では《塔》で寝 たきりよ。意識を破 壊 されてね。でもかえって良かった。それをやったのはダミアン・ルーウという化 け物だけど、もしそいつがやっていなかったとしたら、わたしがやらなければならなかった。わたしはネットワークを支 配 しなければならなかったから」
「────っ!」
声にならない叫びをあげて、ハーティアはさらに襲 いかかった。立ち上がった彼女を、二度、三度と殴りつける。だがそれぞれの拳の感 触 もどこか頼 りなく、彼女の身体 も揺 らぎもしない──触 れていないのかもしれない。だが確 かに殴っている。水面に映 った影だけを打とうとしているようだった。
その中で、ハーティアは叫び続けていた。意味にならない悲 鳴 を。
アザリーは笑っていた。はっきりと意味になる言葉を。
「怒 りなさいよ。いくらでもわたしに憤 激 すればいい──ほら、そうやってここを殴りなさい。ここを突 き刺 せる? でも、通用しないわよ。傷 つかない。誰 にも触れられない!わたしは無 敵 よ!」
だが──
なんの感触も残っていない拳を、ハーティアは止めた。呆 然 と、彼女を見つめる。

「......アザリー?」
呼 びかける。言葉と裏 腹 に、彼女は泣き出していた。
と。
扉 がノックされる。立ち尽 くして涙 を流しているアザリーから目をそらせることがありがたく、ハーティアは振り向いた。扉まで駆 け寄 って半開きにすると、そこには寝 間 着 に上着を羽 織 った女が、驚き半分、不安半分といった表 情 で待っていた。
声を抑 えて、ハーティアは彼女の名前を呼んだ。
「ケラ」
顔見知りだった。ハーティアと同じ歳 の、もう一方にある隣室の住人である。たまに外でばったり顔を合わせた時などは、いっしょに食事をすることもある。その程 度 の友人だった。彼女は困 ったように会 釈 してから、やはり小声で聞いてきた。
「こんばんは。ハーティア、どうしたの? なんかすごい声が聞こえたけど......」
「あ? ああ、その......ごめん。ストレスっていうのかな。なんだか分からなくなってしまって、叫んじゃった」
「ひとりで?」
「ああ」
ハーティアがうなずくと、彼女は顔をしかめて部屋の中をのぞき込んできた──そして、
「......確かに、誰もいないわね」
無人の室内を眺 め回し、つぶやく。腑 に落ちない様子ではあったが。
「なんにしろこんな時間に騒 いじゃって、言い訳 もできないけど、ごめん。もう大 丈 夫 だからさ」
「そ、そう......」
疑 わしげな彼女を帰し、扉を閉める。ハーティアが再 び部屋の中を向きやると、そこにはアザリーが立っていた。
「実を言えば、もうだいぶ感情が磨 り減 ってきてるわ......泣けるのもこれで最後かもね」
涙の跡 も残っていない顔で、言ってくる。そして同じく傷ひとつない身体 を示 して、
「悪いけれどあなたの手でわたしを殺すことはできない。でもほうっておけば、わたしは消 滅 する。そうね。長くても十三日後にはね」
まったく理 解 できないようで──
理解するにはひとつの推 論 しかない。ハーティアは思い当たって、その単語を口にした。
「......精 神 体 ......なのか」
彼女はなにも答えてこなかった。肯 定 ということなのだろう。
代わりに眉 を上げ、どこか悲しさを忍 ばせ、聞いてきた。
「もう、怒らないの?」
「断 っておくけど、気が済 んだわけじゃない。ただ......白けちまっただけさ」
毒づいてハーティアは、彼女に一歩近づいた。ただし、それほど近くまでは寄 らずに。
どちらかといえば詰 問 に近い口調で、彼は告げた。
「なんの用なんだ? そもそも用事のある訪 問 なのかどうか知らないけど」
「用事......用事ね」
と、彼女はしばし迷 うように指で虚 空 を叩 いた──こんなことも、見たことのある懐 かしい仕草ではある。奥 歯 を嚙 みしめてハーティアは待った。アザリーはようやく指を引 っ込 め、それを隠 すように背 後 に回すと、唐 突 なことを聞いてきた。
「チャイルドマン教室の三強。誰?」
なにかの冗 談 なのか──とも訝 ったが、アザリーの眼 差 しは真 剣 そのものである。ハーティアは当たり前のことを、当たり前に答えた。
「......あんたと、フォルテ、ティッシだろ」
だがアザリーは即 座 にかぶりを振 ると、
「わたしは、コルゴンとキリランシェロ、そしてあなただと思ってる」
「コミクロンは?」
「いいじゃない別に無理やりどっかに含 めなくても」
話の腰 を折られてやや不 快 そうな、アザリーの返事。
なんにしろハーティアは、細く嘆 息 した。うっかりすると大きくなりそうな声を抑 えて、告げる。
「なにを言いたいのか分からないけど、ぼくら三人を指して三強っていうのは無理があるだろう。持ち上げてなにかあるのか?」
「勘 違 いしないで。わたしは素 直 に言っているの。そうね。スペックとしての強さなんてどうでもいいの。そんなものは《塔 》の成 績 表 にでも書いておけばいい。わたしが今必要としているのは、必要なことを完 遂 する力......それはわたしにはないものね」
彼女はわずかに間をおいて、その言葉の隙 間 を思考に費やしたようだった。言い直してくる。
「言っている意味が分からない? 五年前のあの日から、わたしは一度としてなにか望みを成し遂 げることはできなかった。笑ってしまうほど、なにひとつとしてね。それがわたしという馬 鹿 者 の現 実 よ。でもコルゴンは? あの男にかかればなにもかも自分の思い通りよ。キリランシェロも......当人は十分とは思っていないでしょうけど、やらなければならないことだけは必ずやり通してきた」
「それなら、ぼくは除 外 してもらって良いようだね。ぼくはなにかを完遂した感 慨 なんて......ないよ」
「そうかしら」
アザリーはそれだけ言って、返答をしなかった。いつも余 計 なことばかりを見通してしまっていた、戯 けたようにも見えるブラウンの瞳 。部屋は暗いというのに、それだけが照り輝 いている。
あれほど騒いだにも拘わらず、部屋の中は散らかってもいない。そもそも散らかるほどのものがないのだが、アザリーが倒 れ込んだ床 も、埃 に跡 もついていなかった。明かりをつけようか──ふと、ハーティアは思いついたが、やめておいた。今は彼女の顔をあまり見たくない。
彼女が無言のため、彼が口を開いた。聞く。
「それで。ぼくになにが言いたい?」
「コルゴンとキリランシェロ。このふたりが殺し合いをするとして、あなたはそれを止められる?」
「............」
これも唐 突 な話だった。わけが分からない。が。
そんなことだって起こり得 るのだと、分かるような気もしていた。ハーティアは目を伏 せた──もうなにもかもがおかしいのだ。五年前の思い出を引きずることは、それだけで危 険 になってしまった。
それを体現する、誰よりも体現する天 魔 の魔女が、沈 む冷たい声であとを続ける。
「ティッシには無理ね。戦 闘 能 力 で彼らより一 段 劣 ることは考 慮 に入れないとしても、彼女は感 情 を殺せない。戦うことそれ自体が、ティッシには過 酷 過 ぎる──今ですら、もうこの後を戦っていけるのか定かじゃないわ。それにそれが可 能 だったとして、彼女には別の役 割 がある」
「............」
「そして、わたしにも無理。今のわたしと同じ力を持っていたダミアン・ルーウを、キリランシェロは簡 単 に退 けてしまった」
「なんで、ぼくにならできると思うんだ?」
ようやく、ハーティアは聞き返した。
だが──
彼女は答えずに、窓の外を見やった。彼女が本当に精 神 体 ならば、視 覚 などあるはずがない。そもそもが、人としての姿 が必要というわけでもあるまい。精神体についてのその程 度 の知 識 はハーティアも聞きかじりで持っていた。だが、それでも肉体を捨 てた魔 術 士 、つまり精神士らはそれをする。
そしてやがて、それもできなくなって消 滅 していく......彼らは精神体となって、そう長く存 在 し続けることができるわけではない。一 般 にはそう言われている。
アザリーが外の風景に求めたのは、街の眺 めではないだろう。ハーティアもなんとはなしにそれは理 解 した。やがて彼女はこちらを向かないまま、最後まで脈 絡 のないことを告げてきた。
「......もうじき夜が明けるわね。既 に始まってるかもしれない」
「なにが」
「キリランシェロは、これまでこの大陸を苛 んできたものと戦っていくことを選んだ。あの子なりのやり方で戦っていくことを選んだ」
「言い方が大げさすぎる」
喉 の奥 に渇 いたものを感じてハーティアがつぶやくと、彼女は顔をこちらに向けた。
その顔は無 論 、泣いてなどいない──が、ハーティアは脳 裏 に、先 刻 見た彼女の泣き顔がそこに重なる錯 覚 を覚えていた。
「そうかしら。なら控 えめに言い直してあげる」
渇いた無表情で、アザリーが言ってくる。
「あの子は今、ディープ・ドラゴンの全種族と戦っている」
◆◇◆◇◆
最 接 近 領 ──
その主 の館 。それは、ほんの一 瞬 で消し飛んだ。
もとより地図上にはなかった領土。もとより誰の記 憶 にも残らない地名。だがこの荒 野 の中に、聖 域 を臨 むこの地に、この館はあった。ここには静かなる者たちが住まい、聖域のドラゴン種族と敵 わぬ暗 闘 を続けてきたのだろう。
オーフェンがここを訪 れてから、まだ一日と少ししか経 っていない。そのほんの短い時間で、ここにいた大 勢 の兵士は死に絶 えた──聖域と戦うということの代 償 を、本当に気前よく支 払 って消 え失 せた。
この土地に侵 入 した《十三使 徒 》も死んだ──彼らが挑 んだのは逆 に、この土地の主、最接近領の領主だった。聖域と最接近領の抗 争 に挟 撃 され、為 す術 もなく死んでいった。
最接近領の、別の意味での王、白魔術士ダミアン・ルーウも滅 び去った──周囲を手 駒 にすることしか頭になかった天然の支 配 者 。だが支配することのできない相手と相対すると、彼は存在することをやめてしまった。
おびただしい死。まるで投げ売りにされる生とその滅 亡 。何者かが笑いながらこれを見ている。舞 台 の下にこぼれ落ちる死を手ですくい取り、嘲 笑 っている何者かがいる。そんなことを妄 想 して、オーフェンは内 臓 を震 わせた。ここは死の土地だ。搾 取 されて当然なのだ。自分も、クリーオウも、マジクも、なんの関係もない地人も免 れることはできない。
いや──
目を見開いて、オーフェンは叫 んだ。
(嫌だ 。受け入れるわけにはいかない)
間に合ったはずはない。今この土地を押 し包む死の手がその気になったならば、彼が瞬 きする間もなくなにもかもを蒸 発 させ、すべてを終わらせていたはずだった。
が、館が揺 れる前に。壮 絶 な悪 寒 に身体 が震える前に。彼は動き出していた。口でなにかを叫んだ──だが彼自身には聞こえなかった。意味のある言葉をふたつ。名前だった。クリーオウとマジクの名前。そして、飛び込 めと叫んだ。
同時に、テーブルの上で縛 られている地 人 の兄弟を両手でひとりずつ抱 え上げ、彼もまた床 の穴 、廃 水 道 の中へと転がり込んだ。
音のない世界で、暗 闇 の中に落下する。湿 気 のある水道内は、冷気とともに苔 の香 りがした。
(こんなことをしてなんになる──)
それは彼の胸 中 のつぶやきではあったが──彼自身の声ではなく、また胸 ではなく耳に響 いた。
(ほんのわずかに足 掻 いたからとなんになる──)
勝てるはずはない。
そのことは疑 うべくもない。
ディープ・ドラゴン種族。
人の手には余 るもの。つまりドラゴン種族。その点においてはこの一種族に限 らないが、ドラゴン種族の中にあって敵 とするならば間 違 いなくこれが最悪の相手だった。
見たことがある。聖域を守るフェンリルの森にて。森に吹 く風をざわめきと静けさの二通りに分類するならば、この種族は静 寂 の中にのみ存在する。漆 黒 の毛 並 みを持った巨 体 。鋭 い獣 の姿 。気高く、強 靭 で、寡 黙 な狼 の姿。漆黒の森狼 。ディープ・ドラゴン=フェンリル。
これは戦士の種族であり、敵を滅 ぼすためだけに存在している。そこには言い訳 も、容 赦 も、なにもない。視 線 によって繰 り出される暗黒魔 術 、最強無 比 の精 神 支配術は、およそ人の力では防 ぐことも逃 げることもできない。キエサルヒマ大陸史上かつて、ディープ・ドラゴンを退 けた存 在 はない。
この暗黒の力を有した獣の王を滅ぼしてくれる都 合 の良い武 器 もなく、この種族を神として崇 める人間すらいる──この絶 対 の死にさらされることこそ己 の汚 れた生をそそぐ唯 一 の方法であるとして。運命を受け入れる手 段 として。
(勝つ方法は......ない)
これは彼自身の囁 きだった。まだほんの一瞬しか経 過 していない。水路の中へ、まだ落下している途 中 だった。時間静止の呪 縛 はすぐに解 け、硬 いブーツの底が石の通路へと触 れ合って冷たい音を立てる。
それがここ数秒で聞いた、唯 一 の音となった。
(勝つ方法なんてひとつもない。奇 跡 なんてものは決して起きない。神に祈 ったって仕方がない──)
「レキなの......⁉ 」
暗い通路に、か細い声が響いた。たった今飛び降 りてきた天 井 を見上げ、クリーオウが吐 き出した音......
激 震 がそれをかき消した。
通路が埋 まるのではないか──オーフェンは当然覚 悟 したが、地上で激 しい爆 発 が起こったというのに通路は砕 けることもなかった。ただ激しく揺れた。上下左右に震える石 造 りの壁 に何度か叩 きつけられ、彼は息を詰 まらせた。抱えていた地人兄弟を取り落とし、目を閉 じて衝 撃 に耐 える。
(この通路を伝って逃げられるか? ディープ・ドラゴンの魔術は視 線 を媒 体 にする。見えないものに直 接 の影 響 を及 ぼすことはできない。通路そのものを無差別に地上から潰 されればそれで終わりだが......成算はある)
天井の穴の上には、星空もなにもない。まだ建物が残っているのかもしれない。ディープ・ドラゴンの力ならばあんな程 度 の建物など一 瞬 で──それこそこの通路ごと消し飛ばすことができたはずだが。
(奇 妙 な気がする。うまく攻 撃 できないでいる?)
「レキだわ。レキなんだ。帰ってきた......」
惚 けたように繰り返すクリーオウの眼 前 を横切るように、オーフェンは指を伸 ばした。通路の先を指し示 す。
まるでそれが指 揮 棒 であるように、少女が声を止める。彼女は瞳 を広げて、狂 った表 情 にも見えた。食い入るようにこちらを見ている。マジクも同じだった。だがこちらはそれよりも暗い顔を見せている。
オーフェンは静かに問うた。
「......食料は持ち出せたか?」
「一 個 だけ。これ一個」
と、抱えている背 負 い袋 を掲 げ、クリーオウが答えてくる。オーフェンはうなずいて、マジクに視線を移 した。ぐったりとまだ気絶している地人たちを差し出しながら、
「これはお前が運んでいけ。この通路を急いで進むんだ。うまく行けば逃げられる」
「オーフェンさんは?」
厳 しい声 音 で、マジクが聞き返してきた。
オーフェンはかぶりを振 った。
「俺 は、少し遅 れてついていく」
「馬 鹿 言わないでください。自分で言ったんじゃないですか──誰 も犠 牲 になることは許 さないって」
「だから全員の生 存 率 を上げるためだ。領 主 を連れてくる」
「はぁ?」
驚 いたような声をあげるマジクを、オーフェンは手で制 した。
「逃げ遅れたのかどうか知らないが、奴 だけ降 りてこなかった。頼 りたくはないが、奴の能 力 は必要になる」
と、天井を見上げて告げる。先ほどの振 動 以来、驚くほどに静かだった──ディープ・ドラゴンは音を立てない。足音も呼 吸 音 もなにもない。心 臓 の鼓 動 すらない。
「生きているわけがありませんよ!」
マジクの叫 ぶ声が、その静 寂 を壊 す。
それに関しては確 信 があったわけではなかったが、オーフェンはつぶやいた。
「聖 域 の殺し屋に身体 をぐちゃぐちゃにされても生きていた。ディープ・ドラゴンが本気で仕 掛 けてもなお生きていられるのかどうかはなんとも言えないが」
「どうして領主様が必要だって思うんですか? さっきは置いていこうって言ってたじゃないですか」
聞いてくるマジクに、オーフェンはしばし考えてから。
「ダミアンが消えて、目覚めることがあるのかどうか分からなかったからな。考えてみればコルゴンは俺に、領主に協力しろと言った......コルゴン自身も、領主のために働いていたんだ」
「............?」
「領主に利用価 値 があったってことだろ。少なくともあの時点までは」
「じゃあぼくが行って助けてきますよ! あの人を利用しようとしてたのはぼくなんですから。ぼくはもう弟 子 じゃないんですから、ぼくのやりたいことはさせてください。オーフェンさんこそクリーオウを守って行くべきです。オーフェンさんはぼくと違 って──」
「わたしだって行けない!」
横から、クリーオウが叫んでくる。いつになく真 剣 な面 持 ちで、彼女は続けた。
「上にレキがいるんでしょう? だったら......わたしは会わないと」
「......分かった」
ふたりにうなずいて、オーフェンは嘆 息 した。実 際 のところ、逃 げるのも立ち向かうのも生存確率は大差ない──それがディープ・ドラゴン種族に対する通 常 の認 識 というものだった。ならば、このふたりだけで逃がすより自分の手のとどくところにいてもらったほうがなんとかできるかもしれない。
(そういや、あの哀 れなウィノナが言ってたっけな......ドラゴン種族と戦う成算のある魔 術 士 は大陸に何人もいない。俺はそのひとりだと)
ただその彼女の言葉には、ディープ・ドラゴン種族のことまで含 まれていただろうか?
打算して──その計算の暗さに頭 痛 すら覚えながら、オーフェンは続けた。
「それならそれでいいだろう。ただし、自分が途 方 もなく愚 かな決 断 をしたってことは分かっておけよ。もっとも......」
と、付け加える。
「俺の私事で、お前らをこんな目にあわせちまってるのは俺の判 断 の甘 さだ。謝 って済 むもんでもないが......すまんな」
「ぼくは別にただ巻 き込 まれてきたわけじゃないですよ。見くびらないでください」
「そうよ。好きでついてきただけだし」
「............」
三人で天 井 の穴 を見上げ、それぞれにつぶやく。
穴の上はまだ暗く、なにも見えない。物音ひとつ聞こえてこない。
それもまた不自然なことではあった──ディープ・ドラゴンは手 加 減 など知らない。ここで攻 撃 の手を休める道理もない。
視 線 はそのまま、オーフェンはふたりに告げた。
「まずは俺が出る。お前たちは状 況 を見て、遅れてついてくるか逃げ出すかを判断しろ。いいな。必ず正しいほうを選んで、かつ躊 躇 なく行動しろ。必ずだ。一 瞬 で殺されることだってあり得る」
「......うん」
うなずいてくるクリーオウと、無言のマジク──
気になって、オーフェンは元弟子の少年を見やった。問いかける。
「マジク。さっき、なにか言いかけたな。なにを言おうとしていた?」
暗く湿 った通路で、マジクはややうつむき加減で口ごもったようだったが──それでも答えてきた。
「......オーフェンさんはぼくと違って、大 勢 の人に必要とされる魔術士です」
「どうしてそんなことを思った?」
「ぼくは自分のことだけで精 一 杯 だから」
本当に、どうしてそんなことを思ったのだ──
胸 中 でつぶやきながら、オーフェンは身をかがめた。意識を集中し、魔術の構 成 を編 んでいる間にも、胸 の中にある別の引き出しで物思いを続ける。
(オレにできることなんて、なにもないのにな)
「我 は駆 ける天の銀 嶺 !」
刹 那 だけ重力を中和し、床 を蹴 って飛び上がる。
目 測 正しく、天井の穴を通り抜 けて元の調理場へと舞 いもどる。そして。
理 解 できず、オーフェンはあたりを見回した。調理場は、そっくりそのまま残っていた。先ほどの振 動 のせいか、棚 にあった調味料や食器が倒 れるなり床に散 乱 するなりしている。が、それだけだった。館 そのものも無事らしい。
すっかり狼狽 えて、うめく。
(どういうことだ......? 領 主 と同じで、この館も不死身だってのか?)
「いや」
涼 やかな声 音 で──椅 子 に腰 掛 けた領主が声をかけてきた。微 笑 んですらいる。無 論 、無 傷 だった。
「そもそも逃げる必要などはなかったのだ。わたしには、分かっていたがね」
と、水道の入り口を指し示 して付け加える。
「それにその通路は、ユイスによって出口を潰 されているよ。わたしには分かるのだ」
「予知能 力 ......か。ダミアンの話では、知覚が時間の流れよりも早いとか言っていたが」
「そういうことだ」
特に誇 る様子もなく、ただ認 めるだけの口調。
それでも嫌 みを肌 で感じながら、オーフェンは反発して声を荒 らげた。
「なら、その能力で説明してみろ──いったいなにが起こってるんだ! これからどうなるんだ!」
「さっきから言っている。わたしが大陸最強の存 在 になったということだ」
「だったらさっきの攻撃はなんだ。景気づけか!」
「さて──」
つぶやきかけて、初めて領主の表 情 が曇 る。その男は膝 の上で手を組み替 え、
「あれはどういうことだったのだろうな。ディープ・ドラゴンは閉 塞 的な群 だ。内部のことまではわたしにも分かりにくい......」
「なら、あてにゃならねぇってことか!」
舌 打 ちして、オーフェンは窓 の外へ視線をやった。外は暗く──あり得ないが地下の廃 水 道 よりも暗い。闇 よりも濃 い漆 黒 が、模 様 のない渦 を描 いているようだった。空気が流れていることは分かる。その風が、染 められたように黒いことも。ただまったくの無音だった。それが動き続けている。
大陸に在 る、六種の獣 王 。そのうちの〝静 寂 の獣 〟──フェンリル。
身体 中をまさぐる悪 寒 に身もだえする思いで、オーフェンは勝手口の扉 に手をかけた。
それを押 し開ける。
館の周囲は、庭園になっていたはずだった。一部が焼き払 われもしたが、まだそのはずだった。が、今はそれがすべて荒 野 となっていた──この最接近領を取り巻いていた荒野と同じ、砂 と砂 利 の荒 れ野に。
月と星の光がそれを青白く照らしている。そのくすんだ海底のような風景を、黒い獣 が駆 け回っていた。一頭や二頭ではない──見 渡 す限 りの広さに、何百頭と。
にわかには信じがたい光景ではあった。数メートルはある巨 大 な獣が激 しく駆け回り、そして互 いに襲 いかかり戦っている。ディープ・ドラゴンは牙 を使わない。魔 術 士 として攻 撃 の究 極 に達したこの種族は、攻撃手 段 として肉体を使うことはない。はずだった。だが今の彼らは魔術を使っていない。頭から突 進 し、ぶつかり合い、そして地面に投げ出され叩 きつけられても......なお、まったく音を立てていない。
無音の騒 動 には現 実 感 もなく、抑 揚 もない。ただオーフェンは、勝手口から半歩飛び出したところで動きを止めて見入るしかなかった。黒い獣の濁 流 が、群の塊 にぶつかっては跳 ね飛ばされる。動かなくなる個 体 はない。すべてが動き回り、そしてひとつところに留 まらない。
(なにが......起こってるんだ、これは?)
と。
「なんだこれは」
背 後 からつぶやいてきたのは、領主だった。続けて出てこようとして同じ光景を見、そして呆 然 としている。
振 り返らず、オーフェンはつぶやいた。自分自身、まさかと思いながら。
「仲間......割 れ?」
「馬 鹿 な! ディープ・ドラゴン種族にはそんなものはない! 個がなく、全体しかない生物なのだ──」
「なら、これはどういうことなんだ! 説明役はてめぇだろうが!」
捨 てばちに叫 んで、オーフェンは飛び出した。ディープ・ドラゴンは魔術を使っていない。もしディープ・ドラゴン同士の争いがあったとして、それが魔術での戦いになれば、周囲一帯、荒野になるどころか灰 しか残るまい。
無 論 のこと、それを防 ぐ魔術などありはしない。開き直ってオーフェンは防 御 の構 成 を思い浮 かべることもなく、ただ群の流れを見定めようとした。そして、
「オーフェン!」
続いて館から外に出てきたのは、領主ではなくクリーオウだった。あの穴 を昇 るのに、マジクに手伝わせたのだろう。少年もいっしょだった。ふたりとも、あまりの出来事に青ざめて見回している。
「これっていったい......」
つぶやくマジクに、オーフェンは向き直った。
「分からねぇ。ただ、好機かもしれない。あの通路は駄 目 らしいが、この混 乱 の中で逃 げ道さえ見つかれば包囲を抜 けられるかも──」
「お師 様 !」
マジクが、ついうっかりか、そんな呼 び名で叫んだが──
そのことを気にするような余 裕 すらなかった。少年が指さしている先へと振り向くと、ディープ・ドラゴンの中の一頭だけが動きを止めている。黒 狼 は緑色に輝 く眼 をこちらに向けていた。
殺意は肌 で感じ取ることができる。震 えがくるほどにはっきりと。見通しが甘 かったことを悟 り、オーフェンはうめいた。
(対 抗 できる......か⁉ )
右 腕 を掲 げる。
意 識 は瞬 時 に先 鋭 化 していた。同じ魔術士として、ドラゴン種族の魔術を凌 駕 することは誰でもが一度は夢 見 ることではある──根本的には同じ能 力 のはずが、どうしてここまでの圧 倒 的な差を持つのか。むしろそこに疑 問 を抱 き、自分こそがついに理 不 尽 を覆 してやるのだと、誰 もがそう思う。
が、現 実 にディープ・ドラゴンを退 けた人間は存 在 しない。
(俺にできる......か?)
構成には間 違 いはない。何度も、何百度も編んだ、慣 れた構成。
強大な破 壊 を導 き、もし邪 魔 されず標的にとどいたならば、獣 の巨体をも粉 砕 できることは疑 いもない。
彼は唱 え始めた。
「我 は放つ光の──」
そして、間に合わないことを悟 った。
だが。
そのぎりぎりの時間の中で。オーフェンは自 制 の上に自制を課した。諦 観 の衝 動 を抑 えつけ、己 に命じ続ける。
(無 駄 な力は要 らない──)
(構成を最 小 限 に──)
(いつもの構成じゃ効 かない──)
(効かせることを考えろ──)
(最 善 の完 璧 を課せ──)
(敵 が誰であろうと関係がない──)
(目指すのは威 力 の極大ではなく細 緻 の極 限 だ──)
それらの言葉が順番に脳 裏 を刻 んだわけではない。
すべてが一瞬で閃 き、一瞬で消えた。
そしてすべてを一瞬間に理 解 している。
(先生と俺 との間に、力の差がそれほどあったはずはない 。それでも圧 倒 的な結果として現 れたのはここの差だ。ここでもう一歩、さらに構成を踏 み込 む!)
「白 刃 !」
指先で示した空間に、確 かに光球が膨 れ上がる。会心の出来だった。今まで慣れたタイミングよりも、格 段 に速い──アザリーと同 格 か、それよりも速い。チャイルドマンと同格か、あるいは速い。その確 信 がある。
熱 衝 撃 波 が一直線に、対 峙 するディープ・ドラゴンを目指そうとする。
そして数メートル進んだところで、虚 空 に弾 けた。
(最 善 の......構成を......編 んで!)
真正面に輝く──純 白 の光熱波が消え去った向こうに、緑色に輝く──ディープ・ドラゴンの両 眼 をにらみ据 え、オーフェンは叫 んでいた。
掲げていた右腕の、指を曲げるにも足りない時間に、このすべてが終わっていた。
(なお──足りない敵 かっ!)
緑の双 眸 の輝きから逃 れるための術 を思い描 こうとする。ディープ・ドラゴンの暗黒魔 術 から、自分のみならず後方にいるクリーオウとマジクをも守りきるための手 段 。
それを思いつくより早く、当のディープ・ドラゴンが横に吹 き飛ばされた。
「............⁉ 」
神 経 速度ではついていけない状 況 変化の中で、ようやくオーフェンは毒づく機に追いついた。
「......なんなんだ!」
ディープ・ドラゴンを突 き倒 したのは、やはり同じドラゴンだった。だが周囲に群 れているものと比 べて、明らかに身体 が一回り大きい。いや、最大のものといっていい。それは横倒しにした仲間をさらに頭で突き上げると、また別のドラゴンを肩 で打ち倒した。それで動きを止めるディープ・ドラゴンもいないが、それでも場はますます混 乱 していく。
「あれは──」
つぶやいた言葉を継 いだ声は、ふたつあった。
「レキ!」
と叫ぶクリーオウと、そして、
「アスラリエル!」
いつの間にか出てきていたらしい領 主 が、驚 嘆 というよりは呼 びかけるように、大声で叫んでいる。
「やはり帰ってきたのだな──取引した通りに! 旧 いアスラリエルを滅 ぼし、その名を継いで新たなる長 となって! だが......」
力無く尻 窄 みに、領主の声から勢 いが消える。
「だが、ならばどうして......群と争っている? なんだというのだ、これは......」
「誰にも分かるか、そんなもの」
オーフェンは吐 き捨 てて、改 めて群を観察した。すべてがすべてと争っている──と見えて、よくよく見定めれば、ディープ・ドラゴンの群を搔 き乱 しているのはたった一頭の個体だけだった。その一 匹 が、すべての群と戦っている。すべての群と戦い、一歩も退 かずにいる。それが最も巨 大 な一頭だった。魔 術 なしで、ひたすらに身体で打ち合っている。にも拘わらず無音を保 っていた。これが本来の、魔術を得る前の、この種族の姿 なのかもしれないが。
領主の顔は訝 しく歪 んでいた。汗 すら滲 んでいる。これがよほどの異 常 事 態 であることは、この領主ならずとも知れることだった。大きく矛 盾 している。
「もし......あのディープ・ドラゴンの子がアスラリエルに負け、あの個 体 が旧 アスラリエルのままであるならば──群が乱れる道理がない。ディープ・ドラゴンはもとのまま、変化もなにもないままここに現れたはずだ」
アルマゲスト・ベティスリーサが、小声で自問を繰り返すのが耳に入った。
「そしてあの子ドラゴンがアスラリエルを倒し、新たなる群の長になったのならば......何 故 、群がそれに従 っていない? 意味が分からない。どのみちディープ・ドラゴン同士が争うなど、根本的にあり得ない......どういうことだ! わたしに理解できないことが起こるなど、それはおかしいことだ!」
領主は、周りに同意を求めたのかもしれない。声の調子では、そう聞こえた。
だがオーフェンは......かぶりを振 って、つぶやいた。
「自分の目でよく見るんだな。そうすれば、分かることだってある......道理を覆 すことが起こったんだ」
声が震 えた。今も黒 狼 の群はめまぐるしく位置を入れ替 えながら戦っている。
見 間 違 いかとも思えたが──一度気づけば、事 態 の把 握 は容 易 だった。
「なんだ! なにか分かったのか!」
肩 を摑 もうとする領主の手をすり抜 け──
「オーフェン! レキが......!」
やはり同じことを理 解 したらしいクリーオウに、うなずきかける。
オーフェンは脱 力 して、そこに立ち尽くした。もうなにをする必要もない。自分たちは、この上ない安 全 圏 にいる。
彼は、巨大な一頭が他と争っている場所から視 線 を移 し、別の一点を指さした。
そこには、もう一頭。最大の大きさを持ったディープ・ドラゴンがいた。それはじっと、自分と同じ姿を持った個体を見つめている。緑色の瞳 で。
嘆 息 して、オーフェンはつぶやいた。
「アスラリエルが、二頭いる」
「......なんだと......?」
領主も二頭を見 比 べて、そしてさらに愕 然 と囁 いた。
「アスラリエルが二頭に増 えただと?......いや、二頭ではない。一方はアスラリエルではない 。名を継がずに......成体となった。ディープ・ドラゴン種族が種族数を一頭増やしたのか。こんなことは......この千年間、なかったはずだ」
「レキが帰ってきた......レキのまま帰ってきた!」
ひきつけを起こしたようにクリーオウが叫 び──さらに咳 き込 み、地面にへたり込む。が、顔だけは、視線だけはレキの姿を見続けていた。
「ちょっとだけ......っていうかかなりどでかくなってるけど、レキのまんま帰ってきてくれた......仲間を傷 つけないように戦いながら、わたしたちを守ってくれてる。レキ!」
彼女の呼び声に応 えるように。
レキが、巨大な咆 吼 を轟 かせた。荒 野 中に響 き渡 るほどの肉声を。さらに、
《退 け! 我 が同 胞 よ──》
「痛 っ!」
オーフェンは頭を押 さえた。脳 に痛 みを引き起こすほどの精 神 通話で、レキが群 に通告を発している。
《我が同胞ら、お前たちは全にして個、ひとつの意 思 ──そして我 はそこから離 れた一個の意思! お前ら群すべて合わせて、ようやくにして我一個体と対等! それを理解して退け!》
「レキ......」
同じように頭を両手で押さえながら、クリーオウ。目に涙 が溜 まっている。
《盟 約 によって示 された召 喚 の時は、今ではない。それを知っていてなおここに集 ったか! 戦士はいつから走 狗 となった!》
そのレキの声に怯 えるように──
群の動きが、ぴたりと止まる。
もともと無音であった群の争いがさらに動作まで止めたことで、今までに増 して深い静 寂 が訪 れた。
ふと気づけば闇 の色が薄 くなっている。ディープ・ドラゴンの数が目に見えて減 っていた。次々と姿 を消し、そして去っていく。最後に残ったのは一対のドラゴン──レキとアスラリエルだけだった。
ほんの数秒だけ視 線 をかわし、アスラリエルも消える。
すべて、静寂の喧 噪 が去る。庭園こそもう雑 草 の一本も残っていないものの、もうそこはもとの最 接 近 領 に過 ぎなかった。夜明けが近いとはいえまだ夜の闇に閉ざされている。そこに残ったただ一頭の黒 狼 は、遥 かな高みからこちらを──いや、クリーオウを見下ろしている
「意 志 あるディープ・ドラゴン......」
肩 を落とした領主の、愕然とした声。その横を勢 いよく通り過ぎ、クリーオウが飛び出した。レキに向かって、転がるように駆 けていく。
「レキ!」
叫ぶ彼女の後を追って、オーフェンも、やや遅 れた足取りでついていった。マジクも並 んで走り出す。
突 進 する子犬のようにクリーオウはレキの前 脚 に飛びつくと、そのまましがみついた。大声で泣き出す彼女の背 中 に、レキが鼻先を押 しつけている。それは甘 える仕草というより、泣く少女のために背中を撫 でてやっているようにも見えた。
しゃくり上げる彼女のつぶやきが、かろうじて聞こえてくる。
「......ごめん。ひとりぼっちになっちゃったんだね......レキ」
レキは答えず、もとの語らぬ獣 にもどったようだった。

「のしのし進むよ大 怪 獣 〜。ああ日がな一日やたら黒いし〜」
調子の外 れた歌を聞くともなしに聞きながら、オーフェンは荒野の風に吐 息 を混 ぜた。
変わらない地平をずっと眺 めていれば、時間の感覚も狂 っていく。距 離 感もだ──が、素 直 に勘 に従 えば、思っているほど時間も浪 費 していないし、遠くに見えるフェンリルの森はやはり今でも遠いのだろう。
「しかしどうして大怪獣〜。俺様乗っけてどこに行く〜。黒いものはいつも身勝手〜。この際 だから法 律 で〜。黒いものは全部取り締 まるのが良いと思う〜」
歌声は必ずしもそれほど大きいものではなく、むしろ囁 き声といっても良かったかもしれない。だが静まり返った荒野には、その声は必要以上に響いていた。〝大怪獣〟は歩き続けていても、足音どころか物音ひとつ立てない。荒野には乾 いた風が吹 くが、それは空の上に吹き荒 れても、地上を無視している。どこか現 実 感のない遠い世界の出来事にも見えた。
「とっとこ歩くよ大怪獣〜」
「やかましい!」
その大怪獣の背の上で身を起こし、オーフェンは怒 鳴 り声をあげた──巨 大 な黒 毛 狼 、その前脚のほうを見下ろし、
「どう突 っ込 めばいいのか分からないからもうそのまま言うぞ。一日中歌うな! 黙 ってられねぇのか⁉ 」
「この待 遇 で、じっと黙っていられるほうがどうかと思うんですがー......」
答えてきたのは、先ほどから歌い続けていた地 人 ──ではなく、もう一方の弟のほうだった。地人兄弟はひとりずつ、このディープ・ドラゴンの前脚にしがみついている。
「ていうか俺様たち、なにげに凄 いな」
他人事のように、今度は兄のほうがつぶやくのが聞こえてくる。
とりあえず無視して、オーフェンは告げた。
「仕方ねぇだろ。座 席 があるわけでもねぇし」
そう言うオーフェンは、レキの背中に寝 転 がっていた。ディープ・ドラゴンは身体 にまとわりついている連れのことを気 遣 ってか、ほとんど身体を揺 らさずに歩いているため居 心 地 は悪くない。ただ、水を弾 く黒い体毛が滑 りやすいため、落ちまいと思えば気を抜 いていられるわけでもない。
「それにしても〜、さすがにこんな進み方をして二日目ですし〜」
と、また一 段 とぐったりした情 けない声 音 を発したのはマジクだった。これは、同じくレキの背中にいる。高さに恐 怖 を覚えてか、あまり下を見ないようにしながら少年は、必要以上にレキの体毛を鷲 摑 みしていた。
「............」
オーフェンはしばし、それを見つめ返してから──
嘆 息 した。反 論 しようとしたのだが、実際には自分もまったく同じことを考えていたことに気づいてしまった。
口を開くと、自然と四人の声がハモっていた。
「ちょっと聞いてよ大怪獣〜」
「なんで合 唱 してるの!」
拳 を振 り上げ、叫 んできたのはクリーオウだった。彼女はディープ・ドラゴンの頭の上に──かつて自分がレキを乗せていたように──、ちょこんと座 り込んでいる。後ろを振り向き、あとを続けた。
「しかも大怪獣言わない! レキだってこんなに人乗せて大変なんだから黙っててよ」
「......とはいえ、解 せんな」
静かに──自分の出番を待っていたかのように間をおいてつぶやいたのは、最後のひとり、領 主 だった。彼もまた、レキの背 中 にいる。ただ肩 のあたりにしがみついているオーフェンらとは少し離 れて、レキの腰 上 あたりに腰 掛 けていた。優 雅 に余 裕 を持って、令 嬢 がお供 付 で乗馬でもしているように。
「なにがですか?」
聞き返すクリーオウに、領主は前方を指さした。行く手に広がるフェンリルの森。だが、まだ遠い。その上......
「真 っ直 ぐに進んでいるわけではないようだな」
彼が指さした方向と、レキの進む方向とでは、わずかながらずれがあった。レキはその会話も聞いているのかもしれないが──クリーオウの腰の下で尖 った耳がたまに動く──、なんの反 応 もなく、ただ黙々と進んでいく。合計六人を運んで。
「それに、転 移 すれば一 瞬 で森まで着けるはずだ。徒歩なのはどういうわけだ?」
「なにかに備 えて力を温 存 してるとか......」
答えてつぶやいたのはマジクだが、クリーオウがかぶりを振る。
「そういうことができない......場所っていうか、なんて呼 ぶの? そういうのがあるんだって」
「結界か......ドラゴン種族の。でもドッペル・イクスの転移は素 通 しで、レキの転移だけを阻 むってのは......」
独 りごちるオーフェンに、領主が思いついたように顔を上げた。
「ディープ・ドラゴンの進軍を止められるような力が聖 域 にあるとすれば、フェアリー・ドラゴン種族の──」
「精 霊 魔 術 か。ったく、伝説みたいなものだと思ってたのに、そんなもんが次々際 限 なく出てくるんだろうな、これからは」
「精霊魔術?」
聞き慣 れない単語に、マジクが聞いてくる。
オーフェンは肩をすくめた。彼自身、それほど詳 しいわけでもない。
「フェアリー・ドラゴン種族......現 代 では架 空 のものだったんじゃねえかってくらい伝説中の伝説、そんなドラゴン種族さ。人間種族で実際に見た奴 がいるんだかどうだか。伝説を鵜 呑 みにすれば、真 紅 の獅 子 の姿 で、精霊魔術を使うとされてる。前に、お前の宿で、俺 が外に放 り出されて中に入れなくなったことがあったの覚えてるか?」
「ええ。あの、なんだか分からないけど中に入れなくなった......あれですよね?」
答えてくるマジクにうなずいて、オーフェンは続けた。
「どうもあれは大事な客を追い出して中に入れなくするとか、そういうタチの悪い呪 いみたいなもんだったらしいな。精霊ってのは、全自然のエネルギーを仮 定 の上で擬 人 化 したものだ。その形 態 はいくらでも変化するし、力にも際限がない。精霊魔術は、契 約 を媒 体 として、その力を好き放題に使えるってー強力な代 物 だ」
「ディープ・ドラゴンより強いんですか? 今の話だと」
「単 純 な力の総 量 でいえば、そりゃあたったひとつの魔術構 成 でこの世界すべての物 質 とパワーを扱 ってしまえる精霊魔術はどんな力よりも上だろうさ。とはいえ問題は媒体だ。契約を形に残していなければ、この魔術は発動しない。そしてその効 果 も、あくまで契約の上でしか発 揮 されない」
「はあ......」
と生返事をつぶやくマジクに、オーフェンは言い直した。
「基 本 的に、相手の同意がなければその相手を傷 つけることはできないし、相手を拘 束 することもできない。そんなような意味さ。いつぞやの宿の一 件 でも、契約を交 わしてもいない俺を外に追い出すことはできても、俺をさらに遠くまで追いやったり、あるいは殺したりすることはできなかった。宿一 軒 どころかこれだけ広 範 囲 の森から大 怪 獣 を阻 むとなると、よほどの同意が必要だったんじゃねぇかな。ディープ・ドラゴン種族そのものが契約を交わしたと考えるべきだろ」
「......伝説中の伝説のわりには、詳 しいですね」
「伝説だから有名なんだよ。真 偽 のほどもあてにゃならんってことだが」
認 めて、オーフェンは座 り直した。見回してみても風景は変わらない。領主が先ほど指さした先にあるフェンリルの森は、やはり遠い。
その指はとうに下ろしているものの、アルマゲストはやはりまだそちらを見ていた。彼はゆっくりと──ただし今度は苛 立 ちを含 んだ声で、
「本来は、これはディープ・ドラゴン全種族を率 いた進軍のはずだった......聖域に対し、全 滅 以外の道を選ばせない決定的な」
と、レキの後ろ頭へと顔を向け、最 接 近 領 の領主は続ける。
「その全種族と対等の力を持つ、このドラゴン......聖域の精霊魔術にも引けを取るとは思わないな」
「......レキは結界に対 抗 できないから近づけないんじゃなくて、ほかの理由があって回り道をしているってことか?」
「転移を阻 害 する力があるというのも本当なのだろうが、単に聖域に近づけないだけであれば、そもそも回り込 んでも意味はなかろう?」
領主の言葉に、やはり反 論 は思いつけず──オーフェンはうなずいた。ごろりと、レキの背 中 に寝 転 んで空を見上げる。変わらない地平を見ているよりは、変わらない空を見ていたほうがましだった。
(レキにもなにかの意図があるってことか......とはいえ、あと十一日。レキの足なら、それほどかからずに辿 り着けるんだろうが、間に合うのか?)
横目で──領主に倣 ったわけではないが、レキの後頭部を見やる。ただし見たのは淑 女 のように頭を固定して歩くレキではなく、その頭上に座っている少女の後ろ姿だった。彼女は会話には加わらず、頭の上からレキになにやら話しかけている。一方的にしゃべっているだけにも見えたが、恐 らくは会話が成立しているのだろう。
息をついて、オーフェンは視 線 を空にもどした。
(疑 う理由はない......か)
どれだけ敵 だらけになろうと、疑わずにいられる相手というのもいる。
が、突 然 。
レキが歩調を変えた。
「?」
咄 嗟 にオーフェンは身を沈 めて、レキの背中の毛を摑 んだ──そうしなければ振 り落とされそうなほど、速度が上がりつつある。相変わらず足音がしないため実感には乏 しいが、レキの加速は一 瞬 で最高速に達していた。
「な、なんだ? なにが起こった?」
うめくオーフェンの後方から、つぶやきが聞こえてくる。領主だった。
「......戦 闘 だ」
「戦闘?」
なにを言っているのか分からず、聞き返す。
顔を上げて見回すも、顔に押 しつけられてくる風に目を開くことができない。薄 目 で左右を見ても、網 膜 に映 るのは勢 いよく流れゆく足 下 と、まるで止め絵のような遠景とのコントラストで、意 識 に留 まるようなものもない。
レキの速度は相当のものだった。マジクはすっかりあわを食って身体 半分ずり落ちているし、領主もさすがに余 裕 をなくしている。オーフェンが後方を見ているうちに、なにか重いものが肩 の上に落ちてきた。見やると、クリーオウが同じ場所まで転げ落ちてきたらしい。足にしがみついている地人たちは──まだ落ちていないことが驚 きだが──目を回しながらそれぞれトーンの高低分かれた悲 鳴 をあげていた。
「レキ! どうしたの!」
レキの背中というよりこちらの首にかじりつく格 好 で、クリーオウが叫 ぶのが聞こえた。だがディープ・ドラゴンは彼女の声にも反 応 なく、そのままの速度で走り続けていく。かなりの距 離 を疾 走 し、それでも止まる様子はない。
「戦闘って......なんだ? なにが? なにと?」
独 りごちるように、オーフェンは息を吐 い た。見えたものがあった。
ただの岩のように見えた黒い塊 に、手足が生えていた。
ほんの一瞬のことで、すぐに視界から消える。
振り向いて視線でそれを追おうとしても、目を閉 じて叫んでいるクリーオウの顔があるだけだった。
やがて──
行く手から眩 い輝 きと爆 音 が響 いてきた。まだ距離がある。が、その純 白 の炎 は疑いもなく魔 術 によるものと知れる。巨 大 な火柱が大地を焼くその轟 音 に対しても、レキは速度を落とさない。
顔を伏 せ、全力でしがみつく中でなんとか視界を確 保 するよう努 め、次 第 に見えてきたのは、ぽつりぽつりと転がる──死体。
クリーオウが悲鳴をあげている。
オーフェンはつぶやいた。
「なんだ......この規 模 は。戦争でも始まってるのか」
死体は原型をとどめていないものもあった。破 損 した武 器 が、そこかしこに落ちている。刹 那 、
「────っ⁉ 」
反 射 的にオーフェンは短 剣 を抜 いた。見えもしなかった脅 威 に対して、刃 を突 き立てる。流れる風景に溶 け込 むように黒く細長いなにかが波打っていた──それを銀色の刃 が縦 に貫 き、空間に縫 い止めている。
その一 撃 を受け止めた代 償 として、オーフェンは身体 が宙 に浮 かぶのを感じていた。そのまま......押し返されるようにレキの背中から落下する。
どうにかしてクリーオウを空中で抱 きかかえられたのは、彼女がこちらの首にしがみついたままあまり動かなかったからだった。左 腕 で彼女を抱 え込み、右手には短剣──そしてその刃に貫かれた触 手 のようなもの。自由な両足だけで、着地点を探 る。バランス感覚を頼 み、恐 慌 状 態 に陥 らないよう息を呑 み、高速で触 れる地面につまずく一瞬前に叫ぶ。
「我 は跳 ぶ天の銀 嶺 !」
発動した魔術が落下速度を緩 和 し、オーフェンはなんとか足首と膝 とで着地の衝 撃 を受け流した。勢いで身体が転がりかけるが、そちらには逆 らわず前転する。それまでに短剣は手放していた──そんなものを持ったまま転 倒 すれば、自分はともかくクリーオウを刺 し殺しかねない。
二回転ほどしただろうか。起き上がると、目の前に死体があった。男のものだった──恐 らく。首がなく、胸 から下もない。喉 と腕だけがだらりと、奇 怪 な生物のように横たわっている。強 靭 で鋭 い刃 物 、ただし決してそれほど鋭 利 ではないなにかで、強 引 に切 断 された傷 口 だった。失われた部位がどこにあるのかは分からなかったが、どのみちもう用なしであることは間 違 いない。
「オーフェン......⁉ 」
クリーオウの呼 びかけには答えず、オーフェンは彼女の身体を横に投げ出した。さらに身体を反転しつつ、戦闘服の隠 しポケットからスローイングダガーを一本引っ張 り出す。
それを投げ放つより先に、振り向いた真正面から飛んでくるものがあった。拳 を固めて、それを払 いのける。横に弾 いたそれを視 線 で追うと、先ほど手放した自分の短剣だった。はね除 けた戦闘服の腕の部分が、薄 く切り裂 かれる。短剣は偶 然 飛んできたものではなく、投げつけられたものに疑 いなかった──裂 傷 の痛 みに舌 打 ちしながら、ダガーを改 めて構 え直す。
「捨てられたー!」
咳 き込みながらわめくクリーオウに、やはり応 えている暇 はない。
それほど離 れているとも言えない距離に、ふたつの人 影 と対 峙 していた。
それぞれ、男女だった。
ひとりは、杖 をついた老人で。
もうひとりは、胸 元 の開いたドレス姿 の若 い女で。
どちらも、こんな荒 野 に似 つかわしい姿とはいえない。
老人が溶けて消えた。砂 のように崩 れ、大地に混 ざる。女は優 雅 に立ったまま──膝 を曲げることすらなく、垂 直 に飛び上がった。見上げるほどの高度まで。
それがなにか 。判 断 は保 留 して、オーフェンは行動を起こしていた。
ナイフを持った右手をそのまま突き出すと、叫ぶ。
「我は放つ光の白 刃 っ!」
膨 れ上がった白光が、老人が崩れたあたりの地面を焼き払う。本 能 的に後ろに跳びたかったが──オーフェンは自 制 した。クリーオウがわけも分からず、こちらを見上げている。現 状 では、彼女から離れるわけにはいかない。
爆 風 をほおに受けながら、飛び上がった女を目で追う。構 成 を編 みながら今度は空中の女に向かって右腕を振 り上げる。
と、その瞬 間 、女の足が伸 びた。
伸ばした足で地面を蹴 り、またさらに高度を上げる。
さらには、地面についた女の足が直角に折れ曲がり、こちらに向かって突き進んでくる。
(こいつは......)
解 き放とうとしていた構成を切り替 えて、オーフェンは叫 んだ。
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
光によって繋 ぎ止められた鎖 状 の壁 が、女の爪 先 ──あり得ない角度で突 進 してきた靴 の先を受け止める。
その光 壁 が消える前に、オーフェンはクリーオウの肩 を摑 んで後方に跳んだ。
予想、いや、覚 悟 はしていた。身体 で感じていた。記 憶 が、五感が、全方向から警 告 を発してきていた。自分が今、どういった種類の危 険 に見 舞 われているのか。クリーオウを抱えながら、それに対 処 しなければならない。
足 下 の砂 が、波のようにうねり始めても、驚 くには値 しない。その砂がいっせいに舞い上がり、檻 のような形に変じようとしても。
宙 に跳 んだ女が双 眸 を緑に輝 かせながら、暗がりに棲 む奇怪な虫のように五体を伸ばし上空からこちらを串 刺 しにしようとしているのを見ても、それもまた覚悟の内だった。
自分がなにと戦っているのか。オーフェンは、静かに認 めた。
大陸に在 る、六種の獣 王 。そのうちの〝苛 烈 の獣 〟──バーサーカー。
(レッド・ドラゴン種族......!)
「我 導 くは死 呼 ぶ椋 鳥 !」
地面から起き上がる砂の格 子 。背 後 をふさごうとするそれに対して、魔 術 を放つ。
収 束 する振 動 波 も、このドラゴン種族を破 壊 することはできない。それは分かっていた。それでも攻 撃 形 に変 態 しようとしていた砂 状 の敵 を瞬間拘 束 することはできた。
立ち上った砂の柱がひとつにまとまり、先ほどの老人に変わろうとしている──やはり瞳 は緑色の輝きを放っていた。その自然ならざる眼 球 の中心へと、手首のしなりを使ってスローイングダガーを投げつける。
動けないレッド・ドラゴンの右目に、小型のナイフが突 き刺さる。
本来ならば、身体のどこに刃物が刺さったところで効 果 もなかったろう。眼球に刺さったからといって致 命 傷 でもあるまい──が、それでも老人の姿をしたそのドラゴン種族はのけぞり、硬 直 をもう少し長いものにした。
その隙 に退 路 を見つけて、オーフェンは駆 け出した。いちいち反 応 の遅 れるクリーオウに途 方 もない焦 燥 を覚えながらも、彼女を引きずるようにしてなんとか数歩逃 げ出す。
「オーフェンオーフェンオーフェン⁉ いったいなにがどうなって──」
敵は人間ではない存 在 である。
人間ではない強さ、人間ではないタイミング、人間ではない空間の使い方をする。
今もオーフェンが後退するタイミングに先んじて、魔術の障 壁 を突 破 した女の爪先が、それぞれ彼とクリーオウとを狙 っていた。実 際 にその気配を感じていたのは、スローイングダガーが手から離れるかどうかといったところだった。脅 威 となるほど爪先が迫 ってきていたのも、その頃 だったろう。
通 常 ならば、それを回 避 することはできなかった──知覚することすらできなかったはずだった。
一瞬ごとに起こるすべてのことが、致命的に自分の命を抉 ろうと追いかけてくる。それを振り切るために、意 識 はどこまでも冴 えていった。
すべて、発生する事象の必ず一歩先を行く。その急速な加速の中で──叫ぶ。
「我は躍 る天の楼 閣 !」
クリーオウを抱 えたまま、彼の身体は架 空 の光速で現実の距 離 を移 動 した。
人をひとり抱えての疑 似 空間転移──構成に不安を感じる暇 すらなく。オーフェンはクリーオウとともに数メートルを跳 躍 して現 実 空間にもどった。背後には、一度目の包囲から獲 物 を逃 したレッド・ドラゴンふたりが、もとの人間擬 態 でこちらを見つめてきている。
「お、おふぇーん......」
目を回したのかぐったりしているクリーオウを突き放し、オーフェンは彼女に小声で囁 いた。
「走れるか?」
「え? ええと、大 丈 夫 ......」
答えながらふらふらとへたり込むクリーオウに、しばし天を仰ぎ、彼女をかばう形で前に進み出る。二体のレッド・ドラゴンと正面向いて、オーフェンは拳 を固めた。
「お前たちは......ドッペル・イクスか?」
問いかけに、二体は──
擬態にしては自然な表 情 を見せた。皮肉に、ひきつるような。
答えは期待していない。オーフェンは続けた。
「レッド・ドラゴン種族が......こんなところでなにと戦っている? 唐 突 だが、アーバンラマでヘルパートを殺したのは俺 だ」
と、動き出そうとしていたレッド・ドラゴンらを視 線 で牽 制 する。確 信 に満ちた口調で──そう聞こえてくれと願いながら──、オーフェンはまた新たにダガーを二本、両手に抜 いた。
たとえあからさまなはったりだとしても、注意を自分だけに引きつけなければならない......
「お前たちふたり同時にかかってこなければ、俺はひとりずつお前たちを潰 す」
「貴 様 、人間とは思えんな」
ふたりのうちどちらか──口を開かないままどちらかが、はっきりとそう答えた。どちらとも判 然 とさせないまま、あとを続ける。
「貴様が手 練 れだということは今ので分かった。だが、それも関係ない」
そして。
背後にまたふたつ、気配が増 えたことに気づく。
オーフェンは半 身 を反 り、新たに二体──四方を取り囲まれる形で敵の姿 が増 えたことを確 認 した。左後ろに普 段 着 の若 い女、右後ろに体格の良い男。見ると同時に、敵四人、いっせいに動き出す。
(レッド・ドラゴン種族が......ここにどれだけいるんだ⁉ )
まだいくらでも隠 れている可 能 性 はある。
今も変わらず、意識は冴えている──自分の五感のほかに、別の誰 かが加わっているかのように。空間を支 配 し、敵 の動きをすべて読みとれる。だが、
(あくまで勘 だ......この感覚に頼 って戦い続ければ、いつかは外 れる!)
そして外れた時が終わりとなる。敵がドラゴン種族ならば、確実にそうなる。
可能な限 り早く、一 撃 で敵を倒 していかなければ、この戦い方は続けられない。
(それで、常 に初手の一撃で敵を無力化する先生の戦い方があったわけか。こんなことをずっと続けていられたんなら、確 かに先生は化 け物だったかもな!)
思考とは別に、魔 術 の構 成 を編 んでいた。
それを解 き放つべく、呪 文 を発する。
「我 は放つ光の白 刃 っ!」
真 っ直 ぐに突進してくる普段着の女に、身体 を回転させながら右手を向け、光の濁 流 を押 しやる。
先ほど放った魔術よりも早いタイミングで放ったものだった──こちらの動きをうかがい、読んでいたのならばかえって避 けられない。それでも標的となった女の姿をしたレッド・ドラゴンは体 格 を変形させて横に跳 んだが、その身体の大半を熱 衝 撃 波 の中に置き去りにすることになった。わずかに頭部と左 肩 だけを残して、炎 に呑 まれ身体を消失させたレッド・ドラゴンが地面に転がる。この程 度 で死ぬこともないのがレッド・ドラゴンという生物ではあるが、炎に焼かれた傷 だけは、この種族もすぐには再 生 させられないらしい。ヘルパートとの戦 闘 で、それを学んだ。
だがひとりが倒されることは、もとより向こうの計算の内だったろう。オーフェンはその動きの勢 いに任 せて、クリーオウの背 後 に回り込んだ。身体を鍛 え上げた──ように擬態している──レッド・ドラゴンの若い男が、その身体を縮 めるようにしてもう間近まで接 近 してきている。魔術はもう間に合わない。
(初手で......倒す!)
身体は自然と構 えを取っている。
右手のダガーも、左手に持ち替 えて握 り込む。
やや斜 めに構え、攻 撃 に使う右手だけを引き、腰 を落とす。慣 れているといえば慣れている、いつもと変わらない攻撃準 備 だが、それとは違 う感覚が頭の中に芽 生 えていた。自分の動きを見つめながら......これから自 らが為 す行動を予想しながら、思い描 いていたのは自分の敵の姿だった。
眼 前 のレッド・ドラゴンではない。
聖 服 の男──ジャック・フリズビー。
崩 しの拳 と、その男が呼 んでいた。拳の技 による極致の到 達 。最たる基 礎 であり、かつ究極の法 螺 とも言える理想。
レッド・ドラゴンは意外といえるほど素 直 に、右 腕 を振 り上げて打ち下ろしてくる。オーフェンは体 をさばいてその攻撃の軌 道 外 に飛び出すと、右 拳 を突 き出して敵の横 腹 を狙 った。打撃によってレッド・ドラゴンを傷つけることはできない──レッド・ドラゴン種族には痛 覚 も内 臓 も急所もない。それでも一撃で押し返し、時間を稼 ぐ必要があった。
敵は俊 敏 だった。彼ら種族特有の変形も使わずに身体を退 いてこちらの拳をかわす。同時に、これは異 常 な角度から左腕を伸 長 して顔面に平手を放ってきた。
それを右足のブーツで受け止める──そういった角度だった──と、オーフェンはさらに右手を突き込 んで敵の身体に触 れ、飛び込むように頭突きを打ち込んだ。命中はしたが、当たりは浅い。が、敵の身体を半歩ほど退かせることはできた。
(頭で分かってても......そうそううまくはいかないか!)
内心で毒づきつつ、開いた隙 間 で腕を振り、左手のスローイングダガーを二本同時に投 擲 する。短い距 離 を飛んで、一本は外れたものの、もう一本はレッド・ドラゴンの目の上に突き刺 さる。
これも、もとより刺し傷に痛 痒 を感じる敵でもないのだが、一 瞬 でも注意を引くか、視 界 を奪 うだけでも意味があった。
レッド・ドラゴンの動きが止まったその瞬間に──
「はッ!」
まだ地面にもどしていなかった右足を振り上げ、重いブーツの底を敵の身体の中心へ叩 き 込む。
空中に浮 いたレッド・ドラゴンの姿 を見 据 えて、オーフェンはさらに叫 んだ。
「我は築 く──」
両手を突き出し、魔術の構成を編み込む。
「太陽の尖 塔 !」
火 炎 を凝 縮 したような炎の球が、レッド・ドラゴンに触れた。刹 那 。
爆 発 が起こる。至 近 距離の自分やクリーオウが巻 き込まれないよう威 力 を絞 ったため、レッド・ドラゴン種族の身体をすべて焼き尽 くすほどの火力はないが。それでも全身を焼かれ、ねばねばする黒い塊 と化したレッド・ドラゴンが地面に落ちる。
(手間取り過 ぎた......)
オーフェンは舌 打 ちして振り向いた。レッド・ドラゴンらは四体同時にかかってきたはずだった。残りの二体が、既 にクリーオウを殺していてもおかしくない。
(俺ひとりだけを守る力じゃ、十分じゃないんだ......)
向き直った先に。
クリーオウは、ちょこんと座 っていた。困 ったように横を向いている。無事だった。怪 我 ひとつない。
そして、レッド・ドラゴンの姿もない。
「............?」
分からずにオーフェンは、とにかく彼女の視線の先を追った。
レッド・ドラゴンはすぐに見つかった。数メートル離 れた地面に、軟 体 の白い塊のような形でふたつ、転がっている。かろうじて人間の形 態 を残してもいた──ただし、恐 ろしく強 烈 な衝 撃 を食らって、その形を崩している。
その二体の胴 の真ん中に、杭 のようなものが一本ずつ突き刺 さっているのが見えた。杭というより、地人兄弟のようだったが。
「............」
だんだん分かって、オーフェンは見上げた。いつの間にかやはり音もなく、クリーオウの後ろに控 えるようにレキがもどってきている。
レキが咄 嗟 に、地人ふたりをそれぞれ投げつけたらしい。
シャアアアアア! と昆 虫 が出すような威 嚇 音 を立てて、レッド・ドラゴン二体が地人たちをはね除 け 起き上がった。しばらく、レキと向き合って威嚇を続けていたが──
退 却 も突然だった。二体は人間形にもどることもせずに、黒こげになった仲間を回 収 してあっと言う間に姿を消していった。
またしばし待ち──
オーフェンは、ため息をついた。
「終わったようだ......な」
「わたし未 だになにがあったのかよく分かんない」
と、これはクリーオウのつぶやき。オーフェンは答えずに、彼女の頭を軽く叩 いた。まだ死体は目に入っていないのか、クリーオウは思ったよりも落ち着いている様子だった。
レキの背 中 の上から、マジクが身を乗り出している。少年は、あたりに散 乱 する死体やらなにやらよりも、敵 の去っていった方角に脅 威 を感じているようだった。
「オーフェンさん......今のは、レッド・ドラゴン......ですか?」
「ああ。だからこんなのがぞろぞろ出てくるんだろうな、これからは」
見るとレキは頭を低くして、クリーオウを乗せようとしている。ぼんやりとそれを見つめながら──オーフェンは独 りごちた。
(......今のも、レキはレッド・ドラゴンを傷 つけなかったな。反 抗 する立場にはいても、相手を敵とは見なしていない──別の敵を想定しているってことか?)
考えていると、やはりレキの背中から声が聞こえてくる。今度は領 主 だった。あたりの地形を示 しているつもりなのだろう、不自然な手の動きで、
「ここで死 亡 しているのが誰かはともかくとして、まだ生き残りがいるな。というより、ここで一部隊が敵を引きつけ、本隊を逃 がした形か」
「......どうしてそんなことが分かる?」
オーフェンが聞き返すと、領主は軽く肩 をすくめてみせた。
「大人数が移 動 した痕 跡 がある──上から眺 めるとよく分かるな。向こうだ。このディープ・ドラゴンが進もうとしていた先だ」
「こいつらは......」
死体を──というより肉 片 でしかない物体を一 瞥 して、オーフェンは言いかけた。
が、ずるりと引きずる足音に発言を邪 魔 される。
見やると、頭から砂 だらけになった地人ふたりが、どんよりとした顔つきでもどってきたところだった。それぞれ口々につぶやいてくる。

「あのな。借金取り。いい加 減 そろそろ言っておきたいことがあるのだが」
「今のぼくたちの扱 いについては一 切 触 れないつもりですね?」
「......もう勘 弁 してくれ。いっぱいいっぱいなんだ俺も」
とりあえず、オーフェンはそれだけを告げた。
再 びレキの背中にもどり(地人たちは前 脚 に)、今度は疾 走 ではなく、進む──先ほどあったような爆 発 も、レッド・ドラゴンの追撃もなく、まずは平 穏 な行 程 が続いた。先ほどの場所でレッド・ドラゴンが食い止められていたというのは間 違 いないようで、その先には遺 体 も、戦 闘 の跡 も見当たらない。
なにごともなかったように、黙 々 とレキは進む。疾走は、レッド・ドラゴンと戦わずにあの場所を突 っ切るためのものだったのだろう。
ディープ・ドラゴンの背の上で、オーフェンは来た道を眺 めて考え込 んでいた。
(レキの意図はなんだ?)
目的地は聖 域 。それは間 違 いないように思えた。そこでなにがあるにせよ──
(俺たちを連れて行く理由はなんだ? なにかと戦うのなら、レキがひとりで行けばいい......俺たちは足手まといなだけだ。それに、レキは聖域との戦いを望んでいない。望んでないはずだ)
聖域に。
この大陸を包む、アイルマンカー結界の綻 びがあり、そこに女 神 が現 れている。領主の言葉を信じるならば、そうなる。
それは純 然 たる大陸の破 滅 を意味し、レキがそれと戦おうとすることは......ディープ・ドラゴン種族の役 割 を思えば、容 易 に理 解 できることではある。
(だがそれなら、レキと聖域が対立する理由もない......そもそも、領主と聖域が対立するのも変だ。大陸住人のすべての利害が一 致 しているはずなんだから)
ちらりと──領主を見やる。
最 接 近 領 の領主は、こちらの視 線 に気づかないふりをして遠くを見つめている。
(聖域にある第二世界図塔 ......とやらで、女神を殺す力を持った魔 王 スウェーデンボリーを召 喚 するのが領主の計画だとすれば、どうして聖域にやらせない? そして、聖域はどうしてそれをやらない? 聖域戦力ドッペル・イクスが、聖域外で破 壊 活動をする理由はなんだ?)
ドッペル・イクス。裏 切 りの符 丁 。
誰が、なにを裏切っているのか。
アレンハタムの地下で出会った人形──太古、天人種族に改 造 され戦闘生物と化したものだという殺人人形の言葉を思い出し、オーフェンは顔をしかめた。誰もが誰もを裏切っていた。誰も本当のことを言っていない。
すべてが嘘 で、すべてがだまされている......嘘を言った当人ですら。
オーフェンはうつむいて、目を閉じた。
記 憶 に浮 かんでくるものがある。
魔 術 の剣 によって変 貌 した怪 物 の叫 び......
天人種族の巫 女 、イスターシバの肖 像 画 ......
人間を戦闘生物に変える装 置 に入り、声をあげていた老魔術士......
フェンリルの森で見上げたアスラリエルの言葉......
五年ぶりにタフレム市にもどれば仕組まれていた過 去 の自分との対決......
同市、《牙 の塔》の疲 弊 ......
聞かれることのない大陸救 済 の物語を伝え続けていた地下劇 場 ......
教会総 本 山 都市キムラックの死の教 師 たち、彼らは自らの人生をすべて贖 ってでも仕 えるべきものを持っていた......
そして、その仕えるべきものを裏切った者だけが生き残った......
キムラック教主の不死の呪 い、そして女神、破滅......
(そこになにがあった? 俺 はなにを見た?)
その旅はすべて、過去を知るためにあったのだ。
自分の過去......そして、自分の家族の過去、大陸の過去までも。
それをすべて見て、呑 み込み、理解するためにあった。
その上でなお、旅は終わらなかった。やり残したことがあったからではない。すべてを咀 嚼 し、身体 の中に残った、残して育てていくと決めた自分とは、過去のどの時点の自分でもなく、生きている今の自分だったからだ。生きている今の家族、生きている今の世界......だったからだ。
ならば、その後辿 った旅路──ナッシュウォータ、アーバンラマ、最接近領、そこに見たものはなんなのか。未来ではない。
(むしろ......未来がないこと......それは?)
「それが絶 望 だ。絶望とはなにかを知るための旅だった」
耳に入った声にはっとして、顔を上げる。
声を発したのは──確 かめるまでもなく、領主だった。いつの間にかこちらを見やり、笑 みを浮かべている。
だが聞こえた声は、領主のものではなかった。誰 の声でもあるように聞こえた。誰が発してもおかしくない......温 泉 街 のエリス、ライアン・スプーン、ヘルパート、ダミアン・ルーウ、ロッテーシャ、レティシャ、クリーオウ、マジク、レキまでも、誰もが絶望していたのだから!
領主のつぶやきを聞いたのは、自分だけであるらしい──マジクは疲 れたのか、丸くなってうたた寝 している。領主が知らん顔をして視線をそらすのが見えた。
過去と現 在 と未来。三者の女神がいるという......だが彼女らがお互 いを知ることはない。過去は現在を知らないし、未来は現在から断 絶 されている。キムラック教会は、運命なるものの姿 をそう語る。
聞こえよがしに舌 打 ちして、オーフェンは寝ころんだ。治 すことを忘 れていた右 腕 の傷がちくりと痛 み、彼はそれを魔術でふさいだ。
「オーフェーン。なんか見えたよー」
クリーオウの呼 びかけで、目を覚ました──どうやら本当にうつらうつらしてしまったらしい。我 ながら驚 きつつ頭を振 って、オーフェンは眠 気 を払 った。まさかこの状 況 で眠れるとは、よほど疲れていたに違 いない。
「なんかってなんだ?」
起き上がりながら、聞く。レキの頭の後ろからでは、前方はよく見えない──クリーオウの背 中 に問いかけると、彼女は奇 妙 な表 情 を後ろに向けた。
「なんだって言われてもなんかよ。たくさん人がいるの」
「敗 残 者 がな」
見もせずに、領主が涼 しくつぶやくのが聞こえる。
オーフェンはあえて無 視 して、レキの頭によじ登った。レキがうるさげに耳を動かすが、構 っていられない。
変わらぬ荒 野 ──その行く手に、確かに集団があった。敗残者というのも、少なくとも見かけは当たっている。数十人の黒い人 影 が、寒気を避 けて寄 り集まるようにみじめに密 集 している。
避けているのは寒気ではなく、もっと別種のものであろうこともすぐに知れた。遠目にも、彼らはうなだれ、疲 弊 しきっているのが分かる。
その彼らもまた、巨 大 なディープ・ドラゴンの接 近 に気づいていないわけではなかった。既 に数人が、なにか騒 い でいるのが見て取れる──疲れた仲間になにかの指 示 を出しているらしい。退 避 か、攻 撃 か。
オーフェンが思い出していたのは、レッド・ドラゴンに殺されたと思 しき遺 体 だった。恐 らく、彼らは既にドラゴン種族に襲 われ、ここまで逃 げてきたのだ。
ディープ・ドラゴン種族に対し、抵 抗 も退 却 も無 駄 であること。それを知らないこともあるまい。
(......あいつらに、ドラゴン種族に関する知 識 がどれだけあるのか、どうなんだろうな)
彼らの正体が、自分の思い通りであれば......次の行動も自 ずと予想がついた。
まだ遠い彼らが、レキの進行に対して布 陣 を敷 こうとしている。見 張 りを置く余 裕 すらなかった彼らにろくな統 制 があるはずがないと思っていたのだが、行動を取り始めさえすれば、彼らの動きは早かった。たちまちに配置を広げ、いくつかのグループに分かれる。一グループが四人ないし五人。その中で、攻撃と防 御 を担 当 する者に分かれて一 斉 攻撃を仕 掛 けてくる布陣だろう。それならば、ひとりの犠 牲 も出さずに最 大 限 の火力を用いることができる──相手がディープ・ドラゴンでなければ、だが。
よほどのリーダーシップが彼らを支 えている。そう見えた。まだ遠目で、個人個人の顔を見分けることはできそうにない。オーフェンは目を細めて彼らを探 りながら、クリーオウに囁 いた。
「......レキと話が通じるんだよな?」
「え? うん」
彼女がうなずく。オーフェンもうなずいた。
「なら、レキに言ってくれ。あの連中、傷つけずに進んで欲 しい」
「多分言わなくてもそうするつもりだと思うけど......レキ、聞いてくれた?」
クリーオウに言われても、レキが反 応 を示 したわけではない──もっとも、うなずきでもされれば、ふたりして転げ落ちるよりほかなかったろうが。
それでもオーフェンは、重ねて警 告 する必要は感じなかった。確 かにレキは、もとよりそのつもりでいたのだろう。殲 滅 するつもりならば、もうとっくにそうしていたに違いない。それ以前にレキは、なにも傷つけずに進むつもりでいるに違いない。そう思えた。
レキの歩みが、ついに敵 の射 程 距 離 へと踏 み込 み、そして声が聞こえてくる──左右に広がった布陣、その両 翼 から。
「用意! 合わせ!」
「滅 びろ!」
それが最大の攻撃なのだろうが──
左右から放たれた光の束。幾 本 もの破 壊 の光 跡 は、閃 きを網 膜 に残しただけで消 え失 せた。レキの一 睨 みで、すべて消失させられている。
彼らの動 揺 は息 遣 いで感じた。もうそれほど近寄り──そして黙 々 と、レキは彼らの横を通り過 ぎていく。次撃はなかった。レキとすれ違う頃 には、攻撃を行った魔 術 士 らは意 識 を失ったのか、ばたばたと倒 れていく。軽度の精 神 支 配 だろう。多人数を一 瞬 で、こともなげにこのディープ・ドラゴンはこなしてしまう。
レキの足 下 から恐ろしげにこのドラゴンを見上げる彼らの姿 に、オーフェンも見知った姿を見かけないではなかった──彼らのうちいくらかは、《牙 の塔 》にいた魔術士なのだから。
黒魔術士たちのあげるざわめきの中──
なんの抵抗もなく、布陣の最 奥 へとレキは到 達 した。そこに、ひとりの男が立っている。その男の顔と名を、オーフェンは知っていた。知人ではないが、見たことがあった。
その男は腕 組 みし、ディープ・ドラゴン相手にも臆 することなく立ちはだかっていた。その巨体に詰 められるだけ詰められた筋 肉 が、黒い制 服 の下で脈 打っている。もう壮 年 だが、かえって誰よりも生命力に富 み、若 々 しく見えた。金色の頭 髪 は薄 くなりかかっているものの、眼 球 に蓄 えられた激 情 は身体 全体を覆 い、霊 気 のように渦 巻 いている──霊気などというものを、うっかり信じてしまうほどに。
「降 伏 しろ」
男は口を開くと、傲 然 と命令してきた。
「罠 にかかったのはお前たちだ。我 々 は助力を得ている。《霧 の滝 》の白魔術士どもだ。これがいっせいに攻撃すれば、ディープ・ドラゴンとて動きを止められる」
命令はディープ・ドラゴンに発されたものだったが、レキは無 論 、答えない。
なにかを言おうとしたらしいクリーオウを手で制し、かわりにオーフェンが身を乗り出した。
「止められないということは分かってるはずだ。はったりはやめたほうがいい。プルートー師 ......王都の魔 人 」
と。
初めて魔人の目が、こちらを向いた。強大なドラゴンの身体に寄 生 する、取るに足らないおまけたちを──と少なくとも彼の眼 差 しは、その感情を雄 弁 に物語っていたが。
そして、訊 ねてくる。
「......お前は人間なのか? あの忌 々 しいレッド・ドラゴンではなく?」
オーフェンはレキの頭の上から、地上に飛び降 りた。かなりの高度だが、魔術なしで着地する。
レキの前 脚 にしがみついているボルカンが、顔だけこちらに向けて声をあげた。
「おい、黒魔術士。さっきから落ち着かなさすぎやせんか? せっかく俺様はこの体 勢 に慣 れてきたというのに」
「うわ。慣れたんだ兄さん」
ドーチンのうめきに対しても、オーフェンはストップをかけた。
「騒 ぎってほどのことじゃない。お前らはそこにこびりついててくれ」
「うむ。ではそうしよう......ていうかどうもなにげに苔 みたいに見なされてるような気もするが」
それは聞き流し──
オーフェンは改めてプルートーに向き直った。
「あんたは俺を、部下にスカウトさせたことがある」
立ち上がってそう告げるが、プルートーは鼻で笑うだけだった。
「だからなんだという。そんな輩 は年に何人もいる。その入り口で門前払 いされる輩もだ。大陸黒魔術士の到達極、我々は栄光の──」
「......《十三使 徒 》......俺が入宮審 問 に召 喚 されたのは、五年前だ」
それを聞いて、プルートーがわずかに眉 を動かすのが見えた。
品定めするようにこちらを観察し、そしてあっさりと否 定 する。
「若すぎる。五年前なら、お前はまだ子 供 だったはずだ」
「そうだな」
相手が思い出すことを待ち、オーフェンは同意した。およそその年 齢 で宮 廷 に召喚された魔術士は、ひとりしかいないはずだった。
待つ間、オーフェンはあたりを見回した。《十三使徒》らの陣 形 は真正面から途 方 もない力押 しで破 綻 し、レキがプルートーを押さえた時点でもはや用を為 していない。おまけに大半の構 成 員 は倒れ、残った者も迂 闊 に攻 撃 には出られずにいる。
その中でオーフェンは、驚 きに目を見開いてこちらを見ている長身の女 性 を見つけていた。彼女がようやく声を発するのと、プルートーがつぶやくのとは、ほぼ同時だった。
「お前は──」
「キリランシェロ君!」
マリア・フウォンはその名前を呼 び、駆 け寄 ってきた。元《牙の塔》の教師であり、オーフェンも多少世話になったことがある。その容 貌 は幾 分 か老 けたものの、あまり変わっていなかった。
どうするつもりだったのか──触 れる一歩手前で立ち止まり、自分の立場を思い出したのだろう。彼女はいったん咳 払 いしてから仕切りなおしてきた。
「まさか......どういうことなの?」
「わたしが彼を召喚したのだ。我 が最 接 近 領 に」
と、レキの背 中 から飛び降 りてみせたのは領主だった。彼はなにかの度量で張 り合うかのように、プルートーにも劣 らず超 然 と背 筋 を伸 ばすと、王都の魔 人 へと詰 め寄っていった。詰 問 というより尋 問 の口調で、領主はまくし立てた。
「こちらも訊 かせてもらう。《十三使徒》がどうしてここにいる。昨日まで、動きはなかったはずだ。間 違 いなくお前たちは王都にいた──」
いや、まくし立てようとしたのだろう。言葉はそこで途 切 れた。
プルートーの動きはあまりに唐 突 だった。彼は腕 を解 くと身体 のわきに立てていた巨 大 な鉄 槌 を地面から引き抜 き──あまりに現 実 感がなく、それが武 器 だとすら思っていなかったが──、それを振 って領主の足を一撃した。それほど大げさに打たれたわけではないものの、重量のある武器に足を折られて為 す術 もなく領主が転 倒 する。プルートーはその間、表 情 を変えることもなかった。
クリーオウとマジクが、悲 鳴 のように息を引きつらせるのが聞こえた。オーフェンも動けずにそれを見ていた。どうしようもない。
倒 れた領主を見下ろし、吐 き捨 てるように魔人が告げる。
「大陸魔 術 士 同 盟 の一員として、大陸に害なす貴 様 を抹 殺 することも目的のひとつだ──白魔術士どもの言う通り、本当にダミアン・ルーウが滅 んだのならば、そんなことは優 先 順位の下位でしかないが」
「貴様......宮廷に仕 える者が貴族連盟に反 抗 するか。笑 止 な」
完全に足が折れているにも拘わらず、その苦 痛 は表に出さず──実 際 に感じていないのかもしれないが──、領主がつぶやく。
非 難 の声をあげたのはマリア教 師 だった。
「プルートー師! あなたはそんなだから──」
「粗 暴 で短 絡 だとでも言いたいか? わたしが何年間、この男と戦ってきたと思っているのだ! どれだけ待ったと!」
「わたしと戦ってきた期間よりも長くだわね、プルートー」
マリアの皮肉を完全に無 視 して、プルートーは鉄槌を再 び地面に立てた。思っていたよりも大きな音が響 く。風吹 く荒 野 に。
「《十三使徒》の長 として、わたしは宮廷に飾 られるためだけに温 存 されてきたわけではない、アルマゲストよ」
にじり寄るように、プルートーが領主に近づく。鎚 を置いてきているとはいえ、魔人のその体重だけで、動けない領主など簡 単 に粉 砕 できそうではある。オーフェンはいつでも割 って入れるよう、密 かに拳 を固めた──どうされたところで領主は死なないのかもしれない。が、必ずそうだとも言い切れない。
だがその反面で、プルートーの尋問、いや拷 問 ? は、自分の知りたかったことまでを領主から引き出せる可 能 性 はあった。実際、なにも隠 すつもりもないのか、プルートーは聞こえよがしに声を大きくしていく。
「我が《十三使 徒 》の行動目的を教えてやろう、アルマゲスト。我 々 は長らく、貴様の最接近領と戦ってきたな? 最接近領が滅んだ今、次に殲 滅 すべきものは決まっている。聖 域 だ」
「連盟が......わたしには内密に貴様らを動かしたのか? わたしが守るべき人類......貴族連盟は二 枚 舌 か?」
領主の問いを、プルートーは嘲 笑 った。
「はっ! いちいち貴族連盟の意向をうかがういわれはない。我々の忠 誠 は、あくまで大陸魔術士同盟にある──」
「《十三使徒》が独 自 で動いてる......それは、クーデターではないか!」
拳で地面を叩 き、アルマゲストが叫 ぶ。
プルートーは、今度は嘲 らなかった──ただ怒 りをあらわにした。
「貴族連盟が臣 民 に問うこともなく聖域と敵 対 していることこそが、真の王 権 への叛 意 だろうが! 我々はその尻 拭 いをしようというだけだ」
「聖域が貴様らの手に負えるものであれば、真っ先に使ってやっていたわ、馬 鹿 者 が」
感情的に口 論 している──ように見えて。
オーフェンは、傍 から冷たく看 破 した。この両者は聴 衆 を意 識 して演 説 をぶっているに過 ぎない。期待に反して、内 容 そのものは意味のない言い合いだった。
貴族連盟の対聖域刺 客 、最接近領の領主、アルマゲスト。
同じく貴族連盟に仕 える《十三使徒》の長、プルートー。
ふたりはよく似 ていた。生まれついての支 配 者 。王者だった。語る言葉は空 虚 であっても......虚栄であったとしても、他者を動かすことに慣 れている。
(......と感じるのは、俺 が《塔 》の魔術士だからか?)
西部と東部の人間の違い、と一 般 的に言われるものだった。西部人は独立と孤 立 を好み、東部人は支配と被 支配を受け入れる。
と、同じ西部の魔術士であるからか──口を挟 んだのはマリア教師だった。静かに、だが重々しく、告げる。
「......いてもたってもいられなかったわたしたちの心中も察していただけませんか。賭 けられているものが大陸そのものの命運でなければ、わたしたちは動きませんでした」
「それで勝手に聖域に仕 掛 けて、レッド・ドラゴン種族にあれだけの犠 牲 者 を出したというのか。それが無能だというのだ!」
領 主 はマリアに対しても、同じように一 喝 した。
「この領主は、人間種族すべての守 護 者 だ......無 駄 死 には許 さんぞ。価 値 のある指 示 に従 え!」
「失 態 は認 めよう」
苦々しく、プルートーが口の端 を嚙 みつぶすのが見える。
「奴 らは六体で攻 めてきた。二体を倒すのに我々は味方の半数を犠牲にした。こんな......聖域に指もとどかない、こんなところでだ!」
ひとしきり叫んでから──振 り上げていた拳を下ろす。嘆 息 混 じりに魔人は続けた。
「我々は今 朝 からここで睨 み合っているのだ。正体も見せない聖域と」
「そして明 晩 までには全滅するだろう。わたしが手 勢 としてあえてお前たちを使わなかったのは、その驕 りの故 だ! 魔術さえあれば解 決 できると思い込 んでいるその精 神 の惰 弱 が──」
「ならばアルマゲスト。ユイス・コルゴンに頼 り、今もキリランシェロを召 喚 したという貴 様 の安 易 さを言い訳 してみろ」
ぴしゃりと告げて、プルートーは今度はこちらに視 線 を転じた──厳 つい風 貌 の中にあって妙 に淡 く大人しいブルーの瞳 にさらされ、オーフェンは相手の言葉を待った。
吐 かれた内容は、おおむね予想通りのものだったが。
「キリランシェロか。あの男の生徒はもういないものだと思っていたが、ちょうどいいと言えばちょうどいい。貴様を拘 束 する。取り調べは温 情 だと思え」
「拘束......どうやって?」
それだけを、オーフェンは聞き返した。反 抗 には慣れていないのか──あるいは慣れすぎているのか、決まり切った手順だとばかりに素 早 く、魔 人 の眉 が吊 り上がる。
「貴様も魔 術 士 同 盟 員 ならば、評 議 員 のひとりであるわたしの命令に逆 らう余 地 はないはずだ」
「俺は同盟員じゃない。とうに籍 を失っている」
「同盟のくそくらえな規 則 や形式のことを言っているのではない! 同盟は魔術士の精神そのものだ──貴様は魔術士であり、魔術士は生まれてより死ぬまでどうしたところで同盟員なのだ! 貴様は精神的に同盟へ帰 属 していなければならない! できぬのならば魔術を捨 てろ!」
実 際 に風 圧 すら感じさせるような勢 いでわめくプルートーに──
最 接 近 領 の領主が、勝ち誇 ってつぶやく。
「この彼がそんな言葉に屈 服 するものか。ユイスがそうだったように──」
「......勘 違 いして欲 しくないんだが」
オーフェンは、即 座 に告げた──プルートーにではなく、領主に対して。
「俺をコルゴンと同列に扱 うな。俺はこれから《十三使 徒 》をねじ伏 せるが、それも俺の言いたいことがあってのことだ。あんたのためじゃない」
言葉を失う領主と、またさらに表情に険 悪 なものを加える魔人と──
オーフェンは順番に見やった。
動きを見せたのは、そのふたりのどちらでもない、マリアだった。
「キリランシェロ君──」
と、こちらの腕 に手をかけようとしてくる。オーフェンは軽く半歩ほど跳 んで、彼女の手の中から逃 れた。
彼女の顔が、わずかに強 張 る。《塔》では気の弱い生徒を怯 えさせてきた眉 間 のしわを寄せて、マリアは声のトーンを微 妙 に上げた。
「プルートーの言いたいのはね、わたしたちは協力できないかってことなのよ。その点に関してだけは、わたしも賛 成 だわ」
「俺が言いたいのは、みんな王都に帰って欲 しいってことです。領主に賛成してってことじゃないですけどね」
マリアとプルートーだけではなく、周りに控 えていた《十三使徒》らがそれぞれ顔を見合わせる。
オーフェンは戦 闘 服 の襟 の具合を確 かめながら、あとを続けた。
「いや、言い換 えます。あなたたちの行動目的は聖 域 と争うことだという......その目的を捨てられないのなら帰ってもらえませんか」
「別に貴様に許 可 をもらわねばならんいわれもないのだがな」
刺 々 しく言ってくるプルートーに、オーフェンは笑った。意図せずに語っていた皮肉に気づいたからだった。
「いわれは......つまるところ、確かに俺が魔術士という存 在 に帰属してるからだろうな。ほっといて気が咎 めないのならほっといてるさ」
「......そこまでわたしたちは無力かしら」
マリアの声に苦 悶 が混 じっていたのは、やはり彼女が《十三使徒》だということなのだろう。
オーフェンは首を振 って、彼女の問いを否 定 した。
「領 主 の言っていることとは違うと言ったでしょう。別にあなたたちが聖域に対して無力だろうと、その逆 だろうと問題じゃない」
「どういう意味?」
「聖域と敵 対 すべきじゃありません」
告げて、レキと......その頭のクリーオウへと視線を投げる。マリアの注意をそちらに振って、彼は続けた。
「俺が信 頼 している仲間が、そう言っています」
「わたしたちが見 栄 だか酔 狂 だかでこんなところにまで来て犠 牲 を出したとでも思ってるの?」
「聖域がおかしいということも認 めます。だから俺は聖域に行く──」
「貴様が行ってどうなるというのだ!」
これは、プルートー──憤 慨 しきって、顔を赤黒く紅 潮 させている。
オーフェンは彼の様子を横目で見やり、告げた。
「一度、鼻っ柱を折られなけりゃ分からないというのならそうするまでだ」
「貴様──」
魔 人 の恫 喝 は無 視 して、オーフェンは肘 を振り上げると、死角から放たれてきた一 撃 を受け止めた。
同時に、受けた右腕を伸 ばしてそのまま相手の蹴 り足を摑 む──攻 撃 してきたのはプルートーではなく、マリアだった。彼女の足首を摑んだ体 勢 でそのまま数秒を維 持 し、視線だけは正面のプルートーを見 据 えていた。
マリアがつぶやいてくる。
「なるほど、もう五年も経 ったものね。あなたの身体 ができあがった今じゃあ、以前のように力でねじ伏せるってわけにもいかない......か」
「すみません、マリア教 師 」
オーフェンは軽く会 釈 した。と、マリアが聞き返してくる。
「......謝 るの? どうして?」
問いながら彼女は、既 に理 解 していたのかもしれない──オーフェンは彼女の足を放した。開いた右手を握 り直し......拳 にする。
「身体能 力 だけじゃない。今のあなたには、俺に勝てる要 素 はひとつもないんです」
拳はそのまま、真正面の男へと向けた。プルートーは怒 りの形 相 はそのままに──ただ今のやり取りを見て、幾 分 か冷静さを取りもどしたようだった。
「王都の魔人プルートー! 順番待ちをするまでもない──お前が来い! ここにいる全員に思い知らせる」
大声で、あたりの《十三使 徒 》らにもはっきりと聞こえるように叫 ぶ。挑 発 を聞かされても、プルートーの反 応 はなかった。ただ黙 って、武 器 である鉄 槌 を持ち上げてみせた。
これまでの、癇 癪 じみた怒 鳴 り声もない。鋭 い光をたたえた両 眼 はそのままに、じわじわと戦闘態 勢 を取っていく。
(......思ったよりも......単 純 な男ってわけでもないな)
オーフェンは胸 中 でつぶやいた。
巨 大 な鉄槌を振り上げるプルートーに対し──無言で、銀の短 剣 を抜 く。無 銘 のままの剣。元は、遥 かな過 去 に名を捨 てた男の持ち物だったとすれば、それは無銘のままが相応 しいのだろう。
(さて......はったりはお互 い様。あとはこれできちんと俺が勝てるかどうかだが......)
言ったほど、それが簡 単 なことではないとは自覚していた。
距 離 は近い。とはいえ密 着 しようとすれば、プルートーの武器をかいくぐって進まなければならない間合いではある。切っ先を相手に向けて、オーフェンはその対 峙 をじっくりと味わった。有利でも不利でもない距離。魔 術 を使えば、力不足であることは否定できない。ただそれが勝敗を分けるほどに決定的な差であるとも思えなかった。
誰 も一言も発しない。マリア・フウォンもクリーオウもマジクも、《十三使徒》も、ボルカンとドーチンですら。領主も足を押 さえてうずくまったまま、じっとこちらを見つめている。
なんとはなしに、オーフェンは思いついていた。領主は既に、この勝負の結果を予知しているのだろうか......。
プルートーが飛び出してきた。
なんの小細工もない、上 段 から振り下ろしてくる最速の一撃。かするだけで身体の半分も持っていかれそうな超 重量の武器が、後 退 して跳 んだオーフェンの眼 前 を通 過 した。ただし鎚 の先 端 は地面を叩 かなかった──プルートーは振り下ろした勢 いで鉄槌の柄 ごと一回転させ、再 び上段にもどしていた。銃 弾 を装 填 するように。
その速さに、相手の初撃をかわしても懐 に飛び込 むことができない。オーフェンは短剣の構 えは変えずに追撃を待った。プルートーは今の素 早 さを維持しようとすれば、鉄槌を縦 に振り続けるしかない──どれほど速くとも一定の動作を繰 り返すだけならば、そこに割 り込める勘 と集中力が今の自分にはある。
その追撃。プルートーは鉄槌を振 り下ろし、そしてその手を放した。
「────っ⁉ 」
再び後方に跳びかけていた足を止め、オーフェンは横に身体をひねった。その横を、回転する鎚が車輪のように勢いよく飛んでいく。退 いて逃 げていれば避 け られなかった。そして、横に逃げたならば──
プルートーの狙 いは瞬 時 に悟 った。こちらの退路を左右の二通りにまで封 じて、その上で飛び込んでくる。武器を失ったことは、この魔人にとってはたいしたことではあるまい。その太い両 腕 と体重は、そのまま鉄槌と大差ない威 力 を持っていそうではある。
巨体が轟 音 を立てて、飛びかかってくる。プルートーの拳を、オーフェンは短剣の背 で受け止めた。小型の武器では、この巨人の腕 力 を止めることはできない──力で負ける前に、オーフェンはプルートーの右足、踏 み込んできた着地寸前の右足を蹴り払 った。それも体重に負けて完全に相手を挫 くことはできなかったものの、体勢を崩 されたプルートーの拳から力が分散する。
相手が吐 き出した気勢の息 吹 が顔にかかった──それほどの近距離。オーフェンは覚 悟 を決めて、自分も前に踏み込んだ。プルートーの巨体の陰 に隠 れるように身体を縮 め力を溜 めると、《十三使徒》の衣 装 である黒 装 束 の脇 腹 に右 拳 を触 れ させる。

一 切 ──本当に一切、プルートーは構おうとしなかった。こちらの意図に気づかなかったわけでもあるまいが、そのまま前進してくる。オーフェンは渾 身 の力で拳に威 力 を伝えた。プルートーのまとう筋 肉 の鎧 を拳の先 端 がえぐり、肋 骨 をかいくぐってダメージを内 臓 にまで伝える。その感 触 が確 かに返ってくる。
だが、なおプルートーは止まらなかった。丸太のような腕を振り上げ、肘 を打ち下ろしてくるのが見える。
(......避けられない!)
覚悟を固めて、オーフェンはその場に尻 餅 をついた。地面に寝 ころび、肘打ちからは逃れたが──
次の瞬間には、仰 向 けになった胸 をプルートーに踏みつけられていた。
動きが、止まる。
歓 声 が起こるわけでもない──プルートーが勝ち鬨 をあげるわけでもない。王都の魔人はオーフェンを踏みつけたまま、そのまま胸を踏み抜くでも、とどめを刺 すわけでもなくとどまった。
どん......と、押しつけられた後頭部が、遠くの地面からの震 動 音 を感じ取っていた。プルートーの鎚が、ようやく地面に落下したらしい。
「............」
プルートーはわずかに首を傾 げ、尊 大 にも見える仕草をした──が、実 際 にはそれはそびやかしてこちらを見下ろしたのではなく、身体 をぐらつかせただけだったらしい。プルートーは脇腹を押さえていた。痛 みを堪 えて いるのか、額 に汗 を滲 ませる。ダメージそのものは相 応 にあったらしい。それでも足をどけるほどまでには体 勢 を崩しはしなかった。
逃げることもどうすることもできず、オーフェンはその《十三使 徒 》の長 を見上げていた。荒 野 の風がプルートーの追い風となって、彼の金 髪 を撫 でている。
厳 かに──かすれ声で。プルートーがつぶやいてみせた。
「気に入らんな」
と、自分の拳と、脇腹とを示 して、続ける。
「刃 を使えばわたしを殺せていただろうが。手 加 減 のつもりか?」
「............」
言われてオーフェンは、左手に持っていた短 剣 を見やった。嘆 息 する。
「それは、考えもしなかったな」
「そうか。ではわたしの勝ちだ......が」
プルートーは足をどけ、後ろに下がった──そのまま倒 れかかったところを、駆 け寄 ったマリアに支 えられて立ち止まる。
その彼女になにかを耳打ちして、プルートーは身体を離 した。
「集合!」
叫 ぶと、残った《十三使徒》の部下を集め、次々と手早く指 示 を与 えていく──
それを聞きながら、オーフェンは起き上がった。同じような格 好 で地面に座 っている領 主 が、こちらを見て笑っている。
マリア教 師 が近づいてくるのにも気づいていた。彼女もまた笑っていた──何度か見たことがある笑 みだった。無 鉄 砲 な学生の無 茶 に困 らされている時の微 苦 笑 。かがみ込 んでくると、彼女は囁 いた。
「彼......あなたを同 盟 に復 帰 させる方法はないのか、ですって」
どう答えれば良いのか思いつかず、彼女の顔を見つめていると──マリアはくすりと吹 き出した。
「滅 多 にないものよ──彼の賛 辞 なんて」
「オーフェーン!」
さらにばたばたと騒 がしく駆け寄ってきたのは──
振 り向くと、クリーオウが驚 愕 を隠 さずに顔いっぱいに広げて言ってきた。
「オーフェン大 丈 夫 ? え? でもどういうこと? オーフェン負けたの?」
「......見りゃ分かるだろ」
「えー。なんで」
「なんでって......」
「わたし、オーフェンが負けるとこなんて初めて見たけど」
「そ、そうかぁ?」
と疑 わしく声をあげていると、クリーオウの背 後 からマジクが顔を見せた。ぞっとしたように青ざめた顔を。
「平気なんですか?」
聞かれてオーフェンはかぶりを振った。
「怪 我 はねぇよ。手加減されたのはこっちだな。先生と双 璧 ってんでもっと精 緻 なファイターを想像してたのに、力だけであしらわれるとは思わなかった。まさかあれが本気じゃないだろ。俺 もいい恥 さらしだな」
「......彼とチャイルドマンと、どちらが上だと思った?」
マリアが小さく......訊 ねてくる。
彼女は微 笑 している。冗 談 のつもりか、自分でもそう思っているだけで本気で聞きたいのか。どのみち、その問いは、それこそ大陸中の魔 術 士 が知りたいと考え──そして答えの出なかった疑 問 ではある。
オーフェンは離れて部下をまとめる魔人の姿 を眺 め、肩 をすくめた。
「先生のほうが上だな」
「理由は?」
「......プルートー当人が、きっとそう思ってるからさ」
王都の魔人と呼 ばれる《十三使徒》の長は、あまり多くの指示を飛ばしていたわけではない。彼は全員に休養と待機を言い渡 していた。プルートーの周りに集まっている数人の魔術士たちが、噂 に名高いナンバーズ──宮 廷 魔術士位にあってさらに限 定 的な騎 士 権 限 も持つ者たちなのだろう。負 傷 者 と士気の確 認 、作戦の見直しを前 提 として会議を開くために定時までに気持ちを固めておくこと等といった声が聞こえた。
(作戦の見直し、か)
オーフェンは胸 中 でつぶやいた。マジクの手を借りて立ち上がる。
(一 応 は、俺の意見も考 慮 に入れてくれたってことか。だがプルートーは《十三使徒》を王都に帰すつもりはない......だろうな)
今さらのこのこと帰れる程 度 の覚 悟 ならば、そもそも貴 族 連盟から離 反 してまで全構 成 員 を動かしたりはしないだろうし、もとよりドラゴン種族に挑 むなどといった無 謀 な真 似 はできるはずがない。決死で吶 喊 してきたのだろう。《十三使 徒 》が一度決死で挑んだならば、死ぬまで挑み続けるに違 いない。
(白魔術士が背 後 にいると、プルートーは言っていたな。聖 域 で、あと十日余 りで大陸が破 滅 する......ダミアンや領主と同じことを予見したわけか。だが)
やはり筋が通らない。
聖域と敵対する理由がない。
ドッペル・イクスといった連中が長い年月をかけて外界に危 害 を加える事 情 もわけが分からない。
レキの意図も......まだ理 解 できていない。
「なんか話してくれねぇかな......」
無 駄 だと知りつつ、オーフェンは独 りごちた。荒 野 に立つ、漆 黒 の狼 を見上げて。
まだ立ち上がれずにいる領主のところには、マリア教師とクリーオウがついているようだった。マリアが救 護 班 を呼んでいる。本当に骨 折 したのだろう。
最 接 近 領 の領主。王都の魔人プルートー。レキ......少なくともこの三者は、彼の疑問に答えられる──答えられるが故 に行動を起こしているはずだった。この三者にそれぞれ代理人も存 在 する。コルゴン。マリア・フウォン。クリーオウ。
砂 を含 み、まるで吹雪 のような荒野の疾 風 。その鳴き声の中に、プルートーの力強い声が響 いていた。
「会議は真夜中からだ──それまで交代で睡 眠 を取れ。疲 労 を残した状 態 での弱音など聞きたくはないぞ!」
そろそろ夕 刻 だった。今日が終われば、残り十日。
静かな夜だった。それほど暗くもない──豪 勢 にとは言えないが、篝 火 もある。
クリーオウがいい加 減 に詰 め込 んだ食料を無理に食べる必要もなかった。《十三使 徒 》は携 行 食 を余 分 に持ってきていたし、王都にいて戦時経 験 のなかった彼らはそれを節 約 するという発想もないようだった。
「でもそれは人のこと言えないですよ」
がちゃがちゃと食器をこすり合わせて、温めた缶 スープをがっつくマジクが声をあげる。彼の足 下 には、同じ缶がもうひとつ空になって転がっていた。
「ぼくにはオーフェンさんのほうが手加減していたように見えました。お師 さ......いや、オーフェンさんはなんかこのところ人が変わったみたいに強かったですし、あのでっかい人が王都の魔 人 だかなんだかだったとしても、まさか負けるなんて思ってませんでした」
「人が変わったように強くなる、なんてことがあるかよ。別に俺は変わっちゃいない」
彼自身はもう食事はとっくに終 え──座 っているレキの腹 にもたれて寝 そべっているところだった。クリーオウは近くで、レキの前 脚 に腰 掛 けて乾パンを齧 っている。硬 いせいでいくら嚙 んでもなくならないと文 句 を言っていたが、それでももう大半は食べ終わったようだった。
食事には、もう遅 い時間だった。夜も更 け、《十三使徒》らのキャンプも寝静まっている。とはいえ寝息に混 じって、囁 き声も聞こえないではなかった。内 容 は聞き取れず、ただ含 まれた不安感だけをざわつかせる......そんな囁きが闇 夜 に渦 巻 いている。
夕食が遅 れたのは、ひとつには昼間に戦 闘 を繰 り返したオーフェンが疲 れて食 欲 がなくなっていたのをみんなが待ってくれていたというのもあるのだが、そうでない者もいた。
「うわ、兄さん大変だよ。これちゃんと調理済 みだよ! ちゃんとした食べ物だよ⁉ 」
「うむ。なにを隠 そう俺様は予想していた。真 面 目 にコツコツ働き殺していれば、こうして報 われる日がやってくるのだと」
彼らが今食べているのは、夕刻からずっと食べ続けているからだった。
「でも──」
と、マジクが反 論 してくる。よほど腹 が減 っていたのか──あるいは大 勢 の魔 術 士 に囲まれてようやくほっとしたのか、地 人 の手のとどかない背後に確 保 していたビスケットの封 を解 きながら、
「実 際 にオーフェンさん、レッド・ドラゴン種族なんていうのを簡 単 に倒 しちゃったじゃないですか」
「レキが割 って入らなけりゃ、俺もクリーオウも死んでたさ」
オーフェンはちらりと、クリーオウのほうを見やった。彼女は聞いていなかったわけではないのだろうが、気にせず乾パンと格 闘 している。
ビスケットの箱を開けるマジクの手つきが多少雑 になった。
「でもそれは、四対 一だったからじゃないですか」
「強いとか弱いとか、そんなに大事なことかねぇ。別に誰 が誰より強ければ、その相手に必ず勝てるってわけでもないだろうに」
伸 びをしてレキにもたれていた背 中 の位置を直すと、オーフェンは微睡 みかけた目を軽くこすった。マジクが口を尖 らせ、言ってくる。
「そりゃあ......今はこんな状 況 ですし、弱けりゃ死んじゃうじゃないですか。それに、歴史的に言って魔術士はその部分に価 値 を見いだすよりほかになかったって教えてもらいましたよ」
「それでも魔術士は、戦わずに生きていく時間のほうが長いには違 いないさ。もっとも、負ければその時間も零 になるようなこともある......から、戦わにゃならない。どっちみち、それより大事なことはいくらでもあるさ」
「そんなの、オーフェンさんが実際に強いからそう言えるんですよ」
「どうかね。俺はプルートーには負けたが意見を伝えることはできた。つまり結果的に俺は、プルートーより強い必要もなかったわけだよな? 必要なことを必要な時に必要なだけできれば、あとは余 分 だ」
長くつぶやきながらオーフェンは、ゆっくりと野 営 地 を見回した──数を半分にまで減 じさせたという《十三使 徒 》からは、どうしたところで生気は感じられない。いや、半減していなかったとしても、それはどうなのか。オーフェンは疑 問 に感じないでもなかった。彼らは最 精 鋭 という看 板 を掲 げたまま、王都にいた。その看板の下から顔をのぞかせた時、彼らは既 に意 気 消 沈 していたのではないか。
(ここに着いて、レキは先を進もうとしなくなった。純 粋 に《十三使徒》の生命を救うためだけにここへ急いだわけでもないだろう......彼らを追い返すためか? それとも──)
「なに考えてるのかさっぱり分からないわね!」
考え込 んでいたせいだろう。その声の接 近 に気づいていなかった。
見ると、《十三使徒》の制 服 を着た若 い魔術士が追加の食料を一箱抱 えてマジクの手元をのぞき込んでいる。
気まずそうにビスケットの中身を隠そうとしているマジクにウインクすると、愛 想 良 く彼女は続けた。
「どれだけ食べるの? でもこれはまだ食べないでね。明日からの分だから......食料は分配するけど、あなたたちの分はあなたたちが持っていって。なにかで分 断 したらいけないもの」
と──彼女が誰か気づいて、オーフェンは起き上がった。
「イザベラ!」
「ハイ、久 しぶり、キリランシェロ君。わたしがいるって分かってなかった?」
箱を下ろしながら──ついでに食料に近 寄 ってきた地人を軽く蹴 飛 ばしながら──、彼女が手を振 ってくる。マリア・フウォンの生徒のひとり、《塔 》で顔見知りのイザベラだった。相変わらずの美人で、人 懐 こい笑 顔 も五年前のままである。
「一 応 、わたしがあなたたちの世話係よ。この子も魔術士?」
訊 ねながらマジクを指さす。オーフェンがうなずくまでもなく、ついでにマジクが返事をするまでもなくイザベラはひとりで話を進めた。
「ならあなたには遠 慮 しないからわたしの指 示 には百パーセント従 うこと。いいわね? あとわたしのことは教 師 補 って呼 ぶこと。質 問 は挙手で、こちらの許 可 があった時だけね。そっちの女の子は? 妹 弟 ? 違うっぽいわね。あとなんで地人の子がいるの? あとドラゴンって危 なくない? ところでキリランシェロ君、元気してた?」
「え? あー......うー......う?」
なにを言えばいいのかすっかり見失い、間の抜 けた声を漏 らしてから──
オーフェンは、嘆 息 した。
「イザベラ。イールギットのことは......?」
聞く。
彼女の顔から、笑みが消えた。いつも笑っているだけに、微 笑 みが消えると途 端 に寂 しげに見えるのがこのイザベラだった──実を言えば《塔》時代ではそれを駆 使 して大 勢 の男子の気を引いていたらしい。
もっとも、今のこれは芝 居 でもあるまいが。彼女はわずかにうなずいてみせた。
「あの子のこと聞いているわけじゃないけど、だいたいの覚 悟 はしてたわ──最 接 近 領 行きが決まった時からね。あなたはイールギットに会ったの?」
「......ああ」
「そう。不思議な因 縁 ね」

イザベラはそう言って、祈 るように手を振った。
「でもあの子だけじゃないのよ。今日の戦 闘 で《十三使徒》は壊 滅 。ナンバーズにまで死傷 者 が出たわ。マリア教室出身で生き延 びたのはわたしだけ」
「......俺たちが、もう少し早く着いていれば?」
彼女の言葉に罪 悪 感 を覚え、オーフェンはつぶやいた。
が、イザベラがかぶりを振る。
「あなたはそこまで超 人 ではないでしょうし、わたしたちもそこまでやわ じゃないわ。でも......ありがと」
幾 分 か笑顔を取りもどして、彼女は間を取るように空を見上げてみせた。オーフェンが近づくと、イザベラはすぐに向き直ってきた。
問いかける。
「イザベラ。君は知ってるのか? この《十三使徒》の行動の目的と──」
イザベラが指を立てる。人差し指を自分の唇 に当て、訊 かないように仕草で伝えてくるとついでに肩 をすくめ、
「今さっき、先生に口止めされたばかりよ。あとで自分で伝えるからって。これはつまり、わたしにも話してないようなことまで、あなたにだけ説明するつもりなんでしょうね。正直、あまりいい気分ではないけど」
「そうか......」
オーフェンはつぶやくと──
全員を見回した。そして、
「イザベラ、なにか必要なことがあるなら、こいつらに説明しておいてくれないか? で、クリーオウ、マジク、お前らはこっちの成り行きがどうだったのか、だいたいでいいから彼女に話してやってくれ......彼女は信用していい」
「オーフェンはどこか行くの?」
ずっと黙 っていたクリーオウが、乾 パンの最後のひとかけらを飲み下して訊いてくる。オーフェンは適 当 に手で示 して答えた。
「ちょっと歩いてくる。それで、あと、レキ?」
聞き取ってくれるかどうか分からなかったのだが、呼 びかけられると、ディープ・ドラゴンは退 屈 していたのかすぐにこちらを向いた。
「あの福ダヌキどもが食料を全部食い散らかさないように、適当に踏 んどいてくれ」
続けて言うと、レキは了 解 の印か、前 脚 で敬 礼 のようなポーズを取ってみせた。
もとより目的の相手がどこにいるのか、正 確 に分かっていたわけではなく。
オーフェンは、半 ばいい加 減 に気の向く方向へと足を向けた。
荒 野 の夜がもたらす闇 の深さに、篝 火 はいかにも弱々しく、頼 りない。固形燃 料 とわずかな薪 がもたらす炎 に寄 り添 って、じっと身をかがめているこの集団が《十三使 徒 》だと聞いて、信じる者はどれだけいるのか──オーフェンは、自問して独 りごちた。マジクの言っていたことも含 めて思い出しながら。
(......意味のないことだ)
たった一日で半減した宮 廷 魔 術 士 たち。
決して二度と帰ってこない、決して取り替 えの利 かない生命を永 遠 に失った。
誰ひとりとして取り返すことはできない。
彼らは明日にも全滅するかもしれない。その時残るのは、最も簡 単 に交 換 のできるもの──つまりは《十三使徒》という肩書きだけだ。
「こんな意味のないものにすがらなければならない。可 笑 しいことだ」
「............」
聞こえてきた声に、オーフェンは顔を向けた。暗がりから杖 をついた男が進み出てくる。
アルマゲスト・ベティスリーサ──最 接 近 領 の領 主 だった。折れた足と、そちら側についている杖とを皮肉げに示 して、
「とはいえしばらく、きちんと折れているふりでもしていなければ、さすがに混 乱 を招 くだろうからね......」
「随 分 と手当てに時間がかかったな」
「手当て? 尋 問 だよ」
と言ってくる領主に、オーフェンは皮肉で返した。
「あんたは他人を支 配 できるんだろう? だったら《十三使徒》も支配したらどうだ」
「わたしの支配は時間がかかる。それに、彼らはわたしの役に立たない」
「その傲 慢 が、あんたの最接近領を失わせたんだろうに」
オーフェンは言い捨 てて、そのまま彼の横を通り過 ぎようとした。領主が尋問を受けていたのなら、彼が来た方向にマリアたちがいるのだろう。そこへ出向くつもりだった。
が、
「わたしを邪 悪 な存 在 だと、そう思うかね?」
アルマゲストの言葉に、足を止める。
すぐに立ち止まったわけではない。数歩、既 に行き過ぎていた。オーフェンは肩越しに視 線 をやると、
「邪悪ってのは、どんなことを邪悪っていうんだ?」
「君ならばそう言うと思っていたよ。そう。この大陸には邪悪なるものは存在しない。いや、できない。価 値 感 の相 違 がどうこうと月 並 みなことを言っても良いが......そもそもが、意味などないのだ。この大陸にある唯 一 のものは、絶 望 だからだ」
領主はそう言うと、背 を向けようとした。今度はこちらに呼び止めさせようというのだろう。無視しても良かったが、そうしたいと思わせる感 情 というのが、ただの意地に過ぎないということも分かっていた。
嘆 息 して、オーフェンはつぶやいた。
「これだけは認 めることにした。頭では分かっていたんだが認めたくなかったことだ。あんたは心の底から人類の守 護 者 であろうとしているんだな?」
去りかけた領主が、足を止める。
杖が傾 いて、軋 んだ音を立てた──どうやら領主自身が思っている以上に、彼は杖に体重を預 けているのだろう。無意味だと罵 りながら。
それは、誰もが同じなのかもしれないが。
「そのために造 られた存在だよ......わたしは」
かすれるような声で、答えてくる。
「わたしを造ったダミアン・ルーウとて、野心といえるものもなかったろうさ──少なくとも、非 難 されるほどのものは。ただ彼は、力不足だった。それだけのことだろう」
「コルゴンを失い、ダミアンを失い、最接近領を失い、ディープ・ドラゴンの支配も失敗した。あんたにはまだなにか役 割 が残ってるのか?」
返答の種類によっては、それは酷 な問いかけだったろう。が、領主の声には動 揺 した様子も見受けられなかった。
「君の言葉を借りるならば、必要な時に必要なものを必要なだけ使えれば良い......ということになるな。確 かにわたしは不 確 定 要 素 から多くのものを失ったが、今こうして君の助力を得ている」
それは領主が聞いていなかったはずの言葉なのだが──それについて言っても詮 無 いことだとは見当がついていた。それよりも、オーフェンは笑った。
「俺 はあんたを助けてるわけじゃない」
「構 わんのさ。聖 域 に到 達 し、そして魔王の召 喚 さえ果たせれば、手 段 はどうでもいい」
背を向けたままの領主に、オーフェンはずっと思っていたことを口にした。
「魔王スウェーデンボリーなんてものが実在するのかどうかすら分からないってのに、それを呼 び出して都 合 よくこちらの味方になってくれると思うのか? そもそも、召喚なんてことが可 能 なのか? それができるなら、聖域自身がとうにやっているはずだろう」
「符 丁 は既に示されているのだ......そうだろう?」
「ドッペル・イクス......?」
「その名を冠 するべきは何者か。もはや誰 にも分からないがね」
話は明らかにそれで終わりだったのだろう──アルマゲストは再 び歩きだした。が、やはりまた半歩も動かずに静止した。夜風に吹 かれ、身体 を揺 らす。
領 主 の声は、それまでのものとは違 っていた。夜 気 に怯 えたかのように、わずかに震 えている。
「果たして絶望とはなにか」
彼のつぶやきに、オーフェンは顔をしかめた。
「......またそれか」
「そうだ。つまるところ、解 を求めようとすればそこに行き着くのさ。キムラック教会を......そこの神官を見たのだろう? 彼らがどうして我 が身 を犠 牲 にしてまで魔 術 の消 滅 を希 求 するか。わたしは分かる気がする」
無理に振 り返ろうとして、バランスを崩 したのだろう。領主の手から杖 が落ち、地面に転がった。領主自身は立ったままでいる。胸 に手を当て、その表情に切望するなにかが浮 かんだ──乞 うように、あとを続ける。
「何 故 わたしは存 在 するのだろう。これと同じ問いを、誰もが抱 いている。あるいは、神々自身もだ」
「そんなことは──」
それこそ意味のない問いだと言い返そうとしたオーフェンを、だがまったく無 視 して領主は口調を強めた。
「この世界には神が実在してしまった。それは神による心の救いがあり得ないことを意味する。人の求める神の姿 とは......肉を持ち言葉を語る化 け物ではないはずだ。肉ある存在、心ある存在に、真の愛は語れない」
口を挟 むことはあきらめたほうがいいのだろう。領主がそもそも会話をしようなどと思っていないことは、目の光で知れた。言い返す余 地 のない言葉──言い返される意味のない言葉。
そういった種類の言葉をなんと呼ぶか。オーフェンは、なんとなく連想していた──妄 想 。もうひとつある──遺 言 。
「人は神を語る際 に多かれ少なかれ擬 人 化 を行う。それ以外の方法で神を語るには、人は幼 すぎるのだ。だがその擬人化が、真の愛を理解する道を閉ざす──それを知っているから、宗 教 家 は苦 悩 するのだろう。だがこの世界において神々は、神々自身が究極の擬人化をしてしまった。これは悪 夢 だよ! 絶 望 するに足る! わたしが思うに、ドラゴン種族は千年間、ずっとその絶望に苛 まれてきたのだ......」
それが妄想か、遺言か。妄想じみた遺言か。領主の言葉はとどまることなく続いた。
「神の愛を失ってしまったこの世界は、神の悪戯 に翻 弄 される地 獄 となってしまったのではないか......馬 鹿 げた妄想に聞こえるかもしれないが、わたしは神が実在しない 世界に行ってみたい。そんな世界がどこかにあるだろうか。そんな世界ならば人が希望を失うことはない。人々が自立し、愛をわきまえた理 想 郷 なのではないか」
ようやく──
語り終えたらしい領主に、オーフェンはかぶりを振った。
「どうかね。そんな世界が本当にあったとして、やはりここと大差ないんじゃないかと俺は思うがな」
「......それは絶望かね?」
「いや。わきまえたものの見方をしただけのつもりさ」
告げて、オーフェンは夜空を見上げた。感 傷 ではない。
星々は崩れるような弱い光を放って、白い荒 野 を照らしている。感傷ではない。
時間を体感して、オーフェンは独 りごちた。
もう真夜中になっている。
「......時間だ」
会議といっても議場があるわけではない。プルートー以下、強大な力を持った魔 術 士 たちが集まっているのはただの野原──それも草もろくに生えていない粗 末 な地べただった。固形燃 料 の篝 火 がひとつ中心に据 えられ、その周囲にいくつか、魔術による灯 明 が浮かんでいる。
魔術士らは円になって並 んでいた。が、よく見ればほとんどの魔術士がただひとりの男を見据えて構 えている。全員の視線を受け止めているのはプルートー。王都の魔 人 プルートーだった。しかめ面で、眉 の形を固くしている。もっとも、これが地顔なのかもしれないが。
その横に補 佐 するように、マリア・フウォンが座 っている──彼女が魔人の左 隣 で、プルートーの右隣にはひとつ空席のような隙 間 があるため、ことさらにふたりが特別な地位にあるように見える。が、建前では《十三使 徒 》のナンバーズに優 劣 はないはずだった。少なくとも、オーフェンはそう聞いた覚えがあった。だがプルートーが《十三使徒》の長 と呼 ばれるようになってもう二十年近くが経 過 し、建前は建前らしく形 骸 化 している。
円に近づく前にオーフェンは、その場の魔術士たちの人数を簡 単 に数えた。プルートー、マリアを含 めても七人。マリアと同年代ほどの若 い魔術士もいれば、かなり年かさの者もいた。
「諸 君 」
プルートーの声。
魔人は、オーフェンの着席を待たなかった──が、声が聞き取れる距 離 まで近づく程 度 までは待ってくれていた。
「まずこれからわたしが語るのは弁 解 だ。情 けなくも恥 知 らずであり、愚 かしく無 価 値 な言い訳 だ。だがわたしの口から語られねばならないことでもある。確 認 したところ、本日我 ら《十三使徒》は五十四名を失った。およそこれほどの人数の魔術士がひとところで同時期に命を落とすという事 態 は、かつての魔術士狩 り暗黒期まで遡 らなければ見つけることはできまい」
王都の魔人はここまでを一息に語り、そして深々と頭を下げた。そして地面を向いたまま語り続けた。
「失われた生命に関して、君たちに詫 びることはさらに意味がなく、詫びることそれ自体がおこがましい。何故ならわたしはこの戦いを決意した時から、この事態を予 測 していたからだ──ドラゴン種族に対し、我々の力がほぼ通用しないこと。それについては確信があった」
プルートーの頭が揺 れ、ゆっくりと顔を上げた。彼はじっと聴 衆 を見つめていた。反 論 を待っていたのかもしれない。だが居 並 ぶ魔術士たちは、一言も声を発しない。
ふと近づいてはならないものを感じて、オーフェンは輪の中に入る前に足を止めた。魔術の灯明に顔が触 れるか触れないかの距離で話を聞く。
マリア教 師 の視 線 が、ほんの一 瞬 だけこちらを向いた。だが一瞬だけだった。彼女はほとんど目を伏 せていた。プルートーがあとを続ける。
「それでも我々は、聖 域 と戦わねばならない。理由はひとつだけだ。我々が打ってつけであったから──聖域に近い場所に集結しており、力を有し、短期間で全戦力を召 集 し、ことに当たることができる。それが故 に、我々は召 喚 された」
「誰に」
──と──
割り込 んだのは、オーフェンだった。全員の表 情 をうかがうに、その問いの答えを知らないのは自分だけだったらしい。
プルートーはうるさげにこちらを向いた。無視するようにも見えた。だが答えた。
「白魔術士たちにだ。彼らが最 接 近 領 、聖域、各 々 の計画を看 破 した。彼らが具体的な戦力として召喚したのが我々だった」
そこまで口早に解説し、もとの聞き手に向き直る。
「我々が行うべきであったのは、ダミアン・ルーウの抹 殺 。これは達成された。そして次に、聖域の──可 能 な限 り早期の──制 圧 だ。現 在 、我々がここでこうして座 している理由がそれだ。これからどうするか。それを決定したい」
「戦力を失い過 ぎました」
今度は《十三使 徒 》のひとりが声をあげる。プルートーが睨 みつけるが、また別のひとりがあとを継 いだ。眉 の太い、無 骨 な外観のその魔術士に、怯 えの色が浮 かんでいるのが見て取れる。
「既 に半 減 。これはほぼ全 滅 といって良いでしょう。しかも、ほんの半日でです──さらには聖域にいるレッド・ドラゴン種族があれで総 数 だったわけではないでしょうね?」
「ただでさえシーク・マリスクとカコルキスト・イストハンを欠いているのですぞ。彼らを最接近領抹消の任 に充 てたのは、あなたの失 策 ではないのですか」
一番年長と思える初老の男が、語気荒 くまくし立てる。勢 いがついたのか、魔術士たちは次々と声をあげた。
「もっと戦力を集める時間があったはずです──」
「そもそも《十三使徒》だけで行動を起こさなければならなかった理由は──」
「《塔 》と連 携 を取るという話は? マリア教師、あなたにはそれができたはずで、そもそも我らに名を連ねることが許 されたのも──」
「我々に力がなかったのではない。レッド・ドラゴン相手に陣 形 を取ることがお粗 末 だった。奴 らは必要とあらば地中からでも攻 撃 してくる──」
「プルートー、あなたはご自分の憂 さ晴らしで我らの命を荒 野 にばらまいているのではないか?」
最後の一声で、場の騒 ぎがばったりと途 絶 えた。発した当人にとってもまったく不意打ちで、不幸なことだったのだろう、ぞっとしたようにあたりを見回している。誰もその若 い魔術士に視線を合わせようとはしなかった。
プルートーとマリアのふたり以外は。プルートーは渋 面 で、その男を見 据 えている。マリアはそれよりは同情的だった。
それきり絶 句 してしまったその男は無視する形で、プルートーが口を開いた。深 呼 吸 するように大きく息を吸 ってから、
「......まずはひとつひとつ答えていこう。戦力の喪 失 に関してはその通りだ。我々は既 に壊 滅 した状 態 にあると言える。作戦行動の役 割 分 担 すら不可能なほどに部隊を損 耗 してしまった。そして、聖域にいるレッド・ドラゴン種族の総 数 だが──あえて言うまでもないだろうが、わたしは知らない。だが六体より少ないはずはない上に、我 々 の敵 はレッド・ドラゴンだけではない。ついでだ。ディープ・ドラゴンたった一体に対して我々は無力であったことも思い出しておこう」
彼はそう告げてから、正 確 に、質 問 を発した魔 術 士 それぞれに顔を向けていった。
「シーク・マリスク、カコルキスト・イストハン、イールギット・スィートハート。この三名。いずれも若いが練 達 の者であったこの術者たちは永 遠 に失われた。本日失った五十四名と同じく、永遠にだ。彼らを決死の任に充 てたのはわたしだが、わたしとしては、彼らに報 いるには我々が彼らの偉 業 を無 駄 にしないことしかないと考えている」
オーフェンは聞きながら、マリア教師がさらに深く顔を伏 せるのを見つめていた。同時に、まだ腕 の中に残っている感 触 に拳 を戦慄 かせた──死に逝 くイールギットの体重を、まだ覚えている。焼けこげ炭化した彼女はひどく軽かった。
できるならばもう少し思いに耽 る時間が欲 しかった。だが、プルートーはすぐに先を続けた。
「戦力を集める猶 予 があったか否 か。これははっきりと否だ。既に、遅 すぎるとさえ思う──最接近領攻 略 に手間取ったことが痛 手 だった。そして同じ理由で、我々には自 ら以外の戦力に対し指 揮 系 統 を確立するだけの時間もなかった。《塔》に対する連 絡 がなかったわけではない。その件 に関して、マリア・フウォンは《牙 の塔》の最高執 行 部 を動かすところにまでこぎ着けていた。が、彼らにも自由に使える満足な戦力がなかったのだ。知っての通り《塔》は静かな内 紛 状 態 にある」
次々に答え──そして、最後にたどり着く頃 には、さしものプルートーも息が切れているようだった。
「レッド・ドラゴンの攻撃に対して我々の陣形が効 果 を発揮できなかった点について。確 かに我々は最も危 険 な相手に対して最も愚 かな策で対 抗 した。奴らは生来の暗殺者だ。暗殺者に対して陣形による砦 を築 くよりは、互 角 の技 量 を持つ魔術士が個 別 に対抗するほうが有効だっただろう。そこの男のように、だ」
唐 突 に、プルートーはオーフェンのほうを指し示 した。
「レッド・ドラゴン種族と一対一で戦うことができる術者が六人以上いれば、わたしもそう指 示 しただろう。だが次 善 の策を取るよりほかなかった。そして、最後の質問に関してだが......」
魔人がそこに触 れると、当の問いを発した魔術士が文字通り震 え上がった。が、プルートーはそのまま流した。
「否 。それだけだ」
いっせいに投げかけられた質問をすべて聞いていたことも驚 きではあったが──答える魔人の表 情 に怒 りが浮かばなかったことも、意外といえば意外ではあった。
そして。
「......ほかに聞きたいことはあるか?」
「聖 域 に勝つ方法を教えて欲しいか?」
ほかに誰も発言しないと踏 んで、オーフェンはつぶやいた。
結果、全員に無 視 された──少なくとも数秒間は。だがやがて、プルートーが聞き返してきた。
「それが、昼間のようなはったりでないのならな」
「簡 単 なことだ。目的を少し変えてくれればいい。聖域と戦うのではなく、和 睦 しろ──こんな馬 鹿 げたものが戦争と呼 べるのならの話だが」
「それができるのなら──」
「レキがいる。あのディープ・ドラゴンの名前だが。聖域の種族と戦わないと誓 え。そうすれば多分、レキが聖域まで連れて行ってくれる。これ以上犠 牲 者 を出さずにだ」
オーフェンの提 案 を、プルートーはしばらく思案したようだった。皮肉げに笑って、魔人がつぶやく。
「それで? 聖域まで侵 入 したところで、隙 をついて内部から制 圧 するか?」
「そん時は今度はレキがあんたらを殺すんじゃねえかな。もっとも、俺 はレキじゃないし、レキの考えが分かるわけでもない。どちらについても推 測 に過 ぎない」
「では、論 外 だ」
さっと手を振 って、プルートーは話題を打ち切ろうとした。
「我々は、聖域とも、ドッペル・イクスとも相 容 れない。奴 らがそれぞれの計画を捨 てない限 りはだ」
「聖域──」
と、叫 びかけて、オーフェンははたと口ごもった。顔をしかめ、続ける。
「聖域......とも、ドッペル・イクス......とも ? どういう意味なんだ。どうして聖域とドッペル・イクスとを分けて考える」
「マリア・フウォン」
プルートーは、視線をこちらに向けたまま、傍 らの魔術士に呼びかけた。なにか無 理 解 から熱中していることに水を差されたような、つまらなそうな態度で指示を出す。
「奴に、必要なことを説明してやれ。どうやら、一番困 難 な部分だけを知らないらしいからな」
「ええ」
マリア・フウォンは立ち上がると、重々しい足取りでこちらに近 寄 ってきた──もったいつけたわけでもないだろうが、疲 れているのだろう。今日一日が彼女にとってどれだけか重労働だったかについては、聞かずとも知れた。オーフェンは彼女が近くに来るのを待って口を開いた。
「マリア教 師 ──」
問いかけると、かぶりを振って腕 に触れ、小声で囁 いてくる。
「離 れたところで話しましょう」
彼女に促 され、明かりのある場所から離れる。空の暗さが変わるわけでもなかったが、空気の重み、静けさはすんなりと深まっていった。数人が集 う輪から、ふたりきりの沈 黙 の濃 度 まで。
彼女の声はそのひとり分よりもわずかなり余 計 に、静かだった。
「早く話しておくつもりだったんだけど......すまなかったわね。色々と身動きが取れなかったものだから」

「いえ。俺も、ちゃんと聞けたかどうか」
オーフェンは、相手の顔色を見やって話を変えた。
「ご存 じのようですが、イールギットは死にました。俺が見取りました」
「そう......ではわたしもプルートーと同じに破 滅 するしかないようね。地 獄 なんてものを信じるわけではないけれど」
「いえ。そうしないために協力して欲 しいんです。もう誰 も、イールギットのように死なせたくはない。でないと彼女に報 いられない。プルートーを説得してください」
「彼は既 に説得されてるわよ」
「────?」
彼女の言ったことが分からず、オーフェンはきょとんとした。苦 笑 して、マリアがあとを続けてくる。
「いけ好かないところも多いけれど、彼はそれほど愚 かじゃないわ。もとより力づくで聖域に迫 るなんてことが不 可 能 だってことは知っている。でもそうするしかなかった。あなたの提案。それが合理的だということも分かってる。でも......受け入れられない条 件 を突 きつけられたから、断 るしかない。彼は二十年間、王都の魔 人 という役 割 を黙々とこなし続けてきた人間よ。今もそれと同じように必要な役割を果たしてる。感情を殺して」
「だが、それじゃ破滅だ」
「それもできない。だから彼は破滅しない方法を必死に考えてるんでしょうね。キリランシェロ君、あなたに話しておかないとならないことがあるわ。わたしたちの世界を滅 ぼしてしまうのは女 神 だけじゃない」
星の下、まるで夜空そのものの女神のような黒 装 束 で──
マリア・フウォンは言ってきた。
「聖 域 が、この大陸を捨てるのよ。あと十日以内......女神が結界に侵入してくる前に」
ロッテーシャは自分を監 禁 するその部屋の中を虚 ろに見回した。
白い。
ひどく白い。色などないと思えるほど。
だが決して透 明 ではない。
ともかくも印象はそれだった。壁 、天 井 、床 、家具、壁に飾 られた絵ですら、真っ白に思える。実 際 には、絵に描 かれているのは赤い花だった。見たこともない、名前も知らない花。たった一輪咲 いている花の絵。手を広げることもできない、キャンバスに囚 われた知らない花。
彼女はベッドに腰 掛 けていた。寝 台 は清 潔 なシーツに覆 われ、控 えめなスプリングの反動が心 地 よい。
本当は寝 ころびたかったが、できなかった──寝台の中央に、奇 妙 な動物が一 匹 居 座 っている。眠 っているのかいないのか、動かない。呼 吸 だけはしているようで、横 腹 がゆったりと波打っていることだけは分かる。
つまるところ、この部屋の主はこの動物なのだろう。ロッテーシャはほかにすることもないため、幾 度 となくその猫 のような獣 をざっと観察した。大きさはまさしく猫と同じで、毛は長く、真 紅 のたてがみが伸 びて背 中 を覆っている。全体的に丸い顔立ちだが、耳だけは三角形でぴんと立っている。何度か躊 躇 しながら背中に触 れて撫 でてみたが、反 応 はなかった。というより、触れられていることに気づいてすらいないように見える。その無反応は、どこか囚 人 を思わせ、ロッテーシャはますます気 鬱 に落ち込 んだ。
(ここが......昔、父さんがいたところなの?)
思わずこぼれそうになった涙 を、現 れる前に手でこする。
(わたしが......赤ん坊 のわたしが父さんを操 ってここから逃 げさせたの? 父さんは、支 配 されていることを知りながら、こんなところに帰ってきたくて病気になったの?)
何 故 、エド──あんな男の言うことを信じているのだろう。
自問しながら、ロッテーシャは立ち上がった。部屋の中を見回す。どこも整然とし、清潔で、不足もなく、余 分 もない部屋。この部屋の外から余計な騒 音 が聞こえてきたとしても、それを確 かめに外に出る必要などない。耳に入れる必要はない。人は本来、そうして心の平安を保 つのではないか。
(あの人の言うことなんて、全部噓 だと思えばそれで済 む。あの人は、かつてわたしの夫だったというだけで、今ではもうわたしを見 捨 てて出ていって、自分勝手に振 る舞 っていて、人殺しで、噓ばっかり言っている。信じるほうがおかしいじゃない......)
だが。
我 知らず握 っていた拳 を、力無くわきに落とす。分かっていた。
(エドは噓ばっかり言っている。でも本当のことを言っている時は、わたしには分かる)
父の死後──彼女の元をエドが去った理由。今では見当がついていた。恐 らく、父が彼になにかを仄 めかしたのだ。エドはそれを確かめるために去った。そして、結 論 を得て帰ってきた。
(父さんとエド、ふたりしてわたしを嫌 って、蔑 んでいたのね。それなのにわたしは分からないでいた。普 通 に人に愛されて、人を好きでいられると思っていた。でも、それすら間 違 っていた)
もうすがるべきものはなにもない。
信じるべき愛 情 はなにも残っていない。
定まらなかった視 線 が、不意にピントを合わせた。それが奇 跡 であるかのように、ロッテーシャはぎょっとした。動 悸 する心 臓 を皮 膚 の上から押 さえ、思い直してみれば、彼女は単に扉 を見つめているに過 ぎなかった。
扉。
彼女は慎 重 に部屋を横切って、その扉に触れた。
ノブを回す。
鍵 はかかっていない。
出られる。
出れば、出られる。この部屋から。
だが。
(出て、どうなるっていうの......)
ロッテーシャは扉を開けずに、部屋にもどった。扉の向こうを確かめないまま。
◆◇◆◇◆
ノブが回る音に気づいたのは、その廊 下 が静かだったからだ──
そうでなければ、二十メートルも離 れた扉の物音が聞こえたはずはない。ずらりと並 んだ扉のうちのひとつである。コルゴンはわずかに視 線 を上げたが、またすぐに元の姿 勢 にもどった。廊下の隅 に立ち、マントの下で腕 組 みする。そうした姿勢のまま、もう何時間にもなる。
廊下はまったくの静 寂 だった。自分の呼 吸 の音さえも聞こえない。が。
無音で近づいてくる男の姿 を、コルゴンは目の端 で捉 えていた。男は隠 れるつもりでいたわけではないだろう。もしそうであれば、近づく前に察 知 することはできなかったかもしれない。たとえ、身を隠すものなどなにもない直線の廊下であっても。
その男は廊下の中央を、巨 体 を揺 らすこともなく真 っ直 ぐに歩いてくるだけだった。聖 服 の男。ジャック・フリズビーは通り過ぎる寸 前 に立ち止まり、声をかけてきた。
「こんなところでなにをしている?」
コルゴンは、正 確 なことだけを答えた。
「別に。なにもしていない」
相手が納 得 しなかったのは明らかだった──ジャックは感情などなにも映 さないよどんだ眼 差 しで左右を見回し、そして離れた扉のひとつに視線をとどめると、声を低くしてつぶやいた。
「......見 張 りならば、扉の前ですればいいだろう」
「彼女は逃 げ場などない。見張る必要はない」
これも即 答 する。ジャックは呆 れたようだった。声がわずかに苛 立 っている。
「ならば、どうしてこんなところにいる」
「なにもしていないと言ったはずだ」
どうでもいい会話を打ち切るために、コルゴンは壁 から身体 を離した。ジャックと対 峙 する格 好 で、今度はこちらから問いかける。必要なことを。
「状 況 に変化はあったのか? 第二世界図塔 は?」
「〝司祭〟どもが押さえている」
ジャック・フリズビーは努 めて平静に話しているつもりだったのだろうが──
司祭と呼 ぶその口調に、皮肉が混 じっていることにコルゴンは気づいていた。
「が......奴 らが言うには、塔の起動には魔 術 士 が要 る。神々の刻 印 を受けているドラゴン種族では駄 目 だ。天人種族がかつて、後 継 者 として選んだ種族──つまり人間種族の魔術士。召 喚 を試みるのは極 めて強力な白魔術士でなければ不 可 能 だろう。もしくは、それに匹 敵 する能力を持った何者か」
「ロッテーシャはまだ駄目だ。自分の力を自覚できていない」
扉を示 し、コルゴンは告げた。
それは聞かずとも予想していたのだろう。ジャックの顔に浮 かんだ失望はそれほどあからさまなものではなかった。聞いてくる。
「ダミアン・ルーウは?」
「奴は滅 んだ。最 接 近 領 の領 主 ......彼にならできるかもしれないが、彼は交 換 条 件 として聖 域 の屈 服 を要求するだろう。聖域が呑 むとは思えない。そんなことに時間を取られていれば間に合わなくなる」
「なるほど。つまりは、あの司祭らが正しいというわけか?」
「お前だって、司祭に従 って最接近領を滅ぼしたのだろうが?」
コルゴンは皮肉を言ったつもりだったが、ジャックはまったく動じたところを見せなかった──もとより、こちらが分かっていると承 知 しているのだろう。彼は落ち着いて言い返してくるだけだった。
「司祭らは、アルマゲスト・ベティスリーサという存 在 が何者なのかを確 かめるためにわたしを最接近領討 伐 に遣 わせた。アルマゲストはアルマゲストで、自分自身の暗殺を成功させれば聖域は騙 せると踏 んだのだろうが......」
「だいたいの経 緯 は聞いている」
遮 って、コルゴンはうめいた。
「最も強力な白魔術士か。可 能 性 があるとすれば......いや、どうかな。彼女を従わせる自信は俺にはないな」
「......誰のことを言っている?」
黒い帽 子 の縁 の下から不 気 味 に目を光らせて、ジャックが聞いてくる。
かぶりを振 って、コルゴンは拒 絶 した。
「彼女に命令することは何者にもできない。だから意味がない。忘 れろ」
「だがあのダミアン・ルーウとて滅びることがあるのだ。その女が何者だとしても、屈服させるチャンスはある」
「そのダミアンを滅ぼしたのが彼女だ。そして、大陸を滅ぼすのも、結局は彼女かもな。まさに災 厄 そのものだ......」
答えるためというより、独 り言のようにコルゴンはつぶやいた。
そのまま話題を変える。
「アイルマンカーの扉 は?」
「回 収 したどの魔術武 器 を使っても傷 ひとつつけられない。もとより、それが絶望的な試みだということは奴らも分かっていたのだ」
と──
語るジャックの表 情 が、わずかに変化した。横からなにかを囁 かれたように、煩 わしげに顔をしかめると、
「状 況 が変化したようだ。詳 細 は分からないが、緊 急 にお前を必要としているらしい......司祭がだ」
「俺 をだと?」
コルゴンは聞き返したが、ジャックはまずは説明よりも移 動 をということだろう。手で行き先を示しながらきびすを返した。
それを眺 めながら、コルゴンは腰 の剣 に手をやった。天人種族の鍛 えた武器。まるで玩 具 のようにも見える直刀──虫の紋 章 の剣。
あるいは、逃 亡 者 ビードゥー・クリューブスターが聖域から持ち出した魔剣。フリークダイヤモンド。
その柄 を撫 でながら、コルゴンはつぶやいた。
「ひとつ聞きたいが」
立ち去りかけた聖服の男を呼び止める。そのまま、コルゴンは続けた。
「司祭たちは、今では俺のこともドッペル・イクスとして認 識 しているのか? 俺はずっと最接近領についてドッペル・イクスと戦い続けてきた。それを、こうして少し力を貸 してやった程 度 のことで味方のように扱 うのか?」
ジャックは答えてこなかった。だが、答えを聞くまでもなかった。
もともとあの司祭たちは、とうに裏 切 りには慣 れているのだ。
◆◇◆◇◆
厳 密 には、この聖域には通路同士の連結はない。
そう語ったのは、アザリーだった。だが実 際 にすべての通路はつながっており、どの場所からでもどこへでも行ける。かつてここを築 いた天人種族にとっては、それは簡 単 な発想だったのだろう──そのほうが面 倒 がない。であるからそうする。ただそれだけの。
だが、その通路のつなぎ方を知らない者にとっては、それは出口のない迷 路 に他 ならない。天人種族のいない今、それをかろうじて管理しているのは聖域の司祭と呼 ばれる連中であり、彼女らに逆 らうことはできない。
聖域で戦うならば必勝の時でなければならない。アザリーの結 論 は、そこに終わった。
「つまり──」
両手を挙 げてレティシャは、戦 闘 服 の上から男たちの手で無 遠 慮 に身体 を探 られるのを我 慢 しながらつぶやいた。
「自 重 しろと言いたいの? あなたが ? わたしに ?」
それは失 笑 を通り越 して噴 飯 ものではあったが、それでも鼻から漏 れたのは馬 鹿 馬鹿しい笑い声だけだった。彼女のすぐ傍 らで、まるで自分こそが身体検 査 する側であるかのように堂々としているアザリーに、さらに告げる。
「わたしはいつでも冷静よ......あなたに呼び出された時からね。今までだって、ずっと冷静にやってきた。あなたがろくな情 報 もよこさなかったからって、文 句 のひとつも言わずによ」
「今言っているそれは文句ではないの?」
そうつぶやくアザリーの瞳 に、迷 うような翳 りが入り込 むのを見 逃 したわけではなかったが、レティシャも哀 れみはかけなかった。
「少なくとも、正当な抗 議 と言えるのかどうかは分からないわね。わたしはとっくに狂 ってるんだから──」
「わたしの見ている限 り、あなたは正 常 よ」
「だから困 っているのよ。人を殺したのよ、わたしは!......どうして正気でいられるのよ......」
戦闘服の隠 しポケットから、最後の武器──手首に仕込んだ鉄 芯 まで引き抜 かれるのを見ながら、レティシャは毒づいた。彼女を身体検査している男はふたり。いや、それが男と呼べる生物なのかどうかは別問題だが、少なくとも人間男 性 に近い形 状 をしていた。違 うのは、両 眼 が緑色に輝 いていること。だが身体検査が終わり、小さな隠しも見逃さないために細く伸 ばしていた両指が普 通 の大きさにもどると、その目の光も消えた。
レッド・ドラゴン種族のその二体は、無言のままうなずいた。部屋にいる、もう二体へと顔を向ける。
そちらには、やはり同じく二体に挟 まれて、こちらは平服に近い格 好 のハーティアがいる。五年ぶりに会ってろくに挨 拶 もできないままここまで連れてこられた彼は、いまだ現 状 を把 握 できずにいるようだった。
(......そうかしら)
遠くを見るような彼の眼 差 しを盗 み見ながら、レティシャは独 りごちた。
(わたしよりも、よほど落ち着いているかもね)
皮肉ではあったが、誰 に対して言ったものか自分でも分からない。
部屋は真っ白で、壁 と床 、ほかになにもない。扉 すらない。なにも隠せないよう、そういう造 りになっているのか、それとも部屋を飾 ることに関して、気の利 いたことをなにひとつ思いつかなかったのか。人間ではない異 生 物 が暮 らす施 設 となれば、不自然さはむしろ自然なのかもしれない。その白い床に、いかにも人間らしい発明品──各種ナイフ、ワイヤー、短 弓 といった武 器 が転がっている。すべて自分の戦闘服の内側から出たものだったと思うと、レティシャはどうしようもない虚 しさを覚えるしかなかった。
戦う? こんな武器は、目の前にいるドラゴン種族の表皮を引っ搔 く役にも立たない。
レティシャは視 線 を上げ、アザリーを見やった。妹。いや、言葉に正 確 を期すならば従妹 だが。実 質 、姉 妹 として育った。レッド・ドラゴンたちはアザリーの身体には触 れようともしていなかった──彼女が精 神 体 でしかないことを知っていたのか、一目で知れたのか。見ただけでは、普 通 に生きているのと差は見分けられないが。
長い沈 黙 を経 て、アザリーが答えてきた。
「あなたが正気でいられるのは、ティッシ、わたしたちがどうしても必要なことをしているから。そうでしょ?」
「おためごかしよ」
「そうね。でも、生きていられるってことはおためごかしよ。この身体になるとね......それが分かるわ」
アザリーはそう言って、自分の胸 元 を示 した。そこになにかの印があったわけではない。が、レティシャは反 駁 しなかった。
そうしているうちに、床に散らばっていた武器が消え失せた。誰が触れたわけでもなく、ただ不意に。なにかの魔 術 には間 違 いないが、構 成 を見切ることもできない。恐 らく、床に仕 込 まれたなにかしらの魔術文字で発動したのだろう。あくまで無言のまま、レッド・ドラゴン種族の姿 も消える──
意を決して、レティシャは声をあげた。
「ハーティア......」
が、彼は聞こえた様子もない。ただぼんやりと──身体検査を受けている際 と同じ様子で──前を見つめている。ただ彼の見つめている先には、壁以外のなにもない。
レティシャははっと気づいてアザリーへと向き直った。
「あなた、あの子になにをしたの⁉ まさか約束を......」
「破 ってはいないわ。精神支 配 じゃあない──というより、わたしにはそれほどの余 力 はないわよ」
精神体となった天 魔 の魔女は、静かに否 定 してきた。胸 に当てていた手を、緩 やかに落とす。
「約束は守るわ。なにか間違いがあったとしても、死ぬのはあなたとわたしだけ。ハーティアも、キリランシェロも大 丈 夫 ......フォルテもね。まあ、コルゴンは知らないけど。あの子は、わたしが制 御 できる相手ではないし」
淡 々 と言ってくる彼女を、半 ば憎 悪 の念まで燃 やして見 据 えながら、レティシャはつぶやいた。
「あなただって死なせやしないわよ。もちろん、わたしもね。あなたは今までしたことを全部償 うのよ。償いきれるわけがなくっても、償うまでは消 滅 なんて許 さない。でなければ......先生が哀 れじゃない」
「............」
アザリーはなにも答えてこなかった。ただ、以前ほど──生前ほどには──知らん顔を装 うことが下 手 になったことは確 かだった。目を一度引きつらせ、その変化を消せないまま瞳 を震 わせている。見覚えのある表 情 だった。最 接 近 領 の暗い庭園を思い出す。レティシャに指を向けられ、生きながら焼かれた男の顔。
悪 寒 と吐 き気 に背 中 を押 され、レティシャは身体 を丸めかけた。と、驚 いたように声が聞こえてくる。
「ティッシ⁉ 」
ハーティアだった。こちらに駆 け寄 って、背中を抱 いてくれた彼の腕 にすがりながら、レティシャはなんとか声をひねり出した。
「なに? ようやく気づいたの? さっきから呼 んでるのに──」
「ご、ごめん。声が聞こえてなかったわけじゃないんだ。ただ、自分でもよく分からないけど......考えごとをしていて。なんだか、返事しなくてもいいのかなって」
実際、錯 乱 している様子で彼は手を振 りながら──そして、今までレティシャが向いていた方向へと視線をやって、気味悪げにつぶやいてみせた。
「って、ティッシは誰と話していたんだ? アザリーがいたの?」
「ええ。彼女はまだ不安定だから──」
と、そのアザリーの姿を見ながらレティシャは説明した。
「まだ、意 識 しなくても他人に姿を見せられるほどの器用さはないの。まあ、わたしにもよく分からないけど、彼女が言うにはそうよ。だから彼女は、わたしやあなたを必要としてこんなところにまで連れ出したのね」
「ここは、聖 域 なんだ! ティッシ!」
初めて気づいたように、ハーティアが叫 ぶ。
彼は身体を離すと、部屋のぐるりを指し示した。
「さっき身体検 査 をしていったのは、ドラゴン種族だった......」
「ええ、そうよ」
うんざりとレティシャがうめくと、彼はまだ混 乱 しているのか頭を振りながら、
「二百年来、人間種族の者が誰ひとりとして足を踏 み入れていない場所にいるのか、ぼくらは!」
「できればそれをもっと光栄に思いたいところだけどね」
言いながら、またアザリーを目で探 す。いつの間にか彼女は姿を消していた。つまり、余力がないというのは本当なのだろう。
嘆 息 して身体を起こし、レティシャは続けた。
「二百年、人間が入れなかったっていうのはどうかしらね」
「え?」
まるで裏 付 けるように──
現 れた人 影 があった。
合図もなく、なにもなく、虚 空 から滑 り出るように。黒そのものを身にまとったような男の姿。いやあるいは、黒そのものが人の皮をまとっているのか。
髪 の長いその男を指さして、叫んだのはハーティアだった。
「コ、コルゴン!」
「早かったな」
彼は無 視 して、それだけを言ってきた──レティシャに対して。
レティシャはうなずいた。
「ええ。時間がないのでしょう?」
「そうだ。だから歓 迎 はできない」
言葉少なく、コルゴンは続ける。促 すように適 当 に天 井 へと視線をやり、
「ここの仕組みは分かっているな? ここでは司祭の望むようにしか移 動 できない。聖域全 般 の通路連結を支 配 しているのが、彼女ら〝司祭〟だ」
「ええ」
「先ほどのレッド・ドラゴン種族。彼らも司祭とは反目している。彼女らの命令で戦 闘 に赴 いて、アーバンラマで一体、ついさっきも《十三使 徒 》を相手に二体の仲間を失った。が、それでも従 わなければならないほどの力を司祭は持っている。理 解 したか?」
何度も肯 定 の返事を口にするのが馬 鹿 馬鹿しく、レティシャは仕草でだけうなずいた。敵 意 があったつもりはなかったが、コルゴンはそれで口を閉 じた。そのまま、険 しい顔つきでこちらを待っている。
(その司祭とやらに全身全 霊 で従わないと......ならないってわけ?)
観念して、レティシャはつぶやいた。
「分かったわ」
「な、なあ。コルゴン──」
これはハーティアの呼 びかけだが、コルゴンはこちらは無視した。続ける。
「この部屋は関門だ。お前たちの意図が司祭の意に添 わないものであれば、ここから先には進めない」
「......あなたは進めたのね」
かまをかけるつもりでレティシャが問うと、初めてコルゴンは表 情 を少し和 らげた──こちらが分かっている と察したのだろう。
「ああ。俺は進むことができた。俺の目的が、奴 らの利害と一 致 したからだ」
(利害さえ一致すればいい)
彼の言葉を、レティシャは翻 訳 する気持ちで解 釈 した。
(利害が一致していればそれを断 れないほど、聖域は疲 弊 している......)
「なら答えるわ。わたしたちはこの大陸の破 局 を止める鍵 をひとつ持ってきた」
刹 那 。
言い終えたかどうか。それも分からないほどの意識の隙 間 で、見える風景が変わった。転移の不自然さすら感じさせない。途 方 もなく緻 密 で、完 璧 な構 成 による空間転移──跳 んでみて、そう感じることしかできない。
レティシャは言い終えた口の形をしたまま、ぽかんと立ち尽 くしていた。部屋の風景には、それほど変化がない。白い壁 と床 。ただ広さは圧 倒 的に違 う。殺 風 景 さは変わらなかったが、そこには奇 妙 に湾 曲 した形で席が並 んでいた。円 卓 ではない。奥 に演 台 のようなものがあり、すべての席がそちらを向いている。椅 子 は細身の、シンプルなものだった。広間といっていいほどのそのたっぷりとした空間には、静 寂 の空気が必要量以上に詰 め込 まれて息苦しさを覚えるほどだった。まだ二部屋目しか目にしていなかったものの、レティシャは感づいていた。聖 域 はどこも静かだった。広さに見合うほど、生きている者が住んでいない。
その議事堂──としか思えない造 りのその広間には、彼女のほかに誰もいない。少なくとも彼女があたりを見回した一秒間は、そうだったはずだった。だが視線をもどした時、演台には人がいた。たったひとり、緑色のローブをまとった女が。鮮 やかな緑色の髪を伸 ばし、そして育ち盛 りの木の葉のように煌 めく双 眸 をこちらに向け、演台の高所から見下ろしてきている。
喉 の乾 きを覚えて、レティシャは唾 を呑 んだ。その姿 だけは、昔語りで、物語で、教科書で、絵画で──見たことはある。
人間種族の魔 術 士 にとって、永 遠 の祖 となる存 在 。
大陸に在 る、六種の獣 王 。そのうちの〝沈 黙 の獣〟──ノルニル。
ウィールド・ドラゴン=ノルニル。天人種族。
女が挙 げた腕 は、細かった。仕草にも芝 居 がかっていれば、その肢 体 そのものも芝居の道具のように見えた。ノルニルが唇 を開くのを、まるで生まれて初めて女を見た少年のごとく、レティシャは黙 って待つより他なかった。
「長い時代を経 て──」
声もまた美しい。虜 となり震 えて、聞き入る。
「我 らはまた苦 難 の時を迎 える。汝 、この時にこそよくぞ訪 れた」
ハーティアの言葉が、脳 裏 に蘇 る。ここは、聖域なんだ!
ここは聖域だった。キエサルヒマ大陸の中央。フェンリルの森のディープ・ドラゴンによって封 じられていたドラゴン種族の聖地──今はそのフェンリルたちが守 護 の役を果たしていないため、ここに来ることができた。
肌 で感じる戦闘服の裏 地 が、ひどく居 心 地 の悪いものに思えてレティシャは身じろぎした。これは脱 ぎ捨 てるべきものなのではないかと、衝 動 が浮 かぶ。この聖域において、人間は逆 らってはならない。二十五年間生きてきて、結局は得られなかった安らぎがここにある。このまま眠 って、目が覚めずとも良い......

「我は、汝を受け入れよう。汝が、我らを受け入れるのであれば......聖域の誘 いを受けるのであれば」
天人の言葉は耳から入り、頭の中を暖 かい感情で糊 付 けしていく。暖かく、安らかで、そして──眠い。
「......ッシ! ティッシ!」
声が。切 羽 詰 まった何者かの声が聞こえてくる。耳 障 りだった。安らぐ心をざわつかせる。この声は、常 に自分の平安を乱 す──ずっと乱してきた声だった。つまるところ、自分から必要なものを奪 ったのはこの声ではなかったか? 家族を崩 壊 させたのはこの女だ......家族の一員であったこの女。
横を向くと、その女の姿が見えた。瞳 に焦 燥 の色を浮かべて、なにかを叫 んでいる。
五年前。《塔 》を飛び出したキリランシェロが探 しているのは、この女だ。今なお彼は、この女を探している。恐 らくきっと、この女がいなくなってしまえば、家族は──少なくともふたりだけは──もとにもどる。
レティシャは声をあげた。そして手を突 き出した。アザリーが差し出す大型ナイフを受け取って、身体 の向きを変えて飛び出す。
全速力で駆 け出しながら、目指したのは壇 上 の天人だった。ぎりぎりのところで精 神 支 配 からは逃 れたものの、頭 蓋 の内部に異 物 でも入り込んだような痛 みがある。めまいに負けずに走りつつ、レティシャは毒づいた。
(姑 息 な手を......使う! これが聖域⁉ )
天人種族の女が、悲 鳴 のようなものをあげた。伝説では、かの種族には女 性 しかいなかったと伝えられる。あり得ないこととはいえ、実 際 に男性の天人種族を目にした者はいないのだ。そして、それが故 に天人種族は人間種族と混 血 し、人間の魔術士が生まれたのだとされる。
距 離 は遠かった。床を蹴 る一歩一歩がもどかしい。凶 暴 な衝動を体内で弾 けさせ、レティシャは短 剣 を振 り上げた。そして──
殺 気 を感じて、彼女は横に跳 んだ。急 制 動 のかかった身体がよじれ、痛みを生じさせる。いや、痛みは、それだけではなかった。突 如 として真横に現 れた巨 大 な人 影 。その突き出した拳 が、身体をかすめたのだ。
触 れられたようにも感じなかった。はずなのだが、衝 撃 は並 のものではなかった。そのまま床に転 倒 し、起き上がれなくなる。まともに食らえばどうなったのだろうか。それを想像しながら、レティシャは冷たい床の感 触 に身体を震えさせた。手から離 れた短剣は、どこにも見当たらない。視 界 の外に落ちたらしい。床にうつ伏 せに倒 れ、動けずにいるうちに、黒い巨体はゆっくりと彼女の前に回ってきた。
「なるほど......あのユイスとかいう魔 術 士 と同 輩 だけある。実に凶暴だ」
その男の声に、レティシャは反 論 した。
「いきなり人を洗 脳 しようとしておいて、よく言う!」
激 痛 は続いていたが、内 臓 へのダメージはなかったらしい──なんとか起き上がれるほどには回 復 して、レティシャは後 退 りした。その巨体の男はなんの武 器 も持っていない。今の一撃も、彼女の見落としでなければ魔術によるものではなかった。だが、危 険 なものを感じる。気配だけで身体が麻 痺 するほどに。
男の身体を包んでいるのは、黒い聖 服 だった。今は構 えてもいない。両手をだらりと下げて、こちらを見下ろしている。長身のレティシャからしてみれば、視線の高さにそれほど差があったわけではない。それでもこの男の前に立つと、身体を丸めざるを得ないなにかを感じてしまう。
「この男はジャック・フリズビー。ドッペル・イクスよ」
背 後 から聞こえてきたのは、アザリーの囁 きだった。
「わたしが加 勢 すれば確 実 に勝てる......けれど、あなたひとりの力では確実に負けるわよ。この男を倒すのはあなたの役 割 じゃない。ここは争わないで」
(焚 き付けたのはあなたでしょうに)
喉 の奥 でうなりながら、レティシャはそれでもアザリーが正しいと感じていた。壇上を見ると、既 に天人種族の姿 はない。ここで戦って、勝てたとしてももう意味がない。
「......これをどうやって持ち込 んだのかは知らないが」
と、ジャックとやらがつぶやいてくる。彼の手には、レティシャが落とした大型ナイフがあった。
「だが、やめておいてもらいたい。へたに司祭を傷 つければ、この聖 域 がどうなるのか、誰 にも分からないのだ」
「コルゴンも、それだから従 っているというわけね?」
「奴 は少なくとも、司祭を殺す寸 前 まではいったがな。君はチャンスを失ったのだ。もう二度と試 さないことだ」
「それはこちらの台詞 よ。今のは自 衛 と警 告 。わたしに精神支配は通用しない......二度と試さないで」
レティシャは告げると、背 筋 を伸 ばした。
「わたしは交 渉 に来たのよ」
「刃 物 を携 えてか?」
「自衛と警告と言ったでしょう。いざとなれば、わたしはこの聖域を蹂 躙 するわよ!」
ナイフを弄 びながら皮肉を言う聖服の男に、レティシャは吐 き捨 てた。
男の表 情 を見れば、その脅 しが、自分でも馬 鹿 馬鹿しいと思えるその大言が通用しなかったことはすぐに知れたが。無視して、彼女は続けた。
息を吸 い、落ち着いて──今度のはったりは通じさせなければならないのだ。
「わたしは、人間種族の代表者として聖域と交渉するためにやってきたのよ」
「君が? 一 介 の教 師 でしかない君が、どういった権 限 で?」
「その権限を持つ人間をこの席に着かせるための交渉よ。貴 族 連 盟 から対聖域交渉の全権を任 せられた最 接 近 領 領主をね」
「彼は──」
否 定 しかけたジャックを制 して、レティシャは続けた。
「ええ。彼は今、戦 闘 に巻 き込まれている。でもこちらへ向かっているわ。わたしの同輩である魔術士に先 導 されてね。そうね、わたしは先 遣 隊 よ。どのみち、これはあなたたちにも必要なことでしょう。もうあなたたちを守っているディープ・ドラゴンはいないし、逆 にディープ・ドラゴンを味方につけたアルマゲストを止める力はあなたたちにはない。かといって殲 滅 戦 なんかをしている時間はわたしたちにはない。それ以前に、交渉団なしで戦争なんかできやしない。分かるわよね?」
「君は、この聖域の現 状 を──」
「ええ、知っているわ。だからもう一度、司祭を出して。ただし今みたいに精 神 支 配 なんて真 似 は許 しません」
きっぱりと告げて、相手の返事を待つ。
ここまでしゃべっただけで、全身から汗 が吹 き出すのを感じていた。先ほどとは違 う理由で、戦闘服を煩 わしく感じる。
「わたしは政 治 家 ではない」
男は、苦 笑 したようだった。
「だが、そのわたしでも、君にその権限がないことは分かる──」
「なら、別の全権大使の名前を出しましょうか」
と──
声を出したのは、レティシャではなかった。はっとして振 り向く。ジャックの表情も変化し、ふたりの視 線 が同時にひとりの人間を捉 える。
アザリーが姿 を見せていた。ジャックに対しても現 れているのだろう。彼女は威 圧 するように進み出ながら、よそを向いた。交渉すべき相手はこのジャック・フリズビーではないということなのだろう。司祭が立っていた演 壇 のあたりを見 据 えている。
「ドッペル・イクス」
「......うん?」
顔をしかめ、ジャックがうめく。アザリーは無視せずに言い直した。
「これは多くの意味がある呼 び名なのよね? 誰か覚えている人が聞いているかしら──最接近領の最初の領主も、後にドッペル・イクスと呼ばれた。彼は彼個人の名前というものを持っていなかった。対聖域外交大使というのは公式には残らないしね。彼が最後に名乗っていた名前は、チャイルドマン・パウダーフィールド。彼は死んだけれど、彼の盟約は生きているのよね? わたしたちは彼の後 継 者 として、その盟約を果たすためにここに来た。姿を見せなさい。始 祖 魔 術 士 オーリオウルの司祭たち! わたしはオーリオウルの遺 言 も持ってきた」
彼女は胸 に手を置き、虚 ろな天 井 の空気へと、その声を響 かせた──まるで肉声であるかと錯 覚 するほどに。
「わたしは天魔の魔女。結界の外で、世界が滅 びる姿を見て帰 還 した!」
◆◇◆◇◆
「どういうことなんだよ! 説明しろ!」
ふたりだけ残された部屋で、ハーティアはコルゴンに詰 め寄 った──とはいえ、触 れはしなかった。相手の目を見れば、その危 険 距 離 は想像がつく。自分が設定したそれよりも、コルゴンの気配から感じる距離は遥 かに遠いのかもしれない。そう感じながらも。
「ティッシはどこに消えたんだ? なんでぼくらだけ残された──」
「それは司祭の判 断 することだ。さっきも言ったが、この聖 域 内を移 動 するには、彼女らの協力がいる。いや、協力ではないな。支配されることを協力と呼ぶべきか......」
「その司祭っていうのが、ここの支配者か」
動じないコルゴンを見据えて、ハーティアはつぶやいた。どこからかのぞかれている気がして、あたりを見回す。
だが、コルゴンは即 座 に否定してきた。
「違う。司祭と呼ばれる彼女らにも支配できないものがこの聖域にはある。それがアイルマンカー、始祖魔術士たちだ」
「始祖魔術士?」
ハーティアが聞き返すと、コルゴンはふと困 ったように眉 間 にしわを寄せた。それほど大げさにではないが、確 かに困 惑 したようではある。
「説明......お前に理 解 させるには、どこから説明すればいいんだ?」
「最初から!」
「............」
この男にとっては、それは予想外の要求だったのだろう。ようやくマントから腕 を出して、額 に手を当てた。風 邪 をひいていることをわざわざ確 認 するような仕草ではあった。
それこそ熱病に浮 かされたように、つぶやくのが聞こえてくる。
「お前にとっての最初というのは、どの程 度 最初からなんだ。とにかく想 像 もつかないが......」
「いやもう、本当に想像を絶 するくらいの最初からでいいや。本気で分からないし。半 端 な話じゃなく分からないよ?」
なんとはなしに誇 るようにハーティアは告げた。コルゴンの渋 面 は崩 れない。
「そ、そぉか......」
ぐったりとした声 音 で切り出してくる。
「つまりアザリーの失 踪 はだ」
「あ、それは知ってる」
「......お前はかなりムカつく奴 だな」
「あんたに言われると思わなかったなぁ」
そんなことを無 表 情 に言い合って、ハーティアはいったん間を取るために咳 払 いした。
「ぼくが聞かされたのは、この大陸が全 滅 するかもしれないとかなんとか、そんな話だよ。キリランシェロがそれを防 ごうとなにかしてるから、それを助けて、それであいつとあんたが──」
と、アザリーの持ち出してきた要求まで口走りそうになり、慌 てて言葉を切る。
幸いにして、コルゴンは聞き咎 めなかったようだった。うなずいて、多少表情を柔 らかくする。
「それだけ分かっているのなら問題ない」
「問題ないわきゃないだろ。詳 しいことはなにも知らないんだ。そもそもなんで、聖域?──こんなところに連れてこられたのか分からないし」
「お前は直接ここに転移したのか? なら見なかったのだろうな。運命の女 神 として知られる最悪の魔 獣 が、この聖域の真上から出 現 する。十日以内にだ。それが現 れれば、大陸すべてが滅 亡 する」
「馬 鹿 げてる」
ハーティアは言い切ったが、コルゴンはそれを無 視 してあとを続けた。
「女神を止める力は聖域にはない。アイルマンカー結界を知っているか?」
問われて、首を左右に振 る。と、説明を煩 わしがるようにコルゴンは嘆 息 した。だがそれでも、話は止めなかった。
「かつて神々から魔 術 を盗 み出したドラゴン種族。それらは神々の手から逃 れるためにここキエサルヒマ大陸に逃げ込 んだ。これは神話だな。だがそれと大差ない成り行きがあって、ドラゴン種族はさらにこの大陸を結界で包み込んだ。神々が通ることのできないよう論 理 の限 界 を設 定 ......まあそれはいいが、とにかくその結界で一時は安 泰 だったものの、その大魔術には欠 陥 があったというわけだ」
「欠陥?」
「結界は、始祖魔術士 と呼 ばれる不死の術者たちによって造 られた。彼らはひらたく言えば魔術を魔術として完成させた当事者たち、各ドラゴン種族から一名ずつ存 在 する者だ。人間種族にも始祖魔術士がいるが、それはこの結界には参加していないし、そのことも期待できない」
すらすらと早口で述 べる相手の話をなんとか追いかけながら、ハーティアは相づちを打った。
「それで?」
「魔術がドラゴン種族によって生み出されたなら、かつて魔術が存在しない世界というものがあったわけだ。魔術を世界に現出させる楔 となっているのが、アイルマンカー。彼らは永 遠 に死ぬこともなく、老いることすらない。魔術の根 幹 に位置しているためか、最も強力な魔術を使う。そこに驕 りがあったのだろうな。彼らは自分たちの力が有限だと理 解 していなかった」
「ふん?」
「大陸の広さに対して、彼らの力は足りなかったのだ。結界は万 全 のものとならなかった。神々が通れるだけの隙 間 がある。そして今、その隙間から女神が侵 入 しようとしている」
「へえ?」
「......お前の合いの手はどうも馬鹿にされているようにしか聞こえないのだが」
「そうかな。そんなこと初めて言われた」
今度はこちらが困 ってしまってハーティアがつぶやく。
コルゴンは、とりあえず息をついてから、多少は自覚があるのか気 鬱 な面 持 ちで聞いてきた。
「やはり、とてつもなく馬鹿馬鹿しい話に聞こえるか?」
「うん。だいたい十日後に世界が滅 びるとか言われても......ぼくは再 来週までディナーの予約が入ってるんだよ?」
「そうか。それならその予定を楽しみにしていればいい。俺 はそういった大 破 局 を食い止めるためのエージェントで、今も働いている。よって世界は滅びない。絶 対 にだ。だからお前は帰れ」
自信たっぷりにというわけでもなく、ただ淡 泊 にそう言ってくるコルゴンに、ハーティアは首を傾 げた。うめいてから、告げる。
「それは、うちの部下が下で脚 立 を押 さえてる時、言ってることによく似 てるなぁ......でも安心できたためしがないんだ。不思議と」
コルゴンが言い返してこなかったため、相手を見つめて言葉を続ける。
「だいたい、キリランシェロはどこなんだよ。いっしょじゃないのか?」
「いない。言っておくが、俺はあいつと共 闘 できていない。俺は自分の雇 い主に、俺の身代わりとしてあいつを差し出してきた。敵 味方双 方 の注意を逸 らすために......いや、もっと違 った理由か? なんにしろ俺のやり方は、あいつには気に入らないだろうからな。昔からそうだ」
(......なるほど)
胸 中 で、ハーティアは納 得 の声をあげた。アザリーの頼 みというのも、出 任 せではなかったらしい。
心 臓 の上に手を当てて自身を示 し、ハーティアはつぶやいた。
「ならぼくも言っておくけれどね、ぼくはキリランシェロにもアザリーにも協調したくはない」
「それは感 情 的な意見か?」
「ああそうだ。つまるところ、コミクロンを死なせたのは誰 だ?」
「俺かもしれんな。五年前、第一期のアザリー討 伐 隊 に俺も参加していれば、馬鹿な小細工を許 す前にあの魔女を始末できた。そうすれば先生もコミクロンも死ぬことはなく、キリランシェロもすぐにもどってきただろう。《塔 》の変化を最小限に抑 えるのなら、それが最良の選 択 だったはずだ」
当たり前のような口調で言い放つコルゴンに、ハーティアは目をむいた。
と──一本取ったつもりか、微 苦 笑 を漏 らして彼はあとを続けてきた。
「その場合には、今度はお前の敵意は俺に向いていたわけだ。お前の感情などその程 度 の意味しかない。蠍 は常 にどちらかへ棘 を向けているのだから、どこへ向いているかを気にするのは蠍自身だけだ」
「......それは先生にも言われたよ」
「俺も言われた。どうも、先生の友人のなんとかいう富 豪 が、そんな格 言 好きで先生にもいろいろ吹 き込 んだらしいな。なんにしろ俺は五年前、彼女の追 撃 に加わらなかった。先生は俺がアザリーを殺すことを恐 れた。俺はあの女に負ける可 能 性 があることを恐れた。彼女は良かれ悪 しかれ、脅 威 にしかならない......」
そんなことをぼやくとコルゴンは、なにかを探 してあたりを見回した──どうやら椅 子 でも求めていたようだが。部屋の中には、代用になる家具すらない。仕方なく、なのだろう。壁 に背 中 を当てて、空気の椅子に腰 掛 けるような姿 勢 を取ってみせた。
「............」
しばしそれを見つめて、ハーティアは訊 ねた。
「......それ、楽か?」
「俺は楽だ」
冗 談 を言っているふうでもなく、コルゴン。もちろん冗談を言ってくるような相手でもないのだが。ハーティアは迷 ってから、向かいの壁で自分も同じ姿勢を取ってみた。
が、すぐにやめる。
「いや、疲 れるだろ絶対」
「俺は楽だ」
頑 固 に繰 り返してから、コルゴンはふと思いついたようにつぶやいた。
「......お前は俺を怖 がらないな、昔から」
「コミクロンだって、キリランシェロだってそうだったろ」
告げる。と、彼は無表情にうなずいてみせると、それでも理 解 しがたいように目を細め、
「そうだな。だが別に、俺がお前たちに気を遣 ったわけじゃない」
「まあ、あれで気を遣ってたとか言われてもなぁ」
「お前がまだアザリーを許 せないというのなら、とりあえずこの機会を自分の思うままに使ってみればいい。お前はお前で自分の役 割 を決めるべきだ」
「......え?」
唐 突 に話をもどされ、把 握 できずにいるうちにコルゴンは先を進める。壁を軽く叩 く。白い、なにもない壁を。それを示すように。
「ここは聖 域 。危 険 な場所だ。この壁の清 潔 さは、なにを排 除 して得られたものなのか?そういったことを思い知らされる場所だ」
「どういう意味だ?」
得 体 の知れない悪い予感に体内からなにかを突 き押 されながら、聞く。
コルゴンは、なにかを確 かめるように時間を置いた──その間になにをするわけでもなかったが、気配のようなものを探 っているのだと見当はつく。だが部屋は変わらず無人のままで、変化があったわけではない。
それでも、なにか満足のいく結果が得られたのだろう。コルゴンはうなずいてみせた。
「司祭たちは、俺たちの監 視 を......忘 れてるようだな。レティシャになにか、よほど致 命 的なものでも突きつけられたか。それは好都合だ。今のうちにお前に情 報 を渡 しておく。だが、その前に」
と、立ち上がる。空気椅子の体勢から。そして、つらそうにつぶやいた。
「......疲れた」
「わけ分かんないよ」
逆 に自分こそ徒 労 感を覚えて、ハーティアは、ぐったりと告げた。
「明朝、夜明け前──四時から行動を開始する。あとちょうど一時間だな」
懐 中 時計をのぞき込んで、魔 人 の声は闇 に沈 んだ。底に積もる感情の色は、暗闇の濁 りを見通さなければ知ることはできない。
プルートーの懐中時計は、そのほうが使いやすいということか、あるいは古いものを愛用しているだけか、蓋 をねじ切ったような跡 がある。
「夜 目 の利 くドラゴン種族を相手に夜間移 動 は危険だが。それは待っていても危険は変わらない。以上、各人員に通達して欲 しい。我 々 の目標は、ドラゴン種族の聖 域 である」
ナンバーズが一様に──いや、躊 躇 からか各人のずれはあったものの、うなずいて立ち上がる。
プルートーが魔 術 の灯 明 を握 りつぶすと、闇はいっそう深くなった。あたりを見回しても、もう《十三使 徒 》は必要最 小 限 の灯 りしか残していない。空の星、夜の月のほうがよほどまぶしい。開けた荒 野 がそれを反 射 して、月明かりは斜 めに降 り注いだ光線と逆方向に反射した線とで、幾 何 学 の模 様 のようにも見えた。
居 並 ぶナンバーズを前に、プルートーも胸 を張 り、締 めくくる。
「我々の力が偶 然 、幸運にも与 えられたものだとすれば、それは危急の際 に、力無き人々の盾 となって立ち向かう義 務 をも与えられたということであるとわたしは解 釈 する。我々が立ち向かうのは大陸そのものの存 亡 の危機である。心せよ」
「はい」
その返事をしたのがマリア・フウォンであったことが、ナンバーズらを驚 かせたらしい。プルートーも、わずかながら眉 を上げ動 揺 を見せていた。が、すぐに消えた。静かに号令し、解散する。
それらを数メートルほど離 れた場所からオーフェンは眺 めていた。無言のまま彼も、きびすを返した。
仲間のいる場所にもどると、聞こえてきたのは寝 息 だった。足りない灯りで見回すと、毛 布 にくるまってマジクが、適 当 に地面に大の字になって地 人 の兄弟が、レキにもたれかかってクリーオウがそれぞれ眠 りについている。彼らを起こさないように足音を忍 ばせて、オーフェンはさらにあたりを見回した。レキは眠らず、頭を上げて真 っ直 ぐに森のほうを見つめている。距 離 を開けて、杖 にすがって同じ方向をじっと見ている領 主 の姿 も見つけることができた。
と、膝 を抱 えて座 っていたイザベラが顔を上げる。
「......話は終わったの?」
彼女はずっと起きていたのだろう。どこか疲 れた表情を見せていた。いや、眠ったのかもしれない──ただまともな夢 見 で起きることができたとも思えない。荒野に散らばっていた死体を思い出し、オーフェンはうめいた。マジクにしろクリーオウにしろ、どんな夢を見ていることか。
その想 像 を振 り払 うために軽く頭を振り、オーフェンはつぶやいた。
「ああ。もう出発になる......もう一時間足らずだな」
「みんなを起こす?」
「いや、もう少し寝かしておいたほうがいいだろう。準 備 は俺がやるよ」
と、荷物のほうを見やるが、既 にイザベラがまとめておいてくれたようだった。地面に穴 を掘 ってゴミも捨 ててある。手 際 の良さは、いかにも彼女らしかった。
まだ明けない夜空を、オーフェンは見上げた。
「俺たちはそんなに超 人 かな」
「え?」
聞き返してくる彼女に、微 苦 笑 を返す──彼女に対してなにかを思ったわけではない。ただ、どういった顔をすれば良いのか分からなかった。
「プルートーは、全世界の重みを自分だけで支 えられると信じてる」
「そうね。あなたは?」
イザベラの顔にも困 ったような笑 みが浮 かぶのを見て、なんとはなしにオーフェンは安 堵 しながら肩 をすくめた。
「俺は......無理だな。そんなふうには考えられない。今までだって、ずっと自分のことすらきちんと支えられなかった」
「あなたが言いたいことは分かるわ。わたしたちが尊 大 になりすぎていないかってことでしょう?」
彼女の言っていることは多少違 っていたが遮 らず、オーフェンは続きを待った。イザベラは丸めていた背 を伸 ばし、座ったまま手足を広げて伸びをしながら、
「マジク君と話をしたわ。あの子、あなたに苛 立 ってる。世界最高の魔 術 士 なのに、どうして自信を持たないのかって」
「世界を救おうとした人間をキムラックで何人か見たよ。皮肉なもんで、そういう奴 はみんな死んじまった。アザリーもそのひとりだ。今、死ぬ気でいるプルートーやマリア先生を見ても、俺はそれを後 押 しする気にはならないな」
「でも、事 情 を知ってしまったから止める気にもなれなくなっちゃったんでしょう」
イザベラの声がわずかにかすれた。
「わたしも同じ。マリア先生を止めようとしたのよ。イールギットのことも、どうしてそんな決定をしたのかって。でも、説明を聞いたら......」
「あんたやマリア先生を死なせたりしたら、今度こそイールギットは俺を許 しちゃくれないだろう......誰も犠 牲 にならない方法を考えるべきなんだ」
「それは理想よ。でも現 実 は差し迫 ってるし──」
言いかけて、彼女は言葉を切った。その隙 間 に、オーフェンはそっとつぶやいた。クリーオウやマジクやレキ──いびきをかいている地人たちへと視 線 を移 しながら。
「俺にとっては、誰かが死ぬってことより差し迫った現実なんてものはないよ」
それは、つい半日前に五十人以上の死者を出した《十三使 徒 》に語るには、今さらのことだったのだろうが。
気まずさに堪 えきれず、オーフェンはその場を離れた。イザベラも止めてはこない。歩く足は自然と、立ち尽 くす領主へと向かっていた。
何歩目かで、アルマゲストがこちらの接 近 に気がついたのか。こちらを向いた。星空の下で杖を持つ男。顔に落ちた影 のせいでひどく年老いたようにも見える。予言者か、死神にも似 ていた。
「これは本当に戦争と言えるのか?」
予言者に似た男──あるいは、予言者そのものである男は、開口一番そんな言葉を浴びせてきた。不 吉 な未来を告げる声で、続ける。
「勝ち目はない。勝ったとしても得るものはない。絶 望 しか見えない」
「それだとまるで、これが戦争であるっていうなにかの条 件 さえ満たせば得るものがあるって聞こえるな」
すげなくオーフェンも言い放った。
「俺たちは既に人命を失ってるんだ。なにかをもらったところで埋 め合わせはきかねぇんだよ」
責 められていることを感じたのだろう。領 主 は鷹 揚 に──それを許 すとでも言いたげな笑みを浮かべてみせると、静かにあとを続けた。
「聖 域 との対立は避 けられないのだよ。わたしとプルートーですら、共 闘 はできなかったのだ。目的を同じにしたからといって相手を認 められるわけではない。ましてや聖域は、我 々 すべてを捨 てるつもりだ」
「アイルマンカー結界の縮 小 ......というのは本当なのか?」
吐 く息が白くなっていた。
荒 野 の夜が冷え込 むせいか。それとも体温が上がったのか。オーフェンには、後者に感じられた。
領主がうなずく。誰 も見ていないと踏 んだのだろう──杖 を捨て両手で、なにか丸いものを抱 えるような仕草を見せる。それを、大きなものから小さなものへと縮 めながら、彼はつぶやいた。
「結界が広すぎて隙 間 ができてしまうのなら、縮めてしまえばいい。当然の発想だな。問題は、縮小の範 囲 だ」
抱える手を、本当に両手が合わさるまで縮めてから、あとを続ける。
「聖域は十年前からこれを計画していた。いや......二百年前からかもしれんな。どちらでもいい。だがついに天人種族の始祖魔術士 オーリオウルを欠く事 態 となって、彼らは本 格 的に追いつめられ大陸を裏 切 る決心をした。それよりわたしが驚 くのは、ドッペル・イクスの存 在 だよ」
「つまり?」
「当初、わたしはドッペル・イクスは単に示 威 目的で聖域外に現 れているものと考えていた。だが、そこに違 和 感 があることも承 知 していた。聖域はディープ・ドラゴン種族によって完全に守られているのだ。威 嚇 の必要などあるはずもない。そして真実が分かったのはつい最近のことだ」
領主は力むこともなく、顔をこわばらせることもない。ゆっくりと、その分はっきりと言ってくる。
「縮小の範囲が問題だったのだ。アイルマンカーは、二度と賭 をしないつもりなのだろう。つまり結界の範囲を最 小 限 にして確 実 に隙間をなくす。アイルマンカーらの集 う玄 室 ──そのたった一室を除 いて、彼らは大陸のすべてを切り捨てる」
「............」
一度マリアに聞かされた話とはいえ、領主の摑 んでいる情 報 はもう一歩踏み込んでいる。プルートーが得た情報は《霧 の滝 》の白魔 術 士 らがネットワークから見いだしたもの、領主が摑んでいるものはダミアンが嗅 ぎ出したものだろう。
アルマゲストはそれを語っている。
「ドッペル・イクスもまた、聖域に見捨てられた者たちなのだ。〝司祭〟と呼 ばれる連中がドッペル・イクスを率 いている。彼らは少しでも力にできそうなものをかき集めて、始祖魔術士らに詰 め寄 ろうとしている。それもまた無 駄 な抵 抗 だと知りつつ」
「なら、ドッペル・イクスと俺 たちは協調──」
オーフェンが挟 んだ反 論 を、領主はすぐに否 定 した。
「無理だな。勘 違 いをするな。結界の縮小は必要なのだ 。ドッペル・イクスはその縮小の範囲を聖域全域に広げて欲 しいだけだ。それ以外はすべて見捨てられる」
彼が手を下ろす。かがみ込み、領主は杖を拾い上げた。
「わたしは第二世界図塔 を使って魔王を召 喚 し、既 に現 出 しつつある女 神 を押 しもどす。その上で、結界を補 強 する方 策 を考えなければならない。言うまでもなく、これは聖域の考えよりも、ドッペル・イクスの考えよりも明らかにリスクの高い計画だ。急場をしのぐだけの無策と言っても良い。その上で──君も言っていたが、魔王の召喚に成功するかどうかは未知数だ。天人種族でさえ、たかだか本一 冊 を召喚するのに長い時間を要した。そして成功した場合ですら、現出する破 局 を二神に増 やす結果に終わるかもしれない」
その杖を地面に突 き刺 すように持ち直し、続ける。
「さらには、その後の政 治 を考えなければならない。二度と聖域の裏 切 りを許 さないために、彼らを服 従 させる必要がある......力によってでも、なんでもだ」
と──彼が手を止めた。
さらにいっそう声を低くする。
「貴 族 連 盟 の権 限 で《十三使 徒 》を使うことはできた。昼間、ああは言ったが、わたしが彼らを矢 面 に立たせたくなかったのは聖 域 との全面抗争になれば彼らが全 滅 してしまうのが分かり切っていたからで、そうなれば人間種族の力の衰 退 を招 いてしまう。事態が収 拾 した後、聖域を支 配 下 に置くためには、できれば《十三使徒》にこれ以上の損 耗 があって欲しくはない。とりあえず《十三使徒》を止めたいという点では、我々の利害は一 致 しているわけだな?」
「ああ」
領 主 がなにを言おうとしているのか。
それこそ領主の予言を盗 むように、オーフェンも見当がついていた。
相手が顔を近づけてきた時、下がらなかったのはその心 構 えもあったからだった。
「ならば、わたしなりの助言をしよう。といって、君にも既 に分かっていることなのだろうが。つまり、なにをおいてもプルートーだ」
最小限に声を絞 り──アルマゲストが囁 いてくる。この言葉にだけ力を込めて、軋 るように。
「プルートーが死ねば《十三使徒》は終わる」
「......そうだな」
オーフェンは、それだけを返事した。あたりを見回すと、出発時 刻 を告げられて《十三使徒》たちがもぞもぞと動き出す気配が夜気を通して伝わってくる。だが彼らが本 格 的に起き出すまでは、十数分の余 裕 があるだろう。
(プルートーは、全体から離 れる方向に去っていった。奴 の気 性 なら、身近に護 衛 や味方を置かないだろう。ただでさえ今の《十三使徒》は人数不足だ)
ぼんやりと闇 を見つめ、推 測 を重ねていく。
(短い時間でプルートーを狙 うことは......可 能 か?)
領主に別れも告げず、オーフェンは駆け出した。
(祈 ったところで、救ってくれる神はいない──この世界は、そんな世界だ。人は、実 在 しない神にしか希望を持てないからだ)
足を忍 ばせたつもりもなかったが、闇夜の荒 野 に彼の足音は響 かなかった。闇の中、実体など失ったかのように滑 り込 んでいく。前に。また前に。夜気をかき分け進む。空気を肺 に入れ、吐 くが、その音も自分には聞こえない。
できれば思 索 の雑 音 も消したかった──聞き咎 められることはないにしろ、思考になにも溜 めずに走りたかった。
(目に見え、手で触 れられるものに人は失望する。それは絶 対 に期待を上回ることはない。誰だってそうだ。五年間探し回ってようやく追いついたアザリーの言葉を聞いて、俺が感じたものだって間違いなく失望だった)
見えれば見えるほど。触れれば触れるほど。より失望していく。
そしてついには──
オーフェンは顔をしかめた。望んでいたように、胸 中 のノイズが遠ざかっていく。
プルートーのいる位置を、分かっていて走っていたわけではない。だいたいの見当をつけて探 しているだけだった。それほどの時間的な余 裕 はない。焦 りが生まれるのも自覚していた。へたをすれば、また永 遠 に取り返しのつかないものを犠 牲 として失いかねない。自分は超 人 ではなくとも、できることはすべてやらなければ。
先ほど、会議のために集まっていた地点に到 達 する。プルートーの去っていった方向を勘 に頼 って思い出し、さらに駆け出す。
(だが、それでも......失望しても、絶 望 しても、人間は生きていくじゃないか!)
立ち止まった瞬 間 に再 び生まれた思考のノイズに、オーフェンは速度を上げた。
あとは、走る。
意 識 が消え、闇に溶 けていく。人とすれ違 ってもそれに気づかせないほどに。夜の風に、闇の影 になることを夢 想 する。
やがて、暗闇に立ちはだかる巨 大 な人影を目 の当たりにした。
足を止めず、瞬間だけ身を沈 め、そのまま右足を振 り上げる。
槍 のように突 き出した爪 先 が、その人影を貫 くかに見えた。少なくとも、そのつもりで放った──身体 の中心、背 骨 を狙 って。当たれば数秒は動きを封 じることができる。悲鳴をあげる隙 も与 えず、相手を無力化させられる。
だが人影は俊 敏 に横に回って一 撃 をかわした。さらには体 勢 の偏 ったこちらに対して、横 殴 りの一撃を打ち込んでくる。歯を食いしばり、オーフェンは身体を仰 け反 らせた──尻 餅 を突 くほどに身を低くし、打撃を回 避 する。一時的であれ転 倒 して逃 げることが許 されない敵 だということは分かっていた。そのままバランスを保 ち、素 早 く起き上がる。
相手も止まってはいなかった。振り向いた時には既に、拳 を突き込んできている。
避 けるか、止めるか。
一瞬にも満たない時間で、選 択 を迫 られる。敵の拳の威 力 は分かっている。受け止めることはできない。
だがオーフェンは避けることもせず、その場で再 び右足を振り上げた。内側に円を描 くように、極度に絞 り込んだ動作で蹴 り出す。ブーツのかかとに仕込まれているエッジが、敵の拳を打ち払 った。軌 道 を逸 らし、相手の攻 撃 動作を崩 したところでさらに足を上げ、かかとを打ち下ろす形で攻撃をかける。
蹴り足は人影の肩 口 を捉 えたが、感 触 の浅 薄 さにオーフェンは舌 打 ちした。敵の攻撃を逸らしたは良いものの、その威力に負けてこちらも体勢を崩されている。奇 襲 の勢 いと足を使ったことで体重差を埋 め合わせたつもりでいたが、相手の拳の威力はそれをなお凌 いでいる。
威力だけではない。身体全体を移 動 させる足の運び、攻撃角度、すべてが的 確 で最短しか要しない。
(凶 悪 だ、こいつは......)
つぶやきながら、オーフェンは難 解 な構 成 を一瞬で編 み上げた。叫 ぶ。
「我 は踊 る天の楼 閣 !」
擬 似 的な空間転移。数メートルを後 退 し、オーフェンは実体化した。
距 離 を隔 て、闇の奥 に遠のいたはずの敵の姿 が、むしろはっきりと目に映 る。
それは悠 然 とこちらを見 据 えていた。巨大な圧 迫 感に、初めて呼 吸 が乱 れる。オーフェンは改めて戦 闘 態 勢 を整えた──ディープ・ドラゴンとの対 峙 を思い出す。最 善 の力を引き出し対 抗 しても、なお足りない敵。
「キリランシェロ......か!」
その声は、正面の敵から発されたものではなかった。斜 め後ろ、恐 らくは地面に倒 されている。王都の魔 人 プルートーが、驚 愕 のうめき声で呼 びかけてくる。
「わたしを守りに来た、というのか?」
「俺に守れるものならな」
ぎりぎりの緊 張 の中で、つぶやく。プルートーが起き上がろうとしているが、その動作からは既 に魔人が傷 を負っていることを感じさせる。
(プルートーが既に負 傷 しているのなら......この場では頼 れないってことか)
オーフェンは、正面の相手に注意をもどした。全神 経 でその敵ひとりだけを探 る。
そして、告げた。
「プルートーが死ねば《十三使 徒 》は終わる。誰でも考えることだな。お前が来ると思っていたよ」
「レッド・ドラゴン種族では心 許 ない......という信じがたい話を聞いてな」
その聖 服 の男、ジャック・フリズビーに、答えてくる義 理 はなかったはずだ──
無言で攻撃を再 開 すると予想していたため、オーフェンは虚 を衝 かれた。そのドッペル・イクスは友好的にすら聞こえる温 和 な声 音 であとを続ける。
「お前を覚えている。戦った相手はすべて覚えている。だが、生きて再 会 できる者は極 めて少ない。お前は何者だ?」
「俺は俺だ」
短く吐 き捨 てて、拳を向ける。
と同時に、オーフェンは感づいて鋭 く囁 いた。正面のジャックにではなく、背後のプルートーに。
「駄 目 だ。誰も呼 ぶな! こいつはシーク・マリスクを無 傷 で殺したような奴 だ。部下を死なせたくなければ誰も呼ぶな」
「............⁉ 」
指 示 の内 容 よりも、こちらが後ろを見もせずに、魔人が声をあげようとする呼吸を察したことに絶 句 したのかもしれない。プルートーが喘 ぐような声を上げるのが聞こえた。
だが、ともかくも従 ってくれたようだった。ふらふらと立ち上がりながら、プルートーが聞いてくる
「こいつは......ドラゴン種族ではない。ただの人間だろう」
「だからなんだってんだ。そんなことになんか意味でもあるってのか」
苛 々 と毒づいて、オーフェンはわずかに身体 を前 傾 させた。自然体ではない危 険 な構 えになるが、正攻法で勝てる見込みはないと直感していた。
「いや、意味はあるな......」
と、言ってきたのはジャックだった。右 腕 は下げたまま、左手だけをこちらを向けて、
「魔 術 士 という超 人 に対して、最後に立ちふさがるのはわたしのような人間なのだ。そうだろう? 王都の魔人よ......わたしは悪 霊 だ」
そしてこちらを真 似 るように、上体をかがめて見せる。ほんのわずか、正面からでは気づかないほどに。だがわずか数センチの差でも、この敵 の一撃が深くかすめればそれだけで身体を引きちぎられかねない。
「悪霊、だと?」
プルートーが聞き返す。
悪霊を名乗る男ジャック・フリズビーは、やはり余 裕 を持って声をあげた。
「わたしの身体には悪霊が憑 いている。それがわたしの力だ。人体の不 可 思 議 に巣くう悪魔だよ」
「どけ! キリランシェロ。さもなくばもろともに消し飛ばす」
オーフェンは背後の声に戦 慄 を覚えた。負傷し逆 上 したプルートーは冷静な判 断 力 を失っている。本当にやりかねない。だが......
帽 子 の縁 からのぞくジャックの眼 差 しを見て取って、オーフェンはつぶやいた。聖服の男には動 揺 がない。
(こいつは、俺たちが魔術にすがろうとする一 瞬 を待っている)
動揺があったのは、こちらだった。
まばたきした瞬間に、敵の身体が視 界 から消える。
ほんの一瞬で最速にまで達する瞬発力と、無音の動作。そして身体を覆 う黒い聖服。すべてが闇 を味方とし、探 索 の隙 間 に潜 り込むことを容 易 にしている。ジャックがどの方向に動いたのか、オーフェンは考えるより先に構 成 を解 き放っていた。相手には絶対に追って来ることが不可能な領 域 ──つまり空 へ。
「我 は駆 ける天の──」
遅 かった。いや、重力中和の構成は既 に彼の身体を空中に跳 ね上げていた──が、その時には既にジャックの姿 も見えていた。
二メートルほどは飛び上がっていただろう。その同じ高度にジャックもまた跳 んでいた。身体を丸め、弓のように引き絞 られた状 態 から左 拳 を突 き出してくるのが見える。
(構成を──絞る!)
「銀 嶺 !」
最後の一息で、さらに構成を変化させる。
空中での激 しい方向転 換 に内 臓 を握 りつぶされるような圧 迫 がかかり、オーフェンは苦 痛 の息を漏 らした。それでも構成は働いた。上 昇 から急速下 降 に転じた彼の身体は、敵の攻 撃 をかいくぐるように旋 回 して着地した。いや、地面に激 突 したといったほうが近いかもしれない。なんとか受け身は取ったものの、打ち身は避 けられそうになかった。起き上がると空中ですれ違 ったジャックは、そのまま真 っ直 ぐにプルートーへと突進を続けている。速い。
(追いつけない......)
それでもジャックの背 中 を追い、オーフェンは飛び出した。プルートーは待ちかまえる格 好 で、両腕を突き出し叫 んでいる。
「惨 劇 を見た!」
それが呪 文 なのだろう。プルートーの構成を見ながら、オーフェンは悔 やんだ。魔人が放とうとしている魔術は文句なく強大なもので、精 度 も速度も申し分ない。だが、ジャックの攻撃に対しては間に合うまい。
このままではプルートーは殺される。だが、オーフェンは咄 嗟 に閃 いて構成を編 んだ。速度を最 優 先 し、プルートーと向き合う形で足を止め、右腕を振り上げる。
「我は放つ光の白 刃 !」
魔人の魔術が発動するタイミングに合わせた。ほぼ同時に、彼とプルートーの掲 げる手の先に白い輝 きが膨 れ上がる。
その直前に、ジャックがこちらを一 瞥 するのが見えていた。
プルートーの魔術の威 力 と拮 抗 する形で、オーフェンの放った熱 衝 撃 波 が炸 裂 した。爆 音 と熱とが地面を震 わせる。爆発は一瞬で終わり、その余波に顔を叩 かれるのを感じながらオーフェンは片 膝 をついた。見ると、プルートーも同じ体 勢 でこちらを見ている。
顔を見合わせていられる時間はそれほどない。オーフェンはすぐさま、横に──信じられないほど間近にジャックが立っているのを発見した。
(挟 み撃 ちになる寸 前 に気づいて、すぐにここまで移 動 できるってのか......)
ジャックが放つ左拳を、引きつける余裕もぎりぎりでかわす見切りもできずに、大きく跳 躍 して後方に逃 げる。
もっとも、ジャックにはその程 度 のことはそれほど難 しくはなかったのだろう──もともと、ジャックは魔術の発動前までにプルートーの身体に一撃を打ち込めるだけの余裕を持っていたのだ。だがオーフェンが挟み撃ちの形にしたため、仮 にあのままプルートーを打ち殺していれば背 後 からの魔 術 を避けることができないと判 断 し、攻撃をやめざるを得なかった。攻撃のために持っていた余 裕 を、回 避 と移動に使ったに過ぎない。

プルートーが雄 叫 びをあげた。長 距 離 を突撃して、側面からジャックへと殴 りかかる。ジャックはそちらをまったく見ないまま、身体を反転させて左 腕 でプルートーの拳を受け流した。単に振 り払 っただけではない。プルートーの攻撃を受け、摑 んでもいないというのに敵 の身体を引きずり倒 して地面に這 いつくばらせる。四つん這いになった王都の魔人に対して、ジャックが拳を腰 にためる。
彼がとどめの一撃を放つ前に、オーフェンはねじ込むように右足を突 き出した。ジャックはこれは受け止めず、後 退 した。数歩の距離が開く。
すぐに反撃してくると見せかけ、ジャックはさらにまた一歩退 いた──オーフェンはその隙 に短 剣 を抜 いた。手 加 減 をして戦える相手ではない。
静かだった荒 野 は、爆発の余 震 で震 えていた。ざわめきはそれだけではない。異 変 に感づいた《十三使 徒 》たちが騒 ぎ始めている。大地を焼いている白い炎 が灯 火 となって、オーフェンたちの身体を照らしている。
ジャックの姿は変わっていない──焦 りも、怒 りも、なにも見いだせない。
逆 にオーフェンは、《十三使徒》が集まってくる気配を歓 迎 する気にはなれなかった。最 接 近 領 でこの聖 服 の男は数十人を虐 殺 している。五十名を越 える最強の黒魔術士たちを相手に同じことができるはずもないだろうが、それでもある程 度 似 たことは再 現 してしまうかもしれない。
「仕 留 めてくれる......」
とは、プルートーの怨 嗟 のつぶやきだった。王都の魔人は激 怒 して、地面に突いた両 掌 の砂 を落としている。
オーフェンは彼の前を遮 るように進み出た。プルートーのうなり声が首 筋 を粟 立 たせるが、構 ってはいられない。
聖服の男はじっとこちらを見 据 えている。現 れた時となにも変わらず──と見えたが、オーフェンは変化に気づいた。いつの間にかジャックが、右拳を攻撃手としていた構えからまったく逆に変化している。右 肩 を前に、左拳を引く形に。
「............?」
訝 しい心 地 で、オーフェンもまた構えた。よく見ればジャックは右腕をだらりと垂 らして、指も動かせずにいるらしい。右腕を負 傷 している。動かすことも困 難 なほどに。
(なんだ......? いつ負傷したんだ?)
もうひとつ。敵に変化があった。笑っている。無 骨 な顔面に、横に広がる奇 怪 な笑 顔 を浮 かべている。それこそ悪 霊 にでも乗っ取られたように。それは嘲 るようでもあり、祝福するようでもあった。魔術による白い炎 に浮かび上がる、黒い笑み。
「お前の名前はキリランシェロ......か」
唐 突 に、聖服の男はそんなことをつぶやいた。
「どこかで聞いたことのあるような名前だな。お前は面 白 い。お前と同じくらい強い魔術士をひとりだけ知っている。だがお前はその男とは違 うな......同 質 で、正逆の......」
「お前の右手、それは折れているな」
無 視 して、オーフェンは告げた。祈 るように敵を見据える。
「聖 域 にもどれ。昨日のような圧 勝 をしておきながら、なお《十三使徒》を潰 すためにこんな暗殺を仕 掛 けてくるってことは、お前たちの窮 状 を白状するようなものだ......」
「白状もなにも。否 定 せんさ。聖域は破 滅 している。この大陸そのものと同じように」
ドッペル・イクスは無事な左腕を挙 げると、その笑みを消した。無 表 情 となった顔も、虚 空 でものぞくようにわずかに上げる。
夜明けを前にして黒と灰 色 に渦 巻 く空──星の灯 りに白み、そして大地に燻 る炎を映 す。混 ざりゆく混 沌 に、その男の声も溶 けていく。
「大した問題ではない......わたしはただ、ライアン・スプーンの絶 望 に応 えてやりたいだけだ。同じく、絶望する者として」
「そんなものは──」
言いかけて。
オーフェンは、その言葉を呑 み込 んだ。ジャックの姿 が消えていた。また視界から逃 れたのかとぞっとして見回すも、そういった気配もない。聖域のなんらかの装 置 で回 収 されたのか。完全にいなくなっていた。
「なんなのだ、今のは......聖域は、ここまで我 らを小 馬 鹿 にするのか!」
怒りのやり場がないのだろう。歯を食いしばり、プルートーが独 りごちる。
オーフェンは、かぶりを振った。炎が消え、再 び闇 夜 が帳 を下ろす。
荒野の騒ぎは拡 大 していた。こちらに駆 け寄 ってくる足音もひとつやふたつではなく、みな慌 てている。悲鳴のようなものすら耳に入ってきた。襲 撃 を受け、ついに理 性 の尽 きた魔術士もいたのかもしれない。
プルートーが宣 言 した時 刻 まであと十数分。オーフェンは、皮肉にうめいた。
......本当に、出発するつもりなのか? 出発できるつもりなのか?
上下巻 なのにあとがき。分 かってますあり得 ないですごめんなさい。でも担 当 さんが、あとがき書かないと駄 目 って言うんだもの。
でも今回はページ数が微 妙 らしくて、あまり書けないです。一ページだけにしろと言われてしまいました。というわけで、手 短 ではありますがお詫 びなど。
シリーズの十九巻ですが、前巻から本当に時間が開 いてしまいました。別シリーズのあとがきで「その理由は十九巻が出た時にお話しします」とか書いたものの、困 ったことにお詫びしか書けません。
いや本当は上下巻同時発売とかできればと思ってたんですが......はうう。
では、また次の巻末でお会いできる日を願 って。ではではー。
二〇〇三年三月──
秋 田 禎 信

夜明けを待たずして部隊は移動を開始した。
朝日が昇 る気 配 だけを感じながら夜の荒 野 を進む。全体の足取りは遅 い。その進みの重さに引きずられるように、マジクはうなだれて自分の足元を見ていた。
行く手には、暗い夜空に溶 け込むような黒い森。漆 黒 に茂 るフェンリルの森がある。まだ遠い──絶望的なまでに遠い。幾 度 となく嘆 息 が漏 れる。
と。
「...疲 れた?」
気 遣 わしげな声を聞いて、びくりとする。そもそも、気を遣われるということに馴 染 みがなくなっていることを自 覚 してマジクはうめいた。振 り向くとイザベラがあとを続けてくる。
「キリランシェロ君とか仲間といっしょに、あのディープ・ドラゴンに乗っかれば良かったのに」
言いながら、少し離 れたところを歩いている巨 大 な狼 を指さす。音もなく進む黒い獣 は、影 が立って進んでいるようでもあった。
マジクはその獣の背に乗っているオーフェンやクリーオウ、領主、地人の兄弟といった人影は見ないようにして、小声で答えた。
「いいんです......あっちに乗ると、もっと疲れてしまう気がして」
「......そう?」
幸いにして、イザベラは追 及 してこなかった──マジクはふと気づいて、後ろ暗く思いながらつぶやいた。
「あ。すみません......ぼくが徒 歩 でなければ、イザベラさん──あ、イザベラ教師補もつき合って歩く必要はなかったんじゃないですか?」
彼女は、くすりと笑ってみせた。愛 嬌 のある笑 顔 だが、陰 がある。
「気にしないで。キリランシェロ君といっしょだと、イールギットの話になってしまうでしょうしね......わたしも、それはつらいから」
「あの、あなたは魔 術 士 なんですよね?」
唐 突 に、マジクは訊 ねた。そして馬 鹿 げた質問だと気づいて赤 面 した。鷹 に、あなたは鳥ですかと聞いたようなものだった。
案 の定 イザベラは奇 妙 な表情でうなずいてみせた。
「ええ。わたしは魔術士よ。あなたの先生であるキリランシェロ君と教室は違 うけど、同期に近いわね」
「ええと、その......ぼくが聞きたかったのは、あなたは凄い 魔術士なんでしょうねってことで。きっと、ものすごい手 腕 で、強くて......」
「そうね。あなたの先生と同じくらいにね」
言ってから、彼女は苦 笑 混じりに肩 をすくめてみせた。
「いえ、違うかもね。わたしはプルートーに立ち向かおうなんて、思いもしないもの」
「オーフェンさんは、どれくらいの魔術士なんでしょうか」
「え?」
「ぼくは魔術士っていうと、オーフェンさんしか知らないんです。あの人が凄 いのは分かります。でも考えてみたら、どれくらい凄いのかって......」
イザベラは、しばしこちらの顔をのぞき込むように目を見開いていたが──
やがて、答えてきた。少し近づき、声を低くして。
「雑 談 で聞いてるってわけでもないようね。なら真 面 目 に答えるけれど。そんなものは見る人によって違うわよ」
「違う?」
「客観的に見て、キリランシェロ君は強さを極 めた魔術士のひとりでしょうね。昨日の戦いぶりを見ていれば誰 だってそう思うでしょう。でもわたしにとって彼はかつて好 敵 手 にしていた相手の弟だし、マリア先生から見れば、いつまでも子供なんでしょうし。あなたからはどう見えるの?」
逆に問われて、マジクは慌 てた。それでもなんとか答えを返す。うつむいて、口ごもりながら、
「......どうやったって、ぼくは敵 わないですし」
「そう。本当にその通りかもしれないし、意外と彼を上回るなにかを既 に身につけているかもね?」
「え?」
顔を上げるマジクに、彼女は微笑 みかけてあとを続けてきた。
「さっきわたしも言ったわよね。あなたが魔 術 士 ならば、わたしはあなたを魔術士として扱 う。でも正直に言ってあなたはどう見ても一人前の魔術士としての働きを期待できる雰 囲 気 ではないし、実際に若 輩 だから、わたしはあなたに多くを望んでない。キリランシェロ君はどうかしら。わたしには、彼があなたのことを一人前と見ようと、苦労して見方を変えようとしていると思えるけど」
「あの人が、ぼくを?」
「わたしは生徒を持ったことがないからピンとこないけどね......生徒の自立を認めるのって、教える側にも難 しいのかもね。彼が見方を変えようとしているように、あなたも彼の見方を変えないと、あなただけがそこに取り残されてしまうのかもしれない」
「............」
しばらく彼女の言葉を反 芻 して、マジクは黙 々 と歩き続けた。気持ちは逸 るが、答えが浮 かんでこない。つまずきそうな早足を続けてから、彼はようやくつぶやいた。
「ぼくは、魔術士として一人前になりたいって思ってました」
「そう」
イザベラの声は優 しかった。その彼女に対して、自分が言おうとしていたことに躊 躇 を感じながらも、それでもマジクは気 後 れを振 り切って声をあげた。あたりを──離 れたところを同じように歩いている、怯 えて疲 れ切った無力な人の群れを、腕 を振って指し示して。同じように怯え、疲れながら。
「でも、これが大陸で最高位の黒魔術士の姿なんですか? それって、あんまりじゃないですか」
彼ら、《十三使 徒 》──すべての魔術士が頂点と見上げる宮 廷 の魔術士たち。すでに半数が聖 域 の前に屈 し、残る半数もこれから敵とする相手の意志ひとつで壊 滅 することを確信して憔 悴 している。あきらめの中、ただそうするよりほかにないというだけの理由で足を引きずり、前進するのではなく、追いやられるだけの人々。
マジクと同じように仲間を眺 めやり、イザベラも嘆 息 してみせた。
「そうね。惨 めね」
自 嘲 のこもった彼女のつぶやきは、皮肉すら含 むことはなかった。
◆◇◆◇◆
結局、《十三使徒》を止めることはできなかった。
ディープ・ドラゴンの背の上から、広がりつつある朝日の中に進軍を続ける黒 魔 術 士 たちの姿を眺 め、オーフェンは胸 中 でつぶやいた。彼らは愚 かなのではない──手も足も出ない危険性を知った上で、聖域に挑 もうと進んでいる。
(とりあえず今の俺 にできるのは......こちらと聖域、双 方 の犠 牲 を減 らすように立ち回ることくらいか。昨日のレキを見ている限り、レキの意 図 もそれに近いようだった)
と、黒い獣 の毛 並 みに手を触 れる。
レキは無論、黙 々 と──文字通り音もなく──進むだけだが、その方向ははっきりしている。今は《十三使徒》と同様、聖域へと真 っ直 ぐに向かっていた。
(十日後に大陸に侵 入 してくる女 神 に対して、聖域が聖域外をすべて犠牲にして自分たちだけ助かろうとしているのなら......確かにこの《十三使徒》の進軍も、双 方 の衝 突 も止めようがない)
聖域にその計画を遂 行 させるわけにはいかない。
だが一方で、女神によるすべての破 局 を食い止める計画は、人間種族の手にはない。ただひとつ、あまりにも不確実なたった一個の方法を除 いては......
オーフェンは横目で、同じくレキの背に同 乗 しているメンバーを見ていった。ここ数日ずっとレキの前 脚 にへばりついて待 遇 に文 句 を言っていた地人たちは、今は背中に移っている。マジクが下りて歩くことを主張したからだが、空 いたスペースはひとり分でしかないため、地人たちは折り重なって座 っていた。結果として、不平は減 っていない。その後ろには領主がいる。最 接 近 領 の領主、アルマゲスト・ベティスリーサ。足が折れているふりをしている彼は、添 え木をした右足を伸 ばしたまま地平の朝日を見つめている。
この領主が昨 晩 ようやく明かした内容を思い出しながら、オーフェンは額 を押 さえて小声でうめいた。大陸を破 局 から救うために生まれたこの人造人間であるアルマゲストだけが、女神への対 抗 手 段 を持っている。ただそれを実行するためには、聖域を支配下に置く必要がある。
(今は俺も、この流れに乗って聖域に進むしかない......)
あきらめとともに、認 める。逆に、領主を聖域にたどり着かせるためには《十三使徒》の力もまた必要になるかもしれない。レキの力は確かに強大だが、聖域すべてと渡 り合ってそれを突 破 できるものなのかどうか。それは未 知 数 だった。
と。
「オーフェーン」
呼びかけられ、オーフェンは思 索 を止めた。顔を上げるとクリーオウが、レキの頭からするすると首を滑 り降 りてくる。
彼女はオーフェンのすぐ前で器 用 に止まり、言ってきた。
「あのね。レキが、そろそろ進みにくくなるから気をつけてねって」
「......そう言ってるのか?」
「うん。みんなに伝えてって」
当たり前のようにそう言ってくる彼女に、オーフェンはしばらく考え込んでから聞き返した。
「レキが自分で全員に伝えたほうが早くないか?」
「わたしもそう思ったけど。でも、レキが自分で他人に意 思 を伝えるのは、なんだかものすっごく疲 れることみたいなの。本来は、レキにはできないことなんだって」
「できない?」
「うん......なんかレキは分かりにくいようなことをいろいろ言ってたけど、種族の呪 いがどうとか」
クリーオウが説明しながら、自分でも首を傾 げる。
そこまで聞いて理解できる部分もあったものの、確 認 のためにオーフェンは囁 いた。
「それで、お前にだけは意思を伝えられる?」
「え? うん......多分そう。よく分からないけど......」
こちらが小声になったせいだろう。彼女も口の中でつぶやくと、困 ったように腕 組 みした。クリーオウに自覚はないらしいが──オーフェンは気づいていた。
(使い魔 だ。クリーオウはレキと、意識と感覚を共 有 している)
ディープ・ドラゴン種族の精神支配は、弱い種族に対して精神の接続を有効にする。
その支配の強さによっては、使い魔自身がディープ・ドラゴンの力を借りて魔術の力を行 使 することもできた。その実例はオーフェンも数か月前に西部で目にした。クリーオウの被 支 配 深 度 は、そこまで重度のものではないようだったが。
「にしても......進みにくくなる?」
話題をもどして、オーフェンは疑問をつぶやいた。クリーオウの声で聞かされると危 機 感は薄 かったものの、状 況 を考えれば軽 視 できない警 告 ではある。
「分かった。とりあえず伝えてこよう」
オーフェンは立ち上がると、レキの背から飛び降りようと下をのぞいた。一番近くを歩いているのはマジクとイザベラで、先ほどからなにかを話しているようだった。
(イザベラか......《塔 》にいた頃 のイメージは、自他に厳 しく、速断傾向。変にマジクを追いつめてなけりゃいいけど)
昔の知り合いを見ると、感覚は否 応 なく子供時代に引きずられる。
「ねぇ、オーフェン」
と、クリーオウの声が聞こえた。
「オーフェンはさ、領主様の屋 敷 で、みんながそれぞれすることを分 担 するべきだって言ってたのに......やっぱり全部自分でやっちゃおうとしているように見えるよ」
虚 を突 かれ、オーフェンは彼女の顔を見やった──クリーオウは申 し訳 なさそうに、顔を伏 せている。
「そうだな。迷 うのにも時間がかかったが、実 践 するのはもっと難 しいな」
金 髪 の少女に笑いかけて、オーフェンはディープ・ドラゴンの背から飛び降りた。何メートルかを落 下 する後方で、地人が歓 声 をあげるのが聞こえていた。
「むむ! 場所が空 いたぞドーチン。すかさず奪 え自分の場所を!」
「......ぼくの頭の上に乗っかってる兄さんが移動すべきだと思うけど......」
まぁいいかとつぶやきながら着地する。
驚 いたような声をあげたのは、イザベラだった。マジクを残して駆 け寄ってくる。
「どうしたの? キリランシェロ君」
「レキが警 戒 しているらしい」
と、足音なく進む巨 大 な黒 狼 を示して、告げる。
困 惑 の表情を浮 かべたイザベラに、オーフェンは自分が脈 絡 のないことを言っていると気づいて言い直した。
「いや、この期 に及 んで、気をつけろもないもんだとは思うが......レキがわざわざ言うからにはなにか特別なことがあるんじゃないかな」
「そうね。気になるのなら、プルートー師かマリア先生に──」
彼女が指さしたのは《十三使徒》の行く手だった。ふたりとも指揮者であるくせに先頭に立っているのだろう。
その瞬 間 までは、そこにいたはずである。
オーフェンもそちらを向いたために、まさに一瞬の光景を目 撃 することになった。
発生した事態は非常に単 純 なものだった。
たったひとつ、大きな音。弾 かれるような気流だった。
爆 発 音 。突 風 と、悲 鳴 。
魔 術 士 たちの先頭を歩いていた、ふたつの人 影 ──ひとつは大 柄 で、もうひとつは女の──が、まるでゴム製の玩具 のように宙 を舞 った。
吹 き飛ばされ、ぐるぐると回転しながら、放 物 線 を描 いてオーフェンらの頭上を飛んでいく。
「............」
まったく分からずに、オーフェンはそれを目で追った。魔術士の進行が止まる。
宮 廷 魔術士たちが動 揺 してざわめく中、
「お、王都の二大怪 人 が飛んだ......」
イザベラのつぶやきだけは、やけにはっきりと聞こえた。
「我々は王都から、白魔術士たちの助力によって、この地まで一瞬で移動してきた」
王都の魔人プルートーは荒 野 に激 突 しても額 にこぶをひとつ作っただけで、その口調からも意志の力を失っていなかった──これは不 意 に数十メートルも吹き飛ばされた人間としては、記録的な軽傷と言えないこともない。傷口に絆 創 膏 を貼 ることも拒 絶 してみせた。沽 券 にかかわるということなのだろう。
同じ距 離 を同じように吹き飛ばされたマリア教師は、鉄 面 皮 のプルートーに比べれば不 機 嫌 さを隠 し切れていなかったものの、被 害 の程度は似たようなものだった。
どちらかといえば、この二大怪人──とやら──の表情にびくついた部下たちのほうがよほど慌 てているようではあった。見えない壁 のようなものに近づき、空間に展開されているはずの魔術構成を探 そうとしている者もいる。ここに魔術が働いているのならば構成が見えないはずはないのだが、通常慣 れ親しんだ構成とは明らかに性質が違 うらしくかなり〝視 え〟づらい。不用意に近づき過ぎて、また派 手 に吹き飛ばされる者も何人かいた。とはいえこれも怪 我 はないようである。
またひとり悲鳴をあげながら宙を飛ぶ部下を見上げ、プルートーが舌打ちした。が、迂 闊 な部下を叱 るよりも、彼はナンバーズ要員への説明を優先した。話を続ける。
「聖 域 まで直接転移できなかったのは、白 魔 術 士 がディープ・ドラゴン種族を恐 れたことに加えて、この地点に結 界 か壁のようなものがあると......」
「西部側からは、フェンリルの森までは入れるんだけどな」
腕 組 みしてオーフェンはつぶやいた。
プルートーはうなずいたが、否 定 してくる。
「いや、ここもかつて森だった。樹 海 が後退したのだ」
「しかし、結界ですと?」
魔術士のひとりが聞き返すのに、プルートーが続けて答える。額の軽 傷 を指さして、
「そうだ。結界だ。怪我がなかったのは幸 いでもないし、実は笑いごとでもない」
と、指した指先で傷口をこすり、やつあたりの口調でぶつぶつと、
「わたしの知識に間違いがなければ、これは精 霊 魔術だ。だから我々を傷つけることはない──が、決して通れない。精霊魔術を破る方法は極 めて少ないからな」
吹 き飛ばされた若い魔術士が、遥 か後方の地面でバウンドしている。仲間が急いで駆 け寄って、抵 抗 もできない力に対して一 斉 に落 胆 のため息をついている様が見えた。それを眺 めながら、オーフェンもつられて嘆 息 した。
プルートーに訊 ねる。
「フェンリルの森はディープ・ドラゴン種族に守 護 されている。聖域は防 御 を二重にしているってことか?」
「そうしていけない理由もなかろう?」
呆 れたのはオーフェンに対してか、それともドラゴン種族に対してか。曖 昧 に、プルートーが言ってくる。
ついでに彼は、地面にお座 りをしているレキを示 した。
「あのディープ・ドラゴンはここを突 破 できるのではないか?」
「......レキは『進みにくくなる』と言ったらしい。通れないわけではないんだろう......と思う」
レキは背中から領主ら重 荷 を下ろしていたが、頭上のクリーオウはそのままだった。巨 大 なディープ・ドラゴンはじっと聖域の方角を見 据 えている。その鼻先数メートルの場所に、精霊魔 術 の壁 があるはずだった。
「百メートル後退したところで対 策 を練 ろう」
プルートーが全員に声をあげた。
そして振 り返って、今度は数名のメンバーズだけに、
「逆に言えばここを突破できれば、白魔術士が我々を聖域まで転移してくれる。貴様の言う通り、ディープ・ドラゴン種族が聖域の守護から離 れたというのならば、これが最後の障 害 となる」
王都の魔人の声には、落 胆 よりも緊 張 のほうが強いようだった──この結界はたいした問題ではない。突破した先にこそ本当の困 難 があると承 知 しているのだろう。
「我々は聖域まで、あと百メートルに迫 ったということだ......」
◆◇◆◇◆
その扉 に聞き耳を立てていたのではない。
だがそれでも内部からの話し声が聞こえてこないわけではなかった。内容については気にしても仕方のないような、他愛 のない世 間 話 と聞こえる。扉越 しの声はそれほどはっきりと聞き取れはしなかったが、想像に反して会話の雰 囲 気 が明るいことに、彼は怪 訝 な顔をした──終 いには、笑い声まで聞こえてきたことに啞 然 とする。笑い声をあげているのはもっぱらハーティアだったが、それでもその会話の相手も、小さく、本当に小さくだが、笑い声に似たような声を発したようではある。
廊 下 で待つその時間が、それほど長かったわけではない。
だが扉が開 くまでに、彼は何度か足を組み替 えた。
やがてもったいつけることすらなく、扉が開いて赤い髪 の男が外に出てくる。
「やあ、お待たせ、コルゴン」
同門の後 輩 をしばらく眺 め、彼はその場所を離れるよう仕 草 で合 図 した。その男──ハーティアは部屋の中にもう一度別れの挨 拶 をしてから扉を閉 めると、彼について廊下を歩きだした。
部屋から離れたところで、彼はつぶやいた。
「......どうしてお前、五分たらずであれと打ち解 けてるんだ」
「え? なんで。普 通 じゃない」
ハーティアの返 答 は軽かった。裏もなく、本気でそう答えているらしい。
そして顔をしかめ、腕 組 みすると......悩 むように付け足してくる。
「しいて言うならば......彼女が美人だからか。痛っ! なんで蹴 るんだよ」
「説明しただろう。あれは人間ではない。ある目的のために聖域が製造した人造人間だ。未来を予 知 し、ネットワークをも欺 瞞 して、周りにある人間や生物を支配して利用もできる。危険な──」
が、彼の説明を遮 ってハーティアが口を挟 んでくる。
「いいじゃないか支配されても。美人なんだから」
「お前は、あほだろう」
「え? 嘘 。どうして?」
これも本気でそう言っているらしく、心 底 傷ついたような顔をしている。
ハーティアを見ながら、彼は話を変えた。
「まあいい。お前がロッテーシャを世話できるのならば俺も助かる。状 況 は厳 しいが、全体的にはうまい具 合 に働いているようだ」
「どういうこと?」
「外部ではキリランシェロと《十三使徒》がドッペル・イクスの戦力を引きつけ、内部ではレティシャが司祭の注意を釘 付 けにしている。聖域は簡単に掌 握 できる状態にある」
彼はつぶやきながら、早足になった。
ふと振 り返り、遠ざかる部屋を見やる──ロッテーシャの部屋を。
「俺は武器を用意する。お前は俺の手伝いをするつもりはないのだろう?」
「うん。悪いけど、ぼくは中立でいく」
多少は魔 術 士 らしい実 務 的 な口調にもどって、ハーティアが言ってくる。と、ついでにこちらを見てなにかに気づいたように顔をしかめた。
「......武器を用意するって、既 に武装してるじゃないか、コルゴン」
指 摘 されて、コルゴンは現在マントの下に身につけている武器を思い浮 かべた。魔術武器である虫の紋 章 の剣 。ほかに大型ナイフが一振り。ワイヤーが数本。グローブの指先は鑢 になっており、接近戦で有効となる。拳 銃 はダミアンに破 壊 されてしまったため、もうない。
率 直 に告げる。
「武装というほどの武装はしていない」
「......そうかなぁ」
何 故 か腑 に落ちないらしいハーティアに、彼は付け足した。
「もっと本格的な兵器を用意する。可能性は低いが、《十三使徒》が聖域に到 達 したらそいつらとも対立することになるかもしれん。状況によってはプルートーは手 強 い相手だ。確実に勝つためには準備が必要だ」
「キリランシェロとも?」
口を挟 まれて彼は、肩 をすくめた。答える必要を感じない。
ハーティアは、その反応を自分なりに解 釈 したのだろう。また別の質問をしてきた。
「ロッテーシャは君の奥 さんなんだろう? どうして話をしないのさ」
「結 婚 は成立していない。俺の戸 籍 は虚 偽 のものだ」
「それじゃ結婚詐 欺 じゃないか」
「彼女の戸籍も、養父の仕立てた虚偽のものだった」
「......なるほど」
廊 下 を進んでいくうちに、行く手の連 結 が目まぐるしく変化していく。この聖域における通路のつながりはすべて司 祭 たちが担当していた──そのため、聖域内では司祭らの不 興 を買えば悲 惨 なことになる。
本来ならば、声をひそめてでもこのような会話ができるものではない。が、彼には確信があった。司祭らは《十三使徒》やレティシャへの対応に手 一 杯 で、この会話を盗 聴 する余 裕 はない。仮に聞いていたとしても、彼を地 下 牢 だかなんだかに放 り込むこともできまい。司祭は疲 弊 した聖域の一部だった。いや、あるいは、聖域の最 も疲労した部分かもしれない。
と。ハーティアが、思いついたように声をあげるのが耳に入った。
「でも、彼女のことが好きだったから結婚したんだろう? コルゴンは、嫌 いなことは絶対にしないじゃないか」
「............」
やはり答える必要を感じず、今度は肩をすくめることもせずに、彼は先を急いだ。
◆◇◆◇◆
議場は広かったが、人の数は少ない。
自分ひとりだけだ──と、レティシャは皮 肉 を付け足した。この場にいて、生きている人間だと断 言 できる者は自分しかいない。彼女の傍 らに立つ精神体のアザリーは論 外 。離 れた場所から睨 みをきかせている聖服の男、ジャック・フリズビーだとかいう殺し屋の死んだ眼 は、まるで幽 霊 のようにしか見えない。そして、用意されたテーブルの向かいに腰 をおろす三人の女。
まさしく亡 霊 だった。
(......わたし以上の?)
心を読んだらしいアザリーが、やはり思 念 で話しかけてくる。
レティシャは無 視 したが、半分以上同感だった。女たちは、伝説に聞く天人種族の格 好 をしている──先ほど壇 上 に出現した時と同じように。緑色の髪 。美しい女の姿。だがそれでも精神支配から脱 して落ちついて観察すれば、その髪が染 めたものに過ぎないことは一 目 瞭 然 だった。瞳 も、ドラゴン種族の特 徴 である緑色ではない 。壇上にいた時には、薄 い色つきの透 明 シートを使って誤 魔 化 そうとしていたが、今はもうそんな小 細 工 もしていない。
その女たちは人間種族だ。と、レティシャは認 めた。それが天人種族の格好をしている。大陸では滅 んだとされる古代種族の扮 装 をした亡霊。皮 肉 のひとつもつぶやかずにはいられなかった。
だが実際には、女たちが口火をきるほうが先だった。
「まずは汝 が......どうやって直接ここに空 間 転 移 してきたのか訊 ねてもよろしいか?」
口を開いたのは、左端 の女だった──一番年長で、恐 らくはリーダー格 なのだろう。もったいつけた尊 大 な口調ではあったが、表情からは陰 りが抜 けない。まだここに集まってきただけだというのに、既 に疲 労 困 憊 している様子だった。ふと、レティシャは思いついた。ひょっとしたら、老 け込んで見えるもののそれほど年 輩 ではないのかもしれない。
「チャイルドマン・パウダーフィールドの盟 約 の力によって」
アザリーの囁 きを、レティシャはそのまま口にした。精神体であることに慣 れていないアザリーは、生者に声を聞かせることすら苦 痛 であるらしい。レティシャは横目でアザリーを眺 めながら嘆 息 した──実際このアザリーの姿は、この場では自分にしか見えていないというのだ。
「盟約、か......」
と、相手の声にレティシャは注意をもどした。天人種族の姿をした女、司 祭 と名乗るその女が、苦 々 しくうなずいている。
「なるほど。それを知っているということなれば、あながちすべてがはったりだったというわけではなさそうではあるな」
「盟約は、来 るべき時に聖域への戦士の招 集 を認めるものです。二百年前、司祭イスターシバが聖域の代表者として、当時の最接近領領主と交 わしました」
「イスターシバは、聖域から放 逐 された者だ!」
唐 突 に激 しく、今度は右端の女が語気を荒 らげる──
単にアザリーの言葉を伝えているだけであるため、レティシャは即 答 できなかったものの、それでも相手を睨 みつけた。
「どうであれ盟約は有効です。その証 拠 に、フェアリー・ドラゴン種族の精 霊 魔 術 はわたしたちを攻 撃 しなかった」
「盟約が有効であるのならばなおさら、我々がその全 容 を把 握 していないのはアンフェアではないか」
と、今度は真ん中の女が静かに言ってくる。三人の中では、彼女が最も落ち着いていた。壇 上 に現れたのはこの女で、年 齢 から察 するに地位は高くないものの、実行役として使われているというところか。
彼女が、あとを続けてくる。
「司祭イスターシバと初代最接近領領主が交わした盟約は、ある条件づけによって聖域に戦士を召 喚 するものである......そして聖域に集められたすべての設 備 、装備を使い神々の魔 獣 と戦うことを認める、と。我らはその条件づけを知らぬ」
「これを濫 用 されれば、聖域に不 逞 の侵 入 者 が跋 扈 することにもなりかねぬわ」
右端の女が、鼻息とともに付け足す。真ん中の女はちらりとそちらを見やったものの、話を遮 られたことに抗 議 はしなかった。
「ディープ・ドラゴン種族もその盟約に参加している。彼女らが聖域の守 護 を離 れたのは、盟約を盾 に煽 動 した者がいたからであろう!」
「あなたたちがどうかは知りませんが、当時の聖域までもが盟約のことを把握していなかったわけではありませんよ」
冷 ややかに、レティシャは告げた。
「それを恐 れて、聖域は魔術士狩 りを煽動したのでしょうから」
「聖域が人間種族を恐れるなど──」
席を立って大声を張り上げる右端 の女に、レティシャは今度はアザリーの言葉ではなく、思ったままを自分で言い返した。
「恐れていないのなら、今すぐわたしをここから叩 き出せばいい!」
テーブルの上に拳 を叩きつける。上質の重いテーブルで、揺 れもしない。拳に走った痛みは無 視 して、レティシャは食ってかかった。
「最接近領の人間を皆 殺 しにしたように、わたしもこの場で打ち殺せばいいでしょう! そうしなさい。そうすればあなたたちはアザリーとの交 渉 方法を失って──」
と。
「あと十日で世界そのものが終わるというのに、死に急ぐこともあるまい。当方の無 礼 は詫 びよう」
水を差してきたのは、真ん中の女だった。
「......だが汝 も、先人への暴 言 は慎 むがよろしかろう。歴史は、その当事者にしか分からぬことも多い。したり顔で語るものではない」
「はい」
深呼吸をして、レティシャは拳を引いた。見ると、右端の女も顔を紅 潮 させたまま席にもどっている。
そしてたまたま視界に入った聖服の男が、にやにやと笑 みを浮 かべて場を眺 めていた。道 化 芝 居 を嘲 笑 っている。いやらしい笑みだ──とレティシャは嫌 悪 の視線を投げた。だが結局のところ、無 駄 なのだろう。うんざりと認 める。歴史に限らない。当事者にしか分からないことばかりだ。
真ん中の女が、あとを続けて言ってくる。ジャックの嘲 笑 から意識をそらせるのはありがたかった。
「察するに汝は、最接近領との戦 闘 に巻き込まれたのであろうな。汝はアルマゲストの身内には見えぬ......怒 りはもっともであるが、我 らとて必要がなければあのようなことはしない。二百年前の魔 術 士 狩 りもそうして起こったのだろうと我は信じる」
「では、今起こっていることに関してはどうですか?」
再びアザリーの通訳にもどって、訊 ねる。
「聖域はアイルマンカー結 界 の縮 小 を目 論 んでいると、ダミアン・ルーウや白魔術士たちが予 見 しました。その縮小の規 模 は......どれほどのものです?」
「結界を作り直すには、一度解 かねばならぬ。やり直しの機会は少なければ少ないほど良い。さらには始 祖 魔術士のひとりオーリオウルが失われた今、どれだけ縮小すれば結界が万 全 なものになるのかは未 知 数 だ。つまりは最も安全な規模にまで縮小せざるを得ない。最小限の規模にまでである」
「つまり......聖域のエリアだけを残して、その他はすべて切り捨てると?」
念 を押 したレティシャの質問に、真ん中の女は苦 笑 してみせた。
「汝、無知のふりはやめるが良い。言 質 を取ることが望みか?」
「わたしにとっては知らないことだらけですよ。たとえば、どうして人間種族であるあなたたちがこの聖域を支配しているのですか?」
「............」
問われても、女は曖 昧 に苦笑を続けるだけで答えてはこない。
しばらく待っても相手が言葉を続けようとしないことを悟 って、レティシャは苛 立 ちとともに息をついた。基本的にはアザリーの言葉を伝えているだけだが、語っているうちに感情が同調してしまう錯 覚 もある。
重ねて、レティシャは問いかけた。
「この聖域には、どれだけのドラゴン種族が残っているのですか?」
「そのような質問は不 躾 であろう──」
「皆 無 だ」
左端 の老女が拒 絶 する言葉を遮 って、真ん中の女がつぶやいてみせる。
はっと目を瞠 る両 脇 の仲間を無視する格 好 で、彼女は続けた。
「皆無であろうよ。ドラゴン種族と呼べるほどの力を有した者とはなにか? 地人自治領に無 様 に転 がるウォー・ドラゴン種族であろうか? 滅 んで途 絶 えたウィールド・ドラゴン種族であろうか? ディープ・ドラゴン種族は聖域よりも盟約を優先した。間 違 いなく、十日以内に女 神 に戦いを挑 んで全 滅 するだろう」
ここまで語る頃 には、ほかのふたりの視線はほとんど敵意といってもいいほどに険 しいものになっていたが──真ん中の女は、それを涼 しく無視して笑 みさえ浮 かべていた。嘲 るように手のひらを振 り回し、続けてくる。
「語りかけたところで叩 いたところでフェアリー・ドラゴン種族は反応せず......かつての女神との戦いで五感のすべてを失 ってな。まるで生ける屍 だ! レッド・ドラゴン種族は従 順 であるが、ほかにすることがないが故 、従 っているに過ぎぬ。反 抗 的無気力を振りかざすだけ」
なにかの糸が途 切 れたように女の声は早口になっていく。だが感情の高ぶりに反して、語調のひとつひとつは正確で、あくまで冷静だった。レティシャはただ、黙 って聞いていた。言葉を挟 む隙 がなかったせいもあったが。
「司祭プリーニア、黙れ」
とうとう摑 みかかって止めようとした老女の腕 を、その女──プリーニアとやらは強 烈 にはね除 けた。ほとんど殴 るのにも近い。老女が悲鳴をあげる。倒 れた彼女を介 抱 しようと、残ったひとりが駆 け寄 って名前を呼んだようだが、レティシャは聞いていなかった。プリーニアの長広舌が続いている。
「放 浪 するミスト・ドラゴン種族がなんの役に立つ? さあ、ドラゴン種族と呼べるものがこの腐 れた大陸に残っているか否 か。我は答えたくもない──」
誰も彼女を止めなくなってから。
自然と、プリーニアは言葉を途 絶 した。うつむいて顔にかかった髪 を──染 めた緑色の髪を──払 いのけてから、彼女は先ほどまでの毅 然 とした表情を取りもどしたようだった。言ってくる。
「......我らが、発 狂 していると思うか?」
(ええ、お互 いにね)
だが、肯 定 の返事は答えずに喉 元 に押 しとどめ、レティシャはアザリーの言葉を正確に伝えるだけに努 めた。
「つまるところ、今のやり取りはまるっきりの無 駄 話 だったわけでもないようですね。先の話につながります。あなたがたの見たところ、現在の聖域の力では女神に対抗するのは不可能だということですね?」
「まるで他 人 事 のようだな、天 魔 の魔 女 よ」
険 悪 に、プリーニアが睨 みつけてくる──視線はレティシャに注 がれていたが、実際に彼女が見ようとしているのは自分ではなくアザリーなのだろう。
司祭プリーニアはそのまま皮 肉 を強めた。
「呪 われたキムラック市にて、解 かなくとも良い封 印 を解いたのは汝 であろうが? 貴様の余 計 な手出しのせいで、オーリオウルと女 神 との均 衡 が破れ、今回の破局を招 いたのではないか。我々が二百年間もどうしてキムラックとその教主に対して手出しできずにいたか。それは正しいことであったと、汝は証明してみせた」
「なるほど。できればオーリオウルひとりを永遠に犠 牲 にするだけで、みんな幸せにいられたほうが良いですものね?」
と──
即 答 してからレティシャは、というよりアザリーは、相手が挑 発 に乗らないことを察して言い直した。
「冗 談 です。ですがわたしにだけ責任を押しつけられても困ります。オーリオウルは死期を悟 っていました。始祖魔術士オーリオウルは天人種族の司祭イスターシバを使い魔として感覚を共 有 していましたが、だからイスターシバは二百年も前にアイルマンカー結界の破 滅 を予 見 していたのです」
すらすらと語りながらレティシャは、聞いているプリーニアの表情が微 動 だにしないことに、これがすべて承知の上のやり取りでしかないと気づいた。
「オーリオウルは女神によって死滅する寸 前 でした......というより死を望んでいたようです。女神は始 祖 魔術士を殺す手段を持っていた。不 死 の始祖魔術士も、絶望すれば死ぬのです。だから女神は、オーリオウルの首を決して放さなかった。何百年も、オーリオウルの自 制 が尽 きるのを待っていた」
「ふむ......ならば白 状 しよう。我々もアイルマンカー結界の崩 壊 を予 測 し、それがための準備もしていた。ほぼすべては無 駄 に終わったがな。オーリオウルはむしろ、我らの計算より遥 かに生き長 らえたと言えよう。ところで、それが汝の言うオーリオウルの遺 言 であるか?」
「いいえ」
レティシャはつぶやいてから、テーブルに乗り出していた身体 を引いた。ふと気になって、ちらりと聖服の男を一 瞥 する。男は動かず、場を見守っていた。話を聞いているのかどうか、それも分からない。
三人の司祭というより、今はもうすっかりプリーニアとだけ情報交 換 をする形になっていたが、残るふたりもそれを悟 ってだろう。席にもどってはいたものの、椅 子 ごと後ろに下がっている。
広大な議場に比して、あまりにもちっぽけな集まりだ。と、レティシャはつぶやいた。愚 かしく、茶 番 じみている。こんなことで世界の命 運 が決まるなどと、ここにいる誰 ひとりとして信じていない。さもありなん──結局のところ、これは時間稼 ぎに過ぎないのだから。
(そうなんでしょう? アザリー)
胸 中 で問いかける。が、聞こえたか聞こえなかったか。妹には無視された。
と、集まってきた視線の強さから、自分が随 分 と間を空 けていたことを思い出し、レティシャは慌 てて口を開いた。
「彼女の遺言は感傷的な類 のものではありませんし、わたしもそういった意味合いで持ってきたのではないのです。ですからそのことを話す前に、いくつか確 認 しておきたいことがあります。それによっては、確かにすべては無駄なことだったかもしれません」
「この事態に今さら、無駄でないものもあるものかよ。すべては無駄だ......なにもかも無駄だったのだ」
プリーニアは毒 づいたようだったが、双 眸 は──緑色ではない両の瞳 は──それほど自 暴 自 棄 ではないようだった。少なくとも、プリーニア自身がそうありたいと思っているほどには。
「......司祭プリーニアと名乗られましたか? もう一度お聞きします。今現在、この聖域を代表する立場にあるのはあなたがただということで間 違 いありませんか?」
「死人の空 き家 を代表する者という話なら、まさしく我 らであろうよ」
「どういった経 緯 でですか? わたしの見聞きした情報からすると、そもそもドラゴン種族の聖域に人間種族がいること自体、特 異 なことに思えるのですが」
「汝 の知識がいかほどのものかは知らぬが、我の祖 がこの大陸に漂 着 した時、保護のためにまず招 き入れられたのはこの聖域である。当然であろうが」
鼻にかけたような相手の態度に感情がささくれ立つのを感じながら、レティシャはつい口を滑 らせた。
「それで、その後も船 倉 のネズミのように勝手に住み着いていると? まさかそう思えとでも?」
案の定、プリーニアは気分を害したようではあった──もっとも今さらのことかもしれないが。話の腰 を折られ、あまり面 白 くもなさそうに付け足してくる。
「その当時、既 に天人種族は衰 退 していた。彼女らは千年前、神々の放った毒の魔 獣 バジリコックによって種族の半数以上を失っていた。半数以上。その中には、すべての雄 が含 まれていた。長命な天人種族とはいえ、滅 亡 は目前であった」
「それで?」
「差し迫 った問題はさておいても、彼女らは労働力を必要としていたのだ。漂着の際、文化もなにも失っていた人間種族を聖域の外で教育する一方で、働き手として少数を聖域に招 いた。それが我らの先人となる。時が経 ち、聖域と外界が対立した際には、彼らは外界から指さされドッペル・イクスと呼ばれた......あれは汝の師だけがそう呼ばれたわけではないのだ」
と、彼女は咳 払 いした。両 肘 をついて顔を乗せ、うつむく。
「天人種族が滅 びて、聖域にどういった事態が生じたか。およそ馬 鹿 げた話だ。この聖域のシステムのほとんどは、天人種族によって造 られた。だが彼女らは老 衰 から立ち居も困 難 となり、システムの管理や使用法はすべて使用人に任 されるようになった。気が付けば、聖域を管理できるのは我々だけになっていたのだ」
「乞 われてそうしたのですか?」
「ふん。あり得ぬ。我らは当然、その事態を自 衛 のために利用した。我らは何十世代とこの聖域に暮 らし、今さら外界になど出られぬ。あの凶 暴 なレッド・ドラゴン種族などといった相手と対等にここで生きようと思えば、利用できるものは利用せざるを得ないであろうが」
プリーニアは恥 じたわけではないだろうが、しばらくは顔を上げようとしなかった。長い言葉の後に、同じく長い沈 黙 が訪 れる。沈黙の獣 、天人種族の姿を模 している──人間種族。
待つ間、レティシャは我 知 らずハーティアの言っていたことを思い出していた。ここは聖域。ドラゴン種族の聖域にいる。自分たちは紛 れもなく聖域にいた。
そこにドラゴン種族はいなかった。
虚 しく付け足して、横目でアザリーを見やる。
(アザリーが......意識しないでもわたしにだけは姿を見せられる......というのは本当なのかしら)
疑 っても詮 無 いことではある。それは分かっていたが、レティシャは胸中で疑問を嚙 みしめた。もしアザリーが嘘 をついているのなら、永遠に明かされることはないだろう。
(この世界には、嘘が多すぎる)
聖域は存在する。嘘。
キエサルヒマ大陸には戦争などない。嘘。
チャイルドマン・パウダーフィールド教師は無敵の黒 魔 術 士 である。嘘。
家族は別れない。嘘。
レティシャ・マクレディはタフなファイターである。嘘。
浮 かんでは消える思いを嚙 み潰 すまで、レティシャは繰 り返した。
すべてを砕 くことはできないまま、嘆 息 し、口を開く。
「聖域の外では、天人種族は人間種族との混 血 を進めました......一応、可能性として質問しますが、聖域内で天人種族と関 わったというのならば、あなたがたは魔術士ではないのですか?」
問われて、プリーニアは髪 の間から片目だけをこちらに向けた。
「我らは純血だ。聖域は人間種族を女 神 の呪 いへ巻き込むことに反対したのだ。混血によって子孫を残す実験に固 執 したため、司祭のイスターシバは聖域を放 逐 された」
低く、うなるような声 音 であとを続ける。
「種族の滅 亡 に瀕 して、天人種族は死にものぐるいだったというところであろうな。人間種族との混血などという自 暴 自 棄 は言うに及 ばず、様々な方法を模 索 した。死 者 蘇 生 装 置 、人体改造、人造人間......ことごとく失敗した」
プリーニアは微 妙 な言葉回しで、混血もまたその失敗例の中に含 めている。言 外 の意 図 を察してレティシャが表情を変化させたことを察したのだろう。司祭は顔を見せると、皮肉に笑ってみせた。
「滅亡の惨 状 を間近にすれば、人間種族に魔術士が存在してはならない理由、理解できるであろうよ」
「天人種族の末 期 を、あなたが見取ったわけではないでしょう?」
レティシャもまた皮肉で返すが、プリーニアの表情は変わらなかった。
「絶望はな、この聖域に染 みついて残ったのだ。拭 っても落ちないそれを、我らはずっと受け継 いできた......」
しっぺ返しが思いつかなかったわけではなかった──実際、言い返すためにレティシャは口を開きかけていた。が。
言葉は出なかった。議場の静けさに、上りかけていた血も冷める。確かに。絶望はここに残っている。
と、プリーニアがつぶやいた。独 り言 のように。
「滅亡、か。始 祖 魔 術 士 オーリオウルが死滅したのならば、天人種族の魔術そのものが消滅するのか......」
それを聞いて、レティシャはぎょっとして背 筋 を伸 ばした──反応したのは彼女自身ではなく、アザリーの緊 張 が伝わってきたせいだった。司祭からその話題に触 れるとは思っていなかったが、これはなによりも重大な確 認 事 項 だった。場合によっては、すべてが無 駄 になる。
気を落ち着かせ──というより、精神体のアザリーに落ち着くように念じながら、レティシャは訊 ねた。
「今のところ、その兆 候 は見られないのですか?」
プリーニアは独り言の延 長 といった口調で、あとを続けてくる。
「前例がないのでなんとも言えぬ。魔術文字は永遠に効 力 を失わぬのかもしれぬし、突 然 すべて消失する可能性もある。現状では......この聖域の機能は損 なわれていない」
「第二世界図塔 も?」
続けて聞いてから、レティシャは相手の言葉を待った。プリーニアは頭を巡 らし、超 然 と聞き返してくる。まるで、本物の天人種族のように。
「では、汝 らの狙 いとはそれなのか」
司祭の顔に浮かぶ微 笑 。それは憐 れみを現していた。
「第二世界図塔は、我らの管理の下にある。稼 働 はしている──が、それを扱 える術者がいない。かつて我らは聖域の設備を使って、その召 喚 術者を人工的に造 り出そうとしたのだ......が」
彼女は手を横に振 ると、かぶりを振ってみせた。
「無駄であったよ。ネットワークの理想化人格を凝 縮 した、超人の開発。だが造り出された超人は......脆 いな。この聖域から、絶 望 の聖域から、すぐに逃 げ出した」
言葉はそこで止まり、プリーニアの手も卓 上 に力無く落ちた。
瞬 間 、アザリーが小さくつぶやくのをレティシャは聞いた。
「本当に逃げたのかしら」
「............?」
レティシャは目で問うて、それを司祭に聞くべきなのかどうか訊 ねかけた──アザリーの感情は、それをただの自 問 と伝えてきている。精神体のアザリーはこちらに気づく様子もなく、なにごとかをひとりで繰 り返していた。
司祭はそれに気づいているのか、姿の見えないアザリーに向かって声をあげている。
「無駄なのだ、天 魔 の魔女よ。第二世界図塔──召喚機は動かせぬ。魔王の召喚など、天人種族の最後の妄 想 に過ぎぬ」
「............」
アザリーは答えようとしない。聞いているそぶりもない。
プリーニアの瞳 が冷たく凍 り付くのを、見ていたのはレティシャだった。天人種族の格好をした人間の女の、震 える声が議場に響 く。
「我らはあえてお前たちの質問に応 じた。ならば答えよ。我らの興味はひとつである」
ぎし......と卓 の端 を押 さえ、軋 ませながら、彼女は問うてきた。
「結界をも越 える盟 約 は、アイルマンカー玄 室 の扉 も開かせるものなのか?」
夜の影 が荒 野 を灰 色 に焦 がし、地平は遠ざかるにつれて暗さを増す。
最も濃 い闇 の塊 は、地上と夜空の境 界 にあった。黒々とした森の影。フェンリルの森。聖 域 を押 し包 む大樹海である。
その中にあってさらに深い漆 黒 の毛 並 みが、慎 重 に動き出す。巨 大 な黒狼 は、一度動けばあとは躊 躇 を見せなかった。足音もなく速 やかに、その数歩を踏 み込 んでいく。黒一色の毛並みには、不 似 合 いな金色が混ざっている。背中に跨 っているクリーオウだった。彼女は狼と比べればまだおっかなびっくりな様子ではあったが、それでもしがみついたディープ・ドラゴンの首からは離 れなかった。
さほどの距 離 ではない。ディープ・ドラゴンの巨体にとっての数歩。四、五メートルというところだろう。それを進んで変化はない。
オーフェンは、止めていた息を吐 いた。後ろに残った《十三使 徒 》たちとともに並んで、レキを見送っている。黒魔術士 たちから漏 れる嘆 息 の声を聞きながら、オーフェンはひとり腕 組 みしていた。
いや、完全にひとりとも言い難 い──やや後ろに下がる形で、マジクとイザベラがいることにも気づいていた。《十三使徒》たちはさらに後方だった。やや離れて、プルートーが鉄 槌 を手に渋面 を形作っているのも見えないではない。マリア・フウォンもいつものように、その傍 らに控 えている。
「......突 破 する?」
イザベラの声に、オーフェンは無 言 でうなずいた。
レキは単独で進んでいく。ディープ・ドラゴンが通り抜 けようとしているのは見た目にはなにもない空間だった。が、そこには精 霊 魔術による結 界 がある──
不意に感じるものがあり、オーフェンは腕を解 いて身 構 えた。うめく。
「いや......来るぞ」
気配の変化は急速なものだった。レキもまた足を止める。ディープ・ドラゴンの身体 を鋭 い風が舐 め、その巨体を地面から引き剥 がそうとする。目に見えない気流は荒野の砂を巻き込み、高速で動く壁 と化した。竜 巻 状 に荒 れ狂 うその流れが可 視 のものとなる。レキが四 肢 を地面に貼 り付け、頭を下げながらもその目を見開こうとしている様が見える。
ディープ・ドラゴンの双 眸 が緑色に閃 くたびに、風の猛 威 も瞬 間 的 には消失する。それを数度繰 り返しながらも、両者の魔術はどちらも譲 らない。
(精霊魔術を敵に回して......真っ向から対 抗 できるとはね)
飛んできた石の破 片 を腕で払 って避 けながら、オーフェンはつぶやいた。
だが、必殺であるはずの精神支配──レキの暗黒魔術も、精霊魔術の障 壁 を分解できずにいる。やがて、
「ひゃあああっ⁉ 」
悲鳴をあげて、クリーオウが吹 き飛ばされるのが見えた。天高く、《十三使徒》らの頭上を越 えて飛ばされるコースである。精霊魔術に飛ばされたのであれば、それで怪 我 をすることはないだろうが──
「引き寄せる運命 !」
王都の魔 人 が声 高 に叫 ぶと、空中のクリーオウ目がけて魔術の構 成 を解 き放つ。少女の身体が軌 道 を変え、かくんと垂 直 に落 下 を始めると、彼女の悲鳴のトーンまで変化した。一瞬後、クリーオウはプルートーの腕 の中に無事に落下し、そこで声も止めた。
レキはまだしばらくは抵 抗 を続けていた。が、少しずつ上体を起こされ、風の力はさらに勢いを増していく。離 れて、本来ならば影 響 ない距 離 を取っていたはずのオーフェンすらも、その圧 力 に押 され始めていた。

そして。
吹き飛ばされたのではなく、レキは自ら跳 んだのだろう──後方に大きく跳 躍 すると、オーフェンや黒魔術士たちを飛び越え、なにもない地面に無音で着地した。途 端 に、風も収 まる。
残った小さなつむじ風が枯 れ枝 を軽く舞 わせるのが見えた。
「やはり無理か」
王都の魔人が、クリーオウを下ろしながら口 惜 しげに言う。少女は目を回しているのか、その場にふらふらと座 り込んだ。
それを後 目 に進み出て、プルートーは触 れることのできない精 霊 魔術の結界へと手をかざす。息を吸い、強大な魔術構成を展開しながら一息に呪 文 を唱 えようとした。
「破局の日は──」
「無 駄 よ」
その彼の腕をそっと押しやり、マリア・フウォンが制 止 する。
彼女はクリーオウに手を貸 して立たせてやってから付け足した。
「通じないのはわたしにだって分かるわ。全員が束 になったところで無理。精神士はこれを突 破 できないの?」
と、しかめ面 であたりを──目当ての亡 霊 が浮 かんでいそうなあたりを──見回して、
「空間を無視できる白魔術なら──」
「既 に突破できているのではないかな」
今度は、プルートーがマリア教師を制止する。彼は拳 を固め、癇 癪 とともにそれを振 ってみせた。
「だが、我々を聖域に侵 攻 させることが精神士たちの目 論 みだ──幽 霊 どもだけでは扉 にノックもできん」
「ダミアンを滅 ぼすべきではなかったな?」
──とは、黒魔術士 ふたりの声ではなかった。オーフェンが見やると、すぐそばに近寄ってきていたらしい領主が涼 しい笑 みを見せている。
つぶやきを聞き取ったのもオーフェンだけらしい。彼は皮 肉 に応 えるため、息を溜 めた。告げる。
「ウィノナもな」
ただの嫌 味 のつもりだったのだが、領主はことのほか感じ入ったように眉 を上げた。面 白 そうに、顔を近づけてくる。
「......彼女にならば、ここを突破できると?」
「............」
オーフェンは無視して視線をそらした──が、なんとはなしに苦 笑 が浮かんでくる。本当に、こういったものをなんとかしてしまうのは彼女のような人間なのだろう。
障 壁 の前に集まっている黒魔術士たちは二十人ほどで、残りは後方で待 機 している。プルートーは周りの部下に、合流を号令した。《十三使徒》らは各 々 、肩 を落とし落 胆 しながら後方の本隊へとぞろぞろ退 いていく。
不 可 視 の障壁前に残り、オーフェンは苛 々 と頭を掻 いた。レキが動いていないため、クリーオウも黙 って立っている。金 髪 の少女はぼんやりとこちらを見ていた。マジクとイザベラ、ふたりも不安げな眼差 しで遠い樹海を眺 めている。
領主は杖 を突 きながら、わざとらしいゆっくりした足取りでプルートーらの後を追いかけている。順番に観察してから、オーフェンは視線を巨 大 なディープ・ドラゴンへと移した。相手が決して物言わぬ獣 と承知しつつも、胸 中 で問いかける。
(......でもお前は、一度ここを通ったんだろう? 聖域に行って、そして群 と決 別 してもどってきた)
その結果、通れなくなった。
ふと、思い出す。
──我は主命を受 諾 するのみ。
人 形 の発した言葉。すべてが嘘 だと主張していた人形が言っていたこと。脈 絡 があるわけでもないが、それはなにかの真実を語っていたのかもしれない。
(聖域の命に従 うものしか、ここを通れない? だとすると、結界を作っている魔 術 を壊 さない限りは通過できないってことになるが......)
と。
爆 発 が起こった。見やると、《十三使徒》が集 結 している後方で、魔術特有の白い炎 が火 柱 を立てている。《十三使徒》の誰 かが放 ったものだろう。爆発は立て続けに四回発生した。
「......くそ!」
オーフェンは駆 け出した。炎を避 けるように不定形の影 が猛 スピードで移動していくのが見える。黒魔術士たちの悲鳴が爆音の中にこだました。
彼が通り過 ぎるより先に、レキもまた身体 の向きを変えていた。が、移動はしない──レキの一 瞥 が触 れた瞬 間 、動き回っていた不定形の影がひとつ、弾 かれたように動きを止め、落下する。
クリーオウをレキのもとに残し、イザベラが走ってこちらに合流してきた。やや遅 れて、マジクもついてきている。
耳に手を当て、悲鳴に混じる号令を聞き取って、イザベラが囁 く。
「戦 闘 は続いてるわ。奇 襲 を受けてる。レッド・ドラゴンよ!」
「こっちにレキがいることを知っていて仕 掛 けてくるのかよ。奴 ら、なにを焦 っているんだ?」
走るのはやめないままオーフェンはつぶやいた。
聞いて、イザベラがかぶりを振 る──そんなことは知らない、という意味だろう。彼女はどこに持っていたのか、抜 き身の長刀を手にして表情を厳 しくしている。
「攻 撃 は地中からよ。ディープ・ドラゴンの死角をついてわたしたちだけ殺そうとしてる。捌 けるわけがない!」
「それなら──」
言いかけて、オーフェンも彼女に倣 って短 剣 を引き抜いた。と。
なんの前 兆 もなかった。土が盛 り上がることも、割れることもなにもない。あると分からないほどの地面の隙 間 から、刃 物 のように鋭 い一撃が一瞬に伸 びて襲 い掛 かってくる。オーフェンはそれを短剣の背で弾 き返すと、半歩回り込んで魔 術 を放つべく左腕 を突 き出した──が、その時には地面から飛び出してきたレッド・ドラゴンは姿を消している。
次撃は、定石通りに背後からだった。見もせずにそれを避 け、オーフェンは放ちかけていた魔術の構 成 を背 面 にそのまま展開した。
「我は築 く太陽の尖 塔 !」
ごうっ! と白い炎 が、あたりを明るくする。
地面から突き出したレッド・ドラゴンの触 手 が焦 げて消えるのを確 認 してから、オーフェンは眼 を丸くしているイザベラに手をあげて合 図 した。
「タイミングさえ合わせれば対応できる。落ち着くんだ」
「そのタイミングが合わないから困ってるんだけど......」
「複数で組んで死角を減 らせば、それだけ集中できる。レッド・ドラゴン種族は確かに一体で数十人を殺せる破 壊 力 を持っている──が、こっちだってひとり分の火力でレッド・ドラゴン一体を行動不能にできるんだ。マジク! 彼女の背 後 をフォローしろ」
矢 継 ぎ早 に告げるが、そうしているうちに、あたりが真昼のように明るくなっていることに気づく。見ると《十三使徒》の集結地あたりで、広 範 囲 に地面を焼こうと炎を広げている術者がいる。
オーフェンは舌 打 ちした。
「地面を熱して地中の敵を焼こうってのか......だが、あれじゃ自分たちまで酸 欠 で死ぬことになるぞ」
イザベラとマジクを見やる。レキに守られているクリーオウはもとより、《塔》一流の黒魔術士であるイザベラにならば、マジクの安全も任 せられるだろう。オーフェンが見やると、イザベラは視線だけでその意 図 を察してくれたようにうなずいてみせた。同じく無言で同意を示し、オーフェンは最も戦 闘 の激 しい集合地へと再び走り出した。
◆◇◆◇◆
「抜 き足差し足......これ言いながらだと静かに歩けるぼくって凄 いね。言いながらだから全然静かじゃないけど、まあとにかく凄いことは凄いと思うんだ。叫 びながら投げると本当に球速が速くなる人くらい凄いね。きっと」
独 り言 をつぶやきながらハーティアは、手元の手帳をのぞき込んだ。メモ書きが挟 まっている。小さな紙 片 には、びっしり細かい文字が書き殴 られていた。
「えーと、次は......」
書き文字はでたらめに並んでいるようで、ひとつの規則を持っていた──それに従 って読み進め、確 認 していく。
「ふむふむ。この時間だと司祭は第二百三十から二百五十六通路の連 結 維 持 作 業 をしないといけないから、こちら側の監 視 がいなくなる、と......しかしロッテーシャも、その気になるとこんなことまで全部調べられるんだね。大したもんだ。これでも聖 域 の一部らしいけど」
と、顔を上げて通路の先を見やる。ただ真 っ直 ぐに続いているだけの通路にも見えるが、ハーティアは目ざとく空間の断 裂 を見つけていた。通常の視覚で分かるものではない。魔 術 構 成 を視 る目と、ほんのわずかな気流の変化でかろうじて感じ取れるものだった。
「五......三......九......ほいっ、と」
でたらめなカウントダウンでタイミングを取り、その断裂を越 える。
越えた先で、見えるものに変化はなかった。同じような通路が、またずっと続いている。だがハーティアは満足して、さらに早足で進んでいった。
(ここが聖域か)
白い壁 に挟 まれた通路で、それを確認する。
この聖域そのものが巨 大 な魔術装置であり、見えない場所に魔術文字が配置されているという。その保護力によって聖域の住人は守られてきた──千年もの年月を。
それが、残り十日で終わる。
アザリーやコルゴンに聞かされた内容を思い出し、ハーティアは嘆 息 した。
(そんなこと言われてもね。本当なんだかどうなんだか......いざ十日経 ってみて、やっぱりなんにもありませんでした、とかいう話になったら、みんなどうするつもりなんだろね。まったく余 計 なことにばかり自 信 満 々 で、実は後先のこと考えてないんだから)
考え事をしている間にも通路を進み、曲がり、時に機を待ち、空間を飛び越えていく。コルゴンの言う〝司祭〟だとかいう監 視 者 から隠 れつつ、彼は最短で奥 を目指していた。
(どこまで進んでも、誰 もいない......聖域っていっても、ホントに人いないんだな)
その静けさも清 潔 さも、病院を思わせる。病人も、それを見取る者もいない、忘れられた病院だった。朽 ち果てることも、荒 れることもない。
「いや、違 った」
彼はつぶやいて、足を止めた。メモを見て確 認 する──危 うく道順を間違えるところだった。
だがつぶやいたことは、間違えそうになったからではなかった。
「違うな......ここは墓 場 だった」
訂 正 とともに、最後の一歩を踏 み出す。
軽い朦 朧 が五感を襲 うが、ハーティアは落ち着いて回復を待った。今度の転 移 には多少の抵 抗 を感じた──深い階 層 へと入り込 むための長い跳 躍 。それを経 て、目の前に新たな光景が現れる。
そこは通路ではなかった。
高い天 井 と広い壁 。すべてが白一色で、それらの境 界 も分かりにくく、虚 無 の世界にでも迷 い込んだような錯 覚 をさせる。
意味があるのは、ただの二点だった。
ひとつは、自分が立っているその地点。ぼんやりした明かりだが、かろうじて足元には影 もある。
もうひとつは、正面の壁にある巨 大 な扉 だった。
飾 り気 といえるほどの装 飾 はない。周囲との対比のせいか、その黒い扉はひどく重々しく感じられた。高さならば、五メートル、幅 も同じくらいはあるだろう。それほどまでに巨大な扉でなければならなかったのは、何者が通らねばならなかったからなのか。皮肉を思って、ハーティアは苦 笑 した。
つぶやく。
「ここか。アイルマンカー玄 室 の扉......」
決して開かないという、究 極 の魔 術 。
アイルマンカー結 界 の要 となる扉。
少なくとも、コルゴンはそう言っていた。現在、聖域が総力を集めても傷ひとつつけられずにいる。十年にも亘 って聖域外聖域戦力なるものを派 遣 し、外から魔術武器を持ち帰って試 しても、まったく歯が立たないというこの扉。
「開かない扉、か」
ハーティアはもうひとつつぶやくと、手に持っていた手帳を、挟 んだメモごと床 に落とした。その手でそのまま放 り出した火球で、手帳を焼き尽 くす。
(......どうせもう来ることもないだろ)
燃えて炭 と化した手帳をつま先で払 い粉々に潰 すと、両手をポケットに入れて、待ち受ける。
待っていたのは、変化だった。
やがて──背後に気 配 を感じる。
気取らずに、ハーティアは振 り向いた。彼を取り囲むようにひとつ、ふたつ......と、現れた人影がある。最初に現れたふたつは、人間の形をしていた。だがその瞳 が不自然な緑色に輝 いている。よく見れば彼らは指を数倍の長さにまで伸 ばし、戦 闘 態勢だと見て取れた。レッド・ドラゴン種族だった。
無論、戦えば勝ち目はない。ハーティアは肩 をすくめて、両 腕 を頭の後ろで組んで降 参 した。
それを見てからというわけではないのだろうが、続けていくつか、今度は女の姿をしたものが現れる。こちらは、人間のようだった──伝説に聞かされる天人種族のような格 好 をしてはいるものの、険 しくしかめられた眼 差 しを放つ瞳 は淡 い青色だった。髪 は緑色に染められている。
「あなたたちが司祭様?」
レッド・ドラゴンの出方を警 戒 しながらも、視線はその女たちに注 いでハーティアは訊 ねた。
その〝司祭〟らはうなずきこそしなかったものの、吐 き捨てるように同意してみせた。
「我らは聖域を奉 る司祭である。汝 は例の侵 入 者 のひとりか......どうやってここに現れた? 我らに気 取 られずここに来ることなどできるはずがない」
「さあ......ちょっと迷 ってしまって」
空とぼけて、告げる。
司祭たちが、どんな時でも決して監 視 を外さない場所が二箇 所 あるのだと、コルゴンは言っていた。まずはこの扉 だった。アイルマンカー玄 室 へと続く扉。
「......汝を拘 束 する」
司祭の女の言葉に、ハーティアは抵 抗 しなかった。
胸中では、別の声を聞いていた。コルゴンから聞かされていた内容だった。
『ただでさえ司祭の数は足りていないうえ、アザリーとレティシャに引っかき回されている。さらにこの玄室は聖域の急所だ──そこに侵入者が現れれば、司祭らは面 食 らってもうひとつの急所の監視を緩 める可能性がある。彼女らは懐 へ侵入されることに慣 れていない。その隙 をついて俺 はそちらを押 さえる』
記 憶 の中にいるコルゴンに、ハーティアはつぶやいた。
(......別にぼくは、あんたを手助けしたいとも思ってないんだけどね。でもまあこれは、昔のよしみかな。ただ問題は──)
と、多少不安になって付け加える。
(拘束で良かったよ。殺すとか言われたら、どうにかしてでも戦わないとならないとこだった)
◆◇◆◇◆
焦 げ跡 を残した荒 野 に朝日が昇 り、その鈍 い傷 痕 を照らし出す。
そこにうずくまって座 る人間たちの丸い背中を眺 めながら、オーフェンはため息をついた。痒 みを感じて頬 をこすると、乾 いた血が砂といっしょにこびりついている。
立ち止まっているのではなかった。歩いていた。行く手に《十三使 徒 》が数人集まり、その中でひときわ目立つ大男が発する矢 継 ぎ早 の指示を聞いている。
「とにかく負傷者のパニックを鎮 めろ。医薬品を使っても構 わん──どうせ魔 術 だけで治 療 は間に合わんのだ。二班は四班と合流しろ。なに? なにか問題でもあるのか」
「いえ、二班の生き残りのほうが数が少ないのですが......二班の班長プリックのほうが年長ですので、班の呼び名は二班と呼ぶべきか四班と呼ぶべきか──」
「そんなくだらんことは多数決で勝手に決めろ。だが俺が二班と呼んでも四班と呼んでもどちらにも返事させろ。分かったか」
彼の指示が飛ぶたびに、部下がうなずいては駆 け出していく。オーフェンは歩調を緩 めて、ちょうどプルートーが最後の指示を出した頃 に辿 り着いた。大男の目が、ぎょろりと不 快 げにこちらを見 据 えてくる。
「なんだ。またくだらん進 言 をしに来たのか」
「いいや」
プルートーの敵意は取り合わず、オーフェンはあとを続けた。
「さっきの襲 撃 で、どれだけの被 害 が出たのか聞きたかったんだ」
「聞いてどうする。我々の士 気 を挫 く材料にでもしたいのか?」
「もうやめてくれ──いや、俺も悪かったんだろうけど。もうあんたらに、王都にもどってくれとは言わない」
「......ほう?」
疑わしげな様子で、プルートーが声を上げる。
オーフェンは改 めて嘆 息 した。両手を腰 に当て、うめく。
「聖域のほうからこうまで執 拗 に迎 撃 があるとなれば、交 渉 するにも戦力がないと均 衡 を作れないだろうしな」
「まだそんなことを言っているのか──」
王都の魔人は言ってから──自分の声の大きさに気づいたようだった。置いていた戦 縋 を拾い上げ、肩 に担 いでこちらを促 す。
「移動しながら話そう。立ち話は目立つ」
「ああ」
並んで歩くと、プルートーの小山のような体格は、足音の大きさでなおさら意識させられた。やろうと思えば塵 が積 もるほどの音も立てずに歩けるだろうに、それをしないのは、わざと威 嚇 しているのか、よほど疲 れているのかのどちらかだろう。前者のつもりで実は後者なのではないかと、オーフェンには思えた。
口 火 を切って、途 切 れた言葉の続きを言ってきたのはプルートーだった。
「お前も聖域のやり方を見ただろう。交 渉 の余 地 があるなどとまだ信じているのか。マリア・フウォンでもあるまいし、そうまで夢 想 家 だとは思えないが」
「別に平和主義で言ってるわけじゃない。だがこの状 況 はあまりに馬 鹿 げてるだろう──このまま聖域を征 服 できたとしてどうなる? 十日後に直 面 する女 神 だとかいう化 け物 をどうにもできないんじゃ同じことじゃないか」
正論を言われることは気に入らないのか、プルートーの横顔はますます不 機 嫌 にしわを増やした。
「ならばわたしも同じことを返すが、座 して聖域の慈 悲 を待つことはもっと馬鹿げている。奴 らは自分たち以外をすべて切り捨てて生き延 びようなどと画 策 しているのだぞ」
「だから、両方手に入れないとならないんだ」
オーフェンが告げると、ようやく興味を引くことができたのか、プルートーは反論ではなく聞き返してきた。
「どういう意味だ?」
「聖域を傷つけずに、聖域を手に入れないと意味がない。レキ──あのディープ・ドラゴンのことだが、それがやろうとしていることというのは、つまりそういうことなんじゃないかという気がしてきた」
「まだ抽 象 的 だな。その話し方は、お前の師を思い出してむず痒 くなる......分かりやすく話せ」
「つまりレキの意 図 とはなんだろうと考えてたのさ。レキの力を考えれば、俺たちなんか必要もないはずなのにこうして守ってくれている」
と、オーフェンは離 れた位置にいる黒い狼 を示した──レキはクリーオウに連れられ、地面に並べられた重 傷 者 の治 療 に駆 り出されている。
「きっとレキが俺たちを必要としている理由があるはずなんだ。それでさっきのことを思いついたのさ。聖域へは、レキが連れて行ってくれる。だがレキに決してできないのは、他者と意志の疎 通 をすることだ。今はクリーオウを使い魔 にしているが、それですら完全な意志疎通はできていない。ディープ・ドラゴンにはそれは無理なんだ」
「だが結局のところ、あの障 壁 はディープ・ドラゴンにも通れなかった。それをどうするのだ?」
当然の問いを、プルートーが返してくる。
オーフェンはしばし黙 考 してから答えた。
「障壁が本当にどうしようもないものなら、聖域がこちらに攻 撃 を仕 掛 けてくる必要もないはずだろう。なにかあるんだ......突 破 する方法が」
「あれさえ突破できれば、我々は一気に聖域へと攻 め込むことができるのだ」
見えない障害を睨 みつけうめくプルートーに、オーフェンは食い下がった。
「人間種族を代表して聖域と交 渉 できる人間が必要なんだ。貴族連盟からは領主がその任 にあるということなんだろう。大陸魔術士同盟からは──」
「当然、評 議 員 であるわたしだ」
ひるむことなく、プルートーが応 じる。
顔色を変えずにオーフェンはうなずいた。そこにまでこぎ着けたことに満足して、慎 重 に別の情報を持ち出す。
「聖域の設 備 を使うことさえできれば、最 接 近 領 の領主はプランをひとつ持っているらしい......」
「どんなプランだ?」
「どれだけの成算があるのかは分からない。だがうまくいけば、アイルマンカー結界の縮 小 なんて真 似 はさせずに女 神 を退 散 させられる」
「............」
プルートーは検 討 するためか、数歩分、目を閉 じた。それを眺 めて、オーフェンはこの男の年 齢 を思い出した──四十歳 ほどだったか。熟 年 とも言えるが、統 率 者 としては若い。そのおかげだろう。魔 人 の迷いは短かった。
再びこちらを向くと、口を開く。
「《牙 の塔 》のキリランシェロ。確か家名はなかったはずだな」
「?......え、ええ。両親は財産を残さず他 界 しましたから」
急に昔のことを聞かれ、学生の頃 の口調にもどってしまう。
構 わずに王都の魔人は続けた。
「サクセサー・オブ・レザー・エッジ......か。わたしはお前を認めよう。チャイルドマン・パウダーフィールドがもし生きていたならば、お前が立っているまさにその場所にいることだろう」
「......ありがとうございます」
「若 年 のお前に同 輩 のように意見を求めるのは、あの男に敬 意 を払 ってのことだ。その上で聞く。誤 魔 化 さず誠 意 を持って答えろ──わたしへの誠意ではないぞ、この地で死んだ仲間に対しての誠意だ。その成算とやらは、どれほどだと見積もっている?」
脅 しにも似たプルートーの口調に、息苦しく咳 払 いしてからオーフェンはつぶやいた。
「聖域が、既 にその案を捨て去ったことを考 慮 に入れないわけにはいかない......となると、成功率は相当低く見積もらざるを得ない、と思う」
「それでも──」
「ああ。女 神 による破 局 から大陸全体を延 命 させるには、ほかに手はない」
「具 体 的 にはどんなプランだ?」
聞かれることは覚 悟 していたものの──実際に自分の口から説明しなければならないとなると、さすがに気 後 れしてオーフェンは声を低くした。
「聖域に存在する召 喚 装 置 、第二世界図塔を使用して、神殺しの魔王スウェーデンボリーを召喚し、女神を殺させる。領主は装置の操 作 ができるらしい」
「......問題点を指 摘 してもいいか?」
「多分、俺が領主にした質問と同じ内容になるだろうな。でも聞いてくれ。俺だって懐 疑 的 なんだ」
苦 々 しくうめいても、プルートーの声から冷ややかさが消えるわけでもなかった。王都の魔 人 がゆっくりと、踏 みしめるように聞いてくる。
「魔王などというものが存在するのか否 かは、議論しないことにしよう。どうせ我々は既に神話かおとぎ話の化け物に直面しているのだ」
「ああ」
「まず、魔王が女神と戦ってくれるという保証は?」
「ない。だが俺が以前見た天人種族のメッセージは、確かに女神を殺す手段として魔王という存在があると解 釈 することはできた」
「同種のメッセージは、わたしも報告を受けたことがある。戯 曲 ・魔王だな?」
プルートーは言ってから、担 いだ戦 縋 を持ち直した。続けて、
「では、魔王が女神に勝てるという保証は?」
「ない。そもそも魔王がなんなのか、どんな力を持っているのか、それすら分かってないんだ」
陰 鬱 な気持ちでオーフェンは、正直に告 げた。
少なくともそれを誠意とは受け取ってくれたのだろう。プルートーは非 難 らしい態度は見せなかった──それほどは。
「女神を殺すことができたとして、残った魔王はどうすればいい?」
「見事なまでに俺の疑問と同じだな。その危険性は領主も認 識 していた。だがそれでも、女神に対 抗 できる力はもうこの大陸にはないんだ。聖域は衰 退 している。だから、その力を外部から呼び込むしかない」
「この話は、ほかの者にはできんな......士 気 にかかわる」
指揮官らしいことを気にしてプルートーは、重々しくそう言ってきた。確かにこれらのプランは、みなに希望を与 えるというよりは困 惑 させる世 迷 い言 でしかない──オーフェンは同意の印に肩 をすくめると、
「だが残念ながら、これが一番マシな案なんだ。天人種族がわざわざ用意した召喚装置だ。送 還 の手段も用意してあると信じたい。考 慮 して欲 しい」
「考慮するしかなかろう。精神士たちにも検 討 させる──あの気まぐれの役立たずどもが協力する気でいてくれればの話だが。なにか改 善 点 があるかもしれん」
そう言うと、プルートーは早々と道を逸 れ、大 股 で離 れていった──精神士と連 絡 を取っても部下に聞きとがめられない場所まで遠ざかろうというのだろう。昨夜のジャック・フリズビーの襲 撃 を思い出し、彼をひとりにすることに不安がなかったわけでもないが、オーフェンは追わなかった。一度は不意打ちで倒 されかかったとしても、二度も同じ後れを取るような王都の魔 人 でもないだろう。そしてそれは、あの聖服の男も分かっているはずだ。
(ジャック・フリズビー......か)
悪 霊 。
それが、領主の語っていた聖服の男のふたつ名だった。
『魔術士という超 人 に対して、最後に立ちふさがるのはわたしのような人間なのだ』
嘲 笑 う、あの男の叫 びを思い出す。
『わたしは悪霊だ』
『わたしの身体 には悪霊が憑 いている。それがわたしの力だ』
一度目の遭 遇 では、為 す術 もなく負けた──血と死の味を反 芻 し、オーフェンは濁 ったその息を吐 き出した。
実際、あっさり殺されたと言ってもいい。彼が今こうして生きているのは、ダミアン・ルーウに蘇 生 させられたからに過ぎなかった。
そして、二度目の遭遇を経 て。
(ドッペル・イクス。裏切り者をすべてそう呼ぶのなら、俺だって、プルートーだって、最接近領の領主だって、キムラックの教主だって、誰もがドッペル・イクスだ)
誰もが誰もに嘘 をついている......
誰もが誰もを裏切っている......
領主アルマゲストの言葉が聞こえてくる──この大陸には、絶望しかないのだから、そうなるのだと。
(先生だって......天人イスターシバに育てられながら、それを裏切らなければならなかった。聖域は今、大陸すべてを裏切っている。そもそもこの大陸の存在自体が、神々を裏切っている。逆に神々も世界を裏切り、破 壊 しようとしている)
魔王もまた。
オーフェンは、胸 中 で疑問を浮 かべた。
裏切るのだろうか? 世界図塔 を使い、犠 牲 を払 ってまで世界書や、あるいは戯 曲 魔 王 にあったような知識を結 界 外 から召 喚 し、必死の思いで希望を託 した天人種族や、今こうしてすがりつこうとしている自分たちの希望を。召喚された魔王は、やはり裏切るのだろうか。
もしそうだとしても、それは呪 うこともできないのだ......何 故 ならここには、絶望しかないのだから。
彼自身の手で殺してしまった死の教師ネイムや、レッド・ドラゴン種族ヘルパート。
死を看 取 ったクオ・ヴァディス、アザリー、イールギット、ウィノナ、ライアン・スプーン......ほかにも大勢。
『わたしはただ、ライアン・スプーンの絶望に応えてやりたいだけだ。同じく、絶望する者として』
再び、ジャック・フリズビーの言い残したことを思い出して。
「そんなものは──」
昨夜言えなかった続きを、オーフェンはひとりつぶやいた。燻 っていた怒 りに火が点 るのを感じる。
「そんなものは、絶望するだけのお前に言う資格があるか。ライアンの絶望に応えたのはクリーオウだ」
ここには絶望だけしかない? そんなことはない。
吐 き捨てて、オーフェンは自分も足 早 に歩き出した。障 壁 を通過する手を見出すにはまだ時間がかかりそうだった。その間に、やっておかなければならないことは山ほどある。
◆◇◆◇◆
マリア・フウォン教室のイザベラ。《十三使 徒 》のイザベラ。
その肩 書 きの単語のひとつひとつ、すべてマジクには意味のないことだった──マリア・フウォンなどという魔 術 士 の名前はタフレム市にいた時にも耳にすることはなかったし、その生徒であるイザベラについても言うまでもない。
本 音 を言えば、大陸最強術者として名高いプルートーを苦もなく退 けた──誰 がなんと言おうとそう見えた──オーフェンが、この聞いたこともないようなイザベラの力を信 頼 しているように見えるのも腹 立 たしいことではあった。
が。
「......?......?......⁉ 」
飛びかかり、今にも彼女に触 れそうだった手が、知らない間に空 を切って土を摑 んでいる──そして当然転 倒 していることに、彼は悲 鳴 をあげた。わけが分からないまま起きあがると、イザベラは構 えもせずにそのまま立っている。彼が摑みかかっていったその場所から、一歩も動いていなかった。
まるで、身体 がすり抜 けたようなものだった。イザベラはこちらを見下ろし、難 しそうに眉 をひそめている。うめき声すらあげていた。
「うーん......これは......」
彼女がなにかを言うより先んじて、マジクは地面に尻 餅 をついたまま叫 びだした。
「い、いや! これは......その、単にぼくが駄 目 なだけで、別にお師 さ──いやオーフェンさんがどうだというわけでは」
「そんなことは分かってるわよ」
彼女はきっぱりそう言ってくると、腕 組 みして小首を傾 げた。
「......なるほど。キリランシェロ君は、あなたにまだ体 捌 きも教えてないのね」
「い、一応、身体の動かし方くらいは少し習いましたけど」
とりあえず座 ったままでは気後れが取りもどせないと踏 んで、答えながらマジクは立ち上がった。ズボンの埃 を手で払 っていると、イザベラは近寄って来ないまま続けて聞いてきた。
「習ったのは魔術の制 御 法 だけ?」
彼女の口調にそこはかとない非 難 の響 きを感じて、マジクは慌 てて口を開いた。
「そ、そうですけど、それはぼくが──」
と、言いかけたところでイザベラが手を振 って制止してくる。
「あのね。別にわたしはキリランシェロ君の教え方をどうこう言うつもりじゃないから、いちいち嚙 み付かないで」
彼女の苛 立 ちがオーフェンではなく自分の態度に向けられたものだとようやく気づいて、マジクは口はつぐんだ。
イザベラは言葉を切って、別の質問へと変えたようだった。
「......マジク君、なにが気になってるの?」
「いえ、別に」
口ごもる彼に、イザベラは笑ってみせた。
「この前話してたことからも、だいたい想像はついてるけど。魔 術 士 の憂 鬱 ね」
「え?」
「壁 に当たって悩 み始めた魔術士のことをそういうふうに呼ぶのよ」
彼女はそう言うと、ため息でもつくように肩 を落とした。
「魔術能力を持つ魔術士は、どうしてもそれを制御するための訓 練 を受けて、実際に制御を実 践 する責任を求められる──だから、普 通 よりほんのちょっぴり多くの憂鬱を味わうのね。ただでさえ悩 みの多い子供の時分に」
「............」
マジクがなにも言い返せずにいると、イザベラは含 みを持った笑 みを浮 かべた。
「誰 もが通る道よ。わたしだって、キリランシェロ君だって、王都の魔人プルートーだって、きっと悩んだに違 いない。でもそのうち気づくのね。背 伸 びしたって、たいして遠くが見えるわけじゃないって」
「現状に満足しろってことですか?」
「いいえ。背伸びしたまま歩ける人はいないってことよ。きちんと歩いていけば、いつか見たい風景が見つけられる」
「イザベラさんは、今は見たいものを見てるんですか?」
思わず訊 ねる──と、彼女はなにかを確かめようとしたのか、あたりを見回した。彼女に見えたものが自分が見たものと同じならば、それは荒 れ果てた平原、遠くにありて近づけない目的地、負傷した仲間、吹 きすさぶ風に透 き通った空に崩 れた雲に......そんなところだった。
いや、ひとつだけ彼女に見えたはずがないのは、彼女自身の姿だった。《十三使徒》たる黒魔術士イザベラ。髪 も荒れ、砂で汚 れた顔を拭 うこともできずにいる。幾 度 かの戦 闘 で、負傷もしているはずだった。
その彼女が、ぽつりと言ってくる。
「今のここは......違 うわね。でも死んでしまった仲間のことを思えば、わたしは今ここにいることを誇 りに思うべきなんでしょう」
誇り。
胸を刺 すように、その一言が響 く。マジクはうなだれてつぶやいた──自分は、その誇りというものを持ったことがない。
(つまりは、それなんだ......強いとか弱いとか、なにかができるとかできないとか、そんなことはなんにもならない。今、ここにいる人間で、ぼくひとりだけがそれを持ってない......)
「──あの!」
思わず大声で叫 んでしまい、マジクは赤 面 した。
同じようにやや驚 いた様子のイザベラが、聞いてくる。
「なに?」
「その、イザベラ教師補は、戦える人なんですよね? 今の身のこなしからすると......」
「わたしはマリア・フウォンの愛 弟 子 よ。先生とだって互 角 のつもりでいるわ」
勝ち気な微 笑 を見せる彼女に、マジクはさらに詰 め寄った。
「でしたら、ええと、目的地に着くまででいいですから......ぼくになにか一手教えてください」
「え?」
聞き返され、マジクは自分の胸を示 して言い直した。
「必要とあれば人を止められる技 を、ひとつ教えて欲 しいんです」
「マジク君、わたしの話をちゃんと聞いてた?」
困ったように腕 組 みし、イザベラが聞いてくる。
マジクはうなずいた──やや声を落としはしたものの。
「確かに、これこそ背 伸 びなんだろうと思います。でも今のぼくじゃあ......誰も守ることもできません。さっきの襲 撃 でも、イザベラ教師補に守ってもらってばかりでした」
「そうね......」
彼女はまた迷 ったようだったが、やがて不 承 不 承 ながらも視線をもどしてきた。腕組みしたまま指を一本立て、それを振 りながら口を開く。
「これから言うことを理解してくれたなら、教えてあげられそうなものがないわけではないけど」
「は、はい」
半 ば喘 いで、うなずく──と、彼女は眼 差 しを厳 しくしてあとを続けた。
「ひとつには、どんな事情であれ、逃 げられない時以外は決して使わないこと」
「分かりました......」
「さらには、わたしが教える技を使って倒 した相手には、決してそれ以上の攻 撃 は加えないこと」
「......は?」
よく分からずに、疑 問 符 を浮 かべる。
と、彼女は息をついて付け足した。
「つまりは奇 襲 でしかないからよ。相手に一 撃 を与 えたら、できればそのまま逃げなさい。間 違 っても過 信 しては駄 目 」
「はい」
今度は返事する。
イザベラは最後に、腕を解 いてこちらの両 肩 を摑 んできた。力をいれ、揺 さぶりながら締 めくくる。
「そして、絶対に失敗しないこと」
「それは──」
「口答えしないで。失敗するつもりでいる人に戦いの技 は教えられない。ましてや短期間の付け焼き刃 ではね......それはあなたひとりの死では済 まないでしょう。あなたが守ろうとしている人まで死なせることになる」
真正面から見 据 えてくる彼女の気に呑 まれ、我知らずマジクは息を止めていたことに気づいた。彼女の瞳 は文字通り真 剣 で、相手の妥 協 も、戸 惑 いも許 さない光を持っている。
(でも......ぼくは、戦いと呼べるものに勝ったことなんて一度もないのに)
それを思い出すと、震 えが走る。
危機を切り抜 けたことはある──最後には誰かに助けられて。
(でも、だからこそ)
落ち着いて、喉 に溜 まった重い空気を鼻から抜き、答える。
「はい」
すぐにイザベラは両肩を放してくれた。後ろに数歩下がり、改めて立ち居を直すと、
「わたしは七 面 倒 くさい弟 子 なんて取るつもりはないわ。教えてあげられるのは、ちょっとした技術だけ。それをどこで使うか、どう使うかはあなた次 第 よ」
「はい」
「あと、ひょっとして勘 違 いしてるかもしれないから断 っておくけれど」
そう言い出した彼女が、ふとのぞかせた形 相 は──告げる内容を既 に代 弁 していた。
「わたしはキリランシェロ君と違 って、優 しい教え方はできないから」
摑 みかけた誇 りは指をすり抜け、マジクはその時点で後 悔 を覚 え始めていた。

レティシャ・マクレディは与 えられた部屋での長い休 憩 時間を、髪 の間に指を突 っ込みうなだれることで過 ごしていた。膝 に肘 を当て、背中を丸めたままどれだけの時間が経 ったのか。うんざりするほど繰 り返 したため息とうなり声の中で、落ち着いて時間を計 るほどの正気などとうに消え失 せてしまったのではないかと思えてくる。
(だいたい......なんなのこの部屋は)
見回すまでもない、見るべきものなどなにもない室内を、それでも横目で観察する。
牢 でないことに関しては、感 謝 するべきなのだろう。なにに対する感謝なのかは自分でも分からなかったが。
どこまでも白い壁 に囲まれ、常に清 浄 な空気に満たされている部屋。扉 の鍵 は内側からしかかからず、通路に見張りが立っているわけでもない。彼女が腰 掛 けているベッドも清 潔 であり、この部屋にもどるたびにシーツも取り替 えられている。部屋にある色は壁にぶら下がった小さな絵と、床 の真ん中に座 っている奇 妙 な猫 の真 紅 の毛 並 みだけである。猫は置物かと勘 違 いするほどに動かない。部屋を出、またくだらない会議だかなんだかを十数時間過ごしてからもどってくると、寝 返 りを打っていることもある。だが触 れても呼びかけても反応はない──生きていることには間違いなかったが。持ち上げてもなにをしてもそれに対する行動はない。
大陸に在 る、六種の獣 王 。そのうちの〝平和の獣 〟 ──フェアリー。
それが伝説のドラゴン種族なのだと気づいたのは、その猫の何度目かのあくびを見てからだった。
「五感をすべて失っているのよ」
アザリーの説明は、短かった。あまり興味がないのだろう。
「外部からの入力を、一 切 受け付けないの。想像すると、ぞっとするわね......」
そのアザリーは。
精神体になった妹は、同じ部屋にいる。これもまたうんざりする事実ではあったが、レティシャはかぶりを振 った。猛 烈 な眠 気 と倦 怠 感 に苛 まれながら、苛 立 って眠ることができない。いっそ自分もこの猫のように五感すべてと切り離 されてしまえば、きっと初めてぐっすりと眠ることができる......
と。そのアザリーの声が耳に入った。
「きちんと寝なさいよ。次の会 合 まで、まだ二時間あるわよ」
「............」
毒づきながら、レティシャは顔を上げた──アザリーは部屋の入り口に、なにごともないように突 っ立っている。
声が耳に入る、というのは正確ではなかった。レティシャは嘆 息 し、指に髪 が絡 まっているのを見下ろしてさらに陰 鬱 な感情に襲 われた。アザリーの声は空気の波ではなく、もっと別種の器 官 から伝わってくる。この部屋は確実に盗 聴 されている──とはアザリーの弁 だが、彼女との会話は決して聞き取られない、とも言っていた。
多分に疑 わしくはあるものの、声に出さず思い浮 かべるだけで問いかけることにも、段々と慣 れてきてはいる。
「もうここに来てから何日になるの?」
訊 ねると、アザリーは即 答 してきた。
「三日というところね」
「進展は?」
肉声ではないため、感情の棘 を表すこともできない──いや、その逆か? 迷 ったが、レティシャは暗い感情を隠 さず突き出した。どのみち気づこうと気づくまいと、アザリーは知らぬ顔をするだろう。
実際、言葉通りの素 知 らぬ顔で彼女が答える。
「ないわね。キリランシェロと《十三使 徒 》は相 変 わ らず精 霊 魔 術 の結界で足止めされている」
「結界を通る条件を知ってるのなら、あなたが行って教えてあげればいいでしょう」
「今はこの膠 着 状 態 が必要よ」
説明にもまた、躊 躇 がない。
「......どういう意味?」
レティシャは問い質 そうとしたが、アザリーが答えてこないことも直感していた。感覚のみの会話を繰 り返しているうちに、返事より先に相手の答えが分かってしまうことがある──不便でも便利でもない。ただ、問うているうちに自分で答えが予想できると、無 駄 な苛 立 ちだけが増していく。
予想は当たり、アザリーは答えなかった。が、微 妙 に逸 れた答えを返してきた。
「司祭たちの注意は今のところ、内部のわたしたちと、外部の《十三使徒》に集まってくれているようね」
「......それと、この聖域の真上に現れつつある〝女 神 〟とにね」
天 井 を指さし、レティシャはうめいた。
軽く、アザリーが同意する。
「そうね」
「まさか本物の神様に殺されそうになるなんて思ってもいなかった」
舌 の奥 で、レティシャは自分の感情を転 がした。味はしない。苦くもなく、辛 くもない。
ただ、ひどく喉 が渇 いた。
アザリーも同じ味を感じているのか──あの忌 まわしい精神体であっても? レティシャは疑問に思ったが、問いかけはしなかった。アザリーは、やはり感情をのぞかせることもなく言ってくる。
「もう間もなくよ......あれが大陸に侵 入 を果たすのは」
「本当にどうにかできるの? 望みはあるの?」
自 暴 自 棄 になりかけていることは認 めて、レティシャは声を荒 らげた──肉声で。
司祭らの盗 聴 を警 告 するアザリーの眼 差 しに、彼女はなんとか吐 き出しかけた言葉を呑 み込んだ。
「みんなを助ける方法があるってあなたがいうから......わたしは乗ったのよ」
「この時のために、天人種族は多くの遺 産 を残した。チャイルドマンという人間を、疑 似 時間転移させたことも含 めてね」
「その遺産は、役に立つの?」
この議 論 は今までにも何度となく、機会さえあればひたすらに繰 り返されてきたやり取りだった。だから、アザリーの答えも分かっている──彼女は常に、曖 昧 なことを言って別のやり取りとすり替 えようとするだけだった。
「オーリオウルの滅 亡 によって魔 術 文字の効 力 が消 失 する可能性がある以上、本当は一刻も早く魔王の召 喚 を開始しないとならないんでしょうけどね......」
結局は、アザリーにも分からないことなのだ。
絶望的な気分で、レティシャは嘆 息 した。
「どうして、あの司 祭 たちは反対するの?」
「リスクが高すぎるから......でしょうね」
アザリーは淡 々 と告げてくる。信じられずにレティシャは手を振 った。
「それでも正気とは思えないわ。大陸全部を切り捨てて、自分たちだけ助かろうなんて」会合は実質、司祭のうちひとりだけと話すことになっていた──あの澄 ました司祭プリーニアと。こんな場所で一生を過ごし陽 に当たらないせいか冷たく透 き通ったあの肌 に、えぐるほどに爪 を立ててやりたいと何度思ったことか。
あの聖服の男は、一日目にしか顔を見せていなかった。だがその後はレッド・ドラゴン種族に議場を見張らせている。護 衛 なしで司祭らが姿を見せたことは一度もない。強 いて言うならば初めて議場に招 き入れられたあの時は一対一だったが、それですら、なんらかの装 置 で精神支配を仕 掛 けてきていた。
「用心深いのか臆 病 なのかは知らないけど。我 が身 が可愛 いだけじゃない」
だが──
「どうかしら」
不意に否定されて、レティシャはきょとんとした。
「......どういう意味?」
聞き返すとアザリーは、なにかを計算するように冷静な眼 差 しを見せた。答えてくる。
「別に。ただわたしには分かる気がするだけ。彼女らにとって本当は、助かることなんてたいして重要じゃないんでしょう。こんな聖域に閉じこもっていれば、生き延 びることがただの義務の連続でしかなくなるんじゃないかしら」
こちらの反論を待たないまま、続ける。
「ここの住人には、生活なんてないんだもの。ただ結 界 を維 持 するためにあの手この手と足 掻 き続ける毎日。そして今、彼らに見捨てられようとしている外の住人は?──聖 域 のことなんて知らずに、気ままに人生を謳 歌 してる。あの司祭たちが〝ざまぁ〟と言ったところでわたしは驚 かないわね」
と彼女が言葉を切ったところで、レティシャは険 悪 に囁 いた。
「でも、そんな卑 しい話ってある?」
「そりゃ卑しいでしょうよ。でも誰 もが、そんなものじゃない? 怪 物 みたいな姿になって五年間、かつての仲間に命を狙 われながら逃 げ回ってみなさいよ。あなただって追いつめられれば、喜んで先生を殺せるくらいには──」
そんな話を聞かされて。
レティシャはさすがに堪 忍 袋 の緒 を切った。
「それはもともとがあなたの自 業 自 得 でしょう!」
だが、怒 鳴 られてもアザリーは、あたかも他 人 事 のように動じることもなく話を続けるだけだった。
「そう? じゃああれが事故だったらわたしは許 されたの? でも本当に卑しい話はそこではないの。元の身体 にもどったら、途 端 に先生や仲間を殺したことを後 悔 し始めたのよわたしは。これこそ本当に卑しい話じゃない?」
「......むかむかしてきたわ。もう話したくない。消えて」
吐 き気 にむせかえる胸を押 さえて、レティシャは再びうなだれた。
それでもアザリーは消えてはくれなかった。苛 むように、呪 詛 のようにつぶやくのが聞こえてくる。
「ここの連中も、外 界 を切り捨てることに成功したら、きっと後悔するんでしょうね......なにもかも手 遅 れになってから悔 やむなんて楽なことよね」
卑しさと卑しさでないものには、その程度の違 いしかない。感情に反して、アザリーの言わんとするところは十分に理解できた。やはりどこかで感覚がつながっているせいなのかもしれない。より以上に理解できる気すらする。
「聖域のために外界が切り捨てられるのを許せないのなら、外界のために聖域にリスクを負 わせるのも許されないことと考えるべきよ」
耳をふさいでも聞こえてくるアザリーの声には、悲 嘆 が感じられた。
◆◇◆◇◆
「我は放つ光の白 刃 !」
オーフェンが放った熱 衝 撃 波 を、子供の姿をしたそのレッド・ドラゴンは身体を左右に分 割 して回 避 した──しかもそのまま、二体に分かれて突 進 してくる。
(本体は......どっちだ?)
ヘルパートとの戦いから、どちらかは擬 態 だということは知っていた。擬態は本体から分 裂 して数秒で死 滅 する。観察によってその擬態を見破ることはできない。緑色の目を輝 かせて近づいてくる二体のレッド・ドラゴンに、オーフェンは素 早 く別の魔 術 構 成 を編み上げた。
「我は跳 ぶ......天の銀 嶺 !」
同時に、後方に跳 躍 する。
二体のドラゴン種族が同時に右腕 を伸 ばして放ってきた手 刀 を回 避 し、さらに距 離 を取る。擬態が消える数秒間までも稼 げたとは言い難 いが、着地を待たずにオーフェンは両手を突 き出した。
「我 が指先に琥 珀 の盾 !」
圧 縮 された大気の壁 が敵との間に障 害 を作り、さらに時を稼 ぐ。
レッド・ドラゴン種族の身体 が気 圧 に弾 かれ、後方によろめいた。ちょうど寿 命 を迎 えて、擬態の側であった一体が瞬 時 に朽 ち果てる。残った一方を見 据 えて、オーフェンは叫 んだ。
「我は放つ──」
が。
標 的 にしていたレッド・ドラゴンの姿が、瞬時に消える。
放ちかけていた構成を霧 散 させながら、オーフェンは片手でナイフを抜 いていた。
(地中に逃 げた?......いや!)
敵が消えたと思っていた空間の一点が揺 らぎ──
まるで絵が歪 むように、透 明 のなにかが突き進んでくるのが見えた。
(透明化⁉ )
完全な透明化ではない。野 外 で遠目でなければ、すぐに見分けがつくだろう。
光を透 過 させることも不完全で、なによりも緑色に輝く両目だけは変化させられないらしい。レッド・ドラゴンが近づいてくるにつれ、それらははっきり見えるようになってくる。宙 を浮 かぶふたつの目へと構 えて、オーフェンは構えを取った。
拳 を打ち込もうとした瞬間、透明だったそのレッド・ドラゴンは姿を現した。そして、そのまま萎 んで崩 れ落ちる。
(......また、分 裂 した擬 態 !)
ぼろぼろに崩 壊 する眼前の敵を見つめて、オーフェンは舌打ちした。全霊を注 ぎ込んで、敵の気配を探 る。だが彼が見つけるよりも先に──
どがっ!......
衝 撃 が身体を襲 った。が、直接に触 れてきたわけではない。
伝わってきたのは、地面からだった。振 り向くと、恐 らく地中から現れたのであろうレッド・ドラゴンが、ほぼ真っ二つに打ち砕 かれて動きを止めている。
プルートーの振り下ろした巨 大 な戦 縋 が、レッド・ドラゴンの身体を三分の一ほど刮 ぎ取り、地面に頭を埋 めていた。先ほどの衝撃は、これだろう。
跳 躍 をしているうちに、魔 人 の位置に近づいていたらしい。無論、レッド・ドラゴンはこの程度では痛 痒 も覚えない──すぐに戦縋の下から這 い出すと、人型にもどろうと変形を始めていた。
だが、今度はオーフェンが唱 えるほうが先だった。
「我は築 く太陽の尖 塔 」
威 力 を絞 った火の球が、レッド・ドラゴンの身体 を包 み込む。
瞬 時 に焼かれ、黒こげの塊 となったドラゴン種族がその場に倒 れた。レッド・ドラゴンはこの状態ですら死ぬことはないが、表面を焼かれると変形ができなくなる。戦 闘 能力を奪 うにはこれが最も手っ取り早かった。
ようやく一息ついて、あごの下を手で拭 う。と、プルートーは戦縋を持ち上げながら言ってきた。
「......魔術を連発すると意識が散 漫 になるようだな。疲 労 か?」
生徒の欠点を指 摘 する鬼 教師 と気 遣 いとの中間程度の彼の口調に、オーフェンはぐったりと肯 定 した。首 肯 した重みでその場に座 り込む。
「牽 制 程 度 の攻 撃 とはいえ、こう毎日じゃあな」
「とりあえずは、収まったようだ」
プルートーは無感動にそう言うと、あたりを見回した。
それにつられて、オーフェンもこの広い荒 野 の中で一地点に集まっている《十三使徒》のほうを見やった。負傷者をかばう形で、戦える体力の残っている者が周囲を固めている。オーフェンもそのひとりだった。が、昨日より、一昨日 より......と、戦える者の数は減 ってきている。
レキと合流してからは《十三使徒》からも死者は出ていない──が、それでも回復に時間のかかる者、単純に戦意を挫 かれてしまった者などが日に日に増えていた。
その負傷者らを守るように中央に鎮 座 するレキを眺 めながら、オーフェンはつぶやいた。
「......敵も、レキと戦うことは避 けて、まずは人間を消 耗 させようとしているな」
「そうだな」
そんなことは無論、プルートーも気づいていることだろう。当たり前のようにそう言うだけだった。
「我々がここから一歩も進めないことも考え合わせると、有効だと認 めざるを得んな」
「だが聖域だってこちら以上に戦力を削 られてるんだ」
と、オーフェンは焦 げて動けずにいるレッド・ドラゴン種族を示した。
プルートーが、首を振 らずに声だけで否定してくる──身振りで表すと見ている部下に不安感を与 えることを懸 念 しているのだろう。
「あの精 霊 魔 術 の結界に足止めされてから、もう五日になる。全員の士 気 は限界に近い。次に犠 牲 者 が出た時が、崩 壊 の時かもしれんな」
「......随 分 弱 気 だな。なにかあったのか?」
気になってオーフェンが訊 ねると、王都の魔人は苦 笑 してみせた。
「いいや。事実を客 観 的 に見ている。それだけだ」
そして、去っていく。
座 ったまま、オーフェンはうめいた。
(限界か......確かにな)
集合地にもどると、その思いはますます強くなった。
魔術士たちは見るからに疲 労 している。体力的にも、精神的にも。プルートーが限界と言ったのは、まさしく言葉通りの意味なのだろう。
もう五日間もこの地点に足止めされている。その間に幾 度 も攻 撃 を受け、負傷者も続出した。
まさか《十三使徒》に実戦の経験が乏 しいと──そう言える者はいないだろう。宮 廷 に迎 えられ、騎 士 並 の待 遇 を受けながらもこの一流の魔術士たちの役割は、つまるところ貴族連盟のために働くことである。その中には非公式の任 務 も含 まれる。最 接 近 領 への道中で出会った暗殺技能者 シーク・マリスクの顔を思い浮 かべつつ、オーフェンは胸 中 でつぶやいた。能力においては超 一級 、疑いもなく、ここにいる宮廷魔術士たちは、十五歳 という中 途 半 端 な年 齢 で訓練を放 棄 してしまったオーフェン自身よりも強大な魔術を有 している。体術、士気、精神力、あらゆる点で彼よりも上回っているはずだった。
(だがそれでも、ドラゴン種族が相手では足りない、か)
もとより彼らが意 気 揚 々 としていたわけではないだろう。
ここ数日での消 耗 はそれをさらに絶望の域まで追いやろうとしている。
沈 み込 んだ黒魔術士たちには会話もなく、風の中、ただ黙 して陰 気 な時間に耐 えていた。オーフェンが通りがかっても、顔を上げることもない。ふと、ロッテーシャのことをオーフェンは思い出した。連想というほどのことでもないが、《十三使徒》らを支配するこの意識の底は、彼女の暗い眼 差 しを思い起こさせる。
(そういえば、いなくなった彼女のことで、領主がなにか言いかけてたな。詳 しく聞き出しておくか......)
見回す。
黒 魔 術 士 の集団の中に、領主の姿は見当たらなかった。だが、その代わりに。
「はーっはっはっはぁ! なにやら疲 れ切って死につつあるな黒魔術士!」
聞き慣 れた声が──いや。
嘆 息 して、オーフェンはつぶやいた。
「なんかこー......えらく懐 かしいなぁ、おい」
ゆっくりと振 り向く。というより気づかずに通り過ぎつつあったのだが。そこには地人の兄弟が立っていた。ボルカンとドーチン。この沈 黙 の野にあって、浮き上がるほどの大声でボルカンが叫 んでくる。
「はっはっはっ。束 の間 の平 穏 も束の間、貴様に与 えられるのは終わりなき恐 怖 と苦痛。作・演出、俺 。協 賛 ・俺。この俺様の前で隙 を見せた貴様が悪いのだと言いつつどぉりゃぁー!」
「............」
剣 を抜 いて飛びかかってきたボルカンを横に避 けつつ殴 って地面に叩 き落としてから、オーフェンは残ったひとり──ドーチンに半 眼 でつぶやいた。
「で?」
「いや、まあ兄さんの行動理由をぼくに訊 ねられても困るわけですが......」
しれっと冷たく、ドーチンが答えてくる。
とりあえずそのあたりは流すことにして、オーフェンは続けた。砂に顔を埋 めてばたばたもがくボルカンの頭を踏 んで動きを封 じ、
「お前らひょっとして暇 なのか?」
「やることないんですよね」
と、身も蓋 もないことを言われ頭を抱 えながら──
不意に思いついてオーフェンは訊ねた。
「お前らひょっとして例の精 霊 魔術の結界、通れるか?」
「兄さんが暇を見て突 進 してましたけどものすごい飛び方しましたよ。なんていうかこう......レインボー的な」
「駄 目 か。いやレインボーってなんだ。答えなくてもいいが」
特に期待していたわけでもなかったが、ますます理解できずに嘆 息 する。
「通れる条件なんかねぇのかもな。あったとしても、どうもドラゴン種族の考えることってのは理解不能のような......」
愚 痴 を言うようにつぶやきつつ。
近づいてきた足音に、オーフェンは振 り向いた。引きずるような足音──フェイクの杖 をついて負傷したふりを続けている、最接近領の領主。アルマゲストのわざとらしい笑 みが目に入った。
領主は地人たちに礼してから、こちらへと視線を向けた。
「だが彼らの考え方を理解しなければ彼らとの〝交 渉 〟などおぼつかないな」
「なにか知ってるのか?......あの結界のこともだが」
半眼でにらみ付ける。が、アルマゲストは気にもせずにかぶりを振ってみせた。
「さあ」
「あんたはディープ・ドラゴンを引き連れて聖域に迫 るつもりだったんだろう。本当は最初からこの結界のことも知っていたんじゃないか?」
「ここで〝実はそうだ〟と答えられたら、さぞ痛 快 だろうね」
それが面 白 い冗 談 だとでも言いたげに、彼は声を出して笑った。
「だが、旧友よ。それは反 則 だ。わたしは確かに君よりも知覚と理解の範 囲 が広いが、全知ではない。君がどれだけの強さを誇 ろうと全能でないのと同じだ。聖域の防 御 は予測していたが、ディープ・ドラゴンが通り抜 けられないとは思っていなかった。確かにわたしは浅はかだった」
「じゃあ、知っていて嫌 みったらしくほくそ笑んでいるというわけではないんだな?」
皮肉は無視して、オーフェンは念 を押 した。
ボルカンの頭から飛び降りて領主へと詰 め寄 るが、手は触 れない。指先のとどく距 離 で立ち止まり、続けて訊 ねる。
「時間がないと繰 り返してたわりには落ち着いてるじゃねぇか?」
「君のように無 駄 なことで忙 しくしているわけではないのでね。深呼吸をする時間にはことかかない」
と。
「今だ! 奴 はなんとまたも再びこの不 死 身 の闘 士 ボルカノ・ボルカン様から目を離 すという愚 を犯 した! なのでこの瞬 間 まさに好機の一撃 必殺奇 襲 の、えーと、どぅりゃおうぅぅぁぁ!」
といった叫 びが聞こえ──
地面に伏 せていた体勢からいきなり跳 ね上がり、そのままレインボー的に飛んできたボルカンを、オーフェンは拳 で殴 って叩 き落とした。
勢いよく突 進 してきたところを迎 撃 され、もみくちゃに落 下 しながらも、ボルカンはまだつぶやく元気を残していた。
「何 故 ......何故、俺様の奇襲が......またあの空の下で再会し殺せたはずだったのに......」
「お前、〝今だ〟とか叫んでから何秒経 ったと思ってんだ」
「むう......確かにシンプルに『死ね貴様りゃー』あたりでも良いかなーとは思ったのだが......」
案 外 大 丈 夫 にけろりと起き上がるボルカンに、仕方なさそうにドーチンが駆 け寄って手を貸そうとしている。
そのふたりを見下ろし、オーフェンは嘆 息 した。そのまま訊ねる。
「お前らがここにいるのは、単にお前らだけじゃ荒 野 を帰れないからだよな?」
「ええ」
うなずいてきたのは、ドーチンである。
オーフェンは兄弟ふたりを見比べた。
考えてみれば地人種族の生態などよくは知らない。あまり知ろうとしたこともない。大陸南 端 の自治区に追いやられ、極 寒 の地で静かに暮 らしているというのが一 般 の認 識 だろう。あまり一般的ではないかもしれない今までの経 緯 によって、オーフェンはそれより多くを知ることになった。とにかく頑 丈 で、適当にどうにでも生き延 びる生命力を持っている。知能程度は高い......まあ少なくとも人間と同等かそれ以上。
白 魔 術 士 ダミアン・ルーウの持ち出したゴーストを信じるならば、地人種族には雄 と雌 がある。が、それが人間種族と同じ意味合いのものなのかどうかは不明である。こんな逸 話 がある。ある学者が地人種族の生 態 を調べようとマスマテュリアに赴 いた。地人種族の間には人間種族に酷 似 した社会形態があり、家族形態があった。学者は地人種族を理解するのはそれほど難 しくはない──少なくともドラゴン種族のような得 体 の知れないものと比 べれば──と判断した。
だが地人種族には変わった風 習 があることに、学者は気づいた。月に一度、真夜中から広場に大勢が集まり、いっせいに殴 り合いを朝まで続けるのである。これはなんの祭りかと学者は訊 ねた。地人は、これは増 殖 だと答えた。
地人種族が百人、広場に集まる。真夜中から夜明けまで、無差別にひたすらごちゃごちゃ殴り合いを始める。そして朝になると、いつの間にか百一人になっている。いったい誰 が増えたのかは、殴り合いをしていた当人らにもよく分からないらしい。
それを目の当たりにした学者は病気勝ちになり、今も療 養 生活を続けているという。彼が退院した時、きっとこの報告は発表されるだろうと伝えられている。
そんな学者は実 在 しない。それは都市伝説だという説もある。オーフェンもあまり真 に受けたことはなかった。が、なんとはなしにこの瞬 間 それを思い出し──これもまた理由なく、信じる気になってくる。
しばし長くうつむいてから、オーフェンは口を開いた。これから自分が言い出す内容が心を重くする。
「お前らの借 金 」
と、即 座 にボルカンが首を傾 げてみせた。
「む? 借金とはなんの話だ?」
「......どうも本気で忘れてるっぽい気がしてならないが。まあいいさ。あの借金な。もう返さなくていいぞ」
一気に告げる。
「今夜あたりプルートーに持ちかけてみるが、負傷者とか、これ以上この土地に留 まれそうにない者くらいは王都に帰 還 させるべきだ......お前らもそれといっしょなら、王都まで行けるだろ」
ふたりを見ると──
ともに、特に驚 いた様子もなくただぽかんとしていた。
しばし待つが、依 然 反応はない。
仕方なくオーフェンは促 した。
「......なんでノーリアクションなんだ?」
「前に一回それで騙 されてるんですが......」
冷静に言ってくるドーチンに、オーフェンはかぶりを振 った。
「いや、今度は別にその代わりなにかやれとか、そういうのじゃないし」
「本当ですか?」
非常に疑 り深い。とにかくオーフェンは半 眼 でうなずいた。
「ああ」
「なにもやらなくていいからその代わりに借金を返せとか言い出しませんか?」
「いや意味分かんねぇし」
ようやく......
ボルカンは変わらず忘れたままのようだったが、ドーチンの眼鏡 の奥 で目が動くのを、オーフェンは見た気がした。驚 愕 の形に口を開き、ドーチンが叫 び出す。

「な、なななななんでまた! 世界が滅 んでもそれだけはあり得ないと思ってました」
「いや、滅びかけてるけどな」
気の乗らない返事をしてから──オーフェンは、話を終えて振り向いた。
「............」
だが、もうそこに領主の姿はなかった。
「オーフェン」
呼びかけられて、振り向く。と、そこにいたのは金 髪 の少女だった──両手を後ろ手にして、こちらを見上げている。
話すには、やや距 離 があった。オーフェンは半歩ほど後もどりして距離を詰 めてから、
「なんだ?」
聞き返す。
クリーオウの表情を見るまでもなく、それは馬 鹿 げた問いだったのだろう。用事があったのだろうから呼びかけてきたのだろうし、用事がなかったからといって呼びかけていけないわけでもない。
とはいえ、疑問に思ってオーフェンは彼女へと視線を注 いだ。レキはいない。離 れたところ──負 傷 者 の集まっているキャンプに、先ほどと変わらず座 り込 んでいる。領主の館 で再会してからは、クリーオウはレキから離れていなかったはずだった。
彼女は小さく咳 払 いしてから、言ってきた。
「話、しようかなと思って」
「......ふうん」
特に気にせず、うなずく。
と思い出して、オーフェンは付け加えた。行く手を適 当 に示 しながら、
「領主を探してるんだ。歩きながらでもいいか?」
「うん」
少し早足になってクリーオウが追いついてくる。並んで歩いて、オーフェンは彼女より先に口を開いた。
「なにか変わったか?」
「え?」
きょとんとするクリーオウに、さらに訊 ねる。
「いや、前に、ディープ・ドラゴンの使い魔 になっていた娘 のことを思い出したのさ。精神支配は、人 格 に影 響 することもあるから」
「うーん......自分では分からないけど、わたしなにか変?」
「他人にも分からないさ。なにか印 があるわけでもないだろうし」
どう続ければ良いのか分からず、告げる。クリーオウは、くすっと笑ったようだった。
「オーフェンもマジクも、少し変といえば変よね」
「まあ、こんな状 況 だからな......そういえばマジクの奴 も姿が見えねぇな」
と、見回す。
あたりは荒 野 だが、広いだけに地形の凹 凸 や物 陰 もある。たまたま見かけなかったとしてもそれほど不思議ではない。
風に髪 を取られて、クリーオウがわずかに立ち止まる。オーフェンもそれにつられて足を止めかけたが、そのまま進んだ。すぐに追いついてくるだろう。
「変っていえば変なのかな......わたし、いろいろね。考えるの」
「今までなんにも考えてなかったのか?」
それこそ特に考えず、聞き返す。
彼女は駆 け足で追いかけてくると、そのまま言ってきた。
「んー......あまりなにも考えてなかったんじゃないかな」

「そうかぁ? そうでもないだろ」
「オーフェンは、今なにを考えてるの?」
クリーオウの質問に、オーフェンは嘆 息 した。
「あの精 霊 魔術の結界をどうやって通るか......かな」
「そうかな。どうやって通れるか考えてるんじゃなくて、通れないってことを確 認 してるだけだったりしない?」
言われて、今度は立ち止まる。
不意を突 かれてきょとんと少女を見やると、クリーオウもそれを待っていたようにこちらを見上げて足を止めていた。少し照 れたように鼻をこすって微 笑 している。
「考えるってそういうことなのかなぁって......思うようになったんだ」
「まあ、確かにな」
認めて、オーフェンはつぶやいた。
「なにか考えでもあるのか?」
「ううん......ごめんね。言っただけで、わたしもなにか思いついたわけじゃないんだ」
今度は彼女が先 行 するように、こちらを追い抜 いていく。肩 越 しに半分だけ顔を見せてあとを続けてきた。
「あと五日だっけ」
「ん? ああ」
うなずく。
クリーオウは指を五本立てて、それを見下ろした──感情なく、たまに見せるようになった空 虚 な眼 差 しで。
「いきなりそんなこと言われてもさ......って思うよね」
「そうだな」
「五日でできることって、なにかあるのかな」
「うん?」
聞き返すと、彼女は指を畳 んで言葉を探しつつ、
「えーと......ほら。これだけはやっておこう、て思ってさ。五日で全部できることってあるのかな。わたし、そんなのないって思うのよね。五日じゃ満足できない。なにをするんでもさ」
「クリーオウ、どうかしたのか?」
彼女の言っている内容に違 和 感 を覚えて訊 ねる。
だがその少女は、はぐらかすように肩をすくめてみせてから、
「オーフェンだって、さっきから『そうだな』ばっかりだよ」
「あ......」
指 摘 されて、オーフェンは口ごもった。
「いや、別に真 面 目 に聞いてなかったわけじゃないんだ。本当に。ただ......」
言い訳しようとするが、彼女はそっと手を前に差しだした。制 止 の意味だろう。にっこり笑って、言ってくる。
「......ごめん。やっぱりオーフェン、心配事たくさんあるのよね。もうちょっと落ち着いてから話すことにするね」
くるりときびすを返し去っていく少女の後ろ姿と、荒 野 の風に運 ばれる金色の髪 を見送りながら、オーフェンは追わずに立ち尽 くした。呼び止められない距 離 ではないが、そうしたところで、なにを言えばいいのかも分からない。得 体 の知れない不安が胸をよぎるが、それを捕 らえて正体を聞き出す度 胸 がないことを、自分で認 めざるを得なかった。
己 の未 熟 さで相手を傷つけてしまったことに自 己 嫌 悪 を覚 えながら、胸中でつぶやく。(限界......か。考えてみりゃ、クリーオウが一番体力ないだろうしな)
それは自分にも言えるのかもしれない。
あと五日。なにをするにも、破 滅 を避 けるにも、時間が足りない。
◆◇◆◇◆
そろそろ時間だということは分かっていた。
時計を見て知ったわけではない──
迎 えが来たわけでもなく、またこの聖域では窓の眺 めから時間の経 過 を察することもできない。
レティシャ・マクレディは、それでも時間だと理解してベッドから転 げ出た。床 で寝 そべっていたフェアリー・ドラゴンを踏 みそうになるが、相手は避 けてくれない。億 劫 ながらも、レティシャは身をよじって落下を防 いだ。
起き上がり、乱 れた髪を手で撫 でつける。今さら身だしなみを気にする意味もないが、ストレスと疲 労 からひどい顔をしているのだろうということは認めていた。ふと、このまま日常にもどったらどうなるのだろう......そんなことを思いつく。荒野を彷徨 い、人を殺してまで生き延 び、わけの分からない世界の破 滅 などという重 圧 から肌 も荒 れ、さらに悪 霊 に取り憑 かれて正気も失う寸前。負った怪 我 はアザリーの力で無理やりに治 されたものの、拳 銃 弾 で腹部を撃 ち抜 かれた喪 失 感 はまだ記 憶 に残っていた。
聖域に来てからは、不 毛 な論 争 、絶 え間 ない精神支配とも戦わなければならなかった。ろくに眠 ることもできず、味方もいない。ハーティアの行 方 が分からなくなっていることが気がかりだったが、それを確かめることもできない。
(わたしはもう......使い物になるのかしらね)
沈 鬱 なつぶやきを繰 り返し、苦 笑 いする。
(どうなのかしら。この格 好 で家に帰ったら、ティフィスは玄 関 のドアを開けてくれるかしら)
帰れるのだろうか。
それを思い出し、彼女はさらに鬱々と首を振 った。
(帰りたい......もうこんなことをしていたくない。世界なんて滅 んでしまえばいい。あと五日。それで滅んで惜 しいものなんて、わたしには......ない)
五年前の、あの日から。
なによりも大事だった妹や弟はいっぺんに離 散 し、なにひとつとして残らなかった。
「......本当に?」
聞こえてきた声に──
怒 りの形 相 で顔を上げ、拳 を固める。紛 れもない戦 闘 態勢で、レティシャは敵を探した。が、部屋の中に精神体の姿はない。彼女の脳 裏 に疑 問 符 を注 ぎ込 んだのは、間 違 いなくアザリーだろう。からかうでもなく、嘲 笑 うでもなく、それは不 可 解 な囁 きだったが、確かに聞こえた。
「わたしになにが残ってたっていうの!」
歯を軋 らせ問いつめる。
アザリーは変わらず姿を見せなかったが、その声はさらに耳元へと近づいてきたように聞こえた。
「あなただけの出発点が」
「そんなのは......詭 弁 よ!」
「それでも、卑 しくはない話よ」
すっ......と。
ほんの目の前だった。アザリーが現れる。
握 りしめた拳 は突 き出さず、レティシャは相手をただ見 据 えた。アザリーは静かに、あとを続けた。
「戦い続けましょう。キリランシェロも、もうそろそろこの聖域に来る」
その声が、あまりに率 直 だったせいだった。こらえきれずレティシャは顔を背 け、吐 き捨てた。
「あの子だってもういい加 減 、嫌 になってるに決まってる」
「そうかしら。キリランシェロの役 割 は、彼が自分で選んだものだもの。ハーティアも、コルゴンもね」
確信を揺 るがさないアザリーの声に、さらにかぶりを振 る。
「こう言いたいの? わたしだけが燻 ってるって──」
「否定はしない。でも、燻ってるだけマシじゃない? わたしはもう燃え上がることすらない。幽 霊 だものね」
「それを自覚してるのなら、どうしてまだ存在しているの......」
再び顔を上げ、相手を見る時には──レティシャは力が抜 けるのを感じていた。怒 りも嘆 きも長くは続かない。絶望の中では。
レティシャは両 腕 を伸 ばした。妹を抱 き寄せようとしたのだが、触 れた指に感 触 がない。もはや実体を真 似 ることすらできないのか、アザリーは触れられたことすら気づかない様子で、半歩ほど後退した。
「きっと、口さえきければ、あなたと喧 嘩 していられるからでしょうね」
そして、部屋の出口へと顔を向ける。
「行きましょう。わたしたちが司祭の注意を引いていれば、それだけみんなが楽になる」
「......ええ」
やはり、なにも残らなかった手の中を丸めて──
レティシャはうなずいた。もとより分かっていたはずだった。手の中に残らなくとも、すべてがなくなったわけではない。
「キリランシェロ君......キリランシェロ君」
揺 り動かされながら名前を呼ばれ、その声に含 まれた焦 燥 に神経を尖 らせる。夢を見たかどうかも定 かではない短い夢から覚 醒 しつつ、オーフェンは頭を振 った──
「う......もう、交 代 か?」
薄 目 で見やるとまだ空は暗い。
自分に触 れている手を、オーフェンは意識した。肩 を押 し、彼を起こそうとしているその手のひらからは、やはり緊 張 した震 えが感じ取れた。
「ううん。途 中 で起こしてごめんなさい。様子が変なの」
イザベラだった。まだ暗い星明かりの下だが、一見して顔色が良くない。このような場所で無 論 のこと化 粧 などしているはずもないが、それにしてもひどい──意中でつぶやきながら、身を起こす。
と、唐 突 に光が瞬 いた。離 れた場所で、魔 術 による爆 発 が起こったのだろう。振 動 が伝わってくる。オーフェンはイザベラの返事を待たずに声に出した。
「......また襲 撃 か?」
それにしては静かではある。胸に生まれた不自然さを嚙 みしめながらあたりを見回す。荒 野 の風景は変わらず、夜の闇 もまた変わらない。
連日の散 発 的 な襲撃は、黒魔術士たちの眠 りを浅くしながらも、なんとか犠 牲 を出さずに済 んでいた。疲 弊 はしていても《十三使 徒 》は状 況 に慣 れつつある──その中でイザベラがいつになく緊張していることが、なにか決定的な変化を予 感 させ、オーフェンは不安に歯がみした。とうとう犠牲者が出たのかもしれない──それで全体の士気が崩 壊 する状況にあるというプルートーの言葉とともに思いつく。
だが、イザベラの返 答 は予想を裏切っていた。
「いえ......襲撃はいつものことなんだけど。場所が少し違 うの」
「場所が?」
寝 ていた場所からあたりを見回す。
オーフェンは毛 布 から抜 け出しつつ、凝 り固まっていた身体 を戦 闘 服 の上から確かめた。異常はない。少なくとも、ないと思える。それは見回した結果も同じだった。いつもと変わるわけではなかった。休 憩 所 となったこの地点には、負傷者とともに休憩中の黒魔術士たちの寝るテントがある。オーフェンはなんとなく《十三使徒》らといっしょにいる気になれずに毛布にくるまって外で寝ていたが。
なんにしろ、それを守るように巨 大 な黒 狼 も地面に寝そべって──
と、目をぱちくりする。
「レキがいない」
「ディープ・ドラゴンだけじゃないのよ。いないのは」
ようやく要点に近づいてきたイザベラが、混 乱 した頭を落ち着かせるように深呼吸を何度か繰 り返した。
「プルートー師も、マリア先生も......ナンバーズもいないの。残ってるのは負傷者を含 めて《十三使徒》の半分くらいで......」
「なんだと?」
にわかには理解しがたいが、それでも気を落ち着かせようと手のひらで顔を拭 った。その間に、まず優先して確かめなければならないことを思い起こす。中 途 半 端 な休息がかえってたたったのか、思 考 の速度は自分でもぞっとするほど緩 慢 だった。
「クリーオウと、マジクは?」
「ぼくはここにいますよ」
と、声が聞こえてくる。
よく見るとイザベラの影 にマジクの姿があった。身体を縮 めているのは、足を引きずっていたせいだろう。
「......お前、怪 我 してるのか?」
オーフェンが訊 ねると、マジクはかぶりを振 ってみせた。
「いえ。ちょっと......その、挫 いただけです」
「そうか」
それについては特にどうとも思わずに、イザベラへと向き直る。
「......それで、クリーオウは?」
「いないわ」
暗い声 音 で──だがはっきりとイザベラが答えてくる。こういった時に、彼女は返答の正確さを遠 慮 しない。
レキがいなくなっていることで、おおよそ予想のついていた返事ではあった。拳 で手のひらを打ちながら、続けて訊 く。
「地人たちと、領主は?」
「領主は姿を消したわ。あの地人たちはいる。王都への帰 還 部隊といっしょにね。まだ出発してないけど......」
と、彼女の囁 きにオーフェンは驚 きの声をあげた。
「プルートーは、帰還組の編成を承 知 したのか?」
彼が昨夜──といっても数時間程度前のことでしかないが──進言した時には、今までと同じ、考えておくの一言しか返ってこなかったのである。これまでと同じであれば、その返答は否定と同じだった。
プルートーの部下にあたるイザベラにも、それは意外だったのだろう。深刻そうに眉 根 を寄せてみせた。
「ええ。だから少しおかしいとは思っていたの」
「いなくなった連中はどこに行ったんだ?」
こんな時でさえ胆 力 を残しているイザベラに甘 えてつい訊ねたが、これも愚 かな問いだとは気づいていた。彼女はじっとこちらをのぞくように眼 差 しを注 いでから、
「......逃 げたんだと思う?」
「プルートーに、マリア教師、《十三使徒》の精 鋭 か......いなくなったのがこの連中じゃなけりゃ逃げたんだと思うところなんだけどな」
「それに、ディープ・ドラゴンもね」
「気づかない一 瞬 で全員殺されたというのも考えにくいな。レキが含 まれてるなら」
となれば──
残った可能性について、オーフェンは顔を上げて眺 めやった。遥 かな荒 野 と星空。そして遠くに見える黒い樹 海 ......その手前に、見えるわけではないが厳 然 とそびえる精 霊 魔 術 の結 界 。
「もし、あの結界を越 えたのなら」
イザベラがつぶやくのが耳に入った。
「その瞬間に精神士たちが聖域までの空間転移を強 行 すると、プルートーは説明していたわ。なにかの拍 子 に結界を越えて、わたしたちが気づかない間に聖域まで行ってしまったのかも......」
「なにかの拍子、ではないな」
嘆 息 しながら、オーフェンは彼女の言葉を否定した。
「消えたメンバーが整 い過ぎてる。故 意 だ。プルートーは負傷者と、それを守れるぎりぎりの戦 闘 員 だけをここに残した」
昼と夜の風は方向も温度も違 うが、乾 いた砂を運ぶその重さは変わらない。ざらざらと肌 を削 るような激しい風の中、オーフェンは立ち尽 くして《フェンリルの森》を睨 みやった。油断していた──聞きかけて途 切 れたクリーオウの言葉を思い出す。疲 労 と小休止の繰 り返しで思考を停 止 させていた。
(取り返しが......つかないのか? これは)
服の下で、鳥 肌 が立つ。
プルートーらが聖域に着いたのならば、戦闘はもう始まっているだろう。領主を連れて行ったとすれば、第二世界図塔 とやらを奪 取 するという計画に乗るつもりなのだ。領主の案については交 渉 の材料として提出したつもりだったが、プルートーの行動を後 押 しすることになってしまったのかもしれない。
砂の混じった固い唾 を呑 み込んで、オーフェンはイザベラに向き直った。
「......ここに残ったのは何人なんだ? 全体の指 揮 は誰 が?」
「若手がほとんどよ。一応、最年長のディックがまとめてる。彼は王都帰 還 組を率 いることにもなってる。負傷者と、戦意喪 失 者 ......あとは少数の戦闘員よ」
「それは俺 たちも?」
「ええ。含 まれてる」
爆 音 が......
なにかを思い出させようとするように、足下から響 いて胃 を震 わせた。そのディックだか誰 だかが、離 れた場所でドッペル・イクスを迎 撃 しているのだろう。先ほどから聞こえてくる攻 撃 音 はまばらで、そのことが楽 観 の材料になるのか否 か、そこまではオーフェンも判断がつかなかった。が、レキがいなくなったことで、簡単に追いつめられてしまったことも事実である。
オーフェンは戦闘服の鞘 に入った短 剣 を確かめ、またもどした。
「襲 撃 は防 げそうなのか?」
「分からないわ。せめてマリア先生が残っていてくれれば......」
それまで気 丈 夫 さを保っていた彼女の声が、わずかに揺 らぐ。
オーフェンは横目で、あたりを見回した──負傷者らはテントの中にいるが、この夜中では囁 き声も耳 聡 い者には聞こえただろう。動 揺 が広まるかもしれない。
イザベラの肩 を叩 いて、彼は告げた。
「マリア教師は、プルートーといっしょに行ったんだ」
「......ええ」
やや弱まった声を吐 く彼女に、さらに力を込めて肩を押 す。
「ここにいて君を守ることよりも、もっと重要なことのために。彼女なら、プルートーが早まったことをするのを押さえられる」
再び遠くに爆発が見えた。それを示 し、続ける。
「だから今のところは彼女に任 せて、そっちは考えないことにしよう。マリア教師はマリア教師で、君のことを信 頼 してここに残したんだ。現状でやるべきことを優 先 しよう──まずはひとりでも多く無 事 に生き延 びる」
「そうね」
うなずいて、イザベラが声をあげる。
彼女と目が合うより先に、オーフェンは視線を外 した。マジクを手 招 きして告げる。
「お前はイザベラと組んで負傷者テントを守れ。俺は襲撃のほうを見てくる──」
「それは反対です」
ぱっと顔を上げ、マジクが制 止 してくる。
こちらが一 瞬 啞 然 としているうちに、マジクは反論を続けた。
「単独で動くオーフェンさんのほうが危険でしょう? フォローが必要なのはオーフェンさんじゃないですか」
「いや、俺は──」
否定しかけるが、横から何者かが腕 に触 れてくるのを感じて言葉を止める。イザベラだった。
「疲 労 で調子を落としてるでしょう? わたしのほうは大 丈 夫 。ディープ・ドラゴンのおかげで、負傷者といっても動くこともできない人はほとんどいないし」
「......そうか」
認めて、言い直す。
「なら、マジク、お前は俺のフォローを頼 む。イザベラ、さっき言ってた襲 撃 が少し違 うっていうのはなんなんだ?」
訊 ねるとイザベラは難 しげに顔をしかめてみせた。
「わたしも状 況 を全部把 握 してるわけじゃないんだけど......どう言ったらいいのかしら。今までは、敵はディープ・ドラゴンを恐 れてか遠くからちくちくと牽 制 してくる感じだったでしょう? 今夜は、それよりもさらに遠いの」
「遠い?」
「ええ。主力を誘 い出すみたいな」
「陽動にしては、あからさまじゃないか?」
遠い戦 闘 音 へと注意をもどしながら、聞き返す。
と、イザベラも困ったように、
「わたしもそう思う......ディックだってそれは分かってるからわたしをここに寄 越 したんだし。陽動っていっても、向こうもこちらの戦力を引きつけるために自分の戦力を使ってるわけだから、結局こっちに回す余 力 はなさそうだし......」
「そうだな」
「っても、向こうも意味のないことはしないだろう。警 戒 しながら、こちらも最低限のことだけしていこう。まずは相手を無 力 化 する」
「はい」
マジクの返事を受けて、オーフェンは移動を開始した。距 離 があるため、走っていくのは馬 鹿 げている。が、戦闘音の聞こえるほうに早足で進んでいく。
背 後 に遠ざかっているであろうイザベラを、振 り向いて見やることはしなかった。
彼女は嘘 に気づいただろう。
オーフェンは、胸のうちでそんな思いを嚙 みしめた。
イザベラは気づいていただろう。全部嘘だ。プルートーやマリア教師がイザベラや彼、若い魔 術 士 らをここに残したのは、単に聖域に攻 め込むことが全 滅 を意味すると承 知 しているからだ。
すべての《十三使徒》を犠 牲 にするつもりでここまで進み、だがプルートーは最後まで踏 み込 むことはできなかったのだ──だから自分たちだけで聖域に挑 むことを決めた。もしそうでないのならば、すべて説明してから行ったはずだ。
(プルートーめ......それが英 雄 でいるってことか)
状 況 を考えれば、その判断は愚 かとも言えない。
どんな手で抗 うにしろ成功率は極 めて低い。大人数であろうと、少人数であろうと。
ならば限られた犠牲を選 択 したということだろう。自分自身がその立場であれば、実際同じことをしたかもしれないとすら思う。
まだ遠い行く手に膨 れあがった魔術の光に、いくつかの人 影 が映って見えた。一 瞬 のことで、それがなにと戦っているのかまでは分からない。
ディックなる《十三使徒》のことを知っていたわけではないが、名前くらいには聞き覚えもあった。恐 らくディック・シモスーンだろう。王都のスクール出身で、いずれナンバーズ候 補 にもなるだろうという若い魔術士である。ここ数日の迎 撃 を受け持っていた魔術士の中に、ひとり目立った戦 果 をあげていた魔術士がいたが、それが彼だったのかもしれない。
「オーフェンさん」
マジクの呼びかけに、オーフェンは肩 越 しにちらと視 線 を向けた。急いで歩きながらのため、きちんと応じられたわけではなかったが。
「なんだ?」
「クリーオウは、オーフェンさんにもなにも言わず消えてしまったんですか?」
「............」
傷ついたような少年の表情を見ながら、オーフェンはかぶりを振 った。
「いや。なにか言おうとしていたんだろうが、俺が気づけなかった」
「なんでクリーオウが......こんなことを?」
「さあな。よくよく考えてみたら、俺にあいつの考えが分かったことなんて一度もない気がするな」
彼がつぶやくと、マジクもそれ以上は追 及 してこなかった。時たま響 く爆 発 を道案内に先を急ぐ。
と──
「止まれ!」
張りのある声で呼び止められる。
振り向くと岩 陰 から、角 張 った輪 郭 の好青年然とした魔 術 士 がひとり、出てきたところだった。両手を広げて仲間だと示しながら近づいてくる。
レッド・ドラゴン種族は人に化ける──警 戒 は解 かないままオーフェンは、その魔術士を見定めた。魔術による攻 撃 に出る前に、ドラゴン種族の瞳 は緑色に輝 く。それを見 逃 さなければ、なんとかかわせないこともない。
話しかけてきた魔術士に、オーフェンは訊 ねた。
「状 況 は?」
向こうも同じことは警 戒 しているのだろう。必要以上には接 近 してこなかった。それでも小声で囁 いてくる。
「それが誰 も──」
瞬 間 、その《十三使徒》の身体 が横にひしゃげた。
レッド・ドラゴンの変身。そう思うほどの変形だった。一撃で腰 を叩 き折られ、ふたつに折れてそのまま転 倒 する。悲鳴もなかった。そのかわりに、口から液状のなにかを吐 き出したようにも見える。乾 いた土にわずかばかりの潤 いをもたらし、その生命が終わる。
なにも見えていなかった 。ただその男が絶 命 したことだけは悟 った。叫 ぶよりも早く、舌打ちするよりも早く、後ろに飛び退 く。鋭 く重いものが闇 を裂 いて、目の前を通 過 していった。死角から死角へ。猛 烈 な踏 み込 みとともに飛び込んでいく。
マジクの立ち位置は把 握 していた。後ろに跳 ぶのと同時に、彼の襟 首 を摑 んで引きずりもどす。彼が転 ばなかったことは幸運だった。
まだ敵の姿は目 視 できない。およそ人間にはあり得ない速度でその黒い塊 は周囲を飛び回り、必ず死角から一撃を放 り込んでくる。
(ジャック・フリズビー......!)
まだ確 認 していない敵の名を呼ぶ。
勘 に頼 って左右に体 捌 きしながら、反撃の隙 を探す。魔術構成を編 んでいる時間はなかった。防 御 の構成を編んだところで、敵の一撃をとりあえず防ぐことにしかならない。攻撃のための構成は──恐 らく編み上がる前に敵に一撃されてしまう。
ずっと引っ張り続けていたマジクの身体 が、物音とともに不意に軽くなった。ぞっとする。かばいきれずに、吹 き飛ばされてしまったかもしれない。
が、左手に摑 んでいたものを見やってオーフェンは勘 違 いに気づいた。摑んでいたマジクの上着が千 切 れて、手の中に残っている。マジク本人は、地面にひざまずいていた。一瞬安 堵 しかけるが、事態は悪 化 している。マジクを残して彼が回 避 すれば、恐らくジャックはマジクを殺す。
(足を止めて打ち合うしかない──)
いや。
オーフェンは足を止めたが。同時に敵ではなく別のものを見ていた。マジクは立ち上がろうとしないまま、目を閉 じて集中している。彼は拙 いながらも手早く構成を編み始めていた。攻 撃 のための構成を。
(それは間に合わない)
ひとりでは間に合わない。だがマジクの意 図 を悟 ってオーフェンは、防御のための構成を編み上げた。叫 ぶ。
「我は紡 ぐ光輪の鎧 !」
そしてやや遅 れて、マジクの声もまた響 いた。
「我は砕 く原始の静 寂 !」
オーフェン自身とマジクとを囲む光の壁 の外で、空 間 爆 砕 の衝 撃 波 が膨 れあがる。
爆音と振 動 ......その後に、魔 術 の壁 は消えた。振動のまだ残る地面の上に立って、あたりを見回す。いかな化 け物 といえど、まともに食らえば無事には済 まない威 力 ではあった。が、やはりそれと思う場所にはジャックの姿はない。
息を整え──オーフェンは、マジクにつぶやいた。
「《十三使徒》の常 套 だな」
「え?」
「連 携 だよ。ひとりが防いでいる間に別の者が攻撃する。彼らがレキ相手にやっていたの、見ただろ?」
「あ......はい」
ぼんやりと言いながら立ち上がるマジクに、オーフェンはあとを続けた。
「敵の間合いを外 すことができた。お前のおかげだな」
「............」
うつむくマジクから視線を外し──
オーフェンは声をあげた。
「ジャック・フリズビー! 出てこい......まず俺と戦え! お前がほかの連中を襲 っている間なら、俺は容易 くお前の背 後 を取れる」
「どうかな」
無 骨 な声 音 が、答えてくる。
真正面だった。どこに隠 れていたのか、不意に、その巨 体 が現れる。闇 に溶 け出すような、黒い聖服。
大男は淡 々 と、あとを続けてきた。
「既 にお前たちが最後だ」
倒 れている、破 壊 された死体を示 しもしない。
「これでお前たちの戦力はほぼすべて潰 した。わたしとしてはもうこれで帰ってもいいのだが」
と、思い出したように言い直す。
「いや、そうもいかない......か。お前を討 ち漏 らしてはならない」
「主力はここにはいない」
オーフェンは吐 き捨てた。感情の後 押 しが、集中力を練 り上げる。
「それとも、プルートーやディープ・ドラゴンまで殺せたとでもいうのか?」
「それは無理だな......プルートーならば、こんな手にはかからなかっただろう。入れ違 ってしまったか」
あっさり認めて、ジャックが告げてくる。
「こちらの動きを陽 動 と見れば、当然、お前たちは迎 撃 に最低限の人数しか割 かない。少人数が相手ならば、わたしに好 都 合 だ......」
「マジク」
ジャックと対 峙 したまま、オーフェンは少年に呼びかけた。そうしながらも、神経を研 ぎ澄 ましていく──人生で最高潮の戦 闘 能力を導 き出すために。
「は......はい」
返事するマジクにオーフェンは続けた。
「こいつの相手は俺がやる」
「でも」
「俺は持っているすべての力、技術を使って戦う。お前はついてこれないだろう? お互 いになにをするか予想のつかない状態では組めない」
マジクの反論に、躊 躇 があったのは感じていた。その意 思 の隙 間 を埋 めるように、早口でさらに告げた。
「お前には、こんな殺し屋ひとり叩 き伏 せるよりも大事なことをしてもらう。イザベラに現状を報告しろ。どんな手を使ってもだ。その上で負傷者テントを襲 う恐 らくレッド・ドラゴンの別働隊がいるはずだ。それを防 げ」
「ぼ、ぼくが?」
「早く行け......今それができるのはお前しかいないんだ!」
声を荒 らげると、マジクはそれ以上食い下がってはこなかった。きびすを返し、来た道を駆 けもどっていく。
その走る後ろ姿を横目で見ながら、オーフェンは胸中でつぶやいた。
(......俺が思っていたより、速いな)
あの不 器 用 な少年が頼 れるなどと、今さら思えるわけではない。
静かに、それは認める。あるいはマジクは大陸最弱クラスの魔 術 士 だろう。五年前の自分──サクセサー・オブ・レザー・エッジなどというあだ名しか持つもののなかった、未 熟 で、拙 劣 で、短 慮 で、増長していたキリランシェロと同じくらい弱い 。
あの頃 の自分と、今の自分と。
マジクと、彼と。
なにが違 うのか、それは分からない。あるいはキリランシェロが自然と今の自分になったように、その違いはいずれ曖 昧 になって。どうでもよくなってしまうのかもしれない。
(だから......マジク。気づけ)
拳 を固め構 えを取り、オーフェンは囁 いた。
(お前はいつか必ず一人前の魔術士になるんだ。今でなくても、いつか必ず)
踏 み出そうとするその機先を──
ジャックの一言が、制した。
「追い払 ったか」
聖服の男は、両 腕 を横に垂 らして帽 子 の縁 に眼 を隠 し、そう言ってきた。右腕を見るが、骨折は治っているらしい。聖域にもどれば、治 癒 手 段 のひとつやふたつはあるのだろう。
改 めて、息を練 る。魔術によって空間を征服するのと同じく、五感が周囲に浸 透 していくのを待つ。広く......より広く、的 確 な位置に神経を伸 ばしていく。
「いいや。俺が行こうか迷 ったくらいだ」
オーフェンが告げると、ジャックは口を横に広げ、その端 を吊 り上がらせた──笑ったようにしか見えないが、どこか笑 みとは違うその笑みで、否定の声をあげる。
「お前はすべてを守れるほど強くはない......いや、そんな強 者 はそもそもいない。その現実は絶望の種 子 を育てる。誰も避 けられない」
「俺がすべてを守るんじゃない。俺は超 人 じゃない。俺は、ただの魔術士だ」
敵を前にしても動 揺 はなかった。言葉により否定されても、また心は動じない。
相手のすべての動きを予 測 し、それをすべてたった一手で打ち破る最良の技 ──それを夢想する。いや、ただの空想とも言えない。ジャック・フリズビーの繰 り出してくる拳こそ、まさしくそれに近い。
構 えの中に、オーフェンはさらに没 頭 した。告げる。
「だが、俺がここでお前を潰 す。長くかかりすぎたよ」
「限界を定める諦 観 もまた、絶望を育 む。避けられない」
ジャックは鷹 揚 にすべてを無視すると、あとを続けた。
「すべての力を使って、わたしと戦うと言ったか......ならば話してやろう。わたしのこの力は、悪 霊 の力だ」
右腕をこちらに向け、繰り返す。
「悪霊だよ。わたしの身体 に憑 いている。決して追い出すことはできない悪霊だ。わたしの人生はそこから始まった」
聖服の男の昔語りを聞きながら、オーフェンは黙 して集中力を高め続 けた。耳に言葉が入ってくる。それをも含 めて、すべて望む世界へと練 り込めていく。
ジャックは突 然 、それまで抑 えていた声を大きくした。
「子供の頃だ。朝目覚めると、身体のどこかしらの骨 が折れていた。土地の祈 祷 師 が、わたしの影 の中に潜 む悪 魔 の姿を見定めた。わたしの両親はあらゆる悪魔祓 いを試 して......そして疲 れていった」
大きく、そしてなにかを抱 き留 めるように両腕を挙 げる。山にも似た太い腕が、夜空に向かって屹 立 した。
「どうにもならなかった。ひどい時には両手両足が折れていることもあった。わたしの身体は傷 んでいった。満足に歩くこともできなくなっていった。ある日、言葉も発せなくなると、両親はとうとうわたし自身を悪魔だと見なすようになった。田舎 の村だった。彼らが未 開 であったことを責 めても仕方あるまい」
「語るのは勝手だが、俺は俺の都 合 の良い時に打ち込むぞ」
オーフェンは牽 制 したが、無視された。
だが実際、語るジャック・フリズビーに隙 があったわけではない──それこそベッドルームを包む得 体 の知れない悪霊のごとく、逃 げ場なく声が渦 巻 く。
「わたしは逃げ出さなければならなかったが、歩くこともできなかった。わたしが声を聞くようになったのはその時だ。その声に従 ってわたしは身を守ることができた。その声に従って初めて、折れた手足を動かすことができたのだ。わたしは村から逃げだして......そして街に出た。運が良かったのだろう。拳 の師 に出会い、そして、悪霊の正体を初めて知った」
突 如 、ジャックが急激な動きを見せた。が、それは突進でも攻 撃 でもない。頭から帽 子 をむしり取ると、それを足元に投げ捨てる。顕 わになったその顔は、顔から額 までも埋 め尽 くす肉の盛 り上がりに覆 われていた。
「生来の異常筋 力 。己 の骨を握 りつぶすほどの。師はわたしに、その力の使い方を教えてくれた。最も無 駄 のない動きをしなければ骨が耐 えられない。最も小さい動きでしか動いてはならない。自然と......わたしの聞いた声は、拳の奥 義 を伝えていた」
息を吐 く間もなく、聖服の男は素 顔 で今までとは違 う構えを取った。拳ではなく指の先まで伸 ばし、手のひらを上に腰 まで引いている。矛 のようなその手は、今までをも上回ろうとする人体破 壊 の意 志 の現れだろう。
叩 き伏 せ、打ち割り、引き裂 くための構えだった。
「拳とは修 練 だ。わたしには生きることそのものが拳の修練だった──そうしなければ立っているだけでも足が折れる。腕 を差し出すだけで肘 が折れる」
「......まるで魔 術 だな」
ようやく紡 ぎだしたオーフェンの言葉に、ジャックがにやりとする。
「そうだな。力と感情を制 御 しなければ生きることはできない」
もう語る必要はない。
敵は絶望の塊 だ。ジャック・フリズビー自身も絶望している。そして恐 らく、拳で戦えば勝てない敵だ......対 峙 する相手にまで絶望を振 りまいている。
オーフェンは息を整え、拳を握 りしめた。全身すべてを凶 刃 と化す。いずれに触 れても敵を貫 く、どこまでも細く鋭 い刃 となる。
膨 大 な戦 闘 経験の中から、思い起こす。
(ネイム・オンリーと同じ......か。だがジャック・フリズビーの身体能力は天然の上、制 御 する技 にも長 けている。比 べ物にならない)
「オアァァァァァァ!」
ジャック・フリズビーの奇 声 が、響 いた。
瞬 間 から今 宵 の悪夢にまで尾 を引きそうな長い掛 け声とともに放たれた敵の一撃 は、容 赦 なく速い。
直進であるかのように錯 覚 するほどの速度だが、決して直進ではない。見れば身体 を左右に振って、闇 に纏 い付く奇 怪 な足 捌 きで突 き進んでくる。その転身のリズムが視覚に幻 惑 をもたらし、また振り出す腕にさらなる威 力 を付 与 する。
オーフェンは無 言 で飛び出した。受けにも、逃 げにも回らない。烈 風 にも似たジャックの腕の内側に入り込むと、身体を沈 め回転しながら通り抜 ける──
その際に二発。急所へは至 らないが、ジャックの肉体へと拳 を触 れさせた。だがこの勢いのある重量物へと痛 痒 を与 えることはできず、敵の身体の強 靭 さを思い知るだけに留 まった。
互 いに直進していたのならば、そのまますれ違 っただろう──が、ジャックは直進していない。左右への振りを一方へと傾 け、容 易 に身体を反転させる。すべてが異常な素 早 さだった。
オーフェンもまた、ただ背中を見せるつもりはなかった。敵の猛 追 の隙 間 を見つけるとそこに後ろ向きに滑 り込み、肩 と背で突き上げてジャックを押 しやる。岩を押すようなものだったが。
(こいつは岩じゃない......)
念じて足を踏 み出すと、その一撃に鋭 さを加える。
(両足で立って歩いている。必ず倒 せる!)
体重差は絶望的だったが、ジャックはかえってこちらが逃げないのを見て取って接 触 を嫌 ったのか、ほんのわずかに身体を退 いた。さらに一撃、二撃と繰 り出されてくるジャックの手刀を死角への体 捌 きでかわすと、戦 闘 服 のブーツの縁 で敵のくるぶしを狙 う──腱 を切断することを目 論 んだ反撃だが、ジャックはまたも舞 うように身体を反転させ、いったん間合いを空けた。
竜 巻 に弾 き出されるように、オーフェンはジャックの腕 の中から飛び出すと、そのまま反転して向き直った。勢いがあったせいだろう。ほんの一 瞬 で間合いはかなり開いている。ジャックはこちらを追わず、再び先ほどと同じ構えを取った。
オーフェンは構えを変えた。半身は同じだが鞘 から短 剣 を抜 き、後ろ足のかかとを上げる──拳で攻 撃 するのでなければ、地面に根深く構える必要は薄 れる。これで速度を稼 ぐつもりだった。
ジャックは躊躇 わずに右腕を打ち込んでくる。その一撃をかいくぐり、肘 に刃 を合わせようとするが、ジャックが腕を引くほうが速い。速度では勝負にならない──オーフェンは自分に言い聞かせた──タイミングを合わせなければ。
短剣を短く左右に振 って、相手の踏み込む空間を狭 める。その上でオーフェンは左手で投 擲 用 ダガーを二本、隠 しポケットから取り出した。下からすくい上げるように、まずは一投──ジャックの喉 を狙 う。かわされることを見 越 して、さらにもう一本を投じる──今度は膝 を目がけて。
下方から上方へ、上方から下方への、角度の異 なる二本のダガーをかわすのはそう簡単なことではなかったはずだった。が、ジャックは蠅 でも追い払 うように腕を一振りするとどちらの剣をも弾 き落とした。いや──
地面に落ちたダガーは一本だけだった。オーフェンがそれに気づくと同時、今度はジャックが手首の動きだけでスローイングダガーを投げ返してくる。闇 夜 に閃 く金属色の刃を、オーフェンはかわさなかった。かわせば、ジャックがとどめの一撃を放ってくることは分かっていた。息を止め、覚 悟 を決めてこの刃を戦闘服の胸で受ける。
耐 刃 性 能 に優 れた戦闘服は、革 の表面を多少えぐられただけでダガーを跳 ね返してくれた。それでも切っ先の尖 った気 配 は、戦闘服の装 甲 を貫 通 してくる。痛みを無視してオーフェンは、さらに一歩を踏 み込んだ。互 いのつま先が触 れるほどの距 離 に。
真正面の対 峙 。敵の出方を待つことは愚 かだったが、どうしてもジャックのほうが速い。だが、
(一撃をかいくぐり──超 近距離で勝負をつける!)
その決意とともに。
衝 撃 は訪 れた。
瞬 間 、なにが起こったのかは理解できなかった。大量の水が頭上に落ちてくるような、暗く、重く、呼吸を妨 げるなにかが五感を覆 い尽 くしたのを感じていた。
本能は、身体 に対してなにかを命じている──逃 げろ──ひねれ──跳 べ──それらはすべて理性をわきにおいたところで発せられ、彼自身の思考は、特にやることがない。身体が投げ出されるのを感じながら、オーフェンは眠 ろうと足 掻 いていた。睡 魔 ではない。信じがたい痛みが、世界を閉ざそうとしている。
(打たれた......)
それに思い当たったのは、五感が現実にもどってきた時、背中から地面に落ちたその時だった。本能的にでも、防 御 しようとはしていたのだろう。まだ意識は残っている。だが腹から背中へと内 蔵 を無視して貫 く痛みに、呼吸もできない。砕 け散った破 片 をかき集めるような心 地 で、オーフェンは叫 んでいた。
(起きろ......立ち上がれ!)
ほんの刹 那 だが、痛みが消える。
土を摑 んで身体を引きずり、跳 び起きる。案 の定 、ジャックはとどめを刺 そうとこちらに踏み込もうとしている。
身体の故 障 個 所 を確かめている時間はなかった。足を引きずり全力で後退する。だが踏み込んでくるジャックのリーチに対して、後退しては避 けられないことを失 念 していた。間に合わない。ジャックの放った右 拳 が、胴 の真ん中に命 中 する。
痛みはなかった。
痛 覚 まですべて飛んだのか──そう直感するが、違 う。
拳の威 力 に押 され、さらに後ろへと打ちのめされながら、オーフェンは違いを理解していた。今の一撃には、戦 闘 服 の装 甲 を打ち抜 くほどの威 力 はない。
「............?」
打たれた腹 を押 さえながら、ジャックを見やる。聖服の男は打ち終わりの姿 勢 のまま、そこにとどまっていた。その右拳が、変形している。
「先ほどの打 撃 で拳が潰 れていたようだ」
まるで他 人 事 のような口調で、ジャックは右 腕 を下げながら苦 笑 混 じりに言ってきた。
「標 的 を間合いに入れておきながら、肝 心 の打法をしくじるとはな......わたしの失 策 か。それともお前の反射神経か」
「砕 けた、のか」
なんとか体勢を整えつつ、オーフェンはうめいた。先の一撃が必殺にならなかったとはいえ、深 刻 なダメージであることには変わりない。
ジャックは今度は左拳を腰 に落とした構 えに切り換 え、続けた。
「真に理想的な打撃を行わねば、わたしの身体 は崩 壊 する。だが......わたしは拳をひとつ失っただけ。お前は急所に一撃を受けた。もう今までのような動きはできまい」
(ンなこたぁ分かってる)
身体はその場でうずくまることを要求していた──泣き声をあげ、胃液を吐 き続け、のたうち回ってすべてを閉め出すことを求めていた。が、それらの衝 動 をすべてまとめて意識の奥 へと押し込めながら、オーフェンは戦闘態勢を保 った。
「そうまでして......」
痛みにひきつる肺 から、声を絞 り出す。オーフェンはゆっくり慎 重 に問いかけた。
「そうまでして、聖域のために働く理由はなんだ。なんだか、命が惜 しいようにも見えないんだがな」
「ひとつには、友人の死に応 えるためだ」
ジャックは答えると、さらに声をひそめた。
「もうひとつには、わたしの信じたものを完 膚 無 きまでに踏 み壊 す悪 魔 に出会うため、戦いの場はわたしに必要なものだ」
「......お前は、なにかを信じていたのか?」
なんとか耳に入った部分だけを問い返す。
と、聖服の男は祈 るように目を伏 せた。
「かつては、そうだった」
「絶望したのか?」
「そうだ」
「それで今は殺し屋か」
「この罪 と罰 がわたしを愛してくれるかもしれない」
まるで懺 悔 を聞いているようなものだった──この場 違 いな発 想 に、オーフェンは苦笑いを漏 らした。
それとともに、告げる。
「どん底には光もとどかねぇさ。這 い上がろうと上を見ればいい......なにかあるだろ」
「なにかとは、なにが?」
その手のありきたりな言葉には慣 れていたのだろう。あるいは獲 物 の命乞 いには飽 き飽きしていたのかもしれない。ジャックは面 白 くもなさそうに聞き返してきただけだった。
咳 き込んで、オーフェンはうめいた。
「さあな。知るかよ。なにかあるだろ。なにか」
「そう思えるお前は、単に幸福な男なのだよ」
「そうかよ......そうかもな」
まったくだ。胸 中 で毒 づく。
この世界は魔術を得た一方で、絶望という厄 介 な病 をも抱 え込んでしまった。
命と身体 を持った神々が、世界を滅 ぼし尽 くすという避 けられない流れを。
そんな世界に望めるものなど、なにもない。それも分かる。理解できる。
(だが──)
最後の一撃 になるその機 へと、全神経と残った体力、痛みを堪 える自 制 心 とをすべて注 ぎ込む。先の打撃を受けて、短 剣 はどこかに落としていた。視線を這 わせるが、見当たらない。
(なにかあるだろう!)
叫 びながら、オーフェンは踏 み出した。
何度目にもなる交 錯 の瞬 間 に向けて、思い通りには動かない身体を引きずり突 き進む。
ジャックは動かなかった。待ち受けて、哄 笑 を始めている。
その笑いの意味は分からない──このまま激 突 し、どちらかが死ねば永 遠 に訊 ねることもできない。戦 闘 は様々なものを意味なく封 じ込める。
(それでも、俺はお前を止める──これは殺人打法!)
速度が足りない。一歩を踏み込むごとに身体が痛み、集中力にひびが入っていく。あと半歩のところで、オーフェンは目を閉じた。ダメージを負 った反射神経でかわしきれないことは分かっていた。すべてを勘 に委 ねる。すべての戦闘経験を動員し、ジャックの一撃を予 測 する。
ほんの半歩にも満たない、身体の捻 り──その顔 面 を突 風 がすれすれに通り過ぎていくのを感じた。ジャックの攻 撃 だろう。それをかわした上で、オーフェンは目を見開いた。左右の腕 、拳 を重ねた特 殊 な構えを取ると、突 き上げるようにしてその拳をジャックの左胸へと突きつける。
(寸 打 による心臓打ち──)
血の味を感じたのは錯 覚 だろう。口の中は切れていない。
オーフェンは、動きを止めた。彼の拳はジャックの身体に触 れなかった。
そこには既 に彼の短剣があった。肋 骨 の間から突き上げるように心 臓 へと真 っ直 ぐ、ジャックの身体に深々と突き刺 さっている。
血液がこぼれていた。蛇 口 のように、短剣の柄 を伝って次々と滴 が垂 れていく。
大きく息を吐 いたのは、ジャックだった。こちらの身体を摑 もうとしたのだろうが動作は緩 慢 で、オーフェンは身体を下げてそのまま離 脱 した。
ジャックの巨 体 が、くずおれる。両 膝 を地面に落とし、聖服の男は言ってきた。
「......勝負は......ついていた」
彼の身体に刺さった短剣を見つめ、オーフェンはつぶやいた──
(あの時......打たれながら、本能で突き立てていたのか)
「実に......恐 ろしい!」
声が出せるような傷ではあり得ない。それこそ、即 死 しているべきその身体 を震 わせて、ジャック・フリズビーは声を上げる。
「お前のあれは......なんだ? かわせない......かわせる者などいない......!」
そのまま仰 向 けに、力を抜 いて倒 れていく。
地 響 きすら立てそうなその巨体の倒 壊 に、オーフェンは前に進み出た。ジャック・フリズビーの顔の横にかがみ込むと、驚 いたことに聖服の男にはまだ息があった。
「だが、これでどうする......? お前は、こんな技 で女 神 を殺せるか?」
荒 らげた息に熱がこもり、凍 える夜気の中に白い靄 を生んでいる。彼はそのまま続けてきた。
「できるわけがない......できるわけが。仮に女神に勝利したとして、この大陸になにが残る......」
それは譫 言 だと、分かっていた──が、オーフェンは反射的に叫 び返した。
「残るのは俺たちだ。守ることのできた誰もが残る。お前だって、残ることはできた! できたはずだ!」
「生き延 びてどうなる......女神を滅 ばした後に残るのは、神殺しの罪 だ」
ジャックは即 答 してきた。そのまま長々と告 げる。
「無論なにか罰 があるわけでもない。それを裁 く何者もいないのだ。だがそれ故 にその傷は拭 われることもない」

「うるせぇ......」
うめくオーフェンには構 わず、ジャックはひたすらに続ける。
「その後、そんな罪とともに大陸が永遠に存在を続けられると......そう思うのか?」
「うるせぇ!」
オーフェンは怒 鳴 ったが、そもそも制 止 することなどできないと──それも分かっていた。その譫言を続けている男は確実に死ぬ。死に逝 く者の言葉を止めるなど、それを見送る者にできるわけがない。
ジャックはそれを知って、嬲 っているかのようにも見えた。少なくともその言葉には嘲 りが含 まれている。だが、負け惜 しみではない──オーフェンは歯がみして認めた──ジャックはむしろ哀 れんでいる。愚 かにも生き残った者を哀れみ、悼 み、嘲っている。
今まで誰にも殺されることなく生きてきたジャック自身を嘲っていたように。その聖服の男の絶望の唇 は、言葉を途 切 れさせなかった。
「定められた死を逃 れたならば、今度は望まない永遠の生に煩 悶 する。人が神を望んでもそれが神ではない──ここはそんな世界だ。だからといってその神を殺せば、今度は本当に神の不在を認めるしかない。人は必ず破 滅 する定 めだ! 神が実在すると決まったその日からそうだったのだ!」
さすがに息が切れたのだろう。間を空けるが、それでもやはり付け足してくる。
「どこまで生きながらえたとしても......破滅が待っているのだ」
「だから、絶望したのか?」
オーフェンが問うと、ジャックはうなずいた。分 厚 い肉に覆 われた顔 面 に、どこか満足そうな笑 みを浮 かべて──語る場所を得た喜びだとでも言いたげに。
「心の平安なくば......生きていても仕方あるまい。眠 るような生を、平 穏 を、精神の安定を、人は望むはずだ」
「どうかな。俺は今まで厄 介 ごとばかりだったが......結構楽しかったよ」
「ふっ......ふふ......お前とて、いつかは絶望する。心の力が尽 きる。哀 れなライアン・スプーン・キルマークド。そしてわたしのように!」
その言葉を最後に、ジャック・フリズビーは絶 息 した。見開かれた目、大の字に倒 れた巨 軀 は、もう動かない。
この巨人の顔に触 れて、オーフェンはその死に顔のまぶたを下ろした。短 剣 は回収せずに立ち上がる。
オーフェンは、負傷者テントの方角を見やった。戦 闘 音 は聞こえてこないが、すぐもどったほうがいい。
そう判断すると、彼は駆 け出した。
そして、たった一声だけ、激しく吠 えた。
◆◇◆◇◆
焼け落ちるテントを前に、マジクは立ち尽 くしていた。どうして火がついたのか。魔 術 の炎 ではないのだろう。テントの中のランプが倒 れたか。なんにしろ崩 れ、倒れたテントは控 えめに燃え上がり、内部に生存者がいることは望めないように思える。
というより、死体すらないのかもしれない。あたりの様子を見て取って、マジクはそう考えを変えた。《十三使 徒 》らはテントの外に出て、襲 撃 者 に対 抗 しようとしたのだろう。が、それも虚 しく遺 骸 をまき散らし、事切れている。魔術士たちだけではなく、無力化されたレッド・ドラゴンの燃え残りも転がっていた。恐 らく、あの奇 妙 な聖服の男に主力を潰 されていなければ、十分に対抗できたのだろうが──
その発想は、今さら意味のないことだった。知らずにこぼれていた涙 を拭 って、マジクは進み出た。生きている者がいた。テントの前で、彼と同じように茫 然 自 失 していた女がひとり。イザベラだった。
あちこちの肌 を裂 かれ、血の跡 をこびりつかせたその姿は、この短期間で発生した戦闘の苛 烈 さを物語っている。彼女は疲 れ切ったように、地面に座 り込んでいた。両手をつき、うつむいて、なにごとかを繰 り返している。
「わたしは......わたしは」
涙に彩 られた自 責 の言葉は、彼に気づいて発せられたものではなかっただろう。彼女はこちらを見てもいない。ただ泣いている。仲間たちの亡 骸 に囲まれて、苦痛から鬱 ぎ込み、嘆 き、吐 いている。
見れば、彼女の負傷とて決して軽いものではなかった。最も危険なものと思える背中の裂 傷 を魔術でふさげないかと、マジクが手を伸 ばしてかがみ込んだ時──不意に、彼女が顔を上げた。
唐 突 な動作だった。彼女はこちらを見、素 早 く彼の手を摑 み取った。
「あなた......生きていたの?」
彼女の瞳 が揺 れ──そして揺れが収まっていく様を見て、マジクは彼女がショック状態にあったのだと気づいた。イザベラは頭を左右に振ると、ようやく傷の痛みを思い出したかのようにうめき声をあげ、言ってきた。
「キリランシェロ君は?」
見てきたことをかいつまんで話すと、彼女は安心したように息をついてみせた──まさかそんな敵ひとりに後れを取るようなことはあり得ないとでも言いたげな面 持 ちではあった。マジクはそれを肯 定 する気にはなれなかったものの、特に声には出さなかった。
が、あたりの惨 状 を見回し、つい言葉を漏 らす。
「......あれから、こっちが襲 撃 されたんですね」
嚙 みしめた悔 恨 の味に顔をしかめて、続ける。
「やっぱり、ぼくはこっちに残るべきだったんでしょうか」
それを聞いてもイザベラはかぶりを振 るだけだった。
「そうしていたら、死体がひとつ多くなっていただけよ。わたしが生き残ったのもただの幸運だもの。最初の攻 撃 で気を失って、例の精 霊 魔 術 の壁 まで弾 かれて──それで離 れた場所まで飛ばされて」
「生存者はいないんですか?」
「いないわ」
そう告げて、一拍 ──
イザベラは、わっと泣き出した。両手で顔を覆 い、大声で。
「これは、なんなの──ええ、覚 悟 はしてきた。してきたはずだった。でも、どうしてこんなことをしなくちゃならないの──」
「ぼ......ぼくらは」
おずおずと、マジクは切り出した。これまでイザベラに摑まれていた手が、放されて手持ちぶさたに揺 れている。
「ぼくらは、できることをしないと」
「できることって、なに⁉ 」
食ってかかるように、彼女が叫 んでくる。マジクは息を呑 んで──告げた。
「泣きやむことです。声を聞いて敵がもどってくるかもしれない。そうしたら、ぼくひとりではあなたを守り切れません」
きょとんと、イザベラの視線がこちらを捕 らえた。彼女は虚 を突 かれて形容し難 い表情を見せている。出すべき言葉を失ってしまったかのような彼女に、マジクは慌 てて頭を下げた。
「す、すみません。つまらないことを言って......」
が。
再び顔を上げると、そこに泣き顔の彼女はいなかった。うまく涙 を拭 き取り、イザベラは毅 然 とした眼 差 しで、
「いえ。いいわ。あまりに情けなくなって、泣く気も失 せた。まさか子供にそんなこと言われるなんてね。なんですって? わたしを守る? 保護者面 したイールギットだってわたしにそんなこと言わなかったわよ」
と言って片目を閉じると立ち上がり、あとを続ける。
「キリランシェロ君と合流しましょう。今後のことは、それから考える」
「はい!」
返事すると、マジクは彼女のあとについて歩き出した。
◆◇◆◇◆
身体 を打つ強風の中を走るうちに、怪 我 の痛みは忘れていた。足は重く、肩 は上がらず、真 っ直 ぐに走ることもできていなかったが、それでもオーフェンは足を止めなかった──殺人者としての衝 撃 は、とうに過ぎ去っていた。だが、それでも足が止まらない。止めることができない。
目的地を見失うことはなかった。負傷者テントへ、マジクを帰らせた方向へ向かっている。いや、やはり知らないうちに方角を誤 っていたのか? テントへの道のりが遠すぎるような気がしていた。それとも、思っていた以上に身体のダメージが大きく、走ることができずにいるのか。
破 裂 しそうな肺 に何度酸 素 を送り込んでも、熱に浮 かされた視界は収まろうとしない。身体を上下に振 り回す動 悸 が激しさを増していくだけだった。このまま走り続ければ、力尽 きて倒 れるのか、それとも弾 けて爆 裂 四 散 するのか、そんな疑問すら湧 いてくる。
刹 那 ──
気配を感じて、オーフェンは立ち止まった。瞬 時 に息を止め、構 えを取る。澄 み渡 った五感が、その感じ取った存在に対して知覚の指を伸 ばした。
そこにいたのは、黒いマントに身を包んだ男だった。長い黒 髪 を夜に揺 らし、同じ闇 色 の瞳 でこちらを見ている。
あまり動かない口──その唇 には傷 痕 がある──が、言葉を紡 ぐ。
「そうだ。お前の精神が持つ身体への支配力は、ついにその域 に達している」
と、やや口調を和 らげ、その男は付け足した。
「もう、自信を持っては言えないな......俺がお前に勝てるとは」
「なんであんたと戦わなくちゃならない」
問いかける。が、男は肩をすくめるだけだった。
「さぁな」
コルゴン。
胸の内で、オーフェンはその男の名を呼んだ。実際に声に出さなかったのは、本当はどの名前で呼べばいいのかすぐには思いつかなかったせいだった。相手が、自分のことをどちらの名前で呼んでくるのか、それをまだ聞いていなかったからかもしれない。
反射的に取った戦 闘 態勢であれば、相手に敵意を感じられなくなれば解 けばいい。それも分かっていた。が、固めた拳 が広がらない。相手が言うほどには、自分は己 の身体 を支配できていない──皮肉を込めて、そう考える。
ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン。彼はマントの下から腕 を出すと、自分の身体を示 すように振ってから言った。
「断 っておくが、俺は今そこにいない。これはネットワークを使って送り込んだ虚 像 だ」
「......そんなことができるのか?」
「現在のネットワークの支配者は、いちいち俺の邪 魔 はしないからな......俺を恐 れて」
そんな言いぐさも、彼にしてみれば自 慢 話ではないのだろう──勝利し、支配することを当然の自 負 としてきた男だった。
「ロッテーシャをさらっていったそうだな。何 故 だ」
「説明しても良いが、お前には関係のないことではないかな」
「今さら関係のないことなんてあるか」
苛 立 ちをそのまま吐 き捨てて、オーフェンは前に進もうとした──が。
「それ以上進まないことだ。気づいていないか?」
コルゴンは、さらりとつぶやいてきた。
「そこから一歩でも進めば、精 霊 魔 術 の壁 がお前を後方へ吹 き飛ばす。怪 我 をすることはないが、お前がまたもどってくるのを待つのはいささか間 抜 けだろうからな」
「............」
忠告に従 うのはどこかしゃくではあったものの、立ち止まる。つまりは精霊魔術の壁を隔 てて、コルゴンの虚 像 と向き合っていることになる。
その虚像の男が......ゆっくりと言い直してきた。
「細かいことは省 くが、ロッテーシャは、かつて聖域が造 った人造人間だ。ダミアンの造り上げた領主と同質のな」
「はぁ?」
突 拍 子 もない話に声をあげるが、コルゴンはあくまで淡 々 と続ける。
「聖域のある装 置 を稼 働 させるために造 られた。領主が、なにかお前に話したことがあるんじゃないのか......」
「第二世界図塔 ?」
「そうだ。この大陸の内部からでは誰も見ることのできない外界──結界の外部から魔王スウェーデンボリーの力を適 切 に召 喚 するために、探 知 と未来予測に性能を発 揮 する召喚術者が必要になる」
彼の話に、オーフェンは声を荒 らげた。
「じゃあ。それを知ってロッテーシャに近づいたのか!」
「いや。俺がそれを知ったのは最近のことだ。だが偶 然 というほどのことでもないだろう。俺は領主の頼 みでドッペル・イクスたちを探 っていたし、ロッテーシャを聖域から連れ出したのはドッペル・イクスだったビードゥー・クリューブスターだからな」
「前にも言ったが、あんたのやってることはなにからなにまでとんちんかんだ」
「そうかもしれないが、それは誰 だって似たり寄ったりだろう。プルートーはどうだ。全員討 ち死にする覚 悟 で連れてきたあげく、彼が負傷者を王都まで生かして帰したいと考え直したことで、その結果が......これだ」
平然と言い放つコルゴンに苛立ちを覚えながら、オーフェンはなんとか声を絞 り出した。風の中に掻 き消されそうな震 え声ではあったが。
「そんなことを......言うためにわざわざ来たのか」
「いいや。俺のほうの準備が整ったので、そろそろお前にも参加してもらわなければならない」
「準備だと?」
滲 み出す汗 に、肌 が寒 気 を覚 えていた。彼が問うと、コルゴンはいつもの冷 淡 な素 直 さで告げてくる。
「ああ。お前や《十三使徒》が司祭の注意を引きつけているうちに、俺は聖域の急所を押 さえた」
「なんだと?」
「だが、実際の行動に出るには不足しているものがある......お前が聖域に来れば、それは自動的に俺の手元にそろうはずなんだがな」
「なんのことだ」
わけが分からずに繰 り返す。どこかで自制心が崩 れるのを感じてもいたが、コルゴンの眼前では心を潰 すことすらできなかった──彼はこちらが崩れ落ちるのを防 ぐように、言葉や感情も制 御 している。
「それは言えない。お前が俺を阻 止 しようと考えた時、利用されると厄 介 だ」
「だからなんで阻止するんだ」
「俺がこれからやることを、お前は支 持 しないだろうからだ」
「なにをする気なんだ!」
前には出ずに、だがその場から感情だけは突 きつけて叫 ぶ。
結界はそんな棘 すら越 えさせないのか──あるいはこのコルゴンという魔 術 士 にそんなものを向けたこと自体が無 駄 だったか。まったく意に介 さず、彼は横を向いた。誰かになにかを囁 かれた。そんな仕 草 だった。
こちらへ向き直り、言い直してくる。
「ふむ......むしろ話したほうが、お前の行動は読みやすくなるかもしれない」
「そこに誰かいるのか?」
むかつきを誤 魔 化 すつもりで訊 ねると、コルゴンは今度はあっさりとうなずいた。
「いる」
「誰が。ロッテーシャか?」
「ああ。それもいる」
「ほかにもいるのか」
昔、《塔 》でも大 抵 はひとりでいたコルゴンのイメージが強かったせいか、その答えは意外に感じられた。そのまま別のことを訊 こうとして──オーフェンは踏 みとどまった。状 況 を考えれば、これは聞き流して良い情報ではない。
「誰がいっしょにいるんだ。聖域の急所を押 さえてると言ってたな」
プルートーが既 に聖域にたどり着いているのなら、共 闘 している可能性はある。ならば、クリーオウやレキの無 事 も確 認 できるかもしれない。
が、コルゴンの口から出てきたのはまったく予想もしていなかった名前だった。
「ハーティアがいる。さっきまで監 禁 されていたが、連れ出した」
「ハーティア......?」
瞬 時 に浮 かんできたのは、半年前にトトカンタ市で再会した時ではなく、学生の頃 の馬 鹿 面 である──それを読んだようにコルゴンはまた横を向き、
「ああ。馬鹿面だ。磨 き抜 かれている。いやむしろ選 りすぐられている」
「............」
「天性だ。教えられてできるものではない──む。ちょっと待て」
片手を上げて、コルゴンが制 止 してくる。
しばらく横を向いたまま、なにかに聞き入っていたようだったが、やがてまた向き直ってくると、無表情のまま口を開く。
「お前のせいで、かなり凄 まじい怒 られ方をした」
「いや、知らんけど」
「人格に傷を残しかねない罵 詈 雑 言 を浴びせられた」
「大 丈 夫 だ。その面の皮 には傷ひとつつかないから」
それこそどうでもいいことを保証して、オーフェンはうんざりと一息ついた。根 本 的 な問いをひとつ、大声で叫 び出す。
「なんでハーティアが聖域にいるんだ!」
「別に俺が呼び寄せたわけではない。できれば皆 は巻き込みたくなかったが、余 計 なことをしている愚 か者がひとりいる。こんな時には必ずといっていいほどちょっかいをかけてくる。死んでまで」
「なにを言って──」
「いや、余計なことを話している時間はない」
無 駄 話 を一方的に打ち切って、コルゴンは自分の足元を指さした。立っている位置より、やや前方である。結界のことを指しているのだろう。
「知っているだろうが、それは精 霊 魔 術 による結界だ」
そのままゆっくりと解説を始める。
「本来ならば聖域はディープ・ドラゴン種族に守られていた。この結界は無用のものだったが、チャイルドマン・パウダーフィールドと聖域との盟約により、残されていた。彼は聖域にこう確約した......人間種族はいつかディープ・ドラゴン種族をも凌 駕 し、聖域の防 御 のすべてを無効にすると。そしてその時が盟約の時であると」
「盟約? レキも確かそんなことを言っていた......」
「人間種族がこの大陸に漂 着 した時、ドラゴン種族は既 に滅 びの運命にあった。アイルマンカー結界という切り札を持ちながらもその欠 陥 から神々の攻 撃 を完全に防 ぐことはできず、幾 度 もの戦いで致 命 的 なまでに疲 弊 していた」
「だから?」
オーフェンが聞き返すと、コルゴンは静かに続けた。
「既に滅びが決まっていたドラゴン種族らの聖域。その一部派 閥 は、自分たちが滅んだ後にこの大陸を受け継 ぐ者が必要だと考えた。現出した神をも押 し返し、結界を完全なものとできる後 継 者 が。かつての聖域の代表者であった司祭イスターシバと、初代最 接 近 領 の領主であったチャイルドマンは──」
「? ち、ちょっと待ってくれ」
「知らない知識はそっちで補 え。それほど時間がないと言っただろう。ともあれ、その両者の密約が〝盟約〟として成立しかけたところで起こったのが魔術士狩 りだ。仕 掛 けたのは、聖域の別派閥、ひらたく言えば反イスターシバ派──無論、その盟約なるものを闇 に葬 る目的もあったのだろう。実際葬られたようなものだが、その密約は聖域の制御できない部分に生き残っていた」
長い説明を語り終えてから、コルゴンは腕 を上げ、指を三本立てた。
「その盟約の一 環 として、この結界が造 られた。来るべきでない者を聖域に近づけないために」
「どんな条件なんだ」
訊 くと、うなずいて指をまず一本折ってから、コルゴンが答えてくる。
「まずは、既 に聖域にいたことがある者。結界はこれを防がない」
また一本。
「もうひとつ。結界に防がれない者に導 かれた者。結界はこれも防がない」
そして最後の指を曲げながら、
「結界は以上を常体とする。例外として通すのは、死を覚 悟 し、本心から......聖域に行こうとしている者だ」
すべて聞いて──
眼 前 にある、不 可 視 の結界。それが初めて目に見えたようにも思えて、オーフェンは手を伸 ばしかけた。が、触 れてしまう前に胸まで引き寄せる。
汗 が額 を伝うのを感じていた。あの戦 闘 の後で、ずっと走っていたのだから仕方がない。直感的にそう言い訳 するが、間 違 いは自覚していた。そんなことではない。
壁 の向こうにいるコルゴンは、変わらぬ調子で続けてくる。その声は耳に入っていたものの、ほとんど聞き流していた。
「実を言えば俺もこの情報を得たのはついさっきのことだ......司祭のひとりを締 め上げて吐 かせた。聖域にとっても、この盟約の存在を思い出したのはつい数日前のことのようだったが」
顔を上げ、気を引き締 めるつもりでオーフェンはつぶやいた。
「......つまり気持ちひとつで通れちまう壁だったってわけか......」
「単純だが残 酷 な条件だな。この壁は、通り抜 けることを本心から望 んでいる者だけが通り抜けられる。キリランシェロ、お前には通れるか? 試 されるのはお前の覚悟だ......」
「今の話を信じれば、別に俺の覚悟とやらは関係なしに、あんたが俺を招 待 すれば通れるってことになるよな?」
「俺はそこにいない。虚 像 だ。故 に導 けない」
伝えてくるコルゴンの口調が、ひどく冷ややかなものであるように聞こえる──実際にはそれまでとなにも変わってはいなかったのだろうが。
「死ぬ決意だと?」
堪 えきれずに、オーフェンは毒づいた。コルゴンを睨 みやる。虚像を。
「......じゃあここを通っていった連中は、死ぬつもりだってのか」
コルゴンは答えてこない。実体のない亡 霊 のようなその黒いマント、見開かれた双 眸 、その姿に、重ねて問いかける。
「クリーオウもか」
やはりコルゴンは動かない。もっとも、単にクリーオウのことなど覚えていなかったのかもしれない。
最後に目にした彼女の姿を思い出そうとする──が、それができないことを悟 って、オーフェンは唇 を嚙 みしめた。寂 しく笑って立ち去っていく彼女の表情が、あまりにもらしくなかったからか。
オーフェンはおもむろに右足を前に進めた。結界があると思われる位置へ踏 み込む。渦 巻 く突 風 が、身体 を包んだ......
そして、吹 き抜けていった。
ただの夜風だった。強い風だが、彼の身体を吹き飛ばすほどの強さはない。一歩、二歩と進んでいく。大した距 離 ではない。気が付けば、コルゴン──その虚 像 の、ほんの目の前まで辿 り着いていた。
安 堵 を覚えるほどの余 裕 はなく、昂 揚 するほどの自 負 の裏付けがあったわけでもない。ただ怒 りのぶつけどころを欲 して、オーフェンはコルゴンの顔を斜 め下から睨 め上げた。
「死ぬ決意だと? 俺は死ぬつもりなんてない。だが通ったぞ」
嚙 みしめるように、言葉を続ける。
「あまり、人を、なめるな」
「別 段 、驚 きはしない」
あっさりと、拍 子 抜 けするほどに簡単にコルゴンは認 めてみせた。
「からくりを明かされれば、存外誰でも通れるものなんだ......無意識で死を拒 絶 していたものが、意識の範 疇 に含 まれるようになるからだろうな。マインドセットと同じ原理だ。チャイルドマンもこの欠 陥 を知っていたから条件を秘密にしていたのだろう」
言いながら、すっと後ろに下がり──距 離 を開ける。
まったくの肩 すかしに困 惑 しながら、オーフェンは、はたと気づいた。
「......プルートーにも同じことを教えたのか」
答えるまでもないということか。コルゴンはわずかに首を傾 げるだけでなにも言ってはこない。目的を達して早々と、その姿を闇 の中に消そうとしている──
と。
このまま行かせてはならない。そのことに気づく。
消えゆくコルゴンの肩を摑 まえようと、オーフェンは手を突 き出した。が、既 にかなり薄 くなっていたその像には触 れることすらできなかった。空 振 りした手を抱 え込みながら──得も言われぬ気 色 の悪い手 触 りだった──、オーフェンは声をあげた。
「待て! あんたはまだ言っていない」
「......なにをだ」
聞き返してくるコルゴンに、追いすがるように続ける。
「最初のことだ。コルゴン、あんたは聖域でなにをやろうとしてるんだ」
ほんの一 瞬 だが、彼に逡 巡 が見えた──答えようと口を開いたのも間 違 いない。だが発せられたのは、否定の言葉だった。
「気が変わった。お前が自分で確かめに来い。どのみち、それまで俺はなにもできない。決め手はお前頼 みだ」
その姿が完全に消 滅 する。闇の中にあった黒い虚 像 が消えて、眺 めが大きく変わったわけでもないが。
コルゴンの声は最後に、それまで語られなかった名を挙 げた。
「すぐに聖域に来い。レティシャも......アザリーも。お前の家族は全員そこにいる」
それは予言ではなく予定──
重ねて胸に響 いた声に。
「そうだ。予定でしかない」
オーフェンも、言葉を継 いだ。
じくじくと疼 く痛みとともに、うめく。
(──ったく、どいつもこいつも)
顔を上げて、あたりを見回す。結界を越 えれば恐 らく精神士たちが聖域への転 移 をしてくれるはずだが、それがいつになるのかは向こうの気まぐれ次 第 である。
それまでにマジクと合流しておこうと、オーフェンは声をあげた。
「かなり、凄 まじい睨 まれ方をした」
「へぇ」
ハーティアは答えると、気乗りのしない武器チェックを再開した──コルゴンの声を聞いていなかったわけではなく、耳だけはそちらに向けている。そもそも、武器とコルゴン、このふたつならば、どうせ同じようなものだといっても良い。
整 頓 もされずに床 に積 み上げられているのは、天人種族が過去に造 った魔 術 武器の類 だった。その大半は使用法も分からない無用の長 物 である。魔術文字を解 析 し、使いこなせるようになるにはそれなりの時間が要 る。
それらがらくたを端 から物色していく。が、右から左に見ていけば、また右端に新たながらくたの山が現れている。そんなことの繰 り返しだった。いつまで経 っても終わらない。
「えーと」
気まずくも振 り返って、呼びかける。
「......もう、こんなもんでいいと思うんだ。手 狭 だし」
と、簡単にあたりを指し示す。
実際、積み重なったがらくたのおかげで室内はかなり圧 迫 されている。彼が制止したのは、その部屋の一番高い位置に立っている少女に対してだった──彼女はこちらを見もせず、反応らしい反応は一 切 なかったが、それでも転移の作業を中断してくれたようだった。ぼんやりと、病的なまでに虚 ろな眼 差 しで装置の中心を見つめているロッテーシャを見上げ、ハーティアは嘆 息 した。
部屋はそのまま装置になっていた。全体としては円 筒 型 で、天 井 は高い。崩 れそうなほどに詰 まれたがらくたも、天井までとどくかといえばまったくだった。一番下の床 は真っ白で、なだらかな凹 面になっている。継 ぎ目の見当たらない純白な壁 や床は、この聖 域 全体の特 徴 でもあったが、特に密 閉 されたこの空間で、ハーティアはどうしても自分が鍋 底 にいる感覚を拭 えなかった。
出入り口となる扉 の類はまったくない。壁は床とうってかわって、びっしりと紋 様 のようなものが記 されていた。刻 まれているわけでも、彫 られているわけでもない。塗 料 で描 かれているのとも違 うだろう。材質そのものの模様であるかのように、複雑な魔術文字が壁を埋 め尽 くしていた。
壁にはそのほかにもうひとつ、床と天井までのちょうど中間の高さに、テラスのような形で人が落ち着けるスペースがある──そこまで上るはしごも階段もなく、手すりすらないのでは落ち着けたものではないかもしれないが。そのスペースにあるのは小さな椅 子 だけだが、その椅子は無 駄 にたくさんあった。円周にぐるりと並んで、何十脚 もの椅子があるのだが、ロッテーシャが腰 を下ろしているのはそのひとつである。
天井は、床 と同じく紋様はない。
「......来たな。プルートー」
ふと耳に入ったコルゴンの独 り言 に──
ハーティアは視線を転じた。
同じく床に立っているのだが、コルゴンはこちらに背を向け、壁を見つめてるい。無論、ただの壁を見ているわけではなく、彼が見ているその場所の紋様が光り輝 き、外部の映像を紡 ぎだしていた。今映っているのがどの場所かは分からなかったが、恐 らくはこの聖域のすぐ外なのではないかと思えた。夜の森に、まるで雪のような砂 塵 が闇 を曇 らせている。
こちらの視線に気づいたのだろうか。コルゴンはすっと振 り返ってくると、ちょうどハーティアが手に取っていた短い剣 を目にして、続けてつぶやいた。
「......召 喚 機 は作動しているな」
無言のまま、ハーティアはうなずいた。この装 置 ──部屋──あるいは聖域すべて? コルゴンに聞かされて、それがどういう機能のものか、なんという名前かは知っている。
第二世界図塔 。魔 王 の召喚機。
ハーティアが気にしたのは、コルゴンがちらりとでもロッテーシャを見上げるだろうか──そんなことだった。が、コルゴンは特に彼女を気にした様子もなくただあたりを見回すと、集まったがらくた、天人種族の魔術武器を眺 めている。
なんとなく手 触 りが気に入ったその短剣を、ハーティアはベルトに差し込んだ。これらのがらくたはすべて、この聖域の別の場所にあったものを、試 しにロッテーシャがこの場所へと呼び寄せたものだった。
「っても、単に物を移動させるだけなら、天人種族はもっと小 規 模 な装置でそれができたはずだ」
言わずもがなのことを言いながら、ハーティアはまた別の魔術武器を拾い上げた。今度はもっと非実用的な形をした鞭 である。が、重量が気に入らずにもとの場所にもどす。
と、ハーティアは付け足した。
「この装置の力は、もっと大きなものなんだろう?」
「ああ。まだまだ使いこなせていない」
コルゴンがそう言いながら、ほんのわずかにロッテーシャのほうを見やるのを、ハーティアは横目で見ていた。彼の目つきを見たかった。ほんのわずかにでも感情が──愛情までとは言わないが──映り込んでいるのか。それとも、言葉通りただの人造人間としか思っていないのか。
だがあまりにも一 瞬 のことに過ぎず、たいしたことは分からない。
仕方なくまた物色へともどり、一番近い山の中に目をやって。
ハーティアは、はたとつぶやいた。
「......コルゴン、これなんだ?」
「剣 だな」
と、コルゴンは音もなく近寄って、あっさりと言ってくる。
剣であることは見れば分かる。その剣の柄 に指で触 れて、ハーティアは続けて言った。
「この形、絵で見たことあるよ」
「そうだろうな、有名なものだから」
「世界樹の紋章 の剣じゃないか!」
大 慌 てで指を離 し、後 退 りしながらハーティアは叫 んだ。

コルゴンは不思議そうにしている。
「そうだな」
「そうだなじゃない! 魔 獣 殺しの秘剣だろ⁉ 伝説のケシオン・ヴァンパイアすら葬 った──」
「だからそうだと言っている。そんな魔剣が、この聖域以外のどこに置いてあると思っていたんだ」
ごく当たり前のように言ってくるコルゴンに、反 駁 しかけて──
ハーティアは、どう聞いてもそれが正論であると気づいて口をつぐんだ。しみじみと嘆 息 する。
「そうか......ここは聖域なんだな。どうも実感できないけど」
「欲 しいのなら、持っていったらどうだ」
あまり興味もなさそうなコルゴンに、ハーティアは再び魔剣ヒュプノカイエンを見やったが。
「......いらないよ。こんなもの持ってたら、盗 んできたのはバレバレじゃないか」
「今さら気にする者もいないと思うがな」
「へたすりゃこんなもので攻 撃 されてたかもしれないのか......ぼくらは」
嫌 になってくる。ベルトに差し込んだ短剣を見下ろし、これももとにもどそうかと悩 んでいるうちに、いつの間にかコルゴンがひどく静かになっていた。そちらを見やると、やはりまたコルゴンは壁 の映像を見つめている。
(どうなってるんだろうな......このふたりは)
司祭らの隙 をついて、この装置を制 圧 したのはコルゴンだった──
さらにはロッテーシャに数日でここまで装置を使えるように指 示 したのも彼である。
両者は協力しているようにも見えるが、直接の言葉はほとんど交 わしていない。今ではロッテーシャは人形のように表情もなく、定位置から動くこともない。食事どころか睡 眠 も取っていないはずだったが、健康を害 したようにも見えない。もっとも健康的であるという意味ではないが......
なんにしろ、ハーティアは軽く額 を押 さえた。人形のようなロッテーシャ。といって、あの虚 ろな顔を人形に描 けば、その人形師は狂 っていると言われるに違 いない。
「外は戦争になっているな。プルートーも大した度 胸 だ」
コルゴン──あるいは狂った人形師その人はといえば、気楽にそんなことをつぶやいてみせた。
まったく別のことを口走りそうになりながら、ハーティアは彼の背中にもっと実用的なことを答える。
「残り四日なんだろう? いよいよ詰 みか? どっちの詰みなんだかは知らないけど」
「俺 はゲームで負けたことがない」
「はいはい」
彼の自 慢 話には慣 れているため適 当 にあしらおうとしたが──
「本当だ。秘 訣 がある。勝てる時は普 通 にゲームをすればいい」
珍 しく、コルゴンは念 を押してきた。
そのことに興味を覚え、ハーティアは訊 ねた。
「負けそうな時は?」
「席を立ってその場を立ち去る。わざわざ呼び止めてゲームの続きをさせようとする者などいない」
「......それは勝ったって言えるのかな」
「勝つというのは、つまりそういうことだ。誰もがどうでもいいと思っている場所で自分だけ命を賭 け、自身の満足を手に入れる」
言っていることは理解できないでもない。
だが彼が反論するより先に、コルゴンは身体 の向きを変えた。ばさりとマントの裾 を鳴らして、
「俺はそろそろ出ないとまずいようだ」
「キリランシェロは?」
「すぐに来るか......もう少しかかるのか。精神士たち次 第 だな。だがいずれは来るだろう。その前には、俺は──」
話している途 中 で、コルゴンの姿が消えた。
見上げる。ロッテーシャはまったく変化がない。だが彼女が転 移 させたのは間 違 いなかった。彼女はコルゴンに指 示 されずとも、まるで未来を読むかのように先んじてその要求に答えるようにすらなっている。
(本当に......どうなってるんだろう、このふたり)
理解できず、目をそらしながら──
コルゴンの姿が消えたその第二世界図塔 にて、ハーティアはつぶやいた。
「でも、そのゲームに金がかかってたら、立ち去ろうったってただじゃ帰しちゃくれないよな」
知らないうちに踏 み倒 していることもある。
(......つまりさ、あんたはどっかズレてるってことなんだよな)
胸 中 でだけ付け足して、ハーティアは小さくあくびした。
◆◇◆◇◆
その機にレティシャは席を蹴 った。
議場の卓 を乗り越 えその上を滑 るように通り抜 けると、正面の司祭プリーニアへと拳 を振 り上げる。
慌 てて入場してきた別の司祭からの耳打ちに耳を傾 けていたプリーニアが、引き締 まっていた表情をさらに硬 化 させるのが見えた。なにを予感しているのだろう。さほどでもない距 離 を一気に詰 めるその時間で、レティシャはそんなことを思い浮 かべていた。痛みへの恐 怖 だろうか──今さら? この期 に及 んで殴 られることになど恐怖を覚えるものだろうか。彼女らは絶望を連 呼 していた。
それでも一 抹 の罪 悪 感 とともに、レティシャはプリーニアの顔 面 を殴 り倒 した。突 然 のことに群 がってくるほかの司祭や、離 れた場所に立っていた護 衛 役 のレッド・ドラゴン種族──司祭が殴られるのを待ってからようやく動き出した──の放った触 手 を適当に蹴 散 らし、そのまま倒れているプリーニアのもとへと駆 け寄る。
司祭は気絶してはいなかった。その首を摑 み引きずり上げると、レティシャは首に手を当てたまま彼女の背後へと回り込んだ。人 質 に取る形で、議場へと向き直る。
「動くな!」
声を張り上げ、その場にいる全員を牽 制 する。
卓にいた残りふたりの司祭、そして報を持って議場に駆け込んできた若い司祭らはもとより、本 格 的 な戦 闘 態勢に入ろうとしていたレッド・ドラゴン種族ふたりまでもが動きを止めたのは意外ではあった──場合によってはプリーニアなど見殺しに動くかと思っていたのだが。レティシャは半分安 堵 しながら、残りの半分で皮 肉 った。まったく、わたしはどんどん粗 野 になっていく......
「満足か、魔 術 士 よ」
苦しげに息を荒 らげプリーニアが声をあげる。
レティシャが黙 していると、司祭はさらに続けてきた。
「そうだ、我 らの負けだ──第二世界図塔 は裏切り者の手に落ちた。聖域通路の連 結 支配も、世界図塔のほうに優 先 権 がある。聖域は乗っ取られた!」
ざわ──と、まだ報告を聞いていなかった残りの司祭の顔色が変わる。レッド・ドラゴンすら顔を見合わせた。
仲間にそれを伝えるためもあったのだろう。プリーニアは言葉を止めない。
「我らが貴様に気を取られている隙 か......こうもあっさりと聖域の監 視 を突 破 するとは! 二百年間誰 も突破できなかったものを。ロッテーシャを利用したか⁉ 」
「そうなんでしょうね」
すぐ近くで叫 ぶプリーニアの声がさすがに煩 わしくなり、レティシャは首 肯 した。
だがプリーニアの気がそれで収まるというわけでもないようだった。司祭は己 の首を締 め上げるレティシャの腕 になんとか指を食いつかせ足 掻 いている。
「これは汝 らの策 か。盟 約 をちらつかせ、それが我らの役に立つかと見せかけた」
「ええ。盟約は聖域の対外防 御 のいくつかを無効にする条件を備 えているけれど、アイルマンカー玄 室 の扉 までを無効化するわけではない」
「貴様が我らの注意を引きつけ、そして我らがなにもできぬうちに──」
うめく司祭に、レティシャはかっとした──目の前にある司祭の耳に、怒 鳴 り声を注 ぎ込 む。
「なにもできなかったとはよく言ったものね! 脅 威 を減 らすために《十三使 徒 》を攻 撃 させていたのは知っているのよ!」
さらに指に力を込めながら、周囲を視線で牽 制 し、
「本当なら先生の盟約は、こんな使い方をされるようなものではなかった。あなたたちがもっと外を見ていれば──」
「汝らが......もっと我らを顧 みていれば......」
顔 面 に酸 欠 の症 状 を浮 かべながらも凄 絶 な笑 みを浮かべ、司祭プリーニアもまた声に怒 りを滲 ませた。声を引きつらせ、咳 き込み、叫んでくる。
「我ら聖域の者こそが奴 隷 ではないか! 違 うか!」
「ええ、自 ら奴隷に貶 めた奇 妙 な支配者でしょう!」
叫んでいると──
ふっと、背後に気 配 を感じた。霊 感 などというものを信じたことはないが、あるとすればこういったものなのだろう。実際、精神体の存在を知覚しているのだからそのものですらある。
現れたその気配が、彼女にしか聞こえない声で言ってくる。
「......時間稼 ぎはもういいわよ。わたしは最後の回 復 を終えた。転 移 できる」
「いつだってタイミング悪いのよ、あなたは」
本当は、もう一言くらいは言ってやりたかったのだが──レティシャがアザリーに毒づくのと、プリーニアを前に突 き出すのは同時だった。
さらに時を同じくして、平 衡 に違 和 感 を覚える。重力、空間、時間、そういったものから解き放たれ場所を移動する、この空間転移にも慣 れたといえば慣れたが、力は強くとも拙 いアザリーにはまだ瞬 時 にすべてを完 了 するということができない。また消 耗 も大きかった。
しばらく後に──実際の時間はどれだけ経 過 したのかは不明だが──、空間を越 えて彼女が立っていたのは。
どがぁん!
髪 を焦 がす熱風に面 くらい、爆 音 に耳の奥 を抉 られて、レティシャはその場に転 倒 した。湿 った土の感 触 に吐 き気 を催 すが、ともあれここがどこかはすぐに見当がついた。外だ。
まだ暗い。が、夜明けが遠いというわけでもないはずだった。手足をばたつかせて手がかりを求め、なんとか起き上がってからレティシャは目を凝 らした。爆発は彼女の間近で起こり、いまだ炎 を上げている。その白い光は疑うべくもなく魔術によって生 じる炎だった。また闇 の奥から、声が聞こえてくる。
「......銀の閃 光 ......!」
真 っ直 ぐに闇夜を貫 く白光が、レティシャのすぐ横をかすめて──
樹海の奥に、先ほどにも倍する爆発を起こした。またもや足場が崩 れて倒 れそうになるところを、なんとか手近の蔦 を摑 んで耐 える。
いくつかのことは判明していた。ここは外。なんとかしないと死ぬ。
「本当、タイミングが悪いのよ、あなたはっ!」
姿のないアザリーを再度罵 って、レティシャは駆 け出した。呪 文 の声が聞こえて来た方向を頼 って、足下も構 わずに走り続ける。
(今のは音声魔 術 だった......魔術士なら、少なくとも敵対者じゃない)
「ひとり以外はね」
また頭の中に、アザリーの声が響 く。
耳鳴りに鼓 膜 をやられても、連続して爆発する魔術の中を駆け抜 けていても、その声ははっきりと聞き取れた。
アザリーの言っていることは理解できなかったものの、レティシャは既 にどうせろくでもない話だろうと予感していた。悔 しいが、聞き返す。
「......どういう意味?」
「現在、この状 況 を最も俯 瞰 できているのは誰 ?」
「............」
名前を声に出さずとも、思考はそのまま伝わったのだろう。無回答のままアザリーは先を進めた。
「司祭から第二世界図塔 を奪 うためにはコルゴンを利用するしかなかったけど......今度はそのコルゴンを止める」
「どうして?」
今度はアザリーが答えてこない。
その思考を読むことができないのは、不公平ではないのか──そんなことを思いながら、レティシャは顔をしかめた。と、木の根につまずいて転 びかける。道のない樹海の中を灯 りもなしに進むのは簡単にはいかない。
体勢を立て直していると、アザリーの声が聞こえた。
「キリランシェロが......例の聖服の男を殺したわ」
背 筋 にぞっとしたものを覚えて、思わず立ち止まる。
殺した。そんな言葉を当たり前のように吐 いて、アザリーはさらに続けてくる。
「あの子は先生以上の魔術士になって、この聖域に来る」
「それになんの意味があるの?」
刺 々 しく彼女が聞くが、アザリーは皮肉にはつき合わなかった。そのまま、
「現在無敵となったコルゴンを止める可能性」
「それで?」
「もう死んで資 格 のないわたしにはできない決断を、あの子にしてもらう......オーリオウルの遺 言 を伝えた上で」
改 めて進もうとしていたレティシャは、そこでまた足を止めた。視線だけ振 り返る──そこにアザリーがいるわけではないと知りつつも、無人の暗 闇 を見つめてレティシャは声をあげた。
「? 言ってる意味が分からない」
「分からなくていいの。どうせ卑 しい話だから」
案 の定 アザリーから返ってきたのは拒 絶 だった。嘆 息 して、前に進んでいく。
そうしているうちにも魔 術 の攻 撃 、爆 発 の頻 度 は極 端 に減 っていった。それが敵を撃 退 したことを意味するのか、抵 抗 虚 しく全 滅 させられたことを意味するのかはまだ分からない。ただレティシャは、気にせずに歩き続けた。今さら幸運など期待していない。だが、最後に議場の床 に突 き倒 してきた司祭プリーニアの表情を思い出すにつけ、胸の中に拗 くれた感情が浮 かぶのも自覚していた。ここ数日、自分もまた何度も泣いた──が、敗 北 を認 めればあとは奴 隷 となる。
そして帰る家を失うのだ。
(嫌 だ......わたしは帰る。みんなで帰る)
彼女はつぶやいた。
「コルゴンは、もうそんなに手に負 えない相手なの?」
確かに彼はチャイルドマン教室でも上位の使い手ではあった。
そのことを認めないわけではなかったが、だからといって世界が滅 びるだの、ドラゴン種族だのと同列に扱 うような相手だと思ったこともない。魔術規 模 に関してはアザリーと対 等 か下、レティシャ自身よりはいくらか上回っているとしても、真正面から撃 ち合えばいくらかやり合えるつもりではいる。
近くから水音が聞こえてきている──注意しつつ、土 手 のようになった土山を乗り越 えているうちに、アザリーが答えてきた。
「五年前の時点で、彼の能力は極 まっていた。その上で彼は最接近領の領主に協力する形で凄 まじい場数をこなしてきたのよ」
「実戦経験に差があるということ?」
「そうね。場合によっては、暗殺者として活動していた先生以上に」
「............」
濡 れた土に埋 まりかかった靴 底 を引き抜 いて、レティシャはうめいた。
「......その経験に対 抗 できるのが、同じ五年間各地を放 浪 していたキリランシェロだと言いたいの?」
「その点ではわたしやあなた、フォルテでは比 較 にならないでしょう? ましてや、真正面から撃ち合えばなんとかなるなんてことを考えているようじゃね」
言われて、思わず赤 面 しかけるが──夜の闇 になんとか隠 したつもりで走り出す。
足元の不安定さと闇の暗さに灯 りが欲 しくなるが、安 易 にあたりを照らしてしまって良いものかどうか決断はできなかった。アザリーの力添 えがあるおかげか、真闇の中でもどうにかこうにか進むことはできる。逆 に言えば空間転移を使用した後のアザリーの知覚力は、その程度のものでしかない。危険ということであれば水音も気にかかっていた。木々と水。間 違 いなく、ここは聖域上部の樹海なのだろうが。
「コルゴンは何者なの」
ぽつりと、言葉が漏 れる。何年も同じ教室で学んできた仲 だが、こと彼のことになると、なにも知らない。世 間 話 をした記 憶 すらない。
アザリーにしても、それは同じはずだった。が、あっさりと答えてくる。
「彼は彼よ。いつだって、彼は自分のやりたいようにやるだけ」
「それはあなたとなにが違うの?」
なんの気なしに、反射的に聞き返す──
が、アザリーにはそれは予想外の問いかけだったらしい。ぷっと吹 き出すような気配が、得 体 の知れない深 淵 から伝わってきた。
「そうね。天 魔 の魔 女 と、迷 惑 来 訪 者 ──どちらも迷惑には違いないわね。確かに似ているかも」
「じゃあ、止めないとね。なにをするにせよ馬 鹿 なことに決まってるんだから」
軽く憎 まれ口を叩 いて、さらに身体 を前 倒 しに行く手を探 っていると、やがてなにかが暗がりの中に揺 らいだように思えた。夜目では分かりづらいが、人 形 をしていたようにも見える。
(人のようなもの がいる......敵? 味方?)
より慎 重 になって、息をひそめる。アザリーの思 念 通話は無 頓 着 ではあったが。
「......彼が何者なのか、別の考えもあるの」
「どんな?」
レティシャのほうは、それほど気楽に声を出すわけにはいかなかった。口の中で囁 くように、訊 く。
が、アザリーの声もまた低くなったようだった──気 遣 いのためではない。感情の問題なのだろう。
「超 人 ロッテーシャ・クリューブスターは、探すために外に出たのではないかしら」
そのつぶやきの意味が理解できず、レティシャは目をぱちくりした。
「探す?」
「ええ。この聖域にはいない人物を探すなら......外に出るしかないでしょう」
「なにを探すの」
訊くと同時に、土山から一気に駆 け下りる──これから先は会話などしていられない。一心に目標まで詰 め寄って、そして相手を見 定 めて行動しなければならない。
「つまるところは天使と悪魔、その両方が目をつけた人物と言うことになるわね、彼は」
意味不明でしかないアザリーの声は無視して、レティシャは全身の筋 肉 を使って跳 躍 した。ぴしぴしと、細い枝 がほおをかすめていく。木々をくぐり、根の上を跳 んで、レティシャは全感覚を行く手へと殺 到 させた。
視界をふさぐ闇 に──
また、違う色が混 ざる。
火 の粉 が散り、渦 となり躍 るような。そんな色合いに見えた。吸っていた空気の味も変わる。炎 ではない。が、ひどく苦い。
(......なに......⁉ )
肺 は咳 き込もうとするが、止まることはできない。
重量を増した風をかき分けるように突 進 を続け、レティシャはついに忍 耐 の限界を感じた。両手を前に出し、叫 ぶ。
「......灯 りよ!」
光量を絞 り、また瞬 間 しか維 持 しない。わずかな光明を放って前方を照らすと、間 違 いなくひとつの人 影 が存在しているのを見て取った。今の呪 文 と光とで、こちらも気づかれただろう。賭 になるが、攻 撃 されるより先に名乗るしかない。
「わたしは《牙 の塔 》のレティシャ・マクレディ──」
苦い空気の中で、声を張り上げる。
「あなたは誰 ⁉ 」
答えはない。一瞬だけ見えた相手の距 離 とこちらの速度から、そろそろ立ち止まらなければ激 突 しかねなかった。
いや、それが敵であったならば、もう既 にその場にはいないだろう。既に回り込んで攻 撃 準備をしているかもしれない。
(こっちもそれなりの準備を──)
防 御 のための構 成 を思い浮 かべた、その瞬間に。
不意に、足元がなくなった。
「────⁉ 」
為 す術 もなく落下する。派 手 な水音と、刺 すような冷気──手足に絡 みつく、粘 ついた闇 。口と喉 に入り込んできた無 遠 慮 な水に、悲鳴をあげることすらできず、レティシャは絶望感に打ちのめされた。水に落ちた!
(溺 れる!)
緊 急 回 避 するにも呪 文 を発声できない。夜の闇に、足のとどかない水 深 。最悪の取り合わせだった。
(アザリー! 助け──)
と。
なにかに腕 を摑 まれ乱暴に引きずり上げられる。
助かったというよりは新たに加わったその苦痛に、レティシャは身をよじった──なにかを殴 ろうとしたかもしれない。が、拳 は空 を打っただけだった。腕を摑むその手は異 様 な力で彼女を持ち上げると、やはり無 造 作 に投げ出してくれた。再び落下した先が固い地面であったことには感 謝 しつつ、レティシャはようやく目を見開いた。水に落ちてからまぶたを閉じていたことに今さら気づいたのだ。
そこには灯 りがあった。
やはり光量を絞 り、光そのものにも指 向 性 を持たせているのだろう。たった一点のほかはまったく照らしていない。その一点とは、つまるところ彼女自身だった。逆 光 の向こうに覚えのある顔が見えた......
「マリア教師」
レティシャが囁 くと、久しぶりに顔を見るその魔 術 士 は短くうなずいてみせた。マリアだけではない。もうひとりいる。彼女を自ら引き上げたのはそちらの大男なのだろう──全身がずぶ濡 れだった。
髪 から垂 れる滴 を手で払 って、その男は無 言 のままマリアになにかを合 図 した。撤 収 の合図であるように見える。
マリアは即 座 に従うと、光の向きを変えた。たちまち、光そのものはほとんど見えなくなる。彼女が照らした方向が、つまり帰るべき方向ということなのだろう。誰もそれ以上の説明はしてこなかった。大男が先行し、マリアはついてくるよう、手つきで指示してくれる。レティシャも無言でうなずいた。先ほど声をあげたのは、やはり愚 かなことだったのかもしれない。
爆 音 こそ途 絶 えていたものの、戦 闘 の気配は続いているようだった。足早に進むマリアの背中を追いかけて、レティシャは濡れて重くなった戦闘服を引きずるように続いた──マリアの巡 らせた灯りが、行く手のほかに、別のものをひとつ、ほんの一 瞬 だけ照らしたことにも気づいていた。特に意味のある行動ではなかったのだろうが。
だが、自分が先ほど見たものもそれだったのだと、レティシャは理解した。地上にはなかった──それは湖の上にあった。人間の形をしていることは間 違 いない。女だった。
祈 るような姿で、遥 か上空から長い髪で吊 られるようにして、女がひとり湖の上に立っている。
闇 を彩 っているものが、細かい砂だということにも気づいていた。その砂の混 じった風のことをどう呼ぶか、どうしても思い出せない。
が、アザリーが小さくつぶやく。
「女 神 の風──黄 塵 ......」
◆◇◆◇◆
転 移 が終わってすぐにキリランシェロと別れると、イザベラは自分の胸 に手を置いた。言い聞かせる。暗闇の中。最後の場所に来た。時間はない。状 況 は過 酷 。仲間は間違いなく苦 戦 している。
ならば自分のするべきことは決まっている。最 善 の可能性を目指して、一歩でも進む。
顔を上げ、暗闇の向こうにある砂 塵 の気 配 を睨 み据 える。微 かではあるが伝わってくる戦闘音は、この戦闘域となっている聖域の広大さを物語っていた。まだここは入り口にも満たない上部樹 海 に過ぎない。
と。
「イザベラ教師補は、《十三使 徒 》の人たちを探 すんですか?」
マジクがまだそこにいたことに軽い驚 きを覚えながら、イザベラは振 り向いた。不 透 明 な眼 差 しでこちらを見ている少年に向かい、うなずきかける。
「ええ。先生や、プルートー師を見つけないとね。あなたも、こっちに来るの?」
訊 ねると、彼は首を左右に振った。
「いいえ......オーフェンさんはクリーオウを探しに行くって言ってましたし、ぼくもそっちに行きます」
「じゃあ、早くついていかなくていいの?」
「いいんです。後から追いかけます。ぼくがついてきていることを知られたら、足手まといになってしまうでしょう?」
と、自分の師が走り去っていった闇の奥 を見つめながら、マジクがつぶやく。
イザベラはあえて、それ以上は追 及 しなかった。と、少年はもごもごと、なにか言い直してくる。
「それで、ぼくは......その、教師補にお礼を言いたかったんです。ここ何日か、つき合ってくださって、ありがとうございました。教えていただいたことは忘れません」
「願わくば、忠 告 のほうも忘れないで欲 しいわね」
彼が下げた頭に片目を閉じて、イザベラは答えを待たずに闇 へと躍 り出た。訓 練 された魔 術 士 はある程度の夜 目 も利 くが、この樹海の闇はやや異常な深さではあった──しばらく進むうちに、灯 りを造 らなければならないと思い知る。
(夜明けまで......何時間あるの?)
呪 文 とともに光明を造り出し、それを宙 に浮 かべながら彼女は空を振り仰 いだ。複雑に絡 み合った樹海の枝葉は天 蓋 のように上部を覆 い、青黒い影 で地上を押 し潰 している。巨 大 な闇に小さな鬼 火 は、かえって闇の強大さを浮き彫 りにした。
(原始的な恐 怖 に負けてる場合じゃない)
彼女はポケットから紐 を取り出すと、きつく髪 を縛 り付け、前を見定めた。最後の襲 撃 のおかげで食料も武器もなにも残っていなかったが、進む意志だけは残っていた。闇は怖 くない──それほどには。負傷者テントを焼いた炎 。あれに比べれば、恐 れるに足 るものなどなにもない。
(聖域め。許 さない)
灯りによって確 保 された足元を確かめながら、一歩を踏 み出し──
刹 那 。
空気がひしゃげるのを全身で感じる。
空間転 移 にも似ていた。肌 を押し潰すような圧 迫 感 と、抗 えない大気の拘 束 。軽い嘔 吐 感と、なにかに打たれたような衝 撃 があったが、どこをどの程度打 撲 したのかは判 然 としない。
彼女はその場に倒 れた。倒れると、彼女の背後にあった大木の表面が、えぐり取られるように大きく弾 けるのが見えた。破 裂 音 は大きいが、短い。感じた衝撃は、その破裂からもたらされたものなのだろう──木の幹 に穿 たれた穴は螺 旋 の渦 を描 いていた。そして。
すべてを確かめた後に、遥 か遠 方 から聞こえてきた音があった。廊 下 の角でモップが倒れたような、たったひとつの長い拍 子 。その音はこだまし、やがて消えた。
「............⁉ 」
わけが分からないまま、イザベラは起き上がろうとした──脳 震 盪 を起こしている。何度か左右に身体 を傾 けていると、またもや同じ衝撃波が身体を襲 った。今度は、足元だった。地面を貫 いて、その破 壊 力 が派 手 に土を噴 き上げる。たったそれだけの爆 発 だが、威 力 は凄 まじい。悲鳴すらなく、彼女は再び仰 向 けに転 倒 した。先ほどと同じ、乾 いた拍子の音が遅 れて伝わってくる。
理解できないまま視線を彷徨 わせ、彼女は不意に、閃 いた。
(......灯 りが狙 われている!)
意識して、灯 明 を消 失 させる。間に合ったかどうかは分からなかった──あたりはもとの暗 闇 にもどったとはいえ、イザベラは倒れたまま動けなかった。先ほど攻撃を受けた地面から、身体を転 がして逃 れることすらできない。
(ちょっと待って......わたしはなにに攻 撃 されてるの?)
理 不 尽 に、怒 りが体温を上 昇 させる。感情の後 押 しで平 衡 を取りもどせるかどうかといえば微 妙 だが、この際であればどんなものにもすがりたかった。
続けて攻撃が来るのか。耳をすまして、彼女は待った。その遠くを探 る耳元に──
「狙 撃 だよ」
ひどく間近から聞こえた声に、イザベラは面 食 らった。驚 きとともに見開いた目に、人 影 が映 っている。
倒れている彼女の頭の上から、男がひとりのぞき込んできているようだった。その声は静かに落ち着き、言ってくる。
「すまないね。狙 われているのはわたしだ。鋼の後継 の気配を感じてここに来たが......別のものがいたか」
「......あなたは......?」
咳 き込みながら、訊 ねる。
同時に、相手の発した単語を頭の中で模 索 していた。狙撃? そんな武器の存在は《塔 》では公然の秘密になっていた──数メートルの距 離 を正確に狙 える拳 銃 が試 作 されていると。
だが狙撃できる距離まで敵が近づいていたならば、まったく気づかないというのもおかしな話だった。また、木の表面をえぐったあの威 力 は、拳銃のものではあり得ない。
男は手をかざすと、彼女の顔に触 れた──なんのためにそんなことをしたのか一 瞬 理解できなかったが、不思議と不 快 な感 触 ではない。
と、そのまま説明を続けてくる。
「この射 程 距離と命 中 精 度 は《牙 の塔 》にもあるような狙撃拳銃とは違 う。施 条 銃 といってね......まあ弾 頭 と銃 身 の造りを極 端 にしたものだが、そんなことを知ったところで対 抗 手段があるわけでもない。ついに人の手で魔 術 を越 えた兵器だよ。百から数百メートルの狙撃を可能とする。それだけの距離を猛 回 転 しながら飛んでくる弾丸の威力も......見ての通りだ」
と、イザベラは唐 突 に身体 が軽くなるのを感じた──この男がなにをしたのかは分からないが、負傷が消えたようにすら思う。白魔術士かなにかなのかもしれない。なんにしろ詮 索 は後回しにして、彼女は跳 ね起きた。
男はこの暗 闇 でも、こちらの動きを容易 く目で追ってきたようだった。慌 てることなく顔を向け、続ける。
「弱点と言える弱点といえば......弾丸がそう多くはないということだな。わたしが製造させた弾丸は百発とない。品質を保 つために費用がかかりすぎるのでな」
「あなたが造らせた?」
イザベラが聞き返すが、それは無視されたようだった。
男は大 儀 そうに立ち上がると、
「もうひとつ。使用者は極度の集中を要するため、疲 労 が激しい。瞬 きひとつで標的を逃 してしまうことにもなる。普 通 は薬物を使用してようやく安定するのだが......」
「あなたは......最 接 近 領 の領主?」
話の内容と声質からようやく見当をつけると、彼は笑いを含 んだ声で肯 定 した。
「そうだ。これを恩と感じてくれるなら、君がプルートーと合流しても、わたしと会ったことは言わないでくれよ──黙 って離 れてきたのだ」
「待ってください。これがあなたの造らせた武器なら、あなたを撃 ってるのは誰です?」
手を伸 ばし、彼を制止しようとしたが──
まるで闇に溶 けたように彼の姿が消えた。実際には、単に彼女が目 測 を誤 っただけなのだろうが。
ぼんやりと影 が見えるだけとはいえ、彼が左右に首を振 ったのは見て取れた。否定の仕 草 ではなく、なにかを確かめたようだった。
「わたしを撃っているのは......わたしを連れて行きたい者さ」
そして、
「......あの狙 撃 距 離 にしては、やけに移動が速いな。召 喚 機 を利用しての空間転移か? 君、申 し訳 ないが、わたしが合 図 をしたらまた灯 りを出してもらえないだろうか」
「え?」
「そしてその後のことは、できれば反射的に行動してもらいたい。見て、そうするべきだと感じた通りに行動してもらえば、わたしが手助けしよう」
「いや、その......」
しどろもどろになっているうちに、男が、ぱんと手を打ち鳴らした。
「今だ!」
「ええい、くそ!」
毒 づいて、イザベラは呪 文 の声とともに魔 術 構成を解 き放 った。魔術の灯 明 が復活し、強めの光があたりを照らす。と。
イザベラは、我 が目を疑 った。光によって切り裂 かれた闇 は、照らされても闇を保 っていた部分があった──翼 を広げた人間の形に。両 翼 は激 しく羽ばたき、その先 端 から鋭 い一本の爪 を生 やしている。
黒い翼の怪 生 物 は飛び上がり、真 っ直 ぐに領主を狙 っていた。狙われた最接近領の領主といえば、自分を襲 う怪物を見 据 えて泰 然 としている。
翼持つ怪物が、声をあげた。
「アルマゲスト・ベティスリーサ!」
そして領主もまた、それに応 える。
「ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン・スウェーデンボリー!」
その両者が、名を呼び合うことが──
なんの意味を持つのか。イザベラには分からなかったが。
言われるまでもなく、彼女は反射的に行動していた。真っ直ぐに足を振 り上げ、怪生物の横腹を蹴 りつける。自分でも背 筋 が粟 立 つほどの会心の動きだった。彼女の靴 底 に押 しやられ、遠く地面に転がった生物は、よく見ればただの人間だった──どころか、見知った顔だった。黒いマントに身を包んだ黒 髪 の男。
チャイルドマン教室の不 気 味 男 ──コルゴン!
「それは呪文の結 尾 だ。まだ遠いな!」
蹴られたというのに彼女のことは無視して、コルゴンはあくまで領主にそう叫 んだ。マントの下に構えている剣 を横に振って、領主になにかを仕 掛 けたようだったが。
領主は後方に跳 んで、それをかわした。
「とんでもない。世界の終わりは目の前だ」
涼 やかな面 持 ちで、そんなことを言い放つ余 裕 すら持っている。コルゴンが舌打ちし、剣を納 めた──どこに持っていたのか鞘 の中に。
「遠いんだよ──召 喚 装置の発動にはロッテーシャのほうが容易 いかと思ったが、単体では足りない。領主、あんたにも来てもらう」
(なんなの!)
不理解の声をあげながらもイザベラは飛び出した。格 闘 術 には自信があったが、だからといって一見して暗殺技能訓 練 を受けたと分かるエリート教室のこの男相手に渡 り合えると思ったことはない。が、不思議と軽く感じる身体 を存 分 に躍 動 させて、イザベラは側 面 の死角からコルゴンに襲 い掛かった。シンプルな前蹴りはその男の肩 口 をわずかにかすめ、続けて変化した横打ちのハイキックまでもがコルゴンの横 面 を打ち倒 した。転 んだのはわざとだろう──さほどのダメージはない様子で、彼は起き上がってみせた。初めてこちらを見 定 めてマントの下から手をのぞかせる。
その右手に、小 振 りのナイフが握られているのが見えた。
「《十三使徒》か......」
傷 跡 のある唇 を不 愉 快 そうに動かして、コルゴンがつぶやく。
こちらは覚えていたが、向こうは彼女のことを忘れている。もとより廊 下 ですれ違 っても挨 拶 するほどでもない、その程度の関係ではあった。イザベラは苦 笑 しつつ、相手の出した刃 物 に合わせて守りの構 えに切り換 えた。
チッ......チッ......と、その刃先の動きに合わせて鳥の囀 りのように、なにかが聞こえてくる。コルゴンの息 遣 いか、それとも自分の舌の音か。それが途 絶 えた瞬 間 、コルゴンが半円を描 くようにナイフを突 き上げ、咽 を狙 ってきた。
(殺すつもり⁉ )
イザベラが飛び退 くとさらにそれを追って、高さを変えて何度も突きかかって来る。何度目かで、彼女はコルゴンの手首を摑 もうと手を伸 ばした──摑める、と見えた。両 腕 で覆 い被 せるようにコルゴンの右腕を押 さえ込む。
と、そこにナイフはない。
一瞬で左に持ち替 えたコルゴンのナイフが、視界の隅 で閃 くのが見えた。なにもしなければ死ぬ。その悪 寒 に耐 えきれず、その場で尻 餅 をつく──咄 嗟 の回 避 でナイフをかわすことはできたが、そこで終わりだった。
それ以上動けない状態で、コルゴンの足が脇 腹 を蹴 り上げてくる。視界が眩 むほどの激 痛 にうめき声をあげ、イザベラは身体を丸めた。大量の唾 液 を吐 き出して見上げるが、コルゴンはもうそこにいなかった。
「......今さら俺が止 められるか」
遠ざかる彼の背中が、そんな声を発していた。彼が見つめているのは領主で、領主は仕方がないといった仕 草 で肩をすくめると、
「力を誇 ることは愚 かだ」
「一度殺して連れて行くこともできる。どうせ生き返るのだから」
互 いに凄 んでいるのだろうが、口調は大人しい。
ともあれ苦痛の中でなんとか首をもたげ、イザベラは会話に聞き入った。せめてまた身体が動くようになるまでに、事態を理解したい。
距 離 は変えないまま、それでも次 第 に気配を詰 め、コルゴンは懐 からまた別の武器を取りだしたようだった。銃 、なのだろう──が、彼女の知っている拳 銃 とはまるで形状が違 う。確かに領主の言う通り、狙 撃 拳銃とも異 なっていた。銃身だけで一メートル近くあった。そんな長大な武器をどう構えるのか不明だが、片手で使用するものではあるまい。銃身の上に、小さな望 遠 鏡 らしきものがある。この闇 夜 ではあまり役には立たないだろうが、そんなもので覗 かねば見えないような距離を狙 う武器だということなのか。
武器を出したことは単なる威 嚇 だろう。その威力を思い知った身としては、確かに戦 慄 もする──怖 気 をふるってイザベラは、領主の顔色をうかがった。が、最接近領の領主は特に頓 着 もしていない。
「ロッテーシャはまだ、望まない相手を転移させられるほど装置を使いこなせていない。だが、お前が一 瞬 でも望めばその瞬間だけは意のままにできる」
話しかけるのはもっぱらコルゴンだった。それに対して、領主が応 える。
「なるほど......だから言葉で籠 絡 しようというのか」
両者の関係はよく分からない。が、旧 知 のものなのだろうとは思える。《牙 の塔 》のエリート教室と貴族連盟の切り札たる最接近領の領主とがどう結びつくのかは謎 だが。
コルゴンの低い声 音 は蛇 の威嚇音を思わせた。
「俺は既 に第二世界図塔を手に入れた。同時に聖域も、もう俺に従 わざるを得ない──女 神 を殺した後の聖域は容易 く支配できるだろう。世界図塔は聖域の中 枢 、急所だ。あとは魔 王 の召 喚 を果たすだけでいい。これはお前の望む条件をすべて備 えている」
「問題は、召喚の正 否 だ。失敗すれば意味がない」
「だから、ロッテーシャと組め。ひとりでは足りなくてもふたりがかりならば成功率は上がる」
ばさり、とマントを翻 し、コルゴンは進み出た。
「来い、領主。すべてを終わりにする」
「あとで──」
初めて。
それまでは流 暢 に話していた領主が、口ごもった。苦 笑 いとともに言い直す。
「あとで、行こう。必ず」
「............」
コルゴンは、長く無言だった。いや、ほんの数秒のことだったかもしれない。だが沈 黙 としては長大なものといえる。
やがて──
「よかろう。準備が整っていることを知れば、どうせいずれは来ざるを得まい」
告げるやいなや、コルゴンの姿がかき消える。
イザベラもようやく動けるようになり、なんとか身を起こした。領主はずっと虚 空 を見ていた──コルゴンが消えた場所ではなく、ただ意味のない虚空を。それまで見てもいなかった、なにもない空間を。
足音を察してか、彼はこちらへと顔を向けた。軽く頭を下げ、言ってくる。
「......すまなかった。盾 にさせてもらった」
「今の話は......なに」
まだ痛む腹を押 さえて、イザベラは領主に詰 め寄ろうとした──まともに足が動きさえすれば、そうしただろう。が、実際には一歩も動けずにいるうちに、領主にくるりと背を向けられてしまった。
「プルートーに合流したいのだろう。君が予想した方角で正しい。急いだほうがいいだろう。彼は聖域の入り口を見つけ次 第 、聖域を制 圧 するために突 入 を開始する」
「それも......盾なんですか?」
舌の上に嫌 な味を覚え、詰 問 するが──
無理をして半歩を踏 み出しても、その間に領主は一歩遠ざかっていた。声だけは返ってくる。
「わたしは最初に、君たちに王都へ帰れと言ったはずだ......それが最 善 だった。君たちの死には、なんの意味も価 値 もないからだ」
「わたしたちはっ......!」
食い下がろうと発した声も、領主へととどかなかったか。彼はどんどん遠くへと後ろ姿を小さくしていく。
すぐに、彼女が造 った魔 術 の灯 りの範 囲 からも出ていってしまった。見えなくなった相手に、イザベラはさらに声をあげた。
「わたしたちは......ただの、状 況 かっ⁉ 」
そこで、足が進まなくなる。
領主は足を折られていたはずだ──今さらになって思い出し、イザベラはかぶりを振 った。誰 かが治 療 したのだろうか。それとも、もっと違 う理由なのか。分からないが、どうせ追いつくことは無理だろうと、それだけは理解できる。
(マリア先生に会おう)
顔を上げ、目的意識を改 める。
(そして、なじって、泣 き言 のひとつも言ってから......協力して戦おう)
なにがあろうと腐 ってはならない。
泣いてもいいが、後 悔 したくなければ腐ってはならない。自分に言い聞かせ、彼女はそれまで進んでいた方向へとつま先を向けた。
◆◇◆◇◆
キリランシェロ・フィンランディ。
家名なく、《牙 の塔 》のキリランシェロ。
鋼の後継 。
自 ら名乗ったオーフェンという名前。
あるいは、彼を呼ぶ相手によってそれぞれ意味の違う、オーフェンという名前。
ひとつひとつを数え上げていけば、結局はすべての思い出を数えることになる。
肩 口 から、短 剣 の鞘 を外 す──もう短剣そのものは残っていない。鞘は、見もしない暗い足元へと捨てた。戦 闘 服 の武 装 ももう残り少なかった。ダガーの類 は使い尽 くしている。暴発させた拳 銃 も、領主の館 に置き去りにしてきた。それらの武器にしても、名前と同じように数え上げることはできる。それらを使ったすべての場面で、自分の生命が終わる可能性はあった。そしてなにかを代 償 に、それを切り抜 けてきた。
両手の拳 を打ち合わせると、凍 った夜気に音が響 いた。ジャックとの戦闘で受けた傷は完 治 してはいないものの、魔 術 でなんとか誤 魔 化 すことはできた。まぶたを閉 じ、感覚を確かめる。すべては静 謐 の中に、爆 発 力 を保 ったまま整 頓 している。確信するのに時間は要 らなかった。
武器はなくとも、意志ははっきりと残っている。
味方もなく、ひとりであっても進むことはできる。
手の中に残ったもの......
ふと思い出して、オーフェンは戦闘服の胸 元 に手を入れた。ファスナーを少し開くと、胸元から銀細工のペンダントを引っ張り出す──剣に絡 みついた、一本足のドラゴンの紋 章 。大陸黒魔術の最高峰《牙の塔》で学んだ証 。
彼はそれをしばし眺 めやってから、そのまま服の外に垂 らした。戦闘には邪 魔 になるだろうが、そうしておきたかった。
そして、別のポケットから、もうひとつ──まったく同じ紋章を取り出す。形は同じだが、これは彼のものではない。
紋章の裏には、その本来の所 有 者 の名前が刻 まれている。
その名前はたったひとつだが、やはりひとつのものではない。
アザリー・ケットシー。
家名なく、《牙 の塔 》のアザリー。
天 魔 の魔 女 。
彼女を呼ぶひとりひとりにとって意味の異 なる、その名前。
彼はそれも、重ねて首にかけた。
──聖域に、三人の家族がそろう──
家族のいる場所。
その言葉の意味するところを、闇 に問う。
答えが返ってくるよりも先に、オーフェンは進み出た。聖域。最後の場所へと。
刹 那 、灼 けるような光がすべてを包み込んだ。
光の中で、誰 もがその声を聞いたのか。
オーフェンは訝 った。炎 は間 違 いなく肌 を焼き、呼吸を妨 げる。だが耐 えられないほどの苦痛ではなかった──まるで加 減 されたように。
《......じきに来る......盟 約 の時......!》
(ディープ・ドラゴンか!)
心中に痛いほど響 くその叫 びに、オーフェンは見当をつけた。
熱風は時間を待たずに吹 き消された。消えゆく火の粉の渦 を追いかけ、オーフェンは顔を上げた──樹海の各所で発火している。揺 れる炎は不思議と燃え広がろうとはしていない。逆に近くの湖から流れ出した小川や地下水が炎を狭 めるが、消えることもなかった。なんにしろ、炎は闇 の中から世界の姿を切り出したように、部分だけを照らし出している。木々の根元、そこに揺れる湖面の一部、風に舞 う枝葉、影 に隠 れようとする小動物の慌 てた後ろ脚 。
炎はまるで不 規 則 のようでいながら、それでも一方に向かってその頭を振 っているようでもある。無数の篝 火 を飛び越 えて、オーフェンはそれを見ていた。風が吹いているのだろう。火の粉と、火の粉とは別の砂 塵 が混ざり合う場所があった。湖がある。恐 らく、こんな時でなければ美しい光景だったろう──巨 大 な幹 が寄り合い、小さな木々を従 え、絡 み合い、湖にその半身を浸 している。
その湖上に、なにかがいる。
湖面の上にも篝火が点 っていた。ふたつの大きな炎に照らされ、女の姿をしたものがひとつ、両手を胸の前であわせて目を伏 せている。長い、身の丈 よりも遥 かに長い髪 が、その身体 を吊 るように──だが身体自体が浮 揚 しているのだろう、髪のほうは緩 やかに──上空へとつながっている。空までは光はとどかず、髪がどこへ続いているのかそれ以上は分からない。
遠い。その顔が判別できる距 離 ではない。
それとにらみ合う形で、湖岸に並んでいるのは漆 黒 の獣 の群 だった。
数十、数百という巨大な黒 狼 が緑色の瞳 をその女へと向けている──湖に入れないというわけではないだろう。もともとディープ・ドラゴン種族は水 棲 と言われている。狼たちはなにかを待っている。
(盟約......それが成立したら......女 神 に戦いを挑 む?)
オーフェンはつぶやくと、湖岸へと走り出した。このディープ・ドラゴンの群 の中に、レキとクリーオウがいるということは十分に考えられる。幸 いにもドラゴンらは湖の女を睨 むだけで、近寄る彼のことなど気にかけていないようだった。
横目で見やる。湖の女。同じものを見たことがあった。あれは地底湖で、しかも腕 だけだったが......。
(あれが女神......)
残り三日で完全に入り込んでくるという運命の女神。
湖の上に、黄 塵 が吹 き荒 れている。湖面の上で燃えているのは、水面に降り積もったこの粒 なのだろう。木々と同じくらい邪 魔 なディープ・ドラゴンの間を縫 って走りながら探すが、クリーオウの姿はどこにも見当たらなかった。声をあげて呼びかけてみることも考えるが、黙 って去っていった彼女のことを思うと、得 策 ではないかもしれない。
と──
「彼女はここにはいないよ」
視界の隅 から顔を出したのは、澄 まし顔の領主だった。

思わず立ち止まり──軽い後 悔 を覚えながらオーフェンは聞き返した。
「なんだと?」
「レキならばこの群のどこかにいるがね」
と領主は居 並 ぶディープ・ドラゴンの狭 い隙 間 を抜 け出てくると、あたりを示した。
「だがクリーオウ・エバーラスティンはレキと離 れ、聖域の内部へと入っていった」
「どうして!」
気短にオーフェンが怒 鳴 ると──
領主は、いきなり間を外して言い直してきた。
「ようやく追いついてきてくれたな。まずは安心した」
下 手 なはぐらかしに苛 立 ち、オーフェンは再度怒鳴り声をあげかけた。が、すんでのところで感情を押 し込める。どうしたところでこの領主は、答えたいことしか答えないのだから。
「ここで俺 を待つくらいなら、どうして先に行った。おかげで──」
彼が訊 くと、領主は気楽にあとを継 いだ。
「あの状 況 だからこそ君はジャック・フリズビーを倒 し、必要な決意をひとつ手に入れただろう。それが悪いことかね?」
「......どうしても好きにはなれねぇな、お前は」
「仕方ない。君に好かれるよりは嫌 われたほうが、君を誘 導 しやすいようだから」
人外の領主がいちいち挟 む皮肉を無視して、オーフェンは詰 問 した。
「聖域への入り口は? 《十三使 徒 》は無 事 なのか」
「プルートーは既 に聖域最後の防衛部隊を退 け、聖域内部への突 入 を果たした」
「どこだ」
「案内しよう」
と、手 招 きして領主が歩き出す。若 干 の抵 抗 感がなかったわけではないものの、オーフェンも後についていった。領主は湖に向かって進んでいる。炎 は消えないまでも樹 海 は静けさを取りもどし、揺 れる炎の影 だけが無言で踊 っている。
暗がりで分かりにくいが、やがて地面に戦 闘 の痕 跡 が見え始めた。かぎ裂 きのような破 壊 跡 。行動不能になったレッド・ドラゴン種族。さらには倒 れて動かない《十三使徒》の軀 ......
領主はいちいち立ち止まって確 認 しようともせず、爆 圧 によって地面から引き剝 がされた土 塊 の上を大 股 で通りすぎていく。戦闘があってから、それほど時間は経 っていないのだろう。焦 げた臭 気 と湖畔の霧 と黄 塵 と、それぞれが大気を占 有 しようとせめぎ合っている。と、領主が振 り向いてきた。
「注意したまえ。そろそろ湖 岸 だ」
「分かってる」
湖の上に浮 かぶ女を見やって、オーフェンはうめいた。まだそれほど近づいたという距 離 ではないものの、先ほどよりは近い。
「そうだ。あれが女 神 だ」
言わずもがなのことを領主が言ってくる──のみならず、あとを続ける。
「運命の三女神として伝えられるが、あの女神自身がどう思っているのかは神のみぞ知るところだな。出来の悪い駄 洒 落 だが」
「......まるで動かないな」
風に揺 れる髪 のほかは、女神は微 動 だにしていない。そのことを指 摘 すると、領主は笑ってみせた。いつもの、薄 笑 いに近い笑 み。
「目すら開いていない。今度こそは完全に結界を通り抜 けられるという余 裕 か......それとも、たった数日間の慈 悲 かもしれんな」
「ディープ・ドラゴンは攻 撃 を仕 掛 けるつもりなのか?」
湖岸に並ぶ巨 大 な黒 狼 は、ただひたすらに女神へと視線を集中している。その視線であらゆる物質を支配し抹 殺 する、莫 大 な殺傷力を有した眼 差 しである。
アルマゲストの笑みが、ふっと消えた──わずかに一 瞬 だけ。哀 れむようにあたりを見回し、その男は口を開いた。
「今、本 格 的 に仕掛ければ、ただ返 り討 ちにあってたちまち全 滅 する。ディープ・ドラゴン種族はそれを分かっている」
「じゃあ......」
「機を待っているのだよ。女神が完全に結界を突 破 するまであと数十時間。その間に、一筋でも女神を傷つけ得る隙 や亀 裂 が生じないかと。ディープ・ドラゴン種族にとっての盟約とは、まさにそれだ。チャイルドマン・パウダーフィールドは人間種族がその機会を作るとアスラリエルに約束した。不思議なことにアスラリエルはその言葉を信じた。二百年前、それはなんの根 拠 もない戯 言 だったはずだが」
その名を聞かされ、オーフェンはかぶりを振 った。
「先生自身が信じていたからだ」
「さて、どうであろうな。ともあれディープ・ドラゴン種族は今この瞬間までもそれを信じて、ここで待っている。わたしが仕掛けた盟約は蹴 り、先代領主を信じたか......結果としてそれで良かったのかもしれないが、わたしとしては口 惜 しいな」
それほど執 着 がましい口調ではないが、それでも嘘 ではないのだろう。やや自 嘲 気 味 に領主は吐 き捨てた。
オーフェンは答えずに先を示した。もうそこは既 に湖の縁 ぎりぎりで、進めば湖に落下するより他 はない。わずかに崖 のようになったその岸に立って、領主は湖面を見下ろしてみせた。なにを確 認 してか、うなずいている。
「ここだ」
「どこだって?」
聞きながら、予想はついていた。崖に近寄って同じように見下ろすと、黒々とよどんだ水面が見える。そして水の下に、石造りの台のようなものが沈 んでいた。
「あれが聖域の入り口だ。正しくは、転移装置だが」
暗い水面の奥 にそんなものを見ることができたのは、装置自体がわずかに発光しているからだった──複雑に組み合わさった魔 術 文字が次々に明 滅 し、なにかの規則を伝えている。空間転移に必要となる難 解 な魔術構成なのだろうが、それは湖の底から獲 物 を誘 う鬼 火 の瞬 きにも似ている。
その連想を見抜かれたのだろう。領主はさらに念 押 しするように続けてきた。
「ここから飛び込めば、水面に触 れる前に聖域へと転移される。普 段 は当然、作動していないものだがね。内部からこれを開け放った者がいる」
「誰のことだ?」
オーフェンが聞いた瞬 間 には──
領主が、湖に飛び込んでいた。垂 直 に舞 うこと半秒も経 たずに、確かに水音も立てずに領主の姿は消えていた。飛び降 りる際 にいっしょに落ちたのだろう、砂や土が湖面に波 紋 をいくつか作っているのが見えた。
息を吸って、オーフェンも飛び降りた。自身の疑 似 空 間 転 移 だけではなく、ドラゴン種族による本物の空間転移も何度か経験したが、おしなべて気持ちの良いものではない。が、長くかかるものでもない。下 腹 から未 知 の臓 器 を喉 元 まで押 し上げられるような違 和 感 とともに、今回の転移は終わったようだった。
再び視界が開くと、闇 と炎 の二色だけだった外 界 と違 い、ただひたすらに一色の世界が広がっていた──白。白い床 に壁 、通路の奥まで、どこまでも白い。泥 汚 れと血にまみれた戦 闘 服 が、いかにも場違いに思える。吐く息までも汚れているかのような後ろ暗さが心に生じていた。
聖域なのだろう。見上げると、その場に動かず、領主の姿があった。余 裕 を持って腕 組 みしていたが、こちらに視線を受けて口を開く。
「ここからはわたしの案内がなければ進めない。聖域の通路と部屋はすべて細かく分 離 し、その連結は転移装置によって為 されている。進みながらその組み合わせを解 析 する余 裕 は、君にはあるまい? 本来ならば、この聖域の支配者の監 視 をかいくぐって中 枢 まで進むことは極 めて困 難 だった」
「だが、今は?」
「長く聖域を支配していた者は、今はその主導権を失っている」
「主導権を奪 ったのは?」
聞きそびれた質問を繰 り返す。今度も領主がはぐらかすか──それを危 惧 したが、アルマゲストは今度は答えてきた。
「ユイスだ。ロッテーシャの助力で、第二世界図塔 を手に入れた。現在聖域通路の連結も、第二世界図塔召 喚 機 の優 先 権 が圧 倒 している。聖域側もそれを取りもどそうとはしているだろうが、九割方負けているというところだろうな」
「じゃあつまり、どう進もうにも、九割方はコルゴンの思いのままってわけか......」
どうしてそれではまずいのか自分でも分からないながら、不安とともにつぶやく。
荒 野 で見た虚 像 ──その声、語った内容。
そして語られなかった内容。
思い浮 かべているうちに、ますます混乱する。と、領主が口を挟 んできた。
「だが残り一割を利用すれば、ユイスの目を逃 れることは可能だ」
「逃れて、なにができる? というより、なにをしたらいいんだ」
鋭 く問うと、領主は微 笑 とともにかぶりを振 った。
「それを決めるのはわたしではない」
(ああ、そうだろうよ)
苦 々 しく思いながらオーフェンは、通路の奥 を見やった。どこまでも続いている白い道。吐 き気 を覚えるほどに清 潔 な白一色だった。
恐 らく自分は、それを汚 すだけの者なのだろう。聖域にはそぐわない。どう埃 を払 ったところで汚 染 者 として入るしかない。
(まずは、クリーオウだ)
胸 中 で確 認 すると、奥に向かって歩き出す。
領主もあとをついてきたが、特になにも言ってこなかった。
真 っ直 ぐの通路を進みながら、注意さえしていれば領主の言っていることも理解できた──通路は普 通 につながっているのではなく、ところどころで強制的に転移させられている。はっきりとした魔 術 構成を感じないのは、この聖域そのものが巨 大 な装 置 だからだろう。通路には誰もいない。外にあったような戦 闘 の痕 跡 もない。
案内板があるわけでもなく通路の見た目もほとんど変わらないため、しばらく進むと不安感が襲 ってくる。オーフェンは顔をしかめた。そもそも、自分がどこに向かっているかすら定 かではない。
だが、どうせ《十三使徒》も同じように、適当に進んでいるはずだった。
(ほら、な)
何度目かの転移を経 て行く手に異 変 を認め、オーフェンは走り出した。遠い曲がり角から、爆 音 とともに魔術の白い炎 が吹 き出している。
通路の手前でそれが収 まるのを待っているうちに、領主が追いついてきていた。警 戒 しつつ角をのぞき込むと、内部はそれまでの通路とは違 い、かなりの広さがある。ひとつの壇 を囲 むように整然と席が並び、なにかの巨大な会議場のようである。その広大な議場に、少数の人間が距 離 を取って向き合っていた──
いや、人間とは限らない。
壇上にひとかたまりになっているのは、天人種族のように見えた。何度か見た肖 像 画 や、伝説にある姿に酷 似 している。が、
「あれが司祭だ。天人種族のふりをしているが人間だよ。遥 かな昔、奴 隷 としてこの聖域に連れてこられた人間種族の末 裔 だな。彼女らが、長らく聖域を支配していた。今は......あの様 だ」
あの様。領主は言 及 を避 けたが、オーフェンは実際に眺 めながらそれに継 ぐ言葉を思い浮 かべずにいられなかった──狭 い壇に寄り集まるその姿は、船が沈 むことを恐 れて積み重なった鼠 の群 を連想させる。
彼女らを囲み、追いつめているのは席に散った《十三使徒》だった。無論おとなしく席についているわけではなく、席とテーブルの上に立っている。百名以上いた大陸精 鋭 の黒魔術士たちも、ここにいる者がその生き残りのすべてであるならば、その数を十分の一以下にまで減 じたことになる。後方から彼らを見やって、オーフェンはその人数と名前とを一 致 させていった。最も司祭らに近い位置に仁 王 立 ちしている王都の魔 人 プルートー。その傍 らであたりを警 戒 するマリア・フウォン。やや後ろに下がって、うまく合流できたのだろうイザベラの姿も見えた。若年の魔術士は明らかに彼女だけで、ほかはナンバーズ級の宮 廷 魔術士たちである。いや、若い魔術士がもうひとりいた。
はっとして、口走る。
「ティッシ!」
最後に見た戦 闘 服 姿の姉が、《十三使徒》からも司祭からも距離を取る位置に立っている。囁 きが聞こえたのだろう。彼女の目が、こちらを向いた。脳 裏 に響 くのは、イールギットの声だった。
『家族がそろう......』
飛び出したのは単に反射的な行動だった。議場へと踏 み込んだ刹 那 に、殺 気 を覚えて振 り仰 ぐ。
宣 告 の炎 を──戦闘の兆 候 を失 念 していた。恐 らく、あの時の光熱波によるものなのだろう。レッド・ドラゴン種族の一頭が、入り口上部の壁 に貼 り付 いていた。上半身だけは無事で、残りの半身を焦 げた残 骸 として、壁に焼き付けられている。その無傷である上体を振り回し、鞭 のようにしなる腕 が襲 い掛 かってくる。
(チィ──!)
魔術による防 御 は間に合わない。身を防 ぐのに使える装 備 もない。咄 嗟 にオーフェンは、両腕を突 き出して頭部を守ろうとした。レッド・ドラゴン種族の威 力 に対して戦闘服の強 度 などそれほどあてにもできないが、それでも一撃 で死ぬことだけ防げば、次の手を打つことが可能となる。どのみち、万 全 の状態でなければ対 抗 できないジャックのような敵はもう存在しない。
そこまでを筋 立 てて考えられていたわけではない。要は、本能的に死ぬことを一手先に延 ばしたに過ぎない。自 制 心 を頼 りに一撃の結果を待つ。と。
音もなく、レッド・ドラゴンの放った手 刀 が弾 かれた。
さらにはまるで──まるでそんな敵など最初からいなかったかのごとく、レッド・ドラゴンの姿が消えた。そして。
空中に、身体 を丸めてからかうように、踊 るように、見えた姿があった。
くせのある黒 髪 、ブラウンがかった丸い瞳 。従姉 とはそれほど似ていないが、不思議と実の姉妹のように振る舞 ってそれが不自然と思う者もいなかった。虚 空 に現れた彼女は腕を一振りすると、その場に固定された。
唇 が開く。聞き覚えのある肉声によく似た念 話 が伝わってきた。
「......こんなことで死んでもらうわけにはいかないでしょう......」
その目は、笑っていない。
二度と笑うことはないのかもしれない。そう思わせるほど、それは悲 壮 な輝 きを湛 えていた。
「やっぱり、あなたにも見えるのね。わたしが......」
十四日後、聖域にて三人の家族がそろう。
まだあと三日はあったが。
レッド・ドラゴンの奇 襲 を受けてからようやく──オーフェンは息をついた。
「キリランシェロ君!」
声をあげたのは、イザベラである。オーフェンはそちらを見やると、無事を示すために手を挙 げて相手を制 した。
と、改 めてアザリーを見た空間へと振 り返っても、姿を隠 したのか彼女の姿はない。それこそ幻 覚 のようではあった。動 揺 を抑 えようと深呼吸しながら、議場を見回す。場にいた《十三使徒》も司祭らも、不意の闖 入 者 に驚 いているようだった。その中で、初 見 では分からなかったが、椅 子 の影 や通路に、動けなくなったレッド・ドラゴン種族や傷ついた司祭、魔 術 士 がいることにも気づく。
クリーオウの姿はどこにもない。オーフェンは沈 黙 の中、声をあげた。
「この中に、ライアン・スプーンの身 内 はいるのか」
壇 上 の司祭に問うたつもりだった。
が、どのみち返事などどうでもよかった──オーフェンは続けて、さらに叫 んだ。
「奴 は死んだよ。知ってるだろう。多くの犠 牲 を出して、奴自身もついに死人になった。ヘルパートも、ジャック・フリズビーもだ! お前ら、自分でやっていることがなんなのか分かっていないのか。もうやめろ!」
「暗殺者の格 好 をして突 然 現れ、我らにそのような口をきく。汝 は何者か──」
司祭の首領的な立場にいると思 しき女が、もったいつけて口を開く。
そんなことも煩 わしく、オーフェンは無視して今度はプルートーに告げた。
「イザベラから既 に聞いたか? 帰 還 組は全 滅 したぞ!」
プルートーはこちらに背を向けたまま、声を震 わせることすらなく答えてくる。
「タイミングが悪かったな。我々が聖 域 へと進んだことに気づかず、ドッペル・イクスの主力はそちらを襲 ったか」
が、声に変 質 はなくとも、その首の筋 肉 が力んで盛 り上がるのは丸見えだった。
「おかげで、我々は大した抵 抗 を受けずに聖域に侵 入 できた......もしこのことが歴史に記 されることがあれば、後世の者はこれもわたしの策 略 として語るのだろうか。それも良い。この大陸に後世が、未来が存在するのならば、その程度の悪名は負 おう!」
「それはいいが、もはやその司祭たちはこの聖域の実権を握 っていない。怯 えさせたところで役には立たないぞ、プルートーよ」
大 見 得 に対し、涼 しくそう口を挟 んだのは──アルマゲストだった。入り口からふらりと入ってくると、冷 淡 に全体を一 瞥 し、あとを続ける。
「お前のやるべきことはもう終わっている。ご苦労だったな」
プルートーは振 り返ってくると、無表情に領主を睨 みやった。殺すつもりで魔術を仕 掛 けてくることは十分に考えられる。一見してそんな気 迫 ではあったが。
そのまま魔 人 は、息を抜 いた。
「知っているよ」
気負いも、感情も、なにもない。ただ疲 れ切った嘆 息 とともに、かぶりを振って続ける。
「つまるところ、我々は役に立たない殺し合いをしてきた。それを今さら若造に諭 されるまでもない。すべて、お前たち若造を生かすためにした愚 行 だ」
と、言いながらこちらを見ると、やはり同じくプルートーはため息をついた。
魔人は手を挙 げると、よく通る声で部下に指示を発した──この広い議場をも容易 く支配する十分な声量で。
「ここを仮の本 拠 として、聖域の制 圧 を遂 行 する! そこの司祭だかなんだかを拘 束 して、この施 設 を管 理 できる部屋を聞き出せ!」
「殺したところでしゃべりはせんよ。彼女らは、この権 益 だけで二百年間も聖域を支配してきた一族だ──」
水を差す領主の指 摘 を、プルートーははね除 けた。
「黙 っていろ、化 け物 。折れた足をどうやってつなげた?」
言い合っている両者を横目に、オーフェンは足音を忍 ばせてレティシャのほうへと近づいていった。レティシャはアザリーの登場から、頑 なにこちらを見ないでいる。それでも、彼が近づいていることはすぐに気づいたようで、負 傷 しているらしいイザベラのほうに歩き出そうと──
「待ってくれ!」
歩きだそうとしたところで、オーフェンは彼女の腕 を摑 まえた。レティシャの身体 が、なにかに怯 えるように震 えるのが分かる。
彼女の注意を引くために前に回り込んで、オーフェンはさらに呼びかけた。
「細かいことはもう聞かない......まあいろいろあったんだろ。だけど、さっき俺が見たのは、あれは」
「悪い幽 霊 よ」
レティシャはそれだけ言うと、まだ逃 れる道を探そうというのか、イザベラへと顔を向けて声をあげた。
「イザベラ、怪 我 をしてるんじゃ──」
が、言いながらも既 に無理があると悟 ったのだろう。彼女の言葉はそのまま尻 窄 みに途 絶 えた。既にマリア教師がイザベラの服を剝 いで応 急 処 置 を始めている。
観念したのか、レティシャはようやくこちらと向き合った。
「......少しだけほっとしてるわ。あれを初めて見た時には、もう二度とお酒は飲まないって誓 うところだった。フォルテの言う通り医者に行けば良かったって。今回は、わたしだけの妄 想 とか幻 じゃないって言えるわ。これは幸運なのかしらね」
やや錯 乱 気 味 ではある。落ち着かせようと彼女の腕に触 れると、殴 られでもしたようにレティシャは震えてみせた──それを追いかけるつもりで、オーフェンは念 押 しした。
「じゃあ、ティッシにも見えるのか」
「その気になればわたしたち以外に姿を見せることもできるらしいけど、それはすごく消 耗 するみたい。実際、もう限界に近いはずなのよ......」
あたりを見回し──彼女にも今は見えないのだろう──不安げに手を振 ると、
「じゃあ、わたしも細かいことは言わないわ。現在、聖域を押 さえてるのはコルゴンよ」
「コルゴンの目的は?」
オーフェンが聞くと、レティシャは躊 躇 して視線を彷徨 わせたように見えた。が、今度は逃 げなかった。うなずいて答えてくる。
「第二世界図塔 召 喚 機 による、魔 王 スウェーデンボリーの召喚」
「......こっちの計画と同じじゃないか。なら、なんであいつ、俺がそれを邪 魔 すると思ってるんだ?」
「アザリーもね......」
ぽつりとつぶやくレティシャ。だが、彼女はすぐに言い直してきた。
「わたしには分からないわよ。あのふたりの考えることなんて、ひとつも」
「クリーオウは?」
忘れていたわけではなかったが、ようやく機を見つけてオーフェンは声をあげた。議場にはクリーオウの姿はない。《十三使徒》とともにいると思っていたのだが、あてが外 れてしまった。
レティシャは、ますますかぶりを振ると、
「分からないわ。聖域に入るところまではいっしょだったけど。突 然 走り出して......追いかけるべきだったんでしょうけど、まだ聖域内部にも敵がいないとは限らなかったから、迂 闊 には動けなくて」
「なんでそんな無茶を。死にたがりじゃあるまいし」
自分自身、レッド・ドラゴンの奇 襲 に命を落としかけたばかりである。この聖域にもまだそういった戦力が残っている可能性はあった──そうでなくとも、未知の場所で罠 がないとも限らない。
黙 しているレティシャに、オーフェンは安心するよう目 配 せした。
「俺が探してみるよ。なんとか見つけられる......と思う」
と、プルートーとの口論を終えた領主をちらりと見やって、
「あれに頼 み込むのは癪 だけどな」
「キリランシェロ、あのね──」
レティシャがなにか言いかけた、その時に。
彼女の横顔に、影 が差した。王都の魔人プルートー、その巨 体 がいつの間にかレティシャの横にいる。
「レティシャ・マクレディ。協力を感謝している。ついては──」
大男は厳 ついその身体 を畳 むように礼をしてみせた。
「ついては引き続き、わたしの指示に従 って欲 しい。我々の戦力不足は深 刻 だ」
「え? あ......はい。もちろんわたしも同盟員ですから要 請 には......」
彼女がもごもごと答えているうちに、プルートーが頭を上げる。
今となってはもう存在しているとすら言えない《十三使徒》を、その男はまだ束 ねているのだ。こちらを振 り向いた相手の顔を見返して頭に浮 かんだことは、それだった。実状は、なによりもプルートー自身がよく分かっているのだろう。それでも彼自身は、それを哀 れなどと思ってはいまい。
この大男こそが、大陸魔 術 士 同盟の誇 りを体 現 している。大陸中の魔術士が理想としたのは、まさしくこの大魔術士なのだろう。誇 り高く、自制し、頑 健 であり、強力。明快、そして正 統 でもある。
「キリランシェロ」
プルートーは再度、頭を下げてみせた。そのまま続ける。
「すまなかった。ありがとう」
が、意味が分からない。
「......? すまなかった?」
オーフェンが聞き返すと、プルートーはゆっくり起き上がり、
「わたしの判断のせいで君を危険にさらした」
「ありがとうっていうのは?」
「君があの聖服の男を倒 してくれたおかげでイザベラだけは生き残った」
しごく真 面 目 な面 持 ちで告げてくる──実際、限りなく本音で言っているのだろう。
思わず肩 の力が抜 け、こちらも本音でオーフェンはつぶやいた。
「あなたには敵 わないと思いますよ、実際」
とだけ伝えてから──
向き直ると、領主もそれを待っていたようにこちらを見ていた。
笑っている。いや笑っていない──常に浮かべている冷 笑 ならば、それを笑い顔として数えるまでもない。
(どうして俺を待っているんだろうな?)
そんな言葉を、胸中で叩 きつける。
この最接近領の領主なるゴーストが、大陸黒魔術士極 致 の英 雄 たるプルートーではなく、殺しにも手 慣 れてきた無 惨 な漂 泊 者 でしかない自分を待っているのはいかなる理由か。
理解し難 い。が、分かってもいる。
(絶望とはなにか......)
この旅で何度も耳にした言葉。結局は、そこに行き着く。
それを聞かされるのではなく自らつぶやき、オーフェンは近づく領主に挑 むように付け加えた。
(どうして俺は絶望していないのか )
領主に向かって歩いていたのは彼のほうである。眼 前 まで詰 め寄ったアルマゲストに、オーフェンは小声で告げた。
「クリーオウを探したい。この聖域のどこかにいる」
「容易 い」
とだけ、領主はうなずいた。
◆◇◆◇◆
装 置 はそれが稼 働 中 であると示す兆 候 を、なにひとつ示 そうとはしない。
それが不 服 だったわけではない──その装置内にいるしかないのだから、それが胎 動 でも始めれば落ち着かなかっただろう。が、物足りないのも事実だった。生ぬるい白一色の静けさの中にあり、気が付けばじっとしていられない。
ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン。自分の名前を唱 えながら、彼は抱 えていた施 条 銃 を床 に置いた。装 弾 したままだが、もう使い道もない。すべては順調だった。聖域そのものは急所を押 さえられて脆 くも瓦 解 し、《十三使徒》はここに辿 り着くまでに戦力を消 耗 し尽 くしている。彼を脅 かし得る存在は、残すところあとひとつ......
(脅かす?)
そもそも本来ならば、脅かされるいわれもない。
大陸を救おうとしている。しかも彼は失敗しない ──常に、その確信とともに生きてきた。そしてそれはすべてが遂 行 されれば、より万全のものとなる。それを邪 魔 する者がいれば、それは理 不 尽 である。
改めて、彼は装置内を見回した。
床に散 乱 したがらくたは、もはやただのがらくたでしかない。装置のテストと聖域の抵 抗 力 を削 ぐ意味で召 喚 してみたが、今となってはその意味もなくなったと同時に、わざわざ返す必要もなかった。暇 つぶしにそれを物色していたハーティアもそれに飽 きたのか、今は装置中腹にある召喚術者用の椅 子 に腰 を下ろしている。隣 にいるロッテーシャに話しかけているものの、あまり相手にされていない。
ハーティアの他愛 ない世 間 話 はまさしく雑 音 でしかなく、気に留 めなければ無音と同じだった。
「仕事なんて大 して面 白 いものでもないよね結局のところそりゃそうかそれで給料もらってるんだから楽しいわけないよ──」
床の中央はなだらかな凹 面に窪 んでいるが、面積の広さからそれほど目立った傾 きとは感じられない。この装置の形 状 、ひとつひとつに大きな意味はないはずである。その証 拠 に、似たような機能を持っていたはずのタフレム市の世界図塔 とは形が違 う。
だが無数に記 され、そして隠された場所にもひしめき合っているはずの魔 術 文字。この構成の成す緻 密 な魔術が、アイルマンカー結 界 の向こうから必要なものを召喚する。
呼び寄せるのは、魔王そのものではない。魔王の力だ。力だけを呼び寄せる。
必要なものは、召喚術者。目指すものを正確に捉 え、引き寄せるための術者。
そして、召喚された魔王の力を制 御 する術者──つまり、魔王の代役となる者。
呼び出される力は無限に近い。いかなることも可能とする。女 神 を殺すなど簡単なことだろう。
彼自身の、小さな願いも叶 えられる。
彼は視線を上げた。いまだ、ハーティアは無 駄 話 を続けている。
◆◇◆◇◆
「彼女は、その角を曲がったところにいる」
領主の言葉に対して、足を速めるべきか。それとも立ち止まって間を整 えるべきなのか。
どちらが相応 しいのか──というより、こんな場合にはどちらが不自然ではないのだろう。咄 嗟 にオーフェンが思いついたのはそんなことだった。結局はどちらもせず、それまでと同じ速さで進んでいく。聖域の変わり映 えしない通路を進み、曲がり、飛び越 えてきた。もうひとつくらい曲がったところで、なにが変わるはずもない。
曲がると。
そこはやはり通路だった。突 き当たりで左右に分かれているが、その通路はなにかの柱を囲むような形で湾 曲 している。真正面には白い扉 があるが、開いてはいない。
アルマゲストの予言通り、そこに少女の後ろ姿があった。
扉に向かっている。手を差し出したところで、背後の気 配 に気づいたのだろう。こちらを向いた。紛 れもなくクリーオウである──多少痩 せたかと見えたのは、表情が違 っていたからか。
「オーフェン......」
驚 きを含 んだ眼 差 しで、彼女のつぶやきが聖域の白い通路に響 く。
「クリーオウ」
名前を呼びながらオーフェンは前に出た。彼女がなにも答えてこないことを確かめてから、続けて訊 く。
「どうしたんだ? なんで──その──こんなことを」
曖 昧 な問いだったが、彼女にはそれで通じたらしい。クリーオウは目を伏 せると、扉に逃 げるように半身をそちらへ向けた。それでも、答えてくる。
「相談しようと思ったんだけど......最初は。でも、オーフェンは大変そうだったし、それに、話したってどうにもならないことだったし、わたしのせいだったし......」
「なに言ってるんだ? 今まで、俺が大変だろうと、どうにもならないことだろうと、お前のせいだろうと押 しつけてきただろ」
「今度のはね、ちょっと、違うの」
「違う?」
聞き返してどうにも調子が合わないことに困 惑 し、オーフェンは無理やり笑いかけた。
「俺たちにできることは、もうほとんど終わったんだ。あとはもう任 せるしかない。正直、あまり分の良い賭 ってわけじゃないが──」
「負けるよ」
突 然 、クリーオウは即 答 してきた。
強い口調ではない。ただ考える余 地 もなく、即 座 に言ってきた。
「どんな計画も失敗するし、レキたちは女 神 に勝てない。世界は全部終わっちゃって、なにもかもなくなっちゃう」
「......どうしてそう思うんだ?」
「レキがそう確信してる」
なにか頭 痛 でも押 さえるような手つきで、自分の額 に触 れてから──クリーオウは語 尾 に力を込めて言い放ってきた。
「この敵は絶対に消せない、この敵には絶対に勝てない、絶対に負ける、絶対に生き残れないって、レキがそう思ってる!」
「使い魔 症 状 だ」
ぼそりと、小さく領主が囁 くのが耳に入った。こちらが聞いたことを認めたのだろう、彼はそのまま説明を続けた。
「本来はないディープ・ドラゴン種族の自 我 を、使い魔の自我が勝手に捏 造 して──」
「違う!」
叫 びだしたことで途 端 に止まらなくなったのか、身体 を震 わせ、クリーオウが声を張り上げる。髪 までも逆 立 たせる勢いで、彼女は領主に食ってかかった。
「ここ何日か、話をしていて分かったの──レキはね、もう死んじゃったんだって。領主様の館 で、領主様は奇 跡 だって言ったけど、そんなのじゃなかった。レキは自分を群 から切り離 して、別のものに自分を接続し直した。どっちが上でも下でもない。アーバンラマの時とも違う......混ぜ合わせてまったく同一のものにしたの!」
一気に叫ぶと、嗚 咽 し、クリーオウはきびすを返して扉 を開け放った。奥 の見えないその通路に入り込むと、クリーオウの姿も、扉も通路も消えて失 せる。
「クリーオウ⁉ 」
オーフェンは駆 け寄ると、もうなにも残っていないただの壁 を数回叩 いた──が、押 しても引いてもなにもない。領主へと、彼は声をあげた。
「なんだ、今の扉は!」
「まずいな。別の経 路 から追いつくのは手間がかかる......」
「クリーオウはどこに向かってるんだ?」
最後に一回思い切り壁を叩きオーフェンが訊 ねると、領主は考え込むように目を細めた。
「この聖域を自由に歩けるということは、彼女がディープ・ドラゴン種族の精神能力を使用していることは間 違 いないな。だとすれば言っていることもあながち嘘 でもないのだろう。どこに向かっているのかについては、この聖域には価値のある場所はもうふたつしか残っていない」
「どことどこだ?」
「第二世界図塔 と、アイルマンカー玄 室 だ。アイルマンカー玄室にはどんな方法を使っても入れない」
「............」
聞きながらようやく壁から離 れ、オーフェンは息を整 えた。思った以上の動 揺 を感じる。クリーオウの発した言葉は、ひとつひとつがひどく際 どい。
自身が落ち着いたと思えるまで待ってから、彼は訊 ねた。
「第二世界図塔には?」
「難 しいが、通路は残っているはずだ。実際ここもわたしが使用しようと思っていた通路のひとつだ」
「ほかの通路は!」
「かなりの遠回りになるし、ユイスに補 足 される危険が高い──」
「構 わない!」
気短に遮 る。進むべき通路を選ぶ前に領主を見やると、彼は一方を指さした。
「こちらだ」
「くそっ、なんだってんだ」
言われる通りに歩き出し、オーフェンはやつあたり気 味 に毒づいた。俺たちにできることはほとんど終わった。あとは任 せるしかない──実際、心の底からそう思えていたわけではない。またつまらない嘘 をついたことでさらに苛 立 ちは募 り、負 傷 と疲 労 の消 耗 から焦 燥 感 をかき立てる。
「あんたもクリーオウと同意見か?」
「なにがだね」
こちらがかなり急いで進んでいるつもりだというのに、領主は不思議とゆっくりした動 作 で楽 々 ついてくる──今も泰 然 と聞き返してきた相手に、オーフェンは嘆 息 した。
「結局負けるのか、俺たちは」
「分 が悪い賭 だと、君自身が言っていたはずだが」
「そうだが......」
正論を返され言葉に詰 まり、あとは無言で突 き進む。
分の悪い賭だとしても、うまくいくことを信じて賭けるしかない。そう覚 悟 してやってきた。
(だけど、なんだってまたクリーオウが。レキの影 響 か)
と。
「信じていたものを失 うと、人が絶望するのは容易 い」
聞いてもいないのに領主が言ってくる。
無視しようとも思ったのだが、結局は焦燥が勝ったということなのだろう。オーフェンは問いかけていた。
「クリーオウはなにを失ったんだ」
「彼女の口 振 りでは......」
「レキか」
聖域の通路は特別に入り組んだものではないが、領主の指し示す方向に進んでいくとわざわざ遠回りしているような錯 覚 も覚える。追う対象が近づいているという実感もないためそれはなおさらで、オーフェンは何度かそれに逆 らう衝 動 を抑 えなければならなかった。
ぐるぐると回り続ける、見た目にも変わり映えしない迷 宮 を乗り越 えて──
突 然 、領主が顔色を変えたことにオーフェンは気づいた。
「......ユイスに気づかれた」
その声には、先ほどまでの余 裕 は感じられない。走るまま、オーフェンは訊 ねた。
「それで、どうなる?」
「ユイスはロッテーシャだけでは召 喚 機 を扱 えないと悟 って、わたしも第二世界図塔 へ連れて行きたがっている」
「だが、俺たちが向かっているのは第二世界図塔なんだろ?」
相手の懸 念 を理解しかねて聞くのだが、領主の説明も要 領 を得ない。
「ユイスの呪 文 の結尾までを聞けば、わたしがそれをさせたくない理由も分かってもらえると思うのだが。生 憎 まだ確信はない」
「?」
まったく分からないが、領主はそれ以上を説明しようとはしない。
代わりに、もっと実用的なことを口にした。
「このまま急いでも、やや足りないな......クリーオウは恐 らく我々が到 着 するより先に第二世界図塔に入る」
「クリーオウはなにがしたいんだ」
新たなる通路の連結に飛び込み──
転 移 が終 了 するまでのわずかな違 和 感 を嚙 みしめて、オーフェンはなおも急いだ。間に合わなくとも、急ぐことをやめるわけにはいかない。と思いついて、皮肉を感じる。それは、やはり無 駄 なことなのか。
領主と、その答えが同時に追いついてくる。
「ユイスを止めるつもりなのだろう」
「どうして」
「盟 約 の成立と同時に、ディープ・ドラゴン種族は戦いを開始する。そして全 滅 するだろう。つまり、そういうことだ」
淡 々 と言う領主に──感情をぶつける相手が間 違 っているとは承知で、オーフェンは怒 鳴 りつけた。
「だが、そうしなければ結局は──」
「どうせ勝てないのであれば同じことだと思ったのかもしれない」
「くそっ。コルゴンを止めるだと? そんなことをすれば、真っ先にクリーオウが殺されるぞ。あいつは......そういう奴 だ」
「そうだな」
ひどくあっさりと、アルマゲストが同意する。と、ついでのように付け足してきた。
「その次の扉 だ。召 喚 機 への緊 急 突 入 口 になっている。こじ開けるのに手間取るとは思うが──」
見やると。
通路の右手に扉があった。確かにほかにもあった扉とは造 りが違い、頑 強 そうな見た目になっている。が、開いていた。
訝 しく思いながら、のぞき込む。内部は真っ暗で、向こうを見ることはできない。空間が途 切 れているのだろう。
目で問うと、領主は拍 子 抜 けしたようにつぶやいてみせた。
「......ここは通常、アイルマンカー玄 室 の次に警 戒 が厳 重 だった扉なのだがな。言うまでもないが、司祭たちは第二世界図塔 に他 のドラゴン種族を近づけようとはしなかった」
「コルゴンが開けて待っていた......?」
オーフェンは慎 重 に扉を押 しのけながら、うめくように独 りごちた。が、領主はすぐにかぶりを振 った。
「いや。ここを通ればそこはもう召喚機の中だ。レッド・ドラゴンの一頭でもこれに気づけばユイスは窮 地 に陥 る。そのような危険をおいてもこれをするメリットはなにもあるまいよ」
「じゃあ──」
「ユイスは裏切られている」
領主はそれだけ言い──そして、初めて、オーフェンより先にその通路に飛び込んだ。
あっと言う間に、その姿が消える。舌打ちしてオーフェンも後に続いた。
最後の通路だったからといって、それまでと比 べてなにかが違 うことはない。聖域のすべての規 格 は気 味 悪いほどに統 一 されていた。恐 らくは、少数の天人種族がすべてを造ったせいなのだろうが。
飛び込む際の覚 悟 、短い違 和 感 、そして結果。なにも変わらないプロセス。改めて視界に入ってくるものもまた、変化のない白い壁 ──ただし、すべて統一されているだけに些 細 なことで突 如 としてその聖域らしさは崩 れる。
議場で見たものは、死体だった。ここで見たものは......言うなれば混 沌 だった。
大小さまざま、形 状 もでたらめな道具やらなにやらが、そこには山と積 まれている。その部屋は極 端 に天 井 が高く、我 が身を小さく感じさせた。実際に、広さもそれなりにある──散らかっているとはいえ。真っ白な空間に、浮 かぶようにして配置されているのはそれらの道具。だが道具たちは、聖域全体と比べても不思議と変 哲 も感じられない。それは結局のところ、天人種族に造られたという点において変わりないせいだろう。それらが魔術武器の類 であることは、半秒の観察で知れた。
手 短 に視線を彷徨 わせる。部屋は縦 長 の円 柱 のようになっているが、中腹に円周を囲むような区 切 りめいた通路がある。そこまでの高さは、十メートルはないだろう。椅 子 がぎっしりと並んでおり、そのひとつに見覚えのある姿が見える。感情なく虚 空 を見つめるロッテーシャと、その隣 の......ハーティア。
オーフェンの闖 入 に驚 いたような顔を見せているのは、ハーティアだけだった。ロッテーシャはまったくの無反応。そして、
「......コルゴン!」
そこにあったのは、奇 妙 な図だった。
コルゴンは部屋の中央にいた。剣 を抜 いて、その白 刃 を真 っ直 ぐに前方へと突 き出している。
クリーオウはその手前で床 に倒 れていた。外傷はない。どちらかといえば、驚いて尻 餅 をついているような格 好 だった。口を開け、目の前のものを見上げている。
その両者が見ているものは──ふたりの間に立っている、領主だった。コルゴンの剣を手のひらで受け、深々と突き刺 さっているのに出 血 もしていない。明らかにクリーオウをかばったのだろうが。
領主のほうからなにかアクションがあったわけではない。ただコルゴンは間を空 けるために飛び退 いた。剣を手に、背後の壁 際 まで遠ざかる。剣は魔 術 武 器 と思 しき直 刀 で、刀身がわずかに発光して見えた。虫の羽 音 にも似た耳 障 りな雑 音 が響 いている。
「クリーオウ!」
転 んだままのクリーオウに、背後からオーフェンは駆 け寄った。肩 を摑 んで揺 さぶると、彼女はちらりとこちらを見上げた──涙 の溜 まった青色の瞳 で。
「......ここにいるのがオーフェンじゃなくて良かったって思った」
歯の根も合わない様子でがくがく震 えながら、彼女は口早に囁 いた。
「オーフェンに殺されるのなんて嫌 だもの。でも、でも──」
「なに言ってるんだ?」
彼女はゆっくりと、こちらの手を逃 れて──だが身体 を離 さずにむしろ近づいてきた。腕 を回せるほどに迫 って、そして、
「でも......オーフェンを殺すのなんて、もっと嫌だ」
「............っ⁉ 」
彼女の殺気を感じた瞬 間 に飛び退 く。
クリーオウの手の中にあった小型ナイフが、鮮 やかに閃 いた──どこに隠 し持っていたのか、手のひらに握 り込める小さな刃 である。来る途 中 に魔術士の誰 かから調達したのだろう。刃はわずかにオーフェンの腹をかすめたが、戦 闘 服 の表面に弾 かれた。
少女が、泣き叫 ぶ。
「だからっ......邪 魔 をしないで!」
「レキのことなら──むざむざ犠 牲 になんてさせない。俺だってあの大 怪 獣 にゃいろいろ借りがある。だから」
「どうしてくれるの? オーフェンがあの女 神 を殺してくれるの?」
ばれてしまえばもう役に立たないナイフを床 に叩 きつけて──、クリーオウはさらに声を荒 らげた。
「無理でしょう⁉ ここに来るまでだって、魔術士の人がいっぱい死んでたじゃない......どうせ勝てたって、死んだ人は死んだ人じゃない。女神に勝てたって、レキは死ぬんでしょう⁉ 」
「だからって──」
錯 乱 している彼女を取り押 さえようとオーフェンは飛び出したが、それを読まれていたのだろう。逃 げる彼女のほうが早かった。こちらに背を向けると、抜 き身 の剣 を手にしたコルゴンへと一直線に走っていく。
無論、運動速度ならばオーフェンのほうが数段以上速い。が、傷の痛 みと集中力の欠 如 が邪魔をした。伸 ばした手は彼女の金 髪 を摑 むこともできず、空 を切る。
そして、クリーオウはコルゴンの刃のもとへと飛び込み──
領主の横を通り過ぎようとしたところで、アルマゲストの手に押しのけられ、転 倒 した。ただ突 き飛ばされただけではない。触 れたようにしか見えなかったのだが、クリーオウは大きく吹 き飛ばされると部屋の隅 まで転 がっていった。それこそ大 怪 我 をしかねない勢いだったが、まったく外傷もなく、ただショックを受けた表情で起き上がる。
刹 那 。
オーフェンは、堪 忍 袋 の緒 を切った。
「クリーオウ、お前──」
憤 怒 の声とともに、拳 を振 り上げ、走り寄る。
その拳を打ち下ろすのは簡単だった。クリーオウは避 けもせず、こちらを見上げて、青ざめ、そして目を閉じて......
拳は彼女の顔の横をかすめて、壁 に当たった。
手 加 減 はしていない。硬 質 の壁から来る感 触 は予想通りの激 痛 だった。拳が当たらなかったことを察 してだろう。クリーオウがまぶたを開ける。その眼 差 しにあったのは安 堵 でも怒 りでもなかった。諦 めでもない。錯 乱 すらしていない。決 然 とした意志の光だった。
拳を壁に押しつけたまま、オーフェンは言葉を継 いだ。
「──嘘 をついてるだろう」
「オーフェン、わたし......」
「言えよ。今さら遠 慮 することか。言えば俺がなんとかする。女 神 だって殺してやる。それがどうしても必要なら、そうする」
言いながら、痺 れて感覚のない拳を壁から離 し、オーフェンはその手をクリーオウの頭の後ろに回した。弱くだが抱 き寄せたのは、クリーオウがまた嗚 咽 を始めていたからだった。小声で語り出した彼女の言葉を、耳を寄せて聞く。
「アーバンラマでね。レキがわたしの身体 を入れ替 えちゃった時......わたし、すぐもどれる簡単なことだって言ったよね」
「? ああ」
「あれ、嘘 。本当は完全に混ざっちゃうと、自力ではもどれないの。あのダミアンって人にも警 告 された」
「............」
オーフェンは答えなかったが、それは話が理解できなかったからではなく、直感的に成り行きを悟 ったからだった。
彼女は静かに泣きながら、あとを続ける。
「今回レキがやったのは、それなの。レキとわたしを、完全に同じにしちゃうの。なんでそんなことしたんだと思う? 聖域だっけ? ここの人たちが、領主様の計画を見破っていて、ディープ・ドラゴンみんなに領主様やわたしたちを殺させようとしていたでしょう」
「......ああ」
「レキは自分を群 から切り離してわたしに接続し直せば、群から離れてそれを阻 止 できるって考えたの。ほかに、群を止める方法はないから、そうしたの」
「個々のディープ・ドラゴンにそういったことを考える自 我 は──」
ないと否定しようとしたのだが、それを無視してクリーオウが激しくかぶりを振 るのが腕 の中の感 触 で分かった。彼女は鼻をすすると、彼の腹を殴 るように触 れてきた。
「レキは自分で考えて動いているようで、わたしの希望に従 ってるに過ぎないの。だからレキは真 っ直 ぐに聖域に向かえなかった。わたしが行きたがらなかったから! わたしと心を共 有 することで、もうレキはレキじゃないし、わたしはわたしじゃない。レキもわたしも死んじゃったの......結局わたしたちがレキを犠 牲 にしただけ。そうよね。そんな都 合 の良い奇 跡 なんて起きるわけがなかった!」
「もどる方法が、ないのか」
問いかけに。
「あるの!」
癇 癪 を爆 発 させるように、クリーオウが叫 び声をあげた。
「一番いけない方法があるの。わたしかレキが死ねば、残ったほうはもとにもどる」
一息でそれを言ってから──彼女は唐 突 に脱 力 したのか、大人しくなった。うなだれてつぶやく。
「女 神 なんて関係ないの。勝とうが負けようが、レキは絶対に死ぬつもりでいるの。そうしないとわたしを解放できないから」
いや。
オーフェンは、全身に緊 張 が走るのを感じた。クリーオウが肩 を落としたのも、頭を下げたのも、泣き疲 れたからなどではない。
かちり──小さな金属音が耳に入っていた。クリーオウも隠 す気はなかったのだろう。警 告 のつもりか。ならば......退 かなければ、撃 つ、つもりか。
ゆっくりと腕 を外 し、後ろに下がる。二歩。後じさると、彼女が小さい両手で押 さえるように持っているものの全体が見えた。親指二本で、撃 鉄 を起こしている。聞こえたのはその音だった。
ヘイルストーム。銃 の銘 まで読めそうだったが、それは錯 覚 だった。銃口を押し出すようにしながら、クリーオウが言葉を続ける。
「でもわたしが先に死んじゃったらさ......レキは、少なくとも死なないつもりで戦えるでしょう?」
涙 で濡 れている彼女の頬 を、また新たに涙の粒 がふたつ、こぼれていった。
「一番......嫌 なのは。レキはわたしの思 考 を反 映 してるの。レキがわたしを解放したがってるのは、心の底でわたしがそう望んでるから。そんなの......ひどいよね。わたし、レキにはもう二度とそんなことさせないって思ってたのに」
「......お前がそれを持っているはずがないな?」
銃口を見据 え、オーフェンはつぶやいた。記 憶 を探 る──自分はあの銃を一回だけ暴発させた。そのままであれば弾 丸 は残っているだろうが、まともに撃てるような状態でもない。無論、まともに撃てるという可能性もある。事故は、いつも確率の問題でしかない。
こうして向き合っていても、自分とクリーオウ、どちらが危険なのかは定 かではない。だがそれよりも、オーフェンは問いを続けた。
「使い方を知っているのもおかしい。どうして──」
「ここって不思議よね。なんか......なんかさ。気が付くと武器が手の中にあるの。使い方も......分かるの」
と、夢でも見るようにクリーオウが視線を彷徨 わせる。
オーフェンはぎょっとしてたじろいだ。
「お前、なにかに操 られて」
「どうでもいいの。そんなことは。これ、自分で自分を撃てば楽なのに、どうしてかな。できないの」
恐 怖 か、嫌 悪 感 か。クリーオウの構 える銃口は大きく震 えていた。指がトリガーにかかっている。いつ暴発してもおかしくない。
「オーフェン......オーフェンは、誰も死なせないなんてことはできないんでしょう? わたしが死ぬのだって止められないでしょう」
「俺を撃 つと脅 したところで、俺はお前を殺しはしないぞ。そんなこと言わなくても分かるだろう」
腹を決めて、告げる。
クリーオウも、いつになく素 直 にうなずいてみせた。
「うん......そうだね。わたしがオーフェン撃てるわけないしね」
そして身体 の向きを変えると、銃 口 を真 っ直 ぐに別の人間へと向けた──コルゴンへ。
震えも止まっている。理想的なフォームで武器を構え、それは迷 いもなく標 的 を狙 っている。
(当たるぞ......あれは)
銃が自分に向いていた時よりも、冷 や汗 の量が増えたと感じる。コルゴンはといえば武器を向けられ、それを冷たく見返しているだけだった。もし撃たれれば、コルゴンはクリーオウを殺すだろう。そのことは確信できる。自分が飛び込んでそれを阻 止 できるかといえば、確実とはいえない......
気配で探 る。クリーオウと自分は数歩分の距 離 を置いてしまっている。コルゴンとクリーオウはもっと離 れているが、コルゴンはクリーオウを殺すのに手段を選ばないだろう。コルゴンのすぐ横に領主がおり、先ほどの行動を見ればクリーオウの身を守ろうとしてくれていることは理解できる。だがその一方で。
(クリーオウが引き金を引くのは......止めようとしないんじゃないか?)
勘 でしかないが、オーフェンは予感していた。領主は、コルゴンを殺したがっているのではないか。クリーオウがコルゴンを殺すことは止めないかもしれない。
ハーティアは真上にいるが、距離で言えばこの場にいる誰 よりも遠い。ロッテーシャもそれは変わらない。
場の均 衡 を揺 らしてはならない──オーフェンは息を吸う音も隠 して、ゆっくりと声を発した。
「そうだな。この世界には奇 跡 なんてない。神がいないんだ。信じて祈 ることなんてできやしない」
だが、長続きはしなかった。銃を構えるクリーオウの横顔を見つめて、声が割れる。
「......だから、自分でしっかり考えないと......な。お前が俺にそう言ったんだぞ。いや、言ってはいないか。だが、そう思わせたんだ」
普 段 ならば大した距離ではない。飛び込めばすぐだろう。だが手を伸 ばすこともできず、駆 け寄ることもできず、ただ声でとどかせるしかない。
「だから! お前が、泣くな! なにかあるんだ! 奇跡はないかもしれないが、それと同じものが。じゃなけりゃ、誰も生きてなんていけるものか!」
クリーオウの表情に変化はない。
だが、小さく──射 撃 姿勢を崩 さない程度に小さく、唇 を開く。
「......レキが......鳴いたの。ナッシュウォータで。わたしの前で。ライアンの、前で。なんで鳴いたんだろ。分からなかった。ずっと。今も分からない。とても悲しい声だった。とても......」
意識を集中しているせいだろう。声には抑 揚 もなく、まるで読み上げているようにも聞こえた。
「レキはいなくなっちゃう。そう思った。でも、すぐに帰ってきてくれた」
だが抑 えつけた平静が長続きしないのは彼女も同じだった。激しく、強く、叫 び声をあげる。
「もしこれが奇跡なら、だったらなおさら、わたしだってレキのためになにかしてあげなくちゃいけないでしょう⁉ 」
(撃 つな!)
オーフェンは、声に出す間もなく念 じた。
クリーオウの絞 った引き金が、撃 鉄 を落とし、拳 銃 の機 巧 から鉛 の弾 頭 を射 出 する。
銃が弾 け、その反動が彼女の腕 を叩 く。
弾丸の行方 は、目で追えるものではない。だが間 違 いなく初弾は、コルゴンの手前で金属音を立てて横に逸 れた──コルゴンの持つ剣 が輝 き、虫の羽 音 に似た騒 音 が勢いを増している。なにかの防 御 効果なのだろう。狙 撃 拳銃の威 力 を防 ぐほどの。
彼女は勢いのまま、二度目の引き金を引いている。同じプロセスで再度弾丸が飛ぶ。
だが。
領主が軽く、手を伸 ばしていた。コルゴンの横から、その手に触 れるように。だが実際に領主の指先が触れたのは、輝きを発していたその剣のほうだった。突 如 としてその刀身の光と、虫の羽音とが消え失 せる。
コルゴンの表情に動 揺 が走るのを、オーフェンは久しぶりに見た。
鼓 膜 をつんざくような強 烈 な音を奏 でて、コルゴンの剣が半 ばから千 切 れ飛んだ──弾丸が直撃したのだろう。折れた剣の柄 を保持することも許 さず、コルゴンの手から放れた二片 の剣はそのまま壁 に当たり床 に落ちた。
まだ続く。
銃撃の反動で、クリーオウは仰 け反 りかけていた。その体勢を直すために一 瞬 の空白が生じる。
その瞬間に飛び込もうと、オーフェンは床を蹴 った。
同時に、後ろから押 しのけられた。咄 嗟 にかがんで身をかわそうともしたが、間に合わない。
彼を突 き飛ばすようにして、背後から──まったく唐 突 に──マジクが飛び出していく。
既 にクリーオウは体 をもどしている。
銃を向けている相手はあくまでコルゴンだが、マジクにも気づいたのだろう。視線がわずかに泳ぐのが見えた。
このまま近寄れば、暴 発 を招 くかもしれない。その状 況 で。
マジクが叫 んだ。
「お前が好きだぁぁぁぁぁぁっ!」
............
クリーオウの肩 が、確かにコケた。
目を丸くして、こちらを向くが──が。
恐 らくクリーオウには、マジクの姿は見えなかっただろう。マジクはその時には既 に、地面すれすれまで身体 を低くして死角に逃 れていた。
勢いよく足を蹴り出している。
マジクの蹴り足がそのままクリーオウのふくらはぎの上を打ち抜 く。片足だけではない。マジクは両足を放って、クリーオウの足を二本とも狙 っていた。うまくいったのは偶 然 だろう──いくらクリーオウの体格が華 奢 で狙いやすかったとしても、同時に急所を二箇 所 狙うというのは上 策 ではない。
だがどうであろうと、決まりさえすればそれは確かに効 果 覿 面 だった。為 す術 もなくクリーオウは背中から転 倒 し、倒 れる最 中 で彼女が放 り出した拳 銃 は緩 やかな放物線を描 いて──
素 早 くコルゴンが飛び出し、空中でそれを摑 み取った。さらに身を翻 し、その銃で躊 躇 なく領主を狙 うが。
領主も、既 にそこにはいなかった。跳 び上がったのかなんなのか。ほんの一 瞬 で、上方の座席──ロッテーシャとはちょうど円周の対 極 の位置へと移動している。
「召 喚 機 の中では、わたしに逆 らわないほうがいいな、ユイス。わたしはロッテーシャよりは手 練 れの術者だよ。剣の〝虫〟だけを外に転移させるようなこともできる」
「............」

応 えずに、コルゴンが銃を下げた。その視線が折れた剣 に触 れる。
だが、それよりも。
オーフェンは、倒れたクリーオウとそれを取り押 さえているマジクとに注意を向けた。取り押さえられるというよりは、抱 きかかえられているというほうが近いか。クリーオウは頭でも打ったのか、気を失っている。それはそれであまり良い状態とは言えないが、先ほどよりはいくらかマシといえた。
彼女を抱 えて、マジク自身が一番驚 いたような表情を見せている。
「う、うまくいった......」
「なんだ今の」
とりあえずオーフェンが問うと、マジクはこちらを見上げて、
「いや、その......絶対これで意表つけるからって。イザベラ教師補が......」
「なんつーか、もの凄 まじく寒かったぞ」
「分かってます。分かってます。でもしょーがないじゃないですか! こんなんでもないと役に立たないんなら、いくらでも寒いことしますよ! ええしますよいくらでも......ううう」
「泣かなくてもいいだろ。まあ......お前も魔 術 士 らしくなってきたってことかな」
きょとんとするマジクを横にのけて、クリーオウの顔をのぞき込む──彼女は意識をなくして、涙 の痕 跡 だけを顔に残し目を閉じている。彼女の顔に触れても反応はなかったが、呼吸に危 ういところはない。まぶたを押し開いて確かめてから、オーフェンはようやく安 堵 して息をついた。
沈 黙 が不安だったのだろう。説明するように、マジクが声をあげる。
「途 中 で違 う道に入り込んじゃったから、追いつけないかもって思いました」
「どうやってここに来たんだ?」
訊 く。と、マジクは曖 昧 にあたりを見回し──
「いや、なんか気 味 悪いんですけど、変な声が案内してくれて......ここの状 況 も、なんだか分かっちゃったんですけど」
「そうか」
短く相づちを打ち、オーフェンはふたりを残して身体 を起こした。心当たりはある。が、それを追って考えたところで意味はない。
見つめた先にはコルゴンがいた。五年前と変わらない暗い眼 差 しで、折れた魔 剣 を見つめている。感情が現れている時ですら、顕 わではない。それがこの男だが、剣を見る姿にははっきりと怒 りが見て取れた。意味は分からずとも、その男にとってはなんらかの意味があったのだろう。
「彼女が起きるまでに、全部終わらせてください」
クリーオウの身体を引きずって後 退 しつつ、マジクが言ってくるのが耳に入った。
「できますか?」
「ああ、そうなるさ」
もう一度クリーオウの顔を見ようか。迷 ったが、オーフェンは見なかった。
ジャック・フリズビーに──クリーオウ。
ヘルパート、ライアン、みなが口を揃 えて言っていたこと。それを思い出して。
オーフェンは苦 笑 した。
「なるほど。奇 跡 はない」
つぶやきに、コルゴンが反応した。こちらへと向き直る最強の暗殺技能者ユイス・エルス・イト・エグム・エド・コルゴン。その男に対してではないが、オーフェンはゆっくりつぶやいた。
「奇跡をあてにしたら、神様には勝てねぇな。人間だからこその神殺しの方法をやらないと駄 目 だ。そういうことか。分かってきたよ」
「ロッテーシャ、余 計 な者を外に出せ」
コルゴンの宣 言 は、すぐに叶 えられた。マジクとクリーオウの姿が瞬 時 にかき消える。ハーティアはそのままだった──そのことが多少不 可 解 だったのかもしれない。コルゴンが訝 しげに赤毛の後輩の姿を一 瞥 するのが見えたが、それ以上はこだわらなかった。
「同質で......正逆の。そういうことか」
彼はそうつぶやくと、銃 の重さを確かめるように手を上げた。
その銃を、流すように虚 空 の一点へと突 きつけると──脅 すように告げる。
「だがこれで、すべてそろった。キリランシェロと同時では気 取 られると思ってあの子供といっしょに入ってきただろう......浅 知 恵 だ。隠 れずに出てこい、アザリー」
「隠れているのではなくて、姿を見せるほうが苦痛なんだけどね」
と──
銃口の先に腰 を下ろすような格 好 で、アザリーが姿を現す。
「そろった」
コルゴンの声には、わずかばかりの感 慨 が含 まれていた。
「ネットワークを支配する召 喚 術 者 が三人。現時点で用意できる、最大の成功率だ」
「......確かに召喚には成功するかもしれないわね」
アザリーは素 っ気 ない。銃から飛び降りると、床 に着くまでに再び浮 かび上がり──領主やロッテーシャらと同じ高度にまで上 昇 していく。ただ円周の座席ではなく、装置の中央で静 止 した。
「なるほど。わたしがダミアンに取って代わったことは都 合 が良かったわけね。ダミアンは、力を消 耗 し尽 くすこの魔 術 には参加しなかったでしょうから」
「それはお前の狙 いだろう」
これも冷 静 に、コルゴンが言い返す。
オーフェンは黙 して、それを見ていた。目立たないよう立ち位置をずらしてコルゴンの銃の死角を探 る。それは、それこそ真夏の広場で日 陰 を探 すようなものだったが。
実際、コルゴンはなににも優 先 してこちらの挙 動 を探 っているのだろう──見やるたびに視線が合う。それでもオーフェンは、機を探した。
「それで、我々の召喚によって、お前は呪 文 の結 尾 を見出すというわけだな?」
会話に割って入ったのは領主だった。それに対しても声低く、コルゴンが答える。
「ドラゴン種族は大きな勘 違 いをしている。神々の現出を単なる災 厄 として逃 げ回った」
彼は拳銃をひとまずは安全な保持姿勢に持ち替 えると、そのまま続けた。
「違 うことを考えるべきだった。せっかく現出して、無限の力などという分かりやすいものに変じてくれたのだ。それを利用すべきだ」
「あの時代、ドラゴン種族の感情を考えればそれは難 しかったであろうよ」
「惰 弱 だ。世界に挑 むのならば、中 途 で心を折 ってはいけなかった」
きっぱりと、コルゴンが断 言 する。
「無限に近い魔 王 の力で、俺自身を魔王にする。神々が何度来ようと、俺がそれを防 ぐ。大陸は永 遠 に守られる」
と──
それに対して、聞き返したのはハーティアだった。
「魔王に......なる? 人間でなくなるのか」
驚 いたというよりは呆 れたのだろう。声が上 擦 っている。
コルゴンは対 照 的 に、声にますます確信を強めたようだった。
「それでなにが悪い。どうせ俺は、既 に大陸で無 敵 の存在だろう。魔王と同じだ」
「なんでもできる力を使って、なんでもできる者を産み出そうという......ははは、その矛 盾 は、今度はどんな 神々の現出を招 くのかな」
乾 ききった笑い声をあげるアルマゲストに対しても、コルゴンの言葉は揺 るがない。
「どのようなものが現れようと関係がない。魔王はすべてを殺せる」
「なるほど。では、お前が魔王になれるかどうか──その前にこの場で、お前が唯 一 の魔王術者にならねばならないな」
領主の言とともに。
場の注 目 が、自分に集まってくることは感じていた。
その時にはオーフェンは既 に足を止めていた。死角を見つけたからではない。
結局のところ、オーフェンが立っていたのは、コルゴンの真正面だった。逃げるように死角を探すことが馬 鹿 馬鹿しくなっていた。
「コルゴン。あんたは無敵じゃない」
距 離 は数歩。オーフェンは構 えを取りながら、そう告げた。
当然、同じ距離で。コルゴンもまた銃 口 をこちらへと向ける。
「ジャック・フリズビーと同じことを言うんだな、キリランシェロ」
「ああ。奴 の悪 霊 が乗り移ったかな」
恐 怖 はなかった。その代わりに、聖服の男と向き合った時に感じた高 揚 感 すらない。
ただ勝てることを信じていた。
「コルゴン。ジャック・フリズビーが、俺を嘲 笑 っていた。勝ち抜 けた俺を、自信たっぷりに嘲笑っていた。その嘲 笑 を覚えているから、俺は負けないよ」
「その負傷でか」
それは挑 発 ではない。恐 らくコルゴンは心から案じてくれたのだろう。
だが必要とあらば引き金が引けなくなるような男でもない。
すべて飲み下し、やはりオーフェンは心動かすものを覚えなかった。思い浮 かんだものは、少年時代──《牙 の塔 》で対 峙 した時の、師の無感情な顔だった。その時のチャイルドマン教師の境地とは、こういったものだったのだろうか。答えを求めない問いかけを、遠い記 憶 に投げかける。
「だが、そこまでだ......ふたりとも」
制 止 の声は、頭上から聞こえた。
ハーティアだった。こちらを見下ろし、言ってくる。
「手を休めてこっちを見るんだ」
指 示 通り見やると、ハーティアは魔 術 武 器 であるらしい短 剣 をロッテーシャの首元に突 きつけていた。当のロッテーシャはといえばまったく反 応 せずに焦 点 の定まらない目で部屋の中央を見ているだけである。
これは聞かせるつもりではなかったのだろうが、ハーティアが小声でつぶやくのが耳に入ってきた。
「結局ぼくは、この役回りか......」
そして、
「おっと。そこまでだコルゴン。少しでも動いたら彼女を殺す。そうしたらこの大げさな実験もおしまいなんだろう?」
言葉で牽 制 してから、念 押 ししてくる。
「忘れてやいないよね。ネットワークの補 佐 ......ゴーストの排 除 がぼくの役 割 だった。ゴーストにはゴーストなりの急所がある。君にできないからって、ぼくにできないと思わないことだ」
「勘 違 いしていないかハーティア。これは大陸の破 局 を食い止める唯 一 の手段だ」
コルゴンが──動かしかけた銃 口 をもとの位置にもどしながら、告げる。
だがハーティアはまったく動じない。
「まったく、いいのか悪いのか、つくづく打ってつけなんだなぼくは。世界が滅 びる? ぼくにとっての世界ってのは、二週間先までのディナーの予約程度のものでしかないんだ。大したことじゃないよ。とにかく、止 められるうちは喧 嘩 を止 めろ。そんなのは当たり前のことだろ」
と、呆 れ切った調子で付け足してくる。
「だいたいお前ら馬 鹿 か? 強いだの弱いだの。それしか知らないのか。なにか決めたいならアミダでもしろよ」
しばしの沈 黙 を挟 み──
コルゴンが、こちらを向いてきた。真 顔 でぼそりと、確かにこう言った。
「......じゃあ、アミダで決めるか」
「へ⁉ 」
刹 那 。
どん、となにかを押 すような音がした。ついで悲 鳴 とともに床 に激 突 する音。ハーティアだった。上の座席列から落 下 してきた。
見やると、ロッテーシャが彼を突 き落としたらしい。彼女は席から立っていた。さらには指先でなにかを描 き──
音もなく、彼女の手の中に長大な武器が現れる。
それは銃のようだった。だが拳 銃 とは大きさが違 う。ロッテーシャは長い銃身を苦にすることもなく構 えると、その狙 いを真 っ直 ぐにコルゴンへと向けた。銃身の上にある照準器をのぞき込み、射撃姿勢で制止する。
(あれは......)
それの理 念 だけならば《塔 》にもなかったわけではない。狙 撃 拳銃と大きくは変わらない──が、その思想を終 端 まで伸 ばしていけば、こういったものになると予想されていた。
施 条 銃 。精度の高いこの銃を使ってこの距 離 ならば、訓 練 を受けていない素人 が扱 っても命 中 する可能性はある。
もし当たれば、即 死 だろう。ライフル弾 の威 力 は人体など一撃で粉 々 にしてしまう。
コルゴンも拳銃の狙いをロッテーシャへと向ける。が、次の瞬 間 にはコルゴンの手から武器が消え失 せていた。領主が笑っている。
空 になった手を──そのまま指を伸 ばし、コルゴンはうなるように声をあげた。
「なにが......不満か......ロッテーシャ!」
まったく場 違 いではあったが、それは求愛の仕 草 にも見えた。深 窓 の令 嬢 へと腕 を捧 げ、叫 ぶ男の──
「俺がお前に支配されれば良いと......そう言うのか。それで苦しむのはお前ではないのか。お前が人間でないのはもう仕方のないことだろうが」
だが彼の声には憤 怒 があった。
「これが不満か......俺はお前に支配されていない......誰がどう見ても、絶対に。だが俺はお前を必要としているぞ......少なくとも今この瞬間は。お前は、それでは駄 目 なのか!」
銃声がそれを鎮 めた。
たった一発の銃弾。同時に、コルゴンが倒 れる。叩 きつけられるほどの衝 撃 に殺し屋の身体 は跳 ねた。そのまま、動かなくなる。
つまらないものを捨てるように──気のない手つきで、ロッテーシャが銃を放 り投げた。過去の天人種族が造 り上げたがらくたの上に、最 新 鋭 の兵器が突 き刺 さる。
「ずっと思い悩 めばいい。わざと外 したのか、ただ当たらなかっただけか。この瞬間、あなたが支配したのかわたしが支配したのか。わたしが消 滅 すれば、もうあなたには一生分からない」
ロッテーシャは答えぬコルゴンの──エドの身体にそう告げると、もといた席に倒 れ込むようにもどった。
「仕 返 しはこれでいい。わたしは、それでも......楽しかった時も覚えているから」
コルゴンには外傷は見当たらなかった。だが銃弾が頭部をかすめでもしたのか、完全に意識がない。床 に落ちてあっさり気 絶 していたハーティアとともに、ふたりの姿が消える。装置の外に追い出されたのだろう。
装置が稼 働 を始めた。
誰 がなにをしたのか。それは分からない。だが装置の各所から不 規 則 に魔 術 文字が明 滅 し、光を広げ、そして混ざり合って幾 重 にも形を変じていく。無音だが、どこかから呼び声が聞こえてくるようにも思える。装置の床にひとり残って、オーフェンは身構えた。なにもすることはないが、落ち着けるわけもない。
アルマゲスト、ロッテーシャ、アザリー。三者はそれぞれの位置にいる。領主とロッテーシャは向かい合う席に。アザリーはその中間に。
それらを見上げて、オーフェンは装置中に増 幅 されていく構成と力とを理解しようとした──が、すぐにあきらめざるを得なかった。尋 常 一 様 のパワーではない。三人の人ならざる者が構成を起動し、際 限 なく連 鎖 させては際 どく固定していく。
構成を〝編 む〟ということを、最も忠実に、最も緻 密 に、最も極 端 にしているに過 ぎない。装置に用意された魔術文字すべてを用いても足りないのか、組み合わせは指数的に複雑さを増していく。
その中で、気になることがあった。ロッテーシャの言ったことを繰 り返す。
「......消滅?」
答えてきたのは領主だった。彼も席についている。
「召 喚 機 の使用には犠 牲 が必要となる──というより、これだけの大魔術となると制 御 だけで存在を滅 ぼしてしまう。人造人間というのは実に便利だな。必要とあらば死ねる」
「だが、それは」

一歩を踏 み出し、オーフェンは叫 びかけた。
が、領主はその機 先 を制 してあとを続けてきた。
「どうせ誰かがやらねばならぬことなのだし、我々がするのでなければ、もっと大勢が死ぬぞ。ここにある座席は、内 装 が寂 しいからこの数を買い揃 えたものではないと、それは理解できるだろう?」
冷ややかに視線をこちらへと注 いで──アルマゲストは言い切った。
「必要とあらば人を殺すお前でないのならば、ここに連れてくる価 値 はなかった。この意味を理解してもらえるか?」
「......くそっ!」
「慎 重 を期することだ、鋼の後継 。無 駄 にするな。打ち勝つとは、必要な犠牲を払 った上で前に進むということだ」
領主の姿からまず色 彩 が消え、輪 郭 を朧 にし、そして多重となって声もまた聞き取れなくなっていく。
装置内で構成が加速していく中で、領主の身体 はあえなく分解した。続けて、同じ様子でロッテーシャもまた消 滅 する。
「アザリー......!」
オーフェンは、装置の中央に浮 かぶ姉に呼びかけた。
彼女の身体もまた斜 めに裂 かれかけている。四 肢 を伸 ばしているのはバランスを取るためではないだろうが、もしそうだとしてもそれができそうな位置にはない。彼女は次 第 に高度を落とし──構成の重圧に耐 えかねるように頭を下げていった。鬼 のような形 相 で食い下がってはいる。だがその勝敗は既 に見えていた。
なにもできない自分を呪 いながら、オーフェンはつぶやいた。
「あんたも......ここで消えるのか」
文字の流れが螺 旋 を描 いて上 昇 していく。それは頂点に行き着いてから放射状に降ってくるようでもあり、そのまま消えていくようでもある。力の奔 流 の中、弱々しい嘆 きなどあまりにも無力だった。が、アザリーの囁 きは聞き取ることができた。
「......力の節 約 に関しては、ダミアンのほうが遥 かに長 けていたんでしょうけどね。わたしはこうして存在しようとするだけでも無 駄 が多すぎるのよ。きっとこれで最後ね。話せるのは」
答えようとして言葉に詰 まり、オーフェンはかぶりを振 った。相手が空中では駆 け寄ることもできない。
苦 悶 にのたうち回る姿に反して、アザリーの声は優 しかった。こんな声は何年も聞いていなかったように──そう思えるほどに、優しい。
「わたしを見ていて、キリランシェロ」
「............」
「戦ってみせるから、見ていて」
「アザリー! 俺は──」
見上げて彼女を視界に入れようとするが、アザリーの姿は既 に見ていられるほどの形 状 すら保 っていなかった。彼女の身体 は薄 れ、天 井 を覆 うほどに変形して広がっている。
だが、確かにアザリーだった。彼女の声が語りかけてくる。
「始 祖 魔 術 士 オーリオウルの遺 言 と......結界の外でわたしが見た世界の滅 びる姿を、あなたに」
「俺に?」
「あなたにだけ伝える。だからあなたが判断して。万能の力、スウェーデンボリーの司 る魔法......不可能のない力だからこそ、それを最良の形で実現しなさい」
心臓に、ちくりと痛みが走る。負 傷 の痛みではない。拳 で胸を押 さえ、オーフェンはつぶやいた。
「俺に......そんなことは......」
「勘 違 いしないで。あなたにその資格があるとか、あなたの判断に特別なものがあるわけじゃない。でも、あなたがやらなければならない」
アザリーの警告は痛みを和 らげてはくれなかったものの、胸の重さだけは取り除 いた。胸に当てていた手が自然に離 れ──
忽 然 と、アザリーが消えた。魔術文字の混 沌 もまた停 止 する。寒 気 を覚 えて、オーフェンはあたりを見回した。
彼女はすぐ背後にいた。生前と変わらない姿で。
アザリーは彼の手を取ると、それを自分の頬 に触 れさせた。感 触 はなにもない。だが、ひんやりとした体温は伝わってくる。
伝染してきたのはそれだけではなかった。彼女の言葉、そして言葉以上のもの、それらがすべて直接に押し寄せてくる。
「世界のほとんどすべてを造 り直してしまうこともできる。あなたの望む歴史に書き直してしまうこともできる。それは力ですらない万能のものだから。でも」
彼女がその手を離す時もまた、唐 突 だった。すっと身体を遠 ざけると、そのまま消え失 せる。だが声は変わらず聞こえていた。
「必要なのは、絶望から解放されること......分かるでしょう? それは絶望をなくすことじゃない」
「ああ」
アザリーが接触して伝えてきた外世界の記 憶 ──
それを嚙 みしめて、オーフェンは答えた。
「分かっている......気がする。なにが必要なのか。みんなが救 われるためなら、犠 牲 はみんなで等 しく払 っていかないとならない。超 人 は世界を救わない」
「キリランシェロ」
止まっていた魔 術 文字が、再び動き出す──
「さようなら」
「さよう......なら」
忘れの挨 拶 をかわし、彼女は消えた。
そして。
溢 れ出た力に触れ、オーフェンは目を閉じた。どこへ行くのか。どうなるのか。考える必要はない。だが流れに触れただけで理解できる。すべては彼の発する命令を待っていた。召 喚 機 によって呼び出され、装置によって制 御 される魔王の力。
いや、それは力ですらない万能のもの。万能に近い極 限 。
意識を停 止 することには恐 怖 感 があった──時間を止めれば、容易 く数千年を飛び越 えてしまうかもしれない。移動はわずかなものでいい。だが、この大陸で最も強 固 な壁 を飛び越える。オーフェンは静かに命じた。
空 間 転 移 を終えて、視界を開く。
その場所を見たことはない。恐 らく、数百年──あるいは千年、誰 も見た者はいなかったのではないか。塵 ひとつ落ちていない床 に手をついた姿 勢 のまま、オーフェンはつぶやいた。
「玄 室 、か......」
その部屋を、見回す。
薄暗い。明かりといえる明かりはないが、暗 闇 というわけでもない。
かなりの広さがあった。ちょっとした運動場ほどはある。六角形の一辺に、彼が今立っている入り口があった。そこには開 かない扉 がある。ほかのすべての角にひとつずつ、大きな箱が設 置 されている──床から天 井 まで、つまりは十メートルほどの高さがある巨 大 な箱である。すべて正面に蓋 があり、閉ざされている。
棺 だ。オーフェンは、気づいた。六個の棺。どれも形は同じで、見分けはつかない。
なにも、誰もいない。アイルマンカー玄室は静まりかえっていた。
装 置 内 の喧 噪 を架 空 のものとするような、底 冷 えのする静けさに、オーフェンは身 震 いした。恐れる必要はないが、全神経で注意を払 う。その棺にいるのは不死なる者、死者よりも遠い存在だった。
かれらは長い時を、この玄室に閉じこもっていた──いや封 じ込められていた。
やがて......
「何者か!」
霊 廟 に声が響 く。奉 られるその当人らの声が。
音もなく、ひとつひとつ棺の蓋が開いていくのをオーフェンは見 定 めた。六個の棺。そのうちの五個が開く。開かない棺が誰のものか、それは考えずとも知れた。
蓋の奥 から、緑色に輝 く眼 がこちらを向いている。
正面左の棺からは、巨大な獣 が姿を見せた。その重量は、離 れていても伝わってくる。見上げるほどに高い。鋼 鉄 の馬 だった。やはり金属製の鬣 を揺 らしながら、無敵無欠の生物として誇 り高くそびえている。
その左右から出る生物もまた巨大だった。一方は岩のような姿を転がすように、鈍 重 な動きで這 い出してくる。要 塞 じみた巨大な外 殻 をまとい、この広い玄室をも窮 屈 としている。吐 き出す蒸 気 が不規則な絵 画 を描 くが、この怪 獣 が空気を揺 らすたび、それもかき消える。
大陸に在 る、六種の獣王。そのうちの〝破 滅 の獣〟──スレイプニル。
大陸に在る、六種の獣王。そのうちの〝不死の獣〟──トロール。
そしてもう一方。姿勢を低くした静かなる猛 犬 ──その姿は見知っている狼 によく似 ていたが、やはりこちらのほうが一回りは体格が大きい。艶 やかな漆 黒 の毛並みは鎧 というよりは影 、影というよりは夜......音もなく近寄ってくる冷ややかな運命そのものにも似ていた。
そして、それらとは違 って極 端 に小さな生物もいた。真 紅 の体毛をまとった小型の獅 子 。文字通り猫 のような高 慢 さで尻 尾 を立てている。
最後に、人の姿をしたものがいた。これはさんざん知っている。これが真の姿でないことも。
それらドラゴン種族の首 長 らが、取り囲むように居並んでいる。そのさらに代表ということなのだろう。鋼鉄の軍馬が雷 のような声を上げた。
「お前は何者か。ここは聖域にあって最も聖なる場所。大陸の要 ──」
「知っている」
オーフェンは告げると、身体 を起こした。
「あんたらを止めに来た」
「我々を? 止めに?」
理解できなかったのか、アイルマンカーが聞き返してくる。
「ああ」
オーフェンは遮 ると、一歩進み出た。
「あんたたちがアイルマンカー結 界 を造 ってから、千年が経 ったんだそうだよ──もちろん、俺がその時間を体感してきたってわけじゃない」
「我々は体感してきた」
軍馬の言葉は予想していたよりも流 暢 だった。その姿を見ずに聞けば人間と会話していると錯 覚 するのではないかというほどに。だが声は、間 違 いなく年経 たものを感じさせる。厳 かに、アイルマンカーは続けた。
「千年という時は......その時間を生きる者の眠 りを長くする。だが恐 らく我々は、もっと長く過ごすことになるのだろう」
「オーリオウルは死んだ。彼女はもう二度と時間を体感することはない」
その言葉は、玄 室 に漂 う不死の腐 臭 を押 し流すものではないものの、それでもウォー・ドラゴンの鼻を挫 くものではあったようだった。動 揺 によって生じたその隙 に、オーフェンはさらに言葉を流し込んだ。
「俺はその遺 言 を伝えに来た」
「オーリオウルが死んだことは知っている」
「だが、彼女が死ぬ前に見たものがなんなのか、それを知らないだろう」
肩 をすくめて、オーフェンは順番にアイルマンカーらの顔を見ていった。すべてにドラゴン種族の印である緑色の眼光が備 わっている。最後に蓋 を閉ざしたままの棺 を見やって、
「彼女は世界の滅 亡 を見て死んだ」
「結界の外は、現出した神々の蹂 躙 する破 局 だ。そんなことは聞かずとも──」
「どうかな。彼女の見た滅亡とは、外の世界のことか? それとも......」
オーフェンはつぶやくと、さらに前に進み出た。無 造 作 に歩いていく。玄室の中央まで。
アイルマンカーらが制 止 してくるか──それも考えていたが、誰も声を発しなかった。ふと、彼らは人間の魔 術 士 の存在を知っているのだろうか疑問が浮 かぶ。この玄室の外で起きた千年間の情報を持っているのだろうか。オーリオウルの死を知り、そして結界の縮 小 を考えたのだから、なにかの情 報 源 はあるのだろう。
「お前は聖域の者ではないな」
これだけを問うてくるウォー・ドラゴンに、オーフェンはうなずいた。
「ああ。俺はあんたらが知らないかもしれない。人間という種族の──」
「巨 人 種族だな」
憐 憫 の情をその破 壊 の眼 差 しに現して、軍馬が告げてくる。
「............」
オーフェンは一 瞬 躊 躇 したものの、相手に合わせて同意した。
「そうだ」
「かつて神々と相 果 て、神々とともに滅 んだ。神々の現出とともに恐 るべき力を持ったお前たちも現出した。この大陸に漂 着 した際、人間種族らが騒 いでいた......」
「......今じゃ、その人間種族を地人種族と呼ぶんだ。俺たちが大陸のほとんどを住処 としている」
推 測 を含 んでいたが、アイルマンカーの言葉を聞いたことで確信はあった。それを告げる。目指していた地点まで進んで、オーフェンは立ち止まった。周囲、すべての方向にアイルマンカーがいる、その状態で。
「あんたらは、自分たちだけの知識をどれだけ隠 し持ってるんだ?」
「今となっては役にたたないものだ。神々が現出して元の神々とは違 うものとなったように、お前たちも今は本当の意味で巨人とは言えぬ。今さら伝える価値もない知識だ」
「その役に立たない知識を集めて、大陸を見捨てて結界を縮小するなんて馬 鹿 なことを考えたのか。ここから一歩外に出てなにを確かめることもしないで」
「女 神 が結界に侵 入 を果たせば、世界終 焉 の約束──全世界質量 の降 臨 をもやりかねない。この聖域には魔王を召 喚 して戦うなどと言う者もいた。が、それは効 かぬのだ。いやむしろ、女神を殺すほどの力を向ければ、女神にその決心を促 させるだけのことにもなりかねない。結局、結界に穴がある限り終焉は避 けられないのだ。大陸を延 命 させるにはほかに手はない」
ウォー・ドラゴンの言葉に、オーフェンは反論した。
「大陸すべてを犠 牲 にして、この馬鹿げた玄 室 とやらだけを残すことが最後の手段か」
が──
なじられようと、相手は動じることはなかった。厳 かに告げてくる。
「大陸すべて? お前は、このキエサルヒマ大陸なるものが、かつて存在した世界全土に比べどの程度のものなのか、それを知って言っているのか......? 我々が捨てて逃 げ出してきた偉 大 な故 郷 ......全土に比べれば、塵 に過ぎない。哀 れな小島だ......」
まさに哀れみだった。神のごとき慈 悲 の目で、鋼 鉄 の軍馬は彼を見下ろしてくる。
巨 大 なるものと、小さく弱い者。それが見合うその虚 空 に、ウォー・ドラゴンは哀れみの言葉を紡 ぐ。
「同じことなのだ。この大陸ひとつ残ったところで、もはや世界全土とは言えぬ。我らの玄室ひとつと、大きくかわることはない」
「屁 理 屈 だ」
「魔 術 の存在もまた屁理屈だ。突 き詰 めれば、神々の現出も言葉遊びが現実となったに過ぎない」
諦 観 のつもりか、重い声 音 をさらに重くする。
「この世界は、言葉の遊びに翻 弄 され、そして滅 びる。我らはそれに抗 う。これが真に言葉遊びならば、一片 でも生き延 びることに意味がある......」
「だが──」
待ち受けて、オーフェンは否 定 した。
「だが、結界を縮 めたところで穴はなくならない。俺はそう思うね」
これは予想の外だったのだろう。アイルマンカーは夢から覚めたように重量のある頭を巡 らせると、疑問の声をあげた。
「どういう意味か?」
「世界を安全にはできねぇのさ。かえって、穴があるから結界が成立する」
「それは根 拠 あっての言葉か?」
「いいや。だがどのみち関係ない。お前たちに試 させる気はないからな」
告げてオーフェンは腕 を掲 げた。虚 仮 威 しのポーズではない──遠く、まだ耳の中に聞こえている音がある。召 喚 機 はなおも作動中だった。ここへ転移するために一度力を使ったが、まだ魔王の力は残してある。
アイルマンカーらが一 斉 に、半歩ほど押 しもどされていくのが分かった。彼が力を入れたわけでもなんでもない。ただ、召喚機と彼の立つこの場が繋 がったことを感じ取ったのだろう。
制 御 はなおも完全なものだった。白魔術士としてのアザリーの意地に今さら感服する。結局のところこのために、大勢の犠 牲 を出した。多くの者が命を落とし、聖域も壊 滅 している。
誰が待ち望んだ瞬 間 でもなければ、誰が求めた結 末 とも違 う。だが決着はつけなければならない。オーフェンは心静かに告げた。
「アイルマンカー結界は、完全な安全を求める意志だ──だから神々はそれをこじ開けようと現れる。ただの均 衡 に過ぎないんだ。結界によって完全な安全を図 ろうとするからこそ結界には必ず隙 間 が生じ、その隙間には破局の意志が押し寄せてくる。そういったバランスなんだ。結界があるから来る。結界がなければわざわざ来ない。すべては言葉遊びだとお前は言ったな。その通りなんだ」
「だが結界を取り払 えば、現出した神に対して我々は無 防 備 になる!」
これは──誰が発したのか、ウォー・ドラゴンの声ではない。
気にせずに、オーフェンは答えた。
「ああ、そうだ。もしかしたら万にひとつ、偶 然 の女 神 の襲 撃 で種族が滅 びることもあるかもしれない。だが、それが本来の世界だ。生命としてのリスクだ」
「虚 無 主 義 か!」
ミスト・ドラゴンが悲鳴じみた叫 びをあげる。オーフェンはかぶりを振 った。
「違う! どれだけ過 酷 な世界の中にあっても、意志はそれの望む方向へと伸 びる! 結界は──世界を閉 ざす壁 は、もともと不要なものだったんだ!」
「お前は狂 っている......」
「この大陸に絶望を生んだのは、世界を閉ざしたアイルマンカー結界だろうと言っているんだ!」
通路が開いた。
第二世界図塔 に現れた魔 術 文字が、ひとつまたひとつと玄 室 に転 移 してくる。魔術の効力はそのまま、魔王の力を伝えていた。その力とともに震 え、唱 える。
「スウェーデンボリーの力は語ってくれた。スウェーデンボリーはかつて人間であり、理に混ざって神と同一になった仙 人 だ。気が遠くなるほどの昔、そんな人間がいたんだ──だが彼は始祖魔術士にはならなかった。彼が望んだのは力ではなかったから!」
悲鳴が聞こえた。すべて死ぬ。滅 びが来る。アイルマンカーの声は哀 願 にすら変じた。
だが、オーフェンは決然と無視した。
「魔術という歪 んだ力を望んだのはあんたたちだ。制 御 もできない阿 呆 な力だ! いいだろう。現れてしまったものとは共存しよう。だが隷 属 はしない。絶望の中でも生きていけると信じて、こうする!」
叫び、彼は腕 を振り下ろした。
「魔王の力を以 て、アイルマンカー結界を外 す! 内側からならばこの結界は崩 せる!」
身体 が揺 れ、ふたつの紋 章 が絡 み合って、ほんの小さな鳴き声のような音を立てた。
◆◇◆◇◆
空が渦 を巻 く。
夜明けを染 める茜 色 の空から、中天のいまだ暗い頂 までを。
薄 黒 い雲を引き裂 き、大気の流れが螺 旋 を描 いていく。
なにかを突 き破る錐 のように。なにかを引き裂く鋸 のように。
聖域の真上にあって、その湖 面 は激 しく揺 れていた。
湖岸にそろった漆 黒 の獣 たちが、ついに立ち上がり戦 闘 態勢に頭部を下げる。
静かな水面に泡 が立ち、浮 かんでいる黄 塵 を取り込んで沈 ませる。
湖の上には、女がいた。その髪 が、はらりと落ちてくる。
女はもしかしたら、予定よりも早く結界から抜 けたことを疑問に思ったかもしれない。
数百年通ることができなかった結界が、突 如 として消えつつあることを訝 ったかもしれない。
神であり、また神ではない脳 は、それを考えることよりもまず、目を見開くことを優 先 させた。
獣 が吠 えた。遠 吠 えのように、長く。
狼 らは次々と立ち上がると仲間の声に応 えていく。
ついに自由の身となった女 神 を前に、その遠吠えの歌はどこまでも広がっていった。すべて同時に──
キエサルヒマ大陸最後の日の夜明けに。
漆 黒 の森狼は、湖岸を蹴 って女神へと突 進 していった。
朝焼けを、再び闇 に染 めるように。
そして、遠く離 れて──
最接近領から聖域へと続く荒 野 。
そこには戦闘の爪 痕 が残っていた。途 絶 えない風に吹 かれ、死体は砂に覆 われつつあっても。
焼けこげたテントが、いまだ残っていた。その地面より。
ぼこり。
焦 げたテントの下から、その焦げ目を突き破って手が突き出す。
それはむくむくと這 い出してくると、なんとか上半身を地上に突き出した。ひとりだけではない。ふたり。
「いやぁ、死ぬかと思ったな、ドーチン」
「......ま、死にそうな目にあってからこんなこと言うのもなんだけど、生きるっていうのはこんな程度のことなのかもしれないとは思うね」
けほっと砂を吐 きながら、ぼやく。
誰 よりも強いふたりは、やっぱりまだ生きていた。
王都の生活はそう長いものではなかったが、快 適 ではあった。
とはいえ、病室の生活に彩 りがあったわけではない。
貴族経 営 の大病院だけあって、病室の窓から一 望 できる王都の眺 めは壮 観 だった。もとより病院生活も、子供の頃 にはそれほど馴 染 みのなかったものではない。クリーオウは寝 間 着 の襟 を揃 えて、ベッドから足を下ろそうとした──が、用事などなかったことを思い出し、そのつま先を引っ込 める。
一週間。ぼんやりと個室の天 井 を眺 めて過 ごした。王都への移 送 は慌 ただしく、またここに着いてからは知り合いはみなひどく忙 しそうにしていた。医者に心身の衰 弱 を言い渡 され入院することになったが、結局のところ、ここに押 し込めておけば面 倒 がないからということに過ぎないとも考えられる。
世 間 はそれなりの騒 ぎになっているようで、日々はなにも変わらない──いや、この王都に限っていえば、一週間前となにひとつ変わってなどいないに違 いない。人々は数日間続いた〝雨のない嵐 〟を多少不思議に思いながらも、いつもと変わらず仕事し、学校に行き、遊んでいる。
(いけない)
泣きそうになっていることに気づいて、クリーオウは考えることを止 めた。何日もこれを繰 り返していれば、多少は上達もする。溢 れた涙 を手で拭 うと、泣いていた痕 跡 はすべて消えた。
あとは落ち着くために深呼吸を繰り返す。いずれ、傷は治 る......が。
精神集中をノックの音に邪 魔 されて、クリーオウは怒 りよりも驚 きを感じた──面会はそう多くないし、医者が彼女の生存確 認 に来る時間でもない。慌 ててベッドの上 掛 けを胸 元 まで引き上げ、日に日にひどくなっていく髪 の寝 癖 を気にしながら彼女は返事した。誰 が来るのか、分かっていたのかもしれない。
ドアが開いた時に、そう感じた。
そこに立っていたのはオーフェンだった。そうそう感じが悪いはずはないのだが、どこか皮肉げな容 貌 の魔 術 士 。ここ数日の戦 闘 服 は捨てて、普 段 着 にもどっている。歪 に膨 らんだ背 負 い袋 を床 に置きながら、彼は挨 拶 するように手を挙 げてみせた。クリーオウも、無言で会 釈 する。
しばらくは黙 ってあたりを見回してから、オーフェンは窓を見て声をあげた。
「黄 塵 は、もう降ってこないよ。しばらくは結 構 騒ぎになってたが、女 神 がいなくなったらまったく──」
「その窓は、開かないの」
窓 枠 に手をかけた彼に、クリーオウはつぶやいた。目をぱちくりさせてこちらを見るオーフェンに、続けて告げる。
「ガラスじゃないし、その窓......ほら、わたし......最初かなり取り乱 しちゃったから」
「ああ......そうか」
ここがどういった病室かを思い出してか、決まり悪そうにオーフェンがうめく。一階にある本格的な隔 離 室 とは違 うが、殺 風 景 なこの病室は、入院患 者 に刺 激 を与 えないように設 えられている。
うつむいて、クリーオウはつぶやいた。
「女神はいなくなった......ディープ・ドラゴンは......その女神をどこか遠いところに転移させるために飛び込んで、みんな死んじゃった」
責 めるつもりではなかったが──前髪の下から見上げると、相手の表情に暗い影 がのぞくことも予想していた。
オーフェンが嘆 息 する。
「そうだな......ディープ・ドラゴン種族は機 を見 逃 さなかった。結 界 の崩 壊 に合わせて、その勢いを借りて女神を転移させた。女神がどこに行ったのかは分からないが──二度とここにもどってくることはないのか、明日にはもどってくるのか」
「それで、良かったの?」
「さあな。でも隕 石 が落っこちてくる心配をするようなものだと俺 は思うがね。神々は、アイルマンカー結界さえなければいちいちこんな小島を狙 ってきたりはしないだろう。少なくとも確実な破局は、もうない」
彼がすらすらとそう答えたのは、同じ説明を何度も繰 り返してきたせいもあるのだろう。実際、多くの者が彼に同じことを問い質 したに違 いない。
毛布の縁 をちぎるほどに握 りしめ、クリーオウは弱くつぶやいた。
「オーフェンは、きっと、やらないといけないことをやった......んだと思う。でも、わたし──」
「レキのことは仕方なかったとは思わないさ。ロッテーシャも、領主も死んだ。イールギットも。ライアンだって死んだ。ほかにも」
「............」
彼は言いながら、床 に置いた背 負 い袋 のところまでもどってかがみ込んだ──気づかなかったが、そこになにか隠 していたらしい。取り出すような仕 草 をしながら、彼は急に話の向きを変えた。
「レキが言っていたんだよな。レキだけが、群 から離 れた一個の意志を持ったって」
「でも、それは......」
「だが、レキがそう言ったんだ」
抗 弁 しかかった彼女を抑 えて、オーフェンが言ってくる。
そして、黒い塊 を手に立ち上がり──
「これな。外にいた」
彼が持っているもの。
文字通り、黒い塊だった。生きている──寒いのか、震 えている。手のひらほどの大きさしかない、小さな黒い子犬だった。目も開いておらず、耳も閉 じているが。
心 臓 に空気の塊でも入ってきたように、クリーオウは息を止めた。どんな言葉が浮 かぶのか、自分でも分からない。ただ、ベッドへと近づいてくるオーフェンとその手の生物を見つめて、かろうじてひとつの単語を口にした。
「外......?」
「すぐ外だよ。扉 の外」
言って彼が示 したのは、入ってきた扉だった。手を差しだし、その子犬を受け取って、クリーオウは胸に溜 まった息を吐 いた。
「そう。わたしがドアを開けて出れば、そこにいたんだ......」
震える子犬を観 察 する。
それは眠 っているのか、それとも弱っているのか。見分けがつかない。だが確実に生きている。抱 き潰 すことが怖 くて抱き寄せることもできないが、確かにそこにいる。
「......レキ? レキなの?」
問いかけは、オーフェンが否定した。
「分からねぇよ。ただあの種族はこの一匹 だけを生き残らせたんだ。まだ目も開いちゃいねぇし、ディープ・ドラゴン種族の育て方を知ってる奴 なんて誰 もいない。そもそもきちんと育つんだかも不明だが......」
彼は既 にきびすを返して、床の袋 を持ち上げていた。
「お前が決めることだ。もう二度と同じ思いをしたくないのなら、それは仕方ないさ」
泣いてはならない──
自身に命じて、クリーオウは涙 を堪 えた。これは奇 跡 などではない。奇跡などと思えば、きっとこの弱い生き物は死んでしまう。彼女が助けなければ。
とりあえず、目も開いていないそのディープ・ドラゴンは凍 えているようだった。室温はそれほど低くはないはずだが、まだ身体 が小さすぎるのだろう。毛 布 の上に置いて、手を当てて暖 めながらクリーオウはオーフェンを見やった。
「オーフェンは......どこかに行くって感じだね、その荷物」
「ああ」
彼は、あっさりとうなずいてみせた。
「しょせんははぐれ旅だ。しばらくひとりにもどろうと思ってな。お前たちの面倒はティッシに言っておいたから、トトカンタへは彼女に連れて帰ってもらってくれ」
「寂 しい」
思ったままを口にする。勢いよく出た言葉は、それほど長いものではなかったが。
「わたしはそれ、すごく寂しい。オーフェンは寂しくないの?」
なにを言おうと、これは別れの言葉なのだ。どこかでそれを分かっていた。
オーフェンは、笑っていた。皮肉の勝 るいつもの顔に、これが精 一 杯 なのだろうという笑 顔 ではあった。
「寂しいよ。だから、いつかまた会えるさ。だが──」
と、背負い袋の紐 を肩 の上に回し、後ろ姿で手を振 ってみせる。
「それでも言わないとな。さようならだ」
そのまま彼は、たった数歩で病室を出ていった。扉 を開け、姿を消した直後にまたノックの音が聞こえてくる。
「............?」
もどってきたのかと思い、彼女が応 えると、今度入ってきたのはオーフェンではなくマジクだった。ここ何回か見 舞 いに来てくれた時と同じく、あまり気の利 かない食事の差し入れを持っている──病院食が不 味 いからということであれば病院の喫 茶 店 で買ってきた食べ物を持ってくるのはどういうことなのかとクリーオウは心中疑問に思っていた。それはともかくいそいそと入室してくるマジクに、クリーオウは訊 ねた。
「今そこで、オーフェンと会わなかった?」
「うん? 会ったよ」
「ならちょっとくらい話せばいいのに。オーフェン、出発するって言ってたわよ」
扉を指さして言うと、マジクも少し後ろ暗そうに視線を向けた。が、それでも意志を曲げようとはしなかった。
「いや、少し前に話したよ」
「それでもさ」
「いいんだ」
と、ベッドの脇 に軽食の包みを置いてから、彼女が散 らかした前日の差 し入れを片付け始める。
「大 袈 裟 に考えないほうがいいんだ。きっと、どんなことでもさ」
◆◇◆◇◆
五年前に意 気 揚 々 と訪 れ、そしてすぐにもどらざるを得なかった王都の街並みというものは、中を歩いて見回せば確かに壮 麗 なものだった。懐 かしさを感じるのはおかしいのかもしれない──オーフェンは顔に出さず苦 笑 した──だが、どこかで確かに懐かしい。考えてみれば、ここが自分の旅の始まりだった気もする。
並木の種類をいちいちプレートに書き記 してあるのは、誰に対する親切なのか。それは分からないが、読む気がなければ関係がない。急ぎはしない旅 路 だが、オーフェンは早足で王都の道を進んでいった。
どこまで続く旅なのか。
生きている限りなどと洒 落 たところで、そこまで続くはずはない。
王都の空は快 晴 だった。
見上げ、両 腕 を広げ、のびをしてもほかの通行人にぶつかりはしない。そんな広い道の真ん中で。
「そうだなぁ......とりあえずは」
声に出してつぶやく。
「どこでもいい、一番遠くに向かって歩いてみるか」
光り輝 く太陽を、彼は指 さした。

終わった......なにもかも......
過 酷 な減 量 と、第六ラウンド、矢吹が放ったテンプルへの一撃、およびダウンした際、ロープの反動で後頭部を強打したことによる脳内出血により──
そういえば、あの試合ってタイトルマッチでもなんでもなかったんでしたっけ。
いや、ふざけてる場合じゃないのでした。
まずは本作、最後の最後まで発売が延びに延び、皆様にもご迷 惑 をおかけしました。
白状をしてしまいますと、この原稿は二〇〇二年の十二月には書き上がってなければならなかったものなのです。既 に書き上げてあった上巻と合わせて、うまくいけば同時刊行ということも考えておりました。
......が。
上巻を書き上げたところでいきなりの体調悪化。上巻発売時に編集部から「下巻の発売タイミングは夏頃と告知しても良いですね?」と確認され、「はいなんとかそれまでには......」と答えたものの、なかなか回復できず......
執筆ペースが著 しく低下した状態で、かといって雑誌の連載のほうを落とすわけにはいかず、そちらにかかりきりになってしまいました。
いや、実は一昨年くらいから体調の悪化を感じてはいたのですが。
身体壊 れてるのを誤魔化して仕事を続けていると、今度は仕事できなくなるくらい身体壊れるわけですね。まったく子供でも分かりそうなことをようやく学びました。
とにかく、作品を楽しみにしていただいた方々にはお詫 びのしようもなく。申し訳ありません。
ともあれ。
このオーフェンという作品は、今巻で終了です。
まずは読者の方々、この作品にかかわっていただいた大勢の方々、別に作品とは関係ないけど秋田にかかわってしまったいろんな方々に、等しくお礼をさせてくださいませ。ありがとうございました。
ご存じの方もいらっしゃるとは思いますがこのシリーズ、もう十年近くも昔にスタートして、作者のおぼつかない足取りながらなんとかここまでやって参りました。本当に多くの人に支えられ、その都 度 人に迷惑をおかけしながら、こんなひ弱な作者でもなんとか逃げ出さずにやってこれるものなのだなあと......情けないことを思ったりします。
今回はせっかくですし、担当編集者からのリクエストもあってシリーズ立ち上げに関する話などしてみようかと思ってます。
自分は富士見書房の『ファンタジア長編小説大賞』という新人賞、第三回の出となっています。二〇〇三年に発表される同大賞が第十五回。つまりぼくが準入選をいただいてから、もう十二年経っているわけですね。
これはどこかのインタビューで答えたことがあると思うんですが。秋田が高校生の時、当時既 に滅 びの道を歩んでいたMSXなるPCをバイトして買ったら、それにワープロ機能がついていたので、タイピングの練習用に書いたものが応募作でした(いや、きっかけなんてそんなものです)。
なにが凄 いって、そのワープロ、1ファイルが原稿用紙十枚分の容量しかないんですよ。一作書くのに30 ファイル以上もかかったわけですよ。一行追加すると、へたすると10 ファイル以上も手作業で修正しなくちゃならないわけですよ。わけ分かりません。
それはそうと、この応募作が恐らく、自分が生まれて初めて冒頭からラストまで書いた物語だったのではないかと思います......って趣 旨 がずれました。間違われること多いんですが、この応募作はオーフェンシリーズの第一作ではない のです。
まったく別物です。この応募作でデビューさせていただいた後、二年間ほど編集部に持ち込みを続けました。学生だったということもあってそのあたりは楽でしたが、合計で五、六作くらい持ち込んだと思います(自分でボツにして持ち込まなかったものを含めれば、もっと書いてましたが......)。SF風味のものを書いてみたり、ミステリ風味のものを書いてみたり、楽しかったといえば楽しかったですが、やっぱり担当さんの顔は渋 かったのでした。
「いや、つまんないとは言わないんだけどさ......なんていうかこう、アニメとか漫画とかの面白さってあるでしょ。そういう風に工夫できないかな」
なるほど、というわけで考えるわけですが──
はて。
理由はないんですが、このわたし、中学生になってから突然TVを見なくなってしまったのでした。
二十歳くらいになってから、これまた理由もなく部屋にTVを買って見るようになったのですが、おかげでTVや芸能関係の知識が数年間、すっぽりと抜け落ちています。担当さんが例に出してくださったアニメのタイトルとかもさっぱり分かりません。アニメといえば小学生時代によく見ていたメカ戦争物の思い出くらいしかなく......
しかし奇 しくもそのアドバイスをいただいた当時、子供の頃に見ていたアニメの新シリーズが放映されていました。ツノのついた凄ぇ王宮に住む一家が地球連邦に独立戦争を仕掛ける話というか......悲しいけどこれ戦争だったりとか......まあそんな話の新しいシリーズは、やっぱりかなりぶっ飛んだ内容でした。タイヤのついた宇宙戦艦が「これで地上を全部踏みつぶせるぞ」とか言ってました。
夕方くらいに放映されていたそれをぼんやり眺 めながら、「そうか。こういう話か」と思ってしまったあたり、わたしの脳もかなり膿 んでいたのでしょう。
かくして。
魔法使いとかが宇宙を飛び回ってビーム撃ったり剣でガチガチつばぜり合いしながら、なんかそれっぽい台詞 を叫び合うような、そんな作品のイメージができあがっていったのです。
とりあえず宇宙はやめました......そのあたり、まだ多少の理性は残っていたんだろうと思う反面、なんでやらなかったんだろうと思ったりもします。
「主人公は......連邦の白いヤツってわけにはいかないよなぁ。うし。それじゃ黒。黒でいいでしょ」
というわけで、これは今まで誰にも話していなかったというか、むしろ隠していたんですが。
シリーズ開始時、何回か聞かれました。なんで、〝魔術師〟じゃないの? と。
もちろんそれじゃ字 面 が格好悪いと思ったからというのもあるのですが、実は魔術士の
〝士〟は、あの〝士〟だったのです。
編集部に原稿を持ち込みするにあたって、編集者に見せるまでもなく自分でボツにした原稿というのも何点か手元にありました。そのうちの一作から設定とキャラをいくつか流用し、変形させて、このシリーズの第一作ができていきました。これもインタビューで答えた覚えがありますが、オーファン(最初はこの名前でした)はそのボツ原稿に登場したサブキャラで、皮肉屋の魔法使いでした。キャラクター造形のモデルは砂時計の眼をしたあの人です。
一巻を書いた時点では続編を書くなんて構想はこれっぽっちもなかったのですが、いきなり担当さんから「次も書いといてね、念のため」と言われて慌 てたものでした。当時、ぼくは既 に学校を卒業して就職してます。しかしその頃はまだ研修期間で帰宅も早かったため、学生の頃と大差ありません。なんとか二巻以降の展開を考えました。一度終わってしまった話をさらに広げるには、いっそ一巻の設定の大部分はなかったことにしてしまったほうがいいぞということでかなりの部分を無視し、書き上がったのが二巻です。
そのあたりで一巻が発売となり、幸 いなことに好評をいただいたため、三巻も書くことになったのでした。しかしそろそろ勤 めのほうが忙 しくなってきます。しかも印刷会社のオペレーターなんて、帰りが深夜になるのが当たり前です(この原稿を本にするお仕事をされている方々も、本当にお疲れさまです)。仕方ないので深夜に家に帰ってから朝まで原稿を書いて出社し、睡眠は昼休みに取るという生活を繰り返して三巻を書くわけですが......
さすがにそんな生活がいつまでも長続きするはずはなく、退社したのは六巻とか書いていた頃ではないかなぁと記憶しています。そのあたりで、こちらの仕事に専念することになりました。
そんなこんなで九年間、シリーズを続けてきました。もう十年近いんですね。世間的にはたかだが十年間という程度の時間ですが、ぼくはとても楽しかった。自分の仕事の未熟さに不満は尽きませんし、きっとつらいことのほうが多かったんでしょうけれど、とても楽しかった。
振り返って、そんなことを思います。読者の方々にも、楽しんでいただけたのなら嬉しいのですが。
ふぅ。
というわけで、ポリシーに反して作品について長々と語ってみたりしました。かなり恥ずかしいですが、まあ、せっかくですしね。
改 めて、おつきあいいただいた方々にはお礼申し上げたいと思います。これからも新しいシリーズなどやっていくと思うので、そちらでもおつきあいいただければ幸いです。
え? 無謀編の残り?
............やべ。もう一冊あるじゃん!
二〇〇三年八月──
秋 田 禎 信
著者プロフィール
秋田 禎信
Akita Yoshinobu
1973年生まれ。17 歳で第3回ファンタジア長編小説大賞・準入選。『ひとつ火の粉の雪の中』にて作家デビュー。
著作に『カナスピカ』『巡ル結魂者』(講談社)、『機械の仮病』(文藝春秋)、『秋田禎信BOX』『ハンターダーク』(TOブックス)など。
【1〜10巻合本版】魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版
2015年4月1日発行 ver.1.0
著 者 秋田禎信
発行所 TOブックス
〒150-0011 東京都渋谷区東1-32-12
渋谷プロパティータワー13階
03-6427-9625(編集)
0120-933-772(営業フリーダイヤル)
Ⓒ2015 Yoshinobu Akita
※無断で複製・複写・データ配信などをすることは、かたくお断りいたします。
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版1 2011年10月31日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版2 2011年10月31日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版3 2011年11月30日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版4 2011年12月31日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版5 2012年 1月31日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版6 2012年 2月29日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版7 2012年 3月31日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版8 2012年 4月30日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版9 2012年 5月31日 発行
魔術士オーフェンはぐれ旅 新装版10 2012年6月30日 発行
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